上海リリ
戦前の中国の上海を舞台にした物語です。
蠱惑的な雰囲気から「魔都」と呼ばれた時代の上海を生きた、
一人の少女の姿を描きます。
人名など一部分かりづらい箇所もありますが、
ご容赦下さい。
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二本の蛇口から出る水は、半々に混ぜ合わせてやっと肌に心地良い温かさになった。
乾いていると蝋の固まりにしか見えない石鹸は、水に馴染ませると七色の泡が立って、花に似た香りがした。
蓉姐の蓮に似た匂いの一部は、これだったのだ。
そんな事を考えながら、体を流すと、まだ治りかけの膝の擦り傷が滲みた。
蘇州で仕えていた周家の門を出てから、船着き場まで無我夢中で駆けていく内に幾度となく躓いて出来た傷だ。
その擦り傷の上には、また新たに痣が出来ていた。
これは、多分さっき蓉姐とぶつかって転んだ時のだろう。
浴室を出ると財布の下に畳んで置いていた綿入れとズボンが消え、代わりに手拭いと白い洋服の上着とスカートが置かれていた。
これを着ろということらしい。
服の脇に置いた破れ靴はそのままだから、多分これはこのまま履けということなのだろう。
表面はザラザラと毛羽立ってはいるが、酷く柔らかな生地で出来た手拭いは、濡れた髪や体を拭くとそのまま水を吸い取った。
これも外国製の手拭いなのだろうか?
車といいエレベーターといい、洋人の作る物は全く得体が知れない。
蓉姐が用意してくれた白い洋服の上着は、袖を通すと、私には明らかに丈が長過ぎた。
そのままだと指先まで袖に隠れてしまうので、肘まで捲る。
紺のスカートも腰周りがかなり緩くてずり落ちそうなので、内側に折り込む。
壁に備え付けられた鏡を見ると、痩せこけた体にだぶだぶの洋服を着、濡れた髪をお下げに編んだ、妙な娘がまじまじとこちらを見返した。
まあ、不潔で嫌な匂いがしない分だけ、さっきよりはマシだと思いたい。
「そしたら、お巡りったらこう言ったのよ。」
廊下を応接間の方に戻っていくと、蓉姐の声がした。
「『小姐(おじょうさん)がその服を脱ぐなら、引き換えに押収品の中から服を渡してやってもいい』って。」
煙草の匂いも漂ってくる。
「だから、横っ面をぶっ叩いて逃げてやった…」
蓉姐は言い掛けたところで、私に顔を向けた。
「お風呂終わったの?」
「はい。」
私は湯で和らいだ体がまた固くなるのを感じた。
「どうも、ありがとうございます。」
長椅子の上には、蓉姐の他にもう一人男が腰掛けて、こちらに目を向けていた。
「莉莉(リリ)よ。」
蓉姐は煙草を持った指で私を示すと、傍らの男に言った。
あんたも前から知ってるでしょ、と言い放つ様な口調だ。
「うちで働きたいんだって。」
「リリ?」
仕立ての良い洋服を長身に纏い、長椅子に凭れて長い脚を投げ出した男は、低い声で問うと、浅黒い顔の大きな目を凝らした。
「はい。」
適切な対応が分からないので、取り敢えず、返事をする。
「茉莉花(ジャスミン)の『莉』?」
蓉姐と同じく彫りの深い顔だが、瞳は漆黒で、僅かに斜視の傾向がある。
こちらを見守っている様で、本当は別の何かを眺めている様にも見える。
「はい。」
「田舎の妹も同じや。」
広東(カントン)の訛りを交えて言うと、相手はどこを見ているのか分からない目を細めた。
「お袋の腹にいた時分に見たきりやけど、今年で七つや。いや、八つやったかな?」
随分年の離れた妹がいるものだ。
私は返答をしかねたまま、内心驚く。
男本人は二十五、六歳に見えるから、兄妹というより父娘に相応しい年の開きがある。
それとも、この人は本当は見た目よりもっと若いのだろうか?
