地獄に咲く花
地球温暖化が進んで人類滅亡も近い世界での、ある子供達の物語。
13/03/21 00:30 追記
※このスレッドは前編となっています。中、後編は以下のURLよりお入り下さい。
中編
http://mikle.jp/thread/1242703/
後編
http://mikle.jp/thread/1800698/
尚、このスレッドはレス263よりサイドストーリーとなっております。もし中、後編を御覧になる場合はこちらも読むことをお勧め致します。
長い時が地球に流れた。人類は地球を汚染し続け、今となってはほとんど地球は死にかけていた。陸の七割は砂漠化。海も有機物で汚染されていた。異常気象によって、作物も育たない。食べることも、水を飲むこともままならない。そのため、生きているのは約63億人の中のほんの一握りだけだった。
その一握りの人々はその最悪の環境の中で必死に生きていた。今地上にある『国』の数は、ほとんどの土地が砂漠化したため、数えることが出来るほどしかない。
だが時がたつ分『国』一つ一つの技術は発達していた。
一つの『国』の領域…直径100㎞の土地は透明なドームに覆われていた。
紫外線遮断フィールドだ。
オゾン層が破壊され、人体に有害な大量の紫外線が降り注ぐ中、その『国』はフィールドによって守られているのだ。
ドームの中の小さな国でただ生きることだけを考えて、人々は生きていた。
円形の『国』の内部は円の中心に近い上層部と、端のほうの下層部に分かれている。
上層部にはビルが集中的に立っており、人が存在するような雰囲気を出していた。
一方、下層部は砂の地面の上に今にも崩れそうな古い建築物や家、もしくはテントが並んで立っている。そこには乾いた熱い風が通りすぎるだけで、ほとんどの区域は静寂に支配されていた。そこに住む人々が大概日々悪化する環境に怯え、上層部からの配給の時間以外を建物の中でじっとして過ごすためだろう。
…朝6時
時計台の鐘が鳴り響く。暗闇の中にあった『国』が、少しずつ太陽の光を浴びて、明るくなってきた。
それは、下層部での出来事だった。
朝の静けさの中、いりくんだ裏道を走る人影があった。
「…はぁっ…はぁ!」息を切らしながら必死に走る、スーツの男性がいた。
そして、それを突風のような猛スピードで追う人影がある。
男性は必死に逃げるうちに、小さな廃ビルへ追い詰められた。
「はぁ……はぁ…なんて…スピードで…追ってくるんだかなぁ……はぁ…はぁ。」
暗い部屋に射し込む入口からの光を背に、男を追っていた人影が立ち塞がる。全く疲れている様子はない。
人影は十代半ばの少年だ。比較的小柄な体格で、白いパーカーにジーンズを着るだけという簡素な服装をしていた。髪は黒く、整った顔立ちは限りなく無表情。男を真っ直ぐ見つめるその目の色は闇そのものだった。そしてその両手には2本の、柄が長い鎖で繋がっている長身の剣が握られている。口を開く。
「ダニエル・ブライト。国からの依頼により…消去する。」
かなり淡々とした口調で。男に最低限聞こえる音量で言った。
「………ふぅ……」
ダニエルという男は手を膝につくのをやめた。
「……こうなることは…覚悟していたさ。……だがな…まだ死ぬわけにはいかないんだよ。」
ダニエルは汗を滴らせた顔に笑みを浮かべると、胸ポケットから拳銃を取り出す。
同時に少年は2本の剣をすっと構えた。
「……来いよ…殺し屋。出来るだけ………足掻いてやるさ。」
その言葉が終わった後7、8秒廃ビルに銃声が響いたが、その後は何も聞こえなくなった。
血が飛び散っていた。部屋の隅で赤い泉を作っているのはダニエル・ブライトだった。
返り血を浴びた少年はポケットから携帯を取り出した。そして番号を打ち、耳に携帯を当てる。
「……ロイ。今、終わった。………。ああ。予定どうり、すぐ戻る。」
そう言ったあとすぐに電話を切る。
同時刻。
あるところにある薄暗い部屋でのことだった。そこはテーブルと向かい合った一組の椅子があるだけの殺風景な場所だった。
椅子に座ってテーブルごしに向かい合う人間が2人いる。1人は目隠しをされたスーツの男だった。ずっとうつむいたままだった。
もう一方はボロボロな大きいローブをまとっている。フードは深く被っているので顔は見えないが、体は小さくまだ大人ではないことが分かる。
ローブの人物は頬杖をつきながら沈黙を守っている。
すると、ピリリリ…という電話の着信音が鳴った。スーツの男はその音に体をビクッと強張らせる。
ローブの人物はポケットからけたたましい音を立てる携帯を取り出すと、電話に出た。
「ジュエル。終わったか?………じゃあ後は予定どうりに。…。」携帯をパタンと閉じる。そしてうつむくスーツの男に言う。
「今。終わったそうです。」
その言葉を聞いた男は、さらにがっくりとうなだれる。そしてわなわなと震え始めた。
「……くそ…なんだって……ここまでしなくちゃいけないんだよ……?!ダニエル………うぅうっ!」
フードの人物は全く聞こえてないかのように、話を切り出す。
「では、報酬を払って下さい。」
高い少年の声だった。「…報酬を払ったら、依頼の一切を終了させて頂きます…。」
スーツの男はしばらく下を向いたまま動かなかったが、震える手で自分の椅子の脇にあった重たい袋を手探りで取り出した。そして、それをテーブルの上に置く。
(どうして…こんなことに……)
その問いを男は分かっているのに、ひたすらその考えだけが、彼の頭の中をぐるぐる回っていた。
男の記憶が巻き戻される。それは、この日の3日前のことだった。
スーツの男…マリオ・ローレンツは回想を始める。その日は、いつものように日射しで焼き殺されるかと思うほどの暑い日だった。
そこは『国』の上層部である。天に向かって伸びるビルがいくつも林立していた。まだ国が豊かだったときは人の波であふれかえり、車が行き交っていたであろう交差点も沢山ある。しかし今やそこを通るのは、それぞれの仕事場に向かう少数の男女だけであった。そして、道路の至るところには戦車が何台も止まっている。他にもミサイル射出口、大砲などの兵器が街並みの中で陳列していた。それらは勿論何かを攻撃するためのものであり、静かにその時を待っている。
マリオは兵器だらけの横断歩道を渡って一際高いビルに吸い込まれていった。その後、高速エレベーターに乗って、34階へ。そして事務室を思わせる部屋の一角にある机……自分の仕事場に到着した。その事務室は物々しい空気に包まれていた。仕事仲間に挨拶するのも躊躇うその雰囲気の中、マリオは突然後ろから小さい音量だが声がかけられた。
「よぉ。久しぶり。」そう言ってマリオの後ろに立っているのはダニエル・ブライトだ。
マリオは、後ろに立つ存在を確認すると、鞄を机に置いて黙って歩き出した。ダニエルはその後を黙ってついていく。再びエレベーターに乗る。そしてビルの屋上に、2人は出た。マリオはそこでやっと口を開いた。
「本当に久しぶりだな。1年ぶりか?……『人造生物』について…ずっと本部は調べているのか。」
「……。まあな…。」
人造生物。
それは、今の人類にとって最大の脅威である。街の兵器はそのための迎撃システムだった。
20年ほど前、ルチアという女性の生物科学者によってそれは生み出された。彼女は地球温暖化に対応できる人体の開発に携わっていた。しかし、大半の国民はその研究に反対していたため、自分の意志だけで人目につかないひっそりとした場所で研究していた。
そして7年間試行錯誤したのち、ついに自殺願望の人を使う極秘の人体実験に乗り出した。
そして、それは成功した。どんなに強力な紫外線を浴びても大丈夫な体。-10~70℃の温度に耐えられる体。他、長期にわたり栄養摂取を行わなくても水だけで必要な成分を体内で合成できる体など、これからの環境を考慮した様々な肉体が開発された………。
そしてその研究成果が大々的に世界中に発表されたとき、それまで研究に反対していた人々は色めきたった。
この開発された体があれば、当分人類は生きることが出来る。当時は他の惑星に移り住むことも研究されていたが、もう間に合わなかった。急速に悪化し続ける環境状態に対応する術は、人体改造しかなかったのだ。
世界各地からルチアのもとに人体改造の依頼の電話、手紙、電子メールが来る。
ルチアは国の援助を受けて研究施設を拡大し、スタッフを大量に増やした。そして、何人もの依頼人を収容できる大きな建造物を建てた。
数ヶ月後、肌や髪の色、背丈もバラバラな老若男女がその研究施設に1000人集まった。今の施設ではその人数が精一杯だった。
そしてルチアと研究スタッフ達は一人一人の遺伝子を操作し、実験と同じく、人体改造は全員成功した
はずだった。
その運命の日。
研究施設内はまさに阿鼻叫喚だった。被験者全員がその姿を変容させた。
ヒトの形はなんとか保っているものの、鼻と耳と口は顔面から消え失せていて、そこにはただ剥き出しの大きな眼球だけがあった。
肌の色は真っ白になり、手足は異常に長くなっていた。そして背中からは…鳥の羽根…とは言い難い、歪な形の翼が生えていた。
原因は分からなかった。それは突然のことだったのだ。最初の実験の被験者も施設内で同時に『変容』した。
羽根を生やした、もはやヒトとは呼べない生物達はしばらくすると……逃げ遅れた研究スタッフ達を鋭い爪で殺して、喰い始めた。
顔面になかったはずの口は裂けるほどに開き、その犬歯と臼歯で殺した人間の内臓などを……ぐちゃぐちゃという音をたてながら、喰っていたのだ。
食事が終わると、口は、閉まった後に再び顔面から消えた。
施設の人間を喰い尽くすと、生物達はついに、施設の外に翼を広げて飛び立った。被害が拡大する。
沢山の人々があの生物に喰われ死んでいった。
人間が生み出した、人喰いの悪魔。
…それが『人造生物』だった。
「人造生物となった被験者を…元に戻す方法は、見つかったのか?」
「……見つかっていない。」
マリオの問いかけは数秒の間をおいた後、帰ってきた。
「……。そうか……」「だが手掛かりは見つかったぜ。」
マリオは視線をダニエルに向けた。
「ルチア博士は人造生物を解放した後、国からそれらの処分を命じられていた。その時から彼女は第5研究所で対人造生物用の兵器を開発していた。我々は人造生物のデータを収集するためルチア博士とのコンタクトを試みるため、第5研究所に向かった。だが…………彼女は、殺されていたんだ。」
「…なんだって!?殺されて…いた…?」
「あぁ。複数人に。」
乾いた、熱い風が通りすぎた。
「そして、第5研究所の内部を調べたら資料室の資料がごっそりとなくなっていた。」 「……犯人が……持ち去った……?」
「…はっきりした意図は分からないが…彼女を殺害した者は絞れた。」
「…それは…もしかして」
「そう。お前は国の幹部だから、知ってるはずだ。国と裏で繋がっている……3人の殺し屋。」
「KK……か。」
「KK。俺もそんなに深い所までは知らない。分かっているのは、全員子供だということ。3人がそれぞれ使う凶器は2本の長剣と貫通性、斬性に富むワイヤー。そして銃器だということ。」
「やっぱりな…彼女の死体には無数の切り傷と銃弾の跡があったからな…。可能性は、高い。」
日が高くなってきた。ますます暑くなってきたので二人ともスーツのブレザーを脱ぐ。
それから少し、沈黙する。
「もしかして…お前がこの『国』に来た理由は…」
「KKに接触する。」
「危険すぎる!殺されるかもしれない。それに今のこの『国』の方針……分かっているのか?KKに接触することは『国』自体に接触することと、ほとんど同じなんだぞ。」
「…人造生物の短期殲滅を最優先。それに逆らう者は死…だろ?」「時間は限られている。手っ取り早くヒトではないものを処理するには殺すしかない。…それが国の考えだ。」
溜め息をつくように、マリオは続けて話した。
「少数の意見は聞かない。聞く余地がない。」
「だからと言ってその少数派も殺すとは……ハッ。この世界はもう狂っているな。人造生物になってしまった人の家族もいるのに。」
「もう…『国』は殺すことしか、頭にないらしい。」
マリオは屋上の柵のところから黙って遠い地面を見ていた。
「マリオ。俺達も、明日にはもう死んでいるかもしれない。………だが、動かなければ、前に進めないんだ。」「…………。」
「被験者…いや、被害者をこの手で救い、地球を守る方法を最後まで考える。実行する。そして……ただ…皆で生きよう。」
マリオは黙って、ダニエルを見る。そして、ゆっくりとダニエルのそばに歩み寄るとこう呟いた。
「……死ぬなよ。生きて、帰ってこい。俺達はずっと…親友だから。」
ダニエルは微笑を浮かべてその場を後にする。背中を向けながら右腕をすっと上げ、そしてその手の平を握り、親指だけそっと上に立てると、ビルの中へと彼は消えていった。
マリオは表向きは人造生物の排除のための作戦会議、そしてウェポンの開発と技術指導をしている。しかし、本当は極秘の部隊である『SALVARE(救いの手)』の隊員だった。
人造生物となった人々を救うために立ち上げられた団体だ。彼はいつもどうりにビルでの仕事をこなす。そして、国の動きを監視する。得た情報は定期的にダニエルと交換し合っていた。ダニエルはこの会社を時々訪れる他の『国』の技工士という設定だ。
この日も同じように少人数の幹部会議があった。マリオは内容を頭に叩き込むことに専念する。
しばらく会議が進むとコップに汲まれた水が全員に配られた。
数人が貴重である清潔な水を有り難がりながら、少しずつ飲んでいた。そして、その中にマリオもいた。屋上での暑さが嘘のように水は冷たかった。
ぐにゃり、と視界が歪んだ 。
「う…」
マリオは一瞬何が起こったのか理解できなかった。
それから数秒だけ分かったのは体が急激に重くなり、意識が薄れていくこと。
その後は何も感じなくなり、何も見えなくなった。
…気付いた時には彼はソファーに寝かされていた。マリオは重い目蓋をゆっくり開いた。しばらくそのまま、目だけを宙に泳がせた。窓から射し込む光は赤く染まっている。
(……ここは……。)その考えが答えに辿り着かないうちに、声は聞こえた。
「大丈夫かね?」
低い男の声が響き、マリオは声の主が誰なのか確かめるために体を起こした。一人の五十代の男性が立っていた。「………社長…。」「少し疲れたのだろう。ゆっくり休んだほうがいい。」
マリオはソファーに座りながら辺りを見回す。
社長室だった。どうやら自分が会議中に昏倒したあとここまで誰かに運ばれたらしい…と彼はやっと理解する。しかし…何かがおかしい。
どうして社長室なのか。ここは国と直結する大きな会社だ。医務室くらい、ある。わざわざ倒れた人間を最上階の社長室まで運ぶ必要は…ない。
思考がうまく回らなかった。すると社長は話をきりだす。
「ところで…君に一つお願いがある。だからついでに社長室まで運んで貰ったんだ。」
「…なんですって?」まだ頭がガンガンする。言葉に答えるのが今の精一杯だ。
「君は知っているかね?……KKの名を。」
「………。えぇ……。」
マリオはなんとか答えた。
社長は向かい側のソファーに座ると、言葉を続けた。
「では……彼らと我が国が繋がっていることは知っているかな?彼らには主に周辺の人造生物の殲滅を任せている。…だが彼らは殺し屋だ。ヒトを殺すことも、できる。」
「………?」
(社長が…今、どうして……KKの話を……俺に……?…殺し屋……ヒトを…殺す……?)そこで彼の思考は…一瞬にして止まった。
(…ま…さ…か…!)「君への頼みとは…KKへ、この人物の殺害依頼書を出すことだ。」社長はそう言って、テーブルに数枚の書類を置く。
その中に、ある人物の調書が含まれていた。マリオはその調書に書いてある名前…そして顔写真を見る。
「!!」
体が凍りつく錯覚に見舞われた。顔も名前も、間違いなくダニエルのものだった。
「これは君にしか出来ない役割だ。…係の者が案内するから、今日出してきてくれ。」
社長の顔は嫌らしく歪んでいた。それで全てを察する。
(ばれて……いた!!)体から汗がぶわっとふきでる。
「わざわざ睡眠薬まで使って君を呼び出したんだ。引き受けてくれよ。……それとも、今死にたいかね?」
その手には拳銃が握られていた。
彼の記憶はここまでだった。
「食糧一年分…確かに受け取りました。」
ローブを羽織った少年は、フードの奥でニッと笑った。
「では出口までご案内致します。こちらへどうぞ。目隠しはまだ取らないで下さいね。」
少年は、マリオを立たせて出口へと歩かせる。
おぼつかない足取りで、やっと出口の前に来る。その時、
「……あ。」
という高い少年の声が響いた。何かを思い出した時に発する声だ。「……。実はですね、マリオさん。もう一つ、依頼を受けているんですよ。」
どがん。
と銃声が部屋中に轟いた。
ゆっくりとスーツの男は前に倒れる。そして静かに血だまりを作って動かなくなった。
少年は銃を片手に持っていた。ライフルとは違うが、拳銃よりは銃身が長い。
「さてと……死体はあっちに始末してもらうとして……。」
「ロイ」
入り口にもう一人の黒髪の、長剣を2本持った少年が立っている。
「おかえり、ジュエル。ちょっと死体を運ぶの手伝ってくれよ。」そう言いながらロイはフードをはずす。
ボサボサの短い茶髪から青い瞳を覗かせている。
「……ああ。」
やはりジュエルは無表情で頷き、死体を包む袋を探した。
袋に包んだ死体をどさっと置く。
「ふぅ……ここに置いとけば大丈夫だ。後は国の連中がやってくれるだろ。」
ロイは頬につたう汗を拭った。ジュエルは黙って死体を見つめていた。
「……ったく…この炎天下の下で死体運びか……。俺はこういう力仕事は苦手なんだよなぁ。」
「そう言えば……グロウは、どうした。」「あぁ。あいつは今朝出没したっていう人造生物を始末しに行った。あいつがいれば死体運びやらせたのにな。………さて。戻るか。」
二人はその場を後にした。
グロウという少年は、砂漠の中で一人立っていた。白い肌に肩にかかる銀髪が、彼の全身黒い服の上で目立っている。
ここは、紫外線遮断フィールドの外だった。大量の紫外線を浴びているはずなのに、彼は平気そうにただ立っている。何かを待っているようだった。
そして…顔を上げる。何かが四方八方から猛スピードで向かってくるのが見えた。
それはこの世のものとは思えないような形をした…人造生物だった。6体が、彼を囲んだ。その後それらの爪は伸びていき、顔面に大きな口を出現させた。次の一瞬で襲ってきそうなのに、グロウは微動だにしなかった。
そして……次の瞬間
結果的には人造生物は皆死んだ。手足や頭、胴体がバラバラになり赤い血が飛び散っている。破片は砂のようになって風に流れていった。その時の出来事は本当に瞬間の出来事だった。
人造生物がゴムのような手を伸ばし、その爪で目標を刺し貫く……はずだった。
しかし手を伸ばした先には彼はいなかった。消えたように見えるその姿は真上にあった。そこで彼がしたことは手を動かすことだけだった。そうしたら皆切れていたのだ。
再び地についた彼は、その光景を見ていた。十本の指からは、血に濡れた細い糸のようなものが垂れている。
「いやぁ……暑い…。速く戻りませんとね。」
そう一人で困ったように笑いながら呟き、グロウは国の方へ歩いていった。
砂漠には何も残らなかった。
「…あ、おかえり。グロウ。」
「ただいまです。」
グロウはにこやかに入口のドア代わりの布をくぐった。ロイはローブを外して部屋にある2人用ソファーでくつろぎながら応じる。
ジュエルはと言えば部屋の隅で下を向き、腕を組みながら立っていた。
「……ロイ。ところで…お前が殺した男が言ってたという、人造生物の資料の在処は知っているのか…?」
「お前も見ただろ。アイツを殺した時には既に資料はなかった。いまだ謎のまま…だ。」ジュエルは宙を見たままだった。
「俺達が目を覚ます前にアイツがどこかに移したんだろ。アレがあれば人造生物の詳しいことも分かるのに…どういう訳なんだか。」
グロウも話に参加する。
「私達…ルチアに作られた強化人間でさえ知らない場所…でしょうかね。」
「その可能性が一番高いが…な。はあぁ」
ロイは寝返りをうち、溜め息をついた。ジュエルはしばらく黙ったあと、呟く。
「いや…まだ、気になることがある。俺は、これから『時計台』を調べることにする。」「無駄だとは思うがなぁ…まぁ行ってくるといいさ。俺もこれから、用事あるんだ。」
ジュエルは無言で頷いた。
KKとは…ルチアによって作られた、三人の強化人間だった。放たれた人造生物を処理するために。彼らは大きな水槽の中で、目覚めたのだ。
…その時計台は、国より数キロ離れた場所にあった。ジュエルは砂漠を歩く。強力な紫外線を浴びても耐えられる理由は、彼らが強化人間だからだ。
午前のだんだん暑さが増す日射しがこの世界を包んでいる。
ジュエルは時計台に着いた。辺りで聞こえるのは砂漠に吹き荒れる風の音だけだった。
重い扉を開く。
石造りの建物の窓からは、静かに日が射していた。
入ったあとは長い廊下が伸びていて所々にはいろいろな人の石像が立っている。それをずっと歩いていった。そして奥にあったのは…円柱型の部屋だった。中心に小さな祭壇がある。天井はとても…とても高く、なぜかそこには小さな窓があり、空を映していた。壁には、沢山くぼみが空いていた。中にはまた石像が立っているが、廊下の石像と違うのは、全て鏡を持っていることだった。
祭壇の周りにベンチが並んであったので、ジュエルはそこに座った。
(少し…来るのが早かったか…)
ジュエルは腕時計を見る。10時55分だった。それから座っているだけになった。彼は何かを待っている。
ジュエルはそこで…一時間ほど待った。腕時計を見る。11時57分。「………。」
チッ
長針が動く。
11時58分。ジュエルはベンチを立った。そして祭壇へと向かう。
チッ
長針が動く。11時59分。射し込む光は少しずつ強くなっていった。ジュエルはポケットから何かを取り出した。それはくすんだ色の石がついたペンダントだった。
もう少しで、12時。
ジュエルは上を見上げて、数を数える。
「10…9…8…7…6…5…4…3…2…1」
0。
その瞬間辺りは白い光に包まれた。時計台の音が、荘厳に鳴り響く中で。
天井の光が、完全に真下に射し込む先には、吊るされている多面体の機械があった。
そして…機械からは太陽の光が四方八方に飛び散った。
飛び散った光は、それぞれ壁の、鏡を持った石像に降り注ぐ。鏡でまた反射した光は祭壇に集中し、輝いた。
……それはこれ以上ないくらい、神秘的な光景だった。
ジュエルは祭壇にある小さなくぼみを見る。そこに、ペンダントについている石をはめこんだ。
それまでくすんでいた石は集中した光を吸収し、輝いた。
すると…祭壇は一変した。
祭壇に、穴が空いた。穴の先には、地下へと続く暗い階段が伸びていた。
ジュエルは祭壇から降りると、穴へと向かった。階段を一段降りるたびに、静かに足音が響いた。そして、外からの光は遠くなっていった。
螺旋状の階段をどんどん下に降りていく。
その後行き着いたのは、鋼鉄製の扉だった。 そこには金庫によくついている、数字を入力するボタンがあった。ジュエルはパスワードとなるナンバーを素早く打ち込んだ。
すると扉は、その口を開いた。
そこは薄暗く、狭い空間だった。無機質な金属で天井も壁も床もうめつくされている。蛍光灯が薄ぼんやり光を放っているだけで、他に明かりはなかった。
そして至るところには今は使われていない色々な機械が置いてある。それらを横目に、ジュエルは一本道を歩き、奥へ進んでいく。奥へいくほど機械が増えていき、ますます暗くなっていった。扉に突き当たり、開閉ボタンをおしてさらに中へ。
その中は通ってきた部屋よりよっぽど広かった。そして目立つのは、三本のちょうど人一人収まりそうな、ガラスでできた円筒だった。その近くにはパイプ椅子と長テーブルがある。
ここは、3人が強化人間として生まれた場所だった。
三つの円筒。テーブルに散らばる何枚もの書類。一つだけのパイプ椅子。機械から床、天井に蛇のように伸びるコード。
……そして…辺りにいくつもある、古い血の跡。
ジュエルそれらを見て、ぼんやりと『あの日々』の記憶を辿った。
ルチアは人造生物を放ったあの日、研究所からなんとか避難することに成功する。その後、彼女のもとに国から人造生物排除の要請が来た。国民からの非難を避けて、それからたった一人で孤独に『時計台』で再び研究を開始した。表向きの場所は第5研究所ということにして。彼女はまた始めたのだ……狂戦士を生み出す研究を。
いつから円筒の中で眠っていたのかは、ジュエルは覚えていなかった。だが眠っている間に覚えていることは、あった。頭に…電流が流れる。その瞬間脳内が痙攣する。そして、一つの言葉がひたすら巡った。
『殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ……』電流が流れるたび、その感情に飲み込まれそうになるのを必死に拒み、もがいた。
それは永遠とも思える時間……繰り返し、繰り返し…。
そのうち意識が麻痺していく。自分が無くなっていく。
そして…最後の一欠片までになったときその時は訪れたのだ。
目覚めた時、円筒の中と外を仕切るガラスはなくなり、培養液は床に溢れていた。
ジュエルの体を支えていた液体がなくなり、重心が前に移動して倒れ込んだ。その拍子に体の至るところに繋がっていたチューブや電極が外れる。
しかし、あの囁きは止まっていなかった。
『殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ』
頭がとてつもなく痛かった。
「あ、あ………あぁああ……」
重い体を、何とか起こす。
すると、揺れて歪む視界の中に一人立っている女性が映った。
囁く声がより一層強くなり、視界は赤く染まった。
(殺す…殺す…殺す…殺す…)
後は体が勝手に動いた。側にあった二本の剣をとり…目標だけをその目に焼き付けて…。
その時、その目標…ルチアは、泣いていたように見えた。でも笑ってもいる、複雑な表情をしていた。そして、うわごとのように呟いていた。
「お願い……私を……殺して」
その言葉を聞いたあとは、頭の声に従った。自分以外にも何人かその殺しに加わっていた気がしたが、その時は夢中だったので、記憶がはっきりしない。
でも、このときルチアが死んだのははっきり覚えていた。
「……はぁっ!!……はぁはぁ!」
少年達は既に原型をとどめていない女性を殺し続けた。
切り、銃を打ち、裂いていた。ただ作り替えられた脳に支配されて。
しかし…解体をしていくうちに、少年達は表情を苦痛に歪ませていた。
「はあ……はぁ…ぁああ…!」
頭を抱える。声をあげて、その激しい頭痛に身をよじらせた。
「うあああああああぁぁぁぁぁ!!!!」
激しく、悲鳴が部屋に響いた。
その後は皆意識を失った。真っ暗な闇しか見えなかった。
「……ぐ、ぅう。」何時間たったのか分からないが、ジュエルは意識を取り戻す。
血の池の中に倒れたはずなのに、部屋の隅に寝ていた。しばらく何も考えることができず、ただ天井を見つめていた。
すると、押し殺したような声が聞こえた。
「……気付いたか。頭、痛くないか?」ジュエルは天井から目を外し、自分のもとにしゃがんでいる人影を見る。茶髪の少年だった。
「……あぁ…もう、…声は聞こえない。」「俺達も、脳を改造された。でも殺しの衝動は無くなった…。なぜ…だろうな…。」
「………名前は?」
「…覚えてない。お前もそうだろう。」
「…!」
ジュエルは片手を頭に添える。記憶が、無くなっていた。
茶髪の少年の後ろに、もう一人銀髪の少年がいた。彼も口を開く。「私達に分かるのは…ここで眠ってから脳内改造で詰め込まれた人造生物についての知識と、さっきの血祭りの記憶くらいです。」
「人造…生物。」
ジュエルは記憶を取り出す。なぜか見たこともないのに、人造生物は倒さなくてはならない存在だと認識していた。
茶髪の少年が立ち上がる。
「ここには、まだ何かの手掛かりがあると思う。…探そう。」そう言って、机の書類を漁り始めた。もう一人も、置いてあるコンピューターをいじる。
「…。そうだな。」
ジュエルはゆっくり起きた。そして、捜査の仲間に加わる。
…それからジュエル、ロイ、グロウが自分の名前を書類から見つけ出すのは、そんなに時間はかからなかった。
だが、自分達の生い立ちが書いてある紙は見つからなかった。
しばらくして、ロイは書類を見ながら言った。
「この『国』という所は…まだこの女が死んだことを知らない。まずこの肉の山を見せるべきだろうな…。」
「この研究…本当は第5研究所というところでやっていることになっているらしいですよ。そこに持っていけば気付いて貰えますよきっと。」
グロウは笑った顔で言った。
「とりあえず…ここから、出よう。」
全体的に、ロイが場を仕切っていた。二人はそれに従う。
「出口…何処でしょうね…」
「こっちに扉がある。」
ジュエルがボタンを押すと、扉は開いた。
「ありがとう。ジュエル。」
ロイはそう呟くと、大きな赤いシミがついている袋を背負って、扉の向こうに向かった。その後、螺旋階段を上り、出口につく。
ゴーン…ゴーン… という音が聞こえた。
「ここは…時計台か?」ロイは眉を潜めた。
「そうらしいですね。こんな所にあんな部屋があるなんて…全く、驚きです。」
ひそやかな足音をたてて、さらに進む。
そして…外へと繋がる扉を開いた。
熱い風が吹き付けた。闇に慣れていた目に光が突き刺さった。
「……これが…外の世界…。」
見渡す限りの砂漠を見つめて、ジュエルはそう言った。
しばらく、皆その虚しいような光景を眺める。だがロイが沈黙を破った。
「行こう。第5研究所はこの時計台とは反対にあるらしい。」
「………。ああ……。」
砂を踏みしめる音をたて、3人は歩き出した。
…ひたすら歩いている間は3人は口を開かなかった。そして、辿り着く。何も特徴がない、古い建物だった。
3人は中に吸い込まれていった。
その中は、時計台地下よりは、整然とした部屋だった。だが、人が使っている気配は全くなかった。ロイは辺りを見る。
「本当にここでやってることになっているのか…?よくばれなかったもんだ。」
「いつ見回りにくるのかは分からないが…ここに置いた方がいいんじゃないか?」
「……。そう、だな。」
ロイは袋をおろし、その中身を…床に一気に叩き付けた。
べちゃっという音に続き、べしゃべしゃという嫌な音が響き渡る。白かった部屋は赤に染まった。
3人はただ黙って、散らばった肉塊を見つめていた。
ロイは目を細める。そして…溜め息をつくと近くにある椅子にゆっくり座って、うつむいた。その表情は、重かった。
「…。これから…俺達は、何をする?」
ぽつりと、ジュエルが呟く。
「とりあえず…生きればいいんじゃないでしょうか?」
グロウは苦笑して答えた。するとロイが顔を上げる。
「生きるしか…ないだろ。」
「意味も、ないのに?」
ジュエルはまた呟く。
「いや。生きる意味は、この女がくれた。所詮俺達は人造生物殲滅ロボットだ。」
「地球が滅ぶ運命に…少しは抗って見てもいいと思いますよ。」
「…。」
どうせ、それしかない。二人はそう告げていた。
生きる意味。それは人造生物を排除すること。地球を蘇らせる。それはもう間に合わないことだとしても。
「…国に接触しよう。きっと人造生物殺しに躍起になってるだろう。」
「……。」
ロイは椅子から立ち上がった。
ジュエルは黙り込んだままだったが、しばらくすると一人で部屋の奥に歩み出す。
「ジュエル?」
「…人造生物に関する情報。今の状態で足りるのか。時計台には一枚もなかった資料が、ここにはあるかも知れない。俺はここを少し探す。先に、国へ向かってくれ。」
ジュエルはそれだけ言う。
「…分かった。先に行ってる。…頼んだぞ。」
ロイは答えた。
そして、皆それぞれ部屋を後にした。
……静かな部屋に、静かな足音だけ響く。ジュエルは資料室と書かれたプレートの部屋を歩いていた。その広い部屋には本棚が並んでいる。だが、そこには一冊も本らしいものはない。だから部屋空っぽと言っても過言ではなかった。
(やはり…何もない。何故だ。)
さらに奥へ進む。もう行き止まりだった。だが、そこで何かを見つけた。
「?」
それはここで見つけた唯一のものだった。クリップではさんだ二枚の書類を拾う。
それを見て、ジュエルは少し眉を潜めた。
『私にはもう災いを生むことしかできません。』
ジュエルはその言葉を思い出す。長い回想の最後…レポート用紙二枚に書いてあった言葉を。時計台の地下で、さらに地下へ向かいながら。
『だから私が作ったものは消去しました。後は私が殺されて、あの子達に哀れな被験者達を葬ってもらえば、全て終わる。』
厳重に閉ざされた扉があった。封印されているようにさえ見えた。素手では開かない。ジュエルは持っていた剣を振り上げた。
『でも、それでも私の何かが必要になるかも知れません。…だから時計台に鍵を隠しました。それは鍵だと同時に、私が犯した最後の罪です。』
キィンッという音と共にその扉が放たれる。中からは低い機械音が聞こえた。真っ暗な部屋の明かりは部屋一面にある機械の明かりと、中心のぼんやりとした青い光だけだ。
その青光が映し出すのは横倒しの大きな円筒だった。
『知りたい答があるなら、お願いです。どうか助けてください。』
ジュエルは円筒に近づいて、一番大きい二つのボタンを見た。ボタンの下にある言葉は、『冷凍』『解凍』。
解凍のボタンを押した。機械音が一層唸る。そして円筒が二つに割れた。
『愛しい私の息子を』
「……!」
プシュー と白い冷気を吐き出して開いた円筒の中には金髪の少年が横たわっていた。
透き通るような白い肌に病院着を着ている。静かに目を閉じて眠っていた。
ジュエルは二枚目の用紙を思い出す。そこには名前だけが書いてあった。
『ジルフィール』
ドクンッ
「…!?」
心臓が鳴る。それは脳までに響き、一瞬目眩がした。床に手をついた。
(なんだ…今のは…)ゆっくり立ち上がる。そしてジルフィールという少年を見つめた。手を取ってみる。
(……。生きてる…。)
ジュエルはジルフィールの体を起こした。
(とりあえず…何とかしないと。)
その体を背負って、地上へと向かった。
ジルフィールの体は強化してあるかは分からない。だからジュエルは紫外線遮断性のある布を探し、見つける。それを彼に被せながら背負った。
それから時計台の外へ出て、国へ足を運んだ。
ジュエルは少し迷っていた。ジルフィールをどこにおこう。KK本部にはそんな場所はない。…どこか人気のない場所が望ましいかもしれない。
考えて、ジュエルは歩き出す。向かった先は、国のはずれにあるボロボロの教会だった。小高い丘を登って扉の前に辿り着いた…。
>> 32
その教会は中も、古かった。
壁には小さな穴が沢山空いてそこから小さな光の線が射している。そして所々蜘蛛の巣が張っていた。その静かな空気は、時計台とどこか似ていた。
ジュエルは並列しているベンチの間を真っ直ぐ歩いた。ステンドグラスの柔らかな光が二人を包みこんでいる。道を通って…ベンチの最前列まで進む。
そして、ジルフィールをベンチの上にそっと座らせた。
まだ、彼は目を閉じている。その顔をしばらく見つめた。
(…鍵……この少年が?…どういうことなんだ…。)
そんな考えに浸った。
カチャ
微かに物音がした。ジュエルはその音に敏感に反応する。
音は左から聞こえた。部屋の側面にもう一つ扉があった。そこから人影が覗いている。
「あ……。」
それは20代前後の女性だった。栗色の髪は背中くらいの長さがあり、修道着に身を包んでいた。
女性は戸惑ったような顔をしていた。
「あ、あの…この教会に…何かご用でしょうか?」
人がいたとは…と思った。
「まだ管理されてたんですね。ここ。」
「えぇ…一応、私が一人で。」
場所を移そうかとも思ったが、少し考えた。そして言った。
「突然ですみませんが…この人を置いてもらえませんか。」
「え…ど、どういうことですか?」
女性はベンチに座っているジルフィールを見た。
「この人が道で行き倒れているのを見つけました。俺の家に連れていこうかとも思いましたが…寝かせられる場所もなくて。」
ジュエルは口からの出任せを言った。今この女性に話しても分からないだろうと容易に推測出来るらだ。
「……。」
「食事は俺が何とかします。お願いできないでしょうか…。」
女性は少しの間悩んでいたが、やがてふっと表情を緩めた。
「ええ、構いません。教会の中には幾つか部屋がありますので。」「…。有り難うございます。ところで、貴女のお名前は?」
「マリア、と呼んでください。」
そっとマリアは微笑んだ。
「では、この人をベッドに寝かせなければ…手伝って下さいますか?」
「分かりました。」
ジュエルは再びジルフィールを背負った。
「こちらになります。」
そして、マリアの後についていこうとした。その時…ジュエルはあるものに気付いた。
それは大きな扉だった。大きくて、しかも正面にあるのに…何故かすぐには気付かなかった。燭台が二台立っている壇の後ろにそれはあった。
それを少し見上げてから、ジュエルはマリアの後を追った。
同時刻。
ロイは渇ききった地面を歩きながら、国の上層部に向かっていた。接客の時と同じく、ローブを着込んでいた。目深なフードからは口元しか見えない。
人気がない静まりきった街をしばらく行くと、左右にずっと伸びている柵が見えた。それは下層部と上層部の境だった。
ロイは閉まっている門の前についた。しかし門の監視カメラがロイの姿を捉えるとすぐに扉は開いた。そして上層部へと踏み入った。地面は砂からコンクリートに変わった。
また、少し進む。
すると、一人のスーツの男が遠くから近づいてきた。
それを見て、ロイはやっと立ち止まる。男は目の前に来て、一言呟いた。
「…幹部証を。」
その言葉を聞いて、ポケットからカードらしいものを取り出して、男に見せた。
「確認しました。大統領がお待ちです。こちらへ。」
そう言って、男はスイッチを取り出し操作すると、地面は低い音を立てて地下へと続く階段を出現させた。
…階段を降りてからは、動く床の上に乗った。それが終りまでつくと、今度は高速エレベーターに乗る。
ロイはそうしてある部屋に案内された。男は任務を済ませると、部屋から消えた。
「来ましたよ。大統領。」
ロイは言った。
>> 35
ロイはまずフードを取って、ローブを全部脱ぎながら
「ここまで来るのも大変なんですよ?結構歩くし…。」
…とぼやいた。
「すまないね。どうしても君達に協力してほしいことがあってね。」そこにいた30代くらいの中肉中背の男…大統領は苦笑した。
ロイは高級そうなソファーに座って身を乗り出した。
「伺いましょうか。」「うむ…実は人造生物が周辺に異常に分布する地がある。ルノワールという場所だ。そこで我々はその国に軍を送り込み、積極的な殲滅活動をすると決定した。そこでKKにも同行願いたいのだ。」
「…殲滅するならおたくの軍で十分だと思うのですが。人造生物は頭を破壊すれば、簡単に死にますよ。」
「それについてはまだ未知の段階だと言える。実際あの地域の人造生物は…少しおかしいのだ。」
「おかしい、とは?」ロイは眉をひそめた。「人造生物となった被験者は千人だったと聞くが…調査員の話では、既にルノワールでは一千以上の人造生物を殲滅したというのだ。」
「…それは。」
「原因は分かっていない。しかも、新種の造生物を見たという情報が入っている。」
「人造生物の新種…。…事態は随分悪くなってるようですね。」
ロイは溜め息をついた。
「まぁ私共は人造生物を殲滅することを第一の目標としていますしね。了承します。」
「君達には人造生物の増加原因と新種についての調査もお願いしたい。」
「…報酬増えますよ。」
ロイは大統領を上目遣いに見る。すると大統領は微笑んで言った。「いくらでも。…ああ、そうだ。激しい殲滅活動から戦争状態になるかも知れない。そういう時はルノワールの住民は地下通路に避難させる。」
大統領はソファーから立ち机に向かい、引き出しから紙を取り出した。
「だが、これを見てくれ。このとおり…地下通路はまだ私達にも分からない部分が多い。」
それは地図だった。所々白紙の部分が面積を占めていた。
「そこで地下通路に詳しいと言われている人物がいる。その人物に会ってきて欲しい。」「なんで…そこまで私達が?」
そこで大統領は少し黙る。そして、重く口を開いた。
「…会えば、分かる。もしかしたら君達なら聞き出せるかと思うんでね。彼の名前は…ハヤト・キサラギという。」
「まだ了承してませんよ?」
「頼む。報酬は出す。」
「…やれやれ。」その時。少しだけロイに異変が起きた。
(ハヤト…キサラギ…?)
だが異変は一瞬で終わり、気にすることはなかった。
話を全て聞くと、ロイは帰路についた。行きとは逆の道を辿った。そして、帰る場所につく。
「…。ただいま。」
ロイが部屋に入ると、二人の姿が目に入った。
「お帰りなさい。」
グロウがいつもの笑い顔で迎えた。
ジュエルは椅子に座っていた。
「グロウ、ジュエル…。出張が入った。**月**日、場所はルノワールだ。」
「人造生物ですか?」「ああ、なんだか繁殖してるらしいぜ。」
「…繁殖ですか。まぁあっても不思議じゃないと思いますが…。」「他にもいろいろ用事ができたし…結構めんどくさくなりそうだ。」
二人だけの会話が続くなか、ジュエルは沈黙し、下を向いていた。それを見たロイは呆れたような顔をした。 「おい、ジュエル。聞いてるのか?」
「…。二人に、話すことがある。」
やっとジュエルはロイの前を見て、言った。そして、話した。あの『鍵』のことを…。
十分ほど費やした。
「ジュエル。おまえそんな重要なことを今まで黙ってたのかよ…。」
「…すまない。」
「とりあえず、用事が一つ増えましたね。」ロイは少し顔をしかめていたが、暫くして、思い立ったように言った。
「そいつの正体も暴くさ。教会に明日行く。」
ジュエルは頷いた。
>> 38
それでその一日は終わった。日が沈み、闇が空間を支配する。昼間の暑さと打って変わって、身を切るような寒さになった。
三人は、それぞれ毛布にくるまって、ソファーや床で寝ていた。
ジュエルは剣を脇に置いて、床に座りながら寝ている。そして彼は浅い眠りの中、夢を見た。
一面の野原。そこにあるのは一本の巨大な木だけ。その下に自分は座っていた。風が吹く度木はざわめき、木漏れ日が動いた。とても穏やかだった。
しかし自分は立ち上がることが出来ない。体に大きな傷があったからだ。でも 痛みは感じない。ただ…どこまでも青い空を見つめていた。
ふと、目の前に黒い影が立っているのが見えた。それはしばらく自分を見て…ゆっくりと、手を差しのべる…。
ジュエルが見たのはそこまでだった。目を開くと朝になっていた。無人である時計台の鐘の音が聞こえる…。(夢、か…)
妙にその夢に懐かしさを覚えた。そしてその懐かしさに疑問を抱いていた。
「…ジュエル。おはよう。」
その一言で、完全に目が覚める。…ロイだった。
「…おはよう。ロイ。」
「珍しいな。鐘がなるまで寝るなんて。」
「…ん」
「今日は案内宜しく頼むぜ。」
朝日が射していた。
朝食のパンと缶詰めを食べたあと、三人は荒れた教会へと向かった。
「…ここだ。」
「随分古いようですね…。」
グロウは少し感心しながら言った。
「こんな所に教会があったとはな。」
ロイも驚いていた。
ジュエルはそれぞれの感想を聞きながら扉を開いた。教会内部が見える。その中に一つの人影があった。
「…ジル。」
ジュエルは無意識にその名を呼んだ。
彼は、ベンチが並んでいる床と壇がある床をつなぐ3段の階段の上にに座っていた。
「あれが『鍵』か?」
「ああ。」
三人は彼に近寄ってみた。だが…彼は死んだ目をして下を見ているだけで、何も反応がない。
「ジル…?」
ジュエルは不審に思ってもう一度声をかける。
その時、左の扉からマリアが出てきた。
「あ…ジュエルさん。おはようございます。…そちらの方々は?」「俺の友人です。その人の様子をみにきたのですが…」
ジルフィールのほうを見る。
「ああ…その人に話しかけても駄目です。反応しません。」
「…どういうことでしょう。」
「目を覚ましてからずっとこの状態です。原因は分かりません。」その時ジュエルはルチアの言葉を思い出した。
『どうか助けて下さい。愛しい私の息子を』
「アイツに息子がいたとはな。で、この抜け殻みたいな奴がアイツの資料の在処を知ってるってのか?」
ロイが半分呆れぎみで言った。
「いや、レポートに全部消したと書いてあったはず。」
ジュエルはしゃがんで半開きのジルフィールの目を見つめた。
「じゃあ…全て頭にぶちこまれて、壊れたか。」
「息子を助けてほしいとも書いてあった。」「ハッ、自分でやっておきながら随分勝手な話だな。」
「……」
その時、ゆっくりと…ジルフィールは微かにうつむいている顔を上げた。
「…!」
ジュエルはその動作だけで少し驚く。
しかし、ジルフィールはすぐにまたゆっくりと顔を下げた。
そしてさっきと同じ様子になった。
(まだ…意識があるのか。…そういえば)「マリアさん。どうしてここにジルが座っているんですか。」
「…一人でここに来たんですよ…ベッドに戻るよう言ったんですけど…ただここに座ったんです。」
「…そう、ですか。」ジュエルは立ち上がった。 ロイは再び口を開く。
「マリアさん、でしたか?もう少しここに置いてて下さい。俺達はやる事があるので。食糧は置いておきます。」
マリアは了承した。
…その時グロウは笑みを浮かべてジュエルを見ていた。
その後もグロウは、話にも加わらず、マリアとのやりとりを見ているだけだった。暫くしてジュエルから視線を移した。その先には、壇の後ろにある大きな扉があった。また、ただじっと見つめた。
「…これが食糧です。」
ジュエルがマリアに差し出した袋の中にはパンと缶詰が入っていた。そしてロイが丁寧な口調で挨拶する。
「今日はこれでおいとまします。またそちらに伺います。では。」
「はい…体調管理は私に任せてください。」
それから三人は教会を後にした。
「ロイ、どうするんだ?」
ジュエルは帰路の途中に言う。
「…ジルフィールとか言ったか…奴のことは後で処理する。俺達はルノワールでの仕事があるだろ。」
「それに…あれだけの精神崩壊への対策を今すぐ考えるのは難しい…でしょう?」
グロウがやっと口を開いた。
「…ああ。だがあの女の尻拭いはしなければならない。俺達も情報が必要になるだろうしな。」
ロイは続けた。
「お前ら、今日は武器を磨いておけ。人造生物殲滅実行日は3日後だ。……あぁ、あと言い忘れてたが、もう一つ指令があってな。ルノワールに隠れている『SALVARE』の奴らは見つけ次第殺せ…だそうだ。」
二人は黙っていた。
三日後。
ルノワールに向けて出発する日になった。
バラバラというプロペラ音が耳に障る。あわただしく迷彩服を着た者が動いていた。三人はそれぞれの武器を身に付けて、国軍基地に来ていた。…ロイは上を見上げて、目の前にある巨大な飛行艇を見ていた。
「これに乗って行くわけか。でっかいなー。」
とだけ感心して言った。
「世界は壊滅しかけていても技術だけは発達してるようですね。」グロウが応えた。
少しして、大柄な迷彩服の男がやってきた。
「皆さんお揃いですね?皆さんにはこれからこの、飛行艇『ヴィマナ』に搭乗して頂きます。搭乗時間は7時間です。その間人造生物の足止めをくらうかもしれません。その時皆さんはヴィマナ内にある戦闘機での殲滅に協力して頂きます。」
迷彩服の男は説明をした。
「おいおい。まだ訓練はおろか、やり方も教わってないぜ。」
「説明書を差し上げます。搭乗の間にご覧下さい。」
男はロイの質問をにこりともせずに返した。「…まぁ、やってる間に覚えるだろうさ。」ロイは大して気にもせず呟いた。
「出発時間10分前です。こちらへどうぞ。」男を先頭にして四人はヴィマナの搭乗口へと向かった。
大音量のプロペラ音は、『ヴィマナ』の中ではいくらか小さく聞こえた。
三人はそれぞれの個室へと案内された。そして、戦闘機の説明書を数枚配られる。
「間もなく発進します。飛行中はなるべく此所に控えていて下さい。出撃は」と男は言い残して立ち去った。
そして、巨大な飛行艇『ヴィマナ』は広いエアポートからゆっくりと飛び立った。
全体が浮遊する感覚に見舞われる。
窓の景色も少しずつ変わっていった。ある程度上昇すると、速度が増えた。風を切り裂きぐんぐん前へと突き進む。
「ひゅーぅ」
ロイは個室で一人、感嘆の声をあげた。
ジュエルとグロウはその頃は説明書に目を通していた。
雲を抜けてあまり景色が変わらないようになって暫くすると、三人は全員寝ていた。
そのまま淡々と時間だけが過ぎた。
しかし、三時間後。
ビーッ!ビーッ!
サイレンが響いた。
「人造生物接近中。総員、戦闘配置につけ。KKはハッチへ。」というアナウンスが繰り返された。
(…来たか…)
三人は同時に考えた。そして部屋を出る。
赤い光が周りを包み込んでいた。ジュエルは左右を見る。
「…ハッチは?」
「こっちだ。地図を覚えておいた。」
ロイは右に走った。
ハッチには三機の戦闘機が並んでいた。
三人はそれぞれの機体に乗り込む。
目の前にはさまざまなレバーやスイッチがある。
一人用の座席に座り、ハンドルを握る。
「やれやれ、無事に出来るといいのですが。」
グロウは苦笑い。
「……。」
ジュエルは沈黙。
「さぁ。…やってやろうじゃねーか。」
ロイは不敵に笑っていた。
「全機エレクトロニクスエンジン起動。ハッチオープン。」アナウンスが流れるとスムーズに大きな扉が開いた。
そして三人はレバーを引いた。キイィン…と起動音がなり始める。
「全機発進準備。発進10秒前。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1」全員ハンドルを握る。「0」
その瞬間、轟音を立てて三機は風を切り、ハッチを抜けた。
青空が、広がった。
太陽の光を背にして、宙に三つの影が踊る。時に旋回し、時に宙返りしながら、華麗に空を飛んでいた。
「ヒャッホーイ!」
ロイはまるでゲームを楽しむかのように機体を鮮やかに乗りこなした。ジュエル、グロウは落ち着いて、真っ直ぐ飛ぶ。
「…12時の方向より人造生物。推定数百体。殲滅せよ。」
指令部からの無線だ。向こうには何かの大群が見えた。
それはヒト型で、翼を生やした生物だった。たちまち、『ヴィマナ』の周りを取り囲んだ。「お出ましだな。……ん?」
ロイは少し眉を潜めた。
「あれは…なんだ?」人造生物の胸に注目すると、何か赤い球状のものが埋まっているのが見えた。
今まで彼らが倒してきた人造生物には、そんなものはついていなかった。ロイは、他の二機へ無線を使った。
「ジュエル。お前は右側から、グロウは左側から『ヴィマナ』の援護。俺は正面だ。…胸の赤いモノに注意しろ。何が起こるか分からない。」
「…了解。」
「まずは攻撃してみて、様子見ですね。」
それで交信は途絶えた。目の前に猛スピードで白い生物が迫った。ロイはそれをひらりと避ける。そして垂直に上昇した。
その時、あるボタンを押した。
ガガガガガガガガ!!という銃撃音。
そのまま後ろに一回転。そしてもとの水平に戻る。結果的には銃弾を打ちながら宙返ったことになる。
見れば、何体かの人造生物がそれで頭をくだかれて落ちていった。(…頭が弱点だということは、まだ変わってないようだな。)
その時…ガッという音がした。
「!」
ロイはそれ見た。弾を体に受けた生物がこちらに手を広げていた。(なんだ…?)
音の正体は打ったはずの弾が機体に当たったものだった。
一度人造生物の中に入った弾が体内を通って手の平から出現し、ものすごい速さで弾き飛ばされていたのだ。
…ガンッガガ
続いて音が鳴る。
「……チッ。」
ロイは舌打ちをした。(正確に弾を撃ち込まないと危険…ってことか。)
機体を急旋回させて人造生物の反射攻撃をそれから全てかわす。そしてタイミングを計り、再びボタンを押した。
ガガガガガガガガ!!
すると、下に落ちて行く人造生物はさっきより数が増えた。
ロイは二人に無線を繋いだ。
「ジュエル、グロウ。出来るだけ一発で落としたほうがいい。」
「…分かってる。随分進化してるようだな。」
「困りましたねぇ。」冷静な声と能天気な声が帰ってくる。
ジュエルとグロウもアクロバッティングな飛行で着実に人造生物を落としている。
そして…『ヴィマナ』も攻撃を開始していた。強力なレーザーで敵を焼き払ったり、爆発物であるミサイルを使ったりしていた。
人造生物は先程の反射攻撃や金属を貫くことが出来る鋭い爪、他にも溶解液などで攻撃を仕掛けてくる。
動きも素早く、なかなか落とせなかった。
その激しい戦闘はしばらく続いた。
もうどのくらいかかっているのか、自分が何体倒したのかは全員分かっていなかった。
しかしそろそろ異変に気付き始める。
「…。きりがない…。」
ジュエルは呟いた。
そう。数が減らないのだ。それどころか、増えているような気さえした。続けて銃撃ボタンを押す。
ロイも気付いていた。「…どういうことだ…。」
弾を撃っては弾を避け、という動作を何回も繰り返しているうちにそう思うようになった。その時…『それ』を見た。
「な…?!」
ロイは、一瞬見たものが理解出来なかった。一体の人造生物の体から。もう一本首が出ていた。
徐々にもう一組の腕、足が生えてくる。そして、胸の赤い球が二つに割れた。
「…!」
ロイはその光景に目を見開いた。
翼も生えてくる。最後には、一体の人造生物は剥がれるように二体になった。
「……『分裂』だと…?!」すぐさまロイは『ヴィマナ』の指令部に無線を繋ぐ。
「こちら、第一戦闘機。人造生物の新たな生態を発見した。奴等は分裂する。胸の赤いモノは核の役割を果たしていると思われる。」『ヴィマナ』内は騒然とした。
「分裂だと…!」
「いくら少しずつ倒しても、奴等はきりなく増え続けると予想される…。」
>> 48
人造生物の数はますます増加する。三人は残り少ない弾を狙いを定めて打つ。
「…くそ…どうする。」
ロイは顔をしかめた。ザザッと無線の音がした。指令部からだ。
「…ザザッ!全機、帰艦せよ。繰り返す。全機、帰艦せよ。」
「…なんだって?」
ダンダンダン!
「…く。」
機体に人造生物が数体へばりついている。そして、溶解液で金属を溶かしていた。ロイは一瞬の判断で窓を全開にした。
そして自分の腰にある二丁の銃を取り出す。
ズドン!ズドン!ドン!!
そして撃った。すぐに窓を閉めると、激しい運転でそれらを振り落とした。無線の続きが聞こえる。
「…ザッ…ニトロ爆弾で…ザザッ…を吹き飛ばす…全機帰艦せよ…」
(…随分無茶するな。環境レベルに間違いなく影響がでるが…。)
「…了解。帰艦する。……二人とも聞こえたな。」
『了解。』
二人の声が重なった。三機は『ヴィマナ』に向かった。見れば、既に攻撃を受けて、所々煙を吹いている。
ハッチがゆっくりと開いた。そこへ誘導員に従って順番に三機は入った。
そして再びそれは閉じる。戦闘機からは全員降りた。
「…ニトロで対処できるだろうか…」
ジュエルは降りながら呟いた。
>> 49
ガクンッ
と足場が不安定になる。『ヴィマナ』が急上昇したのだ。
まずあの大群から離れなくてはならない。大量のエネルギーを使い、出来るだけ速く移動した。
群れが遠ざかる。しかしまだ足りないようで、移動を続けた。
ある地点で『ヴィマナ』はやっと止まる。アナウンスが流れた。
「間もなくニトロ爆弾を投下する。衝撃に備えよ。繰り返す。ニトロ爆弾を投下する…」「…はあぁ。どうなることやら…。」
グロウは面白半分で言った。すると、
ヒューン……
何かが『ヴィマナ』から落とされる音が聞こえた。それから約2秒後のことだった。
まず、白い光が辺りを包み込んだ。次に来たのが爆音だった。
何もかもが一瞬にして爆風に飛ばされる。もちろん『ヴィマナ』もだ。
激しく機内が揺れた。とても立ってはいられない。
「………!!」
三人はその凄まじい威力に素直に驚いていた。空いた口も塞がらない状態だ。
だがやがて、光が消えて、辺りは静かになった。
「……凄い。」
一言ジュエルは言った。
「まさかこれ程とはな…」
ロイも感嘆する。
記憶がなく、知識しかない少年達には地球の兵器など未経験だったのだ。
さっきまで激しい戦場だったあの場所には、何も無くなっていた。「…。全滅したのか?」
ジュエルは窓から、空にたちのぼる黒い煙を見つめながら言った。
「…分からないだろう。いくら広範囲の爆弾でも…。」
ロイは最後で口ごもった。
「ええ。ルノワールに着くまでは油断は出来ません。」
迷彩服の男が再び話しかけてきた。
「それどころか、着いてからはもっと危険です。敵の本拠地のようなものですから。」
「…地上でもこんな風に一掃するつもりか?」ロイは少し目を細めて言った。
「…いまの状態の地球環境に影響が出ることは承知しています。ですが…」
「………。まぁ、そうしたいのならいいんじゃないか?」
不意に、ロイはスッと笑った。
「…やむを得ない場合、です。」
そんな会話が終わると、三人はまた控え室に押し込まれた。
それからまた数時間たつと、赤く変色している海に面した国が見えてくる。
ルノワールだった。
『ヴィマナ』はゆっくりと下降する。そして、その赤い海に着水する。
ドザザザザ………
海は巨大な飛行艇を受けて、激しい水飛沫と波を立たせた。
『ヴィマナ』が海に着水すると、陸に橋をかけた。ここも砂漠だ。
それから数十人と三人が降りて、しばらく歩いた。そして見えたのはボロボロの国だった。
出発した国と同じように、紫外線遮断フィールドがあるものの、建っていたであろうビルは半分以上倒壊していた。
吹き荒ぶ砂嵐の中、砂を踏みしめてルノワールの入口までくる。
入口には、人だかりが見えた。ルノワールの住民達が待っていたのだ。だが皆押し黙っており、ただ沈黙だけが流れていた。
しかし、人だかりから一人男が出てきて、言った。。
「皆さん。お待ちしておりました。この国…ルノワールの責任者のマルコーです。」
すると、『ヴィマナ』からここまで先導してきた男は敬礼して言った。
「初めまして。隊長の、ジェームズです。」挨拶を済ませると、二人は握手をした。
「今、この国はもう人造生物によって壊滅寸前なのです。どうか私達を助けてください。」
「力になれる限り、全力で戦います。」
マルコーの哀願する眼差しに、ジェームズは真剣な顔で答えた。
「まずは、中へどうぞ。」
マルコーは歩き出そうとしたがその瞬間…不意に少女の声が響いた。
「人殺し!!」
全員がそちらを見た。
…その少女は人だかりからすこし離れた場所にいた。
短い黒髪を風になびかせている。薄汚れている半袖のブラウスとプリーツのスカートは、学校の制服のようだった。眉を吊って、強い眼差しでジェームズ一向を見つめる。目の色も漆黒だった。
「人を実験道具にしておいて…失敗したから始末する?!殺す?!こんな勝手なことないでしょう?!!犠牲になる人達は…!!」
もう半狂乱になっているその少女に一瞬にして人が群がる。少女は押さえ込まれる。中には羽交い締めをしている者もいた。
「おやめ……サヤ!」「殺されてしまうよ…!」
「は…離して!離してよ!!兄さん……うっ…兄さああぁぁん!!」口々に皆サヤという少女を止めようとする。もう一つできた人の集まりは、叫ぶ少女を連れて少しずつ移動して、近くの建物へと消えていった。
「…気にしないでやってください。あの子は……病気なんです。」とマルコーは呟いた。まだ、ジェームズ達はその方向を見つめていた。ロイ、ジュエル、グロウもしばらく見ていた。
だがそのうち、マルコーを先頭にして、一行は重い足取りで歩き始めた。
後にした場所には静寂しか残っていなかった。
一向は半分瓦礫と化している小さな建物の前まで辿り着いた。
「こんなところでも…この国の本部なのです。」
マルコーは苦笑いして言った。
「…失礼しますよ。マルコーさん。」
ジェームズがそう言って中に入ると、とても空虚な空間が広がっていた。薄汚れている部屋には長机とパイプ椅子が何台かあるだけだった。
マルコーが椅子に座るよう促したものの、椅子が足りないので何人かの迷彩服の兵隊は立ちながら話を聞くことになった。そして彼は話を切り出した。
「…先程も、申し上げましたが…我が国は人造生物によって、ほとんどが壊滅状態です。戦うための武器も…奴らの襲撃で破壊しつくされました。」
ジェームズが彼の目をみると、本当に暗い目をしていた。
「じゃあ、戦力は我々だけ…ということですか。」
「…悔しいですが、我々は怯えて、隠れることしかできないようです。」
「…分かりました。大丈夫です。我々は出来る限りの戦力で、殲滅を行います。」
次にジェームズは並んで椅子に座る少年三人をみた。
「加えてこの土地での集中的な人造生物の増加原因も調査し、突き止めます。…調査はこちらの三人が中心になります。」
三人はそれぞれ別の方向を見ていた。グロウは真っ直ぐいつもの笑みでマルコーを見ているが、ジュエルは宙を眺めていた。ロイに至っては下を向いて、別の事を考えているようにも見えた。
マルコーはその少年達を少し見る。
「…この方々は?」
ジェームズは苦笑して答えた。
「まだ子供ですが、人造生物の専門家であり、凄腕の殺し屋ですよ。」
それからジェームズは視線で三人に何か促した。それに最初に気付いたのはもちろんグロウだった。
「私、グロウと申します。以後お見知り置きを。」
グロウの声を聞いて、やっと二人は反応した。
「…ロイです。」
顔をあげて、ロイは言った。もう一人は少し間を置いて、
「ジュエル。」
と言った後、横にいるロイに目を向けた。また、うつむいていた。ジュエルはその様子に少し眉をひそめた。
「…それでは、これからのことを説明します。」
ジェームズは話し始めた。暫くその話は続いたが、要約すると滞在期間のうち、ルノワールの人造生物出現地点を回り殲滅活動をするということだった。
「しかし、人造生物がここに集団で襲撃してきた時は国民全員地下に避難してもらいます。」「しかし地下は…」 マルコーは口籠った。
マルコーは続けた。
「地下は…入れません。正体不明の有機生命体が道を塞いでいるのです。近付いたら…」「…伺っています。その調査も、この三人が行います。それと、もう一つ…地下に唯一存在すると言われている人物…ハヤト・キサラギについても捜索します。」
「……。えぇ…よろしくお願いします。」
ジェームズとマルコーの会話を、三人は黙って聞いているだけだった。
夜になり一通りの話のあとは食事を取り、各地で見張りをしたり仮眠を取ることになった。
…三人は広場の座れそうなところに座った。その時、ジュエルは口を開いた。
「ロイ…さっきからどうした。」
ロイはこちらをちらとも見ないで返す。
「どうした…とは?」「ここに来てから…いや、あのサヤとかいう女が現れてから様子がおかしくなった。」
「……。」
「あの時、お前が一瞬頭を抱えたのを見た。それからも、ずっと何か考えているだろう?」
「…。俺にも、分からない。ただ…」
ロイはそれから黙り込んだが、続けた。
「声が……聞こえるんだ。」
「声?まさか…また殺しの衝動か?」
「いや…それとは、違う。誰の声なのか…。」
それからロイは何も話さなくなり、ただ夜空を見上げた。
次の日。
三人は地下への入口前に立っていた。
「…地下の構造を調査すること。未確認生物及びハヤト・キサラギの捜索が任務である。地下は大半が明らかになっていないので十分に注意せよ。」
ジェームズは三人の前に立っていた。
ロイは時計を見る。そして言う。
「只今9時00分。KKは任務を開始致します。」
「…幸運を祈る。」
ロイとジェームズは互いに敬礼し、そして分かれる。三人は深い闇に吸い込まれていった。
地下の明かりは薄ぼんやりしと頼りない光を放つ蛍光灯だけだった。空気はじめじめしていて生臭い。そして壁の所々には、不可解な穴が空いていた。それら総合すると、とても不気味な雰囲気だった。
「…ひどい匂い、ですねぇ。未確認生物とらやらのものでしょうか…。」
グロウは一人感想を溢した。
先を見ると、真っ直ぐと、細い道が伸びていた。
「…行くぞ。」
ロイが進んだ。その時だった。
バァン!!!
