上海リリ
戦前の中国の上海を舞台にした物語です。
蠱惑的な雰囲気から「魔都」と呼ばれた時代の上海を生きた、
一人の少女の姿を描きます。
人名など一部分かりづらい箇所もありますが、
ご容赦下さい。
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「あーあ、死ぬかと思った。」
私は出口に向かう人の波を抜け出して、
大きく体を伸ばした。
息を思い切り吸い込んだ瞬間、
吐く様に咳き込んだ。
「煙い。」
上海の空気が塵と埃でいっぱいだという噂は本当だったらしい。
あれは人の住むとこじゃない、と主家の奥様も訳知り顔で話した物だった。
「行ったこともないくせしてさ。」
一人ごちて私が歩き出す頃には、
ホームはもう人影も疎らになっていた。
蘇州と比べて、ここでは人が倍近くの速さで歩くらしい。
「ぼやぼやしてる暇はないわね」
私はお針道具の包みを持ち直すと、背筋を伸ばして早足で歩き出す。
もう日が傾きかけている。
夕方までには住み込みで働く店を見付けないと…。
思案しつつ駅を出たところで、思わず足が止まった。
突然、汽笛に似た、しかしそれよりも鋭い音が耳を衝き、
私は音の鳴る方を見やるな否や飛び退いた。
黒い大きな箱が砂塵を吹き起こして
鼻先すれすれに通り過ぎる。
私が肩先の埃を払う間に、
人の背丈ほどあった黒箱は、もう針先の一点位にしか見えなかった。
あれが噂に聞いた洋人の車だ。
ぶつけられたら、ひとたまりもないだろう。
上海に出さえすれば、後は飛び込みで何とか住み込みの仕事が見つかる。
当初の思い込みがいかに甘かったかすぐに思い知らされた。
お針道具を抱えてどこかの仕立屋に入っても、
まず相手は私の垢じみた綿入れ姿を目にした瞬間、物乞いを眺める様な目付きになる。
「蘇州の周挙人のお宅で働いていた者です。お針は得意ですのでここで働かせていただけませんか。」
と勇気を振り絞ってこちらが切り出して、
「紹介状がなきゃ受け付けないよ」とはねつけるのはまだマシな部類だ。
こちらが必死になって今まで刺繍した巾を一枚一枚出して見せても、
丸っきり返事もしなければ目もくれずに奥に引っ込んだかと思うと、
仕立ての客が店に足を踏み入れた瞬間、脱兎の如く飛び出してきて客のご機嫌を伺う。
そして、私は拒絶の言葉さえ与えられずに、また通りに出て次の飛び込み先を見付けることになる…。
もう日暮れが近かった。
私は汗を拭いながら、とにかく片方の足をもう片方より前に進め続けていた。
行く手に掲げられた看板の屋号をひたすら目に入れながら、
その実、自分が今、上海のどんな界隈を歩いていて、
どんな場所に向かっているのかも分からないのだった。
「冗談じゃないわよ!」
甲高い怒声が不意に耳に飛び込んできた。
「だからね、何度も言ってる様に…」
「あたしは今日が服の受け取り日だって聞いてるの!
