神社仏閣珍道中・改

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2024/09/21 05:50(更新日時)


【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。

自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。

初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。

相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。


No.3964800 (スレ作成日時)

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No.251

この日、やはり栃木県にあります【樺崎八幡宮】さんにも参拝させていただきました。

忌が明け、なんとなく神社さんを参拝させていただくことが多いよう、自分でも感じています。
今まで信仰心のかけらもなく、神さまや仏さまと無縁に暮らしていたころとはやはり少し変わってきている自分を感じたのは、忌中に神社さんに参拝することを我慢していることを自覚したとき、でありました。


この樺崎八幡宮さんは出流原弁天池に向かう途中、樺崎町の農産物直売所前を曲がって道なりに直進すると広い広い境内が見えてまいります。

こちらはなにせ元が奥州平泉の『毛越寺(もうつうじ)』さんや中尊寺(ちゅうそんじ)などの素晴らしさを実際に目にして、足利義兼公が、自分の領地に池を中心とした浄土庭園のある寺院を建てた、とされるその寺院跡であるのですから。

この義兼公は他ならぬ源頼朝のいとこであり、さらには北条時政の娘を妻とする、義兄弟でもありました。

平安時代末期、源氏と平氏の戦いでは頼朝の右腕として活躍し、鎌倉幕府創設に貢献した人物であります。


『鎌倉時代の足利氏は北条氏と姻戚関係を結びながら有力御家人としての地位を築いていきます。
このころの樺崎寺は足利氏の勢力を背景に堂塔を整え繁栄しました。義兼の六代後の尊氏が室町幕府を開いてからは幕府と鎌倉公方の保護を受けました。
将軍と鎌倉公方が対立するようになると、御廟の建て直しがされるなど公方家の保護が大きくなると同時に政治的な場として利用されるようになります。

戦国期になり足利氏が力を失うと樺崎寺も衰えていきます。

江戸時代には足利氏の末裔である喜連川氏によって八幡宮が再建されますが、中世の繁栄は見られません。

明治政府による神仏分離令により樺崎寺はその歴史の幕を閉じることになりますが、境内は樺崎八幡宮として氏子の方々に守られてきました。

その後昭和59年度からの発掘調査等により平成13年1月、国史跡に指定されました』


(足利市役所HPより)


…そうなんです。
発掘し、池を復元したりと、その寺院跡の面影を作られてはいますが、逆にそこにものの哀れを感じるような…。

ここのご本尊さまは神仏分離令により、紛失、アメリカでオークションにかけられていて、その行方がわかったという、なんとも哀しい運命をただっておられました。

No.252

(続き)

前レスにおいて、最後の締めくくりに
こちらのご本尊さまがアメリカでオークションにかけられた件についてふれた文章で

なんとも哀しい運命を>ただっておられました。
と書いておりますが、これは>たどっておられました。
の〝誤字〟であります。
ごめんなさい。

お詫びして訂正させていただきます。



さて、このご本尊さまが海外でのオークションに出展された経緯ですが、この時の所有者が2000年に北関東の古美術商から入手したとされます。
この所有者の依頼で03年に東京国立博物館が調査し、運慶作の可能性が高いと判断されたものでありました。

しかしながらこの時点では、あくまでも個人所有のもの。
しかも文化財指定等にもされておらず、単なる古美術品に過ぎないため、高額で取引したいと考えたなら、国が動く前に海外においてのオークションという考えがはたらいたのでありましょう。
文化財に指定するにもかなりの日数が必要とされますからね。

運慶の作品の多くが国宝か重要文化財に指定されており、文化財保護法により、指定文化財の国外への持ち出しには文化庁長官の許可が必要。まして転売となったら当然許可などおりるはずもありません。

とはいえ競売にかけられたのは2008年のこと、…それなりの〝日数〟は経っていますが、ねぇ。


運慶の作品が国外で取引されるのは初めてで、オークションにかけられている情報がはいった時点で海外流出の恐れが大きく取りざたされたといいます。
この日の競売には内外から応札が相次ぎ、落札額は予想価格(150万〜200万ドル)の6倍以上に達したといいます。

最後は三越と米個人収集家の一騎打ちとなったが、三越が制したことで、海外流出の危機は逃れました。

三越が落札した価格は1280万ドル(約12億7000万円、手数料除く)!!

この時の競売商によると、日本の美術品としては過去最高、仏像としても世界最高の金額だったそうです。


…。

……。


ま、まぁ、日本にあります。
足利市に戻ることはないでしょうが。

…というか、北関東の古美術商って、…お膝元におられたんですね。
明治のあの悪令以降のこと、ですからね。
ずっとお膝元におられたのかもしれません。


…誰か気づいてあげてよ、もう。

と、思わずにはいられなかったおばさんでありました。

No.253


煩悩を消し去って
道徳をまもって生きる人
感情に振り回されず
心理にしたがって生きる人は
法衣をまとうに値する

〈法句経〉より

No.254

(樺崎八幡宮の続き)

…と申しましても、私、まだ樺崎八幡宮さんについては何も綴ってありません。

興味を持つといろいろ、あれこれ広げに広げ、何を書こうとしていたか、それどころか何を書いているのかさえわからなくなって、ただでさえ語彙力文章力もない人物、収拾がつかないことがよくあります。

本当にこんな稚拙なものをお読みくださり、感謝の言葉もありません。


実は樺崎八幡宮さんが樺崎寺跡の中にあるわけではありません。

そもそもこの樺崎寺、本当は【法界寺】という名称でありましたが、文化財指定を受ける際(現在は国指定重要文化財)、【樺崎寺】で登録してしまったという〝オチ〟があります。

この樺崎八幡宮さんは康平六(1063)年に源義家の勧請と伝えられ、
一方の樺崎寺、法界寺は文治五(1189)年、奥州合戦の戦勝祈願のために足利義兼公が理真上人を開山として、創建しました。

つまり元々八幡神の祀られた八幡宮があって、その土地を与えられた義兼公がここに浄土庭園を有する寺を建立したということで、先に八幡宮の境内に付随して寺が建てられている、…いたのです。

樺崎八幡宮は、正治元(1199)年に当地で入寂した義兼公を、息子の義氏公が八幡神とともに合祀したことに由来します。

…これほどまでに神仏融合していることもあるのですね。

死が穢れとされる神社のすぐそばで入定していることもびっくりなことですが、入定した方がそのまま八幡神と合祀されているのです。

この義兼公の入定にいたるまでのことを書くとかなり長くなり、また、かつてこの珍道中の過去スレで長く長く綴っておりますし。

ここは割愛してまいります。
(それこそ収拾がつかなくなります)


こちらの本殿は天和年間(1681~83)に再建されているといいます。


平成十七(2005)年からの発掘調査で、この樺崎八幡宮本殿のすぐ北側で、義兼公がまつられた【赤御堂(あかみどう)】へ上がるための石段が発見されました。

当時は石段の正面にお堂が建てられていたことが推定されるといいます。
義兼公は赤御堂のかたわらで生入定したとされ、本殿床下には義兼の墓標が立てられています。


…びっくりでしょう?
本殿の床下、ですよ?

義兼公の入定からずいぶん経ってからの再建です。
…ずらさないんだ?
ずらすという観念は無かったんだ?

No.255

(続き)

何度来てもその疑問は驚きという感覚すら伴って湧いてくる。

入定された父を神格化して八幡神さまと合祀しているのだから、その入定跡は神聖なもの、…になる?
〝神聖な〟のはわかります。
私が疑問に思うのは神道としての神聖さは?
という意味です。

いやぁ、わからない。

千年は前のこと、だからなぁ。

〝武士〟、だしなぁ。


そこはおいておいても。
そもそもが入定されたのは『赤御堂』と呼ばれるお堂のかたわらだったわけで、少なくともその時代、現在の御本殿のところに建っていたのは神社の社殿であったわけではないのですから。

その五百年弱くらい後の世ってどう?
…やっぱりもののふ、武士の時代か。

おお!
八百屋お七の〝江戸の大火〟の頃だ。
ちょうど綱吉公が第五代将軍となった頃だ。
うーん。
…生類憐みの令かあ。

そういったことが起きたりそうした人物の生きた時代なことはわかるけれど、神道と仏教と儒教とかの複雑な絡み具合はここからではさっぱりわからない。

そもそもが理解できるほどの知識や力量がない。

ただ、今も残る赤御堂の石段から、赤御堂は本殿の真下のやや右寄りに、今の社殿と同じ方角を向いた形で建っていたことだけは私にもわかります。
本殿のきざはしに並ぶような位置関係です。
つまりは、赤御堂の建物のあった部分とは若干重なっている。

この広い広い境内でわざわざ…。

義兼公は建久六(1195)年に『東大寺』で出家し、赤御堂で亡き人の菩提を弔うと同時に自分の罪を悔いて念仏三昧な日々を送られていた。
…つまりはこの赤御堂はこの時点では立派な、正真正銘仏教的な意味合いの建物であったのです。

やはり息子が父の入定を受けて、神格化し、八幡神と合祀したのは、他ならぬこの〝赤御堂〟ということ、だったのでしょうか。

…これはあくまでも私の推測でしかありません。
そもそもがこの赤御堂の石段等令和の発掘調査で発見されたことです。


拝殿前で八幡神さまに手を合わせ、またこちらに参拝できましたことを御礼申し上げました。

…。

…しかしながら、です。やはり拝殿の横、幣殿の横辺りに来ると、私の感覚は義兼公の廟所、という感覚になってしまうのです、
ご冥福をお祈りしてしまう。
…神社なのに。

仕方ないかもしれない。


やっぱり、ここに至るまでを思うと哀しいに尽きるし。

No.256


般若心経のこころ

かたよらないこころ
こだわらないこころ
とらわれないこころ

ひろくひろくもっとひろく

これが般若心経空のこころなり




佛法の教え

佛法はまるいこころの教えなり
佛法は明るいこころの教えなり
佛法は清らかなるこころの教えなり

佛法は静かなるこころの教えなり
佛法はおかげさまなるこころの教えなり
佛法は無我なるこころの教えなり
佛法は大慈悲なるこころの教えなり
佛法は安らかなる身とこころの煮えなり


No.257

  紫陽花
     詩 白居易

何れの年にか植えて
仙壇の上に向う

早晩移栽して梵家に到る

人間に在るといえども人識らず

君に〝紫陽花〟と名づける


(意訳)
いつの頃から天上の仙人の世界に植えてあったのか、いつしかこの寺に移植された。
せっかく人間界にやって来たのに誰も名前を知らない。
あなたに「紫陽花」と名付けましょう。


