上海リリ
戦前の中国の上海を舞台にした物語です。
蠱惑的な雰囲気から「魔都」と呼ばれた時代の上海を生きた、
一人の少女の姿を描きます。
人名など一部分かりづらい箇所もありますが、
ご容赦下さい。
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「屋台で、昨日の奴らに遭いました。」
小明が声を潜めて言った。
「何人いた?」
くわえ煙草の偉哥の眼光が鋭くなる。
「四、五人です。」
答える小明の目も冷たく光った。
私は鳥肌が立つのを覚えた。
「もっと居たぜ。」
阿建が口を挟む。
「あいつらが来る前に擦れ違った奴らも、同じ寧波(ニンポー)訛りだったんだ。」
「四馬路(スマロ)で俺らが出くわした連中の仲間さ。」
偉哥の言葉に蓉姐も煙草を燻らせながら頷く。
皆、食べ終わったことだし、私はさっさと後片付けをしよう。
「お茶、お代わりを淹れて頂戴。」
食器と空になった急須を盆に載せて私が立った所で、長椅子の蓉姐が言った。
「はい。」
私が何も考えずに頷くと、小明が無言でマッチ箱をポンと卓上に置く。
そうだ、コンロで沸かすんだった。
私は黙って崩れたマッチ箱を受け取った。
そろそろ沸く頃かな?
流しで食器を洗いながら、コンロで青火にかけた水壷(やかん)を見守る。
「大丈夫とは思うけど、階段から降りた方がいいわ。」
「ああ。お前も出る時は気を付けろ。」
廊下から蓉姐と偉哥の声とバラバラに入り雑じった足音が聞こえてきた。
「それじゃ、姐さん、お邪魔しました。」
「どうも、ご馳走様です。」
小明と阿建が代わる代わる挨拶する声が耳に入る。
もう帰っちゃうの?
水壷(やかん)がカタコト震え出したので、私はコンロの火を止める。
玄関の扉が静かに開け閉めする音が響いてきた。
「紅茶にして。」
戻ってきた蓉姐が廊下から台所の私に言い放つ。
「はい。」
こちらの返事を待たずに、蓉姐は応接間に姿を消す。
紅茶はまだ一杯分残っているのだっけ。
小明の言葉を思い出しながら、流しの下から“ASSAM”の缶を取り出す。
蓋を開けると、確かに申し訳程度にしか残っていない。
「これ、紅茶以外に使うんだった。」
先程の急須からふやけた茉莉花茶の茶葉を捨てた所で、また小明の発言を思い当たる。
「まだなの?」
食器棚から水差しに似た白磁の容器を見付けた所で、奥から蓉姐の声が飛んできた。
「今、お持ちします。」
「飲んだら出掛けるんだから早くしてよ!」
小明がもう少し残ってくれたら良かったのに。
「出掛けるから、支度して。」
台所で洗い終わった食器を拭きながら棚に戻していると、飲み終えた湯飲みを運んできた蓉姐が言った。
「すみません。」
私は慌てて湯飲みを受け取り、流しに漬ける。
蓉姐の手は使っている湯飲みに似て、まるで血が通わないかの様に白く、そして滑らかに見えた。
「今日は支配人に会うから、失礼の無い様にしてね。」
「はい。」
支配人?
