神社仏閣珍道中・改

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2024/09/21 05:50(更新日時)


【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。

自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。

初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。

相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。


No.3964800 (スレ作成日時)

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No.401

(続き)

大祓詞は六月三十日の夏越の大祓(なごしのはらえ)、
十二月三十一日の年越しの大祓(としこしおおはらえ)という神事において読みあげる詞なので大祓詞と呼ばれています。

そしてその起源、なんと神代にまで遡るといいます。
『日本書紀』に描かれた天岩戸の段で、
「天児屋命(あまのこやねのみこと)をして、其の解除(はらへ)の太諄辞(ふとのりと)を掌りて宣らしむ」とあって、【解除の太諄辞】として登場しているのが大祓詞なのだといいます。

ただそんなことは知らずとも、ただ大祓詞の前半に描かれた情景こそが、まさに神代のことであり、古事記や日本書紀を彷彿させる内容となっているのです。

大祓詞の冒頭は高天原におられる皇祖神さまが、八百万の神さまをお集めになられ会議をなされ相談なさる様子が描かれているのです。

そしてその会議の結果として皇御孫命さまが豊葦原瑞穂国を平和で穏やかな国として統治するよう任じられるのです。

豊葦原瑞穂国、まさに日本国のことであり、つまりはそこを統治すべく任じられた皇祖神さまのお孫さまといえば、
【瓊瓊杵命】さまをおいて他にありません。

瓊瓊杵命さまが高天原から地上に降臨され、
『倭の国』を都と定め、
そこに、
「地中深く穴を掘り、そこに太く立派な宮殿の柱を差し立てられ」
「屋根の上には高天原に届くようにと千木を高く聳え立て荘厳で立派な宮殿を」
お造りになられるのです。

…これって、まさにあの、…伊勢神宮そのものではないですか?

しこうしてこの宮殿に【天照大御神】さまの御加護を受けてお入りになられるところまでが描かれているのです。


感動しません?

前述したとおりまさに古事記や日本書紀に出てくるかのような情景ではないですか。

しかもここにそのお名前こそ明記はされておられませんが瓊瓊杵命さまが出てこられます。

産泰神社さんって、まさにこの瓊瓊杵命さまの奥さまとなられた木花之開耶姫さまをお祀りする神社さんなのですから、感動するったらありませんでしょう?


そしてこの後には、大祓式を執り行うにあたっての具体的な方法が描かれています。

私はここで前編が終了して後編に入ったような気がするのですが、大祓詞上では特に区切られたりはしておりません。


続きます。

No.402

(続き)

ところで。

黄泉の国から帰られた
伊邪那岐命さまは筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で穢れを落とした語られています。
古事記ではこの時に左目から天照大御神さま、右目から月読命さま、鼻から須佐之男命さまが生まれております。
他にもたくさんの神さまがお生まれになられます。


そして。
祝詞、祓詞として奏上されているのを拝聴することのあるものもまた、この古事記にあるシーンをなぞり、そこでやはりこの伊邪那岐命さまの禊の際にお生まれになったとされる祓戸の神さまたちにお祓いをお願いする内容となっています。

ただ、この祓戸の大神たちのお生まれになられた記述は古事記にも日本書紀にも見られません。

しかしながら祝詞に関してはこの祓戸の大神さま方は大変に重要な位置付けにおられ、大祓詞においてはこの祓戸の大神さまのお名前も表記されて、具体的にどのように私たちの罪や穢れを祓っておられるかまでが描かれているのです。


ところで。
伊邪那岐命さまは黄泉の国へ行っただけですのでとくだん罪を犯したわけではありません。

黄泉の国という死者の国に行ったことで身についた穢れを落とす行為として禊が行われています。

今、祓詞では罪穢れをお祓いいただいておりますが、かつては罪と穢れは明確に区別されており、

罪に対しては祓
穢れに対しては禊

が行われていたといいます。


たしかに、文字に表してみると、そうかもしれないと思われます。

小心者にして罪穢れの多い私はここですでにドキドキしてしまうのでありますが、これは、時代が進むにつれ罪と穢れの明確な区別はなくなり、罪と穢れの両方に対して大祓が行われるようになったという経緯があるようで、ちょっとホッとする私でありました。


大祓が始められたのは天武天皇の御代ごろではないかと言われています。

この時代には律令体制という律(現代でいう刑法)と令(それ以外の法令)による政治が行われました。
律令政治の時代では現在と同じように罪に対して社会的な制裁が行われています。

律令が定められる前の時代は罪に対しては何が行われていたかというと、〝祓〟が行われていました。
祓というのは神が人間に対して科するもので罪を除き去ることを示すといいます。

具体的には罪に応じた財物を出す方法がとられていたようです。


続きます。

No.403

(続き)

平安時代において、大祓式は、大嘗祭のときや、疫病・天災地変のときなど、あらゆる変事・災事の原因を祓うために執り行われ、この大祓詞が誦まれたといいます。
そのため、大祓詞は「祓詞」の中の「祓詞」との異名を持っていて、まさに、「大」いなる「祓詞」となるわけです。

この平安時代に制定された、法律の細かな決まりごとを定めた法典である【延喜式】に、二十七編の祝詞も収録されているのだといいます。

その延喜式に『六月晦大祓』『十二月晦大祓』として六月と十二月の晦日に、京都の朱雀門で、
親王・諸王・諸臣・百官の人達を集め、彼らが犯したかも知れない諸々の罪・過ちを、天皇の仰せによって祓い清めるために大祓が執り行われ、この大祓の神事において大祓詞が読みあげられます。

【祓】という字は通常『はらい』と読むことが多いですが、大祓と書いた場合は『おおはらえ』と読まれます。
単に祓というのではなく『大』という文字を加えているのは『大』には公という意味があり社会全体のための行事として行われていたからといい、記紀などの歴史書にも国家祭祀として大祓が行われていたことが記述されているといいます。


具体例として、天武天皇の御代においては大祓当日の午前に内裏で天皇・皇后・皇太子の穢れが落とされ、
午後には中臣氏が朱雀門で役人や民衆の集めて大祓詞を読み聞かせることで祓を行ったといい、このことから大祓詞は『中臣祝詞』とも呼ばれることもあるのだといいます。


時代とともに公的行事としての大祓が一般化し、一般人の私的な行事としても大祓が行われるようにもなっていったといい、大祓詞の文章を多少変更して広く用いられてもいるといいます。


ちなみに産泰神社さんの大祓式は午後の早い時間から執り行われましたが、後に大祓式を夕方から執り行う神社さんが多いことを知りました。

この辺に関してはその理由まで調べるまでに至っておらず、後の課題としたいと思っております。


ただ大祓式の式次第はほとんどの神社さんで同じなようでありました。
あくまでネット情報に過ぎないのではありますが。






No.404

(続き)

産泰神社さんの大祓式の式次第を、勝手に、しかも記憶力のだいぶ衰えたおばさんが辿ってここに記してみます。

一、人形(ひとがた)切麻をお分かちする

一、祓いを促す(産泰神社さんでは式進行にあたられた禰宜の方でありました)

一、大祓詞を奏上する

一、切麻(産泰神社さんでは小さく切った紙と小さな繊維片でした)をとりて各自祓う

一、大麻(産泰神社さんにおいては榊の枝でありました)にてお祓いする
(①正面②神職③参列者の順)

一、『八針神事(布を八つに取り裂き、大麻を折ってその布で縛り、辛櫃に収め蓋をする)』を執り行う

一、各自人形に穢れを移す

一、箱に人形を収める

一、神職を先頭に茅の輪をくぐる

と、まぁこんな感じ、でありました、…でしょうか?

順番、多少は異なるかもしれません。
なぜならば、
一、記憶力がいたって退化している
一、初めての大祓式参列であるため、産泰神社さん以外の大祓式を知らない

ためであります。


で。

実はこの大祓式で執り行われた作法が、実にこの大祓詞に描かれていたのです。



まず、

『多くの罪が出てくれば 天から伝わった儀式に従って
金属のように硬い木を切り 根本を打ち断って台の上に置いて

管(すげ)の根元を刈りとり 根本を刈りとり 細かく裂いて

天の立派な祝詞を読みなさい

このように祝詞を奏上すれば、天つ神は天の岩戸の扉を開けて
幾重にも重なる雲を掻き分けて お聞きになるでしょう』

というもの。


…現代語訳してしまっておりますので、かえってイメージしづらかったりするかもしれません。

そのへんは、小心者のおばさんで、すみません。


ここに金属のように硬い木とあります。
実は神社というと〝榊〟と思うくらいのこの榊という木、私などは葉のついた小さな枝くらいしか手にしたことが無いのですが、実はこの榊の木がたいそう硬いもののようです。

まさにこの榊の大きな枝を切ったものを産泰神社さんではお祀りし、これを以てお祓いをされていました。


そして〝菅(すげ)〟これは〝麻〟。
これは麻という特定の植物を指すのではなく、『植物の繊維』の総称ととらえるようです。

これが切麻、でありましょうか。

うーん、感動です。
なんと神聖な儀式に参列させていただいていたのでしょう。


No.405

(続き)

天つ神さまが天の岩戸の扉をお開けくださり、幾重にも重なる雲を掻き分けて 奏上した大祓詞をお聞きくださり、国つ神さまも高い山や低い山の頂上に登って雲を掻き分けてお聞きくださる。

…その光景を思い描いただけで本当にありがたく、心の闇が、厚く重なった雲が払われる気がいたします。


そして。
祓われた罪のゆくえをもこの大祓詞には描かれてあります。

『…このように祓い清めた罪は高い山や低い山の頂上から流れ落ちる

流れの速い川にいらっしゃる瀬織津比売(せおりつひめ)さまという神さまが大海原までもっていくだろう

そして激しい沢山の潮流が渦をなしているところにいらっしゃる速開津比売(はやあきつひめ)さまという神さまが飲み込むだろう

それを息として吹き出すところにいらっしゃる 気吹戸主(いぶきどぬし)さまという神さまが根の国・底の国に吹き放つだろう

そして根の国・底の国にいらっしゃる速流離比売(はやさすらひめ)さまという神さまがそれをすっかりなくしてしまうだろう。』



…。

ええ、この祓われた罪をさらに流し、吸い込み、吐息として吹き出し、その空気となった罪を吹き根の国、底の国へと吹き飛ばし、そこで抹消してくださる四柱の神さま方こそが、祓戸の大神さま方であるのです。

なんとありがたいこと、
なんとありがたい神さま方でありましょう。


神社へのお参りすらがほとんど無かった暗黒期のある私ですので、この珍道中を始めて初めて知った御尊名、神さま方でございます。
(しかもあいかわらず御尊名を覚えられてもおりません)

ただその御尊名はよく参拝させていただく群馬県桐生市の【桐生天満宮】さんの主祭神でありますので、よく拝する機会がございます。
ならば覚えてもよさそうなものを覚えられないのが、この海馬の機能をほぼ失った脳みその持ち主であります。



瀬織津比売さま
速開津比売さま
気吹戸主さま
速流離比売さま




この大祓詞を奏上する機会を得て、初めて知ったこの神さま方のしてくださっておられたお仕事。

そしてその役割をそのまま表しておられたお名前であったこと。


もう感動しかありません。

No.406

昨日思い立って、久しぶりにお訪ねしたお寺さんで、あまりにもショックなことがあり、いまだに引きずっております。

そちらのご住職さまはいつ伺っても笑顔でお声がけくださる物腰のやわらかな、表情豊かに話されるお方で、敬愛する僧侶のお一人でありました。

「ご住職は?」
とお聞きすると
「おりません」
と私服で総髪の方がお応えくださいました。
「今日でしたら何時ごろお戻りになられますか?」
「…」

しばらくの沈黙の後、
「新聞や報道とかでご存知ではないですか?」

はっ?

