神社仏閣巡り珍道中・改

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2022/05/01 05:31(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。




21/07/02 14:43 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。






21/07/02 15:02 追記
そんな方のためにも、もう少し上手く書けないものかとあれこれ考えたりもしたのですが、なかなかそれはそれで難しく。
結局自分らしく、ありのままに書くのでいいのだと、なかば開き直りにも近い境地に至って、飾らない、思ったまま書くスタイルをつらぬいております。
今後も今まで通りの誤字脱字、おかしな文章表現かと存じますが、おつきあいいただければありがたいと思っております。┉ずうずうしくてすみません。



No.3321842 (スレ作成日時)

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No.401

この柴門ふみさんの『ぶつぞう入門』、のっけからいい。

『…
仏像の何がそんなにいいのですかと聞かれると、
「好きなものは、好き。恋と同じ。ある日突然、仏像と恋に落ちたのさ」
と私は答える。
「仏像にお詳しいんで」
「いいえ、まったく」
「専門的な勉強をなさったんで」
「入門書一冊、ロクに読んでおりません。ミロクと観音がどういう位置関係かもいまだあやふやです」
…』

そうそう。たしかに。


自分の空虚さに空しさとあせりを感じて、孤独感に押しつぶされそうになって、そんな中、自問自答して、ふと思ったのが、神さまや仏さまにお会いしに行くこと、でした。
古から、人々が救いを求めてすがり、畏れ敬ってきた存在に触れることもなく生きてきた私が、自分と向き合うにあたって、ふと、…まるで天から一筋の光が差したかのように、神さま仏さまのもとを訪ね歩きたいと思ったのも、柴門ふみさんと言葉こそ違えど、まさにある日突然、のことだったのです。

もともと突飛な考え、突飛な行動をとる私を、誰よりも“痛いほど”知り、知り尽くしている夫や子どもは、「へえぇ」とも言わず、夫は行動を共にしてくれ、子どもたちは温かく見守ってくれて、いまに至っておりますが、初詣もしなかったおばさんが百八十度方向転換したことに多少は驚きもあったのではないかとは思うのです。
まさにある日突然、です。
周りにとってだけでなく、何より自分自身にとってもある日突然、のことでありました。

柴門ふみさんと違っているのは、彼女はキチンとその後得たものを自分の知識として修められておられること。
私の場合は、ザルだっですもっと掬えるというくらい、勿体ないものをしゃあしゃあとこぼして、いまだになにも身になっていないという、それに尽きるかと思います…書いていて情けなくもありますが…。


この本ではまず、彼女が最初に向かうのが【広隆寺】そして【清水寺】、2000年のこととされており、清水寺の三十三年に一度とされる御開帳の時とされています。
そののっけから仏像鑑賞に出向いたと明言されており、広隆寺といえば弥勒菩薩、というくらいの弥勒菩薩半跏像をいとも簡単に『…でも私には完璧すぎて、抽象化しすぎていて、ちょっと「ゴメンナサイ」という気分になったしまう。とりつくシマのないスーパースター。それがあなた…以下略』と書かれているのだ。

No.402

そして広隆寺にもう一体おられるという弥勒菩薩半跏像にはなんと「泣き弥勒・いしだ壱成」と名づけている。
いしだ壱成以外にも、あるお寺さんでは反町隆史似であるとか、松嶋菜々子似であるとかいろんな方似としてとらえ書いているのだ。

うーん。
さすがにそういう見方をしたことは未だにないけれど、たしかに、心惹かれるお顔立ちというのはあるのは事実です。
そこをズバッと書いちゃうところ。
小心者の私などは畏れ多くてヒエェとなってしまったものですが、エッセイ、書き物として読む分にはとっつきやすい…かもしれない。

そう、この本がぶつぞう入門、とあるのは、かつての柴門ふみさんが仏像に入門された時の頃のことを書いていることから、厳密にいうと(柴門ふみの)ぶつぞう入門(録)となるのかもしれません。


仏像入門の柴門ふみさんが、恋心を抱いて書くこの本は、仏像初心者にとって、これからお寺巡りを考えている方にとってまさにうってつけの本かと思います。
同じ(いつまで経っても)初心者でも私のような日本語もおぼつかない者が書いている駄文とは違い、ユーモアあふれる中、ふっと

『明王とは、じつは如来なのだ。如来が怒り狂って民を救おうとしてくれてる姿が明王だったのだ。不動明王ってキレちゃった大日如来が変身した姿だったのだ』

と、仏教入門者には、ホウっと学びが織り込まれていたり。
御開帳された御本尊さまを拝観するため出向いた先で、ありがたく拝んだ御仏像が、いつも祀られているお前立ちの御仏だったりしたという〝あるある〟をちゃんと書いてくださって、(ああ、私だけじゃないんだ)と安心感を(私に)与えてくれたりと、なかなか楽しくてためになる本だと思います。
ただ、厚く仏教に帰依されておられる方や、真面目な方にはちょっと(かなり)向かない本かと…。
ユーモアあふれるお坊さんなどは楽しくお読みになられることかとは思います。

現にこの本、あの瀬戸内寂聴さんとの対談も収録されておるくらいであります。
またその内容が、ぶっ飛んだ内容となっているのは言うまでもないのでありますが…。

No.403

この本に書かれたお寺さんはじつに全国津々浦々。
私どもが行ったことのあるお寺さんはわずか五寺に過ぎません。まぁ、修学旅行で行ったお寺を加えればその倍以上にはなるものの、まさにこれから行きたいと願っておりますお寺さんばかりであります。

このコロナ禍。
夢で終わるか、行ける時が再び訪れるか…。

いずれにせよ、このコロナ禍だけは終息して欲しいもの。
日々神さまに祈り、仏さまに祈る私であります。

No.404

風が強いと思っていたら…吹雪いていました。
もうすでに積もっていました。

実は今日、寅年の寅の月、寅の日ということで、栃木県足利市の【大岩山毘沙門天】さまで特別護摩修行が営まれることになっております。
前回の二月六日に営まれた際はどうしても外せない用事があったのと、たまたま休日があたっていることもあり人が集まるかと思って、一日三回営まれるうち行けそうな回もあったのですが、あえて避けて今日、一人で行こうと思っていたのでありました。
それも山道の運転を避けるため麓の駐車場から何キロか歩くことを考えて。

無理だ。
無理です。
あきらめました。

…そもそもそんな予報は出ていなかったというのに。(TT)

たまたま外に出てみなければ、夫が出社するために玄関を開けて初めて気づいたこととなったかもしれません。

早くに気づけただけでも、ありがたいことです。

No.405

桜で有名な、群馬県伊勢崎市にあります【国定赤城神社】さんへ参拝させていただきました。

桜で有名なのにいま?
こちらは初めての参拝でありまして、駐車場情報がなく、桜を愛する日本人、どれだけの方が訪れるやも知れぬ時期に初めての参拝は危険かと、その時期を避けて参拝させていただくことにしたのです。
神さまの御もとにうかがうのに、最初からお花見を兼ねているなど、あまりにも失礼かと思ったこともございます。

群馬県内の御朱印を紹介するコーナーのある、地方の宅配フリーペーパーに何年か前紹介されておりましたのと、群馬県内の御朱印をお集めになられている方のブログなどでもよく取り上げられている神社さんでありますので、御朱印でも有名なところなのかもしれません。

あまり混んでいるようであれば遥拝させていただき後日また出直すつもりで、国定赤城神社さんを例のナビに入力して、向かった次第でありました。


細い道を入っていく、そんなナビ案内です。神社仏閣はそのようなことはよくあることではあるのですが、なにぶんにもなかなか天邪鬼な案内をするナビであることから、途端に二人に緊張が。
この道で大丈夫なのか?もし違ったらこの先Uターンは可能なのか?
珍道中をさらに珍道中に仕立て上げてくれる、そんな立派な(⁉︎)機能も搭載されたナビと付き合いすでに三年。
さて、珍道中の運命やいかに。

No.406

うーん、何やら住宅街のよう。困ったぞ、Uターンできるスペースがありそうには到底思えないのです。
前からやってきた軽自動車と譲り合ってのすれ違い、いつものように神社の敷地にすら入れない裏手に案内されたら、これはかなりの難業苦行となりそうです。


おおっ!!
赤い大きな立派な鳥居が見えました。
これは神さまのお導きでしょうか、たまには我らがナビもきちんとした案内、きちんとした誘導ができるようです。

鳥居のほぼ前までやってきて…うーん?、またまた珍道中二人組が唸ります。
境内のなかに『参拝者駐車場』という小さな看板が見えるのに、鳥居のすぐそばには大きく『➡️国定赤城神社駐車場』とされているのです。
もちろんどちらでもよいと思うのです。が、鳥居の前で見る限り境内のなかにある駐車場へはどこから入って行くのかわからないのであります。
「えっ?ど、どうしよう」
「え?書いてあるんだから境内に入れさせていただけばいいんじゃない?(左側に)行けばどこか入るところがあるんじゃない?」
と、運転してもいないくせに簡単に言っておりますが、曲がったところで入口が見当たらなければバックで丁字路で方向転換するという、あの教習所の教習コース張りの運転を余儀なくされるのであり、さらに教習所とは異なり、後続車やら対向車(対向できるかどうかも難しい道)が登場してくるやも知れないという、スリリングな挑戦となるわけでして。
「じゃあ行ってみるか」

…結果から言えば、ヘアピンカーブしての侵入となりますが、入口はありました。
その入口は鳥居からは絶妙に見えないのであります。境内の駐車スペースは三台ほど。
…安心してください。停められますよ。


車を停めると。
すぐそばに手水舎がありますが『手水中止』とあります。そ、そうかぁ、こちらも中止されているんだぁ。
かつては(衛生面はどうなんだぁ⤵︎⤵︎)と泣きたくなるほど嫌だった手水鉢での手水の浄めも、出来ないとなると神さまに失礼な気がして気が咎めます。
ナビ同様天邪鬼な私で…天邪鬼を二人(一人と一台)を同行しての珍道中、これはかなりの修行であります。笑。

