神社仏閣珍道中・改

レス500 HIT数 21215 あ+ あ-


2024/09/21 05:50(更新日時)


【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。

自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。

初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。

相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。


No.3964800 (スレ作成日時)

新しいレスの受付は終了しました

投稿制限
スレ作成ユーザーのみ投稿可
投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

No.351

【錫杖経】

九条錫杖経は私の好きなお経です。
と申しましても、あと自分でお唱えできるのは『般若心経』と、『十句観音経』。

何を得意そうに、と自分でも思うのですが。

初めてこのお経を聞いたときは、独特の節まわしでのもの。
この節まわしでお唱えしろ、と言われてもそれはちょっとできかねますが…。

このお経にある錫杖というのは、文字通りの、あの、お地蔵さまの像がお手に持たれるもの。
あるいは弘法大師さまの行脚像がお手になさっているもの、…でもよいかと思います。

密教法具の一つで、柄の短いハンディタイプのものと、柄の長いつえになっているものがあります。

私が欲しがっているものの一つ、でもあります。

錫杖経をお唱えするときはこれを上下左右にゆらし、しゃんしゃん、じゃらじゃら鳴らして使います。

お釈迦さまの時代に既にあったもの、なのだそうで、錫杖の音によって、人々の注意を呼び起こし、行く手にひそむ獣、へび、毒虫などから身を守るために使われました。

この錫杖、煩悩を払うとも言われるまさに宝具。
…煩悩おばさんが欲しがるわけで。


錫杖経にもまた、魔障を祓い、煩悩を払い、衆生の心をふり起こす功徳があるとされます。

このお経に出会えたことを御仏のお導きと思わずにはいられないおばさんでありました。


ところで。

今回、タイトルには『錫杖経』、そして『九条錫杖経』という表記もしております。
書き忘れ?
…ではないのです。

この錫杖経、一条から九条まであって、すべてをお唱えしないこともあり、ゆえに、九条をお唱えしないときのことをふまえ、こう表現を変えてみた、というわけなのでありました。

…そう、九条錫杖経が書かれている経本を買い求めたというのに、〝(後略)〟と書かれていて、全文が掲載されていなかった、というおばさんの悲劇。
…ちゃんと表題としては『九条錫杖経』とあるのですよ?
調べてみて分かったのですが、九条目が〝略〟されていたのです、…詐欺じゃ?
おばさんが憤るのも無理はないでしょう?



No.352

(続き)

九条から成る【九条錫杖経】。


九条錫杖経は全体的に繰り返しの言葉があり、聴いていてもお唱えしていても心地よいリズムです。
主に四文字。

錫杖経第一条は『平等施會条(びょうどうせえじょう)』
と称されるといいます。

お経や御真言をそのまま載せるのは畏れ多いと考える小心者のおばさんですので、

一条の部分を意訳すると

『手に錫杖をとり、皆と一緒に願おう
たくさんの人々を集める場をつくり、仏の説く真実の教えの道を示し、仏(ブッダ)、法(教え)、僧(人々)に供養しよう。』
と、表現された方がおられます。

『錫杖を手に執るものは常に、十界の凡夫と聖者に法や財を施し、悟りへの道を示して、衆生を導き、この功徳を以て、仏法僧の三宝に供養するよう心がけねばならない』


…同じものを訳したものなんですけど、ね。

言葉ってすごいですよね。
まるで受ける感じが変わってきますものね。
まあ、お経とはいえ外国語訳、ですからね。


この一条に
『大施會(だいせえ)』という言葉が出てまいります。

多くの人を集め、いろいろな施しをすることをいいます。
どんな施しがあるかというと、

『財施(お金や物を与える)』
『法施(仏様の教えを広める)』
『無畏施(=むいせ、恐れをなくすように他者とかかわる)』
という三つの布施行があります。

お金や物を多く持つものは、それを施し、
ブッダの教えを知るものは、それを人に伝えれば良い。

それも持たぬものは、ただ笑顔でそこにいるだけでいい。


『無畏施』の示す、相手を否定せず、攻撃せず、すべてを受け入れ認める在り方は、
相手に自分はこのままで良いという安心感をあたえる重要な布施行。

この間、日めくりに書かれていたとここに書いた【和顔施(わがんせ)】もまた然り。
これなどは性別、年齢、国籍を超えてどんな人にもできるお布施。
お金も才能も知識もいらない、しかも功徳いっぱいの施しであります。

しかし、これは自らの心が穏やかでなければできぬこと。

お金や物を差し上げるのは、心がこもらずともできること。

相手に安心感を与える…ですからね。
これはなかなか容易いことではない。


錫杖を手に執るというのは、こうした施しのできる人物、ということで、安易に愚かな者が手にしてはいけないのだなぁ。

No.353

(続き)

ここでいったん九条錫杖経の一条から九条まで、その副題を列挙させていただきます。
この副題、経本にはないもので、調べていてそれが書かれているものを見つけた、というものなので、私の覚え書きと思っていただいて間違いありません。

せっかくお読みくださっているのに、申し訳ありません。


第一条『平等施會条(びょうどうせえじょう)』

第二条『信発願条(しんほつがんじょう)』

第三条『六道智識条(りくどうちしきじょう)』

第四条『三諦修習条(さんていしゅうじゅうじょう)』

第五条『六道化生條(ろくどうけしょうじょう)』

第六条『捨悪持善条(しゃあくじぜんじょう)』

第七条『邪類遠離条(じゃるいおんりじょう)』

第八条 三道消滅条(さんどうしょうめつじょう)』

第九条『回向発願条(えこうほつがんじょう)』


そして。
私の購入した経本で略されていたのがこの第九条であり、だから、この後をネットで調べて手書きをしたものを経本に挟んでそれを含めてお唱えしているのですが…。

九条錫杖経で調べて、自分の経本にない部分がすべて九条だとばかり思っておりましたところ、実は九条があって、さらに続いて
流通文(るづうぶん)というものがあって締めくくられていたことがわかったのです。

そう言われれば…と思う、区切り目がたしかにあるにはあります。

なるほど…。


ただこう羅列されてもなんのことかさっぱりわかりませんよね、本当に申し訳ありません。


実は私とてもこう羅列してもどこからどこまでが何条になっているか、まだ把握しきっていないくらいで。

経本は改行されたりしてはいるのですが、どうもそこで必ず次の条に入っているかというと、区切らず入ってしまうところもあり…。

ましてお唱えすればずっとつなげてのお唱えですし。


繰り返しの部分が大変多いお経です。
その繰り返される内容で区切られている条もあります。

今まで意味もわからないまま、やれ、煩悩が除かれるであるとか、その場の清浄化がなされるであるとか、はたまた魔除けともなるとかということで、ありがたくお唱えさせていただいておりました。


おばさんらしい、でしょう?

No.355

【九条錫杖経 現代語訳】

第二条『信発願条』より


清浄心をもって三宝に供養し、
清浄心をおこして三宝に供養し、
清浄心を願って三宝に供養したてまつる。

願わくば衆生とともに、
天界、人界における導師となり、
虚空のように広い願いを叶え、
苦しむ衆生を救うべし。
法があらわれている、この世のあらゆるところで三宝を供養し、
諸々の仏様に出会って、速やかに悟りを得ることができますように。


まさに願わくば衆生とともに、
眞諦 をおさめ習い、
それによってすべての生きとし生けるものの苦しみを除いて安らぎを与え、
俗諦 をおさめ習い、それによってすべての衆生の苦しみを除いて安らぎを与え、をおさめ習い、
それによってすべての衆生の苦しみを除いて安らぎを与え、
佛法と法寶と僧寶という三つの宝をもって、うやまい供養す。


まさに願わくば衆生とともに、
檀波羅蜜(布施)をもって 一切衆生を大慈大悲し、
尸羅波羅蜜(持戒)をもって 一切衆生を大慈大悲し、
羼堤波羅蜜(忍辱)をもって 一切衆生を大慈大悲し、
眦梨耶波羅蜜(精進)をもって 一切衆生を大慈大悲し、
禪那波羅蜜(禅定)をもって 一切衆生を大慈大悲し、
般若波羅蜜(智慧)をもって 一切衆生を大慈大悲すべし。


願わくば衆生とともに、
ありとあらゆるの無数の人々が、錫杖の音を聞くことで、
怠けているものは精進し、戒律を破るものは戒を守り、
信じないものは信じ、物惜しみするものは施しをし、
怒りに心定まらぬものは慈悲の心を持ち、
愚痴を言いおろかなものは仏の教えを理解し、
おごり高ぶるものはつつしみ敬い、勝手でいいかげんなものは心をおさめ、
すべての修行をし、速やかにさとりの境地に達すべし。


衆生とともに願う
あらゆる所のすべての邪魔、外道、魍魎、鬼神、毒獣、毒龍、毒蟲のたぐいが
錫杖のこえを聞くことで、毒害をとりおさめ、さとりを求める心を揺り起こし、
すべての修行をして、速やかにさとりの境地に達しますように。

No.356

(続き・錫杖経現代語訳・第八条より)


衆生とともに願う。

あらゆる所のすべての地獄、餓鬼、畜生と、
八難といわれる飢え、渇き、寒さ、暑さ、水、火、刀、兵の苦を受ける生きとしいけるものたちが、

錫杖のこえを聞くことで、
惑いと癡(疑いというおろかさ)の、二つのさとりをさまたげるものから自由になり、
百八の煩悩から解き放たれますように。
そして、さとりを得るべく修行をはじめ、もれなくさまざまな修行をし、速やかにさとりの境地に達しますように。


過去の仏たちは、錫杖を持つことですでに成仏し、
現在の仏たちは、錫杖を持つことで現に成仏し、
未来の仏たちは、錫杖を持つことでまさに成仏いたします。

ゆえに、私は敬礼をして、錫杖を持って三宝に供養いたします。
ゆえに私は敬礼をして、錫杖を持って三宝に供養いたします。

つつしみ敬って、仏法僧にご供養し帰依いたします。
顕教と密教の聖なる教えに供養いたします。
哀れに思い受け入れてください。この教えを護持する弟子たちを。



…現代語訳ですが、【大慈大悲】という言葉が何度も何度も出てきます。
現代語とは言えませんが、この『九条錫杖経』を聴くと、たしかに、ここは訳さずとも、字から何かを感じとろう、と思ったりいたします。

独特の節回しで読まれる時など、この『大慈大悲』の言葉が実に切なくて優しいのです。

【慈】 は楽を与えること、
【悲】 は苦しみを抜くこととなりるといいます。
これを別の言葉で【抜苦与楽(ばっくよらく)】と表現したりすると。

ああ、抜苦与楽。
…優しい響きを持つはずです。

御仏が生きとし生けるもの全てに対して苦しみを抜き、楽を与えること、だといいます。

それは私たち人間だけではありません。
それこそ動物や花や木、まさに生きとし生けるもの、であります。

このお経を聴いたとき、なんとも優しくて癒された心待ちになるのは、そういった深い深い慈悲に満ちあふれた内容だから、なんだ。

なるほど。

No.357

「葬儀って結構大変なんですよ。時間が決まってるでしょ?」


なるほど。

これはあるお寺のお坊さまとの会話から。
私がよく行かせていただくとあるお寺さんだ。
檀家さんがこちらのお寺さんのご葬儀を褒めていらしたことをお伝えしてのことだった。