はて。
失礼ないい方ではありますが一介の僧侶の移動などはそのように報道されることは稀かと存じます。
総本山の総代になられたとかであってもそのような報道はなさるかどうか。


「こちらに務めておりました者は逮捕されましたので、もうこちらに戻ることはありません」


はっ?
「かつての、でしょうか?」
かつて訴訟問題があったとうっすらとした記憶にありました。

「いえ違います。六月のことですので、おそらくご存知の者と思います」




立ち直れない。
一晩経っても立ち直れない。

僧侶は道を説く者であるはず。


何の道を誤ったのか。

…立ち直れない。

No.407

僧とても人、そう思うことなど何度もあった。
なにせ末法の世である。

御朱印で有名なお寺では、
「この絵(預かった御朱印帳の表紙の絵)次の御朱印に使えそうじゃん」
という話がもろに聞こえ、さらには
「今日はやたらと御朱印が多いな」「うん儲かる儲かる」
といった耳をふさぎたくなる声まで聞こえたこともありました。
「うちの寺は御朱印三枚で千円、バラ売りはしてないから」
と、もはや商品であることを隠さなかった。


自寺の御本堂を貸しての撮影会を開き、ご本尊の真ん前ヒラっヒラの衣装のおねいさんがポーズをとるのが見えたりする中、一般の参拝客も参拝していたり。
貸切りにしたら、せっかくお越しになった参拝者に失礼と思われたのか、一般の方からの〝収入〟も得たかったのか…。



そんな世知辛いお寺さん事情を垣間見てしまうこともある一方で、お会いできるだけで、心が晴れ晴れする、癒しの力をもつ僧侶。
佇まいだけで、その毎日の生き方を伝えて、一見さんとでもいうのか、初めて寺を訪れもう二度とは来なそうな者に対しても、おもてなしをしてくださり、仏道をお説きくださる僧侶。
たくさんたくさんおられるのもまた事実です。

だからお寺さんに行くのがとてもとても好きであるし、仏教にも興味を持ったくらいです。


今回の、この逮捕という衝撃的な事件の主となった僧侶は、確実に、この後者の僧であったのです。
私どもにとってもそうでありましたし、檀家さんにおかれましてはまさに寝耳に水で、今なお胸を痛めておられますことでしょう。

…それでも。


やはり僧とても人、一介の人間に過ぎないことを私は忘れてはならないのです。
それは決して悪い意味などではなく。

人は産まれて生きているこの現世で常に修行の身であり、誘惑があり、大なり小なり罪を犯すこともあるということ。

僧とて聖人ではなく、ましてや仏などではない、ただ人であるということを。


そうした人の色眼鏡は生きづらさを産むこともあるということを忘れてはいけないのだと。

まぁ、それを力としてさらに修行し精進される方もおられましょうが、善人であって当たり前などと思われて生きるのは、やはりただ人であれば生きづらいものでありましょう。


彼は罪をすでに認めているといいます。
人を殺めたといった罪ではないので、罪は償えばいい。


そう、それだけ。



No.408

【穴原薬師】さま

目に持病を抱える夫。
祈ることしかできないので、眼病に効くという仏さまを見かけるとつい足を伸ばしてしまいます。
そしてそこに通ってみたり。

…などというとなんだか良妻のように思えたりしてしまうかとも思いますが、夫にとってはまさに悪妻の鑑であります。
…などということは、こちらをお読みくださっておられる方にはもうすでにバレバレ、周知の事実でありましたね。


やはり眼病に霊感あらたかといわれる群馬県みどり市の【穴原薬師】さまにお参りしてまいりました。
このたびは夫と一緒。

夫は二度目の参拝となります。

ここ、穴原薬師堂を知ったのはほんの偶然から。
地元で有名な『貴舩神社』さんへの参拝へと向かう途中で、小さな案内板を見つけたことに始まります。

そして初めての参拝をして、こちらが眼病に効くといわれるお薬師さまであることも知ったくらいでありました。
無住の、お堂自体はあまり大きくはないものの、どういうわけなのか仁王門、しかも十六羅漢さまがおられる楼門を構えた、どこか不思議なお堂であります。

参拝に来て人と出会ったことはないくらい、貸し切り状態で、高台から見下ろす田園風景の素晴らしさは本当に大好き、…なのですが、なにやら今年は獣臭が漂っており、お参りをしても早々に立ち去ることとなっているのです。

そんな穴原薬師さまについ先日もお参りしたばかりだというのに、今度は夫まで伴って参拝した理由といえば、な、なんと!
ご厚意でご本尊さまを御開帳いただけることになったから、なのです。

実はこちら無住なだけでなく、もはや寺院でもなく、地元の保存会が管理しているものとなっていたのです。
まぁ、それすらも知らず参拝を繰り返しているところが、いかにも私、なのですがね。

知らぬがゆえに、文化財指定をしているみどり市の文化財課に、御開帳の有無を問い合わせてみた結果が今回のこういったご厚意へとつながったというわけなのですが…。

ものを知らないという意味での〝眼〟の不自由な私に、御利益があったのかもしれません。

これはもうかなりの御利益があるお薬師さまでございます。


ちょうど草むしりとシロアリの薬剤散布をする日があるので、その日でよければ、といったことで、保存会の会長さんから御本堂と楼門を開けていただけることとなったということなのですが。


No.409

いやぁ〜、ダメだ。
38℃超え。

頭がまわらない。
…あ、これはいつものことでした。


外に出ると吸い込む空気で肺が熱い。
エアコンの効いた室内にいても胸元に熱さがこもってる。

仕事となると無理をおしてでも仕事しているひと、大勢いるのだろうな。

この暑さ、もう命がかかっている。
無理をしてはならない。

だけれど、…言葉でいうのは実に軽々しい。
本当は当たり前のことで、全ての人の心に届くといい。
心からそう思う。
つらいのをおして仕事している人を、上に立つひとはどうかきちんと守ってほしい。


今まだ七月。
まだまだ夏は続く。

命を守ること。

No.410

(【穴原薬師堂】続き)

穴原薬師堂は貴舩神社さんへと向かう県道の途中を左下へと分かれる道へと向かいます。
下り坂は木々のトンネルをくぐるような道で、今まで走ってきた明るい道から急に暗くて細い道となり、少し心細く思われる道です。
坂を下りきると一転、田や畑や家、町工場などがある明るい道となるのですが。

畑の広がる空間をみぎてに見てまもなく、奥まったところに赤い山門が見えてきます。
参道が畑の隣なので、赤くそびえる楼門はとても目立ちます。

山門を見ながらひだりてにハンドルをきると、車の駐車できるスペースがひろがり、そのわきにはあづまやのある広場もあります。


山門の一階部分は両脇表側に仁王さまがおられます。

昭和六十年に解体修理された際、仁王さまのお首の部分から古文書が出てきたといい、その文書により寛政四(1792)年に地元の仏師『田村利八』他二名により彫られたものであることが明らかになりました。
田村利八は桐生天満宮の棟札に〝箔方〟として名を残す方であります。

山門の建造年も同じく寛政四年。
木鼻の形や浮き彫りの文様などからも十八世紀後半のものと考えられ、文書との一致が見られるといいます。
また、門に彫られた渦巻き模様からも、門の格式は高いものだとも言われているそうです。

屋根は鉄板で覆われていますが、その重厚さから茅葺き屋根であったことがみてとれます。
横から見た屋根の感じが私は大変好きで、また、二階部分の手すりの奥の閉ざされた扉をみあげては中におられるお釈迦さまにご挨拶を申し上げます。

山門の表側のひだり側には背の高い石幢があり、六地蔵さまが彫られています。
お地蔵さまが比較的大きく、また状態も良くて、私はいつもこの石幢の周りを一周するくらい、好きなものであります。

門をくぐると門の裏側右側に鉄で作られた階段があります。その上は板で覆われています。

門をくぐった正面に御本堂へとのぼる石段があります。
石段は十九段。

右側には大小の庚申塔が並んでいます。
後年整備したものと思われます。
庚申塔の並ぶ裏手は石垣が組まれています。

左側には不自然なほど高いフェンスが組まれており、中に石仏さまがたくさん祀られています。

No.411

(続き)

このフェンスの中、かわいらしいお地蔵さまのお像がおられます。
このお地蔵さまがまた私の大好きなお地蔵さまのお一人です。
小さくて、子供みたいに笑っておられるお地蔵さま。

そのお隣には大黒さまの石像がおられます。
この大黒さまの笑顔がまたとても良いのです。
古い石造の大黒さまは私はあまり見た覚えがないのですが、この大黒さまはとても生き生きとされ、今にも立ち上がりそうな、動きのあるお像であります。

保護、というよりは盗難防止にすら思える高さのフェンスです。

うーん。

フェンス越しですのでいつ頃の石像なのかもだれが何のために奉納されたかもわかりませんが、もしかしたら名のある石工の作品なのかもしれません。


さて、十九段を駆け上がります。

真正面のお堂。
彫刻の絵馬が祀られています。
これが何度見てもなんの図なのかわからないのです。
いつもは鰐口を撞いて木の扉に手を合わせるだけ。

でもこの日は違います。

保存会の会長さんはお堂の向かって左側にまわり込み、そこにある引き戸を開けて「中へどうぞ」とおっしゃってくださいました。
二間あるのがみてとれます。

奥の間、右隣の部屋は後付けで建て増しされた部屋だということで、御本堂よりも天井が低く、大祭のとき、和尚さまが着替えたり、お札を掲げて置く間だといいます。

須弥壇が立派なのに対してその上に置かれた厨子や厨子の前に掛けられた布など正直少し質素な気がいたしました。

須弥壇の上に置かれた木の段は白木のままのもので後からのもの、な気がいたします。
十二神将さまも何やらカラフルな色に塗られていて、逆の意味で目を引きました。

僧の手を離れて少しづつ保護保存のため手を加えていかれた結果なのでありましょう。

仏具はほとんどなく、大きな鐘があるのみで、経几は器用な素人の作った物のよう思われました。


それがなんとも淋しく、うら悲しく思えたのが正直な気持ちです。

No.412

今日は『寅の日』で毘沙門天さまのお縁日。

寅の日が『毘沙門天さまのお縁日』とされているのは、
その昔、聖徳太子さまが、毘沙門天さまを祈られたところ【寅年の寅の日の寅の刻】に毘沙門天さまが現れたと言われており、それから寅の日が毘沙門天さまのお縁日とされるようになったのだそうです。


毘沙門天さまは、四天王・七福神・八方天・十二天・十六善神という多くのお役目を果たされています。

四天王としては【多聞天】さま。
単独尊としては【毘沙門天】さま。
大般若経を守護する十六善神としては【吠室羅摩拏善神(べいしらまだぜんしん)】さま
と称されます。

