My Romance
あなたがいれば
他には何もいらない…
月も
海も
星も…
- 投稿制限
- 参加者締め切り
『嫌いだなんて…。
祥子さん、あなたを…
愛しいと思ってます』
彼は戸惑ってはいたが、はっきりと答えてくれた。
『私をここに…心さんのそばに居させて下さい、お願いします』
『…前にも言いましたが、私は仕事以外の事でも多忙です。
今日だって連絡遅かったですし、このあいだはさきちゃんを連れてきてしまった。
私と付き合うと、そういう事になってしまうのですよ』
『構いません』
『祥子さん…私は大切な人が悲しむところを見たくないんです』
『私が一番悲しいのは心さんに会えなくなる事です』
『他の人達の様に、色んな所へ出かけたり出来ないんですよ』
『いいんです。ここに居ますから。
ここに居れば心さん帰って来てくれますよね』
『イベント楽しんだりとか
出来ないときの方が多いんですよ
女性はそういうの大事でしょう?』
要りません。
心さんがいてくれれば
あなたさえいれば
私はなにもいらないんです
…。
心さんは、カップにお湯を入れ、スープパスタを持ってきてくれた。
『祥子さん、申し訳なかったです。もっと早くにあなたに電話すれば良かった。
気付いてはいたんですが、色々立て込んでいて後回しにしてしまいました。私がすぐ電話していればあなたはこんな目に遭わずにすんだのに…』
『心さんのせいじゃないです…。私が勝手に出かけたんですから』
『明日叔母の家まで送りますから
今日はあちらの部屋で休んでください。今シーツ替えますから』
何やってるんだ とか
こんな日に出かけるなんて とか
私を責めるような事は一切言わず
ただ温かく接してくれる
心さんは…
私が思っているよりもずっとずっと
広くて大きい人なんだ…。
シーツを替えた心さんが隣りの部屋から戻ってきた。
『心さん、私は叔母様の家には行きません。心さんに会いに来たんですから』
『私に会いに?
…私は祥子さんから避けられていると思ってました。』
『すみません、拗ねてしまってたんです。私の事、橋本さんに言われた義務感で面倒みてくれていたんだと知って…』
『義務感…それは少し違いますよ』
『心さんが本社に異動にすると、聞きました。
それを聞いて、家を出てきました
心さんに会えなくなるなんて私嫌です。
耐えられません』
『祥子さん、会えなくなる訳ではありませんから(笑)本社に異動になっても相談には乗りますよ、安心して下さい』
『そうではないんです。
相談とか…そんなんじゃないんです。』
せつなくて、苦しくて涙目になる。
部屋に一人になり、やはり寒かったので、お風呂に入らせてもらった。
結局また心さんに迷惑かけてしまった…。
そう思うと自己嫌悪で胸が苦しくなってきた。
お風呂から上がり、部屋着のワンピースに着替え心さんが戻るのを待っていた。
さっきは部屋をみる余裕がなかったが、あらためて周りを見ると
今居るリビングと、隣りにもう一つ部屋があり結構広い。
殺風景だけどキチンと整頓されてて綺麗な部屋だわ…。
ガチャ
そんな事を思っていると、
心さんがもどってきた。
『祥子さん、おなか空いてませんか?』
正直空腹だった.。
『ちょっと待ってくださいね』
彼は菩薩の笑顔であれこれと準備をしてくれている。
『心さん…すみません』
『良かった見つかって…。どうしたんです?雪まみれじゃないですか』
『さっき、転んでしまって…』
『大丈夫ですか?私の家すぐそこですからとりあえず行きましょう』
先に心さんの車に誘導され、私も後に続いて車を発進させた。
慎重に運転し5分程ですぐに彼の家に着いた。
そこはアパートというより、外観が頑丈そうな、コンクリートの5階建てマンションと言った方がよい造りの建物がだった。
空いている駐車場に私の車を停めさせてもらった。
心さんはキャリーバックを抱えた私を見る。
『祥子さんそのカートは…』
『あの…』
『とりあえず中に入りましょう
あれ?どうしたんです?』
心さんは私が足を引きずっているのに気がついたようだ。
『さっき転んでくじいてしまったようなんです』
『それはいけない。私の肩につかまってください』
心さんはキャリーバックを持ち、私に肩を掴まれたまま、エレベーターまで歩いた。
心さんの部屋に入ったら彼はすぐ私にタオルを渡し、お風呂の準備をしたり、ポットでお湯を沸かしたり、まるでお母さんのように動いた。
『寒かったでしょう、大変でしたね』
そう言っただけで心さんは何も聞かず
ホットミルクをテーブルにおく。
『管理人さんに駐車場の事情を説明しに行ってきますから
その間にお風呂に入ってて下さい。着替えは持ってますね?』
『はい』
心さんは頷き部屋のドアを閉めた。
少し広い道の路肩に車を停め
携帯の着信を確認する。
さっきのはやはり心さんだった。
心さん…出てくれるかな…。
心さんの携帯に発信する。
♪♪♪♪♪ ♪♪♪♪♪
【はい、祥子さん?なかなか出られずすみませんでした。】
『心さん、こちらこそ遅くにすみません。あの、私、道に迷ったみたいなんです』
【道?道って外にいるんですか?今どこなんです?】
『雪でよく場所がわからなくて…。△△橋を渡ってそれから道を曲がったんですけど…』
【△△橋?なんだってまたそんな所に…。迎えにいきますよ、ここから近いですから】
『心さん、今どこにいるんですか?』
【家にいますよ、叔母の家ではなくアパートのほうです。橋を渡ってすぐ曲がったんですね、コンビニの辺りですか?】
『いえ、コンビニはないです』
【じゃあ…ラーメン屋さんの近くですか】
『わかりません…普通の家ばかりみたいです。周りがよく見えなくて…』
マップで確認しようと見てみたが、
気が動転してしまい、うまく読めない。
私は筋金入りの方向オンチだったのだ。
【落ち着いて下さい、何か、何か見えませんか】
何かないかと言われても暗いし、雪だし、すぐ横にレオパレス風のアパートと、戸建ての家が並んでて、目印になるようなものが見付けられない。
ええと…。
頭を抱えていたら、後ろから車が通り過ぎた。
あ、そうだ、後ろを見てみよう
車から降り、雪の中を少し歩くと青い柵で囲われた広めの公園が見えた。
『心さん、青い柵の公園が近くにあります…』
【青い柵…。ああわかりました。◯池公園でしょう。
すぐ行きますからそこから動かないで下さいね】
ちょっと道路に積もってきたなあ。集中して運転しないと…。
心さんにも電話したいけど
ハンドルが離せないこの状態からはかけられない。
金曜だし、雪だし、道も混んでる…。F病院まで普通ならあと10分くらいなんだけど、こんな状況じゃいつ着くかわからないわ。
車の中から降る雪を見つめ考える。
しばらくすると
大きい橋に差し掛かる。
一段と激しく吹雪いてきた。
ヤバイなあ…。雪道の橋は要注意だって、ヒロさんがよく言ってた。
橋の上は周りに建物とか何もないので
吹雪が車を直撃する。
なにこれ…。真っ白で前が見えないよ…。
前の車のテールランプだけを頼りに車をゆっくり進ませる。
恐怖と緊張の中
なんとか橋を渡りきると前の車が車線変更なのか、右にウインカーを出している。
見えにくいのを目を凝らして覗きこむ。
事故みたいだわ…。
確か左の道からも行けるはず。
事故渋滞を避けるため大きい道路からハンドルを左にきり、脇道に進んだ。
ここら辺りから迂回できると思ったんだけどなあ。
自分の勘のみを頼りに暗い夜の雪の中
知らない道を進んでいく。
あれ?
なんで信号に出ないの?
2回右折をしたが、もとの道路へ出られる気配がない。
右も左も見覚えのない場所。ここが何処なのか全くわからなくなってしまった。
もしかして迷っちゃったのかしら…。
『気にしてくれるのはありがたいけどヒロさんが心配することではないわ。
確かに私、甘えん坊かもしれない。でも自分で考えれるし自分で決めれるし、行動できるよ。迎えに来てくれなくったってこっちから行けばいいんだし、大丈夫』
『そうか.…』
ヒロさんはわたしの顔から視線を外す。
『私、ヒロさんを好きになって良かったと思ってる。ヒロさんのおかげでちょっとだけ明るくなれたし
感謝してるよ』
『それは祥子が元々持ってたものだ、俺のおかげじゃない。
わかったよ。もし何かあったら連絡してくれ。必ず行くから』
『ありがとう』
『じゃあな』
ヒロさんは自分の車に戻り、私も自分の車を発進させた。
今度こそ本当にさよなら…
ヒロさん
ありがとう…。
住宅街から大きい道路へ合流する。
心さんのアパートはF病院の近くだと以前聞いた事がある。
【ヤツはおまえの事気にしてないんじゃないのか】
ヒロさんの言葉が胸に突き刺さる。
何度か電話をしても
まだ心さんからなんの連絡もない。
信号待ち。不安な気持ちを打ち消すかのようにかぶりを降り、
電話がかかってくることを祈りながらとりあえずF病院まで行こうと
停車中のクルマの中で考えてた。
信号が青に変わり
雪が少し積もった道路に気を配り
ゆっくりアクセルを踏んだ。
♪♪♪♪♪
『あ』
カバンの中で携帯が鳴ってる。
心さんかもしれない、いやきっとそうだわ、
でも、運転してるし出れない…。
心さん、心さん…。
♪♪♪♪♪ ♪♪♪♪♪
着信音は鳴り続けているが、運転を中断することができない。
そのうちに着信音が止んでしまった。
やるせない気持ちのまま、ハンドルを握りながら心さんを想っていた。
真綿のような雪の降りがだんだん激しくなってきた。
『何?私もう行かないと…』
『俺が言うのも何だが、信用できるヤツなのか?そいつは』
『信用してるよ。彼氏って訳じゃないけど』
ヒロさんは真剣な目で私を見つめる。
『付き合ってないのか?』
『…これから告白しに行くんだよ』
『こんな日に出掛けさせるなんて、おまえの事気にしてないんじゃないのか』
『仕方ないんだよ…。
なかなか連絡つかなくて』
『…そんなヤツで大丈夫なのか?
祥子、俺はわかるんだ。おまえは寂しがりやの甘えん坊だ。それに天然で素直すぎる』
『今更何言ってるの?』
『そんなおまえに俺は酷い要求をしてしまった。心のどこかでおまえを見下していたんだ。
俺の言う事なら何でもきくだろうと…。
こんな日に迎えにもこないで、そいつも俺と同じようにおまえの事を甘くみてるのと違うか』
『ヒロさん…』
キャリーバックを載せようと後部座席のドアを開ける。
『祥子!』
駐車場の入り口あたりで車の中から私を呼ぶ声が聞こえた。
『ヒロさん…。どうして…私連絡してないよ…』
私の元まで歩いてきたヒロさん。
『待てなかったんだ。おまえに会いたくて、迎えにきた』
『やめて…。ヒロさんとはもう付き合えないよ。私、行くところあるんだから。帰って』
『祥子、悪かった。許してもらえないのはわかってる。ただどうしても直接謝りたかった』
『…』
『やり直せないのか、俺たち。
もう、本当にダメなのか?』
『…ヒロさん、私、好きな人がいるの』
『その荷物、そいつの所へ行くのか…』
『そうだよ』
『…わかったよ。そこまで思ってる相手なんだな…』
『ありがとう、ヒロさん』
『祥子、どこまで行くんだ?
雪降ってるし、送っててやるから乗れよ』
『え?いいよ、自分で行くから』
『こんなに雪降ってるんだぞ、大丈夫なのか?おまえ、雪道運転したことないんじゃなかったか?雪の日は怖いからいつもバスだって言ってただろ』
『大丈夫だよ、スダッドレス履いてるし、まだ積もってないし、急いでいくから』
『急いだらダメなんだ。遠慮するなよ。もう引き止めないから。最後くらいいい顔させろよ』
『ヒロさん、ありがたいけど自分で行きたいの。彼の所へ行くのに、元彼に送ってもらったなんて事実はつくりたくないんだ』
『固いな、相変わらず』
『ごめんなさい…。
ヒロさん、もう車に戻って、髪に雪が一杯だよ、風邪ひいちゃうよ』
『…祥子、あのな最後だからよく聞いてくれ』
キャリーバックを手にし、母のいる居間のふすまをあけた。
『お母さん』
こたつに入りテレビを見ている母は返事をせずにチラと振り返る。
『今日限りでこの家を出て行きます。今までお世話になりました』
そう言い放ち、玄関へと向かった
『祥子!』
聞き慣れた怒号。
もういい。どれだけ怒鳴ってくれても。
私は振り向かず、ドアを開ける。
その時、母の口からまったく予想しなかった言葉が出て来た。
シアワセニナルンダヨ
脳が凍りついた。
嘘だ。母はそんな事を言う人間ではない。
私が聞き間違えたんだ。
ドアを閉め、ジャケットの袖を通しながらキャリーバックを引き、エレベーターのボタンを押した。
お母さん…。
さよならお母さん…。
エレベーターから降り
涙をこらえながら駐車場へと歩く。
チラチラ雪が降ってきた。
胸のざわめきを悟られないよう、必死で平常心を保ちながら仕事をする。
もう…やだ…。
これ以上心さんと気持ちも
物理的にも、離れたくない…。
そんな想いが 時間が
経つにつれ大きくなっていく。
定時になるのがいつもの何倍も待ち遠しく、幾度となく時計を見て気持ちばかりが焦っていた。
(伝えなきゃ、自分の気持ちを…。)
やっと仕事が終わり、急いで車の中で心さんの携帯に電話をしたが、
繋がらない。
(まだ、仕事中で手が離せないんだ)
そう思いながら、家に着いてから
再度かけてみた。
やはり電話には出ない…。
どうしたの…心さん…。
私の事、避けてるの…。
時間はもう9時を過ぎている。
もう、これしかない。
私は意を決して、旅行用のキャリーバック押し入れから出し、
引き出しから、ふだん着る服や下着など思い付くままに
必要なものを詰め込んだ。
【心くんは4月から本社へ異動するのよ】
『えっ、本社へですか』
【その様子じゃやっぱり聞いてなかったのね。
彼にはこちらの仕事も覚えて貰うから】
『…』
突然聞かされた話に驚くばかりで.うまく橋本さんに返事が出来ない。
【そういうことだから。じゃあ、電話きるけど、一色さんに折り返し電話するよう忘れずに伝えておいてね】
『はい』
静かに受話器を置いた。
『祥子ちゃん、ちょっと〜』
『はい』
事務室に入ってきた川村さんの呼ぶ声に
かろうじて反応した。
倉庫で業務をこなしてはいても
先ほど橋本さんが言った言葉が頭の中を巡っていた。
いつも私を見守ってくれた心さんがここから居なくなってしまう…。
緊張しながら受話器から聞こえる橋本さんの声に
意識を集中させた。
【あくまで私の感覚的なもので確証があったわけじゃないんだけど、入野から迫られた時、家に郵便物が届いたって言ってたわよね】
『はい』
入野課長から迫られた数年前を思い出した。
【その時、あなたはお母さんに怒られたって言ったのよ】
『はい。そう説明したと記憶してます』
【普通は娘がそんな目にあってたら、心配するわ。怒りはあなたに向かない。
贈ってきた人に向くものだから。
あなたのお母さん、ちょっと個性的な人かと思ったのよ】
『…』
【もっともそれだって私の思い過ごしかもしれなかったけど、シロタくんは虐待やDV問題に詳しいから
念の為気にかけてあげてって頼んどいたの。余計なお世話だろうけど
何もなければそれはそれでいい訳だしね】
『私は仕事で困ったことがあった場合に、広田さんに相談しなさいと言われたのだと思ってました』
【仕事は一色さんや川村さんがいるからね。
でも、あなたも心くんなもなんだかお互い遠慮し合ってなんだか歯がゆいわね(笑)
何やってんだか】
『すみません…。私もどうしてこうなってしまったのか、わからなくて』
【仕方ないわ。これは本当は言ってはいけないのだけど、心くんにあなたを託した責任は私にあるのだから…】
『橋本さん、心さんに何かあったんですか?』
不安な気持ちが心を覆った。
噂をすればなんとやら
一瞬たじろいだ。
【安藤さんね、お疲れ様。一色課長いる?】
『はい、お疲れ様です。課長は会議中で4階には居ないんです。戻り次第折り返し電話するよう伝えますが…』
【そうね、そうしてもらえ
る?携帯のほうにと伝えてね。っと…安藤さん、今事務室あなた1人?】
課長始め社員皆さん会議で、私はフロアの留守番だった。
なので当然事務室でも一人だ。
『はい』
【ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかしら?】
胸がどきりとした。
『はい』
【シロタくんのことなんだけどね】
『え?はい』
【最近ちょっと様子がおかしくてね。
ちゃんと仕事はしてくれてるんだけど、たまに集中力が切れてぼうっとしてるというか、心ここにあらずな感じがする時が多いの。
彼のあんな様子はじめて見たからきになってね。
なにがあったか安藤さん知らないかなって思って】
『…いえ、わかりません、私…』
こないだ不動産屋さんへいった帰りに言った事を気にしてるのかな…。
まさかね、私の事なんか
【そう、前はあなたの事を楽しそうに話す時もあったんだけど、最近はこれっぽっちも言わないから、あなたと何かあったのかなって勝手に思ってたの。ごめんなさいね、変なこと聞いちゃって】
『いえ、あ、あの橋本さん、聞きたい事があるんです、今大丈夫ですか?