「で、こっちの莉莉ちゃんはいくつや?」
男の目が、私の上着の肩の辺りに注がれる。
私はそこで初めて、お下げ髪から垂れた滴で、肩の生地がじっとり濡れて肌に張り付く感触に気付き、鳥肌が立った。
「十八よ。」
蓉姐の声が静かに響く。
「さっき聞いたの。」
「蓉蓉、この子は…」
言い掛ける男をよそに蓉姐はこちらに向き直る。
「うちで働きたいのよね?」
紅い唇が微笑み、茶緑の目が鋭く光る。
「はい。」
「あたしがさっき聞いた答えに間違いはないわね?」
「はい。」
私はさっき、十五と正直に教えた。
「あんたはもう十八の大人よ。」
蓉姐の指先から白い煙をゆっくり上っていく。
「だから、あたしもそのつもりで扱うわ。」
「蓉蓉(ロンロン)、」
男は目を落として苦い声を出した。
「阿建(アジェン)と小明(シャオミン)が十九歳なんでしょ?」
蓉姐は事も無げに返すと、悪戯っぽく片眉を吊り上げた。
「あんただって、幇(くみ)に届けた年から数えれば、もう二十八の筈だし。」
「その子を連れて十八と言い張ったって、達哥(ダー兄貴)に通じるもんか。」
私を指し示す男の声が苛立ちを含む。
何だか、責められてるみたい。
「大丈夫よ。今、手が足りないし。」
蓉姐は余裕綽々だ。
「小皺の浮き出た顔して十八とかほざくのよりマシでしょ。」
男は黙って横を向くと灰皿に煙草を押し当てた。
この人は一体、どういう人なんだろう?
私は思い巡らす。
蓉姐が太太(おくさま)でも小姐(おじょうさま)でもない様に、
この人も洒落た洋服は着ているけれど、
名家の旦那様という感じには見えない。
秀でた額、高い鼻、広い肩、長い脚…。
「あ、あの看板の!」
私が突然声を発したので、男も蓉姐も驚いて顔を上げる。
「電影院(えいがかん)の看板で、お見かけしましたわ。」
私は努めて丁寧な口調を心がけて男に言うと、蓉姐に確かめた。
「ここに来る途中で通った電影院です。あそこの看板の方ですよね?」
「横顔で分かりました。」
「あんたが高占非(ガオ・チャンフェイ)だってさ。」
蓉姐ははしゃいだ声で男の肩をつつくと、
男が新たに出した煙草に火を点けた。
「向こうが俺に似てるんだ。」
男は苦笑いして呟くとゆっくり煙を吐き出した。
「俺は、そいつとは違う。」
男は私に向かって、諦めろ、という風に首を横に振った。
「失礼しました。」
電影院の看板役者だから、男前でいい身なりをしているのだ。
私はそう合点がいったつもりでいたが、
どうもそれでもないらしい。
「どうお呼びすれば、よろしいでしょうか?」
男の名前も、素性も、蓉姐との関係も正確には分からないので、そんな風に訊いてみる。
「偉哥(ウェイ兄さん)とお呼びなさい。」
蓉姐が代わりに答えた。
「分かりました。」
今日、二人目の兄弟が出来た。
「さて、」
これでお話はおしまい、という風に煙草の吸い殻を灰皿に置くと、蓉姐は立ち上がった。
「あたしたちはこれで休むけど、あんた、明日までにここの服、全部直しといてね。」
蓉姐は、いつの間にか長椅子から籐椅子に移動した
旗袍(チャイナドレス)の山に手を伸ばす。
「まず、これは、襟のボタンが取れかかってるからそれを付け直す。
これとこれは、スリットが解れてるからそこを繕って。
あ、こっちは脇の下も破けてるからそれも頼むわ!
これは胸の刺繍に染みが出来てるからそこをほどいて縫い直して。
白い糸はあるでしょ?」
「はい。」
返事はしたものの、冷や汗が出る様な思いで私は服の山を見詰めた。
これ、全部で何枚あるの?