No.407

大きな赤い鳥居からほどなく二の鳥居となります。どちらの鳥居も平成に建てられたもののようです。
そこから真っ直ぐに敷かれた敷石を歩いて、狛犬さまの見守る間を通って拝殿の前に。
【赤城大明神】と扁額が掲げられています。
そう、赤城神社さまと言えば赤城大明神さま。そして大己貴命さまと豊城入彦命さまとなります。


【赤城神社】は、「赤城」を社名とする神社で、群馬県にあります赤城山を祀る神社であります。
赤城山(あかぎやま、と読みます)は上毛三山の一つであり、大きな火山活動を何度か繰り返して関東平野北西縁に裾野を長く広げたたいそう美しい山であります。
群馬県のほぼ中央に位置し、県内各地からその姿をのぞめ、日本百名山、日本百景にも選ばれています。

赤城神社は赤城山を神体山として祀る神社であり、赤城山そのものに対する山岳信仰に由来いたします。
群馬県内だけで百社を超え、全国的にも関東地方を中心にして約三百社の赤城神社があるといわれています。

そのうちの一社で、国定と呼ばれる地域の村社であります。
後鳥羽天皇の御代に、頼朝公の家臣である安達藤九郎公が上野國の守護となった際社殿を創建したと伝えられているとのことで、かつてはここではないところに祀られていたようですが、昭和四年に現在地に移転したとのことで、もともとはこちらへは菅原神社さんがあったのだといいます。
いま、その菅原神社さんは拝殿向かって左に国定天満宮としてお祀りされ、右側には木花咲耶姫命さまがお祀りされる社殿があります。

拝殿の裏手には御本殿があり、その背後には古い石のお社がいくつもおまつりされていました。屋根の造りのたいそう凝ったものもある…と言いたいところですが、残念ながら壊れてしまい屋根のみ残されているようなものがいくつかあるという感じです。
その石のお社と一緒に、タオルを姉さんかぶりしていたものが解けたといった風に頭に乗せられたお地蔵さまがおられました。そのタオルがすでに苔むしており、それはそれで絵になるものの、お地蔵さまの頭に汚れ物が載っているとも思われなくもなく。
とはいえもう一つの絵のように苔むした布をお被りになられており、なんとも複雑な思いでお地蔵さまを拝んでまいりました。


No.408

実はこちらの拝殿向かって右側のお社には扁額がなく、どなたがお祀りされておられるお社なのかわからず、社務所でお伺いいたしました。

「あちらは木花咲耶姫さまがお祀りされているんですよ」
とおっしゃりながら境内図をくださって、
「桜のころになると何種類もの桜が、少しづつ咲く時期をずらして咲いているので、ぜひまたお出かけください」
と。

ああ、木花咲耶姫(このはなのさくやびめ)さまが♡
お美しい見目と芯の強さで有名な女神さまにございます。

天照大神さまのお孫にあたられる瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の奥さまになられます。一度の契りでご懐妊なされたことを瓊瓊杵命さまに疑われ、潔白を証明するため産屋に火をつけ、火の中で出産なされたという神話がございます神さまにあられます。

ひと柱でこのように大きなお社でお祀りされておられるのは浅間神社さん以外ではなかなかないように記憶しております(ただしあくまでも私の記憶)。

社務所でお声がけさせていただくにあたり御朱印をお受けいたしました。
御朱印をお授けくださる際、二つのお菓子とたいそう綺麗な水引きをくださいました。
「あちらの方とご一緒でいらっしゃいますよね」と、かなり離れたところでうろうろしている夫の方を見ながらおっしゃいました。
「おひとつづつですが」と。
すごいです。
私とてどこに夫がいるかわかってもいなかったというのに。

ありがたいことにございます。


桜の頃。
コロナは少しでも落ち着いてくれるでしょうか。


No.409

この珍道中録でたびたび出てまいります【上毛かるた】。
いろはの最後にあたる『す』は、
『裾野は長し赤城山】となります。
赤城山はその裾野の面積が富士山に次いで二番目に広いとされています。
その赤城山。
「赤城の山も今宵かぎり」とか「かわいい子分の手前たちとも別れ別れになる門出だぁ」というセリフで有名な国定忠治という博徒がいたようです。
そう、その国定忠治の生まれた地とされる国定に建つ【赤城神社】さんであります。
国定出身ということで、国定忠治と呼ばれているようですが本名は長岡忠次郎、であったようです。

この国定赤城神社さんの帰り道、すぐそばに国定さんというお宅があったようで
「国定忠治の子孫の方、なのかなぁ」と夫がポツリ。でもすかさず
「あ、でも本名は長岡だったか」と一人ツッコミを入れていました。
ヤレヤレ。

No.410

群馬県前橋市粕川町の【膳八幡神社】へ参拝させていただきました。

粕川町にかつてあった膳城。
以前からこの辺りを通ると、夫が
「この辺りに膳城という城があってね。城内で宴をしている時にちょっとした諍いが起こって、ほとんど武装していない武田軍があっという間に攻め倒してしまったということで、『膳城素肌攻め』と呼ばれる、情けないような落城で有名なお城なんだよ」
…とかなんとか語っていた、膳城のそばに、この膳城の守り神として祀られた八幡神社があるといい、そこに参拝したいと夫が申しまして、今回の参拝となりました。

本当は膳城趾とかを含めて歩きたかったのかも知れませんが、私が城址にまるで関心がないことを知って、言い出せなかったのかもしれません。

膳城址公園の駐車場に車を停めて、赤城山の雄大な姿に感嘆しながら、のどかな、畑の広がる道を歩いて参りました。
そんな道の突き当たりの辻に八幡神社さんはありました。

石の古びた鳥居。
そこから拝殿がみえます。 
あ、お社の扉が開け放たれています。やったぁ。


何段かの石段を登って鳥居をくぐると…。みぎてにひとつ鳥居のあるお社が、ひだりてには手水舎があります。


こちらの創建は不詳なようですが、石祠だったのを鎌倉幕府の初代問注所執事(長官)・【三善康信】が建久年間(1190~98年)に社殿を築造し、膳城の守り神として【鶴岡八幡宮】さんの分霊を勧請したといわれる。
三善氏の子孫・【善】氏(後の膳氏)没落後は、大胡城主・大胡高繁の崇拝を受け、天正12年(1584年)に社殿を造営している。また、延元元年(1744年)に前橋藩主・酒井忠知の命で再建されている。


No.411

【膳八幡神社】さまの現在の社殿は、寛保元(1741)年に前橋城主【酒井忠恭(さかい ただずみ、前橋藩第9代藩主)】の命に依り再建に着手し、延享元(1744)年に落慶したもののようです。

前橋城主の命で造られたものということだけあり、そこここに見事な彫りのなされた、拝殿の裏に本殿のある本格的な造りの社殿であります。
元々白木のままの社殿であったよう思われます。
拝殿の中は質素とも思われました。

経年劣化を免れることはできず、かと言ってこれだけ立派に造られた社殿の修復はかなりな費用が必要、だからなのでしょう、本殿は覆屋で覆われてほとんど外から見ることはできませんが、わずかに見える本殿の土台部分が一部朽ちてもいるように見え、思わず目を逸らしました。
こういった建物の維持管理の難しさをあらためて感じます。

同じ前橋市にあります、前橋東照宮さんは修復工事の方が費用がかかるとの理由で、解体して新たな社殿を建て替えたくらいです。ちなみに…私はこの旧前橋東照宮さんの社殿が好きでありましたので、それを知ったときにはかなりショックを受けたものです。

かすかに見える本殿に施された彫刻の見事なさまに、なんとも物哀しい思いを抱きました。


こちらの拝殿の横に掲げられている絵馬がまた、透かし彫りの見事なものであります。幾重にも深さを変えては遠近をつけてあります。中央に両手を掲げ天を仰ぐ子供がおり、その子を愛おしそうに見守る女性が立っている、といった構図で、その上には花が咲き、鶴が舞うものであります。
見る方が見れば何か題材があってのものなのかもしれません。

境内の向かって左側には稲荷神社がありました。こちらも覆屋で覆われています。
境内向かって右側、鳥居をくぐって間もない辺りには白山神社さんがあります。
こちらは一見するとこの建物本体が白山神社のように思われましたが、中は土間となっていて、その奥に屋根のある小さなお社が中に祀られていました。



地元の方が管理されておられる神社さんなのでしょうが、毎日拝殿の扉を開けてくださり、広い境内は樹木が多いにも関わらず綺麗に清掃されており、こちらの神社さんが大切にお祀りされていることを感じました。











No.412

二月二十四日、ロシアがウクライナに侵攻を始めてしまった。

しかしながらこの侵攻は極一握りの人間が決め、そこに飲み込まれて進軍した人たち。
ロシア国内では戦争反対のデモが起きている。


ふと、ロシアで信仰されている宗教とはなんなのだろうと思いました。
いつものようにGoogle先生に聞いてみました。

今日はそんなロシアの宗教のお話を。

ロシアという国は国土が広く、モスクワなどのヨーロッパ地域とシベリアなどのアジア地域はかなり離れ、ロシアの国土の東西は約1万Kⅿ離れているそうです。

そんなロシアも十世紀にはキエフ(現在のウクライナの首都)を中心とする小さな国であったといいます。
988年にウラジーミル1世によってキリスト教が導入され、そのウラジーミル1世がキリスト教の洗礼を受けたのはクリミア半島のケルソンだったといいます。

ロシアにおけるキリスト教は、【ロシア正教】といわれる正教会の一宗派です。
ロシア正教では【八端十字架】と呼ばれる特別な十字架が用いられているようです。
ロシアにおけるキリスト教は、EUに加盟している国々に代表される所謂「ヨーロッパ」のキリスト教とは若干趣が異なるようです。

