神社仏閣巡り珍道中・改
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神様、仏様、どうかお導きください。
21/07/02 14:43 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。
21/07/02 15:02 追記
そんな方のためにも、もう少し上手く書けないものかとあれこれ考えたりもしたのですが、なかなかそれはそれで難しく。
結局自分らしく、ありのままに書くのでいいのだと、なかば開き直りにも近い境地に至って、飾らない、思ったまま書くスタイルをつらぬいております。
今後も今まで通りの誤字脱字、おかしな文章表現かと存じますが、おつきあいいただければありがたいと思っております。┉ずうずうしくてすみません。
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「こちらは深沢城ですか?」
と聞いたのは夫。
あ、そうだった。歴オタの夫が涎を垂らしそうなお話でありました。
「こちらは、深沢城とも呼ばれていましたが、阿久沢城とも呼ばれて、神梅城とも呼ばれていたお城なんです」
!?
何?なんとおっしゃいました?
「普通なら…すぐそばの五覧田城でしたら普通に五覧田城でしかないのが普通ですが、こちらは深沢城でも阿久沢城でも神梅城でも通じる、三つの名前を持ったお城だったのです」
「こちらの住所自体が〝城〟なんですよ。桐生市黒保根町宿廻…小字城、なんです」
…本来ならばお寺の仏さまのお話などもお聞きしたいところではありましたが…すでにここまでのお話を覚えるのでもういっぱいいっぱいで、右の耳からも左の耳からも、それどころか口やら目からまで漏れ出ていきそうです。(こうして振り返っている今に至っては半分くらい漏れ出て紛失してしまっています)
この次にまたこちらを再拝させていただきます折に。
こちらのお寺には御朱印の写真が額に入れて飾られていました。
「本来なら御朱印状とはお受けして確認したあと幕府に戻すものだったのです。今はこれだけの御朱印というもので、その後また審査を経てその値が変わるといったものなので。
ですがここのすぐそばのお寺は御朱印自体が残されているのです。
本来戻すはずのものがなぜ残っているのかわからないのですがね」
「この辺りは赤銅街道ということで宿もありだいぶ幕府に優遇されたのですよ」
夫は嬉しそうに写真など撮らせていただいています。
私はそんなことよりボイスレコーダーでご住職のお話をとらせていただきたかった!
「桜のころにまたお越しください」
とのこと。
その後見て歩いた堀のあとや本丸跡には見事な桜の木がたくさんありました。
それをまた嬉しそうに見て歩く夫。
来てよかったね。
場所には古い石仏さまがたくさんおられました。
手桶置き場には奪衣婆さまの石像が二体もおられました。
来てよかった。
そして是非また再拝させていただいて、今度は石仏さまのお話を伺いたい。
「角地蔵さんのお寺は正円寺さんだったんだね」
ほあ?
そんなことご住職は一言もおっしゃっておられません。
「ん?」
「角地蔵さんのところに書いてあった由緒書にあった、城跡に建つお寺って正円寺さんだったんだね」
はあぁ…?そんなこと書いてありましたっけ。
角地蔵さんって…この辺で合戦があって多数の戦死者が出たあと、深沢城跡に怪しい火の玉がたくさん飛んで、さらには河原で合戦している軍勢を見たお坊さんが、多くの戦死者が未だ成仏できていないことを知って七日七晩の法要を営み、その後お地蔵さまを立てようとしたところ、石工が仏像を彫っているとやたら不思議なことが起き、怖くなって彫りかけのまま逃げてしまってしまった頭の部分が手付かずで残されて四角いままだから、角地蔵。というお話。
たしかに四角い石のまま、目鼻もない坐像でありましたのを参拝した覚えがあります。
ほおぉ〜、ではお地蔵さまのお縁日に角地蔵さままで出向いて法要を営んでおられるのがこちらのご住職さまだというわけで…。
なるほど、なるほどです。
春になったら角地蔵さまと正円寺さんにお参りの再拝させていただきましょう。
ちなみに。
私の回線がショートしていたために、この度伺った正円寺さんと角地蔵さんがすぐには繋がらなかった、だけではないのです。
【角地蔵】さまは群馬県みどり市の市文化財指定。
そして【正円寺】さんは群馬県桐生市。
市が違うのです。
このあたり、歴史にも疎く、さらには地理にも疎い私にはもう見事なロジックでありまして…。
まぁ歴史と言っても、群馬県の東毛地区と呼ばれる、現太田市から現みどり市、現桐生市の辺りの郷土史という、かなりオタッキーなものではあるのですが…。
たしかに、昔の人って…移動手段が馬か徒歩でしかないのに、信じられないくらいに移動して、戦ったり、布教活動されたりしています。
車はもちろん、鉄道や飛行機という移動手段を手に入れている現代においてだって、結構、それなりに大変ですのに。
すごいなぁ。
そして今回、またまた歴史に詳しい夫に、私レベルに噛み砕いた解説をしてもらい、その歴史というものにあらためて興味を持ったのでありました。
桐生氏であるとか、由良氏(新田)であるとか。
新田城跡、桐生城跡、高津戸城跡、永明(ようめい)砦跡。
今それらは新田城跡には新田神社が建ち、高津戸城跡には要害神社、永明砦跡には永明(ようめい)寺が建っています。新田氏の屋敷跡には反町薬師(照明寺)、里見兄弟の墓とその御堂、桐生氏の菩提寺である西方寺、由良氏が新田氏のゆかりの寺であるためと移築した桐生市の青蓮寺、由良氏の菩提寺である鳳仙寺。
東毛地区だけでこんなにも、私にとっては純粋に神社仏閣を参拝するために訪れていたところが、実にこんなにも歴史的遺産であったという事実。
それはある意味当たり前でもあるのですが、ね。
それぞれの神社仏閣に長い長い歴史があります。
そこに時の城主や武将が大きく関わりを持ったこともあるでしょうし、開基になっていることもあるし。
鎮魂の意味があったり、神として祀られることもあったり。
歴史に興味を持ったなら、最高の師が毎日目の前にいるという最高の環境。私のレベルを知り尽くして、わかりやすいレベルまで噛み砕いて説明してくれるのですから、ね。
まぁ、すぐにさめるのだろうなぁ。
なにせ膨大過ぎる情報量に私は潰れるに違いありません。
中学生レベルの歴史すらも頭に残っていないことに気づいたくらいです。
ちなみにPart2(笑)。
夫の頭に残っていた、角地蔵さまと正円寺さんとの関係に関する文章は、
『天正七年八月太田金山城主由良国繁公は藤生紀伊守、金谷因幡守を将として、潮の如く高津戸要害城を攻落し、さらに神梅城の阿久沢能登守、沢入城の松島古柏式部等の黒川勢にいどみかかって来た。由良国繁は部下の無益の殺生を避ける為黒川勢の不戦降伏を計り松島淡路守を軍使として派遣したが丁度渡良瀬川が増水で氾濫しており、松島淡路守は水練の達人であったが心せくまま濁流に入り渡ろうとしたがついに馬もろ共濁流に呑まれ流されてしまい、軍使としての任を果す事が出来なかった。其の日のうちに其の事が由良国繁のもとに知らされたので、黒川に出陣をする事になった。時に八月廿三日の事であった。折しも黒川方においても力及ばざる事を悟って古柏の嫡男松島弥太郎を人質軍使として由良方に派遣をしたが、其の時すでに遅く、由良勢は現地において黒川勢と激突に及んだ。渡良瀬川をはさんで、東は由良勢が穴原に陣を敷き、西は黒川勢が神梅側に陣をしいて、攻め太鼓も物々しく、両軍一千余人が対陣暫らくして渡良瀬の流れを越しつつ越されつつ揉合ううち組落ちる者、流れ溺れる者、生捕れる者、手負う者、入交じり修羅場と化し、死者の数は多数にして、数へるべくもなかった。激戦の半ばにして由良方より、和議許諾の報伝はり敵味方の大将、何時とはなしに引太鼓を打ちならし、夫々軍を引上げて、激しい戦いは終った。
星移り歳を過ぎる事一七四年、宝暦二年の正月、修法山正圓寺廿八世盈仙和尚元旦の恒例に依り旧本丸跡の天守閣跡八幡宮に勤行し帰途不思議な光景を見た。新宿飯米場辺りに怪火玉、中天に散飛し、数線の軍勢が渓流に合戦をするような現象、盈仙和尚ふと昔の天正七年の古戦場であった事を想起し当時の戦死者が成仏出来ずに居る事を感知、赤城山地蔵御地蔵尊に七日七夜勤行精進する。結願修行の朝、数百霊魂紫雲に乗じ地蔵嶽の仙境に入り怪火玉全く止む。
其の歳の六月盈仙和尚深沢宿を始として近郷の善男善女に地蔵尊の御利益を説法一丈二尺の地蔵尊と供要碑の建立の浄財を募った。
…。』
(長すぎて一部抜粋なのに入りきらないので、続きます)
…和尚の真心に賛同した大勢の信者の協力に依り念願の地蔵尊と供要碑が完成した。其の時、石工の設計違いに依り、お顔の部分が出来ず石工は逃げてしまい、お顔を四角にしてしまい、お名號を桐生塚角地蔵尊と命名。善男善女を集め、ねんごろに開眼供養をした。…』
まぁ、この設計ミスという説から〝角地蔵〟さまは別名〝間違い地蔵〟とも呼ばれているようなのですがね。
とはいえ。こーんな長い、石碑に刻まれた文章を頭にしっかり入れちゃうんだ…。
すごいぞ、これは。
もっともっと尊敬しなくてはいけない…かもしれない、珍道中の相棒でありました。
群馬県渋川市に1月28日の初不動の日にのみ御開帳のお不動さまがおられます。【宮田不動尊】、さまです。
これは初不動の日と日を決めての御開帳なので、曜日に関係なく開催されますので、仕事をしているとなかなかその日に休みを取ることが出来ず、ちょうど日曜日の当たった平成三十年に初めて参拝することができました。それからはまたしばらく平日が続きます。なかなか休みの取れない時が続きました。
そしてとうとう…コロナの時代を迎えてしまいました。
昨年は休みは取れるものの、コロナ禍ということで中止、という話を聞きました。
ところが。
去年、実はコロナ禍でもしめやかにご開帳されたことをネットでポツポツンとあげられる情報で知るのです。
へっ!?