ここの主人がしょっぴかれようが知ったこっちゃないわ!」
翡翠緑の旗袍(チャイナドレス)を着た、背の高い、抜ける様に肌の白い女が捲し立てている。
「あたしはあたしの服が欲しいの!」
「それ以上騒いだらね、小姐(おじょうさん)」
四十路とおぼしき巡卒は慇懃だがひやりとした響きを含んだ口調で言った。
「あんたにもご同行を願うことになるよ。」
言い終えると巡卒の腰の辺りで何かがカチャリと鳴った。
「ねえ、お巡りさん」翡翠緑の旗袍は急に餌をねだる猫じみた声になった。
「中に入って服を取るくらい、いいでしょ?」
女が白玉じみた歯並びを見せ、流し目を送ると、耳飾りの真珠もちらりと揺れる。
「あんたの欲しがる様な物は端から無いさ。」
巡卒は蚊でも追い払う様に手を振った。
「ここは仕立屋じゃなくて、下手人の隠れ家だったんだから。」
巡卒はそれだけ言うとヒビの入ったガラス戸の奥に消えた。
「おーい、何か見付かったか?」
「弾薬がありました。」
翡翠緑の旗袍は暫くガラス戸の前に棒立ちになっていたが、急にペッと唾を吐いた。
「あれが一番いい柄のやつだったのに、手付金まで丸々ドブに捨てて…。」
女は猛然と身を翻すと、ハイヒールの音高くこちらに向かって歩いてきたので、私が右に退くか左に避けるか決める前に、思い切りぶつかって道の脇に撥ね飛ばされた。
「あいたた…。」
落とした弾みに包みが解けて、中身が散乱した。
裁ち鋏、糸切り鋏、縫い針、待ち針、刺繍糸、木綿糸。
私は砂埃を払うのも忘れて手当たり次第拾い集める。
それに、今まで刺繍した巾。
金魚、青竹、白鶴、朱鷺、桃花、紅梅、緋牡丹、そして茉莉花。あと一枚…。
「芙蓉!」
一間離れた所に落ちていた巾に私が手を伸ばした瞬間、別の手が、雪の様に白く細長い指を持つ手がふわりと拾い上げた。
「芙蓉。」
翡翠緑の旗袍はそう言うと、拾い上げた巾の刺繍に目を凝らした。
「それ、」
返して下さい、と言いかけて私は口ごもった。
遠目にも何となく洋人じみた顔の女とは感じたが、間近に見ると、女はまるで猫目石の様な、茶色の勝った緑色の目をしていた。
不意にその目がこちらに動いた。
「これ、あんたが作ったの?」
「あ、はい。」
私は返してくれと言うのも忘れて、頷いた。
猫じみた不思議な色の目が、私の解れたお下げ髪から垢じみた薄青の綿入れ、継ぎの当たったズボンに穴の空いた靴の爪先まで素早く見て取った。
「家出娘ね?」
大きな目がにいっと細まる。
「あ、はい。」
私は馬鹿の様に同じ返事を繰り返す。溝鼠にでもなった気がした。
「宿はどこ?」
相手は再び白芙蓉の刺繍に目を戻して問う。
「まだ、探してません。」
「この辺りは木賃宿でも何やかやとぼったくられるし、」
白い指が巾を裏返して芙蓉の裏地を撫でる。
「一人旅の娘なんてうっかり変な宿に入ったら、無事に一晩明かせるかもんだか。」
「あの、」
「ああ、ごめんね。」
私が言い掛けると緑旗袍は、うっかり忘れていたといった風に私に巾を差し出した。
「じゃ、さよなら。」
ふわりと蓮の様な香りが匂ったかと思うと、緑旗袍は背を向けて通りを歩き出した。
「あの、」
私は蓮の香りを追い掛けた。
「何。」
緑旗袍は踵だけ細く高い靴の足を止めて振り返る。
「お宅に泊めていただけませんか。」
「うちは宿屋じゃないのよ。」
緑旗袍はまた歩き出したが、先程より緩やかな歩調だ。
「それじゃ、お宅で使って下さい。」
「家出娘なんでしょ?」
緑旗袍はまた振り返ると、悪戯っぽく小首を傾けた。
「ここは危ないから、おうちに帰んなさい。」
「帰るとこないんです。」
私は緑旗袍の裾を掴みたい様な気持ちで言った。
「女中してたお宅が苦しくなって、私は暇を出されたんです。」
緑旗袍はまた立ち止まったが、振り向いた顔は陰になっていて、彫り深い眼窩の奥は読み取れない。
「上海なら仕事があると思って…。」
私はその場に立ち止まったまま、芝居でなく掌を両目に当てた。
「お針でもお掃除でも何でもしますし、夜は床下にでも寝ますから、しばらくお宅に置いて下さい。」
「本当に、何でもするのね?」
撫でる様な声がした。
「はい。」
私は涙を拭って鼻を啜った。
「あたしは、厳しいわよ。」
女は挑む様に告げると、閉じた唇の両脇をきゅっと上げた。白い顔、茶緑の瞳に対し、血の様に紅い唇をしていた。
