上海リリ
戦前の中国の上海を舞台にした物語です。
蠱惑的な雰囲気から「魔都」と呼ばれた時代の上海を生きた、
一人の少女の姿を描きます。
人名など一部分かりづらい箇所もありますが、
ご容赦下さい。
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「はい。」
私は頭だけの白い馬を指示された場所に置いた。
雑魚の兵より馬の方がどうやら変則的な動きで進むらしい。
洋人の馬も、やっぱり中国の馬とは違う姿をしているのかな?
「どこから来た?」
「え?」
支配人の目は盤上の駒ではなく、私に、かけたばかりのパーマ頭にお下がりの緩い旗袍(チャイナドレス)を着込んだ田舎娘に注がれていた。
「君の故郷だよ。」
「あ、蘇州(そしゅう)です。」
語尾に行くにしたがって声が小さくなる。
生粋の上海娘でもなければ、蘇州美人にも相応しくない自分が恥ずかしい。
「ははは、」
支配人は始めて声を上げて笑った。
「上海は蘇州娘だらけだ。」
乾いた笑い声に混じって、黒の馬(ナイト)が盤上を移る微かな音が響いた。
「あの、」
一般には、そこまで失礼な質問には当たらないはずだと頭の中で念を押しつつ、私は切り出す。
「支配人は、どちらの方(かた)なんですか?」
「達哥(ダー兄さん)でいい。」
支配人、もとい達哥は首を僅かに振ると、乾いた笑い声の調子で答えた。
「俺は、上海(シャンハイ)以外、知らない。」
今はもういない誰かを秘かに呼ぶ様に「上海」と口にすると、達哥の指の長い、華奢な手が花瓶に伸びて、飾られている薔薇の花束に触れた。
また、群れに馴染まない花を見付けたのだろうか。
俺らは桃源郷から来たんだな。
小明(シャオミン)の言葉と蒼白い寂しげな笑顔が急に蘇った。
だが、私にとっての蘇州は、もう戻りたくもない土地だ。
他人の目で見たって、あそこは上海より遥かに後れた田舎町に過ぎない。
小明や阿建(アジェン)のいた杭州(こうしゅう)にしたって、似た様なものだろう。
そんな事を思いながら、私は国際象棋(チェス)の盤を挟んで向かい合う達哥の姿を改めて眺めた。
やや狭い額を全て出して髪をきっちり撫で付けて固めた小さな頭。
偉哥(ウェイ兄さん)の様に派手ではないが、しかし、質としてはもっと上等の生地で出来た洋服。
純粋な体形としては、さっき遠目に立ち姿を見た限りでは、小明と同じ位の背丈だから、
大人の男としては、中背よりちょっと小柄な部類に入る。
今、目の前に座している姿から察すると、肩幅の狭い、肉の薄い、中国男としてもむしろ貧弱な体つきだ。
だが、蝶蛾の触角を思わせる細い眉、氷柱に似た細く鋭い一重瞼の目、肉薄の細い鼻、白く整った歯を奥に蔵す小さな薄い唇、そして、尖った顎。
これを「男前」と呼べるかは別として、どこを取っても隙のない顔をしていた。
これが、上海の男だ。
「蘇州では何を?」
達哥(ダー兄さん)は言った。
この人の問い掛けは、いつも、まだ知らないことを尋ねるのではなく、あらかじめ知っていることを確かめる様に響く。
「女中をしておりました。」
周家の奥様が仏頂面をしている時に「お茶が入りました」と告げる声で、私は答えていた。
奥様がご機嫌斜めの時に用聞きへ伺って当たられるのは、女中仲間ではいつも私か母さんの役目だった。
「お役人の家か?」
達哥の声は、何かまずいことをやらかしたのか、とからかっている様に聞こえた。
「はい。」
嘘を吐いても見抜かれる気がするので、素直に頷く。
「どうして、上海へ?」
「上海へは…。」
私はその限りでは嘘にならない答えを探す。
「職を…探しに。」
「だから、どうしてさ。」
達哥は目の無い笑顔をこちらに向けている。
「蘇州で女中の職をしていた筈なのに。」
「それは…暇を出されましたから。」