「これは、裾をまつり直しといて。後から繕ったって分かんない様に丁寧にやるのよ!」
蓉姐が一枚一枚籐椅子から取り上げては放る旗袍が、
長椅子の上にまた元の山を形成していく。
「それからこれは、」
長椅子の上に残った最後の一枚を取り上げると、
蓉姐は少し思案する顔つきになった。
他の旗袍と比べると一回り程小さい、薄い橙(だいだい)色の旗袍だ。
周家の奥様が飼ってた金魚みたいな色だ、と他人事ながら思う。
「これは、あんたに上げるわ。」
「いいんですか?」
私は服を受け取ってまじまじと眺める。
橙色の絹地に黄色で可憐な小菊の刺繍が施してある。
「いいのよ、それ子供っぽいし、もう着ないから。」
今の蓉姐の体格では、肩も胸も腰もこの旗袍には収まるまい。
「可愛いやないか。」
苦笑いで私たちを見守っていた偉哥も口を添える。
「どうもありがとうございます。」
私は深々と頭を下げる。
お古とはいえ、私には高過ぎる衣装だ。
「あんたにはちょっと大きいだろうから、そこは後で自分で直してね。」
蓉姐はそう言うと、顎で長椅子の服の山を指した。
「それじゃ、頼むわよ。明日の朝、この中から着ていくやつを選ぶから。」
「はい。」
私は譲り受けた金魚色の旗袍を抱き締めて頷く。
夜が開けるのが怖い。
「それじゃ、阿偉(アウェイ)、もう寝ましょ。」
蓉姐が蜜を含んだ声で言うと、偉哥はひょいと蓉姐を抱き上げた。
え…?
呆気に取られる私を残して、二人は先程蓉姐が衣装の山を出してきた部屋に入っていくと、
偉哥の後ろ手で扉がガチャリと締められた。
とにかく、仕事に取りかからないと。
応接間で一人、我に返った私は、
まず縫いかけのままに卓上の隅に丸まっている卓子掛けを取り上げて
縫い糸を結び止めにし、糸切り鋏を出して切った。
こっちより服の手直しが先だ。
卓上の灰皿には許容量一杯に吸い殻が溜まっているので、
これもゴミ箱に捨てる。
赤い口紅の跡の着いた吸い殻とそうでないのがゴミ箱で入り交じっていたのは、
吸う人間が一人でなかったからなのだ。
吸い殻の山を眺めているだけで噎(む)せ返りそうなので、
視界に入らないよう、ゴミ箱を卓子の下に置く。
「さて、と。」
小声で呟くと、私は旗袍の山をもう一度分け直す。
すぐ手直しが出来る物と時間のかかりそうな物という分類でだ。
この赤いのはボタンを付け直すだけ。
この桃色のはスリットの裂け目以外に、両脇が大きく破けてるから時間がかかる。
この朱色のは…。
不意に、背後からクスクス忍び笑う様な妙な声と板張りの激しく軋む音が聞こえてきた。
思わずぎょっとして振り返ると、
隣の部屋とこちらを隔てる壁を通して、
猫の鳴き声に似た声が途切れ途切れに響いてきた。
…とにかく、今は耳が聴こえないつもりで、服の手直しを要領良く済ませる事だけを考えよう。
灯りが煌めく夜の道を人力車が駆けていく。
色褪せた青の綿入れを着てボロ靴を履いた私は、その座席に一人腰掛けていた。
電影院の看板が端正な男の横顔を見せて通り過ぎる。
あの洒落た男は、実は広東訛りで話すのだ。
そう思うと、何だかおかしくなる。
と、前の方から虹の様に色とりどりの旗袍やビーズのバッグ、
翡翠や真珠の耳環(イヤリング)に、
滑らかに光る踵の高い靴が流れてきた。
どれも、これも、私の持ち物ではない。
不意に、その群れの中に金魚の様に揺らめいている橙色の旗袍を見つける。
あれは私のだ!
