神社仏閣珍道中・改
【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。
相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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(光前寺さんの続き)
「…!」
(珍しく)夫と並んで歩いていた私がいきなり走り出します。
それはそれは美しいお地蔵さまがおられました。
端正なお顔だち、やわらかなほほえみ。
私好みの形の良い頭の形。
私の好きな美しい、先がスッと細くて長い指。
そんな石造りのお地蔵さまに、うしろから日が差して、まさに神々しいと言う言葉しかない。
右足を立てた形で座って、その膝に肘をつき頰づえをついておられるのです。
その頬づえをついた右手が、自然にスッと指を伸ばした形で、その手の形、指の長さが、手のモデルでもできそうなくらいに美しいのです。
左足は軽く前に出し、低い座面の何かに腰掛けておられるお姿は、実にお美しい。
左手には宝珠を持たれています。
遅れてやってきた夫が
「これはまた見事な造りのお地蔵さまだね」
うんうん♡
「光背が欠けてしまっているのがひどく残念だね。でもこの薄さ、欠けてしまうのも仕方ないくらいの厚さだね。これは本当にもったいない」
…そうなんです。
それはそれは繊細な厚みまで研磨した光背はなんと『輪光』!
幅十センチ弱の輪なのです。
厚さといえば一センチとかくらいでしょうか。
制作途中で不運にも割れてしまうことだってありうるくらいの…。
よくぞ、この光背を石で。
古さから見て、機械彫りなど無い時代の物です。
石造りのものとは思えない、ありえないくらいに繊細な、丁寧な彫りであります。
!。
これはもしかして。
…もしかしてあの高遠の石工、守屋氏の手によるものなのでは?
でもそのお地蔵さまの背後やら何やらを見て、いつ造られた、誰の手による物かなどを見る気にすらなれないのです。
それほどに神々しい、石造りのお地蔵さまであります。
なんともありがたい。
去り難い思いを押さえ込み、後ろ髪を引かれつつその場を離れました。
4月16日から春の土用に入っています。
土用とは、年に四回ある季節と季節の変わり目のことで、春の土用は、
立夏の前の約十八日間です。
今年の春の土用は、4月16日~5月4日になるといいます。
土用の期間は、土を司る神の土公神が、土の中にいるので、『土いじり』をすると、怒りにふれるとされています。
これを知ってから、(あ、土用の期間だっけ)と、草むしりしたい思いを振り切ります。
というか最近はそろそろ土用に当たる頃だからと、早めに大々的な草むしりを済ませてしまっておくようにすらなっています。
つい数年前までは夏の土用の丑の日に鰻を食べることしか知らなかったくらいの人物が、です。
…まぁ頭が悪いので、スピリチュアルとか、こういった〝暦〟とかも、さっぱり理解ができないので、わかることまではしたり、あるいはしないように心がけたりしています。
土用の期間は草むしりはしない、だけですが、ね 笑。
いずれにしても季節の変わり目ということで、体調を崩しやすいこと、そこからあまり動かず過ごすようにということで、たとえば土いじりを禁じたりしているのではないかな、などと思ってみたり…。
大きなところでは土地の売買や、転居も良くないとはされているようです。
でもね、…優しいんです。
ところどころ、土用神さまがご不在になられる日があって、その日は土いじりも、土地の売買も転居もオッケーという日が何日かあるのです。
おっ!
ちょうどその日に人間ドックだ。
今年も何事もなく済みそうな予感♡
あ。
でも今年、夫がオプションで脳ドックを組んじゃったんだ。
脳の萎縮だの、認知症だの言われちゃうんだろうか、…やれやれ。
検査が近いというのに、いつも通りに、…いやむしろいつも以上に脂っこい食べ物を摂り、甘いものを摂って過ごしています。
今年もHgA1cが高いだろうな。
間違いなく中性脂肪も高かろう。
わかっていてもやめられない、煩悩の塊おばさんでありました。
今、国立博物館が熱い。
東京では【法然と極楽浄土】が。
奈良では【空海 KUKAI-密教のルーツとマンダラ世界】が。
浄土宗のお坊さんや真言宗のお坊さんから節操がないと叱られそうだが、私は無宗教、当然無宗派だから、そんなことはまるで関係ない。
…行きたいのだ。
しか〜し!
一人で行ったらしょぼくれそうな御仁が一人いる。
それがなんとも厄介だ。
念のため書くが、厄介なのであって、決して厄介者だと言ってはいない。
しょぼくれるどころではなく、
「あ〜あ、俺も仕事辞めたい」が始まるに違いない。
自分だけ仕事を辞めておきながら、なんともそこはずるいようだが、当時はもう立っているのもやっとだったのだからそこは仕方がないであろう。
あと数年もすれば定年の歳を迎えるし。
お金も無いくせにこの物価高の今、働きもせず一体何を言っているのか?
…そこは自覚している。
行けば行ったで、絶対に資料集は買うし、なんなら他にも欲しいものはごっそり。
東博の蓮の花クッションもいい♡
奈良では缶バッチガチャがしたい。
だが妄想は自由だ。
ことに奈良の空海さんの方はなどは、四十代の真言宗の副住職さんが絞り出すように切実な思いを込めて
「あれは行きたい」
との賜っていたくらい凄いのだ。
…まぁ、副住職さんは缶バッチガチャなどはしないんじゃないかとは思うのだが。…どうかな?
行きたい。
できれば奈良に。
まぁ、稀代の方向音痴で、田舎モン過ぎて都会の公共交通機関に不慣れ過ぎるし、奈良はちと、いやありていに言えば、ほぼ不可能に近い。
いやしかし。
子どもたちはスイスイと一人で全国各地へ出かけている。
私も彼や彼女と血のつながりがあるのだから、できないこともない…かもしれない。
成せばなる、成さねばならぬ、なにごとも。
ただ、今日見た報道番組で、認知症を患う方が自宅に帰れないまま行方不明になっている事例が多いことを報道していた。
…不安だ。
とりあえず、脳ドックを受けさせられるし、その結果考えていこう。
あ、厄介な人のことをまた忘れていた。
今、多忙な彼をあまり刺激してはならないな。
やはりそこは妄想にしておくか。
…とりあえず東博くらいならオッケー?
…蓮の花クッションが人気で欠品中らしいが。
【半僧坊大祭】
群馬県桐生市にあります唯一の時宗のお寺【青蓮寺】さんは、毎年4月第2日曜日に境内の斜面を登った高台にあるお社で年一回のお祭りが開かれます。
半僧坊といって私がスッと頭に浮かぶのは、神奈川県鎌倉市の建長寺さんの高台にあるもの。
こちらは臨済宗建長寺派のお寺さんです。
時宗は浄土宗の一派でありますので、半僧坊をお祀りするというのは宗派に関係なく祀られておられる天狗さまのお社、天狗さまのすみか、ということなのでしょうか。
…とあれこれ無い頭をひねって考察しておりましたところ、青蓮寺さんのホームページがリニューアルされて、半僧坊の縁起について書かれているではないですか。
『青蓮寺半僧坊縁起』
青蓮寺の山上にお祀りしてございます『半僧坊大権現』は、大正六年、青蓮寺に着任した当山四十二世亮海和尚(非常に霊感の強い和尚で、夢枕にこの半僧坊様が立たれ「我を祀れ」と告げられる)が、鎌倉の臨済宗建長寺派本山建長寺様より分身を頂きお祀りしたもので、以来七十有余年を経ております。
半僧坊大権現とは、今から六百年ほど昔、後醍醐天皇の皇子で、のちに臨済宗方廣寺派の祖が中国に渡るため船出を致しましたところ、暴風雨にあい難破しそうになりました。その時、船首に鼻の高い白髪の翁が出現し、その指示に従ったところ難を逃れることが出来ました。
その後、無事に中国へ着くことがかない、志をとげることがかないました。
帰朝後、その翁を『半僧坊大権現』として大切にお祀りされ、今日に至っております。以来、特に中部地方から関西方面にかけて『厄難消除・海上等交通の安全・火災消除・諸願満足の権現様』として信仰を集めております。(半僧坊の総本山は浜名湖の西側にあります臨済宗方廣寺です)
皆様もこのご利益をお受けになられますよう衷心よりご案内申し上げます。
縁日は観音様と同じ十八日ですが、桜の時節にということで、大祭は毎年四月の第二日曜日に営むようになりました。』
(青蓮寺さんHPより)
おお。
無い頭で考えた時間も無駄にはならなかったようで、何かお導きをいただいていたかのようでありがたく思えます。
やはり宗派を超えた勧請があったということで、そのお授けいただいた先も偶然ながら鎌倉の建長寺さんであったということでありました。
(続き)
青蓮寺さんは山門はありません。
誰でも好きなときにお参りできるようにとの思いからあえて設けないとのことであります。
実際、そんな思いから造られた境内は、あまり広くはないというのに四阿があったり、亡き方と電話して思いを伝えてと設置された『虹の電話』があったりいたします。
犬や猫がいて、四季折々さまざまな花が出迎えてくれるお寺さんです。
虹の電話といいますのは
『この電話は大切な方のこころに繋がります。
①まず最初に、深呼吸をして気持ちを整えて下さい。
②繋がりたい方を強く念じて下さい。
③受話器を取り、こころに浮かんだ番号をダイヤルして下さい。
④大切な人とお話をしてください。 』
といった解説があるようです。
見た目はいかにもありふれた公衆電話ボックス(えっ?もはやありふれてなどいない?)です。
長いことこちらへお参りさせていただいていますが、この電話をかけておられる方をお見かけしたのは一回。
見ていることどころか存在すら気づかれないよう気をつけて歩いたものです。
その後この電話をかける姿を見ないのは…たまたまなのかもしれません。そもそも私は毎日毎日参拝させていただいているような熱心な信者さんではないですし、滞在時間とてもそう長くはいられませんし。
…お寺さんとはいえ、庫裏もあり一般宅のお庭も兼ねているものです。
そう長くてはやはり不審に思われもいたしましょう。
慣れておられるとはいえ、やはりそうした環境をたまにはそっとしておいて欲しかったり、ゆっくり過ごしたかったりもありましょう。
たとえ、「ご自由に探索し自然をお楽しみください」とうたっていても、です。
また虹のポストというのもあり、
『手紙を投函されますと、その内容に従ってご供養をさせて頂きます。
封筒にはあなたの住所氏名を、手紙には手紙を届けたい方、伝えたいことをお書きください。』
とあります。
さらに
『供養の証(あかし)として、インドの聖地の砂とお守り(ミサンガ)をお送りいたします。
こころに届ける虹のポストの便せん
回向料等は不要です』
とあります。
まさにこの青蓮寺さんは、全ての人に門戸を開き、心に寄り添うことを目指されているお寺さんであります。
(続き)
語り出すとキリがない、大好きなお寺さんであり、ご住職さまであり、奥さまであります。
過去記事はいくつもありますし。
半僧坊大祭に話を戻しましょう。
お寺さんの駐車場が近づくと、読経の声に合わせて〝カンカン〟という少し甲高い、木を打ち合わせるような音が響いています。
六地蔵さまのお並びになられる入り口を通ると、真正面に御本堂が見えます。
まっすぐ歩いて行きますと、いつもとは異なって、御本堂の右手前に誕生仏、お釈迦さまの小さな像が同じ素材の小さなトレイにおられます。
トレイの中には甘茶と小さな小さな品の良い柄杓。
花御堂こそありませんが、『花まつり』も兼ねたお祭りのようです。
そばにはジャグと紙コップが置かれています。
はて。
こうしたとき、私はまず一番にすべきは、…なに?
まず手を浄めて。
御本堂?
誕生仏?
はたまた半僧坊さま?
