神社仏閣珍道中・改

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2024/01/20 11:13(更新日時)

[神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。

初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。

そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。





No.3818310 (スレ作成日時)

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No.500

この豆大師についての逸話に次のようなものがあります。


『寛永の初期、河内の国の或るお百姓が、田植も無事済んだ、今年もどうか洪水、ひでり、大風の緒難を逃れて豊作を与え給えと、日頃から信奉する元三大師を、此の堂に詣でて時の経つのも忘れて祈願していた。

その日、昼頃からの小雨が次第に激しくなり、夕頃には山をゆるがすような暴風雨となった。

帰るに帰られぬこのお百姓は、〈水びたしになり、やがて濁流に呑まれる我が田を脳裡にえがいて・・〉

「お助け下さいお大師さま」とひたすらに祈り続けた。

晩近く風雨は止み、お百姓は我が村へ急ぎ走った。

予想通り村の田は皆流され人々は茫然と立ちすくんでいた。

「やっぱり駄目か・・」と力も抜けた足で自分の田に近づいてみると・・「あ、これは?・・」一面濁水のなかに我が田だけは無事無難、苗の姿もそのままである。

村人の話では
「三十余人の子供上がりの若者が、その田の周辺に堤を築き水をかい出して必死懸命豪雨と濁流から守った」といいます。


元三大師は観音さまの化身、ゆえに三十三身に做えて三十三人の若者となりこのお百姓をお救いになった、というお話です。


この角大師と豆大師の御札は二枚セットで授与されることがほとんどであるといい、
角大師の札は『降魔札』、
豆大師の札は『利生札』として玄関の内・外面に貼るように説明をされるといいます。

また、豆大師の護符は、田植が終ると田に立てて、稲の虫よけ、病よけを祈ることとされているといい、今でも全国にわたって行われているといいます。


No.499

(続き)

『角大師』が元三大師の第一変身形態だとすれば、それを補完するのが『豆大師』に当たるといえます。

などとまたまたトランスフォームのような表現をいたしますなんとも不敬な私でありますが…。

この豆大師というのは、以前のレスで貼付いたしました踊るような角大師さまの護符の隣に挙げました三十三人の座る僧をピラミッドのように描いた護符に描かれている僧のこと。

この三十三という数、ユダヤ教でも聖数と言う概念がありますが、仏教においても三十三は聖なる数字と考えられています。

京都にある有名な『三十三間堂』は【蓮華王院本堂】の内陣柱間が三十三あることから命名されておりますが、いわんやそれはそう意図的に造られたということであります。
『西国三十三所』、『坂東三十三観音巡礼』もみな、その聖なる数字に基づいてのものであります。

これは『観音三十三応現身』と言われ、観音菩薩はあらゆる衆生を救うため、その身を三十三通りの姿に変じるという法華経の教えが由来となっています。

豆大師の三十三人は、鎌倉時代に書かれた『愚管抄』に、
「観音ノ化身ノ叡山ノ慈恵大僧正」と記載があるように、実は元三大師良源さまは観音菩薩の化身と考えられていたのでありました。

実は、伝記によると元三大師さまの母君は観音さまに御祈願をして大師を授かったことから、幼名を『観音丸』(日吉丸ひよしまるとも云う)と名付けたといいます。
このこともあってか、ただただその人並外れた霊力によるものか、大師さまは観音さまの化身・生まれ変わりと信仰され、ご本躰は観音さまの中の如意輪観音とされている、といいます。

No.498

命日が正月の三日であることから『元三大師』の通称でも親しまれるようになっていった良源さま。

良源さまは呼称が実に多い方で、諡号が慈恵(じえ)さまであることから慈恵大師さま。
元三大師さま。
角大師(つのだいし)・豆大師・厄除け大師。
その他、魔滅大師・降魔大師・御廟(みみょう)大師・木葉(もくよう)大師・本朝大師など実に様々な呼び方があります。


霊力に優れておられた良源さまは亡くなられたのち、次第に比叡山の護法神のような立ち位置になっていったといいます。
やがては良源さまをお祀りすると『外敵調伏に効果がある』、『飢饉や疫病の根絶に力を発する』とされていき、「元三大師信仰」は広まっていったといいます。

こうして平安時代末期から鎌倉時代にかけては画像や彫像の良源像が数多く作られます。
三十三体等身木像が作られ、六十六体像や九十九体像まで作られるようになっていきます。
こうして叡山三塔十六谷どこでも必ず良源の画像か彫像があるほど「元三大師信仰」が広まっていき、それは民間にも広まっていきました。

その信仰の形の一つとしてあるのが、角大師札、豆大師札、厄除大師札、なのだと思います。
いずれも魔除けの護符として現代に至ってなお広い信仰を集めており、ことに角大師の護符は天台宗の有名な寺院で販売されているといいます。
また天台宗の檀那寺においては檀家さんのお宅にその護符を配るところもあるといいます。


この角大師の護符、実に良源さまの生前にすでに作られていたものといいます。

この、…私が不敬にもムーミンだの、ハリーポッターだのの世界に出てきそうな愛すべきキャラのような絵、などと称した角大師の御札の絵は、良源さまが疫病神を退散させるべく請願した際、鏡に映った姿がこの角大師、夜叉の姿であったといい、これを弟子が描き写したものだといいます。

しかも、その鏡に映った夜叉の姿を描き写すように指示されたのは他ならぬ良源さまご本人であったといい、「その絵を御札にして映し置くところには疫病神は近づかず、永く厄災を除く」と弟子に言われたのが始まりであるといいます。


…ただ一つ、思うにたまたま側にいたお弟子さんはもしかして画力が無かったのか、あるいはすでにデフォルメするという優れた才能をもっていたのか。

はたまたあまり人々が怖がることのないよう監修されたものなのか。



No.497

【続き】

こちら喜多院さんの御本堂は本来『慈恵堂』であります。
まさに慈恵上人良源さまをご本尊として祀る御堂でありました。

入った瞬間、お祀りされた御像がいわゆる『仏像』ではないことにも違和感を感じるところではありますが、それだけではない良源さまの気を感じ取って私はしばし立ち尽くした、というのが正しいのかもしれません。

御堂の中の雰囲気もまた、なんとなく、ではありますが、良源さまらしさというものを感じたのであります。
おみくじを作られたり、
ご自身の変身したお姿を写し取らせた降魔札を信徒に配らせたりなさり、信徒の心を掴まれた良源さま、=元三大師さまの
〝降魔札〟や『豆大師札』と呼ばれる御札を御本堂内でお授けされているところなども、『慈恵大師堂』であることにこだわっての〝スタイル〟であろうと思えたのであります。
また、こちらはお姿を描いた御守り札、それを入れる御守りの袋をお授けになっておられます。
他ではシークレットである御守の中身をあえて見せて、そしてその御守りの中身を収める御守りの入れもの、模様や柄も選べるという、粋な御守であります。


民衆に向けての布教の努力の形、とでも申しましょうか?
そういった精神を受け継いでいるというように、私は感じたのであります。

あくまでも〝私の〟であります。

No.496

【喜多院さんの続き】

慈恵大師良源さま、別名元三大師さま。

私は度々ここにも書いておりますが、大人になるまで神仏にほとんど関わることない人生を送ってきてしまった者でありますので、〝慈恵大師さまについての印象〟などといかにもよく存じ上げているような口をきいてはおりますが、深く学んでなものでもないのに軽口をたたく愚かな者の戯言とお思いください。


子どもの頃から時々、お邪魔したお宅に貼られている、ムーミンの世界に出てきてもおかしくないような、ハリーポッターの世界でも活躍していそうなキャラクターの姿を、黒一色で描いた札を見かけていました。

それが『降魔札(ごうまふだ)』と呼ばれるものであること。

しかもその絵の姿は、天台宗の高僧が平安の昔、すぐれた霊力をもって鬼の姿となり疫病神を退散したときの姿を写し取ったものであり、『角大師(つのだいし)』と呼ばれること。

その天台宗の高僧の名は【良源】さま(919〜985)といい、荒廃していた比叡山諸堂の復興など数多くの功績を上げられたことから比叡山中興の祖として崇められておりますお方だということ。

良源さまが今も全国のお寺や神社で引かれている、おみくじの創始者であるということ。

良源は生前の名で、元月(がんげつ)三日に入滅されたことから、元三大師の通称で広く親しまれておられること。

…等々。全て、この珍道中をすすめていて知ったことであります。


良源さまを存じ上げなくとも、天台宗と縁がなくとも、おみくじを引いたことのある人は大勢おられますことでしょうし、降魔札を目にしたこともありましょう。

私などはまさにそちらの代表者のような、…いやむしろおみくじをすら引くことのなかったほど、
まさに宗教から離れたところに生きる人間でありました。



No.495

毎月十八日は観音さまの日。
昨日は今年最初のご縁日でした。【初観音】といわれています。

群馬県でいぼ観音と呼ばれるお寺さんがあり、当初こちらの参拝を考えておりましたが、急遽、一昨日そして今日と孫を預かることとなり、体力温存と人混みでの感染リスク回避を考えて、その計画は今回は封印。

聖観音さまをご本尊としてお祀りされているお寺さんにお詣りいたしました。
こちらは別段初観音さまのお祭り等はされていないため、春の日を思わせるようなあたたかく、よく晴れた境内をほとんど独り占めすることができました。

手水舎で清めたのち、鐘を撞いて、御本堂へ。
御本堂では法要が営まれていました。

御本堂前で手を合わせておりますと、ご住職さまがちょうど戸を開けられました。
中へ入っても良いとのこと。

おおっ✨

観音さまのお導きでしょうか。

御本堂では法要の直後ということで、お焼香の火もおこっております。
ありがたい。

お焼香をし、般若心経をお唱えして、昨年一年お守りいただきましたことを感謝申し上げ、能登半島地震の被災地の人々の暮らしが一日でも早く正常化に向かいますこと、地震が終息いたしますことを御祈願申し上げ、今年の無事をお祈りしました。

境内には能登半島地震の義援金の募金箱が設置されておりましたので、わずかではありますが募金をいたしました。


それにしても。
孫を預かるくらいで体力の温存を図るほど体力がないのかと自分でも呆れ情けなくなるのではありますが、
孫と遊ぶのはまさに最高のトレーニング。
なにしろ三十分は軽く走り続けるし。
疲れるとおんぶをねだられるし。
言葉かけも良い言葉を選び、一つでもいいから良い経験になるよう考えて計画するし。

まさに脳も身体も最高のトレーニングとなります。

自分の子育ての時は若さもあり、トレーニングなどと思うことすらありません。
ただただひたすらでありました。


今、孫の面倒でひいこらして思うことは、保育士さんの偉大さであります。
複数の子供を連れてお散歩させてくださる姿には感謝で自然と頭を下げお辞儀をしてしまいます。


さあ、今日もばぁばはお弁当を作って、一時間かけて孫のところへ参ります。

お散歩の途中で氏神さまにご挨拶を申し上げたり、お不動さまに娘一家の無事と幸せを御祈願申し上げます。

良いでしょう?婆婆ライフ♡

No.494

【喜多院さんの続き】

山門をくぐることなく境内に入って、目についたのは…『国指定重要文化財 川越大師 開運厄除 喜多院』と白地に黒字で大きく文字の書かれたブリキ板で作られた(←私の主観)四角柱の大きな看板(…看柱?)
それがおそらく境内のほぼ中央にあります。


う、うーん。
…そ、そうだったか。

実は夫、『〇〇大師』と銘打った寺院であまり良い印象を抱いていないようなのであります。

私はそのような先入観を抱いてはおらず、そもそもがこちらに今日伺うことも知らなかったし、こちらが『川越大師』と呼ばれていることも知らなかったこと。
…ですがこの境内中央にも思われる位置にあったこの大きな看板(柱)に、一気に意気消沈したのは隠しようのない事実であります。

まぁ、とりあえず。
その看板(柱)のことは私の中ですぐさま封印して、御本堂を見上げました。

大きな大きな建物です。
その建物と同じ幅の広い、しかしながらさほど段数のない階段があります。
大きな大きな屋根はカーブを描いた美しいもので、五色の垂れ幕が御本堂前面を飾っていました。

こちらは正式には【慈恵堂】、喜多院の御本堂として使われます。
大師堂として親しまれ、『潮音殿』とも呼ばれるといいます。
たしかに。
この御堂には『潮音殿』と書かれた額が掲げられていました。
(これについて、こちらのH Pに七不思議として書かれておりましたので、後であげていきます)

何故か吸い込まれるような感覚で御堂へと入った私。
本当にこの感覚はなぜなのか、いま思い返すと不思議でしかありません。
なぜならば、この日、その御堂の前の広い広い階段には人一人居ず、御堂に入るときも私どものペースで入れたのにも関わらず、なのです。

そして、お堂を入った瞬間。

口があっと開き、そのまましばし立ち尽くしてしまいました。

そこはまさに慈恵上人さまの空間とはかくあろうという空間だったのです。

天台宗慈恵大師良源さま、別名元三大師さまに対して私が抱いていた印象が具現化されたかのような空間でありました。



No.493

…そうだ、ちょうどこんな時だった。
一人で過ごせる唯一の時間、少し早めの朝にテレビをつけて、目を疑い、息をのんだニュースが流れたのは。

今日一月十七日は「阪神淡路大震災」の起こった日。あれから二十九年経つ。
そう娘が生後三ヶ月の時だった。


平成七(1995)年一月十七日午前五時四十六分に発生。
近畿圏の広域が大きな被害を受け、犠牲者は6434人に達した。


当時戦後に発生した地震災害としては最大で、この災害を教訓として「DMAT」や「災害用伝言ダイヤル」などが生まれました。

ご冥福をお祈りいたします。


No.492

【星野山 無量寿寺 喜多院】

※この『星野山(せいやさん) 無量寿寺 喜多院』 という書き方、…一般的には 『〇〇山〇〇院〇〇寺』と称されることがほとんどなので、これが正しいものかどうか、喜多院さんのHPを確認したりもしてみたのですが、網やざるよりも荒い私の目ではそれを見出すことができず、Wikipediaに正式名称とありますものをそのまま引用いたします。

今後再拝させていただきました折りにお聞きして確認させていただきたいと思います。


〜*****〜*****〜*****〜


川越成田山・本行院さんの次に参拝させていただきましたのは、厄除けで有名な【喜多院】さん。
関東圏の初詣の参拝客数でランキングに入るようなお寺さんのようです。
…当然のことながら、そのような日には到底参拝できない二人であります。今回は息子と一緒、ではありますが、両親のそういったところは察してのお誘いでありますので、そのような日は避けての参拝であります。

どうやら息子は下調べをしてあるようで(…まぁ、当然私どもを案内するため訪れたわけではありません。一度訪れている寺院を案内してくれているという意味です)、
「ここを行くとすぐだよ」とスタスタと先導してくれました。

たしかに。
山門も通ることなく、まるで同じ寺院の分院であるかのように隣接しておりました。

「でもねぇ、ここまで来てあまりにも混んでいるんで、ここはここまでで実はお詣りはできてはいないんだ」

えっ?
そ、そんなに?

しかしながら息子が訪れたのは彼が免許を取って一年間くらいの、自分の手であちこち行ける楽しみ、運転の楽しさを味わった、コロナ禍以前のこと。
でもなぁ、それは決して初詣の頃ではなかったと記憶しているのだけれどなぁ。

うーん。

…あまり混んでいたらやめておく?

しかし息子はそんな母の心の動きには気づくことなく、さっさと道を進んでいきます。

…行くか。

No.491

(続き)

あれほどまでに大騒ぎをしてようやく手に入れたあの赤い経本。

帰っていそいそと経本を開いて。

…。

唖然。
…呆然。

そして…未熟者の私はやはり少しだけ立腹いたしました。


この経本の一番はじめに『九條錫杖(経)』というお経が記載されており、それがあったから、
「ぜひこの経本が欲しい」と買い求めたわけでありまして。

真言宗のお護摩のときや大般若祈願のときに、よく読まれるお経なのですが、清めの効果があるといい、…煩悩の塊の私はどうしても穢れ多き身、少しでも清められるならばと、常々お唱えしたいと思っておりましたものなのです。


これが。

これが、ですね。


驚いてください。


突然唐突に 【後略】 と書かれているのですよ。

お経の〝後略〟など、ど素人の私には理解できない。
素人がお唱えしてはいけないとか、何か大きな決まりごとでもあるというのでありましょうか。


一体どんな理由で〝後略〟と、お経が断ち切られているというのでしょう。

正直申しましてもやもやが止まらないのです。
…問い合わせる?
それは川越別院さん?
それとも真言宗智山派さん?


ネットで調べれば続きはわかります。
でも略された意味までは分からない。
略したところまで読めば良いのか。
最後まで読まないと清めの意味がなかったりはしないのか否か。

とはいえ、いくらエックスキューズミーおばさんでも、そんなことをうまく質問できるかどうか。
口下手な上、日本語もおぼつかないおばさんですから。


うーん。

No.490

雪の予報などまるで無かった地域なのに、雪はどんどん降り積もって、しかも横なぐり。
音は完璧に吹雪です。

群馬県各地で今日はそんな雪の便りを聞きます。
などというと言葉は綺麗ですが、私の住むあたりなどは雪に不慣れな地域ですので、五センチ積もれば結構なダメージです。

このスレによく出てくるR122では朝九時台には除雪車が出動したようです。

除雪車が稼働しているのを見たことがないと言えば、その、雪に不慣れなレベルが伝わるでしょうか。


No.489

尊いのは頭ではなく手ではなく、足の裏である。

一生人に知られず、一生きたない処と接し、黙々として、その務めを果たしてゆく。

足の裏的な仕事をし、足の裏的な人間になれ。

頭から光が出る。額から光が出る。まだまだいかん。足の裏から光が出る。

そのような方こそ、本当に偉い人である。

        (坂村真民)

No.488

(続き)

それにしても。
こちらの授与所の大きいこと!
御守りの種類の多いこと、多いこと!

例えがあまり良くはないかもなのですが、市場のように広い通路の左右両サイドに、平台に並べて置かれた御守りがまさにずらり。
それも、どこでも求められるようにと同じ御守りをブロックに分けて、繰り返して並べてあるとかではなくて、平台の全てに異なった種類の御守りが置かれています。

うわあぁ。

少しだけ見てはみたものの、あまりの多さに頭が回らなくなってしまったおばさん、一体もお受けすることなくそちらをあとにしました。
まぁ、もともとほとんど回ってはいないのですけれど 笑。

さあ、境内にある通り過ぎてきたお堂をお詣りさせていただきましょう。


鐘楼の横、高台から石造りの大きな不動明王さまが境内を見下ろしておられます。
鐘楼の横に御堂が三つほどあるようです。
すぐお隣の御堂は…?
…中に入れるようです。
これにはびっくりいたしました。
御堂ってそのほとんどがその戸が閉ざされたままで、覗いてみてもどなたがお祀りされておられるか分からないくらいですのに、その戸が開けられているのみならず、中に入っても差し支えないというのです。

もちろん上がらせていただきます。

ん?
御仏さまの御像ではありません。
坐像の、人の姿をなされた御像です。
えっこのお方は?…『開山堂』とあります、照温さまでありました。
まるで…まるで御賓頭盧さまのように周りを一周できるようです。

そして、な、なんと!
絵馬まで奉納されているではないですか!
その絵馬の絵は、先ほど薬師神社さんで拝見したばかりの『むかいめ』の図柄であります。

…ああ、こちらの開山さまはかつて両眼を失明されておられたものが、成田山新勝寺さんで厳しい修行をなされたところ、両の目に再び光が戻ったのでしたね。
たしかにあやかりたいものです。


…しかしながら。
厳しい修行あってのこと、です。
苦しい修行まであやかってしまうとそれはそれで大変ですが。


貼らせていただいた画像は、こちらでお授けいただいた御朱印です。
目のところがくり抜かれていてまるでお面のようになっています。
さすがにこれをお授けいただいてお面のようにして目のところから覗いてみる方はおられな…いんじゃないかな。どうかな?

私はしませんでした。…本当です。

No.487

(続き)

こちらの御本堂に赤い経本が一部置かれておりました。
受付で二千円で購入できると添え書きが貼られております。
ぱらぱらと開かせていただくと、『九条錫杖経』や『聖不動経』、そして諸仏の御真言が記されており、私が持つ経本にはないものが記されています。

お授けいただこう!
赤い経本を手から離すとき、強く思った私。…まぁ、単なる物欲に過ぎないのですが、ね。

密厳殿を出た瞬間、「受付ってどこだろう」と唐突に口にする妻、そして母。
まぁ、そんなことは日常茶飯事、すっかり慣れきっている夫と息子です。
「あっちにそう書いてあったと思うけど」という息子の言葉を聞いたと同時に小走りにそちらに向かうのも見慣れた後ろ姿でありましょう。

そそっとついてきてくれる息子。
ゆっくりと、ついてくるでもなくあちこちを眺めながら同じ方向に歩いてくる夫。
それも又いつものことであります。


受付を発見して、御本堂にあった赤い経本をお授けいただきたい旨伝えるのですが、何故かまるで伝わらない。

これを求める方がそれほど少ないということ?
それとも私の説明が拙くて伝わらない?

僧形の方がそっと近寄ってきて、受付の方にそっと耳打ちをしてくださいました。
「あ、わかりました」と、奥に向かって歩いていかれました。

と、同時にそばについてきてくれていた息子が私のそばを離れました。
いつもとっぴな行動ばかりの母でごめんね。


…そのあと。
先ほどの受け付けて下さった方がなかなかお戻りにならない。先ほどの僧形の方がその方が向かった方へと向かいます。

先ほどの受け付けした方が晴れやかなお顔でお戻りになりました。
「これでいいです?」
「あ、はい♡」
赤い経本の入った袋を胸に抱いて、息子のそばに行きました。

「ありがとう、買えたよ」

まあ、無言です。
特に返す言葉も無いですよね。
ほんと、とっぴな行動の多い母であります。


そのあと御朱印をお授けいただきました。
通常のものと、弘法大師さまの生誕1250年記念の御朱印を。

お正月だったらいろいろなことが到底、こうはいかなかったことでしょう。

それでも、人混みが苦手な珍道中ペアには十分過ぎる人混みでありましたが。


No.486

(続き)

この八体の御仏の像の御前を歩いてまいりますと、細い通路があって、その先にあった息を呑むようなまばゆく煌びやかな空間が広がる間となります。
成田山川越別院さんが開創されてから百五十周年の平成十五(2003)年を記念として建てられた【内仏殿】【大日堂】でありました。
併せて【密厳殿】と呼ぶようです。

息を呑むような、と書きましたが本当に息を呑みました。
まさに煌びやかでまばゆい空間であります。
広い壁面には淡い色調で描かれた、とはいえそれはかえって神々しい、鳳凰が悠々と舞うように翔ぶさまが描かれています。
その下段には蓮の葉が描かれていて、それぞれが光で照らされているのです。
もしかしたら裏面から?
そう思われたほど全てが平等に照らされています。

はああぁぁぁ。

気を取りなおすまでに時間を要したくらいです。

そして大日如来さまの梵字を中心に、『胎蔵界曼荼羅』と『金剛界曼荼羅』がやはり壁に描かれており、こちらも淡い光で浮かび出されていました。

その対面の壁はと見ますと。


仕切りがあって。

正面の壁の中央に、大日如来さまの木像が祀られて。
その周囲をお護りするようにたくさんの、実にたくさんの不動明王の木像が祀られているではないですか。


圧巻です。

大日如来さまを中心に信徒の方から奉納された木彫りの不動明王さまが五百体お祀りされているといいます。
さらに左右の壁面に金色のプレートの不動明王さまが五百体、銀色のプレートの不動明王さまが五百体ずつ納められているといいます。


もう貧乏人の私には眩しすぎる間でありまして、この内仏殿、仕切りの中は撮影禁止ということで、言い換えると鳳凰の描かれた壁や曼荼羅の壁は撮影してもうよかったのですが、もうそんな気すら起きない、神々しい間でありました。

大日堂にも大日如来さまが祀られており、こちらの壁にはやはりまばゆく煌めくクリスタルが祀られていて、なんとこのクリスタル、お位牌なのだそうです。

貧乏人の私は近寄ることも憚られ、何がお祀りされているのか見ることもできずにおりましたので、あとで帰ってから調べてみたところ、永代供養をなされたお位牌だとのことでした。

こ、こうした形の永代供養もありましたか。

眩すぎて私はここに供養されたりしたら、ここには近寄ることもできず浮遊霊になりそうです。








No.485

(続き)

五鈷杵に両の手を添えて、弘法大師さまに御礼を申し上げて、四国八十八霊場のお砂踏みをし、ふと横を見ますと、こちらの大師堂が建つ前からおられたでありましょう行脚姿の弘法大師さまの御像が、お砂踏みの場の横、塀との隙間にひっそりと立たれておられました。

なんともそれが切なくて、行脚されるお姿のお大師さまに手を合わせ…その場を去りました。

さあ、あとはもう脇目を振らず、御本堂へお詣り…あ、大きなお不動さまの石像だ♡
…やっぱりしっかりと脇目を振っておりますおばさんでありました。

さあ、手水舎で身を清めましょう。これで(きっと)脇目も振らず御本堂へと向かえましょう。
手水鉢は花手水、お正月の装いがなされていました。

コロナ禍で感染対策の一環として封鎖した手水鉢を、きれいな形で活用したことであちこちでこの花手水が見られるようになりました。
コロナの扱いが感染症の五類扱いとなってからも、その花手水の習慣は無くなることなく。
その美しさに心奪われはするものの…本来の目的は?と思わずにはいられないおばさんであります。


ゆるやかで昇りやすい、広くて長い階段を登って御本堂。

御本堂の前でもお参りを済ますことはできますが、こちらは御本堂へと入ることができます。
土足のまま御本堂へと入らせていただきお線香をあげることもできます。
御内陣も参拝した全ての者からよく見えるようにされており、ご本尊の不動明王さまを直接拝することができます。
大きなお寺さんでありますのに、まことにありがたいことでございます。

ご本尊のおられる御内陣は外陣もありますので、さほどおそばに寄れるわけではありませんが、四明王さまにはすぐそばまで寄って拝することができるのがなんともありがたい。

ご本尊さまにお参りをいたしますと、ひだりてに木像の御仏の坐像が見えます。

あ、守り本尊さまだ!
八体の生まれ年ごとの守り本尊さまが奉安されています。
美しい木像がさらに美しくやわらかな光でライトアップされています。
そして、この八体の御守り本尊さまに向けた梵字と守り本尊さまの御尊名の入った立派な願い札が置かれておりました。
その願い札に願いごとを書き、守り本尊さまの前に直接願い札をおさめるようになっており、それぞれの御仏の前に願い札が置かれていました。

No.484

【成田山川越別院】

川越の「お不動さま」の名で親しまれている、【成田山 川越別院 本行院】さんへ参拝いたしました。

こちらは、江戸時代の末に開創されました。
千葉県成田市の【成田山新勝寺】を本山に持ち、その本山から初めて別院になったものであります。


こちらの開山は照温師さまという方です。
照温師さまはある時、両目を失明し、命を絶とうと何度も自殺をしようとされたほど絶望にくれていました。

しかし何度も死のうとしても生き残り、これは天がまだ自分を見捨てていないのではないかと思うようになります。
照温師さまは『成田山新勝寺』で苦しい修行を続け、遂には失明した両目が見えるようになったといいます。

照温師さまは不動明王の御慈悲に心から感謝し、一生を仏道に捧げる覚悟を誓い、川越通町の八幡神社の境内に不動堂を建て、『成田山新勝寺』の不動明王さまのご分霊を安置しました。

その後嘉永六(1853)年に、当時廃寺になっていた久保町本行院を再興し、明治九(1876)年に『成田山新勝寺』さんの末寺となり、翌十年に管理一切を成田山に移し、【成田山川越別院本行院】として現在に至る、というのがこちらの御由緒でありました。


こちらの山門は思いのほか小さく感じられ、すぐそばに立つ寺号標を確認したほどでありました。

山門を入ると御本堂が真正面にそびえ立っています。

普段ですとまずは御本堂へお参りをしてから境内を巡らせていただくのですが。
山門をくぐってすぐみぎてに大きな金色の五鈷杵が置かれているのが目に入ってまいりました。

こちらは成田山新勝寺さんの分院、真言宗智山派のお寺さんですので、弘法大師さまの五鈷杵にまつわるものでありましょう。
思わずそちらに引き寄せられます。

こちらは平成二十七年に奉納された【大師堂】ということでありました。
御堂には成田山新勝寺より勧請した宗祖『弘法大師』さま・『興教大師』さま・『理源大師』さま、
三大師御尊像がお祀りされていました。

大きな声では申せませんが、こちらの弘法大師さま、ハッと息を呑むくらいイケメンでありまして、しばし目が釘づけとなったおばさんがここに…。

この大師堂は、こちらの開創百六十年記念事業の一環として建てられたといい、この大師堂を囲む形で四国八十八ヶ所霊場お砂踏み、この霊場入口にあるのがあの大五鈷杵でありました。

No.483

(薬師神社さんの続き)

境内の中の様子を書いていなかったことに気づいて、どうしようかと思っても見たのですが、やはり書いて残しておきましょう。

時の鐘の前に立つと、お社が見えるくらいの大きさの小さな境内です。
しかしながらそこを訪れる参拝者は途切れることが無いくらいの盛況ぶりです。
時の鐘の下をくぐって、境内に入ると短い参道の右側にはきちんとした手水舎があり、手水鉢には清らな水がたたえられていました。
その手水舎の並びには石碑の金比羅さまなどが祀られていました。

まずは拝殿へ。

この拝殿がわたしの心を鷲掴みにしたくらいに、懐かしさを憶える建物なのでありました。

瓦葺きの屋根、全面に細かな格子がはめられた正面、その前に濡れ縁。
日本昔ばなしに出てきそうな建物なのです(あくまでも私のイメージです)。

境内もそう広くは無いですし、何しろ大きな時の鐘のすぐ後ろといった立地条件です、本来なら薄暗くなりがちなはずなのに、明るくて、心がうきうき浮き立つような明るい気に満ちています。

またすぐ隣に隣接して摂社もあり、石の鳥居ともう一つ赤い鳥居があり、敷石もされています。
コンパクトながらこうしてこだわった造りをされたのを見るに、ここを再建した方々がこちらの神社さんをいかに大切に思っておられるかが痛いほど伝わってまいります。
川越の大火と呼ばれる火災でご本尊で御神体の薬師如来さまの御像以外全て焼失して、わずか一年後にこれだけ立派なものが再建されたということだけで本当に凄いことなのに、決して妥協した造りにはしなかった心意気が本当に本当にありがたい。

それにしても以前の時の鐘の鐘楼がどれだけの高さであったかはわからないのですが、ひしめき合うように建つ商店街の中にある十六メートルの高さの塔が焼け、梵鐘までも焼き尽くしたというのです、どれだけ怖かったことでありましょう。
今の塔の高さから想像するに、あの高さから梵鐘が落ちているのです、火災は本当に恐ろしいものです。

焼失前のこちらには十二神将像・聖徳太子像・青面金剛像が祀られていたといいますので、社殿はもう少し大きなものであったことが想像されます。

境内には青面金剛と刻まれた石碑もありました。




…人の力、立ち直る力はこれほどにも大きなものだと、川越の町が教えてくれています。

…祈ります。

No.482

ニュース【大分元町石仏の劣化防止へ和紙貼り付け】

大分県大分市元町の磨崖仏「大分元町石仏」(国指定史跡)の劣化を防ごうと、市教委がユニークな対策に取り組んでいる。石仏本体に和紙を貼り付けて原因物質を吸い取る独自の手法で、国内外の研究者が注目している。昨年11月、より効果的な保存処理を探る実地試験が始まった。
市教委文化財課によると、劣化の主な原因は、石仏が吸い上げた地下水に含まれる塩類(硫酸ナトリウム)。塩類は体表で結晶化。その衝撃が積み重なり、石仏が崩れていく。
地下水は過去の対策工事で遮断したが、石仏内部に塩類がたまっている。同課は2014年度、和紙による処理を本格的に始めた。
 和紙の効果が分かったのは「偶然」という。もともとは傷んだ箇所を補強する目的で貼り付けたが、表面に結晶ができているのを発見。同課に協力する奈良文化財研究所の研究者らが調査し、「脱塩」効果を確認した。
同課の手法に海外からも関心が寄せられている。13年はバングラデシュ、昨年はドイツの研究者が石仏を訪れ、和紙を含めた対策事業を学んだ。
同課は和紙の活用を当面続ける予定。一方、処理を施す間隔は検討中だ。保存継承の機運を高めるため、「何も貼っていない本来の姿を見てもらうことも大切」。頻繁な張り替えは石仏を傷める危険もある。
近年は年1回、2カ月ほど貼り付けてきたが、21~22年は休止。昨年10~12月、3年ぶりに実施した。今後、結晶の付着量などを調べ、適切な間隔を考える。
同課の河野史郎参事補は「塩類対策は今後の保存整備の第一歩。より良い方法を探りたい」。
奈良文化財研究所埋蔵文化財センター保存修復科学研究室の脇谷草一郎室長は「各国の遺跡などが塩類の被害を受けている。研究の意義は大きい」と話す。


<メモ>
大分の摩崖仏は、大分市の市街地にほど近い上野台地東側に位置。平安後期の作とされる。中央の薬師如来坐像(台座含む高さ3・84メートル)は定朝様式の流れをくみ、切れ長の目や優しい顔立ちが特徴。古くから両腕を欠損し、腹部などが大きくはがれ落ちている。近年は肩や膝の劣化が目立つ。市教委は1971年以降、継続的に保存整備を実施。86~95年は排水ボーリングやトンネルなどを設け、地下水を遮断した。

(大分合同新聞より、一部略)

No.481

(続き)

川越という街がいかに魅力的なものであるかテレビなどではよく取り扱われておりましたが、私にとって〝子どもたちが小さな頃一緒に行きたかったところ〟でしかないまま、もはや旬が過ぎてしまっていたので、行きたいところは神社仏閣ばかりが頭にあり、それ以外にはもはや目も気持ちもいかなくなっておりました。

それがいかにもったいなかったか、今回川越に行かせていただいてあらためて思った次第です。

【時の鐘】にしても、〝川越のシンボル〟とだけインプットされていたため、実はそれが鐘楼門であったことなど、行かなければ知りもしなかったことでありました。

江戸時代初頭から城下の町に時を告げ、庶民に親しまれてきた鐘楼であった『時の鐘』は、今から約四百年前、当時の川越藩主だった酒井忠勝公によって創建されたといいます。

度重なる火災で鐘楼や銅鐘が焼失し度々建て替えられたといい、現在建っているのは四代目に当たり、明治二十六(1893)年に起きた川越大火の次ぐ年に再建されたもの。
町の三分の一が焼失した中で、暮らしに欠かせない『時』を告げる大切なものとして、自らの店も再建していない川越の商人達によって、いち早く建て直されたといいます。

かつては鐘つき守りという人間がいたという『時の鐘』は今では機械仕掛けへと変化しております。
その響きの良い音色は平成八年、環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に認定されています。
木造で三層のやぐらで、高さは約十六メートル。
午前六時・正午・午後三時・午後六時の一日四回鳴るといいます。

そういった情緒のかけらもない夫婦二人はさっさと次の場所に向かって歩き出してしまいましたが、誘ってくれた息子はこの鐘の音を聞きたかったのではないかと、今ごろになって反省しております。
あとほんの数十分、この辺りのお店を冷やかして歩いていればこの音を聞けたタイミングであったというのに…。
まぁ、それはまたの機会に、ということで。

自動的に鳴る機械化がなされる前は、この鐘撞堂まで登ることができたといいます。
…そうした頃ならきっともっと関心を持って『時の鐘』を見ようと思ったのでしょうが、ね。
まぁ、時の流れ、いた仕方ないことで。…〝時の鐘〟だけに。

No.480

(続き)

川越市の【薬師神社】さんは元は薬師堂であり、元町市場の市神として常陸国から元和年間に勧請されたものがはじまりであるといいます。

その後、市場内が手狭となったために元和九(1623)年、城主酒井備後守が薬師堂を現在地へ遷座し、『瑞光山医王院常蓮寺』と称する天台宗の寺になったといいます。

神仏分離により常蓮寺は廃寺となり、薬師堂は薬師神社と改称し無格社となりました。

御祭神は大己貴命・少彦名命である。
御内陣には往時の本地仏として薬師如来像、脇士として日光菩薩像・月光菩薩像を安置しているといいます。

この像は『風土記稿』に「長二尺、行基菩薩の作なり」とあるといいます。
ほかに十二神将像・聖徳太子像・青面金剛像があったのだといいます。

明治二十六(1893)年に起きた川越大火で、時の鐘と共に焼失。その際かろうじて薬師如来さまの像のみ運びだされたものの、その他一切焼失したといいます。
現在の社殿は翌年の明治二十七年 (1894)年に、時の鐘と共に再建されたものといいます。

ちなみに観光名所になっている『時の鐘』は、元は川越藩主により常蓮寺(現・薬師神社)の山門として建立されたものだといいます。

地元では時の鐘を『鐘撞堂』と呼ぶ方もいらっしゃるようで、その呼び名からも寺院時代を思わせます。

火災後の再建の時は、地元の川越商人を始めとする市民の方々が主導して募金を募り、川越に縁のある政治家や実業家、さらには明治天皇の下賜金など、多額の援助金が集まったため、翌年に再建できたというエピソードがあり、川越市民にとっていかに大切な存在だったかが窺えます。

こちらは現在は【川越氷川神社】の兼務社となっているため、例大祭の日は『川越氷川神社』の神職さんが来て執り行われるとのことです。

薬師神社さんだけに病気平癒のご利益があり、特に眼病に霊験あらたかとされているため【め】の字が2つ向き合って並んだ「むかいめ」の絵馬が奉納されていました。

この絵馬は、境内にほぼ隣接している和菓子屋さんで購入するのだということです。

No.479

【薬師神社】

埼玉県川越市といえば、小江戸と呼ばれ蔵造りの街並みを代表するシンボルとなっている【時の鐘】が有名です。
…などと私が今さら言うこともないほどの多くの観光客で賑わっている街ですが。

その時の鐘の奥にこぢんまりと鎮座している神社さんを見つけました。

えっ?
こちらの神社さんも有名ですか?

まぁ、迂闊な私でも目に入ったくらいですし、多くの人が引っ切りなしに訪れては手を合わせておられましたし、有名な観光地であります、ガイドブックなどにも掲載されているのかもしれません。


実は私、今までずっと川越は未踏の地だったのです。

子どもたちが小さな頃にはお菓子横丁などを含めて行きたい、行きたいと騒いでいたのですが、夫があれこれ言っては実現に至らず。子どもたちが巣立ったら、もう、人混みの嫌いなおばさんですので、川越の〝か〟の字も口にすることがなくなってしまい、今に至っておりました。

「川越に行こうよ」
「ええ?テレビで見てもあんなに混んでるじゃない。そしてテレビでするとまた人が行くし」

そんな会話を二人で何度も繰り返してていたのですが、ある時息子が誘ってくれまして、ようやく川越入りを果たせた次第でありました。


閑話休題。


神社仏閣巡りが目的、なので、特に時の鐘を目指していたわけでもなく、まさに偶然みかけた神社さんであったというわけであります。






No.477

(続き)

もう一つ、ぜひいつか拝見したいと思い続けて果たせずにおりますのが、先にも述べました『御神幸』という伝統行事。

毎年四月、十二月の上旬の初辰日に行われているというこの御神幸は、ここ二宮赤城神社さんと三夜沢赤城神社さんの間を御神体が往復する行事のことであります。

御神体(神輿)は、神鉾・神衣(かむみそ)といい、娘神である二宮が、父神である三夜沢赤城神社へ衣替えのため渡御するという伝承で、古くは『神衣祭(かむみそさい)』と呼ばれていたのだといい、現在は『御神幸』または『オノボリ』と呼ばれているといいます。

当日、氏子総代が集まり祭典を行い道中の無事を祈り出発し、拝殿から神輿を三夜沢までの十二キロの道のりを徒歩で担ぐ…ものであったのですが…。
現在は車を使用しているのだそう。

えっ?!
いつから?
最近のこと?
憧れだったのになあ、御神輿が山道を練り歩くさま…。
まぁ、山道ですし、距離も距離ですし。
…コロナ禍も一因していたりしたのだろうか。
だとしたら余計に憎いコロナであります。

その徒歩での御神幸の際は、途中、『大胡神社(旧近戸神社)』と柏倉町の『お輿懸(阿久沢家)』のニ箇所で休憩し、接待を受けていたもののようですが。
車だとあっという間のこと。
行事的に立ち寄るくらいは残されているのかしら。

この神事は、山宮と里宮の関係を示す行事で、古代の信仰を考える上で重要である行事であるといわれます。

このことから三夜沢の赤城神社さんが本宮説が重視されるようになっているのでは?

でも、私はここが二宮を名乗るのにはやはりそれなりの理由があってのことだと思うのですよ。

上野国二之宮を名乗る三社のうち、控えめな立ち位置なのがここ二宮赤城神社さんなよう、感じられます。
〝二宮〟を冠しているというのに。

三社の、どの赤城神社さんもみんな違っていてそれぞれが素晴らしいのです。
三社とも二之宮説で、私は良いかと思うのです。

よく通る道、五十号から少し入ったところにあります、ここ二宮赤城神社さん。
またゆっくりお参りさせていただきたいです。

そう、舞の奉納の時や、御神幸の時とか。
桜の花のころとかにも。





No.476

(続き)

本殿をお参りして、再び境内の広い場に戻ったところ、その真ん中辺りで宮司さまがお焚き上げの準備、なのか、直径十センチには満たない木をノコギリで切っておられました。

こちらの神社について伺える滅多ないチャンスです!

たくさんの小さな石のお社が並ぶ端に、一体石仏さまと思しき像が祀られておりましたので、その像がどなたであるのかと、そのすぐそばの社殿は何さまが祀られておられるのかをお聞きしたくて、小走り、…になりそうなのをこらえて、宮司さまのもとへ。

すると、「かなり以前になりますが、この辺りにあった神社さんを統廃合したりして、この境内に移築したり、あらためてお祀りしたものがあって、わからなくなってしまっているものが多いのです。
その像もわからなくなってしまったものの一つなのです」
と。
拝殿横の社は日枝神社さんとのこと。

茅葺き屋根の社殿もやはりここに移築してきたものなのだそうで、
「中には何も祀られてはおらず、物置きのように使っている建物なのですが、茅葺きが珍しいということでここに保存しているのです。
もともとはこの辺りにあった十二天社といい、仏教における十二天を祀っていた場所だったのですが…」
…ああ、あの悪令のせいか。
十二天さまは何処に。
それは伝えられていないとのことでありました。
きーっ!


こちらには、太々神楽・雅楽・式三番叟が伝えられ、演じられ奉納されています。
この式三番叟、というのは、農村歌舞伎・地芝居・神楽が融合したものなのだそうで、神社の古式神事と結びつく貴重なものであり、市の重要無形民俗文化財に指定されているとのことです。
今なお伝承されているものなので、いつか拝見できたら、と思っております。


No.475

(続き)

拝殿前での参拝を終え、本殿の裏での参拝をいたします。
本殿は覆屋につつまれています。

見上げてその全貌が見渡せるほどの本殿!
拝殿前とは打って変わって凛とした、そして堂々と威厳ある本殿であります。

圧倒されしばし時が止まり、その場に立ち尽くす私。

なんと凄いお力でありましょう!

拝殿前とは打って変わった大きな力強い気を感じます。


本殿の向かって左側には『赤城塔』と呼ばれる宝塔がありました。
南北朝時代に造られたと推定され、全体に漆の塗られた跡が残っているといいます。
…ええ、もちろん、そんな漆の跡などかけらも見いだせなかった私であります。

拝殿・本殿右側には石製の小さなお社がたくさん並んでおります。
ただ一つだけ鳥居を設け、祀られたお社がありました。
秋葉さまでありました。

石のお社は近年に並べたものでしょうか、均等に並んで祀られており、それが実に清々しいのです。
三十を超える数の石の社の列です。

後に宮司さまにお話を伺うことができ、なんでもこの辺りにあった神社さんや、道端に祀られた小さなお社を、統廃合ということで全てこちらに集められお祀りされたものが含まれているとのことでありました。

拝殿の横に日枝神社さんのお社があり、その横に案内板があって、その奥手にはかつてあったという鎌倉時代の舎利孔をもつ塔身の礎があるのだといいます。

そして宝物庫。県の重文指定の『納曽利面』という竜の面といわれる能楽面がここに収められているようです。
なんでもこの面、外に出すと雨が降るといわれているとのこと。
裏の朱書から享徳元(1615)年に造られたものであることがわかっています。

雨が降って欲しい時には出す、…ならば止んでほしい時には?

どこまでの範囲でその力が及ぶものかはわかりませんが、ならば今、彼の地の雪を鎮めてほしいものです。

No.474

(続き)

随身門をくぐると、みぎてに手水舎があります。
手水舎自体は古く手水鉢も古いもので直接水道が引かれており、まるで洗面台のように水道があって蛇口をひねるような手水舎です。
…なのですが、この手水舎、可愛らしい手作りの吊るし飾りが飾られており、小さな手水鉢には溢れんばかりに花が飾られた花手水となっています。
いかにも可愛らしい手水舎、手水鉢、…なのに、昭和の時代の水道の蛇口が。
それがなんとも残念な。


そして。

参道の狭さからは意外なくらい広い空間に、舞台、神楽殿、宝物庫、日枝神社さん、天満宮、茅葺き屋根の十二社等、さまざまな建物が目に入ってまいります。
しかもそれらはみな、ゆったりとした空間を保って建てられています。

さまありましょう、境内地約二万平方メートル、六千坪の広さといいます。

あちこち気になるのはやまやまですが、まずは拝殿へとお参りです。

こちらは素木のままの拝殿です。

社伝では1900年程前に創建されたとしていますが、允恭天皇の頃ではないかというのが今言われている説であるようです。
ちょうどこの地域を支配していた上毛野氏が六世紀に最盛期を迎えていて、上毛野氏の祖神である豊城入彦命を祀って創建し、後に朝廷によっり祭神を大国主命に改めたのではないかともされています。
ちなみに允恭天皇は十九代目の天皇です。

二宮赤城神社の扁額があるのですが、二宮の字だけ少しずれ大きさも少し違っているような…。
私の気のせいかもしれませんが。

No.473

(続き)

こちらの周囲には濠と土塁が巡り、こんもりとした鎮守の森には大きな杉の木が繁り、神社の古い歴史を感じます。

赤い鳥居をくぐると参道のみぎてに鐘楼にあります。
あの明治の悪令にも屈することなく、さらには太平洋戦争の供出も逃れてよくぞここに…。
何度訪れてもここで必ず足が止まり、感謝や畏敬の思いで胸が熱くなります。
今はただただ密やかにそこに鎮座しています。

元は『舞台』の側にあったといいます。
梵鐘は高さ 127センチ、直径72センチ、下半部がややふくらみ均整のとれた美しい姿です。
今、毎年四月と十二月に『三夜沢赤城神社』との間を神体が往復する【御神幸】の時だけ、この梵鐘は撞かれるといいます。

近くに寄って見ることはできませんが、銘文には『元和九暦(1623)年』とあり、寄進した伊勢崎・佐波の村名、三体の本地仏や『赤城山神宮寺』などの文字が刻まれているそうです。(境内の案内板による)

ただ…鐘楼の段をのぼり、囲いの外から寄れるところまで寄ってみても、もはやその文字などは一切見ることはできず(もはや読み取れる云々は超えてしまっています)、撞座もすり減って元の形はわからなくなってしまっていました。

それが…なんとも物悲しい。

参道の高くて深い緑の森を歩いていくと、神橋が見えてきます。
その手前には大きな灯籠が二基。
灯籠の四つの足の下には、それぞれに邪鬼がおります。
それぞれの足を持ち上げる役割をずっと果たしている邪鬼たちは、もはや悪い気はすっかり抜けて、その与えられた仕事に誇りを持っているように感じられます。…それでもやっぱり重いので顔を顰めてはおりますが。

神橋を渡ると随身門があります。


この神社さん、この随身門をくぐった辺りからさらにさらに空気が変わります。
と言ってもあくまでも明るく、訪れた人間を歓迎してくださっておられるのが伝わる、優しい、そしてなんとも清らに穏やかに澄んだ気であります。




No.472

(続き)

この【二宮赤城神社】さんは、群馬県民から『五十号』と呼ばれ親しまれる国道五十号線から少し入った二宮町に鎮座している。
この前橋市二宮町は赤城山南面にあり、赤城信仰の上で絶好の地点にあります。
西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて、この二つは共に赤城山を水源としております。
(ちなみに。
粕川の流れる粕川町には赤城信仰の色濃い今戸神社さんがあり、こちらの神事が粕川の語源となっているくらいです)

前述の通りほど近いところに大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳や遺跡が存在し、この辺り一帯上野国の名族『上毛野氏』の本拠地と推定されています。

この後、延喜式神名帳に二之宮として赤城神社の名が記されますが、この辺りは前述した通りの事情があり、ここでは重複することもあり割愛します。

第七十代後冷泉天皇の永承四(1049)年に、日本全国の諸社の中から五十五社が選ばれ、神仏習合の勅願神社となりこちらの二宮赤城神社さんもその一社として社域内に造塔のおり心礎(根巻石)内に仏舎利(釈迦尊の骨片 現存)が奉納されたといいます。

鎌倉時代に【源頼朝】公の崇敬を受け、建久五(1194)年には守護職安達盛長に修築を命じ、その後も二宮太郎浅忠・岡部九内忠成(平家物語にも名が見える)らが修築をしたり百石を寄進したという記録も見られるといいます。

戦国時代になり小田原城主北条氏政の軍勢によって数多くの建物は打ち壊され壊滅的な被害を受け、さらに宝物類の多くも失いこの二宮赤城神社さんも微衰してしまいます。

しかしながら、天正十八(1590)年北条氏滅亡後、領主として大胡城へ入城した牧野駿河守忠成・康成父子を始め、その後厩橋(前橋)藩主となった歴代の酒井氏、江戸時代幕府の天領代官、藩主松平氏はもとより住民にも篤く尊崇され、赤城南面地域関連の神社の中心的役割を果たしてきたほど再び隆盛し、現在に至る、ようです。


No.471

【二宮赤城神社】

先のレスで触れましたが、上野国の二ノ宮は『赤城神社』、なのですが、ここ【二宮赤城神社】さんは関東地方を中心として全国に約三百余社ある赤城神社の本宮と推測されるうちの一社、となります。

この二宮の赤城神社さんは赤城山麓真南に位置し、赤城山の稜線がよく見える絶好の位置に鎮座されています。

この地域は古くから開けていた場所のようで、この社の東北方には四基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っており、赤城神と関係の深い上毛野氏の中心地と推測されています。

上野国二之宮という位置付けにある神社さんが三つあるというのもおかしな気がいたしますが、この三社、それなりに離れた地にあり、それぞれがそれぞれの特色を持つ神社さんで、いずれかの神社さんから分かれた、というものとは考えられず、おそらく元々別々に祀られた神社さんなのではないかと思います。

現在、赤城神社の本宮は、三夜沢赤城神社というのが主流の考え方となってきているようですが、こちらの赤城神社さんが〝二宮〟を冠していることから考えても、少なくともある時期、上野国一之宮が貫前神社、赤城神社が二之宮として定められたどこかの時期、赤城神社の本宮がこちらであったこともあったのではないのかなぁ?

ちなみに現在も続く神事に、年に二回、『御神幸』と称したものがあり、三夜沢の赤城神社へ二宮赤城神社の御神体が渡御されるといい、少なくともこの二社はそうした関係性を以て関わりあう社であるようです。

二之宮を名乗る争いというのは実際、寛政年間に、大洞赤城神社と三夜沢赤城神社東西両宮が「本宮」「総社」「正一位」などの名称使用を巡って訴訟沙汰となっているようで、その決着はつかぬまま今に至る、…というかつけないまま今の形をとっている、のだと思われます。

赤城神社という名称は『続日本後記』にすでに見られるといいますが、この赤城神社がどこにあったものか自体がわからないといいます。
つまりはそれほどに歴史があり、言い換えると何処の赤城神社さんが本宮であるか、もはやわからなかなっているくらいの時が流れているということで、この決着は永遠につかないものとなっているのです。



No.470

(続き)

このお正月休み、まさに巡るという言葉通りに、いつも参拝する神社さん、群馬県内で何度も訪れている神社さんへと出向きました。


群馬県前橋市に鎮座します【産泰神社】さん。

こちらの主祭神は『木花之開耶比賣』さま。
女性をお護りくださるあたたかな気をお持ちの女神さまです。
被災地で女性があらぬ、あってはならない被害に遭うことのなきよう、子どもたちができるだけ早く過ごしやすい環境に移り、食糧でつらい思いをせずに済みますよう。
また火難除けのご利益もお持ちであられます。

そして、こちらの神社さんには摂社・末社がたくさんあり、金刀比羅宮には『大物主命』さまをお祀りしており、家内安全・運気向上のご神徳があります。

秋葉神社さんと愛宕さまのお社があり、こちらはともに火防の神さまであらせられます。
稲荷神社さんは衣食住をお護りくださるとお聞きします。

七福神さまも祀られています。



同じく前橋市に鎮座する【飯玉神社】さん。
こちらは保食神さまが主祭神であり、摂社には淡島社があり、ご祭神は『少彦名命』さまで、医療・医薬の神さまであられます。
怪我をなさった方、寒さの中体調を崩された方が少しでも早く良くなられますように。
また、こちらにも末社に秋葉神社さん、愛宕神社さんがお祀りされています。


やはり前橋市に鎮座します【二宮赤城神社】さん。
こちらは上野国の二ノ宮の〝一つ〟であります。
群馬県には赤城神社さんがそれこそ三桁を超える数ありますが、こちらはこの赤城神社さんの本宮を名乗る一社であります。
名前からすると〝二宮〟を冠しておりますくらいですので、こちらが二ノ宮とも思えたりするかと思いますが、赤城山の麓にある『三夜沢赤城神社』さんと、それから山の上に鎮座する『大洞赤城神社』さんとが、どちらも本宮であると主張されていて、この三社を以て赤城神社における本宮ということになっているのです。

こちらの主祭神は『大己貴命(オオナムチノミコト)』
『豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)』さまです。

No.469

お正月に限らず、夜派の夫と、早朝どころか未明から起き出す私は元々がすれ違い。

私がすっかりお正月気分を満喫した頃、ようやく起きてくる夫と合流し、二人揃って初詣へ。
まずは総鎮守の神社さん。
そして夫の産土神社さんへ。
それから私たちそれぞれの父親の眠るお寺さんへと向かいました。

そんな夕方、あの音が鳴り響きました。
緩やかな横揺れがゆっくりといつまでも続きます。
そして次第に大きくなり。
私どものところで震度3の揺れが記録されました。

「これは大きな地震だね」

そう、想像をはるかに超えた、おそろしい震災でありました。


今、次々と明らかになる、思っていたよりもずっとずっと大きな大きな被害状況。

そこへ雪が積もる光景。

目を覆いたくなる光景ですが、紛れもなくそれを体験している方々のおられる現実であります。

そして今の私はいくばくかの寄付をすることと、祈ることぐらいしかできない。
しかしながら何も持たない私は、それが一番、被災地に向けての最善の行動。

No.468

(続き)

ちなみに。
おみくじを木々の枝に結ぶのは、木々のみなぎる生命力にあやかり、願い事がしっかり結ばれますように、という祈りを込めてのことといいます。

ただし、むやみに境内の木々に結びつけると、木々を傷めてしまいますし、景観を損なう心配もあるでしょう。『おみくじ結び所』が指定されている場合には、必ず指定された場所へ結ぶことが重要です。

寺社によってはおみくじは神さまや御仏からのお言葉であるため、結果にかかわらず持ち帰り、日々の戒めといたしましょうと書いてあるところもあったくらいですので、おみくじを引いた寺社の指示に従うこと、です。


夫はそれこそ何年も前のおみくじもいつも持ち歩くバッグに入れてあるそうです。
これはこれで、その時その時の自分に対する御神託であったのだから、古いものまで持つ必要はなく、そもそも持ち歩くにしても見直すことなく入れっぱなしでは意味が無いよう思うのですが…。

私はもっとダメで。
実は昨年末、今までに引かせていただいたおみくじを、過去のものだからと普通に捨ててしまいました。
あ〜〜っ、何故昨年のうちにこうしたことを調べなかったのか。
…以後は必ず神さま仏さまに感謝の意を込めてお納めいたします。


なお、凶のおみくじを利き手と反対の手で結ぶと、困難な行いを達成することによって凶が吉に転じる、という説があるといいます。
まぁ、この点に関しては大変不器用な私、普通にくくろうとしても大切な木の枝を傷めてしまいそうですし、簡単にスルッと落ちてしまう縛り方しかできそうにありません。

なので、今後もおみくじを引いたならば、持ち帰る選択でまいりたいと思います。

No.467

(続き)

おみくじを引いた後は、ついつい吉凶の結果ばかりを気にしてしまいがちですが、大事なことは細かい部分に書いてあります内容。

おみくじは吉凶だけにとらわれず、指針とすることが大切で、細部の内容から対処法を学んだり、自分を見つめる材料にしたりすることこそが大切なのだ、と思うのです。

また、大吉や大凶が出るとその反対になりやすいという説は「陰陽道」的な考え方で
『陽極まれば陰生ず、陰極まれば陽生ず』
という言葉に由来し、大吉や大凶など対極にあるものはその逆方向に転じやすいということをあらわしています。
吉であっても気をつけよ、凶であっても用心して誠実に事にあたれば必ず御加護がある、といわれています。


引いたおみくじを結ぶか持ち帰るのか、持ち帰った後はどうするべきかについても、社寺によって様々な見解があります。大別すると次の2つになります。

・ おみくじには神や仏からのありがたいメッセージやパワーが秘められているので、吉凶にかかわらず記されている教訓を戒めるつもりで持ち歩き、後にお礼を込めて納める。

・良くない内容のおみくじはその場で結びつけ、さらなるご加護を願う。良いおみくじは持ち帰り、後日境内に結ぶ。

…もともとおみくじは教訓、御信託として、持ち歩くものだったといわれています。

そのため、その場で結ぶのは『凶をとどめて吉に転じるようにお願いする』場合のみという見解が多いようです。
たとえ凶であっても自分への戒めとして持って帰っても決して間違いではないのです。
最近は、おみくじを入れて持ち歩くための、おみくじ入れなるものもあるのだとか。…何事もアイデア(商法)ということで。


いずれにせよおみくじはむやみに捨ててはいけないとのことです。
持ち帰った場合も最終的には、神や仏と縁を「結ぶ」ため境内に結んだり、納札所に納めるのが基本だといいます。
それは必ずしもおみくじを引いた社寺でなくとも構わず、神社のものは神社へ、寺のものは寺に納めたほうが良いとされています。

No.466

(続き)

『大吉』が最も良い運勢なのはわかりやすいですが、『吉』や『中吉』『小吉』や『末吉』の順番はどうなのか。


…実は、おみくじの吉凶について縁起の順番に明確な正解はないといいます。社寺によっておみくじの内容は様々で、順位に関する見解も異なるからです。

社寺によって異なるものの、
>『大吉』『吉』『中吉』『小吉』『末吉』『凶』『大凶』
という順番が多いそうです。

>『大吉』『中吉』『小吉』『吉』『末吉』『凶』『大凶』
としているところもあるようです。

どうしても正確な運勢の順番を知りたい場合には、おみくじを引いた際に尋ねるしかないようですが、初詣ともなるとそこまでをご存知な方を探して尋ねることはかなり大変そうです。
そこに書かれた内容こそが大切、ということなのだと思います。

では、おみくじの吉凶の意味は?

・大吉:おみくじの中で最も運勢が良いもの。最高の運気ですが、「これから運勢が下降していく」ともいわれています。現状維持の努力が求められます。

・吉:大吉に次いで良い運勢。大吉に見られる下降の可能性が低いため、当面は安心です。

・中吉:吉の半分を表す運勢。自分の努力次第で今後の運勢が上がります。

・小吉:中吉と末吉の間とあって、可もなく不可もない運勢です。ささやかな幸せで停滞するともいわれているので、あまり多くを求めないほうが良さそうです。

・末吉:「吉」の最後の運勢であるため、吉の中では最も劣ります。ただ、末広がりの意味があるといわれ、これからに期待が持てるでしょう。

・凶:運勢は良くありません。けれど、必ずしも悪いことが起きるわけではなく、気を引き締めるための注意喚起と捉えましょう。自分の行いを見つめ直して改善すれば、運勢は上昇します。

・大凶:最悪の運勢。ですが、さらに落ちる恐れも否定できません。挽回のチャンスが来るまで、静かに待つのが良いでしょう。


…きびしい。

実に厳しい。

大吉を引いても「これから運勢が下降していく」ともいわれている?
そう言われるとなんだか良かったはずの運気があまり良くなく感じそうです。
大凶を引いて落ち込んだところへ「最悪な運勢」「さらに落ちる恐れも否定できない」とかいわれた日にはまさに最悪です。

No.465

【御神籤】

信仰心とはほど遠い生活をして過ごしてきた私は、当然ながら御神籤とも縁がありませんでした。

旅行などで友だちや同僚と神社やお寺に行くようなことがあって、その人たちが御神籤を引いても、私はそれにつられて御神籤を引くようなことは一切ありませんでした。

唯一駄菓子屋さんで売っていたおみくじは引いたことがあります。
面白がって父か叔父が買ってくれたりもしましたし。


それが近年神社仏閣を巡らせていただくようになって、御神籤を引くようになりました。

ただ…。

その御神籤も昔ながらのものではなくて、おまけがついていたり、張子の可愛らしいお人形の中に仕込まれた御神籤であったりと、そこに付加される何かがあるものに心惹かれてのこと、要はやはり煩悩であるところの物欲が絡んでいるのでありました。
やれやれであります。

可愛らしいお狐さんであったり、八咫烏さんであったり、鯛であったり、自分の生まれた干支であったり。
キャラクターの根付けの付くものもあったりいたします。

そうして持ち帰ったその張子の小さな人形はみな、並んで飾られているのであります。
ただ、もうこれ以上増やしてはいけないからと、この手の御神籤を引くのはこれでおしまいと思ってはいるのですが…。

当然ながら御神籤にも詳しくはありません。
大吉が一番良くて、大凶が悪いことくらいは分かるのですが…。

『御神籤』というくらいです、御神託を聞かせていただくものだととらえていますが、この御神籤、神社ではもちろんのことお寺さんでも引くことができます。

なんとも不思議なお姿の絵で有名であります【元三大師】さまが『おみくじ』を考案された、とされています。
不思議なお姿の絵は、平安の昔、大師が鬼の姿となり疫病神を退散させたときの姿を写し取ったもの、といわれています。

この大師さま=良源さまが書いた【元三大師御籤帳(がんさんだいしみくじちょう)】によると「吉凶の八十パーセントは〝大吉〟〝吉〟〝凶〟。
あとの二十パーセントは各自自由に設定してもよい」
と記されているためといいます。

なので、大吉よりもさらに良い〝大大吉〟や中には凶よりも悪いという〝恐〟があるのだそう。


新年早々〝凶〟だの〝恐〟だのはやはり引きたくはないものですが…。

No.464

(続き)

今年は二枚の方位除の木札を持ち帰りました。

そうした信心のない生き方、育て方をしてきてしまった身といたしましては、その年廻りに当たる子らに、ああだこうだと伝えるのも烏滸がましいので、本人たちには告げることなく、そっとこの木札を見上げてその子たち、そして他の子たちの無事を日々お祈り申し上げることといたします。


貴舩さんから戻って、今度は自転車に乗り換えて、氏神さまへと参拝いたしました。

こちらの神社さんでは元旦お焚き上げをされております。
昨年一年をお護りいただいた御礼をお焚き上げいただき、新たなる年を迎えた御礼を申し上げ、今年の無事を御祈願いたしました。

こちらの神社さんには神職の方はおられず、氏子さんや祭典委員の方が運営してくださっています。
豚汁や甘酒という神饌をお受けいたしました。
夜中にお詣りいたしますと大根やおみかんをいただけるといういかにもアットホームな感じの神社さんであります。

今年担当されておられる方はまめな…信心深い方々のようでいつ伺っても綺麗な境内であります。
ありがたいことで頭が下がります。

さあ、お雑煮を作りましょう!
…と張り切って帰宅したところ、まだ誰も起きていなかった、相変わらず寝正月な我が家でありました。



能登半島の大震災のニュースを受け氏神さまへ一刻も早く災害が鎮まり、震災に遭われた方々お守りいただきますよう御祈願に再び参拝いたしましたところ、参道の蝋梅が今まさに満開の時を迎えておりました。

良い香りに包まれながら、被災地に早く春が訪れますよう願わずにはいられませんでした。


…能登半島には大雪の予報が出ているようです。
突然の避難生活では暖をとることも思うようにはならない事かと思われます。
せめて天候ぐらい味方していただきたいと強く思うものであります。

No.463

(続き)

石段をのぼると、明るい境内、そして狛犬さまが見えてまいります。
赤と白を基調にしたお社には赤い大天狗さまの面が高いところから境内を見渡しておられます。
拝殿右側には大きな今年の干支の絵馬が飾られています。

拝殿前で昨年一年間お護りいただいた御礼を申し上げ、本年の無事を祈願申し上げました。

塵一つなく掃き清められた境内、参拝に訪れた方がゆったりとおみくじを引けるよう特設のおみくじコーナーか設けられています。
こちらは水を司る神さまのおわします神社さん、水みくじが有名です。
水に浮かべると御神託が現れる、というものです。
水に浮かべるところが少し手狭なため、そこは軽く渋滞しております。

境内の社務所にはお守りやお札、鏑矢・破魔矢、熊手などが並びます。

今年は初正月の孫がおりますので、小さな卓上でお祀りできる仕様の破魔矢をお授けいただき、それから今年方位除をする年廻りに当たるという子ども二人の絵馬のような札をお授けいただきました。

この絵馬のような、というのは以前私もお授けいただいたものなのですが、絵馬のようにぶら下げる木札で、真ん中に割り線が入っていて下げるための紐は二本付いています。
方位除にあたる人の名前と生年月日を書き、その木札を真ん中の割り線で二つに割り、一本を境内の絵馬掛けに掛け、もう一つは自宅に持ち帰るというものであります。

当人たちが共に参拝をしてもいないのに昇殿して御祈願するのも何か失礼な気もいたしますし、この持ち帰った木札を見るたび、我が子の無事を御祈願できて私にはありがたいもの、なのです。

今まで厄年も方位も全く関係ない生活を送ってまいりましたので、このくらいが身相応かとも思われますし。
今まで神さまも仏さまも敬うことなく無礼をして過ごしてきた分際が、神棚もない家に御札をお祀りするのも図々しすぎる気がいたします。

参拝の方々を拝見していると、若い人、子連れの方々も大勢おられます。
昨年の破魔矢や御札を大事そうに手に、神社を訪れるさまを拝見するに、ああ、なんと不遜でそしてもったいない時を過ごしたものだと反省いたします。

とはいえ、亡くなった義父の反対で家に祀ることのなかった神棚を今さら祀るのも敷居が高く、何よりも自分たちに何かあった時託される子どもたちのことを思うと、それもまた図々しい気がいたします。

No.462

【貴舩神社】

元旦。
まだ日の昇る前、群馬県みどり市に鎮座される【貴舩神社】さんへ初詣をいたしました。
前年に引き続き一人での参拝。

夫は結婚して以来、大晦日の夕食前から呑み始めて、遠くの除夜の鐘を聴きながら年越しを迎え、新年の挨拶をして眠るのが慣習。
早起きさせてまで一緒にお参りするのもなにかなと、昨年家族らが起きてくる前にと貴舩さんへ一人車を走らせたのが始まりでありました。

R122を走り、その分岐である橋を渡って、わたらせ渓谷鉄道を挟んでR122と川の字を描くように連なる道を走ると突き当たりに貴舩さんがあるので、誰もが間違うことなくたどり着けるのであります…ええ、私であっても。

今年はコロナが感染症の分類が五類へと移行になった初めてのお正月・初詣。
コロナ禍となる前の貴舩さんの人出は有名で、広い臨時駐車場でありますのに、ほぼ満車状態が続いて、行きの車も帰りの車も大渋滞で、参道の階段はぎゅうぎゅうの大行列である、と聞き、人混みの嫌いな私どもはたとえご利益が薄まろうとも決してお正月の三が日の初詣は避けていたものでありました。

そんな貴舩さんの元旦の初詣。

私は道路渋滞に、そして参拝渋滞に巻き込まれるであろう事を覚悟して貴舩さんへと向かいました。


…えっ?

拍子抜けするくらい道が空いています。
去年は流れはあったものの車の行列をなして向かったものでありました。

…あれ?

駐車場はさらに少なくて、昨年の三分の一ほど。
あら、嬉しい。

それでも昨年は見られなかった露天商の出店がいくつもあります。

こちらの御祭神さまは【高龗大神】さま、【大山祇大神】さま、【大穴牟遅大神】さま。

水を司る神さまと、五穀豊穣の神さま、国土を治めお守りくださり病気平癒のご利益もある神さまがお祀りされている神社さんであります。

こちらの神社さん、鳥居の先には石段と、いくつもの鳥居が連なります。
この石段をのぼっていく参道が私は大好きです。

が。

石段の途中にドキッとするような大天狗さまの面が祀られた境内社があります。
薄暗い社殿の中に天狗さまの面が二面、いや二体、ボヤーっと浮かびます。
ビビりの私はこうした人出の多い日の参拝はともかく、平日の日一人で参拝に訪れた時などは、なかなかこちらの社殿に近づいて参拝できず、離れたところから手をあわせるくらいです。




No.461

被災地では、たとえば使い捨ての哺乳瓶とか、そんなには備蓄もないのだろうな。

しかしながら個人的な救援物資の輸送はかえって交通の渋滞を招いたり、物資の輸送が速やかにならない原因の一つともなる。

やはり今の私には、確実に被災地に届けてもらえる、あるいは救援物資を購入してもらえる募金を知って、そこに募金をさせていただくことぐらいしかない。

あとは…神仏に祈ることしかできないけれど。

No.460

東日本大震災の際、仕事もあり、何より自分自身に自信がなくて、ボランティアに行くことができなかった。
そんな母親の内心の葛藤も知らず、息子は大学でメンバーを募り、深夜の道をひた走り、何度も何度も東北へと向かって行った。
我が子ながら心から感謝をした。


そんな思いを抱えておりながら、仕事を辞めたのちも介護であったりとなかなかボランティアに行けない自分が歯痒かった。

仕事を辞めた今こそ自分の持つ資格をこんな時こそ活かせよと、胸がモヤモヤもし熱くもなる。
ブランクが長くなれば使えない人材ともなろうが、そうしたら一般のボランティアとして参加させていただこう。

ただふと気づいた。
仕事を辞めた際、協会から脱退していた。
スタッフとしては参加できないことに今さらながら気づいた。

相変わらずバカなおばさんだった。

協会に電話し災害支援スタッフの研修も受けておこう。
今回の支援スタッフとしては参加できはしないが。

そして何よりも、私のような者の微力すらを必要とする事態が起きない事を心から願う。
そして祈る。


昨日まではボランティアの募集はされていなかった。
ホームページでボランティア募集を確認している。




あとは…家族の理解と協力なんだが…。

No.459

令和六年能登半島地震と名付けられた地震災害による目を覆うような状況が報道されました。
それとて一部に過ぎません。
まだ救出を待つ方々がおられるのが現実です。
昨年の地震の記憶もまだ新しいものであったというのに。

被災地より離れた地におり、心苦しく、極めて悲しい気持ちでいっぱいです。
祈ること、せめてもの募金をすることしかできないない事をもどかしく思います。

亡くなられた方々の御冥福をお祈り申し上げると共に、ご遺族の方に心よりお悔やみを申し上げます。


このような報道を通して、地理に疎い私が訪れたことのなかった地名を知り覚えるのはあまりに切な過ぎます。



そこへまた目を疑うような大きな事故が。
亡くなられた海保の五名の方々の御冥福をお祈り申し上げます。

No.458

昨夜遅く、本日予定されておりました皇室一般参賀の中止が発表されました。

日頃の皇室の方々のお言葉や行いから、天皇陛下及び皇室の方々はいち早くこうしたお申し出をなされておられたであろうと推察いたします。

しかしながら、この一般参賀の中止に関して、陛下のお考え一つでは決定することも叶わず、真夜中という時間になっての発表となったことと思います。


天皇陛下は、新年にあたって文書で感想を寄せ、全国で相次いだ災害のほか世界各地で起きている戦争や紛争に触れたうえで、「新しい年が、我が国と世界の人々にとって、明るい希望を持って歩んでいくことのできる年となることを祈ります」と述べておられました。

陛下は、新年にあたって文書で感想を寄せ、去年も全国で災害などが相次いだほか、物価上昇などで苦労した人が多かったとしたうえで、「困難を抱えている人々のことを案じています。その一方で、助けを必要としている人々のために、様々な活動に地道に取り組んでいる人も多いことを心強く思うとともに、そのような支援の輪が広がっていくことを願っています」と述べられました。

さらに、「世界各地で、戦争や紛争により、多数の人々の命が失われていることに心が痛みます。平和な世界を築くために、お互いの理解に努め、協力していくことの大切さを改めて感じています」と記されております。

そして、「今年も、人々がお互いを思いやりながら支え合うことを願い、新しい年が、我が国と世界の人々にとって、明るい希望を持って歩んでいくことのできる年となることを祈ります」とつづられました。


外が明るくなってきました。
余震はまだまだ続いているようで、津波警報こそ津波注意報に変わったようですが…。
一晩明け被災地の全貌が見えてくることでしょう。

輪島の火災も地震も一刻も早く収まってほしい。
祈ります。

No.457

…年明け早々、大変な事態が起こってしまいました。

石川県が、
日本海沿いの地方が、
地震、そして津波など被害が大変深刻なことになってしまっています。

よりにもよってせっかくの年明け、元旦だというのに…辛く、そして今なお怖い思いをされてる方々がたくさんおられることに胸が痛みます。

今朝がた皆さんが幸せでありますようにと書いたばかりでありました。


今なお大きな揺れが続いており、津波警報も解除にはならない状況下、命の危険はもちろんですが、この寒い中で停電していたり、一部地域ではスマホなどもつながりにくくなっているようで、精神的な面も心配です。


祈ることしかできませんが、どうか、どうかご無事でありますよう。

No.456

お健やかに新春をお迎えのことと存じます。

ミクルさんの片隅の奇しいおばさんのスレをあたたかく見守ってくださり大変有り難うございました。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

皆さまのご健康とご多幸をお祈り申し上げます




令和六年元旦

No.455

今年最後の日は
『大安』と『一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)』が重なる良い日となりました。


ミクルさんの片隅、おばさんがひとり呟くスレをお読みいただきありがとうございます。
支離滅裂な駄文をあたたかく見守って下さりますこと、感謝しかありません。


寒さ厳しい頃、どうぞお身体にはお気をつけて、良いお年をお迎えください。


今年一年本当にありがとうございました。

No.454

(続き)

ちなみに仏さまのほこりを掃うことを『御身拭い』というそうです。

さて。

このはねたき道了尊の今年最後の法要で、配られた一枚の紙がありました。何やら円グラフ、…に似た図があります。
『方位図』、と書いてあります。
算数すら危ういおばさん、円グラフというだけで何やら拒否反応が出そうですが、さらにはこの円グラフのような図には、もしかしたら中国語?というような漢字が書かれています。
ん?
一白?二黒?あれ?
これって…占い?

実は私、あまり占いを気にしない部類の人間で、まぁ、だからこそ未だかつて厄除けだのをしたことがないのでしょうし。


副住職さまの法話で、この用紙の解説がありました。
この用紙、実は裏にも印刷されており、この円グラフ様の方位図というものの書かれた面と、『九曜星早繰表』というもののある面と。

「これは…八卦、です」

…おおっ?!
まさか、こんなお若い副住職さまから〝八卦〟をお教えいただくとは思ってもいませんでした。

生まれ年を九つ…〝二黒〟〝一白〟〝九紫〟〝八白〟…〝三碧〟に振り分けて、その年の(この場合は当然来年の)運勢を占うもので。
…なるほどぉ。
九曜星早繰表にその割振りとなる生まれ年を割り振るものも書かれています。

私は…、と書いてしまうと年がバレてしまいます。

この九曜星早繰表によって得られた自分の九星をもって、来年の(あるいはその年の)運勢を占った結果を簡単に表にしたのがあの円グラフのような表。

この円グラフの真ん中に位置している〝三碧〟。
真ん中にあって全ての方角が塞がっている…ということで『八方塞がり』
…おおっ!

なるほどぉ。
八方塞がりとはここからきていたんだぁ。

その説明はあと少し続いていたのですが、この円グラフで理解できたのはそれだけ。
いろいろお話くださっていたのですが…。

八方塞がりだから『方位除』を受ける、ということもわかりました。
…ええ、ようやく。
私とて方位除とは何か、神職の方にお聞きしたりもしたんです。
でも話がちんぷんかんぷんで…。

あとは、来年運勢がいい(盛運)のは〝七赤(しちせき)〟ということと、副住職さまが七赤だということもわかりました。


それから。
それぞれの九曜星(?)になんとなんと!御真言があるということも。



  (2024年の方位図)

No.453

【今年最後のはねたき道了祭】

群馬県みどり市にあります『光榮寺』さんの境外堂に鎮座されます【はねたき道了尊】の御縁日は二十八日。

毎月毎月この御縁日には御住職さま、副住職さまが揃ってお出ましになり、祈願法要を執り行なっておられ、檀家さんのみならず信徒の方々が集まられています。

この末席を汚すようになり通算で二十回ほどになりましょうか。
五年かけて二十回なので、その出席率はあまり高いものではありませんが、それでも顔見知りの方がだいぶ増えて、すっかり居心地の良くなってしまった私。
ただ、さすがに今までこの年の瀬の最後の御縁日にはなかなか伺うことができず、さらには初の御縁日にも、群馬県渋川市で年一回だけ御開帳される『宮田不動尊』さまの大祭に行ってしまったりとほぼ参加しなかったりと、末席を汚すことも申し訳ないような無礼者であります。

ただ。今年は大掃除もほとんど済んでいることもあり、さらには夫が出社して自宅にいない事もあって、昨夜から気持ちがウズウズしてなりません。

えーい、一年の御礼を申し上げる事は大切であろう。だから気になってウズウズしているのだし、…よし行こう!

ということで今年最後のはねたき道了尊さまの祭日の法要に参列させていただいてまいりました。

この境外堂の境内にはお不動さまもお祀りされていて、二つの御縁日の重なる有難い日ともなります。

道了尊の祈願法要に続き、お不動さまの法要も執り行われます。

昨日もいつものように祈願法要が執り行われ、座をひらいたあと。

「このあと道了さまの一年の汚れを払わせていただきますので、お時間のある方はどうぞ道了さまのお身体をお拭きになってください」


おおーっ!

今まで一度もこの一年の最後の法要に参列した事のないことをあらためて実感いたしました瞬間でありました。

御像にさわれる♡
直接御礼申し上げることができるんだ♡♡


相変わらずそんな煩悩を抱えてはいたおばさんではありましたが、道了尊さまのお身体を拭かせていただいてまいりました。


うーん♡、来てよかったあぁ。
よぉ〜しこれからは毎年、…来年の話どころか今後毎年毎年のことまで言い出す歩く煩悩おばさん。
鬼も呆れて笑うどころかどこかに行ってしまいそうです。

No.452

(続き)

お正月飾りはいつ飾ったら良いか。
…調べてみました。

『二十八日に正月の飾りつけをすると「八」が末広がりで縁起がよくおすすめです』

え。
きょ、今日ですか?

まぁ、今年はシンプルに輪飾りですがすでに用意はしてあります。
よぉ〜し!飾ろう。


また、この話にはさらに続きがあって、
『十二月二十九日は九が「苦」に通じ、〝にじゅうく〟の音が「二重苦」と同じことから一般的に十二月二十九日はお正月の準備をしてはいけないといわれています。
『苦立て』という言葉があるようです。
ただ『二九=ふく(福)』と見なし、縁起が良いと考えることもあるともいいます。

また、三十一日、大晦日もお正月の前日なので『一夜縛り』『一夜飾り』に通じるといって縁起が悪い、不吉だといわれています』

と書かれていました。

実はこれ、この大晦日に飾るのは縁起が悪いというもの、わが家ではかつて苦肉の策で元旦の朝に飾るという裏技で回避を企てたことがありました。
そうしたらな、なんと、今年購入したお正月飾りの説明書きにまさにそう書かれていました。…い、いいの?本当にありなの?
なんだか日本らしくて安心します。


なお、仏滅や友引は関係ないそうです。
たしかにこれだけ限られた中で六曜にこだわったら、飾る日が無くなってしまいます。

二十八日に飾ることが難しかったら三十日、あるいは元旦に飾れば良いようです。


とはいえ、実はお正月の準備を始める【正月事始め】は十二月十三日から始まってあります。
ですので本来そこから飾っても良いようです。

…ですが、ねぇ。
今の日本、クリスマスという大イベントがありますから。
この飾りとお正月飾りが混在するというのはさすがにどうかと思うわけで…。

故にやはりこの年の瀬の押し迫った中の限られた日の中のどこかで飾り付けることとなるのです。


ええ、飾りましたよ〜。
門柱に松を、玄関の戸には稲穂の付いた輪飾りを。

あとはお正月を待つだけ、…なはずはなく、おせち作りが待っています。

かつて息子が注文してくれた宅配のおせち、あれは本当にありがたかったなぁ。

夫はそんな気の利いた配慮のできる人間ではないので、今年もひいこらひいこら作るしかないのであります。

一度楽をすると戻るのが大変なのもまた、人間であります。
ましてや私、歩く煩悩でありますから。



No.451

(続き)

お正月飾りは、お正月に『年神さま(歳神さま)」をお迎え入れるために飾ります。

年神様の「年」は稲の実りを意味するといい、年神様をもてなすことで五穀豊穣を願ったものといいます。

農業が産業の基幹だった昔の日本では、『年神さま』はとても大切な存在でした。

年神さまをもてなし、家内安全や無病息災を願うために正月飾りは生まれ、地方の風習ともあわさって現在まで伝えられてきたものです。

門松や注連飾り(しめ飾り)は年神さまを招き入れる目印であるため、外に飾り、これは子孫繁栄や長寿を願うものだといいます。

鏡餅は年神さまへのお供えとして、床の間飾りは年神さまに鎮座してもらうために飾ります。

う、…そういえば。
わが家にも床の間があるんだっけ。
子どもたちが小さい時分、目を離した際危ないと思って、封印したきりになっていた!
うーん、こ、これは来年の課題、だな。


正月飾りには稲(稲わら)のほか、松竹梅が多く使われています。

稲は年神様の象徴であり、五穀豊穣を祈願します。

松は、一年中落葉せず葉が青いことから「永遠の命」、すなわち長寿の象徴です。

また、松の名は「祀る」に通じることから縁起が良いとされています。

竹は成長が早いことから生命力の象徴、梅は厳寒でも花をつけることから、逆境に耐えて花開く人生になぞらえられ、縁起の良い花とされています。


さて。
このお正月飾り、いつ飾ったら良いのでしょう。

No.450

(続き)

以前は子どもたちがまだ小さかったり、フルタイムの仕事をしていたこともあり、暮れも押し迫った、なんなら大晦日さえ大掃除をしていたのですが、今は断捨離も兼ね、毎日、毎月、こまめに掃除をする遠モットーとしたお陰で、今年ももう大体の大掃除は済んでいて、あとは居間の天井くらいとなっています。

実は今年知ったのですが、大晦日はもう歳神さまをお迎えする日、なのでお掃除をしていてはいけないようで、まぁ、無知というのは困ったものでありました。

そして。
追記しておかねば、あまりにも良心が咎めるので書いておきますが…。

いかにもキレイな環境のように住んでいるかのように思える文面ですが、元がひどすぎるので世の中で及第点を取れる『綺麗なお家』にはほど遠いのが現実なのですが。

それでも昨年頑張って襖を貼り替え、ドアのペンキを塗り、廊下の壁には漆喰を塗って、自己満足なリフォームもいたしましたので、とりあえずボロっとしたところは改善されましたし、今年は全ての部屋の電灯も変えてイメージチェンジもいたしました。

さあ、これで居間の天井のお掃除をして、お正月飾りをすれば、わが家なりの(ええ、あくまでもわが家レベルではありますが)お正月の準備は完了です ♪。


ちなみに。
うちの母はそういったお正月飾りなどには一切興味のない人間でありましたので(彼女の名誉のために書くならば、元キリスト教徒ということもありましたでしょうか。まぁ、あくまで〝元〟なのではありますが)、これまたどうしたものをどこまでするのかわからない。

唯一飾られたのが鏡餅。
それもお仏壇に一つ。(元キリスト教徒なのに、離婚してのち思い立ったようにお仏壇を購入いたしました)

嫁ぎ先は各部屋各部屋、玄関やお店にも鏡餅が飾られていて、(ああ鏡餅って一家に一個ってわけではないんだ)と思ったくらいでありました。

嫁ぎ先では昔ながらの大きなものもきちんと和菓子屋さんにお願いして飾っていました。

まぁ、スーパーやホームセンターに行けば、それこそまさに迷うくらいにさまざまなお正月飾りが売られていますので、あとはどこまでやるかを決定して購入すれば良いだけのこと、なんですが、ね。

No.449

【大掃除とお正月飾り】

ここ数年心がけていたのは、暮れになってあちこち大掃除をするよりも少し暖かい時期から始めておこう、でありました。
まあ、今年などはいつまでも暖かい日が続いておりましたが。


わが家は障子を貼るのも網戸を張るのも私。

障子を外して障子紙を剥し、洗って干して、紙を弛まないよう張って貼っていく障子貼り。
大変といえば大変ですが、実は好きな作業。
障子紙をえいっと破いてベリベリ剥がすのも、ジャージャー水を掛けてがしゃがしゃと洗うのも(…がしゃがしゃと洗うのはガサツなおばさんの私だけです)、実にストレス発散になる!
そのあと、身を引き締めて、全集中して(…もうこれ、古いのでしょうか?)新しい障子紙を貼る。

なんとも清々しい気持ちになれるのです。
新しくなった障子を部屋に戻した時のその障子の白さ、明るさがさらにテンションを上げてくれます。

でもこれ、お正月の差し迫った年の瀬にすると、なかなか大変で。

天候に恵まれた日にしないと悲惨なこととなるのですが、果たして年の暮れの休みの日に、そういう恵まれた日があるかどうかはまさに運!
風が吹いていようものなら、貼る前の紙が凧のしっぽのようにヒラヒラと舞ってしまいます。いやたなびいてしまう。到底障子貼りなどできたものではありません。

で。
今は平日、晩秋から冬のよく晴れてあたたかい風のない日にしてしまっています。
平日なのは夫に変なプレッシャーもかけずに済むことも理由であります。

なにせ私ども、両実家ともに障子がなかったため、障子貼りなど見たことすらなく、見よう見まねですらない。
今はネットで調べながら出来ますが、私どもが家を持った頃には、ホームセンターで『障子の貼り方』という小さな紙をもらってきて、試行錯誤しながら貼り替えるしか無かったので、不慣れなうちはかなり大変で。

こうした作業を決して嫌いではなさそうな夫なのですが、なぜかこの障子貼りに関しては「やろうか?」という目に光が無く、どこか虚な気配を感じ、うん十年ずっと私が引き受けているのです。


さきにも書いているように、本人いたって好きな作業、なのですが、側から見ると結構大変な作業です(まぁ、実際大変といえば大変ですが)。
何もしない自分に引け目を感じるらしく、そばでウロウロとするのです。

好きな作業とも伝えてあるのですが、ねぇ…。


No.448

本日は2023年最後の満月。

夏目漱石はあまり好きではないのですが、離れて暮らす子供たちに満月のたびに、『月が綺麗ですね』とLINEを送る、実に怪しい母であります。


英語教師をしていた頃の漱石が、
『Ilove you』を
『我君を愛す』と訳した教え子に対して、
「日本人はそんなストレートなことは言わない。『月が綺麗ですね』とでも訳しておけば足りる」
と言ったという話があることからの
このLINEであることは言うまでもなく。

この話果たして事実なのかといった声もあり、実際、漱石のどこを調べても、確かな根拠となる資料は無いようです。
まぁ、授業中の話であれば、当然、そうした資料も残りはしないので、
真偽は永遠に謎のままでありますが。

でもこの『Ilove you』を『月が綺麗ですね』と訳すというこの感性はたしかに、日本人のものであると私は思うのです。
まぁ、今はもうストレートに気持ちを伝えることの方が当たり前となっておりましょうが。

この『月が綺麗ですね』
さて、子どもたち、知っているのかどうなのか。

仕事を終えてわざわざ実家であるわが家にやってきて、
『月が…』と言った息子は当然知っているけれど。


今朝五時に小望月の月を見て。

そして今、家からは見えない月を見るため、十メートルほど歩いて空を見上げまんまるのお月さまを仰ぎ見てまいりました。


今宵の月は『コールドムーン』というのだとか。
でもやわらかな薄黄色の月はそんな寒々しいものには見えませんでしたが。


月を光を受けながら、大切な人を思う時を過ごす。
こんな時間を世界中の人が持てば、戦争も無くなるのではないかなぁ。




No.447

(続き)

瓊々杵命は地の神と結婚し、『山幸彦・海幸彦』という兄弟をもうけます。
正式には『ホデリ(海幸彦)』『ホオリ(山幸彦)』という名であります。
山幸彦はその後、妻の豊玉毘売(トヨタマヒメ)との間に鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)を授かります。
このヒコナギサタケウガヤフキアエズは、豊玉毘売の妹玉依姫との間に四柱の神を出産。
その子が初代、日本最初の天皇『神武天皇』なのです。

天皇家の血筋は神武天皇から鵜草葺不合命、山幸彦、瓊々杵命を経て天照大神まで一本でつながっているのです。

天照大神が天皇家の祖先神とされている理由は、まさにここにあると同時に、天照大神は日本列島の創造神である伊邪那岐の直系でもあるわけです。


と、いうことで。

本日上皇陛下のお誕生日ということで、天照大神さまをお祀りする神社さんの一つ、群馬県みどり市に鎮座されます【神明宮】さんに参拝してまいりました。

上皇さまのお誕生を祝い、感謝し、神の国日本の真の平和をお願い申し上げてまいりました。

境内は少しづつ、お正月に向けての準備を始めておられました。

🎵もういくつ寝るとお正月。


あと…少しです。

No.446

(続き)

今でこそ天皇家は日本国の『象徴』でありますが、昭和天皇の御代まで、天皇は【現人神】として奉られておりました。

その『現人神』として国民全体の崇拝対象になったのは、実はさほど古いことではなく、明治以降であります。
尊王攘夷を契機に成立した明治政府は、成立当初から天皇を神聖視しており、かの『大日本帝国憲法』にも、『天皇は神聖にして侵すべからず』という条項があるくらいであります。

しかしながら、国全体で『現人神』として崇め奉ったのは明治以降ではあったにせよ、万葉集にすでに
『大君は神にしませば』で始まる歌が収載されており、その頃からすでに天皇(大王、大君)は神であったのです。

さらにそのルーツを辿れば神代の時代までさかのぼるもの。

天皇家と神道の結びつきを考えた時、その参考になるのはやはり『古事記』の物語でしょう。


『古事記』は、世界(日本列島)の誕生を神々の誕生から綴られております。
天と地がはじめて分かれたときに、高天原に天之御中主神(アメノミナカヌシ)という神が現れ、その後も何柱かの神が現れますが、そのまま姿を隠してしまわれています。

この後も実に多くの神が姿を現しては消え去られます。
そんななか伊邪那岐(イザナギ)、伊弉波(イザナミ)という男女の二柱の神が現れます。
この伊邪那岐、伊弉波こそが子孫を残すことのできる神だったのです。

そして、この二神は、「天の浮き橋」から矛を降ろし、海をかきまぜました。

その矛の先からしたたり落ちた海水の塩が固まり、積もって島となります。
二神はこの島に降りると、子供を産みます。
そして生まれたのが、淡路島や四国、九州、さらに本州など八つの島【日本列島】なのです。


さらに二神は次々と神を産みますが、伊弉波は火の神を産んだ際のやけどがもとで死んでしまいます。

そして、伊邪那岐は伊弉波に会うために、黄泉の国を訪れますが、その恐ろしさのあまり逃げ帰り、その時の伊邪那岐の禊(みそぎ)で生まれたのが、天照大神、月読命、須佐之男命などの神々でありました。

日本列島が落ち着くと、高天原の天照大神は、孫である瓊瓊杵命に地上に降り、国を治めるよう言い、瓊瓊杵命はたくさんの神を伴って、日向の高千穂の地に降り立ちます。

瓊瓊杵命は地の神と結婚し、子をもうけます。

No.445

本日上皇さまは九十歳、卒寿の誕生日を迎えられました。

確かな記録が残る歴代天皇の中で九十歳を迎えられた方は初めてであるといいます。

昭和八(1933)年、当時の継宮(つぐのみや)【明仁親王】として宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生されました。
宮内省は、「午前六時三十九分をもって親王殿下ご誕生」と発表、東京に親王生誕を知らせるサイレンが鳴り、人々は旗や提灯を持って街を行列して祝い、街には号外も出たといいます。

まぁ、当然と言えば当然、当時、天皇は神の時代であります。
東京だけでなく、おそらくは日本中がそうしたお祭りムード一色となったことでしょう。


昭和六十四(1989)年一月七日、父・昭和天皇の御崩御を受けて、五十五歳で第125代天皇に即位されました。
元号法に基づき【昭和】に代わって世は翌日の一月八日より【平成】と改元されましたことは、まだ記憶に新しい気がいたします。
まぁ、私がその時すでに成人した年齢であったこともありましょうが、その発表の席で『平成』と揮毫された台紙を持って記者会見をしたのが当時の官房長官、群馬県出身の【小渕恵三】氏であったことも大きいかと思われます。

昭和生まれの人間にとって初めての改号でもありました。



そして、年齢を理由に譲位を希望され、譲位時の年齢は八十五歳。
いくつもの疾患と闘って闘って、その上で出されたご希望でありました。

この時、(本当に申し訳ない、ありがとうございました)と思った国民は多かったことと思います。


平成元(1989)年から三十(2018)年までは十二月二十三日が国民の祝日【天皇誕生日】でありました。
平成三十一年/令和元年(2019)は、昭和二十三(1948)年の『祝日法』施行以来初めて「天皇誕生日」のない年となったことも、記憶に新しいことです。
クリスマスイブの前日の祝日は嬉しくて、その日からパーティ気分を味わっていた人も多かったはずで、これ以降、この日は祝日ではないのだなぁと大変残念に思ったものです。


御公務を退いた現在、上皇さまは上皇后美智子さまと共に芸術鑑賞などをして日々を過ごされているといいます。
また、長年続けてこられた〝ハゼ〟の研究にも今なお取り組まれ、かつてのご自分の書かれた研究文を見直しておられるのだとか。


どうか穏やかに、御自愛いただきお過ごしくださいますように。

No.444

本日は『冬至』で一年のうちで一
番昼間が短い日となります。
北半球では太陽が真南にくる『南中高度』が最も低くなる日だといいます。
冬の寒さも心身に堪える時期、さらに太陽が顔を出している時間が短くなるこの日、生命力も弱まると考えられていました。
そこからさまざまな風習が生まれます。


冬至といえば『柚子湯』が有名です。
柚子を浮かべたお風呂に入ると風邪をひかずに済むといい、実際、柚子は血行を促進させて身体を温め、風邪の予防となり、冷え性、神経痛などに効果かあるといいます。
豊富に含まれるビタミンCは、ひびやあかぎれなど肌荒れにも効果があります。
柚子湯が始まったのは江戸時代のことといわれています。


『冬至→湯治(とうじ)』
『柚子→融通(ゆうずう)』
に当てているという説があるといいます。

【融通】は【融通無碍』(ゆうずうむげ)】という仏教用語で、【華厳経(けごんきょう)】が由来と伝わります。
『融通』は、それぞれ別々のものが溶け合い、通じ合い、相まって完全となるという意味があり、物事がよく通じることや、滞りなく進むことなどに使われます。

冬至に柚子湯に入ることで『湯治(冬至)』と『融通(柚子)』で心身共に相まって無病息災となるよう願ったようです。


冬至には『かぼちゃ』を食べる風習もあります。
でも本来は夏が旬のかぼちゃ。
私などは大人になるまでかぼちゃは冬の野菜なのだと思っていたくらいです。

夏の太陽の恵みをたっぷり閉じ込めたかぼちゃを冬場に食べることでやはり『風邪をひかなくなる』と言い伝えられています。

このかぼちゃ、『なんきん』などと呼ばれるところもあるようです。
冬至に【ん】がつく食べ物を食べると『運』がつくともいわれているといいます。

この時間『蓮根』『にんじん』『銀杏』『金柑』…こうした『ん』のつく食べ物は結構あります。
この年の暮れに運気をUPしておくと、さらに良い年を迎えられそうな気がいたします。


冬至を過ぎればまた少しづつ日が伸びます。
こうした現象から、冬至は『太陽が再生する日』とも捉えられ
【一陽来復(いちようらいふく)】ともいうといいます。
古代の中国では冬至を一年のはじまり、『元旦』と定めていたこともあるそうです。

No.443

本日は、六曜の吉日『大安』と、
一粒の種が万倍にも実るという『一粒万倍日』が重なる開運日となります。

ビビりのわたくしめは、大掃除兼断捨離をしつつ、
(これを捨てるということは良いこと?悪いこと?)などと、自分の行動の一粒一粒にビビるという、小さい小さい自分に苦笑しながら過ごしております。

それにしても。
急に気温が急降下しました。
十年に一度の大寒波とテレビで報じられています中、どうかお身体ご自愛ください。


No.442

(続き)

【坂村真民 さかむら・しんみん】氏は明治四十二(1909)年熊本県生まれの方だといいます。
昭和六(1931)年に神宮皇學館(現・皇學館大學)を卒業をされ、二十二歳歳で熊本で小学校教員になられたといいます
二十五歳で朝鮮に渡り現地で教員を続け、召集中に終戦を迎えたといい、帰国後は愛媛県で高校教師を務め、六十五歳で退職されています。

ここまでの経歴をみると、愛媛県の高校の先生の書かれた詩が何故、毎月毎月鎌倉の円覚寺さんの門前の貼り紙となるの?となります。

坂村真民氏は在職中から詩を書かれ、詩人の顔も持たれた方であります。

坂村真民氏は八歳の時に、小学校の校長をしていた父を突然の病で失います。
齢四十歳であったといい、三十六歳の母と五人の幼子が残されました。一家の生活は一変し、五人の幼子を育てるために母は懸命に働かれます。

そんな母が愚痴を言う代わりに、いつも唱えていた言葉が
「念ずれば花ひらく、念ずれば花ひらく」であったといい、この言葉が真民先生の根底にいつもあったようで、詩集のタイトルにも、随筆集のタイトルにもこの
『念ずれば花ひらく』というものがありました。

そんな坂村氏と円覚寺さんとの接点は?

現在の円覚寺さんの管長さまが、この坂村真民氏の昭和五十六年に出版された『生きてゆく力がなくなる時』という本を読んで感銘を受け、坂村氏に手紙を書いたのが、ご縁の始まりであったと書いておられます。
管長さま高校二年生の時であったといいます。

この本に掲載された詩にある
『死のうと思う日はないが
生きてゆく力がなくなることがある』
という言葉に心打たれ、坂村真民氏へ手紙を書いたといいます。

一高校生の手紙に真民氏はそれはそれは丁寧なご返事をくださったといい、それからご縁が始ったのだといいます。

そして…。

円覚寺の僧堂師家と黄梅院住職になり、毎月黄梅院の掲示板に真民先生の詩を書くようにしたのだとおっしゃっておられます。



それにしても…。
『生きてゆく力がなくなる時』とはまたなんともセンセーショナルなタイトルです。

ただ。
この本があって。
この本があったから今、
円覚寺さんの掲示板に坂村真民氏の詩が毎月書かれていることとなっているのは確かなことです。




No.441

【円覚寺の掲示板】

神奈川県鎌倉市の【円覚寺 】さんの総門の階段下の参道沿いに掲示板があるのをご存知の方もおられましょう。
墨書きの、よく他のお寺さんでも見られる、ありがたい言葉の書かれたものになります。

もうずっと行けずにおりますが、鎌倉の円覚寺さんに参りますときには、必ず写メを撮るくらいに、この貼り紙の一ファンであります。

この言葉の貼り紙、私が参拝させていただいたときには『坂村真民』という人の名が必ず添えられていました。
こうした貼り紙の言葉に人の名が書かれていることはあまりないように思えるのですが、偶然にしては高確率でこの方の名が記されているのでありました。
一体どなたなのであろうとその場では気になったものの、なかなか調べずにおりました。
円覚寺さんの僧侶の方か、あるいは円覚寺さんにご縁のある方であることは間違いなそうと思ってしまったことが一因でもありました。

が。
このコロナ禍以降、いよいよ鎌倉へ鎌倉に行きたい病が募りに募った私、そういえば…と思い出したのです。『坂村真民』さんのお名前を。
…正確にいうと、円覚寺さんの貼り紙のことを、でありますが、ね。


(続きます)

No.440

私のスマホのホームページの画面には、全国各地のお寺さんの名前がズラリ。
法話をホームページで拝見できるお寺さんのものです。

私のスマホ画面を見た方は、
👀(…なんだこれは)
と思われるのだろうなぁと思ったりいたします。

写真を開いても然り。
神社仏閣、御仏の御像やら、彫刻やら、もう一目見るだけでそんな情報ばかりのスマホであります。

SNSでもよく神社仏閣のものを開くので、おすすめでさまざまな神社や仏閣のSNSの発信があがってきます。
挙げられた仏像写真にいいねばかりするので、御仏の御像がやたらと画面上にあらわれ、(うーん、幸せ♡)。


そんな私の怪しいスマホ。

時間ができるとゆっくり法話を読ませていただきます。

あの薬師寺さんは四コマ漫画までアップしてくださっていて、心に小さな小さな棘を感じる日は、その四コマ漫画に棘を抜いていただいたり。


ありがたいことです。

法話などなかなかお聞きする機会はありませんものを、気軽に、自宅のおこたつに座りながら拝することができるのですから。

お寺さんによくある、墨書きの『今日の言葉』。『今月の言葉』だったり『今週の言葉』だったりも、お寺さんによっては掲載してくださっています。


強風で外に出るのを躊躇してしまう今日などは、まさにこのマイホーム画面から、あれこれ見ては勉強させていただいたり、漫画を見て笑ってみたり。


私は間違いなく、スマホに依存しているなぁ。

No.439

【いのち短し恋せよ少女】

…と、突然なんのことでしょう?
自分でもちょっとどうかとは思ったのですが、でもなかなかのキャッチフレーズです。

歳を重ね、〝命短し〟を、痛感、とまではいかないけれど、まぁ、先をぼやぁとは見るようにはなります。
少女だった頃など、遥か彼方の大昔にはなってはおりますが、ね。
まぁ、そんな大昔のことはさておいて。


この、ね。
コロナ禍から始まって、時代はまさに激変しました。

死に至る感染症、それも初めて発見された、感染力の強い病ということで、それによる未曾有の緊急事態宣言。
大きな行動制限がとられ、幼稚園も含む学校、保育園の長期にわたる一斉休校、不要不急の都道府県をまたぐ移動の自粛、鎖国に近い状況ともなりました。

ロシアによるウクライナ侵略。
しかもその長期化により、世界中の経済も圧迫され、日本においては今、まさに第二次世界大戦時における物価高騰をすら彷彿させる、異常なほどの物価高騰となっています。

こんな中で、将来に不安を感じ、身を縮めて生きている人は決して少なくはないと思うのです。


でも…。

身を縮こめて生きているだけでは良くないことばかりしか見えてこないです。
もっと簡単に言えば、…つまらない。


たしかに、コロナは第五類に分類されただけで鎮静化したとは言い難く、そこへもってきてインフルエンザだの、溶連菌感染症だの、流行り病が蔓延しているのが現状かもしれません。

物価は高いし、ガソリンもう高い。

でも…。


【いのち短し恋せよ人よ】。

ときめきをもって、
楽しみをもって
生きていなくてはつまらない。

そ、恋するのは乙女の特権ではないのです。
恋する対象は殿方だけでもありません。
〝人〟に限ったことでもない。


ガソリンは高いけど、普段自転車で買い物に行って、その分たまにお出かけしたって、『いいんじゃな〜い?』

縮こまることに、身も、何より頭、心が慣れて、固まりつつあるよう感じたのです。


…たしかに。
わが家には慢性呼吸器疾患の夫がおり、コロナにしろ、インフルエンザにしろ、感染はできうる限り避けたいもの、であることに変わりはありません。

でも、それに囚われて、縮こまっていた自分に気づいたのです。


元おとめ、恋せよ!と思ったのであります。


東京、京都、東北…
…「いいんじゃな〜い?」

No.438

【石蕗】

この季節、お寺さんでよく見かける花があります。
寂しい冬にハッとするような黄色い花に自然に目がとまります。

『石蕗』と書いて『ツワブキ』と読みます。
季節の淋しさだけでなく、何か心の淋しさを抱えているとき、濃い鮮やかな黄色の花はポッと灯った光のようにもみえ心が和みます。

お寺さんというのは本当に季節季節に咲く花の種類が多いよう思います。

ツワブキの花は初冬の季語だといいます。
ちょうど立冬を迎える十一月頃から咲き始める気がいたします。
花期が長いので今も鮮やかな色でその場を明るくしてくれています。

仏教には【自灯明(じとうみょう)】という言葉があります。
自分を頼りに、自分を灯火として歩くという意味で、お釈迦さま最後の教えとされています。
出口がわからないような暗闇においても、しっかりと自分の運命を受け入れ、自分を信じ、自分の心の灯を見つめて歩く…。

周りが枯葉色となるこの季節、ツワブキの咲くところだけパッと明るいことに『自灯明』という言葉を重ねて句を読む俳人もいるようです。


ツワブキのほか、山茶花や白いお茶の花、ヤツデなど、冬に咲く花はいずれも小さな虫たちにとっては重要な蜜源。
私の家のネズミの額ほどの庭にも小さな小さな蝶が今なお咲く菊や河原撫子へとやって来ます。
同じく秋の花である桔梗などは、すっかり枯れてしまったかのように葉を散らしているというのに。


そして。
ネモフィラの芽が発芽して可愛らしい手のような本葉を広げだしました。
こぼれた種から今年も目を出してくれたのです。

すっかり冬色となったわが家の庭にも、春の兆しはすでに訪れています。

No.437

【聞き捨てならぬニュース】

最近のことではないのですが、NHKのアンケート調査で判明した由々しき事案が発覚したようです。

DVの被害に遭われた方の住所等の個人情報を、公の役所がよりにもよって加害者に渡していたようです。

…ありえない。

いくらなんでもあり得なさ過ぎて吐き気がします。
そうしたありえない情報漏洩により、被害者の方は転居を余儀なくされたといいます。

しかもこれ、NHKのアンケート調査でたまたまそうした被害者が対象に当たったから発覚しただけだったような表現で報道されていました。

こうしたことのあった自治体においては、そうした発表がなされていたのでしょうか。
そこまではニュースでは語られて発覚いません。

公的機関はそもそもがそういった最低限の知識と常識を持ってこうした書類の扱いをすべきだし、なんならなんらかのこうした事案に適した資格があるのならば、むしろ積極的に配置して然るべきだと思います。


その担当する部署での書類の扱いに問題があるということになると思います。
これは明らかに、心ならずとも加害したことなる事案だと言えます。

これ、早急に事実を明らかにして(されているのかどうか…あくまでもNHKのニュースで流された情報しか手元にはありませんので…)、
被害に遭われた方への然るべき補償がなされているのかどうかを確認すべきだと思います。

…まぁ、あのマイナンバー制度にしてもズタボロなものです。

忙しい仕事をされておられます方もおられ、確かに簡易な手続きで公的な書類を入手できるのは一見ありがたいとも思われるものであります。

でもそれ、元となるマイナンバー制度がしっかりとしたものであることが第一条件です。

それがズタボロで、全く関係のない方の情報が入手できてしまったり、診察に支障をきたしたりまでしているのが現実なわけで。


信頼したいものが信頼できない今の日本で、私たちはなにを信じて生きていけば良いというのでしょう。

今年の漢字が【税】。

納めているのはどこに?
何のために?
そこすらが信頼できない、今の日本です。

No.436

【日にち薬・時薬】

昨日、お寺さんでお逢いした方のことを書きながら、書きたかったこととはズレていたため、書かなかったのですが、心の端っこに【日にち薬(ひにちぐすり)】【時薬(ときぐすり)】という言葉が浮かんでいました。

私は誰に聞いた…ということもなく、時々耳にしていたこの言葉が、しばらく前に某SNSでトレンド入りしていたようです。

元となったのはある方の〝つぶやき〟から。
その方は『日にち薬』という言葉を聞いたのは友人からのメッセージが初めてだったとのことで、最初は入力ミスかと思ったといいます。でも気になるワードで、でも入力ミスにしては自分の中で当てはまる言葉が思いつかないと『日にち薬』で検索されたとのこと。
そして、
「関西でよく使われる言葉らしい。お恥ずかしながら知らんかった。良い言葉だな」
とさらに綴っておられました。


関東生まれの関東育ち、…というか群馬生まれの群馬育ち、生粋のグンマーは、この『…関西でよく使われる言葉らしい』ということにむしろびっくり。
私の周りでは年配の方が結構使われておられる、
私の中では、人生の経験を積まれた方がそっと出す、大変重みのある、だけれどとても優しい言葉、でありました。

〝時〟が癒してくれることを【日にち薬】・【時薬】といいます。

「月日を経ることで薬のように癒してくれるという発想としては、関西に限らず全国的に使われる言い回しだと思いますが、『日にち薬』という言い方自体は関西弁にあたると思います」
と語られたのは、日本語学を専門とする、神戸女子大学文学部の橋本礼子教授でした。


え。


か、関西弁〜っ?