「宗派によってはどうしてもこのお経は読むように言われていたりだとか、けっこう取り決めが多い中、出来うる限りご遺族に添いたいと思うとなかなか…」

…そうなんです。
こちらのお寺さん、ご葬儀のとき、亡くなられた方の今までの生い立ちから晩年までのエピソードを織り込んでお話してくださるのだというのです。
しかも、何を見るでなく、澱みなく話してくださることに感動するとその檀家さんはおっしゃっていた。

「亡くなった報告を受けてからの短い時間で遺族から話を聞いて、亡くなられた方のエピソードを織り込んだ文章を作り、暗記するのだから大変だよ。これは本当に感動するし感謝してる」

ちなみにこの方は、奥さまの突然の死去、それも車の助手席で意識をなくされ、病院に搬送されたもののそのまま帰らぬ人となられたという急すぎる別れを、寄り添うように執り行ってくださったと、大変感謝しておられた。


「最初で最後の一回きりのことですから、ね」
とお坊さま。


こちらのお寺さんは実は檀家さんからでなくとも評判が良い。
そうしたことがきっかけで私はこちらのお寺さんに初めての参拝をしたくらいだ。


なにしろ人当たりが良い。
そしていつ行っても必ずと言えるくらい、ご住職か副住職がおられる。

いつ行っても境内に草一つ生えておらず、色とりどりの花々が季節を教えてくれているのだ。


もちろん、どちらのお寺さんにしてもご葬儀となるといろいろ大変であろう。
先だっての義母の葬儀も感動したものであった。


ただ歳を重ねると、いろいろな宗教、いろいろな宗派、いろいろなお寺さんの葬儀に参列する。

この私に話をしてくださった方は八十歳だとおっしゃっていた。

その方がさまざまなお寺さんの葬儀を見、そして身内のあちこちのお寺さんとの縁を持たれて、語られた感想であったのだから、これは本当に心からなもの。
中には悪口をおっしゃっていたお寺さんもある。



詳細までは語りはしなかったものの、そうした話があったことを伝えさせていただいた。

お坊さんとて人間。
褒められれば嬉しい

No.358

本日は、弘法大師空海さまのお誕生日とされる日。

真言宗のお寺さんにお詣りに行ってまいりました。
御本堂内からは般若心経をお唱えになられている声が聞こえてきます。

ただし、どなたかのご法事、法要の読経であります。

御本尊さまの薬師如来さまをお参りしたのち、弘法大師さまの行脚されるお姿の像に手を合わせてまいりました。


色とりどりの、いろいろな種類の紫陽花の花が咲いておりました。
その中に瑠璃色の紫陽花があり、これは御本尊さまであるお薬師さまを意識なされて植えられたものなのか…。

瑠璃色の紫陽花。
…良いなぁ。

しかしながら、わが家の庭はねずみの額。
これ以上紫陽花を増やすのは…やめておこう。

No.359

私どもの神社仏閣巡りも、最初はやみくもにあちらのお寺さん、こちらの神社さんといろいろまわらせていただいておりましたが、私は心惹かれた神社仏閣を何度も通うのが好きであることがわかってきました。
また、いついつこういった神事があるであるとか、いついつにこういった法要が営まれるとか、そういったタイミングで参拝を重ねていきたいとか。

一方夫は今もあちこち未だ行ったことのないところを参拝させていただきたい。

すれ違いも生じてきてはおります。

まぁ、私とて新たなるところに行きたくないわけではないですし、夫は夫でイベントの時に参拝してみたいとは思うようで、決裂するようなことはありませんが、一人で出かけることもでてきた、そんな感じで。


そうして。
最近御朱印の話も出てこなくなっていたかと思いますが、御朱印も今もお授けいただいております。

ただ基本的には限定御朱印とかにこだわると、本来私がたてた神さま、仏さまのもとをお訪ねすることがおろそかになりそうなので、それは極力さけていこうと。
これは当初から思っていたことでありました。
まぁ、お金もかかることですし、ね。

…でもねぇ。
私、ほら煩悩のかたまりおばさんじゃないですか。

あら?
今日は令和六年六月六日じゃない?
とか。

おお、二月二十九日だぞ、とか。

そんなきっかけで御朱印をお授けいただきに参拝に行くこともあるんですよ。

まぁ、猫好きだけれど、猫の日御朱印には行かないとか、誕生日御朱印はいらないとか、セーブはしているようですが?笑。


そう、そして。

もう一つどうしても胸がときめいてしまい、お人形のおみくじ♡
『ゆるみくじ』という言葉があるようで。
土鈴のような作りで作られた、うさぎであるとか、白狐であるとか、牛もあったり八咫烏であったりと、その神社さんやお寺さんに由来したものであることがほとんどなのですが、なかにはあの、すみっコぐらしであったり、コリラックマであったりと有名どころのキャラクターなものもあるのです。

おみくじをひいている感覚はほぼなくて、どのお顔の子が良いか、といった選び方をしておりますし、まぁ、ありていに言えば、…物欲。

えっ?
それはいいの?


…よくはないとは思うのですがね。
まぁ、あくまでもおみくじですし。

そんな珍道中はあいも変わらず続いているのです。

No.360

前々スレで申し上げましたが、本日六月十五日は弘法大師空海さまの御誕生日ですが、真言宗第六祖・不空三蔵のご命日でもあるのだといいます。

真言宗の僧侶が日々読誦しているという【理趣経】というお経はこの不空三蔵の漢訳なのだといいます。
不空三蔵なくして今の真言宗はないというくらいの人物であるという僧がいるくらいです。

お寺さんに縁を持たず(神社さんも…ですが)生きてきたような人物です、この不空三蔵さんという方のお名前くらいは拝したことはございましたが、まさにそのくらいでしかありません。
理趣経というお経に至っては、そういうお経があることをかろうじて知っている程度。

まあ、私、真言宗の信者、どころか仏教徒ですらなく、お経のありがたさをようやく知り始めたくらいです。
有名な観音経すら読めないような人物です。

理趣経…。

どんなお経であるのでしょう。

真言宗のお寺さんでは、ご葬儀の際にお唱えになるともいいます。

いつか、このお経に出会える時があるやもしれません。
(あるいはもうすでに聴いていたりして)





No.362

本日は地元の方々の厚い信仰心で今日まで大切に守られ続けている、地図にもないような御堂を二つ、お参りしてまいりました。

群馬県みどり市東町の【沢入(そうり)薬師如来堂】さんと【三澤不動堂】さんであります。


薬師如来堂は沢入駅から左(北)へ百メートルほど行き、みぎてに見えてくる石段をのぼった高台にお祀りされていました。
石段の脇には、まるで小さな妖精たちが群れをなして光の中でクスクスと笑っているかのように、光りながら風に揺れる〝ユキノシタ〟が咲いておりました。

なんと可愛らしい♡

思わず足を止めてみとれてしまいました。
ユキノシタの花の群れはちょうど石段から途切れ、境内地に入るまで続いていました。

石段を登りきると、みぎてにはお地蔵さま、ひだりてには聖観世音菩薩さまの石造りのお像が立っておられました。
そのお美しいお顔立ちときたら、ありません。
時代等が刻されたものは見当たりませんでしたが、故意に傷つけられた跡等の一切ない美しい石像でありました。
優しいやわらかなお顔をなされています。

と、いけない、いけない、まずは御堂のご本尊さまへお詣りしなくては。

覗いてみるだけでは仄暗くてよく中の様子すらわからないので、スマホをガラスに押し当てて、カメラに切り替えて拝見させていただきます。

おおっ♡

木造の坐像です。
せいの高さは五十〜六十センチといったところでしょうか。

お顔の輪郭がぼやけてしまうくらいに経年劣化をなされてはおりましたが、衣の流れるさま等もしっかりと残った見事なお像です。
体幹に数珠まわしに使ったものなのか、直径にして五センチ弱くらいの玉のお数珠が斜め掛けにかけられていました。
袈裟懸けほどではありません。
〝レイ〟がズレているくらいの、ぽんとかけられた感じです。

向かって左隣にはお地蔵さまの立像が二体、お祀りされています。
こちらはどうやら新しそうな。


案内板もあります。

見るとご本尊さまについて何かいわれがありそうな…。




No.363

(続き)

沢入(そうり)薬師如来堂を知ったのは全くの偶然で。

紫陽花寺で名をあげようと努力されている同じくみどり市の『松源寺』さんの帰りに、…かなり離れてはいるのですが、第三セクター鉄道『わたらせ渓谷鉄道』の『沢入駅』が紫陽花の隠れた名所だというのを聞き、それならば良い機会だと沢入駅へと向かったのです。

沢入駅は、…心細くなるくらい遠かったです。
同じみどり市だから…と思ったのが甘かった。
考えてみれば平成の合併で一つになったみどり市、広いはずです。
そもそも私はこのわたらせ渓谷鉄道にたった二度しか乗ったことがなく、しかも一駅、子どもたちの体験のために乗ったくらいで、本格的にこちらの方まで電車で来たことなどなかったので。

調べてみたところによると、何やら長い草木トンネルというものを抜けて、鉄橋を渡るといった風情ある駅のようです。
駅の待合室やプラットホームは登録有形文化財として登録され、ドラマやCMの撮影にも使われるのだとか
(わたらせ渓谷鉄道HPより)

その小さな集落の駅構内に二千二百株の紫陽花が植えられているのだとか♡

行けども行けども駅への案内は出てこず。
道路に沿うように走っていた線路はまるで見えなくなってきました。

…まぁ、間違えようはないのです。
ここ国道122号線はこの辺りのメイン道路。ここ以外はないのですから。

テレビで紹介される自動販売機のみが置かれたお店を通り過ぎ、
うさぎとかめの曲が流れるメロディーラインを抜け。

その名も草木ダムを抜けて、富弘美術館を横目に見て。

さらにここを車で進むのはもはや足尾へ行くか、はたまた日光へと行こうかという時のみです。

…どこなんだろう。
どこまで行くとあるのだろう。

息子が
「その駅って沢入って書く?」
と声をあげました。

ええ。この日の運転手は息子でありました。
結構なカーブの続くこの国道122号線は、なんだかんだ事故も多く、なによりそのカーブの道が苦手な私はまぁ、ここまで運転したことは数えるくらいしかなくて。
成人した子どもたちて私に運転させるような命知らずはおりません。
なんなら私の車で出かけようと、運転をさせないのですから。

そう、吾知る、です。
そして子らも知る 笑。


そうそう、息子に返事をせねば!

「そう!」

No.364

(続き)

生まれて初めての沢入駅。
さあ、紫陽花は?
…いくつかの株は美しい花を抱いておりましたが、全体の一割にも満たないくらい。

ただ紫陽花の木がたくさんある、ということはみとめられました。

う、うーん。
今年紫陽花の花の時が早くて、そろそろ咲いているのでは?と来てみたのでしたが…なにぶんにもこちらで紫陽花祭りを催すのは七月とのこと。
やはりこちらではそのくらいにならないと咲かないのだなぁ。

駅周辺の案内板があります。

行ってみたいと思いつつ、この眩暈を持病としては危ないところにある『寝釈迦』の像が案内に載せられています。
ここから二十キロ、とあります。
(ここからは行かんわ〜)


そこに。
『沢入薬師如来堂』と書いてあるではないですか!
ありがたいことにここ、沢入駅からわずか百メートルの距離だとか。

ああ、このお導きで今日こちらへ来たのだなぁ。

息子に
「どうしてもここに行きたいので行ってきます。ここで待っていて!」



…走る!