臍を噛むとはこのことかと。
お会いしたかったぁぁぁぁ。
こちらはいつもは無人の御堂で、その扉は固く閉ざされています。連絡先は…渋川市の教育委員会。
お電話を差し上げたところ、保存会の方とは密に連絡が取れているようでしたが、昨年のように誤報もあります。
今年は行く!
たとえ中止と言われようと行く。行って扉のこちらから、いつもお護りいただいていることをお礼申し上げたい。
で。行ってみました。…私の運転で。
へっ?
…と思った方もおられましょう。あの山とかの細くてカーブの続く道でなければ、心の準備のなかった高速道路の運転でなければ、大丈夫なのです。
ディズニーランドまでだって、幕張メッセだって、私の運転で行ったことがあるくらいなんで。
高速道路は心の準備が必要、なんですがね。
閑話休題(笑)。
宮田不動尊の入口に[御開帳中止]と看板に貼り紙がされています。
くうぅぅぅ!!
でも、お参りだけは絶対する!
…なんですがね、御開帳ですと臨時駐車場が設置されるんですが、なにぶんにも中止。駐車場、というか駐車スペースがないのですよ。
で、変なところでUターンを企てたせいで、とんでもなか細くて上りの道に入ってしまうのです。
ヒエェェっ!
「…代わるよ」
ええ、かの素晴らしい珍道中の相棒の登場です。
ありがたや、ありがたや、です。
で。
結構苦労してUターンしていただいて、路肩の車を停められそうなスペースに駐車して…いただきました。
そこから歩いて、数分。
懐かしい宮田不動尊さんへとつながる道を登っていきます。歪んだ石段を気をつけ気をつけのぼって。
それ以上に危険と判断されたのだろう長い石段は、前回同様、綱で通行止めにされています。
横に道があります。枯れ葉の積もった細くて結構急な上カーブしている道をのぼっていくと、不動堂の横に出ます。
お寺さん、ですが、拝殿があって本殿があるような…そんな造りです。
ところで。
なんだか手に破魔矢やら御札を持った方々とやたらとすれ違うのです。
その方々は皆、手に折を入れた透明なビニール風呂敷を持っています。
もしや?
もしかしたら御開帳されていた?
足早に御堂に向かったのですが、やはり、その扉は固く閉ざされています。
うーん。遅かった?
まぁ、元々それでもいいと思ってやってきたので、御不動さまのおられる岩屋の閉ざされた鉄の扉に向かって、これまでのお礼を申し上げました。
御真言を御唱え申し上げて。
お隣にある宮田神社さんへも参拝いたしました。
そのあと、人々が集っていた建物へと向かってみました。
もしかしたら御札をお受けできるかもしれない。
「あれーっ。いま帰っちゃったんだよなぁ」
御札をお受けできるかどうかお聞きした途端、開口一番、少し慌てたようにおっしゃる、そこにおられた方の中のおひとり。
「いやぁ、拝んである御札はあるんだよ。拝んではあるんだけど、(厄除とか授与者の名前とかを)書き手が、今帰っちゃったんだよなぁ。本当、今なんだよ」
いやいや、そんなにお心を痛めないでください。
「今年はさぁ、町内で申し込んだ人の分は用意して置いたんだけど、ああ…今、なんだよなぁぁ。車がでてったろ?」
そう言いながら、ふと思いついたように胸ポケットからスマホを取り出されました。
!
「いやいや、そこまでしていただかなくて大丈夫ですから。また来年参りますから。来年こそは例年通りの大祭が行われることお祈りしてますので」
「そうかい?わざわざ来てもらってすまなかったなぁ」
皆さんがすまなそうに頭を下げてくださいます。そんなぁ…。
「実は教育委員会に電話して中止だと言われていたのに、どうしてもお参りしたくて来ただけなんで。ただみなさんが破魔矢や御札をお持ちなので、もしかしてとお声がけさせていただいただけなんです。本当、来年またお邪魔させていただきますから。このコロナ禍、お邪魔してしまってかえってすみません」
「いやいや、今日はわざわざお参りくださって申し訳ない。是非また来てやってください。今日はすまなかった」
…なんて良い方々でしょう。
こちらのお不動さま、実はお不動さまには珍しく笑みを浮かべておられるのです。
そんなお不動さまがお護りになられる地に住むからでしょうか。
いやいや、お不動さまに感謝して生きておられる方々だから、お不動さまに恥じぬよう生きてこられたから、ずっと清らかな生き方、考え方をされてこられたからのお言葉でしょう。
自然に口をついて良い言葉しか出ない生き方をずっとされてこられたからのこの対応なのでしょう。
…やっぱり、信仰って大切なんだなぁ。
すっかり心洗われウキウキとした気分で山を下りていると、先ほどの方々のおひとりが車で降りてこられました。
「悪かったなぁ。護摩は十時からだから、十時から十時半。また是非来てやってください」
と、窓を開けてまた私どもにお声がけくださいました。
来てよかったぁ。
すっかり心が洗われました。
それも人から。人によって、です。
ありがたいことです。
明日は【節分】。
【立春】という季節の変わり目の(季)節を分ける、という意味で節分というので、本当は立夏、立秋、立冬の前の日も〝節分〟という事、なのですが、一年の始まりでもあり、また、まだ寒さ厳しい頃であり、季節の変わり目には体調を崩しがちということで、風邪などの病を祓う意味で、【豆まき】などの行事が生まれた春の節分が大きく取り上げられて残っているということのようです。
平安時代には、追儺(ついな)や鬼遣(おにやらい)などの儀式が貴族の間で行われ、魔物を払っていたものでしたが、室町時代から江戸時代に豆で払うようになり、それが庶民の間にも広がっていきました。
豆をまくようになった由来は、
「魔目(まめ)」に通じるから、ということのようです。
豆には鬼の目を滅ぼす力があるとされたのです。
ダジャレのような感はありますが、昔から伝わるものには結構そんな語源から起こったものが多々あります。
言霊には、霊力と意味があるとされています。
また、五穀とされる〝米〟〝麦〟〝ひえ〟〝あわ〟〝豆〟には、払いの力があるとされ、神事や密教系の仏事にはよく用いられていらものです。
そして。「鬼」とは、「隠(おぬ)」に語源があり、隠とは、病や災害などの禍のこと。
鬼というと、ついつい赤鬼や青鬼の姿を思い浮かべてしまいますが、その語源が、病や災害であるならば、まさにこのコロナ禍、そして異常気象の頻発する現在こそ、その『鬼』を払いたいものであります。
テレビ番組のタイトルではありませんが、〝せっかく群馬県渋川市に来たのだから〟、というわけで渋川市にある【興禅寺】さんに参拝させていただきました。
ナビの中途半端で、実際に従っていたら到着はできなかったという、いつものおきまりの案内を無視して、ナビの示す地図を頼りに興禅寺さんに向かいました。
到着すると、どこに車を停めてよいのか悩むくらいに広い駐車場がありました。区画を仕切っていないこともあり、そういったことにも神経を使う夫はこれまたいつものように、
「どこに停めればいいのかな」と躊躇っております。
端っこの端っこに停めて。
駐車する前から見えていた、そびえ立つ赤い山門目指して、いつものように私は足早に歩き出しました。
その門までに至る長い参道に沿って、向かって右側には不動明王さま、釈迦如来さま、文殊菩薩さまと並んで石仏様が並んでおられます。
この順ですとおそらくは十三仏さま。
なにぶんにも広い駐車場の隣に沿っての参道に並んでおられるので、先にどなたが何体おられるかまで、パッと見では見えない、確認できないのです。
一方の左側には七福神様の石像が並んでおられます。
こちらは少し大きな石像でしかも立像のためもあり、その特徴からすぐに七福神様とわかります。
その十三仏さまのお顔立ちがなんともお優しく綺麗です。
またまた珍道中ペアはそこで一体一体の御仏にご挨拶。
そんなこんなでようやく赤い山門に到達いたしました。
仁王門でありました。
近年赤い塗装をやり直されたのでしょう。遠目で見ると新しいものかとも思えたのですが、木部を見ると経年を感じるものでありました。
仁王さまのお顔立ちもなにやらお優しく、これだと悪者も怖がることなく通ってしまいそうです。
仁王門をくぐると目の前に大きな御本堂がございます。
興禅寺さんは上州七福神の寺の一つで弁財尊天霊場となっているようで、その案内の真新しい看板が御本堂前のみぎてに立てられていました。
御本堂の前で手を合わせて。
境内のなかにはあまり石仏さまはおられないように見受けられます。
ただ、御本堂の屋根のあたりを見上げるようにぽつんと一人で立っておられるお地蔵さまが、童のように可愛らしいお顔で、もう石仏さま好きの私のハートはキュン。
横から拝したり、同じ視点になって御本堂を見上げてみたり。
御本堂の左側には新しい墓石の並んだ、新そうな墓所が連なっています。
基本、お墓は亡くなられた方の眠られる場所、という考えでお寺さんにお邪魔しておりますので、墓所にまで行こうとは思わず、このお寺さんでは墓地には足を踏み入れなかったのですが。
後々知ることに、裏手には宝篋印塔やら古い石仏さまがおられたようで、またまたほぞを噛むおばさんが一人…。
この日。
御本堂のよこの庫裏の縁側の戸が全開にされ、なにやら虫干しをされておられるようで、言い換えるとどなたかおられる、ということです。
ご由緒書きとかあるようならばいただけないかと一声お声をかけさせていただきました。
私より少し目上にあたられるご婦人が対応してくださいました。
「どうぞ御本堂へおあがりください」
…へっ?
このコロナ禍に?
いやいや、コロナ禍でなくともなかなかお寺さんの御本堂へ上がらせていただけることなどないというのに、…「よろしいんですか?」
おばさんはご好意は素直に受けるタイプなんです。笑。
御本堂にお通しくださりながら、
「冷蔵庫みたいなところなんですけど、ね」と、いたずらっ子のような可愛らしい笑みを浮かべながらこちらを振り向かれました。
ご本尊さまに手を合わせておりますと、なにやら左隣の間におまつりされておられる方の前に供えたろうそくに火を灯されておられます。
?
ご本尊さまにじゃないんだぁ。
なんだか不思議な感じであります。
「どうぞ、お線香をあげてください」
はあ…。
どなたがおまつりされておられるのでしょうか。
外陣の通路には大きな木馬ならぬ、大きな白い(白かったような…記憶があるのですが)象が置かれています。
ぞ、象っ?