私は盤上に目を落とす。
氷柱じみたあの目に刺されるのが恐ろしい。
「最初からそう答えればいいだろう?」
疑問より、穏便な指示の口調だ。
「はい。」
確かにその通りだ。
突っ込まれないわけないのに、どうしてはぐらかそうとして、
逆にそこを強調する愚を犯してしまったんだろう。
>> 205
「田舎の役人なら、今は家が傾く一方だからな。」
達哥(ダー兄さん)は氷柱の目を開いたまま、薄い唇を歪めて言い放つと、再び国際象棋(チェス)の盤を見下ろした。
「奴らに残っているのは、馬鹿でかいだけで柱の腐り切った霊廟と、錆び付いて何の役にも立たない誇りだけ。」
陣地も駒も白と黒で二分された世界を見据える冷たい目の光に、一瞬、熱い何かが交ざった。
「この国がこんな体たらくになったのも、元はと言えば、そいつらのせいさ。」
そこで、声が急に密やかになった。
「潰される前に抜け出せて、良かったじゃないか。」
「はい。」
私はパーマが馴染んで前髪の反った違和感が落ち着いてきた頭を従順に頷けた。
これ以上、この人の言葉に付け足す必要もなければ、差し引くべき事柄もない。
そんな気がした。
「練習場は、地下だ。」
達哥(ダー兄さん)はポケットからまた銀の打火機(ライター)を取り出すと、煙草に火を点けた。
「薇薇(ウェイウェイ)と莎莎(シャシャ)がそろそろ来てる筈だから、まずはその二人に踊りを教えてもらえ。」
煙の向こうの眼光からも、声の調子からも、一瞬の熱が消え、元の冷え固まった鋭さだけが伝わってくる。
「はい。」
理髪店で出くわした薇薇の鳥の巣頭を思い出して、私は一瞬だけ吹き出したくなる。
「後は他の姐さんたちが踊るのを見て自分でどんどん覚えろ。」
「はい。」
あんな氷か墓石みたいなツルツルの床の上で、一体どんな踊りを踊るんだろう。
「教えてもらうつもりでいては駄目だ。大事な事は盗んででも自分のものにしろ。」
「はい。」
「決して、客の財布をスれとか、姐さんの耳飾りを猫ババしろとかいう意味じゃないぞ。」
達哥の薄い口の端が歪んで笑った。
「はい。」
「まあ、貴重な物を貸しておいて、後から返せと大騒ぎする方も馬鹿だけどな。」
達哥の細い指が煙草の先を灰皿に押し付けてゆっくり潰した。
「いっそくれてやる位の気持ちになれないなら、最初からそんな値打ち物を人に貸しては駄目さ。」
昨夜、蓉姐(ロンジエ)がこの人と電を吐いていた姿が思い出された。
むろん、達哥の耳に姐さんの罵声が届いた筈はないし、姐さんにしてもこの人には聞こえないと十分に見越した上で嘯いたに違いない。
ただ、達哥の皮肉な笑いを眺めていると、蓉姐のそんな悪態も、その傍で棒立ちになっていた綿入れ姿の私も、全部お見通しで泳がされていただけの様に思えた。
「お前も、そう思うだろ?」
「は、はい…。」
私は口ごもる。
達哥の立場なら蓉姐を「馬鹿」と呼んでも許される。
それに、普通に考えれば、蓉姐よりもこの人の言葉に従うのが理にかなっている筈だ。
でも、そうだとしても、蓉姐を馬鹿扱いする話に私が頷くのは何だかいじましく思える。
姐さんは見ず知らずの私を家に泊め、服を譲り、靴も買ってくれた。
そりゃ、一晩かけてあの人の旗袍(チャイナドレス)を直しはした。
だが、蘇州の周家で働いていた頃に、私と母さんが何晩もかかって奥様の衣装を仕上げても、お古をいただいた事は一度も無い。
そもそも、私たちが何年お仕えしようが、奥様と同じ絹の服を持つ事は有り得なかった。
「あいつはその場の気まぐれで動くからな。」
達哥はそう言うと、マスの中央から少しずれた位置にたっていた白の后(クイーン)を置き直した。
「そうかもしれませんけど…。」
言葉の継ぎ穂が見当たらない。
もしかすると、この服も靴も散髪代も、「返せ」と後で姐さんから迫られるのだろうか?
