神社仏閣巡り珍道中・改

レス500 HIT数 24780 あ+ あ-


2022/05/01 05:31(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。




21/07/02 14:43 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。






21/07/02 15:02 追記
そんな方のためにも、もう少し上手く書けないものかとあれこれ考えたりもしたのですが、なかなかそれはそれで難しく。
結局自分らしく、ありのままに書くのでいいのだと、なかば開き直りにも近い境地に至って、飾らない、思ったまま書くスタイルをつらぬいております。
今後も今まで通りの誤字脱字、おかしな文章表現かと存じますが、おつきあいいただければありがたいと思っております。┉ずうずうしくてすみません。



No.3321842 (スレ作成日時)

新しいレスの受付は終了しました

投稿制限
参加者締め切り
投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

No.51


今回は神社仏閣のお話から脱線して新型コロナワクチン接種記録を書いております。

接種して八時間が経過した今、注入された薬液量よりだいぶ多い‥広い範囲に、強打したような痛みがあって、若干手首や指の動きも鈍い、かなぁ。
だからといって鎮痛剤を使うほどではないです。

頭痛は重い程度。
首にずっと同じ姿勢でいた時のようなコリ感のような感じもあります。

若いから痛いんだなぁ、でしょ?
ちなみにこの症状は50%以上発現する可能性があるもの。

うーん、普通の人だ♡ p(^_^)q

No.52

新形コロナワクチンについて、思うことはいろいろありました。
けれども、この爆発的感染拡大を受け、考え方を変えざるをえませんでした。

正直、治験に参加しているという認識が強く、その効果がどうあろうと、一応現段階唱われている新形コロナウイルス感染症に効くであろうというその効果が得られたならば、ひいては及ばずながら感染の抑止力になれるという認識のもとに接種したに過ぎません。
あまりにも早いスピードで拡大しているため、本来ならば三~七年かかる治験をすっ飛ばしての全国民対象の接種にふみ切っているだけだという認識であります。
私は人生を折り返し地点にたった人間で、その一つの布石になろうではないかと思ってのこと、正直、異物を受け入れるという感覚は強かったですし、残りの人生で、ワクチンの副反応がどんな形で現れるかという不安を抱きつつの接種に過ぎなかったです。

ここへ来て変異株、殊にデルタ株の発現により更なる急拡大となっているため、本来ならば決して勧めることなどない子供たちに、ワクチンを勧める発言をしてしまいました。
感染力も大きく、重症化をする事例がかつて重症化しないようだと言われていた若い世代にも急増しているだけでなく、医療崩壊しつつある中、罹患しても中等症化しても、入院できない現実を見せつけられてのことだ。

政府は方針を変えたのではなく、感染拡大についていけず医療崩壊しかけている現実をああいう形で発表したにすぎないのだと思っています。 
対象年齢である全国民分のワクチンはすでに確保しているという発表も嘘。
配付できないくらいに供給量がないことがそれを裏づけていると思います。

だから、せめてその機会を得た私は受けよう、そう思っただけです。
なにも生活は変えません。
ワクチンをさほどは信用はしていないからです。

マスクもします。
コロナが日本に発現して以来、外食は三回ほどしておりますが、今後もある程度の収束がみられるまで外食はしないと思います。
外出をすれば今まで通り、一番外に着ていた衣服はすべて洗濯し、あるいは外に干して一定時間経過しなければ室内に入れないマイルールも変えません。
私の大切な存在を守ることになることだけを信じて。


No.53

接種後、初めての排尿は今まで嗅いだことのない臭いがしました。
うーん、効いているらしい。

夜寝る前の排尿は腹圧をかけてもかけても出せず、しぼりだすようなものでありました。
夫には一切見られなかった症状であります。

自分では治験を受けている認識を持っているため、少しの症状でも書いておこうと思います。

腕の痛みは結構強くて、水平の高さまで挙げるのがやっとでそれ以上には挙がりません。寝る前に冷湿布を貼りました。
頭痛は同程度で変化なし。



ちなみに┉蚊に刺されて痒くて目が覚めただけです。(*´∀`*)ゞ

No.54

今朝の排尿は臭いが昨日同様、今まで嗅いだことのないものだったものの、絞り出すような感覚はほぼ消失しました。
ちなみに発熱もなかったため、鎮痛剤は服用しておらず、いつも以上に水分摂取を心がけていたため脱水ということは考えづらいのです。

あとは動悸。
熱感はなく、体温も36.9℃。
念のためSpO2を測ると96%。
接種した側の腕は耳の横まではいかないもののほぼ上に上がるようになったものの、小指に違和感。

まあ、接種後19時間、こんなとこなのかもしれないな。

No.55

今日は広島の原爆忌。

忘れてはならない日であります。
それはもう想像すら絶する、この世の地獄であったとしか思えません。

小学生の頃、夏休みということもあり、毎年この広島の原爆慰霊のテレビ中継を一人見るのが、決まりごとのようでありました。
中学生となって部活やら何やらで、この中継を見る機会は減っていきましたが、その時に刻まれた思いは変わりありません。

息子は高校生のとき、原爆被災者の方から体験をお聞きする機会をお与えいただきました。

若い世代には、広島に住む方だけでなく、戦争の悲惨さを伝えていくべきだと思うのであります。
国語の教科書に必ず挙げられる戦争の話はそういった平和への祈りが込められたものと思っています。


今年、戦後どれだけの時を経てか、ようやく黒い雨を浴びた方々に原爆被災者の認定がおりました。
その間抱えておられた健康被害はいかようであったものか。

私にとって、
戦後の日本を生きて、次の世代に繋いでくださったすべての方々に感謝する一日でもあります。

No.56

初めて秋の気立つがゆゑなれば、とされる【立秋】。
暦の上では今日のこの立秋から立冬の前日までが秋となります。
立秋からの暑さは残暑と呼ばれるものとなり、昨日までは暑中見舞いだったものは今日から残暑見舞いとなります。

いやいやいやいや。
今の暑さを残り物扱いするのはなかなか抵抗があります。夏本番でありますってば。
まあ、私が子どもの頃からその辺はもうズレていたもののようで、
手紙の書き出しの慣用に『暦の上では立秋といいますが』というものがありましたくらいですし。

温暖化って表現も、なんだかもう緩く感じるこの異常な暑さ、体温より暑いってことも結構ざらに観測されらようになって、暦も『優雅なかつての言葉』となりつつあらのでしょう。
ちなみに、八月二日から六日までを大雨時行(たいうときどきにふる)というらしい。時として大雨が降りやすい頃という意味のようです。
集中豪雨やゲリラ豪雨のような降りはどうであったかはわかりませんが、過去にもにわかに激しい雨が降ることはあって、
篠竹を突き立てるように激しく降る『篠突く雨』だとか、弾丸のように大粒の『鉄砲雨』などという言葉が存在します。…まあ、最近これを使う方ももうほとんどおられなくなりました。
とりあえず、秋にしてもらえるならほんとそうして欲しいですし、昨日までで大雨は収まって欲しいと心から思うのですが。

この後、暦は【寒蝉鳴】となるのですが、これが『ひぐらしなく』と読むようで、ヒグラシだけでなくツクツクボウシなども含んだ秋に鳴くセミの総称のようなのですが、もはやこの蝉たち、春から鳴いていますからね。

その季節のずれてしまった蝉たちを私が嘆いておりましたところ、街中で育った夫などは
「へえぇ、この蝉って秋に鳴くものなの?そんなの知らなかったけど?」と宣う。
あのぉ、ここそんな大都会じゃあありませんが?
子どもの頃、終わらない夏休みの宿題に途方に暮れるころ、聴こえてくるヒグラシやツクツクボウシの鳴き声に秋の訪れと世の無常…というよりは無情を毎年毎年感じたものですが?
風情のない人だ。
…いやいや夫はとうに宿題を終えているタイプであったのでありましょう。蝉たちの鳴き声などにあわれなど感じることなく子どもらしく遊んでいられたのだろうな。
わが家の子供たちもみな、夫寄りの夏休みの過ごし方であったな。
…これは秘密にしておこう。



No.57

一応、新形コロナウイルスワクチン第一回接種後の最終報告を。
接種後、48時間を経過した時点ではまだ軽い痛みがありましたが、54時間後の今は、挙上時に重い感じと、触るとまだ痛いかもな、程度です。


次回ご報告するかどうかは┉そのときの体調と気分で(`・ω・´)ゞ

No.58

昨日、群馬県桐生市の白瀧神社さんの大祭に参列させていただくことができました。
それも、昇殿して玉串奉奠(たまぐしほうてん)までさせていただく丁重な接待をお受けし、本当に涙が出るほどに感動し、ただただ感謝しかございません。

いつもは無人の白瀧神社さんに、人が集まって…はおりました。
しかし驚くほどの徹底した感染対策をして、であります。
厚手のビニールのカーテンで仕切られた受付、マスクはすべての方々が着用されているのはもちろんのこと、フェイスシールドをされた方もおられます。
もともとが無人の時であっても、アルコールの手指消毒液が設置されているくらい、管理をされておられる世話人さんが努力されておられるところであります。
人々はほどよい距離で自然なソーシャルディスタンスを保ち、まずはそこに感動したくらいです。

無人である通常時でも綺麗に掃き清められた、明るい気の満ちたたいそう気持ちのよい白瀧神社さん。
お護りいただくことに感謝して大切に維持管理されておられる方々がおられることはわかっておりましたが、これだけの徹底した感染対策をしての開催を、相談して計画して、準備して臨んだ、絶対に開催したい大祭であったのでありましょう。
とはいえ、一時は警戒レベル2までに下げられておりました群馬県であります。どうあっても開催するためにはと、レベル2の時からすでにこうした対策を取ることを決めて、調べて行動されておられたのでありましょう。
しかも、申請してもすぐには政府が出してこない緊急事態宣言や蔓延防止対策。それが幸いして、この大祭の次ぐ日から蔓延防止対策が施行されることとなるのであります。
まるで白瀧姫さまが里人のためにそうしたかのような、見えない力を考えずにはいられませんでした。

いつもと違っていたのは、手水鉢に並々と、日の光遠受け煌めく水が張られていたことと、当然のことながら、拝殿の扉が開け放たれ灯が点されていたこと。社務所も開けられ、神楽殿にはミヤマクワガタではなく白に浅葱色の装束を身に纏った方々がおられること。
ただ、なぜか境内の気はいつもと変わらない。
人がいてもいなくとも明るい清んだ気の満ちた白瀧神社さんであります。


