神社仏閣珍道中・改
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。
そして┉相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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速報であります。
吉報であります。
朗報であります。
私どもが大好きな大好きな群馬県桐生市の【桐生天満宮】さんが、【国指定重要文化財】に指定されましたぁぁ。
本日、六月二十三日、国の文化審議会が開催され、群馬県内の寺社建築の重要文化財指定が答申されましたぁ。
桐生天満宮二棟。
本殿・幣殿・拝殿の一棟、並びに末社春日社一棟。
とても立体感ある精巧な彫刻が施されていて、それこそ何度行っても、…ではなくて参拝させていただいても、長いこと居座ってその彫刻を覗いたり、見上げたりしては感嘆しているおばさんであります。
創建当初の極彩色こそは失われていますが、その彩色をかなぐり捨てた、彫りだけの美しさ、素木の美しさがまたこの上なく良い味を醸し出しているのです。
この桐生天満宮の見事な彫刻は、桐生市黒保根町生まれの【関口文治郎有信】とそのお弟子さんの手によるもの。
関口文治郎はあの日光東照宮の彫刻で名高い左甚五郎から数えて九代目の弟子に当たる人で、桐生天満宮のほかにも、高崎市の【榛名神社】さん、埼玉県秩父市の三峰神社さん、同じく埼玉県妻沼の聖天宮さんなどの彫刻を手がけました。
妻沼の聖天宮さんは国宝指定を受けています。
その他にも桐生市の黒保根町にある栗生山の山腹にある【栗生神社】さん、同じく黒保根町の【医光寺】さんもまたこの関口文治郎が彫刻を手がけていますが、どれもため息しか出ないほど美しいものであります。
ただ、今はこれで良い味を出してはいるものの、何年か先、朽ちてくることを恐れてもおりました。
そろそろ維持するための手を加えなければいけないのではないかと、行くたびに気を病んでいるおばさんでもありました。(あ、参拝の度に、ですね 笑)
一度、「維持するための修復等の予定はないのですか」と、社務所にまで伺ってお聞きしたくらいでありました。なんならクラウドファンディングなどもお薦めしたくらい。
あぁぁ、よかったぁ♡
国の重要文化財ともなれば、きっとそういった保護活動も行われて、無事後世に残すことができるでしょう。
あぁ嬉しい♡
なんなら山中で剥き出しのままの栗生神社さんの社殿も、セットで国指定にしてはくれないかしら。
日本人はセットに弱いんですよ、国の文化審議会の委員さん♡
(捩花)
『煩悩』について調べるともなくボーッとネットをながめていると、「しんどいを作る三大煩悩」と書かれたものを見つけ、手を止めました。
それは【貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」】だといいます。
仏教ではそれを三毒といい代表的な煩悩だと続きます。
…あれ?
これ…、これ私、毎日声に出して読んでいる!
般若心経を御唱えする前に、最初に唱える『懺悔文(ざんげもん)』にある一節、
『皆由無始貪瞋痴』だ。
『貪』は欲望のこと。
『瞋』は怒り。嫉妬もまた『瞋』だといいます。
『痴』は愚かである状態。『無明』、と言ったりもするのだといいます。
あれ?『無明』は般若心経そのものに出てくる。
…まぁ、煩悩という言葉自体が仏教の言葉なので、当たり前といえばそうなのですが、でも毎日毎日お唱えしていた言葉こそが、三大煩悩、だったなんて、…お経ってすごくないですか?
というか、懺悔文自体はお経を唱える前置き(?)、なんですけど。
今日の光榮寺さんのご住職さまのお話と合わせると、この煩悩が自分たちのしんどさを生み出す原因になるので、それを受け入れて納得していくということ、ですよね。
この三大煩悩、ああ、たしかに私の中に大きく蔓延ってるものであります。
まぁ、懺悔文は、仏の御教えを知らなかった頃犯した罪を懺悔している、という内容で、私がこれを読み上げるのは〝嘘つき〟ということになるのでは?と毎日思いながらも、読経前の決まりみたいだから…と読み上げさせていただいているのですが。
だって私、貪瞋痴真っ只中、ですもの。
昔造った諸々の悪業(あくごう)は貪瞋痴によるものなのはたしかだろうけれど、今も貪瞋痴に振り回されて人に迷惑をかけて生きていますもの。
わかったなら直せ、というのが仏さまの御教えでありましょうが、愚か度が高くて、なかなか…。
そうですかぁ。
三大煩悩、三悪ですか。
どうりで日々しんどいわけです。
(セイヨウキンシバイ)
群馬県前橋市に鎮座します【産泰神社】さんは、各地にある産泰神社の総本社さんであります。
起源は遡ること約十三万年前、赤城山の『石山なだれ』によって出現したといわれる『盤座』から始まっています。
自然が偶然に生んだこの盤座に、現代に生きる私でもその自然の大きな大きな力に感嘆いたしますくらいです、これを見て、いにしえの人たちは神の力を感じずにはいられなかったことと思います。
大きなたくさんの岩が高く高く絶妙なバランスでそびえ立つ様には何度見ても圧倒され感動いたします。
この盤座を以て原始古代からこの地は信仰の土地とされ、二百六十年前に本殿が建造されました。
こちらの御祭神さまは木花之開耶姫さま。
いつ訪れても…曇りの日でも雨の日であっても、明るくて爽やかな、そして優しく包まれるような気を感じることのできる神社さんであります。
社殿もそれは美しくみごとな彫刻と、美しい天井画の施されたもの。
いつまででもいられるくらい居心地の良い神社さんです。
ただ令和元(2019)年に祈祷殿を建設されて以降は、こちらの拝殿に昇殿しての御祈祷はなされなくなってしまいました。
それでも娘が安産祈願の御祈祷をお願いした際には、昇殿しての参拝ができたと聞いています。(ちなみに嫁ぎ先の意向で行われたものでしたので私どもには声は掛かることなく…一度もその機会を得ることなく憧れの産泰神社さんの拝殿への昇殿は叶うことなく幕を閉じられたのでした 泣)
前橋市のはずれ、抜け道として使われることも多い道路から少し入ったところに鎮座されており、あまり大きな社殿とはいえないこちらですが、参拝の方、御祈祷をお願いされる方は多く、広い駐車場に県外ナンバーの車もズラリ。
そんな人気の神社さんであります産泰神社さんが、今年社紋を一新されました。
頭が古くてしかも一部認知障害が疑われるかもしれないおばさん。
この社紋を変えるという大胆な動きをなかなか受け入れられず、しばらく参拝の足が遠のいていたくらいでした。
祈祷殿ができたことで、常に開け放たれていた拝殿の扉が閉ざされたままになったことも大きな原因でありました。
「少子高齢化が進み、神社も時代とともに変わっていく必要がある。参拝するだけでなく、ご祈祷をとおして神様を感じてほしい。そんな理由からデザインの刷新を決めた」
とは宮司さま。
花の名にも詳しくないおばさんではありますが花にはいつも癒しをいただいております。
今の時期、緑一色の夏草の中にあって遠くからでもぱっと目立っている橙色の花が咲いています。
それこそ走行中の車の窓からでもとらえられるくらいに目立つこの花の名は『野萱草(ノカンゾウ)』、畑や農道の脇に咲いているので、なかなかそばでは見ることはないのですが…。
野草とは思えないほど美しい、萱草の花です。
ちなみに萱草にはこのノカンゾウの他、『ヤブカンゾウ(藪萱草)』があります。
実はこの萱草の花、結実が難しい、あるいはまったく結実しないものだといい、地下茎を切り取って植えるなど、人間の援助で生育地を広げたものなのだといいます。
そう、あの彼岸花と同じです。
そこまでして増やしたのなら野草ではないのでは?と、おばさんなどは思ってしまうのですが、たしかに彼岸花にしても、萱草にしても、野に咲くのはたしかではあります。
なぜカンゾウは人間に保護されてきたのでしょうか?
実はこの萱草、失恋の悲しみや望郷の思いなどの憂いを忘れさせてくれる草だと信じられてきたといいます。
三世紀の中国、三国時代の魏の国に『竹林の七賢』と呼ばれた清貧を旨とする文人たちがいました。
その一人、嵆康(けいこう)が書いた『養生論』に、
「合歓(ネムノキ)は怒りを除き、萱草は憂いを忘れさせる」という記述があるのだといいます。
中国名の「萱草」は元々、カヤやスゲなど細長い葉を持つ草を指しますが、やがて『養生論』の知識が日本にも伝わり、【ワスレグサ(忘れ草)】という訓で読まれるようになりました。
そう、花にも詳しくない私、この野萱草が実は『忘れ草』であったことなどさっぱり知らずに、いかにも儚げな花をイメージして、…とはいえ具体的な花としてのイメージもなく、和歌のなかに咲く〝花〟としておぼろげなイメージを勝手に抱いておりました。
えっ?
この花の鮮やかな橙色を見て、コロっといろいろ忘れちゃうってこと?
