聖石の碑
君と出逢って
灰色で無機質だった世界に
光と彩が戻った
君は
僕の
生きる喜び
輝く道標
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序章・暗黒の使者
青年は凍てつく大地の上、目の前の黒い塊を見つめていた。
塊は、闇色の水晶柱で出来ており、人の背丈ほどの高さがある。
滑らかな表面には、何やら細かに文字が刻まれていた。
辺りに、冷たい風が吹き荒ぶ。
ゴツゴツとして、凍った岩場のそこかしこから、紅の光が覗いていた。
魔物達の瞳だ。
何かを待望んでいるように、こちらを伺っている。
青年は手を伸ばして、柱に触れようとした。
瞬間――
水晶柱の根元が、ボコリと盛り上がり裂けた。
オオオオオオオオ―――
地の底から、呻きにも似た咆哮が湧き上がる。
同時に、大地の裂け目から黒い霧が噴き出し、灰色の天空高く這い登った。
オオオオオオオオ―――
辺りの魔物達が、一斉に飛び出して来た。
青年を無視して、魔物達は黒い霧に飛び付き、纏わりつき、混然として更に大きな黒い塊となった。
それは、巨大な黒い人型を形創った。
オオオオオオオオ―――
髪を振り乱した巨大な人型から、禍々しい咆哮が発せられる。
あらんかぎりの怒りと呪いをこめて――
青年は後ずさる。
目の前の人型は、北の暗黒――
滅びの使者にほかならない。
第一章・旅立ち
「!!」
青年は飛び起きた。
ベッドの上に半身を起こし、肩で息をつきながら、辺りを見回す。
見慣れた自分の寝室に、青年は安堵の息を吐いた。
窓の外から、小鳥達の囀りが聞こえてくる。
カーテンの隙間からは、昇ったばかりの陽の光が差し込んでいた。
青年は額の寝汗を拭いながら、寝床を出る。
カタン――
床に黒い小さな塊が落ちた。
10cmほどの、黒い水晶柱。
青年の家に代々伝わる、『黒聖石』である。
かつて、世界を滅亡に追い込もうとした暗黒を、北の大地に封じた聖石の一部と伝えられている。
青年の家系の男児、主に長子が『黒聖石』を守り、北の暗黒を監視する役割を担っているのだ。
今は、青年が『黒聖石』を受け継いでいる。
だが、青年は長子ではない。
前代の黒聖石の守り人であった長兄が亡くなり、次兄の行方も瑶と知れなかった為に、その役割が回ってきたに過ぎなかった。
守り人としての在り様を、何も解らぬままその役割を担った為に、青年は苦悩を強いられていた。
今朝の悪夢にしてもそうだ。
青年ラムダスは、ため息をつきながら黒聖石を拾いあげる。
黒聖石を受け継いだ時から見始めた奇妙な夢は、日毎に鮮明さを増し、禍々しくなり、ラムダスを責め苛む。
夢はおそらく、北の暗黒に関したものだ。
守り人であった兄ならば、夢を解き、その意味を知る事も可能であったろうが…。
ラムダスは、寝室のカーテンを開け広げる。
自分の心中と裏腹に、空は雲ひとつない晴天だった。
正に、聖なる儀式を行なうには、うってつけの日――
今日、大地の守護者、『金聖石の聖騎士』が誕生する。
東の大国リンヴァーンは、国中が朝から浮かれていた。
聖騎士承認の儀式の為、聖都内は華々しく飾り立てられ、多くの人々でごった返している。
儀式のある大地神殿には、リンヴァーンの貴族と近隣の国々から訪れた祝賀の使者しか入れないが、一目でも年若の聖騎士を見ようと、神殿周囲を民人が取り囲んでいた。
ラムダスは、自分の生家サラシア伯爵家の紋章が刺繍された、黒地の礼服に身を包み、貴族席にいた。
外の喧騒が嘘の様に、神殿内は静まり返っている。
大地神を奉った祭壇の両脇に元老達が控え、中央に金聖石を手にしたリンヴァーン王がいた。
王の前には、金髪の初々しい少年が片膝をつき跪いている。
リトルア公爵家嫡男にして、金聖石の聖騎士、アーサーである。
現在齢十六歳。
アーサーが産まれた瞬間、長年、大地神殿で沈黙を守っていた金聖石が輝きを取り戻し、人々は待望んでいた聖騎士が誕生した事を知ったのだ。
それから十六年間、細心に丁寧に少年は教育され、今日に至る。
利発で溌剌とした少年は、誰からも慕われ愛されていた。
較べても詮無き事と思いつつ、どうしても自分の立場と較べてしまう。
金聖石の聖騎士と、黒聖石の守り人は対極にして同等とされている。