社内ではないんですよね』
【出先よ、1人だから少しならいいけど何?手短にお願いできるかしら?】
単刀直入に質問することにした。
『橋本さん、私と母が良い関係ではないのをどうしてわかったんですか?』
【ああ、それが聞きたいの?】
『ん〜余程気をつけて祥子ちゃんを見てて、感じたのかしらね』
『…』
そうとは思えない。
橋本さんはデスクにいない時が多いし、何より上の人との仕事で忙しく、私を注意深く気にかけるなんて出来ないし、する必要もない。
『とにかくちゃんと心さんにまたよろしくお願いしますって言った方がいいわよ。時間が経つほど言いにくくなるから』
川村さんは、話し終えると玉子焼きに箸をつけた。
『はい…』
言いたい気持ちはあるのだけと
最近心さんは、本社に出向くことが多く搬入出庫口にはいない時が多いのだ。
どうしよう
やっぱり電話したほうがいいのかな…。
あれこれと
思いあぐねているあいだに金曜日になってしまった。
土曜日にヒロさんが迎えに来ると電話で話したことが思い出される。
本当に明日来るのかしら…。
着信拒否してるのに、連絡どうするつもりなんだろう…。
ぼんやりと考えながら昼休憩から4階の事務室へと戻ってきた。
RRRR……
電話だ。
『はい、物流4階です』
【もしもし、本社橋本です】
『祥子ちゃんの話しからすると、
橋本さんは仕事 というより私生活で
困ったことがあったら心さんに相談しなさい
って言いたかったんだとおもうの』
『はい、私は最初は仕事の事を相談しなさいって意味だと思ってました』
『橋本さんが心さんに祥子ちゃんを託したのは
心さんが事情のある人を支援しているのを知ってたからなんでしょうけど
祥子ちゃんがお母さんとの関係が良くないことを
どうしてわかったのかしら』
『心さんは私は自分に自信がない感じがするからって言ってましたけど
橋本さんもそう感じたのかもしれません』
『それだけ親との関係に疑念を持つかしらね…。
祥子ちゃん、何か家の事情を橋本さんに話した?』
『いいえ、本社でしつこくせまってくる人の事は相談しましたけど…』
私も川村さんも箸が止まっている。
今日は西垣さんは休みだ。
川村さんだけなら話していいかもしれない…。
私は
心さんは橋本さんに頼まれたのが理由で
私の事を面倒みていたのを知って、少しショックだった事と
それを気にして
今までありがとうございました
などと、もう気にかけてもらわなくても良いと受け取られてしまうような言葉を言ってしまった事を
話した。
『そうだったの…。でも橋本さんに言われた【だけ】で祥子ちゃんを面倒見ていたとは限らないと思うわ』
『心さんは、
私が橋本さんに頼まれたからですかと
聞いても否定しませんでした…』
『それはその事も理由だからじゃないの?祥子ちゃん、
心さんとはもう関わりがなくなってもいいの?』
『いえ、そういうわけでは…』
『そんなはずはないわよね(笑)、 このあいだはあんな事をいってしまった
けど、また色々教えて下さいって言えばいいのよ』
『でも、いまさらそんなこと…』
『まあ、祥子ちゃんがそれでいいなら無理とにとは言わないけど』
『…』
『でも変よね』
『え?何がですか?』
(遅いよ…ヒロさん…)
通話の切れた携帯を見つめながら思う。
プロポーズの言葉が本心なのかどうかわからない。
ヒロさんは私が必要だと言ってるけどそれだって自分本位だ。
私の気持ちなんて考えてはいない…。
私はもう以前のようにヒロさんを好きにはなれない。
そのことをヒロさんはわかっていない。
私の気持ちは…
多分違う人に向いている。
でも肝心のその人は…
***
数日後
昼休憩
食堂にて川村さんと話していた。
『そういえばアパートは見に行ったの?』
『はい、でもちょっと自分が思ってたのと違ってて、そこは止めました。川村さん、不動産屋さんに知り合いいらっしゃるんでしたよね、紹介してもらいたいんですけど…。お願いします』
『いいけど、心さんと探すんじゃなかったの?』
『…』
『どうかしたの?』
『何言ってるの?冗談言わないで』
【本気だ。祥子が電話してきたのだって、まだ俺に気持ちがあるからじゃないのか?】
『…』
【最初はおまえの事忘れようとした。でも出来ないんだ…。何をしててもおまえの顔が浮んで消えない…。
つまらない…祥子がいない
おまえに会えない毎日は虚しくてたまらない。祥子、俺にはおまえが必要なんだ…。】
『無理だよ…』
【もう二度と裏切ったりしない。おまえを悲しませない。約束する】
どうしてそれを信じられるというの…。心の中で呟く。
【…祥子、信用できないのも無理はないと思う。俺が悪いんだから。だから出来るだけの事をする。おまえの望むことは…なんでもするつもりだ】
『ヒロさん…待って…』
ひとり話をまくし立てるヒロさんにたじろぐ。
【すまない…。焦っちまって…。
いきなり結婚とか、驚くよな…。祥子、前行った○○湖、覚えてるか?】
湖…..、覚えている。ホテルの窓から見えた、海と星が綺麗だった…
【もし、俺の言った事受けてくれるなら
またそこへ行こう。土曜日に迎えに行くから
それまでに決めて欲しい】
『行かないわ、私』
【待ってるよ、祥子】
そう言って彼は電話を切った。
久しぶりに聞いたヒロさんの声に
なつかしさはあったが、以前のようなトキメキはなかった。
【元気か?】
『うん。ヒロさんは?』
【元気だよ】
『お花ありがとう。でも、もうこんなことしちゃダメだよ。
彼女にわるいじゃん』
【祥子、電話してくれてありがとな。
もうかけて来ないと思ってた】
『お花のお礼言いたかっただけだよ。もう切る』
【待って、話し聞いてくれ】
『…』
【おまえにこんな事いえる立場じゃないのはわかってる。
だけど、やっぱり戻ってきてほしいんだ】
『出来ないよ、そんなこと…』
【あの時はすまなかった…。
俺はどうかしてたんだ…。あれからお前のこと、忘れようとしてもどうしても出来なかった。
彼女とも別れた…】
携帯からの聞こえてくるヒロさんの話を
冷めた思いで耳を傾けていた。
【…祥子…】
【…俺と結婚してくれ】
一瞬耳を疑った。
『え?』
夜もだいぶ遅い時間になってきた。
そろそろ帰ろうかな…
2軒目のカフェを後にし、車で家に向かった。
市営住宅に着き、車を停めエレベーターに乗る。
家の前の扉まできたら
そこには再び、私にの好きなバラの花束が置いてあった。
(また…ヒロさんだわ…)
今度はヒロさんを探すことはせず、花束を持って家に入った。
母はもう寝息をたてている。
大きめのコップに水道の水を入れ、そこにバラを生けた。
そっと自分の部屋にはいり、電気を点けテーブルの上にバラを置く。
もう、心さんには電話できない…。
ピンクのバラを見つめ、ふと考える。
ヒロさん、元気でいるのかな…。
携帯を取り出し履歴を見る。
お礼だけ、言おうかな…。お花もらったんだし…。
自分に都合の良い言い訳が頭に浮かぶ。
ヒロさんの携帯の番号を押した。
トゥルルルル…
『はい、もしもし』
『…』
『祥子か?』
『うん…』
『わかりました』
心さんはそう答え、いつもの菩薩の笑みで頷ずく。
いつもは癒される、見慣れた優しい表情が
今日ばかりはとてつもなく哀しく感じられ
もうどうしたらよいかわからない。
私は何も話す事が出来ず、彼と同じようにさきちゃんを見守っていた。
その帰り
駅まで車で送ってもらった。
『ありがとうございました』
お互い軽く会釈をし、車のドアを開けた。
後部座席に座っているさきちゃんは私にバイバイと小さく手を振ってくれる。
『さきちゃん、バイバイ』
この後も心さんと一緒に居られるさきちゃんが心底羨ましかった。
軽い放心状態の私はどこへいくあても無く、夕暮れの街の中
ぷらぷらと彷徨っていた。
カフェへ行っても、洋服を見ても
『わかりました』
と答えた心さんの声が耳に残っていて
気分は晴れることはなく、
ただ家に帰るのを遅くする為にだけ、時間を潰していた。
『んっと…』
彼はしばらく考えてこんでから口を開いた。
『最近忙しいんですか?お昼に搬入口に来ないですし』
『…心さん』
『はい』
『いつも私のことを気にかけてくれて有り難いと思っています。
私のことを心配して色々して下さるのは橋本さんから頼まれたからしているんですか?』
『…』
心さんは何も答えず無言のままだ。
否定…しないんだ…。
時間が経つにつれ
心の中がもやもやし、イライラしてきた。
『忙しいのにお世話かけてすみませんでした。私大丈夫です。子供じゃないですし、不動産屋も今日でだいたい雰囲気わかりましたから、もう自分で行けます。
今までありがとうございました』
ちょっと待って 今までって
どうしてこんな事言ってしまうの?本当はもっと言いたい事があるのに…。
心さんは私の方を見ず ハンモックを揺らす
さきちゃんに視線を向けていた。
『いらっしゃいませ、お待ちしてまた』
地元で大手の不動産屋へ出向いた。
『あの、お客様、1kの部屋をご希望と承っておりますけども…』
中年の女性営業係が私達を見て
不可解な顔で訊ねる。
『ああ、私はただの同行者ですので』
淡々と答える心さんは
さきちゃんと手をつないでいる。
3人を端から見たら、子連れの若夫婦と思われても無理はない。
私は恥ずかしかったけど嬉しい気持ちも否めなかった。
その日は午前中2件回ったのだが、ちょっとピンとこない所もあったので、さきちゃんの事もあり一旦引き上げる事にした。
不動産屋から駅に向かう途中で、昼食がてらイヤンモールに寄る。
キッズスペースでさきちゃんを遊ばせ、私と心さんはそれを見守りながら椅子に腰掛けた。
さきちゃんを見守る優しい表情の心さん…。
『あの…心さん…』
『お兄ちゃん!』
さきちゃんがハンモックの様な遊具から呼びかける。
『少しずつ言葉が出るようになってきたんですよ、さきちゃん』
心さん…凄くうれしそうだ。
そんな顔をする彼に今自分が思っていることを聞くのは、ためらってしまう。
でも…
やっぱり、ハッキリさせたい。
『祥子さん』
あれ、向こうから話しかけてきた。
来たメールを見ながら考えた。
ここのところの私の態度でおそらく心さんは、自分が距離を置かれているのに気が付いているだろう。
しかし彼の事だから明日私と会ってもいつものように、大人の応対をすると思う。
心さんに聞いてみたい。
橋本さんに言われたから私に親切にしたのか、それとも…。
【はい、行けます。よろしくお願いします。】
メールを返した。
当日
駅前で待っていたら、心さんが来てくれた。
『すみません、ありがとうございます』
助手席に乗ろうとドアを開けて少し驚いた。
『あ、さきちゃん…』
後部座席にシートベルトをつけたさきちゃんが座っていた。
『すみません、叔母が急に用事が出来てしまって、さきちゃんも一緒にお願いします』
『はい、じゃあ後ろの座席に座りますね』
さきちゃんの隣に座り、車は動きだした。
赤いポシェットを手で触っているさきちゃんを
可愛いと思いながらも
心さんと話をするのにちょっと厄介だなと、正直なところ思ってしまった。
(私って感じ悪い…)
後悔の気持ちを胸に車へ乗り込み、倉庫へ向かう途中考えた。
心さんは私に興味があって親切にしてくれたワケじゃなくて、橋本さんに頼まれた業務命令として面倒みてくれていたんだ…。
少しでも私に好意がある気持ちから相談に乗ってくれてるのかと、勝手に思っていた。
何という自意識過剰で痛い女なの。
でもって軽く触れただけとはいえ、自分からキスしたりして、勘違いも甚だしいわ。
今までの自分の行為に対して一気に恥ずかしさが込み上げてくる。
これから先どんな顔して心さんに会えばいいの…。
それから数日は
心さんの姿を見ても挨拶程度で、昼休みに搬入口にも寄らなくなってしまった。
そして物件を見にいく前日
心さんからメールが来た。
【祥子さん、明日行けますか?大丈夫ですか?】
『いいえ、広田さんはお見掛けしてません。あの、橋本さん、私がアパート探していること広田さんから聞いたんですよね…』
『ええ。あなたが流通センターに異動になったとき、心くんにあなたの事、頼んでおいた訳だし。あら、この話ししなかったっけ?』
『え?』
『橋本さん!』
村井部長が奥の営業部からやってきた。
『はい、部長今行きます。
ごめんなさい、安藤さんまたね』
橋本さんは村井部長と話ながら奥へと行ってしまった。
玄関フロアで一人たたずみ考え込んでしまった。
橋本さんから
【困ったことがあったら広田さんに相談するといい】
と言われたことは覚えている。
だが橋本さんが心さんに、私の事を頼んでおいたとは聞いていない…。
心さんは橋本さんから私の事を頼まれ、それを承知したってことなの?
じゃあ…
入口自動ドアか開いた。
『あ、祥子さん』
スーツを着た心さんがこちらを見て
いつものように微笑む。
私は軽く会釈をし、無言ですぐ
その場を後にした。
立ち去る背中に心さんの視線を感じていた。
『あ、いた…ん?』
心さんは倉庫の中でフォークリフトに乗り、年配の男性と話込んでいた。
私にも気付いていないようだ。
(取り込んでるみたい…。今日は話しかけないほうがいいな)
話かけずそのまま食堂に向かう。
『祥子ちゃん、えらく早いじゃない。心さんいないの?』と、西垣さん。
『どなたかと話し込んでるみたいだったから遠慮しました』
『今日は初出荷だから仕方ないわ。久しぶりに会えたのに残念だったわね。』と、珍しくコンビニ弁当の川村さん。
『あ、はい』
本当はこないだ会ったばかりなんだけど…。
『今年は家出られそう?』
川村さんが、心配そうに私に聞く。
川村さんと西垣さんには、おおよその家の事情は話してあった。
『はい、近々物件見に行く予定なんです』
『そう…私も知り合いに不動産屋さんいるから、もし良かったら紹介するから言ってね』
川村さんも心さんも私のために申し出てくれて、すごくありがたかった。
(そうだ…家を出るのは私の長年の夢だったんだ。色恋の事ばかり考えてないでもっと自立にむけて頑張らなきゃ)
来たるべき自立する日を想像し、箸をぎゅっと握りしめながら私は気持ちを奮い起たせた。
正月休みが終わった。
物流センターの休みは短く、出荷の都合で4日から出勤である。
心さんとどんな顔して会えばいいんだろう….。
今更ながら自分がとんでもない事をしてしまったと自覚した。
『祥子ちゃん、あけましておめでとう、今年もよろしくね』
『あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします』
社員、パートの方と新年の挨拶を交わし、いつものように仕事を始めた。
いよいよ昼休憩になってしまった。
ダウンを羽織り、エレベーターを降りて外に出る。
搬入口に行かないのも、余計に意識しているみたいで、またやっぱり心さんが気になりいつもの場所へ足を向かわせた。
(あれ?いないわ….。逃げちゃったのかしら)
搬入口付近を見回した。
『謝らないで下さい。私、心さんが思っているほど…』
『はい?』
玄関で靴を履き、お辞儀をした。
いつもの菩薩顔で微笑む彼だったが
見慣れたその顔よりも
つい5分前に私を見つめた
あの瞳が忘れられなかった。
もう一度あの瞳で見つめて欲しい…。
そう感じた瞬間、
持ってたカバンが手から落ち、心さんの頬に両手をあて
自ら唇を合わせた。
その温もりを感じたのは0.何秒。
ほんの、ほんの一瞬の出来事で
頭で考えてした事ではなく、体が意識する間もなく動いてしまったのだった。
『…ただ、からかっただけです。
ごめんなさい。でもこれであいこですよね』
『…』
捨てセリフのように彼に言うと急いで玄関を出て、車を発進させた。
車の中で私は、超高速の心拍と羞恥を感じながら
黙って私を見つめる心さんの
あの吸い込まれそうな瞳を思い出していた。
(だから…何だと言うの?自分の事は好きになるなと?)
『心さん、さっきのは…』
『あ…あれは、祥子さんがあまり無邪気だから、ついからかってしまったんです。申し訳ない…。
あなたに、良からぬ事をしようなんて、思ってませんから安心して下さい』
(それって、ちょっとひどくないですか?あんなにドキドキしたのに…)
すこし気分を害したのが心さんにはわかったようだ
『すみません、怒っちゃいましたか?』
『いえ、そんなことないです。えと、そろそろ私帰りますね』椅子から立ち上がる。
『祥子さん…』
心さんはバツがわるそうな顔をしていた。
からかっただけって本当なの?
わからない、心さんの気持ちが…。
カバンを持ち玄関に向かう
『今日は来てくれて本当にありがとうございました。あ、来週の土曜日の件また連絡しますから』
来週土曜日、物件を一緒に見に行く約束をしたのだった。
『こちらこそ、またご馳走になっちゃって、叔母さんとさきちゃんによろしくお伝え下さい』
『わかりました。さっきは本当に失礼な事を…』
『お茶入れますね』
和室から戻った心さんは、電気ポットをセットする。
『私、やります』
『いえ、座ってて下さい』
いつもの菩薩顔で
立ち上がろうとした私を手で制止する。
(普段の心さんに戻ってしまったわ…。続きはない…のかな)
『祥子さん』
『はい』
ドキドキがやっと落ち着いてきた。
『私が叔母に育てられた事は以前話しましたよね』
『はい、聞きました』
『両親に捨てられた私を叔母は引き取り可愛がって育ててくれました。だから今叔母が私を必要としているのならば、出来るだけ応えたいんです』
『…』
『祥子さんは若いしお綺麗です。
あなたを好いてくる人は沢山いるでしょう。しかし叔母の助けになる人物は私とか、あとは限られた人しかいないんです』
心さんはお茶が入った湯のみを私の前に置いた。
『今もこれからも、叔母の手伝いをやめる気はないんです』
私は
出された湯のみ茶碗から立ち昇る湯気を 、ぼんやりと見つめていた。
『ダメですよ、うら若き乙女がDTなんて口にしては(汗)』
『じゃあ何て言えばいいんですか?これでもオブラートに包んで言ったつもりなんですけど。ハッキリ童貞って言ったほうがわかりやすいですよね、やっぱり』
『祥子さん、わかりやすいとかの問題ではなくて…ええと』
『人づてに心さんは恋愛をしないと聞いたものですから…DTかなと…』
心さんは冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し一口飲む。
『今迄恋愛経験無かったわけでないんですよ。ただ、叔母の手伝いや色々してると彼女に恋人らしい事がしてあげられなくて、随分寂しい思いをさせてしまいましたから』
『だから最初から恋はしないと決めてるんですか?』
『…好きな人を不幸にしてしまうのは本意ではありませんから』
心さんは
何かを思い出すよう表情をしている。
『でも…でも…
恋って、しないと決めてそれで済むものですか?
決めたら好きな人って
出来ないんですか?』
心さんは返事をしてくれなかった。
私と心さんはキッチンに戻り洗いものの続きをした。
『年末にかけてずっと私とばかりといるのでさきちゃんも飽きてしまって…。本の読み聞かせとか上手に出来ないんで、さきちゃんは怒るし参っていたんです。いや、本当に助かりました』
心さんは食器を洗ったスポンジを手でぎゅっと絞った。
『そうでしたか、お役に立てて嬉しいです』自然と笑顔になる。
布巾で拭いたお茶碗。どこに片付けるかわからないのでとりあえず
テーブルの上に置く。
『もう気づいてるかもしれませんが、さきちゃんは叔母の子ではないんです。事情があり少しのあいだここで預かっているんです』
『そうなんですね…』
何となくだがそんな気がしていた。
『さきちゃん最初は情緒も安定しなくてたいへんでしたが大分落ち着いてきたんですよ』
さきちゃんの事を話す心さんは慈愛に満ちていてまさしく菩薩のようだ。
だが、年末年始このような過ごしかたされてるとしたら、なかなか女性とはご縁がないなのかもしれない。
だから恋愛しないのかな。
でも恋愛《出来ない》
ならわかるけど、しないっていうのはどうなんだろう。
片付けが終わり、心さんとはテーブルを挟み、住宅情報誌などで物件の相談をしてもらっていた。
だがやはり
佐織さんのあの
『心さんは恋愛をしない』
の一言かひっかかっていた。
そのもやもやに辛抱が出来ず
とうとう聞いてしまった。
『心さん』
『はい?』
『心さんはDTなんですか?』
『ち、違いますよ!』
即答された。それに何故か怒ってるわ。なんで。
玄関を開けると
心さんとさきちゃんとワンコが出迎えてくれた。
『いらっしゃい、すみません新年早々呼びつけてしまって』
心さんは恐縮していた。
『いいんです、全然ヒマなんで笑』
中尾さんは外出しているようだ。
『さきちゃんが、祥子さんと遊びたいと、うったえるものですから…』
当のさきちゃんは心さんの後ろに隠れている。
けれど
そんな風に思ってもらえてすごく嬉しかった。私でも役に立つことあるのかな。
秋に来た時と同じように、ボールで遊んだり、さきちゃんが持ってきた本を読んだりしていた。
心さんは、夕食の鍋の用意をしているようだったので、今度は手伝った。
夕食を食べ終わり、本の続きを読んでいたら、さきちゃんはソファで眠ってしまったので心さんはリビングの隣の畳の部屋に、布団を敷いてさきちゃんを寝かせた。
すぐ横のクッションの上にリンが来て、体を丸めていた。
まるでさきちゃんのボディーガードのように。
『うふ…可愛い…』
私と心さんはさきちゃんが眠ったのを見届け戸を閉めた。
慌しく年末が過ぎ
年が明け、お正月
母は兄の所へ行っている。
兄は恋人と同棲をしているのだが、お正月は彼女が田舎の実家に帰っているので、そのあいだ母が遊びに行っているのだ。
母のいない家はとても快適で
久しぶりにゆっくりと過ごすことができた。
昼下がりに正月番組を観ていたら、携帯が鳴った。
トゥルルルル…
心さんからだった。
『あけましておめでとうございます』
どちらからともなく新年の挨拶をかわす。
『祥子さん、お願いがあるんですが…』
心さんが私に頼み事?