凄い音をたてて、壁の穴から何かの触手が現れたのだ。
グロウは一瞬にして、手を振り上げた。彼は両手にワイヤークロウを装着していて、十本の指先からワイヤーが放出された。
触手は四方八方から伸びてくる。それを次々にそれで切り裂いた。
「…走るぞ!」
ロイはベルトにつるしてある二つの長いホルスターから銃を取り出し、走り出した。触手は進む度に大量に出現し、道を塞ぐ。
すかさず発砲する。
スガガン!
両手の銃で弾を正確なタイミングで、且つ正確な場所に撃ち込む。弾を受けた触手は一瞬痙攣したあと、出てきた穴に戻った。
しかし、また別の穴から大量に出てきた。
前方はロイ、後方はジュエルとグロウが処理する形になったが、どちらも状況は変わらなかった。
ジュエルは舞うように二本の剣で触手を素早く切っていく。切り口からは赤い液体がほとばしって初め感じた生臭ささがより一層強くなった。
「……く」
グロウはとにかく出てくるものを切り裂いて走った。
「こりゃあキリがないです。」
こんな状況でもグロウは笑いながら言う。
「奥だ。とにかく進め!触手の本体がそこにあるはずだ。」
それからも触手をどける作業をしながら一行は走り続けた。
しかしそのうち、目の前には大量の触手しか見えなくなってくる。まるで波のようにそれは、全方向から三人に襲い掛かった。
「…!」
触手がロイの体に巻き付いた。
「ロイ!!」
ジュエルが叫ぶが、ロイは触手の渦の中に引き込まれていった。
体中に触手の感触を感じたが、ロイは無闇にもがかなかった。冷静に弱点を探していた。(どこかに…あるはずだ。)
そのうち何本かの触手の先が棘状になると、ロイを刺した。
「……ぐ」
痛みに顔をしかめる。その時ロイは触手の間に挟まっている何かを見つけた。それは骨の欠片に見えた。
(…吸収するつもりか?!)
「ロイ!」
近くでジュエルの声が聞こえた。
ザシュ!ザザ!
その音が聞こえると、触手の空間が裂けた。赤い体液が沢山ついたジュエルの姿が見えた。次にグロウが十本のワイヤーをクロウから射出する。ワイヤーはロイに巻き付いていたものを切り落とし、その奥まで及んだ。
瞬間。…奥に丸い肉の塊のようなものがチラリと見える。ロイは見逃さなかった。
「そこだ!」
まだ空中にいる間に銃を構え、すぐさま撃った。
ドガン!
弾は、命中した。
ウオォォオオォオオオン!!!!
奇妙な生き物の咆哮が響き、触手はのたうち回った。そしてそれらは…やがて溶けていった。
ジュウゥゥ…
床には赤い液体が池ができ、それ以外は何も残らなかった。
「…危ないところだった。ジュエル、グロウ。ありがとう。さて…」
見れば、さらに地下へと続く階段があった。
さらに進むと今まで一本道だったものが、複雑な構造をしているものに変わった。
分かれ道は勿論のこと、大小の部屋を通り抜ける道や、扉が壁にいくつもある一本の廊下もあった。
ロイは止まっては進み、止まっては進んだ。「…こっちだ。」
道を選ぶ基準は、『音』だった。触手を退けてから聞こえている。普通のヒトが耳を澄ましても何も聞こえない微かな音だが、強化人間である彼らには聞こえていた。何かが壁や床を叩きつける『音』が。
…ダン……ダンダン…!
それはもっと下からこちらへ伝わっている。だから一行は何本もある道を辿りながら、もっと地底に進もうとしていた。
「ここは…一体何だったんだろうか。」
ジュエルは呟いた。
「地下にこんなに複雑な世界があるのは、それなりに理由があると思いますよ。」
グロウもこの使われていない通路に感心していた。
「…。」
その時ロイは…少し、立ち止まった。
「どうかしましたか。」
「…。いや…」
そしてまた歩き始めた。下へ、下へ…。
それにつれて音も強くなってきた。
ダン!!ダン!ダン!!!
三人は沈黙する。音がする扉の前に来た。何時間か歩いただろうか。
厚い扉は…衝撃がくるたび振動していた。
ロイは扉のノブを回そうとした。
ダン!!!!
扉が大きく振動した。そして、
「…アけるナ。」
中から…低くどす黒い、この世のものとは思えないような声が聞こえた。そして、また衝撃。
「開ケ…るナ!…」
「…ジュエル。扉、切れるか。」
ロイは低く言った。
ジュエルは頷くと、前に出た。
「開ケルな!!…開ケるナ!!」
ロイは銃を取り出した。
グロウもワイヤークロウを構えていた。
そして…
キィン!
鉄の扉が切れた。
ジュエルが最初に見たものは…先程の触手が太い束になったようなものだった。
ダンッ!!ダン!! それは鞭のようにうねり、無差別に壁を物凄い力で叩いていた。壁と床には沢山クレーターがある。そして赤いペンキをバケツでばら蒔いたような汚れが部屋一面を覆っていた。
三人は部屋に入り、その様子を見守った。時々触手の束をかわしながら。攻撃はしない。
「あぁアああアあああ」
見れば触手の束はヒトの腕から伸びていた。そのヒトが悲鳴をあげて暴走する腕を叩きつけていた。
その時ロイは何かに気付き…それに近付いていった。
「もしや、あなたは。」
腕の動きが鈍ってきた。腕の主は息を切らしながらゆっくりとロイを見た。
伸びきったバサバサの黒い髪の間からロイを見つめる目は大きく見開いていて、血走っていた。
「あなたは。」
ロイはもう一度言う。しかし、その相手はまたうめきだした。息は荒く、肩が上下に揺れている。
「ゥ…うグ…も……もう少し…待って…くれ…。」
シュウゥ…という音とともに腕が縮んでいく。それは人間の腕へと戻っていった。
「ハァ…ハァ…」
「あなたはキサラギさんですね。」
その言葉をきくと、再びロイを見上げた。その時髪にほとんど隠れていた顔があらわになる。…血管だか神経だか分からないが、体内の網が太かったり細かったりして浮き出ている。服で少し見えないが全身にも細かく網模様があった。そして…ニィッと笑った。
「あぁあ……クリス。クリスじゃぁ…ないか…随分…ひ、ひさしぶり…だ。」
「…?」
ロイは顔をしかめる。「さっきは…す、まなかった。もう…俺じゃあ…制御できないんだよ。」
「…。キサラギさん…ですね?」
ロイは少し沈黙し、再び問う。
「お前は…この俺を、忘れた…の…か?あんなに…一緒だったのに。あんなに…。」
ますます口の切れ込みを深めた。
「…ぅ」
ジュエルはロイが微かにうめき、胸を押さえたのを見た。
「クックック…まぁいい。俺は…キサラギ、ハヤトだ。」
その間、ジュエルはある予感を感じていた。
「キサラギさん。この地下の構造を現在理解しているのは…あなただけ、なんですね?」ロイが口を開いた。
「……さぁ?もう一人…ここ…に…いるかもしれないな。」
ハヤトはさっきより落ち着いたようだ。とても…本当にゆっくりと立ち上がり、体を引きずるように歩いた。そして、コンクリートが壁から出っ張っている部分に腰掛けた。ロイを真っ直ぐ見る。
「私達に協力してもらおうとここまで来ましたが…どうやらあなたは地上に上がることは出来ないようだ。」
「…今は…俺の中のバケモ、ノを…抑えるのが精一杯だ。今…動く…と、また…暴走する危険がある。」
「…。」
「だが…さっきあんたたちが…触手…の一部を殺してくれたおかげで…す、少しは楽に…なった。指は、動かせる。…知りたいのは地下の構造か?」
「ええ。では、これに地図は書けるでしょうか。」
ロイはポケットから小さく折り畳んだ数枚の紙と、小さな鉛筆を取り出す。
「完璧には覚えていないがずっと…この地下に住んで、いた。多分書ける。…汚くてもいいか?何しろ…この体、だ。」
「…えぇ。」
ハヤトは地図を書くのにしばらく時間を費やした。鉛筆の動きがとてもゆっくりなのだ。「…地下の構造なんか知って…どう、するつもりだ。クリス。」
「………あぁ。忘れてた。そのために゛正体不明の生物゛を始末するようにも言われてたんだっけ…。」
直立していたロイはそう小声で言うと。ポケットに手を突っ込み、頭をかいた。
「…地上でちょっと人造生物との戦争が起きそうなんです。我々はそのために派遣された軍のものです。…で、一般人の避難場所になりそうな所がここしかないもので。」
少し苦笑いぎみに言った。
「…。俺以外に…ここにはバ、ケモノはいない。」
「あ、聞こえちゃいました?そういう訳なんですけど…いかがですか?」
ハヤトは鉛筆の動きを止めた。そしてうつむいて、沈黙した。
「…俺は…まだ、死ぬわけにはいかない。ま、だ…やることが。あるんだ。」
「その動けない状態でどうするつもりです?」
「…それは、クリスで…考えてほしい…。」
その時ハヤトは真っ直ぐと。ロイを見ていた。そして鉛筆を置いて、ロイに紙を手渡した。
「…さて。どうしましょうか。」
ロイはハヤトから紙を受けとった。
「…クリス。俺の…右腕の付け根をその銃で撃ってくれないか…。」
「…。撃ったからって、暴走が完全に止まるわけではないでしょう。」
「た…のむ。今の俺には…それしか、方法がないんだ。」
「…じゃあ」
ドガン。
ロイはなんの躊躇もせず撃った弾はハヤトの肩に当たった。
「……ガハァ!うグ…ぐ…。」
ハヤトは肩を押さえてうめいた。右腕が痙攣している。
「アぁあ…。こ…これで…ハァ、ハァ…もっともつはずだ。1ヶ月…は…はあ、はあ…。」
「ふぅ…じゃあ1ヶ月たったらまた来ましょうかねぇ。結構時間かかるんですけど。」
ロイは溜め息をついた。
「本当にその状態で何ができるんでしょうね。今にもバケモノになりそうなのに。」
「…あぁ。俺は……バケモノになるさ。バケモノに…なら、ないと…果たせないことなんだ。」
ハヤトは自分の血管と神経ででこぼこした手を見つめた。
「俺は…この手で………を…」
「…なんですか?よく聞こえませんよ。」
ロイが聞くが、ハヤトは口ごもった後は何も言わなかった。しかし少しの静寂の後、口を開いた。
「…サヤ…に。」
「?」
「サヤに…会え。そして、自分で思い出して欲しい。全てを…。」
…夜。
三人は昨日と同じ場所で見張りについていた。
地下を抜けた後は、ジェームズに地下を避難場所として一ヶ月間利用できることと、ハヤトのことを報告した。そして昼食を取り、休む間もなく人造生物の殲滅に加わる。気が付けば日は暮れていた。
…地下での出来事を、ジュエルはやはり気にしてロイに話しかけた。
「ロイ…キサラギが言ったことだが…。」
「あぁ。サヤという女には会う。人造生物のことも知っているかもしれない。」
「…そうじゃない。」
ジュエルは低い声で言った。その一言で、少し間ができた。
「…。俺の記憶のことを言っているのか。」
「…。」
「確かにハヤトは俺の消えてしまった過去…クリスという男を知っているのかもしれない。だがな。今となっては…何も意味がないんだ。」
ロイは遠い夜空を見ていた。
「俺達は人造生物を殺すことのためだけに生み出された…人形だ。今となっては。…そうだろう?」
ジュエルは黙ってうつむいた。漠然と…果たしてそうなのだろうかと思った。ふとハヤトを思い出す。
『クリス。お前が記憶を失おうと…俺の思いはあの時と変わらない…ただ、幸せに生きろよ。』
それが彼の最後の言葉だった。
>> 66
何日かして、ロイはジェームズに新たに調査時間が欲しいと言った。何とか許可は貰えたが、人手をあまり減らすわけにはいかないということでロイ一人で目的地に向かうことを条件とされた。ロイはあっさり承諾して、ある家の住所を尋ねた。
その足で向かっているのは…ボロボロの住宅街だった。小さな紙を見ながら歩くうちにある家に辿り着いた。
ドアをノックする。……すると、年配の女性がやつれた顔を出した。
「…どなたですか。」
「軍の者です。サヤさんに面会に来ました。」
「…サヤは…病気です。とても話せる状態では…」
「会わせて下さい。調査のためです。」
口ごもる女性をロイはじっと見つめた。すると女性はハッとしたようにロイの腰にある銃を見て…入ってください、と言った。
女性に案内され階段を上がり、ある部屋に入る。
「サヤ…お客様よ。」女性は優しい声で言った。
その部屋は、病院の個室のような部屋だった。ベッドには…一人の少女が死んだ目をして横になっている。しばらく女性の声にも反応しなかったが、ゆっくりと目だけ動かしロイを見た時、変化が起きた。
「…クリストファー…」
ドクン。
その掠れた声にロイ心臓が大きく反応した。
「クリスト、ファー」
「…ぐ」
心臓が跳ねる。頭が痛い。地下に行ったときと同じだった。その弱々しい声を聞き、この国に来たときのことを思い出す。あの時の制服の少女はここにいる少女だったはずだ。あまりにもその姿は違う。
「サヤはたった一人の家族の兄を失い、極度の鬱状態なのです。あまり…辛いことはしないでください。」
女性が言った時、サヤの目の色が変わった。「なぜあなただけここにいるの」
「…?」
「兄さんは人造生物になってしまったのになぜ一緒にいたあなたは生きているなぜ…」
虚ろな声で淡々と話す。目を見開いてロイだけ見つめていた。ロイは何を聞き出せるか分からなかったが、ハヤトの『自分で全て思い出して欲しい』という言葉を思い出す。これは自分の過去のことなのか。
…思い出したくないという思いがあった。その先に見てはいけないものがある予感がしたからだ。だからジュエルの言葉も無視してきていた。しかし。
ドクンッ
(逃げても…無駄…か。)
手をぐっと握る。
「サヤさん。ハヤトさんもルチア氏の人体改造の被害者なのですね?」
「覚えてないの?あなたもあの地下に入っていたのに。」
「…地下?」
ロイは眉を潜めた。
千人の犠牲者がでたルチアの研究所…それは地下ではなく、地上にあったはずだ。
(…どういうことだ。)ロイはさらに聞き出すことにした。
「地下…それは、どこの…」
「刑務所…ルノワールの…皆、ヒトではなくなってしまった。」
ドクンッ
(刑務所だって?刑務所?そこから人造生物が…?ルノワールの……地下?)
「兄さんは…父さんと母さんを殺して。あの刑務所に…あなたも、共犯だったから…あそこに…」
ハヤトの両親。殺人。そして…あの地下の正体。頭の中で様々な言葉がぐるぐる回った。
ドクンッ
「刑務所は…実験施設だった…だから兄さんも…」
「実験…施設?」
「なぜあなたは生きているの?あの日から地下を調査した人達も…帰ってきた人はいないのに。」
(実験…何の?人造生物…。)
ロイは混乱していた。だからサヤの動きに全く気付かなかった。
ドンッ!!
「え」
ロイは思い切り強く床に倒れた。サヤが突然ベッドから起きてロイを突き飛ばしたのだ。そしてロイに跨がって、両手を首に伸ばす。そのまま握りしめた。
「……かっ!」
「なんで…なんで…!」
サヤの顔は憎悪の表情で歪んでいた。手の力がどんどん強まる。
「サヤ!!やめなさい!!」
側に居た女性はサヤを止めにかかる。しかし、サヤは少しもロイからどかなかった。
サヤは黙って…ただロイの首を締めた。
心臓が高鳴り、耳鳴りが聞こえる。しかしロイは苦しさよりも、不思議な感覚に陥っていた。薄れていく意識の中で…今まで聞かされた記憶の欠片が繋がっていくのだ。
「…あ……!」
瞬間的に記憶が頭を駆け巡り、ロイは思わず声を上げた。
しかし、その直後視界は真っ暗になった。
「………。」
月が、見える。満月だった。自分は道路の上からそれを見上げていた。
「クリス。」
後ろから声が聞こえる。振り返ると一人の少年が立っていた。短い黒髪。黒い瞳。自分は…その少年を知っていた。
「ハヤト…。」
「さぁ。死体を運ぼう。」
「死体…。」
夜の闇でよく見えないが、ハヤトが返り血を浴びてノコギリを握っているのが見えた。そして、今気付く。自分も同じ状態で金属バットを握っていることに。
(そうか…俺は。人を殺したんだった…。)
「死体は袋につめた。後は埋めるだけだ。」
「…あぁ。」
ハヤトに続き、近くの倉庫に入る。血に汚れたコンクリートの床には、黒い袋が数個置いてあった。
誰もいない森を歩く。両手に袋を抱えて。先頭を歩くのは自分だ。暫く歩いて…ハヤトは口を開いた。
「クリス…本当に…すまない。」
「…またそれかよ。」
ひたすら歩く。邪魔な枝葉をどける。
「どうせ俺は孤児…殺人をして捕まっても刑務所に入るだけだ。路上生活から脱出できて有り難い。何度も言ったじゃないか。」
「…。」
「お前の両親の仕打ちが…許せなかった。はたから見ていた俺でもな…。」
ハヤトは黙っている。しかし、袖から出ている手首にはその『仕打ち』の跡が残っていた。
「本当に…ありがとう。妹も喜ぶ。」
「俺のことはどうでもいいが。お前は妹を面倒見なきゃいけないんだ。…捕まるんじゃないぞ。」
「サヤは強い。俺がいなくなっても…一人でやっていける。」
「…。お前、サヤが一人で生きていけると…本気で思っているのか?」
その後自分は不意に立ち止まって、振り返った。ハヤトは下を見ていたが、顔を上げる。
「…?」
「それに朝から必死こいて穴掘った俺の身にもなれ。場所も深さも吟味したんだからな。」
二ッと笑って自分は言った。
ハヤトはそれを見て、少し優しい表情になり、返す。
「頼んだ覚えはないが…な。」
死体を埋め、凶器を始末し、血を洗い流し…それで二人の作業は終わった。
「…ようやく…終わったな。ハヤト。」
「ああ。…サヤを迎えに行こう。」
それからハヤトはある公園へと向かう。
公園に着くと、ブランコに小さな女の子が無表情に座っていた。その子はこちらに気付いたようだ。
「…お兄ちゃん…クリストファー。」
「サヤ。待たせて悪かったね。」
ハヤトは少し微笑みながら妹のもとに歩み寄る。
サヤはブランコから降りて、ハヤトの前に立った。
「…終わったんだね?」
「ああ。終わった。」ハヤトはしゃがみ、サヤを抱き締めて言う。サヤは…無表情だった。自分はそれをただ眺めていた。
「ハヤト。これからどうするつもりなんだ。」
ハヤトはずっと妹を抱き締めていたが、腕を戻して立ち上がった。
「しばらくは身を隠さなきゃならない。お前にも、行き先は言えない。」
「…そうか。」
「クリス…本当に感謝してる。」
「その台詞も聞きあきたな。」
「何度でも言わせてくれ。裏路地で出会っただけのお前が…まさかここまでしてくれるなんて。」
ハヤトは真っ直ぐ自分を見る。だから自分も真っ直ぐ見返した。
「友達だからな。俺の…たった一人の。」
ハヤトは妹を連れて、公園の電灯の光が届かない闇の中へ溶けていった。 自分は一人、取り残される。
その時…再び視界がブラックアウトした。
「…リス。クリス。起きろ。」
「…ん」
自分はゆっくりと重い目を開ける。見えたのはハヤトの顔だった。
「…?」
床に座ったまま辺りを見渡す。薄暗く、狭い部屋で一番目についたのは壁のように立ちはだかる鉄の柵だった。
「朝飯が来たぜ。」
「え…?」
目の前にはトレーの上に乗った粗末な食事があった。そして、自分達の他に十数人が床に座り込んで、同じものを食べていた。
暫く呆然とした。ハヤトは怪訝そうに自分を見る。
「…どうした?」
「俺は…」
「クリス。昨日来たばかりで忘れているのか?刑務所に来たことを。」
「……。」
自分はやっとここが牢屋だということを理解する。
(…捕まった…か。)
そこであることに気付いた。
「お前…サヤはどうした。」
「昨日も言ったが…サヤは警察に保護された。」
「…あれほど捕まるなと言ったのに。」
「…大丈夫だ。妹には罪を償ったら必ず帰ると約束した。俺は償って見せる。」
自分は黙り込む。そしてトレーのスープに口をつけた。
「…………。」
空虚な空間で、沈黙が続く。刑務所に入ってから三日になったが、ここに居る者がすることと言えば、運ばれて来る食事をとることと、寝ることくらいだ。…だから疑問に思った。
「ハヤト。」
「…何だ」
低く、小さい声での会話だ。
「妙、じゃないか?」
「…。やっぱりそう思うか。」
「俺達はずっとここに居るだけなのか?」
「お前が来る前も、ここに閉じ込められてるだけだった。周りの奴らもそうだ。」
「…何のために…俺達はこんな所に居るだけなんだ。それに、俺は捕まったら少年院かどこかに入れられると思ってたが…どうやら違うようだ。」
牢屋の住人は、まだ十才の自分とハヤト以外全員大人だった。
「他にも変な点はある。複数人を同じ牢屋に入れるところとかな。」
ハヤトは言う。
自分は低い天井を睨んで呟いた。
「この刑務所は何かがおかしい。」
その時。
複数の足音が聞こえた。それはだんだんこちらへ近づいてくるようだ。そしてその姿が鉄格子から見えた。
「…?!」
自分は激しく違和感を感じた。なぜなら…その複数人は、全員白衣を着ていたからだ。こんなことがあるだろうか?そして彼らは自分達の牢屋の前で止まった。
「囚人57、58番。出ろ。」
白衣の一人が言う。自分達を含めた牢屋の住人は全員驚いた顔でその集団を凝視していた。…誰も動かない。
見ればそれぞれの囚人服には番号が書いてあった。ハヤトの番号を見た。70番だった。そして、自分は71番だ。
「…早くしないか!」
狭い空間に怒鳴り声が響く。そして…二人がおずおずと立ち上がり、ぎこちない動きで外に出た。二人は手錠をはめられ、白衣の集団に囲まれて牢屋を後にした。牢屋には再び鍵が掛けられる。
…自分は黙って、その一連の動きを見ていた。
「…。」
気付けば…足を抱えて座っていた自分は、それよりももっと縮こまった姿勢になっていた。ハヤトも黙ったままだ。
その日から、白衣の集団が来る度…囚人の人数が二人ずつ減っていく。連れられた者は戻ってこなかった。
自分は焦っていた。71番が迫ってくる。自動的に体が震える。
(連れていかれたらどうなっちまうんだよ?消えちまうのか?どこに!)
ふと肩にポンと手を置かれた。
「クリス。落ち着け。」
ハヤトだった。
「他の牢に移されたのかもしれないじゃないか。」
「ハヤト…。」
その時、ある考えが頭を駆け巡った。
「…クリス?」
自分はよっぽど変な顔をしていたようだ。ハヤトがまた呼び掛ける。そして自分は押し殺した声で言った。
「なぁハヤト…脱獄しないか?」
その一言でハヤトは少し固まった。
「…。今、何て言った…?」
「逃げるんだよ。ここから!悪い予感がする。」
「何だって…!それこそどうなるか分かったものじゃない!」
「ここでじっとしててもどうなるか分かったもんじゃないだろう?」
「…だけど!そもそも脱出する方法なんて!」
「それは…まだ思いついてないけど…。」
そこで一旦会話が止まる。ハヤトは何か考え込んでいた。
「クリス…俺は。サヤと約束したんだ。罪を償って…また会いに行くと。」
「死んだらそんな約束意味がない。」
「…え…」
またハヤトは固まる。
「聞こえなかったか?殺されたらそんなの意味がないって言ったんだ!」
「…ま、さか。殺されるなんて…そんなこと」
ガシッ!
言葉の途中で自分はハヤトの両肩を掴んだ。
「いい加減気付けよ…!明らかに異常じゃないか!!」
子供もいる刑務所。刑務所にいる白衣の集団。機械的に二人ずつ消えていく囚人達…
それらを総合して、自分はその結論に達したのだった。
「……。」
「…あ」
ハヤトの驚いた顔を見て自分は声を上げた。 そして掴んでいた肩から手をおろし、目をそらして呟いた。
「…ごめん。」
ハヤトは驚きの表情を変え、静かに自分を見つめた。
「…。いや、お前の言う通りだ。こんなところにいたら…殺されてしまう可能性が高い。だが俺はサヤに会わなければならない。」
瞳の中に強い光が見えたような気がした。
「こんなところで、死ねない。脱出しよう。」
「…ハヤト……。」
だから自分もハヤトを見つめた。出来るだけ強く。
その時また白衣の集団が複数の足音とともにやってきた。思わず、それを睨む。
その中の一人の男性が鍵を開ける。自分はその後何度か聞いたあの台詞を言うのかと思った。しかし。
「囚人63、64、65番。出ろ。」
「…?!」
(…三人…?増えてるじゃないか!!)
そして三人の男女は口々に叫ぶ。
「おい!俺達はこれからどうなるんだ?!」「他の受刑者達は…?何処へ行ったの?!ねぇ…」
「何か言えよオラァ!」
やはり異変に気付いているようだ。
「黙れ!!」
三人はそれで黙った。なぜなら。白衣の人間全員が拳銃を突き付けていたからだ。
「…もう時間はない。今度は何人減るか…。」
自分は呟いた。
三人は連れていかれ、また牢屋の人数は減った。残りは66~71番。つまりは自分とハヤトを含めて6人だった。「さて。どうする。この牢に穴でも開けるか?」
自分は錆びた牢屋の中を見渡して言った。
「ここは見た目は相当古いようだが…。道具も何もなくて穴なんか掘れるわけもない。」
「なら…残された手段は最も危険な方法しかないな。」
ぐっとハヤトの顔が険しくなる。
「正面突破…か!」
「いちかばちかの方法だが…それしかないと思う。」
「この建物の構造も分からない。そして相手は多少の武装をしている。成功する確率はかなり低いぞ。」
「でもここはとにかく古い。監視カメラもない。どういうわけだかな。それに上を見てみな。」
ハヤトは鉄格子ごしに低い天井を見た。
「通気ダクト…?」
「そうだ。うまく通れば外に出られるかもしれない。…問題は。外に出るチャンスは鍵が開かれた時しかないということだ。間違いなくそこで戦闘になるだろう。拳銃に勝てるか…」
そこでハヤトは少し笑った。
「…実を言うと俺にだって拳銃は使えるんだ。」
「…何だって?」
自分は目を丸くした。
「あの親父が銃器を持っていたからな。盗み出していろいろ研究できた。」
ハヤトは少し自嘲気味に言う。
「…。そう、か。」
自分は深いところまで追及しないようにした。
「…一丁の銃さえ奪えれば…勝機は…。」
「……。」
自分達は生唾を呑み込んだ。
…あれから、他の五人の囚人は同じように連れていかれた。だから残っているのは二人だけになった。これでもう後はなくなった。
次が…その時だ。表情が自然と固くなる。体が震える。鼓動が速くなる。
そして、運命の時がやってきたのだ。
…コツ、コツコツ、コツカツコツ。
ガチャガチャ。
ギイィ……
「囚人70、71番!…」
錠を外し、扉を開ける。しかし…そこには誰もいないように見えた。
「……?」
疑問に思ったのだろう。さらに彼は中に入ろうとする。
…その瞬間、自分は動いたのだ。
「おぉおおお!!」
彼にはその声が上から聞こえたはずだ。自分は上から降ってきたのだから。
ドガッ!!
「…が?!」
後頭部に蹴りを一発喰らわせてやる。その男は立ったまま背中を丸めた。
「ああぁ!!」
ドゴッ!
その後曲がった背中を直すように、彼の顎にアッパーを打ち込んだ。
ガチャガチャガチャ!!!
鉄格子の向こうの者が全員銃を構えているのが見えた。
自分は次に起こることを予想する。…勿論発砲するだろう。しかし自分にはしなければいけないことがある。
「ぐ…おぉ」
さっきのアッパーで彼は仰け反った。そこで腰にある銃を…自分は見逃さない。だが。
ダダダダン!!!
「!!」
発砲音だ。自分は慌てて後ろに飛びさがる。
キュンキュンキュン!!
弾は格子を通り抜けて足元に火花が散らした。…どうやら連中は足を狙っているようだ。
「…このガキが…!よくもおぉ!!」
彼はさっきの二発だけでは倒れなかった。その顔を怒りで歪ませてこちらに歩みよってくる。だが自分はそれより向こうを見た。やはりまた銃を構えていた。
…その撃つタイミングを見極める!
「…っ!」
そして、あえて襲いかかりそうな彼に飛び込んで行った。
「うおぉお!!」
彼は殴りかかる。それでも自分は走ることを止めなかった。目をつぶりながら、突進していく。
「ああぁあ!!」
ブンッ!!
彼の拳が来る。
しかし自分は…それを通り抜けたのだ!そのまま…
ドンッ!
体当たり。瞬間、
ガガガガガ!!!
また発砲音が響いた。その結果…
その結果。彼の背中に無数の穴が空いた。自分は彼を盾にしたのだ。
「がっ!」
彼は悲鳴をあげた。体が不安定に揺れ始める。しかし彼が倒れ込む前に、自分は腰にさしてある銃に手を伸ばし、素早く抜いた。その後、彼は倒れた。
「…お、おい!何をやっているんだ!!」
後ろにいた連中の動きが動揺で止まる。そして、
「ハヤト!」
自分は奪った銃を斜め上に投げつけた。そこには鉄格子のギリギリ上で掴まっているハヤトが。
「クリス!」
片手を差し出し、投げつけられた物ををキャッチする。同時にハヤトは床に飛び降りた。そして銃を構え、撃った。
ダンッ!ダンダン!
「ぎゃあ!」
「がはっ」
「うぉああ!」
ハヤトの弾は鉄格子を抜けて…的確に全ての敵を貫き、倒した。しかも急所を外していたので全員気を失っているだけだった。
自分は改めて驚く。
「…お前随分研究した…というか訓練したんじゃないか。」
「両親殺しの計画の時、こう見えていろいろ勉強したんだぜ。…独学だが。それよりお前も…格闘が出来るんだな。」
お互いに二ッと笑った。
「さて、急がないと。通気ダクトだ。」
自分は牢を出て、天井を見た。
ハヤトは、倒れている白衣の連中の持ち物を物色した。出てきたのは銃、銃の弾、鎖の長さが様々な手錠だ。
「…。思ったより出血が激しい。誰か来ないと死ぬかもしれないな…。」
「ハヤト!!早くダクトに…!」
ハヤトは少し黙ってそれを見ていたが、答えた。
「…そうだな。まず…あれをどうにかしないと。」
ハヤトは通気ダクトを見る。それは天井に直接穴が空いているわけではなく、フレームがついていた。
だからハヤトはそれに銃を向けて撃った。
ダンダンダン!!
…ガターーン!
ハヤトが撃ったフレームは形が崩れ、大きい音をたてて落ちた。
天井には完全な穴が空いた。
「…あそこに入るには…そうだ!さっきの手錠!ハヤト。長い手錠をこっちによこせ!」
「…ああ!」
自分は投げ縄のように手錠を通気ダクトに投げた。そして二度引っ張ってみる。
ガツ。ガツ。
という手応えがあった。
「しめた!何かに引っ掛かったぞ!!」
「よし。この鎖を上るんだ!」
その後自分達は、細く不安定な鎖を必死に上り、通気ダクトの潜入に成功した。
>> 82
通気ダクトは…当然ながらかなり狭かった。腹這いで動くしかない。
「…ハヤト。この刑務所にどこから入ったか覚えてないか?」
「あの時は目隠しをされていたから覚えていない。」
「…構造が分からないとリスクが高いが…。とりあえず奴らが来るのとは逆の方向に進もう。」
「あぁ。きっとあいつらは追ってくる。急ごう。」
ずりずりずり。
自分を先頭にして進んだ。この遅い動きに、自分はかなりじれったく思い、顔をしかめる。途中幾つか分かれ道に出くわした。とにかく自分はあの白衣の集団から離れようとして、それを無視して真っ直ぐ進む。そしてしばらくすると、自分は止まった。
「…」
気付けば真っ直ぐあった道は直角に折れ曲がってずっと上に伸びていた。それ以外の道は、ない。
「どうした?クリス。」
「ここで行き止まり…だ。真上に道はあるが。」
「上…。」
ハヤトはそれから少し考えて言った。
「そこ…登ることはできないか?」
「…何だって?」
上を見上げる。所々壁にに窪みがあるだけで、はしごのようなものはない。登るのは厳しかった。
「目隠しで何も見えなかったが長い階段を何度も降りた。あるいは…。」
ハヤトはそう言って黙った。
「……分かった。何とかやってみよう。」
自分は小さな窪みに片手をかけた。
「ん…。」
足を上げて、登ろうとする。しかしやはり足場が安定せず、すぐにずり落ちた。
「くそっ!やっぱり登れない!」
「…クリス。」
後ろを見ると、ハヤトが何か渡そうとしていた。
「これで…足場を作れないか?」
それは銃だった。
「…よし。」
自分はそれを握り、斜め上に向けて撃った。
ドンッ!ドンッ!
…ダンッ!
すると、壁に小さく穴が空いた。だが弾が足りなくなる。
「ハヤト!もっと弾を!」
「…お前弾の込めかたは分かるのか?」
「……。」
「ほらよ。新しいやつだ。」
「…すまないな。」
ハヤトはまた別の銃を渡す。そして自分はまた同じように引き金を引いた。
ダダダダダダダ!!!!!
大きい音とともに壁は穴だらけになる。
「出来た!これなら登れそうだ。行くぞ!」
開けた穴に手足を掛けて上に向かった。上がりきると、さっきと同じような空間が伸びていた。
「ここは…上の階のダクトか。」
ハヤトの声が響く。
「そのようだ。とにかく今は上に行くことを目標にしよう。この階にも上に通じる道があるはずだ。」
さらに進み始めた。
この階は下の階より入り組んでいた。道は何回も曲がり、迷路のようだ。
「…?」
自分は進むうちに変化に気付く。さっきまでこの空間は…長年使われていないような古いコンクリートの壁が支配していた。しかし…途中からは最近作られたばかりのような頑丈な金属で覆い尽くされている。
「クリス…ここはまずいんじゃないか?中心部に逆に近づいているような…」
「そうだな…。…!」
そこで自分は何かに気付き、進むのをやめた。そしてハヤトの方を向き、口の前で人差し指を立てた。
……バタバタバタバタ……
無数の足音が遠くから近づいて真下を通り、また遠ざかっていった。
「………。」
しばらく自分達は自然に固まっていた。
そして、今度は微かに声が聞こえてきた。自分はそれをもっとよく聞くためにまた前に進む。すると光が見えてきた。それは自分達がダクトに入った時と同じようなフレームから放たれていた。自分はそこから、その部屋を覗く。
「…本当に、殺してしまうの?今まで生きた体でなくては駄目だったのに。」
まず白衣の女性が見えた。美しい金髪を後ろで束ねている。
「これから試すのだ。」
低い男性の声も響いた。自分はさらに覗き込む。
…男の顔が見えた。中肉中背の、若く落ち着きのある顔立ちだった。
ドクンッ
「……?」
動悸がして、軽く視界がぼやける。そして不思議な感覚に見舞われた。それは…既視感だった。
(この男…どこかで…)
「私は…人々が幸せに暮らせるようにしたいと思ってここまで研究を進めてきた。こんなこと…」
「その為には多少の犠牲もやむを得ない。…何度も言っているだろう?実験によって…この研究はより確実になり、より発展する。」
「……。」
女性は表情を曇らせて黙り込む。
「…人を助けるために人を殺す…もう私は何をやっているのか…分からない。」
「…ルチア。もう戻れないんだよ。僕達は。」
男性は優しく微笑んでいるように見えた。
そして女性に近づき、抱き締める。
「さぁ…もうすぐで新しい実験体がくる。僕達で人類を助けるんだ。」
それから二人はずっと動かなかった。
そこで、自分は突然後ろから肩を掴まれる。思わず体をビクッと震わせた。
「…クリス!この中は危険だ!今すぐどこかの部屋に降りるんだ!!」
ハヤトはとても強張った表情をしていた。
「奴等が通気ダクトまで入ってきたら殆んどの逃げ場は無くなる!」
「…!」
「くっ…どの部屋に出ればいいんだ…!」
「どこでもいい!急ぐんだ!!」
ハヤトに急かされ、自分はその場から離れたあとまた古い迷路に戻り、がむしゃらに道を進んだ。そして、辿り着いた。別のダクトの出口だ。自分は気配を探った。
「…誰もいない…ここから降りるぞ!」
「クリス!頼む!」
自分は先程の銃をフレームに向けて構え、早く引き金を引いた。
ダダダダダダ!!!
ミシッ……ミシミシ…
「?!」
急いでいたせいで狙いが定まらず無駄な範囲を撃った結果、自分がいた脆いコンクリートの床が軋んだ。そして…
ごとり。
がらがらがら…!
「う、わ!」
崩れ落ちる音と、その浮遊感は同時に起きた。自分は…その部屋に落下して、激しく背中を打ち付けた。
「クリス!!」
ハヤトはそこから飛び降りて、着地した。
「大丈夫か?!」
ハヤトは駆け寄ってくる。自分はうめいて、うっすらと目を開けた…
その部屋を見た。
それを見て、自分は無意識に目を見開いていた。そして何かを感じる前に…声を出していた。
「うわあああぁあぁ!!!」
急激な吐き気と目眩が襲ってくる。
「なんだよ…?!これ…!!」
自分はそれしか言えなかった。
部屋の中は透明な円柱だらけだった。だが自分が見たのはその中だった。
すぐには理解出来なかったが…それは人間だった。培養されている。しかし、完全な形をしていない。手や足がないもの、上半身だけのもの、…首がないもの首だけのもの。そして切り口からは何か触手のようなものがぐにゃぐにゃ伸びている。触手はそれぞれの欠けた部分を補おうとしているようにも見えた。幾つかの円柱を見ると知っている顔があった。…一緒の牢屋にいた囚人たち。特にあの三人は見覚えがある。抵抗して銃を突きつけられていた……あの三人だ?!
「いや…だ…こんな…こと…」
自分は膝が折れて寒気がする。体が震える。涙が溢れる。
「クリス…しっかりしろ!!早く逃げないと…!」
バァン!
ガシャーン!!
「!!」
上から銃声がして円柱の一つが割れて、中身をぶちまけた。
ハヤトのすぐ後ろの円柱だ。ハヤトはガラスの破片を避けるため頭を抱えた。
「うわあぁぁぁ!!」
自分はもう気が気ではなかった。泣きながら銃声がした方向に握っていた銃を乱射した。
ダダダダダダッ!!
パリパリパリーン!!
さらに円柱を割った。それからだ。辺りが騒然となったのは。
通気ダクトから黒い影が落ちてきた。さっきの銃を受けたのだろう。赤い池を作って動かない。
バン!
だが休む間もなく扉が開く。そこから黒い軍服を着た人間が見えた。武装をしているようだ。
「いたぞ!!」
「!…実験体が!」
「構わん!撃て撃て撃てぇ!!」
ババババババババ!!
「クリス!!こっちだ!!」
ハヤトにぐいと手を引かれる。円柱の陰に隠れた。
ハヤトは銃に弾を込める。そして銃声の嵐の中、扉の人影に向かって何度か銃を撃った。
ダン!ダンダン!
しかし距離が遠いせいか、なかなか当たらない。
「くそっ!このままじゃあ……こうなったら…!」
自分はただ涙目で震えることしか出来なかった。…が、その時。
ドガッ!
右頬にその衝撃はきた。ハヤトが左手で拳を作っていた。…自分を殴ったのだ。
「クリス。しっかりするんだ!!本当に生き残れなくなるぞ!!」
「ハ…ヤト。」
自分は痛みで頬を押さえる。しかし、それで錯乱から戻ることができた。
「ご…めん。」
「あの扉から出るんだ。こうなったら一気に仕掛けるしかない。俺が奴等の目を引くから、お前は奴等をそれで撃て。」
自分は改めてしっかり銃を握りしめた。
「クリス。…いいな。」
ハヤトが低い声で言う。
「…。」
自分はそれにゆっくりと…無言で頷いた。
そして凍っていた時は動き出した。
ハヤトが走り出す!
「あいつだ!!撃てぇ!!」
ダダダダダダッ!!
扉の者たちが銃激を繰り出す。
ハヤトは素早く別の円柱の陰に走る。そこからまた狙いを定めて撃つ。少しするとまた別の円柱に移った。
すると、銃激は次第にハヤトのいるところに集中した。
(今だ。)
自分も走り出した。
ハヤトと同じように移りながら、少しずつ近付いていく。
そして…
「おおおぉぉ!!」
ダッ
扉へ走りながら銃を構える。
ダンダンダンダン!
「うぉあぁ!!」
「グボぉ!」
二人倒れた。しかし一人残っている!銃がこちらに向けられる。自分はその銃口に背筋がぞくりとする。
「!!!」
体が動かない。その時!
「クリスうぅ!!」
ドガァ!
「うぉ?!」
ハヤトの飛び蹴りが男を襲う!男はバランスを崩して倒れた。そしてハヤトはさらに男を。
ドンッ!!
撃った。男は悲鳴をあげたあと立てなくなった。
「急げ!!また来るぞ!!」
「…!」
戸惑う暇もなくハヤトを先頭に扉の外へ駆け出した。
それからもうどのくらい走っただろうか。階段を見つけては掛け上がる。足音を恐れて隠れながらも必死に走る。その作業の繰り返しだった。
「はぁ…はぁ…はあはあ!」
そうすれば息が切れてくるのは当然だった。
「…まだだ!まだ上だ!頑張れクリス!」
ハヤトが励ますも、体力の限界は近い。もう足が重かった。その足を引きずりながらも階段を上る。その先にはとても広大な空間があった。
「……!」
二人で息を飲んだ。
巨大な穴が空いていた。覗き込むと、その穴は一点の光もなく、闇すらも飲み込んでいた。どこまでも下へ続く…古いコンクリートの空間。
一体地下何階まであるのだろうか。
「やっぱり…ここは地下だったんだ。それも、とても深い。それに…一体何年前からこんなところが…」
自分が呟くとハヤトは穴をじっと見つめた。
「…ここは…もしかして。」
そう口ごもった時だった。…何かが上から落ちてきた。見ると…何か黒い球のようなものだったが薄暗く、よく見えない。
「……?」
だから一瞬疑問に思った。だがその疑問はすぐ晴れる。
ドガアアァァン!!!
光を放って球は爆発した。…それは手榴弾だった。
「うわああああぁぁ!!」
爆風が来る。自分は床に倒れ込んだ。まともにはくらわなかったものの、体中が痛い。
「う……くうぅう…」
霞む視界の中、その上下吹き抜けになっている部屋の上を見上げた。自分達より上の階から覗く、黒い人影が見えた。その後周りを見るが…煙でハヤトがなかなか見当たらない。
「ハヤト…?」
自分は必死にハヤトの姿を捜す。…見つけた。このフロアの穴の縁…手すりのすぐ近くで倒れていた。
「ハヤ…ト!」
痛む体を起こして傍に向かおうとする。
だが。
……カタン!
また上から何か落ちる音がした。それもさっきよりも近くで。その音に自分は反応し、反射的に駆け出した。
「ハヤトおおぉぉ!!」
ドガアアアアァァン!!!
再び爆音が空間を揺るがした。勿論爆風もまた襲ってくる。だから吹き飛ばされた。自分とハヤト。そして…穴に落ちることを防ぐ手すりも。
「…っ!!!」
自分は目の前の光景を見た。
…巨大な穴に、壊れた手すりと一緒に投げ出される…ハヤトの姿を。
手を伸ばした。助けるために。そして。
…ガシッ!
その右手を掴んだ!ハヤトの体はぶら下がった。この手を離せば…ハヤトは落ちる。
「ハヤト…ハヤトぉ…!目ぇ覚ませよ!」
力の入らない手で精一杯気を失ったハヤトを支える。下を見れば…深い奈落だ。見るたび寒気がして、必死になる。
「……う」
微かに呻き声が聞こえた。
「ハヤト!」
「…!!」
目が覚めて、ハヤトも状況に気付いたようだ。恐怖で顔がひきつっている。
「……クリ、ス…」
「待ってろ…!今、引き上げるから…。」
引っ張る。また引っ張る。力の限り。煙で息が苦しいが、そんなことは構っていられなかった。
その結果、少しずつ彼の体は上がってきた。
「…あと、少しだ。さぁ…手を伸ばせ!」
「く…!」
ハヤトは左手を伸ばす。その手は…自分のいるところに触れた。
そして…
ダダダダダダダダダダダダッ!!
「…え?」
…何が起こったのか理解できなかった。ただもの凄い音…しかし、もう聞き慣れた音が耳を駆け抜けた。
「あああぁ!!」
その後…近くで悲鳴が。自分の手を握り返すその手は、急速に力を失っていく。そこでやっと気付く。何が起きたのか。
「ハヤト!!!」
ハヤトは…胸から血を流していた。目を見開いて。地についたはずの左手は離れ、体はどんどん重みを増す。そしてまた顔はうつむいた。
「ハヤト!!落ちるなぁああ!!」
悲鳴に近い声で自分は叫んだ。手を掴む左手が汗でぬめる。それに激しく苛立ちを覚えた。
その時。
ハヤトが顔を上げた。自分はそれに驚く。なぜなら…彼はとても穏やかな顔をしていたからだ。
「ハ…ヤト……?」
「クリス。サヤ…を…」
彼は掠れた声を振り絞って、その言葉を言う。
「サヤを…頼む。そしてお前は…ただ…幸せに…生き…て…。」
その言葉が意味すること、それは…
「それだけが…」
……ずるり。
…手の感触と重い感覚が…無くなった。
もう手の先には…深い闇しかなかった。
「…あ…あ…あ…」
涙が溢れる。大粒が、一つ…二つ。
「ぅうをああああああああああぁぁぁぁ!!!」
自分は…咆哮した。腹の底から。
「馬鹿…!!馬鹿野郎!!!妹に…会う約束を…したんだろう!えぇ?!…おい!聞いているのかよ?!…うわあああぁぁ!!」
ダダダダダダッ!!
下からの音に体がビクッと反応する。上がってきた階段から乱れた足音も聞こえてきた。
「……ぐっ!ううぅ…」
次々と溢れる涙を拭う。逃げなければ。…生きなければ!
自分は、立ち上がって走った。しかし、思うように体が動かない。足がよろめき、見える映像は二重になっていた。
「…あ…!!」
ど!
平衡感が無くなり倒れた。そして。
カタン。
「…!!!」
また聞こえた音に一瞬で背筋が凍りつく。
ドガアアアアアアァァン!!!!
轟音が鼓膜を突き抜けた。そして熱い感覚が押し寄せてくる。
自分の体は消耗しつくされ、動けなかった。もう力が入らない。
「嫌だ…嫌だ…こんなところで…死ぬなんて。死に…たくない。」
自分で何を言っているのかは分かっていないかったかもしれない。脳から滑りでる言葉をただ言っていただけだったからだ。天井がにじんでみえる。
……バタバタバタバタ!
長くしないうちに、足音が近くに来たのが分かった。その場が静かになり、自分はゆっくりと自分を取り囲む影を見る。よく見えなかったが目の前の一人が銃を突きつけていたことだけ分かった。
「ハ…ヤ…ト」
目をそっと閉じたら、涙が再び頬を伝った。
そして何の感覚もなくなった。苦しみは消え…安らかな世界が自分を包み込んだ。
「………………。」
……ロイは、うっすらと目を開いた。
そこでまずみたのは窓から射している赤い光だった。それから古いフローリング。そして自分の体が半分以上埋もれているベッド。…とても静かで…寂しい部屋だ。
「……。ゆ、め……。」
ロイは、それだけ呟いた。
キィ
扉が微かな音を立てて開いた。そちらを目だけ動かして、見る。
そこから一人の年配の女性が入ってきた。どこかで見た顔だ…ロイはそう思った。
「!…目が覚めたのね!」
女性はベッドに駆け寄る。
ロイは無反応だった。
「…本当にごめんなさい…!サヤは発作を起こして…。」
サヤという言葉で、少しずつ思い出してきた。
サヤと会って、それから…首を絞められたことを。その時の無機質な声も思い出す。
『兄さんは人造人間になってしまったのに』
そこでロイは、はっとした。何かを思い出すように。突然雫がロイの頬を伝った。ロイは…泣いていた。そして掠れる声で呟いた。
「いき、てた。」
「…え?」
女性は眉を潜めた。
「ハヤトは…生きてた。…生きてたんだ…!!うわあぁ…あ…」
ロイはくしゃくしゃの顔で、困惑する女性に抱きつき…ただ、泣いた。
自分にしがみつきながら夢中で泣きじゃくっているのを見て、暫く戸惑っていたが、女性はロイの頭を撫でた。
「…悪い夢を見たのね?可哀想に…。」
「う………ぁ。」
その一言で、ロイは女性から離れた。
「……。すみ、ません。」
ゴシゴシと赤い目を擦った。女性は優しく微笑んでいた。まるで子供を見ているような目だったので、ロイは少し恥ずかしくなった。
そしてロイは冷静に考えた。あの地下の最下層で出会ったのはハヤトだったことを。あれは確かにハヤトだ…と思った。ロイは自分の過去にいた彼と髪がボサボサに伸びた彼を重ねる。もう別人のように違っていたが、ロイには分かっていた。
(ハヤトは…生きてた。…だが…体は…)
思い出す。彼の右腕、そして全体を。奇妙な触手と、異常に血管の浮き出た体。
(やはり…『実験体』に…されたのだろうか。)
そしてもう一つロイは考えた。
…自分も生きてるということだ。夢で最後に銃を向けられたことを覚えている。
(あの時、俺は死んだ…のだろうか?)
そんなことを頭に巡らせていたら、また声がかけられた。
「…もう少し、寝た方がいいわ。」
「…え。」
ロイはまた自分の世界に入っていたので、自分以外のその声に驚いた。
「跡が残るほど首を絞められたんですもの。疲れているはずです。」
ロイは思わず首筋を触った。ロイ自身は見えないが、女性から見れば、青い痣が残っている。
「…いいえ。大丈夫です。それよりサヤさんは…どうしましたか?」
「え…あ、あぁ…サヤもあれから発作が収まって……気を失ったわ。こことは別の部屋のベッドに寝かせて…」
「…?」
ロイは女性を見て、微かに眉を潜めた。心なしか動揺しているように見えたのだ。だから聞くことにした。
「発作…ですか?」
女性は少し間をおいた。
「…ええ。決定的瞬間を見てしまった貴方にだけにはお話ししますが…サヤは発作が起こると突然態度が豹変したり、凶暴化したりしてしまうのです。…でも、このことは他言無用でお願いします。」
「なぜですか。」
「……。…マルコーさんが…このことは言わないで欲しい、と。それしか…言えません。」
(マルコー…?)
聞いたことのある名前なのでロイは顔を思いだそうとした。すると…
ドクンッ
「?!」
なぜかあの感覚が再び蘇った。
あの時の刑務所の記憶の中感じた…既視感を思い出す。
(あの時見た…男は。)
ロイはその時、ある予感がした。そしてその重い口を開いた。
「………今もう一度サヤさんに会うことは出来ますか。」
「…!!」
「確かめたいことがあるのです。」
女性は今度ははっきりと動揺した。その顔をロイは真剣な眼差しで見つめた。
「…だ…だめ!今は!!」
「…なぜそんなに動揺しているのですか。」
ずる。
ベッドから足を下ろし、ゆっくり立ち上がる。そして女性に歩みよった。
「本当に今は…!!」
「…本当は発作が続いているのですね?それも…普段とは違う。貴女の顔に書いてありますよ?」
「…!!……」
「会わせて下さい。」
それから女性はしばらく黙り込んでいたが、肩を落として言った。
「…分かりました。サヤの部屋にご案内します。……でも。」
「…。」
「決して…恐れるような目で見ないであげてください。あの子は苦しんでいます。」
さっきまでの態度が嘘のように、女性は冷静な顔をしていた。
「………。はい。」
ギシギシと軋む床を歩く。…サヤの部屋は1階にあったはずだったが、女性は階段をさらに降りて、地下へと向かった。
階段を降りると、扉の前で止まった。薄汚れた扉だ。
「…ここはもともとは倉庫だったのです。」
ギィ
女性が言って、扉が開く。すると、薄暗く埃っぽい空間が顔を出した。
「……。」
物音はしない。辺りを見回す。明かりは一つぶら下がっている裸電球だけ。本棚やガラクタがいくつか存在していたが、その中で一番目立つのはベッドだった。脇に点滴台もあるようだ。ロイは少しその場を動かず、ただ見ていた。そして……近づく。ベッドの傍へ………
そこで見たものは
「…遅い…。」
ジュエルは呟いた。いつもの時間、いつもの見張り場所のベンチに深く座っていた。
「何がです?」
グロウが聞き返す。
「…ロイが戻ってくるのが。」
「…そうでしたね。おかげで今日はとても疲れましたよ。」
見れば二人とも少し体に包帯が巻いてあった。激しい戦いをした後のようだ。『殲滅活動』だろう。
「一人抜けただけでも違うものですね。」
「ロイは……何か掴めたのだろうか。自分のことを。」
その時、足音が聞こえた。そちらを見る。
街灯に浮かぶ一つの影。ジュエルはすぐにその主が分かった。
「…お帰り。ロイ。」
「……遅くなって、すまない。」
ジュエルとグロウは闇の中からロイが現れるのを見た。
「おかえりなさい。ロイ。こっちは大変だったんですよ?もう人造生物がわんさかと…」
「それなんだがな…。二人とも。」
「…何か分かったのか?」
ロイはジュエルの隣に座った。そして一つ溜め息をつく。
「人造生物が減らない理由…だ。」
「うわぁ。それは知りたいものです。」
グロウは平坦でやんわりとした口調で驚いた。ジュエルは黙っている。
「考えられることは。今でも人造生物の開発が進んでいるということだ。」
「開発が…まだ続いている…?あんな大きな過ちをまだ止めない奴がいると言うのか?」
「なぜだかは分からないがな…。俺の調べではその可能性は一番高いんだ。」
「…それはそれは…一体どんな調査をして来たのでしょうね?」
「……。」
グロウの問いかけにロイはただ沈黙する。ジュエルには俯くロイがとても疲れた表情をしているように見えた。
「…また、あそこを調査したいと思う。」
「あそこ?」
「……地下だ。」
「そこが一番仮定上の研究施設である可能性が高い…と?」
「そういうことだ。」
「さすがに、今日は寝ないと体力が持たないですね。僕は『ヴィマナ』で休むことにしますよ。では。」
事務的な話が終わるとグロウはいつも早くにその場を離れる。ゆっくり立ち上がり、街灯の当たっていない闇のほうに歩いていき、見えなくなった。
ベンチに二人残される。始めにジュエルがロイに話しかけた。
「…お前は他にも言うことがあるんじゃないのか。」
「まぁジュエルは聞いてくるとは予想しているが…よっぽどこの話題が好きなんだな。」
「キサラギに言われたように…全て思い出したのか?」
「………。」
「戻ったんだな…記憶が。」
ロイは沈黙で答えを示した。
「俺の本当の名前はクリスだった。…それだけのこと。お前には関係ないことだ。」
「…。詮索するつもりはない。ただ…お前が苦しそうだった。」
「……。」
「なぁ、ロイ。過去を思い出すというのは……苦しいのか?」
ジュエルは…遠い星空を見上げた。ロイは長い間を置いたあと言った。
「…それは自分しだいだ。」
その素っ気ない答えにジュエルは思わず振り向いた。
「お前のことはお前で答えを探すしかない。記憶を取り戻したいなら…な。」
それきりロイは何も話さなくなった。
それからは見張りの交代が来たので、二人とも『ヴィマナ』に戻り浅い眠りについた。それぞれの長い夜が明けて朝になる。
「…何?またルノワール地下を調査したいだと?」
熱い日光のもと、ジェームズとロイは向かい合っていた。
「お願い出来ませんか。…ジェームズさん。」
「今は人手が必要なんだ。君は昨日も居なかったから分からないかもしれないが。」
「この調査は、ここに生息する人造生物の発生源に関するものです。」
「…。」
「原因を突き止めない限り…表面の敵をいくら倒しても無意味ではないかと。」
「……。何か、地下が関係するという根拠でも見つけたのか。」
「……いやぁ…はっきりとした根拠はありませんけどね。」
そう言いながらロイは苦笑いして頭をボリボリと掻いた。
「でもあそこを住民の避難場所にするのはまだ疑問点があります。念入りに調査したほうがいいですよ?いつ中心部に出現するか分かりませんし。」
「…いいだろう。調査は許可する。時間は最長で5時間までとする。」
「ご理解感謝します。」
ロイはいつものようににっと笑った。
「あ。あと聞きたいことが。」
「何だ。」
「…ここの責任者のことですよ。」
「…?」
そして再びここにやってきた。闇への入口だ。その前で三人は並んで立っていた。ロイはポケットから、ハヤトが時間をかけて描いた数枚の地図を取り出した。それを暫く見つめる。
「手がかりと言ったらこの地図だけだが…。ジュエル。グロウ。今回も俺についてきて欲しいんだ。」
「……。」
「どこまでもついていきますよ。」
ジュエルはロイに静かに頷く。グロウも笑って答えた。
…ロイは地図を見ているうちにやはりハヤトのことを思い出していた。
(……あいつが残した最後の手掛かり…か。一体…あれからハヤトは…)
「どうかしましたか?」
グロウがいきなり顔を覗き込んだので、ロイは少し反応した。
「…あ、ぁ。何でもない。もう少し、待ってくれ。」
そう言って、また地図を見直す。ハヤトがいたのは地下10階。それが最下層だった。だが気になる点をロイは見つけた。
…地下5階に不審な行き止まりがあった。そこへ道が一本長く伸びている。それはは部屋も何もないただの廊下だ。そしてさらに気になるのは、その横に書いてある数字だった。10桁ほど並んでいた。それを見て、ロイは地図をポケットに入れ直す。
「……行こう。」
前に一歩踏み出した。
その不気味な雰囲気は前とは何も変わらないものだった。変わっていることと言えば、壁の穴から触手が出てこないことだろうか。頼りない蛍光灯の光のもと、ロイは地図を見て歩く。それに二人がついていく…という時間が続いた。
…ハヤトの地図は驚くほど正確だった。その通りに進むと、ちゃんとその先の道が見つかった。20分ほどで、すんなりと地下5階のあの『廊下』に辿り着く。
ロイは内心驚いていた。
(ハヤト……こんなところの構造を本当に丸暗記していたのか…。)
伸びる『廊下』を進む。捻れてはいるが、一本道だった。
そして壁に突き当たり、一行は足を止めた。
「…?」
ロイは疑問に思った。それは…ただの壁に見えた。入口も何もない。
「……行き止まりにしか見えませんね?」
グロウの声だけ空間に響くと、また少し沈黙が流れた。
するとロイはおもむろに自分な腰に吊るしてある袋から何か黒い塊を取り出した。
「…少し下がれ。こんな大きさでも強力らしい。」
グロウはそれを見て言う。
「うわぁ。手榴弾じゃないですか。いつの間にそんなものを?」
「…『ヴィマナ』の武器庫から少し盗ってきた。」
三人は五歩ほど下がる。次にロイは持っていた手榴弾のピンを抜き、壁に向かって思い切り投げた。
ブンッ
それは壁に当たった瞬間、鋭い閃光を放つ。そして……
ドガアアァァァアン!!!
