上海リリ
戦前の中国の上海を舞台にした物語です。
蠱惑的な雰囲気から「魔都」と呼ばれた時代の上海を生きた、
一人の少女の姿を描きます。
人名など一部分かりづらい箇所もありますが、
ご容赦下さい。
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「知ってるなら、汚れた手で触らないで。」
鼻血の付いた指で白絹の服に手を伸ばすなんて!
私は籐椅子に小走りで近寄った。
小明は遠慮がちに脇によける。
こいつらのいる部屋に置きっぱなしでは不安だから、やっぱり、手直し済みの服は寝室に移動させよう。
一旦、衣装のうず高い山を持ち上げようとして、また戻す。
まずは、寝室の扉を開けてからだ。
「何か手伝うかい?」
チラと見やると、小明の手はそこまで汚れてはいない。
「ありがとう、でも大丈夫。」
「小明、火、貸してくれよ。」
阿建の暢気な声は無視して、小分けにした衣装の第一群を寝室に運び込んだところで、急に小明の声が飛んだ。
「お前、旗袍の上に座ってるぞ!」
応接間に飛んで戻ると、阿建が薄橙色の旗袍を摘まみ上げていた。
「ここにも一枚あったけど。」
「これ、もらった服なのに!」
私は服を引ったくって阿建が摘まんでいた辺りを叩いて払う。
生地に目を近付けて、汚れが残っていないか確かめる。
「だったら、こんなとこに置いとくな。」
阿建はそう言い捨てると、小明の手からマッチ箱を引ったくって、自分の煙草に火を点けた。
「長椅子の上にそんなのが一枚きり広げてあったって、カバーか膝掛けかと思うよな?」
阿建は紫煙を吐き出すと、小明に念を押す。
小明はうんともすんとも言わずに、自分も胸ポケットから煙草を取り出した。
私の服と分かった途端、「そんなの」か。
忌々しい気持ちを抑えて金魚色の旗袍を畳む。
しかし、そこではたと困る。
私の物は、一体どこに仕舞えばいいんだろう?
取り敢えずは隣の寝室に持って行く。
この服にあいつらの煙草の匂いが染み付くのは我慢がならない。
窓際の写真が載った棚の上に、もう一度小さく畳んで置いておく。
日差しを浴びて、橙色の旗袍は水中の鱗の様に柔らかに光る。
蓉姐が戻ってきたら、私の持ち物はどこに置くべきか聞こう。
これで全部だ。
小分けにした旗袍の最後の一群を寝室に運び込み、再び応接間に足を踏み入れる。
阿建と小明は二人でフカフカした長椅子に腰掛け、思い思いの方向に目を向けたまま、黙って煙草をくゆらせていた。
兄貴分がいなければ、こいつらもやる事がないのだ。
そんなことを思いながら、私は寝室の扉を固く閉めた。
さて、と。
次は何をすればいいんだろう?
卓上の隅で丸まっている白い卓子掛けが目に入る。
そうだ、あれを繕う仕事がまだ残っていたんだった。
卓子に近付いていくと、阿建と小明は我に帰った様にこちらを向く。
阿建がジロリとこちらを睨んで、卓上の灰皿に煙草を擦り付けた。
あんたたちに、用は無い。
私は何も言わずに卓子掛けとお針道具を取り上げる。
卓上の灰皿の傍らに、擦れて形の崩れた小さなマッチ箱が置かれているのが目に入った。
小明はいつの間にかまた目をあらぬ方に向けて、白い煙を少しずつ吐き出している。
まだ子供で、貧乏な癖して、どうして煙草なんか吸ってるの。
空になった籐椅子を卓子に引き寄せて腰掛けると、私は卓上にお針道具を開き、卓子掛けの巾を膝の上に広げた。
※作者よりお知らせ※
固有名詞や当時の風習に関する註釈・説明は、感想スレの方に書いておりますので、疑問な点があればそちらをご参照下さい。
なお、質問等もそちらで受け付けておりますので、皆様の積極的なご利用をお待ちしています。
※追加※
以下のURLが感想スレッドになります。
http://mikle.jp/thread/1433544/
むろん、質問以外の感想・意見もお待ちしております。
まず、桃色の芙蓉の花びらにまだ爪の先程に残っている黒い焦げ目を、新しい白の花びらで完全に覆い隠す。
その後は、引き続き白糸で新しい芙蓉を縫い取ろう。
そこまで目論み卓上のお針道具に手を伸ばした瞬間、私は息を飲んだ。
肝心の白の糸が、もう殆ど残ってない!