何をおいてもきかなけばならないでしょう。
『はい、何ですか?』
ドキドキ胸が高鳴るのがわかる。
『えっと、実はですね…』
心さんから話を聞いて、私は心さんの叔母さんの家へと車を走らせた。
『素敵なご夫婦ですね』
私は二人を見つめながら心さんに話しかけた。
『ええ。三島さんは恐妻家でもあり愛妻家でもあるんですよ』
納得。
そのあと
心さんには自立の為にアパートを探している事など話し、不動産屋さんの情報をもらったり会社の話をしてその店を後にした。
店の近くに車を停めた心さん は、駅の北口の駐車場に車を停めてしまった私を歩いて送ってくれた。
『今日はありがとうございました。素敵なお店に連れてってもらえて楽しかったです』
『いいえ。大したことも出来なくて』
(また心さんと行きたいなあ)
そう思ってはいたが、なかなか口に出せないでいた。
(もう駐車場に着いてしまう…。早く言わないと…)
『あの…また連れてってもらえますか? すごく素敵なお店だったんで、また行きたいです』
『いいですよ』と、菩薩顔の心さん。
(やった!)
やがて駐車場に着くと何事もなく、『じゃあまた会社で』
と言って別れた。
以前のようにハグをちょっぴり期待していた私は複雑な思いだった。
寒い冬空の下
走らせる車の中で、佐織さんが言った
『心さんは恋愛をしない』
という言葉を思い出していた。
それは本心なの?…
だとしたら、なぜ…
『心さんたら、こんな可愛い人と付き合ってるなんて、全然知らなかったわ』
佐織さんは私の方を見て意味ありげに微笑む。
『いえ、ただ同じ会社なだけです。付き合ってなんか…』
『あらそうなの?心さんは、自分は恋愛しないって言ってたから、やっぱりそれは冗談だったのかって思ったんだけど』
『え?』
(恋愛はしないって心さんが?)
『三島さん、今晩は』
電話を終えたようで心さんが戻ってきた。
『ああ、心さん今晩は。いつもありがとうございます』
♪♪♪
曲が始まった。
『じゃ…』
佐織さんは私と心さんに笑顔で軽く会釈し、ピアノの一番近くのテーブル席に着いた。
『すみませんでした。席外して。何かありましたか?』
『いえ…リクエストはってあちらのピアニストさんに訊かれたんですけど』
『ああ(笑)』
ピアノの方へ目を向ける。
♪♪♪
あらためてピアノに耳を傾けると、すごく聞き心地がよい。
このバーの雰囲気にぴったりだ。
『素敵な演奏ですね、なんて曲名なんでしょうか?』
頬杖をついたまま心さんに訊ねた
『…これは
My Romanceです』
マイ・ロマンス
私の
恋
……
ピアニストと佐織さんは時折目を合わせ
お互い微笑みを交わす。
談笑や食器の片付けの
適度な雑音のするバーの中
二人の周りは柔らかで温かな月の光にも似た
輝きを放っているのを感じた。
『何かリクエストしてもらえませんか?』
若くはないが、笑顔がさわやかな人にそう話かけられた。
気付けばピアノの音がしない。
(この人、さっきまでピアノ弾いてた人なの?)
『あの…私あまりジャズとかってわからないんです…』
『ジャズじゃなくてもいいんですよ、ジブリとかディズニー…痛てぇ!』
ラメのネイルをした白く細い指が、その人の耳を引っ張ってる。
『また、あなたったら!可愛い子見るとすぐこうなんだから!』
そう言っている女性は黒のニットワンピースを着て、耳を引っ張っていない左手は腰に当てて、仁王像のようだった。
『佐織ちゃん…』
『お嬢さん、このオッサンに変なことされませんでした?』
『ご、誤解だよぉ~リクエスト聞いてただけなんだから、ね、ね!』
その人は必死で私に同意を求めている。
『はい、そうです。何かリクエストはって…』
『この人は心さんのお連れさんなんだよ、ね!』
『はい…』
『まあ、心さんの?珍しいわね、女性連れて来るなんて』
佐織という名の女性は幾分か安堵した表情になった。
『佐織ちゃん、今日は来ないって言ってたのに…瑛子は?』
『お母さんに預かってもらったのよ。あなたを驚かそうと思って…なのに!』
『だ、だから誤解だってば!』
『何いつまでも其処に座ってるのよ、早く持ち場にもどりなさいよ』
『はい…』
その人はすごすごとピアノの椅子に座った。
『難しい質問ですね…。月並みですが、時間でしょうか』
『…』
他の人もそう言ってたけどやはりそれしかないのだろうか。
皆はどうやって失恋の哀しみを乗り越えてきたのだろう。
あまちゃんな私は乗り越えたであろう皆さんを尊敬する。
『自分がいやになります…いつまでもグズグズしちゃって…』
『自分を責めてはいけませんよ。辛いものはどれだけ時間が過ぎても辛いものです。相手の事を真剣に好きだったからこそ簡単に忘れられないんですよ。グズグズなんて思いません、誰も祥子さんを軽蔑なんかしませんよ』
『う……』
心さんの言葉を聞いて、涙がこぼれてしまった。
『あ…えと…ハンカチ』
心さんはジャケットのポケットの中を探す。
『私、持ってますから…あれ?』
鞄の中を探しても見当たらない。
(仕事エプロンのポケットの中に忘れちゃったのかな?)
『あ、ありました祥子さん』
心さんはズボンのお尻のポケットから取り出したのは
ハンカチではなく
機械を拭くウエスだった。
『あ…(汗)』
『うふ…』
二人顔を見合せて笑っていたら
店員がおしぼりを出してくれた
トゥルルルルル…
『ちょっと失礼』
心さんは携帯をジャケットのポケットから出し、店の外へでた。
私はおしぼりで瞼を拭い、残り少ないアップルティーを一口飲んだ。
『お嬢さん』
細身のスーツ姿のその人は、私に声を掛けながらヒロさんの座っていた席に腰かけた。
『その時はかなり落ち込みました…母とも喧嘩してしまいましたし、世の中終わりみたいな…』
『まあ、わかりますよ』
『今だに何故あんな事を言ったのか、彼の気持ちがわからないです。男の人って…』
『男の自分にもわからないですね。ただ…』
少し考えてから心さんは話を続ける。
『家庭を得ながらでも他に異性を求める人は男女問わず居ます。彼は悪い意味で自分に正直だったんでしょう。結婚相手も貴女も失いたくないと、エゴを貫こうとした。貴女の気持ちより自分の気持ちを優先させた』
『……』
心さんの言うとおりだと思った。
結局ヒロさんにとって私って何だったのだろう。
あんな事を言って私が受け入れるとでも思ったのだろうか。
だとしたら私は…随分と甘く見られていたのだろうな…。
そう思われた私ってやっぱり魅力のない女なのかと
こんなにお洒落なお店に居るのに
心さんだって隣いてくれるのに
素敵な空間のはずが、私の心は虚しさを感じていた。
『心さん』
うつむいたまま、また涙を堪えながら隣にいる心さんに訊ねた。
『どうしたら忘れられるんでしょう?』
『ちょっと言いにくいんですけど…』
私はヒロさんは他に付き合ってる人がいて、その人とは婚約している事。にもかかわらず私との関係は続けたいと言われた事を話した。
心さんに話すとまたその時の気持ちを思い出し、辛く悲しかった。
『祥子さんはその要求を断ったんでしょう?』
『もちろんです』
『それが当然だと思いますよ。彼の方はまだ諦められないようですが、祥子さんから連絡取らなかったのは賢明です。辛かったでしょうけど』
『心さんのお陰です。心さんの声を聞いて私は落ち着けましたから』
『いや…私は別に…その彼、早々に諦めてくれれば良いんですけどね。もし余りにしつこくされたらまた言って下さい』
『ありがとうございます』
♪♪♪♪
アプライトピアノの生演奏が聴こえてきた。
この曲
随分昔に見ていたアニメのエンディング曲だ
確かエヴァンゲリオンだったと思ったけど…。
Fry me to the moon…。バラード調のアレンジだ。
心地よい音楽の中、私は話を続ける。
『ストーカーとか、そこまでタチの悪い事をする人ではないと思うんです。彼には感謝してる部分もありますし。彼のお陰で私、少しですが明るくなれましたから』
それは本心だった。
心さんはグラスを手に持ち見つめながら、私の話を黙って聞いていた。
昨日、別れた彼が家に花を置いていった事、もう会わないと決めたはずなのにその時は胸が一杯になって彼を探し回ってしまった事を話した。
『こんな情けない話で昨日は電話しちゃってすみませんでした。でもお話してスッキリしました。もう大丈夫です』
『う…ん、祥子さんはまだ好きなんでしょう、彼の事が』
『え?えっと…正直よくわからないんです…』
『あなたの家に花を置くとか、彼の方も同じ気持ちだと思いますよ。一旦冷静になって考えてあらためてお互いが必要な存在だと気付いたのなら、ヨリを戻すのは何の問題もないと思いますよ』
心さんは菩薩の微笑みで話す。
『ヨリなんて…戻す気ないです。彼はひどい事したし…なのに会いたいと思ってしまった自分が悔しいし悲しいんです』
『ひどい事って何です?事と次第によっては黙っておられませんよ私は』
(あ、心さんDVだと思ってるみたい。どうしよう違うのに)
心さんの顔つきが鋭くなった。
(この人に誤魔化しは通用しない。
私の話を聴いてどうしたら良いのか真剣に考えてくれている。包み隠さず話さないと、聴いてもらってるのに失礼だわ)
カウンターの中の店員が気を聞かせて後ろを向きグラスを整理している。
『笑 んな訳ないでしょう 笑 本当にボケますね。祥子さんは』
『すいません…』
(私だって違うと思ったけど一応聞いてみただけなんだけど)
『ヴィレッジヴァンガードというのは元々ニューヨークのジャズクラブの名称なんですよ』
『そうだったんですか、知りませんでした』
『知らなくて当然ですから。気にしないで。さて入りましょうか』
扉を開けるとそこはまさしくドラマで見るような、間接照明でムードのあるバーだった。
(嘘、すごい。心さん見かけによらずこんなシャレオツなお店に通ってるんだ)
客は8割ほどの中、カウンターに座り、チラと心さんの方を見る。
『私の事だから王将にでも連れて行くと思ったでしょう 笑』
『いえ…あの…』
図星
二人とも車で来ているのでアルコールは避け、心さんはジンジャーエール、私はアップルティを頼んだ。
『で、このあいだの電話で何が話したかったんですか?』
『はい…』
ヒロさんの顔が浮かんだ。
翌日
仕事は定時に上がらず、心さんとの待ち合わせに合わせて7時まで残業してから駅に向かった。
8時ちょっと前に少し遅れるから駅前のマクドナルドで待ってて下さいと彼から電話をもらい、ポテトとコーヒーを頼み席で心さんを待ちながら、窓の外の行き交う人々を眺めていた。
去年のクリスマスはヒロさんと一緒ににP広場のイルミネーションを見に行った事が思いだされる。
(また…思い出しても仕方ないのに…)
8時半すぎ、心さんが慌てた様子で店に入ってきた。
『すみません、お待たせして』
紺色のジャケットを羽織った心さんは息を切らしている。
『いいえ、昨日は変な電話しちゃってすみません、本当に何でもないんです。心さん忙しいのに…』
『いや、いいんですよ。じゃ 行きましょうか』
『え?行くってどこへですか?』
『この近くに私がよく通うお店があるんです。知り合いもいるので』
『友達が来てるんじゃ私遠慮しますよ、申し訳ないです』
『いや、彼はやることありますから』
『?』
『と、とにかく行きましょう』
心さんにせかされ、すぐベージュのダウンを羽織りマックを出た。
(お店って、ラーメン屋さんかしら…知り合いってそこの従業員かな)
心さんの役所感漂う風貌からの精一杯の私の推察だった。
『クリスマスからお正月にかけては予定があるって言ってませんでしたか?』
【明日の用事はそんなに遅くならないと思いますから。大丈夫ですよ】
(じゃあ、デートで忙しいんじゃないのかな…)
【祥子さん、あなたが電話かけてくるなんて、よほど私に何か話したいんじゃないですか?】
いつもと変わらないヒロさんの淡々とした口調。
図星
『いえ、あの…母の事ではなくて…』
【あっとすみません、またこれから行く所があるんで。明日8時に駅で待ってて下さい。じゃ】
ガチャン
『え、え?あ、切っちゃた…』
心さんて意外と強引なんだ…。
すき焼きの時もそうだった。
けどやはり心さんの声を聞いたら大分気持ちが落ちついてきた。
(よかった…何とかヒロさんに電話しなくても済むわ。なんか心さんを利用してしまって申し訳ないな
明日…いいのかな…
どうしよう…)
ため息をつきながら助手席のバラの花束を見つめた。
『もしもし…安藤です』
【祥子さん?今晩は】
『こ…今晩は…すみません忙しいのに電話してしまって』
【いいえ。どうかしましたか?】
胸が一杯で言葉が出てこない。
【お母さんと何かあったんですか?】
(違う…違うの…)
『わたし…』
【はい】
『…っと、心さん何してるのかなって…ちょっと電話してみただけなんです。ごめんなさい、何でもないんです』
やはり言えない…。
こんな事は自分で気持ちを立てなおすものだもの…。
【祥子さん】
『は、はい切りますね、ちょっと声が聞きたかっただけですから。すみません、失礼しました…』
【待って 祥子さん】
『はい…』
【明日、会えますか?会社が終わってからですが】
『え?でも…』
駐車場に戻り自分の車のシートに座る。花束を助手席に置いたら涙が溢れてきた。
(やっと気持ちが落ちついてきたのに…どうしてこんな事するの?ずるいよ、ヒロさん…忘れようとしてるのに…)
手で涙を拭い、鞄から携帯を取り出した。
着信拒否をしていても履歴は残っている。ヒロさんの電話番号を見つめた。
駄目!
とっさに友人の美由紀に発信をしてしまったが留守電の案内が流れた。
(そうだよね。美由紀は彼氏と一緒にいるんだし…)
どうしたらよいかわからない気持ちを誰かに聞いてもらいたかった。
(心さん…、居るかな)
(駄目だよ、もう、心さんに迷惑ばっかかけてるんだから)
ハンドルに突っ伏し、色んな思いが頭の中を巡っていた。
このままではヒロさんに電話をしてしまいそう…。それだけは避けたかった。
(ごめんなさい…心さん…。もし、もし電話に出てくれたら…少しだけ話を聞いて下さい…)
財布の中から心さんの名刺を取り出し、画面のキーを叩いた。
トゥルルルルルルル…
【はい。広田です】
そう思うのが早いか、すぐエレベーターに戻り、↓のボタンを押した。
(ヒロさん、まだ近くにいるの?…)
(早く、早く来て!)
エレベーターの表示は1からなかなか変わらない。
少し経ち、やっとエレベーターが着き開いた扉の中に入り閉と1Fのボタンを連打で押す。
一階に着き扉が開き、急いで建物の外に出た。
駐車場で小声で呼んでみる。
『ヒロさん、いるの?』
胸がドキドキする
『ヒロさん?』
もう一度呼び辺りを見回す。
(いない…もう帰っちゃったんだよねきっと)
(苦しい…
胸が押し潰されそう…
会いたいんだ…私…ヒロさんに…)
バラを見つめながらヒロさんの笑顔が浮かぶ。
公園で私を見守っていてくれた、優しい笑顔が。
必死で涙をこらえながら、駐車場から道に出てみた。
街灯の下で辺りを見回すが
もう暗くてわからない…。
(ヒロさん、いるなら出てきて。会いたいよ!)
『ヒロさん!!』
近くの人が聞こえる位のちょっと大きな声で呼んでしまった。
だが返事はない。
自転車に乗った男子高校生が私の声に反応し、後ろを振り返った。
それから自分なりにアパートニュースを見たりして物件を探したり、引っ越し費用などのお金の算段をして、自立に向けて徐々に準備をしていた。
12月23日の祭日
いつものように母の目を盗んで外出をし、図書館へ行ってから買い物を済ませ夜7時半頃家に着いた。
(早くご飯つくらなきゃ。お母さん怒らないといいんだけど)
車を停めた駐車場からそう思いながら市営住宅のエレベーターに乗り、家のある階に止まった。
家の扉の前に来て、私は固まってしまった。そして少し目眩を感じた。
宅配ヨーグルトの箱の、青い蓋の上に赤いバラと白いカスミ草の小さな花束が置いてある。
(どうして?…こんな事をするのはヒロさんだ)
花束を手に持ちバラの花を見つめる。
メッセージカードのようなものは見当たらない。
でも私がバラの花を好きだって事はヒロさんしか知らない…。
(いつ置いていったんだろう?)
