神社仏閣珍道中・改

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2024/09/21 05:50(更新日時)


【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。

自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!



┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。

初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。

相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま仏さま、どうかお導きください。


No.3964800 (スレ作成日時)

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No.500

(続き)

などとブツブツ心の中でつぶやくうちに、かつての北の上新田集落入口から南の上新田集落入口へと到着いたします。



えっ?

…新しいんですけど?


ええ、洗って磨いてとかで綺麗になった、とかではなくて、これは確実に新しい。
ぴっかぴかの新しさ、素人目に見ても機械彫りのものであります。


…場所をまちがえた?
ここは前橋の上新田と下新田と呼ばれる町の境くらいのところにあたります。
お寺さんがすぐそばにあります。

いつもですと、初めてのお寺さんですしいそいそお参りにまいり、ついでにこのお地蔵さま、さらにはかつぎ地蔵さまについてもうかがう、エックスキューズミーおばさんでありますが、このときすでにお彼岸さんが目前。
お寺さんのとても忙しい時期でございます。

うーん。



と、そのお地蔵さまのお足元に一つ石碑と、もう一つ案内板があるのがみえました。


『かつての地蔵尊は昭和十年の大洪水で頭部を欠損したものを当福徳寺檀徒の◯◯様が修復したものでした。
またこの土地も同檀徒の〇〇様の先祖からの借地でしたが平成二十四年十月、同氏により当寺に寄進されました。
現在の地蔵尊はこれを機に同年十二月に新規建立したものです。
    …以下略      』


…あれ、やはり、新たなお地蔵さまであられましたか。

そして、北の入口とそっくりそのままの文章が書かれた説明の案内板がありました。



…どうやら南のお地蔵さまであることは間違いなさそうです。


しかしながらこの上新田のかつぎ地蔵さまの謎は深まるばかりです。
お寺さんにお聞きできればある程度わかるのかもしれませんが、このお地蔵さま二体、私の全くの想像ではありますが、かつぎ地蔵さまとは異なっていて、かつての上新田集落の北と南を護るお地蔵さまであるのでは?

そしてかつぎ地蔵の慣習にこのお寺さん、福徳寺さんが関与されておられず、さらにはご住職さまがこの土地でお生まれでない、ご本山から遣わされたお坊さまであったりすれば、かつぎ地蔵さまのことはご存知ないかもしれません。


うーん。


ネットで調べてもこの上新田のかつぎ地蔵さまについてはこの説明板を超えるものは何一つあがってこないのです。
というよりも違う地域のかつぎ地蔵さまの情報がHITしてくるくらい。



…これは、図書館、だな。

No.499

(続き)

…はて。

佐渡奉行街道。
…佐渡奉行限定の街道?
金山で採取された金を運ぶお奉行さまだから?

そういえばこのかつぎ地蔵さまを調べていて歩いた道沿いにあった八幡さまに、やっぱり佐渡奉行なんちゃらと書かれた石標だか石碑があったような。


おやおや新たな調べごとが見つかりましたよ。


ただしまずはかつぎ地蔵さま。

上新田集落の北と南の入口にそれぞれお地蔵さまがおられるようです。

…歩きましたよぉ〜。
北と南、北から南へ。

というか、私が最初にお訪ね申し上げた北のお地蔵さまは、現在は朝日が丘町となっていました。
朝日が丘町は昭和三十八(1963)年に上新田町の最北部が分離したといいます。
かつてこうした町の区分が変更される時などはよくこうした信仰の対象、人たちの心のよりどころである、お社や御堂、石仏などは元々の町に残すべく移動されることが多かったりしたものですが、昭和も戦後ともなるとそうしたことにこだわる人が減っていた、…ということなのでありましょうか。

…その、町の区分が変更になることが決まっていたのか、それとは関係なく信仰と文化の伝承、ということよりも生活に追われる時代の変化がおとずれていたのか、その辺はまだ調べてもおらず、全く分かりませんが、町の区分が変わる六年ほど前の昭和三十二(1957)年にはこの【かつぎ地蔵】さまの行事は幕をおろしておりました。
担ぎ手自体の子どもたちの意識の変化もあったかもしれませんし、調べてみても、外者の私にはその理由を調べてみてもわかることは限られてきそうではありますが…。


そもそもが、この北の、背高のっぽのお地蔵さま、何度見上げても子どもたちが担げるような大きさ重さとは思えないのです。

そもそも何度も何度も担がれたのであれば、どこかで外す繋ぎ目がありましょうし、台座がズレたりもいたしましょう。
…見当たらないんです。
ええ、まるで、まるっきり。


移動しないことを決めて、固定した過去はあったかもしれません。それは昭和の、三十年代後半から四十年代?
であればその固定の跡はもはや古びて、こんなザルのような目しか持たないおばさんにはよくはわからないことでしょう。
でも、でもですよ?
いま、簡易的ながら復活していると書かれています。


だったら、…動かした跡って残っているのでは?



No.498

(続き)

『かつぎ地蔵とお地蔵様

佐渡奉行街道沿いに展開していた上新田集落の北と南の入口には、それぞれお地蔵様から鎮座しています。
かつぎ地蔵の起源は不明ですが、医療環境が乏しかったその昔、伝染病のみならず風でさえ命を落とす子供たちが多かったようです。
その悲しみから地蔵信仰が広まって無病息災を祈って、村中を和讃念仏を唱えながら巡ったのでした。

地蔵様のお祭りは子供だけで行われ、小学六年から中学二年までを、子方(こかた)・中方・親方とした役割分担です。
夏休みは、毎日雷電神社の神楽殿で和讃を練習して暗記しました。一年間に生まれた子供の幸せと健やかな成長を願って、真新しい火打ち(ヒーチー)何地蔵様の屋根に追加されて吊るされます。

八月一日から送り盆(二十六日)までの毎日、砂利道の往還道を担ぎ、太鼓を叩き和讃を唱えて歩きました。


昭和三十二年まで続いたこの行事ですが、一時の中止期間o(^-^)o挟んで昭和五十八年に復活し、簡易的ですがリアカー利用により継続されています。



平成二十七年度上新田町 自治会事業 上新田町誌  より』


No.497

【かつぎ地蔵】

群馬県前橋市のとある道路沿いに、それは大きく立派なお地蔵さまが立っておられるのを見かけて…一体何年経ったことか。


そこは私がそう何度も使う道ではない上に、そのお地蔵さまのお立ちになられるそばには車を停めるスペースは全くなく、しかもひきりなく車の通る片道一車線の道路沿い、なのでありました。


それでも現代は便利な世の中で。
ある程度の情報を入力できれば、少なくともその場所の地名、あわよくばそのお地蔵さまの由来さえもがネットで検索できてしまう時代です。

そのお地蔵さまはどうやら【かつぎ地蔵】と呼ばれるお地蔵さまのようです。


え?

…距離とか高さとかの目検討がほぼ当たらない特技を持つ私であることを差し引いても、このお地蔵さま、台座などを含めれば、間違いなく三メートル、いや四メートルあるかもしれません。(ま、まぁ…三メートルはあると思うんです。なぜなら夫が一・八メートル、ですので、足すことの一メートル、…たぶんこれよりあるん、…では?)


えっとぉ、〝かつぎ〟って、かつぐ、んですよね?
それとも何かをお地蔵さまご自身がかついだとかいう伝説でも?

…いや、そのネット上にあげられた写真に写る案内板によると、やっぱりお地蔵さまを〝かつぐ〟んです。
しかも子どもが、とあります。


いやいや…無理でしょ?


ムクムクと私の中に、このお地蔵さまにお会いしたい気持ちが湧き上がります。

それでも一年、二年、三年…。


とうとう、とうとう行ってまいりました。
背高のっぽのお地蔵さまのお足元へ♡
ただし、一人でまいりましたので、あの高さの指標の夫がおらず、比較してある程度の高さを算出することはできなかったんですが、ね 笑。

No.496

貧しく、しかも片親であった私は高卒で働くべく、秋には早々に就職先が決まり、のんびりと最後の学生生活を楽しんでいた。
とはいえ進学校であったため、それはあくまでも密かにに密やかに。
周りは受験勉強のまさに追い込みにかかる頃だ。

正直な気持ちを言えば、…淋しかったし悔しくもあった。
全国模試で自分でもなかなかと思う成績を修めようと、大学へいっていよいよ専門的な勉強をする道は私には望めない、望むことが出来ない。

進学校における高三の秋、私はバイトに勤しんでいた。
気難しい老医師の営む耳鼻科で、無資格でも許される程度の手伝い的な仕事内容だった。
バイト料は本屋でのものよりだいぶよかった。


そんなある日。
担任のN先生に呼び出された。


(なんか悪いこと、したっけ?)
…そうすぐさま思うところが小心者だ。


「Y。お前の成績なら上の学校にだって行けるぞ。奨学金制度だってある」

…はっ?


ちょ、ちょっと待って?

「先生?もう就職先も決まっています。
今から就職を断るのは学校的に今後のことを考えたら良くないのでは?
そもそも今から受験勉強って、…もう十二月になろうかという時期ですよ?そんなに受験は甘くは無いです。
先生もご存知でしょう。

就職も断り、受験も失敗するような、そんな余裕は私には無いです。

母だって就職が決まって喜んでいます」

N先生はなおも続けられました。

「もうお母さんとは相談してある。お母さんの承諾は得ている」


はあぁっ?



「就職を断るのは学校が責任をもって良いように断るから、そんな心配はしなくていい。勉強は…これからのお前次第だ」

いつの間にか他の先生も加わっていた。

外堀は固められていた。


そう、N先生は私に進学の道を開いて下さった大恩の方、だった。

決まっていた就職先にも自ら出向いてくださり、穏便に断ってくださった。



つまり、N先生は、その後私がなんとか合格できた学校を卒業し、就職した先までをも、何十年も経った今でも覚えていてくださった、ということ、なのだ。


有難い出会いでありました。
本当に本当に、有難いという言葉がこれほどに適切なことは私が生きてきた中そうはありません。


…これもまた御仏のお導きであったのでありましょう。


惜しむらくは私がこの恩をまだ誰にも返していないこと。

No.495

(続き)

…どうしよう。

N先生であることは間違いないとすでに確信に近い思いを抱いておりましたが、十人を超える、ご家族と思われる方々とご一緒の時にお声がけしていいものかどうか…。

しかしながら、この機会を逃したらもう一生お逢いできないかもしれません。



…よし!

私はまっすぐその方の横顔を見ながら声をかけました。
「N先生、N先生でいらっしゃいますよね」。

驚いた顔をされその方は私の顔をゆっくりとまっすぐ捉えて、
「ええ」
とお答えになられました。

私をお分かりにはならないご様子。
(あ、名乗らねば失礼だ)

「…Yです」
すぐに先生は思い出してくださいました。

この「…Yです」と名乗るのに少し間が空いたのは、いつも名乗る現在の姓を名乗るのではなく旧姓を名乗らなければ伝わらないことに気づいたから。

旧姓を名乗っていた期間よりも、今の姓を名乗るようになってからの方がずっと長くなっていたことをあらためて実感いたします。

…そのうち旧姓が出てこなくなる歳を迎え、さらには自分の名前すら言えない歳が?
…来ないことを切に祈ります。



先生は私が勤めていた勤務先まで覚えていてくださいました。

凄いなぁ。
長い教師生活の中でのたった一人の生徒に過ぎないというのに。

何も変わらない。
優しい笑顔。

お子さんたちがたまたまこの連休に揃ったので、少し早いけれどお彼岸のお参りに来たのだとおっしゃいます。
奥さまを亡くされたとも。


先生のお口からあふれるように私へのお話は続きます。
が、早くに切り上げないとせっかくのお子さんたちとの時間が削られ、お子さんたちをお待たせしてしまいます。
さあ、どうする?私。


「やはりこちらのお檀家さんなんですか?」
と先生が問われました。
「いえ、今日は阿弥陀如来さまの御縁日なのでお参りさせていただきにまいりました」


キョトンとされる先生。

…ですよね。
そんなお詣りする人ってそうは多くはないようです。


そのキョトンとされた間を上手く使わせていただいて、先生とのお話を切り上げさせていただきました。



N先生にはこれ以上ないくらいのお骨折りをいただいたご恩があり、時折、(どうされておられるかしら)と思っておりました。

そんな奇跡の再会。


…阿弥陀さまのお導きと思わずにはいられません。

No.494

【正五九詣り】

神社仏閣巡りをはじめて、分からないことをネットに学ぶことが多い私。
神社に詣でても、お寺さんをお参りしても知れること、学べることはどうしても限られます。


『正五九詣り』という言葉もまさにネットで知ったものでありました。



インドから日本に伝わったものだといい、一月(正月)・五月・九月に参詣することを
【正五九詣り(しょうごくまいり)】というといいます。

『正五九』、一月、五月、九月にお詣りをすると特に功徳が得られるとされ、 それは神道、そして仏教が、日本の農耕⽂化に深く関係しているもの、ともされます。

『正五九』は
【三斎月(さんさいがつ)】、
【三長斎月 (さんちょうさいがつ)】
ともいわれるといいます。

この三月は精進をし、功徳を積む風習があり、
それが農耕⽂化においては、豊穣祈願の一⽉、⽥植えの五⽉、収穫祭の九⽉として、 ⼀年を三等分した区切りの⽉にお参りする慣習が転じて、年に三度お参りすると⾼いご利益が得られるといわれらようになったもの、といいます。

この農耕文化における意味が転じて、
一月=物事の始まり
五月=物事が最も盛んなとき
九月=物事が実を結ぶとき
ということでこの正五九詣りをすると功徳を得られる、功徳を得やすいとされています。


今月はまさにその九月。

農耕文化との結びつきから旧暦、太陰暦とするという説をとる話もありますが、おバカさんな私は間違いなくお詣りするべく、現在の暦どおりとしております。


そして今日はその『正五九』の九月における阿弥陀如来さまのお縁日。

ということで、阿弥陀如さまを御本尊としてお祀りされるお寺さんをお参りさせていただきました。


御本堂を目指して歩いていると、ちょうど十名ほどのご家族が、お墓参りを終えられたようで墓所から歩いて来られました。

そのうちの年配のお一方が目について、なぜだか目が離せない私。

(失礼でしょ?)

そう思ってもどうしてもその方から目が離せないのです。

自分でも不思議で仕方ありません。




あっ!

N先生!


それは他ならぬ、高校三年生のときの担任の先生でありました。


No.493

(続き)

ただ、やはり『仏陀』、ブッダといえばお釈迦さまの別称であると考えてよいかと思われます。
他の、お釈迦さま以外の御仏を仏陀と呼ばれることは(ほとんど)ないでしょう。

(この〝ほとんど〟という言い方は私がまだまだ不勉強な、仏教をほんのちょっとだけ知ったばかりの、…知った気になっている学びはじめの者だから、に他ありません)


一方、〝如来さま〟は、
たとえば阿弥陀さま、大日さまやお薬師さまなど、他にも如来と呼ばれる仏さまはおられます。





ちなみに。
その『如来』になるために修行中の方のことを『菩薩』と呼びます。

菩薩と呼ばれる御仏には観音さまがおられ、お地蔵さま、弥勒菩薩さま、文殊菩薩さま、虚空蔵菩薩さま、普賢菩薩さまなどからおられます。

菩薩さまは〝悟りを求めて修行されている方〟と書いておりますが、実際は衆生と呼ばれる私どもをお救いくださる存在でもございます。
実際にはすでに悟りを開いておられながら、衆生を救うためあえて菩薩でおられる御仏もおられるのだとお聞きいたします。


お釈迦さまもまた、菩提樹の下で悟りを開いて『ブッダ』『如来』になられる瞬間までは『菩薩』だったわけです。

お釈迦さまはシャカ族の王子としてお生まれになられる前の過去世でも修行を続けておられた、と伝えられます。
たとえばウサギに生まれたり、オウムに生まれたこともあったといい、その間もずっと修行していたわけで、そういったことから考えるとそのウサギやオウムもまた菩薩となると思われるのですが…。

と考えたとき、菩薩というと観音さまやお地蔵さまようなお姿ばかり想像いたしますが、菩薩という存在は、この世のあらゆる動物の中に存在しているとも考えられる、ということにもなります。



 (群馬県太田市にあります曹源寺 さんの、私の大好きなお地蔵さま の御像)

No.492

(続き)

お釈迦さまについてを私のような者が語るようなことはそれは大変烏滸がましいし、お釈迦さまを知りたいと思えば、お釈迦さまが亡くなられたのちに書かれたものがそれこそ世界中に、それこそ数さえ分からないほどの数存在しております。

なのでここではあくまでもその呼称について語ってまいります。


お釈迦さまをあらわす別の呼称に仏陀、ブッダがあります。
ちなみにその名も『ブッダ』という漫画をかの有名な漫画家、手塚治虫氏が描いておられます。


これはお釈迦さまが出家され、長い修行ののち菩提樹の下で悟りを開かれた時、
『智慧の力で煩悩を取り除いて、目が覚めた』ということで
【目覚めし者】と呼ばれるようになりました。
これがインド語の『ブッダ』です。

ちなみに『目覚め』そのもののインド語は『ボーディ』といい、これが【菩提】という語になりました。



またお釈迦さまは
〝シャカ族が生んだ偉大なる聖者〟
ですので【釈迦牟尼(シャカムニ)】とも呼ばれるようになりました。
『ムニ』というのが『偉大な聖者』という意味です。
ただシャカムニ(釈迦牟尼)という語は長く、長い年月を経て【釈迦】と短い形に省略されるようになり、それで「お釈迦さま」と呼ばれるようになっていきます。


さらに、ブッダは
〝この世をあるがままに正しく理解した人〟とも言われるようになり、これが『タターガタ』というインド語で、これを中国では【如来】と訳しました。


つまりはこの流れで、
ゴータマ・シッダルータ
=仏陀
=如来
となっております

ただし、この三つの呼称、
特定の一人の人物を指す固有名詞は『ゴータマ・シッダルータ』だけ。

仏陀とか如来は〝ゴータマ・シッダルータ〟さまでなくても、
悟りを開いた優れた人物なら誰に対して用いることができるということ。
つまりは仏教世界にはブッダは他にもおり、如来さまがおられると考えることができるということになりましょう。



No.491

【お釈迦さま】

お釈迦さまという存在は仏教徒でなくとも誰もが知るものであろうかと思います。

このお釈迦さまの呼び方は他にもたくさんあり、たとえば『仏陀』と呼ばれたりもしますし、本名、というとなにかおかしな気もいたしますが、お生まれになられたとき、お父上である釈迦族の王によってつけられたお名前があります。

生まれたときのお釈迦さまが父である釈迦族の王『シュッドーダナ王』からつけられたお名前は、
【ゴータマ・シッダールタ】というものでありました。
これはパーリ語という古代インド語での発音で、
サンスクリット語という別の古代インド語で発音すると『ガウタマ・シッダールタ』となります。
要は発音の問題でどちらでも正しい呼び方となります。


ゴータマ(ガウタマ)というのは王の姓であり、これには『最も優れた牛』という意味があるようです。



は?
となってしまいそうですが、日本における姓にも、こうした動物の名の含まれるものもあることから考えれば、別段なんの不思議もないのだと思いました。
ただ訳されると(ん?)となってしまうのも事実ですが、ね。


お釈迦さまのお父さまであるシュッドーダナ王と后マーヤー夫人は長く子に恵まれなかったといい、実に二十幾年の歳月ののち、ようやく授かったのが、後の世にお釈迦さまと呼ばれることになる『王子』でありました。

お生まれになられたのはマーヤー夫人の生まれ故郷へと向かう途中のルンビニーという花園でありました。

王子がお生まれになられたという知らせを聞いたシュッドーダナ王の喜びはたとえようがなく、王子に名付けたのは、
『一切の願いが成就した』
という意味の『シッダールタ』=『悉達多(しっだった)』であったのです。

王の心がそのままに込められた、なんとも感動するお名前であります。



そんなゴータマ・シッダールタという名がありながら、【お釈迦さま】と呼ばれるようになったのは、釈迦族の王子だからという説が有力です。

また、悟られてからは、釈迦族の聖者として「釈迦牟尼(しゃかむに)」、
釈迦族の尊者として「釈尊(しゃくそん)」とも呼ばれています。

実にたくさんの呼称のあるお釈迦さまであります。


それだけ偉大な存在であるということの他ならないのですが。

No.490

…ずっと苦しんできた症状がありました。
二年はゆうに経ちましょう。

痰が切れず息が苦しかったり、それで胸すらが痛くなったり。


二軒の内科に受診して胸のレントゲンを撮っても、異常なしと言われ、三日分くらいの薬が出て終わり。
人間ドックでも相談したが、胸のレントゲンには異常がないと、呼吸器科への紹介には至らず、精密検査にも結びつかなかった。

このところずっとその症状が強かったのだけれど、昨晩はうまく息が吸えないくらい苦しんだ。
夫は目の前で苦しむ私に目もくれず、テレビに夢中で、「大丈夫?」の声すらかけない。



…これ、やっぱりなんでもなくはないはず。

とはいえ喘息の症状でよく表現されるゼイゼイという喘鳴といわれる症状はない。

生まれてこのかた自ら喫煙したことは一度もないが、祖父や父、夫もかつては喫煙していたので副流煙は吸っていた。
…その程度でCOPD?


レントゲンに写らない異常ならCTを撮ればわかることもあるのではと素人ながら思うのだが、レントゲンに異常がないと医師はCT検査には進まないようだ。


こんなに苦しいのに、レントゲン検査で異常がないがために…。

その症状に苦しむ姿に見慣れた夫はすっかり気にもならなくなっているようで、息がうまく吸えないで、SpO 2が96だと伝えても、一瞬こちらに目を向けてまたすぐにテレビを観る。


悔しさすら生じた。

…見慣れるんだ。
いつもより苦しいと伝えてもテレビの方が大事なんだ。


紹介状が無いとかかれない呼吸器科。
紹介状無く飛び込んだ。

結果は喘息。
昨夜の症状は結構それなりに大きな発作だったようだ。
聴診と問診だけで呼吸器科の医師がそう口にした。

即日CTを撮ってくださり、気管支が広がって大きくなっているので慢性的に呼吸が苦しかったはずとおっしゃった。

…ようやく私の苦しい症状に耳を傾け、寄り添ってくださる人に出会えた。

それなりに大きな肺炎の跡もあるけれど、普通のレントゲンでは映らない場所だったから、見逃されてしまったのねともおっしゃった。

ようやく…だ。

専門外のドクターとの差はこんなにも大きなものなんだ。


こんなに呼吸の楽な晩は何年ぶりだろう。
たった二回喘息の薬を飲んだだけなのに。


夫は相変わらず何も気にせず今日もテレビに夢中だが、…女の恨みは恐いんだよ?

No.489

お彼岸は、主に『お墓参りやお供えを通してご先祖様を供養する期間』、と考えられています。

しかしながらこのお彼岸、実は『日本独自の行事』なのです。
もちろん仏教行事であることに間違いはないのですが、他の仏教国にはこうした行事としての『彼岸』という概念はないのだといいます。


古来より農作が盛んであった日本には、仏教が伝来するはるか前から作物を育てる太陽と私達を守ってくださる祖先神への感謝を基本とした太陽信仰が定着しており、この信仰は【日願(ひがん)】とも呼ばれていたといいます。


日本の仏教では、『此岸(しがん)』と『彼岸』という概念がありますが、この際の彼岸は仏の住むお浄土の世界であり、悟りの世界であり、俗にあの世と呼ばれます。
一方の此岸は、私どもがいるこの世であります。

このあの世とも呼ばれる仏の世界、西方の遥か彼方に浄土の世界(彼岸)があるとする『西方浄土(さいほうじょうど)』の考えに基づき、太陽が真東から出て真西に沈むお彼岸の時期は、浄土への道しるべができる時といった考えが生まれたといいます。
こうした浄土との距離が近い時期には御仏やご先祖さまと思いが通じやすいとお彼岸の時期に、古来からの日願とが重なり、さらにはこの日願と彼岸の言葉の合致ともあり、日本の風土になじんだお彼岸という行事は仏教伝来後早い時期からうまれたようです。

とはいえ日本最古のお彼岸は、平安時代初期に行われた、無実の罪を訴えて死去した早良親王(さわらしんのう)の怨霊を鎮めるための祈りの行事だとされています。

その後、「彼岸会(ひがんえ)」という行事として、春分・秋分を中心とする七日間に開催されるようになり、江戸時代にかけて年中行事として民衆に定着したとされています。


ちなみに、『お彼岸』とだけ言った場合は『春の彼岸』を指すといい、秋のお彼岸は「秋彼岸」または「後の彼岸」と言うのが正しい言い方なのだとか。


牡丹餅とお萩の違いもこのお彼岸に関わりのあることでしたね。



要約すれば、お彼岸は春分の日、もしくは秋分の日をはさんだ七日間で、お墓参りをする仏教行事、ということで…よいのでしょうかねぇ。

No.488

【お彼岸】

今年の秋彼岸は、【9月19日(木)から9月25日(水)】までの七日間。

〝今年の〟という言い方からお分かりのように、毎年お彼岸の期間は変わります。

春彼岸は『春分の日』、秋彼岸は『秋分の日』を中心とした前後三日間(合計七日間)がお彼岸として指定されています。
春分・秋分の日は、どちらも言わずと知れた国民の祝日ですが、毎年太陽の動きに合わせて国立天文台が定めており、前年の二月一日に政府が発表することで正式に決定しているのです。

例年、春分の日は三月二十日~二十一日ごろ、秋分の日は九月二十二日~二十三日ごろになる場合が多いようです。

…私はぼぉーっとした子どもでしたので、そんなことには全く気づくことなく大人になりましたし、大人になって就いた仕事は土日祝日全く関係のないものでしたので、この〝今年の〟祭日という細かな変化もあまり気にすることなく過ごしてきました。

結婚して。
それぞれの考え方、慣習等が異なる家との結びつきを持ち、大人として知っているべきこと、知らないと恥ずかしいようなことの無きよう、いろいろ努力をいたしました。

そんな一つに彼岸の入りという節目もありました。
お彼岸が近づけば、彼岸の入りはいつなのかカレンダーで確認して、その日に婚家にお線香あげに行くよう努力をしたものです。

片親であることを何かと言葉に出してバカにするような婚家でありましたので、そうした小さなことすら余計に気をつけたのです。

今どきこんなに片親であることをバカにする家があったのだということもびっくりで、新婚早々離婚も考えたくらいの扱いもたびたびありました。
それは実にもうずっとずっと続いたものでしたので、何度も離婚の危機を迎えたものです 笑。


次男という扱いも第三子という扱いも、江戸時代とか明治時代とかか?というような時代錯誤な婚家でしたので、第三子次男の嫁である私、余計風当たりが大きかったのかもしれませんが。


あれあれ、話が大きく外れてしまいました。


まぁ、過去は過去として、それも葬る時がきたのが〝今〟ということ。

この秋彼岸は義母の初彼岸。
私のそうした過去、そうした負の感情もすこぉしづつ、葬ってまいりましょう。

No.487

>> 457 大好きな群馬県草津白根山。 それはそれは美しいエメラルドグリーンの火口湖で有名なところだった。 もうそこへの立ち入りが禁止されて何年… 【群馬県草津白根山のツアー中止の発表】

群馬県草津町が、今月二十五日から再開する予定だった草津白根山の火口湖「湯釜」の見学ツアーを中止すると発表しました。

気象庁が九日発表した「草津白根山の火山活動資料」をもとに草津町が判断したとのことです。

火山活動資料によると、湯釜付近の白根山では、五月下旬以降、火山性地震がやや増加し、六月頃からは湯釜付近の地下で緩やかな地殻変動が始まっているなどとして、今後、草津白根山の火山活動が高まる可能性があるとのこと。


…あのぉ〜、五月、六月のレベルの資料?

それって、今さら?
それを受けて中止?
問い合わせっていうか、相談、してたよね?


ツアーを決めた地元の人たち、
その準備に動き出していた人たち。

ずっと閉鎖を余儀なくされているおみやげ屋さん、
ガイドをつとめようとしていた人たち、
十五年、淋しさや哀しさを抱えていた草津白根山を愛する人たち、


こんなの、ない。





No.486

(追記)

旧暦八月九日の日にお隠れになられたという呑龍さまのお命日から、九日の日の法要は特に特別なものなのでありましょう。


前回の何年か前の参列の際も、そしてら今回も僧侶は三十人は軽く超えるかと思われ、呑龍さまゆかりの地からも多くの僧が参列されます壮大な法要でございます。


来年もまた参列できますように。






 大光院でいただいた散華。
 一枚はお導師さまの御手からの
 ものでありました。


いかにも大光院らしい絵の描かれた散華でございます。
開山堂の絵があり、開山堂の欄間に舞う天女さまの絵があり。

(今回ようやく開山堂の中を見渡す心の余裕がもて、この天女さまの彫られた欄間に気づくことが出来ました)

No.485

(続き)

この長い通路を僧侶や稚児が厳かに歩くさまの神々しさ、美しさといったら…。

その列はそのままの厳かさで開山堂へと静かに入堂いたします。
その歩は秩序を保つため、入り口で滞ることようなこともないのです。
人の世はかくあるべきだと歩みからすら学ぶのであります。


この後、一般の参列者も開山堂の中へと入堂させていただけこの法要に参列させていただくことができるのです。

入堂に際しての資格もいらず、奉納金も特にお求めにはなられません。
御札などを求めるような決まり事もありません。

開山堂左右にある引き戸が大きく開かれ、外陣に置かれた結界の置物の外側のどこでも好きに座ることができます。

ただ一つの決まり事として、開山堂内での写真撮影は禁止されている、ただそれだけです。

なんとありがたいことでしょう。

全ての者が平等に法要に参列できるこの開山忌、他ならぬ全てに平等であられた呑龍さまの教えを守るお寺さんであることを、あらためて感じる時であります。

法要は一時間強続きます。

翔の笛や太鼓、妙鉢などに合わせての読経。

稚児による礼賛舞の奉納は見事としか言いようがありません。
歩く時の足さばき一つひとつとっても美しく、前の人の動き見えぬ状態にありながらきちっと揃ったものであります。

小さなお子さんまあられます。
気を散らすこともなく、緊張も大きかろうにそれで固まってしまうようなこともなく。
何よりこの暑さの中、昔ながらの装束で緊張に身を包んでの長い長い法要で、私などはひそかに熱中症を心配したくらいでありました。

誰一人体調すらも崩すことなく、恭しく三宝に乗せた花などの供物を僧へと届け、美しく舞い、高く高く散華を撒きました。
ひらひらと開山堂の中央に舞う散華は空から降ってくる蓮の花弁のように清らかで美しかった…✨


その後法要を営む僧たち、稚児が全員列を成し、御内陣の裏手と外陣を回りながらの散華が行われ厳かなうちに法要は幕を閉じるのでありました。


三日間営まれる開山忌。
八日には夜七時から百万遍念佛が行われるといいます。
九日は十二時半から散華行道という法要らしく、旧暦八月九日にお隠れになったという呑龍さまのお命日と考え、この日は御本堂のひだりてにある呑龍さまのお墓まで僧たち、そして稚児たちが列を成し詣でるようです。




来年はぜひ九日の日に。

No.484

(続き)


呑龍上人は弘治二(1556)年四月二十五日、武州一の割(現在の春日部市)に誕生され十三歳の時に得度して仏門に入られましたが慧解人に優れ忽ち頭角を現して当代に学徳を謳われました。

慶長十八(1613)年、徳川家康公がその祖新田義重公追善の為当山(義重山大光院新田寺)を建立されるや選ばれて開山上人として入寺され元和九(1623)年八月九日の御遷化に至る十一年間力を尽くして人心の教化に務められました。

御在世中尊寺数々の不思議な御法力尊い菩薩行は枚挙に暇がありませんが、今日子育て呑龍さまとして尊信される謂れは当時流行していた堕胎、捨児の悪習を制止され禄米を施して困窮者の児女を弟子といふ名目で養育され幾多の尊い命を救われたことに始まります。

御滅後の霊験又あらたかに愛児の無事成長を宝前に祈念する参詣の年と共にふえ行くのも有難い極みであります。


(大光院と呑龍上人 大光院リーフレットより)


追記させていただきますと、
江戸時代初期の元和二(1616)年、呑龍上人は、親の病気を治そうと、国禁を犯し鶴を殺した少年源次兵衛を匿います。
この事は幕府に露見するところとなり罪人となってしまいます。
呑龍上人は弟子とした源次兵衛を伴い信濃国に入り小諸にある仏光寺に逃れました。
五年後の元和七(1621)年に、
恩師であり徳川家康とのつながりがあった観智国師の遺言によって幕府より赦免となり、六十六歳の春に大光院に帰山しました。

元和九年(1623年)夏、病床にあった上人は衰弱が目立つようになりました。
八月三日、弟子や関係者を枕辺に集めた上人は
「上人予眼光落地の後は遺骸を荼毘に附すことなく須らく東面し堂の西霊廟の傍に葬れ、予永く国を鎮め寺を守り、予が塔前に祈念するものあれば必ず心願成就せしむべし」と遺言しました。
そして九日の正午、雷鳴がとどろく中、入寂しました。
時に元和九年八月九日世寿六十八歳でした。

(『大光院と呑龍上人』より一部抜粋)

No.483

(続き)

毎年九月七日〜九日、群馬県太田市の大光院の開山で『子育て呑龍さま』として親しまれる【呑龍上人】の忌日法要が営まれます。

群馬県民には大光院というよりも『呑龍さま』という方が伝わるくらいでありましょう。

大光院は慶長十八(1613)年、
徳川家康の命により、
徳川家の始祖と言われる新田義重の追善供養と
徳川氏一族の繁栄・天下泰平のため創建された浄土宗の寺院です。


コロナ禍となる前のとある夏の日参拝した折に、たまたま境内に貼られていたご案内を目にし、この法要に参列させていただきましたのがはじめでありました。

その厳粛さに圧倒されると同時にすっかり魅了された私は、同じ年に二度参列させていただいたくらいです。




大きな太鼓の音が開山堂から響くのが始まりの合図です。

御本堂から笙の笛の音が聞こえ、長い渡り廊下をまず僧侶が歩きます。

その後笙の笛を先頭にいくつかの楽器を奏でる僧がそれに続きます。
その後、何人かの僧に囲まれて唯一被り物を着けられた僧が通られます。
お導師さまでございます。


続いて冠をつけ、お揃いの装束を身に纏い、それぞれの持物を手にした稚児が通ります。
稚児は十二名、…ほどでしたでしょうか。

それぞれ手に、
手持ちの吊り幡、首から描けるようにされた小鼓、シンバルによく似た妙鉢、タンバリンによく似た楽器、
小さな蓋の付いた金属製の容器、散華盆を恭しく持ち厳かに歩いてまいります。


これだけを見るだけでもう胸は高鳴り、私の穢れ多い身も心も浄められる思いがいたします。

No.482

【呑龍さま】

近年、ご当地番組などで群馬県を取り上げていただく機会もあり、『上毛かるた』というワードをお聞きになられたことのある方も増えているように思うのは…どうかな。

私もこの雑文で時折ふれることのある、郷土かるたなのですが、これが県民のほとんどの人が語れるくらい、熱く愛されるかるたでありまして。

たぶん、昭和生まれの方なら全ての読み札を記憶しており、しかもパッと瞬時にその絵札を頭に思い描けるほどに、まさに血となり肉となっているかるたといっても過言ではないかと思われます。

私は小学二年生のとき、群馬県内での引っ越しに伴う転校をしたのでありますが、転校する前の学校ではその存在すらを知らなかったかるたでありましたのに、転校先の学校では授業時間を使ってまで上毛かるたを興じるという熱の入りようで、大きなカルチャーショックを覚えたものです。

私には初見のかるたを、同級生たちはすでに読み札を全て暗記し、まるで百人一首のように素早く取れるようなポーズで構え、最初の一文字二文字ですでに絵札をゲットするようなレベルにまで到達しているのですから。



そんな上毛かるた。
読み札【お】といえば
【太田金山子育て呑龍】、であります。
なんのことかさっぱり分からない方がほとんどかと思います。

群馬県に太田市という市がありまして、そこに金山町という町があるのですが、そもそもそこに金山という山があって、その山頂にはかつて金山城があり、新田神社さんが鎮座しております。

その麓に【大光院】というお寺さんがあるのですが、こちら、大光院という名前は知らなくとも『呑龍さま』『子育て呑龍さま』と言えば通じるくらいのお寺さん。
それはたしかに上毛かるたのおかげでもありましょうが、やはりそれだけではなく、県外からの参拝者も多く訪れるくらい有名なお寺さん、なようで…。

まぁ、私などは神仏の信仰にほぼ関わりなく生きてきたおばさんですので、この珍道中を始めるまで一度しか訪れたことが無かったですが、ある意味、そんな人物でさえ一度は訪れているほどのお寺さん、といえましょう。


そんな『呑龍さま』に本日参拝いたしました。
それは他ならぬ開山忌の法要に参列するため、であります。






No.481

(続き)

そして。
実はこの辺り、観民稲荷神社辺りが静御前の終焉の地と伝えられているといいます。
(もう少し上流ではないかという説もありますが、そもそもが静御前の話自体が伝承の域を出ないものであり、全てが推測するしかないことであります)


この観民稲荷さんのそば。
少し高くなった場所に静御前の墓と伝わる祠があるといいます。
地元では『静さま』と呼ばれているといいます。

静御前がこの辺りまで来て病に倒れたとき、水車守りが看病したといい、その家に『静』の姓を与えたと伝わり、今でもこの〝静姓〟の家が数軒あるといい、静御前の墓と伝わる祠の隣には静家之墓があるといいます。


…次はこちらに。

あれ、またおばさんの煩悩が一つ増えたようです。

No.480

(続き)

地元の『中川かるた』というかるたでは読み札「き」として
『鬼子母神 酒井氏ゆかりの 養行寺』とよまれているようです。
境内にはやはりこのカルタの紹介の案内板が設置されていました。



前橋城の城主をたびたび悩ませた坂東太郎と呼ばれた利根川が城の西側にあり、とうとうこの川の大変流は大洪水となり城郭、天守と共に当山の寺域の大半をも流失させ崩壊させてしまうにいたりました。

家康をして『関東の華』と言わしめた前橋城、なんですが、ね。
酒井重忠公はこの関東の華の大改修を行い、近世城郭へと変貌させたといい、城には三層三階の天守も造営されたといいます。
そんな華々しい城も暴れ川の氾濫(反乱ではなく)・洪水により侵食を受け続け、十七世紀後半になると城の崩壊が一段と進み、十八世紀初頭には本丸の移転を余儀なくされ、その後、養行寺さんは現在の地に寺域を与えられて、今に及んでいるといいます。



この日本一の暴れ川・利根川に江戸時代後期の安政五(1858)年に萬代橋という架けられました。五年後の文久三(1863)年に激流に洗われて流失したと伝えられています。

この萬代橋の描かれた錦絵が今も残っているのですが、この橋の袂に大渡の関という関所があり、
『大乗経王一石一字供養塔』という大きな石塔が描かれています。

この石塔こそがこちら養行寺さんの本堂前の大石塔がそれであるといい、歌人としても知られた行妙院日戒聖人の建立されたものであるといいます。


場所的にはそれなりに離れたところ、…前橋観民稲荷神社のあるあたりではないかと考えられているといいます。

この萬代橋とされる場所の下流に前橋城があり、現在この城跡あたりに群馬県庁が建っています。





No.479

(続き)

三河国西尾の城主【酒井正親(さかいまさちか】公は、松平氏の家臣で、松平清康・広忠・徳川家康の三代に仕えた方。
養行寺さんはその正親公の妻『世久院雪姫』さまの発願に依り、大乗院(依正院ともいう)日耆聖人を御開山として三河に創建されましたことはすでに述べましたが。

雪姫さまは、酒井家と同じように徳川家康の重臣『石川安芸守清兼(いしかわあきのかみきよかね)』公の息女であります。
石川家は代々法華経を深く信仰し、雪姫が正親に嫁すときも、お持(たもち)曼荼羅を携えて入輿されたといいます。


この正親・雪姫の二男【酒井重忠(さかいしげただ)】公は、天正十八(1590)年、川越城主となり、
次いで酒井家前橋藩の初代藩主として移封されました。
慶長六(1601)年のことでありました。
当時はその菩提寺も城主と共に移動することとなっており、養行寺さんも重忠と川越へ、そして前橋へと共に移り、厩橋(前橋)城内本丸近くに寺域を与えられたのです。
もちろん建物を移築するわけではなく、移動する先が以前いた城主の住んでいた城であるよう、寺もまた以前の城主が菩提寺として使っていた建物を使うというものです。

移った寺域には小高い山があり、
その頂上に件の『静御前の塔』が悲劇の伝説と共に立っていたのだといいます。
現在養行寺さんの境内に残る黒い石造りの多重塔であります。
この寺域にあった山は、やがて城主の重忠の霊夢に『天神様』が出現したことから『天神山』と呼ばれるようになりました。

この天神さまもまた、養行寺さんの境内に安置されております、



この養行寺さんの御本堂のお隣に、立派な、…村社などですとこのくらいの大きさのお宮でございますくらいの御堂があります。
この御堂に対して門柱が建てられているくらい大切にされている御堂であり、どなたが祀られておられるのかとお参りさせていただきましたところ、こちらもまた鬼子母神さまでありたました。

これだけ鬼子母神さまをお祀りするお寺さんはあまりありません。

解説を読むに、この鬼子母神堂もまた、雪姫さまが領内の子供の安全を祈願するために建立されたものと伝えられているといいます。

かつてこの鬼子母神さまは【おメコ(お命講)】さまと親しまれ、その大祭は近郷近在の善男善女で埋まり、日本百奇祭の一つと云われたくらいのものだったようです。

No.478

(続き)

その静御前の供養塔の隣に石仏さまがお二方。
お優しいお顔をされた大きくお美しいお姿をされておられます。

と、右側の石仏さまの右隣にこれまた立派な石標が立ち、水子供養と彫られています。
軽く手を合わせてその御前を立ち去ろうとしたとき、 そのすぐ下に鬼子母神と書かれてあるのが目に入りました。

えっ?鬼子母神さま?

水子の供養のための石仏さまにしてはたいそう珍しい鬼子母神さまの石像です。

お優しいお顔つきでお子さまを右手に抱き、左の膝を立てて座られています。
そのちょうど中央あたりにももう一人赤ちゃんがいます。
鬼子母神さまは両の胸をはだけられ、ちょうど昔の人がお乳をあげる1シーンを切り取って石像にしたかのような御像です。

その左隣におられたのは悲母観世音さま。
やはりお美しい石像で、小首を可愛らしく傾げておられるお姿に思わず足を止めてしまいます。


そして境内社の稲荷神社さんがあり、その視点を90度変えると大きな大きな御本堂がそびえ立っています。

大きな御本堂が少し小高くなったところへ建てられているので、さらにさらに大きく見えます。
かつて前橋市を何度もおそった坂東太郎と呼ばれる利根川の氾濫を計算し建てたのでしょうか。



こちらは前橋市三河町一丁目にありますお寺。

『三河町』という地名がなんとなく群馬県らしくなく思えて、ずっと不思議に思っておりました。
まぁ、あくまでも私の感覚なだけです。

前橋市は利根川とその支流が多く流れる町。
なのでもしかしたら、その川がいくつかあることから『三河』としたのかなぁとか。


…その謎も解けました。

こちらのお寺、三河国からやってきたお寺さんだったのです。


養行寺さんは安土桃山時代の天正三(1575)年に、
三河国西尾の城主【酒井正親(さかいまさちか】公の妻『世久院雪姫』さまの発願により、大乗院(依正院ともいう)日耆聖人(東京都豊島区巣鴨の本妙寺二祖)を御開山として三河に創建されましたお寺さんであったのです。

ご開基・雪姫の法号「世久院殿妙養日清大姉」と御開山聖人の法号から、世久山大乗院養行寺と称することとなったといいます。


なるほど…。


それで三河町でありましたか。


No.477

(続き)

それは山門へと続く塀の前、斜めとなった塀に沿って一番奥に建っているさほど大きくない、文字の彫られた石標で、そこに彫られた文字こそが私に衝撃を与えたもの。

【静御前 終焉供養多重塔】

と彫られております。


し、静御前〜?!


た、たしかに静御前は鎌倉において一人の男児を産み、その子を頼朝の命で殺害されたのち行方知らずとなっていたかと。
しかしながら、何故に群馬県?何故前橋市?

混乱しながらも、そういえば…と思い当たるものが。
そう、そういえば前橋市、静御前ほにゃららが何箇所かにありましたわ。


静御前のお墓とか。
お顔が静御前に似ていることと、静御前が義経と別れたのちその行手を振りかえり振りかえり見たと伝承されることとを合わせて『みかえり地蔵』と呼ばれるお地蔵さまがおられるお寺さんとか。

そうそう、なんなら巴御前のものもあります。


判官贔屓という言葉があるくらい、義経と静御前は昔から愛され惜しまれ語られた方々ですし、ね。
真偽はとにかく、その昔お祀りしたいと思った方がおられ、それをお参りする方々がいた、ということは確かなことであります。

私の判官贔屓は、ここ最近あるドラマで演じられた演者さんが好みではなかったことからだいぶ薄れたものではありますが、それでも小学生の頃から、ずっとこの二人の悲話に惹かれていた歴史は今も息づいておりまして。


山門を入ってすぐ、…普段でしたらどんな誘惑にも負けずに向かう本堂、なのですが、このときばかりは静御前の供養塔へと向かいました。




…なるほど。
石造りの五重塔が。

ええ、あくまでも供養のために建てられた塔、多重塔でありました。

No.476

(続き)

車で参詣いたしますと、どうしても鳥居であったり、山門であったりを車で通過してしまうことがあります。
というよりそうなることがほとんどです。

つまらないこだわりであるとわかってはいるのですが、よほど遠くない限り、いったん境内から出て、鳥居なり山門をあえてくぐります。

…大宮氷川神社さんのように一の鳥居から境内手前の三の鳥居まで約二キロもあるような場合は当然あきらめます。

場合によっては駐車場が氷川神社さんを通り越して何百メートルとか下手すると一キロといったところに停めたものなら、三キロの道のりを戻って一の鳥居をくぐり、二キロの道のりを戻ってようやくお詣りとなることとなり、それはさすがにちょっと…考えるまでもなく、やめます。

まぁ、この神社さんは日本一参道が長いことでも有名な神社さんですので、特殊な例えでもありますが。


と、いうわけで、大きく開かれた通用門から境内に入り車を停めたのち、いったん塀の外へと出て、山門前を目指します。

目指す、などというほどは遠くないところに立派な山門があり、その前のひだりてに寺号標がありました。

【法華宗 世久山 養行寺】
…!
…法華宗でありますか。


私、記憶に間違いがなければ法華宗のお寺さんは初めてであります。

ちょっと衝撃を受けました。
…法華宗って、…どんなでしたっけ?

あの境内中央に大きくそびえ立つようにお立ちになっておられたのは、てっきり日蓮さまだと思ったのですが…。
日蓮さん、だと思ったのだけれど、なぁ。


ん?
そもそもやはり大きな石碑に、
【南無妙法蓮華経】と彫られていたはず!

えっとぉ〜。

…法華宗?
…法華宗。
…あとで調べることとして、とりあえずお寺さんをお詣りさせていただきましょう。

おお、山門前にも『南無妙法蓮華経』とあの独特な書体で彫られた石碑があります。
うーん、このお題目、日蓮宗、ではないんだぁ。

やはりいつまで経っても神社仏閣巡りの初心者マークは取れません。


ところが!

このあとすぐ、法華宗で悩んでいた私の脳みそが、もっともっとびっくりいたします。


そのお題目、『南無妙法蓮華経』と書かれた石塔の隣に三つ、同じ大きさの石塔があって。
そのうちの一つに私は大きな衝撃を受けるのでありました。

No.475

【養行寺】

群馬県前橋市にある養行寺さんへ参拝いたしました。

この養行寺さん、JR前橋駅からも、私鉄の上毛電鉄の新前橋駅からも、さらには国道50号線からもほど近いところにあるお寺さんなのですが、実はこの辺り、結構細い道であったり、一方通行の道であったりと車泣かせの道が多いのです。

そんなわけもあり、ナビが無くてはなかなか辿り着けない複雑な場所に位置しています。

しかもナビがあってもわが家の夫の車のナビはじゃじゃ馬ナビで、とにかくそばに案内すればよしが信条のナビで、今回もヒヤヒヤしながらナビの案内する道の通りに走行しました。

すると。
保育園に突き当たる道。
しかもその道は左折も突き当たりとなっているため進入禁止の案内、右折は狭くて、一気に曲がるのはかなり厳しいという道でありました。
(いやぁ、車だけ借りてここ養行寺さんを一人でお詣りしようと思わず、夫に運転しててもらってよかった〜っ)
と思う私。

そもそもたどり着くのか?
これでお寺の裏手であったりで、境内のどこにも繋がっていないとか…。
そんな道を平気で案内するのがこのじゃじゃ馬ナビ。

うーん。ドキドキハラハラ、です。
この道で対向車が来たら、と思うとおそろしいです。

しかも右折するとすぐ左折です。
ハラハラハラハラ。
ハラハラするだけの全く役に立たない助手席のお荷物です。


おっ!
お寺さんだぁ♡


珍しく素直に山門のあるお寺の正面に案内されました。

山門ではない、もうひとつの境内への入り口は余裕で車が入れます。

よかったぁ〜っ。


お寺の敷地に車を入れると、なかなか見ないほど大きくて立派な日蓮上人さまの像がそびえたっています。


おお、でしたらこちら日蓮宗さまですか。

No.474

大好きな松屋での昼食後、気になっていましたお寺さん、そしてナビ上にあるお薬師さまを参拝させていただきました。


お薬師さまは駐車場もなく、一部隣接する御宅との堺も曖昧で、路駐と、そして不法侵入にあたらないかとドキドキしながらお参りさせていただきました。

住宅街のへの字になった交差点のすぐ近くという立地であります。

なんとか路駐しても大丈夫そうな場所に車を停めて、ドキドキ車を振り返りつつ、そわそわとお薬師さまの元へと向かいます。


小さいながら立派な御堂には、やはり小さいながらも金色に輝くお薬師さまがお祀りされていました。

御堂の中も、そして境内もきれいに手入れされたいへん居心地の良い薬師堂でありました。

境内には庚申塔や道祖神さまが並んでおられます。

もっとゆっくりしたい気持ちを抑えて、路駐している車へと戻りました。

住宅街であり、しかも大きな通りのそば、きっと昔はこんな通りでは無かったであろうし、そもそもが駐車場も必要がなかった。

こちらへ再拝させていただく機会はほぼないかと思うと少し寂しい、そんな街中のお薬師さまでございました。


その薬師堂の路駐地点、ナビ上にはほど近い位置にいくつかのお寺さんが映り込んできます。
今までも気になりながらも、なかなか細そうな道路にあきらめていたお寺さん。
この日は夫と一緒。
ナビもあり、私と違って細い道もそれなりにオッケーな夫にわがままを言ってお詣りさせていただきました。

群馬県前橋市の養行寺さん、そこからほど近い正幸寺さんであります。


No.473

川場村の吉祥寺さんへの参拝の帰りに、ようやく川場村の道の駅『川場田園プラザ』へと立ち寄ることができ、そこでじつは私、小さな運命の出会いを果たしたのでした。

それは、鷺草。


高校時代、友人のおばあさまが育てておられた鷺草の、その繊細さ、まさに鷺が飛ぶかのようなその花の形に魅せられて、いつか自分のもとにもこの鷺草を、と思ったのでした。

それから早、うん十年。


川場村田園プラザの園芸コーナーのすみっこに、まだつぼみすら無い、小さな小さなポットに植えられた鷺草の茎と葉だけの苗を見つけたのです。

ようやく巡り逢えた鷺草の苗。


この夏の灼熱の暑さにもまるで動じることなく、すくすくと背をのばし、…と言ったところで五センチ強の高さですが。

しかしながら全く蕾を持とうとはしない。

八月が花の頃とネットには書いてあります。


(今年は花を持たないのかなぁ)


ところが。
一週間ほど前にその茎の先端に、今までの葉とは異なる小さな葉のようなものが。

少しづつ、少しづつ、小さなふくらみをもち、一昨日そのふくらみに白いものが見えて…。


今朝ほど花が咲いていたのです。

前日群馬県は台風ばりの降水と風に見舞われ、しかもそれが突然だったため、植木鉢をしまうこともかなわず。
厳重に括り付けてあったすだれが壊れて落下し、背の高い菊の植木鉢はみな庭に吹き飛んでいたというのに。

…こんな悪条件であったのに、咲くのだなぁ、咲いてくれるのだなぁ。


朝の挨拶と同時に夫と息子に報告して。
彼らが見逃すことのないよう、そして道ゆく人が見られるようにと、門柱の上に飾って。


そして。

小さな白鷺が翼を広げて飛んでいるかのような鷺草の花を、ミクルのみなさんにもご覧いただけたらと、
ここに貼らせていただきます。




No.472

(続き)

さて。
皆沢地区のこと。

実はこちらは以前は栃木県の領土(笑)だったようです。

梅田湖にかかる橋を渡ると、以前そこは栃木県だったよう。
まぁ、ダム湖となる前は川に架かる橋、ですがね。

ようするにつまりは忠綱が絶命したとされる皆沢は忠綱のころは栃木県。

それがいつごろ群馬県の桐生市となったのか調べてみました。
別段国取り合戦をしたわけではなく、この皆沢地区は他の隣接した地区とともに栃木県から群馬県へとなったようです。


…平成の合併で、栃木県からという県を超えた合併を受けた桐生市と、隣接する現みどり市は結構揉めて、結局この二つの市は飛地状態をつくって新たな市をつくることとなっています。

そもそも県を超えての合併って結構あることなのかしら。


…やはり県を超えての吸収合併は近代以降は珍しいことのようであります。


市町村合併の際に都道府県の境をまたいで実施するものを越境合併というのだといいます。

戦後においては全国で十例ほどしかない越境合併ですが、そのうちの二例が現在の群馬県桐生市にある地域なのだとか。

一つは栃木県足利郡菱村の桐生市への編入、
もう一つがこの皆沢地区を含んだ、栃木県安蘇郡田沼町入飛駒地区の編入なのだといいます。

この合併があったのは昭和四十三(1968)年のことだといいます。生活の多くを桐生市側に依存していたことと、先に実施された菱村の合併が影響したようです。


栃木県田沼町飛駒にあった入飛駒には入飛駒地区には今倉、落合、皆沢などの小集落があり、その名は今もそのままなようです。

…一つの集落を除いては。


この梅田湖は、ダム湖、です。
ご多聞に漏れずダムに沈んだ集落があります。

私は桐生市のことは(も)そう詳しくは知りません。
調べてみたところ、桐生川ダムの着工が、入飛駒合併の四年後にあたる昭和四十七(1972)年。
それから十年後の昭和五十七(1982)年に竣工したものだといいます。

なんと!

入飛駒の一部の地域、今倉も湖の底に沈んだのだといいます。


…合併からわずか四年、ですよ?。

自分の故郷を失うために群馬県に合併を決めたわけではないでしょうに。
ダム湖にはこの入飛駒にあったという小学校、お寺や神社も沈んでいるといいます。


…詐欺にあったような気はしなかったのでしょうか。







No.471

(続き)

この伝承とは別に、
忠綱は源平の合戦で大活躍した後、寿永二(1183)年野木宮合戦に敗れ、その後この群馬県桐生市梅田町の皆沢で打たれたという説もあります。

まぁ、兎にも角にもとりあえずこの説は、伝説と同じく終焉の地は皆沢の地ということになっています。


ところが。

群馬県桐生市の新里町にあったと伝わる葛塚城に潜んでいたのではないかという説もあるのです。


『群馬県の中世城館跡』(群馬県教育委員会 1988年刊行)に、
築・在城者として『山上氏、足利忠綱、羽生衆』との記述があるのだといいます。

また、『吾妻鏡』巻二に、

『寿永二年二月廿五日、足利又太郎忠綱雖令同意于善廣。野木宮合戦敗北之後。悔先非。耻後勘。潜籠于上野国山上郷龍奥。』

(寿永二年二月二十五日、足利忠綱は(志田)善廣に同意し、野木宮合戦で負けた後、先の行いを後悔して、罰せられることを恥ずかしく思って、上野国山上郷龍奥に逃げ潜籠した)

とあるというのです。
『吾妻鏡』ではさらに、その後、桐生六郎の諫めにより山陽道を経て西海に赴いたともあるといいます。

いずれにせよこの山上郷にさほどの長期間いたということではなさそうですが、その後は全く記述がないのだといいます。

そこがまた謎で魅力的なのだと夫は言います。
忠綱の辺りがどう描かれているかを知りたくて吾妻鏡を手にして紐解いたと。

さらに夫は、吾妻鏡ではこの忠綱の辺りの書かれたものが、順番が前後してしまっているとのことで、正確性を欠くのだとも申しておりました。

なのでこの正統派(?)歴オタは、分からないことは
「諸説あってわからない」とはっきり言います。


なぜ山上という地にやってくるのか?
…理由は全くわかりません。

同じ桐生市とはいえ、
梅田町の桐生ダム湖から、新里の城址公園まで、22から26キロは離れています。




…まぁ、昔の人は日本列島を駆けまくり戦をしております。
そんな距離はむしろ近いくらいのものかもしれませんが。






No.470

(続き)

足利市民に『大日様』と呼ばれ親しまれている、【鑁阿寺】。
鑁阿寺は『足利氏居館跡』で、足利氏の祖・源義康が居宅を構えたのが始めです。
鑁阿という僧が開基であり、この僧こそが【足利義兼】公であるのです。
鑁阿寺は建久七(1196)年に義兼が自宅である居館に【大日如来】さまを奉納した自仏堂を建てたのがはじまりで、文暦元(1234)年に足利義氏が伽藍を整備し、足利氏の氏寺となります。


この鑁阿寺が出来る以前の建久六(1195)年に、
足利氏邸宅内で待女 藤野 が起こした、籐姓足利氏最大のスキャンダル事件こそが、
足利忠綱、そして北条時子(=足利義兼の妻)の悲話の一連へとつながるのであります。


義兼は頼朝の従兄弟であり、頼朝と主従関係にあり、かつ頼朝の妻政子の妹(一説によると姉)と結婚したことから頼朝と相婿であります。


簡単にこの足利に伝わる忠綱、そして時子の悲劇の概要だけ紹介いたしますと。

領主の足利義兼が、源 頼朝に従って半年ほど足利を留守にした際のこと。
この年、頼朝は東大寺の供養に上洛しており、義兼は鎌倉御家人の筆頭として供奉しておりました。

留守を預けられた客将の忠綱に恋をした、時子の待女の藤野が告白するが失恋してしまいました。

一方で。
夫の留守で寂しそうな時子夫人を慰めようとお花見を勧め、喉の渇きを訴えた時子に藤野は野水を汲んでそれを飲ませます。

その後どうしたことか時子のお腹はふくれ、ちょうど妊娠したかのようになったのです。

義兼が帰館した際、藤野は「忠綱が夫人と密通した。」とウソの報告をします。

真に受けた義兼の激怒に、忠綱は鞍も付いてない裸馬に乗って逃亡。

雪の降る中で、どう逃げても雪に跡が残ることから追っ手に追いつかれ、馬もなかなかのぼれない急坂で馬をおりたもののやはり追手はその足跡をたどり、多くの矢傷を受けながら、入彦馬郷 貝沢(現 桐生市梅田町皆沢)まで逃げた忠綱はそこで討ち死にしてしまいます。

時子は身の潔白の証に死後腹を裂き確認するよう言い残し自害。
その後藤野のウソがばれ。真相がわかった義兼は激怒、藤野は牛裂の極刑に処されました。



夫人の死後、義兼は剃髪し高野山に入り、後に仏像を背負い諸国を行脚、その後義兼は足利の樺崎寺に隠棲し、同寺にて生入定(1199年)したと伝わっています。


No.469

(続き)

自分の『平家物語 ビギナーズ・クラッシック』や、家にある夫の蔵書『足利の伝説』やら『栃木県の歴史散歩』『吾妻鏡』をゴソゴソいじっていることに気づいた夫が、
「忠綱について調べてるの?」
と。

…まぁ、気づきますよね。
桐生市の梅田にあるという皆沢八幡宮に行きたいと言ってきた妻が、帰宅後ゴソゴソと本をかき集めていれば。

そんな夫が今日、外出先から帰宅する車中、
「忠綱はその活躍からも結構有名な人物で、それでいて謎もある。
すごく魅力的な人だよね。
吾妻鏡を読みたいって思ったのも忠綱がどう描かれているか知りたいと思ったからなんだ」

…なるほど。
だから忠綱公の伝説の地を巡ってみたわけか。
しかも実際には二度目だったようで、高校生の時に原付でまわってみたよう。

その時はまだ整備されておらず、場所がわからなかった馬打峠を巡りたかったようでした。

はあぁ、私とはまるで違う高校時代を送っていたようで。


No.468

【足利忠綱】公の略歴


藤姓足利氏の第五代当主。
戦いではいつも先陣を切る勇敢な猛将であったといいます。

忠綱と敵対した鎌倉幕府の記録書である【吾妻鏡】によると、
治承四(1180)年
以仁王が平家討伐の挙兵をした際、以仁王からの挙兵の令旨が、時を同じくして同じ下野国にあった小山氏には届いたが足利氏には届かなかったことを、一家の恥辱として平氏方に加わったといいます。


この時忠綱は十七歳であったといいます。
一門を率いて上洛し、平氏の有力家人軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃したといい、宇治川の戦いの時には、増水した宇治川を前に怯む味方側を横目に、忠綱が、
「深さ、速さは利根川と変わらない。皆続け。」と、真っ先に馬を川に乗り入れ、約三百騎が「馬筏(うまいかだ)」となって続いたといいます。
このような華々しい戦功があの【平家物語】に書かれている、…のだそうです。
まさに坂東武者の誇りを示した名場面であるといえましょう。
…ま、教科書以外で平家物語を読もうと企てては挫折を繰り返す私は、この忠綱の活躍のシーンを実際に読んだことはないのですがね。


『…このことにより大いに武名が高まったため、総大将・平清盛に対して、恩賞として父・俊綱以来の宿願である上野国十六郡の大介職と新田荘を要求した。

清盛はこの申し入れを受け入れるが、忠綱の配下が、恩賞は一門で等しく配分すべきであると清盛に抗議したため、わずか数時間で撤回されたという。そのため、巳の刻(午前11時頃)から未の刻(午後1時)までの間の、午の刻のみ上野大介となったことから、「午介」とあだ名されて笑われたという。(「源平盛衰記」による)

(※)寿永二(1183)年、忠綱は常陸国の志田義広の蜂起に同調して野木宮合戦で頼朝方と戦ったが敗れ、上野国山上郷にのがれたが、その後の消息は不明である。父・俊綱も家人に裏切られて殺害された。

最後は源氏に帰順したとの説もあるが、ここに藤姓足利氏の宗家は滅亡した。』

と。

ここ!
これです。

忠綱の最期が
※にあるように伝承が異なるのです。


とすると足利市に伝わる伝説はあくまでも伝説となるかに思われてしまいます。

うーん、…悲話なんですよね、この伝説。

でもなぁ。

ずっと一連の忠綱悲話のルートを、…よくわからないままながらも巡った私としては、なぁ。


No.467

(続き)

さて。
「わかった!」とは言ったものの、
ここに書くからには間違いがあってはいけないので。(…とか言って、いつも誤字脱字ばかり。本当に申し訳ありません)
足利忠綱公について調べてみました。

すると…。
なんだか私が思っていた忠綱さんとは異なるような…。

あれ〜?

でもよくよく考えても間違いはないはずなんです。
なぜならば、歴オタ夫に導かれてたどった足利の地はたしかに忠綱公であったのです。

うーん。

あ。

そうか、そうだった!
足利の伝説巡りって言っていたんだ。
足利の伝説巡りは他の伝説の伝わる伝承地も巡りましたが、このときは私に流れがわかるように、忠綱公のルートという形をとってまわってくれたんだった。

それは国宝鑁阿寺から始まって、鑁阿寺の北裏にある逆さ藤天神、馬打峠、そこを抜けてこのときはそこで終わりましたが、樺崎寺跡(現在の樺崎八幡宮)、法玄寺へも参りました。

また今回、私は初めてでしたが夫は過去にこの皆沢八幡宮さんへもお参りしていたといいます。

これらは全て、足利忠綱公に関する、というより忠綱公と、それから鑁阿寺の開基である足利義兼公とその妻時子さまの一連の伝説につながる地であります。


そうだった、そうだった。

私はこれによって足利義兼公を知るのであり、忠綱公に関してはこの伝説巡りの登場人物としてしか知らなかったのです。
ありていに言えば、不勉強。


まずは歴史上に残る足利忠綱公について調べたことを書いていきたいと思います。


が、その前に。

ここに足利義兼公と足利忠綱公が出てまいります。

この二人、姓こそ同じ足利氏ですが、実は流れが異なるよう。

足利氏というと、室町幕府を開いた足利氏が有名ですが、平安時代の後期、下野国足利には、藤原秀郷を祖とする足利氏と源氏の流れをくむ足利氏が並立していたのだといい、この両足利氏を区別するために、
藤原秀郷を祖とする足利氏を「藤姓足利」、
清和源氏を祖とする足利氏を「源姓足利」とよぶのだといい、この藤姓足利氏と源姓足利氏は、平安中期から鎌倉初期まで並立していたのです。

当初は藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の勢力が大きく、足利郡内を中心に広大な所領を持っていたのだといいます。

No.466

(続き)

そして。
こちらの御祭神であります、忠綱明神さま。
案内板の説明では
〝上野の武士、足利又太郎忠綱〟と紹介されています。

はて?
上野の?

いくら歴史にうとい私といえども、足利氏と言ったら栃木県の足利氏であろうと即座に思うのです。
上野の武士は違和感しかありませんが?

たしかにこの辺りで亡くなられたという忠綱公の死を悼み、その屍を拾い集めた里人たちが貝沢川の左岸に葬り、その墓所に祠を建てて忠綱明神としてお祀りしたと伝えられています。(これも諸説あるようですが)

しかしながら亡くなられた土地が上野国=群馬県だからといって、上野の武士と言ってしまうのはおかしなことではないだろうかと思うのでありまして。


それにしても。
…忠綱公ねぇ。

やたらと聞き覚えがある方な気がいたしますが?

ご存知の通り私は歴史には(も)全く詳しくありませんが、珍道中のペアである夫は歴史の教科書などにはこれっぽっちも載ってはいない地方の歴史などにたいそう詳しく、出向いた先で地元の歴史に詳しい方と突然対談を始めてしまうくらいな人物です。

かつて足利の地をそうした歴史的な視点で歩いたことがあった気がいたします。

そう、なんとか足利氏とか、なんとか足利氏とか、なんとか源氏とか、なんだか複雑なことをその時口走っていた気がいたします。
そしてそれは足利尊氏などよりも古い時代の話であった気が…。


そうだ!

鑁阿寺とか、樺崎寺とかの時代だ!

うーん、…忠綱さん?



忠綱さん!

わかった!

No.465

(続き)

さて。
こちら皆沢八幡宮さんに設置された案内板に対して、ツッコミどころが満載だと申しておりました私。

ツッコンでみたいと思います 笑。

ただすっごく長くなりそうで、そこもまたちょっとしんどいのですが…。


まずはこちらの御祭神。

八幡宮というと八幡神(やはたのかみ/はちまんしん、旧字体:八幡神󠄀)さまをお祀りしているものだと思っておりました私。

ところがこちらは八幡神さまをお祀りしてはおらず、足利忠綱公をお祀りしていると記されています。

実際、こちらの御本殿には忠綱明神像が祀られているといいます。

八幡宮に合祀したのではなく、あくまでも足利忠綱公をお祀りしているということであります。




八幡神さまは、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の多くの武家から武運の神(武神)として崇敬を集めた神さまであります。

誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされています。


東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元(749)年に、
宇佐八幡の禰宜尼、大神朝臣杜女(おおがのあそんもりめ)らが上京し、
八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあるといいます。


早くから仏教と習合しおり、天応元(781)年、朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈ります。
これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなるのです。

八幡神さまを祀る神社は八幡宮(八幡神社・八幡社・八幡さま・若宮神社)と呼ばれ、その数は一万社とも二万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国二位であるといいます。
御祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国一位であるともされます。


と、なると…。
こちらの八幡宮、八幡神さまをお祀りしていないとなれば、厳密には八幡宮ではないということになる?


実際、地元で伝承される伝説では、亡くなられた忠綱(実はこれに関しても諸説あります)の死を悼み、その屍を拾い集めた里人たちが貝沢川の左岸に葬り、その墓所に祠を建てて【忠綱明神】としてお祀りしたと伝えられています。

のちにこの社が『八幡宮』と改称されたといいますが、…なんだか少し乱暴な気がするのはわたしだけでしょうか?






No.464

玉取姫の物語を調べてみると、こうした伝説にはありがちで語り部によって話の内容は若干異なってきます。

歌舞伎や能、浄瑠璃にもなって伝わることから、さらにその幅は広がっているものでありましょう。

共通点は
藤原鎌足の死去にともない、唐の国の皇帝に嫁いだ娘から、兄藤原不比等都に宛てて、父の追善のために宝物が届けられること。
そのうちの一つが龍神に奪われてしまうこと。

不比等がその宝物である珠を取り戻そうと、身分を隠してその珠を奪われた海岸の村に住み、その生活を送る中海女と結ばれ子をなすこと。

海女が不比等の真の素性を知り、さらにはその目的も知って、命懸けで海へと潜って珠をとり返し、絶命すること。

です。

その不比等と海女との子の将来まで描かれたものもあれば、姫…海女の悲劇で終わるものもあります。

その中の一つをここにあげておきます。




【海女の玉取り伝説】

天智天皇の御代。
藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝、高宗に嫁いでいた娘は父の追善のため、三つの宝物を贈ります。

ところが都への船が志度浦にさしかかると、三つの宝物のうち『面向不背(めんこうふはい)の玉』が龍神に奪われてしまいます。

鎌足の子であり、唐の皇帝に嫁いだ娘の兄である不比等は玉を取り戻すため、身分を隠して志度に住みつきます。
やがて海女と契り、子どもも生まれます。
しかしながら、いつまでもこの浜辺の村に身分を隠したまま住むわけにもいかず、不比等は数年後に素性を明かし、この奪われた珠の奪還を海女に頼んだといいます。

海女は
「わたしが玉を取り返してきましょう。その代わり、私どもの子を藤原家の跡取りにすると約束してください」
といい、龍宮へと潜っていったといいます。

やがて腰に命綱をつけた海女の合図があり、綱をたぐると、海女の手足は龍に食いちぎられていたが、自らの手で十文字に切った乳房の下に玉が隠されていたといいます。
そして不比等の腕の中で亡くなっていったと。



ま、この物語、いろいろ思うところはあります。

妹からの父の菩提追善の品とはいえ、実際は唐の皇帝からの贈り物。
しかもこの珠、なんとか失った珠を取り戻したいという一心から、海に潜れる海女をてなづけたのか?とか、キーっと思うとこはあるんですが。


あくまでも伝説であると、思うことで落ち着きたいと思います。






No.463

記録的台風が日本を襲来してしまいました。
ご自分の命を守るためにどうか今できる最善を尽くしてください。

とはいえお仕事でどうしても出勤しなくてはならない方は多くおられます。
ただどうかどうか決して無理はなさらずに。

命は一つ。
あなたはこの世の中、たった一人、唯一無二の存在なのですから。



こんな時、語彙力のない自分が本当にいい歯痒く情けなく思います。


皆さまのご無事をお祈りしております。

No.462

(続き)

本殿左側は海が舞台の彫刻です。

右側に龍がおり、その顔のすぐそばの海面に一人の女性が右手に短刀、…のようなものを持って、それを少し振り上げています。

その女の人のすぐそばには船が一隻あって、三人の男の人がその船に乗り、一人は船から身を乗り出してその女性に棒のようなものを差し出していますし、身なりのいい、いかにも貴族といった男性はなぜか右手に草刈り鎌のようなものを持ち、それを少し振り上げています。

もう一人の男性は、…あまり身分は高くなさそうなのですが、狭い船の中驚き慄いているように見えます。

この彫刻も上部は彩色された赤錆色や緑や黄色の色が結構残っているのですが、下の方は波が苔でまるで緑に塗られたかのように見えます。

龍は空に胴部分があり、とぐろを巻いた状態で、女性、そして船を威嚇しているかに見えます。

女性は龍に立ち向かう強い意思を感じます。
海の中、龍の顔がすぐそばにありながら短剣をかざしているのですから。

龍は極悪な顔をしているように見えます。


…あ、これは!

「これ、あの足利の毘沙門天さまにある絵馬のやつじゃない?
龍宮から、盗まれた珠を取り返すとかいう画題の…。
女の人が珠を取りにいってて、船があって、画風はだいぶ違ってたはと記憶してるけど」

夫はまるで記憶にないようで、私の話を否定しておりますが、私は毘沙門天さまの絵馬の絵が当時珍しい遠近法で描かれている、というご住職さまのお話まで含めて覚えています。
ただ、こちらの八幡宮のこの彫刻がこれと同じ画題であるかは別ですが。


藤原不比等が龍神に盗まれた「面向不背の宝珠」を、竜宮へ海女を潜入させて奪い返すという【龍宮玉取姫之図】、【玉取姫】とか【海女の玉取り伝説】と呼ばれる物語のようです。

けっこう有名なお話なようで、歌舞伎や浄瑠璃、浮世絵となり刺青の画題になっていたりするようです。


この左側の胴羽目はたぶん、十中八九、この画題で彫られたものに違いない、と、私は思うのです。


帰宅後調べたところ、この八幡さまの胴羽目をそう解説なさる方がおられ、どうやら間違いなさそうで、三枚のうち、二枚も彫物の画題がわかって、なんだかとても嬉しい、おばさんでありました。




No.461

(続き)

本殿裏側はたくさんの人物が描かれている図柄です。

みぎて上部には旭日を思わせるような放状線というか放射状の帯の描かれた円の中央に人の形をした、人物(?)が描かれています。
御仏の光背遠思わせる…。

そしてその下部に太鼓をたたく人物と笛を吹く人物。

光り輝く人物(?)の前、遠近法を使っていて、なのか、大きな、いかにも力のありそうな人物、…なんだか歌舞伎でみえをきっているかのような力強さを強調した人物が立ちます。

その手前では何やら踊っているかのような女性。

私はその場で思ったことをそのまま声に出してその絵をイメージし直しました。



…ん?


ん?これって…?

「天の岩戸じゃない?」
と先に声に出したのは夫です。

私もちょうどそう思ったところでありました。

まぁ、こうした物語絵には(私の場合は〝は〟ではなくて〝も〟ですが)知識の乏しい二人ではありますが意見がほぼ同時に一致いたしました。
ただ、この絵が天の岩戸であるならば、決定的ともなろう踊り手の女性がしっかりと着物を着ているところがちょっと決定打とまでは言えないところを残すのですが…。


惜しいことにこの裏手の胴羽目は右側に比べて青く苔むしておりました。
上の方に彫られた松には結構しっかりと緑色の着色が残っているのですが。
この絵柄がもし天の岩戸で正しいのならば、まさに肝腎要の天照大御神さまのお顔がうっすら欠けてしまっています。

…二百年以上前の彫刻ですからね。

いつから覆屋で覆ったかはわからないのですが、それだけの年数の経った屋外のものにしてはしっかりと残されていると思います。


どれだけの人口のあった集落は分かりませんが、こうした建築物の保護に対して、先見の明のある方のおられたことに深く深く感謝いたします。

No.460

(続き)

向拝、垂木、扉脇、胴羽目、脇障子、向拝、など、ひととおり彫り物が施されています。
色もかなりの部分で残っています。

私がとても気に入ったのは、… 縁下持送り、というらしいのですが、本殿の建物の縁の下に当たる部分の龍。

まずそこが目に入って、おばさんの心は一気に舞い上がります。


そしてその上、胴羽目といわれる大きな壁面にはめ込まれた大きな彫刻にはそれぞれ物語があります。
ほとんど読み解けない私ではありますが、いつかこの彫りをみて、その物語がなにか、わかる達人になりたいとひそかに思ってはいるにはいるのですが…
それには中国の故事などを学ばなくてはならないのですが、そこにまだ着手していない時点で、それはかなり遠い遠い道のりであります。


ともあれ。
まず本殿右側の胴羽目。

松の木があり、その木の根元に座る一人の老人。
お腹が少し出た、着ているものからは仙人を思わせる男の人です。

構図がまた素晴らしくて、その人物が右の角の部分に結構大きく位置していて、ゆったりと悠々と座っている様子がよく表されています。
そして松の枝の手前、大きな鳥に乗る、唐子と呼ばれる唐の時代の子供(なのか?)が描かれているのです。
大きな翼の広がるさまといったら!
いかにも優雅に空を飛ぶ様子が表現されているのです。


ただし、この彫り物の、テーマとなっている絵はなんなのかはわからない。
よくみると鳥に乗る唐子(と思しき人物)は何かを手に持っています。
…笙の笛?

いずれにせよ、両の手を離して鳥に乗るあたり、この人物もまた仙人?
不老不死とか?

まぁいくら見ても中国の故事をまだ学び始めてもいない私には答えは出せません。


No.459

(続き)

拝殿ととらえるべきでありましょう覆屋前に吊るされた鈴、正式名称【本坪鈴】を鳴らし、二礼二拍手し、初めて参拝させていただいたご縁に感謝申し上げて一礼。

そしてさっそく、おばさんの覗きの技が!


えっ?

す、凄い!

覆屋兼拝殿からは想像もできないくらい細やかな彫刻の施された社殿がそこにありました。

おお。

ドキドキします。

そして、どうしてこれだけ立派な本殿に対して幣殿はおろか拝殿すらないのでしょう。


だいぶ高台にあるこの本殿。

水害で流されたまま再建されることなく本殿だけがのこっている?とか、…なのでしょうか?

長い参拝(と覗き)を済ませ、境内を歩いていて見つけた案内板には、『…十八世紀後半に建立されたと思われる…』とのみ書かれるだけで、詳しいことは不詳なようです。


『 名称 皆沢八幡宮本殿

 八幡宮は皆沢地区の要所、皆沢川と中川の合流地点南東の高所に鎮座し、宇治川の先陣で名高い上野の武士、足利又太郎忠綱を祀っている。

 十八世紀後半に建立されたと思われる本殿は、茅葺き、隅木入りの春日造で正面向拝には唐破風を設け、浜床を持つ。

 組み物から上は朱塗りされ、彩色された龍頭の彫刻が施されるなど、鮮やかさが際立っている。建物の壁面に嵌め込まれた彫刻は、縁が鋭い平面的な浮彫で背面の彫刻には
「加(ママ)永四亥 三月廿九日出来上州勢多郡荻原村星野東渓(カ)行年八十才」の墨書がみられる。

 また、本殿床下内部の壁面からは、建立時の原寸図と思われる組物と垂木を描いた墨書が確認されている。

 本殿内部には忠綱明神像と伝えられる天文十二(1543)年の墨書がある木彫の神像が安置されている。』

とありました。


ん?


この案内、ツッコミどころ満載ですが…。



ま、まぁそれはまずは置いておき。


その見事な彫刻に酔いしれていた私に時を戻します。

No.458

【群馬県桐生市皆沢八幡宮】

群馬県桐生市の梅田町に桐生ダムがあり、豊かな自然とおだやかなダム湖、さらにはその上流での川遊び、魚釣り、桐生市立の宿泊施設もあり、ここを知る人の多くがリピーターだ。

ダム湖で遊ぶにしろ、魚釣りや川遊びをするにしろ、ダム湖をみぎてにみながら直進するルートをとることがほとんどだ。

ダム湖にかかる橋を渡る人も、車を駐車場に停めて歩いて渡る人がほとんどなくらいだ。

そんなダム湖にかかる橋を車で渡って、道なりにしばらく進むと左側に神社の鳥居が見えてくる。


それが【皆沢八幡宮】だ。

とはいえ、道から見える鳥居もさほど大きなものではない。石造りの鳥居が一つ。
境内はそれなりに広い。
ただ、車で乗り入れることはできない。


少し行った先にある空き地のすみの方に停めさせていただいて徒歩で鳥居まで戻る。
鳥居の前に大きな石灯籠が一つある。
対ではないのが不思議な気がした。


広い境内地に社務所のような、集会所のような建物が二つ、しっかりと窓まで閉ざされどなたももいないことが一目でわかる。



…?

鳥居から突き当たる場所にあたるところに石段があって、高台に、質素な建物がある。

質素というか…正直社殿にあまり見えないのだ。
装飾が何もないし、屋根も瓦葺きでもない白木のままの建物だ。

質素、という言葉が上品に感じるくらい、壁にあたる部分はまるで簀子のような板が立てられそこに細い横板を打ち、壁というよりは塀?

引き戸の扉に鈴は吊り下げられているが、別段お賽銭箱もない。

見晴らしがよいので、石段を上がらずとも見てとれる。


…ん?

『皆沢八幡宮本殿』と立て看板に案内がある。

ほ、本殿?
いきなり本殿?

と、もしかしてこれは覆屋?

覆屋兼…拝殿?


No.457

大好きな群馬県草津白根山。

それはそれは美しいエメラルドグリーンの火口湖で有名なところだった。
もうそこへの立ち入りが禁止されて何年経っただろう。
つい先日も息子と三人で志賀高原に向かう途中、この道を通った。


志賀高原を訪れるのが定番だったわが家の夏。

「…まだだめなのかねぇ」
何年か前から、ここを通ると必ず誰かがつぶやいた。
「寂しいね」

火口湖に向かうハイキングコース、道を隔てて池の周りを散策するコース。
必ず立ち寄ったおみやげ屋さん。
多くの思い出が詰まっていて、そしてそのまま時を止めたかのように封印された。

ひどい時は通行自体が出来なかった。


今はすっかりその頃の面影を無くした駐車場やおみやげ屋さんが痛々しく哀しい。


そんな草津白根山の火口湖へと向かう登山道がこのたび来月下旬から条件付きで通行できるという。

今日のNHKのニュースでそれが報道され、心が躍った。


「…地元草津町では火山活動が比較的落ち着いているなどとして、全面的な立ち入り禁止の措置を15年ぶりに緩和し、来月下旬から条件付きで通行できるようにすることを決めました。

草津白根山のうち、エメラルドグリーンの湖面で知られる火口湖の『湯釜』がある【白根山】では、
火山活動が高まった2009年以降、草津町が、湯釜を臨む展望台につながる中央登山道を全面的に立ち入り禁止にしています。

町は、観光客からの登山道再開の要望などを受けて火山の専門家と協議し、町長らが展望台付近まで行って現場の状況を確認しました。

その結果、火山活動が比較的落ち着いていて登山道にある避難シェルターの修繕も終えているなどとして、立ち入り禁止の措置を15年ぶりに緩和し、来月下旬から条件付きで通行できるようにすることを決めました』


…十五年ぶり。
そうだったな。
末の娘も高校に入り、ちょうど家族で過ごすことも減ってきたさなかのことだった。


久しぶりにとてもワクワクした。


ニュースは続く。

「具体的には、10月下旬までのうちの10日間、1日に2回、1回当たり20人に限定し、監視員のガイドを同行させるということです。

登山道の通行には予約と1人4000円の負担金が必要で、町は26日から予約の受け付けを行っています」



…すごい条件だ。

心がしおしおと萎びた思いがした。

  • << 487 【群馬県草津白根山のツアー中止の発表】 群馬県草津町が、今月二十五日から再開する予定だった草津白根山の火口湖「湯釜」の見学ツアーを中止すると発表しました。 気象庁が九日発表した「草津白根山の火山活動資料」をもとに草津町が判断したとのことです。 火山活動資料によると、湯釜付近の白根山では、五月下旬以降、火山性地震がやや増加し、六月頃からは湯釜付近の地下で緩やかな地殻変動が始まっているなどとして、今後、草津白根山の火山活動が高まる可能性があるとのこと。 …あのぉ〜、五月、六月のレベルの資料? それって、今さら? それを受けて中止? 問い合わせっていうか、相談、してたよね? ツアーを決めた地元の人たち、 その準備に動き出していた人たち。 ずっと閉鎖を余儀なくされているおみやげ屋さん、 ガイドをつとめようとしていた人たち、 十五年、淋しさや哀しさを抱えていた草津白根山を愛する人たち、 こんなの、ない。

No.455

飛び散った数珠玉に驚きながらも、なんとか一粒でも手元に残そうと大腿の上にはめていた左手首を乗せ、右の手で懸命に押さえますが、瞬時に飛び散った小さな玉をそんな動作で抑えられるものではなく。

そのほとんどが飛び散ってしまい、残ったのはほんの数粒と数珠に合わせて作られた小さな小さな五鈷杵。

そうなんです。
このお数珠はあの弘法大師さまが右手に持たれるあの五鈷杵のついたお気に入りの数珠であったのです。

なんとなくモヤモヤした思いを抱えていたところに思ってもいなかった数珠が切れるという事態に、私はドキドキが止まりません。

それでも幸いなことに助手席に座った状態でのこと。ドアも窓も開けていません。
一粒一粒懸命に拾ううちに、気持ちが少しづつ落ち着いてきました。

この数珠は私を守ってくださった。



…まぁ、何から、なのかは置いておき、そのほとんどを拾えただろうと思っただけ拾い集め、ティシュにつつんでバッグの小さなポケットに数珠玉を大切にしまいました。


この五鈷杵のついたお数珠はよく詣でる真言宗のお寺さんで、一目でこの数珠が気に入って、これが最後の一品だったものを購入したものです。
もう一つ夫なものが欲しくて何度通ってもその数珠が入荷されることは無く、あるとき副住職さまにお聞きしたところ、もうこの数珠は入荷されることはないとのこと、まさに最後の一品、であったのです。


この切れてしまった数珠の玉を持ち、私はそのお寺さんの朝の読経の時間に合わせてお寺を訪ねました。
(念のため申し上げておきますと、その日だけ行ったのではありません、前の日にも伺っております)

事情を話したところ、ご住職さまはその数珠玉の入ったティッシュを両の掌(たなごころ)に包まれ、短い御真言(…かどうかもわからない)をお唱えくださりました。


ああ、ありがたい。

また新たなご縁を結んでいただいた数珠玉を一つ一つつないで、私の手で数珠の形を取り戻しました数珠は、なんだか前のときより重いのです。
糸の太さもありましょうが…。


ありがたいご縁が増えた分、そう思って、今またお寺さんなどを訪ねるとき、私の左手につけられています。


No.454

(続き)

山の斜面、あちこちの方向を向いて立つ墓地の間を歩きます。

ほんとちゃんとそう書いておいて欲しい。
…そう、名久木の十王さまの石仏のように。
『墓地の中』、と


心の中でぶつくさぶつくさ言いながら、できるだけお墓の方を見ないように坂をのぼります。


あ。
それでも。

ほどなくお墓とは異なる、屋根はあるものの壁はない小屋のような建築物が見えてきました。

ほっ。

しかもそこに石幢が立っておりました。



ん?

えっ?


石幢に彫られたお姿はどう見てもお地蔵さま、ではないですか!
ええ、六道を示すかの六地蔵さまが彫られています。



…。

…あのぉ〜十王さまは?
十王さまってお話は一体?


呆然とした私がハッと我を取り戻したとき、そのお墓に囲まれた空間に小さいながら御堂が立っているのが目にはいりました。


(あ、ああ、十王堂)

…!
そういうこと?!

〝十王堂の〟、輪廻車付き石幢!



…はあぁ。
左様でございましたか。


たしかに、十王堂の〝隣〟に、輪廻車、南無阿弥陀仏(、だったかしら?)と彫られた摩尼車が付いています。
こうした石幢に摩尼車が付いているのは珍しいものかと思います。


なるほど。
ま、まぁ、それは私の勘違い。

十王堂の扉は閉められていますが、お参りをさせていただきましょう。


!!!

十王堂の小さな覗き穴、ではなくて、一箇所だけ開いた格子の窓に!!



…蝶々が止まっておりました。


私、蝶々は苦手です。
もちろん蛾も。
羽のあるもの、
私より足の多いもの。
そうした生物が苦手であります。

得意技である覗きも出せぬまま、退去です、撤退です。


収まらない怖さを抱えて、お寺さんに立ち寄り、ご本尊さまにそのなんとも言い難い恐れを、畏れをお伝え申し上げました。

それで、それだけでだいぶ気持ちが落ち着きました。

それでもビビりの私といたしましては、浄めの塩を求めてドラッグストアへと立ち寄ってもらいました。



…その駐車場で。

さらに私を恐れさせる事態がおきます。





数珠が、なんの前触れもなく、弾け飛んだのです。

ええ、びっくりするほどの勢いでパーンと弾けて飛び散ったのです。


No.453

(続き)

川内町五丁目方向から川内町への入り口へ戻っていく形で車を走らせます。
目印となるはずのバス停は資料の作られたときからすると、バス停の配置の見直しが行われたようで相変わらず見当たりませんでしたが、バス停という視点を外し、道を挟んで白滝神社の反対側という見方をすると見落としていた細い道がありました。

その道を入ってしばらく行くと、直進する道と、さらに細い、山へと向かう道があり、ようやくそこに桐生市の設置した『十王堂輪廻車付き石幢』という小さな小さな案内板を目にします。

…これは地元の方も知らないはずです。
用がない方はまず入らない道を入り、さらに山へと向かう道が案内されているのですから。




うーん。

それにしても。
せっかく見つけた案内の立て看板板がなんとなくあまり嬉しく感じられないのはなぜでしょう。

ヘビさんや鹿さん、熊さんに出会いそうな気がするせいでしょうか。
それとも刺してくる一連の毒虫たち?

暗い山道が容易に想像できます。


そこで閻魔さまとかに会うということ。


…日頃の行いの良くはないおばさんです。

ええ、怖いんです。


しかも十王堂と言いながら、そこは、そこへ向かう道中は立派な墓所でありました。


ぼ、墓地〜ぃ?

そんなはずではなかったんです。
ただただ十王さまたちにお会いできるとばかり思って、私はここをひたすら目指してきたのです。

No.452

【群馬県桐生市川内町の十王堂の輪廻車付き石幢】

十王さまの石仏を訪ねるに、ネット上に上がってくる【十王堂の輪廻車付き石幢】。

十王さまの輪廻車付き石幢?
初めて聞きます。


…行きたい。
出ました、知りたがり煩悩。

で。
またまた川を渡って、白滝神社さんのそばを通って、その辺りにあるらしい十王堂輪廻車付き石幢を探します。



…無い。

川内町の史跡ガイドブックにある地図を見ながら、ナビを使って走行しても見当たらないのです。
そのガイドブックの地図上で唯一手がかりになりそうなのがバス停なのですが、そのバス停がそもそも無い。

うーん。

白滝神社さんの道を隔てた反対側辺りのはずなのですが、道案内も、それと思われる道も見当たらないのです。
うろうろとする私たち(のクルマ)。


あ、畑仕事をなさっている方が!
エックスキューズミーおばさんが車を降りて駆け寄ります。


「えっ?しらねぇなぁ、聞いたことないけど」

えっ?

手に持つ川内町ガイドブックをお見せしました。


「うーん、わかんねえなぁ。聞いたことない。白滝神社の反対側辺り?そんなんあったかなぁ。いずれにしてもここは来過ぎてるけど」


ええっ?!
そ、そんなことあるんだぁ。

お礼を申し上げて、Uターンついでに少しまた棒谷戸赤城神社さんの方へ車を走らせます。

と、今度は道路を悠々と歩かれる方がお一人。

しかしながらやはりご存知ないとのこと。

そこへ先ほどの方が道を歩いて私たちを追ってきてくださっていました。

「町会長さんに聞けばわかるかもしれないよ」

…いや、私どもはただただ個人的な関心で動いているだけなのでそんな大がかりなことは…、というかこうしてお声がけさせていただくだけでも充分身に余るありがたいことでございます。
ましてや私どもを追ってまで来てくださって、なおも御助言くださるなど、本当に身に余る光栄、これだけで充分なくらい、よい想いをさせていただいております。




そしてもう一度。
道を戻りながら、Google先生にご教授願いながら注意深く進むと…。







No.451

(十王さまの石仏 続き)

この十王さまの石仏のある近くに阿弥陀さまの板碑もあると地元の方の書かれた資料には書かれています。

目こぼし地があったくらいこの名久木という土地はかつて栄えた地であったようで、実際仁田山八郷と呼ばれた頃、八郷の中で最も人口密度の高い地であったようです。


千網谷戸遺跡のあった土地。
縄文時代に栄えたくらい土地が肥えて住みやすかったということなのでありましょうか。

山田川の源流の方まで行ってみたところ体感5℃は低い心地よさで、良い避暑地を発見したと思ったくらいで、この川内という土地は作物に必要な水、作物の生育に必要な寒暖差などもあり、集落で暮らす時代には大変暮らしやすいということであったのでしょうか。


そんなことから、実は名久木の地には鎌倉〜江戸時代くらいまでの石仏さまが多く存在するのだといいます。

よぉ〜し。
名久木に行こう!



(↓名久木の十王さまの石仏。
左手にはグリーンのブランケットをお持ちです 笑)

No.450

…帯状疱疹発症。

これ、子どもにはうつるんだよな。

No.449

そして。

この名久木という地に、【十王さまの石仏】があると聞き、この十王さまの石仏を拝したいと思い願って、はや何年。

ようやくその念願がかないました。

詳しい場所調べたところ、…!!


個人のお宅の墓地にあると?!


ええぇ、何故、なにゆえに個人宅の墓地にある石像を結構大々的に紹介しちゃっているんでしょう。

まぁ、その辺に関してはそのお宅のご許可を得てのことなのでしょうが、でもその墓地の土地に立ち入ったら、私有地、ですよね。

お寺さんの墓地内の墓所ではありません。
個人の所有地です。


これは…。


しかしながら。
せっかく名久木まで来ているというのに。

とりあえずそばまで行ってみようではないか。

目印は集会所。

ああ、ありました。

集会所のうらてに広い野原のような土地が広がり、白い真綿のような槿の花が咲いています。

…ああ、なんと良いところへ♡

て、私が目的として来たのは〝墓地〟なんですけどね。


墓地もたしかに集会所の隣にありました。

うーん。
他人(ひと)様の墓地…。

駐車場を出て道を歩くと、少し高台となった墓地があります。

うーん。

あ、道路からでも見える!
いや、拝観できる!

大きさは思っていたものよりだいぶ小ぶりでありました。
川内町の有志の方が作られた資料によると高さは百四十センチほど、だと書かれています。

舟形光背をお背中に、右手に錫杖、左手は…宝珠を持っておられるのか、それとも掌を上に向けて膝の上に置かれているのか、風化と光の加減で左のお手元はよくはわかりませんでした。
だいぶふっくらとされたお地蔵さまの坐像がおられ、その蓮座の下の台座にぐるっと十王さまが彫られています。

珍しい。


…はて?
私、どこかでこのような十王像を見た記憶があるような、…無いような。

桐生市ではこの一体のみ、東毛地区では大変珍しいものとされています。

東毛では珍しい?
では…西毛とか?
群馬県内か、はたまた長野県か。
どこかで見た記憶がうっすらと。


まぁ、きっと悩んだところで思い出すことはできないでしょう。


ちなみにこの十王さまの石仏は、風邪を引いた人が真綿を供えて、治癒を祈願するとご利益があると言われているといいます。

…うーん、風邪をひいて他人さまの墓地まで?

…悪化しやしないだろうか?