  (ユキノシタの花)

No.365

(続き)

沢入の向沢入薬師堂の木造薬師如来坐像は、桧(ヒノキ)材の寄木造りで、黒漆と金箔を貼って仕上げたものだといいます。

総高(蓮台含):46.5センチメートル
総高(像):21.0センチメートル
像厚:15.8センチメートル

…この目測音痴の私にしてはかなり近い値ではないですか?
でも、お身体に掛けられた数珠の珠の大きさはちょっと大きく推察している気がしております。
たまたま、なだけなのを物語っております 笑。



この尊像の案内板は大きな大きな石を切り出し、薄く切った石板に彫られています。
これを見るだけでも、この尊像を末永く後世に残そうとされた地元の方々の強い思いが感じ取れます。

その題字は『沢入薬師如来堂佛像調査』

そして続いて書かれた文言は

『干(←? この字の読み方もここに記されてある意味もよくわからないのですが…、以下わかりやすいようにもう一度干の字を書いておきます)

干宝暦九己卯年 釈迦トアレドモ薬師如来…』

…この石板の刻字をみて、
(なんだろう釈迦トアレドモ薬師如来って)
と、ドキドキワクワクしたおばさんがここにおります。

『トアレドモ』って今まだ知らなかったお薬師さまの形態とかであろうか?
『トアレドモ薬師如来』さま?

そんなワクワクドキドキをなんとか鎮めて、まずはお詣りをいたしました。
『トアレドモ』が何を示すものか、この尊像を拝しただけではわかりませんでした。

そもそも『トアレドモ薬師如来』の前に〝釈迦〟を冠しております。
お薬師さまの尊像の横に二体の御仏像が祀られてはいますが、お釈迦さまの御像には見えません。
脇侍、というわけでもないようですが、お薬師さまより下座にお釈迦さまの尊像をお祀りするとは考えにくい。
お薬師さまよりも小さなお釈迦さまの尊像を合祀することは無いことははないでしようが、その安置する位置には気をつけそうですが…?

『干宝暦九己卯年釈迦トアレドモ薬師如来
是迄百八十年也
当院七代〇〇〇〇
干天正八年庚申九月吉日
奉造立南無釈迦牟尼佛
本願蔵春庵二代芳林〇
学坊主父母之也

以上台座の裏に墨で黒く書いて有りました文です。

(中略)』


…わからない。




No.366

(続き)

そのあとこの文を現代文としたものがあり、ようやくわかったことに、

なんでも、宝暦九年当院七代目の何某が改修の折改めたところ、
『この仏像は〝釈迦トアレドモ薬師如来〟』
と仏像の台座の裏に墨で書かれていた、ということらしい。


…!

釈迦とあれども薬師如来だ!

『トアレドモ薬師如来』などではなくてね。

さっすが珍道中おばさん!

よかったぁ、息子に質問しなくて。



ちなみにこの『薬師如来』さまは檜の寄せ木造だと、やはりこの石板に書いてありました。

みどり市の文化財指定をされているとのことで、みどり市のHPをみてみたところ、

『…桧(ヒノキ)材の寄木造りで、黒漆と金箔を貼って仕上げたもので、下ふくらみのある伏せ目の表情や、頭部がイノシシの首のよう(猪首状)に下がったため大きくなった肩張りや通し肩の衣紋に宗風の名残が見え、室町時代後期の特徴が認められます。

江戸時代中期の宝暦年間の墨書により、天正8年(1580年)に制作されたと考えられており、連座の連弁と台座も同時期の制作と考えられています。』

とありました。

薬師堂は新しいもので、それこ令和になって建てられたものかもしれません。


…こうしてこの御像を守り、後世に引き継いでいこうとする地元の方々におかれましては本当にありがたいことと感謝しかありません。
この場を借りて御礼を申し上げます。

…キラキラと日の光を浴びて輝くように咲いていたユキノシタも、この薬師堂、お薬師さまをお護りしているように思えたのは、私の気のせいではないような

No.367

(続き)

…それにしても。
〝釈迦トアレドモ薬師如来〟

どうしてそのようなことが起きたのか?

お釈迦さまを依頼したけれども、後年調べたらお薬師さまであった?
奉造立は『釈迦牟尼佛』さま、となっていますから。

依頼された石工がなんらかの理由で間違えてお薬師さまを彫ってしまった?
そもそもの御像をよくよ〜く見てみますが…

いかんせん御堂の中、よくは見えないのです。
ただお薬師さまのお手の形が薬壺を両の御手でお持ちになる形ではなくて、右手がどうやら施無畏印であるような…そう見ればそう見えるレベルなのです。

施無畏印はすべての畏怖を除き、衆生に安心を与えることを示す印。
ただこの印はお釈迦さまも、阿弥陀如来さまもこの印相を示されることがあります。
右胸より少し低い位置で手のひらを前に向けたもの、となります。

…うーん、まじまじと見ると違うように見えます。
むしろ違う気がしてまいります。

施無畏印にしては指が曲がって表現されているような、…いないような…。

…見えないんですね、拡大してみたところで。

国宝である、福島県の勝常寺さんの薬師如来坐像の御指も少し薬指が曲がっていたような…どうだったかなぁ。

薬指ですからね、右の手の薬指、左手で薬壺、とか。

そうなんです、実は左の御手がさらによく見えず、何か丸いものをお持ちなように見えるような…。


もはやもう私の妄想の世界です 笑。


明日仏像を彫る会があるので、そこで仏師であられる先生と、お薬師かご本尊てあるお寺の副住職さまにお会いできます。
お聞きできたら聞いてみましょ。

そしてみどり市図書館で町誌や村誌で石仏の資料を見てみます。

うーん、楽しみ♡


わからなければわからないことがわかったことになります。

それでいいのだ。笑。

No.368

今日は仏像彫刻教室。

プレバトという番組で、合格点を得られなかった俳句作品がシュレッダーをかけられる、というのがありますが、私の仏像もまさにシュレッダー状態 泣。

今までで一番良くできたと、意気揚々と持参した作品を先生は無情にも顔を削ぎ落としてやり直し。
作品も、ですが、私の心もシュレッダーにかけられたような、…まさにそんな気分でありました。

そんな傷心の私、それでも先生にくだんの〝トモアレド薬師如来〟の写真を見ていただき、印相を伺ってまいりました。

「わからないねえ」
…ですよね。
「(印相ならば)それこそ和尚さんに聞いた方がいい、今すぐ聞いて」

はぁ。

ということで副住職さまに。
「これはなんの?なんという仏さまです?」

私「それが『釈迦トアレドモ薬師如来』というのです。いやいや薬師如来さまとしてお祀りされているんですがね」

「これ、右手、無いですよね」

えっ⁈

「手首から先、無いでしょ?」

「えっ?施無畏印とかにしては指が曲がってるかなぁとは思ったんですが、指ではなくて、…無い?」
「無い、ですね」

衝撃〜っ!

手…無いそうです。

左手にも特に何かを持っているようには見えないと。


……。

「仏さまの像って、最初は〇〇さまで造られていたのだけど、途中から手を変えたり物を持たせたりとかして、違う仏さまに変えることって結構あるんですよ」


はあ。


……。

〝トアレドモ〟だけではなくて、無いものまであるように見ていたなんて…。


珍道中中でもトップクラスの珍事です。いやいやいやいや…。


仏像、奥が深いなぁ。

造るのも。
見るのも。



No.369

【三澤不動堂】

こちらは沢入駅からの帰りに通った道沿いに、偶然見つけた御堂です。

「あ〜不動堂がある。行きたい。どこかで停めて」
なんと迷惑で自己中心なおばさんでしょう!

…しかしながら今日の運転手は哀しいことにこのおばさんのこういうところに慣れている、慣れさせられて生きてきた息子。
停めてと言われる前に停められるところを考えております。
なんなら小さな御堂を見かけただけでも、
「ここ、寄りたい?」
と声をかけてくれるくらいですし、ともすると言わずともすでに駐停車する場所を考えていて停めてくれるくらいです。

夫はそんな空気など一切読まない。
まぁそれが当たり前と言えば、運転中ですので、当たり前。

それどころか通りかかるかなり前に言っても、面倒だと
「そんな急に言われても無理だよ。諦めて」。


…これが自分が拝したいと思ったところだと、何度もUターンして停められる場所を考えなんとか停めるんですけれど、ね。

私だって運転する人間。そこが全く停められなそうな所なら言い出しもしないんで、停められると思うから言うんですが…。


…おや、愚痴になってきたぞ。


そんなわけで停車してもらえた私は、なるべく手短にと、…走る。
以前のようなスプリンターのような走りは(それは前世のこと?)すっかりどこかへ消えて、ドタドタと走って、たどり着いた御堂こそが、この三澤不動尊さまでありました。

規模は下手をすると先ほどの沢入薬師如来さまと同じくらいかそれ以上。

ですがこちらは案内板等もない道端の御堂。
いわれもわからなければ何一つわからない。

成田山の先達の方の揮毛された扁額が掲げられています。
おばさんの得意技で中を覗かせていただきます。

…尊像は…見えない。
どんなに目をこらそうと、見えない。

どうやら瑟瑟座と呼ばれる不動明王安置される台座、…五寶の一つである珠を切り出して重ねて造った台座の周りにさらなる演出の為された木造の像なようで、その演出物(…おそらくは)、おそらくはぼうぼうの草、の部分かあるような…?

尊像の安置された場所を見るに、それしか見えないのでありました。

垂れ幕に『沢入宿講中一同』とあります。
御堂はおそらくは昭和初めから遅くても四十年代前半のもの。
外陣と内陣があって、建物も二つの屋根を葺いてあります。



No.370

(続き)

昨日、みどり市の図書館に行ってみどり市東町、かつての東村の旧村誌を探してみたのですが見当たらず。
エックスキューズミーおばさんですので、当然のことながら職員の方にも伺ったのですが、案内されたのは伊勢崎市の佐波東の村誌のあるコーナー。
これは違う…とは言えないおばさん。自力でもう一度探してみましたが、何故か見当たらない。

うーん。

みどり市はみどり市でも大間々の図書館に行ったのが間違いだったのかもしれません。
合併前の近隣のの村の村誌、置いてありそうではありそうにも思えますが、その村誌の作られた年代にもよるかもしれません。

近隣に配ることをおこがましく思うような控えめな村であったかもしれませんし、村誌などさほど部数を多く印刷するものではないのかもしれません。

これは東村…みどり市東町の図書館に行くしか無いかもしれない。


うーん。


うーん、むしろ桐生市立図書館にあるかもしれない。
閉架のとこのは面倒なんだよなぁ。

…おや?
これって…。
かつて学生時代、カッコつけて図書館で勉強(してるフリ)をしていた時、見かけた年配の方の、素敵だなぁと思って憧れた日常の過ごし方、そのものではない?