頷きながらも頭の中はまた耳慣れない言葉でいっぱいになる。
「達哥(ダー兄さん)はとても厳しい人なの。」
あんたも知ってるでしょ、という調子で、蓉姐はまた見知らぬ人の名を口にする。
「あんたが使い物にならないと判断したら、その時は、」
姐さんの紅い唇が続ける。
「バラバラにして蘇州河(そしゅうがわ)に放り込む位、あの人は平気でするわ。」
「あんたのバッグはこれね。」
蓉姐は箪笥の奥からベッドへ黄色いビーズのバッグを放る。
「昔、あたしが使ってたやつだから、ちょっと流行遅れだけど、使う分には支障ないから。」
「どうも、ありがとうございます。」
やっぱり、ちょっと緩いみたい。
貰った橙色の旗袍は、袖を通すと、脇の下の隙間から微妙に下着が覗いてしまう。
卓子掛けなんかより、こっちの手直しを先にすれば良かった。
そう思いながら、ベッド上の黄色いビーズのバッグに手を伸ばした所で、蓉姐の声が飛ぶ。
「ちょっと、万歳してみて。」
私はバッグを持ったまま両手を挙げた。
何て間抜けな格好だろう。
蓉姐は呆れた顔で息を吐く。
「洗面所に剃刀置いてあるから、今すぐ脇の下を剃って来なさい。石鹸を付けると綺麗に剃れるから。」
万歳したまま、顔に血が上る。
「脇にヒゲを生やしたまま旗袍着てたら、オカマと思われるわよ。」
「こっちよ、」
濃紺の旗袍に真珠の耳環で着飾った蓉姐の声が通りに響く。
「ほら、もっと、シャキシャキ動く!」
「はい。」
返事はしてみるものの、新しい靴を履いた足を早めようとすると、グラついて転びそうになる。
踵の高い靴、姐さん曰く「ハイヒール」が、こんなに歩きにくいとは思わなかった。
私が薄桃色のハイヒールで一歩踏み出すのにさえ四苦八苦している間に、姐さんは青紫のハイヒールをカツカツ進めていく。
と、その規則正しい音が止まった。
「ここで、今度は頭をやってもらうわ。」
次は、一体何があるんだろう…。
「白小姐(バイさん)、おはようございます。」
五十がらみの男が丁重に頭を下げた。
「今日は私じゃなくて、この子の髪をお願いしたいんです。」
「お下げに長くしてるみたいですけど。」
「切ってパーマにして下さい。」
蓉姐と男のやり取りを尻目に私は店内をぐるりと見回す。
壁に備え付けられた大きな鏡。
その前にはベッドと椅子の合の子みたいな腰掛けが並ぶ。
部屋全体に漂う、石鹸やら髪油やら薬やら混じった異様な匂い。
何だか床屋というより、怪しげな手術を施す医院にでも入った気がした。
男は急に私の肩に手を置くと、金歯を覗かせて笑った。
「それじゃ、そちらにお掛けになって下さい。」
「いかがでしょう?」
理容師は鏡越しに金歯を見せて微笑む。
「とても、」
鏡の中の私が引き吊った顔で笑う。
「とても素敵です。」
お下げを肩まで切って全体を波打たせ、前髪は鶏冠みたいに丸めて縮らせてある。
何だか、頭にだけ雷が落ちて鳥が巣を作ったみたい。
「このパーマが今の流行りなの。」
蓉姐が隣に来て笑う。
多分洋人の女が始めた頭なんだろう。
同じ髪型なのに、私は火事で焼け出されたみたいで、蓉姐は生まれ落ちた瞬間からこの頭の様に思える。
「どうも、ありがとうございます。」
せめて笑い方だけでも似せよう。
唇の両端をきゅっと吊り上げたところで、鏡の中で後ろの扉が開いた。
「薇薇(ウェイウェイ)!」
「あ、ね、姐さん、」
呼ばれた相手は、ぷっくりした丸顔のクリクリした両目をパチパチさせた。
「お早うございます。」
薇薇(ウェイウェイ)は太った小柄な体を折り曲げて、巨大な鳥の巣じみた頭を下げた。
動くと石榴(ざくろ)色の旗袍(チャイナドレス)がはち切れそうで、見ているこちらがハラハラする。
「この店で会うなんて、あんたも出世したわね。」
蓉姐がにいっと目を細めて相手に近付く。
この目付きは、まずい兆候だ。
私は腰掛けから動けないまま見守る。
「あ、あたしも姐さんたちを見習って、身なりだけでも一流にしようと思いまして。」
薇薇はドングリ眼をパチパチさせ、甲高い声で囀(さえ)ずる様に続ける。
「パーマかけてちょっと経つと、すぐこうなるもんですから。」
言いながら、薇薇は自分の頭を指差す。
この子は髪が多すぎるのか、それとも頭が大きいのか、雷が落ちた後に台風に見舞われた様な髪型になっていた。
それとも、この髪型自体が、しょっちゅう理容師に手入れしてもらわないと駄目なのかな?
床屋代には月々幾ら必要になるの?