だが、産まれながらにして人々に愛され、地位も名誉も信頼も、全て兼ね備えた少年と、母の素性も知れず、ただ間繋ぎで黒聖石の守り人に選ばれた自分とでは、あまりに違い過ぎた。
ラムダスは、兄達とは母親が違う。
父ラディナスが、ある日突然に、乳飲み子のラムダスを伯爵家に連れ帰ったのだと言う。
父も年の離れた兄達も色々と忙しく、随分と寂しい幼年期を過ごした。
その父と長兄が急逝し、次兄も行方不明の為、ラムダスは父の姉マリエルの嫁ぎ先であるリトルア公爵家に引き取られた。
まだヨチヨチ歩きだったアーサーと、それからは兄弟同様に過ごしたのだが…。
「おお…」
人々のどよめきで、ラムダスは我に返る。
中央には、光を帯び薔薇の花の形に広がった金聖石を掲げたアーサーの姿があった。
(…まただ。)
ラムダスは、息をつく。
このところ、ふと気が付くとアーサーに対して、暗く妬ましい気持ちを抱いている。
以前には、無かった事だ。
兄として慕ってくれるアーサーに、何故こんな疎ましい気持ちになってしまうのか…。
ラムダスは、自分の胸元の黒聖石に触れる。
最近鮮明さを増してきた悪夢と、この鬱屈とした気持ちは、どこかで繋がっている気がしてならない。
このままでは、北の暗黒を監視するどころか反対に飲み込まれ、やがてリンヴァーンに、ひいてはアーサーに仇なす存在になってしまうのではないか…と、ラムダスは危惧していた。
神殿内の人々に祝福されるアーサーを見つめながら、ラムダスはある決意を固める。
それが、自分にできる最善の策だと考えていた。
儀式終了後、聖騎士は、王城まで馬車で移動する事になっていた。
市街の大通りを、リンヴァーン精鋭の、聖石の戦士達を率いて、パレードするのだ。
その後王城では、祝賀の舞踏会が催される予定だ。
ラムダスも、アーサーと共に馬車に乗り込むよう言われていたが…。
「ラムダス、館まで送ってちょうだい。少し疲れたわ。」
伯母のマリエルが、神殿を出ようとするラムダスに声をかけてきた。
「母上、ラムダスはアーサーとパレードに参加しなければ。」
一緒にいたリトルア公爵が、たしなめるように己の母親を止めようとするが、マリエルは扇で口許を隠しながら言い募る。
「まぁ、なんて薄情な公爵!貴方は、この母を一人で館に帰らせるつもりかしら?」
公爵がため息をつく。
苦虫を噛んだ様な表情で、公爵が何やら口を開こうとするのを、ラムダスは止めた。
「御送りしますよ、伯母上。」
「しかし…」
「本日の主役はアーサーです。私がパレードに参加しなくても、人々は文句を言ったりはしないでしょう。」
ラムダスは、公爵に微笑んで見せる。
「ほら、ラムダスもこう言ってるし。貴方、うるさ方の元老達にはうまく言ってちょうだいな、公爵。」
マリエルは、息子に笑って見せた後、ラムダスに手を差し延べた。
パレードの馬車が出発し、神殿を取り巻いていた人々が立ち去るのを待って、ラムダスはマリエルと公爵家別邸に向かった。
夫が亡くなり息子が爵位を継ぐと、マリエルは本邸を出て、隠居生活を始めた。
それを期に、公爵家に居候していたラムダスも、サラシア伯爵邸に戻り自立した。
…と、言っても所詮、公爵家から派遣された召使達に支えられた生活ではあったが。
「ラムダス…貴方、ちゃんと食べているの?いつまで経ってもヤセッポッチね。」
馬車に揺られながら、マリエルが尋ねてきた。
伯母マリエルは、もう二十二歳にもなる甥を、今だに何くれと気にかけてくれる。
「…それに、眠れているの、貴方?顔色が冴えないわ。何か思い悩んでいるのではなくて?」
一瞬、連日の悪夢を思い出し暗い気持ちになるが、ラムダスは表面には出さずに、笑顔を浮かべた。
「伯母上の杞憂ですよ。私は…」
大丈夫…と、続けようとするが、マリエルに扇で口許を押さえられた。
「ラムダス…この伯母の前では、無理に笑わなくていいのよ?」
「……」
ラムダスは沈黙する。
「笑いたくない時は、笑わなくていいの…。」
伯母の瞳は…何処か哀しげだった。
馬車の中に、しばし沈黙が満ちた。
公爵家別邸近くになって、気を取り直したように、マリエルが再び口を開く。
「ラムダス、貴方これからお城に行くの?」
「そのつもりです。公爵に祝賀の会には間に合うよう、仰せつかりました。」
「まぁ、あの子ったら…どうしても、貴方に見合いをさせる気ね。」
ラムダスは、マリエルを見やる。