そもそも〝忘れ草〟って…。
若いころにはその名に憂いとか儚さとかを感じておりましたが、今〝忘れ〟などというと気が気でなくなる恐怖のワードと化してきておるのですが…。
…そうなんです。
やはり八幡神さまのご利益で子育てに関するものや安産などはあまり知られてはいないのです。
社伝によると【山名八幡宮】さんは源氏の一族、新田氏の祖 義重の子、『山名義範』が平安時代後期の安元年中 (1175~77年)、大分県に鎮座する、八幡宮の総氏神の『 宇佐八幡宮』さんより勧請されたと伝わっています。
【品陀和気命 (ほんだわけのみこと - 応神天皇)】さま、
【息長足比売命 (おきながたらしひめのみこと – 神功皇后)】、
そして、神霊を宿す巫女とも言われる 【玉依比売命(たまよりひめのみこと - 比売大神)】さま の三柱を御祭神として祀り、祭祀を絶やすこと無く、 今日に至っているといいます。
応仁の乱の際、西軍の指揮を執った【山名宗全】が、 西国で勢力を誇った影響で、現在も関西を中心に、 全国で約一万人程いると言われている山名姓、及び 血縁関係のある末裔も含め、全ての『山名一族』にとっての『総氏社』でもあるといいます。
その【山名八幡宮】さんが何故子育て・安産の神さまとして信仰されるようになったか。
それは遡ること室町時代、後醍醐天皇の孫『君長(ただなが)親王』が、 山名城に滞在の折、城主『世良田政義の娘』との間に出来た子の安産を願い、この山名八幡宮さんでご祈願をされましたことに由来するといいます。
無事産まれた男の子は『良王(よしたか)』君(きみ)と名付けられ、その後も健やかに成長されました。
このことが広く伝わり「山名八幡宮」は、安産と子育ての神社として永く称えられることとなったといい、現在でもそれはそれは多くのご家族が安産と子育てのご祈願に訪れています。
高崎市や前橋市を車で走行すると、こちらの授与品であります、『Baby on board』『Child on board』のマグネットを付けた車がかなりの数走っております。
そう、あの『赤ちゃん(or子ども)乗せています』のマグネットです。
初めてこちらを参拝させていただきました折には、十一月であったわけでもないのに、二十組はゆうに超える親子の方々が御祈祷の順番をお待ちになっておられましたし、拝殿の中はびっしり親子の方々が御祈祷をお受けになっていました。
群馬の片田舎にある一神社さんであるにも関わらず、その信仰する人の多さにびっくりしたくらいであります。
平成二十八(2016)年、女性設計士が設計を手がけた『神楽殿』。
こちらには、初宮参りの際、『神さまに一度赤ちゃんを預ける』子安台があるといいます。
神さまに…?。
何かで読んだのですが、神さまに子供の魂を預かっていただく神社さまがあるといいます。
山名八幡宮さんのものとは異なるようであり、こちらはすぐにお返しいただくというもののようですが。
私が読んだものといたしましては、
【預け子祈祷】というもので、子供の魂を神さまにお預けし、神様のもとでその子がより幸せに、あるいはなりたい自分になれるよう、魂に修行をさせるものだとか…。
山名八幡宮さんの子供を神さまに一度お預けする、というのがどういった意味合いのものなのかもわからないのですが、なんだかとてもありがたいもののように感じます。
そもそも神楽殿で、というところが、一体どんな儀式なのか大変関心を抱くものです。
また、この神楽殿には安産と子授けにご利益があるとされ、
〝二股大根の絵〟、
七五三の際に年齢の数を叩いて邪気を払う〝虫切り成長太鼓〟など、山名八幡宮に伝わる『安産、子育て』に関する〝縁起物〟が収められているといいます。
こうしてみますと、まさに『安産』『子育て』に特化した神社さんであるよう感じます。
今回はちょうどタイミングが合わず、社殿のある高いところにいる際に上信電鉄の電車か通ってしまいましたが。
あの参道にあるアンダーパス、手を伸ばせば線路の石に触れるくらい(もちろん触ったりしませんが)まさに〝真上〟を通るのです。
さまざまな絵の描かれた車体。
群馬サファリの動物の写真のものなどもあります。
もしかしたら、これも子どもたちが喜ぶ神社さんというものになるのかも。
こちらの境内、和菓子屋さんがあって、大変見た目の美しいお団子やおはぎで有名です。
神門前には天然酵母のパン屋さんもあります。
老若男女喜んで何度も参拝する神社さん【山名八幡宮】さん、ということで。
さて。
これは再拝となりますので以前も磯崎弁財天さんについてのレスがあります。前回のレスをお読みくださった方におかれましては、内容が重複したものとなるところもあり、申し訳ありません。(書いております本人は書いた記憶しか残っておらず、前回のレスを見ることなく書いているため、重複している度合いもわからず、本当にすみません)
この磯崎弁財天さんの楼門が変わっております。
赤い楼門の間に装飾として、…なのかもしれまさんが赤い太鼓橋がかけられています。大柄の方でなければあるいは実際に渡れるものなのかもしれません。渡って左右の建物を行き来できる…のかもしれませんが、こちらは一般に開放はなされてはおりません。
また楼門は障子の貼られた建物となっていてとても上品な感じがいたします。いかにも女神さまであります弁財天さまをお祀りする御堂だなぁと思われます。
その楼門をくぐると蛇の像(磯山の大蛇)がお出迎えくださり、その大蛇の像越しに御堂が見えます。
さてその像の左手には可愛い弁財天像があります。
さらにその隣には『風穴洞』があり
、四季を通してその穴から冷風を感じることができます。
蛇の像の右手の階段をのぼって行きます。
ごめんなさい。
暑さのためか(それはどうか…?それもあるか)何度もミスが続いており、削除して書き直しております。都度お読みくださった方におかれましては大変申し訳ありません。
実際にお坊さまを目の前にいたしますと、どのようにお呼びすればいいか困ってしまいます。
「お坊さん」と呼ぶのもなれなれしい感じがいたします。
またお坊さんの呼び方にはいくつかの種類があり、正しい呼び方は宗派や役職によって違うといいます。
うんうん、そう、そうなんだよぁ。
だからややこしい。
とりあえず。
宵の出御に参列して、すっかり桐生まつりの…【桐生祇園祭】の虜になった私。
今回の当番町である(本町)二丁目では四年ぶりの開催ということで大変力を入れて準備をなさっておられました。
行きたい、行きたい、行きたい!
が、こんな出不精で人混みが苦手なおばさんですらそう思った今回の桐生まつり、絶対人出は爆発的なものでありましょう。
ならば人出の少ない昼間の内に…と思っていたのですが、今日は私の扶養をしてくださっている夫が在宅勤務。
お昼ごはんを用意せねばなりません。
そして今現在の、誰もいない…とはいえありとあらゆる戸や窓を開け放ってある、四方が全て開けてある部屋の室温が36℃!
外に出ればほんの少しだけ出ただけで頭が熱い。
曇ってくればきたで、ゲリラ豪雨、雹が怖い。
くそぉ。(出た!下品なおばさんの本性が!)
(↓コロナ禍以前の桐生まつり)
※もちろん私どもは行かなかった。
美和神社さんの参道は坂道と石段。その途中に石の鳥居があります。
その石の鳥居、普通に見上げてみると高いもの。
ですが御神輿がくぐるにはそのてっぺんに祀られた鳳凰の飾りものがぶつかってしまうようです。
慎重に、慎重に。
「もっと!もっと下げて!」
見守る世話役さんたちから声がかかります。
かなりの時間をかけてようやく鳥居をくぐり抜けました。
この御神輿、どう見てもかなりの重量がありそうです。
石段の前には長い竿の先に提灯をつけた物を持つ二人が先導役を務めていました。
その先導役の後ろに横一列に男衆の数名が腕組みをしたポーズで、…カメラに向かってなのか…しばしそのポーズで立っていました。
そして。
さらにその石段を御神輿が降りて、…直進しました。
ここは、この道は本町通りと呼ばれる桐生市のメインストリートから美和神社さん、そして秋に行われる『桐生えびす講』のお宮『西宮神社』さんへと向かう参道です。
ちなみに明治三十四(1901)年に、美和神社さんの境内に西宮神社さんが勧請建立されています。
この参道を抜けた左斜め正面に桐生市では有名な矢野商店さんがあります。
本町通りと呼ばれる道を…『左』に。
この桐生市、本町というのは六丁目まであり、その六つの町会が順番で当番制でその年の祭典の中心となる係を受け持つとのことで、その当番町を『天王町』と呼ぶようです。
どうやら今年の当番町は『本町二丁目』のようです。
天王町の二丁目には御假屋(おかりや)もしくは御旅所と呼ばれる、祭りの期間中、御霊の入った御神輿がお休みになる建屋が設置されていて、そこを目指して行くようです。
…なるほどぉ。
ギャラリーも御神輿と共にその御假屋を目指します。
掛け声とかは一切ない静かな神輿渡御です。
この厳かな渡御を『瓔珞付き巡行』、と呼ぶようです。
ようやくたどり着いた一向。
休む間もなく長い、御神輿のかつぎ棒を外し、御假屋に納めます。
はああ。
すごいなぁ。
(↓ 近年、桐生まつりのシンボル的な存在、素戔嗚尊さまの象。鉾と呼ばれる山車の上に立つ)
…おばさん…ずいぶんと力が入ってる?
はい。
そうなんです。
じつはあの、四日の日の、女子にあるまじき台詞を書き込んだわずか十分後、おばさん、熱さにも負けず、ゲリラ豪雨の危機にも負けず、煩悩の赴くままに車に飛び乗っていたんですよね。
…はい、桐生まつりに行ったんです。
まだ完成されていなかった屋台を見に、見落とした(であろう)天王町、本町二丁目お宝を見に。
しかも、です。
四日の夕方に行き、さらには五日の夜にまで。
…地元のお祭りには行きもしなかったというのに…。
正確に言わせていただくと、あくまでも【桐生祇園祭】に特化して。
八木節の盛んな櫓の立つあたりには寄り付きもせず、露天商の屋台には目もくれずに、ひたすら桐生祇園祭を堪能してまいりました。
今まで知らなかった桐生祇園祭。
(…というか一時はほぼ町会役員や祭典委員だけで行われていたようでした)
楽しかったぁ〜っ♡
(↓今年は花の勢いが良く、いつもよりより綺麗にたくさんの花をつけて咲く百日紅の花)
いや、どうやらこの古い小さなビル…というには小さな、昭和中期にでも商い等のために建てられた建物こそが社務所のようです。
おそらくは元あった建物を神社さんが転用されたのでありましょう。
ごく普通のサッシの入り口を入ります。
建物を入ってすぐの陳列棚に置かれているものが御守り等でなければ、やはりちょっとした商いをされるお店のような佇まいです。
カラカラ。
サッシの戸を開けて社務所へと。
奥からごく普通のいでたちをなさった女性が出てこられ、対応をしてくださいました。
御朱印は数種類。
夏詣とか、前橋福めぐりとか、カラフルな限定御朱印もご用意されておられます。
変わった御守りは今年の干支のうさぎのぬいぐるみ守り。
ぬいぐるみといっても片手にすっぽり乗るくらいの小さなぬいぐるみです。ハンドメイド感のあふれる可愛らしいもの。
…八幡さまってこんな感じ?
私は普通の、通常版とでもいうのでしょうか、御朱印をお授けいただきました。
さあ、今来た道を歩いて鳥居の方へ向かいます。
石の鳥居をくぐると、大きくて、でもとても可愛らしい狛犬さまがおられます。
そしてその先、ひだりてに手水舎が。
高台に社殿が見え、石段を登ります。
こちらの神社さんの社殿は石垣で積まれた小山の上に建っているのですが、なんでもこの小山は『前橋九号墳』という古墳なのだといいます。
群馬県には大変古墳から多い。
この九号墳、古い時代に改修されたもののようで、元がどんな形の古墳だったかはわからないといいます。
現在の山の形からすると方墳…とも思われるのだといいますが、そうだとすればかなり大規模な方墳だったと思われる、そうです。
その古墳から出土したとされる【伯牙弾琴鏡】という銅鏡が宝物になっていると、石垣のところに写真付きで紹介されてありました。
『伯牙弾琴鏡』は、国内で十二枚出土しているとのことで、群馬県でほかに貫前神社にニ面あるといいます。
…まぁ、この『伯牙弾琴鏡』なるもの、私は初めてその名を知ったくらい、でありますが…。
石段を登ると、真正面に鉄筋コンクリート造りの社殿がありました。
観音院さんのInstagramを覗いてみましたところ、
『地蔵盆とは、子どもたちの健やかな成長を願う特別な縁日』
と書かれていました。
なるほど、そういう…。
だから子供限定のスタンプラリー、というわけなのですね。
別に夏休みだから…というわけではないようです。
でも、これだけだとあまりよくわからない。
さあ、困ったときはGoogle先生。
【地蔵盆】とは。
京都を中心とした近畿地方で盛んな、お地蔵さんを祭る行事。
地蔵盆は地蔵祭、地蔵会(じぞうえ)とも呼ばれ、地蔵菩薩さまの縁日と関連する行事のこと。
子どもたちの健やかな成長を願う行事として、京都を中心とする近畿地方で盛んに行われ、他に北陸地方の一部や九州地方の一部などでも見られます。
…おおっ!