またインドにおける財宝の神、『クベーラ』が前身(由来?)と考えられており、有り余る財宝を分け与えることから【施財天(せざいてん)】とも呼ばれ、財宝を司る福の神とされています。



毘沙門天(多聞天)さまは、左手に、仏さまの教えや智恵が納められた『宝塔』を、
右手に、意の如く財宝や食べ物、衣服などを生み出す『如意宝棒』または『三又の槍(三戟)』をお持ちになるお姿があります。

槍を持つ毘沙門天さまは、魔除け、厄除け、勝負運を司り、
如意宝棒を持つ毘沙門天さまは、開運招福、金運など福徳を司るとの言い伝えがあります。

足下の邪鬼『藍婆(らんば)』・『毘藍婆(びらんば)』を踏みつけていることから、災いなどを引き起こす邪鬼を鎮める力があることを示しています。


奥さまの吉祥天さま、お子さまであられる善膩師童子さまとの三尊像は家庭円満や厄除け等の御利益があるともされています。



先日ネットから書き起こした【毘沙門天王功徳教】をお唱えしてみましょうかね。


…振り仮名をつけ忘れて読めないところがなんとも私らしい。

No.413

【桐生相生賀茂神社】さん

しばらく前、外出先で群馬県桐生市の地方紙を手にする機会があり、ある神社さんのお祭についての記事が目にとまりました。

それは桐生市の賀茂神社さんの中の境内社である八坂神社さんの夏の大祭で、御神輿の担ぎ手を募集しているというものです。

重くて大きなものとあります。

私たちには関係ないと普段でしたら気にも留めない記事なのですが、こちらの神社さんにはまだ参拝したことがなく、ふと気になって読み進めたところ、なんとこの御神輿、同じく群馬県太田市の世良田八坂神社さんから遷移したものと書かれているではないですか。


あっ!
あの御神輿なんだ!


…コロナ禍前、世良田の方へは足繁く通って、いろいろ参拝させていただいていた時期があり、世良田の八坂神社さんのお祭りにもお邪魔させていただきました。


かつて世良田の八坂神社さんのお祭りには、桐生市やみどり市、などから大勢訪れたといい、片道実に三十キロを超える距離を自家用車などほぼない時代に訪れていた記録を市誌や町誌、村誌などからいくつも目にし、その距離と信仰心に驚愕したものでありました。


その世良田の八坂神社さんのある年のお祭りで、一人の神官のちょっとした一言から、御神輿が桐生市の現相生町、当時においては如来堂村へと遷移されることとなった、と言い伝えられているのです。

その詳しい経緯はこのあと綴らせていただきますがそれを知ったかつての私たちは
「それは…その神官、さぞ困ったことだろうね」
「神さまの前で嘘でしたというわけにもいかないだろうから、クビになるくらいの失言をしたもんだね」
などと話したものです。


行きたい!
その御神輿を一目拝みたい!


帰宅するなりカレンダーに『相生八坂神社』と書き込んで。

夫が仕事から帰るなり、
「ねえ、桐生市の相生町一丁目の賀茂神社さんって、どこ?」

…普通の人は自分で調べましょうが、私、地図が読めない、しかも方向音痴という特技の持ち主で。
夫は夫で長年連れ添った人間、そんな唐突な質問に動じることなく、
「ああ、以前通りかかったことがあったけど、駐車場が見当たらなくて路駐も出来そうになくて参拝を諦めた神社さんだよ」


これは♡
神さまのお導きでありましょうか。





No.414

(続き)

この一連の流れは相生賀茂神社さんの神さまのお導きでありましょうか。

…それが本当ならば本当に嬉しいのですがそんなことはゆめゆめありえないでありましょう。


そんなことよりそもそもがかつて駐車場が見当たらず参拝を諦めた神社さんです。
お祭で、しかもお神輿の渡御ともなれば、気づかなかった駐車場があろうとも駐車することは不可能ですし、かつて通りかかった際に路駐が無理であったことはわかりきっています。

「なんか調べてみたら〇〇ショッピングセンターから数百メートルみたいだね」


…あら♡

…ではそこに停めさせていただいて、お祭の後買い物すればよいかしら?



当日、そのショッピングセンターさんの駐車場の端っこに小さな罪悪感を抱きつつ車を停め、橋の側にある信号のある交差点へと向かいます。

初めて歩く道は新鮮です。
しかしそんなことよりお祭です。
御神輿です。

ええ、おばさんいつものように走ります。
これもまたすでに慣れきった夫は、
「あの白い傘をさした人のいるあたりを左折ね」
と後方から早めに声をかけてくれます。

数百メートル走って。
「白い傘の方、いなくなっちゃったんだけどぉ〜」

「行けばわかるよ、この通りではそれなりに大きな交差点だからぁ〜」

ここか?
いや違う、ここは民家のお庭。

ここだ!
左に曲がる。

あったぁ!

赤い鳥居が見え、そのすぐ向こうにはやはり小さいながらも赤い神橋がかかっています。

その真正面に黒い瓦葺き、白い壁に赤い柱のお社が見えます。

あ、ちょうど御神輿を男衆が担ぎ上げたところです。

御神輿を担いだ誰もが、それはそれは誇らしそうなお顔をされています。
思っていたよりも少ない人数で担いでおられます。

…剛力の方々が揃った?


さして広くはない境内を小さく静かに一周して御神輿は鳥居をくぐって私たちが今まさに来た道へと出て行きました。


いくばくかの寂しさが残ります。

境内では手水舎で遊ぶ子供、そのすぐそばに設置されたミストをくぐってはまた戻る子供が数人。


いくつか町内の出店が出ており、かき氷のコーナーには長蛇の列ができています。

大きな御神輿が出て行ったあとは、いかにも小さな町会のお祭といった感じです。
皆さんが顔見知りのようで、途端に自分たちだけ異邦人のような疎外感が生じます。



No.415

(続き)

開け放たれた神輿庫。
いや、この神輿庫こそがこちら相生賀茂神社さんの境内社、八坂神社さんであります。

御神体は御神輿のまま鎮座されておられる、立派な社殿の一つであります。

神輿庫…八坂神社さんをのぞくと、今は御神輿ががらんと広いお社の中、
世良田の八坂神社さんから御神輿が遷移されることとなった経緯を示したものが、大きな板に墨書きされて飾られていました。


『本社の御神体の御輿は以前は報養寺境内に有りしが、昭和三年当地に安置し給う。

御輿に就きては昔から任へ有り新田郡世良田村に鎮座する旧郷社八坂神社より遷移すと言ふ。

その来歴は安政の頃、八坂神社祭礼の折力競べ有り。
神官の言ひしにこの御輿を四人で担ぎ御神木を廻り鳥居を潜れば賜ふとなり。

祭礼に行きし如来堂村の若者は我が村にと剛力四名が渾身の力を込めて御輿を荷ぎ上り、御神体を廻り鳥居に近づくや徐々に姿勢を低め一歩々々歩み、遂に鳥居を潜りたり。
是れを待ち構えていた村人は大いに喜び、代る代る担いで当村まで運びたりと。


其後御輿は当社の例祭の外、旱魃の際の雨乞ひや悪病流行の時の病気退散にも渡御し霊験灼かなりと言ふ。

斯かる謂れある御輿なれば子々孫々まで大事に伝へんと願ひ、神事番一同、茲に由緒を誌す』


近隣で知らない者は無い世良田の八坂神社の御神輿を、剛力の者のお手柄で遷移することができたのですから、それはそれはさぞ誇らしいかったことでありましたでしょう。

No.416

(続き)

御神輿の後を追うこととしました。

御神輿はあちこちの中継地点で休みます。
後を追ってみるとたやすく追いつくことができました。


黒塗りのシックな御神輿であります。

アフターコロナ、だからなのでしょうか、掛け声ひとつない静かな渡御でありました。
歴史ある御神輿だから、でしょうか、よくある水かけなどもありません。


ただ、この黒いシックな御神輿はこうした静かな渡御もなかなかしっくりきます。


神さま、どうぞこのコロナという病と、この異常な暑さ、相次ぐ自然災害から私たちをお救いください。

渡御の途中でポツンとお休みされる御神輿に向かってそっと手を合わせた私でありました。





殺人的な暑さに加えて、不安定などという生やさしいものではない天気、
ゲリラ雷雨、記録的短時間大雨警報、竜巻、突風。
山形では河川が氾濫し、緊急安全確保で避難を余儀なくされておられる方々。
いまだに復興の進まない被災地の方々。

コロナは新たな新型株が流行し、ヘルパンギーナ及び手足口病も爆発的に流行、コロナと同時感染もあるようです。
ヘルパンギーナ・手足口病は、今年のものは大人も感染し、重症化する例があるようで。

そして物価がまた異常に高騰し続け、さらには米不足が起きており、安価で買えたお米から無くなっていっています。


住みづらさ、生きづらさを感じるかたも多いかと思います。


それでも。
幸せはすぐそこに。
自分の中に。

小さな小さな幸せに気づいて生きていきたいと思います。

花の蕾が開いた朝。

雨上がりの蜘蛛の巣の美しさ。

散歩中の犬が見上げて足を止めてくれたこと。

猫が日陰で眠る姿。

赤ちゃんの笑顔。
赤ちゃんの寝顔。


見切りの安い商品が買えた時。


みなさまが良い一日でありますよう。


さまざまな災害で被災された方々が少しでも心地良く過ごせる一日でありますように。
少しでも早く復旧、復興が進んでいきますように。





No.417

しばらく前になりますが、珍しく息子がとあるお寺さんに行きたいというのです。

たしかに息子と一度行ったことがありました。
でも彼は御本堂には入らず、何やら境内を散策していたような…。
と、いうか、御本堂の前に行った茅葺きの御堂を御本堂だと思っていたようでした。
そう思ってもしかたない、その御堂には大きくて立派な釈迦三尊像がお祀りされているのです。

このお寺さんは花の寺として群馬県では有名なお寺さん。

息子は風景、花の写真や鳥の写真を撮るのが好きなようですので、たしかに境内はそうした写真を撮るにも良いところなのかもしれません。


しかしながら。
実はこの日の天気は今後雨が降る予報。
うーん、今日?


