神社仏閣珍道中・改
【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。
相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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(鶏足寺さんの続き)
境内の東側の山手の造成した広い墓地の、その南側にある駐車場から、【定宥上人】が百三十六歳で入定したといわれる『入定塚』を見上げて一礼し、狭い意味での境内へと入ります。
こちらのあまりに広い境内地は、とても一望することなどできないくらいのものでございます。
寺標を入ってまもなくのみぎてに『慈猛庵』と称される、たいそう立派な会館があります。その並びに庫裏があり、その向かいに『赤門』と呼ばれる門があります。
そしてまた同じくみぎてに信徒のための会館があり、この日、…節分会の開かれた日は、多くの檀家の方々がこちらへ入って行かれる様子が見受けられました。
その、御本堂すぐ隣に建てられた檀信徒の控えの建物の斜め前に、小さな御堂がありました。
しゃがみ込んで得意技の覗きを発動し、御堂の中を拝見させていただきますと、小さいながらも二人の童子さんを従えたブロンズのお不動さまがお祀りされていました。
しかもお不動さまの御像の後ろにもう一体のお不動さまがおられます。
古くに祀られていた石仏さまでありましょうか。
このななめ前辺りにありますのが鐘楼。
そして。
御本堂となります。
大きな、見上げるほどの建物であります。
この御本堂からは穏やかで優しい気が溢れ出てくるかのようで、前に立つだけで心が癒され穏やかになります。
御本堂前には勅使門が開かれています。
勅使門を入ってすぐ左側には、御守り等の授与所があります。
こちらはこの日のような特別な日日のみ開かれるように思われます。
どっさりと大きな(本当にかなりの大きさです)恵比寿さまの石像があります。
はて、御本堂の前は固く閉ざされておりますが、一体今日の護摩供養はどちらで?
(鶏足寺さんの続き)
まずは訂正をさせていただきます。
恵比寿さまの御像と思っていた石像が写真で確認をしたところ、布袋さまであったことに気づきました。
それほどに大きくて、特徴が掴めないほど…ということは決してなく、ただ単におばさんが思い込んでいただけであります。
お詫びして訂正させていただきます。
********************
「あのぉ〜、今日の節分会の御護摩はどちらで行われますか?」
御守りなどをおわかちくださる授与所の方にお聞きしました。
「ああ、それなら、あちらの御堂だよ。ここを道なりに行くとすぐわかるから」
ほう。
大きな布袋さまの像をみぎてに見て、教えていただいた通りに道なりにまいりますと、ありました。
十数段の石段を登って、さらに数段の階段を登る、縦に高く見える御堂、『護摩堂』またの名を【五大尊堂】がありました。
現在の護摩堂は享保十七(1732)年に建立されたものといいます。
お堂は朱に塗られ赤御堂(あかみどう)と当時呼ばれていたそうで、見上げるとかすかに黒っぽくなった赤の色が残っています。
向拝には見事な大きな龍がこちらを向いた彫りがなされています。
迫力あるカッと見開いた目であります。
こちらのお堂の前には、あたたかな陽射しの中、ゆったりとくつろげるようなテーブルと縁台が置かれており、またみぎてには護摩木を販売したり、お札の申込みをする受付所がありました。
それがまたなんとも癒しの空間となっています。
護摩木を二人分おわかちいただき、願目を書いてお渡しし、堂内に入りました。
堂内は煤けて黒ずんでしかもそれが照りを出しています。それがまたなんとも厳かな雰囲気を醸しており、思わず手を合わせていました。
こちらの護摩壇はかなり高いところにありました。
これは大勢で護摩を囲んでも誰もが等しくその炎のゆらめくさまを見ることができましょう。
こちらは五大尊堂というだけに、五大尊をお祀りしています。
五大尊とは即ち中尊に『不動明王』さま、東方『降三世明王』さま、南方『軍荼利明王』さま、西方『大威徳明王』さま、北方『金剛薬叉明王』さまであります。
しかしながらその五大尊は御簾の中でお姿を拝することはできませんでした。
『よくお檀家さんにお話する事
年中行事を楽しみましょう。
梅が咲いたら梅を愛でましょう。
桜が咲いたら桜を見に行きましょう。
その為に予定を立てましょう。
予定は当日立てることは出来ません。事前に立てましょう。
100年生きたとしても、春は100回しかきません。この瞬間も二度と来ません。
上巳の節句にはお祝いしましょう。
どこかに行く必要もない、お家でビールでもいいです。
自分に関係がないと思ってしまうのではなく、自分は世の中の女の子の成長をお祝いするんだという気持ちでご飯を食べましょう。
その時、私たちの心はとても優しい気持ちになっています。
頑張って生きている自分を褒めてあげるという事。
仏様も神様も、ご先祖様も精一杯生きていることを褒めてくださってます。
たった一度しかない人生、たくさん楽しんで心豊かな人生を共に歩みましょう。
合掌』
京都にある真言宗のお寺さん【遍照山 西福寺】さんのご住職さまのお言葉です。
身近で誰でもでき、そしてそれがとても大切なことなのだと気づかせてくださるお言葉として心に沁みました。
(鶏足寺さんの続き)
集まった人たちのそれぞれの話し声が飛び交います。
子供をあやす声、普段は離れて暮らす息子さんや娘さんとのいかにも弾んだ声、etc…。
ふとみると、堂内入ってすぐのひだりてで、小さな白い袋に入った『福豆』が売られていました。
よかった♡
こちらでの販売やお授けが無ければこれから買わなくてはならなかったので。
一袋ではいくら小さなわが家でも足りなそうなので二袋買い求めました。
「そうだね。ここにも鬼が来るかもしれないしね」
そう言いながら、係の人が福豆を手渡して下さいました。
は?
いつも護摩を焚き、五大明王さまがお護りになっておられる御堂に近づけるような鬼がいたら、それこそ大変でしょ?
それこそ『GODZILLA』の世界だわ。
そんなことを考えながら、右端の、まだ誰もいない席へ向かおうとすると、
「え?せっかくだから、よく見える真ん中の席に座ろうよ」
と夫。
ええっ?
…この人は本当に。
喉元過ぎれば人間で困ったものです。
定期的な通院の欠かせない慢性呼吸器疾患を患う自覚が無い!
何のために遠出を避け、人混みを避けて、行きたいところをひたすら我慢しているのか…。
ひとえに、呼吸器を脅かす流行り病に罹らないようにとの努力であったはずなのに。
私が仕事を辞めた理由の一つにも挙げられたくらい、その感染を恐れていたはず。
それが…。
「こんなところではマスクをしなくても平気だよ」
「みんなもうコロナ前のように出かけているよ」
…みなさんは若いんです。
抵抗力もあるし、何より呼吸器疾患を持つ人も…少なくはなくとも多くもない。
名実ともに爺さんの、しかも慢性呼吸器疾患で朝に晩に薬を欠かさず飲んで、吸入もしているような人間とは違うんですが?
まるで小学生のように「みんなしてるよ」「みんなしてないよ」
…sigh
ああ、そういった意味では若いわね。
しかしながら、確実に加齢しているおじ(い)さん、このところやたら頑固で意固地なんだよなぁ。
…はいはい、わかりました。
夫の希望する中央の席、真ん中辺に席をとりました。
えらいなぁ、私。
…明王さまがた、どうかこの夫婦の心に住む鬼どもを祓ってやってください。
御内陣におられる明王さまに向かい、心よりそう申し上げました。
ヒマラヤの麓にあるカピラ城にお生まれになったお釈迦さまは三十五歳の時に悟りを開かれました。
それからの御一生は、インド各地を遊行され、仏教の布教の道に尽くされました。
村から村へと大勢のお弟子様を従えて歩かれてのご生涯でありました。
修行と伝道の生活が四十年を過ぎる頃、お釈迦さまも時々、背の痛みを弟子の阿難に告げることがあったと伝えられます。
八十歳を迎えられ、伝道の旅が終りに近いことをお悟りになったお釈迦様は、最後を故郷で迎えようと決意されます。
最後の長い道のりの間にも、日々の生活は変わりません。
そんな旅の途中、パーヴァーという地で鍛治屋のチュンダの茸料理の供養を受けられ、その際その毒にあたったと伝えられ、それからだいぶ身体が弱られたとものこされています。
やがて、終焉の地クシナガラ(現在のゴラクプール東方50キロの地点)に到着されました。
「この世で変らぬものは何も無い。皆、怠らず精進しなさい」。
そのお言葉を最後に二月十五日の夜半、偉大な御生涯を遂げられたのです。
今日、二月十五日はお釈迦さまの入滅された日、涅槃会であります。
日本各地の寺院で涅槃会の法要が営まれます。(寺院によっては三月の旧暦で営まれます)
高野山金剛峯寺では前日の夜十一時より本日の夜十一時まで、【常楽会】という法要が執り行われています。
いつかこの常楽会に参列させていただきたい。
とはいえ冬の高野山、あまり歳を重ねてからでは行くことも叶わなくなりましょう。
何より、穢れ多く煩悩多きこの身を、少しでも軽きものとするためにも、なるべく早くに。
本日はご厚意で檀家さま以外にも門戸を開いてくださっておられるお寺さんの涅槃会に参列させていただきます。
これは、仕事を辞めたら必ず毎年そうして過ごしたいと願い思っていたことでありました。
その願いが叶っておりますことに感謝して。
また一つ歳を重ねます。
ネットで素敵な御守を見つけました。
【結守(ゆわいまもり)】というものだ。
自身でまず好きなお守り袋を選び同封の〝願い紙〟というものに願い事を書き込み、祈祷済みの木札と塗香とを共に包んで、お守り袋にしまうのだといいます。
そしてそのお寺さんで毘沙門天さまにおまいりして、望みを丁寧に書いて毘沙門天さまの前で手を合わせて〝宣言〟する、のだといいます。
約二十分のお守りづくり体験。
祇園にある臨済宗の『両足院』さん、というお寺さんでのもの。
一体一体手作りされているもので好きなデザインを選べるようです。
うーん♡
(鶏足寺さんの続き)
定刻になると遠くから御鈴の音が聞こえてきました。
そそとした足取りでお二人の僧がご入場されてまいりました。
お一方は一番上の御内陣と護摩壇のある段へ、もうお一方はそのすぐ下の段へとお進みになられました。
下の段の僧の方が開経偈を、そしてそのあと九条錫杖経をお唱えになられました。
よく通るきれいなお声です。
九条錫杖経はお不動さまに向けて唱えられたり、お護摩の前に唱えられるお経であります。
そのあと太鼓をたたきながら三度、般若心経を繰り返しお唱えになられました。
その間上の段の僧は、お護摩の前に行なう儀式を執り行われています。
やがて、ゆらゆらと炎が上がる様子が見えてまいりました。
下の段の僧はさまざまな御真言をお唱えになられています。
時折、法被をお召しになった方が御札を護摩壇へと運んできます。
?!