No.59

とはいえ、最初から昇殿までさせていただけるなどとは思ってもおらず、みなさん顔見知りの方々ばかりのお祭りに参列させていただけただけでも本当にありがたく思って、拝殿前で参拝したあとは離れたところでお邪魔にならないように拝見させていただいておりました。
神職の方がおみえになりいよいよ神事が始まろうかというときに
お邪魔にならないだろうという位置の拝殿前で、神職の方が修祓(しゅばつ)をなさる様を、私もお祓いいただけるように頭を下げつつ拝見させていただいておりました。
その時です。
進行係をお務めになられている方が私どもにお声をかけてくださったのは。
「どうぞお上がりになってください」
へっ?
「是非玉串をあげて行ってください」
はっ?
よろしいのですか?
「是非」
へっ?
あ、ありがとうございます。

正式に床几までご用意してくださり、ど、どうしようと思うくらいの対応です。
降神の儀、献饌(けんせん)と儀式は続きます。
祝詞が奉上され、玉串奉奠。
うわぁぁぁぁぁぁぁぁ。
人生で三回目に過ぎない昇殿、及びに玉串奉奠ですがね。
しかもまるでそんなはずじゃなかったから、まるっきりその作法が頭にはいっていないんですって。
うわあぁぁぁぁぁぁぁぁ。

それと私、この進行係をお務めになられておられます方より先に玉串を奉上することだけはあいならない。
そのくらいは頭がまわりはしました。
この儀を執り行うお一人で、私どもに昇殿をお許しくださった恩ある方より先に神さまの御前に参じてはならない。

小声で玉串奉奠の順を誘導されておられるときに、なんとか、お先にお願いしますとお伝えすることができました。
すぐにご理解してくださって、それでも私を除いた最後に玉串を奉上される、なんとも人の出来たお方であられます。
神職ではなくとも、神さまにお使えになると自然とそうしたことが身につくものなのでしょうか、それとももともとそうしたことが身についておられる方なのでしょうか。
とにかくお一人で式進行の案内役から酒杯の準備までされておられました。

…私、この方の爪の垢ももらうともっと御利益があるかもしれません。

神職の方の所作の美しさもまた目を奪われるものでありました。


No.60

えっ?玉串奉奠はきちんとできたのか、ですか?
うーん、そこはこれからの修業、かな。


そして、この日は神楽の奉納もあります。事前に十一時からと伺っております。あと二十分ほど。
どこで拝見させていただこう。
…ん?
あの、ヘッドカットマネキンに着せられた白装束は…もしや、まさかのオリンピック聖火ランナーのユニフォーム⁈
間違いない。
となりにトーチが飾られている。

そ、そうなんだあ。
桐生市の聖火ランナーの一人は川内町在住の方だったんだぁ。
トーチを収めるケースも立派なものです。
「へえぇすごいな。鏡になってるんだ」
何が?
「いや、このトーチを上から見ると桜の花の形になっているのが、わざわざ覗かなくてもわかるように鏡になってるんだよ」
へっ?
「だから、トーチの上に桜の形があるでしょ?あれ鏡に写ってるものなんだってば」
へっ⁈
…言われてもすぐにはわからないくらい、美しく光り輝くものであります。
聞けば、神楽の代表の方が選ばれて走者を務められたのだそう。
ほおぉ。聖火ランナーの方の舞はどんなだろう。
聖火ランナーを務めた前と後ではやっぱりものの見方考え方とか名、変わりはあるものなのだろうか。神楽の舞や演奏には何か変化あったのかなぁ。

実は後でトーチを持たせていただくことができまして。
見た目は重厚な感じなのに、やはり持って走る物なので、とても軽いものでありました。
前の東京五輪のときのトーチとは本当に形も見た目も凝ったものであります。

うーん、十一時を過ぎたのに、御神楽は一向に始まる気配がありません。あれ?トーチも片付けられています。

十一時というのがそもそも私の記憶違いなのだろうか。

No.61

うーん、十一時半からだったのかもなぁ、そう自分の記憶力の無さを心底心配したその時でした。

「お、終わったぞ」と、神楽殿でくつろいでいた男の方々の動きが一転しました。ごろごろしていた(ほかの表現を知らなくてごめんなさい)方々が、スッと立ち、ある方は襟を正して太鼓に向かいました。
ああ、なるほど。
拝殿でもう一度執り行われていた(らしい)玉串奉奠の儀が終わるまで待っていたということだったようです。それはそうですよね、神事が拝殿で行われているのに同じく神事で神さまに奉納すら御神楽を始めるはずがありません。

始められた舞は【翁の舞】。
…その演目が筆書きされているのですが、それがまた感嘆するほどに力強く美しい文字であります。

翁の面をつけた方が舞台へと入って来られた瞬間、境内がシーンと静まりかえりました。
年老いた方の動きをどれだけ観察してこの舞に活かされておられるのか。
腰をかなりに曲げての動きは、どうしても身体に負担がかかりましょうに、まるでそれが自分の普段からの動きであるかのように一瞬も若い動きに戻ることない所作であり、舞であります。
子供たちも十人以上、二歳から小学生までの子がいるのに、境内にいるすべての人が固唾を飲んで見守っているのです。
翁の舞ですので、派手な動きもありませんし、見方によっては美しいと思えはしないかと…。
たぶん、子供たちにすらその美しさがわかるのでありましょう。
静かに静かに舞は続きます。

実は登場時に、翁の手に持たれていたものは、かのトーチでありました。トーチをうやうやしく神楽殿に設られた神前にまつったのであります。
その自然な動き。
この舞人の素晴らしさはそこから始まりました。

トーチを神前にまつる。
国内で開催されたオリンピックならではであり、なおかつ、この神楽のメンバーが聖火ランナーに選ばれたからこその粋な計らいでありましょう。
長い神楽の歴史の中で最初で最後のことでありましょう。
となれば、私、その歴史的な瞬間に立ち会えた、ということになりましょう。
でも、私の中では、翁の舞の素晴らしさの前でそれすら霞んでしまっておりました。



No.62

桐生市の指定重要無形民俗文化財に指定されております【白瀧神社太々神楽】。

『白瀧神社には古くから神楽が伝承されているがその起源は定かでないが、面の大半は江戸時代のものである。
現存の記録では明治二十一年の「太々神楽施行願」があり、明治三十一年、「神正流大和太々神楽座記録」に十二座の舞の記録が舞人の姓名とともに記載されている。舞人の議定書もあり第一條から第十條までに舞人の心得が細かに記され署名捺印されている。


第一座「翁之舞」 
第弐座「猿田彦之舞」 
第参座「天宇豆女之舞」 
第四座「剣玉之舞」
第五座「岩戸開伎之舞」 
第六座「巨蛇退治」 …と続き、
楽器は太鼓、胴長締太鼓、笛の二鼓一管である。


式舞は大祓詞の奏上により始まる。四方を祓い清めた大幣を手に宮司は平舞の囃子で「宮司之舞」を厳かに舞う。舞終わり神前に着座し「翁」を待つ。』

とは白瀧神社太々神楽の公式サイトに記されたものです。
神楽の起源は明らかではないようですが、面の大半は江戸時代のものだといいます。

現在伝えられる神楽は前述の十二座のうち、式舞五座、興舞五座であり、囃子は太鼓、長締太鼓、笛では構成されています。
この神楽、実は代々川内地区に住む長男が継承してきたが戦後後継者不足で消えかかったといいます。そんな中の昭和27年ころ青年有志が古老より受け継ぎ、受け継がれ今に至ったようです。

そこでふと気づいたことがあります。

『式舞は大祓詞の奏上により始まる。四方を祓い清めた大幣を手に宮司は平舞の囃子で「宮司之舞」を厳かに舞う。舞終わり神前に着座し「翁」を待つ』

【宮司之舞】というものが存在するんだ。

ですが今回の御神楽は【翁之舞】から始まっています。
もしかしてこれもコロナ禍における特例であったのでしょうか。

実は白瀧神社さんの太々神楽公式サイトには動画もアップされており、たしかにそこには宮司之舞が残っていました。

宮司之舞から翁之舞へと移行するのが伝統であったものを、こうして形を変えていく必要性も生じることもあり、それでも御神楽衆はあくまで明るく、神楽を繋いでいければと舞い、太鼓を叩き、笛を吹きます。


もし私の拙いあやしい駄文をお読みになって関心をお持ちになられた方は、『白瀧神社太々神楽』で検索されるとそのページを探すことができると思います。



No.63

この日午前中に奉納された演目は三つ。
前述の【翁之舞】のほか、【天宇豆女之舞】【猿田彦之舞】と続きました。(このへんも本来の順番として紹介されているもののニ座と三座が入れ替えられておりました)
私の絶賛しておりました【翁之舞】は、本来は宮司さんから大幣をお受けして始まるものらしいのですが、今回は一人でトーチを持って登場するところから始まりました。トーチを神前にまつり、神前に置かれている大幣と鈴を持ち、静かに静かに舞うものでありました。
天下泰平、国土安穏、五穀豊穣を寿ぎ舞われるもの、とあります。

【天宇豆女之舞(あめのうずめのまい)】※天宇豆女命(神楽の神、芸能の神)
天宇豆女之命の舞は、神々の魂ヲ鎮め蘇生させると云われているそうです。幣束を持ち鎮魂の舞を一人厳かに舞う…と解説にはあるのですが手にお持ちだったのは鈴と五色の糸の巻かれた糸巻きを持って舞われていた記憶があります。
この白瀧神社さんの太々神楽はすべて男性の方が構成されているので、当然この女神さまも男性。
わざとそのように演出してあるものなのかまではわかりませんでしたが、明らかに男性の動きです。
黒髪も今の質のよいかつらとは違う剛毛の鬘で、それをガバッと被ってきましたという感じで千々に乱れた乱れ髪で、装束も足元がきゅっと絞られたモンペふうのもので…。
これはちょっと女神さまがお気を悪くされなければいいけれど…と思ってしまった私でありました。そしてそっと小声でそう言うと、夫は、
「だって天宇豆女之命さまって、美しい方ではなかったと伝えられているから…」
いやいや、お面も『おかめ』『お多福』の面より明らかに醜女に造られているけれど、そうではなくて…。まぁ表現の自由?
でも神楽の神さまで芸能の神さまであらせられるわけで、ちょっと私の感覚とは違う納得のいかないものではありました。