そもそも、この一回分の料金は?
私は思わず額に手を当てた。
「あの、この子は?」
「新しく入る子ですか?」
薇薇は忙しく瞬きして蓉姐を窺いながら、私に向かってあたふたと手を動かした。
「あ、私、莉莉と申します。」
私も腰掛けから立ち上がる。
「昨日から蓉姐の所でお世話になっております。」
取り敢えず蓉姐と薇薇の二人が立つ方角に頭を下げる。
少なくとも、これで両方に対して角は立たない筈だ。
「莉莉、莉莉ね。」
薇薇は今度は忙しげに大きな鳥の巣頭を振った。
瓢箪(ひょうたん)じみた福耳に下げた、石榴(ざくろ)の粒に似た透き通った赤の飾りが揺れる。
遠目にも明らかな安物の偽石と知れたが、この子が着けていると、何だかとても美味しそうに輝いて見える。
「あんたは茉莉花(ジャスミン)になったのね。」
「あたしはね、薔薇(バラ)なんだ。」
薇薇は丸い頬を赤くして、堰を切った様に喋り出した。
「ほんとは『微瑩(ウェイイン)』だから、『瑩瑩(インイン)』が良かったんだけど、それだと菱姐(リン姐さん)の『菱菱(リンリン)』と紛らわしいから、『薇薇(ウェイウェイ)』にしろって達哥(ダー兄さん)が…」
「薇薇!」
蓉姐の低い声は奔流も止める。
「エメラルドのは?」
蓉姐(ロンジエ)は緑色の目を細めて告げると、薇薇(ウェイウェイ)の右の耳飾りをパチンと弾いた。
ザクロの粒に似た紅い偽石が薇薇の丸い右頬を打つ。
「そ、それは莎莎(シャシャ)が…」
言い掛けたところで、今度は薇薇の左の頬を爪弾きされた紅い粒が叩く。
「持ってるのは、本当に莎莎(シャシャ)なんです!」
「莉莉(リリ)、」
蓉姐の細めた両目がやおらこちらを向く。
「あ、は、はい。」
「バッグの肉切り包丁、あんた、気を付けて持つのよ。」
「はい。」
私は震えながらとにかく頷く。
「夕べも豚肉と一緒にまな板まで切れちゃっったから分かるでしょ?」
「はい。」
たとえ姐さんが墨を雪だと言っても、私は首を横に振れない。
私の手元を見詰める薇薇の顔色がみるみる青ざめた。
その様子を目にすると、手に持つバッグが本当に火の点いた爆竹みたく思えてきた。
「昨日、先施(シンシア)で日本製を買ったの。」
薇薇のふくよかな耳朶(みみたぶ)を白い指先の紅い爪で摘まむと、蓉姐は囁いた。
「日本兵もよく使うそうよ。」
「お会計、お願いします。」
蓉姐が打って変わった笑顔で告げる。
「はい。」
理容師のおじさんは、ちょうど床に切り落とした私の髪をまとめて掃き終えたところだった。
「新しくお店に入る方ですか?」
蓉姐から受け取った金を確かめると、おじさんはまた金歯を見せて私に笑いかけた。
「ええ。」
蓉姐が代わりに答える。
「どうぞご贔屓に。」
姐さんが早足で出ていくので、私も黙って後に続く。
姐さんの払った額からして、とてもじゃないが、ここにしょっちゅう通うのは無理だ。
「蔡小姐(ツァイさん)、お待たせしました。」
理容師が薇薇(ウェイウェイ)に愛想良く告げる声を最後に、開いた扉が再び閉まった。
「髪切ったり、ちょっと手直ししてもらう位なら、もっと安いとこはいっぱいあるから、そこは自分で探して。」
蓉姐は通りをカツカツ歩きながら、振り向きもせずに言った。
「はい。」
私にも安いと思える所なんて見つかるだろうか。