『そうですよね、すみません変なこと聞いちゃって』
すぐその場を去ろうとした。
『あ、祥子さん』
『はい』
『お母さんとはその後どうですか』
『はい、まあ…相変わらずです』
(私に関心があるのは母から嫌な事されてないかどうかって事だけなんだろう…菩薩の心さんだもの。それでも十分有難いんだけど…)
『良かったら相談にのりますから。ここでは話にくいでしょうから、電話して下さいね。叔母の所でもいいんで』
心さんは叔母さんの携帯番号を名刺の裏に書いて私に渡してくれた。
『はい』
気持ちがすっきりしないまま名刺を受け取り食堂へ向かった。
本当の事を言うと、母とは、ヒロさんと別れた日にすごいケンカをしてから、
何故か母は少し大人しくなってしまったのだ。
あの時は私もかなりの勢いで母に悪態をついたので、少しは母も堪えたのだろうか。
いやいや。今までが今まで。
反省とは無縁の人だ。
またどんな事がきっかけでヒステリーが起きるかわからない。
これまでと同じよう早く家を出たい気持ちには変わりがなかった。
そう思うとなぜだか少し切なかった。
『何こっちジッとみてんの祥子ちゃん』
西垣さんの問いかけに我に返った。
『いいえ、別に…』
『わかった!このおかず欲しいんでしょ、も~遠慮しないで言ってよ!』
西垣さんはそう言いながら箸で私のご飯の上におかずを置いた。
『う…』
それは私の嫌いなカボチャの煮物だった。
『心さん前はここの食堂で食べてたんだけどね。いつの間にか来なくなったんだよね』
と、川村さん。
『そうそう、よくここのコーヒー買ってたよね』
西垣さん。
『そうなんですか』
『まあちょっと此処混んでるからね』
(混んではいるが席に座れないほどではない)
好みでないカボチャを食べながら、今度はその話が気になっていた。
『祥子ちゃんどう?』
川村さんはゆっくりお茶をすすりながら私に聞く。
『やっぱりそうでした。この弥勒菩薩を小さい頃見に行ったんです』
『よかったじゃん。はっきりわかってさ』西垣さん。
『はい』
『でもさ、なんで急にその事思い出したの?』
(言えない…心さんにハグされて思い出したなんて)
『さっき心さんと話してたらなんとなく思い出しちゃって』
咄嗟に心さんに言った同じ言い訳をした
『わかるー。心さんて仏つか菩薩様みたいだもんね』
『はい』
自分が誉めらた訳でもないのに何故か嬉しい。
西垣さんが続けて話す。
『私がパートで入ったばっかの時、ちょうど繁盛期でさ、心さんが応援で4階に来たの。そん時すっごく親切に仕事教えてくれたんだよね~。今でも覚えてる』
『そうね。心さんは誰にでも優しいからね』
川村さんの言葉にドキリとした。
そう、心さんは私に限らず誰にでも優しい。
それは彼の良い所なんだけど…。
貧血を起こしたり、心労で痩せてしまったのが私じゃなくて、目の前にいる西垣さんであっても
心さんは私と同じように駐車場まで送ったり、ご飯を食べさせたりするだろうし、ハグだってするかもしれない。
『川村さん、あのこんな格好をした仏像知りませんか?』
私はしかみ像のポーズをしてみせた。
『どうしたのいきなり。まずはお弁当食べたらどう?』
そうだった。焦る気持ちを落ちつかせ、いつもの場所に座りお弁当の包みを開けた。
『なに?仏像って』
西垣さんがたこさんウインナーを食べながら話しかける。
『昔見たんですけどどんなだったか忘れちゃったんで思い出したいんです』
『あーわかる。もやもやするもんね、そういうのって』
『祥子ちゃん、それはみろく菩薩よ、多分』
『え?ミクル菩薩?』
ぷっ
川村さんはお茶を吹き出しかけた。
『何ミクル菩薩て 笑 み・ろ・くよ弥勒菩薩。携帯で検索出来るでしょ』
『そうでした』
急いで携帯を取りだし検索してみた。
(これだわ…)
弥勒菩薩の画像を見て霧が晴れていくように、昔の記憶がだんだんはっきりとしてきた。
『なんでしょう?』
心さんは組んでいた足を下ろし背筋を伸ばして私の顔を見る。
『さっきみたいな格好した仏像知りませんか?』
『ぶ…仏像ですか?さあ…ちょっとわからないですね』
『そうですか…』
『その仏像がどうかしたんですか?』
『あの、ちょっと心さんに似てるなあと…』
『私にですか。』
心さんは驚いていたが嫌な感じでない苦笑いをした。
『祥子さんは面白い事言いますね笑。私は知りませんが、川村さんは博識だから知ってるかもしれませんよ』
『川村さん…そうですよね.川村さんに聞いてみます。すみませんでした失礼します』
お辞儀をし、そう言ってその場を後にしようとした時、
『あの祥子さん』
心さんが私を呼び止めた。
『はい?』
『いや、気をつけて』
何を言おうとしたのか気になったが、早くあの正体を知りたかったので急いで川村さんのいる食堂に向かった。
一瞬入野課長の顔が頭をよぎった。
ヒロさんたらこんなストーカーみたいなことして…。
今日は日曜日。昨日か今日はヒロさんは婚約者と会っているんだろうに、それなのに私にこんなメール送ってくるなんて…。
無性にムカムカしてきて咄嗟に、すべて拒否設定に、してしまった。
いいんだ。これで。
気持ちとは裏腹にまだ思いが振り切れない自分がいた。
月曜日
お昼休憩、急いで搬入口へ行き土曜日のお礼を言った。
『昨日…いえ一昨日はありがとうございました楽しかったです』
『いえ、また来て下さいと叔母も言ってましたよ』
心さんはハグした事など無かったかのように淡々と私に話す。
『はい、色々心配かけちゃたみたいですみませんでした。
あの…心さん、昔私に会った事ありましたっけ』
『え?昔ですか、会ったことないと思いますけど…なにかあったんですか?』
『いいえ、私の勘違いです。ごめんなさい変なこと言っちゃって…』
やっぱり心さんが知ってる訳ないよね、私の記憶なんか…。
あのふわっと抱きしめられた記憶…。
あれは…
思い出そうとしてもなかなか思い出せない。
徐々に心臓の鼓動が大きくなっていく。
(やだ…今頃ドキドキしてきちゃった)
家に帰り眠ろうとしてもさっき抱擁された事が頭から離れない。
(あれは多分、私の事を憐れんでした事なんだろう。例えて言うなら家を追い出された捨て猫を一瞬抱き上げヨシヨシって
頭を撫でたみたいな…)
男女の恋愛感情のようなものではない、憐れみなのだと私なりの解釈した。
しかし嫌な感じは全くなく
あのふわっと毛布か羽毛布団をそっと肩にかけられたような感覚は
どこか懐かしく
その温かみがまだ頬に.腕に残っている。
随分昔にも同じよな経験をしたような気がする…。
いつだったのか思い出そうとしてそのまま
眠りについてしまった。
朝起きた時、昨日はメールをチェックせずに寝てしまったことを思いだして、急いで携帯の電源を入れた。
『うわ』
ヒロさんからの着信とメールが10件以上届いていた。
『心さんからこんな事言われるなんて思ってもいませんでした。気にかけていただいてありがとうございました』
心さんは相変わらずホームセンターの方を見てて黙って聞いている。
『もう帰りますね。すき焼き美味しかったです。中尾さんとさきちゃんによろしくお伝え下さい』
そう言ってシートベルトを外そうとした、
その瞬間心さんの腕が私の身体を覆った。
その腕に力みはなく、抱き締められるという感じではない。
心さんの頬と髪が私に右頬に触れたのがわかった。
(え?…)
突然の事で言葉も出なかった。
身体が触れあっていたのはほんの5秒位ですぐに心さんは離れてくれた。
『すいません、つい…』
そう言って、
心さんは運転席から降り、助手席のほうに回り、ドアを開ける。
『どうぞ』
『あ、はい…』
『さっきのは気にしないで下さい…。深い意味はないので…。また月曜日、会社で』
小さく会釈して運転席に戻った。
『はい、ありがとうございました』
気にするなと言われても、気にならないわけがない。
戸惑う私は心さんをを乗せた車を複雑な気持ちで見送る。
頬と腕にはまだ心さんの柔らかな感触が残っていた。
『どうして私と母があまり良い関係ではないことを心さんはご存じなんですか?』
『祥子さん。私も叔母もいろんな事情の人を見てきました。その中で感じたのは、親から強いストレスを受けて育ってきた人は自己否定感が強くどこか自信なさげで怯えた感があるんです』
『…確かに自分に自信はありませんが』
『私の思い違いならそれでいいんです。でも、こないだ倒れた事といい、今日のやつれ方といい、言わずにおられなかったんです』
『はあ…』
(そうか…あれは親が原因だと思ったのね)
『心さんの気持ちはとても嬉しいです。でも…』
ホームセンターの看板の灯りが見えてきた。
『母との関係が良くないのは本当です。でも私なら大丈夫です。大人ですし働いてますし、いつかは自立する予定で貯金もしてるんです』
車が駐車場についた。
『私も虐待の本やブログ読んだりしましたけど、私はまだ恵まれてる方だと思います。
暴力はなかったですし、学校も専門まで行けましたし…』
『叩いたり殴ったりだけが暴力じゃないんですよ』
『心さん…心さんのおっしゃりたい事わかってるつもりです。けど私なんかよりもっと大変な方がいると思うんです。出来たらその方たちの力になってあげて下さい。私なら本当に平気ですから』
『…』
心さんは何も答えず、私の方も見ない。
車の中から閉店間際のホームセンターの出入口を見つめていた。
でもなんで私に話すんだろう。黙ってりゃわからないのに…。
『祥子さん、叔母は昔保育士をしていて今はボランティアで児童福祉関係の支援をしているんです』
『はあ…、明るくて面倒見の良い方だなとお話して思いました』
『祥子さん、一時的でも叔母の所で生活したらどうですか?』
『え?』
唐突な申し出で面食らった。
『どういう事でしょうか?話が…心さんの話の意味が見えないんですけど…』
大きな道路は青信号が続く。
心さんは少し間をおいてから話を続ける。
『叔母の家はDV被害者の方たちが一時的に避難する時があるんです。』
『でも、私はDVを受けてる訳じゃないですし…』
そう言うと心さんの顔つきが厳しくなった。
『心さん、私の家の事ご存知なんですか?…』
心さんは何も答えない。
だが表情がいつもの心さんの穏やかさがなく、何かをうったえているようだった。
(知ってる…知ってるんだ心さんは。私の家の事を。)
ハイブリッドの車は静かに道路を走っていた。
『祥子さんのご両親はお元気なんですか』
心さんにそう言われドキっとした。
『はい…まあ…』
うちがどんな状況かなんて言えない。
少し沈黙が続いた。
(どうしよう…なんとなく気マズイ…)
『あの…』
『あの…』
二人同時に言葉を発したのが可笑しく、顔を見合わせた。
『あ、心さんからどうぞ』
『そうですか、じゃあ先に…叔母は私の母が仕事が忙しい時に私を預かっていたと言いましたが、あれちょっとちがうんです』
『そうなんですか。』
『両親は私が3歳の時に離婚し、母にひきとられたんですけど、母は私を置いて男の元へ行ってしまったんです。
それからは叔母さんが引きとって育ててくれたんですよ』
『え、そうだったんですか』
なんともダークな告白を心さんは淡々と話す。
ご馳走になりながら、お二人の話を聞かせてもらった。
中尾さんは心さんのお母さんの妹で
ご主人は単身赴任でk県に居るのだそうだ。
心さんは子どもの頃、お母さんが仕事で忙しい時などよく中尾さんに預けられていたらしい。
大人になった今でも心さんは、倉庫から近いこともありよくこちらの家でご飯をいただくのだそうだ。
中尾さんと心さんは親子のようなやりとりで、
冗談を交えながら楽しく話をしてくれる時間を忘れるようだった。
しかし私は車をホームセンターに置きっぱなしにしているので、長居は出来ない。
『すみません、私そろそろ失礼したいのですが…』
『そうですね。駐車場閉められてしまったらいけませからね』
『あらそう?若いお嬢さんと話せて楽しかったわ。また来てね』
『はい』
片付けをしようとしたらそれはいいからと止められ、会釈をして玄関に向かった。
お礼を言うとさきちゃんも ばいばいと手を振ってくれた。
(かわいい…)
心さんの車に乗り、シートベルトを閉めた。
心さんはゆっくり発進する。
『今日は強引に付き合わせてしまってすみませんでした』
『いえ、こちらこそご馳走になっちゃって…。おいしかったです。ありがとうございました』
そう言うと心さんはうんうんと頷いていた。
心さんも何か訳がありるのかな?
これでも人並み空気は読めるので疑問に思ったのだか聞かないでおいた。
心さんとおば様…中尾さんは慣れた調子ですき焼きの用意をしていく。
手伝わなくていいのかな…
でも3人もいたら邪魔だし…。
チラチラキッチンの方を見ながらソファーに浅く座っていた。
『祥子さん、さきちゃんとリンと遊んでて下さい』
身の置き場のない私を心さんは察してか、声をかけてくれた。
『さきちゃんて名前なの?よろしくね』
さきちゃんは恥ずかしがりやなのか、うなずいただけで言葉は発しなかった。
でもはにかんだ顔が可愛らしい。
子どもにワンコなんて、癒しのゴールデンコンビだわ。
さきちゃんとリンとタオルやボールで遊んだりしてたらすき焼きが出来てきたようだ。
私とさきちゃんは中尾さんに呼ばれ、席についた。
すき焼きなんで何年ぶりだろう。
家族で食べたのは小さい頃でそれ以来記憶がない。
『安藤さん、お待たせ。たくさん食べて下さいね』
心さんはニコニコしている。
『ありがとうございます。いただきます』
(心さんは私に沢山食べてもらいたくて家に呼んでくれたんだよね…。
元気ださなきゃ
いつまでもメソメソしてられないわ)
心さんや中尾さんの気持ちが有り難く
胸が一杯になった。
インターホンで話を終えた心さんは門扉を開け、玄関の前に来た。私も後をついていく。
(なんかドキドキするなあ…)
ガチャ
茶色のドアが開いた。
『はあい、はじめましてこんばんは ^^』
心さんのお母さんは黒髪を一つにシュシュまとめ、笑顔で出迎えてくれた。
想像してたより若く40代前半に見え、とても明るい印象をうけた。
『あ、こんばんは、安藤と申します。急に来てしまってすみません…』
『いえいえ、どうぞ上がって下さいな』
『祥子さんどうぞ上がって下さい』
心さんに促され玄関の中へ入った。
『お、お邪魔します…』
脱いだ靴を揃え、家に上がらせてもらった。
『あ!』
気づくと小学校低学年位の女の子と柴犬似た雑種であろう薄茶色の毛のワンコが横にいた。
何を隠そう私は犬が大好きなのだ。
そのワンコは吠えもせず、鎌の様なしっぽをゆっくり振ってクンクンと鳴いている。
クリクリの目がすごく可愛い。
『心ちゃんありがとうね』
『うん、安藤さんに買い物手伝ってもらったから助かったよ』
二人は袋から材料を取りだし早速すき焼きの準備にとりかかっていた。
『あの、手伝います』
『お嬢さんはいいのよ、お客さんなんだからゆっくりしててね』
『でも…』
『本当にゆっくりしてて下さい。無理して来てもらったんだから。あとは俺とおばさんでやるんで』心さんはカセットコンロの支度をしている。
(え?おばさん?
お母さんじゃなくて?)
そうこうしているうちに心さんの実家であろう場所に着いたようだ。
『ここですよ、祥子さん』
『はい、心さん♪』
ちょっとおどけて返事をした。
笑
なんだかおかしくて顔を合わせて笑ってしまった。
車から降り、心さんの家を見た。
住宅街の中、瓦葺きの屋根で二階建てのこじんまりした家。
駐車場も車が一台ギリギリ入るくらいだ。
門扉の前
表札は【中尾】とあった。
心さんはインターホンを押し、お母さんと思われる人と話をしている。
門の合間から控えめに顔を出す萩の花を見ながら、少し考えていた。
ヒロさんと2年付き合ってても家なんて行ったことなかった。
ひょんなことでこうして、まだ話をするようになってから1-2カ月しかたってない心さんの実家に呼ばれる…。
しかも付き合ってもいないのに。
こういうこともあるのだなと、なんだか不思議な気分だった。
『下の名前ですか?』
『はい。倉庫では皆さん祥子ちゃんて呼んで下さるので、苗字で呼ばれるとなんとなく違和感があるんです』
信号待ち
心さんは私の方を向いた。
『ちゃん付けはちょっと恥ずかしいですね。祥子さんでいいですか?』
『さんでもいいですよ。ちゃん は恥ずかしいですか?一色課長も祥子ちゃんと呼んでくれるんですよ』
『はあ…まずは 祥子さんからにしてもらえますか?』
心さんは照れくさそうに笑って言う。
『もちろんいいですよ。わたしも心さんと呼んでいいですか?』
『かまいませんよ、全然。許可とる人なんて初めてですよ。律儀なんですね』
『そうですか?ヒロさん…えっと心さんは大先輩だし、慣れ慣れしく呼ぶのは失礼かなって思ってましたから』
(ヤバいわ、ヒロさんて言っちゃった。心さんが広田って苗字で良かった…)
さっきは同じような名前で嫌だと思ったのに全く私ときたらゲンキンなものである。
『広田さんの家、近いんですか?』
『ええ、5分くらいで着きますよ。Aが丘なんです。まあいわば実家ですね…』
『ん?そこに住んではいないんですか?』
『ええ、今は独り暮らしです』
(そうなんだ。えらいなあ、私もお金貯めて早く母から離れないと…)
『あの広田さん…』
ああ…もう…広田さんって呼ぶたびにヒロさんを思いだしてしまう…
なんで似たような名前なんだろう
そういえばまだ今日はメールも着信もチェックしてないわ
私もいい加減に連絡拒否すればいいのに…
未練がましいのはわかっているのだけどなかなか思いきれない自分が嫌だ。
『なんでしょう?』
『私の事安藤じゃなくて下の名前で呼んで欲しいんですが』
『休日の一家だんらんの晩ごはんに他人がお邪魔するなんて悪いですよ』
『……』
『誘って下さってありがとうございます。お気持ちだけで十分ですよ。広田さん、私の車の場所まで戻って下さい』
少し名残惜しい気もしたが、やはりここは断るのが妥当だろう。
『ダメです』
『…でも』
『安藤さん、あなた最近ちゃんとご飯食べてないでしょう?さっきホームセンターで声かけられたとき、ちょっとびっくりしたんです』
(う…そんなにやつれて見えたのかしら…確かにここのところ食べない時もあるから少し体重減ったかもしれない…)
『大丈夫ですよ、家に帰ったら沢山食べますから』
『安藤さんに来て欲しいんです』
心さんは運転しているから前を向いたままだったが、真剣な顔をしていた。
いいのかな…甘えてしまっても…。
それに心さんのお家ってちょっと興味ある…。
『いいんですか?お邪魔しちゃいますよ笑』
『はい、どうぞどうぞ笑』
やっと心さんが笑ってくれて私もホッとした。
車は不安と若干の好奇心を胸に抱えた私を乗せ、心さんの家と向かっていた。
ベローの駐車場に着き、店内で食料を物色する。
『何をつくるか決まってるんですか?』
『ええ、すき焼きです』
『いいですね何人分なんですか?』
『えと4人ですね』
(4人家族かあ…こんな穏やかで優しい心さんのご両親はきっと素敵な人なんだろうな)
うらやましくて微笑ましくて、なんだかほっこりして、お手伝いできるのが嬉しい。
今日は土曜日なので夕方のこの時間は家族連れの買い物客が沢山いて相当な賑わい。
皆さん幸せそうだな。
失恋して間もない私はうらやましくて少し切なかった。
そう周りを見ながらお肉や野菜などを購入し、車へと戻った。
日はもう沈みかけて、気温も昼間よりずっと低い。
ベージュのパーカーの前ファスナーを締め、食材を車を載せ助手席に座った。
『さて家へ行くとしますか』
心さんはアクセルを踏む。
『ご苦労さまでした』
なかなか楽しい買い物だった。
車は軍手を買ったホームセンターとは違う方へ向かってると気づいた。
『広田さん、ホームセンターはあっちですよ』
『安藤さんも、ご飯食べていって下さい』
『え?』
当然買い物したら終わりだと思っていたので驚いた。
『でも…』
正直、好感をもっている心さんとはいえ、突然家でご馳走になるのは気が引けた。
『あの、何を買うんですか?』
『夕食の準備です。イヤンとベロー、どちらのスーパーが良いでしょうか』
(え?私が決めるの?)