「貴方に幾つか縁談がきてるのよ。この際だから、貴方と令嬢達を顔合わせさせる気だわ。」
「しかし、私はまだそんな気はありません。」
マリエルが頭を振る。
「貴方の気持ちは、二の次なのよ…元老達のごり押しですもの。」
(ああ…そう言う事か…)
ラムダスは伯母の言葉を聞いて、合点がいった。
要は、サラシア家に血筋正しい跡継ぎを得る為の…婚姻なのだ。
そこには、ラムダスの意思も存在も、必要とはされていない。
「貴方…好きな子はいないの、ラムダス?浮いた噂のひとつも聞かないけれど?」
伯母の話は、とりとめがない、いつものことではあるが…。
「…いません。」
色恋に時間を割く余裕はなかった。
黒聖石の守り人として、恥じない行動を取る事に精一杯で。
「そうなの?では、まさか男色家?だから、聖石の戦士達の兵舎に入り浸っているの?」
これには、さすがにラムダスも呆れてしまった。
一体、誰に何を吹き込まれたのか…心配になる。
「伯母上…彼等はアーサーと共に、リンヴァーンを守る者達ですよ。私が彼等の元を訪れるのは、微力でも力になれればと思っての事で…」
「気を悪くしないでね。ラディナスが貴方の年頃には、婚約者をさしおいて、鼻の下を伸ばして、女の子を追いかけていたものだから…親子でも違うものねぇ。」
扇を広げて、あおぎながら、マリエルが言い訳する。
「それにしても…戦士達の元を訪れる割には、貴方、剣の方はからきしでしょう?心配だわ。」
何に対しての心配をしているのか、ラムダスにはもはや、伯母に聞く気力は無かった。
「お茶でも飲んで、休んでおいきなさい、ラムダス。」
別邸に辿り着き、戻ろうとするラムダスを、マリエルが引き止める。
「伯母上、けれど…」
「お見合いしたければ、別だけれど?そうでないなら…そうね、ラディナスが下々の言葉でよく言っていたわね。面倒な事など『バックレ』ておしまいなさいな。」
コロコロと、マリエルが笑った。
結局マリエルの強引さに負け、馬車を降り、別邸で休憩をとる事になった。
マリエルが着替えに行っている間、ラムダスは一人、客間に通される。
客間には、先客がいた。
目の周りを白布で巻いた中年の女性で、ラムダスは彼女を見知っている。
「…オルガ様?」
ラムダスは眉をひそめる。
リンヴァーン屈指の占者オルガが、何故、伯母の館にいるのか見当もつかない。
オルガは、幼い頃の不幸な出来事が原因で、視力をほとんど無くしていた。
視力と引き換えに、『予見』する能力を手に入れたのだと言う。
「お久しゅうございます、ラムダス様。」
オルガが立ち上がり、ラムダスに軽く頭を下げる。
「オルガ様、何故貴女がここに?今日は大事な儀式の日、城にいなくて良いのですか?」
「我は日陰の身。華やかな式典には、無用の者なれば…」
オルガの言葉は、淡々としている。
別に自分を卑下してるでも、嘆いているわけでもない口調だ。
事ある時には、時間構わず呼び出されるが、さりとて用が済めば感謝もなく、追いやられる。
元老達は占者を『卑しき身』と、吐き捨てた。
特に親しいわけではないが、己の身と重ねて見てしまう時もあり、ラムダスはオルガに同情している。
最もオルガからすれば、同情など要らぬ世話かもしれないが…。
「お茶をお持ち致しました。お二人とも席におかけください。」
侍女が客間に入ってきて促す。
ラムダスは居心地の悪さを隠して、オルガと向き合い席についた。
しばらくの沈黙の後、オルガが口を開く。
「……行動されるなら、日の出から日の入りまでに為されませ。夜の闇は、暗黒に通じておりまする。」
「?」
ラムダスは、カップを持つ手を止める。
オルガは尚も続ける。
「身を休ませるなら、神殿に。それが叶わぬなら、その地の清き場所に。さすれば…」
「お待ちください、オルガ様?一体何を…」
怪訝そうにラムダスが、問うた時だった。
「お待たせ、ラムダス。オルガと話は弾んだかしら?」
侍従を二人従えて、マリエルが客間に入ってくる。
侍従達はそれぞれに荷物を持っていたが、マリエルに示され、空いている長椅子に荷物を降ろした。
「マリエル様には、そうお見えで…?」
オルガの声音に、初めて感情がこもる。
どこか面白がっているようだ。
「さぁラムダス、着替えて出発の準備をなさいな。路銀もこの伯母がたっぷり用意してよ。でも、倹約を忘れないでね?」