昨日の旗袍の修繕で大方使い果たしてしまったのだ。
どうすればいいの?
新しい花びらというより、そこだけ桃色が褪せてしまった様にしか見えない白糸の繍(ぬいとり)と、花びらの端に出来た虫食いみたいな焦げ目の残りを、私は眺めた。
元から桃色の糸は切らしている上に、代わりの白糸も尽きてしまった。
膝の上にやりかけの図面を広げたまま、頭を抱える。
今度は、どうやってこの蝕みを取り繕えばいいんだろう。
グゥゥゥゥゥ…
地鳴りに似た音が辺りに響いて来て、私は思わず目を上げる。
阿建が煙草を持たない手を腹に当てている。
私は吹き出すのを堪えた。その一方で、急速に空腹の感覚が蘇ってきて、腹に力を籠める。
今、お腹が鳴ったのが私じゃなくて良かった。
「おい、」
前から急に阿建の声が飛んだ。
「お前、何やってんの?」
まるで、物盗りを捕らえたお巡りの口調だ。
「ここが焦げてるから繕ってるの。」
私が卓子掛けを掲げて刺繍した部分を指さすより先に、阿建が言い放つ。
「さっさと茶ぐらい出せ。」
「は?」
私は自分でも嫌な感じに聞こえる声を阿建に返した。
こいつ、留守宅に上がり込んで、何言ってんだ?
「は、じゃねえよ。気の利かねえ女だな。」
阿建は吸い殻をポンと灰皿に放ると、両手を頭の後ろで組んで長椅子の背に寄りかかった。
小明が肘で突いたが、阿建は素知らぬ顔でどっかり凭れたまま、顔を仰向ける。
「茉茉(モモ)だか莉莉(リリ)だか知らねえけどさ、おもてなし出来ねえ奴はすぐお払い箱だぞ。」
阿建は天井に向かって言い放つと、ニヤリと笑った。
小明が何だか赤い顔で咳払いする。
こいつが「おもてなし」と言うと、妙にイヤらしく聞こえる。
「それとも、あれか?」
阿建は毛虫眉をピクリと上げて、ギョロリと横目をこちらに向けた。
「ド田舎から出てきて、お茶の淹れ方も知らねえのか?」
「分かりました。」
出来る限り、感情を込めない風に声を調節して答えると、私は卓上掛けを畳んで立ち上がる。
今更、自分が田舎者だと認めたくない意地なんてない。
だが、とにかく、この場を離れたかった。
「お茶、お二人分ね?」
籐椅子を卓子の方に押しながら確かめると、小明はギクリとした顔付きになった。
「人数分、お持ちします。」
早足で廊下に出ると、阿建のガラガラ声が追って飛んで来た。
「龍井茶(ロンジンチャ)お願いね、西湖龍井(シーフーロンジン)だぞ!間違えんなよ!」
お茶葉って、一体どこに置いてあるんだろ?