【猿田彦之舞】※猿田彦之命(道祖神、庚申、船魂神…旅の安全を守る神)
この舞は二人で舞われるものでありました。あと一人は供人(従者の意。神楽では抵悟(もどき)、道化の名前)が登場いたします。

猿田彦が剣と鈴を持ち、国家繁栄を願いテンポの良い早舞の囃子で舞うものであります。

まず猿田彦が一人一通り舞い終わると供人が登場して、刀と鈴を手に猿田彦の所作をまねながら舞うものでありました。

No.64

長崎の平和祈念式典の中継が始まりました。
今、献水が始まります。
原爆犠牲者が喉の渇きを訴えて亡くなられたことによるものであります。

厳かに式典が行われています。



No.65

1945年8月9日午前11時02分、長崎市に米軍が原子爆弾を投下しました。七万人以上が死亡したとされ、76年が経つ今も多くの人が健康被害に苦しんでいます。

先日、76年の長い時を経てようやく被爆者の認定を受けることができたのは広島の原爆被害者のみであったという事実に衝撃を受けました。一つ一つ?
同じく原爆の被害を受けながら、
その差はどこから生じるのでしょう。
菅総理はこれについて一切語ることはありませんでした。

そして。
今年一月に核兵器の開発や製造、使用などを全面的に禁じる【核兵器禁止条約】が発効してはおりますが、このコロナ禍でその後の進展はなく、しかも現時点で、核保有国や米国の「核の傘」の下にある日本政府はこの条約を批准していません。

難しいことは分かりません。
日本語もおぼつかない文章を書く馬鹿ですから。
でも、世界で唯一の原爆被災国自体が、この条約にサインできないのでは、ようやくここまでこぎつけたことが、世界にはどうとらえられるものか。
軽んじられてしまっていい内容でしょうか。

国としてどうあるべきかという問題は私には大き過ぎるかもしれません。
あまりにも大きな大きな船であります。

ただ、人としてどうあるべきかはわかっているつもりです。

No.66


【猿田彦之舞】※猿田彦之命(道祖神、庚申、船魂神…旅の安全を守る神)
この舞は二人で舞われるものでありました。あと一人は供人(従者)が登場します。

猿田彦が剣と鈴を持ち、国家繁栄を願いテンポの良い囃子で舞い、
供人が登場して、刀と鈴を手に猿田彦の所作をまねながら舞う、といったもの。

猿田彦が衣装も舞もこれがまたカッコよくて。
とはいえ、日本書紀で
[その神の鼻の長さは七咫(ななあた)背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、赤酸漿(あかかがち)のように照り輝いている]
とあるくらいの神さまであらせられるので、つけられている面は、
さながら天狗さまのようであります。
こちらの髪が千々に乱れていても、それは動きに沿うものでもあり、男の神さまであり、帽子もお召しでありますので、それはそれが当たり前のことのようでありまして。
深く腰をおとし、勇ましく舞う舞に心奪われることでありました。

一通り猿田彦が舞を舞ったのち、現れたのは供人。
頭には豆絞りの手ぬぐいをかぶって、白い上着に赤い色のちゃんちゃんこを着、下は白を基調とした花柄の、さながらニッカズボンのようないでたちで。
面はひょっとこを想像していただければ、ほぼそのような面であり、手には前述した通り、鈴と刀を持って、猿田彦の動きをコミカルに真似て舞うのでありました。
基本は猿田彦の舞を真似るのでありますが、途中で神楽殿の床に寝転んでしまったり。
子供たちにお菓子を配りだし、そのまま神楽殿から落ちそうな…本当に落ちるのでは、とハラハラするくらい、ギリギリのところでギリギリの演技をしたり。
そもそも手に持つ刀は、もしかしたら、程度の良いものではあるものの、子供らが手に持って遊ぶあれとしか思えないように見えてなりません。
猿田彦の舞にはキュンとして、供人の舞には思わず声を出して笑ったところまであるくらいであります。

すっかり御神楽のとりこになった私であります。


昇殿させてくださった世話人の方には、三度も
こちらのお祭りがほかにいついつあるから是非お越しください、とお声がけいただきました。
さらには御神楽のメンバーの一人の方に、「次はえびす講だよ」
と、リピーターとなったであろうおばさんに心にくいお声がけもあり。
…次はえびす講_φ(・_・

蝉しぐれの中、心地よい陽の光の下で久々にお祭りを堪能させていただきました。

No.68

群馬県桐生市の川内町に、急な傾斜でなおかつカーブした道をのぼっていくお寺さんがあります。
坂をのぼり切ったところにある、清浄な空気と鳥や虫の声しかしない空間は、私が心を空っぽにできる、無になれる空間であります。
この清らかな山はなんという山なのだろう。
いつかお聞きしたいものだと思っておりました。
そのお寺の名前は【永明寺】さん。

初めてお邪魔したときはまだ庫裏が出来上がっておらず、どなたもおられない状態でありました。

その後もなぜかご住職さまも参拝の方すら誰一人居られない、貸し切りのことが続き、私はそんな境内にたたずんでボーっとして過ごすのが大好きでありました。


この日、珍しく庫裏に車がありました。おっ??
まずは御本堂の前で御仏さまにごあいさつ。


私、こちらのお寺さんの方にお会いできたら、お聞きしたいことがありました。

一つはこの清らかな山はなんという名前であられるのかどうか。
そして、もう一つは境内向かって左側にある御堂にまつられたお堂におられるお地蔵さまはどんないわれがあるのか。

…お聞きすることができました。

このお山は【用明山】だということであります。
あ、ちなみに山号ではなくてです。このお寺さん、永明寺さんが建っているお山のことです。
なんでも桐生の地にまだ【桐生氏】がいた頃。こちらには用明砦と呼ばれる砦があったのだそう。その砦の地名から用明山と呼ぶようになったと伝えられているのだとか。
その時、
「そうですかぁ。こちらが用明砦だったんですかぁ」とやたら興奮している男が一人。
ええ、夫です。
若いご住職さまもよもやその砦があったことを知っている人が来ようとは、ましてや用明砦という存在を知った人物が来ようとは思ってもおられなかったようで、
少しびっくりされ、少し嬉しそうに、
「あの墓地の入り口にある桜の根元とかに、馬をとめておく馬止めとかが出てきたと伝えられているのですよ。
墓地の方からもいろいろ出ていたようなのですが、お墓が次々と建って今ではもう掘ることができなくなってしまいましたがね」
と、お教えくださいました。


用明砦で興奮した夫が帰りながら語った話はまたあとで。ʅ(◞‿◟)ʃ

No.69

【用明砦】とは。
名君と言われた桐生助綱公の家臣に里見入道勝広という者がいた。
助綱公の信頼の厚い者であったという。
当時の桐生のためにいろいろ尽くして、助綱公とともに桐生を盛り立てていった人物といわれる。
助綱公には子供がおらず、栃木県佐野市から養子をとった。
その子が親綱と呼ばれる人物であった。
助綱亡き後、親綱と、その親綱について佐野よりやってきた家臣が里見勝広の讒言を繰り返し、勝広はついには切腹させられてしまう。
そのとき里見勝広は川内の地の赤萩の砦にいた。
桐生氏の追手から逃れたものの、赤萩の砦にいた者からの裏切りを受けての自刃であったという。

里見勝広の息子二人はその頃、上杉謙信公のところにいたという。
親の最期を聞き、今の群馬県みどり市大間々町の要害山の廃城へと戻ってきた。
その間に桐生氏は群馬県太田市の由良氏に滅ぼされてしまう。

石原兄弟はその後由良氏に仕え、桐生市川内の用明砦を守っていた。その用明砦こそが今の永明寺の建つところであるのだということである。
里見兄弟は、親の仇である石原兄弟を討とうと、用明砦へ向かうが、すでに石原兄弟はそこから逃げ出していたという。
由良氏の家臣となっていた石原兄弟を討とうということは由良氏を討とうとしたこととみなされ、里見兄弟は要害山で討ち死にしてしまった。


…以上が(嫌がる夫に無理やり口伝させたものであります。


まあ、地方の戦国時代の一つの悲話としてお読みください。

そんなわけで、今までわからずにいた用明砦の場所が、お寺さんへのお参りという思わぬことから知ることができ、夫はたいそう感動していたということであります。

それにしてもよくもまぁ、そんな、地元のものでもないところの細かな歴史まで知っているものだと自分の夫ながら感心いたします。
ほんと。
これが県を越えても地元の方とペラペラ喋れるので、なんだか私は置いてきぼりをくらった気分でそんな会話を聞いています。
私がバカなのか、夫が詳しすぎるのか、その両方なのか…。


いま、群馬県でも蔓延防止等重点措置がとられています。
しかし現実には、最初に出された緊急事態宣言下よりも感染力が強く、重症化する変異株となり、今まで以上に外出も自粛するようでしょう。
なんとかこの状況を乗り越えるために。
夫から歴史でも学びましょうか。
…喧嘩になるとしか思えない。

No.70

群馬県桐生市の【東方寺】さんへ参拝してさせていただきました。
こちらのお寺さんは彦部出雲秀昌さんという方が建立したもののようです。
桐生市で彦部家というのはなんでも、さかのぼると天武天皇の長子、高市皇子を祖としているとのことで、鎌倉時代に陸奥国斯波郡彦部郷に移った際より、彦部姓を名乗ったのが始まりという、由緒あるお宅のようで。

室町時代に足利将軍家に仕え、永禄四(1561)年に、桐生市広沢の地に屋敷を構えたと伝わるようであります。
その屋敷は今も現存していて、建物は江戸時代初期のものから後期の物が残っており、彦部家住宅と称して一般にも解放されているようです。

彦部出雲秀昌さんとおっしゃる方が、その何代目に当たられる方なのか、あるいは分家筋の方なのか、ごめんなさい、わかりませんでした。

こちらの近くに福厳寺さんというお寺さんがあり、そちらは彦部屋敷の彦部家の方が建てられておられ、こちらの東方寺さんが曹洞宗のお寺であるのに対し、福厳寺さんは真言宗豊山派であり、関連性はあまりないようであります。
その辺曖昧でわからないままの記述のままでごめんなさい。
どちらも今なお続く家柄のお家であります。