『私はベローの方によく行きますけど…』
『じゃあベローにしましょう』
心さんはベローの方角に車を走らた。
(家族に頼まれたけど、何を買っていいのかわからなくて私にアドバイスが欲しいのかしら…)
誘われた理由を自分なりに考えてみた。
スムーズに流れるように走る車。
静かだし、ほとんど揺れない。
いつもヒロさんに乗せてもらって感じたのだが、車種の違いもあるかもしれないが、これだけ丁寧に運転する車に初めて乗った気がする。
『静かですごく運転が丁寧ですね』
あまり乗り心地がよいので思わずそうしゃべりかけてしまった。
『静かなのはハイブリッドだからですよ』
『ハイブリッド…そうですか…』
それだけじゃない。
謙遜してるけど、心さんはまるで社長を乗せて走るプロのドライバーように
隣に座っている私にとても気を遣って運転をしている。
乗っていて加速やカーブ、停車の時、それがわかる。
『ちょっと買い物を手伝って欲しいんです』
『ここに無いものなんですか?』
『ええ、嫌じゃなかったら是非』
『…ええ、私でお役に立つなら』
急な申し出に少し戸惑ったが、もともと心さんには好感は持ってたし、すぐ家に戻っても母と顔を合わすのが嫌なので承諾した。
すぐラバー軍手を購入し、心さんと駐車場へ向かった。
『どうぞ』
心さんは助手席のドアを開けてくれた。
『ありがとうございます』
二人を乗せた車は駐車場を出てしばらくすると大きい道路へ入った。
(そうだ、最近搬入口にいない事を聞いてみよう)
『あの、最近お昼見掛けませんけどどちらにいらっしゃるんですか?』
『ああ、本社に行ってたんです』
『やっぱりそうなんですね。お見かけしないんでちょっと心配だったんです』
『そうだったんですか?笑 気にしてくれたんですかね』
照れくさそうに笑う心さんが可愛らしく思えた。
『あの、この間駐車場まで付いていただいてありがとうございました』頭を下げお礼を言う。
『大丈夫でしたか?気になっていたんですけど電話がなかったから何とかなったのかなと思ってました』
『はい、病院行って点滴射ってもらったら元気になりました』
『そう?』
(あれ?なんか怪訝な表情…)
『この間はすみませんでした。怒鳴ったりして…』
『怒鳴る?』
『貧血起こして駐車場まで付いてて下さったのに、放っておいて下さい!って言ってしまって…』
『そうだったかな?気にしないで下さい。病院行けたんだし良かったです』
『はい、お世話かけました』
『いやいや』
心さんはニコニコと笑いながら答えてくれたのでちょっと安心した。
『じゃあ失礼します』お詫びが出来たのでほっとし、自分の軍手を買おうとその場を去ろうとした。
『あ、安藤さん』
『はい』
『今時間ある?』
『え、はい…』
『ちょっと付き合ってもらいたいんだけど』
安全靴を持ちながらにっこり笑って私に言う。
『え?付き合うって,…どこへ?』
これは神様の計らい?
お詫びをするチャンスだと心さんに声をかけた。
『広田さん』
『あ、安藤さん。こんにちは』
しゃがんでた心さんは立ち上がり挨拶をした。
『安全靴イカれちゃったんで買いにきたんですよ。安藤さんは?』
心さんは靴を手で持ち上げる。
『私は軍手を…』
『軍手は会社で支給されるでしょう?』
『あれではなくて、お気に入りのメーカーのものがあるんです』
『そうなんですか』
(早く謝らなきゃ)
『広田さんは靴のサイズいくつなんですか?』
なかなか言い出せなく、関係のない質問をしてしまった。
『21㎝です』
『ええっ!』
『冗談に決まってるじゃないですか笑』
『何かそんな話どこかで聞いたことある…心さんって冗談とか言うんだっつか、早く謝らなきゃ』
一方で
結局金曜日まで昼休みに心さんの顔を見ることがなく
週末になってしまった。
エプロンのポケットから渡された名刺を出し
『どうしよう…電話かけようかな…』
悩みながらやっぱり直接謝った方がいいと思い名刺をポケットにしまった。
土曜日
朝 母が喫茶店に行っているうちに家事を済ませ、お昼頃から図書館で過ごしていた。
夕方になり倉庫で使うラバー軍手に穴が開いていたのを思い出し、ホームセンターで購入しようと会社近くのお店に入った。
土曜日なので混んでて駐車場に停めるのも一苦労。
店内は人で一杯だ。
私は目的の場所へ向かう。
(たしかここの列びにあったような…)
軍手売り場へ行こうと作業用品コーナーを曲がると靴を見て選んでいる人がいた。
(心さんだ)
5つ,いや6つも年下の子に慰められ、みんなに元気つけられる私って…。
何だか自己嫌悪を感じたが、食事は久しぶりに美味しくたべられたし、皆さんの温かさに触れ、失恋の痛手も大分癒えた。
『時が解決してくれるから』
誰が言ってくれた。そうであればよいなと思った。
食事が終わり解散となり、皆を会社の駐車場で降ろし車の中一人になりふと考えた。
瑠美ちゃんに比べたら私はまだヒロさんに執着している。
それは自分でもわかっていた。
車の中でメールをチェックする
ヒロさんから来てるメール、電話の着信を消去する。
拒否すればいいのにどうしても出来ない
酷い事を言われたのに
私は待っているんだ
彼女と別れた
祥子とやり直したい
ヒロさんからそう言われるのを…。
女性が6人集まるとさすがにかしましい。
瑠美ちゃんは失恋したと聞いたけど私と違い元気一杯で運ばれて来た料理をパクパク食べている。
『瑠美ちゃん、ペース早いわよ。それじゃすぐ食べ終わっちゃうじゃない 笑』
川村さんが諌める。
『だってここのハンバーグセット美味しいんですもん。追加でまた何か頼むからいいんです』
『すごいねぇ~、元気つける必要なかったみたい』
『元気ですよ。新しい彼氏も出来ましたから』
『ええ?もう』
『はい、友達に紹介してもらって。済んだことをゴチャゴチャ考えてたってしょうがないですから』
『聞いた?祥子ちゃん、瑠美ちゃんを見習わなきゃダメよぉ』西垣さんは私の背中を叩く。
『はい…』
『祥子さんは美人だからまたすぐ彼氏できますよ。私みたいなスタイルだって出来たんですから』
たしかに瑠美ちゃんはぽっちゃりしてる。しかし明るくてみんなをなごませる雰囲気をもっている。今でも行儀よく、美味しそうにご飯を食べる姿は見てて気持ちがよい。
(私はダメだわ…すぐ暗く考えちゃう…)
『今日ですか?私はいいですけど皆さん忙しいのに悪いですよ。西垣さん、息子さん塾の送り迎えあるんじゃないですか?』
『いーのいーの!1日位休んだって成績変わりゃしないわよ!』
『でも…』
『もう決めたんだからいいの!あと瑠美ちゃんも行くからね、あの子も最近彼氏と別れたんだって。二人まとめて元気つけようと思ってさ』
なんだか噂話のネタにされそうな気もするが、やっぱり気にかけてもらえるのは有難い。
『はい、お願いします』
久しぶりにみんなと楽しく食事が出来るかと思うと嬉しかった。
定時になり、車に乗り合わせてラパンへ向かう。
個人経営のこの店は大きくはないが、オフホワイトの椅子とテーブルで、明るく清潔感のあるお店だ。
お客の入りは半分くらいで、私たちは奥の席に案内された。
座席に座りオーダーをする。
メンバーは私、川村さん西垣さん、CさんNさん、と瑠美ちゃんの6人。
瑠美ちゃんは今年高校卒業して就職したのだが、会社で色々あったらしく8月で辞め、今はフリーターでこの倉庫でアルバイトをしている。
翌日もまた昼休みに搬入口へ行ってみたのだが、心さんの姿はなかった。
(どうしたんだろう…まさか私避けられてるんじゃないよね)
不安に思いながら食堂へ向かった。
『あら?今日もいないの心さん』
川村さんは私の座る席にお茶を置いてくれた。
『はい…』
『本社かB倉庫にでも行ってるんだよ』西垣さん。
『そうですかね、やっぱり』
川村さんと西垣さんには心さんにきつい物の言い方をしてしまったことは話してある。
『私、避けられてるんでしょうか…失礼な事言ってしまったし…』
『まさかあ(笑)それくらいの事で怒る人じゃないわよ』川村さんがうさぎ形のりんごをつまようじで刺し私にくれる。
『そうですかね…だといいんですが…』
『ま、そのうち来るんじゃないの。それよりさ、祥子ちゃん、今日は夜ラパンでご飯食べるからね』
ラパンとは西垣さんの知り合いが経営している喫茶と食事ができるお店で、たまにパートさん達とお茶を飲んだりする場合に利用している。
一般には仕事が終わると飲みに居酒屋へ行ったりするのだろうが、主婦の方達が多いここでは退社後お茶かご飯たべるのがせいぜいな付き合いなのである。
その後
やっぱり病院へ行った方がいいと思い直し、F病院で点滴を打ってもらってから自宅に帰った。
病院を出るころには大分体調も良くなり、食欲も少し出てきた。
回復すると、会社の事が気になってきた。
私的な事情で体調を崩し皆さんに迷惑をかけてしまった事を情けなく感じた。
特に心さんには酷い言い方をしてしまった事が悔やまれる。
恋人に裏切られ、母親とは醜い喧嘩。眠れず食べれず体調最悪。
けれどそんな事、みんなには何も関係がないのに。
(心さんにあんな言い方してしまった…。謝らなきゃ…)
もういい年なのに、感情的になり他人に八つ当たりした自分に嫌気がさした。
翌日
川村さんと西垣さんに心配をかけてしまった事を詫び、今日はあまり走り回らない仕事につかせてもらった。
昼休憩に心さんに謝ろうと、搬入口へ出向いたがいつもお弁当を食べている場所に彼は居なかった。
(あれ?お休み…なのかな?)
『あら心さん。祥子ちゃん貧血みたいなのよ。悪いけど病院連れていってくれない?』
(ええ?!)
『川村さん、病院なんて大げさですよ、さっき事務室で休んでだら楽になりましたから…』
『私が連れていってあげたいけど、今日は中学の授業参観だから5人昼で上がっちゃったのよ、だから心さん頼むわ。出荷までまだ時間あるでしょ、じゃ、頼んだわよ』
聞いちゃいねーし…。
心さんの意志も確認することなく、川村さんはさっさと倉庫へ戻ってしまった。
『F病院で救急で診てもらいましょう』
川村さんのいきなりな頼みごとにもかかわらず、すごい落ち着いた態度だ。
『大丈夫です。本当に…家に帰って寝れば治りますから…。広田さん、現場戻って下さい』
家に帰るつもりはなかったが、心さんに厄介かけたくなかった。
『え?放っておけませんよ。真っ青じゃないですか』
心さんは私の右腕を掴んだ。その時昨日ヒロさんに腕を掴まれた事の記憶が重なった。
『やめて下さい!放して!!構わないで下さい!!』
心さんに凄い怒声を浴びせてしまった。
掴んだ手を放して彼は言う。
『あ…と,も…申し訳ない。でも足元気をつけないと転びますからゆっくり歩いて下さい、良かったらここに捕まって下さい』
怒鳴られても驚くことなく、怒ることなく冷静に私の事を考えた対応だった。
『ありがとうございます…』
心さんの肘の部分の服をつかみ、自分の車まで歩いた。
『大丈夫ですか?しんどかったら連絡して下さい。すぐにいきますから』
心さんは携帯番号が裏に書いてある名刺をポケットから出し私に渡し、運転席のドアを閉めた。
シートに座った私は大きく深呼吸をする。
目を閉じ心さんが立ち去る足音を聞いていた。
あ…行っちゃった…。
なんて自分勝手なのだろう。構わないでと言ったはずなのに、見放された気持ちになり哀しくなってしまった。
『祥子ちゃん、大丈夫?』
しゃがみ込んだ私に近くで作業していた西垣さんが側に来てくれた。
『事務室行って休んだほうがいいよ、ほら』
『すみません…』
おそらく貧血だろう。意識はあったが目の前がチラチラする。
西垣さんに連れられ事務室で椅子に腰掛けた。
『帰ったほうがいいよ、真っ青だもの』
『……』
帰りたくないが、このまま会社にいてもかえって迷惑がかかる。
しばらく休んでいたら
川村さんが事務室に入ってきた。
『祥子ちゃん、早退した方がいいわよ、駐車場まで歩ける?』
『はい…』
意識はある。呼吸もだんだん整ってきたのでなんとか駐車場まで行けるだろう。
念のため川村さんに台車に乗せられてエレベーターで1階に降りた。
『大丈夫?タクシー呼ぼうか?』
『大丈夫です。帰れます。すみません、忙しい時に』
『いいのよ、無理しちゃだめよ』
『はい…』
外へ出る階段の手前で立ち上がり、重い鉄製の扉を開け駐車場へと向かった。
『どうしたんですか?』
聞き覚えのある声…後ろを振り返る。
やっぱり心さん…
昼休憩
川村さんに、お弁当を忘れてしまったので外で食べますと言って、会社の外へ出た。
スーパーで水とウィダーゼリーを購入し、車の中で食べようとしたが、食べられず水だけ飲む。
携帯を見たらヒロさんからメールと着信があった。
着信はすぐ消去したが
メールには
[祥子 会いたい]
とあった。
それもすぐ消去した。
拒否設定すればいいのにどうしても出来ない。
(私のばか…)
携帯をしまい、少し横になって休んでから会社へもどる。
昼休憩が終わり、持ち場で作業の続きを初めた。
朝、川村さんが言ってたとおり、パートさんが数人昼から上がってしまったので人手が少なく、すごく忙しい。
目の回るような忙しさに、本当に目が回ったような感覚になってきた。
動悸がする…
伝票の注文どおりカットソーを一枚棚から取ろうとしたら、目の前視界が細長くなり、周りの音が聞こえない。
(あれ…?)
血の気が引いていくく
手が痺れ立ってられず、私はその場にしゃがみ込んでしまった。
『え?突然?』西垣さん。
『はい』
『そうなのね…残念だったわね』川村さん。
『仕方ありません。他に好きな人が出来たそうなんで』
さすがに愛人になれと言われたとは言えなかった。
『そっかあ…』
周りが微妙な空気になったが、同情してもらおうと思ってるわけではない。
これからもまた彼の話が出るだろうから、別れたとはっきり言えばもうその話はふられないだろう。
『ん、祥子ちゃん大変かもしれないけど、気持ち切りかえて仕事頑張ろうね。今日はさ、月曜だから伝票も多いしパートさんも午後休の人が結構いるのよ』
『大丈夫です。頑張ります』
川村さんは軽く微笑みうなずいた。
9時ジャスト
一色課長が来て朝礼が始まった。
朝6時
ご飯も食べず、メイクもリップだけで、母が寝ているうちに家を出た。
頭痛がするのを我慢しながら車に乗り込み眩しい朝日の中、空いている道路を走る。
まだまだ始業には時間があるのでコンビニの駐車場で車を停め時間を潰していた。
国道沿いのコンビニ
朝早い時間、トラックやダンプなどが沢山駐車場に出入りする。
嫌でもヒロさんを思い出してしまう。
座席のシート45度ほど倒し、目をふせ時間が過ぎるのを待った。
(本当は休みたい。
けど、失恋したから休むなんてみっともないこと出来ない!母のいる家にも居たくない!)意地だけが会社へ行く気力を持たせていた。
いつもの出社する時間になり、会社に着く。
『おはようございます』
数人のパートさんと一緒にエレベーターに乗り従業員、パート皆さん朝礼の為皆事務室に集まってきた。
『祥子ちゃんおはよう』
川村さんと西垣さんが声をかけてくれる
『おはようございます』
『どうしたの?スッピン?』川村さん。
『夕べデートで遅かったんでしょ?だめだよ夜更かしは~美容の敵だよ』西垣さん。
『別れたんです。彼とは』
!?
川村さん、西垣さんあと私の声が聞こえたであろう周りの数人が驚いた表情で私を見る。
そのあと―
電車に乗ったのは記憶にあるのだが、そのあとどうやって家にたどり着いたのかはほとんど覚えていない。
家に着き
すぐにシャワーを浴び、布団に入った。
家事を何もしない私に母は腹を立て、暴言を浴びせる。
もう、もう嫌だ…
いつもなら布団をかぶって聞き流すのだが、そんな心のゆとりもなく、自暴自棄になってしまった私は久しぶりに母とやり合ってしまった。
(この親のせいで私はヒロさんと別れることになったのに!)
今日起こった哀しみ怒りを母にぶつけた。
これ以上ない酷い暴言、罵り合いの応酬。
口が達つ母にはかないっこないとわかっていたが、言わずにはいられなかった。
だが言い負かすことが出来るわけではなく、放った暴言はその100倍にもなって返ってくる…。
(やっぱり無駄だ… 何もわかってはくれない、この人は…)
諦めて布団を被り、耳をふさぎ身体をくの字にしていつものように心を殺した。
嵐が過ぎさった後も、当然眠れるはずもなく布団の中で、ただゆっくりと時間が過ぎていった。
そして明け方、私は夢を見た。
昼間行ったバラ園でヒロさんがいつものように私を抱きしめて言う。
『馬鹿だな、祥子は。あんなの嘘に決まってるだろ』
と明るく笑う。
一瞬喜んだが
そこですぐ目が覚めてしまった。
さっきのは夢。
泣きながら眠ったのが現実なんだ。
重い身体を起こし、仕事へ行く支度を始めた。
『もう会わない』
車が走っている中、あれも言おう、これも言おうと浮かんではきたが、それだけ告げるのがやっとだった。
ヒロさんが私の腕を強く掴む。
『祥子、本当にいいのか俺と別れても…』
『……』
『俺は嫌だね!絶対に諦めない』
『…離して』
『だめだ』
『はなしてぇぇぇ―!!!!』
バンバンバン!
黒の鞄で彼の手を何度も叩いた。
『イテッ!馬鹿止めろ!』
さすがに掴んでいた腕を離された。
素早く助手席から降り、改札まで人をかき分け走っていった。
K駅は大きくはないが、朝は快速も停車するくらいの駅。駅員もいる。人通りもそこそこある。
ICカードで改札を通り、階段を昇りホームへ着いた。
ホームには10人ほどまばらに電車を待っている人がいた。
一番後ろの目立たないベンチに座り、うつむきながら呼吸をととのえた。
『さよなら、ヒロさん…』
携帯の電源を切り鞄にしまう。
プォン
ライトを点けた電車が来るのが、遠くから見えた。
頬に添えられた手をはね除けた
いつも私の手を繋いでくれた、優しく撫でてくれたヒロさんの手を、汚い虫のよう煩わしく感じた。
『降りる。帰る』
『何言ってんだ、高速だぞここ』
『タクシーで帰る』
助手席から車を出ようとした。
『だめだ、わかったよ、帰ろう』
彼は車を発進させ、サービスエリアを出て高速道路に合流した。
さっきまで夕暮れだったのが、日が沈み暗くなっていた。
『K駅で降ろして』
K駅はここから一番近くの駅。もう一秒もこの車には乗っていたくない。
『家まで送るから』
『やだ!』
『…わかったよ』
インターチェンジを出て一般道路を10分ほど走ったらK駅についた。
私は車を降りようとシートベルトを外した。
『ヒロさん、自分がどんなに残酷な事を言ってるのかわかってるの?そんな事受け入れられるわけないじゃない』
泣き叫びたい気持ちを抑え、やっとの思いで気持ちをうったえる。
『俺は独立もしたいし、お前とも別れたくないんだ』
彼はシートベルトを外し、身体を私の方に向ける。
右手を私の頬に当て、唇を指でなぞる。
『潔く別れようとも考えた。でもお前が他の男とキスするのを想像すると、頭がおかしくなるんだ』
(アンタが鬼畜な事を言うからこっちは もう頭おかしくなってるよ!)