「……。」
…体にぶち当たる爆音と熱気にロイは目を細め…ゆっくりと瞼を閉じた。
視界は炎の橙色に包まれていたが、やがて白色の埃と煙が迫ってくる。
そこでジュエルは微かに白煙の向こうに黒く焦げた壁を見えた。
「おい!穴が空いているぞ。」
「…進もう。」
「ケホッ。…ちょっと煙いです。」
駆け足で穴の空いた壁に向かった。
すると、そこには扉があり、その前には番号を打てるような機会があった。
「……これは。」
ロイは再びポケットから地図を出し、地図の脇に書いてある10桁の数に目をつける。
多分これのことだろう。…そう思った。しかし地下の内部構造はともかく、ハヤトがなぜ暗証番号まで知ることが出来たのか、少し疑問だった。
地図を見て、番号を手早く打ち込んだ。
ピッ
小さく機会音が鳴り、赤かったランプは青く光る。
そして扉はゆっくりと縦二つに分かれ…その口を開いた。
そして空間は変わった。古い、今にも崩れそうなコンクリートの世界から、近代的な世界へ。ロイは先頭でとにかく前へ歩いた。…もう確信しているのだ。しばらく下へ下へと進む。階段を降り、扉を開いた。そして…辿り着いたのは…あの場所だった。
闇をも飲み込む巨大な穴。…それしか目につかない。ジュエルとグロウはその光景に少し息を呑んだ。
「本当はここは俺一人で来てもよかった。」
ロイは唐突に呟いた。
「でも二人には来てもらった。…それは…見て欲しいからだ。今も昔も、どういうことが起こっているかを。」
「人体実験……この、地下で…今も、昔も。…ロイはここに来たことがあったのか?」
「…そうだ。」
ジュエルの問いに、声を重くして答えを返す。そして続けた。
「最悪の場所だった。何のためにもならない実験に…何人も犠牲になった。」
少し立ち止まって、この広い空間に沈黙が流れる。
「…ですが。人は見当たらないですね。」
グロウが周りを見渡して言った。確かに、ヒトの気配はしない。
「…昔の研究員が今はどうなったのかは分からない。だが…」
ロイはそこで二挺の銃を取り出して言った。
「ヒト以外の気配はするだろ?」
その瞬間。後ろにはっきりとした殺気が生まれたのを三人は感じ、そちらに目を向けた。
バアァァァン!!!
『!!』
物凄い破壊音とともに後ろの壁が砕かれた。同時に全員素早くその場を離れる。壁の破片がパラパラと散った。
「…!…こいつは…?!」
ジュエルは破壊された壁から現れたものを見た。
…それは、『獣』だった。しかし明らかに自然の生き物ではない。何の動物かよく分からないそれは異様に図体が大きい。鋭い手足の爪。割けた口に生えている牙。頭にある角。どれもそのサイズに合さっていたので、巨大だった。血走った目は、三人を見ているかどうかすら分からなかった。
「…多分動物実験で生まれたんだろう。当然人間の前に動物でも試しているはずだ。」
「ゥオオオオォオオオオオォォン!!!!」
ロイが言う間に、『獣』は大きく咆哮した。そして始めはグロウの方に猛スピードで突進してきた。
「うーん。…元は犬だったんでしょうかね?」
グロウはその場に立ったままだった。『獣』はそのまま彼のいる方の壁に向かっていく。
ガアアァン!!!
『獣』は真正面から壁に突っ込んだ。
しかし『獣』が突っ込んだ所にはグロウはいなかった。
グロウは普通の人間では出来ないような高い跳躍で攻撃をかわしていた。
バシュ
そのまま空中で両手から十本のワイヤーを射出する。それで『獣』の肉を切り裂こうとした。ワイヤーは真っ直ぐ目標に向かってゆく。だが。
ピシ!!
「…。」
グロウは手応えを感じなかった。ワイヤーは『獣』の体を貫くことなく跳ね返されたのだ。すぐさまワイヤーを巻き戻し、着地した。
「…皮膚も相当丈夫になってますね。それなら。」
グロウは再び構える。『獣』は壁を貫いていた角を抜き、こちらを向いていた。
「グロウ。始末できそうか?」
「…まあ、大丈夫でしょう。」
グロウはいつもの笑みのままロイに答えた。そして『獣』は咆哮した後もう一度突進してくる。
「…フ。」
それを見て少し鼻を鳴らした。彼の微笑みは不敵なものにも見えた。
バシュ
再び、ワイヤーを射出した。一見先程と同じように攻撃するように見えたが…微妙に一本一本の指をうごかす。
するとワイヤーは『獣』の手足に巻き付く。
「ガアアァ!!」
ドオォッ!!
『獣』はバランスを崩して倒れた。
彼はさらに手に力を入れた。
『獣』の体とグロウの両手はピンと張ったワイヤーで繋がる。
相当の重量があるはずなのに『獣』は徐々に直立しているグロウに引き寄せられていた。
「ウオオォォン!!!」
「…うるさいですね。」
グロウは低く言った。『獣』は必死にもがいていたのだ。普通だったら骨が折れそうな衝撃がグロウの手に伝わっていた。
「ガアァアアア!!!」
「!」
『獣』は突然体勢を立て直し、ワイヤーが絡みながらも襲い掛かってきた。
大きく飛んだ後、その巨体が落ちてくる。グロウは少し移動した。
ガガガガガガ!!!
『獣』は着地すると同時に鋭い爪で金属の地面を薙いだ。グロウは紙一重でそれをかわす。その時ニッと笑ったように見えた。
次の瞬間。グロウは両腕を振った。勿論ワイヤーの先のものを引っ張るためだ。結果、『獣』は着地で不安定になった体をワイヤーに引かれ、投げ出された。……あの穴のほうに。
「……グオォ…!」
グロウが立っていた場所は穴のかなり近くだったのだ。
グロウはワイヤーを全て手に戻し、『獣』を追うように穴の上空に躍り出る。そして…一言言った。
「堕ちろ。…畜生が。」
ドォッ!
『獣』は強力な拳を打ち込まれた。
グロウが振り下ろした拳で『獣』は叫びを上げる暇もなく奈落の底へと消えていった。グロウはワイヤーを天井にある金属の棒に巻き付かせ、空中でぶら下がった。そして振り子の勢いでもといたところに降り立った。
「やれやれ。お粗末なセキュリティシステムです。」
「…。お前一瞬性格変わらなかったか?…………!」
ロイは苦笑した。しかしすぐに顔色を変えた。
ドンッ!!
次に上向けてに銃を撃った。弾が向かった先は…通気ダクトだった。
ガシャーーン!
フレームの落ちる音が大きく響いた。そして翼の生えた小動物が
無数出現した。コウモリの2倍くらいの大きさだろうか。そして、やはり普通の動物には見えなかった。
「キィキキキきキ」
「どうやら…実験動物の際限はないようだ。」
ロイが言う。三人ともこのコウモリの他、四方八方から殺気を感じていた。
「まぁ…この場は取り敢えず…。これで。」
ロイは例によって、あの黒い塊を持っていた。ピンを抜いて、投げる。後はそれとは逆方向に駆け出した。
ドガアアアアァァン!!
「こっちだ!」
見た『夢』に頼りながら道を探すと、階段があった。あの時必死に駆け上がった、あの階段だった。
階段を降りる。フロアに着く。また階段を降りる。…という作業の繰り返し。その途中何度も敵襲があったが、ある時は倒し、ある時は無視して走り続けた。
「全く。エレベーターもないんですか?この建物は。」
「ロイ。このままひたすら下を目指すのか?」
グロウはぼやき、ジュエルは剣を振るって返り血を浴びながら聞いた。その答えは少し遅れて返ってきた。
「…分からない。だが実験動物がいるということはやはり研究が行われているということだ。俺達はそれを止めなければならない。」
「……でも。場所が分からなくては。」
「…俺の考えでは、実験動物が多く分布するほうに研究の中心となるものがあるはず。…さっきから襲ってくる奴らが増えてるだろう?」
「…。」
確かに下のフロアに着くたび、動物の数は増えていた。様々なものに襲撃され、逃げるのも難しくなっていた。
ザシュッザシュッ
ジュエルは攻撃をひらりと避けては、周囲の敵を回転しながら連続で切り倒していく。哀れな動物の悲鳴がこだました。
その時、グロウは提案する。
「じゃあいっそのこと、この穴の中に飛び込んでみませんか?」
「………。何だって?」
ロイは一瞬耳を疑った。
「僕達は強化人間です。これぐらいの高さ…落ちても大丈夫ですよ。」
当然というような口調でグロウは言った。
ロイはしばらく沈黙し、穴を見つめた。それから何も言わないのでジュエルが口を開いた。
「…お前は自分の体をよく自覚しているんだな。俺はまだ、自分がどうなっているか…正直分かっていない。」
「そうなんですか?」
グロウはからからと笑う。それを脇目に振り、ジュエルはロイの隣に立って同じように暗い穴を見る。するとロイは唐突に言った。
「推定200メートル。ってとこか。」
ジュエルは少し驚く。
「…分かるのか?」
「強化された視力なら、穴の底まで見える。それで見積もってみただけだ。」
「……。その深さでエレベーターがないなんておかしくないか?」
「……あぁ。おかしい。もしもこの下に何かあるなら…な。」
と、その時。
とん。
「…え。」
いきなりのことだった。話をしていた二人は後ろから軽く背中を押されたのだ。
「うわっ!!」
「…っ!」
前にのめって浮遊感。足場は消え、落ちるしかなくなった。そしてロイは一瞬背中を押した人物を見た。そこにはあの微笑みが見えた。
「……グロウ?!」
その後グロウも自分から穴へ飛び降りた。三人は闇の中を落下する。
「グロウ!何を…!」
「あそこで議論しているより、実際に見てみた方が早いと思いましたので。」
少し焦るジュエルにやはり平然と答えた。
「さっきも言いましたけど大丈夫ですよ。ちゃんと着地すれば無傷ですから。」
「そんなこと言ったって…うわぁあ!」
それからは一人一人何も言わなかった。ただ落ちる感覚に見舞われていた。その中、ロイは呆然とした顔をしていた。
(まさか……俺もここに落ちることになるとは、な。)
数秒後。いよいよ底がはっきり見えてくる。微かに明かりがあることが分かった。
「……っく!」
ジュエルは空中で二回転ほどした。それからは体の反応に任せた。
ダンッ!!!!!
辺りに大きい音が響く。ジュエルは…着地していた。片手を床につき、膝を折る形になった。少し動かない間、音はまだ残響していた。
「はぁ、はぁ…。」
そして、ゆっくりと立ち上がった。
続いて、二つの音がした。
バンッ!!!!
ダンッ!!!!!
残る二人も同じように着地していた。
「…………なんとかなったみたいだな。」
ロイは立ち上がり重く呟いた。
ロイはしばらく辺りを見回して口を開いた。
「…当たりのようだな。」
唸る機械音。暗闇の中の小さい、赤い光や青い光。そして、数々の水槽に蠢く…黒い影。
「ほら。ここに来た方が早かったでしょう?」
グロウは得意気に言った。ジュエルは水槽を見上げる。
「…これが……今も終わらない研究?」
水槽のガラスの内側に、有り得ないところから腕や頭が複数生えているヒト型の生物が見えた。胸からは血の色の赤い球のようなものが覗いている。ジュエルはそれが出来損ないの人造生物だと理解した。
「誰が、何のために…。」
その中、ロイは一人で前に足を進めた。
「ジュエル、グロウ。ここを破壊する。……だが少し待ってくれ。」
「どうした?」
「……探し物がある。」
しかし不意にグロウがロイを呼び止めた。
「あのーちょっといいですか?」
「…なんだ。」
「さっきの死骸が見当たらないのですが。」
「死骸?」
「僕がここに落とした…あの実験動物ですよ。」
数秒間沈黙が流れた。
「……まだ、生きているんでしょうか。この高さから落ちても?」
「…可能性は高いだろうな。俺達と同じく…強化されていれば。」
ロイは気配を探る。
だが、辺りは静寂に包まれているばかりだった。その時足元で、べちゃ…という音がしたのでロイは下を見た。
「……。」
薄暗くてよく見えなかったが、血だった。それも大量だ。
「奴は間違いなくここに落ちている。気を付けろ。」
「どうする。探すか?」
「…そのうちあっちから出てくるだろう。先に俺の探し物を済ませたい。」
そう言って、ロイは進もうとしていた方向に、また歩み始めた。しかしジュエルが言う。
「…一人で動くと危険だ。俺も…ついていく。」
「……。」
少し間が空いたあと、好きにしてくれと答えた。
「やれやれ。じゃあ僕はここで待機してますよ。」
グロウは柱に寄りかかる。二人はそれを後にした。
ロイはこのフロアの隅々を練り歩く。そしてに所々にある机の書類の山を一心不乱に漁った。
ジュエルは周りを警戒しながらも黙ってそれを見ていた。何を探しているか疑問だったが口には出せなかった。その姿があまりに必死そうだったからだ。
ロイがまた書類を乱暴に置いた。
「くそ…見つからない!」
机を離れる。ジュエルは散らばった書類を見る。どうやら様々な人物の調書のようなものだった。
ロイは別の机の上を探す。すると、突然動きが止まった。何か見つけたようだ。
「…これは。」
片手にとったレポートのようなものを読んでいる。そこでやっとジュエルが口を開いた。
「…ロイ。何を読んでいるんだ。」
「……っ…。」
ロイは書類を読むのに夢中だったため、返事はすぐには返ってこなかった。しばらくしてから、言った。
「…思ったより……研究は進んでいるようだな。」
「どういうことだ。」
ロイは書類を見直しながら続けた。
「人造生物は、ヒトの細胞が異常に進化して出来たもの。だからここでは細胞の進化を促進する研究をしていた。だが、それには限度があることが分かった。だから…違う方法で人造生物を生み出す方法を研究がされている。」
「……。」
「まず実験動物を使って細胞進化能力がヒトの何十倍にもなる合成獣を作りだす。そして…その合成獣の細胞をヒトに移植する。合成獣の細胞はヒトの細胞を糧にして体を完全に侵食する。そして、侵食された体の進化を促進する。すると…今までの人造生物よりさらに強力なものが生まれることになる。」
「何だって…!」
「しかも、この研究の被験者が…存在しているようだ。」
二人は愕然とした。
ロイはどんどん書類を読んだ。
「被験者は今の時点では二人。被験者の名前は…ハヤト・キサラギ。」
ジュエルははっとした。
「ハヤト……?…まさか…あの時の!」
ジュエルは地下上層で遭遇したあの触手を思い出していた。
「……もう、一人は?」
ジュエルは重く問いかけた。その時、ロイは書類を見て眉根を寄せた。
「……サヤ……キサラギ……!」
「キサラギの…妹のほうか!……お前、会ってきたんじゃないのか?」
「…あぁ。会ってきたさ……。」
ロイは書類から顔を背けた。それはとても苦々しい表情だった。…考えていた。
(まだ…二人とも間に合うはずだ。どうすれば…どうすれば助けられる?手掛かりは何もない…!!)
ふと…ロイはあるものを見た。そして、ゆっくりとそれに近づいた。
「ロイ?どうした。」
「………。」
そこには…試験管が幾つも立ててあった。後ろには、大きな水槽の中に蠢く、動物の影があった。
ロイは試験管の一つをとる。一見少し濁った水が入っているように見えた。だがそれを強化された視力でみると何かの、粒子が入っていた。さらによく見ようとする。
「これは…もしかして。」
その時だった。
「!……ロイ!!」
ジュエルは突然声を荒げた。それがどうしてなのかロイは一瞬分からなかった。だが第六感とも呼べる感覚に従って、その場から横飛びをして離れた。
ドガァ!!
空間に衝撃が走った。…ロイが先程までいた場所を、何か黒い尖った槍状のものが刺し貫いていた。そしてその槍は天井に向かって収縮していく。ジュエルは天井を見た。
「……あれは…。」
天井には…動物が張り付いていた。右の前足をつきだしていて、そこに黒い槍が繋がっていた。どうやら槍の正体は動物の爪だったらしい。
ジュエルは腰にささっている鞘から二本の剣を抜く。
「こいつはさっきの実験動物……とは違うか。」
その動物はグロウが落とした『獣』より、少し小さかった。ロイは手にした栓のついている試験管をポケットにしまい、戦闘体制になった。
バンッ!
四足のその動物は、天井から勢いよく床に移る。そこにジュエルが剣を構えて素早く駆け出す…が。
………シュッ
「……?」
ジュエルには動物が消えたように見えた。
そして。
ドガッドガガ!!
「…っ!!」
複数の槍がそれぞれ別方向から飛び出してきた。ジュエルはそれを間一髪で避ける。
ドガガッ!ドガドガドガガガガ
『動物』の攻撃はまだ続く。槍のような爪は伸びて、床を薙いだり水槽を破壊しては『動物』の手に収縮する。そしてまた別の方向からその攻撃を繰り返す。それが有り得ないほど高速で行われているので、爪は残像を残し、複数に見えていた。ジュエルはそれをひたすら避けた。身をひねり、跳躍。背中を反ってバック宙。避け方は様々だった。
「く…!」
ガキィン!!
ある時は剣で攻撃をはじいていた。
その中、ロイは少し離れた所で銃を構える。
「…何てスピードだ。今までの実験動物とは格が違う。」
そう呟きながらも、ロイは冷静に聴覚を研ぎ澄ました。そして
ドンッ!!
撃った。真横に向けていた。すると、叫び声が聞こえた。45口径の弾は、『動物』の右肩に入っていた。『動物』はゆっくりとロイの方を向く。
ドンドンドン!!!
それに構わず両手の銃を連射した。…全ての弾は、目標の頭や胸を貫いた。
しかし。
「…?!」
ロイは動揺した。『動物』は倒れなかったのだ。見れば、傷口はメキメキという音を立てながら縮み、何もなかったかのようになっていった。
「自己再生能力…!」
『動物』はまた走り出した。
それは、また姿を消したように見えたが、一瞬でまた姿を現す。ただ、場所は違かった。『動物』はロイの目の前に“出現”した。一瞬のことだったのでロイには動く暇が与えられない。
「!!」
その牙が襲い掛かる。次の瞬間…。
ガキィンッ!!
鋭い金属音。ロイは少し目を閉じていたが、その音で何が起きたか分かった。
「…ジュエル!」
ジュエルはロイの前に立ち、『動物』の口に剣をくわえさせていた。その後は
「ぉおおお!!」
そのまま前に走りだした。その結果、歯で止まっていた剣も前に行くことになる。
ザシュザシュザシュザシュザシュ!!
『動物』の口は裂ける。もっと裂ける。胴体のほうまで裂けて、しまいには体が真っ二つに割けた。体液はあらゆる場所から吹き出し、そこに赤い海を作る。ジュエルはやっと立ち止まった。彼もまた、体液を纏っていた。
「…助かったよ。ジュエル。」
ロイは立ちあがる。
「…………。だが、まだのようだ。」
「ここまでやってもか?」
「見てみろ。」
そう言って『動物』の断面を指さす。ロイは近づいて見た。…肉と骨が蠢いているように見えた。そこでジュエルは口を開く。
「もしかすると。」
ジュエルが何か言いかけたが、足音が聞こえて言葉を切った。
「いやいや。こりゃまた凄いですねぇ。騒がしいから来てみれば…。」
グロウだった。ロイはそちらをチラリとも見ないで言った。
「あぁ。グロウも手伝ってくれ。まだ生きてる。」
「新手ですか。」
「そうだな。」
しかしそこにジュエルは割り込む。
「…いや、違う。こいつはさっきの奴だ。」
「何だって?」
ロイは眉を潜めた。
「確かにグロウが始末した奴とは似ているが…気配の消しかたや身のこなしは全く違うぞ。」
「もしも……。進化、しているとしたら?」
「…進化だって?」
ギチ…ギチギチギチ
ロイは蠢く『動物』を再び見た。しかし…それはもう形を成していなかった。骨と肉が複雑に絡み合っている、二つの肉塊にしか見えなかった。ジュエルはそれに歩みよる。
グチャッ!!
そして肉塊の一つに剣を突き立てた。
「このフロアを回ってもこれ以外実験動物はいなかった。……そうすると、こいつは奴だとしか考えられない。」
「つまり…こいつはここに落ちた後肉体を再構成し…その上能力の更新をした。…そう言いたいのか!」
ジュエルは黙ったまま剣を何度も振るった。
「くそ…。再生が止まらない!」
ジュエルは『動物』を何度も何度も斬ったり突いたりする。だが新しい肉と骨は、休む間もなく何処からか生じた。そしてそれは確実にだんだん獣の形を成していった。ロイは言う。
「…ジュエル。もう間に合わない。下がるんだ!」
「しかし…!」
その時
バッ!!!
「!」
肉塊が無数の触手のようなものを勢いよく噴出した。ジュエルはすぐさま飛び下がる。触手はその後、うねりながらもとの肉塊に巻き付いた。すると獣の形が完全なものとなり、黒い皮膚が生じ、ぎょろりと目玉がのぞいた。
「…っ」
ジュエルは舌打ちをする。見れば、二つに分かれたもう一方の肉塊も同じ変化をし、結果二体の獣が出来上がった。
「…どこかに再生能力を司る『核』あるはずだ。そこを…完璧に打ち砕けばいい。」
ロイは弾を装填し終えて言う。ジュエルは剣を構え直した。
「…どうやってそれを見つける。」
「それは自分で考えろ。」
ロイは問いに即答すると、あの手榴弾を投げた。
ドガアアァァン!!!
その爆音で、戦いの火蓋が切って落とされた。
>> 124
「散れ!!」
爆発の後に、ロイは叫んだ。するとジュエルとグロウは白い煙の中各々の方向に散った。
ロイは手榴弾の一撃に期待はしていなかった。この状況での『獣』の動きを予測する。
「オオォォオオ」
視界の悪い赤い景色の中から『獣』の一頭がロイの方に突っ込んできた。
ロイはその場を動かなかったが、銃を一回ホルスターに収め、上半身だけ仰け反らせて避けた。
「くっ」
『獣』はロイを飛び越える形になった。なので一瞬、『獣』の腹が見えた。その時を逃さない。ベルトに吊るしている小さな鞘からナイフを取り出し、それを深く突き刺した。
ズブッ!ザザザザザ!!
そしてそのまま飛び越えた勢いで、『獣』の腹は切れた。
その後ロイは体勢を立て直して後ろを振り返った。『獣』は悲鳴一つに上げずに、地面に降り立つ。血や内臓が出ていた傷はやはり少しして、消滅した。
(やはり……少し傷をつけても再生するだけか。ならば……。)
ロイは後ろに飛んで『獣』の距離を安全な所まで離し、ナイフを構えた。しかし、次の瞬間。
ザッ!!
「……?!」
ロイの左肩に突然痛みが走った。…見なくても血が吹いているのが分かった。
「…っ」
ロイは微かに顔をしかめ、深くえぐられた左肩を押さえた。右手に血糊がつく。
『獣』は微動だにしていない。間合いも先程のままだ。
(爪にやられたか?だがこの攻撃力は…!)
それ以上考えている暇はなかった。
避けろ…と本能が告げていた。
…ロイは右に跳んだ。
ガンッガンガン!!!
瞬間、衝撃とともにロイの左にある壁が跡形も無くなった。
その時、避けながらロイは攻撃の正体に気付く。
「…やれやれ。実験動物ってのは実に面倒だ。」
そう呟いて、未だ離れた場所にいる『獣』を見る。
『獣』は壁の破片をかじっていた。そして、目立たないが口の周りが少し赤く染まっている。
「伸縮機能が増えたか。確かに一回死ぬごとに進化してる。」
シャッ!
突如十本の黒い槍が飛んできた。
その槍はロイの居る範囲を全て串刺しにする筈だった。しかし、
ダンダンダンダンダンダン!!!!
銃声が連続で鳴り響いた。同時に辺りに黒い欠片の雨が降る。
…弾は爪を砕きながら貫通し、『獣』の手や体まで届いた。
「おオォぉお」
「…ちょっと爪が伸びすぎだ。このくらいが丁度いい。」
ロイはニッと笑うと、その場を駆け出した。
走り出した方向は、真っ直ぐ『獣』の方だった。移動しながら、左手に持った銃をホルスターにしまい、かわりにさっき『獣』を刺したナイフを取り出す。
その時『獣』は動いた。いや、動いたと言うべきではないかもしれない。
バキバキバキ……バキッ!
「ウゴオオオォォ!!」
銃弾を受けた『獣』の腕から肩にかけた部分が嫌な音を立てていた。それに太い雄叫びが重なる。
(…!…また進化か。小さな傷からも新しい組織を形成するとは…)
「どうやら。急がなければまずいらしいな。」
タン!!
ロイは攻撃の届く間合いに入ると、地を蹴った。…『獣』の真上に躍り出た。
「ガアアァァ!!」
ロイには『獣』が自分を目掛けてその場から飛んだ…ように一瞬見えた。だがそれは違った。
「!」
ロイは自分に向かってきたその攻撃を、身を横に回転させて避けた。
ドゴオォ!!
今度は天井が同じように破壊された。
…『獣』の首がバネのように伸びて、天井を貫いていた。
「どうした。お前の芸はゴムみたいになるだけか?」
ロイはナイフを構える。そして、
ザッザッザ!!
刃渡り10センチのナイフは、『獣』の伸びた首を輪切りにしていた。
だが、一回離れたはずの首は断面から無数の触手のようなものを出し、それは首があった場所に絡みついた。断面同士が融合し、傷痕が消える。次に『獣』の胴体が地から離れた。今度は本当に飛んだようだ。天井に突っ込んでいる頭に胴体が吸い付いたのだ。
ドガッ!
後左足も天井に挿入し、『獣』は天井に張りついた。
ヒュヒュヒュ
残りの三本の足を伸ばし、くりだす。
ロイは着地し、それが真っ直ぐ床を破壊するのを予想した。しかし違った。
ぐにゃり。
「…!」
ロイは驚く。…足はそれぞれ“曲がって”ロイだけを追い、さらに伸びる。その先にある爪が黒光りしていた。
「くっ!」
常に動いていないと爪に裂かれる。ロイは何度も、軌道を変えて襲ってくる足をかわした。…きりがない。
「…いい加減に、しろ!」
タッ!
ロイは正面から来た足を前に跳んでかわす。そして『獣』の腕に逆立ちの形で左手をつく。…もう一方の手にはナイフ。
ザバッ!
腕を切断した。
「おぉ!!」
ザバザバッ!!
残り二本も次々切断する。
それらは触手で再生しようとするが…
ダンダンダン!!
ロイがあるものを銃で撃つと、触手の動きが弱まった。
ロイが撃ったのは、天井に張りついている『獣』の胴体だった。
「やっぱり『核』の入っているほうの再生を優先させる…か。」
ドンドンドンドンドンドン!!
ロイは両手に銃を持ち、連射した。本体にいくつもの穴が空く。
「そんなところにひっついてないで……さっさと降りてこい!!」
口調を強めにすると、勢いよく手榴弾を投げた。『獣』ではなく、天井に向かって。
ドガアアアァン!!!
『獣』の周辺の天井は完全に破壊された。表面のは砕け散り、鉄骨が剥き出しになった。従って『獣』を支えるものは何もなり、下に落ちることになる。しかしロイはそれを待たなかった。
一瞬で『獣』の真下に回り込む。
「面倒臭い。さっさと終わりにしようぜ。」
触手まみれの、左足と頭だけ生えた不自然な肉塊にそう告げた。
「ゥアァガアアァァ!!」
ぎゅるんっ
『獣』の首が捻れながら牙をむく。ロイはそれを見て、今度はその口の奥を目掛けて弾を撃つ。…血の雨が降った。
「てめぇは…これでも。喰ってな!!」
ブンッ
銃弾によって切り開かれた口に何かを投げ込んだ。
『獣』はそれを飲み込むしかない。
そして。
ボギャアアァン!!!
ビチャビチャビチャ!
くぐもった爆発音と、微細な肉片と血の飛び散る音。…『獣』は爆発した。胴体から足まで全て原型を留める事なく飛沫となった。だがその中に一つ、大人の拳ほどの肉塊が宙に投げ出される。
べちゃっ
それが嫌な音を立てて床に落ちる。まだ小さく動いていた。ロイはそれを思い切り踏み潰した。
グチャ!!シュウウゥ……
肉塊はひとしきり血を吹き出すと、やがて自らの血に溶けていった。ロイは自分の左肩を押さえた。
「………っ……」
だがすぐに後を振り返る。自分とは違う場所でも戦いが繰り広げられているのにはとっくに気付いていた。もう一体の『獣』を見る。
「…?!」
ロイはその光景に息を呑んだ。
まずそれはもう獣型ではなく、どちらかというと…ヒトの形をしていた。
どどどづど!!!
「…くっ」
ジュエルが戦っていた。互いに武器で交戦しているようだ。
『獣』…いや、『ヒト型』の武器は、両腕が不自然に伸び尖ったものだった。それは有機体…つまり肉体でしかなかったはずなのに、そこだけ無機物になっていた。刀のような銀色が光っている。
「進化が…ここまで…?!」
「ジュエル…!!」
ロイは肩を押さえながらもその場から一歩動いた。すると、
どどどどど!!!
「!」
斜め上から射撃…白い弾のようなものが雨あられと降ってこようとしていた。ロイは一瞬体が固まる。その時、ロイの視界を人影が遮った。
シャシャシャ
ビシィ!!
飛び交うワイヤーは、降ってくる弾を全て弾いた。
「手負いでうかつに近づくのは危険ではないかと。」
やはり前に立っていたのはグロウだった。
ロイは黙って二歩下がった。
「すまない。……で、あの物体はなんなんだ。」
そう言いながらロイが見たのは…宙に浮いている白い球体だった。それは本当にただのボールにしか見えないものだった。
「んー……。動物がヒト型になる際にまた分裂したようです。ジュエルが戦っている所に入り込もうとすると、あらゆる方法で攻撃してきます。」
「あらゆる…方法?」
「さっきの白いモノはあの球体から出てきたものですよ。とにかく…さっきも言いましたが手負いでは危険ですので僕達で始末します。あなたは必要な資料をまとめて爆弾でもしかけたほうがいいですね。」
ロイは少し沈黙したあと、答えた。
「…悪い…後は、頼んだ。」
ロイは薄暗い闇の向こうへと走り出す。グロウはそれを背中で見送った。
「さて。ここからは時間稼ぎ、ですか…。」
ワイヤークローを構え直して宙に浮いているボールと対峙した。
キィン!ガガガッ!
「…っ!!…!…」
ジュエルは次々と来る『ヒト型』の斬撃を受け止めていた。
それはほとんど隙のないものだった。
ブンッ!!
『ヒト型』が右手を大きく振りかぶるのをジュエルは一瞬見る。…大きいが、決して遅いものではないと判断した。
(くそ!)
たん!
そこから後ろへ飛び下がり、攻撃を避けた。『ヒト型』との距離が空く。
じゃらり
ジュエルの2本の剣は、柄の部分が長い鎖で繋がっている。
その鎖の片側を、ジュエルは握った。結果1本の剣が鎖で吊られる状態になる。
「…ふっ!」
ヒュ!
投げ縄の要領で、吊るした右側の剣を何回転かさせ、投げる。
剣は鎖を繋げながら真っ直ぐ『ヒト型』の方へ飛んでいった。
『ヒト型』は少し左に移動して、難なくそれを避けた。剣は目標の右側の空間を貫く。
だがジュエルは怯まなかった。
「おお!」
ジュエルは右手の鎖をさらに勢いをつけて右から左へ振った。
…すると
じゃらじゃらじゃら!
鎖は『ヒト型』に巻き付いた。『ヒト型』は身動きがとれなくなる。
ジュエルはそこを狙った。残った左手の剣を真正面に向けて、突進する。そして…数メートル離れていた『ヒト型』のもとに着いたのは、0.5秒ほど後のことだった。
…ジュエルは全ての力を左手に込めた。そのまま前に…突き。
ザシュゥ!
剣は『ヒト型』の脇腹から肩にかけて貫いた。しかしそれだけでは終らせない。
「ああぁ!!!」
ザシュザシュざしゅ!!
ジュエルは、剣を『ヒト型』の体内から回収した。ただし…引き抜くのではなく横凪ぎに、強引に肉を切り開いて。赤い噴水が辺りに降り注いだ…………かと思われた。
ばしゅっ
「!」
深い『ヒト型』の傷口から大量に出てきた別のものに、ジュエルは少し飛びずさった。同時に、巻き付いた鎖を引き寄せ、右手に剣を取り戻す。
…出てきたのは刺のようなものだった。何本も放射状に伸びている。ジュエルの頬に一筋の血が流れた。
刺は捻れながら伸びて、『ヒト型』全体を包み込む。すると一回り大きくなったように見えた。
(…攻撃をするとまた進化する。…どうすればいい?)
ジュエルはその光景を睨んだ。
「核をつけばいい……確かそうでしたよね?」
唐突に聞こえた声に、ジュエルは振り向いた。グロウがボールとの攻防を繰り広げながらも話しかけてきたのだ。
「その核は…多分あの球体です。」
「なんだって?」
どどどどどど!!
ボールの攻撃で、床、壁、天井中に穴が空く。グロウもジュエルも、避けたり武器で弾を受け止めたりした。
「確信があるのか?!」
「あなたがあっちのほうを斬ったとき、少々反応がありましてね。…まぁはっきり確信があるわけではありませんが。」
「じゃあ、あれをいくら傷付けても…。」
シャッ
ばしばし!
数本のワイヤーはボールに向かったが、弾かれた。
グロウは小さく舌打ちする。
「意味がないとは言いません。」
「?」
「生物の成長の行く末。……あなたは知っていますか?」
ジュエルは一瞬眉を潜めるが、すぐに気付く。誰でも知っていることに。
「…死。」
ジュエルの答えに、グロウは微笑んだ。
「つまり、進化の最終段階に至るまで攻撃を加えれば、自然消滅すると思われます。」
「…!」
「残念ながらあの核はあなたの剣でも斬るのは難しいです。」
「覚悟を決めろ…ということか。」
ロイは薄い闇の中、走っていた。何かを探しているようだ。
(まだ……確かめたいことがある!)
まだ手をつけていない机の、書類やら何やらをさっきと同じように漁った。
しかし、ロイが思うようなものが、なかなか見つからない。
「くそ…」
その机を探すのを諦めたその時だった。
「…?」
ふと自分の後ろに、木製のキャビネットがあることに気付く。引き出しが一つついていて、よくその上に花を飾るようなタイプのものだ。事務机やパイプ椅子、様々な機械などの無機質なものばかり置いてあるこの空間にはそぐわない、お洒落な家具だった。
ロイは無意識にキャビネットの引き出しの取っ手に手を掛けていた。それを躊躇わずに引く。
ゴトリ。
「……!」
中に入っていたものをロイは暫く見つめていた。
だがすぐに我に帰ると、それを乱暴に取り出し、ポケットに突っ込んだ。
「これで…十分だな。」
そう呟くと、腰にかけてある袋の一つから何か取り出した。それを壁に投げつける。
カシッ!
壁に付いたそれには数字がついていた。
10:00
その数字は一秒ごとに減っていくようだ。
ロイは他の至る場所でそれを同じ様に投げつけた。
書く必要はないかもしれないが、ロイが投げているのは小型の時限爆弾だ。今、この研究所の隅々まで走り回りながら仕掛けていた。ロイはまた腰の袋に手を突っ込む。だが、徐々に少なくなっていた手応えは、もう完全に無くなっているようだ。ロイはそれを確認すると、薄く笑った。
(…時間がないようだな。)
しゅっ
ロイの姿がそのフロアから消えた。…今までとは逆方向に走り出したのだ。
ドガシャァン!!!
「うぁ…!!」
ジュエルは吹っ飛ばされると、壁に打ち付けられる。壁にはひびが入った。ジュエルを吹き飛ばした原因である『ヒト型』は随分と巨大化し、さらに姿を変容させていた。
バッ
グロウは片手の十本のワイヤーで剣の形を作り。それに斬りかかる。
ブンッ
ザバリ!!
肥大化していて判別がつきにくいが、『ヒト型』の首と思われる部分が千切れた。
しかし。
「っ!」
ヒュドドド!!
それに怯むことはなかったようだ。グロウは新たに降りかかる白い触手を、避けることに専念する。
二人は、明らかに苦戦してるようだ。
…そこに響いた一つの声。
「お前ら…随分無茶なことするよなぁ。」
ジュエルは背中の痛みでうずくまりながら、そこに立っている声の主を見た。
「……ロイ…」
「ジュエル。ここは、あと7分くらいで爆発する。もう悠長にこいつを進化させてる時間はない……一気にかたを着けるんだ。」
「そうだな。だが…状況はこの通り、なかなか難しくなってるようだ…。」
ジュエルは立ち上がったが、少しふらつく。ロイはそれにかけよった。
「…大丈夫か?」
「ああ。大丈夫だ。まだ…戦える。」
ジュエルは左手で、自分の体を支えようとした人物を制する。…ロイは肩をすくませた。
「ここから脱出する分の体力は残しておけよ…?」
「分かってる。問題ない。それより、あいつをどうやって倒すかが問題だ。」
「……。」
ジュエルの視線の先ににあるもの…15メートル前方で暴走している『ヒト型』、それと戦っているグロウをロイは見つめた。
「ジュエル。…あれの弱点のヒントはないのか?」
「…ないから強行手段に出ている。」
ジュエルは素っ気なく答えた。しかしロイは続ける。
「よく思い出してみてくれ。あれと戦ってきた過程の全てを。…何かあるはずだ!」
「…!………。」
ジュエルは少し沈黙した後、目を閉じた。
「……。」
ジュエルはゆっくりと目を開いた。ロイはそこでまた、問う。
「どうだ。」
それにしばらくは口を閉ざしたままだったが、独り言のように呟いた。
「…やってみる価値は、あるかもしれない。」
「…何をだ。」
その時ジュエルは不意に、ロイを真っ直ぐと見た。そして今度は、はっきりとその言葉を口に出す。
「二点同時攻撃。」
ロイはそれを聞いて、再び向こうの戦いを見た。
「二点…あの暴れている奴と、妙な球体か?」
「そうだ。」
…ジュエルが思い出していたのは、
『あなたがあっちのほうを斬ったとき、少々反応がありましてね。』
というグロウの言葉。それだけだった。
「…時間がない。その方法でいこう。」
ロイは意を決した。ジュエルもそれに頷いて応える。そして二人は戦場へ駆け出した。
グロウは無言のまま、ワイヤーソードとでも呼べるものを振るっていた。
鋭い斬撃音が続いていたが、突然違う音が響いた。
ドガン!!
「!」
グロウは思わず振り向いた。音の原因である銃口からは煙が立ち上っていた。
「よぉ。戻ってきたぜ。」
「あぁ、ロイですか。お疲れ様です。」
「…それはこっちの台詞だろ。」
…ロイの銃弾は『ヒト型』を貫通する。至近距離、後ろからの強力な一発は、『ヒト型』の動きを止めた。グロウはそれを確認すると、微かに息を切らし始めた。
「ははは…。ちょっと計算ミスでしたよ。まさかこれほどとは…。まだまだ進化しそうですよ。」
「…作戦を変更するんだ。5分、いや……1分以内に、奴を始末する。一か八かだがな。」
『ヒト型』が傷口に触手を伸ばしながらビクビクと体を震わせている。……まだ動かない。
「えぇ。じゃあ何をしましょう?」
「そうだな…。じゃあ」
そこで会話は途切れた。ロイの背後から来る別のモノがあったからだ。……二人とも跳躍した。
ドガァ!!
床に何かが突っ込んで、凄い音とともに大きな破片が飛び散る。そしてロイは言った。破壊音に消されないよう大きく叫んで。
「グロウ!2体の動きを封じるんだ!!」
それにグロウはすぐに反応した。2つの方向にワイヤーが飛び交う。砕けた床の先と、蠢く生命体へ。
ピシィッ
ワイヤーは『ヒト型』に絡み付く。もう一方は…床に入ったものを引っ張っていた。
そして、
ドオォ!
姿をあらわにさせる。それは、あのボールだった。
「今だ!ジュエル!」
「おおおぉ!!」
ジュエルは闇を突き抜けて、真っ直ぐ『ヒト型』に向かった。
ロイは右手にナイフを構える。ワイヤーで縛られた『核』へと。
「はぁあ!!」
ドッ!
ジュエルの剣の1本が『ヒト型』の中心部を貫く。ロイが先程作った銃痕を広げるような形になった。
ドクン。
3人は、ボールから鼓動が響いたように感じた。…全員確信する。ロイは地を蹴って、吠えた。
「終わりだ!!」
ナイフを『核』に向かって振り上げ、振り下ろす。ロイはその一連の動きがスローモーションになったように錯覚した。『核』とナイフの間の距離が…30cm。15cm。10…5…1……0。
ギイイイィィィィン!!!!
凄まじい火花と共に、耳を塞ぎたくなるような音が空間を支配した。だが、ナイフはまだ『核』の表面で止まっている。
「…くっ…うぉおお!!」
ロイはさらに右手に力を込めた。一層火花が散り、辺りに鋭い光が瞬いた。
そしてジュエルが。
ザシュウ!!
左手の剣で、横方向に『ヒト型』を真っ二つにした。
すると
バッキイイィィン!!
『核』は…砕け散った。『ヒト型』は二つに分かれた後、砂となって消えていった。
「はぁ、はぁ…」
ロイは膝に手をついたが、顔を上げた。
「…さぁ。急ぐぞ。」
それだけ言って走り出した。残る2人も疲れぎみではあったが、後に続いた。
そこには白い砂と、先程までの狂騒が嘘のような静寂しか残っていなかった。
…3人が向かった先は、入ってきた場所だ。天井に空いた…大きな穴。穴の向こうは、空間がどこまでも続いていた。…例え落ちることは出来ても、流石に飛び上がれる高さではない。それを見て、ロイは低く呟く。
「あと2分。」
そして銃に弾を込め始めた。2挺とも、全弾込める。
「…行くぞお前ら。自分のやり方で上がるんだ!」
その言葉で3人は顔を見合せ、互いに頷く。それが合図だった。
たんっ
全員上に跳んだ。かなりの速度で地面が遠ざかった。しかし遠ざかる速度は、10mまで飛び上がると段々遅くなる。その時3人はそれぞれ違うことをした。
じゃき。
無重力状態になった時、ロイは近い壁に向かって銃を構えた。勿論次は発砲だ。
ダンダン!
それによって壁に溝が出来る。ロイは出現した溝に足を突っ込んだ。
ガシッ!……
たんっ
そこを足場にして、再び跳躍。…昔の記憶から学んだ方法だった。
ジュエルの場合。壁に剣を突き刺して、そこを足場にしていた。刺さった剣はジュエルが飛び上がる時に鎖を引くことによって抜かれた。
グロウは、思い切り壁を蹴る。それで斜め上に飛んで向かう先は反対側の壁だ。また、蹴る。
各自作業を繰り返していたその時。突如辺りが光に包まれた。下から吹き上げる熱気。3人は起こったことを一瞬で理解し、ひたすら上へ…上へ、進んだ。
そして。
ヒュッ!
たん。
ようやく3人の足は止まった。深層部、すなわち巨大な穴から抜け出したのだ。降り立ったところは穴に面している、あの床だ。着地した後全員今出てきた場所を見つめる。
そこで最初に見えたものは溢れだす光だった。
同時に。
ドゴオオオオオオォォン!!!
轟音が鳴り響く。
全員黙ってその光景を見ていた。
しばらくして、一番最初に口を開いたのは
「あー。やっと終わりましたね。」
グロウだった。しかしそれに低く答える声があった。
「いや。まだ終わらない。」
ロイだ。その一言で、また少し間が出来た。
「あいつを殺すまで。」
ロイは、最後に下から持ってきたものをポケットから取り出して見ていた。
…一枚の、写真だった。
カツ コツ…
3人分の足音が響く場所は、さっきまでと一変して古い空間になった。2つの匂いが鼻につく。1つは錆びた金属のもの。もう1つは、初めて来たときと同じ…あの生臭さ。
コツ。
突然、先頭を歩いていたロイが足を止めた。何かを思い出したように息を呑んでいた。それから足が進まないので、ジュエルが怪訝そうに声をかけた。
「ロイ?」
「お前ら。先に戻っててくれないか。」
ロイは振り向かないのでその背中しか見えない。だがジュエルは、背中だけで表情を読み取ったようだ。それ以上声を掛けることが出来なかった。
「頼むよ。」
と、ロイはもう一度呟いた。
「……。」
「分かりました。先に行きましょうジュエル。」
グロウはジュエルの肩を叩いた後歩き出すと、ロイを追い越して行った。ジュエルは少し立ち尽くしていたが、黙ってそれに続いた。…ロイは一人その場に残される。そしてゆっくりと、今までの進行方向とは逆に歩みを進めた。
暫くして立ち止まった所は…1枚の、分厚い扉の前だった。
ノブに、その手を伸ばす。
「……。」
しかし途中で手を止め、目をそっと閉じる。
「…ハヤト…」
静かに名前を呟いた。
そこに3分ほど立っていたのか、それとも20分立っていたのかロイには分からない。しかし一呼吸おいた後、ついに右手をノブにかけたのだった。
…ガチャ
ギイィィィイイ
重たい扉が開く音はやけに五月蝿く聞こえた。扉の向こうからはムワッとした異臭と熱気が溢れる。同時に、聞こえてくる奇妙な音があった。
フシュー…フシュー…
「…?」
疑問に思ったロイは完全に扉を開いた。そして、そこにあるものを見て、目を見開いた。
「!!」
一面血塗られた部屋のなかにあったものは巨大な肉塊だった。もはやヒトの形は残っていない。その表面に走っている太い血管は、鼓動と共に疼いている。肉塊には所々穴が空いていて、呼吸するように蒸気を吹き出していた。先程の音はここから出ていたのだ。
「ぁ…あ。」
膝が、かくんと折れた。床に着いた手が震えた。込み上げる吐き気を抑えるのに必死で、暫くそのまま動けなかった。その時
「クリス。」
響いたどす黒い声に、ロイはハッと顔を上げる。
「ハヤト…?ハヤト!」
そして立ち上がって、肉塊の元へ走った。まだ間に合う…救うことが出来るかもしれない。そんな希望を抱いて。
「クリス…。」
魔物の声と呼ぶに相応しいほど濁った声。ロイが覚えているものとは程遠いものだったが、ロイはそれがハヤトのものだと確信していた。しかし初めどんな言葉を言えばいいのか、迷った。今までハヤトの存在を忘れていたことを謝罪するか、互いに再び会えたことを喜ぶか。その他にも沢山の考えが頭を巡った。悩んだ末、ロイは選んだその言葉を絞り出す。
「ハヤト。思い出したんだ。お前とのことを…。」
「……。そうか。」
肉塊はそれだけ答えた。ロイは、続けて言う。
「お前が今どんなことになってるのかも知った。…助けたいんだ。ハヤトを。」
返事はすぐには返らなかった。沈黙の間は、肉塊から蒸気が吹き出る音だけが聞こえた。
その時ロイはポケットから1本の試験管を取り出した。下層部から持ってきた物だ。濁った液体の中には微細な粒が漂っている。それを肉塊の前に突き付けて言った。
「お前を…救えるかもしれないんだ!」
ドクン。という音が肉塊から聞こえた気がした。
「それは、見覚えがあるな。」
「…。」
「クリス…それで俺をどうやって救うつもりなのかは分からない。だが無駄だ。もう俺に近付かないで欲しい。」
「ハヤト…?」
「お前が今見ているこの肉は、もう化け物が入ってるサナギみたいなものだ。今更何をしたって…もう無駄なんだ。」
ハヤトは暗闇の中で膝をそっと抱え込んだ。
「そんなことやってみなくちゃ分からないじゃないか!」
ロイはせき込んで言った。右手にある試験管をきつくにぎって。だがその後何も言えなくなり、下を向いた。ハヤトに真っ直ぐと、肉の膜を通り越して見つめられた気がしたからだ。
「前にも言った。俺には、やることがあるんだ。」
「やることって…何だよ。」
ロイは下を見たまま独り言のように呟いた。答えは一呼吸置いた後に返ってきた。
「全ての元凶。あの刑務所での実験を取り仕切り、俺の体をこんなに風にし、そして…妹まで同じ目に合わせた。そいつを殺す。」
ロイは顔を上げた。
「サヤが今どうなっているのか知っているのか。」
「俺には分かる。声が、聞こえるんだ。俺を呼ぶ、あいつの…声が。」
ハヤトは閉じない瞼を少し細め、動きにくい右手を頭に添えた。
「ハヤト。そいつは俺が何とかする。お前は戻るんだ!元の体に…」
「俺は許さない。あいつを。お前と、妹まで傷つけたあいつを。この化け物の体で、喰い殺してやる!」
「本当に、戻る気はないんだな。」
ロイは顔を曇らせて言った。ハヤトは先程の感情的な口調を沈めて静かに、でもはっきりと答えた。
「ああ。」
それを聞くとロイはそっと瞼を閉じ、試験管をポケットに戻した。
「サヤのことだけが、心残り…グ」
その時ハヤトが苦しげにうめいた。
「ハヤト?!」
ロイは弾かれたように声のする方を見て、駆け寄ろうとした。しかし。
「近寄るな!!!」
「…!」
ハヤトの一喝でロイの動きは電撃を受けたように止まった。
「今の俺は何をするか分からない。もう俺はほとんど化け物なんだ!…もうすぐ、完全に…なって。このサナギから…羽化する。」
ハヤトの声には段々息切れが混じってきた。ロイはもう見ていることしか出来ないことを知った。だがハヤトの方に一歩、足を進めた。
「ハヤト。サヤはまだ間に合う。俺が助ける。」
その言葉にハヤトは微かに反応した。
「俺は出来ることは何でもしたいと思ってる。だが俺にはどうやらお前を止めることは出来ないようだ。…お前は今自分でするべきと思うことを、最後までやり通すといい。」
「クリス…。」
「俺も協力するから、さ。」
ロイは優しく微笑んだ。
「すまない。」
「それは俺よりサヤに言った方がいいが、な。」
「分かってる。それでなクリス。俺、やっぱり1ヶ月は持たないみたいだ。」
「1ヶ月?…ぁ。」
少ししてロイはハヤトが言った意味を理解した。
「ここを避難場所にするんだろう?」
「…。」
「でも大丈夫だ。俺は必ずここを出ていく。あいつを探さないといけないから。」
「……。」
「クリス。どうした?」
ロイは沈黙したままだ。避難場所のこととを通り越して、別のことを考えていたようだ。顔が青ざめている。
「ハヤト、俺、この手でお前を…!」
自分の震える右手を見つめていた。思い出したのだ。ハヤトの体を1ヶ月間持たせるために、その右肩に銃弾を撃ち込んだことを。その後ハヤトもそれを解った。
「いいよ。あれはむしろ感謝したいことだ。体の暴走は止まったんだ。それにお前もあいつのせいで記憶を失っていたんだろう?」
「分からない。でもお前を撃ったことには変わりないんだ!」
片手で顔を押さえ込んで微かに肌と肌がぶつかり合う音がする。それを聞いてハヤトは無意識に首を横に振った。
「俺のことは気にしなくていい。それに頼みたいこともある。」
ロイは嫌な予感がした。
「クリス。俺は必ず奴を倒す。これだけは、何としてでも成し遂げてみせる。でも」
「その後何をするか分からないから自分を殺してくれ…だろ?」
ロイは自分の予感をそのまま言葉にして呟いた。するとハヤトは息を呑んだ後、力なく笑った。
「ははは…一言一句、正解だ。何で分かったんだよ…?」
「そんなことは簡単に予想できるさ。」
「そう、かな…。」
「どこまでも自分勝手な奴だからな。お前は。」
顔面につけていた右手を降ろして、ハヤトを見つめる。その瞳は悲しいような、諦めたような複雑な色に染まっていた。
「関係のない人を巻き込みたく…ない。もしかしたら…ぉ…お前やサヤを…殺してしまうかも。」
ロイはハヤトの段々掠れる声を聞いていた。すると、
「…?」
何かが頬を伝うのを感じた。それが何か確めるために手で拭ってみる。…温かい、水だった。それは次から次へと目から零れてきて、止まることはなかった。
ロイの脳から沢山の思考が流れ出した。それらは喉元で収束し、声帯を通した音となって口から出てきた。
「嫌だ。」
「……。」
「お前が…また、消えてしまうのは…」
頭から離れなかった。手と手が離れるあの瞬間が。
「お前は言った。俺達の手が離れる最後の時も、この前俺が来たときも。…幸せに、生きてほしいと。」
「…ク…リス…」
ハヤトの声はほとんど掠れて、注意しないと聞こえない程になっていた。代わりに肉塊が蠢き出して、グチュグチュと嫌な音を放っている。だがそれに構うことなく、ロイは涙を流しながら続けた。
「でもな!自分にとって大切な人間を失って…そう簡単に幸せになれると思っているのか?!」
「……ぅ…」
グチュグチャグチャ
ますます肉塊は歪んでいく。触手が何本か纏まりながら肉塊から放射状に少しずつ伸びていき、見た目は巨大なウニのようになっていった。
「だ…め、だ…クリ…」
「お前はサヤの声が聞こえるとも言った。でも分かってないんだろ?!サヤが、どんな気持ちでお前を呼び続けているのか…お前は分かっちゃいないんだ!!」
メキメキメキ
ウニの棘がもっと伸びる。その時、ロイはようやく異変に気付いたのだった。
「ハヤト…?」
「クリス……に、げ、ろ……」
バッ!!!
ハヤトの精一杯の訴えが消えた後、触手は四方八方に、爆発的なスピードで伸びた。そして、それはロイの方にも。
「!!」
触手はロイを部屋の外へ押し出した。それには抗う間もなかった。
ダン!!
「がっ!」
ロイはドアの向こうの壁に勢いよく背中を叩きつけられる。触手はロイを部屋から出し終えると、すぐに元の場所に戻るようだった。ずるずるとドアに吸い込まれていく。
「ま…て…」
ロイはそれを追おうとしたが、体がついてこない。手だけ伸ばすことが出来たものの、届くはずもなかった。
そして、ほとんど部屋に入りきった触手はドアのノブに絡み付き
バン!!
そのまま引いたらしい。ドアが大きな音をたてて閉まった。ロイはしばらく、ただドアに向かって手を伸ばしていた。
「………。」
そのうち、力が抜けたように手をおろす。同時によろけながら立ち上がった。
「何で…だよ」
ふらふらとドアに向かって、そこに両手をつく。
「何で…何で!」
ロイにはドアがもう開かないことが分かっていた。だから床に叫ぶことしか出来なかった。
「何で…分からないんだよ!!ハヤトおぉ……!」
叫びながら両手をドアに引きずってしゃがみこんだ。ロイの声だけが虚しく、暗い空間に響き渡っていった。
夜は訪れた。青い月光は、もはや灯りが殆んど無くなった国を静かに照らしている。汚れきった赤い海は光の色と混じり合い、黒がかった紫色に見えていた。そこに一隻の飛行艇が浮かんでいる。
『ヴィマナ』だった。その中の狭い一室で、ジュエルは閉じていた目を薄く開いた。剣を抱えて床に座り込んでいるその姿も、窓から射し込む光の青に染まっている。
ジュエルは何故、自分が眠れないのか理解出来ないでいた。この目まぐるしい1日に疲れきっていると言うのに。そう思っていた。
あの時…3人が2人と1人に分かれて、地下を出てから…再び合流した場所はルノワール本部の医務室だった。それから傷口の軽い処置だけ済ませた後、直ぐに人造生物の殲滅に駆り出されたのだ。
地下へ出発したのが9時。全員地下から出たのが15時。殲滅活動への出発は15時15分。それが終わったのはつい先程の24時。休息の時間は無いも同然だった。
ジュエルは立ち上がる。体は重いが、眠れない理由を無性に確かめたくて自然に足が動いた。向かう先は分からなかったので足に任せる。すると『ヴィマナ』を降りて砂浜に出て、そこで足が止まった。
浜辺に座っている一つの人影を見つけたのだ。
ジュエルはその静かな空間で、砂を踏みしめていた。浜辺に座っていた人影を見ながら。予想はついていたのかもしれない、と今更のように思った。人影は、ロイだった。膝を持って座り、無表情に水平線を見つめている。
ジュエルは溜め息をついた後、近付こうと思って一歩前に踏み出した。
しかしそこで足が止まる。ロイはジュエルに気付いている訳ではない。だが何となく、ロイが近づかないで欲しいと言っているように感じたのだ。ジュエルはその場に立ち尽くして、しばらくその座っているだけの少年を見ていた。すると
ザッ
ロイは突然砂浜に寝転んだ。同時に何かポケットから取り出すようだ。…それは試験管だった。ロイはそれを月にかざして、ただじっと見ていた。
ジュエルはその間、時間が止まったように動かなかったが、ロイが試験管をポケットに戻すと…我に帰ってそこから目をそらした。そして自分も少し海の方を見た後、歩いてきた方向に足を進めるのだった。
…波の音だけが、ずっと辺りに響いていた。
その後、ロイが外にいたままだったのか、『ヴィマナ』に入ったのかは分からないが。
夜は静寂に包まれて、そのまま穏やかに更けていったのだった。
そして朝は訪れた。
世界が太陽に照らされて、広がっている砂漠と赤い海、そこに存在する『ヴィマナ』が、はっきりと姿を表す。
コン、コン。
ジュエルはノックの音で、再び目を醒ました。昨日と変わらない小さな部屋で、昨日と変わらない姿勢で寝ていたらしい。違うのは窓から射し込む光の色だけだった。
(…朝か。)
気だるかったが、立ち上がってドアに向かう。ロックを解除した後、ノブに手をかけ扉を薄く開いた。その向こうにあったのは
「ジュエル。おはようございます。」
いつも見る笑顔だった。それを確認すると、ジュエルは扉をさらに開いた。
「おはよう。グロウ。」
「今さっき放送で召集がかかりましたよ。部屋から出て下さい。」
「そうか。すまない。」
「全く…あなたまでいなくなったのかと心配しましたよ?」
「え?」
その突然の言葉に、ジュエルは戸惑う。そして何が起こったのか理解した。
「ロイ…隣の部屋にいないのか?」
「彼も出てこないのでノックしたのですが。鍵は空いていて、中には誰もいませんでした。」
ジュエルは黙り込んだ。昨日、あのままどこかに行ってしまったのだろうか。そう考えたが
ふと、肩から力を抜いた。
「放っておいてやろう。」
「はい?」
ジュエルが溜め息混じりに言うと、グロウはきょとんとする。ジュエルは、微笑んでいるようにも見えた。
「あいつには、あいつなりの事情があるんだ。」
「はあ。そうですね。」
「ジェームズには、俺から話しておく。…さぁ、行こう。」
ジュエルは扉を閉めて鍵をかけると、1人で出口の方に歩き出した。
グロウはその遠ざかっていく背中を少し見送って
「…ふぅん?」
笑った。
ロイの姿は、3日ほど誰の目にもつくことはなかった。
バタン!