あらっ?


もしかして私、かつて憧れたライフを着実に歩み出しているってこと?



うーん♡



あ、夫、先日無事退院しました。
大変お騒がせをいたしました。


私は入院していた時使用未使用に関わらず病院に持ち込んだ荷物で洗えるものは全て洗い、洗えないものは一つ一つ全てアルコール消毒をし、干して乾いた物から片付けて片付けて。

夫はそれに目もくれず、ネットで漫画を読み、入院して始めたというブログを書き過ごしておりました。


きーっ!
と思う気持ちは封印して。
良き妻、良き妻!


そんな良き妻に夫は追い討ちをかけるように
「ブログ、これで良いかな?見てみて?」


はっ?

それって、…シークレットじゃないんだ?
妻も共有するものなんだ?


「…いや、好きに書いて楽しんでください」


No.371

【毘沙門天】さま

本日は『寅の日』。
金運に縁がある日と言われ、また七福神の一柱でもある『毘沙門天』さまの御縁日でもあります。

寅の日が毘沙門天の御縁日とされているのは、先日大岩山毘沙門天について書いた通り、
その昔、聖徳太子さまが、毘沙門天さまを祈られたところ
【寅年の寅の日の寅の刻】に毘沙門天さまが現れいでた、との言い伝えがあり、以来寅の日は、毘沙門天の縁日とされるようになった、といういい伝えによるものであります。


【毘沙門天】さまは、
四天王・
七福神・
八方天・
十二天・
十六善神の一体で。
〈四天王〉としては【多聞天】と称し、
〈単独尊〉としては【毘沙門天』とお呼び申し上げます。

またさらに大般若経を守護する
〈十六善神〉としては【吠室羅摩拏善神 (べいしらまだぜんしん)】とも称します。

『須弥山』中腹の『水精埵の天敬城』、
または『北方倶廬州』に住まわれ、夜叉や羅刹を眷属とする北方守護の【天部】、となります。

毘沙門天の前身はインドの財宝の神、【クベーラ】が由来と考えられていて、
『クベーラ』は財宝を分け与える意味から『施財天(せざいてん)』とも呼び、財宝を司る福の神とされています。
こうしたところは毘沙門天さまに受け継がれてありますね。

【毘沙門天(多聞天)】さまは左手に、仏さまの教えや智恵が納められた『宝塔』を、
右手に、意の如く財宝や食べ物、衣服などを生み出す
『如意宝棒』または『三又の槍(三戟)』を持つ姿があります。

槍を持つ毘沙門天さまは、魔除け、厄除け、勝負運を司り、
如意宝棒を持つ毘沙門天は、開運招福、金運など福徳を司るとの言い伝えがあります。

足下の邪鬼は『藍婆(らんば)』・『毘藍婆(びらんば)』。
【天邪鬼(あまのじゃく)』とも呼ばれます。
(※一説には尼藍婆・毘藍婆とも)

災いなどを引き起こす邪鬼を鎮める力があることを示しています。


この毘沙門天さま。
【毘沙門天王功徳経】なるお経が存在し、大岩山毘沙門天堂に行くと、この経本を買おうか、それともやめておこうか、毎回毎回悩むのであります。

ええ、煩悩の塊ですから。

ですが、この護摩修行でこのお経をお唱えにならないので、毎回そこが抑止力となってくれています。

No.372

呟き。

会心の出来、と思っていたのはたしかに、たしかに私の奢りでありましたでしょう。

…ええ、仏像彫刻教室でのことです。
思っていた以上に引きずっていて、とても気持ちがどんよりしているのです。

私は自画自賛ながら、自分の彫ったお不動さまのお顔がとてもとても良い表情に思えていて、この教室に行くまでの日々、毎日このお不動さまの顔を見ては癒され、掌できゅっと握っては自分の中の力を湧き起こしていたのです。

そのお不動さま…とお呼びするのも本当はそれだけで不敬な気もいたしますが…のお顔を小刀でシャッシャっと先生が削ぎ落とされるのを目の前で見ていて、呆然、としたといいますか、目を丸くしたといいますか。
そしてその作業を見守りながら、どんどん自分の心が削ぎ落とされたかのような、小さな、だけれど本当に痛みまで感じるようになっていったのです。


見ればたしかに先生がいつもお彫りになられる不動明王のお顔です。

でも今回の私の作品、それこそさながら本当の仏像のように(…いやこれも仏像なのだが)すべすべの幼子のような肌をイメージして、本当にすべすべに仕上げていた(つもりな)のです。

ところが。
今回直してくださったお顔は、先生にしては珍しく、肌がガチガチ、がたがたなのです。

その肌を見るにつけまた哀しみがふつふつと湧く私で…。


ご指導はご指導、真摯に受け止めなければ上達はありません。

何かがいけなくて、だから直された。

しかもそれは肌の質感とかではない、お顔立ちのどこかに難があってのこと、ということであったのでしょう。

たしかに私の彫るお不動さまは、先生のお作りになられるお不動さまと違って口が大きいのです。
でもそれは私はお不動さまのお口元の表現として私なりのこだわりでもあったのです。


みなさん、作風があって、当然お顔立ちはみなさん異なっていて、それでいいのかと思うようになっていた私の、それが奢りであったのはたしかだったでしょう。

まだ私は先生の模倣をして出来うる限り先生の作品に近く作ることを要求されている段階なのかもしれません。


はぁぁぁ。

…そう、あのイチイの木で彫ったものでありました。
イチイの木目もいかし、木肌も活かした、自分の作品ではありますが、大好きなものであったのです。


はぁぁぁ…。

立ち直れ、私。


…少し封印しておこう。


No.373

【毘沙門天王功徳経】

煩悩、物欲の塊はとうとうこの経本を購入…してはいないのです。

購入はしてはいないのですが、今な世の中、大変便利になりましたので、ネットで簡単に拝することができるのです。
いや、本当にありがたい。

大岩山毘沙門天堂さんで、手にとって読ませていただいた時の感動がよみがえりました。

このお経、…毘沙門堂にあった経本にしても、文語体、なのです。
僧侶の方がお唱えになるときはあるいはそうではない、漢文?でお唱えになられているやもしれません。

…とすると、お護摩修行であるいはお唱えになられているかもしれません。
まぁその辺はちょっとお聞きしづらいこと、なのでそこは置いておいて。

この毘沙門天王功徳経、阿南という弟子が、お釈迦さまに毘沙門天さまについて尋ねたことを聴いていた人物が書き残した、…もののように書かれています。

…お釈迦さまは身罷られる前から毘沙門天さまをご存知だったのか…などと、初っ端に思うところがもうどうしょうもない愚者でございます。
まぁその辺はもはやみなさまの知るところでありますが、ね。


そこにはあの足で踏んでいる邪鬼の名までが記されているのです。

…お経って、こんな事を申し上げたら大変大変不敬でございますが、大変面白い物語であったりもするのです。

このお経を読めば、毘沙門天さまがわかる、そんな、物語のようでありました。


私もう、スマホからこの毘沙門天王功徳経を書き写したほどであります。
お経は著作権侵害にはなりませんし、ね。
まずは日記帳に書き写した、そこでとまってい?のですがね。

書き写すとなると結構長いのです。


いや〜しかしながら、本当におもしろい。
おもしろいなどと申しましたら、毘沙門天さまに叱られ二体の邪鬼とともに踏みつけられそうな気すらいたしますが。
でも興味深いとかいう表現ではなくて、ワクワクドキドキするのです。


草むしりやら植木の剪定やら、断捨離しつつ、日々のお掃除をし、経本を書き写したり、石仏さまの歴史を調べたり、お訪ね申し上げたり。
仏像もどきを彫ったり、新しい料理にチャレンジしたり。

働きながら子育てしていた頃には想像すらできなかった日々を送っております。


ワンオペ、つらかったなぁ。
仕事、お局が多くてしんどかったなぁ。

あの頃の私に教えてあげたい。

日々は穏やかになるよ

No.374

(続き)

このお経には見せ場まであります。

それは。

『……。

お釈迦さまが阿難の質問に答えられたのち、毘沙門天さまの御真言をお唱えになられます。

その直後。
大地が震動して毘沙門天王さまが現れたです。

大きな蓮華座の上に座って阿難に向かっておっしゃったことは、

「私はここから北に向かって七万八千里離れた所に入り口があり、そこに【普光】と言う城があり、それは【吠室羅摩那郭(ベイシラマヤカク)大城】と言われるが、
そこでは途方もない程の福が溢れ出ているので、私は毎日日に三回この福を焼いている。

もしこの福が必要ならば、五戒を保って三つの帰依をし、悟りを願い求めれば毘沙門天の福を得ることが出来る。』

と。

そうそう、お坊さまたちが毘沙門天さまの功徳を語られるとき、必ずそうおっしゃる!

(日に三度、かあぁ…)
初めて聞いたとき、これは凄い神さまだわ、と思ったものです。

が。

お経は続きます。



『 …しかしながら次の五つの願い事に限る。

それは

・親孝行のためであること
・功徳となる行いであること
・国や環境が豊かになるため
・全ての民衆のためであること
・この上ない悟りのためであること

この五種類の願い事以外の福は得ることが出来ない 』


…えっ?
ええっ?

ちょっと待ってください?

それ。
初耳、なんですけれど?

どのお坊さんも、異口同音ではありますが
『毘沙門天さまと縁を結ぶことができた者は、あふれるほどの福をお分けいただける」

とおっしゃっておられましたが?

なんだか上手に良いとこ取りをされたような…。


でもこのお経にある事の方が、さすが毘沙門天さまのお教えだなぁと思うし、なるほど、と思えます。

この方がむしろ素直に受け入れられます。





No.375

(続き)

『……

…たとえ死ぬという苦しみは受けたとしても貧乏の苦しみは受けてはならない
皆が苦しんでいる原因は貧乏であることだ。


福徳を得るためには丑寅に向かって名号(みょうごう)を 一百八遍(いっぴゃくはっぺん)称(しょう)すれば、
大いなる福徳を得ることが出来る。


智慧を得るためには東方に向かって名号を百八遍唱えれば大いなる智慧を得ることが出来る。


名誉、地位を得るためには辰巳に向かって名号を百八遍唱えれば名誉、地位を得ることが出来る。


良き妻子を得るためには南方に向かって名号を百八遍唱えれば良き妻子を得ることが出来る。

(…ん?だいぶ庶民的な願い事が含まれているではなくて?)


長生きを得るためには未申に向かってを名号を百八遍唱えれば長生きを得ることが出来る。


家族や親族、部下の信頼を得るためには西方に向かってを名号を百八遍唱えれば家族や親族、部下の信頼を得ることが出来る。

(おおっ、これはこれは…。
なんかもはや人が願うであろうことを知っていてそう明言してくださっておられる気がいたします)


人に好かれる徳を得るためには戌亥に向かって名号を百八遍唱えれば人に好かれる徳を得ることが出来る。


いろんな願い事に関しては北方に向かってを名号を百八遍唱えればどんな事でも悉く叶うものである。

(…。えっ?! 〝いろんな〟?〝悉く〟?)