…鬼だ。
赤と緑の鬼が現れました。
怖がらせようとか、強そうに見せようとかいう演出一切なしの、町内会の出し物のような(…ちびまる子ちゃんに出てきた町内会のクリスマス会のイメージ 笑)。
とはいえ、ちゃんと上から下まで赤鬼は真っ赤ですし、緑鬼は緑色。
ぼうぼうボサボサの黒髪(明らかに毛糸)と、陳腐といえば陳腐ですが、それでも異形であることはたしかです。
…今のお子さんって、こんなものには怖がらないんですね。
しかも別段退治してやろうとかいうこともなければ、誰が化けているかあばこうとするでもなく、ただひたすらクールに見守っているだけ。
いやいやそれどころか自ら手を差し出して握手まで!
…たしかに、世の中もっともっと恐い存在が山といるし。
鬼ヶ島なんかよりももっと悲惨な現場がテレビの画面に映し出されていますものね。
でもやっぱりそんなお子さんたちにびっくりして衝撃を受けました。
そんな時の止まったおばさんを取り残し、お坊さんは
「鬼が出てきましたので、豆をぶつけて退治いたしましょう。こちらは『福はウチ、福はウチ、鬼は外』と申す決まりとなっていますのでご一緒に」
などと申されているではないですか。
えっ?
豆を撒く?
たしかに売っていたおじさんは、鬼が出るかもしれないから…っておっしゃっていました。
ええ〜っ?
神聖な御堂の中、豆をまいちゃうんで?
滞りなく、鶏足寺さんの追儺は終了いたしました。
御堂の中、大量の豆が落ちて散らばっています。
ま、まぁ、振り返ってみれば鬼が出てくるお寺さん、結構ありましたし。
【中尊寺金色堂展】
かつて東北を訪れ、その想像以上のきらびやかさ、言葉にできない美しさに魅了され、そこにいつまでもいられたならとまで思った【中尊寺】さんの【金色堂】。
【皆金色(かいこんじき)】と呼ばれる美しい金色堂【阿弥陀堂】は、金箔が箔され、さらには柱や手すりのひとつひとつに蒔絵や、螺鈿細工が施されており、夜光貝だけでなく象牙や宝石もまた使われており、
しかもこれだけ贅を尽くしていてもいやらしさは感じず、ただただ荘厳な心洗われる、まさに〝極楽浄土〟そのもののような空間でありました。
その中尊寺金色の建立九百年を記念して、現在、東京国立博物館において、一月より『特別展』【中尊寺金色堂】が開催されております。
このことを知ってから、まるで乙女のように胸をときめかせ、是非、絶対、東博へと意気込んでおりましたおばさん。
夫の忙しい仕事が一段落した合間をぬって、しかも平日を狙い有給を取得してもらって、…連れて行っていただきました、東京上野の国立博物館!
もうまさに自宅から最寄り駅までですらスキップでもステップでも踏みそうな勢いでありました。
ちなみにおばさん、光り物が好きなわけではなく、結婚指輪すらどこかにやってしまうくらいの人間で…。
そこにおわします三十三の美しい御仏にただただ魅せられて、のことでありました。
金色堂の中では、ガラス越し。
しかもそれなりの距離があり、しかも三十三という御仏の御像の数。
一日かけようとも私が満足いくだけ見られるはずもありません。
そんな金色堂の御仏の御像が✨
はるか東京へとお越しくださるという。
胸がときめかないはずがありません。
しかも、しかもです。
金色堂内中央の須弥壇に安置される(国宝の)御仏像十一体が、
同じガラス越しではありますが、一体一体、全方向から拝することができるというのです。
こんなこと、本来でしたら一生涯に一度でも無いことであります。
なにしろ、九百年という年月で初めてのことであるというくらいのことなのですから。
上野の駅で降りてから、走ること、走ること!
「そんなに走らなくても…」
いや、韋駄天さまにお手伝いいただきたいくらい、走りたい!
救心も持った!
東・はく〜っ♡
!?
…こ、この方角に向かう人の群れって…。
この方角、あるのはもはや、めざす所の東京国立博物館のみ、なはず。
天才級の方向音痴なわりに、こういった不変の建物を含めたら、妙な記憶力がある私、一度でも来るともう何も案内など見ず走ってでも行けちゃうし、周りに何があったかもかなり記憶しているんです。
…まぁ、博物館の場所は上野公園の端、それは覚えていても普通といえばいたって普通なのですが、ね。
とにかく、…凄い!
何が起きた?
まさかの東博?
そしたらこの人の群れが目指しているのは…。
走るっ!
私ひそかに鍛えてましたから。
ええ、めまいや心臓が大丈夫な時にインターバルトレーニングと短距離と長距離と。
階段昇降も。
それこそ雨の日にはトレーニングジムまで使って。
…まぁ、東博の中尊寺金色堂展のために、ではなくて、孫と遊ぶために、ですが、ね。
なにせあちらはどんどん成長して、歩くのも走るのも速くなり、しかも体力もついて、その身体能力は上がるばかり。
一方のおばあさんは、衰えることを留めることすらが努力を要するお年頃。
ありがたいことに土日に仕事が入ったとき、孫を預けてもらえているので、そしたらばあちゃん目一杯遊びたいじゃないですか。
ばあちゃん目線でいろんな体験、経験させてあげたいじゃないですか。
それが違ったところで活かせる!
走るーっ!!
もはや夫とは完全別行動。
東博の入り口で(だけ)一緒になれば良い。
まずは入場券、ゲットだぜ!
…まぁ、はたから見たら怪しいおば(あ)さんでしかないかもしれませんがね。
走るカッコをしていればそれもありなんでしょうが、一応は御仏にお会いするための服装で来ておりますし。
走って、走って、東博の入場券の券売コーナーへ。
…れ、列が。
どこの列が1番早く買える?
…以前は前売り券を購入して来ていたのですが、今回はあまりにも混んでいたら諦めることも視野に入れて来ていたので、前売り券の購入をせずに来ていたのです。
最悪、入場制限がかかるから、入るまでおばさんは必死です。
(続き)
>…最悪、入場制限がかかるから、入るまでおばさんは必死です。
って…。
最悪、入場制限がかかるほどの混雑なら、コロナやインフルエンザといった、呼吸器感染症の予防のために、入場を避ける、辞めるつもりで来たんじゃ?
…。
おっ!
中尊寺金色堂展の入場口はなぜか、幸いなことに空いているではないですか♡♡
やったあぁ〜っ。
…。
……。
………凄い。
決して、ええ、決して満員電車には到底及びません。
が…。
これは…。
以前なら涙を飲んで諦めたパターンです。
しかぁし!
♪やめられない、止まらない!
しかももうすでに、都会の満員電車に乗ってここまで来ています。
スルスルスル〜っ。
おばさんは何かの妖怪のように、人のあいだを縫って、人混みのなかに突入していきました。
そ。
もはや夫はどこにいるかは関心すら失っています。
きゃー♡♡♡
(続き)
スルスルスル〜っと入場し、シャカシャカと自分のペースで観て回ろうとする妻にようやく追いついた夫は、
「音声ガイドはどうする?」
と問いました。
「私はいい」
…いやぁ、音声ガイドを聴きながら観させていただけば、より多く学べると思うのです。
ですがね。
もっとゆっくり観たいとか、たまたま人が集中してよく見れないままにガイドが進行してしまったらどうするの?とか思ったりするんです。
それはそれで途中で一旦止めたりできるのかもしれないのですが…。
実は。
何よりも嫌なのが、使い回しの機器、なんです。
私こう見えて(どう見えていると思っているのか 笑)素肌に装着するような機器の使い回しが、正直好きでは無いんです。だめなんです。
耳とか、頬とかに触れているじゃないですか。
えっ、そんなの消毒してるじゃない?…って思われますよね。
でもやなものはいや。
夫はいまだにそんな妻を知らないのかどうなのか。
とにかく私は要らないと言い、まず初めに拝見したのは『中尊寺建立供養願本(がんもん)』。
藤原清衡公が中尊寺を建立した際の落慶法要において奉納した願文、とはいってもこれに関してはすでに原本は失われているとのことで、写しであるとのことでありますが。
いやぁ、私、ここ、この中尊寺金色堂展に来るまでは、元本だとばかり思っていたんです。
つまり清衡公が書かれたものだと思っていた。
まあ、とはいえこれ自体が鎌倉時代に書かれており、十分古いもの。
そして。
あの【紺紙金銀字一切経】。
文字通り、紺地の紙に金色の一行、その次の行は銀色の文字と交互に書写された一切経、であります。
これは国宝。
実はこの紺地の紙に金色の文字だの銀色の文字だのといったお経は他にもあるにはあります。
群馬県の桐生市のお寺さんにもこういった様式で書写されたお経が残されています。
ただ年代が古いだけではなく、保存状態もよく、さらにはこの書かれているのが『一切経』であることが国宝指定の理由の一つなようです。
一切経をこうした紺紙金銀字で書かれたものは中尊寺のこれ、『中尊寺経』のみなのだといいます。
これがまた美しい手で♡
当然のことながら一字一句間違いが無い!
…たしかに当然、なんですけどね。
なかなか難しいんですよ。
人、ですからね。
それだけでも、凄い!