迷ったときはまず御本堂へ。
ご本尊さまの真ん前には几を置いてご住職さまが座っておられます。
お辞儀をしてお賽銭をお入れして、もう一回丁寧にお辞儀をして、ご本尊さまに手を合わせました。
じぃーっと、ずっとご住職さまが、私の一挙一動をみておられます。
緊張!
悪いこともしてないし、間違ったことは…してるのかなぁ。
それはなんとも…わからないことで。
そして。たしかに折にふれてはこちらのお寺さんをお訪ね申し上げてはおりますが、私、ご住職さまとはそんなにお話ししてはおりません。
今年は一度ひろさちやさんの本をこちらで購入させていただいた時だけです。
私のことを覚えておられないのはたまにお話したときの会話でわかります。
(見たことがある…)そう思われての視線でしたでしょうか。
こちらのご住職さまの目は、じっと見られると緊張するのです。
緊張を隠して、一連の動きでご本尊さまへの参拝を終え、御本堂をあとにしました。
…ちょっとだけホッとしながら。
そして、…誕生仏?
半僧坊?
誕生仏、お釈迦さまにご挨拶させていただくことといたしました。
この日の目的はたしかに半僧坊さまの大祭なんですがね。
こういった時、学びのない自分が情けなく、ちょっとだけ悲しくなります。
そしてきっとこれは、…正解がない。
(続き)
こちらのお寺さんがこの半僧坊大祭に誕生仏をお祭りするのはいつものこと。
ただ、新暦でも旧暦でもないせいなのか、花御堂はなく、トレイ…浅めの鉢に甘茶の入ったものが置かれてそこに誕生仏、産まれて七歩歩いて右手で天を、左手で地を指さしたお釈迦さまのお姿をされた小さな御仏像を安置したものとなります。
はて、この甘茶は一体何杯お掛けすればいい?
仏教では〝三〟や〝七〟が大切にされているようですので、三杯としておきましょう。
さあ、いざ半僧坊さまへ。
…実はこの半僧坊さまの御堂へは近く見えてそれなりに登るのです。
距離というよりは坂?
途中にベンチが置かれているくらいです。
ああ、でもそのベンチからの景色はきっと、このお寺さんの木々やら花やらを見下ろせるベストポジション、なのかもしれません。
う!
鳥居だ!
私、まだ忌中なんだ。
(続き)
…たしかに。
お寺さんに鳥居があることはよくあること。
明治の神仏分離令はたしかに大きな傷痕を残したものの、神仏習合してからの歴史は長く、そう簡単には分離できなかった、ということでありましょう。
かなり大きな、取り返しのつかない傷痕となりましたが。
しかも。
こちらへ半僧坊さまが勧請されたのは大正に入ってからのこと、もう鳥居だって造れちゃう時代へと変わっていたわけで。
…これが初めての半僧坊大祭だったわけではないというのに。
なぜ、ここに来るまで鳥居の存在を忘れていたのか。
…まぁ、ひとえにそんな脳みそのおばさんだから、なだけでありますが、それでも鳥居。
……半僧坊さまって、…神さまだったんでしたっけ。
だって、そもそも勧請させていただいた先もお寺さんです。
しかもその、神奈川県鎌倉市の建長寺さんの半僧坊にはやたらと天狗さまのお像が祀られていたはず。
…半僧坊さまって、…どなた?
神さま?仏さま?、それとも天狗さま?
…調べてみましょう。
(続き)
半僧坊大権現は、建長寺の鎮守ともされていて、その御堂は建長寺裏山の中腹にあります。
後醍醐天皇の皇子『無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)』さまが開いた静岡県浜松市にある方広寺が半僧坊の本元であるといわれます
無文元選禅師さまにつき従っていた男が、薪採りや水汲み、食事の仕度をしていたので、『飯僧』と呼ばれ、のちに【半僧坊】と呼ばれるようになったのだといいます。
この男は、禅師さまが中国での修行を終えて帰国する途中で嵐に遭った際に禅師を助けたといわれています。
これが前述したものと重なります。
人が神格化された存在、というのが一番近いのでしょうか。
ではあの建長寺の半僧坊に、そして半僧坊への道にたくさんの天狗の像が祀られていたのは、何故?
はて?
天狗さんは…?
古代中国では、隕石や流れ星を戦乱などの不吉なことが起こる予兆とし、その正体は妖怪であると人々は考えていました。
その隕石などが大気圏に突入し爆発した時の轟音が犬の吠える音に聞こえたり、燃えながら空を飛ぶ姿が犬の姿に見えたりしたために「天の犬(狗)」つまり「天狗」と名付けられたという説があります。
もちろん空想上の存在ですので、諸説あります。
そんな天狗さん。
実は建長寺さんの半僧坊大権現は天狗の姿だとされているのだといいます。
おお、やはり?私の記憶も間違いなかった。
そして。
建長寺さんに半僧坊権現が勧請されたのは明治二十三(1890)年のことといいます。
そもそもが『半僧坊信仰』が全国に広まったのは明治時代なのだといいます。
静岡県浜松市の方広寺さんが山火事のため延焼してしまった際、円明大師(無文元選禅師)さまのお墓と方広寺の鎮守『半僧坊』が類焼を免れたことから、これは半僧坊の威徳によるものという評判が広まったことによるものなのだといいます。
ほう。
…ならば、やはり仏教由来。
いいんじゃない?
半僧坊さまにお参りしても。
いざいざ半僧坊。
…とはいいつつ、上の半僧坊の御堂におられた副住職さまに確かめた、小心者のおばさんなのでありました。
(続き)
と、お気づきの方もおられましょうが、こちらの半僧坊さまは僧形。
何やら長い杖をお持ちになっています。
ところが勧請していただきました鎌倉の建長寺さんの半僧坊大権現さまは天狗であるといわれています。
この違いは…。
…まぁ、元は人間であり、無文元選禅師さまに仕えていた『飯僧』と呼ばれたお坊さんであるのだから、あえて天狗とかではない僧形で、と思われたのかもしれません。
こちらではこの半僧坊大祭のときだけ、御守りや御札等を並べて授与されています。
普段は申し出たときに。
しかしながらどんな御守りがあるのか一体も並んでいないと、「これこれこういうことで悩んでおりますので、御守りをお授けいただけますか?」と申し出てお授けいただくだけ。
この日には、「ああ、こんな御守りもあったのだなぁ」と思えます。
御守りを見ている私に副住職さまが
「御守りは頼るものではないんですよ。こういったことを頑張りますので見守っていてくださいと願うだけのもの」
…な、なるほど。
握って頼るだけではいけない。
たしかです。
それでも。
たとえば大切な人の無事や、病いの平癒を願ってお授けいただいた御守りには、そこにその御守りを受けた人の願いや祈りがこもっています。
そう、こちらのお寺のご住職さまに、交通事故にあった息子の今後の無事を祈りに来たと話したときに、車に貼れるマグネットタイプの御守りを無料でお授けいただいたこともありました。
そんな人に寄り添う思いとか、祈りとか。
…両の手どころか、片手に持てる小さな御守りには、神職の方や僧の祈りが、そして大切な人を思い、その人を思う気持ちが込められている。
その思いを受けて、感謝する。
それで良いのだとも思うのです。
よく御守りの効果は一年、などという話を聞きます。
実際そう謳っている神社さんやお寺さんもあります。
でも。
私はたとえ効果がなくなっているよ、と言われようと、子どもたちからもらった御守りはずっと手元に置いています。
その時の、私を思ってくれた思いこそが尊くてありがたいから。
子供の時や若い頃は御守り一体ももたなかった私です。その分いっぱい持っていてもいいかなぁ…とか?
でも…ちょっと多過ぎかな 笑。
(続き)
ところで。
こちらのこの半僧坊大祭では護摩札の授与もなされています。
こちらのお寺さんは御朱印をお授けいただくとき、必ず御本堂に上がって御焼香をしてからお授けくださる、というのがこちらのご住職さまの定めたルールであります。
そしてそのとき、必ず法話をしてくださる、ありがたいお寺さんなのです。
こちらの御本堂の心落ち着くことといったら…。
御本堂へあがらせていただきたい一心で御朱印全てをお授けいただいてしまったくらいです。
一年に一回御開帳されるご本尊さまにも自分の都合がつく限り、お邪魔させていただいております。
その秘仏であられるご本尊さまは御前立のおられる御内陣の裏手におられます。
なので、御内陣裏をぐるっとまわらせていただくかたちで拝観させていただくのです。
何が言いたいかといいますと、それだけ御本堂に上がらせていただいております私、護摩壇が無いであろうことに気づくのであります。
はて。
護摩札って、…御護摩で祈祷するから護摩札なのでは?
その護摩札を求めて、檀家さんたちが続々と御本堂へとお立ち寄りになっているのを見るとは無しに見ているとすでに祈祷済みのお札を受け取って行かれる様子。
でも当日も受け付けますって…。
お護摩を焚いておられる様子は一切ないのです。
そもそも時宗って…、お護摩は焚かない宗派なのでは…。
…さすがにこれはお寺さんには聞けない。
で。
困ったときのGoogle先生にお伺いいたしました。
密教の有名な儀式であります御護摩ではありますが、もともとはインド系の宗教からのもので、そう言った意味合いから、密教と呼ばれる宗派以外にも御護摩加持をされる宗派はあるようです。
護摩加持をしないとされる宗派があるとしたら真宗と書かれてもいました。
なるほど。
で、でも…。
護摩壇もないけれど、そもそも御護摩を焚いてもおられないのですが…。
たしかに鎮火した後もその灰にかざして御祈祷されるのを見たことはあるのですが、はて。
あ!
ご住職さま、小さな火鉢にあたるともなく前に座っておられた!
この火鉢で御護摩を焚かれたということか。
なるほど納得。
護摩札は護摩で加持祈祷されたもの。
護摩は真宗以外行われる儀式。
とのことでありました。
桐生市の青蓮寺さんの半僧坊大祭で、忌中であるから鳥居をくぐってはいけないなと、鳥居をくぐらず半僧坊堂をお参りしているのを見て、副住職さまが、
「いや、そういうもんじゃないから。ま、いいか」
と意味深な発言をなさいました。
半僧坊さまをお詣りするのは「全然大丈夫」とおっしゃっておられたのに。
ただ、次から次からお詣りに来られる方をお迎えなさっておられる副住職さまにこれ以上お聞きするのも申し訳ないと、鳥居をくぐる、くぐらないについて、お聞きすることはやめておきました。
そしてそれはなんとなくわかる気がしたのです。
鳥居というのは、神域とそうでないところの境界であるとうかがったことがあります。
鳥居をくぐろうがくぐらまいが、その境界を超えたことは何も違いはないのです。
鳥居で身を浄めるという人もおりました。
鳥居を以って、その内に悪きものが入ることのなきよう置いた結界の役割があるとも聞いたことがあります。
まぁいずれにしても、私のような万年神社仏閣初心者が知っていることなどは微々たるものですので、鳥居の役割はもっともっとあるかもしれません。
そして前述したものも間違っているものもあるかもしれません。
今回鳥居をくぐらずとも、その内に入れば同じこと、全く意味がないことだと、私も後から思ったものです。
いずれにしましても、四十九日が過ぎ、なんなら神道の穢れ明けとされる五十日が過ぎるまでは、私は忌中の身であることは間違いありません。
【続 忌中そして喪中】
喪中とは『故人の死を偲ぶ為に設けられる期間』とされています。
故人を弔うことに重きをおくことから、喪中の間は慶事やお祝い事の企画や参加を控えるのが一般的とされています。
こうした喪中の振る舞いを「喪に服す」と呼んだりもします。
喪中という習慣は昔からのしきたりが現在まで受け継がれたものであり、家族や親戚などの血縁関係者が亡くなった際、喪中として喪に服すのが通例です。
慶事への参加を控えて社会から少し距離をとるのも、死を穢れたものとして扱う昔の風習に基づくという意味合いもあります。
昔からのしきたりと一口にいいましたが、実は喪中に関する取り決めの歴史はたいへん古く、757年に施行された『養老律令』というものの【喪葬令」(そうそうりょう)】に、天皇・父母および夫以下の親族などそれぞれ服すべき喪の期間が規定されているといいます。
江戸時代においては、第五代将軍徳川綱吉の時に発布された【服忌令(ぶっきりょう)】という法令で定められています。
その後、明治時代に入るとこの『服忌令』を基に新しく服喪期間を定めた【太政官布告】が発表されています。
以下がその太政官布告で定められた、明治時代当初における故人との続柄ごとの服喪期間です。
父母、夫:13ヶ月
養父母、父方の祖父母、夫の父母:150日
妻、子ども、兄弟姉妹、母方の祖父母、伯叔父母、曾祖父母:90日
養子:30日
念のため繰り返しとなりますが、これは明治時代のもの。
そう、現在放映されているNHKの朝の連続テレビ小説【虎に翼】のヒロインたちのさらに親の世代の頃のものであります。
…時代ですよね。
父母や夫、父方の祖父母、夫の父母よりも、妻が亡くなったときの服喪期間が短いんです。
はあぁぁ?!