キリスト教導入前のキエフ大公国では自然崇拝が為されていました。具体的には、大自然との深いかかわりの中で、母なる大地のすばらしさ、親子のぬくもり、祖先の霊を崇める、といったものであったようです。
十世紀当時の政治状況や「文明国」としてキエフ大公国が認められるためにキリスト教の導入が必要であった、という経緯があだだようです。ただ、結果として導入されたキリスト教がロシアの中でそれまでの土着の神々と共存するために変容し、変容させていったようです。
もともと信仰されていた土着の神々は、キリスト教における「唯一の神」と「人間」とをつなぐ媒介(仲介者)として変容していきます。
ロシアの土着宗教(自然崇拝)とキ
リスト教の関係は、キリスト教を「主」として、そこに自然崇拝の神々の中から当てはまる神だけを当て嵌めるといったもののようでありました。
それが今あるロシア正教のようですが、広い領土の中、ロシア正教の信者は40%程度のようではあります。



どうか一刻も早く、平和を願う民の心が届きますよう、祈るばかりです。




民の声が届くようなら、侵攻はなかったかもしれませんが…。


No.413

風もなく寒さの緩んだ本日、群馬県前橋市の【産泰神社】さんへお参りしてまいりました。

産泰神社さんは群馬県内で安産祈願で有名な神社さんで、県内はもとより関東一円から参拝の方が訪れると聞きます。
いつ行っても必ず何組も参拝者さんがおられる神社さんで、しかもこちら、決して観光の方が訪れるような神社さんではなく、そのほとんどの方たちが安産や良い子育てをと願い訪れておられる神社さんであります。
その御祭神は木花咲耶姫さま。

今まで何度も参拝しておりますが、いつもあたたかくやわらかな気が鳥居のそとにまで満ちた神社さんなのであります。
何度見ても「おおっ!」と足を止めて見上げるほど大きくずっしりとした随身門。それが何十段かの石段の上にあるのですから、下から見たときの大きさといったらありません。
でも決して威圧感などではない、待っていてくださったかのようにあたたかな感じ、なのであります。

その随身門をくぐると正面に、やはり大きな拝殿が見えます。

ただ…何年か前に御祈殿という祈祷のための施設が建てられて、それまではこちらの拝殿に昇殿しての御祈祷であったのですが、今はそちらに新たに拝殿が設けられ、こちらの拝殿に昇殿することは出来なくなってしまったのです。
そして、それまではいつも開けられていた拝殿の扉も閉ざされているようになってしまい、こちらの拝殿が大好きで、いつか昇殿させていただけることを密かに夢見ておりました私にとってはなんとも悲しくて寂しいこととなってしまったのであります。
新しい御祈殿はバリアフリーで授乳室、おむつ交換台、エアコン完備のユニバーサル対応のもののようですが、…うーん。

こちらの拝殿が大好きであったこともあり、なかなか新しい御祈殿とやらを受け入れられないおばさんなのであります。

今は閉ざされたままとなってしまった拝殿はそれは見事な天井画が描かれていたように記憶しております。
姫神さまをお祀りしている拝殿ということもあってか、凛とした中に優しい雰囲気のあった拝殿。
…それでも、閉ざされた扉のガラス越しにほのかに見える灯りが、木花咲耶姫さまが「見ていますよ」とおっしゃってくださっておられるようで、それだけで嬉しくなるおばさんなのでありました。


 
本殿・幣殿・拝殿・神門の四棟及び境内地が、十八世紀中期から十九世紀初頭のもののようであります。

No.414

日本各地にある産泰神社の総本社というこちらは社伝によると履中元(四百)年に創建されたと伝えられているとのことですが、その歴史を示すものは焼失してしまい何も残ってはいないのだといいます。
現在の社殿は前橋藩主酒井氏の尊崇が篤かったことから、前橋城を守護するため西向きに建てられたのだといいます。
彫刻の見事なことや、拝殿の百枚を超える大層綺麗な天井画は、前橋藩主の思い入れがあってのことでありましょうか。

拝殿の前には手水舎とは異なる水鉢が置かれており、抜け柄杓と呼ばれる底の抜けた柄杓が置かれており、妊婦さんがその柄杓で掬えない水を掬うよう書かれています。ぬけるように安産であるようにとのことで、昔は実際に抜け柄杓を奉納していたようです。

拝殿の横には背の高い神楽殿があります。その間を歩いて行くとまた鳥居があって、石段の上には金比羅宮があります。
その金比羅宮の向かって右側に巨石群があり、そこは胎内くぐりとなっており妊婦さんがそこをくぐるとお産が軽く安産で済むと言われているとのこと。
かつてはその巨石群の上の方にある石の間をくぐるものだったようですが、今は危ないことから立ち入りを禁止しております。
妊婦でなくとも足を滑らせそうなほど危ない足場と高さであります。

幣殿、本殿の彫刻がまた見事です。本殿後ろは大きなその一面を使って高砂の図が彫られていました。


こちらは仏滅が休業日となっているとのことでありました。
先日参拝させていただきました国定赤城神社さんも仏滅が休業日でありました。
神社さんに休業日といったものがあることも、それが仏滅だというのも、ここへきて初めて知ったことであります。

ちなみに本日は戌の日の友引ということで、お宮参りや出産予定の家族が何組も何組も参拝に訪れていました。

初宮参りがあたたかな日でよかったなぁと、幸せそうな親子連れとすれ違うたびに思った一日でありました。
そして…幸せのおすそ分けをいただいたような気持ちになれた、そんな一日でありました。

No.415

前回のレスで、いくつかの神社さんによっては仏滅はお休みされているようだと知り、なぜだろうと思った私。何故仏滅になのだろう、と。

「日曜定休日、とするのとなんら変わらないものだと思うよ。たまたま仏滅という日に休もうと決めただけだと思う」というのは夫。
納得のいかない私はそれを聞きながらGoogle先生にお聞きいたします。
なおも続ける夫。
「そもそも仏滅というのは仏教とはまるで関係のないものだからね。むしろ六曜というのは神道と関係しているのだと思うよ。もともと仏滅というのは『物が滅する』と書いていたものを仏という字を当てただけだから」
Google先生、夫を静めたまえ〜。

おっ!あったぞぉ!
「神社さんのサイトで六曜と神道は無関係と書いてあるけど」
「ふーん、そうだったんだ」と夫。素直に私の話を聞き、自分でも調べています。
そこが物事を理解して覚えるために大切な基本なのでしょうね。
私のように素直でない者はそこでずいぶんと時間を損し、下手をすれば新たな知識すら得ずに終わってしまいます。
……私の場合、そこにさらに記憶する能力の著しい低下が加わるのだから、せめて素直にならないとなりませんね。

とはいえ、仏滅にお休みされる神社さんの謎は完璧には解けておらず。夫のいうことが正しいようにも思えもいたします。
まぁそれは、実際仏滅にお休みされる神社さんにお聞きするのが一番手っ取り早いのでしょうが、ね。




ところで。
これとはあまり関係はないのですが、
お釈迦様のお誕生日の『花祭りは
大安』、入滅の日の『涅槃会は仏滅』と決まっているのです。
(以前も書いたよう記憶しているのですが…そこがまた、私の記憶なので、我がことでありながら @#?#?! でございます)

それは【六曜】では陰暦の毎月1日は決められているのだといいます。
1月と7月は『先勝』
2月と8月は『友引』
3月と9月は『先負』
4月と10月は『仏滅』
5月と11月は『大安』
6月と12月は『赤口』
から始まると定められているのだそうです。
それを基に六曜星を循環させる。
すると陰暦四月八日は必ず大安、陰暦ニ月十五日は必ず仏滅になるというわけで。




No.416

群馬県前橋市の【駒形神社】さんに参拝させていただきました。
駒形というところは実によく通るのではありますが、文字通り通るだけで、駒形神社さんのお名前はよく聞くものの今回が初めての参拝であります。

今回も夫の車で、そしていつものように夫の運転で。
初めての参拝ですのでナビを使います。…ええ、あのメーカー純正でありながら、持ち主の妻に似てしまったのか天邪鬼にして適当(⁈)、じゃじゃ馬で、珍道中をより珍道中たるものとする機能を備えたナビであります。

『こまがたじんじや』、そう入力をいたしました。
いくつもの駒形神社さん候補は挙げられたものの、肝心の前橋市駒形町の『駒形神社』さんは、ない!
入力しなおそうが、ない!
仕方がないので住所で入力し、気を取り直していざ駒形神社さんへ。

そもそも夫はある程度はその場所を把握してきてはいるようでしたがナビは夫の思っていた通りには指示することなく進路を指示します。

でもね、腐っても(!)ナビ。

ちがう案内をするとは言っても、せいぜい、目的地の真裏でどこからも目的地の敷地へと繋がっていないところへ案内するとか、しかもそれがUターン不可能な細い道であったり、突き当たりであったりとする程度(しかしこれはこれで案内、ナビとしては失格でありますが…)。
少なくともその目的地のそばまでは(!)確実に案内してきてはいました。
とりあえずこの地点での案内は従っていて大丈夫。

そのうちに、目的地である駒形神社さんが画面に現れました。
何やら細い道を曲がるようナビが指示します。
緊張が二人に走ります。
細い道を曲がると…。
いきなり鳥居です!
(えっこ、この鳥居、車でくぐるのぉ?)道に唐突に鳥居、です。
(あ、でも対向車もいないし、その鳥居はやり過ごせばいいのか…。)
運転していない私の心の中の声であります。
あ、突き当たりに鳥居が見えます。

どうやら今回はきちんと案内をしてくれたようです。

No.417

二の鳥居の先には大きな一枚石を何枚も敷きつめた立派な参道が続いています。途中には左右に狛犬さんがおられます。
そしてさらに進むと、参道の左手に、手水舎があります。
きれいな花手水になっており、溜め水ではなく常にチョロチョロと、それも4箇所くらいで流れている手水舎です。
花手水だけでなく手水鉢奥の淵にもいろいろ飾ってあり、大層華やかで品のある手水舎です。

!!!