そのお寺さんの名は【青龍山吉祥寺 (せいりゅうざん きちじょうじ)】といい、鎌倉の建長寺を本山とする臨済宗の禅寺であります。

また、建長寺派四百有余ヶ寺の寺院の中で一番北域に位置することから、『建長寺北の門』、とも呼ばれているのだといいます。


群馬県の利根郡川場村というところにあり、全国道の駅人気ナンバーワン『川場田園プラザ』で有名なところのすぐそばにあります。


なんとか雨の降らないうちに到着することができました。

こちらのお寺さんは境内のうちに小川が流れていたり、立派な山門に昇ることもでき、境内には石仏さまも多く、茅葺き屋根の御堂もあってと、そういった意味では私も好きなお寺さんであります。

そして。
この日私はちょうど吉祥寺さんで『レンゲショウマ』という花の時期と聞いており、できればこのレンゲショウマというお花を見られたらいいなと思っておりました。

駐車場からお寺の山門へと向かう道には色とりどりの紫陽花が咲いておりました。

もう私の住む町では紫陽花は見頃を終えて、色とりどりの百日紅が町のあちこちで咲く頃となっていました。

大好きな紫陽花。
なんだか得をした気分です。


このお寺さん、群馬県では珍しい拝観料を支払ってのお寺さんです。

支払いを済ませて進むと。



風鈴の小路が設営されていました。



No.418

(吉祥寺 続き)

群馬県川場村の吉祥寺は南北朝時代の暦応二(1339)年、
中巌円月(ちゅうがんえんげつ)禅師(鎌倉建長寺四十二世、五山文学の巨匠としても知られる名僧)を開山和尚として開かれた古刹です。

当時上野国の利根荘は鎌倉武士大友氏の領地であり、
その大友氏が九州に移った後、守護大名であり大友貞宗の五男、七代当主【大友氏泰】公が、父の意志を継ぎ先祖の発祥の地に聖地建立と先祖の供養を兼ねて寺を建てたのが始まりといいます。

これは吉祥寺のパンフレットに書かれています。

ちなみに戦国の大名として有名な大友宗麟は二十一代の当主にあたるといいます。



吉祥寺の創建は、大友氏六代当主『大友貞宗』と中巌円月禅師との出会いから始まります。

本場中国での勉学の志をもった円月禅師は博多へやってきますが、鎖国令のため渡航が禁止された中国(元)に渡れず難儀していました。

その頃大友貞宗は出世武将として博多守護の重責を担っていました。
渡航をあきらめきれずにいた円月禅師と面会した貞宗は禅師の才能と情熱に惹かれ、特別の計らいを以って渡航(渡元)の道を開きます。

これを機に円月禅師と貞宗との間には尊信の友情が芽生えます。

帰国後の円月禅師は貞宗庇護のもと禅僧として鎌倉建長寺で活躍しますが、正慶二(1333)年、鎌倉幕府の滅亡した年の十二月に貞宗は死去します。

円月禅師は、生前貞宗と語り合った大友氏の発祥の地川場に禅寺を創るとの約束を果たすために、延元二(1337)年に利根荘入りいたします。

暦応二(1339)年十二月に【吉祥寺方丈】が落成、大友貞宗公七回忌法要が営まれています。


当時の建物は残されてはいませんが、釈迦堂に祀られる釈迦如来像は創建当時の鎌倉期のものであるといい、文化財指定となっているといいます。
息子が御本堂と勘違いしてもしかたがないといえばしかたがない、大変大きく存在感のあるお釈迦さまでございます。


とりあえず大好きな山門へと話を戻します。


山門は文化二(1815)年に建立されたもので、【青龍山】の勅額は後光厳天皇の筆によるものだといいます。
なんとこの山門、自由に楼上に上がることができ、文殊菩薩さまを中心に十六羅漢が安置されています。


窓も開かれ、ここから見下ろす景色がまたなんともいえない風情があります。



No.419

本日七月二十九日は
【一粒万倍日】
【天赦日】
【大安】
が重なる最強開運日だそう。


が、私、悲しいことに朝のテレビの星座占い、最下位でありまして。

まぁ、人生、どこかしら気をつけるところがあって気を引き締めていた方が…私のような人物にはよいのかもしれません。

ラッキーフードは『ゴーヤチャンプル』、いや、私ゴーヤチャンプル苦手だし。



本日は朝から暑く、全国で熱中症警戒アラートが鳴りまくっています。

そんな中におかれましても、みなさまが良き日を良き日として過ごせますよう、心よりお祈り申し上げます。

No.420

(吉祥寺 続き)

山門をくぐると小さな石仏さまがお出迎えくださいます。
真正面の道は両サイドにさほど背の高くない木々が植えられ、庭園の中の細い小道を歩いているような気がいたします。

と。
毎回毎回その小径を進んでしまうのですが、実は正しい進路はこちらではないのです。
それを戻り道になって(ああ、またやってしまった)と猛省するのですが、この真っ直ぐに続く道を行くのではなく、み・ぎ・の道を行くのが正しいのです。

山門をくぐると真っ直ぐの小径に目を取られがちですが、実は山門をくぐってすぐ、左右に分かれた道もあるのです。

順路とかで導かれてはいないので、真っ直ぐ進むのも間違いではないし、左の道を行っても釈迦堂の前に出るので、これもまた間違えてはいない。

では、本人はその正しい順路で行ったことがないくせに、何故右への道が正しいと断言するかというと、…その右の道にこそ手水舎があり、その先に鐘楼があるから他ないのです。

…そうなんです。
一度や二度ではない回数、再拝させていただきながら、毎回石仏さまや季節の花々に目を取られては真っ直ぐの道を歩いてしまうのです。
もしくはひだりての道。

ひだりての道は紫陽花のトンネルをくぐるかのように歩くと、
石仏さまがたくさん花の中にたたずんでおられる場所へとつながっているのです。


…そうなんです。
今回、その道を歩いたことがわかりますよね。
ええ紫陽花のトンネルという表現は紫陽花の花の時期に訪れて使われるワードです。葉だけとなった紫陽花の木々の間を通り抜けるときには、あまり〝紫陽花のトンネル〟といった表現はしないのではないかと思います。

そう、左の道はたくさんの種類の紫陽花の花が咲く紫陽花ゾーンであったのです。
お地蔵さま、青面金剛さま、如意輪観音さま、聖観音さま。
小さな両の手にすっぽりと乗るような小さなお地蔵さまも、
見上げるほどの聖観音さまも、
色とりどりの紫陽花に囲まれておられるのです。

目を見張るほどの満開の、大量のギボウシ。

初めて見た二重咲きの薄い藤色の桔梗。

その花々を率いるかのように立たれる聖観音さま。

大きな石塔も見られます。

ええ、今までの参拝ではこちらの道に気づくことなく、実に未踏の地、であったのです。
…なんともったいなかったことでしょう。


No.421

(続き)

その道を進むと。

大きな寺院に不慣れな私ども親子には御本堂かと思われるほど立派な草葺きの御堂が見えてきました。

道の左右をかためるのは、進路むかってひだりてに奪衣婆さま。
その真正面には閻魔大王さまが佇んでおられます。

奪衣婆さまの存在感といったら。

対で造られたでありましょう閻魔大王さまも大王さまだけ見れば迫力ある表情をされたもの、なのですが、建物側にあることからどうしても奪衣婆さまから目に入ってくるのです。

そのお二人の裁きをすり抜けて。(おいおい! 焦)

さらに進むと大香炉があり、その向こう側にもたくさんの石仏さまがおられるのですが、ま・ず・は・釈迦堂へ。
…これもまた順路としては正しくはありません。
本来なら御本尊さまのおられる御本堂が先でございます。

ここ吉祥寺さんではどうもその当たり前が崩れてしまう私です。

まぁお釈迦さま、ですので先にお参りしても決して間違いではないでしょう。



No.422

(続き)

釈迦堂は寛政二(1790)年に建築されたといい、扁額には『宝泉殿』と書かれています 。
どういった意味、いわれがあるのか、帰宅してネットで調べてみましたがわかりませんでした。

もしかしたら。

こちらが水の豊かな土地で、あちこちに池があり、小川が流れるような水に恵まれた土地であることから、なのかどうか…。


御堂の前には他では見ないような大香炉があります。
今日はお墓参りやお寺さん巡りのときに持つ、お墓参りセットは持参していないため、お線香をあげることはできません。
こちらの大香炉は蓋等は無くて、な、なんと中央に誕生仏のような仏像が。
いくらお線香の煙をお食べになられるといわれていると言っても、これはちょっとあまりにダイレクト過ぎではないかしら。


御堂に入ると、毎回中央におられますお釈迦さまに圧巻されしばし手を合わせることすら忘れて立ち尽くしてしまいます。


また、鎌倉時代後期(=南北朝期)に創られた釈迦三尊像。
その左右、奥まったところに中興開山和尚像が祀られています。


中央正面の釈迦如来像は(像高三尺4寸3分、ヒノキの寄木造、硬地漆箔仕上げ)、当山の本尊で鎌倉時代後期の作と伝えられるといいます。

【この像は、釈迦堂に安置されている釈迦三尊像の中尊である。
像高百四センチ、衲衣を通肩につけ、定印を結んで、蓮華の上に結跏趺坐(けっかふざ)している。
菩提樹下で静かに瞑想するお釈迦さまの姿をあらわしたものである。

構造はヒノキの寄木造で、頭部を体部にし、目には水晶を嵌め込み実感的な様相を作り出している。

彫りの深い衣紋や量感豊かな像容、硬地漆箔仕上げなどに中世の造形が息づいている。

川場村教育委員会 】

説明の書かれた案内板より。



No.423

(続き)

こちらのお釈迦さまが私はとても好き。

御堂に入ると真正面の少し高い位置におられ、そこで私は手も合わさず見入ってしまいます。
何度も参拝させていただいているのに、毎回毎回棒立ちでしばしの間お釈迦さまに見とれてしまいます。

〝菩提樹の下で瞑想されるお釈迦さまの姿を表した〟とされるお姿ですので、決して目を合わせるようなこともなく、ただ一心に瞑想されておられ、その表情に私はとても癒されるのです。


またお会いすることができました。
ありがとうございます。


そう心の中で自然に思い、そんな自分にようやく気づき、慌てて手を合わせます。

瞑想されておられるお釈迦さまの目は閉じられています。
開こうともせず、自然に閉じたままの目。
まっすぐ前に向けられたお顔。
お口元もやはり自然に閉じられ、そのお口は語ろうともせず、固く結ぼうともせず。

少しふっくらされた頬からあごにかけてのやわらかな感じ。

鎌倉時代に造られた御像ということですが、ゆるやかに年月をまとわれただけで、そのどこも傷むことなく、お美しいままで、それがもう奇跡のようです。

…まぁ、それを保つお手入れはされておられるのでしょうが。

両隣りにおられる脇侍の文殊菩薩さまの御像及び普賢菩薩さまの御像は、お顔立ちがまるで異なる明らかに作者が異なるものと思われ、使われている木材も異なるものな気がいたします。経年しての風合いが明らかに違います。
また、このお釈迦さまを意識されずに造られたのか、あるいはお釈迦さまの大きさを引き立たせるためにあえて小さくつくられたのか、かなり小ぶりなものとなっています。

吉祥寺さんは戦国の兵火に焼かれその後再建されたといいますので、脇侍の二像はそのとき焼失しているのかもしれません。

釈迦三尊像の手前右側には、【後光厳天皇 尊霊】と書かれた、まばゆいほどの金色の、立派な位牌があります。
形としては正四角柱をイメージしていただければと思います。
そこに彫りが入った一メートルほどの高さのもの、でありましょうか。


畳一畳よりも大きな一枚板に書かれた般若心経にも目を奪われます。

江戸時代に使われた僧侶の乗ったお籠も隅の方に見えます。


一人で来ていたらここだけでももっとずっと長く居ることでありましょう。
…って、これでもずいぶんと長くいるのでしょうが。

No.424

(続き)

釈迦堂、…宝泉堂をあとにして、いざ御本堂、…と思うのです。
思うのですが、この宝物庫泉堂の前にもまた、石仏さまがたくさんおられる。

しかもここにもまた私の大好きな石仏さまがいらっしゃる。
道祖神型のお地蔵さまであります。
時折そうしたお地蔵さまもおられるにはおられるのですが、こちらはなんと三体のお地蔵さまが彫られたもの、なのです。

うーん、…どうかまた参拝させてくださいと、心の中で祈りながら先へと向かいます。


御本堂入り口はあまりお寺さんの雰囲気はありません。
入り口を入って両サイドにさまざまな〝商品〟が展示されているのです。
むかって左側には主に御朱印関係が。
右側にはお数珠であったり、置物であったり、まさに多岐にわたる商品が展示されています。

この辺が、ね。
ちょっと苦手なんです。
なのであまり見ずに進んでまいります。

玄関の間を過ぎると、すぐ廊下と思われるところとなり、そこにはお賓頭盧さまのお像やら、烏枢沙摩明王さまがお祀りされています。

そして。
目を引く窓。

この窓を見ただけで心がときめくのです。
そう、『火灯窓』と呼ばれる窓です。

座ってその窓をみていたい気持ちをおさえておさえて。

さらに先に進みます。

(ここはお寺?純和風のカフェとかではなく?)