経の言葉ではこう綴られています。

『悉地(しつじ)を得(ん)と欲する者は 北方に向(かい)て 名号を 一百八遍称すれば 皆悉成就(みなことごとくじょうじゅ)す』

…… (後略)』


…じゃあお坊さんたちが言っていたのは間違いなくお経にあることなのではないですか!
『皆悉成就す』、ですからね。


あ、名号というのは毘沙門天さまの御真言であるようです。


この『毘沙門天王功徳経』にはきちんとこの名号=御真言であろうことも、御真言はどういったものかも、ちゃんと記されておるのです。

ですが、私のポリシーに、修行もしていない者がむやみに、ましてやネット上に、御真言を書いてはいけないというものがありまして。


(続く)





No.376

(続き)

ただ。
このようなネット社会、簡単に御真言を知ることは可能です。
…なにせこの毘沙門天王功徳経ですら、ネットて全文を見ることができ、現代語訳も知ることができるのですから。

もしこれに関心をお持ちになられた方がおられ、百八回唱えたいと思われましたならば、毘沙門天さまの御真言をどうぞお調べください。


…おばさん、変なこだわりがあるんです。
それは修行もしていない者であるのみならず、仏教についてもまるで初心者、赤子のような存在であることをいやというほど自覚しておりますことと、神仏に対して失礼があることを畏れる、…怖れるから、であります。

No.377

私は占いをあまり心に留めるタイプではない。

テレビで毎日星占いを流しているが、子どもの運勢が良いと良かったと思い、悪いと良い一日であることを願うくらい。
ランキングとかあってもまるで気に留めない。

一方夫はというと、このランキングが気になるようだ。
彼はいたって合理的な考え方をするタイプなため、占いなど全く信じていない。
それは発言にもよくでている。
あくまでもこの星座のランキングが気になるようで、しかも夫の星座と私の星座のランキングしか気に留めない。

そこは大変幼稚だと思う。
もちろん口に出したことはないが。

彼曰く自分が良いと私が悪い。
相性も悪い星座同士だから、ということらしい。


相性などそれこそ占い、どころでなく、自分たちが一番体感して実感しているところだし、むしろどちらかが悪くとも片方の運勢が良いのなら、補えて良いのではないかと思う。

星座による性格もあるらしいが、この占いにあるような素晴らしい性格でない私は、やはり占いは『当たるも八卦当たらぬも八卦』だと思うのだ。

きっと同じ星座の方の中にはこの占い通りの方も多くおられることであろうと思うし、そんなところまでアウトサイダーな自分に苦笑してしまう。


そんな私ども夫婦。

まさにその八卦?九星占いでも相性が最悪らしい。

しかも大凶だというのだ。



…これは当たりかもしれない。

少なくともこの二人の相性は二つの異なる占いで最悪らしい。

ここでは鼻で笑う私。


しかしながら驚くべきことに、その〝大凶〟とされる相性に、子どもがよりにもよって二人入っていることに気づいたのだ。

それを見て、ごめんなさいと心の中で詫びる自分がいた。

夫婦の相性など、間違いなら正せるが、親子といったらそれは子らは選びようがなかったのだから。


当たっていて欲しくない占いをみると、自分は、まさに先ほどの〝当たるも八卦当たらぬも八卦〟という言葉に縋るのだ。


これは古今東西の占い師さんにまこと失礼なことだ。

ん?

でも占い師さん自身がその言葉を口にされることがあるくらいだから、…良いのか?


そう…。

だから私はあまり占いに目を向けない。

怖がりなこともあるかもしれないし、覚えきれないのも大きい。

要はおバカ、ただその一言に尽きるのだ。

No.378

本日六月二十一日は【夏至】。

私の住む群馬県はこんな日に梅雨入りし、入った途端であるというのに梅雨寒の、涼しいよりも寒い日となりました。

天文学的には、『太陽黄経が90度になる日』
を『夏至』と定義されていますが、この夏至の日、毎年多少変動します。

一方で、暦の上では、2024年は六月二十一〜七月五日が夏至の期間となります。
これは次の二十四節気の『小暑』の前日まで、であります。

天文学的な夏至の定義とは異なり、二十四節気の夏至は期間があり、夏至の日一日だけを示すものではないのです。

天文学での夏至とは、北半球において一年で太陽の位置が最も高くなるため、昼の時間が最も長く・夜の時間が最も短くなる日のことです。

夏至には『日長きこと至る(きわまる)』という意味があるといい、まさにその通り、なのでありますね。


そんな夏至を祝うお祭があるといいます。

三重県伊勢市に鎮座される【二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ】さんの、その名も『夏至祭』というものがあるといいます。

『伊勢神宮』に祀られる天照大御神さまを讃える行事であり、
夏至の日に二見浦で『夫婦岩』の間から昇る朝日を浴びながら禊を行います。

夏至の前日に『鎮魂行法』、
当日には『夏至祭禊』が行われ、太陽を拝み、日光を浴びて体を清めるのだといいます。


夏至は日本だけが夏至なわけではありません。

北半球において一年で太陽の位置が最も高くなるため、昼の時間が最も長く・夜の時間が最も短くなる日のことですが、北極圏に近くなると、ほぼ一日中太陽が沈まない『白夜』となります。

そのため、北欧諸国では、とりわけこの夏至祭りが盛んにおこなわれているといいます。

たとえば。
イギリスの古代巨石遺跡【ストーンヘンジ】で祝われる夏至祭が有名です。

新石器時代に建てられたとされるこの謎多き巨石群は、古代ケルト人が信仰していたドルイド教の聖地です。

このストーンヘンジ、1年で最も昼が長い夏至の日になると、入り口にあたるヒール・ストーンから太陽が昇り、日光が中央に向かってまっすぐ差し込むよう設計されており、古代から太陽信仰と関わりがあると考えられています。

通常は遺跡に近づくことはできませんが、夏至の日だけは特別に石の間を歩くことが許されるのだといいます。


ああ、
どこでもドアがあればなぁ…


No.379

今日は義母の百箇日。

新たなる祭祀承継者となった義兄は昨今の社会的な法事の情勢もあり、早々に義母の百箇日法要は執り行わないこと決めましたので、個々で義母を偲ぶ日、となっております。

そんなわけで夫は今朝早くから起き出し、いつもはしない仏壇もどきの花の水を替え、お茶や水をお供えし、手を合わせておりました。


直近の土日は当人が入院していたこともあり、お墓参りには行けず、それが彼にできる最大限の百箇日、であったかと思います。


ところで。


この百箇日。
四十九日までの法要は仏教に由来する仏事でしたが、百箇日は中国の教えである儒教に由来すると考えられています。

儒教では
『士は百日にして哭することをやむ」(ひとかどの人物は、百日で区切りをつけて泣き止める)』
という教えがあり、それゆえ百箇日は別名で「卒哭忌(そつこくき)」とも呼ばれると、義父の百箇日法要のとき、菩提寺の和尚さんがおっしゃっておられました。

ただ。
故人が亡くなり百日が経過したといっても、残された方が悲しみと決別できるかどうかは別問題で。
むしろ日を追って悲しみが増す頃であったりするかもしれません。

事実、臨床心理学の世界では家族の死後3ヶ月が経った頃から、急激に鬱を発症するケースが多いという報告があるのだといいます。

これは人が亡くなられたあとのあれこれの書類などの整理などが一段落し、疲れとともに喪失感が打ち寄せてくることが大きな原因でありましょう。


…ええ、どうも夫があやしいのです。

目が虚な時もあります。
人の話を聞いてもまるで覚えていないことが多々あったり…。
…これはこれで認知症を疑って、どっちなんだと、まぁどちらにしても困ったことなのは変わらないのですが…。

…いや、鬱は治せることがあっても認知症となるとなかなか…。

そうそう大切な人を失った喪失感から鬱を患い、それから認知症を発症するパターンもあります。


うーん。


私がボケてる人間だから、頭の良い彼と結婚したはずなのに、それは話がちがうだろ、と心の中でつぶやく私。

こればっかりは早いもん勝ちとか無しにしてね。

早いもん勝ちなら、もうとうに私の方が…。

No.380

調べて参りました。

群馬県みどり市の〝トモアレド薬師如来〟さまと(笑)、三澤不動堂について。

みどり市となる前の勢多郡東村の村誌を探しだしまして。
結論から言いますと、結局〝三澤不動尊〟さんについては資料が一切掲載されていなかった、ということ。

もはやこれは足を使い、口と耳を使って調べるしかなさそうです。


しかしながら〝トアレドモ薬師如来〟についてはいろいろ学ぶことがありました。

石碑にされているこのト…(いい加減にしないとバチが当たりそうです)沢入の薬師如来さま。
石碑には書かれていない文言があること。

やはり副住職さまの見立てどおりこのお薬師さまには手首から先がないということ。
…すごくないですか?
一瞬で見抜いたのですよ?

はだかの王様の物語ではないけれど、心のほにゃららな者は見えるような気がしてしまい、心のきれいな方にはそのままに見える。

ええ、私、心のほにゃららな者にございます。

八角の框座(かまちざ)、蓮弁の形状が中世の手法だといい、膝前で寄木されているとか。
肩のあたりには衣紋が残っているということで、それは宋風の名残のあるものだということです。

全体的に見て、室町後期の特色をよく示しているといいます。


で。

また、ですね、また、わけのわからない言語が出てきたのですよ。
それは宝暦九(1759)年に書かれた銘文の完コピに、なのですが、

『コヒツミエカ子(=ネ)テクム』


…なんですかねこれ?

『こいつ、見栄かネズミ 手組む』

…じゃあないでしょうね、もちろん。

謎のカタカナ表記が多すぎです。
(『トアレドモ』は謎は解けました、が)

『恋、罪えかネズミ 手組む』…うーん違うな。


また副住職さまにお聞きしてみましょうかね。

No.381

今日から〝七十二候〟第二十九候の【菖蒲華(あやめ はなさく)】。


私はアヤメ、
カキツバタ、
ハナショウブ、
の違いを見分けることができません。
もはや諦めの境地 笑。


菖蒲(アヤメ)は五月に咲き、
杜若(カキツバタ) は五~六月、
花菖蒲(ハナショウブ)がいまの時 季六~七月に咲く、
などとも言われるようですが、この温暖化、いつなんどきこれがズレるかわかりません。

そもそもショウブって五月の端午の節句に飾るのではなかったっけ?などと思ったり…、まぁ旧暦とすればショウブの咲く頃でよさそうです。

ということから、『あやめはなさく』というのも、旧暦ですので、まさに今、ということなのでしょう。


芸術の世界でも、尾形光琳の国宝【燕子花(カキツバタ)図屏風】や、ゴッホの【アイリス】など、多くの巨匠たちの心を動かし、描かれてきた花たち。

今年こそ覚えてみる努力をしてみましょうかねぇ。

まぁ昔から「いずれアヤメかカキツバタ」という言葉があるくらいです。
アヤメとカキツバタそしてハナショウブは大変よく似ております。

得意ぶって間違っていたらと思うと、いっそ知らない方がいい、と思ってきたところもあります。

夫は一生懸命調べて、この見分け方を覚えたようなのですが、なにせその正解を確認する相手が私では、正解はわからないまま、ですよね。

夫の調べた見分け方は…。

一つ目のポイントは【花弁の根元部分】。
アヤメは網目模様、
カキツバタは白い筋、
ハナショウブには黄色い筋
が入っているといいます。

二つ目は【生えている場所】。
アヤメは乾燥したところを好みますが、
カキツバタは水の中に生えています。
ハナショウブはちょうど中間で、半乾湿地でよく見かけます。


…ハナショウブよ、中間はやめておくれ、とちょっと思ったおばさんが一人。
そんなおばさん、今年こそ覚えられるでありましょうか。


ところで。

実はあの端午の節句の菖蒲は、今ここに上がっているよく似た花の三姉妹とは、似ても似つかぬ別物なのだそうで。

そもそもが『菖蒲』と書いて、端午の節句では〝ショウブ〟と読んでおりますが、この七十二候では〝アヤメ〟、です。

どうやら同じ字を使うのは間違いなさそうです。

しかし別物なのもたしか。

葉はそっくりなのですが、花がまるで違うのだそう。



  

No.382

少し冷え込んできた明け方。
足先が冷たい。
半袖ハーフパンツの格好はちょっと早かったか?

