上海リリ
戦前の中国の上海を舞台にした物語です。
蠱惑的な雰囲気から「魔都」と呼ばれた時代の上海を生きた、
一人の少女の姿を描きます。
人名など一部分かりづらい箇所もありますが、
ご容赦下さい。
新しいレスの受付は終了しました
- 投稿制限
- スレ作成ユーザーのみ投稿可
「あーあ、死ぬかと思った。」
私は出口に向かう人の波を抜け出して、
大きく体を伸ばした。
息を思い切り吸い込んだ瞬間、
吐く様に咳き込んだ。
「煙い。」
上海の空気が塵と埃でいっぱいだという噂は本当だったらしい。
あれは人の住むとこじゃない、と主家の奥様も訳知り顔で話した物だった。
「行ったこともないくせしてさ。」
一人ごちて私が歩き出す頃には、
ホームはもう人影も疎らになっていた。
蘇州と比べて、ここでは人が倍近くの速さで歩くらしい。
「ぼやぼやしてる暇はないわね」
私はお針道具の包みを持ち直すと、背筋を伸ばして早足で歩き出す。
もう日が傾きかけている。
夕方までには住み込みで働く店を見付けないと…。
思案しつつ駅を出たところで、思わず足が止まった。
突然、汽笛に似た、しかしそれよりも鋭い音が耳を衝き、
私は音の鳴る方を見やるな否や飛び退いた。
黒い大きな箱が砂塵を吹き起こして
鼻先すれすれに通り過ぎる。
私が肩先の埃を払う間に、
人の背丈ほどあった黒箱は、もう針先の一点位にしか見えなかった。
あれが噂に聞いた洋人の車だ。
ぶつけられたら、ひとたまりもないだろう。
上海に出さえすれば、後は飛び込みで何とか住み込みの仕事が見つかる。
当初の思い込みがいかに甘かったかすぐに思い知らされた。
お針道具を抱えてどこかの仕立屋に入っても、
まず相手は私の垢じみた綿入れ姿を目にした瞬間、物乞いを眺める様な目付きになる。
「蘇州の周挙人のお宅で働いていた者です。お針は得意ですのでここで働かせていただけませんか。」
と勇気を振り絞ってこちらが切り出して、
「紹介状がなきゃ受け付けないよ」とはねつけるのはまだマシな部類だ。
こちらが必死になって今まで刺繍した巾を一枚一枚出して見せても、
丸っきり返事もしなければ目もくれずに奥に引っ込んだかと思うと、
仕立ての客が店に足を踏み入れた瞬間、脱兎の如く飛び出してきて客のご機嫌を伺う。
そして、私は拒絶の言葉さえ与えられずに、また通りに出て次の飛び込み先を見付けることになる…。
もう日暮れが近かった。
私は汗を拭いながら、とにかく片方の足をもう片方より前に進め続けていた。
行く手に掲げられた看板の屋号をひたすら目に入れながら、
その実、自分が今、上海のどんな界隈を歩いていて、
どんな場所に向かっているのかも分からないのだった。
「冗談じゃないわよ!」
甲高い怒声が不意に耳に飛び込んできた。
「だからね、何度も言ってる様に…」
「あたしは今日が服の受け取り日だって聞いてるの!
ここの主人がしょっぴかれようが知ったこっちゃないわ!」
翡翠緑の旗袍(チャイナドレス)を着た、背の高い、抜ける様に肌の白い女が捲し立てている。
「あたしはあたしの服が欲しいの!」
「それ以上騒いだらね、小姐(おじょうさん)」
四十路とおぼしき巡卒は慇懃だがひやりとした響きを含んだ口調で言った。
「あんたにもご同行を願うことになるよ。」
言い終えると巡卒の腰の辺りで何かがカチャリと鳴った。
「ねえ、お巡りさん」翡翠緑の旗袍は急に餌をねだる猫じみた声になった。
「中に入って服を取るくらい、いいでしょ?」
女が白玉じみた歯並びを見せ、流し目を送ると、耳飾りの真珠もちらりと揺れる。
「あんたの欲しがる様な物は端から無いさ。」
巡卒は蚊でも追い払う様に手を振った。
「ここは仕立屋じゃなくて、下手人の隠れ家だったんだから。」
巡卒はそれだけ言うとヒビの入ったガラス戸の奥に消えた。
「おーい、何か見付かったか?」
「弾薬がありました。」
翡翠緑の旗袍は暫くガラス戸の前に棒立ちになっていたが、急にペッと唾を吐いた。
「あれが一番いい柄のやつだったのに、手付金まで丸々ドブに捨てて…。」
女は猛然と身を翻すと、ハイヒールの音高くこちらに向かって歩いてきたので、私が右に退くか左に避けるか決める前に、思い切りぶつかって道の脇に撥ね飛ばされた。
「あいたた…。」
落とした弾みに包みが解けて、中身が散乱した。
裁ち鋏、糸切り鋏、縫い針、待ち針、刺繍糸、木綿糸。
私は砂埃を払うのも忘れて手当たり次第拾い集める。
それに、今まで刺繍した巾。
金魚、青竹、白鶴、朱鷺、桃花、紅梅、緋牡丹、そして茉莉花。あと一枚…。
「芙蓉!」
一間離れた所に落ちていた巾に私が手を伸ばした瞬間、別の手が、雪の様に白く細長い指を持つ手がふわりと拾い上げた。
「芙蓉。」
翡翠緑の旗袍はそう言うと、拾い上げた巾の刺繍に目を凝らした。
「それ、」
返して下さい、と言いかけて私は口ごもった。
遠目にも何となく洋人じみた顔の女とは感じたが、間近に見ると、女はまるで猫目石の様な、茶色の勝った緑色の目をしていた。
不意にその目がこちらに動いた。
「これ、あんたが作ったの?」
「あ、はい。」
私は返してくれと言うのも忘れて、頷いた。
猫じみた不思議な色の目が、私の解れたお下げ髪から垢じみた薄青の綿入れ、継ぎの当たったズボンに穴の空いた靴の爪先まで素早く見て取った。
「家出娘ね?」
大きな目がにいっと細まる。
「あ、はい。」
私は馬鹿の様に同じ返事を繰り返す。溝鼠にでもなった気がした。
「宿はどこ?」
相手は再び白芙蓉の刺繍に目を戻して問う。
「まだ、探してません。」
「この辺りは木賃宿でも何やかやとぼったくられるし、」
白い指が巾を裏返して芙蓉の裏地を撫でる。
「一人旅の娘なんてうっかり変な宿に入ったら、無事に一晩明かせるかもんだか。」
「あの、」
「ああ、ごめんね。」
私が言い掛けると緑旗袍は、うっかり忘れていたといった風に私に巾を差し出した。
「じゃ、さよなら。」
ふわりと蓮の様な香りが匂ったかと思うと、緑旗袍は背を向けて通りを歩き出した。
「あの、」
私は蓮の香りを追い掛けた。
「何。」
緑旗袍は踵だけ細く高い靴の足を止めて振り返る。
「お宅に泊めていただけませんか。」
「うちは宿屋じゃないのよ。」
緑旗袍はまた歩き出したが、先程より緩やかな歩調だ。
「それじゃ、お宅で使って下さい。」
「家出娘なんでしょ?」
緑旗袍はまた振り返ると、悪戯っぽく小首を傾けた。
「ここは危ないから、おうちに帰んなさい。」
「帰るとこないんです。」
私は緑旗袍の裾を掴みたい様な気持ちで言った。
「女中してたお宅が苦しくなって、私は暇を出されたんです。」
緑旗袍はまた立ち止まったが、振り向いた顔は陰になっていて、彫り深い眼窩の奥は読み取れない。
「上海なら仕事があると思って…。」
私はその場に立ち止まったまま、芝居でなく掌を両目に当てた。
「お針でもお掃除でも何でもしますし、夜は床下にでも寝ますから、しばらくお宅に置いて下さい。」
「本当に、何でもするのね?」
撫でる様な声がした。
「はい。」
私は涙を拭って鼻を啜った。
「あたしは、厳しいわよ。」
女は挑む様に告げると、閉じた唇の両脇をきゅっと上げた。白い顔、茶緑の瞳に対し、血の様に紅い唇をしていた。
「置いて下さるだけで感謝します。」
私は頭を深く下げながら、ここは跪くべきかと迷った。
「じゃ、行きましょう。」
女は事も無げに言うと、また歩き出した。私は三歩ほど間を置いてその後に従う。
「あたしは、姓を白(バイ)、名を蓉香(ロンシャン)、」
緑旗袍は歩きながら、こちらを振り向きもせずに言い放った。
「この辺りでは、蓉蓉(ロンロン)と呼ばれてるわ。」
「私は姓を姚(ヤオ)、名を莉華(リーホア)と申します。」
「リーホア?」
白蓉香と名乗った緑旗袍は怪訝な声を出したが、すぐに行く手に向かって告げた。
「じゃ、あんたは莉莉(リリ)ね。」
「はい。」
私の名前から華が消えた。
緑旗袍について角を曲がった所で、私は大看板に目を奪われた。
きっと、あれが、電影院(えいがかん)だ。看板には、洋服を着た若い男の横顔が描かれていた。田舎で観た越劇の役者なんかより、ずっと男前だ。
「年は幾つ?」
「え?」
「ボヤっとすんじゃない。」
振り向いた顔は険しい。
「あ、はい。」
私は胸の包みを持ち直す。
「十五になります。」
「十五?」
相手は検分する様に私の旋毛から爪先まで見て取ると、説得の口調で言った。
「十八には見えるわ。」
初めて年より大人に見られた。
「あの、」
「何。」
この人は不機嫌だと露骨に顔と声に出る。
「どうお呼びすれば。」
小姐(おじょうさま)か、太太(おくさま)か。
年の頃は二十四、五に見えるが、どちらなのか分からない。
というより、どちらでもなさそうに思える
「ああ、」
女は面倒そうに答えた。
「蓉姐(ロンジエ)、でいいわ。」
蓉蓉が姐(あね)で、莉莉は妹という事らしい。
「分かりました。」
蓉姐は立ち止まると、通りを走ってくる空の人力車に手を上げた。
車夫が止まるが早いか、旗袍の切れ目から白い脛を覗かせてひらりと飛び乗る。
「乗って!」
私も慌てて隣に乗り込む。人の引く車に乗るのは初めてだ。
「静安寺通りまで。」
蓉姐が言うと車夫は駆け出す。
風が寒い程吹き付ける。私は荷物ごと吹き飛ばされない様に、背筋を伸ばした蓉姐の脇で縮こまった。
いつの間にか夜になった街の中を人力車は駆け抜ける。
列車から見た風景は田畑や川をひたすら速足で繰り返すだけだった。
しかし、ここではまるで祭りの様に色とりどりの灯りが目の前を通り過ぎていく。
この街は不夜城だ。というより、昼より夜に眺めた方が、きらびやかで美しい。
一度見入ってしまうと、私は自分が蘇州の田舎から出てきた文無しであることも、素性の知れない女に付いて車に乗っていることも忘れて、目で追い続けた。
手を伸ばせば、星の様な灯りの一つ位は、捕まえられそうな気がした。
「停めて。」
蓉姐の声と共に灯りの流れは止まった。
降りなくちゃ。今度は指示される前に動いてみる。
「全く、最近は何でも値上がり、値上がりなんだから。」
車夫がまた全速力で駆け出すと、蓉姐はビーズのバッグに財布をしまいながら、舌打ちした。
「あんた、自分だけさっさと降りんじゃないわよ。」
蓉姐は私の姿を認めると、またきつい声を出した。
「人に車代払わしといて。」
どうやら、私はまた気の利かない真似をしたらしい。
「お車代、いくら払えばよろしいですか?」
「もういい!」
私が綿入れの下を探り出すと、刺す様な声が飛んだ。
「あんたに払えないのは分かるから。」
蓉姐は急に声を落として歩き出す。
私は付いていって良いのか迷いながら、後に従った。
高さ四、五階はあろうかと思われる、洒落た洋風の建物が見えてきた。
「ここがうちよ。」
蓉姐は白い顎でその建物を示すと、小言で告げた。
「本当ですか!」
こんな御殿に住んでるなら、やっぱりお金持ちには違いない。
「住んでるのはお上品な連中が多いから、あんたも気を付けて。」
蓉姐は他人事じみた口調で続けた。
「このアパートであたしの面子を潰す真似したら、即追ん出すわよ。」
どうやら、この建物全体の女主人ではなく、間借りしてるだけの様だ。
私は最初の驚きを修正する。
それでも金持ちには違いない。
蓉姐はツルツルした床の上を靴音高く進むと、
ぴったり閉じた扉の前で立ち止まると、扉脇のボタンを押す。
扉は閉じたまま、うんともすんとも言わない。
扉を叩いて呼び出さなければ、開けてもらえないのではないか?
そう思った瞬間、扉が両側にパッと開いて、中から洋服に帽子を被った男が姿を現した。
"Evening,Miss.Bai,"
出ながら、男は片手でひょいと帽子を取る。
洋服を着て洋人の言葉を口にはしているが、帽子を取ると、分厚い眼鏡の小柄な中国人の男だ。
"Evening,Mr.Ye,"
蓉姐も笑顔で私には分からない言葉を男に返す。
「新しいお女中ですか?」
男が目を蓉姐の襟足辺りに泳がせたまま今度は中国語で問うたので、私は一瞬、自分のことを言われたのだと気付かなかった。
「何なら、僕がそんなのよりもっといいメイドを紹介しますよ。」
男は飽くまで蓉姐に目を注いだまま、黄色い歯を見せて笑った。
「親戚の子を引き取りましたの。」
蓉姐の声と共に私は肩を押されて、開いた扉の向こうに入る。
「この通り女所帯ですから、私たち、女中は不要です。」
蓉姐が笑顔でボタンを押すと、また扉がゆっくり閉まって、黄色い歯を剥き出したまま固まっている男は姿を消した。
「ふん、身の程知らずのチビ鼠が!」
扉が閉まるが早いか、蓉姐は私の肩から手を引っ込めて、吐き捨てた。
また私のことかとビクついた次の瞬間、床が持ち上がる様な感触が起きた。
「この部屋、どうなってるんです?」
私は泣きそうになるのを必死で堪えた。
こんな小さな箱みたいな部屋からいきなり人が出てきたり、床が急に持ち上がったり、もはや建物全体がお化け屋敷としか思えなかった。
「これはエレベーターよ。」
真っ赤な唇に猫の様な目の女が振り向いた。
「こいつに乗ると、階段なしで昇り降りできるの。」
急に部屋全体がガタンと揺れて止まった。
「三階よ、降りましょう。」
降りた階では、一階と同じくツルツルした廊下が続いていて、同じ形の扉が並んでいる。
蓉姐の後ろを歩いて扉の前を一つ一つ通り過ぎながら、今にまた何かが飛び出してくるのではないかという気がしてならなかった。
一番奥の扉の前に来た所で、蓉姐はビーズのバッグの口を探り出して、銀色の鍵を取り出した。
私はほっと息を吐く。
どうやらこの部屋で上がりらしい。
蓉姐が扉を開くと、暗がりの奥から、鐘を早打ちする様な音が鋭く鳴り響いてきた。
「はい、はい、はい、はい、」
身を固くする私をよそに蓉姐は、音のする闇の中へ駆け込む。
その途中でカチャリと軽い音がして奥がパッと明るくなる。
鐘の早打ちが止まった。
「もしもし?」
部屋には他にも誰かいるらしい。
「私ですけど、どちら様ですか?」
私は閉じた扉に錠をすべきか一瞬迷ったが、そのままにして奥に向かった。
「あら、李さん?」
行ってみると、蓉姐は旗袍の背を見せて一人で話していた。
「お久し振りですね!」
ピカピカ光る黒い銚子の様な物を片手に持ったまま、上ずった声を出す。
「でも、どうしてうちの番号をご存知なの?」
これが「電話」というやつだ。私は田舎で聞いた噂話を思い出す。
遠くに離れた相手ともすぐ近くにいる様に話せる道具だそうだ。
「薇薇(ウェイウェイ)が?オホホ、嫌ね、あの子ったらお喋りだから…。いえ、いいんですよ、李さんなら。」
甘やかな声で話す一方で、白い指は、手にした受話器と卓上の装置を繋ぐ渦巻き状の紐を弄ぶ。
「あら、香港(ホンコン)にいらしたんですか?いいですわねえ」
蓉姐は口の端で笑うと、だるそうに傍の長椅子に腰掛ける。
「李さん、このところ、すっかりお見えにならないから、私たち、お見限りされたんじゃないかって噂してたんですの」
蓉姐は緑色の目をにいっと細めたまま、今度は長椅子の上に寝そべって頬杖をつく。
実際、いかにもふかふかと柔らかそうな洋風の長椅子は、座るより寝転がる方に適して見えた。
「近い内に店にいらして香港のお土産話を聞かせて下さいね。今度、新しい子も入りますし、」
蓉姐が急にちらりと目を向けたので、私はまた自分が場違いな真似をしでかしたのかとビクつく。
蓉姐は片手で弄くる受話器の紐に冷笑すると、蜜の如く甘い声で囁いた。
「私たち皆で李さんをお待ちしてますから、きっといらしてね。これは私との約束。」
冷やかな笑いを浮かべたまま、蓉姐は静かにカチャリと受話器を繋がれた装置の上に戻す。
一呼吸置いて、今度は笑いの消えた顔でまた受話器を取り上げて、装置の文字盤を指先で素早く回す。
「もしもし?達哥(ダー兄さん)?蓉蓉(ロンロン)です。」
蓉姐は今度は仔猫じみた声を出した。
「今日はお休みをいただきましたけど、明日は一番で出ます。」
何か意外な物にぶつかった様に、片眉を逆立てる。
「あら、私が達哥を騙したことがあって?」
間髪を入れずに続ける。
「今、薇薇(ウェイウェイ)は出てます?急いであの子をお願いします。」
それから暫くは沈黙していたが、蓉姐は舌打ちして受話器を叩きつけた。
「おっそいんだよ、馬鹿どもが!」
蓉姐は鋭い目をこちらに向けると、長椅子から身を起こした。
「あんたね、ボヤッと突っ立ってないで、」
言い掛けた所で電話が鳴り出す。
蓉姐は思案げに腕組みしていたが、五回目に鳴り終わった所で受話器を取った。
「もしもし?」
真綿に針を含んだ声だ。
「あんた、李のジジイにうちの番号、勝手に教えたでしょ。」
蓉姐は、靴の高い踵で床を音高く踏み鳴らした。
「どの李かって?ほら、あの紡績の工場持ってるとか自慢してたハゲよ!」
取り敢えず、この人が電話している間に何かした方が良さそうだ。
掃除、お茶だし、繕い物…。
考えあぐねながら、改めて部屋を眺め回す。
小花模様の壁紙に彩られた洋風の部屋。
長椅子と電話の他にある家具と言えば、まず卓子に一人掛けの籐椅子。
一方の壁には暖炉が取り付けてあるが、むしろ少し暑い気がするから、取り敢えず向こうの窓を開けようか?