一応私も妻という立場にあり、こんなのを見ると、はあぁ?というよりシャアァーッ!!という感じとなります。
…ええ、これを見て、こうした感情になり、続きを書くのをやめていたくらいです。
まさに時代、ですよね。
儒教の教え?
それはそれで良い教えもいっぱいあるにはあるんですけれどね。
私の調べ方が悪いこともあって、妻の父母は書いてもいなかったし。
調べたところでキィーっとなるだけなので、これ以上調べてはいないんですが、ね。
(続き)
明治時代の【太政官布告】で定められた『服喪期間』では夫の死に対して妻が一年間喪に服すのに対して、妻の死に対して夫が喪に服す期間がなんと三ヶ月!
他を見ても男性優位の設定が目立ちます。
当時は男尊女卑の社会的風潮が強く、服喪期間を取り決める太政官布告にもそうした『家制度』的な特徴が色濃く残っていました。
男尊女卑だけではなく、長男以外は人としても扱われないような、そんな非人道的なことが平然と、世に認められていた時代ですらありました。
そうした世を変えてくださった先人の方々にあらためて感謝いたします。
…朝ドラを観ながら 笑。
そうした偏向的な制度内容であった事から、この太政官布告は昭和二十二年に撤廃されており、現在では服喪期間を定めた法律は存在していません。
というか、昭和二十二(1947)年まで存続していたということに本当にびっくりいたします。
私の父母、そして義父母などの、私にすれば『ありえない』、前時代的発言も、実は彼らにとっては前時代どころかついこの間まで、そうした世の中であり、そう親からも、学校や世間からも教えられていた、当たり前だったことだったことをあらためて、というよりか初めて知った事実でありました。
ひえぇぇ。
どおりで理不尽なことばかり言われたものだ。
この偏向的な制度が撤廃後、服喪期間を定めるような法律は存在していないということですが、しかしながら社会常識的な目安として、当時の設定期間を参考に男女平等な内容に直されたものがあるにはあり、ただそれは法的なものではないため、地方によって異なったり、時代によってまた少しずつ変化してきてはいるようです。
ただ目安として、…何よりそれが知りたくて調べていたので、書いておきます。
ただそれもいくつかあり、
①故人から二親等までが服喪し、親等にかかわらず「喪中期間は一周忌まで」とする説。
②配偶者、父母:12~13カ月
子ども:3~12カ月
兄弟姉妹:3~6カ月
祖父母:3~6カ月
という説。
この②の幅って…。
…その家その家で決めてもいい?
まもなく迎える四十九日。
…夫に決めてもらいましょ。
SNS。
某SNSのアカウントを持つには持っているのだが、フォローもフォロワーも〝一族〟なうえ、鍵のかかったものなので、見ることに特化したものでしかない。
なので、そんな私を哀れに思うSNSのAIが〝おすすめ〟と称してさまざまな方の記事を挙げてくる。
その記事を拝見させていただいたり、いいねをポチっとするうちに、私の好みを読んで、おすすめの内容が固定してくる。
御仏像と、神社仏閣と、それに関与した内容で記事を書いておられる方と。
あとは動植物の写真。
もうちょっとしたパラダイスである。
そんな中で、ある一冊の本に出会った。
作者さんが書いておられる記事なので当然だが発売前からの紹介から始まって、(これは読んでみたい)と私の中ではひそかな盛り上がりが生まれ、発売日の次ぐ日、書店に行った。
ただ、少し高めのお値段なので、注文するのではなくまずは内容を確認したかった。
…ない。
もう一店舗。
…ない。
まるで私の立ち読みを懸念して仕入れていないかのように。
「当店には入荷がありませんのでお取り寄せになります」と、何枚複写かの伝票を手にしてペンまで持つ店員さん。
ごめんなさい。
私、ちょっと、…かなり貧乏で。
とまでは言えないけれど。
そして。
実はこの作者さん、初めての本、なのだ。
SNSに書かれておられる文章から、どんなものになるかはある程度想像はできるものの、なにせ値段が高い。
田原俊彦氏の歌ではないが、こんなはずじゃ無かったとはちょっと言いたくはない値段設定であった。
(大きな書店さんに行くしかないか)
とあきらめていたところ、たまたま立ち寄った小さなショッピングモール内にある〝大きな書店さん〟の小さな規模の書店さんにあったのだ!
値段の他に、もう一つ突っかかりがあった。
それは他ならぬ作者さんの〝芸名〟だ。
…本の作者なのに、芸名?
またまた語彙力の無いおばさんが、変なことを書いている、と思われたかと思いますが、この方の場合はこれで良いのである。
むしろこれが正解なのだ。
なぜならば、この作者さん、お笑い芸人さんなのだ。
本来ならおそらく出会うことのない方である。
なぜならば私はお笑いというものをほとんど見ない。
SNSでお見かけしなければ、もしかしたら一生知らなかったかもしれない。
(続き)
と。
やたら長く書いてきたその本のタイトルは『みほとけの推しほとけ』という。
お笑いに疎い私は、この方をついぞ知らず、テレビで拝見した記憶すらないのだが、このタイトルからお気づきの方もおられましょうが、この本の作者さん、芸名がよりにもよって〝みほとけ〟さんなのだ。
当然、初めてこの芸名を知ったときには(なんとバチ当たりな!)と憤慨しかなかった。
(いくらお笑い芸人とはいえ、ふざけるにもほどがある)とも思った。
今だってそう思わないことはない。
なんでも、ご本名が〝みほ〟さんということから、畏れ多くもそこに『ほとけ』をかけて〝みほとけ〟という芸名としているのだそうだ。
ただ、某SNSのAIは特にブロックもしないので、発売前など連日のように〝おすすめ〟してきた。
御仏像関連であり、お寺さん関連の記事であるからだ。
彼女のSNSでの文章は短くとも読む人を惹きつけるものがあった。
まあ、私が御仏像が好きでお寺さんが好きであることも多々あろう。
それをもってしても余りあるほどに、文章力があり、聡明な方であることがわかるのだ。
。そんな聡明な方であろう方が何故、こんな芸名を…。
でもすぐに慣れてしまう私がいた。
…そう、おばさんはおバカなので。
二千円近くするこの本、一切御仏像野写真はない。
なんならカラーページすらない。
でも面白いのだ。
あまりに一気に読み進んでしまうと〝終わって〟しまうので、チビチビと読んでいる。
まるで高いお酒を少しづつ楽しみに飲んでいるどこぞのおじさんのように。
仏像を表すにあたり、もっともっとふざけた表現をしていると言って過言ではない本も読んでいる私でもある。
とにかくこの本には熱い熱い、仏像に対する愛があるのだ。
それにしても。
いつも思うのだが、芸能人の方は本当に羨ましい。
取材と称してあちらのお寺さん、こちらの神社さんに旅費から何から〝ただで〟行けて、なんなら通常なら非公開のところにまで入れていただけるのだから。
…まぁ、そこに至るまでの努力は大きなものであったろうし、私はそんな努力はかけらもしていないのだから羨ましがるのがそもそも間違っている。
何よりも私は神仏を崇めることなく年を重ねてきてしまったバチ当たりな存在である。
さて、今日はどこまで読もう。
併読している小説も二つある。
極楽である。
「私をとーはくに連れてって」
と、何かのタイトルのようなセリフで夫に懇願した、東京国立博物館において開催された【建立九百年 特別展 中尊寺金色堂】は四月十四日をもって、閉幕いたしました。
この日、私は朝から(あんなお近くに寄せていただけることは二度とない)と感傷にひたっておりました。
そして昨日、中尊寺の金色堂では東博まで出開帳してくださっていた諸仏のご還座(げんざ)の作業が無事終了し、僧たちにより開眼法要が執り行なわれたということでありました。
ということは。
私がお会いした十一体の御仏たちは、閉眼供養、魂抜きがなされたままであったのだろうか。
それともご移動の時だけ閉眼され、東博に安置したのちまた開眼供養をされたのでありましょうか。
このとき、私は御仏として、というよりは御仏の像として拝見してありましたので、御仏十一体の御魂が抜かれたままに〝展示〟されていたとしても、むしろかえって罰当たりなことをしていなかったとホッとするところもあったりいたします、が。
やはり一抹の寂しさもあり、おばさんの胸は複雑です。
しかしながら、閉幕の際にはわざわざ岩手から貫首さまがお越しになり閉幕のご挨拶をされています。
また中尊寺金色堂に諸仏がお戻りになったのち、開眼の際には貫主さまをはじめとする計五名の僧により法要が営まれておりましたことから考えても、やはり東博においても御魂はきちんと御仏の中にあったと思えるのです。
そして今日は今日で別室に展示されていた(こちらは入場料なし、無料で見られるゾーンでした)宝物等が全て中尊寺さんの定位置に収められたとのこと。
元どおりの中尊寺に戻ったようです。
今開催されている【法然と極楽浄土】にも行きたいし、何より奈良の【空海 KUKAI-密教のルーツとマンダラ世界】に行きたい!
それから。
やはりとーはくで七月十七日から創建1200年記念 特別展【神護寺-空海と真言密教のはじまり】が開催の予定で。
行く!
一人でも絶対行く!
…あれ?
これって…。
お寺さんじゃないんだけどな。
いやいや神護寺さんに参拝に行くのでも全然いいのだけれど?
むしろ行きたい!
ただし、このとーはくの特別展が終わってから、ですけれど、ね。
…などと、夢を語っておりましたら、フォローさせていただいているブログのブロガーさん、
『この一週間のうちに、
奈良博「空海ー密教のルーツとマンダラ世界」展と、
京博「雪舟伝説」展
そして、トーハク「法然と極楽浄土」展
をハシゴしました』
ですって。
…なんてパワフルな。
そして…なんてお金持ちな。
いいんです。
私なりの幸せはそうではないということ。
奈良博は遠いし、旅費もかさむし、当然宿泊代だってかかる。
…一人で行けやしないし。
そんな体力もない。
…奈良博ねぇ。
どう交渉すれば夫の気持ちを変えられるかなぁ。
おいっ!