初めて見るパターンです。
大人三人から四人くらいの大きさ、といえば伝わるでしょうか。
引いて歩けるよう引き手の縄があり、下には小さな車輪があるように見えます。
「ああ、花まつりに使うんですよ」
ほぉぉ〜花まつりに。
なるほど〜。(誤字を見つけ再投稿しました)
お灯明くださったのは弁財天さまの御像の前でありました。
ふくよかな、お優しいお顔をされた弁財天さまが蓮の上にお座りになられておられます。
こちらの弁財天さまはいくつものお手があり、その一つ一つの手に琵琶以外にも、たとえば剣などをお持ちになられておられます。
コロナ禍にご好意に甘えての参拝ですので、夫がお線香をあげているときと、手を合わせる前後のほんのちょっとした時間に拝見しただけですので、お手が何本おありになるか、なにをお持ちになられているかまではわかりませんでした。
御本堂のなかはそれは見事な襖絵ですとか彫刻の施された欄間でありますとか、見ごたえあるものがたくさん、です。
ひえぇぇん、もっとゆっくり拝見させていただきたい〜っ。
いやいや、普通、御本堂へあがらせていただけることすら稀なことで、ましてやこのコロナ禍に、御本堂へとあがらせていただいただけでも、もう本当にありがたいことで。
…コロナが落ち着いたら。
ご由緒書きはないとのことでありましたので、一つだけ、いつからのお寺さんなのかとお伺いいたしましたが
「ごめんなさい、私はそういうこと詳しくなくて…」とのこと。
「ご本尊さまは阿弥陀如来さまなんですよ」
ほうほう。
天台宗のお寺さんですので、そう、なんですかね。天台宗ではご本尊は規定はなくて、そのお寺さんお寺さんで異なることがあるようですのですが、一般的には阿弥陀如来さまのことが多いようです。
…ところが、です。
ネット上で情報を提供されておられる方でご住職さまからお話を直にお聞きした方のものをお読みしたところ、ご本尊は釈迦如来さまと紹介されているではないですか。
うーん。
これは再拝、だな!♡
いつの日かコロナが落ち着いたら。
そうそう、あの大きな象の像が動くという花まつりにも参列させていただきたい。
いつの日か。
…それが近い将来であることを切望いたします。
今回は私の運転ということで、近道もせず、速くに走行できる道も通らず、電車で言うなら鈍行で、いつもとは異なるルートでまいりました。
そんな来る途中で、今まで見たことのない、『×△○千手観音』という看板を見かけました。×△…と伏字なのは運転していてそこまでは読めなかったから、に過ぎません。
まぁ、来た道を戻ればその看板を頼りに辿り着くことができましょう。一応、メーカー純正のナビも搭載されていますし、ね。笑。
「ここを左折して」
こんなとこ曲がってきたんだっけ?
口には出しませんでしたが、しばらく走行して(おお、来た道だ!)。
…そうなんです。
そういう、道を覚える能力がかけらも備わっていないんです、私。
そのくせ、「ここをしばらく行くと、イチゴ狩りのできるとこがあるんだよね」とか、四年も前に一度通っただけの道を覚えていたり。
…基本は、お店。
夫には「そういう覚え方はだめだよ。そのお店がなくなったり、リニューアルしたりしたらもうダメでしょ?」と言われるのですが、じゃあ何で覚えればいいっていうのでしょう?
と、いうか、夫や、特に子供たちの、一度も来たことのない道をスイスイ行ける能力が、「神〜」であります。超能力としか思えないのだけれど、そんなにその能力を備えた人間がいるということは、普通の人ならば普通に備わっている能力が、私には欠如しているのかもしれない。
ま、夫とは知り合ってからもう半世紀近くの〝知り合い〟ですし、私がいろんな能力が欠如していることも知り尽くしております相棒さんですからね。
…今後も頼りにしておりますよ、〝相棒さん〟。
と、お決まりの脱線はここまでにしておいて…。
『×△○千手観音』という看板が見えてまいりました。
ん?で?
どっちに?
大きな、道から一目でわかるほどの案内の看板を二つも出しながら、その後がいたって不案内。
おいおい!
ここを登る?…まぁ運転はすでに夫、なんですがね。
曲がりくねった細い道を登っていくと、民家の駐車場の入り口となっていて…さらに奥へと道は続いているにはいるのですが。
「ここを奥に行くのかなぁ」
うーん。
なんとなく、私たちのどこかがそれを否定しています。
ナビは設定できなかったため、頼ることは出来ず。
私たちの第六感が違うんじゃないか?…と教えているさらに奥へと続く道。どうしよう。
その民家の駐車場の入り口でグズグズしていると、そのお宅の方がちょうど戻ってこられました。
シャーー、シュッ。
私どもの車の横をスイッとすり抜けて駐車場へ納車されました。
エックスキューズミーおばさんは、まずは今回お詫びです。
「駐車場の入り口付近でグズグズしていてすみませんでした」
「いいえ」
「千手観音さまのところへ来たつもりだったのですが、なんだか道に迷ったようで…」
「ああ」
「あのぉ、千手観音さまはこの道をまっすぐ行くのでいいのでしょうか」と私。
「いいえ、そこよ」
そ、そこ?
そこって?
崖…とまではいきませんが、ここは高台になっていて、よもやこの下に御堂とかがありそうでは…
あるんじゃん!
御堂どころか山門があるではないですか!
さっき上がってくる時には全然見えなかったのですが…。
あ、そうか。
ちょうど角度的に見えないのか。車を降りて覗いてみてようやく見える感じなんだ。
「あのぉ、あちらへはどこから行くのでしょう?」とエックスキューズミーおばさんがさらにお聞きいたしますと、
「そこの鎖のとこから行くのよ」と。
「えっ?」
「そこから行けるの」
えっとぉ〜、そうではなくて…。車をどこへ置いてそこへ行けばよいかということなのですが…。
「…車はどこへ置いたらいいのですかね」
「ここに置いておいていいわよ。どうぞごゆっくりどうぞ」
…!。
「いいんですか?」
「どうぞ、帰りは特にお声がけいただかなくていいですから」
…♡!。
「ありがとうございます」
お言葉に甘えて。
駐車場の入り口で良いとおっしゃるので、そこに車を置かせていただき、鎖のあるところへ向かいました。
結構な斜めの入り口(?)…無理やり入り口となっている?ところに鎖でそこを塞いでいます。
うーん、ここから行っていいのだろうか?
まぁ、そこから行くと言われたくらいなのでよいのでしょうが…。
…もしかしたら…。
この鎖からの急な坂をおりていくところは、こちらのお宅専用の参道、なのかもしれません。
結構無理やりな急坂な道(?)であります。
そこをおりると、すぐ先ほど上からみえていた山門、仁王門のまえとなります。
大きなものではありませんが、お寺というわけでもない御堂には立派な仁王門であります。大悲殿と書かれた額もあります。
仁王さまの像も近年塗りなおされたのか、きれいな赤い色をされています。目の大きな、親しみのもてるお顔立ちの仁王さまであられます。
門をくぐると。
竹藪の隙間から木漏れ日のさす、なんとも幻想的な空間に、たくさんの石塔、石仏さまが並んでおられます。
向かって左側にはあまり見ない青面金剛の石碑がいくつか。特に円形の…例えるならパンケーキ型?なものは初めて見る形です。
さらにやはり見たことのない、彫りが経年により薄れてしまった坐像が二体並んでおられます。
一体はあぐらをかくように、もう一体は脚を広げてしゃがんでいるような、着物姿に袴を履いているかのように見える坐像、であります。胸元が結構はだけています。
その着物姿の石像は見ようによっては頭に髷があるようなないような…。千八百年の年に奉納されたもののようですので、もしかしたらお侍さんの石像なのかもしれません。
お侍さんの石像で、ましてやそんなふうにしゃがんでいる石像は、初めて見るものではあります。
石像に詳し詳しいわけではないので、私が見たまま感じたままに書いているので、間違っているかもとは思いますが。
そのお隣には閻魔大王さまと奪衣婆さまが並んで座っておられます。こちらの方が若干古いもののようですがこちらの二体の方が彫りがしっかり残っています。
そのまたお隣には背の高い、すらりとしたお地蔵さまがおふたり並んで立っておられます。
その横には手水舎があって、その奥に小さな小さなお不動さまが立っておられました。
さて、反対側、みぎてには。
小さな観音さまたちが並んでおられます。
…などと書きながらも、ただでさえ記憶力という能力の低い、さらには加齢によりそれが著しく下降曲線を描いて低下している身といたしましては、撮りためてまいりました写真を見て振り返りをするのであります。
で。
こちらの千手観音さまへと訪れた際にお不動さまだと思い、前レスでもそのように書いた、〝小さな小さなお不動さま〟と書いておりました写真を、何気に拡大してみたところ…!
『愛宕山』と光背(?)部分の上部に彫られているではありませんか!
【愛宕山】でありましたら、愛宕信仰、愛宕権現さま。
【勝軍地蔵】さまではないでしょうか?