「ま、安い所はそれなりだから、嫌ならとにかく稼ぐ事ね。」
濃紺の旗袍(チャイナドレス)の背が陽の光を浴びて、黒揚羽(アゲハ)の羽根の様に照り返す。
姐さんの靴音が一歩一歩響く度に、青紫の光る鱗粉が飛び散る様に思えた。
「はい。」
毒粉でも嗅がされた様に青紫の残像に目が眩みつつ、私はふらつくハイヒールの足をひたすら前に踏み出す。
「今日だけだからね、こんな風に手を懸けてやるの。」
蓉姐は振り向いて立ち止まると、私の縮れた前髪を撫でた。
何だか憐れむ様な、寂しい笑いが、弧を描いた眉から紅を引いた口許にまで漂っていた。
「こんなモノにならない奴を連れてきたなんて追い出されない様に、あんたがしっかりやるのよ。」
そう言うと蓉姐はまた歩き出した。
行く手に妓楼と寺塔に洋人の館を混ぜ合わせた様な建物が見えてくる。
白昼の青空の下でもそこだけ真夜中の様なその楼閣に近付くに従って、「海上花(ハイシャンホア)」という屋号が星の様に浮かび上がった。
「バラ、バラはいかがですか?」
歌う様な子供の声が後ろから急に聞こえてきた。
「一輪から売りますよ、お部屋の飾りに真っ赤なバラはいかが?」
振り向くと、七つか八つ位の男の子が両手で籠を抱えて歩いてくる。
男の子の服も籠も煤けて黒ずんでいたが、籠に溢れんばかりに積まれた花は、燃え立つ様に赤かった。
「蓉姐(ロンジエ)!」
こちらに気付くと、男の子の小さな真っ黒い顔がパッと明るくなった。
「鴉児(ヤール)!」
姐さんが呼ぶより先に男の子はトコトコこちらに走ってくる。
重い物を持ってそんなに急ぐと転ぶか、籠の花を溢しちゃうよ、と言いたくなる。
「お花はいかがですか?」
「今日は十本で花束にして頂戴。」
蓉姐は日溜まりの様に穏やかな低い声で告げた。
「分かりました。」
男の子は頷くと、素早く籠から花を取って、器用な手つきで纏め始めた。
まだ小さいけれど、節くれだった、ザラついた感じの手。
「こちらになります!」
男の子が丸く纏まった花束を差し出すと、甘やかな香りが広がった。
蓉姐がバッグから財布を取り出す間に私が代わりに花を受け取る。
「とっても綺麗ね。」
私が言うと、男の子はニッと八重歯を見せて笑った。
地黒の上に煤けた顔をしているので、歯が真っ白に見える。
誰が「鴉児(カラスっ子)」と呼び出したものか、本当に鴉(カラス)の子そっくりに見えた。
「こちらのお姉さんは?」
蓉姐から金を受け取りながら、鴉児は私に向かって笑顔の首を傾げる。
「莉姐(リー姐さん)よ。」
蓉姐が笑顔で答える。
「じゃ、どうもありがとうね。」
蓉姐が歩き出したので、私も手にした花束を嗅ぐ振りをして後に続く。
「毎度あり!」
幼い声が後ろから響いてきた。
「莉姐も今度買ってね!」
油断のならない子ガラスだ。
薄暗い建物の中に足を踏み入れた瞬間、急に転びそうになる。
アパートの床よりもっとツルツルした床だ。
足許を見下ろすと、白い石を敷き詰めた床らしく、暗がりの中でも僅かな光沢が確かめられた。
何だか墓石や石碑の上でも歩いてるみたいだ。
前を歩く蓉姐の旗袍の背が暗い中で光りながらうねる。
「支配人の部屋はホールを通った奥にあるの。」
「はい」
行く手から笛の様な、しかし琴にも似た、不思議な音色が流れてきた。
多分、西洋の楽器だ。
ここでは洋人も働いているんだろうか?