そんなことをぼーっと思っていると。


四時四十二分、仔猫の声がする。


わが家の敷地のなかに違いない。

少し大きくはなっている、…目も開かないほど小さな子ではない、と思われる、声だ。

何か助けを求めているような…。
断続的に鳴いている。

おばさんはパジャマではないものの、半袖ハーフパンツといったいでたちのまま外へ出る。
(娘にバレたらお小言な案件だ)


声のする方へと近づいていく。
…わからない。

よく近所の猫が休んでいる生垣の隙間?
…いない。

ん?
もっと建物のそばからだ!
声をかけると反応する。

ダストシュートのケース下、髪の毛が地面に着くくらい覗いて見ても見えないので、スマホを取りに行き、撮影してみる。
…いない。

えええっ、ここの隙間〜っ?
ゴミを収納しておくプラスチックの大型ケースの裏、辺りだ。

隙間なんてほとんどないはず。

でもそこから確実に声がする。


大型ケースをどかす。
…いないんですが?

声はする。

まさかの軒下?
いや、あの隙間は入れない。
鉄格子がある。

一枚厚手の板が置いてある。
隙間などない。
恐る恐るどかしてみると、…いた!

目を合わせて鳴いた。

動けなくなっている?
昨夜突然降り出した雨、雨宿りをして動けなくなった?

いやきっと寒いんだ。

身を縮めているだけだ。


救出だ!


夫を起こす。
ダンボールにありったけのフリースを突っ込んで、タオルを2枚用意して。
軍手をつけて声をかける。

見上げた♡

可愛〜い♡♡♡

くりっくりの目でわたしを見上げる。


だが。

物をどかしていかれ、怖さも大きかったようだ。

逃げる体勢だ。

動けるかい?
うんうん、晴れたからそこから抜け出せるならいいんだよ。
なんにも怖いことはしないよ。
お腹空いてるでしょ?
おうち、あるでしょう?


話しかけながら近づいていく。


お、逃げる。


逃げた。


…ま、淋しいけどね。
おばちゃんは君がそこから出られないで困っていた状況から抜け出せればそれで良いんだ。


…淋しいけどね。



No.383

今観ていたテレビで、心にささる言葉を聞いた。

「これから生まれる人が核兵器という言葉を知らない世の中になりますように」


小学生の子がインタビューに応えての言葉だ。


世界中にこの言葉が、祈りが、広まって、そんな世の中となりますように。

No.384

「アクスタ? アクスタって、何?」

夫にそう聞かれたのは今月のはじめ。
現物を目の前にして聞かれたので彼はほんとに知らなかったのだ。

もう四、五年前からわが家のダイニングにある食器棚には私が息子からもらったアクスタが飾られているというのに。


そんなアクスタ。

な、なんと!
あの空也上人のアクリルスタンドが発売されたという。
しかも、あの六波羅蜜寺で、だ。


御仏像のアクスタをすら見たことがあるのだから、こんなにびっくりすることもないと、自分でも思うのだが、それは東博の特別展のようなところであったから、さもありなんと思ったものだ。

が。

…今回はお寺さんが、だ。


たしかにお寺さんも拝観者のニーズに応えて、さまざまなグッズを考案して、販売しているところは多くなっている。

もはやグッズと呼ばせていただく。
そしておわかちとかも言わない、販売と言う。



アクスタならあの、お念仏を唱える上人の口から六体の阿弥陀仏があらわれた様子など、一瞬で表せるであろう。


ところで。

私が仏教を怖いと思ったのが他ならぬ教科書にあった空也上人立像の写真であったのは以前珍道中録に書いた。

痩せこけた、それはそれはリアルなお坊さんが、虚ろな目をして、足をずるように歩きながら口から何かを出しているさまは(教科書なので掲載された写真が小さく、口から出ているのが仏さまには到底見えない)、エクトプラズムを思わせたのだ。

正直今見ても怖い。


子どもたちに伝えておいた方がいいだろうか。
「もし万が一、六波羅蜜寺に行くことがあっても、間違っても空也上人のグッズは買ってこないで欲しい。不敬なことは百も承知だが、私はあの空也上人の像が今でも怖いのだ」
と。

いや言わずともそもそもが不敬にあたりそうな一連のグッズは買って来まい。


こんな事を書いて、今夜空也上人像の夢でもみたらどうしよう。

ああ、今からそわそわする。

No.385

明日は六月三十日。
はや一年の半分が過ぎようとしております。

一年の折返しにあたる六月三十日に
神社で行われる行事に【夏越の大祓】があります。
正確に言えば『大祓式』でありますが、これは神職の方が行われる行事。

一般には、人形(ひとがた)で身体をなでて息を吹きかけたり、あるいは茅の輪をくぐったりし、『半年間の罪穢れを祓い、災厄を防ぐ』、といったものです。

六月に入ると神社さんではこの茅の輪を作って茅の輪くぐりの場を設けます。
…すべての神社さんではありません。
現に私のよく参拝させていただいている神社さんではこの茅の輪はありませんし、人形(ひとがた)の祓もありません。

穢れ多き私としてはこれが不安で、茅の輪を求めて神社さんを探して彷徨ったこともあります。


すでに設置されたものをくぐって良いところもあれば、この六月三十日の大祓式後に茅の輪くぐりを解禁されるところもあるようです。


この茅の輪くぐり、作法があり、唱えことばもあります。
大抵の神社さんではこの作法並びに唱えことばを書いておいてくださるのですが、中にはそうでない神社さんもあります。
そうするとまぁ、このおばさんは茅の輪を見つけたら見つけたで、オロオロし、ドキドキするのです。


それなので、今から予習(…復習?)をしておかなくてはなりません 笑。


この茅の輪くぐり、左・右・左と茅の輪を三回くぐる所作を行い、その後正面に向かいます。

その際、次の三つの唱え詞(となえことば)を唱えながら
くぐるとよいと云われています。
 
 ①左廻り
【水無月の 夏越の祓する人は 千歳の命 延ぶと云うなり】

(みなづきの なごしのはらえするひとは ちとせのいのち のぶというなり)

 
 ②右廻り
【思ふこと みな尽きねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな】

(おもうこと みなつきねとて あさのはを きりにきりても はらいつるかな)

 
 ③左廻り
【蘇民将来 蘇民将来】

(そみんしょうらい そみんしょうらい)


…左、右、左。

みなづきの、…


うーん。


所作を確実に覚えて、…カンペを用意しよう。

No.386

茅の輪くぐりのくぐり方。

さあ、あとはカンペを作らなくては 笑。

No.387

昨日の早朝、ぼーっと某SNSを見ていた私の目に飛び込んできたのは三峰神社さんによるものだった。

私はSNSにあまり興味はなかったのだが、家族間の通信ツールの手段の一つとして開いた、…というより開設された、ものであった。笑。

鍵もかけており、フォロワーさんも家族の一部のみ、フォローもしかり。
あとはおすすめのみが流れてくるだけのものである。


そんなSNS、神社仏閣さんのアカウントも多い。
(三峰さんもこうした形で発信されていたのかぁ)
そう、まさに時は六月三十日、夏越の大祓の日である。

あちらはまさに山の中の一本道。
人気の神社さんであることから交通情報をお知らせしてくださっておられるのかなぁ…。

ちがった。
いや、正確にはまさにその交通情報そのものだ。

違っていたのはその日三峰神社さんが閉鎖されるという内容が添えられていたこと。


そう、先ほども書かせていただいたのだが、こちらは山道を走る一本道を走るしかない。
それゆえ、人気の御守が話題になった時には驚くべき渋滞が発生し、その御守の授与が中止されてしまったくらいであった。

なんでもその一本道のダムを越えた先にあるトンネル付近で倒木があり、電線を巻き込んだので電信柱まで倒れたようです。
前日はなんでもなかったようで、夜中に起こったようだとの事、職員さんや参拝の方はすでにその道を進んでいてのことだったようです。

倒木撤去作業に伴う通行止で、職員も出社できていない状況でもあり、

『御参拝頂く皆様の安全等を考慮し、終日神社を閉めさせいただきます
参拝を予定されていた皆様には誠に申し訳ありませんが、何卒ご理解頂きますようお願い申し上げます』


といった内容であった。

昨日のうちに撤去作業を終え、本日は通常通りに参拝ができるとのご報告もあった。


大祓式自体は神社におられた神職の方により執り行われたことでありましょうが、よりによってこの日?と思わずにはいられなかった、おばさんでありました。




No.388

昨日は夏越の大祓。
早いものでもう今年が半分過ぎてしまいました。
それを早いと感じるか、遅いと感じるか、人それぞれかと思いますが…。
それにしても生きているといろいろあるものです。

そんな半年間で穢れは人一倍の私、…決して自慢になるものではありません、神さまのお力をお借りして穢れを取り除くことができるならばと、群馬県前橋市の【産泰神社】さんの【大祓式】に参列させていただきました。

生まれて初めての大祓式です。
茅の輪をくぐるのは体験したことはありますが、大祓式への参列は初めて。
SNSで何日か前に茅の輪をお造りになる様子をアップしておられました。

そうそう、この茅の輪も茅を使わずに人工物のものを毎年飾る神社さんも見かけるようになってからだいぶ経ちます。
たしかに作るにも処分するにも一才手間がかかりませんし、楽といえば楽かもしれません。
けれど、穢れをとるといった意味ではどうなのかなぁとその人工茅の輪を見るたび思うのであります。

あの繊維が穢れを吸ってくれてひっかけてくれているのでは?

つるっつるの表面の輪っかではなんだか効き目が薄いような無いような…。

えっ?お参りすることに意義があるる?
まぁ、茅の輪の始まりは茅で作った輪飾りを腰につけるといったものであったこと、蘇民将来の一族、子孫であることを証明したものであったのだから、そういった穢れをとるような役割もそもそもがどうなのか、といった話になりそうですが。


そんなワクワクしたおばさんを乗せて走り出した車は、フロントガラスに一滴二滴と水滴があたり出したと思うまもなく、大きな雨粒がポツポツとあたり出しました。

「あれ、せっかくの夏越の大祓なのに」


そんなことを口にしながら、ふとなぜそう思ったのかを考えたところ、ここ数年、おそらくずっと晴れていた。
梅雨どきだというのにこの日に限って晴れていたような気がいたします。


あっという間に大きな雨粒が絶えずガラスに音を立ててあたるようになりました。

(雨だから来る人も少ないかしら?)