…手水鉢のいろいろ飾ってあります中央に、馬の首が!!!
馬の顔が!!!

…乱心いたしました。
もちろん生のお馬さんではありませんが、いきなり、そこにあるのが不自然でしかない石造の馬の顔がぬっと置かれているのですから!
そして…置かれている…のではなく、どうやらそれは、おそらくはコロナ前にはその馬の顔から手水が流れ出ていたものなのだと思いました。
どうして?

いやあびっくり!

そうしてもう一つ鳥居をくぐると目指す拝殿がございます。
参拝させて頂きました。

拝殿の右手前に小さな馬の像があります。コロナ対策でしっかりマスクをしている馬でありました。

そしてさらに右手を見遣ると同じく神楽殿。
さらには拝殿の横には境内社としてはかなり立派な駒形伏見稲荷神社。
こちらは京都にある伏見稲荷大社より神様を勧請しているという神社です。

拝殿には見事な彫刻が施されています。

そして拝殿の左手にはたくさんの境内社が並んでいます。

そして、本殿の後ろにも古い小さなお社があります。
道祖神さまもおられます。


No.418

ナビの入力で気づいたのですが、どうやら駒形神社さんは全国にある神社のよう。
だとしたら、もしやこちらが総本社で?
そもそも私は純粋に駒形という地にあるから駒形神社さんなのだと思っておりました。

で。いつものようにGoogle先生にお聞きしました。…即座に違うと確信いたしました。
陸中一宮(新一之宮)駒形神社本社なる神社さんがヒットし、こちらの御祭神が駒形大神(天照大神・天常立尊・国狭立尊・吾勝尊・置瀬尊・彦火尊の六柱の総称)とあり、駒ヶ岳を御神体とされているとのことで、こちらの駒形神社さんとは御祭神が異なります。また、全国に数えられるだけでも二十はゆうにある駒ヶ岳を御神体とするならば、当然のように全国各地にあることでしょう。

そして、駒というのが馬を指す雅語であること。
紀元前の昔から人の生活になくてはならない存在であったことから考えるとさらにその駒、馬を祀るということは考えられます。それから考えると私が思っている以上に全国各地に駒形神社さんはあるのかもしれません。

こちらの駒形神社さんの御祭神は【保食神】さま。また、「『野の神』『山の神』『水の神』『土の神』の他社より清き土を採り駒形を造り、野馬守護のためにこの四神を祀る」とあります。
さらにこちらには【源頼朝公】の愛馬『磨墨(するすみ)』の蹄と伝えられるものが御神体の一部にあるのだといいます。

No.419

こちら【駒形神社】さんの勧請年月は元亀元年(1570年)と伝えられています。

神仏混淆(神道と仏教が合体した信仰)の時代は、同じ前橋市の天台宗【泉蔵寺】に属していたのだといいます。
泉蔵寺さんって…ここからは結構離れた所に位置していますが?

慶安年間(1648-1651)頃、社殿を改築し「別当 山伏修験本明院」として駒形の氏神として祀られるようになったといいます。
現在の社殿は明治三十八(1905)年に新築されたものといいます。
明治四十(1907)年には本社境内末社三社(八坂社・稲荷社・秋葉社)並びに同じ町内に鎮座していた琴平神社とその末社四社、同じく同町内に鎮座していた雷電神社とその境内末社三社を合併し、今の駒形神社の形となったようです。

また、駒形神社には『駒形牛頭天王の獅子頭一対』があるのだと境内内の案内板に書かれていました。

雌雄一対のこの獅子頭は厚さ4cmの檜材五枚からなり、彩色は朱色の漆塗りで仕上げられているものだといいます。

駒形町は江戸時代藩主酒井氏の命によって町づくりが始まったといわれます。
しかし大勢の人を寄せて町づくりすることは容易なことではなかったことから、駒形住民統合の象徴として牛頭天王を祀り、住民の団結を図ったと言われています。

その祭りは6月14日を例祭日とされ、駒形宿を上から下まで巡行し、そこで獅子頭を韮川に流し、下に行って拾い上げ、これを何回も繰り返す。
こうした行事が、文化九(1812)年より明治末年まで約100年間続けられたといいます。
勇壮闊達な行事と共に歩んだこの町の歴史をしのばせる貴重な文化財となっているのだといいます。

川に流す?
それを拾い上げ何度も繰り返す?
ええっ?!牛頭天王さまの獅子頭を、ですかぁ?
なんともまぁ荒っぽい。

とりあえず写真で見る限りはボコボコに傷んでいるようなことはなさそうではありますが。
川の水位が高かったのでしょうかね?それにしたって川の中、大きな石とかもありそうですけれど…。

とりあえずこの行事は今は行われていなそうです。

要するに。
駒形という町づくりのなかで、人心を一つにするためにまず、山王さま、牛頭天王さまをお祀りして氏神さまになっていただき、のちに戸数も増えたころ、泉蔵寺さんから駒形明神をもらい受け、これを氏神さまとした、ということのようです。

No.420

群馬県前橋市の駒形神社がかつて属していたという、同じく前橋市にあります【泉蔵寺】さん。
前述したように、駒形神社さんが属すには結構離れたところにあります。
こちらは、よく通る県道から多宝塔が見え、いつか参拝させていただきたいとネット等で調べていたお寺さんでありました。

そしてまた、こちらは関東百八地蔵尊霊場の一カ寺となっています。百八巡るのはなかなか大変かとは思いますが、群馬県内だけでもお参りできたら…とも思ってもおりました。

ですので、この泉蔵寺さん、是非お参りしたいと思っているのに、なかなか行けないでいたお寺さんでありました。
よく見ているのに?

…そうなんです。
よく通る道から多宝塔の屋根が見えるものの、よく通る道から少しはいっていくようで、ついでに寄るにはちょっと、くねくねと奥まった所へ入っていくようなのです。

どうせなら駒形神社さんと同じ日にお参りしたいと、
くねくねとナビの示すまま車を走らせてまいりました。

…?
うーん、またぁ?
細い道をいくのかぁ。

No.421

と、思ったものの、さしては細くはないけれど、住宅街の生活道路を走ります。本当にここを行くの?
と、思ったところに唐突にお寺があらわれました。
えっと、駐車場は?

境内に三台車が停まっています。その三台でいっぱい…かもしれない。ど、どうしよう。
とりあえず、入れてみるか。

おおっ!多宝塔がみえます。

が、駐車スペースがない。どうしよう。

そこへ業者さんらしい方がその一台にやってきました。…出るか?

No.422

…業者さんらしい方は、リアゲートを開けて何か始められた様子です。どうやら車が動くことはなさそうです。

…!?
それならば、こちらの車の前に置かせていただいても大丈夫?さぁ、エックスキューズミーおばさんの出動です。

「ああ、ずっと動かさないで作業してるから大丈夫ですよ」
なんとありがたい。

なんとか車を停めることができ、先程からずっと気になっていた仁王像のところへ小走りに向かう私。

そうなんです。
仁王さまがおられるのです。
ただし仁王門、とかではなく、小さな入り口のところに…まるで、そうまさにテレフォンボックスのような、透明なアクリル板張りのボックスのなかで、その入り口を守るように立っておられます。
いつ頃のものなのか、素材は何であるのか、透明なアクリル板越しではわかりませんが、眼光鋭い、なかなかイケメンの仁王さまであります。

吽形の仁王さまの側の奥に、古い石仏さまがポツンポツンとおられます。…仁王さまの入り口から入った正面は墓所なのですが、その横、つまりは仁王さまの入り口真正面にも、等間隔で石仏さまがお立ちになられておられます。
まずは吽形さまの後ろにおられる石仏さまのところへ向かいます。

おおっ!
…時折見かける家のような石造物(未だに名称がわからない)があるのですが、一つ、今まで見たことがないくらい大きなものがあるではないですか!
その中には御仏が鎮座されておられますが…これはどう拝見してもかなり後からそこに入られた御仏で。
元はおられなかったのか、はたまた紛失してしまった(人聞が悪いので念のため書いておきますが、お寺さんの管理が悪くてということではないです。石仏さまや石鍾等が盗まれたことなども過去様々なところであるようですので)ものなのか。
全体としては私の背の高さよりも高い、そんな石造物であります。
そのお隣には今まで見てきたような大きさの、家型石造物がありまして、そちらにおられる御仏さまはおそらくは建物(?)と同じくらいの石仏さまがお入りになられておられます。

うーん♡

No.423

泉蔵寺さんにおられる石仏さまは、どの石仏さまも柔和な穏やかな笑みを浮かべられておられます。

そして、お召しになられておられる衣装が今まで拝したことのないようなお召し物。
たとえば、どう拝見しても髪が長いか、尼御前さまのような石仏さま。天女が空を舞う時頭上に舞うリボンのような薄い布のような物を抱く如意輪観音さま。
平安時代の貴族のような衣冠束帯姿としか思えないお姿をされた石仏さま。
…ご想像通り、私、立ち止まっては歩き、その歩みも牛歩の歩みとなりました。私どもの他にはどなたも参拝の方がおられなかったからよけいです。とはいえ場所の脇、参道に沿って並ばれる石仏さまゆえ、そんなには長く留まれはいたしませんが。

比較的新しい六地蔵さまがおられる横に、それはそれは立派な山門がございました。
白塗りの壁の続く、白木が経年変化し落ち着いた木の色を出した、瓦葺きの四脚門です。この山門、まさに細い住宅地の生活道路に面しております。車でのすれ違いも難しそうな道。
かつては皆徒歩かあるいは馬で訪れていたこと、このくらいの道幅があれば充分すぎるものでありましたでしょう。
さらには明治の廃仏毀釈のとき、さらには戦時下の被災で町並みが変わってしまったり、戦後土地を返上という名で無償提供しなければならなかったりで、いろいろお寺さんを取り巻く環境が厳しかった時代の流れを受けてのものかもしれません。
白壁はさほど長く続いてはおらず、こちらの山門は、中の境内とは違和感のあるもののように感じもいたします。
こちらの山門は文化六(1809)年建立とありました。