手を伸ばして服を掴み取った瞬間、
周囲から腕がたくさん伸びてきて、私は手足を捉えられた。
「助けて!」
四方から手足を引っ張られ揉みくちゃにされながら、
私は背を見せて走っている車夫に叫ぶが、
そこで財布にはもう金がない事実に気付く。
そもそも、今まで走った車代が正確には幾らなのか、
払えなければどうなるのかも見当が付かない。
「降ろして!」
目まぐるしく回転する光の中、顔を陰にした車夫が振り向いた。
陰になった車夫の顔が灯りの消えた電灯に変わった。
私は人力車の座席ではなくふかふかの長椅子の上に凭れており、
薄青の綿入れでも橙色の旗袍でもなく、
白い洋服の上着にスカートを履いていた。
靴だけは元のボロ靴のままだったが。
夢で良かったと胸を撫で下ろす一方で、
天井の白壁からぶら下がる灯りの消えた電球を眺める内に、
昨日一日の出来事が次々蘇り、思わず長椅子から跳ね起きる。
もう、朝だ。
「蓉姐(ロンジエ)、」
隣室への扉を見やると忘れられた様に半ば開かれていた。
「服の手直しの方は終わりました。」
今度はきっと朝食のお使いを言いつけられるに違いない。
蓉姐はきっと食べる物にもうるさいんだろう。
私の作る田舎料理なんてお気に召すだろうか?
そんな風に思いあぐねながら、
蓉姐と偉哥がいるはずの寝室に恐る恐る近付く。
「あれ?」
寝室には敷布や枕のしどけなく乱れたベッドがあるだけで、誰もいなかった。
「蓉姐?」
二人ともどこに行ったのだろう。
眠りこけている私に呆れ果てて、外に朝食を食べに出たのだろうか?
二人が帰ってきたら、今度は何と言われることやら。
取り敢えず、今出来る仕事として、私は乱れた床の上を直し始める。
二人どころか軽く三人は横になれそうなベッドだ。
白い敷布をピンと伸ばし、二つの枕をあるべき場所に置き直して、ベッド一体に散らばっている髪の毛を拾い集める。
やや赤味のある、栗色の細い毛が蓉姐で、太くて黒い毛が偉哥のだろう。
絡み合った髪の束からは蓮の香りに混じって、椿油の様な匂いがした。
あの二人は多分正式な夫婦ではなく、
情人とでも呼ぶべき関係なのだろう。
混ざり合った匂いから、私はそう確信した。
窓を開けよう。
そのままでいると、縺れ合う二人の匂いで目眩を起こしそうな気がしたので、私は窓辺に向かう。
開け放つと、涼やかな空気や通りを行き交う車輪の音と一緒に、上海の匂いが流れ込んできた。
伸び上がって思い切り息を吸い込むと、急にお腹が鳴った。
昨夜は浴室でお湯を飲んで喉の渇きと空腹を紛らした以外は、
何も食べずにひたすら針を動かした。
お腹が空いて暫くすると、飢えた感覚が麻痺した状態になるが、そんな状況で一晩過ごした。
それが、上海の香ばしい空気でまた蘇った気がした。
「勘弁して下さいよ。」
私はお腹を擦る。蓉姐が帰ってきたら、外に出てお粥を食べよう。
寝坊をしてしまったし、まだ仕え始めて一日だから、お手当てを求めるのは早すぎる。
でも、財布の残りからするとこの朝しか自腹は切れない。
いや、昼食からは私が作れば、その賄いにありつけるはずだ。
蓉姐が戻ってきたら、料理も得意だと偉哥の前でも売り込もう。
大人数分作ればその分だけ、私の食べる分も水増し出来る。
空っぽの腹を抱えて窓から立ち去ろうとすると、
すぐ近くの棚に、小さな写真立てが置かれているのが目に入った。
写真?
私は思わず手に取った。
誰だろう?