そして東方寺さんも法灯約400年に亘り継承され現在に至る由緒あるお寺さんであります。

長い歴史の中で栄枯もあった様ですが、時の檀信徒の方々と歴代の住職の信心と報恩の浄行によって支えられ、現在の堂宇が整備されたようです。


こちらのお寺の紹介文をご住職さまがお書きになられたものがあるのですが、
『宝物は、文化財として価値のある物はございませんが、寺にあるもの全てが宝物であり、何よりも承継がれた仏法こそが当山の宝でございます。
 観光としてお出で頂くには適さない寺ですが、安心を求めてお参り下さい』
と書かれていて、なんとも謙虚でかわいらしく好感が持てました。

そして実際にお会いしましたご住職さまも、
「あんまり字がうまくなくて申し訳ないんだけど」
とおっしゃっておられましたが、大変お美しい手で如是とお書きくださってありました。
やっぱり謙虚なお人柄のようであります。

No.71

【東方寺】さんは桐生市の広沢町といわれるところにあります。
この広沢町というのがまた広いようであります。
そのなかの一寺に、やはり東という文字が使われた【東沢寺(とうたくじ)】さんというお寺さんがあるようです。

ナビの示す道がなんだかどうにも狭そうな┉。
夫は急がばまわれと訴えたのですが、運転もしないくせに、ナビがせっかく教えてくれているのだしという私の一存で、┉ナビと私の意見という多数決で、細くてグニグニとした道を行くことに。

想像を絶する細さ。

その細さのまま、急に鋭角に曲がる道。

片側崖ではないものの、タイヤが少しでも踏み外したら、そのまま横滑りで倒れるか一回転しそうな道。

おーい、冒険したい訳じゃないんだよ~っ!
この車のナビにはぜひ、安全安心な道を案内する学習をしてほしいと、切に切に思うのであります。

そんな冒険をさせられて(被害者はあくまでも夫)、這々の体でようやくたどり着いた、東沢寺さん。

『はじめ、唐沢にありしゆえ唐沢寺と称せしが、一本木に移してより、東沢寺と改む』とあります。
慶長二年に、一本木村(今の広沢七丁目)の村民が、栃木県足利市の光泰寺二世を招いて開かれたのが始まりといいます。
なので開基は一本木村民となっています。
唐沢というところがどこなのか、わからないのでありますが、ともあれ、村民の方々が自分の住む村にもお寺さんが欲しいと熱望して建てられた、という、なんとも心があたたまるお話であります。

そう言われてみれば、桐生市の反対の端より、よほど太田市や、栃木県の足利市のほうが近いかもしれない位置関係です。
それにしても広沢町というのは少なくとも七丁目まであるのですね、道理で広いわけです。

いま来た道よりもだいぶ高台にお寺さんも墓所もあるようであります。
道に立ってもお寺さんの建物はまるで見えません。

石段があります。
何段か登った辺りの横の土地に、六地蔵さんが安置されていました。
お顔は、赤いお掛けが風にあおられて、みんな隠されてしまっておりました。


この日はまだお盆というわけでもない平日の月曜日だというのに、四組ものご家族連れがお墓参りにおみえになっておられました。
コロナ禍の新しいお盆の在り方、なのでしょうか。
まあ、とりあえず、平日ではなくて、今年特例の祝祭日であったようでしたが、ね。


No.72

東沢寺さんの境内はトンボがまるでお祭りを開いているかのようでした。
境内を所狭しと踊りまわっているかのように飛び回っています。何トンボ?
ひゅいひゅいと飛び回って、わかるのはある程度の大きさと、色はベージュっぽいのかな?くらい。
まあトンボに詳しいわけでもなく、止まっていたところでGoogle先生にお聞きしなければわからないのでありますが…。

しばしトンボの乱舞にみとれ、ハッと我に返って、御本堂へと向かいました。
御本堂はガラス越しにお盆さまの支度がされているのがわかりました。もしかしたら普段ならばガラス越しにご本尊さまを拝することができるのかもしれません。

御本堂での参拝を済ませて振り向くと、少し大きめな観音さまの石像が目にはいります。
おっ?
おおっ!
魚籃観音さまではないですか!

なかなおられない観音さまのように思っておりましたので、びっく
りであります。
手にお持ちになられた籠には籠から顔と尾があふれ出るくらいの大きな鯉がおります。
なかなか活きのよい見事な鯉です。
ああ、そうか。東沢というからには沢が近くにあるのでしょう。
そこで鯉が取れるのでしょうか。
そんな観音さまの周りもトンボが飛び交っています。

そして参道である石段をはさんでお堂があるのが見えました。
お堂には延命地蔵さまがおまつりされていました。
窓越しに覗きこむと、ん?
き、胸像のお地蔵さま?
初めて拝見いたします。



さして延命は希望してはいないのですが、このコロナの爆発的な拡大を収束させていただけたならと心より思います。願います。
祈ります。

年若い方が自宅待機中に亡くなられたニュースがまた今日も報じられています。
災害級の感染拡大だと、論じた方がいるようです。
そこへまた、自然災害が日本列島を襲っています。
いや、世界を襲っています。

神さま、仏さま、
どうかお助けください。
お救いください。



No.73

私の住まう地域では明日からがお盆となります。
まあ、最初に書いてありますが私はいまだかつて迎え火も当然送り火もしたことがありません。
お盆の際のキュウリの馬も、ナスの牛も作ったことも飾られた家に住んだこともありませんし、精霊棚も厳密に正しいものが飾られた家でもありません。
たまたま伺ったお宅が精霊棚をおまつりしているのを[みたことがある]というレベルです。
とはいうものの、最近は珍道中ではありますが、お寺さんを訪れることが増えて、お盆の期間にお寺さんの御本堂へとあがらせていただく機会もあり、お盆中ご本尊さまのおられるところの真正面に祭壇を設けられるのだということも知りました。
荘厳な祭壇には五色の幡があり、大きな御位牌が祀られ、ほおずきが飾られたりしておりました。
また四方をお護りになられるのか四方に御仏に仕える方々のお名前が祀られてもいました。
こういったありがたくもどこか畏れ多いものを写真におさめるようなことは小心者の私にはさすがにできなくて、資料となるものはネットも含めてなかったので、全くのうろ覚えで昨年の記憶をたどり書いているので、間違っておりましたら申し訳ありません。

なんだか葉っぱの上にお米と小さく刻んだ何かの野菜を置いてあるものとか、いわくのあるであろうものがたくさん飾られていたことをうろ覚えに覚えておりますレベルです。

この御本堂で提灯に灯をいただきますところや、施餓鬼会という盛大な法要を営んだりと、お寺さんによってさまざまなようです。

棚経というものがあるようで、これはお寺さまが一軒一軒、檀家さんのお宅を訪問して仏前にお経をあげて回られるもののようです。

お盆も親が亡くなったり、施設入居になったりと、代替わりしたことでだいぶ様変わりしております。
私の周りでは、[お互い様]という、明らかに使い途を間違っているとしか思えない言葉で、お盆のお線香上げで親戚や親しい知人の家を訪ねることもなくなりつつあります。

No.74

なので、私がここでお盆について語るなどということは、まさに笑止千万、であります。
子供の頃から当たり前のようにお盆さまの行事に参加されてこられた方々にはなにを今さらそんなことをわざわざ書いているんだ?となることと思われます。

で、まあ、私の覚書と思っていただければ。
 
お盆はサンスクリット語で【ウラボン】、漢字に置き換えると【盂蘭盆】となります。
意味は【倒懸(とうけん)= [逆さ吊り]】という意味なのだとか。

お盆は逆さ吊りって┉?
【盂蘭盆会】といえば【逆さ吊りになった者を救う法会】ということになるというのです。
逆さ吊りになった者?
実はこの逆さ吊りになった者とは、餓鬼道に堕ちてしまった、お釈迦様のお弟子さんの目連尊者という方のおかあさんだというのです。

目連尊者は、過去・現在・未来のできごとなどを見通すことのできる神通力をお持ちであった方だといいます。
目連さんはその力を人々のために活かされ、多くの人々から尊敬されていました。
 
有る夏の暑い日のこと。
木陰で休んでいる目連尊者の前を楽しそうに話ながら母子が通っていきました。その姿に、何年も前に亡くなってしまった母親を思いだした目連尊者は、神通力の一つ天眼を利して死後の世界へ会いに行くことにしたのだそうです。

母を探し探して、とうとう地獄の入り口にたどりついた目連尊者はまさかと思いながら入ってみました。

地獄にはいろいろあるそうです。
お湯が煮えたぎって人間が苦しんでる地獄。 針山地獄。血の池地獄。楯刀を持たされて争っている地獄。人間が切り刻まれる地獄。
そんな地獄が際限なく続くそうです。

焦熱地獄を覗いた時です、そこに横たわっている者こそが目連尊者お母さんであったのです。
目連尊者に気づき、駆け寄る母親は一杯の水を頼みました。
しかし、器で運んだ水は熱さで煮えたぎり、持ち寄った食事は火と化してしまいます。
大泣、悲号し目連尊者はお釈迦さまの前に進み出て、ことの子細を話しました。

が、そこで仲間から聞かされたことは目連尊者の母親の悪業だったのです。
目連尊者の母親は目連を大変かわいがりましたが、そのあまり、道理がわからなくなってしまっていたようです。 



No.75

夏のある日、目連尊者の家の前を通りかかった人が一杯の水をめぐんでくれるように頼みました。
水瓶の水はあふれんばかりでしたが、母親はふたを取ろうとしません。何度も乞う声に母親は「この水は目連の水!」とこたえたのだといいます。

インドは暑く、特に水はどこにでもあるというわけではありません。
お釈迦様は、布施(物を施すこと)は執着心を離れることとして奨励されましたが、それは「心」の問題ばかりでなく、社会の貧困を解決することを考えておられたこともあるのでしょう。

目連を思うあまり施しを忘れ、道理を見失った母親は、その死後地獄行きとなるのでした。
目連尊者にとって、自分のため地獄に堕ちてしまった母親の姿はおどろきであり、この上なく辛く苦しいことであります。