私が知らないだけ、ではなくて、主に京都、近畿地方で盛んな行事、なのですね。
なにかいわれでもあるのでしょうか。
地蔵盆が関東地域に定着しなかったのはなぜかについても、きちんと書かれておりました。
それは地蔵信仰の歴史の違いから、とのこと。
京都ではすでに室町時代から地蔵盆が大流行していた一方、東京では江戸時代になってようやくお地蔵さんがつくられるようになだだということで。
観音院さんのようにお寺さんが主催なさる行事であればいざ知らず、地域の人たち主体で行われるとなると、たしかに既存のお祭りがあり、なかなか新たなお祭りを立ち上げるのも大変なことでありましょう。
また、関東ではお稲荷さんの信仰が流行っていたために地蔵盆が定着しなかったという説もあるようです。
地蔵盆は 子供が主役、というのはどの資料を見ても同じです。
ただ、京都ではお地蔵さまは町内ごとにあり、古くから街角におかれたお地蔵さんがその町を守ってくれると強く考えられていたといいます。
ということで、地蔵盆というのは町内や地域ののお地蔵さまを供養するお祭りであるようです。
地蔵盆でお地蔵さまを供養することで、
・子供の健やかな成長を祈る
・町内に悪いものが入り込まないようにする
・町内の火災などが起こらないように祈願する
そういった〝お祭り〟であるようです。
こちらのはねたき道了尊堂は、群馬県みどり市の光榮寺さんの境外堂。
毎月の御縁日にはご住職さま、副住職さまが揃ってお越しになられ法要を営まれます。
私が知る限り(決して皆勤で参列できているわけではないので、あくまでも参列したとき、ですが)、ただ一度だけ、ご住職さまが欠席なさったことがありました。
それは今年、ご住職さまが大僧正になられ、真言宗智山派の大本山に行っていらしたとき。
仏教に(も)詳しくはない私ではありますが、大僧正というのが位の高いものであることくらいは知っております。
その大僧正の授与式に同行されていた副住職さまから、『阿闍梨餅』なるお土産をいただきましたことも記憶に新しいことであります。
阿闍梨もたしか偉い僧侶を指すことばだったと記憶しております。
でも実際にどう使うものであるかは、さっぱりわからず。
そういえば副住職さまも昨年か今年かに、衣の色が緑から紫へと変わっておられます。
これは副住職さまも位が上がられた?
まぁ、きっと宗派宗派できまりが異なるものでありましょうが、ほんの少し調べてみました。
(高崎市の花火大会で)
食糧も水も底をつき、魑魅魍魎に襲われても、奇跡的にゴビ砂漠を抜けることができた玄奘三蔵。
まさに奇跡でしょう。
今現代の医療を以てしても、脱水・熱中症に栄養不良が加わっては、その命を助けることは難しいことがあると思われます。
しかもそれは医療の知識とさまざまな医療機器や薬剤を用い、電解質やカロリーを補って、のこと。
やはり、これは…玄奘の強い思い、志と、それを助けようとする御仏のお力添えがあったから、…そうとしか思えません。
二十八歳の暮れに高昌国(トルファン)へたどりついた玄奘は王から大変な歓待を受け、
「国民全員が帰依するから国師として一生留まって欲しい」
と懇願されたといい、ついには一室に閉じ込められます。
しかしながら玄奘の何としても旅立つ決意は変わらず、断食する姿に根負けして、帰りに三年間高昌国に立ち寄るという約束で、出発を許します。
出立に際し王は莫大な旅費を布施し、玄奘を抱きしめて泣きながら見送ったといいます。
しかしこの約束は果たされることはなかったといいます。
玄奘がインドで学びを終え、帰ろうとする一年前に、高昌国は唐に滅ぼされてしまったのです。
やがて玄奘は、遡ること二百五十年前の偉大な三蔵法師、【鳩摩羅什(クマラジュウ)】の故国、亀茲(キジ)国に入ると、ここに二ヶ月間滞在します。
亀茲国は色々な人が往来する、インドの原典で仏教を学び、語学学習に適したところであったといいます。
その次に現れた難所は、テンシャン山脈、夏でも雪がとけない極寒の氷山だといいます。
強風が吹けば、砂や石が飛んで来る、眠ろうにも渇いたところのない山で、この山を越えようとする者の三分の一は死亡したという、遭難覚悟の旅であるといいます。
七日間で命からがらこのテンシャン山脈を通り抜けた玄奘は、イシク・クル湖(現在キルギス共和国)に出ました。
それからシルクロードを西へ進み、タシケント・サマルカンド(現在ウズベキスタン)を通り、バーミヤン、ガンダーラ(現在アフガニスタン)を通って、インダス河を渡り、カシミールに入りました。
…うーん。
日本の地理とてもおぼつかないようなおばさん、必死に世界地図を見てみますが、さっぱりわからない。
うーん。
…貼り付けよう。
わかる方にはわかるから。
(玄奘の旅したルート)
今日はほぼ二ヶ月ぶりの握り仏を彫るご指導をいただく日でありました。
普通は遅くとも多少なりとも進歩するもの、でありましょうが、私の場合、退化しているのではないかと思われるくらいでありまして。
一ヶ月遅れで入られた方は、お若いこともあり、早くもお顔を彫らんとしており、私はといえばまだ腕の彫り方がわからないとそこで停滞している始末。
それでも。
一体だけ、あとはお顔を彫るだけ、というところまで作ってあり、先生にそれを見ていただきました。
「うん、大丈夫。しっかり彫れているよ」
今のまでお見せしてきたものはどこかしら失敗したところのあるものばかりだったし、先生にお見せしていない失敗作もあるくらいです。
その日彫ったところを元に戻すべく全て削られたことが、実に二回もあったくらいです。
えっ。
ほ、本当に?
あとは顔だけ、というところまで私が彫った木像を、彫刻刀を細かに動かして、先生がお不動さまのお顔を彫ってくださったではないですか!
その繊細なこと。
ため息しかでません。
私もいつかこんなふうに彫れる日が来るかなぁ。
鬼形のお姿をネットで調べておりましたところ、リアルな毛髪のある鬼子母神さまの御像があるようです。
お写真で拝見してもかなり怖く思えた私。
お堂の覗きというあまりお行儀の良くない癖のあるおばさんであります私、なにも知らずに薄暗いお堂の中
、この鬼子母神さまの御像を拝見したりしたら…。
考えただけでも背筋がぞぉっとし、思わず身震いいたします。
とりあえず、このリアル毛髪の鬼子母神さまのおられますお寺さんはしかと記憶いたしましたので、この鬼子母神像のあるお寺さんを訪れる機会を得ましたら、とりあえず…とりあえず、…どうしよう。
拝見したいような、やめておきたいような。
うーん。
とりあえず、夫にも教えておこう。
なにも知らずに覗いて夫が腰を抜かしても困るし、…私が忘れてしまっていたら教えてもらえるし。
困るのは…。
二人ともすっかり忘れてお堂を覗くこと、だなぁ。
追記)
まだまだ暑い今日、いつもいつものわけのわからない文章がありましたため、とりあえず気づいたところだけ直して一レス削除しております。
一度お目汚しをされてしまわれた方には誠に申し訳なく、お詫び申し上げます。
ほんとーうに、本当にいつもいつも誤字脱字、誤表記、誤表現、等々ばかりで申し訳ありません。
(咲き始めた萩の花)
高校生になってすぐにアルバイトをし、その何回目かのバイト料で(一回目は家族一人一人にプレゼントをして終わってしまいました)【つる姫じゃ〜っ!】を買ったくらいに、好きでした。
(高校を卒業して大部屋である学生寮に入った際に、母の手により処分されてしまいましたが…涙)
そんな土田よしこ先生の、さらには大好きな東海道中膝栗毛という作品に、私が飛びつかないわけがありません。
今でこそ本棚の目立つところからは外れはしましたが、すぐ手に取れるところにあることは変わりません。
その訃報にふれたとき、絶句いたしました。
つる姫じゃ〜っ!の当時は、自分が小学生の低学年であったこともあり、子どもがよく思いがちな、『すでに社会に出て作品を残したり、テレビに出ている人は、大人、=自分よりかなりの年上、年配者である』という、誤った思い込みのせいで、かなり年上の方と思っておりましたが、まだまだお若い享年七十五歳であられたとか。
歳を重ねての作品もたくさんお書きになれたことかと、残念でありません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
春日部八幡神社さんの御由緒は、
【今から約八百年前、源頼朝が鎌倉に幕府をおいていた頃、粕壁の浜川戸に『春日部重実』という人がおり、大袋、大沢、桜井、新方、増林あたりを領地としていました。
この重実の子に実景、そしてこの実景の孫に『重行(春日部治部少輔時賢)』という人がいました。
彼は長い間、相州(現在の神奈川県)にある【鶴岡八幡宮】を敬信していて、しばしばの合戦にもその霊護を蒙ったので、遥拝(はるかに礼拝すること)のため鎌倉時代元弘年間(1330年代)に鶴岡八幡宮を模してこの八幡神社を造営したと伝えられており、森の一部は彼の館跡と言われています。
(春日部八幡神社 御由緒書きより)
えっ?
こ、このどこに新田義貞の名が?