扉は突然開かれたので、たまたまそこにいた女性はひどく驚いた。しかし扉を開いた人物には見おぼえがあるようだった。
「ぁ、あなたは…この間の?」
その人物は少しだけ息を切らしていたが、それを押し殺して言葉を紡ぎだす。
「サヤさんに、もう一度だけ会わせて下さい。」
「……。」
逆光の中に見えるその必死そうな表情に、女性は思わず沈黙する。しばらく迷ったが、意を決したように
「どうぞ、上がってください。」
招き入れた。
…ロイはこの今にも崩れそうな木造建築に、再び足を踏み入れたのだった。
「サヤさんは、どちらに?」
「地下室です。サヤを…サヤを助ける方法が、見つかったのですか?」
「…。」
ロイはそこで口を開かなかった。押し黙って女性の後に続き、階段を降りた。すると一つの扉に辿り着く。
部屋に入ると、前に来たときと同じ埃っぽさが感じられた。中央にあるベッドが、裸電球によって薄ぼんやり照らされている。ふと、奥の方にいかないうちに、女性は立ち止まった。そして振り返って、ロイにかなり弱々しい視線を送った。
「サヤは日に日に悪化していきます。助ける方法があるのなら…どうか…」
「分かっています。私はサヤさんを治したいから今ここに来ているのです。」
ロイはそう言って、ベッドへと向かった。…ベッドには、確かにサヤがいた。
だが、ロイはそれを見て微かに眉根を寄せた。あるいは、それはもう見慣れた光景だったのかも知れないが。
それがサヤだと分かるのは、右半身が辛うじて元の形を保っていたからだ。左半身はまるで学校の理科室に置いてある人体模型のように筋肉とも内臓ともつかないものが剥き出しになっていた。その肉体はサヤのものとは明らかに違う生物のもので、それが…サヤの体を侵食しているのだ。
ロイはサヤの全身に目を配った後、左腕に刺さっている点滴の針に注目した。そして女性に、
「それを、抜き取ってくださいますか。」
と、静かに言った。
「え…でもこれは」
「多分それが原因です。」
そんな。とか、まさか。などと女性は戸惑っていたが、やがて恐る恐るサヤに近づき、その針を抜き取るまでに至った。ロイは淡々と話す。
「この点滴は、何故?」
「マルコーさんが…精神病の治療にと…」
「マルコーは、医師なのですか?」
しどろもどろになっている女性に次々質問をしながら、ロイは点滴の袋を台から取り外す。
「ええ。あの方は国の責任者でありながら、国の唯一の医者です。他の医者は全員、人造生物の被害にあってしまったそうで…。」
「…。」
取り外した袋を近くの机に置く。少し周囲を見て、古い棚に、味見をするためにあるような小さな皿を見つけた。それを手にとる。
「…使っても?」
「どうぞ。」
ロイは皿に点滴の針を当て、一滴。内容物を落とした。ここで、あの試験管をポケットから取り出した。女性は思わず訊く。
「それは…何ですか?」
ロイは薄く笑うと、小さな皿を女性に見せて答えた。
「コレと同じものですよ。」
「合成獣の細胞です。生きています。」
「合成…獣?」
「地下刑務所のさらに地底部で発見したものです。強力な人造生物を開発するために作られたものと思われます。」
「な…サヤにそんなものが与えられていたのですか…?!一体何の根拠で!」
「見てください。」
ロイは試験管の栓を開け、小さな皿にそれを傾けた。一滴。液体が…
ジュワッ!
「ひっ!」
突然皿のなかで白煙が上がった。女性は悲鳴を上げて後ずさった。皿の中で混合した二種類の白濁液は、微かに赤に染まっていた。しかし、少しして混合液の色は透明になった。白煙も収まり、辺りはまた静かになる。
「今のは…一体何ですか?」
ロイは無言で、再び女性に皿を差し出した。女性は、それに怯えて震えていた。構わずロイはずいっと皿を近づける。
「や、やめて…!!」
「よく見てください。ただの水です。」
「ぇ?」
ようやく女性は落ち着いて皿の中身をじっと見つめた。
「細胞どうしが打ち消し合って、中和されたのでしょう。」
そう言うやいなや、ロイは皿の中身を…飲み干した。女性は止める暇もなかった。
「ぁ、あ!」
…コトリ、と皿を置く。
そしてニッと笑った。
「…ね?」
女性はまだ震えていた。ロイは一つ溜め息をつくと、真剣な表情に戻った。
「毒には毒と、よく言うでしょう。…ただ。この外気に触れる状態では効果はありましたが、体内では何が起こるか分かりません。ましてや、既に半身は生体融合させられている状態です。」
「そ、それじゃあ…。」
ロイはベッドの手すりから乗り出してサヤを見つめる。その時、髪が少し垂れてロイの顔を隠した。そして、重い口が開く。
「最悪の場合も考えて下さい。」
女性は下を向いた。
しばらくの沈黙が流れる。
「これは。賭けなのです。でも、このままだと侵食されつくされ人造生物になるだけです。…出来る限りのことはさせてください。」
女性は今にも泣き崩れそうだった。しかし紡ぎ出した。その言葉を。
「…サヤに何かしてあげられたら、と彼女を引き取ったときから思っていました。でも、昔から何も出来なかったのです。兄を失った心の傷を癒すことさえ。」
「…。」
「その結果このようなことになってしまいました。…今度こそ。やるべきことをしたい。そして。今出来ることと言ったら、あなたにお願いするくらいしかありません。」
女性の表情は決意に満ちたものだった。
ロイは目を閉じた。そして、ふっと頬を弛めて…頷く。
「注射器の用意をお願い致します。」
「…。はい。」
しばらくして、女性は注射器を用意した。ロイは、それで試験管の中の液体を吸い上げた。…試験管が空になり、最後に、女性の方を見る。
「覚悟はいいですね。」
「…先程申し上げた通りです。」
ロイはサヤの右腕を出す。そしてぐっと自分の息を止めた。
どくん。
「……ふ…ぅ。」
鼓動が激しくなり額に汗が浮かぶ。ロイは自分に呆れた。頭では分かっていても体は素直で、怖いと叫んでいる。そう感じていた。
(全く…覚悟しろと言っておきながら自分の覚悟は出来ていないんだな。)
注射器をサヤの腕に当てる。
どくん。 どくん。 どくん。
ふと、ロイは何故こんなに怖いのだろうと感じた。つい最近、記憶がなかった頃は人の命なんてどうとも思っていなかったし、人殺しもしていた。しかし、記憶が戻ったときから、随分変わった。
…こんなにも、必死になっている。
「くっ…。」
スッ
針が刺さった。
ズズズ
押し出す。どんどん押し出す。迷いを振り切るように。
全ての液が注入された。
サヤの閉じていた目は、急に開く。そしてガクガクと痙攣をし始めた。
「サヤ!」
ロイは思わず小声で叫んだ。注射器が床に落ちる。サヤの震える右手をぐっと握った。
「サヤ…生きて…生きて!」
女性も自分の顔を両手で覆った。ロイは祈るように握る手に力を込めた。
(頼む。効いてくれ…あいつのためにも!)
どくっ!
「ぐっ!」
その時、突然ロイがうめいて左肩を押さえた。
「?どう、なさったのですか?」
「………。」
女性が聞くが、ロイは答えることができない。
耳がよく聞こえなかったのだ。全ての音がくぐもったように聞こえる。その上視界が赤く、ぼやけていた。
どくんっ。どくんっ。
左腕が、鼓動と共に反応している。
(な、んだ……これ…さっきの液は中和しきれてなかったのか…?いや、そんなはずは…。)
どくん!!
(まさか!!)
ロイには他にも心当たりがあった。しかし、それを思い出す間もなく、赤い風景が黒に染まっていく。
ドッ!
そして、仰向けに倒れた。床にぶつかる衝撃すら感じられなかった。女性が自分に向かって何か叫んでいるようだったが…もう何も聞こえなかった。
真っ暗闇だった。その中でロイは左腕を抱えて、もがき苦しんでいた。うるさい鼓動が収まらない。全身から汗が吹き出る。
どくん。どくん。
「はっ…はぁ!どうなって…」
そう言いながら左腕を見て、ロイは驚愕した。
変容していくのだ。黒くなる左腕は信じられないほど腫れ上がって、そこに太い血管が浮き出ていく。手のひらは異常に拡大し、爪が鋭く伸びる。
間違いなく、人間ではなくなっていく。
「ぅ…ぅあぁあああ!!」
バッ!!
ロイはベッドからはね上がった。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
そして3分程息を切らした後、この誰もが分かる状況を理解する。
(ゆめ。)
そこで弾かれたように左腕を見た。…何ともない。人間の形をしていた。
「…。くそ…」
やっと、体が落ち着いてくる。横を見ると、女性が椅子に座って眠っていた。
気付けば、脇に湿った布があった。起きたとき、額から落ちたのだろう。溜め息が出た。
(また、世話になっちまったな。)
ロイは女性の肩を揺らして、起こした。女性はロイの顔を見てほっとする。
「気付かれたのですね。よかった。」
「サヤさんは、どうしました?」
女性は優しく微笑んだ。
「本当に、有り難うございました。サヤは体が元に戻って、今は静かに眠っています。」
ロイはそれを聞いて表情を和らげると、自分に聞かせるように呟いた。
「良かった。本当に…良かった。助けることが、出来た。」
「ロイさん。今はそれより…あなたです。あんなものを飲んで!倒れて、当然でしょう。」
ロイは突如大きくなった女性の声に少しピクリとしたが、首を横に振った。
「違います。」
「え?」
「あれが原因ではありません。あれは完璧に中和された液でした。」
「では、何だと言うのですか。」
その問いに、目をそらして沈黙した。しかし、口を開く。
「私が持ってきたあの試験管。初め、手に入れたときから中身は大体分かっていました。ですが、やはり確信を持ちたかったのです。だから。」
「…まさか、あなた…。」
女性には答えが見えていたようだった。そしてロイは、それを言う。
「細胞を自分に使ってみました。」
「…何てことを!」
「最近左肩に受けた傷に、一滴。垂らしました。実験動物には再生能力があるので、それを確かめたかったのです。…傷口は、3日程で完治しました。」
女性は、もう何も言えなかった。
ロイはベッドから立ち上がる。そして、扉に向かい、ノブを回した。キィという小さな音がする。
「ロイさん、まだ寝ていた方が…」
「大丈夫です。サヤさんの所へ、行きます。」
女性は止めたが、ロイはニコリともせずに部屋を出ていった。
扉は閉じられ、部屋には女性だけが残された。
ロイは地下室に入ってすぐ、サヤを見た。静かにベッドの上で寝息をたて、目を閉じているその姿は。
「元に…戻ってる。」
それを見た瞬間、足から急激に力が抜けた。
「戻ってる…本当に、戻ってる。」
自然に笑みがこぼれる。その時、倒れる前に陥ったあの感覚が蘇った。
怖いという感情に疑問を持ったように、嬉しいという感情にまた疑問をもった。
何故、自分はこんなにも笑っているのか。サヤを助けたからといってたいした意味があるわけではない。せいぜい、新種の人造生物という厄介な敵の発生を防ぐくらいだ。
ハヤトは…もう『いない』のに。
だが、その考えを振り切るように、首を左右に動かした。そして近くにある椅子に座る。
(理由なんて、ないのかもしれない。)
そう、思った。
ロイはそのまま、待った。
サヤの目が開くのを。
…どれくらいたったのだろうか。
地下には当然光が射さない。また、部屋には時計もなかったので、その答えは分からなかった。その中、ロイはただひたすら待っていた。
時間のことなんて、どうでもいいようだった。
「…ぅ」
「!」
その微かな呻き声にロイは反応する。即座にベッドを覗き、呼び掛けた。
「サヤ?」
目が、開いていた。半開きではあるが、確かにサヤの目が開いているのを、ロイは見た。サヤの口元が、動く。
「…クリストファー?」
その声を聞くと、ロイは深く息を吐きながら下を向いた。そして再び顔を上げたときには、とても優しい顔をしていた。
「そうだ…クリスだ。」
サヤは、その後しばらく沈黙した。周りをしきりに見渡し、最後に自分を見る。
「私、何故こんなところにいるの。」
「覚えていないのか…。」
「クリス……兄さん、は…。」
そこでロイはハヤトのことを思い出す。…サヤに本当のことを言うべきか迷った。今まで生きていたが、間もなく人造生物になってしまう、ということを。
(言わない方がいいかもしれない。もう、『死んだ』と思っている方が…)
そんなことを考えていた。
しかし。
グッ
サヤが、ロイの腕を掴んだ。ロイは、前触れもなかったその行動に少し驚く。
「クリストファー。お願い。…人殺しなんて、やめて。兄さんを止めて!」
「…ぇ。」
何を、言っているんだ。ロイはそう思った。
(人殺し…?)
「悪い予感がするの。だからやめて!お願い…!」
サヤの顔を見る。必死に訴えるその表情。それは嘘を言っているとは思えないものだった。
そして、ロイは気付いた。この光景は前にも見たことがある…ということに。
記憶がまた、蘇る。
雨の降る夜。
そこは暗い公園だった。目の前にはブランコに乗って揺れている小さな少女がいた。
自分も少女も傘を持っていないため、服も髪もびしょびしょに濡れている。
「サヤ…そんなところにいたら、風邪ひくよ。」
自分の言葉に返事もせず、少女はずっと下を見ている。雨の音に混じってすすり泣く声が聞こえた。
「また、家を追い出されたんだね。」
自分はサヤの頭を撫でる。その時、少女の頬に青黒い痣を見た。
「お兄ちゃんが…いじめられてるの。わたし、何も…できなくて。」
まだ頭を撫でた。今はそれぐらいしか出来ない。だが、自分はサヤを安心させたかった。
「大丈夫だよ。」
自分はそう言った。
すると、少女はゆっくり顔を上げて、死んだような目で自分を見つめた。
「もうすぐ、終わらせるよ。ハヤトと一緒に。」
「…。」
「だから、大丈夫。」
そして自分は撫でるのをやっと止める。その代わりに、出来る限りの笑顔を作った。サヤは何も言わないが、それを見て少し笑ったように見えた。
自分はサヤを僅かでも癒したかった。だからさらに事実を口にしてしまう。
「もうすぐ、消えるから。」
「…ぇ?」
「サヤとハヤトをいじめるアイツラは。消えるよ。」
「きえ、る…?」
その途端、サヤの顔からまた笑みが消えた。言葉の意味が分からず混乱しているのかもしれない、と思った。自分はさらに続ける。
「俺達でアイツラを、コロすんだよ。」
サヤの表情は、凍りついた。
「ころすの?」
「コロすよ。もう、あの存在に苦しむことはなくなるよ。」
自分はそれに気付くことなく、微笑みながら話していた。
「やめて」
「え?」
なので、その言葉に一瞬戸惑った。自分はそう言われることを全く予想していなかった。
「やめて…やめて…」
サヤは自分にしがみついて、震えた声で呟いていたのだった。
「いなくなってほしいって思ったことは、何度もあった。さっきも天井から吊るされてパパにたたかれた。何も、してないのに…。」
「…許せることじゃない!それはサヤが、一番分かっているだろう?」
雨はますます強くなってくきて二人を濡らしていた。
「でも夢で見たわ。天使が言うの。悪いことをしたら、神さまに地獄へ連れていかれるって。」
「……。」
「人をころすことって悪いこと、でしょ…?兄さんもクリストファーも、地獄に連れていかれちゃう。私、そんなのいや!」
サヤは自分にさらにしがみついて、泣きじゃくった顔を覗かせていた。自分はしばらく、なんと返していいものか迷う。だが、既に計画も準備も整っている。後戻りは出来なかった。
「サヤ。今やらなきゃ…だめなんだ。でないと、サヤとハヤトがずっとひどい目に会う。もしかしたら、死んでしまうかもしれない。そうだろ?」
「…でも!」
「ハヤトが誰かに助けを求めても、今じゃ誰も助けてくれない。でも俺はハヤトとサヤの力になりたいと思った。友達だから。その俺に一番出来ることといったら…人殺しの手伝いぐらいしか、ないんだ。」
サヤは泣き続けていた。いや、と繰り返しながら。
「……ぁ。」
思い出している間、ぴくりとも動いていなかったらしい。ロイの目には先程から必死に腕を掴んでいるサヤの姿が映っていた。
「兄さんはどこ?はやく、止めないと連れていかれる。止めなきゃ…。」
その一言でようやく、ロイは理解した。
「サヤ。お前記憶が…。」
「どこにいるの、兄さん。分からない。どこにもいない。ここがどこかも、分からない…。」
サヤはロイの腕を離す。そして泣いていた。うわごとのように、兄さん、と繰り返している。ロイはその姿をあの少女だった頃に重ねた。
どうしたららいいのか、分からなくなる。
何故ならもう自分達は、『地獄』にいるのだから。
ロイは、もう自分はサヤに何もできないのだなと、目を閉じて思った。
全てが遅すぎた。あの時、殺人という罪を犯さなければ。他の解決法を見つけていれば…こんなことにはならなかったのだ。
絶望と、後悔。
「っ……」
胸が苦しくなり、サヤからそっと離れる。
サヤはもう誰も見えていないようで、ただ、ベッドにすがりついて泣いていた。
ロイはその空虚な部屋から、立ち去る。
扉は、ギイィというやけにうるさい音をたてて閉まった。
部屋を出た直後辺りをつんざくような音が響いた。それは…サイレンだった。
「?」
何事かと思ったその直後、女性が慌てて階段から駆け降りてくるのが見えた。
「た、大変です!ロイさん!」
「何ですか?このサイレン…。」
「外が、外が…!!」
バンッ!
扉を、開く。外の眩しい光に一瞬目がくらんで、何も見えなくなる。だが、その直後見えた光景に
「!!」
ロイは息を呑んだ。
真っ青な空に何百、何千の黒いもの飛んでいるのが見えた。まるで鳥の大群が通りすぎているようだったが…よく見れば鳥ではなかった。
それは、
「人造生物…!!」
大量の人造生物が背の翼で上空を飛んでいる。辺りはたちまち騒ぎになり、家から飛び出してくる人間が続出した。
「な、何だこれは!」
「バケモノの群れだぁ!!」
「マルコーさんの所に逃げましょう!皆、はやく!!」
今いる通りは、もう逃げ惑う人で一杯になった。ロイは舌打ちをすると、後ろにいる女性に振り返る。
「あなたもサヤを連れて早く逃げて下さい!今逃げないと喰い殺されますよ!!」
「は、はい!」
「国の中心部に誘導員がいます。そこに向かって!」
その後は走った。皆の元へ。
ルノワールの中心にある広場には大勢が集まった。そして、20人程の軍服の人間がいて、その一人が大声でマイクを通して指示をしている。人の声に消されるので、ぎりぎり聞こえる程度だった。
「皆さん落ち着いてください!今から避難場所に誘導します。あの旗を持った者に続いてください!繰り返します!旗を持った者に続いてください!!」
悲鳴と罵声が行き交う中、女性はサヤの手を引いていた。サヤはそれでやっと動いている感じで、よたよたと走っていた。
「サヤ!こっちよ。頑張って!」
だが、サヤは足を止めた。女性が強く引いても動く気配はない。人の波は、その二人を邪魔そうに避けていった。
「どうしたの!」
「私、行く。」
「え?!」
サヤはすっと顔を上げる。
「会わなきゃ。」
バッ!
サヤは手を振り払って、走っていった。
「あ!サヤ!サヤぁ!!戻ってぇ!!」
女性が手を伸ばすが、その背中はあっという間に見えなくなった。
サヤは走った。
(兄さん、兄さん、兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん…
どくんっ
ハヤトは頭を抱えた。そして…微かに笑ったように見えた。
今行くよ。サヤ。
どくん!!
ブチッぶちぶち!!バリ!!
「ふっ!」
ザッ!!!
ジュエルが2、3体の人造生物の頭を同時に凪ぎ払い、その後すぐに次に移る。5体斬る。宙に舞いながら7体。
「…。」
ヒュッ
ざばざばざば!
グロウのワイヤーが飛ぶ。1本につき1体を斬り、刻む。結果1振りで10体を倒した。
戦闘は、始まっていた。紫外線遮断フィールドの外側でのことだ。既に、そこには人造生物の渦が出来ている。2人は背中合わせの状態で思い思いの戦い方をしていた。ひたすら目の前の敵を、倒す。
バシュッ!
ドオオオォォン!!
『!!』
突然の轟音が響き渡り、2人はそちらを見た。バタバタと人造生物が墜ちる音が聞こえる。白煙の中に1つの人影が見えた。
「よぉ。遅くなってすまねえな!」
「ロイ!」
「いっつもあなただけ遅いんですよ。…バズーカなんて持ってきてたんですね?」
ロイは巨大なバズーカを持ってそこに佇んでいた。不敵な笑みを浮かべている。2人はそれを見ると、同じように笑う。
「『ヴィマナ』からまたとってきた。さぁ…行くぜ!」
自動的に弾の充填が済むと、ロイは素早く狙いを定める。
バシュッ!
ズドオオォォォン!!!
数十分後、3人を取り囲んでいた人造生物の大半は、死体になって転がった。残りの数は段々と減ってきている。他、迷彩服の兵達も全力で戦っていた。遠くからいくつか爆発音も聞こえていて、手榴弾を使っているようだった。
「もう一息!」
ロイが言ったその時だった。ジュエルが何かを見た。
「おい。あれは何だ!」
それは、猛スピードでこちらに飛んでくる影だった。人型のそれは、漆黒の肌をしている。白色の人造生物とは違う。ジュエルは戸惑い、一瞬剣を振るう手を止めた。
「黒い人造生物!?」
「新種か。大統領から聞いたぜ。」
「えー、私達は聞いてませんよ?」
話している間にも、それは真っ直ぐロイの方に向かってくる。
ジャキッ
ロイがバズーカを構える重い音がする。
だが。
ビュ!
「くっ!」
それより早く敵は来た。ロイの脇を通りすぎる。その時敵は目標を爪で切り裂こうとしたが、ロイは後ろに飛び下がってそれを免れた。
そして
ダンダンダンダン!!
素早く左手で腰に差してある一挺の銃を取り、連射した。
「ちっ」
黒い影は勢いよく舞い上がった。見えなくなるほど空高く。だから弾が当たったかどうかは定かではなかった。
それはすぐに『落ちてきた』。
ドゴォン!!
「っ!」
ロイがいた地面が音をあげて凹む。
ダンダン!!
再びロイの銃は火を吹く。砂ぼこりをあげる地面に向かって。
ゴォッ!
そこから飛び出す黒い影。まず爪が襲ってくる。ロイは銃をしまい、ナイフを手にとった。
ギィンッ!ガッガッ!!ガン!!!
1人と1体の激しい戦いが繰り広げられた。
どうやら黒い人造生物はロイが狙いのようだった。ロイの頬には幾筋もの切り傷ができ、血が滲んだ。
「くっ!俺ばっかり狙いやがって。」
それに不満を溢す。その時ナイフの銀が光った。
「はぁ!」
ザバッ!
ナイフは人造生物の胸に突き刺さった。次に、ロイはそれを横凪ぎに振り払う。返り血が服についた。人造生物は悲鳴こそあげなかったものの、少しうろたえたようだった。翼を広げ、ロイに背を向けた。
バサッ
「?!…待てこの野郎!!」
黒い人造生物が逃げていく。同時にロイは駆け出した。
「ロイ。俺達も後でそっちに行くぞ。」
「すまねぇ。また単独になりそうだ。」
「いい。先に行け。」
ジュエルはロイを見送った。
黒い人造生物は国の方に向かっていた。下手をすれば見失ってしまいそうだ。その上周りの白い人造生物が襲ってくる。
「邪魔だっ!」
バシュ!
ズドオオォォォン!!
ロイはそれらをバズーカの火力で一掃し、目標を追い続けた。
そうして辿り着いたのは、瓦礫があるだけの乾いた場所だった。そこにどんな建造物があったのかは、見て分からない。しかしロイには何となく見覚えのある場所だった。
道なりに走っていくと、1つの空き地に出た。かろうじて分かるのはそこが公園だと言うことだ。壊れかけの遊具がある。
滑り台。シーソー。木馬。……ブランコ。
「!」
ドン!!
ロイは発砲した。
ブランコに座っている少女に近づく…黒い人造生物に向かって。
それはゆっくりと振り向く。
「…っ!」
ロイは一瞬狼狽した。そこにはさっきまでなかった、人間の顔が存在した。
その口が、か細い声を出す。
「やってくれたねぇ。クリストファー。まさか体内の合成獣の細胞を、同じ合成獣の細胞で死滅させるとは。勇気ある行動だ。」
ロイはぎりっと歯を食い縛って声の主を見つめた。
「マルコー…!!」
「サヤに近寄るな。」
ロイが右手の銃を向けたまま言う。ブランコの上に乗っているのはサヤだった。ロイは、サヤに何故こんなところにいるのか聞きたかった。しかし今はマルコーの方に質問したいことがある。
「サヤとハヤトを実験に使ったのはあんただってことは、もうとっくに分かってる。これもあんたのだろうしな。」
ポケットから何か取り出し、マルコーの足元に投げた。マルコーがぎこちない動きでそれを拾う。
それは写真だった。白衣を着た女性と男性、その間に男の子が映っている。3人とも無表情に見えたが、微かに笑っている。
そしてこの男性の顔は…今目の前に見えている顔、そのものだった。
写真を見たマルコーは、にぃっと笑うだけで何も言わない。
「あんたは地下研究室で人造生物の研究を進めていた。この大量の人造生物も…あんたの仕業か?」
答えは少しして返ってきた。
「まぁね。ちょっと特殊な電波を送ってやるだけで、思うように動いてくれたよ。」
ロイはぐっと左手を握りしめて、怒りの眼差しをマルコーに向けた。
「何故だ。何故人造生物など生み出す必要がある。人を犠牲にしてまで。」
「…クク。」
「あんたの目的は、何だ!!」
「…………。決まってるじゃあないか。」
マルコーはしばらく喉の奥で笑ってから、天を振り仰いで言った。
「世界を、救うためだよ。」
「…?!」
「この地球は、滅びる。それを止めるには生命が必要だ。」
「…何を。」
「莫大な生命のエネルギー。人造生物は、うってつけだ。元々ヒトの何十倍のエネルギーがある上、ヒトを喰うことによってますますその体にエネルギーが貯まる。強力なエネルギーを持つ人造生物の研究を重ねるうちに自分までこんな姿になってしまったがね…。」
「言ってる意味が、分かんねぇんだよ!!!」
ドンドン!!
ロイはバズーカを投げ捨て、左腰の銃も抜き、両手で銃を撃つ。しかしマルコーは今いた位置から消え失せた。
「…なっ!」
銃弾はサヤの足元に当たる。ロイが舌打ちをした、その一瞬。
ガシッ!
「ぐっ?!」
マルコーは後ろからロイの首をがっちりと肘で絞め上げた。そして再び言う。
「だが生命エネルギーはただ集めただけでは意味がない。集めるだけでは使えないんだ。……『鍵』がないと。」
「…?」
ロイは、眉を潜めた。
「やっと1人見つけることが出来た。」
「な、に…」
ふと、マルコーは空いてる方の手でいとおしそうにロイの頭を撫でた。ロイはそれをたまらなく不快に感じ、頭を振る。しかしそれに構うことなくマルコーはその一言を、ロイの耳元で囁いた。
「『鍵』…ルチアの遺伝子を持つ。同時に我が息子。クリストファーよ。」
何を言われたのか理解できなかった。意味が分からなかった。
声が喉の奥から出てこない。言葉が紡げない。思考が回らない。
ただ。
呆然としてマルコーの言葉を聞いていた。
「私はお前に詫びなければならない。お前は、弟のジルフィールよりルチアの遺伝子が多くは見られなかった。私はそれだけでお前を捨て、孤児にしてしまった。」
「…。」
「そしてあの時。刑務所で殺してから、すぐキサラギ同様、培養液に入れておけばよかった。お前はルチアに再び強化人間として命を与えられ、この地獄で生きながらえている。」
「……。」
「クリストファー。分かるかい?お前が何故、今生きているのかを。いや、分からないだろうね。あの刑務所からの脱走事件で、お前は間違いなく殺されていたんだから。」
「…ころ、されて…。」
ロイは、あの最後の光景を思い出す。自分に向けられた冷たい銃口が、見えた。
ロイは何も言えない。
言いたいことは山ほどあるはずなのに。
いつの間にかマルコーの言葉に、真剣に耳を傾けている。
本能が、聞き逃してはならないと叫んでいるような気がした。
「そう。お前をちゃんと殺したんだ。なのにあの女が…ルチアが私を裏切り、お前を隠した!」
マルコーはますますきつくロイを締め上げる。ロイは苦しくて小さく呻く。だが、苦しみに構わず、考えていた。
ルチア。人造生物を作り出すきっかけとなる研究をした。そして人造生物を処分するために強化人間という狂戦士を生み出した。
憎かった。自分が強化人間として目覚めた瞬間からとても憎かった人間だ。
それなのに。
鼓動が高まっていく中、ロイの記憶が蘇っていく。
無意識に呟いた。
「かあさん…。」
誰かの低い声が聞こえるが、よく聞こえない。風景も、焦点が定まっていないので、ぼんやりして見えない。何より、自分の視界は全て赤に染まっている。
ひどく胸が痛い。
何かが心臓に食い込んでいる。それが自分の体に穴を開けて、血がどんどんそこから流れ出ている。
誰かこの痛みをとってほしい…そう思ったとき。
聞こえた。
母さんの声が。
自分の名前を呼んでいる。何度も何度も。声が震えていることから、泣いていることが伺えた。
自分は死んでいるのだなと、なんとなく思った。それなのにこうして意識があること、痛みがあることを自分は不思議に思っていた。あるいはまだ生きていて、死に至る直前なのだろうか。そう考えていると、周りの会話が聞こえてきた。
「クリストファー!クリストファー!!ぅあぁぁぁ…」
「ルチア。落ち着くんだ。元々クリストファーは実験のために作ったんじゃないか。悲しむことはない。」
バシッ!
肌をたたく音が聞こえた。それから少しの間だけ会話が途切れる。
「何をするんだ。ルチア。痛いじゃないか。」
「マルコー…あなたはもう、人間じゃない。私は!!」
「言わなかったかな。もう戻れないと。それに君は、今まで私についてきていたじゃないか。この環境を元に戻すには、地球の血液…オメガ。それを増加させるしかない。そのためには生命が必要。何度も言ったことだよ。」
「…っ」
「クリストファーが見つかって良かった。貴重なオメガ遺伝子。生物の体をオメガに同化するためには不可欠なものだ。」
意識が薄れていく中、自分は2人の話し声をただ聞いていた。
「もう限界。人殺しをして得られる世界なんて、いらない。」
「…。」
「私は自分の手で人々を救う。オメガ・プロジェクトなんて使わない。そしてあなたを、止めて見せる…!!」
「ルチア。オメガ遺伝子の源である君が抜けたら話にならないんだ。それに今まで犠牲になった囚人を…」
マルコーが説得しようとしているのがわかったが、もう話し声は微かにしか聞こえない。そのうちそれは自分の耳には届かなくなっていった。
聴覚が薄れていくと同時に、痛みも薄れていく。体から力が抜けていく。
もう本当に最後だと、自覚した。
やっと、楽になれる。
ぽたり。
…?
頬に、雫が落ちてきた。そして抱きしめられたような暖かさが自分を包み込む。…呟きが、聞こえた。
「ごめんね…クリストファー…本当に…ごめんなさい…」
自分は真っ暗闇に落ちていった。
母さんは、謝っていた。
何故?
…あぁ。 そういうことか。
ふと、感覚が戻ってきた。ロイは今マルコーに襲われていることを思い出す。こんな中で昔の記憶に浸っていたことに、ロイは少し苦笑した。
「もうにガさナイ!オメガ遺伝子イィ!!!」
マルコーの声は人間のものではなくなっていた。
マルコーの締め上げる力は普通の人間であったならば首の骨が折れている程にまで達していた。だがロイは口を開く。
「最初から分かっていたことだが。」
それは、さっきとは様子が違っていた。とても低く、冷たい声。マルコーの動きが止まった。
「あんたはここで俺に消される。……何故かって?単純な理由が二つある。」
ロイは続けた。
「一つ。あんたはオメガがどうとか、よく分かんねぇが、人を殺して人造生物を研究し、作り出している。自分が人造人間になるまで、な。…そして二つ目。」
ジャキッ
「!」
ロイはマルコーの顎に銃口を押しつけた。そして。
「俺は、生物学者ルチアによって生み出された強化人間。人造生物を殲滅するための人形だからだ!!」
ドン!!
撃った。
弾は勿論マルコーの顎に命中する。束縛から逃れたロイは跳び下がりながら目標に向かって連射する。その後は素早くサヤの手を取った。何とかブランコから瓦礫の陰に引っ張っていく。
「サヤ!早くここから逃げろ!」
「…だめ。兄さんに会わなきゃ…。」
「今はそんなことを言ってる場合じゃない!」
マルコーは仰け反った背中を起こし、血だらけの顔で、ニィと笑った。
サヤは、それ以上何も言わず、瓦礫の陰に座り込んだ。ロイが強くサヤの手を引くが、動こうとはしない。
「サヤ!立つんだ!!…くそ…!」
そうしているうちに向こうからの気配が迫ってくるのが分かった。ロイには次に起こることを予想できた。
「っ!危ねぇ!!」
ドンッ
ロイは座り込むサヤを横から押す。サヤが乾いた地面に転がった、次の瞬間。
ドゴオォン!!
瓦礫は破壊された。
原因である黒い腕は、サヤの座っていた所から突き出ていた。もしロイが押していなければサヤは瓦礫ごと貫かれていただろう。飛び散る破片がサヤの腕を切った。
「くリストファー…つクヅくオ前は親不孝者ダ。」
向こう側からどす黒い声が聞こえる。
「…あんたみたいな化け物を親と認めた覚えはないね。」
ロイは笑い飛ばす。だが額には汗が浮かんでいた。
「その実験サンプルは最高の人造生物になるはずだった。数千人分の生命エネルギーを持つ、人造生物に…。」
マルコーの声色がふっと高くなる。人間の声に戻ったようだ。しかしそれは少しの間だけのことだった。
「それをオメガにスれば、少しは犠牲者が減ったかもシレナイのになアァ!!」
ロイの表情が怒りに歪んだ。
「黙れ!」
ザッ!
ロイは瓦礫から突き出ている腕を、右手に持ち替えたナイフで斬った。すると腕は少し痙攣して、引っ込む。それを追い、マルコーに真正面から向かった。
そしてナイフを振り上げる。
「おおぉ!!」
ザバッザバザバザバザバ!!
ロイは乱れ斬りをマルコーにお見舞いした。マルコーはもろにそれを食らって血を飛び散らせているが、顔は笑ったままだ。
その攻撃は止まらない。マルコーを空中に上げるように斬る。それと同時にロイは地を蹴った。
ザバッザバッザバッザバッ!!
空中で乱れ斬り。まるで人間業ではない。そしてロイは仕上げに取りかかった。
「ぜぁあ!!!」
ザン!!
最後の一斬りでマルコーを瓦礫の山に飛ばした。そして左手の銃を構える。
ドン ドン!!
空中で二発撃った後、くるりと回って地面に着地した。
ガシャアアァァァン!!!
瓦礫に突っ込む音とともに大きな砂ぼこりが上がった。ロイは微かだが肩を上下させる。だが、休んでいる暇はないようだった。
「!!」
ロイは直感的に右に跳んだ。
シュバババ!!
ドガッ!
棘のようなものが地面を貫いた。それは砂が作り出す霧の中心から伸びている。ロイが攻撃を免れて、半身を地面につく。その直後。
「っ!!」
ドガドガドガ!!!
ロイは慌てて右に転がった。それは一本ではなかった。まだまだ襲いかかってくる。転がって避けた。
「ちっ!」
転がりながら左手の銃を構え、自分に向かってくる棘を撃った。
ドンドン!
棘は強力な弾丸によって打ち砕かれる。その隙にロイは、体を起こした。そして右腰の銃を抜いた後、他の棘も同じ様に撃ち落とす。
ブシュウゥゥ!!
10本の棘は血の雨を降らせた。
しかし、あの声が再び響きわたる。
「むだダ。」
砕けた棘は復元した。しかも棘の先が無数に分裂して、より細かいものになっていた。それが、ロイへと一斉に降り注ぐ!
「……!!!」
その時サヤが何かに気づくように反応した。…表情がさっきまでとは違う。目を見開いて、呟いた。
「にいさん?」
ドドドドドドドドドド!!!
棘の雨が降った。
ロイは貫かれることを覚悟し、目を閉じて痛みを待っていた。しかし、いつまでたっても痛みは来ない。
「…?」
ロイが目を開く。
そこに見えたものは
まず見えたのは赤い背中だった。ロイには一瞬何が起こったのか理解できなかったが、奇妙な生物が自分の盾になっていることが分かった。
赤く見えていたのは、背中を覆っている剥き出しの筋肉のような繊維と、まるで今生まれたばかりのように全身についている、おびただしい量の血だ。
ロイは理解した。目の前で、今自分の代わりに貫かれているものが何なのか。
「……ハヤト?!!」
ロイが呼びかけるとその生物は体は動かさず、顔だけゆっくりとロイに向けた。
そこにハヤトの面影はない。顔面には目も耳も鼻もなく、裂けたような大きな口があるだけだった。
…それでも。ロイの心は、間違いなくハヤトであると告げている。
ロイが呆けたように見ていると『ハヤト』は正面を向き直し、吠えた。
「オオオオオオオオォォォォン!!!」
形容しがたいその声は、地の底まで響きそうな程に大きかった。空気が振動する波が、ロイには感じられた。
バキバキバキ!!
『ハヤト』の体に食い込んでいる棘は、粉々に砕け散った。その後『ハヤト』は4つ脚で、砂煙の中へ疾走する。よく見れば、その姿は、人の形から獣の形に変わっていた。
視界のない煙の中を走り抜ける。獣の雄叫びをあげて、真っ直ぐただ目標に向かう。
そして辿り着いた。
前足を、振り上げる。
「ガアアアアァァァ!!」
ズガガガガガ!!!
『ハヤト』はマルコーの体を縦に、爪で引き裂いた。爪は地面まで届いたらしく、とても深い溝を残していた。右腕とも触手ともつかないものが、赤い飛沫をあげて地に落ちる。
その後は、
ザクッザザッ!!
マルコーの体を割れた地面に押し付け、爪を立て続けた。ただひたすらに、まるでその行動が本能であるかのように肉を掘り返す。
自分を化け物にした憎しみ。
妹まで同じ目に遭わせようとした怒り。
それらを全てぶつけているようにも見える。
だが、マルコーの顔には…喜びの表情が浮かんでいた。
「素晴らしい。スバらしいエネルギーだ!キサラギィ!!ハッハハはははハハハハ!!!」
バキバキバキ!!
狂った笑い声とともに、右の体が嫌な音を立てながら復元していく。腕の辺りまで進んできた。
「させるかぁ!!」
ドンドンドン!
その時、ロイの銃弾が再生する腕を貫く。さらに、
「は!」
ザザバ!
晴れていく霧の中、2つ。銀色の光が見えた。
ジュエルだった。後ろにはグロウもいる。
「えーと人造生物が2体…どっちを狙えばいいんでしたっけ?」
「今俺が斬った方だ。」
グロウののんびりとした口調に、ジュエルは淡々と答える。
そんなことをしている間に、再び人間のものではない声が聞こえた。
「ゥォオオヲヲヲヲオオん!!!」
それはさっき『ハヤト』から発せられた声とは違った。ロイは、どうすればいいか一瞬で判断する。
「下がれ!」
バッ
三人はロイの言葉にすかさず反応し、後ろに跳躍した。『ハヤト』だけが、まだそこにいた。マルコーの傷口から触手が伸び、蠢く。
ズオォォオオ
触手はマルコーの体全体を包み込み、肉塊を形成した。『ハヤト』は獣からヒト型に戻り、空中に跳ぶ。その際バキバキと音を立てながら、背中に翼のようなものを生やしていた。
ロイはそれを確認した後、身構えた。
「再生している時にに攻撃しても意味ありませんでしたね。」
「今、あれに近づけば喰われるだろうな。そしておそらく、あそこから強力なヤツが出てくる。」
「ロイ。止める方法はないのか。」
「攻撃をしても、どうせ再生する。」
肉塊はそのまま大きさを増していった。
それは、どんどん膨張する。待つことしかできない苛立ちに、ジュエルは眉根を寄せていた。
「一体、何が出てくるというんだ…。」
辺りが緊張に包まれる中、ロイが空中に静止している『ハヤト』を見ていた。ロイの顔は無表情だが、瞳の奥には不安が渦巻いているように見えた。
(ハヤト…)
その時。
ミシ…ミシミシッバリッ!!
「?!」
「ロイ!見ろ!!」
大きな肉塊の膜が破れていく。その中から不気味な唸り声をあげながら、それは出現した。ロイは生唾を呑んだ。
「こいつか…!」
「これなら区別がつきやすいですね。」
やはり、それは巨大だった。高さ3メートルは軽く越えている。触手まみれのその生物は、出来損ないのドラゴンのような形をしていた。背中の翼は肉がなく、白い骨が数本あるだけだ。
バッ!
『ハヤト』が動き出す。瞬間移動でもしたかのように、『マルコー』に攻撃を仕掛ける。今度は牙だった。
「ハヤト!危険だ!!」
ロイの声は、届かない。
『マルコー』の口は大きく開いていた。そこから、
ビュビュビュ!!
何かが吐き出された。
緑色の液体だった。
ドヅッ!!
それは『ハヤト』の翼を、弾丸のように突き抜けた。
バタバタバタ!
吹き出したその液体は3人のもとにも降り注いだ。3人ともそれに当たらないように動く。すると、ロイの横でジュウゥ…と、何かが焼けるような音がした。
見れば、瓦礫の一部が煙を上げながら溶けていた。
「溶解液…!」
ロイは、はっと上を見た。『ハヤト』は、片翼の半分以上なくしても『マルコー』に向かっていた。
思わず叫びたくなるが、グロウがそれを制した。
「無駄ですよ。あの人造生物は止まりません。」
「グロウ…。」
「見れば分かるでしょう?あれは、もうあのデカブツを倒すことしか考えてません。」
「でも…さっき俺を守ってくれたんだ。まだ、あいつは『生きて』いる!」
グロウは少しの間をおいた後、素っ気なく言った。
「完全に暴走するのも時間の問題でしょうね。」
「……!」
ロイは、下を向いて黙り込む。両手の銃がぶら下がっていた。その横にいたジュエルが、声を低くして言う。
「ロイ。今はアレを倒すことだけ考えるんだ。」
「分かってる……分かってる。」
地面を見つめながら重く呟き、息を吐いた。そして、ゆっくりと顔をあげる。
「……。行くぞ。」
ダッ!!
ロイが地を蹴ると同時に、ジュエルとグロウも走り出した。 ロイが指示を送った。
「俺がヤツの目を引く。お前らは隙を見て攻撃するんだ。」
「分かった。」
「了解です。」
3人の会話はいつもどうり5秒程で終了する。 その後は、すぐ行動に移った。
ジュエルとグロウは、『マルコー』の横のほうへ。ロイは真正面から『マルコー』に銃を向けて突っ込んでいく。
ドンドン!!
最初にロイの弾丸が飛ぶ。それは『マルコー』の喉元に当たった。しかし『マルコー』はびくともしない。それどころか、攻撃に反応した直後、鋭い爪で自分の敵を凪ぎ払おうとする。空気を殴るような音がした。
グオォ!
「ハッ」
シュタッ
ロイはそれを高いジャンプでかわし、巨大な『マルコー』の肩に着地した。銃を『マルコー』のこめかみにあて、引き金を引こうとする。だが。
シュバ!
「!」
何かが噴出したような音で、ロイは反射的にかがんだ。ロイの頭上を、緑色の液体が勢いよく通り過ぎる。あの溶解液だった。
「っ…」
少し霧がロイに降りかかった。細い腕で頭を隠し、息を止める。強化人間だったため、少しの痛みだけで済んだ。
(く…。どこから射出されたんだ…)
今、『マルコー』は宙に舞う『ハヤト』に集中していて、ロイには顔を向けていない。溶解液は口から発射されるはずなのに。そう思って周りに目を向けたが、それらしいものはなかった。
しかしロイはある気配に気づき、即座に発砲した。
ドン!!
ブシュッ
命中する。それは赤い触手だった。ビクッと痙攣した後、下に落ちてゆく。その時、触手は『マルコー』の尾のようなものだと分かった。そして、その尾は枝分かれしている。
「ちっ。器用な…もんだな!」
タッ!
再びロイは飛び上がる。
シュシュバシュバ!!
四方八方からの溶解液が空間を横切った。それは死角にあった数本の触手の先から出たものだった。ロイはそれを見て、銃を構える。
ドン ドン!!
無重力状態になったときに、まず2本撃ち落とす。
シュババ!
ドンドンドン!!
溶解液を空中で避けながら3本。
ドン!
シュタ
宙返りの後1本。その後地面に手をついて着地した。
どどどどどどぉ!
触手は大きな音をたてて転がった。また砂埃が上がる。その中で、ゆっくりとロイは立ち上がった。
キシャアアアァァ!!
爬虫類のような叫びとともに、『マルコー』はロイに牙をむく。
『マルコー』の爪が振り上げられた。ロイは後ろに跳び下がって避けようとする。だが次の瞬間、ロイは驚愕した。
グンッ
「な?!」
変化があったのは『マルコー』の翼の骨だった。何本もあるその無機物は一瞬にして長さを増し、湾曲した。
ザッ!
「っ!」
1本がロイの腹にかすった。骨は全方向から、槍のようにロイに向かっていく。あの巨大な爪は避けられたとしても、骨は避けきれない。しかも銃の弾は先程使い果たしてしまったことを、ロイは知っていた。
「…く!」
ロイが防御の体勢を取った時だった。
「ロイ。あなたらしくもないですね?」
ヒュヒュヒュヒュ
バッキイイィン!!
白い骨は折れて、砕け散った。ワイヤーが辺りを行き交っている。
「…グロウ!サンキュ!」
感謝の言葉を言いながら、ロイは走る。そしてすぐに弾をつめた。
その途中、ジュエルとすれ違う。ジュエルは地を駆け、『マルコー』の体に飛び移った。
「ふっ!」
タンタンッ
腕、肩と移動していき、最後に行き着くところは…
タン!!
『マルコー』が振り上げている、右腕の先だ。
「はああぁぁ!!」
ザン!!
『マルコー』の右腕は、あり得ない方向に折れ曲がった。
『マルコー』の体勢が崩れた。
そこに、キイィン…という音を立てながら『ハヤト』が接近していく。そして右の拳を。
ドゴオオオォォォン!!!
『マルコー』の体内にぶち込んだ。
周りの空気が大きく振動する。それはあまりに強力な一発だった。
ゴオォォ!
「!」
空中にいたジュエルは、その波動で吹き飛ばされそうになる。だが、見ることは出来た。
『ハヤト』の“破壊力”を。
ぽつりと呟く。
「何て、力だ。」
トッ
着地した後もそれに目を奪われたまま、ジュエルは立ち尽くしていた。
『マルコー』の胸に巨大な穴が空いていた。それは、胴体がまるごとなくなったと言ってもいい程だ。そこから、何かの熱によってシュウゥゥ…と白煙が立ちのぼっている。
『ハヤト』の身長は、普通の人間とさほど変わらない。それに対して、『マルコー』はかなりの巨体。素手であんな穴を空けるなんて、不可能なはずなのだ。
「……………ハヤト。」
ロイも絶句している。
辺りは不気味な静けさに包まれていた。
『マルコー』は、生きているのか、死んでいるのか分からない。もし倒せていたとしても、目標を失った『ハヤト』が、次に何をするか。
誰も、何も言えなかった。
その時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…
突然地鳴りが起こった。3人とも思わずよろける。
「何だ?」
「ロイ。やっぱり、まだ終わりじゃないようだ…。」
「見てください。デカブツの傷が治っていきます。」
見れば、ロイが撃ち落とした触手、グロウが砕いた骨、ジュエルが折った腕…そして、ハヤトが開けた穴。全てが元に戻っていく。ロイは息を呑んだ。
『マルコー』は完全に復元した。その後、気をためるように体を丸めた。それと共に地響きが大きくなっていく。
そして、『マルコー』は力を解き放った。
「ゴぉおアあああアアァぁぁァァァ!!!!」
ガガガガガガガ!!!
『マルコー』は、聞いているだけで脳が壊れそうな声で吠えた。『マルコー』の足元から地面が裂けていき、どんどん広がっていく。それが3人まで届いた、次の瞬間。
ザバババ!!
「がっ…?!」
「ぅく!」
「!」
辺りにバッと鮮血が散る。ロイ、ジュエル、グロウは同時に呻いた。
ロイの左肩に深い溝ができている。ジュエルの胸板には横一文字に傷が。グロウの背には右から左にかけて、斜めに切れ込みが走っていた。
3人は、各々傷を押さえて痛みをこらえた。ジュエルが膝をつく。
「何が、起こった…?」
そして、今感じていることをそのまま口に出した。グロウが応じる。
「かまいたちのようなものでは?」
深い傷を負ったというのに、いつもとあまり変わらない、呑気な口調だった。
「真空波…あの動作だけで…!」
ロイはそう言ったあと歯を食いしばった。
どくん。
突然ロイの左腕が脈打つ。途端に嫌な感覚が腕を駆け巡り、そのうち痙攣が始まってくる。そして。
みりみりみり
「!」
ロイは目を見開いた。ロイの左肩にできた溝が狭まっていく。完璧に傷口が見えなくなるまで、復元していき、痛みも無くなった。ロイはしばらく呆然としてから、苦笑して小さく呟いた。
「全く。有り難いんだか、そうでないんだか…。」
「ロイ、その肩は…?」
ロイは、ジュエルの言葉に大きく反応した。ぎこちなく、ジュエルに視線を移す。
「…見たのか?」
「見た。」
「見ましたね。」
「……。」
ジュエルだけでなく、グロウも即答した。
「お前ら…どんだけ細かいところ見てんだよ…。」
その時、ロイはあることを思いついた。
この左腕は、利用できる。
「で、それ何ですか?」
グロウが訊ねる。ジュエルは何も言わないが、真っ直ぐロイを見つめていた。
ロイは決まりの悪そうな顔で頭をかく。
「やれやれ。こんなに早くバレるとは、思わなかったよ。」
「ロイ…その、再生能力は。」
「あぁ…。あいつらと、同じの」
「ガアアァあああ!!」
『!』
ドガガガガガガガ!!
『マルコー』が再び動き出した。3人に目掛けて爪を振るった。3人は体力を無駄にしないよう、ギリギリのところで避ける。
「合成獣の細胞だ。」
「自分の体内に存在すると?」
「そんな馬鹿な!何でロイに…!」
ドガガガガガガガ!!
第2波。
ザッ!
「つ!」
ジュエルは動揺と痛みで動きが鈍り、それを避けきることが出来ず、右足に傷を負った。そこに、ロイが手を差し伸べる。
「色々、あった。」
「ロイ…。」
ジュエルは再び狂ったように『マルコー』に攻撃を仕掛けている『ハヤト』を見上げた。
(あの人造生物は、キサラギハヤト。ロイはそう言った。だったら分かっているはずだ。……自分も、同じ運命を辿ることくらい。)
ジュエルはロイの手を取った。だが本当に、微かに。自分にさえ聞こえない程小さく、
舌打ちをした。
ドンドン!!
ロイが『マルコー』の腕を撃ち、動きを少しだけ封じた。その隙に、ジュエルは一旦下がる。ロイは振り返って言う。
「ジュエル。グロウ。作戦を変える。あいつに極限までダメージを与えることに重点を置きたい。」
「…。努力はしてみる。」
「再生機能を何とかしないと無駄でしょうね。」
「きっとあいつは追い詰められれば、自分を触手で包み込んでさらなる進化を図る。その時がチャンスだ。」
「…それに近づけば吸収されてしまうのでは?」
そこで、ロイは自分の左腕を見た。
「俺に、考えがあるんだ。」
「…じゃあ行きますかジュエル。傷大丈夫ですか?」
「人のこと、言えたものじゃないだろう。グロウのは結構深そうだ。」
「これぐらいで、死にませんよ。」
シャッ
グロウは右手の5本のワイヤーを出して、いつもの笑顔をジュエルに向けた。ジュエルはそれを見て、自分も目標に向かって2本の剣を構える。ジャキッ…という重い音がした。
「さっきあれほどやっても再生した。致命傷なんて与えられるのか…?」
「さぁ?やってみるしか」
その時グロウが少し右手を動かすと、ワイヤーが収束して、剣の形を成した。
「ありませんね。」
ヒュヒュヒュ
『マルコー』は『ハヤト』との攻防で両腕を使っている。なので、翼の骨を使ってグロウに攻撃を仕掛けた。
グロウは疾風のごとく走り出す。
ヒュドドドドド!!
骨が次々襲い来る中を、グロウは物凄いスピードで駆け抜ける。前から来るものも、左右から来るものも、後ろから来るものも…時には左手のワイヤーで応戦していたが、ほとんど走りながら避けていた。
グォ!!
突如、骨はグロウを全方向から囲み込む。
「…しつこい。」
シャッ
左手を一振り。
バッキイイィン!!
砕け散った。
折れた骨は収縮し、『マルコー』の背に戻っていくようだ。それを見たグロウは、そのうちの1本にワイヤーを放つ。
ひゅっ
ワイヤーが骨に巻きつくと同時にグロウの体が浮いた。そこから一直線に『マルコー』へと向かっていく。少しして、グロウは『マルコー』の肩に飛び移ることができた。
メキメキメキ
奇妙な音にグロウが振り向くと、骨は復元していた。思わず溜め息が出る。だが、その次に起こったことに
「お。」
グロウは少し驚く。
メリメリメリメリ
復元した骨を肉が覆い始めていたのだ。
「これは…もしかして、ですね。」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…
再び地鳴りが辺りに響く。風が吹きすさび、『マルコー』を中心に空気の渦が出来ていく。砂が舞い踊り風景は褐色に包まれた。その向こうに、ジュエルは見た。
「あれは…翼?!」
砂嵐に浮かび上がる、影。それは大きな翼の形をしていた。ロイもそれを見る。
「馬鹿な!さっきまで骨しかなかった!」
「っ…!まさか、飛ぶのか!」
ゴゴオオオオオォ!!
風が一層強くなり、瓦礫が音を立てて吹き飛ぶ。もはや、『マルコー』を囲む風は竜巻と化していた。ロイはそれを睨んだ。
「まずいな。今飛び上がられたら攻撃の手段がなくなる。それに、あの勢いだとまた真空波が起こるかもしれない。さっきとは比べ物にならないやつだ。」
「くそ。どうしたらいい!…………?」
「ジュエル。どうした?」
「あそこに…」
ジュエルが指を差していたのは『マルコー』の肩の辺りだった。砂のせいで微かにしか見えなかったが、そこには確かにいた。
「グロウ!」
風に遊ばれる銀髪を押さえている姿があった。それを見て、ロイはニッと笑った。
「ジュエル!俺たちも行くぞ!」
「でも、あの竜巻を越えられるのか?」
「超えるんじゃない。利用するんだよ!」
そう言うやいなやロイは竜巻に向かって走り出す。ジュエルは少し躊躇したが、意を決してそれに続いた。竜巻はますます巨大になっていく。
そして2人は、『マルコー』の間近に着いた。今足を地面についているのがやっとなくらいの強風が2人に当たっていた。ロイは呼吸を1回整えて、呼ぶ。
「グロウー!!!聞こえるかー?!」
かなりの大声で叫んだつもりだったが、風の音でかき消されてしまう。駄目かと思ったその時。
ピリリリリリリ。
突然ロイのポケットから音がした。
「!…そうか、携帯で!」
すぐさま取り出して開く。やはりそれは、グロウからの着信だった。ロイがボタンを押して、ピッという小さな音がする。
『ロイ。ジュエル。早くこっちに来た方がいいです。』
「分かってる。竜巻に乗っていく。手を貸してくれないか。」
『はい。急いでください。』
プッ。
グロウはそれで切ったようだ。
ロイも携帯をポケットに突っ込む。
「ジュエル、先に行け。グロウが待ってる。」
ジュエルの頬に一筋の汗が流れた。だが、もう躊躇っている暇はないと、自覚していた。
「分かった。ロイも…早く来るんだぞ。」
それだけ言って、ジュエルは地を蹴った。
ゴオオオオォォォォ!!
ジュエルは一瞬にして竜巻に呑み込まれた。うまく『マルコー』に飛び移ることを試みようとするが、体の自由が全くきかない。ただ飛ばされることしかできないので、ジュエルは焦りを感じていた。
「くっ…グロウ、どこだ!」
すると。
シュルルッ
「!」
ジュエルの胴に何かが巻きついた。それは、ワイヤーだった。
ぐんっ
「ぐ…」
ジュエルは思い切り腹を締め付けられる感覚に襲われる。
ワイヤーに引かれているのだ。風の力に逆らいながらなのでゆっくりだったが、着実に『マルコー』に近づいていった。
そして
トッ
やっとグロウのもとに辿り着いた。グロウのワイヤーはシュルッという音と共に左手のワイヤークロウに戻っていった。ジュエルは咳き込む。
「すみません、少々乱暴でした。傷が開かないといいんですが。」
「ゲホ…大丈夫だ。傷も。」
「さて。もう一人、ですね。」
そう言いながらグロウは下を見た。
だが。
バサ バサ バサ
「!…」
翼が大きく羽ばたき始める。グロウは珍しく無表情になった。
「間もなくですね。」
「…ロイ!」
ジュエルもグロウも、ロイの姿を探すが、砂嵐が邪魔でなかなか見つからない。
ゴゴゴゴ…
「ぅあ!」
「っ!」
2人の足場が激しく不安定になる。『マルコー』が宙に浮いたことが感覚で分かった。落ちないように、慌てて自分の体を支えた。
「遅かった…か!」
ジュエルが悔しそうに呟いた時だった。
「!」
不意にグロウが何かに気付いた。そして
バシュッ!
ワイヤーを発射した。それは風を切り裂いて、弾丸のように飛んでいく。ジュエルは少し驚いた後、ワイヤーの先を見据えた。
「!!」
人影が見える。ワイヤーは先程と同じ様に、腹に巻きついているようだ。さらに目をこらすと、こちらを見てニッと笑っているのが分かった。
「ロ…」
ジュエルがその名前を呼ぼうとする。しかし。
「ゴォアアアアアァァァ!!!」
もう聞き慣れてしまった『マルコー』の奇妙な叫びが、ジュエルの声を掻き消した。
そして、次の瞬間。
ゴオオオオオオオオォォォォォォ!!!!
一気に上昇した。
空が、物凄い速さで近づく。
「っ!ああぁぁ!!」
「…くっ」
2人は押しつぶされそうな程の風の抵抗を受け、思わず声を上げた。
ドドドドドドド!!
地上を見てみると、激しく砂埃が上がっていた。地面は音を立てて割れていき、土も、瓦礫も、何もかもが吹き飛んでいく。そこにいたらどうなっていたかは全員予想できた。
「何てこった…」
「くっ。」
グロウが微かに呻いていた。ジュエルは、はっとしてグロウに目を移す。手から伸びるワイヤーの先に、ロイがうなだれていた。風力によって重さが増しているのを、グロウは片手で支えているのだ。
「グロウ!」
ジュエルはすぐにワイヤーを掴んだ。だが。
ザザ!
「っ!」
切れるような痛みに思わず手を放す。そして両手を見ると、血に染まっていた。
「このワイヤーを下手に扱わない方がいいですよ。今こうしてロイを傷つけないでぶら下げているのも結構骨が折れます。」
「くそ!どうすれば!」
ジュエルは焦る。ロイが、相当苦しいであろうことを理解していたからだ。ロイは、さっきの自分の数倍締め付けられているに違いない。そう感じていた。
自分には、何も出来ないのか。もどかしさがジュエルの心を包み込んでいく。
「ジュエル。」
「?」
「…デカブツの方を、頼んでもいいですか。」
グロウの声はとても静かだった。
グロウはジュエルのことを察していたのかもしれない。そう。今のジュエルに出来ることはそれしかないのだ。
「分かった。」
ジュエルは頷いた。そして『マルコー』に致命傷を与える方法を考える。両手の剣を握りしめた。
(ただ斬っても、再生されるだけだ。どうすればいい…)
そこに。
ヒュ!
風を切る音と共に、黒い影が勢いよく『マルコー』を追い抜いた。それと同時に『マルコー』の上昇が止まる。
(!…あれは、ハヤトか!)
バキバキバキ!