No.448

(民話『目こぼし地の五輪塔』の続き)

そんな出来事があってまもなくのこと。

辺りを大変な雷雨が襲い、名主の部屋の近くの大木に雷が落ち、その際名主の片目がさけてしまうという事故が起き、さらにはその事故から間もなく、名主の奥方が野の花摘みに出かけ、崖から足を踏み外し、帰らぬ人となる事故が続いて起きたという。

「修験者の捨て台詞どうりになってしまった」
「名主様の家に呪いがかかってしまった。」

そんな噂が村人の間でささやかれ始めたころ、名主自身が発狂してしまう。

ある日突然に名主が奇妙な叫び声を上げ、逃げ惑う家人目がけて太刀を振り回し暴れまわった挙句、この名久木の赤城神社へ境内へと乱入したのだという。



たった一度の喜捨を断わったがために、このような恐ろしい事件が生じようと は、断わった本人の仲間も、その話しを受けた名主自身も、夢にも思わなかった に違いない。

次々と起こる不吉な事故に、心身ともに疲れ果てての発狂だったのだろう。』



『桐生の民話』より。



この名主さんの非業の最期を物語る五輪塔はその後『目こぼし地の五輪塔』と呼ばれたといいます。

しかしながら。
この五輪塔はいつのまにか紛失してしまったといい、今はどこにあるのかわからないといいます。


 
…ええ、この五輪塔が現存するようであれば、この地には決して訪れはしない私でございます。

目こぼし地の神社の境内に、許可なく立ち入ることすらおっかなびっくりのおばさんですからね。


No.447

群馬県桐生市川内町に伝わる【目こぼし地の五輪塔】の民話。


『江戸時代も中頃のこと、川内村名久木で名主のT某氏が突然に発狂し、家宝の 太刀を振り回しながら、この赤城神社に乱入。

境内の五輪塔を目にするやハッ シと一太刀浴びせ、返す刀で割腹して果てるという事件が持ち上がった。
ふだん は、のどかな農村だけに、この「名主様発狂・割腹」の事件は村内をゆるがすほ どの大事件であった。


この気の毒な最後を遂げた名主は、全くの善人、好人物で、村人から大変慕われていた立派な名主だったといい、それがふとしたことから思いもよらない不幸を招き、身の破滅までも生んでしまったのである。


そのふとした事とは。

或る朝のこと。一人の修験者がT家の立派な玄関先に立ち、読経ののち、
「村から村へと巡る旅の修験者です。なにがしかのご喜捨を」と申し立てたという。

庭の掃除をしていた仲間(ちゅうげん)がホウキを手にしたまま対応に出て見ると、法衣はホコリにまみれ、おまけにあちこちが裂けて、乞食同然の修験者で、身体からは異臭までも漂わせて立っていた。

その姿を見るなり、仲間は体よく喜捨を断わった。
仲間には、修験者の異様な風体が気味悪く思え、さらにはとっさに「玄関が汚れる」と思っての応対だったのかも知れない。

修験者は断わられるや仲間をハッタとにらみすえ、
「このような立派な構えがありながら、わずかの喜捨もかなわぬとは。みておれよ。
この家に必ず災いが 降りかろうぞ」と、捨て台詞を吐きつけ、きびすを返して足音荒く門を出て行ったという。


あまりの捨て台詞にいやな予感がし、慌ててその場にホウキを放り出しすぐさま修験者のあとを追いかけた。
ところが不思議にも修験者の姿は、すでに門前には見られなかったのだという。


修験者の言葉を裏付けるかのように、幸せな日々を送っていたT家に、相次いで忌まわしい出来事がもちあがるのであった。



No.446

(続き)

同じ桐生市川内町五丁目ながら、川を隔てた『名久木(なぐき)』と呼ばれる土地にもう一つの赤城神社さんがあります。
こちらは【名久木の赤城神社】と呼ばれます。

かの有名な宝徳寺さんまで行かないところに斜めに下る道があり、そこをくだると、のどかな野原が広がり、そこを道なりに曲がると高台に一見すると民家のように見えるお寺さん、『高源寺』さんが見えます。
そこをさらに進むとまもなく二叉路となった道があり、そこを右側に曲がります。

登り坂となった道を道なりに進むと、みぎてに石段が見えてきます。
その石段は何段か昇ると直角に曲がり、石碑として祀られた神さまがあり、立派な石灯籠があり、昇りきると雑草もほとんどなくよく手入れされた境内に社殿が鎮座されています。
小さいながら大変立派な彫刻の施されたお宮であります。

かつて名久木地区からの出兵はみな、この赤城神社から出征していったといいます。

明治四十一(1908)年に出された『一村一社令』により一旦は白滝神社さんという神社さんに合祀されますが、のちに住民の強い熱意から現在の地に再び遷座されたという経緯があるようです。

この現在の社殿は本来里宮で別に奥宮があったと伝わるようですが現存はしていないといいます。


こちら別名『目こぼし地の赤城神社』さんと呼ばれています。
目こぼし地と呼ばれる土地は、上役人(かみやくにん)といえども許可なく立ち入ることが許されない格式のある場所、なのだといいます。

そんな神社さんに許可なく立ち入るというだけでビビるおばさん、石段を見上げて立ち止まってしまっておりました。
といいますのも実はさらにもっとビビる理由がこの辺りには伝えられているのです。


…まぁ、結局石段をのぼりお詣りさせていだだくのですが。



その言い伝えは…。

No.445

(続き)

扁額には『正一位赤城大明神』とあります。

しかしながら、扁額にある通り、赤城大明神さまがお祀りされているかと思いきや御祭神は
大穴牟遅神さま、大山津見神さま、大雷神さまとのことでありました。

境内社には琴平社、八坂社、蠶影社。
明治時代に鳴神神社が合祀されたといいます。

この地にあった『仁田山城』の虎口
としての砦であったのだろうと推測されているといいます。


川内町にある赤城神社さんはみな、その由来は不明であるとされます。

しかしながら、この棒谷戸神社さん、実は覆屋で見えない本殿が、実は名工と名高い『岸亦八』(18〜19世紀の彫刻師)の彫刻なのだといいます。

今年、桐生市の史談会がこの御本殿を拝観したのだとか。


うーん、…入ろうかしら。


でも今から入会したところで、この棒谷戸赤城神社さんの御本殿を拝観することができるわけではなし。



あれ?また新たな欲、新たな煩悩が一つ。

No.444

(続き)

『棒谷戸(ぼうがいど)』、変わった地名です。
『谷戸』はネットで調べると「やと」という読み方がされています。

谷間、湿地のこと。
といった表現があり、
丘陵地が侵食されて形成された谷状の地形とWikipediaでは表現しています。


この川内の地に【千網谷戸遺跡(ちあみがいど遺跡】というものがあります。
厳密に言えば、ありました、というのが正しいのかもしれません。

桐生市のHPによると

『千綱谷戸遺跡は川内町三丁目地内(大字須永字千網谷戸)に所在する。
渡良瀬川と山田川の合流点にあたる河岸段丘上で標高は140メートルほどの低地である。

かつての遺跡地は桑畑であったが、現在ではその大半が宅地化されている。』


…とあるので、この遺跡跡は住宅が建っているのでありましょう。

遺跡には全く興味がない私。
この遺跡がどういったものなのかさっぱりわかってはいません。
たしかちらっと社会科の授業で聞いたような、…そうそう耳飾りが出土されたとかだった気がいたします。

【大型漏斗状透彫付土製耳飾(おおがたろうとじょうすかしぼりつきどせいみみかざり)】というもの、らしく、ちょっとだけ調べてみたところ、な、なんと国指定の重要文化財になっているようです。

惜しげもなく潰して宅地にしてしまうところが太っ腹なのか、現実的な考え方、というものなのか。

そして。
桐生市の有名な和菓子屋さんにこの遺跡名の入ったお菓子があったよう記憶しています。
ちなみにこのお菓子、見たことはありますが、食べたことはありません。


『谷戸』という言葉からまた脱線しておりましたが、この川内町五丁目の赤城大明神が鎮座する辺りも、この〝谷戸〟に当たるのでありましょう。


閑話休題。



棒谷戸赤城神社さんは、国道122号線を桐生方面に向かい、…ここまでは小倉の赤城神社さんへと向かう道と同じ。
学校の見える交差点まで来たら左折して、ずっとずっと直進します。

ずっとずっと。

ずぅーっと直進した左側に赤い鳥居が見えたら、そこが棒谷戸赤城神社さんです。


No.443

(続き)

川内町五丁目の二つある赤城神社さんは少し前レスさせていただいた観音堂に隣接する高台に鎮座されています。
二段に分かれた石垣の上に社殿があります。

こちらは所在地が棒谷戸(ぼうがいど)という地名であることから、
【棒谷戸の赤城神社】と称されているようです。



川内町というのはどうやら手前から一丁目となっているようで、渡良瀬川を隔てて川内町となり、渡良瀬川にそそぐ小倉川を隔てて一丁目、二丁目があるようです。
さらなる山田川という川があり、その山田川を跨いだ形で三丁目があって。
その隣接した町が四丁目。
それから奥となる、山田川に沿った町が五丁目、となるようです。

もともとは八つの村であったようで、総称して『仁田山八郷』と呼ばれていたようでありました。
明治維新により、名主制度を廃止して村長を置くこととなり、村長は内務省が任命するものであったといいます。
内務省は八つの村に八人の村長を置くのも煩雑だと考え、合併して一つの村とすることを計画したといい、明治二十一年に八つの村が合併し、『川内村』となったという経緯があったようです。
さらには昭和の世にもまた、政府による合併促進の計画が打ち出され、その際には高津戸地区で隣接する大間々町に合併する案と、桐生市に合併する案がまとまらず、村を割って高津戸の一部は隣接する大間々町に、残りの高津戸地区は桐生市へと合併することとなったようで。

私などはこのたびの川内巡りをするまで高津戸はみどり市であると思いこんでいたくらいでありました。

なるほど、歴史的に考えれば、高津戸城址や要害山、里見家悲劇の滅亡の地も一つ村で置いておきたいと思う考えもあって当然で、しかしながら実際の生活基盤がほとんど大間々町である住民からは反対意見も出て当たり前なところもあったのでありましょう。

その結果高津戸という地名自体はみどり市の大間々町に所属するものとなり、桐生市となった旧高津戸地域は川内町四丁目、となっているようです。

まぁ、つい先日知ったばかりの私はどこからどこまでが桐生市でどこからがみどり市なのかいまだにわかってはいませんが。



閑話休題、…といきたいところですが、字数の関係から川内五丁目の棒谷戸の赤城神社さんにお話が戻るのは次のレスからとなります。

No.442

(群馬県桐生市川内町の赤城神社さん・続き)

【西小倉赤城神社】さん

群馬県みどり市大間々町を走る国道122号線を、桐生市方面に曲がり、大間々町に鎮座される神明宮、そしてそのすぐそばにあるながめ公園を過ぎ、高津戸橋という赤い橋を渡って直進します。
のどかなとても良い景色が広がります。
あの里見兄弟の伝説の残る地を通り過ぎ、さらに直進し、小さな川(山田川)にかかる橋を渡ると正面はつきあたりという道となります。
右に行くとコンビニが見え、その駐車場辺りから少し高台に鳥居が見えます。

鳥居へはどう見ても細い、通れてバイクといった道しかありません。
コンビニの駐車場から歩いて向かうしかなさそうです。

買い物をして、心の中で(ごめんなさい、ちょっとだけ)とお詫びをしながら走って鳥居へと向かいました。鳥居のところへの道はまさに徒歩でしかあがれません。

鳥居をくぐると。
思ったよりかなり新しく思われる社殿が目の前にあらわれます。
狛犬さんもおられます。
境内社もいくつか目に入りますが、まずは拝殿へ。

こちらは大穴牟遅神(おおなむちのかみ)さまの他、誉田別命(ほんだわけのみこと)さまなど四柱をお祀りされているとのことです。

拝殿前には、何枚かにわたる川内町にある赤城神社さん三社の案内の書かれたものがケースに入れられ、ご自由にお取りくださいと書かれていました。
ありがたく頂戴し、一緒に置かれていたお書き置きの御朱印も拝受いたしました。

御朱印のお納めは小さなジッパー付きのビニール袋に入れて納めるよう書いてありました。

こちらを大切にお守りになられる方の一生懸命さが伝わってとても嬉しい気持ちになりました。


境内は塵ひとつ無い、どころか草一本生えていないくらいに丁寧に掃除され清められています。

拝殿幣殿、そして本殿のある社殿であります。

境内社は三つ。
明治時代に諏訪神社さんを合祀したといいます。


そして。
その内の一つに戸のない御堂があって…。

不思議な御像がありました。
石造のものですが赤く塗られ、なぜかお手も御御足もなく、お顔もないのです。
大きな御像が一体、同じく赤く塗られた小さな像と中くらいの御像。

これについてはなんの説明もありません。

説明書きもなく、御堂に扁額もありません。

No.440

群馬県桐生市川内町には四箇所赤城神社さんが鎮座されています。

このたび全ての赤城神社さんをまわって参拝させていただきました。

一丁目、二丁目、五丁目に二箇所。

五丁目に二箇所なのは川内という地が西から南を川に囲まれた土地であり、もともとは八か村あった村を合併して一つとなった経緯があり、五丁目といっても川を挟んだ、それぞれの地にお祀りされているものであるからで、その立地を実際回ってみるとなんの不思議もありません。



【東小倉の赤城神社】と呼ばれるのが川内町一丁目の道路に面した長い石段をのぼった高台にあるもの。
この社殿の裏手一帯が『上ノ山遺跡(縄文・弥生期宝蔵地)であるといいます。

御祭神は大穴牟遅神さま。
この地の【崇禅寺】の開基である智明上人が元久二(1205)年に、赤城山頂の赤城神社を分祀した神社であるといいます。

『川内という地は水利に乏しいといい(川に囲まれた地であるのになんだか不思議な気がいたしますが)、干天にあえば田はたちまち亀裂が生じ、枯渇を免れず、農民の憂いの種でありました。
ある干天時に、上人が赤城神さまに降雨を祈ったところ、たちまち慈雨があって五穀豊穣をみたとのことで、よって上人は赤城神を勧請して鎮守としました。
その後、場所を遷座し、さらには近隣の八社を合祀したという経緯があり、今にいたるといいます。

鳥居の扁額が落ち、少し寂しい気がいたしましたが、高台の広い境内は草もほとんど生えておらず、気持ちのよい広い空間でありました。

またこの赤城神社さんの石段の下向かって左に【摩多利神社】さんという小さな御堂がありました。

こちらの御祭神は大己貴命さま。
この神社名は桐生市内唯一、といいます。


No.439

(続き)

こちらはいつからお祀りされているのか由来を知る方は少ないようです。
それを伝えるようなものは何一つ残されていないと、今この御堂の管理をされておられる方は話されていました。
お寺さんの境外堂でもなく、もう長いこと地元の方がお祀りし、毎月十七日に御開帳をし拝んでいる観音さまなのだと。

御堂もかつて道路拡張に伴い、その場所を少し移動されたとのことで、御堂を動かす前には境内に大きな桜の木があって、お花見を兼ねての大祭もあったとのことでした。

御堂の移動の際、裏手に石垣を組んで、その際裏手の小山にあった石仏さまを下におろして境内のみぎてに並べて建て直したのだといいます。


お寺さんの管理下にはなくとも、毎月の御開帳を欠かさず、お灯明をあげ、お線香をあげて祀られるこちらの聖観世音菩薩さまは、大変優しく微笑んでおられました。

傷みを補修し保護するために、あるとき地元に縁ある方が観音さまを塗り直しをされたといいます。


こうしてずっと、これからも永きにわたって、地元の方に守られ、厚い信仰を受けて、今後もこの地をお護りくださることでありましょう。



No.438

【群馬県桐生市の赤城大明神さまのお隣の観音堂】

以前群馬県に多く鎮座される赤城神社、赤城大明神さまをお訪ねして歩いた時期があり、そのうちの一社である桐生市の赤城大明神さまをお参りさせていただいた際、隣接するように建つ御堂があることに気づきました。

扁額はなく、御堂の戸は当然のことながら閉ざされておりましたが、境内には石仏さまや青面金剛さまが並んでお祀りされ、御堂の向かって右側には新しそうな大きな三界万霊塔が建てられています。

(こちらはどのような御仏が祀られておられるのだろう)
知りたい気持ちがむくむくと湧いていたそのとき、お隣にお住まいの方がお車でお帰りになりました。

(あ、これはこちらの仏さまが私にお力をお貸しくださったに違いない)、と勝手に思い込んだおばさん、走ってその方のお家の坂をのぼり、お声をかけさせていただいたのです。

こちらには観音さまがお祀りされていること、毎月十七日に御開帳され、ご近所の方が集まってお線香をあげお茶のみをしていることをお教えくださいました。
「うちで鍵を預かってるんで開けようか?」
とおっしゃってくださったものの、故あって御開帳日が設けられているのであればその日にあらためて参りますとお断りして、なんだかんだとすぐには行けず。

昨日はちょうど十七日。
こちらの御開帳日です。
いざ。



御堂を目指して向かう途中には、お盆も明けたというのに二箇所の駐車場に制服姿の誘導の方が立たれるお寺さん、『宝徳寺』さんがあります。厳密にいうとあと二箇所、計四箇所駐車場があります。

十時半くらいでありましたでしょうか、二つの駐車場はすでにほぼ満車でありました。
御朱印と逆さもみじで有名なお寺さんです。

そこを通りこし、日本遺産の『かかあ天下〜ぐんまの絹物語〜』とやらの構成文化財である『白滝神社さんへの入り口を通り過ぎて。

赤城大明神さまの前へと到着いたしました。

そのお隣の御堂の戸はたしかに開けられており、お座布団が干されて、外では落ち葉を掃いておられるお姿が見えます。

「お掃除中申し訳ありません、今日が御開帳とお聞きしてお詣りにあがりました。お参りさせていただいてよろしいでしょうか」

No.437

今日は朝六時からのお寺での読経へと参りました。

毎日の朝のお勤めに一般の人が参列するもので、特に特別なものではありません。
ただ普段ですと、この時刻からとなると朝食の支度と重なり、毎日は難しい。
けれど、土曜日曜は行けるかなと、少し前から参加し始めたものであります。
今は夫も息子もお盆休暇中ですので、平日も参加が可能です。

今日はどうしてもこの読経に参列したかったのです。

義父と実父の月命日。
新盆の義母。
今年五回忌だというのにいまだに墓に入れない実母。

…そして終戦記念日。


そんな帰り道に忠霊塔の前を通って、戦没者慰霊式典が始まろうとしており、塔の前に飾られた大きな生花、白いワイシャツと黒いズボンの人たちがそれぞれその準備をされていました。
日の丸と旭日旗がとても印象的で。


ただ私は全くの普段着。
参列するには気が引けます。
遠くから合掌し、深く一礼してその場を離れました。


そして先ほどまでNHKスペシャルを観ておりました。


【1944 絶望の空の下で】


太平洋戦争当時の日記や手記、手紙などを紹介し追体験をする内容であった。

何度も何度もつらくなり、胸がつまります。
でもそのたびに、(これが現実であったのだ。これが戦争なのだ。)
そう思って最後まで見続けました。


そうこれが現実であったのは、私の生まれた昭和という時代なのです。


語り継ぐには私には語彙力がない。
語り継ぐには私には人望がない。


でもたとえ一人の胸にとどめることとなろうとも、戦争反対の思いをさらに大きなものとして、声を上げることはできる。



まだこのNHKスペシャルは続きます。
見逃し配信もされています。


できたら観ていただきたい、思いを込めて。







No.436

私のお盆



〝人の数だけ〇〇はある〟
そんな表現があります。

そう、たとえば御先祖さま。
誰にでも御先祖さまがいて、そして、実はそれは親子であっても、兄弟であっても、その関係性は異なり、けっして同じではないことに気づくのです。

えっ?
そうお思いになられる方もおられましょう。
親子なら同じなのでは?
兄弟でも異なるって?

それは成人して、当人であれ兄弟であれ結婚というかたちで変化が生じてまいります。


結婚というかたちから結婚相手の御先祖さまがそこに加わり、そこで親とも兄弟とも違いが生じ、また、兄弟の中でも祭祀承継者とそうでない者とで、少し違いが生じます。
祭祀承継された方にとってはずっと〝自分の家のお寺さん〟であり、〝自分の家のお墓〟であるのに対し、そうでない立場の方にとっては場合によってはその立ち位置が確実に変わってくることがあります。


今年義母が亡くなったことで、祭祀承継者が義兄に変わり、なんとな〜く居心地の悪さと寂しさを味わうこととなったお盆であります。

見慣れたお仏壇も義兄の家に移り、義実家は確実に〝なにか〟をうしない、お線香をあげに行くのも、夫が育ち、子どもたちが義父母との楽しい思い出を紡いだ家は、ともすれば空気すら澱んだ建物、となってしまいました。


義父のときは義実家で、どこかはなやいだような新盆となったのに対し、今回の義母の新盆はよそよそしい、どこか居心地の悪いものとなってしまっております。

義姉は新盆ではありますが帰郷しては来ないと連絡が来ています。


こうして新しい時代が、築かれていくのでしょうね。

義兄の家で。



祭祀承継者によってはずいぶんとお寺さんとの関わり方なども変わってまいります。
私の母などは自分で買っておいた墓地の区画はありながら、いまだに納骨されず、すでに四年経過しております。

私は御本堂に仮安置させていただいている母の遺骨に手を合わせに行くのです。

お墓はあるし、と安心して死んでいったであろう母。
哀れでなりませんが、これもまた運命なのでありましょう。


母の遺骨にかける言葉もありません。






画像はあくまでもイメージとして選んだ、群馬県太田市の曹源寺さんにおられる私の大好きなお地蔵さまの御像でございます。

No.435

>> 434 お詫びと訂正をさせてください。

前レス、
誤 『「新田新田野薬師」…

正 『「稲荷新田の薬師」…


であります。

本当におっちょこちょいなおばさんて、お恥ずかしい。
いつも大変申し訳ありません。





ついで、と申してはなんですが。
【ワラツトッコ】がどういったものかわかりましたのでここに記しておきます。

ワラツトッコとは藁で作られた容器のことのでありました。
藁納豆が通じれば、まさにその藁の容器であります。


参考に拾い画像をあげておきます。

No.434

(続き)

【由来】

『この薬師は「新田新田野薬師」さまと呼ばれ、願をかけると万病に良いとされ、周辺の村から参拝する信仰がいまも続いています。

願をかけるときは水を持っていき、水鉢に手を入れて手を濡らし具合の悪い石仏の部分をなでまわしたので、俗に「濡れ薬師」ともよばれております。

撫でるときは、まず線香をあげ全佛をなで、次に特に悪い部分をていねいになでました。とりわけ目に効くということで、目はよくなでられ、祭日にはワラツトッコ(?)に赤飯を入れて供えました。


この周辺には以前もみじの巨木がそびえ、前には川が流れ、石の橋がかかっておりました。そして石仏を中心に千数百体もの小石仏が回りに置かれておりましたが、これは願をかけた人が古市の石工などに頼んで造らせたもので十月八日の祭日の前に、二、三十代の大世話人と十七、八歳の小世話人が安置をし直しました。
また二月二十二日の二十二夜講の時に、この薬師の和讃を唱えます。

伝説では、武士がこの石仏を背負ってここまできたが、重くなったのでここにとどまりたいのだと思い安置したということであります。


中心の石仏は印相と像容から阿弥陀如来坐像と考えられますが、風雨と信仰による摩耗が著しいため判然としません。角閃石安山岩製で桃型光背とも一石造りであり、小さい肩張も、線刻の衣紋、連座の両端が上がっているところから南北朝時代のものと考えられます。


平成三年四月前橋市の文化財指定に伴い、前橋市の援助と地域住民三百余人の協賛を仰ぎ、平成四年九月「保存御堂」を建設し、石仏を安置しました。


平成四年九月吉日


稲荷新田町自治会    』



平成四年って…私にはまだまだ最近な気がするのですが、こうしてこの案内板を見るに、もう三十年以上前のこととなっていて、三十年も経つとこんなにも経年劣化するのだなぁと、今さらながら驚くのであります。

読みづらくて何度も推敲したのですが、誤りがあったらごめんなさい。



以下が実際の由来の書かれた案内板です。

No.433

(続き)

そこはお寺さんの角を曲がった公民館の隣にありました。

なるほど。
どうしてかつてここにたどり着いたのか、その謎も解けました。
そのときそのお寺さんをお訪ねしていてお祭りの装いのお子さん等のそのお母さんにお会いしたのでありました。

古い石柱遠門としたお堂でありますが、そのお堂はいかにも新しいものと思われます。
石柱には『當村中』と浮き彫りされています。

お堂の戸は開け放たれ、新しい〝浄財〟と書かれたお賽銭箱が置かれています。


!!


お堂の中には一体何体おられるのかわからないくらいに石仏さまが祀られています。
圧巻というか、圧倒され息を飲みました。
おびただしい、という言葉をここで使うのはあまり適切ではないでしょうが、私の脳裏にはまさにその言葉が浮かびました。

中央には少し大きな白っぽい石の坐像の御仏がおられます。
御仏は少し摩耗されており、よくその全貌はわかりませんが、事前に調べてお薬師さまであることはわかっています。

お薬師さまの前には小さな角のとれた四角い水鉢が置かれ、水鉢の中には黒ずんだ水がほんの少し入っておりました。

お薬師さまの尊像は灰色がかった黒い小さな粒が混ざるものであるのに対し、卵形の光背はやや黄色味がかった石で、明らかに素材が異なります。
後から付けられたものでしょうか。
…とはいえこの光背も決して新しいものではありません。

落ちついてからよく見ると、お薬師さまの右側には(向かって左側)小さな観音さまと、やはり小さな如意輪観音さまが祀られ、その横には石造の屋根の部分だけが祀られています。

また左側には石堂が祀られ、そのお隣にはお地蔵さまが二体。

たくさんお祀りされていますが全てが同じ石佛、お薬師さま、というわけではないようです。、
このお堂自体が新しいのでこの近辺におられた石仏さまを合祀されたのでありましょう。


それにしてもなんてたくさんのお薬師さまでしょう。
お堂の中は雛壇となっており、さらには壁にも棚が設けられそこにも所狭しとばかりにお薬師さまが祀られています。

No.432

ある時…などと書くと日本昔ばなしのようですが、私の場合、いつのことだったか忘れた、というもの。

そんなある時のこと。

お祭りの装いをした子どもと、その子を連れ歩くお母さんとを見かけ、そのあまりの微笑ましさと、
どこでお祭りをしているのか、神さま仏さまに由来するお祭りであったなら、その神さま・仏さまはどなたなのか、どんなお祭りなのか、気になって人たちの動いていく方へとともに向かいました。


そこでは町内の人たちが、子どもにはお菓子やジュース、大人にはそれなりなジュースを手渡しているような感じで、元となっているお祭り自体は伝わっては来ず。

ただそばに御堂があるのが見えて、もしかしたらこの御堂に何か関係したお祭りなのかもしれないと思って、…とりあえず、通りすがりのおばさんは笑顔でそこを通り過ぎてきて、その日はそれで終わりました。


数年の月日が流れて…。


むくむくと湧き上がったのは、あの御堂は一体どなたをお祀りしていたのか…という疑問。
むくむくと湧き出たらもう気になって止まらない。


ま、問題は、数年の月日が経っていて、あの方向音痴にして記憶能力に難あるおばさんは、そんな土地勘もない場所で御堂に辿り着けるのか…ですよね。


…辿り着くんです。


こうしたときの記憶力は半端なく鋭いのが、ある意味特殊能力。


それは群馬県前橋市の利根川の支流、滝川という川のそばの稲荷新田という町にある薬師堂でありました。

…まぁ、記憶をたどって場所を特定してから行ったので、間違いなくそこに到達できた、というわけで。


No.431

今はごくごく稀に通るだけの道となった道に、あるとき道沿いにぽつんと、たった一体の石仏さまを見つけました。

その道はそれなりに車の往来も多く、道端に車を停めることはむずかしい、そんな道。

いつ通っても必ずきれいなお水がお供えてしてある、大切にお祀りされている石仏さまです。

いつかあの仏さまにご挨拶をさせていただきたい。


通るたびに頭を下げてはそう心で思っておりました。


一瞬で通り過ぎてしまう景色のなかにおられる御仏は、おそらく舟形光背のある、でもお手の多い御仏のようにみえます。
とするとお地蔵さまではない。


そんな石仏さまに昨日ようやくお詣りすることができました。




青面金剛さまでありました。


午後の二時過ぎという、お天道さまが熱く熱く照らすアスファルトの道を、…さすがに走ってまでは行けませんでしたが、一目散にシャカシャカと石仏さまのもとへと向かったおばさんでありました。


No.430

(続き)

そこには、な、なんと! 黄色い衣をお召しになられたご住職さまがおられるではないですか!
こう申し上げては失礼極まりないですが、まるでドアマン。

まぁドアマンではないので、そのままススッと奥へと進んで行かれます。
「それでは早速始めましょう」

…えっ?

あのぉ〜、御堂のなかには私しかおりませんが?
「あ、あのぉ、いつもの方は今日は?」
「ああ、今日はどうしてもご都合がつかないとのことで、昨日お越しになっているので」


…。

お待たせしましたぁぁ。

すみません、私待ちだったのですね。
そうと知っていればせめていつもの時刻に家を出ましたものを。

まぁこればかりは仕方がないこと、定刻の二十分前には到着しておりますし。


ご住職さまはもうすでに壇上に。

ご住職さまはご住職さまで、もはや私の願意すらお聞きになりません。
…お護摩祈願、なんですがね。


こちらの護摩堂、かつて奥へ建てましをされたとのことで、裏には小山があるためどうしてもかなりの段となってしまったのだそう。

二メートルはゆうに超える段です(…たぶん)。


壇上のご住職をぼーっと見上げながらここではたと気づきます。
(これって…私だけのためのお護摩?)
いやいや、それはありません。
私が来なかろうとこのお護摩修行は営まれます。

ただこの今回のお護摩に参列させていただいているのは私だけ、なのはたしかなことです。

えっ、ええっ?!


にわかに緊張する私。

いやいつもとは違う緊張感に包まれた、が正しい。


お聞きになられなかった願意は
『家内安全』『厄除け』『諸願成就』と、豪華盛り合わせ。


お護摩が終わったのち、ご住職さまは今月の【花御札】を壇上からお持ちくださいました。


夜、仕事から帰った夫に、今日のお護摩が私一人だったことを話しますと、

「えっ!そ、それ凄いじゃない!
将門を調伏した法力の、鶏足寺さんの霊験あらたかな五大明王さまのお護摩だよ!」


…あっ、そうだった。
夫に言われるまですっかり忘れていたけれど、言われてみればたしかに。


ああ、こんなやつに…。

まさに猫に小判、豚に真珠、で。


興奮している歴オタ夫に、願意もないままのお護摩だったことはとても言えませんでした。





No.429

【佛手山金剛王院鶏足寺】さん

栃木県足利市の鶏足寺さんで毎月八日に営まれる月次(つきなみ)の護摩祈願へと行ってまいりました。

ええ、結局通えております 笑。

ただ、一連の出来事からもうすっかり御祈願申し上げる気持ちは失われ、ただただこの穢れ多い私の心身を浄化していただけたならと詣でております。


世間では学校は夏休み。
いつもですと九時からの通勤ラッシュにモロ被りの時間帯の移動となるのですが、おそらく今は少なくとも父兄の送迎のクルマや、なんなら学校教師の方の通勤の車も少なかろうかと、いつもより遅くに家を出ました。
さらには、御札をお授けいただくにあたってお金をちょうどにお渡しできるよう、どこかコンビニに寄って何かしらを購入し、お金をくずす必要もありました。


案の定道は空いています。

ペットボトルのレモングラスティーを一本買って、いつもの道を走ります。

ただ油断は禁物です。
なにせナビのない車です。
このおぼつかない記憶と戦うおばさんにとっては毎回がクエストです。

まぁ今回も無事に到着し、着いた先もお寺さんということもあり、その時点で自然と御仏に感謝している私がおります。

墓地の駐車場からですので、正式な門は一切通らないのではありますが、門柱の立った入り口で深く一礼いたします。

時計を見るに開始時刻の二十分前。
…もはやお護摩が始まっていようと動じなくなってしまった私は、御本堂へお参りして…ゆうゆうと護摩堂へと歩いて行きました。




あれ?いつもならある(参拝者の)靴がない。

あら、私そんなに早く着いたのかしら?。

鰐口を鳴らして。
戸に手をかけようとした次の瞬間!

中から小さな咳払いが聞こえ、スッと戸が開いたではないですか!


No.428

(続き)

そしてこの回廊を戻るとあの猪の目の窓の外側となり、さらに戻ると、あの大好きな火灯窓が見えて、…ふり出しにもどります 笑。

この日ふり出しに戻ると猪の目の窓のある間には外国からのお客さまが戸惑いながらその部屋の中をながめていました。

…戸惑いますよね。
わかります。

日本のお寺に来たはずなのに、カフェを思わせる部屋に入りこんでしまい、日本人には映えスポットでも外国から〝和〟の空間を楽しもう、堪能しようとお越しになられた方々には、ここの映え間は決してそういったものではないので。


ちなみにエクスキューズミーおばさんはもちろん、
「どこからお越しですか?」
と話しかけております。日本語で。

さらに戸惑うその方々にちゃんと英語で母の問いを話しかけて聞いてくれました。

…いや私だってそのくらいの英語は話せるのよ。
英語圏ではない国からの方であることも考えて、あえての日本語の問いかけですって。
……本当です 笑。



さて。

雨は降り続いています。


きちんと用意してきた傘は、車を降りると飛ぶようにお寺へと向かう母は当然手荷物のみ。
息子はあわてて母を追い、夫は車に施錠したのち、その二人を追うことなく、紫陽花を堪能。

…ええ、私たちには、傘がない。(by井上陽水)

No.427

(続き)

回廊をさらに右に曲がると、御本堂の裏手になります。
裏手、とは言っても、こちらのお寺さんではその裏手に建物にいくつかのくぼみを付け、そこにさまざまな御仏をお祀りしておられます。

ただまずは流れとして庭園について綴っていきます。


裏手の庭園、ここは、『青龍の滝』がある池泉庭園となっています。

初めて訪れたときは、その光景にびっくりいたしました。
その美しさといったら♡

そして、こんな水辺に建物を建てれば、傷みも早い気がしてとてもドキドキしたものです。
湿気による傷みは大きなものな気がするのです。
カビであるとか、水分を吸った木材とか、そこに住むであろう微生物や虫的あるとか…。

でもこちら江戸時代の建物、なんですよね。
全然そんな傷みを感じないのです。

まぁそれだけ手入れをなさっておられるのではありましょうが、それでもそんな経年すらを感じさせない、どっしりと、なんの傷みも劣化も感じさせない建物です。

これは、〝 龍神さまがお護りになられているから〟、としか思えない〝なにか〟があるよう思えてなりません。


まぁそんな心配性のおばさんの考えなどはこの豊かな水に流してしまって…。



お寺の裏庭とは思えないほどの広さと水量の池。
『青龍の滝』。

ここにこそ時を忘れて座っていたい気がいたします。


よくある池の、溜まった水のよどんだような臭いも一切無いのです。
そこには清浄な水の気しかないのです。

その池を囲む木々。

木々の根元には何やら花も咲いています。


池泉庭園ですので池の内にも岩が配置されています。

青龍の滝のそばには、自然石の石碑、石塔を思わせるような岩が立っています。

これもまた素晴らしい。

おばさんはただただ見惚れます。

この岩は【池中立石】と呼ばれるもののようです。
池中立石とは、池泉に建てられた特に高い石のことで、その代表格は平泉の『毛越寺』さん、なのだそうです。
実はこの石、『岩ふくろう』と呼ばれているのだそうです。


あちこちと衰えたおばさん、その中の一つに〝目〟があります。

なのでこの、離れた位置の池中立石のどこをどう見てもフクロウに見えることはなく、スマホで撮って拡大しても、光の加減でやはりフクロウには見えず。


息子の高性能カメラで撮ってもらってようやくそのフクロウっぽさを知ったくらいです。

No.426

(続き)

こちらの御本堂の回廊はコの字型になっており、三方向に、違う景色を眺めることができます。

まず目にするのは前述しました枯山水の庭園。
これがまた素晴らしい。

枯山水の庭園越しに釈迦堂の茅葺きの屋根が見えてまさに〝わびさび〟の世界。

たしかに椅子や濡れ縁に腰掛けてその景色をいつまでも眺めていたい気持ちにもなります。


この枯山水の庭園は『臥龍庭』と称されるもの。

やや褐色の砂は大海を表現しているとのことですが、そういった芸術的な感覚がかけらも備わっていない私には、枯山水の見立てはちょっと難しくてただ見たままを楽しませていただいております。

苔むした大きな岩もあり、これは〝島〟だったりするのかなぁ?
でもやっぱり見たてたりができずただただその柔らかな苔の美しさを愛でるのであります。

ちびまる子ちゃんが苔や盆栽にハマったことがありましたが、小学生のまる子ちゃんの方がよほどこの庭の鑑賞眼がありますでしょう。
…まぁ、まる子ちゃんはその後漫画家となられるわけですから、芸術のセンスはあるわけで、まる子ちゃんと比べてどうする!であります。


この庭の奥の方に、石(中島)が三つ並んでいる部分があり、これが水に潜った龍の背中となっているとのこと。つまり、大海に龍が半分以上潜っている姿を描いている庭、ということらしいのです。


うーん。

ま、まぁ、頭の中で可愛らしい龍が水につかりながらお昼寝する姿でも描いてみましょう。


臥龍庭を横目に、…見るのは実はなかなか難しい。
ここにテーブル席がいくつかあって、人気のテーブル席であるからです。
まぁ横目に見るのはあきらめて。
回廊の角を曲がったあたりから、景色はごつごつとした岩場になります。

その岩場は水が流れており、正面の高い岩場からは滝が水をそそいでいます。
これがいつ来ても私には恵みの水に見えるのです。

豊かな木々や花々に命の水を与えてくれる源のように感じるのです。

この滝は『昇龍の滝』。

実はこの日、まさに御本堂に着こうか、というタイミングで雨が降り出し、この昇龍の滝のあたりではまさに本降りの雨。

それがまた白糸のようで、実に美しくて。










No.425

(続き)

レトロなカフェを思わせる間を通り抜けると、回廊が連なります。

見上げると欄間彫刻が素晴らしいのです。
ついつい今流行りの映え空間に目を奪われてしまいがちですが、こちらは江戸時代、延宝三(1675)年に建てられた御本堂。
そうした現代風にアレンジされ(てしまっ)たところを取っ払うと、そこには、いかにも禅寺らしい趣きがみてとれるのです。

…いつからこういった趣向になったのか。
年々そういった現代風のアレンジが加わって(しまって)きている気がいたします。

やはりこれは写真機能を搭載した携帯電話の普及とともに変化してきている…そんな気がしてなりません。


もうあまり変わらずいて欲しい、そう思うおばさんでありました。


だって、ですよ?
レトロカフェ風の間を過ぎて回廊に何やら和机が置かれ、お賽銭箱があって、ふとその回廊からレトロカフェ風の間の隣の間に目をやるといきなり仏間、ご本尊さまの祀られた間になるんですよ。

おばさんはついていけない。
全くついていけない。

その和机には祈願文を書く紙が置かれていて、その回廊に座ってご本尊さまを拝んでいると、その先の回廊にはテーブルと椅子が置かれていて、枯山水の庭園を眺めながらお抹茶と和菓子を楽しむ方々がおられるんですよ。

この切り替えは私にはまるでできないので。

せめて回廊ではなくて、仏間に少しスペースをとって中に一歩入っての空間を作っていただければまだしも、テーブルと椅子と同じ空間に正座するって、いかがなもの?

ま、そうした異空間を除けば、こちらのお寺さんは大変好きなお寺さんなのです。

現代風なアレンジを以て、スルースキルを育てる修行?


ええ、なんだかある種の修行をしている気分になるのです。

仏間は立ち入りを禁じており、入らないよう低い人止めが置かれています。

だからお寺さんとしては仏間はあくまでも清浄な空間を保っているという感覚なのでしょう。

でも純粋にこちらを〝寺院〟として訪ねた人としたら、なかなか…。


…いやいいんですよ、回廊でお参りするのは全く問題に思ってはいないのです。

ここを取り巻くカフェ空間が、どうにも納得がいかないだけです。

上を向いて歩いて、外を向いて歩いてまいりましょう。
欄間彫刻の素晴らしさ、【臥龍庭】と呼ばれる枯山水の庭。




No.424

(続き)

釈迦堂、…宝泉堂をあとにして、いざ御本堂、…と思うのです。
思うのですが、この宝物庫泉堂の前にもまた、石仏さまがたくさんおられる。

しかもここにもまた私の大好きな石仏さまがいらっしゃる。
道祖神型のお地蔵さまであります。
時折そうしたお地蔵さまもおられるにはおられるのですが、こちらはなんと三体のお地蔵さまが彫られたもの、なのです。

うーん、…どうかまた参拝させてくださいと、心の中で祈りながら先へと向かいます。


御本堂入り口はあまりお寺さんの雰囲気はありません。
入り口を入って両サイドにさまざまな〝商品〟が展示されているのです。
むかって左側には主に御朱印関係が。
右側にはお数珠であったり、置物であったり、まさに多岐にわたる商品が展示されています。

この辺が、ね。
ちょっと苦手なんです。
なのであまり見ずに進んでまいります。

玄関の間を過ぎると、すぐ廊下と思われるところとなり、そこにはお賓頭盧さまのお像やら、烏枢沙摩明王さまがお祀りされています。

そして。
目を引く窓。

この窓を見ただけで心がときめくのです。
そう、『火灯窓』と呼ばれる窓です。

座ってその窓をみていたい気持ちをおさえておさえて。

さらに先に進みます。

(ここはお寺?純和風のカフェとかではなく?)

と思われる空間が広がっています。

そうなんです。
まさにカフェとしか思えない空間なのです。

そして明り取りの窓は亥の目の形♡
そう、ハートの形の窓。
しかもその亥の目の窓の下には、ものが映る板で造られた大きな、ステージを思わせるような段が置かれていて、見事にその逆さハートが映っているのです。

今流行りの映え=バエの空間です。




こちらが私の好きな火灯窓。
この前にいつまでも座っていたい、と思う気持ち、伝わりますでしょうか。


No.423

(続き)

こちらのお釈迦さまが私はとても好き。

御堂に入ると真正面の少し高い位置におられ、そこで私は手も合わさず見入ってしまいます。
何度も参拝させていただいているのに、毎回毎回棒立ちでしばしの間お釈迦さまに見とれてしまいます。

〝菩提樹の下で瞑想されるお釈迦さまの姿を表した〟とされるお姿ですので、決して目を合わせるようなこともなく、ただ一心に瞑想されておられ、その表情に私はとても癒されるのです。


またお会いすることができました。
ありがとうございます。


そう心の中で自然に思い、そんな自分にようやく気づき、慌てて手を合わせます。

瞑想されておられるお釈迦さまの目は閉じられています。
開こうともせず、自然に閉じたままの目。
まっすぐ前に向けられたお顔。
お口元もやはり自然に閉じられ、そのお口は語ろうともせず、固く結ぼうともせず。

少しふっくらされた頬からあごにかけてのやわらかな感じ。

鎌倉時代に造られた御像ということですが、ゆるやかに年月をまとわれただけで、そのどこも傷むことなく、お美しいままで、それがもう奇跡のようです。

…まぁ、それを保つお手入れはされておられるのでしょうが。

両隣りにおられる脇侍の文殊菩薩さまの御像及び普賢菩薩さまの御像は、お顔立ちがまるで異なる明らかに作者が異なるものと思われ、使われている木材も異なるものな気がいたします。経年しての風合いが明らかに違います。
また、このお釈迦さまを意識されずに造られたのか、あるいはお釈迦さまの大きさを引き立たせるためにあえて小さくつくられたのか、かなり小ぶりなものとなっています。

吉祥寺さんは戦国の兵火に焼かれその後再建されたといいますので、脇侍の二像はそのとき焼失しているのかもしれません。

釈迦三尊像の手前右側には、【後光厳天皇 尊霊】と書かれた、まばゆいほどの金色の、立派な位牌があります。
形としては正四角柱をイメージしていただければと思います。
そこに彫りが入った一メートルほどの高さのもの、でありましょうか。


畳一畳よりも大きな一枚板に書かれた般若心経にも目を奪われます。

江戸時代に使われた僧侶の乗ったお籠も隅の方に見えます。


一人で来ていたらここだけでももっとずっと長く居ることでありましょう。
…って、これでもずいぶんと長くいるのでしょうが。

No.422

(続き)

釈迦堂は寛政二(1790)年に建築されたといい、扁額には『宝泉殿』と書かれています 。
どういった意味、いわれがあるのか、帰宅してネットで調べてみましたがわかりませんでした。

もしかしたら。

こちらが水の豊かな土地で、あちこちに池があり、小川が流れるような水に恵まれた土地であることから、なのかどうか…。


御堂の前には他では見ないような大香炉があります。
今日はお墓参りやお寺さん巡りのときに持つ、お墓参りセットは持参していないため、お線香をあげることはできません。
こちらの大香炉は蓋等は無くて、な、なんと中央に誕生仏のような仏像が。
いくらお線香の煙をお食べになられるといわれていると言っても、これはちょっとあまりにダイレクト過ぎではないかしら。


御堂に入ると、毎回中央におられますお釈迦さまに圧巻されしばし手を合わせることすら忘れて立ち尽くしてしまいます。


また、鎌倉時代後期(=南北朝期)に創られた釈迦三尊像。
その左右、奥まったところに中興開山和尚像が祀られています。


中央正面の釈迦如来像は(像高三尺4寸3分、ヒノキの寄木造、硬地漆箔仕上げ)、当山の本尊で鎌倉時代後期の作と伝えられるといいます。

【この像は、釈迦堂に安置されている釈迦三尊像の中尊である。
像高百四センチ、衲衣を通肩につけ、定印を結んで、蓮華の上に結跏趺坐(けっかふざ)している。
菩提樹下で静かに瞑想するお釈迦さまの姿をあらわしたものである。

構造はヒノキの寄木造で、頭部を体部にし、目には水晶を嵌め込み実感的な様相を作り出している。

彫りの深い衣紋や量感豊かな像容、硬地漆箔仕上げなどに中世の造形が息づいている。

川場村教育委員会 】

説明の書かれた案内板より。



No.421

(続き)

その道を進むと。

大きな寺院に不慣れな私ども親子には御本堂かと思われるほど立派な草葺きの御堂が見えてきました。

道の左右をかためるのは、進路むかってひだりてに奪衣婆さま。
その真正面には閻魔大王さまが佇んでおられます。

奪衣婆さまの存在感といったら。

対で造られたでありましょう閻魔大王さまも大王さまだけ見れば迫力ある表情をされたもの、なのですが、建物側にあることからどうしても奪衣婆さまから目に入ってくるのです。

そのお二人の裁きをすり抜けて。(おいおい! 焦)

さらに進むと大香炉があり、その向こう側にもたくさんの石仏さまがおられるのですが、ま・ず・は・釈迦堂へ。
…これもまた順路としては正しくはありません。
本来なら御本尊さまのおられる御本堂が先でございます。

ここ吉祥寺さんではどうもその当たり前が崩れてしまう私です。

まぁお釈迦さま、ですので先にお参りしても決して間違いではないでしょう。



No.420

(吉祥寺 続き)

山門をくぐると小さな石仏さまがお出迎えくださいます。
真正面の道は両サイドにさほど背の高くない木々が植えられ、庭園の中の細い小道を歩いているような気がいたします。

と。
毎回毎回その小径を進んでしまうのですが、実は正しい進路はこちらではないのです。
それを戻り道になって(ああ、またやってしまった)と猛省するのですが、この真っ直ぐに続く道を行くのではなく、み・ぎ・の道を行くのが正しいのです。

山門をくぐると真っ直ぐの小径に目を取られがちですが、実は山門をくぐってすぐ、左右に分かれた道もあるのです。

順路とかで導かれてはいないので、真っ直ぐ進むのも間違いではないし、左の道を行っても釈迦堂の前に出るので、これもまた間違えてはいない。

では、本人はその正しい順路で行ったことがないくせに、何故右への道が正しいと断言するかというと、…その右の道にこそ手水舎があり、その先に鐘楼があるから他ないのです。

…そうなんです。
一度や二度ではない回数、再拝させていただきながら、毎回石仏さまや季節の花々に目を取られては真っ直ぐの道を歩いてしまうのです。
もしくはひだりての道。

ひだりての道は紫陽花のトンネルをくぐるかのように歩くと、
石仏さまがたくさん花の中にたたずんでおられる場所へとつながっているのです。


…そうなんです。
今回、その道を歩いたことがわかりますよね。
ええ紫陽花のトンネルという表現は紫陽花の花の時期に訪れて使われるワードです。葉だけとなった紫陽花の木々の間を通り抜けるときには、あまり〝紫陽花のトンネル〟といった表現はしないのではないかと思います。

そう、左の道はたくさんの種類の紫陽花の花が咲く紫陽花ゾーンであったのです。
お地蔵さま、青面金剛さま、如意輪観音さま、聖観音さま。
小さな両の手にすっぽりと乗るような小さなお地蔵さまも、
見上げるほどの聖観音さまも、
色とりどりの紫陽花に囲まれておられるのです。

目を見張るほどの満開の、大量のギボウシ。

初めて見た二重咲きの薄い藤色の桔梗。

その花々を率いるかのように立たれる聖観音さま。

大きな石塔も見られます。

ええ、今までの参拝ではこちらの道に気づくことなく、実に未踏の地、であったのです。
…なんともったいなかったことでしょう。


No.419

本日七月二十九日は
【一粒万倍日】
【天赦日】
【大安】
が重なる最強開運日だそう。


が、私、悲しいことに朝のテレビの星座占い、最下位でありまして。

まぁ、人生、どこかしら気をつけるところがあって気を引き締めていた方が…私のような人物にはよいのかもしれません。

ラッキーフードは『ゴーヤチャンプル』、いや、私ゴーヤチャンプル苦手だし。



本日は朝から暑く、全国で熱中症警戒アラートが鳴りまくっています。

そんな中におかれましても、みなさまが良き日を良き日として過ごせますよう、心よりお祈り申し上げます。

No.418

(吉祥寺 続き)

群馬県川場村の吉祥寺は南北朝時代の暦応二(1339)年、
中巌円月(ちゅうがんえんげつ)禅師(鎌倉建長寺四十二世、五山文学の巨匠としても知られる名僧)を開山和尚として開かれた古刹です。

当時上野国の利根荘は鎌倉武士大友氏の領地であり、
その大友氏が九州に移った後、守護大名であり大友貞宗の五男、七代当主【大友氏泰】公が、父の意志を継ぎ先祖の発祥の地に聖地建立と先祖の供養を兼ねて寺を建てたのが始まりといいます。

これは吉祥寺のパンフレットに書かれています。

ちなみに戦国の大名として有名な大友宗麟は二十一代の当主にあたるといいます。



吉祥寺の創建は、大友氏六代当主『大友貞宗』と中巌円月禅師との出会いから始まります。

本場中国での勉学の志をもった円月禅師は博多へやってきますが、鎖国令のため渡航が禁止された中国(元)に渡れず難儀していました。

その頃大友貞宗は出世武将として博多守護の重責を担っていました。
渡航をあきらめきれずにいた円月禅師と面会した貞宗は禅師の才能と情熱に惹かれ、特別の計らいを以って渡航(渡元)の道を開きます。

これを機に円月禅師と貞宗との間には尊信の友情が芽生えます。

帰国後の円月禅師は貞宗庇護のもと禅僧として鎌倉建長寺で活躍しますが、正慶二(1333)年、鎌倉幕府の滅亡した年の十二月に貞宗は死去します。

円月禅師は、生前貞宗と語り合った大友氏の発祥の地川場に禅寺を創るとの約束を果たすために、延元二(1337)年に利根荘入りいたします。

暦応二(1339)年十二月に【吉祥寺方丈】が落成、大友貞宗公七回忌法要が営まれています。


当時の建物は残されてはいませんが、釈迦堂に祀られる釈迦如来像は創建当時の鎌倉期のものであるといい、文化財指定となっているといいます。
息子が御本堂と勘違いしてもしかたがないといえばしかたがない、大変大きく存在感のあるお釈迦さまでございます。


とりあえず大好きな山門へと話を戻します。


山門は文化二(1815)年に建立されたもので、【青龍山】の勅額は後光厳天皇の筆によるものだといいます。
なんとこの山門、自由に楼上に上がることができ、文殊菩薩さまを中心に十六羅漢が安置されています。


窓も開かれ、ここから見下ろす景色がまたなんともいえない風情があります。



No.417

しばらく前になりますが、珍しく息子がとあるお寺さんに行きたいというのです。

たしかに息子と一度行ったことがありました。
でも彼は御本堂には入らず、何やら境内を散策していたような…。
と、いうか、御本堂の前に行った茅葺きの御堂を御本堂だと思っていたようでした。
そう思ってもしかたない、その御堂には大きくて立派な釈迦三尊像がお祀りされているのです。

このお寺さんは花の寺として群馬県では有名なお寺さん。

息子は風景、花の写真や鳥の写真を撮るのが好きなようですので、たしかに境内はそうした写真を撮るにも良いところなのかもしれません。


しかしながら。
実はこの日の天気は今後雨が降る予報。
うーん、今日?


そのお寺さんの名は【青龍山吉祥寺 (せいりゅうざん きちじょうじ)】といい、鎌倉の建長寺を本山とする臨済宗の禅寺であります。

また、建長寺派四百有余ヶ寺の寺院の中で一番北域に位置することから、『建長寺北の門』、とも呼ばれているのだといいます。


群馬県の利根郡川場村というところにあり、全国道の駅人気ナンバーワン『川場田園プラザ』で有名なところのすぐそばにあります。


なんとか雨の降らないうちに到着することができました。

こちらのお寺さんは境内のうちに小川が流れていたり、立派な山門に昇ることもでき、境内には石仏さまも多く、茅葺き屋根の御堂もあってと、そういった意味では私も好きなお寺さんであります。

そして。
この日私はちょうど吉祥寺さんで『レンゲショウマ』という花の時期と聞いており、できればこのレンゲショウマというお花を見られたらいいなと思っておりました。

駐車場からお寺の山門へと向かう道には色とりどりの紫陽花が咲いておりました。

もう私の住む町では紫陽花は見頃を終えて、色とりどりの百日紅が町のあちこちで咲く頃となっていました。

大好きな紫陽花。
なんだか得をした気分です。


このお寺さん、群馬県では珍しい拝観料を支払ってのお寺さんです。

支払いを済ませて進むと。



風鈴の小路が設営されていました。



No.416

(続き)

御神輿の後を追うこととしました。

御神輿はあちこちの中継地点で休みます。
後を追ってみるとたやすく追いつくことができました。


黒塗りのシックな御神輿であります。

アフターコロナ、だからなのでしょうか、掛け声ひとつない静かな渡御でありました。
歴史ある御神輿だから、でしょうか、よくある水かけなどもありません。


ただ、この黒いシックな御神輿はこうした静かな渡御もなかなかしっくりきます。


神さま、どうぞこのコロナという病と、この異常な暑さ、相次ぐ自然災害から私たちをお救いください。

渡御の途中でポツンとお休みされる御神輿に向かってそっと手を合わせた私でありました。





殺人的な暑さに加えて、不安定などという生やさしいものではない天気、
ゲリラ雷雨、記録的短時間大雨警報、竜巻、突風。
山形では河川が氾濫し、緊急安全確保で避難を余儀なくされておられる方々。
いまだに復興の進まない被災地の方々。

コロナは新たな新型株が流行し、ヘルパンギーナ及び手足口病も爆発的に流行、コロナと同時感染もあるようです。
ヘルパンギーナ・手足口病は、今年のものは大人も感染し、重症化する例があるようで。

そして物価がまた異常に高騰し続け、さらには米不足が起きており、安価で買えたお米から無くなっていっています。


住みづらさ、生きづらさを感じるかたも多いかと思います。


それでも。
幸せはすぐそこに。
自分の中に。

小さな小さな幸せに気づいて生きていきたいと思います。

花の蕾が開いた朝。

雨上がりの蜘蛛の巣の美しさ。

散歩中の犬が見上げて足を止めてくれたこと。

猫が日陰で眠る姿。

赤ちゃんの笑顔。
赤ちゃんの寝顔。


見切りの安い商品が買えた時。


みなさまが良い一日でありますよう。


さまざまな災害で被災された方々が少しでも心地良く過ごせる一日でありますように。
少しでも早く復旧、復興が進んでいきますように。





No.415

(続き)

開け放たれた神輿庫。
いや、この神輿庫こそがこちら相生賀茂神社さんの境内社、八坂神社さんであります。

御神体は御神輿のまま鎮座されておられる、立派な社殿の一つであります。

神輿庫…八坂神社さんをのぞくと、今は御神輿ががらんと広いお社の中、
世良田の八坂神社さんから御神輿が遷移されることとなった経緯を示したものが、大きな板に墨書きされて飾られていました。


『本社の御神体の御輿は以前は報養寺境内に有りしが、昭和三年当地に安置し給う。

御輿に就きては昔から任へ有り新田郡世良田村に鎮座する旧郷社八坂神社より遷移すと言ふ。

その来歴は安政の頃、八坂神社祭礼の折力競べ有り。
神官の言ひしにこの御輿を四人で担ぎ御神木を廻り鳥居を潜れば賜ふとなり。

祭礼に行きし如来堂村の若者は我が村にと剛力四名が渾身の力を込めて御輿を荷ぎ上り、御神体を廻り鳥居に近づくや徐々に姿勢を低め一歩々々歩み、遂に鳥居を潜りたり。
是れを待ち構えていた村人は大いに喜び、代る代る担いで当村まで運びたりと。


其後御輿は当社の例祭の外、旱魃の際の雨乞ひや悪病流行の時の病気退散にも渡御し霊験灼かなりと言ふ。

斯かる謂れある御輿なれば子々孫々まで大事に伝へんと願ひ、神事番一同、茲に由緒を誌す』


近隣で知らない者は無い世良田の八坂神社の御神輿を、剛力の者のお手柄で遷移することができたのですから、それはそれはさぞ誇らしいかったことでありましたでしょう。

No.414

(続き)

この一連の流れは相生賀茂神社さんの神さまのお導きでありましょうか。

…それが本当ならば本当に嬉しいのですがそんなことはゆめゆめありえないでありましょう。


そんなことよりそもそもがかつて駐車場が見当たらず参拝を諦めた神社さんです。
お祭で、しかもお神輿の渡御ともなれば、気づかなかった駐車場があろうとも駐車することは不可能ですし、かつて通りかかった際に路駐が無理であったことはわかりきっています。

「なんか調べてみたら〇〇ショッピングセンターから数百メートルみたいだね」


…あら♡

…ではそこに停めさせていただいて、お祭の後買い物すればよいかしら?



当日、そのショッピングセンターさんの駐車場の端っこに小さな罪悪感を抱きつつ車を停め、橋の側にある信号のある交差点へと向かいます。

初めて歩く道は新鮮です。
しかしそんなことよりお祭です。
御神輿です。

ええ、おばさんいつものように走ります。
これもまたすでに慣れきった夫は、
「あの白い傘をさした人のいるあたりを左折ね」
と後方から早めに声をかけてくれます。

数百メートル走って。
「白い傘の方、いなくなっちゃったんだけどぉ〜」

「行けばわかるよ、この通りではそれなりに大きな交差点だからぁ〜」

ここか?
いや違う、ここは民家のお庭。

ここだ!
左に曲がる。

あったぁ!

赤い鳥居が見え、そのすぐ向こうにはやはり小さいながらも赤い神橋がかかっています。

その真正面に黒い瓦葺き、白い壁に赤い柱のお社が見えます。

あ、ちょうど御神輿を男衆が担ぎ上げたところです。

御神輿を担いだ誰もが、それはそれは誇らしそうなお顔をされています。
思っていたよりも少ない人数で担いでおられます。

…剛力の方々が揃った?


さして広くはない境内を小さく静かに一周して御神輿は鳥居をくぐって私たちが今まさに来た道へと出て行きました。


いくばくかの寂しさが残ります。

境内では手水舎で遊ぶ子供、そのすぐそばに設置されたミストをくぐってはまた戻る子供が数人。


いくつか町内の出店が出ており、かき氷のコーナーには長蛇の列ができています。

大きな御神輿が出て行ったあとは、いかにも小さな町会のお祭といった感じです。
皆さんが顔見知りのようで、途端に自分たちだけ異邦人のような疎外感が生じます。



No.413

【桐生相生賀茂神社】さん

しばらく前、外出先で群馬県桐生市の地方紙を手にする機会があり、ある神社さんのお祭についての記事が目にとまりました。

それは桐生市の賀茂神社さんの中の境内社である八坂神社さんの夏の大祭で、御神輿の担ぎ手を募集しているというものです。

重くて大きなものとあります。

私たちには関係ないと普段でしたら気にも留めない記事なのですが、こちらの神社さんにはまだ参拝したことがなく、ふと気になって読み進めたところ、なんとこの御神輿、同じく群馬県太田市の世良田八坂神社さんから遷移したものと書かれているではないですか。


あっ!
あの御神輿なんだ!


…コロナ禍前、世良田の方へは足繁く通って、いろいろ参拝させていただいていた時期があり、世良田の八坂神社さんのお祭りにもお邪魔させていただきました。


かつて世良田の八坂神社さんのお祭りには、桐生市やみどり市、などから大勢訪れたといい、片道実に三十キロを超える距離を自家用車などほぼない時代に訪れていた記録を市誌や町誌、村誌などからいくつも目にし、その距離と信仰心に驚愕したものでありました。


その世良田の八坂神社さんのある年のお祭りで、一人の神官のちょっとした一言から、御神輿が桐生市の現相生町、当時においては如来堂村へと遷移されることとなった、と言い伝えられているのです。

その詳しい経緯はこのあと綴らせていただきますがそれを知ったかつての私たちは
「それは…その神官、さぞ困ったことだろうね」
「神さまの前で嘘でしたというわけにもいかないだろうから、クビになるくらいの失言をしたもんだね」
などと話したものです。


行きたい!
その御神輿を一目拝みたい!


帰宅するなりカレンダーに『相生八坂神社』と書き込んで。

夫が仕事から帰るなり、
「ねえ、桐生市の相生町一丁目の賀茂神社さんって、どこ?」

…普通の人は自分で調べましょうが、私、地図が読めない、しかも方向音痴という特技の持ち主で。
夫は夫で長年連れ添った人間、そんな唐突な質問に動じることなく、
「ああ、以前通りかかったことがあったけど、駐車場が見当たらなくて路駐も出来そうになくて参拝を諦めた神社さんだよ」


これは♡
神さまのお導きでありましょうか。





No.412

今日は『寅の日』で毘沙門天さまのお縁日。

寅の日が『毘沙門天さまのお縁日』とされているのは、
その昔、聖徳太子さまが、毘沙門天さまを祈られたところ【寅年の寅の日の寅の刻】に毘沙門天さまが現れたと言われており、それから寅の日が毘沙門天さまのお縁日とされるようになったのだそうです。


毘沙門天さまは、四天王・七福神・八方天・十二天・十六善神という多くのお役目を果たされています。

四天王としては【多聞天】さま。
単独尊としては【毘沙門天】さま。
大般若経を守護する十六善神としては【吠室羅摩拏善神(べいしらまだぜんしん)】さま
と称されます。

またインドにおける財宝の神、『クベーラ』が前身(由来?)と考えられており、有り余る財宝を分け与えることから【施財天(せざいてん)】とも呼ばれ、財宝を司る福の神とされています。



毘沙門天(多聞天)さまは、左手に、仏さまの教えや智恵が納められた『宝塔』を、
右手に、意の如く財宝や食べ物、衣服などを生み出す『如意宝棒』または『三又の槍(三戟)』をお持ちになるお姿があります。

槍を持つ毘沙門天さまは、魔除け、厄除け、勝負運を司り、
如意宝棒を持つ毘沙門天さまは、開運招福、金運など福徳を司るとの言い伝えがあります。

足下の邪鬼『藍婆(らんば)』・『毘藍婆(びらんば)』を踏みつけていることから、災いなどを引き起こす邪鬼を鎮める力があることを示しています。


奥さまの吉祥天さま、お子さまであられる善膩師童子さまとの三尊像は家庭円満や厄除け等の御利益があるともされています。



先日ネットから書き起こした【毘沙門天王功徳教】をお唱えしてみましょうかね。


…振り仮名をつけ忘れて読めないところがなんとも私らしい。

No.411

(続き)

このフェンスの中、かわいらしいお地蔵さまのお像がおられます。
このお地蔵さまがまた私の大好きなお地蔵さまのお一人です。
小さくて、子供みたいに笑っておられるお地蔵さま。

そのお隣には大黒さまの石像がおられます。
この大黒さまの笑顔がまたとても良いのです。
古い石造の大黒さまは私はあまり見た覚えがないのですが、この大黒さまはとても生き生きとされ、今にも立ち上がりそうな、動きのあるお像であります。

保護、というよりは盗難防止にすら思える高さのフェンスです。

うーん。

フェンス越しですのでいつ頃の石像なのかもだれが何のために奉納されたかもわかりませんが、もしかしたら名のある石工の作品なのかもしれません。


さて、十九段を駆け上がります。

真正面のお堂。
彫刻の絵馬が祀られています。
これが何度見てもなんの図なのかわからないのです。
いつもは鰐口を撞いて木の扉に手を合わせるだけ。

でもこの日は違います。

保存会の会長さんはお堂の向かって左側にまわり込み、そこにある引き戸を開けて「中へどうぞ」とおっしゃってくださいました。
二間あるのがみてとれます。

奥の間、右隣の部屋は後付けで建て増しされた部屋だということで、御本堂よりも天井が低く、大祭のとき、和尚さまが着替えたり、お札を掲げて置く間だといいます。

須弥壇が立派なのに対してその上に置かれた厨子や厨子の前に掛けられた布など正直少し質素な気がいたしました。

須弥壇の上に置かれた木の段は白木のままのもので後からのもの、な気がいたします。
十二神将さまも何やらカラフルな色に塗られていて、逆の意味で目を引きました。

僧の手を離れて少しづつ保護保存のため手を加えていかれた結果なのでありましょう。

仏具はほとんどなく、大きな鐘があるのみで、経几は器用な素人の作った物のよう思われました。


それがなんとも淋しく、うら悲しく思えたのが正直な気持ちです。

No.410

(【穴原薬師堂】続き)

穴原薬師堂は貴舩神社さんへと向かう県道の途中を左下へと分かれる道へと向かいます。
下り坂は木々のトンネルをくぐるような道で、今まで走ってきた明るい道から急に暗くて細い道となり、少し心細く思われる道です。
坂を下りきると一転、田や畑や家、町工場などがある明るい道となるのですが。

畑の広がる空間をみぎてに見てまもなく、奥まったところに赤い山門が見えてきます。
参道が畑の隣なので、赤くそびえる楼門はとても目立ちます。

山門を見ながらひだりてにハンドルをきると、車の駐車できるスペースがひろがり、そのわきにはあづまやのある広場もあります。


山門の一階部分は両脇表側に仁王さまがおられます。

昭和六十年に解体修理された際、仁王さまのお首の部分から古文書が出てきたといい、その文書により寛政四(1792)年に地元の仏師『田村利八』他二名により彫られたものであることが明らかになりました。
田村利八は桐生天満宮の棟札に〝箔方〟として名を残す方であります。

山門の建造年も同じく寛政四年。
木鼻の形や浮き彫りの文様などからも十八世紀後半のものと考えられ、文書との一致が見られるといいます。
また、門に彫られた渦巻き模様からも、門の格式は高いものだとも言われているそうです。

屋根は鉄板で覆われていますが、その重厚さから茅葺き屋根であったことがみてとれます。
横から見た屋根の感じが私は大変好きで、また、二階部分の手すりの奥の閉ざされた扉をみあげては中におられるお釈迦さまにご挨拶を申し上げます。

山門の表側のひだり側には背の高い石幢があり、六地蔵さまが彫られています。
お地蔵さまが比較的大きく、また状態も良くて、私はいつもこの石幢の周りを一周するくらい、好きなものであります。

門をくぐると門の裏側右側に鉄で作られた階段があります。その上は板で覆われています。

門をくぐった正面に御本堂へとのぼる石段があります。
石段は十九段。

右側には大小の庚申塔が並んでいます。
後年整備したものと思われます。
庚申塔の並ぶ裏手は石垣が組まれています。

左側には不自然なほど高いフェンスが組まれており、中に石仏さまがたくさん祀られています。

No.409

いやぁ〜、ダメだ。
38℃超え。

頭がまわらない。
…あ、これはいつものことでした。


外に出ると吸い込む空気で肺が熱い。
エアコンの効いた室内にいても胸元に熱さがこもってる。

仕事となると無理をおしてでも仕事しているひと、大勢いるのだろうな。

この暑さ、もう命がかかっている。
無理をしてはならない。

だけれど、…言葉でいうのは実に軽々しい。
本当は当たり前のことで、全ての人の心に届くといい。
心からそう思う。
つらいのをおして仕事している人を、上に立つひとはどうかきちんと守ってほしい。


今まだ七月。
まだまだ夏は続く。

命を守ること。

No.408

【穴原薬師】さま

目に持病を抱える夫。
祈ることしかできないので、眼病に効くという仏さまを見かけるとつい足を伸ばしてしまいます。
そしてそこに通ってみたり。

…などというとなんだか良妻のように思えたりしてしまうかとも思いますが、夫にとってはまさに悪妻の鑑であります。
…などということは、こちらをお読みくださっておられる方にはもうすでにバレバレ、周知の事実でありましたね。


やはり眼病に霊感あらたかといわれる群馬県みどり市の【穴原薬師】さまにお参りしてまいりました。
このたびは夫と一緒。

夫は二度目の参拝となります。

ここ、穴原薬師堂を知ったのはほんの偶然から。
地元で有名な『貴舩神社』さんへの参拝へと向かう途中で、小さな案内板を見つけたことに始まります。

そして初めての参拝をして、こちらが眼病に効くといわれるお薬師さまであることも知ったくらいでありました。
無住の、お堂自体はあまり大きくはないものの、どういうわけなのか仁王門、しかも十六羅漢さまがおられる楼門を構えた、どこか不思議なお堂であります。

参拝に来て人と出会ったことはないくらい、貸し切り状態で、高台から見下ろす田園風景の素晴らしさは本当に大好き、…なのですが、なにやら今年は獣臭が漂っており、お参りをしても早々に立ち去ることとなっているのです。

そんな穴原薬師さまについ先日もお参りしたばかりだというのに、今度は夫まで伴って参拝した理由といえば、な、なんと!
ご厚意でご本尊さまを御開帳いただけることになったから、なのです。

実はこちら無住なだけでなく、もはや寺院でもなく、地元の保存会が管理しているものとなっていたのです。
まぁ、それすらも知らず参拝を繰り返しているところが、いかにも私、なのですがね。

知らぬがゆえに、文化財指定をしているみどり市の文化財課に、御開帳の有無を問い合わせてみた結果が今回のこういったご厚意へとつながったというわけなのですが…。

ものを知らないという意味での〝眼〟の不自由な私に、御利益があったのかもしれません。

これはもうかなりの御利益があるお薬師さまでございます。


ちょうど草むしりとシロアリの薬剤散布をする日があるので、その日でよければ、といったことで、保存会の会長さんから御本堂と楼門を開けていただけることとなったということなのですが。


No.407

僧とても人、そう思うことなど何度もあった。
なにせ末法の世である。

御朱印で有名なお寺では、
「この絵(預かった御朱印帳の表紙の絵)次の御朱印に使えそうじゃん」
という話がもろに聞こえ、さらには
「今日はやたらと御朱印が多いな」「うん儲かる儲かる」
といった耳をふさぎたくなる声まで聞こえたこともありました。
「うちの寺は御朱印三枚で千円、バラ売りはしてないから」
と、もはや商品であることを隠さなかった。


自寺の御本堂を貸しての撮影会を開き、ご本尊の真ん前ヒラっヒラの衣装のおねいさんがポーズをとるのが見えたりする中、一般の参拝客も参拝していたり。
貸切りにしたら、せっかくお越しになった参拝者に失礼と思われたのか、一般の方からの〝収入〟も得たかったのか…。



そんな世知辛いお寺さん事情を垣間見てしまうこともある一方で、お会いできるだけで、心が晴れ晴れする、癒しの力をもつ僧侶。
佇まいだけで、その毎日の生き方を伝えて、一見さんとでもいうのか、初めて寺を訪れもう二度とは来なそうな者に対しても、おもてなしをしてくださり、仏道をお説きくださる僧侶。
たくさんたくさんおられるのもまた事実です。

だからお寺さんに行くのがとてもとても好きであるし、仏教にも興味を持ったくらいです。


今回の、この逮捕という衝撃的な事件の主となった僧侶は、確実に、この後者の僧であったのです。
私どもにとってもそうでありましたし、檀家さんにおかれましてはまさに寝耳に水で、今なお胸を痛めておられますことでしょう。

…それでも。


やはり僧とても人、一介の人間に過ぎないことを私は忘れてはならないのです。
それは決して悪い意味などではなく。

人は産まれて生きているこの現世で常に修行の身であり、誘惑があり、大なり小なり罪を犯すこともあるということ。

僧とて聖人ではなく、ましてや仏などではない、ただ人であるということを。


そうした人の色眼鏡は生きづらさを産むこともあるということを忘れてはいけないのだと。

まぁ、それを力としてさらに修行し精進される方もおられましょうが、善人であって当たり前などと思われて生きるのは、やはりただ人であれば生きづらいものでありましょう。


彼は罪をすでに認めているといいます。
人を殺めたといった罪ではないので、罪は償えばいい。


そう、それだけ。



No.406

昨日思い立って、久しぶりにお訪ねしたお寺さんで、あまりにもショックなことがあり、いまだに引きずっております。

そちらのご住職さまはいつ伺っても笑顔でお声がけくださる物腰のやわらかな、表情豊かに話されるお方で、敬愛する僧侶のお一人でありました。

「ご住職は?」
とお聞きすると
「おりません」
と私服で総髪の方がお応えくださいました。
「今日でしたら何時ごろお戻りになられますか?」
「…」

しばらくの沈黙の後、
「新聞や報道とかでご存知ではないですか?」

はっ?

はて。
失礼ないい方ではありますが一介の僧侶の移動などはそのように報道されることは稀かと存じます。
総本山の総代になられたとかであってもそのような報道はなさるかどうか。


「こちらに務めておりました者は逮捕されましたので、もうこちらに戻ることはありません」


はっ?
「かつての、でしょうか?」
かつて訴訟問題があったとうっすらとした記憶にありました。

「いえ違います。六月のことですので、おそらくご存知の者と思います」




立ち直れない。
一晩経っても立ち直れない。

僧侶は道を説く者であるはず。


何の道を誤ったのか。

…立ち直れない。

No.405

(続き)

天つ神さまが天の岩戸の扉をお開けくださり、幾重にも重なる雲を掻き分けて 奏上した大祓詞をお聞きくださり、国つ神さまも高い山や低い山の頂上に登って雲を掻き分けてお聞きくださる。

…その光景を思い描いただけで本当にありがたく、心の闇が、厚く重なった雲が払われる気がいたします。


そして。
祓われた罪のゆくえをもこの大祓詞には描かれてあります。

『…このように祓い清めた罪は高い山や低い山の頂上から流れ落ちる

流れの速い川にいらっしゃる瀬織津比売(せおりつひめ)さまという神さまが大海原までもっていくだろう

そして激しい沢山の潮流が渦をなしているところにいらっしゃる速開津比売(はやあきつひめ)さまという神さまが飲み込むだろう

それを息として吹き出すところにいらっしゃる 気吹戸主(いぶきどぬし)さまという神さまが根の国・底の国に吹き放つだろう

そして根の国・底の国にいらっしゃる速流離比売(はやさすらひめ)さまという神さまがそれをすっかりなくしてしまうだろう。』



…。

ええ、この祓われた罪をさらに流し、吸い込み、吐息として吹き出し、その空気となった罪を吹き根の国、底の国へと吹き飛ばし、そこで抹消してくださる四柱の神さま方こそが、祓戸の大神さま方であるのです。

なんとありがたいこと、
なんとありがたい神さま方でありましょう。


神社へのお参りすらがほとんど無かった暗黒期のある私ですので、この珍道中を始めて初めて知った御尊名、神さま方でございます。
(しかもあいかわらず御尊名を覚えられてもおりません)

ただその御尊名はよく参拝させていただく群馬県桐生市の【桐生天満宮】さんの主祭神でありますので、よく拝する機会がございます。
ならば覚えてもよさそうなものを覚えられないのが、この海馬の機能をほぼ失った脳みその持ち主であります。



瀬織津比売さま
速開津比売さま
気吹戸主さま
速流離比売さま




この大祓詞を奏上する機会を得て、初めて知ったこの神さま方のしてくださっておられたお仕事。

そしてその役割をそのまま表しておられたお名前であったこと。


もう感動しかありません。

No.404

(続き)

産泰神社さんの大祓式の式次第を、勝手に、しかも記憶力のだいぶ衰えたおばさんが辿ってここに記してみます。

一、人形(ひとがた)切麻をお分かちする

一、祓いを促す(産泰神社さんでは式進行にあたられた禰宜の方でありました)

一、大祓詞を奏上する

一、切麻(産泰神社さんでは小さく切った紙と小さな繊維片でした)をとりて各自祓う

一、大麻(産泰神社さんにおいては榊の枝でありました)にてお祓いする
(①正面②神職③参列者の順)

一、『八針神事(布を八つに取り裂き、大麻を折ってその布で縛り、辛櫃に収め蓋をする)』を執り行う

一、各自人形に穢れを移す

一、箱に人形を収める

一、神職を先頭に茅の輪をくぐる

と、まぁこんな感じ、でありました、…でしょうか?

順番、多少は異なるかもしれません。
なぜならば、
一、記憶力がいたって退化している
一、初めての大祓式参列であるため、産泰神社さん以外の大祓式を知らない

ためであります。


で。

実はこの大祓式で執り行われた作法が、実にこの大祓詞に描かれていたのです。



まず、

『多くの罪が出てくれば 天から伝わった儀式に従って
金属のように硬い木を切り 根本を打ち断って台の上に置いて

管(すげ)の根元を刈りとり 根本を刈りとり 細かく裂いて

天の立派な祝詞を読みなさい

このように祝詞を奏上すれば、天つ神は天の岩戸の扉を開けて
幾重にも重なる雲を掻き分けて お聞きになるでしょう』

というもの。


…現代語訳してしまっておりますので、かえってイメージしづらかったりするかもしれません。

そのへんは、小心者のおばさんで、すみません。


ここに金属のように硬い木とあります。
実は神社というと〝榊〟と思うくらいのこの榊という木、私などは葉のついた小さな枝くらいしか手にしたことが無いのですが、実はこの榊の木がたいそう硬いもののようです。

まさにこの榊の大きな枝を切ったものを産泰神社さんではお祀りし、これを以てお祓いをされていました。


そして〝菅(すげ)〟これは〝麻〟。
これは麻という特定の植物を指すのではなく、『植物の繊維』の総称ととらえるようです。

これが切麻、でありましょうか。

うーん、感動です。
なんと神聖な儀式に参列させていただいていたのでしょう。


No.403

(続き)

平安時代において、大祓式は、大嘗祭のときや、疫病・天災地変のときなど、あらゆる変事・災事の原因を祓うために執り行われ、この大祓詞が誦まれたといいます。
そのため、大祓詞は「祓詞」の中の「祓詞」との異名を持っていて、まさに、「大」いなる「祓詞」となるわけです。

この平安時代に制定された、法律の細かな決まりごとを定めた法典である【延喜式】に、二十七編の祝詞も収録されているのだといいます。

その延喜式に『六月晦大祓』『十二月晦大祓』として六月と十二月の晦日に、京都の朱雀門で、
親王・諸王・諸臣・百官の人達を集め、彼らが犯したかも知れない諸々の罪・過ちを、天皇の仰せによって祓い清めるために大祓が執り行われ、この大祓の神事において大祓詞が読みあげられます。

【祓】という字は通常『はらい』と読むことが多いですが、大祓と書いた場合は『おおはらえ』と読まれます。
単に祓というのではなく『大』という文字を加えているのは『大』には公という意味があり社会全体のための行事として行われていたからといい、記紀などの歴史書にも国家祭祀として大祓が行われていたことが記述されているといいます。


具体例として、天武天皇の御代においては大祓当日の午前に内裏で天皇・皇后・皇太子の穢れが落とされ、
午後には中臣氏が朱雀門で役人や民衆の集めて大祓詞を読み聞かせることで祓を行ったといい、このことから大祓詞は『中臣祝詞』とも呼ばれることもあるのだといいます。


時代とともに公的行事としての大祓が一般化し、一般人の私的な行事としても大祓が行われるようにもなっていったといい、大祓詞の文章を多少変更して広く用いられてもいるといいます。


ちなみに産泰神社さんの大祓式は午後の早い時間から執り行われましたが、後に大祓式を夕方から執り行う神社さんが多いことを知りました。

この辺に関してはその理由まで調べるまでに至っておらず、後の課題としたいと思っております。


ただ大祓式の式次第はほとんどの神社さんで同じなようでありました。
あくまでネット情報に過ぎないのではありますが。






No.402

(続き)

ところで。

黄泉の国から帰られた
伊邪那岐命さまは筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で穢れを落とした語られています。
古事記ではこの時に左目から天照大御神さま、右目から月読命さま、鼻から須佐之男命さまが生まれております。
他にもたくさんの神さまがお生まれになられます。


そして。
祝詞、祓詞として奏上されているのを拝聴することのあるものもまた、この古事記にあるシーンをなぞり、そこでやはりこの伊邪那岐命さまの禊の際にお生まれになったとされる祓戸の神さまたちにお祓いをお願いする内容となっています。

ただ、この祓戸の大神たちのお生まれになられた記述は古事記にも日本書紀にも見られません。

しかしながら祝詞に関してはこの祓戸の大神さま方は大変に重要な位置付けにおられ、大祓詞においてはこの祓戸の大神さまのお名前も表記されて、具体的にどのように私たちの罪や穢れを祓っておられるかまでが描かれているのです。


ところで。
伊邪那岐命さまは黄泉の国へ行っただけですのでとくだん罪を犯したわけではありません。

黄泉の国という死者の国に行ったことで身についた穢れを落とす行為として禊が行われています。

今、祓詞では罪穢れをお祓いいただいておりますが、かつては罪と穢れは明確に区別されており、

罪に対しては祓
穢れに対しては禊

が行われていたといいます。


たしかに、文字に表してみると、そうかもしれないと思われます。

小心者にして罪穢れの多い私はここですでにドキドキしてしまうのでありますが、これは、時代が進むにつれ罪と穢れの明確な区別はなくなり、罪と穢れの両方に対して大祓が行われるようになったという経緯があるようで、ちょっとホッとする私でありました。


大祓が始められたのは天武天皇の御代ごろではないかと言われています。

この時代には律令体制という律(現代でいう刑法)と令(それ以外の法令)による政治が行われました。
律令政治の時代では現在と同じように罪に対して社会的な制裁が行われています。

律令が定められる前の時代は罪に対しては何が行われていたかというと、〝祓〟が行われていました。
祓というのは神が人間に対して科するもので罪を除き去ることを示すといいます。

具体的には罪に応じた財物を出す方法がとられていたようです。


続きます。

No.401

(続き)

大祓詞は六月三十日の夏越の大祓(なごしのはらえ)、
十二月三十一日の年越しの大祓(としこしおおはらえ)という神事において読みあげる詞なので大祓詞と呼ばれています。

そしてその起源、なんと神代にまで遡るといいます。
『日本書紀』に描かれた天岩戸の段で、
「天児屋命(あまのこやねのみこと)をして、其の解除(はらへ)の太諄辞(ふとのりと)を掌りて宣らしむ」とあって、【解除の太諄辞】として登場しているのが大祓詞なのだといいます。

ただそんなことは知らずとも、ただ大祓詞の前半に描かれた情景こそが、まさに神代のことであり、古事記や日本書紀を彷彿させる内容となっているのです。

大祓詞の冒頭は高天原におられる皇祖神さまが、八百万の神さまをお集めになられ会議をなされ相談なさる様子が描かれているのです。

そしてその会議の結果として皇御孫命さまが豊葦原瑞穂国を平和で穏やかな国として統治するよう任じられるのです。

豊葦原瑞穂国、まさに日本国のことであり、つまりはそこを統治すべく任じられた皇祖神さまのお孫さまといえば、
【瓊瓊杵命】さまをおいて他にありません。

瓊瓊杵命さまが高天原から地上に降臨され、
『倭の国』を都と定め、
そこに、
「地中深く穴を掘り、そこに太く立派な宮殿の柱を差し立てられ」
「屋根の上には高天原に届くようにと千木を高く聳え立て荘厳で立派な宮殿を」
お造りになられるのです。

…これって、まさにあの、…伊勢神宮そのものではないですか?

しこうしてこの宮殿に【天照大御神】さまの御加護を受けてお入りになられるところまでが描かれているのです。


感動しません?

前述したとおりまさに古事記や日本書紀に出てくるかのような情景ではないですか。

しかもここにそのお名前こそ明記はされておられませんが瓊瓊杵命さまが出てこられます。

産泰神社さんって、まさにこの瓊瓊杵命さまの奥さまとなられた木花之開耶姫さまをお祀りする神社さんなのですから、感動するったらありませんでしょう?


そしてこの後には、大祓式を執り行うにあたっての具体的な方法が描かれています。

私はここで前編が終了して後編に入ったような気がするのですが、大祓詞上では特に区切られたりはしておりません。


続きます。

No.400

【大祓詞】についての私見

まずはじめに申し上げておきますが、『私見』です。

全く神道を学んだこともない、それどころか神社さんを訪れるようになってからまだまださほどの時も経ていない、ど・素人の、さらに言えばへんてこりんな脳みその持ち主がこの大祓詞をよみ、思った私見にすぎません。

誤ちだらけかと思いはしますが、一応は原文を自分なりに読み下し、さらに解読文を読んで大きな誤ちがないかだけは確認はしてはおります。

が。
へんてこりんな脳みそが生み出すへんてこりんな思考、考察ですので、どこでどう、どこをどうねじってひねったかわからないものと思っていただきたい。

そしてこれがまたすごく壮大なロマンを秘めたもので、それに感動した私は古事記やら日本書紀に寄り道し、大祓の儀式で見聞きしたものをまたとりこんで、すでにキャパを大きく超えてしまい、文章化ができるかどうか。


この大祓詞、群馬県前橋市に鎮座される産泰神社さんの大祓式に参列させていただくまで全く目にしたこともなかったのですが、九百字ほどの文章の中、心躍る物語が描かれ、人の穢れを祓うために神さま方がどのようにご尽力くださっているかを知ることができ、読めば読むほど、感動しかありません。


あ、でも、この神聖な祓詞をここに掲載するのは私のような罪穢れの塊には畏れ多くて到底出来ません。

えっ?

大祓式で罪穢れを祓っていただいたのではないか?ですか?
ええ、茅の輪もくぐりましたよ、それもこちら以外の神社さんでも。

でも歩くだけでも、一言言葉を発するだけでも罪を犯し、穢れるんですよ、煩悩のかたまりおばさんは。


ですので、私の私見だけつらつらと書いてまいります。


穢れ多きおばさんのスレでなくとも、ネットには神職の方のお載せになられたものがございます。
ご関心をお持ちになられましたなら、ぜひそちらでご覧いただきまして。


あら?

前置きが相変わらず長いこと。

今回は前置きだけでごめんなさい。

No.399

七月十日。

…七月十日、?

何かが引っかかっている。
なんの日?
うーん。

夫の在宅勤務の日でしょ?
姉が遊びに来る日、でしょ?

はて…。

思い出せない。
ただぼーっと思い出そうとしていても時間がもったいないので、庭の草むしりと軽い剪定をした。

思い出そうとしていたことがあったことすら忘れて、シャワーを浴びて、仏壇もどきに朝のお勤めをしに向かう。
ここで思い出そうとしていたことがあることを思い出す。



…あっ!

観音さまの功徳日だ!

『四万六千日(しまんろくせんにち)』と言われる観音さまの特別な縁日とされている、一年に一度の功德日だ。

四万六千日は、約百二十六年にあたり、人間の寿命の限界とされ(えっ?そ、そんな長いの?)、この日観音さまにお参りをすると、人の一生分お参りしたことになる、と言われている功德日であります。

究極の裏技でありましょう。

そんな裏技を使うのはなにか姑息な気がして、最近はあまりこの日にお参りすることも減ってきていました。

でも揺れるおばさん心。

四万六千日分お参りすることにならなくとも観音さまにお会いしたいなぁと思う思いで揺れ動くのです。

と、雨音。

……。


ま、夫とお昼を食べてから、姉と相談してみよう。


この四万六千日、
一升(いっしょう)の米粒の量が約四万六千粒となるのだそうで、一生を一升にかけて、一生分参拝したことになるという説もあります。



…ああ、雨だなぁ。


暑さのため軒下の日の当たらないところへ置いたメダカを、雨の当たるところへ移動してあげよう。

メダカ、雨粒が水面に当たると嬉しそうに水面近くを泳ぐんです。

それがなんともかわいらしい。


今日は白い桔梗がたくさん咲いています。

これだって、…良い日であります。


そうそう、いつもはつっかえてばかりの観音経が初めスムーズに読むことができました。
これは観音さまの功徳でしょうか。

また読経した際、つっかえつっかえとなったなら、お縁日の功徳、ということになりましょう。

No.398

【大祓詞】

しどろもどろな上、何度も間違って唱え直したまさにしっちゃかめっちゃかな初めての『大祓詞』奏上。

みなさんが毎年お越しになっておられるわけではないでしょうから、何人かは私と同じに初見であったかと思うのです。…そう、少なくとも夫は。

…みなさん澱みなくスラスラとお読みになってるんですよね。
私のすぐそばにいた男の子などは、たぶん間違えてばかりの私の奏上を聞いて、堪えきれず振り向いてクスッと笑った…んじゃないかなぁ、そんな仕草がみられたくらいでありました。

大祓詞の書かれた用紙はそのまま持ち帰ることに。
しかしながら、わが家のように神棚すらない家で大祓詞を読み上げるような不敬な行為は畏れ多くてできません。

その辺に散らかしておくのも畏れ多いことで、ましてや処分などとんでもなく。
大祓詞の書かれた紙は、帰宅してすぐ、夫が神社でお受けしたお札を収めておく小さな棚に収めさせていただきました。


ただ。

この大祓詞、必死に読み上げながらも、なんとなくわかる言葉、みたことのあるワードがあちらこちらにみてとれたのです。

きちんと奏上することができなかったのだから、せめて意味くらい知っておこうではないか。


ええ、ピピって操作するだけであっという間に大祓詞を解読したものがスマホの画面に出てまいります。

あ、そうそうこんなワード、こんな言葉があった、あった!


まず高天原(たかまのはら)。

そして皇賀親神=すめらがむつかみは皇の親神さま、でありましょうし、皇御孫命、=すめみまのみことは、皇、天皇の孫って、ことですよね。

そう、神道に深く深く関わる古事記にも出てくるワードが散りばめられているのです。


これは自分でも頑張れば解読できる?…間違えても良いから、少しだけつついてみよう。

…無謀といえばあまりに無謀、ですが、頭の体操にはピッタリです。





No.397

【穴原薬師堂】

夫に目の病があり、目の病に効くというお薬師さまがあると訪れては手を合わせています。

その一つに、群馬県みどり市の【穴原薬師】さまがあります。

少し前訪れた際、大々的な補修工事が入っており、参拝を断念したので、工事が終わっているか否かを確認がてら伺ってみました。

こちらはかつて貴船神社さんを参拝するため車を走らせていた通り沿いに、案内の看板をみつけ、参拝してその存在を知ったという経緯がありました。

この日もまずは貴船さまへ参拝し、その帰りに、穴原薬師さんへと向かいました。
ちょうどその辺りに沿道に紫陽花が並んで植えられている道があります。
色とりどりの紫陽花が並んでいるさまがとても綺麗で癒されました。
きっと土地をお持ちの地主さんが、そこを通る人たちのためにと植えてくださったものでありましょう。
何度となく通っている道でありますのに初めて気づきました。
車で通るものですから、花の時期にしか気づかないのでありましょう。

沿道に花を植えてくださる方は多くおられますが、自分のためでなく、ただそこを通る方のためを思ってのこと、そのお心をとてもとてもありがたく思います。


貴船神社さんからの道となるとヘアピンのようにカーブして道を曲がる必要があります。
貴船さんへ向かう道から分岐した、細い坂道となります。

晴れた日でも少し薄暗い、豊かな自然の中、まさに神聖な霊地へ向かうかのような道で、少し怖いような気すらする坂道を下ると、畑があり、お家がある集落となります。

なんだかんだ一キロ弱走って(あ、これはあの距離に対しての感が全くない私の感覚に過ぎません 笑)、右側、少し奥まったところに楼門が見えてきます。

初めてこちらを訪れたとき、あまりにも立派な門があるのをみて、大層びっくりしたのを今も覚えています。


ああ、工事は終わったようです。


あっ、ここ、…こんなに細い道だったか。
そこを入らないと路駐は無理、楼門まで続く道は車幅プラス十センチ強、…そんなことすらすっかり忘れられちゃうところがいかにも、…です 笑。

No.396

【鶏足寺】さん護摩修行

栃木県足利市にある鶏足寺さんの護摩修行へ参列させていただきました。
今回もまた始まってしまっていたらどうしよう。

そう、九時からというはずの護摩修行が、前回八時三十五分に着いたときにはもうすでに始まってしまっていたので…。

なにぶんにも隣の県。
そして九時からのお護摩に間に合うように一時間前に家を出ても、通勤通学ラッシュにぶつかり、なかなか思うようには着かないのです。
それでも三十五分前、だいぶ早く着いているはず、なのです。
これで間に合わないとなると一時間半前?

さすがに夫がまだ家におります。
仕事や誰かの為に、というわけでもない、ただ自分のやりたいこと、したいことをするために家を空ける、家を出るのは夫より後に家を出たいです。
いってらっしゃいと声をかけ、戸締りなどの煩雑なことをさせずに送り出したいのです。

…これが〝九時から〟なものだからそんな殊勝な風なことを申しているので、朝の六時から、などという行事に参列したいときは、…とっとと家を出ると思われますが。


今回はさすがに私を待ってくださって、私の姿をみた途端、…ご住職さまは「〇〇さんでしたよね。それでは始めましょう」とおっしゃって、スタスタと壇上へと上がって…戻って来られました。
「花御札でよろしいのでしたよね」
「あ、ああはい」
そしてまた壇上へスタスタ。

(えっ?今日も願意無し、ですか?)


「あ、何か願意はありますか?」

…これは別に私の心のうちが読めたのではなくて、単純に忘れていたことを思い出されただけ、だと思います。
ハッとした様子で振り向きざまにお聞きになられましたので。

しかも「家内安全でいいですかね?」
いやいやと、私が言いかけた願意をスパッと切り捨てて「では家内安全で」。
へっ?
そ、そう?

…お寺さんって、心にゆとりや癒しを与えてくださるところだとばかり思っておりましたが、なんだかモヤモヤが蓄積していくばかりなのですが…。


かくして、本日の護摩修行、八時半から始まりました。


…うーん。
これで良いの?

私が来なければ九時までは待ってくださった?


…どうも私は時間にルーズなのはあまり好きではないのです。
もちろん何かの都合で遅れるとかは気にならないのです。

うーむ。


でもここのお不動さま、五大明王さまは大好きです。




No.395

(続き)

このあと、今度は拝殿正面から昇殿させていただきました。

かつて、開けられた扉から流れるようにあふれてくる、優しいあたたかな気を感じながら、見上げていた拝殿の中であります。

前回の、薪能のときよりは少ない人数での昇殿で、二回目ということもありゆっくりと花鳥図を見上げることができました。
優しいタッチの、水彩画をも思わせるタッチの絵でありました。

「さあこちらへもお入りください」

へっ?

そちらって、…幣殿ですか?


「せっかくですので、こちらの天井画もぜひご覧ください。
今テレビでドラマ化されております源氏物語の天井画となります」

!?。
きょ、今日も、ですか?



嬉しい♡
なんと嬉しいことでしょう。

もはやもう昇殿すら叶わないであろうと思ってありましたのに。

幣殿はふだん神職の方が祝詞をあげ、お供物をおそなえするときくらいしか入ることのない〝間〟、であります。
たとえ祈祷などで昇殿することがあっても決して入室することのない〝間〟であります。


そして。
こちらに昇殿される方もごくごく限られたいま、やはり入室することもできなくなっている控室に、雨天ということで入室をお許しいただきました。
この控えの間、幣殿の天井画のコピーしたものが展示されており、まずそこでゆっくりと拝見することもできました。

ああ、これが須磨を描いたものであろうかとか、これはあのシーンであろうなとか、もう妄想と感謝が止まりません。
まことにありがたいことにございます。


これはその控えの間の壁に貼られた源氏物語の絵であります。

No.394

(続き)

「それでは人形をお出しいただき穢れを移していきましょう」

えっ?
どこらへんの?
…私全身穢れだらけなんですが、足とかお尻とかは失礼、ですよね。
頭とかはとにかく、顔とかは失礼ではないですか?

内心を駆けめぐる疑問を抱えた私、ふと見ると、神職の方々も人形に穢れを移しておられます。

おおっ、顔もいいんだ。
ん?足も撫でておられるぞ。

お尻、…はとにかく腰は撫でておられます。

出来るだけ、出来るだけ人形で撫でて、穢れの移し残しがないようにしなければ!

口の穢れも移すべく、人形に口を寄せます。

「それでは最後に息を三回吹きかけて、袋にお戻しください」

はい!

ふうぅ〜っ。
すぅー。

ふううぅぅ〜っ!
すぅー。


ふうううううぅぅぅ!

「そうしましたら、その人形(ひとがた)をまた袋の中にお戻しください。
袋をお預かりしにまわります。
大祓の儀式がおわりましたら、後日すべてをお焚き上げさせていただきます」



おっ?
お焚き上げ、ですか?

考えてみれば近くに川が流れているわけではありません。

なるほどお焚き上げ…。

そもそも二百人くらいおられる参拝者さん、川があっても軽く環境破壊だ、環境汚染に抵触しそうです。


No.393

(続き)

やがて神職の方々がお揃いになられました。
そう、あの祓戸の前、テントの下に。

そして。
司会進行担当の禰宜の方が、
「これから皆さんに『大祓詞』の書かれたものをお配りしますのでご一緒に奏上していただきます」

えっ。


あ、あの大祓詞、をですか?

一緒にお唱えするっておっしゃいましたよね。

大祓式で大祓詞を奏上なさるのは存じ上げておりましたが、参列者も?共に?

私どもは大祓詞、初見ですが。

…間違えたらどうしよう。
というか間違う気しかしないです。

そうしたら私の罪穢れは祓うことができない?
というかこの場を、そして共に参列されておられる方たちのお祓いにもよくなかったりはしません?

ドキドキドキドキドキドキ…。



奏上です。

わっ、さっそくとちってしまいました。


でも私この短時間に決めたことがありました。

初見だしとちることは想定内。
ならばとちっても飛ばさず、周りの方から遅れようとも必ず一字一句お唱え申し上げよう。


なんとか。
なんとかお唱え申し上げることができました。

ほっとする私。

式は続きます。

「先ほどの人形(ひとがた)の入った袋に小さく切った紙が入っておりますので、それを身体にかけてください」

…ほう。
そうやって使うものでありましたか。
この薄く小さな繊維片も共にかけてしまって良いのかな?