罵詈雑言を並べ立ててヒロさんの事を罵りたかった。
だが胸が苦しくて、呼吸をしているのが精一杯だ。
苦しい…
苦しい…
心臓の鼓動がきこえる
言葉が出ない代わりに、涙が溢れてくる。
最初はパニックになってしまい、ヒロさんの言ってることが把握できなかったけど、話を聞いていたら腹立たしく思いながらもだんだんと理解が出来てきた。
ヒロさんは私を結婚相手ではなく、愛人になって欲しいと言っているのだ。
―彼女の両親は公務員で常識のある普通の人―
そう…そうだろう…
私の父はアルコール依存で施設に入所していて
母は娘に暴言吐きまくりの人格障害者
誰だって好んで身内になりたくないだろう
彼の両親からしてみても、どちらに息子に結婚してもらいたいか、私にだってわかる。
けれど、他の人と結婚する人と私は付き合えない。
無茶な要求をするヒロさんに対して、腹の底から嫌悪感が沸いていた。
『違う、セフレなんかじゃない、お前は…俺は別の人と結婚という形はとるけど、お前に対する気持ちは変わらない』
この訳のわからない事を言っているのは本当にヒロさんなんだろうか。
『…その人の事は好きじゃないの?どうして私の事を好きなのにその人と結婚するの?』
『あいつの…結婚相手の事は嫌いじゃない。得意先の荷受け担当していて、成り行きで独立の話をしたら向こうから支援するって言ってくれたんだ』
『…そう…お金持ちの人なんだね…だからヒロさん…』
『いや、特別金持ちって人じゃない』
『だったらなんで?その人より私の方が好きなんでしょう?なのに何故その人を選んだの?私の何がいけないの?』
『誤解するな祥子は何も悪くない。
結婚する相手は、お前ほど綺麗じゃないし、若くもない。俺より1コ上だしな…』
『…』
『けど、嫌いな女じゃない。落ちついていて、安心できるんだ一緒にいて。それに金持ちじゃないけど、両親が共に公務員で普通の常識ある人だ。独立することも、彼女との事も認めてくれた』
(その人の両親には会ったんだ…)
『うちの親も賛成してくれている。親父もお袋も固い人間だからな…来年は俺も30だし、早く身を固めろって言われてる。幸乃は年上だし、余計な…』
(幸乃さんて言うんだ…)
『何?』
彼はハンドルを握ったまま、こちらは見ず前を向き話す。
『2年付き合ってて、祥子の事を好きな気持ちは変わらないんだ。でも、結婚は出来ない』
(やっぱり…)
ショックはショックだったけど、あまり驚かなかった。借金を断ったあたりから何となくそう言われる気がしていた…。
今日ほどではないが、彼は時折黙りこくってしまう時があったからだ。
『俺には夢があるから結婚するけど、祥子の事は一番好きなんだ。だからずっと付き合って欲しい』
『?』
(さっき私とは結婚出来ないって言いませんでしたっけ?)
『ヒロさん?私と結婚しないのに付き合うってどういう事なのかわからないんだけど』
別れを言い出されてショックの上
彼の意味不明な話に何をどう考えればいいのかわからない。
『ヒロさん、私とは結婚するの?』
自分でもどう訊ねていいのかわからないので聞き方がおかしい。
『しない。俺が結婚するのは別の女だお前じゃない』
『じゃあ私とは別れるって事でしょう?他の人と結婚するんだから』
『お前とは別れない』
『?』
ヒロさんの話が理解出来ない私は別れ話しに動揺して自分の頭がおかしくなったのかと思った。
『俺は別の女と結婚するけど、お前とも別れない』
―別の女と結婚する
―私とも別れない
二股?
いや…
『ヒロさん、私にセフレ…愛人になれって言ってるの?』
充分に目の保養をして私は満足だったが、公園に来た時は元気だったヒロさんが
帰る時はあまり喋らなくなっていた。
車の中でそれとなく話しかけてみる。
『ヒロさん、つまらなかったかな、今日』
『いいや、そんなことないけど。飯どこ行こうか』
高速に乗り、二人とも無言になった。
西向きに走る車
夕日が眩しい。
しばらく走ると小さなサービスエリアに車を停めた。
いつもなら帰りも楽しく話すのに…
こんなの初めてだ…
独立の話しが上手く進んでないのだろうか。
それともお金の事?
私もあれから色々考えてみた。
ヒロさんが恥を忍ん頼んだんだもの。
ほんの少しでも貸した方がいいのかなと思ったり、自分なりに悩んでいた。
『ヒロさん、こないだのお金の事だけど…私少しなら出せるよ。前はいきなり言われたから驚いたけど、私もヒロさんの夢を応援したい。ちょっとだけ協力させてくれるかな?』
『いや、金はいいんだ…もう…祥子あのな…』
ものすごく嫌な予感がする…。
10月下旬
もうすぐヒロさんの誕生日。
誕生日は水曜日なのでその前の日曜日にデートの約束をした。
プレゼントが入った紙袋を持ち、待ち合わせの駅で待っていた。
デパートで買ったブルーのシャツ。
メンズのコーナーで購入するのは緊張した。ヒロさん喜んでくれるといいんだけど。
『祥子』
『あ,ヒロさん』
彼の顔を見ると心が弾んだ。
腕を組みたいのを我慢して、駅前を少しウィンドウショッピングした。
その後5月に行ったバラ公園とは別の公園に車で出向いた。
そこは前行ったバラ園より小さいが、秋咲きのバラが観賞できるので私のお気に入りの公園なのだった。
色とりどりの美しいバラを観ていると、現実感が無くなり
家での生活が夢に思えてくる。
『祥子は本当にバラが好きだなあ』
『うん、やっぱり憧れの花だもの』
ヒロさんは私を優しく見てくれている。
(いつか庭がある家をもてるようになったらバラを育ててみたいなあ)
その日が来る時
ヒロさんは今みたいに隣に居てくれてるのかな…
『はい、ありがとうございます。おかげさまで、元気にやってます』
『白田さんとは何か相談してる?』
『?』
思いがけない質問に戸惑った。
(白田さん?聞き覚えがあるような…)
『ここへ異動する前、困った事があったら白田さんに相談するよう言ったんだけど忘れちゃたかしら?』
思い出した。そう言えばそんなような事を異動する前橋本さんと話をしたんだった。
でも…
『橋本さん、白木さんという方は退職されたようで…』
『え?居るわよ、下に。さっき会ったもの。それに白木じゃなくて白田くんよ』
橋本さんは指で床を指差しながら私に話す。
『でも、私が研修に来る前に辞めたって…』
『いやいや、だって見たわよシンくん、フォークリフトに乗ってたわ』
『シン…くん?広田さんの事ですか?』
『そうよ、シロタ君』
『え?ヒロタさんですよね』
『さっきからそう言ってるじゃない、シロタ君だって』
シロタくんだって
シロタくんだって
シロタ…
橋本さんて…
江戸っ子?…
倉庫に戻り中礼を終え、本社から偉いさんが来るというので掃除を30分ほどしてから通常のピッキング業務をはじめた。
伝票の3枚分の出庫を終えた頃、社長たちがやってきた。
4Fフロアの責任者一色課長が社長たちを案内している。
視察の4~5人の中に橋本さんがいるのがわかった。
橋本さんは私がいるのがわかると軽く微笑んでくれた。
しかし相変わらずの貫禄…
何を話している訳ではないのにその歩く一歩一歩に雰囲気があり、視察に来た誰よりも小さいのに存在感がある
(…やっぱり橋本さんは素敵だわ)
一通りフロアをチェックした後、社長達一行は事務室に集まり、私も一応社員なので召集された。
しかし重要なことは一色課長がほとんど説明を受けていたので私はその場でおとなしくしていた。
社長らと話混んでいた橋本さんが私に気付き、声を掛けてきてくれた。
『安藤さん、久しぶりね。元気でやってる?』
『おっそいなあ~祥子ちゃんまた心さんとこ?』
『すみません、西垣さん。今日はトラックに乗せてもらっちゃいました♪』
食堂のいつもの場所にすわる。
『本当にもの好きだね~何が面白いんだか
祥子ちゃん、心さんに手ぇだしちゃ駄目でしょ、アンタ彼氏もちなんだから笑』
『全然そんなんじゃないですよ、心さん運転うまいから見せてもらってるだけです』
休憩時間があまりないのを気にしながら、コンビニで買ったサンドイッチを口にする。
『祥子ちゃんはそんな子じゃないわよ。で、その彼氏とはそろそろ結婚の話とかしてるの?』
川村さんは見ていた携帯を鞄の中にしまう。
『いえまだ…』
『彼の親には紹介されてるんでしょ』私の左側に座っている川村さん。
『いえ、会ったことないんです』
『付き合ってどのくらいだっけ?』右側に座っている西垣さん。
『2年になります』
『……』
川村さんと西垣さんは私を挟んで無言で顔を見合せた。
(…やっぱりおかしいのかな。2年も付き合ってて親に紹介されないって…。)
『ま、まあね、今時は晩婚だから焦ることはないものね』
西垣さんは席を立ち、飴を取り出して後ろの席の人に配る。
『だよねぇ、あ、そうだ今日は本社からお偉いさん方が視察にくるんだよね、祥子ちゃん』
川村さんは話題を変えて私に話を向けてきた。
『はい、2時頃来る予定です。新しいブランドのロケーション配置を見たいらしいです』
『じゃあ昼イチで掃除しないとね』
そう言って川村さんは食堂のテレビの上にある時計に目をやる。
時計は12時45分を示していた。
私は3切れ入っているサンドイッチのひと切れしか食べれない。
それは時間が足りないのが理由ではなかった。
助手席のドアを開け、降りようとステップに足をかけた。
『気をつけて下さい、ゆっくりね』
シンさんも車から降りる。
グリップをしっかり握って慎重に最後のステップから足を降ろす。
『気をつけて…』
シンさんが下で待っててくれる。
『あ…』
ほんの少しバランスを崩したのでシンさんの肘を掴んでしまった。
その時、彼のネームホルダーから広田 心という名前が見えた。
『すみません』
『いやいや、大丈夫ですか?』
(シンさんって苗字じゃなくて名前なんだ…心さんかあ…)
『ありがとうございました』
お礼を言って搬入口をあとにした。
心さんに寄りかかった時、ちょっとときめいてしまった…
胸がドクドクしているのがわかる。
私はヒロさんの彼女なのに…
ヒロさんに対して申し訳ない気持ちも感じながら、心さんとももっと話したいと思う自分がいた。
会社にて昼休憩。
ヒロさんとの仲が少し微妙になってしまった今、搬入口にいるシンさんのカッコいい運転技術を見るのが癒しになっていた。
その日はまた大きい10トン車を操っていて、その勇姿に惚れ惚れとしていた。
『安藤さん、こんにちは』
運転席から話しかけてくれた。
(あれれ?今日は銀縁メガネ…モロ戸籍係だ)…
『こんにちは。すごい大きいですね。こんなのよく動かせますね』
下からシンさんを見上げる。
『はは…余程トラックが好きなんですね。乗ってみますか?』
『え?いいんですか?』
『助手席でよければどうぞ』
と言われ、ワクワクしながらステップを昇り10トントラックの助手席に生まれてはじめて座った。
すごい…地上から2mはある今まで見たことのない景色…
見晴らしはよいけど恐怖も感じた。
(ヒロさんいつもこの景色見てるんだ…)
『よくこんな大きいの動かせますね』
『それさっきも言いましたよ 笑』
『す、すみません』
『いや、ま,慣れですよ
フォークリフトは資格とるんですか?』
『ちょっと今考え中なんです…』
必ずしも今要る資格ではないので講習費用を考えると取得に躊躇してしまう。
助手席からトラックが出入する場所の黒い鉄の門を眺めながら、ほんの何十秒か考えてしまっていた。
『そうだお昼いかなきゃ…もう降りますね。ありがとうございました』
『ヒロさん、私,前も言ったと思うけど家を出たいんだ。だからお金出せない。ごめん』
彼女だったらここは協力すべきなのかもしれない。
しかし私ももう母との生活には限界を感じていた。
一人暮らしする為にはお金が必要。
その夢を叶えるために今まで頑張ってきた。
私はヒロさんの彼女失格かもしれないが、それを考えても自分の夢を優先したかった。
『…そっか、そうだよな。いや、女に借金申し込むなんてみっともねーことしてすまん。サラっと忘れてくれゃ笑』
彼はいつもの明るい調子で返事をしてくれたが、どことなく無理してるように思えてた。
(ヒロさん、ごめん…ごめんなさい)
心の中で何度もあやまった。
車は夕暮れの中を再び走りだし、私の住む町へと向かった。
ヒロさんはというと、けん引免許取得後も忙しく、なかなかデート出来ない日が続いた。
その後
やっと会える日が来てちょっと遠くの神社まで車で連れて行ったもらった。
ドライブ帰りの車中、仕事や友達の話を楽しくしていたのだが、彼の様子が少しづつおかしくなっていくのに気がついた。
『…かな?』
『ああ』
『…ヒロさん、話聞いてる?』
『あ、俺こないだのイタリアンの店でいいよ。』
『ご飯の話じゃないよ、もうすぐヒロさんの誕生日だからプレゼント何がいいって聞いたんだよ』
『ごめん…何でもいいよ、祥子が選んだものなら』
『…ヒロさん、何か変…』
『別になんでもないよ。心配性だないつもははっ!』
不自然な笑い…
『…何かあったの?』
『……』
『ちゃんと言ってくれないとわかんないよ』
彼は車をコンビニの駐車場に停める。
『祥子、あのな…俺、独立しようと思うんだ。それで祥子にも力になって欲しい』
(ひょっとしてそれはプロ ポーズ?…)
ドキドキしながら話を聞く。
『少しでいいから協力してくれないか?
たとえ10万円でもいいから…』
(え?)