と思われる空間が広がっています。

そうなんです。
まさにカフェとしか思えない空間なのです。

そして明り取りの窓は亥の目の形♡
そう、ハートの形の窓。
しかもその亥の目の窓の下には、ものが映る板で造られた大きな、ステージを思わせるような段が置かれていて、見事にその逆さハートが映っているのです。

今流行りの映え=バエの空間です。




こちらが私の好きな火灯窓。
この前にいつまでも座っていたい、と思う気持ち、伝わりますでしょうか。


No.425

(続き)

レトロなカフェを思わせる間を通り抜けると、回廊が連なります。

見上げると欄間彫刻が素晴らしいのです。
ついつい今流行りの映え空間に目を奪われてしまいがちですが、こちらは江戸時代、延宝三(1675)年に建てられた御本堂。
そうした現代風にアレンジされ(てしまっ)たところを取っ払うと、そこには、いかにも禅寺らしい趣きがみてとれるのです。

…いつからこういった趣向になったのか。
年々そういった現代風のアレンジが加わって(しまって)きている気がいたします。

やはりこれは写真機能を搭載した携帯電話の普及とともに変化してきている…そんな気がしてなりません。


もうあまり変わらずいて欲しい、そう思うおばさんでありました。


だって、ですよ?
レトロカフェ風の間を過ぎて回廊に何やら和机が置かれ、お賽銭箱があって、ふとその回廊からレトロカフェ風の間の隣の間に目をやるといきなり仏間、ご本尊さまの祀られた間になるんですよ。

おばさんはついていけない。
全くついていけない。

その和机には祈願文を書く紙が置かれていて、その回廊に座ってご本尊さまを拝んでいると、その先の回廊にはテーブルと椅子が置かれていて、枯山水の庭園を眺めながらお抹茶と和菓子を楽しむ方々がおられるんですよ。

この切り替えは私にはまるでできないので。

せめて回廊ではなくて、仏間に少しスペースをとって中に一歩入っての空間を作っていただければまだしも、テーブルと椅子と同じ空間に正座するって、いかがなもの?

ま、そうした異空間を除けば、こちらのお寺さんは大変好きなお寺さんなのです。

現代風なアレンジを以て、スルースキルを育てる修行?


ええ、なんだかある種の修行をしている気分になるのです。

仏間は立ち入りを禁じており、入らないよう低い人止めが置かれています。

だからお寺さんとしては仏間はあくまでも清浄な空間を保っているという感覚なのでしょう。

でも純粋にこちらを〝寺院〟として訪ねた人としたら、なかなか…。


…いやいいんですよ、回廊でお参りするのは全く問題に思ってはいないのです。

ここを取り巻くカフェ空間が、どうにも納得がいかないだけです。

上を向いて歩いて、外を向いて歩いてまいりましょう。
欄間彫刻の素晴らしさ、【臥龍庭】と呼ばれる枯山水の庭。




No.426

(続き)

こちらの御本堂の回廊はコの字型になっており、三方向に、違う景色を眺めることができます。

まず目にするのは前述しました枯山水の庭園。
これがまた素晴らしい。

枯山水の庭園越しに釈迦堂の茅葺きの屋根が見えてまさに〝わびさび〟の世界。

たしかに椅子や濡れ縁に腰掛けてその景色をいつまでも眺めていたい気持ちにもなります。


この枯山水の庭園は『臥龍庭』と称されるもの。

やや褐色の砂は大海を表現しているとのことですが、そういった芸術的な感覚がかけらも備わっていない私には、枯山水の見立てはちょっと難しくてただ見たままを楽しませていただいております。

苔むした大きな岩もあり、これは〝島〟だったりするのかなぁ?
でもやっぱり見たてたりができずただただその柔らかな苔の美しさを愛でるのであります。

ちびまる子ちゃんが苔や盆栽にハマったことがありましたが、小学生のまる子ちゃんの方がよほどこの庭の鑑賞眼がありますでしょう。
…まぁ、まる子ちゃんはその後漫画家となられるわけですから、芸術のセンスはあるわけで、まる子ちゃんと比べてどうする!であります。


この庭の奥の方に、石(中島)が三つ並んでいる部分があり、これが水に潜った龍の背中となっているとのこと。つまり、大海に龍が半分以上潜っている姿を描いている庭、ということらしいのです。


うーん。

ま、まぁ、頭の中で可愛らしい龍が水につかりながらお昼寝する姿でも描いてみましょう。


臥龍庭を横目に、…見るのは実はなかなか難しい。
ここにテーブル席がいくつかあって、人気のテーブル席であるからです。
まぁ横目に見るのはあきらめて。
回廊の角を曲がったあたりから、景色はごつごつとした岩場になります。

その岩場は水が流れており、正面の高い岩場からは滝が水をそそいでいます。
これがいつ来ても私には恵みの水に見えるのです。

豊かな木々や花々に命の水を与えてくれる源のように感じるのです。

この滝は『昇龍の滝』。

実はこの日、まさに御本堂に着こうか、というタイミングで雨が降り出し、この昇龍の滝のあたりではまさに本降りの雨。

それがまた白糸のようで、実に美しくて。










No.427

(続き)

回廊をさらに右に曲がると、御本堂の裏手になります。
裏手、とは言っても、こちらのお寺さんではその裏手に建物にいくつかのくぼみを付け、そこにさまざまな御仏をお祀りしておられます。

ただまずは流れとして庭園について綴っていきます。


裏手の庭園、ここは、『青龍の滝』がある池泉庭園となっています。

初めて訪れたときは、その光景にびっくりいたしました。
その美しさといったら♡

そして、こんな水辺に建物を建てれば、傷みも早い気がしてとてもドキドキしたものです。
湿気による傷みは大きなものな気がするのです。
カビであるとか、水分を吸った木材とか、そこに住むであろう微生物や虫的あるとか…。

でもこちら江戸時代の建物、なんですよね。
全然そんな傷みを感じないのです。

まぁそれだけ手入れをなさっておられるのではありましょうが、それでもそんな経年すらを感じさせない、どっしりと、なんの傷みも劣化も感じさせない建物です。

これは、〝 龍神さまがお護りになられているから〟、としか思えない〝なにか〟があるよう思えてなりません。


まぁそんな心配性のおばさんの考えなどはこの豊かな水に流してしまって…。



お寺の裏庭とは思えないほどの広さと水量の池。
『青龍の滝』。

ここにこそ時を忘れて座っていたい気がいたします。


よくある池の、溜まった水のよどんだような臭いも一切無いのです。
そこには清浄な水の気しかないのです。

その池を囲む木々。

木々の根元には何やら花も咲いています。


池泉庭園ですので池の内にも岩が配置されています。

青龍の滝のそばには、自然石の石碑、石塔を思わせるような岩が立っています。

これもまた素晴らしい。

おばさんはただただ見惚れます。

この岩は【池中立石】と呼ばれるもののようです。
池中立石とは、池泉に建てられた特に高い石のことで、その代表格は平泉の『毛越寺』さん、なのだそうです。
実はこの石、『岩ふくろう』と呼ばれているのだそうです。


あちこちと衰えたおばさん、その中の一つに〝目〟があります。

なのでこの、離れた位置の池中立石のどこをどう見てもフクロウに見えることはなく、スマホで撮って拡大しても、光の加減でやはりフクロウには見えず。


息子の高性能カメラで撮ってもらってようやくそのフクロウっぽさを知ったくらいです。

No.428

(続き)

そしてこの回廊を戻るとあの猪の目の窓の外側となり、さらに戻ると、あの大好きな火灯窓が見えて、…ふり出しにもどります 笑。

この日ふり出しに戻ると猪の目の窓のある間には外国からのお客さまが戸惑いながらその部屋の中をながめていました。

…戸惑いますよね。
わかります。

日本のお寺に来たはずなのに、カフェを思わせる部屋に入りこんでしまい、日本人には映えスポットでも外国から〝和〟の空間を楽しもう、堪能しようとお越しになられた方々には、ここの映え間は決してそういったものではないので。


ちなみにエクスキューズミーおばさんはもちろん、
「どこからお越しですか?」
と話しかけております。日本語で。

さらに戸惑うその方々にちゃんと英語で母の問いを話しかけて聞いてくれました。

…いや私だってそのくらいの英語は話せるのよ。
英語圏ではない国からの方であることも考えて、あえての日本語の問いかけですって。
……本当です 笑。



さて。

雨は降り続いています。


きちんと用意してきた傘は、車を降りると飛ぶようにお寺へと向かう母は当然手荷物のみ。
息子はあわてて母を追い、夫は車に施錠したのち、その二人を追うことなく、紫陽花を堪能。

…ええ、私たちには、傘がない。(by井上陽水)

No.429

【佛手山金剛王院鶏足寺】さん

栃木県足利市の鶏足寺さんで毎月八日に営まれる月次(つきなみ)の護摩祈願へと行ってまいりました。

ええ、結局通えております 笑。

ただ、一連の出来事からもうすっかり御祈願申し上げる気持ちは失われ、ただただこの穢れ多い私の心身を浄化していただけたならと詣でております。


世間では学校は夏休み。
いつもですと九時からの通勤ラッシュにモロ被りの時間帯の移動となるのですが、おそらく今は少なくとも父兄の送迎のクルマや、なんなら学校教師の方の通勤の車も少なかろうかと、いつもより遅くに家を出ました。
さらには、御札をお授けいただくにあたってお金をちょうどにお渡しできるよう、どこかコンビニに寄って何かしらを購入し、お金をくずす必要もありました。


案の定道は空いています。

ペットボトルのレモングラスティーを一本買って、いつもの道を走ります。

ただ油断は禁物です。
なにせナビのない車です。
このおぼつかない記憶と戦うおばさんにとっては毎回がクエストです。

まぁ今回も無事に到着し、着いた先もお寺さんということもあり、その時点で自然と御仏に感謝している私がおります。

墓地の駐車場からですので、正式な門は一切通らないのではありますが、門柱の立った入り口で深く一礼いたします。

時計を見るに開始時刻の二十分前。
…もはやお護摩が始まっていようと動じなくなってしまった私は、御本堂へお参りして…ゆうゆうと護摩堂へと歩いて行きました。




あれ?いつもならある(参拝者の)靴がない。

あら、私そんなに早く着いたのかしら?。

鰐口を鳴らして。
戸に手をかけようとした次の瞬間!

中から小さな咳払いが聞こえ、スッと戸が開いたではないですか!