「姚莉華(ヤオ・リーホア)。」
達哥はまるで私に向かって教え込む様にゆっくりと発音した。
「君は、幾つなんだい?」
その問いは、まだ子供だろうと諭している様にも、もう大人だろうとたしなめている様にも聞こえた。
「十(じゅう)…。」
五、八、五、八…。
脇の下が、氷柱でなぞられた様に冷たく濡れた。
「十八歳です。」
「ははは。」
達哥は乾いた声を立てて笑った。
目の無い目尻に刻まれた、亀裂じみた皺に今更ながら気付いた。
「田舎の亭主とはちゃんと別れて来たのかい?」
そのバッグにはまな板まで切れる包丁でも入ってるのかい?
本当は丸腰だと知りながら、敢えてからかう様な口調だ。
母さんは今年三十二歳だった。
十八歳なら、亭主どころか子供がいてもおかしくないのだ。
「人の女房をここで働かせるのはさすがにまずいんでな。」
「私はそんな…。」
首を横に振ると、半歩遅れた調子で前髪が上下に揺れるのを感じた。
「亭主なんて、いません。」
「いたことはあるのか?」
ないだろう、と年を押されている気がした。
「ありません。」
今度は首を振らずに答える。
やたらと頭を振ると何だか子供っぽい上に、反抗していると思われそうな気がした。
「正式に嫁いだんじゃなくても構わないんだが、」
達哥はふっと笑いを消すと、静かに続けた。
「つまり、お前は男を知らないのか?」
「え…。」
達哥の顔も口調もあまりにも平静だったので、私は一瞬、言われた意味が分からなかった。
「男をって…。」
体中の血が一気に顔に集まった気がした。
「言わなくていい、もう分かったから。」
達哥は煙を仰ぐ様に手を静かに振った。
「働く気さえあれば、生娘(きむすめ)でも問題はない。」
達哥の三白眼が、私の旗袍(チャイナドレス)の、薄べったい胸の奥や膓(はらわた)の底まで刺し貫く様に見据えた。
「稼ぐ気持ちさえ、確かならばね。」
「さっき、『小明(シャオミン)』と。」
達哥(ダー兄さん)は、目の無い、穏やかな方の笑い方をした。
だが、私はドギマギする。
ここで、今になって、小明の名を聞くとは思わなかった。
「似てるか?」
支配人は三白眼を見開くと、肩をすくめた。
上等なスーツの肩から、黄色い滑らかな手の指先まで、仕立屋で念入りに作った様に見える。
この人は、少なくとも十年は水汲みや台所仕事とは縁の無い境遇に違いない。
「いいえ。」
私は首を振る。
今となっては、どうして小明とこの人を間違えたのか不思議だった。
「二人ともチビでガリだから、」
達哥は他人事の様に続けた。
「もう一人のデブや小偉(シャオウェイ)よりは似てるかもしれないな。」
小偉?