一昨日、自分の誕生日に出逢った一帖の本が届いた。
夫からプレゼントをもらっているにも関わらず、こんな贅沢をしてよいのだろうかと思わないこともなかったけれど、出逢えたときの衝撃を抑えられなかった。
書籍としては発売元にすら在庫が無く、その出版社の書籍を多数在庫として置いておられる書店でも在庫が無いといい、もはや入手できないものとなっていたため、どうしようかと迷わなくもなかったのだが、とある宗派のブックセンターにお電話差し上げて、送っていただいた。
それは【遺教経】という経本。
まさにそのブックセンターさんの方が見れば身バレしそうなくらい特殊な注文でありましょう。
【遺教経】の名は存じ上げていたものの、それをお聴きする機会はなく、ましてやその経本を目にすることなどもなかったものでありましたが、とあるお寺さんの涅槃会に参列させていただき、初めてそのお経をお聴きする機会を得られました。
その衝撃といったら。
遺教経はお釈迦さまがまさに最期のときに、衆生に向けてお話しされた説法を写したもの。
初めてお聴きしたそのお経は古文というか、わかりづらい言葉ではありますが、それでも般若心経のように意訳されて内容がわかるものではなくて、日本語であり、伝わる言語としてのお経でありました。
師の最期のときを迎え、動揺を露わにする者たちに向け、あたたかな、穏やかな言葉をおかけになられたお釈迦さまのご様子までが伝わるようなお経でありました。
涅槃会という、仏教に携わられる方にとっては悲しみの日でもあろう日に産まれた者としても、このお経との出会いはまさに〝必然〟だったかのようにすら思えたのです。
このお経はどの宗派でもお唱えになられるものかとは思いますが、涅槃会のとき、まさに年一回となることもあるのかもしれません。
しかしながら宗派によっては、人が、特に僧侶が亡くなられたときにお唱えになるともおっしゃっておられました。
素人も素人、仏教徒でも無い、仏壇すら無い、一おばさんが手に入れて良かったかどうかは、今後私がこの経本とどう関わらせていただくかにかかるものでありましょう。
まぁ、私が鬼籍に入った暁には、お寺さんに納めてもらいましょう。
(中尊寺金色堂展 続き)
大治元(1126)年の中尊寺落慶供養に際し、清衡公が自ら読み上げたとされる『供養願文』には、次のような願いが述べられています。
『戦乱の中で、失われた夥しい命、
父をはじめとする肉親、敵味方両軍の兵士、女性や子供ら非戦闘員、更には、食糧として狩られた鳥や獣たちに至るまで、全ての魂が「浄土」へと導かれ、安らぎを得られるように』
『今生きている者たちが、「浄土」の存在を信じられるように』
『東北の地に仏の住まう「理想郷」を現出させたい』
そして金色堂落慶から二年後、清衡公は七十二歳でその生涯を終えられました。
御遺体は金箔を張った棺に納められた後、金色堂中央の須弥壇の内部に安置されました。
その供養願文(の写し)の展示された横には、国宝である【紺紙金銀字一切経】が展示されていましたが、
これがまた美しい美しい手によるものとなっていました。
金の一行、銀の一行。一行、一行色が変わることによって、どこを読んでいるかを見失わずに、スムーズに読むことができるのです。
そして.…。
この紺紙金銀一切経の写されたものには、巻頭に金でたくさんの御仏が集う絵か描かれていました。
細い細い線。
しかしながらこの穏やかで、あたたかな気持ちになる気持ちになれる絵でありました。
極楽浄土を表したものでありましょうか。
たくさんの御仏が描かれています。
その優しい穏やかな表情といったら♡
おばさん思わずこの絵の絵はがきを買い求めてしまったほどですあります。
さらに。
この展示物のならびには【金光明最勝王経金地宝塔曼陀羅】がありました。
こちらは縦長の紺紙の中央に大きく九重の宝塔が描かれていました。
が。
よく見ると、屋根も壁も全てが経文の文字によって表されているではありませんか!
その繊細なことといったら。
そこでこの掛け軸の宝塔が小さな小さな細かな字で、経で描かれていることに気づいた人たちはみな、一同、声にならないため息をつき、そこから離れられなくなっていました。
その素晴らしさといったら…。
作品を作った絵師の腕の素晴らしさもさることながら、これらは、まさに莫大な富と権力あってこそ作りえたものでありましょう。
(続き)
あ。
持国天さまの立像が…♡♡
ふわふわと寄せられていくおばさんが一人。
なんと凛々しいお顔でありましょう。
腰をひねり、大きく手を振り上げたお身体の逞しさ。
その動きにあわせて大きく翻る衣、その動きと繊細な布を見事に表した仏師の腕の力量。
なんて素敵な♡
そんな持国天さまの踏みつけた鬼はなぜかとてもユーモラス。
顔をこちらに向けて「やれやれ、やられちゃったい」とでも言っていそうなのです。
まるでお笑いで表現されそうな顔つきと身体のポーズにも思えます。
その邪鬼の爪の鋭さも目を引きます。
そこからほんの少し離れて増長天さまの立像が。
お二方とも、剣も戟(げき)も外されて持ってはいないのですが、それを振りかざしておられるポーズです。
あぁ、できたらその手に持つ小物も全て展示していただきたかった。
持国天さまは口を閉じ、増長天さまは口をカッと開かれています。
阿吽、ということでしょうか。
こうした激しい動きの表現は、のちに慶派仏師が得意とする鎌倉様式を先取りしたようです。
増長天さまに踏みつけられた邪鬼は観念したように横たわっています。
この二体の御像。
普段なら同じガラス越しでももっともっと距離があり、しかも須弥壇の上、後ろからのお姿を拝することなど決してできないのでありますが、こういった展覧会では後ろや横からも拝見することができるのです。
あくまでも信仰の対象であることはわかってはいるのですが、いるのですが、…仏像好きにはありがたい。
この二天の像の周りだけでも一体何周したことか…。
ちなみにこの展示会のグッズ売り場でこの邪鬼のクッションが人気の商品で。
これを購入したら、絶対同じポーズをとって邪鬼クッションを踏みつけるのだろうなぁ。
(続き)
ちなみに。
この二天の後ろ姿の悩ましく色っぽいことといったら。
ベリーダンスをすら彷彿させる色っぽさでありました。
これは本当に不敬な言葉でありますが、この角度、こうした展覧会でしか決して決して見られないので、今回だけはこの不敬な言葉をお許しいただきたい。
まさに胸騒ぎの腰つきにございました。
この二天の後ろには、三体づつに分けられ地蔵菩薩さまが展示されています。
金色堂においてはどの須弥壇においても同様な配列、配置がなされています。
金色堂でのお地蔵さまは左右に分かれ、一列に整列なされ、中央の阿弥陀如来さまと、観音菩薩さま、勢至菩薩さまを囲んでお立ちになられています。
それゆえ後ろにおられるお地蔵さまはそのお姿をほとんど拝することができないのでありました。
それがこの金色堂展では全ての地蔵菩薩さまの尊顔を、お姿を拝することができるのです。
あー、なんという、なんという幸運。
こんな機会はこの時代を生きていたからこそ得られたもの。
九百年の時を経て、初めて、中央檀の十一体の御仏の像すべてがこの上野の地で一堂に会し(…とはいえ通常も金色堂の中の中央檀でまさに〝一堂に会して〟おられるのでありますが)、私のような者でも、そのお姿を間近に拝する機会が与えられている、…これはまさにこの時代に生きているからこそ与えられたチャンスに他なりません。
当たり前といえば当たり前のことでありますが、ここに横並びに並ばれたお地蔵さまは、そのお顔立ちも一体一体異なり、頭の形も、お指の形も、なんならお召し物の長さすら、異なっているのでありました。
一体一体手作りですので、そんなの当たり前で、むしろ同じに作ることのほうが奇跡だと、言われればそれまでです。
ですが、これはもう意図的に一体一体全てを少しづつ違えて作っているのだと、私は確信しております。
お顔立ちからはおそらくは同じ作者、少なくとも同じ工房、同じ時代に作られた御像であることは間違いないと思うのです。
…美しい。
このおだやかなお顔、差し出された手の慈悲深さ、はあぁぁ…♡
いつまでも拝していたいお顔であります。
しかぁし、ここだけで足を止めておくわけにはいきません。
観音菩薩さま、勢至菩薩さま、
そして阿弥陀如来さまのお姿を私はまだ拝してはおりません。
(続き)
とはいえ、地蔵菩薩さまの頭の形はどのお地蔵さまのものが好きだなぁとか、お顔立ちで好みなお地蔵さまはこちらの方だわ♡とか、金色堂におられる時には考えもしないことを展覧会となるとどうしてこうも変化してしまうのか。
まぁそんなあり得ない考察(?)も、どれだけ時間を費やして御像を拝しているかを物語るものであります。
このお地蔵さまの後ろに、阿弥陀三尊がおられます。
もうそちらからオーラが出ているかのお力を感じます。
はあああぁぁ✨✨
ごくごく自然にお閉じになられたお口。
その肌がいかにスベスベであるかが、ガラス越しでありながら伝わります。
うっすらと開いた眼は、目の前の何物も見てはおられない。
なんと神々しい…。
阿弥陀三尊像でありますが、一体一体、いやいや一軀一軀が別々のガラスケースに安置されています。
こう安置していただけることで、それぞれの尊像をじっくりと心ゆくまで拝観することができます。
と、同時に、こうすることで拝観者の分散がはかれます。
ガラスケースにへばりつくかのような近さで、ため息を何度も何度もつきながらと前後左右をうろつくおばさん。
普通なら…怪しい。
しかしながら誰も他人のことなどまるで見てなどおりません。
むしろそれに近い方もそれこそ何人もおられるくらいです。
この螺髪は作成されて間もない頃はどのような形であったろう。
やはり群青をしていたのだろうか。
今は炭化したような色をしています。
そんな表現をしてはおりますが、その色がまたなんとも金色のお顔や体躯にお似合いです。
なんと美しい座りかたでしょう。
どこにもお力を入れず、それでいてすっとした…。
座った時にできる衣の流れ方もなんとも自然で美しい。
…美しい美しい横顔です。
この近さったら…!
後ろからですよ?
後ろから。
仮に後ろから見られるように安置されているようなお寺さんがあったとしても、通常は光背がございます。
御仏のお座りになられる後ろ姿など、こういった展示会でなければ拝することなどできません。
(続き)
中尊寺金色堂展に行くまえ、まさに金色堂で、三箇所ある須弥壇のその御仏の尊像のそれぞれの違いに気づくのはまず、二天の尊像でありました。
まるで違う、のです。
あれ?