悲しみに打ちしおれる目連尊者は再びお釈迦様をたずねました。

お釈迦様は過去を取り返すことはできないが、母親が生前できなかったことをすることはできると話されました。
「七月十五日(八月に行う地方も多い)は雨期もあがり僧侶も夏の修行に一段落つく日である。人々も町に出てくる。この人たちに母親の出来なかった施しをするがよい」と示されました。

目連尊者は飲み物の他、百味百果の食べ物を用意し、衣服をも用意されました。修行僧のほか、そこを通る全ての人々へ、母親ができなかった施しをし、母への供養としたのだといいます。

目連尊者は再び神通力で母親を訪ねました。
白い雲に包まれた母親がうれしそうに空に登っていくところであったといいます。
目連尊者はその後毎年供養を続けることを誓ったのです。

この行いが二千数百年経た今も、お盆という行事となって伝えられ、行われているのだといいます。

No.76

お盆の期間にお寺さんの御本堂におまつりされていることが多い祭壇を【施餓鬼棚】と言うそうです。

【施餓鬼(せがき)】の由来は、
お釈迦様の弟子の阿難尊者(あなんそんじゃ)が座禅瞑想していると、餓鬼の霊が現れて、
『あと三日で命が尽き餓鬼道へ生まれかわる』
と宣告されたのだそうです。
驚いた阿難尊者は、お釈迦様に餓鬼の霊への供養法(施餓鬼法要)を教えてもらい、命を永らえることができたということです。
これが施餓鬼会のルーツとなっていくようです。

【施餓鬼会】の法要をお盆中ではないときに営まれるお寺さんもあります。
施餓鬼会は期日を設定して行うものではないもののようです。

ただ、お盆の期間はあの世とこの世の境があいまいになり、ご先祖さまの霊だけでなく、無縁精霊や餓鬼の霊、地獄の精霊もやって来るため、盂蘭盆の期間に施餓鬼会を行い、多くの精霊が救われるよう供養することが多くなっているそうです。

施餓鬼会では、施餓鬼棚に『三界萬霊』の御位牌が祀られます。
三界とは、欲界、色界、無色界のことで、全ての世界の精霊(萬霊)を指すのだそうです。


お盆やお施餓鬼は、先祖代々の供養だけではなく、あらゆる精霊に祈りを捧げ、魂の安楽を願う法要なのだそうです。



…などと冷静を装ってここまで書いてまいりましたが。

お盆の期間はあの世とこの世の境があいまいになり、ご先祖さまの霊だけでなく、無縁精霊や餓鬼の霊、地獄の精霊もやってくる〜?

いやいや、そんなことサラっと言わないで欲しい。
罪深い我が身は自覚しております。
お盆が怖くなるじゃない〜っ。

せっかくお寺さんへお参りすることの大切さを覚えたおばさんは、小心者なんだから〜っ:(;゙゚'ω゚'):

お盆のお墓参りに行かなければ、ご先祖さまに叱られそうだし、さりとてそんな霊とか怖いんですけど〜っ(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

どうしたらいいんだ。



…やっぱり行くか。
お墓参り。(´;ω;`)

ご先祖さま?
絶対絶対守ってね。
お寺のご本尊さまもどうか是非是非お護りください。


しかも今日は雨。
家にお迎えする御霊のいない私は、それぞれのお宅がお迎えに行く前にお寺さんに行かなくてはいけません。

がんばるぞぉ。

No.77

群馬県桐生市にはあと一つ、東という文字から始まるお寺さんがあります。
こちらは川内町となります。
広沢町からはずいぶんと離れたところとなります。何をもって東としているかな。

桐生市の中で東にあるものなのか、というとそれは否定してよさそうであります。桐生市の地図を見る限り、広沢町というところは南にありますし、川内町というところはどちらかというと西に位置する…のかなぁ。なにぶんにも地図を読むのも苦手な人間なので…。
広沢町のなか、東にあるのかもしれない、東方寺さんと東沢寺さん。結局憶測の域を出ることないものとなりました。すみません。

川内町というところにあります東という文字のつくお寺さんは【東禅寺】さんといいます。
川内町というのも広そうです。
ん⁉︎
あ!東禅寺さんはたぶん川内町のなかで東にある!
川内町を奥に向かっていく道が何ルートかあって、東禅寺さんはそのルートのなか、一番東のルートで行くお寺さんです。
おおっ!なんだか金田一少年の台詞を言いたくなるほどスッキリしました。…まあほんとはちっとも大したことではなく、夫に聞けば即答されるレベルなんでしょうがね。
歴史もダメ地理もダメ…ときたら、社会科はダメな訳だし、算数もダメ、日本語もあやしいとくれば英語だってダメ。やだなぁ、通知表を貼り付けてるような気分すらしてきたぞ。あ、もちろん理科もダメです。-_-b

閑話休題。
そんなわけで今度は川内の東禅寺さんのお話を。

東禅寺さんは先日参拝させていただいた、永明寺さんと大変密な関係にあるようです。
一時期は永明寺さんの御朱印が欲しい方はこちらでいただいくといった時もあったくらい。
ちなみにこちら東禅寺さんは御朱印の対応をされてはおられないのですが。

そんな東禅寺さんはなだらかな坂道を登っていく少し高台にあるお寺さんであります。
なんとものどかな景色が広がっています。
お寺さんの境内も大変にのどかで居心地のよいところであり、鐘楼が青空にまっすぐそびえ、境内の真ん中にあるのもまたいい感じです。

御本堂と同じくらいの大きさで瑞雲閣と名付けられた研修道場があります。
屋根には大中黒と夫が呼ぶ紋がついています。ということはこちらは新田氏ゆかりのお寺さんということ。おおっ。


No.78

鎌倉時代末期の正中二(1325)年に開創されたお寺さんのようです。

群馬県太田市世良田にある長楽寺から来錫した南海宝州さんという方が、釈迦堂を建て庵を結び、郷民の摂化伝道に勤め、後に堂宇を建立し、縁師仏乗禅師を勧請し開創されたもののようです。
世良田の長楽寺は、その昔臨済禅の名刹であり、常に数多くの雲納、僧侶が参集し、修行伝道の大道場でありました。

建武三(1336)年、新田義貞公は、出兵に当り、園田七郎秀成の実子園田四郎左衛門尉秀澄を家臣に加え、一族の戦勝を祈念して東禅寺へ「毘沙門天像」を寄進し、寺領を奉納したのだといいます。
しかし武運つたなく建武五(1338)年七月、両者共に戦死されています。現存する市指定文化財「建武の碑」は、その供養塔と思われるとのことであります。

その後、天文(1532-1555)年間、永禄(1558-1570)年間は戦国の世となり、上杉・武田、及び桐生・由良両氏の交戦の戦禍に巻かれ総ては灰燼と化し、開創以来二百余年の歴史に空白を生じるのだそうです。
安土桃山時代の天正元(1573)年、東禅寺開創者の子孫の帰依を受け、再興され今にいたるようです。

現存する東禅寺本堂は、江戸時代前期の寛永八(1631)年現在地へ移築したものだそう。
江戸時代中期の宝永八(1711)年には梵鐘も鋳造し鐘楼も建立して名実ともに臨済寺院としての形容も整えられます。
しかしこの梵鐘は第二次世界大戦の時応召され鐘楼のみが残され、現在の梵鐘は昭和四十八(1973)年に再鋳奉納されたものなのだそうです。
そして平成に入り、本堂・禅堂・庫裏の整備を行い、平成七年(1995年)秋に落慶大法要を厳修したといいます。

 先に述べた「建武の碑」とされる供養塔は、「東禅寺角塔(角塔婆)」と呼ばれています。
高さ87cm、底部の一辺が28cmの上部がやや細くなった角柱で、材質は疑灰岩でできています。四面には「南無阿弥陀仏」、左側面下部に「建武五年七月三日」と制作日が陰刻されているそうです。
閏七月三日は新田義貞が戦死した次ぐ日であり、さらに東禅寺が新田氏所縁の寺であるとの伝承もあることから、この角塔が新田義貞と関係があると推察されているようです。



桐生のお寺という冊子と角塔の案内板を参考に書かせていただいきました。

No.79

大きな御本堂は一見江戸時代に造られたとは思えないほど、新しいものに見えるもの。
近くに寄ってみても昭和初期と言われれば、そうかと納得するくらい、しっかりと、どっしりとした造りであります。
よほど丁寧に造られたものなのでしょう。
正面は一面がガラス戸であります。そのガラスはさすがに年代を感じるもので、木造校舎をご存知の方であれば、そんな懐かしいガラスでありました。
瑞雲閣と名づけられた禅堂=研修道場は、御本堂と同じくらいに大きなもので、御本堂とは渡り廊下でつながっています。
瑞雲閣の裏手には大きな池があり、心字池がある見事な庭園となっています。
そんな人目に触れない場所にあるものであってもよく手入れされたものでありました。
境内も広々としているだけでなく、本当に気持ちよく手入れされています。
作られたものというのではなく、そう言った意味ではあくまでも自然に、毎日毎日の手入れをされている境内であります。
かと言ってその作業に使うような道具など一切目につくところに置かれていない、本当に大切にされておられる感のあふれる境内であります。

鐘楼も江戸時代のものとは到底思えない、しっかりと威風堂々としたもの。
櫓のように高いもので、青空によく映えるものでありました。

結局この日、御住職さまにお会いできたわけでもなく、御本堂に入ったわけでもないのですが、
もうこの居心地のよさにすっかりこのお寺さんのファンとなってしまいまして。
石仏さまもみな優しいお顔で、この辺り一帯をお守りくださっておられるのが伝わってくる、そんな御仏ばかりであります。

お寺の参道には個人のお宅の所有される観音堂がありました。しっかりと造られたもので、お堂の中には等身大の白い観音さまがお立ちになっておられました。
マリア像を思わせるような真っ白な観音さまであります。

で。
角塔は?…どこだろう。
わからないのでお寺の方にお聞きしました。
墓所の奥の方にありました。
いやぁ、檀家の方でなければ、ここまでは入って来ないです。

角塔は白い柔らかそうな石で造られたものでありました。古いものであるのに南無阿弥陀仏という文字がしっかりと読み取れるものであります。屋根こそあれ囲いなどはありません。
塔の後ろの左下に、たしかに不自然に抉られたような穴があります。

No.80

本来角塔と呼ばれるものは板碑と同じ一種の供養塔なのだそうですが、この塔の側面下部には、横にほり込んだ穴があるのです。
結構大きく、明らかにそうしようという意思を持って抉り取った、大きさでいうと拳二つ、いや三つくらいの穴です。
側に備え付けられた案内板によれば、
『遺骨でもおさめられていのではないかと思われる。これは供養塔がある面で墓石化してきたものと考えられる』
とあります。
い?
い、遺骨ですかぁ?