そして御本堂の前にようやく到着いたします。『殿頂華』という右から左へと書かれた、でも比較的新しい扁額が掲げられています。
屋根の高くない、あまり見ない建て方の御本堂をリノベーションされているようにも思われます。
御本堂の左右に建物がくっついて建てられてもいます。

御本堂の前には大きくて立派な石造の香炉もありました。
香炉は象の上に香炉部があり、蓋はとぐろを巻き可愛らしく口を開けた龍が乗り蓋をおさえておられます。

No.424

さらに御本堂の前には喚鐘(と呼ばれると後から知りました)がありました。
この喚鐘、ネットで調べていて気づいたのですが、実は左右に二つあり、それぞれに向かって右側が湧出韻、左側は寿量韻という名まであるもののようでありました。

粗忽者の私は一つしか目に入らず、その一つを高らかに打ち鳴らしたのでありましたが、二つあるということは、そこに大きな意味があり、作法…たとえば左右どちらかから打つとか、参拝前に左右どちらかを打って参拝後に残った側を打つなどなど、決まり事があったに違いありません。(特にそのような注意書きは一切なかったのではありますが)
閉ざされた戸越しにお参りしたご本尊さまはお地蔵さま。きっと、きっと、この粗忽者でいつまで経っても初心者マークの外せないおばさんを、笑ってお許しくださったことでしょう。


その御本堂から見て向かって右側に多宝塔があります。多宝塔はおそらくは鉄筋コンクリート製の比較的新しい時代に建てられたものではないかと推測されました。階段を何段か上がって拝んで、その後できたならご住職さまにお会いしたいとあちらこちらの建物を回っておりました私。
夫は多宝塔の前に長いことおりました。
結局、業者さん曰く、おられるはずのお寺の方にお会いすることはできず(呼び鈴等が一切ないお寺さんでした)、夫と合流した私は、多宝塔に何かあったのかと聞きました。私はネットでこちらの多宝塔は歴代のご住職を祭ったものと知っていたので、そのようにお参りしたものですので。
すると、
「うん、寝釈迦さまがおられた」

えっ!?、寝、寝釈迦さま!?

ご想像通り、当然多宝塔に戻る私。
覗いてみるとたしかに!金色に輝く寝釈迦さまがおられます。おおっ!
その横には亡くなられたご住職の顔写真が祭られています。
思ってもみませんでした。
ネットの情報も確かではありましたが、寝釈迦さまは、若くして亡くなられたという先代のご住職を偲んで、最期のお教えをなさるお釈迦さまの元にお祀りしたのでありましょうか。

No.425

私が時々お参りさせていただいております栃木県足利市にございます【大岩山毘沙門天】さま。

今年は寅年という事で、毘沙門天さまの使徒であります寅にちなんで二度ほど特別な行事もございましたが、一度目は都合が合わず、二度目は起きたら予報にすらなかった雪が降っており、その際には参拝が叶いませんでした。

しかもこちら、麓の本坊から山道をくねくねと登って実に二キロ行くというところにございます。山道は狭く、対向車が来たらすれ違えない道がいく箇所もあり、片側は崖であったりと、到底、私のような者は運転を避けた方がよい、何より本人が走りたくないと思う道にございます。

そんな大岩山毘沙門天さまへと徒歩で登って行く道がございます。
本坊よりさらに登って行くとその道のすぐそばに広い駐車場があるのです。
平日お参りしたい時はそこから登ろうと常々思っており、先日の雪となってしまい断念した特別な祈祷日にも、実はそこから登ろうと思っておりました。

そもそも山道が苦手なだけでなくて、方向音痴で道が覚えられないという、すでに特殊能力ともいえるものも持っていたのでは?、とお思いになられた方もおられましょう。
が。こちらへは行けるのです。
ただしこの時点では、〝たぶん〟という文字が必要でしたが…。

それでもドキドキしながら、護摩修行の一時間前には自宅を出発いたしました。これだけ余裕を持てば、はじめての山道であっても余裕で着くであろうとは思ったのですが、そもそも普通に向かう道路を間違わないとも限らず、山道を間違えるようなことになれば遭難という事態です。

それでも本坊への道は間違うことなく、あとは真っ直ぐ一本道というところまで来ることができました。(それが本来普通の人には当たり前)

本坊も高台にありますので、道を走っている際には見えないのでありますが、その横を通る際には心の中で、ここまで無事にご案内くださった、本坊のご本尊さまのお不動さまにお礼を申し上げながら通過いたしました。

そこからほんの少し車を走らせると駐車場があり、その道を隔てた反対側に立派な石標が建っています。
石標の先は石段が見えています。

石段なら大丈夫。

No.426

石段なら大丈夫ぅ?
結構急な上に傷んだ登りづらい石段です。それをようやく登り終えた、私の目の前には…。

…。
……。

……う、嘘でしょ?
これって…道じゃないでしょ?
道じゃなくて…。そ、そうだ!大量の水、鉄砲水が流れた跡ってちょうどこんななのじゃない?

こんなの道じゃないー!

…ま、まぁ、きっとここだけでしょう。たぶん本当に鉄砲水が流れたので、かつてはきっと道だったに違いない。
だって、ここ、参拝道ですし。
ハイキングコースですし。



嘘だあぁぁぁぁぁ。

これって岩肌じゃない?
傾斜だって結構急で。
嘘でしょ?

ここ、修行道じゃないですかぁぁ!?

もう必死ですっ。
ロッククライミングとまで言ったら大袈裟かもしれませんが、掴まれる岩、足をかけられる岩を確認しつつ確認しつつの四つん這いです。
後ろなんて決して振り向けない!
バランスを崩したら転落事故ものです!!
戻る?
無理、無理、無理、無理、無理!
後ろが振り向けないから四つん這いのままバックするしかないんだから!
それこそ転落事故の可能性が上がってしまう。

…どうしてこんなことになったの?
私はただ毘沙門天さまの護摩修行に参加したくて来ただけなんですよぉ〜。


何かあったら…。
そうだ!
ここってスマホの電波は大丈夫なとこ?…スマホなんて見れないから〜〜っ!
恐い、恐い、恐い。
恐いよぉ〜。

ケモノとかも出そうだぁぁ。
熊鈴、…出せない〜っ!


落ち着け!
一歩づつ、一歩づつ!
絶対大岩山毘沙門天さまのもとに繋がっているのだから。
がんばれ、私!



…本当に?
本当に繋がってる?
私どこかで道をまちがえていない?
でも、石段からずっと道っぽいところを来ているはずなのだけれど…。

…本当に?

No.427

四つん這いでしか進めないような、岩肌むき出しの道、草すら生えない、生えた跡すらない渇いた土の道。
掴まるところといえば少しだけ飛び出した岩肌にあるゴツゴツの一部。
土が流れてむき出しになった木の根。
それすらが遠いとまさに匍匐。

そんな道だと知っていれば、グローブとかの用意もしたし、靴だって登山用にしたし、…いや、そもそも単独で登らなかった。
そう!そもそも登ろうと思わなかったからぁぁぁ。

ロープとかも鎖とかも一切ない、そんな岩の突起をたよりに山道を必死に、自らを鼓舞しながら一這い、一よじ登り。

でもいつかは毘沙門天さまの道につながる道。


あっ。
ここは立てる!

立てる道まで来た!
ここからは歩けるんだ!
よぉし、ここからは巻き返すぞぉ!
…少し早足で歩き出しました。
二足歩行できてる幸せを一歩一歩噛みしめながら…。
……。



嘘だあぁ。
また、こんな道ぃ?

さっきより急斜面じゃない?


…Oh my god!

いや、私無宗教だから…。

No.428

【日光山輪王寺】で2月4日から、同寺に伝わる秘仏【鎮将夜叉尊(ちんじょうやしゃそん)】が九年ぶりに特別公開されています。
立春の同日から一年は、九年に一度の世相が荒れやすくなる星回りとされる【九星術】の『五黄中宮(ごおうちゅうぐう)』に当たることから、人々の厄難を払うべく、秘仏を公開してきていたのだといいます。

『鎮将夜叉尊』は徳川幕府の宗教顧問を務め、日光山中興の祖とされる【天海(てんかい)大僧正】が天下泰平や国家安穏をひそかに願ったとされる仏像であるといい、夜叉の首の上に座す毘沙門天像で右手に宝棒、左手に宝塔を持つのだといいます。
白檀製で高さは約五センチ、製作年は分かっていないとのこと。
かつて僧侶や信奉者は小さな御仏の像。袈裟(けさ)に入れたり、髪に結い込んだりしていたといいます。

うーん。参拝したい。

この日光大好きなおばさんがもう二年以上日光へ行けていないのです。(/ _ ; )
御札ももう二年分を郵送していただいての授与。

日光に、 行きたいぞぉ!!


No.429

閑話休題。

そう、舞台を(?)ふたたび栃木県足利市の大岩山へ。

悲しいかな、そこはふたたび四つん這いで前へ、上へと向かう道です。
「つかまるとこ、ないじゃない〜っ」と心の声をあげながら。
ですが…、ここまでまいりますと、なんだか不思議なことに、恐さだけでない、達成感にも似た心地よさが生まれています。
…達成どころか先すら見えていないんですけれど、ね。後ろ、今来た道なんて恐くて見られやしないし。
後戻りは決してできない。
ただ進むのみ。
…人生をも思わせるこの道を、どこか楽しんでいるような自分がいます。

前腕も土につけて、かなり離れた木の根をやっとの思いで掴みます。あ、足場は…うん、大丈夫!