『祥子の出せる金額でいいんだよ、頼めないかな』
『お金…そう、独立するため資金がいるんだね』
『ああ…』
プライドの高いヒロさんが私に借金を求めるなんて余程独立の夢が大きいのだろう。
『何?祥子ちゃん、最近食堂来るの遅いじゃない。どうかしたの?』
西垣さんはもうお弁当を食べ終わって紙コップのコーヒーを飲んでいた。
『ちょっと搬入口でフォークリフト見てたんです』
『へーそんなの見て面白いの?』
『資格取ろうかなって思って…』
『若いうちに取れるものは取っといたほうがいいわよ』
川村さんは二段重ねのお弁当箱をバックにしまう。
『あの、いつも搬入口にいる出荷の人ご存じですか?30代位の人で…』
『ああ、シンさんの事?』
川村さんはシンさんという人を知っているようだ。
『はい…』
『シンさんがどうかしたの?』
『こないだはじめて 喋ったんですけど、トラックとか運転上手で、私の事を知ってるみたいでした』
『そりゃこの倉庫で祥子ちゃんの事を知らない人はいないでしょう笑_若くて可愛い社員の子なんてアンタだけだよ』
西垣さんも笑うと可愛いのですが…
『シンさんはここ長いのよ。高校生の頃バイトで入って,それから15年位経つから。4階に居たこともあるし、ここの倉庫の事は何でも知ってるよ』
『そうだったんですか…』
『何?シンさんの事気になるの?』
『いえ、気になるのは資格を取ろうかどうするかで…』
(ヒロさんに内緒で講習受けちゃおうかな…)
会社での昼休憩
搬入口を覗き見するのがすっかり日課になってしまった
ヒロさんは反対したけどやっぱりフォークリフトに興味がある。
今日はいつもよりちょっと搬入口に近づいてみる。
『安藤さん?』
お弁当を食べていたあの人が声をかけてた。
『はい、すみません、ちょっと気になるものがあったので…』
『ああ、ボールペンですね。あれ…?』
その人はポケットをくまなく探すが見当たらないようだ。
『ごめんなさい…返そうと思ってポケットに入れたと思ったんだけどな…』
『あ、いいんです、あれは差し上げるつもりでしたしあの…』
首からさげるネームホルダーをみて名前を確認しようとしたが、胸のポケットに入っていて確認出来ない。
『ちょっとフォークリフトに興味があって…』
『ああ、そうなんですか?珍しいですね女性なのに』
『やっぱりダメですか?資格欲しいなって思ってるんですが…』
『いや、全然大丈夫ですよ。女性でも講習受ければとれますよ』
そう聞いて私は嬉しくなった。
『シンさん!ちょおとぉ!』
年配の男性、おそらく出荷担当の人がトラックの向こうからその人を呼んだ。
(シンさんって言ううんだ。)
『すみません、お邪魔しました』
私はお辞儀をしてその場を後にした。
(シンさんか…シン何て名前なんだろう…)
新藤、新川…色々な名前を考えながら食堂へと向かった。
『祥子…』
彼は上から覆い被さってきた。
今日は久しぶりに会えたので、
部屋のドアを閉めたらお風呂も入らないでそのまま受け入れてしまった。
そのあとお風呂に入ってからベッドで時間をかけ愛してもらったから
これで3回目になる…
もちろん嫌じゃないけど少し股関節と腰が痛かった。
彼の指が再びそこに触れる
『あ…』
ダメだ…私の負け…
熱い舌が唇から首筋そして胸へ…快楽に身体が痺れ気が遠くなる
『やだ、ちょっと…』
鎖骨のあたりに刺激が走る
『やだ、ヒロさん、跡ついちゃう』
『…』
『やめて、アザ見られたら恥ずかしいよ、お願い』
『いいだろ。あと付いたって。おばさんばっかなんだろ、祥子の仕事場』
『でもやだよ、恥ずかしいからやめて、お願い…』
少し涙声になって懇願したらヒロさんはやっと止めてくれた。
『祥子、他の奴としたら許さない』
(しないのに…)
久しぶりに会えて嬉しかったのに
そんなに信用されてないのかと思うと
髪を撫でる彼の手の優しさよりも
哀しみを感じる方が大きかった。
数週間経ち
けん引の免許が取れたから会おうと、ヒロさんから連絡がきた。
嬉しくてたまらない気持ちを約束した日に隠すことは出来なくて、車の助手席に座った時から
『ヒロさん、ヒロさん♪』と、手を握ったりつい甘えてしまった。
お昼ご飯もそこそこに彼は早く二人きりになりたがったし、私も沢山甘えたかった。
お互いの気持ちは同じで
私達はホテルに着くと激しく求め合った。
今まで会えなかった分を取り戻すかのように――
乱れた呼吸が整い、彼の腕の中で 最近考えている事を言ってみた。
『ね、ヒロさん、私フォークリフトの免許取ろうかな』
『何?突然。会社で取れって言われたの?』
『ううん、自分で勝手に欲しいなって思ってるだけだけど…あると便利かなって』
『講習受ければ取れるけど、祥子にはそういう事して欲しくないな』
『どうして?』
『ああゆうのは男の仕事だし』
『でもこないだテレビで女の人も運転してたよ、カッコよかったよ』
『俺はやだな。危ない』
『ヒロさんほど運転上手くないけど今まで無事故無違反だよ』
『…やめとけよ』
彼は横を向きちょっと怒ったような感じだった
『どうしたの?』
『よかったらこれ使って下さい』
その人は一瞬驚いていたが私の差し出したボールペンを見ると表情が和らいだ。
『え、いいんですか?すみません』
ドキドキしながら声をかけたのだが、低姿勢な態度で応対してくれたのでほっとした。
その人は背はあまり高くなく、体格も普通で地味な感じの人だ。
力の要る出荷の仕事ではなく、役所の戸籍係のような雰囲気で真面目な印象をうけた。
たまに見掛ける人だが私は出荷にはあまり行かないのでその人の名前はわからない。
『それそのまま使って下さい、会社のですから』
そうち言った後、ちょっと恥ずかしかったのでその場をすぐに立ち去ろうとした。
『あ、安藤さん』
(え?私の名前…)
『どうもありがとう。助かります』
はにかみながらお礼を言ってくれたその人を見て
(よかった。余計なお世話じゃなかった)
と安心した。
(でも私の名前知ってるんだ話したこともないのに…)
不思議と嫌な感じがしなかっのは、お礼を言われたときのその人の笑顔が好印象だったらかもしれない。
また免許取得の為彼と会う日が減ってしまった。
覚悟はしていたが、大型の時よりもメールも減ってしまったので毎日寂しくてつまらなくて仕方がない。
出社した時やお昼に会社の搬入口の近くを通ると、駐車してあるトラックに目が行ってしまう。そのたびに彼の事を思い出す。
その日も昼休憩、食堂へ行く前、以前きれいにバックで駐車した人が、今度はフォークリフトで荷物を積みこんでいるのをみた。
(すごい。よくぶつからずに積みこめるなあ。ヒロさんに言ったらまた誰でもできるとか言うんだろうけど私には出来ないわ‥)
そう思って見ていたら、その作業をしていた人は、胸やズボンのポケットを手で何か確認するように叩いていた。
(ひょっとしてボールペンか何か探してるのかしら)
左手には伝票のようなものを挟んである画板を持っている。
(‥どうしよう…私ペン2本持ってるし貸してあげようかな…)
倉庫の影から徐々にその人に近きながら、エプロンのポケットからボールペンを取りだし、そっと話かけてみた。
『あの‥』
***
『将来の事を考えている』
ヒロさんはそう言っていた。
自分だけの将来なのか
私も含めてなのか
それはわからない。
ヒロさんから、私と将来を約束するような話はなく、
実家暮らしである彼から私は、親に紹介されたことも、家に呼ばれたこともなかった。
ヒロさんと一緒にいられるだけで十分幸せな私は、彼の両親に紹介されなくても、不満を感じることはなかった。
しかし
『将来の事を考えている』
と言ったヒロさんの言葉を聞いた時から
私はこの先どうなるのだろうかと、
未来を意識してしまった。
でも二人ともまだ若いし、
それはまだまだ考えなくても良い事なのだと
自分に都合よく考えて気持ちにフタをしてしまった。
2週間ほど経ったある休日
大型免許が取れたヒロさんとお好み焼き屋さんで食事をしていた。
そこで会社で見たトラックの駐車の話をした。
『そんなの別にすごいことじゃないだろミラーやカメラ付いてるんだから。誰だって出来るよ』
ヒロさんはお好み焼きをひっくり返しながら私に言う。
『でも私には出来るとは思えないもの。やっぱりスゴイよ』ジャガバターを頬張りながら、その時の事を思い出す。
『単純だな、祥子は。気をつけろよ』
『?気をつけろって?』
『素直すぎんだよ』
『スゴイと思ったから…』
『まあ、そんな天然な所も可愛いんだけど』
『天然ってなんかヒドイ』
ちょっとイラっとして頬を膨らませる。
『これ、んな顔すな』
ヒロさんは人差し指で私の膨れた頬を押して潰した。
ぷっ
『やだもう』
久しぶりに彼に会えてどんな話も楽しかった。
『祥子、俺けん引の免許も取るからまたちょっと忙しくなるんだ』
『そうなの?じゃあまた会えなくなっちゃうの?』
そして一旦トラックを前進させ、出庫口に合わせた絶妙な位置にバックで停車させた。
(すごい。アルミの荷台だから後ろ見えないのに。どうしてあんなにピッタリな位置に着けれるんだろう)
毎日運転している人には当たり前で大した事のない行動なのかもしれないが、私には神業に見えた。
あまりにも無駄のない動作に見とれてしまってたが、食堂に行く途中だと気がついた。
(いっけないご飯食べないと、休憩終わっちゃう)
そのとき運転席のドアが開いた。
おそらく出荷担当の人だと思うのだが、会社のベージュの作業服で、ちょっと地味な雰囲気の人がこちらをチラと見て軽く会釈した。
私もつられて会釈し、急いで食堂へ向かった。
ずっと見てたの気付かれたかな…
そう考えると気恥ずかしかったが、あの芸術的ともいえる車の着け方がしばらく目に焼き付いていた。
(なんかカッコいいな。ヒロさんもあんななのかな)
そう思うとすごくヒロさんに会いたくなってきた。
免許取得のため、デートする時間が減ってしまったが、メールは頻繁にやりとりしていた。
彼は教習所の様子をメールで送ってくれる。
講習を受ける彼の楽しそうなメールを読むとこちらも気持ちがなごんだ。
(ヒロさん楽しそう)
彼が頑張ってると私も仕事に張り合いが持てた。
ある日
仕事が押してしまい昼休憩に大幅にくい込んでしまった。
急いで1Fの食堂に降りていく途中、出荷口の隅で1人お弁当を食べている男性がいた。
(あんな所で1人で食べてる…)
そのすぐそばには大きなトラックが駐車してある。
(ヒロさんああいう大きな車を運転する免許を取りに行ってるんだ)
そう思ってると、お弁当を食べ終わったその人はトラックの運転席に乗り込みエンジンをかけた。
食事を終え、二人きりの時間を過ごした後、車で家に向かう。
帰りたくないあの家に。母は私を待ってなどはいない。
おそらく寝ているだろう。
市営住宅に車が着く。
このままヒロさんと一緒にいたい。
送ってもらうたびそう思い胸が苦しくなる。
『じゃあな』
ヒロさんの言葉に本心を隠し『うん気をつけて』と答える。
軽くキスをして助手席から降りた。
『祥子、またメールするから』
『うん、免許頑張って』
ヒロさんは大型免許を取得するため教習所に通うらしいので、しばらくは会う時間が少なくなるかもと言っていた。
会える日が少なくなると聞いて
とても寂しく感じた。
夜中
母がまた暴言を吐き私は心を殺した。
布団を頭まで被りながら、耳栓をして嵐が過ぎるのを待っていた。
この状態
後どのくらい頑張って、我慢すればいいのだろう。
早く、この家を出たい。
ヒロさんとずっと一緒にいたい。
その日が来るまで
生きなければ…
『ん?』
『まだ本社には戻らないのか?』
『戻る話しまだ出てないよ。どうして?』
『いや、なんとなくな。もう異動になって一年になるからそろそろかなって』
『…ヒロさんは私に本社に戻ってもらいたいの?課長のいる職場に…』
『いや、どうかなと思っただけだよ』
ヒロさんが顔を背ける。何か変だ。
『私が本社に戻らないとヒロさんが困る事でもあるの?』
少し意地悪な尋ね方だったがヒロさんの本意が聞きたい。
『ちょっとな、彼女が本社勤めの方がカッコいいかなって…』
『カッコって…私カッコいいとかで会社選んだ訳じゃないよ』
『そうだろうけど、俺がツレとかに自慢出来るかなって…彼女がアパレル会社本社勤務の美人OLさんて』
『…倉庫の仕事している彼女じゃ嫌なんだ』
『別にいやって訳じゃない。すぐ重く考えるなあ、流せよ』
『…』
(一年前異動になった時は喜んでくれたのに)
知っている
ヒロさんはプライドが高い。
食事もホテル代も私に支払いをさせたことがない。
車や時計も私から見たら相応のものではないものを使っている。
自分を大きく見せたいのだろうか。
そいいった気持ちは私にはわからない。
『5時だ。そろそろ出よう』
『うん』
少し気まずかったが、引きづらない所もヒロさんの好きな所だ。
ゴールデンウィークの〇〇湖旅行から帰って少し経った頃
ヒロさんから次の土曜日のサッカー観戦は行けなくなったとの電話をもらった。
チケットをあげるから誰かと行っておいでと言われ、会社帰りに駅前で待ち合わせ、二人分のチケットを渡された。
『ワリィ、急な仕事でさ!』
『ううん、お仕事頑張ってね』
カフェでちょっとでも話せるかとも思っていたが、車の窓からチケットを渡されすぐに彼は帰ってしまった。
立ち去る車の後ろを見ながら、ちょっぴり期待していた心がしぼんでいった。
一緒にサッカーを見に行くような趣味の友達はいなくて、結局チケットは小学生の男の子がいる西垣さんに譲り渡した。
その次の日曜日、サッカー観戦出来なかったお詫びという訳で、私の要望で地元ではバラの花で有名な公園へ連れていってもらった。
色とりどりのバラの花と香りに心が癒される。
ベンチに座り、ヒロさんはバラの花を背景に写メを撮ってくれた。
『なかなかいいよな。花ってあんまり興味ないけど。なんか空気がいいよ』
『でしょ、花を見てると気持ちがなごむよ』
よい天気のバラ園の中、私たちは話しをしながら行き交う人を眺めていた。
『祥子』
それから2カ月経った休日、ヒロさんと映画に行った後カフェで話をしていた。
『祥子、もう倉庫の仕事慣れた?』
『うん、研修の時と少し違って責任のある仕事もしてるけど、楽しいよ』
クリームソーダのアイスの部分が冷たくて美味しい。
『楽しいか…いいよな』
何故か彼は少し憮然とした様子。
『ヒロさん私が異動になったとき、もう課長と同じ職場じゃなくなるって、喜んでくれたじゃん』
『まあな…』
なんとなく気まずい空気がながれる。
仕事はストレスを感じるのが普通で
楽しいという感覚を得られるのは、恵まれている環境なのだろう。
『ヒロさん、お仕事忙しくて大変なの?』
『忙しいのは忙しいけど俺に合ってるから大丈夫だよ』
ドライバーの仕事の彼は顔と腕が日焼けして浅黒い。
『よかった。何か悩んでるのかなと思った』
『悩んでないこともないけどな今どうこう出来る訳じゃないから』
『?』
『ま、俺の事はいいからさ、そうだ盆休みはどっか行くか?』
彼は両腕を上に上げて伸びをした。
『うん!』
不安な気持ちが消えた訳ではなかったがヒロさんが笑ってくれたのでほっとした。
二人共笑顔で顔を見合せ幸せな気持ちになった。
母の事を除いたら、仕事と恋愛はとても充実していた。
そして
公私とも大きな変化もないまま、異動から一年が過ぎた。
異動から1週間くらいたった頃、橋本さんに言われた『白田さん』を従業員、パート名簿で調べてみたが、白田という名前の人は居なかった。
休憩時間に川村さんに聞いてみた。
『白田さん?ちょっとわかんないわねぇ…。少なくともこのフロアにはいないわ』
『そうですか…』
『あれじゃない川村さん、白木さんのことじゃないの?白田と間違えたんじゃないかな?』
飴を渡しながら西垣さんが話す。
『白木さん…ですか』
『でもその人祥子ちゃんが来る少し前に辞めちゃったんだよ』
『そうなんですか…』
『白木さんもベテランパートさんだったから、橋本さんはそう言ったのかもしれないね』
『……』
辞めてしまっていては仕方ない。
橋本さんも知らなかったのだろうと
この話はこれでしばらくは忘れてしまっていた。
『何か困った事があったら白田さんに相談するといいわ』
『はい。白田さんですね。わかりました。』
『橋本さん!』
後ろから声が聞こえた。振り返ると村井営業部長がいた。
『今日相談があると先日お願いしたのですが…』
『ああ、そうでしたね。忘れてました 笑ごめんなさい橋本さん、じゃ頑張ってね』
『はい、頑張ります、ありがとうございました』
私はお礼を言い、橋本さんは部長と立ち去る。
強面の村井部長が橋本さんには低姿勢。
あらためて橋本さんの存在感を思い知らされた。
白田さんかあ…4Fにいたかなあ…そんな名前の人。
橋本さんが言うのだから白田さんという方はいるのだろう。1ヶ月しか居なかった私にはわからなかったかもしれない。
3日後
物流センターへ異動の日がやってきた。
『祥子ちゃん、また一緒に仕事ができるね!よろしくね!』
『ありがたいわ。また頑張りましょうね』
西垣さん、川村さんから温かい言葉をいただき戻ってきた事を実感した。
『はい!よろしくお願いします!』
久しぶりの現場の仕事、私は水を得た魚のように生き生きと働いた。
やはり私の居場所はここなのだ。
心は身体の程よい疲れと共に充実感で満たされていた。
本当はまだ入野課長が私を見る時があるのだが、それは言わなかった。
私の自意識過剰かもしれないし。
(男の人ってみんなこんな感じなんだろうか)
初めて彼氏が出来た私は他を知らないので.こういうものかもしれないと、自分を納得させた。
それから
入社3年目の5月、念願の辞令を受けた。
4月に異動が通例だが、物流センターの正社員に一人急病で休職になったので、以前から異動願いを申し出ていた私が急遽行くこととなった。
私は飛びあがる位嬉しかった。
(嬉しい!また皆と一緒に仕事ができる!)
私も丸2年ここに居て、少しは会社の事情もわかってきた。
―異動には大物の進言が影響する―
おそらく橋本さんが口添えをしてくれたのだろう。
根拠はなかったが、そう思っていた。
一言お礼が言いたいと、異動が決まった日から、橋本さんに話かけるきっかけを狙っていた。
その日の夜
ヒロさんは乱暴に私を攻めてきた。
言葉も、行為も
いつもと違って少し苦痛を感じた。
しかし拒否ができない。彼は私を上から見おろす。
『祥子は俺のもんだ。他の奴とやったら許さない』
言葉の語気が強く、脅迫的に感じた。
私も嫌な思いをしたのに…それは考えないのだろうか。
『そんな事しないよ、さっきの本屋さんでの事怒ってるの?あれは私が悪いんじゃないわ…勝手に…』
『わかってる』
動きが激しさを増し、嫌な思いがその激しい波にのまれてゆく。
波が退いていき
余韻に浸っている私にヒロさんは聞く。
『祥子は会社でも誘われるだろう?』
『今はないわ。昔はしつこく迫られたけど。』
『誰だそいつは』
(しまった…ヒロさんがあんな怖い顔を見るのは初めて…)
しかしうまく誤魔化す自信もなかった。
『上司だよ…でも大先輩にたのんで.注意してもらって、もう迫られなくなったから安心して。ヒロさんと会う前の事だし』
『そいつと一緒に仕事してるの?』
『…そうだけど、本当に今はもう何も言って来ないしこれからもないよ、社長に言われたらしいから』
『もしまた祥子にチョッカイ出したらぶっ殺してやる』
『ヒロさんたら…』
彼の発言は冗談だとわかっている。だがその時の彼の表情がいつもの明るい彼と雰囲気が全く違っていた。
>> 34
ある日曜日
その日は暑かったのでアウトドアの好きなヒロさんも外で遊ぶのは諦め、ショッピングモールの書籍店で本を物色していた。
ヒロさんはアウトドア系の雑誌売り場
私はペット雑誌のコーナーで別々に立ち読みをしていた。
『彼女、犬好きなの?その雑誌買ってあげるから一緒にお茶しない?』
一見真面目そうな30代半ば位のサラリーマン風の男が声を掛けてきた。
『え?…いえ、結構です』
その場を離れ、女性雑誌コーナーに移動する。
男は後をついてきて話かけてくる。
『遠慮しないで。君可愛いから気にいっちゃたんだ。何ならその本も買ってあげるからさ、ね』
『ちょっと、やめてください!』
ヒロさんが異変を感じて飛んでくる。
『おい、オッサン、何すんだよ俺の女に』
その男は無言で立ち去ろうとした。
『オイ!』
『ヒロさん、やめて!もういいから』
ヒロさんは男を呼び止めようとしたが私は諌めた。
周りの目が気になったし、ここの本屋にはよく来るので騒ぎにしたくない。
『祥子、大丈夫か?』
『うん』
『お前ぼうっとしてるから』
『…ごめんなさい』
頼もしく思ったのもあったが責められてる気がして少し悲しかった 。
元々人見知りするたちだった私、父の事もあり酒の席が苦手だったので参加するのも悩んだのだが
美由紀がメンバーが足りないのと、少しは遊んだほうがよいとの誘いにそれもそうかなと思い参加した。
初めての合コン。
大勢の中での会話が苦手な私は、ほとんど喋れない。
だがヒロさんは私を気にいったらしく、気を遣って話かけてくれてその場はとても楽しかった。
何度かメール交換をしてアプローチを受けた私は.戸惑いながらもヒロさんの天性の明るさと社交的な所に.自分にはない魅力に惹かれ、交際する事になった。
大好きな人と一緒にいる幸せな時間…
母といる時は地獄でも
彼といる時はそれを忘れられる…
こんな日が来るなんて…
初めての恋に
私は夢中になってしまった。
それから私は総務で懸命に仕事をした。
橋本さんに言われたことに納得はしたが、異動の希望を棄てた訳ではない。
今やることをしっかりやって私という人物を評価してもらえるよう、そして異動の希望がかなうよう頑張っていた。
私には夢があった。
家を出る事。
その夢を叶える為、一人暮らしの為の必要な費用を貯金していた。
今の生活は.母は働かず兄の仕送りと私の給料でやりくりをしていたので貯金は少ししか出来ない。
でも僅かでも、何年もかけてお金を貯め、いずれは家を出て自分だけの生活をすることが
小さい頃からの希望であり、それのみが生きる原動力だった。
***
それから一年ほど経ったある日、
簿記学校時代の友人 美由紀に誘われ合コンに参加した。
そこには夏の日差しのような明るくて元気なヒロさんがいた。
また私は大きく頭を下げた。
と同時にすごく情けない気持ちになった。
『申し訳ありませんでした…』
『あ、ごめんごめん、そんなに恐縮しないで。私もちょっと言い方がキツかったみたいね、悪かったわ』
『キツいだなんてそんな事ないです…私がいけなかったんですから…』
『素直にわかってもらえて嬉しいわ。
まあ、失敗も経験だから』
コンコン!