「置いて下さるだけで感謝します。」
私は頭を深く下げながら、ここは跪くべきかと迷った。
「じゃ、行きましょう。」
女は事も無げに言うと、また歩き出した。私は三歩ほど間を置いてその後に従う。
「あたしは、姓を白(バイ)、名を蓉香(ロンシャン)、」
緑旗袍は歩きながら、こちらを振り向きもせずに言い放った。
「この辺りでは、蓉蓉(ロンロン)と呼ばれてるわ。」
「私は姓を姚(ヤオ)、名を莉華(リーホア)と申します。」
「リーホア?」
白蓉香と名乗った緑旗袍は怪訝な声を出したが、すぐに行く手に向かって告げた。
「じゃ、あんたは莉莉(リリ)ね。」
「はい。」
私の名前から華が消えた。
緑旗袍について角を曲がった所で、私は大看板に目を奪われた。
きっと、あれが、電影院(えいがかん)だ。看板には、洋服を着た若い男の横顔が描かれていた。田舎で観た越劇の役者なんかより、ずっと男前だ。
「年は幾つ?」
「え?」
「ボヤっとすんじゃない。」
振り向いた顔は険しい。
「あ、はい。」
私は胸の包みを持ち直す。
「十五になります。」
「十五?」
相手は検分する様に私の旋毛から爪先まで見て取ると、説得の口調で言った。
「十八には見えるわ。」
初めて年より大人に見られた。
「あの、」
「何。」
この人は不機嫌だと露骨に顔と声に出る。
「どうお呼びすれば。」
小姐(おじょうさま)か、太太(おくさま)か。
年の頃は二十四、五に見えるが、どちらなのか分からない。
というより、どちらでもなさそうに思える
「ああ、」
女は面倒そうに答えた。
「蓉姐(ロンジエ)、でいいわ。」
蓉蓉が姐(あね)で、莉莉は妹という事らしい。
「分かりました。」
蓉姐は立ち止まると、通りを走ってくる空の人力車に手を上げた。
車夫が止まるが早いか、旗袍の切れ目から白い脛を覗かせてひらりと飛び乗る。
「乗って!」
私も慌てて隣に乗り込む。人の引く車に乗るのは初めてだ。
「静安寺通りまで。」
蓉姐が言うと車夫は駆け出す。
風が寒い程吹き付ける。私は荷物ごと吹き飛ばされない様に、背筋を伸ばした蓉姐の脇で縮こまった。
いつの間にか夜になった街の中を人力車は駆け抜ける。
列車から見た風景は田畑や川をひたすら速足で繰り返すだけだった。
しかし、ここではまるで祭りの様に色とりどりの灯りが目の前を通り過ぎていく。
この街は不夜城だ。というより、昼より夜に眺めた方が、きらびやかで美しい。
一度見入ってしまうと、私は自分が蘇州の田舎から出てきた文無しであることも、素性の知れない女に付いて車に乗っていることも忘れて、目で追い続けた。
手を伸ばせば、星の様な灯りの一つ位は、捕まえられそうな気がした。
「停めて。」
蓉姐の声と共に灯りの流れは止まった。
降りなくちゃ。今度は指示される前に動いてみる。
「全く、最近は何でも値上がり、値上がりなんだから。」
車夫がまた全速力で駆け出すと、蓉姐はビーズのバッグに財布をしまいながら、舌打ちした。
「あんた、自分だけさっさと降りんじゃないわよ。」
蓉姐は私の姿を認めると、またきつい声を出した。
「人に車代払わしといて。」
どうやら、私はまた気の利かない真似をしたらしい。
「お車代、いくら払えばよろしいですか?」
「もういい!」
私が綿入れの下を探り出すと、刺す様な声が飛んだ。
「あんたに払えないのは分かるから。」
蓉姐は急に声を落として歩き出す。
私は付いていって良いのか迷いながら、後に従った。
高さ四、五階はあろうかと思われる、洒落た洋風の建物が見えてきた。
「ここがうちよ。」
蓉姐は白い顎でその建物を示すと、小言で告げた。
「本当ですか!」
こんな御殿に住んでるなら、やっぱりお金持ちには違いない。
「住んでるのはお上品な連中が多いから、あんたも気を付けて。」
蓉姐は他人事じみた口調で続けた。
「このアパートであたしの面子を潰す真似したら、即追ん出すわよ。」
どうやら、この建物全体の女主人ではなく、間借りしてるだけの様だ。
私は最初の驚きを修正する。
それでも金持ちには違いない。
蓉姐はツルツルした床の上を靴音高く進むと、
ぴったり閉じた扉の前で立ち止まると、扉脇のボタンを押す。
扉は閉じたまま、うんともすんとも言わない。
扉を叩いて呼び出さなければ、開けてもらえないのではないか?