『吾妻鏡』には文治元(1185)年の壇の浦の戦いで、甲斐前司実景(春日部)の名が記されています。
また元久ニ(1202)年の項で、『畠山重忠の乱』に応じて『北条時政』が『北条義時』に討伐の大手の大将を命じた時、「春日部などの者ども、皆鞭を揚ぐる」とあるといい、
前後の軍兵雲霧のごとくにして、山に列なり野に満つとの記述があります。
宝治元(1247)年の『三浦泰村』と『北条』との『宝治合戦』では、
実景と子息三人が三浦方で討死したと記されています。
実景の孫の重行は、建武三(1336)年の『新田義貞』の挙兵では南朝方で『足利尊氏』と戦い、春日部郷と上総国山辺南郡の地頭職を安堵され、治部少輔に叙任しています。
ええ、そうなんです。
この辺りを治めていた【春日部重実】公の孫【重行】公が、新田軍の武士であったのです。
えっ、それだけ?と思われるかもしれませんが、群馬県民のソウルかるた(?)『上毛かるた』で【れ 歴史に名高い新田義貞】とうたわれる名将の名を見出すだけでテンションが上がろうかというもので。
…ま、まぁ、私に至っては、稲村ヶ崎を歩いても、知らずに歩いていた子どもでありましたが、ね。
そしてこちら八幡神社さんを鎌倉の鶴岡八幡宮を模して造営した人物こそが春日部重行公と伝えられており、なによりここ、この八幡神社さんの森の一部は彼の館跡と言われているものであります。
うーん、歴史はこうして刻まれているのだなぁ。
(菊の原種とされる野路菊)
奥宮さんを参拝し、順路に沿って進みますと、拝殿のみぎてへと出ました。
?!
なんと、拝殿右側の壁面一面に大きな干支の絵馬が十二枚並んでいるのでした。
神社さんでよく見かける、その年の干支の描かれた、あの、大きな絵馬を思っていただければ、その一枚一枚の大きさは伝わるでしょうか。
それが壁一面を覆い尽くしているのです。
どれも画風が同じタッチなので、おそらく絵を描いた人物は同じ方かと思われます。
御奉納なさったのでしょうか?
毎年毎年のものを掛けていったにしては経年の程度がほぼ同じであります。
初めて見る光景に驚きが隠せません。夫は嬉しそうにパシャパシャと写真を撮っています。
それよりも目を引いたのは、垣に囲まれた幣殿の横、本殿の前におられる狛犬さんでありました。
左側におられた狛犬さんは可愛らしい狛仔犬、といった感じに見えたのですが、左側におられる狛犬さんは今まで見たことのないポーズをとっているのです。
それはまるで、虎とかのネコ科の猛獣が高いところから周りを見下ろすような、ともすれば相手を威嚇するような…そんなふうに見えるのです。
さらにスマホで撮った写真をアップにして見ると、縞柄が見て取れるではないですか!
虎?
虎なのかしら。
うーん、そういう目でみると、群馬県の藤岡市に鎮座される諏訪神社さんにおられる狛寅さんに似ているように思えてきます。
でも何故なんだろう。
🐅だとしたら、何故?
わー、ワクワクしてしまいます。
この謎解きのためにもぜひぜひ再拝させていただかなくては。
(春日部八幡神社さんの本殿そばにおられる狛犬(?)さま)
この『岩の上の天神』ともいわれる桐生天満宮さんの土台にある岩は、他所から運んだものだということもわかっているようです。
ただ、それがいつのことなのかは、まだ私にはわかっていません。
その記録はあるのかどうか。
この社殿を建てるにあたって、のものなのか、
あるいは『桐生新町』の町立てに際して、桐生市内の旧下久方村梅原という所にあった『梅原天神』さまをこの地に御遷座した時のことなのか。
…誰に聞けばわかるのだろう。
宮司さま?
桐生市の図書館の閉架図書室に資料があるだろうか?
…今回の課題といたしましょう。
いずれにしても岩の上に建てることは耐震性を上げる効果はあるようです。
さて。
この桐生天満宮さんは複合建築の【権現造】。
こういった建築様式にはとことん弱い私には、本殿ができてから十四年経って着工し、途中中断して二十五年もかかっているという建物なのに、…権現造って、屋根、繋がっているのではないのだろうか?
えー、だとしたらその途中経過、大変じゃないんですかね?
いったん幣殿までで御開帳しているようですし、しかもここから拝殿の棟上までに十四年かかるわけで。
十四年経過することが想定内のものだったのか、そうではなかったかわかりませんが…ここで少なくとも崩れたりしないような形にまとめるわけ…ですよね?
建物の建て増しとかはよくあることですが、神社さんの大きな屋根、って大きなものじゃないですか。
新たな建物と接続するためにはまた葺いてある屋根を調整する必要が当然あるだろうし…手間もお金もかかるじゃないですか?
ま、まぁその辺はもうプロの範疇だと思うのでこのくらいにしておきます。
ここ桐生市は徳川家のおぼえがめでたい地で、江戸時代になってからは江戸幕府の直轄領であったようで、この桐生天満宮さんはその直轄領のメインの町、桐生新町の北の起点であり、そこを護る神社さんでありますので、当然のように日光東照宮からの影響もあったりもしましょう。その東照宮の彫刻に携わった彫刻師たちは日光へと続く街道沿いに住まい精進していたといい、その街道は桐生にほど近い場所にもありました。
東照宮の完成を受けて、腕のある職人たちが次なる仕事をした時期でありました。
(秋の七草)
目にした瞬間、何も考えず、考えられず走り寄ったのは、『狛狗』さま。
もともと狛犬さまが大好きな私でありますが、駆け寄るほどの狛犬さまは…数えるほど。
声に出して「可愛いぃっ♡」を連発。 するおばさんのそばに夫はありません。
長い付き合いですので、自分の妻がどういう行動を取るか、事前に察していたのでしょう。
さすが、さすが珍道中ペアのかたわれです。
私を遠くから射抜くように魅了した狛狗さまは、あの、日本武尊さまを救い、道案内をした山犬さんです。
その凛々しい横顔、キュートな笑顔。
狛犬さまの周りをしばしうろつくおばさんです。(もちろん、他の方がお越しになれば側を離れておりますので、そこはご安心ください)
しかしながら。
さすが狛狗さま、おばさんの脳内ににそっと伝えます。
そ、そうだ、奥宮さまへのお参りがまだだ!
いつもよりも多く深く、お辞儀をして。
心の中で、すぐにお詣りしなかったことをお詫び申し上げました。
奥宮さまは、そのお社から優しい気が漂うように流れてくるのが感じられる、そんな優しい神さまがおられる社でありました。
社務所からもそんな優しい気を感じます。
そこに飾られた御守やお札からの気でありましょうか。
おわかちいただいた御朱印には、白のオオカミさまと、黒のオオカミさまが印刷されたもの。
うわぁ♡
『吉祥寶守』と書かれ、『寶』と書かれた黒い御守が目を引きます。
おおっ、鯉と龍が刺繍されていました。
ん?
綺麗なストラップの御守りがあります。
いろいろな色がありますが、雫の形をした水琴鈴のようです。
なんて綺麗な…。
…一目惚れです。
「こ、この水琴鈴の御守もおわかちください」
社務所におられる神職の方に、考える間もなく、スッと申し上げていました。
水琴鈴の御守はいくつも持っているというのに。
その水琴鈴を見ているだけで心がすうっと癒されていくのです。
(奥宮の狛狗 吽形さま)
寶登山神社奥宮は、標高468.8メートルの寶登山山頂に鎮座しています。
寶登山ロープウェイ山麓駅から山頂まで歩いて行ったら約一時間と、夫が申しておりましたが、私、そんなことを聞くより前に往復の乗車券を買ってしまっております。
実はこの乗車券、ちょこっと不思議で。
『発売日共2日間有効』
…?
お、お山にお泊まりするって?
な、なんで?
何故、この有効期限?
…。
あっ!
もしかして。
二年参りのときのため?
で、ですよね?
いやぁ、びっくりしました。
でもオオカミさんがお護りくださいますね。
寶登山頂駅までは約五分間の空中散歩。
Time is money。
五分×2で千二百円、たしかに…。
えっ?意味が違う?
…はい、承知してます。
山の上、です。
明るく澄んだ空気です。
それが。
奥宮の鎮座されるところからさらに空気が変わります。
ああ、神域だなぁと、実感します。
奥宮からさらに上へと道は続き…。
山頂となります。
日本武尊さまが見た景色、と思うと自然と身が引き締まります。
遠く秩父の山並みが見えます。
ひときわ高いのが武甲山。
日本武尊さまが見た景色と大きく異なるのがこの武甲山でありましょう。
なんと心地よい場所でしょう。
梅の花の時期には、甘い香りが漂って、桃源郷のようでしょう。
そんな花の頃、また再拝させていただきたいなぁ。
えっ?今度は歩いてか、ですか?
いやいや、きっとまたロープウェイで。
実は、ですね。
寶登山ロープウェイ山麓駅で標高がすでに212.7メートル、らしいのです。寶登山の標高は468.8メートルですので、なんだかんだ半分近く歩いて登ってきていたのです。
それを知ったとき、あのくねくねと長かった登りの道に納得がいきました。
私どもにはこのくらいでちょうど良いので…。
(カワラナデシコ)
貴舩神社さんは長い石段をのぼってまいります。
程よく続く鳥居をくぐりながら上へ上へと向かいます。
石段の両脇には朱塗りの手すりが続き、ところどころ一定間隔で設置されている朱色の灯籠が、まるで見守ってくれているかのように感じます。
上へ上へ。
目指す石段の上に、明るく光る空間が見えてまいります。
その光差すさまがなんとも神々しく、そして限りなく優しい気が迎えてくれます。
この石段を登っての景色こそが、
貴舩神社さんを訪れてよかった、また訪れたいと思う瞬間であります。
正面に拝殿。
小さな赤い天狗さまが正面に祀られていて、まるで「よく来たな」と声をかけてくださっているかのように感じます。
護ってくださるお力の強い、お優しい天狗さまがそこここで、訪れている参拝の者たちを見守っておられるような、…そんな感覚を抱く神社さんであります。
こちらは、訪れる方の悩みの数だけ御守りを用意しようと、そう思われたのであろうなと、感じられるくらいに御守りが数多く置かれています。
しかもその思いに寄り添うようなデザインであり、そこがまた心に染み入るのであります。
わが子にお力をお与えいただきたいと願うとき、私はこちらへお参りさせていただきます。
そして…それは本当はそうすることで自らの心のうちにある、わが子を心配している心を鎮めていただいているのだと、気づきをいただけることとなります。
貴舩さまはお優しい神さま方と、お優しい天狗さまが、病める心を癒そうとお待ちになってくださっておられる、癒しの宮であるのです。
そして。
いろいろな気づきをいただくことの多い神社さんでもあります。
〝パワースポット〟という言葉はあまり好きではありませんが、きっと一言で言いあらわすなら、こちらはまぎれもなくパワースポットなのであろうと思います。
こちらの山門の前におられる六地蔵さまが、まず私の心を鷲掴みになさいます。
お優しいお顔。
お座りになられた御像なのですが、そのお召しになられたお着物の袖や裾の流れるさまの優美なことといったら♡
そして、こちらのお地蔵さまの光背は少し変わっていて、円光、…なのですがドーナツ状とでも申しましょうか(語彙力がなくて申し訳ない)、内側が抜かれた円であります。『輪光』ということになりましょうか。
石仏がお好きな方は、その像の背面や台座等に刻まれた製作年をご覧になられる方がほとんどなのですが、私は基本的に簡単に見られる位置にある時だけ見させていただいております。
御仏として拝するか、
その御仏を作るに至った背景を含めて、…依頼者や石工や、時代や時代背景やらといった諸々を含めて拝するかという違いがあるのかもしれませんが、…私の場合、要はビビりに端を発しているかと。
…自分に自信がない私は、何か失礼をしでかさないかとドキドキしてしまうのです。知らないうちに何か失礼な事をしでかしでもして、バチが当たることを畏れているのです。
…御仏なので、よほどのことをしでかさない限り、お許しくださる気はするのですが、なにせ〝私〟ですから。
そ、そんなわけで、この六地蔵さまがいつ造られたものかはわからないのではありますが、輪光を作ることは手彫りではかなり大変なのではないか、と思われ、新しいものなのではないかと思うのではあります。
石もどこか新しそうな気がするものであります。
ただ、私の場合、そう思って見ていたら江戸時代のものであった、などということがありましたので、それもあてにならないのですが…。
違う場所にも六地蔵さまがおられ、そちらはいかにも古いもののよう感じますので、たぶんこちらは新しい?