「待って下さい、伯母上?…オルガ様も。一体、何の話です?」
ラムダスは、眉をひそめて立ち上がる。
二人の話が見えない。
「あら、だって北に旅立つのでしょう、貴方?」
「……何故、それを?」
ラムダスは言葉を無くす。
確かに…前々から、考えていた。
北に向かい、実際に暗黒の封印を確かめたい…と。
だが、はっきりと決意を固めたのは、まだほんの一時間ほど前の事なのだ。
当然、誰にも話していない。
「…北の暗黒の悪夢は、日々御身を責め苛みましょう?」
オルガが、静かにラムダスに語りかける。
(ああ…そうか…オルガが…)
予見したのだろう、ラムダスの決意を。
「一月も前から、こっそり準備してたのよ。どうせ貴方の事だから、『伯母様に迷惑はかけられない』って、自分一人で何でもやってしまうでしょう?」
「そんなに前から…」
してやったり…と、マリエルが胸を張った。
マリエルに急かされ、旅装束に着替える。
考えてみれば、こんなに慌ただしく出発する事もないのだが…。
「旅立ちには、今日は良き日でありますよ。元老達の目も届きますまい。」
見透かしたように、オルガが口を開く。
確かに、元老達はラムダスが北に向かうと知れば、反対するだろう。
ラムダスの身を案じて…ではなく、黒聖石の事を案じて。
「今、出立すれば日暮れ前にはダラサの大地神殿に宿が取れましょう。…リンヴァーンは大地神の守護の最も厚き地。この地を出れば、北の暗黒の悪夢の追随は比にもなりません。油断為されぬよう…」
オルガの言葉に、ラムダスは頷く。
「生水は飲んではいけないのですって。荷物の中に、『旅の心得』を入れさせたから、読んでね。…つらくなったら、途中で帰ったきていいのよ。」
マリエルの言葉に、ラムダスは苦笑を漏らす。
「黒聖石の守り人としての…お役目です、伯母上。北の暗黒の封印の状況を確かめたら、すぐに戻ります。」
「そうそう…忘れるところだったわ。」
マリエルが、一通の手紙をラムダスに差し出す。
「これは…?」
「ラグシルからの手紙よ。」
「ラグシル兄上の?」
長年、行方の知れなかった次兄ラグシルからの手紙を、ラムダスは受け取る。
「ウラルの街の近くに、住んでいるのですって。『聖泉守りの里』にいるらしいから、北に行く途中で寄ってみたら?もちろん、貴方の気が向いたらだけど…」
「聖泉守り…」
噂に聞いた事がある。
聖泉の女神に仕える一族で、めったに人々の前には現れない…と、伝えられていた。
ラグシルが、聖泉守りと関わりがあるとは、初耳だった。
「行ってみます。逢えるといいですが…」
懐かしく、物哀しい想いが去来する。
ラグシルと最後に逢ったのは、もう十四年も前だ。
物心がついた時には、ラグシルは医師の勉強の為に、他国にいた。
父ラディナスは時々しか帰宅しないし、たまに帰っても大抵女性を連れていたから、構って貰った記憶はない。
当時、黒聖石の守り人だった長兄ランティルは、あからさまに異母弟ラムダスに冷たかった。
ランティルが嫌うから、使用人達もラムダスには、必要最小限しか構ってくれない。
ラムダスの幼い頃のサラシア邸は、暗く寂しい印象しかない。
だが、八歳の頃ラグシルが帰国して、空気が一変した。
ランティルと瓜二つなのに、ラグシルの性格は正反対だった。
ラムダスにも何かと構ってくれ、あの時期のサラシア邸には温かい空気が流れていた。
ランティルの表情も、幾分和やかだったのを覚えている。
けれど、その温かさもすぐに失われた。
ラグシルは突然に姿を消し、ランティルとラディナスも相次いで亡くなった。
ラムダスの知らぬところで、物事は進み、決定され、ラムダスはマリエルの手に委ねられ…今日に至る。
未だに、ラムダスはあの時期に何が起こったのか知らぬまま、蚊帳の外だ。
伯母マリエルは、事情を知っているらしいが…今更、知っても詮無き事だ。
「本当に…気をつけてね。」
「ご無事で戻られる事を願っております。」
マリエルとオルガは、別邸の門前まで送ってくれた。
「伯母上…」
ラムダスはマリエルに、アーサーへの伝言を頼もうとして、やめる。
「なに?」
「いえ…」
ラムダスは用意された旅馬に跨がった。
アーサーは、きっとラムダスを責めるだろう。
一言も相談せずに、北に旅立つ事を。
それとも、嘆くだろうか…?