はらはらはら…。
辺り一面に一センチ強四方の紙が散らばります。

これはさすがに雨がわざわいしましたか。

「それでは大幣でお祓いいたします」

…それが、ですね?
大幣、置いていないんですよ、どう見回しても。
なので巫女さんとかがこの場にお持ちになるのだと思って拝見しておりました。


しかしそのような様子はなく、神職の方が手に取られたのは大きな榊の枝でありました。

かなり大きな榊の枝です。
あたりを祓い、首を垂れた私どももお祓いくださいました。


その後、一人の神職の方が、テントの中央、祓戸の方を向きお立ちになられました。
三宝にお供えされた布を手に持たれると、その布を手で細く切り裂いていかれます。
最初は半分、また半分、と。


かなり細く切り裂かれます。


細く細く、…まさに幣のふられるふさふさの部分のような…。

No.392

(続き)

近年、…たぶんコロナ禍以降のこと、だったと思うのですが、こちら産泰神社さんの手水鉢はお水が使える状態でなくなってしまいました。

冷たい水が心地よく、さらさらとした肌ざわりの水は心まで清めてくださるようで、私は好きだったのですが、コロナの扱いが感染症第五類となってからもそれは戻ることはありませんでした。

手水舎、手水鉢をめぐる問題はコロナ禍以前からのものであったのもたしかで、私などはこの柄杓を使って口をすすぐことにたいそう抵抗があったものです。
溜め水の手水鉢ですと、これは決して浄められはしないだろうと内心思ったものです。

手はまだしも口に含むことは大変抵抗があり、くちびるを湿らすことでお許しを願っておりました。

それでも浄め、潔めは大切なことと、ともすると全く矛盾することも思っておりましたので、コロナ禍以降は水を入れた入れ物と柄杓代わりにキャンプ用品のスノーピークという取っ手のたためる小さなカップを持参しておりました。

これが自己満足ながらなかなか良い。
本当はそこのお水が使えるのが、一番良いのはわかってはおりますが、そこも止められている寺社がかなりの数ありました。
こと神社さんにおかれましては御神水といった意味合いがございます。

わが家の水道水ではなぁ、と思わないわけでもなかったのですが…。

今なお手水鉢の使えない産泰神社さん、この日は水の用意を忘れ、持参のアルコール消毒でごめんなさいと心の中申し上げ丁寧にアルコール消毒をいたしました。



そんななんちゃって手水を済ませたあと、こちらの神社さんで私は拝殿前に向かう前に、寄らせていただく場所があるのですが。

そこにこの日はテントが設営され、榊等が置かれており、近寄ってはならないような空気感があります。


そこは【祓戸】であります。

祓戸はきっと穢れを祓う神聖な場でありましょう。
とはいえ、どうそこをお参りすれば良いか等は一切書かれてはおりません。
ただ木が植えられ、そこを厳重なくらいに赤い木の柵で囲ってあるのです。

人一倍穢れの多いおばさん、こちらの神社さんではそちらに寄って礼拝してから拝殿前へと向かうのであります。


うーん。
…今日はアルコール消毒だけでごめんなさい。


No.391

(続き)

開始までまだ少し時間があります。

優しい、柔らかい、それでいて凛とした気。
こちらの神社さんの社殿から流れてくる、私の大好きな気が私を包んでくださいます。


拝殿から少し離れた、拝殿の真正面に茅の輪が設置されています。

ふと茅の輪に目をやると。



…茅の輪をくぐりながら唱える唱え言葉が、三つある内の一つしか書いていないではありませんか!

とはいえ三番目は『蘇民将来 蘇民将来』だけ。

二番目〜っ!

仕事していたときよくやった、ボールペンで手に唱え言葉を書き込みました。

やっぱりカンペを作っておくべきだったぁ。

…ええ、そうなんです。

大きな神社さんだし、きっと回り方から唱え言葉まで書かれたものが茅の輪のそばにあるのではないかと、…思ってしまったんです。

スマホで、それこそミクルさんに自分で書いて投稿しておいたところを開いて、手のひらに書きました。


あとは…時間の許す限り暗記だあぁぁ。


すると宮司さまがお越しになり、おっしゃることに
「本日はせっかくですので拝殿に昇段していただこうと思っております」


えっ?!

しょ、昇段〜っ?!


…もう何も頭などには入りません。

No.390

(続き)

前回随身門を山門と書いてしまっておりました。
お詫びして訂正させていただきます。
正しくは随身門でございます、その随身門、この日は随身さまのおられる場所もライトアップされておりました。
人出が予想されることからさらに護りを強化した…のでしょうか?


〝随身さま〟などといかにも親しげに呼んでおりますが、お召し物を見るだけで身分高き方であることがわかります。
初めてこの随身さまを(意識して)見たとき、
(あれ?なんだか見たことがあるような…?)と思ったものです。
さもありなん、この随身さん、あのおひなさまと共に飾られる右大臣さまと左大臣さまなのだそうです。
童謡『うれしいひなまつり』では
♪ 少し白酒召されたか 赤いお顔の右大臣
と歌われておりますが、この随身さまも右側におられる方のお顔が赤いこともあります。そうではないこともあります。

左右を護る存在として知られる『仁王』さまであるとか『狛犬』さんであるとかのお口が【阿吽】であるように、この随身さまたちのお口元も『阿吽』であることが多いです。

この上ない高貴な存在をお守り申し上げるのだからこの守りを固める方たちのご身分も高くて当然であります。

とまた恒例の話の脱線が生じたところで、…戻りましょう。


入ってすぐのところで禰宜の方と巫女さんが人形(ひとがた)の入った袋をお配りになられていました。

袋にも名前を書くところがあるためお聞きしたら、こちらは袋に名前を書くので人形には書かなくてよいとのこと。
そう夫に伝えたところ
「人形にも名前を書くって袋に書いてあるよ」と。
読まずに聞いた私も悪いのですが、では禰宜の方のおっしゃっておられたのは?
ま、まぁ、より多く穢れを祓っていただけますよう人形にも名前を書きましょう。

人形にも太くハッキリと名前を書きました。

と。
この袋の中、人形と同じ種類の紙が一センチ四方に切られたものと細くて小さな植物の干して乾いた糸状のものが入っておりました。
ん?
まあ、あとで説明もありましょう。

袋と人形にそれぞれ名前を書いてとりあえずまた袋に戻します。

止まない雨を見上げても少しも苦に思えない、美しい佇まいの社殿がそこにありました。

それはそれは大きな随身門も見上げます。
大変重厚な屋根が葺かれています。
もとは茅葺きであることを物語っています。

No.389

夏越の大祓式(於 産泰神社さん)続き


が。

…雨だから人出も少なかろう、などという考えはまったくもって甘かった。

信心深い方々は雨が降ろうとまったく関係ないのであります。
ただただ珍道中遠繰り広げるだけのおばさんとはわけが違います。

広い、…二百台くらいは裕に置けそうな駐車場にすでに4分の1ほど車が停められ、山門からはすでに人がはみ出さんばかりに並んでいます。

まだ、開始時間より20分以上前なのですが。


…甘かった。


産泰神社さん、大変社内地は広いのですが境内はさほど広くはありません。
五月の薪能及び幣殿の天井画の特別観覧の折には境内が人、人、人で、それこそ山門に入れない方の列が石段を超え、駐車場の方まで続いていたありました。

しかしながら、そのときはたしかに幣殿に入れることなど滅多にないことでありますのでそのせいかと思っておりました。

考えてみればあの駐車場を設けるくらいの神社さん、ということです。
社内地が広いから、などと思っていたのは。間違いでした。

No.388

昨日は夏越の大祓。
早いものでもう今年が半分過ぎてしまいました。
それを早いと感じるか、遅いと感じるか、人それぞれかと思いますが…。
それにしても生きているといろいろあるものです。

そんな半年間で穢れは人一倍の私、…決して自慢になるものではありません、神さまのお力をお借りして穢れを取り除くことができるならばと、群馬県前橋市の【産泰神社】さんの【大祓式】に参列させていただきました。

生まれて初めての大祓式です。
茅の輪をくぐるのは体験したことはありますが、大祓式への参列は初めて。
SNSで何日か前に茅の輪をお造りになる様子をアップしておられました。

そうそう、この茅の輪も茅を使わずに人工物のものを毎年飾る神社さんも見かけるようになってからだいぶ経ちます。
たしかに作るにも処分するにも一才手間がかかりませんし、楽といえば楽かもしれません。
けれど、穢れをとるといった意味ではどうなのかなぁとその人工茅の輪を見るたび思うのであります。

あの繊維が穢れを吸ってくれてひっかけてくれているのでは?

つるっつるの表面の輪っかではなんだか効き目が薄いような無いような…。

えっ?お参りすることに意義があるる?
まぁ、茅の輪の始まりは茅で作った輪飾りを腰につけるといったものであったこと、蘇民将来の一族、子孫であることを証明したものであったのだから、そういった穢れをとるような役割もそもそもがどうなのか、といった話になりそうですが。


そんなワクワクしたおばさんを乗せて走り出した車は、フロントガラスに一滴二滴と水滴があたり出したと思うまもなく、大きな雨粒がポツポツとあたり出しました。

「あれ、せっかくの夏越の大祓なのに」


そんなことを口にしながら、ふとなぜそう思ったのかを考えたところ、ここ数年、おそらくずっと晴れていた。
梅雨どきだというのにこの日に限って晴れていたような気がいたします。


あっという間に大きな雨粒が絶えずガラスに音を立ててあたるようになりました。

(雨だから来る人も少ないかしら?)

…なんとまぁなんでも都合よく考えるおばさんですこと。

No.387

昨日の早朝、ぼーっと某SNSを見ていた私の目に飛び込んできたのは三峰神社さんによるものだった。

私はSNSにあまり興味はなかったのだが、家族間の通信ツールの手段の一つとして開いた、…というより開設された、ものであった。笑。

鍵もかけており、フォロワーさんも家族の一部のみ、フォローもしかり。
あとはおすすめのみが流れてくるだけのものである。


そんなSNS、神社仏閣さんのアカウントも多い。
(三峰さんもこうした形で発信されていたのかぁ)
そう、まさに時は六月三十日、夏越の大祓の日である。

あちらはまさに山の中の一本道。
人気の神社さんであることから交通情報をお知らせしてくださっておられるのかなぁ…。

ちがった。
いや、正確にはまさにその交通情報そのものだ。

違っていたのはその日三峰神社さんが閉鎖されるという内容が添えられていたこと。


そう、先ほども書かせていただいたのだが、こちらは山道を走る一本道を走るしかない。
それゆえ、人気の御守が話題になった時には驚くべき渋滞が発生し、その御守の授与が中止されてしまったくらいであった。

なんでもその一本道のダムを越えた先にあるトンネル付近で倒木があり、電線を巻き込んだので電信柱まで倒れたようです。
前日はなんでもなかったようで、夜中に起こったようだとの事、職員さんや参拝の方はすでにその道を進んでいてのことだったようです。

倒木撤去作業に伴う通行止で、職員も出社できていない状況でもあり、

『御参拝頂く皆様の安全等を考慮し、終日神社を閉めさせいただきます
参拝を予定されていた皆様には誠に申し訳ありませんが、何卒ご理解頂きますようお願い申し上げます』


といった内容であった。

昨日のうちに撤去作業を終え、本日は通常通りに参拝ができるとのご報告もあった。


大祓式自体は神社におられた神職の方により執り行われたことでありましょうが、よりによってこの日?と思わずにはいられなかった、おばさんでありました。




No.386

茅の輪くぐりのくぐり方。

さあ、あとはカンペを作らなくては 笑。

No.385

明日は六月三十日。
はや一年の半分が過ぎようとしております。

一年の折返しにあたる六月三十日に
神社で行われる行事に【夏越の大祓】があります。
正確に言えば『大祓式』でありますが、これは神職の方が行われる行事。

一般には、人形(ひとがた)で身体をなでて息を吹きかけたり、あるいは茅の輪をくぐったりし、『半年間の罪穢れを祓い、災厄を防ぐ』、といったものです。

六月に入ると神社さんではこの茅の輪を作って茅の輪くぐりの場を設けます。
…すべての神社さんではありません。
現に私のよく参拝させていただいている神社さんではこの茅の輪はありませんし、人形(ひとがた)の祓もありません。

穢れ多き私としてはこれが不安で、茅の輪を求めて神社さんを探して彷徨ったこともあります。


すでに設置されたものをくぐって良いところもあれば、この六月三十日の大祓式後に茅の輪くぐりを解禁されるところもあるようです。


この茅の輪くぐり、作法があり、唱えことばもあります。
大抵の神社さんではこの作法並びに唱えことばを書いておいてくださるのですが、中にはそうでない神社さんもあります。
そうするとまぁ、このおばさんは茅の輪を見つけたら見つけたで、オロオロし、ドキドキするのです。


それなので、今から予習(…復習?)をしておかなくてはなりません 笑。


この茅の輪くぐり、左・右・左と茅の輪を三回くぐる所作を行い、その後正面に向かいます。

その際、次の三つの唱え詞(となえことば)を唱えながら
くぐるとよいと云われています。
 
 ①左廻り
【水無月の 夏越の祓する人は 千歳の命 延ぶと云うなり】

(みなづきの なごしのはらえするひとは ちとせのいのち のぶというなり)

 
 ②右廻り
【思ふこと みな尽きねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな】

(おもうこと みなつきねとて あさのはを きりにきりても はらいつるかな)

 
 ③左廻り
【蘇民将来 蘇民将来】

(そみんしょうらい そみんしょうらい)


…左、右、左。

みなづきの、…


うーん。


所作を確実に覚えて、…カンペを用意しよう。

No.384

「アクスタ? アクスタって、何?」

夫にそう聞かれたのは今月のはじめ。
現物を目の前にして聞かれたので彼はほんとに知らなかったのだ。

もう四、五年前からわが家のダイニングにある食器棚には私が息子からもらったアクスタが飾られているというのに。


そんなアクスタ。

な、なんと!
あの空也上人のアクリルスタンドが発売されたという。
しかも、あの六波羅蜜寺で、だ。


御仏像のアクスタをすら見たことがあるのだから、こんなにびっくりすることもないと、自分でも思うのだが、それは東博の特別展のようなところであったから、さもありなんと思ったものだ。

が。

…今回はお寺さんが、だ。


たしかにお寺さんも拝観者のニーズに応えて、さまざまなグッズを考案して、販売しているところは多くなっている。

もはやグッズと呼ばせていただく。
そしておわかちとかも言わない、販売と言う。



アクスタならあの、お念仏を唱える上人の口から六体の阿弥陀仏があらわれた様子など、一瞬で表せるであろう。


ところで。

私が仏教を怖いと思ったのが他ならぬ教科書にあった空也上人立像の写真であったのは以前珍道中録に書いた。

痩せこけた、それはそれはリアルなお坊さんが、虚ろな目をして、足をずるように歩きながら口から何かを出しているさまは(教科書なので掲載された写真が小さく、口から出ているのが仏さまには到底見えない)、エクトプラズムを思わせたのだ。

正直今見ても怖い。


子どもたちに伝えておいた方がいいだろうか。
「もし万が一、六波羅蜜寺に行くことがあっても、間違っても空也上人のグッズは買ってこないで欲しい。不敬なことは百も承知だが、私はあの空也上人の像が今でも怖いのだ」
と。

いや言わずともそもそもが不敬にあたりそうな一連のグッズは買って来まい。


こんな事を書いて、今夜空也上人像の夢でもみたらどうしよう。

ああ、今からそわそわする。

No.383

今観ていたテレビで、心にささる言葉を聞いた。

「これから生まれる人が核兵器という言葉を知らない世の中になりますように」


小学生の子がインタビューに応えての言葉だ。


世界中にこの言葉が、祈りが、広まって、そんな世の中となりますように。

No.382

少し冷え込んできた明け方。
足先が冷たい。
半袖ハーフパンツの格好はちょっと早かったか?

そんなことをぼーっと思っていると。


四時四十二分、仔猫の声がする。


わが家の敷地のなかに違いない。

少し大きくはなっている、…目も開かないほど小さな子ではない、と思われる、声だ。

何か助けを求めているような…。
断続的に鳴いている。

おばさんはパジャマではないものの、半袖ハーフパンツといったいでたちのまま外へ出る。
(娘にバレたらお小言な案件だ)


声のする方へと近づいていく。
…わからない。

よく近所の猫が休んでいる生垣の隙間?
…いない。

ん?
もっと建物のそばからだ!
声をかけると反応する。

ダストシュートのケース下、髪の毛が地面に着くくらい覗いて見ても見えないので、スマホを取りに行き、撮影してみる。
…いない。

えええっ、ここの隙間〜っ?
ゴミを収納しておくプラスチックの大型ケースの裏、辺りだ。

隙間なんてほとんどないはず。

でもそこから確実に声がする。


大型ケースをどかす。
…いないんですが?

声はする。

まさかの軒下?
いや、あの隙間は入れない。
鉄格子がある。

一枚厚手の板が置いてある。
隙間などない。
恐る恐るどかしてみると、…いた!

目を合わせて鳴いた。

動けなくなっている?
昨夜突然降り出した雨、雨宿りをして動けなくなった?

いやきっと寒いんだ。

身を縮めているだけだ。


救出だ!


夫を起こす。
ダンボールにありったけのフリースを突っ込んで、タオルを2枚用意して。
軍手をつけて声をかける。

見上げた♡

可愛〜い♡♡♡

くりっくりの目でわたしを見上げる。


だが。

物をどかしていかれ、怖さも大きかったようだ。

逃げる体勢だ。

動けるかい?
うんうん、晴れたからそこから抜け出せるならいいんだよ。
なんにも怖いことはしないよ。
お腹空いてるでしょ?
おうち、あるでしょう?


話しかけながら近づいていく。


お、逃げる。


逃げた。


…ま、淋しいけどね。
おばちゃんは君がそこから出られないで困っていた状況から抜け出せればそれで良いんだ。


…淋しいけどね。



No.381

今日から〝七十二候〟第二十九候の【菖蒲華(あやめ はなさく)】。


私はアヤメ、
カキツバタ、
ハナショウブ、
の違いを見分けることができません。
もはや諦めの境地 笑。


菖蒲(アヤメ)は五月に咲き、
杜若(カキツバタ) は五~六月、
花菖蒲(ハナショウブ)がいまの時 季六~七月に咲く、
などとも言われるようですが、この温暖化、いつなんどきこれがズレるかわかりません。

そもそもショウブって五月の端午の節句に飾るのではなかったっけ?などと思ったり…、まぁ旧暦とすればショウブの咲く頃でよさそうです。

ということから、『あやめはなさく』というのも、旧暦ですので、まさに今、ということなのでしょう。


芸術の世界でも、尾形光琳の国宝【燕子花(カキツバタ)図屏風】や、ゴッホの【アイリス】など、多くの巨匠たちの心を動かし、描かれてきた花たち。

今年こそ覚えてみる努力をしてみましょうかねぇ。

まぁ昔から「いずれアヤメかカキツバタ」という言葉があるくらいです。
アヤメとカキツバタそしてハナショウブは大変よく似ております。

得意ぶって間違っていたらと思うと、いっそ知らない方がいい、と思ってきたところもあります。

夫は一生懸命調べて、この見分け方を覚えたようなのですが、なにせその正解を確認する相手が私では、正解はわからないまま、ですよね。

夫の調べた見分け方は…。

一つ目のポイントは【花弁の根元部分】。
アヤメは網目模様、
カキツバタは白い筋、
ハナショウブには黄色い筋
が入っているといいます。

二つ目は【生えている場所】。
アヤメは乾燥したところを好みますが、
カキツバタは水の中に生えています。
ハナショウブはちょうど中間で、半乾湿地でよく見かけます。


…ハナショウブよ、中間はやめておくれ、とちょっと思ったおばさんが一人。
そんなおばさん、今年こそ覚えられるでありましょうか。


ところで。

実はあの端午の節句の菖蒲は、今ここに上がっているよく似た花の三姉妹とは、似ても似つかぬ別物なのだそうで。

そもそもが『菖蒲』と書いて、端午の節句では〝ショウブ〟と読んでおりますが、この七十二候では〝アヤメ〟、です。

どうやら同じ字を使うのは間違いなさそうです。

しかし別物なのもたしか。

葉はそっくりなのですが、花がまるで違うのだそう。



  

No.380

調べて参りました。

群馬県みどり市の〝トモアレド薬師如来〟さまと(笑)、三澤不動堂について。

みどり市となる前の勢多郡東村の村誌を探しだしまして。
結論から言いますと、結局〝三澤不動尊〟さんについては資料が一切掲載されていなかった、ということ。

もはやこれは足を使い、口と耳を使って調べるしかなさそうです。


しかしながら〝トアレドモ薬師如来〟についてはいろいろ学ぶことがありました。

石碑にされているこのト…(いい加減にしないとバチが当たりそうです)沢入の薬師如来さま。
石碑には書かれていない文言があること。

やはり副住職さまの見立てどおりこのお薬師さまには手首から先がないということ。
…すごくないですか?
一瞬で見抜いたのですよ?

はだかの王様の物語ではないけれど、心のほにゃららな者は見えるような気がしてしまい、心のきれいな方にはそのままに見える。

ええ、私、心のほにゃららな者にございます。

八角の框座(かまちざ)、蓮弁の形状が中世の手法だといい、膝前で寄木されているとか。
肩のあたりには衣紋が残っているということで、それは宋風の名残のあるものだということです。

全体的に見て、室町後期の特色をよく示しているといいます。


で。

また、ですね、また、わけのわからない言語が出てきたのですよ。
それは宝暦九(1759)年に書かれた銘文の完コピに、なのですが、

『コヒツミエカ子(=ネ)テクム』


…なんですかねこれ?

『こいつ、見栄かネズミ 手組む』

…じゃあないでしょうね、もちろん。

謎のカタカナ表記が多すぎです。
(『トアレドモ』は謎は解けました、が)

『恋、罪えかネズミ 手組む』…うーん違うな。


また副住職さまにお聞きしてみましょうかね。

No.379

今日は義母の百箇日。

新たなる祭祀承継者となった義兄は昨今の社会的な法事の情勢もあり、早々に義母の百箇日法要は執り行わないこと決めましたので、個々で義母を偲ぶ日、となっております。

そんなわけで夫は今朝早くから起き出し、いつもはしない仏壇もどきの花の水を替え、お茶や水をお供えし、手を合わせておりました。


直近の土日は当人が入院していたこともあり、お墓参りには行けず、それが彼にできる最大限の百箇日、であったかと思います。


ところで。


この百箇日。
四十九日までの法要は仏教に由来する仏事でしたが、百箇日は中国の教えである儒教に由来すると考えられています。

儒教では
『士は百日にして哭することをやむ」(ひとかどの人物は、百日で区切りをつけて泣き止める)』
という教えがあり、それゆえ百箇日は別名で「卒哭忌(そつこくき)」とも呼ばれると、義父の百箇日法要のとき、菩提寺の和尚さんがおっしゃっておられました。

ただ。
故人が亡くなり百日が経過したといっても、残された方が悲しみと決別できるかどうかは別問題で。
むしろ日を追って悲しみが増す頃であったりするかもしれません。

事実、臨床心理学の世界では家族の死後3ヶ月が経った頃から、急激に鬱を発症するケースが多いという報告があるのだといいます。

これは人が亡くなられたあとのあれこれの書類などの整理などが一段落し、疲れとともに喪失感が打ち寄せてくることが大きな原因でありましょう。


…ええ、どうも夫があやしいのです。

目が虚な時もあります。
人の話を聞いてもまるで覚えていないことが多々あったり…。
…これはこれで認知症を疑って、どっちなんだと、まぁどちらにしても困ったことなのは変わらないのですが…。

…いや、鬱は治せることがあっても認知症となるとなかなか…。

そうそう大切な人を失った喪失感から鬱を患い、それから認知症を発症するパターンもあります。


うーん。


私がボケてる人間だから、頭の良い彼と結婚したはずなのに、それは話がちがうだろ、と心の中でつぶやく私。

こればっかりは早いもん勝ちとか無しにしてね。

早いもん勝ちなら、もうとうに私の方が…。

No.378

本日六月二十一日は【夏至】。

私の住む群馬県はこんな日に梅雨入りし、入った途端であるというのに梅雨寒の、涼しいよりも寒い日となりました。

天文学的には、『太陽黄経が90度になる日』
を『夏至』と定義されていますが、この夏至の日、毎年多少変動します。

一方で、暦の上では、2024年は六月二十一〜七月五日が夏至の期間となります。
これは次の二十四節気の『小暑』の前日まで、であります。

天文学的な夏至の定義とは異なり、二十四節気の夏至は期間があり、夏至の日一日だけを示すものではないのです。

天文学での夏至とは、北半球において一年で太陽の位置が最も高くなるため、昼の時間が最も長く・夜の時間が最も短くなる日のことです。

夏至には『日長きこと至る(きわまる)』という意味があるといい、まさにその通り、なのでありますね。


そんな夏至を祝うお祭があるといいます。

三重県伊勢市に鎮座される【二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ】さんの、その名も『夏至祭』というものがあるといいます。

『伊勢神宮』に祀られる天照大御神さまを讃える行事であり、
夏至の日に二見浦で『夫婦岩』の間から昇る朝日を浴びながら禊を行います。

夏至の前日に『鎮魂行法』、
当日には『夏至祭禊』が行われ、太陽を拝み、日光を浴びて体を清めるのだといいます。


夏至は日本だけが夏至なわけではありません。

北半球において一年で太陽の位置が最も高くなるため、昼の時間が最も長く・夜の時間が最も短くなる日のことですが、北極圏に近くなると、ほぼ一日中太陽が沈まない『白夜』となります。

そのため、北欧諸国では、とりわけこの夏至祭りが盛んにおこなわれているといいます。

たとえば。
イギリスの古代巨石遺跡【ストーンヘンジ】で祝われる夏至祭が有名です。

新石器時代に建てられたとされるこの謎多き巨石群は、古代ケルト人が信仰していたドルイド教の聖地です。

このストーンヘンジ、1年で最も昼が長い夏至の日になると、入り口にあたるヒール・ストーンから太陽が昇り、日光が中央に向かってまっすぐ差し込むよう設計されており、古代から太陽信仰と関わりがあると考えられています。

通常は遺跡に近づくことはできませんが、夏至の日だけは特別に石の間を歩くことが許されるのだといいます。


ああ、
どこでもドアがあればなぁ…


No.377

私は占いをあまり心に留めるタイプではない。

テレビで毎日星占いを流しているが、子どもの運勢が良いと良かったと思い、悪いと良い一日であることを願うくらい。
ランキングとかあってもまるで気に留めない。

一方夫はというと、このランキングが気になるようだ。
彼はいたって合理的な考え方をするタイプなため、占いなど全く信じていない。
それは発言にもよくでている。
あくまでもこの星座のランキングが気になるようで、しかも夫の星座と私の星座のランキングしか気に留めない。

そこは大変幼稚だと思う。
もちろん口に出したことはないが。

彼曰く自分が良いと私が悪い。
相性も悪い星座同士だから、ということらしい。


相性などそれこそ占い、どころでなく、自分たちが一番体感して実感しているところだし、むしろどちらかが悪くとも片方の運勢が良いのなら、補えて良いのではないかと思う。

星座による性格もあるらしいが、この占いにあるような素晴らしい性格でない私は、やはり占いは『当たるも八卦当たらぬも八卦』だと思うのだ。

きっと同じ星座の方の中にはこの占い通りの方も多くおられることであろうと思うし、そんなところまでアウトサイダーな自分に苦笑してしまう。


そんな私ども夫婦。

まさにその八卦?九星占いでも相性が最悪らしい。

しかも大凶だというのだ。



…これは当たりかもしれない。

少なくともこの二人の相性は二つの異なる占いで最悪らしい。

ここでは鼻で笑う私。


しかしながら驚くべきことに、その〝大凶〟とされる相性に、子どもがよりにもよって二人入っていることに気づいたのだ。

それを見て、ごめんなさいと心の中で詫びる自分がいた。

夫婦の相性など、間違いなら正せるが、親子といったらそれは子らは選びようがなかったのだから。


当たっていて欲しくない占いをみると、自分は、まさに先ほどの〝当たるも八卦当たらぬも八卦〟という言葉に縋るのだ。


これは古今東西の占い師さんにまこと失礼なことだ。

ん?

でも占い師さん自身がその言葉を口にされることがあるくらいだから、…良いのか?


そう…。

だから私はあまり占いに目を向けない。

怖がりなこともあるかもしれないし、覚えきれないのも大きい。

要はおバカ、ただその一言に尽きるのだ。

No.376

(続き)

ただ。
このようなネット社会、簡単に御真言を知ることは可能です。
…なにせこの毘沙門天王功徳経ですら、ネットて全文を見ることができ、現代語訳も知ることができるのですから。

もしこれに関心をお持ちになられた方がおられ、百八回唱えたいと思われましたならば、毘沙門天さまの御真言をどうぞお調べください。


…おばさん、変なこだわりがあるんです。
それは修行もしていない者であるのみならず、仏教についてもまるで初心者、赤子のような存在であることをいやというほど自覚しておりますことと、神仏に対して失礼があることを畏れる、…怖れるから、であります。

No.375

(続き)

『……

…たとえ死ぬという苦しみは受けたとしても貧乏の苦しみは受けてはならない
皆が苦しんでいる原因は貧乏であることだ。


福徳を得るためには丑寅に向かって名号(みょうごう)を 一百八遍(いっぴゃくはっぺん)称(しょう)すれば、
大いなる福徳を得ることが出来る。


智慧を得るためには東方に向かって名号を百八遍唱えれば大いなる智慧を得ることが出来る。


名誉、地位を得るためには辰巳に向かって名号を百八遍唱えれば名誉、地位を得ることが出来る。


良き妻子を得るためには南方に向かって名号を百八遍唱えれば良き妻子を得ることが出来る。

(…ん?だいぶ庶民的な願い事が含まれているではなくて?)


長生きを得るためには未申に向かってを名号を百八遍唱えれば長生きを得ることが出来る。


家族や親族、部下の信頼を得るためには西方に向かってを名号を百八遍唱えれば家族や親族、部下の信頼を得ることが出来る。

(おおっ、これはこれは…。
なんかもはや人が願うであろうことを知っていてそう明言してくださっておられる気がいたします)


人に好かれる徳を得るためには戌亥に向かって名号を百八遍唱えれば人に好かれる徳を得ることが出来る。


いろんな願い事に関しては北方に向かってを名号を百八遍唱えればどんな事でも悉く叶うものである。

(…。えっ?! 〝いろんな〟?〝悉く〟?)

経の言葉ではこう綴られています。

『悉地(しつじ)を得(ん)と欲する者は 北方に向(かい)て 名号を 一百八遍称すれば 皆悉成就(みなことごとくじょうじゅ)す』

…… (後略)』


…じゃあお坊さんたちが言っていたのは間違いなくお経にあることなのではないですか!
『皆悉成就す』、ですからね。


あ、名号というのは毘沙門天さまの御真言であるようです。


この『毘沙門天王功徳経』にはきちんとこの名号=御真言であろうことも、御真言はどういったものかも、ちゃんと記されておるのです。

ですが、私のポリシーに、修行もしていない者がむやみに、ましてやネット上に、御真言を書いてはいけないというものがありまして。


(続く)





No.374

(続き)

このお経には見せ場まであります。

それは。

『……。

お釈迦さまが阿難の質問に答えられたのち、毘沙門天さまの御真言をお唱えになられます。

その直後。
大地が震動して毘沙門天王さまが現れたです。

大きな蓮華座の上に座って阿難に向かっておっしゃったことは、

「私はここから北に向かって七万八千里離れた所に入り口があり、そこに【普光】と言う城があり、それは【吠室羅摩那郭(ベイシラマヤカク)大城】と言われるが、
そこでは途方もない程の福が溢れ出ているので、私は毎日日に三回この福を焼いている。

もしこの福が必要ならば、五戒を保って三つの帰依をし、悟りを願い求めれば毘沙門天の福を得ることが出来る。』

と。

そうそう、お坊さまたちが毘沙門天さまの功徳を語られるとき、必ずそうおっしゃる!

(日に三度、かあぁ…)
初めて聞いたとき、これは凄い神さまだわ、と思ったものです。

が。

お経は続きます。



『 …しかしながら次の五つの願い事に限る。

それは

・親孝行のためであること
・功徳となる行いであること
・国や環境が豊かになるため
・全ての民衆のためであること
・この上ない悟りのためであること

この五種類の願い事以外の福は得ることが出来ない 』


…えっ?
ええっ?

ちょっと待ってください?

それ。
初耳、なんですけれど?

どのお坊さんも、異口同音ではありますが
『毘沙門天さまと縁を結ぶことができた者は、あふれるほどの福をお分けいただける」

とおっしゃっておられましたが?

なんだか上手に良いとこ取りをされたような…。


でもこのお経にある事の方が、さすが毘沙門天さまのお教えだなぁと思うし、なるほど、と思えます。

この方がむしろ素直に受け入れられます。





No.373

【毘沙門天王功徳経】

煩悩、物欲の塊はとうとうこの経本を購入…してはいないのです。

購入はしてはいないのですが、今な世の中、大変便利になりましたので、ネットで簡単に拝することができるのです。
いや、本当にありがたい。

大岩山毘沙門天堂さんで、手にとって読ませていただいた時の感動がよみがえりました。

このお経、…毘沙門堂にあった経本にしても、文語体、なのです。
僧侶の方がお唱えになるときはあるいはそうではない、漢文?でお唱えになられているやもしれません。

…とすると、お護摩修行であるいはお唱えになられているかもしれません。
まぁその辺はちょっとお聞きしづらいこと、なのでそこは置いておいて。

この毘沙門天王功徳経、阿南という弟子が、お釈迦さまに毘沙門天さまについて尋ねたことを聴いていた人物が書き残した、…もののように書かれています。

…お釈迦さまは身罷られる前から毘沙門天さまをご存知だったのか…などと、初っ端に思うところがもうどうしょうもない愚者でございます。
まぁその辺はもはやみなさまの知るところでありますが、ね。


そこにはあの足で踏んでいる邪鬼の名までが記されているのです。

…お経って、こんな事を申し上げたら大変大変不敬でございますが、大変面白い物語であったりもするのです。

このお経を読めば、毘沙門天さまがわかる、そんな、物語のようでありました。


私もう、スマホからこの毘沙門天王功徳経を書き写したほどであります。
お経は著作権侵害にはなりませんし、ね。
まずは日記帳に書き写した、そこでとまってい?のですがね。

書き写すとなると結構長いのです。


いや〜しかしながら、本当におもしろい。
おもしろいなどと申しましたら、毘沙門天さまに叱られ二体の邪鬼とともに踏みつけられそうな気すらいたしますが。
でも興味深いとかいう表現ではなくて、ワクワクドキドキするのです。


草むしりやら植木の剪定やら、断捨離しつつ、日々のお掃除をし、経本を書き写したり、石仏さまの歴史を調べたり、お訪ね申し上げたり。
仏像もどきを彫ったり、新しい料理にチャレンジしたり。

働きながら子育てしていた頃には想像すらできなかった日々を送っております。


ワンオペ、つらかったなぁ。
仕事、お局が多くてしんどかったなぁ。

あの頃の私に教えてあげたい。

日々は穏やかになるよ

No.372

呟き。

会心の出来、と思っていたのはたしかに、たしかに私の奢りでありましたでしょう。

…ええ、仏像彫刻教室でのことです。
思っていた以上に引きずっていて、とても気持ちがどんよりしているのです。

私は自画自賛ながら、自分の彫ったお不動さまのお顔がとてもとても良い表情に思えていて、この教室に行くまでの日々、毎日このお不動さまの顔を見ては癒され、掌できゅっと握っては自分の中の力を湧き起こしていたのです。

そのお不動さま…とお呼びするのも本当はそれだけで不敬な気もいたしますが…のお顔を小刀でシャッシャっと先生が削ぎ落とされるのを目の前で見ていて、呆然、としたといいますか、目を丸くしたといいますか。
そしてその作業を見守りながら、どんどん自分の心が削ぎ落とされたかのような、小さな、だけれど本当に痛みまで感じるようになっていったのです。


見ればたしかに先生がいつもお彫りになられる不動明王のお顔です。

でも今回の私の作品、それこそさながら本当の仏像のように(…いやこれも仏像なのだが)すべすべの幼子のような肌をイメージして、本当にすべすべに仕上げていた(つもりな)のです。

ところが。
今回直してくださったお顔は、先生にしては珍しく、肌がガチガチ、がたがたなのです。

その肌を見るにつけまた哀しみがふつふつと湧く私で…。


ご指導はご指導、真摯に受け止めなければ上達はありません。

何かがいけなくて、だから直された。

しかもそれは肌の質感とかではない、お顔立ちのどこかに難があってのこと、ということであったのでしょう。

たしかに私の彫るお不動さまは、先生のお作りになられるお不動さまと違って口が大きいのです。
でもそれは私はお不動さまのお口元の表現として私なりのこだわりでもあったのです。


みなさん、作風があって、当然お顔立ちはみなさん異なっていて、それでいいのかと思うようになっていた私の、それが奢りであったのはたしかだったでしょう。

まだ私は先生の模倣をして出来うる限り先生の作品に近く作ることを要求されている段階なのかもしれません。


はぁぁぁ。

…そう、あのイチイの木で彫ったものでありました。
イチイの木目もいかし、木肌も活かした、自分の作品ではありますが、大好きなものであったのです。


はぁぁぁ…。

立ち直れ、私。


…少し封印しておこう。


No.371

【毘沙門天】さま

本日は『寅の日』。
金運に縁がある日と言われ、また七福神の一柱でもある『毘沙門天』さまの御縁日でもあります。

寅の日が毘沙門天の御縁日とされているのは、先日大岩山毘沙門天について書いた通り、
その昔、聖徳太子さまが、毘沙門天さまを祈られたところ
【寅年の寅の日の寅の刻】に毘沙門天さまが現れいでた、との言い伝えがあり、以来寅の日は、毘沙門天の縁日とされるようになった、といういい伝えによるものであります。


【毘沙門天】さまは、
四天王・
七福神・
八方天・
十二天・
十六善神の一体で。
〈四天王〉としては【多聞天】と称し、
〈単独尊〉としては【毘沙門天』とお呼び申し上げます。

またさらに大般若経を守護する
〈十六善神〉としては【吠室羅摩拏善神 (べいしらまだぜんしん)】とも称します。

『須弥山』中腹の『水精埵の天敬城』、
または『北方倶廬州』に住まわれ、夜叉や羅刹を眷属とする北方守護の【天部】、となります。

毘沙門天の前身はインドの財宝の神、【クベーラ】が由来と考えられていて、
『クベーラ』は財宝を分け与える意味から『施財天(せざいてん)』とも呼び、財宝を司る福の神とされています。
こうしたところは毘沙門天さまに受け継がれてありますね。

【毘沙門天(多聞天)】さまは左手に、仏さまの教えや智恵が納められた『宝塔』を、
右手に、意の如く財宝や食べ物、衣服などを生み出す
『如意宝棒』または『三又の槍(三戟)』を持つ姿があります。

槍を持つ毘沙門天さまは、魔除け、厄除け、勝負運を司り、
如意宝棒を持つ毘沙門天は、開運招福、金運など福徳を司るとの言い伝えがあります。

足下の邪鬼は『藍婆(らんば)』・『毘藍婆(びらんば)』。
【天邪鬼(あまのじゃく)』とも呼ばれます。
(※一説には尼藍婆・毘藍婆とも)

災いなどを引き起こす邪鬼を鎮める力があることを示しています。


この毘沙門天さま。
【毘沙門天王功徳経】なるお経が存在し、大岩山毘沙門天堂に行くと、この経本を買おうか、それともやめておこうか、毎回毎回悩むのであります。

ええ、煩悩の塊ですから。

ですが、この護摩修行でこのお経をお唱えにならないので、毎回そこが抑止力となってくれています。

No.370

(続き)

昨日、みどり市の図書館に行ってみどり市東町、かつての東村の旧村誌を探してみたのですが見当たらず。
エックスキューズミーおばさんですので、当然のことながら職員の方にも伺ったのですが、案内されたのは伊勢崎市の佐波東の村誌のあるコーナー。
これは違う…とは言えないおばさん。自力でもう一度探してみましたが、何故か見当たらない。

うーん。

みどり市はみどり市でも大間々の図書館に行ったのが間違いだったのかもしれません。
合併前の近隣のの村の村誌、置いてありそうではありそうにも思えますが、その村誌の作られた年代にもよるかもしれません。

近隣に配ることをおこがましく思うような控えめな村であったかもしれませんし、村誌などさほど部数を多く印刷するものではないのかもしれません。

これは東村…みどり市東町の図書館に行くしか無いかもしれない。


うーん。


うーん、むしろ桐生市立図書館にあるかもしれない。
閉架のとこのは面倒なんだよなぁ。

…おや?
これって…。
かつて学生時代、カッコつけて図書館で勉強(してるフリ)をしていた時、見かけた年配の方の、素敵だなぁと思って憧れた日常の過ごし方、そのものではない?

あらっ?


もしかして私、かつて憧れたライフを着実に歩み出しているってこと?



うーん♡



あ、夫、先日無事退院しました。
大変お騒がせをいたしました。


私は入院していた時使用未使用に関わらず病院に持ち込んだ荷物で洗えるものは全て洗い、洗えないものは一つ一つ全てアルコール消毒をし、干して乾いた物から片付けて片付けて。

夫はそれに目もくれず、ネットで漫画を読み、入院して始めたというブログを書き過ごしておりました。


きーっ!
と思う気持ちは封印して。
良き妻、良き妻!


そんな良き妻に夫は追い討ちをかけるように
「ブログ、これで良いかな?見てみて?」


はっ?

それって、…シークレットじゃないんだ?
妻も共有するものなんだ?


「…いや、好きに書いて楽しんでください」


No.369

【三澤不動堂】

こちらは沢入駅からの帰りに通った道沿いに、偶然見つけた御堂です。

「あ〜不動堂がある。行きたい。どこかで停めて」
なんと迷惑で自己中心なおばさんでしょう!

…しかしながら今日の運転手は哀しいことにこのおばさんのこういうところに慣れている、慣れさせられて生きてきた息子。
停めてと言われる前に停められるところを考えております。
なんなら小さな御堂を見かけただけでも、
「ここ、寄りたい?」
と声をかけてくれるくらいですし、ともすると言わずともすでに駐停車する場所を考えていて停めてくれるくらいです。

夫はそんな空気など一切読まない。
まぁそれが当たり前と言えば、運転中ですので、当たり前。

それどころか通りかかるかなり前に言っても、面倒だと
「そんな急に言われても無理だよ。諦めて」。


…これが自分が拝したいと思ったところだと、何度もUターンして停められる場所を考えなんとか停めるんですけれど、ね。

私だって運転する人間。そこが全く停められなそうな所なら言い出しもしないんで、停められると思うから言うんですが…。


…おや、愚痴になってきたぞ。


そんなわけで停車してもらえた私は、なるべく手短にと、…走る。
以前のようなスプリンターのような走りは(それは前世のこと?)すっかりどこかへ消えて、ドタドタと走って、たどり着いた御堂こそが、この三澤不動尊さまでありました。

規模は下手をすると先ほどの沢入薬師如来さまと同じくらいかそれ以上。

ですがこちらは案内板等もない道端の御堂。
いわれもわからなければ何一つわからない。

成田山の先達の方の揮毛された扁額が掲げられています。
おばさんの得意技で中を覗かせていただきます。

…尊像は…見えない。
どんなに目をこらそうと、見えない。

どうやら瑟瑟座と呼ばれる不動明王安置される台座、…五寶の一つである珠を切り出して重ねて造った台座の周りにさらなる演出の為された木造の像なようで、その演出物(…おそらくは)、おそらくはぼうぼうの草、の部分かあるような…?

尊像の安置された場所を見るに、それしか見えないのでありました。

垂れ幕に『沢入宿講中一同』とあります。
御堂はおそらくは昭和初めから遅くても四十年代前半のもの。
外陣と内陣があって、建物も二つの屋根を葺いてあります。



No.368

今日は仏像彫刻教室。

プレバトという番組で、合格点を得られなかった俳句作品がシュレッダーをかけられる、というのがありますが、私の仏像もまさにシュレッダー状態 泣。

今までで一番良くできたと、意気揚々と持参した作品を先生は無情にも顔を削ぎ落としてやり直し。
作品も、ですが、私の心もシュレッダーにかけられたような、…まさにそんな気分でありました。

そんな傷心の私、それでも先生にくだんの〝トモアレド薬師如来〟の写真を見ていただき、印相を伺ってまいりました。

「わからないねえ」
…ですよね。
「(印相ならば)それこそ和尚さんに聞いた方がいい、今すぐ聞いて」

はぁ。

ということで副住職さまに。
「これはなんの?なんという仏さまです?」

私「それが『釈迦トアレドモ薬師如来』というのです。いやいや薬師如来さまとしてお祀りされているんですがね」

「これ、右手、無いですよね」

えっ⁈

「手首から先、無いでしょ?」

「えっ?施無畏印とかにしては指が曲がってるかなぁとは思ったんですが、指ではなくて、…無い?」
「無い、ですね」

衝撃〜っ!

手…無いそうです。

左手にも特に何かを持っているようには見えないと。


……。

「仏さまの像って、最初は〇〇さまで造られていたのだけど、途中から手を変えたり物を持たせたりとかして、違う仏さまに変えることって結構あるんですよ」


はあ。


……。

〝トアレドモ〟だけではなくて、無いものまであるように見ていたなんて…。


珍道中中でもトップクラスの珍事です。いやいやいやいや…。


仏像、奥が深いなぁ。

造るのも。
見るのも。



No.367

(続き)

…それにしても。
〝釈迦トアレドモ薬師如来〟

どうしてそのようなことが起きたのか?

お釈迦さまを依頼したけれども、後年調べたらお薬師さまであった?
奉造立は『釈迦牟尼佛』さま、となっていますから。

依頼された石工がなんらかの理由で間違えてお薬師さまを彫ってしまった?
そもそもの御像をよくよ〜く見てみますが…

いかんせん御堂の中、よくは見えないのです。
ただお薬師さまのお手の形が薬壺を両の御手でお持ちになる形ではなくて、右手がどうやら施無畏印であるような…そう見ればそう見えるレベルなのです。

施無畏印はすべての畏怖を除き、衆生に安心を与えることを示す印。
ただこの印はお釈迦さまも、阿弥陀如来さまもこの印相を示されることがあります。
右胸より少し低い位置で手のひらを前に向けたもの、となります。

…うーん、まじまじと見ると違うように見えます。
むしろ違う気がしてまいります。

施無畏印にしては指が曲がって表現されているような、…いないような…。

…見えないんですね、拡大してみたところで。

国宝である、福島県の勝常寺さんの薬師如来坐像の御指も少し薬指が曲がっていたような…どうだったかなぁ。

薬指ですからね、右の手の薬指、左手で薬壺、とか。

そうなんです、実は左の御手がさらによく見えず、何か丸いものをお持ちなように見えるような…。


もはやもう私の妄想の世界です 笑。


明日仏像を彫る会があるので、そこで仏師であられる先生と、お薬師かご本尊てあるお寺の副住職さまにお会いできます。
お聞きできたら聞いてみましょ。

そしてみどり市図書館で町誌や村誌で石仏の資料を見てみます。

うーん、楽しみ♡


わからなければわからないことがわかったことになります。

それでいいのだ。笑。

No.366

(続き)

そのあとこの文を現代文としたものがあり、ようやくわかったことに、

なんでも、宝暦九年当院七代目の何某が改修の折改めたところ、
『この仏像は〝釈迦トアレドモ薬師如来〟』
と仏像の台座の裏に墨で書かれていた、ということらしい。


…!

釈迦とあれども薬師如来だ!

『トアレドモ薬師如来』などではなくてね。

さっすが珍道中おばさん!

よかったぁ、息子に質問しなくて。



ちなみにこの『薬師如来』さまは檜の寄せ木造だと、やはりこの石板に書いてありました。

みどり市の文化財指定をされているとのことで、みどり市のHPをみてみたところ、

『…桧(ヒノキ)材の寄木造りで、黒漆と金箔を貼って仕上げたもので、下ふくらみのある伏せ目の表情や、頭部がイノシシの首のよう(猪首状)に下がったため大きくなった肩張りや通し肩の衣紋に宗風の名残が見え、室町時代後期の特徴が認められます。

江戸時代中期の宝暦年間の墨書により、天正8年(1580年)に制作されたと考えられており、連座の連弁と台座も同時期の制作と考えられています。』

とありました。

薬師堂は新しいもので、それこ令和になって建てられたものかもしれません。


…こうしてこの御像を守り、後世に引き継いでいこうとする地元の方々におかれましては本当にありがたいことと感謝しかありません。
この場を借りて御礼を申し上げます。

…キラキラと日の光を浴びて輝くように咲いていたユキノシタも、この薬師堂、お薬師さまをお護りしているように思えたのは、私の気のせいではないような

No.365

(続き)

沢入の向沢入薬師堂の木造薬師如来坐像は、桧(ヒノキ)材の寄木造りで、黒漆と金箔を貼って仕上げたものだといいます。

総高(蓮台含):46.5センチメートル
総高(像):21.0センチメートル
像厚:15.8センチメートル

…この目測音痴の私にしてはかなり近い値ではないですか?
でも、お身体に掛けられた数珠の珠の大きさはちょっと大きく推察している気がしております。
たまたま、なだけなのを物語っております 笑。



この尊像の案内板は大きな大きな石を切り出し、薄く切った石板に彫られています。
これを見るだけでも、この尊像を末永く後世に残そうとされた地元の方々の強い思いが感じ取れます。

その題字は『沢入薬師如来堂佛像調査』

そして続いて書かれた文言は

『干(←? この字の読み方もここに記されてある意味もよくわからないのですが…、以下わかりやすいようにもう一度干の字を書いておきます)

干宝暦九己卯年 釈迦トアレドモ薬師如来…』

…この石板の刻字をみて、
(なんだろう釈迦トアレドモ薬師如来って)
と、ドキドキワクワクしたおばさんがここにおります。

『トアレドモ』って今まだ知らなかったお薬師さまの形態とかであろうか?
『トアレドモ薬師如来』さま?

そんなワクワクドキドキをなんとか鎮めて、まずはお詣りをいたしました。
『トアレドモ』が何を示すものか、この尊像を拝しただけではわかりませんでした。

そもそも『トアレドモ薬師如来』の前に〝釈迦〟を冠しております。
お薬師さまの尊像の横に二体の御仏像が祀られてはいますが、お釈迦さまの御像には見えません。
脇侍、というわけでもないようですが、お薬師さまより下座にお釈迦さまの尊像をお祀りするとは考えにくい。
お薬師さまよりも小さなお釈迦さまの尊像を合祀することは無いことははないでしようが、その安置する位置には気をつけそうですが…?

『干宝暦九己卯年釈迦トアレドモ薬師如来
是迄百八十年也
当院七代〇〇〇〇
干天正八年庚申九月吉日
奉造立南無釈迦牟尼佛
本願蔵春庵二代芳林〇
学坊主父母之也

以上台座の裏に墨で黒く書いて有りました文です。

(中略)』


…わからない。




No.364

(続き)

生まれて初めての沢入駅。
さあ、紫陽花は?
…いくつかの株は美しい花を抱いておりましたが、全体の一割にも満たないくらい。

ただ紫陽花の木がたくさんある、ということはみとめられました。

う、うーん。
今年紫陽花の花の時が早くて、そろそろ咲いているのでは?と来てみたのでしたが…なにぶんにもこちらで紫陽花祭りを催すのは七月とのこと。
やはりこちらではそのくらいにならないと咲かないのだなぁ。

駅周辺の案内板があります。

行ってみたいと思いつつ、この眩暈を持病としては危ないところにある『寝釈迦』の像が案内に載せられています。
ここから二十キロ、とあります。
(ここからは行かんわ〜)


そこに。
『沢入薬師如来堂』と書いてあるではないですか!
ありがたいことにここ、沢入駅からわずか百メートルの距離だとか。

ああ、このお導きで今日こちらへ来たのだなぁ。

息子に
「どうしてもここに行きたいので行ってきます。ここで待っていて!」



…走る!



  (ユキノシタの花)

No.363

(続き)

沢入(そうり)薬師如来堂を知ったのは全くの偶然で。

紫陽花寺で名をあげようと努力されている同じくみどり市の『松源寺』さんの帰りに、…かなり離れてはいるのですが、第三セクター鉄道『わたらせ渓谷鉄道』の『沢入駅』が紫陽花の隠れた名所だというのを聞き、それならば良い機会だと沢入駅へと向かったのです。

沢入駅は、…心細くなるくらい遠かったです。
同じみどり市だから…と思ったのが甘かった。
考えてみれば平成の合併で一つになったみどり市、広いはずです。
そもそも私はこのわたらせ渓谷鉄道にたった二度しか乗ったことがなく、しかも一駅、子どもたちの体験のために乗ったくらいで、本格的にこちらの方まで電車で来たことなどなかったので。

調べてみたところによると、何やら長い草木トンネルというものを抜けて、鉄橋を渡るといった風情ある駅のようです。
駅の待合室やプラットホームは登録有形文化財として登録され、ドラマやCMの撮影にも使われるのだとか
(わたらせ渓谷鉄道HPより)

その小さな集落の駅構内に二千二百株の紫陽花が植えられているのだとか♡

行けども行けども駅への案内は出てこず。
道路に沿うように走っていた線路はまるで見えなくなってきました。

…まぁ、間違えようはないのです。
ここ国道122号線はこの辺りのメイン道路。ここ以外はないのですから。

テレビで紹介される自動販売機のみが置かれたお店を通り過ぎ、
うさぎとかめの曲が流れるメロディーラインを抜け。

その名も草木ダムを抜けて、富弘美術館を横目に見て。

さらにここを車で進むのはもはや足尾へ行くか、はたまた日光へと行こうかという時のみです。

…どこなんだろう。
どこまで行くとあるのだろう。

息子が
「その駅って沢入って書く?」
と声をあげました。

ええ。この日の運転手は息子でありました。
結構なカーブの続くこの国道122号線は、なんだかんだ事故も多く、なによりそのカーブの道が苦手な私はまぁ、ここまで運転したことは数えるくらいしかなくて。
成人した子どもたちて私に運転させるような命知らずはおりません。
なんなら私の車で出かけようと、運転をさせないのですから。

そう、吾知る、です。
そして子らも知る 笑。


そうそう、息子に返事をせねば!

「そう!」

No.362

本日は地元の方々の厚い信仰心で今日まで大切に守られ続けている、地図にもないような御堂を二つ、お参りしてまいりました。

群馬県みどり市東町の【沢入(そうり)薬師如来堂】さんと【三澤不動堂】さんであります。


薬師如来堂は沢入駅から左(北)へ百メートルほど行き、みぎてに見えてくる石段をのぼった高台にお祀りされていました。
石段の脇には、まるで小さな妖精たちが群れをなして光の中でクスクスと笑っているかのように、光りながら風に揺れる〝ユキノシタ〟が咲いておりました。

なんと可愛らしい♡

思わず足を止めてみとれてしまいました。
ユキノシタの花の群れはちょうど石段から途切れ、境内地に入るまで続いていました。

石段を登りきると、みぎてにはお地蔵さま、ひだりてには聖観世音菩薩さまの石造りのお像が立っておられました。
そのお美しいお顔立ちときたら、ありません。
時代等が刻されたものは見当たりませんでしたが、故意に傷つけられた跡等の一切ない美しい石像でありました。
優しいやわらかなお顔をなされています。

と、いけない、いけない、まずは御堂のご本尊さまへお詣りしなくては。

覗いてみるだけでは仄暗くてよく中の様子すらわからないので、スマホをガラスに押し当てて、カメラに切り替えて拝見させていただきます。

おおっ♡

木造の坐像です。
せいの高さは五十〜六十センチといったところでしょうか。

お顔の輪郭がぼやけてしまうくらいに経年劣化をなされてはおりましたが、衣の流れるさま等もしっかりと残った見事なお像です。
体幹に数珠まわしに使ったものなのか、直径にして五センチ弱くらいの玉のお数珠が斜め掛けにかけられていました。
袈裟懸けほどではありません。
〝レイ〟がズレているくらいの、ぽんとかけられた感じです。

向かって左隣にはお地蔵さまの立像が二体、お祀りされています。
こちらはどうやら新しそうな。


案内板もあります。

見るとご本尊さまについて何かいわれがありそうな…。




No.360

前々スレで申し上げましたが、本日六月十五日は弘法大師空海さまの御誕生日ですが、真言宗第六祖・不空三蔵のご命日でもあるのだといいます。

真言宗の僧侶が日々読誦しているという【理趣経】というお経はこの不空三蔵の漢訳なのだといいます。
不空三蔵なくして今の真言宗はないというくらいの人物であるという僧がいるくらいです。

お寺さんに縁を持たず(神社さんも…ですが)生きてきたような人物です、この不空三蔵さんという方のお名前くらいは拝したことはございましたが、まさにそのくらいでしかありません。
理趣経というお経に至っては、そういうお経があることをかろうじて知っている程度。

まあ、私、真言宗の信者、どころか仏教徒ですらなく、お経のありがたさをようやく知り始めたくらいです。
有名な観音経すら読めないような人物です。

理趣経…。

どんなお経であるのでしょう。

真言宗のお寺さんでは、ご葬儀の際にお唱えになるともいいます。

いつか、このお経に出会える時があるやもしれません。
(あるいはもうすでに聴いていたりして)





No.359

私どもの神社仏閣巡りも、最初はやみくもにあちらのお寺さん、こちらの神社さんといろいろまわらせていただいておりましたが、私は心惹かれた神社仏閣を何度も通うのが好きであることがわかってきました。
また、いついつこういった神事があるであるとか、いついつにこういった法要が営まれるとか、そういったタイミングで参拝を重ねていきたいとか。

一方夫は今もあちこち未だ行ったことのないところを参拝させていただきたい。

すれ違いも生じてきてはおります。

まぁ、私とて新たなるところに行きたくないわけではないですし、夫は夫でイベントの時に参拝してみたいとは思うようで、決裂するようなことはありませんが、一人で出かけることもでてきた、そんな感じで。


そうして。
最近御朱印の話も出てこなくなっていたかと思いますが、御朱印も今もお授けいただいております。

ただ基本的には限定御朱印とかにこだわると、本来私がたてた神さま、仏さまのもとをお訪ねすることがおろそかになりそうなので、それは極力さけていこうと。
これは当初から思っていたことでありました。
まぁ、お金もかかることですし、ね。

…でもねぇ。
私、ほら煩悩のかたまりおばさんじゃないですか。

あら?
今日は令和六年六月六日じゃない?
とか。

おお、二月二十九日だぞ、とか。

そんなきっかけで御朱印をお授けいただきに参拝に行くこともあるんですよ。

まぁ、猫好きだけれど、猫の日御朱印には行かないとか、誕生日御朱印はいらないとか、セーブはしているようですが?笑。


そう、そして。

もう一つどうしても胸がときめいてしまい、お人形のおみくじ♡
『ゆるみくじ』という言葉があるようで。
土鈴のような作りで作られた、うさぎであるとか、白狐であるとか、牛もあったり八咫烏であったりと、その神社さんやお寺さんに由来したものであることがほとんどなのですが、なかにはあの、すみっコぐらしであったり、コリラックマであったりと有名どころのキャラクターなものもあるのです。

おみくじをひいている感覚はほぼなくて、どのお顔の子が良いか、といった選び方をしておりますし、まぁ、ありていに言えば、…物欲。

えっ?
それはいいの?


…よくはないとは思うのですがね。
まぁ、あくまでもおみくじですし。

そんな珍道中はあいも変わらず続いているのです。

No.358

本日は、弘法大師空海さまのお誕生日とされる日。

真言宗のお寺さんにお詣りに行ってまいりました。
御本堂内からは般若心経をお唱えになられている声が聞こえてきます。

ただし、どなたかのご法事、法要の読経であります。

御本尊さまの薬師如来さまをお参りしたのち、弘法大師さまの行脚されるお姿の像に手を合わせてまいりました。


色とりどりの、いろいろな種類の紫陽花の花が咲いておりました。
その中に瑠璃色の紫陽花があり、これは御本尊さまであるお薬師さまを意識なされて植えられたものなのか…。

瑠璃色の紫陽花。
…良いなぁ。

しかしながら、わが家の庭はねずみの額。
これ以上紫陽花を増やすのは…やめておこう。

No.357

「葬儀って結構大変なんですよ。時間が決まってるでしょ?」


なるほど。

これはあるお寺のお坊さまとの会話から。
私がよく行かせていただくとあるお寺さんだ。
檀家さんがこちらのお寺さんのご葬儀を褒めていらしたことをお伝えしてのことだった。

「宗派によってはどうしてもこのお経は読むように言われていたりだとか、けっこう取り決めが多い中、出来うる限りご遺族に添いたいと思うとなかなか…」

…そうなんです。
こちらのお寺さん、ご葬儀のとき、亡くなられた方の今までの生い立ちから晩年までのエピソードを織り込んでお話してくださるのだというのです。
しかも、何を見るでなく、澱みなく話してくださることに感動するとその檀家さんはおっしゃっていた。

「亡くなった報告を受けてからの短い時間で遺族から話を聞いて、亡くなられた方のエピソードを織り込んだ文章を作り、暗記するのだから大変だよ。これは本当に感動するし感謝してる」

ちなみにこの方は、奥さまの突然の死去、それも車の助手席で意識をなくされ、病院に搬送されたもののそのまま帰らぬ人となられたという急すぎる別れを、寄り添うように執り行ってくださったと、大変感謝しておられた。


「最初で最後の一回きりのことですから、ね」
とお坊さま。


こちらのお寺さんは実は檀家さんからでなくとも評判が良い。
そうしたことがきっかけで私はこちらのお寺さんに初めての参拝をしたくらいだ。


なにしろ人当たりが良い。
そしていつ行っても必ずと言えるくらい、ご住職か副住職がおられる。

いつ行っても境内に草一つ生えておらず、色とりどりの花々が季節を教えてくれているのだ。


もちろん、どちらのお寺さんにしてもご葬儀となるといろいろ大変であろう。
先だっての義母の葬儀も感動したものであった。


ただ歳を重ねると、いろいろな宗教、いろいろな宗派、いろいろなお寺さんの葬儀に参列する。

この私に話をしてくださった方は八十歳だとおっしゃっていた。

その方がさまざまなお寺さんの葬儀を見、そして身内のあちこちのお寺さんとの縁を持たれて、語られた感想であったのだから、これは本当に心からなもの。
中には悪口をおっしゃっていたお寺さんもある。



詳細までは語りはしなかったものの、そうした話があったことを伝えさせていただいた。

お坊さんとて人間。
褒められれば嬉しい

No.356

(続き・錫杖経現代語訳・第八条より)


衆生とともに願う。

あらゆる所のすべての地獄、餓鬼、畜生と、
八難といわれる飢え、渇き、寒さ、暑さ、水、火、刀、兵の苦を受ける生きとしいけるものたちが、

錫杖のこえを聞くことで、
惑いと癡(疑いというおろかさ)の、二つのさとりをさまたげるものから自由になり、
百八の煩悩から解き放たれますように。
そして、さとりを得るべく修行をはじめ、もれなくさまざまな修行をし、速やかにさとりの境地に達しますように。


過去の仏たちは、錫杖を持つことですでに成仏し、
現在の仏たちは、錫杖を持つことで現に成仏し、
未来の仏たちは、錫杖を持つことでまさに成仏いたします。

ゆえに、私は敬礼をして、錫杖を持って三宝に供養いたします。
ゆえに私は敬礼をして、錫杖を持って三宝に供養いたします。

つつしみ敬って、仏法僧にご供養し帰依いたします。
顕教と密教の聖なる教えに供養いたします。
哀れに思い受け入れてください。この教えを護持する弟子たちを。



…現代語訳ですが、【大慈大悲】という言葉が何度も何度も出てきます。
現代語とは言えませんが、この『九条錫杖経』を聴くと、たしかに、ここは訳さずとも、字から何かを感じとろう、と思ったりいたします。

独特の節回しで読まれる時など、この『大慈大悲』の言葉が実に切なくて優しいのです。

【慈】 は楽を与えること、
【悲】 は苦しみを抜くこととなりるといいます。
これを別の言葉で【抜苦与楽(ばっくよらく)】と表現したりすると。

ああ、抜苦与楽。
…優しい響きを持つはずです。

御仏が生きとし生けるもの全てに対して苦しみを抜き、楽を与えること、だといいます。

それは私たち人間だけではありません。
それこそ動物や花や木、まさに生きとし生けるもの、であります。

このお経を聴いたとき、なんとも優しくて癒された心待ちになるのは、そういった深い深い慈悲に満ちあふれた内容だから、なんだ。

なるほど。

No.355

【九条錫杖経 現代語訳】

第二条『信発願条』より


清浄心をもって三宝に供養し、
清浄心をおこして三宝に供養し、
清浄心を願って三宝に供養したてまつる。

願わくば衆生とともに、
天界、人界における導師となり、
虚空のように広い願いを叶え、
苦しむ衆生を救うべし。
法があらわれている、この世のあらゆるところで三宝を供養し、
諸々の仏様に出会って、速やかに悟りを得ることができますように。


まさに願わくば衆生とともに、
眞諦 をおさめ習い、
それによってすべての生きとし生けるものの苦しみを除いて安らぎを与え、
俗諦 をおさめ習い、それによってすべての衆生の苦しみを除いて安らぎを与え、をおさめ習い、
それによってすべての衆生の苦しみを除いて安らぎを与え、
佛法と法寶と僧寶という三つの宝をもって、うやまい供養す。


まさに願わくば衆生とともに、
檀波羅蜜(布施)をもって 一切衆生を大慈大悲し、
尸羅波羅蜜(持戒)をもって 一切衆生を大慈大悲し、
羼堤波羅蜜(忍辱)をもって 一切衆生を大慈大悲し、
眦梨耶波羅蜜(精進)をもって 一切衆生を大慈大悲し、
禪那波羅蜜(禅定)をもって 一切衆生を大慈大悲し、
般若波羅蜜(智慧)をもって 一切衆生を大慈大悲すべし。


願わくば衆生とともに、
ありとあらゆるの無数の人々が、錫杖の音を聞くことで、
怠けているものは精進し、戒律を破るものは戒を守り、
信じないものは信じ、物惜しみするものは施しをし、
怒りに心定まらぬものは慈悲の心を持ち、
愚痴を言いおろかなものは仏の教えを理解し、
おごり高ぶるものはつつしみ敬い、勝手でいいかげんなものは心をおさめ、
すべての修行をし、速やかにさとりの境地に達すべし。


衆生とともに願う
あらゆる所のすべての邪魔、外道、魍魎、鬼神、毒獣、毒龍、毒蟲のたぐいが
錫杖のこえを聞くことで、毒害をとりおさめ、さとりを求める心を揺り起こし、
すべての修行をして、速やかにさとりの境地に達しますように。

No.353

(続き)

ここでいったん九条錫杖経の一条から九条まで、その副題を列挙させていただきます。
この副題、経本にはないもので、調べていてそれが書かれているものを見つけた、というものなので、私の覚え書きと思っていただいて間違いありません。

せっかくお読みくださっているのに、申し訳ありません。


第一条『平等施會条(びょうどうせえじょう)』

第二条『信発願条(しんほつがんじょう)』

第三条『六道智識条(りくどうちしきじょう)』

第四条『三諦修習条(さんていしゅうじゅうじょう)』

第五条『六道化生條(ろくどうけしょうじょう)』

第六条『捨悪持善条(しゃあくじぜんじょう)』

第七条『邪類遠離条(じゃるいおんりじょう)』

第八条 三道消滅条(さんどうしょうめつじょう)』

第九条『回向発願条(えこうほつがんじょう)』


そして。
私の購入した経本で略されていたのがこの第九条であり、だから、この後をネットで調べて手書きをしたものを経本に挟んでそれを含めてお唱えしているのですが…。

九条錫杖経で調べて、自分の経本にない部分がすべて九条だとばかり思っておりましたところ、実は九条があって、さらに続いて
流通文(るづうぶん)というものがあって締めくくられていたことがわかったのです。

そう言われれば…と思う、区切り目がたしかにあるにはあります。

なるほど…。


ただこう羅列されてもなんのことかさっぱりわかりませんよね、本当に申し訳ありません。


実は私とてもこう羅列してもどこからどこまでが何条になっているか、まだ把握しきっていないくらいで。

経本は改行されたりしてはいるのですが、どうもそこで必ず次の条に入っているかというと、区切らず入ってしまうところもあり…。

ましてお唱えすればずっとつなげてのお唱えですし。


繰り返しの部分が大変多いお経です。
その繰り返される内容で区切られている条もあります。

今まで意味もわからないまま、やれ、煩悩が除かれるであるとか、その場の清浄化がなされるであるとか、はたまた魔除けともなるとかということで、ありがたくお唱えさせていただいておりました。


おばさんらしい、でしょう?

No.352

(続き)

九条から成る【九条錫杖経】。


九条錫杖経は全体的に繰り返しの言葉があり、聴いていてもお唱えしていても心地よいリズムです。
主に四文字。

錫杖経第一条は『平等施會条(びょうどうせえじょう)』
と称されるといいます。

お経や御真言をそのまま載せるのは畏れ多いと考える小心者のおばさんですので、

一条の部分を意訳すると

『手に錫杖をとり、皆と一緒に願おう
たくさんの人々を集める場をつくり、仏の説く真実の教えの道を示し、仏(ブッダ)、法(教え)、僧(人々)に供養しよう。』
と、表現された方がおられます。

『錫杖を手に執るものは常に、十界の凡夫と聖者に法や財を施し、悟りへの道を示して、衆生を導き、この功徳を以て、仏法僧の三宝に供養するよう心がけねばならない』


…同じものを訳したものなんですけど、ね。

言葉ってすごいですよね。
まるで受ける感じが変わってきますものね。
まあ、お経とはいえ外国語訳、ですからね。


この一条に
『大施會(だいせえ)』という言葉が出てまいります。

多くの人を集め、いろいろな施しをすることをいいます。
どんな施しがあるかというと、

『財施(お金や物を与える)』
『法施(仏様の教えを広める)』
『無畏施(=むいせ、恐れをなくすように他者とかかわる)』
という三つの布施行があります。

お金や物を多く持つものは、それを施し、
ブッダの教えを知るものは、それを人に伝えれば良い。

それも持たぬものは、ただ笑顔でそこにいるだけでいい。


『無畏施』の示す、相手を否定せず、攻撃せず、すべてを受け入れ認める在り方は、
相手に自分はこのままで良いという安心感をあたえる重要な布施行。

この間、日めくりに書かれていたとここに書いた【和顔施(わがんせ)】もまた然り。
これなどは性別、年齢、国籍を超えてどんな人にもできるお布施。
お金も才能も知識もいらない、しかも功徳いっぱいの施しであります。

しかし、これは自らの心が穏やかでなければできぬこと。

お金や物を差し上げるのは、心がこもらずともできること。

相手に安心感を与える…ですからね。
これはなかなか容易いことではない。


錫杖を手に執るというのは、こうした施しのできる人物、ということで、安易に愚かな者が手にしてはいけないのだなぁ。

No.351

【錫杖経】

九条錫杖経は私の好きなお経です。
と申しましても、あと自分でお唱えできるのは『般若心経』と、『十句観音経』。

何を得意そうに、と自分でも思うのですが。

初めてこのお経を聞いたときは、独特の節まわしでのもの。
この節まわしでお唱えしろ、と言われてもそれはちょっとできかねますが…。

このお経にある錫杖というのは、文字通りの、あの、お地蔵さまの像がお手に持たれるもの。
あるいは弘法大師さまの行脚像がお手になさっているもの、…でもよいかと思います。

密教法具の一つで、柄の短いハンディタイプのものと、柄の長いつえになっているものがあります。

私が欲しがっているものの一つ、でもあります。

錫杖経をお唱えするときはこれを上下左右にゆらし、しゃんしゃん、じゃらじゃら鳴らして使います。

お釈迦さまの時代に既にあったもの、なのだそうで、錫杖の音によって、人々の注意を呼び起こし、行く手にひそむ獣、へび、毒虫などから身を守るために使われました。

この錫杖、煩悩を払うとも言われるまさに宝具。
…煩悩おばさんが欲しがるわけで。


錫杖経にもまた、魔障を祓い、煩悩を払い、衆生の心をふり起こす功徳があるとされます。

このお経に出会えたことを御仏のお導きと思わずにはいられないおばさんでありました。


ところで。

今回、タイトルには『錫杖経』、そして『九条錫杖経』という表記もしております。
書き忘れ?
…ではないのです。

この錫杖経、一条から九条まであって、すべてをお唱えしないこともあり、ゆえに、九条をお唱えしないときのことをふまえ、こう表現を変えてみた、というわけなのでありました。

…そう、九条錫杖経が書かれている経本を買い求めたというのに、〝(後略)〟と書かれていて、全文が掲載されていなかった、というおばさんの悲劇。
…ちゃんと表題としては『九条錫杖経』とあるのですよ?
調べてみて分かったのですが、九条目が〝略〟されていたのです、…詐欺じゃ?
おばさんが憤るのも無理はないでしょう?



No.350

(続き)

一位は地方によって呼び方が異なる木だといいます。
『一位一刀彫』で有名な飛騨高山では昔は『アララギ』と呼ばれていたといいます。
あの文学の『アララギ派』の由来だったのでしょうか?
そこは不勉強なのでわかりませんが。

また北海道では『オンコ』などと呼ばれているといい、他の地方で他の呼び方もあるかもしれないです。


そして。
漢字では【櫟】と書くのですが、これが面白いのですが、辞典で調べたときに『クヌギ』『イチイ』と両記載されるのだといいます。

『イチイ』は『イチイ科イチイの針葉樹』。
一方『クヌギ』はブナ科の落葉樹』。

まったく違う木なのに、ひと文字の漢字にすると【櫟】となる。
面白いというか、ややこしいというか、…適当というか。
このような事から、イチイは「一位」と表記される事が多くなっているといいます。
まぁ、当然といえば実に当然です。



表札の最高材として、木彫りの材にも人気の素材のイチイ。
神社などではご神木として伝わっている事も多い木です。


木片にはほとんど香りはなく、とにかく木目が綺麗なことがほとんど、なので、イチイの木片は見分けられるような気がしますが…。
木を見てイチイかどうかは見分ける自信がありません。

しかもやっぱり高価らしいし、なかなか手に入る素材でもないようで…。

私ごときが彫らせていただいて良いのでしょうか…彫っちゃったけど。


しかも三回目、かも。
今までは〝イチイ〟であることを知らずに彫ってしまっておりました。


ま、作りますが。
もとい、作らせていただきますが。

No.349

光榮寺さんの副住職さまに、仏像を彫るための木をお分けいただきたい旨お伝えしましたところ、
「これ、どうですか?イチイの木です」

…イチイ。

ああ、もしかしたら、縁起が良いとされるこの木をわざわざ選んでくださったのかもしれない。

お礼を申し上げ、他に何本かの木片をいただいて帰宅し、あらためてイチイの木を手にとって、その木目を見てみました。


綺麗な木目の面と、生育途中に何かあった跡なのか黒くなった場所、虫が巣くった跡なのか彫ったらポロポロと崩れそうなところ、なかなかクセがありそうです。

うーん。

今、あとはお顔を彫らせていただくだけ、といったところまでとなったお不動さまがおられます。
自分で彫った拙い像に、〝さま〟をつけるのもおこがましいのですが、それでもそのお姿を彫らせていただいた以上、やはりそれはお不動さま、なので、ちょっと自分の中では少し抵抗感を持ちながらもそう申し上げさせていただきます。


お顔を仕上げさせていただくより、新たなお像を今は彫りたい、そんな思いがふつふつと湧き上がります。


よし!

イチイの木さん、彫らせていただきます。


神社仏閣に縁をもたず生きてきて、さらには木の名を知るほど豊かな暮らしも送っては来ず、イチイの木というのを意識したのも、まさにこの神社仏閣を巡らせていただくようになってから。

聞いたことぐらいはあったのですが、ふーんと思うくらい。
強いて言えば、(変わった名前だけれど、どんな字を書くのかな?)と思ったくらい。しかも調べて見ることもありません。


そんなイチイの木。

名前の由来は、あの聖徳太子の肖像画とされる絵で、手に持っている笏(しゃく)にその由来があるといいます。

仁徳天皇が天皇即位の折にこの木で笏を作らせ、あまりの木目の美しさと見事な出来栄えに感激した事から、当時の最高位の官位を表す【正一位】を授けたと伝えられ、そこから、この木のことを【一位=イチイ】と呼ぶようになったと言われています。

狂いが少なく軽軟で安全性が高く加工も容易な【イチイ】が、かつては鉛筆の芯木に使われていたといいます。


たしかに。
この木片の一部の木目は見惚れるくらい美しいと思います。

私が彫っていいのか、怖気付くような思いもあります。


一刀目は、三角刀で、輪郭を。

いま、大まかな輪郭を彫り出しました。

No.348

このところ愚痴ばかりで大変申し訳ありません。


他人の愚痴など聞きたくはないもの。
ましてやここミクルでお読みくださっている方々は、長い長い文章をまず読み出して、そのうちに愚痴をこぼしていることに気づくのです、そう思ったらとても申し訳ない気持ちになりました。

とは言え、なにせ歩く煩悩おばさんなので、反省したところで「もう二度と愚痴はこぼしません」などとは、それこそ嘘になりそうで、口が裂けても言えない、言ってはいけない気がいたします。

それでも。

今日光榮寺さんの副住職さまと何気ないお話をしたのち、昨晩夫が入院したとただそれだけを口にしただけなのに。
長く長く話したわけでもなく、それゆえ今度の仏像を彫る会をお休みするかもしれませんとしめくくっただけ、ただそれだけの会話でしたのに、とても心が軽くなったのを感じたのです。

今日は風通しの意味もあったのか、御本堂へとつながる通路が開け放たれていて、御本堂からの気がスッと流れてきていた、そんなこともあったかもしれません。

そして。

夕方いつものように九条錫杖経をお唱えしたとき、さらに心が軽くなった気がしたのです。

爽やかな気を胸いっぱい吸い込んだような…そんな晴れやかな気持ちになったのです。


そう。
九条錫杖には、煩悩や魔障を払い、衆生の心をふり起こす功徳があらといわれている、そんなお経であるのです。

…ですがね。
なにせ煩悩だらけな人間なものだから、このありがたいお経をお唱えしても、まさに音読しただけ。
煩悩ひとかけらも抜けない、そんな強硬な煩悩で。
こんな感覚になったのは今回がまさに初めて、なのです。

お坊さまとご一緒にお唱えしようが、そのあとお護摩が焚かれようが、そんなことは一度とてなかったのです。


…さすがにこんな愚痴ばかりでは周りの人にも良くないと御仏がお考えになられ、この経の功徳をお与えくださったのでしょうか。

…だと良いのですが。


この九条錫杖経の意味も、そうした功徳も知らない時から、なぜか惹かれて、経本を買ったくらいです、きっとそこにも御仏のお導きがあったのでしょう。


…ですがね。
この光榮寺さんの親しくなったお檀家さんに言われたんですよ。
「煩悩は少しぐらいあった方がいいんだ」って。

まぁ、…少しじゃないから困っているんですが、ね。

No.347

今日は群馬県みどり市の光榮寺さんへ。

私がうだうだと愚痴などこぼしているバチでも当たったのか、昨夜ほんの数分前には普通に話していた夫が、寝室に戻ってから突然体幹の激痛を訴えて嘔吐し、救急搬送してそのまま入院いたしました。

反省の意をお伝えして、お薬師さまに病気平癒のお力をあやかろうと、こちらの御本尊さま、柿薬師さまへお参りにまいりました。


本当は病院に行く前にお参りしたかったのですが、あれを揃えこれを用意し、と、しかも午前十時に来るよう言われ、病院に行くのがやっとで。

今はコロナ禍。
荷物を届けるのも予約が必要で、予約枠がいっぱいだと荷物を届けることもできないというのです。

それはそれでおかしなことだと思うのですが。


病院によってさまざまな決まりをつくっていますが、義母の入院先などはやはり荷物の搬入も面会とカウントされ、一週間のうちに一入院者似二回までの面会、一回二人までという制限がかけられていました。
しかも土日は面会無し。

亡くなる前に…というか入院中面会すらできなかった身内はたくさんいました。

コロナは流行が収まったわけではないですからね、それは理解しています。
でも荷物すら届けられないって、おかしくないですか?

しかも夫は明日も面会に来て欲しいとか。

…まぁ、予約取れたので行くのですが、ね。

実はもう昨日夜のうちにほとんど搬入してあり、今日は書類があったから行ったようなもので。

もうタオルケットとか、時計とか、筆記用具やらなにやら、みんなババっとまとめて届けました。
だって面会の予約が取れなければ、どんなに必要なものでも受け付けない〝決まり〟なんだそうですから。


病棟も鍵がかかっていて、呼び出しのブザーを押して、スタッフさんが開錠するところで。
ここは閉鎖病棟か?って思ったくらいです。

なんだかいろいろ世知辛くもなっている気がいたしました。
〝決まり〟で守る、守られるのは安全だし、正直楽でもあります。


ちなみにごくごく普通の内科病棟です。
病院全体をこう造り変えたようです。


なんにせよ憎むべきはコロナです。


ただ本日は荷物を届けるだけで面会はダメだと言われて。
…昨夜は面会もオッケーだと言っていたのに。




あれ?また愚痴だな。



No.346


迷いながら
躓きながら
求めながら
失いながら
憎みながら
愛しながら
泣きながら
堪えながら
責めながら
怖れながら
己をつくり
神へ近づく
仏へ近づく



   坂村真民

No.345

そんな鬱々としたことを考え、ご不浄の掃除にまいりますと、あるお寺さんでいただいた日めくりに
【和顔施】
とありました。

ハッとしました。

〝いつもやさしい顔でいよう〟
とも綴られています。


夫が定年前に仕事を辞めたいと言っていることをどうにも受け入れられず、鬱々としてあれこれを暗い方へ考えてしまいがちな自分です。

仕事の人間関係の悩み、子供のことでの悩みを同時に抱えて、どうにも苦しくて苦しくて、仕事を辞めたいと言った時、それをたって受け入れてくれずにいた夫。
子供のことを相談しても、
「俺は仕事があるから」と
お願いして時間を作っていただいた学校の先生との面談をドタキャンされたり。

そんな過去がどんどん私の中で膨らむのです。

理由を聞くと仕事を続けるモチベーションがたもてない、と。

今、ともすれば暗い顔ばかりで過ごしていると思います。

それでも少なくともよそ様や、子供たちの前では笑顔で過ごしているので、こうした内心を知る人は、ここミクルで私のスレをお読みくださっている方だけ、なのですが。


そんな私に喝をいれなさったのか、先ほど火傷をしました。
痛みがひどく、病院に行くか悩むところです。


はあぁ。

仕事辞めたいという夫に
「ああそう」
と笑顔で返せる妻に…なるべきなのか。

寝込むほどの病気もなければ、取り立てて人間関係で悩んでいるわけでもない。
おそらくは義母を亡くした喪失感?

仕事なんて、辞められたら辞めたい、ですよね。
でも、頑張るしかない自分を鼓舞して、ともすれば吐きそうなほどの思いを抱えても、仕事に向かうのですよね。

生活のため。


生活はどうするのだろう。
再就職は甘くない。


答えも出せない。

きっと彼は自分の思うように、思う通りに事を進めてしまう。


止めたい思いしかない。


何かやりたい事があってでもない。
やらなければならない事もない。
それははっきりと明言している。


私の言うことは聞かない。
受診を勧めてもダメだ。


笑顔、ねぇ。
和顔。


それで事が済むわけではない。
なにせ生活がかかっているのだ。

就活、するか。

身体の症状が辛いのと、不安なのとで仕事を辞めたのだけれど。


…私のためには働いてはくれないようだ。


そう、他人をあてにはしてはいけない。

No.344

またまた愚痴になりました。
ええ、本来はこんなことを書くつもりではなかったのですが。


ただ、私にとって前橋のまちは、子どもの頃、父や母に手を引かれ歩いた思い出のいっぱいある町で、この駅の周辺は特に、電車に乗って下車してと、始まりの地点でもあったのです。

車で行ったら、かえって車が足枷となって、そうした思い出の町を歩いて(…計画は自転車でしたが)巡ることはできないのです。

車があるので電車に乗ることも少なくて、ましてやその路線に至っては高校時代が最後の利用であり、まさに久しぶり、思い出いっぱいの町を巡るというものを計画していたので…。

往復で千と…いくらか?
パートで働いていた時の時給より安いかもしれない。
たかだか県内の一部を走行するローカル線、乗れないなどとは思いもせず、料金すら調べていなかった私。
「エビデンスは?」
と仕事で聞かれた時のドキッとしたり、ザワザワっとした思いがよみがえります。


私は私で許可をもらおうとしたわけではなくて、ただただワクワクした思いを伝えたかった、ただそれだけだったのだけれど。

ああ、卑屈だな、自分。
ここに書いたことを伝えればよかったのになぁ。
でも言いかけたけれど、一刀両断されたんだった。
会話が成り立たないんだよなぁ。


寺めぐりを良いきっかけと思ったのに、もう今後、これを超えるチャンスなどないかも…。
…免許返納でもしない限りは…。

でもきっと私が免許返納したところで、夫が免許を返納しなければ、そのローカル線を使う機会は訪れない。


ちっぽけな会話が、こうも拗れること。
そこを黙って乗り越えること。

ちっぽけな器の人間は、ちっぽけなことすらも修行になるのだなぁ。

No.343

第2弾 ウクライナ難民支援活動
《平和への祈りと禅語に親しむ巡礼》

と称して群馬県内曹洞宗有志寺院で、令和五年十一月より六年五月まで、ウクライナ難民の方々への支援活動の一環として、禅語の書かれた御朱印を受けていただき、その浄財を寄付金としていくという取り組みをしてこられました。

今回で二回目。

前回はたまたま初めて参拝させていただいたお寺さんで、こういった御朱印をお授けしていたものが終了した報告と御礼を読ませていただき、こうした尊い活動をなさっていたお寺さんがあったことを知るかたちとなり、大変それをありがたく思い、そして参加できなかったことをかなしくそして悔しく思ったものでありました。

今回はネットで始まる前から知ることができ、大変嬉しく思ったものです。

この方向音痴で、しかもナビのない車に乗っているおばさんが、どこまでまわることができるか…。
多少の(…多くの)不安はありましたが、綿密に調べて、何ヶ寺かをまわることができました。

とは申しましても不得手とする山道をくねくねと登るような山あいにあるお寺さんはあきらめるしかなく、一人でまわれるところをのみ参拝させていただきました。

そんな中、町中の狭い道をくねくね行くようなお寺さんがあって、ここは電車とレンタル自転車を使って…と思い、その計画を夫にワクワクしながら話したところ、
「電車を使ったらかえって高くつくよ。車で行けばいいじゃん。ガソリン代なんかよりずっと高いよ」

…。

彼はなおも
「ガソリンが1リッター〇〇円で、そこまでの距離が何十キロ、往復でいくらいくら、その駅までだいたい〇〇円くらいとして、こんなに違うよ、車で行けばいい」

エビデンスまで…。

無職無収入のおばさん、黙りこむしかありませんでした。

彼はきっと車があるのだから、わざわざ電車などは使わず、遠慮しないで車を使え、という意図で言ったに違いないのです。

でも私のワクワクしていた気持ちはすっかり萎えてしまいました。

私は仕事を辞めて、この、エビデンスに支配されない自由をかみしめ、小さな幸せを感じていたくらいだったので、理づくめで来られると、気持ちが萎えるところがあって。
ましてや金銭面で言われると、どうしても卑屈になる。

結局、その計画は頓挫。

…車で。



人間、浪漫だって大切なんだぁ〜っ!

No.342

仏さまにはそれぞれお縁日があって、御利益が顕著な日とされます。
八日はお薬師さまでありましたし、十八日は観音さま、二十四日はお地蔵さま、二十八日はお不動さま、…などが有名でしょうか。


ところで。
真言宗を開いた弘法大師空海さまにもお縁日というものもあります。
それは二十一日、高野山で入定された日に由来するのです。

弘法大師の姿を描いた絵や、御姿を彫った像を〝御影(みえい)〟といいますが、この御影に【日日影向文】という言葉が添えられているといい、なんでも『入定した大師は身体を高野山に置きながら心は兜率天(とそつてん)の弥勒菩薩さまのもとにあり、衆生を救うため日々この世に現れゆかりの深い地を訪ねておられる』という意味だといいます。

このお縁日には京都の東寺では弘法市が立つといい、そのほかの真言宗のお寺でも御影供(みえく)と呼ばれる法要も営まれるといい、また、この日に写経会を開かれるお寺さんもあります。

まぁ、衆生のために御入定されたとされた弘法大師さま。
そこからお縁日とされる心情はわかります。


わかりますが。
なんだか私にはいまいちしっくりきません。

…お誕生日ではいけなかったのだろうか。
亡くなられた日よりもお誕生日の方が明るくて〝開かれる〟ような、いかにもお縁日にふさわしい気がするのですが…。



弘法大師さまは宝亀五(774)年六月十五日、讃岐国の屏風ガ浦(香川県善通寺市)でお生れになったと伝えられます。
そう、まさにまもなく弘法大師さまのお誕生日、なのです。

讃岐の郡司の家系に生まれた弘法大師さまのお父さまは佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、お母さまは玉依御前(たまよりごぜん)といいました。

その家は信仰心の厚い家柄であったといいます。
ある日、お父さまとお母さまが、「天竺(インド)のお坊さんが紫色に輝く雲に乗って、お母さまのふところに入られる」という夢を同時にみられ、ほどなくして真魚さまがお生れになりました。
この真魚さまこそが、弘法大師さま、なのです。


真言宗では、このお生まれになった六月十五日を『青葉まつり』と称して、お大師さまのお誕生をお祝いしているといいます。



No.341

(追記)

…お護摩ではよい思いができなかった、こちらではあったのですが…。


昨日伺ったとき、境内にしゃがみ込んで作業される女の方がおられたのです。
敷かれた砂利を少しづつどかして、そこに生えたほんの少し頭を出した雑草を丁寧に一本一本抜かれていたのです。

思わずその丁寧な作業に感動し、感謝の言葉が口をついて出ていました。
「ああ、そうやってお手入れされているからこんなに綺麗なのですね。ありがとうございます」

するとその女性は恥ずかしそうに
「全然行き届かず、恥ずかしいです。お参りくださりありがとうございます」
そうお答えになられました。


…きっとご住職の奥さまに違いありません。

そう。
そうした尊い方が陰で支えるお寺さんです。

実際、雑草が信じられないくらいに生えていないのです。
季節の花はたくさん咲いておりますのに。


そうそう、萩の花が咲いていたっけ。
濃いピンクのものと、白いもの。
帰りに写真を撮ろうとしていたのに、プンプン怒っていてすっかり忘れてしまったな。

…もう一度。

もう一度だけ行ってみよう。


たまたまこの日時刻を早める何かがあったのかもしれない。
…そうはおっしゃっていなかったけれど、少なくともそういう気持ちになる何かがご住職にあったのだろう。

最低でもあと一度は行こう。

…できたら、奥さまにもう一度お会いしたいな。
あの、心の清らかな、仕事の丁寧な方に。

No.340

(続き)

なのに、です。

終わった後、
「御札はどれがご入用でしたか?」
…いや、私祈願してないし。

「今月の御札を希望して参りましたので、来年またまいります」
内心結構怒っているのに、にこやかに穏やかにそう答えた私。
…大人じゃないですか。

ところが、です。
次の瞬間、
「あ、ならありますよ。予備に御祈祷しておいたのでお持ちください、よかったよかった」
とご住職。


…良くない!

私は来年願意を申し上げてお護摩加持していただいたお札をお受けしたいです。

私の思いは一切伝わらず、袋に入った御札を渡されました…まぁ、言葉に出してはいませんからね。


こんなはずじゃなかったのに。

今日は孫のことを御祈願したかったのに。


定刻の二十五分も前に始まってしまうお護摩なんて、もう無理としか思えない。

…毎月来ようと思っていたのになぁ。

この〝修行〟を乗り越えるのが、とりあえずの私に課せられた課題でしょうか?


「よろしければまたお越し下さい」

はあ…。

しかも直後に鍵をかけられて。
それでもまた来る?


…たぶん来れない。


この今月の分の御札って、誰か来れなかった人の物なはずです。
来られていない人のお名前を読み上げ、願意を申し上げていましたから。

私は誰かの祈願を申し上げた御札を買わされ、その今月の御札を頼んでおられた方は祈願していない御札を受けることになるのですよね。



…まぁ、そんなものだよな。

仏さまの世界を無理やり人間社会に組み入れたものは。

はあぁ…。




今回は愚痴ばかりでごめんなさい。

No.339

(続き)

…だいぶ話が逸れ、愚痴にまでなってしまい申し訳ありませんでした。


…というわけで一人で向かったお寺さん。
夫の調べたネット情報によると二十五分で着くという場所に、五十五分前には家を出ているのだから、当然遅刻などすることなく、無事に到着いたしました。


お堂の戸は閉められてはおりますが、そこは入って良いと、前回学習しております。
靴はお一人分。
そう、まだ定刻まで二十分以上はありますから。




!?




…えっ?!
始まっている?

…始まっている。


思わず狂うはずのないスマホの時計で時刻を確認します。

何度見ても定刻よりだいぶ早い。


…ぼけが進んで、始まる時刻を間違えていた?
いえいえ、早くに着いた余裕から目を通したお寺の掲示板に貼られた案内にも〝八日の九時から〟とはっきりと墨書きされておりましたって。

…なにが起きた?


ずっと悶々と過ごしておりました。
電動でカーテンが開けられたご本尊さまのお不動さまに、
(私が今悶々としていることは間違ってはいないですよね?これって私に課せられた修行でしょうか?
これを心から許せれば?…それでしたら少し、お力もお貸しください。
このお護摩が終わるころにはこの悶々とした思いが落ち着きますようお導きください)

お護摩が進むと、お名前が読み上げられ願意が読み上げられます。
当然私のものはありません。
お護摩の火をかざした私の御札もありません。



No.338

今日は、ですね。
楽しみにしている月に一度のお護摩修行の日で。
それこそ昨日から、お経の持ち忘れがないように、とか、護摩加持をしていただきたいもの、とか、準備して、まるで小学生の遠足の前の日のような騒ぎをしていたくらいでありました。

先月初めて行った、とあるお寺さんのお護摩。
どうやらご住職さまがお一人だけでなさっておられるようなので、お護摩の前の御札の申請などもあるため、決して遅刻はできないと、一時間は前にでなければ、と思っておりました。
それでも今日は土曜日、学校も休みで、職場がお休みの企業さんもたくさんあることであろうから、道の混みようも平日ほどではないだろうと、少し気持ちにも余裕を持っておりました。

「そんなに早く出なくても…。平日と違って今日は道も空いているだろうし、検索すると今なら二十五分で着くってよ?」
と、パジャマ姿の夫。

…そうなんです。
夫はどうやらお護摩にはあまり興味がないようで…。
私一人でまいります。


自分の好きなことを、それぞれが決して我慢することなく、好きに過ごすことも長い夫婦生活の上で大切です。

同じ神社仏閣巡りであっても、夫は今まで行ったことがないところを訪れてゆっくりと時間をかけて参拝するのが好き。一方私は同じところに何度でも重ねて参拝するのが好き。

今まで、夫が休みの日のそうしたお寺さんや神社さんの行事はほぼほぼ諦めて過ごしてきましたし、逆にどうしてもう行きたいとなれば夫がある程度我慢して付き合っていたのです。

子どもたちが大きくなり手元を離れた今、別に休日くらい好きに過ごせばよいのに、子どもたちが小さな頃の習慣が残っていたのと…おそらくは…夫が贖罪の思いもあり…それこそ金魚のフンのようにともに過ごしていたところもあって。
その金魚のフン状態は時には足枷のように感じることもあり…。

歯に衣着せぬタイプの私は、何度も何度もそれを伝えてきたのですが、なかなか伝わらず今に至っておりました。

それこそ買い物すらついてくる…。
それでいて自分の欲しいものだけカートに入れにきて、あとは別行動。
…一緒に行っている意味はほとんど無し。
子どもたちの小さかった頃から、一人だけ別行動していた人なのでそうした習慣は抜けないし、荷物を待とうという気もないし。

今の子供も見ます、荷物も持ちますのイクメン息子とは大違い。

No.337

(続き)

毘沙門天さまのお縁日ということで、毘沙門天さまのお話が止まらないおばさんです。

毘沙門天さまの怒りの表情には私達の欲望に満ちた自己満足の願望を正して、他の幸せを思う願いに変えなさいという思いが込められているといいます。

おおっ!
なんと、これ以上ないくらい私に適したお教えであります。
こうして毘沙門天さまと出会えたのは、こうしたお導きがあったのでしょうか。

無理なお願いをしたらお叱りを受けそうな毘沙門天さま。

そんな毘沙門天さまはお妃であられる吉祥天さまと、その子善膩師童子さまを伴って家族の姿をお示しの神であられます。
大岩の毘沙門天さまもこのご家族で三尊として祀られています。


ところで。
この世には治らない病があるのもまた悲しい事実であります。
病気になった人とその家族は一刻も早く治って欲しいと願うもので、苦しんでいる人を見たら早くその苦しみを取り除いてあげたいと思うのが人間です。


しかしながら、
お医者さまの治療と良い薬、
手厚い看護に
心のこもった付き添い、そして神仏と先祖の加護があって初めて治るための材料が揃うのです。

世間では手に薬壺をちになられた持った【薬師如来】さまが最も病気平癒で有名な仏であり、私達の心と体の病気を治すことで仏の世界へ導く役割をされておられます。

しかしながらお薬師さまは『如来』という立場上悟りを説いておられ、瑠璃光浄土という高い場所からの救済ですから、私達の俗世間の願いを何でも持ち込む訳にはいきせん。

その点毘沙門天さまは私達人間世界のすぐ傍にある天の世界に居られ、なおかつご家族をお持ちになられています。
病に苦しむ者、そしてその家族が、なんとか助けて欲しいと願う、切実な願いも、理解してくださるとされる神さまであるとされます、

それゆえ、毘沙門天さまのお護摩祈願では、そうした【当病平癒】を祈願する方も多いといいます。


…そういえば、大岩山毘沙門天さんは護摩木に印刷された祈願内容が、どこよりも多かった。


No.336

(続き)

毘沙門天さまの前身となったという【クベーラ】さまもインド神話の『ローカパーラ(世界の守護者)』の一人で、北の方角を守っているのだといいます。
毘沙門天さまも北の方角を守る神さまであります。

毘沙門天さまは財宝の神様でもあると言われています。
毘沙門天さまの住む天敬城では財宝や福が湧き出しており、1日に3度も焼き捨てるほどであるとされ、毘沙門天さまに帰依をすればこの福を授かることができると説かれています。

その前身となったインドのクベーラも富と財宝の神であるといわれます。
宝石の束や、宝石を吐き出すといわれるマングースなどを手に持っています。


後にご住職さまからお聞きしたのですが、大岩山のクベーラ像、マングースを抱いておられるのだとか。

それを聞いて私は思わず声が大きくなりました。
「えっ?マングース、ですか?」
「そうそう」

実は私、好きな男性のタイプをあげるとしたら、スリムで背が高い、と述べるかもしれないくらいで。
このクベーラさんの、まるでうちの夫を彷彿させるお腹に、(…ああ、お腹から出てるんだ)と思ったのは事実です。
そしてそれがゆえに、サッと拝んで前を立ち去ったのでありました。

…初めてお会いした(であろう)神さまの尊像なのに。
ぽっこり出たお腹をみて、前述のように思い、ろくに拝するもことなく…。

貧乏人の悲しいさがで、まばゆく金色に輝く御像にも、少し抵抗があるのもありました。

…マングースを抱いている神さまの像ですよ?