ここは三階だそうだから、泥棒に入られる心配もあるまい。
窓際に歩み寄った所で金切り声が飛ぶ。
「あんた、その様子だとあちこちにうちの番号を言い触らしてるのね!」
窓を開けるのはやめにした。
「それはさておき、あんたに貸したイヤリング、明日返してちょうだい。あのエメラルドのやつよ。」
私は次の仕事を探す。卓子の上には白い蘭を挿した花瓶が置かれているが、まだ花はピンピンしているから、手を出す必要はない。
灰皿には吸い殻が残っている。
「莎莎(シャシャ)に貸した?バカ!どうしてそういうことをするの!」
私は危うく灰皿を落とすところだった。
「明日返さなかったら、あんたの両耳を削ぐわよ。」
「莎莎にも言っときなさい。」
灰皿を手にしたはいいが、どこにゴミを捨てるべきか分からない。と、卓子の下に黒い箱を見付けた。
「明日、あたしが店に出た時、エメラルドのイヤリングが揃ってなかったら、あんたたちの耳で返してもらうって。」
箱の中は既に四半分を古い吸い殻が満たしており、萎れて茶色くなった花や空き箱がそこに混じっていた。
取り敢えずこれがゴミ箱らしいので、新たに吸い殻を捨てる。
同じ吸い殻でも口紅の跡が赤く付いたのとそうでないのが半々位なのは何故だろう?
流れてきた煙にふと振り向くと、蓉姐は受話器を持ったまま、もう片方の手で煙草をくゆらせていた。
私は慌てて空にしたばかりの灰皿を蓉姐の前に供える。
蓉姐は灰皿の上でゆっくりと燃え先を押し潰す。
「耳がない方が、イヤリングしなくていいから、あんたたちには安上がりでしょ。」
蓉姐は言うだけ言ってしまうと、ガチャリと受話器を置いた。
「バカばっかりだわ。」
紅い唇をすぼめて白い煙を吐き出す。
流れてきた煙にむせかえりそうになるが、必死で堪える。
「何か御用は、」
私が言いかけた所で、蓉姐はまた受話器を取り上げて、文字盤を回し始めた。
今度は誰と話す気なんだろう?
頭の片隅で思いながら、ふと卓子に目を落とすと、掛けられている刺繍入りの布には、端っこに小指の先程の焦げ目があった。さっきは灰皿で隠れてていたらしい。
花瓶をそっと避けて布を取り上げると、私は傍らの包みを開いた。やっとこのお針道具を使う時が来た。
「もしもし?」
「阿建(アジェン)ね?蓉姐よ。」
卓子掛けの焦げ目は、ちょうど桃色の糸で刺繍した芙蓉の花びらの部分に出来ていた。
「阿偉(アウェイ)を出してちょうだい。」
裏を返して確かめた限り、刺繍部分の糸が焦げ付いただけで、生地ごと穴を空けるには至っていない。
焦げた糸を解いて、新たに縫い直せばいいだけの話だ。
私は手持ちの包みから糸切り鋏を出し、元の刺繍と同じ桃色の糸を探す。
「どこにいるの?」
どうも見当たらない。
手持ちに同じ桃色の刺繍糸がないので、似た色で代用することにした。
この赤い糸を使おう。
「どうしてあんたが出てくるの?」
やっぱり、赤はやめて朱色にしよう。
「ねえ、小明(シャオミン)、阿偉(アウェイ)と代わってちょうだい。」
この朱色もちょっと合わない気がしてきた。
「何を喋ってるの?」
いっそ、全部解いて別の色で縫い直そうか?
「本当のことを言いなさい!」
「阿偉(アウェイ)。」
蓉姐は打って変わって疲れた声を出した。この人の地声は本当はかなり低いみたいだ。
「出る前も一度掛けたのよ。」
ふと目を上げると、蓉姐は受話器を両手で包む様にして話していた。
「また一人で賭博場へ?」
まるで、黒い受話器の中に真珠か砂金でも詰まっていて、少しでも揺らせば中身が全てこぼれ落ちてしまうと恐れているかの様に。
「危ないのに。」
「今日は散々だったわ。手直しに出した服は戻って来ないし。」
蓉姐の声が元の調子を取り戻したのをしおに、私はまた仕事に取り掛かる。
「仕立屋がしょっぴかれたのよ。」
焦げた花びらを間に合わせの色で縫い直すより、上からもう一つ新しい花を重ねて縫おう。
「おまけに前にしつこくされて断った客に、うちの番号をいつの間にか知られてたの。」
本来の図案にない刺繍だと見た人にバレてもそこまで目に付かない様に、地と同じ白の糸を取り上げる。
「そいつ、薇薇(ウェイウェイ)を脅して聞き出したらしいわ。」
いざ縫い出すとやはり蛇足が目立つ気がしたが、とにかく縫い上げてしまうことにした。
「怖いったらないわ。」
蓉姐はまた芝居がかった高い声を出す。
焦げ目はもうすぐ新しい花の一枚目の花びらの下に消える。
「アパートに帰ったら帰ったで、部屋までついてきた奴がいるのよ。」
針が思い切り指先に刺さる。
「葉(イエ)って男よ。同じ階に最近越してきたの。英国(イギリス)帰りだとか自慢してたわ。鍵は掛けたけど、まだドアの外にいるかも。」
鍵を開けっ放しだ!
私は血の出る指先を食わえたまま、玄関に走った。
「阿偉(アウェイ)、早く来てちょうだい。」
錠を挿して玄関から元の部屋に戻ると、電話も、長椅子も、縫いかけの卓子掛けもそのままで、この部屋の主の姿だけが消えていた。
「蓉姐?」
見回すと、さっきは閉じていた壁の扉が半ば開いており、その隙間から薄暗い奥が覗いていた。
こっちは何の部屋だろう?
恐る恐る近付いてミルト
と、急にその扉が軋んだ音を立てて開いた。
「…!」
私は思わず息を飲む。
赤、緋、薄紅、桃、朱、黄、浅葱(あさぎ)、緑、青、紫、黒、白…。
色とりどりの絹や紗の地に、これまた様々な色の糸で花や蝶の刺繍を施した旗袍(チャイナドレス)の山が、姿を現した。
「ふう」
蓉姐は長椅子の上に衣装の山をドサリと置く。
私は弾みで長椅子の下に落ちた白の旗袍を拾う。
遠目には無地に見えたが、間近に見るとビーズで花の形に刺繍が施されている。
部屋の灯りを受けて、ビーズは七色に輝いた。
「これをあんたに直してもらうわ。」
これは、玉虫の羽ででも出来ているのか?
私は蓉姐の言葉をよそに光の加減で青から赤へと色を変えるビーズに見入った。
「汚れるわ。」
蓉姐はいきなり私の持っていた白い旗袍を引ったくると、長椅子の上に放った。
「こっちに来なさい。」
蓉姐はそう言うと、廊下を今度は玄関とは反対側の方に進んでいく。
「まず、あんたを洗うのが先よ。」
行く手には今までの扉とは毛色の違う、白く曇った感じのガラス戸が構えていた。
「ここがお風呂。」
蓉姐がガラス戸を開けると、壁も床もツルツルした水色の板で張り付くされた部屋が姿を表す。
正面の壁からは、二本の銀色の管が突き出ていて、取っ手の付いた先の方が蛇の様にぐにゃりと曲がっていた。
「水はどこから汲んでくるんですか?」
田舎でお仕えしていた家では、女中仲間と交代で井戸から水汲みしていたが、これからは毎日かと思うと、ちょっと気が重い。
「水ならここから出るわ。」
蓉姐は二本の管に近付いていくと、右の方の取っ手を回した。
すると、管の先から迸る様に水が吹き出した!
「止める時には蛇口を反対に回すの。」
蓉姐が取っ手をさっきとは逆に回すと、水は嘘の様にピタリと止まった。
「右が冷たい水で、左がお湯ね。左はいきなり熱いのが出たりするから気を付けて。」
私は茫然と二本の管を見詰めた。
こいつは一体どんな仕組みになってるんだ?
「使い終わったら必ず蛇口は締めて水を止めるのよ。出しっ放しにしたら、あんたに水道代払ってもらうから。」
「はい。」
よく分からないが、後払いで水を買う決まりになっているらしい。
「髪から爪の先まで石鹸付けて良く洗うのよ。」
蓉姐は白い蝋の様な四角い固まりを取り上げてそう言うと、眉根に皺を寄せた。
「臭くて堪らないわ。」
私は自分の破れ靴に目を落とす。
汚くてみすぼらしい身なりの上に、嫌な匂いまでしていたのか。
「田舎ではどうだったか知らないけど、」
蓉姐は石鹸で私の顎を軽く叩く。この人は、相手が自分から目を反らすことを許さないらしい。
「これからは毎日体を洗うのよ。」
「はい。」
二本の蛇口から出る水は、半々に混ぜ合わせてやっと肌に心地良い温かさになった。
乾いていると蝋の固まりにしか見えない石鹸は、水に馴染ませると七色の泡が立って、花に似た香りがした。
蓉姐の蓮に似た匂いの一部は、これだったのだ。
そんな事を考えながら、体を流すと、まだ治りかけの膝の擦り傷が滲みた。
蘇州で仕えていた周家の門を出てから、船着き場まで無我夢中で駆けていく内に幾度となく躓いて出来た傷だ。
その擦り傷の上には、また新たに痣が出来ていた。
これは、多分さっき蓉姐とぶつかって転んだ時のだろう。
浴室を出ると財布の下に畳んで置いていた綿入れとズボンが消え、代わりに手拭いと白い洋服の上着とスカートが置かれていた。
これを着ろということらしい。
服の脇に置いた破れ靴はそのままだから、多分これはこのまま履けということなのだろう。
表面はザラザラと毛羽立ってはいるが、酷く柔らかな生地で出来た手拭いは、濡れた髪や体を拭くとそのまま水を吸い取った。
これも外国製の手拭いなのだろうか?
車といいエレベーターといい、洋人の作る物は全く得体が知れない。
蓉姐が用意してくれた白い洋服の上着は、袖を通すと、私には明らかに丈が長過ぎた。
そのままだと指先まで袖に隠れてしまうので、肘まで捲る。
紺のスカートも腰周りがかなり緩くてずり落ちそうなので、内側に折り込む。
壁に備え付けられた鏡を見ると、痩せこけた体にだぶだぶの洋服を着、濡れた髪をお下げに編んだ、妙な娘がまじまじとこちらを見返した。
まあ、不潔で嫌な匂いがしない分だけ、さっきよりはマシだと思いたい。
「そしたら、お巡りったらこう言ったのよ。」
廊下を応接間の方に戻っていくと、蓉姐の声がした。
「『小姐(おじょうさん)がその服を脱ぐなら、引き換えに押収品の中から服を渡してやってもいい』って。」
煙草の匂いも漂ってくる。
「だから、横っ面をぶっ叩いて逃げてやった…」
蓉姐は言い掛けたところで、私に顔を向けた。
「お風呂終わったの?」
「はい。」
私は湯で和らいだ体がまた固くなるのを感じた。
「どうも、ありがとうございます。」
長椅子の上には、蓉姐の他にもう一人男が腰掛けて、こちらに目を向けていた。
「莉莉(リリ)よ。」
蓉姐は煙草を持った指で私を示すと、傍らの男に言った。
あんたも前から知ってるでしょ、と言い放つ様な口調だ。
「うちで働きたいんだって。」
「リリ?」
仕立ての良い洋服を長身に纏い、長椅子に凭れて長い脚を投げ出した男は、低い声で問うと、浅黒い顔の大きな目を凝らした。
「はい。」
適切な対応が分からないので、取り敢えず、返事をする。
「茉莉花(ジャスミン)の『莉』?」
蓉姐と同じく彫りの深い顔だが、瞳は漆黒で、僅かに斜視の傾向がある。
こちらを見守っている様で、本当は別の何かを眺めている様にも見える。
「はい。」
「田舎の妹も同じや。」
広東(カントン)の訛りを交えて言うと、相手はどこを見ているのか分からない目を細めた。
「お袋の腹にいた時分に見たきりやけど、今年で七つや。いや、八つやったかな?」
随分年の離れた妹がいるものだ。
私は返答をしかねたまま、内心驚く。
男本人は二十五、六歳に見えるから、兄妹というより父娘に相応しい年の開きがある。
それとも、この人は本当は見た目よりもっと若いのだろうか?
「で、こっちの莉莉ちゃんはいくつや?」
男の目が、私の上着の肩の辺りに注がれる。
私はそこで初めて、お下げ髪から垂れた滴で、肩の生地がじっとり濡れて肌に張り付く感触に気付き、鳥肌が立った。
「十八よ。」
蓉姐の声が静かに響く。
「さっき聞いたの。」
「蓉蓉、この子は…」
言い掛ける男をよそに蓉姐はこちらに向き直る。
「うちで働きたいのよね?」
紅い唇が微笑み、茶緑の目が鋭く光る。
「はい。」
「あたしがさっき聞いた答えに間違いはないわね?」
「はい。」
私はさっき、十五と正直に教えた。
「あんたはもう十八の大人よ。」
蓉姐の指先から白い煙をゆっくり上っていく。
「だから、あたしもそのつもりで扱うわ。」
「蓉蓉(ロンロン)、」
男は目を落として苦い声を出した。
「阿建(アジェン)と小明(シャオミン)が十九歳なんでしょ?」
蓉姐は事も無げに返すと、悪戯っぽく片眉を吊り上げた。
「あんただって、幇(くみ)に届けた年から数えれば、もう二十八の筈だし。」
「その子を連れて十八と言い張ったって、達哥(ダー兄貴)に通じるもんか。」
私を指し示す男の声が苛立ちを含む。
何だか、責められてるみたい。
「大丈夫よ。今、手が足りないし。」
蓉姐は余裕綽々だ。
「小皺の浮き出た顔して十八とかほざくのよりマシでしょ。」
男は黙って横を向くと灰皿に煙草を押し当てた。
この人は一体、どういう人なんだろう?
私は思い巡らす。
蓉姐が太太(おくさま)でも小姐(おじょうさま)でもない様に、
この人も洒落た洋服は着ているけれど、
名家の旦那様という感じには見えない。
秀でた額、高い鼻、広い肩、長い脚…。
「あ、あの看板の!」
私が突然声を発したので、男も蓉姐も驚いて顔を上げる。
「電影院(えいがかん)の看板で、お見かけしましたわ。」
私は努めて丁寧な口調を心がけて男に言うと、蓉姐に確かめた。
「ここに来る途中で通った電影院です。あそこの看板の方ですよね?」
「横顔で分かりました。」
「あんたが高占非(ガオ・チャンフェイ)だってさ。」
蓉姐ははしゃいだ声で男の肩をつつくと、
男が新たに出した煙草に火を点けた。
「向こうが俺に似てるんだ。」
男は苦笑いして呟くとゆっくり煙を吐き出した。
「俺は、そいつとは違う。」
男は私に向かって、諦めろ、という風に首を横に振った。
「失礼しました。」
電影院の看板役者だから、男前でいい身なりをしているのだ。
私はそう合点がいったつもりでいたが、
どうもそれでもないらしい。
「どうお呼びすれば、よろしいでしょうか?」
男の名前も、素性も、蓉姐との関係も正確には分からないので、そんな風に訊いてみる。
「偉哥(ウェイ兄さん)とお呼びなさい。」
蓉姐が代わりに答えた。
「分かりました。」
今日、二人目の兄弟が出来た。
「さて、」
これでお話はおしまい、という風に煙草の吸い殻を灰皿に置くと、蓉姐は立ち上がった。
「あたしたちはこれで休むけど、あんた、明日までにここの服、全部直しといてね。」
蓉姐は、いつの間にか長椅子から籐椅子に移動した
旗袍(チャイナドレス)の山に手を伸ばす。
「まず、これは、襟のボタンが取れかかってるからそれを付け直す。
これとこれは、スリットが解れてるからそこを繕って。
あ、こっちは脇の下も破けてるからそれも頼むわ!