作者、白居易は中唐の詩人です。
白楽天の名前でも知られています。

この詩は、彼が若い頃、江州の郡守をしていた時、招賢寺というお寺を訪れた時に作られたと言われています。

〝仙壇〟は仙人の住む場所。
〝梵家〟は仏教関連の家、ということでお寺となります。

僧侶が名前の分からない紫色の美しい花を白居易に紹介した時に、この詩を読み、紫陽花と名付けたようです。
なんとも素敵なお話です。

お寺と紫陽花、こじつけのようにこの詩を紹介しましたのは、紫陽花の花の画像をここに貼りたくて。


最近母の日はカーネーションに限らず、クレマチスであったり、ブーゲンビリアであったり、紫陽花であったりと、母の好みや自分の好みの花を選ぶことも増えているようです。

今日娘の突撃訪問があり、大きな花束のような紫陽花をプレゼントされました。

わたしのTシャツにハーフパンツといういでたちに顔をしかめつつ、照れくさそうに花を手渡してくれる娘に、涙がこぼれそうになり、抑えるのが大変でした。


No.258

【鑁阿寺 春の大祭】

つい最近参拝しておりましたこともあり、当初はこの大祭に行こうとは思ってもありませんでした。
鑁阿寺さんは静かな佇まいの中、お詣りしたいし散策したいので。

…が。

樺崎八幡宮さんにお詣りさせていただきますとどうしても鑁阿寺さんに参拝したくなるのです。
まるで引き寄せられるかのように、です。

これが鑁阿寺さんに参拝したときには、樺崎八幡宮さんにも…とはならないのです。
樺崎八幡宮さんが先なことが条件のよう…。

意識して、ではないのです。
本当にいつのまにかそういう気持ちになる、のです。

大祭、なので駐車場問題もあろうかと危惧いたしましたが、それも難なくクリア、やはり、導きでありましょうか。
それも楼門に続く参道を歩いて行く、いわば王道ともいえる、私の一番好きな駐車場に置くことができたのです。

大好きな参道を歩き、…鳩と鯉と亀の苦手な私には、ちょっとした修行となる橋を渡り楼門をくぐって…。

そこさえくぐってしまえば、目の前に御本堂が出迎えてくださいます。


ああ、鑁阿寺さまだ。


ここでほっとします。
息を大きく吸い込みます。

…あ、難所を通り過ぎたから、ではありません。

御本堂を見上げるだけでほっとするのです。
そんな癒しのオーラをお持ちなのだと思います。

古い灯籠やお地蔵さまが参道を見護っています。
大銀杏、多宝塔が見えてきます。




No.259

(続き)

【鑁阿寺(ばんなじ)】は、源姓足利氏二代目の足利義兼公が、建久七(1196)年に、邸内に持仏堂を建て、守り本尊として大日如来を祀ったのが始まりといわれています。

真言宗大日派の本山で、源氏、足利氏の守り本尊である【大日如来】さまをお祀りしていることから、地域の皆さんからは『大日様』と呼ばれ、親しまれています。

四方を堀と土塁で囲まれた寺域はほぼ正方形の形をしており、約四万平方メートルにもなる境内は鎌倉時代の面影を残す『史跡足利氏宅跡』として『日本百名城』にも選ばれています。

そう現在の鑁阿寺が、かつての足利氏の居住地、城屋敷であり、御本堂と不動堂の間には居館で使われていた井戸の跡も残されています。
この井戸は鑁阿寺七不思議であり、足利七不思議にもあげられる〝あかずの井戸〟であります。



義兼公が入定するにいたる原因でありましょう悲劇が、この居館において起こります。
この井戸の伝説もこの悲劇に大きく関わっているとも言われています。

…検索していただければそれについては容易に知ることができましょう。
私はあまりにも悲しいこの悲劇をここに綴ることを過去にも躊躇っております。


この悲劇ののち、義兼公は剃髪し、居館の中心を喜捨して鑁阿寺を建立するとともに、夫人の菩提を弔うために蛭子女尊堂を建てます。
鑁阿寺本堂の裏手に建つ、現在蛭子堂と呼ばれるお堂であります。

出家したのちも、自ら彫らせた大日如来さまの御像の入った厨子を背負って、諸国を行脚しています。

この大日如来さまの尊像こそが、あのオークションにかけられた大日如来さま。


どこまでも悲劇しかないよう感じます。


今回の、この鑁阿寺さんの春の大祭、この蛭児(子)女尊さまの限定御朱印が授与されておりました。

ちょうど藤の頃ということで、藤の花のスタンプ印の捺されたものでありました。

北条時子
 安産守護神
   蛭児女尊

とありました。


…義兼公のお導きでありましたでしょうか。
いえいえ、やはり大日如来さまのお導きでありましょう。




No.260

【鶏足寺】さん

栃木県足利市の鶏足寺さんの護摩堂(五大尊堂)で毎月八日に月次護摩供が行われるとのことを聞き、参列させていただきました。

九時からとのことでしたので、一時間みれば着けるかしらと家を出たところ、あっ、…ちょうど通勤通学で混む時間でありました。

…着くかしら。

そもそも二月の節分会に参加させていただいた折は夫の運転でしかもナビ付きの夫の車でありましたし、しかもナビ付きなのに道に迷ったという曰く付きのお寺さん。

……着くかしら。

さらに加えて私の車にはナビがありません。
購入するとき、こだわってあえて付けなかったのです。
今思えば何にこだわっていたのかさっぱり思い出せないし、むしろ後悔しかないくらいです。

でもかつては鶏足寺さんのそばまで仕事で来ていたことだってあった私。

大丈夫、大丈夫!

それなので多少遠回りかもしれませんが、自分でわかる道をえらびました。

…ええ、ちょっと鶏足寺さんのそばで小道を二周し、ちょうど通りかかった年配の男の方にお聞きしたくらいでなんとか時間内にたどり着くことができました。

めでたし。めでたし。



…と、辿り着けばよいというわげではありません。
車を停めて、急ぎ足でまずは御本堂前へ。

御本堂前での参拝をすませました。
そうしてまた、急ぎ足で護摩堂へ。

まだどなたもお越しになっておられませんでした。

No.261

(続き)

参拝してお待ちしましょう。
手を合わせて目をあげると、…お堂の扉に小さな貼り紙があります。
「護摩供を希望される方はお入りください」

えっ。

そ、そうか、もう入って良いんだ、…ということはもうみなさん中におられる?

お堂の引き戸をノックするのも変かなぁとは思ったのですが、いきなりがらっと開けるのもどうかしらと、小さくノックしてから、そろりそろりと戸を開けますと、
「どうぞお入りください」
との声。

あまりにすぐにすぐのお言葉でしたのでびっくりした私は「ありがとうございます、失礼いたします、よろしくお願いいたします」
と、受験の面接のときのような反応をしてしまいました。

その声の主は…、…はて?

椅子に座られたお二方以外には姿がありません。

(ああ、お護摩にいつも参加される方がお声がけくださったのか)
椅子にかけておられる方に向かってまた挨拶をしていると、壇上の隅にいつのまにかお坊さまがお立ちになっています。

ど、どこから?

「御札はどうされますか?ご不要ですか?」

ほ、ほう。
護摩供を受けるからには御札をお授けいただくようであろうと思ってまいりましたが、そうでなくとも参列させていただけるようです。

ありがたい。

今後も参列させていただくたびに御札をお受けしていたら御札大臣になってしまうなぁと思っていたものでありましたので。

「花御札(はなみふだ)をおさずけいただけますか?」
お坊さまのお顔がかすかにはっとされました。

(あれ?花御札はいけなかったのかしら?)

…どうやらお堂にお持ちになっておられなかったようで、御堂から一旦退出されていかれました。


(すみませんです)


こちらのお寺さんでは月次護摩供の際に「花御札(はなみふだ)」という御札を授与しておられます。


【厄除花御札
 古代より花や樹木は人々の暮らしと深く結びつき、邪気を祓う働きを担ってきました。自然への畏怖と感謝の心から生まれた四季ある国の美しい風習に学ぶ『厄除花御札』。季節ごとの花や樹木に、災厄をしりぞけ、幸いをもたらす除災招福の願いを込めた御札です。ご家族の皆様の日々の護符として、家々の玄関や居間にお掲げください。】


とのご案内があるこのお寺さん独自の御札です。

これならば十二回は参列することができると、考えての参列でありました。

No.262

(続き)

それはそれは一つ一つの御札や御守りを大切にお手にお持ちになって、ご住職さまは壇上にあがって行かれました。

節分会のときと違い、お一人でのお護摩ですので、お座りになられるときの衣の裾の直しも皆ご自分でなさいます。

まず九条錫杖経から始まって、いくつもいくつもの御真言をお唱えになられました。

そうしてようやく火を焚べられました。
私ども一人一人の願意を御祈願くださって、それから年間の祈願をされた方の祈願をお願いされ、時々植物の葉などをお焚べになりました。

炎は不思議な形に燃え上がります。

やがて小さくなった炎を確認し、お護摩を終えたご住職さまのお手には私どもの御札や御守りが乗せられたお盆。
それをお持ちになられ、高い高い壇上から降りて来られたご住職さまから一人一人御札等を手渡されます。

それが決まりごとのように壇上へと上がる方が一人。
その方に続いてもう一人の方も壇上へと上がられ、ご住職さまも「お気をつけて」とお声をかけます。

私も。

こちらの 御内陣はかなり高さがあり、そこに上がるために箱段が置かれています。
この箱段の一つ一つがまた結構高い。
気をつけて上がらないと上がり損ねたり、バランスを崩して踏み外しそうになろうかという感じの箱段です。

一段一段気をつけて…。

あぁ♡
ひとめで大好きになったお不動さまをはじめとする五大明王さまたちの尊像です♡

この五大明王さまの尊像のお写真はこちらのHPにもありません。

…そうなんです。
この尊像にお会いしたくてこちらのお護摩に参列させていただいているところもあるおばさんで…。

もう少し参列者が多ければもう少しおそばにいられるのになぁ。

もう先に参拝されたお二人はもう堂内にお姿が無いくらいです。


私の拙い手彫りのお不動さまを見て、「これはなかなか…」とお褒めくださりました。

お世辞なのは私が一番わかっておりますが、それでもそのおっしゃりようがとても暖かくてお優しいので、とてもとても嬉しくて。

来月も来られたらいいなと思う私でありました。


帰り道。

鶏足寺さんの参道を悠々と雄の雉が歩いて横断しておりました。

なるほど、鳥に縁のあるお寺さんらしい。

鶯の鳴く音も聞こえています。


のどかで、心が穏やかになりそして癒される鶏足寺さんでありました。


  (花御札)

No.263

【石尊山梵天揚げ】

毎年八月十四日に、鶏足寺さんが関与するお祭りがあるといいます。

足利市小俣町に石尊山という山があるといい、その山で行われる【梵天祭り】という大変勇壮なお祭りのようです。

人混みが嫌いなわりにはこの珍道中ペア、実はなにげにお祭りは好きだったりいたします。

ワクワクしながら調べてみましたところ、な、なんと!
八月とはいえ午前三時からのものといいます。

あ、これは私はともかく夫は無理だな。
そして、こんな時刻に一人で山に行くのは実はビビりな私には怖くて無理。

…でもなぁ。

なんでも、太陽信仰を伝えるお祭りなようで、神仏習合時代の石尊山信仰を色濃く残しているといいます。
奉納される梵天がまた変わっているようで、栃木県の無形民俗文化財に指定されてもいるのだとか。

うーん…三時かぁ。
二時には家を出るようだろうな。

石尊山登山口にあるという『叶花(かのうけ)不動尊』で鶏足寺のご住職さまが護摩祈祷を行うといい、護摩供養と安全祈願ののち,心身を清めた白装束の若者達の手によって午前四時、山伏のホラ貝を合図に十五メートルもの御柱(杉丸太)に、七月末に作られた250体余りの梵天(幣束)を取り付けたものを、石尊山にかつぎ揚げ、日の出とともに山頂に打ち立て、石尊神社奥宮に奉納するのだといいます。

山頂で立てられた御柱を登り、先端に付けられている名板・帝釈天・幣串を取り、家内安全・商売繁盛を願ってそれを家に持ち帰り飾るのだとか。

十五メートルの杉の木って、…結構長いですよね。
それを岩場などもある山に担ぎあげるのも大変そうですが、それを山のてっぺんに立てて、昇る〜っ?