「もう一人のデブ」が阿建(アジェン)を指しているのは聞いた瞬間分かったが、こちらには覚えがない。
「小偉(シャオウェイ)の奴も、広東から出てきたばかりの頃は、ガリガリの『小黒(チビクロ)』だったんだが、」
お前も知ってるだろ、という風に達哥は笑って頷く。
「あいつは柄ばかりでかくなり過ぎたな。」
「…そうですか。」
この人にとっては、偉哥(ウェイ兄さん)も「小偉」なのだ。
「どの道、全員、違う奴さ。」
達哥の目はいつの間にか盤上の黒の駒に注がれていた。
「男の顔と名前は正しく覚えろ。」
細い指が黒光りする駒を一つ一つ摘まみ上げていく。
「似てる奴ほど区別して叩き込むんだ。」
達哥の左の掌に三つの黒い駒が並んでいる。
「これは?」
達哥は三つの中で一番小さな駒を指した。
「兵(ポーン)。」
たくさんいる雑魚の駒だ。
「これは?」
真ん中に置かれた、首だけの黒い馬。
「馬(ナイト)。」
正面から眺めると、どこを見ているのか分からない目が不気味な駒だ。
「こいつが一番、見たままだな。」
達哥は笑って、馬の鬣(たてがみ)の辺りをつついた。
「それじゃ、これは?」
達哥の指が三つ目の駒を示した。
「ええと…。」
私は言葉に詰まった。
まず、蓉姐(ロンジエ)の茶器とは程遠い形だから、「后(クイーン)」ではない。
「王(キング)」は頭に十字を挿してる駒だから、それとも違う。
「象(ビショップ)」は、確か帽子みたいな形の筈だし…。
「塔(ルーク)。」
達哥はカチャリと卓子(テーブル)の上に三つ目の駒を置いた。
「忘れてたのなら、今すぐ覚えろ。」
「はい。」
私は頷いた。
もう、そんな瞬間でしかパーマした前髪が気にならなかった。
「塔(ルーク)ですね。」
どうして、「兵(ポーン)」や「馬(ナイト)」や「象(ビショップ)」の他に、生き物じゃない駒が混ざってるんだろう。
「こいつを上手く使えば、大方の試合には勝てる様になるさ。」
兵、馬、そして塔の順に、三つの黒い駒は盤の上のあるべき位置に戻された。
「それは、まだもっと先の話だ。」
ジリリ、ジリリリリリリリ…。
ノコギリを倍の速さで挽く様な音が部屋を走った。
「はい。」
音が途切れたと思うと、達哥はもう黒光りする受話器を耳に当てていた。
支配人の電話は、蓉姐のそれより鋭く速く鳴る。
「私です。」
達哥は口許だけ恭しく笑うと、受話器を持たない方の掌を私にかざした。
私はもう出ていかなくてはいけない。
「お陰様で。さっき彪哥(ビャオ兄貴)から…」
絨毯貼りの部屋からツルツルした床の廊下に出て扉を閉めると、辺りは真っ暗になった。
私はバッグを胸に抱き締める。
練習場は、確か地下にあると達哥は言っていた。
早足で木に登るより、ゆっくりでも足を踏み外さずに木から降りる方が難しい。
ハイヒールで階段を駆け上るより、忍び足でも転ばずに降りる方が、ずっとこつがいる。
ましてや、暗がりとなると。
これ、あと何段降りればいいの?
そんな見当さえつかないまま、一段降りる度にその分だけ埃っぽくて蒸し暑くなる。
バタン!
振動と同時に足許から眩しい光を浴びる。
「順番なんて、関係ないでしょう。」
光を背にした女の影が、後ろを半ば振り返った格好で言った。
「私とあの人では、歌う曲からして違うんですからね。」
ちょっとわざとらしい位の巻き舌でそう語ると、
菱形のイヤリングの金縁が女の耳元でキラリと光って揺れた。
「別に私がでしゃばったわけじゃありません。」
凍った西瓜(すいか)の様にひやりと甘い声だが、飽くまでおっとりした口調で女は続ける。
「支配人がおっしゃったことですから。」
何だろう、この人?
私はまじまじと女を見詰めた。
蓉姐(ロンジエ)も大柄だが、こちらも劣らぬ長身だ。
逆光のせいで、菱形のイヤリングを付けた顔立ちはよく分からない。
だが、卵形の輪郭は難が無く、金縁のイヤリングを下げた小さな耳から微かに尖った顎の辺りは、いかにも品良く艶な感じがする。
ただ、前髪を僅かに縮れさせている以外は、
周家の奥様と同じ様に真っ直ぐな長い髪を後ろで束ねて結い上げており、ここで目にすると、妙に古めかしく見えた。
「あなたたちにも、分かるでしょう?」
まるで誇るかの様に、北方特有の巻き舌を交えて女は告げる。
鈍く輝く黄土色の旗袍(チャイナドレス)の肩は広く、
剥き出しの長い腕は固めた雪の様に、白いがどこか筋肉質な感じに太かった。
「だから、別に気にしなくていいのよ。」
女はゆっくりと首を左右に振る。
金縁の菱形が緑の残像を引きながら幽かな音と共に揺れた。
無数の菱形の角に目を刺される気がして、私は知らず知らず顔をしかめていた。
あれは、本物の金だろうか?