No.430

(続き)

そこには、な、なんと! 黄色い衣をお召しになられたご住職さまがおられるではないですか!
こう申し上げては失礼極まりないですが、まるでドアマン。

まぁドアマンではないので、そのままススッと奥へと進んで行かれます。
「それでは早速始めましょう」

…えっ?

あのぉ〜、御堂のなかには私しかおりませんが?
「あ、あのぉ、いつもの方は今日は?」
「ああ、今日はどうしてもご都合がつかないとのことで、昨日お越しになっているので」


…。

お待たせしましたぁぁ。

すみません、私待ちだったのですね。
そうと知っていればせめていつもの時刻に家を出ましたものを。

まぁこればかりは仕方がないこと、定刻の二十分前には到着しておりますし。


ご住職さまはもうすでに壇上に。

ご住職さまはご住職さまで、もはや私の願意すらお聞きになりません。
…お護摩祈願、なんですがね。


こちらの護摩堂、かつて奥へ建てましをされたとのことで、裏には小山があるためどうしてもかなりの段となってしまったのだそう。

二メートルはゆうに超える段です(…たぶん)。


壇上のご住職をぼーっと見上げながらここではたと気づきます。
(これって…私だけのためのお護摩?)
いやいや、それはありません。
私が来なかろうとこのお護摩修行は営まれます。

ただこの今回のお護摩に参列させていただいているのは私だけ、なのはたしかなことです。

えっ、ええっ?!


にわかに緊張する私。

いやいつもとは違う緊張感に包まれた、が正しい。


お聞きになられなかった願意は
『家内安全』『厄除け』『諸願成就』と、豪華盛り合わせ。


お護摩が終わったのち、ご住職さまは今月の【花御札】を壇上からお持ちくださいました。


夜、仕事から帰った夫に、今日のお護摩が私一人だったことを話しますと、

「えっ!そ、それ凄いじゃない!
将門を調伏した法力の、鶏足寺さんの霊験あらたかな五大明王さまのお護摩だよ!」


…あっ、そうだった。
夫に言われるまですっかり忘れていたけれど、言われてみればたしかに。


ああ、こんなやつに…。

まさに猫に小判、豚に真珠、で。


興奮している歴オタ夫に、願意もないままのお護摩だったことはとても言えませんでした。





No.431

今はごくごく稀に通るだけの道となった道に、あるとき道沿いにぽつんと、たった一体の石仏さまを見つけました。

その道はそれなりに車の往来も多く、道端に車を停めることはむずかしい、そんな道。

いつ通っても必ずきれいなお水がお供えてしてある、大切にお祀りされている石仏さまです。

いつかあの仏さまにご挨拶をさせていただきたい。


通るたびに頭を下げてはそう心で思っておりました。


一瞬で通り過ぎてしまう景色のなかにおられる御仏は、おそらく舟形光背のある、でもお手の多い御仏のようにみえます。
とするとお地蔵さまではない。


そんな石仏さまに昨日ようやくお詣りすることができました。




青面金剛さまでありました。


午後の二時過ぎという、お天道さまが熱く熱く照らすアスファルトの道を、…さすがに走ってまでは行けませんでしたが、一目散にシャカシャカと石仏さまのもとへと向かったおばさんでありました。


No.432

ある時…などと書くと日本昔ばなしのようですが、私の場合、いつのことだったか忘れた、というもの。

そんなある時のこと。

お祭りの装いをした子どもと、その子を連れ歩くお母さんとを見かけ、そのあまりの微笑ましさと、
どこでお祭りをしているのか、神さま仏さまに由来するお祭りであったなら、その神さま・仏さまはどなたなのか、どんなお祭りなのか、気になって人たちの動いていく方へとともに向かいました。


そこでは町内の人たちが、子どもにはお菓子やジュース、大人にはそれなりなジュースを手渡しているような感じで、元となっているお祭り自体は伝わっては来ず。

ただそばに御堂があるのが見えて、もしかしたらこの御堂に何か関係したお祭りなのかもしれないと思って、…とりあえず、通りすがりのおばさんは笑顔でそこを通り過ぎてきて、その日はそれで終わりました。


数年の月日が流れて…。


むくむくと湧き上がったのは、あの御堂は一体どなたをお祀りしていたのか…という疑問。
むくむくと湧き出たらもう気になって止まらない。


ま、問題は、数年の月日が経っていて、あの方向音痴にして記憶能力に難あるおばさんは、そんな土地勘もない場所で御堂に辿り着けるのか…ですよね。


…辿り着くんです。


こうしたときの記憶力は半端なく鋭いのが、ある意味特殊能力。


それは群馬県前橋市の利根川の支流、滝川という川のそばの稲荷新田という町にある薬師堂でありました。

…まぁ、記憶をたどって場所を特定してから行ったので、間違いなくそこに到達できた、というわけで。


No.433

(続き)

そこはお寺さんの角を曲がった公民館の隣にありました。

なるほど。
どうしてかつてここにたどり着いたのか、その謎も解けました。
そのときそのお寺さんをお訪ねしていてお祭りの装いのお子さん等のそのお母さんにお会いしたのでありました。

古い石柱遠門としたお堂でありますが、そのお堂はいかにも新しいものと思われます。
石柱には『當村中』と浮き彫りされています。

お堂の戸は開け放たれ、新しい〝浄財〟と書かれたお賽銭箱が置かれています。


!!


お堂の中には一体何体おられるのかわからないくらいに石仏さまが祀られています。
圧巻というか、圧倒され息を飲みました。
おびただしい、という言葉をここで使うのはあまり適切ではないでしょうが、私の脳裏にはまさにその言葉が浮かびました。

中央には少し大きな白っぽい石の坐像の御仏がおられます。
御仏は少し摩耗されており、よくその全貌はわかりませんが、事前に調べてお薬師さまであることはわかっています。

お薬師さまの前には小さな角のとれた四角い水鉢が置かれ、水鉢の中には黒ずんだ水がほんの少し入っておりました。

お薬師さまの尊像は灰色がかった黒い小さな粒が混ざるものであるのに対し、卵形の光背はやや黄色味がかった石で、明らかに素材が異なります。
後から付けられたものでしょうか。
…とはいえこの光背も決して新しいものではありません。

落ちついてからよく見ると、お薬師さまの右側には(向かって左側)小さな観音さまと、やはり小さな如意輪観音さまが祀られ、その横には石造の屋根の部分だけが祀られています。

また左側には石堂が祀られ、そのお隣にはお地蔵さまが二体。

たくさんお祀りされていますが全てが同じ石佛、お薬師さま、というわけではないようです。、
このお堂自体が新しいのでこの近辺におられた石仏さまを合祀されたのでありましょう。


それにしてもなんてたくさんのお薬師さまでしょう。
お堂の中は雛壇となっており、さらには壁にも棚が設けられそこにも所狭しとばかりにお薬師さまが祀られています。

No.434

(続き)

【由来】

『この薬師は「新田新田野薬師」さまと呼ばれ、願をかけると万病に良いとされ、周辺の村から参拝する信仰がいまも続いています。

願をかけるときは水を持っていき、水鉢に手を入れて手を濡らし具合の悪い石仏の部分をなでまわしたので、俗に「濡れ薬師」ともよばれております。

撫でるときは、まず線香をあげ全佛をなで、次に特に悪い部分をていねいになでました。とりわけ目に効くということで、目はよくなでられ、祭日にはワラツトッコ(?)に赤飯を入れて供えました。


この周辺には以前もみじの巨木がそびえ、前には川が流れ、石の橋がかかっておりました。そして石仏を中心に千数百体もの小石仏が回りに置かれておりましたが、これは願をかけた人が古市の石工などに頼んで造らせたもので十月八日の祭日の前に、二、三十代の大世話人と十七、八歳の小世話人が安置をし直しました。
また二月二十二日の二十二夜講の時に、この薬師の和讃を唱えます。

伝説では、武士がこの石仏を背負ってここまできたが、重くなったのでここにとどまりたいのだと思い安置したということであります。


中心の石仏は印相と像容から阿弥陀如来坐像と考えられますが、風雨と信仰による摩耗が著しいため判然としません。角閃石安山岩製で桃型光背とも一石造りであり、小さい肩張も、線刻の衣紋、連座の両端が上がっているところから南北朝時代のものと考えられます。


平成三年四月前橋市の文化財指定に伴い、前橋市の援助と地域住民三百余人の協賛を仰ぎ、平成四年九月「保存御堂」を建設し、石仏を安置しました。


平成四年九月吉日


稲荷新田町自治会    』



平成四年って…私にはまだまだ最近な気がするのですが、こうしてこの案内板を見るに、もう三十年以上前のこととなっていて、三十年も経つとこんなにも経年劣化するのだなぁと、今さらながら驚くのであります。

読みづらくて何度も推敲したのですが、誤りがあったらごめんなさい。



以下が実際の由来の書かれた案内板です。

No.435

>> 434 お詫びと訂正をさせてください。

前レス、
誤 『「新田新田野薬師」…

正 『「稲荷新田の薬師」…


であります。

本当におっちょこちょいなおばさんて、お恥ずかしい。
いつも大変申し訳ありません。





ついで、と申してはなんですが。
【ワラツトッコ】がどういったものかわかりましたのでここに記しておきます。

ワラツトッコとは藁で作られた容器のことのでありました。
藁納豆が通じれば、まさにその藁の容器であります。


参考に拾い画像をあげておきます。

No.436

私のお盆



〝人の数だけ〇〇はある〟
そんな表現があります。

そう、たとえば御先祖さま。
誰にでも御先祖さまがいて、そして、実はそれは親子であっても、兄弟であっても、その関係性は異なり、けっして同じではないことに気づくのです。

えっ?
そうお思いになられる方もおられましょう。
親子なら同じなのでは?
兄弟でも異なるって?