他の地域での使用例については、「大阪や京都と密に交流があった場所で徐々に使われるようになり、そこから全国的に広まっていったのではないか」
と話され、さらに
「時間の経過が心身を癒してくれるというような発想は励ましや慰めの表現として他地域にもいろいろな言い回しがあってもおかしくないと思います。
『日にち薬』のような名詞になっているのは京都や大阪のあたりだけかもしれませんが」
と話されておられます。


そう、人間だから。

きっとこれは日本だけではない、世界中で感じる、他人や自分へ向けた感情で体験であると、私は思うのです。

心の傷にはこの言葉をかけるには、タイミングが難しい時もあるけれど…。




No.435

今日、月命日には二日ほど早かったのですが、義・実父のお寺さんへお参りし、お墓参りをしてまいりました。

義父のお墓の二つ隣にもお墓参りにお越しの方が一人おられました。

この嫁ぎ先の菩提寺の墓地は背の高い落葉樹があちこちに植えられていて、この時期お墓参りに行くと落ち葉をかきながら場所に行くほどであります。
一足先にお越しになっていたその方は、落ち葉を一生懸命集め、丁寧に丁寧にお墓周りをお掃除されていらっしゃいました。

一軒の墓所だけで45リットルのゴミ袋をパンパンに詰めてもまだ落ち葉があるくらいのそんな墓所であります。

一足先にお掃除を終えられたその方は大きな花束を二つ墓前に供え、お線香をあげておられます。
見るとはなしに目に入る、そんな位置のお墓でありますが、こちらにお墓参りに来て、その墓所にお参りに来られている方とは初めて一緒になりました。

ん?

その方はお墓の前に腰かけて、まるでお墓におられる方と話しておられるかにみえます。

愛おしそうにお墓を見つめ、お墓参りの決まり事であります、手を合わせるとかではなく、静かに静かに、腰かけていることで、ちょうどお墓の真正面の高さになるようです。

(大切な方が、心に生きておられる方が、ここに眠っておられるのだな)


やがて立ち上がって。
私に会釈をされると、凛とした背中で、墓地の出入口へと向かって歩いていかれました。

立派な花束の供えられたお墓には、真新しい、一周忌を終えたばかりの卒塔婆が建てられていました。


…。

一年経ったのだなぁ。
一年かけてあの方はここまできたのだなぁ。

人はこうして人を送り、墓を守るのだなぁ。


学ばせていただいた。

そんなお墓参りとなりました。


ありがとうございました。

どうかお元気で。

またお会いできたら嬉しいです。


No.434

【新月 そして双子座流星群】

今双子座流星群が見えます。
そしてさらに今日は新月です。
時間も問わず、方角も問わず、早朝五時くらいの時刻でも寒さ対策をしっかりとさえすれば見られます。

少しなら寒くはない日ではありましたが、風もそれなり、星を見るには最高の条件なのですが、じっとしているのですぐに寒くなります。

そう、実はおばさん、今朝見ていたんです。

日の出の時刻もだいぶ遅くなりました。
七時くらいが〝ようようしろくなりゆく〟頃です。


朝のこのくらいの時間は私の癒しの時間なのです。

No.433

(続き)

山林の木を切り出すことが生業の方々にとって山の神さまは、その場に入ってそこにある木をいただいているありがたい存在あります。

山の土地をお借りしてキノコ等の栽培をされる方々もまた然り、山での作業を生業にしている方々は、山の神を畏敬し、昔から禁忌とされていることは今なお守って仕事をされている方が多いといいます。


禁忌の一つに
『山の神様の日には、山に入らない』というのがあるといいます。

これはその地方によって異なることもあるようですが、【十二日】という点は同じであります。

十二月十二日といいますのは『十二』か二つ。

この日は山に入らず、山林での作業を自粛している林業関係の方が今でも少なくないといいます。

それは。

山の神さまの日に禁忌を破って山に入ると、
『樹木の下敷きになって死ぬ』とか、
この日には山の神さまが山の木の数を数えるといい、数える際一本一本触れてまわるので
「山の神にさわられると木になってしまう」、
木の一本として数えられて、
「山から出られなくなる」
と言い伝えられているのだといいます。



…うん?

私どもは山登り、登山などというものは、そうした体力がなくてすることはありませんが、それでもハイキングくらいはすることがあります。
今は車で簡単に山に登れるところも増えていますので、休日、山へと車を走らせる(もちろん私ではない)こともあります。

…十二日という日を意識したことなど無かったわ。

この辺りの十二山神社さんでは、
二月、そして八月にそうした祭り事をするといい、かつては毎月十二日が山神さまの月次祭であったようです。

来年からは十二日には山に入らないようこのすっからかんの頭にインプットしなくては。

山の神さまに対して、守られてきた禁忌は、遊び目的ならことさら守らなくてはならないな。

…これは、あくまでも、ビビりのおばさんの独り言であります 笑。
そしてこのビビりのおばさん、何よりこの十二日というキーワードがちゃんと頭に残っているかが、最重要。
やれやれ、であります。



No.432

【十二さま】

ナビのある車で(無い車の方が珍しいと思われますが、私の車はあえてナビを付けなかったので、ナビが無いのです)国道122号線を走行していると、びっくりするくらい【十二山神社】という神社が点在していることがわかります。

この場合の国道122号線は、栃木県日光市(旧足尾町)、群馬県みどり市、桐生市の辺りをさします。
そしてどの十二山神社さんもワンツーツーから逸れ、山道に入っていくのであります。

以前もこの十二山神社さんについて書いておりますが、この神社さんの主祭神は【十二さま】であります。

十二さま。

そもそもが私は『十二さま』自体を存じ上げていなかったのです。

だから、ナビ上に表れるこの辺りあちこちに点在する『十二山神社』という神社さんの名を見たのも初めてであり、どうしてこの辺りにはこの『十二山神社』さんがこんなにもお祀りされているのか、不思議でしかありませんでした。

偶然手にした、群馬県勢多郡黒保根村(書かれた当時は合併前で、現在は桐生市黒保根町であります)の民話で、ようやく十二さまの存在を知り、十二山神社さんの謎が解けたのでありました。
そう、…私だけでなく、私の周囲の誰も、十二さまの存在も、十二山神社さんも存じ上げていなかったのです。

十二さまは『山の神さま』でありました。

たしかに、この辺りは山に囲まれ、…というよりは山の麓から山の途中くらいまで民家がある、山と共に生きている所であります。
そういった山での暮らしにおいて、山の神さまは身近で、生まれたときから崇め奉る存在であり、それゆえ当然、それぞれ自分たちの集落で『十二さま』を祀る『十二山神社』さんがあるのでありましょう。

私が知らなかっただけで、この辺りには当然のように十二山神社さんがあり、山と共に暮らすような地域においては、どうやら全国のあちこちで十二さまがお祀りされているようであります。

【十二さま】は女神さまで、一年に
十二人の子供をお生みになられるとされます。
御縁日は毎月十二日。

また、一説では十二月十二日は山の神さま『十二さま』のお誕生日なのだそうです。

〝十二人の子供〟というのは、
〝山の豊饒さ〟と、一年が十二か月であることに由来しているといいます。



No.431

【ホームページやパンフレット】

ホームページに
◎ 毎朝7時
 住職と一般の方とで本堂にて般若心経と観音経を唱えるお勤めを致しております。
どうぞご参加ください。


と書かれたとあるお寺さんがありまして、朝五時起きして、そのお勤めに間に合うように車を走らせました。
…つまりはそれなりに遠い。

手水舎で身を浄め、御本堂前で待つこと10分。

…どなたもおみえになりません。

それは一般の方、のみならず、ご住職さまも、であります。

5分待ち、場所が異なるのかとあちこちに目をやり、10分過ぎた時、思い切って電話をかけさせていただきましたが、…お出にならない。

気温六℃。

じっとしていると深々と冷えてまいります。

20分経ち30分経ち、…お寺の中でご住職さま等の寺族の方の動きは一切ありません。

パンフレットにも
◎毎朝7時、住職と一般の方とで本堂にて般若心経と観音経を唱えるお勤めを致しております。(所要時間20分)
どうぞご遠慮なくご参加下さい。

とはっきり明記されています。

結局、八時過ぎても御本堂は無人のまま。
猫が一匹、手慣れた様子で御本堂に入り込んで行っただけでありました。

臨時で中止されたにしても、御本堂の扉は開けられて(ただし大きなお賽銭箱とネットがかけられているため、中に入ることはできません。…猫以外は)、内陣には灯りが灯され、電灯式のお灯明も着けられていますので、仮に急にお休みされたならば、なんらかの貼り紙等してくださっても良いのでは?

気持ちがモヤモヤしておさまりません。



…と。

先ほどの猫が私たちに近づいてきました。
足元にすり寄り、果ては夫に抱っこして目まで瞑って喉をゴロゴロと鳴らして気持ちよさそうにしだしました。

猫好きの私ども。
あっという間に猫に夢中。

先ほどのモヤモヤとした気持ちは(とりあえず)すっかり封印されました。

…これは、御本堂におられる御仏のお使いでしょうか。

ずっと私どもと一緒にいて離れません。他の参拝の方も結構おられるのに…。



まぁ、煩悩おばさんはそんなことで気持ちはおさまりきれず、
「こんなだったら少し遠出もできたよね」
と帰りの車中でブツブツと。

しかし夫は「でも朝の境内の空気は気持ち良かったし、猫とも遊べたし、良かったよ」

…できておられる。

御仏のお使いの猫だし、な。

No.430

(続き)

このお地蔵さまの台座の後ろの面に先ほどの漢文が書かれていました。
そして右側の側面には
【毎日晨朝】
【入於諸定】
【遊化六道】
【抜苦與樂】
とありました。

…抜苦與樂はわかります。
『苦しみを除いて安楽をお与えくださること』
仏さまの御慈悲で、
衆生を苦しみから救い、福楽をお与えくださることです。

あとは…、、、。

調べてみたところ、『延命地蔵菩薩経』の一文なようです。

毎日晨朝(まいにちじんちょう)
入於諸定(にゅうおしょじょう)
遊化六道(ゆけろくどう)
抜苦与楽(ばっくよらく)

と続く一部分があります。


うーむ。
抜苦与楽以外わからない。

晨朝とは卯の刻。現在の午前六時ごろ。また、その時に行う勤行(ごんぎょう)。朝の勤め。とあります。
毎日朝六時にお勤めをする、という意味でよいでしょうか?

ま、まぁお経の一部ということが、わかりましたので、おいおい調べてまいりましょう。

No.429

(続き)

私がそのお店に向かって歩きだしたところ、ちょうどそのお店の方が外に出て来られました。



さすがのエックスキューズミーおばさんも心の準備ができていませんが?

「あ、あのぉ、以前からこちらにお祀りされているあちらのお地蔵さまが気になっていておりまして。参拝させていただいてもよろしいですか?」
「ああ、いいよ」

「あのぉ〜、誠に図々しいのですが、車を駐車場に入れさせていただいてもよろしいですか?」
「ああ、入れな、入れな」

心の準備がないわりに、図々しさだけは常にスタンバイされているようです。

「このお地蔵さまは鶏足寺さんのお地蔵さまなんだよ。ここの土地は鶏足寺さんの地所なんだよ」
「このお地蔵さまはね、昭和十一年に〇〇〇〇さんという方が建てたものなんだよ。〇〇さんのお子さんがね、池に落ちて亡くなってしまって、その供養にと建てたものなんだ。
この土地は⬜︎⬜︎さんという人が持っていた土地なんだけど、それを鶏足寺さんに寄付してね、だからここが鶏足寺さんの地所となったんだけどね」

鶏足寺さんの飛地の境外地であるようです。

「御由緒が書いてあるからちょっと待ってて」

…ありがたい。

【線起
小俣町山藤干賀。喪受兒於不慮之禍。哀傷無己。途發悲願。
欲建立地曬您像。之憑修善業。以銷愛苦焉。募淨財于両毛之間。有緣道佑喜捨者夥。翱山太郎寄進土地。爲建立之所。尊像成而建之桐生川畔炎。鶴足寺前住豐山化主正大個正。撰其稱號。日兒守地藏簟。仰冀。菩薩犬慈大悲。
通擁鼥世問孩置。以能使長育安溯焉。

昭和十一年歲次丙子三月吉祥日
鶏足寺第三十六葉沙門周盛謹記】

額に入れたコピーを見せてくださいましたが、
「漢字ばっかりだから私には読めないんだけど、ね。読める人は読めるんだろうけどね」
…読めません。
少なくとも私にはおばさんの説明してくださった部分が書かれた部分がかろうじてわかるくらいです。
そのコピーした紙には、こちらのお地蔵さまの御札のコピーもありました。
鶏足寺さんで御札をお受けすることができるようです。


…そんな悲しい事故によって建立されたお地蔵さまでありましたか…。

優しい穏やかなお顔をされています。

No.428

【兒守地蔵尊】

栃木県足利市の【鑁阿寺】から【鶏足寺】へと向かう道すがら、不思議とも思える場所に大きなお地蔵さまが一体お祀りされています。
道端、とかですと、昔からのものであればなんら不思議でもなんでもないですし、新しいものであっても、悲しい事故等を受けてそこに建立されることもあったりしますが…。

このお地蔵さま、昔からの辻々に立つお地蔵さまにしては大きなもので、車窓から見てももう少し新しい時代のお地蔵さまに見受けられます。

事故を受けて建立されるお地蔵さまは、そうした事故が二度と起こらないようにとの願いもあってのことでしょう、道路脇の目立つところに建立されますが、…こちらのお地蔵さま、道路からは奥まった、民家の庭の前、何より飲食店の敷地内に建てられているのです。
なので私どもがいく度となくこの道を通っていたにも関わらず、気づいたのは実に今年のこと。

今年建立されたもの、という感じではない、それなりに経年された石仏さまに見えるのです。

ただ、それもあくまでも車窓からのこと。
飲食店の敷地内にある上、路上駐車は不可能な道路のそばにあるのです。
なにしろカーブした道で、信号のある交差点のすぐそばで、おまけに周囲に車を停められるところなどまるで無いのです。

細い生活道路がお店や民家の脇をはしってはいますが、車一台通るだけの道幅でそこへの路駐もまた不可能。

気になっても通り過ぎるしかない、そんなお地蔵さまでありました。

それでも。
私どもは珍道中のペア!
しかもエックスキューズミーおばさんがおります。
たまたま朝の八時ころ、その道路を走っていると大勢の人たちが道路脇の清掃作業をされておられました。

夫がその生活道路に一時停止した状態で、おばさん、車から降りてその方たちに話しかけます。
…尊い清掃の奉仕作業を邪魔するなど、おそれを知らぬ行いですよね。
でも地元の方にお声がけするこれとないチャンスでもありました。

「ああ、あのお地蔵さん?
あれは鶏足寺さんのお地蔵さんなんだけど、あの店のおばさんが管理してるから、聞いてごらん。
起きているよ。
何せこれからこの作業に加わるんだから」

…千載一遇のチャンスだった!

お店から営業している時にはそんなにお話をお聞きすることもできないだろうしなぁと、思案していたくらいだったので。


No.427

(続き)

一切経二千巻。
…ちょうどあの、比叡山の開山後に伝教大師さまが布教に必要な一切経の書写を奈良の七大寺や知人に依頼された際、あの道忠禅師さまが、二千巻の書写を送り届けたとされるのとちょうど同じ数であります。
これだけ大きな八角経蔵に収めるくらいの量、ということになります。

このたび法華経の極々一部を写すだけだといいますのに、ひいこらひいこら言い、しかも出来映えも悪くてすっかり気落ちしております私。

こちらに収められている一切経二千巻の重みと、有り難さを今まで以上に感じ入り、回転式の経蔵の持ち手に手を添えさせていただきました。

…。
……。

…この回転式の八角経蔵に触れることを禁じる張り紙等はどこにも見当たりません。
写真を禁じる張り紙はあちこちにあるというのに。

八百経蔵の軸のある下部を見てみました。大変きれいに手入れされています。

……。

…もしかして。

受付の、高校生くらいのバイトの子に、
「つかぬことを聞いてもいい?」

エックスキューズミーおばさんの登場です。

「この経蔵って、もしかして回しても良かったりします?」

「ええ、回せます」


!!
即答です。

「い、いいんだぁ♡ 良かった、聞いてみて。ありがとう。
では遠慮なく回させていただきます」


ふんっっっっ!

…回りません。
微動だにしません。

ちなみに一人ではなく、珍道中ペアで、全力で回そうとしております。

ふんっっっっっっ!

「…回らないんだけど」と夫。

いや、回す!
回せるはず!
こんなにメンテナンスされているのだから、絶対回せる!

ううんっっっっっっっ!!


う、動いた!
揺れたくらいかもしれないけれど、動いてる!

ええーいっっっっっ!


回し始めは、まるで動く気配すらなかったものが、一度動き出すと、なんともスムーズに回りだします。


こういった回転式の経蔵は、一回りさせることで経典全巻を読誦したのと同じ御利益が得られると言われています。

さすがにそのような図々しいことは考えもしませんが、それでもとても嬉しく、そして大変ありがたいものであります。

ここだけ入館料を支払う必要があり、何度か目でもあったので、夫は「どうする?」と聞いてきたくらい。
「入ることにして良かったね」
「うん、ほんとに」



…皆さん、この経蔵、回せます。




No.426

【鑁阿寺さんの経堂】

中御堂とも呼ばれる不動堂さんの左隣、とはいいますものの広めな通路を隔てての隣に、その出入口を御本堂に向けて建てられているのが、経堂となります。
正式には【一切経堂】。

寺伝では開基、足利義兼公の創建となっていますが、現在の経堂は、応永十四(1407)年に、関東管領足利満兼公により再建されたものといいます。

内部には【八角輪蔵(経棚)】があり、一切経二千余巻(黄檗版)
が収蔵されているといいます。

一切経堂とは一切経を安置するための堂で、一切経二千巻余(黄檗版)が収められています。
八角輪蔵は一切経堂の中央に、それはそれは大きな回転式の八角輪蔵で、見上げても上部までは見えないほどに大きなものであります。
各面に引き出しがあり、この中に一切経が収められているのかと、感慨深く見上げることしばし。

この経蔵を回転させると、それだけで経典全巻を読誦(どくじゅ)したのと同等の御利益が得られると信じられています。

…まぁ、回すことはできないのでありましょう。
そもそもがあまりにもこの輪蔵は大きくて、しかも回すための持ち手が短く、そういった物理的な点からも回せる気がいたしません。
ただ、触ることは禁止されておらず、写真撮影だけ禁止されています。

ちなみに、『黄檗版(おうばくばん)』というのは江戸時代につくられた木版大蔵経(だいぞうこう)であるといいます。

この経蔵の周りには足利幕府初代将軍【足利尊氏】公から十五代将軍【足利義昭】公に至る坐像がずらりと並んでおります。
この将軍像の見事な出来といったら♡

ただ、今回初代尊氏公と二代義詮公の坐像はどちらかに(たぶん京都であったよう、かすかに記憶しております)お出ましになられているとのことでお留守でありました。

実はこの一切経堂、いつも拝観できるわけではないといいます。

たしかに、何度も参拝させていただいておりますが、こちらに入れる時と入れない時があったような…。

今はこの一切経堂の御本尊さまが御開帳されているとのことで、入館させていただきました。
…そもそも、以前にもこちらに入らせていただいておりますが、その時も御本尊さまは御開帳されていたような、そうでなかったような、曖昧な記憶しかないおば(か)さんでございます。

No.425

>【鑁阿寺クラウドファンディング】

このたび鑁阿寺さんがクラウドファンディングをなさるとのこと、何ヶ所かにポスターが貼られ、チラシがあちこちに置かれておりました。

それは御本堂の左横にあります【不動堂】とのこと。

この『不動堂』の前に少し古びた立て看板の案内があり、それによりますと、

『【中御堂(不動堂)】

寺伝では鎌倉時代初期建久七(1196)年に開基足利義兼公の創建とあるが、安土桃山時代の文禄元(1592)年に生実御所国朝の再修になる。
御本尊不動明王像は往古千葉県成田山より勧請せるもので興教大師の作といわれ霊験あらたかな不動明王である。
本堂が明治四十一(1908)年【国宝】に指定されるまでは不動堂と廊下でつながっていて、四度加行の護摩法の道場として使用した堂宇である。

昭和四十四(1969)年信徒の浄財により半解体修理を実施した。

商売繁盛を祈念する堂であると同時に酉年守り本尊なり。

堂の右側に古井戸の跡あり
八百年前足利氏が居住した時に使用したといわれる。』

とあります。

この不動堂がこのたびクラウドファンディングの対象であるとのこと。

具体的にどこをどう修理補修されたいかは書かれておりませんでしたが、この御堂、板張りの壁でその隙間から中が見える…厳密には中は見えはしませんが、ただその隙間は穴であり、中とつながってしまっているものです。
通気性が良いといえばそういう言い方もできましょうが、今どきなかなかそういった御堂は見かけないようになってきております。

檀家さんを持たないお寺さんでございますので、熱心な信徒さんは多くおられるとはいえいえ、こうした浄財をお集めになるのはなかなか大変なことかと思います。

クラウドファンディングをなさるとのことを知り、私のスレでは微力ではありましょうがここに記させていただきました。

ちなみにクラウドファンディングの受付は今現在ではまだのようで、詳しくは鑁阿寺さんのホームページからご覧いただければと思います。


以前一ヶ月に一度のお縁日に偶然詣でた際、お寺さんに申し出て毎月御祈願をお願いした方の御祈願の法要が行われておりました。
この日だけという、いわば〝一見さん〟は受け付けておられないようでした。
事前に申し出て伺えば良いのかもしれませんがそのあたりは不明であります。

No.424

(続き)

【鑁阿寺】は、建久七(1197)年に【足利義兼】公によって建立された真言宗大日派の本山。山号は『金剛山』、院号は『仁王院』。
義兼公は僧名を【法華房鑁阿】といいます。

現在の大御堂(=御本堂・大日堂とも呼ばれる)は鎌倉期天福年間、左馬頭義氏(義兼公の子)の棟札があり、義氏の改修によるものといい、昭和八〜十年に文部省指導のもとに解体修理を実施したといいます。

約四万平方メートル(一万二千三百坪)に及ぶ敷地は、平安時代末期、八幡太郎『源義家』の子、【源義国】及び義国の第二子【義康(はじめて足利氏を称す)】の二代にわたって造営された足利氏の居館跡であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されています。

またこの事から『史跡足利氏宅跡』として、大正十年に国の史跡に指定されており、現在では『日本の名城百選』にも名を連ねています。

寺院としては、鎌倉時代初期、源姓足利氏二代目の【足利義兼】公が発心得度し、邸宅内に持仏堂を建てたのが始まりとされています。

義兼公は【義康】公の第三子で、【源頼朝】公の従兄弟に当たり、
しかも正室は【北条時政】の娘・【政子】の妹【時子】ということで、頼朝公の義兄弟でもありました。
晩年【高野山】に入り、出家して、この地に大日堂(現在の本堂)、鐘楼などを建立、又一門子弟の育英のために【足利学校】を興しました。

創建以来災火の厄に遭わず、歴代の勅願所となり、多くの古文書、宝物を所蔵しています。

義兼公の子【義氏】は堀の外(境外地)に『千手院』以下十二ヶ院を建て一山十二坊の大伽藍とし、建武三(1336)年、足利氏の氏寺を完成させました。

義兼公七世の孫が【足利尊氏】公に当たります。

明治維新と同時に塔中十二院は塔頭の『千手院』を除き上地させられています。


No.423

(続き)
この大イチョウ、樹高三十二メートル、
周囲十メートルの大木で、
地上三メートルのところから二本に分かれており、どちらも数本に分岐し、地上十二メートル付近で枝が伸び、壮大な樹形をなしています。


鑁阿寺の七不思議として、『蛭子さま』『あかずの井戸』『あかざの柱』などがあります。
この「大イチョウ」も実はその七不思議一つにあげられています。

大イチョウは、寺の言い伝えによると、開基足利義兼が手植えしたものとされています。
(最近の専門家の鑑定によると推定五百年とも)

この大イチョウの不思議とは。
「この大イチョウの根本を、息をつかずに三回まわると、樹上から白蛇が落ちてくる」
という、言い伝え。

いくら幸運を呼ぶといわれる白蛇であろうとも、蛇が樹上から落ちてくるなど、そんな恐ろしいことは試したくもありません。

そもそもこの大木の、十メートルともいわれる周りをを、無呼吸で三回まわれる自信もありません。

なお、江戸時代の頃には、『縁結びの神木』とされ、木の下で、『お見合い』が盛んに行われたとも言われています。


このイチョウの木のすぐそばにあるのが【多宝塔】。

足利義兼の創建と伝えられていますが、現在の建物は、江戸時代の元禄五(1692)年、徳川五代将軍綱吉の生母、桂昌院尼公の再建によるものといいます。

塔は、重層、銅板葺、頂上に九輪が立ち水煙がのっています。

水煙とは九輪の上にある火炎状の装飾金具で、火事の連想を避け、併せて水難をおさえる意味をもつといいます。
御本尊は、金剛界大日如来さまと勢至菩薩さま。
両側に十六羅漢が安置されているといいます。

実はこの多宝塔、毎月二十三日の午後から夕方にかけて、お堂を開けているといいます。
御本尊さまの勢至菩薩さまのお縁日であります。

勢至菩薩さまは『二十三夜』さまとも呼ばれるくらいであります。

午後からということでなかなかこの日に合わせて参拝することができずにいますが、参拝者には「お種銭」を授与してくださるといいます。
この種銭を持っていると、お小遣いに不自由しないという言い伝えがあるとのこと。

えっとぉ〜、今月は…うーん、土曜日かぁ。
夫と一緒だと、…どうかなぁ。

…来年になりますか。




No.422

(続き)

鑁阿寺さんの大銀杏は樹齢約六百五十年、周囲約十m。
見頃は例年十一月下旬、とのことで、見上げるほどの巨木に、圧倒的な量の黄金色の葉が壮麗で見事と、この木に会いに遠方からも訪れる方がおられるほどの木です。

今年は紅葉の時期が二週間ほど遅れていると言われていたので、先週行ければまさに黄金の木に会えたのでしょうが、先週はどうにも都合がつかず。

だいぶ葉を散らしたイチョウが冬の到来を告げていました。

それでも。
葉が散ったがゆえに、黄色い色合いがまばゆい絨毯になっていました。

イチョウの葉は油分が多いので水を弾きます。
風に乗って飛んできた葉が、手水鉢の壁面に風に乗って流れたままに貼り付いて、それはそれは見事なアレンジメントを成していました。
手水鉢のそばに落ちた葉には、大きな水滴が水晶の粒のように光り輝いています。

うーん♡
来てよかったぁ。


No.421

(続き)

鑁阿寺さんの御本堂は、鎌倉時代、建久七(1197)年に【足利義兼】公が持仏堂として建立したものを、その後【足利義氏】公が方五間の大堂を建立したものであったといいます。
しかしながら大治四(1129)年に落雷により焼失、尊氏公の父・【足利貞氏】公により正安元(1299)年に再建されたものであります。

当時中国の最新の寺院建築様式の一つであった禅宗様をいち早く取り入れたもので、密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重な文化財であるとのことから、平成二十五(2013)年に国宝指定となっています。

このどっしりとした古い御本堂が、見上げるだけでなんとも心落ち着かせてくれるのです。

木で造られた坂を登って御本堂の前で鰐口を鳴らし、お賽銭箱の前で手を合わせます。

中は薄暗く、目を凝らしてもご本尊さまどころか中の様子もあまり見ることができません。

うーん…。


こちらのご本尊様は胎蔵内大日如来さま。
源氏、足利氏の守り本尊であります。
地元では【大日さま】と親しみをこめて呼ばれています。
後方壇に弘法、興教の二大師、
開基鑁阿上人(足利義兼)像、
明治維新まで堀の外に祀ってあった塔頭十二支院の御本尊を安置しているのだといいます。

うーん。

お護摩をお願い申し上げるか、御祈願をお願い申し上げるかしか御本堂へ入ることはかなわないようです。


うーん。
そうした仏事を長きにわたってする事なく生きてきてしまった人物には、なんともハードルが高いのであります。
…何を以って?

こうしたことにはなにかしらの理由を必要とするのでしょう?
何を?
煩悩だらけなおばさん、いざ何かをお願い申し上げようとすると、それは一体なにを?となってしまうのです。

こうしてみると、煩悩の数は膨大だけれど、大したものではないということがあらためてわかる気がいたします。
…とはいえ煩悩は捨てられない、まことに愚かなおば(か)さんであります。



 (鑁阿寺さんのイチョウ)

No.420

【栃木県足利市鑁阿寺さん】

イチョウの美しい季節になると、鑁阿寺さんのイチョウが頭に浮かびます。
以前、何度か早く行きすぎてまだ青いイチョウを見上げたことがあり、今年は紅葉の時期が遅れているとのんきに構えて、ふと気づくと辺りのイチョウが葉を散らす頃となっていて、今日こそは行かなくてはと、足利市へと車を走らせました。

鑁阿寺さんのすぐそばにはお香のお店があり、そろそろ塗香も補充したいし、季節のお香も欲しいとも思っておりました。

足利の街並みは心弾みます。

山があり川があって。
伝説がそこここにあり、それが今なお自然に暮らしに溶け込んだ街、足利。
私は足利市のあちこちを訪ね歩くのが大好きなのです。

鑁阿寺さんの駐車場ではなく、あえて街中の駐車場に停めて、歩いて鑁阿寺さんに向かうのがお決まりです。

楼門が見えてくるとワクワク、どきどきします。
この楼門=山門は足利幕府十三代将軍【足利義輝】公のの再建したものといいます。
太鼓状になった橋の下には鯉や亀、そして鴨が泳ぎ、楼門には鳩。

…実は私、魚も亀も鳥も苦手なのです。
ことに鳩はそばに来ると声をあげてしまうくらい苦手というよりももはや嫌いなのですが、この楼門にはかなりの数の鳩がいるのです。

この楼門から入って真正面にそびえる御本堂を見るのが好きなのですが、その前にこの難関を突破せねばならない。
う〜っ。

今日はよりにもよって橋の上で鳩が私めがけてまっすぐ歩いて来たり、耳の横をすり抜けるように飛んで行ったりと、なかなかの洗礼を受けました。
く〜っ!

両側には仁王さまがおられるのですが、鳩除けのために網が張られていてその尊顔を拝することができません。
どうしてここにこんなに鳩がいるのでしょう。
やだなぁ、本当。

と、門をくぐる前に私だけの特別な修行があり、むしろ煩悩だらけな状態でいつもこの山門をくぐることとなっている私であります。

門をくぐってからも鳩はまだいるので、小走りにそこを通過して…。

ようやく落ち着いた気持ちで、御本堂を見上げながら参道を歩きます。

No.419

【十二月八日】

十二月八日といえば、八十二年前の昭和十六(1941)年、旧日本軍がハワイの真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入した日であることも決して忘れてはならないことでありましょう。

この後、日本がどういう軌跡をたどることになるか。
戦争で失うものはあまりにも大きすぎるということを、あらためて思う一日となります。


そして。

太宰治の著書に、まさに【十二月八日】というタイトルの短編小説があることはあまり知られてはいないのかも知れません。
まさにこの太平洋戦争の勃発の頃に執筆された、昭和十七(1942)年二月初出の小説です。

開戦のころの、一般的な庶民の家庭の反応が描かれたものですか、この頃はまだ検閲もさほど厳しくは無かったのか…いや、まさに今放映中のNHKの朝ドラで、当時の厳しい検閲の様子が生々しく描かれています。

たしかに、昭和十六年の十二月ハ日の、ラジオのニュウスを聞いた主婦の日記の一日だし、検閲に引っかかるほどの内容でもなかった、でしょうか。

あー、また太宰を読みふける日々が始まる気がいたします。


No.418

【成道会…の日】

いつも事あるごとに参拝させていただいているお寺さん二寺を普段どおりに参拝し、それで私の成道会。

一つ目のお寺さんでは法要、とは言っても個人の方の法事が営まれていました。
もう一つのいつもお参りさせていただきますお薬師さまのお寺さんでは、普段どおりに作務衣で飛びまわる副住職さまが笑顔でお迎えくださいました。

張り切って行こうと思っておりました桐生市の成道会は、毎年十二月の第一土曜日に決まっているようで、すでにつつがなく執り行われたようでありました。

…なんだかいかにも無宗教の自分に相応しい〝成道会〟だった気がいたします。

それでも。

一粒万倍日の大安、この日の大掃除箇所は浴室と玄関周り。
考えてみれば掃除が苦手で嫌いだからこそ、一粒の種を蒔いて万倍にする必要があるのであります。

そして。

こんな有難い日だからこそと、浄法寺さんの法華経のお写経をいたしました。
ええ、今回は清書、直書きです。

私の写させていただく箇所には〝方便〟という単語が二箇所あります。
法華経には『方便品(ほうべんぼん)』という章があるくらいですから、当然といえば当然です。

つまりあの〝嘘も方便〟、という常用句も仏教由来の言葉ということが、私のようなぼーっとしたおバカさんにも一目瞭然にわかります。

実に仏教由来の言葉は日常に満ちています。
…そう、たとえば昨日私が大掃除をした【玄関】も、元は仏教用語ですし、【愚痴】や【邪魔】、【どっこいしょ】・【ちくしょう】などというものまでが仏教由来の言葉だというのですから、知らずに使っている仏教由来の言葉というのは数知れないものでありましょう。


仕事先などで知らず知らずに口をついて出ていては、「歳だねぇ」と笑われていた〝どっこいしょ〟。

山岳修行する行者が唱える【六根清浄】が、時代を経て民間で「どっこいしょ」になったとされているようです。
六根とは人に備わる〝眼根〟・〝耳根〟・〝鼻根〟・〝舌根〟・〝身根〟・〝意根〟の六つので根。

この六つを清らかにすることを【六根清浄】といい、実はこの〝六根清浄〟、法華経に由来するといいます。

法華経から〝どっこいしょ〟、ですか…。
仏教は奥深くて、それでいてこんなに身近なものだったのですね。


これからは「どっこいしょ」が口をついて出たとき、愛おしく思える気がいたします。

No.417

(続き)

【臘八大摂心(ろうはつおおぜっしん)】または【臘八摂心(ろうはつせっしん)】の『摂心』には「心を集める」という意味があるといい、かつてお釈迦さまがなされたように心を集中し坐禅が行われるのだといいます。
お釈迦様の心に接するという意味で『接心』とも書く場合もあるのだといいます。

永平寺などの曹洞宗の寺では早朝から深夜まで、妙心寺などの臨済宗の寺では不眠不休で坐禅修行が行われるといいます。


…そ、そうですか。
さすが禅宗であります。


こうして挙げさせていただきました寺院におかれましても、とり立てて一般の参拝者に対しての行事を行うようなものではないようですが、旧桐生市と呼ばれるお寺さんは、桐生仏教会として、あの〝重伝建通り〟を含む〝本町通り〟と呼ばれるところをお坊さまたちが練り歩き、募金活動をされるのだとか。

…今日は、桐生市へ行ってみようかしら。
募金くらいなら私にもできますし。


その前にいつも参拝させていただいているお薬師さまに一年間のお礼を申し上げて。


No.416

【成道会】

目が覚めて。
(ああ、今日はお薬師さまのお縁日だ)
毎月八日になると必ずそう思う習慣がついています。

ん?
あ、十二月八日なんじゃん!


私が二月十五日生まれ、娘が四月八日生まれという話をすると、お坊さまの中には
「十二月八日生まれはいないんかい」
とおっしゃる方もおられるくらい、仏教において大切な日、【成道会】であります。

成道会は、涅槃会や灌仏会とともに三大法会のひとつであり、そのため前述したような会話となることもあるということになります。

成道(じょうどう)とは、お釈迦さまが悟りを開かれたことをいい表したことばで、お釈迦さまの成道に感謝をささげる法要を成道会といいます。
『おさとりの日』と親しみを込めての表現もあるようです。
また、十二月は旧暦で臘月(ろうづき)とも呼ばれることもあるので、成道会を、『臘八会』と呼ぶ宗派もあるといいます。

お釈迦さまは二十九歳で出家し、六年間の苦行の結果、『尼連禅河(にれんぜんが)』のほとり、『菩提樹下(ぼだいじゅげ)』で禅定(ぜんじょう)に入られ、魔を降伏(ごうぶく)し悟りを得られたとされています。

それが十二月ハ日、明の明星が輝くころで、お釈迦さま、三十五歳の時といいます。

まさに今くらいのとき、でありましょうか。


成道が得られなければ、多くの人々が救われることもなかったし、
もちろん仏の教えも説かれなかったこととなります。

十二月ハ日は仏の教えが生まれた日ということで、全国各地の寺院で、宗派を問わずお釈迦様の悟りを讃えて感謝する法要や修行、行事などが執り行われます。

一例をあげれば、東京浅草の浅草寺さんでは、貫首はじめ一山住職が総出仕して、本堂内陣に『成道図』を掲げ『法華経』の「安楽行品」を読誦する法要が行なわれるといいます。


曹洞宗や臨済宗などの禅宗では、十二月一日から八日までの八日間にわたり、【臘八大摂心(ろうはつおおぜっしん)】または【臘八摂心(ろうはつせっしん)】と呼ばれる『坐禅修行』が行われるといいます。

お釈迦様が菩提樹の下で、悟りを開かれる八日の未明までひたすら坐禅修行を行ったことにあやかってのことといいます。


(続きます)




No.415

(続き)

ビビりで気にしぃのおばさん、五日は何を〝しでかしていただろう〟と振り返ってみました。

五日は…あの『法華経』の写経に着手したのでした。
ただし、あの浄法寺さんからお預かりした写経用紙ではなく、市販の、罫線だけひかれた般若心経用の用紙に。

読むことができないため、一度書いてみたのです。

長い長い法華経のどこに当たっているかすらわからないため、音読されている法華経全文をあたるには膨大な手間がかかります。
これを全文、読むことはもちろんのこと、写した方、それも一度のみならず何度も写した方はたくさんおられますが、…私はあくまでもただの凡人以下の人間ですので、それをしようとまで思えない存在でありますので…。

少しだけ、〝案ずるより産むが易し〟と思うことができました。

旧字体が多くて、そのため画数が多かったり、思い込みで現在の字体で書きそうになったりいたしますが、それでも少しだけワクワクしながら書くことができました。

…まぁ、下に敷いた経文を字体まで真似て書き写すことに比べたら、自己流の悪筆の書写ですから、そういった意味で楽なことはたしかです。


一粒万倍日、写経を始め、大掃除を始めた私。
今日も写経をし、お風呂場の大掃除や風呂釜洗い、洗濯槽掃除をし。

…粒が増えていますかね?



お掃除は嫌いで苦手なので、この粒が増えることには少し気が重くなるおばさんでありました。

No.414

【一粒万倍日】

日本の暦には一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)をはじめ、『物事を始めると良い』とされる吉日が幾つかあります。

実はその『一粒万倍日』が、なんとこの十二月、五日から八日まで四日連続しているといいます。

【一粒万倍日】とは、『一粒の籾(もみ)が万倍にも実り、立派な稲穂になる』という意味があります。
そのため、一粒万倍日は、何事を始めるにも良い日とされています。

お金を増やしたい方や、会社や事業を大きく発展させたい方、幸せな結婚生活を長く続かせたい方などに、選ばれている吉日です。

そんなありがたい一粒万倍日、実はおおよそ六日に一回、一カ月に五日、一年間だと約六十日あるものであります。

しかしながら五日からの四日間連続は今年最初で最後、そうそうあることではないようです。


一粒万倍日は『何ごとを始めるのにもよい』とされる吉日です。
種が膨らむように、成長や発展につながるとされ、開業や入籍、習いごとを始める日にもぴったりといわれています。

・財布の新調、使い始め
・引越し
・結婚にまつわること
  プロポーズ、入籍、結納、結婚式、婚約指輪・結婚指輪の購入など、そのどれもが当てはまります。幸せが何倍にも育ち、末永く続くとされています。

・仕事始め、開店・開業
・宝くじの購入、投資

などなど。

私事で考えるに、まぁ、引っ越しは夫に却下されましたので、ほぼほぼないこと。

お財布は別段新調する機会でもないし、仕事を始めるにしてはまだ新たな職を探してもいない状態で。
起業することなどそれこそ考える能力すら無い。

宝くじは今まで一度も手にしたことがない珍道中ペア、ですので、そんな清水の舞台はありえない。


いやいや、そんなことより!

実はこの一粒万倍日、よいことだけでなく悪いことも膨れてしまうとされているため、注意も必要とされている日でもあるのです。

そう、ビビりなおばさん、一粒万倍日に気づくことなく過ごした二日間、〝一粒万倍日にしてはならないこと〟をしでかしていなかったかの方が心配になるのでありまして…。

『一粒万倍日にしてはいけないこと』とは
・人からお金やものを借りること
・親しい人との喧嘩
・良くない言動


…うーん。

昨日は一日日がな大掃除をしていました。
…これ、大掃除に追われることには繋がらない?
それは…嫌だなぁ。

No.413

(続き)

『目抜きの龍』という言葉があるといいます。
一番目立つところの龍のことで多くは向拝正面の龍を指すそうで、そういった意味で、この機神さまの社殿にはまさに向拝に一際大きな緑色の塗装の残る龍が一体と、その上にも少し小ぶりな龍が一体、頭の向きを変えて横たわるようにそこにいます。

鱗も細かに彫られ、手の立体感、爪の鋭さもリアルなものです。

…とはいえ覆屋の中の社殿であり、距離もあり、かつ小さな社殿であるため、肉眼ではそこまで見ることは叶いません。

社殿正面の両の柱、向拝柱は細やかな彫りが施され、さらにはその表面に等間隔で金の梅の花の枝が彫られています。

おばさん、写真を見ながら感嘆し続け、そのたびにその部分に目と何よりも心が釘付けになっています。
こうした建物は釘を一本も使っていない技法で造られているというのに、一体どこからの釘でありましょう。

象鼻はいかにも〝霊獣〟といった風貌で、私はあまり見たことがない彫りであります。
これもまた丁寧に細かに彫られたものであります。
またこの象鼻の形からも、この機神さまの社殿が造られた年代が、桐生天満宮さんの本殿・幣殿と同時期であったとされる裏づけともなりましょう。


胴羽目右脇は琴を弾く女性を中心に描かれた図案で、位が高い方でありましょう芭蕉扇を持つ者が側に控えています。
もしかしたら弁財天さま?、でしょうか。
琵琶ではないんですが、ね。

そのそばには将棋盤や碁盤のような盤のゲームに興じる子どもたちがいます。

その下の腰羽目は子供らが遊ぶ〝唐子遊び〟のようです。纏を持つ子供がいます。
その下は…霊獣?
〝白澤(はくたく)〟、でしょうか?
角々には建物に対しては少し大きめな龍が祀られ、角を護っています。


背面の胴羽目は松の木の下で踊りに興じる人々が彫られています。そのうちのお一方は…もしかして恵比寿さま?大黒天さま?
この下の腰羽目は太鼓を叩き踊る者、笛を吹き踊る者が描かれ、その周りには所狭しと踊る人たちが描かれています。

左の胴羽目には中央で巻物を広げる人物が彫られています。
この人物、男の方なのですが、ちょっと表情がリアル過ぎて恐い、かも…。
それをそばに寄って見ている子供らも描かれています。

腰羽目にはたくさんの人たちが群れるさまが描かれていました。

No.412

(続き)

訂正)前レスで
>この機神さまのお社の中に入れたりするのでは?
などと機神さまの社殿の素晴らしさに魅せられたおばさんが、勢いあまって書いておりますが、この〝お社〟はあくまでも>〝覆屋〟
である方の〝お社〟の方で、決して〝社殿〟の方ではないことをご承知おきください。

ちなみに。
この機神さまの社殿は、大きな御神輿をさらにもう少しだけ大きくしたくらいの大きさで、入ってもよいと言われたところで、それは全く不可能でしかない大きさなのであります。


それにしても。
この機神さまの社殿の彫刻は、日光東照宮に奉納されても全く遜色ないほどの素晴らしい出来栄えであると、私は思っております。

さもありましょう。
東照宮のあの素晴らしい彫刻を彫った彫工たちが、あるいはその弟子たちが、東照宮での仕事を終え、次なる職を求めていた、腕のある彫工がたくさんいた時代のことです。

そしてその彫工たちは、再びその腕を思い切り振るいたいと、…職を求める以前に、自分の持てる技をありったけ表現する場が欲しいと願っていたことでありましょうし。

そんな星野政八の情熱と持てるありったけの技術の全てが注がれたものだったのではないかと思うくらいのものです。

かつて、この機神さまの社殿が風雨に晒され朽ちていくのを怖れ、惜しんだ方が、安全な場所に移動し、なおかつ覆屋を建ててくださったことに感謝しかありません。

それでもその方がそうした覆屋を建ててくださったときにはすでにだいぶ時を経ていたと伺っておりますが、それでも、社殿の上の方は、社殿本体の屋根の庇もあることからか、見事な極彩色が残っています。
(どこかの時点で補修されたかどうかも不明ではありますが)
ハッと息を呑むほどに鮮やかな金色と赤の色がしっかりと残っているのです。

柱一つにしても贅を尽くした、といたという表現が適切であるかどうかはさておき、実に繊細な細やかな彫りが施され、しかもそのデザインも素晴らしいものであります。

正直、私の身長ですと見える範囲も限られており、
何よりあくまでもこの社殿は『栲幡千千姫命』さまのお住まい。
いくら覆屋とはいえ、失礼のないように覗くというのも、そうは許される行いではありませんでしょう。

でもきっと、今後桐生天満宮さんへ参拝すれば、きっと必ず機神さまのお社の周りをうろつくに違いない、私です。


No.411

(続き)

彫工【星野政八】の生まれた年は分かっていないといいます。
 
最初に名が残されたのが宝暦十一(1761)年、大滝村の『三峰神社』であるとされます。
桐生天満宮の彫工棟梁『関口文治郎』とは師と弟子の関係で、熱田神宮には共に名を連ねているといいます。

その後、独立して最初の仕事が、昭和村橡久保の『千賀戸神社』本殿といわれており、明和五(1768)年であるといいます。
独立はしても、小倉弥八や前原藤次郎のグループの作品にも名が出てくるといいます。

【桐生天満宮】の時は棟札には名前がないといい、客分扱いなのか蟇股の裏に墨書が残されているのだといいます。

最後に出てくるのは死後十年くらいたってから、二代目関口常八の出世作といわれている『野木神社』の棟札、息子の慶助と一緒に出てくるといいます。


桐生市の花輪村にあります天海上人の伝説の残る【善雄寺】に、政八・慶助のお墓ががあるといいます。
墓誌には政八の亡くなったのは文化八(1811)年十一月十九日と刻まれているといいます。

また、境内には松尾芭蕉の句碑があるのですが、政八は俳句を楽しんだらしく、句碑建立者の中に政八の名がみられるといいます。

句碑には
『此のあたり目に見ゆるもの皆涼し』と刻まれています。


そんな政八が施したという機神神社さん。
覆屋が結構大きな建物で、実は写真で撮って拡大して見る方がよりその素晴らしさを味わうことができるのです。

…⁈

もしや…。

このたび開催される桐生市の案内人の会のイベントでは、この機神さまのお社の中に入れたりするのでは?


く〜〜〜。


No.410

【桐生天満宮の境内社・機神神社】

先日の朔日詣り。
雲一つない天気に恵まれ、『国指定重要文化財』の『附(つけたり)』として指定された機神神社さんの社殿を時間をかけて拝観してまいりました。

…実は、今度の土曜日、桐生案内人の会さんの主催するイベントがあるようなのですが、気づくのが遅くて申し込むことさえできませんでした。
申し込み初日の数時間で募集人数を超えてしまい、すでにキャンセル待ちが八人おられるとのこと。
この桐生案内人の会さんのイベントは人気が高くて、今までも一度も申し込むことができませんでした。

この国指定重要文化財指定を受けてのこのイベントでしょうから、きっとこの機神神社さんの詳しい解説があるのだろうなぁ…。

お聞きしたかったなぁ…。



この、附として指定された『機神さま』、決して大きくはない社殿ではありますが、実に見事な繊細な彫刻の施されたものでありました。
この機神さまは、社殿と思っておりました建物が実は覆屋となっておりますこと、偶然お会いした桐生案内人の会の方に教えていただき知ったものでありました。


寛政四(1793)年完成の、彩色や彫刻による装飾に富んだ社殿で、もとは天満宮さんの境内にあったものではなかったようです。
たしかその時、あまりな見事な彫刻であるため、朽ちていくことを惜しんだ方が、天満宮さんの境内に移動して覆屋をかけたと、案内人の方がおっしゃっておられたよう記憶しております。

桐生天満宮本殿・幣殿と同時期に制作された建物で、彫刻は天満宮社殿にも携わった【星野政ハ】とされています。

御祭神は【栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)】さまであります。
兄弟姉妹神さまは
【八意思兼神】さま。
【少彦名命】さま。
【三穂津姫命】(=大物主神あるいは大国主神さまの妻)。

配偶者神さまは
【天忍穂耳尊】さま。
天照大御神さまの子であり、神武天皇の高祖父であります。

お子さまは
【天火明命】さま。
【瓊瓊杵命】さま。
であります。


【古事記】では
【萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)】と呼ばれ、
萬幡;『多くの布』
豊;『多くの』
秋津;『蜻蛉の羽のように薄い上質なもの』
師;『技師』『織女』
の意。

織物の神さまであり、安産・子宝の御神徳があるとされる女神さまであります。

No.409

【浄法寺さんの石塔】

『聖徳太子の墓』と伝えられている群馬県藤岡市の浄法寺さんの『聖徳太子供養塔』が、8世紀後半に造られた石塔とみられることが分かったといいます。
先日お邪魔させていただいた際に、ご住職さまがお話しされていた調査の結果が出たということです。

石造物研究者さんと藤岡市文化財保護課が、共同研究し、論文『浄土院浄法寺(緑野寺)聖徳太子供養塔の基礎的研究~古代石製層塔の新事例』というタイトルで発表されたといいます。

『…浄法寺境内にある聖徳太子供養塔は、18世紀に作成された【上野國志】に『境内に太子御塔あり、五輪塔なり、其石甚だ古し』と記載されているが、造られた年代は不明だった。

供養塔は高さ約2・6メートル。円柱状の七つの石が、径の小さい軸部と大きい笠部とで交互に積み重ねるように構成されている。

主に凝灰岩でできており、造立後は、戦国時代の戦乱によって破壊されるなど、一部は改変されていると見られている。
ただ、部材の形状や大きさ、石の風化度合いなどから、一番下とその上にある石が造立時のもので、改変は加えられていないと推定した。

古代、中世の塔と比較し、笠部の形状や大きさ、軸部と笠部の幅の比率が古代のものと極めて似ていることから、古代に造られた蓋然(がいぜん)性が高いと判断。

さらに、造立年代が推定可能な多胡碑(711年ごろ)、山上多重塔(801年)などとの類似点から、8世紀後半ごろと推定したという。』

(朝日新聞の記事より抜粋)

今後の課題としては、
「下部が地中に埋まっている可能性もあり、全容を解明するには発掘調査を検討する必要がある」
と話しておられるといいます。

国内で確認されている古代(奈良~平安時代)の石塔はわずか十数例だけだといいます。
この石塔は、
『伝法灌頂(でんぽうかんじょう)(師弟間の法脈の継承などの儀式)』や祈願の場として重要な役目があったと考えられるとされ、また、写経などに携わる人びとの拠り所として造営された可能性もあるといいます。

聖徳太子伝説はとにかくとして、この石塔が歴史的に大変貴重なものであることは、確かなことであります。


あのタイミングで浄法寺さんへ参拝できたこと、なんだかとても光栄に思えて、嬉しくなったおばさんでありました。

No.408

(続き)

『法華経』は、正式には『妙法蓮華経』というもののようです。
全体が二十八品(二十八章)に分かれ、文字数にすると六万九千三百八十四文字あるといいます。
その教えの内容から前半の十四章を「迹門」(しゃくもん)、後半の十四章を「本門」(ほんもん)というそうです。

…もう、ですね、これを知った時点で、自分が書き写す部分がどこであるのかを探し出すのは結構大変なことだと気づきました。
お坊さまにお聞きすれば、「ああ、これは…」と、お答えいただけることなのかもしれませんが、さすがにそんな一部分だけを知って、なんの意味があるのかと気づきました。

般若心経もそうですが、実はお経ってお釈迦さまの御教えでありますが、それだけではないことに気づくのです。
わかりやすい言葉を使って、その教えを説くため、(…わかりやすい言葉を使っているはずですが、内容が深くて大いなるものであるため、毎日お唱えし、さらには写経をしている般若心経でさえ、私には相変わらずさっぱりわからないままですが)
関心を持てるよう、話しかける言葉であり、詩でもあり、物語でもあるよう感じるのです。

門前の小僧ですらない、ただの、しかも信心深くもないおばさんが、超わかったような口をきくと、バチが当たりそうですが、そう感じたのですから、それはそれで私の感じ方の範疇なのでお許しいただいて(…誰に?)

何もこ難しいことは一切考えず、法華経の一部分を写経する覚悟はできました。

ただ、悪筆というか、文字のクセというか、書写を授業でしかやっていないため、墨や筆に慣れていないこととか、ああじゃないこうじゃないの、言い訳はあるにはあるんですが、ね。

珍道中ペアの夫に言われました。
「そんなふうに難しく考えなくていいんだと思うよ。そう和尚さんもおっしゃっていたじゃない。
毛筆でなくても、ペンでも、なんなら鉛筆でもいいって。
素直に、ただ丁寧に写せばいいんじゃない」


…たまぁに、深い言葉を宣うわが心の師。(心の中でたまに〝師〟だなぁ、と思うだけで、敬うような態度は一切ない、悪妻でありますが)
 
大掃除も着々と進んでいます。
年賀状も書き終えました。


とりあえず、一文字書き写してみましょう。

No.407

(続き)

ではなぜ法華経はうつせない?

まあ、今回の最初のためらいは、そのあまりにも壮大な写経事業の一環に私などが関わることへの畏れがあってのこと。
皆さんの仕上げた写経があまりにも完璧なもので、その完成度の高さに正直ビビったことに端を発してはいます。

でも、たとえば文字の汚さだけからの躊躇いであれば、努力して、私に出来る精一杯で、一文字一文字、下にうつし出される文字一つ一つと同じように写せばいいだけのこと。

今はそこまでは歩を進めています。

今の躊躇いは?

…おそらく法華経を全く知らないこと。

耳にしたことがあっても、それが法華経なのだと知って聞いてはいないから、私にしたら聞いたことがない、となる。

その文字の羅列を見て
(私の写すこの紙一枚分のお経にはどんな意味があるのだろう。)
(何を伝えている、伝えようとしている一部なのだろう)
…などと考えてしまい、ネットを以って調べてみたり、ただただいたずらに時が過ぎていくばかり、なのです。


…じゃあ、『般若心経』は内容を理解して写しているのか?
そう問われたら、当然ながら答えは「NO」。
じゃあ同じじゃない、とおっしゃるかもしれません。

しかしながら。
般若心経二百七十六文字、全てを読んでも、書き写しても、どんな意味かという解説を読んでも、その、御仏…お釈迦さまが本当に伝えようとしておられることは、『私には理解できない』ということが、…『少なくとも今は真に理解することができない』ということがわかって。
『それに近づくべく、写すのだ』ということまで理解して、そんな状況でいま写経しているのが現状、なのだと思います。


ただ。
そもそもが般若心経の初めての写経のとき、まさにただ字面を追って、一字一句の間違いがないよう、写しとっただけだったのです。
『写経というものを体験してみよう』
でしたから。


「難しいことはないです。一字一句間違えずに写すだけですから」
と浄法寺さんのご住職さま。

そう、まさにそれ。
素直に、与えられたも一枚の、『法華経の一部を写しとること』が、私の使命なのですから。

今回の写経の意味は…法華経の一部を書き写して、それを順番に貼り合わせて一つの【法華経】の巻き物とすること、なのですから。

読まなくても、読めなくても、意味がわからなくとも、一字一句違わず書き写すこと。

No.406

【法華経】

「いきなんなら一日一文字でもいいんですよ」
と、浄法寺さんのご住職さまがおっしゃっていました法華経のお写経、いまだにその一文字すら手がけていないおば(か)さん。


どうやら私は理屈っぽいところがあるのかもしれない、のです。

普段はそれを自覚していて、あえて封印しているところがあります。

子どもの頃、私はよく「なぜ?」「どうして?」「どういう意味?」「どうなってこうなる?」が気になる子どもで、よく周りの大人を困らせていたのは、今も記憶しています。

それで、なのでしょう。
母に、
「お前は一言多いからとにかく黙ってろ」
「お前は屁理屈ばかり言って嫌われるから、人の前では何も言うな」
と、ことあるごとに言われてきたことが刷り込まれてのことでもありましょう。
母の前では話し出しただけで必ず話を折られていました。

そんな繰り返しの中、いつしかそれが私の処世術となってしまっていました。

…でも封印しただけ、ですからね。

今、むしろそういった疑問は大切にされる時代になっています。
むしろ「エビデンスは?」
などと聞かれる時代です。


写経って、その字面からいっても『お経を写す』こと。
何も難しいことはなくて、ただ心を込めて一文字一文字書き写せばいい、…それだけのことなんです。

もちろん、内容を理解したうえで写経されておられる方も多くおられます。

でも私は般若心経を読んでも聞いても書いても、その真の真意を理解してはいない。
知るために書き写す、のかもしれません。
いや、今はもはや知るため、でもないな。
それを理解することは悟りでもあろうことを理解したので。

御仏の言葉に触れていたくて、写経をしている、というのが一番近いのかもしれません。

ではなぜ法華経はうつせない?

…おそらく法華経を全く知らないから。
耳にしたことがあっても、それが法華経なのだと知って聞いてはいないから、私にしたら一度も聞いたことがない、となる。


(私の写すこの紙一枚分のお経にはどんな意味があるのだろう。)
(何を伝えている、伝えようとしている一部なのだろう)
…などと考えてしまい、ネットを以って調べてみたり、ただただいたずらに時が過ぎていくばかり、なのです。

No.405

【朔日参り】・【おついたち参り】

月の満ち欠けによる「月立ち」が転じて「ついたち」と呼ぶといいます。
お正月の元旦をはじめとして毎月初めの一日(=朔日)に神社に参拝することを【朔日参り】・【おついたちまいり】と呼び、神恩感謝の真心を捧げ、
無事に過ごせた一か月への感謝と、
新しい月の無病息災・家内安全・生業繁栄・商売繁盛などを祈念し、益々大神様の御加護を頂けるようにお参りする古式ゆかしい習わしであるといいます。

月の満ち欠けをもとにした太陰暦に従えば、一日はまさに朔日、新月の日となり、十五日は満月の日となります。
それなので、地域によって、あるいは人によっては現代の暦の一日、ではなくて、新月の日、まさに朔日に神社に詣でるということもあるようです。

とはいえ、参拝者に向けて月次祭の行事を開催されるような神社さんでは、現在の暦の一日、十五日に月次祭を執り行われているところがほとんどです。

…うーん。

月次祭に参列したくなってしまった。


うーん。

No.404

今日は一日。

師走の朔日となり、次の朔日は元旦、新たな年を迎えております。

師走は『御礼参りの月』とされ、師走の神仏の縁日は特別視されるとも言われます。

と、いうわけでいつもの朔日参り、というよりもやはり今年一年お護りいただきましたお礼を申し上げますため、毎月の朔日に伺っております神社さんの他、今年の初詣に参拝させていただきました神社さんへもお参りしてまいりました。

本日この日まで無事に過ごせましたことを御礼申し上げ、
師走と言われる忙しい月にも事故無く怪我なく、心身共に健康で過ごせますよう御祈願申し上げました。

いつも伺う神社さんへの朔日参り。
それから【桐生天満宮】さん。
そして【貴舩神社】さんへと参拝してまいりました。

いずれの神社さんも一般の参拝者に対して、とりたてて月次祭としての行事を設けておられるわけではなく、ただただ信心深い方々がお詣りをされているだけ、ではありますが、桐生天満宮さんにしても貴舩神社さんにしても、県外ナンバーの車が何台も停まっておりました。

これが〝信仰心〟なのだろうなぁ。


ことに桐生天満宮さんは今まさに紅葉の美しい時期を迎えており、
よく晴れた青空の下、御神木の黄金色のイチョウの葉が散って、まるで境内にじゅうたんでも敷き詰めたかのようでありました。

うーん♡
神さまからのご褒美のようです。(? 一体なんのご褒美をいただけるというのだ?そんなご褒美をいただけるような行いは何一つしてはいないであろうに)


ご褒美では無いにしろ、良い日であります。
これはお恵みであることだけは確かです。


さあ、今日はどこのお掃除をしましょう?
頑張らなくては神さまに申し訳ありません。

No.403

【中尊寺の…】

ご住職さまのお話を絞るように思い出し、あれこれ張り切って調べて、ずっと綴っておりました群馬県藤岡市の【浄法寺】さんについて、いったん(えっ?)ここで終わりにします。

話の収拾が付きづらくなってしまってもおり、ここで、同じく天台宗のお寺さんであります中尊寺さんの、大変嬉しいニュースを一つ。


『建立九百年 特別展【中尊寺金色堂】』が、

【東京国立博物館 本館】にて、
2024年1月23日(火)から4月14日(日)まで開催されるのです。


岩手県平泉の中尊寺金色堂は、天治元年(1124年)、藤原清衡(ふじわらのきよひら)によって建立された、東北地方現存最古の建造物です。

そう、まさに来年が建立から九百年!

この建立九百年を記念して開催される特別展【中尊寺金色堂】は、
金色堂中央壇に安置される国宝の仏像十一体をすべて展示するといいます。
これら、《阿弥陀如来坐像》、《増長天立像》や《持国天立像》など十一体の仏像がそろって寺外で公開されるのは、初の機会となるようです。

きゃー♡

このニュースを初めて見たとき、まさに小躍りするほど嬉しく、胸がときめいた私。

この金色堂の御仏像、私にとって日暮の門ならぬ日暮の御仏像、なのですから♡

それが東北まで出向かなくとも東京でお会いできる♡

あー嬉しい♡

実はまたかれこれひと月あるいは二月前くらいからこの情報を手に入れた私、早速その胸のときめきを夫に伝えました。

ところが!

「ふーん」
へっ?
「金色堂の仏像?そうなんだぁ」
はあぁん?!💢
…なんでしょうその軽い物言い。

私「えっ、行かないの?」
夫「えっ、どうして?」

きーっ!!💢


「…一人で行きます!」
これはよく一昔前のドラマとかで(ふた昔?だいぶ以前?)
「実家に帰らせていただきます」
と同じくらいの熱量でありました。

さらに追い討ちをかけるように夫は
「えっ、行くなら一緒に行くよ」
私「結構ですっ!」

私の怒りがおさまるまで書くことができなかったくらいの発言です。

まあ、今となっては価値観の相違で、夫にとっては〝中尊寺の御仏像は一度見たからいいや〟というレベルに過ぎず、私の恋心とはかけ離れたものであったに過ぎないことは理解したのですがね。

そうだ!

チケット買わなくては♡



No.402

(続き)

この伝教大師さまの尊像、建立から三十年が経過して、塗装面が劣化しかろうじて表面の塗膜が付いている状態となっており、黒い線状の汚れが多数付着して、お大師さまが涙を流しているかのように見えていたといいます。

お大師さまの一千二百年の大遠忌を迎えるにあたり、令和三(2021)年、この尊像の保守メンテナンスと、相輪橖(そうりんとう)の修復を実施したといいます。

この『相輪橖』。
『相輪橖』とは五重塔や多宝塔などの一番上にある最も重要な部分「相輪」だけを塔のように建てたものですが、こちらの相輪橖は伝教大師さまの発願によるもので、全国に六カ所、法華経納経の所在地に立てられたものといい、地域の人々の平穏無事や五穀豊穣を祈られました。
この相輪橖は弘仁八(817)年に建てられ、全国六ヶ所の宝塔の中で、伝教大師様がご存命のうちに完成したのは浄法寺と大慈寺(栃木県)の二カ寺だけであったといいます。

現在のこの浄法寺さんの相輪橖は青銅製で高さは5.3m。
寛文十二(1672)年に改造され(一説では再建)、文政十二(1829)年に補修されたものといいます。
改造とありますが、かなりの大掛かりなものであったのでしょう、それが無ければ藤岡市の指定重要文化財程度のものではないでしょうから。
ゆえに再建という表現をするものがあるのだと思われます。

表面には細かな文字で寄進者の名前が刻んであるのが、かろうじて見てとれます(これはあくまでも距離的なものです)。
今回蓮弁の破損や剥落があり、これを修理、あるいは新調し、高所作業車を用いて相輪橖頂頭に取り付けたといいます。


そして。
道路を隔てておりますが、八功徳池(はっくどくいけ)・弁天堂、独鈷水(とっこすい)などが残されています。
この八功徳池はかつての浄法寺さんの中庭の池であったといい、背景に広がる山並みを比叡山に見立て、琵琶湖を模して作られたものだといい、弁天堂は竹生島から勧請した弁財天さまが祀られているといいます。
この弁天堂の彫りがハッとするほど立体的でリアルで、鱗の一つ一つ、尖った爪の内側に至るまでリアルに彫られております。
名のある方が彫られたかどうかまではわかりませんが、とびきり腕の良い彫り師さんの手によるものであることは間違いありません。

独鈷水はお大師さまが独鈷という仏具で掘ったと伝えられる井戸であります。

No.401

(続き)

…まだ続く?

…そう思われますよね、すみません。
チャットGPTに頼めば、この半分くらいで済んだかもしれませんよね。
あれもこれもと思うと、あ、書き忘れていた、と書き足し書き足し、さらにはまだまだたくさん漏れがありました。
まぁ、それは法華経のお写経を終えて納経に伺った際に書き足すこととして。

あの、金色に光り輝く伝教大師さまの尊像についてが書かれておりません。
…これは次回、というわけにはいきません。
なぜならば、この尊像のポスターを見ながら、桐生市正圓寺さんのご住職さまに、こちらの浄法寺さんへの参拝をとお勧めいただいたわけですし、このお寺の現在のシンボルでもあり、ひいては群馬県の天台宗のシンボルと言っても過言では無い存在です。


この尊像、平成二(1990)年に群馬教区の二百五十六寺が比叡山開創千二百年記念に建立を発案し、
京都・『三十三間堂』の『十一面千手観音菩薩像』を修復された仏師の『西村公朝』師が制作されたものであるといいます。
西村師は仏師と書かせていただいておりますが、天台宗僧侶で京都愛宕念仏寺のご住職であり、東京芸術大学名誉教授でもあります。

西村師は、この尊像を造るにあたり、群馬県教区の〝お大師さまの巡錫のお姿〟という希望にたいそうお悩みになられたといいます。
当時の天台座主にご相談されたところ、座主自ら、旅姿をされて西村師の前に現れ、
「このお姿で、胸前に法華経を下げて、東国へ向かったであろう」と付言なさったといいます。

西村師は境内全体を極楽浄土に見立てて場所を決め、伝教大師像の前にある左右の石は『梵天』と『帝釈天』を表すなど、一つ一つに意味が込められているといいます。
(ちなみにどの石が梵天で、帝釈天なのかはさっぱりわからなかった凡人でありました。
再拝の折にそういった目でもう一度見てみたいと思います)

像高4.5m(地上高8.5m)のブロンズ像。
今なお煌めく金色のお姿であります。

「この伝教大師さまの尊像は、右手には錫杖でなく、歩行を補助する弾力性のある若木の杖。
左手は法華経を収めた包みを持ち、その上には念持仏のお薬師さまを入れた巾着があります。
足元も草鞋ではなく、遣唐使時代に唐から持ち帰った履き物を履いています」
とご住職さま。




No.400

(続き)

ご住職さまはお出かけになると言いながら、実に二時間の時間をおかけくださり、お話くださったり、お経をお読みくださったり。
お願いした御朱印もお書きくださっていますし、お焼香の香もご準備くださっています。

ありがたいことです。
そうまさに〝有難い〟こと。

決して時に追われ焦ったりなさらずに、私どもとの一期一会を大切にしてくださいました。

これが修行された方、ということなのでしょう。

かつて緑野と呼ばれた地、緑野寺と呼ばれた寺をお護りになるご住職さま。
その苗字が〝緑野〟さんであることを知った時の衝撃といったらありませんでした。

護るべくしてここにおられる方、なのでありましょう。

まさにこの地をずっとずっと、それこそ道忠さまがここを建てた頃から護ってこられた道筋を見た気がいたしました。

凄いなぁ。



…。

えっ?
お写経の進み具合、ですか?
それはもう、


…一文字も書けていません。

前にすると緊張して、やれ(やはり筆で書くべきだろうが、私では到底、一文字そのままに書き写す技量がないよなぁ)とか、
(筆ペンでは後々インクが劣化してしまうのではなかろうか?)とか。
(それならばペンが良いだろうか?そのままの形、字体ごと書き写すということであれば、ペンの方がまだ書きやすい気がする。そうしたら黒いインクで書けば良いのだろうが、それにはペンを買って来なければ…)とか。

ええ、まさに千々に乱れる私の心。
つまりはこれはまだ書くべき時ではないのであろうと、勝手な解釈をして…。

ちなみにこの〝巻〟はまだ始めたばかりとのことで、あと百人弱の方がこの後の写経をされるので、今年中に、とかいう時間的な制約は無いので、そこだけは安心していられるのです。



うーん。

…涅槃会までには仕上げることといたしましょうか。

No.399

(続き)

「墨と筆で書くのが一般的ではありますが、それは別に構いませんので。
筆ペンで書いていただいても、万年筆でもボールペンでも、なんなら鉛筆でもかまわないので、気楽に参加していただければと皆さんにお話ししていますので」

その納められたお写経が一字一句同じように写しとっていることに衝撃を受けて、そこまではよく見ていなかったのですが、言われてみて落ちついて思い出せば、たしかに筆と墨で書かれたものは無かったかもしれません。
ペンで書かれたものもあったよう記憶しております。

なるほど…。
ようやくここへきてどういうものであるか、全貌が見え、(おいっ?)自分がどうあるべきかが見えてきました(ええぇっ?)。

「一日で全てを写す必要もありません。一日一文字であっても良いのです」

うんうん。

要するに、…頑張る!



さて。
私は今日までの日々に、どれだけ法華経を写したでしょうか。


No.398

(続き)

すでに気が遠くなりかけているわりに、それを聞いたおばさんの口をついて出た言葉は
「私もお写経させていただくことはできますか?」

「ああ、それは誰でも参加いただいておりますので。…見てみますか?それでは用意してまいりましょう」
「あちらのお部屋に移動して掛けてお待ちください。すぐにお持ちします」

…それでも。
この時はまだ、般若心経ではありますもののすでに何十枚か写経しており、自分でもなんとかなるのではないかと少し軽い気持ちでいたのが、正直なところでありました。

…しかしながら。

ご住職さまがお持ちになったその写経のセットを見て、さらにはすでに奉納された写経を見て、とんでもないことを申し出てしまったと、その重みにビビってしまいました。
どのお写経も、一文字一文字、そっくりそのまま写しとって書かれているのです。
一切、自分のクセなどない、まさにそのままを写しとる写経であったのです。

ひえぇぇぇ〜っ!

ご住職も何か感じるところがあるのか、サッサと渡そうと準備するでなく、何人分かの仕上がった写経を見せたり、手本を見せたりするにとどめておられます。
きっとここで辞退された方もおられたのでしょう。
それと、私どもが群馬県内とはいえ遠方から来ていることもあったのでしょうか。

そう、この写経事業、手分けして一つのお経を写しとり、一巻の巻き物とするため、お手本にしろ写経した和紙にしろ、一枚たりとも欠けては全てが無駄になってしまうという、地道ながらも大事業であるのですから。
製本するためお手本も折ったりされてもいけないし、普通のお写経に比べ制約がかなりあるものとなっているのです。

う、う〜ん…。

(引くなら今だ)
内心の、そんなつぶやきが自分自身を揺らしております。


う〜ん。



「お預けください」


…お、おい!


何が不安って、それは書き終えたものを無事お届けするまでの責任とかでもなく、…たとえば決して折らないとかいう制約も含め、書き終えこちらに再び届けるとか、…そういったものではなくて…。

この、皆さんがされたように、一字一句をずれることなく写すことが自分にはできるのか?…という全くの技術面の問題で。


ご住職さまは意を決したように(そう見えただけです 笑)一部(、)分の法華経を丁寧に愛おしそうに、紙袋に入れてくださいました。

No.397

(続き)

御内陣の隣の間の、正面の壁には備え付けのように見える、初めて見るような大きな御厨子がありました。
その前にはちょうど使いやすい高さに棚が備え付けてあり、その前に白い箱がいくつか置かれています。
よほど不思議そうに見ていたのでしょう、
「こちらにはお不動さまをお祀りしています」

と、なるとこちらのお不動さまは秘仏、ということなのだろうか?
そんな私の内心のつぶやきにはお気づきにはならず、その白い箱に手をかけて
「この本堂の隣に、お大師さまをお祀りした大師殿がありまして、毎日勤行しております。
その裏手に御廟堂があって、五十年に一度御開帳しているのですが、今度の御開帳に法華経を納経したいとしばらく前から準備をしてきているのです。
道忠さまのように二千部などとはまいりませんが、できたら百巻を目標に、ご賛同いただいた方に一行十七文字二十四行のお写経をしていただいて、それでもそれがもう百巻分となってはいるのですが。

コロナ禍となってしまい、それでも今はもう五類に移行しておりますが、なかなか御開帳という形で人を集めるにはまだ難しいかと…」

法華経のお写経、でしたか。

開けられた箱には経本が何段かに束ねられ、ちょうどあの〝大般若経転読〟の時に用意される大般若経の折本の束のように綺麗にまとめられていました。
「これはお手本の方なんですが」
(お手本?)

それをまた綺麗にしまわれたあと、今度は少し茶色みがかったもう少し大きな箱をお開けになられました。
大きな太い巻物が出てまいりました。
こちらも綺麗に装丁されたものであります。
「これがお写経いただいたもので。
ただこの封を解いてしまうと広がってしまい再び封をすることができなくなってしまうので、開いてお見せすることはできなくて申し訳ないのですが…」

お手本の上に写経用の和紙を置いて書き写し、お手本はお手本で折本として装丁し、写経されたものは薄紙の和紙であるため、順番通りに並べて糊で繋ぎ合わせて巻き物として装丁し、御開帳の際に御廟堂に奉納される、ということだそうです。

法華経を順番に一枚ずつ写経して、全部で二百十三枚、これで一つの巻き物になるのです。
「中にはお一人で一巻お書きになられた方もおられます」


うわぁ、すでに気が遠くなってしまう心地ですが…。

No.396

(続き)

昨年春に寺から修復を依頼された地蔵菩薩像(像の高さ約1メートル)は右手が取れた状態で、体の欠損部分からは、表面の黒く変色した塗膜の下にグレー色の下地、その下に金箔が確認されたといいます。

一方、頭部については金箔を施した形跡は無く、木地の上に和紙が貼られていたといい、江戸期に修復された跡とみられるとのこと。

体は江戸時代に作られたものだが、何らかの理由で平安期の頭部と組み合わせられたとみることができるといいます。

頭部の制作年代を判定した群馬県立女子大学美学美術史学科の塩澤寛樹教授は、「平安時代後期に制作された仏像の特徴である穏やかな顔立ちで、繊細な彫りが、その時代の雰囲気を感じさせる」としているとのこと。

実際にこの仏像の修理にあたられた守谷仏師は、
「800~900年前に制作され、長年塗り込められていたお像が、再び世に出現なさる瞬間に出会えたことを、仏師としてこの上なく幸せに思います」と話されたといいます。

緑野智彦ご住職は、「長い歴史の中で多くの方に守られてきた。ありがたさをしみじみと感じます」と。


実はこの日たまたま二十四日。
「今日はお地蔵さまのお縁日ですので、そういったご縁も感じて実に感慨深いです」
と私が申し上げましたところ、
ご住職はにこっと微笑まれ
「全てご縁あってのことですね」とおっしゃられました。





No.395

(続き)

その後、浄法寺は関東地方の天台宗の拠点の1つとして寺運も隆盛しましたが、戦国時代の天文二十一(1552)年、上杉・北条の戦に巻き込まれ、侵攻の兵火で多くの堂宇、記録、寺宝がことごとく焼き尽くされてしまいます。
さらには寺領も北条氏に没収されてしまい衰微してしまいます。
弘治二(1556)年に舜祐和尚により再興が図られました。

しかしながらなかなか本堂の建造に至らず、仮の本堂として建てられたのが現在の庫裏だとご住職さまがおっしゃられています。
現在の本堂はそれから二百五十年も経った文化元(1804)年に建造されたものとなっています。
この御本堂、江戸の名工といわれ、谷中天王寺に五重塔を造った『八田清兵衛』の手によるものとのこと。
八田清兵衛は、幸田露伴の小説『五重塔』の大工十兵衛のモデルといわれる人物です。

古い御本堂ですが、よく掃き清められた実に美しい御本堂でありました。
欄間彫刻もかなり腕の良い彫り師の手によるものと思われます。
二つあるうちの一つは【楊香(ようきょう)】。
父親と山に行ったところ、虎に襲われてしまい、楊香は(自分が食べられますように)と祈ります。
すると虎は逃げていってしまった、というお話です。
「まぁ、これは中国の古いお話で、親孝行を伝え教える教材的な役割でよくお寺などに施されるものですがね」
とご住職。

「実はこの寺は未だに新たな発見がありまして。
それがお地蔵さまの像なのですが…。
地震で手が取れてしまい、それを直そうと修理を依頼したんです。
この、お地蔵さまなのですが…どうぞすぐそばまでお越しになってご覧ください」

「修理を依頼して、修復の際に表面の塗膜を除去したところ、実は平安期作のものであることがわかったんです。
安置された場所が、阿弥陀如来さまの像よりも真ん中にあるということから、何かいわれのあるお地蔵さまなのだろうと思ってはいたのです。
でもそうした言い伝えは何もなく、先代からも何も言われてはいなかったんです」
「光を当てるとよく見えますので、よくご覧になってください」

それはそれは穏やかな表情のお顔をなされています。


No.394

(続き)

話を道忠禅師に戻します。

道忠は武蔵国出身とも伝わり、鑑真の高弟にして大乗的見地に立ち民衆を教化する菩薩行を重んじた人物でした。

延暦十六(797)年、最澄の写経事業を道忠が助け、そこに道忠の弟子・法鏡行者(=第二代天台座主・円澄)も加わります。
この際道忠は二千巻を写して送り届けています。

以来、西国の比叡山最澄一門と東国の道忠一門の親交は深まり、道忠一門が最澄一門の活動と展開を支えました。
そしてこの東国の、道忠一門から、第二代を筆頭とし『天台座主』を次々と輩出しました。


最初の写経事業からおよそ二十年後の、最澄の東国巡錫。


実は道忠は生没年が不詳であります。
師の鑑真は天平宝宇七(763)年に入寂されておりますので、その高弟であります道忠は、
最澄が弘仁八(897)年に東国巡錫として武蔵、上野、下野に在った時、おそらく存在していなかったと思われます。


しかしながら彼の愛弟子と法弟たちが最澄に仕え案内し、
その際緑野寺では法華経一千部、八千巻の写経を完成させて最澄を迎えたといいます。

この際最澄は緑野に三月ほど滞在しています。
前レスで書かせていただきましたが、この際法華経等を講説していますが、最澄の教えを聞くために集まった人たちは実に累計ではありましょうが九万人といわれます。
当時の上野国は人口十万人に満たないところであったことからも、その集人の凄さが計り知ることができます。

道忠の愛弟子や法弟たちが最澄に仕え、その教えを広めるために尽力したかは、第七代に至るまでの天台座主としての人材輩出に裏付けられることかと思われます。

また、この最澄の東国巡錫を終えたであろうとされる次ぐ年の弘仁九(818)年、全国六ヶ所の法華経納経の所在地に宝塔(=相輪塔)を建てていますが、その一つがここ、浄法寺にあります。


緑野寺全盛期が、この伝教大師最澄の東国巡錫の頃であったのです。

No.393

(続き)

『神坂峠は信濃と美濃の国境で、海抜1585m。
縄文時代から通行のあった峠であり、特に古代・中世には東山道最大の難所として有名であった。
峠の頂上からは、石製模造品(神に備えたぬさ)をはじめ、須恵器・土師器・灰釉陶器・鏡・刀子などの遺物が数多く発見され、古代祭祀遺跡として全国的に有名になり、国の史跡として指定された。

文献でも、「古事記」に日本武尊が東征の後、
「科野(しなの)の坂の神をことむけ給ひて尾張の国に還り来ましこ」
をはじめとし、日本書紀、続日本(後)紀など多くの古典にその険しい峠の名を留めている』

(神坂峠の案内板より)

…。
日本武尊ですよ、日本武尊!

はあぁ。

で。
特記すべきは。
平安時代、伝教大師最澄さまは、この峠のあまりの急峻さに驚き、旅人のために峠を挟んで両側に二カ所の
お助け小屋(布施屋・仮設避難所)を設けられています。

さすが、だ。

ただ東国へと向かったりしていない。
そんなところが
「上野国(群馬県)・緑野寺で9万人」「下野国(栃木県)・小野寺で5万人」(元亨釈書)と伝わります、多くの人々を集めるお力であったのかもしれません。

お助け小屋は、現在、峠近くに建つ立派な万岳荘に姿を変えてはいるということですが、今なお必要にして大切な峠の拠点なのであります。

それを考えただけでもまさに偉業であります。

No.392

(続き)

東国へ向かう主要街道が東山道から中山道へ変わった理由を考えてみますに、それはきっと〝大変だから〟。
…ですよねえ?


戦国の世が終わり、天下泰平である江戸時代ともなると、国と国…まぁ、今でいう県と県の移動も規制がなかったわけではありませんが、庶民もお伊勢さん詣りをする時代となりますし。
戦国の世を経て、平安時代とは段違いに日本という国が国家統一されていますし、江戸を中心に物流もあって、人や物の移動が盛んになっています。

だから道だって新たに作るだろうし、それは今までに比べれば多少なりとも楽だろう道を考えるだろうし、そうして新たに主流となった道は、最澄さん=伝教大師さんの歩まれたルートよりは楽?、なんじゃないのかなぁ、それでも絶対歩こうとは思わないけれど。


そう、調べてみました。

夫に聞いてレクチャーしてもらえば楽なんですが、それは自分で調べてわからなかった時に。
なにしろ人並みの知識すらがない妻なので、どこまでも風呂敷を…地図を広げなくては説明がつかないだろうし…。
でもそういった意味でも、夫は誰よりもわかりやすい解説を私にしてくれる最高で最良の師、なんでしょう。
ここでしか言いませんが。


閑話休題。



東国へ向かう主要街道が東山道から中山道へ変わった一番大きな理由とされるのが、中津川宿から高低差約1200m、標高1585mの
『神坂峠(みさかとうげ)』を越えるのが、あまりに過酷だったため、と言われているといいます。

その険しい道程から、東山道第一の難所として知られ、荒ぶる神の坐す峠として『神の御坂』【神坂峠】と呼ばれるのだといいます。

『神坂峠』は、急峻で距離も長かったため、峠を越えられずに途中で死亡する者や、盗賊が出ては旅人を襲ったとの記録が、古典に書かれているといいます。

これは…。
五百キロを超える道のりというだけでは無く、まさに命がけの、途中で息絶えるかもしれない旅だったのではないですか!







No.391

(続き)

地図を見てときめく夫とは異なり、私が地図を見るときは自らの力で移動する時、だけですし、最近ではそうした機会はほぼ皆無、つまりは地図を見ることすら無くなっています。

そんな地理とか地図とかに(も)疎いおばさん、五百キロもの距離の移動を想像することなど頭の中に資料すら皆無であります。

ただ。
本を読むことは好きだったので、そこに出てくる土地などは調べる人間ではありました。
なんだかんだで風土すらが異なり、そうした背景を知らないと理解できない内容すらもありますので。

当時、滋賀県から関東を目指すとき、今とはルートが違う気がいたします。
今考えるルートとしたら江戸時代の主要街道、東国へ向かう中山道に沿っている?のではないかと思うのです。(…どうかな?)

それ以前。
それ以前、滋賀県から関東を目指すとしたら…?


それより前の時代は、奈良時代に開設された【東山道】が東国へ向かうルートだったといいます。
ここで無知を晒せば、(東山道ってなんじゃらほい)の世界に住むおばさんです。
きっとこれを聞いたら、夫も子どもも大層悲しむことでしょう。

地理さえなければ私の社会科の評価点は飛躍的に高かったかもしれないくらい(嘘です)地理がわからない人物です。
しかしながら、たとえ一緒に暮らしていようと、実生活でそこまでの地理音痴はあまりバレません。
方向音痴はバレバレですが、ね。
だから、この『東山道』を知らないという事実は、たとえ家人であっても知らないのです。

そんな超人的な、能力の欠損したおばさん。
ある意味、日々新たなことを学ぶ機会を持つものです。

そう、なんです!
伝教大師さまは東山道というルートを通って、東国、関東地方へとやって来られたのです。

ええ、そこで(…どこやねん)となります。
普通の人なら調べずにしてパッと頭に浮かぶルート、調べなければわからないんです。
やれやれ、です。

でもこうして調べることで、伝教大師さまのたどった道を地図上で確認しながら想像する機会は得られます。
そしてこれで東山道という言葉も覚えました。

まぁ…人とレベルが違いすぎても、日々勉強とはなります、はい。

No.390

(続き)

今の五十歳といったらまだまだ働きざかりで、体力もある年ごろでありますが、それでも短く見積もっても五百キロ離れたところまで、それも山越えもあり、川を渡るにしても今ほどの橋がかかっているわけでもない歩くとなったら…。

しかも夜となって体を休めようと思っても、ホテルや旅館があるわけでもない、宿のようなものはあったにしても、そもそも当時平安時代、東国は…関東地方は今とはまるで趣きが異なる田舎でありましたから、宿らしい宿もないところもありましょう。

そもそも食事、食糧事情も今とは段違いであります。
…とはいえそれが貴族ともなると、すでに一日三食食事をしていたようですし、野菜中心とはいえ、魚や鳥やクマ・いのししなどの肉も食べていたようで、デザートやらお菓子まであり、私などより良い食事をされていますが、ね。

それが庶民となると一日二食、野菜中心というか粟や稗などを漬物で食べるというような食事であったと書いてあります。

それが…旅ともなれば、たとえ普段は良い食事をされていても、旅先では必ずそういった食事が提供されるわけではなかったでしょう。


当時のお坊さまは生涯が修行でありましたでしょうから、一般の庶民の方に比べて体力がない、というようなことはありませんでしょうが、平安時代の平均寿命を調べたところ、三十歳って出てきますから、五十歳というのが、当時にしたら高齢であった、ということは間違いないことらしいのです。

しかもこの平安時代の平均寿命、貴族のものであり、一般庶民を加えたらさらに下がる可能性があると書いてあります。

そんな時代であったことを考えてみたら…。
五百キロの距離を徒歩で旅すること、しかも平均寿命をはるかに超えた歳であることを考えたら、…考これはもう本当に凄いことなのですよね。

私などは五百キロはおろか、この日自宅からここまで歩くことだって考えたくないし、考えられないし、だったら行かないという一択です。

しかも、この五百キロという距離は、浄法寺さんと比叡山延暦寺とのかなり短めな距離で計算されたものを選んでおりますうえ、その計算してくれたアプリ、普段なら出てくる〝自転車で〟とか〝徒歩で〟とかいう計算なんてしてくれていませんから。
機械とて考えない、考えたくないものなんですよね。

No.389

(続き)

道忠禅師は来日した鑑真(688~763)より具足戒を受けて律宗を学び、持戒第一の弟子とされ、師亡き後のことと考えられますが関東に下って人々に菩薩戒を授けて周り東国の化主と呼ばれる人物でした。

鑑真が亡くなってから四年後の767年に生まれ、延暦十六(797)年には三十一歳となっていた最澄の写経事業を道忠が助け、そこには道忠の弟子であった法鏡行者(後の第二代天台座主となる円澄(宝亀二~承和四年・771〜836)も加わります。

比叡山寺での写経事業により最澄と道忠に深い絆が生まれたとされます。
武蔵・上野・下野にあって民衆教化の菩薩行を展開した道忠、その門弟らと最澄の交流は比叡山寺の人材を育てることになり、東国の化主たる道忠と弟子の広智、徳円らに学び、付法された青年僧が、初期天台教団の座主を務めるようになります。

ところで。
最澄と空海が同時代の僧であり、同時期に唐へと渡り、帰国してそれぞれが天台宗と真言宗を開いたのちも、最澄が空海に本を借りては勉強をしていたことは知られていますが、あるとき空海から密教伝授を中断されてしまいます。
さらには信頼していた弟子も空海のもとから戻らず、落ち込んで過ごされていた時期が、この偉大な天台宗の始祖最澄にもあったと推察されています。

そんな折、道忠らに熱望され東国へ、関東地方へと旅に出ることを決意したとされています。
最澄五十歳の歳であったといいます。
当時比叡山からの旅はほぼ歩き。
五十歳という年齢も、今現在とは比べものにならないくらい、旅も厳しいものであったとされています。

そんな大変な思いをして、わざわざとお越しいただいています。



No.388

(続き)

こちらの御由緒をお話しくださったご住職さま。
おもむろに立ち上がって、
「さあ、どうぞこちらへお越しください」

スッと戸を開けると、うわぁ…。

…なんと風情ある中庭でしょうか。

よく日の当たる中庭です。
色づいた木々から落ちた枯れ葉すらが美しく感じます。

そんな中庭を見ながら渡り廊下をほんの少しだけ歩くとそこは…。

…御本堂でありました。

ええっ!
この後に及んで御本堂まで?!

「どうぞおかけください」

見ると焼香用の香炉にはすでに炭が起こしてあり、その前に椅子が二つ。

ありがたくて申し訳なさすぎて、もったいなくて、思わず椅子の前に正座してしまいました。
夫も椅子の前に座っています。
「どうぞご焼香なさってください」

「どうぞ椅子にお掛けください」

ようやく椅子にかけたところ、ご住職さまはな、なんと読経してくださいました。
さらには私どもの苗字を入れて、家内安全や諸願成就を御祈願してくださっておられるではないですか。

なんと、なんとありがたいことでしょう!

私どもはご案内のままに御本堂に来ただけですので、御祈祷をお願い申し上げたわけではないのです。

それなのに私どものために、お経をお読みくださり、御祈願までしてくださったのです。

「ご本尊さまは阿弥陀如来さまです。
この御本堂が建てられたときにお授けいただいてからずっとここにお祀りさせていただいております」

そしてお話は鑑真和上さまが日本を訪れるまでのご苦労から始まり、やがてなんとか日本にお着きになられ、日本の僧に戒律を伝え、受戒なさったこと。
その内の一人の高弟、道忠禅師さまが布教のため東国を訪れ、いくつかの寺を開いたこと。
その道忠さまが鑑真が請来した経典の写しをこのお寺にもたらしたことなどを、何もごらんにならず、澱みなくお話しくださいます。

そんな頃最澄さまが唐にわたり、唐でさまざな修行をなされたこと。
帰国後天皇に願い出て比叡山に寺を開いたこと、比叡山には一切経が無く、開山に際し一切経五千巻を納めたい旨、各所、さまざまな知人に願い出たといいます。



No.387

(続き)

ご住職さまはこれからお出かけのようですので、御朱印がお書きになれたらすぐに渡していただけるようにと、庫裏のそばからつかず離れずして待っておりました。

二人で待っていなくとも良いかと、いただいたパンフレットを夫に渡し、境内をまわらせていただくように伝えたので、待っていたのは私だけ。
うーん、なかなか時間がかかっています。お出かけのご予定は大丈夫なのかなぁ。

そんなことを考えつつ、少し移動して境内にある冬桜を見に行ったり。

すると。
御本堂とからの間にある戸の開く音がして、さらには箒で掃く音が聞こえます。

えっ?

ご住職さまがさの建物の上がり端を掃いておられます。

「あ」
ご住職さまと私、ほぼ同時にそう口にしました。
この辺りに御朱印帳が置いてあるのかしら?
「ああ、気が利かずにすみませんでしたね、どうぞお上がり下さい」

いえいえ、ご住職さま、お出かけなんじゃ?
でもそこから見える範囲に私の御朱印帳は見当たりません。
「上がらせていただいてしまってよろしいんですか?お出かけのご予定と伺ったので、すぐに御朱印帳をお渡しになれるようここにおったのですが…」
「いやいや、どうぞお気になさらずお入りください」

慌てて夫にLINEで連絡をいたしました。境内を見てまわらせていただいていた夫もすぐそこまで戻って来ていたようでした。

上がらせていただくと、客間、でしょうか。
お茶のペットボトルが二本と、お茶受けまでご用意されていました。

(えっ)

「どうぞおかけください」

…御朱印帳はどこにも見当たりません。

ご住職さまはゆったりとこちらのお寺さんの縁起というか、歴史というか、御由緒を話しはじめました。

私「お出かけになるご予定と伺っておりますので、御朱印をお授けいただけただけでもう充分でございますので、どうぞお出かけになってください」
と申しますと
「いや、何時に行かなくてはならないという用事ではないんで大丈夫ですよ」

そうおっしゃって。

こちらのお寺さんがかつて聖徳太子がお建てになられたと伝承されていること、かつては緑野寺と呼ばれたことなどをわかりやすい言葉でお話しくださいました。

No.386

(続き)

「ご住職さまはご不在のようですが、お話をうかがっても…」
…エックスキューズミーおばさんがお声がけし、ここまで話したところで、
「あれ?まだいると思うんだけど、いなかった?」

私「軽トラックばあったんですが、呼び鈴を二度ほど押させていただいたのですが、どなたもお出にならなかったですが」

「あれ?まだいるんじゃないかな、ちょっと見てみます」

銀杏を拾われていたのを中断して、庫裏へと向かって歩いていって下さいました。

決して早い歩みではないのに、あっという間に庫裏へと入っていかれたようで、私どもはどこで待てばよいものやら、鐘楼の辺りをウロウロとしておりました。
結構な時が過ぎて、もしかしたら先ほどのお家の方自体が幻だったのではないかとふと不安に思いはじめた頃、庫裏の玄関が開き、普通の服装をされた男の方がお出ましになりました。
「すみませんねお待たせして。何か気づかずにいたみたいで申し訳なかったです」と。

あ、ご住職さまなんだ。
…おられたぁ♡

「御朱印ですか?」
私「お願いしてよろしいですか」
「少しお時間をいただきますがよろしいですか?
これからどちらかまわられますか?」
私「いえ、今日はこちらをお参りさせていただこうと参りましたので特に予定はありません」
「そうですか。それはわざわざお越しいただきありがとうございます。
あともう少し遅かったら出かけていたところでしたので、良かったです。ご縁がありました」

「どこからお越しになられました?」
私「〇〇〇〇です。
実は桐生市の正円寺さんというお寺のご住職さまが、ぜひこちらのお寺を一度参拝されるようにとおっしゃられ、ようやく今日参拝することができました」
「〇〇さんのところですか、それはそれは」

…そんな会話をしばししたのち、御朱印帳をお渡しいたしました。
私「こちらに」

「あれ?」
私「ああ、その御朱印がまさに正円寺さんでお授けいただいたものです」
偶然開けたほんの数ページ前のところが、まさに正円寺さんの御朱印でありました。…ご縁、ですかね。


さて。…どこで待てば良いだろう。

そう考えておりましたところへご住職さまが再びお出ましになられ、思ったよりも早いと思ったところ、その手にお持ちだったのはこちらのお寺さんのリーフレットでありました。


No.385

(続き)

のちに知ることとなるのですが、この『伝教大師御廟堂』は五十年に一度御開帳されているとのこと。
木造の伝教大師さまのお姿が御開帳されるようです。
…五十年に一度、かぁ。
私たち珍道中ペアに残された人生の中、この御開帳に立ち会うチャンスはあるものなのか無いのか…、これこそご住職さまに伺う他ありません。
うーん、いつなんだろう。

…。

あ、こうしてまた一つ、煩悩が生じてしまった。


こうして…伝教大師さまの御廟や護摩修行跡をあらためて振り返ったとき、雲一つない青空に、黄金色の、まだあまり葉を散らしていない大きなイチョウの木が光り輝いていました。
なんと美しい光景でありましょう。


伝教大師さまがお越しになられ、こちらの護摩壇で護摩修行をされた頃にはまだこうした大きな木々はなかったかもしれません。
このイチョウの木にしてもまだここに存在すらしていなかったものでありましょう。

でも…。
伝教大師さまや、その大師さまの教えを聞きに集まった聴衆も、今と同じような青空をここで見上げていたかもしれない、そんなふうに思えて、ことさらこの空の青さが感慨深いものとしてとらえられました。

そして振り向くと、見上げるほどに大きな大きな伝教大師さまの黄金の御像。




…。




…。
…あれ?
年配の女性が銀杏を拾っています。

お寺の方?

お話をうかがうことができるかもしれない。



No.384

(続き)

ここで訂正がございます。

先ほど通り抜けてきた太鼓橋様の渡り廊下で御本堂と結ばれた建物を、『大師堂』と書いておりましたが、
正しくは【大師殿】でありました。
ここでお詫びして訂正させていただきます。

その大師殿の裏手に朱に塗られた建物が一堂ありました。
大変気になりながらも、祭壇のように見える不思議な空間がさらに気になってしまい、あえて自ら意識を封印し、〝伝教大師護摩修行跡〟へと向かっておりました。

あらためてその大師殿の裏手にある建物の方へと戻りました。
大師殿と物理的にはつながっていないものの、どう見ても深い関わりのある建物にしか見えません。
そう…まるで、まるで大師殿が拝殿で、幣殿のない〝本殿〟であるかのような位置づけに見えてなりません。

しかしながら。
こちらは古くからのお寺さんでありますし、それこそ鑑真和上さまの伝えた律宗が基となるお寺さんでありますので、神仏習合思想の影響を受け難い位置づけにあったと思うのです。
聖徳太子の草創されたお寺とも伝えられています。

とはいえ、結構早い時期から『天台宗』へと宗派を変えていたお寺さんではあったかとも思われるのですが…。

鳥居を思わせる建築物ばありましたが、見逃していなければ境内には神道を思わせるような建築物は一切見かけませんでした。

だからこその…違和感?

大師殿の真横を抜けてきたから余計にそう感じた?

離れて見てみてもやはり大師殿が拝殿で、幣殿の無い本殿のように見える建築物でありました。

建物と建物の間隔からも、そしてなにより、この建物、大師殿よりも一段高くなっているのです。
とはいえ建物としては決して本殿のような神社の建物の建築様式で建てられたものではありません。
例えるなら…経殿のような、宝物を納めた建物のような。とはいえ〇〇庫といった建て方でもありません。
やはりお堂はというとらえ方が一番近い建物であります。


…。

…【伝教大師御廟堂】でありました。




No.383

(続き)

遠かろうが、近かろうが、ご縁がない時はこんなものです。

スパッと気持ちを切り替えて、御本堂の前で再び合掌し、一礼し、お隣にあるお堂を目指します。

瓦葺きのお堂、扁額には『大師堂』と書かれています。お堂とはいえ、小さなお寺さんでは御本堂もこのくらいの規模か、というくらいの大きさのもので、御本堂へ太鼓橋のような渡り廊下で繋がっています。
うーん♡感動!

こういう外廊下で繋がっている建物も、ましてやそれが太鼓橋様のものだったりしますと、テンションがかなり上がります。

裏手はどうなっているのだろう…。

罰当たりなおばさんはこのありがたいと思った渡り廊下をくぐって裏手へと。
そうしないと迷子になってしまうという極めて特異的な能力を持つおばさん故の哀しさというか。

おおっ!

程良い高さの木と、心地よいくらいに生えた草、それがなんとも自然に広がっている空間へと出ました。
これはなかなかの手入れをされておられる。
造られた庭園ではなく、こういった贅沢な空間は、センスのある方がこまめに手入れをされている、ということであります。
…ご住職さま、でありましょうか。

まあ、当然のことながら御本堂の裏手、であります。

そして何やらありがたいオーラの満ちた空間があります。
石を組み、積んだような…ここが神社の境内ならばまさに祭壇であるとか、聖なる空間でありましょう。

えっ!
ええぇえっ?!

【伝教大師護摩修行跡】ぉ〜っ?!

そ、それはそれは間違いなく聖域で。

鳥居と言って良いのかどうか、鳥居に似た門に守られ、石段を三、四段組んだ高さに、あまり大きくはない、高さ三十センチほどの自然石が置いてあります。

ここで。

ここでお護摩を…。

この石段を登ること憚られ、遠巻きな位置からスマホを掲げてその石を上から見る形で写真を撮らせていただきました。

! たしかに!
たしかにこれはお護摩が焚ける。
直径二十センチくらいに人工的にあけられた穴があいております。

ここで?
ここで伝教大師さまが。


…天台宗の信徒でもないのに、この外での護摩壇におばさんはいたく感動しておりました。

No.382

(続き)

ブーまたはピンポーン。
…。

あれ?

ブー(またはピンポーン)。
……。

あら?
ご不在。でしょうか?

庫裏の横には軽トラックが一台。
他には車はありません。
うーん。

えっ?
戸が…戸が開いてますけど。

でも土間、かなぁ。
作業をされる別の戸口のように見えます。

…そ、そうかぁ、ご不在でありますか。


うーん、残念!
それでもエックスキューズミーおばさんは、諦めきれず声を張り上げ
「すみませーん」と二度ほど。

どなたもお出にはなられませんでした。

…縁がなかったということだなぁ。

No.381

(続き)
かつては古そうな建築物、と一括りにしていた古い建築物が、すこぉしだけわかるようになったのは、あの群馬県桐生市の桐生天満宮さんに鎮座する春日社のおかげでありました。

嬉しさのあまり、私なりにいろいろ調べて、〝懸魚〟や〝蟇股〟の建築された時代におけるある特徴を学んだおかげで、この山門もそういった部位に目を向けることができるようになり、またちょうど時代的にも春日社さんと同じくらいのものではないかという特徴がみられたため、(もしやこの山門は江戸時代初期とかそれよりももう少し前?)
などと考えることができたのでありました。
まぁ、その謎解きは答えが出ないところが寂しいのですが、ね 笑。

今回はご住職さまからいただいたパンフレットに山門についての記述があり、まさにその時代であろうと言われていると書かれていて、なんだかとても嬉しくなりました。
ええ、たまたま同じくらいの年代のものだったことが幸いしただけ、なんですけれど、ね。

この山門の石垣がまたあまり大きくはない横長の石を使っていて、なんとも特徴あるもので、こうしたものを建築を専門的に学んだ方はとても嬉しくご覧になられるのだろうなと、しげしげと拝見しておりました。
そんなにしげしげと見ていたはずなのに、〝左甚五郎〟作と伝えられるという彫刻は見逃してまいりました。
こういう迂闊さが、珍道中を繰り広げる人物に相応しい行動と言えるのでしょうね、やれやれです。

山門の先は、石段といえば石垣、雪が降り積もった時とかの滑り止めとも思われるような、段差も幅も奥行きもあまり石段らしくない石段となっていました。

その石段を登り切ると、御本堂が。
ご本堂の手前には立派な青銅製の幢(?)が高く形よく積まれた石の台の上にありました。
古いものだと思われますが、背の高さの関係と日の当たるせいで影ができて、年代は読めませんでしたが。

御本堂はうーん、江戸時代後期くらいのもの?あるいは明治?
古い板ガラスと板塀の建物であります。
扁額は。
…読めない。
篆書で書かれていて、うーん、篆書は(は、ではなくて〝も〟ですけれど 笑)まるでわからない。

五文字、です。
四文字目は土?士?
五文字目は院でありましょうか。

これはご住職さまにお聞きしないとわからない。

では、御本堂前での参拝も済みましたことですし、庫裏の方へ♡




No.380

(続き)

まず辿り着いたのは、この浄法寺さんの現在のシンボルでありましょう金色に輝く『伝教大師』さまの大きなお像の前。
そこに広い広い駐車場があります。

広くて区画のない駐車場で、細かなところに神経を使う夫はまたまた
「どこにどう停めたらいいかなぁ」

…後からお越しになる方のお邪魔でない、なおかつ、たとえばこのようなシンボル的なものの前であればその景観の邪魔にならなくて、かつ、排気ガスがかからないような向きで、お墓がそばであればそこにもまた排気ガスがかからぬような位置と向きであれば、どうだって構わないと思うのですが、ね。

…えっ?
結構気にして考えてるじゃない?
それは人として当たり前なレベルでなら。
お決まりのような夫のこの発言、これだけ考えてればどこだって良いと思うんですが、これだけは相変わらずオロオロするらしい。

…なんなら私がタブーであろうと思う全てを注ぎ込んだ場所を指定してみようかしら。
その時彼はどう考え、どう行動するのだろう。
…ま、そんな時が来ても、私自身が忘れてしまっていて、いつものような思考で、「ここら辺でいいんじゃない?」
って答えてしまうに違いないんですけれどね。

金色に輝く旅姿の伝教大師さま。
そのお姿にふらふらと近づいて行く妻を見て、
「門から行かないの?」
…。

…そのありがたいお姿についつい寄せられてしまいました。


相変わらず無宗教な二人。
檀家寺があるのもそれは大きな憧れではありますが、決まった宗教、決まった仏教の宗派が無いが故に、こうしたお寺さんとの出会いがあるのかも知れないと思うと、無宗教、無宗派(そも、仏教徒ですら無い)も良いのかなぁと思ってしまう私。

これだからいつまで経っても無宗教なままなんだよな。


閑話休題。


夫が(珍しく)先に向かいます、山門へと歩きます。
駐車場を出て、いったん公道へと出ます。
さして広くはないこの公道、車が通ること、通ること!
いつもだと「もっと端に寄って!」と夫に叱られるのですが(…えっ?)、この日は目的に向かって歩いているため、無チェックな夫。
私なりの端を歩いて、山門にたどり着いたのでありました。(さして離れてもいないのですが)



No.379

(続き)

この浄法寺さんはもともとは『聖徳太子草創の寺』と伝えられており、境内には聖徳太子の墓と伝承される『聖徳太子供養塔』があります。
これがまた実に古い石であり、この供養塔がいつの時代のものであるか等をこのたび調査されることが決まっていると、ご住職さまがお話しされておられました。

また、その供養塔の隣にお祀りされる石造りの地蔵尊も、かつて聖徳太子が庵を結ばれたというこの近くにある地蔵山に建立されたものだといいます。
その名も『彰徳地蔵尊』。
こちらは文化十二(1815)年に建立されたお地蔵さまではありますが、この地蔵山にゴルフ場が建設されるため、こちらの境内に移設されたものといいます。


開基はあの【鑑真和上】第一の高弟【道忠(どうちゅう)禅師(735〜800年頃)】。
嵯峨天皇から緑野(みどの)一郡を賜ったことから【緑野寺(みどのじ)】と呼ばれたといいます。

現存する江戸時代初期のものとされる山門に掛かる扁額には【緑野教寺】と(正確には寺教野緑)と書かれています。

道忠禅師は鑑真和上が請来した教典の写しをこの寺にもたらしたといわれ、【一切経】と呼ばれる経典を所蔵する寺として中央にも名を知られる寺であったといいます。
一切経とは『経』『律』『論』の三蔵からなる仏教聖典の総集であるといいます。

道忠禅師は来日した鑑真和上に『具足戒』を受けて律宗を学び、持戒第一の弟子とされ、関東に下って人々に菩薩戒を授け、仏教を広めることに尽力、東国の化主と呼ばれる人物でありました。


つまりはこの浄法寺さんは日本に天台宗が伝来する以前からあったお寺さんでありました。


時は流れ、伝教大師最澄が八百四(延暦23)年から翌八百五年にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を本場で学びます。
同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広めんとし、当時比叡山になかった五百巻の一切経の書写の願いを発したといいます。最澄は繋がりのあった道忠禅師にも協力を求め、その願いに応えんと道忠禅師は二千巻の一切経を写して比叡山へ送り届けています。








No.378

【緑野寺(みどのじ)】
【廣巌山 般若浄土院 浄法寺】


「藤岡にね、すごく古いお寺さんがあってね。そのお寺さんが地名になっているくらいのところでね。一度参拝したいんだよ」

もう何年も前から、それこそこの〝神社仏閣珍道中〟を始める以前から、折に触れては夫が申しておりましたお寺さんがありました。
おそらくは彼の中では結婚前からとか、勤め始めてまだ間もない頃からといった四半世紀以上前からあたためていた思いであったものかと思われます。
大学を出たその年に結婚し、その次の年には子供が生まれて子供中心の生活となって、なかなかその思いを果たすことができないでいた、そんなお寺さんが、その群馬県藤岡市にあります【浄法寺】さんでありました。

今、こうして珍道中を始めてからもそれなりの年月が経つにも関わらず、彼はなかなかその思いを果たせずにおりました。
…ひとえに恐くて気の強い、言い出したら聞かない妻を娶ったせいでありましょう。
まぁそれはさておき(置くんかい!)