こんなにも違うんだぁ…。
親、子、孫、それぞれの御遺体を納める台も兼ねる須弥壇でありますから、それぞれの時代においての仏師がそこに祀る仏像制作にあたります。
当然仏師が異なり、また、かの有名な慶派等のようにその技術を継承している仏師が携わるとも限らない。というわけで、比較的自由な表現のできる二天においてそうした違いが出るのでありましょう。
慶派のようにその技術を継承する派に所属した仏師だとしても、その中で自分の表現をします。
そうした流れを汲むような仏師でないとしたら、その違いは二天のような尊像の制作においてはその違いは如実であって当然です。
それから気づいたのはやはり中央に座しておられる阿弥陀如来さまのお顔立ちの違い、でありました。
…でもそれくらい、でしたね。
やはりどうしても距離がありますし、ガラス越しですし、お地蔵さまにおいては後ろの方の方に至ってはほとんど見えないくらいですし。
この今回の金色堂展においては中央壇の御仏だけがお越しになられておりますだけですので、その左右の、『西北壇』と『西南壇』と呼ばれる須弥壇の御仏の像と比較することは不可能です。
なのでかつて中尊寺遠訪れたときの記憶を辿るしかないのですが、阿弥陀如来さまの尊像はきっと大きさすらも異なっていたよう記憶しています。
大きさと…、その髪型も、お顔立ちも、だいぶ異なるものでもあったことを記憶しております。
と、いうことで。
距離もあり、ガラス越しであることもあって、二天の後ろにお立ちになられている観音菩薩さまと勢至菩薩さまのことは、あまりよくは見えなかった、拝することができなかったのが現実でありました。
今回はその尊像を間近で拝することができる、最高の機会であるのです。
(続き)
こうした展覧会において写真はNGであることが基本です。
それなので目に焼き付けること。
それに尽きます。
まぁ、写真集や絵葉書等、二次元に写された御姿は手に入れることはできますが…。
この十一体の尊像を間近で拝することができるのは、まさにこの展覧会の開催されている期間限定のチャンスなのです。
しかもこうした展示会においては、往々にして前期・後期に分けて展示品が変わることもあり、前期には前期にしか拝することのできないものがあるのです。
それが今回十一体の尊像ではないことは確かなのですが…。
そして…。
あの、金色堂に安置なされていたときには、対に作られたように思われた左右の観音さまと勢至菩薩さま、
対のようで実はかなり異なっていたことを知るのも、ここでしかできなかったこと、なのです。
(続き)
観音菩薩さまと勢至菩薩さま。
そもそもが異なる菩薩なのだから、違うに決まってる、はずなんですけれど。
お召し物もお揃い。
お手に持たれる蓮の花が右手と左手であることで、正面から見たときの〝対〟な感じが演出されているのですが、そもそもそれはこの中尊寺金色堂バージョンなだけで。
共に合掌されておられるお姿。
それぞれの手のひらを合わせ片方の手が上、片方が下になるように胸の辺りで合わせておられるお姿のものもありますし、どちらかの菩薩が花を持ち、もう一方が水瓶をお持ちのお姿をされているものもあります。
ただ、蓮の花を持たれる尊像に関して言えることは、観音さまがお待ちになっておられるのは蕾であること。
これは【未敷蓮華(みふれんげ)】と呼ばれるもので、観音菩薩のシンボルといわれるものであります。
観音さまは蕾のごとく閉じた人の心を開かせる存在であるとされるからです。
ちなみにこの〝閉じた〟心をは閉ざしているというのではなく、まだ閉じている仏心ということであります。
それに基づいてのものでありましょう、この中尊寺金色堂の観音像はみな蕾の蓮の花をお持ちになり、勢至菩薩像は花開いた蓮をお持ちでありました。
一見同じに見えるお召し物、衣の流れるさまが異なっておりました。
そしてもちろんお顔もだいぶ異なって作られていました。
ちなみに。
阿弥陀三尊像で有名な長野県の善光寺さんの『善光寺式阿弥陀三尊』はお手になにもお持ちではないパターンであります。
ここで不思議なことに気づきました。
勢至菩薩さまの右の御御足。
足の下に指まである足形を敷いておられる…とでも言いましょうか。
まるでそこだけブレて見えているような。
そこにどんな意味があるのか…。
解説はなにもありません。
それがもしやして解説されているかもしれないとこの金色堂展で販売されている『図録』まで購入したくらいです。
正しくはそんな疑問が無くとも購入を決めておりましたが 笑。
後付け、でしょうか。
これが無いと傾いてしまう、とか?
観音さまには見られないのです。
なんなら同じように立像である六体のお地蔵さまにも。
…たぶんこの謎は解くことはできないのだろうなぁ。
中尊寺さんに問い合わせたところでわかるとは思えない。
(続き)
眠れないので、『中尊寺金色堂』展の図録を拝読しておりました。
図録ではありますが、随所随所にコラムがあり、これはなかなか読み応えがあるものなのです。
まぁ、各界の専門家の方々が書いておられるものなのでスマホ片手に調べながら読むことが多いのですが…。
こんなじゃ眠れるはずもない。
もはや眠ろうとしてすらいない。
ただ流石に真夜中に頭を使っているのはなかなかしんどいものであります。
文を読むのに疲れたので、また御仏の尊像のページへと戻って…。
ふとあることを思い出して、観音さまと勢至菩薩さまのページを開きました。
それは、仏師の方が、「観音さまは衆生を導くため、少しだけ前に傾くように作成する」とおっしゃっていた言葉。
こちらの、中尊寺さんの金色堂中央壇の観音さまも、傾く、というほどではないけれど、でも確実に、勢至菩薩さまよりも観音さまの方が上体が前に傾斜して作られておりました。
この中尊寺かどういった請願のもと造られたかを考えたら当然といえば当然ではありますが、でも仏師はきちんとそうしたことにまで神経を巡らし、あるいはそこまでの監修が入って制作されていたのでありました。
そう、清衡公の、
〝亡くなった御魂全てが、極楽往生できるように〟
という悲願にも似た思いが込められ建てられた中尊寺であるのですから…。
それは味方とか敵方であるといった人間に限ることなく、動物であれ、虫であれ、花などの植物であれ、一切の生きとし生ける全てのものの亡くなったのちの魂が対象であります。
全ての命。であります。
全てのものの魂が極楽往生。
…その魂を導く観音さま。
その尊像はこの図録で見比べて初めて気づくくらいにわずかに前かがみに造られておりました。
極楽浄土へと誘なうべく.。
(続き)
私はここ、この東博へはただただ御仏の尊像にお会いしに参っております。
芸術や美術的なセンスも知識もなく、歴史的価値あるものにもほぼ興味がないため、十一体の尊像を拝見いたしますと、もう他にはあまり関心がありません。
今回のこの金色堂展の売りである『8KCG』なるものも、めまいの持病のある者にとってはどちらかというと苦痛の方が大きくて…。
この8KCGとは、『金色堂と壇上の仏像をはじめとする堂内空間の8K画像データを活用した超高精細CG』となるらしい。
これにより、幅約七メートル×高さ約四メートルの大型ディスプレイ上に原寸大の金色堂が再現されているのです。
8KCGはNHKと東京国立博物館が共同で開発した超高精細なデジタルアーカイブなる手法で、まるで実物を写し取るかのように文化財を記録をすることだといいます。
現地においては、金色堂はガラスの外から拝観するしかありません。
それを8KCGを使い、仮想的に堂内へといざなうというものとなっているのです。
きらびやかなこの世の浄土が、
御仏たちが、
大画面で凄い勢いでせまってまいります。
黄金の聖空間のこの迫力と美しさは圧倒的な体験でありました。
(ほんの少ししか見てはいませんでしたが…)
正直にいえばのちにNHKで放送された映像くらいが私にはちょうどよかった。
つまりはそのくらいの〝ど迫力〟ということです。
縮尺5分の1の金色堂の模型も展示されていました。
ここも人気のスポットでありました。
ここだけか撮影の許された場所でもあり、少しでも良い写真撮ろうと人だかりができていました。
夫は他の展示品を見てまわっていました。
…もう一回♡
夫にことわって、私はもう一度御仏たちの元へ。
(続き)
金色堂展、びっくりするような展示品もありました。
『金箔押木棺』が一番のそれであったかもしれません。
これ、清衡公の棺、であります。
清衡公の棺そのものであります。
…びっくり、ではありませんか。
ご存知の通り、私大変なおバカ、なので、
「じゃ、じゃあ、清衡公の御、御遺体は…?
今、どうやって安置されているの?」
…ご存知の通り、金色堂に安置されていた奥州藤原氏三代(四代泰衡公は頭部のみ)の御遺体はみな、ミイラ化しておりました。
これは意図したものではなく、自然にそうなったという見解が、一番新しいものであります。
そうした踏み込んだ調査もなされておりますくらいですので、今御遺体は必ずしもこの木棺で安置されているとは限らない…のかもしれません。
でもわたし、この調査なるものの後、元々納められていた棺に当然戻されるものと思っていたのです。
だって一説によると、入滅されたお釈迦さまを納めたとされる『金棺』になぞられ、棺に金箔を施したとされるのですよ?
そんなこだわりの棺なわけじゃないですか。
それが生前の清衡公の希望であったかどうかはわかりませんが、いずれにせよ、かなりのこだわりがあっての金箔の棺なわけじゃないですか。
…もうね、ごくごく普通に、他の展示品と同じように展示されていたわけですよ。
副葬品の金塊や、刀の装飾品やら、念珠の一部(これを〝残欠〟というようです)まだもが、展示されているのです。
金箔の棺、とは言っても、なにしろ九百年以上の年月が経過しています。
その金箔はだいぶ剥離してしまっております。
でも、やっぱりその大きさから、その木箱がなんであるかは、私のようなぼーっとしたおばさんでもすぐに気づくというもので。
特に内部の金箔はごく一部ではありますが、はっきりと残されているのです。
金色堂はお墓、…ではないけれど、御遺体を納め、安置した場所であるのですから。
(続き)
他にも学びやら発見はたくさんありました。
金色堂は昭和の大修理があり、その際学術的な調査がされたことも知っておりましたが…。
なにしろこの金色堂展で販売されています図録、たとえば御仏の御像にいたっては上下以外の全方向からの写真が掲載されているんですよ♡
しかも部位によってはおそらく実物大の写真♡♡
今回は中央檀の御仏の尊像十一体が展示されていますが、西南檀、西北檀の御仏たちの写真もちゃーんと掲載してくださっている♡♡♡
あ、感動のあまり話がずれてきておりました。
そういうありがた〜い図録なため、中尊寺金色堂の様子もところどころ写されており、あんなに煌びやかに見えていた金色堂の壁面はびっくりするほど、まるで炭化してひび割れているかのように、ひび割れて、今にも剥離してしまいそうな部分すらあるものであったということとか…。
平安時代に造られた光背や台座は『残欠』という形で、修復不可能という扱いで、外されて別所に保管されていたこととか。
昭和の大修理する前の金色堂内の写真も小さなカラー写真が一枚掲載されていたのですが、それはもう言葉を失うくらい、別物で、とてもとても金色堂とは呼べないくらいにまで、金箔は剥落し、金具は緑青をふき、とにかくもう、『皆金色(かいこんじき)』などとは決して言えない、思えない物に化してしまっていたのです。
…おバカなんで、
(覆屋があったからこんなにも、奇跡のように『皆金色』として受け継がれてきたんだぁ)
などと、思っちゃっておりまして。
それを知ることとなり、正直、結構ショック、ではありました。
でもそういったことを知ることも大切だということも学んだのです。
なにしろ九百年という重厚な歴史の流れがこの金色堂を包みながら流れていったのですから。
この気の遠くなるくらいの長い長い歴史にあらためて敬意を払い、この国の宝を一国民としてどう守るべきか…。
えっ?