そしてそんな(たぶん)新しい六地蔵さまを含めてこの山門を見守るようにお立ちになられている、大きな大きなお地蔵さまが。
こちらはだいぶ古くからお立ちになっておられるかと思われます。
がっしりとした体躯の宝珠と錫杖をお持ち…にみえる御像です。
たいそう立派な台座で、お立ちになっておられる蓮の花弁が八重を通り越した、薔薇や菊のように花びらがたくさんあります。
【施身問偈】の図の欄間の下を通って、再びたくさんの欄間彫刻に囲まれたとき、ご住職さまが振り向いて、
「あちらにもお釈迦さまのお姿が描かれた欄間彫刻があるのですが」
と、施身問偈の欄間と対になる、御内陣の右側の欄間彫刻を見ながらおっしゃいました。
なるほど、後光も眩しいお姿でお立ちになられているお姿です。
なにやら他にも人物が二人。
二人の人物はごく普通の昔の位ある人、といった姿をしています。
そこに光り輝くお釈迦さまが、なにやら親しげにも見えるくらいに近くお立ちになって、真ん中にある何かを囲んで三人で立つ、という構図です。
遠くから見ただけなので、よくは見えなかったのですが、なにやら橋の真ん中、池の真ん中でのことに見えました。
これは中央に甕を配し、お釈迦さま〔=仏教〕・孔子〔=儒教〕・老子〔=道教〕の三聖人が瓶に入った酢を舐めて、すっぱいと顔をしかめている様子を描いたものだとご住職さまが教えてくださいました。
【三聖吸酸】というものだそうです。
「宗教、教えが違っていても、酢がすっぱいという真理は一つだ、という「三教一致」を風刺した中国の故事からのものです。まぁ、お寺の御本堂にわざわざ飾るのもどうかとも思えますが、ね」
そう話しながらまるでいたずらっ子のようにニコッと笑って首をすくめたのが、なんともチャーミングなご住職さまでありました。
(醫光寺さんの【三聖吸酸】の
欄間彫刻)
※一枚も写真に収めなかったのでお借りしました
昨日醫光寺さんのご住職さまはお留守で、今日はどなたも電話にお出になりませんでした。
まぁ、急ぐことではありませんので、なんならあと少しすれば紅葉の美しい季節をむかえますし。
醫光寺さんのすぐ近くには桐生市黒保根地区の三奇石の一つ、『亀石』なるものもあるようですし、ゆっくり秋の景色の中を歩いてみるのも良いかもしれません。
さて。
昨日二十三日は勢至菩薩さまのお縁日。
勢至菩薩さまは、智慧の光ですべてのものを照らし、人々を迷いや苦しみから救うとされています。
智慧とは物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味します。
正しくは大勢至菩薩というのだとあります。
阿弥陀如来の右脇侍として観音菩薩と共に三尊で表され、独尊で祀られることはほとんどありません。
…そうなんです。
勢至菩薩さまは午年の守り本尊とされる御仏でありますので、勢至菩薩さまの御像のあるお寺さんをお参りさせていただこうといたしますと、…ほぼ見つからない。
最近守り本尊の石仏さまを境内に並べてお祀りくださるお寺さんも増え、そういったお寺さんへお参りすれば別ですが、御本堂にお祀りされているとすれば、阿弥陀如来さまがご本尊のお寺さん、ことに阿弥陀三尊さまがご本尊のお寺さん、となります。
うーん、
智慧の光ですべてのものを照らし、人々を迷いや苦しみから救ってくださる勢至菩薩さま…。
…行く!
阿弥陀三尊像がご本尊のお寺さん。
ぱっと頭に浮かんだのは群馬県桐生市の【青蓮寺】さん!
…実は九月二十三日、毎年秋のお彼岸のお中日が青蓮寺さん年一回の御開帳、だったのですが、どうしてもどうしても外せない用事ができてしまい、今年は御開帳に行くことができなかったのです。
青蓮寺さんが大好きな私。
御開帳にはうかがうことはできませんが、せっかくのお彼岸、お前立ちの阿弥陀三尊像さまに参拝いたしました。
よぉ〜し、勢至菩薩さまのお縁日、青蓮寺さんへ行くぞぉ〜。
…ということで、昨日は青蓮寺さんへ参拝してまいりました。
(菊の花。
今年は菊の開花が遅れていると聞きますが、わが家は通年通りです。ただ、今年は菊の花のつぼみが半端なくついており、一輪摘めばまるで一束の花束のようです)
これを円グラフにすると、四隅にあたる干支だけふたつペアになっていることに気づきます。
これをわかりやすく解説している方がおられました。
…結論からいうと、十二支じゃなくて別のものがベースになっているのだといいます。
それは、『九星』というもの。
九星は、中国由来の東洋占星術「星占い」のベースになる思想です。
『九星』は、古代中国で考え出された、この世の森羅万象を捉えるための考え方のひとつで、その原理は1~9の数字なのだそうです。
1~9は、偶数(陰)と奇数(陽)に分かれ、その組み合わせで宇宙の摂理を捉えようとするらしいのです。
全天を、中央と八方位の9つのエリア(宮)に分割し、地球(陰)と太陽(陽)の運行をこの9エリアに当てはめている…のだそうで、もうこのあたりからすでにおばさんはついて行けてはおりません 笑。
物事の状態が九種類あって、それを我々の運命とか方位の吉凶とかの判断に用いたもの、だということで、
これが東洋占星術に用いられて「八卦」にも応用されました。
「こっちの方角は吉」とかいう、もっと言ってしまえば「当たるも八卦当たらぬも八卦」といわれるアレであります。
つまりはインド発祥の仏教とはぜんぜん別のところ、しかもはるか古い時代に発祥した中国の世界観なようで。
それがいつのまにか仏教と一緒に日本で取り入れられ、広まっていったもののようです。
とはいえ真言密教系では東洋占星術が色濃く影響しているようであります。
『守り本尊』は九星が考えのベースにあって、だから「守り本尊」は八尊しかいない、ということのようです。
人の生まれ年は十二支で捉えるので、それを八尊の守護仏に十二支を当てはめた、ということになるようです。
…なるほど。
わかったようなわからないような…。
だとすると〝九〟という捉え方はどこへ?
…まぁ、割り振るには八の方がまとめやすい?
…そんなことのようでありました。
わかりやすい図、円グラフを載せておきます。
(守り本尊さま)
昨日お電話くださった醫光寺さんのご住職さま。
思ってもいなかったことで、すっかりあがってしまった私は、ご住職のでご都合をお聞きして、お寺にうかがっていくつかお聞きしたいことをお聞きしようと思っていたのにも関わらず、お電話で直接質問してしまいました。
そんな私がお聞きしたこと。
① 毎年一月四日はお薬師さまのお護摩法要が営まれる。
② 以前は年一回、赤堀氏の娘さんの遺品の帯を御本堂に飾る日を設けていたが、コロナ禍となって以来中止している。
年一回の日というのは、四月八日がその娘さんの誕生日であったため、四月八日であったこともあるのだが、黒保根地区の春は遅くて、四月だとまだ雪が残っていたりして、足元が危なかったりすることもあり、五月の八日になっていった。
また、黒保根地区は養蚕が盛んだったこともあって、五月八日は八十八夜の頃にも当たり、五穀豊穣等の祈願や養蚕がうまくいくように祈願することと併せての、娘さんの霊を弔う日としたという。
③ 屋根の大棟の三つの紋について
江戸時代に建てられた時は茅葺きであったため、屋根の紋等は無かったのだが、先先代のご住職の代に屋根を瓦葺きとした際、三つの紋を掲げたのだそうで。
・一つは新田の紋である『一つ引き両紋』まぁ、丸に太い横線のあるもの。
これは醫光寺さんのそばにある…とはいっても標高七百五十メートル以上の山中にあるのですが…、
『栗生神社』さんの御祭神となっておられる『栗生左衛門頼方=新田義貞の功臣』にまつわるもの。
・一つは徳川の紋である『三つ葉葵』。
徳川園より御朱印をいただいていたことによるもの。
、一つは、二つある高野山真言宗の宗紋の一つ『三つ巴』。
この二つある高野山真言宗の宗紋についても、どうして二つあるのか、というところまできちんとお教えくださいました。
…これについては少し長くなるので、次レスで書いていこうと思います。
…すごくないですか?