ズームした画像ではたしかに馬に乗られ、錫杖と剣をお持ちになられた方の御像となっていました。
これだけの情報から、あの手水舎の奥にひっそりと居られた小さな石仏さまは、お不動さまではなく、勝軍地蔵さまで間違いありません。
ここにお詫びして訂正させていただきます。
群馬県渋川市北橘(ほっきつ)にあります、【東円山観音堂(とうえんざんかんのんどう)】の仁王門を入ってお堂へと続く石段のすぐそば向かってひだりてにあります、石仏さまは【勝軍地蔵】さまの御像でありました。
そうそう、リアルにこの地点にいた時にはこちらの正式な名称もわかっておらず、×△○…などと仮を立てて(不敬な!)おりましたが、東円山観音堂という名称でありましたことを、ここから先の観音堂を参拝させていただきましたのちに、初めて知ることになるのです。
(また、前レスを少し手直しをしての再投稿です。すみません)
そうして…。
その(不動明王さま改め 笑)勝軍地蔵さまを拝み、観音堂へ向かおうとして振り向いたときに、石段のすぐそば、境内の左側におられる、なんとも素朴な掘り方をされている一体の石仏さまが目に入ります。
(…青面金剛さま?)。
なんだかスカートを履いてでもいるかのようなお召し物をつけておられるように見え、斜め掛けのお荷物をしょっているかにも見えます。
左手には何か小さな物をおもちのようで、右手には大きく長い杖のような物をお持ちです。
まるで子供が描いた絵のような、子供が彫って造ったような素朴さが大変可愛らしい、御像です。
ちょうど頭の部分に緑の苔が生えて、まるで頭髪のようなのも可愛らしさをよりプラスしています。
『奉 造立地蔵菩薩』と頭の上に彫られています。『庚申供養二世安楽』とも彫られています。
庚申供養のために造られたようですが、通常青面金剛さまであるはずのものが、お地蔵さまが(…正直申し上げますと地蔵菩薩の文字がなければ決してお地蔵さまとは思えません。さりとて青面金剛さまにも見えはしないのではありますが…。)彫られているのです。寛政八(1668)
年の建立のようです。
見たことのないお地蔵に目は釘付けであります。
それでもひと目見て青面金剛さまだと思ったのは…、この石像がもともと庚申のために奉納され、ずっと長いこと祀られていることで、そうしたオーラが生まれたのかもしれません。
本来なら石段を登って観音堂へと向かうのですが、もう目も、何よりも気持ちが釘付けです。
ひとしきりその庚申地蔵さまのもと、いろいろな表情を拝し、手を合わせたのち…、ようやく石段を登ったのでありました。
石段を登ると…。
さほど大きくはない観音堂、御堂に、およそ似つかわしくはないほど大きな鰐口が掲げられています。
この鰐口については、かつてこの地区が渋川市に合併される前の北橘村と呼ばれていた頃には村の重要文化財であったようです。
明治時代の作ではありますが、何より直径百二十糎という大きさで、歪みもないもので、その青銅鋳造の高度な技術に対して評価したもののようです。なんでも鰐口というのは梵鐘よりも鋳造が難しいのだといいます。
鰐口を打って、手を合わせます。
そしてまたまた覗きを企てるおば(か)さんが一人。
お堂の中には炎の形をかたどったかのようなお灯明立ての台が、中央に置かれています。
ご本尊様であられる千手観世音さまは御厨司の中におられるようです。
シンプルですが、綺麗に片付いた空間でありました。
観音堂の壁面には奉納された絵馬がいくつかあります。
お堂の参拝を終えて。
お堂の向かって左手にはさらに奥があり、古い墓石や石仏さまが見えているのですが…。
洞穴(どうけつ)の塞がれたものなど見え、何より竹林に、風が抜けるときのカシャカシャと鳴る音がなんとも怖くて、恐くて、観音堂より先へは行く気にならず…。
御仏の御堂を覗くような、神をも畏れぬおばさんのくせに、怖いものは怖いんです。恐いものは恐いんです、はい。
いつもなら(へっ⁈)って思うくらい奥へと向かう夫が、こちらではそちらの方へ向かおうとせず…。
うーむ。…。
というわけで、早々に御堂をあとにして石段をおりました。先ほど、釘付けになっておりました〝庚申地蔵さま〟をもう一度拝んで。
そこに並んでおられる、小さな石仏さまたちにご挨拶いたします。
馬頭観音さまがほとんどのようです。
仁王門を抜けて、先ほどの細い登り道を登って鎖の隙間を抜けて…。
少し大きめな声でご挨拶申し上げて、車を出しました。
下山(笑)しても、なんだか駐車場らしいものは見当たりません。
あのお宅の方にお会いできて、ご好意で車を置かせていただけたこと、本当にありがたいことでありました。
こちらの…東円山の千手観音さまについての御由緒は何一つ書かれておらず、立派な案内看板に書かれていたのは、鰐口と石仏さまが、旧北橘村の文化財であるという案内が書かれているのみでありまして。
帰宅してからネットで調べたところ、一年に一度御開帳され、かつては一月十七日であったものを、今は一月の第二日曜日に行うようになったとか…。
その際は【雙玄寺】さんというお寺さんのご住職さまが法要を営まれるようです。雙玄寺さんの境外堂であるかどうかまでは調べられませんでした。
永承四(1049)年に、順永という僧が、行基作と伝わる千手観音さまをこちらに安置されたことがはじまりだとされているようです。
上杉謙信公も信仰されたと伝わる、由緒ある観音さまのようで、その年一回の御開帳には近隣の住民のほかにも多くの人々が訪れる、たいそう賑やかなもののようです。
たしかに上杉謙信公はこの近くに居を構えたことがあるようですので、それは単なる言い伝えだけではないのかもしれません。
うーん、こちらの御開帳に参列させていただく時はいつになることでありましょう。
実は…。
この東円山観音堂さんの千手観音さまのことをネットで調べていて、上杉謙信公の名前が出てきたことで、渋川市のことを少し調べておりましたところ、偶然、宮田不動尊さまの保存会のことの書かれたものを見つけました。
【石造不動明王立像】が、渋川市の誇る国指定の重要文化財、宮田不動尊の正式名称である。
岩山にある自然洞窟に安置されている。
原則として年に一回、一月二十八日の大祭にしか開帳されないため、当日は宮田地区はもちろん、市内外から多くの人が訪れる。
「お不動さまは、古くから宮田地区の住人が守り、受け継いできたもの。宮田の全戸は不動寺のだんかなんですよ」と、宮田不動尊保存会の特別世話人は話す。
地区では、自治会とは別に保存会が組織され、同寺と共に不動尊を管理している。
一人だけいる永代世話人は終生、各戸に順番で回ってくる特別世話人五名は最低五年以上、世話人十二名は一〜二年の任期をつとめる。
(中略)
古来、こちらの不動尊は、村内はもちろん近郷在住の尊信が極めて厚く、初不動の祭典には数千名もの人々が参拝に訪れたと伝わる。
不動尊の造立年代、作者、願主などは、長らく不明だったという。
(宮田不動尊保存会の方々、続き)
貞享元(1684)年、前橋城主・酒井侯の家臣、古市剛が著したという『前橋風土記』に、宮田の不動堂の記述があるが、それ以前の資料がなかったという。
とはいえ、由来こそ不明でも地域で厚く信仰されてきた宮田不動尊に大きな転機が訪れることとなる。
明治四十二(1909)年、さきに行われた廃仏棄釈の影響から状況が一変したのだという。(廃仏棄釈のときからはだいぶ時が経過しているようには思うのですが)
無格の小神社とともに新しく作られた『宮田神社』に吸収され、それまで認められてきた〝独立仏堂〟の扱いも無効にされ、『奥の院』や『仁王門』は解体・売却され、県の仏堂台帳から削除されてしまったのだという。
ここから不動尊さまと地域住民にとって不遇の時代は二十五年も続くこととなる。
転機が訪れたのは昭和九()年。
当時、群馬・栃木で行われた陸軍特別大演習の記念事業として、村内の名所や旧跡をまとめた書籍を制作するため、関係者が不動堂のあった洞窟に入ったところ、明王像が倒れた状態で発見されたのである。
この際、石造仏の継ぎ目に銘文が見つかり、建長三(1251)年、掃部権助源朝臣氏義(かもんごんのすけみなもとのあそんうじよし)の発願により、仏師の院隆と院快によって造られたことが明らかとなる。
長らく不明だった由緒の突然の判明。
その後、地域住民が県にかけあい、不動尊は昭和十五()年に独立仏堂は復活し、翌十六年には当時の文部省から重要美術品の指定を受けたが、苦労はまだ続いたのだという。
当時の宗教法により、仏堂はいずれかの寺院に所属するか、寺院として独立する必要があった。
新寺院の建立には、二百戸以上の檀・信徒と、三十坪以上の建物が必要だったのだが、当時の宮田には百三十戸程度しかなかった。
そこで地域の人々は隣村住民を信徒に勧誘。買収や交換で土地の取得に努めた。
また、隣村にあたる樽村出身で、『東京・高輪泉岳寺』の住職だった小坂氏の全面的な協力のもと、昭和十九()年、泉岳寺の末寺として、本尊に不動尊像を祭った『曹洞宗宮田不動寺』を建立し、今日に至る、のだという。
前述の群馬県渋川市の宮田不動尊保存会についての記事は、地元で各戸に配られ、さまざまな観光地などに配置されるフリー冊子に書かれたもののようでありました。
そのページの部分のみが貼り付けられたネット情報でありましたが、こんなご苦労のもと、今の宮田不動尊さまがあるのだと初めて知ることができました。
あの、お優しい方々によって今なお守り継がれている…そして宮田地区の方々の心のよりどころであり、御守護くださっておられる宮田不動尊さま。
いつまでも続いてほしいとあらためて思った次第でありました。
私はいつか行きたい神社仏閣を小さな手帳に書き出しています。
本からであったり、新聞や雑誌、フリーペーパーからであったり。
そんな中、ネットからであることはかなり多いものであります。
ふとした隙間時間に開いたネットから思いがけずに拾った情報など、まさに心躍るものです。…が。
ネットからの情報って、結構抜けていってしまうもので…。
なのでメモ的に手帳に書くようにしたのですが、これが実に適当で。
自分自身が書いておいたものなのに、どうしてそこに行きたいと思ったのか、さっぱりわからないことがあります。
(〇〇県)〇〇市の〇〇寺、としか書いていないことがあるのです。
…何故?
どうしてそこを参拝したい?