しつこいですが十五メートルって、かなりの高さになるはずですよ、…山の上だし。
あぁ、恐い。
私、ただでさえ高所恐怖症、加えて眩暈持ち、絶対無理です。

ただ、これ全員が昇るわけではなくて、有志が梵天に攀じ登って梵天講中の名板と先端の幣串を取るのを競い合うというものらしい。

ほっ。

最後に梵天を倒して引き抜いた幣串を参拝者に配られるといいます。

このお祭り、戦前は小俣の地区ごとに七、八本の梵天を立てたのだそうですが、現在は山麓の叶花地区の梵天講が奉納する一本だけなのだといいます。


…うーん。

…いきたいかも。

女子は見るだけだし、参加を希望しなければ夫も見るだけだし。

No.264

…すみません。
神社仏閣一切関係ないんです。
強いていえば今日必ず神社さんにはお参りさせていただきますが。


ビビりなおばさん、怪現象が一晩に二回も起きてたいそうビビっております。

昨夜二時に枕元でピピピピって鳴って。
寝ぼけて起きた私は(ああ、目覚ましがわりに使ってるガラケーの電源落ちの音か)って思って、二度寝したんですよ。


そしたらですね。
その目覚ましがわりのガラケーくん、元気に今朝も目覚ましの音楽を流してくれたんです。

…?
……えっ?


私、普通のアラーム音なんてセットしないし、このガラケー以外は目覚ましとしてなんて使わない。
しかもご丁寧なことに、このあとすぐに電源落ち。
…音も音の大きさも昨夜のものとは明らかに異なる。


一体、あのピピピピって、…何?


そもそも昨夜は口の中が苦くて、歯を磨こうと、洗口剤でうがいしても治らない。
ずっと口の中が苦くて、それが結構苦痛であった。
それも(何?)って思っていた。


いつも通りの目覚まし音楽で目を覚ました私はザワザワした気持ちのまま、玄関を開けて外に出ました。


…メダカが沈んで動かないでいる。


生きているようにも見えるには見えたが…。


ま、明るい朝ですし、爽やかな空気です。

げ、元気にいこう、…行こうっか。





No.265

【最勝寺=大岩山毘沙門天】

心洗われるお護摩供に参列させていただいたあと。
このまま帰っても良いけれど、うーん、夫と一緒だとなかなか行けないところへ行くのもありかも。

わたしは気に入ると同じ神社さんやお寺に何度でも行きたいタイプの人間ですが、夫はどちらかというと今まで行ったことのないところに行きたいようで。
行った事がない所に行くのも楽しいけど、癒されほっとでき安心できる場所って、…こんなありがたいところはないではないですか。

夫と一緒に行動しているときはいつものんでしまう言葉があります。
「〇〇さまへ参拝したいのだけれど」

言えばそこへハンドルを切って向かってくれるのは間違いない。
間違いないことがわかってあるからあえて飲む言葉があるのです。


…最勝寺さんへ行こう。

最勝寺さんは大岩毘沙門天さまの本坊です。

ですのでたいていの方はさらに上にある毘沙門堂へと向かいます。
ご住職さまも朝五時のお護摩を終え、上でのご用が終わるまでは上の毘沙門堂におられます。

ただ…。
この毘沙門堂への道は細い崖っぷちの道もある山道。
こういった道を車で走るのが怖いと思う私は、一人で毘沙門堂へと向かうときは山を歩いて目指すくらいです。
なので上へ行くことができない、山登りができないときは本坊である最勝寺さんから遥拝させていただきます。


あれ?
ご住職さまの軽トラだ。

ご住職さまはいつもこの軽トラで上の御堂との道を往復されておられるのです。

…ということは、今はこちらにおられるんだ。


でも突然の参拝ですし、お会いできるとは思ってもいません。
庫裏の前を通りながら、(働き者のご住職、今は何をされているかしら)と思いながら、御本堂へ。

お花の好きな奥様がお植えになり、お手入れされている(であろう)お花を眺めながら、御本堂の脇にある階段を昇ると、ん?

ご住職さまのお草履があるではないですか。


No.266

(続き)

栃木県足利市の最勝寺さんのご住職さまは、僧としても、人としても尊敬できるお方です。

真面目で、いつでも真摯に、心から人に寄り添おうとされる方です。
それでいてユーモアもある魅力的な人物であります。


御本堂にご住職さまがおられるのは間違いないようで戸も開けられています。
「こんにちは、お参りに参りました」
と。開けられた戸の外からお声がけさせていただきました。

「ん?おお、こんにちは。どうぞお参りください」
私「…あの上がらせていただいてよろしいのでしょうか」
「どうぞどうぞ」

…私がこちらの御本堂にあげていただくのはもうなんだかんだで五回目となります。

本来、上の、…山の中腹にある毘沙門天堂の御本堂がメインで、あちらでお護摩を焚かれて御祈願をしてくださるのです。
こちらは檀家の方の法要をされる御本堂でありますので、かなりレアなケースであろうかと思われます。

初めて昇堂させていただいたときからすっかりこちらのご本尊さまの大ファンとなりました私。

またお会いできるなんて♡


足利市での山林火災の起きた際、こちらのご本尊さまをなんとか避難させようとしてお不動さまの火焔光背が外れてしまい、その後どうしても付かなくなってしまったといいます。
大きな物ゆえ床に安置するしかなくて、ご住職さまはそれを見ては悲しそうに、そして悔しそうに毎回、
「あの火災でねぇ…』
とおっしゃる。


今、上の毘沙門天さま、吉祥天さま、禅尼子童子さまは奈良へ修理の為ご不在となっておりますし、仁王さまもやはり修理のためにおられない。

ご住職さまにとって、今はつらく寂しいときでありましょう。


ご住職さまは、私の参入などまるで気に留めておられぬように、いつも通りに(…いつもを存じませんので、たぶん、でしかありませんが)お勤めを始められました。

香炉に長いお線香を一本。

特に私に勧めることなく、次に移られます。

「お線香をあげさせていただきます」
と図々しく宣言いたします。
「三本ね」
とご住職さま。

なんだか嬉しくなるようなやり取りです。

No.267

(続き)

御本堂のみぎてにもひだりてにも、御仏が祀られています。

あれ?
ご本尊のお不動さまのみぎてに(こちらからは向かって左)に、以前は上の御堂におられた子育て観音さまがおられる?
この子育て観音さまのひそかなファンですあります私、ここでお会いできたことに心の中で大変感謝いたしました。
小さな小さな尊像ですが、優しさと癒しの気が厨子の中からあふれるような、そんなお力ある観音さまであります。

ご住職さまはみぎてのお厨子の尊像にも、座って手を合わせました。

お勤めが終わられてから、私に手招きをされ
「こちらは行基さま。一刀彫りなのです」とお教えくださいました。

そう、こちらは行基上人さまの開基と伝えられるお寺であります。
私が手を合わせるとご住職さまは
「こちらにも手を合わせて…いただいてありがとうございます」
と。
こちらこそがありがたいことでございます。


ところで。

参列者の座る位置からほど近い位置に、前回昇堂させていただいたときにはなかったものにどうしても目がいきます。

布が掛けられていますが、(お琴?)、そうどう見てもお琴に見えるのです。
檀家の方からの奉納でしょうか。
それとも奥さまが演奏されるのでしょうか。

見るとはなく見ている私の視線を感じておられたのか、
「お時間はありますか?」

しかしながら。
ご住職さま、私の返答も待たずしてそのお琴と思しきものにかけられていた布を外すと、そばに置かれたケースから爪を取り出して指に装着され、そのまま演奏を始められました。

おおっ!

…凄い!

すごくなめらかでそしてそれでいて力強さも感じられる音色であります。


ご住職さまはお歌も上手な方であられます。
…音楽の才能もある方なのですね。

No.268

牡丹の花の時期も終わりました。

なんだかんだと毎年お邪魔させていただいております〝花の寺〟の一つ、群馬県桐生市の【龍眞寺】さんに参拝させていただいたのは少し前のこと、五月の三日でありました。

大好きだったお寺さん、なのですが、少しずつ雰囲気が変わってしまい、それが牡丹寺を名乗ったせいなのかどうなのか…。

それでも今年はあちこちに活けていた牡丹の数も少なくなっており、そう、でもないのかなぁと思ったり。

たぶん大好きだった石仏さんがどこを探しても見つからなくなってしまったことも私の中で大きいのかもしれません。


こちらの牡丹は毎年黄色い牡丹が咲くと花の時期が終わることを告げます。
今年はそれでも他の色の花もかなり残っていた、…というのか黄色の牡丹が早く咲いたのか、そこはわからないのですが…。


お隣の県にある、あの有名な足利フラワーパークさんも紫や白の藤はすっかり花を散らしたようですが、そんな頃になると黄色い藤が花の時を迎えるようです。

黄色い花というのは何か特別にそんな役割を果たすものなのでしょうか?

ところが。

どうやらこの黄色い藤、実は『黄花藤』は同じマメ科でも属が違うのだといいます。
『藤』はフジ属で『黄花藤』はキングサリ属の花木、なのだといいます。

花の姿が「藤」に似ており花色が黄色なのでこの名がついたのだそうです。
この黄花藤、実は藤のように蔓性ではないのだとか。
花ばかり見るので、そんなことに気づきもしませんでした。

この花、花の姿が鎖のようにも見えるので、「金鎖(きんぐさり)」という別名があるといいます。


花の世界も奥が深いです。


No.269

【鑁阿寺】さん

本日五月十八日は、〝正五九〟の観音さまのお縁日であります。

そして観音さまにはもう一つご利益のあるとされる〝功徳日〟というものがあり、今日はその功徳日でもあります。

そんなお縁日であり功徳日である五月十八日に毎年、栃木県足利市にあります【鑁阿寺】さんで読経会が開かれているといいます。
ゴールデンウィークに開催されていた春の大祭に行き、小さなご案内があるのを見て、ぜひ参加させていただこうとワクワクしながら今日を楽しみに待っておりました。

朝九時からの開催とのこと。

問題は…今日は夫が休み、だということです。

何が問題かといいますと、夫は早起きが苦手、ということ。

もう一つは、夫は、何度も何度も参拝させていただいている神社さんやお寺さんにはあまり積極的には再拝したがらない、ということ。

一人で行ってはだめかしら。
でも夫は一緒に行きたいと言うのです。

今朝、案の定六時半を過ぎても、夫が部屋から出てくる気配はありません。

(洗濯ももう終わってるんだけど、なぁ。)


ガチャ!


おっ!起きたみたいだ。

少し諦めかけていた私、気分は急上昇です。

卵焼き、厚揚げの煮物、茄子とピーマンの味噌炒め、白菜の漬物になめこと豆腐のお味噌汁にトマト。
でーん!

行きたい気持ちがすでに形となって夫を待っておりました。


念のため、いつも使っている経本と念珠を持って、しゅっぱ〜つ!