などとお寺さんから離れた、博物館関係で浮かれていた私に、ショッキングなニュースが流れてきました。
それは高野山の宗教法人『密厳院』が雇用調整助成金約621万円を不正受給した、というもの。
和歌山労働局によりますと、密厳院は、新型コロナウイルスの感染が拡大していた、2020年9月から2022年9月の間、実際には休業していないにもかかわらず、休業したとする虚偽の申請書類を作成し、雇用助成金あわせて約621万円を不正に受給したのだといいます。
密厳院は、高野山真言宗の総本山で世界文化遺産に指定されている『金剛峯寺』の宿場町にある宿坊の一つ。
女人禁制の高野山のふもとに母を置いて父を探しに来た石童丸に対し、『苅萱道心』が親子だと名乗らずに約四十年にわたって修行したという逸話が残る「苅萱堂(かるかやどう)」で有名なお寺。
…はぁぁ。
はぁ。
お釈迦さまが亡くなられ、弘法大師さまが亡くなられて(…亡くなられてはいないと言われるすじもありましょうが)、ここまできましたか。
たしかに。
宿坊にはコロナ禍においての休業というものは無かったのでしょう。
ただ緊急事態宣言で不要不急の外出が制限され、帰省や旅行、…どころか学校すらが休校となりました。
いわゆる開店休業状態?
檀家さんもいないお寺さんは収入の全てが絶たれたのはたしかだったのでしょう。
そう考えていくと、悪い意味ではなく純粋に、ウチもこの給付金の対象に当たるという考えに至ったのかもしれません。
ただ、ここでどうして周りの、他の宿坊となっているお寺さんに相談してみなかったのか、金剛峯寺さんに相談、報告しなかったのか、という点にいき着きます。
…やっぱりこれは不正であることに気づいていたと思わざるを得ない…嘘ついてるし。
ぅ。
哀しい。
お寺のご住職だって、犯罪に手を染めた方はいて、時々ニュースになります。
かなしい意味で〝人間だから〟。
…でもなぁ。
高野山のふもと、なんですよ。
金剛峯寺を冠に抱いたお寺さんの一つなんですよね。
ま、どこのどんなお寺さんとて、その運営にあたっているのは〝人間〟。
(人の)好き嫌いが激しくて、すぐに態度に出るお坊さん。
法要そっちのけでイベント重視のお寺さんも結構見てまいりました。
…でもなぁ。
教えを説く人、立場の人なんだよなぁ。
うーん…。
【四十九日法要】
あと少しすると義母の四十九日を迎えます。
四十九日は仏教用語のひとつで、死後49日目のことをいいます。宗派によって若干違いはありますが、この49日の間に、極楽浄土に行けるかどうかの「お裁き」が行われるといわれています。
この「お裁き」は一度ではなく、七日ごとに七回あります。
そのため遺族は七日ごとのお裁きの日に法要を営み、故人が極楽浄土に行けるように祈ります。
祈ることで故人の善行を足していくという意味で、「追善法要」ともいわれています。
その七回のうちの1回目にあたるのが『初七日』です。
初七日の次は二七日、三七日と続き、7回目の七七日が四十九日となります。
初七日は単に「亡くなって7日目」ではなく、最初の裁きの日という大切な意味を持った日といわれます。
ですが、私の住まう辺りではどこの家も葬儀・告別式のあとに続けて初七日法要を執り行ってしまうことがほとんどで、その後二七日や三七日と続きますが、いまはこれも遺族だけで祭壇の前でお祈りして、とくに僧侶を呼んで読経をお願いすることもなくなってきているようです。
もちろん、私の元同僚の家では、毎週毎週、遺族が集まり、僧を呼んで読経していただいていたと言っていました。
まぁ、義母は夫である義父の初七日の日、旅行に行ってしまっていたくらいですので、当然義母以降の婚家はそのような法要はありません。
ちなみにこの祭壇は『後飾り祭壇』とか『後飾り』『自宅飾り』『後壇(あとだん)』と呼ばれるといい、仏教では【中陰壇】と呼ぶのが正式な呼び方だといいます。
四十九日法要のことを【満中陰法要】ともいうといいます。
四十九日は7回目のお裁きの日です。
このときに極楽浄土に旅立てるかどうかの最終決断が下されるため、追善法要の中でもっとも重要な日とされています。
また、遺族にとっては忌明けの日にあたり、ひとつの節目でもある日です。
私たちは生きている間に『仏教の教えでやってはならない七つの罪』を犯しているといわれます。
(余談ですが『七つの大罪』という漫画がありますよね)
嘘を言ったり、生き物を殺したり、盗みをしたり、酒に飲まれたり…。
その罪を七日七日で裁かれますが、この七日七日日に僧の読経や、遺族の祈りでこの罪を償い、軽くしていただき、極楽浄土へと導いていただくのだといいます。
(続き)
義母の葬儀・告別式のあと、引き続き執り行われた初七日法要で、ご住職さまが、初七日で死者を浄土へと導いてくださるのは【不動明王】さまだとお話になられました。
とはいえ、この導きの諸仏、〝裁く〟というよりは導いてくださるよう。
ちなみに。
しばらく前、里見の阿弥陀堂のお祭りで、檀信徒さんや夫が唱えていた『十三佛念仏』は、かつて葬儀のあと唱えられていたようで、この十三佛さまにお導きいただき、成仏できるようにと唱えたようです。
この、各七日の四十九日を司られる御仏はというと【薬師如来】さまであります。
十三佛のうちの、四十九日までを、七名の御仏によって受け持たれています。
では〝裁き〟をつかさどるのは?
(続き)
死後の裁きといえばたいていの人が思い浮かべる方がおられましょう。
そう、かの【閻魔大王】さまです。
【閻魔大王】さまは冥界(=めいかい 死後の世界)の最高の王ともいわれます。
閻魔帳や人頭杖(じんとうじょう)、浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)を用いて、亡者が【六道】の『地獄道』『餓鬼道』『畜生道』『修羅道』『人間道』『天上道』といった世界のどこに輪廻転生するかを決定されると言われています。
この閻魔大王さまの審判を受けるとされているのは、実は三十五日のとき。
その前の段階、初七日から四七日(よなのか)の間、四王による取り調べを受けてのこの審判、裁きとなります。
…仏教での法要では、初七日は不動明王さまにお会いするとお話しされます。
…実はここが突き詰めるとわからなくなる仏教特有のものとなるのですが、閻魔大王さまの所属(!)される【十王】と、十三佛さまは表裏一体とされており、不動明王さまは【秦広王】さまと表裏一体、不動明王さまの化身が秦広王とされています。
【十王】とは
秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻羅王(閻魔大王)、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王とされます。
こちらの十王さまによって裁かれるというのは、『十王信仰』と呼ばれるもので、中国において、仏教と道教の両信仰が合わさって生まれているものとされます。
歴史はかなり古いもので、唐の時代にはもうこの信仰の形は成り立っていたといいます。
なので、この十王信仰は、日本の神仏習合の形ではなく、中国由来なものとなります。
秦広王さまで例をとりましたが、たとえばこの秦広王さまに対する不動明王さまのことを、【本地仏】あるいは【本地身】と呼ぶのですが、
この本地仏さまは当然、十王さまそれぞれにおられるとされます。
初七日 秦広王 …不動明王
二七日 初江王 …釈迦如来
三七日 宋帝王 …文殊菩薩
四七日 五官王 …普賢菩薩
三十五日 閻魔大王 …地蔵菩薩
六七日 変成王 …弥勒菩薩
四十九日 太山王 …薬師如来
百か日 平等王 …観音菩薩
一周忌 都市王 …勢至菩薩
三回忌 五道転輪王 …阿弥陀如来
となっています。
十三佛であられます。
このあと七回忌があり、十三回忌があり、三十三回忌までお護りくださる御仏がおられ、その御仏に対しての王もおられるとする説もあります。
(続き)
仏教が生まれたころ、インドには『輪廻』の考え方が根づいていました。
死んだら、また何かに生まれ変わってこの世に戻ってくる。
仏教も基本的にはこの考え方を受け継ぎました。
仏教において亡くなった方は『輪廻転生』を繰り返して徳を積み、極楽浄土をめざすと信じられています。
輪廻転生とは『また生まれ変わる』という意味で、亡くなってから四十九日後に生まれ変わりの行き先が決まるとされています。
この四十九日間は現世と来世の間を彷徨っている状態です。
このことを指して中陰(ちゅういん)あるいは中有(ちゅうう)と言います。
その行き先がどこになるか、それを七日ごとに行われる十王、仏さまの裁判で決定するのです。
この七日ごとの裁判で全ての罪業を決められますが、実際に起こしたことばかりではなく言っただけのこと・心で思ったことまでもを罪としてカウントされるのだといい、ほとんどの人は七回の裁判を無罪で済ませるのはとても大変なこと。
そこで遺された家族が法要(善行)を行なって、故人代わりに功徳を積み、死後の裁判が有利に進むように応援するのです。
これを追善供養といいます。
死後の裁判は七日ごとに七回行われるので、七日ごとに家族はお経をあげてもらったり、「故人がよりよい来世に行けますように」とお祈りするのです。
七七日=四十九日には【泰山王(=薬師如来)により最終判決が下されます。
ここまでの審判で、生まれ変わる時に男女どちらになるか、また寿命も決定されるといいます。
故人の来世がどうなるか、ここが最も大切な最後の裁判なので、親戚中の人々を集めて大きな応援を送ると言う意味合いでも、四十九日法要にみんなが集まるのです。
ちなみにもしここでも決まらなかった場合、百ヶ日の時に観音菩薩、一周忌の時に勢至菩薩、三回忌の時に阿弥陀如来による追加の審理が行われるとされます。
義父の四十九日法要の際、ご住職さまからそんなお話を聞き、(この四十九日までに来世が決まらない人というのは一体どういう人なのだろう)、…などというを考えていたことを思い出しました。
悪いことをしたにはしたけれど、その故人の生前した善行を慮り、なんとか良い道、良い転生をとお考えくださっておられる御慈悲なのでしょう。
救うことが前提にある、ということでしょう。
ありがたいことです。
(続き)
ちなみに、浄土真宗は、成仏についての教えが他の宗派とは異なります。
浄土真宗では、故人は亡くなってすぐに仏になると考えられています。
そのため、浄土真宗では魂が宿った位牌を仏壇で供養する必要がなく、基本的に位牌は用いないのだといいます。
では四十九日法要もしないのかというとそうではなく、その考え方が異なります。
浄土真宗では「故人のための追善供養」ではなく「遺族が故人を偲び、生について改めて考える期間」として中陰勤めを行うのだといいます。
故人を偲びながらも自身の心に向き合い、新たに歩むために浄土真宗にとっても四十九日は大切な法要といえます。
ところで。
裁きを受けて輪廻転生の輪にのる、と言う考え方とはまったく別の考えがあるようです。
四十九日までの間、
初七日で不動明王さま、
二七日て釈迦如来さま、
三七日で文殊菩薩さま、
四七日で普賢菩薩さま、
三十五日で地蔵菩薩さま、
六七日で弥勒菩薩さま、
四十九日です薬師如来さまが
それぞれ故人のもとへ降りてきてくださり、それぞれのお力を以て〝仏弟子〟になるようお導きくださるというものです。
そして四十九日の日、故人はそれぞれ各宗派のご本尊さまのお弟子になるといわれているようです。
そして御仏の住まわれる須弥山(しゅみせん)を目指して登って行く修行の旅に出るというものです。
ところが、この須弥山例えるなら富士山の上にもう一つ富士山を逆さに付けたような形をしているといい、四十九日までの期間に、そのいわゆるお茶碗を伏せたような山、普通の登山のように登っていくのですが、四十九日以後は登り辛い、〝お茶碗の外側のようなありえないような過酷な斜面〟を登ることになるのだといいます。
この修行は五十年といわれます。
このロッククライマーを以てしても登り難いような斜面を登ること五十年、その修行を行うことで悟りがひらかれるのだといいます。
つまりは、六道の輪廻にのろうが、須弥山を目指してのぼろうが、極めて厳しい修行へ旅立つことは変わりないようです。
まぁ、この二つの説ともいえるものが、関わりあって説かれるのか、全く別なものとされるのかは、今日、義母の四十九日法要で、お聞きすることができれば私にも理解できることとなるのですが…。
聞けないだろうな…、そのあと納骨もあるし。
お清めの席になるし…。
(続き)
ちなみに。
四十九日は『大練忌(だいれんき)』とも言われ、これは後者の説に基づくもので、故人が仏道修行に励み、晴れて仏弟子として再出発する、ある意味晴れやかな日であるのだという。
ちなみにいえば、このあと迎える百か日は『卒哭忌(そっこくき)』といいます。
悲しみに暮れるばかりであった慟哭のときを卒業する、という遺族側の乗り越えるべきものを提示して、法要し、今後、故人亡き後を守っていく決心を新たにするきっかけの日、であるようです。
これは義父の四十九日か百か日の日にご住職から伺い、今でもはっきり胸に残っている法話であります。
義父は急な病からの手術があって、それを乗り越えたのちもさまざまな苦しみにおかれ、病が見つかってから一年経たずして亡くなってしまったので、本人も、家族もその展開のあまりの早さに心がついていけなかった。
涙からの卒業、かぁ。
秋の空を見上げながら思ったものです。
病院でよく実の親子、父と娘に間違われていたくらいの義父でした。
義父の息子である夫よりも理解して、寄り添ってくれるような義父でした。
(ま、泣かないよ。病んでからの〝おじいさん〟は辛いことばかりで、それをがんばってがんばって、ようやく身も心も楽になれたんだもんね)
よく澄んだ秋の空にそう思ったものでした。
ま、そのときの義父がどこに居たかは分かりませんが…。
卒哭、慟哭からの卒業。
心を鷲掴みにされる言葉です。
死は、
特に近しいものの死はなかなか受け入れられないもので、少しづつ少しづつ。
それでも時々は涙に濡れたとしても、それは仕方のないこと。
「生きている者たちが元気で過ごしていることは亡き方の供養になる」と、その時、ご住職さまがぽつんと話してくださったことが今でもはっきり耳に残っています。
ちなみに。
この卒哭忌、百か日の法要は近年法要を営むことも少なくなっているようです。
はて。
義兄はどう考えているであろう。
一事が万事全部自分だけで決めて、しかもすでに行動を起こしているようなタイプの人なので、うーん。
まぁ、基本、四十九日で大抵の故人は行き先が決まりそこに向かって歩き出しているというのだから、そこに故人はもう居ないのだろうけれど。
それだから百か日の法要が省略されることにもなったのだろうけど。
うーん。…どうする?