薄暗い台所で、私は餌を漁る鼠の様に、先程探ったばかりの食器棚を一段一段確かめる。
湯飲み茶碗や急須はあるのに、肝心の茶葉の姿は見えない。
一番下の棚を開けて酒蔵臭い瓶の間を探っても、目に入るのはやはり“SCOTCH”“BEER”“RUM”…
金釘みたいな横文字が顔を出すばかりで、「西湖龍井」や「鉄観音」の様な代物にはお目にかかれない。
「どこ?」
頭を抱えてペタンと尻を着いた所で、急に辺りがパッと明るくなった。
「台所の電灯はここで点けるんだよ。」
小明が立っていた。
「消す時もここ。」
カチリと音がして、また部屋は真っ暗になった。
「で、また点ける。」
カチリと音がして、台所は再び日が差した様に明るくなった。
「ここ、色々置いてあるから、灯り点けないと危ないだろ?」
小明は笑って言った。この人の笑い顔には嘲りや蔑みがない代わりに、何だか寂しげな感じがある。
「どうも、ありがとう。」
「西湖龍井の茶葉ってどこに置いてあるの?」
私は早速本題に入る。
「俺らにそんな高いお茶は要らないさ。」
小明は苦笑いして首を振った。
灯りの下で、奥二重の切れ長い目が瞬く。
「そのくらい分かるだろ?」
「でも、蓉姐が帰ってきたら、お茶くらいお出ししないといけないでしょ。」
あの人の下で働いているのだから、留守の間にも台所を把握しておかなければいけない。
「お茶葉はそこの流しの下だよ。」
小明は言いながら、私の後ろにある流しに近付いていって、その下の棚を開けた。
「匂いが移るから、酒とは別に置いてあるんだ。」
開いた棚の奥からしっとりした香りが馥郁と漂い、並んだ金属の茶壺が鈍い光を返す。
「蓉姐がよく飲むのは西湖龍井じゃなくて、茉莉花茶かインドの紅茶の方だ。」
「インド?」
「洋人がよく飲むやつさ。」
小明は棚から他の茶壺とは毛色の違う、金属の缶を取り出して見せた。
「人の血みたいに赤いお茶なんだ。」
“ASSAM”とまたも金釘風の洋人の文字を目にしただけで、本当に人の生き血を搾って作った茶に思えてきて、背筋が寒くなる。
「偉哥がいらした時はいつも一緒にこれを飲むの?」
昨夜、隣の部屋から切々に聞こえてきた声を何故か急に思い出して、頭に血が上るのを感じた。
“ASSAM”という綴りまでが、読み方も意味も分からないまま、今度は媚薬じみた風に映ってきた。
「いや、それはまちまちだよ。」
小明は私の赤い顔をどの様な意味に取ったのか、やや細めた目の奥から私を見据えて、少し突き放す口調になった。
「兄貴は全然構わないけど、姐さんがその時の気分次第で『紅茶が欲しい』とか『茉莉花茶にして』とか決めるから。」
「あんたがお茶淹れるの?」
思わず聞き返してから、相手の顔色に愚問だと悟る。
「下っ端の俺らが姐さんを台所に立たすわけにはいかないじゃないか。」
小明はそう言うと、俯いて唇を噛んだ。
「それは、そうだよね。」
私は慌てて言葉を探す。
「でも、これからは、あたしが台所仕事を全部やることになるから大丈夫よ。」
小明は睫毛を伏せたままだ。
「蓉姐もきっとその為にあたしを家に置くことにしたんだわ。」
切れの長い目が漸くこちらに向けられた。
「姐さんだって、いい男の人をいつまでも台所に立たすわけにいかないもの。」
「いい男の人」の「人」に力を込めて、私は続けた。
「ここに来る前は、田舎で女中をしていたの。」
相手は黙ってこちらを見詰めている。
「蓉姐にその話をしたら、『うちに来てもいい』って。」
小明は例の寂しい笑顔に戻ると、流しの下の扉をまた開けて今度は水壷(やかん)を出した。
「姐さんはお茶の淹れ方にはかなりうるさいぞ。」
流しにも風呂場と同じ銀の管が付いていて、小明が取っ手を捻ると口から勢い良く水が出て水壷の底を打った。
「竈(かまど)はどこ?」
私は台所を見回して尋ねる。
水は管から出すとして、火はどこで使うんだろう?
「コンロを使うんだ。」
「コンロ?」
キョトンとする私をよそに、小明は水を止めて満たした水壷に蓋をする。
と、今度は隣の台に向かった。
隣の台は全体に平らな代わりに、鉄で出来た妙な凹凸が取り付けられていた。
何なの、これ?
「コンロはこいつを捻って、」
言いながら、小明は台の下に付いている栓を捻る。
心なしか硫黄に似た匂いがしてきた。
「火を点けるんだ。」
胸ポケットからマッチ箱を取り出して、小さな火を点けると、凹凸に近付ける。
すると、フワリと青い火の輪が凹凸の上に燃え上がった!