No.270

(続き)

朝の鑁阿寺さんは空気も澄んでとりわけ大好きな時間です。
人もまばらな境内で何度も青い空にそびえるように建つ御本堂を見上げてしまいます。

見上げているばかりでは到着しないので、手水舎で手を浄めます。
鰐口をついて…。
御本尊の正面に設けられた大きなお賽銭箱の左隣の寺務所的な窓口の前に立つと、
「観音経にお越しの方ですか?」
とあちらから察してお声がけをいただきました。
「あちらから(御本堂みぎて)直接お入りになってください」

「はい、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

回廊のようになった御本堂前を右に歩いて行くと大きく戸が開け放たれて、受付から設けられていました。

申し込みを書くボールペンの書き心地の良いこと♡
ボールペンもここ近年飛躍的に進化し続けています。

申し込みの用紙を書く前に受付の方が事務処理しやすいようにと本日の参加費をお出ししました。

すると。

「今回の読誦会は久しぶりの開催ということで模索しながらの開催ですので、参加費はいただかないこととしましたので」
という驚きのお言葉が。

えっ。

小心者の私はソワソワしてしまいます。
さらにその方からお札とお供物をお渡しいただきソワソワはピークに。
初めて御堂に上がらせていただくのにそ、そんな…。

こういう時にキモのすわった夫は
「ありがとうございます」
と爽やかに返して、まるで慣れた御本堂であるかのようにさっさと進んで御内陣に向かって正座し拝んでおります。
私はといえばお金をしまったり、二人分のお札とお供物、いかにお札を傷めることなく持てるかどうかを苦慮しながら手提げバックに納めたり。

どんどん先に進んで行く夫。
御本堂の内におられる御仏の前で、すでにもう手を合わせ終わっておりました。

扉の閉ざされたお厨子が一つ。
その奥に木彫りの弘法大師さまの尊像が見えます。

おお!
中央には高い高い天井に届かんばかりの大きな大きな厨子です。
おおっ!
外からではわかりませんでしたが、このような大きな御厨子でありましたか。
大日さまのおられる御厨子です。

そして。
その大きな大きな御厨子の左に扉の開けられた御厨子には、大変お美しく、均整のとれた観音さまがおられました。

お美しくて、おやさしい。
そこにおられるだけで癒しをくださる、観音菩薩さまの尊像でありました。

No.271

(続き)

この日の鑁阿寺さんの行事は、正式には『観音経一千巻読誦会』。

一千巻、ですか?
大般若経転読のようにするってことかしら?
ですが〝読誦〟です。
そもそもが『観音経』ですので、私の知る『観世音菩薩普門品第二十五』なるお経であるならば、経本にして数ページ、大般若経の経本のような厚さはありません。

読誦、…一千巻?
一千巻って…一千回のこと?
一千回は、…ちょ、ちょっと難しいのでは?

般若心経にしたところで一千回派かなり厳しい。

…いや。
しかしながら仏教の行事ですから。
一千回だって、ありがたいお経ですし、修行にもなりましょう(か?)。

初めてのこと、不安と期待いっぱいです。

あ、そもそもが私、観音経をお唱えしたことだって一度とてありません。

無謀といえば無謀な参加です。

何も知らずに、一回すらお唱えしていない人間が、千回…ではなくて千巻読誦するという会へ参加してしまうのですから。


やがてご住職さまと副住職さまが登場されました。
とはいえ、あの法要の時のように鐘を鳴らしながら、とかではなくごくごく普通に歩いての登場です。
素足のご住職さまは右足にロキソニンテープと思しき湿布を貼られています。

「今日は足を痛めているので、椅子で失礼いたします」としながら、
「一千巻とは申しておりますが、コロナ禍となってから四年ぶり、…五年かなぁ、久しぶりということもあり、今日はどのくらいの方のご参列があるかもわからず、お弁当も用意しておりませんので、休み休み…休憩を入れ水分等を摂りながら、様子を見ながらお唱えできるだけをお唱えしようと思っております」
と。

お、お弁当まで食べて?
…そうですよね、一千巻でしたら、当然です。
そ、そうか、今回は一千巻は目指してはいないと。

そして椅子に腰掛けたご住職さまは開経偈をお唱えになられ、般若心経を皆で唱えたのち、『観世音菩薩普門品第二十五』の〝タイトル〟をお唱えになりました。
それに続いて皆で、太鼓の音に拍子を合わせ観音経を唱え始めました。


No.272

(続き)

よ、読めないっ。
…一度目はしかたないだろう。
次こそは!

…よ、読めない。
どこかしら突っかかってしまうのです。
三度目も四度目も、五度目も。

休憩が入ります。
が、次こそはと思うあまり肩の力が抜けません。
紙コップに入ったお茶が配られ、足利市で有名な和菓子屋さんの瓦せんべいが配られました。

それでも次こそは、と思う気持ちが抜けません。
お茶をひとすすりいただくとまた下を向いて、江戸時代からの太い横木を見るとは無しに見ておりました。

と。
堂内のひだりてで小さなざわめきが起こったのに気づきました。
「猫、猫が入ってきたよ」
と夫。

えっ? パァァ♡

しゃかしゃかと猫の方へと向かいます。
ああ、あの子だ!
あの懐っこい、抱っこにまできてくれるあの子だ♡
大銀杏の葉が散り始めた頃訪れたときに、手水舎のところで出会った子です。
キジトラの、四本の足先だけ真っ白な猫です。

愛おしい命です。

ただ、仏教ではどうなんだろ。
手を浄め口を浄めて御本堂に入っています。
…猫を撫でてもいいのだろうか?
うーん。

触りたいけれど触れない。

きちんと間違えずに読みたいけど読めない。

こんな御本堂の中で、思うようにならないことが二つ。

猫はそのうち、一枚の座布団に座って微睡みはじめました。

嬉しい♡

ご住職が再開を告げました。
背負うともなく感じていた肩の荷は猫のおかげかすっかり軽くなっていました。

〝ここを間違いやすいようだ〟
傾向はわかったのですが、対策がいまいち。
自分のペースでお唱えするのと違い、あれよあれよと言う間に(お経なので〝あれよあれよ〟もありませんが)次へと進み、つまづきやすい場所を正そうとすると、雪だるま式に次も、また次も、休憩前よりもつっかえるところが増えてしまったのです。

最後のところをお唱えすると、すぐに先頭の
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品 第二十五」
と唱えられ、また一からの読経が始まります。
休憩が入らない限り、エンドレス、リピートリピートです。

八十二歳だとおっしゃっておられた女性の可愛らしいお声が聞こえます。
真面目そうな、ちょっとした折にスッと人に気配りをされるおとなしい女の方の流暢な読経が聞こえます。

隣に座っておられるご高齢の男性はよく通る、いかにもお経向きのお声です。

がんばれ私!





No.273

(続き)

猫はといえば座布団に座ったまま、…ではなく、自然な楽な姿勢で眠りこけていました。

観音さまと猫。

私にとっての癒しが緊張をほどいてくれました。
二度目の休憩。

ようやく天井や御内陣を見る余裕が出てまいりました。
ふと、太鼓をたたきながら読経されていた副住職さまと目が合いました。

「あ、あの。うかがってもよろしいでしょうか」

出ました、エックスキューズミーおばさん。

「どうぞ」とおっしゃっていただいたおばさんがお尋ねしたのは
「この観音さまの御厨子の向こうに(裏手)に見える御像はどなたなのですか?」

私の裏手から夫がぐいっと耳を傾けて寄ってくるのを感じました。
さっきまで御本堂内を手を合わせながら歩いては上を見たり下を見たりしていたくせにいつの間に?

「ああ、あちらはこちらを建てた足利義兼公の像になります」
ああ、やっぱり。

「それではそのお隣におられる仏さまの御像は?」
「ああ、そちらは、…明治の廃仏毀釈で、この辺りにあったお寺がみな廃寺になり、そこのご本尊さまたちをそちらに(鑁阿寺さんのご本尊さまの裏手)にお祀りしたのです。
裏手もお参りしていただけますのでどうぞよろしければ。それぞれの御像に説明書きがあるかと思いますのでゆっくりお読みになってください」


えっ?!
ええっ?

は、初めて御本堂内に上がらせていただいてこのいきなりのお話に、おばさん、ワクワクドキドキです。

と、とっとと先に副住職さまの指さされた方角にある裏手への入りくちに向かう夫。
この喜びの余韻を楽しむことはないのでしょうか。

私の後ろにもうお一人、女の方がついてこられました。


副住職さまの指さされた方から裏手に入ると、真正面には弘法大師さまがおられました。

そうです。

こちらは真言宗のお寺さん。
元は真言宗豊山派のお寺さんでしたが、独立して『真言宗大日派』となられています。

No.274

(続き)

この日、お宮参りの赤ちゃんとそのご家族がみえました。

スタッフの方々が観音経読誦は一旦中断のようなお話をされていました。
そして入った中断の為、私はその裏手におられる御仏をさぁゆっくりゆったり拝観させていただける、そう思ってゆっくり手を合わせておりました。

なので太鼓の音が聞こえても、お宮参りなお子さんに対しての御祈祷が始まるのだと思っておりました。

「ねえ、始まるみたいだよ、みんな座って準備してる」と夫。

へ?

まぁ、夫の勘違いにしても赤ちゃんのお宮参りに参列させていただくのも光栄なことと、できるだけゆっくりそっと、座の雰囲気を壊さぬように先ほどの席に戻りました。

ご住職さまが開経偈をお唱えになりました。
そうそう、やっぱり赤ちゃんのお宮参りでしょ。
赤ちゃんは眠っているようですし、お兄ちゃんはずっと静かに、神妙に、ご本尊さまの御前に置かれた椅子に座っています。
無駄口のひとつも言いません。
(なんてお利口さんなんだろう)、と感心していると
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品 第二十五」と続くではないですか!

えっ、えっ?

よくよく考えれば、ご住職さまも副住職さまも、観音さまの御前に座しておられます。
ご本尊さまの御厨子の前にはぽつんと四人のご家族が。

ええ、そのまま観音経の読誦が始まりました。
…夫に騙されておいて良かった、ではなくて、夫を信じてよかった、です。

わが家の子どもたちは昇殿したり、昇堂したりしてのお宮参りはしていませんし、孫は神社さんでのお宮参り、生まれて初めてのお寺さんだのお宮参りへの参列です。

…でも普段ならやはりご本尊さまの前で、ご本尊さまに御祈願?御祈祷するのだろうな。

私の拙い、というかもはやほとんど観音経でない読経を乗せてしまって良いのだろうか?
悩むところであります。

できうる限り間違えないよう努力しよう。
…でもやっぱりうまくはいきませんでした。

でも大丈夫。
大日さまと観音さまのご加護は、私の読経になど左右されたりはいたしません。



(観音経読誦会の後、御本堂のわきにてくつろぐ猫さん♡)

No.275

(続き)

結局、ご本尊さまの裏手におられる御仏さまの像はほとんど拝見することができませんでした。

こんな機会は滅多にないというのに、もったいなかったです。

観音経読誦会が終わってから、ということも考えたりもしたのですが、この会を開かれるのも五年ぶりだとかで。
お疲れになられてもありましょうかと諦めました。

ご本尊さまと対になるかのように安置されていた胎蔵界の大日さまのお美しかったことといったら…♡

次の機会とは…来年の観音経読誦会?


来年はお弁当を用意して午後までやると高らかに宣言されておられました。

自信がないなぁ。

えっ?、今から練習しておけば、ですか?

…したんです。
次の日から読経に観音経も加えてお唱えしたんです。

…無理でした。

まぁ、言いかえると来年までみっちり一年間あるんですがね。

うーん。

…うーん。

毎日お唱えしている般若心経とてもおぼつかない私が、ですか?