そう思った瞬間、扉が両側にパッと開いて、中から洋服に帽子を被った男が姿を現した。
"Evening,Miss.Bai,"
出ながら、男は片手でひょいと帽子を取る。
洋服を着て洋人の言葉を口にはしているが、帽子を取ると、分厚い眼鏡の小柄な中国人の男だ。
"Evening,Mr.Ye,"
蓉姐も笑顔で私には分からない言葉を男に返す。
「新しいお女中ですか?」
男が目を蓉姐の襟足辺りに泳がせたまま今度は中国語で問うたので、私は一瞬、自分のことを言われたのだと気付かなかった。
「何なら、僕がそんなのよりもっといいメイドを紹介しますよ。」
男は飽くまで蓉姐に目を注いだまま、黄色い歯を見せて笑った。
「親戚の子を引き取りましたの。」
蓉姐の声と共に私は肩を押されて、開いた扉の向こうに入る。
「この通り女所帯ですから、私たち、女中は不要です。」
蓉姐が笑顔でボタンを押すと、また扉がゆっくり閉まって、黄色い歯を剥き出したまま固まっている男は姿を消した。
「ふん、身の程知らずのチビ鼠が!」
扉が閉まるが早いか、蓉姐は私の肩から手を引っ込めて、吐き捨てた。
また私のことかとビクついた次の瞬間、床が持ち上がる様な感触が起きた。
「この部屋、どうなってるんです?」
私は泣きそうになるのを必死で堪えた。
こんな小さな箱みたいな部屋からいきなり人が出てきたり、床が急に持ち上がったり、もはや建物全体がお化け屋敷としか思えなかった。
「これはエレベーターよ。」
真っ赤な唇に猫の様な目の女が振り向いた。
「こいつに乗ると、階段なしで昇り降りできるの。」
急に部屋全体がガタンと揺れて止まった。
「三階よ、降りましょう。」
降りた階では、一階と同じくツルツルした廊下が続いていて、同じ形の扉が並んでいる。
蓉姐の後ろを歩いて扉の前を一つ一つ通り過ぎながら、今にまた何かが飛び出してくるのではないかという気がしてならなかった。
一番奥の扉の前に来た所で、蓉姐はビーズのバッグの口を探り出して、銀色の鍵を取り出した。
私はほっと息を吐く。
どうやらこの部屋で上がりらしい。
蓉姐が扉を開くと、暗がりの奥から、鐘を早打ちする様な音が鋭く鳴り響いてきた。
「はい、はい、はい、はい、」
身を固くする私をよそに蓉姐は、音のする闇の中へ駆け込む。
その途中でカチャリと軽い音がして奥がパッと明るくなる。
鐘の早打ちが止まった。
「もしもし?」
部屋には他にも誰かいるらしい。
「私ですけど、どちら様ですか?」
私は閉じた扉に錠をすべきか一瞬迷ったが、そのままにして奥に向かった。
「あら、李さん?」
行ってみると、蓉姐は旗袍の背を見せて一人で話していた。
「お久し振りですね!」
ピカピカ光る黒い銚子の様な物を片手に持ったまま、上ずった声を出す。
「でも、どうしてうちの番号をご存知なの?」
これが「電話」というやつだ。私は田舎で聞いた噂話を思い出す。
遠くに離れた相手ともすぐ近くにいる様に話せる道具だそうだ。
「薇薇(ウェイウェイ)が?オホホ、嫌ね、あの子ったらお喋りだから…。いえ、いいんですよ、李さんなら。」
甘やかな声で話す一方で、白い指は、手にした受話器と卓上の装置を繋ぐ渦巻き状の紐を弄ぶ。
「あら、香港(ホンコン)にいらしたんですか?いいですわねえ」
蓉姐は口の端で笑うと、だるそうに傍の長椅子に腰掛ける。
「李さん、このところ、すっかりお見えにならないから、私たち、お見限りされたんじゃないかって噂してたんですの」