本人なのにわからない。
今回群馬県渋川市に向かうということで、その手帳を引っ掴みバッグに入れて出かけたのです、が…。
まさにそれ。
理由がさっぱりわからないで、お寺さんの名前だけが書かれているのです。
うーん、しかも住所とか電話番号すらもなく、本当にお寺の名前だけ。
大概がなんとかスマホで検索が可能なんですけれどね。
でもどうしてそこに行きたいと思ったのかは本人にしかわからない。せめて何を見てそう思ったのかくらい書いてあれば。
…それは今後の課題とすることで。
で、今回書かれていたのは、【渋川市龍傳寺】とのみ。
行けばわかる。
わかるはず。
わかるかもしれない。
…わからなくとも、きっと心に響くものを得ることでしょう。
…ということで、次に向かったのは龍傳寺さん、でありました。
綺麗に整備されたお寺さんです。
龍傳寺】さんの寺伝は、本堂隣の庫裏の前にある、背の高い見上げるほどの石碑に書かれておりました。
天正八(1580)年に、剣城の領主であった半田筑後守という方が、渋川市の常法院というところにあった一庵を改めて寺となし、〝玉輪山 龍傳寺〟と称したのが始まりといいます。
半田筑後という方の名を、もちろん私は初めて聞くのでありますが、なんでも、武田氏に仕えていたものの武田が滅び、その後真田信之公に仕えた方のようで、大阪の陣で名を残している方のようです。
天正十年に甲州征伐があり武田氏一族が滅亡し、本能寺の変が起きていますので、その二年前、ということになるかと思われます。
龍傳寺は天正九(1581)年に、信濃国松代の〝長国寺〟第二世禅師を招請して開祖と成し堂宇を営むこととなります。
それが、天明三(1783)年、浅間の大噴火により、伽藍は悉く埋没してしまったといいこれをもって寺域を現在の地に移したのだといいます。
明治二十(1887)年類焼にあい、堂塔伽藍悉く烏有に帰してしまったといいます。
大正十三(1924)年に本堂、昭和三十(1955)年にからの再建が叶ったのだといいます。
なるほど新しい建物、新しく整備されてたお寺さんです。
それにしても、実に数奇な運命を辿られたものです。
背の高い大きな石碑を見上げて読み終えたとき、お寺に戻られたご家族の方か、それとも御用がある方か、女の方が庫裏に入ろうとしておられるのが見えました。
「こんにちは」とお互いご挨拶した後に、御由緒書きがございますか?とお聞きしようとしたのに、初めての方にお声がけするのに少し緊張する私は(…そうなんですよ、内心は、本当に。笑)間違って、
「こちらは御朱印をお受けすることができますか?」と、
コロナ禍前に身についた、かつてのいつもの台詞が口をついて出てしまいました。
(しまった!こんなコロナ禍だというのに、非常識な)
自分で自分が口にした言葉に慌てふためいていた私に、
「ああ、大丈夫ですよ。少しお待ちください。そちらに参りますから。
そもそもこの方、お寺の関係者かどうかもわからなかったんじゃないの?と思われた方もおられましょう。
そこは大丈夫。庫裏の鍵を開けておられたので。
お帰りになられたばかりなのに、嫌な顔一つなさらずにお寺の本堂に向かうためのもう一つの玄関からお出ましになられました。
私はその方の移動中に、御朱印帳を慌てて取り出しました。そもそも最近は御朱印帳を持って歩かないようになっていたので、あってよかったです。
しかも御朱印帳を受け取ってくださったので、直書きくださるようです。
最近はコロナ禍ということもあり、書置き対応のお寺さんや神社さんがほとんどです。
夫がようやくこちらへやってきました。相変わらずの別行動です 笑。
「へえぇ、ここに御由緒が書いてあるんだね」うんうん。
夫がその御由緒を読み終え、
「浅間の大噴火で、かぁ。悉く埋没かぁ…」とつぶやいたとき、
「おまたせしました」と、引き戸が開きました。
「ありがとうございます、お納めは…?」と申し上げますと、うふっと可愛らしくお笑いになって、
「その辺にコンビニがあるでしょ、そこに何かしらの募金箱があるから、そこにお気持ちをお納めください。うちは一切受け取っておりませんので」
へっ?!
さらに続けて
「こちらもどうぞ」とお供物と書かれているものを、ちゃんと二つお持ちくださいました。
御朱印帳をお渡ししたときには夫はそばにおらず、妻の私とてどこにいるものか知らなかったというのに…。
…お寺さんのご家族の方というのも、僧侶としての資格はお持ちではないかもしれませんが、やはりご自分がお寺という、御仏のお足元で暮らす存在で、無意識のうちに善い行いをするよう、身に染み込んでおられるのでしょうか。
お寺という特殊な環境下では突然の来訪者があることは当然と捉えて、その時できるおもてなしをするよう身についておられるのでしょうか。
嫌な顔一つせず、むしろ笑顔でお出迎えくださりることがほとんどであります。
…今回、御朱印をいただいても志納金もお求めにならず、さらにはお供物までいただいたから、というわけでは決してありません。
常々そのように感じており、そんなおもてなしを受けては我が身を振り返って反省するもののまた元に戻るという悪循環を繰り返してはいるのですが…。
ましてやコロナ禍。
あまり人と接したくはないと思われても不思議はない時代において、変わらないのがお寺さんであります。
たしかに御朱印等の対応をおやすみになられていたり、書置きに替えられたり等はあるかも知れませんが、こちらが恐縮するほどに、歓待してくださるお寺さんも多々あり。
相変わらずの無宗教者ではありますが、宗教の素晴らしさにだけはたくさん触れさせていただきました。
このまま無宗教のままで一生を終えるかも知れないし、一つの宗教にお教えをいただく身になるやもしれません。
…我がことながら、未だにどうなることやらわからない、フウテンのおばさんです。
…さて。
私、渋川市の【龍傳寺】にいかなる理由を持って行きたいと思ったのか…。
御本堂前で参拝して、御朱印をいただいて、お供物までもいただいて、さて?
江戸時代、天明の浅間の大噴火で、その全てが埋没してしまい、さらには明治時代に類焼にてまたまた悉くその全てを失ってしまわれたという、悲劇のような運命をたどられ、大正時代に再建された御本堂には、おそらくは開山の頃より伝わる物は何一つとして残されてはおられない。
しかも江戸時代のあの天明の大飢饉という苦難の時代の後に場所を変えて再建されたお寺さんであります。
さらには再再建されたという大正時代ともなると、なかなか寺院等の細やかな彫り物をすることができる職人さんも減ってきていたのではないだろうか。
一体何が私を惹きつけたのだろう。
この日お会いできなかった、ご住職さまのお話かなにかをお読みしたのだろうか。
うーん、思い出せない。
…そうそう、薬師堂のお参りがまだでありました。
お参りを済ませて…。
!?
!!
こ、これは…。
これは!
ちょうど光背もふくめて私の手のひら大ほどの石仏さまがずらーり。
しかも皆、小さくおられるもの
その一体一体がていねいに彫られたものであります。
こ、これだ!!
ここに違いない!
この小さな小さな、手のひらに乗るほどの小さな御仏の石像に違いありません!
なんて素朴であたたかな…。
掌(たなごころ)の御仏さまたち。
その一つ一つが実に丁寧に彫られています。ことに表情♡
穏やかで、やわらかな笑みを浮かべておられるかのような、実にお優しい表情をされています。
御仏によってはそのお役目がら、少し厳しい表情や、表情を消されたお顔をなされておられますが、そのくらいに、丁寧に彫られているのです。
どの石仏さまも苔むすほどに古いものでありますので、なかにはお顔もお姿も薄れて輪郭のみになられてしまわれた御仏さまもおられます。
ですがそうでない石仏さまは、お釈迦さまがおられ(…もしかしたら、です。それは私が如来さまのお姿だけでははっきりと断言できるほどの知識を得ていないからに過ぎません)、薬師如来さまがおられます。お地蔵さまがおられ、観音さまは、馬頭観音さまが多くおられますが、聖観音さまのお姿もあります。
閻魔大王さまと思われるお姿もあり、管原道眞公かと思われる像もおられます。(※注 私の私見にすぎません)
そのくらいに、掌の御仏さまたちのお膝元に過ごした私でありましたが、さすがにずっとそこにはいられません。
お名残惜しく思いながらも歩を進めその御仏さまたちの並んでおられる石垣の角をまがりますと。…まだ掌の御仏さまたちがおられました。
通常の、少し小振りな青面金剛さまのそばにも掌の御仏さまたちが並んでおられます。中には馬の駆ける姿の彫られたものもありました。
その中の一体に文字が読める御像がありました。『奉 天明○年 』とまでははっきり読めます。
て、天明?
○の字は確実に一桁の文字しか入りません。
浅間の大噴火は天明三年のこと。
埋没したかつてのお寺の跡を掘られた際に発掘できた御仏さまたちということなのでしょうか。
その際はきっと御仏さまたちだけを目的とせず、行方不明の方を探しての行いであったことでしょう。
…。
…、浅間の大噴火による多くの犠牲者の方々に、あらためて手を合わせました。
浅間の大噴火による犠牲者は、火砕流による方もおられましたが、村一つを押し流すほどの火砕流は、川を堰き止め、水害を起こして、さらにいくつもの村、何千を超える人の命を奪ったようです。
群馬県渋川市の【龍傳寺】さんの境内は、一見、新しく整備されたものにみえます。
実際、整備された、よく日の当たるきれいな墓地であります。
そんな墓地に、古い石仏さまのお姿が見えます。少し墓地入らせていただきますと、思ったよりもたくさんの古い石仏さまや石幢(せきどう)、五輪塔がおまつりされていました。
こちらのご本尊さまが釈迦如来さまであられますので、(おそらくは)釈迦如来さまの坐像がおられます。
その左側におられるのは金剛界の大日如来さま。(たとえるなら、忍者のよくする、両の手のひらを合わせて組んで、人差し指を立てる、〝印〟をお組みになられ、装飾品を身につけておられる、特徴的な御仏さま、大日如来さまのお姿であられます)
そしてお地蔵さまが何体かおられ、上半身を修復された観音さまが一体。…こちらの観音さまのお姿はほぼ元のお姿に戻されておられるのではないかと思われるほどに修復されているのですが、石の新しさだけはどうにもならないようで、それはそれで痛々しく思えた、観音さまの石仏さまでありました。
そしてその周辺に気づいただけでも三つ、石幢がありました。
石幢、これがまた私、たいそう好きなんです。
御仏さまがぐるっと彫られている、傘のついた石塔ですが、御仏の数はそれぞれの石幢によって異なります。
お地蔵さまであることが多いようですが、そこに彫られた御仏の可愛らしいことといったら!