うーん。

No.276

【産泰神社】さん

実は…。
この日、朝八時に家を出て、お昼まで鑁阿寺さんで過ごしたのち、いったん家に帰って。
(帰る途中、三本の指に入るくらい大好きなアイスを食べはしましたが…)

二代目となる鉄製フライパンを使い猛ダッシュで焼そばを作って猛ダッシュで食べて。
またまた車に乗り込んで、向かったのは群馬県前橋市に鎮座される【産泰神社】さま。


…そうなんです。
この日はまさに神社仏閣をハシゴして参拝したのです。

まぁ旅先などではごくごくありがちなことではありますが、自宅を拠点にして二カ所というのはなかなか…あるか。


と、ともあれ。

産泰神社さんへと向かった理由は、実はこの日滅多にない公開があったから。


実はこの日、同じく前橋市の『二ノ宮赤城神社』さんとこちら産泰神社さんの御神楽が行われたのですが、遡ること二月にこの観覧希望者が募られたのです。
その際、産泰神社さんの拝殿に昇殿できるとあって。

憧れて、それでももう叶わない産泰神社さんの拝殿への昇殿。
…そうなんです。
この社殿の保護のため、今は結婚式以外は昇殿することはできなくなっているのです。

今年五歳のお子さんの安産祈願までは昇殿できたのですか、そのお子さんが生まれてお宮参りした頃にはもう昇殿ができないようになっていた、…はず。

ではどこで?
どこで御祈祷いただくのか、と申しますと、令和元年に竣工した祈祷殿なるものがあるのです。

待合室も広くて、最新の、赤ちゃん連れにも快適に過ごすことができるそんな祈祷に特化した建物が、二の鳥居の斜め前にあるのです。

…なんだか苦肉の策。

境内内ではあるものの、おそらくこちらの本殿に祀られた御祭神を勧請したのだと思われます。
二の鳥居の外、ですから。

なので。

憧れの拝殿へ昇殿するには結婚式をここであげる以外手段はないのです。

若い頃貧しくて結婚式を挙げられなかったから、…とかであれば「よしっ♡」とばかりに挙式を申し込めたのですが、残念なことに(いろいろ黒歴史ではありますが、)人並みな結婚披露宴を執り行ってしまいましたし。

一旦離婚して…、などというのはなんだかんだで一番神さまを欺くこととなり、してはいけない、してはならないことですし。


結婚していない息子にしたって、結婚に口出しは〝禁〟ですからね。


…されて嫌だったことはしないんです。

No.277

(続き)

…ですが、ね。

神事じゃないですか。
境内での御神楽にしても、ましてや拝殿の中に入るなどは。

その申し込みの案内を目にした頃、夫は義母の容態の件で、何度も何度も仕事を抜けてICを受けていました。

そんな時に御神楽の話をするのは人としてどうかと思い、この参加申し込み、実はせずにいたのです。

おかげさまでおバカなのにも多少の利点はありまして、申し込まなかったものの日付など覚えてはいられませんから、申し込まなかった時点でこのお話はなかったこと。

…だったはずなのですが。

某SNSで発信されていたのです。

『… 薪能まつり公演終了後、
産泰神社拝殿「#源氏物語 天井画」
の特別観覧を行います。
(通常非公開)

チケットをお持ちでない方も
観覧いただけます。』


…昇殿できる?
昇殿できる!
昇殿できるんだ♡

御神楽と思っていたのが薪能であったことなどは気づきもせずに、自分に都合の良い情報だけを拾う私。

カレンダーに時間まで書き込んで、この日が来るのを今か今かと待ち望んでいたのです。

九時〜鑁阿寺さん
十五時〜産泰神社さん


ただ。
ふと気づいたことはありました。

拝殿の天井画は花鳥風月だったような…。
まぁ、覗いて見上げていただけのおばさんの記憶ですから、確かなものではないのですが。

まさか幣殿?


いやいやそれはもう御開帳レベルでしょう。


ワクワクしながら目的地到着。
四十分ゆうには前だったのですが、
駐車場は七五三のときくらいの車の台数です。


うーん。
御神楽の後だしな。

No.278

(続き)

…実は今、衝撃の事実を知ったのですが、もう一つのSNSではさらに細かく書いてあり


『第5回 産泰神社太々神楽二之宮式三番叟 薪能まつり
・日程 令和6年5月18日(土曜日)
・時間 午後1時30分~2時30分(開場12時30分)
・演目 舞囃子「須磨源氏」(下平克宏ほか)
    太々神楽(産泰神社太々神楽保存会)
※舞囃子・太々神楽はチケットをお持ちでない方は
 立ち見での観覧が可能です。

詳細は前橋市のWEBサイトを
ご覧ください。』



えっ?!

た、立ち見ができたの?

後悔先立たず。


今日の格言です。

いやいや、今日はまだまだ始まったばかり。

今日は仏像をお教えいただく日。
良い日であります。

No.279

(続き)

産泰神社さんの駐車場は都会の小学校くらいの広さはあるかと思います。そこに八割ほど車が停まっています。

それでも、全員が全員、この天井画を見に訪れているわけではないでしょう。

う。

随身門の下が満員電車のようにすし詰め状態です。


…そうか。
SNSは全世界に発信してるんだしなぁ。
今、おりしもNHKの大河ドラマが源氏物語を書いた紫式部が主人公だし。

…いやむしろそう考えたら少ないくらい。

人ごみの嫌いな私、一瞬あきらめて帰ろうかと思った思いがスッと軽くなりました。
しかしながら、もう一人の人ごみ嫌いはため息ばかりついて帰りたそう。

この二人がする珍道中、規模が小さくて当然であります。

「まだかなぁ」
「ちっとも進まない」
…夫は小さな声で話しかけます。子供じゃないんだから、もう。

やがて順番が来て、かつて祈祷を待つ部屋であったところに通されました。

ここも満杯、座る席も用意されていますが、これこそがまさに満員電車状態です。

おや?
天井画の写真を拡大したものが展示されています。
「あれ、明石のシーンかな」
「あれは須磨かね」
私たちが小さな声で話していると
「これは花の名前かなにかですか?」
と話しかけられました。

「章ごとのタイトルだと思います」
と答えたあと、このあとさらにつっこんだ質問が来ないかどうかヒヤヒヤしました。


源氏物語はいろいろな方が訳されました。
与謝野晶子。
瀬戸内寂聴。
谷崎潤一郎。
田辺聖子。
 ・
 ・
なにぶんにも元となる源氏物語自体が長いので、全部読んだのは瀬戸内寂聴と田辺聖子のもの。

田辺聖子のものは俗っぽかったなぁ。

寂聴さんは結構原文に忠実なのではないかしらと思う。

まぁ与謝野晶子のものも持ってはいるにはいるが、これはちょっとおバカな私にはハードルが高くて、いまだに寝かせてある。
おそらく今でなければ読めない。
でもきっと読まないんじゃないかと内心思っている。


でも。
一番といったら『あさきゆめみし』大和和紀でしょう。

何度読み返したことか。
漫画は偉大です。


でもその方はそれ以上の突っ込んだ質問をされることはありませんでした。
ホッとしながらあまり大きくないコピー画像な上、さらに遠いため、よく見えない源氏物語の絵を妄想を交えて鑑賞していました。
  

No.280

(続き)

「それではご案内させていただきます。その前にお願いがございます。
置かれているものに手を触れないでください。壁にもふれないように注意してください」

足元よろよろのおばさんは急に緊張いたします。
それでもゾロゾロと前の方について進んでまいります。

おおっ!

拝殿です。

ぱっと上を見上げます。

…ん?
やっぱり源氏物語ではない。源氏物語ではなくて花鳥風月が描かれています。


ええぇっ?!
だったらやっぱり幣殿、ですか?

これはこれは貴重な体験です。

一般の参拝者は入って拝殿まで。
幣殿になどはいれはしません。

すごい、すごい!

幣殿に入らせていただくんです!

幣殿は御祈祷される神職の方が入るのみ、本殿などは神職の方ですら、中に入るのは特殊なときだとおっしゃいます。


そして上を見上げて…。


う、うわぁ💕

No.281

(続き)

産泰神社さんの幣殿の天井画は、この建物が建てられた江戸時代に、数名の絵師により描かれたものと伝えられているといいます。

その絵師が描いて以来筆を加え修復したことはないとのことで、剥がれて欠落してしまっているところもありました。

一応、これ以上の剥がれてしまったりしないような加工は施されているといいます。


…こういった古い物の維持というのは想像する以上に大変なようです。
それはお金だけではありません。

しかも神社さんはお寺さんのように檀家さんがありません。
…もちろん信徒の方はおられますし、地域で支えるところもありましょうが。

お寺さんでも檀家さんのいないお寺さんもあります。

そうした神社仏閣さんの、…聞こえは悪いですが経営は大変です。

ただの経営ではない、あくまでも神さまがおられ、仏さまの教えがあってのものです。
営業もできるものではありませんし。


宮司さまや、お坊さまは、笑顔でお話をしてくださったり、笑顔で話を聴いてくださる方が大勢おられます。
〝スマイル0円〟、はマクドナルドですが…。

ありがたいことです。

「ようこそお参りくださいました」と笑顔でお迎えくださる神社仏閣も多いです。

お賽銭と御朱印や御守りの授与をお受けすることくらいしか私にはできませんが、みなさまのご健康と、ご多幸をお祈り申し上げます。






No.282

【新田不動尊(桐生市本町三丁目)】

ここ数日連日お寺さんをお訪ねしております。
写経であったり、彫仏であったり、いつもお邪魔させていただいているお寺さんであります。

今回は、特にお寺さんとも関わることなく、代々家族で守ってこられているお不動さまに参拝させていただくことができ、さらにはそのお堂を再建されたご本人とお話をさせていただくことができましたので、ここに記しておきたいと思います。


群馬県太田市に『新田不動尊』を名乗っておられるお寺さんがあって、ご縁をいただいたのかと思っておりましたら、それは全く関係がないようで、だいぶ前ですがこの珍道中録にも書いたことがある、私が伝え聞いた話どおりのお話がこの家にも残されているようでありました。


この不動堂、桐生市の『桐生八木節まつり』や『えびす講』の舞台である『本町通り』に面したもので、気づいた時には建て直され新しいものになっておりました。

(なんのお堂なんだろう)

神社仏閣に全く縁なく生きていた頃にあっても、不思議に思ったお堂でありました。
鳥居があるわけでもなく、何か近寄りがたい。
(お祀りされているのがお不動さまであれば、鳥居がないのは当たり前ですが、どなたがお祀りされているお堂か扁額もないため外から見るだけではわからないのであります)

私がこちらにはお不動さまが祀られていることを知ったのは、たしか桐生市のお祭りか何かを調べていて、…だったかなぁ。

大火があったときに、このお不動さまのお堂まできていた炎が、ここでピタッと止まってお堂から下は延焼せずに済んだというお話があって。

(あ、きっとあのお堂だ。あのお堂に違いない。
お堂に祀られておられたのはお不動さまであったのかぁ)

そう思ったのがはじめでありました。

こちらのお不動さまにぜひお会いしたい。
でもなかなか情報は得られない。
御開帳などがあるのかどうか。
とはいえわざわざ出向くこともなく、ずっと時ばかりが経っていきました。


それがこの間、忌明けのご挨拶に『桐生天満宮』さんを参拝した帰りに、本町通りを走っていて、こちらの前を通り、小さく扉が開けられていることに気づいたのです。

No.283

(続き)

この桐生市の本町通りに面した不動堂、『新田不動尊』は、お隣にある八百屋さんの所有される私設のもので、明治中期にこの八百屋さんの三代目さんが新田荘から遷座したといいます。

『ある時春吉の夢枕に、燃えさかる炎の中不動明王が立たれたといいます。
何かをお伝えになりたいご様子で、その立たれている場所に見覚えがあったといいます。

春吉は商売で東京と桐生を往来しており、その中途にある新田荘の景色に大変よく似ていると思いました。
この夢が気にかかり、三日後に新田荘にでむいてみると、田んぼの中に祀ってあった不動堂が焼け落ちてしまっていたのです。