蓉姐は緑色の目をにいっと細めたまま、今度は長椅子の上に寝そべって頬杖をつく。
実際、いかにもふかふかと柔らかそうな洋風の長椅子は、座るより寝転がる方に適して見えた。
「近い内に店にいらして香港のお土産話を聞かせて下さいね。今度、新しい子も入りますし、」
蓉姐が急にちらりと目を向けたので、私はまた自分が場違いな真似をしでかしたのかとビクつく。
蓉姐は片手で弄くる受話器の紐に冷笑すると、蜜の如く甘い声で囁いた。
「私たち皆で李さんをお待ちしてますから、きっといらしてね。これは私との約束。」
冷やかな笑いを浮かべたまま、蓉姐は静かにカチャリと受話器を繋がれた装置の上に戻す。
一呼吸置いて、今度は笑いの消えた顔でまた受話器を取り上げて、装置の文字盤を指先で素早く回す。
「もしもし?達哥(ダー兄さん)?蓉蓉(ロンロン)です。」
蓉姐は今度は仔猫じみた声を出した。
「今日はお休みをいただきましたけど、明日は一番で出ます。」
何か意外な物にぶつかった様に、片眉を逆立てる。
「あら、私が達哥を騙したことがあって?」
間髪を入れずに続ける。
「今、薇薇(ウェイウェイ)は出てます?急いであの子をお願いします。」
それから暫くは沈黙していたが、蓉姐は舌打ちして受話器を叩きつけた。
「おっそいんだよ、馬鹿どもが!」
蓉姐は鋭い目をこちらに向けると、長椅子から身を起こした。
「あんたね、ボヤッと突っ立ってないで、」
言い掛けた所で電話が鳴り出す。
蓉姐は思案げに腕組みしていたが、五回目に鳴り終わった所で受話器を取った。
「もしもし?」
真綿に針を含んだ声だ。
「あんた、李のジジイにうちの番号、勝手に教えたでしょ。」
蓉姐は、靴の高い踵で床を音高く踏み鳴らした。
「どの李かって?ほら、あの紡績の工場持ってるとか自慢してたハゲよ!」
取り敢えず、この人が電話している間に何かした方が良さそうだ。
掃除、お茶だし、繕い物…。
考えあぐねながら、改めて部屋を眺め回す。
小花模様の壁紙に彩られた洋風の部屋。
長椅子と電話の他にある家具と言えば、まず卓子に一人掛けの籐椅子。
一方の壁には暖炉が取り付けてあるが、むしろ少し暑い気がするから、取り敢えず向こうの窓を開けようか?
ここは三階だそうだから、泥棒に入られる心配もあるまい。
窓際に歩み寄った所で金切り声が飛ぶ。
「あんた、その様子だとあちこちにうちの番号を言い触らしてるのね!」
窓を開けるのはやめにした。
「それはさておき、あんたに貸したイヤリング、明日返してちょうだい。あのエメラルドのやつよ。」
私は次の仕事を探す。卓子の上には白い蘭を挿した花瓶が置かれているが、まだ花はピンピンしているから、手を出す必要はない。
灰皿には吸い殻が残っている。
「莎莎(シャシャ)に貸した?バカ!どうしてそういうことをするの!」
私は危うく灰皿を落とすところだった。
「明日返さなかったら、あんたの両耳を削ぐわよ。」
「莎莎にも言っときなさい。」
灰皿を手にしたはいいが、どこにゴミを捨てるべきか分からない。と、卓子の下に黒い箱を見付けた。
「明日、あたしが店に出た時、エメラルドのイヤリングが揃ってなかったら、あんたたちの耳で返してもらうって。」
箱の中は既に四半分を古い吸い殻が満たしており、萎れて茶色くなった花や空き箱がそこに混じっていた。
取り敢えずこれがゴミ箱らしいので、新たに吸い殻を捨てる。
同じ吸い殻でも口紅の跡が赤く付いたのとそうでないのが半々位なのは何故だろう?