墓所の奥、側にはたくさんのお墓があるのにもかかわらず、途端にその角塔がなにやらちょっと怖いようなものに感じられてしまう小心者の私。…えっ?だ、誰の?どなたの遺骨を?なんでこんなとこに?

…墓石化してきたと考えられるって書いてあるでしょう。
と一人でビビり自分でなだめる、一人劇場を繰り広げ、その角塔をあとにするのでありました。


ええ、知る人ぞ知る
『あなたの知らない世界』を、
頭からすっぽりかぶれる毛布とかを用意して、それでも欠かさず観ていた世代ですから、私。





それにしても…、現在のBGMは新聞配達のバイクの音すらかき消すような、降り込めるような雨音であります。
すでに水を吸い込めなくなった庭の土は大きな水溜まりを作っています。
大きな災害を起こしているこの雨。夫はこの雨の水をギリシャやトルコに持って行けたら、お互いがどれだけ助けられるか分からないのに、うまくはいかないものだと嘆いております。
どうか人命だけはお守りください。


八大龍王雨やめたまへ、であります。




No.81

せっかく、というのもなんですが、この日せっかく桐生市の川内町という地区に出向いたので、川内町にあるお寺さんを巡り参拝させていただくことといたしました。
東禅寺さんにほど近いところに【千手寺】さんというお寺さんがあり、東禅寺さんに向かう途中に案内が出ておりました。
なかなかに急なカーブの細い道で、通り過ぎてしまったこともあり、東禅寺さんのあとに参拝することにさせていただきました。
ただ、帰りに寄るにはヘアピンのように曲がることになります。
「平気平気っ!」とは当然夫。
私ならばいったん通り過ぎてUターンして臨むパターンです。

が。

そのあと続く道が、またまた細い!カーブ続き!片側が低く斜めに掘られたようになっている!
そ、そうね、昔は車でなんかお寺さんに来ないものね。
くねくねとした民家さんの私道のような道をゆるゆると走って、まもなく赤いお寺さんの屋根と思われるものが見えてきました。

…そ、そうかぁ。
昔は車でなんかお寺さんに来ない。故に駐車場もない、かぁ。
ど、どうしよう、…とりあえず境内に入れさせていただくしかないですね、Uターンとか不可能な道ですし、ごめんなさい、ごめんください。

車を停めると、こちらのお寺さん、御本堂と庫裏が一体となっています。お寺さんの入り口は庫裏と一緒のようで、個人の表札があります。えっとぉ…。
まるで見ず知らずの個人のお宅の駐車場に勝手に停めた気分です。
あ、いやいや、参拝という尊い目的があって訪れたんだ。

そ、そうは思ってみても、あまりお寺さんらしい雰囲気のお寺さんではなくて、…石塔や石灯籠、石仏があるとかもなく、香炉もないし、鰐口もお賽銭箱もないのです。
壁面に千手寺と書かれた扁額があることが唯一お寺さんであることを物語っているくらいでありました。
ただ、入り口のところに、案内版の立てられた、四方は囲いはないものの瓦屋根の葺かれた建物があって、そこにおまつりされているものはありそうです。
七面庚申塔と書かれています。



No.82

今思うと、表札の掛けられた千手寺さんで、その玄関に立ってお声をかけようとか、呼び鈴の有無を確認もせず、どうして千手寺さんをあとにしたのだろう。

大変きれいに住われておられるように見えます。
雑草も生えておらず、きれいなカーテンがかけられています。
ただ、少なくともその日はご在宅されてはいないのだろうと、なんの疑いもなく思ったのであります。
お車もない上、カーテンが閉められていたこと、良いお天気なのに洗濯物一枚干されていなかったことなどからそう思い込んだのです。

一年に二度、ご本尊であられる千手観音さまがご開帳されるようです。一月十七日と、まさにもうすぐの八月十七日。
その日また参拝できれば、お話もうかがうこともできましょう。

ただ、駐車場がなく、路駐も不可能な場所であります。
まして蔓延防止策のとられている今、地元の方が楽しみに訪れておられるその日に、私がうかがうのもいかがなものかと。
…また、いつか。
いつの日か。

戦国末期か慶長前後のものとされる金色の千手観音さまにお会いしにまいりたいと思います。


No.83

無住となってしまわれたお寺さんは、なんとも切なく哀しい思いがいたします。
川内にあるお寺さんでもう一ヶ所参拝させていただこうとうかがったお寺さんはいつからか無住になっておられたようです。
高源寺さんというお寺さんであります。

こちらの御本堂も大きくはないものでありますが、高台に建ち、川の流れを見守ってくださるような、この地をお守りくださる仏さまがおられる感のするお寺さんであります。
こちらの建物自体は昭和三十一年に檀家の方数名の寄進によって移築されたものだといいます。
お寺の歴史は、同じく川内にあります雲祥寺さんの第五代住職さまが明暦元(1655)年に建立され、開山されたのが始まりのようです。
御本尊は釈迦如来さまで、大日如来さまと聖観音さまをおまつりされておられるようです。

自然豊かな、心がおだやかになる、そんなお寺さんであります。
ほんの少し見える庫裏は少し荒れてしまっていて、そこがなんとももの悲しいものでありました。

No.84

施餓鬼法要も中止されたお寺さんが多いようです。
毎年迎え盆の日に檀家の方が集まって盛大に執り行われていた縁あるお寺さんも、昨年とは異なるコロナの爆発的感染拡大をうけ、今年は御本堂内施餓鬼棚を設営するのみとし、特設したお布施をお渡しする受付があるのみでした。


縁あるお寺さんであっても、檀家と一般をしっかり分けて、声もかけないお寺さん(ご住職)もあれば、
檀家筋でないこともご記憶してくださっていてなお、丁寧な対応をしてくださるお寺さんもあって。

まあ、基本的には檀家を一切持たないお寺さん以外は、檀家さんあってのお寺さんですので、檀家さんが大切なことはたしかなことです。お寺さんも慈善事業ではありません。ビジネスと考えるならば、そういったこともあるのかもしれません。

今回、声もかけないどころか、一瞥して、他の受付にいる家族の方に「あの人たちは違うから」と、こちらに聞き取れるほどの声で接待をしなくてよい旨伝えられたご住職がおられました。さすがに意気消沈してしまいました。
まあ、お布施もしませんし、卒塔婆もお願いしておりませんし。
コロナ禍で檀家さん以外は招かれざる客、ということなのでしょうか。

御朱印で有名となっているお寺さんは逆に、どなたもお客さま、ということでしょうか。

お寺さんも時代とともに様変わりしているのかもしれません。
うーん。
でも、でもですよ?
お寺さんを持たない、旦那寺を探している方もいるかもしれないのですよ?
ひとこと声をかけるだけのことすら、お金にならないことはしない主義なのでしょうか。

血縁の近い先祖の縁もあることだし、そこのお寺さんの雰囲気も好きだったので、日を追うごとに気落ちしてしまう自分がおります。
お寺さんって、本来は先祖供養の大切さを教える立場なのじゃないでしょうかね。

まあお坊さんも人、ということでしょう。




No.85

仏教から発生した言葉で、日常的に使われている言葉はいくつもあるようです。

【相続】という言葉もその一つなのだそう。仏教語、というのだそうですが、意味は【心の相続】。
土地やお金といった相続とかではなく、亡くなられた方の生き方であった〝あたたかな心〟〝他人を思いやる心〟〝正義の心〟なとを伝え残すことを相続というのだそうです。
これは…。
本当の意味も知らないで、遺産相続で争う。まさに笑止千万、でありますが…。
なかなか、ね。
これがお金や土地ともなると円満にいかないことも多いようで。

心を相続する。
相続してもらえるような心の持ち主になりたいものです。


また、【阿弥陀如来】さまへの信仰は多くの日本語も生み出していらようで…例えば【あみだくじ】。
その様子が阿弥陀如来の〝後光〟に似ていることに由来しているといいます。
そ、そうかな?

もう1つは十八番(オハコ)。
得意なこととか、得意技・必殺技に使うことが…今もあるんでしょうかね。私でもあまり使うことはありませんが。
オハコという言葉は、浄土宗や浄土真宗において、阿弥陀如来さまの四十八願の中で十八番目の願を最も重要視していたことに由来しているようです。

No.86

仏教から発生した言葉をもう少しだけ書いてみます。

【挨拶】
禅では相手の悟りがどの程度かを測るため「一挨一拶」と呼ばれる問答を行います。
「挨」とは相手に問いかけを行うこと、「拶」とは相手の問いかけにすかさず切り返すことです。
この問いかけと返事の組み合わせが転じて、相手とコミュニケーションをとって親しくなることを指す「挨拶」という言葉になったといわれています。

【ありがとう】
ありがとうは仏教の「有難し」という言葉から来ています。
法句経(ほっくきょう)という教えの「人間に生まるること難し。やがて死すべきものの、いま生命(いのち)あるは有難し。」という一文から取られ、人として生まれたことに感謝して生きようということから転じて、一般的に感謝を表すときに使われるようになったといいます。

【玄関】
玄関は『玄妙(げんみょう)な道に入る関門』からできた言葉で、〝玄〟は深い悟りの境地=仏教であり、〝関〟は関所という意味だそうです。
その意味の通り、元々は寺院の入り口を玄関と呼んでいました。
それが明治時代以降さまざまな建物に寺院の玄関に似た形の入り口が作られるようになり、さらには仏教の道だけでなく単純に外と内を出入りする場所の呼び名として「玄関」が定着したそうです。


なるほど…。
神社仏閣に無縁に生きてきたような私であっても、自然と生活の中に仏教語が使われていたのですね。

No.87

群馬県の本日のコロナ感染者は314名と過去最多となりました。
二十日から緊急事態宣言が適応されます。病床の稼働数は66.8%。
緊急事態宣言云々よりもこの感染拡大していくスピードに危機感をいだき、外出自粛を自ずから実行している日々を過ごしておりますが。
医療の現場を支えてくださっておられる医療従事者の方々、外出自粛できないお仕事をされておられる方々に感謝し、自分の生活をそうした方々が支えてくださっていることを噛みしめて日々を生きていきたいと思います。