『ハヤト』の右腕が肥大化していく。
そして『ハヤト』は攻撃を再開した。
「ガアァ!!」
ドゴォン!!
ザバザバザバ!
まず右腕を『マルコー』の腹に打ち込む。その次に、左手の長く鋭い爪で打ち込んだところを薙いでいった。
しかし。
「…?」
ジュエルは眉を潜める。
『マルコー』がそれに反応していなかったからだ。ジュエルは『マルコー』の胸に大きな穴を空けた、『ハヤト』の力を思い出す。
(どういうことだ…さっきまでハヤトの攻撃は通用していたはずだ!)
「オオオォォォ」
バサ バサ バサ
『マルコー』は大きく翼を羽ばたかせた。再び、辺りに強風が巻き起こる。
「!」
『ハヤト』は風に煽られ、身動きが取れなくなった。そこで『マルコー』は動く。腕を振り上げて…
バギイィ!!
殴った。『ハヤト』の身の丈程もある拳で、正面からだった。どんなに強力なものだっただろう。
『ハヤト』が力無く地上へ頭から落ちていくのを、ジュエルは見た。
(風の結界…か。翼がある限り、奴は風を自由に操れる。)
そこで、ジュエルは気がつく。
(翼…そうか!翼を落とせれば!)
即座に振り向くと、今も羽ばたいている巨大な2対の翼があった。今『マルコー』はほぼ水平になって飛んでいるため、背中の上少し行けば翼の根元まで着く。ジュエルは飛ばされないようにゆっくりと立ち上がり、そこまで行こうとした。
だが。
シュルルル
「!」
何かが進む道を遮った。それは『マルコー』の尾…触手だった。
ビュビュビュビュ!
それらが一斉に溶解液を噴射する。ジュエルはこの不安定な足場で、完全に避ける術はない。
防御の体制を取るしかなかった。屈んで、腕を顔の前で交叉させた。
ジュジュワ!
「っ!」
体の数カ所に、焼けるような痛みが走る。だがジュエルはすぐ動いた。
「邪魔だ!」
2つの銀が光る。
まずは触手を片付けるようだ。
ジュエルは襲い来る触手を斬っていく。
しかし、やはり風の勢いでその速さは鈍っていたので、悪戦苦闘だった。
その上
ガックン
「え?!」
ぐらつく。『マルコー』が振り落とそうとしているのだ。この激しい飛行から、次には宙返ることが予想できた。
「っ!」
ザクッ!!
ジュエルはとっさに、剣を『マルコー』に深く突き刺した。
そして。
ゴオオオォォォォォ!!!
「くぅ…!」
天地が逆になった。
ジュエルは突き刺した剣に掴まっていたおかげで、何とか落ちずにすんだ。元に戻るまで耐えることが出来たが…
そこで気付く。
「!!グロウ、ロイ!」
2人の姿がない。ジュエルよりも迂闊には動けない状態だったので振り落とされてしまうことは容易に想像出来た。
「く…このおぉぉぉ!!」
ダッ!
ジュエルは剣を引き抜き、翼に向かって勢いよく飛び出していった。
大きく動く程、転落する危険性があったが…もう構っていられなかった。
剣が少しでも翼に届けば、斬ることができる。それだけを考えて踏み出していく。
あと、1メートル。
「届けえええぇぇぇ!!!」
ジュエルは腕を千切れる程に伸ばした。
その瞬間。ジュエルには、目に見えている風景全てがスローモーションになったかのように見えた。体がなかなか前に進まないこの不思議な感覚に、ジュエルは苛立った。
剣が翼に届くまで、
あと10センチ。
7センチ。
3センチ。
…1センチ。
「うっぉおおおお!!」
ザン!!!!
閃光が煌めく。
そして大きく、鋭い音が響き渡った。
…ジュエルは両手に剣を持って、翼の位置を通り越したところにいる。辺りは時間が止まっているかのように静かになり、あんなに鬱陶しかった風も、今では止んでいた。
そして 時が 動き出す。
バキ!バキバキバキ!!!
「ゴアアァァァァああぁ」
叫び声と共に。
『マルコー』の両翼が、根本からねじ切れた。居場所を失ったそれらは、少しゆらゆらと空中で迷った後、下へと落ちていった。そして、当然『マルコー』も。
「アアぁぁぁァ!!」
落ちる。堕ちていく。
ジュエルは何も支えがなかったため、宙に投げ出された。
ジュエルの視界全てが、空の青で支配される。
「…?」
だがその中に、小さく黒い影が見えた。それが何か理解する前に…
はっきりと声が聞こえた。
「さぁ、血祭りに上げましょう。」
太陽の逆光で分かりにくかった顔が、見えてくる。声の主であるグロウだった。ジュエルの落ちる速度より速く、降下しているようだ。
ひゅっ!
グロウが、ジュエルを追い越す。一瞬見えたグロウの表情はやはり笑顔だった。
そこに。
「よージュエル!」
「え」
高い声が聞こえた。どこから聞こえたのだろうと思っていると、
ひゅっ!
また1人、ジュエルを追い越していった。その人物は振り返って、ジュエルに親指を立てて見せていた。
「ロイ?!大丈夫か?!」
「ジュエル、サンキュな。後は任せろ!」
そう言った後、ロイも『マルコー』へ向かっていく。
ジュエルは少しきょとんとしていたが、やがてフッと表情を和らげると、着地の体勢に入るのだった。
ドオオォォォォ…ン
『マルコー』が大きな砂ぼこりを立てて、地面に背中から突っ込む。
そこにグロウは、来た。
どっ!
「ギゅ…」
『マルコー』の剥き出しの腹に、上からの蹴りを入れてやる。重力で重さを増した、強力な蹴りだ。『マルコー』は一瞬呻いた。
グロウは、ここで右手のワイヤーソードを構える。そして何とも言い難い、ひんやりとした笑顔で、こう言った。
「いい加減くたばりやがれ。」
ワイヤーソードは太陽光を反射してギラギラと光を放っていた。グロウはそれをゆっくりと振り上げる。…その光景はとても神々しいものに見えたが。
次の瞬間に、それは失われた。
ザバァ!!!
『マルコー』の腹を大きく切り開いた。よく手術でメスを使って体を切る丁寧さなどは、欠片もなかった。グロウは、赤い雨を浴びながら、さらに左手を用意する。
バシュッ!
ひゅひゅひゅん!
ワイヤーは、ついさっきできた“穴”から『マルコー』の体内へと侵入した。
「…!」
そこでグロウは強い手応えを感じたので自分の目で何があるのか確かめることにする。
ザクッ!
またワイヤーソードで“穴”を広げた。そして…そこで見えたものに、グロウは感嘆する。
「へぇ…こんなところにいたんですね。マルコーさん?」
5本のワイヤーが絡まっているのは、人の形をした肉塊だった。但し、人の形なのは上半身だけだ。下半身は内臓らしきものに埋もれていて、そこから無数の管が伸びている。管は周りにある筋肉などに繋がっていた。
「このデカブツは、ただの着ぐるみ。そういうことでしたか。」
グロウはじわじわとワイヤーを引く力を強める。
ギチッギチッ
「グ、グ…」
ワイヤーの締め付けに、人型の肉塊はくぐもった声を上げた。グロウは容赦なくワイヤーを引く。引く。引く。
バキバキ!ブチ!
「グギャアァォ!」
「っはぁ!!」
ブチィ!!
グロウの一喝で、肉塊はついに嫌な音を立てて内臓から離れたのだった。千切れた管は、中に流れていた液体を外に放出させ、ますます景色は赤に彩られた。
「さて、あとは好きに料理して下さい。ロイ。」
ぐんっ…ぐんっぐんっ
思い切り引いたワイヤーの先には『マルコー』本体の上半身があった。グロウは片手で、それをハンマー投げのように回した後。
ブン!!
『放った』。
ワイヤーを瞬時に手に戻したのだ。『マルコー』はロイの方に勢いよく飛んでいった。
…ロイは立っていた。言葉もなく。
キイィン…
『マルコー』が来る。
ロイはそれを…
「…!」
ドガッ!
上に蹴飛ばした。
『マルコー』が空高く舞い上がったところで、ロイはそれにゆっくりと1挺の銃を向ける。右手の銃だった。その時、そっと呟く。
「…終わらせるんだ。この、連鎖を。」
ドンドンドン!!!
連続で撃った3発の弾は、全て『マルコー』の胸を貫いた。3点を線で繋げば、ちょうど正三角形になりそうだ。
『マルコー』は体を重力に任せ、力なく地に落ちていこうとする。だがロイには、そうさせる気はなかった。一旦銃を腰にしまい、
たっ!
地を蹴って跳び上がった。ロイは『マルコー』に向かっていく。『マルコー』は落ちることでロイに近づいていく。
…2点が重なったとき。
がしっ!
ロイは、片手で『マルコー』の首を掴んだ。
その後、
「ハヤトおおぉ!」
ブン!!
力一杯、それを斜め下の方に投げた。
『マルコー』が行くその先には、『ハヤト』がいた。瓦礫の山の上で、今までの激しい動きが嘘のように…静かに、ただそこにいる。
分かっているのかもしれない。
今こそ全てにケリをつける時だということを。
…動き出した。
バッ!
『ハヤト』は、『マルコー』が来るのを待ったりはしなかった。もう翼はぼろぼろだったが、弾丸のような速さで、一直線に空中を飛んでいく。
「オオオォォオオアアァ!!」
叫びにも聞こえる、大きな声を上げて。
ドヅッ!!!!
とどめを、さす。
辺りは、静寂に支配されていた。
…3人は、見届けた。ハヤトの渾身の一撃を。
そして、ある場所に集った。
そこは、円形に凹んでいる地面の淵。底には『マルコー』が仰向けに倒れている。胸に3つの銃痕、腹に大きな穴を開けて。
地面からは煙が上がっていた。ついさっきまでは平らで、強い衝撃によって変形したことが分かる。ジュエルは、呟いた。
「終わった…か。」
だが。
「…………ケッケケケケケケケ」
『?!』
その奇妙な笑い声に一同は息を呑んだ。
「マぁダだぁ!!」
シュルルル!!
『マルコー』の千切れた下半身の部分から大量の触手が伸びて、ロイに向かっていく。避けられるスピードではない。
「ロイ!」
「っ!」
ロイは身構える。
その時、左腕を前に突き出した。
パシッ!!
「くっ…」
触手は、ロイの左腕に絡みついた。それはギリギリと左腕を締め付ける。潰してしまいそうな勢いだ。
『マルコー』を見る。顔の半分だけが人間になっていて、ニィ…と口の切れ込みを深くして笑っていた。
「人、造生物の細胞は…人間の肉体を吸収することで…その再生力を増す。クリ…ストファー。その体、オメガ遺伝子ごと吸収させてもらうぞ!」
ジュワァ!!
「っあ!!」
ロイの左腕を包む触手の隙間から、勢いよく白煙が上がった。即座に2人は各々の武器で触手を断ち切ろうと、ロイに駆け寄る。だが。
「?!」
ザッ
始めにジュエルが足を止めた。グロウも遅れて止まる。
何故なら、ロイが右手を真っ直ぐこちらに向けていたのだ。手のひらを見せていることから、近寄るなという合図だと、一目で分かる。
「くっくっくっく…」
ロイはうなだれたまま、低く笑い始める。そこにいる全員が同じことを思った。
「…何を笑っている?」
『マルコー』は半分の顔のままで、不快な表情を浮かべた。ロイは笑いながら、ゆっくりと顔を上げた。
「まさか、自分で引っかかってくれるとは思わなかったよ。」
「何だとおぉ?」
「…喰うがいいさ。この細胞を!」
その言葉が終わった瞬間、『マルコー』に異変が起こった。
どくん。
「うぉ?!…ぐおあぁぁ!!」
突如として、悲鳴を上げた。そして苦しみ、悶える。その姿を見て、ロイはますます笑む。
「ちゃんと効果がある。多分、お前は合成獣の細胞から出来た人造生物なんだろうな。」
「…!まさかっ…!!」
「お前なら分かるはずだ。合成獣の細胞同士を合わせたら…どうなるか。」
「まさか…まさか!合成獣の細胞を…自分に使っただとオオォ!!」
「おかげでサヤを救うことができた。だがお前の場合は違う。今のお前は完璧な人造生物。この細胞はお前にとって毒にしかならないだろう。」
「キ…サ…マ…!!」
「さぁて。どうなるかな!!」
ロイは左腕をさらに突き出した。
触手の吸収を『マルコー』は抑えることが出来ない。触手は、ひたすらに喰うことだけを本能としているようにロイの左腕を喰い続けていた。そして…『マルコー』は狂ったような声で叫んだ。
「貴様ああああぁぁぁぁ!!!」
その途端、触手がぶわっと『マルコー』全体を包み込んだ。中からくぐもった悲鳴が聞こえる。
「ロイ!奴は暴走するぞ!!」
「ち…やっぱ一筋縄じゃ行かないようだな。」
シュシュシュシュ!!
さらに大量の触手がロイに向かってきた。ロイが思わず後ずさった、その時だった。
バッ!!
「?!」
黒い影が、ロイの視界を遮った。触手は目標を変えて、それに巻きついていく。下半身と上半身は、あっと言う間に見えなくなった。
「?!ハヤト!!!」
一瞬で、ロイは起こったことを理解した。そう。それは『ハヤト』だったのだ。あっと言う間に全身が触手に飲み込まれてしまったが、触手の間からかろうじて手だけ見えてるのをロイは見逃さない。
「馬鹿野郎!!」
グチャ!!
ロイは乱暴に、右腕を蠢く触手に突っ込んだ。そしてハヤトの手を必死に探す。
ジュウウゥゥ…!!
「ぅぐ…!!!」
また白煙が上がった。
右腕には細胞が行き渡っていない。なので、左腕の数倍痛みを感じる。しかし、そんなことには構っていられなかった。
そして。
パシッ!
ロイは掴んだ。
人間らしい、暖かく、滑らかな皮膚の感触はない。骨が剥き出しの、ごつごつしている手だった。だが、それでもロイは感じた。これはハヤトの手だということを。
あの時と、同じ。
「…二度も死なせてたまるかよ…!言っただろう?俺は、お前が消えるのは嫌だ。嫌なんだ!たとえ人造生物になっても。お前は、俺の!!」
『友達ダトデモ、言イタイノカ?』
「え…?」
突然頭の中に強く響いた自分の声に、ロイは思わず声を上げた。
…その声はさらに言った。
『ソモソモ…ハヤトヲコンナ目二遭ワセテキタノハ、誰ダ?両親ヲ殺セトソソノカシ、ハヤトヲコノ地獄ヘノ扉ヘ導イタノハ、誰ナンダ?』
(…!)
ロイは、自分の目の前が真っ暗になった気がした。同時に、背中にぴったりとくっついている気配を感じる。さっきまで全くそんなものは分からなかったのに、まるでずっとそこにいたように感じられる不気味な気配。触手がロイの両腕を引っ張っているので、振り向くことも、耳を塞ぐことも出来ない。ただ…その言葉を聞くことしか出来なかった。
『友達トシテノ資格ナンテ在ルワケガナイダロウ?』
気配が、足音も立てずに動く。
それは背中から離れて、ロイのすぐ隣に来た。だがら、首を少しそっちに動かせば見ることが出来る。…汗が頬を伝った。
『オ前ニハ、ハヤトヲ救ウコトナンテ出来ナイ。…最初カラナ。』
ロイはぎこちなく、隣にいる『何か』を見た。大体その姿は声で想像がついていたが、ロイは息を呑む。
…それは、自分の姿だった。ここまでは予想通り。
しかし、今の自分より、少し背が低い。服装も違っていた。薄汚い、上下白い服。無地の上で、71という数字だけが目立っていた。
それと、もう一つ。体中が煤だらけだ。服も顔も、黒く汚れている。ロイには、すぐに理解できた。その煤は、手榴弾の爆発でついたものだと。
(これは…!)
もう一人のロイ…クリストファーの眼差しは、死者のように淀んでいたが、口は三日月のようにニイィと笑っていた。
その三日月はさらに歪んで、言葉を紡いだ。
『…また無駄に足掻いてる。そこから他人を不幸にしていることに、何で気づかない?』
そう言いながら、ロイの右腕に手をかざした、その時。
グチュグチュ!!
「?!」
触手が激しく蠢き始めた。そしてロイの右腕は急速に触手の渦へと吸い込まれていく。
「く…止めろ!!」
ロイは必死にハヤトの手を引くが、無駄だった。左腕に絡んでいた触手も、ハヤトを包むそれと一体化し、強い力でロイを引き寄せているのだ。なす術は、ない。
クリストファーは、そのままロイの体がどんどん埋まっていく光景を見て、呟いた。
『いない方がいいんだ。こんな疫病神は。』
体が、物凄く熱い。ジュエルの声が聞こえるが、何と言っているのか分からなかった。
薄れていく意識の中、最後に聞こえた『疫病神』という言葉が…やけに強く頭に残っていた。
あれから何分、何時間経ったのだろう。
「…………。」
ロイは目を覚ました。何もない闇の中でうずくまっていた。…あれに飲み込まれてからどうなったのかは分からないが、取り敢えず自分の意識は存在していた。
そこでまず思い出したのは、クリストファー、いや…内なる自分の言葉だった。
疫病神。
そう。俺は、疫病神だ。
それはずっと心の奥に隠していたコト。
ずっと気づいていない振りをしていた。
だけど、そんなことをしたって、現実は変わらない。
俺は…ハヤトに、殺しという一生背負って行かなければならない十字架を負わせた。殺しは良くないというハヤトの言葉を、それしか虐待から逃れる手段がないと押し切って…実行に移してしまった。
そこから全ての連鎖は始まったのだ。
あの刑務所に入れられて、ハヤトは人間を止めさせられた。
サヤはどんなに悲しんだだろう?ハヤトはどんなに苦しかっただろう?
俺だけ母の手によってのうのうと生き延びて。そして今。また、同じことを繰り返している。
「俺は…ここに居てもいいのか?」
ロイは闇の中で呟いた。
その時だった。ひどく透き通った声が聞こえたのは。
『クリス。』
その声は、ロイを包み込むように…とても優しく響き渡った。ロイはのろのろと顔を上げ、立ち上がって闇の中を見回す。けれどそこには誰もいない。だから声でそれが誰なのか判断するしかない。
声はまた響く。
『いや。今は、ロイ…だったかな。』
「ハヤト、なのか?」
その返事はすぐに返って来なかった。その代わり、辺りに異変が起こっていた。その異変にロイは思わず、閉じそうだった目蓋を開ける…。
「ぁ…」
さっきまで闇しかなかった空間に、無数の光が散りばめられていた。まるで自分が1人、星の海に放り込まれたと思えるような、とても神秘的な光景だった。
そして幾数の星が動く。それはロイの前に集まっていき、何かを形作っていくようだった。小さな光が集まり、大きな光となるその眩しさにロイの目が眩んだ、その時。
「そうだ。」
声は、やっと返事をした。同時に光の眩しさは段々弱まっていった。
ロイが、再び目を開き、目の前を見ると
…そこに、黒い瞳の少年が立っている。真っ直ぐロイを見つめていた。
「俺は、お前が疫病神だなんて一度も思ったことはない。」
「え…?」
「今ロイが考えてること、俺には手に取るように分かるよ。」
ハヤトは、これまでに見せたことのないような、とても穏やかな表情をしていた。ロイは少し驚いた様子だったが、すぐに俯き、しばらくの間を置いた後、重く口を開いた。
「…俺は、結局何も出来なかったんだ。あの時はお前とサヤを助けたつもりになっていたけど、違う。ただ…地獄に引きずり込んでいただけだった。」
「……。」
「俺は…お前と会わない方が良かったのかもしれない。」
「………。」
「いや、むしろ。……生まれてこない方が、良かったのかもしれないな。」
ハヤトはロイの言葉を黙って聞いていた。でも、そのうちスッと目を閉じて、ゆっくりと首を左右に振った。そして…静かに、告げる。
「俺はロイと会えて、嬉しかった。…結果なんてどうでもいいんだ。ロイは、俺を必死で助けようとしてくれた。俺を想っていてくれた。」
そう言って、ハヤトはロイの肩に右手をそっと置いた。
「…?」
その時、ロイの脳内に1つの映像が浮かんだ。
夜、激しい雨、路地裏…
いくつかの断片は、またロイの記憶を呼び覚ましていく。
「出会った時から、ずっと…」
…そこに響くのは、雨音だけ。
風景は良く見えない。2、3本の背の高い電灯が、消えそうな光で頼りなく辺りを照らしているだけだ。その電灯の光で見えるものと言えば、乱雑に置いてある大小様々なダンボール箱や、山積みのごみ袋。そこに食料を求めて、既に朽ちているごみを漁るカラスぐらいだった。
ここは、誰も通らない。誰からも忘れられているようにさえ思える…狭く、汚い路地裏。
気がつくと、ロイはその道の真ん中に立っていた。雨は激しく降りしきっているのに、何故か濡れることはない。
(ここ、は…)
その時、後ろから濡れた地面を歩く音が聞こえた。ピチャ、ピチャ、というひそやかな音だった。ロイは振り向いて、暗闇の向こうに目を凝らす。
「…………。」
そして、その姿は電灯の光に照らし出されてきた。
まず、始めに見えたのは泥だらけの素足。次に所々派手に破れている上、血で汚れている白い服だ。原型はとどめていないが、入院着を思わせた。顔は、ずぶ濡れになって垂れている茶髪が邪魔でよく見えない。ただ分かることは…それが少年だということだ。
ロイは、脳から勝手に滑り出した言葉を呟いた。
「これは…『俺』…?」
ロイは直感的に思った。これは過去の自分、クリストファーだと。両親に捨てられて1人で生きてきた…あの自分だと。
しかしやけに息が荒い。それに、よく見れば体中痣だらけだ。足は重く、引きずるように歩いている。その手には、1個の缶詰めがだけが握られていた。
(…思い出してきた。この日、俺は工場から食糧を盗もうとして、失敗して…連中にたこ殴りにされたんだっけ…。)
クリストファーはロイの脇を歩いていく。
ロイはクリストファーを目で追っていく。
互いの距離は間近だったのに、目が合うことはなかった。
ロイは、自然とクリストファーの後ろについていっていた。その背中を見つめてロイは何かを感じたようだったが、複雑なそれは言葉で言い表すのは難しかった。
ピチャ。
「?………!」
不意に、息を呑む音と共にクリストファーの足が止まる。…ある一点を見つめていた。
「おい。お前、大丈夫か…?」
そして、クリストファーはしゃがみこんだ。
…壁にもたれて俯いている、黒髪の少年に向かって。
クリストファーが何度呼びかけても反応はない。どうやら意識がないようだ。
その少年は、同じくボロボロだ。体の至る所に切り傷らしきものがあった。殴られたような痣もたくさんある。そして、何よりクリストファーが驚いたのは
「!」
少年の首だった。
そこには、縄の痕がついていた。首を締められたことが一目で分かる。その酷い痕に、クリストファーは眉根を寄せた。微かに息はあるが、この雨の中放っておけば最悪の場合死ぬだろうことが予想できる。
「…………。」
その時だ。クリストファーに、ある気持ちが生まれたのは。その気持ちは、人として当然のことのはずなのに…クリストファーは戸惑いを感じているようだった。
ロイも、それを思い出す。
こんな所で誰かを助けている余裕など、ないのではないか。
今まで、クリストファーは自分が生きることしか考えたことはなかった。自分さえ助かれば、他人はどうでもいい。だから孤独だ。誰かと関わることなんて、ない。
そうだ。そうやって生きてきた。
それなのに、何故?
「…チッ」
少しして、クリストファーは少年の体を起こし、背負った。
そして、また歩き始める。さっきと同じ方向に。
ゆっくり、ゆっくりと。
…ロイは、遠ざかる背中を眺めていた。
風景が、霞んでいく。
辺りは色を失い、雨音も消えていった。
静かに崩れゆく世界の中で、ロイは独り言のように言う。
「…俺はこの時、お前に会ったのか。」
そして、周りは完全に闇に包まれ、何も見えなくなった。
『そう。』
「…!」
その透き通った声で、ロイは目を開いた。すると、黒髪の少年…ハヤトが、目の前で自分の肩に手を置いていた。
「この時、出会った。」
「…俺、寝てたのか?」
「まあな。」
「……。」
ロイは少しだけ恥ずかしくなり、黙り込む。ハヤトは軽く声に出して笑っていた。その後、ハヤトの笑い声が小さくなっていき、少しの間が出来た。
星の海を、静寂が支配する。それはつかの間の、少しだけ和らいだ雰囲気を壊してしまうようだった。
ハヤトは、ロイの肩から手を離して、視線を逸らす。
「俺は…ロイがいなければ、本当に独りだった。」
ハヤトはあさっての方向を見てから、そっと呟いた。
「ロイは、もう覚えてないかもしれないな。何で、俺があんな所で倒れていたのか。」
「覚えてる。…両親の、虐待だろ。」
ロイは躊躇して言葉を紡いだ。
「いや、それだけじゃない。」
「え?」
「街の奴らだ。…あの日は殺されかけた。」
「街の、奴ら?」
「あぁ。最低な両親のお陰でな。」
ハヤトは、ロイに目を合わせないまま、少し下を向いた。そして吐き捨てるように言う。
「家が情報屋だった。人の秘密や弱みを捜査して売る、汚い職業だ。そして…そんな事をやっているうちに、アイツ等は脅迫者にまで成り下がった。民間、警察、国家。ありとあらゆる所で、脅迫を繰り返していた。」
「……。」
「だから、ルノワール全体の恨みを買ってる。それが、俺に降りかかって来ただけのことだ。両親は俺達を道具としか見てなかったから、勿論助けてくれることはなかった。」
「そんな。じゃあ…!」
そこで、ハヤトはゆっくりとロイを見た。笑顔が、幾数の星の光で蒼く照らし出されていた。儚いような、切ないような。しかし、ひどく優しい…笑顔が。
「言っただろ。俺は、本当に…………独りだった。」
ロイは何も、言えない。どんな言葉をかけていいのか、分からない。
「ハヤト…。」
「辛かった。悲しかった。独りでは何もできない。妹を守ることさえ、できない…。」
ハヤトは、その両手に握り拳を作っていた。
「俺は救われたんだ。」
そこでハヤトは、まるで自分の表情を隠すように、ロイから顔を背けた。
「俺は忘れない。ロイがあの時ボロボロになってまで手に入れた、1個だけの缶詰め…笑って俺に差し出してくれたことを。自分が生きるための…とても貴重なものだったはずなのに。」
その時不意に、ロイは自分の右手に固く冷たいものが握られているのを感じた。さっきまで何も持ってなかったはずだ、と思いながらも右手を見てみる。
…そこには、缶詰めがあった。色も形も、あの日手にした時とそっくりだった。
(え?)
顔を上げると、いつの間にかまた風景が変わっていた。薄暗い、よく分からない場所だ。ただ分かったのは、そこに少し驚いた表情をして自分を見ている、ハヤトがいたことだけだった。
そして… 自分は 右手に持っているものを…
「本当に、本当に…嬉しかった。ロイだけが…」
言葉が途切れ途切れになる。
熱いものが、込み上げて来て。
溜まっていたものが溢れ出してくる。
ハヤトは、それを抑えることが出来なかった。
そして堰をきったように言った。
「ロイだけが…俺に、手を差し伸べてくれたんだ!」
ロイは全てを思い出した。
ハヤトとの出会い。サヤとの出会い。互いに励ましあって生きてこれたこと。一緒に笑い会えたこと。まるで、灰色しかなかった風景に鮮やかな色がついたように、それまでの日々とは全く違うものだった。
どんなに苦しい時でも、乗り越えることが出来た。…独りでは、ないのだから。
ハヤトは涙を流す。それは孤独という名の闇を打ち破る存在に巡り会えた、喜び。
ロイも涙を零す。
その時になって、やっと気づくことができた。
自分の気持ちに。
「たとえロイが、この結果を招いたのだとしても…かまわない。ロイは俺を『生かして』くれたんだ。死んでいるも同然だった、俺を…。」
そう。
自分も寂しかったのだ。
そばにいてくれる人間が、欲しかった。
ハヤトは続ける。
「…友達になってくれた。」
「!」
ロイはハヤトの言葉に、息をのんだ。
「俺は、ハヤトの友達でも、いいのか…?」
「ああ。たった1人の、友達だ。そして、俺はロイの友達。そうだろ?」
「ハ、ヤト…。」
ハヤトは再びロイに笑顔を向けた。
「だから。友達の前で、生まれてこないほうが良かったなんて…悲しいこと、言わないでくれ…。」
自分の犯した罪を、赦してくれる。
こんな自分を、友達と言ってくれる。
ロイの心の中で、何か暖かいものが溢れ出ていた。言葉に出来ない、何かが。
だから、ロイは真っ直ぐとハヤトを見て、自分も優しく微笑み返した。そして…その最も単純な一言で自分の気持ちを表現したのだった。
『有り難う。』
バッ!!!
突然、一面の星空が眩しい光に包まれた。光は全ての闇を切り裂き、真っ白な空間を作り出す。ロイの目は、眩んだ。
「くっ…」
「道は、開いた。」
その声でロイはうっすらと目を開けて、ハヤトを見た。ハヤトの体は、白い光に包まれている。どんどん光は強くなり、その姿が見えなくなっていくようだった。
「ハヤト!」
「さあ。目を醒ますんだ。俺がアイツを抑えている間に。」
「な…」
「早くしないと、ロイまで取り込まれる!…ロイには、まだ待っている人間がいる。こんな所で死んではいけない。」
その言葉で、ロイの脳裏にジュエルとグロウの面影がよぎった。ロイは、少し沈黙する。
だが、その時だった。
ガシッ!
ロイは右腕を伸ばし、掴んだ。
今にも消えてしまいそうな、ハヤトの腕を。
「!…ロイ!」
「…行かせない。」
「お前にだって、いるじゃないか。待たせている奴が。俺だって、その1人だ。」
「!」
「言ってることとやってることが、滅茶苦茶なんだよ。…お前は。」
ロイは力強くハヤトの腕を引っ張った。
「もう…繰り返さない!」
「…?」
ジュエルは一旦両手の剣を降ろす。静かになったそれを見て、眉を潜めていた。
「暴走が、止まった?」
…『マルコー』の動きが止まったのだ。それは、ロイとハヤトを呑み込んでから5分程後のことだった。
「ロイが、実験動物の細胞がどうとか言ってましたけど。あの人造生物は恐らくその塊でしょう。それを喰ったわけですから、効果は高いかもしれませんね。」
「じゃあ、あの2人は…もう…」
ジュエルは、最後まで言うのを止めた。言いたくなかった。
辺りはそのまま静寂に包まれた。
と、思われたが。
「?」
ジュエルは何かに気づいた。それは本当に微かなものだったが、確かに感じ取ることが出来た。
「どうしました?」
「何か、聞こえないか。」
グロウも聴覚に集中して、聞き取ることができた。『マルコー』の中からだった。
地の底から沸き上がってくるような声。それは段々大きくなっていくようだ。
声は、はっきり聞こえて来るまでに至った。それでジュエルは声の主が誰であるかを理解した。
「この声は…ロイ?!」
「やれやれ。つくづく、生命力の強い人ですね。」
グロウが言った後、2人の前にある触手の塊は一変した。
「ォォォォヲヲヲオオオオ!!!!!」
ブチブチブチ!!
ズシャアアアァ!!!
獣の叫びのような凄まじい声とともに、蠢いていた何十本もの触手が千切れ、液を吹き上げた。その飛沫は激しく飛び散り、赤い霧を作り出す。
霧の中、ジュエルは見た。中心に立っている、血塗れのロイの姿を。…1人の、裸の少年と一緒だった。うなだれている少年の腕を自分の肩に回す形で、ロイは少年の体を支えていた。
ジュエルは、思わずロイの名前を叫び、まずそこに駆け寄ろうとする。
だが。
ザッ
ジュエルは 足を止めた。
(え?)
ジュエルは一瞬、何故自分が足を止めたのか分からなかった。しかし足はそれ以上動こうとはしない。
「!」
グロウも、異変に気づいたようだった。グロウが見たのは…ロイの左腕だった。
「ロ、イ…?」
ジュエルは無意識に呟く。同じく、ロイの左腕を見て。
ロイの左腕は…人間の形を失っていた。黒く変色した皮膚の下にある筋肉は、異常に肥大化している。そして、巨大な手の平の先にぶら下がっている、5本の鋭く尖った爪からは、ベットリとついた血が滴っている。
その爪で大量の触手を断ち切ったことが、容易に想像できた。
ロイの息はとても荒く、肩を激しく上下させていた。その時、一番近くにいたジュエルの姿がロイの目に映った。
「ジュ、エル…!」
「!」
「こいつを、ハヤト…を!俺から遠ざけろ…!!」
ロイは腹から絞り出すように、精一杯の声を出した。しかしジュエルは少し躊躇する。
「ロイ…大丈夫か?」
「いいから、早く!!!」
「…っ!」
その一喝で、ジュエルはロイの元に走った。そして素早く、ロイのすぐ隣にいる少年の手を引き、背負う。あとは、後ろに跳びずさった。
ジュエルは少年を瓦礫の陰に寝かせ、その傷だらけの体を見る。
(キサラギハヤト、か。もう虫の息だぞ…)
その時。
「グ…ォァアアァア!!」
また、獣じみた叫び声が聞こえてくる。ジュエルは舌打ちをした。
恐れていた事態が、こんなにも早く起こってしまった。
ジュエルは、一旦ハヤトを置いて、ロイの所に戻る。そこには…
「ゥォォォオオアアァ!!!」
ドガ!ドガッ!!ドガッ!!!
ガラガラガラ…
狂ったように左腕を振り回すロイがいた。地面を砕き、時々辺りにある廃屋の壁などを壊し、瓦礫の山を増やしていた。
「…ははははははは。」
突然、無機質な笑い声が聞こえた。ジュエルはちらりとそちらの方を見る。…『マルコー』だった。見れば、下半身からどんどん砂と化していっていくようだった。その中まだ残っている上半身が言う。
「素晴らしい…素晴らしいぞ、クリストファー。我が息子よ!お前の細胞の中に確かに感じたぞ…あの心地いい感触。オメガ!人造生物の細胞に侵されることなく、尚残っているその遺伝子!!」
「…………?」
ジュエルは眉を潜めた。
「残念ながら私は見届けることが出来ないようだ。しかし今に始まる。」
『マルコー』は、もう上半身も砂になり、首だけになった。
「輝かしい、終末の時が!!………はははははははは………」
その一言を最後に。『マルコー』という存在は、完全にこの世から消え去った。
ぶわっと風が巻き起こった。…砂は宙を舞い、虚空の彼方へ消えていく。
「………。」
グロウはただ黙って、それを冷めた目で見つめている。
ジュエルは訳の分からない話に、呆然とする事しか出来なかった。
(………オメガ、遺伝子?)
ドッ
その時、乾いた音が響いた。その音でジュエルは我に返る。即座に振り向き、探した。そして
「!」
見つける。前に倒れているロイの姿を。左腕は、大きく脈打っていて今にも再び暴走を始めそうだった。ロイは、まるで言うことを聞かせようとしているかのように、左腕を右手で押さえていた。
「ち…くしょう…治まれぇ…!!」
走りだそうとしたジュエルの肩に、グロウが後ろからぽんと手を置く。
「落ち着いて下さい。言うまでもありませんが、左腕を切り落としても無駄ですよ。」
「…分かってる。そんなこと、やりたくもない。」
「じゃあ、もう気づいてるんですね?唯一の解決法に。」
「…?」
グロウはある方向を見た。
…瓦礫の山があった。だが、目的はそれではない。瓦礫の裏には、ハヤトが。
「…っ!」
「細胞には細胞、ですよ。」
ジュエルは、グロウに向き直った。
「ロイはキサラギを命がけで助けた。その意味が無くなってしまう。」
「でも他に細胞の素はありませんよ?早くしないと、ロイは完全に腕に乗っ取られるでしょう。」
「くっ……」
「待って。」
『?』
後ろから突然高い声が聞こえ、ジュエルとグロウは振り向いた。古びたブラウス、プリーツスカート。ショートカットの黒髪を風になびかせ、その少女は静かな表情をしてそこに立っていた。ジュエルは少し驚く。
「キサラギ…サヤ。まだ、ここにいたのか?」
ジュエルの問いに、サヤはゆっくりと頷く。
「ずっと、見ていました。」
「…よく無事でしたね?大したものです。」
グロウは何か面白いものを見るような目で言った。しかし、サヤの表情は揺らがない。ルノワールに来て最初に見た彼女とは、全く違う雰囲気を纏っていた。
「兄さんが、守ってくれましたから。」
サヤはそっと呟くと、ロイの方に歩き始めた。
「おい!迂闊に近づくと…!」
ジュエルが止めようとしたが、サヤは無視して歩みを進めた。
「私にだって…出来ることがあるはず。」
目が霞む。鼓動がうるさい。体中が痛い。体力が全て左腕に吸い込まれていくような苦痛にロイが悶えている中、上から声が降ってきた。
「クリストファー。」
「…!」
ロイはそれに反応し、首を持ち上げようとする。しかし体が言うことを聞かないため、それだけの動作をするのにもかなり時間がかかった。ロイのぼやけた視界に、微かにサヤの顔が映る…。
「サヤ…?」
「クリストファー、私。」
サヤはぐっと言葉を呑み込んだ。それから少しの間ができた。ロイは掠れる声で訴える。
「サヤ、近付くな…今すぐ離れろ…っ!」
しかしサヤはロイの言葉に応えることも離れることもしない。黙って、左のブラウスの袖を捲り上げ始めた。そして剥き出しになった腕を、ロイに見せる。
「!」
一部ではあったが、青黒い痣のようなものが、ズクンズクンと脈打っていた。
「まさか、消し切れて…いなかった…?!」
「…違う。分かるの。あの時クリストファーがくれた細胞は、今も私に宿っていた細胞を打ち消してくれている。これももうじき消えるわ。」
サヤはしゃがみ、目の高さをロイに合わせて…言った。
「だから、今のうちに。」
「お願い。私の血を使って。」
「…っ!」
サヤの腕を見たときから、彼女が次に何と言うかは大体分かっていた。しかし、やはりロイは動揺を隠せなかった。
そう。今自分の左腕を治まらせるには、細胞を含んだサヤの血を…取り込むしかない。しかも、サヤの体に残っている細胞は僅かだ。自分の細胞の量と釣り合わせるには、大量の血が必要になるだろうことが予想できた。
「止めろ。そんなことしたら……くっ!」
ロイは上半身だけ起こすが、すぐにバランスを崩す。それを、サヤがすぐに支えた。軽いロイの体を仰向けにし、そっと自分の膝に載せた。
「私ね…全部思い出した。兄さんが、私をあの竜巻から守ってくれた時に。兄さんはあんな姿になっても私を守ってくれた。………それで分かったの。もう、手遅れだったんだって。私は兄さんとクリストファーを止められなかったんだって…。それは私に出来たはずのことなのに……出来なかった。」
その時サヤの顔は逆光でよく見えなかったが…ロイは見た。
彼女の目に溜まった、涙を。
「だから今度こそ。私は、私の出来ることをしたい。もう後悔なんてしたくないの!」
「サヤ…」
サヤの目からこぼれた雫が、1滴。2滴。音もなくロイの頬に落ちる。
ロイはもう動けなかった。サヤの顔を、かろうじて開いている目で見つめていることしか出来ない。
「だから。」
その中、サヤはロイの腰のあたりに手を伸ばした。真っ直ぐと進むその手は、何かを取ろうとしているようだった。
…ロイの腰にはベルトが巻かれているだけだ。そこで彼女に取れるものは1つしかない。
それは、ベルトにさしてある
1本のナイフ。
「…!」
「だから…せめて。」
シャキン
サヤはロイのナイフを抜き取る。それをそっと自分の首にあてて…言った。
「これくらいのことは、させて。」
その時。
ロイは、時が凍りついたように感じた。風で舞い上がる砂埃も、少し遠くにいるジュエルとグロウも。そして、目の前のサヤも。
動きが止まっている。
このまま時が動き出せば、確実にサヤは死ぬ。
…ロイはそれしか思わなかった。それが原動力になったのかもしれない。
止まった時の中、動かないはずの自分の右腕が動いた。
それは自然と、サヤのナイフを持つ手に伸びていく。
ゆっくり、ゆっくりと。
そして
パシ。
その音は大きめに響いた。
ロイが、サヤの右腕を掴んだのだ。自分の行動を止めたそれに、サヤは少し驚いた顔をしていた。ロイは息を切らしながらも、強い力でサヤの右腕を握りしめる。
「ったく…もうこんなの…見飽きたぜ。」
「…。」
「サヤ。ついさっき…俺は、気付いたんだ。この狂った世界に来てしまったのは…誰のせいでもない。」
ロイは、言葉を紡ぐ。途切れ途切れに。時折呻きながらも。ただ、サヤに伝えたかったのだ。
「皆…『生きたかった』だけ。普通に…生きていたかっただけなんだ!」
「!…」
サヤは、微かに息をのむ。
「ハヤトも、サヤも。世の中の全てに見捨てられ…いつ殺されてもおかしくない世界から、本当に抜け出したかった。…そうだろ?…だからハヤトとサヤは両親殺しを止めきれなかった。そして…俺は、失いたくなかった。力を合わせて…生きてきた仲間を。独りで…野垂れ死ぬのが、怖くて。ただただ…必死になって…。」
「クリス…。」
ロイは 少し沈黙した後
精一杯の笑顔をサヤに向けた。
「1人で、責任を感じるのは…、もう止めようぜ。そんな必要は、もうないんだ…。」
「それにまだ終わったわけじゃない。やり直せるんだ。俺達が生きている限り…。だから、」
ロイは意識が朦朧とする中、自分の手をサヤの手に重ねて…優しく引く。サヤの腕は、既に力をなくしていて、簡単にナイフを首から下ろすことが出来た。
「サヤも生きて…俺も生きる。もちろんハヤトも一緒だ。そのために…少しだけ。…少しだけ力を貸してくれないか…?」
サヤは、手に持ったナイフを見る。手の甲から感じられるロイの温もりで、再び目の奥が熱くなるのを感じた。
…そして。
「…………。うん。」
微笑んで、頷いた。
その声を聞いて、ロイはゆっくりと目を閉じる。
「…有り難う。」
サヤはナイフを動かす。
それで 自分の左腕に
スッと傷をつけた。
血が吹き出る左腕を
ロイは ぐっと引き寄せ、
その傷に 口を…
「…。静かになりましたね。」
…グロウは、遠い2人の姿を見ていた。そこからはサヤの背中と、それに少し隠れるロイの体しか見えない。
「一体何をしているんでしょう?」
ジュエルもそれを見ていたが
「…さあな。」
やがて、背を向けた。
その後の記録
兵士達の死闘によって、ルノワールは人造生物による完全壊滅を避けることに成功。ニトロ爆弾も、使用はせずに済んだ。
ルノワールの住民全員を地下に避難させることで、死者0人、重傷者2人、軽傷者6人と人命の被害も最小限に留めることが出来た。
また、KKの調査により、人造生物繁殖及び群襲来の主謀者はマルコー=ガーラントと発覚した。マルコーは地下研究施設で、20年前に途絶えたはずの研究、実験を続けていたらしい。後になり地下研究施設はKKによって爆破されたが、そこから多数の合成獣の死骸と人造生物を集めたと思われる特殊電波発信機が発見された。動機についての詳細は不明。
KKは、マルコーを危険人物と確定して処分したが、ルノワール住民は、信頼ある国の責任者と唯一の医者を失ったことにひどくショックを受けたようで、各地で起こった騒動の鎮圧には長時間を要した。我が国はこれに対して、医療チームの派遣と新たな指導者確立のための援助を行うことを決定したが、1部の住民の反発は未だ治まることがなく、完全に治めるのは難しいことが予想された。
…朝の柔らかな光が、開いた窓から差し込み、そこから入り込んだそよ風がカーテンをふわりと揺らした。
「………。」
ロイが、目を醒ます。
まず見えたのは白い天井だった。ロイはしばらくそれをぼうっと見つめているだけだったが、近くで寝息が聞こえたのでそちらに目を移した。すると、椅子の上でサヤが眠っている。その左腕には包帯が巻かれていた。
「……サヤ。」
ロイは重い半身を起こして、呼びかけた。それが返ってくるのは期待していなかったが、
「…ん…」
小さく声が聞こえた。だから、ロイはベッドから少し乗り出してもう一度その名を呼んだ。
「サヤ。」
サヤはうっすらと目を開ける。そして、ゆっくりとロイの方を見た。
「…クリストファー?」
「サヤ…無事で、良かった。」
ロイがそう言うと、サヤは一呼吸おいた後
微笑む。
「それは、こっちの台詞でしょ?」
「…。」
朝日に照らされたその笑顔のあまりの暖かさに、ロイは一瞬身動きが取れなくなったような気がした。サヤはそんなロイを見て、
「腕、まだ痛む?」
と聞く。
「………。いや…。」
ロイは視線を逸らした。
「!」
その時、ロイは今更のようにその事に気付き、自分の左腕を見た。それは、ちゃんとした人間の形をしていた。
サヤは言う。
「腕が元に戻ったと同時にクリストファーは気を失ったの。…覚えてない?1週間も眠ってたんだよ。」
「……。」
どくん。
「でも、本当に良かった。あのまま目を醒まさないかと思った。腕も…もう大丈夫、だよね?」
「……………。」
どくん。
その鼓動は、さっきからロイの中で聞こえていた。ロイは、左手を握ったり開いたりしてみる。
…直感的に思った。
完全には治っていない。
まだ細胞は生きている。
でも。
「あぁ。もう、大丈夫だ。」
ロイはそれを口に出したりはしなかった。サヤのとても嬉しそうな顔を、壊したくはなかった。それにもっと重要なことがある。
「そうだ…ハヤトは。ハヤトはどうなったんだ?」
「!…」
サヤは一瞬言葉を詰まらせる。
そして、少しだけ俯いた。
ロイはその動作を見るだけで、血の気が引く感じがした。それ以上聞くのがとてつもなく…怖い。
「無事、なのか…?」
「…………。」
長い沈黙の後、帰ってきた答えは。
「…別の部屋に、いるよ。」
それを聞いた直後、ロイはベッドから跳ね上がった。
「本当か?!じゃあ、」
そう言いながら床に足をつけて、立ち上がろうとしたが…かくんっと膝が折れる。
「う、わ!」
「クリストファー!」
そのまま前に倒れそうになったのを、サヤが何とか支えた。その後ロイの体をベッドにゆっくり戻す。
「まだ無理しちゃだめだよ。今起きたばっかりなんだから。」
「っ…すまない。」
「それに、今は…。」
また、サヤは黙り込む。
ロイはそんなサヤの様子に眉を潜めた。
「サヤ?」
「………。」
その後もサヤはしばらく何も口にしなかったが、
やがて意を決したように話し始めた。
「…兄さんの、体のほうは奇跡的にヒトの細胞が残ってて、今それを増やすように治療してるそうなの。でも、脳の損傷が…酷いらしくて。お医者様の話では…もう意識を取り戻すのは…………」
サヤはそこで言葉を切る。…限界だったのだ。しかしその後にどういう言葉が続くのかは、十分に理解できるものだった。
そして ロイも言葉を失った。
2人は 沈黙する。
今では珍しい鳥の鳴き声が聞こえた。風が僅かな木々をゆらす爽やかな音も、よく聞こえる。麗らかに降り注ぐ日差しにさえ、音があるように感じられた。
「………でもね。」
そんな透き通った空間に、サヤの小さな囁きが響き渡り、ロイは俯いていた顔を上げた。
「兄さんは目を醒ますよ。だって、聞こえるから。」
「…?」
サヤは窓の方を向いていた。そこから入ってきた風が、サヤの前髪をそっと揺らす。
「兄さんの、声が。私の名前を昔みたいに優しく呼んで…きっと戻ってくるって。きっと3人で全てをやり直そうって。だから、私は待つよ。いつか兄さんは…帰ってくるから。」
「…………。」
ロイはしばらく呆けた顔をしていた。
しかし、やがて目を閉じると…ふっと笑った。
「ハヤトも言ってたな。そんなこと。」
「え?」
「言ってたんだよ。サヤが自分を呼ぶ声が聞こえるって。」
「兄さんが…?」
「ああ。きっと、サヤが呼んだから。ハヤトはサヤを守ることができたんじゃないかな。」
「私が…呼んだ…。」
ふとロイも窓の外を見て、言った。
「今、俺にも聞こえた気がするよ。あいつの声が。」
上を見れば淡い青が空を埋め尽くしている。時折吹く風が、とても涼しい。
ここは、ある庭だった。芝生が地面を敷き詰めていて、何本か木も生えている。後ろには大きな白い建物が立っていた。
建物の前の所々にはベンチが置いてあって、そこに座っている人影が…1つ。
ジュエルだった。
目を閉じていた時、後ろから芝を踏む音が聞こえてくる。振り返る気は起こらなかった。それが誰なのか、予想はついていたからだ。
「おはようございます。ジュエル。」
予想が裏切られることはなかった。
「…おはよう。グロウ。」
「こんな所にいたんですか。不用心ですよ?またルノワール住民に襲われるかも。」
「ここは俺達の国で厳重に管理されてる。」
「用心はしておくものです。…ところで。まだロイは目を醒まさないのですか。」
ジュエルは白い建物のほうに振り返り、見上げる。
「……そうらしいな。」
その拍子にグロウの姿も目に入り、
「…」
ジュエルは少し沈黙した。目の前にいる人物は…大きな帽子にサングラス。それに長いコートを着ていた。夏なのに、とても暑苦しそうな格好だった。
「用心ですよ。」
「…むしろ不審だぞ。」
「そうですか?けっこう気に入ってるんですけど。…似合ってません?」
「…………。」
グロウが帽子のつばをクイッと上げてみせる。ジュエルはどう反応していいのか分からず、ただ黙って見ているだけだ。
だから、グロウは次の話を切り出すことにした。
「それはそうと。明日の早朝、僕達軍はルノワールを出発するらしいですよ。」
「…ロイはどうするんだ?」
「お構いなしです。目を醒まさないなら僕達で『ヴィマナ』まで運ぶしかないですね。」
やれやれ、という感じでグロウは肩をすくめて見せた。
「まあそんなわけで。…大して見る場所もないでしょうが…最後にルノワールを回って見るのもいいんじゃないですか?」
ジュエルは1つ溜め息をつくと、グロウから目を離し、地面に目を落とした。
「………俺はいい。ここでロイを待ってる。」
「そうですか。暇だと思いますけどね~…。じゃあ僕は行ってきます。」
「その格好。少し直していけよ。」
「……。ジュエルがそう言うなら仕方がありません。」
グロウはそう言うと、その場から立ち去っていき…ジュエルが残される。
ジュエルは再び風の音に耳を傾け、口を開くことはなかった。
太陽が真上まで上る頃。…重い音をたてて、病室の扉が横にスライドした。ジュエルは扉の奥にある姿を見て言う。
「ロイ…起きたのか。」
ロイはベッドに半身を埋めながら、驚いた顔をしてそこに立っているジュエルを見た。軽く片手を振って、
「おはよ。」
と挨拶した。
「腕は。…大丈夫なのか。」
「あはは。やっぱ見舞いにくる人間っていうのは、みんな同じことしか言わないな。」
ロイは両手を組み、思い切り前に伸ばしながらそう茶化した。ジュエルは扉を閉める。ベッドに向かって歩き、間近な所まで行ったところでピタリと止まった。
「……。大丈夫なのか、と聞いている。」
ジュエルは溜め息をついて、重く呟く。その重さに、ロイは少し反応したようだ。沈黙し、何かを考えている。ジュエルは答えを急かすことなく、じっと待っていた。
そして。
「ジュエルとグロウには…話しておくべきかもしれないな。」
「…………。」
ロイはその切り出しで話し始めた。自分の腕に細胞が混じった経緯。それによって誰が助かったか。また、腕が完全には治ってないということも。
ジュエルは何も言わず、ただ静かに耳を傾けていた。
「…これで、終わりだ。」
ロイはふっと息をつくと、窓の外に少し目を向けた。ジュエルは黙っている。ロイもそれ以上言葉を紡ぎ出す気配はない。
だから暫く、辺りを静寂が支配した。
しかし。
「どうして。」
「?」
ジュエルがそれを打ち破った。ロイは思わず振り向く。
「どうして、隠そうとした。」
「…俺が何か隠したか?」
「あぁ。」
「…何を。」
「腕のことだ。」
抑揚のない口調でジュエルはそう言った。だが、ロイは感じ取った。
微かな…ジュエルの、憤りを。
何故なら、彼の自分を見つめる瞳があまりに真っ直ぐだったからだ。
「別に…隠すつもりはなかった。」
「あの時、俺達がお前の傷が一瞬で治るのを見た。だからお前はこのことを打ち明けざるを得なかった。」
ジュエルは思い出していた。マルコーとの戦いの時を。
「でも。もし俺達がそれを見なければ、お前はずっと隠しているつもりだったんだろう。」
「……。」
「隠せるはずもないのに。」
「……お前らに、余計な心配はかけられない。」
ジュエルはそこで、冷たく硬い床に目を落とした。
「それが。分からないと言っているんだ。」
ジュエルは近くの椅子にゆっくりと座ってからこう言った。
「ロイ。俺達は強化人間として目覚めてから、何年一緒に戦ったんだ?」
「え。……。」
いきなり聞かれてロイは少し戸惑う。…思い出しにくい。そんなことは、考えたことがなかった。
強化人間は戦うことしか出来ない人形。体が成長することはない。今までだって、これからだって。止まった時の中で、ただ戦い続ける。
時なんて、意味がないもの。
ロイはそう思っていた。
しかし…何とか記憶を辿り、思い出すことが出来た。
「…15年か…?」
「そうだ。あれから15年経ったんだ。俺達は生みの親であるルチアを殺し、国と接触し…それからは人造生物を殲滅する毎日だった。あと…時々人も殺したな。」
ジュエルはどこか遠い目をして言っていた。ロイはその様子に眉を潜める。
「ジュエル。さっきから、どうした?」
「………。」
「…ジュエル?」
「ごめん。自分でもよく分かってないかもしれない。でも、俺は…仲間に何かあったら…。」
「……。なか、ま…?」
ロイは少し間を置いて、その言葉を言う。すると
また、口から自然とこぼれてきた。
「仲間…。」
その時。
ロイは、自分の心から何かが流れ出すのを感じた。それは脳まで達すると、視神経を伝って目の前に映像として現れてきた。次から次へと、瞬時に色んな場面が流れていく。
(……これ…は。)
ロイは呆然としてその映像を見ていた。
それは自分が経験してきた、全ての事柄だった。
親に捨てられた後。
ハヤトと出会い、サヤと出会い。それから3人で支え合って暮らしたこと。殺人を犯し、ハヤトと自分が刑務所に入れられ…そして、そこからの脱走に失敗して。
1度殺され、全ての記憶が闇に葬り去った後。母の手で狂戦士として生まれ変わったこと。
「…………。」
まだ続いていく。
目覚めの後。
殺人衝動によって母を殺め、それから自分の意志を取り戻したこと。そこでジュエルとグロウに出会い、生きるために3人であらゆる努力をしてきたこと。
巡り巡って。
…15年の時を経て。
このルノワールの地に戻った。また2人と共に数々の闘いを切り抜けた。それを通して記憶の欠片を取り戻していき…自分の過去に決着をつけることが出来た。
そして
今に至る。
何故、突然自分の過去が見えたのか。その時のロイには理解できない。しかし、心の奥では感じていた。
…それぞれの自分の過去には、共通点がある。
何の?
もっとよく考える。
…もっと。
(ぁ。………。)
そして、気付く。
いつも自分のそばにあったものに。…今更のことだった。でも、分かっていなかった。
時をかけて作られるもの。
時をかけて繋がる絆。
それは、とてもとても深いものだったことを。
ジュエルの声が響く。
「俺は一緒に戦ってきた仲間が1人で苦しむのは、見たくない。ロイやグロウが苦しいと思うときは、力になりたい。…それだけだ。」
そう、今ここにいられるのは自分1人の力ではない。
ハヤト。サヤ。
ジュエル。グロウ。
どんな壁を超える時でも、いつもそこには仲間がいた。
手を差し伸べ合って、取り合って。
今という時をこの手に掴み取っている。
「はは…そうだ。…そうだよな、ジュエル。」
ロイは穏やかに笑った。
「俺も見たくない。お前やグロウが苦しむのは。」
「……。」
「…もう隠すのは、止めだ。辛いときは、思い切り吐き出してやる。」
「…ロイ。」
「…俺って馬鹿だよな。15年も経ってるのに。お前たちという存在が見えてなかったんだからな。」
「…そういうわけでもない。」
「?」
ロイが見ると、ジュエルは珍しくばつが悪そうな顔をしていた。
「ロイは、俺達に心配をかけたくなかった。…その気持ちは…そういうこと、だろ。」
それを聞いてロイは少し黙り込む。頭を掻いて、苦笑いした。
「…難しいもんだな。」
「…すまない。やっぱり何と言っていいか、分からない。」
2人で顔を見合わせ、しばらく沈黙した。
すると。
「ぷっ…あっはははは!」
突然ロイの笑い声が響いた。
「な、何だ。」
「いやいや。お前がそんな形容し難い顔してんの、初めて見たからさ。」
「……。形容し難い顔で悪かったな。」
「でもいいんじゃないかー?たまには。そういうのも。…くっくっく!」
ジュエルは少し憮然としていたが
やがて。
「ふ。…ふふ。あははは。」
「おー。お前の笑い顔もめったに見れないや。あっはは!お前も何かあったら俺に相談しろよ?」
「ああ。そうするよ。」
「…これからも、宜しくな。」
「…こちらこそ。」
それから
2人は朗らかに笑った。
3人は、それからルノワールでの最後の1日を思い思いに過ごした。もっとも、ロイだけは医者にまだ安静にするように言われ、渋々病室のベッドで寝たままだったが…。時間が過ぎるのはそんなに遅くもなかった。
昼を越え、夜を超えて。また同じ様に日は上る。
早朝。
ロイは、ある扉の前に立っていた。しかし扉を開けようとはしない。本当に、ただそこに立っているだけだった。
扉には、プレートがかけてあった。
『集中治療室』
「…………。」
見つめていた。
扉ではなく、その向こうにあるであろう空間を。5分そうしていたのか、それとも20分そうしていたかは分からないが。
やがて ロイは背中を向けた。
真っ直ぐ伸びる長い廊下を
ゆっくりと歩いていく。
心に誓った。
必ず
ここに戻ってくると。
ロイが振り返ることはない。
静かな足音は…そのまま遠ざかっていった。
外へと続く自動扉が開くと、ぶわっと風が吹き付けてきた。東にあるその出口は、まだ微かに赤い、朝日に照らされている。
だから目の前に並んで立っている2人の影は、その逆光に映し出されていた。
「……。待たせたな。」
「別れは済んだか。」
ジュエルが聞く。
「もうすぐ出発ですよ。まあ無事にできたら、ですけどね。」
グロウがいつものように悪戯っぽく言った。
ロイは2人の間を抜けて前に立つ。そして振り返ってから…微笑んだ。
「行こうぜ。」
ざぁ…と木々が揺れた。ジュエルとグロウはしばらく言葉を失う。
ロイの微笑みが、あまりに静かだった。何か決意のようなものを感じさせる、そんな表情だった。
だから
2人はただ頷いて、それに応えた。
そして3つの影は動き出す。
街のほうを避けていき、砂漠に出る。乾いた大地を1歩1歩踏みしめて進む先は海岸だ。そこに波音とともに佇んでいるのは…『ヴィマナ』。
バラバラと辺りにプロペラ音が響いていた。何人か行き交っている兵士のうち1人が、こちらに歩み寄ってくる。
「お待ちしておりました。」
「KK。只今到着しました。」
ロイは事務的な口調で言った。
「すぐに搭乗して下さい。間もなく発進します。」
「了解しました。」
…ひどくあっさりした、短い会話だった。この国を去る準備はそれだけでもう出来てしまった。
3人は『ヴィマナ』の搭乗口へ向かう。
『ヴィマナ』の中にロイが乗り込み、グロウが続く。そして最後にジュエルが入口に足を掛ける。
だが、不意にジュエルは振り向いて…見た。
乾いた砂漠。透明なドームに覆われている小さな国。夜の深い青を残した、鮮やかな空。
…ずっと向こうで微かに渦巻いている、黒い雲。
やがて、雨になる。
ジュエルは感じていた。
不安と、恐れを。
ずっと心に引っかかっていた。…あの言葉を思い出す度に背筋が寒くなり、吐き気がするのだ。
今に始まる
輝かしい 終末の時
…『オメガ』。
「……。」
何も覚えはない。ただ、無性に気分が悪かった。何かが起こる。…そんな予感がした。
確信が、ある?