(続き)
仏教の浄土真宗は、成仏についての教えが他の宗派とは異なります。
浄土真宗では、故人は亡くなってすぐに仏になると考えられています。
そのため、浄土真宗では魂が宿った位牌を仏壇で供養する必要がなく、基本的に位牌は用いられないのだといいます。
私の知人でこの浄土真宗のお寺さんの檀家の方はおられず、また浄土真宗のお寺さん自体も参拝させていただいたことはあるのですが、ご住職さまにお会いすることはできませんでした。
サービス付き高齢者向け住宅に入られている方のお部屋にお邪魔させていただいた際、お仏壇に日めくりのようになっている過去帳があり、(これは便利だ)と思ったのですが、それが宗派によるものだったかどうかまではわかりませんでした。
その時は、お位牌が多くてそのような形をとるしかなかったのかもしれないと思ったものでしたから。
今考えるともしかしたら浄土真宗さんの檀家さんだったのかもしれません。
亡くなられるとすぐに成仏、仏になるとという教えであるならば、当然死後の審判もないということかと思います。
だとしたら四十九日法要もしないのかしら…というとそうではなく、その考え方が異なるのだといいます。
浄土真宗では四十九日は、
「故人のための追善供養」ではなく「遺族が故人を偲び、生について改めて考える期間」として中陰勤めを行うのだといいます。
故人を偲びながらも自身の心に向き合い、新たに歩むために浄土真宗にとっても四十九日は大切な法要であるようです。
ちなみに。
今日、…昨日となりましたか、昨日の四十九日法要での法話は、お寺さんの縁起をお話くださったので、十王信仰と、四十九日後須弥山へのぼる修行をするという成仏への道のりとの関係性はお聞きすることはできませんでした。
そして。
義母の百か日法要は執り行わないとのこと、義兄から話がありました。
こちらのご住職さまの法話はなかなかおもしろいので少し残念に思う夫と私でありました。
これからは義父母の眠る墓が義兄の承継したものとなり、名実ともに他家のものとなりました。
結構な寂しさを今あらためて噛み締めております。
昨日納骨した際、新たに刻まれた戒名碑の義母の戒名が、なんとなくまだ居心地悪そうに見えたのは、…気のせいではないよう思うのです。
そこにきっと義母は居たのではないかしら、と。
【はねたき道了尊祭の法話】
群馬県みどり市のはねたき道了尊祭に行ってまいりました。
…と申しておりますのは実は時系列にズレがあります。
道了さんのお縁日は二十八日、間に挟むより、四十九日のお話を終了させてからとおもったものですから。
この日は晴天、七月くらいの暑さとのことでした。
季節でお召し物を替えられるお坊さん方でありますが、夏日の暑さとはいえ、さすがに四月に絽や紗のお着物はお着けになることは憚られたのでしょう、今ごろの季節のお着物、しかも重ね着をされておられ、(お暑いだろうなあ)と、思わずにはいられませんでした。
そんな暑さを微塵も表に出さず、涼しげなお顔をされご住職さまは青い青い空を見上げられました。
そして新緑の境内や公園、そして山に目をやると、いかにもその新緑を喜ぶといったまぶしげな目をされ、法話を始められました。
先月の道了祭の折には、色とりどりに花が咲いていたのに、すっかり緑色へと変わりました。
山肌の色が見えていた山も今は緑一色です。
草花や木々も生きているからこそです。
この草花や木々には心はありません。
この地上に生きる命を持つものの中で、〝こころ〟を持つのは人間だかと言われています。
草花や木々には心はありません。
そんな人として生まれた私たちは草花や木々といったものや、動物たちや野菜等の命をいただいて生きています。
お経に【法界萬霊】という言葉が出てまいります。
法界というのは仏さまの教えの世界。全世界。全宇宙のことを指します。
【三界萬霊】ということもあります。
三界というのは生きとし生けるものが居住する三つの世界で、迷いが生み出した全世界の総称。迷いの世界の総称です。
迷えるものがさまよう世界の総称。
三界は、迷いの苦しみが海のように果てしなく続くので、「苦界」とも言われます。
法界、三界にある全てを供養し、感謝するため、法要をし、お経をあげます。
感謝の気持ちを忘れないためにも、お経を唱えましょう。
ところで、お経の終わりにはたいがい、この『法界萬霊』『三界萬霊』といった言葉が出てまいります。
これが出てきたら(あ。そろそろお経が終わるなぁ)と思ってもらって大丈夫です 笑。
と。
直近で四十九日の法要がありました私はいつも以上に耳を傾けていたことは言うまでもありません。
【訃報 星野富弘さん】
事故で手足の自由を失い、口に筆をくわえて絵画や詩の創作活動を続けていた群馬県出身の星野富弘さんが、二十八日、呼吸不全のため亡くなられたということです。
星野富弘さんは昭和二十一(1946)年、現在の群馬県みどり市、旧東村で生まれました。
昭和四十五(1970)年、群馬大学教育学部保健体育科を卒業し、中学校の体育教師になるが、同年六月、クラブ活動の指導中の墜落事故で頭部から転落、頸髄を損傷、手足の自由を失います。
昭和四十七(1972)年、群馬大学病院に入院中、母に手伝ってもらって口に筆をくわえて文や絵を書き始めます。
入院中に口に筆をくわえて文字や絵を書き始めたのをきっかけに創作活動をスタートさせ、一つの作品の中に絵と詩が盛り込まれた「詩画」と呼ばれる作品を生み出してきました。
作品をまとめた「花の詩画展」は全国各地で開かれて話題となり、その後、ニューヨークやサンフランシスコなどでも作品展が開かれました。
みどり市にある「富弘美術館」によりますと、星野さんは1年ほど前まで創作活動を続けていたということですが、二十八日、呼吸不全のため、みどり市内の病院で亡くなられたということです。
七十八歳でありました。
多感な学生時代、星野さんの自伝を読んで大きな感銘を受けました。
星野さんの作品を見ると、とても口で描いたものとは思えない画力があり、それはたいそう美しく、優しさと癒しを感じます。
詩画集も持っておりますし、実際の作品を拝見したこともあります。
今は部屋には季節に合わせた富弘さんの作品が一つ飾られています。
子どもたちと行った公園で偶然お逢いしたこともありました。
ご本人の努力も生きざまにも感銘致しますが、それを献身的に支えたお母さまに心底心を打たれました。
ご冥福をお祈りいたします。
(続き)
今、部屋に飾らせていただいていた作品を。
ただ、著作権もあるかと思いますので、絵は残念ながら控えます。
たんぽぽのわたげの繊細な絵であります。
ここがどんなに
住み良いところでも
風が迎えに来たら
私は行くのです
私が降り立つ
新しい大地には
何が待っているのでしょう
私はそこで
黄色い花になり
また風に乗って
旅に出るのです
私の旅は
果てのない旅
…富弘さんも
旅に出たのだなぁ。
訃報を聞き、そう思った私でありました。
(続き)
神様がたった一度だけ、
この腕を
動かしてくださるとしたら、
母の肩をたたかせてもらおう
受傷したのちの富弘氏の全てを、自分の持てる全てを注いで支えたお母さま。
私の尊敬してやまない方であります。
病床でのお母さまの献身的な介護の姿は、星野さんの著作『愛、深き淵より』(立風書房)や『ことばの雫』『いのちより大切なもの』(いのちのことば社)などに描かれ、詩にも表現されています
入院中は三度の食事の手助けや様々な介護にお母さまはつきっきりでありました。
急な病床生活、一生という単位で背負ってしまった障害、わずか一ヶ月強で失ってしまった教員という職、星野さんの積もっていたいらだちが爆発するときもただただ黙って受け止められます。
そしてそれは星野さんが結婚するまで、生活全般から、詩画制作のために、絵の具を溶かしたり、紙をセットするなどまでずっとずっと。
こんなエピソードがあります。
富弘さんが入院し、人工呼吸器につながれ、熱にうなされていたとき、お母さまは「わが身を切り刻んででも生きる力を富弘の体の中に送り込みたい」と思ったといいます。
富弘はさんは後に「私は、それほどの愛に応える術をもっておらず、何も言うことができませんでした」(『いのちより大切なもの』)より。
暦を見ると本日は『八十八夜』となのだといいます。
八十八夜とは、立春から数えて八十八日をむかえ、この日に摘んだお茶は、縁起が良く特別なお茶となるそうです。
お茶は仏教と共に日本に伝えられたとされていて、伝教大師最澄上人や弘法大師空海上人もお茶を持ち帰ったと言われています。
日本に根付いたお茶の文化は、命懸けで大陸に渡った僧侶たちによって伝えられ、育まれてきたものでありました。
ネズミのひたいのようなわが家の庭にはお茶の木などはなく、八十八夜に摘まれたお茶を飲むことは生涯叶うことはないでしょうが、今朝もお茶を仏壇もどきにお供えし、感謝を込めていただきたいと思います。