流れてきた煙にふと振り向くと、蓉姐は受話器を持ったまま、もう片方の手で煙草をくゆらせていた。
私は慌てて空にしたばかりの灰皿を蓉姐の前に供える。
蓉姐は灰皿の上でゆっくりと燃え先を押し潰す。
「耳がない方が、イヤリングしなくていいから、あんたたちには安上がりでしょ。」
蓉姐は言うだけ言ってしまうと、ガチャリと受話器を置いた。
「バカばっかりだわ。」
紅い唇をすぼめて白い煙を吐き出す。
流れてきた煙にむせかえりそうになるが、必死で堪える。
「何か御用は、」
私が言いかけた所で、蓉姐はまた受話器を取り上げて、文字盤を回し始めた。
今度は誰と話す気なんだろう?
頭の片隅で思いながら、ふと卓子に目を落とすと、掛けられている刺繍入りの布には、端っこに小指の先程の焦げ目があった。さっきは灰皿で隠れてていたらしい。
花瓶をそっと避けて布を取り上げると、私は傍らの包みを開いた。やっとこのお針道具を使う時が来た。
「もしもし?」
「阿建(アジェン)ね?蓉姐よ。」
卓子掛けの焦げ目は、ちょうど桃色の糸で刺繍した芙蓉の花びらの部分に出来ていた。
「阿偉(アウェイ)を出してちょうだい。」
裏を返して確かめた限り、刺繍部分の糸が焦げ付いただけで、生地ごと穴を空けるには至っていない。
焦げた糸を解いて、新たに縫い直せばいいだけの話だ。
私は手持ちの包みから糸切り鋏を出し、元の刺繍と同じ桃色の糸を探す。
「どこにいるの?」
どうも見当たらない。
手持ちに同じ桃色の刺繍糸がないので、似た色で代用することにした。
この赤い糸を使おう。
「どうしてあんたが出てくるの?」
やっぱり、赤はやめて朱色にしよう。
「ねえ、小明(シャオミン)、阿偉(アウェイ)と代わってちょうだい。」
この朱色もちょっと合わない気がしてきた。
「何を喋ってるの?」
いっそ、全部解いて別の色で縫い直そうか?
「本当のことを言いなさい!」
「阿偉(アウェイ)。」
蓉姐は打って変わって疲れた声を出した。この人の地声は本当はかなり低いみたいだ。
「出る前も一度掛けたのよ。」
ふと目を上げると、蓉姐は受話器を両手で包む様にして話していた。
「また一人で賭博場へ?」
まるで、黒い受話器の中に真珠か砂金でも詰まっていて、少しでも揺らせば中身が全てこぼれ落ちてしまうと恐れているかの様に。
「危ないのに。」
「今日は散々だったわ。手直しに出した服は戻って来ないし。」
蓉姐の声が元の調子を取り戻したのをしおに、私はまた仕事に取り掛かる。
「仕立屋がしょっぴかれたのよ。」
焦げた花びらを間に合わせの色で縫い直すより、上からもう一つ新しい花を重ねて縫おう。
「おまけに前にしつこくされて断った客に、うちの番号をいつの間にか知られてたの。」
本来の図案にない刺繍だと見た人にバレてもそこまで目に付かない様に、地と同じ白の糸を取り上げる。
「そいつ、薇薇(ウェイウェイ)を脅して聞き出したらしいわ。」
いざ縫い出すとやはり蛇足が目立つ気がしたが、とにかく縫い上げてしまうことにした。
「怖いったらないわ。」
蓉姐はまた芝居がかった高い声を出す。
焦げ目はもうすぐ新しい花の一枚目の花びらの下に消える。
「アパートに帰ったら帰ったで、部屋までついてきた奴がいるのよ。」
針が思い切り指先に刺さる。
「葉(イエ)って男よ。同じ階に最近越してきたの。英国(イギリス)帰りだとか自慢してたわ。鍵は掛けたけど、まだドアの外にいるかも。」
鍵を開けっ放しだ!