よどみなく、すらすらと、全ての質問に即答してくださった、だけでなく、きちんと私がわかるところまで掘り下げてお話しくださったのです。
本当に本当にありがたいことです。
(散ってもなお美しい金木犀)
ということで、秘仏のご本尊さまに代わり、御内陣には黄金に光り輝く御前立ちの阿弥陀如来さまが観音菩薩さまと勢至菩薩さまを侍仏とされお立ちになられております。
この阿弥陀さまは、寛永十二(1635)年に、江戸浅草の浄土宗正覚寺二代住職でありました栄感上人様が、近在の多くの人々の寄進を受けて、仏師運慶の末流・鎌倉の仏師宗意により造られましたものでありました。
しかしながらその後この阿弥陀さまは火災に遭い傷んでしまい寺の蔵にしまわれてしまいます。
時は流れ。
正覚寺の九代住職となられた念徹上人様は、桐生のご出身でありました。そんな上人さまはある時ご自分の生まれ故郷に近い久方村にある『青蓮寺』の話がその耳に届きます。
「桐生には檀家わずかに15軒の貧乏寺があり、やっとの思いで本堂を大改修した。
しかし、ご本尊様が秘仏のため本堂に入ってもがらんとした空間だけで拝む仏様もないと檀家が嘆いている」というもの。
上人様はこの話を聞いて身が切られるような思いがいたしました。
それならばと、蔵に入っていた阿弥陀さまを修理して青蓮寺に納め、八十五歳で亡くなられたご自身のお母さまの供養にしようとお考えになり、文書とお母さんの遺髪、形見の念珠を阿弥陀さまの胎内に納め、青蓮寺に寄進したということであります。
平成7年秋にこのお前立ちのご本尊さまの修復をして初めてそれがわかったとのことで、それまでは青蓮寺に代々伝わる浄土宗のお坊さん(念徹上人さま)の立派な御位牌の意味がわからずにいたといいます。
青蓮寺さんの大恩人であった、ということでありました。
(青蓮寺さんの欄間彫刻のうちの一つ。唐子遊びの図柄となりましょう)
群馬県みどり市にあります【自音寺】さんの境内には『自音寺の四国遍路』として【自音寺八十八霊場』があります。
これは、群馬から遠い四国まで行かずとも、境内で四国八十八カ所遍路を巡れるようにと、先代の住職と現住職が、四国八十八カ所霊場を巡礼した際、各所から砂をいただいてきたものとのこと。
境内の墓地の一部に全長にして五百メートルの石仏を巡る通路を作り、踏み石の下と石佛の下にそれぞれのご住職かいただいてきてくださった砂を敷き詰め、『境内四国遍路』をとしたものです。
一つ一つの石仏さまはたいそうお美しく、これは各霊場のご本尊を丁寧に書き写したものを石像化したものといいます。
今回秋の大祭に参列させていただき初めて知ったことだったのですが、実はこの自音寺ので四国遍路を作る事となったきっかけは、こちらのお寺さんの檀家さんのお一人が、八十八ヶ寺を巡礼しながら、一ヶ所一ヶ所のお寺のご本尊さまを書き写して来られたことに端を発していたのだといいます。
この全ての御仏の画を奉納され、深く感銘を受けた先代のご住職が、まず四国巡礼をされ、その各所からお砂を頂戴して来られ、その後現在のご住職ものまた同じくお砂を頂戴してきたのだといいます。
私も言葉にならないくらい深い感動をおぼえました。
八十八ヶ所、総巡道は実に千四百キロに及びます。
けもの道のような山中を歩くコースもあるといいます四国巡礼を歩かれるというだけで凄いことだと思うのです。
それをさらに一つ一つのお寺さんのご本尊さまのお姿を絵に写しとるとは…。
今回ご住職が新聞社の方にその実物をお見せになっているところに居合わせ、そのうちの数枚を拝見することができましたが、実に心打つ、丁寧に描かれたものでありました。
一枚一枚が、筆ペン、あるいは筆で、同じタッチで八十八枚。
…凄くないですか?
しかもたまたまその方に少しお話を伺うことができました。
なんでも六十歳を過ぎたころに四国を訪れ、絵を描いて廻られたということでありました。
絵も特に習ったわけでもなく、全くの自己流なのだとおっしゃっていました。
一枚描くのに四、五時間かかる、とおっしゃっていましたが、そんな短い時間で描いたものとは到底思えない、素晴らしい出来でありました。
(咲き始めた山茶花)
桐生市の新宿八幡宮さんの左面の胴羽目は【雨乞小町】という題材のようです。
天下旱魃の時、小野小町が勅命を受けて、平安京の神泉苑で雨乞いの和歌
『千早ふる神もみまさば
立ちさばき
天のとがはの樋口あけたまへ』
(ちはやぶる神も、この日照りを御覧になられたなら、大急ぎで天の川の水門を開けて下さい)
と詠んだところ、この歌の徳でたちどころに大雨が降ったというものだそうです。
小野小町、そんなに凄い人だったんだ…。
そんな小野小町に負けずとも劣らないこの彫刻の凄さ。
…凄くないですか?
こんな動きのある彫刻。
横殴りの雨を彫刻で表せるなんて、思ってもみなかった。
傘のリアルなこと、リアルなこと!
横殴りの豪雨を受けて、小野小町を濡らさんとする男の人の雨に立ち向かう表情といったらありません。
…一体、どんな方がこれを彫られたのでしょう。
それがわかる資料が今のところ見当たりません。
というか、この神社さんの彫刻、桐生市の文化財指定にすらなっていなそうです。
ええぇぇー?!
この八幡宮は、かつては壮大な森林に囲まれた神社であったといいます。
今はあまり人通りのない、昔ながらの商店と民家、小さな町工場などのある町の一角に、二階建ての…幼稚園とか公民館といった風情の、それも今は当初の使用方法ではなく、倉庫として使われているような感じの建物が境内に共に建つようなところとなってしまっています。
しかしながら。
こちらは規模こそ小さいものですがすぐれた技法を残す総彫りの本殿に、往時の面影が偲ばれるといえましょう。
さらに境内には、信州・高遠の石工の作、石灯篭、卍紋入りの珍しい庚申燈篭、 貴重な『庚申阿弥陀石仏』といった石造文化財も多く見受けられました。
うーん、これは大祭等の時に再拝して然るべき人にお話を伺うしかない!
(桐生市新宿の八幡宮さんの【雨乞い小町】』 ↓
【桐生市新宿八幡宮さんの庚申阿弥陀如来像に寄せて】
群馬県桐生市の【新宿八幡宮】さんの境内の片隅に石造の阿弥陀如来さまの御像がぽつんとお立ちになられておりました。
神仏分離令以前の時代の名残りであろうかとそこは気にならなかったのですが、庚申塔と並んでお立ちになられていたことに少し違和感に近い感覚を覚えました。
後にそれが『庚申阿弥陀如来像』という大変に珍しいものだと知りました。
庚申講の人々が、庚申待の供養のために造立したものに庚申塔があります。
ほとんどは石造物で、形も実にいろいろな種類がありますが、江戸時代になると定型化し、青面金剛さまの刻像塔や庚申の文字を刻んだ文字塔が主流になってまいりました。
庚申の供養塔で阿弥陀如来さま。
…初めて拝見いたしました。
でもこの、神仏にほとんど関わることなく生きてきたようなおばさんが知らないことなど星の数よりも多いし、しかもぼーっと生きておりますので、今までだって本当は庚申で建てられた阿弥陀如来さまの像を、
「ああ、ここにも石仏さまがおられる」
くらいの感覚で手を合わせて、そうした背景に気づかずに過ぎていたかもしれません。
『石仏さまがお墓であることもある』、ということも、珍道中をかなり進めて初めて知ったところもあるくらいの人物です。
しかしながら、ネットで調べてみる限りにおいて、この、阿弥陀如来さまを彫った庚申塔というのは全国的にみても大変珍しいもののようなのです。
…あくまでもネットで調べた限り、ですが、ね。
三重県の一志町というところにあるという『誕生寺』さんというお寺さんに伝来している庚申塔には、戦国時代の年号が刻まれているといい、こちらがやはり『庚申阿弥陀如来像』だといいます。
こちらの庚申塔は砂岩に阿弥陀如来の立像を半肉彫にあらわし、像の両側に「庚申待衆八人」「天文十六丁未十二月十三日」の刻銘があるのだといいます。
このことから天文十六(1547)年に庚申待を行った八人が制作したことがわかるといいます。
もともとは近くの道端にあったと伝えられ、それがお寺さんに安置されたようです。
誕生寺さんの『石造阿弥陀如来立像』は、庚申塔の中でも比較的早い部類に属するものだといい、三重県内はもちろんのこと、全国的にも注目される例だと、三重県の県史編さん班の方が書かれておりました。
【柿薬師の由来】
群馬県みどり市の『光榮寺』さんの山号は薬師如来さまのおられる瑠璃光浄土にちなんだ『瑠璃光山』であります。
幾度となく参拝させていただいておりますのに、今回初めて光榮寺さんは東京都港区の『真福寺』さんの末寺であることを知りました。
今回、御住職さまから直々に寺宝のご説明から始まり、光榮寺さんの御由緒をお聞きする機会を得ました。
こちらの柿薬師如来像は、行基菩薩玉躯安穏平癒を祈って造られた薬師仏像一千体のうちの一つと伝えられているといいます。
開山の良瑜上人さまが、天正年間、讃州屏風ヶ浦の巖頭において阿字三昧を修行されておられたとき、毎夜海浜に光るものがあるのを見て、その光を尋ねて行ったところ、御丈九寸五分(台座を含め二十九センチ)の薬師如来さまの御像を得たといいます。
良瑜上人さまはこのお薬師さまは東国有縁の仏であると確信され東国に流遊を思い立たれます。
『一片の布帆に万頂の広范たるを凌ぎ鳴門海峡を渡り舟を尼ヶ崎につなぎ難波、伊勢尾張、木曾から諏訪、浅間、榛名、赤城を過ぎ、』(昭和三十年代に先代の御住職がまとめられた略縁起より)
現在の桐生市黒保根町涌丸の医光寺さんにたどりつかれたといいます。
当時大間々の六人衆と呼ばれた人たちが、たまたまこの地に寺建立を請願しており、良瑜上人の噂を聞いたそのうちの一人が黒保根町の涌丸まで出向き、「現在寺を建立すべく請願しており、良瑜上人さまのありがたいお薬師さまの御像をその寺のご本尊に迎えさせていただきたく、お願いにあがりました」と申し、良瑜上人の了承を得られ、開山に当たっていただくことができた。
…というのが、光榮寺さんの始まりのようです。
開山当時は『高栄寺』と称していたようですが、のちに現在の光榮寺に改めたといいます。
寛文年間に火災にあい、元禄二年に再建、弘化四(1847)年に建てられたものが現在の御堂であるようです。
このご本尊の薬師如来さまは眼病の治癒に霊験あらたかで、厄除けの効験があるとされ、柿の木でできていると伝えられています。
大正時代までは開帳しお祀りしていたようですが、眼病が流行したとき、『薬師さまをみだりに公開しているために(眼病が)起こったのだはないかという風聞が流れ、それ以来厨子の中に納められるようになったのだといいます。
(続きます)
(寒桜)
(続き)※すみません、削除して書き換えておりますが、内容はほとんど変わっておりません。
常廣寺さんの山門近くまで来るとわくわくします。
私の大好きなお地蔵さまのお像がおられるから。
ただ…どうしてそんな向きでそんな位置におられるのかと、毎回毎回不思議に思うし不満でもあるのですが、門の端も端、人によっては見落としてしまうくらいの隅っこなのです。
お優しいお顔立ち。
しかも小首をちょっと傾げておられるお姿、あまり他では見ない実に可愛らしい仕草なのです。
山門も趣のある古いもの…のように感じます。
すっかり軽く、あたたかなもので包まれたかのようになった心となった私は、足取りも軽く御本堂へと向かい、御本堂の内におられる御仏さまに手を合わせて。
ふと振り向くとちょうどお車から降りてこられたのか男の方がおられました。
「お寺の方ですか?」
「ええ」
…副住職さまでした。
お帰りになられたばかりでありましたのに、御朱印の直書きにも快く応じてくださり、しかもこちらの御朱印にはこのたびのウクライナ難民支援のために作られた〝鶴〟のしるしがあるのですが、そのスタンプを捺してくださっているようなのです。
そのスタンプも、センスある五(…六だったかしら)の色のスタンプ台をご用意くださっていて、好きな色が選べるという♡
どれも甲乙付け難い、素敵な色でしばし迷って、私は水色を選ばせていただきました。
御朱印は三百円から。
寄付ということもあって四百円を用意しましたところ、
「あれ、三百円でいいんですよ。百円多いです」と手渡され、さらにはお茶の缶を一本くださいました。
…これでは全然寄付にならないんでは?