「どうかしましたか。」
「!…」
グロウの声にジュエルは反応した。
「…悪い。」
ジュエルはそれ以上考えるのを止め、急いで『ヴィマナ』に乗り込んだ。
やがて『ヴィマナ』のプロペラ音は一層速くなる。中では激しく声が飛び交っていた。
「エレクトロニクスエンジン、始動!」
「システムオールグリーン。」
ドザザザ…
海が音を立てる。
そして。
「ヴィマナ号発進!」
空に飛び立つ、黒い影が見えた。
一隻の飛行艇だ。
ゆっくりとした速度で海の方へ向かっていくその姿は、段々小さくなっていき…気付いたときには、雲に隠れてもう見えなくなる。
それを見届けた。
ここは小さな丘の上にある、小さな墓地だった。とても寂しい所ではあったが、海を一望できる気持ちのいい場所だった。
…ある人物が、ある墓の前に立って、彼方に消えていく飛行艇を見ていた。
その人物は
大きな帽子に、サングラス。それに長いコートを着ていた。
夏なのに、とても暑苦しそうな格好だった。
墓は最近出来たものらしく、墓標の前には数個の花束が置いてある。どれもみずみずしく、鮮やかな色が綺麗だった。
…その中の1つが
グシャッ!
踏み潰された。
「あなたの言う通り。……終末は、始まります。」
コートの人物はそう言いながら、帽子のツバを手に取り…ゆっくりと外す。
肩に掛かる銀髪が
ふわりと風に揺れた。
「でも、あなたが作りだそうとしたそれとは違います。」
次にサングラスに手をかける。
「本当の終末が。…始まるのです。」
そして、外した。
――あとがき――
皆さんこんにちは。ARISです。
この度は『地獄に咲く花』を無事書き遂げることが出来ました。と言っても感想スレのほうでも書きましたが、続編を書くことにしました。(^^)興味が少しでも湧いた方は是非ご覧になってみて下さい。
この小説のストーリーは、中学校の頃からぼんやりと浮かんでいました。そのまま高校を卒業して、ふと「書いてみようか」と思ったのが去年の4月頃です。
それで書いてみると…とても大変なものでした。文章の表現のしかたや、細かな設定の説明。中でも一番悩んだのが登場人物の気持ちを考えることですね。(^^)
少し、知り合いからBLっぽいと言われたことがあります。(^^;)そうするつもりはなかったのですが…やっぱりうまく表現が出来なかったのだと思います。不快に感じた方には申し訳ありませんでした。
そんなこんなで
あらゆる点が拙いものでしたが
皆さんはここまで読んで下さいました。
…本当に、有り難うございました。
嬉しい気持ちでいっぱいです。(^O^)
もし良かったら意見感想、何でもお寄せ下さい。
それでは
どこかで、また会いましょうね
ARIS
今日、ここに2つ目の新しい命が生まれた。2つ目というのは、私が1つ目だからだ。
その命の名は決めていない。
違う。私は一生にして、それに名などつけないだろう。
私達は永遠。永久に、ある1つの業を成さねばならない。そしてそれを成す為には、自分の存在というものを感じてはならないのだ。だから、名前も必要ない。だから、私にも名前がない。
「ここは、どこ?」
小さな光球から命の声が響く。透き通った細い声だ。少女の声…いや、少年の声かもしれない。純粋で、まだ何も知らない真っ白な命。それが無性に愛しかったのか哀れに見えたのか分からないが、私は出来る限りの優しい声で答えるのだった。
「ここは、命の源泉となる場所だよ。」
「イのチのゲンせン?」
無垢な声が、可笑しな発音で私の言葉を繰り返す。言っている意味が分かっていないのだろうとすぐに分かる。
当然だ。ほんの2、3刻前に生まれたばかりなのだから。思わず笑いがこみ上げてくる。このようなものを見るとますます混乱させたくなってしまう。自分の性格が悪いことは重々承知しているつもりだが。
「そうだ。肉体を離れた全ての魂は、土を通してを浄化され、ここに集合する。そしてここから星を支える生命の流れを構成し、『螺旋』を作り上げていく…そんなところだ。」
「……???」
命はもはや返事をしない。姿はなくとも、丸い目をして首を傾げている様子が分かる。私はついに笑いを声に出してしまった。
命が、いつまでも黙っている。少し怒らせてしまったか?
「くっくっく…悪い悪い。お前にはまだ理解出来ないな。」
私は光球をそっと撫でた。そうすると、ほんのりとした熱さが伝わってくる。やはり怒っていたのかもしれない。けれど、命はそれから気を取り直したようにまた訊いてきた。
「お姉さんは、だれ?」
お姉さん、という言葉に私は少しだけ嬉しくなる。…もうからかうのは止すことにした。
「私か?私はずっと前からここにいる。お前と同じ様に生まれた。…つまり、これからお前は私と同じ様に生きるんだ。」
「お姉さんはここで何をしているの?」
「それはまだ教えられないな。お前はさっき私が言ったことが分からなかっただろう?」
「…分かるもん。」
命はぶすっとした口調で言う。
「ほお?そうだったか。なら私に説明してみるがいい。生命の流れとは何か。『螺旋』とは何か。」
「分かるもん……分かるもん!」
その後も命は何度か同じ言葉を繰り返す。私は、こらこらと自分に言い聞かせた。もうからかうのは止めたのではなかったのか。やはりこの幾億年かけて曲がり果ててしまった性格を今更直すのは、酷な事なのかもしれない。
私は、不意に目を落とした。
「それに、まだ知らなくていい。」
「え?」
命が小さく声を出す。私が急に真面目な顔になったからかもしれない。
「…時が経てば嫌でも分かるのだから。」
私はそう呟いて上を見上げた。忙しなく揺れるエメラルド色の水面に、どこからか白い光が射し込んでいた。
そして私は、オモう。
命の事を。
この命は私と同じ様に生まれ、同じ様に生きる。さっき自分で言った言葉を思い出した。いずれ世界の仕組みを知り、自分が何であるかを知り…ただ自分の運命に身を任せる。今の私のように。
だが、
本当にそれでいいのだろうか。
「どうしたの?」
命の無邪気な声が、私の胸に響き渡った。
私は少し溜め息をついてから、
「何でもないよ。」
と言うのだった。私の言うことが分からなければ、それでいい。…その時が来るまで。
私は命に背を向けた。
「お姉さん、どこか行っちゃうの?」
「ああ、少し仕事にな。すぐに帰ってくる。お前はそれまで眠っていると良い。」
「…そういえばさっきから眠いや。」
私は振り返り、また光球を撫でた。
「生まれたばかりなのに私と話して、疲れたんだろう。……眠るんだ。優しい夢を見ながら。」
「…うん…」
命はやがて何も言わなくなった。
命が生まれてから、地球の時間で100年が過ぎた。100年と言っても、私にとっては1年くらいに感じる。それくらいまでに、今や私の時間の感覚はなかった。見れば100年の大半眠っていた命も、少ししか成長していないようだった。ある日、命はこんな事を言った。
「ねぇ、ところで。ボクは男なの?女なの?ボクお姉さんみたいに体がないから、分からないよ。」
性別の認識。命は未だただの光球だから、疑問に思っても可笑しくない。その答えは実に詰まらないものだから、まだ言わないでおこう。私は命の話し相手になることにした。
「そうだな。ボク…と言う所を見ると、男かもしれないな。」
「そうなの?」
「普通は、そうだ。」
「…ふーん…」
私のその一言だけで、命は何か納得している様子だった。私は思わず命に聞いてみたくなった。
「お前自身はどっちがいいと思う?」
「え?」
「男と女だ。何も自分をボクと言うからと言って、必ずしも男と決まるわけではないんだぞ。」
「えぇ!そうなんだ。じゃあ…えっと……」
その後命はしばらく何か自問自答していたが、やがて1つの答えに辿り着いたようだった。
「やっぱり…男かな。」
「何故だ?」
「よく分からない。でも、男は女より強そうだし。」
「おいおい。それは男女差別というものだ。私はお前なんか片手で簡単に握り潰せるぞ?」
「え?!や、止めて!」
命は激しく動揺する。全く、只の冗談も分からん奴だ。まあ事実ではあるが。
「でも、ボクは女のヒトみたいにはなれない気がするんだ。だって女のヒトって、みんなお姉さんみたいに意地悪なんでしょ?」
「それは性格による…ってお前。今さらりと何か言わなかったか。」
「うぅん!何も。」
こいつ…意外に腹黒なのかもしれないな。
そう思い、私があさっての方向見て失笑していた時だった。命はとても小さな声で呟いた。
「でも、本当は……しい。」
「…うん?」
その言葉がよく聞こえず、私は逸らしていた目を再び光球に移す。すると、何だかつぶらな瞳で見上げられているような気がした。
命が、私をじっと見つめている。…いや、私の中にある何かを見つめている。そんな感じがした。
「すまん。よく聞こえなかった。もう1度言ってくれるか?」
私がそう訊いても、よく分からないが命は中々口を開かない。しかし次に言葉を発した時はさっきとは違い、はっきりとした口調だった。
「お姉さんは、本当はとっても優しいよ。」
「…えっ…」
一瞬、私は変な声を出してしまった。命が突然そんなことを言うものだから。…というか、自分以外の存在から優しいなんて言われたのは生まれて初めてだった。まあ今まで私はこの世界で独りだったから、当然ではあるか。
しかし…上の世界を見ていて、その『誉める』という行為は知っていたものの、それが自分に向けられると…ああ、何だろう?気持ちがふわふわする。
私は今どんな顔をしているのだろう?
「お姉さん、顔赤いよ?何でかな?」
「え?…な!」
私は思わず自分の顔に触ってみる。すると、少し熱くなっていた。故意にからかったのかそうでないのか分からないが、命は私を見てクスクスと笑っていた。
「な、何でもない!」
私がそう言い張るが、逆効果だったようだ。それから命は妖精がはしゃぐように、宙に螺旋を描いたり跳ね回ったりし始める。
「ふふっお姉さんの顔赤い!わぁーい!」
「私の顔を見て何を喜んでいるんだお前は!」
命は私の言葉を無視して1人で上の方を飛び回っていた。それはとても速く、私には捕まえることができない。私はしばらく憮然として、命が白い光の尾を引きながら遊んでいるのを見ていた。
「僕も早く体が欲しいなぁ。どんな体になるんだろう?」
やっと命が戻ってきた。全くどれだけ面白がれば気が済むのか、あれからかれこれ30分くらい経っていた。私はふぅ、と息をつく。
「その内手に入る。今のお前にはまだ早いが、自分の姿を思い描くことが出来ればその姿になれる。…だからな。実を言ってしまうと、ここでは私達の性別は無いに等しいんだよ。」
「え…?それって、どういうこと?」
「私の場合、今は人間の形をしているが…実際は他の動物でも。あるいは石でも水でも。体をあらゆる形に変えることができる。」
命は少し言葉を失った。
「ボク達っていったい何なの?」
「…一応説明すると、私達はこの混沌世界の『意識』だ。『意識』には形がない。だから性の区別も皆無なのだ。その『意識』によって混沌の中の様々な元素を操り、今の器を構築することが出きる。だから…もしかしたらこの混沌世界そのものが私達の体、とも言い換えることが出来るかもしれないな。」
…長い間。
その後に帰ってきた言葉は、
「何言ってるか、分かんない。」
やはり。
そのシンプルな言葉はあまりにも私の予想と同じだったので、思わず苦笑してしまった。まあ今の命は人間に置き換えてみると、成長していても3才児くらいだから理解できなくても無理はない。
そう。考えてみればこれはもっと先に教えるべきことだ。いずれ命が私の後を継ぎ、この星の循環を守る立場になる時に…
その時。
「!」
突然心の中の私が、私にしか聞こえない警鐘を鳴らす。そしてそれは、私にこう言った。
それ以上命に無駄なことを教えるべきではない。
その瞬間、私は思い出した。
そうだった。…私は何をやっているんだろう。それは命が生まれたときから決めていた。決して忘れてはならないことだと、あれほど自分に言い聞かせたはずなのに。
命の意識に『自分』という存在を定着させてはならない。
私達にとって、これからしていくことに『自分』は必要ない。それがあることによって味わうのは、苦しみだけだ。だから私は自分の名前を消し、命にも名前を与えなかったのではないか。
『自分』なんて邪魔なだけ。私はこの幾億年でそれを十分に理解したはずなのに。命と話していて、そんな大事なことも忘れてしまっていた。
駄目だ。
このまま行ってしまっては。
「体なんて、必要ない。」
「え?」
ぼそりと、自分でも驚くほど低い声で。私は思考から滑り出た言葉をそのまま口に出していた。それは、命にとってはさぞ唐突な言葉だったと思う。…そう頭では分かっていた。
「今、何て言ったの…?」
「だから。お前には体なんて必要ないと言ったんだ。」
命に表情はない。しかし私の一言でかなり動揺しているのは目に見えた。でもその時私は、私を止めることが出来なかった。
体があっては。
命にとって『自分』の存在が、目に見えるようになる分だけ強固なものになってしまう。今はただ、それを避けたかった。
命を引き戻すには、命が体を持っていない今しかない。私はそう感じたのだろうと思う。
「どうしたの…?お姉さん…」
命が、今にも泣き出しそうな声を出す。混乱しているようにも思えた。それはそうだ。さっきまでの私と、今の私。言っていることが全く噛み合っていないのだから。
「お前は、もう余計なことは考えるな!!」
私の大きな声が辺りに響く。その時かすかに、ヒッと息を呑む声が聞こえた気がする。自分自身の怒鳴り声は私の頭の中でもがんがんと響いて…それは軽い目眩を催した。
「っ…」
私は少し俯く。そのまま辺りは静寂に支配された。その後は、まるで時が止まったようになった。
いや、時が止まったと言うよりも。この空間がとても冷たい水が満たされ、それがみるみる凍っていき…全てが氷に閉ざされてしまったような感じだ。その氷の中で、私は忽ち動けなくなってしまった。
長く、冷たい沈黙の後。
それはぽつりと聞こえた。
「ごめんなさい…」
命がそう言うと、私の目の前に浮かんでいた光球がふっと消えた。
「!」
私は一瞬何が起こったのか分からず、辺りを何度も何度も見回す。命の火が消えてしまったのかと思い、恐怖にかられた。
しかし、そのうち状況を把握する。
光が消えた理由は、命の精神が私のいない場所を望み、自然とそこに移動したからだ。…死んでしまったわけではない。私は荒げていた呼吸をゆっくりと鎮める。
私は、空っぽの空間に残されたのだ。
エメラルド色の海の水。上の水面から降り注ぐ白い光。今それらが各々の動きを変えることなく、私のことを囲んでいる。とても心が虚しくなり、私は深い深い溜め息をついた。
「…私は……何をしているんだ…」
今更そんなことを言っても、もう遅い。命は私の理不尽な態度に愛想を尽かし、いなくなってしまったのだから。説明不足を補おうにも、それが出来ない。
でも、私は。
命に私と同じ道を辿らせたくない、その一心だったんだ。
…自分に言い訳してもしょうがないだろう。と、私は私の心に言い返す。するとますます胸が後悔で一杯になった。
するとその時、
水面の光がパァッと輝いた。
その時、私は多分凍りついたような表情を浮かべていたと思う。
なぜなら、それは合図だからだ。いつもの『務め』の時間がやってきたという合図。水面から射す光はみるみるうちに強くなっていき、その眩いエメラルド色はやがて私の体をすっぽりと包み込んだ。
「…あぁっ…」
体の力が急速に抜けていく。私はその場でがくりと膝をついて、肩を抱え込んだ。
私の体からはぼんやりとした白い光球が幾つも出て行き、それはどんどん上に昇っていくと、輝く水面に吸い込まれていった。
あの光球は私の命の一部だ。言い換えると、私の生きる力。それが今、この世界…混沌の海の循環エネルギーとして、星に吸収されていく。私は遥か昔から、こうして自分の命を削って混沌の海の循環を保ってきた。
これすなわち、地球上のすべての生命の循環を保つことに繋がる。これが、ここに生まれた私達の『務め』なのだ。
昔はそれ程苦しみを感じなかった。しかし、あの頃から幾億年と命を削り取られ続け…私は今限界を迎えようとしていた。
「はぁ…はぁっ!!」
呼吸するのもやっとだ。
私の命はあと数年で尽きるのだということを、この度思い知らされる。
――さて。命が生まれてから、何千年か経っただろうか?
私と命はあれからというもの、実に穏やかな時間を過ごしてきた。共に戯れ…時々私が命を叱ったりもして気まずくもなったが、それも教育の一環だっただろう。こんな不器用な私に教育が務まったのかと疑問に持つかもしれないが。
私は常の『務め』を果たしながらも、命を育てた。思えば、私はあの子の母親のつもりでいたのかもしれない。
その努力が実ったのかどうかは定かではないが、命は段々と純粋な子供から大人への階段を上り始めていた。
ただそこに存在することに満足していたあの頃とは、もう違う。自分がどういう存在で、何のために生まれてきたのかという疑問を本格的に持ち始めている。
それにつれ私も、確実に終わりへと近づいていっていた。
「――なぁ、姉や。」
と、ある日命が話しかけてきた。その声が少し声が低くなっている事に、私はやはり命の成長を感じ、ちょっとだけ嬉しくなる。
「ん?どうした?」
「姉やには、名前がないのか?」
「…何だ?お前が今更になってそんなこと聞くなんて。今までずっと、お前は気にしていなかったじゃないか。」
「それに、名前など私たちにとって無意味なものということは口を酸っぱくして言ったつもりだったんだがな…。」
名前。それは『自分』の存在の証。だが私達には『自分』などというモノは無い。この言葉を何度思考の中で繰り返したかもう思い出せない程ではあるが、あえて再び繰り返そう。それを在ると思いこんでしまえば、ただ辛くなるだけ。――今の私のように。
何故私は消えてゆく?
何に命を吸い取られていく?
何故、私はまだ生きている?
答えは単純だ。
『私』という意識は最初からそこには無いのだ。だから今この憂いも存在していないし、ましてや生きてなどいない。あらゆる生命の源であるこの海をたゆたい、ただこの星の在るべき流れを維持するために働いている。多分何かの物質なのだろうと思う。
物質は意志など持たない。持ってはいけない。ただ星に貢献し、役目を終える。そのことに何の疑問も抱かないし、不満も無い。だから、『私達』は存在しないモノ。
この『在るのに無い』という乱暴で矛盾だらけの論理を、命にはみっちりと教えた筈だ。この話題が元で気まずくなったりしたし、喧嘩もした。けど、この教育は絶対必要なことだと私は思っている。
…あぁ。
私、また『私』って言ってる。
そんな思考で勝手に苛ついていた時、命は言った。
「無意味じゃないよ。…だって姉やは今そこにいるじゃないか。」
珍しく、はっきりとした口調だった。いつもはおどおどしていて、訳も分からず謝ってくることばかりだったのに。私は思わず目を丸くして命のことを見た。
「………何、言ってるんだ?お前。」
そう言った私の声は、少しだけ掠れていた。一体どういうことだ?これは。思考が微妙に追いついていかない…。
「だから。ちゃんと姉やの心はここに存在してるって、僕は言いたい。」
気付けば私は馬鹿みたいに口を半開きにしていた。そんな――命はどうして突然私の論理と正反対のことを言っているんだ?あれほど、必死に教えてきたのに。
只の冗談か。始めはそう思った。
「私の心――『私』が、存在する?…はははっお前は何を根拠にそんなことを言っているんだ?」
「姉やこそ。何を根拠に『自分』が存在しないって言ってるんだい?」
何の感情の揺らぎもなく、さらりと。命は本当に分からないところを質問するように返した。たったそれだけのことだったが、それは私に稲妻のような衝撃を与えた。
それからは「どうして」という言葉だけが私の思考を埋め尽くし、私は何かを口にするのが難しくなっていた。
「本当は、姉やだって気付いてるんでしょ?存在してないなんて、どう考えたって可笑しいって。…存在の根拠が知りたい?それは、僕は姉やを知っているからだよ。」
すると、命は自身からパァッと白い光を放ち始めた。最初は弱い輝きだったのだが…
「姉やが生まれた僕を大事に育ててくれたから、僕は知っているんだ。笑っている姉やも、意地悪な姉やも。」
段々とそれは大きく、眩しくなっていったのだ。この世界全体を包み込んでいくまでにも達して。
「怒っていた姉やも、それでも優しかった姉やも…ね。」
やがて
視界が全て白で埋め尽くされた。
「……、」
光が命へと収束を始め、そのまま完全に辺りから消え去った頃。私はその光景に絶句していた。何故なら、さっきまで私の目の前にあったかつての命の姿が――無くなっていたのだから。
彼は静かに私を見つめながら、佇んでいた。
特徴は、やはり大体私と同じ。大きなエメラルドグリーンの瞳と短めの銀髪が印象的な、少し幼めの少年だった。透き通るような白い肌の上に上下シンプルな白い服を着ている。彼は何か現実離れしたような雰囲気を持っていて、私が言うのも何か変な感じはするが、その姿はとても神秘的だった。
「僕達は、今ここに存る。」
命は、ちゃんとそこにある口を使って言った。私は、その一言だけで押しつぶされそうになる。命が胸の内側に持っている光のあまりの強さに肩がすくんだ。
「姉やがいて、僕がいる。互いに動きも、表情も、感情も分かる。それが――僕達の存在の証だ。だからいくら存在を誤魔化したとしても、心を誤魔化すことまでは出来ない。」
「お前………そうか。それがお前の『形』、か。」
「…え?」
私は何とか笑ってみせると、命は今更自分の体に気付いたようだった。まじまじと両方の手のひらを見つめてみたり、背中の方に首を回してみたりしていた。
やがて命は自分の姿を完全に認識したようだった。
「僕の、体…。」
――ああ。
私は溜息をつく。そこには感嘆と一緒に、正直絶望も混じっていたと思う。…ついに、命も自分の存在を明確に認識できるようになってしまったのだ。これでは、今の私と何も変わりはしない。私と同じ苦しみを味わい、運命をなぞるだけ。決して、命にはそんなことはさせないと決めていたのに!
だが今更戻れはしない。
体を得た以上、そこに定着した魂を再び分離することは私でも不可能だ。ならば、もう私に出来ることはもう無くなってしまうのか?
命はこのまま………
「……お前は、」
私は口から悪い物を吐き出すように、低い声を出す。すると、命が少し驚いたように息を呑む様子がはっきりと目に入った。
「自分の存在を強く認めた。そしてお前のその意志に呼応して、今この世界に渦巻く生命の海がお前に体を与えた。」
「……。」
「私はお前に教えてきた。私達が自分を持つということの無意味を。そこには苦しみしかないということを。これから、お前はその意味を半永久的に味わうことになるだろう。
その覚悟がお前にあるのか?私の言ってきたことが分かっていても……お前は自分はここに存在すると、宣言するというのか?」
それが無駄な問いであることは分かっていた。
けれどこれが私が命に差し伸べることのできる、最後の手だった。命がこの手をはねのけるというのなら……私は。
やがて、命は答えを言った。いつ覚えた礼儀作法なのか、頭をすっと私に下げて、
「ごめんなさい。」
――決まった。――
「折角姉やがここまで教えてきてくれたのに。僕は、本当に駄目な奴だ。
でも、多分信じたくないんだと思う。
僕らは今こうして話しているのに、それが全部無かったことになるなんて。喜びも悲しみも…優しさも。温もりも。
たとえそれが周りから見た事実であったとしても。僕は…信じたくないんだ。」
命は今更、頼りなさげに目を伏せ、少し揺れのある細い声で話していた。
だから。
私はそれを支えるように、包み込むように…命の体をぎゅっと抱きしめた。
その時命がどんな表情をしたのかは分からない。ただ体が固まって、強ばっている感じがした。だから私はなるべく優しく、優しく――多分こんなに気を使ったのは生まれて始めてかもしれない。命にこう言い聞かせる。
「分かった。
もう、私は何も言わない。
お前は今、確かにここに在るのだからな。」
優しく…精一杯言い聞かせたつもりだったのだが。やはり後半の方で声が少し震えてしまった。動揺が隠しきれてないのだろう。全く未練たらしいこと、この上ない。
「――姉や。」
命はその掠れた声の後に、
静かにこう告げた。
「ありがとう…」
長いような、短いような沈黙が続いた。
今、この瞬間を噛みしめるように。私はぎゅっと目を閉じながら命の肩から手を離し――少し目を開ける。命は真っ直ぐ私を見ていた。その瞳にはひとかけらの曇りもない。
私はそれで、完全に理解したのだった。
「どうやら…お前に、私達課せられている使命を教える時が来たようだ。」
命はゆっくりと
強く頷いた。
「…ついてくるがいい。」
私は命から数歩下がり、イメージを描き出す。まず、命は『現世』を知る必要がある。
――現世を映し出す間へいざなう扉をここに――
私はそれから軽く右の空間に手をかざすと、そこが砂のようにさらさらと粒子化していった。
命は少し息を呑んだ。空間に穴が空く光景は初めて見るものだったのだろう。
私は穴の向こう側に進む。そこは真っ暗な闇だった。
「さあ。」
「………。」
今まで命は闇を見たことがないはずだ。けれどそれに怖じ気づくこともなく、命は黙って私に続いた。
穴はその内にどんどん広がり、私達2人を完全に呑み込む…
闇が、完全に空間を支配する。そのあまりの深さに上も下も、右も左も分からなくなる。そんな中に、私と命は放り込まれた。
「ここは…?」
「私達の世界で唯一、地上の世界が見ることの出来る場所だ。私は『傍観の間』と呼んでいる。何もないように見えるが心配することはない。じき、地球の姿を映す鏡が見えてくる。」
そう言った直後だった。私達の足元が白い光を放ち、光は綺麗な円形を形作っていく。それはさながら、そこに1枚の大きな鏡が現れたように見えた。
「!」
「ここに映るのは地上…地球の姿。地球とは私達が存在する全体の世界の名前。そして私達はいわば地球の血液の流れを守る者。私達は地上で死に至った生命体を血液に還元する力を行使する。…いや、強制的に何かによって行使されると言った方がいいな。
地上に出ることはなく。地球の内で、地球の生命が尽きてしまうことの無いように、流れを保ち続ける。言ってしまえばこれこそが私達の宿命なのだ。」
鏡は映し出す。
まず地球の誕生と歴史、そして生命の誕生と営み、豊かな緑、蒼い空、清らかな水、土。それはかつての、地球の姿。
「もしも地球の…血が尽きてしまったら、どうなる?」
「まず地上の生命の源であるモノ――いわゆる植物が全て朽ちる。そうすると、地上の全ての生命が滅び行くことだろう。そして地上だけでなく私達の世界も、終わる。全てただの土塊になり、後は崩れ去るだけだろうな。」
「こんなに綺麗なのに…。」
「だが。今まさに、地球はその危機に近付いているのだよ。」
「え?」
私は鏡に手をかざし、また別の映像を映し出させる。
「地球の生物の1つに、人間というものがある。」
「ニンゲン…」
「そう、人間だ。確か随分前に、私の体は人間の形をしていると話したことがあったな。そして今のお前の形も、人間。多分、私の形にしか影響を受けようがなかったのだろう。」
鏡には様々な人間の姿が映った。赤子を始め、成熟した人間や老いた人間。未成熟なものもあった。実を言うと、私は命にあまりこれを見せたくはなかった。けれど、命は知らなければならないのだ。
「僕達とは違う存在なのか?」
「無論だ。私達は地球の命を守る側に立つが、人間は消費する側に立つ。それだけで、全くと言っていいほど意味が違ってくるだろう。もっとも地球上の植物以外の生命は全て消費する側ではあるが…こいつらの場合は、桁が違う。
だいぶ昔はそうでもなかったが、今となっては無駄に私達の命を喰い荒らす害虫のようなものでしかない。…死後還元されるエネルギー量も、喰い荒らした分の補完にはとても届いたものではないしな。
こいつらは生産者である植物を断ち、水や空気を穢す。私達が守る『流れ』は幾分かの浄化作用も持っているが、人間の影響は幾百年、千年――そして今も続き。現在、その穢れの浄化に急速に『流れ』が費やされ続けているのだ。
…尽きる勢いでな。」
命は黙って、鏡に映っている人間をその目に焼き付けているように見えた。
私は命に聞こえない程度に溜息をつく。この話の流れならば、今があの事を伝えるいい機会だろう。
「命よ。私はお前に教えておかなくてはいけないことがある。」
「?…何?」
勿論不安ではある。何しろ命が『役目』を果たすことを決めたのはつい先程。それにまだ、命は幼いほうだと思う。果たして――こんなことをいきなりに受け止めることが出来るのか。
けれど私には時間があまり無いし、隠したところで意味もない。
「結論から言う。
そう遠くない未来だ。
私の命は、尽きるだろう。」
命は目を丸くして私を見た。
「姉や?今なんて…」
「聞こえなかったか?私は近い内に、死ぬと言ったのだ。」
「…?!」
それから少しの間、命は言葉をなくしていた。やはり混乱しているのだろうか。命が生まれてから今までずっと一緒にこの世界で暮らした。私にとってはもっと前からに比べればそれは微々たる時間ではあるが、命にとってはその時間が過去の全てなのだ。
「そんな…どうして、姉やが?!」
やっと事態が把握できたらしい、命は動揺しきったようにせきこむ。私はそれを収めるように淡々と話した。
「これは前に話したか。私はこの世界…『流れ』の意識体。つまり、地球の意識体なのだ。
今このまま人間によって『流れ』が消費され尽くした時。地球は死に――その意識である私も死ぬ。道理だ。」
「だったら、僕もそうだろ?!僕も姉やと同じなんだから一緒に……っ!」
私はゆっくりと首を左右に振る。
「違う。お前は、生き残る。私の役目を引き継ぐ。お前の手で地球を守るんだ。」
「どうして?だって、地球は『流れ』が尽きればもうそれで終わるじゃないか!」
「…話を聞け。
もうじき『流れ』が尽きることに変わりはない。が、それによって1度地球が生命の存在が不可能な状態となっても、後に再生出来るように――今、地球の『流れ』を私の元へ少しずつ集結させている所だ。それらはお前の体を核にして、エネルギーとして貯留させるんだ。
そうして全ての『流れ』がお前に注ぎ込まれれば、地球が死を迎え…私も死ぬ。だがお前は自身に貯留させた『流れ』によって生き残る。その上で、お前が『流れ』を徐々に地球に解放していけば、地球を再生させることが出来る。
やがて生命の循環が再び始まれば、地球の豊かな『流れ』は戻るだろう。そしてお前は新しく生まれ変わる地球を、守っていくんだ。私が守ってきたように…幾万、幾億の時を。」
「…嫌だ。」
「…………。」
「嫌だよ…そんなの、聞いてない。そんな事したら、僕も姉やも独りになるじゃないか。…ずっと。ずっと。」
――説明をし終えた後は、何も言えなかった。ただ、命が呆けた顔でぽつりぽつりと言葉をこぼすのを見ていることしか、出来なかった。
命はそれから黙って鏡に目を落とす。鏡には荒れ果てた砂漠やそこに暮らす人間の姿、汚れきった赤い海がかわるがわる映し出されていた。私はそれを見つめる命の眼差しに、あるものを感じる。
「…聞きたいことがある、という目をしているな。その問いは大体予想がつく。」
「……。」
「何故、私達は消えゆくだろう地球の命を再生させてまで地球を守らなければならないのか、ということだろう。
地球を守る、即ち『流れ』を守るということは、自身の生命力を強制的に削られていくということだ。
そして。
私達は、見ていることしかできない。」
命は最後の言葉に少しはっとして――その後に表情を陰らせる。そしてその場に片膝をつき、右の手の平を鏡に当てた。
「…何も出来ない…?人間に荒らされていく地球の姿を見ていることしか出来ないって言うのか?」
その声は少し震えていた。
「そうだ。その責め苦は想像を絶する。自身の意志、さらに形を持っていれば尚更のこと。自身の存在の意味など、ただ『流れ』に生命を捧げること以外に無価値なのだからな。」
「…っ」
「その苦痛を味わってまでどうして地球を守らなければならないのか。それは、『意志』だからだ。」
「…誰の?」
「それは地球――星の意志。形は無く、しかし確かに在る。私達よりさらに深層の存在、大いなる意志と言えるかもしれない。私達が地球の理性なら、それは本能だと言える。
そしてその本能は生命の意志と直結している。地球上の全ての生命と。
即ち『意志』とは、あらゆる生命の極限の本能なのだ。私達はその事柄に逆らう事が出来ない。何故なら。それが意味するところは、私達がこの世界に生まれた理由に等しいからだ。」
「僕達が生まれた理由…。」
「命。それが何かお前には分かるか?――いや。お前はもうそれを知っている。」
「?…僕は、分からないよ。」
「それはまだ理解が出来ていないだけだ。心では、知っている筈。さっきお前は、その証を私に見せてくれたではないか。」
「心で知っている?」
「それは……『愛』だ。
命よ。」
「……アイ?」
「そうだ。『愛』こそが生命の根源。即ち、全ての生命の極限の本能――生きる『意志』。」
「あい……愛」
命はぼそぼそと言葉を繰り返している。理解に苦しんでいる様子がありありと分かる。それはそうかもしれない。実際、『愛』は言葉で知っていたとしても、深い意味を意識で認識するのはとても難しいのだ。私でさえも、意味を知ったのは地球をここで何千年も傍観してからのこと。
けれど、命は――確かに理解できなくても知っている。言葉ではないもので、知っているのだ。私はそう確信している。
「命。お前ならば、さほど経たない内に私の言っていることが理解できるようになると信じている。だからお前は、私が死ぬまでにこの地球の姿から『愛』を学び、理解するんだ。」
「……姉やは」
「それが、お前の最初の星を守る者としての使命だ。いずれ全ての意味が分かる…お前に出来るか?」
命は何か言いたそうだったが、私の重く静かな問いかけに口を閉じてしまった。私はそこに追い討ちをかけるように厳しい視線を向ける。
けど命が私が死んでからも『愛』が理解できなければ、命は自らの存在の意味が分からないまま地球に生命を奪われるだけになる。それだけは…避けねばならないのだ。
「僕は」
私は一言も発さずに命の返事をただ待つ。すると命はゆっくりと立ち上がって、真正面から私を見据えた。
「―――見てるよ。
姉やと、地球を。
それが僕の使命なら。
僕が在る意味だって言うのなら。」
承諾してくれたようだった。その細い声は少し震えている。けど、私は内心驚いていた。どのみちこうなることが命の運命だったとしても、こんなにすぐに頷くとは思っていなかった。
「姉やは今までずっと使命を果たしてきた。だから僕がここで姉やに死なないで欲しいと言ったって、無意味だと思ったんだ。姉やは、きっと最後まで…使命を果たすから。」
そして、言わなくても分かっている。命はいつこんなに成長したのだろうか?
「僕が……ここで使命を受けるのを嫌だといったら。姉やの今までしてきたことが。それにかけてた想いが……無駄になる。だから僕は……っ」
気が付いたら、命は涙をこぼしていた。それでも、1つ1つの言葉ははっきりしていて。それが決意の表れのように思えた。
「僕は、運命を受け入れるよ。」
「……。」
私は沈黙していた…というよりは、もう言葉を失っていた。命のあまりの強さに。全て分かった上での、その決意に。
その後、命は少しだけ。
少しだけうつむいて言った。
「でもさ…こんなの、悲しすぎるよね。
姉やはずっと…ずっと自分を犠牲にしてまで地球を守ってきたのに……それを地球の誰にも知られずにただ消えていくなんて。
だから姉やは…っ…自分の存在を認めてなかった。そうするしかなかったんだね……。」
今度は、ただ泣いていた。
決意ではなく、ただ事実を口にしながら泣いていた。
ぽろぽろ、ぽろぽろ――。
私はしばらく放心した後、
「…どうして?」
呟いた。
「お前は、どうして私のことで泣いているんだ…?お前が悲しむべきことは、自分がこんな所に生まれてきたことの筈だ。自分がこんな理不尽な運命に翻弄されることの筈だ。なのに……お前は何故、私が悲しむべきことで泣いているのだ…。」
尚も、命は涙を流し続けている。鏡に落ちるその雫は、何だか私の心に1滴1滴染み渡るような気がした。
命は私の問いに何も答えない。けど、本当は既に答えは分かっていた。何故なら、さっきから命は答えを言っていたのだから。
それはただ
命が私の存在を認めてくれている、ということ。
それだけなのだ。
言われていても。多分、実感が無かったのだと思う。
だって、こんなこと生まれて初めてだった。かつて、誰も私を認識する者などいなかった。孤独が当たり前だった。私の苦しみを分かってくれる者など、勿論いなかった。
――でも。
命が生まれてきて、変わったんだ。
「―――っ」
私は黙って、また命を抱き締めた。
そして私の涙が零れた。
何年ぶりか、分からない。
命の涙によって、長年の孤独で乾ききった私の心に、涙を流せるほどの潤いが戻ってきたのだ。
「分かった…今やっと分かったよ。お前だけが…私の心の支えなのだということが。
お前が真に私を認めてくれるというのならば。
私のために泣いてくれるというのならば。
お前に、
私の名を教えよう。」
「………え?」
「姉やの、名前…?」
「私がまだ『私』を自らの手で消す前に使っていた名だ。」
願わくば
見届けて欲しい。
そんな想いが、
一気に流れ出る涙と共に
一気に溢れ出てくる。
「お前だけには、覚えていて欲しい。…私がここにいたということ。でも、これは単なる私の我が儘だ。聞きたくないというのであれば、それでも構わないぞ…」
私はゆっくりと抱き締める手を解いた後、命にこれ以上涙を見せないようにすっと顔を背けた。もうかなり情けない顔になっていると思う…どうしよう。こんな顔見られたくない。
すると、命の声だけが聞こえた。
「忘れるわけない…姉やのこと。ずっと…覚えてる。何億年だって。」
少し鼻をすすりながらも、そう言ったのが。
ああ、もういい。
一瞬でどうでもよくなった。
私の泣きっ面なんてどうでもいい。
ただ溢れてくるこの気持ちに、身を任せればいい。
――ただ素直に喜べばいい。
私は涙を拭わないまま、背けていた顔を戻して命と真正面から目を合わせる。それから………
「私の名は
アリシア。
アリシアだ――。」
にっこりと、
笑って見せた。
あれから随分と時が経って。もうどのくらい前のことだろうか忘れてしまった。
何もないエメラルドの真ん中で。
――僕は2つ目の命として生まれた。
1つ目の命というのは、アリシア姉さんだ。
姉さんは、僕と同じに何もないところから生まれてきた。でもその生まれた瞬間から、この『地球』という星を守る役を何かに背負わされていたのだ。もしかしたら星そのものが背負わせたのかもしれない。
そして、姉さんは今もずっとその役割を果たしている。
星という大きな存在にあらがう事が出来なくて、ずっとずっと。姉さんは星に命を削られ続け…やがては星のどの存在にも気付かれることなく、消えるという。
僕は、そんなのは嫌だった。
星の命のために消えるのに、星の誰にも気付かれないなんてあまりに心が痛かった。
消えてほしくないと切に願った。
姉さんは僕を育ててくれた、母親も同然だったのだから。
だけど、やっぱりその運命を変えることは…僕には出来ないことらしかった。
僕はあまりに無力だった。
でもそれなら、無力は無力なりに『出来ること』をしたいと思った。
即ち、それはアリシア姉さんが負った使命を引き継ぐことだ。姉さんという存在を無駄に終わらせないために。姉さんという存在を最後まで見届け、僕の記憶に刻み込むために。
そのためにまず僕に課せられたのは、
『愛』というものを学ぶことだった。
……ある日、僕はそんな事をぼんやりと思い出していた。
今僕は、いつものように鏡の間から『地球』を観察している。これは姉さんの名前を聞いた時から欠かせない習慣となっている。何しろ僕は姉さんが消えてしまう前に『地球』から『愛』を理解しなくてはいけないのだから。
姉さんは最近、すっかり動かなくなってしまった。大きな椅子にぐったりと背を預け、眠っていることが殆どになった。
きっともう、残された時間は多くないのだろうと思う。
それなのに。
「…分からない。」
僕は片手で自分の髪をぐしゃりと握る。
そう、僕は今になっても『愛』を少しも理解出来ていないのだ。
人間の生まれてから死ぬまでの姿を見た。どうやって生きているのかを見た。何をしているのかを見た。『地球』での人間の歴史も見た。今だって、『鏡』はせわしなく人間の姿を映しだしているのに。
「……」
正直、今僕はかなり焦っている。
けれど僕にはどうしても、人間がただただ醜いだけの生物にしか見えないのだ。
姉さんの命を喰う奴らという先入観もあるからだろうか。しかし本当に人間のする事といったら、自分達が生きるために星を汚すことだけだ。どこに『愛』という要素が含まれているのか、僕には分からない。
「…っ」
今日も駄目だ。そう判断して、僕は鏡の間から離れるイメージを描き出す。すると瞬時に僕の目の前に空間の歪みが生じた。
僕が空間の歪みに迷わず足を踏み入れるとその先はすぐに違う空間へと繋がった。僕らの世界には、イメージするだけでその場所にいけるというよく分からない法則がある。『地球』を見ていてそれが中々便利なものだったと気付いたのは最近のことだったか。
「姉さん。」
僕はそこで呼びかけた。
今、僕の目の前には大きな椅子がある。それは曲線形の変わった形をしていて、でもそれがどこか美しかった。多分姉さんのイメージから作り出されたものなのだろうなと思う。
そしてその上には、やはり姉さんが。ゆったりとした角度の背もたれに身を預け、目を閉じていた。
真っ白でひらひらとした優美な衣装を纏っている。流れるような長い銀髪は椅子いっぱいに広がっていて、椅子の端からはまるできらきらと光る細い氷柱のように垂れていた。
その姿だけは僕が生まれた頃と全然変わっていない。けど今は――
「……命か。」
姉さんはとても低い声で、ゆっくりと返事をした。目蓋を少しだけ開けて、エメラルド色の瞳をうっすらと覗かせる。
その後、姉さんはふっと小さく笑って見せた。
「どうした……今日はやけに、眉間にしわを寄せているじゃないか。」
「……。」
僕は、何も言えずに黙り込んだ。
「心配しなくても、私はまだ大丈夫だぞ。この頃少し力を温存しているだけだ………いや、そういうことではないか。人間の『愛』がいつまで経っても分からないというのが心配なのか。」
「違う。どっちもだよ姉さん。早くしないと姉さんが消えるって言うのに………僕は。」
僕はぎゅっと両手に握り拳を作る。すると、姉さんは「やれやれ」と言いながら背を起こす。布が擦れる音がやけに大きく聞こえた。
「確かに人間というものは汚い。己が生きるためには他の生命を喰らわずにはいられない。それによって『地球』全土の生命が尽き、砂漠と化している今となっては――人間同士が殺し合っているのも珍しい光景ではなくなっているだろう。……醜いな。実に。
だが命よ。それは人間の表面の姿、なのだ。」
「表面?」
「そうだ。そしてお前はまだその部分しか知らない。だからお前が人間の内面を知れば、求めている答えに大きく近づけることだろう。」
「内面……」
「あの『鏡』は『地球』で起こっている事実を映し出すだけだ。即ち自分で知ろうとしない限りは、その事実の裏に隠れている意味を知ることは出来ない。
これを今の状況に当てはめれば――何故、人間は醜い争いをしてまで生きようとするのか。ということだろうな。」
「!」
僕が息を呑むのを見て、姉さんはにっと口の端を上げた。
「さて、ヒントはこれだけで十分だろう。答はもう目と鼻の先だ。」
「でも――」
「ふっ、寧ろ零距離と言ってもいいくらいだろうな。お前自身がそれを理解できたなら、人間の中に『愛』というものを見つけるなど容易い事だ。」
「…そう、なんだろうか。」
姉さんのくれたヒントで少しの解決への糸口は見えたと思う。けれど、やっぱりどうも自信が持てない。
……ああ、最近は弱音ばかりだ。
あの時、あれだけの決意に満ちて姉さんの使命を継ぐと言っておきながら、今となってはすっかりこの調子だ。
そんな自分に嫌気がさした時だった。
「だが、命。お前にこれだけは言っておきたい。」
「…え」
姉さんが急に真剣な眼差しを僕に向けた。それが僕を思考から現実へと引き戻す。
「『鏡』は地球の姿を映し出す。即ち、あれは地球と私達の世界とを連結する橋のようなものなのだ。私達はそれを渡ることは叶わぬ、しかし――人間が渡ってくることは、あるのだよ。」
「………?」
姉さんが話す言葉は相変わらず難しい。だから意味を完全に理解するのには時間が要ることだ。
しかし。ぼんやりとその意味の輪郭を取ってみた時、その内容はにわかには信じがたいものだと分かった。
「まさか、人間が。僕達の世界に踏み込んでくるっていうのか?」
「稀にな。私は3回程見てきたが、踏み込んでくると言うよりは迷い込んでくると言った方が正確だ。」
「そんなことが…」
僕はしばらくその話が信じられず、言葉を失っていた。あんなに見ていて恐ろしいものがここに侵入してきたらどうなるのだろう?そう思うと、僕は怖くなった。
「命よ。もしお前がそのような人間を見つけたのなら。すぐにお前の力を使って、『地球』に送り返せ。」
「送り返すって、どうすれば?」
「お前は既に私と同じ、この生命の海の流れを操る力を持っている。念じるだけでも、その者をこの世界から遮断することが出来よう。」
「…本当に?」
「ああ。」
何だか実感が無かった。僕が生まれてから何年経ったのかよく分からないけど、僕という存在が姉さんに近付いている感じは全くしない。本当に僕は成長しているのだろうか?
「いいか、命。間違ってもその者には関わるな。私達の存在を知られる前に、『地球』に送り返すのだ。」
「分かってるよ…人間に関わるなんて、こっちの方から願い下げだ。」
「人間の『愛』を知るには、人間に近付くのが1番手っ取り早い。しかし、絶対に話しかけようなどと思ってはならない。」
「…。もし話しかけたら、どうなる?」
「人間と私達は『相容れぬ者』。
存在が交わったが最後、どんな形にせよ
――大きな災いが訪れる。」
それから、僕はアリシア姉さんの場所を出た。姉さんは、僕が出て行くまで厳しい表情を崩すことはなかった。
そして今、僕は自分の場所にいる。といっても、姉さんの椅子のような目印になるものは特にない。ただ何も無い、どこかも認識できない空間を自分の場所と思いこんでいるだけだ。そこで僕は体を仰向けにして、上の方できらきらと光っている水面を見つめた。
――もし僕らと人間が関わり合えば、大きな災いが訪れる。
姉さんは、完全に確信を持ったように言っていた。それは当然のことだろうと僕は思った。人間の手によって僕らの世界まで『地球』のような砂漠の世界に変えられたら、たまったものじゃない。
そうなったら、一体どうなる?…生命の流れが止まってこの星は滅び去るとしか考えられない。そうしたら何だか馬鹿らしく思えてきて、僕は目を閉じた。
一体…
何のために、人間というものは存在するんだろう。
何のために僕らというものは存在するんだろう。
そもそも、この星は何で存在することになったんだろう。
全部無意味な事にしか思えない。それでも僕らは存在する。こうして、また僕のいつもの堂々巡りが始まるのだ。いつだって答えには辿り着けない。大抵は考えているうちに飽きてきて、眠くなってくる。
それは今回もそうだった。僕は目を閉じたまま、じわじわと浸透してくるまどろみに身を任せるのだった。
すると。
(…?)
いつの間にか、僕は知らない場所をたゆたっていた。目の前にはいつものエメラルドの海とは違う風景が見える。それはうまく言葉に表せない不思議な場所だった。
強いて言うとするなら光と闇の狭間と言ったところだろうか。天井は白い空間が広がっていて、僕の背中の方には黒い闇が広がっていた。よく見ると、その上と下のどちらにも透明な水面のようなものが揺らめいているのが分かる。
ここはどこだろう?僕はさっき眠って……夢を見ているんだろうか。
でも見えている景色や体の感覚はこれ以上ないくらいにはっきりとしていて、夢とは思えなかった。ならば何だというのだろう。僕達はある場所を思い浮かべるだけでそこに移動できる。けれどこんな場所は知らない。ここは僕達が知っている世界ではない?
そうやってあれこれ考えていた時。
早速そこに『変化』が現れた。
「?!」
突然、正面に見えている白い空間全体が光を放ち始めたのだ。僕は思わず両目を片腕で覆った。
(眩しい…!)
光はどんどん大きさを増していき、終いには僕の後ろの闇さえ全て消し去っていた。そして僕は光の渦に呑み込まれる。空間の全てが白に染まっていく。
白は、『光』を通り越して『無』にも見えた。それが完全に辺りを支配した頃だっただろうか――
「……え、」
僕は突如、はっきりとした気配のようなものを感じた。周りにはどう見ても何もないのに。僕しかここに居ないはずなのに。自分のすぐ目の前に誰かが居る、という感覚をおぼえた。
(何だろう……誰?)
影も形もない。寧ろ目を閉じていたほうが、その存在が分かるような気がした。
だから僕は目を閉じて――右手を前に伸ばし、手探りでその気配を探ってみることにした。もしかしたらそれに触れることが出来るかもしれない、とあまり深く考えずに。
けれど僕が居れるような世界で、アリシア姉さん以外に誰が存在することが出来るというのだろう?この気配は明らかに姉さんのものとは違う。そうしたら必然的に、それは僕ら以外の誰かということになる。
…僕ら以外に地球を守る者がいるとは聞いたことがない。そういうものじゃないなら、あと残ってくる可能性は?
その瞬間だった。
「…!」
僕は息を呑んだ。何故なら、右手が何か柔らかいものに触れたからだ。それに…暖かい。もう少し手で探ってみると、それは手の形をしていることが分かった。
閉じていた目を開けてみると、僕の右手はぼんやりとした白い光に包まれていた。この光の向こうに、誰かがいるのだろうか?
そう思ったところで僕ははっとした。
「っ!」
僕は反射的に手を引っ込めた。
この手が僕達と同類の者でないなら、きっと…いや、間違いなく地球からここに迷い込んだ人間のものだ。僕は姉さんの言葉を思い出した。
僕達が人間に近寄れば――災いが起こる。そうだ、だから人間は僕達の手で元の地球に返さなければならないんだ…まさか、もうこんな事が起きるなんて思わなかった。
しかしその時、
「え…、」
僕が何もしないうちに、目の前にあった白い光がふっと掻き消えた。瞬間周りの真っ白な世界が急に薄暗さに包まれたかと思うと、空間は音もなく歪み、無数の亀裂を産み始める。
亀裂の向こうに目を凝らしてみると、真っ黒な闇しかなかった。
そこに向かって僕は――
「?!」
気が付いた時にはもう落ちていた。上も下も分からない空間を落ちるというのはおかしな話かもしれないが。僕は頭から大きな亀裂の向こうにある闇に向かっていたのだ。
「ぅあ、……!」
かすれた僕の悲鳴が響く。それがこの空間での最後の出来事だった。
「!!っ……あ…」
――僕が目を開けると、そこには見慣れた世界が広がっていた。
今僕は、エメラルドの海の真ん中に立っている。あの奇妙な空間に飛ばされる直前までいた所と同じ場所だ。景色はどこに行っても同じだけど、その辺は僕らには何となく理解できる。
「…はぁ、はぁ…っ」
鼓動が激しく波打っている。僕は息を切らしながら、胸に左手を当てていた。それは今までに味わったことのない感覚で、少しだけ新鮮だった。
今のは一体何だったんだろう?
やはり、夢というやつだろうか。
多分その可能性が高い。目を閉じて行って目を開けて帰ってきたのだから。だけど、どうも僕は腑に落ちなかった。そもそも立った状態で目を醒ますなんて…。
それに、今でもあの出来事はこの目に焼き付いている。まるで現実で起こった事みたいに、僕ははっきりと覚えているのだ。
――あの手の感触も。
「はぁ、………。」
僕は、まだじんわりと暖かい右手を広げてぎゅっと握ってみる。きっとこの熱は、光の向こうにあった手の暖かさに違いない。そう思った。
でも、あれは本当に人間の手だったのだろうか?ついさっきはそうに違いないと思った。けれど今思うと、正直僕には信じられなかった。
だってあの暖かさは、姉さんの手の暖かさと同じだった。
昔姉さんが撫でてくれたり、抱きしめてくれたりしたときに感じた時に感じたものと、全く同じだったのだ。
人間は僕らとは違う存在だ。僕らは人間の姿をしているけれど、それでも人間とは全く違う筈だ。それなのに。
何というか、単に暖かかったとか冷たかったとかいう問題じゃなくて。その先に、『同じもの』を感じた気がする。…姉さんと同じ?いや。もっと根本的な、何かだ。
何だろう?
それから僕はしばらくそこに突っ立ったまま考えてみた。でもいくら腕を深く組んでみても、柔らかな光が射し込んでいる水面を睨んでみても答えは出なかった。
心がすっきりしないまま、僕は小さく溜息を付いた。
でも、仮にその何かが本当に人間と僕らに共通するものであったならば。そう思うと、僕の中で1つの疑問と共にあの言葉が浮かんだ。
『人間と自分達は相容れぬもの。』
相容れないってどういうことだろう?
例えば会った瞬間から互いの存在を否定しあうとか、争いになるとか。もしかしてそれによって、姉さんが言っていた『災い』が起こる?
果たしてそんなことが起こるのだろうか…?
パシッ!
そこで僕は両手で自分の頬を叩いて、思考を止めた。
この先を考えてしまってはダメだ。きっと、悪いことが起きる。それに、もし次に人間が本当にここに迷い込んできたとしても。きっと僕は何も言わず、それを地球に返すだろう。
姉さんを今までずっと苦しめてきた人間となんて――話したくもないからだ。
僕は、今起こったことを頭の奥にしまい込んだ。本当は忘れてしまうのが1番いいのだろうが、どうしても手にあの感覚が残っていて無理だった。
…無理なら考えないようにだけすればいいだけのこと。結局の所、結論はそれだ。
僕はこの事を姉さんには黙っておくことにした。
そのまま、僕と姉さんは5日程過ごした。
本当は、この世界で時間なんていうものはよく分からない。今のは僕の勝手な感覚だ。もしかしたら姉さんはもしかしたらこれを1日と言うかもしれない。
地球ではその間に30回日が昇って落ちたのだから、別に30日と数えてもいいとは思う。けれど、どうもそれだと僕らにとっては時間が経つのが速すぎるように感じるみたいだった。
僕はこの間に5回眠った。だから5日でいい。そんな適当な話で僕はいつも済ませていた。
そして――それは僕が6回目の眠りについているときに、起こった。
ドクン!
「!」
僕は膝を抱えた姿勢のまま、ぱっちりと目を開ける。
今、何かが動いている。周りの様子は今までと何も変わらないけど、僕にはその異変が手に取るように分かった。波打つ鼓動が、教えてくれているのだ。
何だろう、この感覚は。……気持ち悪い。僕は思わず自分の口を片手で押さえた。
うまく説明出来ないけれど、それはまるで何かが無理やり吸い上げられていっているような感覚だった。
どこから?何が吸い取られてる?
そう考えた時何故か、僕は急に胸騒ぎがした。
――…そうだ、姉さんは?!
そう思い立った瞬間。僕はもう姉さんの場所に降り立っていた。この世界の仕組みはこんな時にはにとても有り難いものだった。
けれど、今はそれに感謝している余裕はない。僕は少し遠くに見える、姉さんのいつもの大きな椅子へと急いだ。
すると――
「!…」
そこに姉さんはいた。椅子に座ったまま背中を丸め、激しく息を切らしていた。それはとても苦しそうで、一目で異変が起きていることが分かった。
「はぁ……はあ、…!…ぐっ!」
「姉さん?姉さん!!一体どうしたんだ!!」
僕は、取り敢えずその背中を支える。けれどその後にどうしたらいいのか分からなかった。
「胸が苦しいの?!」
「っ…命、…。はぁ…はぁ!!」
「姉さん、喋らない方がいいよ。…今はその椅子の背にもたれて。」
そして、僕はゆっくりと姉さんを椅子に寝かせる。しかしそれでも息切れは治まらず、結局僕には様子を見ることしか出来そうにないようだった。何も出来ず、僕はとても歯がゆい思いを味わった。
しかしそれからしばらくすると、姉さんの呼吸は徐々に落ち着いてきた。僕はずっと姉さんの脇でそれを見守っていた。
「…、ぅ…」
僕は姉さんの小さな呻きでぐっと眉を寄せる。今まで、こんなことは起こったことがなかった。姉さんがこんなに苦しむ姿なんて見たことがなかったから…とても不安だった。そして、何も出来ないことがこんなにももどかしい。『地球』に干渉出来ない上に、結局ここでも何も出来ないなんて。
僕はぎりっと奥歯を噛み締めた。
「……命。」
「!」
その疲れ切った声に僕はぴくりと反応する。どうやら、話せる程度まで容態が落ち着いた様だった。取り敢えず僕は心の中でほっと胸をなで下ろしたが、やはりそれだけで不安が消えることは無かった。
「済まなかったな、命。私は…もう大丈夫だ。」
「全然大丈夫そうに見えないよ。」
「じきに元に戻る。まあそんな顔をするな。」
「……姉さん。さっきの『異変』、僕も感じたんだ。」
「それは、そうだろうな。この世界は私達の体も同然なのだから。」
「あの時、よく分からないけど何かが吸い取られる感じがした。…この世界が、僕らの体?それじゃあもしかして、」
すると、姉さんはそこに横たわったまま小さく首を縦に振った。
「どうやら、起こってはならないことが起こってしまったらしい。…人間が、『流れ』に干渉してくるとはな。」
「!」
僕は姉さんの言葉に息を呑んだ。
「まさか人間が。僕等の世界の『流れ』を吸い取った?」
『流れ』とは、この世界を構成している物質だ。姉さんの教えによれば、地球上で息絶えた生命はこれに還元され、また新たに生まれてくる生命の糧となるらしい。
今も上を見上げれば、綺麗な水面が揺らめいている。あれは『流れ』の水面だ。
「『流れ』の異変は、私が経験したことのないものだった。自然には起こりえないこと…外部の力が働いたとしか考えられない。それも、とても大きな力だ。」
「そんな。…どうすればいい?このままじゃ、またいつ人間が『流れ』を吸い取ってくるか分からない!そしたら姉さんが!」
すると姉さんはそんな風に焦る僕を静かに見つめた後、すっと目を閉じる。
その表情でもう分かった。姉さんが次に言うであろう言葉が。僕はその言葉を信じたくなくて、ずっと姉さんの顔を見入っていた。
しかし。
「どうしようもない。」
「…!!」
返ってきたのは予想通りの一言だった。
「前に教えた筈だ。私達には、何も出来ない。出来ることといったらせいぜい『流れ』の方向を変えて、『流れ』を人間に見つからないようにすることくらい…だ。」
ああ、――またこうなるのか。
そう僕は心の中で落胆する。
「時間稼ぎにしかならないだろうが、これでしばらくは持つ筈だ。まだ、その時は来ない。だから…命。お前は自分の成すべき事に専念しろ。」
分かってる。ちゃんと理解している。だって姉さんは今までずっと何も出来ない苦しみに耐えてきて。僕が生まれた頃には、自分の存在を自身で否定するようにまでになっていた。
だから姉さんは、自分と同じ道を歩まないようにとあれほど僕に言い聞かせてくれていたんじゃないか。僕はそれらを全て無視して、姉さんと同じこの身体を得たんだ。
その時、僕は確かに覚悟した。
姉さんの使命を引き継ぐと共に、姉さんが長い間感じてきたその苦しみも引き継ぐと。
でも。
僕はそれ以上に、
何も出来ていないんじゃないか?
『地球』のことは勿論のことだが、この世界でだって僕は何も出来てない。目の前で姉さんが苦しんでいても見ていることしか出来なかった。そして自分の成すべき事…即ち人間の『愛』を探し出すことさえ、僕には未だに出来ていない。
(……畜生……)
頭が、痛くなった。
人間が『流れ』を吸い取る。
その目的は、僕には分からない。けれどあれから『鏡』を見ていると、確かに時々不審な動きをしている人間が映し出された。この間見た時は、集団で何か大きな道具を使って地面を掘っていた様だった。
姉さんは『流れ』が見つからないように、その方向を変え、隠すと言っていた。…でもそれは時間稼ぎでしかない。いずれ『流れ』は行き場を無くして、人間に見つかってしまうのだろうと思う。
「何とかならないのか…」
僕は今日もまた『鏡』を見ながら零す。いくら『地球』を見ていたって、いつもの荒廃した世界が広がっているばかりで、そこには一片の答えもない。それどころか、僕は『流れ』を見つけようとする人間の動きをみる度に戦慄し、焦りが生じるばかり。
そう。もはや僕等は袋小路に立たされていたのだ。
「……。」
どこにも逃げ場はない。『地球』はこのまま朽ち、滅びる。そして僕らも消える。そういう運命なのだと、僕は半ば諦めた。
その時だった。
…オォ……ン…
「え?」
突然聞き慣れない音が『鏡』――傍観の間に響き渡った。微かな音だったけど、普段僕らの世界は殆ど音がないからすぐに反応出来た。その音を言葉で表現するとしたら「空間が鳴いた」とでも言えばいいのかもしれない。
すると『鏡』の映像がふっと消え失る。僕はその場で辺りを見回した。
『鏡』が無くなったことで、僕の足元がふわりと浮く。その後じわじわと、周りの景色が変化していくのが分かった。それらは幻が実体化するかのようにゆっくりと現れていった。
「あっ、」
まず、僕の下にゆらゆらと揺れる透明な水面が生まれた。どこまでも、どこまでも続いている水面が。けれど上を見上げてみても、それと同じような水面が存在していた。
更に。上の水面の奥には光に満ちているような真っ白な空間が広がっていて、逆に下の水面の奥には真っ暗な黒い空間が広がっている。それは光と闇の狭間のような、不可思議な世界だ。
(ここは……)
見たことのある景色だった。
つい最近、僕はここに来たことがある。僕は素早く記憶の糸を手繰り寄せ、思い出した。あれはそう、夢の中の出来事だった筈だ。けれど僕は今こうして、それと全く同じものを見ているのだ。
――じゃあ、これは夢?僕は自分で気付かないうちに眠ってしまった?……そんな筈はない。僕はちゃんとさっきまで起きてた。そもそも、この間のことが夢だったのかそうでなかったのかすら怪しいじゃないか。
いや、そんなことはどうでもいい。問題は、この後何が起こるのかということなんじゃないのか。
その考えに至り、僕ははっと息を呑んだ。
それとほぼ同時だった。
(?…あれは?!)