青い目をした洋人の男が不思議な楽器を奏でる様子を想像しながら、手に持った赤バラの香りを吸い込むと、余計にゾクゾクした。
氷の様に滑らかな白い石の廊下が急に開けたかと思うと、目の前にガランとした広間が現れた。
不思議な音色が薄暗い広間の空気を震わせて、直に響いてくる。
広間の遥か向こうは舞台になっていて、そこだけ灯りに照らし出されていた。
白々とした月光に似た灯りを浴びながら、白シャツの男が椅子に腰掛けて、黒塗りの卓子(テーブル)に似た大きな楽器を奏でていた。
「小明(シャオミン)!」
思わず口から飛び出した声が広間に響き渡る。
音色がパタリと止んだ。
「あ…。」
蓉姐の振り向いた顔と舞台の上からこちらを見やる男の顔に、私は息が止まりそうになる。
「達哥(ダー兄さん)、構わず鋼琴(ピアノ)を続けて下さい。」
蓉姐が舞台に向き直って言った。
「いいんだ。」
舞台の上の男は、それまで弾いていた楽器の白い部分に黒い蓋を下ろした。
「もう、こいつの調律は済んだから。」
かすれた低い声で告げると、男は椅子から立ち上がる。
「話は奥で聞こう。」
男は椅子の脇に畳んで置いていた黒の上着を取り上げ、白シャツの上に羽織りながら舞台を降りると、暗い奥に姿を消した。
「あれは、支配人よ。」
蓉姐は恐ろしい目で私を睨み付けると、私の手からバラを取り上げて早足で歩き出した。
あれが支配人の達哥だったのだ。
私は手持ちのビーズバッグを抱き締めた。
この中に私の身を守る物は何一つ入っていない。
コン!コン!コン!
暗闇に蓉姐の扉を叩く音が響く。
「入れ。」
中から声がした。
「失礼します。」
従順に答える蓉姐の声に続いてギイッと重い音が暗闇を引き裂いた。
目の前が真っ白になる。
そういえば、外はまだ昼だった。
バッグを抱え、眩んだ目を伏せたまま、部屋に足を踏み入れる。
氷上の様な廊下に対して、この部屋の床は絨毯が敷き詰められている。
「達哥(ダー兄さん)、今日は新しい子を連れてきました。」
蓉姐は打って変わって仔猫じみた口調になった。
「うちで働きたいそうです。」
背凭れのある椅子に深々と腰掛け、窓から流れ込む陽射しを背にした男は、何も言わない。
「花瓶のお花、換えますわ。」
蓉姐はそう言うと、机上に置かれた花瓶から萎れた菖蒲を抜き取って机の下に捨て、バラの包みを新たに解き始めた。
本当は姐さんじゃなくて、私が率先してこういう事をやらなきゃいけないんだ。
そう気付いた時にはもう、白い陶器の花瓶には新たな赤い花輪が出来ていた。
「名前は?」
バラの向こうからかすれた声が飛んできた。
「莉莉(リリ)です。」
私は目を上げて答えた。
窓からの陽射しが眩しい。
「年は?」
光に目が慣れてきて、額を全部出して髪油できっちり固めた小さな頭、尖った細い顎、成人の男にしては華奢な肩の線が、赤い花の向こうに浮かび上がる。
「十八歳です。」
知らず知らず、右手でバッグの取っ手を握り締めていた。
「お古の服と一緒に、名前まで付けてやったのか?」
かすれた声の語尾が震えた。
支配人は、笑っているらしい。
「衣装はこの子の自前がありませんでしたし、」
こちらに背を向けた蓉姐の声は何だか言い訳がましい。
「今、うち、『茉莉花(ジャスミン)』はいませんよね?」
「『茉(モー)』なら居たさ、」
影になった支配人の手が花瓶のバラに伸びて、一輪だけ飛び出た花をそっと群れの中に戻した。
男にしては、ほっそりした指だ。
「昔だし、うちの店じゃないがね。」
「蓉蓉(ロンロン)、そろそろバンドの連中が来る、」
支配人の手が花から離れた。
「これが新譜だ。」