「そんな安物を買い戻すくらい、私にはどうってことないわ。」
ここに来て、これまで鷹揚だった女の声が、急に菱形の角の様に鋭く変わった。
いや、「変わった」のではなく、そもそもこっちがこの人の本来の声なんだろう。
階段の途中で足止めを食ったまま、私は何となくそう感じた。
蓉姐(ロンジエ)の地声が本当は酷く低いのと、多分同じ理屈だ。
「エメラルドと言ったって、それはピンキリですもの。」
女の声が棘(とげ)の上にまたゆったりと鷹揚な衣を纏い出した。
「あの人の子供騙しを、真に受けちゃいけません。」
「じゃ、私は上で打ち合わせがありますから。」
女の言葉を潮に視界が急に暗くなり出した。
「閉めないで!」
私は思わず叫んだ。
また眩しくなった。
「まあ、」
菱形のイヤリングを下げた女が、端の切れ上がった黒目勝ちの目をこちらに向けていた。
「そんな所に人がいたなんて。」
ゆったりした口調で告げながら、目は私の前髪から爪先まで素早くなぞると、
柳眉の片方だけをちょっと逆立ててすぐに戻した。
返す言葉が見つからないまま、私が階段の途中で立ち止まっていると、
切れ上がった眼差しと金縁の菱形と黄土色の旗袍(チャイナドレス)の肩がどんどん迫ってきた。
突き刺される!
思わずそんな錯覚が頭を掠めて、階段の隅に避ける。
「達哥(ダー兄さん)も、随分甘くなったわ。」
すれ違いざま、菊に似た芳香の中から、糖衣に角を包んだ呟きが飛んできた。
コツコツと規則正しく釘を打つ様な女の足音が遠ざかっていく。
振り向くと、暗がりの中で、まるで黒いハイヒールの踵が、一番上の段に着地する所だった。
靴の踵があまりにも細く長いので、踵というより、まるで靴に仕込んだ五寸釘に見えた。
黄土色の旗袍(チャイナドレス)の裾がチラリと閃いて、
やや太めの白い脚を覗かせたかと思うと、女の姿は角の向こうに消える。
菊花に似た、冷たい香りが蒸し暑い埃っぽさの中に薄れていく。
銅鑼(どら)や琵琶(びわ)に似た洋人の楽器の音が、上の方から微かに聴こえてきた。
「あら、莉莉(リリ)じゃない」
下から素頓狂な声が飛んできた。
「練習しましょ」
薇薇(ウェイウェイ)が鳥の巣頭を揺らして笑っていた。
「あたし、これでも踊りは姐さんたちに負けてないのよ」
薇薇(ウェイウェイ)は太ったザクロ色の旗袍(チャイナドレス)の胸をパンと叩いた。
「達哥(ダー兄さん)も」
私も階段の残りを降りながら釣り込まれて笑った。
「踊りは薇薇(ウェイウェイ)に教えてもらえって」
「やっぱり、そうでしょ!」
薇薇は口紅を塗り過ぎてテカテカになった口を大きく開けて笑った。
>> 225
「莎莎(シャシャ)!」
階下の部屋に入ると、薇薇(ウェイウェイ)は奥に向かって呼び掛けた。
「新しく入る子よ」
ザクロ色の旗袍(チャイナドレス)を纏った薇薇(ウェイウェイ)の肩越しに、
薄い水色の影が目に入る。
「初めまして」
私は笑顔を作ると、薇薇の向こう側に立つ相手を覗いた。
「莉莉(リリ)です」
あ…。
声には出さないが、笑い掛けた唇が引き吊るのを感じる。
「あたしは」
相手も蒼白い顔にぎこちない笑いを浮かべて頷いた。
「莎莎(シャシャ)っていうの」
まるで聞かれるのを恐る様に、早口の小声で名乗った。