ラムダスにとって、自分はその程度の存在だったのか…と。
だが、今のままのラムダスでは、アーサーの傍にいても対等の立場とは言えないのだ。
『金聖石の聖騎士』の対極の存在である、真の『黒聖石の守り人』とは…。
たかが悪夢ひとつに翻弄される自分を、アーサーの役目を支える存在だと言いきる自信が、今のラムダスにはない。
…今回の旅が、少しでも自分の自信につながればいいと、ラムダスは思っていた。
「では…行ってきます。」
伯母達に一礼して、ラムダスは馬を進める。
随分と寂しい旅立ちであった。
☕ちょっとお茶タイム🍰
第一章終了です。
この物語りは、雑談板の本・読書・文学に書いてる『聖泉の守人』の番外編になります。
だいぶ前に書いた原稿を、訂正しながらの更新なので、ゆっくりペースですが、よろしくお付き合い下さいませ😊。
第二章・運命
ミティアは、西の泉で水浴びをしていた。
聖泉守りの里から、だいぶ離れた泉だ。
一族の者も、ほとんど来ない。
若々しい木々に囲まれた美しい泉を、ミティアは気に入っている。
ウラルの街の祖父を尋ねた後、父に頼まれていた薬草を摘み、外でついた埃を落とす為に、いつものように泉の水で身を清めていた。
ウラルの街は、聖都の『聖騎士』の話題でもちきりだった。
一月ほど前にリンヴァーンで聖騎士に承認されたのは、まだ十六歳の年若い少年だと言う。
(十六歳…か…)
ミティアは、今年十三歳になった。
十六歳になったら、一族が選んだ外部の者と、肌を合わせる事になるだろう。
聖泉守りの一族は、近親婚が続いた為に男児の出生が少なく、短命だ。
血を守る為に、数年毎に十六歳を過ぎた娘達は、外部の男性と契る。
もちろん、無理強いされるわけではないが、幼い頃から『一族の為』と教えられているので、それを拒む娘はほとんどいなかった。
だが…ミティアは、違った。
(できたら、誰とも結ばれたくないな…それよりは、戦士として皆を守りたい。)
そう思うのには、理由がある。
妹リディアへの劣等感からだ。
素直で優しく、可愛いらしい妹リディアは、ミティアより一歳年下だ。
妬みや怒りなどの負の感情を知らず、性格も良い。皆に好かれている。
姿も聖泉守りの多くがそうであるように、薄蒼の髪と瞳をしていた。
同じ姉妹なのに、ミティアは祖父譲りの栗色の髪と瞳をしている。
今のところ、聖泉守りの里の子どもで、外部の血が色濃く顕れているのは、ミティア一人だ。
他にも、外の血を引く子どもはいるが、ミティアだけが…違う。
おまけにミティアは、自分の聖泉守りとしての能力が、誰よりも劣っていると、思い込んでいた。
リディアはもちろんの事、他の皆とも比べられている感じがして、なんとなく拗ねてしまう。
父も母も、里の大人達の誰もが、分け隔てなく接してくれるのに。
そして、そんな風にいじける自分が、ミティアは何より嫌だった。
だから、色々迷った末決めたのだ。
一族としての能力で劣るなら、努力すれば実を結ぶ何かを目指せばいい。
だったら、皆を守れる戦士になりたい…と。
父のような医師でもいい。
とにかく、一族にとって必要とされる存在になりたかった。
ポキッー―
近くで、小枝を踏む音がした。
獣だろうか…と、ミティアは振り返る。
泉の周辺には、聖泉守りの結界が張られていて、一族以外の人間は近付けないのだ。
そう…普通の人間は。
振り返ったミティアの視線の先には、黒髪の青年がいた。
驚いたような表情をした青年と、目と目が合った瞬間、
ミティアの――
時が止まった――。
それは時間にすれば、ほんの2~3秒のことだ。
だが、ミティアも青年も見つめ合ったまま、動けなかった。
強い風が吹き、泉の周辺の木々の枝を揺らす。
数枚の葉が泉に落ち、水面に波紋が生じた。
ミティアは我に返り、慌てて水辺に置いていた服を掴み、泉に身を沈める。
「あっ、君……」