それは成人して、当人であれ兄弟であれ結婚というかたちで変化が生じてまいります。


結婚というかたちから結婚相手の御先祖さまがそこに加わり、そこで親とも兄弟とも違いが生じ、また、兄弟の中でも祭祀承継者とそうでない者とで、少し違いが生じます。
祭祀承継された方にとってはずっと〝自分の家のお寺さん〟であり、〝自分の家のお墓〟であるのに対し、そうでない立場の方にとっては場合によってはその立ち位置が確実に変わってくることがあります。


今年義母が亡くなったことで、祭祀承継者が義兄に変わり、なんとな〜く居心地の悪さと寂しさを味わうこととなったお盆であります。

見慣れたお仏壇も義兄の家に移り、義実家は確実に〝なにか〟をうしない、お線香をあげに行くのも、夫が育ち、子どもたちが義父母との楽しい思い出を紡いだ家は、ともすれば空気すら澱んだ建物、となってしまいました。


義父のときは義実家で、どこかはなやいだような新盆となったのに対し、今回の義母の新盆はよそよそしい、どこか居心地の悪いものとなってしまっております。

義姉は新盆ではありますが帰郷しては来ないと連絡が来ています。


こうして新しい時代が、築かれていくのでしょうね。

義兄の家で。



祭祀承継者によってはずいぶんとお寺さんとの関わり方なども変わってまいります。
私の母などは自分で買っておいた墓地の区画はありながら、いまだに納骨されず、すでに四年経過しております。

私は御本堂に仮安置させていただいている母の遺骨に手を合わせに行くのです。

お墓はあるし、と安心して死んでいったであろう母。
哀れでなりませんが、これもまた運命なのでありましょう。


母の遺骨にかける言葉もありません。






画像はあくまでもイメージとして選んだ、群馬県太田市の曹源寺さんにおられる私の大好きなお地蔵さまの御像でございます。

No.437

今日は朝六時からのお寺での読経へと参りました。

毎日の朝のお勤めに一般の人が参列するもので、特に特別なものではありません。
ただ普段ですと、この時刻からとなると朝食の支度と重なり、毎日は難しい。
けれど、土曜日曜は行けるかなと、少し前から参加し始めたものであります。
今は夫も息子もお盆休暇中ですので、平日も参加が可能です。

今日はどうしてもこの読経に参列したかったのです。

義父と実父の月命日。
新盆の義母。
今年五回忌だというのにいまだに墓に入れない実母。

…そして終戦記念日。


そんな帰り道に忠霊塔の前を通って、戦没者慰霊式典が始まろうとしており、塔の前に飾られた大きな生花、白いワイシャツと黒いズボンの人たちがそれぞれその準備をされていました。
日の丸と旭日旗がとても印象的で。


ただ私は全くの普段着。
参列するには気が引けます。
遠くから合掌し、深く一礼してその場を離れました。


そして先ほどまでNHKスペシャルを観ておりました。


【1944 絶望の空の下で】


太平洋戦争当時の日記や手記、手紙などを紹介し追体験をする内容であった。

何度も何度もつらくなり、胸がつまります。
でもそのたびに、(これが現実であったのだ。これが戦争なのだ。)
そう思って最後まで見続けました。


そうこれが現実であったのは、私の生まれた昭和という時代なのです。


語り継ぐには私には語彙力がない。
語り継ぐには私には人望がない。


でもたとえ一人の胸にとどめることとなろうとも、戦争反対の思いをさらに大きなものとして、声を上げることはできる。



まだこのNHKスペシャルは続きます。
見逃し配信もされています。


できたら観ていただきたい、思いを込めて。







No.438

【群馬県桐生市の赤城大明神さまのお隣の観音堂】

以前群馬県に多く鎮座される赤城神社、赤城大明神さまをお訪ねして歩いた時期があり、そのうちの一社である桐生市の赤城大明神さまをお参りさせていただいた際、隣接するように建つ御堂があることに気づきました。

扁額はなく、御堂の戸は当然のことながら閉ざされておりましたが、境内には石仏さまや青面金剛さまが並んでお祀りされ、御堂の向かって右側には新しそうな大きな三界万霊塔が建てられています。

(こちらはどのような御仏が祀られておられるのだろう)
知りたい気持ちがむくむくと湧いていたそのとき、お隣にお住まいの方がお車でお帰りになりました。

(あ、これはこちらの仏さまが私にお力をお貸しくださったに違いない)、と勝手に思い込んだおばさん、走ってその方のお家の坂をのぼり、お声をかけさせていただいたのです。

こちらには観音さまがお祀りされていること、毎月十七日に御開帳され、ご近所の方が集まってお線香をあげお茶のみをしていることをお教えくださいました。
「うちで鍵を預かってるんで開けようか?」
とおっしゃってくださったものの、故あって御開帳日が設けられているのであればその日にあらためて参りますとお断りして、なんだかんだとすぐには行けず。

昨日はちょうど十七日。
こちらの御開帳日です。
いざ。



御堂を目指して向かう途中には、お盆も明けたというのに二箇所の駐車場に制服姿の誘導の方が立たれるお寺さん、『宝徳寺』さんがあります。厳密にいうとあと二箇所、計四箇所駐車場があります。

十時半くらいでありましたでしょうか、二つの駐車場はすでにほぼ満車でありました。
御朱印と逆さもみじで有名なお寺さんです。

そこを通りこし、日本遺産の『かかあ天下〜ぐんまの絹物語〜』とやらの構成文化財である『白滝神社さんへの入り口を通り過ぎて。

赤城大明神さまの前へと到着いたしました。

そのお隣の御堂の戸はたしかに開けられており、お座布団が干されて、外では落ち葉を掃いておられるお姿が見えます。

「お掃除中申し訳ありません、今日が御開帳とお聞きしてお詣りにあがりました。お参りさせていただいてよろしいでしょうか」

No.439

(続き)

こちらはいつからお祀りされているのか由来を知る方は少ないようです。
それを伝えるようなものは何一つ残されていないと、今この御堂の管理をされておられる方は話されていました。
お寺さんの境外堂でもなく、もう長いこと地元の方がお祀りし、毎月十七日に御開帳をし拝んでいる観音さまなのだと。

御堂もかつて道路拡張に伴い、その場所を少し移動されたとのことで、御堂を動かす前には境内に大きな桜の木があって、お花見を兼ねての大祭もあったとのことでした。

御堂の移動の際、裏手に石垣を組んで、その際裏手の小山にあった石仏さまを下におろして境内のみぎてに並べて建て直したのだといいます。


お寺さんの管理下にはなくとも、毎月の御開帳を欠かさず、お灯明をあげ、お線香をあげて祀られるこちらの聖観世音菩薩さまは、大変優しく微笑んでおられました。

傷みを補修し保護するために、あるとき地元に縁ある方が観音さまを塗り直しをされたといいます。


こうしてずっと、これからも永きにわたって、地元の方に守られ、厚い信仰を受けて、今後もこの地をお護りくださることでありましょう。



No.440

群馬県桐生市川内町には四箇所赤城神社さんが鎮座されています。

このたび全ての赤城神社さんをまわって参拝させていただきました。

一丁目、二丁目、五丁目に二箇所。

五丁目に二箇所なのは川内という地が西から南を川に囲まれた土地であり、もともとは八か村あった村を合併して一つとなった経緯があり、五丁目といっても川を挟んだ、それぞれの地にお祀りされているものであるからで、その立地を実際回ってみるとなんの不思議もありません。



【東小倉の赤城神社】と呼ばれるのが川内町一丁目の道路に面した長い石段をのぼった高台にあるもの。
この社殿の裏手一帯が『上ノ山遺跡(縄文・弥生期宝蔵地)であるといいます。

御祭神は大穴牟遅神さま。
この地の【崇禅寺】の開基である智明上人が元久二(1205)年に、赤城山頂の赤城神社を分祀した神社であるといいます。

『川内という地は水利に乏しいといい(川に囲まれた地であるのになんだか不思議な気がいたしますが)、干天にあえば田はたちまち亀裂が生じ、枯渇を免れず、農民の憂いの種でありました。
ある干天時に、上人が赤城神さまに降雨を祈ったところ、たちまち慈雨があって五穀豊穣をみたとのことで、よって上人は赤城神を勧請して鎮守としました。
その後、場所を遷座し、さらには近隣の八社を合祀したという経緯があり、今にいたるといいます。

鳥居の扁額が落ち、少し寂しい気がいたしましたが、高台の広い境内は草もほとんど生えておらず、気持ちのよい広い空間でありました。

またこの赤城神社さんの石段の下向かって左に【摩多利神社】さんという小さな御堂がありました。

こちらの御祭神は大己貴命さま。
この神社名は桐生市内唯一、といいます。


No.442

(群馬県桐生市川内町の赤城神社さん・続き)

【西小倉赤城神社】さん

群馬県みどり市大間々町を走る国道122号線を、桐生市方面に曲がり、大間々町に鎮座される神明宮、そしてそのすぐそばにあるながめ公園を過ぎ、高津戸橋という赤い橋を渡って直進します。
のどかなとても良い景色が広がります。
あの里見兄弟の伝説の残る地を通り過ぎ、さらに直進し、小さな川(山田川)にかかる橋を渡ると正面はつきあたりという道となります。
右に行くとコンビニが見え、その駐車場辺りから少し高台に鳥居が見えます。

鳥居へはどう見ても細い、通れてバイクといった道しかありません。
コンビニの駐車場から歩いて向かうしかなさそうです。

買い物をして、心の中で(ごめんなさい、ちょっとだけ)とお詫びをしながら走って鳥居へと向かいました。鳥居のところへの道はまさに徒歩でしかあがれません。

鳥居をくぐると。
思ったよりかなり新しく思われる社殿が目の前にあらわれます。
狛犬さんもおられます。
境内社もいくつか目に入りますが、まずは拝殿へ。

こちらは大穴牟遅神(おおなむちのかみ)さまの他、誉田別命(ほんだわけのみこと)さまなど四柱をお祀りされているとのことです。

拝殿前には、何枚かにわたる川内町にある赤城神社さん三社の案内の書かれたものがケースに入れられ、ご自由にお取りくださいと書かれていました。
ありがたく頂戴し、一緒に置かれていたお書き置きの御朱印も拝受いたしました。

御朱印のお納めは小さなジッパー付きのビニール袋に入れて納めるよう書いてありました。

こちらを大切にお守りになられる方の一生懸命さが伝わってとても嬉しい気持ちになりました。


境内は塵ひとつ無い、どころか草一本生えていないくらいに丁寧に掃除され清められています。

拝殿幣殿、そして本殿のある社殿であります。

境内社は三つ。
明治時代に諏訪神社さんを合祀したといいます。


そして。
その内の一つに戸のない御堂があって…。

不思議な御像がありました。
石造のものですが赤く塗られ、なぜかお手も御御足もなく、お顔もないのです。
大きな御像が一体、同じく赤く塗られた小さな像と中くらいの御像。

これについてはなんの説明もありません。

説明書きもなく、御堂に扁額もありません。

No.443

(続き)

川内町五丁目の二つある赤城神社さんは少し前レスさせていただいた観音堂に隣接する高台に鎮座されています。
二段に分かれた石垣の上に社殿があります。

こちらは所在地が棒谷戸(ぼうがいど)という地名であることから、
【棒谷戸の赤城神社】と称されているようです。



川内町というのはどうやら手前から一丁目となっているようで、渡良瀬川を隔てて川内町となり、渡良瀬川にそそぐ小倉川を隔てて一丁目、二丁目があるようです。
さらなる山田川という川があり、その山田川を跨いだ形で三丁目があって。
その隣接した町が四丁目。
それから奥となる、山田川に沿った町が五丁目、となるようです。

もともとは八つの村であったようで、総称して『仁田山八郷』と呼ばれていたようでありました。
明治維新により、名主制度を廃止して村長を置くこととなり、村長は内務省が任命するものであったといいます。
内務省は八つの村に八人の村長を置くのも煩雑だと考え、合併して一つの村とすることを計画したといい、明治二十一年に八つの村が合併し、『川内村』となったという経緯があったようです。
さらには昭和の世にもまた、政府による合併促進の計画が打ち出され、その際には高津戸地区で隣接する大間々町に合併する案と、桐生市に合併する案がまとまらず、村を割って高津戸の一部は隣接する大間々町に、残りの高津戸地区は桐生市へと合併することとなったようで。

私などはこのたびの川内巡りをするまで高津戸はみどり市であると思いこんでいたくらいでありました。

なるほど、歴史的に考えれば、高津戸城址や要害山、里見家悲劇の滅亡の地も一つ村で置いておきたいと思う考えもあって当然で、しかしながら実際の生活基盤がほとんど大間々町である住民からは反対意見も出て当たり前なところもあったのでありましょう。