そんな石幢がなんということもなさげに三つ。なんて素敵なことでしょう♡
なんと幸せな気分になれた参拝でありましたでしょう。
でも…。
私が、龍傳寺さんの情報を何から得たものか…未だにその〝発掘〟には至っておりません。
今後行きたい神社仏閣のメモを取るときには気をつけたいものであります。
【イニシャルD】という漫画をご存知でしょうか。
…などと言っているくせに、読んだのは本当に初めの方くらいに過ぎないので、逆に全部読まれた方やファンの方に語られたら、それこそチンプンカンプンなくらい、詳しくなどはないのですがね。
ご存知ない方もおられるかもしれませんので、軽く私の知る限りを語れば、時代はいつぐらいかはっきりとはわからない…とはいえ登場する車からするともしかしたらまさに私や夫がちょうど免許を取って走り出した頃、なのかなぁと思えたり、それよりは少し後ぐらいの時代のことか…、と思っていたら、作品には199x年と書いてありました。
峠道で高速で走行させる〝走り屋〟の若者たちが描かれた漫画作品です。
ちなみにこの漫画の存在で走り屋という言葉を知ったくらいの私、読んでいてもこれまたチンプンカンプンな言葉がたくさん出てくるのですがね。
…よく話のとぶおばさんだが、神社仏閣の話をするはずなのに、どこまでぶっ飛ぶつもりなのかと、心配されたりためらわれたりなさったことかもしれません、ごめんなさい。
実はこの漫画【イニシャルD】の舞台、群馬県、なんです。
しかもその主人公が住む場所こそが、【渋川市】、なのです。
アニメ化、さらには実写化もされ、ゲームにもなっておりますが、漫画を読んでもチンプンカンプンなおばさんは友人や上司からご好意で貸していただいたにも関わらず、夫や子どもに観せて自分は家事をしたり寝たりしていたというヤツなのですが、漫画作品を見る限りでも、かなりリアルな描写がされており、それはもちろん車、でもあるのですが、渋川市をはじめ、群馬県内の(かつての)実際にある交差点であるとかお店であるとか、観光地であるとかが、実にリアルに描写されているのです。
そう、イニシャルDのファンにとって、かつて渋川市は〝聖地〟であったと思われます。
実際、渋川市もそれに応じて、マンホールにイニシャルDの絵を使っているのだということを、昨年娘から聞きびっくりしたのでありますが。
さすがに今はもうマンホールくらいしかイニシャルDを思わせるものは渋川市には残されてはいないのでしょうが、そんな聖地でありました渋川市の、主人公が通ったとされる高校のモデルとなった学校のすぐそばにも今回出向いたのでありました。
そんな【イニシャルD】の、聖地巡礼をしたわけでは決してありません。
たまたま、ずっと気にかかっていた神社さんに今回参拝できたならと、ナビで向かったところ、その神社さんのすぐ裏手に、主人公の通ったと(たぶん)設定される、高校名が映し出されただけなのです。
その神社さんは何度も参拝を思って、そこに向かってはたくさん停まっている駐車場の車と、ひきりなしに出入りなさる老若男女の参拝の方々をみて、このコロナ禍ということから怯んでしまい、すごすごとそこを車中から拝んでは(いつか必ず参拝させていただきます)と心の中で申し上げておりました。
今回、なんと!
その駐車場に停まっている車は一台!
やったぁ!
…そこで初めて気づいたのです。
ナビに映る渋川の公立高がすぐ裏手になっているのだということに。
もちろん、ミーハー心はここまでで、その高校を見に行くことも、渋川市内に何ヶ所かあるというイニシャルDのマンホールを見にも行かなかったですが、ね。
でも…かつて私どもの憧れの車の描かれた車だけのマンホールは、それが色褪せないうちに見ておきたいような気がするおばさん、なのですがね。(^_^;)
【渋川八幡宮】さんは社伝によると、建長年間に渋川義顕公が創建、鎌倉にある【鶴岡八幡宮】を勧請したとのことです。
県道沿いにすぐ石標があって、紅い…神社さんの柱の角によく見られる、象の花を抽象化したような飾りが取り付けられています。?初めて見るものとなります。
しかも真ん中少し上、といったところ、石の柱に唐突に異質の紅い突起物。なんの、どんないわれがあるものなのだろう。
と、首をかしげた先に大きな天然石が置いてありました。大きな雄々しいイノシシを思わせます。
なにか書かれた看板があります。
イノシシ、ウリボウが八幡さまのお使いであること、自然環境と人間界の生活形態の変化で野生動物が迫害されていることを憂いた…といった内容が書かれていました。
ほうっ。そうなんだぁ。
と、神職の方による動物保護的な発言に心温まる思いを抱いて、その石標をくぐりました。
と。
ひだりてに凛々しい、例えがたいそう悪いのですが、漫画〝ドラゴンボール〟の〝神龍〟の正面から描かれた構図にそっくりなポーズの〝龍〟のおられる手水鉢があり、その龍の口から水が流れておりました。
…その奥、裏手に『登龍門』と書かれた看板があります。
?!
なんでしょう?
でも、まずはご本尊さまに参拝です。
左側の後ろ髪を引かれる思いで進むとすぐに鳥居があって、そのすぐそば、神さまの通り道とされる参道中央に六角形の石が設置されています。
真正面に〝百度石〟と書かれているのは読めましたが、あとは〝養志在沖○〟とか、私には読めもしなければ、当然意味すらわからない言葉が書かれています。
『お百度を踏む』という行為があるようですので、その際の目安石ででもあるのでしょうか?
さらに少し進み、左側通行をしていた私の背の高さより高いくらいの大きな石が置かれています。
ふっと見上げると、大きな大きな狛犬さまがおられるではないですか。
凛々しくもあり、可愛らしくもあり。
ええ、狛犬さまも大好きなおばさんです。
拝殿が石段の上に見えてまいります。
右手には大きなお札・お守り授与所があります。御朱印もここでお受けできるようです。
その建物の前に〝戌〟だの〝亥〟だの書かれた小さな看板が足元くらいの高さにあります。
戌?後ろには天然の岩があるのみです。亥の看板の後ろも同じこと。
ああ。
なるほど。
渋川市の八幡宮は、天然の岩を見立てて祀るふうがあるようです。
県道沿いに置かれていたイノシシのような岩のように。
それはいつ、どなたが始めたものなのか、どうやら十二支すべて、さらには〝高砂〟、〝カエル〟といったものもあります。
カエルに見立てられた大きな石には、素朴な焼きもののカエルがいくつもいくつも置かれています。
?
なんだろう。
何かの願掛けなのでしょう。
大きさも三種類あるようです。それがなんともかわいらしいのです。
ああ、筑波神社さんのそばのお土産屋さんで売っていたカエルの焼きものによく似ています。
…カエルがすごく好き、というわけではないのですが、かつてこどもの時分にテレビでやっていた(記憶というにはあまりにかすかなものになってしまっているのですが)、ケロヨンというカエルの、人が中に入って動く〝人形劇〟があり、そんな刷り込み効果があってのことかどうか…小さなアマガエルならば、かわいいと思うくらいには好きなようで。
きっとこの焼きもののカエルも、社務所に売っているに違いありません。
カエルに見立てた石は『勝かえる』『若かえる』という『願掛けカエル』となっているようです。
病気、悩み、癒し、直しなどの願かけができると書かれています。きっとこの焼きもののカエルを置いて願をかけるのか、それか願いが叶ったお礼にこの石に乗せていくか、どちらか、といったところではないかと思うのであります。
ようやく拝殿にたどり着いた時、スッと動く人影があり、中に点されていたろうそくの火が、消されました。
ああ、あと一息なところ。
それでもまだ、拝殿の扉は閉められずそのままにしてくださっておられ、拝殿の扉が開いていると、なんだか神さまに直接お会いできたような気持ちがいたします。
…本当は鳥居をくぐらせていただいた時点でもう、いや、渋川市に入った時点から、八幡さまのもとに参じているのでありますがね。
こちらの拝殿は明治に造られたもののようで、本殿は江戸時代のもの。本殿の屋根は明治時代に茅葺きだったものが今のものに葺き替えられているようです。
そして本殿・拝殿のひだりてには、拝殿よりも少し小さめなくらいの社殿があり、出雲大社と恵比寿大黒社となっていました。
恵比寿大黒社の前には神楽殿があります。
その恵比寿大黒社のすぐそばに、群馬ならでは…なのか?大きな白いだるまがあり、たくさんの願掛けがされています。
だるまの隣にはまた鳥居があります。
鳥居の奥に進みます。
みどりあふれる静かな境内に七福神が鎮座していました。
その七福神の拝殿を過ぎると、何やら矢印があります。へっ?
そこは、さっきお参りを済ませだばかりの恵比寿大黒社の裏手、しかも当然薄暗く細い細い道であります。
ずっと進んでまいりますと、御本殿横に抜けました。
潜り戸をくぐって、本殿の裏手をのぬけると、木の根元にある洞にたくさんのまぁるい小石が詰められたものかあります。これが渋川八幡宮のご利益である〝子授子宝の石〟。
すぐそばに「こんな坂なんの坂」と書かれた看板と坂道が。
私は一体どこまで
行くのだろう。
坂の上には天神様が祀られていて、そのそばには本殿の縮尺さたものが立派な屋根付きで飾られています。
下山(笑)し、指示通りに進むと拝殿の前に戻りました。
なにやら盛りだくさんな神社さんでありました。
実は境内内、まるで運動会の万国旗の飾りなように思えるくらいに、墨書きの紙が紐にさがって飾られています。
川柳のような文章が、いくつもいくつも書かれています。
ほお。
うなづける内容のもの=共感できるものが多々あります。
…その全てが同じ字で書かれています。文章も同じ方のものなのでしょうか。
御朱印をお授けいただきに授与所にまいり、御朱印のほか、くだんの焼きものでできたカエルも購入いたしました。
このカエル、やはり願いを込めてカエル石の上に置くのだそうですが、私は連れて帰ることにしました。
大きさは三種類あって、小さなものは五百円、大きなものは千五百円。
参拝者は何人もおられましたが、いつも参拝されている地元の方のようで、授与所には私一人ということもあり、カエルを連れ帰るという私に、「お好みの物をお選びください」とおっしゃってくださり、いくつかのカエルをお盆に乗せて見せてくださいました。
「焼きものなので一つ一つ顔が違っているものだから…」と。
一番生き生きとした目のカエルをお受けしてまいりました。
そして。
あの、〝登龍門〟と書かれたところに行き、階段を登っていきましたところ、何やら石が組まれたようなところになっていて、そこで何をするのか、さっぱりわからなかったのですが…。
とりあえず登龍門のてっぺんまで行って…下山してまいりました。
なにが登龍門なのかわからないまま、狐につままれたような気分でありました。
渋川八幡宮の参拝を終え、駐車場に戻ろうとしていると、先程〝カエル〟を選ばせてくださった、授与所の職員の方が勤務時間を終えられたようで、石標を出たところで一緒になりました。
「お疲れさまでした」
と、お声がけしますと、先ほどと同じ、やわらかな笑顔とお声で
「お参りありがとうございました。どちらからですか?」
と。
私がどこどこからだと申し上げますと、
「それは遠いところから。お気をつけてお帰りください」
その後も二言三言会話をして、最後はわざわざ車のまだまで開けてご挨拶くださってお別れいたしました。
…そんな一見当たり前のような会話をいたしました。
ですが…コロナ禍って、こんな当たり前な会話すら奪っていたりもします。
話しかけてもいいのかな?