青年がミティアに声をかけて来たが、構わず聖泉守りの里に通じる『水路』に飛び込んだ。
「あっ、君……」
ラムダスは、少女が消えた泉に駆け寄る。
水面を覗いても、既に少女の姿は無かった。
(彼女は……多分聖泉守りの…)
水辺に残された薬草の入った籠を、ラムダスは手に取る。
胸の鼓動が早い。
兄ラグシルの手紙に書いてあった、聖泉守りの里への入口となる泉を探す内に、ここに辿り着いた。
そして…少女と出逢った。
水浴びをしている少女の姿を見た瞬間、ラムダスの全身が震えた。
まだ幼さを残した少女は、ラムダスには眩しかった。
若木のようにしなやかな肢体は、驚くほど白い肌をしており、目を反らす事ができなかったのだ。
少女はラムダスを見て、ひどく驚いた顔をしていた。
当然だ。
身を清めている時に、見知らぬ男が突然現れたのだから。
身の危険を感じたろうし、もう警戒してこの泉には現れないだろう。
聖泉守りは人嫌いだと言うから、尚更だ。
兄には…逢えないなら、それはそれで仕方ないと思っている。
ただ、もし逢えるなら話をしたかった。
黒聖石と北の暗黒について。
ラムダスは、ひとつため息をつく。
聖都を出て一月。
旅路は思った以上に、ラムダスには苦労の連続だった。
慣れない旅生活に加え、毎夜の悪夢。
聖都を出てからの、北の暗黒の悪夢は、ラムダスを苛烈に攻め立てた。
聖都での夢とは比較にならないくらいの臨場感に、夢か現か判断がつかなくなる。
更に、疲労の蓄積と不眠のせいで、ラムダスは心身共に疲れ切っている。
旅など辞めて、聖都に戻ろう…と、何度思った事か。
何故、自分だけが苦しまなければならないのか…?
疲れたラムダスの心を、そんな考えが何度もよぎる。
だが、今更戻ったところで、冷笑を買うだけである事もわかっていた。
旅の途中で帰るとは、意気地のない奴よ…と、影で後ろ指をさされるだろう。
黒聖石の守り人の重荷など、知りもしない連中に。
それが嫌で、ラムダスは旅を続けている。
いわば…惰性だ。
そして、我に返る。
自分がひどく浅ましく、情けない考えを持っている事に気付く。
聖都を出る時、あれほど『アーサーの為』、『人々の為』と、決意したのに、この有様だ。
誰かに…話を聞いて欲しかった。
黒聖石の守り人の苦悩をわかってくれる、誰かに。
その思いは日に日に強くなり、ラムダスはふとマリエルに渡された手紙を思い出した。
次兄ラグシルならば…ラムダスの悩みに答え、何か助言をくれるかもしれない。
正統なサラシア家直系の血を引く兄ならば…。
だから、兄が身を寄せる聖泉守りの里を探して、ここまで来たのだが…。
ラムダスは薬草籠を持ったまま、少女が消えた泉を見つめる。
何故か久し振りに、スッキリとした気分だった。
(今日は、この泉の傍で休もう…)
オルガは、なるだけ神殿に泊まるよう助言してくれたが、これまでの経験から、野宿しても神殿に宿を乞うても、悪夢を見る事に変わりがない事は判っている。
今宵、この泉の傍で過ごしたところで支障なかろう。
何より…今は、この泉を去りがたい気持ちがした。
待ったところで、あの少女が再び現れる事はないだろうが…。
だが、もしかしたら万が一と言う事もある。
もし、少女が現れたらまずは無礼を詫び、…そして名を聞こうと考える。
いや…それより、自分の名を名乗らねば…。
先刻から、少女の事ばかり考えている自分に気付き、ラムダスは苦笑を浮かべた。
ミティアは、上の空だった。
あの青年と出逢った後、聖泉守り専用の空間移動路『水路』に飛び込んだまでは良かったが、そこからどうやって自分の家に戻ったか、よく覚えていない。
ミティアは自分の寝台の上で、寝返りを打つ。
頭に思い浮かぶのは、あの黒髪の青年の事ばかりだ。
青年が声をかけてきたのに、何故自分は逃げ出したのか…と、後悔している。
(あの人…私達一族に何か用があったんじゃないかな?)