日に晒されたせいか少し退色していたが、それは旗袍を纏い、髪を西洋風に縮れさせた女の写真だった。
艶やかな黒い髪、切れ上がった黒目勝ちの目、やや厚めの紅を引いた唇で、嫣然とこちらに向けて微笑んでいる。
豊満な身を包んだ旗袍は、白黒の写真でも一見して豪奢な品と知れた。
蓉姐とは表面的な造作はまるで違うものの、酷く似通った雰囲気を漂わせている。
これは、蓉姐のお母さんだ。私はそう一人合点する。
この匂い立つ様に美しい女はきっと洋人のお妾か何かで、それで緑色の目をした娘を産んだのだろう。
写真の女の、挑みかかる様な微笑も、贅を凝らした衣装も、見れば見るほど、金持ち相手の高級妓女か妾という感じがした。
この写真ではどう多く見積もっても三十路に至らないから、
多分かなり昔に撮った物だろう。
そう推し量ると、急速に、この写真の女はもう生きていない気がしてきた。
「お母様、よくお嬢様を見張って下さいよ。」
私は写真立てを寝室の内側に向けて置き直す。
大事な母親の写真をどうして、わざわざ、色褪せるのを待つかの様に、蓉姐が窓日に晒しておくのか解せなかった。
それとも、あの人もさすがに母親の見ている前で、男と乳繰り合うのは気が引けるのだろうか。
「写真があるだけマシなのに。」
私は母さんの写真を持っていない。
そもそも、田舎の女中が写真なんて名誉な物を撮る機会はないのだ。
「母さん。」
ずっと禁じていた言葉が、口から勝手にこぼれた。
窓からはひっきりなしに車の行き交う音が出入りしていて、
流れ込む風はひんやりと冷たい。
ここの片付けはもうこの位にして、他の部屋にも仕事がないか見てみよう。
先ほど整えたベッドの前を通り過ぎようとして、
通路を挟んだ向かいの箪笥(タンス)の扉が、開きかけたままなのに気付く。
人一人が立ったまま入れそうな大きさだ。
昨夜の旗袍の山はここから出したのだ。殆ど怖いもの見たさにも似た興味で、両の扉を開く。
「うわあ…。」
私は後ずさった弾みでベッドに尻餅をつく。
箪笥の中に隙間なく垂れ下がっていたのは、半袖、長袖、袖無しの旗袍(チャイナドレス)の外、
まるで西洋の女帝でも纏う様な洋服の大群が連なり、今まで見たこともない毛皮の外套も控えていた。その下には、踵の高い靴がずらりと並ぶ。
応接間の旗袍の山は、この箪笥に収められていた衣装のほんの一部に過ぎなかったのだ。
これだけ衣装と靴があれば、春夏秋冬や晴雨の微妙な変化のみならず、
出かける場所や会う相手による着分けも可能だろう。
しかし、一着作るだけでも手間がかかりそうな衣装ばかりなのに、よくこんなに何枚も仕立てられたものだ。
豪奢な衣装の中でも、特に贅を凝らした旗袍の一枚を手に取ってみる。
艶やかでありながら、品を感じさせる朱鷺色の絹。
確かに上質な生地だが、手触りからすると、少し年季を経ている。
「あれ?これ…。」
私は衣装を手にしたまま、写真立てを振り返る。
手に取った衣装にも、写真の女が纏った衣装にも、特徴のある蝶の形の襟飾りが付いていた。
「お古なのか。」
衣装をそっと戻して箪笥の戸を閉じる。蓉姐はどうやら母親の写真ばかりでなく、大枚を叩いた衣装も形見として取って置いているらしい。
母さんの形見と言えばお針道具以外持たない私と、何という違いだろう。
鐘の連続早打ちに似た、けたたましい音が耳に飛び込んできた。
呼び出しだ!
この呼鈴の音は体に良くないと思いつつ、
隣の応接間へ急いで戻る。
「はい?」
右手で取った受話器に左手を添える。
重さはそこまでないが、妙にツルツルしていて、片手だけだと床に落としそうに思えた。
「もしもし、」
聴こえてきたのは、蓉姐ではなく、男の声だった。
「小明(シャオミン)です。」
まだ少年の声が次いで丁重に告げる。
「おはようございます。」
「あ、おはようございます。」
私はどぎまぎして鸚鵡(おうむ)返しする。
何から話せばいいんだろう?