これは胸の刺繍に染みが出来てるからそこをほどいて縫い直して。
白い糸はあるでしょ?」
「はい。」
返事はしたものの、冷や汗が出る様な思いで私は服の山を見詰めた。
これ、全部で何枚あるの?
「これは、裾をまつり直しといて。後から繕ったって分かんない様に丁寧にやるのよ!」
蓉姐が一枚一枚籐椅子から取り上げては放る旗袍が、
長椅子の上にまた元の山を形成していく。
「それからこれは、」
長椅子の上に残った最後の一枚を取り上げると、
蓉姐は少し思案する顔つきになった。
他の旗袍と比べると一回り程小さい、薄い橙(だいだい)色の旗袍だ。
周家の奥様が飼ってた金魚みたいな色だ、と他人事ながら思う。
「これは、あんたに上げるわ。」
「いいんですか?」
私は服を受け取ってまじまじと眺める。
橙色の絹地に黄色で可憐な小菊の刺繍が施してある。
「いいのよ、それ子供っぽいし、もう着ないから。」
今の蓉姐の体格では、肩も胸も腰もこの旗袍には収まるまい。
「可愛いやないか。」
苦笑いで私たちを見守っていた偉哥も口を添える。
「どうもありがとうございます。」
私は深々と頭を下げる。
お古とはいえ、私には高過ぎる衣装だ。
「あんたにはちょっと大きいだろうから、そこは後で自分で直してね。」
蓉姐はそう言うと、顎で長椅子の服の山を指した。
「それじゃ、頼むわよ。明日の朝、この中から着ていくやつを選ぶから。」
「はい。」
私は譲り受けた金魚色の旗袍を抱き締めて頷く。
夜が開けるのが怖い。
「それじゃ、阿偉(アウェイ)、もう寝ましょ。」
蓉姐が蜜を含んだ声で言うと、偉哥はひょいと蓉姐を抱き上げた。
え…?
呆気に取られる私を残して、二人は先程蓉姐が衣装の山を出してきた部屋に入っていくと、
偉哥の後ろ手で扉がガチャリと締められた。
とにかく、仕事に取りかからないと。
応接間で一人、我に返った私は、
まず縫いかけのままに卓上の隅に丸まっている卓子掛けを取り上げて
縫い糸を結び止めにし、糸切り鋏を出して切った。
こっちより服の手直しが先だ。
卓上の灰皿には許容量一杯に吸い殻が溜まっているので、
これもゴミ箱に捨てる。
赤い口紅の跡の着いた吸い殻とそうでないのがゴミ箱で入り交じっていたのは、
吸う人間が一人でなかったからなのだ。
吸い殻の山を眺めているだけで噎(む)せ返りそうなので、
視界に入らないよう、ゴミ箱を卓子の下に置く。
「さて、と。」
小声で呟くと、私は旗袍の山をもう一度分け直す。
すぐ手直しが出来る物と時間のかかりそうな物という分類でだ。
この赤いのはボタンを付け直すだけ。
この桃色のはスリットの裂け目以外に、両脇が大きく破けてるから時間がかかる。
この朱色のは…。
不意に、背後からクスクス忍び笑う様な妙な声と板張りの激しく軋む音が聞こえてきた。
思わずぎょっとして振り返ると、
隣の部屋とこちらを隔てる壁を通して、
猫の鳴き声に似た声が途切れ途切れに響いてきた。
…とにかく、今は耳が聴こえないつもりで、服の手直しを要領良く済ませる事だけを考えよう。
灯りが煌めく夜の道を人力車が駆けていく。
色褪せた青の綿入れを着てボロ靴を履いた私は、その座席に一人腰掛けていた。
電影院の看板が端正な男の横顔を見せて通り過ぎる。
あの洒落た男は、実は広東訛りで話すのだ。
そう思うと、何だかおかしくなる。
と、前の方から虹の様に色とりどりの旗袍やビーズのバッグ、
翡翠や真珠の耳環(イヤリング)に、
滑らかに光る踵の高い靴が流れてきた。
どれも、これも、私の持ち物ではない。
不意に、その群れの中に金魚の様に揺らめいている橙色の旗袍を見つける。
あれは私のだ!
手を伸ばして服を掴み取った瞬間、
周囲から腕がたくさん伸びてきて、私は手足を捉えられた。
「助けて!」
四方から手足を引っ張られ揉みくちゃにされながら、
私は背を見せて走っている車夫に叫ぶが、
そこで財布にはもう金がない事実に気付く。
そもそも、今まで走った車代が正確には幾らなのか、
払えなければどうなるのかも見当が付かない。
「降ろして!」
目まぐるしく回転する光の中、顔を陰にした車夫が振り向いた。
陰になった車夫の顔が灯りの消えた電灯に変わった。
私は人力車の座席ではなくふかふかの長椅子の上に凭れており、
薄青の綿入れでも橙色の旗袍でもなく、
白い洋服の上着にスカートを履いていた。
靴だけは元のボロ靴のままだったが。
夢で良かったと胸を撫で下ろす一方で、
天井の白壁からぶら下がる灯りの消えた電球を眺める内に、
昨日一日の出来事が次々蘇り、思わず長椅子から跳ね起きる。
もう、朝だ。
「蓉姐(ロンジエ)、」
隣室への扉を見やると忘れられた様に半ば開かれていた。
「服の手直しの方は終わりました。」
今度はきっと朝食のお使いを言いつけられるに違いない。
蓉姐はきっと食べる物にもうるさいんだろう。
私の作る田舎料理なんてお気に召すだろうか?
そんな風に思いあぐねながら、
蓉姐と偉哥がいるはずの寝室に恐る恐る近付く。
「あれ?」
寝室には敷布や枕のしどけなく乱れたベッドがあるだけで、誰もいなかった。
「蓉姐?」
二人ともどこに行ったのだろう。
眠りこけている私に呆れ果てて、外に朝食を食べに出たのだろうか?
二人が帰ってきたら、今度は何と言われることやら。
取り敢えず、今出来る仕事として、私は乱れた床の上を直し始める。
二人どころか軽く三人は横になれそうなベッドだ。
白い敷布をピンと伸ばし、二つの枕をあるべき場所に置き直して、ベッド一体に散らばっている髪の毛を拾い集める。
やや赤味のある、栗色の細い毛が蓉姐で、太くて黒い毛が偉哥のだろう。
絡み合った髪の束からは蓮の香りに混じって、椿油の様な匂いがした。
あの二人は多分正式な夫婦ではなく、
情人とでも呼ぶべき関係なのだろう。
混ざり合った匂いから、私はそう確信した。
窓を開けよう。
そのままでいると、縺れ合う二人の匂いで目眩を起こしそうな気がしたので、私は窓辺に向かう。
開け放つと、涼やかな空気や通りを行き交う車輪の音と一緒に、上海の匂いが流れ込んできた。
伸び上がって思い切り息を吸い込むと、急にお腹が鳴った。
昨夜は浴室でお湯を飲んで喉の渇きと空腹を紛らした以外は、
何も食べずにひたすら針を動かした。
お腹が空いて暫くすると、飢えた感覚が麻痺した状態になるが、そんな状況で一晩過ごした。
それが、上海の香ばしい空気でまた蘇った気がした。
「勘弁して下さいよ。」
私はお腹を擦る。蓉姐が帰ってきたら、外に出てお粥を食べよう。
寝坊をしてしまったし、まだ仕え始めて一日だから、お手当てを求めるのは早すぎる。
でも、財布の残りからするとこの朝しか自腹は切れない。
いや、昼食からは私が作れば、その賄いにありつけるはずだ。
蓉姐が戻ってきたら、料理も得意だと偉哥の前でも売り込もう。
大人数分作ればその分だけ、私の食べる分も水増し出来る。
空っぽの腹を抱えて窓から立ち去ろうとすると、
すぐ近くの棚に、小さな写真立てが置かれているのが目に入った。
写真?
私は思わず手に取った。
誰だろう?
日に晒されたせいか少し退色していたが、それは旗袍を纏い、髪を西洋風に縮れさせた女の写真だった。
艶やかな黒い髪、切れ上がった黒目勝ちの目、やや厚めの紅を引いた唇で、嫣然とこちらに向けて微笑んでいる。
豊満な身を包んだ旗袍は、白黒の写真でも一見して豪奢な品と知れた。
蓉姐とは表面的な造作はまるで違うものの、酷く似通った雰囲気を漂わせている。
これは、蓉姐のお母さんだ。私はそう一人合点する。
この匂い立つ様に美しい女はきっと洋人のお妾か何かで、それで緑色の目をした娘を産んだのだろう。
写真の女の、挑みかかる様な微笑も、贅を凝らした衣装も、見れば見るほど、金持ち相手の高級妓女か妾という感じがした。
この写真ではどう多く見積もっても三十路に至らないから、
多分かなり昔に撮った物だろう。
そう推し量ると、急速に、この写真の女はもう生きていない気がしてきた。
「お母様、よくお嬢様を見張って下さいよ。」
私は写真立てを寝室の内側に向けて置き直す。
大事な母親の写真をどうして、わざわざ、色褪せるのを待つかの様に、蓉姐が窓日に晒しておくのか解せなかった。
それとも、あの人もさすがに母親の見ている前で、男と乳繰り合うのは気が引けるのだろうか。
「写真があるだけマシなのに。」
私は母さんの写真を持っていない。
そもそも、田舎の女中が写真なんて名誉な物を撮る機会はないのだ。
「母さん。」
ずっと禁じていた言葉が、口から勝手にこぼれた。
窓からはひっきりなしに車の行き交う音が出入りしていて、
流れ込む風はひんやりと冷たい。
ここの片付けはもうこの位にして、他の部屋にも仕事がないか見てみよう。
先ほど整えたベッドの前を通り過ぎようとして、
通路を挟んだ向かいの箪笥(タンス)の扉が、開きかけたままなのに気付く。
人一人が立ったまま入れそうな大きさだ。
昨夜の旗袍の山はここから出したのだ。殆ど怖いもの見たさにも似た興味で、両の扉を開く。
「うわあ…。」
私は後ずさった弾みでベッドに尻餅をつく。
箪笥の中に隙間なく垂れ下がっていたのは、半袖、長袖、袖無しの旗袍(チャイナドレス)の外、
まるで西洋の女帝でも纏う様な洋服の大群が連なり、今まで見たこともない毛皮の外套も控えていた。その下には、踵の高い靴がずらりと並ぶ。
応接間の旗袍の山は、この箪笥に収められていた衣装のほんの一部に過ぎなかったのだ。
これだけ衣装と靴があれば、春夏秋冬や晴雨の微妙な変化のみならず、
出かける場所や会う相手による着分けも可能だろう。
しかし、一着作るだけでも手間がかかりそうな衣装ばかりなのに、よくこんなに何枚も仕立てられたものだ。
豪奢な衣装の中でも、特に贅を凝らした旗袍の一枚を手に取ってみる。
艶やかでありながら、品を感じさせる朱鷺色の絹。
確かに上質な生地だが、手触りからすると、少し年季を経ている。
「あれ?これ…。」
私は衣装を手にしたまま、写真立てを振り返る。
手に取った衣装にも、写真の女が纏った衣装にも、特徴のある蝶の形の襟飾りが付いていた。
「お古なのか。」
衣装をそっと戻して箪笥の戸を閉じる。蓉姐はどうやら母親の写真ばかりでなく、大枚を叩いた衣装も形見として取って置いているらしい。
母さんの形見と言えばお針道具以外持たない私と、何という違いだろう。
鐘の連続早打ちに似た、けたたましい音が耳に飛び込んできた。
呼び出しだ!
この呼鈴の音は体に良くないと思いつつ、
隣の応接間へ急いで戻る。
「はい?」
右手で取った受話器に左手を添える。
重さはそこまでないが、妙にツルツルしていて、片手だけだと床に落としそうに思えた。
「もしもし、」
聴こえてきたのは、蓉姐ではなく、男の声だった。
「小明(シャオミン)です。」
まだ少年の声が次いで丁重に告げる。
「おはようございます。」
「あ、おはようございます。」
私はどぎまぎして鸚鵡(おうむ)返しする。
何から話せばいいんだろう?
「…蓉姐(ロンジエ)?」
向こうが怪訝な声で問う。
「あ、私、違います。」
「え、」
向こうはそう言うと、急に黙ってしまった。
「あの、ご用件なら…」
私が言いかけた瞬間、相手が早口で答えた。
「悪いな、かけ間違えた。」
ガチャリと音がして、後は梨の礫(つぶて)になった。
私が蓉姐じゃなくたって、話を最後まで聴いてから切ればいいのに。
妙にしょんぼりした気持ちになって、私は受話器を戻す。
蓉姐が戻って来たら、「小明(シャオミン)」から電話が来たとだけ伝えよう。
応接間を見渡すと、卓子(テーブル)の上に、
昨日の繕いかけの卓子掛けが忘れられた様に丸めて置いてあるのが目に入った。
取り敢えずは、あれを終わらせておこう。
電話を離れて二、三歩卓子に向かった所で、
背後でがなり立てる音がまた始まった。
今度こそは、ぶれずに堂々と「小明」と話そう。
私は深呼吸すると受話器に手を伸ばした。
「もしもし?」
「どちら様ですか?」
抑えた声で丁重に問う。
「本当だ。」
戻ってきたのは、「小明(シャオミン)」のではない、ガラガラ声だった。
「違う所にかかるぞ。」
年配としてはこちらも少年の様だ。
「あの、どちら様ですか?」
小明の仲間らしいと辺りを付けながら尋ねてみる。
「てめえ、誰に断ってこの番号使ってんだよ!」
受話器からとんでもない大きさの声が返ってきた。
「てめえのせいで、掛けたいとこに繋がんねえじゃねえかよ!」
耳を放した受話器ががなり立てる。
「落ち着いて下さいよ。私は…」
「つべこべ言わずに、今すぐこの番号変えろ!」
「ですから…」
「この次掛けた時にてめえが出たら、ただじゃおかねえからな!」
ガラガラ声が怒鳴るだけ怒鳴ったかと思うと、ガチャンと叩き付ける様な音がして、電話は切れた。
受話器をへし折りたい様な気持ちで、私は元の位置に戻す。
こちらが訊いても向こうは名乗らなかったのだから、こいつの電話を蓉姐に伝える必要はないだろう。
電話が済むと、今度はシンとした部屋でお腹の鳴る音が響く。
食べたい。
食べたい。
何かを口に入れて飲み込みたい。
ムシャクシャする気分も手伝って、
何でもいいから腹に収めなくては済まない気がしてきた。
食べたい。
食べなくちゃ。
食べるんだ。
呪文の様に頭の中で繰り返しながら、
またも鳴り出した電話に背を向けて歩き出す。
どうせ、またあのガラガラ声だろう。
玄関からこの応接間に来るまで
暗い一間があったから多分そこが台所の筈だ。
昨日の昼飯の残り位は取ってあるかな?
薄暗い一間に足を踏み入れる。
一間の一方の壁は、背の高い食器棚になっていた。
上部のガラス戸の向こうから、整然と並んだ白い陶器で出来た、洋風の小皿や湯飲みが私を見下ろしている。
上が食器棚でも、下の棚には米や調味料や、もしかすると漬物入りの甕なんかを置いているかもしれない。
期待を込めて真ん中の木戸を右から左へ引く。
唐草模様を焼き付けたどんぶり鉢、亀の描かれた大皿…。
どれも立派な品だが肝心の中身がない。
同じ戸を今度は左から右へ引く。
今度は上物の急須に火鍋と窯。
材料無しでは墓石にも劣る。
藁をもすがる気持ちで一番下の棚に手を伸ばす。
「うわ…」
思わず鼻を抑える。
私の苦手な、周家の古い酒蔵に似た匂いがした。
“WHISKY”
“BOURBON”
“CHATEAU-MARGAUX”
大小様々な瓶に貼られている名前からして、どうやら西洋の酒らしい。
紹興酒や白酒を置いていた周家の酒蔵とはもう少し違う香りがするから、
恐らく材料が違うのだろう。
薄暗い中に洋人の字を記した瓶が並んだ様子を眺めていると、
美酒というより毒薬の棚に思えてくる。
瓶に入った毒を様々に調合して、にいっと緑色の目を細めている蓉姐の姿を想像し、思わず棚を閉める。
私を殺すくらい、あの人にはきっと造作もない事だ。
応接間で鳴り響いていた電話の音がピタリと止んだ。
暗い一間のひんやりした床に屈み込んだまま、私は今更の様に寒気がしてくる。
ピンポーン。
玄関から音が転がってきた。
私はビクリと身を起こす。
一間の入口から玄関を窺ってみるが、それきり辺りはシンとしている。
気のせいだったのか。胸を撫で下ろすと同時に、鍵がちゃんと挿してあるかどうか確かめに近付く。
ダン!ダン!ダン!
玄関の扉が続けざまに揺れ、私は思わず飛び退く。
誰かが扉の外にいる!
ダン!ダン!ダン!
私は扉の取っ手を引き寄せたまま思い巡らす。
蓉姐なら、銀の鍵を持って自分で鍵を開けるはずだから違う。
偉哥なら、蓉姐と一緒に来るか、鍵を貸してもらうだろう。
とすると、…?