そんな神さまなんて見たことも聞いたこともなかった私。



あー、なんということを…。

はあぁぁぁ。


クベーラさん、またいつか。
またいつかお会いできる日を楽しみにお待ち申し上げます

No.335

(続き)

煩悩のかたまりで図々しいおばさん、それが私。
しかしながら、ビビりでもあるという、なんともおかしな、そして本当にちっぽけな存在ですが…。

(不敬な表現で申し訳ないのですが、もともと少ない脳みそが耳からどんどん流出しているおばさんなので、それこそ少しビビりながら書いていますが)
御仏像が大好きで、石仏が大好きではあるものの、お側により過ぎては失礼だと、実はあまり側にはいけず、これより先に行ってよいかどうかと悩んだときは絶対行かない。

遠くて見づらくても、この距離で拝するのが適切なのだと思う。


それゆえ、だったのかどうか、前レスで挙げた金色の御仏像、何度も何度も参拝させていただいていながら、今回初めて気づいた御仏像でありました。


はて?

今まで見たことがなかったというのは、こちらで、という意味もありますが、過去を振り返っても、一度もこちらの御仏の尊像を拝したことがなかったということでとありました。

まぁ、ザルの目より荒くて、それはもうザルという例えを挙げることすら申し訳なく思うくらいに、抜けている、ぼーっとした人間でありますので、見ているのに目に入らなかったとか、記憶ができなかったとか、いろいろなものが加わってまいりますが、それでも、とりあえず、さまざまな意味で、見たこと、拝したことがなかった仏さま、仏像でありました。

どこかユーモラスなお顔立ち、前回の朝ドラで見たエノケンさんに似ているような、イケメンなのになぜかその顔を見ると自然と笑みが浮かぶような、そんなお顔です。

そして布袋さまや大国さまを思わせるような、豊かな肉付きのお腹。

なにやら高価そうな装飾品。

(外国の福の神さま?)

軽く頭を下げ手を合わせて、早々にその前を去った私。



…後々後悔することとなります。


実は半分くらい合っていた私の推察。
思った通りに、外国、古代インドの福の神さまの尊像で、その名は【クベーラ】さま。

インド神話に登場する『クベーラ』という財宝の神さまだといいます。

このインドの財宝神クベーラには、サンスクリット語で『ヴァイシュラヴァナ』という呼び名もあり、この『ヴァイシュラヴァナ』という〝音(おん)〟が中国語で訳されて『毘沙門』となったというのです。


はっ。
び、毘沙門天さまの前身?

No.334

(続き)

暦を見ると本日は『寅の日』で『毘沙門天』さまの縁日とされ、ご縁を結びやすく、願いが届きやすい日とされています。

その由来は、かつて聖徳太子さまが、毘沙門天さまを祈られたところ『寅年の寅の日の寅の刻』に毘沙門天さまが現れたとの言い伝えがあり、以降寅の日は、毘沙門天の縁日と言われるようになったそうです。

そういったことから大岩山毘沙門天さんでは、寅の日にもお護摩修行を執り行っておられます。


毘沙門天さまは、先にも書かせていただきました通り、『四天王』でありますので『八方天』・『十二天』・『十六善神』のうちのお一人です。
四天王としては『多聞天』と称し、単独尊としては『毘沙門天』といいます。

また、大般若経を守護する【十六善神】としては
【吠室羅摩拏善神(べいしらまだぜんしん)】とも称します。

…なるほど。

毘沙門天さまの御真言はまさにここからきておりましたか。
(私はこうしたところにむやみに御真言を書くことに畏れを感じますので、御真言をお知りになられたい方はどうぞネット等でお調べください。ビビりなものですみません)


須弥山中腹の水精埵の『天敬城』、
または北方倶廬州に住し、〝夜叉〟や〝羅刹〟を眷属とする北方守護の天部であらせられます。




(大岩山毘沙門天さんの御仏像のうちの一体・クーベラ像)

No.333

毘沙門天さまは【天】と呼ばれる仏教の守護神とされるグループに属しておられます。

【天】とは古代インドで信仰されていた『バラモン教』や『ヒンドゥー教』の神々や精神神が仏教に取り込まれたもの。

経典では『神』とは呼ばず『天』と表し、さらに仏像を分類するときには【天部】と呼ばれます。

この【天】と呼ばれる神々は文字通り最後に『天』の文字が付いていますが、例外として金剛力士さまがおられます。

そう、金剛力士さま=仁王さまは分類すると『天』に属されるのですね。
…たしかにお釈迦さまの教えを守護し、御仏を御祀りするお寺を護っておられるお方です。
なんでもその起源をたどるとバラモン教の『インドラ神』にたどりつくのだといいます。
梵語で表すと『金剛杵(こんごうしょ)を持つ者』を意味するといいます。

その他の方々は私の知る限りほぼ『天』という文字を最後に付けられています。

『梵天』さま、『韋駄天』さま、『帝釈天』さま。
『四天』『四天王』と呼ばれる神々は世界の中心にそびえるという【須弥山】の四方、東西南北に配され、そこをお護りになられる神々で、
東を守る【持国天】さま、
南を守る【増長天】さま、
西を守る【広目天】さま、
そして北を守るのが【多聞天】さま=【毘沙門天】さまであります。


『天』はまた大きく分けて二つに分類され、お釈迦さまに教化され、守護するために集ったインドの神々、という、位置付けと、
『現世利益』を恵む神々という存在であります。

【毘沙門天】さまは北方の守護神であるとともに、財宝の神さまであると言われています。
それゆえ、四天王に属し、さらには七福神に属する形をとられます。

『仏説毘沙門天王功徳教』というお経には毘沙門天さまのお住まいになる『天敬城』では財宝や福が湧き出しており、1日に3度も焼き捨てるほどであり、毘沙門天さまに帰依をすればこの福を授かることができると説かれています。


まとめると北方を護られ、財宝神である、それが毘沙門天さまです。

No.332

(続き)

御本尊三尊が〝入院中〟。
それだけではなく、山門の金剛力士さまも〝治療中〟。

それでも開山以来千二百年、護られ、そして祈り続けてきた歴史は、
この本堂内の気を微動だに変えることなく。
そこに今なお毘沙門天さまがおられるようなピンとした空気です。

毎日、お護摩のために山へとのぼりお護摩修行をなされ、毎日毎日、堂内も、そして境内であるお山の美しさを保つために清掃や除草などの作業を怠ることなく続けられるご住職さまの御努力もありましょう。

しかしながら、新しい風もふく、大岩山。

インスタでの情報発信。
境内あちこちに作られた真新しい案内板。

コンサートなども開かれたようですし、夜のライトアップもされているようです。
大岩山の西公園は『天空』を冠し、夜空や雲海を楽しめるような空間へと整備されたようです。


ま、私はそうした方向に変わって欲しくはない方の人間なので、その辺は…。


その西公園の駐車場から歩いて毘沙門天さまの御堂を目指す途中、普通にカモシカを見かけるほど、豊かな自然の残る大岩山です。
境内の御神木にはムササビが住んでいます。

やっぱり、…あまり変わって欲しくはないなぁ。


あ、でも。
新しく設置された案内板のおかげで、今まで知らなかった『御神石』の存在を知ったよなぁ。

うーん。



No.331

すみません。
何を寝とぼけたのか、とんでもない表現をしていて、びっくりして慌てて訂正して削除してしまいました。

削除された前の文章をお読みくださって、さらにまたほぼ同じ文章をお読みくださった方、たいへん、大変申し訳ありません。

まったくもって不敬罪もいいところでした。

No.330

(続き)

この火災以前から、修理・修復を考えていた御仏像もおられました。
それは山門におられる金剛力士さまであります。
こちらはすでに修復前のチェックの済んだ状態で、見積もりも出ていたものでありました。

こちらは山門の中、とはいえ、あくまでも雨風にさらされる状況下に置かれた木像、見るからに痛々しいくらいに変色し、それはいわんや変質であり、見えるところでそうでしたから、虫食いや、朽ちているところもあるのではないかと容易に推測できるものでした。

クラウドファンディング、という言い方がまだ一般的ではなかった頃でしたので、〝寄付を募って〟おりました。

その矢先の山火事発生。

大きさ(三メートル)と傷み具合から、全てを避難させることは不可能で、緊急時においてこちらは上半身のみ避難いたしました。

こちらはそれでも搬送にどう注意して行けば良いかを検討して、修理工房へと搬送できました。


どんな修理修復をなさる工房なのか…。
少し不安がよぎります。

同じ足利市にある『黒地蔵』と呼ばれるお地蔵さまの像の修復で、な、なんと!
坐像で足のあったお地蔵さまから、修復後足が無くなってしまっていたのです。
足を紛失したという意味ではありません。
まぁ、実際無くしたかもしれませんが?
あぐらをかくと足の裏や足首が見えるではないですか。
その部分が着物の裾という形にされてしまっていたのです。

それだって足首や足部って見えますよね?
それが見えない着物など不自然極まりないのです。

こちらの仁王さまがそんな修復をされてしまったらどうしよう。

まぁ、見積もりがあって、そこで打ち合わせ。
ましてやこちらは、この金剛力士さんの〝お見舞い〟にも、たしか二度ほど行かれています。
綿密打ち合わせをしておられましょう。

途中経過もチェックしておられます。
だ、大丈夫だよなぁ…。

もはや大丈夫だと信じるしかない段階ですけれど。


だからほんとうに、毘沙門天さまたちが、国宝クラスの修理を取り扱う修理所に依頼することができて、心から、本当に本当によかったと思ったのでありました。

まだまだ壊れてしまったお仏像がおられます。

その尊像たちもどうか腕の良い修理の方に当たりますように…。

No.328

(続き)

今、再び御本尊三尊は御堂からお出になられ、遠く京都の地に出向かれて〝入院・治療〟しておられます。

その御入院先は京都府京都市にあります『美術院国宝修理所』。

はて。
国宝修理所?
毘沙門天さまたちは国宝ではないはず。
…どうやら、その修理・修復のエキスパートにお願いし、なんとか依頼を引き受けていただけたようなのです。

〝御入院〟中の大岩山毘沙門天堂の御厨子の中には、大きな紙に黒々とした墨書きの梵字が貼られています。
それはそれでなかなか見栄えのする立派なものとなっています。

実は。
この六月に、毘沙門天さまたちの入院先へのお見舞いツアーが計画されています。
実際に入院先を訪れ、そこの方から解説もお聞きできるようですし、治療中の毘沙門天さまたちにもうお会いできます。

それだけではせっかくなのでと、二泊三日の行程で、京都の有名寺院をまわることにもなっています。

なんと、東大寺(…たしかそうおっしゃっていたかと思うのですが…、間違っていたらごめんなさい。)では執事長さまが直々にご案内してくださることとなっているとか。

日程は六月の23日近辺で、まだまだお席に余裕があるようです。
関心のある方はどうぞ、栃木県足利市の『大岩山多聞院最勝寺』さんにお電話等でご確認をなさってください。

私は大変乗り気になり、費用をみたところ…、貧乏人の悲しさです、決して高くはないのですが、…泣く泣く諦めました。

持病の症状がひどく出てしまうと、旅どころではなくなります。
一人で出向いて向こうでツアーでご一緒する方々にご迷惑をかけるのは心苦しい。

そして。
日程の決まったこうしたツアーではキャンセル料が発生します。
九万円のキャンセル料は痛すぎる。


…泣く泣く諦めるほかなかったのです。


そしてこの御本尊三尊の入院・治療費は勧進=クラウドファンディングによるもので。

現在もご協力を募っておられます。

境内、御本堂右側の御神木の前に、クラウドファンディングに賛同され御寄進した方々の名前が記された大きな立て看板が設置されています。

うちのわずかな寄進にも記名していただいてありました。
息子は無記名でありました。

でも。
現地で直接寄進させていただいたせいでしょうか、わが家に送れば息子にも届くと思ってくださったのでしょう、同じ返礼品をいただきました。

No.327

(続き)

(引き続き、大岩山毘沙門天さんのHPより)

大岩山毘沙門天、多聞院最勝寺の建物は天平十七(745)年の開山以来、落雷等による火災で焼失、再建を繰り返してきております。
文安四(1447)、年五月の雷火により、山門以外の諸堂全てが焼失、その後再建されました。
そして宝暦七(1757)年本堂は再び焼失しましたが、同十二(1762)年に再建され現在に至ります。




つまり現在の御本堂は1762年に建てられたもの、であります。


以来ずっとお厨子に納められ安置されてまいりました毘沙門天さまと、そのご家族である吉祥天さまと禅膩師童子さまのご本尊三尊がお厨子から出、御本堂からすらも出たのは令和三(2021)年に起きた足利山林火災のときでありました。

今までの火災は雷火によるものでありましたが、今回は山林火災の飛び火の危険。
実際本坊である麓の最勝寺さんはその本堂すぐそばまで火の手がせまりました。

風が強い日もありました。
飛び火が飛び火し、かなりの範囲に広がった大きな大きな火災でありました。

そんな中、ご住職は御仏像の避難を英断します。
本来なら御仏像などの文化財、専門家に依頼し時間をかけて慎重に移送するものではありますが、迫り来る火の手にそのような猶予はありませんでした。

ご住職さまのお人柄もありました。
長年深く侵攻された毘沙門天さまでもあり、自宅の火災の心配もある最中でありながら、多くの近隣の方々がその避難をお手伝いされ、御仏像や文化財の避難をすることができたのでした。

が。

江戸時代の本堂再建以来、御厨子におられたご本尊さまは、長年の経年劣化があるなかでの緊急での出堂となったため、どうしても損傷を避けることができませんでした。

御厨子から 像高180.0cm  肩幅34.0cmもの大きな木造の御像を出し、そして搬送するためトラックに乗せて、ガタガタの山道を下って緊急避難先となった足利市の施設に置くという、一刻を争う移動でありました。

幸いなことに毘沙門天の御堂は火災を免れることができましたが、御仏像はじめ多くの文化財を戻したとき、その損傷の大きさにみな、あらためて言葉を失ったのです。



修理を依頼しなければ再び安置することができない、…そんな理由からの二百六十年ぶりの出開帳となりました。




No.326

【大岩山多聞院最勝寺】(続き)

大岩山毘沙門天は、天平十七(745)年に行基上人によって開かれ、聖徳太子御作の毘沙門天(多聞天)を祀ったのが始まりと言われています。


【大岩山毘沙門天御由緒】

聖武天皇の御宇、行基上人が大和国、菅原寺(現 喜光寺 ・奈良県菅原町)に滞在していた際、聖徳太子作、閻浮檀金(えんぶだごん)で出来た毘沙門天像を常に所持し、関東地方へ行き霊地を開き、この毘沙門天像を安置して衆生を救済したいと誓っておりました。
ある夜の夢に老翁が出てきて告げます。「あなたの祈願は長い年月にわたるものだ。関東の足利に霊山があり、その山に登れば、所願を叶えることができる。私は山王権現である。」
夢から覚めた行基上人は三度礼拝し、この願いが成就した際には、必ず山王権現を一山の鎮守としよう、と心に堅く誓いました。
(現在も大岩山毘沙門天の境内に山王社がある由来になります)

上人は瑞夢を信じ、遠い下野の下にある足利郡に一夏、安居して、信じて修法することを怠ることがありませんでした。(今の足利行基山徳正寺がここにあたるとされています)

また、ある夜の夢では甲冑を纏った武人が現れ、こう告げてきます。「ここより北にある大岩山という山に登ると衆生済度の為になる。私はあなたが信じる所の多聞天王(毘沙門天)である。」と言って、光を放って消えていきました。

行基上人は三度礼拝し、御守りをご覧になると、口が少し開いて幽かに光っておりました。
行基上人はますます信じ、告げられた通り北にある嶺に分け入っていくと、忽ちに金色の光が強く輝き、山の中が明るくはっきり映し出されました。

行基上人は喜びに耐えられず、ずっと持っていた毘沙門天像を盤石の上に安置して乾いた茅で堂を作りました。

行基上人は都に行き、この大岩山開山にあたり、霊威があり、珍しくめでたい品々を奉納すると聖武天皇は大変お喜びになり、行基上人は天平十七年(745年)に大僧正になり、【大岩山多聞院最勝寺】と山号寺号を頂きました。


翌年、勅願により、
本堂・経堂・釈迦堂・三重塔・山門・開山堂・鐘楼堂・殿堂・十二坊(金剛・覚性・高松・大日・長元・正林・黒岩・当皈・大坊・大光・大林・醍醐)を建立され、堂の領地数カ所を賜りました。



 (大岩山毘沙門天HPより)

No.325

今、夫の寝室に用事があって行ったところ、新しい畳の匂いがする。

夫に話したところ、ゆうべ三時から四時くらいに出窓のところで紙がカサっと動いたような音がしたという。


お線香、それも善光寺で購入したお線香を燻らせた。

まぁ、とりあえずその部屋のことは私は関与しないので。


…なんだろ。

No.324

(続き)

なんにせよ、変化を受け入れられなくなっているのは、心の柔軟性がなくなっている証拠です。
いけない、いけない。
でもそんな穢れを焼き払ってくださるのが、お護摩のありがたい炎であります。

鐘を鳴らして、その鐘の音が少しづつ間隔を短くなって、
お護摩が始まりました。

副住職さまか進行していきます。

かつては住職さまと在家の山伏姿の方と、時にもう一人お坊さんがおられたりおられなかったりであったお護摩も、四人の方が携わるものとなりました。
法螺笛の音もぴったりと揃っています。

かつて渡されていた【九条錫杖経】の書かれた用紙はもう渡されることなく。
ここでお唱えになる独特の節の九条錫杖経、初めて聴いたときはびっくりもしましたが、それが心地よいものとなっていたため、少し淋しいおばさんで…。
般若心経と、毘沙門天さま、吉祥天さま、禅膩師童子さま、そして不動明王さまの御真言の書かれた用紙は前のままのものでありました。

それでも、始まってみると九条錫杖経は副住職さまとその弟さんの、…他のお寺で住職を務めるお坊さんと、在家の山伏姿の方とでお唱えになってくださいました。
お護摩というとこのお経はつきもの、欠かせないもののようです。

場を浄めるお経だといいます。

般若心経を三回。
その間にご住職さまがお護摩を進めておられます。
炎が焚べられ、お不動さまの御真言はもう何度お唱えしたかわからないくらいお唱えし、毘沙門天さまの御真言は…二十一回、でしたでしょうか。
炎は以前ほど大きくはなりません。

やはりあの山火事から以降は、お護摩の炎の高さにまで変化が生じたのでしょうか。
以前は天井につこうかというほどひ高く大きく燃え上がっていました。

順番でお厨子の前へと言われ、護摩の炎に焚べる木の棒を渡されます。

護摩加持のためにバッグを忘れない、ちゃっかり者のおばさん。
腕にした数珠も忘れずに。

…本当は全身くまなくお護摩の炎にかざしたいくらい煩悩のかたまりのおばさんです。

No.323

(続き)

御本堂の、障子を隔てた中に、護摩壇があり、大きなお厨子が祀られています。
障子の外側でお護摩供に参加しない人はお線香をあげ、手を合わせます。

その隣に設けられた席で。
先ほどから副住職が般若心経の最後の部分を唱えたり、御真言をお唱えしたりしています。
これは以前はなかったこと。

そのせいか御本堂の内部、ちょうど障子を開けると本来ご本尊のおられる真正面となる場所にいくつか置かれた椅子がいっぱいです。

あ、ご住職さまがお越しになられました。

ご住職さまもお線香と香炉の置かれた几の隣の席に座られて、読経や御真言をお唱えになり始めました。

お護摩に参加されない方のために、でしょうか、ありがたいことで…、ん?

何やら呼名しては、手に御朱印、もしくは御朱印帳をお持ちになって、呼ばれた方が席に着くと、同じ読経、同じ御真言をお唱えになられます。

えっ?
新システム?

たしかにせっせこと御朱印を書いているのはご住職でも副住職でもない、いつも山伏姿で護摩に参加される在家の方。

だから?
ご住職さまが書いておられない分、ひとりひとりご祈禱してくださるようになった?

いやいや、それはちょっとやり過ぎでは?
…結構長いんです。
そしてその御祈祷中、お線香を上げる席に座ってしまうため、お線香があげられないのです。

しかも、「御本堂に入る前には、前でお線香をあげてからお入りください」と。

…入れないですが。

夫などは要領も悪いため、とうとうお護摩の始まる合図がされてからようやく中に入ってきました。
なにぶんにもある意味廊下、狭いのでそこに人が座って、椅子にも人が座ると通れないのです。

一旦外に出ればいいのに、目配せ、や身振り手振りでは全くそれが通じないのがうちの夫です。

…なんだかなぁ。

改良したつもりがかえって悪くなっている?
でも御朱印に御祈祷いただければそれはそれは嬉しいでしょう。
こんなお寺さん、他には知りません。

…御本堂で拝んできてくださるお寺さんはありましたがね。

でも、ずっとそこがただただ通れず待つというのもちょっとした修行のようです。
しかも切り上げたりはしないのがご住職。
もちろん巻いたりもいたしません。

なので、副住職がはじまる前のちょっとした解説を始めても、まだまだ祈祷の声は響いていました。

…始められるのだろうか?

No.322

(続き)
鐘を撞いて。
こちらの鐘の音は澄んでいてとても好きです。

さあいよいよ御本堂です。
もう少しだけ石段を登ります。

おお。

よかったぁ。
御本堂は何も、何一つ変わらない、変わっていない。

とはいってもたとえば護摩木だけ奉納したい人のために、護摩木が御本堂の濡れ縁に置かれたテーブルの上に綺麗に、祈願内容ごとに整頓されてすぐにスッと選べるように置かれています。
たくさんの願意があらかじめ印刷してあるので、ここから自分の願いたい内容に近いものを選べば良いのでこれは実にありがたいです。
以前より願意の内容が増えたようにも思いました。

以前は漠然としてそれでいて含みのある『諸願成就』とか『心願成就』を選んでいましたが、最近は自分の望んでいるもの、願うものが何かがはっきりとしているのに気づいたので、そのままの願意を選んでいます。

それにしても。
平成の足利市における大火以降、いろいろこちらのシステムが変わり、そしていろいろと値上げがされています。

かつては二百円だった護摩木は五百円。
しかも護摩木を書けば参加できた護摩修行も、今は千五百円支払うようになっていました。

ちょっと前には護摩札を希望しないとお護摩に参列できなかったので、それは改善されたのかもしれません。
御札を受けても三千円。
護摩木だけで参列すると二千円。
御札と護摩木で三千五百円。

護摩札は一度お授けいただけばさすがにいくつもはいりません。
願意ごとに一枚とは言われますが、そんなに家に何枚も護摩札が祀られていたら、わが家に訪れるお客さまなど数少ないとはいえ、なにかこの家にはあるのだろうかと、気を病ませたり、気味悪がられたりしそうです。
毎回毎回お護摩を、と思ったら、一年で十二枚ものお札をいただくことになってしまいます。


ところで。
煩悩おばさんがこれと決めた願意は?
あれこれと望みが多そうです。
…まぁそれは秘密、ということで。
願い事は口に出さない方が叶うという説もありますし。



 (鑁阿寺さんの手水鉢)

No.321

(続き)

…おおっ!

広い空間が広がっていました。
十台以上余裕で置ける、未舗装の駐車場です。
周りは森や林といった山中の駐車場ですのに、ほとんど草のない、手入れの行き届いたところでした。

…たぶん、なんですがね。
これ、ご住職さまがお護摩修行を終え、十時頃までの間に草むしりなどをして過ごされているんですよ、きっと。

時々ご住職様との草むしりというワードが出てきます。
してみると、またご住職さまの草むしりの範囲がひろがった、ということでしょうか。

そしてそのあと下山して、本坊である最勝寺の御本堂でお勤めをされるのです。

涼しくて、日陰で。
とても過ごしやすい空間です。

ここでコンビニで買ったお弁当を食べてから、お堂へと向かいます。


うーん、久しぶり♡

その久しぶりとなる空白の時間に、参道である石段には、その道を照らすためだけにはあまりに立派なライトが細かに設置されていました。

そう、最近は上の天空の西公園とやらと連動するかのように、ここ毘沙門堂もライトアップされているとかいないとか。

(ライトアップ、必要なのかなぁ)


古き良きものが、何やら方向性を変えて変化することに、抵抗感を抱く夫と私。

まぁ、それを良しとお寺さんが思うならば…です。

年若い、息子さんである副住職さまの考えることに、さして意見することも無く、やりたいようにやらせて、少しづつその職をスライドさせているかのよう感じるご住職さま。

…私はとても淋しいし、新しい風が吹き荒ぶこのお寺さんに違和感しかないのですが。


…だから正直、歩いてまで来ようとは思わなくなっていたのです。


それでも。
石段を登って、途中にある手水舎とかは特に変わりなく。

以前はここに造花による花手水がなされていましたが、それはちょっとどうかと思っておりましたが、そうそう、それも副住職がお寺に入った頃でありましたね。

花の好きな住職ご夫妻が育てる花がたくさんあるはずなので、どうしてもだったらやはり、他のお寺さん、神社さんのように生花を使って欲しい、かなぁ。

まぁ、花一輪も生きとし生けるものですので、花の盛りに花だけを落として水に浮かべるというのも、綺麗だけれどどうかなぁとも思う私なので。

No.320

(大岩山毘沙門天)

「ああ、毘沙門さまかぁ。しばらく行ってないな。行こうか」
そう夫は明るく答えました。

文字にするとキツい私の言葉も、(…聞いたところでキツい?)ウン十年ともなる付き合いの夫には、屁のようなもの、さらりと流して、言いたいことだけを答える技も修得しています。

「でも忌明けで、今回初めての朔日参りだから、いつも参拝している神社さんへは絶対行きたいんだけど」
「ああもちろん」

なにがもちろんかはわからないけれど、まずは鎮守さまの朔日詣を済ませ。
お隣の県、栃木県足利市へと向かったのです。…もちろん夫の運転で。

久しぶり、と言うだけあって、ともすれば道に迷い気味。
実は足利のごくごく一部であれば、私の方が詳しいくらいです。

でも山道は絶対無理なので、「運転します」とは言えない私。

その実際の山道を走行する車窓から、自分で運転することをイメージすると、やはり絶対無理だと思った私。

そんな道で対向車が!
…ちょうど広めなところでよかった。

麓は五百羅漢さまを山内に安置することを計画して、女坂の入口すぐそばには五百羅漢さまがもうすでに何体か設置され、小さな羅漢公園のような広場までが造られていましたが、山道は以前とはまるで変わらない。

でもこの山道を毎朝四時半には登って、お護摩をなさるのがこちらのご住職さまです。
数キロ登クネクネした山道を雨の日も雪の日も登って、毎日お護摩修行をなさっています。

そして下山されて、再び午後にはまた上の毘沙門堂へ。

何年も何十年も続くご住職さまの日課です。


いつも穏やかな優しい笑みを浮かべ、「遠いところをよくお越しくださいました」と、お迎えくださいます。

あ、駐車場が見えてきました。


四台がやっとの小さな駐車場は満車。
新しくなったという『天空のなんちゃら公園』駐車場へ向かうことになります。

…と。

その山門すぐ前にある駐車場からすぐのところに、『大岩毘沙門天駐車場』という案内の看板があり、のぼり旗があるではないですか!

以前はそんなところに駐車場はありませんでした。
ここに置けなければ、上の『西公園駐車場』に停め、歩いてくるしかなかったのです。
その西公園に向かうのとは反対の、左へ向かう細い整備されていない道を恐る恐る走って行きました。


No.319

(続き)

「あのさぁ?本気ならいいんだけれど、鎮守さまに行くってことなんだけれど?行かなくていいと考えてるの?」

…威(おどし)とも取れる私の言葉。
私としては決して威などではなく、むしろそうやって生きてきた期間が長い分、そうした生き方、考え方があることを知っていて、今後、彼とこうした神社・仏閣を参拝する際、私側からの配慮を学習するため、どうしても聞いておきたかったのだ。

実際、彼は初詣よりも年越しでお酒を飲むことを選んで過ごしているし、私はそれはそれでずっと尊重している。

というか、私自身が初詣を始めたのなんて、ここ十年ほどの初心者だ。


そもそもが夫と私は長いこと神さま仏さまと縁を持たず過ごしてきたことをもったいないと思い、あれこれを学び始めた私とは違う。
彼には信心深くて、あちこちの神さまや仏さまの(特に仏さまだったらしい)参拝に熱心だった同居のお祖母さまがおられたし、連れられて一緒にお詣りにも行っていた。
土壌が違う。

そこから、彼なりに構築してきたものがある。

…まぁ、彼の親の世代となると、ことに義母はお世辞にも信心深いどころか、(えっ?それでいいんかい?)と、私が思うくらい、関心がなかった。
なにせ夫の初七日に旅行に行ってしまう強者だ。

大晦日から元旦にかけて家族で酒盛りをして過ごすのが彼の実家であったようだし。

でも、義父はきちんと歳神さまをお迎えする儀式はきちんとされていたが。

そこを継承した子供はいないようだ。


ということから、私は一人で初詣に行くし、今回、今後こうした夫の休みの土日等、初詣のように一人で出かけるかどうかを判断したかったのだ。

…どうやら朔日参りにはあまり積極的ではないらしい。
ただし、行ったことのない神社さんであるとか、参拝はしたことがあっても朔日参りをしたことのない神社さんであれば行きたい、ということらしい。
言葉では言わなかったが、彼の今までの言動を振り返りまとめるとそうなるようだ。


なるほど、と思い一人で出かける準備をしていた私、
「ああ、一日は大岩毘沙門天さまのお縁日でもあるよね」
と頭に閃いた通りに声にした。
なんの考えもない。

なぜならば大岩毘沙門天さまへは何度も参拝しているし、一日の護摩供にも何度も参列していたからだ。


…おそらく行かない。




No.318

【大岩山毘沙門天】

この六月、スタートは土曜日。
夫が休みの朔日で。
「予定がないなら私は神社さんにお参りに行くので」
「そう、じゃあ行ってくれば?」


…聞き間違いだろうか?

「いってらっしゃい」と夫。

お、おう。

「どこの神社さん?」

…これは神社仏閣珍道中史上初の出来事。
金魚のフンのように
「儂も行く」
と言っていた夫に何があった?


…まぁ、あったにはあったのだ。

「いつもいつも一緒に行くって言われると、遠慮したり、我慢することだってある。
いつも一緒に行動しなくてもいいと思うんだけど」
とのたまわった私。


「おついたちなので、いつも行く神社さんだけれど?」
「そうか。いってらっしゃい」

…。

「あのさぁ?本気ならいいんだけれど、鎮守さまに行くってことなんだけれど?行かなくていいと考えてるの?」

…私はどの宗教にも属してはいない。
だからと言って無宗教かといえば、そうではなくて、日々の暮らしのなか、神さまや仏さまがおられることに感謝して崇める、そうしたことを常に頭におき、…そう昔のひとのように、暮らしの中に常に神さまや仏さまがおられ、お護りくださることに感謝して。

そんな生き方に憧れておりますので、毎日は無理でも鎮守さまであるとか、守り本尊さまがおられるおてらさんに、よほどの用が無ければ、朔日まいりとか、十五日のお詣りであるとかを大切にしたいんです。

(こ、これは…。思っていた以上に我慢して付き合わせていたんだろうか)
(いやいや、私とて土日に何かそうした日があたれば、諦めたり、朝六時前から家を出て、いつものお詣りを済ませたりもしたのだし…。

これはもう、神社仏閣珍道中自体が終わるのかもしれない。

あ、いやいや、元々珍道中であるのはひとえに私の存在によるものだし、別に珍道中は一人でも続けいくので、決して終わりはしないのだが。
ともに巡るのは終わりなのかもしれない。

逆にいえば、朔日が土日にでも当たらなければ、それこそ初詣まで鎮守さまにへお詣りしないのが夫。

今まで行ったことのない神社仏閣へなら行きたい夫。


これからは二人揃ってのものは、そういった形での珍道中に変わるのかもしれません。

まあ、氏神さまへの初詣なども一緒に行ったことがないですしね。

No.317

猫どころかネズミの額くらいと称するわが家の庭には、いま六種類の花が咲き、もう一種類があと少し、日に日にその蕾を大きく、そして青い色合いを滲ませながらふくらんでいるところであります。

地植えのものは四本で、今年娘から贈られたもの、昨年やはり娘からもらったもの、四種類が鉢植えとして玄関の門扉を開けたところに所狭しと並べられています。


紫陽花が好きなのかと思われるかと思いますが、実はそれはここ数年のこと。
むしろ夫が紫陽花が好きだと申しておりました。

最初は七色に次々花の色を変えるという緑色の紫陽花に魅せられ購入したことから始まりました。
物珍しいこと、そうした花を愛で癒されたかった時期とが重なってのことでした。


毎日毎日残業して、次ぐ朝寝不足な顔で出かける夫に、せめて朝仕事に向かうとき、玄関に咲く紫陽花の花を見て癒されて欲しいと思ったのです。

が。
夫は紫陽花の花を愛でる余裕すら無かったようで。

というか花を見て綺麗だとは思うものの、その時だけでよいタイプであったような。

花に水やり、とかは義務化でもされなければ、思いすら抱かないタイプの人で、さまざまな花の時期をうたうニュースを観てはあちこちに行きたいと言う、育てるとかいう気はさらさらありません。


今、狭い玄関前に、これでもかというくらい紫陽花の鉢植えが並んで、ちょっとした紫陽花の小道…道ではないですね、数歩の通路となっていますので、さすがの夫の目にも入っていますが。
娘からの鉢植えもあることですし、ね。


この時期が来ると、鎌倉に行きたくなります。
とはいえ、紫陽花で有名なお寺さんは、…たとえば明月院などは行列で歩くほどだと言われ、そうした時期をあえて外して参拝するくらいです。

それは東慶寺さんの〝イワカガミ〟という花の時期だから、なのでありました。

とはいえイワカガミもアジサイ科の花なのですが…。


コロナ禍以来、そして鎌倉殿の大ブームもあってすっかり鎌倉から遠ざかっており、さらには今、コロナ禍が過ぎ去ってオーバーツーリズムが叫ばれ、人混み嫌いな珍道中ペア、近くて遠い、遠くて遠い鎌倉に、今なお行けずにいるのでありました。



  (イワカガミ)

No.316

六月に入り、紫陽花の美しい時期となってきました。

紫陽花は、日本古来の伝統的な花で、その七変化する色味は虹にたとえられます。

そんな紫陽花を使ったおまじないがあります。
あるいは昨年も紹介したかと思われます。


それは。
六月の六がつく日、六日・十六日・二十六日に、紫陽花の花を一輪摘み、半紙でくるみ、可能なら〝水引〟でしばって、軒下や玄関に逆さに吊るすと『厄除け・開運』になるというものです。
また穢れの多いとされるトイレの浄化にもこれを飾ると『浄化』になるといいます。

諸説あるようで、六月ならばよいとするものもあるようですし、『六月十八日』とする説もあります。
十八日は密教系の占いで『健康祈願の日』とされていることに由来するようです。



一年経ってカリッカリに乾燥した花は、砕いて粉々にしてお塩をまぜ、それを川や海に流すと良いとされる説もありますが、いずれにしても感謝の意を込めて処分します。


関西によく知られるおまじないのようです。
このおまじないをされている方を一人知っていて、この方は群馬県生まれでありますが、大阪で長く暮らされ、それでももう群馬に戻られてかれこれ二十年ほど経つのですが、いまだに大阪弁バリバリで、性格もさっぱりとし、芯の強い方なので、てっきり大阪人かと思っていたのですが、実は群馬生まれ、群馬育ち出会ったという方であります。

この方は玄関に吊るされておられます。
お庭にあるのは鉢植えの小さな紫陽花なので、あるいはこのおまじないのためにこの鉢植えがあるのかもしれません。


紫陽花の切り花も最近は売られていたりもしますが、ごくごくわずかなものでしょうか、家に紫陽花がないとなかなかできるおまじないではありませんよね。




話は変わりますが、あの【花まつり】でお釈迦さまの誕生仏と呼ばれる御像にかけることで知られる【甘茶】も、紫陽花の仲間ですので、今まさに花の時期であります。

甘茶として使われるのは葉の部分ですが、せっかくなので写真を。


   (〝甘茶〟の花)

No.315

(続き)

そんな社会背景は実はお坊さんを悩ますところでもあり、戒名を値切られたり、「戒名なんかいらない」と言われることもあるといい、上手く受け入れてもらえるよう、お坊さんから戒名について、そしてひいては戒名代について長いお話をされることもしばしばあるようです。


義母のそれは先に亡くなった義父に合わせて一文字同じくし、正妻の証として〝室〟の字を付けるというその宗派の戒名の決まりごとにならい、さらに生前の名前から一文字を付けることとしたため、お坊さんが決めるのは一文字のみとなり、義兄などは
「おふくろの戒名は一文字ウン十万円だ」などと公言しておりました。


また、私の祖母のそれは、何人もの子を病で失い、さらには、若くして夫を亡くし女手一つで四人の子を育てた事に感謝した叔父貴が、〇〇院から始まり清大姉で終わるものを授けていただいたため、先に亡くなっていた夫である祖父と並べた時、かなり長さの違うものとなってしまっておりました。


戒名のこと、ではなく、お釈迦さまが出家者が葬儀を執行することを禁じていたということに驚いて筆をとりましたのに、またまた脱線しているおばさんでありました。

No.314

江戸時代の寺請け制度以降、先祖代々の墓が菩提寺に置かれることとなり、身内が亡くなると、お坊さんに戒名をつけてもらい、お経をあげてもらうのが当然のこととなり浸透してまいります。

そういった時代背景から今の葬儀のあり方が確立していったのでしょう。


ところが。

実は、仏教の開祖であるお釈迦さまは、出家信者=僧侶が葬儀の導師になることを禁じていたというのです。
平たく言うと葬儀を執行をすることを禁じていた、ということで、それは出家信者に修行に専念させるためであったといいます。
それなのでお釈迦さまの葬儀も在家信者が執り行い、弟子たちはそれに参列していたといいます。


日本で仏式葬儀が広まったのは鎌倉時代以降のことで、禅宗や真言律宗などの僧が積極的に庶民の葬式を執り行ったからだといいます。

しかし、出家者が葬儀の導師になることは、お釈迦さまが禁じていることは日本にも伝わっていました。
そして当時在家信者の葬送儀礼といったものはありませんでした。

そこで僧たちは出家者同士で弔う儀礼を応用し、故人をまず出家させて=僧にしてから葬儀を行うようにしたのだといいます。
戒名をつけるのも、僧になったことを示すものでありました。

僧=仏弟子という図式から、それを引き継いで、今、『仏弟子』となった証として戒名を授けられるような形となっています。


その戒名、戒名代というのがあって、戒名の格によって値段が異なります。
これが、遺族にとっては悩みどころの一つ。

格を示したいとなると『〇〇院』から始まる長い長い戒名となります。
それをつけてもらいたいと思う遺族の方もおられましょう。

ところが。
現代では跡継ぎの人=祭祀承継者となった方も特にその宗教の教義を学び理解し信仰しているわけではないという方が増えています。
戒名代が高いと感じる方も多くおられる。

実際、〇〇〇〇居士・大姉とかの方が〇〇〇〇信士・信女より少し格が高いとされ高額となるようですし、〇〇〇〇大居士・清大姉の方がさらに格も値段も上がるとか。
戒名にもランクがあって、それで値段が変わってきます。

安くあげたいと思っても、代々継承してきた戒名のランクがあれば、なかなかそこを下げるのも悩みどころでありましょうし、そもそも夫婦の片方が先に亡くなっておれば、そこは合わせるのが普通となってきましょう。




No.313

(続き)

…また大風呂敷を広げすぎて、何を言いたかったのか、わからなくなってきていますが。

とりあえず。

ただ、最後に、
いつうかがっても、檀家、檀家でないに一切こだわることなく、
ご自分の知る限りの学んだ知識をわかりやすく伝えてくださったり、
道を伝えてくださるお坊さんがおられるのも書いておきたい。

それもお一人ではなく、何人も。


別にね、それを〝ただ(無料)でして下さい〟って言ってるわけではありません。

せっかくイベントをひらかれるなら、そうした機会も持っていただけたらな、と。


あれ?
そういうことが言いたくて書いてたのでしたっけ?
…って、本人がわからなくてはもはや誰にもわかりませんよね。

それではもう風呂敷をたたみましょ。

…ご清聴ありがとうございました。

No.312

(続き)

これがキリスト教の教会などですと、日曜日には必ずミサをやっていて、誰でも無料で参列できます。

聖書もその場でお借りできるし、その日選ばれた聖書の一節を読み上げたのち、解説もしてくれます。

ありがたいことですよね。

そこに信仰心を抱くかどうか、〝お試し〟することができる、これ以上ないくらいのチャンスですし、教会というのはそんなことすら考えておらず、ただただ門戸を開いている、ただそれだけなので。

求めよ、さらば与えられん、です。


これがなかなかお寺さんは、無い。

神道の神社さんなどは土俵すらが違う。


最近のお寺さんは門戸を開いてくださっているところが増えていますが、法話や読経という形もあるにはあるのですが、どちらかというと
『まずお寺に親しんでもらいましょう』という趣旨でのイベントが多いのが現状ではないでしょうかね。

私などは檀那寺のない、いわゆる檀家ではない人物ですので、檀家さん向けのもっと宗教色の強い法要などには参列できないことが多いですし。

写経の会などに参加しても、お経を書写、あるいはなぞり書きするだけで、お坊さんの読経も無く、法話もなく、ただ場所の提供、みたいなところもありますしね。


コンサートだったり、
マジックショーだったり、
撮影会だったり…。
…ええ、お寺の本堂でモデルさん呼んでの撮影会、などというのにも、たまたまなにも知らずに遭遇したこともありました。

もはやお寺という舞台の提供でしかないところ、お寺もあるのが事実ですし。


商業目的で作られた御朱印を、かげで聞こえないであろうと文句たらたら言いながら書いて、それを渡すようなお寺さんすらあったのも事実です。
御朱印三枚(三種類)千円という価格設定であったり。

…まぁ、お寺さんも慈善事業ではないですし。
お坊さんも人なので、人によってはそういったお坊さんもいるのも、…しかたないですよね。

でも、でもですよ?

お寺さんでお坊さんからお話を聞いて、
お経ってありがたいものなんだ、とかを知ったり、
法話を聞いて心にささったりとか、
そういった人たちも結構いるものなんですが…。

そういったことを求めてお寺に向かう人もいるのですが。



No.311

(続き)

お釈迦さまは、最初から最後まで決まった相手に、順番に教えを説かれたわけではありません。

その時その時によって聞いている相手が違います。
お釈迦さまは、相手に応じて、教えを説かれたのです。
これを【対機説法(たいきせっぽう)】というのだといいます。

それがちょうど、病に応じて薬を与えるようなものなので、【応病与薬(おうびょうよやく)】ともいわれます。

それゆえにたくさんのお経の中には、矛盾したようなことも説かれているといいます。

それがまさにその病に例えるとわかりやすく、例えば症状としては「お腹が痛い」という人があったとして、
それが寝冷えであれば、「温めなさい」となりますし、
盲腸のような炎症であれば「冷やしなさい」となる。

これはそこだけを切り取って聞くと相対すること、矛盾していることともとらえられますが、立派なエビデンスがあるもの。


お釈迦さまは、人々を幸せに導く教えを説かれたのであり、死んだ人のために教えを説かれたことはありません。

生きている人のために、生きている時に本当の幸せになれる道を教えられたのです。
ですから、その教えが書き残されたお経というものは死んだ人のためではなく、生きている人のためのものなのです。


でも。

お経に触れる機会などほとんど…いやほぼないのが現実です。
…もったいないことなんですね。

そうは言ってもこんなにあるというお経に対峙するのは、難しい、というか無理です。


だから。

…お坊さんのお話はありがたいんですね。


でも悲しいかな、私たちって普通に生きていたら、なかなかお坊さんのお話など聞けない。
…というかお会いする機会など無い。
聴いてもわからないといえばわからないお経も、まさに葬儀や法事のとかくらいしか聞けない。


曹洞宗のあるお寺さんのお坊さんいわく、そのお坊さんが葬儀にお読みになるお経は【遺教経】、お釈迦さまが亡くなる床で、言い遺した言葉をお経にしたものだと。

まさにそのお経、お釈迦さまの亡き後どう生きていけばよいかを説いておられるお経であります。

私など初めてお聴きしたとき感動して、のちに調べて取り寄せて購入したくらいです。


No.310

(続き)

そのたくさんのお経、一切経には、八万四千の法門が説かれているといわれ、
お経は七千余巻、文字数でいうと、約四千万字といわれます。


仏教に何が教えられているのかは、一切経を読まなければ分からない。
…そう言われます。

しかしながら七千余巻となるとあまりに多くのお経です。
僧侶でもない、ましてや仏教徒でもない1おばさんがチャレンジするにはハードルが高すぎます。
法華経のたった一部にすぎない観音経ですらこの有り様です。


とりあえず。
一切経にはどんな種類のお経があるのでしょうか?


実は一切経七千余巻は『小乗経典』と『大乗経典』に分けられる、といいます。

『小乗経典』というのは、『阿含経』と呼ばれるお経やそれに関連するお経と、
お釈迦さまに関連する68のお経であるといいます。

『大乗経典』は、
【般若心経】を含む【般若経】に関連する42のお経、
【法華経】に関連する16のお経、
【華厳経】に関連する32のお経、
『勝鬘経』『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』などを含む、【宝積経】に関連する64のお経、
『涅槃経』に関連する23のお経、
『大集経』に関連する28のお経、
『盂蘭盆経』『維摩経』『薬師経』『正法念処経』…などなど、
それ以外の密教ではない423のお経、
密教の573のお経があるといいます。

もはや名前すら聞いたことがないお経まであり、そしてその数の多いこと、多いこと。
しかもまた、これはある一つの代表的な分類で、ここに入っていないお経もあるといいます。


…修行も厳しそうですが、
そうですか…、お経だけでもこんなにありますか…。
僧侶になるのって思っていた以上に大変なことだと、あらためて思いました。


で。

…こんなにお経について掘り下げて考え出したのは…なんででしたっけ?
尊くてありがたい教えを〝掘り下げて〟などと申してはいけませんが。


そうそう、そうでしたそうでした。

元はといえば、観音経があまりに読経しづらくて、まずは意味を知ってみようと思って、現代語訳を知ったら、その今、現代にも通ずる内容の素晴らしさに驚き、感動して、調べていたら、またいつものように風呂敷を広げすぎてわからなくなったんでした。

やれやれです。

No.309

(続き)

お経はアジアの他の言語にも翻訳されていますが、大きく分けると、
サンスクリット経典、
パーリ経典、
漢訳経典、
チベット経典があるといいます。

インドの言葉では口伝で伝えられていて、サンスクリットが書き残されたのはかなり後だったといいます。
また、パーリ経典と呼ばれるものは一つの宗派が伝えていたもので、五世紀頃に編集されているといいます。

日本でも読まれている『漢訳経典』が、最も古くて色々な宗派の多くの経典が残されているといい、パーリ経典の10倍あるといいます。
その漢和経典の経を全部まとめて一切経というといいます。


では。
その一切経はいったい何巻くらいあるのでしょうか。

お釈迦さまが四十五年間さまざまな相手に説かれた教えを記録したものですので、その数は、『一切経七千余巻』、といわれるほど、たくさんのお経となります。

唐の時代の730年に、智昇という僧が作った『開元釈教録』というお経の目録に、お経を分類しています。

目録だけで二十巻あるとます。

話はとんでしまいますが、
その前半十巻には、時代別、翻訳者別で分類し、
そこに記録されたお経の数は全部で七千四十六巻あるといいます。
一切経七千余巻といわれるのも、そのためかもしれません。




No.308

(続き)

それは【中阿含経(ちゅうあごんきょう )】等ではっきりと説かれていることだといいます。


約二千六百年前、お釈迦さまがご存命の時代にも、この疑問を持った人がおり、お釈迦さまに直接質問したのだといいます。

「お釈迦さま、お経をあげると、
死んだ人が浮かばれるという人たちがいるのですが、
本当でしょうか?」


その質問を聞かれたお釈迦さまは、
静かに足もとの石を拾われると、近くの池に放り込まれました。

「この池の周りで、石よ浮かび上がれと言って祈れば、
あの石は浮かんでくると思うか」

「いえいえお釈迦さま、そんなことで石が浮かび上がるはずがありません」

「その通りだ。
石は自らの重さで沈んでいったのだ。
どんなに周りで浮かび上がれといっても、浮かび上がることはない。
それと同じように、死後、苦しんでいる人は、その人自身が死ぬまでに造った悪業によって決まったものだ。
周りでお経をあげたからといって、どうにかなるものではないのだ」

(出典:『中阿含経』)

このお経の中で、お釈迦さまははっきりと読経は死者のためにならないと教えられているのです。


はて。

そもそもがお経って、お釈迦さまの死後、弟子たちが生前の教えをまとめたもの、なのでは?

だとしたらこの発言自体がおかしなことでは?


たしかにいま、お経として伝わるものの全ては〝お釈迦さまの教えを弟子たちがまとめた〟ものですが、お釈迦さまが出家される以前から僧侶は存在しておりましたし、当然その根本となる教えがあって、そこにお経があっても不思議ではないのです。


つまりお経というものは全て『生きている者がどう生きるべきか』をお釈迦さまが説かれたもの、ということになります。

ところが。
お経というと、難しい漢字ばかり書いてあって、
難しいことを「お経のように難しい」といわれるように、何が書いてあるかなかなか分かりません。

そもそもお経はインドで説かれたのになぜ漢文なのかといいますと、
お釈迦さまは、インドの方でインドの各地をまわってインドの言葉で仏教の教えを説かれたのですが、その教えのありがたさに深く感銘した者たちによって中国の言葉に翻訳されたからです。

これを翻訳したのが、有名な【三蔵法師】たちであります。

No.307

【お経】

以前にも一度書いておりますが、お経は全てお釈迦さまの教えであります。
お釈迦さまは三十五歳で仏のさとりを開かれて、八十歳でお亡くなりになるまでの45年間、教えを説かれました。
その間、お釈迦さまご自身は何一つ書き残されず、その時その時の相手に応じて話をされたのでした。

つまりお経の全ては、お釈迦さまの死後に弟子たちによって編まれたものです。


お釈迦さまがお亡くなりになった後、
五百人のすぐれたお弟子が集まって、
お釈迦さまの説かれた教えを確認し、まとめました。

これを【仏典結集(ぶってんけつじゅう)」と言うのだそうです。

仏典結集は、どのように行われたかというと。

まず、お釈迦さまのおそばに二十年以上仕えた、『多聞第一』といわれ極めて記憶力のいい【阿難】というお弟子が、
「私はこのようにお聞きしました」と語ります。

それについて他のお弟子達が検討して、
五百人全員間違いないと認めたものが、お経となったといわれます。

他にも、すでに弟子たちは分裂していたり、あるいは広いインドで、かつてお釈迦さまの教えを受けた者たちがいたり、その者たちが自分たちの受けた教えをそれぞれに書き残し、それもまたお経になったとも。


つまりはお経とは、お釈迦さまが、
生きている人たちに説かれたご説法を書き残されたもので、決して死者に対してのものではないのです。


ところが、私たちが普通に生活していてお経を聴く機会というと、大抵が葬儀・告別式であり、そうでなければその後の法要であって、熱心な檀家さんであるとか、仏教徒であるとか、…まぁ、私のような門外漢もごくごく一部存在していますが、…以外はまさに、そうした時以外はお経にふれることは無いと言っても過言ではないと思います。

「それは死者の冥福を祈るのであろう」
「亡くなった方が迷わず成仏できるようにであろう」


…それが、ですね。
「そうではない」と。
はっきりと断言された方がおられるのです。

それは誰あろう『お釈迦さま』ご本人なのでありました。




  (八重咲きのドクダミ)

No.306

(続き)

【阿耨多羅三藐三菩提】って、一文、これは毎日お唱えしている般若心経にも出てくるのですが、実は観音経にも出てまいります。

夫に、
「これってどういう意味?」
と聞かれました。
「サンスクリット語に漢字を当てたもの」
…これでは半分も答えていません。

まぁ、即答できるのがそこまでであったのが隠しようのない現実です。
独学なので合っている自信が無かったりもします。


般若心経は漢字を見ても全く意味がわからないところがあって、たとえば最後にある
【羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
(ぎゃーてい ぎゃーてい はらぎゃーてい はらそうぎゃーてい】
というところもサンスクリット語をそのまま音訳した言葉であって、この部分は特に御真言なのだといいます。

なので、そのまま唱えることに意味があり、意義があるため、漢字か当てられているというものであります。

このあとに『菩提薩婆訶』と続いて、『般若心経』と唱えて終わります。

無理に訳せば訳せるようですが、こういう言い方がされたら、私はまず覚えない。

だから『阿耨多羅三藐三菩提』の現代語訳も「覚えなくていいところ」と覚えているのです。
なんといい加減なおばさんでしょう。

ただここは御真言ではないので、ちゃんと訳されるもので、
『苦のない理想の世界に達した』となるようで、
この前の部分から
『依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提』

〝般若波羅蜜多の実践に依り、(すべての仏さまは智慧を身につけて)ついに苦しみのない理想の世界に到達することができた(得られた)〟
となるらしいです。

一方、観音経は
【阿耨多羅三藐三菩提心】
で締め括られています。
で、(前文を、「そこにいた人たちはみな」と訳して)これ以上ない理想の心を得られたと訳したものがありました。

まぁ、夫は般若心経にも観音経にも出てきたこの【阿耨多羅三藐三菩提】って何?
という疑問をいだいたわけで。

…ただ聞く相手が間違っている。

独学で学んでいるだけの、学もなければ徳もない、あるのは煩悩というおばさんです。



…ネットで調べた方が早いし、ずっとずっと良い答えを得られるのでは?
「うん」

そう答える夫にイラッとしたことも書いておこう。

すべては煩悩のなせるもの。

No.305

(続き)

この観音経、実は結構どきっとするような文言が含まれています。
たとえば、


毒龍諸鬼等 
若悪獣圍繞 
蚖蛇及蝮蠍 
気毒煙火燃 
雲雷鼓掣電
降雹澍大雨 
地獄鬼畜生 
生老病死苦 

…などなど、です。

九条錫杖経にもそれは同じように出てまいります。

魍魎鬼神
毒獣毒龍
毒虫之類
地獄餓鬼畜生とか。

…字面を見ているだけでゾワゾワしてきません?

あ、ちなみに他に知っているのは般若心経だけですので、他のお経にもこういった恐い文言がでてきているかもしれません。


これはもしかしたら私のような穢れ多い人間が、ただ「ありがたや、ありがたや」などと手を合わせて終わらせるようなことの無きように、(おっ!? なになに?!!)
と背筋を伸ばすような効果を狙ったものであったりしましょうか?






No.304

(観音経・現代語訳 続き)



暴走した権力によって不当な処罰を受けることがあっても、菩薩として生きることを忘れなければ、そうした権力はやがて滅びていく。

制限を受けて自由に生きることができないときもある。
それでも菩薩として生きることを忘れなければ、心は束縛されずに自由でいられる。

誹謗中傷、世の中には悪い言葉を使う人もおり、そうした言葉が自分の身にふりかかるときもある。
それでも菩薩として生きることを忘れなければ、言葉を発した本人たちのもとへと悪言は還っていき、やがて過ちに気付くだろう。

生きていればいろいろな人と出会う。もちろん心優しい人ばかりではない。
どのような時も菩薩として生きることを忘れなければ、あなたを害しようと思う人はいない。


自分を害するのは外側からだけではない。
自らの内側、自分自身の煩悩によって自分が苦しむということも往々にしてある。
そのような時も菩薩として生きることを忘れなければ、煩悩はどこかへと走り去っていってしまうだろう。

身を滅ぼすもの、毒となるもの、そうしたものが近づくときもある。
けれども菩薩として生きることを忘れなければ、そのようなものは自ずと去っていく。

人生には雨の日もある。雷の日もある。雹が降るような日もある。
心が折れてしまいそうな日々であっても、ただ自分が菩薩として生きることを忘れなければ、苦悩はやがて消えていく。

生きていくには多くの困難がともなう。苦悩がある。思いどおりにならないことばかりである。
それでも勇気をもって菩薩として生きることさえ忘れなければ、その生き方は人々を苦悩から救い、自分をも救ってくれるだろう。



まだまだ続くのですが、いったんここで。

…なんだかとても胸に響くことばかりです。

今生きているこの世の中においても、このお経に書かれていることって、誰にも心当たりがあることだと思うのです。

観音経は【念彼観音力】と繰り返し繰り返して織り込まれています。

そこが『菩薩として生きることを忘れなければ…』
と訳されています。

そう。
決して観音さまのお名前を念じれば、観音菩薩の力により様々な災いが去ると書かれているわけではないのです。
あくまでも『観音さまのしめした道を歩もうと生きていれば』、なのです。

具体的にこうある時、どうすれば良いかを説いているお経なのです。

No.303

(続き)

世尊妙相具(せーそんみょうそうぐー) 
我今重問彼(がーこんじゅうもんぴー) 
仏子何因縁(ぶっしーがーいんねん) 
名為観世音(みょういーかんぜーおん)

『観世音菩薩普門品第二十五』はこのような文言から始まっています。
『世尊妙相具』という言葉をみてもさっぱりピンとはこないし、
「せーそんみょーそんぐー」と言われたらさらに何一つ伝わってはきません。

『尊い人間性がその姿に表れているブッダに、私は問いかけた。
「仏の道を歩む菩薩のような人々のことを、どうして観音様と呼ばれるのでしょうか』

現代語訳をすると、このような意味になるといいます。

さらに続けて…。

『ブッダは偈によってその問いに答えた。
「観音菩薩のごとくに生きようとうさぎ志す者達が、様々な場所で人々の願いに応じている姿をよく見聞しなさい。

菩薩として生きようとする誓いは海のように深いもので、とても想像の及ぶところではない。

数え切れないほどの時間を優れた人物の傍について学び、
影響を受け、
そうして菩薩として生きようとする願いを起こしたのだろう。
その尊い生き方を讃え、そのような人々を観音様と呼んでいるのである。

私はあなたのためにもう一度、菩薩としての生き方を説く。
菩薩として生きる人々の名を聞きなさい。
その姿をよく見なさい。
心に想っていつも忘れないようにしなさい。
そうすれば、もろもろの苦悩は消滅するだろう。

たとえ人に害意を持たれて、奈落の底に落とされるようなひどい目に遭っても、菩薩として生きることを忘れなければ、怒りの炎は燃え盛ることなく心は穏やかでいられる。

欲の心が出て欲の海に漂流してしまい、様々な誘惑に負けそうになっても、菩薩として生きることを忘れなければ、欲にも溺れずにすむ。

人の裏切りなどに遭い、山から落とされるようなショックを受けることがあっても、菩薩として生きることを忘れなければ、太陽が空に浮かんでいるがごとくに悠々としていられる。

悪い心が湧き起こって道を踏み外すことがあっても、菩薩として生きることを忘れなければ、怪我をすることなく仏の道に戻ってくることができる。

敵意をもたれ、嫉みや恨みを買って危害を加えられるようなことがあったとしても、菩薩として生きることを忘れなければ、やがて相手の心にも慈しみの想いが生じてくる。


…続きます。

No.302

※すみません。大きなミスを見つけました。
〝法華経〟と書かねばならないところを〝観音経〟と書いてしまってありました。

あまりにも大きなミスで、話すら繋がらないので削除させていただき、差し替えます。
申し訳ありませんでした。

(以下、前レスの観音経と書かれた部分を法華経と直しただけの文章です)


(続き)

観音経、観音経と申しておりますが、正確には『妙法蓮華経観世音菩薩普門品(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五』。

『妙法蓮華経』というのは『法華経』のことです。


『法華経』には全部で二十八の章があり、ひとつの章のを「品(ほん)」と呼ぶようです。

なので『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』とは、『妙法蓮華経(法華経)』のなかの「観世音菩薩普門」という品(章)で二十五品、つまり二十五章となります。


ただ。
法華経のなかの、というところに、異議を唱える説もあるといいます。

鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』には『観世音菩薩普門品第二十五』の偈頌(げじゅ)はなかったといいます。
闍那崛多(じゃなくった)と笈多(ぐぷた)の二人が中心になって訳したものがあって、
こちらに『観世音菩薩普門品第二十五】の偈頌から加えられています。

そして、この二人のものが世に出てからは鳩摩羅什訳のものにもこの二十五が加えられたとのことで、つまりは、現存するほとんど全ての〝法華経〟にこの部分がある、ということになるようです。

No.300

(続き)

…これは、仮説を取り下げなくてはならない。
今聞いているのがなんというお経かがわかるようになったくらいでは、そのお経を唱えられるようになど、決してならないと。

回数を聞いて。
何度もお唱えして。
そうしてなんとかお唱えできるようになる。
…まぁ、そんなことは全くもって当たり前なことで。


…しかしながら。
私、「これが観音経です」と言われて聞いたことがなかった。
はねたき道了尊の月例祭では、どちらかと言うと、周りの方々の雑談混じりにしか耳にしたことがなかったし、今回の鑁阿寺さんの『観音経一千巻読誦会』ではいきなり御唱和することとなって、ちゃんとちゃんとは聞いたことがなかった。

ま、すへて言い訳ですよね、言い訳にすぎません。

ぶっつけ本番なのは、この簡単にネットで検索して聞くことができる時代に、予習していかなかった自分が悪い。


…聞こう。
まずは聞こう。

それから、この観音経を見よう。
読んでもわからないが、どんな言葉が使われているか、どんな文字が使われているかを見よう。

そして。
どんな意味が込められているかを学ぼう。


そう、来年まであと十一か月と何日かもあるのだ。

たとえ来年、鑁阿寺さんの『観音経一千巻読誦会』に参加しなくとも、
(でも私なんとか読めるようになった)
そう思える自分になっていよう。



…とか言っているBGMはあいみょんだったりする。

ま、まずはこの沈みきった気持ちを浮上させないと。

お、またまた言い訳をしているおばさんだ。

No.299

【観音経】

…読めないんですよ。
お唱えできない、というより、もう読めないレベル。

いまだ見たことのなかったような音の組み合わせと、単語。

まぁ、つっかえつっかえなら読めはする。
でも、そこに集い、心を一つに観音経を唱えるには澱みなく読めなくてはいけない。
まるでできない。

これはもしかして意味がわかれば読めるように、お唱えできるようになるのではないだろうか。

そう、お経に説かれた意味を知ることにより、見知らぬ、読みづらい単語の組み合わせのように感じる観音経をお唱えできるようになる、…かもしれない。

そんなことを考えながらもなかなかその時間を持てずにいた私。

そんな昨日。
雨降る中とはなりましたが、すっかり定例となった【はねたき道了尊】の月例祭に参列いたしました。

まずは錫杖経から。

なんのタイトル等も唱えず、いきなり錫杖経をお唱えになり、その法要は始まります。


そう、耳で聞いてなんのお経かわかるようになれば、そのお経はなんとかお唱えすることができる。

九条錫杖経はそこまでいっているのです。
だから自己流ではありますが、なんとかお唱えすることができるんだと思いたい。


そのあとまた一つお経をお唱えになり始めました。



…ん?!

これって観音経じゃん!

No.298

今朝のニュースを見て知ったのですが、つい先日こちらでお話しさせていただいた栃木県足利市に鎮座される【樺崎八幡宮】さん本殿などの屋根から、銅板およそ270枚がなくなっているのが見つかったといい、怒りがおさまりません。

それは27日のこと。
警察が調べたところ、本殿の屋根に張られていた銅板、およそ200枚と、本殿を囲う塀に張られていた銅板、およそ70枚がなくなっていたといいます。

これらの銅板は1枚あたり、縦およそ14センチ、横およそ56センチの大きさのものとなるといい、26日午後6時ごろに神社の関係者が本殿の見回りをしたときには異常はなかったということで、26日の夜から27日朝の時間帯にかけての犯行とされています。

足利市ではこの神社仏閣の屋根の銅板の盗難多発しております。

正直、この事件が起きたことを聞き、(ああ、あそこが狙われたら、もう取り放題かもしれない)と思いました。

周りには民家もなく、広い広い境内地。
さらには広い広い駐車場。
二十四時間誰でも入れる無人の神社。

狙われたらこれほど好条件のところは無いとさえ思われます。

ただ…。
よりにもよって神社の屋根、それも本殿。
そこに足を乗せて、換金という私欲のため、270枚もの銅板を剥ぐという行為。

しかもこちらの神社の本殿の床下には足利義兼公が入定されております。
ある意味…こう言ってはいけないのかもしれませんが、墓所でもあります。


どうしてそんなことができるのか…。

神社仏閣に縁なく生きていたときにあっても、…畏れ多かったし、怖かったですよ?

しかしながら、私が良い例で、親からそうした教えを受けずに育った人は増えているのであろうと思います。

それでも私の場合、親ではなくとも、祖母であったり、叔父であったり、あるいは近所の方であったり、なんなら友だちから、そうしたことを学んできました。

でも…今は近所の高齢の方との接点がなくなっていたり、お友だちと神社の境内で遊ぶようなことも減っていたりしましょう。


畏れのない人間ほど恐い存在はないかもしれません。


屋根が剥がされ、建物の保護が急務ともなっておりましょう。
ましてやこれから梅雨の時期を迎えようとする今であります。


はぁぁ…。


…許せん!

No.297

(兎神信仰からの和泉神社さんと、かつては共にあった不動寺さんについて)

和泉神社さんは広い広い境内です。
広い境内でありますというのに、不思議なことに住宅地の、住宅と住宅の間の道が参道となり、鳥居が一つあり、その参道は神社のほぼ真横につながっています。
まるでいくつかある鳥居の一つのようで、普通ですと社殿の真ん前に主たる鳥居がありそうな、そんな不思議な感覚を受ける参道です。

では、その社殿の真ん前には、といいますと、一軒の民家が建てられています。
一軒の民家とはいいますが、これがまた広大な敷地のお宅であります。
そしてそのお宅こそが、かつての不動寺さんのご子孫のお宅であり、そのお宅の敷地内、和泉神社さんの拝殿と同じ向きで、道に面したところに【京目不動尊】さまが祀られた不動堂があるのです。

このお宅のご先祖さまが代々ご住職を勤めた『不動寺』さんと、元は一つであった和泉神社さんが、明治時代に分離することを余儀なくされ、結果、今のような形でこちらのお宅が建ち、和泉神社さんが建つこととなっていったようです。

明治元(1868)年に公布された
・神仏判然令

・神社別当社僧復飾令
によって、今は廃寺となってしまった『不動寺』がこちらの神社のお勤めや社務を兼ねることができなくなってしまい、こちらの不動寺さんでも、ご住職の長男が復飾された、ということだそうです。

復飾とは僧籍を返還し、あらためて神職の資格をとることのようです。

つまりは、今現在の和泉神社さんの神職さまはどなたかはわからないものの、少なくとも、明治のはじめは、やはりこのお宅のご先祖さまであったわけであります。


…とはいえ。
和泉神社さんの御由緒までが伝わっているかどうか…。
せめて今こちらを管理されお勤めをされている神職の方がどちらにおられるかだけでもわかれば、御由緒につながるのではないだろうか。


思いは今、和泉神社さんに馳せています。


No.296

※前回のスレを読み直してみて、自分でもわからないほど、ただただ書き散らかしてあり、恥ずかしくなり、書き直したものです。
でも文章力か上がったわけではないので、たいして変わってはいないのですが…。


月の精である兎は勢至菩薩さまの使いとして信仰されるといいます。

そうなんだ…。

そして月讀命さまはまさに月の神さま、なのでやはり兎が使徒、眷属。


月に兎が住むという考えは日本だけではないといいます。
うさぎは夜行性の動物で、特に月夜にその行動が目立ったから、という説もあります。


満月のこの日、新暦ではありますが二十三日ということで、兎を眷属とするという勢至菩薩さま=二十三夜尊のお詣りに来て。

夫が行きたいと言って(ちなみにこの日、彼は人間ドックのための有休をとっておりました)、足利伊勢神社さんにお詣りに来て、そこで月讀命さまにお詣りすることができました。


なんだかもう、お導きな気がしてなりません。
まぁ、そう思うのもなかなか図々しい気もするのですが、でも偶然にしてはなかなかのもの。


そんなことをぼーっと考えていて、ふと、兎自体が神として祀られている神社があることを思い出しました。


因幡の白兎は鳥取県鳥取市に鎮座するという、その名も【白兎(はくと)神社】に兎神として祀られているといいます。
そして群馬県高崎市にも、兎を御祭神とした神社さんがあります。
高崎から前橋にかけて、兎神を祀る神社が点在していて、神社本庁が出している神社のデータベース「平成祭データ」では八社が記載されているといいます。

神さまの名前としては
『素兔神』
『白菟命』
「因幡之白兔』
『菟神」
とさまざまですが…。

白兎神はまさに鳥取の「白兎神社」を筆頭に山陰に祀られている神さまで、あまり他の地域ではみられないといいます。

それが関東の高崎に忽然と現れる『兎神信仰』。

中でも特記すべきは高崎市の【和泉神社】 さんでありましょう。
この他の神社さんとは異なり主祭神が『菟神 』さんなのです。

宮司さまも常駐されぬ神社さんであり、詳しいことはまったくわからないのですが…。

埼玉県の調神社さんのように、狛うさぎさんというわけでなく、大きくて立派な狛犬さまです。
うさぎの彫り物があるわけでもありません。

元々は廃寺となったお寺さんの境内社であったようです。

No.294

(足利伊勢神社さんの続き)

うさぎの人形のおみくじを社務所のカウンターに見つけたときの嬉しさといったらありません。
やはり月読宮に飾られていたうさぎはおみくじの子でありました。

しかももうその残り三体のみでありました。

もちろん、新しいものがご用意されていて、この子たちがみな、誰かの手に渡ったら、新しいおみくじとして陳列されるやもしれませんが、とにかく、出会えたことがうれしくて、しばし見惚れたものでありました。

社務所のガラス窓は閉ざされていました。
そっと手にかけると、…開かない!


えっ?
開かないってことは…?


他のおみくじは違うところにあって、お金を入れるところもそこにあるのですが、
うさぎのおみくじだけは社務所でお金を払ってお授けいただくようなのです。


ええっ!

狼狽えた私は時計を見ます。

まだ三時半。
時間的にはおられそうな…。


と、玄関にあるような呼び鈴があるのを見つけます。
その上を覆うように貼り紙がしてあって何か書いてあります。


ほっ。

これを押してお呼びすれば良いんだ。

とはいえ小心者のおばさん、実際にどなたか出て来られるまでは不安です。

「はい」
女の方が出てこられました。

…おそらく私、満面の笑をうかべ、その方にご挨拶をしたことでしょう。

まずは御朱印をお願いいたしました。
その間にどのうさぎに私の元にきていただくか、一体一体、お顔を見て心の中でそっと話しかけます。
「私の元に来てくれる?」

優しいお顔で微笑む子と、少しだけ寂しそうな子と、あまり視線を合わさない子と。

寂しい私は優しいお顔の子をそっと手に取りました。
手のひらでそっと包んで、御朱印に筆書きしてくださる間を楽しんでいました。

お金を納めて。

残りの二体、特に寂しそうな子に心の中で手を振ると。

なんと寂しそうな子、左足の先が欠けてしまっていたのに気づきます。

私はお人形を手に取っては選ばないので選んでいるときには気づかなかったのです。


…ああ、それで、それで寂しそうな悲しそうなお顔に見えたのか。

なら、あの子にすれば良かったな。


それでもおみくじです。
御神籤。
神さまからのメッセージです。

もう一体、というわけにはいきません。

ごめんね。
心でそう告げて、足利のお伊勢さんを後にしました。




  (桔梗草)

No.293

(足利伊勢神社さんの御由緒・続き)

… 大正十四年、市穴により、御社殿、社務所等の殆んどが焼災禍のため、惜しくも烏有に帰してしているが、直ちに仮殿を造営し、全年7月、在地(伊勢町二丁目地内)に移転し、奉することの許可を受けて、全年10月、仮殿遷座祭を執行した。

 当宮を永遠に奉斎して、神ながらの本姿をねがう氏子崇敬者の熱誠と奉賛とによって、伊勢神宮の御正殿の端麗にして簡潔、重厚にして単純さを表わす神明造りの建築様式で、御社殿を始め鳥居、社務所等諸建造物を新築に、昭和三年(1928)9月、起工式を執行、境内地749坪内に施工して目出度く竣工し、昭和四年10月17日、本殿遷座祭を斎行した。
その後、府県社以下、神社の宮号を改めることに付、昭和十七年、伊勢神社と改称(県知事)、又、村社に列格(内務大臣)、神饌幣帛料供進神社の指定を受け、いよいよの御神徳の宣揚、社頭の隆昌を期して現在に至った。特に当神社の神前結婚式は、当地唯一の古い歴史と格式をもって、多くの人々が御神徳を蒙り、今なお美わしいふるさとの今を受け継ぐ、足利の伊勢宮お伊勢さまと称えて、広く県内外の参拝、祈願する方々が訪れている。』


No.292

(続き)

こちらの神社の由緒は、案内板に書かれているのですが、欠損部分があって、ヒィヒィ言いながらなんとか読解いたしました。

今後は新しくされない限り、もっと消えていってしまうことでしょう。

また私がこちらを調べたくなった時のために、全文ここに残させていただきます。


【由緒】
 『当神社は、社伝によると、足利庄伊勢宮として、皇祖天照皇大神を奉斎して鎮祭され、新田、足利両家の尊崇を受け、鎌倉時代には源氏、殊に足利氏、尊氏、持氏、成氏等累代や衆庶の人々が連綿と崇敬され、足利尊氏の父貞氏の文書によれば、銀河寺の東南にある伊勢宮の勧請は足利家の武運を祈るためのものであり、先例に任せ怠慢なきようとの指示があり、この伊勢宮に由来するものと考えられる。それは古く平安時代の仁平元年(1151)の創建と伝えられる。
 其の後、天正年間(1573〜1592)には社殿が焼失した後再建され、徳川時代は一盛一衰、爾来編廃久しかりしに、弘化二年(1845)に伊勢神宮御師車館太夫が、旧社蹟を慕い来足し領主と諮り、社殿を造営し境内を整備して、摂末社などを奉祀し復興した。
 その後、王政復古国家多事の時代の要請により、旧社は空しく廃絶の厄運に遭遇するも、明治十四年、皇大神宮遥拝所として(境内地175坪)として再建し、明治三十五年(1902)には、本殿を伊勢神宮御造営御用人中川氏に委嘱し、伊勢宇治山田に於いて起工し、御正殿に倣い旧境内地に建設し、翌年に遷座を行い、奉祀するに至る。明治三十九年7月、神社復興の官許を得て往古の伊勢宮を奉称することも認められる。
 明治四十三年12月、明治四十五年5月の再度の神宮式年遷宮御造営残材御下賜の願出内務省造神宮使庁宛に提出のところ、特例を以て、大正二年3月29日付を以て御下賜の許可を受けて、全年8月15、16、17日の3日間に亘と、足利伊勢宮御下賜材御木曳行事が、古例に従い足利町中盛大に斎行され、足利、安蘇両郡の神官が奉仕して、近隣の町村から多数の参詣者で賑って奉祝した。足利の大正は、この祭りで明けたと言われた。よって足利伊勢宮の境域が整備され、由緒ある御社殿が造営される。大正九年(1920)市制施行に当り、旧鎮座地東町が御社名の名を以て伊勢町と改名されたことを、今忘れてはならない歴史である。

 
(続きます)

No.291

(続き)

月讀宮の存在を知って、わくわくドキドキしながら、その御前にいでましたところ、大きく見えたのは…覆屋でありました。

それでも小さいながら立派な屋根を葺いたお社でありました。

低くてこごんでくぐるくらいの石の鳥居をくぐると小さなお社が岩の上にありました。岩之上堂です。

…はて。
その岩に小さな小さなうさぎの人形がちょこん、ちょこんと置いてあるではないですか。

白い子、ピンク色の子、そしてまた白い、…おそらくは私の大好きな人形の付いたおみくじの子が。


…今回は初めてのお参りです。
お願いごとは基本いたしません。

なので。

初めて参拝させていただきます。
いつもこの地をお護りいただきありがとうございます。
今後もこの地を、ここに住まう人たちをお護りください。

と心の中で申し上げます。
それだけですので、夫がびっくりするくらい短いのです。

いつも伺わせていただいている神社さんですと、それこそ離れ住む子どもや孫のことまで、住まうところからその時その時のお願い事を申し上げてしまっておりますが。

なのでこのいつもの神社さんに夫が一緒に参拝するようなときには、びっくりするほど長いこと祈っております。
もちろん、拝殿前から少しズレて、次の方が参拝できるように場所を変えますが。


初めてのところでは、もうシンプルに上に述べたような事だけを申し上げます。

ただ。
もう一度でも良いので訪れたいと思うところでは、
(ぜひご縁をお結びください)
と申し上げます。

その時は自分の住まうところと名前も申し上げます。

そして次の参拝がかなったときは、初回にお願い申し上げた『再拝』の願いがかなっておりますので、そのお礼を心より申し上げます。
そしてまた訪れることがかないますようにと。


いつも遠くの神社さんではシンプルに前述した内容のみをお願い申し上げます。

基本、心に願うことはいつもお参りできるところでさせていただくようにしております。


で。
おばさんがこのあと向かった先は、…そうご想像通り『社務所』です。

御朱印も、ですが、もう〝あの〟うさぎのおみくじをひきたくてひきたくて、早足で社務所へと向かいます。

なので、御神木等もあったようなのですが、もはや素通り。


はい、煩悩のかたまりおばさんであります。


No.290

(続き)

見上げた扁額は『足利伊勢宮』と書かれておりました。

ん?
おお!こちらの扁額、『大勲住伯爵 東郷平八郎 書』と書かれています。
元帥 海軍大将の東郷平八郎の揮毫のようです。
…まぁ、この名前を一目見て、どなたかがわかる、そんな世代ということ、でしょうか。
といってももちろん、戦中生まれなどではありませんよ。


こちらは同じ境内に外宮もあるようです。
拝殿のよこに通路が見えています。

と。
何気なく目に入ってきたのは、ハーブを使ったスプレーの避虫剤。
お使いくださいと書かれています。
ありがたい!

こちらへくる前に参拝させていただいた鑁阿寺さんでは油断して、右足二箇所、左足三箇所を蚊に刺されてしまいました。
…この虫刺されも場合によっては命に関わる時代においても、自分に対しての虫除け対策はまるで頭にない、女子力ゼロ、というか生活に対しての注意力、というか危機管理力ゼロなおばさんです。
…とはいっても、鑁阿寺さんは特に草むらがあるわけでないので、あまりそのセンサーが働かない場所でもあったのですが。

こちらに来るまで、というか来てからも、意識の三分の一くらいで、その痒みと戦っておりました。

お言葉に甘えて、顔以外の露出している部分にさ、さ、さっとスプレーさせていただきました。

本当にありがたい。
痒いところに手の届く心配りです。
もちろん、すでに刺されて痒い箇所には効果はありませんが…。

外宮に向かう細道は緑豊かな感じです。

こちらの神社さんへの感謝を胸に、外宮への道へと向かいました。

拝殿の横の道へ入るとすぐ目の前に外宮が見えました。
その外宮の前、右側に。
不思議な金属製の箱が置いてありました。
まるで…そう、脚のない、四角の郵便ポストのような…?

よくよく見ると、なんとこの金属製のがっしりとした箱、お賽銭箱でありました。
初めて見る形です。

こちらにも同じように参拝の仕方を書いたものが貼られていました。

お宮の前には大きな石柱があって、『外宮 豊受大神宮』とありました。


そのお隣、ちょうど拝殿の裏側には月讀宮がありました。

私は嬉しくなりました。

この、私の住まうあたりでは、月讀命さまがきちんとしたお宮で祀られることがなかなか無くて、とてもとても嬉しかった。

しかも。
この日はまさに満月なのでありました。



No.289

【足利伊勢神社】

栃木県足利市に鎮座される【足利伊勢神社】さんへお参りさせていただきました。
こちらは足利駅のすぐそばであり、足利市の中心部に位置します。
鑁阿寺さんからも歩いて10数分、といったところにあります。
しかしながら今までなかなか参拝に至らず、今回初めての参拝となります。


鑁阿寺さんのそばにある市の無料駐車場に車をおいたまま、徒歩で歩いてまいりましたが、到着した足利伊勢神社さんはそれなりの台数の車を停められる駐車場をお持ちでありました。

歩いて参拝に向かった理由として、こちらは『足利のお伊勢さん』と呼ばれ大変人気のある神社さんとお聞きしていたからであります。

見えてきた白木の鳥居。
ワクワクは高まります。
石標があります。
『足利伊勢宮』と刻字されています。
…あれ?
…伊勢〝宮〟?

白木の鳥居には扁額は掛けられていません。
代わり、というわけでもないのでしょうが、この鳥居の前に対の提灯が掲げられていました。
白木の鳥居とこの提灯がたまらなく〝和〟の感じを演出していて、私はさらにワクワク。
この提灯には『伊勢神社』と書いてあります。

鳥居をくぐるとまもなく参道は直角にみぎてに折れます。
折れてすぐひだりてにこちらのご由緒が墨書されたものがあり、道の正面に手水舎が見えてまいります。

仄暗い参道となっていますが、決して暗さを感じません。

手水舎に近づくと黒龍の口から自動的に水が出始めます。
田舎者なので自動で水が出るのを見るとそれだけでテンションが上がります。
ましてこちらの吐水は出始めから勢いが良くて、それもまたテンションをあげてくれます。

手水舎が参道の正面突き当たりにあったので、また参道は大きく直角に道を曲げます。
ここまでの距離は本当に短いものです。

手を浄めて。

歩いて二十歩ほど、でしょうか。
こじんまりとした社殿が見えます。

明るい優しい気を感じます。
まるで私どもの参拝をすでにご存知で、お待ちになってくださったかのような、優しいあたたかい気です。

参拝の仕方が読みやすい文体で書かれたものが正面に置いてあります。


おおっ!

真正面に神鏡のお祀りされているのが見えます。

こんなに神さまを近くに感じられる神社さんは久しぶりなことです。

No.288

(続き)

この鑁阿寺さんの多宝塔=二重塔の開かれる毎月二十三日。
この開かれている時間帯が十四時から十九時という、私にすると少し不思議に思える時間帯です。

勢至菩薩さまが午年の守り本尊とされることも、いろいろなお寺さんを巡らせていただいて初めて知った私でありますが、この鑁阿寺さんの月に一度の御開帳に今回初めて伺って、『二十三夜尊』という表現をされていることに気づきます。

勢至菩薩さまを調べようとネットを検索してもその表現をしていることはほとんどないのですが、二十三夜尊とすると勢至菩薩さまというワードが出てまいります。

これが二十二夜ですと、それこそお寺さんの境内でなくとも見かけるくらいに二十二夜塔(ものによっては二十二夜講と書かれている)が建てられていたり、そこに如意輪観音さまの彫られた石塔も数多くあるため、庚申の日の庚申講のように、二十二夜講というものがあるのだと容易に気づくことができます。

二十三夜尊。

ということは二十三夜講というものも存在するということなのでしょうね。
だから、十四時から十九時といった、月を空に見ることができるような時間帯に扉を開ける、ということなのでしょうか?

この二十三夜、月の暦としては【月待】と呼ばれる日であります。

…あ、月待。
月待講。
月待講というのは聞いたことがあり、調べてみたこともありました。

やはり庚申の日のように、『講中』と呼ばれる仲間の人たちが集まって飲食を共にしながら月を拝むといったものであったように記憶しております。

おそらくはこの民間信仰に、諸仏のお縁日が結びついて、二十三日がお縁日の勢至菩薩さまが二十三尊となっていったのでありましょう。

調べてみると、江戸時代に〝二十三夜に勢至菩薩さまを拝む(あるいは念ずる)と、勢至菩薩さまの御利益が得られるという民間信仰があり、今でも二十三日のお縁日に勢至菩薩さまをお参りする信仰の残るお寺さんもあるといいます。

…なるほど。


私は午年生まれの息子の無事や幸福・健康を願って詣でましたが、そうした御利益も得られるというお詣りでもあったわけですか。

家内安全・開運招福・人としての道を踏みはずすことなく生きる知恵をお授けいただける…。


これはこれは!


まぁ、今回は当初の願いだけを。

でもきっと今後もやはり息子のことをお願いするだろうな。


No.287

(続き)

鑁阿寺さんの御本堂におられる胎蔵界大日如来さま。
そして多宝塔におられる金剛界大日如来さま。

たしかに。
多宝塔の大日如来さまのお手元は智拳印という、…大変表現が稚拙で畏れ多いものとなりますが、かつての…昭和三十年代時代の男の子たちが忍者ごっこなるものをする際、「〇〇のじゅつ〜っ」
と両の手を胸の前あたりで組んで人差し指を立てるポーズの手の形によく似た〝印〟を組んでおられました。


先日の二十三日に多宝塔にいたお寺の世話役の方がおっしゃることに、「御本堂と多宝塔の大日如来さまたちが胎蔵界と金剛界と異なっているのは、〝阿〟〝吽〟という対になっているからなんだよ」
とのこと。

阿吽?

狛犬や仁王さまではないでしょうに。
阿?吽?

そんな煙に巻かれた顔つきの私を満足そうに、満足そうに見つめながら
「大日如来さまには二つ梵字があるんだよ。
御本堂におられる大日如来さまの梵字が〝ア〟。
こちらの大日さまは〝バン〟
梵字の読み方から阿吽になっているってこと」

…ほう。

正直、心のどこかで(ほんとかなぁ?)と思いながら、その方のお話にうんうんと頷く私。

【胎蔵界】は大日如来の慈悲を象徴する世界。
【金剛界】は大日如来の智慧を象徴する世界とされています。

『胎』は『母の胎内』を意味します。
『万物の母=大日如来の愛をもって慈悲を授ける』という解釈となり、
一方の『金剛』は『何よりも固い』の意味があります。
何よりも固い仏の知恵をもって、あらゆる煩悩を打ち砕く』という解釈になるといいます。


あえて〝対〟という表現をせずとも、この二つをもって私たちを救ってくださる存在だということなのだと思うのです。

そもそも大日如来さまの梵字はいくつもありますし。

一説としてとらえればよいのかもしれません。




No.286

(続き)

こちらの多宝塔、足利義兼公の創建で、現在の建物は元禄五(1692)年に、徳川五代将軍綱吉公の御生母『桂昌院尼』公が徳川家の祖先の供養のためにと再建したものだといいます。


初めて見たとき、この塔の大きくどっしりしたありように、大変びっくりしたことを今でも忘れられません。
今でも見上げるとその大きさ、その存在感にみとれるくらいです。

相変わらず、寺社の建築様式やら屋根の造りなど遠覚えられず、専門的なことは述べられませんが、七段の石段があって、一階部分は正方形の形にそれぞれの辺に屋根が流れる『宝形造(?)』。

二階部分はなんと円柱形!
まるで丸い太い柱のようで、それに沿って回廊があり、その回廊にまぁるく手すりが付けられているのです。
これは江戸時代の大変腕のよい職人が関わったのではないでしょうか。

二階部分どころか一階内部にすら入れないので、本当のところ詳細はわからない、といえばわからないのですが、当時はこの手すりの曲線を造るには、熱を加えてはかなりの強い力で固定してこの形に成形していったのでしょうし、それを寸分のくるいなく継ぎ合わせ、屋根の上にある丸い回廊に合わせて取り付けていったのでしょうから、気の遠くなるような緻密な作業であったのではないでしょうか。

その上にやはり宝形造の屋根を造るのです。
円柱形からの屋根。
これもまた大変な作業な気がいたします。
まぁ、専門的な知識は皆無なので、この辺はおばさんの推測、憶測に過ぎませんが…。

その二階部分の屋根に相輪が聳え立っている、…そんな建物であります。

そして。
この一階部分の中央の大きなお厨子のなかに【金剛界大日如来】さまがおられ、その前に【勢至菩薩】さま、厨子の左右に十六羅漢さまが安置されているといいます。

もちろん大きな厨子ではありますが、この多宝塔は御本堂のような大きな建物ではなく、とりあえず一階部分は一般の建物の一階部分より少し高いくらいのもの、なので、御本堂の大きな見上げるくらいの厨子に比べたらそれは比べるまでもない大きさではあるのですが。

…こちらの大日如来さまの御開帳ってあるのだろうか。

御本堂の大日如来さまは春と秋の大祭に御開帳されているようですが。


解説によると御本堂の胎蔵界大日如来さまと対になっているということなのですが…。

No.285

【鑁阿寺】さん

毎月二十三日は、鑁阿寺さんの多宝塔(二重塔)が開かれ、こちらにお祀りされる『勢至菩薩』さまが御開帳される日。

勢至菩薩さまというと【午年】の守り本尊さまでありますが、勢至菩薩さま単体でお祀りされることはほとんどなく、たいていが阿弥陀如来さまの脇侍としてお祀りされております。

息子が午年。
以前落ち込んでいたこの息子を連れて、鑁阿寺さんの多宝塔にお詣りしたことがありました。
その日は御開帳の日、二十三日ではなかったので扉の外から。

親が元々はまったく信心深くなかったので、息子も当然、このようにお寺にお参りする機会は滅多になく、少し戸惑っておりました。

いま息子は昨年子どもが産まれ、それはそれは幸せそうな笑顔で、びっくりするくらいのイクメンぶりを発揮しております。

それでも。
母と法事でもないというのにお寺に参拝したのは新鮮であったでしょうし、心に残っていることでしょう。

この勢至菩薩さまのお縁日に鑁阿寺さんへお参りしたのは、もちろんこの息子を思ってのこと。

週一回しか休みが無い勤務であるのに、休みの日はほぼ必ず家族サービスで遠くまで出かけているようで。
相変わらずどこか子離れできないおば(か)さんは、そんな彼がちょっと心配。

とはいえ、やっと、この日初めて参拝できたので、それほど子離れできていないわけではありませんね。


閑話休題。

まずは御本堂へ。

そして多宝塔へと向かいました。

多宝塔のそばに、鑁阿寺さんの大イチョウがあります。
全周9.5メートル、樹齢六百年といわれています、大きな大きな木であります。

このイチョウのファンは多いようで、まだ葉の青い今であっても、大きなカメラを持ってこの木を撮影している方がいく人もおられました。


おおっ!
たしかにいつもは閉ざされている扉が開けられております。
ただ、多宝塔の中に入れるわけではなくて、大きなお賽銭箱でロックされていました。
そしてその向こうにお灯明を立てるろうそく立て。

…せっかくの勢至菩薩さまがよく見えません。

あまり大きくはない、金色にひかり輝く勢至菩薩さまの後ろに、結構大きなお厨子が見えます。

実はこちらにも大日如来さまがお祀りされているとのことでありました。

No.284

(続き)

桐生市の、個人の八百屋さんが所有しておられる『新田不動尊』さん。

こちらにはお不動さま以外に、三体の像がお祀りされています。
どのお像もみな、60〜70センチほどの高さの像がちょうど収まるくらいの木彫りの岩屋にお祀りされています。

お不動さまを中心に、向かって右側には椅子に腰掛けられた僧侶の御像。
左側にはおそらく行基さま。
さらに行基さまの左に達磨大師さまのお像が祀られています。

この三体のお像が、どれも実に精巧ですばらしいのです。

衣の裾の流れるさまであるとか、鋭い眼光であるとか、…仏像好きのおばさん、しばし言葉を失っておりました。
瞳は玉眼です。

明治時代というと、廃仏毀釈のあととはいえ、まだまだ優れた彫り師たちがいた時代で、神社彫刻や、山車や屋台の彫刻等を頼まれて制作していた職人が桐生にも滞在していたかもしれません。


この像を作らせてお祀りしたのも、このお不動さまとの数奇な出会いがあってのこと。

お不動さまとの出会いがどれほど嬉しくて光栄だったかを、この他の三体を見るだけで伝わってきます。


そして、時は流れても。
この不動堂とお祀りした御像を、誇りに思い、大切にお守りするのは四代後の七代目の奥さんにもしっかりと受け継がれています。

七代目であるご主人が亡くなられた後、このお堂を新しく建て替えています。


そんなお不動さま繋がりで、。私の彫った拙い手握り仏のお不動さまを十体ほど奉納させていただきました。
お赤飯と一緒にお配りくださいとお伝えして。


それか…かつてタニシが護ったように、私の小さな手のひらにすっぽり収まるお不動さんが、こちらのお不動さまを守ってくれてもいいな。

No.283

(続き)

この桐生市の本町通りに面した不動堂、『新田不動尊』は、お隣にある八百屋さんの所有される私設のもので、明治中期にこの八百屋さんの三代目さんが新田荘から遷座したといいます。

『ある時春吉の夢枕に、燃えさかる炎の中不動明王が立たれたといいます。
何かをお伝えになりたいご様子で、その立たれている場所に見覚えがあったといいます。

春吉は商売で東京と桐生を往来しており、その中途にある新田荘の景色に大変よく似ていると思いました。
この夢が気にかかり、三日後に新田荘にでむいてみると、田んぼの中に祀ってあった不動堂が焼け落ちてしまっていたのです。

ところが。
このご本尊の不動明王にタニシがたくさん付着し無事であったといいます。
タニシが身をもってお不動さまを火から守ったのです。

この事実にいたく感動し、夢枕に立たれたのもお祀りするようにとの御神託であろうと、お不動さまを桐生まで持ち帰り自宅にお祀りしたといいます。

それから間もない明治三十一年に、この辺りに全半焼六十八戸という大火が起こったのですが、このお不動さまの手前で延焼がぴたりと止まり、その霊験のあらたかさが人々を驚かせました。

それ以来こちらのお不動さまを参詣する人が急増したといいます。』

以前のお堂は、近所の方々が集まってお茶のみのできるようなお堂であったといいます。
五代目が昭和二十八年に改築したものの、老朽化が目立つようになり、平成二十九年に、七代目の奥さんが新たなお堂を建てたといい、その奥さんこそが、毎日店に立ち、八百屋を切り盛りする、今回お話させていただいた方であります。


「以前のお堂はもっと大きかったのだけれど、いまはもう集まってお茶飲みするようなお年寄りたちもいなくなってしまったし、お不動さまをお祀りできるだけのお堂を建てたのよ」
とにこやかながらも、縮小したことが少し悔しそうな申し訳なさそうな奥さん。

「屋根もね、ちゃんとお堂の屋根にしてもらったの。普通の屋根と違うでしょう?」

立派な立派なお堂です。


ご近所の方曰く、
「縁日にはお参りに来てくれた人に今でもお赤飯配ってるんだから、偉いよほんと」

お寺さんとかは関与してこそいませんが、毎日お供物をあげて立派に信心されて、なによりこちらをずっと護っておられる、ありがたいありがたいお不動さまでありました。

No.282

【新田不動尊(桐生市本町三丁目)】

ここ数日連日お寺さんをお訪ねしております。
写経であったり、彫仏であったり、いつもお邪魔させていただいているお寺さんであります。

今回は、特にお寺さんとも関わることなく、代々家族で守ってこられているお不動さまに参拝させていただくことができ、さらにはそのお堂を再建されたご本人とお話をさせていただくことができましたので、ここに記しておきたいと思います。


群馬県太田市に『新田不動尊』を名乗っておられるお寺さんがあって、ご縁をいただいたのかと思っておりましたら、それは全く関係がないようで、だいぶ前ですがこの珍道中録にも書いたことがある、私が伝え聞いた話どおりのお話がこの家にも残されているようでありました。


この不動堂、桐生市の『桐生八木節まつり』や『えびす講』の舞台である『本町通り』に面したもので、気づいた時には建て直され新しいものになっておりました。

(なんのお堂なんだろう)

神社仏閣に全く縁なく生きていた頃にあっても、不思議に思ったお堂でありました。
鳥居があるわけでもなく、何か近寄りがたい。
(お祀りされているのがお不動さまであれば、鳥居がないのは当たり前ですが、どなたがお祀りされているお堂か扁額もないため外から見るだけではわからないのであります)

私がこちらにはお不動さまが祀られていることを知ったのは、たしか桐生市のお祭りか何かを調べていて、…だったかなぁ。

大火があったときに、このお不動さまのお堂まできていた炎が、ここでピタッと止まってお堂から下は延焼せずに済んだというお話があって。

(あ、きっとあのお堂だ。あのお堂に違いない。
お堂に祀られておられたのはお不動さまであったのかぁ)

そう思ったのがはじめでありました。

こちらのお不動さまにぜひお会いしたい。
でもなかなか情報は得られない。
御開帳などがあるのかどうか。
とはいえわざわざ出向くこともなく、ずっと時ばかりが経っていきました。


それがこの間、忌明けのご挨拶に『桐生天満宮』さんを参拝した帰りに、本町通りを走っていて、こちらの前を通り、小さく扉が開けられていることに気づいたのです。

No.281

(続き)

産泰神社さんの幣殿の天井画は、この建物が建てられた江戸時代に、数名の絵師により描かれたものと伝えられているといいます。

その絵師が描いて以来筆を加え修復したことはないとのことで、剥がれて欠落してしまっているところもありました。

一応、これ以上の剥がれてしまったりしないような加工は施されているといいます。


…こういった古い物の維持というのは想像する以上に大変なようです。
それはお金だけではありません。

しかも神社さんはお寺さんのように檀家さんがありません。
…もちろん信徒の方はおられますし、地域で支えるところもありましょうが。

お寺さんでも檀家さんのいないお寺さんもあります。

そうした神社仏閣さんの、…聞こえは悪いですが経営は大変です。

ただの経営ではない、あくまでも神さまがおられ、仏さまの教えがあってのものです。
営業もできるものではありませんし。


宮司さまや、お坊さまは、笑顔でお話をしてくださったり、笑顔で話を聴いてくださる方が大勢おられます。
〝スマイル0円〟、はマクドナルドですが…。

ありがたいことです。

「ようこそお参りくださいました」と笑顔でお迎えくださる神社仏閣も多いです。

お賽銭と御朱印や御守りの授与をお受けすることくらいしか私にはできませんが、みなさまのご健康と、ご多幸をお祈り申し上げます。






No.280

(続き)

「それではご案内させていただきます。その前にお願いがございます。
置かれているものに手を触れないでください。壁にもふれないように注意してください」

足元よろよろのおばさんは急に緊張いたします。
それでもゾロゾロと前の方について進んでまいります。

おおっ!