ミーティングルームのドアを誰かがノックする
『はい』
橋本さんがドアを少し開けた。
『すみません…橋本さん、会議…皆さんお待ちですよ』
社長の秘書的立場の女性社員が声をかけた。
『あ!はいすみませんすぐ行きます!安藤さんわかってくれたようで安心したわ。ごめんなさい中途半端でごめんまたね』
『はい、勝手な事を言ってすみませんでした』
橋本さんはにっこり笑い部屋を後にした。
その時一瞬
日本髪に結い
煌めく濃緑色で菊文様の打掛けを纏った
大奥総取締役姿の橋本さんの幻影を視た。
そしてその幻影は憧れの感情へと私の心の中に染みいっていた。
『私はそんなたいそうな仕事をしてないので…穴があくなんて事はないと思いますが…』
苦し紛れに、謙遜したつもりで下を向いたままボソッと言った。
『たいそうじゃない仕事なんてないのよ』
そう言われてドキっとした。…そうだ…仕事に重いも軽いもない。
重要じゃない仕事なんてないんだ…。
私は自分が恥ずかしい事を言ってしまったのだと気がついた。
『異動願いを提出するのは規則違反ではないわ。だから出すのは自由。
でもまだ半年やそこらで異動の動機となり得る働きをあなたはしたのかしら。
それもないのに届けを出すのは良識のある行為だと言えないと私は思うけど』
『……』
何も言いかえせない。
『すみません…私が間違ってました…』
『異動の話は私に言うべき事ではないわ』
橋本さんは目を閉じ考えている
『安藤さん、人事異動というのは自分だけで決めれるものではないのよ。ましてや私に頼む事じゃない。
各セクションの責任者達がいろんな情報を元にその人の適性を検討して、配置を決めるものです』
私は下を向いて話を聞いていた。
『場合によっては本人の意志に関係なく行われる事もあるの』
『はい…』
『学校の部活動と違ってこっちの課が嫌だからあっちって変えれるものじゃない。あなたは好きな所へ行けるからいいけど、穴の抜けた部分はどうするの?』
『……』
ちらっと見た橋本さんは淡々と話をしていたが、表情は厳しかった。
耳の痛い言葉がミーティングルームに響く。
『はい、お陰さまで課長からの誘いはなくなり先輩も挨拶を返してくれるようになりました』
ミーティングルームには机も椅子もあったが 立ったままで話をする。
『それは良かった』
『ありがとうございました。橋本さんのお陰です』
私は深々と頭を下げた。
『いいのよ』
『あの…二人に何ておっしゃったんですか?』
『鈴木さんには[いつも新人の教育ご苦労様]って言っただけよ』
『それだけですか?』
『ええ』
『…課長には…何と…』
『入野課長の事は社長に任せたからどいいう事を言われたかは知らないわ』
『社長!』
ここにきて私はえらい事をしてしまったと動揺した。
『話はそれだけ。時間とらせて悪かったわね』
ミーティングルームを出ようとした橋本さんを私は咄嗟に呼び止めた。
『すみません!橋本さん!』
『ん?』
『あ、ありがとうございました』
立ち上がってお礼を言う。
橋本さんは軽く頷きカフェを後にした。
私は椅子に座りまだ残ってるコーヒーを飲む。
(もう、やれるだけの事はやった…後は結果がどうなっても受け入れるのみだ)
橋本さんに話を聞いてもらっただけで気持ちが軽くなり、もう少し頑張れそうな気がした。
それから3日くらい経った頃から、入野課長からのアプローチも、鈴木先輩の挨拶無視もピタリと止んだので
橋本さんのお陰だろうと、心の中で何度もお礼を言った。
それから一週間、
課長の口説きも鈴木先輩の無視もなくなり、精神的にとても楽になった。
(橋本さんにお礼を言わないと…)
そう思ってはいたがなかなかタイミングが掴めず機会をのがしていた。
そんな時いつものようにパソコンに向かって仕事をしていると、橋本さんが声をかけてきた。
『安藤さん、ちょっといい? 』
『は、はい!』
突然の事に驚く。
橋本さんは課長の所へ行き何か一言伝えたあと、私の元へ。
『行きましょう』
『はい』
課長と鈴木先輩と他の皆の視線を感じながら、橋本さんに促され、小部屋のミーティングルームへ入った。
『どう?その後』
『入野君が関係を迫ってくるって、疑ってる訳じゃないけど証拠はあるの?』
『郵便物は気持ち悪いし母に怒られましたので捨ててしまいましたがメールは少し残ってます…』
『悪いけどちょっと 見せてくれる?』
入野課長からのメールを見せる。
橋本さんは何通か目を通した
『ちょっとセクハラかどうか微妙なものもあるけど、あなたが不快に思ってるのは事実だから何とかしないとね。仕事が絡んでの嫌がらせはないの?』
『それは…ないです。出勤途中に誘われたり一人の所を見計らって迫られます』
『そうね、入野君は頭がいいから他の人の目につかない様にしてるのね』
『……』
『鈴木さんも困ったものね。挨拶くらいしないと。いつまでも子供みたいな事して。まあこれはなんとかなるでしょ』
『橋本さん…私は…どうすればいいのかわかりません…』
『どうもしなくていいのよ。今までどうりシッカリ仕事していてちょうだい。話はそれだけ?』
『あ、はい、聞いて頂いてありがとうございました』
深々とお辞儀をして頭を下げた。
『ごめんなさいね。ゆっくり話を聞きたい所だけど、これでも主婦だから買い物もあるし失礼するわ』
橋本さんは残っていたコーヒーを飲み干し、トレーを手に席を立った。
橋本さんは少し微笑んで休憩室から出ていった。
張り詰めていた気が溶け、冷や汗が流れた。
(良かった…)
そう思うのがやっとだった。
6時
カフェ.プリエ
(よかった橋本さんまだ来てなかった。待たせたら失礼だものね)
オーダーしたコーヒーを持ち窓際の二人対面テーブルの席に座り、橋本さんを待った。
『安藤さん、待たせたちゃった?』
茶のパンツにグレーのカーディガンを羽織った橋本さんが私の向かいに座った。
『す、すみません!お時間とらせてしまって…』
『いいのよ。すごく思い詰めてたみたいだし。で、何?私でお役に立つかな』
橋本さんはグラスの水を飲み、私の目を見つめた。
穏やかな表情だ。
緊張していた私は少し安心して入野課長と鈴木先輩の事を話した。
『そう、それは辛かったわね』
『はい…』
橋本さんのその一言に涙が出そうになったが必死でこらえた。
とは言っても橋本さんは、ほとんど自分のデスクにはおらず、大抵は役職のある人と会議をしてたり外出をしていた。
だが、ある日休憩室で清掃の方と話をしている橋本さんを見かけ、思いきって声をかけてみた。
『は、橋本さん…すみません…あの…』
『あら、安藤さん。ごめんなさいね。こんな所でつっ立ってちゃ邪魔よね、大きな体で 笑』
橋本さんは私がコーヒーを買うと思ったらしい。
その少しぽっちゃり気味な体が自販機から離れた。
(…私の名前、知っててくれたんだ…ほとんど話した事ないのに)
『あの…ちがうんです…あの…橋本さんに相談があるんです』
訴えるその声は蚊の泣くような声で震えているのが自分でもわかった。
『何?ここでは言えない事?』
『はい…お願いします…是非聞いてもらいたいんです…とても困ってるんです…』
『……』
にこやかだった顔つきが一瞬怪訝になった。
『お…お願いします!』
少し大きな声を出しながら、私は深々とお辞儀をし頭を上げなかった。
休憩室にいる何人かが、この出来事を興味深く見ているのにも気がついた。
だが、もう後に引けなかった。
『お願いします!失礼な事言ってるのは承知してます!でも…これしか方法がないんです…』
真剣な眼差しで橋本さんに訴えた。
『いいわよ』
2.3秒の間の後橋本さんは答えた。
『6時に駅前のプリエまで来てくれるかしら?』
『あ.はい、行きますありがとうございます!』
本社に戻り、また憂鬱な毎日が始まった。
先輩も課長も相変わらずだった。
いや…むしろ悪い方に状況は向いていった。入野課長の行動がだんだんエスカレートしてきたのだった。
私が誰にも相談していないのをいい事に、余計に迫ってくるようになった。
毎日送られるメールの内容も下品なものが頻繁にくるようになって
自宅の電話や妙な郵便物も届くようになり、勝手に人のものを開ける家のあの人からも罵声を浴びせられるようになると、もう我慢の限界だった。
この場合、相談する相手は鈴木先輩になるのだろうが、
あの有り様なので解決になろうはずもない。
悩んだ末、
社内でもお局中のお局。
さしずめ大奥総取締役クラス、入社30年の橋本さんに話をする事にした。
入社数ヶ月のぺーぺーの私の話を、総取締役の橋本さんがまともに相手をしてくれるのか…
可能性は極めて低かったが私は賭けに出た。
食事を終えて、皆に挨拶をした。
『祥子ちゃんお疲れ様。すごく助かったよ。名残り惜しいけど…本社へ戻っても元気で頑張ってね』
『ずっとこっちに居ればいいのに…祥子ちゃんが明日からいないなんて考えられないよ 泣』
川村さんと西垣さんの言葉にこみ上げるものがあった。
今まで生きてきて自分がこんなにも必要とされている事を初めて実感した。
溢れる涙が止まらなかった。
『祥子ちゃん…泣かないでよ…こっちまで辛くなるじゃん』
西垣さんももらい泣き。
それは上べだけのものかもしれないが
母親から与えられなかったあたたかい情というものをこの時知ることが出来た。
私はここの人たちにどれだけ救われたかわからない。
本当に離れるのが嫌だった。
明日から本社へ出社しなければならない
それは実感はなかったが
現実だった。
もちろんその要求は断った。
しかしなかなか諦めてはくれず、
電話もメールもしつこく
ノイローゼになりそうだった。
そんな時
新入社員恒例の現場研修がはじまった。
私は現在いる物流センターへ行くことになり
鈴木先輩や入野課長のいない職場を想像し心をおどらせた。
研修がはじまり、倉庫中を走り回るという体力を使う仕事に初めは戸惑ったが、慣れてくると要領もわかってきて、
真面目に働いているとパートの皆も私の仕事ぶりを認めてくれた。
何しろ鈴木先輩も入野課長もいない仕事場は私にとっては天国にいるような場所だった。
研修期間の1ヶ月はあっという間にすぎ、最終日は仲良くなった川村さん西垣さん、あと2人ほどのパートさんとランチへ行った。
『皆さん、お世話になりました』
自分の気が付かない所で鈴木先輩に不快な思いをさせているのかもしれない
悩んだが、先輩は理由ハッキリ言わないので私は直しようがなかった。
冷たい態度で接せられても、仕事には影響がなかったので、鈴木先輩も何か会社や家庭で不満な部分があり、そのストレスを私で解消しているのだろうと思った。
そう。あの人と同じように。
私は鈴木先輩に対して、あの人と同じ感情と対応をすることで
気持ちを納得をさせていた。
これくらいのことで、会社を辞めようとは思わなかったが
別件でまたもや人の思惑に振り回される事態に
陥ることとなった。
鈴木先輩の私への邪険な態度は、
直属の上司の入野課長からしてみれば
何となくわかっただろう。
鈴木先輩の冷たい対応に気落ちしている私を見て
同情からなのか
弱味につけこんだのかはわからなかったが
課長は社内で隙を見ては
私に関係を迫ってきた。
入野課長は既婚者だ。
つまりは不倫関係を求めてきたのだ。
高校卒業後簿記学校に一年通った後
今の会社に採用され本社の総務課に配属された。
持っている資格を活かしたパソコン相手の仕事だった。
仕事自体は、日がたつにつれ慣れてきて、達成感や充実感も感じていた。
それとはまた別に、私は学生時代には感じたことのない、何ともいえない人間関係の重い思惑を感じる事となった。
入社して仕事にも慣れ、周りを見渡せる余裕も出てくると
何となく人の視線や
ざわつき感を感じた。
同僚の絵理にそれを話すと
社内で祥子の容姿が評判になっていると言われた。
私は信じられなかった。
母にいつも否定されてきた。
汚いとか不細工とかずっとけなされていた。
それは今でも続いていたからだ。
物心ついたときから顔だちも性格もけなされ続けてきて
行きなり賛美の声を聞かされても
信じることが出来なかった。
2日後
職場で3時の休憩中
〇〇湖で買ったお土産のお饅頭を職場のみんなに食べてもらっていた。
『このお饅頭ちょっと塩が効いてて美味しいんだよね』
西垣さんがお茶を飲みながら話す。
うんうん
『ありがとうございます』
みんなに喜んでもらえて私は嬉しかった。
『〇〇湖はそんなに遠くないから今度みんなで行こうか』
『いいですね』
その提案は叶うことがないのはわかっていたが、そう言ってもらえるだけでも嬉しかった。
『祥子ちゃん、欠品の事、在庫管理に言っといてくれた?』
『はい、なるべく早く入荷させると聞いてるんですけど…』
『まだカットソー類が揃わないから出荷出来ないのがたまってるのよ。もう一度聞いてみてくれない?』
『わかりました。確認します』
こういった連絡は一番年下なのにも関わらず、社員の私に役割がまわってくる。
忙しく、面倒くさいと感じる事もあったが、自分を必要としてくれる、やりがいを感じていた。
今は現場の仕事だが元々は本社で事務をしていた。
三年前…
ホテルで夕食をいただき、二人の部屋に入った。
部屋からは夜だったが湖が一望でき、星と湖の揺らめきの美しさに暫く見入っていた。
ヒロさんはキスをしようとしてきたので、軽く応じた。
その先も求めてきたので私は体を離した。
『いやだよ、お風呂も入ってないし…』
『やっぱ嫌か 笑
俺は全然構わないんだけど』
『ヒロさん、疲れてないの?少し休んだら?今日はエッチなしでもいいよ』
『なあ~に言ってるの!運転は本職だから大丈夫に決まってだろ、祥子,今日は寝かさないから 笑』
『もう冗談ばっか言って 笑 私大浴場の方に行ってくるね♪』
『え~そりゃないよ~一緒に入ろうよ~』
楽しかった。
ヒロさんと過ごす時間
会話。
私を愛してくれる。
正気に戻してくれるヒロさん。
私は彼の欲求に精一杯応えた。
家での私を忘れさせてくれるヒロさんに
この心も 身体も
壊されてしまっても構わなかった。
私の彼
澤田博則 28歳
友人の紹介で知り合い付き合って一年半になる。
仕事は運送業。
短髪で筋肉質。
明るくて社交的で笑顔が可愛い。
私は彼が大好きだ。
〇〇湖を目指し、高速を走る。
ゴールデンウィークだが大渋滞というほどではなく、2時間ほどで〇〇湖に着いた。
海にも続いているこの湖の眺めは最高だった。
車を駐車場に停め湖畔を歩く。
湖畔と言っても海に接しているからほとんど砂浜だ。
観光地なので大勢の人で賑わっていた。
私達はヒロさんに寄り添い色々な話をしながら砂の上を歩いた。
夕陽が落ちていく中、大勢の人が絶景に見入っている。
寄り添う私達は
端から見ると、恋人同士に見えるのだろうか。
だとしたら
素直に嬉しい。
その嬉しさは繋いだ手から
彼に伝わっているのだろうか。
私の父はアルコール依存性と心臓の病気もあり、入院している。
どういうわけか昔から仕事が長続きせず
生活は安定しなかった。
その生活の苦しさを母は私にあたることで解消していた。
親として子には言ってはいけない事を何度も繰り返し、私に投げ掛けた。
私は感情を殺すことでその場を忍んだ。
そうしなければ生きていけなかった。
一人5歳上の兄が居たが、兄は両親に溺愛されていた。
暴言を吐かれたことなど一度もない。
なぜ私だけ?
昔はよく疑問に思ったが
今は考えるのも無駄な気がして、何も考えなくなった。
心の通わない母との暮らし。
家を出ればよいのだが、
一人で生活出来ない母を残してもいけず
家はただ眠る場所と割り切り
毎日の拠点としていた。
しかし時間は容赦なく過ぎていく。
定時になり伝票を整理し退社タイムカードを押す。
車を発進させいつものスーパーへ向かい夕食の材料を揃え、家に向かう。
市営住宅の駐車場に車を停め、エレベーターにのり5階のボタンを押す。
エレベーターのドアが開き、503号の自分の家のドアを開ける。
ガチャ
……
無言で台所へ行きレジ袋からじゃがいもと牛肉を取り出した。
居間ではテレビがついててそれを一人、見ている人物がいる。
ただいまも言ったことがない
お帰りも言われたことがない
そういう人間が集まる場所だった
『お母さん出来たよ』
忙いでこしらえた肉じゃがとご飯をちゃぶ台の上に置いた。
『んーいらない』
喫茶店で済ませてきたようだった。
『はい。○○湖までドライブに行く予定です』
『そう、あそこは海沿いで眺めが良くていいわよ。食べ物も美味しいし』
川村さんはコーヒーを飲みながら話す
『いーな、彼氏と行くんでしょ、いーないーな!うちなんかもうどこ行くのも子供中心だからさ、疲れるだけだよ』
『何言ってるの西垣 さん、子供中心でも出掛けられるのは幸せだってことでしょ』
『川村さんはすぐそういう悟ったこと言うんだから笑。わかってるけどさ、やっぱり若くて青春してるって羨ましいわよ。特に祥子ちゃんは美人だしさ』
『さすがに青春って年じゃないですよ。それに…美人て…そんなでもないですよ…。独身だから自由がきくだけですよ。お二人だって可愛いお子さんがいていいじゃないですか』
『西垣さんとこは小学生だから可愛いけどうちはもう成人だから可愛くはないよ。生意気なだけ』
笑
職場での他愛もない話が楽しかった。
昼休憩が終わり、元の場所から作業を続ける。
5時になったら仕事を終え帰宅しなければならない。
嫌だな
帰りたくない…
約20人位いるパートの人たちとエレベーターに乗り、一階に降りる
食堂にある洗面所で手を洗いミニタオルで拭きベージュのエプロンのポケットにしまう
川村さんと西垣さんと三人でいつもの席でお弁当を食べる
『さっき見ましたよ、新作。袖のところのデザインが違うんですよ』
私は二人に話かける
『へぇー、何か同じようなものだとややこしいよね。ピックする仕事のうちらわさぁ』
西垣さんは面倒くさそうに答えた。
『頭の体操にいいじゃないの』
川村さんがオカズの紅鮭をほぐしながら笑っている
私 安藤祥子(しょうこ) 23歳
アパレル会社α.βで通販部門の商品ピッキングなどの現場での仕事をしている
パートさんたちは30~50代の女性が多く
ピッキング担当の正社員は私だけだ
ここに配属されて一年。
女性ばかりの職場だがキッチリ仕事をしていたのでいじめもなく
若い私は年配のおばさま方に可愛がられて職場の人間関係は良好だった。
お弁当を食べ終わり席を立つ
『コーヒー買ってきます』
『あ、お願い』
誰からともなく言い出し
近くの紙コップ式の自販機でコーヒーを買い
後でお金をもらう
『もうすぐゴールデンウィークだね。祥子ちゃんはどこかへ行くの?』
西垣さんは笑顔で聞いてきた。
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。
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ご返信有り難う御座います。 僕がまさに汚いオッサンなので堕天させ…(依田桃の旦那)
6レス 94HIT 依田桃の旦那 (50代 ♂) -
神社仏閣珍道中・改
(続き) 今、部屋に飾らせていただいていた作品を。 ただ、…(旅人さん0)
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西内威張ってセクハラ 北進
辞めた会社の愚痴を言ってるんじゃないんだよ。その後まともな会社に転職し…(自由なパンダさん1)
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