今回、神社仏閣の参拝について、必要ではあるものの不急ではあろうという結論にいたり、遥拝させていただくことといたしました。

それに…実はまだまだ書けていない珍道中録が結構な数、ありまして。
何年か前のもの、…書こうとして筆が止まったもの、いろいろで。
歴オタの夫との珍道中ゆえ、廃寺跡などもあります。

外出自粛の巣ごもり、あいも変わらないめっちゃくちゃな文章がさらに更新されてまいります。
…ごめんなさい。m(_ _)m



No.88

【栖松寺(せいしょうじ)】さんというお寺さんは、群馬県桐生市の梅田町にあります。
そのお寺さんのことを知らずにまいりました私は、お隣にある碧雲寺さんの御堂の一つだと思っていたくらい、小さな小さなお寺さんです。
御堂と思い込んだおばさんがいるくらいですので、小さな御本堂と少しばかりの墓地がある、庫裡さえない無住のお寺さんです。
そもそもがこちらの御本堂に掛かられた額に書かれているのは、
【子安観世音】とのみ。
これでは御堂と思い込んでも…しかたがない、ですよね。

それでもこちらのお寺さん、梅田町という土地の、著名な旧家の菩提寺であるとのことで、同じく梅田町にある梅田山西方寺さんの和尚さんが兼務住職をお勤めなされているのだそうです。

こちらのお寺の境内におられる石仏さまはそれはそれは穏やかな優しいお顔をされています。
石幢もあるのですが、そこに彫られた御仏も可愛らしいかたばかりです。

こちらの観音さまは子授け観音さまとして有名だったようで、かつては、
観音さまの抱いておられる赤ちゃんの像をお借りして、一晩祈願するという風習があったようです。

今はどうなのか、九月八日にお祭があったようで、その日は西方寺さんの和尚様が来られて、読経をする日であったようです。
手作りのお団子や果物、生花をお供えし、百匁ローソクがお供えして読経をされるのだそう。

妊婦さんたちは、読経終わるまで待って、
その短くなったろうそくをお分けいただいて帰るのだそうです。
そうして、出産が近くなったら、このローソクに火を灯して、安産を念ずると、ローソクが燃え尽きないうちに子供が生まれるというものだったようです。


うーむ、九月八日かあ。

No.89

【栖松寺】さんは【桐生市のお寺】という小冊子にもすでにその名が載らないくらいでありました。御堂と間違えたくせに、それはそれで淋しく思う私でありました。

…それでは何故?
何故夫は栖松寺さんの存在を知っていたのでしょう。
答えは簡単!栖松寺さんにある石幢が桐生市の文化財の指定を受けているから、であります。

歴オタの興味は当然の事そういったものにも向けられていて、石仏さまが大好きな私は、おかげさまで、普通に生活していたら絶対にお会いできない野仏さまたちにお会いできたりしているのであります。
さらには、民話とかの造詣もあり、惜しむらくはどうしてそれを子育ての時に子供たちに伝えようとしなかったのか、と。

家族で民話の里を訪ねる、なんて、なんてロマンチックで素敵なことかと思うのですが、ねえ?
「思いつかなかった」そうで…。

…そ、そんなやつです。

夫婦二人で民話の里を訪ねるのだってロマンチックでは?と思われた方。
それが長い髪と長いスカートの裾をなびかせて、すずやかに笑う奥さまと、見目爽やかな長身で脚の長い、お洒落な旦那さまが、
二人でのんびりと野の花を楽しみ、野仏さまに手を合わせる…とかだったら、ねえ。
私どもだと、長身な夫ってとこと、髪の長い妻ってとこしか当てはまらない。
野の花も楽しんでおりますし、野仏さまにも手を合わせてはいますが、ね。
よろよろ、のたのたと歩いている初老の二人はハタから見ても、当人たちが想像しても、ロマンチックとは程遠く。
これがもうちょっと歳を重ねて、おじいさんとおばあさんがだったら…んー、それでもやっぱり絵にはならない夫婦です。
だって珍道中夫婦ですもの!

ま、せめてもう少し歳を取ったら少しは落ち着いていたいと、できたら可愛らしいおばあさんになぞなりたいものだと、思い願うのではありますがね。

野を歩いていて周りから魔女とか山姥とかに間違われることのないことも祈ろう。


No.90

無住、ではないのでしょうが…。

先日紹介させていただきましたお寺さんの後日談。
六三大師さまのおられたお寺さん、やはり群馬県桐生市にあります【長泉寺】さん。
…こちらのご住職さま、な、なんと三年ほどまえに亡くなられたのだそう。
御朱印を求め庫裏へと向かい、お尋ねしたところ、奥さまが寂しそうにそうおっしゃってました。


こちらは大変古い、歴史ある御本堂です。彫りも大変重厚で美しく、見ていても飽きないものであります。

今度こそご住職さまからお話がお聞きできるかと思っていたのですが。
六三大師さまのお話もお聞きしたかった。

御本堂の前に置かれた鐘は、綺麗でさほど古いものとも思えないのですが、実は割れてしまっているのだそう。
一時期参道の入り口の寺標のところに置かれていたこともあったそうなのですが、今兼務されておられるお坊さまが、あそこでは勿体ないからと戻されたのだそう。
奥さまはご主人との思い出もあってそこに置いておきたかったよう。
うーん、やっぱりご住職さまがおられなくなったお寺は淋しくて哀しいです。





No.91

母の月命日にお寺さんへまいりました。
桔梗が満開でありました。
睡蓮が厳し過ぎる日射しを避けているかのように、葉と葉の間に小さく隠れて咲いていました。

お参りを済ませて帰ろうとすると、どこからかピアノの旋律が聞こえてきます。かなり速いテンポの曲…。
あれ?
この曲は⁈
[天国と地獄]だ!
そうそう、あの運動会といえば必ずこの曲!ってくらいの!
そういえば、今はどうなのか、
カステラの文明堂のCMがこの曲に歌詞をつけて白い(…私の記憶では、)クマ(←私の認識)がラインダンスを踊ってるものだったな。
そうね、夏休み開ければすぐに運動会。まあ、まさか校庭にピアノを持ち出して生演奏はないだろうけれど。

などと考えながら、この曲を弾いているだろうお子さんを微笑ましく思い歩いていてハタと気づきました。
ぷっ。…ここ、お寺だった。
よりにもよって天国と地獄のBGM。
楽しいっ!楽しすぎる。
たしかにここはそういった世界に一番近いところだ。
一人ウケながら帰宅の途に着いた私でありました。



No.92

ネットで調べることも多い、この珍道中。ネットで調べてるのによくまあこんなに珍道中を繰り広げられるものだと、われながら感心いたします。


群馬県桐生市には桐生に伝わる民話をご自身の足で現地を歩き、その地に伝わる民話を現地の方から実際にお聞きし、さらには郷土史等の文献を元に確認して、採話された当時の写真や地図まで載せての本を出版された方がおられたようです。残念ながら、その方はすでに亡くなられておられるようですが、その数、実に十三冊。
発行数は少なかったようで、今はもう購入することはかなわないようです。
ネット情報によると、桐生市立図書館にご本人より寄贈されたその何冊かが残っているようです。

そのいくつかのお話はネットで読むことができるので、桐生市のお寺さんを知る際の参考にさせていただいておりましたが、珍道中を支えてくれる頼もしい(…うーん、珍道中では、間違いなく、頼もしい)存在であります夫は、歴オタで、そこに深く関わりをもつ民話にも深い関心を持っており。
桐生市立図書館に行って、貸出のできる手続きをして、その何冊かを借りてまいったのです。
ああ…。

だいぶわかるようになってきていたつもりであった桐生市市内のこと、まるっきり!であったことを嫌というほど自覚いたしました。
まあ、私は自分の住まうところのことすら知らないことの多いやつですので、さもあらん、といったことに過ぎませんが、それにしてもよくまあこれほどに調べられたものであります。
もっとも、一巻しか読まないうちに、返却されてしまいましたので、その一巻を元にして語っているにすぎないのでありますが…。

もちろん民話でありますので、事実と異なるであろう内容もありますし、すべてが神社仏閣と関わるお話ではありません。
それでも神社仏閣にまつわるお話もたくさんあるので、今後はこの本を参考にしてまわることができたなら、と思うのであります。

先だって参加させていただきました桐生市川内町の白瀧神社さんのお話もありました。梅田町の栖松寺さんのものはこちらに書く際参考にさせていただきました。
緊急事態宣言が発令されている今、その地を実際にまわることは難しいですが、かつてまわらせていただいた神社仏閣さんのお話を読んでみるのは楽しいかもしれません。
読み込んだ夫はさらにパワーアップ、するのかなぁ。うーん。

No.93

本日、二度目のワクチン接種。
打って10分ほどで頭痛が出現。
これは⁉︎
パァーッと顔が紅潮するような熱感があって、熱が一気に37・8℃
うーん、これは重篤?
非接触型体温計の誤作動らしい。ほっ。

でも二度目は結構多くの人が局所の痛みとか熱とか言っているよな。
一回目から夫より強い副反応のあった私は戦々恐々。
…接種から四時間。相変わらず頭が痛いけど、なんか平気?
局所の痛みってこれからだったっけ?
まあ、頭が痛いからごろごろして過ごしていますが。
お夕飯、どうしよう。
ただ今の熱は36・8℃。
うーん、腕、少し痛くなってきたぞぉ。

…普通に作れそう。だな。


No.94

今。
頭痛が結構きつく、腕は寝返りを打つと思わず「いてっ」と声が出るくらいに痛い。
例えるなら…このまま枕に固定して動かしたくないと思うくらいと、
きつく掴まれて爪を立てられたくらいに、
痛い。

でも、コロナ発症はこんなレベルではないという。
インフルエンザの百倍ツラいとか例える方がおられたけれど…私、インフルエンザにかかったこともないんだよな。 

No.95

ワクチン接種後二十九時間、腕の痛みは一回目よりはるかに楽で、腕を挙上しても左右差がないくらいに挙げられます。ま、痛いってことは確かですが。
ただ頭痛は一回目より強いです。
とはいえ発熱もなく、副反応も普通に報告されているものでありましょう。
ただ鼻水がすごい。
これは副反応というより、秋の花粉でも飛び始めたでしょうか。