拝殿です。

ぱっと上を見上げます。

…ん?
やっぱり源氏物語ではない。源氏物語ではなくて花鳥風月が描かれています。


ええぇっ?!
だったらやっぱり幣殿、ですか?

これはこれは貴重な体験です。

一般の参拝者は入って拝殿まで。
幣殿になどはいれはしません。

すごい、すごい!

幣殿に入らせていただくんです!

幣殿は御祈祷される神職の方が入るのみ、本殿などは神職の方ですら、中に入るのは特殊なときだとおっしゃいます。


そして上を見上げて…。


う、うわぁ💕

No.279

(続き)

産泰神社さんの駐車場は都会の小学校くらいの広さはあるかと思います。そこに八割ほど車が停まっています。

それでも、全員が全員、この天井画を見に訪れているわけではないでしょう。

う。

随身門の下が満員電車のようにすし詰め状態です。


…そうか。
SNSは全世界に発信してるんだしなぁ。
今、おりしもNHKの大河ドラマが源氏物語を書いた紫式部が主人公だし。

…いやむしろそう考えたら少ないくらい。

人ごみの嫌いな私、一瞬あきらめて帰ろうかと思った思いがスッと軽くなりました。
しかしながら、もう一人の人ごみ嫌いはため息ばかりついて帰りたそう。

この二人がする珍道中、規模が小さくて当然であります。

「まだかなぁ」
「ちっとも進まない」
…夫は小さな声で話しかけます。子供じゃないんだから、もう。

やがて順番が来て、かつて祈祷を待つ部屋であったところに通されました。

ここも満杯、座る席も用意されていますが、これこそがまさに満員電車状態です。

おや?
天井画の写真を拡大したものが展示されています。
「あれ、明石のシーンかな」
「あれは須磨かね」
私たちが小さな声で話していると
「これは花の名前かなにかですか?」
と話しかけられました。

「章ごとのタイトルだと思います」
と答えたあと、このあとさらにつっこんだ質問が来ないかどうかヒヤヒヤしました。


源氏物語はいろいろな方が訳されました。
与謝野晶子。
瀬戸内寂聴。
谷崎潤一郎。
田辺聖子。
 ・
 ・
なにぶんにも元となる源氏物語自体が長いので、全部読んだのは瀬戸内寂聴と田辺聖子のもの。

田辺聖子のものは俗っぽかったなぁ。

寂聴さんは結構原文に忠実なのではないかしらと思う。

まぁ与謝野晶子のものも持ってはいるにはいるが、これはちょっとおバカな私にはハードルが高くて、いまだに寝かせてある。
おそらく今でなければ読めない。
でもきっと読まないんじゃないかと内心思っている。


でも。
一番といったら『あさきゆめみし』大和和紀でしょう。

何度読み返したことか。
漫画は偉大です。


でもその方はそれ以上の突っ込んだ質問をされることはありませんでした。
ホッとしながらあまり大きくないコピー画像な上、さらに遠いため、よく見えない源氏物語の絵を妄想を交えて鑑賞していました。
  

No.278

(続き)

…実は今、衝撃の事実を知ったのですが、もう一つのSNSではさらに細かく書いてあり


『第5回 産泰神社太々神楽二之宮式三番叟 薪能まつり
・日程 令和6年5月18日(土曜日)
・時間 午後1時30分~2時30分(開場12時30分)
・演目 舞囃子「須磨源氏」(下平克宏ほか)
    太々神楽(産泰神社太々神楽保存会)
※舞囃子・太々神楽はチケットをお持ちでない方は
 立ち見での観覧が可能です。

詳細は前橋市のWEBサイトを
ご覧ください。』



えっ?!

た、立ち見ができたの?

後悔先立たず。


今日の格言です。

いやいや、今日はまだまだ始まったばかり。

今日は仏像をお教えいただく日。
良い日であります。

No.277

(続き)

…ですが、ね。

神事じゃないですか。
境内での御神楽にしても、ましてや拝殿の中に入るなどは。

その申し込みの案内を目にした頃、夫は義母の容態の件で、何度も何度も仕事を抜けてICを受けていました。

そんな時に御神楽の話をするのは人としてどうかと思い、この参加申し込み、実はせずにいたのです。

おかげさまでおバカなのにも多少の利点はありまして、申し込まなかったものの日付など覚えてはいられませんから、申し込まなかった時点でこのお話はなかったこと。

…だったはずなのですが。

某SNSで発信されていたのです。

『… 薪能まつり公演終了後、
産泰神社拝殿「#源氏物語 天井画」
の特別観覧を行います。
(通常非公開)

チケットをお持ちでない方も
観覧いただけます。』


…昇殿できる?
昇殿できる!
昇殿できるんだ♡

御神楽と思っていたのが薪能であったことなどは気づきもせずに、自分に都合の良い情報だけを拾う私。

カレンダーに時間まで書き込んで、この日が来るのを今か今かと待ち望んでいたのです。

九時〜鑁阿寺さん
十五時〜産泰神社さん


ただ。
ふと気づいたことはありました。

拝殿の天井画は花鳥風月だったような…。
まぁ、覗いて見上げていただけのおばさんの記憶ですから、確かなものではないのですが。

まさか幣殿?


いやいやそれはもう御開帳レベルでしょう。


ワクワクしながら目的地到着。
四十分ゆうには前だったのですが、
駐車場は七五三のときくらいの車の台数です。


うーん。
御神楽の後だしな。

No.276

【産泰神社】さん

実は…。
この日、朝八時に家を出て、お昼まで鑁阿寺さんで過ごしたのち、いったん家に帰って。
(帰る途中、三本の指に入るくらい大好きなアイスを食べはしましたが…)

二代目となる鉄製フライパンを使い猛ダッシュで焼そばを作って猛ダッシュで食べて。
またまた車に乗り込んで、向かったのは群馬県前橋市に鎮座される【産泰神社】さま。


…そうなんです。
この日はまさに神社仏閣をハシゴして参拝したのです。

まぁ旅先などではごくごくありがちなことではありますが、自宅を拠点にして二カ所というのはなかなか…あるか。


と、ともあれ。

産泰神社さんへと向かった理由は、実はこの日滅多にない公開があったから。


実はこの日、同じく前橋市の『二ノ宮赤城神社』さんとこちら産泰神社さんの御神楽が行われたのですが、遡ること二月にこの観覧希望者が募られたのです。
その際、産泰神社さんの拝殿に昇殿できるとあって。

憧れて、それでももう叶わない産泰神社さんの拝殿への昇殿。
…そうなんです。
この社殿の保護のため、今は結婚式以外は昇殿することはできなくなっているのです。

今年五歳のお子さんの安産祈願までは昇殿できたのですか、そのお子さんが生まれてお宮参りした頃にはもう昇殿ができないようになっていた、…はず。

ではどこで?
どこで御祈祷いただくのか、と申しますと、令和元年に竣工した祈祷殿なるものがあるのです。

待合室も広くて、最新の、赤ちゃん連れにも快適に過ごすことができるそんな祈祷に特化した建物が、二の鳥居の斜め前にあるのです。

…なんだか苦肉の策。

境内内ではあるものの、おそらくこちらの本殿に祀られた御祭神を勧請したのだと思われます。
二の鳥居の外、ですから。

なので。

憧れの拝殿へ昇殿するには結婚式をここであげる以外手段はないのです。

若い頃貧しくて結婚式を挙げられなかったから、…とかであれば「よしっ♡」とばかりに挙式を申し込めたのですが、残念なことに(いろいろ黒歴史ではありますが、)人並みな結婚披露宴を執り行ってしまいましたし。

一旦離婚して…、などというのはなんだかんだで一番神さまを欺くこととなり、してはいけない、してはならないことですし。


結婚していない息子にしたって、結婚に口出しは〝禁〟ですからね。


…されて嫌だったことはしないんです。

No.275

(続き)

結局、ご本尊さまの裏手におられる御仏さまの像はほとんど拝見することができませんでした。

こんな機会は滅多にないというのに、もったいなかったです。

観音経読誦会が終わってから、ということも考えたりもしたのですが、この会を開かれるのも五年ぶりだとかで。
お疲れになられてもありましょうかと諦めました。

ご本尊さまと対になるかのように安置されていた胎蔵界の大日さまのお美しかったことといったら…♡

次の機会とは…来年の観音経読誦会?


来年はお弁当を用意して午後までやると高らかに宣言されておられました。

自信がないなぁ。

えっ?、今から練習しておけば、ですか?

…したんです。
次の日から読経に観音経も加えてお唱えしたんです。

…無理でした。

まぁ、言いかえると来年までみっちり一年間あるんですがね。

うーん。

…うーん。

毎日お唱えしている般若心経とてもおぼつかない私が、ですか?


うーん。

No.274

(続き)

この日、お宮参りの赤ちゃんとそのご家族がみえました。

スタッフの方々が観音経読誦は一旦中断のようなお話をされていました。
そして入った中断の為、私はその裏手におられる御仏をさぁゆっくりゆったり拝観させていただける、そう思ってゆっくり手を合わせておりました。

なので太鼓の音が聞こえても、お宮参りなお子さんに対しての御祈祷が始まるのだと思っておりました。

「ねえ、始まるみたいだよ、みんな座って準備してる」と夫。

へ?

まぁ、夫の勘違いにしても赤ちゃんのお宮参りに参列させていただくのも光栄なことと、できるだけゆっくりそっと、座の雰囲気を壊さぬように先ほどの席に戻りました。

ご住職さまが開経偈をお唱えになりました。
そうそう、やっぱり赤ちゃんのお宮参りでしょ。
赤ちゃんは眠っているようですし、お兄ちゃんはずっと静かに、神妙に、ご本尊さまの御前に置かれた椅子に座っています。
無駄口のひとつも言いません。
(なんてお利口さんなんだろう)、と感心していると
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品 第二十五」と続くではないですか!

えっ、えっ?

よくよく考えれば、ご住職さまも副住職さまも、観音さまの御前に座しておられます。
ご本尊さまの御厨子の前にはぽつんと四人のご家族が。

ええ、そのまま観音経の読誦が始まりました。
…夫に騙されておいて良かった、ではなくて、夫を信じてよかった、です。

わが家の子どもたちは昇殿したり、昇堂したりしてのお宮参りはしていませんし、孫は神社さんでのお宮参り、生まれて初めてのお寺さんだのお宮参りへの参列です。

…でも普段ならやはりご本尊さまの前で、ご本尊さまに御祈願?御祈祷するのだろうな。

私の拙い、というかもはやほとんど観音経でない読経を乗せてしまって良いのだろうか?
悩むところであります。

できうる限り間違えないよう努力しよう。
…でもやっぱりうまくはいきませんでした。

でも大丈夫。
大日さまと観音さまのご加護は、私の読経になど左右されたりはいたしません。



(観音経読誦会の後、御本堂のわきにてくつろぐ猫さん♡)

No.273

(続き)

猫はといえば座布団に座ったまま、…ではなく、自然な楽な姿勢で眠りこけていました。

観音さまと猫。

私にとっての癒しが緊張をほどいてくれました。
二度目の休憩。

ようやく天井や御内陣を見る余裕が出てまいりました。
ふと、太鼓をたたきながら読経されていた副住職さまと目が合いました。

「あ、あの。うかがってもよろしいでしょうか」

出ました、エックスキューズミーおばさん。

「どうぞ」とおっしゃっていただいたおばさんがお尋ねしたのは
「この観音さまの御厨子の向こうに(裏手)に見える御像はどなたなのですか?」

私の裏手から夫がぐいっと耳を傾けて寄ってくるのを感じました。
さっきまで御本堂内を手を合わせながら歩いては上を見たり下を見たりしていたくせにいつの間に?

「ああ、あちらはこちらを建てた足利義兼公の像になります」
ああ、やっぱり。

「それではそのお隣におられる仏さまの御像は?」
「ああ、そちらは、…明治の廃仏毀釈で、この辺りにあったお寺がみな廃寺になり、そこのご本尊さまたちをそちらに(鑁阿寺さんのご本尊さまの裏手)にお祀りしたのです。
裏手もお参りしていただけますのでどうぞよろしければ。それぞれの御像に説明書きがあるかと思いますのでゆっくりお読みになってください」


えっ?!
ええっ?

は、初めて御本堂内に上がらせていただいてこのいきなりのお話に、おばさん、ワクワクドキドキです。

と、とっとと先に副住職さまの指さされた方角にある裏手への入りくちに向かう夫。
この喜びの余韻を楽しむことはないのでしょうか。

私の後ろにもうお一人、女の方がついてこられました。


副住職さまの指さされた方から裏手に入ると、真正面には弘法大師さまがおられました。

そうです。

こちらは真言宗のお寺さん。
元は真言宗豊山派のお寺さんでしたが、独立して『真言宗大日派』となられています。

No.272

(続き)

よ、読めないっ。
…一度目はしかたないだろう。
次こそは!

…よ、読めない。
どこかしら突っかかってしまうのです。
三度目も四度目も、五度目も。

休憩が入ります。
が、次こそはと思うあまり肩の力が抜けません。
紙コップに入ったお茶が配られ、足利市で有名な和菓子屋さんの瓦せんべいが配られました。

それでも次こそは、と思う気持ちが抜けません。
お茶をひとすすりいただくとまた下を向いて、江戸時代からの太い横木を見るとは無しに見ておりました。

と。
堂内のひだりてで小さなざわめきが起こったのに気づきました。
「猫、猫が入ってきたよ」
と夫。

えっ? パァァ♡

しゃかしゃかと猫の方へと向かいます。
ああ、あの子だ!
あの懐っこい、抱っこにまできてくれるあの子だ♡
大銀杏の葉が散り始めた頃訪れたときに、手水舎のところで出会った子です。
キジトラの、四本の足先だけ真っ白な猫です。

愛おしい命です。

ただ、仏教ではどうなんだろ。
手を浄め口を浄めて御本堂に入っています。
…猫を撫でてもいいのだろうか?
うーん。

触りたいけれど触れない。

きちんと間違えずに読みたいけど読めない。

こんな御本堂の中で、思うようにならないことが二つ。

猫はそのうち、一枚の座布団に座って微睡みはじめました。

嬉しい♡

ご住職が再開を告げました。
背負うともなく感じていた肩の荷は猫のおかげかすっかり軽くなっていました。

〝ここを間違いやすいようだ〟
傾向はわかったのですが、対策がいまいち。
自分のペースでお唱えするのと違い、あれよあれよと言う間に(お経なので〝あれよあれよ〟もありませんが)次へと進み、つまづきやすい場所を正そうとすると、雪だるま式に次も、また次も、休憩前よりもつっかえるところが増えてしまったのです。

最後のところをお唱えすると、すぐに先頭の
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品 第二十五」
と唱えられ、また一からの読経が始まります。
休憩が入らない限り、エンドレス、リピートリピートです。

八十二歳だとおっしゃっておられた女性の可愛らしいお声が聞こえます。
真面目そうな、ちょっとした折にスッと人に気配りをされるおとなしい女の方の流暢な読経が聞こえます。

隣に座っておられるご高齢の男性はよく通る、いかにもお経向きのお声です。

がんばれ私!





No.271

(続き)

この日の鑁阿寺さんの行事は、正式には『観音経一千巻読誦会』。

一千巻、ですか?
大般若経転読のようにするってことかしら?
ですが〝読誦〟です。
そもそもが『観音経』ですので、私の知る『観世音菩薩普門品第二十五』なるお経であるならば、経本にして数ページ、大般若経の経本のような厚さはありません。

読誦、…一千巻?
一千巻って…一千回のこと?
一千回は、…ちょ、ちょっと難しいのでは?

般若心経にしたところで一千回派かなり厳しい。

…いや。
しかしながら仏教の行事ですから。
一千回だって、ありがたいお経ですし、修行にもなりましょう(か?)。

初めてのこと、不安と期待いっぱいです。

あ、そもそもが私、観音経をお唱えしたことだって一度とてありません。

無謀といえば無謀な参加です。

何も知らずに、一回すらお唱えしていない人間が、千回…ではなくて千巻読誦するという会へ参加してしまうのですから。


やがてご住職さまと副住職さまが登場されました。
とはいえ、あの法要の時のように鐘を鳴らしながら、とかではなくごくごく普通に歩いての登場です。
素足のご住職さまは右足にロキソニンテープと思しき湿布を貼られています。

「今日は足を痛めているので、椅子で失礼いたします」としながら、
「一千巻とは申しておりますが、コロナ禍となってから四年ぶり、…五年かなぁ、久しぶりということもあり、今日はどのくらいの方のご参列があるかもわからず、お弁当も用意しておりませんので、休み休み…休憩を入れ水分等を摂りながら、様子を見ながらお唱えできるだけをお唱えしようと思っております」
と。

お、お弁当まで食べて?
…そうですよね、一千巻でしたら、当然です。
そ、そうか、今回は一千巻は目指してはいないと。

そして椅子に腰掛けたご住職さまは開経偈をお唱えになられ、般若心経を皆で唱えたのち、『観世音菩薩普門品第二十五』の〝タイトル〟をお唱えになりました。
それに続いて皆で、太鼓の音に拍子を合わせ観音経を唱え始めました。


No.270

(続き)

朝の鑁阿寺さんは空気も澄んでとりわけ大好きな時間です。
人もまばらな境内で何度も青い空にそびえるように建つ御本堂を見上げてしまいます。

見上げているばかりでは到着しないので、手水舎で手を浄めます。
鰐口をついて…。
御本尊の正面に設けられた大きなお賽銭箱の左隣の寺務所的な窓口の前に立つと、
「観音経にお越しの方ですか?」
とあちらから察してお声がけをいただきました。
「あちらから(御本堂みぎて)直接お入りになってください」

「はい、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

回廊のようになった御本堂前を右に歩いて行くと大きく戸が開け放たれて、受付から設けられていました。

申し込みを書くボールペンの書き心地の良いこと♡
ボールペンもここ近年飛躍的に進化し続けています。

申し込みの用紙を書く前に受付の方が事務処理しやすいようにと本日の参加費をお出ししました。

すると。

「今回の読誦会は久しぶりの開催ということで模索しながらの開催ですので、参加費はいただかないこととしましたので」
という驚きのお言葉が。

えっ。

小心者の私はソワソワしてしまいます。
さらにその方からお札とお供物をお渡しいただきソワソワはピークに。
初めて御堂に上がらせていただくのにそ、そんな…。

こういう時にキモのすわった夫は
「ありがとうございます」
と爽やかに返して、まるで慣れた御本堂であるかのようにさっさと進んで御内陣に向かって正座し拝んでおります。
私はといえばお金をしまったり、二人分のお札とお供物、いかにお札を傷めることなく持てるかどうかを苦慮しながら手提げバックに納めたり。

どんどん先に進んで行く夫。
御本堂の内におられる御仏の前で、すでにもう手を合わせ終わっておりました。

扉の閉ざされたお厨子が一つ。
その奥に木彫りの弘法大師さまの尊像が見えます。

おお!
中央には高い高い天井に届かんばかりの大きな大きな厨子です。
おおっ!
外からではわかりませんでしたが、このような大きな御厨子でありましたか。
大日さまのおられる御厨子です。

そして。
その大きな大きな御厨子の左に扉の開けられた御厨子には、大変お美しく、均整のとれた観音さまがおられました。

お美しくて、おやさしい。
そこにおられるだけで癒しをくださる、観音菩薩さまの尊像でありました。

No.269

【鑁阿寺】さん

本日五月十八日は、〝正五九〟の観音さまのお縁日であります。

そして観音さまにはもう一つご利益のあるとされる〝功徳日〟というものがあり、今日はその功徳日でもあります。

そんなお縁日であり功徳日である五月十八日に毎年、栃木県足利市にあります【鑁阿寺】さんで読経会が開かれているといいます。
ゴールデンウィークに開催されていた春の大祭に行き、小さなご案内があるのを見て、ぜひ参加させていただこうとワクワクしながら今日を楽しみに待っておりました。

朝九時からの開催とのこと。

問題は…今日は夫が休み、だということです。

何が問題かといいますと、夫は早起きが苦手、ということ。

もう一つは、夫は、何度も何度も参拝させていただいている神社さんやお寺さんにはあまり積極的には再拝したがらない、ということ。

一人で行ってはだめかしら。
でも夫は一緒に行きたいと言うのです。

今朝、案の定六時半を過ぎても、夫が部屋から出てくる気配はありません。

(洗濯ももう終わってるんだけど、なぁ。)


ガチャ!


おっ!起きたみたいだ。

少し諦めかけていた私、気分は急上昇です。

卵焼き、厚揚げの煮物、茄子とピーマンの味噌炒め、白菜の漬物になめこと豆腐のお味噌汁にトマト。
でーん!

行きたい気持ちがすでに形となって夫を待っておりました。


念のため、いつも使っている経本と念珠を持って、しゅっぱ〜つ!




No.268

牡丹の花の時期も終わりました。

なんだかんだと毎年お邪魔させていただいております〝花の寺〟の一つ、群馬県桐生市の【龍眞寺】さんに参拝させていただいたのは少し前のこと、五月の三日でありました。

大好きだったお寺さん、なのですが、少しずつ雰囲気が変わってしまい、それが牡丹寺を名乗ったせいなのかどうなのか…。

それでも今年はあちこちに活けていた牡丹の数も少なくなっており、そう、でもないのかなぁと思ったり。

たぶん大好きだった石仏さんがどこを探しても見つからなくなってしまったことも私の中で大きいのかもしれません。


こちらの牡丹は毎年黄色い牡丹が咲くと花の時期が終わることを告げます。
今年はそれでも他の色の花もかなり残っていた、…というのか黄色の牡丹が早く咲いたのか、そこはわからないのですが…。


お隣の県にある、あの有名な足利フラワーパークさんも紫や白の藤はすっかり花を散らしたようですが、そんな頃になると黄色い藤が花の時を迎えるようです。

黄色い花というのは何か特別にそんな役割を果たすものなのでしょうか?

ところが。

どうやらこの黄色い藤、実は『黄花藤』は同じマメ科でも属が違うのだといいます。
『藤』はフジ属で『黄花藤』はキングサリ属の花木、なのだといいます。

花の姿が「藤」に似ており花色が黄色なのでこの名がついたのだそうです。
この黄花藤、実は藤のように蔓性ではないのだとか。
花ばかり見るので、そんなことに気づきもしませんでした。

この花、花の姿が鎖のようにも見えるので、「金鎖(きんぐさり)」という別名があるといいます。


花の世界も奥が深いです。


No.267

(続き)

御本堂のみぎてにもひだりてにも、御仏が祀られています。

あれ?
ご本尊のお不動さまのみぎてに(こちらからは向かって左)に、以前は上の御堂におられた子育て観音さまがおられる?
この子育て観音さまのひそかなファンですあります私、ここでお会いできたことに心の中で大変感謝いたしました。
小さな小さな尊像ですが、優しさと癒しの気が厨子の中からあふれるような、そんなお力ある観音さまであります。

ご住職さまはみぎてのお厨子の尊像にも、座って手を合わせました。

お勤めが終わられてから、私に手招きをされ
「こちらは行基さま。一刀彫りなのです」とお教えくださいました。

そう、こちらは行基上人さまの開基と伝えられるお寺であります。
私が手を合わせるとご住職さまは
「こちらにも手を合わせて…いただいてありがとうございます」
と。
こちらこそがありがたいことでございます。


ところで。

参列者の座る位置からほど近い位置に、前回昇堂させていただいたときにはなかったものにどうしても目がいきます。

布が掛けられていますが、(お琴?)、そうどう見てもお琴に見えるのです。
檀家の方からの奉納でしょうか。
それとも奥さまが演奏されるのでしょうか。

見るとはなく見ている私の視線を感じておられたのか、
「お時間はありますか?」

しかしながら。
ご住職さま、私の返答も待たずしてそのお琴と思しきものにかけられていた布を外すと、そばに置かれたケースから爪を取り出して指に装着され、そのまま演奏を始められました。

おおっ!

…凄い!

すごくなめらかでそしてそれでいて力強さも感じられる音色であります。


ご住職さまはお歌も上手な方であられます。
…音楽の才能もある方なのですね。

No.266

(続き)

栃木県足利市の最勝寺さんのご住職さまは、僧としても、人としても尊敬できるお方です。

真面目で、いつでも真摯に、心から人に寄り添おうとされる方です。
それでいてユーモアもある魅力的な人物であります。


御本堂にご住職さまがおられるのは間違いないようで戸も開けられています。
「こんにちは、お参りに参りました」
と。開けられた戸の外からお声がけさせていただきました。

「ん?おお、こんにちは。どうぞお参りください」
私「…あの上がらせていただいてよろしいのでしょうか」
「どうぞどうぞ」

…私がこちらの御本堂にあげていただくのはもうなんだかんだで五回目となります。

本来、上の、…山の中腹にある毘沙門天堂の御本堂がメインで、あちらでお護摩を焚かれて御祈願をしてくださるのです。
こちらは檀家の方の法要をされる御本堂でありますので、かなりレアなケースであろうかと思われます。

初めて昇堂させていただいたときからすっかりこちらのご本尊さまの大ファンとなりました私。

またお会いできるなんて♡


足利市での山林火災の起きた際、こちらのご本尊さまをなんとか避難させようとしてお不動さまの火焔光背が外れてしまい、その後どうしても付かなくなってしまったといいます。
大きな物ゆえ床に安置するしかなくて、ご住職さまはそれを見ては悲しそうに、そして悔しそうに毎回、
「あの火災でねぇ…』
とおっしゃる。


今、上の毘沙門天さま、吉祥天さま、禅尼子童子さまは奈良へ修理の為ご不在となっておりますし、仁王さまもやはり修理のためにおられない。

ご住職さまにとって、今はつらく寂しいときでありましょう。


ご住職さまは、私の参入などまるで気に留めておられぬように、いつも通りに(…いつもを存じませんので、たぶん、でしかありませんが)お勤めを始められました。

香炉に長いお線香を一本。

特に私に勧めることなく、次に移られます。

「お線香をあげさせていただきます」
と図々しく宣言いたします。
「三本ね」
とご住職さま。

なんだか嬉しくなるようなやり取りです。

No.265

【最勝寺=大岩山毘沙門天】

心洗われるお護摩供に参列させていただいたあと。
このまま帰っても良いけれど、うーん、夫と一緒だとなかなか行けないところへ行くのもありかも。

わたしは気に入ると同じ神社さんやお寺に何度でも行きたいタイプの人間ですが、夫はどちらかというと今まで行ったことのないところに行きたいようで。
行った事がない所に行くのも楽しいけど、癒されほっとでき安心できる場所って、…こんなありがたいところはないではないですか。

夫と一緒に行動しているときはいつものんでしまう言葉があります。
「〇〇さまへ参拝したいのだけれど」

言えばそこへハンドルを切って向かってくれるのは間違いない。
間違いないことがわかってあるからあえて飲む言葉があるのです。


…最勝寺さんへ行こう。

最勝寺さんは大岩毘沙門天さまの本坊です。

ですのでたいていの方はさらに上にある毘沙門堂へと向かいます。
ご住職さまも朝五時のお護摩を終え、上でのご用が終わるまでは上の毘沙門堂におられます。

ただ…。
この毘沙門堂への道は細い崖っぷちの道もある山道。
こういった道を車で走るのが怖いと思う私は、一人で毘沙門堂へと向かうときは山を歩いて目指すくらいです。
なので上へ行くことができない、山登りができないときは本坊である最勝寺さんから遥拝させていただきます。


あれ?
ご住職さまの軽トラだ。

ご住職さまはいつもこの軽トラで上の御堂との道を往復されておられるのです。

…ということは、今はこちらにおられるんだ。


でも突然の参拝ですし、お会いできるとは思ってもいません。
庫裏の前を通りながら、(働き者のご住職、今は何をされているかしら)と思いながら、御本堂へ。

お花の好きな奥様がお植えになり、お手入れされている(であろう)お花を眺めながら、御本堂の脇にある階段を昇ると、ん?

ご住職さまのお草履があるではないですか。


No.264

…すみません。
神社仏閣一切関係ないんです。
強いていえば今日必ず神社さんにはお参りさせていただきますが。


ビビりなおばさん、怪現象が一晩に二回も起きてたいそうビビっております。

昨夜二時に枕元でピピピピって鳴って。
寝ぼけて起きた私は(ああ、目覚ましがわりに使ってるガラケーの電源落ちの音か)って思って、二度寝したんですよ。


そしたらですね。
その目覚ましがわりのガラケーくん、元気に今朝も目覚ましの音楽を流してくれたんです。

…?
……えっ?


私、普通のアラーム音なんてセットしないし、このガラケー以外は目覚ましとしてなんて使わない。
しかもご丁寧なことに、このあとすぐに電源落ち。
…音も音の大きさも昨夜のものとは明らかに異なる。


一体、あのピピピピって、…何?


そもそも昨夜は口の中が苦くて、歯を磨こうと、洗口剤でうがいしても治らない。
ずっと口の中が苦くて、それが結構苦痛であった。
それも(何?)って思っていた。


いつも通りの目覚まし音楽で目を覚ました私はザワザワした気持ちのまま、玄関を開けて外に出ました。


…メダカが沈んで動かないでいる。


生きているようにも見えるには見えたが…。


ま、明るい朝ですし、爽やかな空気です。

げ、元気にいこう、…行こうっか。





No.263

【石尊山梵天揚げ】

毎年八月十四日に、鶏足寺さんが関与するお祭りがあるといいます。

足利市小俣町に石尊山という山があるといい、その山で行われる【梵天祭り】という大変勇壮なお祭りのようです。

人混みが嫌いなわりにはこの珍道中ペア、実はなにげにお祭りは好きだったりいたします。

ワクワクしながら調べてみましたところ、な、なんと!
八月とはいえ午前三時からのものといいます。

あ、これは私はともかく夫は無理だな。
そして、こんな時刻に一人で山に行くのは実はビビりな私には怖くて無理。

…でもなぁ。

なんでも、太陽信仰を伝えるお祭りなようで、神仏習合時代の石尊山信仰を色濃く残しているといいます。
奉納される梵天がまた変わっているようで、栃木県の無形民俗文化財に指定されてもいるのだとか。

うーん…三時かぁ。
二時には家を出るようだろうな。

石尊山登山口にあるという『叶花(かのうけ)不動尊』で鶏足寺のご住職さまが護摩祈祷を行うといい、護摩供養と安全祈願ののち,心身を清めた白装束の若者達の手によって午前四時、山伏のホラ貝を合図に十五メートルもの御柱(杉丸太)に、七月末に作られた250体余りの梵天(幣束)を取り付けたものを、石尊山にかつぎ揚げ、日の出とともに山頂に打ち立て、石尊神社奥宮に奉納するのだといいます。

山頂で立てられた御柱を登り、先端に付けられている名板・帝釈天・幣串を取り、家内安全・商売繁盛を願ってそれを家に持ち帰り飾るのだとか。

十五メートルの杉の木って、…結構長いですよね。
それを岩場などもある山に担ぎあげるのも大変そうですが、それを山のてっぺんに立てて、昇る〜っ?

しつこいですが十五メートルって、かなりの高さになるはずですよ、…山の上だし。
あぁ、恐い。
私、ただでさえ高所恐怖症、加えて眩暈持ち、絶対無理です。

ただ、これ全員が昇るわけではなくて、有志が梵天に攀じ登って梵天講中の名板と先端の幣串を取るのを競い合うというものらしい。

ほっ。

最後に梵天を倒して引き抜いた幣串を参拝者に配られるといいます。

このお祭り、戦前は小俣の地区ごとに七、八本の梵天を立てたのだそうですが、現在は山麓の叶花地区の梵天講が奉納する一本だけなのだといいます。


…うーん。

…いきたいかも。

女子は見るだけだし、参加を希望しなければ夫も見るだけだし。

No.262

(続き)

それはそれは一つ一つの御札や御守りを大切にお手にお持ちになって、ご住職さまは壇上にあがって行かれました。

節分会のときと違い、お一人でのお護摩ですので、お座りになられるときの衣の裾の直しも皆ご自分でなさいます。

まず九条錫杖経から始まって、いくつもいくつもの御真言をお唱えになられました。

そうしてようやく火を焚べられました。
私ども一人一人の願意を御祈願くださって、それから年間の祈願をされた方の祈願をお願いされ、時々植物の葉などをお焚べになりました。

炎は不思議な形に燃え上がります。

やがて小さくなった炎を確認し、お護摩を終えたご住職さまのお手には私どもの御札や御守りが乗せられたお盆。
それをお持ちになられ、高い高い壇上から降りて来られたご住職さまから一人一人御札等を手渡されます。

それが決まりごとのように壇上へと上がる方が一人。
その方に続いてもう一人の方も壇上へと上がられ、ご住職さまも「お気をつけて」とお声をかけます。

私も。

こちらの 御内陣はかなり高さがあり、そこに上がるために箱段が置かれています。
この箱段の一つ一つがまた結構高い。
気をつけて上がらないと上がり損ねたり、バランスを崩して踏み外しそうになろうかという感じの箱段です。

一段一段気をつけて…。

あぁ♡
ひとめで大好きになったお不動さまをはじめとする五大明王さまたちの尊像です♡

この五大明王さまの尊像のお写真はこちらのHPにもありません。

…そうなんです。
この尊像にお会いしたくてこちらのお護摩に参列させていただいているところもあるおばさんで…。

もう少し参列者が多ければもう少しおそばにいられるのになぁ。

もう先に参拝されたお二人はもう堂内にお姿が無いくらいです。


私の拙い手彫りのお不動さまを見て、「これはなかなか…」とお褒めくださりました。

お世辞なのは私が一番わかっておりますが、それでもそのおっしゃりようがとても暖かくてお優しいので、とてもとても嬉しくて。

来月も来られたらいいなと思う私でありました。


帰り道。

鶏足寺さんの参道を悠々と雄の雉が歩いて横断しておりました。

なるほど、鳥に縁のあるお寺さんらしい。

鶯の鳴く音も聞こえています。


のどかで、心が穏やかになりそして癒される鶏足寺さんでありました。


  (花御札)

No.261

(続き)

参拝してお待ちしましょう。
手を合わせて目をあげると、…お堂の扉に小さな貼り紙があります。
「護摩供を希望される方はお入りください」

えっ。

そ、そうか、もう入って良いんだ、…ということはもうみなさん中におられる?

お堂の引き戸をノックするのも変かなぁとは思ったのですが、いきなりがらっと開けるのもどうかしらと、小さくノックしてから、そろりそろりと戸を開けますと、
「どうぞお入りください」
との声。

あまりにすぐにすぐのお言葉でしたのでびっくりした私は「ありがとうございます、失礼いたします、よろしくお願いいたします」
と、受験の面接のときのような反応をしてしまいました。

その声の主は…、…はて?

椅子に座られたお二方以外には姿がありません。

(ああ、お護摩にいつも参加される方がお声がけくださったのか)
椅子にかけておられる方に向かってまた挨拶をしていると、壇上の隅にいつのまにかお坊さまがお立ちになっています。

ど、どこから?

「御札はどうされますか?ご不要ですか?」

ほ、ほう。
護摩供を受けるからには御札をお授けいただくようであろうと思ってまいりましたが、そうでなくとも参列させていただけるようです。

ありがたい。

今後も参列させていただくたびに御札をお受けしていたら御札大臣になってしまうなぁと思っていたものでありましたので。

「花御札(はなみふだ)をおさずけいただけますか?」
お坊さまのお顔がかすかにはっとされました。

(あれ?花御札はいけなかったのかしら?)

…どうやらお堂にお持ちになっておられなかったようで、御堂から一旦退出されていかれました。


(すみませんです)


こちらのお寺さんでは月次護摩供の際に「花御札(はなみふだ)」という御札を授与しておられます。


【厄除花御札
 古代より花や樹木は人々の暮らしと深く結びつき、邪気を祓う働きを担ってきました。自然への畏怖と感謝の心から生まれた四季ある国の美しい風習に学ぶ『厄除花御札』。季節ごとの花や樹木に、災厄をしりぞけ、幸いをもたらす除災招福の願いを込めた御札です。ご家族の皆様の日々の護符として、家々の玄関や居間にお掲げください。】


とのご案内があるこのお寺さん独自の御札です。

これならば十二回は参列することができると、考えての参列でありました。

No.260

【鶏足寺】さん

栃木県足利市の鶏足寺さんの護摩堂(五大尊堂)で毎月八日に月次護摩供が行われるとのことを聞き、参列させていただきました。

九時からとのことでしたので、一時間みれば着けるかしらと家を出たところ、あっ、…ちょうど通勤通学で混む時間でありました。

…着くかしら。

そもそも二月の節分会に参加させていただいた折は夫の運転でしかもナビ付きの夫の車でありましたし、しかもナビ付きなのに道に迷ったという曰く付きのお寺さん。

……着くかしら。

さらに加えて私の車にはナビがありません。
購入するとき、こだわってあえて付けなかったのです。
今思えば何にこだわっていたのかさっぱり思い出せないし、むしろ後悔しかないくらいです。

でもかつては鶏足寺さんのそばまで仕事で来ていたことだってあった私。

大丈夫、大丈夫!

それなので多少遠回りかもしれませんが、自分でわかる道をえらびました。

…ええ、ちょっと鶏足寺さんのそばで小道を二周し、ちょうど通りかかった年配の男の方にお聞きしたくらいでなんとか時間内にたどり着くことができました。

めでたし。めでたし。



…と、辿り着けばよいというわげではありません。
車を停めて、急ぎ足でまずは御本堂前へ。

御本堂前での参拝をすませました。
そうしてまた、急ぎ足で護摩堂へ。

まだどなたもお越しになっておられませんでした。

No.259

(続き)

【鑁阿寺(ばんなじ)】は、源姓足利氏二代目の足利義兼公が、建久七(1196)年に、邸内に持仏堂を建て、守り本尊として大日如来を祀ったのが始まりといわれています。

真言宗大日派の本山で、源氏、足利氏の守り本尊である【大日如来】さまをお祀りしていることから、地域の皆さんからは『大日様』と呼ばれ、親しまれています。

四方を堀と土塁で囲まれた寺域はほぼ正方形の形をしており、約四万平方メートルにもなる境内は鎌倉時代の面影を残す『史跡足利氏宅跡』として『日本百名城』にも選ばれています。

そう現在の鑁阿寺が、かつての足利氏の居住地、城屋敷であり、御本堂と不動堂の間には居館で使われていた井戸の跡も残されています。
この井戸は鑁阿寺七不思議であり、足利七不思議にもあげられる〝あかずの井戸〟であります。



義兼公が入定するにいたる原因でありましょう悲劇が、この居館において起こります。
この井戸の伝説もこの悲劇に大きく関わっているとも言われています。

…検索していただければそれについては容易に知ることができましょう。
私はあまりにも悲しいこの悲劇をここに綴ることを過去にも躊躇っております。


この悲劇ののち、義兼公は剃髪し、居館の中心を喜捨して鑁阿寺を建立するとともに、夫人の菩提を弔うために蛭子女尊堂を建てます。
鑁阿寺本堂の裏手に建つ、現在蛭子堂と呼ばれるお堂であります。

出家したのちも、自ら彫らせた大日如来さまの御像の入った厨子を背負って、諸国を行脚しています。

この大日如来さまの尊像こそが、あのオークションにかけられた大日如来さま。


どこまでも悲劇しかないよう感じます。


今回の、この鑁阿寺さんの春の大祭、この蛭児(子)女尊さまの限定御朱印が授与されておりました。

ちょうど藤の頃ということで、藤の花のスタンプ印の捺されたものでありました。

北条時子
 安産守護神
   蛭児女尊

とありました。


…義兼公のお導きでありましたでしょうか。
いえいえ、やはり大日如来さまのお導きでありましょう。




No.258

【鑁阿寺 春の大祭】

つい最近参拝しておりましたこともあり、当初はこの大祭に行こうとは思ってもありませんでした。
鑁阿寺さんは静かな佇まいの中、お詣りしたいし散策したいので。

…が。

樺崎八幡宮さんにお詣りさせていただきますとどうしても鑁阿寺さんに参拝したくなるのです。
まるで引き寄せられるかのように、です。

これが鑁阿寺さんに参拝したときには、樺崎八幡宮さんにも…とはならないのです。
樺崎八幡宮さんが先なことが条件のよう…。

意識して、ではないのです。
本当にいつのまにかそういう気持ちになる、のです。

大祭、なので駐車場問題もあろうかと危惧いたしましたが、それも難なくクリア、やはり、導きでありましょうか。
それも楼門に続く参道を歩いて行く、いわば王道ともいえる、私の一番好きな駐車場に置くことができたのです。

大好きな参道を歩き、…鳩と鯉と亀の苦手な私には、ちょっとした修行となる橋を渡り楼門をくぐって…。

そこさえくぐってしまえば、目の前に御本堂が出迎えてくださいます。


ああ、鑁阿寺さまだ。


ここでほっとします。
息を大きく吸い込みます。

…あ、難所を通り過ぎたから、ではありません。

御本堂を見上げるだけでほっとするのです。
そんな癒しのオーラをお持ちなのだと思います。

古い灯籠やお地蔵さまが参道を見護っています。
大銀杏、多宝塔が見えてきます。




No.257

  紫陽花
     詩 白居易

何れの年にか植えて
仙壇の上に向う

早晩移栽して梵家に到る

人間に在るといえども人識らず

君に〝紫陽花〟と名づける


(意訳)
いつの頃から天上の仙人の世界に植えてあったのか、いつしかこの寺に移植された。
せっかく人間界にやって来たのに誰も名前を知らない。
あなたに「紫陽花」と名付けましょう。


作者、白居易は中唐の詩人です。
白楽天の名前でも知られています。

この詩は、彼が若い頃、江州の郡守をしていた時、招賢寺というお寺を訪れた時に作られたと言われています。

〝仙壇〟は仙人の住む場所。
〝梵家〟は仏教関連の家、ということでお寺となります。

僧侶が名前の分からない紫色の美しい花を白居易に紹介した時に、この詩を読み、紫陽花と名付けたようです。
なんとも素敵なお話です。

お寺と紫陽花、こじつけのようにこの詩を紹介しましたのは、紫陽花の花の画像をここに貼りたくて。


最近母の日はカーネーションに限らず、クレマチスであったり、ブーゲンビリアであったり、紫陽花であったりと、母の好みや自分の好みの花を選ぶことも増えているようです。

今日娘の突撃訪問があり、大きな花束のような紫陽花をプレゼントされました。

わたしのTシャツにハーフパンツといういでたちに顔をしかめつつ、照れくさそうに花を手渡してくれる娘に、涙がこぼれそうになり、抑えるのが大変でした。


No.256


般若心経のこころ

かたよらないこころ
こだわらないこころ
とらわれないこころ

ひろくひろくもっとひろく

これが般若心経空のこころなり




佛法の教え

佛法はまるいこころの教えなり
佛法は明るいこころの教えなり
佛法は清らかなるこころの教えなり

佛法は静かなるこころの教えなり
佛法はおかげさまなるこころの教えなり
佛法は無我なるこころの教えなり
佛法は大慈悲なるこころの教えなり
佛法は安らかなる身とこころの煮えなり


No.255

(続き)

何度来てもその疑問は驚きという感覚すら伴って湧いてくる。

入定された父を神格化して八幡神さまと合祀しているのだから、その入定跡は神聖なもの、…になる?
〝神聖な〟のはわかります。
私が疑問に思うのは神道としての神聖さは?
という意味です。

いやぁ、わからない。

千年は前のこと、だからなぁ。

〝武士〟、だしなぁ。


そこはおいておいても。
そもそもが入定されたのは『赤御堂』と呼ばれるお堂のかたわらだったわけで、少なくともその時代、現在の御本殿のところに建っていたのは神社の社殿であったわけではないのですから。

その五百年弱くらい後の世ってどう?
…やっぱりもののふ、武士の時代か。

おお!
八百屋お七の〝江戸の大火〟の頃だ。
ちょうど綱吉公が第五代将軍となった頃だ。
うーん。
…生類憐みの令かあ。

そういったことが起きたりそうした人物の生きた時代なことはわかるけれど、神道と仏教と儒教とかの複雑な絡み具合はここからではさっぱりわからない。

そもそもが理解できるほどの知識や力量がない。

ただ、今も残る赤御堂の石段から、赤御堂は本殿の真下のやや右寄りに、今の社殿と同じ方角を向いた形で建っていたことだけは私にもわかります。
本殿のきざはしに並ぶような位置関係です。
つまりは、赤御堂の建物のあった部分とは若干重なっている。

この広い広い境内でわざわざ…。

義兼公は建久六(1195)年に『東大寺』で出家し、赤御堂で亡き人の菩提を弔うと同時に自分の罪を悔いて念仏三昧な日々を送られていた。
…つまりはこの赤御堂はこの時点では立派な、正真正銘仏教的な意味合いの建物であったのです。

やはり息子が父の入定を受けて、神格化し、八幡神と合祀したのは、他ならぬこの〝赤御堂〟ということ、だったのでしょうか。

…これはあくまでも私の推測でしかありません。
そもそもがこの赤御堂の石段等令和の発掘調査で発見されたことです。


拝殿前で八幡神さまに手を合わせ、またこちらに参拝できましたことを御礼申し上げました。

…。

…しかしながら、です。やはり拝殿の横、幣殿の横辺りに来ると、私の感覚は義兼公の廟所、という感覚になってしまうのです、
ご冥福をお祈りしてしまう。
…神社なのに。

仕方ないかもしれない。


やっぱり、ここに至るまでを思うと哀しいに尽きるし。

No.254

(樺崎八幡宮の続き)

…と申しましても、私、まだ樺崎八幡宮さんについては何も綴ってありません。

興味を持つといろいろ、あれこれ広げに広げ、何を書こうとしていたか、それどころか何を書いているのかさえわからなくなって、ただでさえ語彙力文章力もない人物、収拾がつかないことがよくあります。

本当にこんな稚拙なものをお読みくださり、感謝の言葉もありません。


実は樺崎八幡宮さんが樺崎寺跡の中にあるわけではありません。

そもそもこの樺崎寺、本当は【法界寺】という名称でありましたが、文化財指定を受ける際(現在は国指定重要文化財)、【樺崎寺】で登録してしまったという〝オチ〟があります。

この樺崎八幡宮さんは康平六(1063)年に源義家の勧請と伝えられ、
一方の樺崎寺、法界寺は文治五(1189)年、奥州合戦の戦勝祈願のために足利義兼公が理真上人を開山として、創建しました。

つまり元々八幡神の祀られた八幡宮があって、その土地を与えられた義兼公がここに浄土庭園を有する寺を建立したということで、先に八幡宮の境内に付随して寺が建てられている、…いたのです。

樺崎八幡宮は、正治元(1199)年に当地で入寂した義兼公を、息子の義氏公が八幡神とともに合祀したことに由来します。

…これほどまでに神仏融合していることもあるのですね。

死が穢れとされる神社のすぐそばで入定していることもびっくりなことですが、入定した方がそのまま八幡神と合祀されているのです。

この義兼公の入定にいたるまでのことを書くとかなり長くなり、また、かつてこの珍道中の過去スレで長く長く綴っておりますし。

ここは割愛してまいります。
(それこそ収拾がつかなくなります)


こちらの本殿は天和年間(1681~83)に再建されているといいます。


平成十七(2005)年からの発掘調査で、この樺崎八幡宮本殿のすぐ北側で、義兼公がまつられた【赤御堂(あかみどう)】へ上がるための石段が発見されました。

当時は石段の正面にお堂が建てられていたことが推定されるといいます。
義兼公は赤御堂のかたわらで生入定したとされ、本殿床下には義兼の墓標が立てられています。


…びっくりでしょう?
本殿の床下、ですよ?

義兼公の入定からずいぶん経ってからの再建です。
…ずらさないんだ?
ずらすという観念は無かったんだ?

No.253


煩悩を消し去って
道徳をまもって生きる人
感情に振り回されず
心理にしたがって生きる人は
法衣をまとうに値する

〈法句経〉より

No.252

(続き)

前レスにおいて、最後の締めくくりに
こちらのご本尊さまがアメリカでオークションにかけられた件についてふれた文章で

なんとも哀しい運命を>ただっておられました。
と書いておりますが、これは>たどっておられました。
の〝誤字〟であります。
ごめんなさい。

お詫びして訂正させていただきます。



さて、このご本尊さまが海外でのオークションに出展された経緯ですが、この時の所有者が2000年に北関東の古美術商から入手したとされます。
この所有者の依頼で03年に東京国立博物館が調査し、運慶作の可能性が高いと判断されたものでありました。

しかしながらこの時点では、あくまでも個人所有のもの。
しかも文化財指定等にもされておらず、単なる古美術品に過ぎないため、高額で取引したいと考えたなら、国が動く前に海外においてのオークションという考えがはたらいたのでありましょう。
文化財に指定するにもかなりの日数が必要とされますからね。

運慶の作品の多くが国宝か重要文化財に指定されており、文化財保護法により、指定文化財の国外への持ち出しには文化庁長官の許可が必要。まして転売となったら当然許可などおりるはずもありません。

とはいえ競売にかけられたのは2008年のこと、…それなりの〝日数〟は経っていますが、ねぇ。


運慶の作品が国外で取引されるのは初めてで、オークションにかけられている情報がはいった時点で海外流出の恐れが大きく取りざたされたといいます。
この日の競売には内外から応札が相次ぎ、落札額は予想価格(150万〜200万ドル)の6倍以上に達したといいます。

最後は三越と米個人収集家の一騎打ちとなったが、三越が制したことで、海外流出の危機は逃れました。

三越が落札した価格は1280万ドル(約12億7000万円、手数料除く)!!

この時の競売商によると、日本の美術品としては過去最高、仏像としても世界最高の金額だったそうです。


…。

……。


ま、まぁ、日本にあります。
足利市に戻ることはないでしょうが。

…というか、北関東の古美術商って、…お膝元におられたんですね。
明治のあの悪令以降のこと、ですからね。
ずっとお膝元におられたのかもしれません。


…誰か気づいてあげてよ、もう。

と、思わずにはいられなかったおばさんでありました。

No.251

この日、やはり栃木県にあります【樺崎八幡宮】さんにも参拝させていただきました。

忌が明け、なんとなく神社さんを参拝させていただくことが多いよう、自分でも感じています。
今まで信仰心のかけらもなく、神さまや仏さまと無縁に暮らしていたころとはやはり少し変わってきている自分を感じたのは、忌中に神社さんに参拝することを我慢していることを自覚したとき、でありました。


この樺崎八幡宮さんは出流原弁天池に向かう途中、樺崎町の農産物直売所前を曲がって道なりに直進すると広い広い境内が見えてまいります。

こちらはなにせ元が奥州平泉の『毛越寺(もうつうじ)』さんや中尊寺(ちゅうそんじ)などの素晴らしさを実際に目にして、足利義兼公が、自分の領地に池を中心とした浄土庭園のある寺院を建てた、とされるその寺院跡であるのですから。

この義兼公は他ならぬ源頼朝のいとこであり、さらには北条時政の娘を妻とする、義兄弟でもありました。

平安時代末期、源氏と平氏の戦いでは頼朝の右腕として活躍し、鎌倉幕府創設に貢献した人物であります。


『鎌倉時代の足利氏は北条氏と姻戚関係を結びながら有力御家人としての地位を築いていきます。
このころの樺崎寺は足利氏の勢力を背景に堂塔を整え繁栄しました。義兼の六代後の尊氏が室町幕府を開いてからは幕府と鎌倉公方の保護を受けました。
将軍と鎌倉公方が対立するようになると、御廟の建て直しがされるなど公方家の保護が大きくなると同時に政治的な場として利用されるようになります。

戦国期になり足利氏が力を失うと樺崎寺も衰えていきます。

江戸時代には足利氏の末裔である喜連川氏によって八幡宮が再建されますが、中世の繁栄は見られません。

明治政府による神仏分離令により樺崎寺はその歴史の幕を閉じることになりますが、境内は樺崎八幡宮として氏子の方々に守られてきました。

その後昭和59年度からの発掘調査等により平成13年1月、国史跡に指定されました』


(足利市役所HPより)


…そうなんです。
発掘し、池を復元したりと、その寺院跡の面影を作られてはいますが、逆にそこにものの哀れを感じるような…。

ここのご本尊さまは神仏分離令により、紛失、アメリカでオークションにかけられていて、その行方がわかったという、なんとも哀しい運命をただっておられました。

No.250

(続き)

ある日、長者は、尾須仙人という白い髪をした老人に連られ、女神のところへ連れていかれます。

それは、夢とも現実ともつかないでき事でしたが、長者はもどって来ても、その時言われた不老長寿の薬をつる姫に飲ませることだけは忘れませんでした。

長者は、家に帰るとさっそくその薬をつる姫に飲ませました。
すると。
まだ幼かった姫は、たちまち、十七、八才の美しい娘になってしまいました。

姫は、毎日を山で遊ぶことを、この上もない楽しみにしていました。
そんなある日。
遊びに出た姫は、山から帰ってきませんでした。長者は心配し、山をくまなくさがし八方に人を走らせてさがしたのですが、ついに手がかりがありませんでした。

長者夫婦は、かわいがっていた姫がいなくなったことで、生きる望みもうしなってしまいました。
すると、ある夜、長者の寝ている枕もとに神様があらわれました。

「お前の姫は、水の中で鯉となって、うかび上がることはないであろう。だが、今までの宝物を人々にあたえ、無一文になって毎日神様や仏様においのりをささげれば、姫は竜の神様になって天に上るであろう。」

と、いわれ、夢から覚めました。

そこで、長者は、姫かわいさのあまり、うるし千ばい 朱千ばい くわ千ばい 黄金千ばい を後山の千騎返りにうずめました。



『下野伝説集 四』より




 ※この種の話は、栄枯衰退を語る話で、長者伝説とよばれ全国各地に分布しています。
朝日長者という呼び名もまた全国的なもののようです。

栃木県下にもたくさん分布し、小山市、日光市のものなどが知られているといいます。


本文は、栃木県連合教育会編『下野伝説集(四)「うるし千ばい・朱千ばい」』(昭和三十七年発行)によるもの。

この話も、伝承者によっては、
朝日長者に匹敵するこの地方の大金持ち夕日長者のむすこが、鶴姫に恋いをしたとか、
朝日長者と夕日長者が、黄金埋蔵の歌のなぞを解くために争った、などという話もあります。

タイトルを変え、朝日長者の娘と夕日長者の息子が恋仲になり、許されぬ恋から娘が身投げし、後を追って夕日長者の息子も身投げをし、二人は鯉になって寄り添うように泳いでいる、というものもありました。


たしかに、この豊かな水、澄んだ水は人々に富をもたらしたことでしょう。
悲しい伝説とはなっていますが…。

No.249

【出流原に伝わる伝説】その2


出流原弁天池には、とても冷たく、すんだきれいな清水がわき出しています。その中には、大きなひごいやにしきごいが元気に泳いでいます。この池をいだいているのが、磯山という石灰の出る山です。

その山の東側を後山といいます。

この後山に、今も解けない宝さがしの謎が残っているといいます。

     
うるし千ばい 朱千ばい

くわ千ばい 黄金千ばい

朝日に映す 夕日かがやく゛

雀の三おどり半の 下にある

と、いう歌が昔からこの辺りの村人の間に伝わっているのだといい、これがその謎の文句です。

この歌は、かつてこの辺りきっての大金持ちと言われた『朝日長者』が宝をかくした場所を解く〝鍵〟と伝えられています。


朝日長者の家のあとは、いまは何も残っていませんが、昔は、お城のような広い家で、高いへいに囲まれた中に、大きな家があり、まわりにはたくさんの倉があって白いかべが日に輝いていたといいます。

いっぽう、駒場の円城院山には夕日長者が住んでいて、朝日長者に負けないほどの大金持ちであったといいます。

朝日長者には子どもがありませんでした。子どもがほしい長者夫婦は
「どうか子どもをお授けくださいますように・・・・・」
と弁天様に一心にお祈りをしました。

ある晩のこと。

朝日長者は不思議な夢をみました。それは、月のとてもきれいな晩に月見をしているときです。
急に磯山の上がまぶしいほどに光ると、たくさんの鳥がとんで来たのです。その中の大きな鳥、それは〝鶴〟でしたが、その背中にかわいいお姫様が乗っていました。

長者は、うれしくなってお姫様と手をとって踊りました。
長者は夢から覚めると、不思議な夢だったので妻に話しました。

「これは、不思議なこともあるもの、わたしも同じ夢をみました」
と、二人は不思議な思いでいっぱいでした。

二人が子どもが授かりますよう祈り続けたある日のこと。

二人はようやく子どもを授かりました。

それはかわいいかわいい女の子でした。
長者は喜んでつる姫と名づけました。
そして、大事に大事に育てていました。


(続く)

No.248

(続き)

今の弁天池のほとりにある涌釜神社があるところには、『人丸様』がまつられていました。
村人たちは、この人丸様を養水の神としてあがめ、社をつくりなおし、旧れき六月十四日に毎年、お祭りを続けるならわしにしました。

不思議なことに、この日、神主さんがおいのりをささげると、ほおっと神様がすがたをあらわすことがたび
たびあったそうです。

今は涌釜神社の中に人丸神社もあわせまつられています。



『下野伝説集 一』より

No.247

(続き)

そのあと、人々はボンデン(梵天)をあげることにしました。
ボンデンとは、長い竹の先に幣束をつけたもので、これを山の高い木にしばりつけておくと、これを目印に神様が、天からやって来ると考えられているものです。

人々は、このボンデンを磯山のちょう上の高い木にしばりつけ、そのまわりに四本の青竹をたて、しめなわをはりめぐらせました。
そればかりでなく、その中に台を置き、餅やお酒をそなえました。

こうして、雨がふることをお願いしても相変わらず雨は降りだしませんでした。

ふたたび、太鼓や鉦を打ち鳴らし、山の頂上でのお願いが始まりました。
昼も夜も休まず、二日二晩熱心に、祈りを捧げ、人々はすっかりつかれきってしまいました。
交代の人も山を登る元気もなくなって、中にはふもとでしゃがんでい
る人もいます。

赤々ともえていた山の上のたき火も、いつしか消えかかり、思い出
したように時々もえ出す炎が、あたりを照らし出しています。

すると、その時。

麓の人丸神社のあたりに、白い着物を着た一人の老人があらわれました。
そして、持っていた杖で、岩をついたところ、不思議なことにそこから突然、こんこんと水がわき出したのです。人々は、あまりのことにびっくりし、そこにへなへなとすわりこんでしまいました。

あれほど待ち望んでいた水が、今、目の前にわき出しているのです。人々は、老人の前へ手をつき、頭を下げました。
そして、ふたたび顔を上げた時には、もうその老人のすがたは見えませんでした。

「あの白いおすがたは神様だったのだ」
「おれたちの願いを、神様は聞いてくださったのだ」
「ばんざあい」

うれしさのあまり、泣き出す人、わらい出す人、水をすくってながめる人、踊り出す人と、磯山のふもとは夜明けとともに村人のよろこびの声でうずまりました。

それ以来、磯山の水はどんな日照り続きの年でも水のかれることなく、この辺りの田畑をたがやすお百姓さんたちを喜ばせました。



(続く)

No.246

【出流原に伝わる伝説】その1

「下野伝説集(一)」
『朝日堂・夕日堂』より『人丸神社の神様』

昔、このあたりの人々は、寺久保から流れ出る寺久保川や旗川の水を使って田畑をたがやして生活していました。

ある年の冬のことです。渇ききった天気が続き、どうしたことか、春になっても雨がふりません。毎日、日が照りつけるばかりで、道ばたの草はほとんどめを出さず、冬のかれ葉のままです。山の草木もさっぱりのびません。

お百姓さんはすっかり困ってしまいました。しかたなく、わずかばかりの井戸水をくみ上げて、野菜の種をまきましたが、それさえも芽を出してくれません。
     
空を見れば相変わらず太陽がぎらぎらとかがやいています。

「うちじゃ、ねぎもかれそうだ」
「井戸水も少なくなってきたね」
「これじゃ、飲み水が心配だよ。」

お百姓さんたちは、心配と水くみで疲れきった体を休めながら、空をながめてはがっかりし、畑を見てはためいきをつくばかりでした。

それでも、まだ、井戸の中に水がある間は、野菜くらいはできるだろうといういくらかの望みはありましたが、浅い井戸は、その水も少なくなり底が見えはじめました。

「雨がふらないのは神様のおいかりかもしれない」
「神様にお願いして、雨をふらせてもらおう」

人々は出流原の磯山のふもとに集まり、雨ごいのお祭りをすることになりました。
相談の結果、磯山の一番高いところに登り、このお祭りをすることになりました。
火をたき、太鼓や鉦を打ち鳴らし、大声を出して、神様にお願いしました。

赤々ともえる火。
どーんどーんという太鼓の音が、あたりの山々にこだまして、響きわたりました。
しかし晴れわたった夜の空には、数知れない星がきらきらとまばたくばかりです。
この祭りは夜通し続けられましたが、次の日になると、また太陽が、いきおいよくあたりの山々や田畑を照らし出しました。
人々はがっかりしてしまいました。



(続く)



No.245

【湧釜神社】さん

栃木県佐野市出流原町(赤見温泉)にある池である【出流原弁天池】は、昭和三十一(1956)年に県指定天然記念物に指定されているとともに、昭和六十(1985)年には『出流原弁天池湧水』として日本名水百選に選定されました。

この湧水は、佐野市の北域にあたる後山は秩父古生層の石灰岩で形成されており、鍾乳洞から年間を通じ 水温は16℃、2400㎥/日の湧水量の水が湧き出しており、流出した水は料亭の庭の池や養魚場や磯山公園の池に利用されさらに下流の灌漑用水にも利用されています。

 また、出流原弁天池は、一年中、夏でも冬でも、水がなくなることはなく、あたりの木々や岩山などをうつして、ながめがたいそう美しく佐野市の名所の一つとなっています。


今は出流原とよばれているこの地は、昔は涌(湧)釜原と呼ばれていたといいます。
このことからこちらの社名はそこに由来すると考えられています


出流原弁天池のそのすぐ横に鎮座される【涌釜神社】さんの草創等詳細は不明だといいます。


湧釜と書いて『わっかま』と読むといいます。

大正2年に旧地より現在地に造営遷宮したといいますが、少しネットで調べたくらいでは旧地がどこかはわかりませんでした。

こちらはもともと『人丸様』と言う神さまが祀られている『人丸神社』であったといいます。
この『人丸様』は【柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ】であるといいます。
『人麻呂』は『人麿』とも表記されます。

後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられており、また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
神社の御祭神として今もさまざまな地でお祀りされています。


弁天堂への登り口と弁天池のちょうどあいだくらいに社務所があり、そちらに宮司さまがおられることもありますが、不定期ようです。

宮司さまがおられない時は、池ほとりの売店で書置きの御朱印をお授けいただけます。

こちらの売店、裏手の小高いところにある旅館の出店でありまして、大変働き者で気配りのできるご家族が経営されています。

ヤギを飼っておられ、この春子ヤギが産まれたとのことで、旅館の隅にある小屋まで見にくるようにと軽トラに乗ったご高齢の男の方にお声がけいただきました。


これが結構な小高さで。

…運動不足を痛感いたしました。


No.244

(続き)

また、い、…磯山?出流原弁天堂さんは一説に、歴史の一ページをかざる(という)【山城禁止令】に深く関連があるといいます。

私の脳内にある授業で習った日本史の一ページには残念ながら残ってはいなかったのですが、かの歴オタおじさんこと夫からは幾度となく聞いたワードです。
ワードどころか内容もきちんと丁寧に、私レベルでも理解できる言葉で解説してくれていました。


この『山城禁止令』なるものは〝江戸から二十里=八十キロメートル四方は山城を禁止する〟という令。

実はこの禁止令の発令される発端を作ったというのが他ならぬ栃木県の唐沢山城主であったと言われているのだといいます。

唐沢山城主が自城にて江戸の大火を見、早馬にて馳せ参じ一番乗りで将軍=殿への御見舞いを言上した際、この火事が眼下に見えていたという一言を用い、これにより将軍は
「江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることか」との不信を述べられたといい、これを受けこれ以降山城廃城の憂き目を見たのだ、というものです。

唐沢山の領民は一丸となり、城主の胸中を慰め、また将軍様への忠誠と不信を取り戻すためにと、出流原にあった弁天堂を山腹に移し、江戸城鎮護の守り神として江戸城向きに建てたともいわれ、それゆえ御本殿は東京都の方を向いて建てられているといいます。


なおこちらの御本尊さまは、
羽衣風の衣装をまとった八本の手を有する天女風の弁財天で頭上に宇賀神像を拝しているといいます。
厨子の右側には大黒天さま、左側に毘沙門天の二福神が祀られています(隠れてよく見えなかったのは毘沙門天さまであったそうです)。

そしてやはりよくは見えなかったのですが弁財十六童子が弁財天さまにお仕えするかのような姿で安置されているのだといいます。

御厨子におられる弁財天さまは十二年に一度の巳年に御開帳の年となるとのこと。
昭和五十二(1977)年の『丁巳』には御開帳を記念して社殿拝殿の大改修及び復元がなされています。
ここ最近では平成二十五(2013)年の巳年に御開帳され、稚児行列も行われだということ。

つまりは…来年!
いやぁ、これは是非とも行かなくては!

…ただ。
こちらの駐車場、かなり区画が少なくてしかも道も狭いため、いつもローリングする車で渋滞が起きるほどなのです。


うーん。
…その時には臨時駐車場が設営されるかしら

No.243

(続き)

懸造りは、懸崖造り、舞台造りなどともいわれます。

この舞台造りは日本でしか見られない建築様式で、京都の『清水寺』が有名です。高さや規模では敵わないものの、出流原弁天堂の舞台造りからの眺めの良さは引けを取りません。

ところで。

この出流原にありますこちらの弁天堂さんを私はずっと『出流原弁天堂』と呼んでおります。
実はもう一つの呼び方として【磯山弁天堂】というものがあります。
この懸造りの掛けられた山が磯山であるからなのですが、私はこちらの御朱印に『出流原辯財天』と書かれていたから、であります。

しかしながらこちらの弁天堂の管理は今現在では【磯山弁財天観光協会】さんがしており、御朱印もホテルのロビーでの授与となります。
そちらのホテルは出流原弁天池のすぐそばにあり、〝山〟よりも〝池〟に重きをおいた、ということがあったりする…のかもしれません。


こちらの弁財天さまは、今を去ること千年の昔、唐沢山城主【藤原秀郷】公の勧請によるものといわれ、【弘法大師】さまが『相州江ノ島弁財天』にて護摩修行の際、その護摩の灰にて造られたものといわれているといいます。
そして、その当時は一帯に七宝伽藍が林立して隆盛を極めたといいます。

しかしながら、その後幾度かの火災に遭い、寺宝等をことごとく焼失してしまったといい、現在の本殿は鎌倉時代に再建されたものといわれています。

釘を使わぬ昔日の力学工法の建築美を今に伝える貴重な文化財として大切に現代まで継承されてきたもので、近年では平成元年に保存のための修復がなされています。


磯山弁財天も、以前は弁天池の中の小島に祀ってあったものといいます。
霊泉の不変の恩恵に浴した出流川沿岸の住民、特に水車講農民等の信仰が厚く感謝の総意により現在地に奉安したと云われ、日本広しといえど弁天様を山腹に安置するのは磯山弁財天のみとされます。




No.242

(出流原弁天堂さんの続き)

石段をのぼると見えてくる赤い御堂と、白蛇の像。

一つ一つていねいに作られた鱗、高くくびを掲げた神々しさをすら感じるこの像に立ち止まる方も多くおられます。
この白蛇の像の台座に『阿吽の大蛇』と書かれているのですが、…あれ?阿吽って…〝対〟の蛇の像ってあったかしら?

懸造りの、舞台のようになった拝殿前は赤い手すりがあって、ここからの景色や、爽やかな風を楽しむ方、写真を撮る方でいっぱいとなります。
拝殿、でいいのか御堂の前にも、参拝の順番を待つ方が列をなしますが、さほどは大きくはない懸造りの御堂前、どうしても蛇行した列となります。
そんな蛇行する列すらもなぜか縁起が良いような気がしてまいりますが、それはここが弁天堂であることと、やはり爽やかな景色や風で心が洗われるせいでありましょう。

御堂の中のなか、正面に少し大きな厨子の祀られた須弥壇があり、左側には恵比寿さま?それとも大黒さま?の彩色された像が祀られています。
その前には小さな前机、立派なお座布団が一枚。
それでいっぱいになるような大きさの御堂です。

参拝の方が途絶えることなく小さな御堂にやってきます。

裏手にまわると、びっくりするようなごつごつしたたくさんの岩に囲まれていることに気づきます。
その大きな岩と岩の隙間がなんともまた神秘的です。

しかもこの場所、とても涼しいのです。
風を感じるほどではないのですが、この岩の隙間を冷風が抜けるのでしょう。
御堂のまえとこことでは、結構な気温差があると思われます。

あの山門をくぐってすぐのところにも風穴がありますが、それとは比べものにならないくらいの大きな大きな風穴です。

No.241


神さまや 
仏さまが
ほんとうに 
いらっしゃるかどうか


でも 
あの合掌をしたときの安らぎは
どこからくるのでしょう

右の手の悲しみを
左の手がささえ

左の手の決意を
右の手がうけとめる

その上を流れる
静かな時間


こうした姿勢を教えてくださったのは
どなたでしょう


詩人 高田敏子

No.240

(続き)

今回で三回目の参拝となりますこちらの出流原弁財天堂さん、私にとってとても心が穏やかになる癒しの空間であります。

入り口から上りとなる参道。
こちらの山門は、実になんとも変わっているのです。
赤い楼門、とでもいいましょか。

石段の途中に楼門が設けられているのですが、そのくぐる部分が赤い太鼓橋の下といった感じ…なのです。
太鼓橋の下をくぐるように山門をくぐると目の前に大きな蛇の銅像があります。
この蛇の像、口から出した細い舌までが表現されたなかなかリアルな像であります。
その左側には石造の弁財天さまがお祀りされています。
右側ヘ折れてさらに上を目指します。

すると右側に鐘楼があって、こちらの鐘は撞くことができます。

私が撞いたあと、順番待ちの人の列ができ…七、八人はいたでしょうか。
撞いて良いとされる梵鐘は必ず撞かせていただく私ですが、こんなに並
んでいたらちょっと躊躇われたかもしれません。
まあ、そんな煩悩の一つを消してくださるという梵鐘ですので、私のような人間はどれだけ並んでも撞くようにしなくてはいけないかもしれませんが。

さらに進むと三方向に道別れします。まっすぐに山を登る道と、右側にある銭洗弁天さまへと進む道、そして左側が弁天堂へと続く石段となります。

石段の下に蛇の像のある手水所があります。
ほとんどの方がきちんと手を浄め石段をのぼりはじめます。

少し急な石段をのぼると、赤い御堂が見えてきます。
そしてその御堂のある段までのぼるとまた白蛇の像が祀られています。

御堂は懸造り、右側面に石段がつながっています。
木でできた床を歩きだすとまもなく、展望台かと思うくらいの眺望が広がります。
青い空と、緑豊かな大地が広がっています。

その美しいことといったら。



 (出流原弁天堂の楼門)

No.239

(出流原弁天堂さんの続き)

昨日、日が変わる直前まで書いていた前レス。
あ、そろそろ日が変わってしまう、と思って急いでポチっとしたタイミングがまさに零時零零分。
…らしいな。
いかにも私らしいと思わずにいられません。

それでも五月五日と日付を入れていたからまだよかった。
そう、昨日が己巳の日であります。
そして私どもが【出流原弁天堂】へ参拝いたしましたのは一昨日の五月四日となります。

ところで。

『巳の日』の「巳」は干支で、ほとんどの方がご存知かと思われますが動物のヘビのことです。

日本では古くから年・月・日・時それぞれに十二の干支を当てはめ、さらに『十干(じっかん)』と合わせて日付や時刻の記録に用いていました。

『十干』とは中国の『陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう)』により、十日間をひと区切りにし、一日ずつ名前をつけたもの。

甲(こう)
乙(おつ)
丙(へい)
丁(てい)
戊(ぼ)
己(き)
庚(こう)
辛(しん)
壬(じん)
癸(き)

からなります。
日本では
「きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと」
という独自の読み方が生まれました。

この干支と十干で表される暦を「干支暦(かんしれき)」といい、それぞれの干支の日が十二日ごとに巡ってきます。

干支暦のなかで巳の日は金運・財運アップの日として知られる吉日であるといわれています。

それは七福神の一柱であり、仏教の守護神として信仰される神さまであります【弁財天】さまの使いが白蛇であることからきています。
白蛇は古くから金運や商売繁盛を招くと考えられてきました。

また弁財天さまは金運のほかにも芸術や交通安全、恋愛成就、子孫繁栄、長寿といったさまざまなご利益があるといわれています。


そんな十二日ごとに巡ってくる巳の日のうち、十干の「己(つちのと)」と重なる日は
【己巳の日(つちのとみのひ)】と呼ばれています。

『己巳の日』は六十日に一度、年に六回、巳の日よりさらに金運がアップするといわれる吉日とされているようです。


…そんな日をはからずも外して、よりにもよって前日に弁財天さまをお参りするあたり、いかにも金運に縁のない私どもらしいと思わずにいられません。

No.238

本日五月五日は、六十日に一度巡ってくる弁天さまの縁日『己巳の日』でありました。

弁才天はインドの河川や水を司る女神『サラスヴァティー』と弁舌と言葉の神『ヴァーチ』が習合し、発展した神さまとされています。

『弁才天』を『弁財天』とも表記しますが、才能が財産に通じるから、また宇賀神の語源であるウカヤが『財施』の意味を持っているから、とも言われています。


そんな暦も知らずに、昨日、栃木県佐野市にあります【出流原弁財天】さまにお参りしてまいりました。
思わず一日ずらしていれば…と思わずにはいられませんでした。
ひとえに思いつきで行きたいところを口にする私のせいでございます。

出流原弁財天さまは藤原秀郷の勧請と伝えられる、磯山と呼ばれる山の中腹にあります。

山の中腹にあるため、近くまで行くとその朱塗りの姿が見えて、なんとも心弾みます。

この弁天堂のある磯山の麓には弁天池があり、日本名水百選に選ばれるほどであります。

No.237

(続き)

全てのシールを貼り、社務所に〝報告〟いたしましたところ、
白い小さな紙の袋をお授けいただきました。

宮司さま、いったんその紙袋を夫に渡したあと、もう一度ご自身のお手に戻されて、中を出してお見せくださいました。


「おおっ♡ なんて可愛らしい!」


なんとも可愛らしい、そしていかにも現代的な根付けタイプの御守でありました。

白狐がお祈りをしているフィギュアの御守です。

…なんか凄くうれしい。

白狐さまと一緒に家に帰れるような気がいたしましたし、なによりこれからこの白狐さまとずっと一緒にいられるのです。


大切に手のひらに包ませていただいて家に帰りました。


かわいい私の守り白狐さま、です。

No.236

(続き)

スカーフの置かれた場所のヒントがあります。

社務所のすぐそばにある手水舎がその一つ。
小さな手水舎ですし、参道の石畳のすぐ横に設置されているものです。
(ここは楽勝だな)

ぐるっと一周、…無い!
もう一周。
…無い!

おかしい。
お子様から大人の方まで、…と書いてありますこのイベント、何故?

手水舎の柄杓の絵に「手を清めていたら落としちゃった」というヒントです、手水舎に間違いないはずです。
ぐるぐると二周したのが社務所から丸見えなはず。

…白狐様、今日はもうスカーフを回収済み?
仕方ない、白狐さまのお社にお参りして真の白狐様からヒントをいただこう。

お、その前にもう一つのヒント。
三つの本坪鈴(ほんつぼすず)の前で白狐様が手を合わせてお参りしている絵があり、「願いごとが叶うようにお参りしていたんだ…」と書いてあります。
これはきっと拝殿前。

…はて。


無いんですが…。


これはヒントの一つ「学問に関するご利益が得られる所に行ったような…?」と書かれた、おそらくは天神社にお参りして、少し知恵をお授けいただこう。

おお!
天満天神社で初めて〝白狐様の落とし物〟のスカーフを見つけることができました。

…なるほど。
こちらの天神様はかなりのご利益があるぞ。

スカーフはしっかりとしたファスナー付きのビニール袋に入っています。

そうか、剥き出しのスカーフではなくて、むしろこうしたビニール袋を探せばいいんだな。
…と、イベント用のお知恵をお授けいただいて。

再び拝殿前に。

…あるじゃん♡

うんうん、知恵がついた、知恵がついた。

スカーフにはそれぞれ異なる色があることは前述しました。
このスカーフの色と同じ色のシールを、ヒントの書かれた台紙に貼っていきます。

…スマホでもできるんですがね。
私は根っからのアナログ人間、この台紙にシールを貼るタイプを希望しました。

さて。

私はこちらの飯玉明神さまや保食命さま、天神様や白狐様にお知恵をお授けいただいて、このイベントを無事クリアすることができましたが。

このイベント、明日までとのこと。

これ以上書いてしまうのはやめておきましょう。



No.235

【飯玉神社】さん

大好きな神社さんの一つであります群馬県前橋市の飯玉神社さんで【お白狐様の落とし物】というイベントを二月から開催されていました。
初詣の際にご案内の小さなカードをいただいておりました。

夫も一緒に行きたいだろうかと先延ばしにしていたところ義母の逝去があり、神社さんに行けぬ身になってしまいました。
お子様から大人の方まで幅広くご参加いただける催しとのこと。

こちらの神社さんは大きな団地の一角のように位置しており、…というかもともとは神社さんの敷地であったところを明治時代に官に取り上げられ、戦後もやはり境内の縮小が強いられたりという歴史があり、そこに団地が建った、というのが正しいのでしょう。
(そしてさらにもとをたどれば、こちらは古墳の上に建っています)

そんな、団地の奥まったところにあるこちら、外から見ると鳥居の中、参道に団地の駐車場があるような立地で、肝心のこちらの駐車場の有無すらがわからず、なかなか参拝にいたらずにおりました。

それがひょんなことからこちらの事を知る方から話を聞く機会があり、昨年初めて参拝をさせていただきました。

神職の方々がみな、アットホームな方々で、そして明るく居心地のよい境内。
なによりも拝殿内からあたたかな優しい気があふれてくるような感じで、すっかりこちらの神社さんのファンとなり、それから何度も参拝させていただいております。

そんな神社さんのイベント『お白狐さまの落とし物』、こちらの神社さんを知るまたとないチャンスでもありました。


忌が明けて。
すでに五月、二月からのスタートであったこの催し、さすがにもう終わってしまっただろうとは思ったのですが、来れずにおりましたことをお詫びしましょうとお参りにまいりました。

参拝を終えて。

社務所におられたお若い宮司さまにおそるおそるお聞きすると、なんと六日まで開催されているとのこと。

すぐに申し込ませていただきました。

なんでも境内内にあるお白狐さまのスカーフを五枚探しだすという内容のもので、スカーフの色が全部で五色、境内のどこに何色のスカーフがあったかを答えるというものです。


子供のようにワクワクしながら、さっそくスタートいたしました。

No.234

(続き)

そんな光明寺さんの縁起などをお聞きする機会がありました。
光明寺さんの開創は、約千二百年前に行基上人により開山された「水月庵」がはじまりといいます。

これは約四百年前に書かれた『光明寺縁起』によるといいます。

当時はちょうどあの【東大寺大仏】の造立時期と重なり、天皇の命により行基菩薩が日本各地に幅広く勧進を行ったと伝えられています。

桐生は当時からすでに織物の産地として知られていたといい、それが行基上人がここに開山することにつながったのかもしれないと考えられるといいます。 


ところで。
光明寺さんの東側に位置する丘に、【美和神社】があります。
美和神社さんは、平安時代の初めに編集された資料『延喜式』に記載されてい【延喜式内社】であります。

こちらは奈良にある『大神神社(おおみわじんじゃ)』の流れをくむといいます。

奈良の「大神神社」のご神体は三輪山。
桐生の美和神社のご神体は吾妻山。

その山すそ南面に建っているのが「水月庵=光明寺」であるのだといいます。

光明寺の前身であります水月庵(水月場)がここに建てられた理由は、すでにこの地域の古い霊域であったからではないかと考えられるといいます。
北極星に対する信仰が修験道の成立と共に、広がっていった点からも、
修験道の本拠地の一つである『吉野蔵王堂』も行基上人を中興開山としているのも決して偶然ではないと考えられるといいます。


そして、約四百年前(寛永元年)、寺域が拡大され、現在の『光明寺』を名のる様になったといいます。

この由来に関しては、東大寺が最初に「金光明寺」と名のったことに関係するといえるでしょうか。(現在「水月場」の額は観音堂に掛けられています。)

そして『美和神社』さんの本地仏千手観音さまも、明治の廃仏毀釈により、光明寺に安置され祀られているのだといいます。


No.233

【大慈山 水月場 光明寺】さん

ゴールデンウィーク群馬県桐生市にあります『吾妻公園』という、自然豊かな、吾妻山のふもとにある公園のチューリップがみごとだと聞いて行ってまいりました。
しかしながら心の中で思っていたのは、吾妻公園のすぐお隣にある【光明寺』さんへのお参り。

なので公園の駐車場からまず向かったのは光明寺さんでありました。

大きなしだれ桜がたいそう美しいお寺さんでありますが、さすがにその花の時は過ぎ、もうすっかり新緑をつけてありました。

こちらのお寺さんはいつお邪魔しても必ず何かお花が咲いていて、そして大変手入れのよいお寺さんであります。

何年か前に境内におられる石佛さまを観音堂へと続く石段の横の斜面にまとめてお祀りになり、それが私の心に響きまして。
古い石佛さまって結構すみに追いやられてしまったり、最悪なパターンだとどう見ても打ち捨てたようにしか見えないように放置されたりするのです。
ずっと前から境内におられ、境内をお護りくださった大切な御仏でありましょうに…。

こちらはそんな古い石佛さまも大切にしてくださるのだなぁと、前よりももっと好きになりました。

どんなタイミングでなのかはつかめないのですが、運が良いと御本堂の扉が開いていたり、観音堂の扉が開いていたりして、そんなところも嬉しいお寺さんであります。

御本堂自体はたいそう新しく、平成とかのものに見えますが、観音堂は古い時代のもので、素晴らしい彫刻が施され、扉が開いておりますと天井画や奉納された絵馬まで拝見することができるのです。


好きなお寺さんの一つ、…と申しましてもこちらのご住職さまのお話をうかがうような機会はほとんどありません。
せいぜい境内の草木に水をやられていたりするとき、お声をかけさせていただくくらいです。

それでも寺務所の玄関にまつられていた御仏を知りたくて、お寺に勤めておられる女の方にお聞きしたところ、わからないとのことで、ご住職を呼んできてくださったことがあり、そのときにはお話を聞くことができましたが。
基本的には必要なことしかお話にならない方のようです。
どこから来ました?などという社交辞令は一切なさらない。

凛とよく通るバリトンのお声のご住職さまであります。

まっすぐ目を見て話すと身が引き締まって、こちらから話を広げようと思わない、眼力のある方であります。

No.232

【正五九参り】

忌中ですっかり頭がまわりませんでしたが、昨日から五月に入り【正五九参り】の月となりました。

正五九参りとは、忌み月とされていた正月・五月・九月に寺社へ参拝し、厄災を祓い清める意味があると伝わるといいます。

あるいは
新しい年の始まりに参拝する『正月(初詣)』、
草木が新緑となり花開き、陽の気に満ちた『五月』、
野菜や果物が実を結び、結果がともなう『九月』に参拝し神仏に感謝することで、祈願が成就しやすいともいわれます。


わが家は昨日までが忌中。

鳥居を見かけるたび、知らずに何か失礼をしてはいないか…一の鳥居が遠かったり、消滅していたりして、実は境内にいた、とか、ドキドキビクビクしていた小心者のおばさん。

今日からは喪中。

昨日朔日参りはできませんでしたが、ようやく神社さんへのお参りも良いとされます。

神社さんへお参りさせていただいてから、家での小さな神事をさせていただこうと思います。
忌明けのお祓いまではしませんが、家に神棚が無い分、かえってきちんと参拝してからにしたいかなぁ、と。


とすると。
まずは八日のお薬師さまのお縁日。


忌明けと明るい、色とりどりの花の咲く五月が重なって、少し気持ちが明るくなった気持ちがいたします。


No.231

暦を見ると本日は『八十八夜』となのだといいます。

八十八夜とは、立春から数えて八十八日をむかえ、この日に摘んだお茶は、縁起が良く特別なお茶となるそうです。

お茶は仏教と共に日本に伝えられたとされていて、伝教大師最澄上人や弘法大師空海上人もお茶を持ち帰ったと言われています。


日本に根付いたお茶の文化は、命懸けで大陸に渡った僧侶たちによって伝えられ、育まれてきたものでありました。


ネズミのひたいのようなわが家の庭にはお茶の木などはなく、八十八夜に摘まれたお茶を飲むことは生涯叶うことはないでしょうが、今朝もお茶を仏壇もどきにお供えし、感謝を込めていただきたいと思います。


…今年は、夏も近づく八十八夜♫どころか、すでにもう夏日を迎えておりますが、ね。







No.230

(続き)


神様がたった一度だけ、
この腕を
動かしてくださるとしたら、
母の肩をたたかせてもらおう


受傷したのちの富弘氏の全てを、自分の持てる全てを注いで支えたお母さま。

私の尊敬してやまない方であります。

病床でのお母さまの献身的な介護の姿は、星野さんの著作『愛、深き淵より』(立風書房)や『ことばの雫』『いのちより大切なもの』(いのちのことば社)などに描かれ、詩にも表現されています

入院中は三度の食事の手助けや様々な介護にお母さまはつきっきりでありました。
急な病床生活、一生という単位で背負ってしまった障害、わずか一ヶ月強で失ってしまった教員という職、星野さんの積もっていたいらだちが爆発するときもただただ黙って受け止められます。

そしてそれは星野さんが結婚するまで、生活全般から、詩画制作のために、絵の具を溶かしたり、紙をセットするなどまでずっとずっと。


こんなエピソードがあります。

富弘さんが入院し、人工呼吸器につながれ、熱にうなされていたとき、お母さまは「わが身を切り刻んででも生きる力を富弘の体の中に送り込みたい」と思ったといいます。

富弘はさんは後に「私は、それほどの愛に応える術をもっておらず、何も言うことができませんでした」(『いのちより大切なもの』)より。


No.229

(続き)

今、部屋に飾らせていただいていた作品を。

ただ、著作権もあるかと思いますので、絵は残念ながら控えます。
たんぽぽのわたげの繊細な絵であります。



ここがどんなに
住み良いところでも
風が迎えに来たら
私は行くのです

私が降り立つ
新しい大地には
何が待っているのでしょう

私はそこで
黄色い花になり
また風に乗って
旅に出るのです


私の旅は
果てのない旅



…富弘さんも
旅に出たのだなぁ。

訃報を聞き、そう思った私でありました。

No.228

【訃報 星野富弘さん】

事故で手足の自由を失い、口に筆をくわえて絵画や詩の創作活動を続けていた群馬県出身の星野富弘さんが、二十八日、呼吸不全のため亡くなられたということです。


星野富弘さんは昭和二十一(1946)年、現在の群馬県みどり市、旧東村で生まれました。

昭和四十五(1970)年、群馬大学教育学部保健体育科を卒業し、中学校の体育教師になるが、同年六月、クラブ活動の指導中の墜落事故で頭部から転落、頸髄を損傷、手足の自由を失います。

昭和四十七(1972)年、群馬大学病院に入院中、母に手伝ってもらって口に筆をくわえて文や絵を書き始めます。

入院中に口に筆をくわえて文字や絵を書き始めたのをきっかけに創作活動をスタートさせ、一つの作品の中に絵と詩が盛り込まれた「詩画」と呼ばれる作品を生み出してきました。

作品をまとめた「花の詩画展」は全国各地で開かれて話題となり、その後、ニューヨークやサンフランシスコなどでも作品展が開かれました。

みどり市にある「富弘美術館」によりますと、星野さんは1年ほど前まで創作活動を続けていたということですが、二十八日、呼吸不全のため、みどり市内の病院で亡くなられたということです。
七十八歳でありました。


多感な学生時代、星野さんの自伝を読んで大きな感銘を受けました。

星野さんの作品を見ると、とても口で描いたものとは思えない画力があり、それはたいそう美しく、優しさと癒しを感じます。

詩画集も持っておりますし、実際の作品を拝見したこともあります。
今は部屋には季節に合わせた富弘さんの作品が一つ飾られています。

子どもたちと行った公園で偶然お逢いしたこともありました。


ご本人の努力も生きざまにも感銘致しますが、それを献身的に支えたお母さまに心底心を打たれました。



ご冥福をお祈りいたします。



No.227

【はねたき道了尊祭の法話】

群馬県みどり市のはねたき道了尊祭に行ってまいりました。
…と申しておりますのは実は時系列にズレがあります。

道了さんのお縁日は二十八日、間に挟むより、四十九日のお話を終了させてからとおもったものですから。

この日は晴天、七月くらいの暑さとのことでした。
季節でお召し物を替えられるお坊さん方でありますが、夏日の暑さとはいえ、さすがに四月に絽や紗のお着物はお着けになることは憚られたのでしょう、今ごろの季節のお着物、しかも重ね着をされておられ、(お暑いだろうなあ)と、思わずにはいられませんでした。

そんな暑さを微塵も表に出さず、涼しげなお顔をされご住職さまは青い青い空を見上げられました。
そして新緑の境内や公園、そして山に目をやると、いかにもその新緑を喜ぶといったまぶしげな目をされ、法話を始められました。



先月の道了祭の折には、色とりどりに花が咲いていたのに、すっかり緑色へと変わりました。
山肌の色が見えていた山も今は緑一色です。
草花や木々も生きているからこそです。

この草花や木々には心はありません。
この地上に生きる命を持つものの中で、〝こころ〟を持つのは人間だかと言われています。

草花や木々には心はありません。

そんな人として生まれた私たちは草花や木々といったものや、動物たちや野菜等の命をいただいて生きています。


お経に【法界萬霊】という言葉が出てまいります。
法界というのは仏さまの教えの世界。全世界。全宇宙のことを指します。

【三界萬霊】ということもあります。
三界というのは生きとし生けるものが居住する三つの世界で、迷いが生み出した全世界の総称。迷いの世界の総称です。
迷えるものがさまよう世界の総称。

三界は、迷いの苦しみが海のように果てしなく続くので、「苦界」とも言われます。


法界、三界にある全てを供養し、感謝するため、法要をし、お経をあげます。

感謝の気持ちを忘れないためにも、お経を唱えましょう。


ところで、お経の終わりにはたいがい、この『法界萬霊』『三界萬霊』といった言葉が出てまいります。
これが出てきたら(あ。そろそろお経が終わるなぁ)と思ってもらって大丈夫です 笑。


と。

直近で四十九日の法要がありました私はいつも以上に耳を傾けていたことは言うまでもありません。


No.226

(続き)

仏教の浄土真宗は、成仏についての教えが他の宗派とは異なります。
浄土真宗では、故人は亡くなってすぐに仏になると考えられています。

そのため、浄土真宗では魂が宿った位牌を仏壇で供養する必要がなく、基本的に位牌は用いられないのだといいます。

私の知人でこの浄土真宗のお寺さんの檀家の方はおられず、また浄土真宗のお寺さん自体も参拝させていただいたことはあるのですが、ご住職さまにお会いすることはできませんでした。

サービス付き高齢者向け住宅に入られている方のお部屋にお邪魔させていただいた際、お仏壇に日めくりのようになっている過去帳があり、(これは便利だ)と思ったのですが、それが宗派によるものだったかどうかまではわかりませんでした。
その時は、お位牌が多くてそのような形をとるしかなかったのかもしれないと思ったものでしたから。

今考えるともしかしたら浄土真宗さんの檀家さんだったのかもしれません。

亡くなられるとすぐに成仏、仏になるとという教えであるならば、当然死後の審判もないということかと思います。
だとしたら四十九日法要もしないのかしら…というとそうではなく、その考え方が異なるのだといいます。

浄土真宗では四十九日は、
「故人のための追善供養」ではなく「遺族が故人を偲び、生について改めて考える期間」として中陰勤めを行うのだといいます。

故人を偲びながらも自身の心に向き合い、新たに歩むために浄土真宗にとっても四十九日は大切な法要であるようです。


ちなみに。
今日、…昨日となりましたか、昨日の四十九日法要での法話は、お寺さんの縁起をお話くださったので、十王信仰と、四十九日後須弥山へのぼる修行をするという成仏への道のりとの関係性はお聞きすることはできませんでした。


そして。
義母の百か日法要は執り行わないとのこと、義兄から話がありました。
こちらのご住職さまの法話はなかなかおもしろいので少し残念に思う夫と私でありました。

これからは義父母の眠る墓が義兄の承継したものとなり、名実ともに他家のものとなりました。
結構な寂しさを今あらためて噛み締めております。



昨日納骨した際、新たに刻まれた戒名碑の義母の戒名が、なんとなくまだ居心地悪そうに見えたのは、…気のせいではないよう思うのです。

そこにきっと義母は居たのではないかしら、と。


No.225

(続き)

ちなみに。
四十九日は『大練忌(だいれんき)』とも言われ、これは後者の説に基づくもので、故人が仏道修行に励み、晴れて仏弟子として再出発する、ある意味晴れやかな日であるのだという。

ちなみにいえば、このあと迎える百か日は『卒哭忌(そっこくき)』といいます。

悲しみに暮れるばかりであった慟哭のときを卒業する、という遺族側の乗り越えるべきものを提示して、法要し、今後、故人亡き後を守っていく決心を新たにするきっかけの日、であるようです。


これは義父の四十九日か百か日の日にご住職から伺い、今でもはっきり胸に残っている法話であります。

義父は急な病からの手術があって、それを乗り越えたのちもさまざまな苦しみにおかれ、病が見つかってから一年経たずして亡くなってしまったので、本人も、家族もその展開のあまりの早さに心がついていけなかった。

涙からの卒業、かぁ。


秋の空を見上げながら思ったものです。

病院でよく実の親子、父と娘に間違われていたくらいの義父でした。
義父の息子である夫よりも理解して、寄り添ってくれるような義父でした。

(ま、泣かないよ。病んでからの〝おじいさん〟は辛いことばかりで、それをがんばってがんばって、ようやく身も心も楽になれたんだもんね)

よく澄んだ秋の空にそう思ったものでした。

ま、そのときの義父がどこに居たかは分かりませんが…。


卒哭、慟哭からの卒業。
心を鷲掴みにされる言葉です。

死は、
特に近しいものの死はなかなか受け入れられないもので、少しづつ少しづつ。

それでも時々は涙に濡れたとしても、それは仕方のないこと。


「生きている者たちが元気で過ごしていることは亡き方の供養になる」と、その時、ご住職さまがぽつんと話してくださったことが今でもはっきり耳に残っています。


ちなみに。
この卒哭忌、百か日の法要は近年法要を営むことも少なくなっているようです。

はて。
義兄はどう考えているであろう。
一事が万事全部自分だけで決めて、しかもすでに行動を起こしているようなタイプの人なので、うーん。


まぁ、基本、四十九日で大抵の故人は行き先が決まりそこに向かって歩き出しているというのだから、そこに故人はもう居ないのだろうけれど。
それだから百か日の法要が省略されることにもなったのだろうけど。


うーん。…どうする?