(護摩修行の時刻に)もう間に合わないかな。まぁいいや、次の回もある(次の回は四時間後、ですが…)。
焦っても仕方ない。
一歩づつしか進めない。

おおっ、また平かな道です。
東屋まであるではないですか!
とりあえず道は間違えてはいなかったということです。
気分はすっかり晴れ晴れしています。
時計を見ると、かなりの時間を費やしたかに思っていたのに、十時までまだあと二十四分もあるではないですか。
これは…余裕で間に合うではないか。

…このあとまた、手をついて四足歩行となる場所が何ヵ所かありましたものの、その後はたしかに岩のゴツゴツしたものが多い道ではありますが、二足歩行が可能な道です。
これは…きっとあと少し!

予想は当たり、石塔などが見えてきました。

あ、車の屋根が見える!
登り道の先に車の屋根が見えてきました。
これは四台くらいしか置けない、毘沙門天の御堂の真下の駐車スペースに置かれた車に違いありません。

やったぁ!



車を見たときは、そう思ったのです。ですがね、その先に急な少し長めの石段があることを、すっかり失念していたんです。

…ぁ、ぁぁ。

呼吸するにも声が出ているようなあり様で石段を登りました。

いつもなら鐘を突いてから向かう本堂ですが、もうそんな余力がありません。ちょうど十時。

無事に、無事に到着しました。
これも毘沙門天さまと、御本坊におられるお不動さまのお導きでしょう。

ありがたい、かけがえない体験をさせていただきました。

No.430

ようやく到着しました、栃木県足利市の大岩山毘沙門天堂。
さていつものように受付を。「御護摩修行に参列させていただきたいのですが」
「ああ、それでしたら御札を受けてください」

…ええっ?!
お、御札、ですか?

…今までは護摩木をお授けいただくだけで御堂の中に入れたのです。

護摩木とは御護摩の際使用する特別な薪(?)となります。
祈願したい願い事と名前を護摩木に書き込み、それをお焚き上げいただくことで、炎が祈りと願いをご本尊さまに運んでくださるという法であるといいます。

こちらでは実際に自分が書いた祈願の護摩木を炎にくべるのはいつなのかわからないのですが、護摩木に祈願や願い事をお書きして護摩修行に参列する、流れとしてはしごく当然の流れでありました。
こちらでは参列者は護摩の炎に割り箸を一本くべるのですが、ご本尊さまの御前で焚かれた護摩の炎に木をくべるという神聖な行為に、自分の罪穢れと向き合い、それを浄化していただけるよう祈願して、その時、何かを捨て去ることができるような気がする、私にとって大切に思う儀式であります。

御札を受けた者のみが参列できるとなると、毎回御札をお受けすることとなるのでしょうか?
しかも護摩木は書かないようです。受付から護摩木が消えて、寅年の特別な御札や特別御朱印等が前面に飾られています。

コロナ対策、なのでしょうか…。

何やらモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、御本堂へと入りました。

十時から、という御護摩は一向に始まる気配がありません。私は呼吸を調え汗を引かせるのにちょうどよかったと思っていましたが…。
十五分が過ぎ、辺りから少しざわめきにも似た声があがります。
「今日は遅れて始まるのかしら」

受付に近い席なため、やたらと商品の金額やお金のやり取りの声ばかりが響きます。
うーん…。
何かが変わった?

護摩修行が始まりました。
般若心経を繰り返し御唱えする間に、ご住職が護摩壇に静かに火をくべられました。
やがて、本日の御札を受けた者の祈願の内容と名前を一人づつ護摩壇に向かって読み上げが始まりました。
炎は高く天井にも届くかという勢いです。

…私の名前は、無い。

時間に充分間に合って御札をお願いし、しかも三十分は遅れて始まっているというのに、私の祈願したものの内容は受付から届いていなかったのです。



No.431

そ、そんな。


…たしかに護摩修行が始まってからもずっと受付ではあれこれを販売する声が絶えず続いていました。
少ない(でも三人はおられた)人数で受付をこなして、大変だったのかもしれません。

でも、御護摩に祈願する護摩祈願で、祈願が読み上げられないって、どう考えても『無し』、なんじゃないでしょうか。
販売の手を止めてでも届けるべきものではないでしょうか?
結局、座がひらけて、すっかり炎が消えた頃に、ご住職の手に届いた私ともう一かたの祈願文は、取ってつけたように読み上げられましたが、ご住職もテンションの下がった声でありました。




…なんだかなぁ。


No.432

…本来捨てるべく訪れた場で、かえって雑念やら煩悩を溜め込んでもやっとする気持ちを鎮めるべく、ご本尊の毘沙門天さまの前に座して手を合わせました。

毘沙門天さまの御像はもう少しで、修復の為、このお堂をあとにされることとなっておられます。
お戻りになられるのは何年か後とのこと。
今回はその勧進のために訪れたのも一つでありました。

が、受付は一時間経っても順番が来ない。
そう、御朱印のやり取りでずっと順番が来ないのです。三人いても一人は御朱印の書き手にまわっていました。しかも実際受け付けているのはその中の一人だけ。一人だけなのです。
住職の息子さんにお渡ししようとしたのですが、勧進の受付はあちらなんですよ。と申し訳なさそうに一言。


はぁ。



「今日は帰ります」。


とぼとぼと石段を力なく降りて。
今度は絶対、『女坂』で降りよう!
というか男坂で降りるのは不可能だから。
なんなら車道を歩こう。


そう思って石段を降り終えたとき、一台車が来たので道路を渡るのを待ちました。

No.433

スゥッ。
その車は石段の前に静かに停まりました。私が渡るために停まったのではなく、私の前に停まったのです。
「よろしければ、乗ってください」

えっ?
毘沙門天さまがあまりにトボトボ歩く私を憐れに思って車を運転しておこしになられた?

若く爽やかなイケメンです。

…あ。
ご住職の息子さん!

男坂を登って来たことをたいそう驚かれ、褒めてくださっただけでなく、糖分を摂るようにと飴をくださった方です。

「ついでですから」

いやいやいやいや。
そんなことをしていただいてはバチが当たります。
「本当についでなんですよ。お昼を買いに行くので」
いやいやいやいや、そのお気持ちだけで。

…なんともありがたいことにございます。
先ほどまでのモヤモヤなど全て吹き飛んでしまい、幸せな、温かな気持ちで帰路に着くことができました。


うーん、また近々勧進をお届けにあがらなければ、な。
今度は必ず女坂で!


No.434

十一年目の3・11が巡ってきました。

あの日。
私は午前中の仕事が終わらず、ようやく座ってようやく食事を取り終わった、まさにそのときだった。
緩やかな揺れから一気に激しい揺れとなった。
これは大きい!
机の下にもぐることがどれだけの効果があるかわからないが、とりあえずそれだけが頭に浮かんだ。
揺れが長かったのか、短かったのか、今まで経験したことがないくらいに強かったことしか覚えていない。

それでも、私の居たところは特に落下物も倒れた物もなかった。
ビルの一番端の太い柱の何本かある、そんなところであったからで、その後、同じフロアでも壁にクラックが入っていることを知ることとなる。
揺れが落ち着いて、まず自宅に自分の無事を知らせる一報をいれた。
その後すぐに私の頭に浮かんだのはこのビルを訪れておられるお客様の無事を確認することだった。
床に座り込んでおられる方の肩を抱き、とりあえず椅子に掛けて、今後もし揺れが再度来るようなら、椅子の下に潜れるようにと伝えた。
今のうちに外に逃げた方がいいかと問われる方もおられた。
現状からはビルの中の方が危なくないように私は考えた。外の様子はわからない。ガラスが割れるなどして危なくないか、車が出せる状況なのか、なにもわからない。
とりあえず、クラックの入った壁からは離れて、その後おそらく誘導の放送が入るであろうから、それまではビル内にいる方がよいかもしれませんとだけおこたえした。

上の階から徐々に職員が降りてきた。上の階ではガラスが割れ、パソコンやテレビなどが全て落下した階もあるという。
これは…思ったよりも大きな地震だ。

とりあえずその後、午後の業務が徐々に再開した。
昼休みの続きを再開して、今度は子供たちの携帯に電話をかけた。通じない。
誰にも。
不安は大きくなる。

定時刻まで仕事をして帰途についた。
長女が心配して途中まで迎えに来てくれたのに出会えた。私は自転車で通勤していたので、娘も自転車で迎えに向かってくれたという。

家に帰ると家族全員が揃っていた。
夫の会社も子供たちの学校もみな、揺れが落ち着いた時点で帰ることとなったらしい。

No.435

あの日は今日と同じ金曜日だった。
次ぐ日、土日休みの仕事であった私は、不安ながらも子供たちや夫と共に過ごせたことをどれだけ感謝したことか…。

あの日。
想像をはるかに超えた大惨事であることをその後テレビの画像から知ることとなる。

実は震源地は私の住まうところではなく、はるかに遠い東北であったこと。
私の体験した地震よりはるかに大きな揺れであって、しかも津波が発生していると報じられたのだ。

その映像をみて凍りついた。
言葉になどならない。
あれは同じ日本で起きている現実なのだ。
到達はあっという間だった。
本当にあっという間。

黒々とした大きな破壊力を持った水が、あっという間に全てを飲み込んでいる。

あの黒々とした海の色を忘れられない。

No.436

あの、後に東日本大震災と呼ばれることとなるあの地震。

東北はまだ雪の舞う時期で、春の近づく関東地方とは異なるまだまだ寒い頃。
津波が発生し、徐々に退いていった後に目にした景色はほんの数時間前とはまるで異なって。
そして無情にも夜となる。


ああ、地震発生時刻だ。


No.437

夜通し家の柱につかまり、水に浸かって過ごした方がおられた。
家ごと流された方がおられた。
…目の前で、お身内の方が黒い海にのまれた方もおられます。

ご自分の使命と津波に立ち向かい、命を落とされた方がおられたこと、忘れられやしません。

夜は明けても、津波の残した水は街を覆ったままでした。

とはいえ、私はテレビを見守るだけ。体験したわけではありません。
どうしても記憶していないことが多くなりました。
ただ断片的に、忘れられない光景や
忘れられないお話はある。