「…蓉姐(ロンジエ)?」
向こうが怪訝な声で問う。
「あ、私、違います。」
「え、」
向こうはそう言うと、急に黙ってしまった。
「あの、ご用件なら…」
私が言いかけた瞬間、相手が早口で答えた。
「悪いな、かけ間違えた。」
ガチャリと音がして、後は梨の礫(つぶて)になった。
私が蓉姐じゃなくたって、話を最後まで聴いてから切ればいいのに。
妙にしょんぼりした気持ちになって、私は受話器を戻す。
蓉姐が戻って来たら、「小明(シャオミン)」から電話が来たとだけ伝えよう。
応接間を見渡すと、卓子(テーブル)の上に、
昨日の繕いかけの卓子掛けが忘れられた様に丸めて置いてあるのが目に入った。
取り敢えずは、あれを終わらせておこう。
電話を離れて二、三歩卓子に向かった所で、
背後でがなり立てる音がまた始まった。
今度こそは、ぶれずに堂々と「小明」と話そう。
私は深呼吸すると受話器に手を伸ばした。
「もしもし?」
「どちら様ですか?」
抑えた声で丁重に問う。
「本当だ。」
戻ってきたのは、「小明(シャオミン)」のではない、ガラガラ声だった。
「違う所にかかるぞ。」
年配としてはこちらも少年の様だ。
「あの、どちら様ですか?」
小明の仲間らしいと辺りを付けながら尋ねてみる。
「てめえ、誰に断ってこの番号使ってんだよ!」
受話器からとんでもない大きさの声が返ってきた。
「てめえのせいで、掛けたいとこに繋がんねえじゃねえかよ!」
耳を放した受話器ががなり立てる。
「落ち着いて下さいよ。私は…」
「つべこべ言わずに、今すぐこの番号変えろ!」
「ですから…」
「この次掛けた時にてめえが出たら、ただじゃおかねえからな!」
ガラガラ声が怒鳴るだけ怒鳴ったかと思うと、ガチャンと叩き付ける様な音がして、電話は切れた。
受話器をへし折りたい様な気持ちで、私は元の位置に戻す。
こちらが訊いても向こうは名乗らなかったのだから、こいつの電話を蓉姐に伝える必要はないだろう。
電話が済むと、今度はシンとした部屋でお腹の鳴る音が響く。
食べたい。
食べたい。
何かを口に入れて飲み込みたい。
ムシャクシャする気分も手伝って、
何でもいいから腹に収めなくては済まない気がしてきた。
食べたい。
食べなくちゃ。
食べるんだ。
呪文の様に頭の中で繰り返しながら、
またも鳴り出した電話に背を向けて歩き出す。
どうせ、またあのガラガラ声だろう。
玄関からこの応接間に来るまで
暗い一間があったから多分そこが台所の筈だ。
昨日の昼飯の残り位は取ってあるかな?
薄暗い一間に足を踏み入れる。
一間の一方の壁は、背の高い食器棚になっていた。
上部のガラス戸の向こうから、整然と並んだ白い陶器で出来た、洋風の小皿や湯飲みが私を見下ろしている。
上が食器棚でも、下の棚には米や調味料や、もしかすると漬物入りの甕なんかを置いているかもしれない。
期待を込めて真ん中の木戸を右から左へ引く。
唐草模様を焼き付けたどんぶり鉢、亀の描かれた大皿…。
どれも立派な品だが肝心の中身がない。
同じ戸を今度は左から右へ引く。
今度は上物の急須に火鍋と窯。
材料無しでは墓石にも劣る。
藁をもすがる気持ちで一番下の棚に手を伸ばす。
「うわ…」
思わず鼻を抑える。
私の苦手な、周家の古い酒蔵に似た匂いがした。
“WHISKY”
“BOURBON”
“CHATEAU-MARGAUX”
大小様々な瓶に貼られている名前からして、どうやら西洋の酒らしい。
紹興酒や白酒を置いていた周家の酒蔵とはもう少し違う香りがするから、
恐らく材料が違うのだろう。
薄暗い中に洋人の字を記した瓶が並んだ様子を眺めていると、
美酒というより毒薬の棚に思えてくる。
瓶に入った毒を様々に調合して、にいっと緑色の目を細めている蓉姐の姿を想像し、思わず棚を閉める。
私を殺すくらい、あの人にはきっと造作もない事だ。
応接間で鳴り響いていた電話の音がピタリと止んだ。
暗い一間のひんやりした床に屈み込んだまま、私は今更の様に寒気がしてくる。
ピンポーン。
玄関から音が転がってきた。
私はビクリと身を起こす。
一間の入口から玄関を窺ってみるが、それきり辺りはシンとしている。
気のせいだったのか。胸を撫で下ろすと同時に、鍵がちゃんと挿してあるかどうか確かめに近付く。
ダン!ダン!ダン!