以上、コミナティ®︎(ファイザー社)を接種した者の一報告例であります。


ちなみに。
このたび群馬県は二十〜三十代の方を対象に、九月末までに二回ワクチン接種をし、応募すると、
抽選で一名にスバル社製の車、SUBARU XV(1・6Eye Sight)を、また県内旅行券五万円分百名、同じく県内旅行券二万円分二百五十名にプレゼントするという施策を打ち出したようです。

二十代は子宮頸がんワクチンの接種が定期接種となって、その副作用、副反応が重篤であったため、その接種を不安に思った親と子の世代。まさにうちの娘がその対象者でありました。
それを考慮したか否かはわからないけれど。

ワクチン接種が広がることも大変重要だとは思いますが、感染が急拡大しております昨今、コロナに罹患された方の医療面の充実を切に切に願っております。
ますます疲弊されておられるであろう医療従事者の方には感謝しかございません。
この費用、そちらに当ててもらいたかったと思わずつぶやいたおばさんでありました。


No.96

それは2017年【国立美術館】の【運慶展】の会場でのことですありました。
他の作品…御仏の御像が等身大あるいはそれ以上の大きさでスポットライトを浴びて展示されている会場の中にあって、会場のサイドにある、ガラスの陳列台の中にし
ずかに展示されていた、小さな御厨子にふと目がいき、そばに寄って見るにしばし言葉も発することすらできず、まさに棒立ち釘付けとなったのがその御仏との出会いでありました。
美しい御厨子には小さな御仏が印を結びお座りになられておられるのですが、その神々しいお姿はその会場におられる大きな御仏の像に劣ることなく。
しずかに会場を見守っておられるかのようでありました。
大きな光背。
その周りには何体もの雲に乗る御仏が舞うようにお側におられます。その精巧さ!

御仏は大日如来さま。

その大きさは三十センチほどのものでありながら、わずかに開かれた目は今にもさらに開きそうにも閉じられそうにも見え、肩のライン、腕の柔らかなふくらみ。
少しくびれたお腹、自然に組まれた足。
こんなに小さなお像でありますが、実に写実的に、…まるで生きておられるかのように作られております。

そしてそこに添えられた説明を読むと、なんとその御仏さま、栃木県足利市のお寺さんのものであるというではないですか!

そのお寺さんの名は【光得寺】さ
ん。
まだ珍道中を始めてさほど経っておらず、初めてお聞きするお寺さんでありました。それは歴史オタクの夫もそうであったようで、違っていたのは、そのお寺さんの名前をしっかりと胸に焼き付けたのが夫で、その御仏の素晴らしさに嘆息して終わったのが私という。

何年かののち栃木県足利市の足利氏にゆかりの【樺崎八幡宮】さんを参拝した際、その足で光得寺さんにお参りしようとした夫が、私にその、東京国立美術館でお会いした御仏のお寺さんであることを伝えるのにどれだけの時間を費やしたか。

樺崎八幡宮さんは元は樺崎寺であり、足利義兼公がそこで過ごされたという由緒あるお寺であったもの。
八幡宮となったのちもそこに安置されていた御仏であったり、五輪塔をおまつりしていたものの、あの明治の神仏分離令で光得寺へと移されたのだといいます。
つまり、この八幡宮と光得寺さんは夫にとってはまさに一緒にお参りすべき場であったというわけでありました。

No.97

光得寺さんは御本堂も庫裏も新しいお寺さんでありました。
明治元年に大火があって、当時のご住職さまが命がけであの大日如来さまを運び出したという経緯があったようです。それ以外のものはほぼ焼失してしまったとのことで、寺宝も樺崎八幡宮さんとのやり取りの記録なども一切失われてしまっていました。
その明治の大火後、再建したものとしてはあまりに新しい御本堂で、おそらくは平成の建築であろうかと思われるものでありました。

樺崎八幡宮さんから保存と供養を頼まれたという十九のも五輪塔も、新しく、たいそう立派な覆屋にきれいに並べて建てられていました。これだけ立派な覆屋に守られておれば、今後の風化や劣化はかなり防ぐことができることでしょう。

ところで。
樺崎八幡宮さんから移されたというもので、その初めての参拝の際には知らずにおりました、木造のお地蔵さまがおられることを、やはり民話を通して知ることとなりました。
その名も【黒地蔵さま】。
それも境外のお堂におられるといいます。ただ、なかなかその場所がわからず。
ようやくネットでその黒地蔵さまのまつられたお堂のある場所を知ることができました。
小学校のそばに岡崎山と呼ばれる小高い山にあるといいます。

よぉし、ここまでわかれば。
ナビにはさすがに出ないでしょうが、小学校のそばの山っていうヒントをもとにすればきっと見つかるはず。

No.98

「足利の昔話」より。

昔々の話です。まだ黒地蔵様が樺崎寺の地蔵堂に祀られていた頃の事。
ある秋の夜更けに村の豆腐屋の戸を叩く見られぬ坊主姿の若者が在りました。豆腐を求めるその者に豆腐屋の主が「どちらからお出でかな?」と尋ねてみましたが、愛想無く「村の者です」と返すのみで坊主姿のその者は求めた豆腐を持って立ち去りました。その日以来、その坊主姿の者は毎夜豆腐屋を訪れ、一丁の豆腐を求めては闇夜に消えるように立ち去るようになりました。

はじめは売れ残りの豆腐を買いに来てくれるありがたい客と思った豆腐屋の主も、話し掛けても愛想も崩さず無表情で不愛想な客を次第に不気味に感じるようになってゆきました。やがてその客が狐狸妖怪の類では無いかと心配した主が、その客の話を知り合いに相談したところ、娯楽の少ない時代のこと瞬く間に噂が村中に広がり、興味にかられた者がその者の顔を拝みに来るような有様となりました。やがて
「あの顔、どこかで見た事がある」
「間違えない。俺はあの顔を知っている」
と、言い出すものが現れます。しかしどうにも思い出せないのです。そこで或る晩、いつものように豆腐を買って帰るその者を村の若者が気づかれないように灯りを消して密かに後をつけてみると、その姿が村はずれの地蔵堂の近くで不意に闇に消えてしまったのです。若者たちは急いで手元の灯りに火を入れて辺りを探し回りますが、結局、坊主姿のその者を見つける事が出来ませんでした。諦めた若者達は地蔵堂の前に集まり村に戻ろうとすると、彼らの手にした灯りが地蔵堂の中を微かに照らし出したのでした。

「あっ、あの顔!」
若者たちが手にしていた灯りに照らし出されたお地蔵様の顔は豆腐屋で見た得体の知れない坊主の顔その者だったのです。そしてその口元は今、豆腐を食べたと言わんばかりに濡れているでは無いですか。

大慌てで村へと戻った若者の話を聞いた豆腐屋の主が、改めて坊主姿の者から受け取ったお金を確かめると、それはいつの間にか木の葉に変わっていました。村人たちは相談し、お地蔵様が二度と出歩かぬ様にと荒縄で縛ってしまいました。それ以来お地蔵様が豆腐を買いに来る事は無くなったそうです。

いつとは無しに、黒地蔵さまは安産と夜泣きの効験があると信仰されるようになり、願いが叶ったお礼にお豆腐がお供えされる習慣になったのだそうな。

No.99

ぶっ!
お地蔵さまの仕業とわかって、荒縄で縛ってしまったぁ?

ど、どうして?
わからない。
お地蔵さまが歩いてお豆腐買いに行っておられたのって、なんでダメなんだろ。
いやいや、確かに怪異だけれど。身元は判明したわけで。それだけ美味しいってことで、それを売りにすれば…。
それはお豆腐屋さんにすれば葉っぱのお金では困ったことだとは思うけど、何も荒縄で縛らなくても…。
と、長年無信心であった我が身を棚に上げて、伝承話に熱く語るおばさんでありました。

小学校のそばの岡崎山は本当に小さな小山であります。
小学校のすぐそばまで行きますと何やら高台に御堂が見える、なんとも分かりやすいところでありました。
ただ…駐車場がない。
すぐ近くの民家の方にお聞きすると岡崎山の石段のすぐ下に置いて大丈夫だとのこと。
幅寄せして車を停めて…夫が、ですがね。石段を登ってまいります。
…墓地だ。
完璧に墓地。右も左もお墓です。
ええっ?
こ、こんな?

それでも御堂はたしかに見えておりましたし、近くにお住まいの方に確認もしてあります。
御堂、御堂っと。
御堂のことしか考えないよう意識しながら階段を登って行くと、…ありました。
御堂がありました。
ほんのちょっと先に着いた夫がなにやら絶句しておる様子。?なに?

御堂の中には…
貼り紙が一枚。
参拝のかたへ、
修復のため黒地蔵さまは下山いたします。令和三年三月に戻る予定です。というような内容が書かれております。そうか…。

「令和三年三月って…まだ修復が終わらないのかなぁ。それとももうここには戻らないってことなのかなぁ」と夫。ん?
あ、そうか!
三月ってもう過ぎてたわ。
我ながらやれやれなヤツだこと。

修復先でお豆腐のお供え、していただけてるといいな。
それとも光得寺さんの御本堂におられるのかしら。

いつかお会いできたら嬉しいです。
なんでも黒地蔵さま、夜泣きにご利益があるらしい。娘の子供の夜泣きをぜひ鎮めていただきたい。
晴れて夜泣きが治まったなら、お礼は…絹ごしがいいですか?木綿でしょうか?



No.100

ワクチン接種との関連性は定かではないものの、その後ずっと頭痛が続いております。
…これが治ると頭が良くなるとか?そんなのだったらいいなと思うところがのんきもの。

それにしてもだいぶ夜明けが遅くなりました。一時間ほど前にはちょうど天頂に月が輝いておりました。
…涼しくなってくるだろうか。
近年十月になっても台風が上陸するようになってきているから、それはただの希望でしかないことは分かっているのだけれど、それでもコロナ感染が少しでもうちばになっていくといいと切に願う、心から祈ります。

投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

新しいレスの受付は終了しました

前スレ・次スレ

関連する話題

小説・エッセイ掲示板のスレ一覧

ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。

  • レス新
  • 人気
  • スレ新
  • レス少
新しくスレを作成する

サブ掲示板

注目の話題

カテゴリ一覧