当時大学生だった息子はボランティアとしてその後何度も足を運ぶこととなりますが、…彼は未だに一言もそのことを語ろうとはしません。
それほどに悲惨な状況であったのでしょう。
何年か後に少しだけ復興した…なにも無くなった町の写真を見せてくれました。
それも無言でありました。

そして…。
さらに飛び込んできたのは、事故発生からかなり遅れて、福島原発の事故。
津波での被害ではなく、突然、家を、街を棄てて逃げるよう指示された方々。
立ち入りも禁止された町。


十一年。
忘れてはならないという言葉がテレビで伝えられるようになって何年経つか。

忘れられはしません。

行方不明の方は未だに2,523名おられる。
未だに避難生活をする方がおられる。

復興予算は大幅に減ったようだ。
政府主催の追悼式も開かれなくなった。
必要な支援は届くのか。

私に出来ることはなんだろう。
忘れてはならないのはそう思うこと。
出来ることをきちんと実行すること。
被災者の方の声を聞くこと。





No.438


東日本大震災で亡くなられた全ての方々の御冥福をお祈りします。


No.439

お寺さんでいただいた一枚の紙に書かれていた文。

  【陰徳】

陰徳とは
だれもみていないところで
よいことをすること

陰徳とは
だれもみていないからといって
わるいことをしないこと

陰徳とは
そのひとにきづかれないように
そのひとのためにすること

陰徳とは
ひとからしてもらった
よいことにきづくこと

陰徳とは
きょういちにち
それが
できたか できなかったか
ふりかえること


No.440

群馬県館林市の【常楽寺】さんへ参拝させていただきました。
館林市でまだ参拝したことのないお寺さんということで夫が調べ、向かったもので、到着まで一切予備知識なくての参拝でありました。

最近はもっぱら夫の車で…そう、あの、例の、珍道中をさらに珍道中としてくれる特殊機能のある、天邪鬼ナビの搭載された車です。
大きなお寺さんとのことで、早速ナビにお寺さんの名前を入力します。
…出ません。
はぁ?
古くからあるいくつかの札所ともなっているお寺さんのようですのに?
とはいえ、出ないものは出ないので、しかたありません、スマホから場所を調べて、その情報からナビの地点登録をして、向かうこととなりました。

ほうほう、今回は指示した地点への案内なためスムーズなようです。

…。……。
お寺さんの入口であるとしか思えない場所へと案内されました。…されましたが…駐車場がなく、幼稚園の入り口と兼任しているようです。
駐車場がないぃ?
今どきのお寺さんでありますし、幼稚園を経営しているようでありますので、ことさら駐車場が必要なのでは?
ですが、エックスキューズミーおばさんが車から降りて、その近辺を歩いてみても見当たらず。人も民家も見当たりません。
…幼稚園の園庭横の敷地に車がニ、三台置けそうです。この日は休日で園児も先生もおられません。そこに置かせていただいて。

目の前にありながら、なかなか車の置き場所に苦労して、ようやく山門を通ることができました。

入ってすぐのところに、何やら金属の棒で、まるであえて中にある仏像を見づらくしているかのような高さ三メートルくらいの覆屋があります。
そのすぐそばに案内の看板があります。
【やきもち地蔵尊】と書かれています。

えっ?
もしかして、…いつか必ず参拝させていただきたいとひそかに思っていた、やきもち地蔵さんのおられるお寺さんだったの?

No.441

常楽寺さんの、通称【やきもち地蔵】さんは享保十一(1726)年像立の地蔵菩薩さま。
台座があるとはいえ見上げるほどの大きな半跏座像でありました。

発願主は、こちらの第二十二世恵海上人とのことで、台座には『仏説延命経』の『枢要文言』を刻してあるのだといいます。ただ、覆屋を取り囲む木材のガードであまり良くは見えないのですが…。
代受苦の心を表す〝すまぬ〟という反省、〝ありがたい〟という報恩感謝、そして〝きのどく〟という真実慈悲。この苦悶代受の大悲大慈こそはまさにお地蔵さんの御心であると説かれています。

そんなお地蔵さまが何故、『やきもち地蔵さん』などと呼ばれるようになったのか。

伝説によると、ここから五百メートルほど北にある【深諦寺】さんの日限地蔵さま(こちらを女地蔵と呼んだといいます)が縁日で大変盛っていることに、こちらの男地蔵さまがやきもちをやかれ、そのうち、夜になると矢場川の土手伝いに女地蔵さまに会いに行くようになったという。
それに困った住職や寺の世話人が男地蔵さまの周囲に頑丈な柵を作り、さらには首の下に鎹(かすがい)を打って、外出を阻止したという。

とまぁ、その伝説はとにかく、実際に、こちらのお地蔵さまは覆屋に入られ、さらには斜めに打たれた木材で、まさにお地蔵さまがお出になられないよう阻止するかのようなっているのです。


このやきもち地蔵さまのご利益は、妄想に纏われた老若男女が、やきもとをやいたり、やかれたりのなまめかしい苦悩を「やきもち地蔵」の方便慈悲によって霧散霧消するというもので。
つまり、煩悩に左右された男女間のやきもちを解消してくれるというものであるといいます。
願が叶ったら、お餅を焼いてお地蔵さんに供物とし、お礼参りをするのが習わしとなっているといい、今でも遠方からも焼きもちをあげにお詣りする方がおられるといいます。

ちなみに私どもが参拝した日には焼きもちのお供えはありませんでしたがね。

No.442

山門をくぐった正面に、茅葺き屋根のお堂がそびえたっています。お堂自体はさほど大きなものではないのですが、茅葺き屋根が重厚なため、そびえ立つ感がすごいのです。
ふらふらとこちらへ向かいたくなる気持ちをぐっと堪えて、体の向きをぐっと九十度右に向け、ご本堂へと向かいます。
ご本堂の方へ身体を向けるとひだりてに背の高い鐘楼がそびえています。
長い棒が鐘楼のそばに立ち、五色の吹流しが真っ青な空に真横にたなびいています。

ご本堂は横に長い、大きく古そうな建物です。『右にお開けください』と貼り紙があります。
おお、入ってもいいんだ!
中も横に長い土間となっています。真正面に大きなお賽銭箱か置かれて、そこに御朱印が何種類か置かれています。こちらはお不動さま(関東不動明王霊場)と千手観音さま(新上州観音霊場)、関東百八地蔵尊の三カ所の霊場となっています。
まずはご本尊さまであられます不動明王さまはじめ、御内陣におられる御仏に合掌いたします。
さほどは大きくないお不動さまが真正面にお祀りされておられます。左右に不動明王さまの迫力ある絵が貼られております。
多くの御仏の御像が不動明王の前に並ばれ、その前にたくさんの仏具が置かれており、護摩壇がきられているように見えます。
立派な彫刻がたくさんめぐらされています。

ご本堂内は自然光であり、奥にある御内陣はほのかに灯りが灯されてはいますが、あくまで暗く、よくは拝観はできませんでした。
自由に入れるご本堂で、御朱印もお書き置きがご用意されており、志納金はお賽銭箱に納めることとなっている、初めてのパターンで、御由緒とかをお聴きしに庫裏にうかがう理由が何一つ見出せないのでした。
まぁ、それでもコロナ禍でさえなければ、エックスキューズミーおばさんは庫裏へと向かったのでしょうが、今回は諦めた次第で。
御守りまでもがセルフでの授与、これで庫裏へ向かう勇気はさすがにありません。

ご本堂をあとに、先ほどの茅葺き屋根のお堂へと向かいました。

こちらは江戸時代中期の享保二年(1717年)に第二十二世恵海和尚が建立したという阿弥陀堂でありました。

No.443

【常楽寺】さんのフルネームは、
『光明山 無量寿坊 自在院 常楽寺』といいます。

御本尊は【不動明王】さま。『願かけ不動尊』とお寺さんは看板を掲げて(実際にそういう看板があるようです)おられますが、最近、『ぽっくり不動』と呼ばれるようになっているようです。
御本堂の中にそのような貼り紙があり知ったのでありますが、その理由についてはお寺さんにお聞きする機会がなかったので、次回再拝の折にお聞きできたら、と思っております。

元禄時代に不動明王が本尊になったと伝えられているといいます。

ん?本尊になった?
それ以前は違ったので?

それについてはお寺さんのブログに書かれていました。

もとの本尊はなんだったのか…それは先にあげたお寺さんの名前にあらわれているのだというのです。

「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」

阿弥陀如来さまを主に信仰する浄土教の言葉です。(ちなみにこちらは真言宗豊山派のお寺さんですが)

『無量寿坊』の無量寿(むりょうじゅ)は【無量寿如来】で〝阿弥陀〟の漢訳名なのだそうです。

『自在院』の〝自在〟は「観自在王如来(かんじざいおうにょらい)】で、やはり阿弥陀如来さまの別名。

こういったところから、常楽寺さんは阿弥陀如来さまと深い関係の寺であることがわかるのだといいます。

「てか、もろに阿弥陀様だってわかる名前です」…とはご住職のお言葉そのままです笑。

「阿弥陀如来という呼び名は梵語のミターバヤの音写で無量光仏。
また阿弥陀大呪で十回でてくるアムリタは甘露の意味です。
だから甘露王如来ともいいます。」
(…この辺りはもうすでに理解の範疇を超えていたため、そのまま添付しております)


そんな、元禄以前はご本尊さまであられたという常楽寺さんの阿弥陀如来さまは金色に輝く、等身大のお姿をされておられました。
無防備に開け放たれた扉で、思わずドッキリしてしまった小心者の私。
…昨年、御仏像が盗まれてしまったお寺さんがあったことが記憶に新しく、こんなに無防備でいいんだろうかと思ってしまったというわけでありまして。

とはいえ開け放たれた扉自体は本当にありがたく、いつものように御仏像が恥ずかしがるぐらい、そのお堂の前にいたのは言うまでもなく…。

No.444

ご住職のブログは2010年から綴られた、内容も多岐にわたるもので大変ためになり、そしておもしろいものでありました。
とは申しておりますが、まだまだ目を通せてはいないのですが、ね。