「あいた!」
私は額を押さえる。
扉がいきなり向こうから開いたので、思い切りぶつかった。
正面には、十六、七歳位の、見知らぬ少年二人が立っていた。
二人とも、ポカンと口を半開きにしてこちらを眺めている。
「あなた方はどちら様ですか?」
鍵を開ける前に聞くべきだったと悔やみつつ、私は尋ねた。
「てめえこそ、誰だよ。」
二人の少年の内、太って背の低い方が言った。
椿油と一緒に埃まで塗り込んだ髪に、大きな目玉のギョロついた、ニキビだらけの顔をしている。向き合っていると、何だか汗臭い匂いがした。
「さっきの電話はお前だな。」
あのガラガラ声か!
相手の声音にムッとする。
扉をいきなり開けて私にぶつけておきながら、こいつは謝りもしない。
「人に名前を聞く時はね、」
私はこちら側の取っ手を取ると、思い切り扉を押した。
「まず、自分から名乗るものよ。」
「あいて!」
扉の縁がガラガラ声の団子鼻を強かに打った。
「この…」
鼻を押さえた掌を放して、そこに着いた血を確かめると、ガラガラ声のギョロ目が血走った。
まずい!
私は慌てて扉を閉めようとしたが、その前にガラガラ声が中に突進してきた。
「なめた真似しやがって!」
鼻血で汚れた指先が私の襟元を掴んだ、と思った瞬間、ガラガラ声は羽交い締めにされた。
「やめろ、阿建(アジェン)!」
それまでずっとガラガラ声の背後にいた、痩せこけた蒼白い顔の少年が叫んだ。
「放せよ!」
罠に掛かった猪さながらもがく相棒を、もう一人の少年はか細い腕で押さえ付ける。
その弾みに、洗いざらした様に油気のない黒髪が、蒼白い額にはらりと掛かった。
「女には手を上げるなって、兄貴にも言われただろう!」
「俺は梁曉明(リャン・シャオミン)。さっき電話した『小明(シャオミン)』だよ。」
蒼白い少年は私にそう名乗ると、ようやく大人しくなったガラガラ声を放した。
「こいつは杜建成(ドゥー・ジェンチャン)。阿建(アジェン)て呼ばれてる。」
名指しされたガラガラ声は、こちらを睨み付けたまま、鼻血を拭った。
「俺もさっき電話しただろ。」
「姚莉華(ヤオ・リーホア)です。」
私は小明の目を見据えて言った。
「昨日からこちらでお世話になっています。」
多分これも言うべきだろう。
「姐さんたちからは、『莉莉(リリ)』と。」
「莉莉(リリ)?」
阿建(アジェン)は、馬鹿にした様にギョロ目の太い眉を吊り上げた。
小明(シャオミン)は何故だか寂しそうな顔で、私の足許に目を落とす。
小明の目に釣られて自分の足許に目を落とすと、蘇州から出てきた時の破れ靴が目に入った。
この人は憐れんでいるのだろうか?
まあ、乞食同然で拾われたのは事実だし、今更隠しようがない。
二人の靴を見やると、阿建は髪と同じく油と埃でテカった靴を履いていたが、小明は古ぼけた靴を履いていた。
こいつらだって、私と似た様なものじゃないか。
そう思った瞬間、小明が口を開いた。
「ここに劉偉霖(リウ・ウェイリン)という人は来てないか?」
鼻血がまだ止まらないらしく、顔を上向けた阿建も口を挟む。
「俺らの兄貴なんだ。」
偉哥の本名を初めて知った。
「偉哥なら蓉姐と一緒に出掛けたわ。」
言ってから、私の寝てる間に二人が別々に外に出た可能性もあることに気付いた。
「どこへ?」
小明がまた問う。
「分からない。」
むしろこちらが聞きたい。
「私が起きた時には、二人とも居なかったから。」
「何だよ、頼りねえなあ。」
開きかけたドアの向こうから覗く外の廊下にも響かせる様に言うと、阿建は袖で鼻を擦った。
やっと、血が止まったらしい。
「じゃ、中で待たせてもらおう。」
埃の付いた靴で応接間への廊下をズカズカ進んでいく。
「あ、ちょっと、」
「俺らは何度も来てるから、部屋に入れても蓉姐は怒らないよ。」
小明は言いながら、扉を閉めて、錠を挿した。
「小明、馬鹿はほっとけ。」
阿建が振り向いて言い捨てる。
何も言い返せなくなった私は、二人の後に従って応接間に向かった。
「触らないで!」
応接間に足を踏み入れるや否や、私は金切り声を出した。
「デカイ声、出すなよ。」
阿建は伸ばした手を一度引っ込めたが、苛立たしげに天井を指した。
「人が聞いたら、誤解すんだろ。」
「それは、蓉姐(ロンジエ)の衣装よ。」
上の階、というより他の部屋にはどんな人が住んでるんだろうと思いつつ、私は阿建と小明に挟まれた籐椅子の旗袍の山を指さす。
「んなの、知ってらあ。」
阿建はうるさそうに片手で空を払う仕草をすると、長椅子にドサリと腰掛けた。
小明は、棒立ちのまま旗袍の山を眺めている。
「知ってるなら、汚れた手で触らないで。」
鼻血の付いた指で白絹の服に手を伸ばすなんて!
私は籐椅子に小走りで近寄った。
小明は遠慮がちに脇によける。
こいつらのいる部屋に置きっぱなしでは不安だから、やっぱり、手直し済みの服は寝室に移動させよう。
一旦、衣装のうず高い山を持ち上げようとして、また戻す。
まずは、寝室の扉を開けてからだ。
「何か手伝うかい?」
チラと見やると、小明の手はそこまで汚れてはいない。
「ありがとう、でも大丈夫。」
「小明、火、貸してくれよ。」
阿建の暢気な声は無視して、小分けにした衣装の第一群を寝室に運び込んだところで、急に小明の声が飛んだ。
「お前、旗袍の上に座ってるぞ!」
応接間に飛んで戻ると、阿建が薄橙色の旗袍を摘まみ上げていた。
「ここにも一枚あったけど。」
「これ、もらった服なのに!」
私は服を引ったくって阿建が摘まんでいた辺りを叩いて払う。
生地に目を近付けて、汚れが残っていないか確かめる。
「だったら、こんなとこに置いとくな。」
阿建はそう言い捨てると、小明の手からマッチ箱を引ったくって、自分の煙草に火を点けた。
「長椅子の上にそんなのが一枚きり広げてあったって、カバーか膝掛けかと思うよな?」
阿建は紫煙を吐き出すと、小明に念を押す。
小明はうんともすんとも言わずに、自分も胸ポケットから煙草を取り出した。
私の服と分かった途端、「そんなの」か。
忌々しい気持ちを抑えて金魚色の旗袍を畳む。
しかし、そこではたと困る。
私の物は、一体どこに仕舞えばいいんだろう?
取り敢えずは隣の寝室に持って行く。
この服にあいつらの煙草の匂いが染み付くのは我慢がならない。
窓際の写真が載った棚の上に、もう一度小さく畳んで置いておく。
日差しを浴びて、橙色の旗袍は水中の鱗の様に柔らかに光る。
蓉姐が戻ってきたら、私の持ち物はどこに置くべきか聞こう。
これで全部だ。
小分けにした旗袍の最後の一群を寝室に運び込み、再び応接間に足を踏み入れる。
阿建と小明は二人でフカフカした長椅子に腰掛け、思い思いの方向に目を向けたまま、黙って煙草をくゆらせていた。
兄貴分がいなければ、こいつらもやる事がないのだ。
そんなことを思いながら、私は寝室の扉を固く閉めた。
さて、と。
次は何をすればいいんだろう?
卓上の隅で丸まっている白い卓子掛けが目に入る。
そうだ、あれを繕う仕事がまだ残っていたんだった。
卓子に近付いていくと、阿建と小明は我に帰った様にこちらを向く。
阿建がジロリとこちらを睨んで、卓上の灰皿に煙草を擦り付けた。
あんたたちに、用は無い。
私は何も言わずに卓子掛けとお針道具を取り上げる。
卓上の灰皿の傍らに、擦れて形の崩れた小さなマッチ箱が置かれているのが目に入った。
小明はいつの間にかまた目をあらぬ方に向けて、白い煙を少しずつ吐き出している。
まだ子供で、貧乏な癖して、どうして煙草なんか吸ってるの。
空になった籐椅子を卓子に引き寄せて腰掛けると、私は卓上にお針道具を開き、卓子掛けの巾を膝の上に広げた。
※作者よりお知らせ※
固有名詞や当時の風習に関する註釈・説明は、感想スレの方に書いておりますので、疑問な点があればそちらをご参照下さい。
なお、質問等もそちらで受け付けておりますので、皆様の積極的なご利用をお待ちしています。
まず、桃色の芙蓉の花びらにまだ爪の先程に残っている黒い焦げ目を、新しい白の花びらで完全に覆い隠す。
その後は、引き続き白糸で新しい芙蓉を縫い取ろう。
そこまで目論み卓上のお針道具に手を伸ばした瞬間、私は息を飲んだ。
肝心の白の糸が、もう殆ど残ってない!
昨日の旗袍の修繕で大方使い果たしてしまったのだ。
どうすればいいの?
新しい花びらというより、そこだけ桃色が褪せてしまった様にしか見えない白糸の繍(ぬいとり)と、花びらの端に出来た虫食いみたいな焦げ目の残りを、私は眺めた。
元から桃色の糸は切らしている上に、代わりの白糸も尽きてしまった。
膝の上にやりかけの図面を広げたまま、頭を抱える。
今度は、どうやってこの蝕みを取り繕えばいいんだろう。
グゥゥゥゥゥ…
地鳴りに似た音が辺りに響いて来て、私は思わず目を上げる。
阿建が煙草を持たない手を腹に当てている。
私は吹き出すのを堪えた。その一方で、急速に空腹の感覚が蘇ってきて、腹に力を籠める。
今、お腹が鳴ったのが私じゃなくて良かった。
「おい、」
前から急に阿建の声が飛んだ。
「お前、何やってんの?」
まるで、物盗りを捕らえたお巡りの口調だ。
「ここが焦げてるから繕ってるの。」
私が卓子掛けを掲げて刺繍した部分を指さすより先に、阿建が言い放つ。
「さっさと茶ぐらい出せ。」
「は?」
私は自分でも嫌な感じに聞こえる声を阿建に返した。
こいつ、留守宅に上がり込んで、何言ってんだ?
「は、じゃねえよ。気の利かねえ女だな。」
阿建は吸い殻をポンと灰皿に放ると、両手を頭の後ろで組んで長椅子の背に寄りかかった。
小明が肘で突いたが、阿建は素知らぬ顔でどっかり凭れたまま、顔を仰向ける。
「茉茉(モモ)だか莉莉(リリ)だか知らねえけどさ、おもてなし出来ねえ奴はすぐお払い箱だぞ。」
阿建は天井に向かって言い放つと、ニヤリと笑った。
小明が何だか赤い顔で咳払いする。
こいつが「おもてなし」と言うと、妙にイヤらしく聞こえる。
「それとも、あれか?」
阿建は毛虫眉をピクリと上げて、ギョロリと横目をこちらに向けた。
「ド田舎から出てきて、お茶の淹れ方も知らねえのか?」
「分かりました。」
出来る限り、感情を込めない風に声を調節して答えると、私は卓上掛けを畳んで立ち上がる。
今更、自分が田舎者だと認めたくない意地なんてない。
だが、とにかく、この場を離れたかった。
「お茶、お二人分ね?」
籐椅子を卓子の方に押しながら確かめると、小明はギクリとした顔付きになった。
「人数分、お持ちします。」
早足で廊下に出ると、阿建のガラガラ声が追って飛んで来た。
「龍井茶(ロンジンチャ)お願いね、西湖龍井(シーフーロンジン)だぞ!間違えんなよ!」
お茶葉って、一体どこに置いてあるんだろ?
薄暗い台所で、私は餌を漁る鼠の様に、先程探ったばかりの食器棚を一段一段確かめる。
湯飲み茶碗や急須はあるのに、肝心の茶葉の姿は見えない。
一番下の棚を開けて酒蔵臭い瓶の間を探っても、目に入るのはやはり“SCOTCH”“BEER”“RUM”…
金釘みたいな横文字が顔を出すばかりで、「西湖龍井」や「鉄観音」の様な代物にはお目にかかれない。
「どこ?」
頭を抱えてペタンと尻を着いた所で、急に辺りがパッと明るくなった。
「台所の電灯はここで点けるんだよ。」
小明が立っていた。
「消す時もここ。」
カチリと音がして、また部屋は真っ暗になった。
「で、また点ける。」
カチリと音がして、台所は再び日が差した様に明るくなった。
「ここ、色々置いてあるから、灯り点けないと危ないだろ?」
小明は笑って言った。この人の笑い顔には嘲りや蔑みがない代わりに、何だか寂しげな感じがある。
「どうも、ありがとう。」
「西湖龍井の茶葉ってどこに置いてあるの?」
私は早速本題に入る。
「俺らにそんな高いお茶は要らないさ。」
小明は苦笑いして首を振った。
灯りの下で、奥二重の切れ長い目が瞬く。
「そのくらい分かるだろ?」
「でも、蓉姐が帰ってきたら、お茶くらいお出ししないといけないでしょ。」
あの人の下で働いているのだから、留守の間にも台所を把握しておかなければいけない。
「お茶葉はそこの流しの下だよ。」
小明は言いながら、私の後ろにある流しに近付いていって、その下の棚を開けた。
「匂いが移るから、酒とは別に置いてあるんだ。」
開いた棚の奥からしっとりした香りが馥郁と漂い、並んだ金属の茶壺が鈍い光を返す。
「蓉姐がよく飲むのは西湖龍井じゃなくて、茉莉花茶かインドの紅茶の方だ。」
「インド?」
「洋人がよく飲むやつさ。」
小明は棚から他の茶壺とは毛色の違う、金属の缶を取り出して見せた。
「人の血みたいに赤いお茶なんだ。」
“ASSAM”とまたも金釘風の洋人の文字を目にしただけで、本当に人の生き血を搾って作った茶に思えてきて、背筋が寒くなる。
「偉哥がいらした時はいつも一緒にこれを飲むの?」
昨夜、隣の部屋から切々に聞こえてきた声を何故か急に思い出して、頭に血が上るのを感じた。
“ASSAM”という綴りまでが、読み方も意味も分からないまま、今度は媚薬じみた風に映ってきた。
「いや、それはまちまちだよ。」
小明は私の赤い顔をどの様な意味に取ったのか、やや細めた目の奥から私を見据えて、少し突き放す口調になった。
「兄貴は全然構わないけど、姐さんがその時の気分次第で『紅茶が欲しい』とか『茉莉花茶にして』とか決めるから。」
「あんたがお茶淹れるの?」
思わず聞き返してから、相手の顔色に愚問だと悟る。
「下っ端の俺らが姐さんを台所に立たすわけにはいかないじゃないか。」
小明はそう言うと、俯いて唇を噛んだ。
「それは、そうだよね。」
私は慌てて言葉を探す。
「でも、これからは、あたしが台所仕事を全部やることになるから大丈夫よ。」
小明は睫毛を伏せたままだ。
「蓉姐もきっとその為にあたしを家に置くことにしたんだわ。」
切れの長い目が漸くこちらに向けられた。
「姐さんだって、いい男の人をいつまでも台所に立たすわけにいかないもの。」
「いい男の人」の「人」に力を込めて、私は続けた。
「ここに来る前は、田舎で女中をしていたの。」
相手は黙ってこちらを見詰めている。
「蓉姐にその話をしたら、『うちに来てもいい』って。」
小明は例の寂しい笑顔に戻ると、流しの下の扉をまた開けて今度は水壷(やかん)を出した。
「姐さんはお茶の淹れ方にはかなりうるさいぞ。」
流しにも風呂場と同じ銀の管が付いていて、小明が取っ手を捻ると口から勢い良く水が出て水壷の底を打った。
「竈(かまど)はどこ?」
私は台所を見回して尋ねる。
水は管から出すとして、火はどこで使うんだろう?
「コンロを使うんだ。」
「コンロ?」
キョトンとする私をよそに、小明は水を止めて満たした水壷に蓋をする。
と、今度は隣の台に向かった。
隣の台は全体に平らな代わりに、鉄で出来た妙な凹凸が取り付けられていた。
何なの、これ?
「コンロはこいつを捻って、」
言いながら、小明は台の下に付いている栓を捻る。
心なしか硫黄に似た匂いがしてきた。
「火を点けるんだ。」
胸ポケットからマッチ箱を取り出して、小さな火を点けると、凹凸に近付ける。
すると、フワリと青い火の輪が凹凸の上に燃え上がった!