そんな大それたことを述べてはいるけど、中尊寺で、そしてこの東博の金色堂展で散々散財したことを、中尊寺、あるいは金色堂を守るべく尊い志納金であったとか、言い出そうとしてるんじゃないかって?
……。
さて、この辺で金色堂展のことについては筆を置きましょう。
…たぶん。
私、歴史の授業は好き、だったんです。
好きだったはずなんです。
でも夫とこうして神社仏閣を巡って歩くようになって、彼がそれこそ車を運転しつつ語る(=何も見ず)〝歴史〟を聴くようになって、
それはただただ、
〝嫌いではない授業を寝ないできちんと聞いて、ちゃんとノートをとっていた〟
だけであったと思い知ることになったのです。
たしかに、夫は少しばかり歴史に詳しい人かもしれません。
なぜなら予定もなくフラッと行った土地で、たまたまその土地の歴史に詳しい人物の解説を聴くような機会を得たとき、その解説後彼から出た質問で、その解説をされていた方が驚いてそして嬉しそうに彼と二人で語る、…なんて場面に幾度も出くわしたりもしましたし。
つまり授業で習わないことにまで造詣を深めていた、ということ。
まぁ本人曰く、あくまでも「自分の好きな時代のものだけだよ」ということらしいのですが、凡人以下の私にとってはその姿を見るにつけ、(えっ?ウチの夫って結構賢い人だった?)と思う機会を得たことともなったのですが…。
ですが。
本番はここから(なんの?)。
『私って、歴史も音痴レベルだったんじゃ…。』
…いやいや『』で囲うほどのものでもないけれど、本当、私って自分で思っていた以上にバカだったんだなぁって。
その、ですね。
まずは歴史の授業で習ったことなどすっかり抜け落ちている、ということとか?
…もうそこがすでに致命的なんですが、ね。
『その場その場の授業で習った歴史の内容をただただ暗記してただけ』だったなぁって、イヤというくらい思い知るんですね。
なんてもったいない学習をして過ごしてしまったんだろうって。
ほら、神社仏閣って、歴史あるものではないですか。
創建された時代とか、その歴史背景とか…。
それからその神社仏閣が歩んだ歴史とか、その頃の日本、あるいは世界の情勢であるとか。
ちゃんと学んだ人物(ここでは夫)は、それが一瞬でそこの知識に結びつけられる。
奥州藤原氏のことだってそう。
私とて奥州藤原氏が栄華を極め、東北にすぐれた文化を築いたこととか、どうしてそれがわずか四代で滅んだかぐらいは、すっって出てきますよ?
ただ、それについて彼に語らせるともう別物。
…まぁ、それについてはごくごく一般常識なのかもしれません。
ただただ私がすっかり忘れていただけで。
(続き)
何を忘れているかって、たとえば『〜の合戦』『〜の戦い』とか『〜の変』とか『〜の乱』とか?
もはや高校入試すら通らない気すらしてまいります。
いや、いいんです。
もう高校入試は受けないので。
でも、なんかもうもったいないなぁって、思うんです。
その知識がちゃんと身についていれば、夫のようにスッとその神社仏閣の歴史的なものをその場で肌で感じて、その上で楽しめる。
でも、そういったものがすっかり抜けてしまった私は、〝昔あった戦さで〟の域止まり。
歴史って繋がってるもんじゃないですか。
すごく勿体無いんです。
私にそういった歴史的建造物を見せるのはネコに小判、豚に真珠、馬の耳に念仏、…ほんと勿体無いんです。
こんなおバカさんでも受験戦争とやらは通る道、じゃないですか。
…それがある意味いけないんですよね。
受験に向けての勉強って流れとか一切関係なく暗記してても通ってしまうから。
いや、それとて好きなものがある子は、ちゃんとその受験も通りつつ好きな学習はちゃんと正しい形で極めているわけじゃないですか。
要は私がおバカでキャパが大変小さいと、それに尽きるのでありますが。
それに気づいて、今になってまた歴史を学んでも、その『〜の変』とか『〜の合戦』とか、若い頃ですら入れても抜け落ちていたもの、もうなかなかなかなか入ってくれない。
…ま、知らなくとも全然生きてこられたんですけどね。
とある芸能人さんが、古文なんて習っても社会に出てまるで使わない、使ったことがないと語ったとか聞きました。
たしかにそういった言い方のできる〝勉強〟、〝授業〟ってあるかとも思うのです。
ついた職業にもよるかと思います。
√とか微分積分とか、私、学校出てから使ったことないですし。
でもそれを日常的に使うお仕事をされる方も世の中にはおられます。
要はそういった苦手な分野を知ることで、つく職業も自ずから変わってくる、そういった意味でもあらゆる分野を授業で学ぶ意味ってあるのではない?
私はちょっと苦手分野の絡む、苦労する職業につきましたけど、それすらひとえにおバカさんだから、なだけな気がしますが。
ここでまたとある歴史を学び直しました。
でもたしか東北に旅してその時も学んだはず、なのにです。
ね、勿体無い。
漏れ出づるもの、それは私の知識。
【鬼宿日】
今日は【鬼宿日(きしゅくにち、またはきしゅくび)】 という日に当たるといいます。
『鬼』という字が入っているので怖いイメージですが、実はこの日は鬼が宿にいて出てこないので、〝何をするにもよい日〟とされているのだといいます。
鬼宿日という考え方は、『二十八宿』という古代中国の天文学・占星術に基づいて決められたものだとのこと。
『二十八宿』とは、月の運行を観察するために天空を28等分した区画のことで、『鬼宿』はその中の一つにあたります。
また、一説によると鬼宿日はお釈迦様が生まれた日だったという逸話もあり、仏教の開祖の誕生日としても重要な意味を持っているという考えを持つこともあるようです。
鬼宿日に神社仏閣にお参りするのは大変良いともされているようです。
〝鬼のいない日に神仏に感謝をお伝えし、自分の厄を落とす〟
という考え方のようです。
今日は一日。
ちょうど一日参りということで、いつも参拝させていただいている神社さんへ参拝してまいりました。
うーん、なんだか嬉しくなります。
ところでこの鬼宿日と呼ばれる吉日、なにをするにも良い日、とされるのに、何故か入籍や結婚式は避けた方がよいとか。
…なんででしょうね。
えっ?
私のような鬼嫁にならないように?
もしかして私どもの結婚式って鬼宿日だったのかしら。
うーん。
ちなみにこの鬼宿日は二十八日周期であるようです。
鬼といえば…。
『鬼滅の刃』という漫画がありますが、映画やテレビアニメとしても映像化もされ、なんでも今何シリーズ目かの映画が上映されているとか…?
私は一度も観たことが無いのですが、姉などは同じものを何度か観に行ったくらいハマったようです。
鬼滅隊の隊員は鬼宿日が休日になるのでしょうか。
(ミモザの花が咲きはじめました)
【天海僧正毛髪塔】
天海大僧正といえば、徳川家康公の精神的支柱として側近となり、秀忠公、家光公と三代にわたって支えた方であることは有名な話ですが、その天海僧正の毛髪塔なるものが上野公園の一角にあることを知りました。
天海僧正の毛髪塔は、上野公園内、『上野の森美術館』の向かいにひっそりと佇むようにありました。
そもそもが上野公園一帯は天海大僧正が創建した寛永寺の境内でありましたので、こうした天海僧正ゆかりのものが公園内にあることはなんら不思議は無いのですが…。
も、毛髪塔?
天海僧正は天台宗の僧侶、天台宗の僧は剃髪されておられたはずです。
ん?
毛髪塔を訪ねたところで、その謎が解けるわけはない気はしたのですが、せっかくなので訪ねてみました。
天海僧正は元和二(1616)年、家康公が亡くなったのち、江戸幕府安泰のためには、江戸城の方位学的な吉相を高める必要があると考えます。
そこで、将軍秀忠と相談し、江戸城の鬼門(北東)である上野不忍丘に【東叡山寛永寺】の建立を進言し、その三年後の寛永二(1625)年、三代将軍・家光の時に寛永寺が建立されます。
『東叡山』とは東の比叡山という意味で、比叡山が京都の鬼門に置かれて都を守っていることに倣って、寛永寺を建てたといいます。
寛永寺の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約三十万五千坪に及び、さらにその他に大名並みの約一万二千石の寺領を有したといいます。
現在の上野公園の中央部分、噴水広場にあたる竹の台には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な『根本中堂』が建立され、『本寺』は現在の東京国立博物館にあったとされます。
さらに京都清水寺に倣って建てられた『清水観音堂』、琵琶湖弁財天に倣って不忍池辯天堂などが建立され、五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊を数えたといいます。
やがて徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営され、格式、規模において我国最大級の寺院としてその偉容を誇ります。
ところが幕末の戊辰戦争では、境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまいます。
さらに明治政府によって境内地は没収されるなど、寛永寺は壊滅的な打撃を受けたのです。
(続き)
天海僧正は江戸庶民の憩いの場とするために、吉野の桜を取り寄せて、上野の山を桜の名所とします。
不忍池には蓮を植えて放生地としました。
現在も憩いの場として人々に親しまれている上野公園は天海僧正によって造られたといっても過言ではないのです。
天海僧正は長寿を全うされ、寛永二十(1643)年に子院の本覚院で百八歳で亡くなられます。
遺言によって御遺体は『日光山輪王寺慈眼堂御廟』に葬られましたが、亡くなられた本覚院跡地のこちらには本覚院第一世の晃海によって供養塔が建てられました。
のちに、本覚院に伝来されていた毛髪を納めた宝塔が建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった、というのがこの【天海僧正毛髪塔】であるということでありました。
つまり天海僧正が得度され受戒の際、剃髪された髪が残され伝わっていた、ということと考えればよいのかと。
その髪が納められているという塔は上野公園の一角という場所柄ひっそりと佇むように見えますが、毛髪塔、供養塔にしてはやはりかなり立派なもので、しかもそれに付随した石塔がいくつもあり、そこだけ見れば立派なものでありました。
中に入らなくはないのですが、ビビりのおばさんなんとなく怖いような気がして、遠巻きに手を合わせてその場を立ち去ったのでありました。
日々髪を剃る僧の髪では、黒い粒か、へたをすると粉?なのではと相も変わらずくだらない妄想をしたおばさんの謎は解けました。
【御写経させていただいた法華経の納経】
先日御写経をさせていただくべく『法華経』の一部をお預かりしていたお寺さんに連絡をして、ようやく納経してまいりました。
えっ、今ごろ?