玄関の扉が続けざまに揺れ、私は思わず飛び退く。
誰かが扉の外にいる!
ダン!ダン!ダン!
私は扉の取っ手を引き寄せたまま思い巡らす。
蓉姐なら、銀の鍵を持って自分で鍵を開けるはずだから違う。
偉哥なら、蓉姐と一緒に来るか、鍵を貸してもらうだろう。
とすると、…?
ピンポーン!ピンポピンポ…
先程と同じ音が早打ち連打で転がってきた。
ダン!ダン!ダン!
「兄貴!兄貴!」
私は錠を外した。
「あいた!」
私は額を押さえる。
扉がいきなり向こうから開いたので、思い切りぶつかった。
正面には、十六、七歳位の、見知らぬ少年二人が立っていた。
二人とも、ポカンと口を半開きにしてこちらを眺めている。
「あなた方はどちら様ですか?」
鍵を開ける前に聞くべきだったと悔やみつつ、私は尋ねた。
「てめえこそ、誰だよ。」
二人の少年の内、太って背の低い方が言った。
椿油と一緒に埃まで塗り込んだ髪に、大きな目玉のギョロついた、ニキビだらけの顔をしている。向き合っていると、何だか汗臭い匂いがした。
「さっきの電話はお前だな。」
あのガラガラ声か!
相手の声音にムッとする。
扉をいきなり開けて私にぶつけておきながら、こいつは謝りもしない。
「人に名前を聞く時はね、」
私はこちら側の取っ手を取ると、思い切り扉を押した。
「まず、自分から名乗るものよ。」
「あいて!」
扉の縁がガラガラ声の団子鼻を強かに打った。
「この…」
鼻を押さえた掌を放して、そこに着いた血を確かめると、ガラガラ声のギョロ目が血走った。
まずい!
私は慌てて扉を閉めようとしたが、その前にガラガラ声が中に突進してきた。
「なめた真似しやがって!」
鼻血で汚れた指先が私の襟元を掴んだ、と思った瞬間、ガラガラ声は羽交い締めにされた。
「やめろ、阿建(アジェン)!」
それまでずっとガラガラ声の背後にいた、痩せこけた蒼白い顔の少年が叫んだ。
「放せよ!」
罠に掛かった猪さながらもがく相棒を、もう一人の少年はか細い腕で押さえ付ける。
その弾みに、洗いざらした様に油気のない黒髪が、蒼白い額にはらりと掛かった。
「女には手を上げるなって、兄貴にも言われただろう!」
「俺は梁曉明(リャン・シャオミン)。さっき電話した『小明(シャオミン)』だよ。」
蒼白い少年は私にそう名乗ると、ようやく大人しくなったガラガラ声を放した。
「こいつは杜建成(ドゥー・ジェンチャン)。阿建(アジェン)て呼ばれてる。」
名指しされたガラガラ声は、こちらを睨み付けたまま、鼻血を拭った。
「俺もさっき電話しただろ。」
「姚莉華(ヤオ・リーホア)です。」
私は小明の目を見据えて言った。
「昨日からこちらでお世話になっています。」
多分これも言うべきだろう。
「姐さんたちからは、『莉莉(リリ)』と。」
「莉莉(リリ)?」
阿建(アジェン)は、馬鹿にした様にギョロ目の太い眉を吊り上げた。
小明(シャオミン)は何故だか寂しそうな顔で、私の足許に目を落とす。
小明の目に釣られて自分の足許に目を落とすと、蘇州から出てきた時の破れ靴が目に入った。
この人は憐れんでいるのだろうか?