「火を止めるにはこの栓を逆に回せばいい。」
小明はマッチを振って消すと、最初に捻った台下の栓を指し示した。
「使い終わったらすぐ火は止めろよ。点けっ放しだとガス代が嵩むから。」
「色々教えてくれて、どうも、ありがとう。」
私は小明に頭を下げた。
水も、火も、栓を捻れば簡単に出せる代わりに、後払いで金を取られるのだ。
取り敢えず、それだけは胆に銘じておこう。
「ここでは、全部、当たり前の事さ。」
小明はそう言うと、水缶を青い火の上に乗せた。
私も並んで青い火を眺める。
「竈(かまど)とコンロではどっちが早くゆで上がるの?」
この青い火は赤い火より冷たく見えるが、威力も強そうに思える。
「さあ。」
小明は首を僅かに傾げた。
「俺は、竈でゆでる方は良く知らないから。」
「君は、どこから来たの?」
青い炎を見詰めたまま、小明がぽつりと尋ねた。
「蘇州(そしゅう)よ。」
私は答えた。
「やっぱりそうか。」
小明は目に青い炎を宿したまま微笑んだ。
「君の話し方は丸っきり蘇州娘だから。」
「あなたは?」
「俺らは杭州(こうしゅう)。」
「杭州…。」
「俺らは皆、桃源郷から来たんだな。」
天に天堂、地上に杭蘇。
昔から、「杭蘇」こと蘇州と杭州は、水の豊かで美しい地上の極楽の筈だった。
今は、二つの間に上海がある。
「杭州って、行ったことないわ。」
馬鹿にした言い方に聞こえない様に私は切り出す。
「杭州の西湖は太湖より水が澄んでいて綺麗だって言うけど。」
「蘇州の太湖は西湖よりずっと大きくて魚が美味いって聞くけど、俺も確かめたことはないな。」
小明は悪戯っぽく笑うと続けた。
「こっちの六和塔(りくわとう)とそっちの北寺塔(ほくじとう)でどっちが高いのかも知らないし。」
「古いのは多分こっちの北寺塔よ。」
中が煮えてきたらしく、青い火の上の水缶がカタカタ震え出した。
「でも、高いといったら、やっぱりここの摩天楼なんだろうな。」
そう呟くと、小明の笑いがまた寂しげなものに戻った。
「君はいくつ?」
震える水缶に目を注いだまま小明がまたぽつりと言った。
「いくつって…。」
十五と正直に打ち明けるべきなのか。
それとも、十八で通さなければいけないのか。
目の先で水缶の揺れが次第に激しくなる。
「一つ下よ。」
「一つ下?」
小明が振り向く。
「あなた、十九歳なんでしょ?昨日蓉姐が言ってたの。」
口を半開きにすると、小明の顔は、十五、六よりもっと幼く見える。
「偉哥が二十八歳で、小明と阿建は十九歳だって。」
蓉姐は何歳なんだろうと思いながら、私はコンロの栓を逆に回す。
青い火が嘘の様に消えた。
「だから、あなたの方が一つ上。」
「十八か。」
どうして、そんな寂しい笑い方をするんだろう。
「同じ位だろうとは思ったよ。」
「おい、何、くっちゃべってんだよ!」
阿建が唐突に顔を出した。
狭い一間にバタバタと足音が響き、台所が急に汗臭くなる。
「お湯が今、沸いたところよ。」
阿建はそれを聞くと、流し下の棚をバタンと音高く開けた。
「ちょっと、もっと静かに開けて頂戴。」
蓉姐も、確かにこいつには台所仕事をいつまでもさせたくあるまい。
「ええと、西湖龍井は、あったあった!」
「止めとけよ、西湖龍井なんて。それ、バカ高い茶葉だぞ。」
先に制したのは、小明だった。
「洋酒はさすがにヤバいけど、お茶なら大丈夫だろ。」
阿建は念を押す様に小明に言った。
「この前も、飲ましてもらったじゃん。」
「あれは彪哥(ビャオ兄貴)たちが来たから、蓉姐も特別に高い茶を出したんだ。」
小明はそこから急に声を潜めて続けた。
「俺らだけで勝手に飲んだら、大変なことになるぞ。」
「ねえ、莉莉。」
阿建が急に上目遣いにこちらを向いて甘ったるい声を出した。
「お前が気を利かせて俺らに龍井茶を出したってことにしてくれな…」
「駄目です。」
私は最後まで言わせずに答えた。
「姐さんに無断でそんな高いお茶を淹れるなんて、図々しい真似は出来ません。」
後で酷い目に遭うのは私なんだから。
「ちぇっ、ケチ臭い女だな!」
阿建の舌打ちで私の顔に唾が飛ぶ。
「ケチも何も、ここに置いてある物は全部姐さんので、私の自由になる物は何一つありませんから。」
私は阿建の手から西湖龍井の缶を取り上げる。
元に戻すべく流しの下の棚を開くと、「洞庭碧螺春(どうていへきらしゅん)」の缶が目に入った。
蘇州と杭州で並び立たせてやろう。
私は「洞庭碧螺春」の隣に「西湖龍井茶」の缶を収めた。
「茉莉花茶、出して。そいつなら安いから大丈夫だ。」
頭の上で小明の声がした。
「早く淹れないと、沸かした湯が冷めちまうよ。」
「分かった。これね。」
私が「茉莉花茶」の缶を出して示すと、小明はこちらに背を向けて食器棚の真ん中を開けているところだった。
「紅茶以外はこの急須で淹れるから。」
片手に持って見せながら、もう一方の手で私から缶を取る。
「茶葉入れる前に、急須は一回軽く洗った方がいい。」
言いながら、流しの管の栓を捻って洗い出す。
この人は、今までどれだけ台所仕事をさせられてきたんだろう。
「俺、紅茶がいいな。」
阿建はいつの間に出したのか、紙箱から煎餅菓子めいた物を取り出してポリポリ噛みながら口を挟んだ。
「クッキーには紅茶の方が合うし。」
「お前、勝手に喰うなよ。」
小明が急須を濯ぎながら、阿建を睨む。
「いいじゃん、箱の口、もう開いてたし。」
私は食器棚から湯飲みを探す。
私たち三人は、どんな器を使えばいいんだろう?
「この白い、取っ手が付いた器でいいの?」
水の出る管といい、コンロといい、洋人の作る物には何でも取っ手が付いているみたいだ。
「ああ、三個出して。」
言いながら小明は缶の蓋を開け、カサッと茶葉を急須に振り込む。
台所いっぱいに乾いた茉莉花の匂いが広がった。
「俺、紅茶の方がいいって今言ったじゃんよ。」
阿建が口を尖らせる。
「紅茶はもう缶に一杯分しか残ってないんだ。」
小明は阿建に告げると、私に言った。
「茶葉が足りなくなったら、姐さんに言って買い足してね。」
小明は水缶(やかん)の湯を急須に注ぎながら、苦い顔で付け加える。
「その場で飲みたい茶がないなんて事になったら、姐さんの雷が落ちるから。」
「お茶葉ってどこに買いに行くの?」
この界隈はまるで分からない。
「紅茶の茶葉だけは…」
小明が言い掛けた所で、玄関からガチャガチャと錠の鳴る音がした。
私たち三人は台所で一斉に凍り付く。
「ただいま。」
蓉姐の声と同時に、私は湯飲みを持ったまま廊下に飛び出す。
「お帰りなさいまし。」
「あんた、駄目じゃないの、電話したのに。」
白地に赤紫の蘭が刺繍された旗袍を着た蓉姐は、腰に手を当てて呆れた声を出した。
「え?」
「せっかく靴を買ってろうと店から電話したのに、何度鳴らしても出ないんだから。」
あの三度目の電話は、姐さんだったのだ。
「すみません。勝手に取っちゃいけないと思って。」
「電話の取り次ぎくらい、さっさと覚えろよ、バーカ。」
後ろから言ったのは阿建だ。
「何だ、お前ら来てたのか。」
玄関の錠を挿して入ってきた偉哥が言った。
「そのお茶、すぐに出して頂戴。」
蓉姐は台所の小明に声を掛けると、私に向き直った。
「あんたの分のご飯も買ってきたわ。」
「どうもありがとうございます。」
麻痺していた空腹の感覚が急速に戻ってきた。
「姐さん、俺らもご相伴できますか?」
阿建が後ろ手に笑顔で近付いてきた。
「その前に、まず手を前に出しなさい。」
蓉姐が言うと、阿建は恐る恐る手にしたクッキーの箱を出した。
「本当にあんたは、頭の黒い鼠だわね。」
蓉姐は阿建の頬をピシャリと打つと、クッキーの箱を取り上げて流しの下に投げ込んだ。
「あんたが来た後は、必ず茶菓子がごっそり減るんだから。」
「すみません。今日はまだ何も食ってないもんで。」
阿建は叩かれた頬を押さえたまま、打って変わってオドオドした声で答える。
「お前ら、朝飯、まだ食ってないのか?」
香ばしい匂いを放つ包みを持った偉哥が怪訝な顔をする。
これは、肉饅頭(マントウ)の匂いだ。
「その件については、今、お話します。」
小明が盆に急須と新たな茶器を載せながら答える。
「こちらに急にお邪魔したのもそのせいなんで。」
「莉莉。」
蓉姐と偉哥が応接間に向かい、阿建が偉哥の荷物を受け取って台所を出たところで、小明が私を手招きする。
「蓉姐と偉哥が使うのはこれだから。」
お盆に載せた小花模様入りの洒落た湯飲みを指す。
「桃色の花模様が姐さんで、青い方が兄貴。」
まるで聞かれたら困る秘密の様に、早口の小声で説明する。
「分かった」
私は真っ白な茶器を三個持ったまま頷く。
多分、模様なしの器は雑魚用なのだ。
「俺は、もう一回湯を沸かすから、君は先に行って姐さんたちに茶を出しておいて。」
「お茶、お持ちしました。」
お盆を持って応接間に行くと、偉哥が長椅子で煙草を吹かし、蓉姐がせっせと食べ物の包みを広げている。
と、開いた寝室の扉から阿建が椅子を二脚抱えて姿を現した。
応接間の椅子だけで足りない時は、どうやら隣から補充するらしい。
「箸と取り皿!」
重たいお盆を卓子(テーブル)に載せたところで、蓉姐が当然の様に私に言う。
「こちらです。」
頭のすぐ後ろで小明の声がして、すぐ前に皿と箸の山がトンと置かれた。
「醤油と辣油を持ってきて。」
やって来た小明に蓉姐が新たに言い付ける。
「お酢もね。」
「はい。」
小明が小走りでまた台所に戻る。
「小皿が無いじゃんか。」
阿建も卓上を見やってそう言うと、台所へ駆け去った。
「何やってんの、早くお茶、淹れなさい。」
ぼやぼやするな、と咎める顔つきで蓉姐が私の肩を叩く。
「あ、はい。」
我に返って急須を取り上げると、取っ手が酷く熱くなっていて、危うく床に落としそうになった。
「やっぱりお湯足りなかった?」
急須を持って台所に戻ってきた私に、小明がコンロの火を止めながら尋ねた。
「ええ。」
「あの急須、三杯分がやっとなんだよ。」
小明は苦笑しながら急須の蓋を開けると、新たな湯を注いだ。
淡い茉莉花の香りと共に、白い湯気が小明の小造りな横顔を包む。
「貴方と私の分は二番煎じになっちゃった。」
「構わないさ。」
小明は急須の蓋を閉じると、私に差し出した。
「いつものことだから。」
久し振りにお腹一杯食べた、と言いたい所だが、そうは問屋が卸さなかった。
何せ、三人分の食事を五人で分け、おまけに追加分の二人が腹を空かせた少年ときている。
そこに新参者の私がでしゃばる訳にもいかない。
向こうの皿に、粽(ちまき)が一つだけ残っている。
手を伸ばすと赤黒い手が重なった。
目を上げると阿建のギョロ目がカチリとぶつかる。
「阿建(アジェン)。」
蓉姐の声が飛ぶ。
「あんたは、さっき、散々つまみ食いしたでしょ。」
阿建は黙って手を引っ込める。
どうして姐さんじゃなくて、私を睨むの?
粘っこい粽はそのままだと喉に詰まりそうなので、茉莉花茶と一緒に飲み込む。
「で、」
偉哥がまた煙草に火を点ける。
「お前ら、どうしてここに来た?」
「屋台で、昨日の奴らに遭いました。」
小明が声を潜めて言った。
「何人いた?」
くわえ煙草の偉哥の眼光が鋭くなる。
「四、五人です。」
答える小明の目も冷たく光った。
私は鳥肌が立つのを覚えた。
「もっと居たぜ。」
阿建が口を挟む。
「あいつらが来る前に擦れ違った奴らも、同じ寧波(ニンポー)訛りだったんだ。」
「四馬路(スマロ)で俺らが出くわした連中の仲間さ。」
偉哥の言葉に蓉姐も煙草を燻らせながら頷く。
皆、食べ終わったことだし、私はさっさと後片付けをしよう。
「お茶、お代わりを淹れて頂戴。」
食器と空になった急須を盆に載せて私が立った所で、長椅子の蓉姐が言った。
「はい。」
私が何も考えずに頷くと、小明が無言でマッチ箱をポンと卓上に置く。
そうだ、コンロで沸かすんだった。
私は黙って崩れたマッチ箱を受け取った。
そろそろ沸く頃かな?
流しで食器を洗いながら、コンロで青火にかけた水壷(やかん)を見守る。
「大丈夫とは思うけど、階段から降りた方がいいわ。」
「ああ。お前も出る時は気を付けろ。」
廊下から蓉姐と偉哥の声とバラバラに入り雑じった足音が聞こえてきた。
「それじゃ、姐さん、お邪魔しました。」
「どうも、ご馳走様です。」
小明と阿建が代わる代わる挨拶する声が耳に入る。
もう帰っちゃうの?
水壷(やかん)がカタコト震え出したので、私はコンロの火を止める。
玄関の扉が静かに開け閉めする音が響いてきた。
「紅茶にして。」
戻ってきた蓉姐が廊下から台所の私に言い放つ。
「はい。」
こちらの返事を待たずに、蓉姐は応接間に姿を消す。
紅茶はまだ一杯分残っているのだっけ。
小明の言葉を思い出しながら、流しの下から“ASSAM”の缶を取り出す。
蓋を開けると、確かに申し訳程度にしか残っていない。
「これ、紅茶以外に使うんだった。」
先程の急須からふやけた茉莉花茶の茶葉を捨てた所で、また小明の発言を思い当たる。
「まだなの?」
食器棚から水差しに似た白磁の容器を見付けた所で、奥から蓉姐の声が飛んできた。
「今、お持ちします。」
「飲んだら出掛けるんだから早くしてよ!」
小明がもう少し残ってくれたら良かったのに。
「出掛けるから、支度して。」
台所で洗い終わった食器を拭きながら棚に戻していると、飲み終えた湯飲みを運んできた蓉姐が言った。
「すみません。」
私は慌てて湯飲みを受け取り、流しに漬ける。
蓉姐の手は使っている湯飲みに似て、まるで血が通わないかの様に白く、そして滑らかに見えた。
「今日は支配人に会うから、失礼の無い様にしてね。」
「はい。」
支配人?
頷きながらも頭の中はまた耳慣れない言葉でいっぱいになる。
「達哥(ダー兄さん)はとても厳しい人なの。」
あんたも知ってるでしょ、という調子で、蓉姐はまた見知らぬ人の名を口にする。
「あんたが使い物にならないと判断したら、その時は、」
姐さんの紅い唇が続ける。
「バラバラにして蘇州河(そしゅうがわ)に放り込む位、あの人は平気でするわ。」
「あんたのバッグはこれね。」
蓉姐は箪笥の奥からベッドへ黄色いビーズのバッグを放る。
「昔、あたしが使ってたやつだから、ちょっと流行遅れだけど、使う分には支障ないから。」
「どうも、ありがとうございます。」
やっぱり、ちょっと緩いみたい。
貰った橙色の旗袍は、袖を通すと、脇の下の隙間から微妙に下着が覗いてしまう。
卓子掛けなんかより、こっちの手直しを先にすれば良かった。
そう思いながら、ベッド上の黄色いビーズのバッグに手を伸ばした所で、蓉姐の声が飛ぶ。
「ちょっと、万歳してみて。」
私はバッグを持ったまま両手を挙げた。
何て間抜けな格好だろう。
蓉姐は呆れた顔で息を吐く。
「洗面所に剃刀置いてあるから、今すぐ脇の下を剃って来なさい。石鹸を付けると綺麗に剃れるから。」
万歳したまま、顔に血が上る。
「脇にヒゲを生やしたまま旗袍着てたら、オカマと思われるわよ。」
「こっちよ、」
濃紺の旗袍に真珠の耳環で着飾った蓉姐の声が通りに響く。
「ほら、もっと、シャキシャキ動く!」
「はい。」
返事はしてみるものの、新しい靴を履いた足を早めようとすると、グラついて転びそうになる。
踵の高い靴、姐さん曰く「ハイヒール」が、こんなに歩きにくいとは思わなかった。
私が薄桃色のハイヒールで一歩踏み出すのにさえ四苦八苦している間に、姐さんは青紫のハイヒールをカツカツ進めていく。
と、その規則正しい音が止まった。
「ここで、今度は頭をやってもらうわ。」
次は、一体何があるんだろう…。
「白小姐(バイさん)、おはようございます。」
五十がらみの男が丁重に頭を下げた。
「今日は私じゃなくて、この子の髪をお願いしたいんです。」
「お下げに長くしてるみたいですけど。」
「切ってパーマにして下さい。」
蓉姐と男のやり取りを尻目に私は店内をぐるりと見回す。
壁に備え付けられた大きな鏡。
その前にはベッドと椅子の合の子みたいな腰掛けが並ぶ。
部屋全体に漂う、石鹸やら髪油やら薬やら混じった異様な匂い。
何だか床屋というより、怪しげな手術を施す医院にでも入った気がした。
男は急に私の肩に手を置くと、金歯を覗かせて笑った。
「それじゃ、そちらにお掛けになって下さい。」
「いかがでしょう?」
理容師は鏡越しに金歯を見せて微笑む。
「とても、」
鏡の中の私が引き吊った顔で笑う。
「とても素敵です。」
お下げを肩まで切って全体を波打たせ、前髪は鶏冠みたいに丸めて縮らせてある。
何だか、頭にだけ雷が落ちて鳥が巣を作ったみたい。
「このパーマが今の流行りなの。」
蓉姐が隣に来て笑う。
多分洋人の女が始めた頭なんだろう。
同じ髪型なのに、私は火事で焼け出されたみたいで、蓉姐は生まれ落ちた瞬間からこの頭の様に思える。
「どうも、ありがとうございます。」
せめて笑い方だけでも似せよう。
唇の両端をきゅっと吊り上げたところで、鏡の中で後ろの扉が開いた。
「薇薇(ウェイウェイ)!」
「あ、ね、姐さん、」
呼ばれた相手は、ぷっくりした丸顔のクリクリした両目をパチパチさせた。
「お早うございます。」
薇薇(ウェイウェイ)は太った小柄な体を折り曲げて、巨大な鳥の巣じみた頭を下げた。
動くと石榴(ざくろ)色の旗袍(チャイナドレス)がはち切れそうで、見ているこちらがハラハラする。
「この店で会うなんて、あんたも出世したわね。」
蓉姐がにいっと目を細めて相手に近付く。
この目付きは、まずい兆候だ。
私は腰掛けから動けないまま見守る。
「あ、あたしも姐さんたちを見習って、身なりだけでも一流にしようと思いまして。」
薇薇はドングリ眼をパチパチさせ、甲高い声で囀(さえ)ずる様に続ける。
「パーマかけてちょっと経つと、すぐこうなるもんですから。」
言いながら、薇薇は自分の頭を指差す。
この子は髪が多すぎるのか、それとも頭が大きいのか、雷が落ちた後に台風に見舞われた様な髪型になっていた。
それとも、この髪型自体が、しょっちゅう理容師に手入れしてもらわないと駄目なのかな?