互いに口には出さないが、私と莎莎は一見して顔も体つきも良く似ていた。
「どこから来たの?」
莎莎(シャシャ)は俯いたまま、ぽつりと言った。
肉の薄い、赤みのない耳朶(みみたぶ)から下がった青碧の珠が微かに揺れる。
透き通った淡い色合いの珠は、蒼白い横顔を品良く見せてはいたが、明らかに偽石だ。
耳朶が平べったいのは金運に乏しい相。
昔、母さんにそう聞いた気がする。
「蘇州です」
私の耳朶は母さんやこの子と違ってぷっくりしているけれど、
バッグの中には花束を買うだけの持ち合わせもない。
>> 227
「あんたも蘇州(そしゅう)なんだ」
莎莎(シャシャ)は目を落としたまま、青碧の耳飾りを微かに揺らして笑った。
俯いた顔の下の、水色の旗袍の胸は膨らんでおり、お尻もちょうど良い格好に肉付いていた。
上から下まで平たい体つきの私より、この子の方が、多分、「女」としては上等な部類だろう。
そう思って、改めて莎莎の横顔を眺めると、私より一へら肉を削いだ様な頬といい、
紅を大人しく引いた口許といい、二つ三つ年上に思えてきた。
「あたしも同じ」
言わなくても分かるでしょ、という風に莎莎は目を伏せたまま、呟く様に付け加える。
私が苦笑いしたら、人目には、これより頼りなく映るんだろうな。
「あたしは蕪湖(ぶこ)!」
薇薇(ウェイウェイ)が私たちに近付いて来て、さえずり声を出した。
「蘇州よりもっと遠いけど、いいとこよ」
蕪湖に行ったことはないけど、はち切れる寸前の石榴(ざくろ)みたいな薇薇がそう言うと、本当にいい所に思える。
「幾(いく)つなの?」
いつの間にか顔を上げていた莎莎(シャシャ)が尋ねる。
身の丈に合わない橙(だいだい)色の旗袍(チャイナドレス)から、
分不相応にきらびやかなビーズのバッグに目を留めると、
莎莎の瞳が訝しげに私の顔に戻った。
どうして、あんたがそんな物を持ってるの?
その目は明らかにそう告げていた。
「十……八歳です」
今度は私が目を逸らす番だった。
もう、この嘘には吐き慣れた筈だったのに。
「今は、蓉姐(ロンジエ)のお宅でお世話に……」
莎莎は、固い面持ちでこちらを見詰めている。
「じゃ、皆、同い年だね!」
薇薇(ウェイウェイ)はドングリ眼にいたずらっぽい笑いを浮かべて私たち二人を見やると、
少し声を落として付け加えた。
「練習しよ」
「だから、手の向きは逆だったら!」
蓄音機から流れてくる洋人の男の甘い歌声と胡弓(こきゅう)に似た調べを、薇薇(ウェイウェイ)の甲高い声が切り裂いた。
「あ、ごめん」
私は慌てて隣から正面の鏡に目を戻す。
確かに薇薇と莎莎に対し、私だけが、手だけでなく、全体に妙な体勢を取っていた。
踊りの上手、下手って、こんな風に動きを止めた姿でも、一目で分かっちゃうんだな。
「それで、ここで一回右回りにターン」
鏡に向かっていると左右がどうもこんがらがってしまうので、薇薇の言葉にそのまま従うより、
鏡の中の自分が他の二人と同じ向きに回る様に、体を捻ってみる。
ちょっと回り過ぎたかな?
「曲がりきった所で、左肩を下げて……」
あ、また、逆の肩を下げちゃった。
薇薇と莎莎の顔がまた渋くなる前に、鏡の中の私は二人と同じ向きに体を傾ける。
「で、右足を半歩下げる」
半歩?