と言われそうでありますが、お寺さんもお忙しい時期もございますので、それを避けてのこととなり、こんなに日となった次第だございます。
お釈迦さまの御教え(言葉)をまとめた『お経』の数は、「8万4千」といわれています。
【法華経】はお釈迦様の晩年八年間で説かれた教えであり、お釈迦様の集大成の教えです。
その内容は二十八章に分かれているといい、あらゆる仏教のエッセンスが凝縮されているとされます。
二十八章。
ちょっとやそっとでは読めません。
それでもネットで、ではありますが、一応法華経を開いてはみました。
その内容の難しいことといったら!
さっぱりわからない。
実は、お釈迦さまのご説法を聞くために集まった居並ぶ聴衆の中でも、法華経方便品の教えを理解できたのは、智慧第一と称される舎利弗ただ一人であったというのです。
これでは私などに理解できようはずがありません。
そこで少しでも理解しやすいようにと、【方便品】で説かれた「開三顕一」の内容を、もっと分かり易く、たとえ話をもって説かれていく章があり、それが【第三章譬喩品】となります。
そうまさに言葉の通り比喩されている内容。
これならば私にも分かるだろうか?
いや、全くもって無理でした。
私が、私ども夫婦が写経させていただいた法華経の一部、それこそがまさに、まさにその【譬喩品】であったのです。
ええ、私、その御写経させていただいた部分、読むことすらできなかったのですから。
(続き)
いくらなんでも自分が書写した部分が法華経のどの辺りに当たるものかも分からず、何が書いてあったかすらも分からなかった、では御写経をさせていただいた意味もなかろうと、納経の際、ご住職さまにお聞きして、自分たちが書写した部分は【比喩品】であったことを知りました。
ご住職さま曰く、それは
【三車火宅喩(さんしゃかたくゆ)】、『三車火宅の喩え』の部分であるとのことでありました。
『…ある国に一人の大邸宅をもった非常に裕福な長者がおりました。この長者には、大勢の子供がおります。
ある時、この長者の邸宅が火事になりました。中には多くの子供がおりましたが、火が回ってくるにもかかわらず、遊びに夢中で、そのことに気づきません。この邸宅には門が一つしかなく、遊びに熱中している子供はその危険も知らず、父である長者が呼べど叫べどまったく聞き入れないという切羽詰まった状況でした。
長者は、自分の力で抱え救い出せないことはありません。しかし、そうではなく、ここで巧妙な手段を用いて子供たちを救い出そうと考えました。
日頃からおもちゃが大好きな子供たち。その好みにしたがって、
「門の外に立派な車があるぞ!しかも、羊の引く車、鹿の引く車、牛の引く車だ!みな、好きなものを与えるぞ、早く外に出るのだ!!」と。
父の叫びに応じて、子供たちはみなわれ先にと火宅から飛び出し、危難を免れることができました。
そこで長者は、みなそれぞれに、大きくて白くそして力の強い牛の引く、種々の宝石で飾られた立派な車『大白牛車(だいびゃくごしゃ)』を与えたのでした。 』
このたとえ話に登場する長者とはお釈迦さま、子供たちは私たち衆生を指しています。
お釈迦さまは生前、人々の性格や好み、その望みに応じて、それぞれにかなった御教えを用意されました。
車は迷いの世界から悟りの世界へと乗せていってくれる乗り物で、教えを表します。
三車とは、望みにしたがってかりに説かれたものであり、本当はそのような三つの区別があるのではなく、みなをただ仏と成すという目的を遂げるための方便〈手段〉であったことが明かされた、という内容なようです。
うーん。
お釈迦さまが生きておられた頃なら、私のような者にもわかるようにお教えくださったのだろうにな。
【上野東照宮】
上野といえば。
上野といって思い浮かぶものは人それぞれではありましょう。
ちなみに。
群馬県はかつて上野國、こうづけの国でありましたけれど、『上野』という字を見て真っ先にそちらに頭が行く方はどれくらいおられるものか。
『上野』といったらやはり東京都台東区の『うえの』を思い浮かべる方の方が圧倒的に多いのではないかと思います。
その『うえの』といったら。
私は真っ先に【上野動物園】を挙げます。
正確には【東京都恩賜上野動物園】。
日本の動物園では最も古い歴史を持つもので、【上野恩賜公園】内にあります。
この上野動物園は、明治十五(1882)年に農商務省所管の博物館付属施設として開園した、日本で最初の動物園です。
明治十九(1886)年には宮内省所管になり、大正十三(1924)年には昭和天皇(当時は皇太子殿下)のご成婚を記念して、東京市に下賜されました。
それゆえ『恩賜』という文字が使われているのであります。
その上野公園はもともとは前述してまいりました通り、広大な上野【寛永寺】さんの境内地でありました。
寛永寺さんといえば徳川家の菩提寺であり、元々が二代将軍秀忠公により天海上人が賜った土地。
上野は徳川家とは切っても切れない縁があります。
そこに徳川家康公を【東照大権現】として祀る【東照宮】があるのはいたって自然な流れ。
ですが。
神社仏閣に関わることの少ない家に育ってきた私は、当然のことながら上野動物園のすぐ真横に神社があることに気づきながらもお詣りすることなく、当然それが東照宮であることも知らずに過ごしてまいりました。
それどころか、神社仏閣を巡るようになってからですら、上野動物園へ行くことがあっても、それが東照宮であることを知ってからも参拝することなく過ごしてきておりました。
その上野東照宮が、近年テレビで取り上げられることが増え、私の中で小さな罪悪感が生じます。
(上野東照宮へお参りしないと…)
なぜなら、日光東照宮へはコロナ禍以前においては年に何回も足繁く通っていたこともあったくらいで、地元でも前橋東照宮、さらには世良田東照宮、太田東照宮と、あちこちに祀られる東照宮へと参拝しているというのに、将軍家の菩提寺の、かつてはまさに境内にあった上野東照宮へ行かないのは、どこか片手落ちな気すらしてきたのであります。
(続き)
…まずは前レスにおいて、誤ちがありましたので訂正させていただきます。
『太田東照宮』としておりましたものは『徳川東照宮』の誤りであります。
お詫びして訂正させていただきます。
いつもいつもすみません。
とはいえ、東照宮といえば全国のあちこちに存在します。
三代将軍徳川家光が諸大名に造営を勧めたこともあって、譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名が競って東照社を建て、全国で五百社を超える東照宮が造られたといいます。
明治維新以後の廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約百三十社となっているとはいいますが、その全国の東照宮を巡って御朱印を拝受する『東照宮御朱印帳』も存在するくらいです。
私などはそのごくごく一部をお参りしているに過ぎず、東照大権現を最初に祀った総本宮『久能山東照宮』にすら参拝していないのですから、別段上野東照宮さんへの参拝に固執しなくとも…とも思うのではありますが。
でも…でもですね、寛永寺さん内に祀った東照宮です。
やっぱり、ねぇ。
しかも上野動物園からその社殿を見ていたにも関わらず、お詣りしていなかった罪悪感みたいなものもあり、今回博物館だけでなく、【上野東照宮】さんへ参拝することを目的として上野へと上京しておりました。
いざ、上野東照宮さんへ。
(続き)
私の記憶の中での上野東照宮さんは、上野動物園の中に鎮座されたものであったと、…そう思い込んでおりました。
それくらいに動物園の園内からその社殿の姿が見えるものでありました。
今は、というと、注意して見なければあまり見えないのです。
わが家の子どもたちと一緒に行ったのはいつのことだったのか…。
その頃とはやはり園内も変わっているようです。
あの頃は東園と西園の移動にモノレールが運行されていましたが、今は休止され、今後廃止が決定しているようです。
変わらない風景と、大きく変わったところと。
私の記憶が少しずつ変わってきていたのもあるのかもしれませんが 笑。
それでも神社仏閣に興味もなかった人物が気づくくらいには見えていたのだけは間違いないのです。
東園の端のあたりを歩いていると普通に見えていた記憶で。
その時、
「神社にも寄って行く?」
と夫が聞いたという記憶があり、
その聞き方も不敬なものですが、「いや、いい」と答えた私に至ってはもうどう繕いようもありません。
東京国立博物館から大噴水の横を通って、スタバの長い行列にため息をついてコーヒーを諦め。
小松宮さまの馬に乗られた像の前を通ってまもなく道を右折して…。
上野東照宮さんの石造りの鳥居が見えてまいります。
鳥居をくぐると。
ああ、東照宮さんだ。
…そう実感する灯籠の列です。
やはり徳川家と縁ある土地に建てられた東照宮さんであると実感いたします。
そんな感動を覚えながら灯籠を観て歩いていると、五重塔が見えます。
五重塔はまさに上野動物園の園内にあります。しかしながら五重塔へは近づくことはできません。
園内でありながら孤立した空間にぽつんと立っています。
寛永寺さんからも離れたところであり、東照宮さんからは近いものの、あの明治の悪令により神社に五重塔は置くことはできず…。
現在、ぽつんと孤立したところに建つ五重塔は東京都が管理しているといいます。
動物園の中にあるとはいえ、ものがものだけにただの見せ物にするわけにもいきませんし、上野動物園は東京都の管理下ではないものとなっており、そういった意味からも孤立してしまったようです。
歴史ある建造物にいたずらも困りますから仕方ないことかもしれませんが、まるで姿の見える閉帳のようです。
〝神仏崇めて神仏頼らず〟
よくいわれる言葉です。
夫はまさにそのタイプ。
まぁ、とはいえ心に思うことあれば、密かにはお願いを申し上げているかもしれませんが。
それが生きている人間、ですので。
対して私は相も変わらず未熟者ですので、日々頼ってばかり。
子どもたち、孫たちが心身共に健康で事故なく怪我なく過ごせますよう毎日祈っております。
そんな私、今一番参拝させていただきたい神社さんがあります。
なんなら一人で電車ででも参拝に向かいたいほど。
それは要石で地震から日本の国をお守りくださっておられる神さまを御祀りされている、鹿島神宮であり、香取神宮であります。
以前からお参りしたいと夫婦ともに申しておりましたものの、コロナ禍により断念してしまっている三社であります。
一箇所だけお詣りしたのではダメ、なんてことはないと思うのです。
私のような穢れ多い身がお詣りしたところで神さまが
「よかろう、そなたの願いしかと叶えようぞ」
などとおっしゃってくださるかどうか…。
ましてや常日頃信心してお参りしていた者であればいざ知らず、初めて参拝するようなおばさんです。
要石が強化されようとも思えません。
地震が各地で多発しております。
地震のような天災に対して、どれだけ科学とかが進歩しようと、人は神に祈るくらいしかなす術がないではないですか。
少なくともこの凡人以下の私は、それしか知らない、思い浮かばない。
香取神宮でお祀り申し上げている御祭神『経津主大神』さま、
鹿島神宮でお祀り申し上げている御祭神『武甕槌大神』さまを
お祀りしている上野國の神社ではダメかしら。
それならば日参できます。
愚かでしょうね。
愚かでしょう。
でもここにあっても祈っております。
どうか日本各地で起きている地震が一刻も早く鎮まりますように。
(上野東照宮さんの続き)
まさに。
まさにあの教科書に載っていた二条城の絵のように、家康公、東照大権現にひれ伏すかのように整然と並んだ石灯籠。
ザ・東照宮といった雰囲気を味わいつつ歩を進め、
(あ、やっと手水舎だ)
と思って近寄るとそこには『本坪鈴』が…。
? 何故?