床屋代には月々幾ら必要になるの?
そもそも、この一回分の料金は?
私は思わず額に手を当てた。
「あの、この子は?」
「新しく入る子ですか?」
薇薇は忙しく瞬きして蓉姐を窺いながら、私に向かってあたふたと手を動かした。
「あ、私、莉莉と申します。」
私も腰掛けから立ち上がる。
「昨日から蓉姐の所でお世話になっております。」
取り敢えず蓉姐と薇薇の二人が立つ方角に頭を下げる。
少なくとも、これで両方に対して角は立たない筈だ。
「莉莉、莉莉ね。」
薇薇は今度は忙しげに大きな鳥の巣頭を振った。
瓢箪(ひょうたん)じみた福耳に下げた、石榴(ざくろ)の粒に似た透き通った赤の飾りが揺れる。
遠目にも明らかな安物の偽石と知れたが、この子が着けていると、何だかとても美味しそうに輝いて見える。
「あんたは茉莉花(ジャスミン)になったのね。」
「あたしはね、薔薇(バラ)なんだ。」
薇薇は丸い頬を赤くして、堰を切った様に喋り出した。
「ほんとは『微瑩(ウェイイン)』だから、『瑩瑩(インイン)』が良かったんだけど、それだと菱姐(リン姐さん)の『菱菱(リンリン)』と紛らわしいから、『薇薇(ウェイウェイ)』にしろって達哥(ダー兄さん)が…」
「薇薇!」
蓉姐の低い声は奔流も止める。
「エメラルドのは?」
蓉姐(ロンジエ)は緑色の目を細めて告げると、薇薇(ウェイウェイ)の右の耳飾りをパチンと弾いた。
ザクロの粒に似た紅い偽石が薇薇の丸い右頬を打つ。
「そ、それは莎莎(シャシャ)が…」
言い掛けたところで、今度は薇薇の左の頬を爪弾きされた紅い粒が叩く。
「持ってるのは、本当に莎莎(シャシャ)なんです!」
「莉莉(リリ)、」
蓉姐の細めた両目がやおらこちらを向く。
「あ、は、はい。」
「バッグの肉切り包丁、あんた、気を付けて持つのよ。」
「はい。」
私は震えながらとにかく頷く。
「夕べも豚肉と一緒にまな板まで切れちゃっったから分かるでしょ?」
「はい。」
たとえ姐さんが墨を雪だと言っても、私は首を横に振れない。
私の手元を見詰める薇薇の顔色がみるみる青ざめた。
その様子を目にすると、手に持つバッグが本当に火の点いた爆竹みたく思えてきた。
「昨日、先施(シンシア)で日本製を買ったの。」
薇薇のふくよかな耳朶(みみたぶ)を白い指先の紅い爪で摘まむと、蓉姐は囁いた。
「日本兵もよく使うそうよ。」
「お会計、お願いします。」
蓉姐が打って変わった笑顔で告げる。
「はい。」
理容師のおじさんは、ちょうど床に切り落とした私の髪をまとめて掃き終えたところだった。
「新しくお店に入る方ですか?」
蓉姐から受け取った金を確かめると、おじさんはまた金歯を見せて私に笑いかけた。
「ええ。」
蓉姐が代わりに答える。
「どうぞご贔屓に。」
姐さんが早足で出ていくので、私も黙って後に続く。
姐さんの払った額からして、とてもじゃないが、ここにしょっちゅう通うのは無理だ。
「蔡小姐(ツァイさん)、お待たせしました。」
理容師が薇薇(ウェイウェイ)に愛想良く告げる声を最後に、開いた扉が再び閉まった。
「髪切ったり、ちょっと手直ししてもらう位なら、もっと安いとこはいっぱいあるから、そこは自分で探して。」
蓉姐は通りをカツカツ歩きながら、振り向きもせずに言った。
「はい。」
私にも安いと思える所なんて見つかるだろうか。
「ま、安い所はそれなりだから、嫌ならとにかく稼ぐ事ね。」
濃紺の旗袍(チャイナドレス)の背が陽の光を浴びて、黒揚羽(アゲハ)の羽根の様に照り返す。
姐さんの靴音が一歩一歩響く度に、青紫の光る鱗粉が飛び散る様に思えた。
「はい。」
毒粉でも嗅がされた様に青紫の残像に目が眩みつつ、私はふらつくハイヒールの足をひたすら前に踏み出す。
「今日だけだからね、こんな風に手を懸けてやるの。」
蓉姐は振り向いて立ち止まると、私の縮れた前髪を撫でた。
何だか憐れむ様な、寂しい笑いが、弧を描いた眉から紅を引いた口許にまで漂っていた。
「こんなモノにならない奴を連れてきたなんて追い出されない様に、あんたがしっかりやるのよ。」
そう言うと蓉姐はまた歩き出した。
行く手に妓楼と寺塔に洋人の館を混ぜ合わせた様な建物が見えてくる。
白昼の青空の下でもそこだけ真夜中の様なその楼閣に近付くに従って、「海上花(ハイシャンホア)」という屋号が星の様に浮かび上がった。
「バラ、バラはいかがですか?」
歌う様な子供の声が後ろから急に聞こえてきた。
「一輪から売りますよ、お部屋の飾りに真っ赤なバラはいかが?」
振り向くと、七つか八つ位の男の子が両手で籠を抱えて歩いてくる。
男の子の服も籠も煤けて黒ずんでいたが、籠に溢れんばかりに積まれた花は、燃え立つ様に赤かった。
「蓉姐(ロンジエ)!」
こちらに気付くと、男の子の小さな真っ黒い顔がパッと明るくなった。
「鴉児(ヤール)!」
姐さんが呼ぶより先に男の子はトコトコこちらに走ってくる。
重い物を持ってそんなに急ぐと転ぶか、籠の花を溢しちゃうよ、と言いたくなる。
「お花はいかがですか?」
「今日は十本で花束にして頂戴。」
蓉姐は日溜まりの様に穏やかな低い声で告げた。
「分かりました。」
男の子は頷くと、素早く籠から花を取って、器用な手つきで纏め始めた。
まだ小さいけれど、節くれだった、ザラついた感じの手。
「こちらになります!」
男の子が丸く纏まった花束を差し出すと、甘やかな香りが広がった。
蓉姐がバッグから財布を取り出す間に私が代わりに花を受け取る。
「とっても綺麗ね。」
私が言うと、男の子はニッと八重歯を見せて笑った。
地黒の上に煤けた顔をしているので、歯が真っ白に見える。
誰が「鴉児(カラスっ子)」と呼び出したものか、本当に鴉(カラス)の子そっくりに見えた。
「こちらのお姉さんは?」
蓉姐から金を受け取りながら、鴉児は私に向かって笑顔の首を傾げる。
「莉姐(リー姐さん)よ。」
蓉姐が笑顔で答える。
「じゃ、どうもありがとうね。」
蓉姐が歩き出したので、私も手にした花束を嗅ぐ振りをして後に続く。
「毎度あり!」
幼い声が後ろから響いてきた。
「莉姐も今度買ってね!」
油断のならない子ガラスだ。
薄暗い建物の中に足を踏み入れた瞬間、急に転びそうになる。
アパートの床よりもっとツルツルした床だ。
足許を見下ろすと、白い石を敷き詰めた床らしく、暗がりの中でも僅かな光沢が確かめられた。
何だか墓石や石碑の上でも歩いてるみたいだ。
前を歩く蓉姐の旗袍の背が暗い中で光りながらうねる。
「支配人の部屋はホールを通った奥にあるの。」
「はい」
行く手から笛の様な、しかし琴にも似た、不思議な音色が流れてきた。
多分、西洋の楽器だ。
ここでは洋人も働いているんだろうか?
青い目をした洋人の男が不思議な楽器を奏でる様子を想像しながら、手に持った赤バラの香りを吸い込むと、余計にゾクゾクした。
氷の様に滑らかな白い石の廊下が急に開けたかと思うと、目の前にガランとした広間が現れた。
不思議な音色が薄暗い広間の空気を震わせて、直に響いてくる。
広間の遥か向こうは舞台になっていて、そこだけ灯りに照らし出されていた。
白々とした月光に似た灯りを浴びながら、白シャツの男が椅子に腰掛けて、黒塗りの卓子(テーブル)に似た大きな楽器を奏でていた。
「小明(シャオミン)!」
思わず口から飛び出した声が広間に響き渡る。
音色がパタリと止んだ。
「あ…。」
蓉姐の振り向いた顔と舞台の上からこちらを見やる男の顔に、私は息が止まりそうになる。
「達哥(ダー兄さん)、構わず鋼琴(ピアノ)を続けて下さい。」
蓉姐が舞台に向き直って言った。
「いいんだ。」
舞台の上の男は、それまで弾いていた楽器の白い部分に黒い蓋を下ろした。
「もう、こいつの調律は済んだから。」
かすれた低い声で告げると、男は椅子から立ち上がる。
「話は奥で聞こう。」
男は椅子の脇に畳んで置いていた黒の上着を取り上げ、白シャツの上に羽織りながら舞台を降りると、暗い奥に姿を消した。
「あれは、支配人よ。」
蓉姐は恐ろしい目で私を睨み付けると、私の手からバラを取り上げて早足で歩き出した。
あれが支配人の達哥だったのだ。
私は手持ちのビーズバッグを抱き締めた。
この中に私の身を守る物は何一つ入っていない。
コン!コン!コン!
暗闇に蓉姐の扉を叩く音が響く。
「入れ。」
中から声がした。
「失礼します。」
従順に答える蓉姐の声に続いてギイッと重い音が暗闇を引き裂いた。
目の前が真っ白になる。
そういえば、外はまだ昼だった。
バッグを抱え、眩んだ目を伏せたまま、部屋に足を踏み入れる。
氷上の様な廊下に対して、この部屋の床は絨毯が敷き詰められている。
「達哥(ダー兄さん)、今日は新しい子を連れてきました。」
蓉姐は打って変わって仔猫じみた口調になった。
「うちで働きたいそうです。」
背凭れのある椅子に深々と腰掛け、窓から流れ込む陽射しを背にした男は、何も言わない。
「花瓶のお花、換えますわ。」
蓉姐はそう言うと、机上に置かれた花瓶から萎れた菖蒲を抜き取って机の下に捨て、バラの包みを新たに解き始めた。
本当は姐さんじゃなくて、私が率先してこういう事をやらなきゃいけないんだ。
そう気付いた時にはもう、白い陶器の花瓶には新たな赤い花輪が出来ていた。
「名前は?」
バラの向こうからかすれた声が飛んできた。
「莉莉(リリ)です。」
私は目を上げて答えた。
窓からの陽射しが眩しい。
「年は?」
光に目が慣れてきて、額を全部出して髪油できっちり固めた小さな頭、尖った細い顎、成人の男にしては華奢な肩の線が、赤い花の向こうに浮かび上がる。
「十八歳です。」
知らず知らず、右手でバッグの取っ手を握り締めていた。
「お古の服と一緒に、名前まで付けてやったのか?」
かすれた声の語尾が震えた。
支配人は、笑っているらしい。
「衣装はこの子の自前がありませんでしたし、」
こちらに背を向けた蓉姐の声は何だか言い訳がましい。
「今、うち、『茉莉花(ジャスミン)』はいませんよね?」
「『茉(モー)』なら居たさ、」
影になった支配人の手が花瓶のバラに伸びて、一輪だけ飛び出た花をそっと群れの中に戻した。
男にしては、ほっそりした指だ。
「昔だし、うちの店じゃないがね。」
「蓉蓉(ロンロン)、そろそろバンドの連中が来る、」
支配人の手が花から離れた。
「これが新譜だ。」
返す手で白い紙の束を差し出す。
「はい。」
蓉姐の縮れた後ろ髪が素直に揺れる。
「彪哥(ビャオ兄貴)たちが来るから、明後日(あさって)の夕方までには仕上げろ。」
「はい。」
こんな従順な姐さんは初めてだ。
「お前と菱菱(リンリン)で、どちらが先に歌うかは話し合って決めろ。」
「菱菱(リンリン)も歌うんですの?」
急に楽譜から目を上げたので、蓉姐の前髪が逆立つ様に大きく反った。
「彪哥たちが連れてくるのは、北平(ベイピン)からの客だからな。」
支配人の目が氷柱の様に光る。
細く鋭い三白眼だ。
「洋語の曲はお前で、国語の曲は菱菱だ。」
抑揚のない語調は、疑問や反論を一切許さない響きを持っていた。
「分かりました。」
頷く蓉姐の前髪が力なく揺れる。
「洋語の曲を洋人より歌いこなせるのはお前だけだ。」
支配人の三白眼が糸になる。
この人は、笑うと目が無くなる型の顔らしい。
「北平(ベイピン)のお大尽(だいじん)たちを驚かせてやれ。」
「もちろんですわ。」
蓉姐がどんな顔で答えているのかは、後ろにいる私には見えない。
「失礼します。」
出ていく蓉姐の目は、私の事など忘れた様に、手元の紙に注がれていた。
濃紺の絹の旗袍が去った部屋には、馥郁とした残り香が漂う。
蓉姐の匂いには、蓮にバラが混ざっている。
赤バラの香りを知った今では、それが良く分かる。
不思議な花だ。
花びらが渦を巻く様に寄せ集まって、中身を覆い隠している。
「さて、」
白い煙が緩やかに流れてきて、赤い花びらの渦を浸した。
「莉莉(リリ)といったね。」
「申し遅れたが、私は姓を姜(ジャン)、名を達(ダー)という。」
手元の黒い灰皿に煙草を置くと、男は続けた。
「ここの支配人だ。」
灰皿は色付きのガラスで出来ているらしく、赤く燃え上がって灰に変わる煙草の先が、黒の地を透かして見える。
この煙草の煙は、吸っても咳き込みたくはならないが、酷く目に染みる。
「お世話になります。」
私は鼻を膝に着ける勢いで頭を下げた。
支配人は、何も言わない。
そろそろ頭を上げてもいいだろうか?
迷っていると、急に妙な音が耳に飛び込んできた。
カチッ!カチッ!カチッ!
顔を上げると、机の上には、碁盤に似た四角い台が置かれていた。
カチッ!カチッ!カチッ!
台の面に交互に刻まれた白と黒の正方形の上に、馬や冠や塔を象った、小さな黒光りする置物が並べられていく。
カチッ!カチッ!カチッ!
支配人の手前側に黒の置物が揃ったかと思うと、今度はこちら側に同じ形をした白の置物が次々配されていく。
カチッ!カチッ!カチッ!
白の置物は象牙ででも出来ているのか、摘まんで置く支配人の指が妙に黄色く見える。
何、これ?
碁?それとも将棋?
「国際象棋(チェス)、出来るか?」
盤上に黒と白の置物が完全に向かい合って並んだところで、支配人が言った。
「いえ、」
支配人の目が首を振る私を捕らえている。
氷柱に似た、彫りの鋭い一重瞼の白眼は青白く、黒目は小さかった。
「分かりません。」
普通の将棋さえ、私はやったことがない。
「洋人の将棋さ。」
氷柱がすっと消えた。
支配人は、笑ったらしい。
「それじゃ、私が指示を出すから、白の駒はお前が動かせ。」
「じゃ、始めるぞ。」
カチャリと手元の電灯を点けると、支配人は言った。
蒼白い灯りに照らされて、黄味の勝った、鼻梁と眉の細い、顎の尖った顔立ちが全て浮かび上がる。
「白が先攻だ。」
小さく薄い唇が囁いた。
「はい。」
私は白い骨を彫り込んで磨いた様な置物の列を見下ろした。
とにかく、言われた通り、駒を動かせばいいのだろう。
「莉莉(リリ)、」
え?