このたび、彼の長年の願いでありました、【浄法寺】さん、かつて『緑野寺』と呼ばれたお寺さんへようやく参拝することができました。

この浄法寺さん、同じ群馬県でありながら、まぁそれなりに遠い。
それもいったん埼玉県へ入り、再び群馬県へと戻るという。(…ちなみにそうした方が近い地点があるということで、たまたまこの浄法寺さんはまさにそういった地点にあるという)
少し行ったらまた埼玉県。
武蔵二ノ宮であります【金鑽神社】さんなど実にすぐそば、といっても過言ではない位置関係であります。


そんな【浄法寺】さん。
実は今年、もう一方、こちらへぜひ参拝するようにとお勧めになられた方がおられました。
三度しかお会いしたことはございませんが、私が信頼し尊敬しております群馬県桐生市の【正圓寺】さんのご住職さまであります。


この正圓寺さんの客間に今年、ポスターが一枚貼られました。

それは群馬県の〝天台宗〟の決起大会(のような集まり)のポスターであったのですが、金色に輝くお像が青空を背景に凛とお立ちになっておられる、そんな構図のものでありました。

いわんやそれは伝教大師さまのお姿であるのですが、その像が撮られた場所こそが、【浄法寺】さんでありました。

No.377

(続き)

『清寥寥 自的的』…よけいわからなくなった気がいたします。
…たしかにこの懶瓚(らんさん)和尚、真正直だし、執着が…あるようなないような?

やはり私では穢れが多すぎて、未熟ゆえ理解できない〝世界〟なのかなぁ。

うーん。


もう少しだけ理解しやすい例を紹介してくださっている方がおられました。


『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』(細川景一著)

『…寛政の三奇人の一人、『海国兵談』の著者として有名な林子平(1738〜1793)は、罪を幕府から得て、禁錮に処せられ、伊達藩にあずけられます。
そして一室に幽居したままで、一度も室から出たことがありませんでした。
「禁錮の命は幕府から受けたことで、この伊達藩には関係がない。ことに年月もすでに長く経っていることゆえ、たまには外出せられても、かれこれ言うものは誰もなし、また幕府へ知れようはずもござらぬ。少しは近くのご友人でもお訪ねになり、お心を晴らされてはいかがでござるか」
 ある人が気の毒に思ってこう勧めると、子平はその厚意を謝しながらも、
「いや日月(じつげつ)が天にござる。人は欺むくことができても、天を欺くことはできませぬ」
と言って、ついに一生涯、室を出ることがなかったといわれています。


終戦直後、ヤミ米を食べるのを拒否して、栄養失調で亡くなった、ある大学教授の話と思い合わせて、天は欺くべからず、自己を欺くべからず、と徹底的にすじを通した生きざまもまた、「清寥々 白的々」ではないでしょうか。』



ああ、これなら私にも理解できる気がいたします。
ただ並大抵では到底真似できないことであるのもたしかではありますが。


細川氏はこう締め括っておられます。
『…名声欲、権勢欲、利欲、色欲、物欲、あらゆる欲望の渦まく昨今、静かに坐して【清寥々 白的々】心静かに念じたいものです。』

と。


うーん。
【清寥寥 自的的】

…とりあえず、この言葉を覚えるところから、だな。

No.376

(続き)

こちらの…群馬県桐生市の常光寺さんの禅語は、


【清寥寥 自的的】


 「清」とは、すがすがしいこと、「白」とは、よごれがない、やましくないこと。
「寥々」とは寂しいさま、空しいさま、静かなさま。
「的々」とは明らかなさま。

言ってみれば無欲恬淡(てんたん)として、真正直、何のてらいも、わだかまりもない清々しい感じを「清寥々、白的々」というわけです。


【先入観にとらわれることなく、真っ白な心で接することで、自分の視野も広くなり、心のわだかまりも軽くなります。
意見や考え方をぶつけ合うのではなく、互いに接点を見つける心を持つことが大切です。

誰もが、自分の意見や考え方が正しいと信じています。
『自我』を大事にすることは悪いことではありません。しかし『大切にする』と『執着する』ことは違います。
時には真っ白なこころをめざして、ストレスのない毎日を!】

とお寺さんでいただいた解説にはそう綴られています。

…うーん。
あまりに穢れ多き身ゆえか、さっぱりわからない。
しっかりとこないというか、まるでこなれない。

もう少し調べてみることにしました。…調べてどうこうよりも、何より人間修行が大切なのだとは思うのですが。


『碧巌録』第三十四則より
唐の時代、徳宗の御代。
南岳山中の衡山の石窟に隠れ済む懶瓚和尚の所にある日、参内を求める勅使が来ます。高徳の噂が都に達していたのです。
使者が懶瓚の石室に行ってみると、和尚は牛の糞を燃やして暖をとりながら、中で芋を焼いて食べている最中です。
顔を見ると、涙やら鼻水やらが垂れて、芋と一緒になって口へいく様子です。使者は笑って、
「天子よりお召しです。速やかに都へ上るのが好よい。しかし、まず、その洟を拭いてはどうですか」と言うと、
懶瓚「俺は今、一大事因縁のために工夫中である。洟をぬぐう手間が惜しい、俗人に法を説く暇もない」
とあっさり断ります。使者の報告を聞いて、徳宗は満足します……。

この懶瓚和尚、本名は名瓚(みょうさん)と言います。
この話から、ものぐさ瓚(さん)さん、なまけもの和尚という意味で〝懶(らん)〟(おこたる、なまける)という字が上について、懶瓚和尚というあだ名がつけられたといわれます。


『碧巌録』の編者、圜悟(えんご)和尚はこの話を引いて、懶瓚和尚を【清寥々 白的々】と讃えています。

No.375

(続き)※すみません、削除して書き換えておりますが、内容はほとんど変わっておりません。


常廣寺さんの山門近くまで来るとわくわくします。
私の大好きなお地蔵さまのお像がおられるから。

ただ…どうしてそんな向きでそんな位置におられるのかと、毎回毎回不思議に思うし不満でもあるのですが、門の端も端、人によっては見落としてしまうくらいの隅っこなのです。

お優しいお顔立ち。
しかも小首をちょっと傾げておられるお姿、あまり他では見ない実に可愛らしい仕草なのです。


山門も趣のある古いもの…のように感じます。

すっかり軽く、あたたかなもので包まれたかのようになった心となった私は、足取りも軽く御本堂へと向かい、御本堂の内におられる御仏さまに手を合わせて。
ふと振り向くとちょうどお車から降りてこられたのか男の方がおられました。
「お寺の方ですか?」
「ええ」

…副住職さまでした。

お帰りになられたばかりでありましたのに、御朱印の直書きにも快く応じてくださり、しかもこちらの御朱印にはこのたびのウクライナ難民支援のために作られた〝鶴〟のしるしがあるのですが、そのスタンプを捺してくださっているようなのです。
そのスタンプも、センスある五(…六だったかしら)の色のスタンプ台をご用意くださっていて、好きな色が選べるという♡

どれも甲乙付け難い、素敵な色でしばし迷って、私は水色を選ばせていただきました。

御朱印は三百円から。
寄付ということもあって四百円を用意しましたところ、
「あれ、三百円でいいんですよ。百円多いです」と手渡され、さらにはお茶の缶を一本くださいました。

…これでは全然寄付にならないんでは?


やっぱり変わらず優しい、あたたかな常廣寺さんでありました。



  (シクラメン)

No.373

(続き)

(【常廣寺縁起】続きの続き)

…時は過ぎ、九世和尚の正徳四年、本橋院殿の予言通り田中藤左衛門なる近江商人、竜骨を持ちて至る。

…中略…

当時、竜骨は万病に効く薬とさる。
人々常廣寺に殺到し、五年後、めでたく堂宇の再建かなふ。



…実はその竜骨、今も常廣寺さんにあるんです。
御本堂の横に渡り廊下で結ばれた御堂に納められていて、今もお祀りしているんです。

竜の骨は確かに珍しいもの。
今これを求めたところで入手することは難しい。
けれど当時は珍しいものではあるものの、なんだかんだ大金を積めば手に入るものでもあったようで。

初めての参拝の際にはそんな話をされながら、この竜の御堂にまで入れてくださったのでありました。

そんな温かなお寺さん、おばさんが好きなわけでしょう。

でもその後はお寺のどなたともお話しすることはおろかお会いすることもできず、御本堂の前、そして竜のお堂の前で手を合わせるだけの参拝であったのです。


そんな常廣寺さんが、今回ウクライナ難民支援御朱印に名乗りをあげられた。
いかにも常廣寺さんらしいなと、すぐに思ったものです。


そして。
…実は。
常光寺さんの副住職さまの書、大変お美しいんです。

いつかまた御朱印をお願いしてそのお手を拝したいと思っていたんです。

だからもう嬉しくて嬉しくて。


あたたかな秋の日、特にご連絡も差し上げず、常廣寺さんを訪れた私でありました。

No.372

(続き)

…可愛いらしくないですか?
東上州を訪れた際、山上の地を自分の先祖代々の地であると勘違いして…って。

そうして、この山上という土地を愛し、
〝戦乱の世静まりて後、父祖の地山上に『常廣寺』を建立〟されるなんて。

おそらくはきっと、遠く離れた地に自分の姓と同じ地名を見、そこがいかにものどかで、心安らぐ土地であったものだから、そう周囲に話しただけ、なのではないかと私は思うのです。
仮にも武家の者が、自分の先祖代々の地を間違うことなど滅多にないことであろうし、仮に本当に間違えたとしても、途中で絶対に気づいたであろうし、臣下の者が指摘するに違いありません。

しかもこの常廣寺という名にしても、
〝かつて寺の裏の高台に草庵を結びし僧・常廣にちなむ。常廣は戦乱で失われし人々を弔い、村人にも深く慕われたりといふ〟んです。

その地で人々の信頼を得、慕われていたという僧の名にちなむなんて、山上郷右衛門顕将というお人は、なんとそこに住む民の心に寄り添った方でありましょう。


そのあとも常廣寺さんの縁起はユーモラスな語り口で綴られています。

〝(世代を重ねたある年)失火により堂宇を焼失す。開基家をおとない、再びの堂宇建立を願うも、あえなく拒絶さる。八世怒りに燃え、…〟

お坊さん、怒りに燃えちゃってます 笑。
お寺さんも代を重ねればいろいろあるように、開基の家でだって代を重ね、そこにはいろいろな事情もありましょう。
堂宇の再建って、普通に家を建てるのとは比較にならないほどにお金がかかるもの、それを引き受けられない事情だってあるんですよ。

…まぁ、そのあとに続く新たなる開基ってところが、凡人で貧乏人の私にはさっぱりわからないんですがね。

まぁ、そんなこんなで常廣寺さんは今に至るようですが、この縁起には実は続きがあって、


【常廣寺縁起・続き】

ある夜、八世の夢枕に本橋院殿立つ。
「御房よ、吾は本橋院殿なり。ゆめゆめ吾を忘るることなかれ。将来、京より竜骨を持ちたる商人至る。必ず買うべし。さすれば、堂宇の再建もかなうべし。」
「買いたきはやまやまなれど、先立つものなし。」
「焼けし堂宇の後ろに墳丘あり。そこに幾ばくかの埋蔵金有り。使うべし。」
「ありがたきご教示なり。」

と。


(続きます)

No.371

【ウクライナ難民支援×禅語御朱印】
【赤城山天正院常廣寺】

群馬県桐生市新里町にあります常廣寺さんに参拝させていただきました。
こちらは何度か目の参拝であり、今年も二度、いや三度目の参拝となります。

常廣寺の創建は不詳とされますが、院号が天正であることから天正年間(1573〜1591)前後に山上郷右衛門顕将が開基となり開かれたと云えられています。

山上郷右衛門顕将がどのような人物かは不詳ですが、姓から山上城の城主を歴任した山上氏の関係者と推定され、北条氏が没落した後は徳川家康に仕え、慶長五(1600)年の関ケ原の戦いでは伝令役として活躍したようです。

常広寺境内は山上城の城内にある為、山上城が廃城となる天正十八(1590)年以降とも考えられるとされています。
当時山上城は小田原北条氏の支配下にありましたが天正十八年の小田原の役の際、豊臣秀吉の家臣片桐且元らによって攻められ落城しています。


何年か前、ご住職さまから頂いた【常廣寺縁起】がございますのでそのまま書き写します。


【常廣寺縁起】

本橋院殿寶輪廣與大居士、天正年間に、赤城山天正院常廣寺を開基す。山上城付近にて落命せしあまたの人々の冥福を祈らんが為なり。本橋院殿、俗名は山上郷右衛門顕将(やまかみごうえもんあきまさ)、小田原の利け者の異名を持ちたる戦国武将なり。東上州活動の途次、ここ山上を父祖の地と勘違し、山上に並々ならぬ執着を抱く。戦乱の世静まりて後、父祖の地山上に常廣寺を建立す。寺号は、かつて寺の裏の高台に草庵を結びし僧・常廣にちなむ。常廣は戦乱で失われし人々を弔い、村人にも深く慕われたりといふ。常廣については、委細つまびらかならず。ただ、俗名を牛蒡帯刀(ごぼうたてわき)といふとのみ伝ふ。

本橋院殿、自家の菩提寺として、長安寺を建立す。以来末裔は帰農し、本橋院殿にちなみ改姓す。

常廣寺、順調に世代を重ね、八世覚通呑應大和尚に至る。時に元禄元年九月三日、失火により堂宇を焼失す。開基家をおとない、再びの堂宇建立を願うも、あえなく拒絶さる。八世怒りに燃え、開山・明巌監察大和尚を開基になし、子孫を探さんことを思いいたる。これ、開基常廣院殿明巌監察大居士の誕生なり。



No.370

(続き)

こちらのお寺さんの禅語は

【自灯明】

お釈迦さまが涅槃に入られる直前に、弟子からお釈迦さま亡き後、何を拠り所として生きていけばよいかという質問を受け、
「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとして、他のものをよりどころとせず」
とお答えになられたといいます。

「誰かの言葉や教えに左右されることなく、これまで積み重ねてきた行いを信じ、自らの心に従い正しい教えを拠りどころとして、この先も精進していきなさい」という教えです。

人はとかく誰かに頼ろうとします。特に自信のない時ほど、その傾向は顕著になり、判断を委ねます。
独りよがりの判断は勿論のこと、他人任せの判断はよくありません。

自らの心で考え、判断する力を養い、自分で自分に責任を持って、
より善く生きようと努力し、
困った時には他者に助言を求め、
そして何よりも正しい仏様の教えを拠りどころにして、毎日を過ごしなさいという、お釈迦さまの尊い最期の教えであり、お言葉でありました。



No.369

山門のそばにはたいそう上品なお顔立ちをされた石仏さまがおられます。
それから青面金剛さまが三体と庚申塔がいくつか。

いつものようにおそばに寄らせていただきそのご尊顔を拝して。
私の幸せなひとときです。


さて、あの山門のそばに案内の立て看板のある、ブロンズ(かなぁと思われる)坐像のお方ですが、ここまで戻ってきてその説明を読み始めて、…思い出しました。

そう、お医者、下山昌伯先生の像と碑であり、墓所でありました。

『 下山昌伯先生は、文化三年、武州小前田村の医師森元貞の長男として生まれ、幼名を元達という。
十五歳の時、江戸に出て旧幕府の典医高野長英の親友、人見氏の門に入り医術を学び、文政九年(1826年)二十一歳の時、下野国菱村の医師下山勝伯が名医なることを聞き、江戸より帰り勝伯の門に入り医術を研究し、遂に勝伯の嗣子となり、下山昌伯三重と改名した。
昌伯は、公の医業は勿論、更に西洋医学をも研究し、治療に精進したため、安政年間にこの地方に天然痘なる病気が流行した際、西洋医学により人々に種痘を接種し、天然痘を治したことで有名』

そう、そんな素晴らしいお医者さまがかつてこの地におられ、今ここに眠られているということ、実はあまり知られておらず、私などは忘れてしまっていたくらいですし 汗。

それというのもかつてこの菱町というところが、〝下野国〟であったことも関係しているのかもしれません。
これだけの偉業でありながら、…もしかしたら桐生市在住の人たちにもあまり知られていない存在なのかもしれません。

安政の時代、日本における種痘はまだ人から人へと植え繋ぐしかなかった時代であったように記憶しております。
種痘に対して得体の知れないものへの恐怖、迷信、噂なども大変強かったのではないかと思います。

蘭学、西洋医学がか許されていたかどうかもあやしい時代に、人々の信頼を集めていた下山昌伯先生はこれを接種することに成功し、この地域においての天然痘の流行を鎮めたという、まさに偉業というしかない偉業です。


…これだけ感動してこんな文章を書いているのだから、もう二度と忘れません。
子どもたちにも伝えよう。



ただ…やはり墓所は恐くて…。
お参りはできませんでした。
やれやれ。

No.368

(続き)

泉龍院さんのお堂におられる閻魔さまは実に迫力のある閻魔大王さまです。
ただ、決して威圧するような迫力ではなく、
「悔い改めるのだ」
と諭してくださるような威厳のある御像であります。


そう。
怖いと言いつつ覗いたおばさん、お気づきの方もおられるかもしれませんが、閻魔大王さまの御像、好きなんです。

えっ?
怖がってたくせに?


…神仏に関わることなく生きてきてしまった私ではありますが、やっぱりそこは日本人の端くれ。
地獄は恐ろしいところ、閻魔さまは恐い存在という意識は根底に植え付けられているのだと思います。
少なくとも幼少期までは祖母や叔父が関わってそうしたことを教えてくれていましたし。
だからやっぱり畏怖という感覚は抱くもの。

で、何故閻魔さまのお像が好きということになるのか?、と言われますと、まぁそこは…感覚?

閻魔大王さまは間違ったこと、あやまちには大変お厳しいお方です。
そこにはそれを根本から正そうとなさる強さも厳しさもございます。
でも、根本はお優しい、そんな気がしてならない、能天気なおばさんだから、かもしれません。
それだけの罪を犯してしまったこと、それはそれでもはや取り返すことはできません。

私がむしろ怖いのは…奪衣婆さんのお像かもしれません。

彩色のあるお像にしろ、石像にしろ、お顔もお召しもなんとも怖い、…怖くはないですか?

なかなか一人で向き合うには勇気がいるのです。
変なおばさんですかね 笑。



No.367

(続き)

薬師堂を出て、山門の方へ向かうと右側に『百度巡礼』、左に『一遍百薬』と刻まれた小さな門碑があり、そこから数歩歩いたところに『薬壺之石』と刻まれた石碑の上部に四角くくくられたところがあって、そこにまさに薬壺の石が安置されています。
百度はまわれず、そっと薬壺の石を撫でさせていただきました。

その隣には四方竹という珍しい竹の竹林があります。

そして石段の、御本堂に向かって左側には石造のお薬師さまの像が祀られています。

そのまま石段を降りてしまうことなく、みぎてを見上げますと大王松という大きな松の木があります。
普通の松よりも背が高く、葉の部分も大変長いものであり、前々回初めての参拝の時に、大変縁起の良いものだと伺っております。

そのまた向こうにはそれはそれは立派な門があります。
長屋門で、このあたりの戦国時代の領主であった細川内膳の屋敷門を移築したものとされているといいます。
屋根は萱葺で、二階建てになっており、二階の窓は菱形の格子窓で俗に鉄砲窓と呼ばれているものだといいます。
格子窓は内側からは相手がよく見え、外側からは中にいる人が見えないので武家造りの門になっているようです。

まあ、そのあたりは夫はやたらと感心しておりましたところでありますが、今回は一人ですし、何やら手入れをされておられるご様子でしたので、遠巻きに拝見するにとどめました。

そしてまた来た道を戻ります。



…実は、ですね。

まぁ元々まずは御本堂をお参りすることを旨としておりますので、どんなに気になる石仏さまがおられようと、御堂もなにも通り過ぎて御本堂へ向かうのですが…。
こちら、泉龍院さんには閻魔堂があるんです。

それは山門のですすぐ左側。ひっそりと、あるんです。

ぼーっとしていれば行きには山門に目を取られ気付かない、そんな隅の方に、あるんです、閻魔堂が。

ええ、ビビりですから、一人ではちと怖い 笑。
しかも閻魔堂へは橋が小さな橋が架けられていて、(えっ、で、ではここは三途の川?)みたいな。
すみません、いい歳をしたおばさんですのに。
あ、でもこのお堂の前にはちゃんとお地蔵さまがおられます。

そして…覗くんです。
そこは抑えられない、やめられない。

中央には大きくて立派な閻魔さま、ひだりてにも奪衣婆さんがおられます。



No.366

(続き)
鐘楼門をくぐり、真正面に御本堂がございます。
が、まずは手水舎へ。

石段を登って右側に手水舎があるのですがその手前に『願かけ地蔵』さまがおられさらにそのお隣には『撫で仏』さまがおられます。
この撫で仏さまが実にイケメンで。初めてお会いしたときにはポーっとなったくらい。半跏坐の、仏さまというよりは僧の姿をされておられるブロンズ像であります。

さあ、こういった穢れを浄めなければ。

さあ、御本堂へ。
…。

ん?
手を合わせてふと目を上げて、以前参拝したときと趣が異なるような?
…どうだったろう。

たしかに建物としては変わっていないのです。
扁額も同じ。
濡れ縁も同じ。
うーん。

そ、そうだ!窓の感じがこうではなかった…気がいたします。

…どうだろう。
そう思って見てみると花頭窓が新しいような気のせいなような…。
どうだろう。

しかしながらこの日はお手伝いの方しかおられなかったこともあり、そうした確認はできませんでした。
「御朱印をお授けいただけますか」と申しあげただけで、スッとウクライナ難民支援の禅語御朱印が出されたくらいに、あまり慣れてはおられない方のようです。

…まぁ、本日の目的はそうなので、それはそれで正しいことなのですが。

御本堂の扉も閉ざされておりました。


御本堂ひだりてにも見覚えがないような、忘れてしまっただけなのかわからない、新しそうな六角堂がありました。
うーん。
記憶力テストのようです。

薬師堂でありました。
やはり新しそうなお薬師さまが、両脇侍の日光月光菩薩さまとお祀りされております。
小さなお堂ではありますが十二神将さまも祀られていました。壁にも十二神将さまの絵が掲げられています。

うーん、このお堂、以前参拝させていただいたときにはなかったのでは?
少なくとも扉が開いていたならば必ずやここにも詣でましたでしょうし、忘れたりは…しないんじゃないかなぁ、たぶん、おそらく。


No.365

(続き)
こちらの泉龍院さんへは再再拝。
以前にも珍道中録を書いた記憶がございます。
ご記憶されておられる方には同様な内容となりますが、なにぶんにも本人がうろ覚えなので、申し訳ありません。
これから綴ります伝説も、書いたような記憶がございますが念のため。


池の話が出たところで。

【泉龍院】さんは、元の名を『潜龍院』といったそうです。
その昔皎龍が山中の池に潜み、里に出ては旅人は勿論、里人畜類までも害していたといい、たまたま、当地方を旅していた高僧がそのことを聞き、
『…人々の難儀を救わんと山中にわけ入り、池のほとりに坐して背負い来りし薬師如来の像を前にして、薬師如来の真言を一心に唱え三十七日間御祈祷をした結果、今までこの地をあばれ廻っていた龍もこの法力によって池の中より出られず遂に法の悟りを聞いて往生したりと伝えられる。土地の人々はこの大池を埋め、この跡地に小庵を造り名僧としてこの高僧を礼拝し、この庵に住んで頂き、薬師堂を建立、薬師如来像を安置した』
(泉龍院の由来伝承より)

…そうなんです。
この池を見て
(そうかぁ、ここに龍が封じ込められているのかぁ)
とか思いそうなおばさんですが、その池は埋め立て跡地には〝庵〟と〝薬師堂〟を建てておりますので、決してこの池ではないのです。
そもそもこの池は子どもが水遊びをするくらいの小さな池で、ここに仮に龍がいたとしてもあまり大きくは無さそうな…。
…いや待てよ?
神獣だから、池の大きさにはあまり関係はないかもしれません。
それに猛獣というのは大きさには関係ないし。

…。
あ、ちゃんと理解しております、この池ではないこと。

かつての池はどうやら御本堂の裏手にあったようで。
そちらへは行ったことがないので、良き季節になりましたら、御本堂の裏手に行ってみようかと思います。
…それは寒い時期?
とりあえず熊等の有害生物の活動が鎮静化している時期に。

そんなおバカなおばさんを正しい道へと導くかのように道元さんの御像が鐘楼門の前にお立ちになられております。


新しい鐘楼に付け替えられた梵鐘は誰が撞いてもよいようです。
何故かこの鐘好きなおばさん、再再拝でありながら一度も鐘を撞いておりません。
次回、…はお正月、ですので、次の次くらいにはぜひこの鐘を撞かせていただきましょう。

そしてみぎてには地蔵堂があります。

No.364

(続き)

その山門をくぐりますと。

…どこから伝えたらいいでしょう。
そう思うくらいお寺さんらしさ満載の空間です。

目の前には大きな鐘楼門がそびえております。
そしてみぎてには鐘楼。
…えっ?

鐘楼門と鐘楼…。

いかにも古い鐘楼門は梵鐘がなく、新しそうな鐘楼には梵鐘があります。
さては供出をされたか、と思いきや、宝永七(1710)年に建立された鐘楼門が老朽化したため、鐘を新たな鐘楼を建てそちらに梵鐘を下したとのことでありました。
…いかにも古そう、とは書いたのですが、そこま古いものであったとは思えないものでありました。
こちらの鐘楼門にも扁額があるのですが、…読めない。

いつかまた調べてみたいと思います。
…と、いうわけで、珍道中ペアにはすでに申請済み。しかも「来年のお正月の大祭に行きます」と大胆な宣言で。
その時は車で。
たとえ駐車場待ちをしようとも、車で。
コロナ禍における制限が完全に撤廃された初めてのお正月、…混むだろうなぁ。


鐘楼門のひだりてには白山妙理大権現さまのお堂があります。
修行僧の修行中の守り神様であるという白山妙理大権現さまが安置されるこのお堂は、山門と同時期(慶安二(1649)年)の建物と推測されているとのことです。

その白山堂の前には池が。
なかなか風情はある池であります。

No.363

のどかな里山。
お寺さんの境内地なのはたしかです。

たしかにそうなのですが、景色はまさに里山。
お寺さんといえばそこここにある、石塔や石碑、背の高い木もありませんし、何より石仏さまもないのです。
それどころかショベルカー。
うーん。
こんなだったかしら。

今度は保育園の子供たちが小さな手を繋いで、先生に導かれよちよちと歩いています。
うーん、癒される♡

あ、…あれ?
あんな急坂を?
…先生のあとをついて、ゆるやかな下り坂を下っていきます。
…あったのか、ゆるやかな道。

それでも帰りもまた先ほどの道を戻るしかない私。
何故ならばあまりに急な斜面、途中で自転車を置いてきたから。

さて先へと進みましょう。
朝一度書いたものが、また消えてしまい、前回のものを含めると同じところを実に三度!書いている私です。

おお!

ようやくお寺さんらしい景色が見えてきました。
山門が見えています。
ほっ♡

山門のそばに、カルタの絵札と読み札に解説をつけた看板があります。
その上にはブロンズの坐像。
……どなたでしたっけ?

何年かぶりの再再拝、いろいろ忘れてしまっております。


🎵 歳をとるのは 素敵なことです
  そうじゃないですか?
  忘れっぽいのは素敵なことです
  そうじゃないですか?

かの中島みゆきさんも歌っています。


再再拝でありながら、初めて訪れたお寺さんみたいで、素敵なことです、…そうじゃない!


山門の前には何段かずつに分けて石段があり、立派な狛犬さんがおられます。
狛犬さんがにこやかに微笑みながら向かいあっておられるそのすぐ後ろには、ブロンズの仁王さまが正面を向いて門を守っております。
こちらの山門には葵の御紋の瓦があります。
三代将軍家光公より特使を受け山門を建立した事によるといいます。

扁額には『青枩林』。当時は修行道場であったため、〝竹号〟の額が掲げられているといいます。


その山門をくぐると。

No.362

(続き)
しかしながら厄除けで有名な泉龍院さん、そこここに大小の案内の看板が出ております。
よおしっ!
ここで曲がる。
…。

…ほんとにここで良かったです?

細い、ここ周辺の住人の方くらいしか通らないのではないか、というような道であります。
近くに小学校があるようで、高学年と思しき子どもたちが、校外学習のようで、列をなすでもなく、自由に、まるでお散歩のようにゆったりと歩いていました。

その間一台も車が通ることはなく。

本当にこの道で合っている?
…看板の矢印って、結構アバウトだったりしませんか?
もしかして…みまちがえた?

ただ、間違いなく上り坂であること、ひだりてに低山がありそうなのはたしかです。

…とりあえず登って行こう。

しばらくはひたすら上り坂を登ります。


あっ!
あったぁぁ!

大きな石仏さまがお迎えくださっておられます。

が。
…結構斜度のキツイ上り坂です。

そして。
少し登るとまた小さな案内の看板が…。

えっ。
…き、キツい斜度です。

しかもヘアピンカーブ。
自転車を漕いで登るのも、押してあがるのも無理!
絶対、絶対無理です。

で。
邪魔にならないであろう場所を探して自転車を止めました。

ここからは歩きます。

のどかな里山です。


No.361

(続き)

桐生川にかかる橋を渡るころから、上り坂が続きます。

実はこの日、駅で無料で借りられる自転車で泉龍院さんへと向かっておりました。
(…しまったあぁぁ、バカだった)

深まる秋の気配を感じたい、
などと思った自分をここへ来てそれはそれは恨めしく思いました。
そもそもが今年の秋は九月中旬の陽気からいきなり十二月中旬の気温となり、秋らしい秋など存在しなかったというのに…。
だからこそ秋を感じたいと思ったのもたしかではあるのですが、いやぁ、キツいキツい!
その上り坂の続く道との戦いで、秋の気配や秋の景色など感じる余裕など全くなくしてしまっていました。

おまけに、再拝させていただいた時からかなりの年月が流れており、どう行けばたどり着くかすら、この辺りから不安になってきてしまった私。

どうする おばさん。




No.360

【ウクライナ難民支援×禅語御朱印】
【田澤山青枩林泉龍禅寺泉龍院】

群馬県桐生市菱町にあります泉龍院さんに参拝してまいりました。こちらは再再拝となります。

こちらは厄除けで有名なお寺さんで、初詣ともなると桐生市はのみならず近隣からも篤信の老若男女が参拝し、広い広い駐車場でありながらそこにすら収容しきれず順番待ちするほどのお寺さんであります。

厄除けは相変わらずいまだしたことが無い私ではありますが、当時は…自分では初詣している自覚なく…初詣もしたことがなかった私。
思い立っての初めての初詣が、こちら泉龍院さんでありました。


(凄っ!)

厄除けのなんたるかも知らずに訪れた泉龍院さんの駐車場で、思わず帰ろうかとすら思ったほどの人出を見、いかに自分が信仰とほど遠い世界にいることをあらためて知ることとなり、さらには境内でもその車の台数から推察できる以上の人の波に揉まれ、初詣とはこういうものか、とただただ驚いたものです。
そして…感動しておりました。
さながら…。

さながら初めて日本を観光し、日本人の信仰の場を初めて訪れた外国人のように。




No.359

呟き。。

今朝ほぼ千字打ったものが消えてしまっていました。
何をしでかしたのか、消えてしまったその事実にも悲しみを覚えますが、何かをしでかしたであろう自分自身が哀しくて悲しいです。

気持ちを切り替えるため、今日のできごと、今日の一コマをつぶやきます。


今日、知人の家に届け物をするためたずねると、知人の車がありませんでした。
(出直そう)そういったんは思ったものの、ふと思い返して呼び鈴を鳴らしてみました。
ご主人がおられるようです。

その知人のお宅の玄関には、大きな油絵がかざられているのですが、聞けばご主人が描かれたものとのこと。
その絵の描かれた背景を知りたかった私は、良い機会を得たとご主人にお聞きしました。
「ああ、これ?これはね、初めて描いたものなんだけど、県展に入賞してね。
思い入れもあってなかなか捨てられなくて、邪魔だからという理由でここにあるだけなんだよ」

その絵は塔のある大きな寺院のようなのですが、何故か馬が描かれています。
「なんかこの空間が寂しく思えて、馬を描こうと思っただけなんだよ」
…なるほど、やっぱり実際にいるわけではなかったんだ。

「これはね永平寺なんだ」
「永平寺に実際に行って、それを元に描いたもの、なんだよ」



…永平寺。
…永平寺、さん、ですか…。

曹洞宗の、総本山ではないですか。





このタイミングで…。

No.358

(続き)
ます。
「曹洞宗のお寺さんは玄関先にはよく韋駄天さまがおまつりされていますね」
そう申し上げた私に
御住職さまは、
「そうなんです、よくご存知ですね。
韋駄天さまは大変走るのが早いので、万が一泥棒が入るようなことがあってもすぐに追いついて事なきを得ることができるから、ということで玄関を守っていただいているのです。
他にもお台所にもお祀りさせていただいていて、これは出来上がったばかりのお食事を一刻も早く提供して出来たてを食べていただけるようにとお祀りすると、お山で修行中に教わりました」
と、丁寧にお教えくださいました。


こちらのお寺さんの禅語は、

【指月】

『〝指〟は〝言葉(経典)〟、〝月〟は〝真理〟
『人の指を以って月を指し、以って惑者に示すに、惑者は指を視て月を視ず。
人これに語りて、われは指を以って月を指し、汝をしてこれを知らしめんとするに、汝は何んが指を看て、月を視ざる』
大智度論『指月の譬』

経典に書かれている言葉ばかりにとらわれていると、その先にある本質(真理)を見失ってしまいます。
これを龍起和尚が指と月にたとえて伝えたと言われています。(中略)

一心不乱に進んでいると先を急ぐことにとらわれて、何で歩いていたか忘れてしまいがちです。
一旦立ち止まり、歩んできた道とこれから行くべき先を見つめなおす時間も前に進むためには大切です。』


うーん、なんと私に向け発せられたかの言葉でありましょう。

指月という言葉にとらわれて、本質がみえない…。


やれやれ、道は長そうです。


ちなみにこの巡礼、実に四日でコンプリートした強者がおられるようです。一日に二百キロ車を走らせた日もあったといいます。

…うーん。
…五月末まで期間はあるといえ、コンプリートは無理だな。

しかも電車を使おうとしたら、夫に「車の方がずっと安いよ?」
と言われてしまった。
彼もまた真実が見えていないな。
…妻が車で迷子になったらどうするのだ?



No.357

(宝珠寺さんの続き)

宝珠寺さんはその山門をくぐるとすぐみぎてに御堂があります。
〝天満宮〟と書かれた木の板が掲げられています。
それなりの規模の御堂で、中央には菅原道真公の木像が祀られ、左側は石造のお地蔵さまの御像、他にも一体石像が祀られています。

その御堂の前にはアジアンなお顔立ちの金ピカな狛犬風の像が二体。
うーん?

天満宮の前を過ぎると立派な鐘楼があり、こちらの梵鐘は撞いてよいのです。
群馬県で鐘の撞けるお寺さんはそう多くはありません。
鐘を撞くのが大好きな私、ましてや鐘には煩悩を消す力があるとか。
煩悩の権化たる私、なんなら百回くらい撞いたら少しはまっとうになれるかもしれません。

…。

…まぁ、煩悩は減ることはありませんでしたが、鐘を撞いて、御本堂へと向かいます。

ウクライナ難民支援に協賛した御朱印は基本的にはお書き置きのようです。
ただし御住職かお手隙であれば直書きもしてくるとのことで、庫裏ヘお邪魔させていただきました。
副住職さま、でしょうか、前回御朱印をお授けいただきましたときの方とは違う方でありました。
お優しそうなお顔立ちです。

庫裏、ではなく檀信徒の方のための会館のようで、正面には『韋駄天』さまが祀られています。
 「曹洞宗のお寺さんは玄関先にはよ韋駄天さまがおまつりされていますね」
と申し上げると副住職さまは一瞬驚いたようなお顔をされその後大変嬉しそうなお顔をなさったのです。

No.356

呟き。

ウクライナ難民支援の御朱印をお授けくださるお寺さんとは一切!無関係です。


一隅を照らすって言葉がありますが…

こ、これ、照らされたら困るでしょ?という、廃寺でもないのに廃寺より大変なことになっているお寺さんに行ってしまいました。

とはいえもちろん御本堂はきちんとされておりますし、墓地もきれいに整備されています。

ただ境内の一部があかんことになっておりまして、そこはまさに歩くのも躊躇われるゴミ捨て場状態。
しかもそれが御住職のお住まいの前。
…決して無住ではありません。
そして一隅というほど狭い範囲ではありません。


こんなお寺さんもあるんだなぁ。

世の中広いものだ。
びっくりした。

いつからこうなんだろう。
誰にも止められないのかなぁ。
そうした疾患があるにはあるけれど。

びっくりした。

No.355

【ウクライナ難民支援×禅語御朱印】
【如意山宝珠寺・群馬県伊勢崎市】

群馬県伊勢崎市赤堀今井町にあります【如意山宝珠寺】に参拝いたしました。こちらは再拝となりますが、大好きなお寺さんの一つです。

最初の参拝はまったくの偶然から。
お寺さんの前の道を通りかかって、そこにお寺さんがあったことを知ってのことでありました。
通りからはかなり奥まっており気付かずそれまで何度となく通り過ごしておりました。
決して大きくはない小さな案内板に気付いて、のことでありました。

…それにしてもなんて素敵なお名前でしょう、【宝珠】です。
そんなお名前だけでワクワクしていた私を、さらにワクワクさせてくださったお寺さんでありました。

どこを歩いても空間に程良いゆとりがあって、実に趣のある境内なのです。
侘び寂びとはかくいうものであろう、そう思える境内であります。

山門前には参道をひっそりと見守っておられる石仏さま。
その優しい眼差しにまず癒されます。
この日は今年一番の冷え込みとなった日で、しかも薄曇りでありましたというのに、なぜか温かな気がする空間であります。

山門前には『ウクライナ難民支援・平和への祈りと禅語に親しむ巡礼・御朱印授与』と書かれた幟旗が風に揺れています。
それすらが自然にとけこんでいます。

そんな優しい空間に、ちょっぴり離れがたい思いを抱きつつ、山門をくぐりますと、懐かしさにも似たほっとする空間が広がっているのです。
…二度目の参拝ですし、久しぶりではあったものの決して懐かしさを感じるような分際ではないのですが、ね。
それはきっと御仏が、そしてお寺さんの方々の訪れた全ての者を温かく迎える思いや、姿勢がそうした空間を作りだしているのでしょう。

車を降りた瞬間から…いやこのお寺さんに向かっている車中ですら、癒しの気に包まれています。

山門をくぐると真正面に御本堂。
そこに真っ直ぐに向かいたい思いを抱かせるほどの存在感です。
…決して大きな御本堂ではありません、ごく普通の、いわゆる一般的なお寺さんの御本堂の大きさです。
あちこち目移りしやすいおばさんには全くもって珍しいこと。
それだけお力のある、そして訪れた者を全て温かく迎えてくださる御仏がそこにおられるのでありましょう。

No.354

釈迦尊寺さんの火災は出火元は本堂のようで、消防車十三台が出動して消火にあたり、火は、17時間以上たった本日午前十時ごろに消し止められたということでありました。
この火事で、木造瓦ぶき平屋建ての本堂、およそ四百平方メートルが全焼したほか、敷地内のこども園と住職の住居の一部が被害を受けたということですが、不幸中の幸い、けがをされた方はいなかったとのことです。


No.353

【悲報 寺院火災 2023/11/12】

群馬県前橋市にあるお寺できのう火事があり、本堂が全焼しました。

きのう午後四時半ごろ、前橋市元総社町の釈迦尊寺で、「火災信号を受信した」と警備会社の職員から119番通報があり、消防車など十三台が出動、きのう午後十一時半の時点ではまだ消火活動中だということでありました。


…こちらのお寺さん、かつてのこの地方の豪族である羽鳥連の妻『玉照姫』が、聖徳太子より授けられた釈迦像を崇敬していたことに由来していると伝えられています。

羽鳥連の孫『羊太夫』が、上洛の途中大和国多武定恵和尚にこの話をしたところ、定恵がこの地に来て、
一寺を創建し、【釈迦尊寺】となったという伝説があります。


一寸八分の釈迦如来像は現在、秘仏となっており平安時代末のものと推定されているといいます。

…と、まぁ、これが釈迦尊寺さんのHPに記されたものでありますので、お寺さんにいたしましても、聖徳太子由来の釈迦尊像というのは、あくまでも伝説であると考えておられるといったところではありますが。

全焼の報道もあり、何より通報が警備会社からのものであったことから考えると、この釈迦尊像も無事ではない可能性が高いのかもしれません。

この釈迦尊像の御開帳があるのかないのか、お寺の関係者さんとお会いできたことがないため、そうしたことは一切分からず、いつかお寺さんにお聞きできれば、と思っておりました。


そして。
こちらのお寺さんには、三遊亭圓楽さんのお墓があり、今年一周忌の法要がしめやかに執り行われたばかりでありました。


近隣住宅などへの延焼はなく、けが人もいなかったとのこと、それだけはなによりのことでありました。


No.352

(続き)

「明兆さんが涅槃図を描いている時、一匹の猫、どこからか絵具を咥えてはやってきたというんです。

何度も何度もそんなことが続き、明兆さんは、(猫はこの涅槃の時にネズミを追ってしまい、お釈迦さまのために天より駆けつけた摩耶夫人の手にした薬袋が間に合わなくなる事態を招いてしまったというが、今こうして絵具を持ってきているということは、ここに加えて欲しいということなのかもしれない)
そう考えて明兆さんは古来描かれずにいた猫を描き加えてみたんですね。

そうしたところ、猫はぱたっとやってくることは無くなったのだといいます」

明兆さんがこの絵を描いているとき、お母さんが亡くなったという知らせを受けたのですが、明兆さんは今は手が離せないと、自らを描いた絵を葬儀の席に送り届けたといいます。
ただひたすらに絵を描いて過ごしてきており、明兆さんは僧としての位とかには無頓着で、終生、仏殿の管理を務める殿司(でんす)の位にあった人なんですよ。」
と。

ちなみに東福寺のは涅槃図の猫の話は東福寺のHPにも書かれていました。私のあやしい記憶を介してではない方が良いかと思いますので、原文のまま載せたいと思います。


『往昔畫聖兆殿司(おうせきがしょうちょうでんす)、大涅槃像(だいねはんぞう)を描かんとしける時、一匹の猫、何処よりか絵具を咥え来たること度々なり。
殿司、之を憐れみ猫は由来罪業深重(ゆらいざいごうしんちょう)にして、佛の慈悲にも浴し兼ねたるものなるが、今佛涅槃の絵具を持ち来たりし功徳に依り、罪業消滅魔障退散(ざいごうしょうめつましょうたいさん)し、速やかに佛果を成ぜりとて畫中に猫を加へぬ。
世人傅へ聞きて、之を魔よけの猫と称して珍重しけるが、今復ここに其形(そのかたち)を模して、弘く十方に頒ち、世の篤信の人をして悉く魔を除き福を得せしめんとて、二夜三日の祈念を籠め造りし像なりされば、深く念じて其霊験のあらたなるを知るべし』


ということであります。

ちなみにこちらではこの猫を『魔除けの猫』と呼ばれています。


うーん、明日から公開ですかぁ。

No.351

(光榮寺さんの続き)

光榮寺さんの御住職さま、涅槃図についてのお話、猫のが描かれていない理由、それから猫が描かれている涅槃図のお話をしてくださいました。
前述いたしましたが光榮寺さんの涅槃図には猫はおりません。

その猫からの繋がりから、京都東福寺さんの涅槃図のお話となるのですが…。

京都三大涅槃図の一つと言われています東福寺さんの涅槃図は、室町時代の画聖『吉山明兆』さまにより描かれたものです。
縦約十二メートル、横約六メートルという非常に大きな絵だといいます。

この東福寺の大涅槃図、猫が描かれているといいます。

この度百年ぶりに四年の歳月をかけた令和の大修理が行われ、亀裂や折れが修理され表具も新調されて、色鮮やかな往時の姿が甦ったといい、光榮寺御住職さま、十一月十一日からこの東福寺大涅槃図の特別公開があることをお教えくださいました。

宗派も異なるお寺さんでありますのに、そんな先取り情報までご存知とは、光榮寺さんの御住職さまはもしかしたら代々絵がお好きなのかもしれません。

光榮寺さんの御住職さまは、さらにこの絵をお描きになった明兆さんのお話をしてくださいました。

No.350

【ウクライナ支援の御朱印 IN群馬】

続きます、と書いておいて、続けないおばさんをお許しください。


実は今、群馬県内の一部の曹洞宗のお寺さんで、ウクライナ支援の御朱印に賛同した三十六ヶ寺で〝禅語〟御朱印が期間限定で授与されています。

今月の一日から来年の五月いっぱいまでの期間で県内の参加寺院三十六ヶ所を御朱印拝受巡りすることで支援と限定のコラボ御朱印が頂けるという企画です。

以前にも同様の企画があったのですが、たまたまその企画終了直後に気づいたため、支援こそできましたものの、御朱印拝受にはいたらなかったという、なんとも珍道中ペアらしい結末だったのですが…。

今回はまだ開始されたばかり。
よぉ〜し、巡礼だ!
とりあえず、自分一人で参拝できるところへ。

今回、禅語御朱印とのことで、なんだか賢くもなれそうな…。

まぁこればかり(賢くなる)は、無理でしょうが。


No.349

涅槃図を拝して、まずはそのお釈迦さまの御尊顔が苦しそうでないかどうかを見てしまいます。
穏やかなお顔がほとんどではありますが、中にはそうでない描き方をされる作者もおられるのです。

そのあとは、やはりその描き手描き手で、どこに重きを置いて描きたかったかが、こんな絵心の全くないようなおばさんにも伝わってくるもので、自然とそこに目がまいります。

そういった思い入れなく、その情景を素直にお描きになる描き手さんの絵では、まず全体を見て、そのあとは下の方に描かれる動物たちに目がいくことがほとんどです。
それは動物が好き、ということもありますが、やはり注目してしまうのが猫が描かれているかどうか、であります。

ちなみに光榮寺さんの涅槃図には…猫はおりませんでした。

振り返ってみるとこんなに足繁く通わせていただいている光榮寺さんでありますが、涅槃図を拝見したのは今回が初めてでありました。

何か意味があるのか、妙にお釈迦さまの肌だけが黒く描かれています。
変色?
しかしながら、どの部位を見ても肌の色は同じように黒い。
なので光榮寺さんの涅槃図はお釈迦さまに目がいって、なかなか他へとはいきませんでした。

私は気になったものの、そういったことをお聞きするのは苦手でありまして、とうとうそのお釈迦さまの肌の色についてはお聞きせずじまいでありました。

えっ?エックスキューズミーおばさんなのに?

…そうなんです。
どうお聞きしたら不快感をお与えせずに質問できるか、を考えると、その場でどうにも答えが出せず、結局何も触れずに帰ることが結構多いのです。

光榮寺さんの涅槃図でもお聞きできずに帰ってまいりました。

さて御住職さまはこの涅槃図についてはさして語られることなく、猫が描かれているもの、描かれていないものがある理由についてを詳しくお話くださいました。


(続きます)

No.348

(光榮寺さんの寺宝)

この柿薬師大祭では寺宝公開もされ、毎回前年のものとは違うものを展示してくださいます。…といっても、私自身は毎回行けていたわけではないのですが、ね 笑。

今回展示されていたのは〝涅槃図〟、〝十六羅漢〟の掛け軸二幅(ふく)、〝開山良瑜上人を描いた掛け軸〟、中国のお寺にある弘法大師さまを彫られた板絵の拓本、…等々。
今年が弘法大師さまがお生まれになって1250年の記念の年てあったこともあって、遣唐使の唐へ渡る海の画や、当時の中国やインドの地図なども掲示してありました。

その寺宝の飾られた間で、大祭の行事の合間を縫って、御住職さまがご説明くださいました。
寺宝のありがたみがことさら増すようなありがたいことでありました。

弘法大師さまの生涯をかいつまんでわかりやすくお話しくださいましたが、その澱みない語りに、弘法大師さまへのあふれるような恭敬の念を感じました。
お大師さまのことからほんの少しだけご自身の高野山での修行中のこともお話くださり、その中で、高野山での行事のときには、実際弘法大師さまがお手にされていたという『五鈷杵』を用意することがあり、それを手に持ったことがあるとお話くださいました。

〝あの〟五鈷杵が実在するなんて。
…こともなげに話されておられたのですが、私にしたらもう驚きと感動で「あの五鈷杵が…、あの五鈷杵を」とつぶやいたのち、しばらくは絶句していたくらいで。

あんな、〝弘法大師さま〟といったら欠かさず、必ず描かれる五鈷杵、お大師さまの身体の一部のような、分身のような、シンボルともいえる五鈷杵が、今なお伝えられている、それだけではなく実際に使用されているとは!

…実際にはそんなにいつも手に持っておられたわけではない、ということ、なのでしょうかね。
御入定の際、手に持たれていなかったということでしょう。
持って御入定されたものであれば、お大師さまのところから引き上げてくるようなことはないと思われるので。

はあぁぁ、さすが高野山だぁ。


(また少し話が逸れたところではありますが、戻したところへ続きます 笑)

No.347

(続き)

近年、お寺さんでキッチンカーが出店したり、ライブが開かれたりと、時代に合わせたお祭りが開催されるのを見聞きします。
夜ともなればライトアップしたり。

お寺の御本堂でヨガやピラティスなども行われているようです。

父方の菩提寺からはLINEでそうした様々な行事予定や近況が送られてまいります。
SNSのアカウントを持ち、配信される神社さんやお寺さんの多いこと、多いこと。

かろうじてついていけているのか、いないのか、その辺はさておき。

そうした一連の動きというのは、新たなる時代に向けて、そして若い世代に対して開かれた場所であろうという〝試み〟なのであろうと思っておりました。

しかしながら。
『大間々町誌・資料[大間々町の社寺』の光榮寺さんのページを読んで、決してそれは今に始まったことではないことをおもいしらされるのでありました。

それは…。
『…昔は余興として境内に組み立てた舞台で芝居やサーカスをやったり、戦後になると本堂の前に幕を張って映画を上映したこともあったが、最近は夜になってカラオケ大会を開催するようになった…』

境内で…。
本堂の前に幕を張って映画…。

うーん。

…『御本尊さまを公開しているから、眼病が流行ったのではないか』、などと非科学的な風聞が流れる頃とそうは変わらぬ時代において、…舞台を設置し、芝居やサーカス…。
御本堂前に幕を張って映画を上映…。
…バチが当たるとか、言い出す人っていなかったんですかね?
長いこと神仏に関わらず生きてきたおばさんは、ようやく神さまのことや仏さまのことを学び始めたところで、知らないがゆえ…なのか、『バチが当たる』といった思考になりがちです。

まぁまぁ、過ぎたこと、過ぎてきたこと。

それにしても。

人の世というのはそうは変わらない、ということでしょうか。


うーん。

No.346

(続き)

…大正時代まで、「眼病が流行しているのは、お薬師さまをみだりに公開しているために起こったのでないか」などという風聞が流れること、しかもそれ以来厨子の中に御本尊さまを納められるようになる、そんなことが普通に起きていたんだ…。

少しびっくりしました。

それでも、それはそれだけ光榮寺さんが、地元の方たちとそれだけ密に寄り添うお寺さんだという証し、なのかもしれません。


柿薬師大祭も実に古くから続く行事でありますが、江戸時代は信州上田、水戸の方までPRし、関八州から参詣人があったという記録が残っているようです。

先代の御住職の頃には、人形供養と柿薬師大祭は別々の日に執り行われていたようで、人形供養は十一月三日の文化の日に、そして柿薬師大祭はお薬師さまのお縁日である八日を含んだ十一月七日・八日にそれぞれ開催されていたようです。

その当時は柿を御本尊さまにお供えし、御住職が二座の『薬師作法』を行われていたといいます。
また、現在では参詣者に柿が一人に一つずつ配られていますが、当時は『大間々柿薬師如来』と書かれた赤い紙の旗が配られていたとのこと。
この赤い紙を畑にさしておくと作物に虫がつかないといったといいます。

かつて門前から境内に至るまで露天商が出て、とりわけ昭和三十年代までは大通りや裏通りにいたるまで柿を売る露店であふれていたといいます。
しかしながら時代の流れで平成元年頃を境に柿が売れなくなってしまい、柿を売る露店は出なくなってしまったといいます。
うーん、たしかに私などは以前から柿を食することは滅多にありませんし、かつてのように人から柿をいただく機会も無くなりました。

みどり市の笠懸地区の道を少し入ると柿農家さんが何軒もあり、季節になると柿の産地直売所が開かれています。
農家さん自体が減ったというわけでは…それもあるのかもしれませんね、どの農家さんにしても後継者問題で頭を悩ませている話を聞きます。


ただ柿を懐かしむ声も強いということで、現在はお寺で柿を用意して参詣者に振る舞っておられるといいます。

…どおりで。
どおりでどの柿もまるで売り物のように形の整ったものでありました。

ただ御本尊さまの前に山のようにお供えされた柿は、粒の揃ったものだけでなく種類の異なる様々な柿が供えられているので、こちらは奉納された物、なのでありましょう。


No.345

【柿薬師の由来】

群馬県みどり市の『光榮寺』さんの山号は薬師如来さまのおられる瑠璃光浄土にちなんだ『瑠璃光山』であります。
幾度となく参拝させていただいておりますのに、今回初めて光榮寺さんは東京都港区の『真福寺』さんの末寺であることを知りました。

今回、御住職さまから直々に寺宝のご説明から始まり、光榮寺さんの御由緒をお聞きする機会を得ました。


こちらの柿薬師如来像は、行基菩薩玉躯安穏平癒を祈って造られた薬師仏像一千体のうちの一つと伝えられているといいます。

開山の良瑜上人さまが、天正年間、讃州屏風ヶ浦の巖頭において阿字三昧を修行されておられたとき、毎夜海浜に光るものがあるのを見て、その光を尋ねて行ったところ、御丈九寸五分(台座を含め二十九センチ)の薬師如来さまの御像を得たといいます。

良瑜上人さまはこのお薬師さまは東国有縁の仏であると確信され東国に流遊を思い立たれます。
『一片の布帆に万頂の広范たるを凌ぎ鳴門海峡を渡り舟を尼ヶ崎につなぎ難波、伊勢尾張、木曾から諏訪、浅間、榛名、赤城を過ぎ、』(昭和三十年代に先代の御住職がまとめられた略縁起より)
現在の桐生市黒保根町涌丸の医光寺さんにたどりつかれたといいます。

当時大間々の六人衆と呼ばれた人たちが、たまたまこの地に寺建立を請願しており、良瑜上人の噂を聞いたそのうちの一人が黒保根町の涌丸まで出向き、「現在寺を建立すべく請願しており、良瑜上人さまのありがたいお薬師さまの御像をその寺のご本尊に迎えさせていただきたく、お願いにあがりました」と申し、良瑜上人の了承を得られ、開山に当たっていただくことができた。

…というのが、光榮寺さんの始まりのようです。

開山当時は『高栄寺』と称していたようですが、のちに現在の光榮寺に改めたといいます。

寛文年間に火災にあい、元禄二年に再建、弘化四(1847)年に建てられたものが現在の御堂であるようです。

このご本尊の薬師如来さまは眼病の治癒に霊験あらたかで、厄除けの効験があるとされ、柿の木でできていると伝えられています。

大正時代までは開帳しお祀りしていたようですが、眼病が流行したとき、『薬師さまをみだりに公開しているために(眼病が)起こったのだはないかという風聞が流れ、それ以来厨子の中に納められるようになったのだといいます。


(続きます)




  (寒桜)

No.344

【令和五年 柿薬師大祭】

コロナ禍で中止とされていた群馬県みどり市の【光榮寺】さんの『柿薬師大祭』が今年ようやく開催されました。

大祭は約三百年続いていたものといい、このコロナ禍ということでの中止が初めてだったようです。

こちら『光榮寺』さんは慶長八(1603)年、柿の木で作られた薬師如来さまの像を携え、このお薬師さまを安置する地を探してちょうど桐生市の黒保根辺りを訪ねて歩かれておられた良瑜上人の噂を聞いた大間々六人衆の一人が、
「実は大間々という土地に新たに寺を建てる計画があり、ぜひそのお薬師さまをご本尊としてお迎えさせていただきたいのです」と懇願し、良瑜上人が開山となって開かれた、というお寺さんであります。

良瑜上人が携えてこられた薬師如来さまの御像は柿の木で造られている為、別名柿薬師といわれております。


この『柿薬師大祭』は毎年十一月の第一日曜日に開催され、御本尊薬師如来さまの功徳にあずかろうと多くの善男善女で賑わいます。

渋柿が太陽の光を浴びると、渋みが取れ、甘柿になることから、人間を柿に見立てて御本尊の光を浴びることで、知らず知らずに犯してい悪(アク)を取り除き、きれいな心と身体になって、来る寒い冬を乗り超えるというものであります。


大祭では参拝者全員にお札と柿が配布されますのもありがたいことでございます。

コロナによる中止以前は、この大祭、御本堂を開放して『寺宝展』、『写経・写仏会』が開かれており、こちらの写仏会が私にとって生まれて初めての写仏体験でありました。

この大祭ではまた、人形供養が盛大に執り行われ、またかつては子どもも大人も楽しめる『柿の種飛ばし』大会や『輪投げ大会』が盛大に開催されておりました。
この大会、たしか優勝者はディズニーリゾートペアチケットがいただけるものだったと記憶しており、その景品の豪華さに全国ネットのテレビ局が取材に訪れていたとも。


今年は大祭開催の声を聞いた方たちから、人形供養の問い合わせが殺到しているといい、午前・午後の二回に分けて執り行うということは、事前に副住職さまからお聞きしておりました。

でも、さすがに、あの目玉ともなっていたであろう『柿の種飛ばし大会』はお聞きするまでもなく中止、であろうな。
というか今後は一切開催されることはないのだろうな。


No.343

【桐生市新宿八幡宮さんの庚申阿弥陀如来像に寄せて】

群馬県桐生市の【新宿八幡宮】さんの境内の片隅に石造の阿弥陀如来さまの御像がぽつんとお立ちになられておりました。

神仏分離令以前の時代の名残りであろうかとそこは気にならなかったのですが、庚申塔と並んでお立ちになられていたことに少し違和感に近い感覚を覚えました。
後にそれが『庚申阿弥陀如来像』という大変に珍しいものだと知りました。

庚申講の人々が、庚申待の供養のために造立したものに庚申塔があります。
ほとんどは石造物で、形も実にいろいろな種類がありますが、江戸時代になると定型化し、青面金剛さまの刻像塔や庚申の文字を刻んだ文字塔が主流になってまいりました。


庚申の供養塔で阿弥陀如来さま。
…初めて拝見いたしました。

でもこの、神仏にほとんど関わることなく生きてきたようなおばさんが知らないことなど星の数よりも多いし、しかもぼーっと生きておりますので、今までだって本当は庚申で建てられた阿弥陀如来さまの像を、
「ああ、ここにも石仏さまがおられる」
くらいの感覚で手を合わせて、そうした背景に気づかずに過ぎていたかもしれません。
『石仏さまがお墓であることもある』、ということも、珍道中をかなり進めて初めて知ったところもあるくらいの人物です。

しかしながら、ネットで調べてみる限りにおいて、この、阿弥陀如来さまを彫った庚申塔というのは全国的にみても大変珍しいもののようなのです。
…あくまでもネットで調べた限り、ですが、ね。


三重県の一志町というところにあるという『誕生寺』さんというお寺さんに伝来している庚申塔には、戦国時代の年号が刻まれているといい、こちらがやはり『庚申阿弥陀如来像』だといいます。
  
こちらの庚申塔は砂岩に阿弥陀如来の立像を半肉彫にあらわし、像の両側に「庚申待衆八人」「天文十六丁未十二月十三日」の刻銘があるのだといいます。
このことから天文十六(1547)年に庚申待を行った八人が制作したことがわかるといいます。
もともとは近くの道端にあったと伝えられ、それがお寺さんに安置されたようです。

誕生寺さんの『石造阿弥陀如来立像』は、庚申塔の中でも比較的早い部類に属するものだといい、三重県内はもちろんのこと、全国的にも注目される例だと、三重県の県史編さん班の方が書かれておりました。


No.342

桐生新宿八幡宮さんの鳥居を入ってすぐ左側にそびえ立つ、石塔。
これは一体?

四角い石を積み重ね、徳利少し途中でくびれをつくった均整のとれた石塔です。あ、もしかしてこれ、燈篭、なのかもしれません。

高さは三メートル強、というところでしょうか。

いつ頃作られたものなのか、この石塔?燈篭?を作るのに関係した方々の名前は刻まれているのが見てとれたのですが、浅く彫られているのと、一面しか見ることができず。

道路に出て見上げて初めてなんの塔(燈篭?)かがわかりました。
【立太子記念】と刻まれています。

立太子!
さすがは天皇家とゆかりのあるという伝承の残る八幡宮さんです。

でも…どなたの?
おそらくは大正、昭和、あるいは上皇さまかもしれません。
それ以前のものとは思われず、今上天皇のものだとしたら六十三年前、…もう少し古いもののようにも思われます。

これだけのものを、桐生市の中心からは外れた神社さんの境内に造る。

天皇家の繁栄を心から喜び祝してのものでありましょう。

是非また参拝させていただきたいものであります。

No.341

桐生市の新宿八幡宮さんの左面の胴羽目は【雨乞小町】という題材のようです。

天下旱魃の時、小野小町が勅命を受けて、平安京の神泉苑で雨乞いの和歌

『千早ふる神もみまさば
 立ちさばき
 天のとがはの樋口あけたまへ』

(ちはやぶる神も、この日照りを御覧になられたなら、大急ぎで天の川の水門を開けて下さい)

と詠んだところ、この歌の徳でたちどころに大雨が降ったというものだそうです。

小野小町、そんなに凄い人だったんだ…。

そんな小野小町に負けずとも劣らないこの彫刻の凄さ。

…凄くないですか?
こんな動きのある彫刻。

横殴りの雨を彫刻で表せるなんて、思ってもみなかった。

傘のリアルなこと、リアルなこと!

横殴りの豪雨を受けて、小野小町を濡らさんとする男の人の雨に立ち向かう表情といったらありません。


…一体、どんな方がこれを彫られたのでしょう。
それがわかる資料が今のところ見当たりません。
というか、この神社さんの彫刻、桐生市の文化財指定にすらなっていなそうです。

ええぇぇー?!



この八幡宮は、かつては壮大な森林に囲まれた神社であったといいます。
今はあまり人通りのない、昔ながらの商店と民家、小さな町工場などのある町の一角に、二階建ての…幼稚園とか公民館といった風情の、それも今は当初の使用方法ではなく、倉庫として使われているような感じの建物が境内に共に建つようなところとなってしまっています。


しかしながら。
こちらは規模こそ小さいものですがすぐれた技法を残す総彫りの本殿に、往時の面影が偲ばれるといえましょう。
さらに境内には、信州・高遠の石工の作、石灯篭、卍紋入りの珍しい庚申燈篭、 貴重な『庚申阿弥陀石仏』といった石造文化財も多く見受けられました。


うーん、これは大祭等の時に再拝して然るべき人にお話を伺うしかない!


(桐生市新宿の八幡宮さんの【雨乞い小町】』 ↓

No.340

神功皇后の右手には芭蕉扇、左手には大弓を持っておられ、背にはたくさんの矢を背負われています。

こうした形で身支度を整えられたということは、まだ敵がいるやもしれない状況下でのお産であったのでありましょうか。

そんな物々しい支度をされておられます皇后さまのお顔は、何故か戸惑っておられるような…?
初めて会うわが子に、そうした表情をされる一瞬もあるような気がいたします。

そして神功皇后の右側、向かって左側には生まれたばかりの応神天皇を布で絡んで、愛おしそうに満面の…まるで恵比寿さまのような笑みを浮かべる髭をたくわえた者がおります。
この者片膝をついて、神功皇后に赤ちゃんを見せているのですが、そのリアルなことリアルなこと!
ひざまづいたときのズボンの皺、立てた片膝の前にかかる上着の流れる様、上着の紐の縛られている様子、凄い、としか語彙力のない私には表現できません。
また、この者もまた甲冑こそ外してはあるものの、それを外して頭に、…あのお内裏さまが被られる帽子、冠をつけただけで、あとは戦支度であります。

…この彫刻の凄さは、こうした様子がきちんと伝わるだけにリアルに彫られているということ。


これって凄いことですよ。

しかもこの彫刻、神社でありますので、風雨にさらされる外の装飾であるにも関わらず、まだしっかりと色も残っているのです。


神功皇后の左側、向かって右側に中腰で座るもの者は幢を持つのでありますが、その風にたなびく様のリアルさといったらありません。


凄い、凄いです。

珍道中ペアはくぎづけです。

No.339

『塩土老翁神』さま、宮城県の塩釜神社のHPの御祭神のところを拝見いたしましたところ、『博識の神』さまとしても古事記・日本書紀に登場しておられるとのこと。
そうそう、塩土老翁神さまが人々に製塩法を教えてくださったのでした。

…博識の神さまは、私のような痴愚魯鈍な者にはお側にいていただけますと大変ありがたいことでございます。


そして。
こうした境内社は拝殿、本殿を取り囲むように建てられております。

境内社をお参りさせていただきながら、本殿の彫刻を拝見させていただきますと。


…素晴らしい♡♡

構図も素晴らしくて美しくて、その立体感といったら!


幣殿・本殿を囲う玉垣にべったりと張りつくかのような怪しい男女二人 笑。

本殿の床部分を支えるところには、四色の龍。その眼差しがお優しいのです。

そして。

右面の胴羽目には
【俵藤太の大百足退治】
のようすを表した彫刻が施されていました。

瀬田の唐橋の下に棲む竜神に三上山の大百足退治を頼まれた『秀郷(俵藤太)』は、見事に大百足を討ち取ります。
竜神は喜び、取れども尽きぬ米俵、
切れども減らぬ絹一疋、
薪なしで煮える釜、
慈尊出世を告げる名鐘を
秀郷に贈ったとされます。


秀郷はその龍から贈られた名鐘を『三井寺』に奉納したと伝えらています。

まず目につくのは、もちろん俵藤太、なのですが、その側に実に存在感のある青銅色の大きな鐘でありました。

寄せる波も水飛沫が見事に表現されており、松と竹のリアルなことといったらありません。


背面の胴羽目は【応神天皇誕生】

応神天皇の御母堂であられる神功皇后が、お産を終えられ、身支度を整えになられて、わが子でありながら将来の天皇、皇子である応神天皇をご覧になっておられるようすであります。

神功皇后は仲哀天皇の妃。
仲哀天皇が熊襲征伐で敗北し戦死された後、熊襲征伐を取り止め、朝鮮半島に出兵(三韓征伐)し服属させたというお方であられます。
実はその時、神功皇后は応神天皇を身籠っておられたといい、お腹に石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされます。
そしてその帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産したと伝えられています。


(続きます)







No.338

御由緒の書かれた五角形の…絵馬のような形で屋根のついた案内板には、御本殿にお祀りされた御祭神、そして数ある境内社のそれぞれの御祭神が書かれ、祭事がいつであるかも書かれていました。

・八幡宮 品陀和氣命(ホンダワキノミコト)さま・第十六代 應神天皇さま
・琴平神社 大國主命さま
・八坂神社 須佐之男命さま
・貴船神社 闇龗神さま
   (クラオカミノカミさま)
・織殿神社 たく(てへんにに孝)機千々姫命さま
(タクキチヂヒメノミコトさま)
・塩釜神社 塩土老翁神さま
(シオツチノオジノカミさま)

この案内板には記されていませんでしたが、伏見稲荷大明神の石のお社、他にも石のお社がいくつかお祀りしてありました。


八坂神社さんはコンクリートの建物に大きな引き戸でありましたので、もしかしたら御神輿の形でお祀りされているのかもしれません。


織殿神社さんという神社さんの名は初めて拝見いたしました。
『織殿神社』で検索しましたところ、三重県に御鎮座されているとのこと。
ただ、御祭神が『天八千々比賣命』さまとお名前が異なっておりました。
神さまのお名前が異なっていてもあるいは同じ神さまであられることもございます。もしかしたらそうなのかもしれませんが、この三重にあります織殿神社さんの記述によれば、別名は『天棚機姫神』さまと記載されており、こちらとの関係は分かりませんでした。

どちらの神社さんの神職の方が兼務されておられるのか、…あるいは普段はまるで異なる職業にお付きになっていてお祭の時にだけ神職をお勤めなのかもしれませんが…、お会いできる機会があれば、お聞きすることもできるかもしれませんが。

しっかりとした石の鳥居もある立派なお社でありますので、こちらに訳あってお越しいただいたのだと思いますので、出来うるなら知りたい、知りたがり屋のおばさんでありました。

そしてそのお隣の塩釜神社さんはおそらくは覆屋。
あまり大きくはない建物となりますので、中にあります(であろう)お社はさほどは大きくないのではないかと…。
そしておそらく宮城県塩釜市の塩釜神社さんからお迎えしているのであろうかと思うのですが、群馬県という海無し県に何故?

うーん。

この塩土老翁神さまは古事記・日本書紀に出てこられる神さまで、航海の神さまであるとか、潮流を司る神さまであったような…。




No.337

『当社は桐生家重臣新居豊前守宗俊が天文二(1533)年八月十五日 男山八幡宮のご分霊を請うて元宿に遷座せしも 元亀二年の大洪水にて元宿流出し 此の年三ッ塚及び奉行原にかけて新宿を開拓し鎮守として八幡宮を遷せり
当時の社殿は文政六年新宿大火にて焼失し 現在の社殿は其の直後に造営せしものなり』


新宿八幡宮さんの案内板に書かれた御由緒であります。

道路に面した新宿八幡宮さん。
鳥居の横に案内板がありました。

ちなみに〝新宿〟は〝しんしゅく〟と読むようで、この桐生市の新宿町自体も〝しんしゅく〟と読むといいます。

その案内板の横に、そびえ立つ塔がありました。
…この塔はいったい?

気になってしまって仕方ない気持ちを抑えて、抑えて。
鳥居をくぐって、手水舎へと向かいます。

たいそう立派な龍が、清らかな水を絶え間なく注いでくれています。
その誇らしそうなお顔といったら。

大変明るい境内で、真っ直ぐに拝殿へと参道がつづいています。

よ…う幼稚園?保育園?
そんな建物が境内左側にありますが、その建物は古びていて、かつて何に使われていた建物なのか、今何に使われているのかもわからないものとなっています。

たまに、そうした建物を残した神社さんやお寺さんがあります。
…なんともそれがもの哀しい。

かつてはそこで小さな子どもたちが声を上げて、駆け回っていたのだろうに、今は見る影もない。
そうした建物が残されていることが、神社さんやお寺さんをうらぶれたものに見せることがあります。

でもこちらの八幡神さんの社殿はそんなものに一切左右されることなく、明るく、参拝に来た私どもを迎えてくださっていました。

拝殿の扁額には『鳳岡殿』と書かれていました。
うーん、どういった意味なのだろう。〝鳳〟の字には『天子に関する物事に冠する語』という意味があるとされます。
やはり、この新宿八幡宮さんに伝わる伝承が関わっているのでありましょうか。

八幡宮は八幡さま、八幡神さまをお祀りする神社さんであり、『誉田別命』さまとも呼ばれ、まさにこの地を訪れたという『応神天皇』と同一とされています。

拝殿のみぎてには『琴平神社』さんがお祀りされています。
この琴平神社さんの前に立つ狛犬さんのユニークなお顔といったら。
なんと可愛らしいことでしょう♡





No.336

この桐生市新宿町には、池つくり禁忌の伝説があり、人々がそれを守っているといいます。

むかし、何のまえぶれもなく応神天皇がここ放光村(新宿の旧名)わずかのお供を連れただけという、乗馬姿のお忍びで訪れられたといいます。
応神天皇はかなりの遠乗りをされてお越しのご様子で、すでに 晩秋というのに、うっすらと額に汗を光らせておられたといいます。

放光村へ入ってすぐに目についた大きな池に、応神天皇はホッとした表 情をうかべられそのほとりへと愛馬を進ませました。
池の表を渡ってくる風が、汗ばんだ肌に心地よかったのかも知れません。
またほどよく色づいた木立や山々も、天皇の心をなごませたことだったでしょう。

そんな時、静かな晩秋の日には、まったく思いもよらない一陣の突風が巻き起こり、砂塵を舞い上げて天皇を襲ったといいます。

黄色い砂ほこりとなって襲った突風が、前垂れを吹き上げ、お顔を覆うと、応神天皇は一瞬たじろがれます。
そのはずみで手綱さばきをあやまられ、愛馬もろともドウッと池中に落ち込まれてしまわれたというのです。
幸い天皇はどこにもおケガはなかったのですが、愛馬は前の足を骨折して 、二度と天皇を背にすることができなくなってしまったといいます。

 
はるかに遠いむかし、この地でこんな事件があったという、そんな伝承から、里人は応神天皇の霊(みたま)をむかえ、村の総鎮守・八幡宮を 創建しました。

ところが、信奉とはうらはらに池を作ると病人やケガ人が出るという いまわしい事が持ち上がるようになったのだといいます。
それは八幡宮境内だけでなく、 村のどこにつくっても、同様で、里人は
「八幡さまは、まだ、むかしのできごとがお忘れになれないのだろう」とそう解釈して、境内はもちろん、氏子の家々の池を残らず埋め立ててしまったのだといいます。
そして「今後は氏子は池をつくることを禁忌とする」とし、あわせて 前垂れに似た〝おかけ〟も使わないことを申し合わせたそうです。

やがてこの申し合わせを新宿全域の禁忌とし今日に至ったといいます。
他市から転居してきた池好きの方が、禁忌を知らずに池をつくり、何事かが起こったという事実もまた言い伝えられているといいます。

No.335

鎌倉へ飛び、そこから鎌倉殿の十三人、そして日光へ。
お次は一体?…とは当人が一番思っていたりします。

群馬県へと戻ります。

かねてよりずっと参拝したいと思っておりました、群馬県桐生市の【新宿八幡宮】さまへようやく参拝することができました。
実に何年越し。
まあ、今年に至っては、個人の方のSNSからではありますが修復工事が行われていると知ったから、というのもありましたが。

…実はかつてこちらの神社さんへ参拝したいと言い出しましたのは夫。

桐生市にお住まいの方でも、もしかしたらあまりご存じではない神社さんとなるかもしれない、そんなこちらではありますが、実は大変美しい彫刻であると、SNSの片隅で語られているのでありました。

しかしながらわが夫にして珍道中のペアは、どうやら群馬県の伝承、民話から、こちらを知ったようでありました。
まずは順を追って。(…果たしてそれができる人物が書いているのでありましょうか?)


元亀年間(1570〜1572)年創建と伝えられるここ新宿八幡宮さん。

もともとは桐生氏家臣・新居豊前守宗俊が天文二(1533)年に〝男山八幡宮〟の分霊を勧請し元宿に創建されたものであったといいます。
〝男山八幡宮〟は、京都の『石清水八幡宮』の旧称であります。

ところが、元亀二(1571)年に、大洪水により元宿が流出してしまったのだといいます。

そこで新たに開拓した新宿の地に遷座され今に至っているとのことでありました。

ところが。
文政六(1823)年にあったという〝新宿大火〟で社殿と古文書、全てを焼失してしまい、その歩は知る由もないとのことでありました。
しかしながら焼失直後に社殿が再建されており、こちら『新宿八幡宮』さまは実に深い信仰心にうらうちされた神社さんでありました。

この八幡宮さん、実は変わった伝承があり、今も地元民によって固く守り続けられているといいます。

そんな伝承をまず。


かつてはこの八幡宮境内には、大きな美しい池と水神宮とが見れれたと記録されているのだといいます。
けれど、今はそのどちらも名残さえとどめてはいないといいます。
そればかりか町内どこにも池の姿はないのだといいます。
実はこのことにこちら新宿八幡宮さんの伝承がかかわっているのだといいます。


No.334

…膝に象。

日光にもおられます。

象が膝に刻まれた青い仏像、
『烏摩勒伽(うまろきゃ)』さまです。

家光の墓を守る『夜叉門』には四つの仏像があり、そのうちのお一方がこの烏摩勒伽さまです。

今、この烏摩勒伽さま、実は日光で注目度の高い御像であります。

それは。
烏摩勒伽さまも深沙大将さまと同じようにお膝に象、…こちらは象の膝当てをされておられ、この膝に象がいることが『ひざ小僧』の語源になっている、とされていますこと。

そしてもう一つ、この烏摩勒伽さまの右手にお持ちになられている矢。

これは【破魔矢】、お正月によく目にする、あの矢であります。

この日光【大猷院】におられる烏摩勒伽さまが握っている矢こそが、『破魔矢の発祥』とされているのです。

十年ほど前から、ここ大猷院では、昇り龍が施されたされた『黄金の破魔矢』をお授けいただけます。
飾る際に矢の先を上に向けておくと龍が願いを天に届けてくれるとされ、他の破魔矢の祀り方とは異なっています。
またよくないことが続くときには、玄関に置き、外に矢の先を向けて置くとよいとも説明がありました。

日光ではこのような縁起物を紹介されるのが常であり、その説明を聞いた方々がこぞってその縁起物を買い求める光景をよく目にいたします。

この破魔矢もご多聞に漏れず、何度もこの矢を買い求める方が群がるような光景を目にしたものでありました。

それに拍車をかけたのが、某テレビ番組。
占い師の方がここ日光を訪れて、「この破魔矢は凄い力がある」と言ったのだとか。

翌日から前にもまして、まさに飛ぶように売れ、わずか数日で品切れとなったとか。

今は潤沢に用意されて、大猷院の御朱印をお願いする受付でもお授けいただけるようになっていました。


烏摩勒伽さまは青いお身体。
お膝に象がある以外は、特段変わった装束でもなく、〝夜叉〟ではありますが、どこか可愛らしいお顔立ちをなされています。


…深沙大将さま、案外お会いしたら可愛らしかったりなさるかも。

だって不安を取り除いてくださる御仏でありますもの。



No.333

深沙大将さまへの信仰は、砂漠の熱風や悪疫の難を除く、『旅人の守護神』として、また玄奘三蔵がインドから持ち帰った『「般若経」の守護神』とされます。

ところで。

深沙大将さまのお姿で少し触れました髑髏の胸飾りがありますが、実はそのお姿は大変奇異なお姿であると高野山霊宝館の解説に書かれています。
髪を逆立て、眼を見開き、顔の半分もあろうかと思われる大きな口を開け、物凄い形相をなさっていると書かれています。
そしてその姿で最も特徴的なところは、膝頭から象の顔が出ていること、だといいます。

これは『象皮(ぞうひ)の面』といって、象の顔が付いた皮の半ズボン、(もしくは膝当てとも)らしいのです。

象というのは、人の心を理解するといわれ、インドでは聖獣としてあがめられてきました。
また時にはジャングルを切り開き、またある時は荒野を突き進み、賢さと力強さを兼ね備えているので、神聖視されてきたようです。
なによりもあの大きさは、人間にそうした心理を生ませましょう。

さらに腹部には人面が表わされているといいます。
一説には、中国での深沙大将は、別の姿が「童子」であったということで、このことから童子の顔が腹部に表われているらしいのです。

うーん。

たしかに。
たしかにこのお姿は、奇異と申し上げてもよろしいかと。

しかも七つの髑髏を胸飾りとして首にかけておられるのでしょう?

おおかたの子どもはこのお姿をみたら泣きだすことでしょう。
御仏の画や仏像好きのおばさん、ではありますが、このお姿を一人で博物館なり御本堂で拝したら、怖いと思うと思います。

しかしながらこの深沙大将さま、不安を取り除いてくださるとのこと。


うーん。
煩悩と背中合わせの不安、私にはいつも付きまとうものでもあります。

…真言宗のお寺さんには深沙大将さまのお姿を祀られているところがあるのかしら。

拝したいような、ちょっと怖いような、…ビビリなおばさんでありました。




No.332

さて、鎌倉殿の十三人で阿野全成が捕えられ今際の際ともいえるその時、唱えた御真言が【深沙大将(じんじゃだいしょう)】さまのものでありましたが、御真言もですが深沙大将さまのことも存じ上げませんでした私。


中国からインドに経典を求めて旅をした僧、玄奘三蔵が旅の途中、砂漠で一滴の水を得ることができず、息絶えようとしている時、流砂の中より現れて護ったのが、深沙大将さまであるといわれています。

そう、あの『西遊記』のモデルとなった『三蔵法師』さまです。
『西遊記』の登場人物に深沙大将をあてはめるとすると、カッパ姿の沙悟浄ではないか、といわれているといいます。

!? 

さ、沙悟浄って…。
妖怪じゃないですか!
よりにもよって仏教における神さまを妖怪扱い?
ビビリの小心者はドキドキです。

西遊記の中で沙悟浄は、時には三蔵法師の手足となって働き、また逆に困らせたりしながら旅を続けます。(まぁ、それは沙悟浄に限ったことではありませんが 笑)
そんな様子は、一筋縄では行かない天部神そのものを感じさせる、…とおっしゃる方もおられます。

テレビなどで映像化された沙悟浄はどの作品においても髑髏を首にかけた、何やら怖く怪しい雰囲気を醸し出しています。

しかしながらこの髑髏の首…胸飾り、実は深沙大将さまの特徴でもあるのだといいます。
深沙大将さまの場合、七つの髑髏を胸飾りとされているとされ、それは玄奘三蔵が七度生まれ代わった、それぞれの頭蓋骨であると伝えられています。

ん?

一緒に旅した玄奘三蔵の?

今(今、ではないか 笑)の、経を求めてインドへと旅する玄奘の、前世、前前世、・・・前前前前前前前世分の頭蓋骨、ってことですかね。

さすが神さま!!


…って、うーん。

しかしながらこの髑髏を身につけておられる仏さまは実は他にもおられ、『大威徳明王』さま・『伊舎那天』さま・『降三世明王』さま・軍荼利(ぐんだり)明王さまなどがおられ、いずれも仏教化される以前の姿を色濃く残しているものといいます。

そ、そうでしたか。

うーん。
御仏の世界も奥が深いです。


しかしながら、これもまた
『諸行無常 
 是生滅法 
 生滅滅已 
 寂滅為楽』
を表した一つの表現、でありましょうか。

No.331

『阿野全成』が刃の恐怖、人が人を襲い殺そうとする絶望から救っていただこうと(…これはあくまでも私が想像した全成の心情に過ぎません)
唱えた御真言。


【真言】は〝御仏の言葉を音写したもの〟といい、御仏や菩提の誓いや教え、功徳などを秘めているといわれています。

般若心経の
『羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃーてーぎゃーてー はらぎゃーてー はらそうぎゃーてー ぼーじーそわか)』

という一節(数節?)もまた御真言であります。

御真言は浄土真宗を除く様々な仏教の宗派で用いられる呪文的な語句であるといい、日本では真言宗や天台宗、修験道などの宗派で唱えられているものです。

御真言の一字一字には多くの意味が含まれていて深意を訳すことは難しいため、サンスクリット語のまま翻訳されず漢字で音写されているといい、御真言の中には見たり聞いたりするだけでも、利益があるとされているものもあります。


真言の起源は仏教成立前までさかのぼるといいます。

古代インドでは言葉に魂が宿って言霊となり、神聖や霊妙な働きを持つと考えられていました。
アーリア人は火神(アグニ)に真言を捧げて敵を退け、病を癒す際に唱え祈っていました。

バラモン教時代に入ると神に祈る時も唱えるようになり、神々への帰依、祈願、讃仰の聖句などの儀式で唱えられたのが真言の始まりであるとされます。

その後、大日経や金剛頂経など密教の経典が成立すると、真言は悟りを求め成仏するための手段として修行で用いられるようになります。

そして中国で道教の呪禁の法と融合され、空海上人が日本に持ち帰り【真言】として定着しました。


真言の奥義は、長く厳しい修行を積んだ僧侶が、師と仰ぐ僧侶より一対一で伝承されるため、一般の者が理解するのは困難です。
しかしながら真言は、意味を理解するよりも声に出して唱えることで、現世利益や功徳が得られるとされています。


仏教にはさまざまな仏さまがいらっしゃいますが、それぞれに真言も異なります。
また、一尊の仏さまが長さの異なる三つの真言をもつ場合もあります。

そしてそれぞれの真言ごとに得られる利益や功徳が異なるといい、一尊の御仏の真言であっても、唱える真言によって功徳が異なるようです。


No.330

(続き)
殺される恐怖に慄く僧侶にリアリティをもたせる演出も、同じくビビリゆえに、(あまり好ましくないのでは…)とドキドキしてその場面を見守りましたが、そのうち、その迫力あるシーンにすっかりのまれ、
(これぞ全成!)と思ってしまうのでしたが…。

全成は、引き立てられる時、
今にも刃をおろされようかという、風雨が激しくなった時、それぞれ異なる御真言を唱えていました。

一つはその場で分かったのですが、もう一つは初めて聞く御真言。…まぁ、そもそもが聞いてすぐにそれとわかる御真言自体が多くはないので、むしろわからないことの方が多いのですが…。


知らないとなると調べてしまう私。
なんでもこのもう一つの御真言は、疫病を除き、魔事を遠ざける神とされている深沙大将のものだとか。

不安を取り除く御真言とも紹介されていました。


それにしても鎌倉殿の人気は本当に凄いものだったようで、『オンベ』と入れただけで『オンベレブンビンバ』と出てくるほど!
これは原作者の創作に過ぎない言語ですので、本来検索しても出てくるはずはないもの。
それが『オンベ』と入れただけで全文出てきて、それが鎌倉殿で使われたものであることが書かれています。
…まぁ、もちろんこの回が放送されるまでは、この意味不明なサブタイトルは何かを探ろうとした人たちがどんなに検索してもhitしなかったものではありましたが。

もう一つのだけれど御真言にしてもしかり。
その御真言を入れて果たして出てきたものかどうか…、まぁ正確な御真言ですので『オンベレブンビンバ』とは違って、正確に入力できれば、きっとすぐにhitしたことでしょう。

まぁ…。
こんなビビリのおばさんだから、正確な御真言は載せられないのですがね。

No.329

いろは歌から脱線して、何故か鎌倉にまで話が…。
さすが曲がりくねった思考回路の持ち主で。
どこへ着地をいたしましょうか、もはや風に飛ばされた風船状態です。

今になってマイブームとなっている鎌倉殿にまいりましょう。


今までに観たところは比企の乱まで。
その少し前には阿野全成の回がありました。

全成は流刑のはずが誅殺されてしまいます。
その殺害のシーン、捕らえられた僧全成は、僧侶らしく真言を唱えております。
全成は父である源義朝が敗死したため、幼くして真言宗醍醐派の総本山【醍醐寺】にて出家させられ、僧侶となります。
故にこうした局面で御仏にすがるべく、御真言を唱えることもあるかと思います。

ただ、…鎌倉殿の十三人、やたらと御真言が出てきております。
しかもそれをまるでおちょくったような感覚すら覚える回まであり、自分は、あまり詳しく宗教的な面にふれるのはいかがなものかと思っておりました。
そして。
なによりもなによりびっくりいたしましたのが【オンベレブンビンバ】というサブタイトルの回の存在。

おまじないや魔除けに凝っていた大姫がかつて祖父時政に教えた〝元気になるおまじない〟が、実は御真言。
しかしながらだいぶ前に教えられたものであったため、時政の記憶では『オンベレブンビンバ』になっており、〝良いことがあるおまじない〟に変換されていた、というもの。

酒を飲みながら『オンベレブンビンバ』と繰り返し唱える時政に、政子がなんと言っているのかと尋ね、
そうではなかったと、思い出し合戦が始まるのだが、誰一人として合っている者はいなかった。
決して楽しい集いではなかったのだけれど、久々に北条家の面々が顔を揃え、
『ウンダラホンダラゲー』だの『ピンタラポンチンガー』だの。

結局五人で唱えたのは『ボンタラクーソワカー』。

…どれも合ってはいなくて、ナレーションで訂正が入るというもの。

…こんな史実はなかったはずです。
御真言を遊んでいるようで、ビビリの私はこの回を夫と観たとき、一人憤慨したものです。



(続きます)






No.328

北条時政に謀殺された比企能員の屋敷跡に、その子能本(よしもと)が一族の菩提を弔うために建てたお寺であります【妙本寺】さん。

歴史に(も)詳しくはない私ですので、そうした歴史も妙本寺さんを訪ねて初めて知ったことばかりでありましたが、このお寺さんの醸し出す寂しさ、儚さを境内を歩いて肌で感じたものでありました。


洗濯物をたたむと称してテレビの前に座り、おもむろにつける『鎌倉殿』。
比企を討ち滅ぼしたのち、義時が見せた切なそうな、それでいて確固たる意志を滲ませた横顔を観て、ふと天啓に打たれたように、諸行無常を感じたのでありました。


こうして、戦って地位を得ていった者も、いずれ滅びている。

歴史が動くほどの人物が、自他共にその死を止めたいと願いながらも天命に抗うことはできず死んでいく。

人は必ず死んでゆくもの。


…。


テレビのドラマを観ながら、さながらさとったかのような思考がおばさんの中に降ってわいたのです。


それは難しすぎて未だにその説かれているものを覚ることのできない『経』からでもなく、ありがたい僧の法話からでもない、一大河ドラマの一場面から…。


ま、当然、さとりを開いたわけではありません。
こんな煩悩だらけのおばさんが、ちょっとテレビを観ていてパッと開けるようなものならば、誰も苦労はいたしません。

お釈迦さまとても悟りを開くまで、いくつも、いくたびも、死んでしまうかの修行をなされてようやく到達した境地であります。

いくら図々しいおばさんであっても、そんな烏滸がましい、あり得ないようなことは思ったりはいたしません。



でも、これ…、これこそが仏教の説く教えの一つであるのも事実ではありましょう。


鎌倉殿を全て観て、観た上で、鎌倉の地を巡りたい。
途中で止まっている鎌倉三十三観音霊場巡りも、十三佛巡りもあります。

もっともっと鎌倉を知りたい。


夫のように歴史を知った上で、鎌倉の地を巡りたい。


…どのくらい時間を要するのでしょう。
しかもコロナが第五類扱いとなって、鎌倉はかつての賑わいを取り戻しつつあるといいます。

うーん。


鎌倉に行きたいぞぉー!
鎌倉を思う存分堪能したいぞぉー!

No.327


『色は匂へど散りぬるを
 我世誰ぞ常ならん
 有為の奥山今日越えて
 浅き夢見じ酔いもせず』


人は物への執着、自分への執着がありますが、この世のものは全て変化していくものだと感じなければなりません。

生まれては滅するといった真理を身に付けることで、死の嘆きや物事に執着して苦しむ事からはなれ、いつも明るい心で、頂いたご縁(いのち)を精一杯生きることができる。それが大きな安楽、幸せへとつながっていく、という教え。

有為転変(ういてんぺん)のこの苦悩の奥山をきょうこそ越えて、
…「生じた 滅したとか、生れた 死んだとか、損した 得したとか、そのたびごとにものごとにとらわれる心」を滅すればすべてのものをありのままに素直に受け入れる、安らかな心が開かれてくる。


いろは歌は『四句の偈』という四句の詩を、四十七のかな文字で歌ったものです。
『四句の偈』とは
諸行無常(しょぎょうむじょう)
是生滅法(ぜしょうめっぽう)
生滅滅已(しょうめつめつい)
寂滅為楽(じゃくめついらく)
というもので、
『諸行は無常である
 是れ生滅の法なれば
 生滅、滅しおわって
 寂滅を楽となす』


煩悩の塊であります私。
まさに『生じた 滅したとか、生れた 死んだとか、損した 得した』といった、そのたび毎に物事ににとらえられ、日々過ごしております。

なかなかそういった、『物事にとらわれない心境』に到達するのは難しい人物であります。

法話をお聞きする機会もそう多くはありません。



ですが。


実は私、あの昨年話題となり一大ブームを巻き起こした【鎌倉殿の十三人】をいま、時間があくと鑑賞しております。
初見の回が大多数という、今更感満載な人物で。

そんな鎌倉殿。

頼朝が世を去り、新たなる動乱の時を迎えたところまで回を進めました。

昨日は比企氏の乱。
かつて鎌倉の寺社を巡った際参拝した妙本寺に想いを馳せました。


(続きます)



No.326

『いろはにほへと ちりぬるを  わがよたれぞ つねならん
ういのおくやま けふこえて  
あさきゆみじ ゑひもせず」

いわずと知れた、いろは歌、実は真言宗の宗歌にもなっているのです。

一字一句同じ言葉をつかわず、かつ仏教的な意味が含んでおり、宗祖弘法大師の御作として伝えられているといいます。


…最初にそれを聞いたときの驚きといったらありませんでした。
学校にあがる前から唱えていた〝いろは〟
ただただ唱え言葉としてとらえていた〝いろは〟。
実はそれが流れある〝歌〟で、どなたが詠ったものかを知ったのは中学生の時でありました。


それでもその時はまだ、真言宗の宗歌であることなどは知る由もなく。双方の親の家の宗派など知らずに育ち、親の離婚によって父方とはずっとそのまま連絡すらとれない状態のまま。嫁ぎ先もまた真言宗ではなかったため、それを知ったのはこのお寺さんを訪ねて歩く〝珍道中〟を始めてから、のことでありました。


中に含まれている仏教的な意味は『諸行無常 
 是生滅法 
 生滅滅已 
 寂滅為楽』

仏教経典涅槃経(この世にあるものすべて仏であると説く)の中の言葉を『いろは歌』で表現されているものとされます。


『色は匂へど散りぬるを=諸行無常、
我世誰ぞ常ならん=是生滅法、
有為の奥山今日越えて=生滅滅已、
浅き夢見じ酔いもせず=寂滅為楽』と詠ったのだといいます。

世の中のものは常に変化しています。
桜の花が綺麗でいつまでも見ていたいと思っていても、それはすぐ散ってしまいます。
自分がずっと若くあり続けたい、世界に対してこのままであってほしいと思っても、全ては変化していく。

そんな深い教えを歌に詠みあげる。

中学生だった私にも、この歌の奥深さは伝わって、こんな歌を詠むことのできる弘法大師という方の素晴らしさに感動したことを覚えています。

…とはいえ、そこから仏教へ、とは行かないのが凡人の私、なんですがね。

だからこの〝いろは歌〟が高野山真言宗の宗歌であることなど知る由もなく、ましてやこの歌を歌として聴く機会など、まさにこの時まで皆無、でありました。



No.325

この群馬県みどり市の自音寺さんの『自音寺八十八霊場』は、大祭の時に限らず、いつでも、特にお寺さんにお断りする必要もなく巡らせていただくことができます。

ただ。
大祭の際には御本堂に上がらせていただくことができるとのこと。
前回大祭にうかがった時はそういった内情を知らずに行ったため、御本堂には入ることができなかったので、今回はきちんとあらかじめお寺さんに問い合わせて、何時からのものか確認した上でうかがいました。


御本堂前で香炉にお線香をあげて。
靴を持って御本堂へ。


?!
キ、キーボード?!


えっとぉ〜。
私、大祭にうかがったんですが?
違った?

御本堂に上がる際に渡された紙を開くと、
?! …ど、童謡?唱歌?
しかも唄、だけが書かれたものです。

墨色の衣を身に纏ったお坊さんがキーボードの椅子に腰かけました。

うーん?

大祭…?


始まった演奏は【里の秋】。
歌詞が配られるくらいですので、当然みんなで歌います。

えっとぉ…。

困惑した私は皆さんの歌を聞きながら御本堂の中を見回しました。
新しそうなものでありますが美しい彩色の施された欄間彫刻です。
あ。
あの『雪山童子』の『施身問偈』であります。

他にも唐子の描かれたさまざまな彫刻が欄間として掲げられています。


…こうして美しい欄間彫刻を見上げながら、そして御内陣の煌びやかなさまを拝しながら聴く、童謡もなかなか乙なものであります。

『夕焼け小焼け』
『もみじ』

そして『赤とんぼ』
…私、この赤とんぼ、ダメなんです。
聴いても歌っても、胸がつまって、涙が出そうになるのです。
歳をとったから…ではなくて、若い頃から、というか子供の頃からダメだったよう記憶しております。

(背)負われて赤とんぼを見たような、そんな美しい記憶は全くないのですが、ね。

この日本の原風景を描いた詞と、郷愁をいざなう旋律が、私の中の何かを揺さぶるのでありましょう。

とにかく、唐突に赤とんぼを聴くのはひそかに動揺するくらいに、〝ダメ〟なんです。

そんな赤とんぼの曲が終わると、

〝いろはにほへどちりぬるを〟


へっ?
【高野山真言宗】の『宗歌』とあります。

…さすが大祭、学びの場です。

もしかしたら、ここに至るまでの前段階として四つの歌を皆で歌うという流れにしたのでしょうか?


No.324

群馬県みどり市にあります【自音寺】さんの境内には『自音寺の四国遍路』として【自音寺八十八霊場』があります。

これは、群馬から遠い四国まで行かずとも、境内で四国八十八カ所遍路を巡れるようにと、先代の住職と現住職が、四国八十八カ所霊場を巡礼した際、各所から砂をいただいてきたものとのこと。

境内の墓地の一部に全長にして五百メートルの石仏を巡る通路を作り、踏み石の下と石佛の下にそれぞれのご住職かいただいてきてくださった砂を敷き詰め、『境内四国遍路』をとしたものです。
一つ一つの石仏さまはたいそうお美しく、これは各霊場のご本尊を丁寧に書き写したものを石像化したものといいます。

今回秋の大祭に参列させていただき初めて知ったことだったのですが、実はこの自音寺ので四国遍路を作る事となったきっかけは、こちらのお寺さんの檀家さんのお一人が、八十八ヶ寺を巡礼しながら、一ヶ所一ヶ所のお寺のご本尊さまを書き写して来られたことに端を発していたのだといいます。

この全ての御仏の画を奉納され、深く感銘を受けた先代のご住職が、まず四国巡礼をされ、その各所からお砂を頂戴して来られ、その後現在のご住職ものまた同じくお砂を頂戴してきたのだといいます。

私も言葉にならないくらい深い感動をおぼえました。
八十八ヶ所、総巡道は実に千四百キロに及びます。
けもの道のような山中を歩くコースもあるといいます四国巡礼を歩かれるというだけで凄いことだと思うのです。
それをさらに一つ一つのお寺さんのご本尊さまのお姿を絵に写しとるとは…。

今回ご住職が新聞社の方にその実物をお見せになっているところに居合わせ、そのうちの数枚を拝見することができましたが、実に心打つ、丁寧に描かれたものでありました。

一枚一枚が、筆ペン、あるいは筆で、同じタッチで八十八枚。

…凄くないですか?

しかもたまたまその方に少しお話を伺うことができました。

なんでも六十歳を過ぎたころに四国を訪れ、絵を描いて廻られたということでありました。
絵も特に習ったわけでもなく、全くの自己流なのだとおっしゃっていました。
一枚描くのに四、五時間かかる、とおっしゃっていましたが、そんな短い時間で描いたものとは到底思えない、素晴らしい出来でありました。


 (咲き始めた山茶花)

No.323

『青蓮寺は大変な貧乏寺でありました。これは明治まで続きます。そのためでしょう、寺には住職が不在の期間が多くあったようです(無住寺)。
ある時などは、流行病のための隔離場所にもなっていたようです。ですから文書類はほとんど失われていて寺にはありません。
そんな寺に不釣り合いとも言えるのが、欄間彫刻と総ケヤキ造須弥壇です。

欄間の彫刻には『延享元歳(1744)甲子九月吉日 東上州 花輪村 彫物師 石原吟八郎義武 彫之』と銘文があります。内陣、下陣の内側にある彫刻類は同時期の作ではないかと考えられています。

須弥壇には『武蔵国妻沼町大工 林兵庫 門弟作 小林武助 内田清八 四月朔日丈八 今村勘六 内田惣助 源内 延享二乙丑天八月吉祥日当山十三世但阿良山代』と銘文があり、近在の一連の彫刻群の中でも古いものであります。共に大変素晴らしい彫刻で、驚かれる方が多いようです。』


…。

実際、目で見てみるとほんとうにそう思われます。

その彫りの素晴らしいことといったら♡

なお、欄間彫刻に銘記されている【石原吟八郎】は、日光東照宮や大猷院の彫刻でその名を知られる【高松又八】に師事した高弟の一人で、師の又八譲りの技を磨き『上州の名人』と謳われた人物で、【関口文治郎】の師であります。

石原吟八郎の作品は、実に緻密で、まさに生き人形のよう。
立体的なのはもちろんなこと、唐子の頬のすべすべしたさままで忠実に再現されているのです。
そして実に表情が豊か。

さほど数は多くはありませんが、いつまでも見上げ眺めていたい、そんな素晴らしい彫刻であるのです。

唐子の彫刻も素晴らしいのではありますが…。
それ以上に圧巻なのが内陣のご本尊さま正面にあたる欄間の龍。

まさに今にも動き出しそう!
裏から見てもリアルな鱗の刻まれた尻尾が大きくうねっている様の素晴らしいことといったら!


まさに言葉では言い尽くせません。
(殊に私ではことさら…)

ここもまた青蓮寺さんが大好きなところの一つです。





No.322

ということで、秘仏のご本尊さまに代わり、御内陣には黄金に光り輝く御前立ちの阿弥陀如来さまが観音菩薩さまと勢至菩薩さまを侍仏とされお立ちになられております。

この阿弥陀さまは、寛永十二(1635)年に、江戸浅草の浄土宗正覚寺二代住職でありました栄感上人様が、近在の多くの人々の寄進を受けて、仏師運慶の末流・鎌倉の仏師宗意により造られましたものでありました。
しかしながらその後この阿弥陀さまは火災に遭い傷んでしまい寺の蔵にしまわれてしまいます。

時は流れ。
正覚寺の九代住職となられた念徹上人様は、桐生のご出身でありました。そんな上人さまはある時ご自分の生まれ故郷に近い久方村にある『青蓮寺』の話がその耳に届きます。
「桐生には檀家わずかに15軒の貧乏寺があり、やっとの思いで本堂を大改修した。
しかし、ご本尊様が秘仏のため本堂に入ってもがらんとした空間だけで拝む仏様もないと檀家が嘆いている」というもの。
上人様はこの話を聞いて身が切られるような思いがいたしました。
それならばと、蔵に入っていた阿弥陀さまを修理して青蓮寺に納め、八十五歳で亡くなられたご自身のお母さまの供養にしようとお考えになり、文書とお母さんの遺髪、形見の念珠を阿弥陀さまの胎内に納め、青蓮寺に寄進したということであります。

平成7年秋にこのお前立ちのご本尊さまの修復をして初めてそれがわかったとのことで、それまでは青蓮寺に代々伝わる浄土宗のお坊さん(念徹上人さま)の立派な御位牌の意味がわからずにいたといいます。

青蓮寺さんの大恩人であった、ということでありました。



(青蓮寺さんの欄間彫刻のうちの一つ。唐子遊びの図柄となりましょう)

No.319

交通事故の損害賠償を求める民事裁判では、相手が任意保険に加入している場合、事実上、保険会社と争うことになるといいます。

そう言われてみれば確かにそうです。
そんなことを言われるまで気づかずにいる私は、いかに深く物を考えずに生きていることをあらためて知り、反省いたしました。

そして。
今回の判決に対しての誹謗中傷は、ほかならぬ、誤った認識に端を発しているものが多いようです。


『民事裁判の損害賠償は加害者の方本人がが支払うのではなく、加害者の方が加入していた損害保険会社が支払います。
非常に勘違いしている方が多く、誤った認識で批判、誹謗中傷、また言葉に出来ないほどの、それ以上のご連絡が来ており、身の危険を感じております』


と、被害者の家族の方がSNS上で発信されておられました。
この〝それ以上のご連絡〟〝身の危険を感じる〟とおっしゃるものが、殺害予告であるようです。


『加害者が自賠責・任意保険に加入しており、民事裁判確定し報道された金額は保険会社から支払われ、加害者より直接金銭のやり取りはありません』

任意保険対人賠償が『無制限』でかけられておれば、このようなケースは裁判で賠償額を決めてそれを保険会社が支払うことがほとんどだといいます。
そしてたいていが任意保険の対人賠償は『無制限』でかけられていることがほとんどといいます。


被害者の方がどうしてこうも何度もつらい思いをされなくてはならないのか…。
賠償がどう決まったところで、被害者のご遺族が本当に望んでおられる尊い命は戻ってはこないというのに。


誹謗中傷、それ以上の事。
本当になぜなのでしょう。

No.318

世の中というのは、光があって、…光あるところに必ずある影、闇があることを、あらためて深く知らされたことがありました。
それはそれはいやというほどに。


先日、四年前の東京 池袋の暴走事故に対し、事故を起こした高齢ドライバーに対して損害賠償を求めた裁判で、東京地方裁判所は「一方的で重大な過失による凄惨な事故だ」として、被告側に合わせて1億4600万円余りの賠償を命じました。

…四年も経ちましたか。

まだ記憶に新しいものな気がするほど、まさに凄惨な事故でありました。


2019年4月、東京 池袋で当時87歳のドライバーが運転する車が暴走し、自転車に乗っていた女性とその娘さんが亡くなられたほか、九名が重軽傷を負った事故です。


この事故について、亡くなられた女性の夫の松永拓也さんなど遺族九人は、過失運転致死傷の罪で禁錮五年の実刑判決が確定した飯塚幸三受刑者とその保険会社に対し、賠償を求めていました。

27日の判決で東京地方裁判所裁判長は
「ブレーキと間違えてアクセルを踏み、異常な走行をした。一方的で重大な過失による凄惨な事故で、亡くなった2人の恐怖や無念さは察するに余りある」

「事故のあと謝罪もせず、みずからの過失を認めずに不合理な弁解を続けたことは刑事手続きでの被告の権利を踏まえても遺族の心情を逆なでする行為で、これらも慰謝料の算定に考慮する必要がある」と指摘し、被告側に合わせて1億4600万円余りの賠償を命じました。


それに対して、なんと!
被害者の夫の方に対して誹謗中傷、はては殺人予告まで突きつけられているというのです。

…ありえない。

誹謗中傷って、一体全体どこからの発想でしょう。

もともとこの裁判の前からこの男性は誹謗中傷をされており、警察が動いていました。
それを知った時も、なぜ、何故に?と、非常に驚いたものであります。


今回の判決に対して一体なぜ?

どこをつついて誹謗中傷?
どこを取り殺人予告?