…今年は、夏も近づく八十八夜♫どころか、すでにもう夏日を迎えておりますが、ね。
【正五九参り】
忌中ですっかり頭がまわりませんでしたが、昨日から五月に入り【正五九参り】の月となりました。
正五九参りとは、忌み月とされていた正月・五月・九月に寺社へ参拝し、厄災を祓い清める意味があると伝わるといいます。
あるいは
新しい年の始まりに参拝する『正月(初詣)』、
草木が新緑となり花開き、陽の気に満ちた『五月』、
野菜や果物が実を結び、結果がともなう『九月』に参拝し神仏に感謝することで、祈願が成就しやすいともいわれます。
わが家は昨日までが忌中。
鳥居を見かけるたび、知らずに何か失礼をしてはいないか…一の鳥居が遠かったり、消滅していたりして、実は境内にいた、とか、ドキドキビクビクしていた小心者のおばさん。
今日からは喪中。
昨日朔日参りはできませんでしたが、ようやく神社さんへのお参りも良いとされます。
神社さんへお参りさせていただいてから、家での小さな神事をさせていただこうと思います。
忌明けのお祓いまではしませんが、家に神棚が無い分、かえってきちんと参拝してからにしたいかなぁ、と。
とすると。
まずは八日のお薬師さまのお縁日。
忌明けと明るい、色とりどりの花の咲く五月が重なって、少し気持ちが明るくなった気持ちがいたします。
【大慈山 水月場 光明寺】さん
ゴールデンウィーク群馬県桐生市にあります『吾妻公園』という、自然豊かな、吾妻山のふもとにある公園のチューリップがみごとだと聞いて行ってまいりました。
しかしながら心の中で思っていたのは、吾妻公園のすぐお隣にある【光明寺』さんへのお参り。
なので公園の駐車場からまず向かったのは光明寺さんでありました。
大きなしだれ桜がたいそう美しいお寺さんでありますが、さすがにその花の時は過ぎ、もうすっかり新緑をつけてありました。
こちらのお寺さんはいつお邪魔しても必ず何かお花が咲いていて、そして大変手入れのよいお寺さんであります。
何年か前に境内におられる石佛さまを観音堂へと続く石段の横の斜面にまとめてお祀りになり、それが私の心に響きまして。
古い石佛さまって結構すみに追いやられてしまったり、最悪なパターンだとどう見ても打ち捨てたようにしか見えないように放置されたりするのです。
ずっと前から境内におられ、境内をお護りくださった大切な御仏でありましょうに…。
こちらはそんな古い石佛さまも大切にしてくださるのだなぁと、前よりももっと好きになりました。
どんなタイミングでなのかはつかめないのですが、運が良いと御本堂の扉が開いていたり、観音堂の扉が開いていたりして、そんなところも嬉しいお寺さんであります。
御本堂自体はたいそう新しく、平成とかのものに見えますが、観音堂は古い時代のもので、素晴らしい彫刻が施され、扉が開いておりますと天井画や奉納された絵馬まで拝見することができるのです。
好きなお寺さんの一つ、…と申しましてもこちらのご住職さまのお話をうかがうような機会はほとんどありません。
せいぜい境内の草木に水をやられていたりするとき、お声をかけさせていただくくらいです。
それでも寺務所の玄関にまつられていた御仏を知りたくて、お寺に勤めておられる女の方にお聞きしたところ、わからないとのことで、ご住職を呼んできてくださったことがあり、そのときにはお話を聞くことができましたが。
基本的には必要なことしかお話にならない方のようです。
どこから来ました?などという社交辞令は一切なさらない。
凛とよく通るバリトンのお声のご住職さまであります。
まっすぐ目を見て話すと身が引き締まって、こちらから話を広げようと思わない、眼力のある方であります。
(続き)
そんな光明寺さんの縁起などをお聞きする機会がありました。
光明寺さんの開創は、約千二百年前に行基上人により開山された「水月庵」がはじまりといいます。
これは約四百年前に書かれた『光明寺縁起』によるといいます。
な
当時はちょうどあの【東大寺大仏】の造立時期と重なり、天皇の命により行基菩薩が日本各地に幅広く勧進を行ったと伝えられています。
桐生は当時からすでに織物の産地として知られていたといい、それが行基上人がここに開山することにつながったのかもしれないと考えられるといいます。
ところで。
光明寺さんの東側に位置する丘に、【美和神社】があります。
美和神社さんは、平安時代の初めに編集された資料『延喜式』に記載されてい【延喜式内社】であります。
こちらは奈良にある『大神神社(おおみわじんじゃ)』の流れをくむといいます。
奈良の「大神神社」のご神体は三輪山。
桐生の美和神社のご神体は吾妻山。
その山すそ南面に建っているのが「水月庵=光明寺」であるのだといいます。
光明寺の前身であります水月庵(水月場)がここに建てられた理由は、すでにこの地域の古い霊域であったからではないかと考えられるといいます。
北極星に対する信仰が修験道の成立と共に、広がっていった点からも、
修験道の本拠地の一つである『吉野蔵王堂』も行基上人を中興開山としているのも決して偶然ではないと考えられるといいます。
そして、約四百年前(寛永元年)、寺域が拡大され、現在の『光明寺』を名のる様になったといいます。
この由来に関しては、東大寺が最初に「金光明寺」と名のったことに関係するといえるでしょうか。(現在「水月場」の額は観音堂に掛けられています。)
そして『美和神社』さんの本地仏千手観音さまも、明治の廃仏毀釈により、光明寺に安置され祀られているのだといいます。
【飯玉神社】さん
大好きな神社さんの一つであります群馬県前橋市の飯玉神社さんで【お白狐様の落とし物】というイベントを二月から開催されていました。
初詣の際にご案内の小さなカードをいただいておりました。
夫も一緒に行きたいだろうかと先延ばしにしていたところ義母の逝去があり、神社さんに行けぬ身になってしまいました。
お子様から大人の方まで幅広くご参加いただける催しとのこと。
こちらの神社さんは大きな団地の一角のように位置しており、…というかもともとは神社さんの敷地であったところを明治時代に官に取り上げられ、戦後もやはり境内の縮小が強いられたりという歴史があり、そこに団地が建った、というのが正しいのでしょう。
(そしてさらにもとをたどれば、こちらは古墳の上に建っています)
そんな、団地の奥まったところにあるこちら、外から見ると鳥居の中、参道に団地の駐車場があるような立地で、肝心のこちらの駐車場の有無すらがわからず、なかなか参拝にいたらずにおりました。
それがひょんなことからこちらの事を知る方から話を聞く機会があり、昨年初めて参拝をさせていただきました。
神職の方々がみな、アットホームな方々で、そして明るく居心地のよい境内。
なによりも拝殿内からあたたかな優しい気があふれてくるような感じで、すっかりこちらの神社さんのファンとなり、それから何度も参拝させていただいております。
そんな神社さんのイベント『お白狐さまの落とし物』、こちらの神社さんを知るまたとないチャンスでもありました。
忌が明けて。
すでに五月、二月からのスタートであったこの催し、さすがにもう終わってしまっただろうとは思ったのですが、来れずにおりましたことをお詫びしましょうとお参りにまいりました。
参拝を終えて。
社務所におられたお若い宮司さまにおそるおそるお聞きすると、なんと六日まで開催されているとのこと。
すぐに申し込ませていただきました。
なんでも境内内にあるお白狐さまのスカーフを五枚探しだすという内容のもので、スカーフの色が全部で五色、境内のどこに何色のスカーフがあったかを答えるというものです。
子供のようにワクワクしながら、さっそくスタートいたしました。
(続き)
スカーフの置かれた場所のヒントがあります。
社務所のすぐそばにある手水舎がその一つ。
小さな手水舎ですし、参道の石畳のすぐ横に設置されているものです。
(ここは楽勝だな)
ぐるっと一周、…無い!
もう一周。
…無い!
おかしい。
お子様から大人の方まで、…と書いてありますこのイベント、何故?
手水舎の柄杓の絵に「手を清めていたら落としちゃった」というヒントです、手水舎に間違いないはずです。
ぐるぐると二周したのが社務所から丸見えなはず。
…白狐様、今日はもうスカーフを回収済み?
仕方ない、白狐さまのお社にお参りして真の白狐様からヒントをいただこう。
お、その前にもう一つのヒント。
三つの本坪鈴(ほんつぼすず)の前で白狐様が手を合わせてお参りしている絵があり、「願いごとが叶うようにお参りしていたんだ…」と書いてあります。
これはきっと拝殿前。
…はて。
無いんですが…。
これはヒントの一つ「学問に関するご利益が得られる所に行ったような…?」と書かれた、おそらくは天神社にお参りして、少し知恵をお授けいただこう。
おお!