ところが。
このご本尊の不動明王にタニシがたくさん付着し無事であったといいます。
タニシが身をもってお不動さまを火から守ったのです。

この事実にいたく感動し、夢枕に立たれたのもお祀りするようにとの御神託であろうと、お不動さまを桐生まで持ち帰り自宅にお祀りしたといいます。

それから間もない明治三十一年に、この辺りに全半焼六十八戸という大火が起こったのですが、このお不動さまの手前で延焼がぴたりと止まり、その霊験のあらたかさが人々を驚かせました。

それ以来こちらのお不動さまを参詣する人が急増したといいます。』

以前のお堂は、近所の方々が集まってお茶のみのできるようなお堂であったといいます。
五代目が昭和二十八年に改築したものの、老朽化が目立つようになり、平成二十九年に、七代目の奥さんが新たなお堂を建てたといい、その奥さんこそが、毎日店に立ち、八百屋を切り盛りする、今回お話させていただいた方であります。


「以前のお堂はもっと大きかったのだけれど、いまはもう集まってお茶飲みするようなお年寄りたちもいなくなってしまったし、お不動さまをお祀りできるだけのお堂を建てたのよ」
とにこやかながらも、縮小したことが少し悔しそうな申し訳なさそうな奥さん。

「屋根もね、ちゃんとお堂の屋根にしてもらったの。普通の屋根と違うでしょう?」

立派な立派なお堂です。


ご近所の方曰く、
「縁日にはお参りに来てくれた人に今でもお赤飯配ってるんだから、偉いよほんと」

お寺さんとかは関与してこそいませんが、毎日お供物をあげて立派に信心されて、なによりこちらをずっと護っておられる、ありがたいありがたいお不動さまでありました。

No.284

(続き)

桐生市の、個人の八百屋さんが所有しておられる『新田不動尊』さん。

こちらにはお不動さま以外に、三体の像がお祀りされています。
どのお像もみな、60〜70センチほどの高さの像がちょうど収まるくらいの木彫りの岩屋にお祀りされています。

お不動さまを中心に、向かって右側には椅子に腰掛けられた僧侶の御像。
左側にはおそらく行基さま。
さらに行基さまの左に達磨大師さまのお像が祀られています。

この三体のお像が、どれも実に精巧ですばらしいのです。

衣の裾の流れるさまであるとか、鋭い眼光であるとか、…仏像好きのおばさん、しばし言葉を失っておりました。
瞳は玉眼です。

明治時代というと、廃仏毀釈のあととはいえ、まだまだ優れた彫り師たちがいた時代で、神社彫刻や、山車や屋台の彫刻等を頼まれて制作していた職人が桐生にも滞在していたかもしれません。


この像を作らせてお祀りしたのも、このお不動さまとの数奇な出会いがあってのこと。

お不動さまとの出会いがどれほど嬉しくて光栄だったかを、この他の三体を見るだけで伝わってきます。


そして、時は流れても。
この不動堂とお祀りした御像を、誇りに思い、大切にお守りするのは四代後の七代目の奥さんにもしっかりと受け継がれています。

七代目であるご主人が亡くなられた後、このお堂を新しく建て替えています。


そんなお不動さま繋がりで、。私の彫った拙い手握り仏のお不動さまを十体ほど奉納させていただきました。
お赤飯と一緒にお配りくださいとお伝えして。


それか…かつてタニシが護ったように、私の小さな手のひらにすっぽり収まるお不動さんが、こちらのお不動さまを守ってくれてもいいな。

No.285

【鑁阿寺】さん

毎月二十三日は、鑁阿寺さんの多宝塔(二重塔)が開かれ、こちらにお祀りされる『勢至菩薩』さまが御開帳される日。

勢至菩薩さまというと【午年】の守り本尊さまでありますが、勢至菩薩さま単体でお祀りされることはほとんどなく、たいていが阿弥陀如来さまの脇侍としてお祀りされております。

息子が午年。
以前落ち込んでいたこの息子を連れて、鑁阿寺さんの多宝塔にお詣りしたことがありました。
その日は御開帳の日、二十三日ではなかったので扉の外から。

親が元々はまったく信心深くなかったので、息子も当然、このようにお寺にお参りする機会は滅多になく、少し戸惑っておりました。

いま息子は昨年子どもが産まれ、それはそれは幸せそうな笑顔で、びっくりするくらいのイクメンぶりを発揮しております。

それでも。
母と法事でもないというのにお寺に参拝したのは新鮮であったでしょうし、心に残っていることでしょう。

この勢至菩薩さまのお縁日に鑁阿寺さんへお参りしたのは、もちろんこの息子を思ってのこと。

週一回しか休みが無い勤務であるのに、休みの日はほぼ必ず家族サービスで遠くまで出かけているようで。
相変わらずどこか子離れできないおば(か)さんは、そんな彼がちょっと心配。

とはいえ、やっと、この日初めて参拝できたので、それほど子離れできていないわけではありませんね。


閑話休題。

まずは御本堂へ。

そして多宝塔へと向かいました。

多宝塔のそばに、鑁阿寺さんの大イチョウがあります。
全周9.5メートル、樹齢六百年といわれています、大きな大きな木であります。

このイチョウのファンは多いようで、まだ葉の青い今であっても、大きなカメラを持ってこの木を撮影している方がいく人もおられました。


おおっ!
たしかにいつもは閉ざされている扉が開けられております。
ただ、多宝塔の中に入れるわけではなくて、大きなお賽銭箱でロックされていました。
そしてその向こうにお灯明を立てるろうそく立て。

…せっかくの勢至菩薩さまがよく見えません。

あまり大きくはない、金色にひかり輝く勢至菩薩さまの後ろに、結構大きなお厨子が見えます。

実はこちらにも大日如来さまがお祀りされているとのことでありました。

No.286

(続き)

こちらの多宝塔、足利義兼公の創建で、現在の建物は元禄五(1692)年に、徳川五代将軍綱吉公の御生母『桂昌院尼』公が徳川家の祖先の供養のためにと再建したものだといいます。


初めて見たとき、この塔の大きくどっしりしたありように、大変びっくりしたことを今でも忘れられません。
今でも見上げるとその大きさ、その存在感にみとれるくらいです。

相変わらず、寺社の建築様式やら屋根の造りなど遠覚えられず、専門的なことは述べられませんが、七段の石段があって、一階部分は正方形の形にそれぞれの辺に屋根が流れる『宝形造(?)』。

二階部分はなんと円柱形!
まるで丸い太い柱のようで、それに沿って回廊があり、その回廊にまぁるく手すりが付けられているのです。
これは江戸時代の大変腕のよい職人が関わったのではないでしょうか。

二階部分どころか一階内部にすら入れないので、本当のところ詳細はわからない、といえばわからないのですが、当時はこの手すりの曲線を造るには、熱を加えてはかなりの強い力で固定してこの形に成形していったのでしょうし、それを寸分のくるいなく継ぎ合わせ、屋根の上にある丸い回廊に合わせて取り付けていったのでしょうから、気の遠くなるような緻密な作業であったのではないでしょうか。

その上にやはり宝形造の屋根を造るのです。
円柱形からの屋根。
これもまた大変な作業な気がいたします。
まぁ、専門的な知識は皆無なので、この辺はおばさんの推測、憶測に過ぎませんが…。

その二階部分の屋根に相輪が聳え立っている、…そんな建物であります。

そして。
この一階部分の中央の大きなお厨子のなかに【金剛界大日如来】さまがおられ、その前に【勢至菩薩】さま、厨子の左右に十六羅漢さまが安置されているといいます。

もちろん大きな厨子ではありますが、この多宝塔は御本堂のような大きな建物ではなく、とりあえず一階部分は一般の建物の一階部分より少し高いくらいのもの、なので、御本堂の大きな見上げるくらいの厨子に比べたらそれは比べるまでもない大きさではあるのですが。

…こちらの大日如来さまの御開帳ってあるのだろうか。

御本堂の大日如来さまは春と秋の大祭に御開帳されているようですが。


解説によると御本堂の胎蔵界大日如来さまと対になっているということなのですが…。

No.287

(続き)

鑁阿寺さんの御本堂におられる胎蔵界大日如来さま。
そして多宝塔におられる金剛界大日如来さま。

たしかに。
多宝塔の大日如来さまのお手元は智拳印という、…大変表現が稚拙で畏れ多いものとなりますが、かつての…昭和三十年代時代の男の子たちが忍者ごっこなるものをする際、「〇〇のじゅつ〜っ」
と両の手を胸の前あたりで組んで人差し指を立てるポーズの手の形によく似た〝印〟を組んでおられました。


先日の二十三日に多宝塔にいたお寺の世話役の方がおっしゃることに、「御本堂と多宝塔の大日如来さまたちが胎蔵界と金剛界と異なっているのは、〝阿〟〝吽〟という対になっているからなんだよ」
とのこと。

阿吽?

狛犬や仁王さまではないでしょうに。
阿?吽?

そんな煙に巻かれた顔つきの私を満足そうに、満足そうに見つめながら
「大日如来さまには二つ梵字があるんだよ。
御本堂におられる大日如来さまの梵字が〝ア〟。
こちらの大日さまは〝バン〟
梵字の読み方から阿吽になっているってこと」

…ほう。

正直、心のどこかで(ほんとかなぁ?)と思いながら、その方のお話にうんうんと頷く私。

【胎蔵界】は大日如来の慈悲を象徴する世界。
【金剛界】は大日如来の智慧を象徴する世界とされています。

『胎』は『母の胎内』を意味します。
『万物の母=大日如来の愛をもって慈悲を授ける』という解釈となり、
一方の『金剛』は『何よりも固い』の意味があります。
何よりも固い仏の知恵をもって、あらゆる煩悩を打ち砕く』という解釈になるといいます。


あえて〝対〟という表現をせずとも、この二つをもって私たちを救ってくださる存在だということなのだと思うのです。

そもそも大日如来さまの梵字はいくつもありますし。

一説としてとらえればよいのかもしれません。




No.288

(続き)

この鑁阿寺さんの多宝塔=二重塔の開かれる毎月二十三日。
この開かれている時間帯が十四時から十九時という、私にすると少し不思議に思える時間帯です。

勢至菩薩さまが午年の守り本尊とされることも、いろいろなお寺さんを巡らせていただいて初めて知った私でありますが、この鑁阿寺さんの月に一度の御開帳に今回初めて伺って、『二十三夜尊』という表現をされていることに気づきます。

勢至菩薩さまを調べようとネットを検索してもその表現をしていることはほとんどないのですが、二十三夜尊とすると勢至菩薩さまというワードが出てまいります。

これが二十二夜ですと、それこそお寺さんの境内でなくとも見かけるくらいに二十二夜塔(ものによっては二十二夜講と書かれている)が建てられていたり、そこに如意輪観音さまの彫られた石塔も数多くあるため、庚申の日の庚申講のように、二十二夜講というものがあるのだと容易に気づくことができます。

二十三夜尊。

ということは二十三夜講というものも存在するということなのでしょうね。
だから、十四時から十九時といった、月を空に見ることができるような時間帯に扉を開ける、ということなのでしょうか?