まあ、乞食同然で拾われたのは事実だし、今更隠しようがない。
二人の靴を見やると、阿建は髪と同じく油と埃でテカった靴を履いていたが、小明は古ぼけた靴を履いていた。
こいつらだって、私と似た様なものじゃないか。
そう思った瞬間、小明が口を開いた。
「ここに劉偉霖(リウ・ウェイリン)という人は来てないか?」
鼻血がまだ止まらないらしく、顔を上向けた阿建も口を挟む。
「俺らの兄貴なんだ。」
偉哥の本名を初めて知った。
「偉哥なら蓉姐と一緒に出掛けたわ。」
言ってから、私の寝てる間に二人が別々に外に出た可能性もあることに気付いた。
「どこへ?」
小明がまた問う。
「分からない。」
むしろこちらが聞きたい。
「私が起きた時には、二人とも居なかったから。」
「何だよ、頼りねえなあ。」
開きかけたドアの向こうから覗く外の廊下にも響かせる様に言うと、阿建は袖で鼻を擦った。
やっと、血が止まったらしい。
「じゃ、中で待たせてもらおう。」
埃の付いた靴で応接間への廊下をズカズカ進んでいく。
「あ、ちょっと、」
「俺らは何度も来てるから、部屋に入れても蓉姐は怒らないよ。」
小明は言いながら、扉を閉めて、錠を挿した。
「小明、馬鹿はほっとけ。」
阿建が振り向いて言い捨てる。
何も言い返せなくなった私は、二人の後に従って応接間に向かった。
「触らないで!」
応接間に足を踏み入れるや否や、私は金切り声を出した。
「デカイ声、出すなよ。」
阿建は伸ばした手を一度引っ込めたが、苛立たしげに天井を指した。
「人が聞いたら、誤解すんだろ。」
「それは、蓉姐(ロンジエ)の衣装よ。」
上の階、というより他の部屋にはどんな人が住んでるんだろうと思いつつ、私は阿建と小明に挟まれた籐椅子の旗袍の山を指さす。
「んなの、知ってらあ。」
阿建はうるさそうに片手で空を払う仕草をすると、長椅子にドサリと腰掛けた。
小明は、棒立ちのまま旗袍の山を眺めている。
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名無しさんが紹介する星新一の『夜の迷路』 1レス 155HIT 読者さん -
「時をかける少女」の真琴が嫌いです。 1レス 100HIT 小説好きさん -
一夜の夢と私の自由 0レス 145HIT 通りすがりさん -
【意味怖】産まなきゃよかった 4レス 261HIT 初心者さん -
猫と雪ダルマ 2レス 101HIT たかさき (60代 ♂)
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ユアマイエブリシング こちらももしも時間があと1カ月ぐらいあればこちらも再構築が必要なスレで…(流行作家さん0)
437レス 2237HIT 流行作家さん -
ニコニコワイン 457レス 18595HIT 旅人さん (20代 ♀) -
20世紀少年 ミクル様 今まで ありがとうございました。(コラムニストさん0)
387レス 7842HIT コラムニストさん -
音楽図鑑 ミクル様 今まで ありがとうございました。(コラムニストさん0)
103レス 1823HIT コラムニストさん -
喜🌸怒💔哀🌧️楽🎵 🦆〜🩷 (匿名さん0)
91レス 3849HIT 匿名さん 名必
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鯨の唄 3 87レス 601HIT 旅人さん -
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アニポケ没映画3の答えってもしかしてこれじゃ…? 1レス 85HIT 小説好きさん -
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生きていたいと願うのは 1レス 118HIT 小説家さん -
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ドアーズを聞いた日々 500レス 1268HIT 流行作家さん -
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真夏の海のアバンチュール〜ひと夏の経験 500レス 2282HIT 流行作家さん
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鯨の唄 3 まだまだ未完成ですが… この稚拙で誤字脱字だらけの小説を読んでく…(旅人さん0)
87レス 601HIT 旅人さん -
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一雫。 今は離婚して(随分前だけど) 息子も独立 娘とは暫く会えてませ…(蜻蛉玉°)
96レス 3212HIT 蜻蛉玉゜ -
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アニポケ没映画3の答えってもしかしてこれじゃ…? 書いていて気付いたのですが、これって結構BWのゲノセクトと被る部分があ…(小説好きさん0)
1レス 85HIT 小説好きさん -
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神社仏閣珍道中・改 241レス 13650HIT 旅人さん -
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仮名 轟新吾へ(これは小説です) 〔学んだ事〕 人に情けをかけると 後で物凄く、不快な気持になる…(匿名さん339)
500レス 9105HIT 恋愛博士さん (50代 ♀)
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