そう、あの神社の拝殿前に吊るされているあの「ガランガラン」となる、大きな鈴です。
ただ、鈴緒と呼ばれる、鈴を鳴らすための紐はつけられておらず、鳴らすことのない本坪鈴が、いかにも手水舎を思わせる四方に柱だけある舎の内に、まさに鈴が目の前にくるよう吊り下げられているのです。
いや、水鉢もありますので、かつては手水舎そのものであったのでありましょう。
なんでもこれ、ここの狛犬を造った石工、江戸の三大石匠といわれた石工が明治七年に寄進したものと、説明書きが掲げられていました。
ほう。
でもやっぱり不思議。
鳴らすはずの鈴が手水舎の中央に、金具で吊るされ、さらにはその重さを補うべく紐で不自然に吊り下げられている様はなんとも異様な気がいたします。
バチ当たりといわれてもそれは本来とは異なるかたち、違和感を感じても仕方がないと思います。
よくはわからないまま、正面に目を向けると、その鈴を奉納したという石工の造った狛犬に自然と目がいきました。
私の背をはるかに超えた台座。
その上に、おおっ!と目を見張るほどの狛犬さまがおられます。
狛犬さん大好きな私はもうぽわぁ〜としてしまって…。
先ほどまで抱いていた鈴へのモヤァとした思いが一気にどこかへ飛んでいってしまいました。
(続き)
手水舎ならぬ鈴舎のあたりから灯籠は石ではなく、ブロンズ製の物へと変わります。
拝殿のそば、奉納した大名の位も上がり、それに合わせて奉納する灯籠も格が上がっているということでありましょう。
並んでいる様子は整然としており、一見同じもののようにも見えますが、少し時間をかけて見ますと、その一つ一つがみな、細工が異なるものとなっています。
大きさだけ合わせて、あとはその忠誠心やら敬意を表するために、思い思いのデザインを工夫し、奉納したのでありましょう。
あ。
先ほどの鈴手水舎の反対側に参道を隔てて、本当の手水舎が。
手を浄めます。
…コロナ禍以降、ほとんどの神社仏閣で閉鎖していた手水舎が、コロナの感染症の分類が変わって再び元のように使用できるようになっても、私はもはやマイルールで手のみを清めて、口はそこでは清めてはいません。
古い、常に風雨にさらされている手水鉢、まことに失礼な失礼な言い方をすれば、いつ水を変えたかわからない水、やはり風雨にさらされたまま設置されている柄杓、…私はずっとずっと…この昔からの儀礼が嫌だったのです。
でも大切な神仏への儀礼、儀式であると言い聞かせて、がんばって手を浄め、口を浄めてまいりました。
それが、コロナ禍以降、寺社の方針でしないでお参りすることが決められます。
…いいんだ。
…しなくていいんだ。
衝撃でした。
神仏への礼儀と思って我慢もしてきましたし、礼儀なればとコロナ禍では折りたたみ式のキャンプ用のカップを柄杓の代わりに持ち、それで手や口を浄めておりましたのに。
それどころか使われなくなった手水舎、手水鉢は『花手水』なる新たな文化を生み出します。
…厳密にいうと花手水はコロナ禍以前から存在していましたが。
急速に普及したのはやはりコロナ禍以降。
そして。
新たなる文化は、コロナの感染症予防法の分類が変わろうと、元へは戻らない寺社を生みました。
…いいんだ。
この、コロナの感染対策が変化して以降、私は基本マイルールを以て手水を浄めることとしました。
コロナ禍においても、その神仏への礼儀を貫いてこられた神社仏閣さんにおいては、水の出るところから直接お水を受けさせていただいて口も浄めておりますが、基本マイルールで。
基本手水鉢からの水は使用しない。
手だけでお許しいただく。
(続き)
さすが上野。
平日であっても拝殿前は列がなされています。
は、は?
拝殿じゃない?!
も、門扉じゃないですか。
しかも閉ざされた。
え、えっえ〜っ?
ここで参拝、ですか?
門で、ですか?
将軍様で、東照大権現様だから、そう簡単にはお目通りできないってことなのでしょうか。
日光ってどうでしたっけ?
たしかにこの門扉、黄金に輝くものでありますが、庶民はここまで、ですか?
おっ、みぎてに何やら受付のような建物があります。
そそ、そうですよね。
拝観料ですよね。
いざ!
って、…無人だし、出口って書いてあるじゃないですかあぁ。
もしやして御開帳される日とかがある?
そんなこと?
…。
特別な御守の授与日があるっていうのは知ってはいましたが、拝殿の前にすら行けないなんて…。
今はこんな落ちぶれた身ではありますが、世が世であれば、私、…人間だったかしら?
すっかり気落ちした私は、せめて御朱印を拝受しようとたいそう立派な、いかにも新しい社務所へと向かうのでありました。
中はまるで小さなホテルのフロントのようです。
違っているのは、受付の方が巫女装束であることくらいです。
そこにも列ができていて、みなさん御朱印やご朱印帳をお求めになられています。
「御朱印をお授けください」
順番が来て巫女装束の受付の方にそう申し上げ、ご用意くださる間に御守りを見させていただき、孫に可愛らしい御守りを一体拝受いたしました。
巾着タイプの豆狸さんです。
あれ?
これって…これってタヌキと言われた家康公にあやかってのもの?
そ、そんなバチ当たりな?
…買っちゃいましたけど。
(続き)
「お次の方どうぞ」
と隣の列から聞こえます。
巫女さん姿の販売員さんは二人。
私の対応をしてくださった方は、やわらかな笑顔の、物腰の穏やかな方でしたので、私がそこを去るまでずっと笑顔で見送ってから次の方を迎えるのですが、隣の方はきびきびとレジを捌くタイプの方のようです。
おお、制服の男子高校生が群れをなして入ってきたではないですか。
…そうか学校行事。
コロナ禍では全て中止されていたものであったようでしたが、ようやくこうして笑顔でお友だちと校外学習に出かけられるようになりましたか。良かった、本当に良かった。
受験のために御守をお受けしにここへと立ち寄ったのかしら。
「御朱印を」
えっ?
「御朱印帳一冊と御朱印をください」
えっ?
ご、御朱印、でしたか。
それも一人ではなく。
付き添いでここに入ってきたのではなくみなさん御朱印や御守を拝受しています。
なるほどなぁ。
今は男子高校生も御朱印を。
若いカップルが御朱印を拝受されている場面に出会うことはよくあるのですが、てっきり女の方がお授けいただいているのかと思い込んでいました。
ご夫婦でそれぞれ御朱印をお授けしていただいている方々にはよくお会いいたしますし、私よりもずっと上の方はむしろ男の方の方が多いくらいです。
なるほど、思い込み、偏見でしたかね。
さて御朱印もお授けいただき、御守も拝受いたしました。
あとは…牡丹園?