目の前に見えている白の世界の少し向こうに、何かの影が見えたのは。
ここからではまだ全体的に薄ぼんやりとしていてよく見えない。けれどあれが何なのかは、一瞬で予想がついた。
即ち――人間。
今思えば、あの『夢』で触れた手も人間に違いないと思えた。何故ならあの出来事があってからあまり経たないうちに、僕達の世界に人間の大きな干渉があったからだ。
…もし『夢』が夢じゃなかったとするなら、辻褄が合う。あの時触れた人間がこの世界の存在に気付き、『地球』に戻ってから他の人間にそれを知らせたとすれば。
僕は戦慄した。これが『夢』と同じ状況なら、すぐに対処しなければならない!僕はすぐさま、影の方に自分の意識を飛ばす。すると一瞬で影の近くに移動できて、そこから形がはっきりと見えた。
それはやはり
人間の形をしていた。
一見佇んでいるように見えたが、どうやら空間に浮かんでいるようだった。手足は力無く垂れて、動く様子はない。
「…、」
僕はその姿に息を呑んだ。
僕よりも小さい、女の子だった。金色のウェーブのかかった長い髪。白い服は何だか全体にふわふわしていた。『地球』で言うネグリジェというやつだろうか。背中で音もなく揺れる艶やかな金髪とよく合っている。
彼女は目を閉じて、
眠っていた。
静かに、そこに存在していた。
始めて間近で見る、アリシア姉さん以外の人の形。『地球』の人間。それは今まで見たことのない感じがした。
何かが、違う。
何が違う?
気付けば、僕はぼうっとその小さな人間を見つめたままでいた。けれど理性が僕の中でけたたましく警鐘を鳴らした。
何をしているんだ。
早く、僕がこの人間を『地球』に戻さないと。
姉さんは言っていた。僕らはこの世界の意識体で、『流れ』を操る力を持っている。念じる事で、人間を『地球』に戻すことが出来ると。なら、やってみよう。出来るかどうかは分からないけど、今はやるしかない。
僕は強くイメージした。
この人間が、在るべき場所に戻れるように。災いが起こることがないように。
(――行け――)
すると、
「…!」
僕は少し驚いた。どこからか現れた柔らかな白い光が、ゆっくりと人間を包み始めたのだ。…どうやらやり方はこれで合っていたらしい。こんなに簡単に出来るとは、正直思っていなかった。
でもまだだ。まだ足りない。
もう1度だ。
「……、」
同じ事を念じると、案の定。人間を包み込む光は強くなった。その後試しに片手を軽く人間に向かってかざしてみたが、
コオオォ……!
効果は絶大だった。
その瞬間、眩しい光があっという間に人間を飲み込んだ。姿が全く見えなくなる程に――
(よし…このまま…っ!)
僕はぎゅっと目を閉じた。
その時。
ピシッ!!!
「っあ!」
頭の中で何かが激しく弾けるような感覚がして、極限まで達していた僕の集中力が途切れた。僕は思わず片手で自分の額を押さえ、狼狽する。
「な、」
(何だ?今の――)
指の間から覗くと、人間はまだそこに存在していた。しかもまだ白い光に包まれているものの、その光の強さは見る見るうちに弱まっていく。
(失敗した…?)
多分、この方法で合ってる。途中までは確かにうまく行っていた。それなのにどうして?
仕方がなく、僕はうまく行かなかった理由も分からないままもう1度念じた。すると、人間の体はまた強い光に包まれ始める。僕はそこに手をかざして、姿が光で見えなくなるまで念じ続けた。
でも。
ビシッ…!!
「ぅっ!」
同じ事が起こった。白い光は急速に弱くなっていき、人間の姿は始め見たときと全くと言っていい程元の状態に戻っていった。
その後も、試した。
何度も何度も試した。
だが結局、それは全て同じ事の繰り返しにしかならなかった。
「く…」
何でなんだ。やっぱり僕じゃ駄目なのか。そうなら姉さんをここに呼ぶしかない。…でも、こんな所から呼べるのか?
仮に呼べたとしても、まず姉さんは起きあがることが出来ないだろう。
もう何日も姉さんの立っている姿を見ていないんだ。きっと今も、あの椅子の上で眠ったまま『流れ』を保っている。幾億年で消耗しきった体を使っているんだ。
だから、僕が何とかしなければいけないに違いない。僕しか、いないのだから。
それなのに!
「どうして…っ?!」
僕はがくりとその場に膝を突く。奥歯をぎりりと噛み締めても、どうにもならない。こんな所に放り込まれてまで何も出来ないなんて…もう一体僕はどうすればいいのか分からない。
目頭がじわりと熱くなる。それから喉の奥から何か形のないものがこみ上げてきて。それは嗚咽となって僕の口から吐き出された。
僕という存在の意味が分からなくなる。
僕は、何のためにここにいるのか。
何のために生まれてきたのか。
「ぅ…ぅうっ!!…ぁあぁ…っ」
頬に温い水が伝う。口に入るとしょっぱくて、苦い味がした。それを味わうと何故か余計に苛立って、悲しくなって。
また水が出た。
その瞬間だったかもしれない。
「――どうしたの?」
(?!)
細く、微かな音だった。まるで小さな硝子の珠が落ちたようなその透き通った声は、すぐ上の方から聞こえてきた。僕の嗚咽は一瞬にして奥に引っ込む。
まさか、と思いながらも。僕はそれから反射的に顔を上げて声のした方を見てしまった。濡れた頬に髪をはりつかせたまま。見てはいけないことを分かっていたのに――僕は、
「……、」
息を呑んでいた。
真っ先に目に入ったのは、
青い瞳だった。
この色はどこかで見たことがある。そうだ、『地球』の空の色だ。どこまでも、どこまでも果てがないような青…そのものだ。
彼女はその瞳で少し戸惑ったような表情を浮かべて、情けなくそこに這いつくばっている僕を上から見つめていた。
「大丈夫?」
また硝子珠が転がる。すると今度、彼女はふわりと僕の方に跪いた。その時に鳴ったさらりという音が金髪の流れる音なのか、服の布が擦れる音なのか判別がつかなかったが。とにかく雪のように白い肌をした彼女の顔が僕の目の前に近付いて。
「……」
声が出なかった。
どうすればいいのか分からず、パニックになっているのもあったかもしれない。でももしかすると、僕は単に感嘆していたのかもしれない。
彼女のあまりの美しさに。
「ねえ、あなたは誰?」
「ぁ…」
駄目だ。
駄目だ、駄目だ!
人間と関わったら、災いが起こる。どんなことが起こるかは分からない。でも絶対口をきいては駄目だ…絶対に!
彼女は真っ直ぐと僕の目を見つめてきている。この状況を何とかしなければ。
始めに、僕は彼女から顔を背けた。
「どうして泣いているの?」
彼女が問いかけてきても、僕は沈黙を守る。けれどこんな時間稼ぎは長くは持たないだろうということは十分予想がついた。
そうだ、まずはこの空間から抜け出すのが先決だ。いつものように、行きたい場所をイメージすればいい。僕の居場所でも姉さんの所でもどこでもいい。どこでもいいから、早く!
僕はぎゅっと目をつむって素早くイメージを描く。すると姉さんの椅子がすぐにはっきりと頭に浮かび上がった。これで行けるはずだ。いつもなら、もうこの瞬間には大体は移動できてるのだから。
しかし。
「?…ねえ、」
「っ!」
また声が聞こえて、僕は肩を揺らした。そんな、まさか移動できてない?!ぱっちりと目を開けてみると確かに、まだ彼女は僕の前にいた。
僕は慌てて、また視線をそらした。
逃げ場がない。
その事に気付いたのは、それから少しもしない内の事だった。
走って逃れようにも、この良く分からない空間では下手に動けない。いつまでも、元の場所に戻れなくなる危険があるからだ。その上、まるで彼女の視線が僕を貫いているかのように、僕は何故かその場から立ち上がることが出来ない。
どうしたらいい。
「…くな……」
「え?」
気付けば、僕は酷く低い声を絞り出していた。…声を出してしまった。なんということだろう。これでもう関わったことになってしまうのだろうか。そうだとしたら――
でもきっと、こうするしかない。
「……僕に、近付くな……」
そう言うのが精一杯だった。
また少しさらりという音が聞こえるも、僕は目を合わせない。これ以上、何を言われても絶対に何も言わない。
すると、
「そう…ごめんね。1人で、いたかったんだ。」
彼女の静かで、優しい声が響いた。
彼女がどんな表情をしているかは分からないが…何だかもやもやしたものが沸き上がってくる。
それにしても。この空間から抜け出せない限りは、僕はここにいるしかないのだ。本当に、一体どうしろというのだろうか。
「ここは…何だか不思議な場所、だね。私、どうしてここに来ちゃったのか良く分からなくて。」
「……。」
「ここから出たいけれど、どこが出口なのか分からないの。あなたは知ってる?」
「………。」
こうなったら、この空間が解けるまで黙りを決め込んで粘り続けるしかない。けれど、いつ解けるというのだろう?夢であるなら早く醒めてほしい。それから少しの沈黙の時間の後、彼女はこう続けた。
「もしかして、あなたもここに来た理由が分からない?抜け出す方法が、分からない?」
図星をついてきた。でもまあ、当然か。相手に近付いてほしくなければ自分から離れればいい。僕にはそれが出来ていないのだから。
「そうなんだ。それで、泣いてたの。」
「…なっ!それはちが――」
「?、違うの?」
「あ…っ」
何をやってるんだ…僕は。
無意識に彼女に振り向いて
無意識に言っていた。
大馬鹿にも程があるじゃないか。
「なら、どうしてこんな所で泣いていたのかな…?」
彼女は再び無垢な瞳を向けてきた。
僕は一瞬どきりとする。あの瞳に見つめられると、何だか――
僕はそんな風に動揺した自分の顔を見られたくなかった。だから、
「君には関係ないだろっ!!」
即座に俯き、勢いに任せて吐き捨てた。すると彼女は少し驚いたような表情をしたかと思うと、その内悲しそうに目を伏せる。
「ごめんなさい。でも少し気になったの。私の目の前で、泣いていたから。…今まで人が泣いてる所は沢山見てきた。何回も何回も。けれどそのどれを前にしても、私は何も出来なくて。」
そして目を閉じた。その表情は、まるで何かを祈っているような感じだった。見れば両手を胸の前で軽く組んでいる。
「だから今度こそ私、何かしたかったんだと思うの。もう、泣いて欲しくないから。」
…大体にして、さっきからとっくに泣き止んでいるじゃないか。僕はその時かなり複雑な顔をしていたと思う。思わず深い溜め息が出た。
「どうせ、分かるはずもない。」
「?…どうして?」
「僕は人間じゃないからさ。」
「え?」
彼女は僕の言ったことが良く分からない、というような怪訝な声を漏らした。
「どう見ても、人間なのに?」
「僕達は君達には理解できない領域の所で生きてる。だから僕が何を思ってるかなんて…人間の君に分かるはずがないんだ。」
僕はその言葉を出来る限り冷たく言ったつもりだった。もう話しかけないでくれという意味を含ませながら。しかし、
「そう、かな。
私はそんなことないと思うよ。」
僕は目を丸くする。彼女は、まだ口を閉じなかったのだ。その上おびえた様子も、困っている様子もない。
「あなたが話してくれるなら、きっと私は聞いてあげられると思う。…あなたが人間でなかったとしても。
だってあなたは、
私達人間と同じものを持ってるもの。」
あっさりと。当然のことを言うかのように、彼女は言った。真っ直ぐ、こちらから目を逸らさずに。
何て言った?
僕が、人間と同じものを持っているって?『地球』を好き放題に荒らす、あの人間達と?今まさに姉さんの命を食い潰しているあの人間達と?
…何て言った?
(――ふざけるな。
ふざけるな…ふざけるなふざけるな、ふざけるな!!ふざけるなっ!!ふざけるな!!!)
「ぐっ」
心の中で連呼したら、吐き気がこみ上げてきた。僕は胸のあたりで手で押さえる。続いて、空間がぐにゃりと曲がって見えた。だが彼女の顔だけは、今もはっきりと見えている。
さっきと表情が全く変わらない、それどころか、どこか凛としたようなうな顔をしているように見えた。
「もう、止めてくれ…何も君に分かりはしない。僕には、それがはっきりと分かるんだ。」
僕は込み上げた吐き気と目眩を何とか抑えた後にその場を立ち上がった。あまり急な動きをするとまた具合悪くなりそうだったので、本当にゆっくりと。
もう、限界が見える。これ以上ここに居たら、僕は色んな意味でどうにかなってしまいそうだ。もはや自分の感情さえも良く分からなくなってきた。
いま1番表にでているのは怒りだ。
でもその裏に、変な感情がある。理由が良く分からないけど、悲しい気持ちと嬉しい気持ちがごちゃまぜになったような。
(…何だこれ…)
あるいは、彼女のあのあまりに真っ直ぐな瞳に見惚れているのか?…いいや、やっぱり訳が分からない。
とにかく離れた方がいいだろう。
少しでも――1歩でも、ここから。
僕は彼女に背を向けて歩き出そうとするが、
「ならせめて――」
ぴたりと、彼女の高い声で足が自然に止まった。まだ何かあるというのか。これほどまでに拒否しているというのに。僕がゆらりと気怠そうに振り返ると、また目が合った。
そこで彼女はくっと少しだけ俯くと、そのまま小さくこう言った。
「名前だけでも、教えてくれないかな…。」
(…名前?)
僕は一瞬何のことかと思い眉をひそめて沈黙する。しかしその内、それが僕の名前を指すものだと気付いた。何故なら、この空間には僕と彼女以外何も存在しない。名前が付いていそうなものはどこを見渡してもなかったのだ。
でも、僕にも名前がない。
そうか――と感じる。僕には姉さんの本当の名前を聞いてからもずっと、名前がなかったのだ。過去にあれだけ『僕達』という存在を姉さんに主張しておいて。
しかし、誰が決めるというのだろう?
しかも仮に僕に名前があったとして。果たしてそれを彼女におしえることに意味はあるのか?
何と答えればいい?
それとも聞かなかったフリをしてこの場を離れるのか。多分それが一番いい方法のような気はするが――
「僕は……」
僕は、口を開いていた。
しかしその瞬間。
「…?」
急に、目の前の景色が白く霞んできた。彼女の姿も。全部、白い霧に包まれていくかのように。
(あれ、)
目を擦ってみたけれど直らない。
「え?…よく…こ…ない」
さっきまで普通に聞こえていた筈の彼女の声が、遠ざかっていく。それに、何だか自分の意識まで遠くなっていっているような気がした。
もう体も支えられないくらいに
凄くだるくて、眠くて。
激しく苛立ちを感じた。
(どうして今になって――)
僕はその内。
ぐらぐらする両足で何とかそこに立ちながら、うなだれていた首をぎこちなく上げる。
すると、僕が立っている場所はいつもの『鏡』の上になっていた。
「――っ」
真っ暗な空間の中にぼんやりと浮かぶ、大きな円形の『鏡』の上。つまり、ここは傍観の間だ。
まだ頭がぼーっとしていて状況が理解できない。僕は、さっきまでどうしていた?
…いや違う。だから、
つまり僕は。
(戻って、きた?)
心の中でそっと呟いてみると――ぞくりという感覚とともに、一瞬のうちにさっき起こった全てのことが思い出された。
そうだ、僕は人間と関わってしまった。夢じゃない。僕はあんなにはっきりとした意識で、彼女と言葉を交わしたじゃないか。
あろうことか――美しいとまで思って。
恐怖心で、僕は自然と自分の両肩を抱いていた。体の奥からじわじわと何かが這い上がってくる。やがてそれは震えとなって体表面に現れ始めた。
僕は大罪を犯したのだ。
自分の役目を果たすことも出来ず、姉さんの警告を無視した。これからどんな災いが起こるというのか見当もつかない。もしこの世界も『地球』も崩壊してしまうようなことがあれば、
それはきっと僕のせいだ。
秩序を乱した、僕のせいだ。
姉さんが今までずっと守ってきた世界を、僕が壊したことになるのだ。
がたがた、がたがた。
いくら両手で抑えようとしても、震えは止まらない。どうしてこんなことになったのだろう。
もう、姉さんに会わせる顔などあるはずもなく。僕は傍観の間からそのまま自分の場所へと戻った。そうするといつもどうり、天井にはエメラルドの水面が静かに揺れている。そこから射し込む光も柔らかで――その中で僕は腰を下ろし、膝を抱え込んだ。
この日常が、きっといつなくなっても可笑しくない。その異変を、僕は怯えながら待つしかないということなのだろう。
僕は
「嫌だっ……嫌だ…」
顔を埋めて、嘆いた。
そうだ。
考えてみれば、それらの答えは凄く簡単なものだった。結局どんな結論が出るにしたって、僕はこれからずっと姉さんに会わないという訳には行かないのだ。
あの名前を教えてもらった日、僕は姉さんの事をちゃんと見届けると約束したのだから。それは僕をここまで育ててくれた恩返しでもあり、姉さんの跡を継ぐということの証でもある。
だから今日も、僕は姉さんの見に行かなくてはいけない。いつ消えてしまうか、分からないから。
人間のことはどうしよう。こっちはまだ黙っていた方がいいだろうか…
まだ迷いながらも僕は立ち上がるために、ぐっと背中と足に力を入れた――が。
「!…」
一旦動きが止まった。そのまま僕は辺りをぐるりと見渡してみる。…静かで、穏やかだ。いつもと何も変わらない空間。僕は半分立ち上がろうとする体勢で固まっていた。
(…大丈夫だ。まだ何も起きない。…まだ。)
そう自分に言い聞かせた。
改めて考え直して見れば僕があの人間に会ってからここに来るまで、辺りに変化はなかった。つまりそれは僕が動いても反応は起こらず、時間的に起こるものということなのだろうか。
取り敢えず、今は大丈夫。
何も起こっていない。
僕は鈍った両足に力を入れた。
そうして立ち上がってから目を閉じる。 その次の瞬間には、
「姉さん。」
僕は目を開けて声を上げていた。少し遠くに大きな椅子と姉さんの姿があった。その時僕はちょっぴり驚いた。何故なら、珍しく姉さんが椅子から立っていたからだ。こちらに背を向けていて、長い銀髪が流れている。
「?…」
姉さんはゆっくりと振り向くと、
「――命か。」
優しく微笑んでくれた。
僕は姉さんの元に駆け寄る。
「姉さん。今日は体は大丈夫なの?」
「ああ、今日は大分調子がいいよ。」
「本当に?よかった…!」
前の『異変』からまだ数日しか経っていないのに、こんなに早く持ち直すなんて。僕は思わず感嘆の息をこぼしていた。
「少し前、何とか『流れ』の向きを変えて人間の目から隠すことが出来たんだ。そしてどうやらその効果は高い。これで、しばらく時間は稼げるだろう。」
「凄い…流石アリシア姉さん!そんなことがこんなに早く出来てしまうなんて!」
「『流れ』を守る者がこれくらいできなくてどうする。お前もいずれ出来るようにしなければいけないだろうさ。」
その姉さんの一言が、僕の胸を音もなく突いた気がした。当然のことか。実際、僕はまだ何も出来ないでいるから。何も学んでいないし、何もしてない。その上で、あの失敗を犯した。
「うん。そうだね。」
僕は表情を変えないまま、比較的明るめにそう返したつもりだった。だけどその時、姉さんはクスリと僕に笑って見せる。
「随分と自信がなさそうだな。」
…見抜かれていた。まあ今まで姉さんと接っしていて常に自信が無い状態だったからいつも通りとも言われても仕方がないと思う。
だがしかし、
今は悟られてはいけない。僕が取り返しのつかないことをしてしまったことを。
「うん…全然前に進んでる感じがしないから。」
ああ、僕は何て最低なんだろう。取り返しのつかないことをしてしまった上に、今度はそれを隠そうとしている。いずれ、知られる時が来るだろうに。
姉さんは何も言わずに横目に僕の顔を見ると、
「………。」
しばらくしてふっと息をつく。それから椅子の方に歩み寄り、ゆったりと腰をかけた。何か動作する度に白いドレスが擦れる音を立て、髪はさらりと優雅に流れた。
その時、どきりと。
何故か僕の胸の中で鳴った。ただ姉さんが椅子に座ったというだけなのに。背もたれに寄りかかった時また髪が流れ、椅子から垂れる。今度は一瞬息が止まった。
変だ。今までずっと姉さんを見てきて、こんな感覚は無かったのに。段々と鼓動が大きくなってくるような気がする。
そして。
ザザッ
「!」
雑音混じりに、頭の中に何かがよぎった。それは今見えている姉さんの顔と重なって、
(…あ、)
ザザ!
映像が見えた。それは人間だった。勿論この前の、僕が『過ち』を犯してしまった元凶だ。
(――そうか。)
僕は納得する。多分僕は姉さんを見てあの人間を思い出していたのだ。金髪と、青い瞳…姉さんとは全然違うのに。
深く印象に残っているからなのか。
未だに忘れられてない。
「ん?…どうした、命。」
「ううん、何でもないよ。」
僕は慌てて表面で取り繕った。
結局…僕がここに戻った後。あれはどうなったというのだろう。1人、あの空間に残されたのだろうか。『地球』に戻れもせずに。だとしたらこれからどうなるのか。
それだけは気になった。
だから、
「…ねえ、姉さん。」
「?、何だ。」
思い切って聞いてみることにした。これだけを聞くのにもかなりの勇気が必要だ。僕は掠れそうになる声を喉の奥から振り絞った。
「ぁ、あのさ…姉さんは前に話してくれたよね。『地球』からこの世界に迷い込んでくる人間がいるって。もし僕がそれを見つけたら、すぐに『地球』に返すようにって。」
「ああ。言った。」
「でも。もし、僕にも姉さんにも見つからなかった人間はどうなる?『地球』に帰れずに一生ここにいることになるのか?」
すると心なしか、姉さんは僕の顔を見ながら少し眉をひそめたように見えた。背筋がひやりとする。まさかこれだけで全てを読まれはしないだろうが。
「そうだな。人間が一度ここに来れば、自身で元いた場所に帰るのはかなり難しい。『流れ』を移ろい、さまよい続けることになると私は思う。」
「なら、そのまま…」
僕が言い淀むと、姉さんはちらりと視線を下に逸らした。
「いや、『流れ』は生命の海だ。人間が生存するのに必要なエネルギーは、周りにいくらでもある。だから少なくとも、本人が生きたいと願えば、命を落とすことはないだろうな。」
「…そうなんだ?」
「ただ。もしそれを願わないのであれば――『流れ』に還ることも簡単に出来るだろう。」
言葉は淡々と続く。それらを聞いている内に、何だか複雑な気持ちが増していくような気がした。…今僕は、どんな表情をしているのだろう。
「まあ、私達に見つけられた人間は極めて幸運と言ってもいいのかもしれないな。」
「……」
なら僕は、彼女を見つけておきながら『地球』に返せなかった。つまり見捨てたという事になるのだろうか。…でも実際は、仕方がなかった。どうしても、返すことが出来なかったのだ。理由なんて分からない。
それに、僕はあの人間がどうなろうと知ったことではない筈じゃないか。この世界に存在することで別の人間からこの世界が干渉を受けるような事があるなら問題だが。そうならないのであれば…後は生きるも死ぬも自由だ。
そのまま僕らとは、何の関係も無くなる。それでいいじゃないか。
「…命。」
「――えっ」
不意に出た姉さんの声に、僕は少し頓狂な反応をしてしまった。気付けば、姉さんは僕に真剣な眼差しを向けていた。
――前と同じ。人間と関わるなと僕に警告した時と。そう思って相当ぎくりとしたが、
「…何?姉さん。」
「私から1つだけ、お前に伝えておきたいことがある。」
この後、姉さんは意外なことを口にするのだった。
「いつか。お前には、重要な選択をせざるを得ない時が来るだろう。それは今すぐかもしれないし、私が消えてからかもしれない。
だが、そのいずれの時においても。
お前は、お前自身の手で選択をするんだ。私でも、他の誰でもなく。…お前自身の選択をな。」
(え…?)
僕は、眉を潜めた。
一瞬、理解できなかった。
姉さんが何を言っているのか。
「それって…」
「『選択』するべき事が分からないのなら今はそれでいい。だが決して忘れるな。お前は私とは違って、お前自身の生命を生きることが出来ることを。」
姉さんでもない、他の誰でもない、僕の選択。それはつまり――
「でもそれじゃあ、僕は果たすことが出来ない。『流れ』を守る役目を。…姉さんは今までずっと姉さんの『選択』をせずに、星を守ってきたじゃないか。」
僕がそう言うと、姉さんはとてもゆっくりと首を横に振った。
「お前は『選ぶ』ことが出来る。」
「え?」
「お前はもう、私とは違う存在なのだから…。」
見れば、何だか姉さんは眠そうな顔をしていた。さっきまで元気そうにしていたのが嘘のように。瞳は今にも閉じてしまいそうな瞼に隠れ、声は次第に小さく掠れていっていっていた。
「…姉さん?」
返事はない。そして、姉さんは目を閉じた。背もたれに完全に背を預けた状態で、両手は指先まで力が抜けたようにくたりと椅子の上に置かれていた。
「姉さん、」
再度呼びかけても、返事がない。…眠ってしまったのだろうか。それにしてもさっきまではっきりと起きていたのに、こんなに早く?
とても嫌な予感がして
僕は息を呑んだ。
反射的に僕は姉さんの椅子の横に駆け寄り、その華奢な右手を手に取ってみると違和感を感じた。
やけに軽い。それに何というのか、はっきりと触れている感触が伝わってこなかった。目を閉じてみれば、今本当に姉さんの手を取っているのか疑問に感じるほどだ。
…トッ
「?」
その時近くで物音がした。初め、その音源が分からなかった。目の前で鳴ったような気がしたが――
「あ、」
そして気付く。今さっき僕が持っていた姉さんの手が、椅子の上に戻っていることに。普通に考えれば、僕が姉さんの手を椅子に落としてしまったということなのだろうが、それにしても変だった。
「…あれ…?」
僕の手の形は、微塵も変わらずそのままなのだ。姉さんの手を両手で握った形、そのままだったのだ。
(まさか――っ)
バッ
「姉さん、…姉さん!!」
僕は姉さんの細い両肩を掴み、揺すった。何度も呼びかけながら。ただただ必死に…
「姉さん!!起きてよ…ねえってば!」
だが結局。その日姉さんが再び目を開くことはなく、僕は仕方なく自分の場所に戻った。そこでしばらくうずくまりながら考えて
理解した。
一応、まだ体が残っている分『流れ』は保たれているのかもしれない。だけど、
姉さんは、寸前なのだ。
もういつ消えてもおかしくない。
その証拠に姉さんの手が透けた。
(…姉さん…)
時が、容赦なく刻まれている。姉さんが消えてしまえば、僕は1人ここに残されることになる。新たな『流れ』を守る者として。
どくん!
「ぐっ!!」
突如、僕は激しく胸が押しつぶされるような感覚に襲われ目を見開く。その痛みを通して、電流が走ったかのように一瞬で頭に伝わった。何かが――
(この感じ…)
浮かんだのは
ゆらゆら、ゆらゆらと揺れる水面。
勢いよく流れ、駆け巡る激流。
(『流れ』?)
うまく言葉に出来ない。あえて言うとするなら、それはまるで全ての『流れ』が自分と一体化しているような感覚だった。とてつもなく大きな、『地球』中の『流れ』と。
目と耳が。手が、足が。全身が、膨大にある『流れ』を感じている。そのせいか、胸が苦しさはどんどん増していった。物凄く重くて、重くて。今にも押しつぶされてしまいそうだ。
「ぅう…ぁ…!!」
だから全く動けなかった。でももしこの状態で、例えば腕を動かしたなら…全ての『流れ』を自在に操れそうな気がした。それはまるで自分の身体の一部であるかのように。そう思った時、
その感覚はすっと消えた。
「ゲホ!!ゲホゲホ!」
急に胸の苦しさから解放されて、僕は激しくせき込む。それから元の呼吸を取り戻すまでのしばらくの間は息を切らしている事しかできなかった。
(今のは…)
僕は立つことも出来ない中で考える。今のは何だったのか?と。そう思いつつも、答えは既に僕の中で出ていた。根拠は何もなかったが。
きっとあれは、姉さんが今まで負っていた感覚なのだろうと。
姉さんが今消えかけている中で、それが一時的に僕に移ったのではないか?そう考えれば自然だった。姉さんが『流れ』を動かせる力を持っていたのも、多分あの感覚があったからこそなのだと思う。しかし、姉さんはあんなにも重いものを背負いながら、ずっと『流れ』を守ってきたというのだろうか――
ついに姉さんが目を覚まさなくなってからというもの。どれくらい経ったのかははっきりしないけれど、僕は度々『流れ』の感覚に襲われる日々が続いていた。それは前触れもなく、毎回突然にやってくる。
その度とても苦しかった。苦しくて苦しくて、もしかしたらこのまま死んでしまうんじゃないかと思うくらいに。胸を中心に、体全体が激しく圧迫されるのだ。
1番酷かった時は、ある時自分の場所で目が覚めてすぐになった時だった。それは凄く長く続いて、結局その日は1歩も動けないままずっと極限の苦しみの中にいた。
あの時は、本当に死を覚悟した。
それでもやっと眠りについて次に目が覚めたときには収まっていたけれど。それからしばらくは、いつまた『流れ』の感覚が来るかかなり怯えて過ごしたものだった。
でも、今思えばそれがきっかけだったのかもしれない。
どくん!
「!」
僕は胸の前にぎゅっ…と拳を作る。いつものように『鏡の間』の中心で1人少し姿勢を崩して座っていた時のことだった。実を言うと、その時は『地球』を見ていたわけではなかったのだが。
ややあって僕は拳を離し、これといって意味はないがゆっくりと拳を開いて、青白い光に照らされた手の平をじっと見つめてみたりする。
そして
(またか…)
とだけ感じた。
…自分で驚く。いつの間にかあの恐ろしい感覚を「またか」だけで済ませられるようになっていたのだから。
思うに、いい加減僕は気付いたのだ。即ち、自分の身に降りかかってくるあらゆる出来事は、じっとしているだけでは何も話が進まないという事を。『流れ』の事も、姉さんが死に瀕しているだろう事も。いくら僕が恐れたり悲しんだりしても、痛みが和らいだり姉さんの目が覚めたりする筈はない。
端的に言ってしまえば、「自分がやるしかない」ということだろう。
この世界は、いまや僕1人しか居ないのと殆ど一緒だ。だからきっと僕が動かなければ世界は変わらない。絶望に暮れている暇があるなら、僕は少しでも前進しなければいけないのだと思う。
どうすれば姉さんという存在に近付けるのか。どうすれば姉さんのように『流れ』を操り、星を守っていけるのか。
考えて、考え抜く。
僕はそのために生きている。
…姉さんを継ぐ者として。
そう思い始めた頃からか、不思議とあの痛みが軽くなってきたのだ。こんな考え方1つで状況が変わるものなのか、まだ半信半疑だが。
僕は開いた手の平を再び閉じ、拳を作ってぐっと握りしめた。そして目をつむってみる。
するとやはり感じられた。…『流れ』だ。今は、ある急流が見える。それは様々な方向に数え切れないほど分岐していて、四方八方、星の広範囲に『流れ』の脈が張り巡らされているのが分かる。
(………うん。)
僕は確かめるように、小さく頷いた。
さて、さっきも言ったとおり。今僕は『鏡の間』にいながら『地球』を観察していないわけなのだが、それには理由がある。
姉さんには全くもって及ばないだろうけれど、僕はもう大分長い期間『地球』を観察してきた。でも――いくら穴の開くほど真剣に見ていても、分からなかったのだ。姉さんの言う人間の『愛』というものが。姉さんは、僕らには見ていることしかできないと言った。だとしたら、きっと僕には一生『愛』が理解できないまま終わってしまうだろう。
なら、どうしたら僕に『愛』が理解できる?そう考えた時に、僕の中で突拍子もない案が浮かんだのだった。普通に考えればそれは不可能という3文字でしか表せない事柄に違いない。しかし不可能な事でもしない限り、この状況を打開することは出来ないと僕は確信していた。
そう。それは、僕がここを抜け出して『地球』に行けないかということだ。
背筋に悪寒が走る話ではあるが、僕は『地球』で人間に紛れて暮らせないかと思っている。人間が何を考えていて、どんな時にどういう感情を持つものなのか。それに直接触れることで、今まで分からなかったことが解明できるのではないか。そして多分この世界で1番『地球』に近いのがこの『鏡の間』だ。ここを通じて何とか抜け出せないものか。
と思って、僕は座り込んでいたのだ。
幸い、僕らの容姿は人間を模したものだ。この姿で話しても、人間でないと気付かれることはまずないだろう。しかし、何しろそれ以前の問題が山積みだ。これから僕がそれらを1つ1つ解決しなければいけないと思うと、とても気の遠くなる話だった。
今の時点で大雑把に問題を把握するとしたら、2つ。それは果たして僕らは『地球』に出ることが許される身体なのかということと、姉さんの言っていた人間と関わることで起こってくる『災い』とは一体何なのかということだ。
…『災い』なんて、僕らからしてみたらもう起こっているも同然じゃないか。人間がいるせいで、今まで姉さんがどれだけ苦しんだと思っているんだ…
一瞬そんな黒い感情が沸いたが、僕はそれを振り払った。だって、姉さんはそれでも『地球』の全てを守ってきたから。今も僕が『流れ』を感じない時は、きっと姉さんに感覚が降りかかっているに違いないのだ。
もうこれ以上姉さんを苦しめないためにも。姉さんの幾万年を無駄にしないためにも、僕が早く『地球』を守れるようにならなくてはいけない。勿論その中に生きる人間も例外なく――守らなければ。
僕は小さく溜息をついた。とにかく、人間と関わろうが関わらまいが『災い』は訪れるのだから。
問題の大きさとしては、前者の方が上だと思っている。僕らは『流れ』の意識体のような存在だ。僕の目には今こうして自分の形が見えているけれど、『地球』に出たらこの形が保たれてるかどうかはかなり怪しい。そもそも今の僕は人間の目に映る存在なのだろうか。
そんな時、僕は過去のあの出来事を思い出した。
僕が人間に出会ってしまった、あの時。あの人間には、僕が見えていた。会話もした。つまりこの世界――『ここ』でなら人間にも把握されるのだ。
いや、
あの人間に合った場所は、本当に『ここ』だったんだろうか。あそこはよく分からない場所だった。夢の中にいるような、とても不思議な空間。全体が白と黒の2極に別れていて、まるで何かの境目のような。
そこで僕ははっとした。
(境目?)
突然頭の中にぱっと1つ明かりが点いたような気分だった。あの空間が『地球』と『ここ』との境目だった…そう考えれば自然じゃないか。人間は『地球』から来てあそこに居た。そこに『ここ』から来た僕が現れ、出会うことがない筈の者同士が出会ったんだ。
ならもう1度あそこに行けば、僕は少なくとも『地球』に近づくことが出来るんじゃないか?
(そうか…!)
僕はその場にいきり立った
が、すぐに萎えた。
「………。」
何故なら、今でもどうやって僕があそこにいけたのか謎のままだからだ。ぬか喜びだと分かると、僕は乱暴に頭を掻いて肩を落とした。
でも、あの空間にはこの『鏡の間』から通じた筈だ。何か手掛かりはないものだろうか、と思いつつも。
(結局…あれからどうなったんだろう。)
僕はあの人間の事を思った。彼女は死んでしまったのだろうか。…それとも。
死んでしまった確率の方が高いだろうが、もしかしたら生きているかもしれない。まだあそこにいるか、あるいは自分で『地球』に帰ることが出来たか。
でも、あの時僕が彼女を帰そうとしても出来なかった事が気掛かりだ。僕が初めてだったからというのもあるかもしれないけれど、どちらかというとあれは何かに妨害されたような感じだった。何か、外的な理由があるのかもしれない。
だとしたら彼女はまだいる。ここのどこからか繋がっている、境目に。
…本当に、僕はどうやって彼女と会ったのだろう?気付いたらあそこにいた。確実に僕の意思では行ったのではない。ただいきなり変わった音がした後に『鏡』が消えて、違う空間になっていた。それが全てだ。
一体、何の音だったんだろう。
……オォ…ン……
あの時は、空間が鳴いたと思った。空間の鳴き声。よく考えてみればそんなものあるわけがない。別のものが、鳴いているのだろうか…
次の瞬間には、僕の足元は無くなっていた。
「…え、」
思わず声が出る。ふと気付いたら『鏡』が消えていたものだから僕はとても驚いた。まさか、こんなことがあるというのだろうか。丁度思い出していた時に――
手足が宙に投げ出されて浮いている。上も下もよく分からない。きっとその時、僕は酷く呆けた顔をしていたと思う。僕の周囲にあった暗闇はあっと言う間に崩れて、またあの二極化した空間へと変貌していったのだから。
しかしさっきまでここに来ることを望んでいたとは言え、「また来てしまった」という思いはいがめなかった。
まずここには、姉さんに人間と関わるなと釘を刺されていたのに無視してしまったという後ろめたさがある。それに彼女と会った時の自分といったら。泣いている所を正面から見られたり、その後には怒鳴ってみたり。今思い出しても取り乱していて…かなり恥ずかしい。
僕はそこで目をつむり、かるく頭を振った。
そんなことはどうでもいい。幸運にも唯一『地球』と接点があるだろうと推測した『境目』へ来ることが出来たのだから。
(ここで、何かを掴まないと。)
ぐっと息を押し殺して気合いを入れた時だった。
「――あなた、」
声はすぐ後ろで聞こえた。
「…っ?!」
いきなりのことだった。ここに来れたのもいきなりのことだったけれど、それよりも上回っていた。反射的に首を捻って目を後ろに向けてみると――
『あっ…。』
互いに、小さく声が出る。
よりにもよって、どうして僕のすぐ後ろに?今さっきまで背後には何もなかったのに。空間がうまく捻れて一気に彼女の場所へと繋がったのか、それとも最初からそこにいて僕が見ていなかっただけなのか…いずれにしてもこんなどこがどこだか分からないような場所で、簡単にまた会えた事に違和感をおぼえずにはいられなかった。
彼女は僕から見て空間の少しだけ高い位置にいた。初めて会った時と全く変わっていない姿でいて、驚いた様子で青い瞳を僕に向けている。僕の体は固まってしまったようで、ずっと振り向いた体勢のまま直らなかった。
「君は…」
そんな状態で、何とか声だけ絞り出した。けどこれ以上は言葉が出なかった。色々と聞きたいことがあった筈なのだが、何しろ思考が追いついていかない。すると、彼女の驚いていた表情がふっと和らいだ。
「やっぱりあなただった。」
それは少し微笑んでいるようにも見える。
「また、会えたね。よかった、1人で不安だったから。」
「…。」
「けど、またここに来ちゃったんだね。」「……。」
「それとも、来てくれた?」
「……、どっちでもない…」
ようやく返事が出来た。何というか、複雑の一言だった。僕はゆっくりとそちらに向き直り、小さく彼女を見上げた。
ゆらゆらと白い布と艶やかな金髪が揺らめいている。彼女は僕を小さく見下ろして、今度は悪戯っぽく笑っていた。僕は意を決し、一旦溜まっていた唾を飲み込んでからすっと口で息を吸う。
「聞きたいことがあるんだ…君に。」
自分で言ったら、少し気分が落ち着いた。そうだ、今は落ち着かないといけない。前みたいに逆上するのではなくて、冷静に話を聞く事に専念しよう。大丈夫、これくらいなら災いは起きない。きっと…
彼女はこくっと小首を傾げた。
「君は、どうやって『地球』からここに来たんだ?どうしてここに来ることに?」
「……。その時のことは、よく覚えてない。気がついたら、ここにいたから。もうね、いつ来たのかも覚えてないの。ほら。ここ、時間がよく分からないから。あなたがどのくらい前に来たかも、はっきりしなくて。」
あまり期待はしていなかったが、やっぱり予想したような答えが返ってきた。それでも僕は出来る限りを聞き出さなくてはならない。少しでも、手がかりを掴まなければ。
「覚えてる限りでいい。意識を失ってここに来る前にどんな事があったのか。『地球』での事を、僕に教えてほしいんだ。」
「……。」
彼女は困ったように視線を脇へと逸らすと、少しの間黙り込む。どうやら何かを考え込んでいるようだ。
「どうして、知りたいの?」
彼女は思い出したように単純な疑問を口にする。けれどそういうものが返ってくるとは思っていなかったので僕は一瞬言葉に詰まった。そんなことどうだっていいじゃないか…と思ったけれど、自分が『地球』へ行くための手掛かりを探している事を言うのは、何となく気が引けた。そこで、
「…君を『地球』に帰すために。」
さらりと出てきたのがこれだった。別に嘘はついていない。もし『地球』に行けるようになったら、前のような方法で駄目だったとしても、ここに迷い込んできた人間を直接帰す事も簡単になるだろう。
「あなたが?」
「そう。ここにきた人間を『地球』に帰すのは僕らの仕事だから。この間だって僕は君が目を覚ます前に試した…その時は、駄目だったけれど。」
「…やっぱり、あなたって普通の人間じゃない、のかな?」
「人間じゃないって前に言っただろう?」
「じゃああなたはここにずっと、住んでる事になるのかな。」
「この場所とは少し違うけど、そんな所だよ。僕は『地球』じゃない場所で生まれた。」
「そうなんだ…。」
彼女は何か納得したような表情をした。
そして彼女はおもむろに言う。彼女独特のゆったりとした、丁寧な話し方で。
「じゃあ。私のこと話す前に…自己紹介、しておくね。」
「!」
僕は少しどきりとする。それから彼女は「ちょっと、遅くなっちゃったけど」と付け加えた。正直、名前の事なんてすっかり忘れていた。前の彼女との別れ際に、僕の名前を聞かれたとき以来――
「私の名前、ルチアっていうの。」
「…ルチア?」
「うん。」
彼女はこくりと頷く。姉さん以外の名前を聞くのはこれで初めてだった。
「ルチア、か。」
僕はその実感を名前と共にゆっくりと噛みしめる。しかし、
「それで。あなたは、何て言う名前なの?」
「…っ…」
やっぱりこうなってしまうか。仕方がないから、ここは本当のことを言うしかないだろうか。僕は深く溜息をついた。過去にあれだけ姉さんに名前は無いのかと問いつめておきながら、自分の名前が未だに無いのだ。
だって驚く程何も思いつかないし、そもそも自分で名前を付けるなんて照れくさい。姉さんがどういう経緯でアリシアという名前がついたのかとても気になるところだった。
「…僕に名前なんて無いよ。」
「え?どうして?」
「無いものは無いんだ。僕はルチアみたいにはっきりと体があるわけじゃないから。」
「でも、あなたはここにいるじゃない。」
「……。」
あまりに激しい既視感に目眩が起きそうだった。少し違いはあるけれど、まさか今になって姉さんのような立場になるなんて。結局、僕らはこうして堂々巡りしているしかないのだろうか?
けれど、いつか僕も人間のような肉体を持てればそれは変わるだろう。そしてその時きっと――この『見ていることしかできない』現実を変えることが、出来るのだろう。
「深く追求する事じゃない。」
僕は胸の中に熱いものをたぎらせながら、外ではさもどうでもいい事のように振る舞った。やっぱり説明するのも面倒臭いし、人間に『見ていることしかできない』僕らの気持ちが分かるとは、到底思えない。
「そうなの?」
「ああ、あなたでも何でも好きに呼んでくれていいよ。」
「それしか、呼びようがないけどね。」
ルチアは少し腑に落ちない様子で僕に目を向けている。まあ、僕があまりに話さないから仕方のない事なのかもしれない。その内何かの拍子で彼女が宙をゆっくりと下降して僕と目の高さが同じになると、ますますじっと目が合った。ああ、またあの大きな青い瞳が――
「…………。別にいい。」
うまく言えないが、何だか瞳に吸い込まれそうになったような気がして僕はとっさに顔を横に背ける。それは初めてルチアを見た時と一緒の感覚だった。一体、何だと言うのか。
少しの間の後、ルチアは僕の視界の外で呟いた。
「でも、早くつくといいよね。」
「何が。」
「名前だよ。」
「…僕は別にいいって、」
「そうだ、私も一緒に考えてあげる。」
「はあ?」
何がどうしてそんなことになるのか。思わず変な声を出してまた向き直ると、ルチアは恐ろしい程邪気のないにこにこ顔になっていた。
「きっとそのほうがいいよ。だってつけてくれる人、いないんでしょう?」
「え?いや、」
「自分で自分の名前決めるなんて、あんまり出来ないだろうし。」
「だから…!」
「うん、そうだよ。大丈夫。私も手伝ってあげるから。やっぱり私、呼び方に困っちゃうし、ね?」
「……。」
僕はただ、唖然とするしかなかった。
「きっと、いいの考えるからね。」
「…はぁ…」
まあいい、放っておこう。どうせ僕の性格のことだ。人間に名前を貰うなんて癪に触るから、ルチアがどんな名前を提案してこようとも首を横に振るに違いないのだ。こんなことになるんだったら、姉さんが眠ってしまう前に名前をつけてもらうんだった…と今更ながら本当に後悔するのだった。
「ところで、そろそろ話してくれないか?」
「?…」
「君がどういう経緯でここに来ることになったのか。」
僕が仕切り直すと、忽ちルチアは自信が無さそうに顔を少し下の方に向けた。
「さっきも言ったかもしれないけど、直前のことはよく覚えてないの。だから多分、私が話すことが出来るのはそれより前の事とか…私自身の事くらい。それでもいい、かな?」
「話してみればいいさ。少しでも手掛かりになりそうなことは、聞かせてほしい。」
「そう。…なら、いいよ。今私の知ってること、なるべく話すから。」
ルチアがすっと目を閉じると、それから僕は口を閉ざした。ぐっと息を飲み込んで、彼女から紡がれる言葉に耳を傾ける――
「私はね、物心ついた時には研究所にいたの。」
「けんきゅう…じょ?」
「うん、大きな建物。世界中の色々な人が集まってて、何かよく分からない実験をしてる所。今まで私はその建物から1度も外へ出たことが無くて。だからね、きっとここへ来たのもその建物の中からだと思うの。」
「…建物の中から、ここへ?」
それは何とも奇妙な話だった。『流れ』の世界は今も姉さんの力で『地球』から切り離されている。恐らく地下に在ることになるのだろうけれど、人間に見つからないよう厳密なコントロールで隠されているのだ。だからそもそも人間が迷い込んでくるなんて滅多にない。どこか自然の洞穴からたまたまここに通じていた、という話ならまだ分かるけど。隔離された建物の中からなんて…?
「だと思う。今、現実で私はどうなってるのか分からないけど…何だか、今は夢を見ているような気がして。なら私は、どこかで眠ってるのかなって思うの。」
「夢だって?」
「そう。随分、長い夢。」
「ルチア。悪いけどこれは現実だよ。僕も最初ここに来たときは夢かと思ってたけど、今なら分かる。ここは『地球』と『流れ』の境目なんだ。ここで僕らがこうしてまた会えたのも、ルチアがずっとここに居たからだ。」
すると、ルチアは軽く俯きながらちょっぴり苦笑いを浮かべた。
「実は、そんな気がしてた。これは夢じゃないって。ただ…あなたの言ってる事は、よく分からなかったけどね。」
「一体その建物…研究所では何をしていたというんだ?ここに繋がるようなきっかけが、どうやって…?」
きっと、そこに確信がある。そう思いながら僕は独り言のように呟いた。けれど周りが無音なものだから、それは一瞬にしてルチアの耳に届いたようだった。
「ごめんなさい。」
「…え」
「周りの人達が、何をやっていたのかは分からない。私いつも遠くから見ているだけだったから。」
「あ、ああ…そうなのか。」
僕は曖昧に返した。正直、知っていたのならかなり大きな手掛かりになったことだろうと思うが。何とか残念そうな声色は隠せただろうか。ルチアがあまりに自信の無さそうな顔をするから、軽い罪悪感に苛まされてしまった。
「でも、」
「…?」
彼女はぽつりと呟く。これ以上ないくらいに小さな一言だったけど、それでもはっきりと聞こえた。どうやらここで独り言は言えそうにもないようだ…やれやれ、と内心僕は苦笑する。彼女は続けて、これまた消え入りそうな声で言った。
「私は――そのために生まれたっていうことだけは、分かる。」
僕は眉をひそめる。少し、意味が理解しずらい。
「それはどういうことだ?」
「私が生まれたのは研究のためだって、聞いた。」
研究…即ち研究所とやらでされていた事を示すのだろうか。それにはある目的があって、そのためにルチアが生まれた。
「私、さっき名前はルチアって言ったじゃない?でもね、本当は違うんだよ。
実は、私もあなたと一緒。」
「…え?」
「本当の名前は、持ってないの。私は、ただのクローンだから。」
言葉が出てこなかった。突然何を言いだしているんだろうという考えで頭が一杯で。
名前がないだって?クローンって、何だ?多分その時僕は相当に分からない顔をしていたのだろう。ルチアはすぐに説明してくれた。
「クローンっていうのはね。うまく言えないけど、ある人のコピーなの。その人の体の一部をうまく使えば、その人と全部同じ細胞で出来たもう1人の人間が出来上がる。そうやって生まれたのが私らしくて。だからね、ルチアっていうのはその元の人の名前なんだ。」
「…そんなことが…本当に出来るのか?」
「うん、本当のルチアさんに教えてもらったから、ね。」
彼女は優しく笑って話してくれたけれども何故かそれはどこか寂しそうな表情であった。しかし、それと研究にどんな関係があるというのだろう?
「つまり、研究にはルチアという人間が2人必要だった…のか?」
「別に2人じゃなくたっていい。本当は、それより多い方が良かった。…だけど出来なかった。沢山作ろうとしたけど、その中でクローンになれたのは、私だけだったらしいから。」
「…そうか。」
「その時の事は、何も覚えてはないけれど。」
そこでルチアはすっと横の方を見渡した。白と黒に分けられた何もない空間、その向こうに何かを見つけようとしているようにも見える、遠い眼差しで。
「でも、どうしてかな。私、忘れてる気がするの。」
「忘れてる?」
「うん。何か、とっても大切な事。早く思い出さなきゃいけないのに…どうしても、思い出せなくて。」
彼女は目を閉じる。すると何だかますます、寂しそうに見えた。僕には全く事情が飲み込めないけれど、形を持たない何かがひしひしと伝わってくるような気がした。
これは――悲しみ?
「ルチア。」
「え?」
僕は沈黙する。何となく、声をかけてしまった。この後何て言うかなんて全く考えてなかったのだが、どうしたものか。
――いや…
言うことは、ある。ただ気が引けているのだと思う。果たして人間相手に僕がこんなことを言ってもいいのか、という考えが頭を過ぎった。
彼女はきょとんと気の抜けた顔で、僕を見ている。仕方がないから僕は固唾を飲み込み、覚悟を決めた。口を開く前に、心の中で呟いて。
(そんなに見られても困る…)
「――僕は『地球』でのルチアの事をまだよく知らないけど。でも…その。話を聞くことくらいは出来る…」
「?、」
僕の声は自分でも驚く程にぼそぼそとしていた。ああ駄目だ。こんなんじゃ何を言いたいのかさっぱり分からないし、それ以前に聞こえないだろう。もっとはっきり言わなければ相手には伝わらない。けど次に何を言ったらいい?取り敢えず言い直してみるか?
「…そう、話を聞くくらいなら出来る。だから何か。聞いてほしいことがあるなら言ってみればいい。溜め込んでいたら、良くない…うん。良くない、から…」
「――…。」
その時微かにルチアの息を呑む音が聞こえた。でも、それから反応がなく表情も変わらなかった。
そして僕もどうやらこれが限界だったようだ。もう、言葉が続かない。これでもかなり絞ったつもりだったけれど、やっぱり駄目だった。僕は無意識に視線を下に落としていた。あれ、今僕はルチアにどんな反応をしてほしかったんだっけ…?終いにそんなことを思い始めた時――
…クスッ
(え?)
唐突に聞こえたとても小さな笑い。僕が恐る恐る顔を上げてみると。
「クスクス…、ふふっ」
ルチアが、笑っていた。僕の縮こまったこの姿を見て。
何というか
ほっとした。
僕の中で、さっきの落胆がゆっくりと溶けるように消えていくのが分かる。けど同時に少しムッとなったから、僕は彼女にこう言った。
「何が、そんなに可笑しいのさ。」
「ふふふ、ごめん…ね。ちょっと、似てたから。」
「似てたって?」
僕が怪訝そうに聞くと、ルチアはまだ笑い混じりで答えた。
「ううん、何でもない。」
まあ誰と似てるかなんて、僕が彼女から聞いたところで分かるわけはない。ただルチアと知り合う人間の誰かと似ていると言っている事は確かだろう。人間と似ているなんて聞いただけで虫唾が走るけど、少し気になるところではあった。僕がどんな人間と似ているというのか…それにしても、やけに嬉しそうだった。
「ありがとう。あなたのおかげで、ちょっと元気出てきた。…私、不安だったの。ここに来て、初めてあなたと会った後はずっと1人で。誰とも会えなかったから…すごく寂しかった。このまま戻れなくて。もう一生皆に会えないんじゃないかって、そう思ってたの。」
「ここに来た人間は全員そう思うんじゃないかな。」
「うん。でも、あなたがまた来てくれて。本当に良かった。」
そしてルチアはもう1度「ありがとう」と告げると、ふわりと僕に微笑みかけた。さっきまでとはまた違う、柔らかくてとても優しい笑顔。
「…別に…」
接し方に迷ったので、取り敢えず返したのは一言だけ。何となく視線もそらしていた。でもここで1つ分かったのは、僕がルチアの力になりたいと思い始めているという事だった。
『地球』に行くための手掛かりを掴む。ただそれだけの目的で近付いた筈だったのに、いつの時点からこうなってしまったのか。理由もよく分からないけれど…とにかく、これから先彼女の力になれたらと。その笑顔が見れるならと、僕は思うのだった。
でも僕には分かった。ルチアは、やっぱり本心を語ろうとはしていない。その笑顔の裏側に隠されている何かを、見せようとしない。
当然か。まだ会ったのが2回目なのに、何が話せる?僕がその立場になったとしても、多分話さないだろう。野暮な事を言ったものだと後から自分で呆れた。しかし言ってしまったものは仕方がない…
取り敢えず、僕の中で今までの事を少し整理してみることにした。まず、ルチア自身はどうやってここへ来たか分からない。けれど建物…研究所という密封された空間の中から来たことははっきりしている。そこでされているという研究がルチアをここへ導いたのか。それはまだ分からないけど、やっぱり僕としては気になっている。クローンであるルチアを生み出した研究とはどんなものなのか。その事を分かる必要があるだろう。
「ねえ。」
考えてる間に突然ルチアが呼び掛けてきた。そして返事をする間もなく、彼女は僕を覗き込んみながらこう言った。
「あなたのその目、綺麗な緑色だね。透き通ってて。…キラキラしてて。まるでエメラルドの石みたい。」
「…え?」
僕はそのよく分からない事に間の抜けた声を出した。
「エメラルドの石、だって?」
「そう、その色にそっくりだよ。私が前に見たのと――」
そこで急に、言葉が途切れた。
「…どうかした?」
「ううん、何も。ただ、私前にそれを見たことがあったんだけど、それがいつの事だったか忘れちゃったの。」
「石を?」
「うん、…それだけ。いつだったんだろう、あんなに綺麗だったのにな。」
(また覚えてない…か。)
それはさっきから僕の心に引っかかっていた。どうも、ルチアはあいまいな記憶しか持っていないように思えるのだ。見たところ、彼女が『地球』に生まれたのはごく最近に見える。だから長い年月を経て記憶がなくなっている、という風でないのは確かだと思っているのだが。
なのに、ルチアには思い出せないことが沢山あるようだ。自分の生い立ちはともかくとして、今までに見てきたものもはっきりとしないみたいだし――何より、彼女が口にしていた、『何か大切なこと』というのが僕の中では一番気になっていた。
「でも、やっぱりね。私、その色見てるととっても懐かしくなるの。何だかとっても……い気持ち…なれる…」
「?」
その時後半がやけに聞き取りにくかったので、僕は思わず眉を潜めた。
(何だ?)
何故か聞こえてくる音が急激に掠れていっているような気がする。僕の目の前で、今もルチアが嬉しそうに話してる。その口が動いているのは分かるけれど、音だけが聞こえてこないのだ。
次に視界がぼやけていく。その時点で僕は気付く。この感覚にははっきりと覚えがあった。
(そんな…まだ足りないのに…)
前と全く一緒の状況だ。段々と全ての景色が白に染まっていくのも。今襲ってきている強烈な睡魔も。
「…っ――」
たまらず僕は目を閉じる。それで、おしまいだ。もう後は何も感じないで。いや、寧ろ体そのものが無くなってしまったような感覚で、次に目を開くと元の場所に戻されているのだろう。と思ったけれど。
どくん
しばらくしてからの事だ。無音の中で僕の鼓動が1つ鳴った。一瞬苦しくなって、思わず声が出そうになったけど出なかった。鼓動は僕の頭の中で大きく、何重にも響いて聞こえた。手も足も動かない。目も開かない、暗闇の中で。
すぐに分かる。
この息苦しくて重たい感覚は間違いなく『流れ』だ。僕は今『流れ』の中を漂っているのだろうか。何か大きな力を感じる。形はないけれど、とてつもなく大きいことだけは分かった。
すると――
『望むのか』
(?)
その力が。眠っている僕に呼びかけてきたような気がした。
『望むのか』
声はないのに。どうしてか聞こえる。聞こえないものが聞こえるなんて、意味が分からなかった。それに、何を言ってるのかも僕にはあまり理解できなかった。
(何が、だよ…)
取り敢えず悪態をつくと。その瞬間、僕の意識は今度こそ完全に闇に飲まれたのだった。
「――」
手足がまだ重い。僕は『鏡』の中心に座り込んだままゆっくりと目を開いた。まるで悪い夢からでも覚めたように、体がとても気だるい。
でも。何度目に言うか分からないが、彼女に会ったのは夢なんかじゃない。姿も声もはっきり覚えているし、会話の内容だって全部覚えている。
もし夢だとしたら、こんなに馬鹿げていることはない。研究だのクローンだの、自分の妄想があまりに度を越し過ぎていることに笑うしかなくなる。出来れば今の所、それは信じたくはないものだった。
ルチア
それが彼女の名前。人間を毛嫌いしてる僕が、初めて出会った人間。彼女は、一言で言えばとても不思議な存在だった。何故だか、目が覚めた今でも理解できない。どうして僕が、彼女を助けたいと思うに至ったのか。
――どうして、あんなにも彼女の青に惹かれるのか。
僕はぐっと手を膝に置いて、軽く息を止めながらその場に立ち上がると、ふーっと胸に溜まった息を勢いよく吐き出した。体のだるさを吹き飛ばしたくてやったのだけれど、あまり効果はないようだった。僕はそれから何もない空間の彼方に目を向けた。
(――よし。)
今から僕がするべきことは?そう考えた後、僕は思い立った。何だか気持ちがごちゃごちゃして忘れかけていたけれど、
要は元々の目的に戻ればいいのだ。
即ちルチアがどうやって地球からここに来たのか、どこかに道があって何かの拍子に来てしまったのか。それを僕が調べられれば、自然と導ける。僕が地球に干渉する方法も、彼女を助ける方法も。
ルチアは何も覚えていないと言っていたけれど、僕には『地球』の全てを見通せる『鏡』がある。そこからルチアの過去を辿ることが出来れば――と期待が膨らんだが、それはすぐに萎んだ。
『鏡』で『地球』の過去を見ることは出来る。でもその範囲はとても広いのだ。どこの箇所に絞って『鏡』に映すは、彼女が居た場所が特定できないことにはどうしようもない。
(どうにかならないのか?どうにか…)
ヴン。
その時周囲の景色と空間が崩れ、いつもの僕の場所になった。大して戻らなくてはならない理由があったわけではないけど、今のところは『鏡』を使っても無意味だと感じたからかもしれない。自動的に戻ってきてしまった。
すると、遠くを見上げていた僕の目に映った。ゆらゆらと光を帯びながら揺れる綺麗な水面が――
「あ、…。」
僕はその時無意識に右手を軽く上げた。そしてルチアに再会する直前にやっていたように、手の平をぎゅっと握って、開いて…目を閉じる。
すると、まるでかつて『地球』にあった森林に交差し、分岐する枝のような――無数の『流れ』の脈を感じられた。
体に情報が一気になだれ込み、浸透していくようなこの感覚。何だか1本残らず全ての脈を読み取れるような気がした所で、頭の中にふっとある考えが浮かんだ。それは、ルチアが『地球』の表面に現れた『流れ』を通じてここに迷い込んだのではないか、という事だ。
かなり今更な事ではあるけれど、普通に考えたら人間と僕らが接触する機会なんて『流れ』を通じてしか有り得ないのだ。ただ、姉さんは極力人間に見つからないように『流れ』をコントロールしていた筈だから不思議だった。
それなら、ルチアはかなり特殊な状況で『流れ』に触れたことになるだろうか?実際彼女が言っていた、外には1歩も出ていないというのが分からない…
まあ、それはいずれ分かるとして。僕が重要だと思ったのはそこじゃない。
そうでなくて、今把握出来ている『流れ』のどこかに彼女の痕跡が残っていないだろうかという事だ。
その結論に行き着くと、僕は更に神経を研ぎ澄ました。
それは途方もなく微かなものかもしれない。けど『流れ』を経由してきたのであれば、残っている可能性は高い。僅かな、この世界における異物が。
(どこだ…)
僕はそこで思い出した。僕らという存在は『流れ』の意識を具現化したものだと姉さんが言っていたことを。それならば『流れ』は僕らの体にも等しいという訳だ。…それならばもしかして、と思った。
果たして今思い浮かべたことが起こるか?