戸惑いながら、一歩下がろうとした所で、私はスッテンと転んだ。
「あいたた……」
脱げた靴を拾い上げる。
どうやら、下がった地点で、こいつの踵が床の微妙な凹みに嵌まったらしい。
「まだまだ、続くよ」
鏡の中の薇薇が、石榴色の旗袍の背を見せたかと思うと、また正面に戻って告げた。
>> 230
「ちょっと、休憩しようか」
薇薇(ウェイウェイ)はぷっくりした頬を手の甲で拭うと、鏡越しに声を掛けた。
太っているせいか汗っかきらしく、石榴色の旗袍(チャイナドレス)の脇下がうっすら濡れて、そこだけ濃い紅(あか)になっている。
「そうね」
私より先に莎莎(シャシャ)が応じる。
こちらは全く汗の気配が無い。
どころか、あれだけ激しい動きをした後なのに薄青の旗袍にさほど乱れがないことからして、随分、踊り慣れているみたいだ。
「ちょっと、疲れたね」
本当はちょっとどころではなかったが、私はそう言って、自分の旗袍の裾を直す。
と、淡い橙色の裾の端っこがちょっぴり黒ずんでいるのが目に入った。
ハイヒールだと踊りはもちろん、裾を汚さずに歩くにも要領がいるらしい。
それにしても、この色だと埃や汚れが目立ちそうだ。
他の人の目には、大丈夫かな?
「菖姐(チャン姐さん)、こんにちは」
薇薇の声に目を上げると、鏡の中では、焦茶(こげちゃ)の地に白い花の模様が入った旗袍が新たに戸口に現れていた。
「こんにちは」
私は振り向いて、直接、声を掛ける。
「だあれ?」
焦茶色の旗袍の女はこちらには目もくれずに、鏡に向かってつかつかと歩み寄っていく。
壁一面に張られた鏡の片隅で立ち止まると、女はふっと顔を横向き加減にして、流し目じみた表情を作って見せた。
「誰って訊いてんのよ」
流し目が急に曇った風に細まる。
「あんた、新入りでしょ」
―馬鹿じゃないの。
―気が利かないわね。
がさついた言い捨ての口調が言外にそう伝えている。
「莉莉(リリ)……です」
「莉莉?」
そこで、相手は初めて振り向いた。
パーマをかけてはいるが、艶のない、パサついた、量の少ない髪。
一重瞼の細い目、しゃくれて尖った顎。
色は白い方だが、乾いた感じの肌をしている。
年の頃は、二十歳を過ぎたくらいだろうか。
どことなく、さっき擦れ違った菱姐(リン姐さん)に似ているが、この人の方が年は若い筈なのに、妙に崩れた感じがした。
「それ、お母さんのお下がり?」
私の旋毛から爪先まで眺め回すと、女はしゃくれた顎をツンと反らせた。
「田舎臭いわ」
嘲る時に細い目を更に細くするのが、この人の癖らしい。
「蓉姐(ロンジエ)から戴きました」
私は女と目を合わせると、笑顔で告げた。
私はともかく、蓉姐はあんたよりずっと綺麗だし、垢抜けてもいる。
そう言ってやりたかった。
「この子、蓉姐の所でお世話になってるそうです」
薇薇(ウェイウェイ)があたふたと私と菖姐(チャン姐さん)の間に入る。
「行きましょ、急がないと、屋台が売り切れちゃうわ」
薇薇と莎莎(シャシャ)に引っ張られて、私は練習部屋を後にする。
菖姐は蛇の様な目でそんな私を眺めていたが、入り口の扉が閉まる瞬間、この女がペッと床に唾を吐き捨てるのを私は見逃さなかった。
「菖姐(チャン姐さん)はああやって絡んでくるから、流した方がいいわ」
階段を上りながら、薇薇が私に耳打ちする。
「あの人は僻みっぽいのよ」
莎莎も苦笑いの口調で呟いた。
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ロシア敗戦濃厚劇場です✨🙋。 ロシアは軍服、防弾チョッキは支給す…(檄❗王道劇場です)
57レス 1429HIT 檄❗王道劇場です -
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今を生きる意味
迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。 野原祐也に会うことができた…(旅人さん0)
78レス 537HIT 旅人さん
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赤ちゃんの名前の呼び方または漢字に悩んでいて 私も旦那も気に入っている名前で女の子で らなん(楽…
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