話しかけると嫌がられるかな?
ノーマスクの方とは話さないで距離を取る。あたりまえなのだけれど、一抹の寂しさがよぎる。
逆にノーマスクでも平気で近距離で話しかけて来られ、それも十分以上の立ち話を平気で続ける方には、その方の常識を疑うようになった。
適度な距離をとってのみじかい、ちょうどいい会話。
…何と心地よいものだったでしょうか。
人とのふれあい、人との交流に飢えていた自分にあらためて気づきました。
八幡さまが参拝のご褒美をくださったような気がいたしました、素敵な笑顔との会話でした。
昨日、引きこもりのための本との出会いを求め少し大きめなスーパーの中の書店に立ち寄りました。
関心あるジャンルがほとんど被らないので、神社仏閣めぐりの時以上に夫とは別行動です。
新刊の文庫本とコミックと、話題の本、趣味どきっっというNHKeテレのテキストをながめたらもうおしまい、夫のいそうなあたりを探しました。
あれ?あんなところに…。
昨今異様なくらいに増えた御朱印関係の書籍のコーナーの付近におりました。
そのすぐそばに群馬県についての書籍がジャンルを問わずまとめられたコーナーもあるのですが、今までの夫はあまりその辺りにいたことはなく、大概がクルマ関係の雑誌コーナーにいたのですが…。
私は御朱印はその時の〝出会い・出逢い〟だと思っているので、こと、最近は全くこの手の本にあまり関心を持っておらず、さらにはコロナ禍ということもあり、ましてやこの目を覆いたくなる新規感染者数の昨今、行きたくとも行けやしないところの情報はもうすでに溢れるばかりに集めてあります。
とはいえなにが彼をそんなに惹きつけているものかと近寄って声をかけたところ、
「高野山、行きたいねぇ」
まさにそのタイトルずばり〝高野山〟という背表紙を見ては申すのでありました。
はいはい、そうだねぇ。
私の好きな〝古寺巡礼〟シリーズの書籍が、暮れに見た時よりずいぶんと増えて並べられていました。
そう、どちらがメインかはわからないものの、神社仏閣のガイド本も、こちらのコーナーに並べられているのです。
〝弘法大師空海の寺を歩く〟という本を二人同時に見ていたのでしょう、
「弘法大師のお寺巡り、行ってみたいねぇ」と夫。
そうだねぇ。
「坂東三十三カ所の本は持っていたんだっけ?」
「ううん、それは持ってないけど」
…だってネットで調べられるじゃない、という心の声は、さすがに本屋さんの中では出さなかったものの、その本を手にした夫の嬉しそうな横顔を見て、これはもしかして欲しいのかも知れないと、さらにその言葉は私の中で打ち消すことといたしました。
「これ買おうか」
「いいんじゃない?いつか行こうと眺めているのも。
坂東三十三カ所ならば夢で終わらないで済むだろう身近な場所だし」
「誕生日のプレゼントに」
?
ああ、そういうことか。
そうね、もうすぐ私の誕生日だったわ。すでに涅槃会という感覚でとらえる自分になっていました
群馬県みどり市の【長昌寺】さんへ参拝いたしました。
広い駐車場があり、そこから御本堂の大きな屋根が見えています。
こちらは境内に古墳が存在するというお寺さん…というか、古墳があるところにお寺がたった、ということになるかと思いますが、駐車場から見る限り、古墳らしきものは見当たりません。
御本堂前、向かってひだりてに手水舎がありました。
手水鉢のすぐ横にカエルの親子の石像が置かれています。
その親ガエルの背中、子ガエルの横に異質の石の何かが乗っています。
…、…!!小さめの、光背のあるお地蔵さまではないですか!
何故?なんで?
ちゃんとコンクリートかなにかで固定されています。
どうして?
まるで石の質も異なり、決してコラボを考えてのものではないと思われます。
そんな奉納があったということなのでしょうか。
気を取り直して御本堂の前へ。
大きめの陶の香炉が置かれています。お線香もマッチも置かれています。
が…灰が少なくて、しかもなんとマッチの吸い殻が灰に立てられてしまっているではないですか。
思わず固まる二人。
気を取り直し、持参した短めのお線香ならばこの少ない灰に立てられると思い、火を付けました。
夫から先にお線香を立て合掌礼拝、ひと足遅く私が手を合わせました。
合掌を解くと、夫が誰かに挨拶をしているような感じで…、私にも「ほら」と声をかけます。
夫より髪のある(あ、…笑)普通の洋服を着た、男の方が一人、こちらに歩いて来られます。
(だれ?檀家の方?)と思いながら私もご挨拶いたしました。
「どうぞこちらをお持ちください」
?なんでしょう?
〝お供物〟、…って、まさかこの方、ご住職さまぁ?
うかがう前に拝見したホームページによりますと
『天元元年(978年)慶範和尚の開山と伝わる。その後、寛永2年(1625年)に忠慶和尚の開山、当地領主の旗本・久永源兵衛重勝の開基で中興されている。創建から中興までの期間が長く、またその間の資料もなく、創建に関しては不明な点が多い。
本堂は天保11年(1841年)に焼失、同15年(1845年)の再建』
とありました。
「歴史あるお寺さんのようで…」と申し上げましたところ、
「それは別の場所にあった寺で、それを江戸時代のはじめにここに持ってきたというものなので、ここはさほど古いものではないんです」
そ、そんなご謙遜を。
裏手の墓地にまわって、古い石仏さまと、古墳を拝見していると、ご住職さまが何やら手に持ち私どものところへとお越しになりました。
わざわざご由緒書きをお持ちくださったのです。
申し訳ないことです。
由緒書きによりますと、
『…天保十一(1840)年の火災により、本堂、庫裏、不動堂、表門等は全焼したが、本尊、過去帳、御納物等は消失を免れた。現在の本堂は天保十五年に再建されたものである』
ちなみに天保の火災により、当時の住職は7日間の「遠慮」という処罰を受けたとの記録が残っているということでありました。
「遠慮」とは江戸時代の軽微な刑罰で、現在でいう謹慎のようなものなのようです。
いただいたご由緒書きは、ちょうどハガキ二枚ほどの大きさで、御本尊さまのお写真がその一面いっぱいに、まるで絵葉書のように美しい仕上がりで印刷されたもので、その紙の材質もまさに絵葉書のように厚手の立派なものでありました。
そのお写真となる御本尊さまは聖観音さま。
御本堂を覗いて見た(苦笑)際には、黄金に輝く御厨子のみが見えましたので、普段は厨子の中におられるようです。
ご由緒書きによると、元々は阿弥陀如来さまが御本尊であったようなのですが、こちらを中興した領主である旗本久永氏が江戸小石川の廃寺となってしまったお寺の本尊をたくし、以降聖観音さまが御本尊としてまつられたようで。
それ以前からの御本尊であられた阿弥陀如来さまは御本堂に安置されておられると書かれています。
聖観音さまの修復を平成二十六(2014)年に行われており、その際聖観音さまの胎内よりその謂れ書きが出てきたようです。
さて長昌寺の墓地には2基の古墳があることは前述いたしましたが、『長昌寺A号墳・B号墳』という名称で呼ばれているようです。
A号は径17m、高さ2.5mの円墳で、7世紀前半の築造と推定されるているもののようで、墳丘を囲むように石仏や庚申塔が多数並べられておりました。墳丘上にもなにか石標のようなものが置かれていました。
B号は径20m、高さ2mの円墳で、6世紀後半の築造と推定されるもののようで墳丘は削平されており、歴代住職の墓になっているようです。
ご住職いわく、「ここが古墳とも知らず昔は墓を建ててしまっていたので」と。
たしかに、古墳と書かれていなければそうとわからないくらいの小高いところ、でしかありません。
まさに江戸の時代の人たちと同じで、〝小高いところ〟としか思えない感覚の私。
ふーんと見上げてみてそれでおしまい、それよりも辺りにある石仏さまに胸ときめかすおばさんでありました。
ほとんど鑿を当てずに作られた素朴な造りの石仏さまは、あの、忍者の代表的な(?)ポーズ、〝ドロロンパ〟とするときにする二つの手を胸の前に組んで人差し指を立てるあの〝印〟を結んでおられます。ただ、その御仏の御像は無惨にも頭部をなくされており、石が乗せられている状態でありました。
愛おしそうに両の腕で赤ちゃんを抱きしめておられる観音さまの石像。
こちらにおられる石仏さまは年代を超えてやわらかな優しい表情をされておられます。
うーん、し・あ・わ・せ♡
円柱の庚申塔や、己待供養と書かれた石碑など、はじめて目にするようなものがたくさんあります。
白梅が一分咲きの時を迎えていました。
小ぶりですが枝振りのよい枝垂れ桜の木もありました。
群馬県みどり市の【長昌寺】のすぐそばには縄文時代の遺跡が発掘されたという場所があり、そこに公園が造られていると聞いたことがありました。
みどり市笠懸町というのは、日本の歴史を学び出すにあたり、そのまさに初っ端に登場する、『旧石器時代』が日本にも存在していたことを明らかにした遺跡が存在するところ、なのであります。
この旧石器時代の遺跡とは異なり、長昌寺さんのそばのものは縄文時代の遺跡となります。
その遺跡跡に作られた公園ということで、歴史オタクの夫にはできた当初に伝えたものの、なかなか行く機会に恵まれず(私がまるで無関心であることが一つの原因なのかどうかは定かではありません)、ようやくそこへも足を伸ばす機会を得たというわけであります。
ここへ行ったという方のお話で、
「なんにもないただの公園だよ」と聞いていたことはさらに私の関心を失わせたことは言うまでもなく、今回、夫の気がすむまで付き合うとするかと思ってそこに向かいました。
…。
…こういった歴史に関心のある方や、子供たちの歴史への関心を引き出すためには、まぁよい公園なのかとは思います。小さいながらも資料館もありましたし、そこには先に述べた旧石器時代の存在を明らかにした考古学者、【相沢忠洋】氏が実際に使用していたというメジャーの展示もありました。
あとは…、かつてここから発掘された住居跡を再現したものとかがポツンポツンと点在する芝生の広がる公園でありました。