「火を止めるにはこの栓を逆に回せばいい。」
小明はマッチを振って消すと、最初に捻った台下の栓を指し示した。
「使い終わったらすぐ火は止めろよ。点けっ放しだとガス代が嵩むから。」
「色々教えてくれて、どうも、ありがとう。」
私は小明に頭を下げた。
水も、火も、栓を捻れば簡単に出せる代わりに、後払いで金を取られるのだ。
取り敢えず、それだけは胆に銘じておこう。
「ここでは、全部、当たり前の事さ。」
小明はそう言うと、水缶を青い火の上に乗せた。
私も並んで青い火を眺める。
「竈(かまど)とコンロではどっちが早くゆで上がるの?」
この青い火は赤い火より冷たく見えるが、威力も強そうに思える。
「さあ。」
小明は首を僅かに傾げた。
「俺は、竈でゆでる方は良く知らないから。」
「君は、どこから来たの?」
青い炎を見詰めたまま、小明がぽつりと尋ねた。
「蘇州(そしゅう)よ。」
私は答えた。
「やっぱりそうか。」
小明は目に青い炎を宿したまま微笑んだ。
「君の話し方は丸っきり蘇州娘だから。」
「あなたは?」
「俺らは杭州(こうしゅう)。」
「杭州…。」
「俺らは皆、桃源郷から来たんだな。」
天に天堂、地上に杭蘇。
昔から、「杭蘇」こと蘇州と杭州は、水の豊かで美しい地上の極楽の筈だった。
今は、二つの間に上海がある。
「杭州って、行ったことないわ。」
馬鹿にした言い方に聞こえない様に私は切り出す。
「杭州の西湖は太湖より水が澄んでいて綺麗だって言うけど。」
「蘇州の太湖は西湖よりずっと大きくて魚が美味いって聞くけど、俺も確かめたことはないな。」
小明は悪戯っぽく笑うと続けた。
「こっちの六和塔(りくわとう)とそっちの北寺塔(ほくじとう)でどっちが高いのかも知らないし。」
「古いのは多分こっちの北寺塔よ。」
中が煮えてきたらしく、青い火の上の水缶がカタカタ震え出した。
「でも、高いといったら、やっぱりここの摩天楼なんだろうな。」
そう呟くと、小明の笑いがまた寂しげなものに戻った。
「君はいくつ?」
震える水缶に目を注いだまま小明がまたぽつりと言った。
「いくつって…。」
十五と正直に打ち明けるべきなのか。
それとも、十八で通さなければいけないのか。
目の先で水缶の揺れが次第に激しくなる。
「一つ下よ。」
「一つ下?」
小明が振り向く。
「あなた、十九歳なんでしょ?昨日蓉姐が言ってたの。」
口を半開きにすると、小明の顔は、十五、六よりもっと幼く見える。
「偉哥が二十八歳で、小明と阿建は十九歳だって。」
蓉姐は何歳なんだろうと思いながら、私はコンロの栓を逆に回す。
青い火が嘘の様に消えた。
「だから、あなたの方が一つ上。」
「十八か。」
どうして、そんな寂しい笑い方をするんだろう。
「同じ位だろうとは思ったよ。」
「おい、何、くっちゃべってんだよ!」
阿建が唐突に顔を出した。
狭い一間にバタバタと足音が響き、台所が急に汗臭くなる。
「お湯が今、沸いたところよ。」
阿建はそれを聞くと、流し下の棚をバタンと音高く開けた。
「ちょっと、もっと静かに開けて頂戴。」
蓉姐も、確かにこいつには台所仕事をいつまでもさせたくあるまい。
「ええと、西湖龍井は、あったあった!」
「止めとけよ、西湖龍井なんて。それ、バカ高い茶葉だぞ。」
先に制したのは、小明だった。
「洋酒はさすがにヤバいけど、お茶なら大丈夫だろ。」
阿建は念を押す様に小明に言った。
「この前も、飲ましてもらったじゃん。」
「あれは彪哥(ビャオ兄貴)たちが来たから、蓉姐も特別に高い茶を出したんだ。」
小明はそこから急に声を潜めて続けた。
「俺らだけで勝手に飲んだら、大変なことになるぞ。」
「ねえ、莉莉。」
阿建が急に上目遣いにこちらを向いて甘ったるい声を出した。