不意を突かれて目を上げると、支配人は盤上の駒に目を注いでいる。
「君の姓は?」
「あ、姚(ヤオ)です。」
そういえば、私はまだちゃんと名乗っていなかった。
「そうか、」
支配人の目は変わらず駒に注がれている。
「右から四番目の兵(ポーン)を二歩進めろ。」
「兵(ポーン)って…。」
私は「右から四番目」の位置に前後して置かれた、二つの駒に目を泳がす。
鞠(まり)を載っけた燭台みたいな駒に、冠形の駒。
とりあえず、後ろの冠形のではなさそうだけど…。
「前の列にぞろぞろ並んでるやつさ。」
支配人の声がした。
「一番、雑魚(ざこ)の駒だ。」
「あ、はい。」
私は燭台形の駒を二歩先の白い正方形のマスに置いた。
ほっと息を吐こうとした目の前に黒の兵(ポーン)が置かれた。
「雑魚(ざこ)は雑魚で止める。」
支配人は目の無い顔で薄い唇を歪めた。
「でも、兵(ポーン)はただの雑魚じゃない。こいつが、」
支配人の黄色い指が私の進めた兵の頭を指す。
「敵陣の奥にまで切り込めば、」
支配人の指が、一番奥の、黒の冠が並ぶ列の上をなぞる。
「后(クイーン)になれる。」
「后(クイーン)?」
私は思わず支配人を見返した。
氷柱に似た目と再びぶつかる。
「つまり、雑魚の兵(ポーン)は女ってことさ。」
支配人の唇だけがゆっくり笑う。
肉薄の唇から、私の駒よりも、もっと白い歯が覗く。
「国際象棋(チェス)では、女も立派な戦力だ。」
「そうなんですか。」
洋人の国では、きっと女も軍隊に駆り出されて戦うのだ。
金色の髪に青や緑の目をした洋人の女たちが、手に手に弓矢や剣を持って攻めてくる様が浮かんできた。
蓉姐(ロンジエ)みたいな体格ならば、生半可な中国男より余程強そうだ。
「洋人の奴らは、男も女も、自分たちの国に身を捧げ尽くすのさ。」
「兵(ポーン)、」
先の尖った支配人の指が、二歩進んで足止めされた駒の頭を叩く。
「塔(ルーク)、」
端っこに置かれた小さな白い塔。
「馬(ナイト)、」
首だけの白い馬。
「象(ビショップ)、」
象(ぞう)というより帽子に見える。
「それに后(クイーン)。」
蓉姐が紅茶用に使う急須みたいな形だ。
「皆で、たった一人の王(キング)を守る。」
支配人の示す先には、頭に十字を挿した、冠の形をした駒が立っていた。
「后(クイーン)が何人立とうが、王(キング)が倒れたら、そこでみんな終わるからな。」
「さて、」
支配人は胸ポケットから新たな煙草をもう一本出してくわえた。
また、あの目に沁みるやつだ。
そう思いながら眺めていると、支配人は新たに銀の小箱を取り出した。
かと思うと、カシャリと音を立てて、小箱の上に小さな火が灯った!
「打火機(ライター)、初めて見たのか?」
銀の小箱がキラリと光って胸ポケットにまた消えたかと思うと、支配人の姿にゆっくり靄がかかった。
「はい。」
バッグの中には、型崩れした借り物のマッチ箱はあるけれど。
>> 199
「次は、」
煙が引いて、またもや盤上に目を注ぐ支配人が姿を現した。
私は手持ちの駒を確かめる。
これが兵(ポーン)、こいつが塔(ルーク)、馬(ナイト)は名前の通りで、この帽子みたいなのが…。
「君の、本当の名前は?」
「え?」
象(ビショップ)の駒から目を上げると、支配人は盤の中腹で向かい合っている白と黒の兵(ポーン)を凝視している。
「姓が姚(ヤオ)で、名前は何?」
「あ、莉華(リーホア)です。」
この人、話の流れが全然掴めない。
「右の馬(ナイト)を三列目の右から三番目に進めろ。」
そこまで言うと、支配人の声が少しだけ柔らかくなった。
「さっき進めた兵(ポーン)の、斜め後ろだよ。」
「はい。」
私は頭だけの白い馬を指示された場所に置いた。
雑魚の兵より馬の方がどうやら変則的な動きで進むらしい。
洋人の馬も、やっぱり中国の馬とは違う姿をしているのかな?
「どこから来た?」
「え?」
支配人の目は盤上の駒ではなく、私に、かけたばかりのパーマ頭にお下がりの緩い旗袍(チャイナドレス)を着込んだ田舎娘に注がれていた。
「君の故郷だよ。」
「あ、蘇州(そしゅう)です。」
語尾に行くにしたがって声が小さくなる。
生粋の上海娘でもなければ、蘇州美人にも相応しくない自分が恥ずかしい。
「ははは、」
支配人は始めて声を上げて笑った。
「上海は蘇州娘だらけだ。」
乾いた笑い声に混じって、黒の馬(ナイト)が盤上を移る微かな音が響いた。
「あの、」
一般には、そこまで失礼な質問には当たらないはずだと頭の中で念を押しつつ、私は切り出す。
「支配人は、どちらの方(かた)なんですか?」
「達哥(ダー兄さん)でいい。」
支配人、もとい達哥は首を僅かに振ると、乾いた笑い声の調子で答えた。
「俺は、上海(シャンハイ)以外、知らない。」
今はもういない誰かを秘かに呼ぶ様に「上海」と口にすると、達哥の指の長い、華奢な手が花瓶に伸びて、飾られている薔薇の花束に触れた。
また、群れに馴染まない花を見付けたのだろうか。
俺らは桃源郷から来たんだな。
小明(シャオミン)の言葉と蒼白い寂しげな笑顔が急に蘇った。
だが、私にとっての蘇州は、もう戻りたくもない土地だ。
他人の目で見たって、あそこは上海より遥かに後れた田舎町に過ぎない。
小明や阿建(アジェン)のいた杭州(こうしゅう)にしたって、似た様なものだろう。
そんな事を思いながら、私は国際象棋(チェス)の盤を挟んで向かい合う達哥の姿を改めて眺めた。
やや狭い額を全て出して髪をきっちり撫で付けて固めた小さな頭。
偉哥(ウェイ兄さん)の様に派手ではないが、しかし、質としてはもっと上等の生地で出来た洋服。
純粋な体形としては、さっき遠目に立ち姿を見た限りでは、小明と同じ位の背丈だから、
大人の男としては、中背よりちょっと小柄な部類に入る。
今、目の前に座している姿から察すると、肩幅の狭い、肉の薄い、中国男としてもむしろ貧弱な体つきだ。
だが、蝶蛾の触角を思わせる細い眉、氷柱に似た細く鋭い一重瞼の目、肉薄の細い鼻、白く整った歯を奥に蔵す小さな薄い唇、そして、尖った顎。
これを「男前」と呼べるかは別として、どこを取っても隙のない顔をしていた。
これが、上海の男だ。
「蘇州では何を?」
達哥(ダー兄さん)は言った。
この人の問い掛けは、いつも、まだ知らないことを尋ねるのではなく、あらかじめ知っていることを確かめる様に響く。
「女中をしておりました。」
周家の奥様が仏頂面をしている時に「お茶が入りました」と告げる声で、私は答えていた。
奥様がご機嫌斜めの時に用聞きへ伺って当たられるのは、女中仲間ではいつも私か母さんの役目だった。
「お役人の家か?」
達哥の声は、何かまずいことをやらかしたのか、とからかっている様に聞こえた。
「はい。」
嘘を吐いても見抜かれる気がするので、素直に頷く。
「どうして、上海へ?」
「上海へは…。」
私はその限りでは嘘にならない答えを探す。
「職を…探しに。」
「だから、どうしてさ。」
達哥は目の無い笑顔をこちらに向けている。
「蘇州で女中の職をしていた筈なのに。」
「それは…暇を出されましたから。」
私は盤上に目を落とす。
氷柱じみたあの目に刺されるのが恐ろしい。
「最初からそう答えればいいだろう?」
疑問より、穏便な指示の口調だ。
「はい。」
確かにその通りだ。
突っ込まれないわけないのに、どうしてはぐらかそうとして、
逆にそこを強調する愚を犯してしまったんだろう。
>> 205
「田舎の役人なら、今は家が傾く一方だからな。」
達哥(ダー兄さん)は氷柱の目を開いたまま、薄い唇を歪めて言い放つと、再び国際象棋(チェス)の盤を見下ろした。
「奴らに残っているのは、馬鹿でかいだけで柱の腐り切った霊廟と、錆び付いて何の役にも立たない誇りだけ。」
陣地も駒も白と黒で二分された世界を見据える冷たい目の光に、一瞬、熱い何かが交ざった。
「この国がこんな体たらくになったのも、元はと言えば、そいつらのせいさ。」
そこで、声が急に密やかになった。
「潰される前に抜け出せて、良かったじゃないか。」
「はい。」
私はパーマが馴染んで前髪の反った違和感が落ち着いてきた頭を従順に頷けた。
これ以上、この人の言葉に付け足す必要もなければ、差し引くべき事柄もない。
そんな気がした。
「練習場は、地下だ。」
達哥(ダー兄さん)はポケットからまた銀の打火機(ライター)を取り出すと、煙草に火を点けた。
「薇薇(ウェイウェイ)と莎莎(シャシャ)がそろそろ来てる筈だから、まずはその二人に踊りを教えてもらえ。」
煙の向こうの眼光からも、声の調子からも、一瞬の熱が消え、元の冷え固まった鋭さだけが伝わってくる。
「はい。」
理髪店で出くわした薇薇の鳥の巣頭を思い出して、私は一瞬だけ吹き出したくなる。
「後は他の姐さんたちが踊るのを見て自分でどんどん覚えろ。」
「はい。」
あんな氷か墓石みたいなツルツルの床の上で、一体どんな踊りを踊るんだろう。
「教えてもらうつもりでいては駄目だ。大事な事は盗んででも自分のものにしろ。」
「はい。」
「決して、客の財布をスれとか、姐さんの耳飾りを猫ババしろとかいう意味じゃないぞ。」
達哥の薄い口の端が歪んで笑った。
「はい。」
「まあ、貴重な物を貸しておいて、後から返せと大騒ぎする方も馬鹿だけどな。」
達哥の細い指が煙草の先を灰皿に押し付けてゆっくり潰した。
「いっそくれてやる位の気持ちになれないなら、最初からそんな値打ち物を人に貸しては駄目さ。」
昨夜、蓉姐(ロンジエ)がこの人と電を吐いていた姿が思い出された。
むろん、達哥の耳に姐さんの罵声が届いた筈はないし、姐さんにしてもこの人には聞こえないと十分に見越した上で嘯いたに違いない。
ただ、達哥の皮肉な笑いを眺めていると、蓉姐のそんな悪態も、その傍で棒立ちになっていた綿入れ姿の私も、全部お見通しで泳がされていただけの様に思えた。
「お前も、そう思うだろ?」
「は、はい…。」
私は口ごもる。
達哥の立場なら蓉姐を「馬鹿」と呼んでも許される。
それに、普通に考えれば、蓉姐よりもこの人の言葉に従うのが理にかなっている筈だ。
でも、そうだとしても、蓉姐を馬鹿扱いする話に私が頷くのは何だかいじましく思える。
姐さんは見ず知らずの私を家に泊め、服を譲り、靴も買ってくれた。
そりゃ、一晩かけてあの人の旗袍(チャイナドレス)を直しはした。
だが、蘇州の周家で働いていた頃に、私と母さんが何晩もかかって奥様の衣装を仕上げても、お古をいただいた事は一度も無い。
そもそも、私たちが何年お仕えしようが、奥様と同じ絹の服を持つ事は有り得なかった。
「あいつはその場の気まぐれで動くからな。」
達哥はそう言うと、マスの中央から少しずれた位置にたっていた白の后(クイーン)を置き直した。
「そうかもしれませんけど…。」
言葉の継ぎ穂が見当たらない。
もしかすると、この服も靴も散髪代も、「返せ」と後で姐さんから迫られるのだろうか?
「姚莉華(ヤオ・リーホア)。」
達哥はまるで私に向かって教え込む様にゆっくりと発音した。
「君は、幾つなんだい?」
その問いは、まだ子供だろうと諭している様にも、もう大人だろうとたしなめている様にも聞こえた。
「十(じゅう)…。」
五、八、五、八…。
脇の下が、氷柱でなぞられた様に冷たく濡れた。
「十八歳です。」
「ははは。」
達哥は乾いた声を立てて笑った。
目の無い目尻に刻まれた、亀裂じみた皺に今更ながら気付いた。
「田舎の亭主とはちゃんと別れて来たのかい?」
そのバッグにはまな板まで切れる包丁でも入ってるのかい?
本当は丸腰だと知りながら、敢えてからかう様な口調だ。
母さんは今年三十二歳だった。
十八歳なら、亭主どころか子供がいてもおかしくないのだ。
「人の女房をここで働かせるのはさすがにまずいんでな。」
「私はそんな…。」
首を横に振ると、半歩遅れた調子で前髪が上下に揺れるのを感じた。
「亭主なんて、いません。」
「いたことはあるのか?」
ないだろう、と年を押されている気がした。
「ありません。」
今度は首を振らずに答える。
やたらと頭を振ると何だか子供っぽい上に、反抗していると思われそうな気がした。
「正式に嫁いだんじゃなくても構わないんだが、」
達哥はふっと笑いを消すと、静かに続けた。
「つまり、お前は男を知らないのか?」
「え…。」
達哥の顔も口調もあまりにも平静だったので、私は一瞬、言われた意味が分からなかった。
「男をって…。」
体中の血が一気に顔に集まった気がした。
「言わなくていい、もう分かったから。」
達哥は煙を仰ぐ様に手を静かに振った。
「働く気さえあれば、生娘(きむすめ)でも問題はない。」
達哥の三白眼が、私の旗袍(チャイナドレス)の、薄べったい胸の奥や膓(はらわた)の底まで刺し貫く様に見据えた。
「稼ぐ気持ちさえ、確かならばね。」
「さっき、『小明(シャオミン)』と。」
達哥(ダー兄さん)は、目の無い、穏やかな方の笑い方をした。
だが、私はドギマギする。
ここで、今になって、小明の名を聞くとは思わなかった。
「似てるか?」
支配人は三白眼を見開くと、肩をすくめた。
上等なスーツの肩から、黄色い滑らかな手の指先まで、仕立屋で念入りに作った様に見える。
この人は、少なくとも十年は水汲みや台所仕事とは縁の無い境遇に違いない。
「いいえ。」
私は首を振る。
今となっては、どうして小明とこの人を間違えたのか不思議だった。
「二人ともチビでガリだから、」
達哥は他人事の様に続けた。
「もう一人のデブや小偉(シャオウェイ)よりは似てるかもしれないな。」
小偉?
「もう一人のデブ」が阿建(アジェン)を指しているのは聞いた瞬間分かったが、こちらには覚えがない。
「小偉(シャオウェイ)の奴も、広東から出てきたばかりの頃は、ガリガリの『小黒(チビクロ)』だったんだが、」
お前も知ってるだろ、という風に達哥は笑って頷く。
「あいつは柄ばかりでかくなり過ぎたな。」
「…そうですか。」
この人にとっては、偉哥(ウェイ兄さん)も「小偉」なのだ。
「どの道、全員、違う奴さ。」
達哥の目はいつの間にか盤上の黒の駒に注がれていた。
「男の顔と名前は正しく覚えろ。」
細い指が黒光りする駒を一つ一つ摘まみ上げていく。
「似てる奴ほど区別して叩き込むんだ。」
達哥の左の掌に三つの黒い駒が並んでいる。
「これは?」
達哥は三つの中で一番小さな駒を指した。
「兵(ポーン)。」
たくさんいる雑魚の駒だ。
「これは?」
真ん中に置かれた、首だけの黒い馬。
「馬(ナイト)。」
正面から眺めると、どこを見ているのか分からない目が不気味な駒だ。
「こいつが一番、見たままだな。」
達哥は笑って、馬の鬣(たてがみ)の辺りをつついた。
「それじゃ、これは?」
達哥の指が三つ目の駒を示した。
「ええと…。」
私は言葉に詰まった。
まず、蓉姐(ロンジエ)の茶器とは程遠い形だから、「后(クイーン)」ではない。
「王(キング)」は頭に十字を挿してる駒だから、それとも違う。
「象(ビショップ)」は、確か帽子みたいな形の筈だし…。
「塔(ルーク)。」
達哥はカチャリと卓子(テーブル)の上に三つ目の駒を置いた。
「忘れてたのなら、今すぐ覚えろ。」
「はい。」
私は頷いた。
もう、そんな瞬間でしかパーマした前髪が気にならなかった。
「塔(ルーク)ですね。」
どうして、「兵(ポーン)」や「馬(ナイト)」や「象(ビショップ)」の他に、生き物じゃない駒が混ざってるんだろう。
「こいつを上手く使えば、大方の試合には勝てる様になるさ。」
兵、馬、そして塔の順に、三つの黒い駒は盤の上のあるべき位置に戻された。
「それは、まだもっと先の話だ。」
ジリリ、ジリリリリリリリ…。
ノコギリを倍の速さで挽く様な音が部屋を走った。
「はい。」
音が途切れたと思うと、達哥はもう黒光りする受話器を耳に当てていた。
支配人の電話は、蓉姐のそれより鋭く速く鳴る。
「私です。」
達哥は口許だけ恭しく笑うと、受話器を持たない方の掌を私にかざした。
私はもう出ていかなくてはいけない。
「お陰様で。さっき彪哥(ビャオ兄貴)から…」
絨毯貼りの部屋からツルツルした床の廊下に出て扉を閉めると、辺りは真っ暗になった。
私はバッグを胸に抱き締める。
練習場は、確か地下にあると達哥は言っていた。
早足で木に登るより、ゆっくりでも足を踏み外さずに木から降りる方が難しい。
ハイヒールで階段を駆け上るより、忍び足でも転ばずに降りる方が、ずっとこつがいる。
ましてや、暗がりとなると。
これ、あと何段降りればいいの?