返す手で白い紙の束を差し出す。
「はい。」
蓉姐の縮れた後ろ髪が素直に揺れる。
「彪哥(ビャオ兄貴)たちが来るから、明後日(あさって)の夕方までには仕上げろ。」
「はい。」
こんな従順な姐さんは初めてだ。
「お前と菱菱(リンリン)で、どちらが先に歌うかは話し合って決めろ。」
「菱菱(リンリン)も歌うんですの?」
急に楽譜から目を上げたので、蓉姐の前髪が逆立つ様に大きく反った。
「彪哥たちが連れてくるのは、北平(ベイピン)からの客だからな。」
支配人の目が氷柱の様に光る。
細く鋭い三白眼だ。
「洋語の曲はお前で、国語の曲は菱菱だ。」
抑揚のない語調は、疑問や反論を一切許さない響きを持っていた。
「分かりました。」
頷く蓉姐の前髪が力なく揺れる。
「洋語の曲を洋人より歌いこなせるのはお前だけだ。」
支配人の三白眼が糸になる。
この人は、笑うと目が無くなる型の顔らしい。
「北平(ベイピン)のお大尽(だいじん)たちを驚かせてやれ。」
「もちろんですわ。」
蓉姐がどんな顔で答えているのかは、後ろにいる私には見えない。
「失礼します。」
出ていく蓉姐の目は、私の事など忘れた様に、手元の紙に注がれていた。
濃紺の絹の旗袍が去った部屋には、馥郁とした残り香が漂う。
蓉姐の匂いには、蓮にバラが混ざっている。
赤バラの香りを知った今では、それが良く分かる。
不思議な花だ。
花びらが渦を巻く様に寄せ集まって、中身を覆い隠している。
「さて、」
白い煙が緩やかに流れてきて、赤い花びらの渦を浸した。
「莉莉(リリ)といったね。」
「申し遅れたが、私は姓を姜(ジャン)、名を達(ダー)という。」
手元の黒い灰皿に煙草を置くと、男は続けた。
「ここの支配人だ。」
灰皿は色付きのガラスで出来ているらしく、赤く燃え上がって灰に変わる煙草の先が、黒の地を透かして見える。
この煙草の煙は、吸っても咳き込みたくはならないが、酷く目に染みる。
「お世話になります。」
私は鼻を膝に着ける勢いで頭を下げた。
支配人は、何も言わない。
そろそろ頭を上げてもいいだろうか?
迷っていると、急に妙な音が耳に飛び込んできた。
カチッ!カチッ!カチッ!
顔を上げると、机の上には、碁盤に似た四角い台が置かれていた。
カチッ!カチッ!カチッ!
台の面に交互に刻まれた白と黒の正方形の上に、馬や冠や塔を象った、小さな黒光りする置物が並べられていく。
カチッ!カチッ!カチッ!
支配人の手前側に黒の置物が揃ったかと思うと、今度はこちら側に同じ形をした白の置物が次々配されていく。
カチッ!カチッ!カチッ!
白の置物は象牙ででも出来ているのか、摘まんで置く支配人の指が妙に黄色く見える。
何、これ?
碁?それとも将棋?
「国際象棋(チェス)、出来るか?」
盤上に黒と白の置物が完全に向かい合って並んだところで、支配人が言った。
「いえ、」
支配人の目が首を振る私を捕らえている。
氷柱に似た、彫りの鋭い一重瞼の白眼は青白く、黒目は小さかった。
「分かりません。」
普通の将棋さえ、私はやったことがない。
「洋人の将棋さ。」
氷柱がすっと消えた。
支配人は、笑ったらしい。
「それじゃ、私が指示を出すから、白の駒はお前が動かせ。」
「じゃ、始めるぞ。」
カチャリと手元の電灯を点けると、支配人は言った。
蒼白い灯りに照らされて、黄味の勝った、鼻梁と眉の細い、顎の尖った顔立ちが全て浮かび上がる。
「白が先攻だ。」
小さく薄い唇が囁いた。
「はい。」
私は白い骨を彫り込んで磨いた様な置物の列を見下ろした。
とにかく、言われた通り、駒を動かせばいいのだろう。
「莉莉(リリ)、」
え?