天満天神社で初めて〝白狐様の落とし物〟のスカーフを見つけることができました。
…なるほど。
こちらの天神様はかなりのご利益があるぞ。
スカーフはしっかりとしたファスナー付きのビニール袋に入っています。
そうか、剥き出しのスカーフではなくて、むしろこうしたビニール袋を探せばいいんだな。
…と、イベント用のお知恵をお授けいただいて。
再び拝殿前に。
…あるじゃん♡
うんうん、知恵がついた、知恵がついた。
スカーフにはそれぞれ異なる色があることは前述しました。
このスカーフの色と同じ色のシールを、ヒントの書かれた台紙に貼っていきます。
…スマホでもできるんですがね。
私は根っからのアナログ人間、この台紙にシールを貼るタイプを希望しました。
さて。
私はこちらの飯玉明神さまや保食命さま、天神様や白狐様にお知恵をお授けいただいて、このイベントを無事クリアすることができましたが。
このイベント、明日までとのこと。
これ以上書いてしまうのはやめておきましょう。
(続き)
全てのシールを貼り、社務所に〝報告〟いたしましたところ、
白い小さな紙の袋をお授けいただきました。
宮司さま、いったんその紙袋を夫に渡したあと、もう一度ご自身のお手に戻されて、中を出してお見せくださいました。
「おおっ♡ なんて可愛らしい!」
なんとも可愛らしい、そしていかにも現代的な根付けタイプの御守でありました。
白狐がお祈りをしているフィギュアの御守です。
…なんか凄くうれしい。
白狐さまと一緒に家に帰れるような気がいたしましたし、なによりこれからこの白狐さまとずっと一緒にいられるのです。
大切に手のひらに包ませていただいて家に帰りました。
かわいい私の守り白狐さま、です。
本日五月五日は、六十日に一度巡ってくる弁天さまの縁日『己巳の日』でありました。
弁才天はインドの河川や水を司る女神『サラスヴァティー』と弁舌と言葉の神『ヴァーチ』が習合し、発展した神さまとされています。
『弁才天』を『弁財天』とも表記しますが、才能が財産に通じるから、また宇賀神の語源であるウカヤが『財施』の意味を持っているから、とも言われています。
そんな暦も知らずに、昨日、栃木県佐野市にあります【出流原弁財天】さまにお参りしてまいりました。
思わず一日ずらしていれば…と思わずにはいられませんでした。
ひとえに思いつきで行きたいところを口にする私のせいでございます。
出流原弁財天さまは藤原秀郷の勧請と伝えられる、磯山と呼ばれる山の中腹にあります。
山の中腹にあるため、近くまで行くとその朱塗りの姿が見えて、なんとも心弾みます。
この弁天堂のある磯山の麓には弁天池があり、日本名水百選に選ばれるほどであります。
(出流原弁天堂さんの続き)
昨日、日が変わる直前まで書いていた前レス。
あ、そろそろ日が変わってしまう、と思って急いでポチっとしたタイミングがまさに零時零零分。
…らしいな。
いかにも私らしいと思わずにいられません。
それでも五月五日と日付を入れていたからまだよかった。
そう、昨日が己巳の日であります。
そして私どもが【出流原弁天堂】へ参拝いたしましたのは一昨日の五月四日となります。
ところで。
『巳の日』の「巳」は干支で、ほとんどの方がご存知かと思われますが動物のヘビのことです。
日本では古くから年・月・日・時それぞれに十二の干支を当てはめ、さらに『十干(じっかん)』と合わせて日付や時刻の記録に用いていました。
『十干』とは中国の『陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう)』により、十日間をひと区切りにし、一日ずつ名前をつけたもの。
甲(こう)
乙(おつ)
丙(へい)
丁(てい)
戊(ぼ)
己(き)
庚(こう)
辛(しん)
壬(じん)
癸(き)
からなります。
日本では
「きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと」
という独自の読み方が生まれました。
この干支と十干で表される暦を「干支暦(かんしれき)」といい、それぞれの干支の日が十二日ごとに巡ってきます。
干支暦のなかで巳の日は金運・財運アップの日として知られる吉日であるといわれています。
それは七福神の一柱であり、仏教の守護神として信仰される神さまであります【弁財天】さまの使いが白蛇であることからきています。
白蛇は古くから金運や商売繁盛を招くと考えられてきました。
また弁財天さまは金運のほかにも芸術や交通安全、恋愛成就、子孫繁栄、長寿といったさまざまなご利益があるといわれています。
そんな十二日ごとに巡ってくる巳の日のうち、十干の「己(つちのと)」と重なる日は
【己巳の日(つちのとみのひ)】と呼ばれています。
『己巳の日』は六十日に一度、年に六回、巳の日よりさらに金運がアップするといわれる吉日とされているようです。
…そんな日をはからずも外して、よりにもよって前日に弁財天さまをお参りするあたり、いかにも金運に縁のない私どもらしいと思わずにいられません。
(続き)
今回で三回目の参拝となりますこちらの出流原弁財天堂さん、私にとってとても心が穏やかになる癒しの空間であります。
入り口から上りとなる参道。
こちらの山門は、実になんとも変わっているのです。
赤い楼門、とでもいいましょか。
石段の途中に楼門が設けられているのですが、そのくぐる部分が赤い太鼓橋の下といった感じ…なのです。
太鼓橋の下をくぐるように山門をくぐると目の前に大きな蛇の銅像があります。
この蛇の像、口から出した細い舌までが表現されたなかなかリアルな像であります。
その左側には石造の弁財天さまがお祀りされています。
右側ヘ折れてさらに上を目指します。
すると右側に鐘楼があって、こちらの鐘は撞くことができます。
私が撞いたあと、順番待ちの人の列ができ…七、八人はいたでしょうか。
撞いて良いとされる梵鐘は必ず撞かせていただく私ですが、こんなに並
んでいたらちょっと躊躇われたかもしれません。
まあ、そんな煩悩の一つを消してくださるという梵鐘ですので、私のような人間はどれだけ並んでも撞くようにしなくてはいけないかもしれませんが。
さらに進むと三方向に道別れします。まっすぐに山を登る道と、右側にある銭洗弁天さまへと進む道、そして左側が弁天堂へと続く石段となります。
石段の下に蛇の像のある手水所があります。
ほとんどの方がきちんと手を浄め石段をのぼりはじめます。
少し急な石段をのぼると、赤い御堂が見えてきます。
そしてその御堂のある段までのぼるとまた白蛇の像が祀られています。
御堂は懸造り、右側面に石段がつながっています。
木でできた床を歩きだすとまもなく、展望台かと思うくらいの眺望が広がります。
青い空と、緑豊かな大地が広がっています。
その美しいことといったら。
(出流原弁天堂の楼門)
神さまや
仏さまが
ほんとうに
いらっしゃるかどうか
でも
あの合掌をしたときの安らぎは
どこからくるのでしょう
右の手の悲しみを
左の手がささえ
左の手の決意を
右の手がうけとめる
その上を流れる
静かな時間
こうした姿勢を教えてくださったのは
どなたでしょう
詩人 高田敏子
(出流原弁天堂さんの続き)
石段をのぼると見えてくる赤い御堂と、白蛇の像。
一つ一つていねいに作られた鱗、高くくびを掲げた神々しさをすら感じるこの像に立ち止まる方も多くおられます。
この白蛇の像の台座に『阿吽の大蛇』と書かれているのですが、…あれ?阿吽って…〝対〟の蛇の像ってあったかしら?
懸造りの、舞台のようになった拝殿前は赤い手すりがあって、ここからの景色や、爽やかな風を楽しむ方、写真を撮る方でいっぱいとなります。
拝殿、でいいのか御堂の前にも、参拝の順番を待つ方が列をなしますが、さほどは大きくはない懸造りの御堂前、どうしても蛇行した列となります。
そんな蛇行する列すらもなぜか縁起が良いような気がしてまいりますが、それはここが弁天堂であることと、やはり爽やかな景色や風で心が洗われるせいでありましょう。
御堂の中のなか、正面に少し大きな厨子の祀られた須弥壇があり、左側には恵比寿さま?それとも大黒さま?の彩色された像が祀られています。
その前には小さな前机、立派なお座布団が一枚。
それでいっぱいになるような大きさの御堂です。
参拝の方が途絶えることなく小さな御堂にやってきます。
裏手にまわると、びっくりするようなごつごつしたたくさんの岩に囲まれていることに気づきます。
その大きな岩と岩の隙間がなんともまた神秘的です。
しかもこの場所、とても涼しいのです。
風を感じるほどではないのですが、この岩の隙間を冷風が抜けるのでしょう。
御堂のまえとこことでは、結構な気温差があると思われます。
あの山門をくぐってすぐのところにも風穴がありますが、それとは比べものにならないくらいの大きな大きな風穴です。
(続き)
懸造りは、懸崖造り、舞台造りなどともいわれます。
この舞台造りは日本でしか見られない建築様式で、京都の『清水寺』が有名です。高さや規模では敵わないものの、出流原弁天堂の舞台造りからの眺めの良さは引けを取りません。
ところで。
この出流原にありますこちらの弁天堂さんを私はずっと『出流原弁天堂』と呼んでおります。
実はもう一つの呼び方として【磯山弁天堂】というものがあります。
この懸造りの掛けられた山が磯山であるからなのですが、私はこちらの御朱印に『出流原辯財天』と書かれていたから、であります。
しかしながらこちらの弁天堂の管理は今現在では【磯山弁財天観光協会】さんがしており、御朱印もホテルのロビーでの授与となります。
そちらのホテルは出流原弁天池のすぐそばにあり、〝山〟よりも〝池〟に重きをおいた、ということがあったりする…のかもしれません。
こちらの弁財天さまは、今を去ること千年の昔、唐沢山城主【藤原秀郷】公の勧請によるものといわれ、【弘法大師】さまが『相州江ノ島弁財天』にて護摩修行の際、その護摩の灰にて造られたものといわれているといいます。
そして、その当時は一帯に七宝伽藍が林立して隆盛を極めたといいます。
しかしながら、その後幾度かの火災に遭い、寺宝等をことごとく焼失してしまったといい、現在の本殿は鎌倉時代に再建されたものといわれています。
釘を使わぬ昔日の力学工法の建築美を今に伝える貴重な文化財として大切に現代まで継承されてきたもので、近年では平成元年に保存のための修復がなされています。
磯山弁財天も、以前は弁天池の中の小島に祀ってあったものといいます。
霊泉の不変の恩恵に浴した出流川沿岸の住民、特に水車講農民等の信仰が厚く感謝の総意により現在地に奉安したと云われ、日本広しといえど弁天様を山腹に安置するのは磯山弁財天のみとされます。
(続き)
また、い、…磯山?出流原弁天堂さんは一説に、歴史の一ページをかざる(という)【山城禁止令】に深く関連があるといいます。
私の脳内にある授業で習った日本史の一ページには残念ながら残ってはいなかったのですが、かの歴オタおじさんこと夫からは幾度となく聞いたワードです。
ワードどころか内容もきちんと丁寧に、私レベルでも理解できる言葉で解説してくれていました。
この『山城禁止令』なるものは〝江戸から二十里=八十キロメートル四方は山城を禁止する〟という令。
実はこの禁止令の発令される発端を作ったというのが他ならぬ栃木県の唐沢山城主であったと言われているのだといいます。
唐沢山城主が自城にて江戸の大火を見、早馬にて馳せ参じ一番乗りで将軍=殿への御見舞いを言上した際、この火事が眼下に見えていたという一言を用い、これにより将軍は
「江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることか」との不信を述べられたといい、これを受けこれ以降山城廃城の憂き目を見たのだ、というものです。
唐沢山の領民は一丸となり、城主の胸中を慰め、また将軍様への忠誠と不信を取り戻すためにと、出流原にあった弁天堂を山腹に移し、江戸城鎮護の守り神として江戸城向きに建てたともいわれ、それゆえ御本殿は東京都の方を向いて建てられているといいます。
なおこちらの御本尊さまは、
羽衣風の衣装をまとった八本の手を有する天女風の弁財天で頭上に宇賀神像を拝しているといいます。
厨子の右側には大黒天さま、左側に毘沙門天の二福神が祀られています(隠れてよく見えなかったのは毘沙門天さまであったそうです)。
そしてやはりよくは見えなかったのですが弁財十六童子が弁財天さまにお仕えするかのような姿で安置されているのだといいます。
御厨子におられる弁財天さまは十二年に一度の巳年に御開帳の年となるとのこと。
昭和五十二(1977)年の『丁巳』には御開帳を記念して社殿拝殿の大改修及び復元がなされています。
ここ最近では平成二十五(2013)年の巳年に御開帳され、稚児行列も行われだということ。
つまりは…来年!
いやぁ、これは是非とも行かなくては!