「お前が気を利かせて俺らに龍井茶を出したってことにしてくれな…」
「駄目です。」
私は最後まで言わせずに答えた。
「姐さんに無断でそんな高いお茶を淹れるなんて、図々しい真似は出来ません。」
後で酷い目に遭うのは私なんだから。
「ちぇっ、ケチ臭い女だな!」
阿建の舌打ちで私の顔に唾が飛ぶ。
「ケチも何も、ここに置いてある物は全部姐さんので、私の自由になる物は何一つありませんから。」
私は阿建の手から西湖龍井の缶を取り上げる。
元に戻すべく流しの下の棚を開くと、「洞庭碧螺春(どうていへきらしゅん)」の缶が目に入った。
蘇州と杭州で並び立たせてやろう。
私は「洞庭碧螺春」の隣に「西湖龍井茶」の缶を収めた。
「茉莉花茶、出して。そいつなら安いから大丈夫だ。」
頭の上で小明の声がした。
「早く淹れないと、沸かした湯が冷めちまうよ。」
「分かった。これね。」
私が「茉莉花茶」の缶を出して示すと、小明はこちらに背を向けて食器棚の真ん中を開けているところだった。
「紅茶以外はこの急須で淹れるから。」
片手に持って見せながら、もう一方の手で私から缶を取る。
「茶葉入れる前に、急須は一回軽く洗った方がいい。」
言いながら、流しの管の栓を捻って洗い出す。
この人は、今までどれだけ台所仕事をさせられてきたんだろう。
「俺、紅茶がいいな。」
阿建はいつの間に出したのか、紙箱から煎餅菓子めいた物を取り出してポリポリ噛みながら口を挟んだ。
「クッキーには紅茶の方が合うし。」
「お前、勝手に喰うなよ。」
小明が急須を濯ぎながら、阿建を睨む。
「いいじゃん、箱の口、もう開いてたし。」
私は食器棚から湯飲みを探す。
私たち三人は、どんな器を使えばいいんだろう?
「この白い、取っ手が付いた器でいいの?」
水の出る管といい、コンロといい、洋人の作る物には何でも取っ手が付いているみたいだ。
「ああ、三個出して。」
言いながら小明は缶の蓋を開け、カサッと茶葉を急須に振り込む。
台所いっぱいに乾いた茉莉花の匂いが広がった。
「俺、紅茶の方がいいって今言ったじゃんよ。」
阿建が口を尖らせる。
「紅茶はもう缶に一杯分しか残ってないんだ。」
小明は阿建に告げると、私に言った。
「茶葉が足りなくなったら、姐さんに言って買い足してね。」
小明は水缶(やかん)の湯を急須に注ぎながら、苦い顔で付け加える。
「その場で飲みたい茶がないなんて事になったら、姐さんの雷が落ちるから。」
「お茶葉ってどこに買いに行くの?」
この界隈はまるで分からない。
「紅茶の茶葉だけは…」
小明が言い掛けた所で、玄関からガチャガチャと錠の鳴る音がした。
私たち三人は台所で一斉に凍り付く。
「ただいま。」
蓉姐の声と同時に、私は湯飲みを持ったまま廊下に飛び出す。
「お帰りなさいまし。」
「あんた、駄目じゃないの、電話したのに。」
白地に赤紫の蘭が刺繍された旗袍を着た蓉姐は、腰に手を当てて呆れた声を出した。
「え?」
「せっかく靴を買ってろうと店から電話したのに、何度鳴らしても出ないんだから。」
あの三度目の電話は、姐さんだったのだ。
「すみません。勝手に取っちゃいけないと思って。」
「電話の取り次ぎくらい、さっさと覚えろよ、バーカ。」
後ろから言ったのは阿建だ。
「何だ、お前ら来てたのか。」
玄関の錠を挿して入ってきた偉哥が言った。
「そのお茶、すぐに出して頂戴。」
蓉姐は台所の小明に声を掛けると、私に向き直った。
「あんたの分のご飯も買ってきたわ。」
「どうもありがとうございます。」
麻痺していた空腹の感覚が急速に戻ってきた。
「姐さん、俺らもご相伴できますか?」
阿建が後ろ手に笑顔で近付いてきた。