その結果高津戸という地名自体はみどり市の大間々町に所属するものとなり、桐生市となった旧高津戸地域は川内町四丁目、となっているようです。

まぁ、つい先日知ったばかりの私はどこからどこまでが桐生市でどこからがみどり市なのかいまだにわかってはいませんが。



閑話休題、…といきたいところですが、字数の関係から川内五丁目の棒谷戸の赤城神社さんにお話が戻るのは次のレスからとなります。

No.444

(続き)

『棒谷戸(ぼうがいど)』、変わった地名です。
『谷戸』はネットで調べると「やと」という読み方がされています。

谷間、湿地のこと。
といった表現があり、
丘陵地が侵食されて形成された谷状の地形とWikipediaでは表現しています。


この川内の地に【千網谷戸遺跡(ちあみがいど遺跡】というものがあります。
厳密に言えば、ありました、というのが正しいのかもしれません。

桐生市のHPによると

『千綱谷戸遺跡は川内町三丁目地内(大字須永字千網谷戸)に所在する。
渡良瀬川と山田川の合流点にあたる河岸段丘上で標高は140メートルほどの低地である。

かつての遺跡地は桑畑であったが、現在ではその大半が宅地化されている。』


…とあるので、この遺跡跡は住宅が建っているのでありましょう。

遺跡には全く興味がない私。
この遺跡がどういったものなのかさっぱりわかってはいません。
たしかちらっと社会科の授業で聞いたような、…そうそう耳飾りが出土されたとかだった気がいたします。

【大型漏斗状透彫付土製耳飾(おおがたろうとじょうすかしぼりつきどせいみみかざり)】というもの、らしく、ちょっとだけ調べてみたところ、な、なんと国指定の重要文化財になっているようです。

惜しげもなく潰して宅地にしてしまうところが太っ腹なのか、現実的な考え方、というものなのか。

そして。
桐生市の有名な和菓子屋さんにこの遺跡名の入ったお菓子があったよう記憶しています。
ちなみにこのお菓子、見たことはありますが、食べたことはありません。


『谷戸』という言葉からまた脱線しておりましたが、この川内町五丁目の赤城大明神が鎮座する辺りも、この〝谷戸〟に当たるのでありましょう。


閑話休題。



棒谷戸赤城神社さんは、国道122号線を桐生方面に向かい、…ここまでは小倉の赤城神社さんへと向かう道と同じ。
学校の見える交差点まで来たら左折して、ずっとずっと直進します。

ずっとずっと。

ずぅーっと直進した左側に赤い鳥居が見えたら、そこが棒谷戸赤城神社さんです。


No.445

(続き)

扁額には『正一位赤城大明神』とあります。

しかしながら、扁額にある通り、赤城大明神さまがお祀りされているかと思いきや御祭神は
大穴牟遅神さま、大山津見神さま、大雷神さまとのことでありました。

境内社には琴平社、八坂社、蠶影社。
明治時代に鳴神神社が合祀されたといいます。

この地にあった『仁田山城』の虎口
としての砦であったのだろうと推測されているといいます。


川内町にある赤城神社さんはみな、その由来は不明であるとされます。

しかしながら、この棒谷戸神社さん、実は覆屋で見えない本殿が、実は名工と名高い『岸亦八』(18〜19世紀の彫刻師)の彫刻なのだといいます。

今年、桐生市の史談会がこの御本殿を拝観したのだとか。


うーん、…入ろうかしら。


でも今から入会したところで、この棒谷戸赤城神社さんの御本殿を拝観することができるわけではなし。



あれ?また新たな欲、新たな煩悩が一つ。

No.446

(続き)

同じ桐生市川内町五丁目ながら、川を隔てた『名久木(なぐき)』と呼ばれる土地にもう一つの赤城神社さんがあります。
こちらは【名久木の赤城神社】と呼ばれます。

かの有名な宝徳寺さんまで行かないところに斜めに下る道があり、そこをくだると、のどかな野原が広がり、そこを道なりに曲がると高台に一見すると民家のように見えるお寺さん、『高源寺』さんが見えます。
そこをさらに進むとまもなく二叉路となった道があり、そこを右側に曲がります。

登り坂となった道を道なりに進むと、みぎてに石段が見えてきます。
その石段は何段か昇ると直角に曲がり、石碑として祀られた神さまがあり、立派な石灯籠があり、昇りきると雑草もほとんどなくよく手入れされた境内に社殿が鎮座されています。
小さいながら大変立派な彫刻の施されたお宮であります。

かつて名久木地区からの出兵はみな、この赤城神社から出征していったといいます。

明治四十一(1908)年に出された『一村一社令』により一旦は白滝神社さんという神社さんに合祀されますが、のちに住民の強い熱意から現在の地に再び遷座されたという経緯があるようです。

この現在の社殿は本来里宮で別に奥宮があったと伝わるようですが現存はしていないといいます。


こちら別名『目こぼし地の赤城神社』さんと呼ばれています。
目こぼし地と呼ばれる土地は、上役人(かみやくにん)といえども許可なく立ち入ることが許されない格式のある場所、なのだといいます。

そんな神社さんに許可なく立ち入るというだけでビビるおばさん、石段を見上げて立ち止まってしまっておりました。
といいますのも実はさらにもっとビビる理由がこの辺りには伝えられているのです。


…まぁ、結局石段をのぼりお詣りさせていだだくのですが。



その言い伝えは…。

No.447

群馬県桐生市川内町に伝わる【目こぼし地の五輪塔】の民話。


『江戸時代も中頃のこと、川内村名久木で名主のT某氏が突然に発狂し、家宝の 太刀を振り回しながら、この赤城神社に乱入。

境内の五輪塔を目にするやハッ シと一太刀浴びせ、返す刀で割腹して果てるという事件が持ち上がった。
ふだん は、のどかな農村だけに、この「名主様発狂・割腹」の事件は村内をゆるがすほ どの大事件であった。


この気の毒な最後を遂げた名主は、全くの善人、好人物で、村人から大変慕われていた立派な名主だったといい、それがふとしたことから思いもよらない不幸を招き、身の破滅までも生んでしまったのである。


そのふとした事とは。

或る朝のこと。一人の修験者がT家の立派な玄関先に立ち、読経ののち、
「村から村へと巡る旅の修験者です。なにがしかのご喜捨を」と申し立てたという。

庭の掃除をしていた仲間(ちゅうげん)がホウキを手にしたまま対応に出て見ると、法衣はホコリにまみれ、おまけにあちこちが裂けて、乞食同然の修験者で、身体からは異臭までも漂わせて立っていた。

その姿を見るなり、仲間は体よく喜捨を断わった。
仲間には、修験者の異様な風体が気味悪く思え、さらにはとっさに「玄関が汚れる」と思っての応対だったのかも知れない。

修験者は断わられるや仲間をハッタとにらみすえ、
「このような立派な構えがありながら、わずかの喜捨もかなわぬとは。みておれよ。
この家に必ず災いが 降りかろうぞ」と、捨て台詞を吐きつけ、きびすを返して足音荒く門を出て行ったという。


あまりの捨て台詞にいやな予感がし、慌ててその場にホウキを放り出しすぐさま修験者のあとを追いかけた。
ところが不思議にも修験者の姿は、すでに門前には見られなかったのだという。


修験者の言葉を裏付けるかのように、幸せな日々を送っていたT家に、相次いで忌まわしい出来事がもちあがるのであった。



No.448

(民話『目こぼし地の五輪塔』の続き)

そんな出来事があってまもなくのこと。

辺りを大変な雷雨が襲い、名主の部屋の近くの大木に雷が落ち、その際名主の片目がさけてしまうという事故が起き、さらにはその事故から間もなく、名主の奥方が野の花摘みに出かけ、崖から足を踏み外し、帰らぬ人となる事故が続いて起きたという。

「修験者の捨て台詞どうりになってしまった」
「名主様の家に呪いがかかってしまった。」

そんな噂が村人の間でささやかれ始めたころ、名主自身が発狂してしまう。

ある日突然に名主が奇妙な叫び声を上げ、逃げ惑う家人目がけて太刀を振り回し暴れまわった挙句、この名久木の赤城神社へ境内へと乱入したのだという。



たった一度の喜捨を断わったがために、このような恐ろしい事件が生じようと は、断わった本人の仲間も、その話しを受けた名主自身も、夢にも思わなかった に違いない。

次々と起こる不吉な事故に、心身ともに疲れ果てての発狂だったのだろう。』



『桐生の民話』より。



この名主さんの非業の最期を物語る五輪塔はその後『目こぼし地の五輪塔』と呼ばれたといいます。

しかしながら。
この五輪塔はいつのまにか紛失してしまったといい、今はどこにあるのかわからないといいます。


 
…ええ、この五輪塔が現存するようであれば、この地には決して訪れはしない私でございます。

目こぼし地の神社の境内に、許可なく立ち入ることすらおっかなびっくりのおばさんですからね。


No.449

そして。

この名久木という地に、【十王さまの石仏】があると聞き、この十王さまの石仏を拝したいと思い願って、はや何年。

ようやくその念願がかないました。

詳しい場所調べたところ、…!!


個人のお宅の墓地にあると?!


ええぇ、何故、なにゆえに個人宅の墓地にある石像を結構大々的に紹介しちゃっているんでしょう。

まぁ、その辺に関してはそのお宅のご許可を得てのことなのでしょうが、でもその墓地の土地に立ち入ったら、私有地、ですよね。

お寺さんの墓地内の墓所ではありません。
個人の所有地です。


これは…。


しかしながら。
せっかく名久木まで来ているというのに。

とりあえずそばまで行ってみようではないか。

目印は集会所。

ああ、ありました。

集会所のうらてに広い野原のような土地が広がり、白い真綿のような槿の花が咲いています。

…ああ、なんと良いところへ♡

て、私が目的として来たのは〝墓地〟なんですけどね。


墓地もたしかに集会所の隣にありました。

うーん。
他人(ひと)様の墓地…。

駐車場を出て道を歩くと、少し高台となった墓地があります。

うーん。

あ、道路からでも見える!
いや、拝観できる!

大きさは思っていたものよりだいぶ小ぶりでありました。
川内町の有志の方が作られた資料によると高さは百四十センチほど、だと書かれています。

舟形光背をお背中に、右手に錫杖、左手は…宝珠を持っておられるのか、それとも掌を上に向けて膝の上に置かれているのか、風化と光の加減で左のお手元はよくはわかりませんでした。
だいぶふっくらとされたお地蔵さまの坐像がおられ、その蓮座の下の台座にぐるっと十王さまが彫られています。

珍しい。


…はて?
私、どこかでこのような十王像を見た記憶があるような、…無いような。

桐生市ではこの一体のみ、東毛地区では大変珍しいものとされています。

東毛では珍しい?
では…西毛とか?
群馬県内か、はたまた長野県か。
どこかで見た記憶がうっすらと。


まぁ、きっと悩んだところで思い出すことはできないでしょう。


ちなみにこの十王さまの石仏は、風邪を引いた人が真綿を供えて、治癒を祈願するとご利益があると言われているといいます。

…うーん、風邪をひいて他人さまの墓地まで?

…悪化しやしないだろうか?








No.450

…帯状疱疹発症。

これ、子どもにはうつるんだよな。

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