この二十三夜、月の暦としては【月待】と呼ばれる日であります。

…あ、月待。
月待講。
月待講というのは聞いたことがあり、調べてみたこともありました。

やはり庚申の日のように、『講中』と呼ばれる仲間の人たちが集まって飲食を共にしながら月を拝むといったものであったように記憶しております。

おそらくはこの民間信仰に、諸仏のお縁日が結びついて、二十三日がお縁日の勢至菩薩さまが二十三尊となっていったのでありましょう。

調べてみると、江戸時代に〝二十三夜に勢至菩薩さまを拝む(あるいは念ずる)と、勢至菩薩さまの御利益が得られるという民間信仰があり、今でも二十三日のお縁日に勢至菩薩さまをお参りする信仰の残るお寺さんもあるといいます。

…なるほど。


私は午年生まれの息子の無事や幸福・健康を願って詣でましたが、そうした御利益も得られるというお詣りでもあったわけですか。

家内安全・開運招福・人としての道を踏みはずすことなく生きる知恵をお授けいただける…。


これはこれは!


まぁ、今回は当初の願いだけを。

でもきっと今後もやはり息子のことをお願いするだろうな。


No.289

【足利伊勢神社】

栃木県足利市に鎮座される【足利伊勢神社】さんへお参りさせていただきました。
こちらは足利駅のすぐそばであり、足利市の中心部に位置します。
鑁阿寺さんからも歩いて10数分、といったところにあります。
しかしながら今までなかなか参拝に至らず、今回初めての参拝となります。


鑁阿寺さんのそばにある市の無料駐車場に車をおいたまま、徒歩で歩いてまいりましたが、到着した足利伊勢神社さんはそれなりの台数の車を停められる駐車場をお持ちでありました。

歩いて参拝に向かった理由として、こちらは『足利のお伊勢さん』と呼ばれ大変人気のある神社さんとお聞きしていたからであります。

見えてきた白木の鳥居。
ワクワクは高まります。
石標があります。
『足利伊勢宮』と刻字されています。
…あれ?
…伊勢〝宮〟?

白木の鳥居には扁額は掛けられていません。
代わり、というわけでもないのでしょうが、この鳥居の前に対の提灯が掲げられていました。
白木の鳥居とこの提灯がたまらなく〝和〟の感じを演出していて、私はさらにワクワク。
この提灯には『伊勢神社』と書いてあります。

鳥居をくぐるとまもなく参道は直角にみぎてに折れます。
折れてすぐひだりてにこちらのご由緒が墨書されたものがあり、道の正面に手水舎が見えてまいります。

仄暗い参道となっていますが、決して暗さを感じません。

手水舎に近づくと黒龍の口から自動的に水が出始めます。
田舎者なので自動で水が出るのを見るとそれだけでテンションが上がります。
ましてこちらの吐水は出始めから勢いが良くて、それもまたテンションをあげてくれます。

手水舎が参道の正面突き当たりにあったので、また参道は大きく直角に道を曲げます。
ここまでの距離は本当に短いものです。

手を浄めて。

歩いて二十歩ほど、でしょうか。
こじんまりとした社殿が見えます。

明るい優しい気を感じます。
まるで私どもの参拝をすでにご存知で、お待ちになってくださったかのような、優しいあたたかい気です。

参拝の仕方が読みやすい文体で書かれたものが正面に置いてあります。


おおっ!

真正面に神鏡のお祀りされているのが見えます。

こんなに神さまを近くに感じられる神社さんは久しぶりなことです。

No.290

(続き)

見上げた扁額は『足利伊勢宮』と書かれておりました。

ん?
おお!こちらの扁額、『大勲住伯爵 東郷平八郎 書』と書かれています。
元帥 海軍大将の東郷平八郎の揮毫のようです。
…まぁ、この名前を一目見て、どなたかがわかる、そんな世代ということ、でしょうか。
といってももちろん、戦中生まれなどではありませんよ。


こちらは同じ境内に外宮もあるようです。
拝殿のよこに通路が見えています。

と。
何気なく目に入ってきたのは、ハーブを使ったスプレーの避虫剤。
お使いくださいと書かれています。
ありがたい!

こちらへくる前に参拝させていただいた鑁阿寺さんでは油断して、右足二箇所、左足三箇所を蚊に刺されてしまいました。
…この虫刺されも場合によっては命に関わる時代においても、自分に対しての虫除け対策はまるで頭にない、女子力ゼロ、というか生活に対しての注意力、というか危機管理力ゼロなおばさんです。
…とはいっても、鑁阿寺さんは特に草むらがあるわけでないので、あまりそのセンサーが働かない場所でもあったのですが。

こちらに来るまで、というか来てからも、意識の三分の一くらいで、その痒みと戦っておりました。

お言葉に甘えて、顔以外の露出している部分にさ、さ、さっとスプレーさせていただきました。

本当にありがたい。
痒いところに手の届く心配りです。
もちろん、すでに刺されて痒い箇所には効果はありませんが…。

外宮に向かう細道は緑豊かな感じです。

こちらの神社さんへの感謝を胸に、外宮への道へと向かいました。

拝殿の横の道へ入るとすぐ目の前に外宮が見えました。
その外宮の前、右側に。
不思議な金属製の箱が置いてありました。
まるで…そう、脚のない、四角の郵便ポストのような…?

よくよく見ると、なんとこの金属製のがっしりとした箱、お賽銭箱でありました。
初めて見る形です。

こちらにも同じように参拝の仕方を書いたものが貼られていました。

お宮の前には大きな石柱があって、『外宮 豊受大神宮』とありました。


そのお隣、ちょうど拝殿の裏側には月讀宮がありました。

私は嬉しくなりました。

この、私の住まうあたりでは、月讀命さまがきちんとしたお宮で祀られることがなかなか無くて、とてもとても嬉しかった。

しかも。
この日はまさに満月なのでありました。



No.291

(続き)

月讀宮の存在を知って、わくわくドキドキしながら、その御前にいでましたところ、大きく見えたのは…覆屋でありました。

それでも小さいながら立派な屋根を葺いたお社でありました。

低くてこごんでくぐるくらいの石の鳥居をくぐると小さなお社が岩の上にありました。岩之上堂です。

…はて。
その岩に小さな小さなうさぎの人形がちょこん、ちょこんと置いてあるではないですか。

白い子、ピンク色の子、そしてまた白い、…おそらくは私の大好きな人形の付いたおみくじの子が。


…今回は初めてのお参りです。
お願いごとは基本いたしません。

なので。

初めて参拝させていただきます。
いつもこの地をお護りいただきありがとうございます。
今後もこの地を、ここに住まう人たちをお護りください。

と心の中で申し上げます。
それだけですので、夫がびっくりするくらい短いのです。

いつも伺わせていただいている神社さんですと、それこそ離れ住む子どもや孫のことまで、住まうところからその時その時のお願い事を申し上げてしまっておりますが。

なのでこのいつもの神社さんに夫が一緒に参拝するようなときには、びっくりするほど長いこと祈っております。
もちろん、拝殿前から少しズレて、次の方が参拝できるように場所を変えますが。


初めてのところでは、もうシンプルに上に述べたような事だけを申し上げます。

ただ。
もう一度でも良いので訪れたいと思うところでは、
(ぜひご縁をお結びください)
と申し上げます。

その時は自分の住まうところと名前も申し上げます。

そして次の参拝がかなったときは、初回にお願い申し上げた『再拝』の願いがかなっておりますので、そのお礼を心より申し上げます。
そしてまた訪れることがかないますようにと。


いつも遠くの神社さんではシンプルに前述した内容のみをお願い申し上げます。

基本、心に願うことはいつもお参りできるところでさせていただくようにしております。


で。
おばさんがこのあと向かった先は、…そうご想像通り『社務所』です。

御朱印も、ですが、もう〝あの〟うさぎのおみくじをひきたくてひきたくて、早足で社務所へと向かいます。

なので、御神木等もあったようなのですが、もはや素通り。


はい、煩悩のかたまりおばさんであります。


No.292

(続き)

こちらの神社の由緒は、案内板に書かれているのですが、欠損部分があって、ヒィヒィ言いながらなんとか読解いたしました。

今後は新しくされない限り、もっと消えていってしまうことでしょう。

また私がこちらを調べたくなった時のために、全文ここに残させていただきます。


【由緒】
 『当神社は、社伝によると、足利庄伊勢宮として、皇祖天照皇大神を奉斎して鎮祭され、新田、足利両家の尊崇を受け、鎌倉時代には源氏、殊に足利氏、尊氏、持氏、成氏等累代や衆庶の人々が連綿と崇敬され、足利尊氏の父貞氏の文書によれば、銀河寺の東南にある伊勢宮の勧請は足利家の武運を祈るためのものであり、先例に任せ怠慢なきようとの指示があり、この伊勢宮に由来するものと考えられる。それは古く平安時代の仁平元年(1151)の創建と伝えられる。
 其の後、天正年間(1573〜1592)には社殿が焼失した後再建され、徳川時代は一盛一衰、爾来編廃久しかりしに、弘化二年(1845)に伊勢神宮御師車館太夫が、旧社蹟を慕い来足し領主と諮り、社殿を造営し境内を整備して、摂末社などを奉祀し復興した。
 その後、王政復古国家多事の時代の要請により、旧社は空しく廃絶の厄運に遭遇するも、明治十四年、皇大神宮遥拝所として(境内地175坪)として再建し、明治三十五年(1902)には、本殿を伊勢神宮御造営御用人中川氏に委嘱し、伊勢宇治山田に於いて起工し、御正殿に倣い旧境内地に建設し、翌年に遷座を行い、奉祀するに至る。明治三十九年7月、神社復興の官許を得て往古の伊勢宮を奉称することも認められる。
 明治四十三年12月、明治四十五年5月の再度の神宮式年遷宮御造営残材御下賜の願出内務省造神宮使庁宛に提出のところ、特例を以て、大正二年3月29日付を以て御下賜の許可を受けて、全年8月15、16、17日の3日間に亘と、足利伊勢宮御下賜材御木曳行事が、古例に従い足利町中盛大に斎行され、足利、安蘇両郡の神官が奉仕して、近隣の町村から多数の参詣者で賑って奉祝した。足利の大正は、この祭りで明けたと言われた。よって足利伊勢宮の境域が整備され、由緒ある御社殿が造営される。大正九年(1920)市制施行に当り、旧鎮座地東町が御社名の名を以て伊勢町と改名されたことを、今忘れてはならない歴史である。

 
(続きます)

No.293

(足利伊勢神社さんの御由緒・続き)

… 大正十四年、市穴により、御社殿、社務所等の殆んどが焼災禍のため、惜しくも烏有に帰してしているが、直ちに仮殿を造営し、全年7月、在地(伊勢町二丁目地内)に移転し、奉することの許可を受けて、全年10月、仮殿遷座祭を執行した。

 当宮を永遠に奉斎して、神ながらの本姿をねがう氏子崇敬者の熱誠と奉賛とによって、伊勢神宮の御正殿の端麗にして簡潔、重厚にして単純さを表わす神明造りの建築様式で、御社殿を始め鳥居、社務所等諸建造物を新築に、昭和三年(1928)9月、起工式を執行、境内地749坪内に施工して目出度く竣工し、昭和四年10月17日、本殿遷座祭を斎行した。
その後、府県社以下、神社の宮号を改めることに付、昭和十七年、伊勢神社と改称(県知事)、又、村社に列格(内務大臣)、神饌幣帛料供進神社の指定を受け、いよいよの御神徳の宣揚、社頭の隆昌を期して現在に至った。特に当神社の神前結婚式は、当地唯一の古い歴史と格式をもって、多くの人々が御神徳を蒙り、今なお美わしいふるさとの今を受け継ぐ、足利の伊勢宮お伊勢さまと称えて、広く県内外の参拝、祈願する方々が訪れている。』


No.294

(足利伊勢神社さんの続き)

うさぎの人形のおみくじを社務所のカウンターに見つけたときの嬉しさといったらありません。
やはり月読宮に飾られていたうさぎはおみくじの子でありました。

しかももうその残り三体のみでありました。

もちろん、新しいものがご用意されていて、この子たちがみな、誰かの手に渡ったら、新しいおみくじとして陳列されるやもしれませんが、とにかく、出会えたことがうれしくて、しばし見惚れたものでありました。

社務所のガラス窓は閉ざされていました。
そっと手にかけると、…開かない!