「その前に、まず手を前に出しなさい。」
蓉姐が言うと、阿建は恐る恐る手にしたクッキーの箱を出した。
「本当にあんたは、頭の黒い鼠だわね。」
蓉姐は阿建の頬をピシャリと打つと、クッキーの箱を取り上げて流しの下に投げ込んだ。
「あんたが来た後は、必ず茶菓子がごっそり減るんだから。」
「すみません。今日はまだ何も食ってないもんで。」
阿建は叩かれた頬を押さえたまま、打って変わってオドオドした声で答える。
「お前ら、朝飯、まだ食ってないのか?」
香ばしい匂いを放つ包みを持った偉哥が怪訝な顔をする。
これは、肉饅頭(マントウ)の匂いだ。
「その件については、今、お話します。」
小明が盆に急須と新たな茶器を載せながら答える。
「こちらに急にお邪魔したのもそのせいなんで。」
「莉莉。」
蓉姐と偉哥が応接間に向かい、阿建が偉哥の荷物を受け取って台所を出たところで、小明が私を手招きする。
「蓉姐と偉哥が使うのはこれだから。」
お盆に載せた小花模様入りの洒落た湯飲みを指す。
「桃色の花模様が姐さんで、青い方が兄貴。」
まるで聞かれたら困る秘密の様に、早口の小声で説明する。
「分かった」
私は真っ白な茶器を三個持ったまま頷く。
多分、模様なしの器は雑魚用なのだ。
「俺は、もう一回湯を沸かすから、君は先に行って姐さんたちに茶を出しておいて。」
「お茶、お持ちしました。」
お盆を持って応接間に行くと、偉哥が長椅子で煙草を吹かし、蓉姐がせっせと食べ物の包みを広げている。
と、開いた寝室の扉から阿建が椅子を二脚抱えて姿を現した。
応接間の椅子だけで足りない時は、どうやら隣から補充するらしい。
「箸と取り皿!」
重たいお盆を卓子(テーブル)に載せたところで、蓉姐が当然の様に私に言う。
「こちらです。」
頭のすぐ後ろで小明の声がして、すぐ前に皿と箸の山がトンと置かれた。
「醤油と辣油を持ってきて。」
やって来た小明に蓉姐が新たに言い付ける。
「お酢もね。」
「はい。」
小明が小走りでまた台所に戻る。
「小皿が無いじゃんか。」
阿建も卓上を見やってそう言うと、台所へ駆け去った。
「何やってんの、早くお茶、淹れなさい。」
ぼやぼやするな、と咎める顔つきで蓉姐が私の肩を叩く。
「あ、はい。」
我に返って急須を取り上げると、取っ手が酷く熱くなっていて、危うく床に落としそうになった。
「やっぱりお湯足りなかった?」
急須を持って台所に戻ってきた私に、小明がコンロの火を止めながら尋ねた。
「ええ。」
「あの急須、三杯分がやっとなんだよ。」
小明は苦笑しながら急須の蓋を開けると、新たな湯を注いだ。
淡い茉莉花の香りと共に、白い湯気が小明の小造りな横顔を包む。
「貴方と私の分は二番煎じになっちゃった。」
「構わないさ。」
小明は急須の蓋を閉じると、私に差し出した。
「いつものことだから。」
久し振りにお腹一杯食べた、と言いたい所だが、そうは問屋が卸さなかった。
何せ、三人分の食事を五人で分け、おまけに追加分の二人が腹を空かせた少年ときている。
そこに新参者の私がでしゃばる訳にもいかない。
向こうの皿に、粽(ちまき)が一つだけ残っている。
手を伸ばすと赤黒い手が重なった。
目を上げると阿建のギョロ目がカチリとぶつかる。
「阿建(アジェン)。」
蓉姐の声が飛ぶ。
「あんたは、さっき、散々つまみ食いしたでしょ。」
阿建は黙って手を引っ込める。
どうして姐さんじゃなくて、私を睨むの?
粘っこい粽はそのままだと喉に詰まりそうなので、茉莉花茶と一緒に飲み込む。
「で、」
偉哥がまた煙草に火を点ける。
「お前ら、どうしてここに来た?」
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