この公園で一番感動したのは、ここから見える赤城山の姿!でありました。
関心がないというのはそんなものかと…(^_^;)
私の密かな目的は、さらにここからすぐそばにあるという、『薬師堂』、でしたし。
一台しか停まっていないこちらの駐車場。資料館の方に一声かけて、薬師堂まで徒歩で向かいます。
このご時世なので、資料館に入室しますと、皆、体温測定はもちろんのこと、住所氏名、電話番号まで記入した用紙を提出するようです。
薬師堂はここに来るまでの道中、通り過ぎてきておりますので、場所はすぐにわかります。…交差点で夫は左に、私は右に向かおうとしたというちょっとした食い違いはありましたが…。もちろん、夫に従いましたとも。(^_^;)
御堂まで三、四分、といったところでしょうか。畑の横を通って行きます。
ここからの景色は先ほどの駐車場などよりももっと雄大です。
目前に赤城山がその大きな姿そのままに広がっています。
こんなところで日々畑を耕す。
なんだか羨ましいくらいです。
もちろん農家さんは天候で左右され、休みのタイミングも自然任せ、寒くとも暑くとも、畑の仕事は待ってはくれません。大変なお仕事です。
…そう、たまたまそこで作業されていたご夫婦も軽く口論されていたくらい…。
さ、薬師堂へ向かいましょう。
薬師堂は畑と畑のあいだの道の辻にあります。御堂の前に、向かってひだりてに馬頭観音さまがお祀りされています。
その薬師堂内には、ニ体…正確には二基の薬師如来がお祀りされていました。
向かって左におられます、右手を上げ掌を外側に向けた施無畏印(せむいいん)を結び、左手には薬壺を持つ、素朴な造りのお薬師さまが戦国時代の作と伝えられています。
光背がほぼ欠けてしまって、奇跡のように頭部だけきちんと残されています。
もうお一人のお薬師さまは江戸時代のものとされているようです。こちらはお腹のあたりに薬壺をお持ちになられておられます。
こちらのお薬師さまは〝目の神様〟として地域の人々の信仰を集め、毎年十一月十二日を縁日としていると、馬頭観音さまのそばに立てられた看板に書かれていました。
のどかな畑道をもと来た道とは逆に歩き出しました。
…そうなんです。先ほどの交差点、右に行っても左に行っても同じ道につながっているのです。
だから夫も正解、私も正解ということだったというわけで。
こちらの道は先ほどの公園の端を通って行く道となります。笹がたくさん生えていて、サワサワと風の抜けるたび音がいたします。
のどかなゆったりとした気分を味わうことができました。
明日二月十五日は涅槃会。
涅槃会は、お釈迦様が八十歳で入滅(にゅうめつ)されたとされるニ月十五日に営まれます。
実際に、お釈迦様が入滅された日ははっきりとはしていませんが、南伝仏教ではインド暦の二番目の月がヴァイシャーカ月の満月の日と定められていることから、一般的に二月十五日とされています。
入滅は涅槃に入ったということであり、涅槃はニルヴァーナの和訳で、煩悩や迷いがなくなり、悟りを開いた境地を意味するのだそうです。
涅槃会は、日本では飛鳥時代に奈良の興福寺で始まったと言われています。
涅槃会では、お釈迦さまが沙羅双樹の木の下で、頭を北にして西を向き、右脇を下にした姿で臥している最期の様子を描いた【涅槃図】を本尊として掲げ、お釈迦さまの最後の教えを伝える【遺教経(ゆいきょうぎょう)】をあげらのだといいます。
京都では、涅槃会は春の風物詩として親しまれているのだといいます。また旧暦のニ月十五日にあたる三月十五日に涅槃会を営む寺院もあります。
涅槃会の際、東福寺や泉涌寺では日本最大級の涅槃図や本法寺では長谷川等伯が描いた涅槃図など、各寺院では普段は見ることのできない涅槃図が公開されています。
また、花供御(はなくそ)と呼ばれるあられを授与する寺院もあり、食せば無病息災になると言われているといいます。
何年か前、参列させていただいた涅槃会は団子を配っておられたり、お団子の入ったぜんざいを振る舞っていただいたものでありました。
このコロナ禍、そんな一般の者にも開かれていた涅槃会は中止されてしまいました。
それぞれのでお寺お寺の涅槃図は全て異なり、みな素晴らしいものだありました。
涅槃図を拝することができるのは通常は今の時期だけであり、まさに一日だけおまつりするお寺さんもあるくらいです。
コロナ禍となる前、よく伺わせていただいていたお寺さんは、まさに二月十五日、一日だけ壁に掛け、朝の六時(五時だったかもしれません)に遺教経をお唱えするのが涅槃会だとおっしゃっておられました。
明日涅槃会。
まぁ、義父も実父も十五日が月命日に当たるのでお寺さんにはうかがうのですが…実父のお寺さんの涅槃図は拝見したことがありません。
お声がけしたら二つ返事で見せてくださりそうなご住職さまでおられるのですが…。
そして…私の誕生日でもある、二月十五日でありました。
私どもは足に自信がなく、未だその参拝を果たせてはいないのですが、群馬県みどり市の山の中に【寝釈迦】がおられるといいます。
寝釈迦のお像は、まさに涅槃におかれるお釈迦さまの最期のお姿を刻んだものであります。
【袈裟丸山(けさまるやま)】という山に寝釈迦、正確には釈迦涅槃像はあります。寝釈迦に至るまでニ時間はかかるといい、林道を歩く軽登山であり、登山靴やクマ鈴などを必要とすると言われています。
袈裟丸山の登山ルートのひとつ、塔ノ沢筋は、古くから修験道の修行の場でもあったとされます。
その沢筋の〝不動岩〟と呼ばれる巨岩に【釈迦涅槃像(しゃかねはんぞう)(寝釈迦)】が彫られているといいます。
像は、頭部を西に、長さ368センチ、幅130センチの大きさといいます。
そんな大きなものを誰が…。
像の造立は、弘法大師説や、足尾銅山でなくなった人々の魂をしずめるためともいわれていますが、江戸時代後期の思想家高山彦九郎の天明2年の旅行記「沢入道能記(そうりみちのき)」に「近の作なり」記されていることから、それ以前にすでに存在したと考えられます。
像のある塔ノ沢筋には、〝相輪塔(そうりんとう)〟、〝賽米之塔(せいまいのとう)〟、〝不動岩〟、〝不動の滝〟、〝般若の滝〟、〝賽の河原〟と呼ばれる景観がみられるのだといいます。
寝釈迦は善光寺信仰とも関係するとされ、袈裟丸山には弘法大使伝説も伝えられているように、沢筋は様々な信仰がまじわった場所であったことがうかがわれます。
うーん、と、登山かぁ。
と、いうわけで、ただでさえ盛りだくさんな十五日。
そこへ涅槃会と自分の誕生日が加わる二月、いつも参拝している総鎮守さまと、義父と実父の墓参り。そうして群馬県桐生市の【観音院】へと参拝へ行ってまいりました。
観音院さんはかつての、コロナ前のような一般の方にも開かれた涅槃会を開催してはおられませんが、それでも御本堂へ上がり、涅槃図を拝することはできました。
ありがたいことです。
以前同様、御本堂を解放くださり、心ゆくまで御仏の前にいられるという、なんとも贅沢な時間を与えてくださいました。
お焼香の炭が消えていたのを新しいものをご準備くださり、そのあとは何を話しかけるでなく、今回もまた、自分のペースでの参拝をさせてくださるのでありました。
なんと贅沢な参拝でありましょう。
月に一度の日限地蔵さまのお縁日の時は御本堂にも人が多く(それでもコロナ前とは比較にならないほど少なくなっておりますが)、鐘の音も絶えず聞こえ、賑やかな中で少しの時間の参拝となりますが、普段の日静かな心落ち着く御本堂であります。
そして…。
誕生日ということで、仕事に行く前の忙しい時間を割いて、お嫁さんを封切りに息子や娘、友人から次々と心のこもったLINEが届きました。
こんな嬉しいことはありません。
本当に便利でありがたい時代となったことです。
一冊の本を読み終えました。
【ぶつぞう入門】という本です。著者は柴門ふみさん。漫画家さんのようです。
私はこの方の漫画作品をよんだことがなく、この本が〝柴門ふみ〟デビューとなります。
ふーん、でもドラマは観たでしょ?と思われるかもしれません。
この方の代表作は社会現象ともなった【東京ラブストーリー】でありますので。
ところが私、その〝東京ラブストーリー〟のドラマさえ観てはいないのです。「かんち」という主人公(?)の名前くらいは知っているのですが、そこまで。
しかも最近もリメイクしたのか、ドラマを放映していたようなのですが、そちらもまた未だ観ておらず。
あ、自宅にテレビがないわけではありません。ただ何となく。
なので、この柴門ふみさんという方の作品はこの〝ぶつぞう入門〟が初めてだったのです。
で、この柴門ふみさんのぶつぞう入門、まずはそのぶっ飛んだ内容に、目を白黒。
ま、漫画家さんってことだから…
…もしかして〝東京ラブストーリー〟ってギャグ漫画だったりします?
この本は漫画ではなく、エッセイで、随所随所に柴門さんの描いた仏像の絵が散りばめられています。
その絵、さすがプロ!ささっと描いてある風なのに凄いのです。
漫画チックに描いてみたものもあるのではありますが、それでもその仏像の特徴はしっかり描かれていて、とにかく上手い。
こんなふうに御仏の絵が描けたなら、幸せだろうなぁ。
で、そのぶっ飛んだ内容とは何かというと、
たとえば、ですね、
『…それと、どこにでもある空海像。(中略)相変わらず変な手つきで三鈷を胸に当てている。』
ひええぇぇっ。
あ、あのお大師さまを、ですよ。
こ、こんなふうに言ってのけちゃうなんて!
…たしかに変な手つきで三鈷を胸に当てておられる、んですがね。でも思っても口にすることのないことを、スパッと言っちゃう。
恐れ多い。
が、歯に絹着せぬ物言いがなかなか楽しいのです。おもしろいのです。
全国各地の仏像を見て歩き、その感想や、仏像の姿を言葉や絵で描いているのです。
これは凄い。
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