…なんとまぁなんでも都合よく考えるおばさんですこと。

No.389

夏越の大祓式(於 産泰神社さん)続き


が。

…雨だから人出も少なかろう、などという考えはまったくもって甘かった。

信心深い方々は雨が降ろうとまったく関係ないのであります。
ただただ珍道中遠繰り広げるだけのおばさんとはわけが違います。

広い、…二百台くらいは裕に置けそうな駐車場にすでに4分の1ほど車が停められ、山門からはすでに人がはみ出さんばかりに並んでいます。

まだ、開始時間より20分以上前なのですが。


…甘かった。


産泰神社さん、大変社内地は広いのですが境内はさほど広くはありません。
五月の薪能及び幣殿の天井画の特別観覧の折には境内が人、人、人で、それこそ山門に入れない方の列が石段を超え、駐車場の方まで続いていたありました。

しかしながら、そのときはたしかに幣殿に入れることなど滅多にないことでありますのでそのせいかと思っておりました。

考えてみればあの駐車場を設けるくらいの神社さん、ということです。
社内地が広いから、などと思っていたのは。間違いでした。

No.390

(続き)

前回随身門を山門と書いてしまっておりました。
お詫びして訂正させていただきます。
正しくは随身門でございます、その随身門、この日は随身さまのおられる場所もライトアップされておりました。
人出が予想されることからさらに護りを強化した…のでしょうか?


〝随身さま〟などといかにも親しげに呼んでおりますが、お召し物を見るだけで身分高き方であることがわかります。
初めてこの随身さまを(意識して)見たとき、
(あれ?なんだか見たことがあるような…?)と思ったものです。
さもありなん、この随身さん、あのおひなさまと共に飾られる右大臣さまと左大臣さまなのだそうです。
童謡『うれしいひなまつり』では
♪ 少し白酒召されたか 赤いお顔の右大臣
と歌われておりますが、この随身さまも右側におられる方のお顔が赤いこともあります。そうではないこともあります。

左右を護る存在として知られる『仁王』さまであるとか『狛犬』さんであるとかのお口が【阿吽】であるように、この随身さまたちのお口元も『阿吽』であることが多いです。

この上ない高貴な存在をお守り申し上げるのだからこの守りを固める方たちのご身分も高くて当然であります。

とまた恒例の話の脱線が生じたところで、…戻りましょう。


入ってすぐのところで禰宜の方と巫女さんが人形(ひとがた)の入った袋をお配りになられていました。

袋にも名前を書くところがあるためお聞きしたら、こちらは袋に名前を書くので人形には書かなくてよいとのこと。
そう夫に伝えたところ
「人形にも名前を書くって袋に書いてあるよ」と。
読まずに聞いた私も悪いのですが、では禰宜の方のおっしゃっておられたのは?
ま、まぁ、より多く穢れを祓っていただけますよう人形にも名前を書きましょう。

人形にも太くハッキリと名前を書きました。

と。
この袋の中、人形と同じ種類の紙が一センチ四方に切られたものと細くて小さな植物の干して乾いた糸状のものが入っておりました。
ん?
まあ、あとで説明もありましょう。

袋と人形にそれぞれ名前を書いてとりあえずまた袋に戻します。

止まない雨を見上げても少しも苦に思えない、美しい佇まいの社殿がそこにありました。

それはそれは大きな随身門も見上げます。
大変重厚な屋根が葺かれています。
もとは茅葺きであることを物語っています。

No.391

(続き)

開始までまだ少し時間があります。

優しい、柔らかい、それでいて凛とした気。
こちらの神社さんの社殿から流れてくる、私の大好きな気が私を包んでくださいます。


拝殿から少し離れた、拝殿の真正面に茅の輪が設置されています。

ふと茅の輪に目をやると。



…茅の輪をくぐりながら唱える唱え言葉が、三つある内の一つしか書いていないではありませんか!

とはいえ三番目は『蘇民将来 蘇民将来』だけ。

二番目〜っ!

仕事していたときよくやった、ボールペンで手に唱え言葉を書き込みました。

やっぱりカンペを作っておくべきだったぁ。

…ええ、そうなんです。

大きな神社さんだし、きっと回り方から唱え言葉まで書かれたものが茅の輪のそばにあるのではないかと、…思ってしまったんです。

スマホで、それこそミクルさんに自分で書いて投稿しておいたところを開いて、手のひらに書きました。


あとは…時間の許す限り暗記だあぁぁ。


すると宮司さまがお越しになり、おっしゃることに
「本日はせっかくですので拝殿に昇段していただこうと思っております」


えっ?!

しょ、昇段〜っ?!


…もう何も頭などには入りません。

No.392

(続き)

近年、…たぶんコロナ禍以降のこと、だったと思うのですが、こちら産泰神社さんの手水鉢はお水が使える状態でなくなってしまいました。

冷たい水が心地よく、さらさらとした肌ざわりの水は心まで清めてくださるようで、私は好きだったのですが、コロナの扱いが感染症第五類となってからもそれは戻ることはありませんでした。

手水舎、手水鉢をめぐる問題はコロナ禍以前からのものであったのもたしかで、私などはこの柄杓を使って口をすすぐことにたいそう抵抗があったものです。
溜め水の手水鉢ですと、これは決して浄められはしないだろうと内心思ったものです。

手はまだしも口に含むことは大変抵抗があり、くちびるを湿らすことでお許しを願っておりました。

それでも浄め、潔めは大切なことと、ともすると全く矛盾することも思っておりましたので、コロナ禍以降は水を入れた入れ物と柄杓代わりにキャンプ用品のスノーピークという取っ手のたためる小さなカップを持参しておりました。

これが自己満足ながらなかなか良い。
本当はそこのお水が使えるのが、一番良いのはわかってはおりますが、そこも止められている寺社がかなりの数ありました。
こと神社さんにおかれましては御神水といった意味合いがございます。

わが家の水道水ではなぁ、と思わないわけでもなかったのですが…。

今なお手水鉢の使えない産泰神社さん、この日は水の用意を忘れ、持参のアルコール消毒でごめんなさいと心の中申し上げ丁寧にアルコール消毒をいたしました。



そんななんちゃって手水を済ませたあと、こちらの神社さんで私は拝殿前に向かう前に、寄らせていただく場所があるのですが。

そこにこの日はテントが設営され、榊等が置かれており、近寄ってはならないような空気感があります。


そこは【祓戸】であります。

祓戸はきっと穢れを祓う神聖な場でありましょう。
とはいえ、どうそこをお参りすれば良いか等は一切書かれてはおりません。
ただ木が植えられ、そこを厳重なくらいに赤い木の柵で囲ってあるのです。

人一倍穢れの多いおばさん、こちらの神社さんではそちらに寄って礼拝してから拝殿前へと向かうのであります。


うーん。
…今日はアルコール消毒だけでごめんなさい。


No.393

(続き)

やがて神職の方々がお揃いになられました。
そう、あの祓戸の前、テントの下に。

そして。
司会進行担当の禰宜の方が、
「これから皆さんに『大祓詞』の書かれたものをお配りしますのでご一緒に奏上していただきます」

えっ。


あ、あの大祓詞、をですか?

一緒にお唱えするっておっしゃいましたよね。

大祓式で大祓詞を奏上なさるのは存じ上げておりましたが、参列者も?共に?

私どもは大祓詞、初見ですが。

…間違えたらどうしよう。
というか間違う気しかしないです。

そうしたら私の罪穢れは祓うことができない?
というかこの場を、そして共に参列されておられる方たちのお祓いにもよくなかったりはしません?

ドキドキドキドキドキドキ…。



奏上です。

わっ、さっそくとちってしまいました。


でも私この短時間に決めたことがありました。

初見だしとちることは想定内。
ならばとちっても飛ばさず、周りの方から遅れようとも必ず一字一句お唱え申し上げよう。


なんとか。
なんとかお唱え申し上げることができました。

ほっとする私。

式は続きます。

「先ほどの人形(ひとがた)の入った袋に小さく切った紙が入っておりますので、それを身体にかけてください」

…ほう。
そうやって使うものでありましたか。
この薄く小さな繊維片も共にかけてしまって良いのかな?

はらはらはら…。
辺り一面に一センチ強四方の紙が散らばります。

これはさすがに雨がわざわいしましたか。

「それでは大幣でお祓いいたします」

…それが、ですね?
大幣、置いていないんですよ、どう見回しても。
なので巫女さんとかがこの場にお持ちになるのだと思って拝見しておりました。


しかしそのような様子はなく、神職の方が手に取られたのは大きな榊の枝でありました。

かなり大きな榊の枝です。
あたりを祓い、首を垂れた私どももお祓いくださいました。


その後、一人の神職の方が、テントの中央、祓戸の方を向きお立ちになられました。
三宝にお供えされた布を手に持たれると、その布を手で細く切り裂いていかれます。
最初は半分、また半分、と。


かなり細く切り裂かれます。


細く細く、…まさに幣のふられるふさふさの部分のような…。

No.394

(続き)

「それでは人形をお出しいただき穢れを移していきましょう」

えっ?
どこらへんの?
…私全身穢れだらけなんですが、足とかお尻とかは失礼、ですよね。
頭とかはとにかく、顔とかは失礼ではないですか?

内心を駆けめぐる疑問を抱えた私、ふと見ると、神職の方々も人形に穢れを移しておられます。

おおっ、顔もいいんだ。
ん?足も撫でておられるぞ。

お尻、…はとにかく腰は撫でておられます。

出来るだけ、出来るだけ人形で撫でて、穢れの移し残しがないようにしなければ!

口の穢れも移すべく、人形に口を寄せます。

「それでは最後に息を三回吹きかけて、袋にお戻しください」

はい!

ふうぅ〜っ。
すぅー。

ふううぅぅ〜っ!
すぅー。


ふうううううぅぅぅ!

「そうしましたら、その人形(ひとがた)をまた袋の中にお戻しください。
袋をお預かりしにまわります。
大祓の儀式がおわりましたら、後日すべてをお焚き上げさせていただきます」



おっ?
お焚き上げ、ですか?

考えてみれば近くに川が流れているわけではありません。

なるほどお焚き上げ…。

そもそも二百人くらいおられる参拝者さん、川があっても軽く環境破壊だ、環境汚染に抵触しそうです。


No.395

(続き)

このあと、今度は拝殿正面から昇殿させていただきました。

かつて、開けられた扉から流れるようにあふれてくる、優しいあたたかな気を感じながら、見上げていた拝殿の中であります。

前回の、薪能のときよりは少ない人数での昇殿で、二回目ということもありゆっくりと花鳥図を見上げることができました。
優しいタッチの、水彩画をも思わせるタッチの絵でありました。

「さあこちらへもお入りください」

へっ?

そちらって、…幣殿ですか?


「せっかくですので、こちらの天井画もぜひご覧ください。
今テレビでドラマ化されております源氏物語の天井画となります」

!?。
きょ、今日も、ですか?