No.317

夜通し聞いていた遠雷は、一時間半ほど前から私の住まう町に近づいて、地響きと、窓ガラスを揺らすほどの大暴れぶりであります。

落雷による故障を恐れてエアコンや、テレビなどのコンセントプラグを抜いたのですが、その消す直前のテレビのニュースで、
「昨夜から今朝にかけて、全国各地で落雷による被害が相次ぎました」と。


…そんな中でも爆睡できる夫が心底うらやましい。

No.316

…決してシリーズ化しているつもりはないのですが、〝今日は何の日〟。

本日二十八日は
【大日如来】さまと
【不動明王】さまの
お縁日であります。

守り本尊さまの考えによりますと、
午年、未年、申年のお縁日、ということになります、かね。

そ、そうか…。
お縁日という見方をすると、こんな現象も…。

No.315

(続き)
「十八夜塔」
「十八夜の民俗で特徴的なことは、正、五、九、十一月の十八日に行われ、餅をついて月に供えることである。」とあります。

「十九夜塔」
「十九夜の月待講といわれるが婦人たちの念仏講でもある。十九日の夜当番の家あるいは寺院や堂に集まって、多くは如意輪観音の軸を掛け、その前で勤行が行われる。」とあります。


またさらに、
『群馬県史 資料編 民俗2』からとして 
「第五章 民俗信仰 十九夜待・二十二夜待」の項があり、
「十九夜講はもと子安信仰に発している。
日本古来の子安神は、仏教の影響を強くうけて子安地蔵とか子安観音となった。それらの祭日が月々の十九日であったので十九夜講とよばれるようになったらしい。」とあります。

さらに栃木県内の信仰について
・『栃木県民俗事典』からとし、
「ジュウクヤシンコウ(十九夜信仰)」
「本県の代表的なものである。」との記述があると書かれていて
「県南と県北で「十九夜をなぜ重要視するかははっきりとしない。
女性の厄年である十九歳から、とも言われるが、十五夜と二十三夜との中間とも考えられる。」とあります。その他、「十五夜」、「十三夜」の項もあります。


…凄くないですか?

調べるって、こういうことだったよな、と、ネットでちょぼちょぼ調べて調べた気になっていた自分が情けない。
〝国立図書館のリファレンス協同データベース〟、とあります。

これは良いサイトに出会えました♬



…つい数行前に、「調べるということはかくあるべきであった」的なことを発言していたくせに。

さすが、さすがな煩悩おばさんでありました。

そして追記するならば、たしかに十九夜の石塔を初めてみたのも栃木県でありました。
なるほど、栃木県の代表的なもの、でありましたか。



一晩中雷の鳴る音を聞いていましたが、一時間程前から本格的なものとなりました。
ちなみに。
今日って群馬県民の日、なんです。
四年ぶりに各地でさまざまな記念行事、及び賛同してくださった民間の施設によるイベントやら入場割引などが予定されているんですけど…。

とりあえず…くわばらくわばら。

No.314

この〝月待ち〟から始まり、…横に逸れるというか、よく言えば発展させて、調べてみたところ、〝日待ち〟というものもあることがわかりました。

日待ち?
月待ちが月の出を待つ事なのだから、日待ちは…日の出を待つ事?
単純に考えるとそうなのだけれど、だとしたら『庚申』のように夜通し寝ないで過ごすことは〝日待ち〟になるということ?

…調べてみたところ、
『人々が集まり前夜から潔斎して一夜を眠らず、日の出を待って拝む行事。』
(コトバンクより)
とあります。
おぉ、まさに聞くところによる庚申そのもの、ではないですか。
なるほど。


そして日待ち・月待ちについて調べたところ、詳しく調べてくださっている方がおられました。


信仰の概要や由来について
・『日本石仏事典』(庚申懇話会/編 雄山閣出版 1995)参照

「日待塔総説」について
「十月十五日が日待のアタリ日で(略)
『実隆公記』によれば、庶民の間で行われていた日待と呼ぶ徹夜の習俗が文明年間(1469〜1487)ごろから(略)宮中の行事となっていった様子がうかがわれる。(略)

室町時代建立の月待や庚申待板碑が多数あるのに、日待の青石板碑が一基も見当たらないのは日待が神事として行われていたためと考えられる。(後略)」とあります。

「月待塔総説」
「月待塔は、特定の月齢の夜に集まり、月待の行事を行った講中で、供養のしるしに造立した塔である。月待塔で最も普遍的なのが二十三夜塔である。」とあります。

「十三夜塔」
「十三夜の月見は九月十三夜が有名であるが、十三夜待は十三日の夜、虚空蔵菩薩を本尊として礼拝・勤行した行事で(略)三十日仏説では虚空蔵菩薩の有縁日は十三日なので(後略)」とあります。

「十五夜塔」
「十五夜塔には文字塔と刻像塔とがある。刻像では大日如来と聖観音などを刻むものがある。」とあります。

「十六夜塔」
「『下野の野仏』によれば、栃木県下には十六夜塔が九基ある。(略)栃木県で最も古いものは元禄十四(1701)年のものが芳賀郡にあり、ついで正徳四(1714)年と五(1715)年造立の塔が真岡市にある。」との記述があります。

「十七夜塔」
「長野県西筑摩郡田立村の十七夜待について『民間伝承』には、九月十七日に餅をついてお月様に供える習俗が報告されている」との記述があります。

(続く)

No.313

「月待ちってなに?」
まだ五時台の、大きな美しい十三夜のお月さまを見上げながら、夫が聞きました。

「庚申のように仲間が集って、念仏などを称え,飲食をしながら月の出を待ったり、月の出ている間をともに過ごす信仰行事みたいだよ。
十三夜や十五夜は今はお月見として有名だけれども、昔はやっぱりそういった信仰的な行事だったんじゃない?
その他に十七夜、十九夜、二十二夜、二十三夜、二十六夜とかもあるんだって。
二十二夜講とか、二十三夜講とかの石塔はよく見るし、十九夜って石塔も見たことがあるじゃない」

夫「ふーん。で、なんで十三夜は虚空蔵菩薩さまなの?」

私「虚空蔵菩薩さまは十三に縁のある仏さまだからなんじゃないの?十三日がお縁日だし、十三佛でも十三番目の仏さまだし」

夫「十三夜でも?」

私「だって二十二夜講の仏さまだって如意輪観音さまで、二十二日は如意輪観音さまのお縁日だよ?」

…実は十九夜講の仏さまも如意輪観音さまのよう記憶していたのですが、面倒なので黙っておりました 笑。
十九夜も、二十二夜も、ともに女の人のものだったと記憶しており、女人講つながりで如意輪観音さまなのでありましょうか?
これはあくまでも私の推測であります。


…夫のこの『なんで?』攻撃はイラっとくることが多いのです。
自分で調べればいいじゃんと思うことしかり。

そもそも『ふーん』というのは信じていない時の反応で、しかも記憶しようともしていないその場限りの会話でしかないのは、長い付き合いで分かりきっているので、この〝ツッコミ〟に対していかに誠心誠意答えてもまるで不毛なのがわかっているのでイライラするのです。

この〝月待ち〟が、
戸主の集りである場合は村寄合と近いものであり、
講仲間の集まりであれば念仏等を唱える宗教行事となります。

十九夜や二十二夜のような主婦や嫁の集まる女人講は話合いの場や安産祈願の場となることが多いようで、群馬県の高崎市に住む知人は、今でもこの二十二夜講と称する集まりがあって参加されているとおっしゃっていました。

青年たちが集まるときは酒盛り行事になることもあり、菓子でも出ると子供も集ってくる、と、一般的傾向としては次第に信仰的な色彩が薄れ、娯楽としての要素が強くなり、そしてそれも衰退していったのが現状なようです。



あら?遠雷…でしょうか?

No.312

恒例となりつつあります、〝今日は何の日〟。

暦を見ると本日は『後の月』とも呼ばれる【十三夜】となります。

古くから『十五夜』のあとは『十三夜』の月も見ないと『片見月』となり縁起が悪いと言われています。
そんなこともあり、わが家ではこの十五夜も十三夜もお祀りせずに、お月さまを見上げるだけの日として久しいのでありますが。

十三夜は、旬である大豆や栗が供えられるため『栗名月』『豆名月』とも呼ばれるそうです。


仏教では月待ちといい『十五夜』や『十三夜』などにそれぞれ仏さまが当てられていて、十三夜の本尊は【虚空蔵菩薩】さまとなります。

虚空蔵菩薩さまは、十三という数字に縁があり、毎月の縁日は13日で、十三夜の月待ちの本尊、十三参りの本尊、十三仏信仰では十三番目・三十三回忌の本尊となり、まさに十三づくしの菩薩さまです。

虚空蔵菩薩さまの司る『虚空』は、そのまま宇宙へ繋がるので、私たちと宇宙の仏さま【大日如来】さまとの間を繋げてくださる菩薩さまとして密教では重要視されているのだといいます。

虚空蔵菩薩さまは、福徳と知恵を授け、災難を虚空の彼方へ消し去ってくださるありがたい御仏です。

今宵がみなさまに良い十三夜となりますよう、お祈り申し上げます。



…今日の月が私にほんの少しでいい、お知恵をお授けくださいますように。

No.311

醫光寺さんの屋根の大棟の三つの紋は『一つ引き両紋』と『三つ葉葵』と『三つ巴』の三つ、でありますが。

醫光寺さんの総本山であります【高野山金剛峯寺】さんの宗紋は
『三つ巴』と『五三桐』の並んだもの。
紋が二つというのはなかなか珍しいものの気がいたしますが、私はここ醫光寺さんのご住職さまからその由来をお聞きして知ったくらいなので、その宗紋をあらためて見て驚くことはありませんでしたが…。

これは『豊臣秀吉』拝領の青厳寺の寺紋、であるといいます。

そこにも高野山の長い歴史があって、この『金剛峯寺』の〝宗紋〟が成り立っていました。

これは、
文禄二(1593)年に豊臣秀吉が母・大政所の追善菩提のために高野山に建立した【青厳寺】と、
天正十八(1590)年に建立された興山寺を
明治二(1869)年に合併して、寺号を【高野山金剛峯寺】とした際、定められたもののようです。

ちなみに合併以前は、寺号の金剛峯寺は高野山全体を指す名称で、現在のように特定の寺院を指して寺号とすることはありませんでした。


そんな長い歴史の中、空海さんの開かれた高野山、真言宗という宗派は、いくつもの派に分かれていき、高野山真言宗は成り立ち、その一つのお寺として醫光寺さんがある、ということでありました。

五三桐は【高野山金剛峯寺】の寺紋の意味合いが強いため、【高野山真言宗】の宗紋のうちの一つ、『三つ巴』を屋根の上に冠した、ということのようになるのでありましょうかね。

No.310

醫光寺さんの屋根の大棟の三つの紋、『三つ巴』について。

前レスでこの紋は高野山真言宗の宗紋であることを書きましたが、それについてもご住職さまが詳しくお教えくださったので、『三つ巴』について、そしてもう一つの宗紋について書かせていただきます。


『【高野山真言宗】は、平安時代初頭に弘法大師(=空海)が入唐し、唐の長安の青龍寺 (西安市)で師僧恵果から密教を学び、日本に帰国後、開いた真言宗の一宗派。

総本山は【高野山金剛峯寺】。

寺号の金剛峯寺の金剛峯の名称は『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祗経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』の最初の3文字『金剛峯』を引用して、空海が名付けたもの。


高野山(和歌山県伊都郡高野町)は弘仁七(816)年に嵯峨天皇より空海に下賜された。
空海が、若い時に修行したこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというものが史実とされている。


平安中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはこれとは異なった開創伝承が残されている。

空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白ニ匹の犬を連れた狩人(実は、狩場明神という名の神)に出会った。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れた。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。
この説話に出てくる『丹生明神』は山の神であり、『狩場明神』は山の神を祭る祭祀者(原始修験者)であると解釈されている。

高野山では狩場明神(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇し、壇上伽藍の御社(明神社)において現在でも祀られている。

また【丹生都比売神社】(和歌山県)でも、丹生明神と狩場明神が祀られており、そのため金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、神仏分離後の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている』




…この、『丹生都比売神社』の社紋が『三つ巴』なのであります。

高野山の山の神さまにお山を譲り受けた恩を忘れず、この神さまの祀られる社紋を寺紋に掲げている、というのがこの寺紋の一つ、【三つ巴】であるといいます。





No.309

昨日お電話くださった醫光寺さんのご住職さま。

思ってもいなかったことで、すっかりあがってしまった私は、ご住職のでご都合をお聞きして、お寺にうかがっていくつかお聞きしたいことをお聞きしようと思っていたのにも関わらず、お電話で直接質問してしまいました。


そんな私がお聞きしたこと。

① 毎年一月四日はお薬師さまのお護摩法要が営まれる。

② 以前は年一回、赤堀氏の娘さんの遺品の帯を御本堂に飾る日を設けていたが、コロナ禍となって以来中止している。

年一回の日というのは、四月八日がその娘さんの誕生日であったため、四月八日であったこともあるのだが、黒保根地区の春は遅くて、四月だとまだ雪が残っていたりして、足元が危なかったりすることもあり、五月の八日になっていった。
また、黒保根地区は養蚕が盛んだったこともあって、五月八日は八十八夜の頃にも当たり、五穀豊穣等の祈願や養蚕がうまくいくように祈願することと併せての、娘さんの霊を弔う日としたという。

③ 屋根の大棟の三つの紋について
江戸時代に建てられた時は茅葺きであったため、屋根の紋等は無かったのだが、先先代のご住職の代に屋根を瓦葺きとした際、三つの紋を掲げたのだそうで。

・一つは新田の紋である『一つ引き両紋』まぁ、丸に太い横線のあるもの。
これは醫光寺さんのそばにある…とはいっても標高七百五十メートル以上の山中にあるのですが…、
『栗生神社』さんの御祭神となっておられる『栗生左衛門頼方=新田義貞の功臣』にまつわるもの。

・一つは徳川の紋である『三つ葉葵』。
徳川園より御朱印をいただいていたことによるもの。

、一つは、二つある高野山真言宗の宗紋の一つ『三つ巴』。

この二つある高野山真言宗の宗紋についても、どうして二つあるのか、というところまできちんとお教えくださいました。
…これについては少し長くなるので、次レスで書いていこうと思います。


…すごくないですか?
よどみなく、すらすらと、全ての質問に即答してくださった、だけでなく、きちんと私がわかるところまで掘り下げてお話しくださったのです。

本当に本当にありがたいことです。



(散ってもなお美しい金木犀)

No.308

話が飛び飛びになりますが、今日大変嬉しい、そしてありがたいことがありました。

月曜日に留守番をされていた方が、醫光寺のご住職さまに伝言してくださったようで、それをまたご住職さまはご住職さまで、わざわざ着信履歴をご覧になって私のところへお電話をくださったのです。


…すごくないですか?

檀家でも無い、一参拝客がかけた電話にわざわざかけ直してくださるなんて!

嬉しさと緊張で、本来なら
「伺ってお聞きしたいことがあるのですが、いつならよろしいでしょうか」
とお聞きするはずだったのに、そうするつもりでお電話したのに、すっかり舞い上がった私は、な、なんと!

控えておいた質問を全部電話でお聞きしてしまったのです。


…なんて図々しい。
……。



そしてそれで今になって落ち込んでいるおばさんが一人。
もっと地面深く落ち込んでしまえ!


…。
……もう。

ほんっとうに、自分で自分が嫌になります。

それに対して嫌な顔一つなさらず(お電話ですのでお顔は見えてはいませんが)、一つ一つ丁寧にお答えくださいました。

…修行をされると、こんなことにも笑顔で(お顔は見えていませんが)丁寧な応対ができるのですかね。

本当に本当にありがたかった。


とりあえず。
まだ落ち込んでおりますので、まずは醫光寺さんのご住職さまへの感謝をここに。






No.307

これを円グラフにすると、四隅にあたる干支だけふたつペアになっていることに気づきます。


これをわかりやすく解説している方がおられました。

…結論からいうと、十二支じゃなくて別のものがベースになっているのだといいます。
それは、『九星』というもの。

九星は、中国由来の東洋占星術「星占い」のベースになる思想です。


『九星』は、古代中国で考え出された、この世の森羅万象を捉えるための考え方のひとつで、その原理は1~9の数字なのだそうです。
1~9は、偶数(陰)と奇数(陽)に分かれ、その組み合わせで宇宙の摂理を捉えようとするらしいのです。

全天を、中央と八方位の9つのエリア(宮)に分割し、地球(陰)と太陽(陽)の運行をこの9エリアに当てはめている…のだそうで、もうこのあたりからすでにおばさんはついて行けてはおりません 笑。

物事の状態が九種類あって、それを我々の運命とか方位の吉凶とかの判断に用いたもの、だということで、
これが東洋占星術に用いられて「八卦」にも応用されました。
「こっちの方角は吉」とかいう、もっと言ってしまえば「当たるも八卦当たらぬも八卦」といわれるアレであります。

つまりはインド発祥の仏教とはぜんぜん別のところ、しかもはるか古い時代に発祥した中国の世界観なようで。
それがいつのまにか仏教と一緒に日本で取り入れられ、広まっていったもののようです。

とはいえ真言密教系では東洋占星術が色濃く影響しているようであります。

『守り本尊』は九星が考えのベースにあって、だから「守り本尊」は八尊しかいない、ということのようです。

人の生まれ年は十二支で捉えるので、それを八尊の守護仏に十二支を当てはめた、ということになるようです。


…なるほど。
わかったようなわからないような…。
だとすると〝九〟という捉え方はどこへ?

…まぁ、割り振るには八の方がまとめやすい?


…そんなことのようでありました。


わかりやすい図、円グラフを載せておきます。




(守り本尊さま)

No.306

と、いうことで本日二十五日は、
【文殊菩薩】さま
【法然上人】さま
【天神】さま
のお縁日であります。

ところで。
かねてから抱いております素朴な疑問なのですが、なぜ十二支の干支のうちのいくつかが、二つがひとつにまとめられてしまっているのだろうか、という件。

【守り本尊】というのは、十二支に八つの仏をあてがっていて、お寺さんによってはその八仏の石像を境内に並べてお祀りしていたりいたしますが、
そうなんです。
十二支に対して八尊、なんです。

…何故?

丑年と寅年
辰年と巳年
未年と申年
戌年と亥年

…何故?

まぁ、年廻りによっては、一学年でこの干支がちょうど当てはまる学年はあったりするでしょう、たとえば四月生まれの丑年から始まって三月生まれの寅年まで、とか。
ですが、その次の学年になれば、寅年と卯年、です。
さらには卯年と辰年。

この辺は守り本尊さまはかぶりません。

…何故?


生まれた干支の占いとかもありますが、干支が異なるとずいぶんとその、…たとえば性格とか?…異なって書いてあるわけですよ。

まぁ、性格なんて干支が同じだからといって同じわけなどありませんし、それを申しましたら干支が異なっても守り本尊さまが同じでなんら支障などあるはずもない。
御仏は迷える衆生を救ってくださる存在でありますゆえ。


そんなことで、(ま、いいか)。

子どもたちはみんな当然干支が異なっております。
たまたまわが家は守り本尊さまがかぶる子どもはおらず、みなそれぞれが異なる守り本尊さまにお護りいただいております。

今年生まれた孫は卯年、まさに今日がお縁日の文殊菩薩さまが守り本尊さまであります。

ばぁばはそんなことで、孫は賢くなれそうでひそかに喜んでいたりもいたします。


でもやっぱり、…何故?と疑問がわくことがあります。

昨日がお縁日であられる、ほとんどの人がその名を知っているだろう『地蔵菩薩』さまは守り本尊にはなられていません。
『観音菩薩』さまも。

無理に組み合わせて八つにしぼらなくとも、御仏はまだまだたくさんおられます。
十三佛という形でも御仏が一つの括りになっておる例もあります。

十三佛にしろ、守り本尊にしろ、
さまざまな〝階級〟の仏尊が当てはめられており、悟りをひらかれた如来さまから、菩薩さま、十三佛では明王さまもおられます。

No.305

おはようございます。

私のすっ飛び思考は、長年連れ添った夫をも未だに惑わすものであるようですが…、この、ここ数レスの流れから、普通の人であれば、青蓮寺さんの話となる、のでありましょう。
そういかないのが、この奇しいおばさん。


えっ?

おばさん的には繋がるにはつながっているんですが、…ほら、〝お縁日〟ということで青蓮寺さんをお訪ねしているではないですか?

お縁日に触れたのであれば、
今日、二十五日はどなたのお縁日なのかをお知らせしたら、気づきのある方もおられるのではないか?
というおばさんの老婆心、からなのであります。
…そう解説をつけると、繋がりが見えてくるのでは?


前解説が長くなりました。

本日、二十五日は
【文殊菩薩】さま
【法然上人】さま、
【天神】さまのお縁日でございます。

殊、文殊菩薩さまは卯年の方の守り本尊さま。

もしかしたらこの稚拙にして奇しいスレをお読みくださる方のなかに卯年の方がおられるかもしれません。


ん?
守り本尊を気にかけておられる方なら、お縁日もご存知なのでは…ですか?

ま、まぁ…。

そ、そうかもしれませんが…。


老婆心、老婆心♡


しかも、です。
『三人寄れば文殊の智慧』といわれるくらいの智慧の御仏、文殊菩薩さまと、
『学問の神様』道真公、天神さまのお縁日です、
おばさんのような痴愚な者でもなんだか賢くなれそうな♡


…そうはならなかったことは、お読みくださっているミクルの方々も、悲しいかなわが子が、そして夫も、なによりも私本人がわかることではありますが、ね。


でもありがたいではないですか。
智慧の御仏と学問の神様のコラボレーション♡

それだけでも心が弾んできません?


今日はきっと良い日になります♡

No.304

まずは【勢至菩薩】さまのこと。

勢至菩薩さまは智慧の光で、六道に迷う衆生を照らし、救いの道を示してくださる御仏。

…あれ?
知恵。
智慧。
智慧の仏さま…?

お釈迦さまの智慧を持つ文殊菩薩さま、
記憶の智慧を持つ虚空蔵菩薩さま。

うーん…。

勢至菩薩さまの智慧はもっと実戦的なものだといいます。
勢至菩薩さまは人を救う強い智慧でピンポイントに無知な衆生が地獄道・餓鬼道・畜生道に落ちないように救ってくださっておられるのですから。

私のような危なっかしい無知な人間を放っておけないという菩薩さまということで。



ちなみに勢至菩薩さまは残念ながら私の守り本尊さまではありません。

…本当は私の年齢に触れる発言ともなりますので、この辺は避けたいところではありましたが。
ただ…すでにアラカンを匂わせてしまってはおりますので、この〝アラカン〟近辺の午年は、…ちがうんです。す

なぜならば、このアラカン〝午年〟は異常なまでに出生率が低かった年、なんです。
そう、六十年に一度の丙午、ひのうえうまの年。

この年に産まれた女子は、異様に少ないのです。
…たとえば江戸の大火を引き起こした『八百屋お七』が丙午の年の生まれ。
気性が激しいとか言われたり、男を食い殺すだのいう迷信があり、そうした、根拠のない迷信とはいえ、言い伝えられるものがあって。
丙午年生まれの女性に対する偏見をさけるため丙午年の出生とならないように妊娠出産をさけるということにつながっているのです。

今と違って、そうした迷信にもこだわりますし、今では考えられないくらいに結婚しない女性は肩身が狭かった時代のことですから、そうしたことが実際にあったのです。

それが昭和の時代においても、そうした出生率の低下する現象は見られたのです。

つまり、この年生まれの人口は少なかった、ということです。

…丙午に産まれた女性は気性が激しくで男を食い殺す。


「なるほど、丙午だからか!」
今までお読みくださった方が思わず納得しそうな私。
…違うんですって。

…たしかに気性は激しいですが、丙午年生まれのせいではないのです。
言いかえると、丙午年生まれの方は別に気性が激しくはないのです。


ただ、〝危なっかしい無知な人間〟なので、勢至菩薩さまは「守らなければ!」と思ってくださっているかもしれませんが、ね。

No.303

昨日醫光寺さんのご住職さまはお留守で、今日はどなたも電話にお出になりませんでした。

まぁ、急ぐことではありませんので、なんならあと少しすれば紅葉の美しい季節をむかえますし。

醫光寺さんのすぐ近くには桐生市黒保根地区の三奇石の一つ、『亀石』なるものもあるようですし、ゆっくり秋の景色の中を歩いてみるのも良いかもしれません。


さて。
昨日二十三日は勢至菩薩さまのお縁日。

勢至菩薩さまは、智慧の光ですべてのものを照らし、人々を迷いや苦しみから救うとされています。
智慧とは物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味します。
正しくは大勢至菩薩というのだとあります。

阿弥陀如来の右脇侍として観音菩薩と共に三尊で表され、独尊で祀られることはほとんどありません。

…そうなんです。
勢至菩薩さまは午年の守り本尊とされる御仏でありますので、勢至菩薩さまの御像のあるお寺さんをお参りさせていただこうといたしますと、…ほぼ見つからない。

最近守り本尊の石仏さまを境内に並べてお祀りくださるお寺さんも増え、そういったお寺さんへお参りすれば別ですが、御本堂にお祀りされているとすれば、阿弥陀如来さまがご本尊のお寺さん、ことに阿弥陀三尊さまがご本尊のお寺さん、となります。

うーん、
智慧の光ですべてのものを照らし、人々を迷いや苦しみから救ってくださる勢至菩薩さま…。


…行く!

阿弥陀三尊像がご本尊のお寺さん。
ぱっと頭に浮かんだのは群馬県桐生市の【青蓮寺】さん!


…実は九月二十三日、毎年秋のお彼岸のお中日が青蓮寺さん年一回の御開帳、だったのですが、どうしてもどうしても外せない用事ができてしまい、今年は御開帳に行くことができなかったのです。

青蓮寺さんが大好きな私。
御開帳にはうかがうことはできませんが、せっかくのお彼岸、お前立ちの阿弥陀三尊像さまに参拝いたしました。

よぉ〜し、勢至菩薩さまのお縁日、青蓮寺さんへ行くぞぉ〜。


…ということで、昨日は青蓮寺さんへ参拝してまいりました。



(菊の花。
今年は菊の開花が遅れていると聞きますが、わが家は通年通りです。ただ、今年は菊の花のつぼみが半端なくついており、一輪摘めばまるで一束の花束のようです)

No.302

そんな醫光寺さんのレスを膨らませ膨らませ、膨らませ過ぎて、今日は桐生市川内町五丁目に鎮座されます【赤城神社】さんへ参拝してまいりました。
御祭神は【赤城大明神】さまです。

こちらへは以前仕事で前を何度か通ったことがありましたが、なにぶんにも仕事中で、次の仕事が押しており通りすがりに心の中で
(前を通らせていただきます。参拝できず申し訳ありません)
と申し上げるにとどまっておりました。

ただ。
その仕事の際に前を通って、路駐以外には車を停めるスペースがないことだけはチェックしてありましたので、本日は夫と二人で、なんなら一人づつ参拝して、片方は路肩に路駐していつでも移動できるようにしようかと申しながらまいりました。

ちなみにこの辺り夫は未踏の地であり、私が運転してまいりました。

えっ?
…できますって!
だって仕事で来ていたくらいです。


参拝を終えて。
隣にも御堂がありましたので、そちらへも参拝をさせていただきました。

覗き見ペア参上、です笑。

こちらはどうやら観音堂のようです。
お祀りされた御仏の御像のお顔を拝することはできませんでしたが、中に赤い奉納幡があり、そちらに『観音菩薩』と書かれていましたので。

大きな立像です。

うーん。
…あまり法要をされているようには感じられません。


その参道となっている緩やかな斜面には庚申塔と青面金剛さまが二体。
観音さまと如意輪観音さまが一体ずつ。道路の路肩近くには小さなお地蔵さまがお立ちになられていました。

石仏さまをあれこれ拝見させていただいていると、観音堂のお隣にお住まいの方がバイクでどこからかお帰りになられたのが見えました。

さあ、エックスキューズミーおばさんが走ります!

その方にお聞きしたところ、赤城神社さんは毎月五月の第一日曜日に大祭が開かれるとのことでありました。

そして。
観音堂はどちらのお寺さんも関わることのないお堂となってはいるものの、毎月十七日に御開帳しているとのこと。

「よかったらぜひ来てみてください」と、何度もおっしゃってくださいました。

(きっと来月には観音堂の御開帳にきております)と、心の中でつぶやいたおばさんが一人。

うん、来月の十七日は金曜日、大丈夫そうです♡。



…あれ、日付が変わって昨日になってしまっていました。

No.301

醫光寺さんに『赤城山小沼 赤堀道元姫 遺品』と表書きされた一本の帯が伝えられているといいます。
その赤堀道元の娘についての言い伝えも。
それについて、いろいろ調べていてどうしても知りたくなり、
そうだ、醫光寺さんへ行こう!
となった次第で。

その赤堀道元の娘についての言い伝えはいくつかの説があるようですが、とりあえず、そのうちの一つを。


『昔、赤堀道元という豪族がおりました。
大変裕福でありましたが子供がありませんでした。
赤城の明神さまへ祈願したところ女の子が生まれました。
しかしながらこの娘、子供の頃から変わったところがあって、夜になると髪の毛がわさわさと鳴る音がしたといいます。

その娘が十六歳になったとき、「赤城山に参拝に行きたい」と言い出します。
そこでしかたなく道元はお供の者を付けて娘を赤城山に行かせました。
赤城山の小沼まで来ると、娘は急に
「水が飲みたい」
と言い出します。
供の者が「水を汲んでまいりますのでしばしお待ちください」と言うのも聞かず、娘は沼に入っていってしまったのです。

道元はなんとしても娘の亡骸を沼から引き上げようと土方を千人雇って沼を掘り切りました。(その跡は今でも用水の水門となっている、といいます)

すると娘は大蛇か龍かという姿で現れて、
「私はこんな姿になりました。どうぞ諦めてください」
と言ったといいます。

そこで道元は沼を掘ることをあきらめ、娘の遺品をあちこちの寺に納めたといい、その一つが桐生市の黒保根町の醫光寺さんに納められた帯であったといいます。
醫光寺さんではその帯を四月(あるいは五月)八日に飾ってお祀りするのだといいます。
また、このことから赤城山麓一帯では「十六歳の女の子は赤城山に登ってはいけない」、
「やたらに神様に申し子をしてはいけない」と言い伝えられているといいます。
そして、その後はどうしても十六歳の娘が小沼のそばを通らなければならないときには、引き込まれないよう身代わりに鏡を投げ入れるようになったということです。


赤堀道元は藤原秀郷(俵藤太)の子孫で、娘の名は『白百合姫』というと、伝えられています』


『群馬県史 資料27 民俗3』より要約

No.300

醫光寺さんの魅力にとりつかれてしまった私は、明日醫光寺さんへ向かう気満々であります。

とりあえず、お電話差し上げて。

No.298

この日は二時から法要とのことで、
「まだまだゆっくりご覧になってくださって大丈夫ですよ」
とご住職さま。
しかし私どもが申し訳なくて、どうにも落ち着いていられない。

「またお参りさせていただきますので」
と申し上げて御本堂をあとにしようとしたそのとき、夫が
「山門からまっすぐ続く石段の先にある、高台のお堂はどんな仏さまがお祀りされているのですか?」
と。

「ああ、あちらへはお薬師さまがお祀りされているんですよ。もともとは山門をくぐったらまずまっすぐに石段をのぼって、まずお薬師さまをお参りしていたようです」

それもそのはずです。
こちら醫光寺さんは、平安時代初期の嵯峨天皇の弘仁十一年(820年)弘法大師が東国遊化の折に薬師仏を刻み開創したと伝えられている由緒あるお寺さんです。
霊験あらたかな薬師如来の御手から丸薬が湧き出し、病む人々を救ったというお大師さんにかかわる伝説から、寺の山号もこの地区の呼び名も【涌丸】とされているくらいです。

室町時代後期(戦国時代)の永禄六(1563)年、火災のため、堂宇、古記録等悉く焼失してしまった折にも、まず江戸時代中期の正徳五(1715)年に現在の薬師堂を建て、その後延享四(1747)年に現在の本堂を再建したくらいであります。

奥の院ともよばれる薬師堂には秘仏であります『涌丸薬師(木彫座像、伝弘法大師作)』が安置されているのだといいます。
往古から無病息災、特に眼病治癒に効験ありとして篤い信仰を受けてきたといいます。

醫光寺さんの正式な名称は
【湧丸山 瑠璃院 醫光寺】。

全てが薬師如来さまに由来しているくらいであります。


前回の参拝の際は、こちらの欄間彫刻を見にこられた方とご一緒になり、二十四孝のお話をお聞きいたしました。

今回は私どもだけでしたのでいろいろご質問させていただき、それに応えてくださったため、いろいろ新たに知ることができました。
これが御朱印をお願いしていたら、ご住職さまはそれにお時間を割くこととなり、こんなにお話を伺うことはできなかったことでしょう。

御朱印をお授けいただくことでお話しさせていただくきっかけを作っておりましたが、こういったこともあるのだなぁと、しみじみ思ったものであります。



No.297

(【二十四孝】の続き)

【姜詩(きょうし)】
いつも長い距離を歩いて母のために水と魚を手に入れていた姜詩という人物の家のそばに、ある日突然川が湧いた、という話。

【閔子騫(びんしけん)】
継母にいじめられ、閔子騫だけが寒い冬の日にも薄い服しか与えられなかいような日々を送っていました。
自分だけが寒さを我慢すればいいと言うと、継母はそれ以後かわいがってくれるようになった、という話。

【庾黔婁(ゆきんろう)】
病いに侵された父を救わんと、北極星に身代わりになることを祈り続けた人物の話。

【丁蘭(ていらん)】
死んだ母の木像を作って尽くした丁蘭という人物が、その像を焦がした妻に3年間詫びさせたところ、木像は元に戻った、という話。

【剡子(ぜんし)】
鹿の乳が眼の薬になると聞き、両親のために鹿の皮をまとって、群れに紛れ、鹿の乳をなんとか採ろうとした剡子という人物の話。


これは醫光寺さんの欄間彫刻に、タイトルが貼られていたものだけ調べてみたもの、となります。
なにぶんにもタイトルがないとその図がどういったものなのかすらがわからない者で。

ノートに全てそのタイトルを写してきたのですが、中国からのものなので、難しい漢字がほとんど。
後でわからない、読めないということがないよう、急ぎつつもできるだけ略さず、振り仮名込みで書き写してまいりました、…つもりだったのですがやはり一つ読めない…。

…リベンジ、ですかね。

再拝までしておきながら、御朱印のお授けもまだお受けしておりませんし、ね。


うーん、山道の細いカーブ、かぁ。

No.296

【二十四孝】のいくつかを書いておきます。
これがその彫刻や画なりを見て、パッとソラで言えるになれたら…。


【王裒(おうほう)】
雷が鳴ると、生前、雷を怖がっていた母の墓に急いで行った、王裒という人物の話。

【郭巨(かっきょ) 】
中国では子よりも親が大事。
食料が足らず、老母を養うために3歳の我が子を埋めに行ったところ、掘っていた地中から黄金の釜が出てきて一家助かった、という話。

【老萊子(ろうらいし)】
我が子がこんなに年をとったと、老いた両親が悲しまないよう、いつも子供のように振る舞い、これは舞を踊る図。

【楊香(ようきょう)】
父と山に行くと、虎に襲われてしまいました。
楊香が自分が食べられるように祈ると、虎は逃げていった、という話。

【大舜(たいじゅん)】
舜は大変孝行な人でした。
父は頑固者で、継母はひねくれ者、弟は奢った能無しでした。
三人は舜を何度も殺そうとしましたが、それでも父を尊敬し家族を愛しひたすら孝行を続けました。
そんな舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けてくれました。
舜の美徳の力は多くの人を動かし、一年で人が集まり、二年で町になり、三年で都市になったと言われています。時の天子、堯(ぎょう)は舜の孝行な心に感心し、娘を娶らせ天子の座を舜に譲りました。舜は理を以って政を行い国を治め広く徳を示したため、人民は舜に従い世は平和であったそうです。後世ではその功績を称えられ、中国神話の五帝に列せられています。


【孟宗(もうそう)】
真冬に竹の子が食べたいという病気の母のため、雪を掘っていると、土の中から筍が出てきた、という話。

【漢文帝(かんのぶんてい)】
皇帝自ら老母の世話をしたという話。
親孝行だった文帝の世は豊かで、民衆も住みやすかったといいます。

【董永(とうえい)】
漢の時代、幼いときに母を失い、父を養うために、人の使い走りや、農作業を手伝って生計を立てていた菫永という人がいました。
その父が亡くなったとき、葬儀をするお金がないため、自分の身を売り葬儀を出しました。
この親孝行の話が、天女を感動させ、天女は地上に舞い降りて、董永と結婚して妻となります。
そして、董永の身代金を返すために、他家の手伝いをしたり一ヶ月の間に絹織物を六百反も織り上げて、董永の身柄を引き取った、という話。

No.295

【施身問偈】の図の欄間の下を通って、再びたくさんの欄間彫刻に囲まれたとき、ご住職さまが振り向いて、
「あちらにもお釈迦さまのお姿が描かれた欄間彫刻があるのですが」
と、施身問偈の欄間と対になる、御内陣の右側の欄間彫刻を見ながらおっしゃいました。

なるほど、後光も眩しいお姿でお立ちになられているお姿です。
なにやら他にも人物が二人。
二人の人物はごく普通の昔の位ある人、といった姿をしています。
そこに光り輝くお釈迦さまが、なにやら親しげにも見えるくらいに近くお立ちになって、真ん中にある何かを囲んで三人で立つ、という構図です。
遠くから見ただけなので、よくは見えなかったのですが、なにやら橋の真ん中、池の真ん中でのことに見えました。

これは中央に甕を配し、お釈迦さま〔=仏教〕・孔子〔=儒教〕・老子〔=道教〕の三聖人が瓶に入った酢を舐めて、すっぱいと顔をしかめている様子を描いたものだとご住職さまが教えてくださいました。
【三聖吸酸】というものだそうです。

「宗教、教えが違っていても、酢がすっぱいという真理は一つだ、という「三教一致」を風刺した中国の故事からのものです。まぁ、お寺の御本堂にわざわざ飾るのもどうかとも思えますが、ね」

そう話しながらまるでいたずらっ子のようにニコッと笑って首をすくめたのが、なんともチャーミングなご住職さまでありました。


(醫光寺さんの【三聖吸酸】の
欄間彫刻) 
※一枚も写真に収めなかったのでお借りしました

No.294

…なんと美しくて、そして全身からその智慧がみなぎるようなお姿でありましょう。
こちらの虚空蔵菩薩さまは左手に如意宝珠はお持ちなものの、右手は印を結んでおられるかにみえます。

頭には宝冠。
蓮華座の上で結跏趺坐をとられています。
この蓮華座、見事な花弁となっていて、銅で作られたものであるようですので、さぞ優れた技術ある方が造られたものではないかと思いました。
衣の流れるさまも大変美しいものであります。

そしてなにより。
凛としたシャープなお顔つき。見透かされるような両の眼。
…お美しい。

実にお美しい虚空蔵菩薩さまであります。

見ているだけで賢くなれそうな気までする虚空蔵菩薩像でありました。

虚空蔵菩薩さまの御像は剣をお持ちのことが比較的多いのですが、こちらの虚空蔵菩薩さまは、剣を持たずしても全身が研ぎ澄まされた鋭さがみなぎっておられです。


造立は永禄元(1558)年で、総高は36センチ、厨子からお出になられると背一面に銘文が陰刻されているといいます。

在銘の仏像が希少な時代において貴重であるとともに、銘文により虚空蔵が赤城山小沼神の本地仏であることも明らかで、神仏習合時の典型的な遺物として「神道集」などの伝承を如実に証明しているものといいます。


明治の初頭にこの御像の損壊や紛失を憂いて、背負って醫光寺さんへと納めてくださった全ての方に感謝しかありません。

そのお姿にふれただけでは、稀代稀なる痴愚な私はそうそう簡単には賢くはなれませんでしたが、こうしてお会いできたのは、この御像を守ってきてくださった方々がおられるおかげでございます。

その方々にも感謝の意を込めて合掌し、ご住職さまに深く一礼し、その御前をあとにしました。


…いつの日にかまたお姿を拝することが叶いますように。

No.293

醫光寺さんは赤城山の東部に位置し、赤城山小沼の東にもあたります。

【赤城山】は、すぐれた山容で上州のシンボル的存在であり、それだけに昔から信仰の山として精神的にも重きをなしていました。

かの『上毛かるた』には『す 裾野は長し赤城山』と読まれています。

話が長くなりますので簡単に述べたいと思いますが、赤城山には前述通り赤城信仰があり、
大沼には赤城大明神が祀られその本地仏は『千手観音』さま。
小沼には小沼大明神が祀られ本地仏は『虚空蔵菩薩』さま。
覚満渕には覚満大明神が祀られその本地仏は『地蔵菩薩』さまであるとされています。

そんな赤城山の小沼の東に位置する醫光寺さんには、高さ二十センチメートルほどの銅製の虚空蔵菩薩像が伝えられているのだといいます。
これがあの道案内板にあった虚空蔵菩薩さまであります。

こちらの御像はもともとは赤城山の山頂小沼の東、小地蔵岳の堂宇内に安置されていたといいます。

しかぁし!
あの、明治のはじめに出された悪令により、御像を壊されてしまったり、あるいは盗まれてしまうことを恐れ、また安置されていた堂宇の荒廃もあり、このお像を背負いおろして、医光寺に納められた。といいます。

「こちらへ来る途中にあった、案内板にあった虚空蔵菩薩さまの御像はこの近くに安置されておられるのでしょうか?」
とお尋ね申し上げますと、
「ああ」
と一言おっしゃって、
「どうぞ」
と、御内陣の左隣にある垂れ幕の内へとご案内くださいます。

「えっいいんですか?」

ビビりな私はびっくりです。
一つはそんな大切な空間に一参拝客をお入れくださるということに。
もう一つはおそらくは寺宝でありましょうそんな貴重なものを、いとも簡単にお見せ下さることに。


その『虚空蔵菩薩』さまは。
小さな厨子の中に安置されておられました。
厨子の扉も閉ざされておりましたのに、スッと開けてくださるのでありました。
(えっ、…いいんですか?)
もはや言葉も出ません。



おおっ!!


No.292

雪山(せっせん)童子は、覚悟の上のことでありましたから、体を捨てることには何の躊躇もありません。

ただ、後世の人々のために、この言葉は残さなければならないと考えて、周りの岩や木に、その言葉を書き留めたといいます。

その上で、近くの高い木に登り、一気に地上へと身を投げたのです。



描かれたのはまさにこの、身を投じる直前、合掌されたお姿でありましょう。


しかしながら。
雪山童子が身を投じた瞬間、童子の体がまだ地上に着かないうちに、羅刹は、さっと帝釈天の姿に戻り、空中で、雪山童子の体を受け止めたといいます。

そして、恭しく地上に降ろし、雪山童子にひれ伏して礼拝したといいます。


この雪山童子こそが、実は、お釈迦様の前世の姿であるというのはもう納得でしかありません。
というか、何故その後もまた転生してあのような過酷な修行を積まねばならなかったのか。
なんなら雪山童子のままに修行させて悟りを啓く、というのではだめだったのでしょうかね。


この雪山童子が羅刹から聞いた真実の言葉は、雪山にちなんで、仏教では、「雪山偈」(せっせんげ)と呼んでいるといい、偈というのは、仏の教えや、徳を称えたりする時の言葉を、詩句の形であらわしたものであります。


この話は、日本文学の中にも取り入れられ、さらに、それが、戦前の小学国語読本でも、六年生用の巻十二に「修行者と羅刹」という、タイトルで取り上げられてきたといいます。

うーん?
そういわれると聞いたことあったような、なかったような気がしてまいります。

あ、もちろん戦前生まれではありませんが、ね。

もうこの彫刻だけで胸がいっぱいです。(胸ではなくてキャパ?)


いやいやまだまだ、たくさんの欄間彫刻が。

…そしてもう一つ。
あの、来る途中に見た『虚空蔵菩薩像』のこともぜひお聞きしたいことでございます。

No.291

あの童子は、衆生を救うための法を求めて、さまざまな難行苦行を続けていました。
その修行の姿を、天上から、じっと帝釈天が見ていたというわけで。

昔から、インドでは、悟りを開こうとする求道者は数多くいましたが、固い意志で、難行苦行に最後まで耐え抜き、悟りに至る人は、ほとんどいません。

帝釈天は、童子もまた、そのような意志の弱い修行者の一人ではないかと思ったのです。
そして、童子の苦行が本物かどうか、試してみようと、帝釈天は恐ろしい形相の羅刹に姿を変えました。羅刹というのは、インドの食人鬼です。

羅刹の姿となって、天上から雪山まで降りてきた帝釈天は、雪山童子の近くまで来ると、過去の仏が説いた教えを詩句にして、その前半を、声高らかに唱えました。

『諸行無常(作られたものは、すべて無常である)』

『是生滅法(これは生じては滅することを本性とする)』

これを聞いた童子は、これこそが長い間求めてきた真理の言葉だ、どうしてもこの後の句も聞きたいと思ったのです。

けれども、そこにいたのは、恐ろしい形相の羅刹だけ。
よもや、とは思ったが、雪山童子は、声のした方向にいる羅刹に尋ねてみました。

「今の言葉は、過去、現在、未来の三世にわたる仏の教えで、真理の言葉です。この続きがあるはずですが、ご存知でしたら、是非、教えてください」

羅刹は答えます。

「私は幾日も食べ物が手に入らず、飢えている。お前の体を食べさせてくれるというのなら、教えてやってもよい」

童子は静かに答えました。

「分かりました。残りの言葉を聞くことが出来たら、私の体は貴方に差し上げましょう。
悟りの道を求めるために、この体は捨てることに致します」

それを聞いた羅刹は、童子の固い決意に迷いがないのを見届けると、やがて、ゆっくりと、後半のことばを唱えました。
羅刹の口からとは、思えないほどの美しい声で。

『生滅滅己』

『寂滅為楽』

こう説いてから、羅刹は約束通り童子の体をくれるように、と詰め寄ります。



【施身問(せしんもん)偈(げ)】という図になるのだといいます。

羅刹に化けた帝釈天が【雪山偈】の前半部分「諸行無常、是生滅法」を唱えると、それを聞いた雪山童子(せっせんどうじ)は偈の後半部分を是非聞きたいと、空腹の羅刹に自らの身を与えることを約束しそれを聞く、という場面です。

No.290

この流れからいって、普通なら二十四孝の彫刻へと話を進めるのが普通の人であろうとは思うのです。
とは思うのですが。

私の目をとらえて離さない、彫刻は御内陣前の欄間の左側にあるもの、でありました。

どう見ても悪鬼のようなモノが描かれているのです。

片手で充分なくらいしか、ひと目見て「ああ、これは何を題材とした図」と、わかるものの少ない私です、当然ですがここに掲げられた彫刻が二十四孝であるのか無いのかすらわかってはいませんでした。

ですが、よりにもよって御内陣を、さらにいえばご本尊さまをお護りするような位置に掲げている彫刻として、〝悪鬼〟?
わざわざここに?
それは悪鬼が護るなら、それよりも弱い悪きモノからは守護するに値しましょうが、改心していたとしてもわざわざ悪鬼にまもらせましょうか?

うーん、これは…。



…エックスキューズミーだ!

「ご住職さま、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「あの(指を指しては失礼なので手のひらを斜めにそちらの方向へ向けてみました)、正面から向かって左側にある彫刻には鬼のように見える者が彫られていますが、あれはどういったものになるのですか?」

ご住職さまいわく、
「ああ、あれは羅刹です」

私「羅刹…」

「羅刹というのは鬼のような存在なのですが、実はこれは経文の一節から取られた題材を描いたもので。
この羅刹の斜め上のところに子どもが合掌して立っていますよね」

私「はい、それがまたなんとも不思議に思われて、どうしてもお聞きしたいと思ったのです」

「あの子どもはお釈迦さまの前世のお姿なのです。
そして羅刹も実は帝釈天という仏教で説かれている神さまのお一人が羅刹に姿を変えられているお姿なのです」

No.289

醫光寺さんの彫刻欄間は、厚肉の透かし彫りで両面図柄が施されており、中国の『二十四孝(にじゅうしこう)』の物語を中心に故事を題材にした彫物であります。
極彩色を施し、それがほとんど褪せることなく原色が保たれているのです。
それといいますのも、同じく桐生市黒保根地区にあります『常鑑寺』さんのご住職さまがおっしゃっておられましたが、神社の彫刻は建物の外に施されているためどうしても劣化が早いですが、お寺さんのそれはお堂の中であるため、日にも当たらず、風雨にさらされることもないため、劣化が大変ゆるやかなのでありましょう。

その常鑑寺さんのレスでも書かせていただきましたが、この欄間彫刻の彫物師は、地元上田沢出身で、数多くの社寺彫刻を手がけ、当時上州の左甚五郎と称された稀代の彫物師【関口文治郎有信】と伝えられているのです。
ただやはりこちらも誰が作った、といった記述のあるものが一切なく。
作風や生まれ育った地、というこの黒保根という土地との深い繋がりからおそらく間違いなく関口文治郎の作品であろう、としか言いようが無いのが現実ではあります。
ただ、この寺の欄間彫刻に使われた木材は文治郎の父が醵出したものであるということは記録にあるようです。


ところで。
よく神社仏閣の彫刻の題材として使われる【二十四孝】は、
中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物であります。
元代郭居敬が編纂した。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、孝行を特に重要な徳目としました。
中には、四字熟語や、関連する物品の名前として一般化した物もあります。
それが日本に伝来し、神社仏閣等の建築物に人物図などとして描かれているのです。
また、二十四孝は御伽草子や寺子屋の教材にも採られています。
孝行譚自体は数多く、ここに採られたものだけが賞されたわけでは決してありません。

神社は教育の場として使われ、お寺はまさに寺子屋として使われたため、儒教という異教ではありますが、孝行を教える題材としてはまさに最適なこの二十四孝が、建物にあって目を引く〝彫刻〟のテーマとして選ばれることが多かったようです。

No.288

群馬県桐生市にあります【医光寺】さんに話を戻します。

こちらは御本堂の見事な欄間彫刻で有名です。

ずっと『医光寺』さんと書いておりますが、正しくは〝醫光寺〟さんのようで、まぁ、旧字体なだけですので〝医〟の字であっても決して間違いではありません。

御本堂の戸は、…閉ざされています。

ただ、…こちらのお寺さんは、法要などがなければ、基本御本堂へ上げていただけると伝え聞いております。

うーん、…どうしよう。

だからこそ躊躇してしまうところもあるような、ないような。

しかしながら、煩悩の塊エックスキューズミーおばさん、そんな躊躇もうほんの数分で。
スタスタと庫裏へと向かって歩き出しました。

庫裏に向かう途中、修行時代の弘法大師さまの御像がお立ちになっておられました。
ひざまづいて手を合わせてのち、まだ少し躊躇している自分を鼓舞して。
ピンポーン。

「突然お邪魔しまして申し訳ございません。よろしければ御本堂で参拝させていただきたいのですが」

まだ年若いご住職さまが笑顔で
「ああ、それでは本堂の前でお待ちになっていてください。今鍵を開けますね」


…ありがたい。

以前も書きましたが、ここ桐生市の黒保根地区にありますお寺さんはどちらも、突然参拝に訪れた者を笑顔でお迎えくださいます。


鍵を開けていただき御本堂内へ。
一歩足を踏み入れた瞬間、見事な彫刻がズラリ!

まずはご本尊さまへ。
「奥へどうぞ」

ありがたいことです。


こちらのご本尊さまは千手観音さま。
金色の大きなそれはそれは美しい御像であります。
その彫りの一つ一つの細やかなことといったら♡


これでもか、というくらいの数の欄間についつい目を奪われがちになりましょうが、私はこのご本尊さまにまたまた心を鷲掴みにされました。

ずっと座っていたいくらいに。
本当に胸がキュッとなりました。

ご住職さまはなにもおっしゃいませんでしたが、こちらのご本尊さまも実は室町時代の作とのことです。


いつの時代の作品であるとか、どんな仏師の作品だとか、そういったことには一切興味を持たれることなく、ただただ生まれた時からこのお寺を、そしてご自分をお守りくださっている大切な大切なご本尊さま、御仏のお像という認識でしかないのでありましょう。




No.287

ところで。


先日たいそう寒かった十一月中旬並みともいわれた日に、こたつをたて、ただ火入れはまだの状態でおりましたが…。

…こたつをたてると、寒くはないのに火が入っていないとなんだか少し寂しい気がするものであります。
しかしながら吉日を待とうと、今日まで火入れをせずにおりました。


昔から「亥の子の日」に火を入れると火事にならないといわれているといい「こたつ開き」をする習わしがあるといいます。

亥は陰陽五行説で火を制する水にあたるため、亥の月亥の日から火を使い始めると火事にならないとされました。
そこで、「亥の子の日」にこたつや囲炉裏に火を入れるようになり、「こたつ開き」と呼ばれて親しまれたといいます。
(私の実家ではどこをどう間違えていたのかずっと『戌の日の大安』とされていましたが…)

実際には「亥の子の日」は、亥の月(旧暦10月)の亥の日をさします。亥は十二支の数え方なので、亥の日というのは12日ごとにやってきますが、一般的には亥の月(旧暦10月)の最初の亥の日のことをいうのだといいます。


…『亥の日』じゃ、だめ?

自分に甘い、煩悩おばさん、暦を調べて亥の子の日が十一月十三日であることを知ります。


うーん…。
しかもこの日は仏滅です。
うーん。


今日なら亥の日の友引です。


…いいんじゃない?亥の日の友引。
と、まるでUber EatsのCMみたいなノリで、本日朝、こたつの火入れをいたしましたおばさんであります。


いやぁ、こたつのある幸せ。

沈んでいた気持ちがこのくらいでちょっとでも浮上するなら、まだまだ軽いもの。



今日一日がみなさまに良い一日でありますように、お祈り申し上げます。

No.286

こちらの山門の前におられる六地蔵さまが、まず私の心を鷲掴みになさいます。

お優しいお顔。
お座りになられた御像なのですが、そのお召しになられたお着物の袖や裾の流れるさまの優美なことといったら♡

そして、こちらのお地蔵さまの光背は少し変わっていて、円光、…なのですがドーナツ状とでも申しましょうか(語彙力がなくて申し訳ない)、内側が抜かれた円であります。『輪光』ということになりましょうか。

石仏がお好きな方は、その像の背面や台座等に刻まれた製作年をご覧になられる方がほとんどなのですが、私は基本的に簡単に見られる位置にある時だけ見させていただいております。
御仏として拝するか、
その御仏を作るに至った背景を含めて、…依頼者や石工や、時代や時代背景やらといった諸々を含めて拝するかという違いがあるのかもしれませんが、…私の場合、要はビビりに端を発しているかと。

…自分に自信がない私は、何か失礼をしでかさないかとドキドキしてしまうのです。知らないうちに何か失礼な事をしでかしでもして、バチが当たることを畏れているのです。
…御仏なので、よほどのことをしでかさない限り、お許しくださる気はするのですが、なにせ〝私〟ですから。

そ、そんなわけで、この六地蔵さまがいつ造られたものかはわからないのではありますが、輪光を作ることは手彫りではかなり大変なのではないか、と思われ、新しいものなのではないかと思うのではあります。
石もどこか新しそうな気がするものであります。
ただ、私の場合、そう思って見ていたら江戸時代のものであった、などということがありましたので、それもあてにならないのですが…。

違う場所にも六地蔵さまがおられ、そちらはいかにも古いもののよう感じますので、たぶんこちらは新しい?


そしてそんな(たぶん)新しい六地蔵さまを含めてこの山門を見守るようにお立ちになられている、大きな大きなお地蔵さまが。
こちらはだいぶ古くからお立ちになっておられるかと思われます。
がっしりとした体躯の宝珠と錫杖をお持ち…にみえる御像です。
たいそう立派な台座で、お立ちになっておられる蓮の花弁が八重を通り越した、薔薇や菊のように花びらがたくさんあります。

No.285

【医光寺】さんの山門が見えてまいりました。

道を歩いて山門の正面に来る。

…当たり前のことなのですが、このクルマ王国とも呼ばれます群馬県民、まずまず電車・バス等の公共交通機関を使うことがあまりなく。(と、いうか公共交通機関がないがために車を持たざるをえなかった?)
まず目指すのが駐車場。
ところが、車などなかった時代からありますのが神社仏閣。
駐車場をどのように設置するか、悩みに悩んで、本来ならば設置などしたくはない場所に設置せざるを得ないことが多々あり、鳥居の内、山門の中に駐車場があることなどザラであります。
ビビりの私どもなどは、そのたびに(ひぇ〜っ、ごめんなさい)と思いながら敷地内にある駐車場に車を停めているのですが。

医光寺さんは大きな駐車場をお持ちで、山門の斜め前に、…もう一つの駐車場があり、そこに停めると先ほど申しました『道を歩いて山門の正面に来る』といった光景に出会えないのであります。

うーん♡

これは良かった♡

医光寺さんの山門は決して大きなものではありません。
ごくごく普通の山門、なのですが…。

竹林と、六地蔵さまと、見上げるほど大きなお地蔵さまと、そして見上げるほど大きな宝篋印塔がその山門を見守るという、なんとも風情ある山門なのです。

ああ、しあわせ♡


No.284


…どうにも気持ちが沈むことばかりで、なかなか立ち直れずにおります。
秋だから?…でしょうか。

そんな自分を払拭し、鼓舞しようと、いつもとは違う言葉を使って前スレを書いてはみたものの、…そんなことで払拭できるものでもなく、むしろ読む返すたびに自分でびっくりするし、続きが書けないほどに、前回の言葉使いに違和感を感じて戸惑い、困ってしまっています。

お笑い系の芸能人の方の口ぶりを真似てみたつもり…だったようなのですが、そもそもがお笑いをほとんど観ないから、思い込みで書いていて。

「パワーっ!!」
と大きな声でおっしゃるのがトレードの方の話し方を真似したつもり、なんですが、後で調べたらまるで違っていましたね。

「〇〇するのかい、しないのかい、どっちなんだ〜いっ!」
というんでしたか。

あわよくばその方のパワーももらえたらと思ってのことだったのですが…。


まぁ、とりあえず。
こんな駄文でも書いておけば、勢いがついて続きを綴れる、かもしれないと思い、つらつらと書きつらねてみました。





No.283

医光寺さんへはあと少し。
ナビの案内は続きます。

川沿い(…とは言ってもかなり下を流れていますので車の窓からは川自体は見えません)の上りの道を進むと、おぉ〜見えてきたではないですか、医光寺と書かれた小さな案内が。


えっ!
通り過ぎちゃうんかい!

「医光寺さん、あっちって書いてあったけど?」
「えっ?ちょうどこの辺で曲がるのかなってナビで確認してて見てなかった」

…ぁ、そ、そうかい。

しかも決して太くはない道な上、後ろから車が来てしまうという、絶悪なタイミング。

「ほ、ほら、またあったよ、医光寺さんの曲がるとこの案内」
「えっ…あれは無理だ。あの角度はちょっと曲がれない」

む。
ま、まぁそうだったな。
間違いなく私では無理だ。


…って、じゃあどうするのよぉぉ〜!

なおも直進を続ける夫。

ナビ、がんばって!


「ほらあそこ!あそこ医光寺さんの曲がるとこって!今度は曲がれそうだよね」

…ナビ、信じてるか?という発言を繰り返す私。
まぁ、じゃじゃ馬ナビですし…。
田舎道ではUターン不可、行き止まり、…みたいな道はザラですからね。

ともあれ、今度こそその案内に従ってようやく右折することができました。
…私が運転していて、隣の助手席の人間がこんなにうるさかったら、さぞストレスだろうな。それが夫だった怒鳴り散らしてるだろうな。

…じゃじゃ馬なナビと、その上をいく妻。
夫は…毎日が難行苦行?



えっ?
曲がってすぐ、農家さんの畑の納屋みたいなとこなんですけど?
これ、農家さんの私道じゃないの?

畑を突っ切って、生活道路を走って、ようやく、ようやく医光寺さんの…段差のやたらきつい駐車場です。

ああ、朝でもないのに鶏のにぎやかな鳴き音が響き渡ります。
番犬ならぬ番鶏?

烏骨鶏の鶏小屋がすぐそこにありました。
が、あきらかにこれは医光寺さんのものではない、ご近所の農家さん。

どうやらここから歩くようです。
(? 以前はもっとお寺のすぐそばが駐車場だったような…?)


No.282

水沼の信号を曲がって入る坂は急坂ですが、常鑑寺さんから先はゆるやかで、くねくね道とのどかな田園風景が広がります。
ひだりてに古い横長の二階建ての古い建物があり、なんでも移築した旧水沼第二小学校のようです。

そこからさらに河川沿いに医光寺方面にひたすら向かっていくと橋があり、なんとものどかな小川…よりは少し大きな川が流れています。
この川を眺めるだけでも、ここまで来てよかったと思えるような、まさにザ・日本の風景であります。

ちょうどその橋を渡ってすぐのところにも医光寺への案内板が出ています。
…なのですが。
気になる案内板があと二つ。

『虚空蔵菩薩像』と『虚空蔵菩薩経』、とあります。
しかも、その案内板に示されている距離が、若干、医光寺さんと異なって表記されているのです。

路傍、とか?
お経、経文まで?
それはちょっと考えにくいけれど?

いったいこれは…?

No.281

読み返してみてふと不安になったので、これだけ。

上記のレスは決して【医光寺】さんのことを書いたものではありません。


あるお寺さんで感じたことを、あまりに引きずっている自分に気づいてつぶやいた〝愚痴〟であります。


医光寺さんではありませんことを明記しておきます。

No.280


心洗われ、豊かにしてくださるお寺さんもあれば…、悲しいかな、悪い気を受けて、気持ちの重くなるお寺さんがあるのもまた事実であります。

お坊さんも人間です、当然煩悩もありましょうし。

ただ…そこに、その場所、お寺さんに御仏はおられるのだけれど。


…本当に?

御仏は見捨てない、…ですかね。

なんの教えを受けて、なんの教えを説いておられるのか。


マスコミは大切なようで、イベントに記者を招待して、県内で知らない者はないくらいの有名なお菓子の手土産まで持たせていた。

「今日はありがとうございました。それではこれで…」と切り上げた記者さんを、その後も事あることに探しては、あれこれ話す老住職。
記者さんは本当は参拝者のインタビューが取りたい様子なのだが、お構いなしにそのインタビューに突撃して中断している。

「記事になると集客につながるんでほんと、〇〇新聞さんには感謝してますよ」


集客、かぁ…。


本山でもいろいろ自慢してきたんだと平然と話すお坊さん。

自慢って…、煩悩…だよね。


なんだかとても疲れてしまった。

No.279

群馬県桐生市の黒保根地区にはお寺さんはいくつもございますが、残念ながら無住となってしまっているお寺さんが多いのです。

そんな中、この常鑑寺さん、医光寺さん、そして正圓寺さんの三寺は、それぞれ別の宗派さんではありますが、同じ黒保根地区のお寺ということであるのでしょうか、連絡を密にお取りになられているようなお話を伺います。

そして。
必ずといっていいほど、
「〇〇寺さんには行かれましたか?(〇〇には上記の三寺のどちらかのお名前が入ります)〇〇寺さんは…」
と、他宗派のお寺さんをお誉めになるのです。

他宗派のお寺さんともなると、下手をすると悪口を口にされるお坊さんもおられるくらいですのに、この桐生市の黒保根地区の方々のお人柄がこうなのか、よそのお寺さんへの理解も深く、そしてその、他のお寺さんへの参拝もお勧めになられます。

そのどのお寺さんもおもてなしのお気持ちを持たれたご住職とそのご家族ばかりで、アポ無しで訪れる参拝者を快く受け入れてくださり、御本堂の戸を開けて、丁寧な説明や法話をしてくださいます。

桐生市黒保根地区のお寺さんを参拝して歩くと、心癒され、何物にも変え難い尊いものをお授けいただいたような…満ち足りた気持ちになるのです。

この日も常鑑寺さんのご住職さまは他のお寺さんへの参拝をお勧めになられました。

とりあえず。
もともと医光寺さんへは参拝させていただこうと思っておりましたので、常鑑寺さんの駐車場でわが家のじゃじゃ馬ナビに〝医光寺〟さんと入力いたしました。

のどかな景色が続きます。
常鑑寺さんですでに満ち足りたと思っていた心に、さらにやわらかな、温かなものが流れ込んでむくむくと胸が膨らむ思いです。

No.278

欄間右側では、恵比寿天さまが太鼓を叩き、福禄寿さまが踊り、後ろ姿の女性が笛を吹き、毘沙門天さまが…?、楽器、ではないなぁ、少しだけ物のはいった大きな袋?を手にしてそばにおられます。

どなたさまもたいそう楽しそうな、素敵な図案です。
彩色もまだしっかりと残っており、表情豊かで、背景や小物も丁寧に彫られております。

御内陣の正面には火伏せの龍、左右には孔雀が彫られていました。

左右の欄間は四枚の彫刻がはめ込まれており、それぞれ飛天が彫られていました。
その優雅で美しいことといったら。

こちらの飛天はそれぞれが楽器を奏でており、ご住職さまがおっしゃることに、この飛天に関しては裏から見てもその後ろ姿がしっかりと彫りこまれ衣の裾の流れるさままでが美しく彫られていると。
「是非ごらんになってください」

うーん♡
たしかに。
これは美しい、素晴らしい彫刻です。
裾の流れ、髪の流れ、香るかのような花々。
うーん。


実はご住職さま、この日御本堂で夏使っておられた扇風機を拭き清め、お片づけをされておられ。
扇風機のファンの部分を手にその天女のうしろ姿を見上げておられ、なんと贅沢なお掃除であろうと、そのお姿を見て思ったものです。

そうそう、御内陣の、前に置かれたつくえにも彫刻が施されており、こちらはさすがに彩色はなく、茶色一色ではあります。
遠目でよくは見えなかったのですが、なんとこちらの図柄は波頭と〝ラクダ〟、なのだそう。
ラクダを見たことのない人が、その口伝えに聞いた動物を想像して彫ったのだろうと思う、あきらかにラクダとは異なる動物が彫られているといいます。

なんでも、ご住職さまもまさかラクダであろうとは思わずにいたところ、彫刻に詳しい参拝の方からそうご指摘を受けたのだとか。

実は他にも欄間彫刻があったのですが、これ以上ご住職さまのお手を止めることか申し訳なく、いつかまた、の機会をと、お礼を申し上げ、御本堂をあとにしました。


瓔珞草(イコール秋海棠)やホトトギス、その他もろもろの満開の花々が咲きほこる境内を歩くだけでも幸せな気分になる常鑑寺さん。

是非またお邪魔させていただきたいです。

No.277

こちらの彫刻欄間。

同じく群馬県桐生市の【医光寺】さんの彫刻欄間の彫師の一門の手によるものと考えられると伝えられています。

実はここ桐生市黒保根町は、同じく桐生市に鎮座する【桐生天満宮】さんの彫刻を手がけた【関口文治郎】の出身地であります。

関口文治郎の記録というのはほとんど残されていないといいますが、以前桐生天満宮さんのところで書いておりますが、国宝となった埼玉県熊谷市の『妻沼聖天山』さん他、同じく埼玉県の『三峰神社』さん、桐生市の栗生神社さんや榛名神社さんなどの彫刻を手がけた人物であります。

上州の甚五郎とも称されることのある優れた彫刻職人です。

実はこの常鑑寺さんの欄間彫刻にしても、医光寺さんの欄間彫刻にしても、おそらくは関口文治郎の作品であろうとされているだけで、確認のとれるものが今のところ何一つ存在しないため、確定はされていません。

お寺さんの場合、依頼によってはめ込み欄間を納めてもらうということらしく、(これは桐生天満宮さんの場合もはめ込みのものであるのですが、あちらには棟札が残されており、そこに『関口文治郎』の名が残されています)もしかしたら銘がどこかにあるかもしれないが確認が出来ていないということで、『みごとな欄間彫刻のあるお寺』にとどまってしまっているのです。

「あるとしたら、屋根裏とかに密かに記名してあるかもしれないですね」と、さほど残念そうではないご住職さま。

誰の手によるものであろうと、こちらのお寺さんの彫刻はそれはそれはみごとなものだから、でしょう。


実際、嘆息がこぼれるくらい、素晴らしいものです。

常鑑寺さんはご住職さまか奥さまがおられれば、御朱印などを希望しておらずとも、お時間が許す限り、御本堂の戸を開けてくださいます。

それがまた本当に本当にありがたい。


御本堂に入ってすぐの欄間彫刻は三枚で七福神さまを表現されています。
欄間中央は、布袋尊さまが袋の上に乗り、それを唐子が引いています。
それをまるで綱引きの応援でもしているかのように、中央に大黒さまが軍配を手にして踊るように笑顔で立っておられます。

欄間左側は、弁財天さまが白い顔の髭の男性と碁(?)をうたれており、それを寿老人が観戦しているのですが、この弁天さまと相手の人物の表情が実にリアルで、そしてなんとも楽しそうなのです。
寿老人は気だるそうで。

No.276

こちらの草創は、室町時代初期の応永年間(1394-1427)頃に小庵が結ばれたと伝えられています。しかし、その後は廃寺となっていたといいます。

その後の室町時代末期の元亀二(1571)年、荻原與惣左衛門が開基として、春翁慶陽大和尚(現 前橋市粕川町膳 龍源寺五世)が開山となり、それ以降【赤城山感心院常鑑寺】と称することとなったといいます。

実際に住職としては二世がここに住み、この寺を興したといい、それから今年がちょうど三百五十年に当たるといいます。

四世の時に観音堂が建てられ、五世が前述しております梵鐘を造るべく発願されたのですが、諸事情から梵鐘が出来上がったのは六世のときであったといいます。


現在の本堂は、安永元年(1772年)二月、八世の代に発願し、九世の代に再建されたものといいます。

この頃、当寺を菩提寺とする檀家である星野家第六代星野七郎右衛門が再建に際し多大な貢献をしたといい、常鑑寺の中興開基となっているといいます。

この本堂は、間口八間半奥行七間半で屋根は往時より茅葺でありましたが昭和三十七(1962)年にトタン葺きに、さらに昭和六十一(1986)年に銅板に葺き替えられ現在に至るといいます。


明治時代に入り、地元水沼の名主であった星野家の星野長太郎は、稼動したばかりの官営『富岡製糸場』でいち早く技術を学び、明治八年、輸入機械を購入し屋敷内に水沼製糸場を建設したといい、さらには生糸組合をつくだだと言います。
高品質の生糸生産は一年後には弟の新井領一朗が、ニューヨークに販売の拠点を作る勢いで大きく発展していったといいます。
そのような中で、教育の重要性を認識していた彼は、明治政府が欧米諸国の学校制度を取り入れた学制を明治五年に公布した学制施行の翌年二月に、星野家の菩提寺であった常鑑寺に寺子屋を開設したといいます。


常鑑寺の御本堂内に置かれる駕籠は、〝女駕籠〟であるといい、その星野家から納められたものといいます。

また、そしてその隣に置かれている長持には巴の徳川紋が入り、それは桐生が徳川家の直轄天領であったことと、この辺りがあかがね街道であったこと、などからのものであろうとおっしゃっておられました。

No.275

鐘楼の前に、
この鐘は戦争に供出することなく美しい音を響かせてきたため『平和の鐘』と呼ばれること。またかの東日本大震災の折にこの鐘も被災した経緯もあって、このような悲劇が二度と起こらないことを願い、鎮魂の意を込めて是非お撞きくださいといった内容の書かれたものがありまして。

『東日本大震災でこの鐘も被災した』…。

どのような被災状況であったかは今回ご住職さまにお聞きすることができたのですが、
「修復に十年かかった」とおっしゃっておられました。

私どもが訪れたのは間違いなく、震災後。修理中であったのかもしれません。
そう考えると合点がいきます。

東日本大震災の折、この鐘楼の土台の石が割れてしまったと、おっしゃっておられました。

その他にも参道の脇にある石垣の〝隅石〟が落ちてしまい、倒壊の危険もあるようなこととなっていたとか、先代のご住職が直されたばかりの歴住塔がみな崩れてしまったとか、庫裏の屋根瓦が三分の一落ちてしまったと、おっしゃっておられました。

「地震にはその地震、地震で〝筋〟があるようで。
実は二十年ほど前の中越地震では、西側の墓地が大きな被害を受けたのですが、今回西側はまるでなんともなくて、東側に集中して被害が出ているんですよ」

…こんな身近なところに、そんな被災をされたところがあったなんて。
特に中越地震による被害まであったことなど、知りもしないでおりました。

「すぐ近くのお宅や、すぐそばのお寺さんは何も被害がなかったといいますので、やはり地震の筋があるのだなぁと思ったものです」とご住職。

東日本大震災からちょうど十二年の年に、思いたってこちらのお寺さんをお訪ねしたことに、意味は無かったのだとは思います。

ただ、私の心にあらためて慰霊の思いが強くわきあがったことは確かなことです。


日本各地の災害による大きな被害による爪痕はまだまだ残るものであります。
日本を取り巻く環境は大変厳しいものではありますが、他者への思いやりを決して失うことなく、人が人らしく生きられる世であるよう、常に心に置きながら、生きていたいと思います。

一人一人の力は微力ではありますが、一人一人の思いは小さいものかもしれませんが、その一つ一つが築いていくものは決して小さくはないと思うのであります。


No.274

…どうしよう。

すでに御本堂の前でではありますが、手を合わせ参拝してしまっております。
鐘を撞くのは参拝前と言われています。

…おばさん、鐘を撞くのが好きなんですよね。
しかも〝東日本大震災の慰霊の思いを込めて〟的なことが書いてあるのです。
…撞くしかないでしょう。

鐘の前で一礼し手を合わせて。
〝こーん〟

そう、こちらの鐘の音はよくある重低音ではなくて、少し高くてやわらかな音色です。
なので〝ゴーン〟というより〝こーん〟が近い。

そして鐘の音が再び静まるまで合掌いたします。


こちらの梵鐘は寛延元(1748)に下野国佐野の鋳物師によって鋳造されました。縦帯の撞座の上方には、聖観音の座像が蓮台付きで半浮彫りに鋳出されています。
反対側にも同じように観音さまがおられます。
美術的にも価値の高い梵鐘であるということで、かの第二次大戦の折、すでに文部省のお墨付きを受けていたことから供出を免れたと伺っています。


この梵鐘は第五世住職が発願し依頼、第六世の代になって完成したと、このたびの参拝で、ご住職さまより伺うことができました。

なんでも金属の不足でなかなか仕上がらなかったようで、女の人たちからかんざし等の供出を受けてようやく完成したとのこと。
そうしたことから「この鐘には貴金属も溶け込んで作られており、それゆえ音が柔らかいのです」
とのこと。

〝絶対、音感がない〟(〝絶対音感〟ではなくて、絶対に、まるっきり音感がない、の意。)私にして、その音のやわらかさを聞き取る事ができたということでありましょう。
そのくらいに素晴らしい音色なのだと思います。


鐘のデザインはいたってシンプルで観音さまがお二方半浮彫りされているものですが、その小さな小さな観音さまの見事なことといったらありません。 

鐘そのもののデザインといい、音色といい、私はこちらの梵鐘が大好きなものとなりました。


実は…以前訪れていたときは、鐘に近づいて拝することすらしていなかったのです。

(一体何故?)
自分でもそう思いました。

県の指定重文ということより、かの大戦の供出を免れたほど〝美しい鐘〟と言われる鐘を、何故見ずに退去したのだろう?


(あっ!…もしかしたら)
一つだけ思いあたる(かもしれない)理由がありました。

No.272

こちらの、群馬県桐生市黒保根町の【常鑑寺】さんの参道は百八十八段の玉造のかなり急な石段です。
下から見上げてもその先に御本堂は決して見えません。
そもそもこの石段からのぼろうにも下には駐車場はなく、なんだかんだ車の往来があり、路駐した車をやり過ごすにはカーブのところにある上、道もさほどには広いものではなく、これ幸いと(えっ?)車で上にある駐車場をめざします。
車でのぼっても結構急な坂であります。

この石段、上段、中段の百八段は開山当時の造成といいます。
半径が四十センチくらいのまあるい石を(…あ、こうした目算がたいそう雑で、合っている確率は大変低いおばさんの〝見立て〟です)、半分に割った(であろう)ものを踏み石として加工した石段です。
上の方は経年で少しズレてきており、少しのぼりづらいものとなってきてはおります。
まぁ、下から登る方は鍛錬の目的もあろうかと思われる石段です、足に自信のある方しか登っては来ないかと思われますが…。
それでもきちんと整備して、雑草が蔓延ったり落ち葉等で覆われたりもしていない、きちんと管理されている石段であります。

ここを登り切ると正面に荘厳な本堂が現れます。
まぁ、私の場合は車ですでにあがってきておりますので、途中までおりて、上がってきての光景でありますが…。

御本堂の前には大きな鉢に植えられたさまざまな季節の花が並べられ咲き誇っています。

御本堂は高床となっているため、少し段をあがります。

扉は、…閉ざされておりました。

まぁ、たいていのお寺さんがそうであります。
御本堂に上がらせていただけるところなどはそうはありません。

ましてやこちら、実に見事な欄間彫刻のあることで有名なお寺さんです、それは防犯の意味で当然のことだと思います。

御本堂の外から手を合わせて。
こちらは正観世音さまが御本尊さま。
〝聖〟ではなくて〝正〟であります。
その理由はちょっとわからない、とのことでありました。


そして。
前述させていただいておりますが、こちらの梵鐘、群馬県の指定重要文化財です。


ん?
えっ?
撞いていい?


No.271

川を見下ろしながら山を見上げ、その四季折々の景色を楽しみながらの風情ある国道122号線。
とはいえ、休日ともなるとドライブやツーリングを楽しむ車やバイクが増えて、ゆるやかながら坂もあり、なによりカーブの連続で、決して気の抜ける道ではないのですが。

そんな国道122号線はかつて足尾銅山街道と呼ばれた道とも一部合致しており、かつては栄えた街道で、現在でもその名残を花輪宿などに見ることができます。
今はこのR122を『あかがね街道』などと呼んだりもしております。


水沼という地に入り『桐生市黒保根歴史民族資料館』の看板を見かけたら、その水沼の交差点を左折し坂道をのぼるとひだりてに【常鑑寺】さんの案内が見えてきます。

かなりの高台にありますものですから、道を走行していて見えるお寺さんではありませんが、こちらの梵鐘が群馬県の指定文化財にあたっていることもあり、そこここに案内が出ております。

しかしながら、文化財云々ではなく、一度でも訪れた方はご存知かと思われるのですが、こちらのお寺さんさまざまな四季折々の花が咲いておりまして、そして何よりもご住職さまご家族が心からのお迎えをくださる、心安らぐ、癒しのお寺さん、なのであります。
車での坂をのぼってまいりますと、まずは犬さんが吠えてお出迎えを。
そして境内には猫さんがマイペースに歩き、寝そべる姿を見ることができます。

伺う度、奥さまやご住職は境内のお手入れをされておられ、そして毎回その手をわざわざお止めになって、お声がけくださるようなそんなお二人のお守りになっているあたたかなお寺さん、なのであります。

No.270

本日十月九日は、語呂合わせから『天狗の日』なのだといいます。

諸説ありますが、天狗は中国において流星を指すとされ、
また『日本書紀』には流星を『天狗(あまつきつね)』としていて、これが日本の天狗の初見とされています。

流星は、星が夜空を飛んでいるように見えますので、そうしたことからのかとかも。

天狗には羽があり、風を操る天狗の団扇を持っています。

天狗さまは、不思議な御力で、運命の風向きを変え、追い風を吹かせる『運命好転』の御利益があるとされています。


現在、太平洋岸において津波が発生しており、徐々にその範囲も広い範囲でのものと変化しております。
誰一人として被害に遭われることなく、津波が収まりますように。
足柄山の天狗さま方が、揃って海に向けて羽団扇を振るお姿が見えるような気がいたします。


また氷雨降る日ともなり、十一月半ばの気温ともいわれております。
どなた様も体調を崩されることなくお過ごしください。

No.269

貴舩神社さんは長い石段をのぼってまいります。
程よく続く鳥居をくぐりながら上へ上へと向かいます。
石段の両脇には朱塗りの手すりが続き、ところどころ一定間隔で設置されている朱色の灯籠が、まるで見守ってくれているかのように感じます。

上へ上へ。

目指す石段の上に、明るく光る空間が見えてまいります。
その光差すさまがなんとも神々しく、そして限りなく優しい気が迎えてくれます。
この石段を登っての景色こそが、
貴舩神社さんを訪れてよかった、また訪れたいと思う瞬間であります。

正面に拝殿。
小さな赤い天狗さまが正面に祀られていて、まるで「よく来たな」と声をかけてくださっているかのように感じます。
護ってくださるお力の強い、お優しい天狗さまがそこここで、訪れている参拝の者たちを見守っておられるような、…そんな感覚を抱く神社さんであります。


こちらは、訪れる方の悩みの数だけ御守りを用意しようと、そう思われたのであろうなと、感じられるくらいに御守りが数多く置かれています。

しかもその思いに寄り添うようなデザインであり、そこがまた心に染み入るのであります。

わが子にお力をお与えいただきたいと願うとき、私はこちらへお参りさせていただきます。
そして…それは本当はそうすることで自らの心のうちにある、わが子を心配している心を鎮めていただいているのだと、気づきをいただけることとなります。

貴舩さまはお優しい神さま方と、お優しい天狗さまが、病める心を癒そうとお待ちになってくださっておられる、癒しの宮であるのです。

そして。
いろいろな気づきをいただくことの多い神社さんでもあります。


〝パワースポット〟という言葉はあまり好きではありませんが、きっと一言で言いあらわすなら、こちらはまぎれもなくパワースポットなのであろうと思います。

No.268

高知県香南市で、目の不自由な方に仏像に親しんでもらおうと、手で触って楽しむ催しが開かれたといいます。

香南市夜須町の『長谷寺』さんの山門には鎌倉時代から伝わるとされる仁王像がニ体あるといい、現在その二体を仏師の吉田安成さんが修復作業を進めているといいます。

10月10日の「目の愛護デー」を前に、視覚障害者の方に仏像の魅力を知ってもらおうと、吉田さんらは目の不自由な男性お二人を修繕の作業場に招いて、仏像に触れてもらう体験会を開いたのだといいます。

参加された方々は、修繕の過程で使わなくなった仁王像の足に触れたり、3Dプリンターの技術で作った小さな仏像の模型を実際に手に取ったりして感触を確かめられたといいます。

また、仁王像について、口の形が「あ」と発する像は「阿形」、「うん」と発する像は「吽形」と名前が付けられていることを住職から説明を受けられたといい、ニ体の違いを感じていました。

参加された男性は「ぼんやりと見えていた頃も仏像の全体の形は分かっていませんでしたが、触ることで細かい形や胸板の厚さを想像できました」と話しておられたといいます。

またもう一人の方は「一人で外出できない中、貴重な体験ができました。
またこのような企画を考えてくれたらうれしい」と話されたといいます。

なんと素晴らしい着眼。
そして決して押し付けでなかったからこそ、その発案に対して素直に応じてくださって、貴重な体験をなさることができたお二方。
そこには心を込めて伝えようとした思いがあって、そしてそれがしっかりとお相手に伝わったということ。

そうして、仏師の方の申し出に快く応じたご住職もまたありがたい。
それは一人として漏らすことなく、仏の道を伝えようとする僧としての姿勢の表れでもありましょう。

仏教には、生きている中でつらく思うことから救われる教えがたくさんあります。
心のあり方を説いてくれる…そんな御教えが。
それを伝えてくださる僧籍の方に出会えることは、悲しいかな、なかなか稀なことでもあります。

こうした機会が、…さまざまな視点・さまざまなジャンルで、開かれていきますように。

障害のある方の真に住みやすい世の中となっていけたらいいと、心から思います。

No.267

こちら群馬県みどり市に鎮座されます『貴舩神社』さんの御祭神さまは

・【高龗大神(たかおかみのおおかみ)】さま

水の神さまで国土を永遠に湿潤にして草木の生育をたすけ、人々の生活を豊かにする。雨をともなう龍神としての信仰があり、特に雨乞いの
水の神さまで国土を永遠に湿潤にして草木の生育をたすけ、人々の生活を豊かにする。雨をともなう龍神としての信仰があり、特に雨乞いの神として崇められてきました。

・【大山祇大神(おおやまづみのおおかみ)】さま

山々の精霊を統括支配し五穀豊穣をもたらす神さま。

・【大穴牟遅大神(おおなむちのおおかみ)】さま

国土を治め守護し、人々の病めるのを治し不幸を救う神さま。


…はて。
天狗さまは…?

そもそも天狗さまは神社さんでもお寺さんでもお祀りされておられます。
この辺りを守護してくださっておられた天狗さまがお祀りされましたこともあるでしょうが、もともと京都の貴船神社さんは鞍馬寺のすぐそば(…とのことで。私は京都の貴船神社さんにも鞍馬寺にも参拝させていただきましたことがないので、あくまでも〝調べた〟情報、でしかありません)、そんなことで、天狗さまとの関係も強いようで。

それも相まって〝貴舩神社〟さんには天狗さまが一緒にお祀りされる…のかもしれません。

こちらでお授けいただく御朱印には天狗の羽団扇に天狗さまがいる朱印が押されています。
ちなみにこの印、見慣れた交通安全のステッカーと同じ図です。

拝殿の正面にも天狗さまが祀られ、境内社にはその建物いっぱいの大きさの大天狗さまと烏天狗さまのお面がお祀りされておりますくらいです。

No.266

道了尊さまのことを綴っていて、もともと折にふれ参拝にうかがいたいと思っていた神社さんへどうしても行きたくなり、先日参拝してまいりました。
それといいますのもこちらへの参拝が今年のお正月以来参拝しておらず、その際いろいろお願いごとをしてきておりまして、年に一度しか参拝せずにお願いごとをするなど、ちょっとあまりにも図々しすぎるだろうと常々思っていたからに他なりませんのですが…。

こちらへのお参りは初めての参拝以外は私一人でまいります。
神社さんを参拝するのに〝ついで〟
というのは失礼に当たるであろうと、ついつい先延ばしになっておりましたので、もしかしたら道了尊さまが私の背を押してくださったのかもしれません。

それは同じく群馬県みどり市に鎮座される【貴舩神社】さん。

こちらの御由緒は平安時代の天暦十(956)年、東国(関東地方)がひどい干ばつに襲われたとき、
山城国(京都)の貴舩神社の御祭神が、古来より『祈雨・止雨祈願の神』として信仰されてきた
【高龗大神(たかおかみのおおかみ)】さまで、その御分霊を奉り降雨と五穀豊穣を祈願したところ、それがかなえられたので、関東平野の最北端、渡良瀬川流域の山地に祭られ、現在地に建立されたのは、江戸時代の寛文八(1668)年といわれています。
何度か参拝させていただくたびに書いてはおります。

今回は思い立ってのことなので、朔日でもなく、参拝に向かうであろう車はほぼ無かったのですが、実はこの、貴舩神社さんへと向かう道、住んでおられる地元の方以外はほとんど貴舩さまへ詣でる方の車であるくらいでありまして。
一本道をずっと直進した先に鎮座される神社さんであります。

全国で約四百五十社ある貴舩神社さんのうちの一つ、この地域一帯において信仰深い神社で群馬有数のパワースポットとしても知られております。
私が免許を取った頃など、こちらでおわかちいただく交通安全のステッカーを貼った車がとても多く、前を走る車にこちらのステッカーがあることが当たり前に感じるくらいでありました。
今はこういったステッカーを貼られた車をあまり見かけることはなく、ただそれは車内に御守りを置かれるだけにとどめた方が増えたということだけなのでありましょうが。

ちなみにその頃私は貴舩さまがどちらにある神社さんなのかも知らないような人間でありました。

No.265

先日、神職の方の祝詞、〝祓詞〟をお聞きする機会を得ました。

それがなんとも独特な節回しで、例えるなら……踊るような?
祓詞は神職の方が必ずといっていいほどにお唱えになるものなので、数えるくらいしか昇殿したことがないような私ではありましても、お聞きする機会はあります。
それはまさに初めてお聴きする節回しでございました。

祝詞はあまり個性ある唱え方をするものではないのだろうと、今までの経験から勝手に思い込んでおりましたが、そうではなかったことを初めて知りました。

よくよく考えてみれば、祓詞の読み方自体が人によって(?)、神社によって異なるもの。
ですので抑揚…節回しとても、違いがあって当然、なのかもしれません。


お経もそうです。
といっても、私には違いがわかるのは【般若心経】ぐらいでありますが、まず般若心経をお唱えしない宗派もございますし。

その般若心経自体が、宗派によって…どころか宗派は大まかな宗派という意味では一緒でも、たとえば〇〇派とかいう形で分かれている同宗派であっても、細かな読み方が異なっています。
濁音、半濁音の差、くらいではありますが、素人の私が聞いていてわかるほどには異なっています。

また、同じ宗派で〇〇派というところまで一緒であっても、節回しが異なったり、速さが違ったりと、たとえばそれは全くの個人差であったりとか、その法要の種類によって変えるとかがあるようです。


祝詞やお経の合間に、赤ちゃんの喃語が、まさに合いの手?と思われるほどピタッとハマったりすると、笑いを堪えるのが大変です。

夫は自分の実家の菩提寺の和尚さんが読経の途中、木魚をたたき損ねたことがあったとかで、それが妙にツボにハマってしまって、子どもながらに笑ってはいけないということはわかっていたので、笑いを堪えるのが大変だったと申しておりました。


たしかに。
祝詞にしろ、お経にしろ、たいそうありがたいもの。
途中で笑うことなどまさに顰蹙もの。

宗教こそ違えど、どちらも厳粛な儀式の最中でありますので、ツボにハマるような突発的なことが起きないことを祈ります。

ん?
そんなことを祈っている場合ではないですよね、はい。

No.264

◆お名前
「相模坊道了尊者」 山伏時代の名前
「妙覚道了尊者」 お坊さんの時のお名前。

「道了大権現」 最乗寺の守護神 道了さんは、十一面観音菩薩という、仏様が姿を変えてこの世に、現れた・・・との伝説があります。
「妙覚道了大薩埵」 明治時代以降の名前 最乗寺の境内にある、御真殿(妙覚宝殿)という建物に祀られています。中には大きな天狗さんが祀られています。

◆生まれた所
分かりませんが、相模坊と名乗っているので、了庵慧明禅師と同じ相模と言われています。
◆生まれた年
分かりません。
◆得意なこと
土木工事、最乗寺を建てる時、怪力を発揮して、大きな岩を砕き、大きな木を倒し、土地を平にしてお寺を建てるもとをつくりました。
◆性格
身体は大きいが、気は優しく、頭が良く、お寺の決め事を守り、修行するお坊さん達にも守らせていた。


最乗寺の宝物館に、道了さんが書いた掛け軸が残されています。




◆鐘鼓楼
道了さんが、静岡県の神社から杖に架けてもらってきた鐘が架けてある建物。現在の鐘は三代目。
◆金剛水堂
道了さんが、お寺をつくる時に飲み水が必要なので、掘った井戸で、鉄の印鑑が出て来て、その後から水が噴き出した。
◆一擲石
別の名前を道了石という。道了さんが仕事で大きな石を運んでいたらお師匠さんに呼ばれたので、その石を投げてかけつけた石。
◆道了さん天狗化身像
道了さんが、天狗に変身した時の姿を彫った石の像 。


ちなみに。
HPで知ったことは他にもあって。

なんでも最乗寺さん、ガチャみくじなるものがあらようで、しかもすでに第三弾とか。
みくじなのに大当たりがあるようで、その当たりは、当然道了さま。

その他、切り絵御朱印等もあり、イベントもたくさんあるようです。


山の上の天狗寺は、何年かまえに調べたときと打って変わったように、様変わりをしているようです。

No.263

最乗寺さんのHPを見ていたら、さらに道了さんのことを詳しく書いたものを見つけました。
それによりますと…。

『了庵慧明禅師さんが、
〝能登半島の總持寺〟にいる時に、大きな身体の山伏の格好をした人が了庵慧明禅師和尚さんを訪ねて来て「弟子にしてください」と、お願いをしました。
弟子にして下さいときた人は名前を、相模坊道了といい、奈良県や、和歌山県の山奥で山伏として修行をして、普通の人では出来ないことを身に付けた修験者でした。
相模坊道了さんは、了庵慧明禅師和尚さんを大変尊敬していてどうしても弟子になりたくて、和歌山県の山奥から石川県の總持寺までやってきました。
了庵慧明禅師和尚さんから、お坊さんになる資格をもらい弟子になりました。弟子になった道了さんは、お坊さんとしての辛い、厳しい修行をかさね、更に修行をするために、滋賀県の大津市にある三井寺と云うお寺に入り、山伏の時の経験を生かした修行をして、たくさんのお弟子さんを育てていました。
お師匠さんの、了庵慧明禅師和尚さんが、相模国足柄にお寺を建てることを知り、弟子たちに別れをつげて、山伏の時に身につけた力を発揮して山を越え、野を走り、一日で了庵慧明禅師和尚さんのもとに駆けつけました。

道了さんはお寺を建てる総責任者として、特に土木工事では五百人力の力を発揮して大活躍をしました。』


と書かれたページもありました。

No.262

続いてはその道了尊が突如天狗となって、三井寺の天狗杉から飛んで降り立ったという、神奈川県の小田原【最乗寺】さんのHPより。

『大雄山最乗寺の守護道了大薩埵は、修験道の満位の行者相模房道了尊者として世に知られる。
尊者はさきに 聖護院門跡覚増法親王につかえ幾多の霊験を現され、大和の金峰山、奈良大峰山、熊野三山に修行。
三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創に当り空を飛んで、了庵禅師のもとに参じ、土木の業に従事、約一年にしてこの大事業を完遂した。その力量は一人にして五百人に及び霊験は極めて多い。

應永十八年了庵禅師七十五才にしてご遷化。
道了大薩埵は
「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済する」
と五大誓願文を唱えて姿を変え、火焔を背負い右手に拄杖左手に綱を持ち白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身をかくされた。

以後諸願成就の道了大薩埵と称され絶大な尊崇をあつめ、十一面観世音菩薩の御化身であるとの御信仰をいよいよ深くしている 』

とあります。

ちなみに、この最乗寺さんの道了尊 天狗化身像は

『五大誓願文を唱え、
火炎を背負い、
右手には拄状(しゅじょう)左手に縄を持ち、
両手両足に幸運の使いの蛇を従え天狗に化身し、
白狐の背に立ち、
天地鳴動して山中に身を隠された』という伝説をかたどった石像であるといいます。

私はこちらの最乗寺さんへは参拝させていただいたことはなく、こちらの尊像は拝しておりませんが、お写真を見ると、群馬県みどり市の御像よりも〝人〟っぽいかも…。


ちなみに、この最乗寺さんのHPにはイラストのキャラクター化した、若いイケメンの〝道了尊〟さまがおられました。
思わず、えっ?と声が出たくらいで。

No.261

…やはり未熟者の私は、プレバトシュレッダーを引きずっていて、続きを彫ることは難しかった。
まぁ、そうは申しましても、お教室ではその後二時間彫り続けましたし、今日は合計して四時間半強彫りましたので、これでよしとし終了することとしました。


ところで。
話は変わりますが。

先日群馬県みどり市の光榮寺さんの境外堂『はねたき道了尊堂』のお縁日に参列しました折、来月の大祭を前に、副住職さまから『道了尊』さまについてのお話がありました。
以前のスレで書いているかと思いますが、初めてお聞きするお話もありました(…たぶん)ので、あらためて書かせていただきます。


道了さまの御像のお姿は、お顔は烏天狗さまで、白狐の背に乗っていらっしゃいます。
このようなお姿ですので、〝想像上の神仏の使い〟と思われがちですが、実際に実在なさったお方でありまして、『相模坊道了尊者』という
室町時代に実在なさった行者さん、だといいます。

奈良県の〝金峯山〟や〝大峰山〟、熊野三山などで修行され、三重県大津市の【三井寺】にもいらしたことがある方です。

三井寺に道了さまのことが伝えられていて、三井寺のHPにも書かれておりました。

『 相模坊と天狗杉 

三井寺の金堂の向かいには天狗杉と呼ばれる樹齢千年と伝えられる 樹高約20メートルの老杉があります。

室町時代の初め、相模坊道了という僧が勧学院書院で密教の修行をしていたとき、 ある夜、突如として天狗となり書院の窓から飛び出し、この杉の上に止まり、 やがて朝になるや東の空に向かって飛び去りました。

道了ははるか小田原(神奈川県)まで飛び、降りたところが大雄山最乗寺であったといいます。 道了は五百人力と称され、験徳著しく村人から慕われ、最乗寺の道了尊堂に祀られています。 また、道了の修行していた勧学院には「天狗の間」があり、 いまも最乗寺では道了尊を偲び当寺に参詣されています。  』

ちなみにこちらに書かれた『勧学院書院』(= や天狗杉は今なお現存するものであるといいます。


No.260

〝プレバト!!〟という番組はご存知でしょうか。
いろいろなジャンルで作品を発表し、その評価を受けるといった番組ですが、まずは『一般』というランクの中での査定があって、『才能アリ』『凡人』『才能ナシ』という査定があります。

俳句などは、名人クラスになると自分の作品を書籍化できるとのことで、その作品が書籍に載せるに相応しいか否かの査定があって、不合格だとその作品がシュレッダーにかけられるというもの。


今日は木彫りの仏像のご指導を受ける日であったのですが、まさにその、プレバト!!を思い出させる状況となり、テンションも気持ちもだだ下がりで。
それは〝才能ナシ〟の査定な上、さらにその作品をシュレッダーにかけられた感で。

才能ナシなのはわかっていて、ご指導をお願いしております。
人よりも時間がかかることも、なかなか上手くはいかないこともみな承知の上だったのですが…。


今日先生に見ていただいたのは、あとは顔を彫るだけまで仕上げたもので。
まずその頭部の部分を削ぎ落とされました。
その後、いったんは仕上げにかかられた先生でしたが、いきなり頭から下、座っておられる岩座まで、ザザーっと。

うっ。
たぶん、そのとき私の顔を見ている方がいたならば、顔色が変わっていたと思います。

全部を削り取り、残ったのは…表面が削られた木片、ですかね。

ここまで〝才能ナシ〟かぁ。


実はこれでもう三回目。
でも今まではささくれてしまった木を直してくださるといったレベルのもので、私としては、まさにあとは顔を彫って終わりなところまで仕上げていたつもりでした。


うーん。


ご指導を受けるようになって六回。


うーん。


頑張るしかないけれど。
今日はちょっとめげている私であります。

さて。
続きを彫るか。


No.259

ちなみに。
今朝、庭の草花に水やりをしていたらわが家の河原撫子、二つ、三つのでつほみがついておりました。

閑話休題。

こちらの不動寺さんは新しく創建された寺で、1980年、東京の『品川寺』の第三十一世仲田順和和上を開山として長瀞の地に開かれましたといいます。
品川寺といえば「洋行帰りの鐘」で知られる東京都品川区の旧東海道に面したお寺さんで、真言宗醍醐派別格本山の地位にあり、不動寺はその別院という扱いになっているといいます。
境内にある縁起が記載された立札によると、『秩父鉄道』がこの不動寺を創建したとあります。

開基秩父鉄道。

古来より時の有力者が寺を造るというのはスタンダードなことだったのでその歴史的系譜の一環ということなのでありましょうか。

しかしながら、もともと秩父の山なみは諸仏諸菩薩の雲集するところ。
なかでも寶登山は古くから神に護られ、護摩の法煙絶え間なき霊地、山伏、修験者が多く訪れた地でありました。

そんな地に【五大堂】を建立し、五大明王を勧請したということであります。

不動寺さんはイコール五大堂。
決して大きくはないお堂ではありますが、護摩壇は大きく、丁寧に使われているといった感が伝わるものでありました。
御本尊は『大日大聖不動明王』さま。
大きく目を見開いた立像であります。
制吒迦童子さんは片足を組み、片足を下げた坐像、矜羯羅童子さんはすっとお立ちになっています。

そのお不動さまと脇侍の二人の前に四体の明王さまが祀られていて、御本尊とあわせて五大明王さまとなります。

毎月、不動明王さまのお縁日に護摩修行が、一月七日には新春七草ということで七草粥がふるまわれ、やはりこの日にも護摩修行が執り行われるといいます。

このお寺が有名なのが、三月に執り行われるという【長瀞火祭り】だといいます。
火渡りの荒行が行われ、一般の方も参加できるとかで、私どもも今回お寺の方に是非とお声がけいただきました。

私は以前からこの火渡りの荒行に参加したかった人間でしたが、夫は「ありえない!」と、すれ違い。

…きっと、混雑も嫌う夫のことです、きっとこの火祭りには…来ないだろうな。

でも、私。
実はここまで一人で運転して来られるんですよ。
駅も近いし。

うーん♡

No.258

〝萩の花 尾花葛花なでしこの花 をみなへしまた藤袴朝顔の花〟

これは秋の七草を詠み込んだ山上憶良の歌。


〝なでしこが  その花にもが朝な朝な 手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ〟

〝秋さらば 見つつ偲へと妹が植ゑし  やどのなでしこ咲きにけるかも〟
(家持20歳前後。幼い子を残し、妻(正妻ではない)を亡くし、悲嘆にくれる)

〝我がやどに  蒔きしなでしこいつしかも 花に咲きなむなそへつつ見む〟

〝我が宿の なでしこの花盛りなり  手折りて一目見せむ子もがも〟


上は全て大伴家持が詠んだもの。家持はよほど撫子の花を愛したようです。
万葉集に詠まれた撫子の歌は二十六首。そのうち家持作が十二首になるといいます。

『我が宿のなでしこ』と歌われるようにこの花姿は人の心を捕らえ、万葉のころから庭に植えられていたようです。

〝一本の なでしこ植ゑしその心  誰れに見せむと思ひ始めけむ〟

〝なでしこが 花見るごとに娘子らが 笑まひのにほひ思ほゆるかも〟(越中守として単身赴任していた家持が、別れ住む妻大伴坂上大嬢に贈った歌)

『奥の細道』にも〝かさねとは 八重撫子の 名成べし   曾良〟とあります。


『大和撫子』『ナデシコジャパン』。
『枕草子』に、〝草の花は撫子、唐のはさらなり、大和のもいとめでたし〟
とあるところから、「大和」が被さったのでしょうか。


その気品のある色からなでしこ色という色名を付けられたり、平安朝での「襲・かさね」(表が紅、裏が青)の色目になっています。


撫子は、いにしえの昔から日本人の心の片隅に咲く花であったようです。

〝一本の なでしこ植ゑしその心  誰れに見せむと思ひ始めけむ〟
…たしかに。
私がネズミのひたいほどの庭に撫子を植えたのも、人を思ってのことでありました。

No.257

撫子は約三百種類があるといいます。
【河原撫子】は日本原産の撫子で、全国各地の日当たりのよい草地に育ちます。耐寒性が非常に強いことで知られます
白、そしてたいそう可愛らしいピンクの、小さく可愛い花を咲かせる、『大和撫子』という言葉もあるように女性的な美の象徴とされる花です。

そんな河原撫子の見頃は七月下旬から九月上旬と、調べたものには書かれていましたので、もしかしたら不動寺さんの花の時期には少し遅かったのかと思ったのですが、どうもそうではなくて、今年はどうしても、うまく咲かなかったようでした。

…そういえば。
ネズミの額ほどのわが家の河原撫子もの春にはたくさん咲いたものの、今の時期はほとんど咲いておりません。


不動寺さんには実に約五千本の「河原撫子」が植えられているといいます。
いつかまた、撫子の咲き乱れる不動寺さんを訪れたいものです。

ところで不動寺さんは撫子だけではなく、女郎花も、萩も咲いており、撫子寺というよりも、(彼岸花寺でもなく)百花の寺のようでした。
春には枝垂れ桜や枝垂れ梅が咲くようです。


寶登山神社さん、寶登山神社奥宮さんを訪れるようでしたら、こちらの不動寺さんを訪れるのも良いかと思いました。

No.256

少し前、秋の七草について書きましたが、書き進めるうちに秋の七草を訪ねてみたくなりました。
群馬県太田市に秋の七草の植えられた七ヶ寺があったように記憶しております。
そして、寶登山神社のあります埼玉県秩父市長瀞町にも。

長瀞町内の七つの寺には、それぞれ「秋の七草」が一種類ずつ植えられており、毎年、今頃の季節になると、秋の七草を訪ねるイベントが開催されます。
その力の入れっぷりと言ったら、国土交通省のもの…というわけでもないのでしょうが道案内の標識にすらその七草寺への入り口、とかが設置されているくらい。

そのうち寶登山の麓にある【長瀞五大院・不動寺】は、撫子寺(なでしこでら)と呼ばれ、ロープウェイの車内で案内のアナウンスで紹介されるほど。
なんでも境内や参道の階段脇などに植えられているナデシコの花が咲くのだといいます。

しかし、私どもが訪れた際にはお世辞にもナデシコが咲いているとは言いがたく。

なんでも、今年は九月に入ってからの日照不足などが影響しているのか、ナデシコの花はあまり見られないということでありました。

そんな中、赤とクリーム色の曼珠沙華が至る所で咲き誇っているではないですか!


お寺さんの方いわく、今年はナデシコが植え替えをしたりしても、どうしてもうまく咲かないのだとのこと。

一方で、裏山に例年では少しだけ見られていたクリーム色の曼殊沙華がどういうわけか、至る所に咲いているのだといいます。

その数といったら!

今年から〝彼岸花の寺〟と改名するようかも、と思うくらいでありました。


No.255

寶登山神社奥宮は、標高468.8メートルの寶登山山頂に鎮座しています。

寶登山ロープウェイ山麓駅から山頂まで歩いて行ったら約一時間と、夫が申しておりましたが、私、そんなことを聞くより前に往復の乗車券を買ってしまっております。

実はこの乗車券、ちょこっと不思議で。
『発売日共2日間有効』
…?
お、お山にお泊まりするって?
な、なんで?
何故、この有効期限?

…。

あっ!
もしかして。
二年参りのときのため?

で、ですよね?

いやぁ、びっくりしました。
でもオオカミさんがお護りくださいますね。

寶登山頂駅までは約五分間の空中散歩。
Time is money。
五分×2で千二百円、たしかに…。
えっ?意味が違う?
…はい、承知してます。


山の上、です。
明るく澄んだ空気です。

それが。
奥宮の鎮座されるところからさらに空気が変わります。
ああ、神域だなぁと、実感します。

奥宮からさらに上へと道は続き…。
山頂となります。

日本武尊さまが見た景色、と思うと自然と身が引き締まります。

遠く秩父の山並みが見えます。
ひときわ高いのが武甲山。
日本武尊さまが見た景色と大きく異なるのがこの武甲山でありましょう。

なんと心地よい場所でしょう。

梅の花の時期には、甘い香りが漂って、桃源郷のようでしょう。

そんな花の頃、また再拝させていただきたいなぁ。

えっ?今度は歩いてか、ですか?
いやいや、きっとまたロープウェイで。

実は、ですね。
寶登山ロープウェイ山麓駅で標高がすでに212.7メートル、らしいのです。寶登山の標高は468.8メートルですので、なんだかんだ半分近く歩いて登ってきていたのです。

それを知ったとき、あのくねくねと長かった登りの道に納得がいきました。

私どもにはこのくらいでちょうど良いので…。



  (カワラナデシコ)

No.254

本日九月二十九日は【中秋の名月】。

今年の中秋の名月は『十五夜』、『満月』であります。

『中秋の名月』と満月は一致していないことの方が多く、次に中秋の名月と満月が一致するのは実に七年先のこととなります。


今夜は晴れて、日本各地でお月見をできる所が多そうです。
愛しい人、そして離れ住む大切な人と同じ満月を見られる夜となりますように。

なんなら、「月が綺麗ですね」と、伝えましょうか。



ところでこの『お月見』という行事。

『ススキ』や『お団子』や収穫された野菜や果物などをお供えしますが、これは穀物と月の神さまでもある【月読尊(つくよみのみこと)】さまに、
稲穂に見立てた『ススキ』や、
無事に収穫できた感謝の心をこめて、この秋に収穫されたものやお団子などを捧げたことが由来とされています。

『ススキ』は月読命の依り代と言われているといい、十五夜では重要なアイテムとなります。
【月読尊】さまの『月読(つくよみ)』とは〝月を数える〟という意味があり、暦とも関係しているそうです。


ちなみに十五夜は暦の上では必ず『仏滅』にあたり、この中秋の名月は別名『仏滅名月』とも言われているのだとか。


仏教では【月読命】さまや月の神さま【月天】さまは、【大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)】さまが本地仏とされております。
勢至菩薩さまは午年の守護仏。


わが家は子どもたちが小さな頃に、ススキの入手が難しかったり、「十五夜だけお祭りして十三夜をしないのは『片見月』と言って縁起が悪いから、十三夜をしないくらいなら、十五夜もしない方がマシだぞ」
と舅に言われ、それ以降、お月見は特にお祭りをすることなく見上げるだけ。

いまならススキが採れる場所も知ってはいるのですが、うっかり十三夜を忘れそうなことは変わりなく…。

離れて住む子どもたちに、
「今日は満月の十五夜だよ」とLINEでもしましょう。
そのLINEに「月が綺麗」と、添えられますように。
隠されたメッセージとともに…。





No.253

目にした瞬間、何も考えず、考えられず走り寄ったのは、『狛狗』さま。

もともと狛犬さまが大好きな私でありますが、駆け寄るほどの狛犬さまは…数えるほど。

声に出して「可愛いぃっ♡」を連発。 するおばさんのそばに夫はありません。
長い付き合いですので、自分の妻がどういう行動を取るか、事前に察していたのでしょう。
さすが、さすが珍道中ペアのかたわれです。


私を遠くから射抜くように魅了した狛狗さまは、あの、日本武尊さまを救い、道案内をした山犬さんです。
その凛々しい横顔、キュートな笑顔。
狛犬さまの周りをしばしうろつくおばさんです。(もちろん、他の方がお越しになれば側を離れておりますので、そこはご安心ください)

しかしながら。
さすが狛狗さま、おばさんの脳内ににそっと伝えます。

そ、そうだ、奥宮さまへのお参りがまだだ!