不意を突かれて目を上げると、支配人は盤上の駒に目を注いでいる。
「君の姓は?」
「あ、姚(ヤオ)です。」
そういえば、私はまだちゃんと名乗っていなかった。
「そうか、」
支配人の目は変わらず駒に注がれている。
「右から四番目の兵(ポーン)を二歩進めろ。」
「兵(ポーン)って…。」
私は「右から四番目」の位置に前後して置かれた、二つの駒に目を泳がす。
鞠(まり)を載っけた燭台みたいな駒に、冠形の駒。
とりあえず、後ろの冠形のではなさそうだけど…。
「前の列にぞろぞろ並んでるやつさ。」
支配人の声がした。
「一番、雑魚(ざこ)の駒だ。」
「あ、はい。」
私は燭台形の駒を二歩先の白い正方形のマスに置いた。
ほっと息を吐こうとした目の前に黒の兵(ポーン)が置かれた。
「雑魚(ざこ)は雑魚で止める。」
支配人は目の無い顔で薄い唇を歪めた。
「でも、兵(ポーン)はただの雑魚じゃない。こいつが、」
支配人の黄色い指が私の進めた兵の頭を指す。
「敵陣の奥にまで切り込めば、」
支配人の指が、一番奥の、黒の冠が並ぶ列の上をなぞる。
「后(クイーン)になれる。」
「后(クイーン)?」
私は思わず支配人を見返した。
氷柱に似た目と再びぶつかる。
「つまり、雑魚の兵(ポーン)は女ってことさ。」
支配人の唇だけがゆっくり笑う。
肉薄の唇から、私の駒よりも、もっと白い歯が覗く。
「国際象棋(チェス)では、女も立派な戦力だ。」
「そうなんですか。」
洋人の国では、きっと女も軍隊に駆り出されて戦うのだ。
金色の髪に青や緑の目をした洋人の女たちが、手に手に弓矢や剣を持って攻めてくる様が浮かんできた。
蓉姐(ロンジエ)みたいな体格ならば、生半可な中国男より余程強そうだ。
「洋人の奴らは、男も女も、自分たちの国に身を捧げ尽くすのさ。」
「兵(ポーン)、」
先の尖った支配人の指が、二歩進んで足止めされた駒の頭を叩く。
「塔(ルーク)、」
端っこに置かれた小さな白い塔。
「馬(ナイト)、」
首だけの白い馬。
「象(ビショップ)、」
象(ぞう)というより帽子に見える。
「それに后(クイーン)。」
蓉姐が紅茶用に使う急須みたいな形だ。
「皆で、たった一人の王(キング)を守る。」
支配人の示す先には、頭に十字を挿した、冠の形をした駒が立っていた。
「后(クイーン)が何人立とうが、王(キング)が倒れたら、そこでみんな終わるからな。」
「さて、」
支配人は胸ポケットから新たな煙草をもう一本出してくわえた。
また、あの目に沁みるやつだ。
そう思いながら眺めていると、支配人は新たに銀の小箱を取り出した。
かと思うと、カシャリと音を立てて、小箱の上に小さな火が灯った!
「打火機(ライター)、初めて見たのか?」
銀の小箱がキラリと光って胸ポケットにまた消えたかと思うと、支配人の姿にゆっくり靄がかかった。
「はい。」
バッグの中には、型崩れした借り物のマッチ箱はあるけれど。
>> 199
「次は、」
煙が引いて、またもや盤上に目を注ぐ支配人が姿を現した。
私は手持ちの駒を確かめる。
これが兵(ポーン)、こいつが塔(ルーク)、馬(ナイト)は名前の通りで、この帽子みたいなのが…。
「君の、本当の名前は?」
「え?」
象(ビショップ)の駒から目を上げると、支配人は盤の中腹で向かい合っている白と黒の兵(ポーン)を凝視している。
「姓が姚(ヤオ)で、名前は何?」
「あ、莉華(リーホア)です。」
この人、話の流れが全然掴めない。
「右の馬(ナイト)を三列目の右から三番目に進めろ。」
そこまで言うと、支配人の声が少しだけ柔らかくなった。
「さっき進めた兵(ポーン)の、斜め後ろだよ。」
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アニポケ没映画3の答えってもしかしてこれじゃ…? 書いていて気付いたのですが、これって結構BWのゲノセクトと被る部分があ…(小説好きさん0)
1レス 85HIT 小説好きさん -
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神社仏閣珍道中・改 241レス 13650HIT 旅人さん -
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仮名 轟新吾へ(これは小説です) 〔学んだ事〕 人に情けをかけると 後で物凄く、不快な気持になる…(匿名さん339)
500レス 9105HIT 恋愛博士さん (50代 ♀)
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