…ただ。
こちらの駐車場、かなり区画が少なくてしかも道も狭いため、いつもローリングする車で渋滞が起きるほどなのです。
うーん。
…その時には臨時駐車場が設営されるかしら
【湧釜神社】さん
栃木県佐野市出流原町(赤見温泉)にある池である【出流原弁天池】は、昭和三十一(1956)年に県指定天然記念物に指定されているとともに、昭和六十(1985)年には『出流原弁天池湧水』として日本名水百選に選定されました。
この湧水は、佐野市の北域にあたる後山は秩父古生層の石灰岩で形成されており、鍾乳洞から年間を通じ 水温は16℃、2400㎥/日の湧水量の水が湧き出しており、流出した水は料亭の庭の池や養魚場や磯山公園の池に利用されさらに下流の灌漑用水にも利用されています。
また、出流原弁天池は、一年中、夏でも冬でも、水がなくなることはなく、あたりの木々や岩山などをうつして、ながめがたいそう美しく佐野市の名所の一つとなっています。
今は出流原とよばれているこの地は、昔は涌(湧)釜原と呼ばれていたといいます。
このことからこちらの社名はそこに由来すると考えられています
出流原弁天池のそのすぐ横に鎮座される【涌釜神社】さんの草創等詳細は不明だといいます。
湧釜と書いて『わっかま』と読むといいます。
大正2年に旧地より現在地に造営遷宮したといいますが、少しネットで調べたくらいでは旧地がどこかはわかりませんでした。
こちらはもともと『人丸様』と言う神さまが祀られている『人丸神社』であったといいます。
この『人丸様』は【柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ】であるといいます。
『人麻呂』は『人麿』とも表記されます。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられており、また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
神社の御祭神として今もさまざまな地でお祀りされています。
弁天堂への登り口と弁天池のちょうどあいだくらいに社務所があり、そちらに宮司さまがおられることもありますが、不定期ようです。
宮司さまがおられない時は、池ほとりの売店で書置きの御朱印をお授けいただけます。
こちらの売店、裏手の小高いところにある旅館の出店でありまして、大変働き者で気配りのできるご家族が経営されています。
ヤギを飼っておられ、この春子ヤギが産まれたとのことで、旅館の隅にある小屋まで見にくるようにと軽トラに乗ったご高齢の男の方にお声がけいただきました。
これが結構な小高さで。
…運動不足を痛感いたしました。
【出流原に伝わる伝説】その1
「下野伝説集(一)」
『朝日堂・夕日堂』より『人丸神社の神様』
昔、このあたりの人々は、寺久保から流れ出る寺久保川や旗川の水を使って田畑をたがやして生活していました。
ある年の冬のことです。渇ききった天気が続き、どうしたことか、春になっても雨がふりません。毎日、日が照りつけるばかりで、道ばたの草はほとんどめを出さず、冬のかれ葉のままです。山の草木もさっぱりのびません。
お百姓さんはすっかり困ってしまいました。しかたなく、わずかばかりの井戸水をくみ上げて、野菜の種をまきましたが、それさえも芽を出してくれません。
空を見れば相変わらず太陽がぎらぎらとかがやいています。
「うちじゃ、ねぎもかれそうだ」
「井戸水も少なくなってきたね」
「これじゃ、飲み水が心配だよ。」
お百姓さんたちは、心配と水くみで疲れきった体を休めながら、空をながめてはがっかりし、畑を見てはためいきをつくばかりでした。
それでも、まだ、井戸の中に水がある間は、野菜くらいはできるだろうといういくらかの望みはありましたが、浅い井戸は、その水も少なくなり底が見えはじめました。
「雨がふらないのは神様のおいかりかもしれない」
「神様にお願いして、雨をふらせてもらおう」
人々は出流原の磯山のふもとに集まり、雨ごいのお祭りをすることになりました。
相談の結果、磯山の一番高いところに登り、このお祭りをすることになりました。
火をたき、太鼓や鉦を打ち鳴らし、大声を出して、神様にお願いしました。
赤々ともえる火。
どーんどーんという太鼓の音が、あたりの山々にこだまして、響きわたりました。
しかし晴れわたった夜の空には、数知れない星がきらきらとまばたくばかりです。
この祭りは夜通し続けられましたが、次の日になると、また太陽が、いきおいよくあたりの山々や田畑を照らし出しました。
人々はがっかりしてしまいました。
(続く)
(続き)
そのあと、人々はボンデン(梵天)をあげることにしました。
ボンデンとは、長い竹の先に幣束をつけたもので、これを山の高い木にしばりつけておくと、これを目印に神様が、天からやって来ると考えられているものです。
人々は、このボンデンを磯山のちょう上の高い木にしばりつけ、そのまわりに四本の青竹をたて、しめなわをはりめぐらせました。
そればかりでなく、その中に台を置き、餅やお酒をそなえました。
こうして、雨がふることをお願いしても相変わらず雨は降りだしませんでした。
ふたたび、太鼓や鉦を打ち鳴らし、山の頂上でのお願いが始まりました。
昼も夜も休まず、二日二晩熱心に、祈りを捧げ、人々はすっかりつかれきってしまいました。
交代の人も山を登る元気もなくなって、中にはふもとでしゃがんでい
る人もいます。
赤々ともえていた山の上のたき火も、いつしか消えかかり、思い出
したように時々もえ出す炎が、あたりを照らし出しています。
すると、その時。
麓の人丸神社のあたりに、白い着物を着た一人の老人があらわれました。
そして、持っていた杖で、岩をついたところ、不思議なことにそこから突然、こんこんと水がわき出したのです。人々は、あまりのことにびっくりし、そこにへなへなとすわりこんでしまいました。
あれほど待ち望んでいた水が、今、目の前にわき出しているのです。人々は、老人の前へ手をつき、頭を下げました。
そして、ふたたび顔を上げた時には、もうその老人のすがたは見えませんでした。
「あの白いおすがたは神様だったのだ」
「おれたちの願いを、神様は聞いてくださったのだ」
「ばんざあい」
うれしさのあまり、泣き出す人、わらい出す人、水をすくってながめる人、踊り出す人と、磯山のふもとは夜明けとともに村人のよろこびの声でうずまりました。
それ以来、磯山の水はどんな日照り続きの年でも水のかれることなく、この辺りの田畑をたがやすお百姓さんたちを喜ばせました。
(続く)
(続き)
今の弁天池のほとりにある涌釜神社があるところには、『人丸様』がまつられていました。
村人たちは、この人丸様を養水の神としてあがめ、社をつくりなおし、旧れき六月十四日に毎年、お祭りを続けるならわしにしました。
不思議なことに、この日、神主さんがおいのりをささげると、ほおっと神様がすがたをあらわすことがたび
たびあったそうです。
今は涌釜神社の中に人丸神社もあわせまつられています。
『下野伝説集 一』より
【出流原に伝わる伝説】その2
出流原弁天池には、とても冷たく、すんだきれいな清水がわき出しています。その中には、大きなひごいやにしきごいが元気に泳いでいます。この池をいだいているのが、磯山という石灰の出る山です。
その山の東側を後山といいます。
この後山に、今も解けない宝さがしの謎が残っているといいます。
うるし千ばい 朱千ばい
くわ千ばい 黄金千ばい
朝日に映す 夕日かがやく゛
雀の三おどり半の 下にある
と、いう歌が昔からこの辺りの村人の間に伝わっているのだといい、これがその謎の文句です。
この歌は、かつてこの辺りきっての大金持ちと言われた『朝日長者』が宝をかくした場所を解く〝鍵〟と伝えられています。
朝日長者の家のあとは、いまは何も残っていませんが、昔は、お城のような広い家で、高いへいに囲まれた中に、大きな家があり、まわりにはたくさんの倉があって白いかべが日に輝いていたといいます。
いっぽう、駒場の円城院山には夕日長者が住んでいて、朝日長者に負けないほどの大金持ちであったといいます。
朝日長者には子どもがありませんでした。子どもがほしい長者夫婦は
「どうか子どもをお授けくださいますように・・・・・」
と弁天様に一心にお祈りをしました。
ある晩のこと。
朝日長者は不思議な夢をみました。それは、月のとてもきれいな晩に月見をしているときです。
急に磯山の上がまぶしいほどに光ると、たくさんの鳥がとんで来たのです。その中の大きな鳥、それは〝鶴〟でしたが、その背中にかわいいお姫様が乗っていました。
長者は、うれしくなってお姫様と手をとって踊りました。
長者は夢から覚めると、不思議な夢だったので妻に話しました。
「これは、不思議なこともあるもの、わたしも同じ夢をみました」
と、二人は不思議な思いでいっぱいでした。
二人が子どもが授かりますよう祈り続けたある日のこと。
二人はようやく子どもを授かりました。
それはかわいいかわいい女の子でした。
長者は喜んでつる姫と名づけました。
そして、大事に大事に育てていました。
(続く)
(続き)
ある日、長者は、尾須仙人という白い髪をした老人に連られ、女神のところへ連れていかれます。
それは、夢とも現実ともつかないでき事でしたが、長者はもどって来ても、その時言われた不老長寿の薬をつる姫に飲ませることだけは忘れませんでした。
長者は、家に帰るとさっそくその薬をつる姫に飲ませました。
すると。
まだ幼かった姫は、たちまち、十七、八才の美しい娘になってしまいました。
姫は、毎日を山で遊ぶことを、この上もない楽しみにしていました。
そんなある日。
遊びに出た姫は、山から帰ってきませんでした。長者は心配し、山をくまなくさがし八方に人を走らせてさがしたのですが、ついに手がかりがありませんでした。
長者夫婦は、かわいがっていた姫がいなくなったことで、生きる望みもうしなってしまいました。
すると、ある夜、長者の寝ている枕もとに神様があらわれました。
「お前の姫は、水の中で鯉となって、うかび上がることはないであろう。だが、今までの宝物を人々にあたえ、無一文になって毎日神様や仏様においのりをささげれば、姫は竜の神様になって天に上るであろう。」
と、いわれ、夢から覚めました。
そこで、長者は、姫かわいさのあまり、うるし千ばい 朱千ばい くわ千ばい 黄金千ばい を後山の千騎返りにうずめました。
『下野伝説集 四』より
※この種の話は、栄枯衰退を語る話で、長者伝説とよばれ全国各地に分布しています。
朝日長者という呼び名もまた全国的なもののようです。
栃木県下にもたくさん分布し、小山市、日光市のものなどが知られているといいます。
本文は、栃木県連合教育会編『下野伝説集(四)「うるし千ばい・朱千ばい」』(昭和三十七年発行)によるもの。
この話も、伝承者によっては、
朝日長者に匹敵するこの地方の大金持ち夕日長者のむすこが、鶴姫に恋いをしたとか、
朝日長者と夕日長者が、黄金埋蔵の歌のなぞを解くために争った、などという話もあります。
タイトルを変え、朝日長者の娘と夕日長者の息子が恋仲になり、許されぬ恋から娘が身投げし、後を追って夕日長者の息子も身投げをし、二人は鯉になって寄り添うように泳いでいる、というものもありました。
たしかに、この豊かな水、澄んだ水は人々に富をもたらしたことでしょう。
悲しい伝説とはなっていますが…。
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ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。
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ハルビン
4レス 49HIT 旅人さん -
『愛することには理由がある』
0レス 78HIT 自由なパンダさん -
神様の折り紙
2レス 108HIT たかさき (60代 ♂) -
呟きです(読んでもらえるだけで結構です)
2レス 103HIT 匿名さん -
フーリーヘイド 本編
20レス 172HIT saizou_2nd (40代 ♂)
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わたしとアノコ
《たくさんありがとう》 全然関係ないですがhit数6000まじであり…(小説好きさん0)
232レス 6006HIT 小説好きさん (10代 ♀) -
モーニングアフター モーリンマクガバン
紅茶や珈琲とアイスクリームを食べて 夜のビーチに出て砂浜に座った…(作家さん0)
363レス 2424HIT 作家さん -
ハルビン
母の手の様々な表情を私は思い出す。やがて母は病気になり、右の手の自由を…(旅人さん0)
4レス 49HIT 旅人さん -
ニコニコワイン
ランチ 沖縄すば ジューシー 作りました でーじまーさ…(旅人さん0)
427レス 16597HIT 旅人さん (20代 ♀) -
神様の折り紙
その声聞いた神様は、たくさんの紙を、大勢の動物さんがおられる村に配りま…(たかさき)
2レス 108HIT たかさき (60代 ♂)
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20世紀少年
2レス 112HIT コラムニストさん -
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フーリーヘイド ~読む前の注意書きと自己紹介~
500レス 5754HIT saizou_2nd (40代 ♂) -
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おとといきやがれ
9レス 284HIT 関柚衣 -
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ウーマンニーズラブ
500レス 3232HIT 作家さん -
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やさしい木漏れ日
84レス 3697HIT 苺レモンミルク
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20世紀少年
1961 生まれは 東京葛飾 駅でいうと金町 親父が働いて…(コラムニストさん0)
2レス 112HIT コラムニストさん -
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ウーマンニーズラブ
聖子の旦那が有能な家政婦さんを雇ったおかげで聖子不在だった機能不全の家…(作家さん0)
500レス 3232HIT 作家さん -
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フーリーヘイド ~読む前の注意書きと自己紹介~
やはり女性は私に気が付いている様である。 とりあえず今は、 …(saizou_2nd)
500レス 5754HIT saizou_2nd (40代 ♂) -
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今日もくもり
たまにふと思う。 俺が生きていたら何をしていたんだろうって。 …(旅人さん0)
41レス 1328HIT 旅人さん -
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おとといきやがれ
次から老人が書いてる小説の内容です。(関柚衣)
9レス 284HIT 関柚衣
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なぜそこまで結婚にすがるのか?
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息子に言われたショックな一言
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これって私が悪いの? 普通に最悪
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