いつもよりも多く深く、お辞儀をして。
心の中で、すぐにお詣りしなかったことをお詫び申し上げました。

奥宮さまは、そのお社から優しい気が漂うように流れてくるのが感じられる、そんな優しい神さまがおられる社でありました。

社務所からもそんな優しい気を感じます。
そこに飾られた御守やお札からの気でありましょうか。

おわかちいただいた御朱印には、白のオオカミさまと、黒のオオカミさまが印刷されたもの。
うわぁ♡

『吉祥寶守』と書かれ、『寶』と書かれた黒い御守が目を引きます。
おおっ、鯉と龍が刺繍されていました。

ん?
綺麗なストラップの御守りがあります。
いろいろな色がありますが、雫の形をした水琴鈴のようです。
なんて綺麗な…。
…一目惚れです。
「こ、この水琴鈴の御守もおわかちください」
社務所におられる神職の方に、考える間もなく、スッと申し上げていました。

水琴鈴の御守はいくつも持っているというのに。

その水琴鈴を見ているだけで心がすうっと癒されていくのです。


 (奥宮の狛狗 吽形さま)

No.252

心ならずも〝境内の左横から入れるところ〟から入ってしまった私ども。
目の前に広がる光景は、いかにも昭和レトロな〝茶屋〟兼〝お土産物屋〟さんと社務所、そして目の端に白い鳥居。
……。

白い鳥居をくぐってから参拝する!

ところが。

鳥居の一歩外は下りの石段がずっとずっと続いています。
結構急で結構長い石段です。

実は私、こう見えて(どう見えて?)結構な高所恐怖症。
おおっ。

… この時の私を漫画ちびまる子ちゃんで表現するならば、間違いなく顔に縦線、でありましょう。

いやぁ、下りると決めて下りるのならば、ごく普通に下りられるんです。
鳥居のすぐ外がまさかの階段で、しかも急な上に長い、とか思ってもみなかった光景が眼下に広がり、〝縦線〟が入っただけなんですが、ね。

とにかくは一、二段でも下りてから。
私が内心でそんな大それた葛藤をしていることとは誰一人知ることなく、ようやく〝鳥居をくぐる〟というミッションをクリア。

さあ。
いざ拝殿…奥宮さんへと。



…!!
き、きゃー♡

「可愛い!!」

No.251

方向音痴で、しかも思い込んだ道をまさに猪突猛進するおばさんしか、〝奥宮へ徒歩6分〟という道しるべを見ていない。

これは…まさに珍道中。
というか、…遭難?

梅林に四阿風の休憩スポットがあります。…奥宮に続く道に?

(やられた…)…とでも思ったのでしょう、「さっきの地図写真撮っておけばよかったな」と、でもあくまでも自分の失態という風につぶやく夫。

「ごめんなさい」
少しでも先に行って、道を確かめたい私。

ん?
まてよ。

ここはそんな困った人間を助けてくださる山狗さま、オオカミさまがおられるお山。
きっと大丈夫。すぐに道はひらける、はず。

梅林が途切れました。
道を隔てて、森のようなよそおいの中に続く細い道があります。

おおっ!
これ。ここはきっとオオカミさんがおられる!

先ほどとは打って変わって、高い木々、薄暗い山の中。
その木々の高枝の隙間から差し込む細い光。

うーん♡

…おばさんは本当に本気でオオカミさまを探そうと、…そう思った瞬間、
「ああ、見えた」と夫。

えっ?!
「えっ?な、なにが?」


「奥宮さんだよ」
…。
……あ、あぁ、お、奥宮さん。

「えっ?どこに?」
まだ私の目には奥宮の建物も鳥居も見えてはいません。

「ほら、その先」
「うわぁ♡本当だ」

またまた走り出すおばさんが一人。


あ、えっ?、あれっ?
大きな白い鳥居が右斜め前方に見えます。
あら?

たしかに。
たしかに参道といった感じは一切なかった。
普通に梅林を抜けて、森のような雰囲気の、わずかな道を抜けて、ここにおります。

私…。
やらかしたわけではないけれど。
たしかに、たしかに、ところどころに小さな
『←奥宮』と書かれた道しるべのある道でありました。

しかしながら、あくまでも抜け道というか、亜流というか。
正統な参道ではなかった、ということ。

珍道中を導く者、冒険へいざなう者、とでも申しましょうか。


見えるのは、白い大きな鳥居です。

No.250

山頂駅の向かって左側には『宝登山 梅百花園』があります。
関東で最も梅の品種が多く、約170種・470本の梅が見られるそうです。

その梅百花園の看板の横には階段があり、寒桜・ロウバイと書かれた素木のいかにもこういったところに似合う小さな案内板が丸木の柱に打ち付けられており、その下に『宝登山神社奥宮 徒歩約6分』という案内も。

ずっと案内地図を見上げている夫に
「奥宮、ここを行くんだって」
と声をかけます。
名残惜しそうに地図板を見上げる夫。

私はといえばもう「奥宮、奥宮🎵」と声に出して歩きそうなくらい、テンションが上がっています。
(もちろん、決してそんなことを口に出したりはしておりません)

他の方々は舗装された見晴らしの良さそうな道を歩いていきます。
(いやぁ、まずは奥宮でしょ♡)

しかしながら…。

ここへ来てテンションがおかしいことになっている…わけではなくて、機嫌さえ良ければこんなテンションかもしれない、ごくごく奇しいおばさんで。
孫とお散歩するときなどはまずこんな感じで、川原など歩くときは歌まで歌って歩くくらい。

これ…そろそろ、改めないと孫にうるさがられるなぁと、最近はおとなしめに散歩するおばさんではあります。

閑話休題。


いやぁ♡、絶景かな絶景かなぁ。

秩父?長瀞の町が眼下に広がり、遠くには山々が連なっています。

いいねぇ♡

この風景、ひとりじめ、ですよ。

…なぜかまた、私ども以外に歩く人がはるか遠くに二人若者がいるだけ。
夫は遅れて歩いてくるので、まさにひとりじめの風景をしばし堪能します。

が…。
な、なんかですね、奥宮へとつながる道に行けども行けども出ないような光景か続いているんですけど…。

奥宮へ徒歩約6分って、書いてあったよなぁ…。


…実はこの案内の板、〝私しか〟見ていないんです。


No.249

ロープウェイの車内には次から次とお客さまが乗ってきます。
ほぼ立っての乗客を乗せ、運行開始。
五十人乗りに四十…数名くらいだったでしょうか、結構ギュウギュウです。

…平日でも観光客は多いものなのだなぁ。まだ秋の行楽シーズンでもないし、紅葉の季節にもなってはいないのだけれど、…考えることは同じってことかしら?

うーん、コロナ禍にあって、人の少ない…であろう平日を狙って来たという方々では無さそうで。
ただ単に今日がお休みであった方々とか、単に人の少ないだろう平日に訪れた方々であったようで、マスクを着用されている方はごく少数。

こんなに閉鎖され、しかも密着する空間なのに…今は、今はこうなんだなぁ。
もう、コロナ禍以前の光景にすっかり戻っているようです。
〝田舎のネズミ〟は、久しぶりに訪れた観光地という〝まち〟にびっくりです。


車両には、宝登山小動物公園にちなんで〝ばんび号〟と〝もんきー号〟という名前がつけられておりました。
可愛いサルの絵をパウチしたものが、後部の窓の中央下部に貼られています。
私はもんきー号に乗って宝登山山頂へ。

それでも私は車両の一番後の席に座って景色をたのしみながら乗車することができました。少し天気悪くて霞んでます。
春の花のころ、秋の紅葉のころには窓の下には絶景が広がっていることでしょう。

ちなみにロープウェイの乗車時間は5分ほどで、ちょうど真ん中辺りで、下車して来る〝ばんび号〟とすれ違います。

今眼下に見られるのはススキ。
まだ若い私の好きな頃のススキです。

高い樹はとにかく、このロープウェイの下は定期的に草刈りに入っているのでしょう、ちょうど良い景色を織りなしていました。


到着です。

出迎えのスタッフさんと搭乗スタッフさんがそれぞれ両サイドの扉を開けました。

下の駅よりほんの少しだけ小さな駅舎ですが、目の前に広がる明るい緑豊かな景色のせいでしょうか、なんだか下の駅よりも明るく、新しくさえ見えます。

広々とした広場のむこうには、日本武尊のお山が見えます。
…ま、まぁ、半ばまで登って来てるんですけれどね、ロープウェイで、ですが。

No.248

それはいきなり現れました。
ただ…観光地のロープウェイ駅にしてはその駅名等を表した文字等も見当たらず、入り口も小さな…なんだか質素な建物です。

入って行くとロープウェイの駅だけあって天井は高くて明るいものの、小さな、切符を購入する窓口とその横に少しだけ置かれた商品とがある、例えるなら小さな路線の昭和レトロな有人駅。

…まぁ、ロープウェイの駅ですしね。

ここ最近利用したロープウェイの駅が、平成にできたものだったから、比較対象が新しすぎたことが間違いなだけで。


…って。
寶登山ロープウェイの名誉のために、先に書いておきましょう。

ロープウェイで往復したのちに知ったことなのですが、珍道中ペア、正面入り口ではなくて、横からの入り口から入っていましたぁ。

…それは駅名も入っていなくて当然だし、入り口が狭くて当たり前。

さっすが珍道中ペア!
のっけからやらかしておりましたぁ。


切符は片道と往復があり、夫に聞くまでもなく〝往復〟を購入したおばさん。

…だって、熊とかイノシシとか、恐いじゃないですか。
マムシとか、スズメバチとか、マダニとか、恐ろしいじゃないですか。

とか言っておりますが、たぶんあのハイキングコースに、もはや歩いて下山する気力も削がれてしまっていたから、が一番の理由。

そもそもこの時点で、13時となろうというのに、私たちお昼ごはんがまだなのでありまして。

ま、正しい判断でしょう。…たぶん。
それでもおばさん、おそるおそる夫に事後報告いたしましたことから考えると、少しは〝歩いての下山〟も考慮すべきだったか?という反省もあったようで。…ほんの少しだけ。


ロープウェイは三十分おきに発車しているようで、あと十分で発車するという良いタイミングで到着したよう。

あと五分もないというタイミングになってようやくゲートが開きました。
思ったよりも小さな車両です。
(三十人乗りくらいかしら?)
座席自体は二十席もありません。

ところが。
何気に車内にある表示を見てびっくり!!
ご、五十人乗りぃ〜っ?

そ、それって、結構なギュウギュウ詰めなんじゃあ?
昭和の基準そのままなんでは?

いやいや、ましてコロナ禍、そんなには乗せないだろう。
…そう思いたい。
……ほんとに?
コロナ、もう第五類だし。


ま、平日だし。
発車時刻もあることだし。




No.247

…そもそも一番おかしいと思ったのは、ただの二人としかすれ違わなかったこと。
しかも、そのお二人、小さなロープウェイ駅への案内板の示めす方角ではない、もっと低地の横道から歩いて来ています。

いくら平日とはいえ…、ロープウェイ駅から降りて来る人も、後から来る人もいないって…変、なのでは?

うーん。

でもところどころ、小さいながらも案内の札があるのも確かな事実。
もう信じて行くしかない!
でも登っても登ってもロープウェイの駅らしいものの片鱗すら見えてきません。

く〜っ!

…いや別にハイキングコースを歩こうと思って登っているならば、不安も文句も浮かんではこないのですが、あくまでもロープウェイに乗ろうと駅に向かっているもので。

ヘアピンのように曲がりくねった道ということは、急な坂道を緩和したってことで、なんだかんだ結構登って来ていますよ?


うーん…。


おっ?
やっと山道の景色が変わりました。

なんだかやたらと狭い、そして結構な斜めな土地に何台も車が縦列駐車しています。

えっ?
ここまで車で来られたってこと?
やっぱり?

…でもそれにしては狭いし、この縦列駐車で交通整理の人もいないのはあまりに不自然です。
もしかして、従業員専用の駐車場?

で、でも、たとえ従業員の駐車場にしても、ロープウェイのお客様向けの駐車場にしても、これが合ったということは、間違いなくロープウェイ駅に向かっているということ。

よぉ〜し!


No.246

いつものように運転してきてくれた夫が、シュッと駐車場の一区画に車を停めました。

目の前には寶登山神社斎館が見えています。
そして車の真後ろには『ロープウェイ駅登り口』(…とかなんとか)と書かれた立て看板があるではないですか!

「この前来たとき、そう書いてあった場所を覚えていて、ここがたまたま空いていたから」

…天才ではないだろうか?
我が夫ながらその記憶力に感動いたしました。
…それなのに何故、私が真剣に覚えていてと伝えたことは、すっぽり記憶から消えているのだろう、と今、これを書いていてふと思ってしまいましたが…。


…?
ほんの数歩登って、
「ほんとにこの道?」と思わず声に出してしまいました。
しかしながら、数歩しか登っていないため、先ほどの看板を見直せるくらい。(…間違い無いのか)


続いているのはそれなりに急な、しかも細い山の斜面であります。もちろん舗装とかはされていない土の道。

間違えてはいないことも確認したので、黙ってその道を進んでまいります。
…ただのハイキングコースとしか思えない道が続きます。

くねくねとした細い道です。

「ちょっとおかしくはない?」
「うん、間違ってはいないようなんだけど、おかしいと思う」とは夫。
「だって、ハイキングコースを登れない人が使うロープウェイって考えたら、あきらかにこの道はおかしいでしょ。老若男女、この道を歩いて登るの?」
「うん、そう思う」
珍しく意見があいました。

登って、登って。
曲がって登って。

しかも登っても登ってもロープウェイの駅は見えてはきません。
そんなに登ってのロープウェイの駅?
あきらかにこれハイキングコースでしょ?




No.245

私は、御朱印帳は神社さん用とお寺さん用の二通りを用意して珍道中…神社仏閣を参拝させていただいております。

現在神社さん用として使っておりますのが寶登山神社さんでおわかちいただきましたもの。
満開の桜の描かれた美しい春バージョンのもので、寶登山神社さんを初めて参拝させていただきました折の記念すべきものでもあります。

その日付は 令和三年五月二十三日 登拝 と記されています。

その後いくつもの神社さんを参拝させていただき、御朱印もだいぶ増えておりますが、その最初のページからずっと空けてあった二ページ目に、ようやく新たな御朱印が入りました。

それは寶登山神社さんの奥宮のものであります。

以前、奥宮までの登頂を先に伸ばし、必ずや奥宮さんを参拝させていただくことを誓ってから、…実に二年以上の年月が流れてしまっておりました。(https://mikle.jp/thread/2982625/493/)


…でも結局、ロープウェイを使ったのですがね 笑。


【寳登山神社(ほどさんじんじゃ)】さんは埼玉県秩父郡長瀞町に鎮座する神社です。

山麓に里宮が、寶登山山頂に奥宮が鎮座します。


寶登山神社は今からおよそ千九百年の昔、日本武尊が東征のとき、寶登山山頂に皇祖の神武天皇、山の神、火の神を祀ったのが始まりとされています。

登山の途中では、山火事に遭ったところを神の遣いである山犬たちに助けられたという伝説があります。

尊はこの山を火止山(ほどやま)と名づけられ、〝神をお祀りするのにふさわしい立派なお山〟とされて、『神籬(ひもろぎ)』をお立てになり、
神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと=桓武天皇)
大山祗神(おおやまづみのかみ)
火産霊神(ほむすびのかみ)
の三柱をお祀りになりました。

これが寶登山神社の始まりで、その後『火止山』は霊場として栄え、弘仁年中に『宝珠の玉が光り輝きながら山頂に飛翔する』という神変が起こり、この吉祥事により山の名と神社の名が【寶登山】に改められ今に至るということであります。
現在の宝登山という名前の由来になっています。


寶登山神社さんの奥宮は、日本武尊が三柱の神さまをお祀りになったまさにそのお山に鎮座されているのであります。



No.244

本当は、附の『末社 機神神社本殿』についてを綴っていくのが流れなのでありますが…。

これを書いているさなかにも、いくつかの神社仏閣を参拝をしておりまして。
できれば感動も新たなうちに綴っておきたく。


と、いうわけで、いったん桐生天満宮さんについて調べたことについては中断して、…何から書こうかしら。


No.243

『木鼻』と呼ばれる部位の建築的にみた役割は、縦の柱を貫通し突き出た横部材の先端部分です。
実はなくてもいい部分なので、建築構造上の役割はあまりないとされます。
強いていえば、設置した柱の頭部が開かないように木鼻を残したとも言われています。

鎌倉時代以前は『木鼻』という技法が伝来していないためそもそも木鼻がありません。
柱を突き抜けた横材、突起が無かったら、それは木鼻の技法が伝わる鎌倉時代以前のもの、となります。


鎌倉時代以降、縦柱の上部を刳り抜いて、そこに横部材を置きました。

これによりただ木の切り口を残すより、装飾を施そうと「木鼻」の装飾化がはじまります。

木鼻は中国や韓国の建築物にもありますが、これだけ装飾に特化したのは日本独特の発展でありました。

伝来当初は一本の横部材を利用し、その両端に装飾の彫刻を彫っていましたが、江戸時代になると、木鼻は木鼻、横材は横材と分けて設置されるようになります。


この桐生天満宮さんの末社 春日社の木鼻は横木の先端に直接象(?)を彫ったものであります。
…象という生き物を知らない彫り師が、鼻が長い動物と聞いて、鼻先の長い(猪様の)動物を彫った、…のでありましょうか?


前レスでも書いたようにこの部分を『掛鼻(かけはな)』と呼ぶこともあります。

この頃彫られた彫刻は木鼻だけという部位に彫られており、それゆえに大変転用がし易く、寺社を再建するときにこの木鼻の彫刻を再利用するところも多いのです。


さて。
この木鼻、実は大変さまざまな種類の彫刻となっております。
動物系では〝獅子〟〝象〟〝龍〟〝麒麟〟〝獏〟、さらには植物もあります。


実は以前からこの木鼻の彫刻も好きでありまして。
さまざまな彫刻が施されているおもしろさと、そこにはどんな意味があるのかという興味と…。

木鼻の彫刻をあちこちで写真撮って、それを保存したものを作りたい、とも思ったことがあるくらいです。
あまりにも数が多すぎてあきらめたものではあります。

たとえば花ならば何故?
獏ならば何故?
麒麟や、龍、象、獅子などはたくさんありますが、それが寺社の別なく装飾された木鼻。
…実に興味深いんですが、おそらくは私ごときではその謎は一生解けないのだろうな。

No.242

『海老虹梁』。

寺社建築に『虹梁』と呼ばれる梁(はり)があります。
この呼び名は梁が虹のように湾曲した形に由来します。

虹梁を更にS字型に湾曲させたものが『海老虹梁』で、主に側柱(かわばしら)や本柱(ほんばしら)など高低差のある場所に用いられ、彫刻や装飾がなされております。

元来は禅宗様(ぜんしゅうよう)のものでありましたが、南北朝期以降神社本殿などにも盛んに使われたものといいます。


室町時代後期の海老虹梁の形状は比較的太く、反りが少なく段違いにかけられていないといいます。
この特徴が見られることから、室町時代後期建築の可能性がある、という一つの可能性がうたわれます。


『木鼻』

社寺建築を初めとする伝統建築の特徴的な部分の一つに
『木鼻(きばな)』と呼ばれる部位があります。

木鼻とは柱を貫通する【頭貫(かしらぬき)】・【肘木(ひじき)】・【虹梁(こうりょう)】の柱から突き出た部分の名称です。

名称の由来は、「木の端→木端」から漢字が変わり「木鼻」と呼ばれるようになったものといわれています。

もとは頭貫や肘木、虹梁の柱から飛び出る部分を直接加工していましたが、
江戸時代以降、装飾目的が強くなるにつれ、頭貫や肘木、虹梁とは分けて、独立した部品とすることが主流となりました。これらは柱に引っかけて固定する事から、掛鼻(かけはな)とも呼ばれます。

木鼻の誕生は、鎌倉以降に中国大陸から伝わった建築様式(大仏様・禅宗様)によって確立されたと言われています。

そのため、木鼻の様式にも
「大仏様(だいぶつよう)」
「禅宗様(ぜんしゅうよう)」
と明確な違いが見て取れるといいます。

『大仏様木鼻』
初期の物は彫刻も猪の目があしらわれる程度のシンプルな質実剛健ものでしたが、次第に象や獅子、獏など動物のシルエットを模したものに形状が複雑化していきました。


『禅宗様木鼻』
渦門の彫刻が禅宗様木鼻の大きな特長です。
彫刻は植物や雲を模した物が主流です。より複雑な形状、滑らかな曲面が際立っています


つまりはこの『大仏様木鼻』の一つが【象鼻】。

この象鼻にも時代による変遷が如実にみられるといいます。

ちなみに、この桐生天満宮さんの末社 春日社さんに残される象鼻は、〝象らしさ〟はかけらもありません。

例えるなら…猪に近い、…妖怪?




No.241

『蟇股(かえるまた)』。

名前だけ聞くと「なに?」と思われるこの部位。
実はどの古建築にも必ずあるものだといいます。
たぶん見ればわかる方たくさんいると思います。
しかも特徴的なものばかりなので、これだけをねらって古建築を見にいく人が実はたくさんいるといいます。

その代表格が…あの【日光東照宮】の『眠り猫』、なんですよ。
まぁ、私もこの蟇股という部位について調べていて気づいたのですけれどね。
世界遺産に登録される前から、日本中にその名を知られていた、この国宝でもある『眠り猫』。
そもそもなんでわざわざこんなところにまで彫刻を?
…まぁ、彫刻の宝庫、これでもかというほど彫刻がありますので、そんな疑問もすぐ「まぁ、日光だし」「東照宮だし」と思って流れてしまうくらいのものでありますが。

眠り猫は、徳川家康公の墓所のある奥社への参道の入り口、東回廊潜り門に掲げられています。
つまりはそこに設置された蟇股という部位に対して、かの【左甚五郎】さんが彫った『平和の象徴』といわれる彫刻が嵌め込まれている、というわけであったのですが、私などは蟇股という物を調べていて、初めてあの日光東照宮さんの眠り猫もまた、蟇股であったことに気づいたくらい、優れた彫刻、という見方かしかしておりませんでした。

梁や頭貫などの横部材の上に置かれ、カエルが足を広げて踏ん張っているようにみえることから「蟇股(かえるまた)」といわれるようになりましたこの部位。

仏教伝来のとき、寺院建築の建築様式として入ってきたものといいます。
当初は「蟇股(かえるまた)」という呼び名はなくて、平安時代になってからそう呼ばれるようになったようです。

建築構造上必要部材の一つでしたが、やがて日本人好みで装飾化されていったといいます。

ちなみに、現在では建築技術が進歩したため、必要ないものとなり、形だけが残されているといいます。


日本の蟇股は時代ごとに特徴があるといいます。

奈良時代:とにかく分厚くがっちり
平安時代:ちょっと飾り的な要素が出てくる
鎌倉時代:透かし彫りなどの加工がされる
室町・安土桃山:彫りと曲線が特徴
江戸時代前期:きらびやかな彩色と彫刻
江戸時代後期:彫刻技術が飛び抜ける
現在:どれも曖昧・融合・良いとこどり

なのだそう。
こういった特徴から時代を知ることができるようです。

No.240

末社春日社は、本殿の後方に南面して建つもので、一間社流造りの小規模な社殿である。
社殿は、身舎、庇の軒桁や垂木に見られる反り増しをはじめ、要所に用いられている彫刻の装飾に、室町時代後期の建物の特徴をよく残している。一部に菊と唐草・流れに紅葉などの文様が描かれており、各部には彩色が施されていた痕跡が見られるが、ほとんどは不明である。

県内における類似する建物としては、板倉町の雷電神社末社稲荷社社殿があり、象鼻彫刻が発生した早期の建築と考えられる。

このことから、建築年代は天正(一五七三)から慶長(一六一五)年間と推定され、現存する桐生市内の建造物としては、最古のものであるとともに、当地方における古建築の遺例として貴重である。


以上は天満宮末社 春日社について桐生市が作成した案内板より抜粋したものであります。

今回、市指定からいきなりの国指定へ、ということとなっています。
群馬県内における十七世紀初期以前の寺社建築として、板倉町の雷電神社末社 八幡宮稲荷神社(国指定重要文化財)に次ぐ古さであろうといわれます。

まぁ、棟札がありませんから、その特徴から推測してのこと。
そこで出てくるのが、あの〝蟇股〟。

その他、
・母屋、軒桁及び垂木に反り増しが見られる。
・貫頭木鼻の形状と唐草絵様の渦の巻き込み具合。
・海老虹梁の形状。

などが室町時代後期の建築と類似している、のだそうです。

また、江戸時代初期のものと一致する点もあり、それが
・虹梁の端に入り八双が見られる。(唐草絵様を付けていない)
・象鼻が丸彫である。

等々。


ちなみにこの春日社にも彫刻が施されているのですが、どうも後からの可能性もあり、もとは絵だったのではないかとも考えられているのだそう。
…ちなみに、私ここの彫刻も好きなんですよね。

あまり他に見たことのない図案でして、扉に大きな鹿の浮き彫りがあったり、扉の脇の柱との境の部分には龍の巻きついた倶利伽羅剣が彫られていて、剣の下には蓮の花があるのです。

…なるほど、あとから彫ったものをはめ込んだ…。

ちなみに屋根は銅板に漆を塗った瓦葺きだそうです。
これまたなかなか聞いたことのない珍しそうなものであります。

こちらの春日社さんは、群馬県下における希少な遺構にあたるようです。

No.239

さて。

縮小しシワも減っている、コロンコロンと音でも鳴りそうな脳みそを駆使したせいで、すっかり疲労困憊している私の脳みそではありますが、使わないとこれまた退化いたします。

ここらでまた、桐生天満宮について学んだことを追記してみましょう。
疲れたら休めばいい。
休み休みでも前を向いて、また歩き出せばいいので。

とはいえ、この重要文化財がらみのものについて調べると、苦手な建築の用語がたくさん出てきます。
それをいちいち調べて。
それでも専門的な知識が皆無なので、どこがなんという名称なのかがわかったところで、どことどこがつながっているかとか、その枠割は何かとか、結局のところは何一つわかってはいないので、そのときそのとき、この名称のものはどこら辺にあるものかを理解してするだけでとどまっています。
とどまっているのみなので、すぐに忘れる。
悲しい自己間イタチごっこであります。


特にこの桐生天満宮さんの【末社 春日社本殿】に関しては、棟札等建築年代のわかる資料が何一つ無く、あくまでもその建築様式を同年代の建物の特徴からいつ頃建てられたものがを推察していっての重要文化財指定なものですから、書いてあることがみな、そうした専門用語。
漢字も特殊で日常ではほとんど見ないような漢字が出てまいります。

資料の字が読めないところから始まるのです。
ただ…。
今はスマホ♡
読めない字をピーっとして、〝調べる〟ってとこをピッとするだけで、その字をなんと読むかがわかるのですから、便利なものです。

とはいえ…。
〝蟇股のプロポーション〟〝幅に比べて成が高く、足に鰭状の装飾がつく〟…って、なんですかぁ?

それも神社の建物の各名称と入力して、図解してくださっている物を拝見させていただき、なんとか自分なりの理解をするのです。
遠い道のりなようですが、でも学生の時分のように期限も締め切りもテストもな〜んにもあるわけではないので、牛歩の如く、ナマケモノの移動の如く進めばよいのです。
しかも自分の関心のあること〝だけ〟です。
調べて結局わからなくて、途中で投げても、なーんにも困らない。

幸せな学びです。


…あれ?
こんなことを綴っていたらもう九百字を超えてしまっているではないですか。

次回こそ桐生天満宮さんの末社春日社さんについて書いてまいります。

No.238

【女郎花(オミナエシ)】はオミナエシ科のオミナエシ。

日当たりのよい草原や丘陵地にみられ、人里や山間部では同属の花の白いオトコエシの方が多くみられます。
薬用としては、オミナエシもオトコエシも地下部もしくは全草を乾燥したものが生薬『敗醤(はいしょう)』で、漢方処方には入れられてはいないといいます。
ただ、民間的に消炎、化膿止めに用いられてきました。

醤油が腐ったような臭気が生薬名の由来とされているといます。


【藤袴(フジバカマ)】はキク科のフジバカマ。

フジバカマは、河原などやや荒れた地に生え、生長すると高さ1メートルほどになり、秋に枝先に多数の淡紅色の花を咲かせます。
派手さがなく、秋の七草に数えられたのは葉に含まれる香気(クマリン:桜餅の匂い)によるようです。

中国では「蘭草」と云い、その芳香により弱った脾の機能を覚醒させるのだそうです。

鎌倉時代に戦場にのぞむ武士が兜の中にたき込めた香りもこのフジバカマの香りだったようです。


なかなか七つ覚えている人のいない秋の七草の覚え方があるといいます。

ハ…萩
ス…薄
キー…桔梗
な…撫子
お…女郎花
ふ…藤袴
く…葛


であったり、


お…おみなえし
す…すすき
き…ききょう
な…なでしこ
ふ…ふじばかま
く…くず
は…はぎ


うーん、この覚え方を覚えられるかどうか…。

でもね、大丈夫です。
秋の七草は、全部言えるんですよ、意外なことに 笑。

No.237

お次は、私どもの〝ネズミの額(ひたい)〟ほどの庭に咲く【撫子(ナデシコ)】ナデシコ科のカワラナデシコです。

ナデシコというのは、
『小さい子供のように愛らしく、撫でたくなるような花』という意味、なのだそうで、その可憐な姿から、『大和撫子』はしとやかな日本女性を表す言葉として用いられています。
…私とは無縁な言葉であります。

多年草で、高さ30~80センチになり、その名の通りに可愛らしいピンクまたは白色の花です。

薬用としては、カワラナデシコの他、エゾカワラナデシコ及び中国に分布するセキチクの全草を乾燥したものが生薬「瞿麦草(くばくそう)」、
種子が「瞿麦子(くばくし)」。

消炎、利尿、通経薬とされ、多量に用いると流産の恐れがあることから妊婦には禁忌とされるものです。
まぁ、この花をちょっと触ったくらいなどはまるで影響ありませんので、この〝小さな子供のように愛らしく撫でたくなる〟撫子の花、どうぞ御安心してたくさんたくさん愛でてください。


狭い我が家の庭にこの花を迎えたのは、あの東日本大震災から何年か経ったとき。
お寺さんの大祭で境内にお店を広げていた花屋さんで花を見ていた時、この花を見て泣き出してしまった一人のおばあさんの言葉にありました。
「福島の河原にはこの時期一面にこの花が咲くんだよ。…帰りたいよ、帰りたいよ」

…その花を見て、泣いてしまうほどの思いを抱えて、ここ群馬に避難しておられる方のお話をたまたまお聞きしたのです。


そんな思いで見ておられる方がおられることを、この花を見るたび胸に刻もうと思ったり。
この花を見て癒される日が来ますようにと、祈る思いも込めて。

庭に植え、早十年、十年経ちました。


まだ福島はつらい思いをされています。
また福島がつらい思いをされています。


私は子どもの頃、よく祖父母に、叔父に、福島へ連れて行ってもらっていた人間です。
福島は子どもながらにとても心豊かになり、おだやかで、大きな自然豊かなところであると、強く心に残った、大切な大切な地であります。


撫子の花は儚く見えますが、花の咲いている期間も長くて、何よりプランターに植えても、そのそばへと次々と増えていくような強さを持つ植物であります。


福島は撫子のように強いと、私はこの花を見るたび思っております。


あらためて…がんばれ福島。

No.236

続いては【桔梗】。

えっ?桔梗?

そうなんです。秋の七草、『朝貌(アサガオ)』は、私たちが〝アサガオ〟といって思い浮かべるあのヒルガオ科の〝朝顔〟ではなくキキョウ科の桔梗が定説となっているのです。

薬用としてのキキョウは、根の乾燥品が生薬『桔梗』であるといい、サポニンを含む生薬として『鎮咳去痰薬』の代表であります。

韓国ではこの根をトラジと云い、水で晒してサポニンをぬき、漬物にします。薬用にも食用にもなる、しかも可憐で美しい桔梗。

実はこの桔梗の花が咲くころになるとどこからともなく飛来する、頭部がオレンジ色で体長5〜7ミリくらいの黒い羽虫がおります。

それはもう庭を歩けば顔に当たるくらいの大量の数で、毎年毎年一体どこから嗅ぎつけるのかと感心するくらい大挙してやってきます。

こいつが、花も葉も食べてしまう。
まさに桔梗の大害虫!
桔梗全体に害虫退治の薬を噴霧するとその姿は瞬く間に消失します。
(おっ、効くじゃん)などと思ってもつかの間のことで、次ぐ日には何事もなかったように歯や花をむしゃむしゃと食べている〝強者〟であるのです。

その名は〝クロウリハムシ〟。

言い換えると、桔梗、花も葉もそんなに〝美味しい〟ということに…。

私は食べませんよ。 …本当です。
…今のところは 笑。

そして、桔梗と同じく紫の花を咲かせる【竜胆(リンドウ)】

あ、桔梗も竜胆も白やピンクの花もありますが、いわゆる一般的な色というと紫かと思います。
リンドウ科のトウリンドウであります。

ところで。
竜胆って漢字、なんかものものしいというか、なんというか…。
だって〝龍〟の〝肝(きも)〟ですよ?
…凄くないですか?

これが〝薬草〟というのですから、いかにも貴重な感がいたしますが、実際は良く見かけるリンドウ、であります。
漢方薬の世界では、その根及び根茎を乾燥したものを『竜胆』と云うのだといいます。
苦味健胃薬であるといいます。

ヨーロッパ産のキバナリンドウの根及び根茎は『ゲンチアナ根』と云われ、あの〝ヒポクラテス〟の時代から苦味健胃薬として用いられているといいます。
竜胆とゲンチアナは、同じリンドウ属植物に由来する〝類似生薬〟なのだそうです。

なるほど。

…覚えられてないだろうな、と思われた方、 …正解です 笑。

No.235

先日、おバカなくせに張り切って脳を使い、すっかり脳が疲弊した折に、自らを癒そうとあげました〝秋の七草〟の画像。

『春の七草』が厳しい冬を乗り越えるために粥にして食べるのに対して、『秋の七草』は初秋を彩る秋草を愛でるものであり、秋の訪れを知らせてくれる万葉植物であります。

初秋の山や野や川原に七草が咲き秋風に揺れている風景。
古の万葉人の自然を愛でる心は、時代を経ても今なお私たちの心を抒情豊かにしてくれます。
まぁ、初秋、というのは少し違うかもしれませんが、暑さがいつまでも続くここ数年においては、今まさにこの秋の七草を見ることが増えたかと思われます。


以前もレスしておりますが

『萩の花 尾花葛花 撫子が花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花』

奈良時代の歌人『山上憶良』が詠んだ万葉歌です。


この歌に詠まれる秋の七草、萩(ハギ)と尾花(ススキ)を除いて、秋の七草は薬用としても用いられています。
萩とススキを除くので、五草?
ちょっと違和感が強いですね。
濁音なのと三文字であることから、なのでしょうか。


この秋の七草で、なんとも力強い勢いある植物があります。
それが〝葛(くず)〟です。


以前〝ブラタモリ〟で紹介された前橋市の『広瀬川低地』と『前橋台地』にある『ヘリ』を利用して栄えたかつての豪族による『華』。

先日、その広瀬川沿いにある前橋台地の段丘涯を上がった先にある【八幡山古墳】に行ってまいりましたが、その八幡山古墳を囲うようにめぐらされた細い道路を隔て、葛がその一帯を覆い尽くしまるで高さの低い森のようになっていました。

思わず「うわぁ」。

葛強し!

しかしながら、この葛は、根の乾燥したものが、
生薬【葛根(かっこん)】で、
風邪、扁桃腺炎、急性中耳炎、肩こり、蓄膿症などに用いる有名な漢方処方の
【葛根湯(かっこんとう)】の主薬であります。

葛は身近な薬草の代表格でもありますが、雑草の王様でもあります。
日本全国の山野のいたる所に分布し、どこにでも生え広がり根が太く蔓が地中をのたうってはびこっているのです。

八月下旬ごろ、花が咲き、その赤紫色の花は、マメ科の特長を備えていて密に穂をつくっています。
美しく見えるときと、…少しグロテスクに見えるときとがある、神秘的な花、かもしれない花であります。









No.234

続いて桐生天満宮さんの末社春日社について、…語ろうかと思っていたのですが、専門的な知識もない人物が、無い頭をフル回転するものですから、ちょっと脳が疲労してしまっております。

なので春日社さんについては日を改めて記して行こうと思います。


ああ、そうそう。
これは忘れてしまわないうちに書いておかないと、…忘れます。

拝殿の左横辺りにあります神楽殿。
この神楽殿、どうやらあの桐生新町の祇園祭で使われていた『屋台』の可能性が高いのだといいます。

一丁目から六丁目まである、どこの屋台かはわからないとはいいますが、おそらくは一丁目、二丁目、三丁目のいずれかなのでは、といいます。
三丁目説を推す方がおられるようですが、否定的な意見もあり、不明であることがたしかなこと、のようです。
おそらくは造りから1800年前後のものと推察されるといいます。

まぁ、不思議はないです。
初めて見たとき、今まで見たことのない神楽殿だなぁと思ったことを鮮明に覚えておりますくらいですので。


それにしても、ずいぶん桐生天満宮さんのことを深く知ることができました。
ま、まだまだ、なんですけれどね。

No.233

ところで。

あの附(つけたり)と称する、〝文化財の価値を証明したり、その根拠となるもの〟、というものの一つに
『宮殿(くうでん)』というものがあります。

『本殿内部に安置された小建築』と、群馬県の地域創生部文化財保護課の作成した『国重要文化財の新規指定について』という書面には、そう添え書きされています。

その書面の、桐生天満宮の本殿の平面図に、点線で囲って『附・宮殿』と記されています。
文字通り、小さな〝お宮〟で、ずっと本殿奥に安置されたまま、こういった調査でもなければ、神職以外見ることのない神聖な建物、お宮であるため、ほぼできた当初のまま保存されているのだといいます。
細かな彫刻と極彩色の美しい彩色が当時のままの状態で安置されているといいます。

…私など知らないはずです。

今まではそこまでの調査も入らずにいたのでしょう、群馬県の指定重文であったときには附として挙げられておらず、今回が新規の指定であります。


…もしかして?
もしかして御開帳って…この宮殿をってこと?
そ、そうなんでしょうか?!

拝殿の扉を開けたところで、この宮殿までは見えはしません。
あ、でも幣殿のどこかが開けば見られるってこと?

うーん♡
御開帳。

はれて国指定重要文化財となったら、御開帳、してくださらないかしら。


あ、御開帳がこの宮殿を指すのかどうかはわかってはいません。
まあ、昭和三十六年とかが、たしか最後の御開帳だったと記憶しているので、御開帳の様子を見た人はたくさんいると思うのですが、ねえ。
いまだにそういった方にお会いできていないんです。

宮司さまにお聞きする機会があれば、お教えいただけるかしら?
…でも今、御朱印も御書置きだしなぁ。
そもそもそういった対応はお二人おられる女の方がなさるし、なぁ。


うーん、昇殿して御祈願お願い申し上げる?

…うーん。

No.232

…またまた、誤字を見つけました。

誤)今回の課題
正)今後の課題

お詫びして訂正いたします。


桐生天満宮さんについて、新たに知ったことを記しています。

こちらの本殿・幣殿の彫刻は今でこそその色は落ちてしまっておりますが、元は極彩色の彩色が施されていたといい、実はその一部、赤の彩色は残っているようです。
私のようなザルのようなまなこではさっぱりわからないのでありますが…。

そしてその色の保存、剥離止めを含めた保存修理工事が、平成十五〜十七年にかけて実施されていたといいます。

えっ、(あ、あれで?)。

ああ、あくまでも保存修理、だからですかね?
素人はどうしても、埼玉県にある【歓喜院 聖天堂(国宝)】のように、誰が見てもそれとわかる彩色をほどこすようなものを思ってしまいます。
桐生天満宮さんは…これ以上損傷か進んでいかないよう、今ある色が落ちないよう、あくまでも保存するため手を加えただけ、ということのようです。

実は色(赤)が残っていること、すでにもう『保存修理』は行われていたこと、今回学習したことであります。

また、本殿・幣殿に施された彫刻は、最初は上の方だけであったということ。
それから壁面に、最終的には腰と呼ばれる下部に至るまで、彫刻をし、彩色していったと考えられているとのこと。

このように段階を追って彫刻を施したため、江戸時代の彫刻の流行、流行の移り変わりが見て取れる点も、重文指定指定に重要だったといいます。


『濃密な装飾が施された近世後期の北関東を代表する神社建築』であることが、今回国重文指定を受けることとなった条件の一つ、…なようです。


拝殿について、ですが、建てられて四十年ほどの天保十二(1841)年に、大木が倒れて拝殿が大破したようです。
その修理の際、屋根瓦の差し替えが施されたといいます。
ちなみに本殿・幣殿は銅板葺きで、その後、拝殿の屋根は瓦葺きを改め、現在の屋根は『瓦棒型銅板葺き』というものになるそうです。


そうそう、拝殿を真正面から見たときに見られる軒唐破風の上にある三角の屋根『正面千鳥破風』は昭和になってから、…昭和二十七年以降、昭和三十六年以前に取り付けられたものだといいます。


えっ?、昭和の時代の、そんな目立つ工事を行なった記録が残されていないってこと、ですか?
…それは結構びっくりです。


No.231

この『岩の上の天神』ともいわれる桐生天満宮さんの土台にある岩は、他所から運んだものだということもわかっているようです。
ただ、それがいつのことなのかは、まだ私にはわかっていません。

その記録はあるのかどうか。
この社殿を建てるにあたって、のものなのか、
あるいは『桐生新町』の町立てに際して、桐生市内の旧下久方村梅原という所にあった『梅原天神』さまをこの地に御遷座した時のことなのか。

…誰に聞けばわかるのだろう。
宮司さま?

桐生市の図書館の閉架図書室に資料があるだろうか?

…今回の課題といたしましょう。

いずれにしても岩の上に建てることは耐震性を上げる効果はあるようです。


さて。
この桐生天満宮さんは複合建築の【権現造】。
こういった建築様式にはとことん弱い私には、本殿ができてから十四年経って着工し、途中中断して二十五年もかかっているという建物なのに、…権現造って、屋根、繋がっているのではないのだろうか?

えー、だとしたらその途中経過、大変じゃないんですかね?
いったん幣殿までで御開帳しているようですし、しかもここから拝殿の棟上までに十四年かかるわけで。
十四年経過することが想定内のものだったのか、そうではなかったかわかりませんが…ここで少なくとも崩れたりしないような形にまとめるわけ…ですよね?

建物の建て増しとかはよくあることですが、神社さんの大きな屋根、って大きなものじゃないですか。
新たな建物と接続するためにはまた葺いてある屋根を調整する必要が当然あるだろうし…手間もお金もかかるじゃないですか?

ま、まぁその辺はもうプロの範疇だと思うのでこのくらいにしておきます。


ここ桐生市は徳川家のおぼえがめでたい地で、江戸時代になってからは江戸幕府の直轄領であったようで、この桐生天満宮さんはその直轄領のメインの町、桐生新町の北の起点であり、そこを護る神社さんでありますので、当然のように日光東照宮からの影響もあったりもしましょう。その東照宮の彫刻に携わった彫刻師たちは日光へと続く街道沿いに住まい精進していたといい、その街道は桐生にほど近い場所にもありました。

東照宮の完成を受けて、腕のある職人たちが次なる仕事をした時期でありました。


   (秋の七草)

No.230

知るとなかなかおもしろいもので…。

実はまたまた、この桐生天満宮さんについて学び、新たなことを知ったもので、追記…というにはずいぶんと時を経てはおりますが、その新たに知ったことを記しておきます。(本人が忘れちゃうから)


…とは言ったものの、どこから書いていこう?

ま、まずはやっぱり本殿・幣殿・拝殿について、だな。

こちらの建物、まず本殿・幣殿を先に造ったことは以前も書いたかと思うのですが、これが寛政元(1789)年の上棟。
そして遅れること十四年の時を経て拝殿の起工となるのですが、この拝殿の工事、途中中断を挟んだもので、建設に二十五年間かかって享和二(1802)年の上棟となっています。
この拝殿の工事の中断についてはさまざまな理由があったようで、世の中が乱れて神社建築をしている状況でなくなってしまった、とか、全てを寄付により建てているため、資金に底がつき建てられなかったとかいわれているようです。
まぁ、それらが複合的に絡み合っての理由となったのではなかったのかなぁ、…というのはあくまでも私の見解ですが。

そんなわけで本殿・幣殿の棟上から結構時を経てできた拝殿は、本殿・幣殿が建物全体見事な彫刻で埋め尽くされているのに対し、そういった装飾性の少ない簡素な造りに仕上がっています。

それは金銭面での中断ともいわれたくらいですので、資金の問題もあったかもしれません。
しかしながら、実はその、歳月の経った事により、本殿・幣殿を建てた頃とは神社建築の主流がこうした装飾性を抑えたものに変化していた、ということもあったようです。

ま、まぁ当初の完成予定図と異なっていることだけは確かなこと、なので、やっぱり資金的なものの方が大きかったのかなぁ。


そうそう、もう一つ。

この桐生天満宮さん、『岩の上の天神』という異名があるというのは知っていたのですが(まぁ、それもそんなに前のことではありませんが…)、この岩について、かねてから私が疑問に思っていたことがわかったので、書いておきます。

実は桐生という土地は活火山からは遠く、大きな岩が飛んできただの、流れてきただのということが考えにくい土地ではなかろうかと思っていたのです。
それが…岩の上の天神?

辺りにもそんな大きな岩がある所は無さそうです。
ここだけ?
岩がここにだけ飛んできた?

それこそ神話になります。

No.229

何気に桐生天満宮さんの公式HPを開きましたところ、トップに
「国指定重要文化財」に決定のおしらせと入っておりました。

まぁ、前レスでご報告申し上げました通り、〝まだ〟なんですが、よくよ〜く、深く読めば、
「…この度、令和5年6月23日付にて、国の文化庁文化審議会が文部科学大臣に答申を行い、下記の建造物並びに所蔵品が『国指定重要文化財』となりますので、ここにお知らせいたします。…」
そ、あくまで『…となりますので』。
なったとは書かれてはいないのです。

今年中にはなるんですかね。
国全体でみますと、あれこれと問題は山積み。
それで後回し、というわけでは決してないことはわかっているんですが、時代の流れが速くて、国が急いて事を仕損じていることの多い今、こうした事案はゆっくり、間違いやもれなく進めれば良いかと。


ちなみに。


1、天満宮本殿・幣殿・拝殿 一棟

  附(つけたり)
   宮殿(くうでん) 一基
   本社幣殿拝殿妻之図
   (社殿絵図)    一枚
   御社殿棟札札   四枚
   御注文書(古文書) 一冊


2、末社春日社殿 一棟

  附
   末社機神神社本殿殿 一棟

が国重文指定となることが決まっています。

かつては末社の春日社殿などは『桐生市指定重要文化財』でしかなかったといいますのに、いきなり国指定。
こうした指定は段階を踏む必要はないとのことで、調査に入った際に『歴史的価値の高いもの』であると思われると、国の文化審議会が文科省に答申するという流れのようです。


ちなみに、附(つけたり)というものは、『重文等に指定する際に、文化財本体に関連する物品や資料を本体と併せて文化財指定とすること。文化財の価値を証明するもの、その根拠となるもの』ということだそうです。
たしかに、棟札であったり、計画資料にあたる絵図であったり、注文書であったりは、指定された文化財の価値を証明する貴重な資料であります。

まぁ…、こうしたお役所仕事で、しかも文化的価値とか、しち面倒くさかったり、ややこしかったりは、…私にとって…はありますが、知るとなかなかおもしろい、興味深いものであります。


No.228

…衝撃的な事実を知りました。

このスレの冒頭で、
> 速報であります。
>吉報であります。
>朗報であります。

>私ども(夫婦)が大好きな大好きな群馬県桐生市の【桐生天満宮】さんが、【国指定重要文化財】に指定されましたぁぁ。


と、私、大層舞い上がったレスをしておりましたが、これが誤っていたことをごくごく最近知ったのであります。


しかしながら、この文に続く、
> 六月二十三日、国の文化審議会が開催され、群馬県内の寺社建築の重要文化財指定が答申されました、
という文面に関しては正しいのです。

どういうことか、と言いますと。

実はこの群馬県桐生市の桐生天満さん、今現在においてはまだ、『国指定重要文化財』ではないというのです。

えっ?

…そうなりませんか?

取り消されたとかではなくて、あくまでも、
>六月二十三日、国の文化審議会が開催され、群馬県内の寺社建築の重要文化財指定が答申された、
ということだったようなのです。

そう、まだ『指定されていない』というのが正しいこと。
あくまでも答申された、だけだというのが現状なようです。

いやぁ、…嘘でしょ?!


ただ答申されれば、ほぼ百パーセント指定となるということらしいのですが、それにしても…まだ?


私がそのお祝いの気持ちを込めて、七月一日に参拝させていただいた時には、拝殿前に『国指定重要文化財』って貼り紙がありましたので、私のような無知なおばさんが今の今まで知らなかったことは仕方ないことかと…。


とはいえ、(衝撃の)事実を知ったからにはお詫びして訂正をしなくてはならないと、思った次第でありまして。


あらためてお詫びして訂正をさせてください。

『今年六月二十三日に国の文化審議会か開催され、群馬県桐生市の桐生天満宮二棟の重要文化財指定が答申された』
が今現在の状態だそうです。


ちなみに、県の文化財指定、並びに桐生市の文化財指定は〝解除〟されたそうです。


…つまりは今、桐生天満宮さんは…無冠?

No.227

さて、この春日部八幡神社さん、大きな銀杏の御神木が参道の中央にそびえております。

この大銀杏には、元弘年間に飛来した銀杏の枝が一夜のうちに大樹となって参詣人を驚かせたという伝説があるといいます。

また、次のようなお話もありました。

元禄七(1694)年の「武州春日部八幡宮略縁起」「村鏡類諸事物留書」(中島家文書)によれば、

新田義貞の家臣『春日部治部少輔時賢』は日ごろから鶴岡八幡宮を厚く信仰し、弓馬の武運を祈っていた。
元弘元(1331)年に、鶴岡八幡宮に参籠して祈願していたところ、満願の日の夜明けに不思議な姿形をした老翁が現れ、奇特の信心に対し加護を与えるとし、
「汝の城の近辺に清浄な地があるので、彼の地に鎮座して汝の繁栄を守るであろう。よって、その土地を示す霊木を生やそう」
と教示した。
時賢は早速に城へ帰り、探したところ城の南の広い草地に銀杏の大樹を見つけ、この地に社殿を建立して八幡宮を勧請した。
社殿の造りは、本殿と五間の拝殿を備え、更に鳥居に至るまで選び抜かれた材料で仕上げられた荘厳のものであった。
それ故、新方四十余郷では、春日部八幡宮に対して憚り、五間の草屋を建てなかったという。』


いずれにしても、この大銀杏がこちらの神社の氏子の方々にとって、ひいては春日部市民にとっても大切な、愛する木でありますことはたしかなことで。

そして…こちらの、見事な銀杏の刺繍の施された御朱印帳に一目惚れして、おわかちいただいてしまった私でありました。
はじめは御朱印のみをお授けいただこうと思って、持参した御朱印帳を社務所でいったんはお出ししたくらいだったのです。

その受付を対応してくださった方の対応がとても丁寧で親切だったことといったら。
しっかりとこちらの目を見て、笑顔で対応してくださるのです。
たまたま御朱印の説明をなさる際、その銀杏の御朱印帳をお出しになられ、そこで私が一目惚れをしたということになるのですが…。

この方の対応が、終始笑顔で丁寧であったことも、この御朱印帳の購入に関係していたかもしれません。


長々と綴りましたが、この春日部八幡神社さんの珍道中録は続編があること、間違いなし、で…ありたいです。

狛寅さんのいわれ(勝手にもう狛寅さんにしている)をお聞きしたり、浅間山にも、お参りしなくては!


よぉ〜し、…祈る。

No.226

…浅間山?

どうやらこちら浅間神社としての人工の山で、ご存知の方もおられるかと思いますがあの富士山講であるような。

『富士塚』ならぬ『浅間塚』、なんです。
富士塚というのは富士山を模して築いた人工の山のことで、頂上には石碑があってそれを拝むと富士山と同じ御利益が得られるという富士山信仰。
この春日部にある浅間山も一種の富士塚ということのようで。


うーん、こちらへは行かなかったなぁ。

よしよし、こちらも再拝時の楽しみにいたしましょう。

No.225

春日部八幡神社の『鎮守の杜の神様たち』

①八幡さま
(応神天皇・神功皇后・武内宿禰命・豊受姫命)
春日部の総鎮守。毎日の生活を守って下さる神さま。
文武を導く神。長寿・安産の神。

②奥の院
旧本殿。平成七年焼失、平成八年再建

③鹿島さま
(武甕槌命 たけみかづちのみこと)
強い心身をはぐくみ邪悪を断ちきり運勢を開く神。

④愛宕(あたご)さま
(火産霊神 ほむすびのかみ)
防火の守護神。

⑤香取さま
(経津主命 ふつぬしのみこと)
強い心身をはぐくみ邪悪を断ちきり運勢を開く神。

⑥天神さま
(菅原道真)
福岡県の太宰府夭満宮が本宮。学問の神。

⑦弁天さま
(大国主命 おおくにぬしのみこと・市杵島姫命 いちきしまひめのみこと)
出雲・宗像社。
人を助ければ人に助けられる「道」の神。

⑨氷川さま
(須佐之男命 すさのおのみこと・稲田姫他 いなだひめ)
邪気を祓い人々の苦を除く神。
武蔵国の総鎮守。

⑩御獄(みたけ)さま
(櫛真知命 くしまちのみこと)
火災・盗難除け神。

⑪稲荷さま
(倉稲魂神 うかのみたまのかみ)
豊作豊漁、商売繁盛。

⑫浅間さま
(木花之開耶姫命 このはなさくやひめのみこと)
霊峰富士山の神。子供たちの健康成長を御守護。


拝殿前に置いてあったマップに書かれたものであります。


順路をたどってまいりますと、小さいながらも立派なお社が建っていて、いろいろな神さまにご挨拶させていただくうちに、なんだか楽しい気分になりました。

すこぉし暗くてちょっぴりだけ怖い気もするお社がないわけでもなかったですが。
高台の細い道を歩くところもあるのでちょっとだけ注意も必要です。

私どもはお隣の別々の神社さんだと思っていたのですが境内社なのか、このマップには〝稲荷さま〟として一緒に記されていました。
境内社なのだとすると特に規模の大きなお社となり、いくつかの鳥居を通る参道が、八幡さまと別にあります。


今回は知らずに行かなかったのですが、この春日部八幡神社さんと稲荷神社さんの隣に八幡公園があって、マップに〝浅間山〟と書かれていました。

どうやらこれ…人口の山のようで…。

No.224

奥宮さんを参拝し、順路に沿って進みますと、拝殿のみぎてへと出ました。

?!

なんと、拝殿右側の壁面一面に大きな干支の絵馬が十二枚並んでいるのでした。
神社さんでよく見かける、その年の干支の描かれた、あの、大きな絵馬を思っていただければ、その一枚一枚の大きさは伝わるでしょうか。
それが壁一面を覆い尽くしているのです。
どれも画風が同じタッチなので、おそらく絵を描いた人物は同じ方かと思われます。
御奉納なさったのでしょうか?
毎年毎年のものを掛けていったにしては経年の程度がほぼ同じであります。

初めて見る光景に驚きが隠せません。夫は嬉しそうにパシャパシャと写真を撮っています。


それよりも目を引いたのは、垣に囲まれた幣殿の横、本殿の前におられる狛犬さんでありました。

左側におられた狛犬さんは可愛らしい狛仔犬、といった感じに見えたのですが、左側におられる狛犬さんは今まで見たことのないポーズをとっているのです。

それはまるで、虎とかのネコ科の猛獣が高いところから周りを見下ろすような、ともすれば相手を威嚇するような…そんなふうに見えるのです。
さらにスマホで撮った写真をアップにして見ると、縞柄が見て取れるではないですか!

虎?

虎なのかしら。

うーん、そういう目でみると、群馬県の藤岡市に鎮座される諏訪神社さんにおられる狛寅さんに似ているように思えてきます。

でも何故なんだろう。
🐅だとしたら、何故?


わー、ワクワクしてしまいます。
この謎解きのためにもぜひぜひ再拝させていただかなくては。




(春日部八幡神社さんの本殿そばにおられる狛犬(?)さま)

No.223

あまりにショッキングな〝焼失〟という事実にしばし立ちつくします。

旧本殿が建っていた当時の案内板がいまだに残されていることに、春日部市民の悲しみがうかがわれます。


『…本殿後方の高地にある旧本殿は、萱葺き、柱間一・六メートルの流れ造りで、室町期の流れをくむ桃山時代ごろのものと推定され、市内では最も古い建造物…』

(春日部八幡神社の案内板より一部抜粋)


『…この旧本殿は、手斧(ちょうな)造りという特徴的な構造に当時の神社建築の様式をそのままに残していて、市内では最も古い建造物として春日部氏の動静を伝える貴重な文化財です。
また、この神社の境内を含む一帯は春日部氏の館跡ともいわれ、奈良・平安時代から中世までの複合遺跡の浜川戸遺跡として知られています』

(春日部八幡神社旧本殿の案内板より一部抜粋)


新たに建てられた、旧本殿を模して造ったという〝奥宮〟の復興記念碑がありました。
ここに詳しく記されていました。

『奥の院復興記念碑

御本殿裏のこの地には、これまで春日部市最古の建造物として市の文化財指定を受けた旧本殿がありました。
この建物は、室町時代の建築様式で桃山時代の作といわれ、朱塗りの桂壱間社で向拝を付けた萱葺屋根の流れ造りのものでした。
しかし、去る平成七年十一月五日夕刻、不審火により焼失しました。

その後、氏子崇敬者の方々より旧本殿復興への強いご要望があり、神社役員一同そのお心をうけ、奉賛活動を開始しました。
この結果、多くの御浄財を戴き、平成八年四月御社殿等の復興事業が始まり、同年十月十五日に竣工式を斎行致しました。
新しく建立された御社殿は、旧来の形を模したもので、安全のため銅板葺となっています。今後は、これまで親しまれてきた「奥の院」という名称を以て大切に保存継承して参りたいと存じます。

後世のため之を記します。

平成八年十月吉日』


不審火。
不審火、ですか…。

奥宮というだけあって奥まった、狭い道を入ったところにあったことも禍したことでありましょう。
それは消火活動の点でも言えますが、不審火に気づくという点でも不審火を防ぐという点でも言えることであったでしょう。

茅葺きという燃えやすい小さな建物はそれこそあっという間に燃え尽きてしまったのかもしれません。


…茅葺き屋根を愛するおばさんの落胆も大きかった。

No.222

春日部八幡神社さんの【御祭神】さまは、

・誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)さま

・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)さま


・武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)さま

・豊受姫命(とようけひめのみこと)さま

ん?

は、八幡神さま、では…?

そんな、いつまでも少しも神仏に詳しくなれないおばさんの大事な本があります。

ん?
あ。
習合だ。

本を開く直前に気づいたものの、実はこの本にはこの御祭神のうち、実にお一柱の神さましか書かれていなかったという衝撃の事実。

…そ、そうかぁ。

やっぱり本とネットの二本立て、だな。


さて。

拝殿の奥に奥宮があると書いてあり、順路もきちんと示されています。
拝殿前にはカラー印刷された神さまたちのお祀りされたお社の境内地図が置かれています。

当然のことながら、珍道中ペアはぜひぜひ参拝させていただきたい。
スキップでもし出しそうな心で、順路を進みます。

拝殿ひだりてへ進んでいくと、まず境内社鹿島社と愛宕社がありました。

鹿島社には
武甕槌命(たけみかづちのみこと)さまがお祀りされていること、そのご利益は『勝負運・開運』が立看板に書いてあります。

愛宕社には火産霊神(ほむすびのかみ)さまが祀られており、防火(火除)に御利益があります。

更に進むと香取社があります。

香取さまのすぐ右隣に奥の院があります。

…あれ?

奥の院、なにやら結構新しそう。
こちらの奥の院、旧本殿であったはずでは?

地図…マップを見ますと…。


へ、平成七年焼失、と書かれています。
しょ、焼失したんだ。

No.221

お社から光を感じるくらいの明るくて心地よい気が満ちた拝殿でありました。
やわらかな笑顔で初めて参拝した私どもをお迎えくださっておられるような、そんな気に包まれます。

なんと心地よい、居心地のよい神社さんでありましょう。

拝殿のすぐそばにも木が植えられています。 
八幡さまってこんな神さまなんだ…。

拝殿はいたってシンプルですが、これが神さまのお力なんですね。


お?
おお!
向拝部分に長い長い龍の体が見てとれます。
う?
うーん?えっとぉ。
り、龍のお顔はどこだろう?


おおっ!
柱を越えて柱の脇から参拝者を覗いて見ておられる!
う、うれしい♡

なんて、なんて素敵なデザインでしょう♡

太いしめ縄が掲げられているため、龍のお顔が見づらくなっているのですが、それさえが考えられたデザインのような。

うーん素敵♡

これは。

これは何度でも行きたい。
何度も参拝したい神社さんであります。
この居心地の良さだけでもすでにご利益をいただいております。


ただ…群馬県から春日部って、それなりに離れているのだよなぁ。
高速道路の運転も好きではない私。
電車かぁ。
電車だな。

十月十五日がこちらの例大祭なようです。おお、ち、ちょうど日曜日ではないですか!
ど、どうかな。…無理かな。

薪能も隔年であるようで、今年はちょうどその年にあたるようです。
お。おおぉ、野村万作氏の狂言もあるではないですか!!

題目は…おおこれは。
『蝸牛』ではないですか!

私、中学時代に国語の授業で狂言を習って、「大人になって自分でお金を稼ぐようになったら、いつか狂言を生で観たい」と思った者で、実はまだこの夢を叶えていないのであります。

『蝸牛』だよ、『蝸牛』。
「雨も風も吹かぬに 出ざ釜打ち割ろう でんでんむしむし」の。

うわぁ♡


…待てよ?
『薪能』だよ?
夜からのものだ、下手すると泊まりだな。

夫は…許してはくれないだろうな。
薪能だけでも七千円だ。

この間地元で開かれる【声明】の、二千円のコンサートに、
「二千円かぁ」とため息をつかれたくらいだからなぁ。


…ダメだな。  シュン。

No.220

駐車場に停めると二の鳥居の辺りとなります。
一の鳥居までは結構な道を戻るようになります。

石の鳥居の扁額には『新方荘總社』と書かれていました。
新方荘とはこの辺り一帯の総称のようで、このあたり一帯の總社ということで、こう刻したのでしょうか。

参道は真四角な石を敷き詰め整備された気持ちの良い真っ直ぐな道で、左右に同じ背の高さの木々が並んで植えられています。
ところどころに石灯籠やたいそう可愛らしい狛犬さんがおられました。

この参道を歩くだけで、心が安らぎ、浄められる気がいたします。
ようやく先ほどの鳥居のところに戻ります。
こちらの鳥居の扁額には『春日部社』と刻まれています。

!?

鳥居のすぐ先に狛犬さんの背中の上に大きくて立派な石灯籠が乗っている、というものが一つ立っています。
対ではなくて一つ。
参道を遮るかのごとく、真ん中に立っています。

な?なんなのでしょう。
初めて見た形です。
そんな大きな石灯籠を載せられた狛犬さんですが、にこやかに寝そべってまるでくつろいでいるような表情です。


その狛犬石灯籠の向こう側にはひらけた境内が広がって、真っ直ぐ前に拝殿が見えます。

狛犬石灯籠の真後ろには大きな大きな木が立っています。
御神木でありました。

ひだりてに手水舎があります。
手水鉢には二羽の向き合って仲睦まじく並んだ鳩が刻まれています。

…ああ、そうか、八幡さまだから、な。
一見するとシンプルにみえますが、結構リアルに彫られた鳩で、羽もしっかりと彫り込んであり、しかも鳩の上部に松の枝まで描かれ、どうやら鳩は太い木の枝にいるよう描かれているようです。

こんなに見がいのある手水鉢も珍しいものかと思いました。

再び参道へと戻ります。
本当に明るくて気持ちの良い境内です。




No.219

春日部八幡神社さんの御由緒は、

【今から約八百年前、源頼朝が鎌倉に幕府をおいていた頃、粕壁の浜川戸に『春日部重実』という人がおり、大袋、大沢、桜井、新方、増林あたりを領地としていました。

この重実の子に実景、そしてこの実景の孫に『重行(春日部治部少輔時賢)』という人がいました。
彼は長い間、相州(現在の神奈川県)にある【鶴岡八幡宮】を敬信していて、しばしばの合戦にもその霊護を蒙ったので、遥拝(はるかに礼拝すること)のため鎌倉時代元弘年間(1330年代)に鶴岡八幡宮を模してこの八幡神社を造営したと伝えられており、森の一部は彼の館跡と言われています。

(春日部八幡神社 御由緒書きより)


えっ?
こ、このどこに新田義貞の名が?


『吾妻鏡』には文治元(1185)年の壇の浦の戦いで、甲斐前司実景(春日部)の名が記されています。
また元久ニ(1202)年の項で、『畠山重忠の乱』に応じて『北条時政』が『北条義時』に討伐の大手の大将を命じた時、「春日部などの者ども、皆鞭を揚ぐる」とあるといい、
前後の軍兵雲霧のごとくにして、山に列なり野に満つとの記述があります。
宝治元(1247)年の『三浦泰村』と『北条』との『宝治合戦』では、
実景と子息三人が三浦方で討死したと記されています。

実景の孫の重行は、建武三(1336)年の『新田義貞』の挙兵では南朝方で『足利尊氏』と戦い、春日部郷と上総国山辺南郡の地頭職を安堵され、治部少輔に叙任しています。


ええ、そうなんです。
この辺りを治めていた【春日部重実】公の孫【重行】公が、新田軍の武士であったのです。


えっ、それだけ?と思われるかもしれませんが、群馬県民のソウルかるた(?)『上毛かるた』で【れ 歴史に名高い新田義貞】とうたわれる名将の名を見出すだけでテンションが上がろうかというもので。

…ま、まぁ、私に至っては、稲村ヶ崎を歩いても、知らずに歩いていた子どもでありましたが、ね。


そしてこちら八幡神社さんを鎌倉の鶴岡八幡宮を模して造営した人物こそが春日部重行公と伝えられており、なによりここ、この八幡神社さんの森の一部は彼の館跡と言われているものであります。

うーん、歴史はこうして刻まれているのだなぁ。



 (菊の原種とされる野路菊)

No.218

埼玉県春日部市に御鎮座されます、【春日部八幡神社】さんに初めて参拝させていただきました。

春日部市と言ったら、…すみません、ご想像通り『クレヨンしんちゃん』しか思い浮かべられないようなおばさんです。

そんなおばさんでありますので、今回春日部の総鎮守【春日部八幡神社】さまにお詫びを申し上げに、…まぁそれが決してメインではありませんが…参拝させていただきました。

春日部八幡神社さんは、実は群馬県出身の武将『新田義貞』公とほんの少しだけ(ええ、本当にほんの少し、です。名前が出てくるか来ないかくらいの、ものであります。春日部市民の方がお読みになっておられたら、あるいはびっくりされるかもしれないくらいのご縁であります)縁のあるところであったようで、それを知って、群馬県のおばちゃんは俄然親近感を抱いたものでありました。

とはいえ、新田義貞公について詳しいかと言ったら、〝さっぱり〟でありまして、小学生の時分に行った修学旅行で訪れた鎌倉で、海岸を訪ね、ここに剣を投じた武将かいたという話しを聞いたものの、それが新田義貞公であったことを知ったのは、なんと子どもが生まれてからだったくらい。
子どもが例の『上毛かるた』を手にする頃となって、はじめて、
「♬七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎 名将の 剣投ぜし古戦場』
という歌に歌われる名将というのが、新田義貞公であったと知ったくらい、ぼーっと生きてきていた人間でありました。

…たぶんね、小学校の先生は教えておられたと思うんですよ。
ただ、今の子供達と違って、昔の修学旅行は全て受身。
資料も先生方が作り、下調べ学習も一切なしで、私の頭に入っていたのは、『持っていくもの、持って行ってはいけないもの、持っていくおやつの上限の金額』といったものでありましたし、修学旅行先の蘊蓄を語るような親でも、祖父でもなかったし。
海無し県群馬から修学旅行で砂浜に行った子どもが、ガイドさんや先生の話にどれだけ耳を傾けるかといったら、…まぁ、私は友達とはしゃいで、そうでなければ砂の感覚やら海風やらを楽しんでいた子どもでありました。

なので子どもたちが修学旅行で鎌倉に行く下調べ学習で一番学んだのは私だったかもしれません。


No.217

高校生になってすぐにアルバイトをし、その何回目かのバイト料で(一回目は家族一人一人にプレゼントをして終わってしまいました)【つる姫じゃ〜っ!】を買ったくらいに、好きでした。
(高校を卒業して大部屋である学生寮に入った際に、母の手により処分されてしまいましたが…涙)


そんな土田よしこ先生の、さらには大好きな東海道中膝栗毛という作品に、私が飛びつかないわけがありません。

今でこそ本棚の目立つところからは外れはしましたが、すぐ手に取れるところにあることは変わりません。


その訃報にふれたとき、絶句いたしました。
つる姫じゃ〜っ!の当時は、自分が小学生の低学年であったこともあり、子どもがよく思いがちな、『すでに社会に出て作品を残したり、テレビに出ている人は、大人、=自分よりかなりの年上、年配者である』という、誤った思い込みのせいで、かなり年上の方と思っておりましたが、まだまだお若い享年七十五歳であられたとか。

歳を重ねての作品もたくさんお書きになれたことかと、残念でありません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。



No.216

漫画家の土田よしこさんが十五日に死去されたことをSNSを通じて知りました。

わが家の子どもは、少なくとも土田よしこさんの絵だけは見たことがあります、あるはず、です。
なぜならば、本棚の結構目立つところに、彼女の作品の一つ、【東海道中膝栗毛】が並べられていたから、です。

そもそもが私、子どものころ、東海道中膝栗毛が大好きで、駄々をこね、父や祖父母とねだる先を変え、手を変えて、なんとか買ってもらった、初めてのマイブックだったくらいでありました。

私が子育てする頃には、こういった書が子ども向けとして発売されることが激減した頃で、ぜひ読んでほしい、読ませたいと思っていたところ、この作品と出会ったのでありました。

とは申せ、私が彼女の作品と出会ったのは小学生の頃。
姉の買っていた週刊少女まんがで、異色な画風、異色な内容として私の目を引き、いつしかその作品の主人公、ヒロインに惹かれてしまった私でありました。


型破りでしかないヒロインが『つる姫』さま。
そのタイトルはその名も【つるひめじゃ〜っ!】
ハゲマス城のお姫さま、つる姫さまは寺子屋小学校の5年生でありました。
小さい時に母を亡くされ、時々寂しい思いをしていました。
幼い時はかなり内気な性格だったが、幼い時の高熱の治療がもとで、姫君でありながらな、なんとも見事な『カッパ禿』になってしまい、性格も激変してしまいます。
繰り返しますが元は内気な、可愛らしい姫君であったのです。

ブスで(えっ?)、不潔で、ずうずうしく、周りに迷惑ばかりかけている、それがつる姫さまでありました。
いつも着ている着物は、井桁模様の寺子屋のテストはいつも0点ばかり。彼女の手料理を食べた者は下痢をしたし、裁縫をすると布は全て雑巾になるというなんとも破天荒な姫君でありますが、そもそもが、姫君であればさようなことはご自分でなさることもないはず、なので、まぁ別によいのでは?
城の誰かによくたかる。
夏休みの宿題は大抵終わっていない。
どこをどうとっても良い子ではない姫さまでありました。
そんな姫君、つる姫さまではありましたが、足袋を作って家老にプレゼントをしたり、家老の悪口を言った乳母(…だったかな?)のイネに意見したりする等、ほろっとする優しさを垣間見る、そんな大好きな作品の一つでありました。


No.215

氷川神社さんのホームページには御祭神 須佐之男命さまと稲田姫命さまの神話、【八岐大蛇退治】についても記されています。


『須佐之男命が出雲の国の簸の川の辺りにくると、娘が一人、年老いた両親と泣いていました。
娘の名前は稲田姫命。
親の名は大山祇命の子で、足摩乳命、手摩乳命といいました。
そこで須佐之男命が理由を聞くと、この山奥に八俣の大蛇という頭が八つもある怪物が住み、一年に一度この里にでてきては、娘を一人ずつ食べるというのです。
そのため八人もいた娘も、今では稲田姫命だけになってしまいました。
話を聞いた須佐之男命は、大蛇を退治することにし、まず、家の周囲に垣根をつくり、そこに八つの入り口をつけ、入り口ごとに強い酒を入れた大きな甕を置きました。
しばらくすると辺りが急に暗くなり、不気味な物音とともに、大蛇がやってきました。
それはそれは恐ろしい姿で、八つの頭にはギラギラと真っ赤な眼が気味悪く光っていました。
大蛇は甕をみるや、ガブガブと勢いよく酒を飲みはじめました。須佐之男命は大蛇にそっと忍びよると、次々と切り倒して見事退治しました。最後にシッポを切ったとき、りっぱな剣がでてきました。
須佐之男命は大蛇のシッポから出てきた剣を天照大御神さまに奉り、その後長く稲田姫命とこの地で暮らしました』


そう、あの八岐大蛇の退治により結ばれた神さま方であります。

拝殿・本殿のある境内の東門を出てすぐにあります摂社『門客人神社』には稲田姫命の御親神である『足摩乳命』さまと『手摩乳命』さまがお祀りされています。


No.214

埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社さんは、北海道から鹿児島まで約二百八十社ある『氷川神社』の総本社であります。
『荒川』の流域に多く御鎮座されているといいます。

第五代孝昭天皇の御代の創建と伝えられ、それは今から二千四百有余年となるといいます。
无邪志国造(むざしのくにのみやつこ)が祖神を祀って氏神としこちらを奉崇したのが始まりとされていますが、氷川神社さんの略記には、
『上代のことを詳かにすることは出来ませんが』と書かれています。

しかしながら大宮を中心に埼玉県、東京、神奈川等に広がる氷川神社は民族的政治的に武蔵国造の子孫が著しい発展をしたことを物語ると考えられるとも述べてもおります。

御祭神は
須佐之男命さま
稲田姫命さま
大己貴命さま

須佐之男命さまとその奥さま、そのお子さまのお一人大己貴命さま、でございます。


島根県の斐伊神社もしくは杵築神社(出雲大社)から勧請されたと伝えられており、
大宮の地に須佐之男命をお祀りした理由に、このようなお話がありました。
大宮の一帯は川が多く何度も氾濫したため、何本もの川をヤマタノオロチに例え、それを退治した須佐之男命をお祀りしたのだそうです。

「荒ぶる川」と書く荒川は、過去に幾度となく氾濫を繰り返した記録があり、氷川神社が荒川流域に多く点在するのは、このような背景があったのですね。


ちなみに、『氷川神社』という社名は、出雲平野を流れる『斐伊川(ひいかわ)』が由来といいます。


No.213

この日は、一月の参拝の折には御朱印をお授けいただいてもいただけなかった神社さんの〝略記〟のほか、社報もいただくことができました。

その社報のなかに、興味深い記事がありました。

それは関東大震災の折の氷川神社さんの被害状況でありました。
関東大震災からちょうど百年ということで取り扱われた記事でありましょう。


『当社においては、石造の明神鳥居であった一の鳥居が損壊したため撤去、また手水舎が倒壊、神橋が破損するなどの被害がありました。

参道入り口は十年ほど鳥居がありませんでしたが、昭和九年に三の鳥居が奉納された事から、それまで三の鳥居であった鳥居を移築し一の鳥居としました。
尚、この時の一の鳥居は老朽化が進んだため、昭和三十年に新しく建て替えられました。
神橋は全体が大きく歪み、橋と石垣の間にできた隙間に応急処置を施しました。
現在の神橋は昭和初期に架けられたものです。』

(氷川神社社報 武蔵一宮 より)


うーん、やっぱり次に来るときは、一の鳥居から、だな。
そこから二キロ、往復四キロ以上。

ウォーキング、始めようかしら。

No.212

鳥居をくぐることも、目の前に見える神橋に人の波に隔てられて、手を伸ばせば届きそうな距離とも思える距離なのに到達することも叶わなかった一月献詠祭の日。

あの日のを思うと感慨もひとしおです。赤い橋の上には澄んだ青い空が広がっています。

美しい朱色の橋の下に広がるのは『神池』。
ここにはなんと龍神さまが棲んでおられると言われているのです。


昔、氷川神社周辺は『見沼』という巨大な沼でした。
もともと氷川神社は、見沼の水神さまをお祀りしていたという説があります。

神池はその見沼の一部。
見沼には多くの龍伝説が残っているといいます。

龍神さまはいずこかに…、そう思って見た水面には青い空と白い雲、神社境内の木々の葉か映っていました。
こんな小さな沼だというのに。

龍神さまは水に住みながらにして、雲のまに間を渡っておられるのだなぁ。

そんな思いに浸りながら、初参拝の際に渡れなかった分を取り戻すようにゆっくりと歩いて…。
あの日その大きさに驚いた朱色の楼門が近くに見えてまいりました。
ああ、やっぱり大きな、そしてなんと美しい。
朱色によく合う緑がかった大きな瓦屋根が葺かれています。
青い空がなんと似合うこと♡

あの日は全体像を見ることも叶わなかったくらい、人、人、人の波、だったなぁ。

今日は手水舎も水を使うことができます。


いざ。

「こんなに広かったんだね」
と夫。

えっ?

こんなに狭かったんだと思った私。
人があんなにいたものだから、もっともっと広いと思っていましたが、楼門から真っ直ぐの舞殿、そして拝殿との距離って、こんなに近いものだったんだ。

そして、なんと心地よい空間でありましょう。そしてなにより、知らず知らずに襟を正すような、お力を感じる拝殿前、でありました。

No.211

しかし、まずは拝殿・本殿へ。


…いつもそう自らを律して真っ直ぐ拝殿へと向かうのですが、この日、どうしても心惹かれる摂社がありました。
それは奉納酒樽の並びにある、赤い鳥居と赤いお社でありました。
赤いから目を引いたのではありません。
なぜなら小道を挟んではいるもののその並びにも赤いお社があるからです。

気になって気になって、なかなか歩が進められません。

ならば。

ならばいっそ、そのお社の前に立とう。
立ってまずは拝殿・本殿にお参りしてくる旨お伝えして、参拝せず前を通ることをお詫び申し上げよう。


その気になってしかたなかったお社とは…。
『天津神社 少彦名命』さんと書かれています。


…少彦名命さまであられましたか。
なるほど気になってしかたないはずです。
私が子どもの時分から好きな神さまにございます。

心のうちで
「いつもお守りくださりありがとうございます。これよりまず拝殿へとお参りさせていただきます。お参りせず御前を通りますことお許しください」
と申し上げると、すっと心が軽くなり、天津神社さんの前を通ら先へと進むことができました。

あ、れ…?
あれぇ?
『少彦名命さま』ぁ?

たしか…。
たしか拝殿・本殿のある境内を向かって左手にあります門を抜けますと、やはり少彦名命さまをお祀りしたお社があったはず…。

同じ神社さんの境内内に比較的大きめな摂社末社さんとして同じ神さまをお祀りすることがあるんだぁ。があるんだぁ…。


さあ、いよいよ。
…いよいよ前回渡ることが叶わなかった神橋です。

No.210

先日、埼玉県さいたま市大宮区に鎮座されます【大宮氷川神社】さんへ再拝させていただきました。

この日は日曜日とはいえ、前回の初めての参拝のときのようにお正月の献詠祭にあたる十五日といった特別な日でもなく、また、祭儀の執り行われる日でもないため、行きたい方向へ向かうこともままならないようなことはなく、何よりスムーズに神社さんの駐車場に駐車することもできました。

とはいえ、広大な境内は約三万坪、一の鳥居からは約二キロあるという氷川神社さん。
さすがに一の鳥居をくぐって、…というわけにもいかず、車を停めた駐車場からほど近い三の鳥居からの参拝となりました。

明治天皇と氷川神社御親祭の長い長い年表が立て看板となっています。


三の鳥居をくぐると。
ひだりに戦艦武蔵の碑があります。

戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦であり、こちらの氷川神社さんは武蔵国一之宮。
船にはなぜか山の名前、…なのか神社さんの名前なのか…が使われています。

昭和十七年に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社さんより六名の神職が出向し、式が厳しく執り行われたのだといいます。
艦内神社には『氷川神社』さんが分祀され【武蔵神社】と命名されています。

昭和十九年「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指しました。
武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に受けて、十一月シブヤン海に没したといいます。

同作戦により戦艦武蔵の乗員1039名が戦死、生存者1329名もマニラ防衛戦等に投入され最終的に祖国の土を踏めた者は430余名と言われています。

この碑は戦艦武蔵で亡くなられた方々の鎮魂慰霊の意味があるといいます。


大きなさざれ石があります。


右側には向かって額殿・神楽殿があります。
あれ?
たしか、楼門をくぐってすぐに舞殿もあったはず。
大きな神社さん神楽殿と舞殿は別物、のですね。

そして額殿の隣りには奉納酒樽が三段に積まれ飾られています。さらにはその奉納された埼玉県内の酒蔵の場所を示したマップまでも。
消毒用のアルコールと、料理酒以外のお酒を全て愛する夫がまじまじと眺めています。

そんなおのぼりさんたちがぽーっと歩いていると、おお、摂社・末社があちこちにございます。


その一社一社の大きなこと。



No.209

今日も午前中から三十℃超え。
そんな中、生垣の刈り込みをしていると、前を通りかかる方々からお声がけをいただきます。

「暑い中えらいねぇ。自分ちだってえらいよぉ〜。
熱中症には気をつけてね」
「マメだよねぇ、いつもきれい」
「おっ、やってるね。…かぼちゃいる?今採ってきたんだけど、九個もあるから」

…等々。

八人もの方が足を止め、車を停めてお声をかけてくださいました。

ありがたいことです。
自分の家の生垣ですので、決して誰かのためにとかいう高尚な行いではないのですのに。

コロナ前は、こうして声をかけ合って、人と人がさりげないふれあいをしてきたものでありました。

そうそう、末娘の同級生の男の子も車で通りかかって深いお辞儀をしていきました。


嬉しいこと♡
本当に嬉しい。


今、コロナはエリスという新たな株で、大きな大きな広がりを見せているようです。
この暑さの中、インフルエンザも流行しているようで、あちこちの学校で、さまざまな年齢層で、学級閉鎖がなされているといいます。


感染は嫌です。

でも、この人と人との繋がりは、もう途切れさせたくはない。


コロナという病を知ったあの時から、毎日毎日お薬師様のご真言をお唱えして、コロナの終息を祈願しております。
今日も、仏壇もどきに向かってお唱えした私であります。





No.208

鬼形のお姿をネットで調べておりましたところ、リアルな毛髪のある鬼子母神さまの御像があるようです。

お写真で拝見してもかなり怖く思えた私。
お堂の覗きというあまりお行儀の良くない癖のあるおばさんであります私、なにも知らずに薄暗いお堂の中
、この鬼子母神さまの御像を拝見したりしたら…。


考えただけでも背筋がぞぉっとし、思わず身震いいたします。


とりあえず、このリアル毛髪の鬼子母神さまのおられますお寺さんはしかと記憶いたしましたので、この鬼子母神像のあるお寺さんを訪れる機会を得ましたら、とりあえず…とりあえず、…どうしよう。

拝見したいような、やめておきたいような。


うーん。


とりあえず、夫にも教えておこう。

なにも知らずに覗いて夫が腰を抜かしても困るし、…私が忘れてしまっていたら教えてもらえるし。


困るのは…。
二人ともすっかり忘れてお堂を覗くこと、だなぁ。





追記)
まだまだ暑い今日、いつもいつものわけのわからない文章がありましたため、とりあえず気づいたところだけ直して一レス削除しております。

一度お目汚しをされてしまわれた方には誠に申し訳なく、お詫び申し上げます。

ほんとーうに、本当にいつもいつも誤字脱字、誤表記、誤表現、等々ばかりで申し訳ありません。




 (咲き始めた萩の花)

No.207

初めて拝見した鬼子母神さまの像は、鬼の頃の御像。
その後は女神の御像を拝することがほとんどでありました。

通常は幼子を抱く女神の姿で表現されることが多いといいます。

これは、改心され三法に帰依し、法華経の守護神となり、さらには母性と子供の保護という役割によりこのお姿をとられることが多いということなのだと思います。

しかしながら初めて拝見したときの鬼形のインパクトが強かったこともあり、なんとなく女神のお姿をされた鬼子母神像に違和感を覚えることは否めません。

鬼子母神さまの具体的な信仰形態や表現は、地域や宗派によって異なることがあるといいます。
それゆえ、同じ鬼子母神さまでも、地域や寺院によっては、さまざまな形やイメージで表現されることがあるようです。

一般的には、女神形か、鬼形の表現であるといいます。


改心される前であっても鬼子母神さまの我が子に対する愛情は深いものであり、優しく幼子を胸に抱く姿の鬼子母神さまの御像であっても、そこはそのままのお姿であるのかもしれません。

一方、鬼形、鬼の姿であられたとしてもそれは法華信仰者を守り、法華経の普及を妨げる者を罰するということから考えれば、恐いお姿であってもよいのかもしれません。

そして、大切なわが子を守ってくださる御仏、鬼子母神さまのお姿が恐いものであっても、そこは悪しき者から全力で守ってくださるにはその方が迫力があって、そういった意味では安心してお任せできる、…という考え方もありましょう。


私はまだ参拝をさせていただいたことはないのですが、群馬県のある地域には、七歳になるまで鬼子母神さまに子どもを預ける、という信仰があるといいます。

そのお寺さんをまだ一度も訪れていないため、どういった風習で、どのように行われるものなのかはわからないのですが…。


そのお寺さんは鬼子母神信仰が大変盛んなようで、鬼子母神さまの大祭には大勢の参拝者が訪れるといいます。


うーん。

…もうすでに子育ては終わったおばさんではありますが、…できたらこの大祭の日にこちらのお寺さんに参拝させていただきたいなぁ。

No.205

『恐れ入谷の鬼子母神』
という言葉を聞いたことがあるという方も、今はもう少なくなっていますでしょうか。
わが家の子どもたちに聞いても〝知らない〟と言われそうです。
私とて知っているというだけで、使ったことはもちろんありませんし、実際このフレーズを口にされるのを直接は聞いたことがないくらいです。

そもそもがこの言い回しを使う機会があろうとも思えず、ただ耳に残っていただけですので、この言葉自体にあまり関心が無く、文字で表すと〝入谷〟となることなどもそういった文を読んで初めて知ることとなったくらい、非日常の言葉ではあります。


こういった節回しを持つ駄洒落(だじゃれ)を地口(じぐち)というのだといいます。

落語で話の終わりを駄洒落で締めるのを『地口落ち』というのだとか。

この『恐れ入谷の鬼子母神』の場合、「恐れ入りました」の「入る」を東京台東区の『入谷』に掛け、『入谷』にある【真源寺】さんの『鬼子母神』に掛けた洒落言葉、地口であります。

これに似た節回しの言葉で思い出すものが『あたり前田のクラッカー』。
直接テレビCMを観た記憶はありませんが、これは実際に使っているシーンを見たことが幾度となくあり、先日も某テレビ番組で、実際の商品を紹介し、この言葉を取りあげていました。


閑話休題。


関東には特に有名な鬼子母神を祀るお寺さんが三つあり、これらは【江戸三大鬼子母神】と呼ばれ、多くの人々が参拝に訪れるといいます。


その一つが東京台東区の入谷にある『真源寺』さんの鬼子母神さまであり、
東京豊島区雑司ヶ谷の『法名寺』さんの境外堂の鬼子母神さま、
千葉下総中山の『法華経寺』の鬼子母神さまとなります。

…おや?
江戸といいながら、その一つは千葉なんだ。
と思いましたら、江戸時代には本所(現 梅里)本佛寺さんであったとか。
いずれにしても、私、このどちらにも参拝したことがございませんが…。

ただこのどちらのお寺さんも法華経であったり、日蓮宗であったりと、鬼子母神さまと関わりのあるお寺さんであるのだなぁと思いました。

私が群馬県で鬼子母神さまをお祀りしているお寺さんを思い浮かべてみたところ、そこは臨済宗の建長寺派のお寺さんでありましたので。
まぁ、迂闊な私のこと、他にもたくさんお祀りされておられるお寺さんがあったのかもしれません。

No.204

そんな子沢山である鬼子母神さま。
鬼子母神さまのお子さんの中には【吉祥天】さまがおられます。
あの【毘沙門天】さまの奥さまとなられた女神さまであります。
また、お釈迦さまによりその身を隠された末のお子さんは【氷掲羅天】さまといわれるお方で、優しげな鬼子母神さまの御像の腕に抱かれているのがこの氷掲羅天童子さまであります。

吉祥天さまとは、姉と弟の関係になります。
氷掲羅天さまはよその子供を浚ってきては食べていた母、鬼子母神の罪を償うため、救いを求めてくる人には、限りないご利益を与えてくれるといわれている御仏…神となられました。

氷掲羅天童子さまの像は全国でも大変数が少ないといわれ、その貴重な一体が栃木県足利市の大岩山毘沙門天さまにおられます。

優しげな、女の方にしか見えないような美しいお顔をされた氷掲羅天さまの御像であります。
右手に柘榴の実をお持ちになられていることでも珍しい御像です。

それにしても。
いつもこの話題になりますと、なんともいえない切ない気持ちになります。
なんの罪もない、鬼子母神の子であるというだけで、その罪を一身に受けて、一生かけて母の罪を償うということに。

私は氷掲羅天童子さまを思うたび、氷掲羅天童子さまの心が救われますよう祈ってしまいます。
氷掲羅天童子さまは、仏教においての神さまであるといいますのに。


母は、親というものは、子に誇られるような者ではなくとも、決してその罪を償うような立場にしてはならないという、身の引き締まるような教えがそこにあります。

No.203

そして、人肉を食べないことを約束する代わりとして差し出されたのが吉祥果(ザクロの実)であったことから、吉祥果を手にする姿が描かれるようになったともいわれています。


鬼子母神は、自分の欲望や執着を捨てて、真の愛に目覚めた女神となり、さらに、子供と安産の守り神として、多くの人々から信仰されるようになりました。

この神は日本にも伝わり、法華経の守護神として日蓮宗や法華宗の寺院で祀られることが多くなりました。

日蓮宗では、鬼子母神は十羅刹女と共に法華信仰者を守り、法華経の普及を妨げる者を罰することを誓っているとされています。



名前も鬼子母神と改め、仏教の守護神に転じました。

以降、大乗仏教の初期に成立したとされる法華経の信者の擁護や、
布教を妨げる者を処罰する役割を、
十柱の鬼神である『十羅刹女(じゅうらせつにょ)』とともに与えられたといいます。

鬼子母神さまを信仰する者、全ての人間がもれなく救済されると言いながらも、信じる者には優しいが、そうでないものには制裁を加えるという、恐ろしい神さまでもあるのです。


お釈迦さまが彼女の最も愛する末子を隠すという策を用いて、彼女に人間の親の苦しみを理解させました。

これによりは改心し、釈迦さまの教えを受け入れ、仏法の守護神となりました。

鬼子母神さまは、自分の欲望や執着を捨てて、真の愛に目覚めた女神となったのです。


煩悩の塊である私。
そんな私がそう簡単に欲望や執着を捨てられるともあまり思えていないのですが、心から悔い改めれば欲望や執着を捨てることができるのだ、という希望はありがたいものであります。
心から悔い改めれば、人を喰らっていた鬼ですら、対極にある立場の神になる。


残りの人生、いくらでもやり直しがきくのだと思えるではないですか。

鬼子母神さまはそんな希望でもあり、
わが子のことを溺愛していた女性も、わが子から離れて修行をし神となったことも私のひとすじの希望であります。

No.202

「いくつになっても子どもは子ども」

いくつになっても親は子どものことを心配するのだと…思うのであります。
それが私はちょっと強い、いつまで経っても子離れできていない母親な気がいたします。

そんなお母さんが増えているともネットで読んだりもいたしますが、さすがにいつまでもこれでは良くないと思う思いもあり、どうにかせねばと思ったり。

そんなことを思いながら、ふとある神さまが頭に浮かび、それがどんどん心の中で大きく大きくなってまいりました。

その神さまのお名前は…。
【鬼子母神】さま。


鬼子母神さまは仏教の守護神で、子授けや安産、子育ての神として知られています。

しかしながら鬼子母神さま、元々は人間の子を食べるという鬼でありました。お釈迦様に諭されて改心し、仏法の守護神となったという経緯のある神さまであります。

鬼子母神さまは、もともとは古代インド神話に登場する悪鬼で、元の名は可梨帝母(ハーリーティ)といいます。
王舎城(おうしゃじょう)の夜叉(やしゃ)神の娘で、八大夜叉大将の一人である散支夜叉(パンチカ)の妻でありました。
夜叉といえば、鬼神の総称。阿修羅と言われることもある他、金剛力士の元の姿であったということをも合わせて鑑みれば、とても恐ろしい存在であったことが想像できましょう。

この可梨帝母がパンチカと結婚した後、五百人とも千人ともいわれるほど多くの子供を産んだといいます。

そして、当然ながらこれだけの子供を自らのお乳で育てるとなると、想像を絶するほどの栄養が必要であります。
そのためかどうか、可梨帝母は多くの人、それも子供をを殺して食べたという、悪鬼の権現のような存在で人々から恐れられていました。

これを危惧されたのがお釈迦さまでありました。
お釈迦さまは彼女の末子である嬪加羅(ピンガラ)を托鉢に使う鉢の中に隠してしまわれます。

大切な大切なわが子の姿が忽然と消えて、七日間にわたって世界中を半狂乱になって探し回るも見つからず、放心する可梨帝母を見て、頃合い良しとばかりに、お釈迦さまが優しく語りかけたといいます。
「多くの子を持ちながらも、ただ一人の子を失うだけで嘆き悲しむお前、子を失う親の苦しみをわかったであろう」
涙ながらに頷き、可梨帝母は自らの罪を悔い、三法に帰依したことで、隠されていた子も無事元に戻った…というお話であります。

No.201

備後国風土記に牛頭天王にまつわる話として有名なものが書かれています。

武塔神(むとうしん・むとうのかみ)(=牛頭天王・素戔嗚尊)がお忍びで旅に出た際、いかにも裕福な家に宿を請うたところ断られてしまいます。
それが〝巨旦将来〟という人物の家でありました。
しかし貧しい兄である〝蘇民将来〟は武塔神を丁重にもてなしました。

恩義を感じた武塔神は正体を明かし、今後災害や疫病が流行ることがあれば、蘇民将来の子孫であることを明らかにし腰に茅の輪をつけると災厄から逃れることができると伝えたという、茅の輪くぐりや疫病除けの祭の起源となった、あの、『蘇民将来』の話であります。

牛頭天王は素戔嗚尊さまと同一視されており、京都の祇園祭や岩手の蘇民祭が有名でありますが、いずれも疫病除けの祭であります。


疫病などの災厄は人間を超えた存在によってもたらされるととらえられてきました。
如何ともしがたい絶望的な状況に置かれても、それを耐え忍び、未来に向けて、希望の光に向かって一歩一歩進んできた…それが長い歴史の中人類が歩んできた道でありました。

今、コロナ禍と呼ばれる時代となって、社会の歪みが表面化し、ニンゲンの汚い部分が表出している時代となっています。
困難ゆえのあきらめも出ているのが現実で。
これこそが本当の〝禍〟なのではないかと常々思うのでありました。


『禍福は糾える縄の如し』
『禍も三年経てば用に立つ』
【禍転じて福と為す』
などという慣用句があります。
ことに若い世代の方には困難ゆえのあきらめの心に負けずしたたかに耐え忍び、やがて来る春を楽しんで過ごして欲しいと、切に思うおばさんでありました。


No.200

恨み深き新型コロナウイルス感染症。
いつからか〝コロナ禍〟と呼ばれるようになり、私のスマホなどは〝コロナ〟と入れただけで〝禍〟の字が予測変換して出てくるくらい。

が。
そもそも〝禍〟って…なに?

〝禍〟という字の語源は、祭壇や神さまを表す『示・ネ』に骨の関節のくぼみを表す『咼』が組み合わさった文字だということだ。
これは『神のたたりを受け、思わぬ穴に入り込む』という意味を持つといい、つまり〝禍〟とは『神さまが与える罰』のことを意味するといいます。

語源からもわかるように、人は人智を超えた悪しき現象を、神や悪魔の力によるものであると捉えてきたのであります。

中世ヨーロッパにおける魔女裁判。
これは社会になんらかの災厄が生じた際、その原因を悪魔のせいであるとし、悪魔の使いとみなされた女性たちが魔女として処罰することによって解決を図ろうとした典型的な例であろう。

日本においても、【禍津日神(まがつひのかみ)】などが災厄をもたらす神々が存在し、それを祀る神社も全国各地に見ることができます。

その中でも最も有名な存在が【牛頭天王】でありましょうか。
牛頭天王は日本においては疫病をもたらす存在でありその霊力が強大であるがゆえに、逆に丁重にお祀りすれば災厄を防いでくださるそんざいであると考えられました。

No.199

菊といえば『晩秋の花』という印象です。
お彼岸の頃に咲いてくれれば、お墓にお供えできるのに…などと毎年毎年思うおばさん。
しかしながら旧暦の九月九日であれば新暦の十月中頃、まさに菊の美しい季節であります。

この重陽の節句のころは農繁期であることや、新暦に替わって季節感が合わなくなったことから次第に廃れ、収穫祭に吸収されたりしましたが、寿命を延ばすと信じられていた菊を使い、さまざまな風習が伝えられています。

この重陽の節句、「お九日(くんち)」と呼ばれて親しまれている地域があるといいます。

あ、〝くんち〟、聞いたことがあります。
そうそう「長崎くんち」。
長崎くんち、唐津くんちはその名残で、新暦の十月に開催されているようです。


重陽の節句の前日に菊の花に綿をかぶせておき、翌朝、菊の露や香りを含んだ綿で身体を清めると長生きできるとされていました。


また、重陽の節句には、「後の雛」という風習もあるといいます。
『桃の節句(雛祭り)』で飾った雛人形を、半年後の重陽の節句で虫干しを兼ねて再び飾り、健康、長寿、厄除けなどを願う風習で、江戸時代に流行したといいます。

秋に菊とともに雛人形を飾るので、別名『秋の雛』『菊雛』とも呼ばれるといいます。
最近は、”大人のひな祭り”として女子会などを楽しむ方もいるのだとか。

うーん、さすがにそれは面倒くさいかな。
というか、こんな秋の頃にお雛さまを飾ったりしたら…夫にもの忘れ外来の予約を入れられそう。


まぁ、いずれにしても、この時期、少なくともわが家の庭の菊はつぼみすら持っておらず、新暦の九月に菊の節句を祝うことは菊の花を買ってくる以外むずかしい。

この台風の雨風の中、わざわざ菊を買いには行かないかな。

重陽の節句(菊の節句)の楽しみ方として、菊酒・菊湯・菊枕・菊合わせ・茱萸嚢(しゅゆのう)などがあるといいます。

■菊湯
湯船に菊を浮かべて入ります。

■菊枕
菊を詰めた枕で眠り、菊の香りで邪気を祓うものといいます。
今年菊のポプリでも作ってみようかしら。

■菊合わせ
菊を持ち寄って優劣を競うもの。
たしかに菊の時期になると、菊まつりや菊人形展が各地で開催されます。

■茱萸嚢(しゅゆのう)
呉茱萸(ごしゅゆ)というものの実を緋色の袋に納めたもので、身に着けたり、飾ったりし厄除けをするのだといいます。

No.198

ああ、明日は【重陽の節句】だなぁ。

などとぼんやりと考えていて、はたと気づいたことが。
…昨日って結婚記念日だったぞ。

まぁ、もはや何年経ったかもわからないくらいなので、思い出せただけでも良しとしようか…などと言ってはいけない、いけない。
自分に足りないのは夫への感謝の念。
せめて一年に何回かくらいは(おい!)、夫への感謝を口にする日を設けなくてはいけません。

それにしても結婚記念日よりも重陽の節句が先に頭に浮かぶ辺りがもはや老域、とでも申しましょうか。

しかも『重陽』といって思い浮かぶのが、『雨月物語』の『菊花の約(ちぎり)』という辺りがなんともいえない。


というわけで九月九日は、五節句のひとつ【重陽の節句】。菊を用いて不老長寿を願うことから別名『菊の節句』ともいわれます。

五節句とは、江戸時代に定められた5つの式日(今でいう祝日)をいいます。
1月7日 人日の節句(七草粥)
3月3日 上巳の節句(桃の節句/雛祭り)
5月5日 端午の節句
7月7日 七夕の節句
9月9日 重陽の節句


古来、奇数は縁起の良い陽数、偶数は縁起の悪い陰数と考え、その奇数が連なる日をお祝いしたのが五節句の始まりで、めでたい反面悪いことにも転じやすいと考え、お祝いとともに厄祓いをしていたといいます。

中でも一番大きな陽数〝九〟が重なる九月九日を、陽が重なると書いて「重陽の節句」と定め、不老長寿や繁栄を願う行事をしてきました。
今では五節句の中でも影が薄くなりましたが、五節句を締めくくる行事として、昔は最も盛んだったといわれています。

古来、菊は薬草としても用いられ、延寿の力があるとされてきました。
菊のおかげで少年のまま七百年も生きたという『菊慈童(きくじどう)』伝説などがあります。
また、菊は他の花に比べて花期も長く、日本の国を象徴する花としても親しまれています。
…仏花の代表格でもありますか。

重陽の節句は中国由来の行事で、日本では平安時代ごろに貴族の宮中行事として取り入れられたといわれます。
中国から伝来したばかりの珍しい菊を眺めながら宴を催し、菊を用いて厄祓いや長寿祈願をしたといいます。

…たしか連続テレビ小説『らんまん』で菊の原種が扱われた章がありました。
なるほど、菊の原種が日本に来たのはこのころのこと、だったのですね。






No.197

…ビビりなおばさん、群馬県目指してやってきている台風情報が怖くて、テレビがつけられずにおります。
ビビりだからこそ観ておかなくてはならないのは重々承知してはいるのですが。


スズムシの鳴く音で始まった朝は、台風が来ることを伝えてるんだよな。

いつもは台風対策とかに口だけ出して手は出さない夫が何かしていたからだ!

今日も未熟なおばさんのつぶやきであります。

No.196

古墳に神社仏閣が建てられてきたことを、群馬県でもたびたび目にしてきましたが、なんとあの世界遺産・【法隆寺】さん(奈良県斑鳩町)の参道脇の観光バス用の駐車場にある円形の植え込みが、六世紀後半につくられた古墳だったことが、同町教育委員会と奈良大学の発掘調査で確認されたといいます。

内部からは横穴式石室が見つかったといい、石が抜き取られていたことから、寺の建設などに利用された可能性もあるといいます。



しかしながら、何故今ごろ?

植え込みは直径約8・5メートル、高さ約1・5メートル。
駐車場の隅にあるものといい、調査前は樹木に覆われ、裾は石垣で囲まれているものだといい、一見すると普通の植え込みにしか見えなかったといいます。

ただ、地元には『クスノキの舟』が出土したとの言い伝えがあり、町の教育委員会は木棺が埋葬されていた可能性があるとして「舟塚古墳」と呼んでいたが、本当に古墳かどうかは確認はされていなかったのだといいます。

…言い伝えだけで、本当に古墳かどうか確認しないで町の教育委員会が〝古墳〟と呼んでいた?
そんなことってある?
…ま、まぁ、あったんでしょうね、新聞記事ですから。


『…町教委と豊島直博教授(考古学)が率いる奈良大文化財学科の学生らが2022年春、測量と実態解明のための発掘調査を実施。その結果、石室の石材や土器が出土し、古墳である可能性が高まった。今年2~3月の調査で横穴式石室が見つかり、8月から内部を発掘していた。

石室は全長約3・8メートル、幅約1・6メートル。壁の石積みは1メートル前後の高さが残っていたが、天井石は抜き取られ、入り口から延びる幅約1・2メートルの羨道(せんどう)(通路)は失われていた。床からは鉄刀2本や矢じり、馬具、琥珀の玉、須恵器など、多数の副葬品が出土した。』


(朝日新聞より一部抜粋)


まぁ、神社仏閣あるあるではありますが、〝国宝〟というところと、いかにもごくごく普通の植え込みにしか見えなかったところからの発掘ということで話題になったのでありましょうが。
ちなみにいつこのような植え込みの形になったかは不明なようです。


法隆寺さんだと、さもあらんと不思議にも思えず、むしろ隠された謎があるのではないかと…昨今のテレビ番組にすっかり毒されているおばさんでありました。

No.195

ここ二日ほど、群馬県は嵐のような天候に見舞われております。
また台風十三号が関東を直撃するとの予報が出ていたり。

こんなとき神さま、仏さまを頼りたくなるおばさん。
長いこと神社仏閣に関わることなく生きてきたくせに全くもって図々しい。


…はて。
天候を司る神さまや仏さまって…。

日本は八百万の神々が得意分野を持ち、役割分担して様々な事物・自然などを司っておられます。

「気象」を司る神さまというと、その名も【気象神社】にお祀られている【八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)】さま。

思兼命さまは、天照大神さまが天の岩戸に引きこもって世界が暗闇に覆われてしまった時に、知恵をしぼって作戦を練り、他の神々と力を合わせて日の光を引き出すことが出来たことから、『気象の神さま』という事らしいです。

気象神社は、昭和十九(1944)年、大日本帝国陸軍の陸軍気象部(東京都杉並区)の構内に造営されたのが始まりといわれます。
軍にとって気象条件は戦略・作戦を講じるのに大切な要素であり、もちろん科学的根拠に基づいた予報がされていましたが、
予報的中を祈願するなど、気象観測員の心のよりどころとされていたといいます。

その後、戦後の神道指令で撤去される

それで八意(やごころ)とは、
雷、風、霜、霧、曇、雨、晴れ、雪の八つの気象条件を司っている事を意味するそうです。


知恵の神であり、天候をも司るという八意思兼さま。
埼玉県秩父市の秩父神社さんの主祭神のお一柱でもあります。


…どうかこの地球をお守りください。



No.194

今日はほぼ二ヶ月ぶりの握り仏を彫るご指導をいただく日でありました。

普通は遅くとも多少なりとも進歩するもの、でありましょうが、私の場合、退化しているのではないかと思われるくらいでありまして。

一ヶ月遅れで入られた方は、お若いこともあり、早くもお顔を彫らんとしており、私はといえばまだ腕の彫り方がわからないとそこで停滞している始末。

それでも。
一体だけ、あとはお顔を彫るだけ、というところまで作ってあり、先生にそれを見ていただきました。

「うん、大丈夫。しっかり彫れているよ」

今のまでお見せしてきたものはどこかしら失敗したところのあるものばかりだったし、先生にお見せしていない失敗作もあるくらいです。

その日彫ったところを元に戻すべく全て削られたことが、実に二回もあったくらいです。


えっ。
ほ、本当に?


あとは顔だけ、というところまで私が彫った木像を、彫刻刀を細かに動かして、先生がお不動さまのお顔を彫ってくださったではないですか!