No.224

(続き)

ちなみに、浄土真宗は、成仏についての教えが他の宗派とは異なります。
浄土真宗では、故人は亡くなってすぐに仏になると考えられています。

そのため、浄土真宗では魂が宿った位牌を仏壇で供養する必要がなく、基本的に位牌は用いないのだといいます。

では四十九日法要もしないのかというとそうではなく、その考え方が異なります。

浄土真宗では「故人のための追善供養」ではなく「遺族が故人を偲び、生について改めて考える期間」として中陰勤めを行うのだといいます。

故人を偲びながらも自身の心に向き合い、新たに歩むために浄土真宗にとっても四十九日は大切な法要といえます。


ところで。
裁きを受けて輪廻転生の輪にのる、と言う考え方とはまったく別の考えがあるようです。

四十九日までの間、

初七日で不動明王さま、
二七日て釈迦如来さま、
三七日で文殊菩薩さま、
四七日で普賢菩薩さま、
三十五日で地蔵菩薩さま、
六七日で弥勒菩薩さま、
四十九日です薬師如来さまが
それぞれ故人のもとへ降りてきてくださり、それぞれのお力を以て〝仏弟子〟になるようお導きくださるというものです。

そして四十九日の日、故人はそれぞれ各宗派のご本尊さまのお弟子になるといわれているようです。

そして御仏の住まわれる須弥山(しゅみせん)を目指して登って行く修行の旅に出るというものです。

ところが、この須弥山例えるなら富士山の上にもう一つ富士山を逆さに付けたような形をしているといい、四十九日までの期間に、そのいわゆるお茶碗を伏せたような山、普通の登山のように登っていくのですが、四十九日以後は登り辛い、〝お茶碗の外側のようなありえないような過酷な斜面〟を登ることになるのだといいます。

この修行は五十年といわれます。

このロッククライマーを以てしても登り難いような斜面を登ること五十年、その修行を行うことで悟りがひらかれるのだといいます。

つまりは、六道の輪廻にのろうが、須弥山を目指してのぼろうが、極めて厳しい修行へ旅立つことは変わりないようです。


まぁ、この二つの説ともいえるものが、関わりあって説かれるのか、全く別なものとされるのかは、今日、義母の四十九日法要で、お聞きすることができれば私にも理解できることとなるのですが…。


聞けないだろうな…、そのあと納骨もあるし。
お清めの席になるし…。

No.223

(続き)

仏教が生まれたころ、インドには『輪廻』の考え方が根づいていました。
死んだら、また何かに生まれ変わってこの世に戻ってくる。

仏教も基本的にはこの考え方を受け継ぎました。

仏教において亡くなった方は『輪廻転生』を繰り返して徳を積み、極楽浄土をめざすと信じられています。

輪廻転生とは『また生まれ変わる』という意味で、亡くなってから四十九日後に生まれ変わりの行き先が決まるとされています。
この四十九日間は現世と来世の間を彷徨っている状態です。
このことを指して中陰(ちゅういん)あるいは中有(ちゅうう)と言います。

その行き先がどこになるか、それを七日ごとに行われる十王、仏さまの裁判で決定するのです。

この七日ごとの裁判で全ての罪業を決められますが、実際に起こしたことばかりではなく言っただけのこと・心で思ったことまでもを罪としてカウントされるのだといい、ほとんどの人は七回の裁判を無罪で済ませるのはとても大変なこと。

そこで遺された家族が法要(善行)を行なって、故人代わりに功徳を積み、死後の裁判が有利に進むように応援するのです。
これを追善供養といいます。

死後の裁判は七日ごとに七回行われるので、七日ごとに家族はお経をあげてもらったり、「故人がよりよい来世に行けますように」とお祈りするのです。


七七日=四十九日には【泰山王(=薬師如来)により最終判決が下されます。

ここまでの審判で、生まれ変わる時に男女どちらになるか、また寿命も決定されるといいます。

故人の来世がどうなるか、ここが最も大切な最後の裁判なので、親戚中の人々を集めて大きな応援を送ると言う意味合いでも、四十九日法要にみんなが集まるのです。

ちなみにもしここでも決まらなかった場合、百ヶ日の時に観音菩薩、一周忌の時に勢至菩薩、三回忌の時に阿弥陀如来による追加の審理が行われるとされます。


義父の四十九日法要の際、ご住職さまからそんなお話を聞き、(この四十九日までに来世が決まらない人というのは一体どういう人なのだろう)、…などというを考えていたことを思い出しました。

悪いことをしたにはしたけれど、その故人の生前した善行を慮り、なんとか良い道、良い転生をとお考えくださっておられる御慈悲なのでしょう。

救うことが前提にある、ということでしょう。
ありがたいことです。



No.222

(続き)

死後の裁きといえばたいていの人が思い浮かべる方がおられましょう。
そう、かの【閻魔大王】さまです。

【閻魔大王】さまは冥界(=めいかい 死後の世界)の最高の王ともいわれます。
閻魔帳や人頭杖(じんとうじょう)、浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)を用いて、亡者が【六道】の『地獄道』『餓鬼道』『畜生道』『修羅道』『人間道』『天上道』といった世界のどこに輪廻転生するかを決定されると言われています。

この閻魔大王さまの審判を受けるとされているのは、実は三十五日のとき。

その前の段階、初七日から四七日(よなのか)の間、四王による取り調べを受けてのこの審判、裁きとなります。


…仏教での法要では、初七日は不動明王さまにお会いするとお話しされます。

…実はここが突き詰めるとわからなくなる仏教特有のものとなるのですが、閻魔大王さまの所属(!)される【十王】と、十三佛さまは表裏一体とされており、不動明王さまは【秦広王】さまと表裏一体、不動明王さまの化身が秦広王とされています。

【十王】とは
秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻羅王(閻魔大王)、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王とされます。

こちらの十王さまによって裁かれるというのは、『十王信仰』と呼ばれるもので、中国において、仏教と道教の両信仰が合わさって生まれているものとされます。
歴史はかなり古いもので、唐の時代にはもうこの信仰の形は成り立っていたといいます。

なので、この十王信仰は、日本の神仏習合の形ではなく、中国由来なものとなります。

秦広王さまで例をとりましたが、たとえばこの秦広王さまに対する不動明王さまのことを、【本地仏】あるいは【本地身】と呼ぶのですが、
この本地仏さまは当然、十王さまそれぞれにおられるとされます。

初七日 秦広王 …不動明王
二七日 初江王 …釈迦如来
三七日 宋帝王 …文殊菩薩
四七日 五官王 …普賢菩薩
三十五日 閻魔大王 …地蔵菩薩
六七日 変成王 …弥勒菩薩
四十九日 太山王 …薬師如来
百か日 平等王 …観音菩薩
一周忌 都市王 …勢至菩薩
三回忌 五道転輪王 …阿弥陀如来

となっています。

十三佛であられます。
このあと七回忌があり、十三回忌があり、三十三回忌までお護りくださる御仏がおられ、その御仏に対しての王もおられるとする説もあります。

No.221

(続き)

義母の葬儀・告別式のあと、引き続き執り行われた初七日法要で、ご住職さまが、初七日で死者を浄土へと導いてくださるのは【不動明王】さまだとお話になられました。

とはいえ、この導きの諸仏、〝裁く〟というよりは導いてくださるよう。

ちなみに。
しばらく前、里見の阿弥陀堂のお祭りで、檀信徒さんや夫が唱えていた『十三佛念仏』は、かつて葬儀のあと唱えられていたようで、この十三佛さまにお導きいただき、成仏できるようにと唱えたようです。

この、各七日の四十九日を司られる御仏はというと【薬師如来】さまであります。

十三佛のうちの、四十九日までを、七名の御仏によって受け持たれています。


では〝裁き〟をつかさどるのは? 


No.220

【四十九日法要】

あと少しすると義母の四十九日を迎えます。

四十九日は仏教用語のひとつで、死後49日目のことをいいます。宗派によって若干違いはありますが、この49日の間に、極楽浄土に行けるかどうかの「お裁き」が行われるといわれています。
この「お裁き」は一度ではなく、七日ごとに七回あります。

そのため遺族は七日ごとのお裁きの日に法要を営み、故人が極楽浄土に行けるように祈ります。
祈ることで故人の善行を足していくという意味で、「追善法要」ともいわれています。

その七回のうちの1回目にあたるのが『初七日』です。
初七日の次は二七日、三七日と続き、7回目の七七日が四十九日となります。

初七日は単に「亡くなって7日目」ではなく、最初の裁きの日という大切な意味を持った日といわれます。
ですが、私の住まう辺りではどこの家も葬儀・告別式のあとに続けて初七日法要を執り行ってしまうことがほとんどで、その後二七日や三七日と続きますが、いまはこれも遺族だけで祭壇の前でお祈りして、とくに僧侶を呼んで読経をお願いすることもなくなってきているようです。

もちろん、私の元同僚の家では、毎週毎週、遺族が集まり、僧を呼んで読経していただいていたと言っていました。

まぁ、義母は夫である義父の初七日の日、旅行に行ってしまっていたくらいですので、当然義母以降の婚家はそのような法要はありません。

ちなみにこの祭壇は『後飾り祭壇』とか『後飾り』『自宅飾り』『後壇(あとだん)』と呼ばれるといい、仏教では【中陰壇】と呼ぶのが正式な呼び方だといいます。
四十九日法要のことを【満中陰法要】ともいうといいます。

四十九日は7回目のお裁きの日です。
このときに極楽浄土に旅立てるかどうかの最終決断が下されるため、追善法要の中でもっとも重要な日とされています。
また、遺族にとっては忌明けの日にあたり、ひとつの節目でもある日です。

私たちは生きている間に『仏教の教えでやってはならない七つの罪』を犯しているといわれます。
(余談ですが『七つの大罪』という漫画がありますよね)

嘘を言ったり、生き物を殺したり、盗みをしたり、酒に飲まれたり…。

その罪を七日七日で裁かれますが、この七日七日日に僧の読経や、遺族の祈りでこの罪を償い、軽くしていただき、極楽浄土へと導いていただくのだといいます。


No.219

などとお寺さんから離れた、博物館関係で浮かれていた私に、ショッキングなニュースが流れてきました。

それは高野山の宗教法人『密厳院』が雇用調整助成金約621万円を不正受給した、というもの。

和歌山労働局によりますと、密厳院は、新型コロナウイルスの感染が拡大していた、2020年9月から2022年9月の間、実際には休業していないにもかかわらず、休業したとする虚偽の申請書類を作成し、雇用助成金あわせて約621万円を不正に受給したのだといいます。

密厳院は、高野山真言宗の総本山で世界文化遺産に指定されている『金剛峯寺』の宿場町にある宿坊の一つ。

女人禁制の高野山のふもとに母を置いて父を探しに来た石童丸に対し、『苅萱道心』が親子だと名乗らずに約四十年にわたって修行したという逸話が残る「苅萱堂(かるかやどう)」で有名なお寺。


…はぁぁ。

はぁ。

お釈迦さまが亡くなられ、弘法大師さまが亡くなられて(…亡くなられてはいないと言われるすじもありましょうが)、ここまできましたか。

たしかに。
宿坊にはコロナ禍においての休業というものは無かったのでしょう。

ただ緊急事態宣言で不要不急の外出が制限され、帰省や旅行、…どころか学校すらが休校となりました。

いわゆる開店休業状態?
檀家さんもいないお寺さんは収入の全てが絶たれたのはたしかだったのでしょう。

そう考えていくと、悪い意味ではなく純粋に、ウチもこの給付金の対象に当たるという考えに至ったのかもしれません。

ただ、ここでどうして周りの、他の宿坊となっているお寺さんに相談してみなかったのか、金剛峯寺さんに相談、報告しなかったのか、という点にいき着きます。

…やっぱりこれは不正であることに気づいていたと思わざるを得ない…嘘ついてるし。

ぅ。

哀しい。


お寺のご住職だって、犯罪に手を染めた方はいて、時々ニュースになります。
かなしい意味で〝人間だから〟。


…でもなぁ。
高野山のふもと、なんですよ。
金剛峯寺を冠に抱いたお寺さんの一つなんですよね。

ま、どこのどんなお寺さんとて、その運営にあたっているのは〝人間〟。


(人の)好き嫌いが激しくて、すぐに態度に出るお坊さん。
法要そっちのけでイベント重視のお寺さんも結構見てまいりました。


…でもなぁ。
教えを説く人、立場の人なんだよなぁ。

うーん…。

No.218

…などと、夢を語っておりましたら、フォローさせていただいているブログのブロガーさん、

『この一週間のうちに、
奈良博「空海ー密教のルーツとマンダラ世界」展と、
京博「雪舟伝説」展
そして、トーハク「法然と極楽浄土」展
をハシゴしました』

ですって。

…なんてパワフルな。

そして…なんてお金持ちな。


いいんです。
私なりの幸せはそうではないということ。

奈良博は遠いし、旅費もかさむし、当然宿泊代だってかかる。
…一人で行けやしないし。
そんな体力もない。

…奈良博ねぇ。


どう交渉すれば夫の気持ちを変えられるかなぁ。
おいっ!





No.217

「私をとーはくに連れてって」
と、何かのタイトルのようなセリフで夫に懇願した、東京国立博物館において開催された【建立九百年 特別展 中尊寺金色堂】は四月十四日をもって、閉幕いたしました。

この日、私は朝から(あんなお近くに寄せていただけることは二度とない)と感傷にひたっておりました。

そして昨日、中尊寺の金色堂では東博まで出開帳してくださっていた諸仏のご還座(げんざ)の作業が無事終了し、僧たちにより開眼法要が執り行なわれたということでありました。

ということは。
私がお会いした十一体の御仏たちは、閉眼供養、魂抜きがなされたままであったのだろうか。

それともご移動の時だけ閉眼され、東博に安置したのちまた開眼供養をされたのでありましょうか。

このとき、私は御仏として、というよりは御仏の像として拝見してありましたので、御仏十一体の御魂が抜かれたままに〝展示〟されていたとしても、むしろかえって罰当たりなことをしていなかったとホッとするところもあったりいたします、が。
やはり一抹の寂しさもあり、おばさんの胸は複雑です。

しかしながら、閉幕の際にはわざわざ岩手から貫首さまがお越しになり閉幕のご挨拶をされています。

また中尊寺金色堂に諸仏がお戻りになったのち、開眼の際には貫主さまをはじめとする計五名の僧により法要が営まれておりましたことから考えても、やはり東博においても御魂はきちんと御仏の中にあったと思えるのです。

そして今日は今日で別室に展示されていた(こちらは入場料なし、無料で見られるゾーンでした)宝物等が全て中尊寺さんの定位置に収められたとのこと。

元どおりの中尊寺に戻ったようです。


今開催されている【法然と極楽浄土】にも行きたいし、何より奈良の【空海 KUKAI-密教のルーツとマンダラ世界】に行きたい!

それから。
やはりとーはくで七月十七日から創建1200年記念 特別展【神護寺-空海と真言密教のはじまり】が開催の予定で。

行く!
一人でも絶対行く!

…あれ?
これって…。
お寺さんじゃないんだけどな。

いやいや神護寺さんに参拝に行くのでも全然いいのだけれど?
むしろ行きたい!

ただし、このとーはくの特別展が終わってから、ですけれど、ね。



No.216

(続き)

と。
やたら長く書いてきたその本のタイトルは『みほとけの推しほとけ』という。

お笑いに疎い私は、この方をついぞ知らず、テレビで拝見した記憶すらないのだが、このタイトルからお気づきの方もおられましょうが、この本の作者さん、芸名がよりにもよって〝みほとけ〟さんなのだ。

当然、初めてこの芸名を知ったときには(なんとバチ当たりな!)と憤慨しかなかった。
(いくらお笑い芸人とはいえ、ふざけるにもほどがある)とも思った。
今だってそう思わないことはない。

なんでも、ご本名が〝みほ〟さんということから、畏れ多くもそこに『ほとけ』をかけて〝みほとけ〟という芸名としているのだそうだ。

ただ、某SNSのAIは特にブロックもしないので、発売前など連日のように〝おすすめ〟してきた。
御仏像関連であり、お寺さん関連の記事であるからだ。

彼女のSNSでの文章は短くとも読む人を惹きつけるものがあった。
まあ、私が御仏像が好きでお寺さんが好きであることも多々あろう。
それをもってしても余りあるほどに、文章力があり、聡明な方であることがわかるのだ。

。そんな聡明な方であろう方が何故、こんな芸名を…。
でもすぐに慣れてしまう私がいた。
…そう、おばさんはおバカなので。

二千円近くするこの本、一切御仏像野写真はない。
なんならカラーページすらない。

でも面白いのだ。

あまりに一気に読み進んでしまうと〝終わって〟しまうので、チビチビと読んでいる。
まるで高いお酒を少しづつ楽しみに飲んでいるどこぞのおじさんのように。

仏像を表すにあたり、もっともっとふざけた表現をしていると言って過言ではない本も読んでいる私でもある。

とにかくこの本には熱い熱い、仏像に対する愛があるのだ。


それにしても。
いつも思うのだが、芸能人の方は本当に羨ましい。
取材と称してあちらのお寺さん、こちらの神社さんに旅費から何から〝ただで〟行けて、なんなら通常なら非公開のところにまで入れていただけるのだから。

…まぁ、そこに至るまでの努力は大きなものであったろうし、私はそんな努力はかけらもしていないのだから羨ましがるのがそもそも間違っている。
何よりも私は神仏を崇めることなく年を重ねてきてしまったバチ当たりな存在である。

さて、今日はどこまで読もう。
併読している小説も二つある。

極楽である。

No.215

SNS。

某SNSのアカウントを持つには持っているのだが、フォローもフォロワーも〝一族〟なうえ、鍵のかかったものなので、見ることに特化したものでしかない。

なので、そんな私を哀れに思うSNSのAIが〝おすすめ〟と称してさまざまな方の記事を挙げてくる。
その記事を拝見させていただいたり、いいねをポチっとするうちに、私の好みを読んで、おすすめの内容が固定してくる。

御仏像と、神社仏閣と、それに関与した内容で記事を書いておられる方と。
あとは動植物の写真。
もうちょっとしたパラダイスである。


そんな中で、ある一冊の本に出会った。
作者さんが書いておられる記事なので当然だが発売前からの紹介から始まって、(これは読んでみたい)と私の中ではひそかな盛り上がりが生まれ、発売日の次ぐ日、書店に行った。
ただ、少し高めのお値段なので、注文するのではなくまずは内容を確認したかった。



…ない。

もう一店舗。



…ない。

まるで私の立ち読みを懸念して仕入れていないかのように。

「当店には入荷がありませんのでお取り寄せになります」と、何枚複写かの伝票を手にしてペンまで持つ店員さん。

ごめんなさい。
私、ちょっと、…かなり貧乏で。
とまでは言えないけれど。

そして。
実はこの作者さん、初めての本、なのだ。

SNSに書かれておられる文章から、どんなものになるかはある程度想像はできるものの、なにせ値段が高い。
田原俊彦氏の歌ではないが、こんなはずじゃ無かったとはちょっと言いたくはない値段設定であった。

(大きな書店さんに行くしかないか)
とあきらめていたところ、たまたま立ち寄った小さなショッピングモール内にある〝大きな書店さん〟の小さな規模の書店さんにあったのだ!


値段の他に、もう一つ突っかかりがあった。

それは他ならぬ作者さんの〝芸名〟だ。
…本の作者なのに、芸名?
またまた語彙力の無いおばさんが、変なことを書いている、と思われたかと思いますが、この方の場合はこれで良いのである。
むしろこれが正解なのだ。

なぜならば、この作者さん、お笑い芸人さんなのだ。


本来ならおそらく出会うことのない方である。
なぜならば私はお笑いというものをほとんど見ない。
SNSでお見かけしなければ、もしかしたら一生知らなかったかもしれない。

No.214

(続き)

明治時代の【太政官布告】で定められた『服喪期間』では夫の死に対して妻が一年間喪に服すのに対して、妻の死に対して夫が喪に服す期間がなんと三ヶ月!
他を見ても男性優位の設定が目立ちます。

当時は男尊女卑の社会的風潮が強く、服喪期間を取り決める太政官布告にもそうした『家制度』的な特徴が色濃く残っていました。
男尊女卑だけではなく、長男以外は人としても扱われないような、そんな非人道的なことが平然と、世に認められていた時代ですらありました。

そうした世を変えてくださった先人の方々にあらためて感謝いたします。
…朝ドラを観ながら 笑。

そうした偏向的な制度内容であった事から、この太政官布告は昭和二十二年に撤廃されており、現在では服喪期間を定めた法律は存在していません。

というか、昭和二十二(1947)年まで存続していたということに本当にびっくりいたします。

私の父母、そして義父母などの、私にすれば『ありえない』、前時代的発言も、実は彼らにとっては前時代どころかついこの間まで、そうした世の中であり、そう親からも、学校や世間からも教えられていた、当たり前だったことだったことをあらためて、というよりか初めて知った事実でありました。

ひえぇぇ。
どおりで理不尽なことばかり言われたものだ。


この偏向的な制度が撤廃後、服喪期間を定めるような法律は存在していないということですが、しかしながら社会常識的な目安として、当時の設定期間を参考に男女平等な内容に直されたものがあるにはあり、ただそれは法的なものではないため、地方によって異なったり、時代によってまた少しずつ変化してきてはいるようです。

ただ目安として、…何よりそれが知りたくて調べていたので、書いておきます。


ただそれもいくつかあり、
①故人から二親等までが服喪し、親等にかかわらず「喪中期間は一周忌まで」とする説。
②配偶者、父母:12~13カ月
子ども:3~12カ月
兄弟姉妹:3~6カ月
祖父母:3~6カ月
という説。


この②の幅って…。
…その家その家で決めてもいい?

まもなく迎える四十九日。
…夫に決めてもらいましょ。

No.213

【続 忌中そして喪中】

喪中とは『故人の死を偲ぶ為に設けられる期間』とされています。
故人を弔うことに重きをおくことから、喪中の間は慶事やお祝い事の企画や参加を控えるのが一般的とされています。
こうした喪中の振る舞いを「喪に服す」と呼んだりもします。

喪中という習慣は昔からのしきたりが現在まで受け継がれたものであり、家族や親戚などの血縁関係者が亡くなった際、喪中として喪に服すのが通例です。
慶事への参加を控えて社会から少し距離をとるのも、死を穢れたものとして扱う昔の風習に基づくという意味合いもあります。

昔からのしきたりと一口にいいましたが、実は喪中に関する取り決めの歴史はたいへん古く、757年に施行された『養老律令』というものの【喪葬令」(そうそうりょう)】に、天皇・父母および夫以下の親族などそれぞれ服すべき喪の期間が規定されているといいます。

江戸時代においては、第五代将軍徳川綱吉の時に発布された【服忌令(ぶっきりょう)】という法令で定められています。

その後、明治時代に入るとこの『服忌令』を基に新しく服喪期間を定めた【太政官布告】が発表されています。

以下がその太政官布告で定められた、明治時代当初における故人との続柄ごとの服喪期間です。

父母、夫:13ヶ月

養父母、父方の祖父母、夫の父母:150日

妻、子ども、兄弟姉妹、母方の祖父母、伯叔父母、曾祖父母:90日

養子:30日

念のため繰り返しとなりますが、これは明治時代のもの。

そう、現在放映されているNHKの朝の連続テレビ小説【虎に翼】のヒロインたちのさらに親の世代の頃のものであります。


…時代ですよね。
父母や夫、父方の祖父母、夫の父母よりも、妻が亡くなったときの服喪期間が短いんです。

はあぁぁ?!

一応私も妻という立場にあり、こんなのを見ると、はあぁ?というよりシャアァーッ!!という感じとなります。


…ええ、これを見て、こうした感情になり、続きを書くのをやめていたくらいです。

まさに時代、ですよね。

儒教の教え?

それはそれで良い教えもいっぱいあるにはあるんですけれどね。


私の調べ方が悪いこともあって、妻の父母は書いてもいなかったし。
調べたところでキィーっとなるだけなので、これ以上調べてはいないんですが、ね。

No.212

桐生市の青蓮寺さんの半僧坊大祭で、忌中であるから鳥居をくぐってはいけないなと、鳥居をくぐらず半僧坊堂をお参りしているのを見て、副住職さまが、
「いや、そういうもんじゃないから。ま、いいか」
と意味深な発言をなさいました。

半僧坊さまをお詣りするのは「全然大丈夫」とおっしゃっておられたのに。

ただ、次から次からお詣りに来られる方をお迎えなさっておられる副住職さまにこれ以上お聞きするのも申し訳ないと、鳥居をくぐる、くぐらないについて、お聞きすることはやめておきました。

そしてそれはなんとなくわかる気がしたのです。

鳥居というのは、神域とそうでないところの境界であるとうかがったことがあります。
鳥居をくぐろうがくぐらまいが、その境界を超えたことは何も違いはないのです。

鳥居で身を浄めるという人もおりました。

鳥居を以って、その内に悪きものが入ることのなきよう置いた結界の役割があるとも聞いたことがあります。


まぁいずれにしても、私のような万年神社仏閣初心者が知っていることなどは微々たるものですので、鳥居の役割はもっともっとあるかもしれません。
そして前述したものも間違っているものもあるかもしれません。


今回鳥居をくぐらずとも、その内に入れば同じこと、全く意味がないことだと、私も後から思ったものです。


いずれにしましても、四十九日が過ぎ、なんなら神道の穢れ明けとされる五十日が過ぎるまでは、私は忌中の身であることは間違いありません。

No.211

(続き)

ところで。

こちらのこの半僧坊大祭では護摩札の授与もなされています。


こちらのお寺さんは御朱印をお授けいただくとき、必ず御本堂に上がって御焼香をしてからお授けくださる、というのがこちらのご住職さまの定めたルールであります。
そしてそのとき、必ず法話をしてくださる、ありがたいお寺さんなのです。

こちらの御本堂の心落ち着くことといったら…。

御本堂へあがらせていただきたい一心で御朱印全てをお授けいただいてしまったくらいです。

一年に一回御開帳されるご本尊さまにも自分の都合がつく限り、お邪魔させていただいております。

その秘仏であられるご本尊さまは御前立のおられる御内陣の裏手におられます。
なので、御内陣裏をぐるっとまわらせていただくかたちで拝観させていただくのです。


何が言いたいかといいますと、それだけ御本堂に上がらせていただいております私、護摩壇が無いであろうことに気づくのであります。

はて。
護摩札って、…御護摩で祈祷するから護摩札なのでは?


その護摩札を求めて、檀家さんたちが続々と御本堂へとお立ち寄りになっているのを見るとは無しに見ているとすでに祈祷済みのお札を受け取って行かれる様子。

でも当日も受け付けますって…。

お護摩を焚いておられる様子は一切ないのです。

そもそも時宗って…、お護摩は焚かない宗派なのでは…。

…さすがにこれはお寺さんには聞けない。


で。
困ったときのGoogle先生にお伺いいたしました。


密教の有名な儀式であります御護摩ではありますが、もともとはインド系の宗教からのもので、そう言った意味合いから、密教と呼ばれる宗派以外にも御護摩加持をされる宗派はあるようです。

護摩加持をしないとされる宗派があるとしたら真宗と書かれてもいました。

なるほど。

で、でも…。

護摩壇もないけれど、そもそも御護摩を焚いてもおられないのですが…。
たしかに鎮火した後もその灰にかざして御祈祷されるのを見たことはあるのですが、はて。


あ!

ご住職さま、小さな火鉢にあたるともなく前に座っておられた!


この火鉢で御護摩を焚かれたということか。

なるほど納得。


護摩札は護摩で加持祈祷されたもの。
護摩は真宗以外行われる儀式。

とのことでありました。

No.210

(続き)

と、お気づきの方もおられましょうが、こちらの半僧坊さまは僧形。
何やら長い杖をお持ちになっています。

ところが勧請していただきました鎌倉の建長寺さんの半僧坊大権現さまは天狗であるといわれています。

この違いは…。

…まぁ、元は人間であり、無文元選禅師さまに仕えていた『飯僧』と呼ばれたお坊さんであるのだから、あえて天狗とかではない僧形で、と思われたのかもしれません。


こちらではこの半僧坊大祭のときだけ、御守りや御札等を並べて授与されています。
普段は申し出たときに。

しかしながらどんな御守りがあるのか一体も並んでいないと、「これこれこういうことで悩んでおりますので、御守りをお授けいただけますか?」と申し出てお授けいただくだけ。

この日には、「ああ、こんな御守りもあったのだなぁ」と思えます。

御守りを見ている私に副住職さまが
「御守りは頼るものではないんですよ。こういったことを頑張りますので見守っていてくださいと願うだけのもの」

…な、なるほど。
握って頼るだけではいけない。
たしかです。


それでも。

たとえば大切な人の無事や、病いの平癒を願ってお授けいただいた御守りには、そこにその御守りを受けた人の願いや祈りがこもっています。

そう、こちらのお寺のご住職さまに、交通事故にあった息子の今後の無事を祈りに来たと話したときに、車に貼れるマグネットタイプの御守りを無料でお授けいただいたこともありました。
そんな人に寄り添う思いとか、祈りとか。


…両の手どころか、片手に持てる小さな御守りには、神職の方や僧の祈りが、そして大切な人を思い、その人を思う気持ちが込められている。
その思いを受けて、感謝する。

それで良いのだとも思うのです。


よく御守りの効果は一年、などという話を聞きます。
実際そう謳っている神社さんやお寺さんもあります。

でも。
私はたとえ効果がなくなっているよ、と言われようと、子どもたちからもらった御守りはずっと手元に置いています。

その時の、私を思ってくれた思いこそが尊くてありがたいから。

子供の時や若い頃は御守り一体ももたなかった私です。その分いっぱい持っていてもいいかなぁ…とか?


でも…ちょっと多過ぎかな 笑。

No.209

(続き)

半僧坊大権現は、建長寺の鎮守ともされていて、その御堂は建長寺裏山の中腹にあります。

後醍醐天皇の皇子『無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)』さまが開いた静岡県浜松市にある方広寺が半僧坊の本元であるといわれます

無文元選禅師さまにつき従っていた男が、薪採りや水汲み、食事の仕度をしていたので、『飯僧』と呼ばれ、のちに【半僧坊】と呼ばれるようになったのだといいます。

この男は、禅師さまが中国での修行を終えて帰国する途中で嵐に遭った際に禅師を助けたといわれています。
これが前述したものと重なります。


人が神格化された存在、というのが一番近いのでしょうか。
ではあの建長寺の半僧坊に、そして半僧坊への道にたくさんの天狗の像が祀られていたのは、何故?

はて?

天狗さんは…?


古代中国では、隕石や流れ星を戦乱などの不吉なことが起こる予兆とし、その正体は妖怪であると人々は考えていました。
その隕石などが大気圏に突入し爆発した時の轟音が犬の吠える音に聞こえたり、燃えながら空を飛ぶ姿が犬の姿に見えたりしたために「天の犬(狗)」つまり「天狗」と名付けられたという説があります。
もちろん空想上の存在ですので、諸説あります。


そんな天狗さん。

実は建長寺さんの半僧坊大権現は天狗の姿だとされているのだといいます。

おお、やはり?私の記憶も間違いなかった。

そして。
建長寺さんに半僧坊権現が勧請されたのは明治二十三(1890)年のことといいます。

そもそもが『半僧坊信仰』が全国に広まったのは明治時代なのだといいます。
静岡県浜松市の方広寺さんが山火事のため延焼してしまった際、円明大師(無文元選禅師)さまのお墓と方広寺の鎮守『半僧坊』が類焼を免れたことから、これは半僧坊の威徳によるものという評判が広まったことによるものなのだといいます。


ほう。
…ならば、やはり仏教由来。
いいんじゃない?
半僧坊さまにお参りしても。


いざいざ半僧坊。

…とはいいつつ、上の半僧坊の御堂におられた副住職さまに確かめた、小心者のおばさんなのでありました。

No.208

(続き)

…たしかに。
お寺さんに鳥居があることはよくあること。
明治の神仏分離令はたしかに大きな傷痕を残したものの、神仏習合してからの歴史は長く、そう簡単には分離できなかった、ということでありましょう。
かなり大きな、取り返しのつかない傷痕となりましたが。

しかも。
こちらへ半僧坊さまが勧請されたのは大正に入ってからのこと、もう鳥居だって造れちゃう時代へと変わっていたわけで。

…これが初めての半僧坊大祭だったわけではないというのに。
なぜ、ここに来るまで鳥居の存在を忘れていたのか。
…まぁ、ひとえにそんな脳みそのおばさんだから、なだけでありますが、それでも鳥居。

……半僧坊さまって、…神さまだったんでしたっけ。

だって、そもそも勧請させていただいた先もお寺さんです。
しかもその、神奈川県鎌倉市の建長寺さんの半僧坊にはやたらと天狗さまのお像が祀られていたはず。

…半僧坊さまって、…どなた?
神さま?仏さま?、それとも天狗さま?

…調べてみましょう。


No.207

(続き)

こちらのお寺さんがこの半僧坊大祭に誕生仏をお祭りするのはいつものこと。

ただ、新暦でも旧暦でもないせいなのか、花御堂はなく、トレイ…浅めの鉢に甘茶の入ったものが置かれてそこに誕生仏、産まれて七歩歩いて右手で天を、左手で地を指さしたお釈迦さまのお姿をされた小さな御仏像を安置したものとなります。

はて、この甘茶は一体何杯お掛けすればいい?

仏教では〝三〟や〝七〟が大切にされているようですので、三杯としておきましょう。

さあ、いざ半僧坊さまへ。

…実はこの半僧坊さまの御堂へは近く見えてそれなりに登るのです。
距離というよりは坂?
途中にベンチが置かれているくらいです。
ああ、でもそのベンチからの景色はきっと、このお寺さんの木々やら花やらを見下ろせるベストポジション、なのかもしれません。

う!

鳥居だ!

私、まだ忌中なんだ。

No.206

(続き)

語り出すとキリがない、大好きなお寺さんであり、ご住職さまであり、奥さまであります。
過去記事はいくつもありますし。

半僧坊大祭に話を戻しましょう。

お寺さんの駐車場が近づくと、読経の声に合わせて〝カンカン〟という少し甲高い、木を打ち合わせるような音が響いています。

六地蔵さまのお並びになられる入り口を通ると、真正面に御本堂が見えます。

まっすぐ歩いて行きますと、いつもとは異なって、御本堂の右手前に誕生仏、お釈迦さまの小さな像が同じ素材の小さなトレイにおられます。

トレイの中には甘茶と小さな小さな品の良い柄杓。
花御堂こそありませんが、『花まつり』も兼ねたお祭りのようです。

そばにはジャグと紙コップが置かれています。


はて。

こうしたとき、私はまず一番にすべきは、…なに?


まず手を浄めて。

御本堂?
誕生仏?
はたまた半僧坊さま?


迷ったときはまず御本堂へ。
ご本尊さまの真ん前には几を置いてご住職さまが座っておられます。


お辞儀をしてお賽銭をお入れして、もう一回丁寧にお辞儀をして、ご本尊さまに手を合わせました。

じぃーっと、ずっとご住職さまが、私の一挙一動をみておられます。

緊張!

悪いこともしてないし、間違ったことは…してるのかなぁ。
それはなんとも…わからないことで。

そして。たしかに折にふれてはこちらのお寺さんをお訪ね申し上げてはおりますが、私、ご住職さまとはそんなにお話ししてはおりません。

今年は一度ひろさちやさんの本をこちらで購入させていただいた時だけです。

私のことを覚えておられないのはたまにお話したときの会話でわかります。

(見たことがある…)そう思われての視線でしたでしょうか。

こちらのご住職さまの目は、じっと見られると緊張するのです。

緊張を隠して、一連の動きでご本尊さまへの参拝を終え、御本堂をあとにしました。

…ちょっとだけホッとしながら。

そして、…誕生仏?
半僧坊?

誕生仏、お釈迦さまにご挨拶させていただくことといたしました。

この日の目的はたしかに半僧坊さまの大祭なんですがね。

こういった時、学びのない自分が情けなく、ちょっとだけ悲しくなります。
そしてきっとこれは、…正解がない。

No.205

(続き)

青蓮寺さんは山門はありません。
誰でも好きなときにお参りできるようにとの思いからあえて設けないとのことであります。

実際、そんな思いから造られた境内は、あまり広くはないというのに四阿があったり、亡き方と電話して思いを伝えてと設置された『虹の電話』があったりいたします。

犬や猫がいて、四季折々さまざまな花が出迎えてくれるお寺さんです。

虹の電話といいますのは
 
『この電話は大切な方のこころに繋がります。
①まず最初に、深呼吸をして気持ちを整えて下さい。
②繋がりたい方を強く念じて下さい。
③受話器を取り、こころに浮かんだ番号をダイヤルして下さい。
④大切な人とお話をしてください。 』

といった解説があるようです。
見た目はいかにもありふれた公衆電話ボックス(えっ?もはやありふれてなどいない?)です。

長いことこちらへお参りさせていただいていますが、この電話をかけておられる方をお見かけしたのは一回。
見ていることどころか存在すら気づかれないよう気をつけて歩いたものです。

その後この電話をかける姿を見ないのは…たまたまなのかもしれません。そもそも私は毎日毎日参拝させていただいているような熱心な信者さんではないですし、滞在時間とてもそう長くはいられませんし。
…お寺さんとはいえ、庫裏もあり一般宅のお庭も兼ねているものです。
そう長くてはやはり不審に思われもいたしましょう。
慣れておられるとはいえ、やはりそうした環境をたまにはそっとしておいて欲しかったり、ゆっくり過ごしたかったりもありましょう。

たとえ、「ご自由に探索し自然をお楽しみください」とうたっていても、です。

また虹のポストというのもあり、

『手紙を投函されますと、その内容に従ってご供養をさせて頂きます。
 封筒にはあなたの住所氏名を、手紙には手紙を届けたい方、伝えたいことをお書きください。』

とあります。
さらに
『供養の証(あかし)として、インドの聖地の砂とお守り(ミサンガ)をお送りいたします。
こころに届ける虹のポストの便せん
回向料等は不要です』

とあります。


まさにこの青蓮寺さんは、全ての人に門戸を開き、心に寄り添うことを目指されているお寺さんであります。

No.204

【半僧坊大祭】

群馬県桐生市にあります唯一の時宗のお寺【青蓮寺】さんは、毎年4月第2日曜日に境内の斜面を登った高台にあるお社で年一回のお祭りが開かれます。

半僧坊といって私がスッと頭に浮かぶのは、神奈川県鎌倉市の建長寺さんの高台にあるもの。
こちらは臨済宗建長寺派のお寺さんです。
時宗は浄土宗の一派でありますので、半僧坊をお祀りするというのは宗派に関係なく祀られておられる天狗さまのお社、天狗さまのすみか、ということなのでしょうか。


…とあれこれ無い頭をひねって考察しておりましたところ、青蓮寺さんのホームページがリニューアルされて、半僧坊の縁起について書かれているではないですか。


『青蓮寺半僧坊縁起』
青蓮寺の山上にお祀りしてございます『半僧坊大権現』は、大正六年、青蓮寺に着任した当山四十二世亮海和尚(非常に霊感の強い和尚で、夢枕にこの半僧坊様が立たれ「我を祀れ」と告げられる)が、鎌倉の臨済宗建長寺派本山建長寺様より分身を頂きお祀りしたもので、以来七十有余年を経ております。
 半僧坊大権現とは、今から六百年ほど昔、後醍醐天皇の皇子で、のちに臨済宗方廣寺派の祖が中国に渡るため船出を致しましたところ、暴風雨にあい難破しそうになりました。その時、船首に鼻の高い白髪の翁が出現し、その指示に従ったところ難を逃れることが出来ました。
 その後、無事に中国へ着くことがかない、志をとげることがかないました。
 帰朝後、その翁を『半僧坊大権現』として大切にお祀りされ、今日に至っております。以来、特に中部地方から関西方面にかけて『厄難消除・海上等交通の安全・火災消除・諸願満足の権現様』として信仰を集めております。(半僧坊の総本山は浜名湖の西側にあります臨済宗方廣寺です)
 皆様もこのご利益をお受けになられますよう衷心よりご案内申し上げます。
 縁日は観音様と同じ十八日ですが、桜の時節にということで、大祭は毎年四月の第二日曜日に営むようになりました。』
 (青蓮寺さんHPより)


おお。
無い頭で考えた時間も無駄にはならなかったようで、何かお導きをいただいていたかのようでありがたく思えます。

やはり宗派を超えた勧請があったということで、そのお授けいただいた先も偶然ながら鎌倉の建長寺さんであったということでありました。

No.203

今、国立博物館が熱い。

東京では【法然と極楽浄土】が。
奈良では【空海 KUKAI-密教のルーツとマンダラ世界】が。

浄土宗のお坊さんや真言宗のお坊さんから節操がないと叱られそうだが、私は無宗教、当然無宗派だから、そんなことはまるで関係ない。


…行きたいのだ。

しか〜し!
一人で行ったらしょぼくれそうな御仁が一人いる。

それがなんとも厄介だ。
念のため書くが、厄介なのであって、決して厄介者だと言ってはいない。

しょぼくれるどころではなく、
「あ〜あ、俺も仕事辞めたい」が始まるに違いない。
自分だけ仕事を辞めておきながら、なんともそこはずるいようだが、当時はもう立っているのもやっとだったのだからそこは仕方がないであろう。
あと数年もすれば定年の歳を迎えるし。

お金も無いくせにこの物価高の今、働きもせず一体何を言っているのか?

…そこは自覚している。

行けば行ったで、絶対に資料集は買うし、なんなら他にも欲しいものはごっそり。

東博の蓮の花クッションもいい♡
奈良では缶バッチガチャがしたい。

だが妄想は自由だ。


ことに奈良の空海さんの方はなどは、四十代の真言宗の副住職さんが絞り出すように切実な思いを込めて
「あれは行きたい」
との賜っていたくらい凄いのだ。

…まぁ、副住職さんは缶バッチガチャなどはしないんじゃないかとは思うのだが。…どうかな?


行きたい。
できれば奈良に。

まぁ、稀代の方向音痴で、田舎モン過ぎて都会の公共交通機関に不慣れ過ぎるし、奈良はちと、いやありていに言えば、ほぼ不可能に近い。

いやしかし。
子どもたちはスイスイと一人で全国各地へ出かけている。

私も彼や彼女と血のつながりがあるのだから、できないこともない…かもしれない。


成せばなる、成さねばならぬ、なにごとも。


ただ、今日見た報道番組で、認知症を患う方が自宅に帰れないまま行方不明になっている事例が多いことを報道していた。
…不安だ。

とりあえず、脳ドックを受けさせられるし、その結果考えていこう。


あ、厄介な人のことをまた忘れていた。
今、多忙な彼をあまり刺激してはならないな。

やはりそこは妄想にしておくか。


…とりあえず東博くらいならオッケー?
…蓮の花クッションが人気で欠品中らしいが。

No.202

4月16日から春の土用に入っています。

土用とは、年に四回ある季節と季節の変わり目のことで、春の土用は、
立夏の前の約十八日間です。
今年の春の土用は、4月16日~5月4日になるといいます。

土用の期間は、土を司る神の土公神が、土の中にいるので、『土いじり』をすると、怒りにふれるとされています。

これを知ってから、(あ、土用の期間だっけ)と、草むしりしたい思いを振り切ります。
というか最近はそろそろ土用に当たる頃だからと、早めに大々的な草むしりを済ませてしまっておくようにすらなっています。

つい数年前までは夏の土用の丑の日に鰻を食べることしか知らなかったくらいの人物が、です。


…まぁ頭が悪いので、スピリチュアルとか、こういった〝暦〟とかも、さっぱり理解ができないので、わかることまではしたり、あるいはしないように心がけたりしています。

土用の期間は草むしりはしない、だけですが、ね 笑。


いずれにしても季節の変わり目ということで、体調を崩しやすいこと、そこからあまり動かず過ごすようにということで、たとえば土いじりを禁じたりしているのではないかな、などと思ってみたり…。

大きなところでは土地の売買や、転居も良くないとはされているようです。

でもね、…優しいんです。

ところどころ、土用神さまがご不在になられる日があって、その日は土いじりも、土地の売買も転居もオッケーという日が何日かあるのです。

おっ!
ちょうどその日に人間ドックだ。

今年も何事もなく済みそうな予感♡


あ。
でも今年、夫がオプションで脳ドックを組んじゃったんだ。
脳の萎縮だの、認知症だの言われちゃうんだろうか、…やれやれ。

検査が近いというのに、いつも通りに、…いやむしろいつも以上に脂っこい食べ物を摂り、甘いものを摂って過ごしています。

今年もHgA1cが高いだろうな。
間違いなく中性脂肪も高かろう。

わかっていてもやめられない、煩悩の塊おばさんでありました。


No.201

(光前寺さんの続き)

「…!」

(珍しく)夫と並んで歩いていた私がいきなり走り出します。



それはそれは美しいお地蔵さまがおられました。
端正なお顔だち、やわらかなほほえみ。
私好みの形の良い頭の形。
私の好きな美しい、先がスッと細くて長い指。

そんな石造りのお地蔵さまに、うしろから日が差して、まさに神々しいと言う言葉しかない。

右足を立てた形で座って、その膝に肘をつき頰づえをついておられるのです。
その頬づえをついた右手が、自然にスッと指を伸ばした形で、その手の形、指の長さが、手のモデルでもできそうなくらいに美しいのです。

左足は軽く前に出し、低い座面の何かに腰掛けておられるお姿は、実にお美しい。
左手には宝珠を持たれています。

遅れてやってきた夫が
「これはまた見事な造りのお地蔵さまだね」
うんうん♡
「光背が欠けてしまっているのがひどく残念だね。でもこの薄さ、欠けてしまうのも仕方ないくらいの厚さだね。これは本当にもったいない」

…そうなんです。

それはそれは繊細な厚みまで研磨した光背はなんと『輪光』!
幅十センチ弱の輪なのです。
厚さといえば一センチとかくらいでしょうか。
制作途中で不運にも割れてしまうことだってありうるくらいの…。

よくぞ、この光背を石で。

古さから見て、機械彫りなど無い時代の物です。
石造りのものとは思えない、ありえないくらいに繊細な、丁寧な彫りであります。


!。

これはもしかして。
…もしかしてあの高遠の石工、守屋氏の手によるものなのでは?

でもそのお地蔵さまの背後やら何やらを見て、いつ造られた、誰の手による物かなどを見る気にすらなれないのです。

それほどに神々しい、石造りのお地蔵さまであります。

なんともありがたい。


去り難い思いを押さえ込み、後ろ髪を引かれつつその場を離れました。


No.200

(光前寺さんの続き)

その先を下ると、どっしりという表現がぴったりくる三重塔があります。

色彩は無く、白木のままの塔であります。
この三重塔、ありがたいことにすぐそばまで行くことができます。

初層にはたいそう彫りの細やかな、美しい彫刻が施されています。
仙人のよう感じられるものや唐子なもの、波の寄せるさまなどが彫られていました。
龍の丸彫りもあります。

はあぁ♡

この塔の中にも御仏の尊像が納められているはずです。
どなたがおられるのでしょう。
こちらの御開帳はあるのでしょうか。


秘仏というのはありがたさが増すようにも思われます。
しかしながら、この仏像好きのおばさんはついつい、御開帳はあるのだろうかというところに思考がいってしまいます。

この秘仏という取り扱いによっては、お寺さんの方たちすら拝見したことがないという絶対秘仏という存在があり、誰の目にも触れぬまま朽ちてしまっている可能性すらあるのです。

ここは至る所に水の流れがあって、言わんや湿気の多い土地ということになります。
とすると、中におられる御仏の尊像が木製であれば傷みが加速されもしましょうし、カビなどが生えることもありましょう。
虫喰いなども懸念されます。


…そうした自然にまかせた形を以ての〝秘仏〟なのでありましょう。

人の欲とか一切関与しない、あくまでも仏界と考えて。


そう、御仏の尊像がどれだけ立派であろうとも、秘仏としたからにはあくまでも秘仏で、その像の存続とかは〝像〟という実体にとらえられた煩悩、…なのかもしれません。

…がね。


この三重塔を下にくだるとすぐ先に小さな池がありました。

あ、石幢!

立派な笠のある、御仏の浮き彫の立像が彫られた石幢です♡


そばへ…、は行けない。
行けないのです。

くぅー。


参拝客のこの池への転落事故を考えて、なのでしょうか、縄が張り巡らされているのです。

目を凝らし、さらにはスマホで写真を撮って拡大してみますが、どなたの尊像かよくわかりません。

四面にそれぞれ御仏が彫られているようです。


うううぅ…。

こちら光前寺さん、なかなか御仏の像が遠かったり、拝観できなかったりであります。

No.199

(光前寺さんの続き)

光前寺さんの御本堂の階段を降りました左側になにやら人だかりができています。
『延命水』と書かれた立て看板があります。

「飲む?」と夫。
「いや、私はいい。延命でしょ?ボケ防止の水なら持ち帰るくらい飲みたいけどね」

効き目はたしか、かもしれません。
何故ならここ、駒ヶ根にはあの〝養命酒〟さんの工場があるのです。


早太郎の墓がありました。
お墓自体は小さな、丸石を積んだだけの簡素なものですが、高く積み上げた石の立派な台と、同じく立派な囲いに囲まれています。

早太郎は本当に実在したと私は思います。
早太郎のために奉納された大般若経も実在しますし、遠州府中の見付天神社さんにも早太郎の伝説が残っていて、今、この二つの市は姉妹都市となっているとか。

早太郎の墓は御本堂の…方は向かずに歴代和尚さまのお墓と向き合って建てられています。

…なんとも早太郎らしい、賢い忠犬の墓、という感じのお墓ではないですか?



 (早太郎の石像と三重塔)

No.198

(光前寺さんの続き)

私はそのすきに、御本堂前の左側にある御守や御札の授与所へと移動いたしました。

おお!
あの可愛らしい木彫りの早太郎を模した土鈴があります。
蓋つきの香炉もあり、その蓋には三重塔がついています。

ええ、おばさん、またまた煩悩のかたまり、物欲の権化が表面化してまいりました。


しかし!

最近は心の中で自問自答することを覚えたのです。
(香炉はすでに家にある。我慢できるぞ)
(早太郎以外にも土鈴はたくさんある。これも我慢できる)

この香炉、蓋があるということは普段のお線香を立てる香炉ではありません。
お寺のお坊さんも
「そうですね、どちらかと言うとお焼香なさるような香炉になるかと思います」
とおっしゃっています。


我慢、我慢!

よし我慢できたぞぉ〜。

晴れ晴れとした気持ちで三重塔へと歩き出しました。


振り返ると。

息子が今まで持っていなかった手提げ袋を持っています。

…は、箱だ。

そう、ちょうど香炉の大きさの箱が入っているではないですか。


「…香炉、買ったね?」
「うん、欲しそうだったから」

いやいや、気持ちはたいそうありがたい。
しかし母は我慢をする訓練をしておってだねぇ…。

「ありがと」


…母は香炉をゲットした。
息子は親孝行のレベルが上がった。
母は煩悩のレベルが上がった。
我慢するレベルが大きく下がった。

No.197

(光前寺さんの続き)

石段を登ると、大きな香炉。
御本堂へはさらに数段の階段があり、そこを登ると小さなステージくらいに広い板張りの空間があります。
御本堂の扉は開いておりますが、中へは入れません。

勇ましくて躍動感のあるお不動さまと、矜羯羅童子さんと制吒迦童子さんがお祀りされているのが拝見できます。
御本堂は撮影禁止。
目に焼き付けようと必死に御本堂の中を見るのですが、やはり距離もあり、そしてやはり仄暗いこともあり、正直ほぼ妄想上のお姿。

しかもどうやらこちらのご本尊さまは秘仏とのことで、私が穴があくくらい見つめたお不動さまは御前立ちであったようでした。


帰ってから調べたところ、こちらのご本尊さま、七年に一回御開帳されるとのことで、自分では運転して行けないくせに、次の御開帳は…?などと調べてみたところ、平成二十八(2016)年に御開帳があったことはわかったのですが、その後の記事はなく…。
そもそもが予定通りであれば昨年が前回から七年目。

うーん、なかなか御開帳のタイミングは難しいものです。


御本堂前の少し広くなった板張りの空間のみぎてには木彫りの〝早太郎〟の像が飾られていて、こちらだけは写真撮影オッケーとのこと。
…この像がまた凛々しくて、そして可愛らしい。

私はどちらかというと大型犬が好きなものなので、この大きめな木彫りの像がとても気に入り、しばらく像の周りをウロウロしておりました。

聞こえてくるのは、…カエルの鳴く音?

見ると御本堂の右側には小さな小さな水の流れがあるようです。

お。
カ、カエルだ。

両手のひらを合わせた上にすっぽり乗りそうな大きさの、黒っぽいカエルが悠々と泳いで石の上に乗りました。
綺麗な水です。


い、いやカエルはいい。

視線をそらすと、おお!
復活した息子がちょうど御本堂前に来ていました。


で。
なにを思ったのか、母である私、
「カエルがいるよ」と伝えます。

自分でカエルはいいやって思ったくせに。

しかしながら、こちらのお寺さんには急遽訪れたため、私から彼に伝えられるようなことは何一つなく、早太郎のことにしても、夫が熱く語っていたとき、彼は車で休んでいたので、早太郎伝説も知らないだろうし。

で、よりにもよってカエル情報?



…それでも息子は思いの外嬉しそうにカエルの写真を撮っておりました。



No.196

※ 前レスをふと読み返して、

> 石段の上にもくもくと煙に包まれ、なんとも神秘的な御本堂の屋根が見えます。


…たしかに、見たままを書いています、間違ってはいません。
間違ってはいないのですが、屋根がもくもくと煙に包まれていたら、それは緊急事態をも思わせる表現であります。

おバカなおばさんの書いた文章に慣れた方は、(あぁ、またおかしな文章を)と思って流してくださっておられましょうが…。

ええ、ご想像通りに、危険な緊急事態ではない、た・だ・の・香炉から昇る『お線香』の煙です。

またそこを直した文章にすり替えようとも思ったのですが、お忙しい中お読みくださっておられるのに、
ほぼ同じ文章を、『お線香の』という四文字だけ書き足しただけの同じ文章を再レスしても、それはもうご迷惑でしかなく…。

すぐにでも気づいて、ものの数分ですり替えて削除するならいざ知らず、これだけ時間が経っていると、もしかしたら複数の方がお目を通してくださっていたかもしれないわけで…。

表現がおかしなこととなっており、申し訳ありませんでした。


こちらのスレはボケたおばさんがボケの進行予防のために綴っておりますので、そこはチャットGPTを使うわけにもいかず、さらには文章力のないおばさんが、ミクルの中でお目汚しでしかないスレをただただ延々と続けさせていただいているというわけなのであります。

本当に申し訳ありません。

そして。
いつもお読みくださっておられる方におかれましては感謝の言葉もないくらい、有り難く思っております。


このおボケでおバカなおばさんのスレをこれからもお読みくださる方がいてくださるならば…、それはもうこの上なく嬉しくありがたいことでございます。


お詫びを申し上げるとともに、日ごろのお礼を申し上げたく、一レスさせていただきました。

No.195

(光前寺さんの続き)

この日は出立時においてはお寺さんの珍道中の予定は無かったため、御朱印帳は持参しておらず。
しかしながら、このコロナ禍以降、お書き置きの御朱印のみの神社仏閣が増えております。
そっと覗いてみると、御朱印帳が何冊か重ねて置いてあります。

(あ、直書きしてくださるんだ)
…ということは、逆に御朱印帳が無いとおわかち下さらないこともあるのです。

…などとごちゃごちゃ書いておりますが、そこはエックスキューズミーおばさん、係の方に
「今日御朱印帳を持参していないのですが、お書き置きのものはお授けいただけますか?」と、さっさとお聞きしております。

おわかちくださるそうで、早速お授けいただきました。

その受付の前は小さな丁字路となっていて、そこを曲がると【国の名勝 光前寺庭園】となっています。

まぁ、まずは御本堂へのお参りです。

そこを過ぎると。

より一層杉並木の木陰が色濃くなって、その隙間からの木漏れ日さえあまりありません。
仄暗い杉並木の参道を歩いて行くと、背後からの日の光を受けて、まるで後光でも射しているかのような二階建ての三門が見えてまいります。
高さのある三門で二階の様子はわかりませんが幾重にも組まれた組木の見える、荘厳な門であります。

あとで調べたところ、この二階には
お釈迦さまと脇侍の迦葉・阿難尊者さまの三尊と、十六羅漢像が祀られているといいます。

うーん、…こちらの御開帳はあるのだろうか。

さてさて、いよいよ御本堂であります。
橋を渡って、石段の上にもくもくと煙に包まれ、なんとも神秘的な御本堂の屋根が見えます。


No.194

(光前寺さんの続き)

駒ヶ根インターチェンジから車で十分弱。
見えてきたのは畑の間を走る道路の突き当たりの、山を背にした山門。
そして、見事な見事な満開の桜でありました。

桜の時期であることからでありましょう、交通整理の人が何人か立っています。
桜の根元にはこれまた花の盛りを迎えた水仙の花。
駐車場に車を停めると雪を頂に残す南アルプスの山々がかなり大きく見えています。
いらかの向こうには中央アルプスが。


凄い。

…これが見せたくて一人先走っていたのか。


と、夫を見直しかけた瞬間、
「凄いなぁ…。光前寺さんって桜の名所なんだ、知らなかった」

は?
…そ、そうでしたか。

では何ゆえに?

息子は口も聞けぬくらい疲れている様子であるのに、さっさと車を降りて、外の景色を堪能しています。

息子が手で(行ってて)と合図をしています。
「大丈夫?」の言葉くらい言ったのかどうか。

キーっ。

ここは繰り返して語っても怒りがこみあげるだけなので、先に進みましょう。


山門前には見事なしだれ桜。
こちらはしだれ桜の木が多いようです。

山門は仁王門。
修復をされたのかどうかは不明ですが、身体や顔の朱の色はしっかりと残っております。
お顔はやや庶民的で、(こんなお顔をしたおじさん、いそうかも)と思われ、像は二メートルくらい、でしょうか。
瓦屋根葺きのしっかりとした造りの山門であります。
この門自体は結構新しい?
御像よりもだいぶ新しいもののように思われます。

御像は大永八(1528)年のものと首の部分に残されているといいます。

その山門をくぐると、ひだりてに大きな建物が見えてきます。
こちらは御本堂、ではなく大講堂、とあります。

そこから先の参道は背の高い杉の並木が続いています。
樹齢数百年とも言われ、杉並木の下には石垣が連なっています。


この石垣が連なります。
なんでもこの石垣の石の間には、【光苔】がみられるのだといいます。
ただし。
この光苔、四月中旬くらいから見頃だということで、今は普通の緑の苔だけが見られます。

みぎてに寺務所があり、こちらで御朱印をおさずけいただけるあようです。




No.193

それにしても今年の春はまさに百花繚乱の春である。

昨日参拝させていただいたお寺さんの境内には、桜の花もまだ残るというのに、藤が満開であった。
皐月やつつじも咲いている。

そんなお寺の境内で、奈良の空海展に行きたいと、青いどこまでも続く空を見上げて和尚さまと語らったのだ。

そう、奈良へと続いている大きな空の下…。

クリスマスローズも咲いているし、ふきのとうの花も咲いていた。


わが家の猫の額よりもさらに狭い、まさにネズミの額のような庭は三色のネモフィラがまさに満開で風に揺れているが、その横には白と濃いピンク色のカワラナデシコが咲いている。
ビオラなどはアスファルトとコンクリートの隙間から芽を出したものが、ブーケのように咲いているのがなんとも美しくて、そしてその力強さに勇気をもらっている。

そして昨日つぼみだったオダマキが咲き、ミヤコワスレがきっと今日そのつぼみをひろげるであろう。

そうそして、アッツザクラが勢いよく葉を張り出して、日に日にスズランの芽も葉に変わりつつある。

うーん♡
春は良い。


おかげで夜、花粉症に苦しんだのはちょっと、…かなり困ったものだが。


No.192

(見仏記の続き)

この『見仏記』、たしか〝2〟があって、これも購入して読んだのだが、最初に読んだものとテンポが異なっていたり、〝1〟ほど私の心を湧き立たせてはくれず、この〝2〟は手離してしまっている。

つまりはこの三十三年後を待たずして、二人はその後もこの見仏の旅を重ねていたし、本も書いていたのである。

そして、その〝時〟を前にして、またエッセイが書かれ始めているようで、夢みる私としては三十三年後に〝ぽんっ〟と会って欲しかった。

それでもその〝約束〟の時が近いことを知らされて、ワクワクしているのも事実である。

とはいえ。

「新薬師寺の十二神将は走りながら見ると凄いよ。神将が次々に現れて、もう仏像メリーゴーラウンド状態」
「平等院鳳凰堂は合体ロボ」

などというぶっとんだ内容であるこの見仏記、今の私どもの参考になっているかというと、それは微塵もない。
夫はこの本を読んではいないし、いまだに京都・奈良には出向けていないし、正直、こんな見方をしようとも思わないし、思えないし、できない。

神社仏閣ではない、仏像展に行ったところで、やはり御仏でしかありえず、たしかに言葉にすれば〝見仏〟という行為ともいえるのだろうけれど、合体ロボとして見ることはない。

でも、この本、いまだに手離さずにいるくらい〝好き〟なのである。

テンポがよくて、絵も素晴らしいし、その解釈や解説もたいそう面白いのだ。


来年、この三十三間堂での再会は、よほどのことがない限り果たされることであろうし、できたらその瞬間をYouTubeなどで見守りたいと思う。

そう、やっぱり私はその時、その瞬間に期待している私がいるのだ。

…その時がいつなのかも今まで知らなかったくせに 笑。

No.191

【見仏記】

私はかつて「本さえ預ければ静かになる」と言われるほど本の好きな人間で、そんな人間なので、イライラむしゃくしゃすると本屋さんに行くし、そしてそんな時はもうタイトルだけでバンバン本を買うのであった。
そういった時は自然、新刊や平台に置かれた話題になっている本などからが多くなる。

BOOKOFFなるお店ができてからは、そこで買うこともあるのだが、ストレス解消にはあの新しい本の匂いと、まだ誰にも開かれていない本を手にすることが欠かせない条件の一つであることを知るきっかけともなった。

なのでBOOKOFFに行くときは、冷静なときが多い、…はずなのだが、安価に買えること、絶版の本に出会えることもあって、やはりお財布の紐はユルユルである。
というか、むしろ本当にお財布に紐を巻くタイプの方が良いのでは?と思うくらい、本に関しては気前が良い人間である。

今回のタイトルとなっているのは、比較的冷静な(はずの)私が、BOOKOFFで購入した本のタイトル。
神社仏閣巡りを始めてもいない頃のことである。

つまりはこの本を手にした頃からすでにそうしたことに関心があった、ということになる。

修学旅行で神社仏閣をまわれば、ガイドの方のお話を一言たりとも聞き逃さぬよう、先頭で聞いていたし、先頭で入って最後に出てくるくらい、拝観に時間をかけていたのだから、それは確かなこと。

ただ個人的にそうした神社仏閣を巡ることにはなかなか頭も回らなかったし、何よりも時間が無かった。

学生時代は寮に入って休日もレポートを書き、人生で一番自分を褒められるくらいに勉強したし。
独身時代は昼夜問わない仕事漬けの仕事でもあり、しかも休日といえば母の店の手伝いに呼ばれ、デートすら許されなかったくらいであった。


閑話休題。


この本は、仏像に魅せられたみうらじゅん氏と、仏友・いとうせいこう氏が国内外の仏像を訪ね歩くといったエッセイである。

一作目の末尾で「三十三年後三月三日三時三十三分、三十三間堂で会いましょう」と約束した二人。

その約束の〝時〟が来年2025年に迫っているのだという。
そんなにあの本が書かれてから時が経過していたのかとびっくりした。

たしかに列車の旅などに詳しい人であれば、こんなダイヤは今はもう無いとか、そこからいつ頃書かれたものであるかまでもわかるのであろうが…。

No.190

(光前寺さんの続き)

その『早太郎伝説』がこちらとなります。


【霊犬 早太郎伝説】

今よりおよそ700年程も昔のこと。

ある時、山犬が光前寺の縁の下で子犬を生みました。
和尚さんが手厚く世話をしてやると、母犬は子犬の1匹を寺に残していったのだといいます。
残された子犬は大変賢く、動きが俊敏であったため、『早太郎』と名付けられました。

その頃、遠州府中(静岡県磐田市)見付天神社では田畑が荒らされないようにと、毎年祭りの日に白羽の矢の立てられた家の娘を、生け贄として神様に捧げる人身御供という悲しい習わしがありました。

ある年、村を通りかかった旅の僧である『一実坊弁存(いちじつぼうべんぞん)』は、神様がそんな悪いことをするはずがないと、その正体をみとどけることにしました。

祭りの夜にようすをうかがっていると、大きな怪物が現れ、
『今宵、この場に居るまいな。
早太郎は居るまいな。
信州信濃の早太郎。
早太郎には知られるな』
などと言いながら、娘をさらっていきました。


弁存はすぐさま信州へ向かい、ようやく光前寺の早太郎をさがし当てると、早太郎を借り受けて急ぎ見付村へと帰りました。

次の祭りの日。
生贄となる娘の代わりに早太郎が箱に入って、夜を待ちました。
やがて夜になると、化け物たちが現れ、歌い踊りながら箱を開けたのです。
一散に飛び出す早太郎。
不意を突かれて慌てふためく化け物。
しばらく凄まじい戦いの物音がしいたといい、その後やがてその音も小さくなっていったといいます。

夜が明けて村人がおそるおそる見に行くと、巨大な狒狒が三匹、噛み殺されていたといいます。

早太郎は化け物との戦いで傷を負いましたが、光前寺までなんとか帰り着くと、和尚さんに怪物退治を知らせるかのように一声高く吠えて息をひきとってしまいました。


現在、光前寺の本堂の横に、早太郎のお墓がまつられています。

また、早太郎を借り受けた弁存は、早太郎の供養にと《大般若経》を写経し光前寺へと奉納いたしました。この経本は現在でも、光前寺の宝として大切に残されています。


…ちなみに。
夫は光前寺さんから帰って二日ほど、
「信州信濃の早太郎。早太郎には知られるな」
と折に触れてはご機嫌で口ずさんでいました。

No.189

(光前寺さんの続き)

私ども二人の神社仏閣珍道中では、御本堂の参拝までは基本共に行動いたします。
そしてその後は何を語ることもなく、各々が自分の関心のあるところへと移って行くのが普通であります。

それでもあまり広くない境内の神社さん、あるいはお寺さんで夫の姿を見失って、かなり長いことその姿を見かけないとかなどは、よもや神隠しにでも?とドキドキ不安になるビビりな私。
一方の夫はまず私を探したりはせずに、マイペースに境内の中を探索しております。

しかしながらこの光前寺さん、駐車場に入る前から桜と水仙が咲き乱れている様が観てとれ、それはちょっとした桜の名所など足元にも及ばない素晴らしさで。
しかもこちらもまさに満開の時。

気持ちがついついそちらへといってしまいがち。
山門前からすでに別行動。

ま、どうでもいいのですが、ね。

それだけこちらのお寺さんに来たかったのでしょうし。

でもこちらが桜の名所であることは到着するまで知らなかったようで。


来たかった理由は?
…まぁそのうち、聞きたくなくとも語り出すでしょう。

スタスタと山道を歩き出す私にようやく夫は追いつきました。

「ここね、あの『まんが日本昔ばなし』にもなった伝説のあるお寺さんなんだよ」

あ、ああ、そういえば来る時チラッと言っていたな。
でもそれ、行けたら行ってみようってくらいのノリで、確定ではなかったよね。
しかも『まんが日本昔ばなし』って…。

それ、あなた、子どもたちほったらかして一人で観てたんですよね。
子どもたちはまだそれが理解できるかどうかという歳でしかなくて。

私、一緒に観たのかしら?
あとで聞いたところ、やはり息子もそんな話に記憶はないと申しておりました。


「昔早太郎って犬がここに住んでいてね」

…はあ。



彼が熱く語る『まんが日本昔ばなし』の
【猿神さま】というお話の回の拾い画像です。

No.188

(光前寺さんの続き)

「なんでそんなとこに行く話をしてるの?次に行くとこはすぐ近くだから、発車しよう?あんまりぐずぐずしていると時間がもったいない」

は?
は?

息子と私はもはや目が点です。


次行くとこって?
どこかに行くって話してましたっけ?

むしろ高遠城址公園で、ガチャポンしながら、そして今日明日ライトアップされるというポスターを見て、『建福寺』さんに行こうって、…話してただけでしたけど?
たしかにポスターも一緒に見てたし。
ただ、夫はそのとき、
「ライトアップまではいられないよ」
って言ってはいましたけれど。
それに対して私「もちろんライトアップまではいないよ、…怖いし」って笑ったけれど…。


まさか『いないよ』を『行かないよ』に聞き間違えてた?
って言うか、この『建福寺さんに行く』って話自体、耳からも脳からも消え失せている感しかないんですが?

なに?次に行くお寺って?

息子が何かを言い返そうとしています。しかしながらそれは困惑しつつも穏やかに説明をしてくれようとしている感じで。

…とりあえずもう建福寺さんを私があきらめよう。
今来た道をまた戻るようで、片道三百メートル、歩いて行ける距離だけれど。
夫が近いと言っているお寺、よほどの思い入れがあるのだろうから。


しかし運転席には息子。
謎のお寺に行こうと言うのならば、運転はあなた(=夫)がするべきなんじゃ?

せめてそのくらいは言い返してみたものの、ナビに入力していて、…なのか聞いてもいない様子。

はあぁぁ?
少しイラっとする。

「少し走って高速に乗ったらすぐだから」

はああぁぁ?!!

…なにそれ?

高速って、なに?
近いんじゃないんかい!
もはや怒りで言葉が出ない。

私が行きたいって言ってるとこは、三百メートルなんですが?

謎のお寺は高速(利用)ですかっ??




…息子はあまりの急展開と、二百数キロずっと一人で運転してきて、しかも山城の城址公園を時間をかけて歩き回った疲れから、その謎のお寺に着いたときには、かなりぐったりしていて、口も聞けずにおりました。
暑い日でもあったし。

元気に颯爽と車を降りて歩き出す夫を睨みつけたものの、そんなことに気づくタマではないので。

夫はもうすっかりご機嫌で景色を見て写真を撮っています。


はあぁ、これだからこいつは…。


No.187

『高遠城址公園』

長野県伊那市のホームページより


武田信玄の五男仁科五郎盛信が織田信長の長男信忠と戦い、壮絶な死を遂げた高遠城は、明治四(1871)年の廃藩置県で、城が取り壊され、明治八(1875)年に公園となりました。

高遠藩の旧藩士達が「桜の馬場」から桜を移植したことにより、今では全国でも有数の桜の名所となりました。
本丸の老木はこの時植えられたもので、四月には、130年生以上の古木二十本、50年生以上のもの五百本などに若木を加えた約1,500本の【タカトオコヒガンザクラ】が、淡紅色で小ぶりの花を枝いっぱいにつけます。

また、秋にはタカトオコヒガンザクラ独特のほとんど紅葉せずに落葉した公園に、およそ250本のカエデがきれいに色づき紅葉が楽しめます。

公園内には、国の登録有形文化財の指定を受けた高遠閣や城下から移築された問屋門、太鼓櫓、新城藤原神社のほか、高遠公園碑、無字の碑、靖国招魂碑などの碑文等、古きを偲ぶ歴史的資料がたくさんあります。


春の桜のほかに、夏の新緑、秋の紅葉など年間を通じて多くの観光客がこの城址公園を訪れています。

No.186

(天前寺さんの続き)

高遠城址公園の桜はまさに満開で、語彙力に乏しい私でなくとも、まさに筆舌に尽くし難い素晴らしさでありました。

そして城址ということも加わって、その眺望の素晴らしいこと。
遠く見える雪山の山並みが、長野県ならではの美しさ。

絶景かな、絶景かな。

今まで見ずに生きてきた分の桜を全部ここが補ってくれたかのような、そんな気すらするほどの桜尽くしの時を過ごした気がいたします。

お城の殿様はかくあろうかと思うほど素晴らしいものでありました。


大奥最大のスキャンダルとして知られる『絵島事件』の絵島が流され、大奥の情報を外に漏らさぬようにと幽閉され二十六年間過ごした屋敷『絵島囲み屋敷』の復元されたものまで見て、さて次へ行こうかとなりました私ども一行。

人熱れ(ひといきれ)もあって少し疲れたわたしどもは言葉少なに車へと戻って、次なる目的地となった『建福寺』さんの場所を確認いたしました。
どうやら今来た道を歩いて戻った方が早そうです。
きちんと確認しないで車へと戻ってしまったのはやはり疲れと、群馬県民の『車は足代わり』という文化からでもあったでしょう。

…それが私の敗因となってしまうとは。
その時は思ってもいなかったのです。



No.185

(光前寺さんの続き)

…高遠城址公園はまさに城址でありました。
…のぼることしばし。

道道を歩きながら、おじさんは語ります。
「ここを信長の兵が攻め登ったと思うと感慨深いよなぁ」
…はぁ、さようで?

急坂であること、見晴らしがたいそう良いこと、そのぐらいからの感想でしかないおばさんなので、そこにかつて城があった面影などはついぞ浮かんではおりませぬが…。

まぁ、夢見る夫など放っておいて、さっさと先へと進みましょう。

入場券を買い求めるにも凄い列です。
はあぁ…。

ん?
ガチャポンの機械が一つ。

おっ!
石仏のものであります!
これは是非ともガチャガチャせねば!

しかも!
しかもです。
高遠の石工、守屋貞治のもののようです!

信州信濃の石工は関東信越では有名であります。
石神仏の好きな者であれば、みな知ることであるくらい。
その中でも高遠の石工はことに有名で、その中でも守屋氏といえば名工で名高い一族。

おばさんが桜の時期で無くともこの地を訪れたかったのは、ひとえにその石仏ゆえ。

信州信濃はそうでなくとも日本でも指折りの石神仏の宝庫であります。


三人のお財布の中の百円玉をかき集めて、ようやく六百円、…二回分です。

ガチャポンの丸いケースは赤いものとオレンジ色のもの。
これは少なくとも二種類でありましょう。


ん?
だ、台座〜っ?
よりにもよって台座です。

いやしかしもう一つがある!

もう一つは?


…だ、台座だ。
しかもともに准胝観音さまの台座です。
つまりは同じもの。

あ、あんまりだぁぁ。


高遠町の建福寺というところの守屋貞治作の准胝観音さまの蓮華台。難陀竜王と、跋難陀竜王の兄弟が保持しているといった、…台座です。


「いいじゃん、ここの後そのお寺さんに寄れば」
と息子。
…なんとよくできた息子でありましょう。

(次はお寺さん♡)
(次は憧れの石工さんの石仏さまに会える♡)


…夫もその時、たしかにそばにいて、その建福寺さんの話を聞き、なんなら建福寺さんのポスターまで見ていたのです。
…見ていたのですが。
聞いていたのですが…。

No.184

(光前寺さんの続き)

この花真っ盛りの桜の時期の桜の名所。
九時前というのに渋滞も半端なく、スマホで情報を仕入れていると目の前に、
『この先満車。こちらの無料駐車場をご利用下さい』
と書いてある立て看板が。
そしてその無料駐車場の入り口でさえ『満車』と書かれたプラカードを持つ係の方が。

町に入ってすぐの第一駐車場です。

先をみると渋滞。
町に入って一番最初の駐車場であるので、どう考えても公園はほど遠い。
桜色に染まった小高いこんもりとしたところ、…おそらくはそこが高遠城址公園で、そこははるか見上げるようなところに見えています。

「ここでいいんじゃない?この先満車だとしたら、もっともっと満車が解消される可能性は低いし、そしたらUターンだってできないけど、ここなら、…Uターンも可能だし」


エビデンスがない、おばさんの発言です。
しかしこの妻、この母が言い出したことは従っておいた方が後々面倒臭いことがないことを(いやと言うほど)知っている二人。

おばさんが係の方にお尋ねしたところ、「満車ではありますが、お待ちになると言うのでしたらお通ししています」と。

「…行こう」


前に二台、車が待っています。

この二台、いや三台がいつ捌けるかは、…神のみぞ知る。


などと思っていたところ、実に四台、対向車が。
ん?
地元車ではありません。
大阪とか名古屋とかの県外ナンバーです。

も、もしや?



…ええ、そうなんです。
こんな時刻ではありますが、もうこの駐車場を後にする車が、しかも四台。


…ありがたい!
実にありがたい!


無事に車を停めることができた息子が一言、
「でもこの先、長いだけじゃなくて、だいぶ登るようだよ?平気?」

「平気!」


平気かどうかは、…神のみぞ知る?



No.183

【光前寺】さん

長野県伊那市にある高遠町の【高遠城址公園】は日本有数の桜の名所。

以前から行ってみたいとは話しておりましたものの、
「でもねぇ、…遠いんだよねぇ」
…それを言われると二の句がつげない。
いやそもそもが、だったらその情報いらないんだけど。

そんな話を繰り返してすでに数年。
コロナ禍もあり、もう一生涯行かない場所として頭から外しておりました。

そんな今年の、まさに桜の時期を迎えた今。

「明後日行きたいところあるんだけど、なんか予定ある?」
と長男が言い出しました。「特にないよ」

どこかは言わず、
「じゃあ、善光寺に行った時くらいには家を出るからね」


…、おぉ、サプライズで♡
「じゃあ、めまいの薬飲んでめまいなんとか落ち着かせておく」


それがまさに何年も前から行きたいけれど無理だとされていた長野県の『高遠城址公園』でありました。

『高遠城址公園』ですから、当然お城の跡、夫はそうしたこともあって行きたいと思っていたようで、もう車中ルンルン。
…そうね、いつもなら自分が運転、今日は息子が運転手。
なんか息子や私を置いて、あれこれ妄想している様子。
「〇〇っていうお寺もすぐそばだから行けるね♡」

…はあぁ。
神社仏閣にあまり興味がない人が一緒な、…というよりその神社仏閣にあまり興味がない人がメインで動いているのに?
勝手に計画を上乗せしようと妄想をしている様子。

(この人はこういうところがあるからなぁ)
まぁ、息子はそういうことも想定の範囲の人間。
現地に着いてあまり暴走するようなら、なんとか上手く立ち回ろう。

そんな高遠に近づいた道中、ナビでおかしな情報が出る。
あと三キロ無いのに、予想到着時刻が一時間先。
「ナビの情報が終了するとか言ってたから、そのせいで、かなぁ」
とは夫。
「いや。…これ渋滞なんじゃない?」
時は八時半になろうかとする時刻。
「えっ、そっかぁ。…桜の満開情報が出ているからなぁ。それも考えて早く出てるんだけどなぁ」

どうやらその公園までは一本道なようです。

それでも遠くに見える町に桜色の景色が重なっています。

すごい!

高遠に無事入って。

高遠に着くとまずは駐車場探し。
息子は下調べをしてきてはいるものの、こうした人の集まるところの駐車場情報は現地に行っての運。


さあ、…どうなる?



No.182

(浄因寺さんの 続き)

私どもがこちらを初めて訪れたときはもうすでに無住で。

それでもこのお寺さんをなんとか維持したいと有志がいろいろしてくださっており、その中の一つに年に一回、花まつりの四月八日に『一杯飯』といわれる筍ご飯を提供してくださる行事がありました。

もともとご住職さまがご存命の頃からあった行事であったようで、『厄除け一杯めし』と称されるものであったようです。
参拝者にお斎(おとき)として振る舞われ、これは誰でもいただくことができたものの、いかなる理由があろうと、誰であろうと一杯だけと定められていたものだったようで、それで『一杯めし』と呼ばれたようです。

この一杯めしを食べると、現世での災難を逃れ、死後、極楽へいけるという言い伝えがあるようです。

それを知って、かなり前の四月八日に、勇んで浄因寺さんへと出かけたのですが…それこそ無住ならぬ無人でありました。

まだまだコロナ禍はほど遠かった時期ではあったのですが、ボランティアの方々がその作業があまりに大変なため、その年は取りやめてしまわれたようでありました。

極楽へ行けないことは承知しておりますが、災難くらいはよけたいものだとひそかに思ってもおりましたし、つい何か月前にその行事を他ならぬボランティアの方に教えていただいたものだったので、ショックは大きく。

関東の高野山と称されるだけあって、かなりの奥まったところにあり、そしてさらに山をのぼるというお寺さんですし、ね。


そんな傷心のおばさんを癒してくれたのが四匹の猫でありました。

本当に人慣れしていて、…でも案内してくれるのが無人となった庫裏であり、御本堂で。

それがなんとも物悲しくて。

猫たちに会いにせっせこ通ったものでした。


…それが一匹欠け、また一匹欠けて。
二匹となって。

最後の猫となった茶トラの子を、自宅に連れ帰ってくださった方がおられ、その近況も貼り紙で伝えてくださっていたのです。
本当にありがたいことで。


それが、さき一昨年、だったか。

すっかり行かなくなってしまった浄因寺さん。

それでも春、花まつりの頃となると、思うのです。

その、最後の猫のことを今日、YouTubeでたまたま見つけました。


…昨年、亡くなっていたようです。

なんだかいろいろな感情が入り混じって、べそべそしております。



No.181

【浄因寺さんの】

このところ、耳閉感はひどいわ、ふわふわしてまっすぐ立ててすらいないわ、今日などは頭痛までして、
(春なのに)などと歌のタイトルのようなことを思うのですが、春だから、なのかもしれません。

まぁ、これは自分の身の内からの声。
その声にちゃんと耳を傾けて、うまく操作、操縦していくしかないのです。

ええ、お風呂掃除も、買い物も、食事の支度も、この辺はもう毎日のこと、当たり前のことで、うま〜く自らを操縦して。
週一階段の雑巾がけと窓拭き、月一換気扇掃除もしちゃう。

以前はこの症状と闘いながら仕事をして、おんなじように家事をしていたのだから、屁みたいなもの…なはずなんだけど…なぁ。

去年はこの換気扇掃除で、バランスを崩して、足の脛の皮がズザザ〜っとえぐられる怪我をしたし。

バランスが悪いから、この間の義母の葬儀では、普通の人ならありえない、ただのお焼香で倒れそうになるし、本当は正直、階段掃除は恐い。


ただ。
それを言い訳にして、安静と称してスマホで神社仏閣やら仏像やらを検索して過ごす時間がある。
スマホいじってたらダメじゃん?

ねえぇ。


閑話休題。


この花まつりの頃になると、なんなら秋の紅葉もそうなのだが、行きたくなる、だけれど行くのがとてもつらいお寺さんがあります。

それは。

…栃木県足利市の浄因寺さん。

実はこちらは無住となって久しいお寺さん。
しかしながら。
かつては『関東の高野山』と称されたお寺さんであり、かの葛飾北斎が描いた清心亭という懸け造りの茶室ヘ掛かる『天高橋』があります。

そして秋ともなると赤や黄色に紅葉する木々、そこからの木漏れ日。

それはもう風光明媚なところであります。

そして三万三千といわれる石仏。

…おばさんが好きな理由がここでもうバレましたね。

そして。
かつてもう一つ、ここのお寺さんといえば、といわれた優しい風景がありました。

それは…四匹の猫たち。

ご住職が亡くなられ、世話をする人がいなくなったことを憂えた方が、ここの猫たちを保護してご自宅に連れて行ったのですが、ご住職を慕う猫たちは、かなりの道を歩いて歩いて、山道をのぼって、こちらの庫裏に戻って来てしまったのだと言うのです。

そんな猫たちに、毎日食べ物をあげにきてくださる方がおられ、猫たちはここで四匹仲良く住んでいました。



No.180

四月八日はお釈迦さまのお生まれになられた日。

【花御堂(はなみどう)】という小さなお堂の屋根をたくさんの花で飾り、中にお釈迦さまのお姿【誕生仏】を納め、甘露(かんろ)に見立てた甘茶をかけてお祝いします。

【灌仏会(かんぶつえ)】、
【降誕会(ごうたんえ)】、
【花まつり】とも呼ばれます。


お釈迦さまの誕生には次のような伝説があります。

お釈迦さまのおかあさまの摩耶さまは、王子が生まれる用意や、ご両親に会われるために、里帰りをされます。
その旅の途中、ルンビニ(藍毘尼園)というところにさしかかった時、この場所で一休みなされました。
そして木の下でお釈迦さまをお生みになられたのです。
それは右脇からと伝えられます。

その時の伝説では、お生まれになったお釈迦さまを、梵天と帝釈天の二人が、お釈迦さまを受け止めたと伝えられるといいます。

そして、二人の竜王がそのお釈迦さまに甘露水を注いで清めます。

その時、ハスの花が忽然と咲き、その上にお釈迦さまが立たれると、七歩歩いて立ち止まり、四方八方を見られてから、右手を天に向け、左手を大地に向け、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと伝えられています。


花御堂の中のお釈迦さまの仏像に甘茶をかけるのは、この竜王にならってのこと。

このお釈迦さまの誕生を祝う祭典はインドや中国では古くから行われていたようで、日本でも推古天皇の時代には伝わっていたようです。


今年、東博の金色堂展に行った際、法隆寺の宝物館にも寄らせていただきました。

古い時代の御仏の尊像がいったいいく体こちらに納められているのだろうと思うほど実にたくさんの仏像が飾られています。
たぶん、軽く見積もっても百はゆうに超えています。


そんな中に摩耶夫人の像が片隅にひっそりと飾られていました。
まさにそのお釈迦さまのお生まれになられるときを表した摩耶夫人の尊像です。

お寺にあったらこんな至近距離で拝することなどありませんし、そもそもこれだけの仏像をこちらに収めて置くくらいたくさんの御仏の像がおありなお寺さんです。
こうした宝物殿であればこそ拝することができたかと思います。

思わず声が出たくらいに感動の出会いでありました。

この目でこの摩耶夫人の尊像を拝することができようとは思ってもいなかったので。



No.179

(東昌寺さんの続き)

こちらのお寺さんの情報はほとんどない。
ネットにもほぼ無く、わが家にある資料をひっくり返してみたものの、無い。

わが家レベルでは…と思われましょうが、わが家には歴史オタクがおり、結構オタッキイな資料があるのだ。

桐生市文化財調査報告書の『桐生市黒保根地区石造物調査報告書』とか、旧新里村教育委員会の『文化財要覧』なんてものまである。
みどり市の大間々地区に至っては、まずまず自宅で済みそうなくらいの資料がある。

まぁ、神社仏閣、石造物に関するものが多い、…というよりはほとんどなのだが。

ただ、とりあえずこの東昌寺さんのことに関する限りは、全く無かった。
まずは文化財指定になっていないのであろう。
ゆえにそういった方面からの資料がない。

だが、東昌寺さんにどうしてもその謎を少しでも解きたい石仏さま、石塔があるのだ。

これは、正円寺さんをお訪ねしてご住職さまに伺ってみるしかなさそうだ。

だが正円寺さんはその電話番号を公にはされていないのだ。


行っていらっしゃらなければ、出直すしかない。

でも知りたいのだ。

正円寺さんのご住職さまはそれはそれは丁寧に生きておられる方。
群馬県内の同じ天台宗のお寺さんでも、そのお人柄をお褒めになられるお方がいらっしゃるくらい。

そして丁寧に、ご自分のお寺を訪ねた人に静かに伝道なさる。


またお会いしたいと思ってもいたところだ。

行こう。
お訪ねしよう。

そしてもし東昌寺さんの石仏さま、そして石塔の謎が解けたならば、またその続報を書かせていただこうと思います。

今わかっているのは、…おそらくは庚申に関する石仏像であろうことと、やはり庚申塔と思しき石塔。

一人で行くので、もう少し体調が整ってから。

No.178

日光山輪王寺が私を誘っています。


秘仏『五大明王』初開帳のお知らせ

令和6年4月8日から令和7年3月31日まで秘仏『五大明王』を初開帳いたします。


〝秘仏〟とか〝初〟とか、それだけでも心揺さぶられるというのに、五大明王って、もう…。

だいたい初公開って、…どれだけ寝かせておいたというのでしょう。


いざ、いざ 日光!

…奈良よりはだいぶ近くなりましたよ。

これは…ひとり旅の予感?

No.177

(東昌寺さんの続き)

深沢郷(桐生市黒保根町)正円寺さんの隠居寺だっというこちら。
かなり遠いように思えます。
私の(!)感覚では大きな山を隔ててた反対側に位置しているよう感じます。

でも、本来の足尾銅山街道は、現在の国道122号線より西を走り、瀬戸ヶ原で奥沢に向かえば、さほどの距離ではないそうです。

…と言われても、それをイメージすらできない私。
よくわからん、どころか全くわからない。

さて。
駐車場から見上げるところにあります東昌寺さんの御本堂。

このところ、めまいほどではないのだけれど、ずっとふわふわとした浮遊感があって、ふとした拍子にすぐによろける私。
うーん、とちょっとだけ思うような石段と、ゆるやかな坂道の二通りがあります。

それでもよく整備され、欠けたかもない石段です、石段を登ることといたしました。
本当によく整備されて、草などがまったく、と言っていいくらい生えていないのです。

二段階に分かれた石段。

上の段をのぼりきると…両サイドに石燈籠、真正面に御本堂があります。

無住のお寺さんで間違いなさそうです。庫裏は無く、寺務所が御本堂に隣接しています。

それにしても。
本当に綺麗に手入れされ、管理されています。
ご近所に管理を任されておられる方でもおられるのでしょうか。

現在のこの堂宇も、正円寺さんが手を入れたそうです。


『ぐんまのお寺 天台宗(上毛新聞社)』によれば、

『…本尊と寺の創建について次のような伝承がある。

「当寺の子安観音は大昔天智天皇の発願で刻まれた三体の観音像のうちの一体である。
延暦年間(782~806)に坂上田村麻呂は征夷大将軍となって蝦夷を討つため軍を率いて奥州へと向かった。
その折、田村麻呂は天智天皇の発願の三観音のうち一体をもらいこれを祀り戦勝を祈願して東征し蝦夷地を平定して帰京した。

その後、八幡太郎義家が後三年の役で奥州への出兵にあたって、坂上田村麻呂が戦勝祈願した観音を護身仏として持参して戦った。
戦乱を平定した義家は帰京するとき奥沢の地を通り休んだ。
その折義家は護身仏の観音を奥沢の地に置いて行った。村人達は堂を建てて観音を祀った。
義家の護身仏の観音が本尊の子安観音である。

観音堂が当寺の始まりである。』


…『八幡太郎義家』公の護身仏の観音さまが、御本尊さまなんですか?!

No.176

(東昌寺さんの続き)

実はどうやらこの一番下で、誇らしそうに嬉しそうに、邪鬼ごと青面金剛さまを持ち上げ支えているのは、『贔屓(ひいき)』らしいようです。

中国にはじまり、朝鮮半島や日本に伝えられたものとのことで、石碑等の土台を〝亀のような贔屓(ひいき)〟が支える台が作られた時代があるようで、このような台においては『亀趺(きふ)』と呼ばれるのだといいます。


中国において、贔屓は伝説上の生き物とされていて、それは、竜が産んだ『竜生九子(りゅうせいきゅうし)』の一つだといいます。

体は亀、頭が龍の姿をしています。
そう、確かにこの一番下のこの石造物、横から見るとまさに〝亀〟であります。

どうやらこの子は『贔屓』で間違いなさそうです。


また、この贔屓を親龍がとても大切にしたそうで、
「えこひいき」とか「ひいきにする」などの語源となっています。

…なるほど。
この〝ひいき〟がひとり歩きをして、本来の『贔屓』は忘れられていってしまったようです。

…とすると。
むしろ私が今まで〝亀〟だと思っていた石造物が実は〝贔屓〟であった可能性もあるということでありますか。

うーん。
石造物は難しい。
けどとてもおもしろくてやはり大好き。


こちらの参道、他にもたくさんの石仏さまが並んでお祀りされています。
草が覆うような事なく、あまり苔むしたりもしていないことから、大切にされているのが伝わってまいります。

お地蔵さまが多くおられるよう感じますが、六地蔵のように大きさが同じ像はないよう思われます。
時代も異なり、いろいろな願主さんが奉納されたのでありましょう。

…また来たいなぁ。

はて、私の八人乗りの車、ここを曲がって来れるでしょうか。
車の大きさより、〝腕〟でしょうがね 笑。


駐車場と思しき空き地にはかなり大きな害獣捕獲の罠が置かれています。
うーん。

やっぱ、一人で来るのはやめておいた方がよいのかしら。




No.175

(東昌寺さん 続き)

道を曲がるときには、運転もしていないのにそのなかなかの狭さと直角の曲がり角にビビっていたものの、
その道を曲がってから続く、まっすぐな一本道に、私は魅了されます。

ぽつんぽつんと離れて建つお宅の間をまっすぐ縫うように伸びた道。
お寺さんの石段が見える頃には、その道の脇に石仏さまのお並びになられるのが見えてきます。

✨✨


大きめな石仏さま、
小さめな石仏さま、
参道の右側に並んで立っておられます。

駐車場と思しき空き地に車を停めると(運転は夫)、走って石仏さまのところへと向かいます。

…ええ、こういう時の私の内心の声は「きゃー♡」。
ワクワクドキドキが止まりません。

おお、青面金剛さまがおられます。

青面金剛さまはその時代時代であったり、土地による違いがあったり、石工による表現の違いがあったりとさまざまな御像があります。

こちらの青面金剛さまは、今まで拝したことのない新バージョン。
…古い石仏さまなので、新バージョンという表現もおかしなものではありますが。


まずはその表情。
困ったような、なんともいえない表情をされておられるのです。
力強い幾つもある手にはそれぞれに何かをお持ちです。

…えっ?神鏡?
宝輪なのでしょうが、神鏡のようにしか見えません。
しかも両手持ち、両手に高く掲げています。

それから一鈷杵?
巻物?

何よりもある意味特徴的なのは腕組みをされているところ、でしょうか。

光背部分、お腰の辺りには両サイドに鶏が彫られています。

邪鬼を踏みつけ、というよりは邪鬼の上に立ち、その邪鬼の下には、邪鬼の下に笑顔でその全てを支える存在がおられる。

えっ?
お猿さん、ではないと思えます。
前後、右方から見てもお猿さんではない。

すごく良い笑顔です。

これこそがまさに初めて。
…とはいっても、今までもそういった尊像を拝しながらも気づいていなかったことは充分あり得る私ではあるのですが…。




No.174

【東昌寺】

この日、もう一つのお寺さんへと向かいます。
それはかねてから夫が行きたいと申しておりましたお寺さん、群馬県桐生市の【東昌寺】さんであります。

何でもそこは同じく桐生市にある【正円寺】さんの隠居寺であるとのことで、正円寺さんのご住職さまのお人柄に惹かれた私どもはそうしたことからもいつか必ず参拝させていただこうと思っていたお寺さんでありました。

その正円寺さんにしても、夫が行きたいと申して訪れましたお寺さん。
さもありましょう、こちらは城址に建つお寺さんで、夫はそのことからも、この〝神社仏閣珍道中〟を始める前から、この正円寺さんの存在を知っていたのです。


東昌寺さんへ向かう途中、桐生市で有名な『おかめ櫻』があるといい、そこを経由して向かうこととしました。

桜にも詳しくはない私はてっきり『オカメザクラ』という品種名なのかと思っておりましたが、あまりにも見事な枝垂れ桜に付けられた名前なのだといい、推定樹齢は四百年とも言われる樹高十メートル、根回りも4.5メートルの古木であるといいます。

ここへ来る途中にも枝垂れ桜の名所とされる場所があったのですが、そちらも、そしてこの〝おかめ櫻〟も、個人宅の地内に植えられたもの。

はあぁ、…旧家って凄いなぁ。

これはご先祖さまからのプレゼントだわ。

まぁ、これをきちんと守ってきた子孫であるからこそ、残されているというわけで、そうした人たちの重ねてこられた何気ない、けれどかけがえのない歴史にも心打たれる思いのするお花見となりました。

さて、そのおかめ櫻のある旧家を過ぎると道は狭くなり、そこに住む方々以外は通らないような道となってまいります。

ナビの案内がないので、Google先生にご案内をいただき、東昌寺さんをめざします。


へっ?

ここ、ここを曲がる?

いやナビの案内もそうなのですが、ちゃんと、たいそう小さいながらも案内があるので、そこを曲がるのは間違いないのです。

(いやぁ、ランクルとか無理でしょ?)、と思うくらいに、車幅ちょうどくらいの道幅の道へ、直角に曲がる道なのです。
まぁ、あくまでも慣れの問題で、ランクルも全然大丈夫、なのかもしれませんが。
それまでの道の細さなんて全然可愛いものです。

参道と思えば、なるほどの道幅です。

No.173

(続き)

マイクを使ってお念仏を唱える方に合わせて、何人かの方々がお念仏を唱えておられます。
そう、私の左隣からも…。

…へっ?!

般若心経は見ないと唱えられないのに、何故?
なんでこの人は、夫はこれを唱えられているの?



あ。
…わかった。

これはきっと十三佛のお念仏なんだ。

そう、結婚してまだ間もない頃、隣組でお葬式があって、そのお清めの席で皆さんと一緒に夫が声高らかに何か呪文を唱えているのを見て、(えっ?…何なのこの人?何故こんな不思議な呪文を知っている?というかそらんじることができるの?)
と、正直少し不気味に思ったのをいまだに鮮烈に覚えているので。

きっとそれだ。

今はそれはどうやら十三佛念仏というものらしいことを知ってはいるのですが、その結婚して間もなかった頃に聴いたきり、今まで聞くことが無かったのです。

そう、義祖母の葬儀、義父母の葬儀でも唱えられることはありませんでした。
その、隣組の亡くなられた方は長野県出身の方でありました。
その頃の私はまるで〝ぶっきょうのぶ〟の字も知らぬ存在であったため、宗派等はわかりません。

…何故?

ま、まぁいいや。

大数珠回しも数珠を持てずに遠巻きに見ておられる方がおられたので、私はその数珠を回す場をお譲りし、お堂の中で執り行われているお護摩の様子を拝見しておりました。

その私の立った場所は、マイクの裏手でありました。

鉦が止み、お念仏が止んだと思ったら、そのお念仏を唱えておられた方が
「替わる?」とおっしゃるではないですか!

いやいやいやいや、私人生で二度目に聴いただけです。
聞き取れてさえいませんって。

……なぜ?