僕は少し躊躇していたが、その内意を決し、1度深呼吸してから試すことにした。
「…どこにある?」
ぽつり、と僕は問いかける。その言葉ない存在へと。
すると以外と簡単にゆらりと空間全体が揺らいだ。…いける。そう僕は直感する。そして更に、僕は命令した。歪んだ水面を見上げながら高らかな声で、呼びかけたのだ。
「応えろ。そして僕を――
僕を、そこに連れていけ!」
…ヴン!!
吠えた瞬間ふっと意識が遠くなって、後ろに倒れたような気がした。けど実際どうなったのかはよく分からない。ただその後、僕はとても速い『流れ』をこの目で見た。
見た、という言葉で表現するより。僕自身が『流れ』になったような気がしたといった方が正しいかもしれない。1本の脈の中を、僕の意識はまるで『流れ』の粒子にでもなってしまったかのように物凄い速さで駆け抜けていき――しかし、ある所で急に止まった。
がくんっ!と強い衝撃が体全体に襲ってきた。
「ぅわ!」
それに抵抗する間もなく、僕の体は思い切り前にのめりこむ。しかし『地球』とは違ってここには重力というものがないので、倒れたりはしなかった。浮かび、漂って少し落ち着いた後、僕は自分のこめかみの辺りを軽くさする。…頭ががんがんと痛かった。
(成功…した?)
痛みで若干目を細めながら見てみると、僕の周りにはいつもと殆ど変わらないが広がっていた。でも、すぐに分かった――僕は来たことのない場所にいる、と。
いつもと違うと感じたのは、うまく表現できないけれど空気感だろうか。何故だか分からないけれど、ここは酷く居心地が悪い。『流れ』が停滞していて、凄く淀んでいるような感じがした。
僕は胸に溜まった息をゆっくりと、全部吐き出す。
『流れ』を自分の意志に従わせる――恐らくは成功だ。まさか1発で決まるとは思っていなかったけど、僕は確かな手応えと達成感を感じていた。姉さんはこうして、いつも『流れ』を自分の手足を動かすかのように自在に操っていたに違いない。僕はそれに少しでも近付けた、成長できた自分を心の中で誉めた。
しかし『流れ』に連れてきてもらったのはいいものの、僕は一体どこに出たというのだろう?まずは、状況をよく探ってみることが必要なようだった。
まず、やっぱりここに来たときからずっと胸が悪い。とてももやもやしていて、下手をすれば息が出来なくなるほどに喉が詰まりそうだ。
どうしてここの『流れ』はこんなに淀んでいるのか。今の時点では何となくしか分からない。でも本来の『流れ』が何かに妨害されているような、そんな気がした。
(『流れ』を止めている何かがあるってことか…?)
取り敢えず僕は少し進んでみることにした。頭の中に歩くイメージを描き――そこから無重力に1歩、2歩、3歩。
その3歩目で、変化が起こった。
ゴポ…
「?!」
前触れもなかった。突然、『流れ』の色が濁ったのだ。一瞬のうちによく分からない黒ずみのようなものが空間全体にまだら模様を作っていて、しかもそのせいで辺りは薄暗くなっていた。
(何だよこれ…っ!)
僕は思わず片手で口を押さえ、黒ずみを間違って吸ってしまわないように気をつける。この黒ずみが何なのかなんて考えたくもなかった。が、そこで僕はふと気が付いた。
目の前の方向、その奥に。
ここよりもっと暗い場所が見える。
まだら模様なんて生易しいものじゃない。奥の奥の方では黒ずみが密集しているのか、完全に黒く染まっている。それは闇を生じさせている、とても不気味な光景だ。
一言で言うなら、行きたくない。
最初に思ったのがそれだった。
でもそんな事を思う時点で、自分が心のどこかであそこに行かなければいけないと思っているのが丸分かりだった。――そう、僕は行くべきなのだろう。だってきっと、あそこには僕の求めている何かがあるのだから。
このまま引き返したところで、何もしたことにはならない。僕はぐっと構えて、踏み出した。暗い方、暗い方へと。1歩出すのに2呼吸程かけて、慎重に進む。
正直なところ僕はとても怖かった。『流れ』にこんな異常な場所があったなんて。このまま進んでいって何が起こるか、皆目見当がつかない。
やがて僕は濃い闇に飲まれつつあった。辺りは黒で埋め尽くされて、何も見えなくなってくる。周りの風景も、僕自身も。
(くっ…)
さっきより強めに口と鼻を押さえているが、意味があるのかは怪しいものだった。というのも、黒ずみに触れるという感覚は無かったからだ。
熱くも冷たくもないし、異臭がするわけでもない。ただそれは僕を包み込んで闇を作っているだけで。固体なのか気体なのか液体なのか、そのどれでもないものなのか分からなかった。もしかしたら空間に固定でもされているのかもしれないけど…とにかく、何も感じなかった。僕にとってはそれが逆に不安だった。正体が分からないもの程怖いものはないと、僕は思っているからだ。
そんなこんなで四苦八苦している内に、辿り着いた。1番、闇が深いと思われる場所へ。
「ぐ、」
汚れた闇が溢れている。…息苦しい。もう本当に何なんだ、と僕は心の中で悪態をついた。それでも何とか探ってみると、どうやら闇はある1点から湧き出ているようだった。それは丁度今、僕の目の前にある。
注意深く見ないと分からなかったけど、片手に握れるくらいに小さな球状のものが浮かんでいた。球の中では、凝縮された黒いもやが時折少しの光を交えながらながらぐるぐると渦巻いている。その闇が、煙のようになって球の外へと放出されている。――僕にはそんな風に見えた。
手を伸ばせば、すぐにでもそれに触れられる。しかしざわざわと胸騒ぎがする。言いかえれば、嫌な予感しかしない。まあこんなもの、僕の他の誰が見たっていい気分はしないだろうが、それにしたってとてつもなく嫌なものを感じる。
「…っ!…」
だけど、それでも僕は手を伸ばした。闇をかき分けて、その不可思議な球体に。当然だ。覚悟だけはもう心の底で決まっていたのだから。ただ体が中々それに追いついていかず指先が震えてしまっていたが。
「くそ…!」
僕は腕をぐいと伸ばして、
パシッ!
苛立ちに任せるように、乱暴にそれを掴みとった。
それからどうなったのか、僕はよく理解できなかった。辺りの闇しかない状況は変わらない。でも、気付けば手足の感覚が消えているような気がした。…またか、という感じだ。この世界は夢と現実が曖昧になることが多いから最近うんざりしてくる。
とにかく、今は闇と無音に包まれた世界だった。そして少しすると――何やら、空間のどこからか誰かの声が響いてくる。僕は瞬時にそれに気づき、聴覚を研ぎ澄ました。
(――誰の声だろう?)
途切れ途切れであまり聞き取ることが出来ないけど、細い声だ。これは…同じ言葉を繰り返しているのか?いやそれ以前に、よく聞けば聞いたことのある声だ。あまりにか細くて判別がつきにくいけれどこれは――うん、間違いない。僕はひどく懐かしい気持ちになった。
『…ぉく。…き…おく。』
ああ今回は夢か、と確信した。
だって、これは聞こえる筈がない声だ。それでも僕は辺りを見回しながら、その姿を探す。
「姉さん。…姉さん、どこにいるんだ?」
『記憶……これは記憶。『流れ』の……記憶……』
だが、どんなに探しても姉さんの姿は無かった。僕の視界を覆うのは、闇一色のみ。
(やっぱり、駄目なのか…)
そう、姉さんは今も眠っている筈だ。消えてなくなってしまう、その間際で。
分かってる。姉さんが目を覚ます可能性が、もう無いに等しいことくらい。姉さんが背負っていた『流れ』が殆ど僕に回ってきているのだから、体で理解出来る。
姉さん。
目を閉じてしまったあの時から、どれくらい経ったのだろう。記憶を辿ってみると、その内胸がじわりと苦しくなった。最近やっと心の奥に押し込めることが出来た感情が――ああ、甦ってしまう。
『記憶…、『流れ』……』
僕は何も出来なかったという罪悪感にも似た感情が、また。
こみ上げてくる。
「姉さん、…姉さん。」
『『流れ』……穢れ……』
「姉さん。僕…姉さんに会いたいんだ。答えてくれよ……」
『記憶。残骸……』
「お願いだから――」
いくら呼びかけても、姉さんはそれに応える事はない。無性に、悲しかった。夢の中ですら、声が届くことがないなんて。気付けば、僕の目頭は熱くなっていた。
「どうして。」
僕は力なくうなだれ、その場にしゃがみこむ。何に対して「どうして」という言葉が出てきたのかは分からない。自然に口から滑り出た言葉だった。
その時――不意に視界が開けた。
キィィン!!
「っ!」
どこか、遠くの方から現れた真っ白な光が辺りを一瞬にして包んだのだ。僕は思わず少し呻きながら目を瞑り、両腕で顔面を覆った。
それから、急に前方からゴォッと風が押し寄せてくる。物凄い力で、たちまち体の自由が利かなくなった。足場も無く、それはどこかへ勢い良く落ちていく感覚に似ていた。
「姉……さん…」
最後の掠れた呟きは霧散し
僕は脱力して、落ちていく。
しかしその途中――
「…、?」
真正面に空気を受けながら、うっすらと目を開いた時。何かの映像が瞳に飛び込んできた。見たこともない景色が沢山、変わるがわる現れるのだ。
(な、…んだ…?)
それによって僕は徐々に熱に浮かされた頭を覚醒させ、ぼんやりとしていた思考を取り戻していいった。終いには両目を大きく開いて、それを見る。
(この景色は?)
次々に、絶え間なく僕の視界いっぱいに映像が映る。その中には時々人間の姿があった。一瞬で分かりずらいけれど、どれも印象的だった。
大きな湖のような場所に巨大な金属の筒が差し込まれている風景。沢山の白い服を着た人間達がせわしなく行き交う風景。暗い部屋に、各々時折小さな光を発しながらひしめいている無数の可笑しな金属の箱。
…まだ終わらない。
(これは『地球』の景色。きっと姉さんが言った『流れ』の記憶――その中の、)
広い銀色の机に所狭しと並べられている何かの器具。
その傍ら、白い台で仰向けに裸で横たわっている何人もの人間達。
何となく気味の悪い映像が続く中で、僕は姉さんの残した途切れ途切れの言葉を思い出していた。
これは『流れ』の記憶。なら、『流れ』がこの景色を見てきたとでもいうのだろうか?
まあ僕も体が無い頃でも視界はあった。だからもしかして『流れ』に目があっても不思議ではないかもしれないけれど…だとしても分からない。
まずどうして地球のものなんか見ることができる?地中にある『流れ』が地上のこんな場所を見れるわけが――
そう思いかけたところで僕ははっと思い出した。
(…地上に出る事が有り得ないのなら、強制的に地上に移されるしかない。)
ぞくりと背筋が冷える。僕は自分に静かに言い聞かせた。そう言えば前に1度『異変』があったじゃないか、と。
人間が『流れ』に干渉してきた。その時の、何かが吸い取られるような気持ち悪い感覚。姉さんが苦痛にゆがんだ表情で呼吸を荒げていたあの様子は、忘れもしない。
人間は『流れ』を吸い取っていた。その事実から、別の事実へ。僕の中の細い糸が音もなく繋がった。
つまり地上に吸い上げられたオメガを通じてルチアがこちら側に来たと考えれば、簡単な足し算が出来上がる。それは十分に有り得ることだった。
その理屈で行くなら、ルチアはこの記憶に映っている場所にいたということになる。ならこの変な場所が、ルチアの言っていた研究所だというのだろうか。そしてルチアが『流れ』を使った研究に使われている――?
研究所という所が何の目的があって建てられてたものなのか。そしてどうしてオメガが抜き取られたのか、まだ僕には理解できない。でも、考えただけでざわざわという胸騒ぎを感じた。人間が大量の『流れ』を得たら、何が起こるというのだろう?
頭が疑問と不安で満たされてきたところで、不意に記憶の画面が途切れた。
あれ、と思って目を凝らしてみると、代わりに真っ白視界の真ん中にぽつりと黒い点のようなものが見えた。そのまま見ていると点はぐんぐんこちらに近づいてきて、大きくなっていくようだった。見れば、それは何かの穴に見えなくもない。
(出口?)
心の中で呟く間もなく穴はあっと言う間に巨大になって、僕はそこに呑み込まれた。中はやはり何も見えない。僕は再び闇に呑まれ――意識が途切れたのだった。
それからどれくらい経ったのか、
「ぅ…」
僕は瞼をうっすらと開ける。まるで長い眠りから目を覚ましたかのように体が重く、だるかった。全身に全く力が入らなくて、僕は空間の浮力にぐったりと身を任せる。
ああ、何だか激しく精神を消耗した気がする。何かを考える気力が沸いてこない。
僕は無意味に辺りに視線を巡らせた。また見慣れない場所だったけど、でも何となく見たことがあるような場所だった。天井に光があって、下には底知れない闇がある。そしてそのどちらにも透明な水面のようなものが広がっていて。
「……、…?」
いや、違う。そう感じて、僕は少しだけ目が覚めた。僕は確実にここに来たことがある。ここは…境目じゃないか?『鏡』から通じていて、僕はそこで――
「わっ?!」
そこでいきなり僕は声を出してしまった。自分で言うのもなんだけど、無理もないと思う。
だって。気付いたら彼女がすぐ目の前にいて、向かい合わせになっていたのだから。
音もなく、出現したといってもいいかもしれない。驚きすぎてひっくり返るかと思った。けれど、彼女は何も言わずじっとしている。目を閉じていて、どうやら眠っているようだった。
「…ルチア…?」
取り敢えず、ここが『鏡』から通じるところと同じなら、僕は違うルートからここに来れたことになるのか。でも何かが違っているような気がした。見た目は全く同じなのに、何かが。
「ルチア。…ルチア、」
僕は試しにルチアの両肩に触れ、軽く揺すってみる。ちゃんと暖かい体の感触があった。それに彼女の金髪がさらりと僕の手の甲に当たる感じも、ある。
今度は夢ではなく、幻でもない。寧ろやけにはっきりと彼女を認識する事が出来る。その内、彼女は目を覚ます時特有の小さな呻きを上げた。
「ぅ…ん、」
「ルチア。」
そしてさっき僕がそうしたように、彼女は重たそうな瞼を開ける。半開きが限界のようだった。その中の青い瞳がゆっくりと僕の顔を捉え――
「えっ?…」
僕は、またもや変な声を上げた。さっきみたいにひっくり返りそうになったりはしなかったけれど。でもさっき以上に驚き、動揺したのだった。
何故なら、突然彼女の頬に1筋涙が伝ったからだ。
僕は目を丸くしたまま固まってしまった。訳が分からない。でも、確かに彼女は泣いていた。目にはじわりと涙が溜まり、唇が僅かに震えている。更に彼女は、
「…リタ…」
か細い声で呟くと、
今度は2筋涙を零した。
僕は身を固めたままパニック状態になっていた。
今の呟きは…名前?誰だろう。人間の仲間だろうか。その後しばらく、彼女はまるで僕が見えてないような虚ろな表情で俯いていた。僕も勿論何も言えず、ただそれを呆然と見ていることしかできなかった。
「…、」
けれど流石に向かい合っているだけあって、僕の存在は分かっていたようだった。彼女は不意に両手を交互に使ってぐっと涙を拭う。そして、何とかこちらに顔を向けてくれた。
「、…あなたは…」
震えを押さえ込んだ不安定な声だった。その声で、僕の体はやっと固まった空気から解放されたような気がした。でも、この後どうしたらいいというのか。僕はまばたきを数回した後無意味に視線を泳がせ、迷った末におずおずと再び口を開いた。
「どうして…泣いてるんだ?」
…としか言えなかった。
駄目だ、これ以上何も思いつかない。しかし返事は返ってこない。気まずい沈黙が容赦なく襲ってきた。ああ、何だかこんなことは前にもあった。ここと同じ場所で…そう、彼女と初めて出会った時だ。あの時は立場が逆だった。
つまり今。僕は彼女の立場に立っている事になるのだ――
それは何とも不思議な感覚だった。状況は同じで、立場だけが逆。僕は今、過去の彼女と同じ様に言葉をかけた。彼女は今、過去の僕と同じ様に泣いている。
思えば人間が泣いているのを見るのはこれで初めてだ。それで感じたのは――人間も僕らと同じに泣けるのだな、ということだった。まあ寧ろ、僕達が人間の形を模した形なのだから涙は流せて当然なのだが…。
でも形は同じでも、人間と僕らは根本から違うものの筈だ。僕らは悲しい時に涙を流すけれど、人間がどんな感情を持って涙を流すものなのか、僕は知らない。知らない筈だと、僕は半ば強引に決め付けている。
(だって、嫌だ。)
でもそこで、ある彼女との会話が思い出された。その記憶は、今の今まで必死になって自分の奥底に押し込めてきた疑惑を無慈悲に引っ張り出し、露呈していく。
本当はもう分かっている。僕が駄々をこねているだけだって事は、
分かっている。
『どうみても、人間なのに?』
『僕は君達には理解できない領域の所で生きている。だから僕が何を思っているかなんて…人間の君に分かるはずがないんだ。』
『そう、かな。私はそんなことないと思うよ。』
(嫌だ…!)
分かっている上で、僕は最後まで足掻いた。けれどその思いとは裏腹に、声がが止まる事は無かった。押し寄せてくる鮮明な記憶の波を抑える事が出来ない。
「っ!」
僕がぎゅっと目を閉じた瞬間、彼女の言葉が脳裏に蘇った。
『あなたが話してくれるなら、きっと私は聞いてあげられると思う。…あなたが人間でなかったとしても。だってあなたは、私達人間と同じものを持ってるもの。』
同じだと、いうのか。
分かりきっていることだった。でも認めたくなかった。人間は『地球』における生命という存在の1つだ、そして僕らもそれと同じ生命だということを。
何で分かりきっているかって?それは姉さんが、僕のことを『命』と呼んでいたから。
名前がない。けど存在と意識はあるまっさらな生命として。そういう意味しか、思い付かない。どんな理由で生命でないものに対して『命』と呼ぶというのか。
つまり、間違いないのだ。
彼女は軽く首を振りながらふっと弱々しい微笑みを浮かべて返した。
「ううん…何でもない。」
ああ、僕もよくそうするから分かる。見え見えの嘘だ。果たして感情が全ての生命において共有されるものかは分からない。だけど似すぎている。もう、誤魔化しきれない。僕らは同じ様に感情、いや、心を持っている。
悲しみを隠したい心も。
悲しみから助けたいと思う心も。
「リタって…誰の事だ?」
「……。」
隠そうとしているのに余計に話に突っ込まれたら、どうしようもなくなって、何も言えなくなる。あるいは僕だったら「放っておいてくれ」と怒りも沸いてくるだろうか。
「思い出したのか?それとも…」
彼女はただ視線を落としていた。
「本当は、覚えているのか?」
それでも、僕は聞かなければならない。僕らと人間が同じもと分かっていたからこそ望めた。彼女の幸せを、笑顔を。
「…エメラルド。」
「?」
彼女の声は、小さな雫の様にそこに落ちた。
「大切な事だった。けれど後悔するって、分かっていたから…だから1度忘れたのに。それなのに、やっぱり駄目だった。
私は、忘れることが出来なかった。あなたという些細なきっかけで歯止めが効かなくなってしまうなんて…思わなかったけど。」
よく意味が分からない。それだけでも混乱の材料は十分だったけれど――更に、僕はさっきから違和感を感じていた。それは彼女の目が覚めた時からずっとつきまとっていた。
どこか、彼女の雰囲気は前と変わった気がする。僕より幼い筈なのに、何だか大人びたというか。正確な時間は分からないけれど、僕はすぐ前に彼女と会っているのに。その間に、こんなにも変わるものなのだろうか?
「リタは、この硝子の向こう側にいる人。毎日、私の友達のアンジェリカと一緒にお見舞いに来てくれるの。…今も、そう。」
(硝子?)
やっぱり分からない。僕は取り敢えず生じた疑問を1つずつ解決していくことにした。リタは、恐らくは『地球』の人間のことだと思う。その人間が硝子の向こうから見てるというのは、一体どういう事なのだろう。
「…もしかして、ルチアには見えているのか?『地球』の景色が。」
「うん。ここは多分――リタの研究室にあったカプセルの中だと思うから。」
またもや聞いたことのない単語だ。彼女は大分落ち着いた様子で淡々と事実を述べた。首を捻ってばかりの僕を真っ直ぐに見つめながら。
「カプセルの硝子から、見えるの。」
僕は彼女の言うことを何とか少しでも理解できないかと、試しに辺りを再び見回してみた。…でも他の人間の姿など無い。いくら全方向に視線を巡らせても、ここにあるのは可笑しな闇と光の空間だけだ。
「だけどルチア。ここから『地球』が見れるなんてあるはずがないと思う。ここが『地球』と『流れ』の境目なのだとしても――やっぱり僕がここにいられるから、ここは『流れ』の中だと思うんだ。」
「『流れ』って?」
「ん……、『地球』の内側にあるもう1つの世界っていう感じかな。」
僕も未だにその実体は分かりきってはいない。ただ『流れ』の世界からは『鏡』のような特殊なものでも使わない限りは『地球』が見えるはずは無いということだけは、経験上からも分かっていた。
「そもそも普通人間は来ることが出来ないし、『地球』からは完全に遮断されている世界なんだ。…だから、『地球』が見れる筈は無い。」
でも、既に異常は起こっている。ここに人間がずっといるという時点で。彼女が偶然『流れ』を見つけて迷い込んできたなどという考えはもう浮かばない…そう。答えはきっと、目の前にあるのだ。
と思った、その時。
彼女は微かに息を呑む。
「…そうなんだ。やっぱり私、」
そして納得したような表情で1人零した。何か思い当たる節があったのだろうか?けれどその先を待たず、僕は更に聞くことにした。多分この質問が核心――そう思ったからだ。
「ルチア。君は『地球』から『流れ』を見たことがある?」
「…ながれ…」
もし彼女が見たことがあるとしたら、どこで見たのか。前にも考察したかもしれないけれど、その場所は限られてくるだろう。彼女は生まれてから1歩も建物の外に出てないという、動かない事実から。
『地球』で『流れ』がどんな形をしているのか。多分液体なのだろうけど、僕は正確に見たことがない。でも『地球』の人間の目には、確かな形で映ったはずだ。
だって『流れ』は覚えていた。
人間によって吸い上げられ、
人間の目に晒されたことを。
『地球』の景色を。
可笑しな人間達。可笑しな箱の山。あれは絶対――建物の中だった。
ルチアは一瞬下唇を噛み口を噤んだように見えた。その仕草だけで、心に迷いが生じているのが何となく分かる。だけどやがて、彼女はその迷いを振り切るようにしてこう語った。
「あなたが『流れ』と呼んでいるのは…きっと、私達がオメガと呼んでいるもの。」
1つ1つの言葉をゆっくりと紡ぎ出す。それを言い終えられた時、僕はこめかみから頭に電流が走ったような衝撃を受けた。
「じゃあやっぱり…ルチアが言っていた研究っていうのは、」
「――オメガを使った、研究。」
オメガ。人間達にとっての『流れ』の呼び名。僕はその名を繰り返し記憶に刻みつける。よく分からないけど無駄に大げさに聞こえる名だった。
『流れ』を無理矢理吸い上げた挙げ句、勝手にそんな名をつけて、人間達は何を期待していると言うんだろう。ふつふつと、自分の胸の奥から苛立ちが沸き上がってくるのが分かった。
「だから君は『流れ』に触れる機会を得て、ここに来た。」
「そう、私は今ここにいる。…だって、望んだから。」
「…望んだ?」
「私にしか、できないから。」
「何を?」
「私達の………地球を守ることは。」
「――え?」
僕は目を丸くした。
まあ、人間でも今の状況を見れば『地球』の寿命が尽きそうなことくらい分かるだろうとは思う。でも今までエネルギーを喰い潰すだけだった人間が。
(…守る、だって?)
僕は知っている。そう遠くない未来、『地球』が1度死ぬことを。具体的にどうなるかはまだよく分からないけれど、姉さんは言っていた。今尽きかけている僅かな『流れ』を全て集結させ、僕に移す。その時には『地球』は『流れ』を完全に失って滅びる、同時に――自分も消えると。
そして姉さんの力を継いだ僕は徐々に『地球』の『流れ』を再構築していき、そこで生まれる新しい世界を見届けるのだと。姉さんは今この時もきっと。眠りについてしまってさえ、その予定調和を計っているに違いないのだ。
ならもし死に至る前の、今の『地球』を守れたなら。姉さんは消えずに済むのだろうか?つまりこの『地球』を守るということは…姉さんを守ることにもなる?
出来るのだろうか。
そんなことが、人間に。
にわかには信じがたいことだ。気付けば僕の中には好奇心と共に淡い期待が持ち上がっていた。正直、どんな方法でも姉さんを助ける方法があるのなら、知りたかった。例えそれが人間に頼ることだとしても。
僕は奥歯をぐっと噛み締めた。
「だから私はここにいる。…カプセルの中に、入っているんだと思う。」
「それ、さっきも言ってたけどさ。カプセルって何なんだ?何かの入れ物?」
するとルチアは僕にちょっぴり意外そうな顔を向ける。もしかしたら僕が人間じゃない、『地球』の事が殆ど分からないということを忘れていたのかもしれない。それから彼女はふふ、と軽く笑って言った。
「うん、そんなところ。とっても大きい…入れ物。」
その微笑みはこの重苦しい空気を僅かに払拭してくれたような気がした。さっきまで泣いていたのに笑えるなんて…僕にはそんな器用なこと、出来る気がしない。いや、器用というより、単に心の強さの問題なのかもしれない。
「最初からね、私がそこに入ることは決まっていたから。寧ろ、私はここにいなければ可笑しいと思うの。」
「でも、ここがそのカプセルの中だっていうのか?こんな場所が?」
ルチアは何も言わずに頷いた。
「でも。そしたらここは……地上?」
そのカプセルというものは間違いなく『地球』のものだ。つまり、僕は知らない間に人間が吸い上げた『流れ』の中に来てしまったことになる。
僕は心底驚いた。何故?何時のことだ?『流れ』の闇に触れた瞬間か。記憶の夢を見ていた時か。人間が『流れ』を採取する時に使っていた大きな筒を通ってきたとでもいうのか。
というか、ここが本当に地上なら――僕は元の場所に戻れるのだろうか?
「そうとしか、考えられない。」
彼女の呟きが、僕の考えを後押しした。今までは『鏡』から来れていた、この場所。もし『鏡』が間接的な手段だったら、今回は直接来てしまったということなのだろうか。
愕然とする。
これは推測の域になるけれど、『鏡』を使っていたときは意識だけがここに来ていたのかもしれない。本当の僕はずっと元の場所にいて、夢を見ているのとほぼ同じ状態だった。それで彼女に会っている途中で意識が途切れた時、目を覚ました?
(そんな馬鹿な…)
「あなたは人間じゃない。なら『流れ』に溶けている存在なのかな。」
「え?あぁ…はっきりとは言えないけど。『流れ』の意識みたいなものだよ。」
「『流れ』の、意識。」
「『流れ』の意識は、僕の意識だ。」
勿論、姉さんの意識でもある。人間にそのことを知る者はただの1人もいない。なら、今こそ言おう。『地球』を守るためにここに来たという、この人間に。
「だけど、所詮は『地球』から見たら見えない物質でしかない存在だから。僕らは何も出来ないで、ただ見ていることしかできない。だからずっと見ていたんだ。人間が長くに渡って『地球』で生死を繰り返すのを。そしてその度に『地球』が荒らされていくのを。」
すると、
「…そう。そういうことだったの。」
意外なことに、ルチアは僕の言っていることを1度で理解したようだった。けどその酷く落ち着いた様子や口調から、何もかも初めから知っているようにも思えた。まあ『流れ』の事を研究とやらで調べていたのなら、不思議ではないかもしれないが。
「生命のサイクルを作り出す物質、オメガ。…でも、驚いた。まさかリタの言っていたことが、本当だったなんて。」
「?」
「彼はいつも言っていた。オメガには星を維持する計り知れない力がある。そこに何かの意志が存在していたとしても不思議じゃないって。もしかしたらそれが、神と呼ぶべきものかもしれないって――」
「あなたが、そう。」
「……。表現が大きすぎると思うけど、言っていること自体は正しいかな。」
「ごめんなさい。」
「え?」
僕は微かに声をあげた。一瞬、戸惑ったのだ。何かルチアが謝るようなことはあっただろうか?と考えた。けれど、ルチアはまたも全てを分かっているような、憐れんだ表情を浮かべてこう言った。
「ずっと、苦しかったのでしょう?」
それからルチアはもう1度。同じ言葉を途切れ途切れに繰り返した。俯いて、ただ瞳を閉じて。ごめんなさい、と。
「私達人間が、愚かで。あなた達が保ってきた秩序をここまで壊してしまった。そしてあなた達はその過程を、ずっと見てきたのね…何をすることも出来ずに。」
ああ、そうか。僕が『地球』が荒らされてると言ったから。それでルチアは、自分も人間の1人だから謝った。全ての人間の罪を謝った。その時やっと、僕は理解した。
「僕らは、そういうものだったから。」
「ごめんなさい…。」
「…仕方がないよ。」
その一言は僕の口からふっと出てきた。1番妥当だったと思う。僕らは、いつだって『仕方がない』から。それにこの大きすぎる罪は、ルチアが1人で背負いきれるものじゃないと僕は思った。
「いくら謝っても、きっと謝りきれない。でも、だからこそ。私はここに来たの。」
まだよく分からないことが多すぎるけど、僕は今までの話を一旦整理してみることにした。
取り敢えず、僕が知らぬ間に来てしまったここは、地上に存在するカプセルという容器の中であって、ルチアは何らかの目的を持って『地球』からここに来たと言う。恐らくリタという人間も同じ目的を持っているのだろう。その何らかの目的とは――『地球』を守ること。
そこで当然疑問になるのは、方法だ。僕は順を追って話を切り出していくことにした。
「どうやって、守る?一体君は、ここに来て何をするつもりなんだ?」
「あなたなら、十分に分かっている筈。本来地球を循環するオメガが…枯渇しようとしている。そうでしょう?」
「…ああ、そうだよ。」
もう僕は驚いたりしなかった。彼女が何を知っていても、不思議ではないだろう。…複雑な気持ちだった。今まで誰にも気付かれることのない存在だった『流れ』が。人間に気付かれ、干渉されて、怒りを感じてはいるけれど。
でもそのおかげで、彼女は僕らに気付いた。そして理解した。どこまでも孤独で、誰にも打ち明けることの出来なかった、僕らの苦しみを――知った。
どこか、解放されたような気分だ。
そんな僕を、
「だから…作り出すの。」
ルチアは真っ直ぐ見つめた。
「…作り出すって、何を…?」
思わずそう聞いてしまったけれど、前の会話から答えは分かりきっていた。でもまさか。僕はそう言いたくなる衝動をぐっと抑える。
「今までに失われた、枯渇してしまった全てのオメガを作り出すの。私の、この手で…。」
予想は外れるはずもなかった。
やはり、開いた口がふさがらない。
「君が?全てのオメガって…」
「足りなくなった生命源を補えば、かつての『地球』の姿が戻ってくると考えた。私達人間の、最後の計画。貴方には信じられないかもしれないけれど、私はそれが出来る力を持っている。いいえ…私にしか、出来ない。」
「……。」
「私とリタははじめ、人工的にオメガに似せたものを作った。けれどそれはここにあるオリジナルのような機能は示さない、ただの液体だった。でも私の血や肉は、それを変えることが出来る。」
「ルチアの――血や肉が?」
「そう。リタの作り出す擬似オメガと私あれば。今の『地球』を元に戻すことが出来る!あなた達を守ることができるの…!」
その時ルチアは感情的になったのか、僕の両腕の服の裾をぎゅっと掴んだ。僕は相も変わらず訳の分からないまま驚いた顔をしているのだろう。そのまま自分より少し背の低いルチアを見下ろすと、彼女の真剣な、呼びかけるような眼差しが突き刺さった。
「だから私はここに来た。リタと2人で『地球』を守ろうって、そう決めたから!
でも…!」
そこで、ルチアは急に僕から視線を外して――弱々しい声で、こう言った。
「私、もう。
あの人には会えない…」
「だって私はもう、消えるしかない。…2度と、一緒にはいられない…」
俯いて、長いウェーブのかかった髪が彼女の顔を隠した。だけど顔なんて見えなくても分かった。掠れた声。それに服の裾を掴んだ小さな両手から伝わってくる、小刻みな震えで。
「ルチア――」
「馬鹿だって、思うでしょう?こんなことになるって始めから分かってたのに。覚悟、してたのに。
……リタ……」
それからしばらく、僕らは互いに言葉を交わさなかった。ルチアのすすり泣く声だけが響いていた。それは始め、聞き取れるか聞き取れないか分からないくらい小さかったけれど、少し経つにつれて、やがてはっきりと聞こえるようになってくる。
その時、
「!」
ふわり、という感触と同時に僕は息を呑んだ。暖かく、柔らかい。この暖かさは、体温だ。生命が宿っているという証拠の、温度。
「…、ぅ…」
ルチアは、僕にすがって泣いていた。僕の胸に顔を押し付けて――泣いていた。
「……。」
じわりと伝わってくる温度に、僕は何度目かの懐かしさを感じていた。…そう、この温度は姉さんとまるっきり同じだったから。こんな時、僕はいつもならどうしていいか分からなくなるだろう。けどこの時の僕は、いつもとは違かったのかもしれない。
ただ僕は、少し緊張しながらも
ルチアの背に自分の両手を当てる。
そしてゆっくりと、
目を閉じた。
ややあって僕達は落ち着き、離れた。でも、僕は少し違和感を感じていた。
「ルチア、前に君は言っていた。自分は研究のために生まれた、…クローンだって。」
確かそんな名前だったか。とにかく今の話を考えてみると、ルチアは『流れ』を作り出す研究のために生み出された。
でも、もし本当に研究に使われるだけだったのなら、リタという人間を恋しがる余裕は与えられるものなのだろうか?それに見たところ、ルチアは生まれてからそんなに月日が経ってないようにも思える。
「…そう。」
「生命を捨てると、君は1度決めた。でも今は、そのリタという人間のために生きたいと願っているんだね。」
「……。」
『生きたい』という感情は全ての生命に宿っている本能のようなものなのかもしれない。それはたとえ自分が犠牲になると分かっていてもきっと避けられないものなのだと思う。――姉さんだって、きっと。
「いっそ『地球』で意識を持たないまま、ここにくれば良かったのかもしれないね。そうすればリタのことは知らないまま…生命に未練を残すことはなかった。」
使われるだけの存在なら、自我を持ったところで苦しむだけ。それは姉さんが最も知っている事で…僕が最も教えられたことだった。
自分の意識など何の意味をなさないという絶望を、知っている。そういう意味では、僕らはよく似ていた。
「そのために、記憶を消していたから。クローンとして目覚めた時から…ずっと。」
「え?」
「まあ結局、こうして思い出してしまったのだけれど。」
ルチアは片手を胸に当て、瞼を伏せる。けれど心なしか、本当に僅かだけど口の端が上がっている様な気がした。だからその表情は悲しそうなのか、それとも少し嬉しそうなのか判別がつきづらい。
でも、やっぱり
それは少し可笑しな話だった。
「クローンとして、目覚めた時から?なら、その前に記憶があったっていうのか。…生まれる前から?」
僕が疑問を口にすると、ルチアはまた沈黙した。生まれて自我を持つ前、まだ眠っているときにも意識はあるものなのだろうか。その時に、記憶が作られた?
かなり分かりづらい言葉ではあるけれど、僕はそれはないと思っている。だって僕の記憶でも、物心ついて姉さんと話していた時以降のものだけだ。それ以前、生まれる前の記憶なんて、ない。
それなら生まれた直後の記憶か?でもそれにしては、ルチアの語った記憶は鮮明すぎだ。この様子では彼女はリタと会話していたのだろうし、自分で『流れ』の研究に身を捧げるという決意もしている。人間の幼少期は『鏡』で見たことがあるけれど、とても彼女の言ったようなことが出来るとは思えないのだ。
なら――どういうことだというのか。
「私はクローンじゃない。」
「ーーえ?」
それは、唐突だった。1人で考えを巡らしていた分余計に唐突に聞こえたのかもしれない。…あれ、また何か変だ。意味がわからない?
「ちょっと待って。君はクローン…なんだろう?」
「いいえ、私はクローンじゃない。」
「…??」
どういうことか頭が追い付いていかない。さっきまで、クローンとして生まれたルチアの話をしていたはずじゃなかったか。
「クローンなら外にいるわ。本当の私はここ。」
「本当の、ルチア?」
「そう、20年はとっくに生きてた。還元によってこの姿になったのは、そこで彼と知り合った随分後のこと。」
「それはつまり、生まれる前にもーー生きていたということ?」
ルチアは少し僕に訴えかけるような視線を向けた。
「私は、私だけだった。だけど、私では無くなってしまった…。」
クローンは、ある人間のコピー。元の人間とコピーされた2人の人間がいると、確かにルチアは言っていた。その存在が、入れ替わってしまったということなのだろうか。彼女は来るべくしてここに来たと言った。ならもしかして本当にここに来るはずだったのは、クローンの方?
「でも、どうしてそんなことになってしまったんだ。」
「どうして…」
何かの間違いだったのか。それとも何かの意志が働いていたのか。話が本当に分かっているのかどうかは怪しいけれど、そこが疑問だった。
「君が『地球』のリタっていう人間と離れて、クローンの代わりになってまでここに来たのは、何故?…君はさっき望んできたって言ったけど、本当にそうだったのかい?」
「…私は…」
「僕には、そう思えないよ。」
「………。守ってくれた…」
「?」
ルチアは自信が無さそうに僕から視線を下の方に反らし、ぽそりと呟く。
「まだ、全部は思い出せないけど。私、彼に守ってもらったような気がする。こうするしか…もうどうにもならなかった。そこで、約束してくれたから。」
「約束?」
「迎えに行くって。」
「!…」
「言ってくれたの。今は離れても最後には必ず助けるからって。」
ここに迎えに来る、ということだろうか。…そうかもしれない。ルチアは今ここにいるのだから。だけど、人間に分かるだろうか。『流れ』の本体は把握しているしても、僕らは形を持たない存在だ。その形を具現化させているこの世界も、人間には見えていない可能性の方が高い。
「私、嬉しかった。とっても…」
ルチアは目を閉じて、思い出しているように見えた。少しだけ微笑んで、自然と両手を組み合わせて。そんな幸せそうな姿を、多分僕は複雑な表情で見ていた。
この世界が把握できないものなのだとしたら、そこに存在しているルチアだって。人間が触れることはかなり難しいと思う。『地球』にルチアの体が残っているのか、いないのかは分からない。でも少なくとも意識はここにあるのだから、それを取り戻さないことには意味がないだろう。
こっちからだって、ルチアをどうやって『地球』に返せるか全く分からないっていうのに…そもそも、帰す方法なんて本当にあるんだろうか。
そう思った時だった。
「でもね、今なら何となく分かるの。もう、あそこには戻れないって。」
「…えっ」
どきり、と全身が強ばった。
「ど…、どうして?僕は君を『地球』に返すって言った。今はまだ方法が分からないけど…きっと見つかるさ!時間がかかっても、探していけばきっと…!」
そんな風に慌てて、必死に思考を隠そうとする僕をいさめるかのように、ルチアは静かに首を左右に振るのだった。
「もし方法があるのだとしても。私には、するべきことがあるから。」
「私にしか出来ない。」
「まさかーーそれって。」
「責任を、果たさなければいけないから。」
その瞬間、何か強い感情が胸の奥から沸き上がってきた。何か、熱い。1番近いのは怒りなのかもしれないが、良く分からない。ただどうしようもなく、僕はルチアの言葉を否定したい衝動に駆られた。
「それは、ルチア一人だけの責任じゃない。ルチア1人が背負うべきことじゃない…!」
ルチアに希望を持って欲しかった。
だって、生きていて欲しかったから。
『地球』に帰すと約束したから。
だけど実際のところは、違ったのだ。その時の僕は、一時的に心の根底にある無意識を忘れていたのかもしれないが。
「出来る。だって…あなただって、背負ってきたのだから。」
「、…!」
「私は人間の、生命の汚れを背負ってきたあなたの苦しみを少しでもやわらげたかった。そのために今まで研究をして、ここまで来たの。
私は…ずっとあなたを助けたかったの!」
そう、ここだ。
ルチアのまるで訴えかけるような瞳に貫かれ、僕は息を呑む。ここで、気がついたのだ。ついさっき『期待』していたことも一緒に。
僕は、助けて欲しかった。
このまま、全てを背負ったまま消えてしまう
ーー姉さんのことを。
「ルチアはーー……」
その先は、喉の奥に声が詰まって言えなかった。僕はどうしようもない矛盾に『立ち止まった』のだ。このままでいれば、姉さんは間違いなく消える。姉さんを消さない方法は、ルチアが犠牲になること。
言葉が途切れ、そこに居心地の悪い沈黙が生まれる。それに耐えきれなくなった頃、僕は沈黙に背中を無理矢理押されるように言ったのだった。
「ルチアは…本当に出来るのか。『流れ』を作り出すなんて。」
短時間で必死に考えた末僕が選んだのは、姉さんの無事だった。その時、ルチアは何を思っただろう。何も言わず小さく、頷いた。それからしばらくして、濡れた頬と目元をそっと指で拭う。
「それが、私の生きる意味だったから。」
「…ルチア、」
「大丈夫。」
そしてーー
「私、出来るから。」
まるで何事もなかったかのように、朗らかに微笑んだ。その眩しさに、息が止まる。まさか…こんな顔出来るはずがない。だって、さっきまで泣いてた。あんなに悲しんでいたじゃないか。
大切に思う人に、二度と会えなくなる。それは、僕が姉さんに会えなくなることと同じ事を意味するに違いなかった。だから、今なら理解できる。
彼女は、出来ない。それが真実であることは明白だ。
なのに…どうしてなのか。
真っ白で、柔らかい何かに飲み込まれるような感覚で
僕はーー何だか、もう救われたような気がした。
こんな微笑みが浮かべられるとしたら、彼女はこの世界を愛している。『地球』を、『流れ』を。きっと全ての生命を。
(どうして……君は……)
ふと、僕は思い出した。
いつだったか。まだルチアとも出会っていない時だから、僕が自分の形を得て間もない頃だったかもしれない。とにかくその時は、姉さんはいつもの調子だった。いつもにように、全てを見透かしたようなふてぶてしい笑みを浮かべながら。ある日こう聞いてきたのだった。
「なあ、命。お前は『地球』がどんな色をしているかーー知っているか?」
僕はその日も『地球』の酷い有り様を見た後で、疲れと焦りが入り交じった変な表情を向けたと思う。それに、僕にはその質問の意味が分からなかった。
「色…?『地球』の色なんて決まってないでしょ?砂とか海とかあるし…どれの事だか分からないよ。」
何故なら僕はこの時理解していなかった。単に、『地球』というところに広がる世界しか見ていなかったから。姿は、まるで知らなかったのだ。まあ、知らなくても大して問題にならないことなのかもしれない。姉さんはまるで世間話でも話すように、他愛なく続けた。
「前に一度話したかもしれないがな、『地球』というのは星なんだ。…分かるか?『地球』が暗闇に包まれるときがあるだろう。その時上の方に見えるのが星だよ。」
「…ああ、あれ?空にたくさん見えるやつ?」
「そうだ。太陽や月も、その一種なんだぞ。」
「へえ、…なら尚更、色なんて無さそうなものだけどね。」
だから僕も始めは軽く聞き流しながら相づちをうつだけだった。あまり考える気力がなかったというのもあったかもしれないが。
「確かに、星はただの光の集まりにしか見えない。ところが『地球』は違う。『地球』には色がある。」
「ただの光じゃないってこと?」
「ああ。こういう星は稀だそうだな。…で、お前には想像がつくか?『地球』にはどんな色がついていると思う?」
「………。強いて言えば、赤かな。」
「何故だ?」
「一番広い、海が赤いから。」
「…なるほどな。正解じゃないが、初めて考えるにしては上出来だ。」
姉さんは1人で満足そうに頷いている。どうしてか、どことなく楽しそうにも見えた。
「正解は何なの?」
「うーん、そこまで行ったのなら。折角だからもう少し考えてもらおうか。」
「…えぇ?分からないよ。いいから教えてって。」
僕の若干覚めた様子も気にせず、姉さんはそこにある良く分からない歪な形をした白い椅子に、ゆっくりと半身で寄りかかるように腰かける。片方手すりに丁度いい場所もあったので、やれやれと言ったように頬杖をついた。気だるそうにも見えるけれど、相変わらず優雅に見えるのが不思議だった。
「海よりももっと広いものがあるだろう。」
「海より…広い?」
「分からないか?さっき自分で言ったばかりだというのに。」
「ーー空か…?」
「その通り。」
成る程、確かに空より広いものなんて『地球』にはないだろう。空は、青い。『地球』でただ1つしかない色だ。
「なら、『地球』は青いの?空が青いから?」
「正確には空気が青いんだ。実はここからは私もよく理解してはいないんだが、太陽の光を『地球』特有の成分で構成されている大気ーー即ち空気が吸収すると、それが青く見えるらしい。だから、地上から見る空は青い。そして、宇宙からは『地球』が青い膜に包まれているように見える。」
「宇宙ーー確か『地球』の更に外にある世界、だっけ?全然想像がつかないけど、そこから見ると『地球』は青く見えるってことか。」
「ああ、そうだ。例え海が赤く汚れてしまっても、空だけはああして青い。澄みわたってる。海も、かつては青かったがな。」
「……」
「命よ。青とは、清い色だとは思わないか?」
『地球』でただ1つしかない色。海でも、大地でも、勿論生命でもない。空だけは『地球』で唯一いつまでも清い。姉さんの意図は読めないが、その時の僕は何故か妙に納得していたと思う。
「…うん。僕もそう思うよ。」
「…そうか。」
姉さんは落ち着いた様子で微笑んだ後、言った。
「私は最近こう思うんだよ。『地球』という世界は、どれほど汚れているように見えてもーーその本質は清いままなのではないか、とね。」
「本質が、清い?」
「その青を湛える限り、『地球』は美しい。いっそのこと、そう考えるのもいいんじゃないか。まあ平たく言うとするなら…私達が守る価値のあるものかもしれないってことだよ。」
「………。」
僕を見ていた。だけど僕を通り越してその向こう、遠くをを見ていた気がする。空を見ているのだろうか、と一瞬感じた。ここには存在しないけれども、『地球』の無限に広がる空を見ているのではないか、と。
僕は思った。空の青は、僕達の希望に置き換えられるのかもしれない。今となってはたったひとつ残された清い存在なのだから、と。
…だから今。彼女も僕にとって希望なのかもしれない、そう思えた。あのときの会話はすっかり忘れていたけれど、僕は自然と彼女の青に惹かれていた。始めは瞳の色、でも今となってはそれだけじゃないのだと感じた。
「私達の世界はとても素敵なものだったと思うから。
だから、守ってほしい。」
例え『地球』が再生したとしても、ルチアは決してその光景を見られない。『地球』に帰ることなど2度と出来ない。そんなこと、納得出来るはずがないのだ。
そこから明らかになったのは彼女は強くて、僕は弱かったということ。彼女は手を差し伸べ、僕は都合よくそれに頼ったという、それだけのことだ。
どうしようもない。
どこまでも、どうしようもなく何も出来ない。
それを再度突き付けられただけのこと。
またなのか。
どこまで、付きまとうというのか。
もう、失笑するしかなかった。
「もう誰も悲しまないように、あなたも。
だからその時が来るまで……少しの間……よろしくね。」
「え、」
彼女の瞼がゆっくりと閉じていく。そして完全に青い瞳が見えなくなると。突然細く白い光が束になって現れ、彼女をふわりと包み込んだ。
「!…」
一瞬姿が掻き消えたように見えたけれど、彼女はそのまま消えるわけではなかった。どうやら眠りについたようだった。ほのかに光りながら、彼女は静かに眠っていた。
それから僕はルチアと同じ空間に居た。この場所から抜け出すことは、やはり出来ないようだった。だからここが地上だということは多分間違いない。時間の流れも位置も掴めない、今まで以上に異質な場所だ。その中空で浮かびながら、少し遠くに登った彼女の眠る姿をぼうっと眺めていた。
何か考えていたのか呆然としていたのか境目の良く分からない不思議な時間を過ごしていたと思う。よくあることだった…最近この虚無感からは抜け出せていたというのに。多分、この感覚は今までで一番強い。
ある時、僕は世界に疑問を投げかけた。
1人が背負い込むなんて、不可能だ。重荷に潰され、孤独にそのまま消えるしかないなんて、絶望以外の何者でもない。なのに、ルチアも姉さんもどうしてこんなことを強いられなければならないのか。と。
勿論、意地の悪い世界は答えてくれたりなんかしない。そう。僕は今、姉さんが言っていた清い世界というものを疑っていたのだ。いや、『地球』だけの話じゃない。僕らの世界も、また別に世界があるとしても、そうに違いない。どこにだって見えない運命が付きまとっていて、容赦なく僕らに押あらゆることをし付け、弄ぶ。たとえ無慈悲すぎることであろうと。
ぐっと、眉間に力が入る。
ーーこれは、逃避だ。運命を恨む暇があったら、僕に出来ることを探すべきだ。
僕の中にいるもう1人の僕が話しかける。
分かっているさ。分かっているけど、力が沸いてこないんだ…手足を動かそうと思っても、まるで動かないんだ!動かせたとしても、どうせ……いつもみたいに何も出来ないのは分かりきっている。
「どうせ、そうだ。」
自分でそう呟いた時だった。
「ーー」
突如頭に痛みが走った。果たしてそれに痛みという表現が使えるのか少し疑問だけれど…何だろう、強い衝撃を受けたような感じだった。実際に痛いかどうかははっきりしない。
でも、確実に僕の中で何か起こったんだと思う。痛みは一瞬で消え、その後は妙にすっきりとしていたのだった。まるで、誰かに殴られて目が覚めたような。
もしかして、もう1人の僕が殴ったのかもしれない。だって、その後に彼はこう言ったんだ。ーー僕しかいない、と。
「…!」
それきり彼は言葉を発さなかったが、おかげで僕は気が付いたのだった。かなり今さらだったけれど、そんな当たり前のことすら見失いかけていた。
現実的に、この現状を変えるのはどんな形であれ自分しかいないのだ。僕が何もしなければ、ルチアが死ぬだけ。姉さんが本当に助かるのかも、僕には分からない。
だから、より良い方向を目指すとしたら僕がやるしかない。限られた時間と空間のなかで。
お互い、責任の負い合いになるわけか。
…皮肉というか何と言うか。
僕は深く溜め息をついて沈黙した後、開いていた両手をぐっと握りしめるのだった。
前へ1歩踏みしめられる地面もないので、そうやって静かに気合いをいれるしかない。もっとも気合いをいれたって、それをどんな形で発揮すればいいのか今は全く分かっていない。正直途方に暮れている。だからこれは形だけだった。形だけでも迷いを振りきれればいい、というささやかな抵抗でしかなかった。
さあ、どうしよう。
僕の目の前には巨大な壁が立ちはだかっている。普通だったら越えられそうもない、高い壁だ。今の今まで、僕は何度もそれに遭遇しては、屈服し続け諦めてきた。それらが自分の力じゃどうしようもない問題だと思ったからだ。でも本当にそうだったのか?僕は諦めるまでに出来ることをしてきたというのだろうか?
答えは決まっていた。逃げ続けなければ、もっと違う未来が待っていたかもしれない。こんなに追い詰められることはなかったかもしれないのに。心のなかで僕は歯を食い縛ると、今まで手をつけなかった壁を初めて探り始めた。どこか壊せないか、抜け道を見逃していないか。あるいは下を潜れないか…
一番望ましいのは、誰も死なずに互いに幸せを掴むことに決まっている。『流れ』を潤し姉さんを眠りから覚ますこと。ルチアは生きて地球へ帰ること。その両方を叶えることが出来れば。…そんなことが果たして出来るのだろうか?何か、それに通じるようなものはないか?
(ーーそうだ。)
探っている途中で僕は思い出す。1つ、
それはルチアと話をした後僕の中に激しく気になっていた事だ。
それはーーリタという人間の存在だ。
恐らく彼がルチアをここに送り込んだ張本人。僕が始めに思ったのは、彼は彼女の気持ちを理解していたのかということだった。
ルチアがここに来れば行き着くのは死しかないと分かっていた筈だ。何故なら、それが役目なのだとルチアは確信していたから。あの話をする前だって、自分が研究に使われることは分かっていた。それを見越して、彼は必ず迎えにいくなどと言ったのか。
何を言っているんだ、と僕は呆れる。人間だけじゃない、生物と呼ばれるものの肉体はいずれも『流れ』に還元してしまったら消滅してしまう。そのあとには僅かに『流れ』が増えるだけで、何も残りはしない。生じた『流れ』自体も一瞬で霧散してしまうだろう。原型をとどめないどころの話じゃない。そこから甦えらせ『地球』へ帰すなんて出来ると思うか?
…馬鹿げてる。
その事を全部理解していたと言うのなら、彼は一体何を考えていたのか。輪郭が全くといっていいほど見えない。だけどーー何となく、僕は彼を知ることが何かの鍵になるかもしれないと思った。彼が全てを握っている。何故かそんな気がした。
僕は、彼を知る必要がある。彼とルチアを取り巻いていた『地球』での出来事を僕は知らなくてはいけない。
リタに直接問いただせれば一番いいが、やはりそれは今の段階では無理だと思った。この奇妙な空間に来て自分の場所にすら戻れない状態なのに、そんな新たな出口がすぐに見つけられるとは到底思えない。となれば、今のところ思い当たる方法は1つだけだった。
それは『流れ』の記憶を辿ることだ。『流れ』が研究されていたというのなら、それに関することは知っている。…見ている筈だ。僕が干渉して、もう1度見せてくれるかは分からないけど。でも、もう残された時間は少ない。今の僕は前に進むしかないのだ。生命は、皆同じものなのだと。何にも代えられないものだと気付いてしまったから。
(……姉さん。)
記憶を見る間際に響いたあの声を思い出して、また胸の辺りが苦しくなる。僕はその中心をを両手でぎゅうっと握るように押さえながら、祈るように目を閉じた。どうか、もう1度導いてくれるように、と。いつかきっと、あのいつもと変わらない意地悪そうな微笑みを浮かべてくれることを信じて。
(僕は、もう自分から逃げたりしないから。)
生命の有る限り、僕らは無意味な存在なんかじゃない。生きていれば、出来ることは必ずある筈だから。今度は僕がそれをやる番なのだと。何も出来ないなんて事はある筈がないと。
僕は今、そう思うことに決めた。
するとーー僕の両手に光が生まれたのだった。
初めは微かだったがそれは段々と大きくなり、やがて僕の手から溢れだしてきた。僕はそれを中空に差し出すように両腕を伸ばす。…暖かい。そして、その光は僕とルチアも包み込むようにして、空間に大きく広がった。僕達は一瞬光の渦に投げ込まれたのだった。
不思議と眩しくはないが、成功しただろうか?『流れ』に呼び掛けてはみたものの実際に今何が起こっているのかは全く予測がついていない。この光が収まったら、果たしてどんな光景が待っているのというのだろう。その先を考える間もなくふわり、という何となく体全体に風があたるような感触と共に白みが消えていく。
すると、
「な…!」
その景色は、僕を待ちかまえていた。
場所が変わったような感じはしない。ルチアだってそこにいる。だけど、確かに目に入る景色は全くもって変わっていたのだ。さっきまではよく分からない空間があるだけだったのに、今は思わず後ずさりたくなってしまうほど立体的で巨大な映像が目の前にあって。だけど振り向いてみると、その後ろにもぐるりと映像は広がっていて。
(ーー『地球』ーー)
『鏡』で見るよりも鮮明すぎて、頭がくらくらしてくるほどだった。壁一面に立ち並ぶ重たそうな黒い箱、無機質な鋼鉄で出来た床。それらは『流れ』の記憶で垣間見たものと同じ。…間違えようが、なかった。
狭く薄暗い部屋を、低い天井にぽつりぽつりと粒のように点在する電灯が青白く、頼りなく照らしている。僕は今、その部屋全体を中途半端な高さの位置から眺めていた。もしかして、これがルチアの言っていたことなのだろうか。
「硝子の向こう…。」
その言葉を振り返ってみて、更にあることを思いつく。僕はそれからゆっくりとした手付きで広がる景色に向かって右手を伸ばしてみた。今までの経験からしてみたら、今僕が見ているのはただの幻像だ。だからこんなことをしてもどこにも手が触れることなく、空を掻くだけの筈なのだ。
だがしかし、ーーぺたり、と手のひらに不思議な手触りを感じた。
「!…」
僕は一瞬体を硬直させる。それは透明な壁、物質だった。僕らの世界では物質というものは『鏡』を除いては僕らの望んだものしか具現化することはない。だから僕はその時確信した。これがルチアの置かれている状況、そのものなのだと。
そこまで確認したところで、これは『流れ』の記憶なのか?と僕は疑問に思った。あえて言うとするなら現在進行のものではないのか。それに何かが違うような感じがしたのだ。さっきの『流れ』の記憶は目まぐるしく次々と写し出されていたのに。
(これは、何だ?)
その時ーー
『ドクン』
「、?」
胸の奥の違和感と共に、鼓動が聞こえた。勿論始めは僕のものだと思ったけれど、どこから聞こえたのか気になった。何故なら鼓動は空間一杯に木霊のように深く、重く響き渡ったのだ。まるで体の中でなくて外で鳴った音みたいに。
それに、音がぶれていた。
「!」
僕は宙のルチアの姿を反射的に見上げる。彼女はやはり静かに眠っていて、それだけのはずだった。でも見ていると、不意に彼女を包む光の膜が波紋を生じるように光を四方に放つ。それは重力のように僕にも降り注ぎ、
『ドクン』
また聞こえた。これはーーどうやら、僕とルチアの鼓動が同時に鳴っているらしい。それだけじゃない。今見えている『地球』の景色の揺らぎから『流れ』もまた反応しているように思えた。
(…共鳴している?
『流れ』がルチアに?)
不思議に思った、次の瞬間。
ドン!!
「っ?!」
どこからかの衝撃波にと共に、僕は小さな呻きを上げて喉元を押さえた。激しい、悪心が生じたのだ。さっきまで何ともなかったのに、今では胸の奥の方に熱い何かがどろどろと渦巻いているのがはっきりと分かる。
(何だこれ…っ!…)
僕の意思とは無関係に、体がみるみるくの字に曲がっていく。そして窒息してしまいそうなほどの苦しみに襲われた。僕はしばらくどうしようもなく喘ぐ。だけどその中で、ある時僕ははっとした。
この苦しみ…渦巻いている何かの向こうに、
『気配』を感じたからだ。
(ルチア?)
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