やっぱり変わらず優しい、あたたかな常廣寺さんでありました。
(シクラメン)
(続き)
まず辿り着いたのは、この浄法寺さんの現在のシンボルでありましょう金色に輝く『伝教大師』さまの大きなお像の前。
そこに広い広い駐車場があります。
広くて区画のない駐車場で、細かなところに神経を使う夫はまたまた
「どこにどう停めたらいいかなぁ」
…後からお越しになる方のお邪魔でない、なおかつ、たとえばこのようなシンボル的なものの前であればその景観の邪魔にならなくて、かつ、排気ガスがかからないような向きで、お墓がそばであればそこにもまた排気ガスがかからぬような位置と向きであれば、どうだって構わないと思うのですが、ね。
…えっ?
結構気にして考えてるじゃない?
それは人として当たり前なレベルでなら。
お決まりのような夫のこの発言、これだけ考えてればどこだって良いと思うんですが、これだけは相変わらずオロオロするらしい。
…なんなら私がタブーであろうと思う全てを注ぎ込んだ場所を指定してみようかしら。
その時彼はどう考え、どう行動するのだろう。
…ま、そんな時が来ても、私自身が忘れてしまっていて、いつものような思考で、「ここら辺でいいんじゃない?」
って答えてしまうに違いないんですけれどね。
金色に輝く旅姿の伝教大師さま。
そのお姿にふらふらと近づいて行く妻を見て、
「門から行かないの?」
…。
…そのありがたいお姿についつい寄せられてしまいました。
相変わらず無宗教な二人。
檀家寺があるのもそれは大きな憧れではありますが、決まった宗教、決まった仏教の宗派が無いが故に、こうしたお寺さんとの出会いがあるのかも知れないと思うと、無宗教、無宗派(そも、仏教徒ですら無い)も良いのかなぁと思ってしまう私。
これだからいつまで経っても無宗教なままなんだよな。
閑話休題。
夫が(珍しく)先に向かいます、山門へと歩きます。
駐車場を出て、いったん公道へと出ます。
さして広くはないこの公道、車が通ること、通ること!
いつもだと「もっと端に寄って!」と夫に叱られるのですが(…えっ?)、この日は目的に向かって歩いているため、無チェックな夫。
私なりの端を歩いて、山門にたどり着いたのでありました。(さして離れてもいないのですが)
(続き)
東国へ向かう主要街道が東山道から中山道へ変わった理由を考えてみますに、それはきっと〝大変だから〟。
…ですよねえ?
戦国の世が終わり、天下泰平である江戸時代ともなると、国と国…まぁ、今でいう県と県の移動も規制がなかったわけではありませんが、庶民もお伊勢さん詣りをする時代となりますし。
戦国の世を経て、平安時代とは段違いに日本という国が国家統一されていますし、江戸を中心に物流もあって、人や物の移動が盛んになっています。
だから道だって新たに作るだろうし、それは今までに比べれば多少なりとも楽だろう道を考えるだろうし、そうして新たに主流となった道は、最澄さん=伝教大師さんの歩まれたルートよりは楽?、なんじゃないのかなぁ、それでも絶対歩こうとは思わないけれど。
そう、調べてみました。
夫に聞いてレクチャーしてもらえば楽なんですが、それは自分で調べてわからなかった時に。
なにしろ人並みの知識すらがない妻なので、どこまでも風呂敷を…地図を広げなくては説明がつかないだろうし…。
でもそういった意味でも、夫は誰よりもわかりやすい解説を私にしてくれる最高で最良の師、なんでしょう。
ここでしか言いませんが。
閑話休題。
東国へ向かう主要街道が東山道から中山道へ変わった一番大きな理由とされるのが、中津川宿から高低差約1200m、標高1585mの
『神坂峠(みさかとうげ)』を越えるのが、あまりに過酷だったため、と言われているといいます。
その険しい道程から、東山道第一の難所として知られ、荒ぶる神の坐す峠として『神の御坂』【神坂峠】と呼ばれるのだといいます。
『神坂峠』は、急峻で距離も長かったため、峠を越えられずに途中で死亡する者や、盗賊が出ては旅人を襲ったとの記録が、古典に書かれているといいます。
これは…。
五百キロを超える道のりというだけでは無く、まさに命がけの、途中で息絶えるかもしれない旅だったのではないですか!
(続き)
この伝教大師さまの尊像、建立から三十年が経過して、塗装面が劣化しかろうじて表面の塗膜が付いている状態となっており、黒い線状の汚れが多数付着して、お大師さまが涙を流しているかのように見えていたといいます。
お大師さまの一千二百年の大遠忌を迎えるにあたり、令和三(2021)年、この尊像の保守メンテナンスと、相輪橖(そうりんとう)の修復を実施したといいます。
この『相輪橖』。
『相輪橖』とは五重塔や多宝塔などの一番上にある最も重要な部分「相輪」だけを塔のように建てたものですが、こちらの相輪橖は伝教大師さまの発願によるもので、全国に六カ所、法華経納経の所在地に立てられたものといい、地域の人々の平穏無事や五穀豊穣を祈られました。
この相輪橖は弘仁八(817)年に建てられ、全国六ヶ所の宝塔の中で、伝教大師様がご存命のうちに完成したのは浄法寺と大慈寺(栃木県)の二カ寺だけであったといいます。
現在のこの浄法寺さんの相輪橖は青銅製で高さは5.3m。
寛文十二(1672)年に改造され(一説では再建)、文政十二(1829)年に補修されたものといいます。
改造とありますが、かなりの大掛かりなものであったのでしょう、それが無ければ藤岡市の指定重要文化財程度のものではないでしょうから。
ゆえに再建という表現をするものがあるのだと思われます。
表面には細かな文字で寄進者の名前が刻んであるのが、かろうじて見てとれます(これはあくまでも距離的なものです)。
今回蓮弁の破損や剥落があり、これを修理、あるいは新調し、高所作業車を用いて相輪橖頂頭に取り付けたといいます。
そして。
道路を隔てておりますが、八功徳池(はっくどくいけ)・弁天堂、独鈷水(とっこすい)などが残されています。
この八功徳池はかつての浄法寺さんの中庭の池であったといい、背景に広がる山並みを比叡山に見立て、琵琶湖を模して作られたものだといい、弁天堂は竹生島から勧請した弁財天さまが祀られているといいます。
この弁天堂の彫りがハッとするほど立体的でリアルで、鱗の一つ一つ、尖った爪の内側に至るまでリアルに彫られております。
名のある方が彫られたかどうかまではわかりませんが、とびきり腕の良い彫り師さんの手によるものであることは間違いありません。
独鈷水はお大師さまが独鈷という仏具で掘ったと伝えられる井戸であります。
今日は一日。
師走の朔日となり、次の朔日は元旦、新たな年を迎えております。
師走は『御礼参りの月』とされ、師走の神仏の縁日は特別視されるとも言われます。
と、いうわけでいつもの朔日参り、というよりもやはり今年一年お護りいただきましたお礼を申し上げますため、毎月の朔日に伺っております神社さんの他、今年の初詣に参拝させていただきました神社さんへもお参りしてまいりました。
本日この日まで無事に過ごせましたことを御礼申し上げ、
師走と言われる忙しい月にも事故無く怪我なく、心身共に健康で過ごせますよう御祈願申し上げました。
いつも伺う神社さんへの朔日参り。
それから【桐生天満宮】さん。
そして【貴舩神社】さんへと参拝してまいりました。
いずれの神社さんも一般の参拝者に対して、とりたてて月次祭としての行事を設けておられるわけではなく、ただただ信心深い方々がお詣りをされているだけ、ではありますが、桐生天満宮さんにしても貴舩神社さんにしても、県外ナンバーの車が何台も停まっておりました。
これが〝信仰心〟なのだろうなぁ。
ことに桐生天満宮さんは今まさに紅葉の美しい時期を迎えており、
よく晴れた青空の下、御神木の黄金色のイチョウの葉が散って、まるで境内にじゅうたんでも敷き詰めたかのようでありました。
うーん♡
神さまからのご褒美のようです。(? 一体なんのご褒美をいただけるというのだ?そんなご褒美をいただけるような行いは何一つしてはいないであろうに)
ご褒美では無いにしろ、良い日であります。
これはお恵みであることだけは確かです。
さあ、今日はどこのお掃除をしましょう?
頑張らなくては神さまに申し訳ありません。
(続き)
鑁阿寺さんの御本堂は、鎌倉時代、建久七(1197)年に【足利義兼】公が持仏堂として建立したものを、その後【足利義氏】公が方五間の大堂を建立したものであったといいます。
しかしながら大治四(1129)年に落雷により焼失、尊氏公の父・【足利貞氏】公により正安元(1299)年に再建されたものであります。
当時中国の最新の寺院建築様式の一つであった禅宗様をいち早く取り入れたもので、密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重な文化財であるとのことから、平成二十五(2013)年に国宝指定となっています。
このどっしりとした古い御本堂が、見上げるだけでなんとも心落ち着かせてくれるのです。
木で造られた坂を登って御本堂の前で鰐口を鳴らし、お賽銭箱の前で手を合わせます。
中は薄暗く、目を凝らしてもご本尊さまどころか中の様子もあまり見ることができません。
うーん…。
こちらのご本尊様は胎蔵内大日如来さま。
源氏、足利氏の守り本尊であります。
地元では【大日さま】と親しみをこめて呼ばれています。
後方壇に弘法、興教の二大師、
開基鑁阿上人(足利義兼)像、
明治維新まで堀の外に祀ってあった塔頭十二支院の御本尊を安置しているのだといいます。
うーん。
お護摩をお願い申し上げるか、御祈願をお願い申し上げるかしか御本堂へ入ることはかなわないようです。
うーん。
そうした仏事を長きにわたってする事なく生きてきてしまった人物には、なんともハードルが高いのであります。
…何を以って?