私、きっとこの十三佛念仏はきっと一生覚えられないし、覚えることはないと思います。


あとで知ることに、この祭典、コロナ禍前はもっともっと人が集まる、この辺りに住む方がみな集まって、歌ったり、飴すくいをしたりといったお祭りであったようで。

どうやらそんなノリからたまたまそばにいた私にマイクを向けたようです。


お堂の中では、副住職さまが樒の葉を一枚炎にくべておられました。


お護摩の炎が静まる頃、大数珠回しも終わり、地元の和菓子屋さんで作られたどら焼きを一つとサイダーを一本いただき、お開きとなりました。


うーん、お念仏、ねえ。
…覚えませんけど。





No.172

(続き)

この里見の阿弥陀堂と呼ばれるお堂で一年に一回、祭典が催され、その際このお堂の扉が開かれ、御開帳されることを知ったのは、私が心の師と慕う方のブログでありました。

実はこの方と初めてお会いしたのがまさに今回のこのお堂の祭典でありました。

この方のブログ無くしてはこのお堂に祭典があることを知ることは無かったのでありました。
今回ご本人に直接お礼を申し上げることができたのは、こちらの阿弥陀さまのお導きでありましたでしょうか。

歴史好きな夫は高校時代に一人でこのお堂を訪ねていたといい、私は仕事でたまたまこの道を通って、このお堂があることを知りました。

でも二人ともこのお堂のあることは知っていても、こうした祭典が催されていることなど知る由もありませんでした。


そして。
初めて拝することのできた【阿弥陀如来】さま。
小さな石の尊像でありました。
お堂のそばにある説明の書かれた立て看板によると、こちらの阿弥陀如来さまは凝灰岩で造られているといい、そのお姿から南北朝以前の形式であるため、高津戸城最初の城主、『山田氏』のものであることがわかっているといいます。

お堂の中、簡素ながらも厨子の中におさめられた阿弥陀さまは、距離もあり、お姿を認識することがやっとでありましたが、弥陀定印を組んでおられるといいます。

あのにっくき廃仏毀釈によって、光背のある坐像でありながら、その首には傷があり、修復された跡があることはお堂の外からでも見ることができました。

この阿弥陀堂の祭典、まずはこの地に祀られている里見武士たちの小さな、いくつもの五輪塔(五輪塔になっていないものもありますか)の並ぶところへと移動して、参列者全員で『般若心経』を二度お唱え申し上げました。

その後再びお堂の前に集まって、こちらを管理されている(まぁ実際はこのお堂のある地区の信徒の方々が管理されておられるのが現実ではありましょうが)、同じくみどり市にある自音寺さんのご住職さまより法話をいただき、この後、大きな数珠が木箱から取り出され、数珠回しが始まりました。

生まれて初めての大数珠回し。
たいそう緊張してその数珠を持たせていただきました。
と。
隣を見ますとやはり緊張した顔つきの夫。

数珠が回せるだけの人数が数珠を持つと、鉦を叩いて、念仏が唱えられはじめました。

No.171

(続き)

以前にも里見兄弟のことを書いております。
実はこの、里見兄弟の悲劇は近世期に作られた戦記物語に登場する史話であり、確実に存在したという史実は見あたらないのだといいます。

里見兄弟に関する唯一の遺跡として、この墓地が存在するのであります。
この阿弥陀堂横の五輪塔の数は約三十数基分あり、それ以外にも石仏の阿弥陀如来像、宝篋印塔、永禄年号の石殿等があるのだといいます。

どんなに古くともお墓でありますので、その数を数えたことなどないですが、もう少し少なく見えた気がするのです。
とにかくこの古いお墓はまるで長い馬蹄のような形で並んでいます。

そう…まるで武士たちが、戦場で、上座に主君、それを位の高い順から左右横並びに並んで、一番位の低い武士が下座にいるような…。
それが下座の方で車座とならず、すぐにその座を崩してあらゆる動きができるようにしている姿を彷彿するような形で並んでいるのです。

そう、戦地で会議をもっている姿のようにも見えるような並び方をしているのです。


里見兄弟が実在したか。
少なくとも時代考証にずれが生まれるようではあります。

しかしながら、使われている石などから、中世の武士団の墓地であることは間違いないとされてはいるようです。
里見兄弟の墓と称される五輪塔には、
「逆修 天正六季 随見」
「道壽 八月廿九日」と刻まれているといい、これらの五輪塔は凝灰岩製であり、形式的には鎌倉時代から南北朝時代にかけてのもので、これが時代が一致しないのだといいます。

こういったことから、里見兄弟にまつわる史話は伝承の域を出ないものではあるのです。

しかしながらこれらの戦記史話と高津戸城跡の景観は、歴史的ロマンを充分にかき立ててくれるものがあるのですが…。

No.170

(里見の阿弥陀堂の続き、というよりは里見兄弟の悲劇の続き。
結局うまく伝えるにはあまりにも端折りすぎており、加筆します)


そう里見兄弟のお父さまは九代桐生助綱に仕えていたのです。
その養子としてむかえた親綱が、政務を顧みず、養子に来る際連れてきた家臣に任せ桐生家が乱れていく事を憂い、親綱に書面を送っては諌めていました。

それについて、かねてからの家来であった家老たちの讒言が加えられ、親綱に疎まれるようになります。
そうした情勢から、この里見の兄弟の父は子等の行く末を案じ、あの『上杉謙信』のもとに預けたのです。
その父のもとに桐生氏の家老と内応していた者がいました。
その者こそが後に、桐生氏が滅ぼされた際敵方に寝返った、里見兄弟が仇とした者であったのです。

その内応していた者からの情報を操作し、里見兄弟の父は反逆者であるとの汚名を着せられ、落人となり、それに逆らった里見の家臣は、桐生氏と一戦をいどむのですが、一族はわずか二十名、すぐに滅ぼされます。
落人となれば許されるはずが、それをも許さなかった家老の画策で、里見の父も切腹させられました。

でも里見兄弟が敵討ちに出たとき、すでに家老の一人は桐生落城の折に死に、もう一人の家老も病気で明日をも知れぬ身となっていたのです。

それで桐生親綱の家老たちに内応していた者を仇としたのですが、この者には逃げられ、この者が桐生氏を倒し、のちの桐生城の城主となる、(太田)金山の由良に寝返って家来となっていたため、由良から形だけでもと攻撃されてしまうこととなるのです。

ただ、形だけとは言いながらも
「反抗するようなら切って捨てよ」とは言われていました。

そこでまた悲劇が起こるのです。

里見兄弟の弟が、「なんの恨みもない方々と戦うのはしのび難い。この陣を引いて頂きたい」と大声で、攻めてきた〝寄せ手〟に伝えたのです。
しかし事情のわからない兵がさらに攻め込んできたため、応戦せざるを得ませんでした。

さらには、本来は形だけ攻め込んできたはずの内情を知らない里見兄弟はこの決戦で覚悟を決めて夜襲をかける手段に出るのです。

そうしてこの決戦で弟は深手を負い亡くなってしまい、兄は自刃することを選びました。


この里見兄弟の墓としたものがこの里見の阿弥陀堂に祀られ、さらには里見兄弟の家臣の墓とされる墓が阿弥陀堂横にあるのです。

No.169

【里見の阿弥陀堂】

群馬県みどり市に【里見の阿弥陀堂】と呼ばれるお堂があります。
通りを少し入った所にある、地元の方以外では歴史好きな方くらいしか知らない小さな堂宇です。

そばには高津戸峡と呼ばれる小さな渓谷があり、そこの景色が心癒されるとちょっとした観光スポットになっています。
ただ、どこをどう誇張表現してしまったのか一説に「関東の耶馬溪(やばけい)」称されているようで、これは明らかに言い過ぎで間違いと言っても過言ではありません。
耶馬溪を愛する方々からお叱りを受けるレベルです。

ただ、真っ青な渡良瀬川を挟むようにそびえる渓谷には春夏秋冬それぞれの顔があり、特に秋は川岸から迫るような紅葉が楽しめるスポットになっており、遊歩道が整備され老若男女が訪れて賑わっているのだけは事実です。


その高津戸峡のすぐそばにかかる赤いおしゃれな『高津戸橋』に立って向かって右側にある山が、要害山(高津戸山)といい、かつてここに高津戸城とよばれたお城がありました。

堀河天皇(1086〜1106)の頃、山田氏が在城し子孫が連綿と受け継いでいたものでありましたが、正平六(1351)年に『桐生国綱』に滅ぼされ廃城となっていました。

その後時は流れ、桐生城主九代の頃となると九代に世継ぎが恵まれず、養子をむかえます。

この桐生城主十代親綱(ちかつな)の代に起きたのが里見の悲劇、のちに里見兄弟の悲劇につながっていくのです。

まぁ、地方の、勢力争いと家臣の讒言による悲劇から事を発し、その事で父を失った兄弟が敵討ちに出て更なる悲劇が起こるのですが、この話をしだしますとかなり長くなりますので、出来るだけかいつまんで話したいと思います。

この間に桐生氏は滅び、由良氏の時代となっていました。

敵討ちにでた里見兄弟が、この高津戸にあった古城を居館とし、唯一残っていた人物に対して仇を討とうとしたところ、その動きを見てとり、相手方は足利の地にまで逃げてしまい仇は討てずに終わってしまいました。
さらにはその敵討ちの相手が由良氏の家臣となっており、(…まぁ、それってしっかり寝返っていますよね、イヤだイヤだ)、由良氏としては形だけでもこの里見兄弟を攻めるようにと挙兵させます。
この悲劇はこの戦いで幕を下ろすこととなるのです。

(続く)




No.168

(忌中・喪中についての続き)

「ねぇ?祖母が亡くなった時の服喪期間はどれくらいだっけ?」
そう私が聞くと、
「は?そんなのみんな同じじゃないの」
と夫。
「ええっ!違うよ」と言いますと、
「何言ってるの、おんなじでしょ」
と、夫は全く取り合わない。

…呆けたな。

以前自分の祖母が亡くなったときにはそんなことは言ってなかった。

まぁ、期間を忘れている私も五十歩百歩、でしょうかね。


たしかに、ネット上で二親等までみんな一年間という表現をする説もありました。
でもたしか、たしか、父母なら一年とか、祖父母なら何ヶ月とかいうものがあったはず…。

それは息子も知っていました。
そうですよね、十八年前とはいえ、祖父を亡くした時に、子どもたちに忌中とか喪中とかを、その間してはいけないことやその期間を伝えた覚えがあります。


ほ〜ら、やっぱり、…ではなくて、調べてみました。

ちょっと衝撃の事実があったり。
そしてまた、時代で変遷してきている可能性もあり。

諸説あるようなところもありました。


少し整理してから、書いてみたいと思います。

No.167

(忌中・喪中についての続き)

『喪中』とは、亡くなった家族を偲び、冥福を祈る期間のこと、といいます。


喪に服すことを【忌服】とも言うといいます。
『忌』と『服』の文字は、それぞれ喪に服す期間を示しているといいます。

【忌】は死の穢れが残るとされる期間です。
仏教なら四十九日の法要まで、神道なら五十日祭まで。
これが終わると故人の近親者は「忌明け」となり、死の穢れといった考え方から解放されます。

忌明け以降は、【服】の期間です。近親者は故人の死を悼み、冥福を祈りながら喪が明けるのを待ちます。

『喪中』の中に『忌中』は含まれるよう感じますが、こうした『忌服』という考えですとわかりやすいかもしれません。
あるいは『服』の期間=『喪中』なのかもしれません。

そういえば昔の人は「ブクを着ている」とか「ブクだから」という表現をされていました。
まさにこのことだったのだなあと、今腑に落ちました。
よくものを知らない私は
(方言で喪中のことをそういうのかなぁ)
と思っていたのです。

忌中は死の穢れの残る期間ということで、忌中にやってはいけないことや控えた方が良いことがあります。

故人が亡くなってから四十九日間は次のようなことを控えるのがマナーです。
・神社への参拝
・慶事への参加
・新年のお祝い
・飲み会への参加


…そうなんです。
神さまだけではなく、周りに対してもマナーであるのです。

そもそも、元々は忌中の四十九日間は家族は家の外に出ないことがしきたりでありました。

しかしながら現代は会社や学校には『忌引き』の期間が明ければ、出社や登校いたしますし、それはもう現代においての当たり前の常識となっています。

ただ、上記のことに関しては今なお守るべきこととして残る忌中期間のマナーであるのです。

慶事とはいわゆるお祝いごと。
結婚式はもちろんのこと、七五三、お宮参りなども含まれます。

とはいえあくまでも忌中期間であるならば四十九日間のこと。
今の七五三などは一年中、その姿を見かけます。

注意したいのは・落成祝い・開店祝い・就任祝いといったお祝い事。
これらのお祝い事については不義理にならぬよう、しっかりと口頭で伝え、忌明け後、あるいは喪が明けたのちに何かしらのお祝いを差し上げるのが良いでしょうね。



No.166

【忌中、そして喪中】

義母の四十九日が済むまで、私どもは忌中となります。
そして忌が明けても喪中、喪に服す期間であります。

これについて知人との会話ですれ違ったものがあり、あらためて調べてみました。


【忌中】の読み方は、『きちゅう』です。
仏教において忌中は、亡くなった日を一日目として、『四十九日法要』が執り行われるまでの間を指します。四十九日法要を終えた状態が『忌明け(きあけ)』です。

神道では四十九日法要にあたる『五十日祭』を終えるまでが忌中です。

その間は穢れ(けがれ)の状態であるため、神社への参拝は避けるべきだと考えられています。


実はこの知人、神道の家。

私が「今は神社に行けないから」と言ったことに対して、不思議に思ったようで、
「どうして?」
と聞いてきたのです。
「忌中だから」と答えると、なおも、
「忌中だとどうして神社に行けないの?」

(…えっ?)

…正直なところ、いくら神道の家の方とはいえ、それ知らないものなのかしら、と思ったのは事実です。

死を穢れとするのはまさに神道。
神社に行ってはならないことなど、誰よりも知っているのではないかしらと思ってしまったのです。

今、キリスト教徒の方たちでも、周りの常識とも言える『忌中』に服すのだといいます。
キリスト教では死は決して恐れるものでもましてや穢れなどではない、神のもとへ行ける喜ぶべきことといった考え方。
もちろん教えでそう言われていても、その死は決して喜べたりするものではないのが現実であり、だからこそ自然とその『忌中』を受け入れられることとなったのだと思います。


それなので私は少し言葉を慎重に選びつつ、
「仏教でも忌中は穢れを嫌う神さまのお住まいである神社へは行かないのよ。忌中という言い方が神道で使われるものかどうか知らなくてごめんなさい。
仏教でも五十日祭に当たる四十九日が明けるまでは神社にも詣でてはいけないし、家に神棚のある家では、白い半紙を神棚の前に貼って神さまの目に〝穢れ〟がうつらないようにするんだよ」
と申してみました。

知人は本当に知らなかったようで
「知らなかった。教えてくれてありがとう」
と言ってくれました。

私のような無宗教の人間が、こうした内容をペラペラと語っていいのだろうかと、内心少しドキドキしたりもしたのも事実なので。





No.165

(【いざいざ奈良】の長谷寺さんの続き)


また、この春の特別拝観期間中、今放映中のNHKの大河ドラマ『光る君へ』に合わせて、紫式部が記した源氏物語に登場する女性、『玉鬘(たまかずら)』にゆかりのある『玉鬘観音像』を特別展示してくださっておられるとか。

さらにまた、
【奈良大和四寺巡礼(長谷寺・室生寺・岡寺・安倍文殊院)】ということでも特別参拝を行なわれているといいます。

参加者に各寺院の僧侶が御案内と説明をした後、御本尊の前にてお勤めを行なっていただけるのだそうで。


はあ…♡


いざ長谷寺!
といきたいのですけれど…。

No.164

【いざいざ奈良】

JR東海の鈴木亮平さんによる新CMが放映されるようになりました。

「いざいざ長谷寺」

そう、鈴木亮平さんが口にした瞬間から、私の心は地上三メートルくらい舞い上がります。
と言っても私は高所恐怖症ですので、実際にそんなに舞い上がったりしたら、それはもはや恐怖でしかないので、舞い上がるなら数センチ程度にしておきたいところ。

いやそもそも天女でもないので、一ミリも舞い上がることは無い…ってわかっておられる、…はいすみません。
でもそんな無駄口をペラペラと言う、…書くくらいに、ワクワクどきどきしてしまう〝奈良〟。
〝長谷寺〟さん。

長谷寺さんは、私が入り浸るかのようにいつもいつもお邪魔させていただいているいくつかのお寺さんのうちの一つ、『真言宗豊山派』さんの総本山。
いつか必ず!必ず行きたいお寺さんの一つであります。

「天空の御寺(みてら)があると聞き、奈良の隠れ里へやってきました」

ほえぇ、行きたい♡

「願い事よりお礼を言いたくなるほど、私の心は晴れていました」

…ですよねぇ♡
ああ、ほんとそうでしょうね。

「奈良は行くからおもしろい」


…行きたい。



『源氏物語』や『万葉集』にも登場する長谷寺さん。
あの一本のわらしべから長者になる『わらしべ長者』にも長谷寺さんが出てまいります。

しかも!

しかもです。

今春期特別拝観が開催されておりまして、令和六年三月一日より、御本堂と大講堂の二ヶ所において特別な拝観が許されているのです。


〇本尊大観音特別拝観
場 所 長谷寺本堂
期 間 令和6年3月1日~7月7日

国宝である御本堂の中央におられる身の丈十メートルを超える
御本尊十一面観音菩薩のお足もとに入り、観音様のお御足に触れていただくことができるのです。
しかもその記念として、観音様とご縁を結んだ証の『五色線』を授与していただけるのだとか

〇本坊大講堂特別拝観
場 所 長谷寺本坊(大講堂)
期 間 同じく、令和6年3月1日~7月7日

重要文化財に指定されている本坊(大講堂)に入ることができ、ご本尊と同じ大きさを誇る『<掛けられない掛軸>観音大画軸(複製)』と、
長谷寺の縁起を長大な巻物にした『長谷寺縁起絵巻(複製)』をご覧いただけるといいます。


はあぁ…♡


いざいざ奈良♡

No.163

(茂林寺さんの続き)

寺伝はお伽話の分福茶釜とは内容はだいぶ異なっていますが、茂林寺さんに【分福茶釜】と呼ばれる茶釜が祀られているのが事実。

とりあえず、この茂林寺さんに祀られている『分福茶釜』は、
〝狸が化けてそのまま戻れなくなり茶釜になってしまった〟ものではなく、
〝僧守鶴さんがどこからか持ってきた、何杯汲もうとも湯がなくなることがなく、コンコンと湯が湧き続ける茶釜〟でありましょう。

とはいえ、守鶴さんがいなくなったのち、今でもこの茶釜がコンコンと絶えることなく湯を湧かすことができるのかどうかは誰にもわかりませんが、とりあえず、立派な茶釜が御本堂のお内陣裏手に祀られていることだけは紛れもない事実です。


さて。
こちら茂林寺さんのご本尊さまは
『釈迦牟尼仏』さま、そう、お釈迦さまであります。

まもなく灌仏会。
先だって私、今年はできたらお釈迦さまがご本尊でお祀りされているお寺さんの灌仏会に参列させていただきたいと、ぶつぶつと申しておりました。
そう、まさに茂林寺さんはそのお寺さん。

調べてみたところ、灌仏会=花まつり、ありました、ありました。

【花祭り】 5月7日、8日開催
於守鶴堂

とあります。


うーん、これは運命、でしょうか?
お導き?
…狢さんの?
狸さんの?

うーん。

ま、それも私に似つかわしいかも。



そして。
もしこの珍道中録をお読みくださった方の中で、茂林寺さんに参拝したいと思われた方のために、


茂林寺さんの宝物拝観は

■拝観時間

 午前9時~午後4時
 火曜・水曜・木曜 定休


御守や御朱印をお授けいただく寺務所で受け付けをして(有料)の拝観となります。

十二時から一時までお昼休みとなりますのでご注意ください。

No.162

(茂林寺さんの続き)

正しくは【青龍山茂林寺】。
その開山を『大林正通』法嗣としています。

寺伝によると、正通和尚は諸国行脚の折、 上野国に立ち寄り、伊香保山麓で『守鶴』と出会います。
この守鶴こそがのちに茂林寺に分福茶釜を持ち込んだ老僧です。

応永三十三(1426)年、正通は守鶴を伴い、館林の地に来住し、小庵を結びます。

応仁二(1468)年、青柳城主赤井正光(照光)公は、 正通に深く帰依し、自領地の内八万坪を寄進し、小庵を改めて堂宇を建立し、『青龍山茂林寺』と号しました。
正光(照光)公は、 自ら当山の開基大檀那となり、伽藍の維持に務めたといいます。

その後大永二(1522)年には、『後柏原天皇』から勅願寺の綸旨を賜り、寛永十九(1642)年には、三代将軍『徳川家光』公より二十三石四斗余の朱印を下賜されております。


さて開山の正通和尚に伴われてやってきた僧守鶴は、じつに代々の住職に仕えます。

元亀元(1570)年七世の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。
この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがなかったといい、守鶴は、自らこの茶釜を、
福を分け与える【紫金銅分福茶釜】と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると申したといいます。

さらに時を重ねた十世の代、熟睡してい守鶴は手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまったのだといいます。
これ以上、この寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せたといいます。

人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。
時は天正十五(一五八七)年二月。
守鶴が開山大林正通和尚と小庵を結んでから実に百六十一年の月日が経っていました。

後にこの寺伝が、明治・大正期の作家、『巌谷小波』氏によってお伽噺【文福茶釜】として出版され、茶釜から顔や手足を出して綱渡りする狸の姿が、広く世に知られる事になるのです。



No.161

(茂林寺 続き)

いかにも〝昭和〟といった感の土産物屋さんの横を通って、総門をくぐると…、参道には狸の像が、ずら~っと置かれています。
前レスの写真がその内の一体です。

総門をくぐり、目の前には大きな茅葺きの総門がそびえる空間だというのに、大勢の狸の像に囲まれて、お寺さんにいることをすっかり忘れてしまうほどです。
でもこの狸さんたちに会いに来ているところもあったりするのが茂林寺さんであります。
というか、茂林寺さんから狸の像をとったらもはや茂林寺さんでなくなるような気がいたします。

茅葺きの楼門。
元禄七(1694)年の建立であるといい、普段の私ならここで茅葺き屋根に心ときめかせ、楼門の閉ざされた扉の中に思いを馳せるのでありますが…。

ここの、ですね。
ここ茂林寺さんの楼門の下、なんとベンチになっているんです!
それでは足らないとばかりに楼門の柱の外にもベンチが置かれているのです。しかもあの駅前とかでよく見かける背もたれにカラフルな宣伝の書き込まれたものが。

いつも、いつ来てもそこに目がいってしまい、こうして参拝を振り返るとき、(あ、せっかくの楼門なのにあまり拝見してこなかった)と毎回毎回思うこととなるのですが…。

ましてや今回など、楼門の先の満開のしだれ桜が目を奪い、…はたから見ると丁寧に頭を下げているかに見えたものでしょうが、気持ちはおおかたが桜に奪われているという、なんとも申し訳ない参拝ぶりでありました。

そう、見えてまいりました。
満開、です。
息を呑んで立ち尽くします。
…普段の私ならさんな気持ちにむちうって御本堂へとむかうというのに。

総門と楼門の前に居並ぶ狸の像に心和まされ、桜をめでて、ようやっと御本堂前に…。

…絶句。

どう考えてもおかしな光景が目に飛び込んできます。

御本堂に背中を向けた集団です。
まぁ単体、もしくはペアが集まっての集団ではあるのですが…。


そうなんです。
しだれ桜をカメラ(スマホを含む)におさめようとしている方たちで、驚くべきは御本堂入り口のど真ん中に三脚を立ててずっと居座る方と、自分としだれ桜とを撮ってもらうために次々とポーズを取り、撮影者(男性)に指示を出し、とれた写真をチェックする女性。

ええ、御本堂に入れやしませんがね。

No.160

群馬県館林市にあります茂林寺さんは知らなくとも、日本昔ばなしの【分福茶釜】はご存知の方が多いことでしょう。


…どうかなぁ。
今って。

そもそもうちの子どもたちが知っているかどうかすら不安になってきた。
でも平成生まれの子どもたち、あの「♪坊や、よい子だねんねしな」の『まんが 日本昔ばなし』は生まれた頃〜生まれる前にすでに終わっていたものの、『ふるさと再生 日本の昔ばなし』を一緒に観たし…。

さすがに知っているかな。
知っているんじゃないかな。
…そう思いたい。
あとで聞いてみるとしましょ。

念のため【分福茶釜】を簡単に書いておきます。

『上野国の茂林寺の和尚さんは茶の湯が趣味で、あるとき茶釜を買ってお寺に帰ります。

和尚さんが居眠りをしていると、茶釜から狸の頭や手足を生やしたのです。
それを見た小坊主たちはびっくり仰天。

ところが、和尚さんはそれをまったく信じようとしませんでした。

そんなあるとき、和尚さんがお湯を沸かそうと、茶釜を炉にかけると、茶釜は頭を生やし尻尾を生やし、足を生やした狸が正体を表しました。

(これはなんと怪しい茶釜だろう)と和尚さんは、屑屋さんに茶釜を売り渡しました。

その日の夜のことです。

茶釜は自ら頭と手足の生えた正体を現し、猟師から逃れるために茶釜に化けたことを屑屋さんに明かし、ぶんぶく茶釜(分福茶釜)と名乗りました。

狸は、火にかけられたり、カンカンと叩かれたりと寺で散々な目にあったことを打ち明け、屑屋さんには自分をもっと丁重に扱って欲しいと懇願します。

『丁重に扱ってくれるなら、軽業や踊りの芸を披露しましょう』と狸が持ちかけ、屑屋さんは見せ物小屋を作りました。

狸は音楽に合わせて踊りを踊ったり、綱渡りをしたりして人気を博しました。

一財を成した屑屋さん、疲れ果てた狸を憐んで、儲けの半分をお布施とするとともに茂林寺に茶釜を返却しました。

それから…もう二度と狸にも戻らなくなったぶんぶく茶釜。
茶釜は茂林寺のお宝として、今でも御本堂に祀られています。』


というもの。

館林の茂林寺のそばには、この絵物語が何話かに分けて看板にされており、館林駅から茂林寺に行く道中の塀に取り付けられています。




No.159

(【月々の守り本尊さま】続き)

毎月の守り本尊さまを挙げてまいります。

一・二月  虚空蔵菩薩さま

三月    文殊菩薩さま

四・五月  普賢菩薩さま

六月    勢至菩薩さま

七・八月  大日如来さま

九月    不動明王さま

十・十一月 阿弥陀如来さま

十二月   千手観音菩薩さま


なるほど、辰年巳年生まれの四、五月生まれの方の他にも、一、二月生まれの方で丑年寅年生まれの方の守り本尊さまなどなど、十二支においても、月々の守り本尊さまが同じという方もおられるようです。


四月の守り本尊さまといわれる【普賢菩薩】さまは、『文殊菩薩』さまとともに【釈迦如来】さまの脇侍をつとめ、六牙(ろくげ)と呼ばれる六つの牙をもつ白い象に乗っておられます。

普賢菩薩さまは、その梵語名からは『あまねく勝れた者』という意味をもたれ、仏の功徳をほどこし、仏のもつ「慈悲」を象徴する菩薩とされています。


比叡山では、毎年四月に四箇大法の一つとして、『普賢延命法』が行われ、普賢延命菩薩は延暦寺ではゆかりの深い尊格として知られているといいます。

比叡山において祀られているのは、大きな円相に金色に輝く20臂(ひ)の普賢延命菩薩が描かれています。
頭部には煌びやかな五智宝冠をかぶり、各手には様々な持物を執り、菩薩がのる寒色系の蓮台は、四頭の白象(頭上に四天王が立つ)が支えています。

経典ではとくに『法華経』の信仰者を守護するとも説かれ、また『華厳経』の【普賢行願品】では、
普賢菩薩さまの次のような十の誓願が説かれているといいます。


『まさに十種の広大の行願を修すべし。
なんらをか十となす。
一には、諸仏を礼敬す。
二には、如来を称讃す。
三には、広く供養を修す。
四には、業障を懺悔す。
五には、功徳に随喜す。
六には、転法輪を請す。
七には、仏住世を請う。
八には、常に仏の学に随う。
九には、衆生に恒に順ず。
十には、普くみな廻向す。 』


もうすぐお釈迦さまのお生まれになられた日、灌仏会がまいります。

今年はご本尊さまにお釈迦さまをお祀りのお寺さんを参拝させていただきたいところだけれど…。

まぁ、『誕生仏』と呼ばれる小さなお釈迦さまの像をおまつりし、そこに甘茶をかけるのだから、ご本尊さまはお釈迦さまでなくとも良いのだろうけれど。

No.158

【月々の守り本尊さま】

四月、旧い暦では卯月。
卯月は『ウヅキ』の花からきているそうです。
このウヅキの花の咲く時期は五月から六月とされていますが暦は旧暦、その名残りであります。

花より団子のおばさんは卯の花というと『ウヅキ』の花というより、食べ物の『卯の花』=おからの煮物を思い出してしまいます。
この食べ物の『卯の花』、私は大好きなのですが、夫は一箸を付けるのもイヤというほど嫌いだといいます。
おからというのは、安くて、食物繊維も豊富で、イソフラボンも含まれて、大変良い食品なのですが、一人二人のおからの煮付け『卯の花』を作るには多い量で売られています。

残った半分を冷凍したり、クッキーを作ったり。
『卯の花』の煮付けの惣菜を買ってしまった方が安くつく様な気すらするのではありますが、好物だけあって、こだわりが強い私。
そこは長い年月かけて自分好みにと編み出した自分なりのレシピが外せない。

そうすると冷凍したおからを抱え、好きではない(しかもめんどくさい)クッキーを作ることになるので、私は『卯の花』を食べたくなると密かに葛藤をするのです。

あ、『卯の花』の煮付けのことなど書いてしまったから、この葛藤のループにはまってしまった。


閑話休題。
ええと…、そうそうそもそもが卯月のことではなく、毎月毎月の守り本尊さまについて書こうと思ったのでした。

卯月、四月。
四月、五月の守り本尊は『普賢菩薩』さまであるといい、普賢菩薩さまは辰年巳年の守り本尊でもあられます。


同じ仏教であっても宗派や、お坊さまのお考え一つで、この守り本尊さまという考え方にあまり肯定的でないこともありますが、そこは弱い人間でありますので、守り本尊さまがおられると知れば、やはり知りたくもなりその守り本尊であるという御仏に(言葉に語弊があろうかと思いますが)親近感がわくものであります。

つまり、十二支だけでなく月々に守り本尊さまがおられるということは、誕生月の守り本尊さまもおられるということにもなりましょう。

ということから考えると、前述した辰年巳年に生まれ、四月五月に生まれた方は、守り本尊さまは『普賢菩薩』さま、ということになりましょう。


 (せっかくなのでウヅキの花)

No.157

ぽっくり信仰というものに良い印象が持てなかったのは、ひとえにあの〝観音さまに年老いた男女がすがりついてお願いしている像〟のせいであろうかとも思います。

そして私が長生きを望んではいないこともあろうかと思います。
ぽっくり逝きたいのは確かではありますが、今まで生きてきた自分の道のりを考えたとき、それはあまりに図々しい願いな気すらして。

それはもうすでにある程度決められている運命として受け止めるしかないであろうと思ってもおりました。

でも。
この光榮寺さんのご住職さまはこうお教えくださったのです。
「ぽっくり逝きたいと願うことは、なにも自分のため、ということではない。
周りの手を煩わせたくない、そうした優しさからの願いだから」と。

目から鱗でありました。
いや、少し考えればたしかにそうなのです。

自分に当てはめすぎて、そういった考えに及びませんでした。


ただ…。
ぽっくりと逝かれる側としては、心に傷にも近いものが残るような気がいたします。
あのとき体調の変化に私が気づくことができなかったから…、とか。
もっともっとそばにいたかった、とか。
これからようやく蟠りであった溝を埋める時間を持てると思っていたのに…、とか。


人の人生は人の人数分。

人の亡くなり方も人の人数分。


…私はこれからどう生きて、どう死んでいくか。

後悔ばかりの人生ではありますが、後悔してもあとには戻れない。

まさにこれからの生き方。

まぁ、私を取り巻く、私の最期にそばにいてくれる人にとってのとらえ方はその方次第。

人は死から逃れることはできない。
どう死んでいくかも。

それと同時に老いることからも。

誰もが望んでなどいない認知症にかかってしまうことも誰もがありうること。

だから今を自分なりに精一杯生きること。


…まぁ、それもまた言葉で言うほど簡単なことではない。
ましてや、まるでたるみきった筋肉と同じくらいに弛んだ心でいる自分には。

それでも自分なりに頑張ろうと思う。
今日一日頑張ったなって、思えるような一日を過ごすことを目標として。
ここでもう一踏ん張りすると、そうした一日になるぞって自分を鼓舞して。


最近考えたこと。
考えていることを書いてみました。
まあ、相変わらず支離滅裂でまとまっていませんが 笑。

No.156

(続き)

今、巷ではあちらこちらに老人ホームやサービス付き高齢者向け住宅やらが建ち、デイサービスがあり、ショートステイがあります。
ケアマネジャーさんがおられ、訪問看護や訪問介護などのさまざまなサービスが展開されるよとなりました。

ですがほんの少し前まで、この介護と呼ばれる役割は家族であり、家族というより端的に言えば『女』であり、『嫁』であった時代が長く長く続いてきました。

誰にも頼れず、愚痴すら憚られる時代に、描かれたのが有吉佐和子さんの【恍惚の人】であったようです。

私がこれを読んだのはもう恍惚の人という言葉は同世代の人には通じないほど時が経過しておりましたし、私の祖母は老人ホームに入っていたくらい、そうした〝時代〟は改善、改革されてきておりましたが…。(それでも今と比べれば、まだまだではありますが)

そうした、誰にも言えない思いを抱えた女の方が、わずかな隙間時間を作って、顔を隠して、この吉田寺を訪れていた時代があったといいます。
祈願をするというよりは愚痴を聞いていただき、日々をただ穏やかに過ごすことを願ったのだと思います。

今の若い…下手をするともう私たちの世代においてだって、核家族化が進んだ時代で、自分たちがすでに核家族で育っており、祖父母との同居もしたことがなく、老いていく姿やら〝恍惚〟となっていくさま、壮絶な〝恍惚〟を知らずに育ち、生きてきています。

そこにもうすでに〝介護〟の大きな受け皿ができていたからです。


No.155

(ぽっくり信仰についての続きとなります)

奈良県斑鳩にあります【吉田寺】さんの創建は古く、天智天皇の勅願によると伝えられ、本堂西側には妹君・間人内親王の御陵と伝えられる清水の古墳があるのだといいます。

その後、平安時代末期、永延元(987)年に【恵心僧都源信】によって開基されました。
恵心僧都は『日本浄土教の祖』と呼ばれ、お念仏を称えることで極楽往生が叶うことを一早く説かれ、著書である『往生要集』は法然上人や親鸞聖人にも多大な影響を与えることになったといわれます。

ぽっくり往生の信仰の由来はこの恵心僧都に由来するものでありました。

吉田寺の御本尊は恵心僧都がお母さまのために発願した『丈六阿弥陀如来』さま。
恵心僧都は臨終が近づいたお母さまに浄衣をお着せになり、お念仏「南無阿弥陀仏」を称えられたところ、お母さまは阿弥陀さまのお迎えをいただかれ、眠るように安らな極楽往生を遂げられたといいます。

恵心僧都はお母さまの大往生に感銘を受けられ、お母さまの三回忌追善供養と末世衆生救済のため、栗の大樹から丈六阿弥陀如来を顕されます。

これが吉田寺さんのご本尊の阿弥陀如来さまであり、この丈六阿弥陀如来の宝前で御祈祷を受けると、与えられた寿命を全うした後に長患いなく穏やかに極楽往生できるという霊験となり「ぽっくり往生」の信仰の礎となっているのだといいます。


おや?
…ぽっくり信仰のご本家といわれる吉田寺さん、観音さまではないようですが?

ま、まぁ、そうしたかたちで変化していくのは、日本という国ではままあることのようで。
なんなら、ぽっくり観音さま以外にもぽっくり地蔵さまもおられます。

それをひっくるめて『ぽっくり信仰』と呼ぶのでありましょう。


実は私、このぽっくり観音さま、あるいはぽっくり地蔵さまと称される石像にあまり好きではないものがあり、それもあってあまり手を合わせることかありません。

それは、いかにも年老いた男女が大きな観音さま、あるいはお地蔵さまにすがりついている、というもの。
私の『ぽっくり観音』さまとの出会いはまさにこの老人が二人すがりついた物でありました。
すがりついてまで長生きを祈り、そしてぽっくり逝くことを祈りたくはないかなぁと、思ってしまったのでありました。

そもそもが私、長生きしたいという思いを抱いたことがないので。

No.154

これはあらためて後述しようと思っておりますが、昨日参拝させていただいた群馬県館林市の、『分福茶釜』で有名なお寺、【茂林寺】さんの境内では、見事なしだれ桜が満開のときを迎えていました。

あまりに見事でありましたので、みなさまと共有できましたらと、先に写真だけアップいたします。


 茂林寺のしだれ桜

No.153

ここ近年、比較的新しい、背の高い観音さまをあちらこちらのお寺さんの境内で見かけることが増えているよう思います。

その観音さまの石像、【ぽっくり観音】という名が付けられています。


人は必ず死を迎えます。
これは避けようのないことであります。
ならば、出来るだけその死は苦痛な く、周囲の人々に手間をかけさせることなく迎えたいものと、誰しもが考えるのではないでしょうか。

それを『ぽっくり逝く』、あるいは『ピンピンコロリ』などと言われたりします。
そのような利生を得るため神仏に祈願することを【ぽっくり信仰】と言ったりするようです。


つい先日、群馬県みどり市の光榮寺さんのご住職さまの法話で、この『ぽっくり観音』さまのことが語られました。

今は前述したように全国的にもあちらこちらの寺院においてこの『ぽっくり観音』さまを拝むことができるけれど、と話された上で、実はこの『ぽっくり観音』さま、奈良の、それこそほとんど人が訪れることすらなかったようなお寺さんが発祥であったのだのだとお教えくださいました。

この奈良のお寺さん、【吉田寺】といい、別名『ぽっくり寺』としてその名を知られているといいます。

この『ぽっくり寺』が一躍脚光を浴びるようになったのは、昭和四十七(1972)年の、有吉佐和子女史の『恍惚の人』がベストセラーになってからと言われ、この小説は当時の流行語ともなり、映画化もされるなどし、ある社会現象をも巻き起こしたといいます。

当時まだ子供であった私は、さすがにこの小説のタイトルくらいは耳にしていたものの、当然内容までは知らず、それでも聞き慣れないこの『恍惚』という言葉に対してどういう意味なのかと周りの大人に聞いては困らせた(であろう)ことはかすかに記憶にあるような、ないような…。


そうした中、『ぽっくり往生の寺』【吉田寺】さんはテレビなどで紹介されるようになったのだといいます。

それを観た六十~八十歳代の女性たちが中心に、毎日バスでこの吉田寺を訪れるようになったといい、多いときなどは実に二十七台もの大型バスが訪れたのだといいます。


この奈良の斑鳩の地、吉田寺まで行くことのできない人々の声を聞いて、あるいは檀家さんにこの観音さまを招致してほしいと言われ、次第に日本中に広まる事となったのだといいます。

No.152

(続き)
※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。

さて、仏教にはさまざま宗派があり、それぞれご本尊や使用する経典が違うこともあります。
それでも基本的な考え方は、通じるところがありますが、この〝引導〟の方法などにも少し違いもあるといいます。

臨済宗や曹洞宗など、禅宗系の引導儀式は、古来中国の黄檗希運禅師という禅僧の逸話に由来しているのだといいます。


この黄檗希運禅師と呼ばれる方は帰郷した際に肉親と会ってはならないという戒律を守り、盲目だった母親とも会われなかったといいます。
しかし、禅師の母親は帰郷していることに気づいてしまい、禅師会いたさに、舟で故郷を後にする禅師を追い、川に飛び込み溺死してしまったというのです。
禅師は急いで戻りましたが、母の亡骸は川底に沈んだまま。
禅師は自分の行いを悔い、法語を唱えて喝を発し、持っていた松明を川に投げ入れたのだといいます。
すると、安らかな顔をした母の亡骸が浮かび上がったといいます。

このことから、臨済宗や曹洞宗では松明を使い、それを投げるという行為が行われるのだといいます。
そして、この黄檗希運禅師が発した引導法語で引導を行っておられるのだといいます。

うーん、この由来が全てであるかどうか、…私には少し違和感がありますが…。


さて。
曹洞宗の葬儀についてのあれこれを書いてまいりましたのもここでようやく終わりとなります。

あー疲れた。

期間が開きすぎて、記憶も飛びかけておりました。

とりあえず四十九日法要までに描き終わることができて…よかったぁ。


No.151

(続き)
※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


引導のときに用いられる法語は、宗派によって異なる場合もありますが、最初に仏の教えを説き、故人の戒名、そして生前の徳を称える形式になっている場合が多いようです。
葬儀の前に親族に対して、僧侶が生前のことを聞かれ、法語をつくることが一般的だといい、この場面ではまさに『義母の人生を一言で語るなら』、という『カラオケ』であるとか『旅行』であるとかが織り込まれておりました。

さほどお寺さんと深い繋がりのない家においては、この一般葬において語られる生前の姿は家族から語られた内容に頼るしかなく、旅行が好きで全国各地は元より海外にも何度も旅行した、であるとか、カラオケが好きでテレビに出演したエピソードとかが語られてくるわけで。

…うーん。

一般葬ともなると故人をまるで知らない人物も参列くださるわけで、ここで語られる人物像が全てとなるわけであります。

まぁ、たしかに、夫である義父の初七日の日に、娘や息子にも黙って町内会の旅行に行ってしまっていた強者の義母、それはある意味端的に彼女を表しているかと。
三人の子供たちが揃ってその二つのエピソードを挙げるくらいのことであったくらいで。

知らない方がこれを聞いて想像する彼女はさして実像からかけ離れてはいないことでありましょう。

はて。
私は子どもたちの目にどのように映っていたものか…。
末恐ろしくはありますが、これを当人は聞くことはありませんからね。



さて。
この引導を渡す場において、曹洞宗など禅宗系の宗派では、法語の最後に「喝」や「露」など大きな声を出し、故人の魂を激励することもあります。
亡くなったことを故人に自覚させ、穏やかに仏のもとへ導くための激励とも言われています。

よく通る美しいバリトンのお声のお導師様の〝喝〟。
あの大きな音の〝ジャラン〟以外によもやびっくりするものなどないと思っておりましたが、…甘かった。

No.150

(続き)
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引導を渡し一連の葬儀の儀式を終え、この後は告別式となります。
ここから先は曹洞宗における特徴的なものはほとんどないため割愛いたします。

ここで『引導を渡す』という言葉が出てまいりました。
引導とは、すべての生きるものに対して、仏の道へ導くことです。
仏教の葬儀においては、導師(僧侶)が法語を唱えて故人をあの世に送り出す儀式を指します。

一般的に使われる『引導を渡す』という慣用句は、あきらめるように最終的な宣告をする場合などに用いるため、よくない意味に取られがちですが、葬儀では仏さまのもとへ導いて差し上げるという前向きな言葉なのです。

葬儀は故人の冥福を祈り、今生での別れを告げるものです。
宗派によって、葬儀の流れなどが違う場合もありますが、最後に行うのが、引導の儀式です。
故人を称え、彼岸へと導く法語を唱え、松明を模したものを棺や祭壇に置くこともあります。

松明を模したものを使用するのは、古来は葬儀のときに僧侶の手によって火葬が行われており、実際に本物の松明を葬儀で使用されていたとの説から来ています。

仏教が生まれたインドでは、火葬をして身を清めるという考え方がありました。仏教の基となるヒンドゥー教でも、魂が煙となって天に昇っていくという考え方です。お釈迦様も火葬でしたので、仏教ではそれにならって、火葬が主流となっています。

引導は、故人を仏のもとへ導く、つまり、今生への別れを告げる儀式となります。この儀式が葬儀の意味であり、宗教的な意味ではお別れとなるのです。

引導の場面には僧侶が法語を唱えます。法語とは、広い意味で言えば仏教で正法を説く言語です。







No.149

(曹洞宗の葬儀についての続き)

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…そのあとに執り行われたのが、先ほど申し上げた儀式にあたる
『引導法語(いんどうほうごう)』と呼ばれるもので、松明(または線香)にて大きく円を描き点火(火葬)の儀式でありました。
払子(=ほっす 僧が所持する棒先に白いふさふさの細い毛がついた道具)で迷いと邪気を払い、お導師様は故人へ法語(ほうご)という言葉を贈ります。
ここで悟りの心境を表し、故人の生前を偲び、徳を称え、そして迷わず仏の道に進むことが出来るように導く「引導(いんどう)」を渡されます。

このあとは山頭念誦(さんとうねんじゅ)と呼ばれる儀へとつながって、仏弟子となった故人がこの死の縁に随って火葬され、一路悟りの境地に入られますようにと祈願します。
山頭(さんとう)とは火葬場(土葬の場合は墓地)を指します。

この一連の儀式、見事なまでのお導師様の語りで、まるで夜の山中で野辺送りをしたかのような不思議な感覚につつまれておりました。
まるでその場のヒヤッとした冷気や草いきれまで感じたような錯覚にとらわれたものです。

No.148

(曹洞宗の葬儀についての続き)

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かなり前となりますが、この一連の曹洞宗の葬儀についてで、曹洞宗のそれは二部構成となっているよう感じると書きました。

葬儀の後半は、その場で実になんと火葬の真似事をなさるのです。
真似事、などという言葉を用いるとあるいは失礼にあたるやもしれませんが、でもそれは言葉を知らぬ私がそう表現しているというだけで、実際お導師様は作り物の松明を用いてそれを大きく振り上げ、「火葬に付す」とおっしゃっておられます。
…これもかなりびっくりです。
この一つ一つを臨場感あふれる語りで「組み上げた焚き木」ですとか「赤々と燃え上がり」とか「やがて」とかお話をされながら進めていかれるのです。

たぶんこの解説が無ければ、赤い何かを巻き付けた木の棒を高く振り上げ大きく回しておられる、としかとらえないこと。
いつしか記憶から消えていきましょう。
か、火葬って…。

たしかにこれから一時間二時間後には荼毘に付すこととなりますが、なんともまぁ、ショッキングな…。

ちなみに私は曹洞宗の葬儀においては必ず執り行われているこの一連の儀をまるで覚えてはおらず、まるで初めてのことのようにショック遠受けたものです。
ええ、同じお導師様のお手で、十八年前義父の葬儀を執り行っていただいておるというのに。

でもきっと今度こそは忘れない。
自信があります。
なんならこの珍道中録もありますし…。


とはいえもうすでにだいぶ記憶から薄れてきております葬儀後半。

おぼろげな記憶をたどりつつ記しておきます。


参列者全員のお焼香が終わると、まずは棺前念誦(かんぜんねんじゅ)と呼ばれるものから始まります。
 
故人が諸行無常をさとれるよう、諸々の仏様のご加護とお導きを願い、仏様の名号「十仏名(じゅうぶつみょう)」をお唱えし、舎利礼文(しゃりらいもん)を読経し、仏様を一心に礼拝し故人のさとりの成就をご祈願くださっておられました。

その後、曹洞宗の葬儀を指してチンドンジャランと呼ばれる由来となっている、三つの仏具(楽器)を鳴らされました。
邪気を払い、仏の境地への道を開くお経をお唱えになられます。

No.147

(続きとなります)

お焼香の作法は、宗派によって異なります。
抹香を香炉にくべる回数、額に押しいただくのか?、いただかないのか?
宗派によりそれぞれの考えがあり意味合いが変わるのだといいます。

様々な宗派がありますが、抹香をくべる回数は1〜3回です。


お焼香の回数が一回という宗派の考えは、『一に帰る』という仏教の教えを大切にしているのだといわれているようです。


お焼香の回数が二回という宗派の考えは、『主香』と『従香』という考えを大切にしているといいます。

ここで一回目の『主香』についての見解もまた異なるものがあり、
一つは『主香』は御仏に、『従香』は故人の成仏を願うため、とする説と。
もう一つは、一回目は故人の成仏を願うため、二回目は一回目の香を絶やさないためにという思いが込められているというもの。

これは実は曹洞宗がまさにこの二回。
一回目は押しいただき、二度目は、押しいただかないというものであります。なので今後の法要でご住職さまにお聞きできれば、と思っております。
ただ、なかなかその機会があるかどうか…、何よりその時私が覚えているかどうか、…うーん。


そして仏教では『三』という数字が重視されていることから、お焼香を三回行う宗派もあります。



また、お焼香の回数だけではなく、『押しいただき』の回数についても制限されている宗派もあるようです。
『押しいただき』とは前にも述べた、右手の親指・人差し指・中指の3本で抹香をつまみ 額の高さまで掲げ、指をこすりながら香炉に落とすという行為をいいます。
額の高さまで上げないのを『押しいただかない』。

お相手の宗派に沿って行うというほうが丁寧であろうかと思うのではありますが、参列させていただいてもそのご葬儀の宗派を知ることはなかなか困難です。

事前にわかればネット等で調べてから参列することも可能ですが、それには御遺族か、あるいはご利用になられる葬儀社がわかればそちらに問い合わせることとなり、これもなかなかハードルが高い。


ご自身の信仰している宗派があるなら、その宗派に沿ったやり方でも問題ありません。
むしろそれを推奨する説もあります。

あとは…自分のお焼香スタイルはこれ、と決めてしまうのも一つかもしれません。
堂々と心を込めてお焼香させていただくことが何より大切だと思うからです。

No.146

(曹洞宗の葬儀についての続き)

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授戒の儀が終わると本来であれば【入棺諷経(にゅうかんふぎん)】という入棺の儀式が行われます。

しかし現代の告別式ではすでに入棺は済んでいるので、『大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)』といわれるお経と回向文をお唱えになられます。
親族や参列者はこのタイミングで【焼香】を行います。

お焼香とは、一般的には葬儀や法事などで、『抹香(まっこう)』を使って行う儀式のことをいいます。
お寺の御本堂でご本尊さまなどに参拝するときにもお焼香することがあります。

『抹香』は、『樒(しきみ)』の葉や皮を粉末にしたお香で、これに香木などを加えたものであります。

お焼香ではこの抹香を手で摘み、香炉の中に置かれた火種である『香炭』に抹香を落として香りを出します。

お焼香は宗派により作法や回数は異なるようですが、右手の親指、人差し指、中指の三本の指で香を摘み、香炉に落とすのは同じです。

お焼香は香りをその場に立たせる事を目的としており、その香りには様々な意味が含まれています。

とはいえ焼香が発祥したインドなどのようには、香りに重きをおく歴史はありませんが、
主に三つの意味があるとされています。

一、自分の汚れを払い、体を清める
香の匂いによって自身を浄化し、邪気を払って体を清めるための行為。

二、御仏への敬意
香を焚くという行為は謙譲の意を表すもので、仏さまへの敬意を込めて行われます。
それとともに葬儀では故人を浄土へ導いてくださいと祈願しています。

三、故人への弔い
故人の現世での行いを称え、香を手向けて成仏を祈ります。


仏教では極楽浄土は良い香りに満ちていると言われており、極楽浄土から御仏が故人を迎えに来るときには、香りを持ち運んでくるとされています。
そこで、その状況を再現すべく通夜・葬儀で抹香の良い香りを漂わせるわけです。

また香りが空中に満遍なく広がることは、仏教の教えが広がることを意味しています。

さらに、香りは時間とともに良い香りがなくなり、灰になってしまいます、これは人は皆いずれ消えていく存在であることを表しており、仏の悟りを教えてくれているのだといわれています。

No.145

【今日はなんの日】

本日三月二十七日は
『さくらの日』
『世界演劇の日』
『仏壇の日・祈りの日』
だといいます。

はて?
さくらの日?

たしかに、七十二候の一つ【桜始開(さくらはじめてひらく)】にあたる時期ではありますが…。
どうやらこれは「咲く(3×9)=27」の語呂合わせなのとか。
これを調べる前、夫は
「2+7=9だから? 三月の3と(2+7)=9で〝さく〟ら?」
と名推理をしておりました。
いずれにしてもかなりひねった語呂合わせでありました。

これは公益財団法人 日本さくらの会が1992年に定めたものといいます。


桜は夢のように美しくも儚く散ってしまうことから【夢見草】とも呼ばれています。

奈良時代以前には『和歌』の『花』といえば『梅の花』でありました。
平安時代に国風文化が育つにつれ桜が人気の花となり、『花』といえば『桜』となり、日本の国花にも位置付けられています。

開花だけでなく散りゆくさままでが美しい桜。
今年の開花の日も近いことでしょう。



では『仏壇の日』『祈りの日』とは?

【仏壇の日】とは

奈良時代に書かれた日本最古の歴史書である「日本書紀」に、お仏壇の起こりについての記述があり、それが仏壇の日の由来になったとされています。

日本書紀に、西暦686年、三月二十七日(旧暦)、仏教を広めるため、天武天皇が
「諸国の家ごとに佛舎(ほとけのみや)を作り、即ち佛像と経とを置きて礼拝供養せよ」
という詔(みことのり)を出した、と記されています。
この仏舎がやがてお仏壇となり、日本各地にお仏壇へ手を合わせる文化が広められた、と考えられているといいます。

この文化を広めた出来事に由来し、詔が出された三月二十七日(新暦)を「仏壇の日」とし、のちに毎月二十七日の記念日となっています。


では【祈りの日】とは

やはりこれもまた日本書紀に書かれている同日の天武天皇の同じ詔、によるものでこの仏壇の日、祈りの日はともに平成二十九(2017)年に、
全日本宗教用具協同組合(全宗協)が制定、日本記念日協会により認定・登録されたものであるといいます。

『祈りの日』は身近な人の日々の幸せや、遠くで暮らす大切な人の無事を祈ることで、心の平穏と思いやりの心を育むことを目指すものとのこと。

なんだかそれだけでもうとても良い日に思えます。




No.144

【大河ドラマと御真言】

このような大それたタイトルでレスをしようとしてはいますが、私が観た大河ドラマなどここ三年の三作品だけです。

どうもその時間に睡魔が来るような体内時計のようで、前作の『どうする家康』などは三分の一、いや四分の一くらいしか観られていないかと。

それなのに?


…時代が時代ですので、今などよりもずっとずっと神仏を崇め、それこそ生活の中にまず神仏がおられ、畏れつつも頼ってすがって生きていたでありましょう。

だから僧侶が御真言を唱えて、仏に祈るのはごくごく当たり前のように見られることであったかとは思うのです。

ただ、…なんだかちょっと…。

御真言を台詞にするっていうのはいかがなものかなぁ、と、思ったりする自分もおりまして。

たしか今放映している大河ドラマの前々回でも、お薬師さまの御真言を何度も何度もお唱えして祈願しているシーンがあったよう記憶しております。

リアルを追求してのことではありましょう。

でも、どうなのかなぁ…。

私は別段仏教徒ではないので、それについてとやかく言う資格もなければ、そもそもそれが良いのか悪いのかすら分からないような存在です。

でもねえ。

…。


私はあまり好ましいと思えないのです。

なぜならば、『真言とは偽りのない仏の言葉であるから真言である』として崇められるものであるから、であります。

その場面において、たしかに僧はこの御真言を唱えるであろうと理解はできても、その場面とはあくまでもまがいもの。

私がテレビのドラマの一シーンで唱えられている御真言を聞いて、(あ、お薬師さまの御真言だ)とわかるくらい、薬師如来さまの御真言は唯一のものです。

人が御真言を唱えるときは心からの祈願を、祈りを捧げているとき。

ドラマの一シーンはどんなに切迫していようが、祈るしかないシーンであろうが、まがいものに過ぎないのに、そこで宗教上大切にされている〝真言〟という言葉を用いてしまうのはどうかと、思うのであります。

まあ、それについて、どこからも苦言がないのであるから、私ごときがここで熱く語るようなことでもないのかもしれませんが。

一言で言えば、ちょっとあまりにバチ当たりなのでは?
といった感じでありますか。

まぁ、おばさんはビビりなので、そう頭が働くだけなんでしょうがね。

No.143

【瑠璃唐草】

わが家の庭のプランターに気の早いネモフィラが一輪咲きました。
毎年毎年、知らずのうちにこぼれた種から、芽を出す時期がくると、ひょい、ひょいっと小さな双葉を芽吹かせ、しばらくすると特徴的な本葉が顔を出すのです。

植えてあったプランターなどは当たり前、隣りにあった鉢、それどころか自転車置き場、洗濯物を干すテラス屋根の下、駐車場のコンクリートの隙間や公道のアスファルトの隙間までまで、つまむのも至難の業のようなケシ粒のような種ですので、びっくりするようなところまで飛んでいて、芽を出すのでありました。

ネモフィラといえば近年人気の花。
ネモフィラ畑を見るため多くの人が集うようです。


ネモフィラの日本名は、『瑠璃唐草』だといいます。
花びらが瑠璃色をしていて、葉っぱが唐草模様に似ているためそのように呼ばれているのだとか。
なんとも安直な気がいたしますが、瑠璃といえば『お薬師さま』。

薬師如来さまの正式な御尊名は【東方浄瑠璃教主薬師瑠璃光如来】、
であります。

『東方』というのは、太陽が東から昇る…、つまりは私たちが生きている世界のことを示すといい、今生きている私たちを救い導いてくださる仏さまが薬師如来さまであるということ。
しかしながら薬師如来さまのおられる世界は、
〝東の方向へ、十劫(ガンジス川の砂の数の十倍)という果てしないくらいたくさんの仏国土を通り過ぎたところにあるという浄瑠璃という世界〟で、そこの教主が薬師如来さまであるのです。

また、『瑠璃』とは、深い青色の宝石(ラピスラズリ)。
昔は御仏の功徳を様々な宝石に譬え、薬師如来さまは瑠璃。
それゆえに〝浄瑠璃世界〟、〝瑠璃光如来〟と表現されているのであります。


ネモフィラの青い花は中心が白いので、英語では『赤ちゃんの青い瞳(Baby blue eyes)』とも呼ばれているのだとか。

"可愛い" だけではない、強い生命力を持ち、多少の日陰やアスファルトの隙間でもへっちゃら。
厳しい環境でもぐんぐん育っていく丈夫な一面も持つネモフィラ。

今年は、こぼれ種から芽吹いて、ぼわぼわにあふれるプランターのネモフィラを間引いて、空いている植木鉢やプランターに植えたものだから、庭のあちこちにネモフィラが。


このネモフィラが全て咲いたら、ネズミの額のような庭も可愛らしく見えるかもしれません。


No.142

(曹洞宗の葬儀の続き)

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曹洞宗と云えば「チン・ドン・ジャランのお葬式」と呼ばれるほど、古くから音楽供養として奏でられてきたといいます。
…はて。
当然のこと、義父の葬儀・告別式も同じ曹洞宗、同じお寺さん、同じご住職さまでありましたが、全く、記憶に残っていません。
一ミリも、どころか微塵も記憶しておりません。

…でも、ですね、この『ジャラン』と表現される音を聞いたら、絶対忘れることはない、絶対忘れないものだと思うのですよ。
…いやぁ、世の中には〝絶対〟というものは存在しないものなのですね。びっくりです。
(いや、むしろその自分の記憶力の笊さに驚くばかりですが)

この、『チン・ドン・ジャラン』と呼ばれる由来は仏具である鳴らしものの音であります。

〝チン〟が『引鏧(いんきん)』と呼ばれる持ち手の付いた小さな鐘のような、御鈴のような仏具の奏でる音。

〝ドン〟は太鼓。

〝ジャラン〟は『鐃祓(にょうはち)』もしくは『妙鉢(みょうはち)』と呼ばれるシンバルに似た仏具の奏でる音であります。

この鐃祓(もしくは妙鉢)の音が大きくて、『ドキッ』とか『ビクッ』とか、とにかくびっくりするのです。

そう、だからこの曹洞宗の葬儀で鐃祓が使われることをすっかり忘れていたことが、我がことながら本当に、本当に、信じられない。
それこそ、鐃祓でびっくりした以上にびっくりであります。


実は。
お釈迦さまが亡くなられた際にも多くの人々によって音楽が奏でられていたことが経典に記されております。
そこからこの鳴らしものが奏でられることへとつながっているようです。

そして。
これらの鳴らしものは、故人を仏さまの世界へと導くためのお経【大宝楼閣善住根本陀羅尼だいほうろうかくぜんじゅうこんぽんだらに】の前後に鳴らしておられるといいます。

ゆったりとした間隔で交打を始め、次第に間隔を短くしながら厳かな調べを奏でます。この音色で諸菩薩をお招きし道案内をお願いするのだといいます。


No.141

(曹洞宗の葬儀の続き)

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【授戒】により授かる仏弟子としての証は二つ。

そのひとつが【血脈(けちみゃく)】でありました。


血脈にはお釈迦さまから始まり、お釈迦さまからの教えを相承してきた歴代の弟子たちの名前(曹洞宗では達磨大師や道元禅師など)が書かれており、最後から二番目には故人さまに戒律を授けるお導師さま(=菩提寺ののご住職さま)、そして最後に故人の名前が書かれているのだといいます。

お釈迦さまから故人まで一本の赤い線が引かれているようで、血縁という言葉通り、赤い線は血筋を表しており、正しい教えが代々相承されてきた証となるのだそうです。

つまり血脈とはお釈迦さまと決して切れることのないご縁が故人と結ばれた証、故人が釈迦さまの弟子になった証明書 と言えるものであります。
この血脈は『曹洞宗』や『臨済宗』で主に使われており、全ての宗派に血脈というものが存在する訳ではないといいます。

義母の祭壇の一番目立つ中央に置かれたこの『血脈』は、上に書いたような『お釈迦さまからの長い長い系図に赤い線が引かれた』ものでは無くて、白い紙の中央に何やら黒い墨で描かれたものの上に同じく大きな朱印が捺され、その両横に墨書きで四文字の文字がそれぞれ書いてあるものでありました。
その中央に描かれていましたものは『血脈』という文字をレタリング(と書くと何やらたいそうバチ当たりな気がいたしますが)したものでありました。

葬儀に参列しているときにはその目立つ白い厚手の紙に見えていたものは、実はどうやら封筒、袋であったようです。

つまりこの中に本当の意味の血脈が入っていた、ということになるようです。

この、実は封筒に書かれていた『血脈』以外の文字二つも、覚えようと必死に見てきた、きていたはずでしたが、やはりどこかへ置いてきてしまったようで。

この血脈(の封筒)は棺に納められ義母と共に荼毘にふされましたので、きっと煙となって消えたのでありましょう。


もうひとつが【戒名】です。
戒名は仏弟子の証である名前であり、仏法つまり仏の教えが込められているといいます。


No.140

(曹洞宗の葬儀の続き)

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『十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)』では

・いたずらに生き物を殺さないこと
・人のものを盗まない
・不貪婬戒(ふとんいんかい)淫欲を貪らない
・不妄語戒(ふもうごかい)騙したり嘘をつかない
・不古酒戒(ふこしゅかい)酒に溺れない
・不説過戒(ふせっかかい)人の過ちを責めたてない
・不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)慢心をもたず人をけなさない
・不慳法財戒(ふけんほうざいかい)人の為になる施しを惜しまない
・不瞋恚戒(ふしんいかい)怒りで我を失ったりしない
・不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい)仏法僧の三宝を謗らない

と続いています。

やはりどう思い返しても、私が聞いて何をお導師さまがおっしゃっておられるかすぐにわかる言葉であったように思えるのですが、この式のビデオを撮ってはいないので、これはもう確認のしようが無いのですが。

ただ本当にそこで何をおっしゃっておられるかわかったので、私はこれを聴きながら、(ああ、ここでは、生前に犯したであろう罪を全て挙げて反省していることを述べているのかな?)などと考えられたのですから、やはりもっと仏教に詳しくない者にも伝わる言語であった気がしてなりません。

しかしながら。

授戒とは、あくまでも亡くなられた方が仏弟子となる為、約束事を交わす儀式であって、これが全部で十六条。
仏弟子として歩んでいくときに必要な自らが保つべき戒めのことを意味したことをお導師さまが授けておられるのであります。

それゆえ「しない」という言葉を用い、善い行いを積み続けることを誓うものが述べられていたのです。

つまりはこれはかつて、臨終の床にある者に対して剃髪をし、この授戒をしていたことから来ているもののため、すでに亡くなられた方にも、『この律戒、浄戒、禁戒を守り、仏弟子となります』と言い聞かせる儀式となってきた、ということのようでしょう。

かつては生前にこの剃髪から授戒、そして
【血脈授与(けちみゃくじゅよ)】ということで【血脈】を授かり、さらには戒名をここで授かった上で、残された日々を送っていたのです。

…そんな様が古典と呼ばれる日本文学、ひいては大河ドラマ、時代劇などにも描かれています。


今はそうした方は少ないでしょう。

No.139

(曹洞宗の葬儀の続き)

※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。

【授戒】
授戒とは故人が仏さまの弟子になるために、必要な戒名や戒法を授かるための儀式となります。

授戒は細かな儀式によって構成されているといいますが、この儀式はずっと連続しているため、私には一つの儀式のように見えていました。


その儀式は、毎日お経をお唱えする際、一番最初に唱える、
【懺悔文(さんげもん)】を繰り返しお唱えになられるところから始まりました。
そう、繰り返し繰り返して。
これは『懺悔文』を唱えて、生前の罪を反省し、成仏を祈願するためのものといいます。

この前後でまた『洒水(しゃすい)』をなさっておられました。

この後は
【三帰戒文(さんきかいもん)】
【三聚浄戒(さんじゅじょうかい)】
【十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)】 法性水を用意、位牌や自らの頭に注ぐ
【血脈授与(けちみゃくじゅよ)】
と、それぞれに名称のある儀式を連続して執り行っておられたのですが、見ていたときには一連のものととらえておりました。

『三帰戒文』はお釈迦様の教えを守って修行者に帰依することを誓うもの。

南無帰依仏(なむきえぶつ)
南無帰依法(なむきえほう)
南無帰依僧(なむきえそう)

とお唱えになっておられたのがこの三帰戒文であったようです。

さらに続いておとなえになった『三聚浄戒』『十重禁戒』。
ここでは法性水と呼ばれる水を位牌や自らの頭に注ぎながらお唱えになられるようです。
私はここでお唱えになられるものを聞き逃さないことに重きを置いていたため、そこは見逃しておりましたが、ここでも聞き覚えの、では無く見覚えのある文言がお唱えになられていました。

後に調べたところ、『三聚浄戒』では
・摂律儀戒(しょうりつぎかい) 一切の悪事を行わない
・摂善法戒(しょうぜんほうかい)すすんで善行に努める
・摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)他者のために行動する

というものであるといい、さらに続く『十重禁戒』では、

・不殺生戒(ふせっしょうかい)いたずらに生き物を殺さない
・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)人のものを盗まない
 ・
 ・
と続いていたようです。
もう少し私にもわかる言葉であったような気もするのですが…。



No.138

【洒水】

前レスで【洒水(しゃすい)】をなさった、と書いております。
『灑水』とも書くようです。

洒水は、身をはじめ、道場や、いろいろな物を清めるときに行われています。
【散杖(さんじょう)】あるいは【洒水杖(しゃすいじょう)】と呼ばれる木の棒で、器から少し洒水用の水を取り、注ぐように撒いたり、散布するように撒きます。

洒水は身や心を清め、仏性を呼び起こすので、加持香水(かじこうずい)とも呼ばれるのだといいます。
仏さまの智慧の水をそそぎ、菩提心の種を成長させる、という考え方であるようです。

『洒水』は【香水(こうずい)】を使用します。
この香水は、洒(灑)水器と呼ばれる専用の器にきれいな水を入れ、さらにお香を入れ、ご真言や印を結びながら作るといいます。

洒水するときも、ご真言や印を結んで加持して執り行われます。
柳や梅の若枝などで作った散杖(又は洒水杖)で行います。

洒水器は塗香を入れる器と、通常セットで使われ、器の形は同じですが、お香を入れる塗香器の方が少し小型であるといいます。
塗香器は、身体を清浄にするために塗る粉末のお香=塗香を入れておく器です。
この二つ合せて『二器』と呼ぶといいます。

お護摩での車載は『洒浄(しゃじょう)』と呼ばれ、他の洒水とは区別されるようです。
洒浄はお護摩の進行中にも一定の区切りごとに行われ、散杖(又は洒水杖)の振り方やかき回す順序は流派によって異なるといいます。


No.137

(曹洞宗の葬儀の続き)

※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はお閉じください。


仏教には様々な宗派があり、各宗派によって葬儀を行う意味も内容も異るようです。
又、同じ宗派であっても、その地域によって違いも生じますし、ご住職さまの考え方でも内容は変わってくるもののようです。

その中でも、曹洞宗の葬儀は他の宗派と違う特徴があると、ネットにも書かれています。

十八年前の義父のときとは私どもの状況もだいぶ変わり、まだ小学生で泣きじゃくっていた娘も今は社会人。
その後始めた神社仏閣巡りで、ほんの少し仏教について学んだりもしていました。
しかも今回前に立つことも無かったこともあり、ご住職さまのお話をゆっくりお聴きする余裕がありました。

曹洞宗の葬儀について書き残しておこうと思います。

曹洞宗において、葬儀は『故人が仏の弟子となる儀式』であるといいます。
ご住職さま=お導師さまは時折説明を加えつつ進めてくださいました。

曹洞宗の葬儀は、二部構成となっているよう感じます。

葬儀の前半は、まさにその仏の弟子になるための儀式で、亡くなった故人が戒名や戒法を授かるための「授戒」を行い、その後悟りを開くために故人を仏の世界へと導く「引導の儀式」を行なってくださっておられました。


まずお導師さまはご入場されたのち、静かに座られました。


私がやたらとこだわっておりました『枕経』、曹洞宗では『臨終諷経(りんじゅうふぎん)』と呼ぶといいます。

今は自宅やご遺体を安置されたところへ出向いての枕経はあまりなくて、このタイミングでまず枕経=『臨終諷経』をお唱えになるようだと知り、目を凝らし耳をすましてお導師さまの様子を拝見しておりました。


また、このタイミングで剃髪をする葬儀もあり、そのようなご葬儀では、僧侶が棺のふたを開けて、剃髪する仕草をなさっておられました。

義母の場合においてはお導師さまは設えられた祭壇のまえに座られ、棺のそばに寄られることもありませんでしたので剃髪は無しで。

洒水(しゃすい)されるご様子が見えました。

あ、【舎利礼文(しゃりらいもん)】をお唱えです。

お釈迦様の遺骨である仏舎利を敬う気持ちを述べた『舎利礼文』、臨終諷経ではこれを唱えられることもあるようです。


よかった。
臨終諷経をお唱えくださいました。

No.136

(曹洞宗の葬儀の続き)

※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。



…便利な世の中になりました。
検索するとアッという間もなく、この被り物の名前がわかります。

一つは【立帽子(たてもうす)】
曹洞宗の儀式の時、正式に冠られるもの。
こちらが後ろから見た時、例えるなら〝雪吊り〟のように見えたともうしあげた、すそは長く腰まで掛かるという長いもの、…だったような。

もう一つは【鼓山帽子( くざんもうす )】
やはり曹洞宗の儀式の時冠られるもの。
頭部が太鼓のように窪んでいる。後ろの部分はやはり襞(ひだ)をとった一枚布である。
立帽子よりやや略である。
…太鼓の、ですか…。いやたしかにそう言われてみれば、まさに、昔の子供のおもちゃの太鼓の鼓面と胴のようです。

正式な名称が〝鼓山〟、太鼓の鼓面を山とした帽子、ですから、文句のつけようもありませんが、この先この鼓山帽子を冠られた僧を見て、『太鼓の帽子』などというワードが頭に浮かんだなら、ちょっとだけ笑ってしまいそうな気がするんですけれど…。
いやいや、太鼓は仏具でありますから、そこは決して笑うところではありませんし。
ただ、私が先ほど〝子供のおもちゃの太鼓〟を思い浮かべてしまったのがいけません。…子供ってなんでも試したがるじゃないですか?
太鼓だって両面張られた太鼓の鼓面が破れたら…、…被りません?

これはもう、ひとえに私の生活のレベルの低さがいけない、私の笑いの沸点が低いのがいけない、ただそれだけでございます。


それにしても。
こんなに言葉の乏しい人間が入力したワードでも、ちゃんと答えを導き出して教えてくれるんですから、まさにスマート。

それに比べて自分はといえば、この『立帽子』や『鼓山帽子』という名称をいつまで覚えていられらるのだろうか、…比べる時間すらがもったいないですね。





No.135

(曹洞宗の葬儀の続き)

※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関


これは百人一首の蝉丸の歌ですが、ここで念のため申し上げておけば、子どもの頃から〝記憶する〟能力の少ない人間だったので、『百人一首の歌を全て覚える』…などという目標を立てても頓挫して坊主めくりをすることくらいしかできなかった人物です。

坊主めくりといえば坊主が出ないことを祈って遊ぶものですが、この蝉丸、一人だけ頭に被り物を被っており、子どもたちはまず蝉丸を覚えることが多かったりします。

今回もありがとう僧侶の被られた被り物ということで、懐かしい〝蝉丸〟が頭に浮かんでまいりました。
そうして、(蝉丸は曹洞宗の僧だったのだろうか)、…などとぼんやり考えたりしたものであります。

お通夜を終え、次ぐ日は葬儀・告別式。
合掌する中、また、チリン、チリンと鈴の音が近づいてまいりました。
(今日は別にびっくりしないぞ)そう思ったような思わなかったような…。



…びっくりしたんです、私。

昨夜の被り物とはまた違う形の被り物をかぶっておられるではないですか。

…このおばさん、厳粛な席で何を見てなにを考えているのだ、と思われましても、しかたがないですが、それが事実であるという悲しい人間であります。

この日の被り物は、頭の大きさよりやや大きいくらいの円をご想像いただき、そこを中央に布が縫い付けられたヴェール状のものを思い浮かべていただけば、それに近いものかと思います。
ええ、おそらくそんな感じであったかと…。

この葬儀社、通常とだいぶ変わっておりまして次男の嫁という立場でありながら親族席でのほほんと座っていたのであります。

本来なら前に立つのが一般的である立場でありましょうが、そうではなかったため、心にゆとりが生じ、なおかつ一番前の席という、他の参列いただいている方々の様子は見られず、自然お坊さんの後ろを見るともなく見ていた次第でございます。

でもさすがにその時〝蝉丸〟なことは一度も頭に浮かぶことはなったのですが…。


No.134

【曹洞宗の葬儀】

※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。



曹洞宗の葬儀に初めて参列した、ということはないはず…。
昨年友人の御母堂がお亡くなりになられた際のご葬儀が曹洞宗であったし、そもそも十八年前の義父の葬儀が当然のことながら曹洞宗であるのだから。

たしかに十八年前の葬儀のこととなると、この記憶力の乏しい私、忘れていることが多いのですが、でも昨年の友人の御母堂のご葬儀はまだまだ記憶に新しいもの。

なのにこのたびの義母の葬儀では驚くことばかり。

それは葬儀社さんによるものではなく、あくまでも〝曹洞宗の葬儀〟について、でありました。

「お導師様入場となります。参列者の皆さまは合掌してお迎えください」

チリン。
チリン…。

鈴の音とともに衣擦れの音が、…それはさすがに聞こえはしませんが、鈴の音が近づくのがわかります。




…被り物を被られるんだ。

友人の御母堂のお通夜では特にそのようなことはなく、お坊さんと言ったら、とでもいいましょうか、まさにトレードマークのような剃髪された頭のままのお姿でありました。

今回、義母の菩提寺のご住職さまは被り物をなされていました。
その被り物を例えるならば、…雪吊り?。
三角帽子とは違います。もっと長く耳も隠れ肩まで覆うような金糸銀糸の美しい織物で作られた被り物でありました。

…き、きっとこれが正装なんだろう。
義父の時のことは、正直ほとんど覚えてはおりませんでした。






No.133

(浄運寺さんの聖観音像・続き)

浄運寺さんは今年一月、報道陣にこの観音像公開したといいます。
実はこの観音さま、これまで『秘仏』でありました。
ご住職さまはこの席で、
「この観音様はお寺の守り本尊であります。
このたび修理を終えたので、今後は多くの方にお参りしていただきたいと考えます」
と話されたといいます。

しかしながら御本堂はこの三月から大規模な改修工事に入っており、屋根瓦は下ろされ、床板もはずされた状態で、観音さまは今、檀信徒会館の奥の間に厨子に入ってお祀りされておりました。

そのお姿は、なんともお美しく、優しく微笑まれておられました。
軽く背を曲げ前屈みとなり、その優美なことといったら。
左手にはやや大きめな未敷(みふ)蓮華をお持ちになられておられます。

この未敷蓮華とはまだ蕾の蓮の花であり、これは観音菩薩さまが蕾のごとくに閉じている人の心、仏心を開かせる存在であることを表しています。

これは今回新たなものを作ったとのことなので、少し大ぶりなものとしたのにも何か意味があるのかもしれません。


お背の高さは六十センチほどでありましょうか、しかしながらもっと大きく感じられるずっしりとした存在感があります。

お召しになられた薄衣に透ける肢体はなんとも艶やかで…。
私などもっとずっとここにいたいくらいであります。

経年されて濃い茶褐色をされておられるのがまたお美しく、ぜひまたお会いしたいと強く思うおばさんでありました。


惜しまれるのは、まだこちらの御本堂におられるときにお会いさせていただきたかった。

あ、でも、この今の状態でおられるからこそお側に寄って拝することができているのかも…。


ちなみにご本尊であられる阿弥陀三尊もこちらの間にお移りになられておられます。

ご住職さまは焼香の香炉をご用意くださり、その後は私たちを残してこの間を立ち去られました。

ゆっくりと拝観できるようご配慮くださったようです。

なんともありがたいご配慮です。

こんなどこの馬の骨ともわからない初めて会った人間にそこまでお心をお許しくださる懐の大きさに、私はたいそう感動いたしました。
(私どもにしたらこちらのお寺さんを訪れるのは初めてではありませんが…)

思い出してもほんのり心温まる思いがいたします。

ありがとうございました。



  朝日新聞画像

No.132

(浄運寺さんの聖観音像・続き)

奥方さまは、観音様のご利益によって得られた健康のお陰で、以来、日々恵まれた生涯を送ることができ、大変な長寿を全うされました。が、さすがに寄る年波にはかてずに、晩年は床の中で過ごすことが多くなりました。

そんなある日のこと、奥方さまは、いよいよこの世に別れを告げるときが近付いたことを知りました。そこで奥方さまは、日ごろとても目をかけておられた老女を枕元に招いて、今後のことをこまごまと頼みました。

その上で、「わらわの命は、今日限りなり。わらわ亡きあとは、上野国桐生の浄運寺に観音さまを安置し奉れ。
そなたは観音さまの供をして桐生に参り、剃髪し、観音さまを末永くご守護せよ」と、遺言しました。

奥方さまが、世を去られますと、間もなくして観音さまは桐生・浄運寺に安置されました。
すると、それを待っていたかのように、安産祈願の人々が、近隣からドッとお参りするようになりました。


古河での観音様のあらたかな霊験は、すでに遠い桐生の里にまでも聞こえていたのです。

それにしても、夢のお告げで秩父から古河へ移られ、そして遺言によってはるか桐生の地にまでも移り来られた観音さま。
どこかで見えない糸によって結ばれていたような、不思議な縁(えにし)を強く感じさせます。

奥方さまの遺言により、観音さまと一緒に桐生へ来られた老女とは、
浄運寺十世・光誉玉円和尚の養母となられた『栄寿尼』その人だったと伝えられています。



浄運寺は、天和三(1683)年に観音堂を作って仏像を安置いたしました。
それ以来、安産祈願の観音さまとして長いこと信仰を集めてきました。

昭和二十九(1954)年に仏教美術史の研究者が調査し、特徴などから平安朝の仏像だと分かったといいます。

聖観音菩薩像は、ヒノキの寄せ木造りで高さは約67センチ。
傷みが激しかったため、二年ほど前に京都市の京仏師、村上湛雲氏に修理を依頼し、昨年十一月に修理を終えました。

鼻先やまぶた、耳たぶ、指先などの欠けていた部分は補った。脚部は補強し、台座や光背は塗り直した。手にしているハスなどは新たに作られたといいます。

その胎内には多くの文書があったといい、今回の修理を記した名札と共にまた胎内に戻したといいます。




No.131

(浄運寺さんの聖観音像)

下総国古河城主の本田公の奥方さまは、生来とても体の弱い方でした。その奥方さまにある年のこと、懐妊の兆しがみられたのです。
奥方さまが本田公のもとに嫁いで来られて以来、とにかく初めての懐妊でしたので、本田公は大変お喜びになられました。
でも、その反面、大きな不安も同時にお持ちになられました。それは、病弱な奥方さまの体が、「出産という大役に耐えられるのだろうか」という、何とも言いようのない不安でした。

奥方さま自身も、「わらわも、これで正真正銘の本田家の奥(妻)になれる。」と、懐妊を喜びながらも、やはり、自身の病弱のことが気がかりで、眠れない夜が多くなりました。

しかし、「いくら、わらわが心配をしたからとて、どうなるものでもありますまい。ここは日ごろ信心している観音様のお慈悲におすがりするよりしかたがないであろう。」と、心を決められ、近くのお寺に詣でることにしました。「病弱なわらわにも、なにとぞなにとぞ、お慈悲を!安らかに子供を産ませ給え。」と、17日間の安産祈願を必死にお続けになられました。

やがて満願の日になりました。
奥方様の必死の祈願・真心が観音様に通じたのでしょう。その満願の夜、ふしぎな霊験があらわれました。奥方様の夢枕に一人の老婆が立たれたのです。

その老婆は、厳かに、「われは、秩父の里に縁づきて、衆生済度のため今は本郷大仏師・右京の家に在り。汝、安産を願うならば、われを懇ろに迎え館の内に置くべし。
われは聖観世音菩薩なり」と、お告げになられ、姿を消されたのだといいます。

夢のお告げのあった観音さまの像は、翌日、仏師・右京のもと出向いた家臣たちに手によって、直ちに秩父から本田公の館の内に安置されました。

奥方さまは、身近にお迎えした観音さまに、「なにとぞ、ご加護を……。」と、朝な夕なに手を合わせ、祈願を重ねました。

月満ちて、いよいよ奥方さまの出産の日となりました。
心配された十月十日(とつきとうか)でしたが、その間が無事に過ごせただけでなく、出産そのものも、本田公や奥方さまの願いどおりの安産が得られました。しかも、産後のひだちも素晴らしくよくて、奥方さまは、生来の病弱が、まるで夢だったかのようについえ去り、その後の健康までもが得られたのです。


(続く)

No.130

【浄運寺】

群馬県桐生市にあります【浄運寺】さんへ参拝いたしました。

この浄運寺さん、
天正七(1579)年に『織田信長』公の命により開かれた安土城下の【浄巌院】での宗論(しゅうろん)で、日蓮宗の僧侶を説破し、法名を一躍世に馳せた【玉念(ぎょくねん)上人】が、永禄元(1558)年に開創された寺としてその名を知られます。

正式名称は【田中山栄照院浄運寺】。

玉念上人が天文年間(1532~1554年)に広沢村後谷(現在の広沢町1丁目)に庵室を持ったことに始まり、その後、渡良瀬川の対岸にある新宿(しんしゅく)に、永禄元(1558)年に【哀愍(あいみん)寺】を建立。
この哀愍寺を継いだ二世『聞岌』の頃、桐生新町の町立てに際して慶長十(1605)年、現在地に移転します。

江戸時代、幕府直轄の土地であった桐生の町づくりを行った際、桐生新町の南を守る寺として、こちらへ移された、ということのようです。

その際哀愍寺から【浄運寺】へと名を変えています。


浄運寺さんには、この開基の玉念上人の宗論の成果を示す『安土宗論記録(桐生市指定重要文化財)』が、いまなお大切に保護されているといいます。

そんな浄運寺さんの寺宝のひとつに、平安期作の古仏・木彫聖観音像があり、かつては山門近くの観音堂内にお祀りされていたといいます。
今は御本堂に安置されておりましたが、それも修復工事に入ったため、檀信徒会館の奥の方に場を設えて安置なされています。

この観音さまの御像、
制作された年代が大変に古いというだけではなくて、もとは下総国(千葉県)古河城主・本田公の奥方さまの護持仏だったといい、歴史的にもなかなか素晴らしい由緒をもった像なのだといいます。

No.129

(『雨ニモマケズ』の続き)

『雨ニモマケズ手帳』と呼ばれる黒い革の手帳。
この手帳に、『雨ニモマケズ』とともに書き込まれてあった釈迦牟尼佛は言わずと知れた仏教の始祖であるお釈迦さまのことであります。

梵語のシャキャムニ・ブッダの音写で、釈迦は種族の名、牟尼は聖者の意、佛は仏陀の略。「仏陀 」とは「目覚めた者」「真理を悟った者」の意味であります。

そしてそこに侍仏のように書かれた『多宝如来(たほうにょらい)』は、法華経の『見宝塔品(けんほうとうほん)第十一』に登場する仏さまだといいます。
お釈迦さまは、空中にあらわれた「七宝の塔」の中に入り多宝如来とともに座して「法華経を信じ持つことは非常に難しいと」と説いているとのこと。

…うーん。
法華経かぁ。
法華経、…長いんですよねえ。

でも昨年からずっとこうして法華経に関することに触れることが増えているということは、…法華経を読めということなのでしょうか。
うーん。

法華経は一世紀から二世紀頃に編まれた経典で、初期大乗仏教の代表的な経典とされています。
釈迦を語り手に、多くの菩薩や阿修羅、龍といった神々を聞き役に据えて、壮麗な舞台設定のもとで説法を繰り広げる、というもののようで理解できればそれはそれはたしかに私の実りとなることはたしかです。
が。全二十八品(章)とかなり長い。
うーん。

御写経させていただいたときにも、何が書いてあるのかさっぱりわからなかったし。
…まぁ、それはどのお経にしてもそうなのですが、ね。

それでも般若経をまとめた『般若心経』くらいの長さであればとりあえず読むことくらいはできるというものですが…。

また『観音経』は『法華経』の【観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五】の略称であるのだといいます。
ここでは、観音菩薩は、さまざまな姿に変身してすべての人々のあらゆる悩みや苦しみを救ってくれる万能の救済者である、と説かれています。

法華経…。

十八歳の賢治が体が震えるほどの感動を受けたという法華経。


うーん。
そういえばこの間鶯の鳴く音を聞きました。
あれ?

No.128

(『雨ニモマケズ』の続き)

【雨ニモマケズ】は、病床に伏した宮沢賢治が記した詩です。読めば読むほど奥の深い文章です。


南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩


法華経と釈迦牟尼仏という存在を、多宝如来と四菩薩が囲んで、まるで文字で書かれた曼荼羅を見ているような気すらしてまいります。


そして。


東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ


何気なく読んでいたこの東へ西へ南へ北へと向かう記述に、ある物語が重なって、思わず鳥肌が立ちました。
おそらくは賢治はそれを意識してこの『雨ニモマケズ』を書いているのだと私は確信します。

その物語とは他ならぬお釈迦さまが豊かな暮らしを約束された城を捨て家族を捨てて、出家なさるときを描いたシーン、【四門出遊】であります。


あるとき、お釈迦さまは家臣を連れて東の門より城外へと出かけようとします。
このときはまだ釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタであり、隣国の王女ヤショーダラ姫を妻に迎え、お子さまであるラフーラ(のちに悟りをひらかれたお釈迦さまに弟子入りをする羅睺羅のこと)が生まれて順風満帆に見える頃のことであります。

シッダールタが東の門から出ると、年老いた醜い老人の姿がありました。
「あれは何者だ」
とシッダールタが問うと
「老人でございます」
「誰でもあのようになるのか」
「はい、人は誰しもやがて年老いて衰えるものであります」
そう聞かされて、シッダールタは暗い気持ちになり城へと戻ります。

またある日は南の門より出かけて病人を見、西の門から出かけ死人を運ぶ行列を見、やはり暗い気持ちとなって城へと戻ります。

そうして、シッダールタが北の門より出かけた折に、出家して修行に励んでいる一人の沙門(しゃもん)の姿を見ます。
この沙門の清々しい姿に感動したシッダールタは出家する決意を固められたといわれています。


そう、まさに東、西、南、北。

一見ただあちらこちらへと歩くさまをこうした具体的な方角を入れてリアル感を出したかに思われますが、さにあらず、四門出遊を意識したものてありましょう

No.127

(『雨ニモマケズ』の続き)

賢治と法華経との出会いは、実に十八歳のときといいます。
十八歳の秋に島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』を読んで体が震えるほどの感動を受け、以後、法華経信仰を深めたのだといいます。
島地大等は盛岡の願教寺二十六代住職で、近代日本を代表する仏教学者だといいます。

その島地大等との出会いはさらに遡り賢治が十五歳の時、願教寺における仏教夏期講習会で、島地大等の法話を初めて聞いたといいます。
大正七年に賢治は盛岡高等農林学校を卒業、同九年に、田中智学(たなかちがく)が指導する日蓮主義の在家集団『国柱会(こくちゅうかい)』に入会したのだそうです。

ちなみに、賢治の実家は実は真言宗(一説によると浄土真宗)であったといいます。
しかしながら賢治のお墓は、岩手県花巻市にある日蓮宗のお寺だとのこと。

まあ、死の間際の床において、「『国訳妙法蓮華経』を一千部印刷して、私が親しくしていた人たちに分けてください」というものであったというくらいであり、当然賢治はそこまで帰依していた日蓮宗の寺に埋葬して欲しいと懇願したことでありましょうが。
とはいえ当時の檀家寺と檀家の関係は今よりももっとずっと密なものであったと思うので、ご両親はさぞかし大変な思いをなされたのではないかと思うのです。


さて。

『雨ニモマケズ』の後に書いてあります【上行菩薩】【無辺行菩薩】【浄行菩薩】【安立行菩薩】は法華経の「従地湧出品(じゅうじゆじゅっぽん)第十五」に登場する四大菩薩だといいます。
大乗仏教では、悟りを求める人や求道者を菩薩といい、菩薩は修行を始めるに当たって、四つの誓いを立てます。
それを四弘誓願文といい、四大菩薩は、菩薩としての四つの誓いを代表しているのだといいます。

【四弘誓願文】

 『安立行菩薩』衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)「生きとし生けるものを救うことを願う」
 『浄行菩薩』煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)「すべての煩悩を断つことを願う」
 『無辺行菩薩』法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)「仏の教えをすべて学ぶことを願う」
 『上行菩薩』仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)「無上の悟りを得ることを願う」

ということ、なのだとか。

正直言ってちんぷんかんぷんですが…。

No.126

(『雨ニモマケズ』続き)

『…息子の死が近いことを悟った父が病床の賢治に向かって
「何か言い残すことはないか」と尋ねたところ
「最後に一つ頼みがあります。自分が死んだら『国訳妙法蓮華経』を一千部印刷して、私が親しくしていた人たちに分けてください」
と頼み、経文の巻末に次の言葉を付け加えるように言い残したという。
 

【合掌 私の全生涯の仕事は此(この)経をあなたの御手許に届けそしてその中にある仏意に触れてあなたが無上道に入られん事を御願いするの外ありません。

―昭和八年九月二十一日 臨終の日於いて、宮沢賢治 】

これが聞き入れられるとにっこりとほほえみ、母に頼んで持ってきてもらった水をおいしそうに飲んでから、自分で首や手などをオキシフルで洗い清めて静かに亡くなったといわれている…」

これはひろさちや氏が書かれた本にある求道者宮沢賢治の姿の一部であります。


宮沢賢治はここに書かれているように、昭和八(1933)年九月二十一日に亡くなっています。
賢治が生まれたのは明治二十九(1896)年八月。

亡くなったのは実に三十七歳という若さでありました。

その臨終の間際が、ここまでのものであったということに私は強い衝撃を受けました。

私は三十七歳という歳をどう過ごしていただろう。

いやいや、そんなどころか、今、
今であっても、このような生きざまをしてきておらず、死にざまについても、何一つ私は考えてもおらず、
ただただ恥いるばかりです。




No.125

(『雨ニモマケズ』続き)

そうして。
大人になって、母となり、子どもに童話を読むころとなって、再び宮沢賢治と向き合うこととなります。

『注文の多い料理店』
『どんぐりと山猫』
『やまなし』
『雪わたり』
『よだかの星』
『なめとこ山の熊』
   ・
   ・
   ・
…思っていた以上に宮沢賢治の作品を読んでいたことを知ります。

でも、宮沢賢治の作品には独特の言葉が出てきて、それがまたあまり好きではないことを再認識したり。
なかなか宮沢賢治の理解には繋がりません。

例えば
「どっどど どどうど どどうと どどう」
など、新米の親として、子どもに読み聞かせるとなるとなかなか、自分で理解できないものを子どもに伝えることに抵抗があったり。

でも、子どもたちって柔軟な頭で、素直な心で、それを楽しいととらえるんですけれど、ね。

NHKの子供番組でもこの『どっどど
どどうど』は取り上げられていましたし。


そんな私が宮沢賢治のことを深く知りたいと思う時がきたのは、この珍道中を始めてからのことでありました。


この『雨ニモマケズ』に続くかのように書かれたものが存在していたことを知ったのもその一因でありました。

それは
『…サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩』

と綴られているといいます。

このうちの【南無妙法蓮華経】の文字は【雨ニモマケズ手帳】と呼ばれる手帳のページの中央にひときわ大きく書かれているのだといいます。

【法華経】は、正しくは『妙法蓮華経』といい、【南無】は『帰依します』と意味であるといいます。


『…サウイフモノニ
ワタシハナリタイ』

この【雨ニモマケズ手帳】は賢治没後、最初の全集発行の際、遺稿整理中に発見された貴重な資料であり、この手帳の中に代表作の『雨ニモマケズ』が収録されています。

実はこの『雨ニモマケズ』は病床での悲願自戒の記録だったというのです。



No.124

(『雨ニモマケズ』続き)

宮沢賢治の【雨ニモマケズ】は、カタカナで書かれています。
それがまた幼児であった頃、不思議でなりませんでした。
絵本や童話はひらがなで書かれており、よほどのこと、…たとえば外国の人や物、土地の名前以外はあまりカタカナを使うことはないからです。
幼児ではカタカナがやっと読める程度。

そして、小学校に上がってもなかなかこの『雨ニモマケズ』の全文を読める日は来ませんでした。
小学校では習わない漢字が含まれており、今のようにスマホやタブレットでロングタップして調べる、ような簡単な調べ方はありませんでした。
それなので漢和辞典の使い方を習う高学年(…中学年だったでしょうか?)まで、読めない漢字もありました。

そうしてようやくこの『雨ニモマケズ』の全文を読むことができるようにはなりましたが。
それはちょうど生意気盛りの頃。


『…(前略)
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
…(後略)』


などとあると、
まだこれから未来に向かって、こうした大人になりたい、などと大志をいだく頃でもあり、なんだか情けないような気がしてしまうのでありました。

そもそも、この全文が読めるようになったところで、小学生にはまだまだ難解な点が多く、
またまたいつものように周りにいる大人たちにあれこれと聞いて手を煩わせたものです。

私「ねぇ『ケンクヮヤソショウガアレバ』ってなに?」
「それは喧嘩やそしょうがあればって読むんだよ」
私「そしょうって何?」
「訴訟っていうのは相手を訴えて裁判したりして争うことだよ」
私「相手がわるいことをしたってこと?」
「そう」
私「じゃあ、つまらないからやめろっておかしいじゃない。相手が悪いことをしたならちゃんと謝らなければでしょ?」
「…そうだねぇ」

ああ、なんとめんどくさい子供であったことでしょう。

そんなこんなから、私は長いことこの『雨ニモマケズ』に対して好感を持つことができず、ひいては宮沢賢治に対しても好感を持てずにいました。

小中学生の頃の同級生が、この『雨ニモマケズ』をやたらとパロディにしたのもまた、好感を持てなくなった一因であったのも事実ですが。

No.123

かつて宮沢賢治の【雨ニモマケズ】について触れ、長々とレスをしたことがあります。
ある、という記憶だけで、正直どんな内容を書いたものか、まるで覚えてはおりません。

見直そうにも挫折するほどに長くこの珍道中録を綴ってまいりましたため、どこにそれが記されているか、探すのも苦になるほどの量となっておりました。
ただただぐだぐだと書かれたものが、ミクルさんの片隅とはいえ、それほどの量となっており、何か申し訳ない思いがいたします次第です。


と、ぐだぐだと書いておりますが、要は【雨ニモマケズ】について、以前書いた内容も確認せず今一度綴ろうとしているということのほかならないのですが…。


正直、宮沢賢治の作品全てを知るほど読んだ人間では決してありません。
ファンの方におかれましては不快な思いを抱かれる表現もするかと思うのですが…。
宮沢賢治を知れば知るほど、彼はなによりも仏の教えを学び、それをできれば自らも伝えられる存在であれたならと思い生きていたのかも知れないと思えるのです。

私が宮沢賢治の作品を初めて知ったのはこの【雨ニモマケズ】です。
ええ、【注文の多い料理店】でもなく【よだかの星】でもなく。

といいますのも、この全文の書かれた飾りものがまさにちょうど私の目の高さに飾られていたから、なのです。
それは昭和の家ではよくみられた、サイドボードに思い出のお土産物を飾る習慣によるもので、どこの家も所狭しと日本全国、あるいは外国のお土産物や名産品を飾ってあるのが常でした。

私の実家はそんなサイドボードなどという洒落た家具などはありませんでしたので、それを真似て本棚の一部をサイドボード風にして飾っていました。

本棚と言っても、昔はガラス戸のついたものがあり、実家はまさにそうした本箱であったので、そのガラス戸の中、赤べこや木彫りのクマに〝マケズ〟目立つ位置にかざられていたのがこの【雨ニモマケズ】の飾りものでありました。

それは黒く塗られた二つ折りにできるよう蝶番がつけられた木の板に、金色の文字で書かれたものでありました。
字も読めぬうちから、毎日のように見ていたその文章をいつか自分で読むんだと思って過ごしていたのを覚えております。

No.122

周利槃特はこうして箒一本でひたすら掃除をする事で【阿羅漢(アラカン)】の境地に到達したのです。
【阿羅漢】とは、修行を行い、心の汚れや曇りを落とし、悟りを得ることです。

そんなある日、お釈迦さまは大勢の人々を前にして、
「悟りを開くということは、なにもたくさん覚えることでは決してない。たとえわずかなことでも、徹底して行い続けることが大切なのだ」
と話されました。

周利槃特はひとつの物事だけに取組み、それを一度も欠かさず行ったことで悟りを得たのです。



ところで、周梨槃特は自分の名前も忘れてしまうほど物覚えが悪かったといいます。
そのため自分の名前を書いた板を持って歩いていたくらいだといいます。
自分の名前は何?
『名』『何』
それに草かんむりをつけて『茗荷(ミョウガ)』
「茗荷」はそんな周利槃特の墓から生えてきたといわれています。

そこから茗荷を食べると物忘れをしやすくなってしまうと言われるようにもなりました。

もちろん実際には茗荷にそのような効果はありません。



周梨槃特のお話は有名ですので、初めて知ったお話ではありませんでしたが、いつ聞いても、私のような愚かな人間にも大きな希望と勇気を与えてくれます。

…まぁ、そんな周梨槃特の話も忘れて過ごしているということでもありますが。


あれ?
もしかして私、周梨槃特の生まれ変わりだったりするのかしら。

しかしながら私、周梨槃特のように阿羅漢の境地に至ることはなく、みんなにデクノボーと呼ばれ、褒められもせず、鼻つまみ者のままこの世を去ることとなりましょう。

周梨槃特のように名を残すこともなく、茗荷のような食べ物を後の世に残すこともなく。

せめて苦にされないような存在でありたい、そう願うばかりです。

あら?
これまさに負の感情ですね。
うーん。

苦にされない存在。
それはやはり宮沢賢治の『雨ニモマケズ』のように生きること、でしょうか。

東へ西へ南へ北へと、日々困っておられるひとのために生きること。

それを覚えていて実行できれば…もはやそれは悟りを得ているのでは?