諦めの悪い私はもう一度門に向かって手を合わせていました。
すると夫が、
「ねえ、さっきの社務所の外に『拝観はこちら』って書いてあった」
と。
社務所としかとらえていませんでしたから、何も読むことなくスッと中に入ってしまいましたが、なるほどあそこで拝観料を。
そんなことは受付には一切書いていなかったなぁ。
慌ててまた社務所へと戻ります。
男子高校生の列はますます増えておりました。
「あのぉ〜、拝観させていただきたいんですが…」
きびきびタイプの販売員さんが、咎めるような顔をこちらに向けてきつめな声で
「並んでください!」
あ、御朱印とか御守とかの拝受と拝観料の窓口は一緒でしたか。
それにしてもきつい物言いです。
【末法思想の世】
※性被害事件について書かれております。
【発し難くして、忘れ易きは、斯れ善心なり(伝教大師最澄)】
善いことを求める心を起こすことはたいへん難しく、しかもすぐに忘れてしまう。
すぐ行動にうつすのは難しいもの。明日なくなるかもしれない命、したいことをしよう、できれば善いことをしよう。
と意訳されていました。
ショッキングなニュースを目にいたしました。
とある宗派で起きた事件です。
まさに末法。
『…僧侶から性暴力や恫喝(どうかつ)を繰り返し受けたとして、四国に住む尼僧(55)が1月31日、東京都内で記者会見し、宗務庁に対し、この僧侶と、加害行為の手助けをしたとして大僧正の僧籍剝奪(はくだつ)を求める申し立てをしたことを明らかにした。
懲戒審理申立書などによると、この女性は僧侶から寺に呼び出されて性行為を強要され、その後も恫喝や暴力などで心理的に監禁され、繰り返し性暴力を受けたという。
母の供養を頼みに訪ねた大僧正から、一番弟子としてこの僧侶を紹介され、寺への参拝を指示された、と訴えている。
大僧正は、僧の最高位で、現在六名しかいない千日回峰行を満行した「北嶺大行満大阿闍梨(ほくれいだいぎょうまんだいあじゃり)」の一人。
女性によると、僧侶からの被害を大僧正に相談したが、そのたび僧侶に従うよう指示されたという。
会見で女性は
「大僧正は僧侶の行為を助長し、被害を隠蔽(いんぺい)し続けた。僧侶による心理的監禁を放置し、助長した。宗務庁は正しい判断をしてくれると信じている」と語った。
僧侶は朝日新聞の取材に「いまは申し上げられることはない」と回答。大僧正は、代理として寺の執事が「事実かどうかも申し上げられない。今後は総本山と宗務庁が対応する」と答えた』
朝日新聞さんの記事より抜粋。
末法の世となって久しく、仏教会においても性被害・性加害が行われていたということは伝え聞くことでありました。
この女性はより身近で性加害を行うがため剃髪をされ、寺に身を置くよう、恫喝によりマインドコントロールされ、半監禁状態となっていったといいます。
尼僧として山での修行は行っておらず、師という名目の僧侶に尼僧として認められただけのことであったようでした。
(末法思想の世 続き)
※性被害事件について書かれております。
大僧正に紹介された寺の住職は、その後寺に頻回に女性を呼び出し、たびたび性行為を強要していたといいます。
それに対し女性が抵抗すると、住職から、
「坊主に逆らうと地獄に落ちるぞ」
「(自分(住職)の言葉は)お観音さまの言葉だと思え」
などといわれたということです。
女性はその後、住職から毎晩髪をそられ、自分の手伝いなどをする尼僧として住まわされるようになり、大僧正に助けを求めたものの話をきいてもらうことができなかったといいます。
これが十四年。
事の異常さを知った親族が寺から連れ帰り、それでも僧の言葉に怯え続けていたといいます。
ちなみに、この女性2019年に僧侶の行為を強姦(ごうかん)罪などで警察に告訴したが不起訴処分となったといいます。
…私、法律に全く詳しくないのですが、不起訴ってなんですかね。
いやほんとに〝不起訴〟って処分がどういう事なのかすらがわかっていないレベルなので、そもそもがそこからなのですが。
加害者で、被告なわけですよね。
わからん。
ま、学びたくもないし、学ばずに生きてこられたことって、…普通でもありますよね。
そもそもが僧侶という立場の人間は、人に仏の言葉を伝え、道を説く者でありましょう?
それがこうした許されない罪を犯して、なお僧侶として寺を守っているって…ありえない事でしょう?
末法も末法。
この同じ宗派のお坊さま、尊敬してやまない方々がおられます。
そんな思いも込めて極力宗派名は伏せて書いてはおります。
この事件を知ったのは、この事件を起こした僧侶の属する宗派の僧侶のSNSによります。
その方は
「性被害はどのような職種でも、どのような年齢でも、どのような人間関係でも『ありえない』ことではありません」と書き出し、
「だからこそ、まずは『あり得るかもしれない』こととして、被害を訴えておられる方のお話しをしっかりと伺い、真摯に対応する必要があります。
また、性被害は深刻な人権問題であるため、身内だからかばうとか信じるとかいう問題ではありません。まずは真相の究明です」とつづっておられました。
まさにそこ。
何年も経って、ようやくここまでたどり着かれた被害女性であります。
(末法思想の世 続き)
※性被害事件について書かれております。
この女性がどれだけの監禁状態にあったかを物語るのが、あの十三年前の『東日本大震災』を知らなかったという事実。
今、こうした席に座って、語るまでには弁護士の手助けがなければ、フラッシュバックして、パニックを起こして語るのすら難しかったとも伝えられています。
僧籍の剥奪、ねぇ。
そんなだけでこの男はこの異常な性を抑えることができるのですかね。
あー胸くそ悪い!!
(上野東照宮さんの続き)
巫女装束の販売員さんから拝観チケットを購入して。
と、どこへ行けば?
「そこの入り口にチケットをかざして通って下さい」
…入り口って、係員専用通用口みたいなんです。
裏口とかのイメージ?
ここから拝殿に行けると思えないような…。
テレビで拝見したとき、日光東照宮よりも豪華絢爛とも受けとれるくらい、目にも眩しい金色の拝殿だった記憶があるのですが。
なんだか狭い裏庭の通路っぽい雰囲気が…。
と!
いきなり木の香りすらしてきそうな真新しい、大きな濡れ縁、いや小さなステージ、いやいや屋外座禅場を思わせるような、建物が目の前に!
…なんでしょう?
ちなみに拝観チケットを購入してもご由緒書きや案内書などは渡されませんので、この建物がなんなのか戸惑うばかりであります。
「何?」
「ねぇ、わかんないね」
「ここで日向ぼっこでもするのかなぁ?…ベンチがわり?」
おっ、何か説明が書いてあります。
拝観前に御神木と対面して心を清め落ち着かせる『静心所』である。
…ほう。
そう書かれても、何をしたらいいのやら…、さっぱりわからないので先に進むこととします。
進むとすぐに御神木が見えました。
太い太い幹であります。
ああ、もしかしたら。
もしかしたら先ほどの『静心所』の床に座ると、まさにこの御神木を見上げられる設計、建物なのでは?
大楠の木であります。
今、NHKのニュースを観ています。
東日本大震災で被災され、家族を亡くされたた方が、能登の方へメッセージを送っておられました。
声を震わせ、手はガクガクと震えて、今だって辛い思いを抱えて、能登の方々に寄り添おうとするお姿に、涙が止まりません。
悲しみを抱え、それでも何かを一つ乗り越えたり、前は向かおうとご自分の心を鼓舞されて歩いてこられた十三年。
そこから絞り出すように伝えてくださったメッセージを私は忘れません。
この方の尊い思いを、いつも心の中に灯して、照らして生きていきたいと思いました。
今、あの十三年前の津波で流された松の木々、…奇跡の一本松のそばにあったであろうとされる松の流木を使わせていただいて、拙い木彫りではありますが、手の中におさまるくらいのお不動さまの像を彫らせていただいております。
不器用なので上手くは彫れません。
不器用なので何度回数を重ねても上手くは彫れるようにはなりそうにないけれど。
これをこの仏像を彫る会の会場を提供してくださっているお寺の副住職さまが、今年も東北の地に届けてくださいます。
一体だけではありますが、彫り上がりました。
ご本尊さまの御前にお供えして、お経をお唱えしてから届けてくださるので、早くお寺さんに届けなければなりません。
ちなみに、私のお不動さまのお顔はお笑い芸人さんのアインシュタインの稲田さんに似ています。
この日本語もおぼつかないおばさんの書く、神社仏閣を巡る珍道中録のタイトルに、不自然な〝改〟の文字があることにお気づきの方も多いかと思います。
これはかの『ドラゴンボール改』からなものほかなりません。
いったんは書き始めた珍道中録がどうも書きたかったものと異なっており、仕切り直しを図る際に、ふとドラゴンボール改のタイトルが頭をよぎり、(そうだ、これだ!)とばかりに付けさせていただいたのが始めです。
実は私、娘の妊娠が全前置胎盤という、母子共に命の危険と隣り合わせなかたちでありまして、しかも常にお腹に張りがあったため、四ヶ月弱という長きにわたっての入院を余儀なくされることとなりました。
しかも廊下にすら出られないほどの安静度。
売店どころか、面会コーナーにすら行くことができず、病室での子供の面会は許されていない。
上の子がありましたものでもういろいろショックでカーテンを閉めてベソベソと泣いておりました。
…ええ、おばさんにもそんな時代もあったのです。
長い入院、同じ部屋の方は次々と退院され変わっていきます。
そんな中のお一人に、漫画が大好きな方がおられました。
中でもとりわけ鳥山明先生が大好きで、神と崇めるくらいでありました。
「ドラゴンボール読んだことあります?」
「いえ」
「じゃあぜひ読んで!今度主人に持ってきてもらうから」
いやいやご主人にそんなご迷惑をおかけするわけにはと遠慮したものの、その方の鳥山明先生愛は強く
「いいのよ、主人も鳥山明先生が好きでいろんな人に薦めてるの。私も読みたいし」
それがドラゴンボールとの出会いでありました。
その後、わが家の本棚にドラゴンボールが並んだことは言うまでもなく、近年映画化されたサンドランドも発売日に買ったくらい、彼女の布教活動は成功をおさめたものでありました。
仕事を終え帰宅した息子は、テレビを見てそこで初めて知ったようで、声も出せずその場に静かに正座してただただテレビの画面を食い入るようにみつめていました。
ご冥福をお祈りなんてまだまだしたくない、できたらフェイクニュースであって欲しいなどと思っても、病名も亡くなった日も次々と発表されていき、これが現実であることを思い知らされます。
締め切りに追われることのない世界でどうかゆっくりとお休みください。
…追われていたかっただろうな。
(上野東照宮さんの続き)
こちらの御神木、大楠は、高さ25 m、幹の太さ8mの大樹で、樹齢は六百年以上とのこと。
上野東照宮の創建以前からあり、上野公園の中で最も古い木だといいます。
優しい、あたたかな気で、心ごと包み込んでくださるような御神木でありました。
静心所なる建物の縁側を思わせるところに座って見上げたら、その名の通りに心は鎮まり、穏やかで静かで、大らかなものとなるであろうと、その御神木のお力を知ってはじめて知りました。
…それが誰よりも必要な〝ガサツ〟な心の持ち主ではあるのですが、なにぶんにもガサツで、煩悩の塊でありますおばさんは、焦らされてようやくあと少しで見られるであろう東照宮社殿へと急ぎ足で向かうのでありました。
のちに知ったのですがこの御神木の幹の根元には野生のタヌキも住んでいるといい、(ああそれならばもっと御神木のそばにいればよかった)と、思った動物好きのおばさんでありました。
タヌキといえば。
大楠の近くにタヌキの神様を祀った『栄誉権現社』が鎮座されていまして。
御狸様と呼ばれ、タヌキは『他抜(他を抜く)』ということで、強運、受験や就職、必勝の神様として信仰されているとのことで、この御狸様の御守や御朱印もありますくらいでありました。
東照宮のことを書きながらこう申し上げるのも心苦しいのではありますが『狸おやじ』と呼ばれることもある家康公でありますが、同社は家康公とゆかりがあるというわけではないとのことでありました。
…ですよね。
東照大権現さまをお祀りしておいて、狸おやじとしても祭ろうとは誰も思いはしませんよね。
ま、それを知るまで勘違いしてビビっていたおばさんなのですが 笑。
いよいよ社殿をぐるりと囲む塀【透塀(すきべい)】(1651年造営、国指定重要文化財)と呼ばれる塀の内へと入ります。
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