ミクルさんとは違ってそのブログには栞機能がないので、あれ、あの記事はどこだったかな、とか思ってもその膨大な量のブログ、なかなかそこにたどり着けやしないのです。


こちらのお寺さんは弘安三(1280)年の創建とも言われているようですが、それ以前に十二世の住持がおられるのが確認されているようで、御本堂にもそれ以前の上人さまの等身大像がまつられているとのことで、
現在のご住職が四十世と歴史あるお寺さんのようです。

その長い歴史の中では、下野鶏足寺の末寺であったこともあったようです。
また、現在は群馬県館林市木戸町でありますが、もともとは栃木県足利荘木戸郷で、足利四カ壇林の一寺で十八カ寺の本寺であったようです。


現在のご住職の御祖父さまにあたられる泰圭和尚さまは、明治の廃仏以来無住の寺であった常楽寺住職として昭和八年に任命され 、昭和十三年遷化されたといいます。
世寿38歳。在任わずかに5年であったといいます。

その五年の御在任中、それまで判然としなかった歴代住職の調査をおこない、過去帳を作成されたのだそうです。
さらには涅槃図を作成されたのもこの方であられたといい、大きな賽銭箱を作成されたのもこの方であったようで、精力的に布教活動し寺門興隆をはかっておられた方であったようです。

涅槃図も涅槃会(常楽会)を行うために用意したものであったことでしょう。
それが執り行うことができたかどうか…。
お孫さんである現ご住職は涅槃会を執り行うたびにおじいさまを偲んでおられるようです。

長い歴史はあるものの、無住の時などもあり、伝えられていないことがたくさんあるようです。


なので、現ご住職も推測されることも多々あるようです。

ご住職はかつては阿弥陀堂が御本堂で、今本堂として使っているところは僧堂であったのではないかと推測されてもいました。

山門から建つ位置からも、本堂の大きさからもそう考えても不思議ではないように思われます。
まして阿弥陀如来さまがご本尊であられた過去からも、充分考えられることでしょう。

No.445

是非とも再拝し、ご住職にお会いしてお話をお聞きしたいとブログを読んで思いました。
いろいろお聞きしたいこともありますし。

うーん、不動明王さまの護摩祈願も参列したいし、火渡りの儀式にも参加したい。


とりあえず、蔓延防止等重点措置がとけてから。行けるかな?

No.446

さて、この次に向かうのは、やきもち地蔵さまのお相手の、日限地蔵さまのおられる【深諦寺】さん。
…まぁ当然、でしょう?

来た道とは反対に向かって走ると細い道となります。…ええっ?大丈夫?

大丈夫といえば大丈夫で、間違いなく深諦寺さんへ到着いたしました。問題は細い道な上、駐車場がないことでありました。
なんとか少し膨らんだ路肩のところへ車を停めて、…えっとぉー。
お寺はどこ?
小さな建物がぽつんと一つ。お墓はもちろん、ほとんどお寺さんを感じさせる境内ではありません。

ここは…館林市木戸町の外れ、足利市との境を流れる矢場川のほとりとなります。
あ、あちらの方に小さな門があります。行ってみると、それは庵に建てられらような小さな小さな門です。
深諦寺、と門柱に書かれた文字と、時宗と書かれた文字。

そうですか…。

かつては関東十刹に数えられる程の寺だったという深諦寺さんは小さな小さな平家の一軒家のようにしか見えません。
『日限地蔵』が有名で、縁日には露天が出、たいそう賑わったのと書かれていたし、その繁盛ぶりに〝やきもち〟を妬いて常楽寺さんのお地蔵さまは夜な夜なここまで歩いてこられた、というのに…。
だが、太平洋戦争前後に無住の寺となり、さらには御本尊の仏様が盗まれてしまったとかで、今は縁日もやめてしまったのだといいます。

門柱を入ったところに何体かの石仏像がありました。おそらく宝暦年間(1750年代)以後に廃寺になった東光寺(深諦寺の隣にあったらしいが、現在はその面影もない)の石仏ということが、刻まれた文字から知ることが出来て興味深かったです。

それにしても、なんとも物悲しい光景でしょう。
うーん。

No.447

昨日の地震において、被害に遭われた皆さまに、
謹んでお見舞い申し上げます。



No.448

ふと目が覚め、かすかな水音に気づいて耳をすましました。
…ああ、雨のようです。
思えば大きな災害のあとには必ずといっていいほど、雨が降っている気がいたします。今回のものに関していえば、雨の予報は元々出ていたものであった…それはたしかなのですが、被災した地にあってはどれだけの追い討ちか。

この珍道中、長く綴らせていただくうちに、珍道中録だけにとどまらず、私の日記とも覚え書きともなってきていまして、(それはそれで読んでくださる方には大変なご迷惑なのでしょうが)先ほど見かえしたところ、昨年の二月にも大きな地震があったことを綴っていました。そしてやはりそのあと間を置かずして雨が降ったことも記されておりました。

何故なのでしょうね。
地震だけでなく、大きな災害のあとに雨が続けて降るというのは…。
こんな時、いつも心によぎるのは、〝八大龍王 雨やめたまえ〟
という実朝の歌の一部。


民の嘆きなり
八大龍王
雨やめたまえ

No.449

【化け地蔵】
…などというと、少し怖いイメージを抱いてしまいますかね。

前回は歩くやきもち地蔵さんで、今回は化け地蔵さん?
オカルトを語るにはまだ少し時期が早いのでは?
と思われますでしょうか。
いやいや決してオカルトなどではありません。

この〝化け地蔵〟と呼ばれるお地蔵さまは、一体ではなく、かつて日光山を再興した僧侶天海の弟子たちが、歴代僧侶の菩提のために刻んだという石仏群であるといい、もともとは百体あったと言われ、現在残っているのは七十体ほどと言われています。
本来は〝並び地蔵〟さまと呼ばれるもののようです。
この何体も並ぶお地蔵さま。その数を数えるたびに数が違うと言われ、いつしかそう呼ばれるようになったようです。

こちらは世界遺産日光二社一寺からほど近いところ、栃木県日光市であります。


かつて、大谷川に沿うこの地に【慈雲寺】というお寺さんがこの地にあったのですが、明治30年代に大雨によって大谷川が氾濫し、その大水で跡形もなく流されてしまったのだといいます。
やがて氾濫がおさまった川の流れのなかに残った住職の墓石や石地蔵さまを拾っては並べていったとか。 
流された山門も拾い集められて復元され、再建されはしましたが廃寺となってしまったようです。

慈雲寺は、1654年、【晃海(こうかい)大僧正】によって建立されたといわれ、『霊庇閣』『不動明王の石像』などがあったといいます。


この大谷川の流れのうちに【憾満ヶ淵(かんまんがぶち)】と呼ばれる淵があり、男体山から噴出した溶岩によってできていて、古くから不動明王が現れる霊地と言われていたのだそうです。
川の流れる音が、まるで不動明王の真言を唱えるかのように聞こえるので、
 晃海大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り 憾満(かんまん)ヶ淵と名付けたと言われているといいます。


まずは車を停め、公園横の整備された小道を歩いてまいります。
気持ちの良い空気の澄んだ小道です。…ただしこの日は雪解け水が大きなぬかるみをあちこちに作っていて、足元に関しては、うーんΣ(-᷅_-᷄๑)。
道の端に大きな相輪塔があります。
が。足元に気を取られて何かいろいろ見落としそうです。

山門が見えてまいりました。
川に流されたものを拾い集めて再建したという山門は、庵にかかるほどの小さな門でありました。


       

No.450

やがて見えてきたのは一見、鐘楼かと思われた四阿(あずまや)のような建物。二メートル強四方、といったところでしょうか。小さなものであります。
実はこれが【霊庇閣(れいひかく)】と呼ばれるものの名残でありました。
承応三(1654)年の【慈雲寺】創建の折に晃海大僧正が建立したもので、四阿造りの護摩壇であったようです。
なるほど、鐘楼にしては鐘を吊っていたはずの金具もありませんし、かなり低い造りです。
ここも明治の大雨で流されておりますので再建されたものなので形だけ造られたものとも考えられはしましたが、その中央に何やら不思議な穴の開いたコンクリート製を思わせるの礎がある。
見れば見るほど不思議な建物でありました。

その一見コンクリート製とも思われた礎と思えたものが護摩炉、護摩壇跡であるのだと夫が教えてくれました。
対岸の不動明王に向かって天下泰平を祈り護摩供養を行なっていたのだといいます。
その不動明王さまも流されてしまい、今はその不動明王さまが立っていたという岩を眺めるしかないのですが、その岩にどうやら『かんまん』という梵字が彫られているようで、夫は目をこらしてその文字が見えるかどうかを確認していました。


その護摩壇跡に夫が立っているまさにその時、七、八名の二十代前半ほどの男女の集団がやってきて、声もかけず夫のいる護摩壇跡に一緒に入りこみました。一人はマスクもしていない状態で、二メートル四方の四阿はあっという間に過密な状態です。
夫はまるで空気のような扱いで、自分たちだけの会話を展開して、そこから立ち去ることもできないほどの状態です。
女子がほとんどですので、変に動くと身体が密着してしまうので、動くことも躊躇わられているような状況のようです。
(今どきの若い者は礼儀もなっていなければソーシャルディスタンスもお構いなしなんだな!)と内心怒りまくっていたのは、もちろん私。おばさんそのものであります。
とはいえ、こんな無礼な集団は正直見たことは無く、今どきの若者に失礼だなと内心他の若者にお詫びをしていたくらいで。
そのうち、さほど見る気のない女子一、二名がそこを退いたので、ようやく夫は這々の体(ほうほうのてい)でそこを抜け出すことができました。

どうやらその若者たちはそこが〝霊庇閣〟跡であることを最初から知っていた様子です。

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