そんな見当さえつかないまま、一段降りる度にその分だけ埃っぽくて蒸し暑くなる。
バタン!
振動と同時に足許から眩しい光を浴びる。
「順番なんて、関係ないでしょう。」
光を背にした女の影が、後ろを半ば振り返った格好で言った。
「私とあの人では、歌う曲からして違うんですからね。」
ちょっとわざとらしい位の巻き舌でそう語ると、
菱形のイヤリングの金縁が女の耳元でキラリと光って揺れた。
「別に私がでしゃばったわけじゃありません。」
凍った西瓜(すいか)の様にひやりと甘い声だが、飽くまでおっとりした口調で女は続ける。
「支配人がおっしゃったことですから。」
何だろう、この人?
私はまじまじと女を見詰めた。
蓉姐(ロンジエ)も大柄だが、こちらも劣らぬ長身だ。
逆光のせいで、菱形のイヤリングを付けた顔立ちはよく分からない。
だが、卵形の輪郭は難が無く、金縁のイヤリングを下げた小さな耳から微かに尖った顎の辺りは、いかにも品良く艶な感じがする。
ただ、前髪を僅かに縮れさせている以外は、
周家の奥様と同じ様に真っ直ぐな長い髪を後ろで束ねて結い上げており、ここで目にすると、妙に古めかしく見えた。
「あなたたちにも、分かるでしょう?」
まるで誇るかの様に、北方特有の巻き舌を交えて女は告げる。
鈍く輝く黄土色の旗袍(チャイナドレス)の肩は広く、
剥き出しの長い腕は固めた雪の様に、白いがどこか筋肉質な感じに太かった。
「だから、別に気にしなくていいのよ。」
女はゆっくりと首を左右に振る。
金縁の菱形が緑の残像を引きながら幽かな音と共に揺れた。
無数の菱形の角に目を刺される気がして、私は知らず知らず顔をしかめていた。
あれは、本物の金だろうか?
「そんな安物を買い戻すくらい、私にはどうってことないわ。」
ここに来て、これまで鷹揚だった女の声が、急に菱形の角の様に鋭く変わった。
いや、「変わった」のではなく、そもそもこっちがこの人の本来の声なんだろう。
階段の途中で足止めを食ったまま、私は何となくそう感じた。
蓉姐(ロンジエ)の地声が本当は酷く低いのと、多分同じ理屈だ。
「エメラルドと言ったって、それはピンキリですもの。」
女の声が棘(とげ)の上にまたゆったりと鷹揚な衣を纏い出した。
「あの人の子供騙しを、真に受けちゃいけません。」
「じゃ、私は上で打ち合わせがありますから。」
女の言葉を潮に視界が急に暗くなり出した。
「閉めないで!」
私は思わず叫んだ。
また眩しくなった。
「まあ、」
菱形のイヤリングを下げた女が、端の切れ上がった黒目勝ちの目をこちらに向けていた。
「そんな所に人がいたなんて。」
ゆったりした口調で告げながら、目は私の前髪から爪先まで素早くなぞると、
柳眉の片方だけをちょっと逆立ててすぐに戻した。
返す言葉が見つからないまま、私が階段の途中で立ち止まっていると、
切れ上がった眼差しと金縁の菱形と黄土色の旗袍(チャイナドレス)の肩がどんどん迫ってきた。
突き刺される!
思わずそんな錯覚が頭を掠めて、階段の隅に避ける。
「達哥(ダー兄さん)も、随分甘くなったわ。」
すれ違いざま、菊に似た芳香の中から、糖衣に角を包んだ呟きが飛んできた。
コツコツと規則正しく釘を打つ様な女の足音が遠ざかっていく。
振り向くと、暗がりの中で、まるで黒いハイヒールの踵が、一番上の段に着地する所だった。
靴の踵があまりにも細く長いので、踵というより、まるで靴に仕込んだ五寸釘に見えた。
黄土色の旗袍(チャイナドレス)の裾がチラリと閃いて、
やや太めの白い脚を覗かせたかと思うと、女の姿は角の向こうに消える。
菊花に似た、冷たい香りが蒸し暑い埃っぽさの中に薄れていく。
銅鑼(どら)や琵琶(びわ)に似た洋人の楽器の音が、上の方から微かに聴こえてきた。
「あら、莉莉(リリ)じゃない」
下から素頓狂な声が飛んできた。
「練習しましょ」
薇薇(ウェイウェイ)が鳥の巣頭を揺らして笑っていた。
「あたし、これでも踊りは姐さんたちに負けてないのよ」
薇薇(ウェイウェイ)は太ったザクロ色の旗袍(チャイナドレス)の胸をパンと叩いた。
「達哥(ダー兄さん)も」
私も階段の残りを降りながら釣り込まれて笑った。
「踊りは薇薇(ウェイウェイ)に教えてもらえって」
「やっぱり、そうでしょ!」
薇薇は口紅を塗り過ぎてテカテカになった口を大きく開けて笑った。
>> 225
「莎莎(シャシャ)!」
階下の部屋に入ると、薇薇(ウェイウェイ)は奥に向かって呼び掛けた。
「新しく入る子よ」
ザクロ色の旗袍(チャイナドレス)を纏った薇薇(ウェイウェイ)の肩越しに、
薄い水色の影が目に入る。
「初めまして」
私は笑顔を作ると、薇薇の向こう側に立つ相手を覗いた。
「莉莉(リリ)です」
あ…。
声には出さないが、笑い掛けた唇が引き吊るのを感じる。
「あたしは」
相手も蒼白い顔にぎこちない笑いを浮かべて頷いた。
「莎莎(シャシャ)っていうの」
まるで聞かれるのを恐る様に、早口の小声で名乗った。
互いに口には出さないが、私と莎莎は一見して顔も体つきも良く似ていた。
「どこから来たの?」
莎莎(シャシャ)は俯いたまま、ぽつりと言った。
肉の薄い、赤みのない耳朶(みみたぶ)から下がった青碧の珠が微かに揺れる。
透き通った淡い色合いの珠は、蒼白い横顔を品良く見せてはいたが、明らかに偽石だ。
耳朶が平べったいのは金運に乏しい相。
昔、母さんにそう聞いた気がする。
「蘇州です」
私の耳朶は母さんやこの子と違ってぷっくりしているけれど、
バッグの中には花束を買うだけの持ち合わせもない。
>> 227
「あんたも蘇州(そしゅう)なんだ」
莎莎(シャシャ)は目を落としたまま、青碧の耳飾りを微かに揺らして笑った。
俯いた顔の下の、水色の旗袍の胸は膨らんでおり、お尻もちょうど良い格好に肉付いていた。
上から下まで平たい体つきの私より、この子の方が、多分、「女」としては上等な部類だろう。
そう思って、改めて莎莎の横顔を眺めると、私より一へら肉を削いだ様な頬といい、
紅を大人しく引いた口許といい、二つ三つ年上に思えてきた。
「あたしも同じ」
言わなくても分かるでしょ、という風に莎莎は目を伏せたまま、呟く様に付け加える。
私が苦笑いしたら、人目には、これより頼りなく映るんだろうな。
「あたしは蕪湖(ぶこ)!」
薇薇(ウェイウェイ)が私たちに近付いて来て、さえずり声を出した。
「蘇州よりもっと遠いけど、いいとこよ」
蕪湖に行ったことはないけど、はち切れる寸前の石榴(ざくろ)みたいな薇薇がそう言うと、本当にいい所に思える。
「幾(いく)つなの?」
いつの間にか顔を上げていた莎莎(シャシャ)が尋ねる。
身の丈に合わない橙(だいだい)色の旗袍(チャイナドレス)から、
分不相応にきらびやかなビーズのバッグに目を留めると、
莎莎の瞳が訝しげに私の顔に戻った。
どうして、あんたがそんな物を持ってるの?
その目は明らかにそう告げていた。
「十……八歳です」
今度は私が目を逸らす番だった。
もう、この嘘には吐き慣れた筈だったのに。
「今は、蓉姐(ロンジエ)のお宅でお世話に……」
莎莎は、固い面持ちでこちらを見詰めている。
「じゃ、皆、同い年だね!」
薇薇(ウェイウェイ)はドングリ眼にいたずらっぽい笑いを浮かべて私たち二人を見やると、
少し声を落として付け加えた。
「練習しよ」
「だから、手の向きは逆だったら!」
蓄音機から流れてくる洋人の男の甘い歌声と胡弓(こきゅう)に似た調べを、薇薇(ウェイウェイ)の甲高い声が切り裂いた。
「あ、ごめん」
私は慌てて隣から正面の鏡に目を戻す。
確かに薇薇と莎莎に対し、私だけが、手だけでなく、全体に妙な体勢を取っていた。
踊りの上手、下手って、こんな風に動きを止めた姿でも、一目で分かっちゃうんだな。
「それで、ここで一回右回りにターン」
鏡に向かっていると左右がどうもこんがらがってしまうので、薇薇の言葉にそのまま従うより、
鏡の中の自分が他の二人と同じ向きに回る様に、体を捻ってみる。
ちょっと回り過ぎたかな?
「曲がりきった所で、左肩を下げて……」
あ、また、逆の肩を下げちゃった。
薇薇と莎莎の顔がまた渋くなる前に、鏡の中の私は二人と同じ向きに体を傾ける。
「で、右足を半歩下げる」
半歩?
戸惑いながら、一歩下がろうとした所で、私はスッテンと転んだ。
「あいたた……」
脱げた靴を拾い上げる。
どうやら、下がった地点で、こいつの踵が床の微妙な凹みに嵌まったらしい。
「まだまだ、続くよ」
鏡の中の薇薇が、石榴色の旗袍の背を見せたかと思うと、また正面に戻って告げた。
>> 230
「ちょっと、休憩しようか」
薇薇(ウェイウェイ)はぷっくりした頬を手の甲で拭うと、鏡越しに声を掛けた。
太っているせいか汗っかきらしく、石榴色の旗袍(チャイナドレス)の脇下がうっすら濡れて、そこだけ濃い紅(あか)になっている。
「そうね」
私より先に莎莎(シャシャ)が応じる。
こちらは全く汗の気配が無い。
どころか、あれだけ激しい動きをした後なのに薄青の旗袍にさほど乱れがないことからして、随分、踊り慣れているみたいだ。
「ちょっと、疲れたね」
本当はちょっとどころではなかったが、私はそう言って、自分の旗袍の裾を直す。
と、淡い橙色の裾の端っこがちょっぴり黒ずんでいるのが目に入った。
ハイヒールだと踊りはもちろん、裾を汚さずに歩くにも要領がいるらしい。
それにしても、この色だと埃や汚れが目立ちそうだ。
他の人の目には、大丈夫かな?
「菖姐(チャン姐さん)、こんにちは」
薇薇の声に目を上げると、鏡の中では、焦茶(こげちゃ)の地に白い花の模様が入った旗袍が新たに戸口に現れていた。
「こんにちは」
私は振り向いて、直接、声を掛ける。
「だあれ?」
焦茶色の旗袍の女はこちらには目もくれずに、鏡に向かってつかつかと歩み寄っていく。
壁一面に張られた鏡の片隅で立ち止まると、女はふっと顔を横向き加減にして、流し目じみた表情を作って見せた。
「誰って訊いてんのよ」
流し目が急に曇った風に細まる。
「あんた、新入りでしょ」
―馬鹿じゃないの。
―気が利かないわね。
がさついた言い捨ての口調が言外にそう伝えている。
「莉莉(リリ)……です」
「莉莉?」
そこで、相手は初めて振り向いた。
パーマをかけてはいるが、艶のない、パサついた、量の少ない髪。
一重瞼の細い目、しゃくれて尖った顎。
色は白い方だが、乾いた感じの肌をしている。
年の頃は、二十歳を過ぎたくらいだろうか。
どことなく、さっき擦れ違った菱姐(リン姐さん)に似ているが、この人の方が年は若い筈なのに、妙に崩れた感じがした。
「それ、お母さんのお下がり?」
私の旋毛から爪先まで眺め回すと、女はしゃくれた顎をツンと反らせた。
「田舎臭いわ」
嘲る時に細い目を更に細くするのが、この人の癖らしい。
「蓉姐(ロンジエ)から戴きました」
私は女と目を合わせると、笑顔で告げた。
私はともかく、蓉姐はあんたよりずっと綺麗だし、垢抜けてもいる。
そう言ってやりたかった。
「この子、蓉姐の所でお世話になってるそうです」
薇薇(ウェイウェイ)があたふたと私と菖姐(チャン姐さん)の間に入る。
「行きましょ、急がないと、屋台が売り切れちゃうわ」
薇薇と莎莎(シャシャ)に引っ張られて、私は練習部屋を後にする。
菖姐は蛇の様な目でそんな私を眺めていたが、入り口の扉が閉まる瞬間、この女がペッと床に唾を吐き捨てるのを私は見逃さなかった。
「菖姐(チャン姐さん)はああやって絡んでくるから、流した方がいいわ」
階段を上りながら、薇薇が私に耳打ちする。
「あの人は僻みっぽいのよ」
莎莎も苦笑いの口調で呟いた。
新しいレスの受付は終了しました
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。
- レス新
- 人気
- スレ新
- レス少
- 閲覧専用のスレを見る
-
-
依田桃の印象7レス 183HIT 依田桃の旦那 (50代 ♂)
-
ゲゲゲの謎 二次創作12レス 134HIT 小説好きさん
-
私の煌めきに魅せられて33レス 350HIT 瑠璃姫
-
✴️子供革命記!✴️13レス 95HIT 読者さん
-
猫さんタヌキさんさくら祭り3レス 93HIT なかお (60代 ♂)
-
猫さんタヌキさんさくら祭り
ポンとボンとタヌキさんの太鼓よこなりました、さあ春祭りにいこうとタヌキ…(なかお)
3レス 93HIT なかお (60代 ♂) -
一雫。
家族って何だろ(蜻蛉玉゜)
80レス 2413HIT 蜻蛉玉゜ -
神社仏閣珍道中・改
(出流原弁天堂さんの続き) 石段をのぼると見えてくる赤い御堂と、…(旅人さん0)
242レス 8192HIT 旅人さん -
西内威張ってセクハラ 北進
高恥順次恥知らずで飲酒運転もはや犯罪者(自由なパンダさん1)
88レス 2945HIT 小説好きさん -
北進
高恥順次恥知らずに飲酒運転 酉肉威張ってセクハラ(作家志望さん0)
16レス 342HIT 作家志望さん
-
-
-
閲覧専用
🌊鯨の唄🌊②4レス 130HIT 小説好きさん
-
閲覧専用
人間合格👤🙆,,,?11レス 128HIT 永遠の3歳
-
閲覧専用
酉肉威張ってマスク禁止令1レス 142HIT 小説家さん
-
閲覧専用
今を生きる意味78レス 512HIT 旅人さん
-
閲覧専用
黄金勇者ゴルドラン外伝 永遠に冒険を求めて25レス 959HIT 匿名さん
-
閲覧専用
🌊鯨の唄🌊②
母鯨とともに… 北から南に旅をつづけながら… …(小説好きさん0)
4レス 130HIT 小説好きさん -
閲覧専用
人間合格👤🙆,,,?
皆キョトンとしていたが、自我を取り戻すと、わあっと歓声が上がった。 …(永遠の3歳)
11レス 128HIT 永遠の3歳 -
閲覧専用
酉肉威張ってマスク禁止令
了解致しました!(小説好きさん1)
1レス 142HIT 小説家さん -
閲覧専用
おっさんエッセイ劇場です✨🙋🎶❤。
ロシア敗戦濃厚劇場です✨🙋。 ロシアは軍服、防弾チョッキは支給す…(檄❗王道劇場です)
57レス 1398HIT 檄❗王道劇場です -
閲覧専用
今を生きる意味
迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。 野原祐也に会うことができた…(旅人さん0)
78レス 512HIT 旅人さん
-
閲覧専用
サブ掲示板
注目の話題
-
まだ10時すぎなのにw
友達2家族と家で遊んでて別れ際に外で少し喋ってたら 近所の人に、喋るなら中で喋って子供も居るようだ…
62レス 3702HIT おしゃべり好きさん -
こんな家庭、よくある?珍しい?
母親が幼い娘をつれて出戻りするが子育てせず働かず 家の年金暮らしの祖母に金銭的にも生活面も子育て面…
33レス 679HIT おしゃべり好きさん -
離婚したいという感情
酷い妻でしょうか 今から7年前の結婚当初に夫の借金&出会い系利用発覚、わかった上で結婚…
9レス 327HIT 離婚検討中さん (30代 女性 ) -
実家暮らしについて
35歳男です 東京で産まれ東京で育ち そのまま就職して実家に住んでいます 掃除や洗濯は自分でや…
15レス 510HIT おしゃべり好きさん (30代 男性 ) -
なかなか良い人に会えない
次で付き合う人は結婚を視野に入れたいと思っています。 結婚を視野に入れると、やはり経済面を考えてし…
10レス 283HIT 教えてほしいさん ( 女性 ) -
彼氏が子供の話をする
バツイチの彼氏と付き合っているのですが、先日デート先の帰りで車の中で彼氏が急に元奥さんとの子供の話を…
8レス 211HIT 恋愛好きさん (20代 女性 ) - もっと見る