こうしたことにはなにかしらの理由を必要とするのでしょう?
何を?
煩悩だらけなおばさん、いざ何かをお願い申し上げようとすると、それは一体なにを?となってしまうのです。
こうしてみると、煩悩の数は膨大だけれど、大したものではないということがあらためてわかる気がいたします。
…とはいえ煩悩は捨てられない、まことに愚かなおば(か)さんであります。
(鑁阿寺さんのイチョウ)
本日は『冬至』で一年のうちで一
番昼間が短い日となります。
北半球では太陽が真南にくる『南中高度』が最も低くなる日だといいます。
冬の寒さも心身に堪える時期、さらに太陽が顔を出している時間が短くなるこの日、生命力も弱まると考えられていました。
そこからさまざまな風習が生まれます。
冬至といえば『柚子湯』が有名です。
柚子を浮かべたお風呂に入ると風邪をひかずに済むといい、実際、柚子は血行を促進させて身体を温め、風邪の予防となり、冷え性、神経痛などに効果かあるといいます。
豊富に含まれるビタミンCは、ひびやあかぎれなど肌荒れにも効果があります。
柚子湯が始まったのは江戸時代のことといわれています。
『冬至→湯治(とうじ)』
『柚子→融通(ゆうずう)』
に当てているという説があるといいます。
【融通】は【融通無碍』(ゆうずうむげ)】という仏教用語で、【華厳経(けごんきょう)】が由来と伝わります。
『融通』は、それぞれ別々のものが溶け合い、通じ合い、相まって完全となるという意味があり、物事がよく通じることや、滞りなく進むことなどに使われます。
冬至に柚子湯に入ることで『湯治(冬至)』と『融通(柚子)』で心身共に相まって無病息災となるよう願ったようです。
冬至には『かぼちゃ』を食べる風習もあります。
でも本来は夏が旬のかぼちゃ。
私などは大人になるまでかぼちゃは冬の野菜なのだと思っていたくらいです。
夏の太陽の恵みをたっぷり閉じ込めたかぼちゃを冬場に食べることでやはり『風邪をひかなくなる』と言い伝えられています。
このかぼちゃ、『なんきん』などと呼ばれるところもあるようです。
冬至に【ん】がつく食べ物を食べると『運』がつくともいわれているといいます。
この時間『蓮根』『にんじん』『銀杏』『金柑』…こうした『ん』のつく食べ物は結構あります。
この年の暮れに運気をUPしておくと、さらに良い年を迎えられそうな気がいたします。
冬至を過ぎればまた少しづつ日が伸びます。
こうした現象から、冬至は『太陽が再生する日』とも捉えられ
【一陽来復(いちようらいふく)】ともいうといいます。
古代の中国では冬至を一年のはじまり、『元旦』と定めていたこともあるそうです。
(続き)
ちなみに仏さまのほこりを掃うことを『御身拭い』というそうです。
さて。
このはねたき道了尊の今年最後の法要で、配られた一枚の紙がありました。何やら円グラフ、…に似た図があります。
『方位図』、と書いてあります。
算数すら危ういおばさん、円グラフというだけで何やら拒否反応が出そうですが、さらにはこの円グラフのような図には、もしかしたら中国語?というような漢字が書かれています。
ん?
一白?二黒?あれ?
これって…占い?
実は私、あまり占いを気にしない部類の人間で、まぁ、だからこそ未だかつて厄除けだのをしたことがないのでしょうし。
副住職さまの法話で、この用紙の解説がありました。
この用紙、実は裏にも印刷されており、この円グラフ様の方位図というものの書かれた面と、『九曜星早繰表』というもののある面と。
「これは…八卦、です」
…おおっ?!
まさか、こんなお若い副住職さまから〝八卦〟をお教えいただくとは思ってもいませんでした。
生まれ年を九つ…〝二黒〟〝一白〟〝九紫〟〝八白〟…〝三碧〟に振り分けて、その年の(この場合は当然来年の)運勢を占うもので。
…なるほどぉ。
九曜星早繰表にその割振りとなる生まれ年を割り振るものも書かれています。
私は…、と書いてしまうと年がバレてしまいます。
この九曜星早繰表によって得られた自分の九星をもって、来年の(あるいはその年の)運勢を占った結果を簡単に表にしたのがあの円グラフのような表。
この円グラフの真ん中に位置している〝三碧〟。
真ん中にあって全ての方角が塞がっている…ということで『八方塞がり』
…おおっ!
なるほどぉ。
八方塞がりとはここからきていたんだぁ。
その説明はあと少し続いていたのですが、この円グラフで理解できたのはそれだけ。
いろいろお話くださっていたのですが…。
八方塞がりだから『方位除』を受ける、ということもわかりました。
…ええ、ようやく。
私とて方位除とは何か、神職の方にお聞きしたりもしたんです。
でも話がちんぷんかんぷんで…。
あとは、来年運勢がいい(盛運)のは〝七赤(しちせき)〟ということと、副住職さまが七赤だということもわかりました。
それから。
それぞれの九曜星(?)になんとなんと!御真言があるということも。
(2024年の方位図)
お健やかに新春をお迎えのことと存じます。
ミクルさんの片隅の奇しいおばさんのスレをあたたかく見守ってくださり大変有り難うございました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
皆さまのご健康とご多幸をお祈り申し上げます
令和六年元旦
(続き)
それにしても。
こちらの授与所の大きいこと!
御守りの種類の多いこと、多いこと!
例えがあまり良くはないかもなのですが、市場のように広い通路の左右両サイドに、平台に並べて置かれた御守りがまさにずらり。
それも、どこでも求められるようにと同じ御守りをブロックに分けて、繰り返して並べてあるとかではなくて、平台の全てに異なった種類の御守りが置かれています。
うわあぁ。
少しだけ見てはみたものの、あまりの多さに頭が回らなくなってしまったおばさん、一体もお受けすることなくそちらをあとにしました。
まぁ、もともとほとんど回ってはいないのですけれど 笑。
さあ、境内にある通り過ぎてきたお堂をお詣りさせていただきましょう。
鐘楼の横、高台から石造りの大きな不動明王さまが境内を見下ろしておられます。
鐘楼の横に御堂が三つほどあるようです。
すぐお隣の御堂は…?
…中に入れるようです。
これにはびっくりいたしました。
御堂ってそのほとんどがその戸が閉ざされたままで、覗いてみてもどなたがお祀りされておられるか分からないくらいですのに、その戸が開けられているのみならず、中に入っても差し支えないというのです。
もちろん上がらせていただきます。
ん?
御仏さまの御像ではありません。
坐像の、人の姿をなされた御像です。
えっこのお方は?…『開山堂』とあります、照温さまでありました。
まるで…まるで御賓頭盧さまのように周りを一周できるようです。
そして、な、なんと!
絵馬まで奉納されているではないですか!
その絵馬の絵は、先ほど薬師神社さんで拝見したばかりの『むかいめ』の図柄であります。
?
…ああ、こちらの開山さまはかつて両眼を失明されておられたものが、成田山新勝寺さんで厳しい修行をなされたところ、両の目に再び光が戻ったのでしたね。
たしかにあやかりたいものです。
…しかしながら。
厳しい修行あってのこと、です。
苦しい修行まであやかってしまうとそれはそれで大変ですが。
貼らせていただいた画像は、こちらでお授けいただいた御朱印です。
目のところがくり抜かれていてまるでお面のようになっています。
さすがにこれをお授けいただいてお面のようにして目のところから覗いてみる方はおられな…いんじゃないかな。どうかな?
私はしませんでした。…本当です。
(続き)
あれほどまでに大騒ぎをしてようやく手に入れたあの赤い経本。
帰っていそいそと経本を開いて。
…。
唖然。
…呆然。
そして…未熟者の私はやはり少しだけ立腹いたしました。
この経本の一番はじめに『九條錫杖(経)』というお経が記載されており、それがあったから、
「ぜひこの経本が欲しい」と買い求めたわけでありまして。
真言宗のお護摩のときや大般若祈願のときに、よく読まれるお経なのですが、清めの効果があるといい、…煩悩の塊の私はどうしても穢れ多き身、少しでも清められるならばと、常々お唱えしたいと思っておりましたものなのです。
これが。
これが、ですね。
驚いてください。
突然唐突に 【後略】 と書かれているのですよ。
お経の〝後略〟など、ど素人の私には理解できない。
素人がお唱えしてはいけないとか、何か大きな決まりごとでもあるというのでありましょうか。
一体どんな理由で〝後略〟と、お経が断ち切られているというのでしょう。
正直申しましてもやもやが止まらないのです。
…問い合わせる?
それは川越別院さん?
それとも真言宗智山派さん?
ネットで調べれば続きはわかります。
でも略された意味までは分からない。
略したところまで読めば良いのか。
最後まで読まないと清めの意味がなかったりはしないのか否か。
とはいえ、いくらエックスキューズミーおばさんでも、そんなことをうまく質問できるかどうか。
口下手な上、日本語もおぼつかないおばさんですから。
うーん。
【喜多院さんの続き】
慈恵大師良源さま、別名元三大師さま。
私は度々ここにも書いておりますが、大人になるまで神仏にほとんど関わることない人生を送ってきてしまった者でありますので、〝慈恵大師さまについての印象〟などといかにもよく存じ上げているような口をきいてはおりますが、深く学んでなものでもないのに軽口をたたく愚かな者の戯言とお思いください。
子どもの頃から時々、お邪魔したお宅に貼られている、ムーミンの世界に出てきてもおかしくないような、ハリーポッターの世界でも活躍していそうなキャラクターの姿を、黒一色で描いた札を見かけていました。
それが『降魔札(ごうまふだ)』と呼ばれるものであること。
しかもその絵の姿は、天台宗の高僧が平安の昔、すぐれた霊力をもって鬼の姿となり疫病神を退散したときの姿を写し取ったものであり、『角大師(つのだいし)』と呼ばれること。
その天台宗の高僧の名は【良源】さま(919〜985)といい、荒廃していた比叡山諸堂の復興など数多くの功績を上げられたことから比叡山中興の祖として崇められておりますお方だということ。
良源さまが今も全国のお寺や神社で引かれている、おみくじの創始者であるということ。
良源は生前の名で、元月(がんげつ)三日に入滅されたことから、元三大師の通称で広く親しまれておられること。
…等々。全て、この珍道中をすすめていて知ったことであります。
良源さまを存じ上げなくとも、天台宗と縁がなくとも、おみくじを引いたことのある人は大勢おられますことでしょうし、降魔札を目にしたこともありましょう。
私などはまさにそちらの代表者のような、…いやむしろおみくじをすら引くことのなかったほど、
まさに宗教から離れたところに生きる人間でありました。
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