その繊細なこと。
ため息しかでません。


私もいつかこんなふうに彫れる日が来るかなぁ。

No.193

【正五九参り】の時期となりました。

正五九参りとは、忌み月とされていた正月・五月・九月に寺社へ参拝し、厄災を祓い清めたり、参拝させていただいた寺社におられる神さまや御仏とより強いご縁を結んでいただける、といったもののようです。

今の時点、いつも朔日参りをさせていただいております、地元の総鎮守さまへお参りさせていただいただけであります。

最近、珍道中ペアは考え方にすれ違いが見られ、夫はまだ参拝させていただいていない神社仏閣にお参りしたいと考え、私はというといつもお参りさせていただいている神社さんやお寺さんに詣でることや、以前お参りしてまた再拝させていただきたいなと思ったところへお参りしたいと考えており。

新たなところに、というと、運転技術もさながら、致命的ともいえる方向音痴で地図も読めない私は、なかなか運転手を務める自信がなくて、ついつい夫に頼ることとなります。
いつもいつもですと、夫婦といえども不公平感を感じ、申し訳ないと(ひそかに)思うものであります。

また夫は事前に計画を立てておくことをしないで、前日、あるいは当日になって
「どこからへ行こう」
というタイプでありまして。
彼には彼なりにいくつか行きたいところのピックアップがされていて、そこへ行くには…という計画は立ててあるらしいのですが、私はその計画を立てる段階から話して欲しいタイプでありまして。

前日、ならともかくも、当日、彼がいつもよりも遅く起きてそう言われても、行けるところは限られてしまうわけで。
私からも行きたい所はそれこそいくつも伝えてありますし、そこからの消去法で当日行き先を決めるというのがなんとも嫌で…。

神社仏閣に限らず、です。


その割にはいつも天気の週間予報などは綿密にチェックしているようで、だったら
「今度の週末は天気も良いようだし、〇〇へ行きたいと思うのだけれど」とか、
「行きたいところがあるのだけれど」とか言えないものなのかと思うわけです。

先日も九時過ぎてから
「じゃあ日光にでも行こうか」
と言われて、内心(だったらもっと早くから家を出たかったよ)と思った私。


このガソリン代高騰の折、一人で行くにはちょっと気が引ける、無職のおばさん。
ずっとずっと行きたかった日光とあれば、もっと早くから家を出て、あれこれしたいこと行きたいところもあったというのに。



No.192

『群馬県は、竜巻などの激しい突風が発生しやすい気象状況になっています。空の様子に注意してください。雷や急な風の変化など積乱雲が近づく兆しがある場合には、頑丈な建物内に移動するなど、安全確保に努めてください。落雷、ひょう、急な強い雨にも注意してください』


…雷はすごい、雨は洗車機レベル、
風が強くて激しく雨粒を叩きつけるような感じが一時間くらい。

でもまだこの辺はそのくらいで。

仕事から帰った息子によると帰路、ほぼ、ほとんど冠水していたと。
映像がすごかった。



No.191

今日も群馬県勢がランキング上位を占めていますのは、決してありがたくない本日の気温ランキング。
桐生市が37.4 ℃で全国一位。
続く二位も群馬県伊勢崎市の37.3℃。
三位に長野県上田市が入って、四位が群馬県前橋市。

暦の上ではすでに秋。
この八日には『白露』、野草に白露の宿るころという意味なはず…。
…なんですが、いまだに庭に置いたホースからは程よい湯温のお湯が出て、夕方には草花が暑さと土の渇きで息も絶え絶えな日々。

台風もまた発生しており、昨日はテレビの速報で、栃木県で記録的短時間大雨情報が出されているという発表がありました。

もともと九月は日本で最も雨の多い時期ですが、ここ近年の降り方はまさに災害レベル。
その原因は私たち人間によってもたらされたもの、ではあるのではありますが…。

ことに戦争が今、空と海と大地を、空間的にも時間的にも壊滅的に汚染しています。


弘法大師さまのお言葉に
『仏法遥かにあらず。心中にして即ち近し』
というものがあります。
自らの内なる仏、ととる意味もあるようですが、人間は仏さまの一部という解釈もあるようです。
生かされている、ということでしょうか。

…人として生きることをゆるされ、この世で修行している、ということでしょうか。


うーん。


明恵さんという方は
『人は常に浄玻璃の鏡に日夜の振る舞いの映ることを思うべし』
とおっしゃっておられます。

そ、そうだった。



彼の国は、仏教国ではなかったな。


No.190

関東大震災で亡くなられた方・行方不明の方は十万五千人のうち、九割弱の約九万二千人の方が地震直後に起きた火災に巻き込まれて亡くなられておられます。
東京では特に下町における大火災はすさまじく、両国にあった陸軍被服廠(しょう)跡の空き地では、殺到した避難者のうち三万八千人が、炎や熱風が渦巻いて立ち上がる現象『火災旋風』で命を落としたといいます。
生存者の方はその光景を人が飛ばされたと表現されておられました。

どこに逃げたらよいのか、わからないまま懸命に避難するものの、あちこちで火の手が上がり、大きな被害が起きていたようですが、この陸軍被服廠での悲劇は亡くなられた方の人数の多さだけでなく、その火災旋風の被害があり、まさにこの世の地獄であったようです。

地震が昼食時に起こったこともあり竈(かまど)、七輪から同時多発的に火災が発生し、水道が断水したため最新の装備も役に立たず、おりからの強風によって火災は四方八方で大きく広がっていってしまったようでした。

また横浜市においても市街地全域が焼失し、石油タンクの火災は実に十二日間も続いたといいます。


関東南部、特に神奈川県西部及び千葉県の房総地域においては、この地震前に台風が来ていたこともあって、さらにそこへ地震が起き、その直後の大雨により、崩壊や地すべり、土石流などによる土砂災害が多数発生し、特に今の小田原市根府川では土石流により埋没六十四戸、死者四百六人という被害が発生したといいます。

東京湾岸部の干拓地や埋め立て地、相模川、荒川、古利根川などの河川沿いの低地においては地盤の液状化が起こり、地盤の陥没や地割れ、建物の沈下、傾斜、地下水や砂の噴出などの現象が起こったといいます。

津波に関しては相模湾周辺と房総半島の南端では熱海で最大高さ十二メートル、館山で九メートルの津波が起こったのだといいます。
津波による死者は三百二十五名おられたといいます。


これだけ大きな被害を出した震災であっても、被害のほとんどなかった群馬県においては、五十年経過した頃子どもにはそのほとんどが伝わってはいなかったのが現実でありました。

風化させないことは、亡くなられた方の鎮魂ともなりましょう。
しかしながらそれは尊き犠牲によって得た教訓でもあります。

忘れないこと。
風化させないこと。

胸に刻んだ二日間でありました。

No.189

このNHKスペシャル【映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間】では、
混乱の中で撮影された貴重な記録映像を高精細・カラー化し放映されています。


…残されていたんだ。


もう、それだけでも驚く私。
あの混乱の中にありながら、たくさんの映像、写真が残されていました。

場所すら特定しがたい写真もワンカットずつ撮影場所と時間を調査して、さらには現代の姿と比較されていました。

生々しい画像…。
映像。

高精細化し、さらにはカラー化して、よりリアルに心に突き刺さるものとなって、届けられていました。

そしてそこに生存者の方の証言音声が織り込まれます。
どれも心に刺さるものばかりでありましたが、中でも故黒澤明監督の、
「兄と二人、周りはみな死んでいる人ばかりで。そんな中にいて、自分も実は死んでいるのではないかと思うような感覚…(おばさんのおぼろげな記憶による文章で、黒澤明監督の言葉どおりではありません)」という言葉に、胸がえぐられる思いがしました。


この番組の中では科学的知見も駆使して百年前の巨大災害を追体験しています。


何を言いたいか、言いたかったか、さっぱりわからなくなったおばさんです。

今日の後編。

この番組を通して、しっかりと受け止めるべきものがあると思う私であります。

No.188

昨夜、二夜連続放送のNHKスペシャル【映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間】を観ました。

関東大震災は、百年前の大正十二(1923)年の九月一日に発生した関東大地震によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害のこと。

私が小学生のころにも、毎年九月一日をむかえると、
「九月一日は関東で大きな地震があって、たくさんの人が亡くなられた日です」
と、必ずこの日近辺で避難訓練が行われていました。

ただ…大きな地震を体験したこともなく、火災というものも間近に見たこともない私は(そうだったんだぁ)くらいの思いで避難訓練に参加する、そんな子どもでありました。
おそらくは他の同級生たちも、似たかよったか、であったことと思います。
私は黙って先生の話を聞いていましたが、先生にバレないように小声でヒソヒソおしゃべりしていた同級生たちは間違いなく私の同類項であったと言ってよいでしょう。

歴史の授業を受ける年頃となり、関東大震災の被災状況を言葉と数字で学んでも、(すごい地震だったんだなぁ、怖いなぁ)と思う程度で、どこか他人事であったのが現実でありました。


それでも子供を授かると、防災グッズを備えるくらいにはなりましたし、子ども何学校に通うようになると、「万が一の時はどこに集まる」といった話までするようにはなりましたが、やはりその地震の恐ろしさを実感したのは、あの阪神淡路大震災の刻々と送られてくる生々しい映像でありました。

やはり映像というのは、私のように想像力に乏しく、数字にも弱い人間にも、強く働きかけてくれるものです。

そして。
東日本大震災。
私の住むところでも震度五を超えた揺れで、地震の怖さを体感いたしました。
それでもさらにそれを大きく上回る被災状況をテレビで知ることとなりました。


私は関東大震災について、小さなかけらのような知識しか無いな。
今は『防災の日』と呼ばれるこの関東大震災の起こった日を迎えるたびに思うようになっていました。
このNHKスペシャルのあることを知り、ぜひ観なくてはと、珍しく予約をしたくらい。


津波被害の大きかった東日本大震災の記憶が生々しい私は、火災による被害の大きかったと伝えられる関東大震災では津波がなかったのだなぁと思い込んでもいました。


…あったんだ。

百年目にして知った事実でありました。

No.187

唐の国家プロジェクトとして始まった翻訳事業は、沢山のアシスタントのもと、大変な勢いで進められました。

二年間で
『大菩薩蔵経』二十巻
『仏地経』一巻
『六門陀羅尼経』一巻
『顕揚聖教論』二十巻、
そして、
『瑜伽師地論』百巻が翻訳されます。

こうして平均五日に一巻の離れ業で翻訳が進められますが、玄奘の起床は早朝五時、消灯は深夜一時です。
寸暇を惜しんで翻訳し、やがて時間がなくなってくると、起床は早朝三時になります。

歳を過ぎ、余命いくばくもないことを自覚すると、常に無常を見つめて、弟子達にこう言ったといいます。
「この玄奘は余命長くはない、必ずこの寺に命を終えるであろう。
いまだ翻訳すべき経典ははなはだ多く、訳し切れないことを恐れる。
いよいよ奮励努力して苦労を惜しんではならない」
このように翻訳作業はますます速度を上げ、二日に一巻の驚異の速度となります。

こうして『大般若経』六百巻や、天親菩薩の『倶舎論』、『唯識二十論』、『唯識三十頌』 なども翻訳し、十七年間で最終的に翻訳したお釈迦さまの経典や、菩薩の論の総数は、千三百三十五巻になりました。


そしてこの際に【般若心経】も翻訳しており、現在日本で多く読まれているものは、玄奘訳であります。

その人間離れした、ともいえる迅速な翻訳にもかかわらず、クオリティも高く、それまでの翻訳に対して『新訳』といわれるようになったといいます。


こうして三蔵法師といえば玄奘、玄奘といえば三蔵法師を思い出す、三蔵法師の代表のようになったのです。


この玄奘の伝えたかった仏教は弟子の一人【慈恩大師】により、【法相宗】として形を成しし、飛鳥時代の『道昭僧都』などにより日本に伝来しました。
現在、法相宗の大本山は【薬師寺】と【興福寺】ですが、 今も玄奘三蔵は法相宗の始祖として仰がれています。


No.186

帰国後は、玄奘三蔵が翻訳した経典は
『大般若経』六百巻、
「瑜伽師地論」百巻
「成唯識論」十巻
「大毘婆沙論」二百巻
「倶舎論」三十巻など、
合計七五部、一三三五巻に達するといいます。

この分量は、中国歴代の訳経総数の四分の一にあたり、いかに玄奘三蔵が偉大な翻訳者であったかがわかります。

特に『大般若経』六百巻の翻訳については、玄奘三蔵は、晩年の生命力のすべてをかけて顕慶五(660)年正月から翻訳に取り組みまれたといい、その達成には四年に近い年月がかかりました。
途中を略したり、意味だけにせず、もとに書かれているとおりに訳したからといいます。

…いやいや、玄奘三蔵法師はインドで原文を全て写しとってきているのです。
お金のない旅、おそらくはその作業は人に頼むことなく玄奘一人の作業であったことでしょう。
六百巻の経典を写しとり、もちろん誤りがないか確認もされたでしょう。
六百巻ですよ、六百巻。
それをさらに翻訳する。
…考えただけで気が遠くなる作業です。

私のような未熟者はわずか二百七十八文字の般若心経を写経するだけで一時間弱かかり、その長さを感じて途中筆が止まる日もあるくらいです。


そんな大般若経。

…六百巻は膨大です。
数あるお経の中でも大般若経は最もありがたい、霊験あらたかなお経であるといいます。
ご祈祷、ご祈願に読まれるのは当然のことなのですが、何しろ六百巻という膨大なものですから、ほかのお経のように一字一句を飛ばさずに読む真読というわけにはなかなかいかない。

そこで転読といって、大勢のお坊様に集まっていただき、お経を高く掲げて、偈文を唱えながら一巻一巻パラパラと転飜(てんぽん)し、読誦した功徳を得る方法が生まれたようです。

私などは初めて見たとき、なにごとかとドキドキしたことを今でも鮮明に覚えているくらいです。
手にした経本を高らかに手に持ち、風を含んでパラパラパラっと開いて閉じる。
(えっ?えっ?ええっ?)
次から次へと経本を変え、山のように積まれた経本を左から右へ積み替えていくのですから。
僧侶の性格もありましょう、あまり丁寧に扱っているとは思われない、…なかにはそんな所作の方もおられます。


まぁそんな転飜、私のような仏教徒でもない人間は、そうは参列させていただく機会もありはしないのですが、それでも、今でもドキドキいたします。



No.185

玄奘が仏教を学んだとされる場所には、 かつて九百万冊の書物が所蔵され、一万人の学僧と二千人の導師たちが日々勉学に励んでいたといいます。
修行を終えた玄奘は、六百五十七部もの莫大な経典を象に積み、再び祖国への道を歩みだしました。「西遊記」では三蔵法師ら一行は、仏の力で雲に乗り、あっという間に長安に戻っていますが、玄奘はもちろん徒歩。
行きとは違い、帰りは重い荷物があったため、長安に戻るのに、なんと九年もの歳月がかかったそうです。往復、実に十七年にも及ぶこの旅で訪れた国の数、実に百二十八。その距離は三万キロを越えていたといいます。

集めた経典を運ぶのに、馬が二十二頭必要でした。
インダス川を渡る際に一隻の川船が転覆し、五十巻の経典が失われ、そこで玄奘は五十日間滞在して失った経典を書写するというトラブルもありました。

そしてついに645年、玄奘が四十五歳のとき十七年ぶりに中国の都・長安へ帰り着きます。

玄奘はまず唐の太宗皇帝に面会を申し出ます。
玄奘は持ち帰った経巻の訳業を皇帝の太宗に願い出たのですが、これには理由があります。国家事業として行えば、支配者が仏教徒であるなしに関わらず公式なものとなるから、だといいます。

もともと頭の良い玄奘が、お金もない状態で言葉の壁もありながら百を超える国をわたり歩いて、仏教以外にも学んだことでありましょう。

そしてまた、その経典の数たるやとても国で行わなければならないほど膨大の量で、訳経には膨大な紙をはじめとする文房具、場所と人員などの費用がかかり、これを成し遂げるためには政府の絶大な援助が必要だったのです。


太宗皇帝は、玄奘と会い、この僧侶の冷静さと現地経験と情報量に驚きます。
これをもってすれば、周辺諸国とのこれからの外交にいかほどの力となるであろうかと
「還俗して片腕として働いてほしい」
と言われたといいます。

しかしながら玄奘が、命をかけて持ち帰った経典を翻訳し生涯を仏教に捧げたいという断固たる決意を表明すると、皇帝は、長安に翻訳所を設置します。

経典の翻訳の傍ら、皇帝に請われ、インド旅行記である『大唐西域記』(十二巻)を口述し、弟子の弁機が筆記しました。
これが後に『西遊記』のもとになっていくのです。

No.184

で。
おばさん思ったんですよ。
そもそも…玄奘三蔵はどこを目指して旅を始めた?

西遊記の三蔵法師は…たしか仏教発祥の地、〝天竺(てんじく)〟だったと記憶しています。

玄奘三蔵は?
玄奘三蔵法師が実際に目指したのは、天竺の中でも仏教研究の中心地、ナーランダであったといいます。


玄奘は行く先々の国で食べ物や通訳などの補充をしながら、天竺への道を進んでいきました。
標高4000メートルを越えるテンシャン山脈の峠を越え、
当時は金色に輝いていたという、アフガニスタンの今は無きバーミヤンの巨大石仏を通り…、
いよいよ天竺の入り口、ガンダーラへと到達しました。
そんな中、玄奘は最も訪れたかった場所として、最終目的地・ナーランダの前に立ち寄っている場所があります。それが、ブッダガヤ。
仏教の開祖、仏陀が悟りを開いた場所で、いまも仏教徒にとっては最大の聖地です。
この地に玄奘は九日間もの間止まり、仏陀の足跡を偲んだのでありました。

そして。
旅を始めて実に三年後、玄奘はようやく、目的地ナーランダに到着します。
五世紀の中ごろ、当時の王によって初めての伽藍が建てられ、以来、ナーランダには多くの寺が集まるようになり、やがて仏教の教えを伝えるための大学が建てられました。
玄奘が訪れた当時、ここには一万人もの僧侶が学んでいたといわれています。
玄奘は、このナーランダの印象をこう記しています。

『宝台のような建物が星のごとくつらなり、玉にもたとえられる 美しい塔のような建築が山嶺となってたちならぶ。天竺の伽藍の数は千万をもって数えるほどあるけれども、実に壮麗崇高という点でこれはその極致である』


ようやくナーランダに到着した玄奘は、この地に五年もの間とどまり、さまざまな経典についての講義を受け、その心を取得したのです。

それから、さらに五年間学問を深め、インドの王たちにも玄奘の名が知れ渡るようになったといいます。

『ナーランダ』とは蓮の花を意味する「ナーラ」と、与えるという意味の「ダー」というふたつの言葉が組み合わさったものだといいます。

インドでは蓮の花は知識や知恵の象徴、つまり知識が開花する場所、というのが名前の由来だといいます。


四十一歳になった玄奘は、学び終えた大乗の教えを中国に広めたいと、帰国を決意します。



No.183

食糧も水も底をつき、魑魅魍魎に襲われても、奇跡的にゴビ砂漠を抜けることができた玄奘三蔵。
まさに奇跡でしょう。

今現代の医療を以てしても、脱水・熱中症に栄養不良が加わっては、その命を助けることは難しいことがあると思われます。
しかもそれは医療の知識とさまざまな医療機器や薬剤を用い、電解質やカロリーを補って、のこと。

やはり、これは…玄奘の強い思い、志と、それを助けようとする御仏のお力添えがあったから、…そうとしか思えません。


二十八歳の暮れに高昌国(トルファン)へたどりついた玄奘は王から大変な歓待を受け、
「国民全員が帰依するから国師として一生留まって欲しい」
と懇願されたといい、ついには一室に閉じ込められます。
しかしながら玄奘の何としても旅立つ決意は変わらず、断食する姿に根負けして、帰りに三年間高昌国に立ち寄るという約束で、出発を許します。

出立に際し王は莫大な旅費を布施し、玄奘を抱きしめて泣きながら見送ったといいます。
しかしこの約束は果たされることはなかったといいます。
玄奘がインドで学びを終え、帰ろうとする一年前に、高昌国は唐に滅ぼされてしまったのです。


やがて玄奘は、遡ること二百五十年前の偉大な三蔵法師、【鳩摩羅什(クマラジュウ)】の故国、亀茲(キジ)国に入ると、ここに二ヶ月間滞在します。

亀茲国は色々な人が往来する、インドの原典で仏教を学び、語学学習に適したところであったといいます。


その次に現れた難所は、テンシャン山脈、夏でも雪がとけない極寒の氷山だといいます。

強風が吹けば、砂や石が飛んで来る、眠ろうにも渇いたところのない山で、この山を越えようとする者の三分の一は死亡したという、遭難覚悟の旅であるといいます。

七日間で命からがらこのテンシャン山脈を通り抜けた玄奘は、イシク・クル湖(現在キルギス共和国)に出ました。
それからシルクロードを西へ進み、タシケント・サマルカンド(現在ウズベキスタン)を通り、バーミヤン、ガンダーラ(現在アフガニスタン)を通って、インダス河を渡り、カシミールに入りました。


…うーん。

日本の地理とてもおぼつかないようなおばさん、必死に世界地図を見てみますが、さっぱりわからない。


うーん。
…貼り付けよう。
わかる方にはわかるから。


(玄奘の旅したルート)

No.182

ここで、今私たちに大切なメッセージがありますことに気づきます。

それは〝魑魅魍魎〟です。

はあぁ?

そう思われた方、今この異常な暑さに見舞われている私たちに本当に大切なメッセージなのです。

【脱水によって、場合によってはせん妄が起こる】
ということです。

『せん妄』って何?

せん妄とは意識混濁に加えて、奇妙で強迫的な思考や『幻視』『錯覚』が見られるような状態(Wikipediaより抜粋)です。


脱水がせん妄を起こす理由は、体内の電解質濃度が異常になるためです。
電解質濃度は、体内の水分と塩分のバランスです。
電解質は常に最適な濃度に保たれることで、神経伝達をサポートします。

しかし、電解質の濃度が異常になると、全身の神経伝達がスムーズに進まなくなります。
脳機能に支障をきたすことも多く、幻覚や意識障害などの不調があらわれます。
つまり、せん妄は体内の電解質バランスが崩れたときに発症します。
脱水状態になると、身体の水分が不足し電解質の濃度が非常に濃くなります。
電解質濃度が高くなると、神経伝達に支障が生じるため、せん妄の発症リスクが高まります。
また、電解質濃度が薄くなりすぎてもせん妄は起こります。
例えば、大量に汗をかくと、水分とともに塩分も体外に失われます。
『塩分を大量に失った状態で水だけを補給すると、体内の塩分濃度はさらに薄まります。
体内の塩分濃度が薄くなることでせん妄の発症リスクは高まります』

つまり、『電解質のバランスが崩れると、脱水やせん妄が起こりやすくなります』

また、脱水によるせん妄は、意識障害や問題行動により適切な水分補給が難しくなるため、症状が悪化しやすいことが特徴です。
さらに、せん妄の状態になると理解力や理性が失われるため、周囲の方が水分補給を促しても本人が拒否する場合があります。

水分補給ができなくなると、脱水症状が進行し、せん妄の悪化につながります。
したがって、脱水によるせん妄は、悪循環に陥る可能性が高くなるのです。
そのため、脱水によるせん妄の悪化を防ぐには、脱水そのものを予防・改善することを心がけましょう。


〝魑魅魍魎〟に襲われた玄奘三蔵は、砂漠という陽を遮ることのできない暑さの中で、食料も水も底をつきたという最悪な状況に陥っていました。
完全な脱水症でありましょう。

…あらぬものを見る前に。

No.181

玄奘は、西暦600年に生まれました。
日本では聖徳太子が活躍中で、遣隋使を派遣していた頃。

五歳のときに母を、十歳のときに父を亡くし、十一歳のときに、すでに出家していた兄をたよりに洛陽の浄土寺に身を寄せ、お経を学び始めます。
十三歳のとき正式に僧侶となり、仏教の学問の研究に没頭します。
洛陽で五年間学びますが、洛陽で隋に対する反乱が起き、戦火に包まれたので、これから唐の都となる長安や蜀の都、成都などで仏教の学問に励みます。

中国中のあらゆる経典を学び尽くすと、漢訳された経典内の矛盾や、各地の高僧の解釈の違いに、中国での学問に限界を感じ、仏教の説かれたインドへ行って、もっと詳しく学びたいと思うようになりました。

しかし、当時唐は建国のまっただ中の戦乱の時であり、国を出るのに許可が必要でありました。
何度も嘆願書を出して申請しますが、すべて却下され、ついに、二十八歳のとき、国の法律を破って旅立つことにします。

まず中国北西部の涼州に行き、お経の講義をしていると、非常にすぐれた講義だったので、たくさんのお布施が集まりました。
と、同時に「インドへ法を求めに行こうとしている僧侶」の噂が広まって涼州の責任者の耳にも入ることとなり、帰るように命ぜられます。

しかしこの時、玄奘に共感を覚えた地元の僧侶が、西の瓜州へ逃がしてくれました。

そこからは、深くて流れの速い河を渡り、五つののろし台のある峰を過ぎたあと、ゴビ砂漠を越えなければなりません。

語学を学びながら情報を集めていると、違法出国しようとする玄奘を連れ戻すよう通達が出されたのを知り、馬一頭と、地元の人一人を雇い、出発します。

ところが。
深くて流れの速い河を渡ったところで、これ以上とてもついていけないと、地元の人は引き返してしまいます。

そして、のろし台を通るときには矢が飛んできて捕まってしまいます。しかしここでもまた、たまたま仏教を信じていた責任者に見逃してもらい、ゴビ砂漠を一人で横切っていきます。

ゴビ砂漠では食糧も水も底をつき、魑魅魍魎に襲われますが、奇跡的にゴビ砂漠を抜け、二十八歳の暮れに高昌国(トルファン)へたどりつきます。


うーむ。
…このゴビ砂漠で魑魅魍魎に襲われた、というあたりから、のちの世で描かれることとなった【西遊記】にやたらと妖怪たちが現れることにつながっているのだろうか?

No.180

『三蔵法師』の「三蔵」は、『経蔵』『律蔵』『論蔵』のことです。

『経蔵』とはお釈迦さまの説かれたお経を集めたもの、
『律蔵』とはをお釈迦さまの説かれた戒律を集めたもの、
『論蔵』とはお経の解説を集めたものであり、それらの三蔵に精通した僧侶を三蔵法師と言われました。
やがて、インドの仏典を中国の言葉に翻訳した翻訳者を三蔵法師というようになります。

玄奘といえば、そんな三蔵法師中の三蔵法師。
三蔵法師といっただけで玄奘のことを指すこともあるくらいで。
三蔵法師の玄奘ということで、玄奘三蔵ともいわれます。

私の世代ですと、どうしても故夏目雅子さんが演じられた美しい玄奘三蔵が心に浮かび(『西遊記』)、…場合によってはザ・ドリフターズの故いかりや長介氏に似せた人形劇(『飛べ!孫悟空』)の三蔵法師だったりいたしますが…、では実際の玄奘三蔵さまは、…いったいどんなお方であったのでしょう。

あまりにも西遊記人気が高いため、三蔵法師というと玄奘さまより、玄奘さまがモデルとなった西遊記に登場する三蔵法師が頭に浮かんでしまいますし、そもそも、玄奘三蔵さまのことをよくは知らない事実に気づくのです。

…まぁ、どちらも好きな〝三蔵法師さん〟、なんですけれどね。

なんなら私が生まれる前に手塚治虫さんがお描きになった『ぼくの孫悟空』という漫画もあります。
ブラックジャックから手塚治虫さんにハマった息子のおかげで、この本も家にありますし、この三蔵法師さまもまた愛すべき人物であるのですが…。


閑話休題。


実は知っていた気になっていた三蔵法師、もとい玄奘三蔵法師さまを調べてみました。

No.179

『大いなるすぐれた智慧によって彼岸にいたるための大切な教え』
それが般若心経であるということ。

ところで、前レスで、お経は翻訳されたものだと書いています。
しかし実際には経題の中で『心経』以外の部分は、「マハー・パンニャ・パーラミター」という古代インドの言葉(サンスクリット語やパーリ語)を、同じ読みをする漢字で当てたもので、漢字そのものに意味はありません。
文末もまた同様であります。

翻訳してしまうと意味が限られてしまったり、本来の意味がそこなわれてしまう恐れがあるため、もとの言葉をそのままにしておく必要があったから、だといいます。


ところで。
般若心経には『空(くう)』や『無』という文字が実に多く見られます。
これは、文字どおりに「空っぽ」とか「何もない」という意味であります。
『空っぽ』『何もない状態』というのは、『何かが生まれる状態』でもあります。
容器に何かを入れるためには『空っぽ』にしなければならない、というわけです。

今まで自分をしばりつけていた価値観や経験から自由になるための心のはたらきをこそ、仏教でいう【智慧】というのだといいます。


ところで。
般若心経には人物が登場しています。
『舎利子』さんです。
舎利子さん、などと馴れ馴れしく書いておりますが、お釈迦さまの教えを直にお受けになったお弟子さんのお一人であります。
そしてもうひとかた、観世音菩薩さまの名が拝見できます。


いろいろ日本語に訳したものを拝見してまいりましたが、舎利子さんに観世音菩薩さまが修行されて学んだことをお伝えする、そんなふうにとれる内容であります。

実は私、こうした日本語にしたものを見たとき、実は大変驚いたものです。
一個人に対しての教え?

まあ、実はそれはお釈迦さまを学ぶとむしろ「あり」なことで、お釈迦さまは生前、相手に合わせてその教え方を変えていたといいます。


ただ…。
そもそもお経というのはお釈迦さまがお亡くなりなられてから、その教えを絶やさぬようにと弟子たちが作成したもので。
般若心経に至っては、主に元となる経典は【般若経】であるようですが、他の経典からもいろいろな教えを合わせて凝縮したもの、だともいいます。

ならば、何故あえて?
あえて舎利子さんに向けてのもののように編集している?


…そんな疑問を抱くような私はまだまだ、ということだな。

No.178

とらわれない こころ
かたよらない こころ
こだわらない こころ
ひろく  ひろく
もっとひろく

これが般若心経
空(くう)のこころなり


これは、薬師寺の管主であった故・高田好胤(こういん)師がおっしゃったもの。


お経の題名のことを『経題(きょうだい)』といいます。経題が分かれば、そのお経が分かるというくらい重要なものといいます。

【摩訶(まか)】……大いなる(すぐれた)
【般若(はんにゃ)】……智慧(ちえ)
【波羅蜜多(はらみた)】……彼岸にいたる
【心経(しんぎょう)】……大切な教え

『大いなるすぐれた智慧によって彼岸にいたるための大切な教え』が般若心経であるということです。


『般若経』600巻をまとめたとされ、大乗仏教の真髄が説かれている、とされます。

文末は、サンスクリット語をそのまま音写した「咒」(陀羅尼)で締めくくられていますが、漢字で書かれており、ほとんどの宗派で読誦され、写経されることも多いお経であります。

お経はお釈迦さまの御言葉ですので、インド地方の言葉で書かれているはずですが、これには理由があります。

はるか唐の時代、玄奘(げんじょう)という若い僧侶が仏教の本場であるインドから経典を持ち帰るため、旅をしたことは有名な話であります。
のちによく【三蔵法師】と称され、かの【西遊記】のモデルともなった人物であります。

インドに着いた玄奘は、ぼう大な数の経典をそのまま書き写して唐の都に戻り、その後自分の国の言葉に翻訳しました。
その後、中国語に翻訳されたこれらのお経が遣唐使などで日本に伝わったため、漢字で書いてある、というわけであります。


…などと端折って書きましても、その内容がいかに大変なことであるかは想像できますが、実際にはもっともっと、数々の苦労があっての旅でありました。

まぁ…とはいえ西遊記のように妖怪が出てきたわけではありませんが…。


No.177

私は檀那寺を持たない者でありますので、僧侶のお唱えになるお経をお聞きする機会もそうは多くありませんし、法話をお聞きすることも同様で。

そんな中、群馬県みどり市のはねたき道了尊の御縁日は、お経をそして法話をお聞きできる大変貴重な機会であります。

葬儀や法要というと、般若心経を御唱えになることはあまり多くなく、こうして考えると私はあまり僧侶の方が御唱えになる〝般若心経〟をそうは多くお聞きしてはいないのかもしれません。
とはいえ、今はネットで検索すれば、簡単にいろいろな方の〝般若心経〟を聴くことができます。

そんな中で、いつもいつも心に響く般若心経を御唱えくださるのが、みどり市の光榮寺さんのご住職さまであります。

声の高さ、抑揚。
御唱えになられる速さ。
声を作ることもなく、ごくごく自然なお唱えになられるその般若心経は、ご唱和せずこのままお聴きしていたいと思うものであります。

いつまでも、何度でもお聴きしていたい、そう思う〝般若心経〟であります。


コロナが感染症予防法の第五類となってから、ご唱和することになり、このはねたき道了尊の御縁日には実に三回、ご住職さま・副住職さまの般若心経をお聴きすることができます。

私の幸せなひとときであります。

No.176

前橋市の飯玉神社さんの『開運招福デジタル御神籤』をひかせていただくのがいつしか習慣になっておりました。

未熟者なので〝凶〟が出るとへこみます。

実はデジタル御神籤、凶は出ない設定なのでは、と勝手に思っておりましたが、いやいや、どうしてどうして。
しっかり凶も出ました。
凶が出たからといってひき直しはできません。あくまでも一日一回、であります。

この御神籤の御神託が、デジタルでありながら心に響く、響く。

ちなみに昨日が〝凶〟。
…たしかに夫と全てが行き違い、すれ違いで、あまり良い日でありませんでした。
夫は言い出したら聞かないし、曲げないし、何より謝ることが大嫌い。
最近はまず私に対しては絶対謝らない。
何かもう的外れな言い訳で押し通そうとする。
感謝の言葉も口にしなくなり、密かに認知症では?と疑い、心配もしているのですが…。


閑話休題。


本日は〝大吉〟。
いきなり気分上々の私であります。

このデジタル御神籤の〝大吉〟の画面をスマホに保存して、飯玉神社さんの社務所に提示いたしますと、
なんと、特典としてさらにその場にてデジタルおみくじ特製『開運招福くじ』を引くことができるのだといいます。

大吉の出た今日、その勢いのまま、飯玉神社さんへ参拝した方が良いかしら。

No.175

…ま、まぁ。
大僧正さまというのが一番偉い僧位であることは間違いないようです。

衣の色で僧位がある程度わかるというのも間違いなくて。
なにしろ十五とか僧位があるようですので、それをいちいち書いても仕方ないことですし、何より私が、私本人が覚えきれない。

赤色 [緋色(ひいろ)]  大僧正
紫 色      僧 正
緑 色 [萌黄]  僧 都(そうず)
黄 色       律 師

とんでもないくらいに端折って書くとこのようになるようです。


はねたき道了尊の御堂で。
ご住職さまと副住職さまは、黒の衣でお越しになられ、そののち、お二人とも紫の衣にお着替えになられます。
毎回毎回そうされます。

…紫の衣で直接ここに来てはいけないのかなぁ。
毎回毎回こちらの境内にある四阿で、持ってきた風呂敷から取り出してお着替えになり、法要に臨まれます。


うーん。
…今度お聞きしてみようかしら。

ちなみに大僧正さまになられてもご住職は紫の衣であります。
どうやら緋色の衣は管主さまがお召しになるもののよう。

さらには。
木蘭(茶木蘭)は他寺に出向いて助法を行うために準備するもの。

黒衣は得度式、加行、寺院関係者の葬儀や法事で親族にあたる場合に準備する。

その他自分のお寺で着るのであれば、自身のものと異なる僧階色でなければ、原則として何色を使っても良いとのことで。


うーん。
お坊さん、衣一つとってもいろいろ決まりがあって、衣も多く大変です。

しかも夏の衣は絽と紗のものとか着物の決まり事もあるだろうし。

なにか下世話なことを口走りそうなので、今日はこんなところで。

No.174

こちらのはねたき道了尊堂は、群馬県みどり市の光榮寺さんの境外堂。
毎月の御縁日にはご住職さま、副住職さまが揃ってお越しになられ法要を営まれます。

私が知る限り(決して皆勤で参列できているわけではないので、あくまでも参列したとき、ですが)、ただ一度だけ、ご住職さまが欠席なさったことがありました。

それは今年、ご住職さまが大僧正になられ、真言宗智山派の大本山に行っていらしたとき。

仏教に(も)詳しくはない私ではありますが、大僧正というのが位の高いものであることくらいは知っております。

その大僧正の授与式に同行されていた副住職さまから、『阿闍梨餅』なるお土産をいただきましたことも記憶に新しいことであります。

阿闍梨もたしか偉い僧侶を指すことばだったと記憶しております。

でも実際にどう使うものであるかは、さっぱりわからず。

そういえば副住職さまも昨年か今年かに、衣の色が緑から紫へと変わっておられます。

これは副住職さまも位が上がられた?


まぁ、きっと宗派宗派できまりが異なるものでありましょうが、ほんの少し調べてみました。



(高崎市の花火大会で)

No.173

群馬県みどり市の『はねたき道了尊』さまの月の御縁日に参列させていただきました。

だいぶ記憶力の低下している私ではありますが、年に六回ほど伺っていると顔見知りの方ができるもので。

そんな中、毎年学校の休みの日が当たるとお母さんと一緒に参列する小学生の男の子のご兄弟がいます。
お母さんはいつ参列してもおられるくらいに熱心にこちらに通われておられる方です。
(また大きくなったなぁ)
別段とりたてて話しかけるわけでもないので、お子さんたちは私のことなど覚えてはいませんが、遊びたい盛り、しかも暑い最中に、嫌がることなくこうした法要に参列することを嫌がることなく、素直に参列する姿を見ていると心洗われるような清々しい思いがするのであります。

きっと光榮寺さんの檀家さんなのでありましょう。

お母さんの仏心がお子さんの仏心を育んでいるのです。

仏という目には見えない存在を信じる心、敬う心。
それがどれだけ子どもの心の成長を育むことか…。

私にはできなかった子育てのかたちで、なんともありがたく、そしてちょっぴり(だいぶ)羨ましく思うのであります。


参列者皆で『般若心経』を御唱えするのですが、二人ともしっかりと御唱えできていました。
ぽつんとこうした行事にだけ参列しているわけではなく、毎日のお勤めが家族みんなで行われている何よりの証です。

わが家の子どもたちは親から一切そうしたことを教えられることなく育ちましたが、人として知るべきこととして自分の力で学んだのでありましょう、たまに神社仏閣に一緒に参拝しても、しっかりとお参りの仕方、作法を身につけていました。
…ありがたかったです。

本来、こうした育て方がしたかったと、今さら思っても詮ないことで、でもそうした思いを持って生きてきてくれていたことに感謝しかありません。


相変わらず仏教徒でもなければ神道でもない私ではありますが…。
頼るでなく崇めたい。
いつも神さまや御仏を崇め敬う心を持っていたい。
そう思い日々を暮らす私ではあります。


No.172

地蔵盆の主役は子どもたち。
そのため、地蔵盆は大人ではなく子どもが主体となって催され、お地蔵さまをさまざまな方法で供養するのだといいます。
地蔵盆は地域によって独自の風習があるといい、たとえば子どもがいない地域などでは、年配の方だけで開催しているところもあるといいます。
…これは昨今の事情からは考えられることでありましょう。
古き良き慣習が踏襲されていることが何よりありがたいことと感じます。


まず地蔵盆が近づくと、お地蔵さまを洗い清め、前掛けを新調するといいます。
ちなみにお地蔵さまの前掛けが赤いのは、あの世で子供が迷子にならないようにと言われているといいます。
お地蔵さまに白く化粧を施したりすることもあるようです。

お地蔵様のお清めは、子どもたちだけで行う地域や、町内のみんなで協力して行う地域などさまざまなのだといいます。

お供えの食べ物や花のほか、子どもの名前が書かれた提灯などは大人が用意することがほとんど、ですが、子どもたちにいろいろ計画させ実行させるといった地域もあるようです。
紅白の提灯を飾るのだといい、その提灯には子どもの名前が書かれているといいます。
提灯に書かれた子どもと地蔵菩薩との縁を結ぶ という意味です。

その年に生まれた子どもの名前を書いた提灯を作り、それを毎年地蔵盆に飾るといった地域もあるといいます。

…観音院さんの地蔵盆にも提灯が飾られていましたが、名前が書いてあったかどうかまではみなかったなぁ。
あ、そもそも赤白青の三色の提灯だったような気が…。

お地蔵さまの赤い前掛けが新調されていたかどうかも、全く記憶しておりませんでした。


うーん、これは来年の課題です。

スタンプラリー以外はいつも通りの御縁日だったような…。

むしろ歩行者天国となる沿道に、たった二つ、乾物の露天商の屋台しか無くて、閑散としていて、とても寂しかったです。
少し前まで平日でも鯛焼き屋さんやベビーカステラ屋さんくらいは出ていたのに。
…夏休み、なのになぁ。



それでも。
スタンプラリーに参加していた小学校中学年〜高学年の男の子が御本堂に入らんとするとき、誰にいわれることも無く、被っていたキャップを外して深く一礼してから御本堂の敷居を跨いだことに、私は深い感動をおぼえました。

この子には仏心が確実に育っているのだなぁ。

No.171

お地蔵さまは、子どもの守り佛として古くから信仰されております。

それは「西院の河原稚児御和讃(さいのかわら おさなごごわさん)」 というものに言い伝えられています。

親よりも先に亡くなった子供は、三途の川のある賽の河原で石を積み上げるのですが、そこに鬼がやってきて棒や鞭を使って子供が積み上げたが子供たちを見守り、鬼から守ってくださるされています。
そのことから 「地蔵菩薩さまは鬼から子供を守る」 と、されているのです。

また、地蔵盆のはじまりとして、小野篁が関係しているという説もあります。

小野篁とは平安時代に京都に住み、宮廷に使える役人でした。
才知に富んだ優秀な人材であるにもかかわらず、かなり苦労を強いられてきた人でもあったといわれます。

そんな小野篁ですが、実は夜にはあの世に行き、閻魔大王の補佐を務めていたといわれています。
京都市東区の六道珍皇寺というお寺にある井戸からあの世へと行き来したとされています。
その井戸は今もお寺の一角にあります。

ある日、いつものように井戸からあの世にいった小野篁は、閻魔大王が死者の代わりに自ら炎に包まれ苦しんでいる姿をみて、たいそう心を打たれました。
そして そんな閻魔大王を救済するためにせめてもの供養をと行ったのが地蔵盆の始まり という説です。

どうして閻魔大王の話から地蔵盆になるかと言いますと、 実は閻魔大王は地蔵菩薩の化身とされているから、なのです。

地蔵盆ではそんな閻魔大王の化身であるお地蔵さまを供養しているのです。

なお、小野篁は地獄で会った地蔵(閻魔大王の化身)を再現し、六体の地蔵を作り、六地蔵という地域のお寺に安置したあと、京都市内の六つの寺に安置したと言われています。

地蔵盆はそんな 慈悲深い閻魔大王の化身であるお地蔵さまを供養するため ともされているのだといいます。


No.169

観音院さんのInstagramを覗いてみましたところ、
『地蔵盆とは、子どもたちの健やかな成長を願う特別な縁日』
と書かれていました。

なるほど、そういう…。
だから子供限定のスタンプラリー、というわけなのですね。
別に夏休みだから…というわけではないようです。

でも、これだけだとあまりよくわからない。
さあ、困ったときはGoogle先生。


【地蔵盆】とは。

京都を中心とした近畿地方で盛んな、お地蔵さんを祭る行事。

地蔵盆は地蔵祭、地蔵会(じぞうえ)とも呼ばれ、地蔵菩薩さまの縁日と関連する行事のこと。
子どもたちの健やかな成長を願う行事として、京都を中心とする近畿地方で盛んに行われ、他に北陸地方の一部や九州地方の一部などでも見られます。


…おおっ!
私が知らないだけ、ではなくて、主に京都、近畿地方で盛んな行事、なのですね。

なにかいわれでもあるのでしょうか。

地蔵盆が関東地域に定着しなかったのはなぜかについても、きちんと書かれておりました。

それは地蔵信仰の歴史の違いから、とのこと。
京都ではすでに室町時代から地蔵盆が大流行していた一方、東京では江戸時代になってようやくお地蔵さんがつくられるようになだだということで。

観音院さんのようにお寺さんが主催なさる行事であればいざ知らず、地域の人たち主体で行われるとなると、たしかに既存のお祭りがあり、なかなか新たなお祭りを立ち上げるのも大変なことでありましょう。

また、関東ではお稲荷さんの信仰が流行っていたために地蔵盆が定着しなかったという説もあるようです。


地蔵盆は 子供が主役、というのはどの資料を見ても同じです。

ただ、京都ではお地蔵さまは町内ごとにあり、古くから街角におかれたお地蔵さんがその町を守ってくれると強く考えられていたといいます。
ということで、地蔵盆というのは町内や地域ののお地蔵さまを供養するお祭りであるようです。

地蔵盆でお地蔵さまを供養することで、

・子供の健やかな成長を祈る
・町内に悪いものが入り込まないようにする
・町内の火災などが起こらないように祈願する

そういった〝お祭り〟であるようです。


No.168

昨日は二十四日ということで、お地蔵さまの御縁日。
ですが、その地方のお盆の月に当たる御縁日は【地蔵盆】と呼ぶのだそうで、お寺さんでいただく暦にもしかとそう書かれています。

しかしながら、私の住まう辺りではとりたてて地蔵盆という行事をすることはありません。
そもそもがどういった行事であるかも知らないくらいです。

ただ…。
昨年、群馬県桐生市にあります『日限地蔵』で有名な【観音院】さんに参拝した際、そのワードを聞いた記憶がありまして。
今年も桐生市の観音院さんの御縁日にうかがってみました。


…いつも通りの御縁日です。
とくだん変わりは無いように見受けられます。
ただ、昨年に引き続き今年もお子さんに向けてのスタンプラリーを開催しておられ、ゴールは御本堂内、というのも昨年と同じ。
夏休みということで、お子さんに向けてのイベントもされるのだなぁと、こちらのお寺さんの入り口の広さにあらためて感動いたしました。

ん?

「今日は地蔵盆なので、スタンプを集めると御本堂でお菓子がもらえるよ」

仁王門の内側でお子さんにスタンプ用紙を渡しながら、係の方がそうおっしゃっています。

えっ?

…境内で、その他に変わったことといえば、きれいな『地蔵盆』と書かれた提灯が地蔵堂の前に掲げられていることと、小さな短冊になにかを書くようなコーナーがあったこと。


地蔵盆って…なんでしょう?

No.167

今、続きを綴ろうと、過去レスを見直していて、大きな間違いに気づきました。

それは『霧島稲荷神社』さんの位置。
拝殿むかって〝ひだり〟と書いていますが、〝みぎ〟〝右〟であります。

お詫びして訂正いたします。


拝殿むかって左側の手前にあるのは『天満天神社』、天神さまでありました。
語るまでもなく管原道真公が祀られております。
道真公だけに私に間違いを正す機会を与えてくださったので気がいたします。

神さま方にまことに申し訳ない。


これは再拝のあかつきに、あらためてしかとレポートいたしたいと思います。


これだけ書いておきましょう。
飯玉神社さんの境内に入ってすぐのところに、御神木である推定樹齢五百年の二本のクスノキが力強く根を張り、空に向かってそびえ立っています。
見るだけで、そばを通るだけでパワーを与えてくれます。

寄り添うように聳そびえ立つ木々であることから、夫婦和合、良縁成就の御利益があると言い伝えられ、その間を通れば御神木のパワーがお頒かちされ運が開けて大成するという御利益が得られるそうです。

私は今回、この木の間をくぐることはしなかったのですが、再拝の折に、くぐらせていただきましょう。

…夫の前で夫婦和合のご利益のあるという御神木のくぐるのもなんだなぁ。
ひ、一人でだな、次回の参拝は。ウンウン。


ちなみに。
こちらの神社さんのホームページで毎日一回、御神籤をひくことができます。
昨日初めてひいてみました。

神社さんの御神籤だけあり、〝大吉〟〝吉〟とかの結果だけでなく、そこに書かれた御神託がたいそうありがたかったです。

毎日無料で…。
…なんだか申し訳ないようです。

No.166

飯玉神社さんの御本殿の左横に建てられております『淡島神社』さん。

白木のような色の塗られた鳥居と、可愛らしい雰囲気の社殿であります。


…はて?
淡島神社さんの御祭神は…どなたでしたでしょう。
淡島神社という名称の神社さんへはいまだかつてお詣りしたことがないと記憶しておりますが、『淡島さま』というお名前には覚えがあります。
同じく前橋市にあります徳蔵寺さんの境内に祀られていた女神像が〝淡島さま〟と呼ばれているものであったと記憶しております。
たしか、女のひとの…婦人の病とかに御利益があるとかで、近隣の女の方たちが建てた物だと記憶しています。

その淡島さま?

ブ、ブーっ。
こちら飯玉神社さんのホームページによりますと淡島神社さんの御祭神はあの【少彦名神】【少彦名命】さまであるとのことでありました。

あの大国主命さまと国づくりの旅をなされたあの少彦名命さま。
お身体がたいそうお小さい、けれどたいそう知恵に富み、病を無くされるためにご尽力なされたという神さまであります。

私、子供の頃、この国づくりの旅をなされたくだりのお話が大好きでありまして。
ガガイモの実の舟に乗ってお越しになるところとか、楽しそうにお二人で(…二柱さんで?)旅をされるご様子とか、今でも当時読んだものを思い出すことができるくらいです。

なので、神仏に関わることなく生きてきたおばさんではありますが、この少彦名命さまは大好きでありまして、…なのに『淡島神社』といえば少彦名命さまを祀る神社さんだということ、こちらに詣でるまで知らずにおりました。

こちらのホームページに書いてありますことに
少彦名命さまは安産、子育て、縁結びの信仰が深い女性の守護神であるとされています。
そしてさらに、
『少彦名神は医療の神様としても知られおり、神話の中で国⺠や家畜の病気を治すための方法を定めたとされ、医療・医薬の御利益があるともいわれています』
と書いてあります。


…女性の守護神であらせられたんですね。

私がいつもこちらの前を通っては、気になっていたのは…神さまがそのことをお教えくださるため、だったのでしょうか。

これからこの道を通ることがあったらぜひ飯玉神社さん、参拝させていただきます。

No.165

そんな『保食神』さまのご利益についてでありますが、保食神さまは食べ物やお蚕の起源であるとされていることから養蚕や農耕などのご利益があるとして知られます。

同様に穀物についてのご神格があるとされている宇迦之御魂神さまと同一の神様と考えられることもあり、稲荷神社に祀られていることも多いようです。


ご利益
農業・漁業・養蚕・狩猟守護、航海安全、出世、開運招福、厄除けなどがあげられています。

No.164

と、いうわけで。

『飯玉神社』さんはあくまでも主祭神は『保食神(うけもちのかみ)』さまであり、境内社の『霧島稲荷神社』さんに『宇迦御魂神』さまはお祀りされています。

【保食神】さまは食物等の農耕の神さま。

『日本神話』には、食物の起源と農耕濃の起源の話が多くあります。
この中に保食神さま、大宜都比売神(おおげつひめのかみ)さま、和久産巣日神(わくむすびのかみ)さまなどが登場されます。
人間が生きていくのに食べ物は欠かせないもの。
まぁ、当然といえば当然であります。

ところで。
実は保食神さまは『日本書紀』にのみ登場された神さま。
そこにえがかれたエピソードが酷似していることから、大宜都比売神さまと同一視されることもあるということのようです。

保食神さまの〝ウケ〟と大宜都比売神さまの〝ゲツ〟は、食べ物の意味。
この共通点からもこの二柱の神さま、同一の神さまとされるようです。

その、日本書紀に、しかもただの一度だけ登場される保食神さまの神話について。

天照大御神に命じられた月読命が保食神さまのもとを訪ねてきた時に、保食神さまはその能力を使って食べ物をご馳走されました。
その能力というのが、
ご自身のお口から大地に向かってご飯を、
海に向かって魚を、
山に向かって獣類を出す、というもの。
これを食卓に盛り付けてもてなしたのでありましたが、月読命さまは口から出した汚らわしいものを食べさせるのかとお怒りになられ、保食神さまを切り殺してしまわれました。

この話を受けた天照大御神さまはたいそうお怒りになられ、月読命さまを決別することになります。

これが、一日に昼と夜が訪れるようになったという神話となっています。

天照大御神さまは太陽神で昼の世界を表し、月読命さまは月の神さまで夜の世界を表します。

太陽が隠れないと月は出ない、月が隠れないと太陽は出ないので、今でも二人は決別されたまま、ということになります。

宇宙レベルの兄弟喧嘩、とでも申しましょうか。







No.163

石段をのぼった先には、明るくてとても穏やかな気持ちになる気があふれる、明るい拝殿がありました。
明るい、といっても照明で明るい、という意味ではありません。
…まぁ、照明もつけられていて明るく拝殿の内をすみずみまで見渡せる社殿ではあるのですが…。

そうそう、拝殿前にも先ほどの狛狐さんよりは小ぶりの狛狐さんがおられました。

初めて参拝させていただいたお礼を申し上げて。
みぎてに回って、本殿を横から拝して手を合わせました。

ここでいったん石段を降り、いったん社務所を目指します。

…そう、御朱印のお授けをお願いするため、です。
神社さん自体は二十四時間敷地に入る事ができますが、御朱印は早いところだと十五時には閉めておられる所もあったので。

御朱印の種類は多そうです。
夏ということもあり『夏詣』のもの。
前橋福めぐりという八ヶ所の神社さんを巡るというイベント用のもの、等々。
限定御朱印もあるようです。
ここはシンプルに通常のものを。

さて再び石段をのぼり、他の境内社をお参りいたします。

拝殿ひだりてにまわると赤い鳥居があり、この鳥居の先にあるのは『霧島稲荷社』です。
全体が赤い可愛らしい気を醸し出す社殿であります。

なんでもホームページによりますと飯玉神社の御本殿を守り、悪いものが外から入ってくるのを防ぐため北東(⻤門)の位置に鎮座しているのだといいます。
そして古墳で使われていた岩の間に神の使いである狐が住み着いていたこともあって、今現在の位置にお祀りしたと伝えられます。
ちなみに稲荷社本殿の中に岩が当時のまま残っているのだとか。
再拝の折にそおっと覗いて見させていただきましょう。

そうそう、お授けいただける御朱印の中にはこちらの『霧島稲荷神社』さんの御朱印もありました。

【宇迦御魂神】さまが祀られており、農業・商工業・諸産業繁盛の守護神、家内安全・諸願成就・開運の守護神とされています。

No.162

社殿は石段をのぼった先になります。

こちら前述したように一古墳の上に建ち、天神山大古墳群と呼ばれる古墳群の中央に位置しています。
その様子が石碑にされて境内に建てられていますが、実際、この辺りは少し移動するだけで、(ああ、ここも古墳だな)と、こんな歴史オンチなおばさんでも一目でわかる、大小の小高い丘があちこちにあります。

こちらの北には国の史跡である『八幡山古墳』。
そしてここ辺りが市の史跡である前橋天神山古墳。
南にはいずれも市の史跡である『亀塚山古墳』と『金冠塚古墳』、そして『文珠山古墳』があります。

吉永小百合さんが出演したJR東日本『大人の休日倶楽部』のテレビコマーシャルに登場した『大室古墳群』も前橋市にあるものであります。

この飯玉神社さんへと訪れる前に参拝させていただいた、前橋八幡宮さんもやはり古墳の上に。


前橋市もですが、太田市なども古墳が多くて、なんでも昭和十(1935)年に行われた悉皆調査では、県内全体で実に八千四百を超える古墳が記録されているといい、吉永小百合さんのCMでは一万三千基とおっしゃっていました。
CM内で「古墳王国群馬」という台詞があったくらいですので、全国的にみても数の多い方なのでしょう。


今は…全国的には知名度の低い群馬県ですが、かつては栄えた時代もあったようです。



No.161

こちら前橋市広瀬町の『飯玉神社』さんは、四世紀頃の東日本最古の『前橋天神山大古墳群』の中心に位置し、こちらの社殿自体も一古墳上に鎮座しております。

古代、この地方一帯は大豪族『上野毛』氏の領地であり、豊かな田園が広がり、東国の一大文化圏でありました。
平安時代、朝廷により記録された『上野国神名帳 』にある『毛野明神』とはこちらであったであろうと言われています。

この辺りは『後閑郷』と呼ばれ、非公田の土地であったといいます。
『後閑』とは有力豪族が都に上り、朝廷に仕え、退官後、郷里に帰り先祖の墓所の近くの土地で、閑に暮らす地名と云われています。
それゆえ、こちらは【後閑飯玉神社】ともいわれます。

室町時代初期、関東地方を襲った台風による大洪水及び、幾多の天候不順のため凶作が続いたといいます。そんな困窮の中、藤原氏一門の所領地(利根庄)に祀まつられている『五穀豊穣の神』【保食命(うけもちのみこと)=宇気母智命(うけもちのみこと)】さまを新たに合祀して、稲魂(いなだま)を語源とする【稲玉明神】と改称されたといいます。


以上が広瀬町の飯玉神社さんのホームページに書かれた御由緒であります。
いつの頃から〝飯玉神社〟を名乗るようになったかはその御由緒では触れられておらず、その辺りは不明であります。

境内社としてお祀らされている【霧島稲荷神社】さんは飯玉神社を名乗る以前から御祀りされていたようです。


というわけで、たしかに、古くから境内社には〝稲荷社〟がお祀りされていたようです。

さらには、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)さまが食物神であらせられることから習合するようであります。
また、伊勢神宮の外宮に祀られる豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)さまとも、食べ物の神さま、農作物の生成を助ける力をお持ちであることから習合される=同一視されることがあるといいます。

そして。
やはり穀物の女神『宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)』さま=稲の神さまということから、稲荷神と習合、同一視されることもあるといいます。


なるほど。
それで狛狐さまでありましたか。

No.160

ここになら車を停めていいであろう。
境内の片隅に車を停めて。

車を停めたところから右側に鳥居がみえ、正面には御神木が見えます。
鳥居を目指します。
鳥居の前で深く一礼し、…ん?
ん、ん〜っ?
…大きな狛狐さまが参道左右におられます?

こ、狛狐さまって…どういうこと?

私は軽くパニックです。
私、長いこと神仏に関わることなく生きてまいりましたばちあたりなおばさんですので、神さまのこと、仏さまのこと、存じ上げないことがほとんどで。
なのでせめて、今日これからここ、こちらの神社さんに参拝させていただこう、という時には、ネット等を使って主祭神さまは調べていくこととしております。
…とはいえ、あまり調べてしまいますと、なんだかその初めての参拝に心弾むものが少し削がれてしまいそうで、場所と主祭神さまを調べるにとどめるようにしてはいるのですが。

えっ?
飯玉神社さんって稲荷神社さんなの?

いやいや、こちらの前橋広瀬町の飯玉神社さんのホームページを開いたのです。
間違いようがありません(…たぶん)

もう一度見上げ直します。
…やっぱり狛狐さまで。
しっかりしたガタイの、大きなおキツネさまであります。

ええっ?!


ま、まぁ、飯玉神社さんの主祭神は保食神さまであることは間違いなくて(おそらく)、そもそもが主祭神さまがどなたでも、私のお参りの仕方が変わるわけでもなく。
いざ、ゆかん、飯玉神社さんの拝殿へ。

No.159

あらためまして、群馬県前橋市に御鎮座されます【飯玉神社】さんに話を戻します。
…と申しましても、実は【飯玉神社】さんは前橋市だけでも六社ある神社さん。

飯玉神社さんは【保食神】さまを祭神とする神社であります。

この飯玉神社の総社は群馬県伊勢崎市堀口町にあり、正式には『那波総社飯玉神社』と言うといい、上野国(群馬県)・武蔵国(埼玉県・東京都)などに存在する『飯玉神社』・『飯福神社』の総本宮であるといいます。

と申しましても、群馬県内でも飯玉神社さん、あるいは飯福神社さんの鎮座されている地域は限定されているようで、伊勢崎市、佐波郡玉村町、太田市、前橋市、高崎市、藤岡市と限られた地域にお祀りされているようです。

ナビに入力しても前橋市だけで六社あるため、どちらの飯玉神社さんをお参りしたいのかを明確にしないと、参拝先で(…?)ということになるかもしれません。

とはいうものの、私の場合、いつもそばを通りながら、車を停めるスペースの問題でなかなか参拝できずにおりました、前橋市広瀬町に御鎮座される飯玉神社さん、ですので、場所に迷うことは(滅多なことでは)ありません。


No.158

などと。
前レスを書いてしばらくして。

仕事の休み時間の息子から電話がありました。
「宅配、届いた?あれ、開けてみて」
と、それだけ。

開けてみると。
だいぶ前に欲しいと言っていた南部鉄の風鈴でありました。

息子にはそんな私の内情など一切伝えたりはしていないのですが、どこか暗い様子を感じとったのでしょうか。

その音色がまたなんとも素晴らしい。
私の心の憂さなど洗い流すかのような澄んだ高い音色です。

しかしながら本日はあいにくの無風。
手に持って鳴らし仕事から帰宅した息子にその音色でお出迎えしました。
いまだに30℃を超える室温でありますが、今日は心地よい眠りにつけそうです。

No.157

先日、とある方に言われた一言を引きずり、重い気分で過ごしています。
何日経ってもどうしても気持ちが晴れず、こんな時頼りにしている方を頼ってお電話を差し上げてしまいました。
…他人の愚痴など聞きたくはない、ですよね。
わかってはいても苦しくて…。


『愚痴』の『痴』は〝ヤマイダレ〟に〝知〟。
仏教では凡夫の智慧を仏の智慧と区別して『識』というのだといいます。
ものの道理をわきまえないから、いろんな悶え、悩み、すなわち『煩悩』がうまれ、『愚痴』はものの真理を知らないから起こるのだと、そう説いています。


たしかに。
歩く煩悩おばさん、歳ばかりとってものの道理、わきまえていないなぁ。

でも、その、私が言われてずっと引きずるような一言を夫に伝えたところ、激怒しておりました。
私たち夫婦とはことごとく考え方や生き方が異なる御仁であるようです。

毎日お唱え申し上げている『般若心経』に説かれている『空』。
少しも理解していない証です。

まぁ、理解できてこの世を去るとも思えないのですが、もう少し、素直に、純真に生きたら、その真理に近い生き方となるのだろうなと思うには思うのです。

要は穢れている。


罰があたっている?

その方と出会うべくして出会っている?
嫌な思いをして何かを学ぶ?という事なのでしょうか。

うーむ。
修行、だな。


あー、でもやっぱり嫌だぁ。
その方の理不尽な言葉も、その方も。

煩悩おばさんの独り言、でありました。
煩悩から生まれた愚痴という名の…。


No.156

この日はやはり以前から参拝に行きたいと思っていた群馬県前橋市に御鎮座される【飯玉神社】さんへ参拝させていただきました。

実はこちら、団地内にあるかのように見受けられ、団地間の駐車場と駐車場の間に参道があるのです。
その参道もあまり広くはなく、奥に駐車場があるかどうかも、やはり団地に囲まれているせいで、境内の様子がまるでわからない。

路上駐車もむずかしく、近くに大きなショッピングモールやスーパーなどもありません。
前を通るたび、心惹かれつつも参拝できないことを心の中でお詫び申し上げ通りすぎておりました。

こちらの神社さんの存在に気づいてから実に五〜六年。
まさにようやくの参拝でありました。

実はこの辺りに住む方とたまたまお話しする機会があり、「駐車場がなくて参拝したいと思っているのだけれど…」と申しますと、
「ああ、あの入り口から入って行けば駐車場あるんですよ」
とおっしやるではないですか!


実はかつて、すぐそばに路駐してその参道の様子を見てきたこともあったのですが、車一台通れるくらいの感じは見てとれたものの、その先駐車場という感じは無く見え…。
心惹かれるという事はなんらかのご縁があるような気がして、ずっと心に引っかかっておりました。

そうなんだ✨。

と、いうわけでようやくの参拝。
考えてみればここ何年かはさまざまな御朱印を出されていたりで、ということは参拝の方が多い、という事で、なんならお電話差し上げて聞けばよかったのですよね。

教えてくださった方によると「無理やりいく感じで行くと駐車場があるんです」と。
…神社さんに無理やり突入するのもなにかな…とは思ったのではありますが、たしかにちょっと無理やり感がいなめない。

大きな御神木を見上げる形で、ガクンという段差を乗り越えて。


…駐車場とはあまり言えなそうな、停めさせていただいていいのかな?というスペースがありました。
停める位置、方向等、しばし悩みながら、ようやく、…まさにようやく【飯玉神社】さんに。

No.155

こちらは明るい、開けた心地よい気の満ちた、何度も来たい神社さんでありました。
…何度かナビのある車で来れば、覚えられ、来られるようになる気がいたします、…たぶん。

まぁ、この人混みの嫌いなおばさんは、間違いなく初市、ダルマ市には来ないでしょうが、ね。
そもそもがこちらの駐車場、十台は停められなかったし…。
えっ?
そういう時には特設の駐車場があるはず?
いやいや、本当に人混みや、並ぶこととか好きではなくて…。

…再拝、できるといいなぁ。

そうそう、ダルマといえば…。
群馬県はダルマの生産量、出荷量が日本一。
高崎の縁起だるまが有名です。

まぁ、私、そんなダルマで有名な群馬県に住みながら、いまだかつてダルマを購入したことは一度もありませんが。


ちらっと頭をよぎったのは、(達磨さんって、元々は仏教僧なのでは…?)と思ったこと。
まあ、ここでのダルマ市が始まった頃は江戸時代。
神仏習合の時代ですし。
お祭り、で、市、ですからね。



ここで訂正したいことがありました。

社務所の戸はカラカラっと開けるサッシの戸、ではなくて、大きな丸い押し手の付いたガラスのドア、でありました。
お詫びして訂正いたします。


No.154

境内に『達磨御焚上発祥之地』と書かれた石碑がありました。
おお、こちらがダルマのお焚き上げを最初に始めた神社さんでしたか。

前橋の年の初めを飾る『初市まつり』通称『だるま市』はこの八幡さまで行われるもの。
なんでもだるまや縁起物など多くの露店が並び例年多くの人で賑わうといいます。
この初市の起源は元和三(1617)年に開かれるようになった六斎市であるとされているといいます。
日常雑貨の市と正月の生糸の市が融合した市がこの初市の起源と言われているのだそうです。
厩橋(前橋)城主、【酒井重忠】候の時代から四百年以上続く伝統行事なのだといいます。

この祭りの幕開けは八幡宮境内で執り行われる神事で、その後、一年間の役目を果たして持ち込まれた古いだるまを燃やす『お焚き上げ』の供養が始まるといいます。
この火に当たるとその年の一年、無病息災の御利益があるとされています。

八幡宮の公園があまり何もなくただ広い空間に見えたのはこの為でしょうか。
青々とした緑豊かないかにも心地よさそうな、憩いの場といった感じの公園で、この日も熱い日でありましたのに、長いことベンチに座る方もおられ、どちらかというと大人の方たちが多く来られる公園のようです。


拝殿のみぎてに並んで【美保大國神社】さんが鎮座しています。
その手前には、新しそうな『百度石』とされるものが置かれていました。
…お百度参りに使うもの、なのでしょうが、使い方などは一切書かれてありません。
数字が刻まれているわけでもなく、たしか方位が刻まれていたような…。

ここを起点として百度繰り返し繰り返しお参りする石、なのでしょうが、本当に起点でしかないように見受けられました。
石を置くとかいう場所があるわけでもなく、そろばんのような数を覚えておく何かがあるわけでもありませんでした。

私などは十回あたりから何度お参りしたのかわからなくなりそうな…。
お百度石の方位の刻まれた(…たぶん)その中央部には御守りが一体置かれていました。


ただ…。
このお百度石、どちらかというと美保大國神社さんの前に置かれているような…。
八幡さまにお参りするにはこの石を回ってL字にお参りすることになります。
美保大國神社さん用?

うーん、もしかしたらあまり広くはない社殿のあるところに設置にあたり、ここにしか設置できなかったのかもしれません。

No.153

前橋風土記によると【前橋八幡宮】さんは天安三・貞観元(859)年に、日本三大八幡宮のひとつである、京都の『石清水八幡宮』から勧請し、『在原業平』の子孫である『長野業重』により創建されたといわれているといいます。

また、『国府八幡宮』という一説もあるとのことで、いずれにしてもかなり古い創建であることがわかります。


戦国時代に越後の地より来た『北条高定・高広父子』がこの地を支配します。
八幡宮に土地寄進状・諸役免許状を出した際、「当地厩橋八幡宮」と記載され、この『厩橋』という言葉が『前橋』の地名の由来となったといわれています。

前橋八幡宮を代々の城主が崇拝し、庶民も同じように崇めてきた神社さんであります。



前レスでの写真は、こちらの境内にあった『サンゴジュ』という木だそうです。
初めて(…たぶん)見たのですが、きれいな紅い実のたわわに実る木でありました。



No.152

いや、どうやらこの古い小さなビル…というには小さな、昭和中期にでも商い等のために建てられた建物こそが社務所のようです。
おそらくは元あった建物を神社さんが転用されたのでありましょう。

ごく普通のサッシの入り口を入ります。
建物を入ってすぐの陳列棚に置かれているものが御守り等でなければ、やはりちょっとした商いをされるお店のような佇まいです。

カラカラ。
サッシの戸を開けて社務所へと。

奥からごく普通のいでたちをなさった女性が出てこられ、対応をしてくださいました。
御朱印は数種類。
夏詣とか、前橋福めぐりとか、カラフルな限定御朱印もご用意されておられます。
変わった御守りは今年の干支のうさぎのぬいぐるみ守り。
ぬいぐるみといっても片手にすっぽり乗るくらいの小さなぬいぐるみです。ハンドメイド感のあふれる可愛らしいもの。
…八幡さまってこんな感じ?
私は普通の、通常版とでもいうのでしょうか、御朱印をお授けいただきました。


さあ、今来た道を歩いて鳥居の方へ向かいます。

石の鳥居をくぐると、大きくて、でもとても可愛らしい狛犬さまがおられます。
そしてその先、ひだりてに手水舎が。

高台に社殿が見え、石段を登ります。
こちらの神社さんの社殿は石垣で積まれた小山の上に建っているのですが、なんでもこの小山は『前橋九号墳』という古墳なのだといいます。
群馬県には大変古墳から多い。
この九号墳、古い時代に改修されたもののようで、元がどんな形の古墳だったかはわからないといいます。

現在の山の形からすると方墳…とも思われるのだといいますが、そうだとすればかなり大規模な方墳だったと思われる、そうです。

その古墳から出土したとされる【伯牙弾琴鏡】という銅鏡が宝物になっていると、石垣のところに写真付きで紹介されてありました。
『伯牙弾琴鏡』は、国内で十二枚出土しているとのことで、群馬県でほかに貫前神社にニ面あるといいます。

…まぁ、この『伯牙弾琴鏡』なるもの、私は初めてその名を知ったくらい、でありますが…。

石段を登ると、真正面に鉄筋コンクリート造りの社殿がありました。

No.151

群馬県庁の近くに鎮座されます【前橋八幡宮】さんに初めて参拝させていただくことができました。

といいますのも、こちら、古くから鎮座されます神社さんであるが故に、どう検索しても駐車場が見当たらない。
県庁のそば、という土地柄、近くにパーキングがあるかとは思うのですが、実はこちら、一方通行の道路に囲まれでありまして。
もはや才能とすら思われる方向音痴の私、しかもナビのない車でこちらを目指そうものなら、ほどなく「メーデー」「SOS」を夫に向けて発信することが確定しているようなもの。

ナビのある夫の車でならと、ようやくの参拝となったわけでありました。

念のためまず八幡さまを目指してみました。
隣に比較的大きめな公園がありながら、八幡さまのものも、公園のものも駐車場がありません。
うーん、やっぱりそうかぁ。


…実はこの八幡さまのすぐ近くに私の主要バンクがありまして。
平日、こちらでいくばくかのお金を積んで、その銀行の駐車場から歩かせていただこうかとまで思ってまいりました。
でもやっぱり、気の小さい私はそれもできず、もう一回八幡さまの周囲を回り出したその時!
何やら立て看板があるのが目に入りました。

ん?
『前橋八幡宮にお越しの方、駐車場と社務所はこちらにあります』と書いてあるではないですか!
ただ、その地図がだいたんな絵で。
鳥居の絵の下に四角が書いてあるような素朴なもの。

ん?、ちょ、ちょっとこれだと推理が必要なんですけど?…いやきっとそれは私だけ。

鳥居の真正面にある細い道を直進すれば良さそうです。

その通りには昔ながらのたばこ屋さんがあり、しかも昔ながらの販売をしておられるよう。
感動です。

えっとぉ、社務所?駐車場?

駐車スペースのある建物は一つ、でも昔ながらの小さなビル、なんですが…。

間違ったかなぁ、地図(?)の見方。


No.149

こちらの境内社十三社とは、それぞれが屋根が葺かれ、鳥居もある社殿であります。
石造りの末社を含めると何社あるか…。


その一つ、聖天宮さん。
正式には聖天宮日高社といいます。
御祭神は、伊邪那岐神さま・伊邪那美神さま・神倭伊波礼毘古神(カムヤマトイワレヒコノカミ)さま・火雷神さま・水分神さま伊邪那岐神さまと伊邪那美神さま、神倭伊波礼毘古神さまの像が三体並んで祀られています。
こちらの像はリアルな色で彩られたものであります。

とにかく明るくて優しい心地よい気が社殿の中からあふれてくるような、私の大好きなお宮であります。

こちらは安政四(1857)年に再建されたもので、造建は、宮中の菊紋を彫った天下一の名工、弥勒寺音八とその父、音次郎によるものといいます。
内部の格天井には優麗な十二面の花鳥画が描かれ、中央には金龍の彫刻が、 また正面欄間には三龍の彫刻が施されています。

この聖天宮正面左側には『李白観瀑』を題材にした彫刻が施されています。
李白は唐代を代表する詩人ですが、流浪の旅の途中で訪れた盧山の瀧を目の当たりに、自然のあるがままの様子に心打たれてただ立ち尽くしたという、その様子が描かれています。

さらに、左側から裏にまわると側面の脇障子に白木のままの彫刻があります。
これが『西王母』
中国の西方にあるという崑崙山に住む仙女。仙女の世界の女王的存在る。
不老不死の薬をもつ神仙といわれ、三千年に一度実る桃(蟠桃)の木を持っており、その実を食べると長寿を得るとされています。

その裏面にあるのが『黄初平』を題材にしたもの。
これがまた表裏が上手く組まれていて実に自然です。
そしてその彫りがまた美しい。
左下に山羊がいます。

黄初平とは葛洪『神仙伝』に載る仙人の一人である。少年の頃、羊を牧していたが、ある時道士と出会い、金華山石室の中にいたり、四十年間にわたり姿を隠していた。
その兄が山中を探し再会した時、羊はどうしたかと尋ねると、山東にいると答えた。兄が出かけてみると白石だけがあった。次に黄初平と一緒に出かけ、黄初平が「羊よ起て」と声を掛けると白石が全て変じ、数万頭の羊になったという。

…ま、まぁ不思議。
仙人さんだから…。
四十年間の間、姿を隠す弟もすごいけれど、その間ずっと探していたのか、四十年目にあらためて探す気になったのか。
そこもまた不思議。

No.148

本殿は荘厳な三間社流れ造り建築(…というのだそう)は、元禄三(1690)年に再建され、随所に施された極彩色の彫刻とともに元禄文化の粋を集めた貴重な建造物、となっております。

両脇には拝観台があり、その彫刻をよりよく観られるようになっております。…すごくないですか?
しかも彫刻の解説も立て看板にしてあるという〝至れり尽くせり〟ぶり、であります。

まずは左面の胴羽目:『虎渓三笑』

儒、仏、道の三賢者が一同に合して話をしたところ、意気投合して、自分たちのいる場所もわからなくなってしまったという故事。
中国での浄土教の開祖である慧遠法師は来客を送る際、精舎(精進する者たちの舎宅)の下の虎渓という谷川で足を止め、川を渡ることをしない戒律「安呉禁足の掟」を守っていました。ところが詩人の陶淵明と道教の大家である陸修静が来訪して、三者でそれぞれの専門分野について話していた時、興が乗じて慧遠法師は思わず、虎渓を越えてしまいました。虎の吠える声を聞いて、それに気づき、三人とも大笑いをしたとのことです。

とのことです。

こちらの本殿は本当に至る所に彫り物。
やはり稲荷神社さんということで狐が多い。
それがもう今にも動き出しそうなリアルで立体的なものなのです。それとなぜかヤギが多く感じられます。おしどり、山鳥、ウグイス、錦鶏、鸞…。


背面の胴羽目:『琴棋書画』
琴棋書画は東洋で古くから教養ある人々に必須の教養とされた四つの芸のこと。

左側が「書」「画」、中央「棋」、右側が「琴」の彫刻となっています。


右面の胴羽目:『商山四皓(しょうざんしこう)』
「商山」は中国にある山の名前。「四皓」はあごひげと眉が白い四人の老人のこと。東園公・綺里季・夏黄公・角里先生生が乱世を避けて商山に隠れた4人の賢者。前漢の初代皇帝・劉邦は自分に仕えなかった彼らが長男に仕えているのを見て長男を皇太子に決めたという内容のものとのことです。

左面の脇障子には降り龍、右には登り龍。


こちらの彫刻は江戸時代のものとは思われないくらい、現代的なセンスで彫られている気がいたします。

No.147

ちなみに。
こちらは稲荷神社さん。
御祭神は宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)となりますが、こちらの社殿・本殿ではさらに
大穴牟遅神(おおあなむちのかみ)
太田神(おおたのかみ)
大宮能売神(おおみやのめのかみ)
保食命(うけもちのみこと)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
品陀和気神(ほむだわけのかみ)
菊理日売神(くくりひめのかみ)
市杵島毘売神(いちきしまひめのかみ)
大物主神(おおものぬしのかみ)
菅原道眞公(すがわらのみちざねこう)
健御名方神(たけみなかたのかみ)
素盞鳴神(すさのおのかみ)
奇稲田比賣神(くしいなだひめのかみ)
天照大御神(あまてらすすめおおみかみ)
祓戸四神
薬師菩薩明神(やくしぼさつみょうじん)(厨子内)

といった神さま方が実に十八柱、お祀りされているといいます。

うーん、す、すごい。


ですが…。
実はこの広い冠稲荷さんの広い境内、社殿・本殿を含めて実に十三もの境内社かあり、それぞれの社でそれぞれので神さまがお祀りされているのです。

No.146

中央に祭られた祭壇の横、左右には隋神さまたちがおられます。

壁には奉納された算額や、豊蚕を祝って奉納されたという明治時代の繭を飾って作られた額などが飾られていました。

…算額の奉納って結構見うけられるものでありますが、算数の苦手なおばさんには何やらさっぱりわからない。
〝和算〟というのが存在することは、かの〝上毛かるた〟で学び知ってはおりますものの、算数のレベルでつまづくような者にはとうてい理解できるものではありません。なにが書かれているかさえ…。

まぁ、奉納するほどの算式を見出せたってこと、なのでしょうかね。
『和算の大家 関孝和』のお膝元群馬にありながら、もうしわけない。

ここで御祈願をすると巫女舞も奉納されていたような…。
以前偶然参拝した際、中で御祈願していた方々がおられ、少しだけ昇殿祈願の様子を垣間見たことがあったのですが、かなり前の記憶なので間違っていたらごめんなさい。

そうそう、三色の獅子頭も祀られていました。
なんでもこの獅子頭、天保五(1834)年に作られたものだといい、無形民俗文化財の獅子舞の際使用されているもののようであります。

参拝を終えてあらためて社殿を見上げますと、懸魚とよばれる部分には白い龍。

その下の部分、唐破風に下は緑色の龍。そしてまた色鮮やかな中国の故事を彫った彫刻が。
なんでも生涯官に仕えず暮らした詩人、とかで西湖のほとり孤山に庵を編んで、妻のかわりに梅の木を、子のかわりに鶴を愛でていた人物を描いたという、…ものだと思うのですが。
ただこの彫り物には人物が三人描かれています。…どうかなぁ?
間違っていたらごめんなさい。

そして拝殿の正面みぎてにはなぜか鹿の首の剥製が祀られています。
左側には三つのお面を飾った額が…この辺はもはやどういった意図でこの額を作り奉納されたかは想像すら出来ずにおります。
…まぁ、おばさんはこのお面の額、好きだったりするのですがね。


…何度かレスさせていただいております神社さんなので、今回は視点を変えて(…あまり変わってはいないかもしれませんが 苦笑)
おばさんが見た冠稲荷さん、というスタンスで書いてみました。(…以前もそうだったような…)

No.145

ようやく拝殿前に。

赤い朱塗りがメインの色鮮やかな様々な彫刻のほどこされた社殿です。
どこから語ったらいいか悩むくらいに見どころがたくさんあります。

あ、まずは参拝を 苦笑。


こちらで何が最初に目につくか。

濡れ縁…などと言ったらお叱りを受けるのでしょうが、まぁ、拝殿前にある濡れ縁のようなものにはいつも必ず美しい生花がいけられています。
これが私はたまらなく好きです。
神社さんに生花が、それも外に活けられているのってそうはお見かけしない…気がするのです。

それでも地元の小さな神社さんでもお花がいけられているところがあるのですが、そこを管理されておられる方のお気持ちがとてもありがたくて、それだけでその神社さん自体が好きになる。

両社ともいつ詣でても萎れた花などないのです。
朝に夕に神さまにお供えしたお花一つにもきちんと心を配っておられるその心意気。

その気持ちを受けて
神さまがお喜びになられ、その花がいつも美しく咲いているようになさっておられることもありましょう。

そして同じく拝殿の濡れ縁(笑)、拝殿への入り口にも小さな石造りの狛狐さまがおられること。
これがもう可愛らしくて、愛おしくてたまらないのです。

社殿が高床であるためちょうど目の高さなこともあるかもしれません。

見上げると、…いつもですと扁額が目につくのですが、今回なぜか拝殿の中がハッキリと見えるのです。

より明るくなった?
お参りされる誰もが拝殿の中も見ていただけるようにと配慮なさったのでありましょうか、拝殿の中全てが見てとれます。

ありがたい。

昇殿して御祈祷をお願いしなくとも、拝殿の中にいるかのようです。神さまをより身近に感じることができる気すらいたします。


拝殿の内部、外陣の欄間に唐子遊びの彫刻が三枚。
こちらも色鮮やかに塗られたものです。
唐子遊び--獅子舞
唐子遊び--竹馬
唐子遊び--…舞? 
白狐のお面をつけた子供を中央に、左の子供は行司の手に持つ軍配のようなものを持つ子と、両の手を頭の上で合わせるように手を挙げている…例えるなら、…古いですが、テレビ『笑っていいとも』の『友だちの〝輪〟』のポーズ。

…相変わらず変な感覚とセンスの持ち主ですみません。


彫刻に色を塗ると変な感じに見える事が多いのですが、こちらの彫刻は素晴らしい色使いです。

No.144

こちらの参道には二の鳥居があり、甲大鳥居や辰巳の鳥居から来た場合にはほんの少しだけ、二の鳥居のところまで戻るかたちになります。
二の鳥居をくぐるとすぐ手水舎があります。
…辰巳の参道から参りますと、みぎてにこの手水舎があるので、二の鳥居にこだわらなければ、ここで身を清めます。

コロナ禍以前はこの手水舎、ペーパータオルと塵箱まで用意されていました。至れり尽くせり、です。

この参道にもまだお参りするポイントが二つあるのですが、拝殿を目の前にしておりますので、私はこちらに詣でたとき、まずは拝殿・本殿をお参りすることを心がけています。

ちなみに拝殿前には義経公由来の御神水の湧き出ずるところがあって、ここも小さなお社が建てられています。
そして狛犬ならぬ狛狐さまは、あの山伏が頭につけてある冠のような帽子をかぶっています。

ちなみに、こちらはどちらの社殿も色美しく鮮やかな色が塗られています。
古びてしまう前に塗装をされているのでありましょうか。
拝殿前にある小さな義経公由来の御神水を祀る社に至っても、です。

No.143

ちなみに、この冠稲荷さんの木瓜は三月中旬から四月上旬、全樹が緋紅色の花で染まる開花最盛期には『春の花まつり』、
九月下旬には木瓜の実りに感謝する『木瓜の実収穫祭』が開催されているといいます。

例によって人混みの苦手な珍道中ペアはこれに参列したことはございません。

またこの木瓜の戌亥(北西)の方角【実咲社(みさきしゃ)】が祀られています。
鳥居の内には六つのお社がありますが、鳥居正面に鎮座されるお社には
『宇迦之御魂神』をお祀りし、このお社が護っておられるように木瓜の木があります。
ちょうど花の時期にはまるで孔雀が羽を広げたかのようにお社の中央を中心に紅い花が咲いているのです。

かつてのスレにも書かせていただいておりますが、こちらはまずその中央の社へ参拝します。
このお社のすぐ近くに小さなボトルが販売されていてこのボトルを持って、社の手前の水を汲みます。

そして左右に並ぶ六つの社の中から、得たい御利益のお狐さまの前にボトルを奉納するのですが、このお狐さまの可愛らしいこと、可愛らしいこと♡

あらゆる良き縁を導く神の使いの神狐たちが見守っています。

ちなみに、このボトルのキャップ(蓋)の部分は持ち帰り、御守として大切に持ち歩くことで神様とのご縁が続くと言われています。


ただこの木瓜の木からは直接『実咲稲荷社』には行けません。

また、木瓜の木の周囲には柵が巡らされているのですが、これがまたただの柵ではなく、ひいた御神籤をくくりつけるようになっているのです。
それがまた干支ごとにくくる柵がある。
至れり尽くせりな冠稲荷さん、であります。


木瓜の木をみぎてに見ながら進むと、また別の参道へぶつかります。
五つある(あくまでも外からのもの、境内の中にあるものはとりあえず含みません)鳥居のうちの一つ『南鳥居』からの参道となります。
ちなみにこの南鳥居からはまっすぐ拝殿前へと連なる参道が敷かれていますので、正しくはこちらから詣でるのでしょうか。

この南鳥居の扁額は以前タレントのタモリ氏が、何かの番組で日光を旅していたとき、立ち寄った、神社仏閣の修理をされる工房で、たまたまこちらの南鳥居の扁額の塗装を依頼されていて、扁額に筆を添えたのが放映されていました。


No.142

この木瓜の木は群馬県の指定天然記念物に指定され、縁結びや子宝伝説のあるものとされます。

【冠稲荷さんの子宝伝説】

境内にある聖天宮が創建されたと伝えられる永禄年間のころ、子供のない婦人が子宝を授け給えと毎朝日参していたそう。

ある朝、宮の前にいた老修験者に祈願の理由を問われ、理由を答えると
修験者は、木瓜の実を採って、これをきざみ煎じて飲めば効験があるだろうと教え、立ち去ったといいます。

婦人は修験者の教えを守り実行し、日参も怠らず過ごしていました。
そのうち効験が現れ、夫婦相和し、数多くの子を授かることができ、またその家も冨に栄えるようになったのだといいます。
夫婦は大願成就のお礼として神苑に木瓜のの木を植えたのだといいます。

冠稲荷さんの木瓜の木はまさにその時植えられたものだと伝えられ、爾来、里人たちにより、縁結びや子宝祈願・子育てにと厚く信仰されているのだといいます。



…木瓜の実って煎じて飲むことができるんだ。
……まてよ?
わが家の木瓜の木には実がなったことがないけれど。
うーん。
ボケたおばさんのお手植えのボケ、だから?
主にあわせてボケている?
…毎年毎年きちんときれいな花を咲かせてくれてはいるのだけれど、なぁ。


そうそう、縁結びといえば、こちらの毎月十五日の月次祭では、縁(えにし)結び幸福祈願祭とし、人と人、幸福や健康などあらゆる良き縁を結ぶ祈願をなされています。
そう、まさに今日。
ただしこの祈願祭、朝7時50分頃~8時25分まで受付な上、8時30分には参殿開始、定員も三十名ということで、定員に達した時点で受付は終了するといいます。

うーん、なかなかハードルの高い。
良き縁を結ぶには努力も必要ということですね。


No.141

この甲大鳥居をくぐると、鳥居の左側に猿田毘古社があります。
猿田毘古神を祀る境内社の1つで、交通安全に御利益があり、ここで乗用車、トラック、オートバイなどの交通安全祈願はこちらでしていただくこととなっているようです。

そのすぐ隣にはペット社殿があります。
御祭神は『薬師菩薩明神』さま、今なお仏さまを神さまとしてお祀りしています。

家族の一員である犬や猫などのペットを健康長寿や病気治癒、交通安全などの諸願成就に御利益がある神社(境内社)と位置付けられています。

今回は息子と二人、相変わらず助手席のおばさんであります。

私どもはこの甲の大鳥居ではなくて辰巳の鳥居から。
こちらの鳥居は朱色ではないコンクリート製。
こちらは辰巳参道と呼ばれる道で、この道を進んでいくとみぎてに白木の綺麗な鳥居があります。
こちらの神社は朱色の鳥居が多いので、このような色の鳥居は珍しいのです。

この鳥居を進むと月夜見宮がありました。
あれ?いつからだろう。
この道から入らないとなかなか気づかないかもしれません。

どうやら群馬県千代田町にあった月夜見宮をこちらに移転したようです。
新しい社殿。ガラス張りの拝殿。
残念ながらこちらの中は暗く、よくは拝見することはできませんでした。

参拝を済ませて、先ほどの道、辰巳の参道を歩いていきますと、大きな大きなボケの木が。

No.140

昨日、前が見えなくなるくらいの雨が降ったり晴れたりと、目まぐるしく天気の変わる中、群馬県太田市細谷町の【冠稲荷神社】さんに参拝させていただきました。

久しぶりの参拝です。
どうも息子はこちらの神社さんが好きなよう。
姉の初めてのお産の時も、こちらで安産祈願の御守りをおわかちいただいてきたくらいですし、今私が使っております御朱印帳も息子がこちらの神社さんのオリジナルのものを買い求め、プレゼントしてくれたものです。

こちらは大きな規模の神社さんで、境内は桜や紅葉、木瓜の花など、季節によって様々なお花を楽しむことができ、明るい気に満ちた居心地よい神社さんであります。

特に木瓜の花は有名で、樹齢四百余年、なんでも五百株が叢生しているのだといい、花の時期には真っ赤な大きな大きなブーケのようです。

日本七(稲荷)社の1つになっている神社で、京都の伏見稲荷大社から御分霊を受けているといいます。

こちらのご由緒は天治二(1125)年 新田氏の始祖 『新田義重』公の父である『源義国』公が創建したと伝えられるといいます。
承安四(1174)年、【源義経】公が奥州下向のおり『冠稲荷神社』が源氏ゆかりの社であることを知り、
冠の中に勧請してきた京都の伏見稲荷大社の御分霊を奉斎。
また、時を経て元弘三(1333)年には新田義貞公が鎌倉幕府討伐のおり冠稲荷神社の前で兜の中に神霊の来臨を願い戦勝を祈願したと伝えられているといいます。
この故事にちなみ、いつしか【冠稲荷大明神】と人々から呼ばれるようになったといいます。

冠稲荷神社は境内へ入る鳥居がたくさんありますが、中でも朱塗りの大鳥居は一番立派で、王道のルートになっています。
この鳥居は高さ12.5メートル、幅18メートル。甲(きのえ)の鳥居と呼ばれ、甲の方角にあり、甲の方角とは寅卯の間、ほぼ東北東を示し、日が昇る東の「神の座」への門となるのだといいます。
朱塗りには魔除けの力があるとされます。

No.139

そのほかにも、引越し祝いに含めて、なのか、引っ越しであるとか、納車であるとかを避ける、という説もあるようです。

まぁ、車のディーラーも近年は結構長いお盆休みをとるので、お盆の期間中の納車はどのみち難しいものとなっていますが…。


こうしてみると会社のお盆休みを夏休みととらえていると、してはいけないこと、避けたほうが良いことを知らずしてして過ごしていた気がしてなりません。

海は土用波だとか、クラゲだとかを考えて、お盆の時期には行かなかった気がしますが、川やプールは行っていた気がしてなりませんし、虫捕りだってどうだったか…。
うちの子どもは、とりたてて虫好きな子どもという子はおりませんでしたが、たくさんの経験をさせてあげたいと思った母=私が率先して虫捕りをしていたかもしれません。
…知らないというのは恐ろしいものです。


そしてあと一つ。
お盆期間中にやってはいけないことのひとつに、『針仕事』も挙げられるのだといいます。

針仕事がなぜだめなのかというと、お供え花で避けたい花の例にあった『棘』と少し意味合いが似ていて、死や怪我を連想させたり殺生を連想させたりするためです。
あるいはダイレクトに『地獄の針の山』、とかも、でしょうか。

また、針を刺すと血が出ますので、仏教では血を『穢れ』として捉えるため、ご先祖様を迎えるにあたって失礼になるためとも言われているのだかとか…。


えっ。
針仕事、してますけど…。
それこそ今、Now。

仕事に着る服の直しとか、時間に余裕をもってできる良い機会なので…。


ほーら、しでかしてる。
しかも現在進行形で!

まぁ…ご先祖さまも慣れた…諦めた?もので、
「ああ、この孫娘は仕方ないよね」とか、思って見守って…くださってる気がしますが。

おっ?
そもそもわが家はお仏壇もないし祭祀承継者でもないからな。
…そういう問題ではない!


はい、反省いたしました。
今後は気をつけたいと思います。

…できるだけ。

No.138

(続き)
【お盆にやってはいけないこと】

7.結婚式や入籍

結婚式や入籍などのいわゆる慶事もお盆の期間中は避けた方がよいことのひとつだといいます。

一般的に慶弔では「弔」の方が優先されます。

結婚式や入籍などのおめでたいことは、日にちをずらすなどした方が縁起的にもよい、ということでしょうか。

…これは私も親から言われたことであります。
そうした事をほとんど言わない、伝えてこなかった母から、であります。
それほど、世間一般の常識となっているものであった、という事でありましょう。

…現代ではどうなのでしょう。

結婚式などでプロに相談しつつ、ということであれば、その方たちからそういった話が伝えられることとは思いますが。

入籍ともなると二人の休みのタイミングか合ったからと、役所に出向くこともありそうな…。

でも…ご先祖さま、良い報告を喜んでくださりそうな気が致しますが、…どうかな?

私のようにお寺さんとも無縁で生きてしまう人もおられるかと思うのです。
そうした知識もないことって増えていくかと思います。
うちの子どもたちもそのうちの一人です。

仏教国でない国籍の違う方との婚姻も増えていると思います。


えっ?
言い訳?
…ですね。

まぁ、かろうじて親から伝えられてはいましたが。

お盆の時期にお見舞いに行こうとして、とか、慶事を行おうとしてとか、のタイミングでないと伝えられないことではありました。

そうでない時って…どんなタイミングでそれを伝えていくのかなぁ。

No.137

(続き)
また、「ご先祖様は虫(トンボ)に乗って戻ってくる」と言われているともいい、そうしたことからも、虫捕りは避けたほうがよいとされるのでありましょう。

【お盆にやってはいけないこと】
3.魚や肉を食べる

前レスの「不殺生」に通じるところで、本来はお盆に魚や肉を食べるのも避けたほうがよいと言われています。

しかしこの現代で、ずっとお供え膳のように全てを精進料理、というのはなかなか難しい。

お魚やお肉をいただく時「私たちのために差し出された、すべてのいのちに感謝いたします」という気持ちがあればよいのではないでしょうか。


4.仏前に適さない花をお供えする

お盆にはお墓やお仏壇にお花をお供えしますが、適さない花もあるといいます。
まぁ、これはお盆だから、ということではなく、いわゆる仏前にお供えするのに適さない花、ということになりましょうが、

◎お供えに適さない花の例

①とげのある花・バラ、アザミ、など
②毒のある花:ヒガンバナ、スズラン、スイセン、など
③香りが強い花:キンモクセイ、など
④花粉が落ちやすい花:ユリ、など 
※ただしユリは花粉を取って使われることも多いです。
⑤つる性の花:アサガオ、クレマチス、つるバラ、など
などだそう。

まぁ、お花屋さんやスーパーなどで仏花を求めればまず間違いはない、のでしょうが、ね。


5.他所のご先祖様にお参りする

お墓参りとは本来、故人や先祖に対して供養をすることや感謝を伝えたり会話をしたりすることです。

ゆかりのないお墓にお参りするのは好ましくないこと、といいます。

まぁ親類の家ならばお参りやお花のおすそ分けくらいは…良いのでしょうね。

6.お見舞い

お盆は亡くなった方やご先祖様の霊を供養するための時期であるため、入院している方へのお見舞いは地域によっては縁起が悪いとされています。

たしかに、これも聞いたことがあります。

ただ、…たしかにお盆時期のお見舞いは避けた方が無難ではありますが、「帰省した時しか行けれない」等の理由がある場合は、ご家族やご本人にお見舞いをしてよいか確認してからお見舞いするとよいでしょう。

もちろんこれには身内の方への通常化しているお見舞いは含まないと思われますが。



No.136

そ、そんなぁ。

お盆の期間中には昔から「やってはいけない」と言われていることがあると言います。

…いまさらお盆の期間にしてはいけないこととか言われても…困りますが。

どれだけの年数、しでかして生きてきてしまったことか。
困ったなぁ。
恐ろしいなぁ。


【お盆にやってはいけないこと】
1.海や川などの水辺に行ってはいけない。

そ、そういえば聞いたことがあるような、ないような…。
お盆に海水浴や川遊びをしてはいけないということ。

たしか土用波という高い波が起きやすく、潮の流れも変わりやすく、水温低下などの変化がみられる時期だから、…だったではないでしょうか。

また、毒を持つクラゲも増える時期であるため、海水浴は避けたほうがよいという説もあります。

川であれば水温が低くなる頃でもあり、豪雨が多く急な増水も多い時期であることから、海、川に限らず、あらゆる水の事故に注意が必要な時期、ということになります。

そして。

昔からよく言われているのが、霊に足を引っ張られるというもの。
これは供養してもらえない霊が寂しさのあまり、水辺に来た人間の足を引っ張るという言い伝えです。

う、うーむ。これは、怖い。


2.魚釣り・虫捕り

お盆の時期は殺生を避けて命を大切にするため、魚釣りや虫捕りなども避けたほうがよいと言われているといいます。

これらの理由には仏教の教えが関係していましょう。

仏教では『十善戒』において、一番初めに不殺生(あらゆる生命を尊重しよう)」が挙げられています。

お盆は仏教の行事ですので、不殺生の教えは守りたいもの。

供えするお膳(霊供膳)も、精進料理となっていますよね。

No.135

前スレで、義兄のことをお墓参りやお仏壇に手を合わせる等、あまり熱心ではなく、いわゆるお盆休み=レジャーの時であった、などと書いておりますが、私どもとて大差はなく。
ただお墓参りや親戚やお世話になった方宅への(主に親世代の、…要は運転手)お線香あげなどをしていたというだけで、私どもにとっても、特に子どもたちの小さな頃は夫と私の夏休みのような位置付けになっていた〝お盆〟でありました。

本来お盆は浄土(あの世)亡くなられた方やご先祖様の霊が現世(この世)に戻ってくるのでお迎えし、家族とともにひと時を過ごし、再び戻られてからの浄土(あの世)での幸せ、つまりご冥福を祈る行事で、仏教徒日本に古来よりある祖霊信仰という風習とが結びついて成り立った行事で、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といいます。
まぁ、お墓参りをして、仏壇に手を合わせたので、よしとしよう的な、自己満足な考えで、お盆という名の家族全員の夏休みを過ごしていた私ども。

舅などは「お盆に墓参りに行ったって、中は空だからな」
などと言っておりましたが、それはそれ、子どもたちに伝えるべき日本の慣習としてなんと言われようと墓参りも欠かさなかった嫁でありました。


ところで。
お盆の期間中には昔から「やってはいけない」と言われていることがあるのだといいます。




…えっ?