嬉しい♡
なんと嬉しいことでしょう。

もはやもう昇殿すら叶わないであろうと思ってありましたのに。

幣殿はふだん神職の方が祝詞をあげ、お供物をおそなえするときくらいしか入ることのない〝間〟、であります。
たとえ祈祷などで昇殿することがあっても決して入室することのない〝間〟であります。


そして。
こちらに昇殿される方もごくごく限られたいま、やはり入室することもできなくなっている控室に、雨天ということで入室をお許しいただきました。
この控えの間、幣殿の天井画のコピーしたものが展示されており、まずそこでゆっくりと拝見することもできました。

ああ、これが須磨を描いたものであろうかとか、これはあのシーンであろうなとか、もう妄想と感謝が止まりません。
まことにありがたいことにございます。


これはその控えの間の壁に貼られた源氏物語の絵であります。

No.396

【鶏足寺】さん護摩修行

栃木県足利市にある鶏足寺さんの護摩修行へ参列させていただきました。
今回もまた始まってしまっていたらどうしよう。

そう、九時からというはずの護摩修行が、前回八時三十五分に着いたときにはもうすでに始まってしまっていたので…。

なにぶんにも隣の県。
そして九時からのお護摩に間に合うように一時間前に家を出ても、通勤通学ラッシュにぶつかり、なかなか思うようには着かないのです。
それでも三十五分前、だいぶ早く着いているはず、なのです。
これで間に合わないとなると一時間半前?

さすがに夫がまだ家におります。
仕事や誰かの為に、というわけでもない、ただ自分のやりたいこと、したいことをするために家を空ける、家を出るのは夫より後に家を出たいです。
いってらっしゃいと声をかけ、戸締りなどの煩雑なことをさせずに送り出したいのです。

…これが〝九時から〟なものだからそんな殊勝な風なことを申しているので、朝の六時から、などという行事に参列したいときは、…とっとと家を出ると思われますが。


今回はさすがに私を待ってくださって、私の姿をみた途端、…ご住職さまは「〇〇さんでしたよね。それでは始めましょう」とおっしゃって、スタスタと壇上へと上がって…戻って来られました。
「花御札でよろしいのでしたよね」
「あ、ああはい」
そしてまた壇上へスタスタ。

(えっ?今日も願意無し、ですか?)


「あ、何か願意はありますか?」

…これは別に私の心のうちが読めたのではなくて、単純に忘れていたことを思い出されただけ、だと思います。
ハッとした様子で振り向きざまにお聞きになられましたので。

しかも「家内安全でいいですかね?」
いやいやと、私が言いかけた願意をスパッと切り捨てて「では家内安全で」。
へっ?
そ、そう?

…お寺さんって、心にゆとりや癒しを与えてくださるところだとばかり思っておりましたが、なんだかモヤモヤが蓄積していくばかりなのですが…。


かくして、本日の護摩修行、八時半から始まりました。


…うーん。
これで良いの?

私が来なければ九時までは待ってくださった?


…どうも私は時間にルーズなのはあまり好きではないのです。
もちろん何かの都合で遅れるとかは気にならないのです。

うーむ。


でもここのお不動さま、五大明王さまは大好きです。




No.397

【穴原薬師堂】

夫に目の病があり、目の病に効くというお薬師さまがあると訪れては手を合わせています。

その一つに、群馬県みどり市の【穴原薬師】さまがあります。

少し前訪れた際、大々的な補修工事が入っており、参拝を断念したので、工事が終わっているか否かを確認がてら伺ってみました。

こちらはかつて貴船神社さんを参拝するため車を走らせていた通り沿いに、案内の看板をみつけ、参拝してその存在を知ったという経緯がありました。

この日もまずは貴船さまへ参拝し、その帰りに、穴原薬師さんへと向かいました。
ちょうどその辺りに沿道に紫陽花が並んで植えられている道があります。
色とりどりの紫陽花が並んでいるさまがとても綺麗で癒されました。
きっと土地をお持ちの地主さんが、そこを通る人たちのためにと植えてくださったものでありましょう。
何度となく通っている道でありますのに初めて気づきました。
車で通るものですから、花の時期にしか気づかないのでありましょう。

沿道に花を植えてくださる方は多くおられますが、自分のためでなく、ただそこを通る方のためを思ってのこと、そのお心をとてもとてもありがたく思います。


貴船神社さんからの道となるとヘアピンのようにカーブして道を曲がる必要があります。
貴船さんへ向かう道から分岐した、細い坂道となります。

晴れた日でも少し薄暗い、豊かな自然の中、まさに神聖な霊地へ向かうかのような道で、少し怖いような気すらする坂道を下ると、畑があり、お家がある集落となります。

なんだかんだ一キロ弱走って(あ、これはあの距離に対しての感が全くない私の感覚に過ぎません 笑)、右側、少し奥まったところに楼門が見えてきます。

初めてこちらを訪れたとき、あまりにも立派な門があるのをみて、大層びっくりしたのを今も覚えています。


ああ、工事は終わったようです。


あっ、ここ、…こんなに細い道だったか。
そこを入らないと路駐は無理、楼門まで続く道は車幅プラス十センチ強、…そんなことすらすっかり忘れられちゃうところがいかにも、…です 笑。

No.398

【大祓詞】

しどろもどろな上、何度も間違って唱え直したまさにしっちゃかめっちゃかな初めての『大祓詞』奏上。

みなさんが毎年お越しになっておられるわけではないでしょうから、何人かは私と同じに初見であったかと思うのです。…そう、少なくとも夫は。

…みなさん澱みなくスラスラとお読みになってるんですよね。
私のすぐそばにいた男の子などは、たぶん間違えてばかりの私の奏上を聞いて、堪えきれず振り向いてクスッと笑った…んじゃないかなぁ、そんな仕草がみられたくらいでありました。

大祓詞の書かれた用紙はそのまま持ち帰ることに。
しかしながら、わが家のように神棚すらない家で大祓詞を読み上げるような不敬な行為は畏れ多くてできません。

その辺に散らかしておくのも畏れ多いことで、ましてや処分などとんでもなく。
大祓詞の書かれた紙は、帰宅してすぐ、夫が神社でお受けしたお札を収めておく小さな棚に収めさせていただきました。


ただ。

この大祓詞、必死に読み上げながらも、なんとなくわかる言葉、みたことのあるワードがあちらこちらにみてとれたのです。

きちんと奏上することができなかったのだから、せめて意味くらい知っておこうではないか。


ええ、ピピって操作するだけであっという間に大祓詞を解読したものがスマホの画面に出てまいります。

あ、そうそうこんなワード、こんな言葉があった、あった!


まず高天原(たかまのはら)。

そして皇賀親神=すめらがむつかみは皇の親神さま、でありましょうし、皇御孫命、=すめみまのみことは、皇、天皇の孫って、ことですよね。

そう、神道に深く深く関わる古事記にも出てくるワードが散りばめられているのです。


これは自分でも頑張れば解読できる?…間違えても良いから、少しだけつついてみよう。

…無謀といえばあまりに無謀、ですが、頭の体操にはピッタリです。





No.399

七月十日。

…七月十日、?

何かが引っかかっている。
なんの日?
うーん。

夫の在宅勤務の日でしょ?
姉が遊びに来る日、でしょ?

はて…。

思い出せない。
ただぼーっと思い出そうとしていても時間がもったいないので、庭の草むしりと軽い剪定をした。

思い出そうとしていたことがあったことすら忘れて、シャワーを浴びて、仏壇もどきに朝のお勤めをしに向かう。
ここで思い出そうとしていたことがあることを思い出す。



…あっ!

観音さまの功徳日だ!

『四万六千日(しまんろくせんにち)』と言われる観音さまの特別な縁日とされている、一年に一度の功德日だ。

四万六千日は、約百二十六年にあたり、人間の寿命の限界とされ(えっ?そ、そんな長いの?)、この日観音さまにお参りをすると、人の一生分お参りしたことになる、と言われている功德日であります。

究極の裏技でありましょう。

そんな裏技を使うのはなにか姑息な気がして、最近はあまりこの日にお参りすることも減ってきていました。

でも揺れるおばさん心。

四万六千日分お参りすることにならなくとも観音さまにお会いしたいなぁと思う思いで揺れ動くのです。

と、雨音。

……。


ま、夫とお昼を食べてから、姉と相談してみよう。


この四万六千日、
一升(いっしょう)の米粒の量が約四万六千粒となるのだそうで、一生を一升にかけて、一生分参拝したことになるという説もあります。



…ああ、雨だなぁ。


暑さのため軒下の日の当たらないところへ置いたメダカを、雨の当たるところへ移動してあげよう。

メダカ、雨粒が水面に当たると嬉しそうに水面近くを泳ぐんです。

それがなんともかわいらしい。


今日は白い桔梗がたくさん咲いています。

これだって、…良い日であります。


そうそう、いつもはつっかえてばかりの観音経が初めスムーズに読むことができました。
これは観音さまの功徳でしょうか。

また読経した際、つっかえつっかえとなったなら、お縁日の功徳、ということになりましょう。

No.400

【大祓詞】についての私見

まずはじめに申し上げておきますが、『私見』です。

全く神道を学んだこともない、それどころか神社さんを訪れるようになってからまだまださほどの時も経ていない、ど・素人の、さらに言えばへんてこりんな脳みその持ち主がこの大祓詞をよみ、思った私見にすぎません。

誤ちだらけかと思いはしますが、一応は原文を自分なりに読み下し、さらに解読文を読んで大きな誤ちがないかだけは確認はしてはおります。

が。
へんてこりんな脳みそが生み出すへんてこりんな思考、考察ですので、どこでどう、どこをどうねじってひねったかわからないものと思っていただきたい。

そしてこれがまたすごく壮大なロマンを秘めたもので、それに感動した私は古事記やら日本書紀に寄り道し、大祓の儀式で見聞きしたものをまたとりこんで、すでにキャパを大きく超えてしまい、文章化ができるかどうか。


この大祓詞、群馬県前橋市に鎮座される産泰神社さんの大祓式に参列させていただくまで全く目にしたこともなかったのですが、九百字ほどの文章の中、心躍る物語が描かれ、人の穢れを祓うために神さま方がどのようにご尽力くださっているかを知ることができ、読めば読むほど、感動しかありません。


あ、でも、この神聖な祓詞をここに掲載するのは私のような罪穢れの塊には畏れ多くて到底出来ません。

えっ?

大祓式で罪穢れを祓っていただいたのではないか?ですか?
ええ、茅の輪もくぐりましたよ、それもこちら以外の神社さんでも。

でも歩くだけでも、一言言葉を発するだけでも罪を犯し、穢れるんですよ、煩悩のかたまりおばさんは。


ですので、私の私見だけつらつらと書いてまいります。


穢れ多きおばさんのスレでなくとも、ネットには神職の方のお載せになられたものがございます。
ご関心をお持ちになられましたなら、ぜひそちらでご覧いただきまして。


あら?

前置きが相変わらず長いこと。

今回は前置きだけでごめんなさい。

投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

新しいレスの受付は終了しました

前スレ・次スレ

小説・エッセイ掲示板のスレ一覧

ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。

  • レス新
  • 人気
  • スレ新
  • レス少
新しくスレを作成する

サブ掲示板

注目の話題

カテゴリ一覧