迷ったにしても、普通の人間は、結界の張られた泉においそれとは近付けない。
たとえ魔法使いや呪術者など能力がある者でも、一族の許しを得なければ結界の中には入れない。
『許し』とは『契り』だ。
聖泉守りの一族と契った者。
そこまで考えて、ミティアの胸がキリキリと痛む。
(だとしたら…あの人も?)
一族の誰かと契った者……。
ミティアは、身を起こす。
(そんなの…嫌だ。)
聖泉守りの一族は、数年に一度、若い娘達の為に外部から若者を連れ帰る。
なるべく、善良な者を。
見目麗しく、能力ある者ならば尚良いとされる。
彼等は、一族の娘達の一人を、或いは数人を選び、契る。
その為、一族内には、父親違い・母親違いの兄弟姉妹も少なくない。
大抵の男達は、用が済むと外に戻るが、中には娘の一人と婚姻し、里に残る者もいる。
ミティアの父親のように。
ミティアの父親ラグシルは、医師だ。
一族の者からは、頼りにされ重宝がられている。
青年が、一族の娘と契ったかどうか、真偽のほどは別にして…。
本来なら、ミティアは泉の傍で見知らぬ男に逢った事を、里の大人達に報告せねばならない。
そうすれば、誰かが西の泉に向かい、人と誠(なり)を見定めた上で、あの青年を聖泉守りの里に案内するだろう。
あの青年が、まだ居ればの話だが。
そして…十六歳以上の娘達と娶せられる。
その儀式にミティアは、参加できない。
まだ年が足りないから。
あの青年が、自分以外の娘を選ぶなんて…
見たくない。
そんな事を考えこんでいると、部屋の扉を叩く音がした。
「ミティア…具合でも悪いの?」
栗色の髪の女性が、扉を開け、顔を覗かせる。
ミティアの母エミリアだ。
エミリアもまた、父親が外部の者であり、その容姿は父親譲りだ。
「ううん、何でもない。」
ミティアは、慌てて寝台から身を起こす。
「そう…?だったら、良いけど…父さまに頼まれた薬草は?」
「あ…」
エミリアに問われて漸く、ミティアは薬草籠を、泉に置き忘れた事に気付いた。
「いっけない、外に忘れちゃった!取りに行かなくちゃ!!」
「待って、もう日が暮れるわ。明日になさい。」
今にも飛び出して行きそうなミティアを、エミリアが止める。
ミティアが窓の外を見やると、空は朱色に染まりつつあった。
厳密に言うと、『空』ではないが…。
聖泉守りの里は、水底にある。
ドーム状の透明な天井が、天空代わりの亜空間なのだ。
水中には幾つもの魔石が漂っていて、それらが外の陽の光を反射させ、里に黎明から黄昏までを造り出す。
「夜に里の外に出るのは危ないわ。父さまには、母さまも一緒に謝ってあげるから、取りに行くのは明日になさいな。」
「うん…」
ミティアは、内心がっかりする。
あの青年に、もう一度逢えるかもしれない…と、一瞬、期待したのだ。
だが、母を心配させるわけにはいかない。
「さっ…ミティア、夕飯のお手伝いをお願い。」
エミリアが、優しくミティアの肩に手を置いた。
夕飯の準備も、その夜の食事も、ミティアは上の空で散々だった。
シチューの味付けも失敗したが、父母も妹も苦笑いしただけだった。
大体が、ミティアは家事が苦手な方なので、不審には思われなかったのかもしれない。
…結局青年の事を、ミティアは父にも母にも話さなかった。
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