No.134

…そうなんです。

この迎え火、私ども夫婦は親からの教え等無く過ごしてきておりましたが、一度夫の兄(次期祭祀承継者)に頼まれてお寺さんに迎え火をもらいに行ったことがありました。
お納めするお金は?
お迎えしたの迎え火はどうしたら?
…わからないことだらけでありました。

やはり長男で次期祭祀承継者は教えられていたのでしょうか。
…どうやらあまり正しくは伝わっていなかったよう。
私たちに頼むくらいですので、お墓参りやお仏壇に手を合わせる等、あまり熱心ではなく、いわゆるお盆休み=レジャーの時であった長男は、父親から直接の伝授を受けることなく、やはり熱心ではない上に自分でやったことのない母親からの伝授となったため、提灯の在処だけしか伝えられてはいなかったよう。

夫の菩提寺さんは自分でお寺に設けられた精霊棚から火種をお受けする方式なのですが、その際お寺さんにお金をお包みすることなく、火種=迎え火をいただいてきていたようで。

それで通っていたなら良いのでは?…いやいや皆さんきちんとお寺さんにお包みしたものを渡しています。
そうでない方は本堂前で手を合わせてお墓参りしてご先祖さまをお連れするようです。いわゆる住宅事情で火を焚くことが出来なくなってからの新しいやり方です。
提灯とかもなく、お墓の前でお灯明をあげて、その蝋燭を以てお仏壇、もしくは精霊棚へ供え火を灯し迎え火とするようです。

「提灯て迎えに行ってその後はどうしたらいいの?」
夫が聞くと、
「提灯の火は危ないからすぐお寺で消しちゃってるし、(実家に)着いたら仏壇でお線香あげればいいんじゃないん?」

…へっ?
そ、そうなんだ。

私どもはさすがにお包みはさせていただきましたが、知らなければやはり母親から聞いた通りにするでしょう。

義父の生前、お盆のお迎えは義父一人でやっていましたし、その間義母はまだ寝ているような人でしたし。

なにしろ義母は義父の初七日の日、私たちに告げずグループ旅行に行ってしまってたような人でしたから。
まあ、初七日法要はたしかに葬儀の際に済ませてしまってありましたが、ね。
子どもたちに誰一人にも告げずに旅行に行ったあたりは、多少の罪悪感くらいはあったのでしょうが…。

やはり義理堅くお線香をあげに来た方がおられて、私どもはただただオロオロするばかりでありました。

…うーん。

No.133

いまさらながらお盆ってと調べたところ、お盆の迎え方について丁寧に書かれたものがありました。
とはいえ私ども珍道中ペアは祭祀承継者ではないので、そこはあくまでも一般知識として知っておくと良いと思うものであり、地域によって異なる点等もあるのではありましょうが。

【お盆の迎え方】

七日
『盆始め』
七日は、七日盆(なぬかぼん)とも盆始めともいい、盆の仕度にかかる日。

七日~十二日
『墓掃除』
草を抜き取り、墓石を洗い浄めます。
掃除した後は、お線香を上げても良いのですが、お迎えに来るまでにお墓をきれいにしておくというもので、上げなくともよい。

十二日(あるいは七日)
『棚つり』
まず、仏壇を掃除し、仏具を浄めます。
地域によって、お仏壇でご先祖の精霊を迎える所と、精霊棚を設けてお迎えする所があります。精霊棚を作って飾り付けをすることを『棚つり』といいます。
この精霊棚は、仏壇の前や座敷などに飾りますが、向きは南向きか、あるいは東向きが良いといいます。

十一~十六日
『棚経(たなぎょう)』
お盆の時期に菩提寺のご僧侶が、檀家や信徒の家を一軒一軒訪ね、精霊棚の前でお経を読むことを棚経といいます。
この時は家族全員が集まり、一緒にお参りをします。

十三日(あるいは十二日)
『迎え盆』
十三日の夕方、ご先祖の精霊をお迎えします。まず、提灯を持ってお墓にお迎えに行きます。
新盆は白い無地の提灯、ご先祖は模様入りの提灯、家紋入り提灯なら両方に兼用できます。
家からはお供え物と花を持って行きます。
お墓でお花を立て、お供え物を供え、お線香を上げてお参りをします。そして、提灯に灯をともして、その灯と共に精霊を家にお連れします。
家に着いたら、庭先か玄関でその提灯の灯で迎え火を焚きます。
家に入って、提灯の灯を精霊棚に移し、お線香を上げて家中皆でお参りします。

十三日~十六日
『お盆の供養』
お盆の間は、親戚の家、過去に大変お世話になった家などをまわり、ご挨拶をし、仏壇にお参りをします。
しかし、自分の家が新盆の年は、余り出歩かないようにしましょう。

十六日(あるいは十五日)
『送り盆』
十六日の夕方、迎え火を焚いた同じ場所で送り火を焚き、精霊を送ります。


No.132

今日は旧盆。

通りすがりの家々や街路樹として植えられたいろいろな色の百日紅を楽しみながら、お墓まいりをしてまいりました。

百日紅(サルスベリ)はミソハギ科サルスベリ属の落葉高木。
結構大きな木になるようです。
中国南部が原産といい、日本には江戸時代に渡来したといわれています。
明るく丸い葉っぱやつやのある白い幹が美しく、花は七~九月に新しい枝の先端につきます。
次々と新しい枝が成長し百日間ほど花が咲き続けることから『百日紅』という名前がついたといわれています。
花の色は赤、濃いピンクや薄いピンク、白があり、真夏の暑い日にも負けずに咲いて目を楽しませてくれる私の大好きな花の一つです。
百日紅は散った花びらすら可愛らしく思われます。

とはいえ、ネズミの額ほどの庭、植えられる木も限られておりますので、自宅には百日紅の木はないのですが。


今日お参りいたしましたお寺の境内にも百日紅の花が咲いておりました。
実は百日紅は、一説に仏縁のある花とされていて、お寺に植えられるようになったそうです。

なんでもお釈迦さまが誕生された時に咲いていた『無憂樹』(ムユウジュ)別名・アショーカ樹の代用として寺院に植えていたと伝えられています。

インドの無憂樹は、赤~橙色の花を沢山咲かせ、花の姿がサルスベリに似ているのだといいます。

インドにおいて無憂樹は、恋愛や結婚、出産にまつわるおめでたい木で、『幸福の木』とされているのだとか。
恋する乙女が無憂樹の根元に口づけをして、花が開くと恋が実るといういい伝えもあります。
また、お釈迦さまが妻であるヤショーダラに出会った時も無憂樹が関係していたそうです。
お寺に咲く木には、色々な伝説が宿っているように思います。

それにしても。
一見ロマンチックな気がいたしますが、無憂樹の根元に口づけって…うーん…私にはムリかな。

それはきっと私がまだ本当の恋を知らないせい、かしら。


ちなみに、毎年毎年、「あの花の名前はなんていうの」と聞いていた夫、やっと覚えることができたよう。
百日紅記念日、でしょうか。

No.131

(続き)
『このギオン祭は今から二百四、五十年前に京都のギオン祭をまねて盛大にやりだしたものらしい。祭はギオンにかぎるというので祭に目のない連中が新規ににぎにぎしくやりだしたのはよかったが、あいにく神社がなかったのである。大国主のミコトはスサノオのミコトの孫子だか弟だかで、また物の本によると同一神の表と裏で、キゲンの良い時が大黒サマ、怒っている時がスサノオだという説もあるから、美和神社で間に合わしちまえ、ということになったのかも知れない。
神サマだの神社なぞはなんでもかまわねえ、大事なのはお祭でいゝというのが桐生のギオン祭発祥の縁起ではないかと私は結論するに至ったのである。
とにかく神社がないのに底ぬけのお祭をやってるところは、ほかに類がないように思う。』



…。
いやぁ、坂口安吾、痛いところを突く。

私などは宵の出御の際、美和神社さんに向かったことに疑問を抱いたものの、(ああ、たしかに美和神社さんの向かって左に神輿舎があった、かも。そこが今の桐生市本町の八坂神社さんなんだな)で完結してしまいました。
実は結構神社さんでは、神輿舎を以て八坂神社と称してそれを境内社とする所があったものだから、ここもその一つかと、思ってしまいました。

それにしても「うるせえな。とにかく八坂神社とよぶんだよ。だから八坂神社だ」、って…。

そう思っていた方にたまたま坂口安吾が聞いてしまったんでしょうね。
うーん、なんとも残念な。


ただ…。
私もこれを書き写してみて思ったことに、神輿舎を以て八坂神社としているのなら、御霊入れ、御霊移しはいらないのでは?
なぜなら、御神輿にお乗りいただいた状態のままお祀りしているから八坂神社と称するのでありましょうから。
うーん。


…うーん。


ま、桐生八木節まつりだし、桐生祇園祭だし、桐生の人のお祭りなのだから、…これで良いのだ。

そうそう、なにより【美和神社】さま、素戔嗚尊さまも御祭神としてお祀りしておられますので。

よかった、よかった。

No.130

(続き)

(そのあとに続けて貼ってあった展示内容)

『私の住む本町二丁目はその都市ができた時からの中心地で、そこの横町は四百年前からの歴史ある横町だ。』

…(この間はかなりの間を空けて、布も変えてありました)


『とにかく迎え火だの先祖の霊がもどってくるなぞという怪談じみた行事は敬遠いたしましょうという桐生の氣風はアッパレで、陰にこもったことは一切やりたがらない代わりにお祭りとくると目がないのである。

七月にやるギオン祭はこの市のメーンストリート本町通の祭禮だ。祭禮の数日間は、このメーンストリートが道路でなくて祭禮の会場となる。

さて、この祭の神社であるが、これが何より珍しいのである。

「桐生のギオン祭は何神社のお祭だい」
「祭禮のチョウチンにちゃんと書いてあるだろう。八坂神社のお祭だ」

ところが私がいくら探しても八坂神社というのが近所に存在しない。
よってミコシのあとをつけたところが、すぐ私の家の裏の神社へ御神体を迎えに行き、祭の終わりにもまたそこに納めに行った。その神社は美和神社というのである。大国主のミコトの神社だ。八坂神社ならスサノオのミコトである。この美和神社は平安朝の神名帳にも記載のあるユイショある神社であった。そこで私はチリメンのおそろいをきているダンナにきいた。

「これは八坂神社じゃないぜ」
「八坂神社とよぶことになっているんだ」
「ちゃんと高札をたてて名のある美和神社だと断り書きまであるじゃないか」
「社が三ツあるから一ツが八坂神社だろう」
「美和神社の隣はコンピラサマ、そのまた隣はエビスサマだ」
「うるせえな。とにかく八坂神社とよぶんだよ。だから八坂神社だ」

(続きます)

No.129

桐生祭りの天王町に、店舗一軒の正面全てを覆うように、飾られた大きな…布製の展示物がありました。

【坂口安吾】
さかぐち・あんご
1906-1955


あ。

ああ、そうだった。
坂口安吾はここ桐生市の本町二丁目に住み、その自宅で亡くなっているんだった。

今はリノベーションして花屋さんになっているのだけれど、その建物は今も残っているのだった。

ただ、無学無教養の私。
坂口安吾の作品は読んでいないのです。

当然坂口安吾について語ることはできません。

が、ここに書かれていた内容を記しておき、今読みかけとなっている一作品を読み終わったら、あらためてこれをみて振り返ろうと思います。

以下は本町二丁目に展示されていた展示物のものとなります。

【坂口安吾】
第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する小説家

『すぐれた作家はすべて最初の人であり、最後の人である。
坂口安吾氏の文学は、坂口氏があってつくられ、坂口氏がなくて語れない  by川端康成』

とありました。
これは青山斎場で行われた葬儀の席で川端康成氏が読んだ弔辞のようです。

しかしながら、坂口安吾は生前、葬式は退屈で不要だから
「バカ騒ぎを一晩やりなさい。あとは誰かと恋をしてたのしく生きて下さい。遺産はみんな差しあげます。お墓なんか、いりません。」
「告別式の盛儀などを考えるのは、生き方の貧困のあらわれにすぎず、貧困な虚礼にすぎないのだろう。」と語っていたといい、
墓は故郷の新潟県新津市大安寺(現・新潟市秋葉区大安寺)の坂口家墓所に葬られたといいますが、墓には安吾の名や戒名は一切印されていないといいます。

新潟市寄居浜の護国神社境内に『ふるさとは語ることなし』の詩碑が建立されているといい、毎年二月十七日には【安吾忌】が催されているといいます。

No.128

台風六号の猛威、そして依然衰えない勢い、進むスピードの遅さ、遠く離れた地からでもその脅威を感じ、その地域にお住まいの方たちのご無事を祈るばかりです。

そしてゲリラ豪雨や命を脅かすような危険な暑さ。

そんな自然の脅威、自然の凄まじい力。(地球の温暖化は私たち人類の知らずして歩んでしまった道によるものではありますが)



しかしながら。
ふと見上げた空に。
人知れず咲く花に。
癒されるのもまた事実です。

恐かったり、美しかったり。

そんな自然の現象を見るにつけ、…生かされているのだなぁと気づかされます。

No.127

今日八月九日は長崎に原爆が投下された日であります。

今年の平和祈念式典は台風六号の接近に伴い、会場を平和公園から屋内施設に変更し、岸田文雄首相や各国代表などの招待を見送って縮小し開催されました。
鈴木史朗市長ら市関係者が参列されましたが、長崎県知事は参列せず、ビデオメッセージを送っていました。

たしかに、県知事は県内での台風被害に対策を講じる必要があるのかもしれない。

だけれど。


戦後七十八年、原爆被災者は最年少者で七十八歳となられています。

決して忘れてはならない、そして何より忘れてほしくない思いを胸に抱えて生きてこられた方々にとって、何ができるかをもう少し考えてみてもよかったのではないかと思わずにいられませんでした。
お気持ちに寄り添う形はビデオメッセージだったのだろうかと。

もちろん、台風による規模の縮小はやむを得ないことと捉えていらっしゃることとは思います。
ですが、規模縮小というのはやはり寂しさの伴うものだということを察しなければなりません。

県知事さんが無理なら、代理の誰かとかは、…無理だったんでしょうか。

たしかに長崎では五島列島に避難指示か出ている状況であるようで、風雨もだいぶ強そうです。


全国的にみたら今回の台風の被害はすでに甚大なものが起きており、しかも起きている真っ最中でありますので、今回の長崎市の判断は適切であったと私も思い、納得してはおります。


ただ…。
そんなモヤモヤした思いが残るものであったのも事実でありました。



そしてあらためて。
ここをお借りして長崎の原爆被害者の方々のご冥福をお祈りいたします。

No.126

この桐生市本町二丁目の祇園屋台前に、二丁目屋台の歴史が書かれた垂れ幕がかけられていました。

なんでもこの二丁目の祇園屋台は明治三十五年に完成したものとのこと。
他の屋台は一丁目のもの以外、三丁目から五丁目までが安政年間に、六丁目のものが慶応三(1867)年、大政奉還の年に造られていました。
つまりは三丁目から六丁目の屋台は安政元年以降の十三年間に集中して造られていたこととなります。

それに比して二丁目は明治も終わろうかという頃になって造られており、一丁目のものに至っては昭和十三(1938)年に造られています。

一丁目の屋台は江戸期、六町会の屋台の先駆けとして造られたものであったであろうと推察されています。
その根拠は現存する屋台の襖絵が文化十一(1814)年に造られたものだから、であります。
今の屋台に使われる襖絵は明治三(1870)年に制作されたものとのことですが、…昭和十三年に屋台は完成した、ということ、ですかね。

一方の二丁目のものはというと、やはり初代のものは江戸期に造られたものでありました。
しかしながら明治十二年の当番町の時、屋台を引き回していた際に大きな事故が起きてしまったといい、その頃ちょうど建造中であった同じ桐生市の『寂光院』さんに譲渡され、御本堂の彫刻として転用されたといいます。

…桐生市の寂光院さんといえば、…以前書かせていただいた桐生陣屋跡でもあります。

なるほど。
歴史は新たなる形で江戸から明治へと繋がれていった、というわけでありましたか。

秩父でも古い屋台の一部を使って建てられたお寺さんがありました。


No.125

(続き)
それはまさに先程、缶バッチをいただきましたもう一つの会所の中に飾られているといいます。
「帰りがけに見せていただいていくといいわ。もう一つの屏風を見てそう言われたと言ってみて」
と。

そして、さらにはその会所を離れて、個人所有で保管されている鳶(とび)の棟梁のハレの日の衣装、祭礼の際に羽織るものが飾られているところと、大幟の装飾としてかつて使われていたという木鼻、木の彫刻の龍の飾られたところまでご一緒くださってそれぞれを説明してくださいました。

なんと優しい、人を大切にする方々がお住まいになっておられるところでしょう。
そして何より、自分のお住まいになられる地を心から愛しておられます。

こんなふうに生きたいな。
こんなふうに暮らしていたいな。

「夜になるとまた趣が一変して、毎日住んでいる私がぽぉっとするくらいきれいなの。もしお時間が許すならぜひお越しになって」

そう、屋台を守っておられた方もそうおっしゃっていました。
屋台もライトアップするといい、そうするとまた違った感じになるとのこと。

たしかに。
他の町会では提灯が下げられていたのですが、二丁目はリリアンの糸のような、…それよりも繊細で細い糸で作られた吹き流しのような飾りが吊るされており、その一つ一つに電球が入っていて、ほの明るい優しい灯りで辺りの…重伝建の建物を照らしています。

古い建物が多いので提灯も似合う街並みでありますが、この飾りはこの街並みに大変似合うものだと思います。


桐生の祇園祭は夜を徹して楽しんだといいますので、夜にも美しい飾りというものを考えた経緯もあったのでしょう。

No.124

(続き)
人と人との関わりとはなんと心に染み入るものでありましょう。
一期一会である出会いです。
この缶バッジにしても私のような者が持つよりも、会所におられた、このお祭りの開催にご尽力なされたこちらの方の方がずっとずっと持つ意味があり、一生の宝とすらなったやもしれない物となりましたでしょうに。
ありがたい、本当にありがたい。

大切にとっておくべきか?
いやいや、お祭りに着けて歩いてこそ、天王町二丁目の方々が喜んでくださいましょう。
さっそく着けて歩き出しました。
『縱樂』の意味は『思う存分楽しむ』だそうで、まさにこの時の私の心そのものです。


おおっ!
祇園屋台に襖絵が飾られ、2階部分には御簾が掛けられました。
昨日観た彫り物も立派でしたが、御簾や襖絵が入るとまた趣がガラッと変わります。
正面だけでなく舞台裏にも、屋台の裏、後ろ手にも襖があって、計三十六枚、波が描かれ、松があり船が浮かび、広がりのある絵でありました。

前夜の宵の出御の際に拝見した龍の描かれた金の屏風絵がもう一度見たくて、もう一つの会所(?)に寄らせていただきました。

ああ。だいすき♡

怪しげに屏風を見つめるおばさんにここでも優しくお声がけくださる方が一人。
こちらは女の方で、この屏風について説明をしてくださいました。
なんでもこの屏風、かつて桐生で有名な藥問屋『玉上家』の襖絵だったのだといいます。

え。

こ、こんなキンキラキンの襖、ですか?
しかも見事な龍の描かれた?

なんでも文化十一(1818)年の狩野派の方の絵で、唐紙として使われていたとのこと。
し、しかも、です、この屏風『六曲一双』とのことで、もう一対があるとのこと。

ええぇっ!

No.123

まずは【大幟(おおのぼり)】と呼ばれる幟旗を。
昨夜は安全と防犯のためにと降ろされていました。

高さ二十メートルの切り出されてきた支柱に、長さ13.5メートル、幅1.8メートルの大幟。てっぺんには神さまの依代として【榊】が取り付けられています。
高ければ高いほど神さまに近く目印となるということでありますが、と同時に近郷に祭りの開始を知らせる合図でもあるといいます。
本町通りをはさんで二対立てられます。
その大幟のはためくたびに鳴る音といったら!ギシギシとかなり遠くからでも聞こえます。
これも電柱の地中化により再び掲揚されるようになったものであります。

六つの町会にそれぞれ六つの大幟があるといい、それぞれ書かれている言葉が異なります。

本町二丁目の大幟には
【護国錫盈豊】【臨民降福澤】
と書かれています。
明治七(1874)年に制作されたものとのことですが「これはレプリカだよ」とおっしゃっておられた方もおられました。
『国を護りてはみなぎる豊かさをもたらし』『民に臨んではあふれる幸福をあめふらす』
と読むとのことで、意味は『国からあふれる恵みを護り、人々が豊かに安心して暮らせるようにのぞむ』とのこと、…よ、よくわかりませんが。

歩いているとそろいの浴衣を方々が手に花傘を持って二丁目の会所を訪ねていきました。
口上を述べると会所におられた紋付の方々がお言葉をかけて、…一丁目の方へ向かって行きました。

さ、エックスキューズミー。

なんでもそろいの支度で各会所を訪ねて本番開始の挨拶をする『付け届け』という儀式だそうです。
あ、特に付け届けの品を届けるようなことではありませんでしたよ。
そういう言葉を使うのだとおっしゃっていました。

私がいろいろ関心を持って質問したことに対し「祇園祭に関心を持ってくださってわざわざお越しくださりありがとうございます」と、深々お辞儀をされて、百個限定で作られたという祇園屋台の扁額の文字『縱樂』という文字の缶バッチをくださいました。
…この缶バッジ、印籠から出され、おそらく個人でいただいた物だったと思われましたので、何度もご遠慮申し上げたのですが、「わざわざ来ていただきいろいろ二丁目のことに関心を持ってくださったのが嬉しいから。お礼の気持ちとしてぜひ受け取っていただきたいからお持ちください」と。

…申し訳ない。
そしてありがたい。

No.122

…おばさん…ずいぶんと力が入ってる?


はい。
そうなんです。

じつはあの、四日の日の、女子にあるまじき台詞を書き込んだわずか十分後、おばさん、熱さにも負けず、ゲリラ豪雨の危機にも負けず、煩悩の赴くままに車に飛び乗っていたんですよね。

…はい、桐生まつりに行ったんです。
まだ完成されていなかった屋台を見に、見落とした(であろう)天王町、本町二丁目お宝を見に。

しかも、です。

四日の夕方に行き、さらには五日の夜にまで。
…地元のお祭りには行きもしなかったというのに…。

正確に言わせていただくと、あくまでも【桐生祇園祭】に特化して。

八木節の盛んな櫓の立つあたりには寄り付きもせず、露天商の屋台には目もくれずに、ひたすら桐生祇園祭を堪能してまいりました。

今まで知らなかった桐生祇園祭。
(…というか一時はほぼ町会役員や祭典委員だけで行われていたようでした)

楽しかったぁ〜っ♡



(↓今年は花の勢いが良く、いつもよりより綺麗にたくさんの花をつけて咲く百日紅の花)

No.121

(続き)
明治三(1870)年に祭りの正式名称も『牛頭天王祭礼』から『八坂祭典』へと変わります。

今、その衆生院の跡地には六階建くらいの市営住宅が建っており、当時の面影はありませんが、新しそうな『八坂神社跡』と刻まれた小さな石碑が建てられていました。

ただ、その市営住宅の隣に小さな御堂があり、衆生院と関係があるのかどうか。
『新田不動堂』という不動堂のようでした。
太田市に『新田不動尊』で有名な『大慶寺』さんというお寺があるのですが、そちらとの関連性も、この御堂を管理されているお寺さんも何もかも不明であります。
隣にある八百屋さんも八百屋としてはもう営業をほとんどされていなそうで、お声をかけるのが憚られてしまいました。

明治中期には屋台は全て桐生天満宮の方向に向けて設営され、さらにはその屋台を動かして曳き違いもされていたようでしたし、二基の鉾も巡行もしていたようです。
しかしながらその後は電柱が増え、巨大な屋台や鉾の曳き廻しが難しくなり祭典への出番がそこでストップしてしまったようです。

明治四十一(1908)年、衆生院跡にあった八坂神社は町の整備で移転することとなり、美和神社さんに合祀されることとなり、美和神社の社殿の傍に八坂大神の神輿蔵が建造されます。

…そうなんです、だ・か・ら!美和神社さんから出御なされるのです。


戦後の昭和三十九(1964)年に
『八坂祭典』と『七夕祭り』、『商工祭り』が統合され【桐生まつり】となったのだといいます。

その後桐生まつりに吸収されてしまったかのようになってしまった『八坂祭典』ではありましたが、平成の時代となりふたたび動きが見られるようになります。

本町通りの電柱の電線が地中化されたことにより、百二年ぶりに【四丁目鉾】が復活したのだといいます。
…そういえばそう、私、それを見に行った記憶があります。それが平成七年だったといいます。

たしかその時はレプリカではなく、明治に作られた、生き人形と呼ばれる素戔嗚尊さまが鉾のてっぺんにお立ちになったのだった…と思います。

No.120

桐生まつりの源流は、桐生新町三丁目(現在の桐生市本町三丁目)にあった衆生院の境内に併設された牛頭天王社の祭りであるとされています。

天正十九(1591)年の桐生新町造営から約六十年後、新町の商家が百四十戸程となった明暦二(1656)年に、本場京都の祇園会に倣い、牛頭天王を祀り、疫病退治を祈願する子供の手踊りが行われ、これが桐生祇園祭の起源とされています。

さらにこの衆生院の隣接地に商売繁盛を願い市神社を造営したといい、その後衆生院の境内には神輿蔵が造られたといいます。
また神輿蔵が造られた頃から、祇園屋台や山車が登場するようになったといいます。
飾り物や祇園屋台で行われる狂言などが年々派手になっていき、桐生の祇園祭は一気に賑やかになったようです。

当時のもので一番古いものが四丁目の屋台だといい、安政元(1854)年のもので廻り舞台になっているといいます。
あの素戔嗚尊を収めている鉾座に、鉾と一緒に常設されていますが、高さ9.2メートルあるという鉾の横に並んでもその大きさ、その豪華さは圧倒されるほどのものでありました。
この素戔嗚尊を祀る鉾を『四丁目鉾(しちょうめほこ)』というようですが、これより先に本町三丁目町会で頼朝公を祀った鉾を造っています。
三丁目の鉾は頼朝公が翁の面を付けていることから『翁鉾』というといいます。
三丁目鉾が文久二(1862)年に造られたのを受けて四丁目鉾が造られたのは明治の時代を迎えてから。明治八(1875)年といいます。

そう。
明治の時代を迎え、神仏分離令を受けて、祇園祭の主祭神である牛頭大王はその地位を失い、素戔嗚尊がこれに取って替わったことをうけて、明治八年に造られた四丁目の鉾は素戔嗚尊を祀ることとなったようです。

明治三年には神仏分離令によりこの祭りの中心であった三丁目の衆生院は廃寺となり、残った牛頭天王社は『八坂神社』となったといいます。

No.119

今から七十八年前の八月六日月曜日の朝八時十五分、一発の原子爆弾により、街は焦土と化し、人々の夢や明るい未来が一瞬にして奪われ、一命をとりとめた方々も、言葉で言い表せない苦難の日々をもたらしました。

毎年八月六日八時より広島市の平和公園で平和記念式典が開催されますが、昨年、そして今年と、広島市の松井市長による平和宣言が私の心を強く打ちます。

この平和宣言を聞くかぎり、真に人の心に寄り添う為政者はかくあるものかと思い、広島市は良い方を市長とされているとつくづく思うのであります。


昨年に引き続き、今年も被爆者の方の証言から松井市長の平和宣言は始まりました。

『七十八年前の原爆投下の日を、まるで生き地獄のようだったと振り返る当時八歳の被爆者は、「核兵器を保持する国の指導者たちは、広島、長崎の地を訪ね、自らの目で、耳で、被爆の実相を知る努力をしていただきたい。あの日、熱線で灼(や)かれ、瞬時に失われた命、誰からも看取られず、やけどや放射能症で苦しみながら失われていった命。こうして失われた数え切れない多数の人々の命の重さを、この地で感じてもらいたい。」と訴えています。』と。

冒頭から一気に聴く人の心をつかみます。

全世界へ、そして日本の政治を行う政府に、政治家に向けて、広島市民を代表して切々と訴えます。


私はこの方の平和宣言をリアルタイムでお聴きし、そのあともその全文を読んで心に刻みます。

この平和宣言の中で、今年も松井広島市市長は日本政府に向けて、

『日本政府には、被爆者を始めとする平和を願う国民の思いをしっかりと受け止め、核保有国と非核保有国との間で現に生じている分断を解消する橋渡し役を果たしていただきたい。

そして、一刻も早く核兵器禁止条約の締約国となり、核兵器廃絶に向けた議論の共通基盤の形成に尽力するために、まずは本年十一月に開催される第二回締約国会議にオブザーバー参加していただきたい。』

と訴えておられます。

〝国〟としての広い視野での政治であれば、簡単には実行に移せないこともあるかもしれません。
しかしながら世界で唯一の原爆被曝国〝日本〟が、【核兵器禁止条約】の締約国でないことの不自然さといったら…。
そしていまだに核兵器禁止条約には署名されてはいません。

全世界に向けて発信されているこの言葉、岸田総理は現場で聴いているのですがね。

No.118

美和神社さんの参道は坂道と石段。その途中に石の鳥居があります。
その石の鳥居、普通に見上げてみると高いもの。
ですが御神輿がくぐるにはそのてっぺんに祀られた鳳凰の飾りものがぶつかってしまうようです。
慎重に、慎重に。
「もっと!もっと下げて!」
見守る世話役さんたちから声がかかります。

かなりの時間をかけてようやく鳥居をくぐり抜けました。

この御神輿、どう見てもかなりの重量がありそうです。

石段の前には長い竿の先に提灯をつけた物を持つ二人が先導役を務めていました。
その先導役の後ろに横一列に男衆の数名が腕組みをしたポーズで、…カメラに向かってなのか…しばしそのポーズで立っていました。

そして。
さらにその石段を御神輿が降りて、…直進しました。
ここは、この道は本町通りと呼ばれる桐生市のメインストリートから美和神社さん、そして秋に行われる『桐生えびす講』のお宮『西宮神社』さんへと向かう参道です。
ちなみに明治三十四(1901)年に、美和神社さんの境内に西宮神社さんが勧請建立されています。

この参道を抜けた左斜め正面に桐生市では有名な矢野商店さんがあります。
本町通りと呼ばれる道を…『左』に。

この桐生市、本町というのは六丁目まであり、その六つの町会が順番で当番制でその年の祭典の中心となる係を受け持つとのことで、その当番町を『天王町』と呼ぶようです。

どうやら今年の当番町は『本町二丁目』のようです。
天王町の二丁目には御假屋(おかりや)もしくは御旅所と呼ばれる、祭りの期間中、御霊の入った御神輿がお休みになる建屋が設置されていて、そこを目指して行くようです。


…なるほどぉ。

ギャラリーも御神輿と共にその御假屋を目指します。

掛け声とかは一切ない静かな神輿渡御です。
この厳かな渡御を『瓔珞付き巡行』、と呼ぶようです。

ようやくたどり着いた一向。
休む間もなく長い、御神輿のかつぎ棒を外し、御假屋に納めます。


はああ。
すごいなぁ。


(↓ 近年、桐生まつりのシンボル的な存在、素戔嗚尊さまの象。鉾と呼ばれる山車の上に立つ)

No.117

ああ、なるほど、…おばさん、御神輿の御霊入れを見たかったわけか。

そう思われたあなた、…正解です。

おばさん、まさにその御霊入れ、この桐生祭りにおいては【八坂大神 素戔嗚尊】さまの御霊を御神輿にお入れする儀式に参列…拝見したかったのです。

しかしながらもうすでに御神輿に素戔嗚尊さまはお遷りいただいており、御神輿を担ぐ法被の男衆たちがその〝時〟を静かに待つだけでありました。
美和神社さんの社殿のある境内はさほど広くはありません。(神社さんの敷地という意味での境内はたいそう広いのでありますが)
そこには男衆たちと世話方の方々、そして私どもを含む見物人たちでいっぱいで。
ですが、ほとんど口を開く方はおらず、大勢であるのに静かに静かに時は流れています。
連日の異常なまでの暑さがここでは嘘のように、肌に汗をかく程ではないほどよい、心地よい、…かつての夏の爽やかな暑さです。

はあ…御神域というのはかくも異なるものなのか…。

しばし時が流れて…。

世話方の方(…たぶん)が「あと○分」とカウントを始めましたが、誰ひとりそれに応じる声すら発しません。
拍子抜けした世話方の方が思わず声に出されたほどです。

いよいよカウントダウンとなっても、ざわつくことなく、「ゼロ!」という声となっても静かにスッと動き出す男衆。
私はそれに深い感動を抱きました。
ただ一人拍子抜けしたのは先ほどの世話役の方。
おそらくは鬨の声ぐらいあがるものと思われていたのでしょう。

担ぎ出してまもなく大きくカーブして、そしてけっこうな下り坂となります。

ゆっくり、ゆっくり。


そしてその先には石の鳥居があります。

No.116

そうなんです。現地に着いてからムクムクと湧いてきた疑問、なんとのん気なおばさんでしょう。
〝宵の出御〟は美和神社さんからと書いてあったのを見ても、なんら疑問を抱かずに現地まで来てしまう…なかなかいないんじゃ無いかなぁ、まぁ、打ち込みミスとかで無いことはあの人だかりを見れば一目瞭然、…でも一体…何故?

そもそも昼間に行われた安全祈願祭は『桐生天満宮』さんで執り行われています。うーん。


などと無い頭を捻ったところで仕方ないこと。
一気に美和神社さんの拝殿前まで駆け上がってまいりましたおばさん、そのいつもとは一変した光景に…ワクワク♡

法被の男衆たちが出御の時を今か今かと待っており、その人垣の向こうに金色の御神輿が!

ん?
あれ?
美和神社さんの拝殿は堅く閉ざされていますが?

あゝそ、そうかぁ。
〝出御〟が八時ならば当然その前に神さまにはお神輿にお乗りいただいているわけかぁ。
…どこまでもどこまでも迂闊極まりないおばさんでございます。

No.115

宵の出御は八時からと、期間前の問い合わせ先に電話して確認をいたしました。
なんとも心躍るではありませんか♡

相も変わらず夫の運転する車の助手席でワクワクしながら目指す駐車場に到着するのを待つだけのおばさん。

思ったよりも同じ方向を目指す車は無いし、私たちの停めた駐車場はガラガラ。
よし!

乗せてもらってきた恩をドアを開けた瞬間から…厳密に言うと夫に虫除けスプレーをかけてあげたのち、スッカリ忘れて、スタスタと闇雲に歩き出す私。
もちろん土地勘など皆無で、ただただ野生の感のみです。
一方の夫はスマホでナビを。
あゝ夫なくしてはどこに到着していたものか。
…まぁ、一応方角も合ってはいたのですがね。

歩くこと数分。




…。
……愕然とする二人。


これをなんと言うんだっけ?…そうそう黒山の人だかり。

ひえぇー、凄い人!!


しかぁし!これに怯むようなおばさんではありません。
〝出御〟、というのだから御神輿が神社さんから出るということで、ところがなぜかみなさんは鳥居の外、…どころか石段の下のさらに道路を隔てた所にいます。
そうまるで出待ち。
!。そうか、出待ちなんだ!

よぉ〜し、もっと近くに、行けるだけ行こう。
えっ?夫はどうした?、ですか?

大丈夫、ついて来ています。

鳥居の前で一礼して、一気に駆け上る私、必死で追いかける夫。


…そもそも、なんで【美和神社】さんなんだ?
〝祇園祭り〟なのだから『八坂神社』さんなのでは?





No.114

とりあえず。

宵の出御に参列して、すっかり桐生まつりの…【桐生祇園祭】の虜になった私。
今回の当番町である(本町)二丁目では四年ぶりの開催ということで大変力を入れて準備をなさっておられました。
行きたい、行きたい、行きたい!

が、こんな出不精で人混みが苦手なおばさんですらそう思った今回の桐生まつり、絶対人出は爆発的なものでありましょう。
ならば人出の少ない昼間の内に…と思っていたのですが、今日は私の扶養をしてくださっている夫が在宅勤務。
お昼ごはんを用意せねばなりません。

そして今現在の、誰もいない…とはいえありとあらゆる戸や窓を開け放ってある、四方が全て開けてある部屋の室温が36℃!
外に出ればほんの少しだけ出ただけで頭が熱い。

曇ってくればきたで、ゲリラ豪雨、雹が怖い。


くそぉ。(出た!下品なおばさんの本性が!)



(↓コロナ禍以前の桐生まつり)
※もちろん私どもは行かなかった。

No.113

再三再四にわたり申し上げておりますが、出不精で人混みが苦手な私ども。
それでもお祭りは好き♡であります。

ただ…コロナ禍となって、全国の様々なお祭りがことごとく中止を余儀なくされてまいりましたのがここ数年。
今年はそれが制限のない状態で開催されることができるとあって、それぞれのお祭りが大いに盛り上がっているようです。

本来なら神事であるため、中止とかはありえないはずで、ひそかに関係者のみで純粋な神事のみを執り行ってつないでこられた〝お祭り〟も多々あったとお聞きします。

しかしながらコロナ禍であることには変わりなく、複雑な思いがよぎらなくもないお祭りとなってはおります。
加えて殺人的な暑さに襲われ、さらにはそれに伴って襲いくるゲリラ豪雨があり、…結局、お祭りに心馳せながら、なかなか出向くことのできないおばさん、珍道中ペアであります。

中でも今年は神馬が走ると噂された群馬県みどり市の【大間々まつり】には、行きたくて行きたくてしかたなかったおばさんでしたが、泣く泣く諦めた状況で。


が!


…行きました。

とうとう、満を侍して!



とは言っても、実際には宵祭りとなるのですが、…群馬県桐生市の【宵の出御】という神事に参列したのですが…。
正式には桐生祭り、正式名称『桐生八木節まつり』の行事としてはカウントされていないもののようではあるのですが。

そもそも昔の人であるおばさんは、かつての【桐生まつり】を知っている人間でありますので、年々派手にはなるものの、なにか、そこにあった侘び寂び(?)を感じられないただのイベントとなってしまったことを憂い、わざわざ出向くことなくなって久しいものとなっていました。

そのきっかけはきっと、名称に「八木節」の文字が加わり「桐生八木節まつり」となったこと、開催日程が8月上旬の金・土・日曜日に変更されたあたりにあるのかと思っています。
それでも子どもたちが小さな頃には浴衣を着せて連れて行ったものではありますが…。

最後に行ったのは…。
それでも平成三十(2018)年、第五十五回の節目を記念して航空自衛隊の飛行隊「ブルーインパルス」の展示飛行が、桐生市中心街上空で行われたとき。
この時ばかりは金・土・日という〝私の〟休みの日に開催日程が変更されたことに感謝したことを覚えています。

あゝ、なんと自己中なおばさんですこと。


No.112

江戸時代、鍵屋と玉屋、二つの花火屋が技術を競っていました。
花火が、夜空に咲くときの
「たまや~」「かぎや~」という掛け声のもとになった業者です。
ところが、玉屋さんは、天保十四(1843)年に火事を起こしてしまい、玉屋は財産を没収され、江戸から追放されてしまいました。

一方の鍵屋さんは、現代の十五代目まで、続いているということです。

…というところまではさすがに教えてもらったわけではありませんが、この父か父方の叔父だったかは、このあと、
屋号って何かとか、花火屋さんってどこにあるのかとか、花火を売っているお店とは違うのかとか、なんで玉屋とか鍵屋とかって名前にしたのかとか、玉って何とか、鍵って何とか、それはそれは超うるさくて超しつこい質問責めにあったことと思われます。

…今私がこれを小さな子供に聞かれたらどれだけを即答できるのか考えたら、…恐ろしいこと、恐ろしいこと!
父か叔父さんごめんなさい。


閑話休題。


長岡市の花火大会は明治十二(1879)年千手町八幡様の祭りに花火350発を打ち上げたのが始まりとされているといいます。
その後本格的な花火大会となったのは明治三十九(1906)年からといいます。
ちなみに現在の『長岡まつり』は長岡空襲からの復興を願い、昭和二十一(1946)年八月一日、長岡大空襲からちょうど一年後に行われた戦災復興祭が始まりだといいます。

そんな長岡市を含む中越地方を平成十六(2004)年十月、大きな地震が襲います。
新潟県中越大震災です。
長岡市を含め中越地方に甚大なる被害をもたらし、多くの方々が被災されました。
長岡まつりでのフェニックス花火の打ち上げは、大震災に負けずに頑張っている中越地方をはじめとする新潟県全体の大勢の人々を元気付けるために、また、一日も早い復興を祈願して、世界一の誇れるような壮大な花火を打ち上げたい、という思いからスタートしたといいます。
更には、世界中の人々の復興とご支援頂いた多くの方々への感謝のシンボルとして、『新潟県中越大震災復興祈願花火フェニックス』をあげているのだといいます。


テレビで拝見するだけでも心弾み心躍る長岡の花火。
一度でいいから行ってみたいと…画面をみると思うには思うのですが…出不精で人混みが苦手な私ども、まぁテレビで鑑賞するのがちょうどいいのかと。

No.111

夏の風物詩の一つに、花火大会があります。
この間は隅田川の、そして今日、明日と新潟県長岡市の花火大会が開催されます。

夜空を彩る花火はそのほとんどが夏で、他の季節に行われることもありますが数は少ないです。

なぜ、夏のものなのか、一説によるとお盆が関係しているといいます。

お盆の入りには、家の軒先で、迎え火を焚いて先祖の霊を迎え、お盆のしめくくりには、迎え火を焚いて先祖霊を送り出しますが大文字焼きのように、巨大なものもあります。

火は、霊の送り迎えには欠かせないものなので、お盆のある夏に花火をする、ということのようです。


隅田川の花火大会もその始まりは、
死者の霊を弔うためのものであったといいます。

江戸中期の享保十七(1732)年、西日本の広い範囲が凶作となり、かの有名な享保の大飢饉となりました。
一説によると、約九十六万人が餓死をしたとされており、さらに江戸では、疫病のコロリ=コレラが猛威を震いました。

事態を重く受け止めた徳川八代将軍吉宗は、死者の霊を弔うために
【川施餓鬼(かわせがき)】を行いました。川施餓鬼とは水死した人の冥福を祈り、有無縁者の亡者のために、川で行う施餓鬼供養です。

さらに翌年、両国川開きには、『川施餓鬼』と合わせて水神さまを鎮めるために『水神祭』も実施します。
これは、かつて都市部の河川が、疫病を流行させる要因となっていたから、だといいます。

その際に、花火師の六代目鍵屋弥兵衛が、慰霊と疫病の退散のためにと、花火を打ち上げたのが『隅田川花火大会』のルーツだといいます。

私の祖父母の代には花火を観ては
「たまや〜っ」
「かぎや〜っ」
という合いの手を入れる人がおり
「花火を見るときは『たまや〜っ、かぎや〜っ』って言うんだよ」
と教える人もおりました。

ええ、私にそんなことを教えてしまった大人は、「何故?」「どうして?」としつこいくらいに聞かれたものです。

そんなとき大人は、
「そういう決まりなんだよ」とか言う人もいたりします。
でもとりあえず私に教えた…記憶によると父だったか、父方の叔父だったか…は、
「これは花火屋の屋号ってやつだよ、花火を作る『かぎや』さんと『たまや』さんがあってね、花火が見事だったときに、褒めたりありがとうって思いを込めて言うんだよ」

とほぼ正解な説明をしてくれました。


No.110

ところで。

今月には旧暦のお盆があります。

現在の暦が使われる前の太陰暦では、月の満ち欠けを重要視していて、昔のお盆は『満月』だったのです。
月の満ち欠けカレンダーは旧暦何日かも記されていますので、それを見るとまさにそのウルトラスーパームーンがお盆に当たっております。

仏典では、お釈迦さまのお弟子の目連尊者さまが、餓鬼道(一説には地獄)に堕ちているお母様を救うために、雨季の安居(あんご)という修行が終わる
『七月十五日の満月の日』に僧達を集め飲食を供養し、餓鬼道に堕ちた母を救ったことに習いお盆が執り行われるようになったと伝えられています。

かつてのお盆の行事は、七日の七夕盆から始まり、十五日の満月に行われていました。
昔の人たちは月や星を見ながら亡くなられた方々を偲んでいたのです。

なんだか少し羨ましいような気がいたします。

No.109

わが家のキッチンの一番目立つところに貼られたカレンダーは、DAISOの〝月の満ち欠けカレンダー〟。

とはいえ月の満ち欠けを意識して見ることはほとんど…ほぼ無いのですが、月を見上げるのが好きで、毎年これをめがけて購入しています。
私が夜外出することなどほとんどないので、たまにこれを見て、ああ今日は満月なんだなぁとか思って外に出る目安にはなります。

今月の満月は…?

あ、今日ではないですか♡
ん?
月初めの満月ということは…?

おおっ、やはり!
今月は満月がニ回あるようです。
今日と八月三十一日(木)。
調べてみたところ八月の満月はアメリカで別名「スタージョンムーン」と呼ばれているとのこと。
チョウザメの収穫が最盛期を迎えることに由来しているそうです。

おおっ!しかもニ回とも地球との距離が最も近い【スーパームーン】だというではないですか♡
厳密に言うと、最も距離が近いのは三十一日の方 だといい【ウルトラスーパームーン】となるといいます。

うーん♡


すでに満月。
さっそく早起きな私、朝の月を見に行ってみたのですが、見当たらない。

……。

しかしめげずに涼しいうちにと、草むしりをしてまいりました。


今朝もメダカは元気いっぱい。
エサをあげると飛びついくように食べだします。
涼やかに泳ぐメダカたちも、外メダカなので日中は大変で。
すぐにひなた水なってしまう昨今の灼熱の日差し、おばさんは三つのメダカの棲家を移動する日々を送っております。

No.108

お坊さまの呼び方も困っておりましたが、お寺さんでは結構おうちの方、特に奥さまが対応されることがあり、そもそも奥さまなのか、娘さんやお母さまなのか、お手伝いにお越しの方なのか、はたまたその女性も僧侶であることもあるかもしれません。

むしろこの女性の方への呼称こそが困ったりすることが多いかもしれません。
なぜなら、お坊さまは自分の中で引っかかりはあるものの「お坊さま」という呼称になんとかたどり着いておりましたし。
それでも毎回毎回、失礼はないかと考えて、言葉に詰まって諦めたり、しどろもどろになるくらいですので。

えっ?
とてもエックスキューズミーおばさんの台詞とは思えない?

だって。
道をお尋ねするのとはちょっとわけが違うし。
神仏に関わることなく生きてきた期間が長くて、知らないことばかりですし。

まぁお寺さんですと〝仏道〟という道をお尋ねしているんでしょうがね。

閑話休題。
そんなわけでお寺におられる女性の方の呼称、結構いつも困っているのです。

お寺の奥様をお呼びするのに『坊守(ぼうもり)さん』という言葉があるといいます。
なんでもお寺には『坊舎』という別名があり、この坊舎を守る人という意味で『坊守』さんという呼び方が生まれたといいます。
お寺さんのご住職のご家族を『寺族』といいますが、『寺族の方』とか『寺族さん』よりも『坊守さん』の方がしっくりくるかもしれません。

ただ、そもそもがそれは奥さま限定なのだとしたら、奥さまではない人にそう話しかけるのもまた失礼というもので。

やっぱり今まで通り「あのぉ〜」とかいってその方を直接呼ばなくても良いように話しかけるのが一番なのかもしれません。


また女性のお坊さんも増えてきています。
男女を問わず『ご住職さん』『お坊さま』とか呼ぶので良いのかと勝手に思っております。
ちなみに、女性のお坊さんだけを指す「比丘尼(びくに)」という言葉もありますが、『比丘尼さま』という言い方もなんだかしっかりとこない気がします。
尼寺のご住職さまは「庵主(あんじゅ)」さまとお呼びしてよいようです。

さあ、これでお寺さんに行っても困らな…いかなぁ。
話しかけるのを躊躇するのも、しどろもどろに話すのも何にも変わらない気がいたします。



No.107

お坊さんに対して失礼のない呼び方・NGな呼び方というものを見つけました。
…これですよ、これ!
これこそが知りたかったんです!

とっさに「お坊さん」を呼ぶとき、何度言葉に詰まったことか。
何と声をかければよいか考えすぎてしまって、ただでさえしどろもどろなおばさんがことさらにしどろもどろに、まさにドロドロ。
そんなどんな場面でも使える失礼の無い呼び方!
それは三つほどあるといいます。

まず一つ目は、
お寺の名前に様をつけた「〇〇寺(~じ)・(~でら)様」。
宗派や役職に関係なく使えるといいます。
うーん。
たしかにこれを耳にしたことはあります。お寺さん同士だったり、何か…地域の集まりとかで使われていたような気がいたします。
ただ…少し敷居が高い?

そして二つ目は、「僧侶様」という呼び方、だそう。
お坊さんの階級に関わらず使えるのたいへん重宝する呼び方なようです。

三つ目は、近年広まってきている「お坊さま」という呼び方です。書面にはあまり適していませんが、柔らかい雰囲気の場面など、口頭で用いるだけなら問題はありません。

…ほう、広まっていたものかどうかは知りませんでしたが、…よかったんだ。
変な呼び方かも、ってずっと悩んでいたんです。
でも〝近年〟ということは、やはり呼び方、呼びかけ方に悩んでいた方がいかに多かったか、そしてきっとみなさん、そこにたどり着いたんでしょう。
〝お坊さん〟だとちょっと軽めだけれど、それが〝さま〟になったらどうだろう。
みなさんそう考えたのではないかしら。

うーん、でもやっぱりちょっと緊張する。
顔見知りになったお寺さんでちょっと話しかけてみようかしら。

No.106

【住職】とは。

『住職』はお寺に住み込みで勤めておられ、お寺の管理や維持運営も行なっている僧侶のことを指しています。
『住職』と呼ばれるのは一つのお寺に一人だけ。
そのお寺の責任者(代表者)です。

住職の補佐や住職見習いを務めている僧侶は『副住職』と呼ばれます。
僧侶が一人だけのお寺であればその方がご住職ですが、
注意が必要なのは、複数の僧侶が働いているお寺です。
住職に当たるのは代表者だけなので、他の僧侶をご住職と呼ぶのは正しくありません。


その他、一度は目にしたことのある『法師』という名称。

それから。
高い位にいる僧侶を「大師」と呼びます。大師とは、朝廷から高僧に与えられる称号のこと。各宗派の開祖ほとんどの方が『大師』の称号を与えられています。

指導する立場にある僧侶は『阿闍梨(あじゃり)』『老師』と呼ばれます。
『阿闍梨』は天台宗と真言宗、「老師」は臨済宗や曹洞宗など、禅宗の宗派で使われています。

そして。
実は修行をしている僧侶のことを〝菩薩〟というといいます。
『菩薩』というと、観音さまやお地蔵さまといった仏さま。すでに悟りを開いている方のように思われがちですが、本来の「菩薩」とは、仏道で修行する人を意味します。
…なるほど…。
たしかに仏道で修行なさっておられるのが『菩薩』さまなのは存じ上げてはおりましたが、人として、僧侶として修行をされる方も〝菩薩〟と申し上げるとは、…存じませんでした。

No.105

和尚とは、宗教上の位で、師匠や先生という意味で、人々に教えを説く僧侶のこと、だといいます。

さらに宗派別に。
【臨済宗】
多くは『和尚(おしょう)さん』と呼ばれるといいます。
他に『方丈(ほうじょう)さん』という呼び方もあるといいます。

【曹洞宗】
「方丈(ほうじょう)さん」と呼ぶことが多いといいます。
曹洞宗は臨済宗と同じく禅宗の一派で厳密な違いはないので『方丈さん』と『和尚(おしょう)さん』どちらを使っても問題はないとのことです。

【天台宗】
一般的に『和尚(かしょう)』さん」と呼ばれています。
『和尚(おしょう)』と呼ぶこともありますが、「和尚(かしょう)」の方がよく使われています。

【真言宗】
『和尚(わじょう)さん』と呼ぶのが慣例だといいます。
同じ読み方で『和上(わじょう)』と表記されることもあるとのこと。

【日蓮宗】
「ご聖人(しょうにん)」または「ご上人(しょうにん)」と、呼び方は同じですが、二つの表記が存在しているとのこと。

【浄土宗】
「和尚(おしょう)さん」と呼びます。由緒ある寺院の場合は「御前様(ごぜんさま)」と呼ばれることともあるといいます。


うーん。
これをみな覚えて使い分けるのですか…。
うーん。


もっと一般的に、簡単に、どの宗派で使っても問題ない呼び方が…ないかしら。

No.104

つづいて【僧侶】という呼称。

『僧侶』とは、【出家(しゅっけ)』して仏教の戒律を守り修行をしている人のことで、仏教の修行のために出家した人は、すべて僧侶といえます。
「出家」とは、家庭での日常生活を捨て、修行に没頭すること。
厳密には修行に専念するために一般的な生活をすべて切り離すことですが、僧侶でも結婚をして家庭を持つことが許されていますので、結婚後は自宅を構え、お寺へ通われる方も大勢おられます。
このご自宅が『庫裏』でお寺の境内にあることも多いです。

『在家(ざいけ)』という方もおられます。
会社などで働き、家庭での一般的な生活を営みながら修行をする人のことで、「居士(きょし)」や「在家僧侶(ざいけそうりょ)」ともいいます。
まぁこの辺は殊に初めて訪れたお寺さんで在家の僧侶にお会いする機会があったとしても、なかなかそこまで詳しいことを悟ることは難しいですが。


他にも『和尚(おしょう)さん』『住職』など、さまざまな呼び方を耳にします。
なぜ、数々の呼称があるかというと立場や役職によって、呼び方が違うからだといいます。


【和尚さん】とは
『和尚』とは修行を積んで一人前と認められた、教えを説く僧侶の敬称であるといいます。
戒律を授ける者という意味があり、地位の高い僧侶を呼ぶ場合に使われるといいます。

実は『和尚』は複数の読み方があります。
浄土宗や臨済宗、曹洞宗では、一般に馴染み深い「和尚(おしょう)」という呼び方をしますが、
天台宗では「和尚(かしょう)」、
真言宗では「和尚(わじょう)」と呼ぶなど、宗派によって読み方が異なります。
また浄土真宗では使わない言葉なので、注意する必要がありそうです。


【浄土真宗】では
「ご住職(じゅうしょく)さん」と呼ぶのが一般的であるといいます。お寺の代表者にしか使えないので、他の僧侶は「住職」ではありません。僧侶が複数いらっしゃる場合は、対象者を把握する必要があるでしょう。

No.102

『お坊さん』。
普段は気にせず使っていても、実際に目の前にすると「この呼び方で合っているのか」「ご本人にお坊さんと呼びかけると無作法ではないか」と不安に思うことも少なくありません。
特にこの珍道中を繰り広げている万年初心者のおばさんにとっては…。
さまざまな宗派のお寺さんを巡らせていただいているため、殊に初めて訪れるお寺さんでしたりすると、緊張感も相まって、いつも以上にしどろもどろに。


…そもそも『お坊さん』とか『僧侶』って違いはあるのでしょうか。
ご本人に向かって『僧侶』と呼びかけたことはないのですが、もしかしたらそう呼びかけても良い?
『お坊さん』ってお呼びして失礼はない?
『ご住職』ってお呼びできるのはそのお寺にお住まいで、しかも複数人僧侶の方がおられれば、その中のお一人、ということになりましょう。


今更感は多分にありますが、お盆を前に調べてみました。


まずは【お坊さん】。
『お坊さん』とは僧侶全般の総称で、『僧侶』とは出家して仏門で修行している人のこと。
『坊主』とも呼ばれることがあります。…とはいえご本人に『坊主』という呼びかけはあまりしないかなぁとは思うのですが。
その『坊主(ぼうず)』という言葉は、僧侶たちが集まる僧房で僧侶を取りまとめていた『房主』が語源だといわれています。
また「坊」という文字は、奈良・平安時代に区画された都の地区を表していたとかで、それが次第に大きな寺院に属する小さな寺院を指すようになり、「一坊の主人」という意味から「坊主」という言葉が生まれたとも考えられています。

髪を剃った状態を「坊主頭」と言うのも、僧侶の多くが剃髪していたことに由来しています。

一般に『お坊さん』は僧侶全般を指し、親しみを込めた呼び方となるようです。

No.100

…やられた。

昨日、群馬県ので局所、…とはいえ、人口の密集し、なおかつ企業や県庁所在地だったりと仕事でも人の集まる所で、しかも結構農業も盛んな群馬の大都市に今年二度目の雹が降りました。
前回も、だけれど、場所によってはかなり大粒で、それこそゴルフボール大の物で、このクラスの雹の被害は甚大です。
まさに被弾。

無数の弾丸を撃ち込まれたレベルです。

無事故で過ごしてきた車がありえないくらいボコボコに…。
しかもそれはその時まだ仕事中の息子の車。

年老いても母腐っても母。我が事よりも胸が痛い。


胸が痛いです。




No.99

実際にお坊さまを目の前にいたしますと、どのようにお呼びすればいいか困ってしまいます。
「お坊さん」と呼ぶのもなれなれしい感じがいたします。

またお坊さんの呼び方にはいくつかの種類があり、正しい呼び方は宗派や役職によって違うといいます。

うんうん、そう、そうなんだよぁ。
だからややこしい。

No.98

明日から八月。

私どもの住まうところは旧暦のお盆。
〝お盆〟があることもあったのか、〝じごくのそうべい〟繋がりから〝地獄〟について延々と書き連ねました。
まぁ、それ以前から閻魔堂巡りなどをしていたりもしましたが…。

そんなお盆。
お盆ともなりますと、仏教徒の方、あるいは代々のお墓がお寺さんにある方々はお寺さんに出向き、お墓参りをされたり、施餓鬼会に参列されたりと何かとお忙しいのでありましょう。
私どもは次男坊の家、分家ということで、先祖代々のお墓はあっても檀家ではなく。
お寺さんとの繋がりはまぁほとんど無いに等しいものであります。

だからこそ、と言っては大袈裟ではありますが、困るのが僧侶の方の呼び方、だったりするのです。

代々続く檀家さんですと、それこそ代々続くお付き合いをされてこられた間柄。
子供の頃から知っている方が僧侶になられ、その頃からの呼び名で「○○ちゃん」「○○くん」と呼ばれる様子を見ることもあります。

でも私たちは、子供の頃から通っている先祖代々のお墓があっても、お寺さんには認識されてはおらず、せいぜいお会いすることがあれば会釈してお墓参りして帰るくらい。
…まぁ、私の父方の檀那寺のご住職さまは、一目で私がどの家の筋の者かわかるくらいに覚えていて下さる本当にありがたい、そして本当に本当に稀な方なのだと思うのですが…。

檀家でもなんでも無い私にいつも変わらない笑顔で接してくださるこの父方のお寺のお坊さまを、一体なんとお呼びしていいのか、私はいつも悩むのであります。

またお寺さんを巡らせていただいている私ども、珍道中ペアは、初めて訪れるお寺さんがたくさんあります。そういった先でお話させていただく機会を持てたとき、なんとお呼びしたら良いのか…。
いつも悩んでます悩んではしどろもどろになり、「お坊さま」とお呼びしたり、「ご住職さま」とお呼びしたり。
何が正しくて失礼がないのか、いまだにわからずにいるのです。

実は私の父方の檀那寺さん、どうも庫裏だと思っていた建物が実は庫裏ではなかったようで。
しかも他に庫裏らしい建物は無く。
… だとしたら。
だとしたら〝ご住職さま〟と申し上げるのは正しくはないのだと思うのです。

「お坊さま」って、お呼びしていいもの?
というか…なんだか少し呼びづらい。
正しいならばそれで良いのですが、…正しい?


No.97

(土用餅の続き)

ところで。
お餅を小豆の餡で包む和菓子には、ぼたもちやおはぎがありますよね?

ぼたもちとあんころ餅の違いは?と思いますが、
あんころ餅はもち米のみから作られ、なおかつ完全につきあがったお餅であるのに対し、
ぼたもちはうるち米を混ぜてあったり、半殺しと言って米粒が半分程度残っているものを使っているものもあります。

あんころ餅とぼたもち(おはぎ)を、大きさや形状で区別している地域もあるようです。

なるほど、たしかに。
たしかに中のお餅は粒のないしっとりとしたお餅でしたし、大きさはぼたもちよりもだいぶ小さめの、形はまさに赤福にそっくりなものでありました。


えっ?
もう食べたのか?ですか?

もちろん!
だって今日も茹だるほどの暑さです。
縁起物の食べ物に頼ってでも、この暑さ、なんとか乗り越えねば。

えっ?
食い意地のせいでは?ですか?

…当たりです。

No.96

本日は土用の丑の日。
土用の丑の日と言えば、鰻を食べることで知られています。
ここ連日、鰻コーナーが特設され、鰻が苦手だったり、土用にあまりこだわりのない人間でも、
「ああ、今年の七月三十一日が土用の丑の日か」
と知るくらいです。

また、以前にも書きましたが、鰻に限らず、土用の丑の日には「う」のつく食べ物を食べるとよいと言われているとのこと。

今年は連日の記録的な暑さのせいでしょう、丑の日の前から鰻コーナーには人が多く集まっており、それを受けて、鰻コーナーは拡張までされる始末。
まさに鰻様様、平賀源内様様、でありましょう。

ところで。
そんなスーパーの一角『土用餅』なるものを見つけました。
初めて見るものですが、かの有名な赤福餅そっくりなもの。
珍しい物好きの私と、赤福好きの夫、手に取らないはずはありません。

しかしながらこの〝土用餅〟、なにも謂れ等は描かれておりません。
さぁ、Google先生の出番です。

なんでもこの〝土用餅〟、土用の期間の行事食だといいます。
…私.生まれて初めて見ましたが?それは神仏に関わることなくいきてきていたせい?
夫も初めて見るといいます。
さもありなん、関西~北陸地方での土用の期間の行事食だといいます。

なるほどぉ。


Google先生に教えていただきましたところ、土用餅とは、土用の期間に食べる〝あんころ餅〟のことだといいます。

その昔、宮中では、夏の暑さに負けないようにガガイモの葉を煮出した汁で練ったお餅を味噌汁に入れ、土用の入りに暑気払いとして食べる習慣があったといいます。

これが江戸時代になってあんころ餅へと変わり、現在のような土用餅の風習になったと言われています。


あんころ餅はお餅を小豆の餡で包んだもので、小豆には古くから厄払いの効果があると言われていました。

また、餅は力持ちに通じることから、夏の暑さが本番となる土用の入りにあんころ餅を食べることで、暑気や厄を祓い、無病息災を願ったと言われています。





No.95

その他にも〝地獄〟のつくことわざや慣用句はいくつもあり、

『板子一枚下は地獄』
『聞いて極楽見て地獄』
『地獄絵図』
『地獄で仏に会ったよう』
『地獄の一丁目』
『地獄の沙汰も金次第』

などなど。

地獄の沙汰も金次第、かぁ。

今、物価も上がり、電熱費も高く、生活することが苦しい庶民を、救うフリをして、その実はただ言葉巧みなだけの政治家さんたちは高額なお給料をもらっている。
…。

地獄の沙汰くらい、その罪状に合わせて、平等であってほしいですが。


No.94

ところで。
この【地獄の釜の蓋も開く】という言葉が最近、ネット上で頻繁に見かけられるようになったといいます。 「災いが起こるぞ!」
「収拾がつかなくなる」
「混乱が起こるに違いない」といった意味合いで使う人が多いといいます。
まぁ、こうしたことわざとか慣用句というものも、使っているうちに、年代とともに変化する例は多々ありますので、正しい、正しくはないということに言及するのはやめておきます。

中には「地獄の釜の蓋が開いたような暑さだ」と暑さの度合いを表す人もいるようです。
これはお寺のご住職さまが子供の時分に聞いた話にも共通しそうですが、…ということは、釜の蓋の開いている期間が以前に比べて伸びている、ということですか?

うーん…。

No.93

【地獄の釜の蓋も開く】という言葉があります。

正月の十六日と、お盆の十六日は、
旧暦の、正月十六日と、お盆の十六日は、地獄で鬼が罪人を煮るための釜の蓋を開けて休んでいる日れています。
昔は、この両日を 「十王詣」、または、「やぶ入り」と呼んで、商売をしている家では、使用人に休暇を与え仕事を休ませていたようです。

仏典によると、地獄では、いろいろな釜があり、いろいろな罪を犯した人が、それぞれの罪状でそれぞれの釜の中で長い間、煮られて苦しみを受けるようです。
昔は、悪いことをしないようにと地獄という世界を使って、戒めに用いたのではないかと思います。

お盆は新暦でするところの方が少なくて、日本国中ほとんど旧暦で執り行われますが、はて、この新暦だ、旧暦だという人間界の事情に、地獄界では…ま、当然、旧暦でのこととなるのでありましょうが、かといって正月十六日といえば新暦で。
実は地獄界、人間界の諸事情に合わせて下さっている?

昨日の法話は、ご住職さまが子供の頃に聞いたお話で、
「お盆が暑いのは地獄な釜の蓋が開くからだよ。だからお盆が終わるとまた釜の蓋が閉まるので涼しくなっていくんだよ」
というものがあったというものでありました。

その後続くお話は地獄にまつわる訓話ではなく、この今までに経験したことのない暑さがくると言われているこの夏を健康で乗り切るために努力して過ごしてください、というものでありましたが…。


なるほど、そういう考えもありますか。
ちなみにこの十六日というのはお盆の最終日であります。

そして十六日閻魔大王のお縁日、なのであります。
ご本尊が【閻魔大王】であることで有名な鎌倉の【圓應寺】さんでは一月十六日には【大般若会】が、八月十六日には【水施餓鬼会】が執り行われるとのこと、であります。

No.92

八熱地獄の上から8番目のフロア、最下層に位置するのが無間地獄(阿鼻地獄)です。

最下層の刑期はもやは不明です。『一中劫』という言葉で表現されますが、仏教用語でとにかく長いという意味があります。

お坊さんや尼さん、修行者を殺害した人が堕ちるところであり、そのほかに、

・【野干吼処】
世のために働く賢い人の〝悪口を言う〟と堕ちる小地獄。
火吹きキツネに食べられる。

・【黒肚処】
お供え物を食べたり盗んだりするとこの小地獄へ。
空腹で自分の肉を食べる。

・【身洋処】
仲間と一緒に何度もお供え物を盗んだ罪で堕ちる。
燃える葉っぱで体を削られ、鋭い嘴の鳥につつかれる。

・【閻婆叵度処(えんばはどしょ)】
環境破壊で人や動物の命を奪うと堕ちる小地獄。
おなかが空いてフラフラになったところを大きな鳥に持ち上げられて、落とされる。

・【星鬘処(せいまんしょ)】
お腹が空いて修行をあきらめ人の食べ物を盗むと堕ちる。
ひたすらグツグツ煮られたあと、刀で刺される。

・【一切苦旋処】
教科書を隠して、他人の勉強を邪魔すると堕ちる小地獄。
溶けた熱い銅を目に注ぎ込まれ、さらに指の爪を剥がされ、手足を切られる。

・【十一焔処】
仏像やお寺を燃やした罪で堕とされる。
棒を持った獄卒に追われ、毒ヘビに噛まれる。

…などなど。

こんなのが永遠ともいえる期間続いてやっと次に転生できるわけです。昔の人々が地獄を恐れ、仏様を信仰したのもよくわかります。



No.91

(【大叫喚地獄】続き)

・【異々転処】
商いをする人に嘘をついて、大損失をさせた人が行く小地獄。また、嘘をついて他人の財産を奪った人もここに堕ちる。
精神的な苦痛を与える責めで、家族や愛する人が溶岩で溶かされ、自身も全身を刻まれる。

・【唐悕望処(とうきぼうしょ)】
助けが必要な人を見過ごした人、弱者を助けると言いながら行動しなかった人が行く小地獄。
鉄を溶かした釜に入れられる。

…あらあら、この釜って政治家の人が多くいそうな気がするのは私だけですか?

・【双逼悩処(そうひつのうしょ)】
仲間内の悪口を言って、輪を乱した人が行く小地獄。
熱い牙の生えた虎またはライオンに食べられる。

・【迭相圧処(てっそうあつしょ)】
遺産相続でもめた人、家族からお金を騙し取った人が行く小地獄。
その家族のまぼろしに刃物で肉を切り取られ、食べさせらたり、食べられたりする。

・【金剛嘴烏処(こんごうしうしょ) 】
病人を治療しなかったり、薬をあげると言いながらもあげなかった人が行く小地獄。
熱いくちばしをもった怪鳥に食べられる。

・【火鬘処(かまんしょ)】
裁判で嘘をついた人が行く小地獄。体中をすりおろされる、または鉄板に挟まれ潰されるとも。

・【受鋒苦処(じゅほうくしょ)】 お布施の額にケチをつけた人、お布施をごまかした人が行く小地獄。
獄卒(鬼)によって、隙間がないほど体に暑い鉄の針を刺される。

・【受無辺苦処】
教えを説く人間が間違いを教えた、あるいはリーダーなのに他のメンバーに間違ったことをさせた人が行く小地獄。
熱く焼けた鉄の箸を使って、目と舌を引き抜かれる。

・【血髄食処】
ウソをついて税金を多く取った政治家の堕ちる小地獄。
逆さ吊りで鳥に肉を啄まれ、流れてくる血が口に入り、飲み込むこととなる。

…もはや政治家限定です。

・【十一炎処】
えらい立場を利用してものを盗んだり、人を騙したりすると堕ちる小地獄。
他の亡者が吐いた火で体を焼かれる。

…。
…あれ?これ今話題の…?

No.90

【大叫喚地獄】ともなるとその刑期は実に6,821兆年にもおよびます。
しかしながらその罪状は、…なにやら世間話で往々にして聞く内容だったりするのです。
笑えちゃうような、恐いような…。
そう、大叫喚地獄は嘘をついた人が堕ちる地獄だと言われます。

・【吼々処(くくしょ) 】
自分に良くしてくれた人に嘘をついた人が行く小地獄。
嘘をついた舌に毒を塗られ、口の中に火を付けられる。

・【受苦無有数量処(じゅくむうすうりょうしょ)】
嫉妬や欲望を抑えられず、嘘で相手を貶めた人が行く小地獄。
えらい人にゴマをすることもそこに含まれるようです。
どこということなく体中いたるところから虫が発生して、毒を注入される。
また打たれてできた傷口に植物を植えられそれが体に根をはる。そしてその植物が大きくなると、根こそぎ引き抜かれる。

…受苦、無有数量、という場所の名前一つ取っても、その内容が知れるものですが、これが延々と6,821兆年続くと考えると、まさに地獄としか言いようがないです。

・【受堅苦悩不可忍耐処】
管理職なのに、責任を部下に押し付けた人が行く小地獄。
立場を利用したり、自分の地位を守るためにウソをついたりすることも含まれるもののようです。

体の中に毒蛇が生まれ、毒に犯されながらしかも内側から食べられる。

…なるほど〝不可忍耐〟です。

・【随意圧処】
不動産をだまし取った人が行く小地獄。
刀鍛冶のように、体を焼かれ金槌で叩かれて延ばされ固められる。

…よく…聞きません?
そんなことは無い?

・【一切闇処】
他人の配偶者を無理やり性愛し、誘惑されたと嘘をついたり、しらをきる人が行く小地獄。
頭を割られ、舌を引っ張って足まで割かれる。

・【人闇煙処】
お金があるのに無いと嘘をついて騙しとった人が行く小地獄。
体を裂かれ続ける。

・【如飛虫堕処(にょひちゅうだしょ)】
僧侶の持ち物を盗んだ人、粗末なものを騙して高く売った人などが行く小地獄。
熱く焼けた鉄の犬がたくさんおり、追い掛け回され、最終的には食べられる。

・【死活等処】
出家したふりをした人が行く小地獄。
目が見えなくなり、また逃げられないように手足を切られ、炎の中に放り込まれる。
…現代では珍しいことかもしれませんが、かつては日本でもそうする人間が多くいた時代があったようですよね。






No.89

(【叫喚地獄】続き)

・【普闇処(ふあんしょ)】 安酒を高額で売りつけた人、量に見合わない値段で売った人が行く小地獄。
見えない火で焼かれ、殴られたり、ノコギリで頭から真っ二つに切られる。

…だそうですよ。

・【閻魔羅遮曠野処(えんまらこうやしょ)】  病人や妊婦に薬と偽って酒を飲ませ、窃盗をした人が行く小地獄。
体に火を付けられ焼かれた状態で、足先から頭の先に向かって少しづつ千切りにされる。

…薬と称して自ら酒を飲む夫は?
効能を語れればオッケーとしますか 笑。

・【剣林処】 泊まりにきた旅人に酒を飲ませ、窃盗した人が行く小地獄。
燃えた石がたくさん落ちてきて、切りつけられたようなケガをする。

・【大剣林処】 水のない、人里離れたところで酒を大量に売りさばき、利益を得た人が行く小地獄。
人気(ひとけ)の無いところで酔っ払うと野生動物や山賊に襲われることとなるため、といいます。
刀の林を彷徨い、体が傷つきます。

・【芭蕉烟林処(ばしょうえんりんしょ)】 女性に酒を飲ませて暴行をしようと企んだ人が行く小地獄。
熱い鉄の棒で叩かれ、最後は尿道から毒を注入される。また目が見えなくなり熱い鉄板の上を歩かされる。

…いいですか、企んだ、だけでですよ。

・【煙火林処】 政治家に酒を振る舞い、仕事の融通をきいてもらった人が行く小地獄。
熱い風に吹き飛ばされて罪人同士がぶつかり合う。

・【火雲霧処】 酒を使って人を酔わせて、馬鹿にした人が行く小地獄。
熱い風に吹かれて、体が少しづつ細くなる。

・【分別苦処】 目下の人間に酒を無理やり飲ませ、猟をさせたり、殺生させた人が行く小地獄。
この小地獄は獄卒(鬼)から説教を受けたり、暴行も受ける。いろんな苦しみにあう。



…なんだか、無さそうでありそうな、ありそうで無さそうなことばかりが罪状です。
もちろんあってはいけないことではあります。ありますが…。
…なんでもありません。

ちなみに私はここ何十年と飲酒しておりませ…あ、養命酒を飲んだくらいです。
本当です。

No.88

【叫喚地獄】は852億年もの刑期。

ここはお酒にまつわる罪で堕とされる地獄です。
852億年もの刑期です、重い罪を犯した者であり…ましょうが。
…私は実はこのあたりのところからちょっと笑えてしまうのですが…。

・【大吼処(だいくしょ)】 仏教を学んでいる人に酒を飲ませた人が行く小地獄。溶けた熱い蝋を流し込まれる。

…あのぉ〜、葬儀や法事の際のお清めのお酒は?
これはお清めだからいい?
そもそもこの答えってどなたにお聞きすれば良いのでしょう。
お酒好きのお坊さんにお聞きしたら、「全然オッケー」とか言われそうですが。

・【普声処(ふしょうしょ)】 仏教を学んでいるとき、欲にくらんで酒を飲んでしまった人が行く小地獄。
大きな杵でつかれる。

・【髪火流処(はっかるしょ)】 五戒を守ろうとしている僧侶に、酒を飲ませた人が行く小地獄。罪人は空から降ってくる炎の雨に焼かれる。

・【火末虫処(かまつちゅうしょ)】 酒に水を混ぜ、量をごまかして販売した人が行く小地獄。
四百を超える病気が用意されており、感染し何度も死ぬ。

あれ?
…水割りのお酒は良いんですよね?注文されて提供してるんですものね。

・【熱鉄火杵処(ねつてっかしょしょ) 獣に酒を与え、動けなくなったところを捕まえた人が行く小地獄。
杵で打たれたり、刀で体の肉をちょっとずつ剥がされたりする。

・【雨炎火石処】 象に酒を与えて暴走させ、周囲に迷惑をかけた人が行く小地獄。
火炎に包まれた像の鼻でひたすら叩かれ踏まれる。空からは焼け石の雨が降り注ぐ。

…ぞ、象に?
まぁ、お釈迦さまはインドですから象もおりますよね。
お釈迦さまの生きておられた時代には象に酒を盛り暴走させるような人物がいた、っていうこと、ですよね。
しかもこの地獄、今もある。…ということは…?

・【殺殺処(せつせつしょ)】 女性を酒で酔わせて、性愛をした人が行く小地獄。まずは、男根を引き抜かれる。すぐに再生するので、また引き抜かれる。
永遠ともいえる期間の苦痛。

…。
……。
…気をつけろ!男性陣。

・【鉄林曠野処(てつりんこうやしょ)】 毒入りの酒を飲ませた人が行く小地獄。
鉄の車輪に縛りつけられて回転させられる。鉄のヘビに食べられる。




No.87

というわけで、地獄についてのまとめの続き…というか、まだ書いてもいないし、今後描くかどうかも迷っているのでありますが。


八大地獄のそれぞれの罪状について。

【等活地獄】:殺生
【黒縄地獄】:殺生+窃盗
【衆合地獄】:殺生+窃盗+邪淫
【叫喚地獄】:殺生+窃盗+邪淫
      +飲酒
【大叫喚地獄】:殺生+窃盗+邪淫
      +飲酒+嘘
【焦熱地獄】:殺生+窃盗+邪淫
      +飲酒+嘘
      +仏を信じない
【大焦熱地獄】:殺生+窃盗+邪淫
      +飲酒+嘘
      +仏を信じない+強姦
【無間地獄(阿鼻地獄)】
      :殺生+窃盗+邪淫
      +飲酒+嘘
      +仏を信じない
      +強姦
      +親or聖者を殺害


このうちの等活地獄についてはさらに細かな小地獄の内容まで書いてみました。

小地獄、堕ちたらどれもそれはそれは苦しみしかない内容であります。
それは確かなこと、…なのですが、最初に、〝じごくのそうべい〟のくだりで、そうべい以外の子供向けの地獄について書かれた本を手に取り「やっぱり笑っちゃうんですけど」とか書いておりますおばさん。

笑ってる場合ではないだろう、とは思うのです。

ですが、ですね。

黒縄地獄にあるという、仮病を使って薬をだまし取った人が行く小地獄。
…これって、なんだか笑っちゃいません?

しかしながらその責苦の内容は、さすが、the地獄。
怪鳥が現れて、目や舌を引き抜いていく。最終的には全てを食べられるが、獄卒が怪鳥の糞を集めて元の体に戻され同じ責めを受け続ける、といった大変ハードなものなのですが。

衆合地獄には『覗き』をした人が行く小地獄があります。
えっ、人間ってその気はなくとも覗きになってしまうシーンってなくはないかなあ。
あ、でもあくまでも〝邪淫〟、でしたね。
この『覗き』をした人の行く小地獄は、熱く焼けた鉄の串を何本も突き刺されるのだといいます。
身動きが取れないほど串を刺された後、生殖器を引きちぎられる。
…これは…。
…絶句です。
しかもこれもまた再生させまた同じ責苦を受けることとなる。
衆合地獄ですからその間百六兆年です。

牛と馬を獣姦した人が行く小地獄、羊とロバを獣姦した人が行く小地獄、というものがそれぞれ別にあるといいます。

…えっ?はっ?

No.86


…ちょっとまてよ?

このおばさん、もしかして地獄の…八大地獄=八熱地獄の種類全てを書いていく気なの?


うーむ…。
まぁそれもありかと思うのですが、お読みになられる方には必要もないだろうし、何よりも私の文章力では面白くもないし。
そして書いているおばさん本人も少し重たく、…何より飽きてきた(おい!)。

ここでいったんまとめますと…。



地獄道は輪廻転生における六道、
地獄道
餓鬼道
畜生道
修羅道
人道
天道
のうちの一つ。

地獄には数多くの種類が存在しており、全部で百三十五もあるといわれている。
その中でも有名なのは八熱地獄と八寒地獄。

八熱地獄の種類はその名の通り八つあり、『八大地獄』とも呼ばれる。

八大地獄の中にある
『等活地獄』は1兆6千億年も刑期を受ける。
『黒縄地獄』は13兆年も刑期を受ける。
『衆合地獄』は106兆年も刑期を受ける。
『叫喚地獄』は852兆年も刑期を受ける。
『大叫喚地獄』は6,821兆年も刑期を受ける。
『焦熱地獄』は5京4569兆年も刑期を受ける。
『大焦熱地獄』は恐ろしく長い期間かかる。
『無間地獄(阿鼻地獄)』はもうよくわからないくらい長い。

その八つの中にも小地獄がある。



…ですかね。

普通…かどうか、大きく疑問符のつくおばさんではありますが…、普通に生きていると(たぶん)あまり見かけない『京』って数字の桁、…私はおそらく生まれて初めて見ました。
中身が小ちゃい人間なので小ちゃい世界で生きてるんです、はい。

No.85

(等活地獄のつづき)

・【多苦処(たくしょ)】 動物を虐待して殺生した人が行く小地獄。その名の通り、十千億もの苦が用意されているという。
自分のした虐待と同じような、しかもさらにひどい暴力をふるわれるとも。


・【闇冥処(あんみょうしょ)】 同じく動物を虐待して殺生した人が行くものだが、動物を窒息させたり、押し潰したりして殺すといった具体的な内容が。
暗闇の中、唯一見つけた炎に焼かれ、鋭い風に体を切り刻まれるといったもの

・【不喜処(ふきしょ)】 大きな音で動物を追い立て、殺生した人が行く小地獄。
火を吐く鳥、犬、狐がいて、食べられる。

・【極苦処(ごくくしょ)】 憂さ晴らしで動物を殺生をした人が行く小地獄。獄卒(鬼)に崖から落とされ、下で燃えている炎で焼かれる。

・【衆病処(しゅうびょうしょ)】 感染症が蔓延している小地獄。

・【両鉄処(りょうてつしょ)】 鉄の雨が降り注ぐ小地獄。

・【悪杖処(あくじょうしょ)】 あらゆる拷問道具が用意された小地獄。

・【黒色鼠狼処(こくしょくそろうしょ)】 黒い鼠と狼に少しずつ食べられる小地獄。

・【異異回転処(いいかいてんしょ)】 体の形を保てないほどの遠心力を加えられる小地獄。

・【苦逼処(くひつしょ)】 肉体と精神を同時に苦しめる小地獄。

・【鉢頭麻鬢処(はちずまびんしょ)】 蓮華の花のように体を裂かれる小地獄。
陂池処(ひちしょ) 沸騰した池で泳ぐ小地獄。

・【空中受苦処(くうちゅうじゅくしょ)】 宙づりのまま責めを受ける小地獄。

などなど。


刑が一番軽いとされる等活地獄ですらこれ。
…。


闇冥処に堕ちるという罪状、動物を窒息させたり、押し潰したりして殺すという内容。
一見すると「そんなことはしていない」と思ったりするのですが、たとえば…〝蚊〟。

…押し潰して殺しているんですが…。


No.84

【八大地獄】は八つのフロアに分かれており、下層に行くほど罪が重く、受ける責めも厳しいものとなるといわれています。
八大地獄の別名、八熱地獄という読んで字のごとく、〝熱い〟責めを受けます。

地獄の責めというのは『殺される』ことなのですが、一回では終わらずすぐに蘇生して延々と同じことを繰り返されます。


八大地獄は八階建てのビルに例えるとわかりやすいといわれ、生前に犯した罪によって落とされるフロアが変わってきます。

主な罪状は五つです。
これは仏教で守るべき【五戒】の順守状況が大きくかかわっています。

【不殺生戒(ふせっしょうかい)】:生き物を殺さない
【不偸盗戒(ふちゅうとうかい)】:盗みをしない
【不邪淫戒(ふじゃいんかい)】:性愛をしない
【不妄語戒(ふもうごかい)】:嘘をつかない
【不飲酒戒(ふいんしゅかい)】:酒を飲まない


【等活地獄】

八大地獄の最上階に位置するのが『等活地獄』です。
等活地獄は最も罪の軽い人が落ちる地獄の中では一番ラクなはずの地獄ですが、その刑期はなんと


…一兆六千億年です!


人間の世界(人道)で死んだあと等活地獄に落ちたら、次の転生までに一兆六千億年かかるのです。気の遠くなるような期間です。

さらに恐ろしいのは、そのあいだ受け続ける責めです。等活地獄の責めにはどんなモノがあるのでしょうか?

等活地獄では、同じフロアの人間同士で殺し合いをしなければなりません。参加を拒むこともできますが、その場合は獄卒(鬼)によって殺されます。

しかしながら(地獄で)死んだあともすぐに生き返り、これを一兆六千億年続けなければなりません。

【等活地獄の中の小地獄】

・【屎泥処(しでいしょ)】
動物を殺生した人が行く小地獄。
糞尿を釜で煮て沸騰させた中に落とされる。
…これ、これが『じごくのそうべいらに出てくる『糞尿地獄』、なのでありましょうか?

・【刀輪処(とうりんしょ)】 欲望のために殺生した人が行く小地獄。
火の粉が舞う鉄の囲いの中に入れられ、空からは両刃の剣が降ってくる。

・【瓮熟処(おうじゅくしょ)】 生き物を殺生して煮て食べた人が行く小地獄。ビンに詰められ、ぐつぐつと煮込まれる。
…えっとぉ、…煮て食べてます、数えきれないくらいに…。

あ、必要以上に、ともいわれています。
ほっ。

No.83

「八大地獄』といわれる『八熱地獄』。

八大地獄とはどんな地獄かというと、
【等活地獄】
【黒縄地獄】
【衆合地獄】
【叫喚地獄】
【大叫喚地獄】
【焦熱地獄】
【大焦熱地獄】、
【阿鼻地獄(無間地獄)】
の8つの地獄となります。

No.82

死後の地獄には、なんでも、『八熱地獄』、『八寒地獄』、『孤地獄』というものがあるといいます。
『八大地獄』といわれるのは、八熱地獄のことだとのこと。

『八大地獄』とはどんな地獄か。
お釈迦様が『長阿含経(じょうあごんきょう)』にこのように説かれているといいます。

『八大地獄あり。(中略)
第一の大地獄を想と名づけ
第二を黒縄と名づけ
第三を堆圧と名づけ
第四を叫喚と名づけ
第五を大叫喚と名づけ
第六を焼炙と名づけ
第七を大焼炙と名づけ
第八を無間と名づく。』



…そ、そうですか。
お釈迦さまが。
お釈迦さまが説いておられるくらいのものでありましたか…。

とはいえキリスト教の教えでも〝地獄〟は存在しますし、神道でも〝黄泉の国〟が存在します。

今回はこのうちの仏教における地獄についてを書いていこうと思います。


No.81

「とざい とうざい。
かるわざしの そうべえ。
いっせいいちだいの かるわざでござあい。
こちらの松のえだから、
むこうに見えまする 酒ぐらのやねまで、
みごと わたりおおせますれば、
ごかっさいを。

そうれ。

ベベン ベンベン ペーン」


上方落語の『地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)』を題材に、関西弁を駆使して描く、スケールの大きな落語絵本、
【じごくのそうべい】の出だしです。

田島 征彦さんという方が書かれた、内容も、絵も、大変独特で、初めて目にした時はまさに度肝を抜かれた作品でありました。

童心社さんから発行され、な、なんと発行は1978年だったというから、さらにびっくり。
子供の時、この本に出会っていた…かもしれない可能性すらあったのだから。

ま、子供の時分はさすがに〝夢みる少女〟、この本を目にしたところで手にはとらなかったかもしれませんが。

ロングベストセラー作品で、シリーズ化もされておりますので、ご存知の方も多いのかもしれません、この作品。


地獄の、というくらいですので、当然地獄の様子も描かれていますが、ユーモラスな内容に、その恐さとかはほぼ伝わってはこないものかと思います。
まぁ、〝落語絵本〟ですし。


でもあらためて、地獄ってどんなところなんだっけ?、と思ってみても、せいぜい「嘘をつくと地獄で閻魔さまに舌を抜かれる」とか、『血の池地獄』とか『針の山』とかぐらいしか思い出せず。

地獄ってこういうところだから悪いことはしてはいけないんだよって、子どもたちに伝えるには大変良いもの…なんじゃないかな、と思ったりもするおばさんは、大人になってから…それこそ自分のみならず、自分の子どもたちまでも大人になってから思ったものでありまして、『天国と地獄』という絵本を買ったのでありました。




…これは怖い。
これは恐い。


ま、怖くなければ、そうした心に刻まれるように残るものとはなりませんがね。


あらためて地獄ってどんなとこだろう、と図書館で子供向けの本を手にした私。

…やっぱり笑っちゃうんですけど。

No.80

なんだか暑い気がして、それでも暑さに弱くなったかと自分を疑ってみましたが、念のため室温計見るとな、なんと!驚きの三十六℃。

エアコン、エアコン!

全国の気温も『うなぎのぼり』ってやつなのだろうなぁ。

そんな今日の気温、またも群馬県が全国一、ですか。
一位 群馬県 伊勢崎市 39.5 ℃
二位 群馬県 桐生市 39.2℃
しかも一位、二位独占、ですか。

…私、体温もこんな値になったことがありませんが。
こんな日本一はごめんです。


群馬県知事選では自民・公民推薦の無所属現職が再選しました。
自民・公民推薦の『無所属』って、…もはやそれだけでも『嘘をつく人物』、立派な嘘つきでありますが。

彼は自分に甘い。
県民の暮らし、苦しみが見えない。

でも当選しちゃう、それが群馬県。


おお、あっという間に室温三十℃。
ありがたや、ありがたや。

No.79

御本堂へ至るまでの間に、銭洗弁天さまの祠もあります。
清水で手水をつかい、身を清めるところもあります。

石段は百八十段と聞いています。

懸造りの御本堂の舞台からは関東平野の広がる見晴らしの良いのどかな景色を堪能できます。


今後も折にふれてはこちらを訪れることと思いますが、二年後となる巳年の御開帳に参拝できればと思っておりますので、その際に参拝が叶えばその参拝録を記させていただこうと思います。


弁天池に向かいました。
まずは弁天池の高台に御鎮座する『湧釜神社』さんを参拝し、その後弁天池へと向かいます。湧釜神社さんも宮司さまはおられません。

ちなみに。
なんとこの湧釜神社さんの御朱印は弁天池のほとりの駄菓子と軽食のお店で購入します。
このとても懐かしい駄菓子と軽食のお店の方はどなたもフレンドリーで優しい方ばかりで、そして、なんと!お店の裏手にはヤギを飼われています。


さて。
この弁天池、栃木県指定の天然記念物で日本名水百選にも選定される湧水池であります。
びっくりするほど清らかに澄んだ池には大きな鯉が優雅に泳ぎ、豊かな緑と清涼感を感じる憩いの場として親しまれています。
豊かな樹木に覆われた周囲138mの丸い池は池底が見えるほど水は透き通っており、池に映る青空に鯉が泳ぐさまは、まるで空を飛ぶようにさえ見えます。
この湧水池は利根川水系「出流川」の水源でもあります。

秩父古生層と呼ばれる石灰岩質の地層を通った湧水で、炭酸水素カルシウムを多く含み、硬度は平均76.5mg〜92.5mg/Lの飲みやすい軟水だといいます。

ちなみにこの水は磯崎弁財天さんの御朱印を購入できるホテルの前で無料で汲むことができます。

水温は年間を通して16℃を保ち、水量は約2,400t/日と豊富で飲用のほか、鯉やマスなどの養殖や農業用水にも使用されています。


この磯崎弁財天さんも、そしてこの弁天池も隠れた名所であります。
すぐ近くには釣り堀やボートのある池もありますので、隠れた、というよりは知る人ぞ知る、でしょうか。
かなり遠くの都(道)府県のナンバーの車を見かけます。

ああ、また行きたいなぁ。




No.78

さて。

これは再拝となりますので以前も磯崎弁財天さんについてのレスがあります。前回のレスをお読みくださった方におかれましては、内容が重複したものとなるところもあり、申し訳ありません。(書いております本人は書いた記憶しか残っておらず、前回のレスを見ることなく書いているため、重複している度合いもわからず、本当にすみません)


この磯崎弁財天さんの楼門が変わっております。
赤い楼門の間に装飾として、…なのかもしれまさんが赤い太鼓橋がかけられています。大柄の方でなければあるいは実際に渡れるものなのかもしれません。渡って左右の建物を行き来できる…のかもしれませんが、こちらは一般に開放はなされてはおりません。



また楼門は障子の貼られた建物となっていてとても上品な感じがいたします。いかにも女神さまであります弁財天さまをお祀りする御堂だなぁと思われます。

その楼門をくぐると蛇の像(磯山の大蛇)がお出迎えくださり、その大蛇の像越しに御堂が見えます。

さてその像の左手には可愛い弁財天像があります。
さらにその隣には『風穴洞』があり
、四季を通してその穴から冷風を感じることができます。

蛇の像の右手の階段をのぼって行きます。



ごめんなさい。
暑さのためか(それはどうか…?それもあるか)何度もミスが続いており、削除して書き直しております。都度お読みくださった方におかれましては大変申し訳ありません。

No.76

ちなみに。
御本尊の梵名、『薩羅薩伐底(サラスヴァティ)』の『サラス』は水を意味し、『ヴァティ』は富むの意味で、川や池や湖な ど水を神格化したものとされています。

磯山弁財天さんは十二年に一度の巳年に御開帳の年となるのだといいます。
昭和五十二年(1977年)丁巳には御開帳を記念して社殿拝殿の大改修及び復元がなされました。
最近では平成二十五年(2013年)の巳年に御開帳され、祭典では稚児行列が行われだということです。

普段は無住であり、御朱印はこの近くにありますホテルのフロントでお書き置きのものを購入することとなっています。


山門前の参道にかけられた藤棚のような棚には私どもがうかがったときには風車がたくさん飾られていましたが、七月の半ばにはこれが風鈴に替えられたそうです。

参道を歩く前にも、手前のところに磯崎地蔵尊のお堂があり、またそのそばには水の張られた石の手水鉢があり、二度とも美しい生花の花手水が活けられていました。

また少しずつ水が流れ込んでいる小さな池のには大きな、生きているかのような動きのある白蛇の像が崖のところに這うように祀られています。

No.74

この【磯崎弁財天】さんは天暦ニ(948)年唐沢山城主である藤原秀郷公の勧進によるものとされています。
弘法大師が相州江ノ島辨天にて護摩修行時の護摩の灰にて造られたものと伝えられているといいます。
建立当時は一帯に七宝伽藍が林立し、隆盛を極めていたといいます。 しかしながらその後、幾度かの火災により寺宝はことごとく焼失してしまいました。

現在の本殿は鎌倉時代に再建されたもので、釘を使わない『懸造り』。
石灰岩の斜面に張り出して造られています。

弁財天さまというと水のある所、池やら沼といったところの中洲にお祀りされていることがほとんどでありますが、磯山弁財天さんは山の中程に祀られています。

その昔磯山弁財天さんも弁天池の小島に祀ってあったものを、この弁天池の霊泉の不変の恩恵に浴した出流川沿岸の住民たちの感謝の総意により現在地に奉安したと言われています。
弁天さまを山腹に安置しているのはこの磯山弁財天さんだけだと言われています。


こちらのご本尊さまは梵名を【薩羅摩伐底】と云い、インドの神話より生じた『薩羅摩伐底河』を神格化したもので、 羽衣風の衣装をまとう八本の手を有する天女風の辨財天で頭上に宇賀神像を拝しています。

一説には、歴史の一頁をかざる三城禁止令の発端となった時の唐沢城主が江戸の大火を発見し、早馬にて馳せ参じ一番乗りで殿への御見舞いを言上の際、この火事が眼下に見ていたという一事に依り、殿よりの不信を受け山城廃城の憂目を見たといいます。その際、領民は一丸となり城主の胸中を慰め、また殿への忠誠と不信を取り戻す為に、辨天堂を江戸城鎮護の守り神として山腹に江戸城向きに安置したものともいわれ、御本殿は現在の東京都の方向を向いています。

右側に大黒天さま、左側に毘沙門天さまの二福神、
その他、印鑰童子・管帯童子・筆硯童子・金財童子・愛敬童子・生命童子・従者童子・牛馬童子・船車童子・善財童子・稲紐童子・計升童子・飯櫃童子・衣装童子・蠶養童子・酒泉童子(以上辨財十六童子と言う)が、
弁財天さまにお仕えするかのような姿で安置され、五穀豊穣、商売繁盛など、あらゆる信仰の対象の神として今日に至ります。

No.73

足利市の、足利氏ゆかりの樺崎八幡宮をひだりてに見て、なお直進しのどかな国道を通過しているとき、注意してみていると、山麓に赤い小さな建物が見えます。
それが【磯崎弁財天】さん。

街道から見ると、赤いお堂は見えて来るのですが、すぐ物陰に隠れてしまいます。
道路標識では、赤見温泉経ゆく道路標識があるだけです。
「ここか?」と思う小さな交差点で曲がって、直進すると突き当たり、その道を左に折れてさらに直進するとみぎてにそっと見えてくるのが、…小さな手作りの藤棚のような通路。
そこが磯崎弁財天さんへの入り口、石段へと続く道であります。

ただしその直前にある、小さな駐車場を見逃すとUターンすることに。


この駐車場の辺りからすでに空気が変わります。

この磯山弁財天と出流原弁天池は、実は開設から千年以上も続く名所であり、平安時代の武将藤原秀郷が開いたともいわれているれ歴史的な場所なのです。

No.72

少し前になりますが、栃木県佐野市にあります【磯山弁財天】さんと出流原弁財天池に行ってまいりました。

こちらは二度目。

夫がとても良いところがあるんだと常々申しており、ようやく行きましたところ、夫の言う百倍くらいに良い所でありまして。
「だからすごく良い所みたいだから行こうってずっと言ってたじゃない」と、夫は申すのですが…。

すごく良い所みたいだから、ってただそれだけ言われてもなかなか私の心は動かないって、いい加減覚えてくれてもいいのでは?
なんならシークレット的に連れて行ってくれた方が…。
…いや、夫が言うことに素直に耳を傾ける妻になれって、そうそう、そういうことなんですよね。
すっごく修業しないと、なかなかその域にはいけそうにないけれど。

まぁ、一度行って子どもたちにも薦めたくらいすっかりお気に入りの場所となった私。

ただ、おじさん、…なんだか一度行った所って、どうも「よし、行こう!」ってなりにくいみたいで…。

(愛)妻が「もう一度行きたい!」と言っても、その腰の重いこと重いこと。
秩父三十四観音霊場巡りももう一度と言っても「うん、行きたいね」と言いつつ叶わず。
大洗磯前神社さんに行きたいと言っても、「そうなんだ」と一言返すだけ。

秩父はたしかに三十四カ所全て、となると、一人ではちょっと無理な所もあるにはあるのですが、大半一人でも回れそうですし、そう、この出流原の磯山弁財天さんに至ってはナビ無しで来られるくらい、なんですけれど、ね。

ただ、野生動物やら毒虫やら毒ヘビやらを考えるとできるなら一人ではない方がいいのかなぁと思われる場所でもありまして。

ま、基本が(大変)出不精な夫婦ですので、要は折り合いを付ける攻防戦、ということになりましょうか。


閑話休題。


こちらの磯山弁財天さんは『北関東自動車道路』の佐野田沼ICの次の『出流原PA』の下が、ほぼこの弁天沼のある場所となります。…私にとってはかなり耳の痛い思い出のある『出流原PA』ではありますが…。(※ 珍道中東北路編に詳しく…書いてあったかなぁ)
しかし残念ながら出流原PAから降りてゆくことはできません

No.71

おばさん、最近遠出をしないんだ…。

…そうなんです。

孫も小さく、年寄りは入退院、忙しいお年頃、なのであります。

先日も、なんだか日光にはあまり行きたがらない夫をようやく説得して、はれて日光に!と思い(夫が)車を走らせていると四分の一ほど走らせたところで、LINEのメール着信音。
義姉からなもので、義母が救急搬送されたとのことでUターン。


そうでなくても、どうも夫が最近デブ症…ではなくて、あっデブ症も確かなんですが、出不精で。
男性の更年期、でしょうかねぇ?

秩父に行きたいも、川越に行きたいもみんな上手にいつのまにかそんな話などなかったことにされております。
これも口車に乗ったことに…はならないんでしょうが、ケムにまかれるとはまさにこのことかと。

まぁ、鎌倉に行きたいをいつも却下している私、おたがいさま、ということでしょう。


なので。
地図を見てもあまりイメージもわかず、ちんぷんかんぷんなおばさんが、地図を見ながら計画を妄想するようになりました。
これはスマホにしたことで、ひとえに地図が身近になったことによるものかと。


良寛さんの足跡を訪ね、新潟の神社仏閣を参拝する。…そんな妄想をしてみました。

そうそう、ずっと行きたいと言いながら、実行されない(それはおばさんが主体性を持って動かない、動けないせいでもあるのですが…)佐渡島の神社やお寺さんをまわる、妄想上の計画でも立ててみましょうか。

No.70

良寛さんが十八の年、全国各地で米騒動が頻発し、越後でも天災・悪疫・凶作によって餓死者を出した頃。
そんな中、村人の争いを調停し、盗人の処刑に立ちあい、世の無情さを知り、両親の説得にもかかわらず出家されています。
光照寺で良寛さんが自ら名乗った名は『大愚』でありました。

二十ニ歳の時、良寛は故郷を捨てますが、
「この世にあらん限りは父母の言葉を身に包み生きよう」と誓ったといいます。
実際、そう生きた方であったろうと、私は思います。


円通寺の格式は高く、入門には厳しい戒律を通過しなければなりません。
経を学ぶことより勤労に励むことを第一としており、「一日作らざる者は、一日食わず」と師は日を変え言葉を変えて良寛に説いたといいます。
その教えは後の良寛の生き方に強い影響を与えることとなったといいます。

修行四年目の春、良寛は母の訃報に接したが帰郷は許されず、円通寺での修行は十二年に及びました。

この世の無情、無常を悟り、家を捨て親を捨てて、ただひたすらに仏の教えを乞うた良寛さん。
その仏の教えを説法することはなかったといいます。

ただただ、笑顔で。
ただただ優しさで。
ただただ生き様で。
仏の教えを人に示した良寛さん。

良寛さんは亡くなる四、五日前に、

『かたみとて 何かのこさむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじば』

という歌を詠まれています。

人の死というものは必ずややってくるもの。
残される者の心構えを歌にそのまま詠っています。


うーん、良寛さんの足跡。
新潟は出雲崎の地に密集していそうです。
新潟かぁ。

うーん、新潟。

No.69

白髪白髭の老翁さんに諭されたのちはひたすら読書にふける少年となった良寛さん。
ある年の盆の夕暮れ、毎晩毎晩薄暗い行燈の前で読書にふけっている良寛を心配した母親は、「少しは外へ出て、盆踊りでも見てきなさい」と言ったといいます。
それを聞き良寛さんは、黙って部屋から出て行きます。
しばらくたって、母親が何気なく中庭を見ると、石灯篭の陰に人影がある。
盗人だと思った母親は、なぎなたを持ってそっと近づいたといいます。そこでよく見るとその人影は、石灯篭の光をたよりに「論語」を読みふけっている良寛さんの姿であったといいます。


橘屋の長男として生まれた宿命に従って、いったんは家督を継いで、十八歳で名主見習いの職につきます。

が、学問で人間の理想を学んだ良寛さんにとって、現実は厳しいものでした。
わずか四十六日目で出雲崎の隣町尼瀬の光照寺に駆け込んで出家しています。
その原因として、
盗賊の処刑に立ち会わされ、人の世のむごさ、命のはかなさを感じたおと。
代官と漁民の争いの仲裁に『人間が正直さを失ったり、人をだますことが賢いというのでは、人間でなくなってしまう』と思ったこと、などが挙げられもいたしますが、奉行を怒らせるような問題をおこしたとも伝えられています。
代官と漁師の間に争いごとが起きたときに調停するのが名主の立場、ですが、噓や二枚舌を使って争いごとをまとめるやり方はできず、双方の悪口をそのまま伝え、一層混乱に陥ったというもののようです。


こうして家督を継がず、父母の強い反対を押し切って十八歳で出家、隣町の尼瀬にある禅寺『光照寺』に入ります。

禅寺の修行は厳しいもの。隣町とはいえ実家に帰るようなことは年一回許されるかどうか、といったものであったことでしょうし、なによりこういった形で家を出た良寛さんはおそらくこの時以降父母に会うことは無かったのではないでしょうか。

そして良寛さんが二十歳のとき、越後を訪れた国仙和尚に自ら弟子入りを志願し、備中(岡山県)玉島にあった曹洞宗の禅寺「円通寺」に入ります。
そこで十年余り修行をしたのちに、三十四歳で吉野・高野山・伊勢など諸国行脚の旅へ。
三十九歳で越後に帰郷した時には、お父様はもうこの世の人ではありませんでした。


No.68

良寛さん、というと村の子供たちとかくれんぼをしたり手鞠をついて遊ぶ、素朴で優しい姿を連想します。

ですが実際は、師や高祖道元の教えを守り、妻子をもたず、物質的にも無一物に徹して、清貧の思想を貫いた曹洞宗の僧でありました。
七十四歳で逝去するまで、生涯寺をもたず、粗末な草庵に住み、名利にとらわれない生活を送りました。
清貧の中で生けるものへの愛を失わず、子供と戯れ、友と語り、和歌や漢詩を詠み、書に優れた托鉢僧でした。

そんな良寛さん、越後国(新潟県)出雲崎の名主橘屋、山本家の長男としてなに不自由ない家に生まれました。
幼少期は手習いをすることも書物を読むことも激しく拒み、人の注意も気にすることなく、朝寝坊して、気ままに過ごす子供だったようです。

一見、意外な気もいたしますが、逸話を読むに、ああ、と頷ける、いかにも良寛さんらしいと思われることばかりで…。

あるとき朝寝坊して父親に叱られて上目づかいで父親を睨んだとき、「父母を上目で睨むような者は鰈(かれい)になってしまうぞ!」と父親が叱りつけたといいます。
気がつくと良寛さんはいつのまにか家を出て行方不明になっており、家人が懸命に探し回り、夕方になってようやく海礁にたたずむ良寛さんを見つけたといいます。
何をしていると尋ねると
「まだ自分は鰈になっていないか?」と尋ね、いつ鰈になってもすぐに海に飛び込めるよう態勢を整えていたと言ったといいます。

そんな手習いをすることも書物を読むことも激しく拒み、人の注意も気にすることなかった良寛さんがある日、父親のところにやってきて読書がしたいと言い出してきかなかったといいます。
しぶしぶ『論語』や『孟子』が入った十三経の巻を与えたところ、淀みなく早口に読み出し、驚いた父親が理由を尋ねると「昨夜自分の枕元に白髪白髭の老翁がやってきて、心を込めて諭された」と答えたといいます。

さてこの白髪白髭の老翁、いったい誰だったのか…。
私のところにも来てくださればよかったなぁ。
…訪れても変わらない、見込みのない者のところにはお越しにならない老翁さんだったようですね。



No.67

『さみだれの はれまにいでて ながむれば 青田すずしく 風わたるなり』

まさに今時分の、良寛さんの歌です。
田植えが済んで苗の落ちついた、広々とした風景と青い空が思い浮かび、涼やかな風すら感じるような歌です。

町名主で回船問屋の長男として生まれ、何不自由なく十八の年まで暮らした良寛さんが、食べるものに困る日も多く、寒さを凌ぐ衣さえないような生活はことさら身にしみるものだったのではないかと愚かなわたしは思うのです。
しかしながら良寛さんはいつも心は豊かでありました。

今でも愛され、尊敬される良寛さん。

良寛さんのお生まれになった越後出雲崎の橘屋という家はいまはもうないといいます。
しかしながらその生家跡には【良寛堂】というお堂があるといいます。

お堂の裏庭の崖下がすぐ海で、海の向こうには佐渡島がほんのりとみえるのだといいます。

良寛さんのお母様は佐渡の国の方だったといいます。

良寛さんの歌に
『たらちねの 母がみ国と 朝夕に 佐渡が島ベを うち見つるかも』
というものがあります。
お母様の亡くなられた後にお母様を思い偲んで詠んだものだといいます。
十八で家を出て以来、お母様とはお会いになることもなかったようですので、ここ、この生家跡に建つお堂で、良寛さんとお母様がお会いになれていたらいいなと、…思うおばさんでありました。


またそのお堂には
『いにしえに かわらぬものは ありそ海(み)と むかいに見ゆる 佐渡の島なり』
という歌が、良寛さんのお書きになった字のまま、石に刻んであるといいます。

良寛堂の庭は広く、いつ行っても大勢の子供たちが遊んでいるといい、子供と遊ぶことが何よりも好きだった良寛さんが見たらどんなにか喜ぶことでしょう。


良寛さんはお父様もまた大変尊敬されておられ、お父様の書いた掛け物を壁にかけて、なくなるその日まで毎日それを拝んでいたといいます。
その掛け物には
『朝ぎりに 一段ひくし 合歓の花   以南』
と書かれていたといい、以南とはお父様の俳号でありました。
良寛さんはその掛け物の隅に
『水茎の 跡は涙にかすみけり ありし昔のことをおもえば』
という歌を書き添えられていたといいます。



No.66

「俺、宗派は違うんだけど、良寛さんが好きなんですよ。だから新潟とかよく行くし」
木彫りの仏像をお教えいただく会に、私と一ヶ月違いで入られた、四十歳半ばの方がポツンとおっしゃいました。

突然のことで気の利いたことも言えず、ただ笑顔で返しましたが、「私も」くらい言えばよかったな。
それにしても…良寛さんの足跡を辿って新潟まで行かれるんだ、よほど良寛さんのことお好きなんだな。


良寛さんは今から約二百六十年ほど前の江戸末期、長岡市のとなりにある出雲崎町の名家、町名主で回船問屋の長男として生まれました。
当時出雲崎は北前船が寄港する港町で、交易が栄えていました。また、佐渡金山の陸揚げ港だったため、幕府直轄の天領でした。

そんな恵まれた家に生まれながらも、親の反対を振り切って十八歳の時に出家します。
当時は政治経済上の争いが絶えず、そのような争いを悲観したことが、出家した理由とも言われています。

良寛さんは出雲崎の光照寺という禅宗のお寺で出家し、二十二の年に出雲崎を出て、備中玉島(岡山県倉敷市)にある円通寺という曹洞宗の禅寺で十二年間修業します。
その後は諸国行脚の旅に出ます。
あちらこちらの高僧を訪ね何年も学問を続けました。
その間は托鉢のみで生計を立て、時には二日も三日も水だけを飲んで歩き続けたこともあり、ある時などは泥棒と間違えられて、散々殴られ土の中に生き埋めにされかけたこともあるといいます。

寛政七(1795)年、良寛さんの父親が京都の桂川に身を投げて自害をします。
それを知ったのか良寛さんは翌年、実家近くに旅の乞食僧として帰郷し、しばらく不定住の時代を過ごします。その後、燕市の国上山(くがみやま)の中腹にある五合庵(ごごうあん)という隠居用の庵に四十八歳で定住し、約十一年間暮らしました。
仮住まい生活が多かった良寛さんの生涯の中でも、五合庵での生活は特別気に入ったようでありました。
ここでの生活は、里におりて托鉢しながら日々の生活を賄うというもので、良寛さんは家々を回り、お経を唱え布施をし、里の家からは米麦などの喜捨をいただいたのです。

五合庵から里への登り下りが辛くなったことから、良寛さんが五十九歳のときに、より麓に近い乙子(おとご)神社の草庵に移り住みます。

No.65

平成二十八(2016)年、女性設計士が設計を手がけた『神楽殿』。
こちらには、初宮参りの際、『神さまに一度赤ちゃんを預ける』子安台があるといいます。

神さまに…?。
何かで読んだのですが、神さまに子供の魂を預かっていただく神社さまがあるといいます。
山名八幡宮さんのものとは異なるようであり、こちらはすぐにお返しいただくというもののようですが。

私が読んだものといたしましては、
【預け子祈祷】というもので、子供の魂を神さまにお預けし、神様のもとでその子がより幸せに、あるいはなりたい自分になれるよう、魂に修行をさせるものだとか…。

山名八幡宮さんの子供を神さまに一度お預けする、というのがどういった意味合いのものなのかもわからないのですが、なんだかとてもありがたいもののように感じます。

そもそも神楽殿で、というところが、一体どんな儀式なのか大変関心を抱くものです。

また、この神楽殿には安産と子授けにご利益があるとされ、
〝二股大根の絵〟、
七五三の際に年齢の数を叩いて邪気を払う〝虫切り成長太鼓〟など、山名八幡宮に伝わる『安産、子育て』に関する〝縁起物〟が収められているといいます。

こうしてみますと、まさに『安産』『子育て』に特化した神社さんであるよう感じます。



今回はちょうどタイミングが合わず、社殿のある高いところにいる際に上信電鉄の電車か通ってしまいましたが。
あの参道にあるアンダーパス、手を伸ばせば線路の石に触れるくらい(もちろん触ったりしませんが)まさに〝真上〟を通るのです。

さまざまな絵の描かれた車体。
群馬サファリの動物の写真のものなどもあります。

もしかしたら、これも子どもたちが喜ぶ神社さんというものになるのかも。


こちらの境内、和菓子屋さんがあって、大変見た目の美しいお団子やおはぎで有名です。
神門前には天然酵母のパン屋さんもあります。

老若男女喜んで何度も参拝する神社さん【山名八幡宮】さん、ということで。


No.64

【山名八幡宮】さんの本殿は、江戸時代中期に、前橋藩主『酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)』によって再建されたものといいます。
本殿を飾る彫刻群は、明和六(1769)年、彫刻物師『関口文治郎』の手によって彫られたもの。そう、先日国指定の重文となった『桐生天満宮』さんの彫刻をされた方です。
関東ではここにしか彫られていない神獣がいるとのこと等、いろいろ書いてある表示板があります。
平成三年に一年かけて極彩色の色がぬりなおされています。

そんな彫刻を見上げながら歩いているとひだりてにガラスの風鈴がたくさん吊るされた特設の場所が設えてありました。
広く座れる木の腰掛けが真下にあって、涼やかな風鈴の音をしばし楽しませていただきました。

昨今の住宅事情でなかなか風鈴を軒先に吊るすこともできなくなってきておりますので、孫は大変喜んで手に触れてみたそうにしておりました。
よぉ〜しわが家にあと二つくらい風鈴を吊るして…いやいや家は一つでたくさん。
上州は風の強いことでも知られる地域、風の強い日など一つでも、外さなければ!と思うくらい激しく鳴りますから。

裏手に回って。

本殿の真裏には大きな大きな古い素木の獅子頭が祀られています。
【裏神様】とお呼びしています。
山名八幡宮さんの象徴である『獅子頭』は、古来より『疳の虫』『厄』を喰い切る神獣として伝わっています。
正面からお参りされた後、裏神様をお参りすると陰陽合わせの考えにより、さらにご利益があると伝わるといい、建てられた当初から本殿にもお参りできるよう『唐破風』『千鳥破風』がついていたといいます。

こちらの山名八幡宮さんが子育てにご利益があるとされるところの一つかと思われます。


他にもこちらの御神木は子宝に恵まれると言われる陰陽神木であり、樹齢三百年以上の大木です。
日本神話の中で伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が天之御柱(あめのみはしら)を回り、沢山の御子神を授かったとされるところにあやかって、この御神木の周りをまわることによる子授けのご祈願をするといいます。

No.63

山名八幡宮さんはローカル線の『上信電鉄山名駅』のすぐそば。第一駐車場と第二駐車場の間に駅があります。
神門が見える手前にトンネル、アンダーパスがあり、ここから神門を目指します。
なんとこのアンダーパスの上を上信電鉄が通っている!
参道の上を電車が走っているのです。
参道の途中を線路が走っているところは結構ありますが、トンネルを作って参道の真上を電車が通過するというのはなかなか珍しいのではないでしょうか。

神門をくぐるとみぎてに手水舎があります。

こちらの花手水がまたなんとも素晴らしい。
まるでフラワーパークか、はたまた花の展示会にでも来たかのように、新鮮な切り花を惜しげもなく使って参拝の人々のめをたのしませてくれ
ます。
この花手水を生けた方は、お花の心得がある方か、あるいは色彩感覚の素晴らしい絵心のある方でありましょう。
SNSでもたびたびその素晴らしさを讃える声があがっており、三歳の孫娘も感嘆の声をあげて見入っていたくらいです。

ちなみに。
こちら、山名八幡宮さんの記事も以前に書いたものがあります。
今回は孫と一緒。
今回は珍道中ではないかもしれません。

その正面に大きな大きな躍動感あふれる馬の像があります。
なんでもこの馬の像は全国の『山名』の姓を名乗る方たちが奉納されたとうかがっております。

見上げるほどに続く石段をのぼります。石段の途中には大きな狛犬さんが。
こちらの狛犬さんには頭に一本ツノが生えています。
それが怖かったのかどうか、孫娘はおんぶをせがみます。

ばぁばはすぐにおんぶをします。
じぃじが「歩いて登らせようよ」という間にはもうすでに半分ほど登っております。
あとどのくらいおんぶができるものか…、孫にはめちゃくちゃ甘いおばぁであります。

孫娘は神社さんのお参りが好き。

いつもお賽銭を小さな手で握って。スッと滑らすようにそっとお賽銭箱の中にお金を納めます。

「お利口さんだね♡」
ばぁばは婆馬鹿です。
じいじもジジ馬鹿ですが。

No.62

…そうなんです。
やはり八幡神さまのご利益で子育てに関するものや安産などはあまり知られてはいないのです。


社伝によると【山名八幡宮】さんは源氏の一族、新田氏の祖 義重の子、『山名義範』が平安時代後期の安元年中 (1175~77年)、大分県に鎮座する、八幡宮の総氏神の『 宇佐八幡宮』さんより勧請されたと伝わっています。

【品陀和気命 (ほんだわけのみこと - 応神天皇)】さま、
【息長足比売命 (おきながたらしひめのみこと – 神功皇后)】、
そして、神霊を宿す巫女とも言われる 【玉依比売命(たまよりひめのみこと - 比売大神)】さま の三柱を御祭神として祀り、祭祀を絶やすこと無く、 今日に至っているといいます。

応仁の乱の際、西軍の指揮を執った【山名宗全】が、 西国で勢力を誇った影響で、現在も関西を中心に、 全国で約一万人程いると言われている山名姓、及び 血縁関係のある末裔も含め、全ての『山名一族』にとっての『総氏社』でもあるといいます。


その【山名八幡宮】さんが何故子育て・安産の神さまとして信仰されるようになったか。

それは遡ること室町時代、後醍醐天皇の孫『君長(ただなが)親王』が、 山名城に滞在の折、城主『世良田政義の娘』との間に出来た子の安産を願い、この山名八幡宮さんでご祈願をされましたことに由来するといいます。
無事産まれた男の子は『良王(よしたか)』君(きみ)と名付けられ、その後も健やかに成長されました。

このことが広く伝わり「山名八幡宮」は、安産と子育ての神社として永く称えられることとなったといい、現在でもそれはそれは多くのご家族が安産と子育てのご祈願に訪れています。


高崎市や前橋市を車で走行すると、こちらの授与品であります、『Baby on board』『Child on board』のマグネットを付けた車がかなりの数走っております。
そう、あの『赤ちゃん(or子ども)乗せています』のマグネットです。

初めてこちらを参拝させていただきました折には、十一月であったわけでもないのに、二十組はゆうに超える親子の方々が御祈祷の順番をお待ちになっておられましたし、拝殿の中はびっしり親子の方々が御祈祷をお受けになっていました。

群馬の片田舎にある一神社さんであるにも関わらず、その信仰する人の多さにびっくりしたくらいであります。

No.61

日本には『八百万の神』という概念があり、全国にはさまざまな神々をまつる神社があります。
そのなかで最も多いのが、『八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)』さまを御祭神とする【八幡神社】【八幡宮】です。

八百万といわれる日本の神さまは、三つのグループに分けられます。

『古事記』『日本書紀』に登場する神さまたちがそのうちの一つのグループです。
ふたつめのグループは『古事記』『日本書紀』の神話とは別に登場し、信仰されるようになった神さまたちです。日本のどこかの集団がいつしか祀るようになった神さまもいれば、外国から入ってきた神さまもいます。
三つめのグループは、実在の人物が神格化されできた神さまたちです。

また、本来は別々だった神さまどうしが習合したり、仏教の仏さまと習合したりすることも珍しくありません。


【八幡神】さまは、もともと九州の【宇佐神宮(大分県)】に祀られる神さまです。
そのルーツの一説に、朝鮮半島からの渡来人から信仰する神さまだったのではないか、という説があります。
地方の神さまだった八幡神さまですが、いつの間にか『古事記』『日本書紀』に登場する【応神天皇】と習合し、【皇祖神】と考えられるようになります。

八世紀、【東大寺】の【大仏】さまが造られた折に、八幡神さまが宇佐から奈良の都までやってきて、大仏造立を助け大仏の守護神になったといわれています。
当時はまだ神道が確立してはおらず、八幡神さまが大仏の守護神となったことで、日本の神さまへの信仰と仏教との融合が進んでいくこととなっていったといいます。

八幡神はやがて武家の棟梁で歩く源氏の氏神とされました。
十二世紀末に【源頼朝】公が『征夷大将軍』となって鎌倉幕府を開くと、八幡神を祀る【鶴岡八幡宮】が鎌倉にたてられました。
八幡神さまへの信仰は、将軍の家来である御家人の間にも広まり、各地に八幡神社や八幡宮が造られていきました。

足利氏の氏神にも、徳川氏の氏神にもなり、武神として信仰された八幡神さまは、現在も
【勝利】や【出世】、【開運】のご利益があるとして信仰されています。

八幡宮の総本社である【宇佐神宮】、【石清水八幡宮(京都府)】、【筥崎宮(福岡県)】または【鶴岡八幡宮】が日本三大八幡宮であるとされます。

No.60

本日、群馬県の桐生市が日最高気温の高い方から全国一位だったそうです。
私どものところもそれなりに高い気温を記録して、私などは記憶にある中で体温すら及んだことのない温度でありました。

一方で東北では記録的な豪雨に見舞われております。

こんな記録更新はいらないのですが。

…世界は…どうなっていくのでしょうか。

No.59

昨日は群馬県高崎市にあります【山名八幡宮】さんに参拝させていただきました。
こちらは二度目のお詣りで、子育てと安産で知られる神社です。

えっ?
子育てと安産はあまり関係はなのでは?ですか?