えっ?
開かないってことは…?


他のおみくじは違うところにあって、お金を入れるところもそこにあるのですが、
うさぎのおみくじだけは社務所でお金を払ってお授けいただくようなのです。


ええっ!

狼狽えた私は時計を見ます。

まだ三時半。
時間的にはおられそうな…。


と、玄関にあるような呼び鈴があるのを見つけます。
その上を覆うように貼り紙がしてあって何か書いてあります。


ほっ。

これを押してお呼びすれば良いんだ。

とはいえ小心者のおばさん、実際にどなたか出て来られるまでは不安です。

「はい」
女の方が出てこられました。

…おそらく私、満面の笑をうかべ、その方にご挨拶をしたことでしょう。

まずは御朱印をお願いいたしました。
その間にどのうさぎに私の元にきていただくか、一体一体、お顔を見て心の中でそっと話しかけます。
「私の元に来てくれる?」

優しいお顔で微笑む子と、少しだけ寂しそうな子と、あまり視線を合わさない子と。

寂しい私は優しいお顔の子をそっと手に取りました。
手のひらでそっと包んで、御朱印に筆書きしてくださる間を楽しんでいました。

お金を納めて。

残りの二体、特に寂しそうな子に心の中で手を振ると。

なんと寂しそうな子、左足の先が欠けてしまっていたのに気づきます。

私はお人形を手に取っては選ばないので選んでいるときには気づかなかったのです。


…ああ、それで、それで寂しそうな悲しそうなお顔に見えたのか。

なら、あの子にすれば良かったな。


それでもおみくじです。
御神籤。
神さまからのメッセージです。

もう一体、というわけにはいきません。

ごめんね。
心でそう告げて、足利のお伊勢さんを後にしました。




  (桔梗草)

No.296

※前回のスレを読み直してみて、自分でもわからないほど、ただただ書き散らかしてあり、恥ずかしくなり、書き直したものです。
でも文章力か上がったわけではないので、たいして変わってはいないのですが…。


月の精である兎は勢至菩薩さまの使いとして信仰されるといいます。

そうなんだ…。

そして月讀命さまはまさに月の神さま、なのでやはり兎が使徒、眷属。


月に兎が住むという考えは日本だけではないといいます。
うさぎは夜行性の動物で、特に月夜にその行動が目立ったから、という説もあります。


満月のこの日、新暦ではありますが二十三日ということで、兎を眷属とするという勢至菩薩さま=二十三夜尊のお詣りに来て。

夫が行きたいと言って(ちなみにこの日、彼は人間ドックのための有休をとっておりました)、足利伊勢神社さんにお詣りに来て、そこで月讀命さまにお詣りすることができました。


なんだかもう、お導きな気がしてなりません。
まぁ、そう思うのもなかなか図々しい気もするのですが、でも偶然にしてはなかなかのもの。


そんなことをぼーっと考えていて、ふと、兎自体が神として祀られている神社があることを思い出しました。


因幡の白兎は鳥取県鳥取市に鎮座するという、その名も【白兎(はくと)神社】に兎神として祀られているといいます。
そして群馬県高崎市にも、兎を御祭神とした神社さんがあります。
高崎から前橋にかけて、兎神を祀る神社が点在していて、神社本庁が出している神社のデータベース「平成祭データ」では八社が記載されているといいます。

神さまの名前としては
『素兔神』
『白菟命』
「因幡之白兔』
『菟神」
とさまざまですが…。

白兎神はまさに鳥取の「白兎神社」を筆頭に山陰に祀られている神さまで、あまり他の地域ではみられないといいます。

それが関東の高崎に忽然と現れる『兎神信仰』。

中でも特記すべきは高崎市の【和泉神社】 さんでありましょう。
この他の神社さんとは異なり主祭神が『菟神 』さんなのです。

宮司さまも常駐されぬ神社さんであり、詳しいことはまったくわからないのですが…。

埼玉県の調神社さんのように、狛うさぎさんというわけでなく、大きくて立派な狛犬さまです。
うさぎの彫り物があるわけでもありません。

元々は廃寺となったお寺さんの境内社であったようです。

No.297

(兎神信仰からの和泉神社さんと、かつては共にあった不動寺さんについて)

和泉神社さんは広い広い境内です。
広い境内でありますというのに、不思議なことに住宅地の、住宅と住宅の間の道が参道となり、鳥居が一つあり、その参道は神社のほぼ真横につながっています。
まるでいくつかある鳥居の一つのようで、普通ですと社殿の真ん前に主たる鳥居がありそうな、そんな不思議な感覚を受ける参道です。

では、その社殿の真ん前には、といいますと、一軒の民家が建てられています。
一軒の民家とはいいますが、これがまた広大な敷地のお宅であります。
そしてそのお宅こそが、かつての不動寺さんのご子孫のお宅であり、そのお宅の敷地内、和泉神社さんの拝殿と同じ向きで、道に面したところに【京目不動尊】さまが祀られた不動堂があるのです。

このお宅のご先祖さまが代々ご住職を勤めた『不動寺』さんと、元は一つであった和泉神社さんが、明治時代に分離することを余儀なくされ、結果、今のような形でこちらのお宅が建ち、和泉神社さんが建つこととなっていったようです。

明治元(1868)年に公布された
・神仏判然令

・神社別当社僧復飾令
によって、今は廃寺となってしまった『不動寺』がこちらの神社のお勤めや社務を兼ねることができなくなってしまい、こちらの不動寺さんでも、ご住職の長男が復飾された、ということだそうです。

復飾とは僧籍を返還し、あらためて神職の資格をとることのようです。

つまりは、今現在の和泉神社さんの神職さまはどなたかはわからないものの、少なくとも、明治のはじめは、やはりこのお宅のご先祖さまであったわけであります。


…とはいえ。
和泉神社さんの御由緒までが伝わっているかどうか…。
せめて今こちらを管理されお勤めをされている神職の方がどちらにおられるかだけでもわかれば、御由緒につながるのではないだろうか。


思いは今、和泉神社さんに馳せています。


No.298

今朝のニュースを見て知ったのですが、つい先日こちらでお話しさせていただいた栃木県足利市に鎮座される【樺崎八幡宮】さん本殿などの屋根から、銅板およそ270枚がなくなっているのが見つかったといい、怒りがおさまりません。

それは27日のこと。
警察が調べたところ、本殿の屋根に張られていた銅板、およそ200枚と、本殿を囲う塀に張られていた銅板、およそ70枚がなくなっていたといいます。

これらの銅板は1枚あたり、縦およそ14センチ、横およそ56センチの大きさのものとなるといい、26日午後6時ごろに神社の関係者が本殿の見回りをしたときには異常はなかったということで、26日の夜から27日朝の時間帯にかけての犯行とされています。

足利市ではこの神社仏閣の屋根の銅板の盗難多発しております。

正直、この事件が起きたことを聞き、(ああ、あそこが狙われたら、もう取り放題かもしれない)と思いました。

周りには民家もなく、広い広い境内地。
さらには広い広い駐車場。
二十四時間誰でも入れる無人の神社。

狙われたらこれほど好条件のところは無いとさえ思われます。

ただ…。
よりにもよって神社の屋根、それも本殿。
そこに足を乗せて、換金という私欲のため、270枚もの銅板を剥ぐという行為。

しかもこちらの神社の本殿の床下には足利義兼公が入定されております。
ある意味…こう言ってはいけないのかもしれませんが、墓所でもあります。


どうしてそんなことができるのか…。

神社仏閣に縁なく生きていたときにあっても、…畏れ多かったし、怖かったですよ?

しかしながら、私が良い例で、親からそうした教えを受けずに育った人は増えているのであろうと思います。

それでも私の場合、親ではなくとも、祖母であったり、叔父であったり、あるいは近所の方であったり、なんなら友だちから、そうしたことを学んできました。

でも…今は近所の高齢の方との接点がなくなっていたり、お友だちと神社の境内で遊ぶようなことも減っていたりしましょう。


畏れのない人間ほど恐い存在はないかもしれません。


屋根が剥がされ、建物の保護が急務ともなっておりましょう。
ましてやこれから梅雨の時期を迎えようとする今であります。


はぁぁ…。


…許せん!

No.299

【観音経】

…読めないんですよ。
お唱えできない、というより、もう読めないレベル。

いまだ見たことのなかったような音の組み合わせと、単語。

まぁ、つっかえつっかえなら読めはする。
でも、そこに集い、心を一つに観音経を唱えるには澱みなく読めなくてはいけない。
まるでできない。

これはもしかして意味がわかれば読めるように、お唱えできるようになるのではないだろうか。

そう、お経に説かれた意味を知ることにより、見知らぬ、読みづらい単語の組み合わせのように感じる観音経をお唱えできるようになる、…かもしれない。

そんなことを考えながらもなかなかその時間を持てずにいた私。

そんな昨日。
雨降る中とはなりましたが、すっかり定例となった【はねたき道了尊】の月例祭に参列いたしました。

まずは錫杖経から。

なんのタイトル等も唱えず、いきなり錫杖経をお唱えになり、その法要は始まります。


そう、耳で聞いてなんのお経かわかるようになれば、そのお経はなんとかお唱えすることができる。

九条錫杖経はそこまでいっているのです。
だから自己流ではありますが、なんとかお唱えすることができるんだと思いたい。


そのあとまた一つお経をお唱えになり始めました。



…ん?!

これって観音経じゃん!

No.300

(続き)

…これは、仮説を取り下げなくてはならない。
今聞いているのがなんというお経かがわかるようになったくらいでは、そのお経を唱えられるようになど、決してならないと。

回数を聞いて。
何度もお唱えして。
そうしてなんとかお唱えできるようになる。
…まぁ、そんなことは全くもって当たり前なことで。


…しかしながら。
私、「これが観音経です」と言われて聞いたことがなかった。
はねたき道了尊の月例祭では、どちらかと言うと、周りの方々の雑談混じりにしか耳にしたことがなかったし、今回の鑁阿寺さんの『観音経一千巻読誦会』ではいきなり御唱和することとなって、ちゃんとちゃんとは聞いたことがなかった。

ま、すへて言い訳ですよね、言い訳にすぎません。

ぶっつけ本番なのは、この簡単にネットで検索して聞くことができる時代に、予習していかなかった自分が悪い。


…聞こう。
まずは聞こう。

それから、この観音経を見よう。
読んでもわからないが、どんな言葉が使われているか、どんな文字が使われているかを見よう。

そして。
どんな意味が込められているかを学ぼう。


そう、来年まであと十一か月と何日かもあるのだ。

たとえ来年、鑁阿寺さんの『観音経一千巻読誦会』に参加しなくとも、
(でも私なんとか読めるようになった)
そう思える自分になっていよう。



…とか言っているBGMはあいみょんだったりする。

ま、まずはこの沈みきった気持ちを浮上させないと。

お、またまた言い訳をしているおばさんだ。

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