私は血の出る指先を食わえたまま、玄関に走った。
「阿偉(アウェイ)、早く来てちょうだい。」
錠を挿して玄関から元の部屋に戻ると、電話も、長椅子も、縫いかけの卓子掛けもそのままで、この部屋の主の姿だけが消えていた。
「蓉姐?」
見回すと、さっきは閉じていた壁の扉が半ば開いており、その隙間から薄暗い奥が覗いていた。
こっちは何の部屋だろう?
恐る恐る近付いてミルト
と、急にその扉が軋んだ音を立てて開いた。
「…!」
私は思わず息を飲む。
赤、緋、薄紅、桃、朱、黄、浅葱(あさぎ)、緑、青、紫、黒、白…。
色とりどりの絹や紗の地に、これまた様々な色の糸で花や蝶の刺繍を施した旗袍(チャイナドレス)の山が、姿を現した。
「ふう」
蓉姐は長椅子の上に衣装の山をドサリと置く。
私は弾みで長椅子の下に落ちた白の旗袍を拾う。
遠目には無地に見えたが、間近に見るとビーズで花の形に刺繍が施されている。
部屋の灯りを受けて、ビーズは七色に輝いた。
「これをあんたに直してもらうわ。」
これは、玉虫の羽ででも出来ているのか?
私は蓉姐の言葉をよそに光の加減で青から赤へと色を変えるビーズに見入った。
「汚れるわ。」
蓉姐はいきなり私の持っていた白い旗袍を引ったくると、長椅子の上に放った。
「こっちに来なさい。」
蓉姐はそう言うと、廊下を今度は玄関とは反対側の方に進んでいく。
「まず、あんたを洗うのが先よ。」
行く手には今までの扉とは毛色の違う、白く曇った感じのガラス戸が構えていた。
「ここがお風呂。」
蓉姐がガラス戸を開けると、壁も床もツルツルした水色の板で張り付くされた部屋が姿を表す。
正面の壁からは、二本の銀色の管が突き出ていて、取っ手の付いた先の方が蛇の様にぐにゃりと曲がっていた。
「水はどこから汲んでくるんですか?」
田舎でお仕えしていた家では、女中仲間と交代で井戸から水汲みしていたが、これからは毎日かと思うと、ちょっと気が重い。
「水ならここから出るわ。」
蓉姐は二本の管に近付いていくと、右の方の取っ手を回した。
すると、管の先から迸る様に水が吹き出した!
「止める時には蛇口を反対に回すの。」
蓉姐が取っ手をさっきとは逆に回すと、水は嘘の様にピタリと止まった。
「右が冷たい水で、左がお湯ね。左はいきなり熱いのが出たりするから気を付けて。」
私は茫然と二本の管を見詰めた。
こいつは一体どんな仕組みになってるんだ?
「使い終わったら必ず蛇口は締めて水を止めるのよ。出しっ放しにしたら、あんたに水道代払ってもらうから。」
「はい。」
よく分からないが、後払いで水を買う決まりになっているらしい。
「髪から爪の先まで石鹸付けて良く洗うのよ。」
蓉姐は白い蝋の様な四角い固まりを取り上げてそう言うと、眉根に皺を寄せた。
「臭くて堪らないわ。」
私は自分の破れ靴に目を落とす。
汚くてみすぼらしい身なりの上に、嫌な匂いまでしていたのか。
「田舎ではどうだったか知らないけど、」
蓉姐は石鹸で私の顎を軽く叩く。この人は、相手が自分から目を反らすことを許さないらしい。
「これからは毎日体を洗うのよ。」
「はい。」
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今を生きる意味
迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。 野原祐也に会うことができた…(旅人さん0)
78レス 509HIT 旅人さん
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はじめまして 先日、会社の飲み会の帰りに既婚者の先輩社員から遠回しにホテルに誘われました。 …
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408レス 3728HIT 理沙 (50代 女性 ) 名必 年性必 -
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30レス 609HIT 匿名さん - もっと見る