…ねぇ。

いやいや、娘も嫁もおりますし、孫もおりますばぁばといたしましては、手伝えることは手伝うものの、あくまでもサポーターでしかなく。
ばぁばにできることは祈ることくらいしかないのでありまして、そういったご利益のある神社さんやお寺さんにうかがった際には、ご祈願しているじぃじとばぁば、なのでありました。


それにしても。
〝安産と子育て〟で八幡さま?
すこぉしは神社さんや神さまのことを学ばせていただきましたおばさんといたしましては、ん?と、最初は思ったものでした。

八幡さまって、…〝武運長久〟であるとか、〝勝利祈願〟とか、〝出世開運〟とか、武士の間で信仰された神さまじゃなかったかしら?と。


でも、実際にこちら【山名八幡宮】さんに参拝させていただきますと、心から納得ができるんです。

そもそもが八幡さまを、広く武士が崇敬し信仰すらようになったのって…、あの〝鎌倉殿〟、『源頼朝』が『鶴岡八幡宮』を建て深く信仰したことによるもの、…ではなかったのでしたっけ?

No.58

カンゾウはとても美味しい野草なのだといいます。
それが、人々が家の周りにカンゾウを植えた第ニの理由だと。

えっ?
私は初耳ですが。
そもそも自宅のそばには野萱草を見ることがない。

春先の若い芽は、おひたしにすると香りがよく、しっかりとした歯ごたえがあるといいます。
乾燥させた蕾は高級スープの具材に。
膨らんだ地下茎は生でカリカリと食べられるのだといいます。


…うーん、野草ならば盗掘しても…。
いや、植えて増やしている人がいる時点で、盗掘は文字通りの盗みとなります。
…地下茎では増えているのかなぁ。

どうも食い意地が張っています 笑。


そして第三の理由をあげるとすれば、やはりこのカンゾウの花の美しさにありましょう。


ヤブカンゾウの花言葉は、「悲しみを忘れる」「憂いを忘れる」「愛の忘却」。
いずれも別称〝忘れ草〟と呼ばれることに由来しているのでしょうね。

ところでカンゾウには、睡眠を促すサポニンが多く含まれるといいます。
憂いを忘れるためには、愛でたり身に着けるのではなく、食べてしまう方が効きめがありそうな…。


…ものの憂いは寝て起きれば落ち着くような、簡単なものではないですが、ね。



No.57

花の名にも詳しくないおばさんではありますが花にはいつも癒しをいただいております。

今の時期、緑一色の夏草の中にあって遠くからでもぱっと目立っている橙色の花が咲いています。
それこそ走行中の車の窓からでもとらえられるくらいに目立つこの花の名は『野萱草(ノカンゾウ)』、畑や農道の脇に咲いているので、なかなかそばでは見ることはないのですが…。
野草とは思えないほど美しい、萱草の花です。

ちなみに萱草にはこのノカンゾウの他、『ヤブカンゾウ(藪萱草)』があります。

実はこの萱草の花、結実が難しい、あるいはまったく結実しないものだといい、地下茎を切り取って植えるなど、人間の援助で生育地を広げたものなのだといいます。
そう、あの彼岸花と同じです。

そこまでして増やしたのなら野草ではないのでは?と、おばさんなどは思ってしまうのですが、たしかに彼岸花にしても、萱草にしても、野に咲くのはたしかではあります。

なぜカンゾウは人間に保護されてきたのでしょうか?


実はこの萱草、失恋の悲しみや望郷の思いなどの憂いを忘れさせてくれる草だと信じられてきたといいます。

三世紀の中国、三国時代の魏の国に『竹林の七賢』と呼ばれた清貧を旨とする文人たちがいました。

その一人、嵆康(けいこう)が書いた『養生論』に、
「合歓(ネムノキ)は怒りを除き、萱草は憂いを忘れさせる」という記述があるのだといいます。
中国名の「萱草」は元々、カヤやスゲなど細長い葉を持つ草を指しますが、やがて『養生論』の知識が日本にも伝わり、【ワスレグサ(忘れ草)】という訓で読まれるようになりました。


そう、花にも詳しくない私、この野萱草が実は『忘れ草』であったことなどさっぱり知らずに、いかにも儚げな花をイメージして、…とはいえ具体的な花としてのイメージもなく、和歌のなかに咲く〝花〟としておぼろげなイメージを勝手に抱いておりました。


えっ?
この花の鮮やかな橙色を見て、コロっといろいろ忘れちゃうってこと?
そもそも〝忘れ草〟って…。

若いころにはその名に憂いとか儚さとかを感じておりましたが、今〝忘れ〟などというと気が気でなくなる恐怖のワードと化してきておるのですが…。



No.56

なかなか寝つけずにいます。

何があったということもなく、むしろ悪いことなど何一つないのに、ただ気持ちが落ちていることを自覚はしておりはするのですが…。

もともとが、自分ではどうしようもないことで悩むようなたちでありますし、起きてもいないことをあれこれ詮索しては悩むといった、ネガティブな思考の持ち主であります。

とはいえ、もともとというのは、〝生来〟という意味からすれば、それはまるで違って、むしろポジティブ過ぎるくらいの人間であったと、自分でも思うのですが。

経験から人は変わるものであると、あらためて思うのでありますが、良い方向に変わるのでなければ、人として生まれて申し訳ないこと…なのでしょうねえ。


まぁ、それもまた自分。
そんな今の自分も受け入れて進めばまた良い方向に進んでゆけるはずでありましょう。


お釈迦さまのが、『六波羅蜜』の五つめに教えられている【禅定】というものがあります。
六波羅蜜とは、この世に生かされたまま、仏さまの境涯に至るための六つの修行をいい、波羅蜜とは悟りの世界=彼岸にいたること、といいます。


折しもあのJR東海のCMで出てくる『空也上人像』について書いておりましたが、その空也上人が建てたお寺さんの名こそが【六波羅蜜寺】であり、何よりその空也上人像があるのもまたその六波羅蜜寺であります。

その【禅定】とは、心をしずめ定めること。
心を落ち着けて、冷静に第三者の立場で自分自身を見つめること。

といいます。

上手な〝気持ちの落ち着け方〟を持っておくこと、波立つ心をしずめる自分にあった気持ちの落ち着け方を知っておくことが大切なのだと思います。

うーん。
今日は写経もしたのだけれどなぁ。
枯れてしまった庭の木を切り、枝をきれいにまとめたりと、自然にも触れ、庭も明るくしたのだけれど。


眠れない夜を受け入れるのも一つ、でしょうか。
いやいや、眠れないときにスマホをいじる癖を止めることが何よりなのだけれど。


No.55

ということで、康勝のつくった空也上人像は正直いまだに怖いと思っているおばさんではありますが、空也上人さまご本人は大変尊敬しております。

そもそもご本人はこの像のように口から仏さまが出ていたわけでもありませんし。

十九歳で出家され、そのときから空也と名乗られていたようです。
在俗の修行者として『南無阿弥陀仏』の名号を唱えながら、諸国をまわり、道路や橋、寺院などを建立、社会事業を行なってこられました。
ちなみにこの『南無阿弥陀仏』が口から出てくるとされた【阿弥陀仏】

二十五歳のとき比叡山で受戒されますが、空也上人はその後も宗派にこだわりを持たずに市中を歩いてまわられていたようです。

京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、『青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶』を病者に授け、『歓喜踊躍しつつ念仏を唱え』て人々を癒し救われたといいます。
ちなみにこの上人が人々に与えたお茶は現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与しているといいます。

現存する空也上人の祈願文によると、応和三(963)年に諸方の名僧六百名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだといい、これが空也上人像の安置されている六波羅蜜寺の起こりであるといいます。

上人没後、六波羅蜜寺は高弟によりその規模は増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えたといいます。
平安後期、平忠盛がこの六波羅蜜寺の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には平家一門の邸館が栄えたといい、その数5五千二百余りに及んだといいますが、寿永ニ(1183)年、平家没落の折に兵火を受け、諸堂は類焼し、本堂のみが焼失を免れたといいます。

源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなったここ六波羅蜜寺はその変遷も甚だしく、
源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉も大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設したといい、徳川代々将軍も朱印を加えられたといいます。

現本堂は貞治ニ(1363)年の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和四十四(1969)年開創千年を記念して解体修理が行われたのだもいいます。






No.54

「なぜ、口から六体の仏像が出ているんだろう。」
「なぜ、こんなにも粗末な衣で痩せっぽちなんだろう。」


今放映されているJR東海のCM、空也上人像であります。
私がこの空也上人像を初めて知ったのは、忘れもしない、中学校の社会科の教科書であります。

…怖かった。
「えっ。な、なんで?なんで口からこんなもんが出てるの?エクトプラズマ?」
「こんなに痩せこけてやっと歩いているようだけど、生者ではないってこと?」

ええ、言葉に表すと同じ方向性ではあるのですが、ベクトルがまるで違っています。


ちなみにその授業をしてくださった先生は、きちんと、丁寧すぎるくらいに、空也上人の偉業や、空也上人の口から出ているのは仏さまであることまでキチンと教えてくださっています。

…でも怖いものは怖い。
実はいまだに怖い。

CMは、
「己を空っぽにしても人に与える。
空也上人のその生き方までも遺したいと、強く願った仏師がいたんだなぁ」
「ありがたい」
と続きます。

この言葉が何を元にそう語るかもわかっているのだけれど…。


ただ、…この空也上人像を右側から見る横顔は好きになりました。

ちなみにこの「空也上人のその生き方までも遺したいと願った仏師」はあの運慶の四男康勝であります。


康勝さんに問いたい。
「なぜ、口から六体の仏像が出ているような像にしたんですか」
「なぜ、こんなにも粗末な衣で痩せっぽちな像にしたんですか」

No.53

と、いうことで。
頭がお弱いくせに、こだわりは強いおばさんが、次に書かせていただくのは【桐生陣屋】。

天正十八(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐ののち、桐生にいた由良国繁は常陸国牛久へ移され、これ以降桐生の地は徳川家の所領となりました。
徳川氏の代官であった大久保長安の命を受け、桐生領に派遣された手代の大野八右衛門により、桐生領の拠点として桐生新町が造営され、この新町に隣接した丘陵地に陣屋が設置されました。
そののち安永八(1779)年、出羽国松山藩主酒井石見守忠休が五千石の加増を受け、桐生の地を領し、天明五(1785)年に陣屋の屋敷が新築され明治に至ったといいます。

今もこの陣屋で使われていた門や塀、さらには屋敷の一部は移築こそされてはいますが現存するとのことであります。
ただ…、きっとこのぼーっとしているおばさんはその前を何度かは通っているのかもしれませんが、それがどこであるのかはわからずにいます。

陣屋跡と言われるお寺さん【寂光院】さんへは三度ほどお参りさせていただいており、三度目に夫と参拝した折に初めて『陣屋跡』というのがどういうことかを教えてもらい知るに至ったという、なんともお粗末な経緯がありましたが。


夫は夫でそれこそ、私と結婚する前にこの陣屋跡を訪ねていたようで、私と訪ねた折にも熱く熱く語っておりました。
陣屋跡とされるのは寂光院さんの経営する保育園の後方のようで、さらにはトンネル状になったところがあるのだとか。
夫いわく、そのトンネル状となったものは一説によると抜け道(逃げ道)であったとかで、以前そこに入った際には奥に御仏像が安置されていたのだそうで。

今はこの入り口は封鎖されており、御仏像にお会いすることは叶いませんでした。
ちょうど保育園の真裏に当たるところにその入り口があって、これがまっすぐに繋がっているのであれば、おそらくは寂光院さんの庫裏の下辺りになるかと思われます。

陣屋跡にもさらにはこの封鎖されたトンネルにも興味がなかった私は、話半分にしか聞いていないし、夫は名残惜しそうにトンネル上部を見下ろしていました。


今ならもう少しは興味を持って聴くことができるのかしら…、怪しいな、やっぱりあまり関心が持てないかも。

御仏像に会えるならば話は変わるかもしれませんが、謎のトンネル、くぐっていくのはそれはそれで怖いかも。



No.52

西日本地方、ことに北九州地方では連日の豪雨で目を疑うような大きな被害が出てしまいました。

心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。


首都圏でも熱中症警戒アラートが出され、私の済む地域でも私の体温をはるかに超えた気温が記録されました。
東京では救急車逼迫アラートも出されたようで、まだ夏はこれから、七月のあたまだというのに、本当に困った事態です。

個人的にも喉のかわきを感じる前に時間で水分補給をするなど、できうる限りの熱中症対策をしていくしか手立てはないかと思います。

みなさんどうかご自愛ください。

No.51

今日は七月十日、七夕からはだいぶ経っておりますが、それでも昨日まで群馬県前橋市で七夕祭りが開催されていたこともあり、調べたことを忘れないように書いておきます。

【星合いの空】=七夕の夜の空

【織女の別名】
・織姫
・朝顔姫
・梶の葉姫
・薫物姫
・遠妻(とおづま)
・一夜妻
・乏妻(ともしづま): 逢うことが稀で珍しく 愛らしい妻

【牽牛の別名】
・彦星
・犬飼星
・遠夫(とおづま)

などなど。

それから七夕の朝、朝顔が咲いていると近いうちに素敵な異性との出会いがある、とかなんとかいう言い伝えもあるようです。

No.50

本日は六十日に一度巡ってくる『己巳の日(つちのとみのひ)』で『弁天さま』のお縁日。

ところで。
七日から昨日までは群馬県前橋市の七夕祭りでありました。
八、九日と二日続けて前橋市に行っておりましたが、ここへきて、コロナ以外にもたくさんの感染症が流行しており、あまりの人混みにお祭りの通りを歩くことはできませんでした。

まぁ…コロナ禍うんぬんというよりはもともと混雑した場所、人混みの苦手な珍道中ペア、コロナ禍以前にお祭りに行ったのは一体いつのことやら…。今流行りの露店などさっぱりもってわからない。
お祭りに行くようなことがあれば、きっと浦島太郎のような二人でありましょう。

そんな前橋七夕祭り、こちらは前橋市三大祭りの一つであります。
それこそ前橋市七夕祭りに行ったのなんて、もしかしたら大学生の時分?いや、もしかしたら露店でひみつのアッコちゃんのお面やコンパクトが売っていた頃のことかも。

まぁそれはさておき。
この前橋市七夕祭り、会場となっている通りの一つに【大蓮寺】さんというお寺さんがあります。
こちらには『弁天さま』がお祀りされており、お祭りの日には夜にもこのお寺さんの門が開けられ弁天堂の扉も開けられているのだとか。

コロナ禍になる以前、何度も何度も夫にそのことを話したのですが、どうにもその重い腰が上がらず。
そのくせ花火大会は好きで、四年前くらいにも出向いている夫。
私は弁天さまにお会いしたいのですが。
ならば一人で行けばよいのですが、夕飯の支度をして一人で電車に乗るなり車で出向くなりは結構面倒くさいもの。(しかも人混みが嫌い)
そんなわけで今年も前橋にいながらお祭りに行かなかった二人でありました。


大蓮寺さんは駐車場が見当たらず、前を何度か通りながらもまだ参拝に至っておりませんので、ぜひいつか参拝させていただきたいと思っております。
しかしながらなかなかその日は訪れず。
もうすでに何年越しかの、ささやかな望みであります。

あ、今日、とか?

No.49

(つづき)

そうめんをお盆にお供えすることがあることと、七夕にそうめんを食べると長生きできるという言い伝えもきっと私にそう思わせた原因の一つかもしれません。
ちなみにこのそうめんをお盆のお供えにする理由に、一説として
『ご先祖さまがこちらに帰ってくる際の馬の手綱とするため』とか
『彼岸に戻られる際お土産など荷物をまとめるため』
というものがあるのだとか。


日本でいう【お盆】とは、
仏教の『先祖供養』、
そして神道の『祖先崇拝』
が混ざり合った行事であるため、七夕自体には宗教的な意味はなくても、ご先祖さまへの供養や、豊作を祈り感謝するその精神が、仏教そして神道とも結びついていたのですね。

No.48

ちなみに。
お寺さんで軒場で笹の葉をさらさら揺らし短冊に願いごとを書いて飾っているのを私は見たことはないのですが、なんとなく仏教に関係しているような記憶がありました。

何故、と言われると、(うーむ、なんでだろう)と思う、…揺れているのは私?

…日本へは中国から仏教が伝来しているから、そこで結びつく(失礼!)可能性かある?

調べてみました。

たしかに、仏教では、織姫と彦星はそれぞれ『女宿(じょしゅく)』『牛宿(ごしゅく・ぎゅうしゅく)』
という星の神さまとされているといいます。

女宿や牛宿は、白道という月の軌道に位置する二十八の『星宿(せいしゅく)=星座のこと)』に当てられていて、『胎蔵界曼荼羅』に描かれているといいます。

二十八宿は、東西南北の四つ、
青龍・白虎・朱雀・玄武に区分され、牛宿と女宿は『北方玄武七星』に含まれているのだとか。
…もうここまでくると鵜呑み状態、というか飲み込めもせず調べたままを書いていますが…。

これには『宿曜経(しゅくようきょう)』というお経が元になっているといいますので、七夕は仏教と関係があると「思い込んでいただけ」のおばさんですが、あながち間違いではなかったようです。

ところで。
七月七日は旧暦では、今の八月中旬から下旬頃で、七夕はその頃の季節行事であったといいます。

七夕は、現在は新暦で営まれることが多い行事ですが、一方で、月遅れの旧暦に準じて行われることが多いのが、【お盆】です。
旧暦の七月十三日から始まるお盆の準備を、七夕の日から始めたといい、今はまったく別の行事という印象が強いのですが、七夕とお盆は、旧暦においては同じ時期に行われ、密接な関係にありました。

仏教、お寺さんとの関係もなく大人になった私でしたし、ありがたいことに、なんと結婚するまで身内で亡くなった人間もおらず、お盆の飾りとも無縁で過ごしてまいりましたので、『盆棚』というものも実に大人になるまで見ることなく過ごしてきた人間でありまして。

盆棚に笹の葉が祭られたものを見て(なんとなく七夕に似ている)と思ったのが私の中で(仏教と七夕は関連がある)と結びついたのかもしれません。

(つづく)

No.47

神社さんがどう変わろうと、それはあくまでも人の世でのことで。
神さまは、木花之開耶姫さまは何もお変わりありません。

そう思って、思い返してからまた参拝のため産泰神社さんを訪れるようになりました。
まぁ…おばさんはもはや〝安産祈願〟とは縁のない人間ではありますが、ね 笑。


それが…訪れるごとに、元の雰囲気に戻っているのです。
見慣れたのでは?

いやいや優しいあたたかな包み込んでくださるような気は変わっていなかったということ。

木花之開耶姫さまは祈祷殿ができようと、社紋が変わろうと、そんなことにこだわられるような神さまではなかった。
そんなつまらないことにこだわるのは、愚かなおばさんだけでありました。


今回、夏越の大祓の済んだ茅の輪が残された文月の境内、誰一人参拝の方のいない状況で、ゆっくりと茅の輪をくぐらせていただき、少しは私の分厚く纏った穢れも落とせたかと…。

ゆっくりゆったりと境内社をまわらせていただき、盤座を見上げ、社殿の彫り物を楽しませていただきました。


そして。
風鈴の授与も兼ねた御朱印をお授けいただき、七夕の短冊に願いごとを書かせていただいて、豊かな気持ちで今きた道を爽やかな風を受けながら車を走らせました。


えっ?
車を走らせた?
…ええ、この日の参拝は一人でしたので。
山道と高速道路の運転が嫌いなだけですってば、…たぶん。

己を知るのも大事だと、それは素晴らしいことですよと、若いお坊さんに言われたんですってば。
私は運転が下手…。
えっ?


No.46

群馬県前橋市に鎮座します【産泰神社】さんは、各地にある産泰神社の総本社さんであります。
起源は遡ること約十三万年前、赤城山の『石山なだれ』によって出現したといわれる『盤座』から始まっています。
自然が偶然に生んだこの盤座に、現代に生きる私でもその自然の大きな大きな力に感嘆いたしますくらいです、これを見て、いにしえの人たちは神の力を感じずにはいられなかったことと思います。
大きなたくさんの岩が高く高く絶妙なバランスでそびえ立つ様には何度見ても圧倒され感動いたします。

この盤座を以て原始古代からこの地は信仰の土地とされ、二百六十年前に本殿が建造されました。

こちらの御祭神さまは木花之開耶姫さま。

いつ訪れても…曇りの日でも雨の日であっても、明るくて爽やかな、そして優しく包まれるような気を感じることのできる神社さんであります。

社殿もそれは美しくみごとな彫刻と、美しい天井画の施されたもの。
いつまででもいられるくらい居心地の良い神社さんです。

ただ令和元(2019)年に祈祷殿を建設されて以降は、こちらの拝殿に昇殿しての御祈祷はなされなくなってしまいました。

それでも娘が安産祈願の御祈祷をお願いした際には、昇殿しての参拝ができたと聞いています。(ちなみに嫁ぎ先の意向で行われたものでしたので私どもには声は掛かることなく…一度もその機会を得ることなく憧れの産泰神社さんの拝殿への昇殿は叶うことなく幕を閉じられたのでした 泣)

前橋市のはずれ、抜け道として使われることも多い道路から少し入ったところに鎮座されており、あまり大きな社殿とはいえないこちらですが、参拝の方、御祈祷をお願いされる方は多く、広い駐車場に県外ナンバーの車もズラリ。

そんな人気の神社さんであります産泰神社さんが、今年社紋を一新されました。

頭が古くてしかも一部認知障害が疑われるかもしれないおばさん。
この社紋を変えるという大胆な動きをなかなか受け入れられず、しばらく参拝の足が遠のいていたくらいでした。
祈祷殿ができたことで、常に開け放たれていた拝殿の扉が閉ざされたままになったことも大きな原因でありました。


「少子高齢化が進み、神社も時代とともに変わっていく必要がある。参拝するだけでなく、ご祈祷をとおして神様を感じてほしい。そんな理由からデザインの刷新を決めた」
とは宮司さま。


No.45

奈良時代や平安時代の都では、星に祈りを捧げる風習にもなりましたが、七月のお盆の前の同じ時期には、日本ではもともとこの時期古くから、祖霊や水の神に収穫を祈った行事があったといいます。
お盆にこの世にやってくる祖先の霊を迎えるために、水辺で心身を清める禊(みそぎ)の行事も行なわれました。
こうした年に一度水辺で祖霊を迎えることが、天の川をはさんでのめぐりあいの話を受け入れやすくしたのでしょう。

恋の話だけではなく、子どもたちが学芸の上達を祈ったりするのは、日本の祖先の神に対しての祈り、なのです。


…なるほどぉ。

No.44

長々と【桐生天満宮】さんについて書いてまいりました。
まぁ、神社における御開帳、天満宮さんの御開帳とはどういったものなのか、という答えが出ましたら、あらためて書かせていただくこととして、いったん筆を置きましょう。


ところで、昨日は七夕。
私の住まう街では雨こそ降らなかったものの全天に雲が広がって、何度か時を変えて空を見上げては見たもののかすかに一つ星がみえたにとどまりました。

まあ、雲の上には満天の星たちがいつも通りに輝き、恥ずかしがり屋の織姫と彦星は雲の上で一年に一度の逢瀬を果たしたことでしょう。

七夕といえば短冊に願いごとを書いて笹の葉に飾り付けて祈ったり、織姫や彦星の伝説もよく知られるところです。
すでに書かせていただいた群馬県桐生市の【常祇稲荷神社】さんでは朔日詣りの折にすでに笹が拝殿の前に立てられており、何十年かぶりに短冊に願いごとを書いてまいったのですが、神社さんやお寺さんに縁なく長きを過ごしてきてしまったおばさん、(神社さんは七夕飾りをするんだぁ)と思ったもので。
それでも、(ああ常祇さんは月に二回ラジオ体操をしているくらい、地域の方々との交流を大切になさっておられる神社さんだからな)と思ってそれ以上は深くは考えなかったのです。

ところが、先日参拝いたしました同じく群馬県前橋市の【産泰神社】さんにも短冊が置かれておりました。
おや?
…やっぱり神社さんと七夕って関係があるものなのかしら?


七夕祭りの由来は、年に一度、七月七日の夜に、天の川の両岸の牽牛星(彦星)と織女星が、橋を渡ってめぐり会うという中国の伝説が始まりだといわれます。
『七夕』と書くのは『七月七日の夜』の意味。
古代の中国では、その日、女性たちによって針仕事の上達が祈られ(『乞巧奠(きつこうてん)』ともいうそうです)華やかな行事だったともいいますが、中国でも七夕の祈りは、もとは農作物の収穫を祖霊に祈ったものだろうといわれています。

七夕は、日本でも古くから受け入れられ、万葉集の恋の歌にも詠まれています。
日本でこの字をタナバタと読むのは、機織(はたおり)を意味する『棚機(たなばた)』からきたもので、日本では特に古代の水辺の祭壇で神に着せる機を織った巫女のような女性を『棚機女(たなばたつめ)』と言ったことから、その名となったともいわれているといいます。


(つづく)

No.43

(天神さまの民話・つづき)

十二キロ余りも濁流に流され続けてきたというのに、お社はどこも傷んでいませんでした。

早速、村人が集められ、お社の引き上げにかかりましたが、村人たちが気勢をあげてお社を引き上げているというのに、小さな木造の社はピクリとも動きません。

そこで近くの神主を招いてお払いをしてもらったところ、
「御神体が釜が淵の底に沈んでいる。その御神体をお救いしない限りは、この社を動かすことはできない。」
とのお告げが得られました。

村人たちは、まず御神体発見に力を注ぎ、まもなく釜が淵に眠るご神体を見つけだすことに成功しました。

御神体が引き上げられると、根が生えたように重かったお社が、わずかに残っていただけの村人の手で楽々と引き上げられたといいます。

この不思議さあらたかさを目のあたりにした大勢の人たちは、更に天神さま崇敬の念を強くしたのでした。

これを見ていた桐生の人々は、天神さまの霊験に深く心打たれ、「ぜひとも譲ってほしい」と石鴨の人たちに頼みこみ、梅原の地に祀らせていただいたといいます。
その地に祀った『梅原天神』といいます。

そして天神さまはやがて桐生新町の総鎮守として、赤城明神の森に祀られることになり、現在に至ることとなりました。

そのため、昔は天神さまの祭礼には必ず石鴨の人たちの代表を招待し、上座にあげるのが定例となっていたそうです。

石鴨では新たに石鴨天満宮をお祀りしましたが、石鴨地域の人たちは、この天神さまは桐生天神の本家だと今も誇りに思い、孫子の代に伝えているといいます。

夫は何度かこちらの石鴨天満宮さんをお参りしているといいますが、私は通りから見上げて遥拝をしたのみで。
お店が一軒あるのみで、それも閉じていることが多いという、民家一つない通りにある神社さんにしては立派な社殿であったと記憶しております。

なるほど…、そんないわれのある神社さんだったのであれば、それは立派に造られることでしょう。

No.42

●民話「天神様の由来」

これは『桐生天満宮』にまつわる民話です。

その前に少しこの民話の地理について触れておきます。
(ご存知の通り地理音痴なので、詳しく知りたいと思われた方はネット検索を 笑)

群馬県と栃木県の県境を流れる「桐生川」という川があります。
この川の上流部は桐生川源流林として、『森林浴の森百選』『水源の森百選』に選ばれ、自然豊かな渓流美遠味わうことができます。

この川を、ひたすら上流に追い続けると、桐生川の川沿いの県道337号線も道幅が細くなり、もう民家の見えなくなる辺りの、石垣が擁壁となっている擁壁上の斜面に『石鴨天満宮』があります。

その石鴨神社さんに伝わる民話となります。



『ひとしきりの雨足が軒を強くたたき始め、あたりの木々が頭を左右に大きくふりだしました。
石鴨の弥平は、降り続く雨のため木樵仕事に出られず、ここ十日間ばかりはからだををもてあましていました。

天満宮の斜面には石碑や石像が集められています。

いろりにたきぎをくべながら、女房のおゆきと「早くあの青い空をみたいもんだね」と話していました。
いつもは遥か下の方から清らかなせせらぎの音を響かせる桐生川も、長雨にすっかりその優しさを失っていました。

清流が赤く濁って逆巻き、牙をむく恐ろしい大河に変身している桐生川を見続ける弥平に、いろりの火をかきまわしていたおゆきが「お前さん、お茶にしないかね」と、言葉を掛けたそのとき、腹の底まで響くような異様な地鳴りがして、二人の目の先の窓外を何やら大きな黒い固まりが、ゴーッとよこぎっていきました。

びっくりした二人は、慌ててその場へ伏しましたが、とっさに目と目で合図し合って、恐る恐る窓辺に寄って外を見ました。
すると軒下近くまでザックリとえぐりとられ地面が赤肌を見せ、荒れ狂って流れる桐生川にまでも続いていました。
そしてさっきまで長雨を耐えていた村の鎮守、天神さまのお社が、後かたもなく消え去っていました。

長かった雨がようやく上がり、桐生川は、まだ濁ったうねりを見せていましたが、村人たちは自分たちの家や畑の手入れを後まわしにして、鎮守様を探しに下流へと向かいました。

お社は、ほどなく見つかりました。
流れ流れて梅原、という地に打ち上げられていたのです。


(つづく)

No.41

…すごくないですか?

人形が歌ってますよ。
飾り物にはディズニーランドがあるではないですか。

今でこそ日本ディズニーランドがあり、身近なものでありますが、当時はディズニーランドと言ったら海外のものに行くしかなかったですし。

とはいえ、海外の文化に憧れ、海外の文化をどんどん取り入れて飛躍的に復興していった戦後の日本。

昭和二十年代後半ともなれば、素人が日常を撮った写真を見ても、今でもの素敵だなぁ、カッコいいなぁと思うファッションであったり、風景であったりがみてとれます。
間違いなく、今の私と夫よりずっとずっとおしゃれで粋です。


御開帳かぁ。
景気高揚を祈念して御開帳されたこともあったようですが…。
現代は…そんな信仰心もないですかね。(まぁ、その最たる人間に言われたくはないですよね。すみません)
というか、それだけのお金をかける余裕も正直ないのが現状でしょうか。
悪疫退散も今さら、ですよね。

うーん。
桐生天満宮さんの御開帳♡

No.40

『桐生天満宮』さんの御開帳の飾り物として上演されたからくり人形による芝居は、『からくり芝居』と呼ばれ、江戸の伝統文化の桐生の織物技術が結び付き、桐生の地に根付いたものと考えられる、といわれます。

天満宮の御開帳は、嘉永五(1852)年に始まり、昭和三十六年を最後に計八回が記録として残されています。
御開帳の飾り物としてからくり芝居がいつ頃から興行さらていたのかは明らかではないようですが、江戸での興行の影響を受け、いち早く、受け入れしていたことが想像できます。
(というよりからくり人形芝居はもはや『見世物』でありますね 笑)


相変わらず御開帳の真の内容はわからないままでありますのに、この飾り物については結構ネット上に資料を見出すことかできます。
中でも興味深いのは、桐生新町の一町だけで御開帳、というか飾り物の披露をした年もあったこと。
それが明治十一(1878)年のことで
『《四町目》
「西郷桐野篠原奮戦の場」
“(餝物師) 佐野町 新藤駒吉”』
とだけあるのです。

この資料ではこの回に関してもカウントされてはおりますが、実は(肝心の)天満宮さんでは飾り物はなく、この四町目さんのみが記載されているだけでありました。
まあ、御開帳と飾り物は必ずしも一致しないものではありましょうが…。

ちなみにこの四町目のみ飾り物であった年以降、出し物、見世物が増えていきます。
次の御開帳の際にはやはり《4町目》による
“(生人形師) 浅草 竹田縫之助”
“(器機師/水車応用) 岩崎英造”
…これがからくり人形の始まり、ではないんで、…しょうね。

嘉永五(1852)年、初の御開帳の際にはもうこういった飾り物はあったようですが、この時は題目を見るに
《横町》「石狗犬奉納」という奉納もあり、以降も鳥居の奉納等が行われています。

明治末から昭和初期には桐生市中の社寺が飾り物や奉納をしている様子がみてとれます。

最後の御開帳は戦後の復興も進んだ頃でもあり、

《天満宮》「羽衣/コロンビアローズ、朝倉ゆりの人形が歌をうたう」
《1町目》「歌磨」
《2町目》「大阪夏の陣」
《3町目》「ディズニーランド」
《4町目》「曽我の夜討」
《5町目》「八百屋お七」
《6町目》「一本刀土俵入り」 
《錦町》「竹原人形」
《末広町》「潮来笠 橋幸夫の人形が潮来笠をうたう」

とあります。

No.39

桐生天満宮にかつて『御開帳』があったと知り、神社さんの御開帳とは?と気になって調べておりましたら、以前夫から聞いた話、『天満宮の起こり』とされる話が文章化されたものを見つけました。

御開帳については私の知りたいところの、「何を御開帳されるのか?」は未だにわからないままなのですが、その文章には昭和三十六(1961)年に開催された最近の御開帳の様子を見てとらえた写真が一枚添えられていました。
馬に引かせた屋台が町を練り歩く様子でありました。

昭和三十六年であれば、当時を知る人はまだ多くおられるのではないかと思われますし、参拝の折に宮司さまにお聞きしてみてもよいのかなぁと…。
なんでもその本によりますとこの昭和三十六年の御開帳では、飾り物は天満宮からはじまって各町内化豪勢な飾り付けで人々を楽しませたといい、各町内が称賛して、〝人形を飾り、水車や電力などを利用して動く仕掛け〟など、趣向を凝らした飾り物をしたといい、桐生名物の一つであったといいます。


…そういえば。
そういえば桐生天満宮のかな境内社『機神神社』さんの裏手にある堀に小さな水車がありました。
なんだかそれでからくり人形芝居をするとかしないとか書いた立て札がありましたっけ。
…再興したのかなぁ?
人形芝居が開催されることがあるのかしら。
とはいえ今はそこには水は流れておらず、水車自体が機能しない気がするのですが…。

からくり人形劇といえば、この旧桐生新町の通り沿い、現本町通りから少し入ったところに『からくり人形芝居館』とかいうものがあったような…。
あの、BS日テレの番組『発見ニッポンの神業スペシャル』とコラボしたスタンプラリーでそこを訪れたような、訪れなかったような…。

からくり人形芝居、かぁ。

そういえば…昨年か一昨年か、桐生市は市政百年とかでなにやらあれこれ記念行事が開催されていたようでした。

そのときに人形芝居って行われたのかしら。
…それこそそれを機に天満宮の御開帳もしていただけばよかったのに。

そんな時でもなければ、「いつするの?」ですが。


ちなみに。
この桐生天満宮さんの御開帳、『何年に一度』とか『(十二支の)何歳の年に』とかいう決まり事はなかったようで、景気高揚を祈念したり、景気の良いことに感謝したりとかで祭礼していたようです。

No.38

栄昌寺さんには当時をしのぶ書物としての手がかりは一切残っていないといいます。
しかし、境内にある弁天堂と権現堂の二つのお堂こそが寛永寺にならって創建されたというその証しであるのだといわれます。
ことに『徳川家康』公をお祀りする、権現堂の開き扉の両側に三つ葉葵の御紋こそが、ゆるぎのない証しであるといえるのではないかと。

権現堂自体は当時のものかというと、もう少し新しい時代のものに見えましたが、その開き扉に付けられた葵の御紋はいかにも建物よりも古いもので、しかもかなり大きな物であります。
葵の御紋の偽物は数多くあるとも言われますが、徳川家康の定めた徳川花直轄の桐生にあり、しかも町づくりの関係、こと陣屋のお膝元という立地を考えても、私はこれは伝承通りと信じております。

 
こちらが模した、と言われる江戸『寛永寺』を創建したのは、【天海大僧正】。
天海大僧正は、天台宗の高僧で家康公の知遇を受け、江戸幕府創建時に内外の政務に参画したことで広く知られています。
栄昌寺さんを創建したのは、その天海大僧正の法弟の『覚盛法印』と伝えられています。

またこちらには天海大僧正が着用したとされる燕尾帽とお袈裟があるといいます。
 
天海大僧正は、永眠された後の家康公を、久能山から日光へと改葬することにご尽力をされた経緯があり、日光への移動の際、その途中にある徳川家直轄の桐生の地、そして深いご縁のある栄昌寺さんにに寄らないと考える方が不自然、ということから、天海大僧正は少なくとも一度は、こちらを訪れたことがあると考えられております。
その際、こちらにご寄進されたものなのかどうか、それは記録としては残されてはいないようですが。

たとえ裏付けする書面がないとしても、おばさんはこれを信じます。
だって壮大なロマンを…感じません?

直轄地ということであちこちから商人を誘致し、織物の技術を高め、江戸という時代から飛躍的に発展した桐生という地。
…ロマンを感じません?

まぁ、桐生新町作りくらいまでで、その後の近代史にはとんと興味がないおばさん、なんですがね。

No.37

その、かつての横町『横山町』にはお寺さんが一軒あります。
その名は【栄昌寺】さん。

このお寺さん、かつてやはり同じく桐生市にある【光明寺】さんのご住職さまからお教えいただいたものでありました。

「江戸時代桐生が徳川家直轄であったから、その流れで作られた栄昌寺さんは徳川の御紋が許されているお寺なんだよ」と。

その足ですぐに栄昌寺さんに向かったのは何年前のことだったか、…たしかに大きく葵の御紋がお寺の建物の飾りとして付けられていました。


天正十八(1590)年、徳川家康公が、この桐生の地を【徳川家直轄地】としたことが、栄昌寺開山に向けての始まりとなるとお寺さんのホームページに記されています。

家康公は領地とした桐生の町を機能的な環境に整備するべく、家臣で代官の大久保長安に町づくりを行うよう命じます。この大久保長安という人物は、桐生の他にも江戸や八王子の町づくりに参画し、さらには主要な金山銀山の管理開発もまかされるなど、まさに八面六臂の活躍をした才人であったといいます。
この大久保長安、手代の大野八右衛門を実践役として、桐生の町づくりをすすめます。

桐生新町は江戸の町を引き合いにイメージするとわかりやすいといわれます。
江戸の町というのは江戸城を中心として、北に【湯島天神】、南に【増上寺】を配した町で、北の神さまと南の仏さまに町をまもっていただく配置となっておりました。
さらに、江戸城の東北の方角の、いわゆる鬼門にあたる上野の位置に天台宗【寛永寺】を創建し、江戸の町と江戸幕府に安泰をもたらすよう祈念し考えられた町づくりになっていたといいます。

なるほど。
桐生の町も北に【桐生天満宮】を、南に【浄運寺】を配しています。

この時代、徳川直営地というだけで桐生には江戸のようにお城はありませんでしたが、【陣屋】が北西の位置にあたる見晴らしのいい丘陵地にあったとされます。
今ここにはお寺さんが建てられています。

『桐生天満宮』から始まり『浄運寺』を終点とする、南北を結ぶ通りからほぼ直角に『桐生陣屋』へと向かう通り、…当時の桐生の町のメインストリートのほぼ中央に、『寛永寺』にならって町の安泰を期して創建されたのが、この【栄昌寺】さんであった、ということで、開山は寛永二(1625)年、寛永寺さんと同じく天台寺のお寺さん、でありました。

No.36

桐生新町の件で、夫と不穏な空気になったのは『桐生天満宮』さんの狛犬さんを奉納した町の名前。

…なんとくだらないことで、と思われた方々、わが家の口論などは実に低俗でどうでもいいことばかりであります。
なのにヒートアップする、譲らない二人。
上州女は〝かかあ天下〟で知られていますが、この私のような気の強さとはまるで異なるもの。
真の上州女、かかあ天下の女性は気ではなくて、芯が強いのだと思います。
男の人を縁の下から支えて、さらには壁となりなんなら屋根ともなる、それが本当の上州女さんであり、かかあ天下と呼ばれる女性なのであります。

閑話休題。

そんなくだらな過ぎる理由で不穏な空気に包まれる、常に一触即発状態の夫婦であります私ども。
私を妻に娶らなければ、彼はもっと穏やかであったのだろうか、などと思うこともあったりなかったり。

その今回の原因となった、桐生天満宮さんに狛犬を奉納された町の名前は【横町】。
調べるとそのままの名前では現存しないようであります。現在は【横山町】と名を変えています。

それを夫は私が勘違いしてそう思い込んでいるとバッサリ。
そもそも狛犬さんの台座の文字すら見逃しているくせに。

私はキチンと横町という町が現存してあるかどうか、今はどうなっているのかを調べてものを申しているというのに。

そんなどうでも良…くはないけれど、たいしたことでもないことで、案内人の方に案内をお願いするのも申し訳ないこと。
スマホでWikipediaのページを表示して、水戸黄門の側近のように、これを見よと手渡すと、
「ふーん、こんなことまで出てるんだぁ」

出てるんだぁ、じゃない!

…とさらに食ってかかると、近所迷惑な喧嘩に発展致しますので、そこはそこで抑えて(ああ、なんと大人な対応でしょう 笑)。


狛犬の奉納、という、大きなことをしている町でもあります『横町』。実はこの横町という町、桐生新町のメインストリートから外れた地にありながら、桐生新町であったという、注目すべき(なのかどうかは不明ですが)町、なのです。

No.35

ところで。

この日【桐生新町】という言葉を何度も聞き、言葉を聞かずとも桐生新町に深く関わっているものであったり。
たしかに、訪れた地が群馬県桐生市であったのだから、当たり前と言ったら当たり前で、何よりもこの日訪れた【桐生天満宮】さんが、その『桐生新町』をつくるにあたり、地区の北端を護るべくここを起点としていることから考えたら、もはやそれを語らずしては語れないものであるのではありますが。

この日導かれるように訪れた【常祇稲荷神社】さんも、まさにこの町づくりの頃に現在地に遷座し、桐生新町の住民からも深く崇敬されています。
実はこの『常祇稲荷』さん、桐生新町の町からは外れてはおりますが、ほんの少し奥まったところに位置するだけで、桐生新町の南端に位置する【浄運寺】さんの山門に対し、背中を向けるように位置しており、言い換えると浄運寺さんを護るように建っている、とも言えるのです。
そしてこの浄運寺さんは桐生新町の町立てに際して現在地に移転して来ており、まさに同時期に両社寺が現在地に移されているのです。


…おばさん、頭が悪いくせに、こだわると変に深く掘り下げるところがありまして。

なので夫から「なんでそんなこと知ってるん?」と言われることがあるくらいで、へたをすると「なんでそう思ったの?」と。
なんでそう思ったの?というのは良い意味でではなく、どうやら思い込みで語るなという言葉を柔らかくオブラートに包んで言っていたらしいということをまさにこの、『桐生新町』について語っていて言われた口調と会話の流れで気づいたのでありますが…。

おいっ…なんなら桐生案内人の会の方に私の言ってることが実は正しいって証明してもらおうか?
…とまで一瞬思ったほどで 笑。


No.34

この日は一日。

小さな伝言の紙が置かれていました。

『お一日参り。
お燈明(百円)
昇殿参拝
↗︎ ↗︎ ↗︎ 』

この矢印 ↗︎ はどうやら社務所を指しているようです。

行く!
お昼を過ぎてしまったので、昇殿参拝はできなくとも、お燈明だけお願いしたい!
おばさん、まっしぐら!

社務所の呼び鈴を押すとそれはそれはにこやかな、素敵な笑顔の女性が現れました。
「あの、お燈明だけお願いしたいのです」
「あら、そうおっしゃらず。どうぞ昇殿なさってください」

…ああ、一時間くらい待てばよかった。ごめんなさい。

上がらせていただき、お燈明をお願いして。
神さまへお供えするものだからと、夫と別々にお燈明代を支払うと、お声を出して笑われました。
「わかるけど、おもしろい」
…すみません、お手数かけました。

正座して拝みますと、太鼓をたたいてくださいました。

…急な昇殿参拝、もちろん…ちゃんとできなかったどころか、どういった行動をとったかすら思い出せません。

リベンジ、お一日参り!


おキツネさま、ぜひお導きくださいね。


七夕の笹飾りがすでに飾られていました。
何十年かぶりに短冊を書いて飾らせていただきました。

可愛らしいうさぎの絵馬は書かずに持ち帰りました。

あと、可愛らしいキツネさんの人形のおみくじを引いて。
それが…なんとも当たっている。

強制的に夫も引かされて…、二体のおキツネさんにわが家にお越しいただきました。

神さまのもとをお訪ねもうしあげたのに、なんだかとても楽しく過ごさせていただきました。


No.33

さていよいよ念願の茅の輪くぐりです。
本当にワクワクしております。

少し茅の輪が長かったのか下が四角の茅の輪です。

おお、茅の輪くぐりの唱えことばが書いてあります。
『一周目
「水無月の なごしの祓 する人は ちとせの命 のぶといふなり』
ニ周目
『思ふ事 皆つきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓へつるかな』
三周目
『蘇民将来 蘇民将来 蘇民将来』


…これは神社さんによって異なるようです。

まず一礼して。
左足から左回りに茅の輪を左足でまたぎながらくぐって、茅の輪の左側を回ってから正面に戻って一礼します。
次はまた一礼して、右足から右回りに。
もう一度、左足から左回りに
もう一度、左足で茅の輪をまたいで左側へ回り、最後に茅の輪の正面に立って一礼して、茅の輪をくぐり抜けて拝殿の前でお参りをいたします。


うっ。

…誘惑がいっぱいですが。


それでも頑張ってまずはお参りさせていただきます。

お参りの仕方も図解したものが見やすい位置に貼られています。
…それが、ですね。
可愛らしいんです。
…絵心がある方がお描きになられているのでしょうね。

キツネさんの横向きの絵が四つ。
・鈴を鳴らし姿勢を正します
(キツネさんは姿勢を正します。しっぽが太くて長く、なんともバランスよく後ろ足で立っています)

・深く二礼します
(キツネさん、深くお辞儀をしております)

・胸の高さに手を合わせニ拍手し祈ります
(キツネさん、誇らしげに拍手しています)

・最後に深く一礼します

筆か筆ペンで、字も絵も描かれています。
あまりの可愛らしさに、夫など写真を撮ってきたくらいです。


正面に【皆孔(=孔皆 こうかい)】
と板書されたものが掲示されています。
はて?
どんな意味があるのでしょう。

『豐年(ほうねん) 』という漢詩の中に"降福孔皆" という言葉が出てきます。
『大いに福がもたらされように』の意味だそうです。
深いです。


さて誘惑とは。

まずはお賽銭箱の上に置かれた、今まで見たことのないおみくじです。

もしかしたら神社さんの手作り?でしょうか。

太い竹を縦に割ったものを横にして、そこに小さな穴をいくつも開けて、おみくじの巻かれた竹串をそこに刺してある、といったもの。
あの一般的な焼き○りの串、と思われます。







No.32

こちらは稲荷神社さん、なので御祭神は【倉稲魂命(うかのみたまのみこと)】さまで、古くから五穀生産衣食住の守護神として知られています。

こちらは江戸の初期に、旧今泉村に小社が建立されたものがはじめ、と伝えられている、とのことです。
慶長十八(1613)年に現在地(今泉町常木)に遷座し、稲荷明神として村民から崇敬されました。

『正保四年(1647)九月十三日火災のため社殿が全焼し、このとき、内陣にあった幣帛が、たちまち空に舞い上がり、神木の枝に止まった。
これを見た村民は、不思議に思い群集して礼拝したといわれている。
宮司の息子がこの幣帛を下ろして仮屋に奉遷した。
この不思議な御神徳に、村人は協力し、わずか一年後の慶安元(1648)年には、社殿が再建された。
正徳三(1713)年にも社殿を建替え、同五年(1715)正一位に叙せられた。
こうして当社は、今泉村の氏神であったばかりでなく、桐生新町の町民にも崇敬され、祭礼の日には、全町神灯をかかげて祝ったということである。

なお嘉永元年に、当社の神主小島氏が、江戸域内で行われた、将軍の病気平癒の祈祷に、精進したともいわれている。

明治初年ふたたび火災にあい、社殿を焼失したが、翌二年再建され、今日に至った。
さらに同四三年七月諏訪神社・八坂神社などを合祀し、大正八年四月村社となった。』


(常祇稲荷神社さん由緒書きより)

もっと優しい、誰が読んでもわかる御由緒書きが、拝殿の正面にも掲げられています。



この日も私どもは東側の鳥居をくぐらせていただきました。
参道の横には紫陽花の他にも季節の木々や花が植えられています。

左側には「竹次郎稲荷」と彫られた碑がありました。
竹次郎さんとはどなたなのでしょう。

またその先には、阿夫利神社が鎮座していました。
こちらは『大山阿夫利神社』だと思われます。

境内に入ると少し奥まったところに手水舎があります。
目の前に茅の輪が設置されていることもあり、今回はつい見落としがちでありましたが、お狐さまが私にピピっと教えてくださったかのように、パッと手水舎が目に入りました。

こちらの手水鉢には龍が水を注いでいるのですが、その手水鉢の鉢の中に、稲荷神社さんに見られる実ような、小さな焔のようなお印が立体として彫られています。
うーん、このこだわり♡好きだなぁ。

No.31

常祇稲荷神社さんはやはり分かりづらいところにありました。
が、地元の方にはなんでもない、いたってわかりやすいところ、なのかもしれません。

桐生市のメインストリート、『本町通り』から一本道を入った所、なようです。
しかしながら、常祇稲荷神社さんからは見える本町通り、こちらからは行けるものの、本町通りからは入れない一方通行。
ナビが無ければどうしたらいいのか…。

と、東側にある鳥居から見えるところに行列が出来ている。どうやら飲食店のよう…ソースカツ丼と大きく書かれた看板が見えます。
なるほど、桐生市はソースカツ丼で有名です。
ただ、そこは私の知らなかったソースカツ丼屋さん。
お店の名前さえ覚えられれば、その道から入ってこられそうです。
…覚えられれば、ですが。
しかもそのお店に来るにはやはりナビが必要、だな。

駐車場はびっくりするくらいに広いです。…無料の駐車場、「ここにちょっと置かせていただいて…」なんて人がいるんじゃないかなぁ、…と思っていたら、やっぱり何台かそういう車が停めていました。ヤレヤレ。

車を停めると、あちこちにいろいろな種類、さまざまな色の紫陽花が咲いていました。
わが家の紫陽花はもう花の盛りを過ぎていましたが、常祇稲荷さんの紫陽花はほとんどが今が盛り。

どうやらこちらは四季折々いろいろな花が咲いている神社さんのようです。

社殿が東向きになっている、…とのことですが、私はそういうのは方位磁針でも使わないとわからないタイプの人間。
夫や子どもたちが、車の中で、とか車から降りてすぐに、方角をスポンと言えることが信じられない人種です。というか方角とかを考えて生きていない。
何故方角が必要なのか、…わからない人間だから方向音痴、なんでしょうね。
わが家の子どもたちが全て、私に似なくて良かった、良かった♡


閑話休題。

東向きの社殿に対して、東からの入り口と、南と北からの入り口があります。
北側は例の本町通りから来る道に面していて、石の鳥居の内側にある小さな赤い鳥居がいくつも並んでいるのが可愛らしかったです。
ただ、その可愛らしい、小さくて細い鳥居の列をくぐる自信が無くて、近寄ってくぐってみようとは思えなかった私でありました。




No.30

このあとさらに、埋まってしまっている〝力石〟な場所までご案内くださって。

少しだけ夏越の大祓について雑談をいたしました。

「こちらは夏越の大祓では茅の輪を作らないけど、年越のはあるんだっけ?」
私「あ、あります、今年ありました」
私「穢れが多いので本当は茅の輪をくぐりたかったんですが、この辺りで夏越の大祓で茅の輪をお作りになる神社さんがわからなくて、できなかったんですよ」
と申しますと、
「あれ?常祇稲荷さん作ってあったけど」

ああぁ、そうだったんだぁ。

常祇稲荷神社さんはやはり桐生市にあります。
一度だけお参りさせていただきましたが、明るくて、何より宮司さまご一家がこの常祇稲荷さまが大好きという感じなのが伝わってくる、とても感じのよい神社さんでありました。

が。
惜しいかな、私にはナビなしでは到底こちらへ到達することができる自信がない。
それこそまるっきり。
へたをすると、狭い、一方通行の道路で立ち往生しそうなくらいです。

…いや、別にこれは私、という人物限定でしかありませんが、
まあ、とりあえず、こちらは住宅街にあって、狭い道路だったり、一方通行だったりという場所にあるのだけは確かです。

夫はわかるのかなぁ。
できたら一日過ぎてはしまったけれど、茅の輪をくぐりたいのだけれど。

案内人の方がさらに、
「茅の輪をくぐるにも、唱え言葉とかくぐり方とか決まりごとかあるよね。たしか…。
たしか『左足で入って左に回り、右足で入って右へ。もう一度左側へ回ってから抜けていく』んだったっけ」

おお、ありがたい。
「覚えたつもりが半年とか一年あくうちに忘れちゃうんですよ」

「祓詞はたしか、『水無月の なごしの祓 する人は ちとせの命 のぶといふなり』って言うんだったと思ったけどな」

…さすが案内人さん、なんでも知っておられます。できたら一緒に来ていただきたい、行ってレクチャーしていただきたい。

まぁ、そんなことは到底無理なので。
ナビをセットして群馬県桐生市の【常祇稲荷神社】さんへと向かいます。
やはり夫も自信がなかったようです。

No.29

『末社春日社は、本殿の後方に南面して建つもので、一間社流造りの小規模な社殿である。
社殿は、身舎、庇の軒桁や垂木に見られる反り増しをはじめ、要所に用いられている彫刻の装飾に、室町時代後期の建物の特徴をよく残している。一部に菊と唐草・流れに紅葉などの文様が描かれてあり、各部には彩色が施されていた痕跡が見られるが、ほとんどは不明である。
県内における類似する建物としては、板倉町の雷電社末社稲荷社社殿があり、象鼻彫刻が発生した早期の建築と考えられる。
このことから、建築年代は天正(1573)年から慶長(1615)年間と推定され、現存する桐生市内の建造物としては、最古のものであるとともに、当地方における古建築の遺例として貴重である。』

(桐生天満宮 公式ホームページより)


実はこちらも見事な彫刻が施されたものであります。

ただ、残念なことに経年劣化もあり、そして経年の劣化によるものなのか悪戯や悪意なのか、正面の扉に施された彫刻は一部剥落してしまっています。
それはよく見ると藤の下に鹿がいる構図のようです。
その左右の鹿の上半身のみが、ない。
もしかしたら…と思わずにはいられない剥落です。

その扉の横には龍の巻きついた倶利伽羅剣が施されています。こちらはしっかりと残っています。
実に精巧で、龍の表情も大変こだわりのある作りです。
左の剣は蓮花、右は岩座(?)の上に立っていてとても洒落ています。


こちらの春日社さんも今回国指定重要文化財となったのですが、今までは桐生市指定の文化財にとどまっておりました。
前回の県の指定文化財からは漏れていたようです。
文化財指定されたから良いもの、そうでないから大したものではないものということは決してありません。
良いものは良いし、個人的に好きなものとかは各々の心にあるものであります。
しかしながら、国指定の文化財ともなればある程度はその維持、保存に対する資金が得られるのかもしれないと、おばさんは思うわけで。
この素晴らしいものがこのまま朽ちていくのはあまりにももったいないと、是非後世に残したいものだと思っていたものでありまして。

ただ…機神神社さんのように覆屋ですっぽり覆われてしまうと、その素晴らしさはほぼ封印されてしまいますし…。
難しいところではあります。

No.28

いつまでもウロウロと本殿の周りにいる私どもに、桐生案内人の会の方が声をおかけくださいました。

「ぜひ見ていっていただきたいところがあるのですが」
おおっ✨

「太鼓橋と鳥居の間くらいに末社があるのはご存じですか?『機神神社』という…」
はい。
「実はあの建物の中にお社があるんですよ」
「ええっ?」

「横から覗けるのでぜひ覗いてみてください。こんな(…と写真をお見せになりながら)立派なお社があるんです」
おおっ。

所狭しとまでに広げられた古民具の出店のあいだを縫うように歩いて機神神社のところへ。

窓から覗いてみるとそこには。

…覗けない。
また私の背の高さではよく覗けないのです。
しかしながらスマホを使って覗き見ると…。

おおっ✨

小さなお社ではありました。
が、天満宮の社殿に負けないくらいの立派な彫刻の施された素晴らしいものでした。
…なんですけれど!

例の古民具骨董市の人が鳥居の中にお店を広げ、拝殿の真ん前で商いをしているのですよ。
しかも軒下は物置き状態です。

きーっ!
ありえない!


それからもう一つ、桐生案内人の会の方が教えてくださったこと。
「石でできたベンチが置かれているんですが、あれ、初代の太鼓橋を再利用したものなんですよ。ぜひ見ていってください」

なるほど、石でできたベンチはいくつもあって、そう言われてみれば確かにいろいろな形をしていて一つとして同じ形のものはないのです。
それでも太鼓橋を使ったんだなぁとすぐにわかるものは一つくらいではありましたか。


すごいなぁ、案内人の方々。
たくさんのお話でたちまち桐生天満宮を宝にしてしまいました。
こんな案内ができるなんてすごいなぁ。

年配の案内人の方がスカウトしてくださいましたが、もう何年も前から神社仏閣をまわせていただいているというのに、ちっとも覚えるということができない脳みその持ち主には、到底人さまに説明して質問に答えられるだけの情報を頭に入れることなど不可能なので。


そういえば…。
他の方には必ず説明されていた春日社について、私たちには何も語らなかったなぁ。

No.27

柱にまでこだわって彫刻を施した【桐生天満宮】さんの本殿・幣殿は胴羽目だけでなく、腰羽目、幣殿なども力を入れて彫刻しています。

腰羽目は唐子遊びが何枚か。
本殿の背面は、
【鬼ごっこ】、
【花車】=草花を大八車に乗せ、町中を巡っているもの。
【獅子舞】、
左側の側面の腰羽目には
【双六】
が描かれています。

この唐子遊びはやはり日光東照宮の陽明門にも施されていますが、これには平和への願いが込められているとされます。
子どもたちがのびのびと遊ぶことのできる世界こそが平和な世界であり、そして次の平和な世界を築くのも子どもたちである、と。

No.26

背面の胴羽目は三枚あります。

背面の胴羽目、向かって左側は
【二十四孝 郭巨】
郭巨は貧困のため母と子供を養えなくなり、悩んだすえに「子供は再び得られるが、母は再び得られないのだから、子供を捨てる」と決心し、妻にそう告白した。夫の悩む姿を見続けていた妻も頷きました。郭巨が子供を埋める穴を掘ると、黄金の釜が出てきました。その釜には「孝行な郭巨に天から与える。役人も他人も盗ってはいけない」と書かれた札が入っていました。郭巨は黄金の釜を売り、子供を養いながら更に母に孝行しました。


背面中央の胴羽目、
【二十四孝 孟宗】
中国三国時代、呉国に孟宗という親孝行の息子がいました。幼い頃に父を亡くし、高齢の母は重い病にかかっていました。彼は医者から母に新鮮な筍のスープを作るようにと言われました。時は冬、筍は春にならないと生えてきません。なす術もなく竹林に入った彼は、竹にすがって泣き出しました。すると大地が揺れ始め、地面がひび割れたかと思うと、数本の筍が生えてきました。大喜びした孟宗は筍を家に持ち帰り、筍のスープを母に飲ませまると、母の病気が治ったといいます。


背面の胴羽目向かって右側
【二十四孝 漢文帝】
漢文帝は、初代皇帝である高祖劉邦の皇子で、幼名を恒といい、母親に孝行でした。恒は自ら毒味をした上で母に食事を運んでいたといいます。兄弟も多くいましたが、彼ほど仁義に厚く孝行な皇子はなく、そのため臣下の者たちは彼を皇帝として推薦しました。皇帝となった彼は漢文帝を名のり、孝行の道を知る彼の治世は、豊かで民衆も住みやすい時代になったといいます。


何故この【二十四孝】が画として選ばれているかというと、一説に江戸時代に寺子屋教育の教材として使われたというものもあるのだとか。
まぁいずれにしても親孝行を勧めるためにあるのだとは思うのですが…。


今現代の感覚からいうと、正直明らかにおかしいものが多いです。
【老萊市(ろうらいし)】など、歳をとった自分の姿を見て親が悲しむのを避けるために子供の服を着て子供のように遊ぶ姿を見せるって…いやいや、余計に嘆くでしょう。お笑いのネタならいざ知らず。

まぁ、時代も、ましてや国も異なりますからね。
でも…いくら時代が異なるとはいえ、江戸の時代の人たちって、これを親孝行って思えたのかなぁ。




No.25

『二十四孝』という中国の親孝行に関わる物語を題材とした彫物は、他の神社さんでも実に多く見られるものです。
とはいえ、私がパッと見てすぐわかるのは『孟宗』という、竹林で喜んでいる人物が描かれているものと『唐夫人』というものくらいですが…。

この「孟宗』も『唐夫人』も、天満宮さんの本殿の中段にありました。

この彫り物を見て、「これはこういう物語なんだよ」…なんて言える人になれたらいいと思ってはいるのですが、なかなか道は遠く険しいものです。

ちなみに桐生天満宮さんの本殿の側面の胴羽目の二十四孝の彫刻は二枚あって、本殿右側面の胴羽目の彫刻は

【二十四孝 大舜】
大舜の母親は早く亡くなり、義母は義弟を可愛がり、大舜に辛く当たった。大舜は自分を愛さない義母や父のために不平も言わず一生懸命に働いた。その徳によって、大舜が田を耕しに行くと、象が現れ田を耕し、鳥が来て田の草を取り、農作業を助けたという。時の皇帝である堯王は大舜の孝行に感心し、娘を娶らせ、後に皇帝の座を大舜に譲ったという。

【二十四孝 楊香】
ある日のこと、楊香は父と一緒に山へ薪を取りにいきました。すると、虎が出てきて父を食べようとしました。それを見た楊香は自分の身の危険もかえりみず、急いで虎の首に両手で飛びかかりました。虎は楊香の捨て身にの行動に驚いて逃去り、父は虎に食われることなく、助かったという。

といったもの。


左面の胴羽目は
【二十四孝 老莱子】
老莱子という親孝行な人がいました。我が子が年を取った姿を見れば両親は寂しかろうと、老莱子は既に70才になっても、子供が着るような色鮮やかな服を着たり、水運びの途中にわざとつまずき転んで子供のような仕草をしました。その天真爛漫な姿に両親も年を忘れ笑いが絶えなかったといいます。
【二十四孝 唐夫人】
唐夫人は、姑の長孫夫人によく仕え、姑の髪を毎朝整え、歯が無い姑のために自分の乳を与えるなどして尽くしました。ある時、姑は死期を悟り、一族を集めて「唐夫人の恩に報いることができず、今死のうとしているのが心残りだ。唐夫人孝行を真似れば、必ず繁栄するでしょう」と言いました。この話は「乳姑不怠」として知られるようになり、姑に孝行なのは珍しいと、皆褒め称えたと言います。

…ちなみに初めてこの内容を知ったとき鳥肌が立つくらいに「無理」と思った私です。

No.24

この猫の彫刻こそが、あの日光東照宮の眠り猫の作者左甚五郎さんが彫ったもの、と伝えられるともいうものなのだそうです。
…あくまでもそう伝承される説がある、というレベルなものだといいますが。

写真で見るこの猫の彫刻、例のリーフレットでは『眠っていない(?)猫』と称されていました。
残念なことにこの猫の彫刻、木自体がかなり劣化してしまっており、一部などは剥落してしまっていました。
土台に近い、下の方にはめられていたため、湿気を受けたり、虫の被害も受けやすかったのかもしれません。

とにかく彫り物の多い神社さんですので、それこそ『日暮らしの門』ならぬ『日暮らしの天満宮』といえる、のかもしれません。

東照宮の日暮らしの門『陽明門』にもある龍馬(りゅうば)もほられておりますが、龍の彫刻がかなり多いのが桐生天満宮の本殿であります。
そこはやはり桐生という土地、地名からのものでありましょうか。
本来なら龍は上の方に彫られていることが多いといい、というのも、龍は水を操るため火災から護るというまじないもあるとのこと。

そういった彫刻にも霊獣にもまるで詳しくはない珍道中ペアは(主に妻が)「あれは白澤(はくたく)かしら?」
「あれは麒麟かな」
「あ、あそこは鯉の滝登りだね」
などとまさに時を忘れたかのごとくにその彫刻を愛でておりました。

唐獅子もかなり高い位置、屋根に近い位置から下を見下ろし、この聖域に何事かあればすぐにでも駆け降りてきそうな躍動感あるものもありましたし、その足元には梅の花が一枝咲いていたり。

そうそう、牛も多く彫られているのはやはり天満宮だから、でしょうか。
鳥も多く彫られています。

こちらの特徴として挙げられるのは柱などの細部にまで彫刻が施されていることだといいます。
あの東照宮の陽明門で有名な『魔除けの逆柱』と同じ模様、『グリ紋』と呼ばれる渦巻き状の地紋が彫られています。
まぁ、桐生天満宮さんはさすがに逆柱にまではしていないのでしょうが、ね。




No.23

以前、桐生市を訪れた際、たまたま手に入れた『桐生天満宮の彫刻』というリーフレットがありました。

この日そのリーフレットを持つことなく訪れてしまったのですが、ほんの小さなリーフレットなのに、写真も内容も素晴らしいもので♡
…ただ惜しいかな、印刷した用紙が茶色みがかったもので、…いや決して質が悪いというほどのものではないのですが、写真の印刷には少しだけ惜しいもの、ではありましたが。
むしろ無料でこれだけのものをいただき、ありがとうございますのレベルであることは間違いないです。


そんなリーフレットに、いくつかクイズがありました。
その一つが、例の〝一説によると〟の猫の彫り物がどこにあるか?でありました。
…この猫が見つからない💦

何度見ても見つけられず、今回夫と来られたので、視点が変われば、…人が変われば見つけられるものかと期待して参りました。

他にも二つクイズがあったのですが、そちらには私が興味があまりなかったので記憶すら無くなっており、ひたすら猫を探して、探して。

…無い。

リーフレットさえ持ってくれば〝ヒント〟が書かれていたものを…。相変わらずマヌケな珍道中おばさんでありました。


💡…この桐生案内人の会の方ならばご存知に違いない!
姑息ではありますが、この方々にお会いできるチャンスなど滅多にないこと!
で、姑息なおばさんはお聞きしました。
「猫の彫刻があると知って、何度も探しているのですが見つからず、今回夫とくれば視点が変わって見つかるかも、と思ってやって来たのですが、やはり見つからなくて、ご存じでしたらお教えくださいますか?」

「ああ、あれは少しわかりづらいんです。写真を撮ることは出来ますか?」
?「は、はい」

「ここ、なんですが…」

「この下の方にあるんですけど、人によってはこの囲いのせいで見えないんです」


…。
どおりで。

私の身長では背伸びしても見えないところにありました。
なので写真で確認するしか無いのだと。
肉眼で見るには台持参で来るしかない…。

スッと覗いて「ああっ♡」
とか言っている夫の憎たらしいこと。(←心の中での八つ当たり)
写真撮ろうにも見えない人間では玉砂利を撮ることにだってなりかねません。

夫は百八十センチ。
私は百五十八センチ。

あ〜っ悔しい!

No.22

この桐生天満宮さん。
実は地元の人たちの浄財でできているものだといいます。
町づくりまでしているし、あまりにも贅を尽くした彫物がなされているため、てっきり徳川幕府によるものなのかと思っておりました。

今でいうクラウドファンディングのようなものだったのか、画工『狩野益広の描いた『天満宮本社幣殿拝殿妻之図』と呼ばれる完成予定図を広く知らしめ、寄進を仰いだようです。

ところが今の社殿、そのいわゆる完成予定図とは異なるもの。
実は本殿、幣殿は寛政元(1789)年、拝殿は1802年享和ニ(1802)年に建立されており、その間に何かあったかでもしたのか、本来予定図では拝殿にも豪華絢爛な彫刻が施されるわけであったものができなかったようで。

資金面であったか、あるいは…。


とはいえ拝殿内には、建設当時の色彩を残す彫刻を見ることができます。
社殿外側の彫刻と違い室内なので外気にさらされず、保存状態が良いために鮮やかな色が残っているのです。
拝殿内正面に施された龍の彫刻は「貴龍」といい、「桐生」の語源になったとも伝えられています。
その躍動感は今にも動き出しそうなほどでありました。

拝殿で見ることができるのは彫刻だけではありません。
近世の流通経済を知る貴重な史料として多くの文献に取り上げられる、絹織物の市を描いた『紗綾市之図』。約180cm×270cmもある大きな絵馬で、明治二十七年の御開帳の際に奉納されたものだといいます。
ちなみにこの『紗綾市之図』の作者・大出東皐(おおいでとうこう)は、桐生天満宮の十六代目宮司・前原互瀬(まえはらこうらい)のお弟子さんなのだとか。

さらには師匠である前原互瀬の描いた流鏑馬の大絵馬も拝殿内に飾られています。併せて拝見することができます。

こちらは昇殿しないと拝見することはかないません。


それにしても。
神社さんでも御開帳があるんだぁ。
どうやら最後の御開帳が昭和三十六(1961)年だったようで、私もまだ生まれてすらおらず。

神社さんでは秘仏さまなどがあるわけでもないだろうし、御神体を人目に晒すはずもなく。なにをもって御開帳とするのだろう…気になるおばさんであります。

No.21

『重要伝統的建造物群保存地区』と呼ばれる地区は正確には『桐生新町伝統的建造物群保存地区』というようです。
長い名称であることもあり、もっぱら『重伝建』と呼ばれていますが。

なんでもこの『重伝建』、桐生市本町一、二丁目という区分の地域には江戸初期に創設された『桐生新町』の敷地割りが残っているとのことで、江戸末期から昭和初期までの織物産業の繁栄を象徴する土蔵や町屋、長屋、煉瓦倉庫、長屋門、井戸、屋形、祠、板塀など様々な歴史的建造物がところどころに残されています。


ここでよく出てくる【桐生新町】。実は【徳川家康】公の命を受けた代官 『大久保長安』の手代 『大野八右衛門』により。流通の拠点としてつくられたものといいます。

かつて『桐生氏』や『由良氏』の領地であった辺りは流通には不便であるということから、天正十九(1591)年から慶長十一(1606)年までの十五年かけて新しい町、桐生新町を作ることとなった、と言われます。
初めは本町一丁目から三丁目までが、その後四丁目から六丁目までが整えられたといいます。

『桐生新町』の町立ては、旧桐生領総鎮守天満宮を遷座し、そこを基点として,南に向かって一直線の道(現:本町通り)が引かれ、間口6~7間,奥行き約40間の敷地割りが行われました。
この保存地区は、歴史を経て形成されてきた建造物や環境が良好に残され、特に町の骨格は江戸初期以来のものが踏襲され大きな変化を受けていないのだといいます。

で。

ここで出てくる天満宮、〝旧〟という字が使われていることからも分かりますが、この桐生新町の町立てをしたのは、繰り返しになりますが天正十九(1591)年から慶長十一(1606)年までのこと。
そして現在の【桐生天満宮】は『本殿・幣殿』は安永七年(1778)年に起工しされています。

つまり、この桐生新町における天満宮は現在のものではなかったということ、であります。

この桐生新町を作るにあたって、本町六丁目にあります【浄運寺】さんなどはこの新町の北を護るためにと、慶長年間に市内の別所から誘致されています。


それから遅れること百七十年ほど経ってから桐生天満宮は起工されますから、新町が作られたときは今ある社殿ではなかった、ということであります。








No.20

桐生天満宮は桐生市民に篤く信仰されてきた神社さんであります。
『重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)』の【桐生新町】の北端に位置しています。

もともとの起源は、第十二代の景行天皇の時代に、『上毛野国造』が【天穂日命】さまを奉斎した【磯部明神】であり、その後文治三(1187)年から当地を支配した【桐生氏】が代々の守護神として崇敬し、観応年間(1350年頃)に、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して『桐生天満宮』と改称し、桐生領五十四ケ村の総鎮守と定められました。

その後、天正九(1581)年に【徳川家康】公が東征の折りに、徳川家代々の祈願所として朱印地を賜わります。
天正十九(1591)年には、【桐生新町】の宿頭として整備され、境内地や社殿は壮大なものとなります。
慶長五(1600)年の『関ケ原合戦』には、【軍旗】に用いる旗絹を当宮の御神前に供えて戦勝祈願し、
その勝利凱旋を吉例として境内には織物市が開設され、後の桐生織物繁栄の礎となります。


今回、国指定重要文化財に認定された『本殿・幣殿』は安永七年(1778)年に起工し、約十五年の歳月を経て完成しています。

注目すべきは壁面の見事な彫刻で、
中国より伝わる【二十四孝】、【唐子遊び】といった物語、『伝説の動物』と、神社彫刻で有名な題材を精緻で濃密な彫刻や彩色で埋め尽くされている点、
さらにはその彫刻が土台や柱まで広範囲に及んでいるのが特徴であるといわれています。

この彫刻は桐生市黒保根町生まれの名彫刻師、関口文治郎氏が彫物棟梁を務め、神社建築装飾の発達と高い技術力を示していると評価されています。

創建当初の極彩色こそ失われてしまってはおりますが、少し前に述べた通り、それによって、むしろより彫刻の技術の素晴らしさが際立ったものとなってもいます。

また、【岩の上の天神】と称されるように、本殿・幣殿は岩の上に建ち、社殿すべてが当時の建築装飾技術の粋を集めた建造物として、今回国の重要文化財指定とされた所以のようであります。


一説によるとこの彫刻群の中には、左甚五郎の彫った猫がはめ込まれていると伝わるようですが、時代的考証からは疑問視されるものでもあるとのことでありました。

かつてはめ込まれている彫刻の一部が盗難の被害に遭い、それはおばさんの目でもわかるくらいにすっぽり抜き取られています。





No.19

境内のいつもとはまるで違った光景、まるで違った雰囲気の中であっても、一日詣りの方はひっきりなく訪れていました。
どなたも私のように心乱すことも無い様子で、手を合わせておられました。
うーん、未熟者だな。

それでも神前で手を合わせると、スッと辺りの様子が気になることがなくなりました。

参拝を終え、あいにくの雨ではありましたが、【桐生天満宮】さんのみごとな彫刻を見させていただくことに。

付け焼き刃で調べた、彫刻の内容を夫に伝えつつ、二人であれこれ語り合っておりますと、…本殿の裏手にあります、同じく今回国の重要文化財に指定された【春日社】の前で、春日社について説明をされておられる方がおられました。

おや?
赤い帽子を被って、首から名札をおつけになられています。
『桐生案内人の会』とあります。

耳を傾けて…そおっと盗聴しておりますと、ダンボの耳をしたおばさんにお気づきになられたご様子です。
ああ、いけない、いけないっ!

よくよく考えたら、もしかしたら有償でこの案内をお願いされたお客さまへの解説をなさっていたのかもしれません。

聴きたい気持ちを封印して、囲いの中の本殿を拝観させていただいておりますと…。
先ほどの案内人の会の方がお声をかけてくださいました。

「あのぉ〜、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
出ました!
相変わらず図々しいおばさんです。

「こちらの神社さんは岩の上に建つと伺ったのですが、よくわからなくて…」と私。
「ああ、それは。ここから覗いていただくと岩が見えると思いますよ」
と、その、岩の上に建つ様子がわかるゾーンをお教えくださいました。

「それから、その岩の先、左側に大きく尖った岩があるのが見えるかと思うのですが、あれは鬼門の方角に立てたと言われているんですよ。一説によると、なんですがね」

おおっ♡

なるほど、背伸びし教えていただいた場所から覗いてみますと、さまざまな岩が組まれた土台の上に建てられているのがわかりました。


私は〝岩の上〟という言葉から、埼玉県秩父市にある【岩之上堂】さんのような、大岩を想像してしまっていたのですが、こちらは岩を組んで造った土台の上に建てられていたようでした。

No.18

先月重要文化財指定が答申されました、群馬県桐生市の「桐生天満宮」さんに参拝いたしました。

?!
駐車場に車がいっぱい、なんですけど。
ま、まさか国指定の重要文化財になったから?!

「骨董市なんじゃない?」と夫。
えええっ、聞いてないけど。
…そもそも、毎日参拝している人間でもない者に誰が、どういったルートをもって伝えるというのでしょう。

そ、そうかあ、一日詣りの日であっても第一土曜日、定例の『古民具骨董市』はやるんだぁ。

それにしても。

なんという…。

秩序も何もあったもんじゃない出店で、駐車スペースなんて当たり前で、参道の上だろうが、境内社の鳥居の中も中、拝殿の真ん前にさえ店開きされています。(あとでよくよく見ると境内社さんは物置にすらされていました)

裏手にある駐車場にすら出店があり、昨日夏越の大祓で
「怒りっぽいところ、ねじれた心根を直す努力をしてまいります」と、今年の今後の抱負を申し上げたばかりだというのに、プンスカプンスカ💢。
それでも一台出て、さほど待つことなく境内に入ることができました。

静まりたまえぇと、自らに念じて 笑。

落ち着いたかと思った瞬間、手水舎を占拠した出店者が目に飛び込んでまいりました。

神社さんはこれを知っているの?
こんな無秩序でいいの?!

オーマイゴッド!!


それでもさすがに神門の中はとりあえず出店してはいないようです。



No.17

今NHKで番組を変更して、九州地方の大雨情報を報道しております。
記録的短時間大雨情報です。

危険度が急激に増しているとのことで、今まさにレベル5となり、緊急安全確保が発表されているところもあるようです。
1時間に100ミリを超える雨な上、満潮の時間を迎えるとか。


よりにもよってこんな時刻に…。

どうかくれぐれもお気をつけて、少しでも安全な場所で命を守ってください。






No.16

今日は夏越の大祓。

茅の輪の設置された神社さんに伺って、少しでも多く私の穢れを取り除いていただこうと思いもしたのですが…。
やはり、まずはいつも参拝させていただいている神社におられる神さまに御礼申し上げることが何より大切かと思い、いつもの神社さんへと向かいました。

やはりいつもうかがう神社さんには茅の輪はありませんでしたが、雨が降って、私の穢れを洗い流してくださったかなぁと…。

明日は一日。
いつも夫の休みの日が当たったときは、早朝夫が起きる前にお参りさせていただいております。

一緒に行ければ一番良いのですが、夫が何か予定でも立てているとお参り自体ができなくなってしまうので


No.15

雷怖いから、くわばらくわばらって言ってみようかと思うけど怖すぎて言えない。

No.14

今日のはねたき道了尊さまの月祭はじつに豪華で、副住職さまからも法話がありました。

弘法大師さまがお生まれになってから1250年が経ち、そのお大師さまのお誕生日が六月の十五日であったことから弘法大師さま伝説についてお話くださいました。


全国にいくつもある弘法大師さまの伝説の中、地元みどり市の【袈裟丸山】の山名の由来についてでありました。

赤城山群馬県側のみどり市東町に次のような伝説があります。

『弘法大師さまが赤城山を開山しようとしたところ、赤城山の山神さまは仏教の地となることを嫌い、一つ谷を隠して九百九十九谷しか現わさないようにしたといいます。
こうして赤城山は開山に必要な千谷に満たなかったこととなります。
大師は残りの一谷を探して袈裟丸山まで来ましたが、ここでも見付けることができず、大師は着ていた袈裟を丸め山に投げ付けて開山を諦めて帰られた』、というものです。

このお話を聞いて、偉大で賢明な弘法大師さまが、頭にきて袈裟を脱ぎ丸めて山に投げつけて帰られたというところが、なんとも可愛らしくて、お大師さまをますます好きになったとおっしゃっていました。

…山の神さまもとても可愛らしくないですか?

この袈裟丸山には寝釈迦の像があるといいます。
あるといいます、という表現からおわかりでしょうが、この寝釈迦、車では行けない所にあり、しかもなかなかプチ登山なようで。
「これ以上歳をとったらもう行けない気がするんだけど!」
と夫に訴えてはみたものの、悪い冗談でも聞いたかのように「無理だね」と一言。

じゃあ一人で、とも思いもするのですが、遭難の危険もなくはないようなお山だとか。
しかも今年はクマの目撃情報が連日送信されてまいります。
…無理かぁ。

そんなたいそうな山のどこかに、けっこう大きそうな寝釈迦さま、ですよ?造られた方は凄いなぁ。

お大師さまと山の神さまが守ってくださるから大丈夫じゃない?
…ま、そうあっても、無理だろなぁ。一人はだめだ。
やれやれ。


No.13

『煩悩』について調べるともなくボーッとネットをながめていると、「しんどいを作る三大煩悩」と書かれたものを見つけ、手を止めました。

それは【貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」】だといいます。
仏教ではそれを三毒といい代表的な煩悩だと続きます。

…あれ?
これ…、これ私、毎日声に出して読んでいる!

般若心経を御唱えする前に、最初に唱える『懺悔文(ざんげもん)』にある一節、
『皆由無始貪瞋痴』だ。


『貪』は欲望のこと。
『瞋』は怒り。嫉妬もまた『瞋』だといいます。
『痴』は愚かである状態。『無明』、と言ったりもするのだといいます。

あれ?『無明』は般若心経そのものに出てくる。

…まぁ、煩悩という言葉自体が仏教の言葉なので、当たり前といえばそうなのですが、でも毎日毎日お唱えしていた言葉こそが、三大煩悩、だったなんて、…お経ってすごくないですか?
というか、懺悔文自体はお経を唱える前置き(?)、なんですけど。


今日の光榮寺さんのご住職さまのお話と合わせると、この煩悩が自分たちのしんどさを生み出す原因になるので、それを受け入れて納得していくということ、ですよね。


この三大煩悩、ああ、たしかに私の中に大きく蔓延ってるものであります。

まぁ、懺悔文は、仏の御教えを知らなかった頃犯した罪を懺悔している、という内容で、私がこれを読み上げるのは〝嘘つき〟ということになるのでは?と毎日思いながらも、読経前の決まりみたいだから…と読み上げさせていただいているのですが。

だって私、貪瞋痴真っ只中、ですもの。
昔造った諸々の悪業(あくごう)は貪瞋痴によるものなのはたしかだろうけれど、今も貪瞋痴に振り回されて人に迷惑をかけて生きていますもの。

わかったなら直せ、というのが仏さまの御教えでありましょうが、愚か度が高くて、なかなか…。


そうですかぁ。
三大煩悩、三悪ですか。
どうりで日々しんどいわけです。



(セイヨウキンシバイ)

No.12

「人は生きている限り【煩悩】から逃れることはできません。

毎日うまくいかない事も多々ある。
煩悩は人間の心身の苦しみを生み出す原因で、肉体や心の欲望、他者への怒りなど、それこそたくさんあって、でも逃れることは無理なのです。
自分でそれをどう受け入れるかで楽になるしかないのです」


今日の、はねたき道了尊の法要での群馬県みどり市ので光榮寺さんのご住職さまの法話のほんの一部です。


そう…かあ。
妙に心に刺さりました。

…まぁ、他ならぬ『煩悩のかたまりおばさん』、ですからね。
かたまりが他の方より多かったり大きかったり、ですから。
だからこそ余計に生きづらい。
そしてそこからまた産まれる煩悩。

で、その煩悩は生きている限り無くならないという。


『受け入れて、なんとか納得して生きていく』

目の前には、そんなお話をなさるご住職さま、そしてはねたき道了尊さまの石像。

はねたき道了尊さまは烏天狗のお顔をされています。
右手にお持ちなのは杖のように長いねじれた木、そして心のねじれた心に宿ろうとする悪鬼を踏みつけ、悪鬼を懲らしめるため左手に綱をお持ちになっておられます。

すでに大人の私のねじ曲がった心も直りますか?、と心の中で問いかけ、そして問いかけるだけでなく図々しく、(治してやってください)とお願いをし。

大人も大人、孫もいるおばさんです。
…孫がいたらおばさんではなくて〝おばあさん〟ですが、そこも煩悩おばさんなので 笑。

一説によると煩悩の数はもっともっと多いとかなんとか…。
そしたらこのおば(か)さん、間違いなく、百八超えの煩悩の持ち主であります。

【受け入れて納得していく】

…受け入れてキャパオーバーしたら脳から溢れて少しは消えていくかしら。











No.11

▶【火焔光背】
不動明王さまは背中に火焔を背負っています。
これを『火焔光背(かえんこうはい)』と呼び、吹き出す炎はわれわれの煩悩そのもの。
その炎の中に、鳥の姿があることがあり、これは『迦桜羅(カルラ)』と呼ばれる伝説上の鳥で、毒蛇や悪龍ですら食べ尽くすとされています。
この迦桜羅が、人々にとっての毒である煩悩や欲望を燃やし尽くしてくれるのです。

▶大盤石と瑟瑟座(しつしつざ)
不動明王さまは足を組んで、大磐石という大きな岩、あるいは、石材を井桁に組んだ(瑟瑟座)という台の上に座って、あるいは立っておられます。
これは、常に心に迷いがない「不動」の状態を、またすべての人を救うまではその場を動かないという決意を表しているとも言われています。


不動明王さまの御利益は多く、現世利益が得られる仏として知られています。
現世利益とは、生きている間に得られるよいことを意味します。

◎煩悩退散
不動明王に祈願することで、煩悩を断ち切ることができ、悪しき心を燃やし尽くしてくださるといわれています。

◎厄除け
不動明王の剣は、あらゆる邪悪なものを打ち砕くことができることから、厄除けに効果があるとされています。

◎学業成就

◎身上安全

◎立身出世

◎商売繁盛

◎修行者守護
不動明王は仏道を修行する者を常に守護し、障害となるものを滅ぼすとされています。

◎健康祈願

◎戦勝
戦国時代に武将のなかでは、不動明王に祈願し勝利をおさめたという者がいたことから、戦勝のご利益があるとされています。

◎国家安泰


などが挙げられます。

No.10

仏教にはたくさんの明王がいますが、その中でも不動明王は中心的な存在です。不動明王と他の四つの明王を含めて、【五大明王】と呼び、中心に不動明王を据えて、他の明王が東西南北の四方を守ります。

(中央)不動明王さま
(東)降三世明王さま
(西)大威得明王さま
(南)軍荼利明王さま
(北)金剛夜叉明王さま

この他にも、愛染明王、孔雀明王、烏枢沙摩明王などがいます。


不動明王さまの像容には、次のような実にたくさんの特徴があります。

▶手に持つ武器【剣と羂索】

不動明王さまは、右手に【剣】を握っています。この剣は、私たち衆生の邪悪な心や煩悩を断ち切ってくれます。
『九徹剣』と呼ばれる九本の炎が出ているものと、『倶利伽羅剣」という龍がまとわりつき、今にも剣先を飲み込もうとしているものがあります。

また、左手に持っている網は【羂索】と呼ばれ、私たちの中にある邪悪な心を縛り上げることにより、善き心を呼び起こさせます。

▶眼【天地眼】
不動明王の表情は常に厳しく、右目は天に向けられ、左目は地面に向けられています。【天地眼】と呼ばれているこの眼は、天地の隅々まで睨みをきかせ、私たち衆生を見守っている姿を表しています。

▶口元の牙
右牙が上を向き、左牙は外側を向いている口元も特徴です。仏さまの多くは柔らかく穏やかな表情をしていますが、不動明王は恐ろしい顔で憤怒を表現しています。救いがたい衆生を、力ずくで救おうとして、睨みをきかせながら、常に人々のことを守り続けているのです。

▶青黒い身体
不動明王の身体は青黒い色で表現されます。それは煩悩という名の泥にまみれもがく人々を救おうとしているからです。

▶髪の毛【莎髻(しゃけい)】
不動明王の髪は頭頂部で髷(まげ)を結い、この髷が七つ結ばれていることから「七莎髻」(しちしゃけい)と呼ばれます。
そしてその弁髪は左肩に垂れていますが、これは頭の上を仏の世界、髪が垂れた左肩を人々が暮らす世界とし、不動明王さまが常に人々のことを気にかけ、いつでも救うことができることを表しています。

No.9

毎月二十八日は【不動明王】さまの縁日で、お不動さまとご縁を結びやすく、願いが届きやすい日とされています。


不動明王さまは梵語で【アチャラ・ナータ】、
アチャラは『不動』、ナータは『守護者』の意味があるといい、〝動かざる尊者〟から、『不動尊』とも、大日如来の使者でもあるので『不動使者』とも呼ばれています。

明王は全て、如来や菩薩の変化(へんげ)なので、慈悲をお具えになられています。
慈悲とは単に〝やさしい〟という意味ではなく、私たちの苦しみを抜き去り、楽を与える【抜苦与楽(ばっくよらく)】が本質的な解釈であるといいます。
また真言明咒の王の意味ですので、密教を代表する尊格とされています。

密教には、ひとつの仏が【自性輪身(じしょうりんじん)】、【正法輪
身(しょうぽうりんじん)】、【教令輪身(きょうりょうりんじん)】という、三段階に変化する独自の仏身説があるといい、『輪身』とは法輪を転じる身、つまり説法をする姿をいうといいます。

『自性輪身』は【如来】、その存在自体が真理であり、悟りの世界そのもので、『正法輪身』は衆生に応じて正しい教えを説法する【菩薩】なのだといいます。
『教令輪身』は仏法に従わない救いがたい(うっ)強情な衆生を、恐ろしい姿で降伏(ごうぶく)させ、強い力で強制的に導く『折伏(しゃくぶく)』をもって強化(きょうけ)する【明王】のことだといいます。

真言宗においては、大日如来さまをご本尊とし、脇侍に不動明王さまと弘法大師さまをお祀りすることがあります。
また不動明王さまがご本尊さまをお勤めになられ、矜羯羅童子さんと制吒迦童子さんを脇侍とされることもあります。
このニ童子さんのほか、八大童子さんという眷属がおられます。また三十六大童子という眷属もおられます。

お恐いお顔をされているとよく言われるお不動さまですが、私は昔からお不動さまに惹かれておりました。

今、『握り仏』という彫りを習っております。
その入門としてお不動さまを彫らせていただくことが嬉しくて嬉しくてたまらないおばさんです。
ただ…まだ始めたばかりなので、難しいお顔を彫ることができず、お顔のないお不動さまが増えていくばかり、なのでした。

No.8

本日は『雷の記念日』とされているのだとか。
私は大の雷嫌い。
何をもって雷記念日などを制定したのでしょうと調べてみたところ、
平安時代延長八年六月二十六日に平安京の清涼殿に落雷があり、多くの犠牲者が出た日、とされています。

その落雷によって命を落とした方々が、菅原道真公の左遷に関わっていたため、道真公の祟りと恐れられるようになったというのは有名なお話で。
また、そのとき落雷は京都中を襲うものでありましたが、ただひとつ被害がなかった場所があったといい、それが、菅原道真公の邸宅があった場所だったということも道真公の祟りとされた由縁となっているといいます。

その場所は『桑原』(クワバラ)。
今でこそそんなことをすら知らない方が多くなったこととは思うのですが、かつては雷が近くに落ちたりするとと『クワバラ、クワバラ』とおまじないを唱えていました。
なんでも「ここは菅原道真公の土地『クワバラ』なので雷を落とさないでほしい」と祈るようになったということだとか。


のちに、菅原道真公は『天満大自在天神』として祀られ、火雷神とも習合し『火雷天神』や『天満宮』『天神さま』と呼ばれていきます。

雷を操る神さまという認識から、雷避けや天変地異を防ぎ、豊穣を司る神さまとされていましたが、道真公の徳にあやかり、学問の神さまとして寺子屋などに祀られ、現在では『合格祈願』や『就職祈願』などのお参りがほとんどであります。
うーん、妬まれて職を追われた道真公でありますが…?

京から左遷先の太宰府までの長い距離を無事に旅したということから、【桐生天満宮】さんなどは『交通安全』『旅行安全』の神さまとしても崇敬してお祀りしておられます。
うーん。


道真公、いろいろ頼まれごとが多くて大変そうです。

ですが私の中での道真公は、頼まれるとそう努力され、いつしかそうしたお力もそなわり頼んだ者のため願いを叶えてくださる方のように思えてなりません。

ただ、なんでもかんでも頼むのはこれ以上はちょっと…と、安らかに眠らせてあげて欲しいなぁと思う思いもございます。

かように申してはおりますが、勝手に学問の神さまから転じて、認知症に罹らなくしてくださる神さま、認知症進行防止の神さまのように思い込んでは、お願いごとをしている私、なのであります。

雷をお鎮めくださるだけでも充分でございますが…。




No.7

ちなみに。

こちらの境内にあります、わかりやすい例えで言うなら、時計台のある建物に見える…時計はないしそもそもが四面ガラス張りですので、確実に時計台でないことのですが、…そして横に長く、奥行きはあまりない建物についても、今回お聞きすることができました。

これは、『門』であり、『鐘楼』であり、人をもてなしたり、物を備蓄したりしていた建物であったといいます。
なるほど、そう言われてみれば、そうとしか見えないものでありました。
石造の寺標を建てるにあたり、昭和十二年に今のように参道のむかって左側に参道に向けて移動したのだといいます。

まぁ、ご住職さまにしても生まれた時からすでにそういう建て方で建っていた物なので、何も不思議に思うことはなかったけれど、訪れる人には不思議な建物のように思われるようで、よく聞かれてきたようでありました。

梵鐘はかの第二次世界大戦のおり、供出したまま帰っては来ず、そのまま梵鐘のないまま今を迎えているとのことでありました。

また、こちらの水屋はなんとも不思議な造りでありまして、御堂のように思えたので、今回お聞きしたところ、なんと!…御堂どころか搾った乳を集めておく場所であったのだとおっしゃる。

「壊してしまうのもなんだから、水屋に改修して使っているんですよ」と。

いやいや、そうはおっしゃるのでありますが、実際お地蔵さまを中心に両サイドに(なぜか)石造の奪衣婆さまが祀られており、やっぱりどう見ても水屋を兼ねた『御堂』にしか見えないのですが。

意味ありげにお地蔵さまの化身である閻魔大王の位置にお地蔵さまの石仏が祀られ、その両サイドに奪衣婆さま。
これに意味がないと言われましても…。まして水屋、三途の川でこそありませんが、ね。

ちょっぴり怖い水屋であったのですが、…そうですか、集乳場、でしたか。
これでだいぶ怖さは薄れ…たかどうか。

なにぶんにもこちらは上杉勢と北条勢、由良勢がせめぎ合った地とのこと。
激戦で人が大勢命を落とし、かつてはたくさんの火の玉が舞ってそれを鎮めたのが、ここ正円寺さんのご住職さまであったとか。

いやぁ、やっぱり一人で来るのは怖いかも。

No.6

国の宝とはなにか

宝とは道心なり
道心ある人を
名づけて国宝と為す

故に古人の言わく
径寸十枚、これ国宝に非ず
一隅を照らす
此れ則ち国宝なりと

・・・


【伝教大師最澄(でんぎょうだいし・さいちょう767~822)】さまが『法華経』を基調とする【日本天台宗】を開かれるに当たり、人々を幸せへ導くために「一隅を照らす国宝的人材」を養成したいという熱い想いを著述し【嵯峨天皇】に提出されたものの書の冒頭であります。

この原本は天台宗の総本山である比叡山延暦寺にあり、それを(たいへん俗物的な物言いをいたしますが)カラーコピーし、きちんと掛け軸に仕立てられたものが、桐生市黒保根町の【正円寺】さんの御本堂に飾られています。
これだけ見ても、こちらのご住職さまが心から伝教大師さまを敬愛し、天台宗の教えを大切になさっておられるかが伝わってまいります。
実際にお話をうかがっていても、言葉の端々にそういった思いがあふれておられる方でありました。


偉大な教育者でもあった伝教大師は、仏教の教えに基づいて『自ら進んで善行に努力する人、与えられた持ち場や役割を誠実に務めるリーダー(指導的人格者)』
すなわち『大乗の菩薩を育成すること』に心血をそそがれた方であられたようです。

天台宗のお寺さんに参拝いたしますと【一隅を照らす】と書かれたものが祀られていたり、あるいは壁に貼られていたりいたしますので、それを見るだけで、一目で(ああこちらは天台宗のお寺さんなのだなぁ)とわかるくらい、有名なお言葉であります。
不滅の法灯があることでも知られる比叡山でありますが、なによりこの伝教大師ののこした教えこそが、不滅のものであるのだなぁと、強く強く思えたのがこちらのご住職さまのお話であり、姿勢でありました。


国の宝である人、すなわち
『人間に生まれたことを喜び、受け継がれてきた生命を体してご先祖様や子孫を大切にし、自らも尊い人生を大切に活かそうとする人物』
『自分の持てる能力を発揮して一隅を照らす人』が集まれば、平和で明るい社会が実現するに違いありません。


私が人として尊敬いたしておりますお坊さんはいく人もおられます。
ただ、ここまでのご自分の宗派の教えを根底に道を説かれた方はおそらく初めての方であったかと思います。

こちらのご住職さまに出会えたことに感謝しかありません。



No.5

【大師(だいし)】とは。

中国・日本において、高徳な僧に対する尊称。
朝廷から勅賜の形で贈られる事が多く、多くは諡号(本人の死後に送られる尊称、おくりな)であります。

他に天人師、善知識、大導師などとも訳されるといい、経典の用法として、釈迦を「釈迦大師」と呼ぶ例や、仏法そのものを大師と呼ぶ例があるといいます。

わが国では、貞観八(866)年に
最澄に伝教(でんぎょう)大師、
円仁(えんにん)に慈覚(じかく)大師と追諡(ついし)されたのが始まりでありました。
以後、空海の弘法大師など、近世に至るまで高徳の師に与えられました。


わが国で大師と呼ばれる十八人は「十八大師」と総称され、
その中でも
弘法(空海)・
伝教(最澄)・
慈覚(円仁)・
智証(円珍)・
慈慧(良源)・
円光(法然)
の六名は特に「六大師」と総称されます。
このうち慈慧大師・元三大師の名で知られる良源は大師号の宣下を受けていないが、平安時代後期より大師として扱われることが多いのです。


単に「大師」といった場合、特に空海(弘法大師)を指す事が多く、それに対してよく、
『大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる』といわれています。

『お大師さま』といえば通常『弘法大師』さまを指すことが多いですが、他にも上記のようにたくさん大師さまはおられます。

また太閤も同様に、関白という位を辞した者、あるいは関白を子に譲った者を指す尊称であり、豊臣秀吉のほかにも『太閤』はおりますが、太閤といえば秀吉しか思い浮かばないほどであります。
同様に黄門というと水戸光圀公を指すが如きに扱われますが、『黄門』というのは武家官位の『権中納言』の別称であり、つまりは他にも『黄門』さまはたくさんおられたのですが、黄門といえば水戸黄門、水戸光圀公を指すことがほとんどであります。

明治維新後、一時皇室の神仏分離の影響で、大師号宣下などの仏教への関与は行われないようになったのですが、修正され、明治九(1878)年に親鸞への大師号宣下が行われたことで、天皇による師号宣下が再開され、明治十六(1883)年には「大師号国師号賜与内規」が制定され、大師号は宗名公称の宗(天台宗、真言宗、浄土宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、浄土真宗、日蓮宗、融通念仏宗)の宗派の祖や中興の祖に与えられるものと定義されました。


No.4

何年前からか、ミクルさんの片隅をお借りして、あれこれ好き勝手なことを、もはやコンセプトもさだかでなくなった駄文を書き連ねております。

〝わたしの居場所〟を与えてくださったミクルさん、ありがとうございます。
…まぁ、拒否することもできず居座られているのではありましょうが 笑。

そしてなにより。
こんな愚かな人間の書いた駄文をお読みくださる方には、感謝しかございません。
寄り添うようにお読みくださる方もおられますことにいたりましては、どう申し上げたらよいのか、…もはや感謝の言葉すらも見当たりません。


神社・仏閣、神道や仏教に関してはいい歳をしてほとんど関わることなく過ごしてまいりましたので、冒険RPGに例えれば、手にした武器の使い方も呪文もわからない、しかもゲームセンスすらも皆無な人間が、歩き出したところから書かせていただいていました。

当の本人はもはやそんな怪しい過去を振り返るのはこわいので、読み返すこともあまりありませんが、こんな愚かな人物の書く、しかも文章力もない駄文の羅列に過ぎないスレを懲りることなく見守ってくださる方がおられますことに、感謝しかありません。
感謝してもしきれないです。

しかも回を重ね、歳を重ねて、少しずつでも何かしらの進歩でもあれば救われるのでしょうが、むしろ退化しかなく、申し訳ないことこの上ないスレであります。


いつも寄り添うようにお読みくださり、本当にありがとうございます。

これからも愚かなまま、チャットGPTでも導入しない限りは駄文でわけのわからないレスを重ねるおばさんではありますが、今後もお読みいただければと、ずうずうしくも願い祈る私であります。

No.3

NHKスペシャルを観た。

胸が抉られるような苦しさと、
自らの部屋にいながらにしていたたまれない思い、そして本当に胸が痛くなって、つらかった。

息子が何気なく部屋に来てくれて、その空気を変えてくれて、今ようやく息を吸い込んだ、気がする。

ずっと息をひそめていたのだな。


リアルな戦争の怖さを物語る記録であった。

世界に新たなる記録はもういらない。


早急に、終戦せよ!

No.2

…。反省。

実は。

この新しいスレの一レス目は、お読みくださっている方々への感謝の思いを綴ろうと、あれこれ文章を練っては唸り、唸ってはまた推敲するを繰り返していたのです。

こんなおバカなおばさんが書く駄文の羅列でしかないスレを開けてくださり、長々と文字制限ギリギリまで書かれたものをお読みくださる方々へ、拙いながらも御礼を申し上げる良い機会だと思ったわけであります。

が。
群馬県桐生市の大好きな桐生天満宮さんの国指定重要文化財指定に舞い上がり、つらつらと書き連ね、ぽちっと『投稿する』をクリックして満足し、一晩明けて、気づいたのです。

御礼の文から始めるつもりだったんじゃないか、と。

ああ、もう本当に情けない。


せめてもの思いは筆頭に添えさせていただくことといたしました。
が、思いを伝える文章が上手く書けなくて…。


これは…やっぱりチャットGPT導入かなぁ。

うーん。

でも、私に送られてくるメールをみていて思うことに、〝いかにも〟って感じな文章が増え。
これはやっぱりチャットGPTなんだろうな、と思うことがあります。

そこに〝私〟らしさはないのです。


やっぱり、駄文だろうと、意味不明だろうと、私の文章をこりもせずお読みくださる方には、この怪文のままでいこう!

今後もお読みくだされば幸いです。

No.1

速報であります。
吉報であります。
朗報であります。

私どもが大好きな大好きな群馬県桐生市の【桐生天満宮】さんが、【国指定重要文化財】に指定されましたぁぁ。

本日、六月二十三日、国の文化審議会が開催され、群馬県内の寺社建築の重要文化財指定が答申されましたぁ。

桐生天満宮二棟。
本殿・幣殿・拝殿の一棟、並びに末社春日社一棟。

とても立体感ある精巧な彫刻が施されていて、それこそ何度行っても、…ではなくて参拝させていただいても、長いこと居座ってその彫刻を覗いたり、見上げたりしては感嘆しているおばさんであります。

創建当初の極彩色こそは失われていますが、その彩色をかなぐり捨てた、彫りだけの美しさ、素木の美しさがまたこの上なく良い味を醸し出しているのです。


この桐生天満宮の見事な彫刻は、桐生市黒保根町生まれの【関口文治郎有信】とそのお弟子さんの手によるもの。
関口文治郎はあの日光東照宮の彫刻で名高い左甚五郎から数えて九代目の弟子に当たる人で、桐生天満宮のほかにも、高崎市の【榛名神社】さん、埼玉県秩父市の三峰神社さん、同じく埼玉県妻沼の聖天宮さんなどの彫刻を手がけました。
妻沼の聖天宮さんは国宝指定を受けています。
その他にも桐生市の黒保根町にある栗生山の山腹にある【栗生神社】さん、同じく黒保根町の【医光寺】さんもまたこの関口文治郎が彫刻を手がけていますが、どれもため息しか出ないほど美しいものであります。


ただ、今はこれで良い味を出してはいるものの、何年か先、朽ちてくることを恐れてもおりました。
そろそろ維持するための手を加えなければいけないのではないかと、行くたびに気を病んでいるおばさんでもありました。(あ、参拝の度に、ですね 笑)

一度、「維持するための修復等の予定はないのですか」と、社務所にまで伺ってお聞きしたくらいでありました。なんならクラウドファンディングなどもお薦めしたくらい。

あぁぁ、よかったぁ♡
国の重要文化財ともなれば、きっとそういった保護活動も行われて、無事後世に残すことができるでしょう。

あぁ嬉しい♡

なんなら山中で剥き出しのままの栗生神社さんの社殿も、セットで国指定にしてはくれないかしら。

日本人はセットに弱いんですよ、国の文化審議会の委員さん♡



   (捩花)

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