うーん。
…とりあえず家のお掃除、がんばりましょうか。




前レスを訂正したため、次のレスも再掲載といたしました。
申し訳ありません。
ついでにこちらは加筆もしておりますことを添えさせていただきます。

No.121

(誤字脱字がひどいので同じものを訂正して再レスします。すみません)

今日お参りしたお寺さんに貼られていたお話です。


【周梨槃特(しゅりはんどく)の悟り】

これはお釈迦さまの弟子となり、掃除一筋で悟りを開いた僧のお話です。

「ほんとにお前は何にも出来ないな。修行なんてやめちまえよ。このクズ!」
周梨槃特は物覚えが悪く、朝聞いたことは夜には忘れ、お釈迦さまのお話も全く覚えられません。
いつもみんなに小馬鹿にされ、耐えきれず門の外で泣いていました。

「なぜお前はそんなに悲しんでいるのだ」
お釈迦さまはそっと声をかけました。
「私はもう僧を辞めたいです。どうしてこんなにも愚かに生まれて来たのでしょう」
周梨は泣きながら一部始終を話しました。

「お前は自分の愚かさをよく知っている。世の中には自身の愚かさを自覚しない者が多い。
自分の愚かさを知ることはとても大切な事なのだ。
お前は毎日掃除を頑張っているね」
「はい、お釈迦さま。私は掃除をすることが大好きなんです」
「ならばお前にこの一本の箒(ほうき)を与えよう。『ほこりを払い、垢を除かん』と唱え、毎日一生懸命掃除に取り組むが良い」

周梨は来る日も来る日も掃除を続けました。雨の日も雪の日も『ほこりを払い、垢を除かん』と唱えながら。何年、何十年という長い長い時が過ぎました。
そんな中で、何かが目に見えて変わり始めました。
周梨の身の回りや立ち振る舞いが美しくなり、そして、どんな時でも地道にやり遂げる周梨の姿が今までさんざん小馬鹿にして来た仲間たちの心を変えたのです。
「お前は凄いな」皆が一目置き、心から尊敬する様になったのです。
そしてついに周梨は箒一本で、「悟り」の境地に辿り着き、ほこりや垢とは自らの心にある偏見や執着であったと気がついたのです。

周梨ははじめ自分は愚かで何も出来ないと決めつけた負の感情に心が支配され、上手にコントロールすることが出来なくなっていました。

お釈迦さまはそんな周梨を見て【ただ一心になること】を促し、周梨は【今の自分にできること、何をなすべきか】と気がつき、積極的な姿勢に変わることが出来たのです。


迷い多きこの世の中で、不安になることはたくさんあります。
ただ漠然とこの不安に怯えるのではなく、出来ることを一心になって取り組むことで一筋の光明が見えてくることでしょう。

No.118

タイの寺院で覚醒剤を使用して暴れ回っていた男に仏像が刺さり死んでしまったという信じられないニュースが入ってきているようです。

それを聞いて何を思うかは人それぞれではありますが、なんとも凄いニュースであります。


ちなみに。

私は仏罰とはとらえてはいません。
御仏は、この危険な行為を止めようと、…周りの人たちを護ろうとはしておられたとは思います。

ただ、決して御仏は人の命を奪うようなことはなさらないと思っております。

なぜならば御仏は命を大切にと教え、守ってくださる存在と考えるからです。

仏像は御仏そのものでは無いと思っております。
もちろん依代とされることもありましょうが、基本、もっと上のところで見守っておられる存在なのだと思っております。

それならば何故と問われれば、その男の命はすでに尽きていたのだと思うます。
そこで終わる命であったのだと。


そうして…。
こうした人の命であろうと向かうべき道に導くのだと思っております。


まぁ、仏教徒ではないおばさんの独り言であります。




No.117

【がたぴし】

たてつけが悪くてガタガタ音がする様子を言いますが、実は語源ではなく【我他彼此】と書くのだといいます。
【我他】は自分と他人、
【彼此】はあれとこれの意味となるといいます。

仏教ではすべての物事には原因があり、縁によって関係し調和していると考えます。
それが崩れると争いごとや対立が起きる。
その状態を仏教では我他彼此と言うのだといいます。


葬儀の納棺の際、靴を脱いで和室に入りました。
靴箱とかないため、似たような黒い靴ばかりが並びます。
一瞬、(間違えられないといいな)と思いました。
子供の靴のように名前が書けるようなものでもなく、それどころかオール黒。
私はこの日初めておろした靴でした。
ざっと見やるに同じメーカーの靴はなく、これならば間違えられることもないだろうと少し奥まったところに置きました。

納棺が終え出棺。
(靴がない!…嘘でしょ?)

見れば私の靴を履いた人が目の前に。
「あの、それ私の靴です」
よかった。
勘違いは誰にもあるし、すぐに気づいて交換できる、…そう思ったのも束の間、
「えっ?これ私のだけど?」

えっ。
…残っているのはだいぶ傷んだ同型の靴。
たしかにヒールの高さも大きさもほぼ同じではあるのですが、明らかに間違いようがないはず、なのですが。
それでも脱いでさえもらえれば、メーカーの違いでわかってもらえる。

…そう思ったのに。

「これ、私の靴よ」
いやいや、履いた感触とかの違い、わからないかなぁ、新品のクッション性と、履き込んだ自分の足にあった靴の違い、わかるはずでしょ?

なおも言い張るその方に、メーカーやサイズ等見せて
「これはサイズからも私の靴です」
と説き伏せてその靴を私が履いたのです。

…納得しない。 
残った靴を履いて、なおも
「履いた感じが自分の靴じゃない」と言い張る。
もうこうなったら聞かない、聞こえないふりをするしかない。

そこへ夫。
「ねぇ、この靴、朝箱から出してくれたじゃない、このメーカーの靴だったでしょ?」
「そんなの覚えてないよ」


…味方はいないんかい。

相手方の旦那さんは、
「靴は大丈夫?」と奥さんに聞き、
「私のじゃない気がする」
となおも言い続けている。

メーカーまで違うのに?

明日会うの嫌で眠れない。

自分の靴を自分のものだと主張して、泥棒扱いされている気分です。

No.116

(続き)

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


記憶をたどってみると、私はもっと枕経の席に参列させていただいていた記憶があるのです。
しかしながら親族としての葬儀など五本の指にも余るほどで、親しくさせていただいていた方といっても枕経にとお呼びいただいた記憶はありません。

何故だろう。

…思い出しました。
お通夜の席で枕経も兼ねて執り行われることも増えているようです。

そして、前レスでも申し上げましたように宗派によって枕経でお唱えするお経はそれぞれ異なるようですが、と同時にその儀式の執り行い方も異なっているようです。


記憶の中、通夜の儀式の冒頭に剃髪の動作をして、故人様が三宝に帰依できるようにするとおっしゃっておられたご住職さまがおられます。
宗派は思い出せませんが、これを拝見して、その昔平安や鎌倉時代の書物を読んだ折に書かれていた臨終のシーンを思い出し、たいそう感動いたしました。
これこそが枕経の形であろうと思うので。

そしてまた、やはりお通夜の冒頭に、仏さまをお招きする儀を執り行う宗派もありました。


なるほど。
たしかに大切な儀式の一つである枕経を略していいとはお考えにはなりませんよね。
こうして形を変えて、枕経はお唱えいただけていたようです。

…なにせ私、ビビりなものですから 笑。


義母の葬儀告別式まで日時に間があったものですから、義母の家のそばを歩くことがありました。

大変良い香りが漂っているお宅のお庭があり、見上げると木蓮の花がもうすでに咲いていました。
お彼岸前だというのに、もう木蓮が咲く…。

それでも、花の好きだった義母の亡くなったときにこの香りを嗅がせていただき、正直とてもありがたく思いました。
春の訪れを肌で、そして香りで、目で感じながら、義母を送ることができます。

No.115

【枕経】

枕経とは、亡くなられた方の枕元で唱えるお経のことを指します。

亡くなられた方を仏さまのお弟子として迎え入れてもらうためのお経とされており、そのためかつては、ご臨終の間際に読んでいただくものでしたが、今は亡くなられた後へと変化しています。

かつては自宅で亡くなられるケースが多かったため、危篤の際に菩提寺へ連絡し、ご臨終の前に読んでもらえておりました。
しかし近年は病院で亡くなることが増え、ご遺体を搬送し安置した後に枕経をあげることがほとんどとなっています。

またどうしてもお経というと、亡くなられた方に向けてのものととらえる方が圧倒的に多く、縁起が悪いと思われることも一因であったかもしれません。

枕経は、「必ず実施しなければならない」というものではないといい、近年は枕経を省略する家も増えてきているといいます。

その一因に、このコロナ禍において、ご遺体の安置所で面会時間を制限されていたところ、面会自体が禁止されているところがあったことが挙げられるとされます。

また核家族化が進み、菩提寺を持たない世帯が増えていることもあります。
小規模なご葬儀の形態が増えている背景も関係しているといわれています。

枕経自体を知らない方も増えていることもそこにあるかと思われます。
本来枕経は依頼してお越しいただくものでありますので。


しかしながら、本来、枕経は亡くなられた方が極楽浄土へたどり着けるように祈る大切な儀式であります。
ご冥福を祈るためにも、なるべく実施してあげるのが供養となる、とはされているのですが…。



ところで。

枕経、枕経と一言で申しておりましたが、実は宗派によってはその呼び方自体が異なる場合があるようです。

臨済宗では『枕経諷経』と呼ぶといい、曹洞宗では『臨終諷経』と呼ぶのだといいます。

また宗派によりお唱えするものもさまざまなようです。

今年の涅槃会は曹洞宗のお寺さんに参列させていただきましたが、その際お唱えになっていた『遺教経』を葬儀でもお唱えになるとおっしゃっていました。
枕経、『臨終諷経』でも『遺教経』または『舎利礼文』を読誦するとされたものがあり、同じ宗派であってもお寺のご住職さまのお考えで変わることもあるようです。


No.114

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


「ねぇ?枕経には来てくださったの?」
「何それ?」と夫。

枕経はもちろん葬儀社ではなくお寺さんが御遺体の安置された場所でお唱えになるもの。

それはこの家に嫁いで、義祖母さんの亡くなったときに初めて知った(初めて認識した)ものでありました。
そんなに長いものではありませんでしたが、早い段階からこうして僧侶が関わってくださるということに、私はたいそう感動し、心癒されたものでありました。


実母の亡くなった時には、「枕経は断ったから来ないよ」と喪主に言われて、その無謀さに恐れ慄いたものです。
…断ったって、独断で。

まぁ、喪主のすることにケチはつけられませんので、「ああそうなんだ」とそれ以上の言葉はのみましたが、私はそれを畏れととらえ、亡き母には詫びたものでありました。

まぁ、母は基本無宗教で、ただ単にこのお寺さんは自分の実家の菩提寺であったから、という単純な理由でこちらを菩提寺と定め、墓所を購入していただけのことで、のちに知ることに、特段年会費等も納めていなかった、その時はまだごくごく薄い関係であったようなのですが…。

でも最初に魂となられた御霊に、大丈夫だよと、お坊さんが道を示してくださるこの儀式を私はたいそうありがたく思っていたものでありますから、私としては結構ショックでありました。


まぁ、ご自宅に安置されて然るべきときに、なようですので、あるいはこれから、納棺前にお越しになられるかもしれませんが。
まず、遺族側が若く(は決してないけれど)そうしたものを知らないと、お寺さんももはや依頼でもなければ枕経に訪れることはないのかもしれません。

私のように煩悩の塊は、きっとその時が来たとき、おろおろと迷っているに違いありません。

私は枕経をして欲しいな。


あれ?
そもそも私まだ仏教徒ともなっていなかったわ。

No.113

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


「神棚封じが明日ってどういうこと?」

「ああ、セロテープありますかって言われたんだけど、一緒に住んでないとわからないこともあるじゃない?探したんだけど見つからなかったんで、そしたら「じゃ明日持ってきます」ってことで」
と夫。

「ええっ?そんなの葬儀社として必要物品で、それこそ大事な一つを忘れてきてるってことなのに」
「まぁ、明日10時に来てしてくれるって言うんだから」

…この時まだ五時台、祖母の住んでいた自宅と車で五分とかからない場所にある葬儀社です。
なんて誠意がない!
というか、いろいろトータルして常識がない。教育がなっていない。
…と瞬間湯沸かし器の次男の嫁、たいそう立腹しておりましたが、ここはそういう場ではないとすぐに反省いたしました。

その神棚封じの時にはまだ私は義母の家にいなかったのですが、時を変え違う方がお見えになった時も、「こんにちは。〇〇ですが、ドライアイスを替えに来ました」


…なんかもう葬儀社の方とは見ないほうがよさそうです。
義父の時にはこんなじゃなかったんですけれど、ね。

なんでもこの葬儀社さん、義祖父さんのお友だちの家だとかで、ずっとこちらさんなのですが、正直、ダメだこりゃ。

もっともっと若いスタッフさんであっても、言葉遣いから立ち居振る舞いまで、それはそれは丁寧にそれでいて親身に心に寄り添おうという姿勢の葬儀社さんはいくつもあります。
むしろそれが当然です。(だと思うのです)


義祖父さんのお友だちの先代(先先代?)はさぞかしお嘆きのことでしょう。


No.112

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください


この神棚封じ、昔ご近所の方々がお手伝いくださっていた時代には、その知らせを聞いて真っ先に行なった行為の一つとして聞いております。

神棚封じの方法そのものはシンプルで簡単なもの。

まず、神棚の神さまに対して挨拶をし、家族の誰が亡くなったかを報告し、報告が済んだら、神棚に供えてある米や酒などのお供え物や、榊などをすべて下げ、そして神棚の扉を完全にしめ、正面を隠すように白い半紙を貼り付ける、といったものです。
こうして書くとなんだかいろいろ手間がかかっているように感じるかと思われますが、ものの数分もあればできてしまう簡単なことです。

ただ。
神棚封じを行う人は穢れと関係が深い家族ではなく、他人が行うのがいいとされています。

そのため、昔はご近所の方が、今葬儀社に頼むような場合であれば、葬儀社の方が行うこととなっています。

そうなんです。
その『神棚封じ』がなされていない状態で、葬儀の打ち合わせを始めていたのです。

その、神棚に向ける私の視線に気づいたもう一人の葬儀社の方は顔を伏せました。
ああ、ちょっと困ったことではあったけれど、まぁこれで神棚封じをしていただける。

ペラペラと話を続ける品のない営業マンの方の話が終わるまで、もう一人の葬儀社の方と私は思いを共にして待ちました。
…思いを共にしていたと思っていたのは私だけでした。

話が終わったあと、
「神棚の方は明日10時にきた時必ずいたしますので」


は、はあぁ?

あ、明日ぅ?

な、なんでです?
コロナ禍でそんなことまで変わってきたというの?
そんなの困ります、その家その家の希望に沿っていただきたいです。
…と、喪主の妻でもない私は心の中で叫んでいました。


「夜寝る時や出かける時は必ず火は消して、線香も折って火を消して下さいね。今は夜通し火を絶やさないなんてことありませんから」

品のない人間が去る手本のように、どすどすと遺体の枕元から横を通って歩き、遺体に手を合わせることもなく、遺族にお辞儀すらせず去っていくペラペラおじさん。
へいこらへいこらお辞儀をして後から退座した(退散した)もう一人のおじさん。


な、なにぃ?!








No.111

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


神棚封じをご存じない方もおられることかと思います。
わが家もそうですが、神棚のないお宅もだいぶ増えているのが、現代の家庭ではないでしょうか。

私の育った家庭には神棚はありませんでしたが、両祖父母の家には神棚がありました。
私は子どものころからこの神棚というのが大好きで、祖父母の家に行っては、…まぁ、それは子どもですから、真っ先にということでは当然ありませんが、よく神棚を見上げては
(いいな♡素敵だなぁ♡)と思ってしばし見上げている、そんな子どもでありました。

榊を変える日であれば、
「どうして木の葉っぱを神さまに上げるの?」
と納得がいくまで聞く。
納得のいく答えをくれる大人がいなかったため、それはそれは何度も聞いたものです。

神社も好きでした。
母方の祖母の家は近くに神社さんがあり、外に遊びに出ることがあると決まってそこに行っていたような、…そんな記憶があるくらいです。

無宗教の両親は神社さんに連れていくようなことはありませんでしたが、手を握って連れて行くような、そんな幼少の時分には祖父や叔父がよくお縁日の神社さんに連れて行ってくれました。
でもそうした人混みの神社さんより、好きなだけお社を見て過ごせる、普段の日の神社さんの方が好きではありました。
まぁ、そもそもお縁日の神社さんでは小さな子どもにはお社すら見えず、そんなことよりたくさんの露天商の屋台であれこれ買ってもらえることの喜びやら嬉しさやらが優っていたのは当然のことですが、ね。


閑話休題。

『神棚封じ』とは、家族に不幸があった際に、家の中の神棚を封じること。

白い半紙を張り付け、忌中の間はお供えや参拝を避けます。
日本古来の宗教である神道では、仏教とは異なり『死』を穢れ(けがれ)ととらえます。

神棚封じは、『死』という穢れを神さまに近づけさせないために行うものです。
神道においては、神さまは穢れを嫌うため、近づけてはいけないという考え方があるためです。

家族が亡くなった時から『忌中』となるので、この間、神社への参拝を控える必要があるとされているということはご存じの方がほとんどかと思います。

同様に自宅の中の神社である神棚を穢れから遠ざけるために、神棚封じを行うのです。



No.110

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。

                

ほんの数日前、義母が亡くなりました。

このコロナ禍、義母の入院先はいまだに、『面会は週二回、一回の面会で会えるのは二人。一回10分』と決められ、面会時には10分とセットされたタイマーを持たされ、回数もそれをきちんと病院が記録してあり、
「今週はもう二回となっています」
と、家族間が密に連絡を取っていないとはねのけられてしまうくらいの徹底ぶりでありましたので、下っ端の私などは面会することもなく、亡くなるその日すらその面会体制でありましたので、私は亡くなってからようやく半年ぶりに義母の顔を見ることとなりました。

葬儀社が祖母の住んでいた家へと着き、義母の遺体が綺麗に安置されてまもなく、私はそこに到着いたしました。

葬儀社の社員はお悔やみを述べることもなく、皆の方を向くといきなり、
「で、お通夜はされますか?」

は?

「今はお通夜をしないお葬式がかなり増えているんですよ」

えっ、そ、そう?

直葬という形もあることは知っております。
一日葬というのもたしかに聞いたことはありました。

か、…増えているという感覚はまだ私の中にはありませんでした。
今までそうした葬儀をお一人、一件しか知りませんでしたし。

そもそもがコロナ禍以降家族葬が圧倒的に増えていましたので、そのせいもありましょう。


…でもですよ。
いきなりこのような聞き方はどうかと思います。

今、身内を失って病院から帰ってまもない遺族にいきなりこの発言、その神経を疑うばかりです。

発言もさることながら、口調もまさにそのまま。
今後のスケジュールを早く決めたい、という姿勢が丸出しです。

何かの販売員だってもっと丁寧です。

私は軽い苛立ちをおぼえ、気持ちを落ち着かせようと部屋を見まわすべく、あたりを見渡すともなく目を走らせると、仏壇、そして神棚へと自然に目が行きました。

仏壇の戸は閉じられていたのですが、こうした状況下必ずされているはずの神棚の前に半紙を貼る『神棚封じ』がなされていないのです。

は?

これ葬儀社のみならず、御遺体が安置された部屋に神棚があったら一番にするべきことなはず。
なに?忘れてる?
だとしたらプロ意識が無さすぎです。


No.109

※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。


                
人にもよるのでしょうが、私は親戚付き合いかほとんどありません。
親の代からそうであると、下の代はさらにそうなっていくことが多いのかもしれません。
また、昔のようにご兄弟か多いことも減ってきていると、親戚自体が数としても減ってくるのは自然なことでありましょう。

そんな私は、人が亡くなられて後の事をあまり多く知りません。

昔のように隣組が大きく関わってのお葬式自体も激減したこともありましょう。
近所のおばあさんにあれこれ教えていただきながら、その慣習を学ぶ機会も失ってまいりました。

またご近所さんが関わってのお葬式が葬儀社に依頼してのものとなってきたこともあり、葬儀社さんの関わりは大きくなっております。

とはいえ、前回誰かが亡くなった時はこうだった、…などという記憶は残っているもの。

それが違和感となることもあります。


今回はそんな話を書いてまいります。

ある時期、葬儀社、それも葬儀場を備え持つような葬儀社が増えたなぁと感じる時代がありました。

それまでは自宅葬がほとんどでしたでしょうか。
お寺さんで式を執り行うこともあるようですが。
斎場も葬儀告別式を執り行えるものであることもあります。

そんな建物を目にするようになって何年かすると、住宅事情もありましょう、そうした式場を使っての葬儀告別式が増えていき、そうした葬儀の形を見るにつけ、隣組という組織での式の、ご近所への負担を考えたとき、「うちも葬儀社に頼もう」という方が増えていき、今では私の住まう地域においてはそうしたご葬儀がほとんどとなっております。

それどころか自分は知らなかったのですが、どうやらお葬式の形態もだいぶ変わってきていたようでした。


No.108

お線香をあげた途端にピタッと音がおさまった怖さといったらありませんが、一応ご報告させていただきます。

お騒がせして申し訳ありませんでした。

なにせビビりなおばさんなもので、家に一人で怖かったんです。

No.107

あのぉ〜。

今日こちら無風なんですが、今やたらと玄関の戸がカシャカシャいってまして。
しかも取っ手が。

私は何をしたらよいでしょうねぇ。

とりあえず、お線香とお灯明をあげ読経したいと思います。

No.106

(続き)

上野東照宮さんの社殿を拝観させていただく進路は決まっており(拝観料を納めますので、そういった意味でもそのように定められましょうが)、拝殿正面となる唐門は閉ざされておりますので当然ながらそこからではなく、本殿の横から拝することとなります。


神さまが御鎮座されておられる本殿は、通常拝殿よりも豪華に、…たとえば格の高い彫刻を施したり、より細かな彫刻を配したりされています。

道が狭いんじゃないかなどと、ぶうぶう心でつぶやきながら歩いてきた煩悩おばさん、一目その本殿を見て、言葉を失います。
…まぁ、ここのスレ主は元々言語能力のいたって乏しい人物ではありますが。

それにしても…。


金。

金。

〝かね〟ではなく〝きん〟、金色=こんじき、であります。

いやぁ…金色だあぁ。


修復を終えて十年ほど…でしょうか、その神々しいまでの金色は少しも衰えてはいませんでした。

…煩悩のかたまりではありますが、実はこのおばさん、貴金属には一切興味を示さない、特殊にしてある意味お得な女人でありますので、他の方々より金(きん)を見慣れていないという特異性はありましょうが、それにしても突然現れた異空間に立ち尽くすことしばし。
(まぁ、金をあえて括弧して〝きん〟としなくともお金もそんなに見慣れていない、根っからの貧乏人ではありますが。)


いやぁ、金。


なので本当のことを言えば、内側の透塀の彫刻よりも先にそちらに目を、心を奪われていたのが第一であったのでありますが。

金の貨幣価値はわからなくとも、ここ、外気に晒される外にありながら、こんなふんだんに惜しげもなく金箔を、と驚き。

さらにはあの薄い薄い金箔をこれだけ貼り付けるとは、なんと気の遠くなる作業であったろうと、感嘆したのでありました。


No.105

(続き)

しかしながら、この元の色を失った上野東照宮の透塀の欄間の彫刻の修復。
元の色を探るべく、いろいろな調査や研究が行われいろいろわかったこともあったようです。

たとえばその彫刻の配置なども、特 に上部にある欄間は 東 西 南 北と四季が呼応して配置されていることが考察されたといいます。

たとえば。

東には『山桜にウソ』『梅に鶯』『柳にツバメ』などの欄間があり、春を表しているようだといいます。
南は夏。『茄子に蝶 』『ホタルブクロにカマキリ』『紫陽花に小鳥』などから描かれているといいます。
西には『栗に猿』『葡萄にリス』『紅葉に鹿』で秋を。
北には『榴にツグミ』などなど冬を表す彫刻だといいます。

透塀下部にある欄間は波や水鳥、貝など、水辺を表現したものが主です が 、失われているものが多く、今回の調査や考察では配置にどんな意味合いがあるのか不明な点が多いまま
であったといいます。
鴨、驚、ヨシキリ、カイツプリ、セ キレイ、かもめや千鳥などが表現されています。
彫刻されている植物や生き物、その組み合わせやそれ自体に、なんらかの意図が表現されているのか、現在も考察中だといいます。


また、創立以来幾度となく修復作業がおこなわれた痕跡も確認するこ とができたといいます。

たとえば。
高欄の漆の層からは八回分にも及ぶ漆修復工程をつぶさに見ることが出来たといいます。
これは過去から現在にしっかりと技術や意匠が伝承されている証だといいます。


こうした調査や考察をし、さまざまな方面と連携して割り出され、再び彩られた彫刻たち。


そう思うともう少し時間をかけて見れば良かったと思うのですが…。

あのときは金色に輝く社殿に目を奪われてしまったおばさんでありました。

No.104

(上野東照宮さんの続き)

この透塀の格子は菱格子と呼ばれるもので、文字通り菱形の格子となっています。
この菱形の格子の上下に欄間影刻が あって、上の段には野山の動植物、下の段には海川の水の生き物が283枚飾られていると書きましたが、実は一部現存していない箇所もあるのだといいます。
これは驚くべきことに戦後進駐軍の兵士が興味本位で持ち去った跡なのだといいます。
…驚くことでもないでしょうかね。
戦争、ましてや敗戦国というのはそんな扱いを受けて当たり前のようなもののようです。

多くの人命、そして多くのものを人的な被害において失う戦争は決して起きてはならないし、一刻も早く終息しなければならないのです。


この透かし塀、今回の2009〜2013年の修復まで、今のような極彩色ではなかったといいます。
塗られていたものを剥離させれば元の色が出てくるであろうと剥離させたものの、前回の修理で元あった塗料を剥離して弁柄色になってしまっていたのだといいます。

前回の修復…。
実に昭和の時代でありました。

…何故…。

何故かを知る人は昭和の、それこそ私が生まれる前に、この修復に携わるようなお年の方で。
終戦の物のなかった時代から、勢いづいた頃のことであったようです。

おそらくその当時の上野東照宮の透塀は塗装もほとんど剥げ落ち、あまつは盗難に遭い、今のものとはまるで別物のような見た目であったことでありましょう。

そこで見た目だけでも綺麗にして、これ以上彫刻の彫りまでが傷むことがないように、後世に受け継ごうとしたのかと思われます。

…しかたなかったのかと思われます。
人々の想いなどは一切打ち捨てられ戦争に全てを注がれた時代があって、…ようやく修復にまでこぎつけたことであったでしょう。

むしろその早い段階で修復に取り掛かれる社であったことがこうした悲劇を生んでしまったのかもしれません。

そのため前回下処理をされたものまで剥がして、まっさらな所から、元あった色をいかに再現していくか、そこから始まった修復であったようです。


これは…。
この修復に関わられた方々のご苦労は想像を絶するものでありましたでしょう。

No.103

(上野東照宮さんの続き)

社殿をぐるりと囲む塀。
『透塀(すきべい)』と呼ばれ、歴代将軍や諸大名らの参拝時に外側から警備できるようにと、内側が透けて見えるようになっているのだといいます。
もちろんガラス張りなわけではなく、そうした役目を果たすぐらいの格子が施されているというものです。

なるほど。塀を通して御神木が見えます。


この透塀、上段には野山の植物や動物が彫られ、下段には海川の水の生き物が彫られています。

上段には圧倒的に小鳥が多く彫られていましたが、昆虫や猪、鹿などの動物もあり、下段には海鳥や魚貝類、鯰や蛙などが彫られていました。
場所場所に、何の生き物が彫られているかわかるようにと小さな貼り紙がされていました。

じつに数多くの種類の動植物が彫られていて、身近によく見掛ける雀や燕、蝶や紅葉などもあり、その一つ一つを確認して楽しんでおられる方々もおられたくらいです。

この彫りはなかなかリアルなもので、極彩色の塗りも美しくたしかにそういった楽しみ方もありかもしれません。

それもそのはず、これらの彫刻は、狩野派の絵師、狩野探幽の指揮のもとに作られたといいます。

スズメやカエルなどといった江戸の庶民にとって身近な生き物が彫られており、なかでも珍しいのがカマキリの彫刻なのだといいます。
カマキリの彫刻があるのはこちらと京都の石清水八幡宮だけなのだとか。
まぁ、私はそこまで詳しくは見て歩きはしなかったのですが。


造営当時からこの透塀は美しい極彩色で彩られていたのですが、一時は弁柄色一色になっていたといい、その後の修復で再び極彩色へと蘇らせたといいます。
その際、数の多い小鳥類は元の色味が不明だったため、上野動物園の協力のもと実物を確認して色付けすることもあったのだそうです。


私が気に入ったのは唐門内側のもの。
リアルにていねいに彫られた鳥の親子は、まるで境内の地面を歩いているかのように感じられるほどでありました。

No.102


十三年前に思いを馳せたとき、抑えられないほどの思いに駆られ、自転車に飛び乗った。

あの日、あの時刻。
私は遅い遅いお昼ごはんを食べていた。
そんなことを思い出しながら。


向かったのはお寺さん。
鐘を撞くことも、御本堂に入らせていただくこともできるお寺さんだ。

あの日。

長女は私を心配して自転車で迎えに来てくれ、後で知ったのだが、その後、橋を渡って、一人暮らしの祖母の元へと向かってくれていた。
義母から聞くまでそれを知らなかった。


そんなことをあれこれ思い出して。


あの時刻を迎えた。


鐘楼の周りにはどなたもおられない。
鐘を一撞きしてから黙祷をした。


…偽善かもしれない。

かつて仕事中に黙祷をしていた私にそう言った人がいた。
手を休めて困るようなタイミングではなかったし、むしろ朝礼でそのように訓示があったくらいだ。


この日の過ごし方はいろいろあろう。

ただ忘れてはならない。

そして。
私はこれからもずっとこの東日本大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りして過ごす。


これからもずっと…祈りと鎮魂の日である。



No.101

物欲もいい加減にして、シンプルに生きていけたらと思うのに、煩悩おばさんの物欲はなかなか手強くて、しかも新たなる物への欲もすぐに湧くので困ってしまう。

今欲しい物の三本の指に入るのが、この御朱印帳と、こちらの神社さんの御朱印。


救いはこちらの神社さんが、配送サービスなどされていないこと。

鎮まりたまえ〜っ。

No.100

訃報の連続で心がついてかない…。

TARAKOさんは群馬県出身です。

No.99

(上野東照宮さんの続き)

こちらの御神木、大楠は、高さ25 m、幹の太さ8mの大樹で、樹齢は六百年以上とのこと。
上野東照宮の創建以前からあり、上野公園の中で最も古い木だといいます。

優しい、あたたかな気で、心ごと包み込んでくださるような御神木でありました。

静心所なる建物の縁側を思わせるところに座って見上げたら、その名の通りに心は鎮まり、穏やかで静かで、大らかなものとなるであろうと、その御神木のお力を知ってはじめて知りました。

…それが誰よりも必要な〝ガサツ〟な心の持ち主ではあるのですが、なにぶんにもガサツで、煩悩の塊でありますおばさんは、焦らされてようやくあと少しで見られるであろう東照宮社殿へと急ぎ足で向かうのでありました。

のちに知ったのですがこの御神木の幹の根元には野生のタヌキも住んでいるといい、(ああそれならばもっと御神木のそばにいればよかった)と、思った動物好きのおばさんでありました。

タヌキといえば。
大楠の近くにタヌキの神様を祀った『栄誉権現社』が鎮座されていまして。
御狸様と呼ばれ、タヌキは『他抜(他を抜く)』ということで、強運、受験や就職、必勝の神様として信仰されているとのことで、この御狸様の御守や御朱印もありますくらいでありました。

東照宮のことを書きながらこう申し上げるのも心苦しいのではありますが『狸おやじ』と呼ばれることもある家康公でありますが、同社は家康公とゆかりがあるというわけではないとのことでありました。

…ですよね。
東照大権現さまをお祀りしておいて、狸おやじとしても祭ろうとは誰も思いはしませんよね。


ま、それを知るまで勘違いしてビビっていたおばさんなのですが 笑。


いよいよ社殿をぐるりと囲む塀【透塀(すきべい)】(1651年造営、国指定重要文化財)と呼ばれる塀の内へと入ります。

No.98

この日本語もおぼつかないおばさんの書く、神社仏閣を巡る珍道中録のタイトルに、不自然な〝改〟の文字があることにお気づきの方も多いかと思います。

これはかの『ドラゴンボール改』からなものほかなりません。

いったんは書き始めた珍道中録がどうも書きたかったものと異なっており、仕切り直しを図る際に、ふとドラゴンボール改のタイトルが頭をよぎり、(そうだ、これだ!)とばかりに付けさせていただいたのが始めです。



実は私、娘の妊娠が全前置胎盤という、母子共に命の危険と隣り合わせなかたちでありまして、しかも常にお腹に張りがあったため、四ヶ月弱という長きにわたっての入院を余儀なくされることとなりました。
しかも廊下にすら出られないほどの安静度。
売店どころか、面会コーナーにすら行くことができず、病室での子供の面会は許されていない。

上の子がありましたものでもういろいろショックでカーテンを閉めてベソベソと泣いておりました。
…ええ、おばさんにもそんな時代もあったのです。


長い入院、同じ部屋の方は次々と退院され変わっていきます。

そんな中のお一人に、漫画が大好きな方がおられました。
中でもとりわけ鳥山明先生が大好きで、神と崇めるくらいでありました。
「ドラゴンボール読んだことあります?」
「いえ」
「じゃあぜひ読んで!今度主人に持ってきてもらうから」

いやいやご主人にそんなご迷惑をおかけするわけにはと遠慮したものの、その方の鳥山明先生愛は強く
「いいのよ、主人も鳥山明先生が好きでいろんな人に薦めてるの。私も読みたいし」


それがドラゴンボールとの出会いでありました。

その後、わが家の本棚にドラゴンボールが並んだことは言うまでもなく、近年映画化されたサンドランドも発売日に買ったくらい、彼女の布教活動は成功をおさめたものでありました。


仕事を終え帰宅した息子は、テレビを見てそこで初めて知ったようで、声も出せずその場に静かに正座してただただテレビの画面を食い入るようにみつめていました。


ご冥福をお祈りなんてまだまだしたくない、できたらフェイクニュースであって欲しいなどと思っても、病名も亡くなった日も次々と発表されていき、これが現実であることを思い知らされます。


締め切りに追われることのない世界でどうかゆっくりとお休みください。

…追われていたかっただろうな。

No.97

今、あの十三年前の津波で流された松の木々、…奇跡の一本松のそばにあったであろうとされる松の流木を使わせていただいて、拙い木彫りではありますが、手の中におさまるくらいのお不動さまの像を彫らせていただいております。

不器用なので上手くは彫れません。
不器用なので何度回数を重ねても上手くは彫れるようにはなりそうにないけれど。

これをこの仏像を彫る会の会場を提供してくださっているお寺の副住職さまが、今年も東北の地に届けてくださいます。

一体だけではありますが、彫り上がりました。

ご本尊さまの御前にお供えして、お経をお唱えしてから届けてくださるので、早くお寺さんに届けなければなりません。


ちなみに、私のお不動さまのお顔はお笑い芸人さんのアインシュタインの稲田さんに似ています。

No.96

今、NHKのニュースを観ています。

東日本大震災で被災され、家族を亡くされたた方が、能登の方へメッセージを送っておられました。

声を震わせ、手はガクガクと震えて、今だって辛い思いを抱えて、能登の方々に寄り添おうとするお姿に、涙が止まりません。

悲しみを抱え、それでも何かを一つ乗り越えたり、前は向かおうとご自分の心を鼓舞されて歩いてこられた十三年。

そこから絞り出すように伝えてくださったメッセージを私は忘れません。


この方の尊い思いを、いつも心の中に灯して、照らして生きていきたいと思いました。

No.95

(上野東照宮さんの続き)

巫女装束の販売員さんから拝観チケットを購入して。

と、どこへ行けば?

「そこの入り口にチケットをかざして通って下さい」

…入り口って、係員専用通用口みたいなんです。
裏口とかのイメージ?
ここから拝殿に行けると思えないような…。

テレビで拝見したとき、日光東照宮よりも豪華絢爛とも受けとれるくらい、目にも眩しい金色の拝殿だった記憶があるのですが。

なんだか狭い裏庭の通路っぽい雰囲気が…。

と!
いきなり木の香りすらしてきそうな真新しい、大きな濡れ縁、いや小さなステージ、いやいや屋外座禅場を思わせるような、建物が目の前に!

…なんでしょう?

ちなみに拝観チケットを購入してもご由緒書きや案内書などは渡されませんので、この建物がなんなのか戸惑うばかりであります。

「何?」
「ねぇ、わかんないね」
「ここで日向ぼっこでもするのかなぁ?…ベンチがわり?」


おっ、何か説明が書いてあります。

拝観前に御神木と対面して心を清め落ち着かせる『静心所』である。

…ほう。

そう書かれても、何をしたらいいのやら…、さっぱりわからないので先に進むこととします。

進むとすぐに御神木が見えました。
太い太い幹であります。

ああ、もしかしたら。
もしかしたら先ほどの『静心所』の床に座ると、まさにこの御神木を見上げられる設計、建物なのでは?


大楠の木であります。


No.94

(末法思想の世 続き)

※性被害事件について書かれております。


この女性がどれだけの監禁状態にあったかを物語るのが、あの十三年前の『東日本大震災』を知らなかったという事実。

今、こうした席に座って、語るまでには弁護士の手助けがなければ、フラッシュバックして、パニックを起こして語るのすら難しかったとも伝えられています。


僧籍の剥奪、ねぇ。

そんなだけでこの男はこの異常な性を抑えることができるのですかね。


あー胸くそ悪い!!



No.93

(末法思想の世 続き)

※性被害事件について書かれております。


大僧正に紹介された寺の住職は、その後寺に頻回に女性を呼び出し、たびたび性行為を強要していたといいます。

それに対し女性が抵抗すると、住職から、
「坊主に逆らうと地獄に落ちるぞ」
「(自分(住職)の言葉は)お観音さまの言葉だと思え」
などといわれたということです。

女性はその後、住職から毎晩髪をそられ、自分の手伝いなどをする尼僧として住まわされるようになり、大僧正に助けを求めたものの話をきいてもらうことができなかったといいます。

これが十四年。

事の異常さを知った親族が寺から連れ帰り、それでも僧の言葉に怯え続けていたといいます。

ちなみに、この女性2019年に僧侶の行為を強姦(ごうかん)罪などで警察に告訴したが不起訴処分となったといいます。


…私、法律に全く詳しくないのですが、不起訴ってなんですかね。
いやほんとに〝不起訴〟って処分がどういう事なのかすらがわかっていないレベルなので、そもそもがそこからなのですが。

加害者で、被告なわけですよね。

わからん。

ま、学びたくもないし、学ばずに生きてこられたことって、…普通でもありますよね。

そもそもが僧侶という立場の人間は、人に仏の言葉を伝え、道を説く者でありましょう?

それがこうした許されない罪を犯して、なお僧侶として寺を守っているって…ありえない事でしょう?


末法も末法。


この同じ宗派のお坊さま、尊敬してやまない方々がおられます。
そんな思いも込めて極力宗派名は伏せて書いてはおります。

この事件を知ったのは、この事件を起こした僧侶の属する宗派の僧侶のSNSによります。

その方は

「性被害はどのような職種でも、どのような年齢でも、どのような人間関係でも『ありえない』ことではありません」と書き出し、
「だからこそ、まずは『あり得るかもしれない』こととして、被害を訴えておられる方のお話しをしっかりと伺い、真摯に対応する必要があります。
また、性被害は深刻な人権問題であるため、身内だからかばうとか信じるとかいう問題ではありません。まずは真相の究明です」とつづっておられました。

まさにそこ。

何年も経って、ようやくここまでたどり着かれた被害女性であります。




No.92

【末法思想の世】

※性被害事件について書かれております。


【発し難くして、忘れ易きは、斯れ善心なり(伝教大師最澄)】

善いことを求める心を起こすことはたいへん難しく、しかもすぐに忘れてしまう。

すぐ行動にうつすのは難しいもの。明日なくなるかもしれない命、したいことをしよう、できれば善いことをしよう。

と意訳されていました。


ショッキングなニュースを目にいたしました。

とある宗派で起きた事件です。
まさに末法。


『…僧侶から性暴力や恫喝(どうかつ)を繰り返し受けたとして、四国に住む尼僧(55)が1月31日、東京都内で記者会見し、宗務庁に対し、この僧侶と、加害行為の手助けをしたとして大僧正の僧籍剝奪(はくだつ)を求める申し立てをしたことを明らかにした。

懲戒審理申立書などによると、この女性は僧侶から寺に呼び出されて性行為を強要され、その後も恫喝や暴力などで心理的に監禁され、繰り返し性暴力を受けたという。

母の供養を頼みに訪ねた大僧正から、一番弟子としてこの僧侶を紹介され、寺への参拝を指示された、と訴えている。

大僧正は、僧の最高位で、現在六名しかいない千日回峰行を満行した「北嶺大行満大阿闍梨(ほくれいだいぎょうまんだいあじゃり)」の一人。
女性によると、僧侶からの被害を大僧正に相談したが、そのたび僧侶に従うよう指示されたという。

会見で女性は
「大僧正は僧侶の行為を助長し、被害を隠蔽(いんぺい)し続けた。僧侶による心理的監禁を放置し、助長した。宗務庁は正しい判断をしてくれると信じている」と語った。

僧侶は朝日新聞の取材に「いまは申し上げられることはない」と回答。大僧正は、代理として寺の執事が「事実かどうかも申し上げられない。今後は総本山と宗務庁が対応する」と答えた』


朝日新聞さんの記事より抜粋。


末法の世となって久しく、仏教会においても性被害・性加害が行われていたということは伝え聞くことでありました。


この女性はより身近で性加害を行うがため剃髪をされ、寺に身を置くよう、恫喝によりマインドコントロールされ、半監禁状態となっていったといいます。

尼僧として山での修行は行っておらず、師という名目の僧侶に尼僧として認められただけのことであったようでした。




No.91

(続き)

「お次の方どうぞ」
と隣の列から聞こえます。

巫女さん姿の販売員さんは二人。
私の対応をしてくださった方は、やわらかな笑顔の、物腰の穏やかな方でしたので、私がそこを去るまでずっと笑顔で見送ってから次の方を迎えるのですが、隣の方はきびきびとレジを捌くタイプの方のようです。

おお、制服の男子高校生が群れをなして入ってきたではないですか。

…そうか学校行事。

コロナ禍では全て中止されていたものであったようでしたが、ようやくこうして笑顔でお友だちと校外学習に出かけられるようになりましたか。良かった、本当に良かった。

受験のために御守をお受けしにここへと立ち寄ったのかしら。

「御朱印を」

えっ?

「御朱印帳一冊と御朱印をください」

えっ?

ご、御朱印、でしたか。
それも一人ではなく。
付き添いでここに入ってきたのではなくみなさん御朱印や御守を拝受しています。

なるほどなぁ。
今は男子高校生も御朱印を。

若いカップルが御朱印を拝受されている場面に出会うことはよくあるのですが、てっきり女の方がお授けいただいているのかと思い込んでいました。

ご夫婦でそれぞれ御朱印をお授けしていただいている方々にはよくお会いいたしますし、私よりもずっと上の方はむしろ男の方の方が多いくらいです。

なるほど、思い込み、偏見でしたかね。


さて御朱印もお授けいただき、御守も拝受いたしました。

あとは…牡丹園?


諦めの悪い私はもう一度門に向かって手を合わせていました。

すると夫が、
「ねえ、さっきの社務所の外に『拝観はこちら』って書いてあった」
と。

社務所としかとらえていませんでしたから、何も読むことなくスッと中に入ってしまいましたが、なるほどあそこで拝観料を。

そんなことは受付には一切書いていなかったなぁ。


慌ててまた社務所へと戻ります。

男子高校生の列はますます増えておりました。

「あのぉ〜、拝観させていただきたいんですが…」

きびきびタイプの販売員さんが、咎めるような顔をこちらに向けてきつめな声で
「並んでください!」

あ、御朱印とか御守とかの拝受と拝観料の窓口は一緒でしたか。

それにしてもきつい物言いです。

No.90

(続き)

さすが上野。
平日であっても拝殿前は列がなされています。

は、は?

拝殿じゃない?!

も、門扉じゃないですか。
しかも閉ざされた。

え、えっえ〜っ?

ここで参拝、ですか?
門で、ですか?
将軍様で、東照大権現様だから、そう簡単にはお目通りできないってことなのでしょうか。
日光ってどうでしたっけ?

たしかにこの門扉、黄金に輝くものでありますが、庶民はここまで、ですか?

おっ、みぎてに何やら受付のような建物があります。
そそ、そうですよね。
拝観料ですよね。

いざ!

って、…無人だし、出口って書いてあるじゃないですかあぁ。

もしやして御開帳される日とかがある?
そんなこと?

…。

特別な御守の授与日があるっていうのは知ってはいましたが、拝殿の前にすら行けないなんて…。

今はこんな落ちぶれた身ではありますが、世が世であれば、私、…人間だったかしら?


すっかり気落ちした私は、せめて御朱印を拝受しようとたいそう立派な、いかにも新しい社務所へと向かうのでありました。

中はまるで小さなホテルのフロントのようです。
違っているのは、受付の方が巫女装束であることくらいです。

そこにも列ができていて、みなさん御朱印やご朱印帳をお求めになられています。

「御朱印をお授けください」
順番が来て巫女装束の受付の方にそう申し上げ、ご用意くださる間に御守りを見させていただき、孫に可愛らしい御守りを一体拝受いたしました。
巾着タイプの豆狸さんです。

あれ?
これって…これってタヌキと言われた家康公にあやかってのもの?

そ、そんなバチ当たりな?

…買っちゃいましたけど。


No.89

(続き)

手水舎ならぬ鈴舎のあたりから灯籠は石ではなく、ブロンズ製の物へと変わります。
拝殿のそば、奉納した大名の位も上がり、それに合わせて奉納する灯籠も格が上がっているということでありましょう。

並んでいる様子は整然としており、一見同じもののようにも見えますが、少し時間をかけて見ますと、その一つ一つがみな、細工が異なるものとなっています。
大きさだけ合わせて、あとはその忠誠心やら敬意を表するために、思い思いのデザインを工夫し、奉納したのでありましょう。


あ。
先ほどの鈴手水舎の反対側に参道を隔てて、本当の手水舎が。

手を浄めます。


…コロナ禍以降、ほとんどの神社仏閣で閉鎖していた手水舎が、コロナの感染症の分類が変わって再び元のように使用できるようになっても、私はもはやマイルールで手のみを清めて、口はそこでは清めてはいません。

古い、常に風雨にさらされている手水鉢、まことに失礼な失礼な言い方をすれば、いつ水を変えたかわからない水、やはり風雨にさらされたまま設置されている柄杓、…私はずっとずっと…この昔からの儀礼が嫌だったのです。

でも大切な神仏への儀礼、儀式であると言い聞かせて、がんばって手を浄め、口を浄めてまいりました。

それが、コロナ禍以降、寺社の方針でしないでお参りすることが決められます。


…いいんだ。
…しなくていいんだ。

衝撃でした。

神仏への礼儀と思って我慢もしてきましたし、礼儀なればとコロナ禍では折りたたみ式のキャンプ用のカップを柄杓の代わりに持ち、それで手や口を浄めておりましたのに。


それどころか使われなくなった手水舎、手水鉢は『花手水』なる新たな文化を生み出します。
…厳密にいうと花手水はコロナ禍以前から存在していましたが。

急速に普及したのはやはりコロナ禍以降。

そして。
新たなる文化は、コロナの感染症予防法の分類が変わろうと、元へは戻らない寺社を生みました。


…いいんだ。


この、コロナの感染対策が変化して以降、私は基本マイルールを以て手水を浄めることとしました。

コロナ禍においても、その神仏への礼儀を貫いてこられた神社仏閣さんにおいては、水の出るところから直接お水を受けさせていただいて口も浄めておりますが、基本マイルールで。

基本手水鉢からの水は使用しない。
手だけでお許しいただく。

No.88

(上野東照宮さんの続き)

まさに。
まさにあの教科書に載っていた二条城の絵のように、家康公、東照大権現にひれ伏すかのように整然と並んだ石灯籠。

ザ・東照宮といった雰囲気を味わいつつ歩を進め、
(あ、やっと手水舎だ)
と思って近寄るとそこには『本坪鈴』が…。

? 何故?

そう、あの神社の拝殿前に吊るされているあの「ガランガラン」となる、大きな鈴です。

ただ、鈴緒と呼ばれる、鈴を鳴らすための紐はつけられておらず、鳴らすことのない本坪鈴が、いかにも手水舎を思わせる四方に柱だけある舎の内に、まさに鈴が目の前にくるよう吊り下げられているのです。
いや、水鉢もありますので、かつては手水舎そのものであったのでありましょう。

なんでもこれ、ここの狛犬を造った石工、江戸の三大石匠といわれた石工が明治七年に寄進したものと、説明書きが掲げられていました。

ほう。

でもやっぱり不思議。
鳴らすはずの鈴が手水舎の中央に、金具で吊るされ、さらにはその重さを補うべく紐で不自然に吊り下げられている様はなんとも異様な気がいたします。
バチ当たりといわれてもそれは本来とは異なるかたち、違和感を感じても仕方がないと思います。

よくはわからないまま、正面に目を向けると、その鈴を奉納したという石工の造った狛犬に自然と目がいきました。

私の背をはるかに超えた台座。
その上に、おおっ!と目を見張るほどの狛犬さまがおられます。

狛犬さん大好きな私はもうぽわぁ〜としてしまって…。
先ほどまで抱いていた鈴へのモヤァとした思いが一気にどこかへ飛んでいってしまいました。

No.87

〝神仏崇めて神仏頼らず〟
よくいわれる言葉です。

夫はまさにそのタイプ。
まぁ、とはいえ心に思うことあれば、密かにはお願いを申し上げているかもしれませんが。
それが生きている人間、ですので。

対して私は相も変わらず未熟者ですので、日々頼ってばかり。

子どもたち、孫たちが心身共に健康で事故なく怪我なく過ごせますよう毎日祈っております。


そんな私、今一番参拝させていただきたい神社さんがあります。
なんなら一人で電車ででも参拝に向かいたいほど。

それは要石で地震から日本の国をお守りくださっておられる神さまを御祀りされている、鹿島神宮であり、香取神宮であります。

以前からお参りしたいと夫婦ともに申しておりましたものの、コロナ禍により断念してしまっている三社であります。


一箇所だけお詣りしたのではダメ、なんてことはないと思うのです。

私のような穢れ多い身がお詣りしたところで神さまが
「よかろう、そなたの願いしかと叶えようぞ」
などとおっしゃってくださるかどうか…。
ましてや常日頃信心してお参りしていた者であればいざ知らず、初めて参拝するようなおばさんです。

要石が強化されようとも思えません。


地震が各地で多発しております。
地震のような天災に対して、どれだけ科学とかが進歩しようと、人は神に祈るくらいしかなす術がないではないですか。
少なくともこの凡人以下の私は、それしか知らない、思い浮かばない。

香取神宮でお祀り申し上げている御祭神『経津主大神』さま、
鹿島神宮でお祀り申し上げている御祭神『武甕槌大神』さまを
お祀りしている上野國の神社ではダメかしら。

それならば日参できます。


愚かでしょうね。
愚かでしょう。

でもここにあっても祈っております。

どうか日本各地で起きている地震が一刻も早く鎮まりますように。

No.86

(続き)

私の記憶の中での上野東照宮さんは、上野動物園の中に鎮座されたものであったと、…そう思い込んでおりました。
それくらいに動物園の園内からその社殿の姿が見えるものでありました。
今は、というと、注意して見なければあまり見えないのです。

わが家の子どもたちと一緒に行ったのはいつのことだったのか…。
その頃とはやはり園内も変わっているようです。
あの頃は東園と西園の移動にモノレールが運行されていましたが、今は休止され、今後廃止が決定しているようです。

変わらない風景と、大きく変わったところと。
私の記憶が少しずつ変わってきていたのもあるのかもしれませんが 笑。
それでも神社仏閣に興味もなかった人物が気づくくらいには見えていたのだけは間違いないのです。

東園の端のあたりを歩いていると普通に見えていた記憶で。

その時、
「神社にも寄って行く?」
と夫が聞いたという記憶があり、
その聞き方も不敬なものですが、「いや、いい」と答えた私に至ってはもうどう繕いようもありません。


東京国立博物館から大噴水の横を通って、スタバの長い行列にため息をついてコーヒーを諦め。
小松宮さまの馬に乗られた像の前を通ってまもなく道を右折して…。

上野東照宮さんの石造りの鳥居が見えてまいります。

鳥居をくぐると。

ああ、東照宮さんだ。
…そう実感する灯籠の列です。
やはり徳川家と縁ある土地に建てられた東照宮さんであると実感いたします。

そんな感動を覚えながら灯籠を観て歩いていると、五重塔が見えます。




五重塔はまさに上野動物園の園内にあります。しかしながら五重塔へは近づくことはできません。
園内でありながら孤立した空間にぽつんと立っています。

寛永寺さんからも離れたところであり、東照宮さんからは近いものの、あの明治の悪令により神社に五重塔は置くことはできず…。

現在、ぽつんと孤立したところに建つ五重塔は東京都が管理しているといいます。
動物園の中にあるとはいえ、ものがものだけにただの見せ物にするわけにもいきませんし、上野動物園は東京都の管理下ではないものとなっており、そういった意味からも孤立してしまったようです。

歴史ある建造物にいたずらも困りますから仕方ないことかもしれませんが、まるで姿の見える閉帳のようです。





No.85

(続き)

…まずは前レスにおいて、誤ちがありましたので訂正させていただきます。
『太田東照宮』としておりましたものは『徳川東照宮』の誤りであります。
お詫びして訂正させていただきます。
いつもいつもすみません。



とはいえ、東照宮といえば全国のあちこちに存在します。

三代将軍徳川家光が諸大名に造営を勧めたこともあって、譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名が競って東照社を建て、全国で五百社を超える東照宮が造られたといいます。

明治維新以後の廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約百三十社となっているとはいいますが、その全国の東照宮を巡って御朱印を拝受する『東照宮御朱印帳』も存在するくらいです。

私などはそのごくごく一部をお参りしているに過ぎず、東照大権現を最初に祀った総本宮『久能山東照宮』にすら参拝していないのですから、別段上野東照宮さんへの参拝に固執しなくとも…とも思うのではありますが。

でも…でもですね、寛永寺さん内に祀った東照宮です。

やっぱり、ねぇ。

しかも上野動物園からその社殿を見ていたにも関わらず、お詣りしていなかった罪悪感みたいなものもあり、今回博物館だけでなく、【上野東照宮】さんへ参拝することを目的として上野へと上京しておりました。

いざ、上野東照宮さんへ。

No.84

【上野東照宮】

上野といえば。

上野といって思い浮かぶものは人それぞれではありましょう。

ちなみに。
群馬県はかつて上野國、こうづけの国でありましたけれど、『上野』という字を見て真っ先にそちらに頭が行く方はどれくらいおられるものか。
『上野』といったらやはり東京都台東区の『うえの』を思い浮かべる方の方が圧倒的に多いのではないかと思います。

その『うえの』といったら。
私は真っ先に【上野動物園】を挙げます。

正確には【東京都恩賜上野動物園】。
日本の動物園では最も古い歴史を持つもので、【上野恩賜公園】内にあります。

この上野動物園は、明治十五(1882)年に農商務省所管の博物館付属施設として開園した、日本で最初の動物園です。
明治十九(1886)年には宮内省所管になり、大正十三(1924)年には昭和天皇(当時は皇太子殿下)のご成婚を記念して、東京市に下賜されました。
それゆえ『恩賜』という文字が使われているのであります。

その上野公園はもともとは前述してまいりました通り、広大な上野【寛永寺】さんの境内地でありました。

寛永寺さんといえば徳川家の菩提寺であり、元々が二代将軍秀忠公により天海上人が賜った土地。
上野は徳川家とは切っても切れない縁があります。

そこに徳川家康公を【東照大権現】として祀る【東照宮】があるのはいたって自然な流れ。

ですが。

神社仏閣に関わることの少ない家に育ってきた私は、当然のことながら上野動物園のすぐ真横に神社があることに気づきながらもお詣りすることなく、当然それが東照宮であることも知らずに過ごしてまいりました。
それどころか、神社仏閣を巡るようになってからですら、上野動物園へ行くことがあっても、それが東照宮であることを知ってからも参拝することなく過ごしてきておりました。

その上野東照宮が、近年テレビで取り上げられることが増え、私の中で小さな罪悪感が生じます。

(上野東照宮へお参りしないと…)

なぜなら、日光東照宮へはコロナ禍以前においては年に何回も足繁く通っていたこともあったくらいで、地元でも前橋東照宮、さらには世良田東照宮、太田東照宮と、あちこちに祀られる東照宮へと参拝しているというのに、将軍家の菩提寺の、かつてはまさに境内にあった上野東照宮へ行かないのは、どこか片手落ちな気すらしてきたのであります。


No.83

(続き)

いくらなんでも自分が書写した部分が法華経のどの辺りに当たるものかも分からず、何が書いてあったかすらも分からなかった、では御写経をさせていただいた意味もなかろうと、納経の際、ご住職さまにお聞きして、自分たちが書写した部分は【比喩品】であったことを知りました。


ご住職さま曰く、それは
【三車火宅喩(さんしゃかたくゆ)】、『三車火宅の喩え』の部分であるとのことでありました。


『…ある国に一人の大邸宅をもった非常に裕福な長者がおりました。この長者には、大勢の子供がおります。

ある時、この長者の邸宅が火事になりました。中には多くの子供がおりましたが、火が回ってくるにもかかわらず、遊びに夢中で、そのことに気づきません。この邸宅には門が一つしかなく、遊びに熱中している子供はその危険も知らず、父である長者が呼べど叫べどまったく聞き入れないという切羽詰まった状況でした。

長者は、自分の力で抱え救い出せないことはありません。しかし、そうではなく、ここで巧妙な手段を用いて子供たちを救い出そうと考えました。

日頃からおもちゃが大好きな子供たち。その好みにしたがって、
「門の外に立派な車があるぞ!しかも、羊の引く車、鹿の引く車、牛の引く車だ!みな、好きなものを与えるぞ、早く外に出るのだ!!」と。

父の叫びに応じて、子供たちはみなわれ先にと火宅から飛び出し、危難を免れることができました。

そこで長者は、みなそれぞれに、大きくて白くそして力の強い牛の引く、種々の宝石で飾られた立派な車『大白牛車(だいびゃくごしゃ)』を与えたのでした。   』


このたとえ話に登場する長者とはお釈迦さま、子供たちは私たち衆生を指しています。


お釈迦さまは生前、人々の性格や好み、その望みに応じて、それぞれにかなった御教えを用意されました。

車は迷いの世界から悟りの世界へと乗せていってくれる乗り物で、教えを表します。
三車とは、望みにしたがってかりに説かれたものであり、本当はそのような三つの区別があるのではなく、みなをただ仏と成すという目的を遂げるための方便〈手段〉であったことが明かされた、という内容なようです。


うーん。

お釈迦さまが生きておられた頃なら、私のような者にもわかるようにお教えくださったのだろうにな。


No.82

【御写経させていただいた法華経の納経】

先日御写経をさせていただくべく『法華経』の一部をお預かりしていたお寺さんに連絡をして、ようやく納経してまいりました。

えっ、今ごろ?
と言われそうでありますが、お寺さんもお忙しい時期もございますので、それを避けてのこととなり、こんなに日となった次第だございます。


お釈迦さまの御教え(言葉)をまとめた『お経』の数は、「8万4千」といわれています。

【法華経】はお釈迦様の晩年八年間で説かれた教えであり、お釈迦様の集大成の教えです。
その内容は二十八章に分かれているといい、あらゆる仏教のエッセンスが凝縮されているとされます。


二十八章。
ちょっとやそっとでは読めません。
それでもネットで、ではありますが、一応法華経を開いてはみました。
その内容の難しいことといったら!
さっぱりわからない。



実は、お釈迦さまのご説法を聞くために集まった居並ぶ聴衆の中でも、法華経方便品の教えを理解できたのは、智慧第一と称される舎利弗ただ一人であったというのです。

これでは私などに理解できようはずがありません。

そこで少しでも理解しやすいようにと、【方便品】で説かれた「開三顕一」の内容を、もっと分かり易く、たとえ話をもって説かれていく章があり、それが【第三章譬喩品】となります。

そうまさに言葉の通り比喩されている内容。

これならば私にも分かるだろうか?


いや、全くもって無理でした。

私が、私ども夫婦が写経させていただいた法華経の一部、それこそがまさに、まさにその【譬喩品】であったのです。


ええ、私、その御写経させていただいた部分、読むことすらできなかったのですから。

No.81

(続き)

天海僧正は江戸庶民の憩いの場とするために、吉野の桜を取り寄せて、上野の山を桜の名所とします。
不忍池には蓮を植えて放生地としました。

現在も憩いの場として人々に親しまれている上野公園は天海僧正によって造られたといっても過言ではないのです。


天海僧正は長寿を全うされ、寛永二十(1643)年に子院の本覚院で百八歳で亡くなられます。

遺言によって御遺体は『日光山輪王寺慈眼堂御廟』に葬られましたが、亡くなられた本覚院跡地のこちらには本覚院第一世の晃海によって供養塔が建てられました。

のちに、本覚院に伝来されていた毛髪を納めた宝塔が建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった、というのがこの【天海僧正毛髪塔】であるということでありました。


つまり天海僧正が得度され受戒の際、剃髪された髪が残され伝わっていた、ということと考えればよいのかと。
その髪が納められているという塔は上野公園の一角という場所柄ひっそりと佇むように見えますが、毛髪塔、供養塔にしてはやはりかなり立派なもので、しかもそれに付随した石塔がいくつもあり、そこだけ見れば立派なものでありました。

中に入らなくはないのですが、ビビりのおばさんなんとなく怖いような気がして、遠巻きに手を合わせてその場を立ち去ったのでありました。


日々髪を剃る僧の髪では、黒い粒か、へたをすると粉?なのではと相も変わらずくだらない妄想をしたおばさんの謎は解けました。

No.80

【天海僧正毛髪塔】

天海大僧正といえば、徳川家康公の精神的支柱として側近となり、秀忠公、家光公と三代にわたって支えた方であることは有名な話ですが、その天海僧正の毛髪塔なるものが上野公園の一角にあることを知りました。

天海僧正の毛髪塔は、上野公園内、『上野の森美術館』の向かいにひっそりと佇むようにありました。

そもそもが上野公園一帯は天海大僧正が創建した寛永寺の境内でありましたので、こうした天海僧正ゆかりのものが公園内にあることはなんら不思議は無いのですが…。

も、毛髪塔?

天海僧正は天台宗の僧侶、天台宗の僧は剃髪されておられたはずです。

ん?

毛髪塔を訪ねたところで、その謎が解けるわけはない気はしたのですが、せっかくなので訪ねてみました。



天海僧正は元和二(1616)年、家康公が亡くなったのち、江戸幕府安泰のためには、江戸城の方位学的な吉相を高める必要があると考えます。

そこで、将軍秀忠と相談し、江戸城の鬼門(北東)である上野不忍丘に【東叡山寛永寺】の建立を進言し、その三年後の寛永二(1625)年、三代将軍・家光の時に寛永寺が建立されます。

『東叡山』とは東の比叡山という意味で、比叡山が京都の鬼門に置かれて都を守っていることに倣って、寛永寺を建てたといいます。

寛永寺の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約三十万五千坪に及び、さらにその他に大名並みの約一万二千石の寺領を有したといいます。

現在の上野公園の中央部分、噴水広場にあたる竹の台には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な『根本中堂』が建立され、『本寺』は現在の東京国立博物館にあったとされます。

さらに京都清水寺に倣って建てられた『清水観音堂』、琵琶湖弁財天に倣って不忍池辯天堂などが建立され、五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊を数えたといいます。

やがて徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営され、格式、規模において我国最大級の寺院としてその偉容を誇ります。

ところが幕末の戊辰戦争では、境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまいます。

さらに明治政府によって境内地は没収されるなど、寛永寺は壊滅的な打撃を受けたのです。



No.79

【鬼宿日】

今日は【鬼宿日(きしゅくにち、またはきしゅくび)】 という日に当たるといいます。

『鬼』という字が入っているので怖いイメージですが、実はこの日は鬼が宿にいて出てこないので、〝何をするにもよい日〟とされているのだといいます。

鬼宿日という考え方は、『二十八宿』という古代中国の天文学・占星術に基づいて決められたものだとのこと。

『二十八宿』とは、月の運行を観察するために天空を28等分した区画のことで、『鬼宿』はその中の一つにあたります。

また、一説によると鬼宿日はお釈迦様が生まれた日だったという逸話もあり、仏教の開祖の誕生日としても重要な意味を持っているという考えを持つこともあるようです。


鬼宿日に神社仏閣にお参りするのは大変良いともされているようです。
〝鬼のいない日に神仏に感謝をお伝えし、自分の厄を落とす〟
という考え方のようです。

今日は一日。

ちょうど一日参りということで、いつも参拝させていただいている神社さんへ参拝してまいりました。

うーん、なんだか嬉しくなります。


ところでこの鬼宿日と呼ばれる吉日、なにをするにも良い日、とされるのに、何故か入籍や結婚式は避けた方がよいとか。


…なんででしょうね。

えっ?
私のような鬼嫁にならないように?

もしかして私どもの結婚式って鬼宿日だったのかしら。
うーん。

ちなみにこの鬼宿日は二十八日周期であるようです。


鬼といえば…。

『鬼滅の刃』という漫画がありますが、映画やテレビアニメとしても映像化もされ、なんでも今何シリーズ目かの映画が上映されているとか…?

私は一度も観たことが無いのですが、姉などは同じものを何度か観に行ったくらいハマったようです。


鬼滅隊の隊員は鬼宿日が休日になるのでしょうか。



(ミモザの花が咲きはじめました)

No.78

(続き)

何を忘れているかって、たとえば『〜の合戦』『〜の戦い』とか『〜の変』とか『〜の乱』とか?

もはや高校入試すら通らない気すらしてまいります。

いや、いいんです。
もう高校入試は受けないので。

でも、なんかもうもったいないなぁって、思うんです。
その知識がちゃんと身についていれば、夫のようにスッとその神社仏閣の歴史的なものをその場で肌で感じて、その上で楽しめる。

でも、そういったものがすっかり抜けてしまった私は、〝昔あった戦さで〟の域止まり。

歴史って繋がってるもんじゃないですか。
すごく勿体無いんです。
私にそういった歴史的建造物を見せるのはネコに小判、豚に真珠、馬の耳に念仏、…ほんと勿体無いんです。


こんなおバカさんでも受験戦争とやらは通る道、じゃないですか。
…それがある意味いけないんですよね。
受験に向けての勉強って流れとか一切関係なく暗記してても通ってしまうから。

いや、それとて好きなものがある子は、ちゃんとその受験も通りつつ好きな学習はちゃんと正しい形で極めているわけじゃないですか。

要は私がおバカでキャパが大変小さいと、それに尽きるのでありますが。

それに気づいて、今になってまた歴史を学んでも、その『〜の変』とか『〜の合戦』とか、若い頃ですら入れても抜け落ちていたもの、もうなかなかなかなか入ってくれない。

…ま、知らなくとも全然生きてこられたんですけどね。
とある芸能人さんが、古文なんて習っても社会に出てまるで使わない、使ったことがないと語ったとか聞きました。

たしかにそういった言い方のできる〝勉強〟、〝授業〟ってあるかとも思うのです。

ついた職業にもよるかと思います。

√とか微分積分とか、私、学校出てから使ったことないですし。

でもそれを日常的に使うお仕事をされる方も世の中にはおられます。

要はそういった苦手な分野を知ることで、つく職業も自ずから変わってくる、そういった意味でもあらゆる分野を授業で学ぶ意味ってあるのではない?

私はちょっと苦手分野の絡む、苦労する職業につきましたけど、それすらひとえにおバカさんだから、なだけな気がしますが。


ここでまたとある歴史を学び直しました。
でもたしか東北に旅してその時も学んだはず、なのにです。


ね、勿体無い。

漏れ出づるもの、それは私の知識。


No.77

私、歴史の授業は好き、だったんです。
好きだったはずなんです。

でも夫とこうして神社仏閣を巡って歩くようになって、彼がそれこそ車を運転しつつ語る(=何も見ず)〝歴史〟を聴くようになって、
それはただただ、
〝嫌いではない授業を寝ないできちんと聞いて、ちゃんとノートをとっていた〟
だけであったと思い知ることになったのです。

たしかに、夫は少しばかり歴史に詳しい人かもしれません。
なぜなら予定もなくフラッと行った土地で、たまたまその土地の歴史に詳しい人物の解説を聴くような機会を得たとき、その解説後彼から出た質問で、その解説をされていた方が驚いてそして嬉しそうに彼と二人で語る、…なんて場面に幾度も出くわしたりもしましたし。

つまり授業で習わないことにまで造詣を深めていた、ということ。

まぁ本人曰く、あくまでも「自分の好きな時代のものだけだよ」ということらしいのですが、凡人以下の私にとってはその姿を見るにつけ、(えっ?ウチの夫って結構賢い人だった?)と思う機会を得たことともなったのですが…。

ですが。


本番はここから(なんの?)。

『私って、歴史も音痴レベルだったんじゃ…。』
…いやいや『』で囲うほどのものでもないけれど、本当、私って自分で思っていた以上にバカだったんだなぁって。

その、ですね。
まずは歴史の授業で習ったことなどすっかり抜け落ちている、ということとか?
…もうそこがすでに致命的なんですが、ね。
『その場その場の授業で習った歴史の内容をただただ暗記してただけ』だったなぁって、イヤというくらい思い知るんですね。
なんてもったいない学習をして過ごしてしまったんだろうって。

ほら、神社仏閣って、歴史あるものではないですか。
創建された時代とか、その歴史背景とか…。
それからその神社仏閣が歩んだ歴史とか、その頃の日本、あるいは世界の情勢であるとか。

ちゃんと学んだ人物(ここでは夫)は、それが一瞬でそこの知識に結びつけられる。

奥州藤原氏のことだってそう。
私とて奥州藤原氏が栄華を極め、東北にすぐれた文化を築いたこととか、どうしてそれがわずか四代で滅んだかぐらいは、すっって出てきますよ?

ただ、それについて彼に語らせるともう別物。

…まぁ、それについてはごくごく一般常識なのかもしれません。
ただただ私がすっかり忘れていただけで。




No.76

(続き)

他にも学びやら発見はたくさんありました。

金色堂は昭和の大修理があり、その際学術的な調査がされたことも知っておりましたが…。

なにしろこの金色堂展で販売されています図録、たとえば御仏の御像にいたっては上下以外の全方向からの写真が掲載されているんですよ♡

しかも部位によってはおそらく実物大の写真♡♡

今回は中央檀の御仏の尊像十一体が展示されていますが、西南檀、西北檀の御仏たちの写真もちゃーんと掲載してくださっている♡♡♡

あ、感動のあまり話がずれてきておりました。


そういうありがた〜い図録なため、中尊寺金色堂の様子もところどころ写されており、あんなに煌びやかに見えていた金色堂の壁面はびっくりするほど、まるで炭化してひび割れているかのように、ひび割れて、今にも剥離してしまいそうな部分すらあるものであったということとか…。

平安時代に造られた光背や台座は『残欠』という形で、修復不可能という扱いで、外されて別所に保管されていたこととか。

昭和の大修理する前の金色堂内の写真も小さなカラー写真が一枚掲載されていたのですが、それはもう言葉を失うくらい、別物で、とてもとても金色堂とは呼べないくらいにまで、金箔は剥落し、金具は緑青をふき、とにかくもう、『皆金色(かいこんじき)』などとは決して言えない、思えない物に化してしまっていたのです。


…おバカなんで、
(覆屋があったからこんなにも、奇跡のように『皆金色』として受け継がれてきたんだぁ)
などと、思っちゃっておりまして。

それを知ることとなり、正直、結構ショック、ではありました。

でもそういったことを知ることも大切だということも学んだのです。


なにしろ九百年という重厚な歴史の流れがこの金色堂を包みながら流れていったのですから。

この気の遠くなるくらいの長い長い歴史にあらためて敬意を払い、この国の宝を一国民としてどう守るべきか…。


えっ?
そんな大それたことを述べてはいるけど、中尊寺で、そしてこの東博の金色堂展で散々散財したことを、中尊寺、あるいは金色堂を守るべく尊い志納金であったとか、言い出そうとしてるんじゃないかって?


……。


さて、この辺で金色堂展のことについては筆を置きましょう。
…たぶん。

No.75

(続き)

金色堂展、びっくりするような展示品もありました。

『金箔押木棺』が一番のそれであったかもしれません。
これ、清衡公の棺、であります。
清衡公の棺そのものであります。
…びっくり、ではありませんか。

ご存知の通り、私大変なおバカ、なので、
「じゃ、じゃあ、清衡公の御、御遺体は…?
今、どうやって安置されているの?」


…ご存知の通り、金色堂に安置されていた奥州藤原氏三代(四代泰衡公は頭部のみ)の御遺体はみな、ミイラ化しておりました。

これは意図したものではなく、自然にそうなったという見解が、一番新しいものであります。


そうした踏み込んだ調査もなされておりますくらいですので、今御遺体は必ずしもこの木棺で安置されているとは限らない…のかもしれません。

でもわたし、この調査なるものの後、元々納められていた棺に当然戻されるものと思っていたのです。

だって一説によると、入滅されたお釈迦さまを納めたとされる『金棺』になぞられ、棺に金箔を施したとされるのですよ?
そんなこだわりの棺なわけじゃないですか。

それが生前の清衡公の希望であったかどうかはわかりませんが、いずれにせよ、かなりのこだわりがあっての金箔の棺なわけじゃないですか。


…もうね、ごくごく普通に、他の展示品と同じように展示されていたわけですよ。

副葬品の金塊や、刀の装飾品やら、念珠の一部(これを〝残欠〟というようです)まだもが、展示されているのです。


金箔の棺、とは言っても、なにしろ九百年以上の年月が経過しています。
その金箔はだいぶ剥離してしまっております。

でも、やっぱりその大きさから、その木箱がなんであるかは、私のようなぼーっとしたおばさんでもすぐに気づくというもので。

特に内部の金箔はごく一部ではありますが、はっきりと残されているのです。


金色堂はお墓、…ではないけれど、御遺体を納め、安置した場所であるのですから。

No.74

(続き)

私はここ、この東博へはただただ御仏の尊像にお会いしに参っております。
芸術や美術的なセンスも知識もなく、歴史的価値あるものにもほぼ興味がないため、十一体の尊像を拝見いたしますと、もう他にはあまり関心がありません。

今回のこの金色堂展の売りである『8KCG』なるものも、めまいの持病のある者にとってはどちらかというと苦痛の方が大きくて…。

この8KCGとは、『金色堂と壇上の仏像をはじめとする堂内空間の8K画像データを活用した超高精細CG』となるらしい。
これにより、幅約七メートル×高さ約四メートルの大型ディスプレイ上に原寸大の金色堂が再現されているのです。

8KCGはNHKと東京国立博物館が共同で開発した超高精細なデジタルアーカイブなる手法で、まるで実物を写し取るかのように文化財を記録をすることだといいます。


現地においては、金色堂はガラスの外から拝観するしかありません。
それを8KCGを使い、仮想的に堂内へといざなうというものとなっているのです。

きらびやかなこの世の浄土が、
御仏たちが、
大画面で凄い勢いでせまってまいります。
黄金の聖空間のこの迫力と美しさは圧倒的な体験でありました。
(ほんの少ししか見てはいませんでしたが…)


正直にいえばのちにNHKで放送された映像くらいが私にはちょうどよかった。

つまりはそのくらいの〝ど迫力〟ということです。


縮尺5分の1の金色堂の模型も展示されていました。

ここも人気のスポットでありました。
ここだけか撮影の許された場所でもあり、少しでも良い写真撮ろうと人だかりができていました。

夫は他の展示品を見てまわっていました。


…もう一回♡

夫にことわって、私はもう一度御仏たちの元へ。


No.73

(続き)

眠れないので、『中尊寺金色堂』展の図録を拝読しておりました。

図録ではありますが、随所随所にコラムがあり、これはなかなか読み応えがあるものなのです。

まぁ、各界の専門家の方々が書いておられるものなのでスマホ片手に調べながら読むことが多いのですが…。
こんなじゃ眠れるはずもない。
もはや眠ろうとしてすらいない。

ただ流石に真夜中に頭を使っているのはなかなかしんどいものであります。

文を読むのに疲れたので、また御仏の尊像のページへと戻って…。


ふとあることを思い出して、観音さまと勢至菩薩さまのページを開きました。
それは、仏師の方が、「観音さまは衆生を導くため、少しだけ前に傾くように作成する」とおっしゃっていた言葉。


こちらの、中尊寺さんの金色堂中央壇の観音さまも、傾く、というほどではないけれど、でも確実に、勢至菩薩さまよりも観音さまの方が上体が前に傾斜して作られておりました。

この中尊寺かどういった請願のもと造られたかを考えたら当然といえば当然ではありますが、でも仏師はきちんとそうしたことにまで神経を巡らし、あるいはそこまでの監修が入って制作されていたのでありました。

そう、清衡公の、
〝亡くなった御魂全てが、極楽往生できるように〟
という悲願にも似た思いが込められ建てられた中尊寺であるのですから…。

それは味方とか敵方であるといった人間に限ることなく、動物であれ、虫であれ、花などの植物であれ、一切の生きとし生ける全てのものの亡くなったのちの魂が対象であります。

全ての命。であります。
全てのものの魂が極楽往生。


…その魂を導く観音さま。

その尊像はこの図録で見比べて初めて気づくくらいにわずかに前かがみに造られておりました。

極楽浄土へと誘なうべく.。


No.71

(続き)

観音菩薩さまと勢至菩薩さま。

そもそもが異なる菩薩なのだから、違うに決まってる、はずなんですけれど。
お召し物もお揃い。
お手に持たれる蓮の花が右手と左手であることで、正面から見たときの〝対〟な感じが演出されているのですが、そもそもそれはこの中尊寺金色堂バージョンなだけで。

共に合掌されておられるお姿。

それぞれの手のひらを合わせ片方の手が上、片方が下になるように胸の辺りで合わせておられるお姿のものもありますし、どちらかの菩薩が花を持ち、もう一方が水瓶をお持ちのお姿をされているものもあります。


ただ、蓮の花を持たれる尊像に関して言えることは、観音さまがお待ちになっておられるのは蕾であること。
これは【未敷蓮華(みふれんげ)】と呼ばれるもので、観音菩薩のシンボルといわれるものであります。
観音さまは蕾のごとく閉じた人の心を開かせる存在であるとされるからです。
ちなみにこの〝閉じた〟心をは閉ざしているというのではなく、まだ閉じている仏心ということであります。

それに基づいてのものでありましょう、この中尊寺金色堂の観音像はみな蕾の蓮の花をお持ちになり、勢至菩薩像は花開いた蓮をお持ちでありました。

一見同じに見えるお召し物、衣の流れるさまが異なっておりました。
そしてもちろんお顔もだいぶ異なって作られていました。

ちなみに。
阿弥陀三尊像で有名な長野県の善光寺さんの『善光寺式阿弥陀三尊』はお手になにもお持ちではないパターンであります。


ここで不思議なことに気づきました。
勢至菩薩さまの右の御御足。

足の下に指まである足形を敷いておられる…とでも言いましょうか。
まるでそこだけブレて見えているような。

そこにどんな意味があるのか…。

解説はなにもありません。

それがもしやして解説されているかもしれないとこの金色堂展で販売されている『図録』まで購入したくらいです。
正しくはそんな疑問が無くとも購入を決めておりましたが 笑。

後付け、でしょうか。
これが無いと傾いてしまう、とか?

観音さまには見られないのです。

なんなら同じように立像である六体のお地蔵さまにも。


…たぶんこの謎は解くことはできないのだろうなぁ。

中尊寺さんに問い合わせたところでわかるとは思えない。



No.70

(続き)

こうした展覧会において写真はNGであることが基本です。

それなので目に焼き付けること。
それに尽きます。
まぁ、写真集や絵葉書等、二次元に写された御姿は手に入れることはできますが…。

この十一体の尊像を間近で拝することができるのは、まさにこの展覧会の開催されている期間限定のチャンスなのです。

しかもこうした展示会においては、往々にして前期・後期に分けて展示品が変わることもあり、前期には前期にしか拝することのできないものがあるのです。

それが今回十一体の尊像ではないことは確かなのですが…。


そして…。
あの、金色堂に安置なされていたときには、対に作られたように思われた左右の観音さまと勢至菩薩さま、
対のようで実はかなり異なっていたことを知るのも、ここでしかできなかったこと、なのです。

No.69

(続き)

中尊寺金色堂展に行くまえ、まさに金色堂で、三箇所ある須弥壇のその御仏の尊像のそれぞれの違いに気づくのはまず、二天の尊像でありました。
まるで違う、のです。

あれ?
こんなにも違うんだぁ…。

親、子、孫、それぞれの御遺体を納める台も兼ねる須弥壇でありますから、それぞれの時代においての仏師がそこに祀る仏像制作にあたります。
当然仏師が異なり、また、かの有名な慶派等のようにその技術を継承している仏師が携わるとも限らない。というわけで、比較的自由な表現のできる二天においてそうした違いが出るのでありましょう。

慶派のようにその技術を継承する派に所属した仏師だとしても、その中で自分の表現をします。

そうした流れを汲むような仏師でないとしたら、その違いは二天のような尊像の制作においてはその違いは如実であって当然です。

それから気づいたのはやはり中央に座しておられる阿弥陀如来さまのお顔立ちの違い、でありました。


…でもそれくらい、でしたね。

やはりどうしても距離がありますし、ガラス越しですし、お地蔵さまにおいては後ろの方の方に至ってはほとんど見えないくらいですし。

この今回の金色堂展においては中央壇の御仏だけがお越しになられておりますだけですので、その左右の、『西北壇』と『西南壇』と呼ばれる須弥壇の御仏の像と比較することは不可能です。

なのでかつて中尊寺遠訪れたときの記憶を辿るしかないのですが、阿弥陀如来さまの尊像はきっと大きさすらも異なっていたよう記憶しています。
大きさと…、その髪型も、お顔立ちも、だいぶ異なるものでもあったことを記憶しております。


と、いうことで。
距離もあり、ガラス越しであることもあって、二天の後ろにお立ちになられている観音菩薩さまと勢至菩薩さまのことは、あまりよくは見えなかった、拝することができなかったのが現実でありました。


今回はその尊像を間近で拝することができる、最高の機会であるのです。

No.68

(続き)

とはいえ、地蔵菩薩さまの頭の形はどのお地蔵さまのものが好きだなぁとか、お顔立ちで好みなお地蔵さまはこちらの方だわ♡とか、金色堂におられる時には考えもしないことを展覧会となるとどうしてこうも変化してしまうのか。
まぁそんなあり得ない考察(?)も、どれだけ時間を費やして御像を拝しているかを物語るものであります。


このお地蔵さまの後ろに、阿弥陀三尊がおられます。

もうそちらからオーラが出ているかのお力を感じます。


はあああぁぁ✨✨


ごくごく自然にお閉じになられたお口。
その肌がいかにスベスベであるかが、ガラス越しでありながら伝わります。
うっすらと開いた眼は、目の前の何物も見てはおられない。

なんと神々しい…。

阿弥陀三尊像でありますが、一体一体、いやいや一軀一軀が別々のガラスケースに安置されています。

こう安置していただけることで、それぞれの尊像をじっくりと心ゆくまで拝観することができます。
と、同時に、こうすることで拝観者の分散がはかれます。


ガラスケースにへばりつくかのような近さで、ため息を何度も何度もつきながらと前後左右をうろつくおばさん。
普通なら…怪しい。

しかしながら誰も他人のことなどまるで見てなどおりません。

むしろそれに近い方もそれこそ何人もおられるくらいです。
この螺髪は作成されて間もない頃はどのような形であったろう。
やはり群青をしていたのだろうか。
今は炭化したような色をしています。
そんな表現をしてはおりますが、その色がまたなんとも金色のお顔や体躯にお似合いです。

なんと美しい座りかたでしょう。

どこにもお力を入れず、それでいてすっとした…。
座った時にできる衣の流れ方もなんとも自然で美しい。


…美しい美しい横顔です。


この近さったら…!

後ろからですよ?
後ろから。

仮に後ろから見られるように安置されているようなお寺さんがあったとしても、通常は光背がございます。

御仏のお座りになられる後ろ姿など、こういった展示会でなければ拝することなどできません。





No.67

(続き)

ちなみに。
この二天の後ろ姿の悩ましく色っぽいことといったら。
ベリーダンスをすら彷彿させる色っぽさでありました。
これは本当に不敬な言葉でありますが、この角度、こうした展覧会でしか決して決して見られないので、今回だけはこの不敬な言葉をお許しいただきたい。

まさに胸騒ぎの腰つきにございました。

この二天の後ろには、三体づつに分けられ地蔵菩薩さまが展示されています。

金色堂においてはどの須弥壇においても同様な配列、配置がなされています。
金色堂でのお地蔵さまは左右に分かれ、一列に整列なされ、中央の阿弥陀如来さまと、観音菩薩さま、勢至菩薩さまを囲んでお立ちになられています。

それゆえ後ろにおられるお地蔵さまはそのお姿をほとんど拝することができないのでありました。
それがこの金色堂展では全ての地蔵菩薩さまの尊顔を、お姿を拝することができるのです。

あー、なんという、なんという幸運。
こんな機会はこの時代を生きていたからこそ得られたもの。

九百年の時を経て、初めて、中央檀の十一体の御仏の像すべてがこの上野の地で一堂に会し(…とはいえ通常も金色堂の中の中央檀でまさに〝一堂に会して〟おられるのでありますが)、私のような者でも、そのお姿を間近に拝する機会が与えられている、…これはまさにこの時代に生きているからこそ与えられたチャンスに他なりません。

当たり前といえば当たり前のことでありますが、ここに横並びに並ばれたお地蔵さまは、そのお顔立ちも一体一体異なり、頭の形も、お指の形も、なんならお召し物の長さすら、異なっているのでありました。

一体一体手作りですので、そんなの当たり前で、むしろ同じに作ることのほうが奇跡だと、言われればそれまでです。
ですが、これはもう意図的に一体一体全てを少しづつ違えて作っているのだと、私は確信しております。

お顔立ちからはおそらくは同じ作者、少なくとも同じ工房、同じ時代に作られた御像であることは間違いないと思うのです。



…美しい。

このおだやかなお顔、差し出された手の慈悲深さ、はあぁぁ…♡
いつまでも拝していたいお顔であります。


しかぁし、ここだけで足を止めておくわけにはいきません。

観音菩薩さま、勢至菩薩さま、
そして阿弥陀如来さまのお姿を私はまだ拝してはおりません。


No.66

(続き)

あ。

持国天さまの立像が…♡♡

ふわふわと寄せられていくおばさんが一人。


なんと凛々しいお顔でありましょう。
腰をひねり、大きく手を振り上げたお身体の逞しさ。
その動きにあわせて大きく翻る衣、その動きと繊細な布を見事に表した仏師の腕の力量。

なんて素敵な♡

そんな持国天さまの踏みつけた鬼はなぜかとてもユーモラス。
顔をこちらに向けて「やれやれ、やられちゃったい」とでも言っていそうなのです。
まるでお笑いで表現されそうな顔つきと身体のポーズにも思えます。
その邪鬼の爪の鋭さも目を引きます。


そこからほんの少し離れて増長天さまの立像が。

お二方とも、剣も戟(げき)も外されて持ってはいないのですが、それを振りかざしておられるポーズです。
あぁ、できたらその手に持つ小物も全て展示していただきたかった。

持国天さまは口を閉じ、増長天さまは口をカッと開かれています。

阿吽、ということでしょうか。

こうした激しい動きの表現は、のちに慶派仏師が得意とする鎌倉様式を先取りしたようです。

増長天さまに踏みつけられた邪鬼は観念したように横たわっています。


この二体の御像。
普段なら同じガラス越しでももっともっと距離があり、しかも須弥壇の上、後ろからのお姿を拝することなど決してできないのでありますが、こういった展覧会では後ろや横からも拝見することができるのです。

あくまでも信仰の対象であることはわかってはいるのですが、いるのですが、…仏像好きにはありがたい。

この二天の像の周りだけでも一体何周したことか…。


ちなみにこの展示会のグッズ売り場でこの邪鬼のクッションが人気の商品で。

これを購入したら、絶対同じポーズをとって邪鬼クッションを踏みつけるのだろうなぁ。

No.65

(中尊寺金色堂展 続き)

大治元(1126)年の中尊寺落慶供養に際し、清衡公が自ら読み上げたとされる『供養願文』には、次のような願いが述べられています。

『戦乱の中で、失われた夥しい命、
父をはじめとする肉親、敵味方両軍の兵士、女性や子供ら非戦闘員、更には、食糧として狩られた鳥や獣たちに至るまで、全ての魂が「浄土」へと導かれ、安らぎを得られるように』
『今生きている者たちが、「浄土」の存在を信じられるように』
『東北の地に仏の住まう「理想郷」を現出させたい』

そして金色堂落慶から二年後、清衡公は七十二歳でその生涯を終えられました。
御遺体は金箔を張った棺に納められた後、金色堂中央の須弥壇の内部に安置されました。


その供養願文(の写し)の展示された横には、国宝である【紺紙金銀字一切経】が展示されていましたが、
これがまた美しい美しい手によるものとなっていました。

金の一行、銀の一行。一行、一行色が変わることによって、どこを読んでいるかを見失わずに、スムーズに読むことができるのです。

そして.…。
この紺紙金銀一切経の写されたものには、巻頭に金でたくさんの御仏が集う絵か描かれていました。
細い細い線。
しかしながらこの穏やかで、あたたかな気持ちになる気持ちになれる絵でありました。

極楽浄土を表したものでありましょうか。
たくさんの御仏が描かれています。
その優しい穏やかな表情といったら♡


おばさん思わずこの絵の絵はがきを買い求めてしまったほどですあります。


さらに。

この展示物のならびには【金光明最勝王経金地宝塔曼陀羅】がありました。
こちらは縦長の紺紙の中央に大きく九重の宝塔が描かれていました。

が。
よく見ると、屋根も壁も全てが経文の文字によって表されているではありませんか!
その繊細なことといったら。

そこでこの掛け軸の宝塔が小さな小さな細かな字で、経で描かれていることに気づいた人たちはみな、一同、声にならないため息をつき、そこから離れられなくなっていました。

その素晴らしさといったら…。

作品を作った絵師の腕の素晴らしさもさることながら、これらは、まさに莫大な富と権力あってこそ作りえたものでありましょう。



No.64

一昨日、自分の誕生日に出逢った一帖の本が届いた。

夫からプレゼントをもらっているにも関わらず、こんな贅沢をしてよいのだろうかと思わないこともなかったけれど、出逢えたときの衝撃を抑えられなかった。

書籍としては発売元にすら在庫が無く、その出版社の書籍を多数在庫として置いておられる書店でも在庫が無いといい、もはや入手できないものとなっていたため、どうしようかと迷わなくもなかったのだが、とある宗派のブックセンターにお電話差し上げて、送っていただいた。

それは【遺教経】という経本。

まさにそのブックセンターさんの方が見れば身バレしそうなくらい特殊な注文でありましょう。


【遺教経】の名は存じ上げていたものの、それをお聴きする機会はなく、ましてやその経本を目にすることなどもなかったものでありましたが、とあるお寺さんの涅槃会に参列させていただき、初めてそのお経をお聴きする機会を得られました。

その衝撃といったら。


遺教経はお釈迦さまがまさに最期のときに、衆生に向けてお話しされた説法を写したもの。

初めてお聴きしたそのお経は古文というか、わかりづらい言葉ではありますが、それでも般若心経のように意訳されて内容がわかるものではなくて、日本語であり、伝わる言語としてのお経でありました。

師の最期のときを迎え、動揺を露わにする者たちに向け、あたたかな、穏やかな言葉をおかけになられたお釈迦さまのご様子までが伝わるようなお経でありました。


涅槃会という、仏教に携わられる方にとっては悲しみの日でもあろう日に産まれた者としても、このお経との出会いはまさに〝必然〟だったかのようにすら思えたのです。


このお経はどの宗派でもお唱えになられるものかとは思いますが、涅槃会のとき、まさに年一回となることもあるのかもしれません。

しかしながら宗派によっては、人が、特に僧侶が亡くなられたときにお唱えになるともおっしゃっておられました。



素人も素人、仏教徒でも無い、仏壇すら無い、一おばさんが手に入れて良かったかどうかは、今後私がこの経本とどう関わらせていただくかにかかるものでありましょう。

まぁ、私が鬼籍に入った暁には、お寺さんに納めてもらいましょう。

No.63

(続き)

スルスルスル〜っと入場し、シャカシャカと自分のペースで観て回ろうとする妻にようやく追いついた夫は、
「音声ガイドはどうする?」
と問いました。
「私はいい」

…いやぁ、音声ガイドを聴きながら観させていただけば、より多く学べると思うのです。

ですがね。
もっとゆっくり観たいとか、たまたま人が集中してよく見れないままにガイドが進行してしまったらどうするの?とか思ったりするんです。

それはそれで途中で一旦止めたりできるのかもしれないのですが…。

実は。

何よりも嫌なのが、使い回しの機器、なんです。

私こう見えて(どう見えていると思っているのか 笑)素肌に装着するような機器の使い回しが、正直好きでは無いんです。だめなんです。
耳とか、頬とかに触れているじゃないですか。

えっ、そんなの消毒してるじゃない?…って思われますよね。

でもやなものはいや。

夫はいまだにそんな妻を知らないのかどうなのか。



とにかく私は要らないと言い、まず初めに拝見したのは『中尊寺建立供養願本(がんもん)』。
藤原清衡公が中尊寺を建立した際の落慶法要において奉納した願文、とはいってもこれに関してはすでに原本は失われているとのことで、写しであるとのことでありますが。

いやぁ、私、ここ、この中尊寺金色堂展に来るまでは、元本だとばかり思っていたんです。
つまり清衡公が書かれたものだと思っていた。

まあ、とはいえこれ自体が鎌倉時代に書かれており、十分古いもの。

そして。
あの【紺紙金銀字一切経】。
文字通り、紺地の紙に金色の一行、その次の行は銀色の文字と交互に書写された一切経、であります。

これは国宝。

実はこの紺地の紙に金色の文字だの銀色の文字だのといったお経は他にもあるにはあります。
群馬県の桐生市のお寺さんにもこういった様式で書写されたお経が残されています。

ただ年代が古いだけではなく、保存状態もよく、さらにはこの書かれているのが『一切経』であることが国宝指定の理由の一つなようです。
一切経をこうした紺紙金銀字で書かれたものは中尊寺のこれ、『中尊寺経』のみなのだといいます。

これがまた美しい手で♡
当然のことながら一字一句間違いが無い!
…たしかに当然、なんですけどね。
なかなか難しいんですよ。
人、ですからね。


それだけでも、凄い!








No.62

(続き)

>…最悪、入場制限がかかるから、入るまでおばさんは必死です。


って…。
最悪、入場制限がかかるほどの混雑なら、コロナやインフルエンザといった、呼吸器感染症の予防のために、入場を避ける、辞めるつもりで来たんじゃ?

…。


おっ!
中尊寺金色堂展の入場口はなぜか、幸いなことに空いているではないですか♡♡

やったあぁ〜っ。



…。

……。

………凄い。


決して、ええ、決して満員電車には到底及びません。

が…。

これは…。

以前なら涙を飲んで諦めたパターンです。


しかぁし!


♪やめられない、止まらない!

しかももうすでに、都会の満員電車に乗ってここまで来ています。


スルスルスル〜っ。
おばさんは何かの妖怪のように、人のあいだを縫って、人混みのなかに突入していきました。

そ。
もはや夫はどこにいるかは関心すら失っています。


きゃー♡♡♡

No.61

!?

…こ、この方角に向かう人の群れって…。
この方角、あるのはもはや、めざす所の東京国立博物館のみ、なはず。

天才級の方向音痴なわりに、こういった不変の建物を含めたら、妙な記憶力がある私、一度でも来るともう何も案内など見ず走ってでも行けちゃうし、周りに何があったかもかなり記憶しているんです。

…まぁ、博物館の場所は上野公園の端、それは覚えていても普通といえばいたって普通なのですが、ね。

とにかく、…凄い!

何が起きた?

まさかの東博?
そしたらこの人の群れが目指しているのは…。

走るっ!

私ひそかに鍛えてましたから。
ええ、めまいや心臓が大丈夫な時にインターバルトレーニングと短距離と長距離と。
階段昇降も。
それこそ雨の日にはトレーニングジムまで使って。


…まぁ、東博の中尊寺金色堂展のために、ではなくて、孫と遊ぶために、ですが、ね。

なにせあちらはどんどん成長して、歩くのも走るのも速くなり、しかも体力もついて、その身体能力は上がるばかり。
一方のおばあさんは、衰えることを留めることすらが努力を要するお年頃。

ありがたいことに土日に仕事が入ったとき、孫を預けてもらえているので、そしたらばあちゃん目一杯遊びたいじゃないですか。
ばあちゃん目線でいろんな体験、経験させてあげたいじゃないですか。

それが違ったところで活かせる!

走るーっ!!

もはや夫とは完全別行動。
東博の入り口で(だけ)一緒になれば良い。
まずは入場券、ゲットだぜ!



…まぁ、はたから見たら怪しいおば(あ)さんでしかないかもしれませんがね。
走るカッコをしていればそれもありなんでしょうが、一応は御仏にお会いするための服装で来ておりますし。


走って、走って、東博の入場券の券売コーナーへ。


…れ、列が。

どこの列が1番早く買える?

…以前は前売り券を購入して来ていたのですが、今回はあまりにも混んでいたら諦めることも視野に入れて来ていたので、前売り券の購入をせずに来ていたのです。


最悪、入場制限がかかるから、入るまでおばさんは必死です。

No.60

【中尊寺金色堂展】

かつて東北を訪れ、その想像以上のきらびやかさ、言葉にできない美しさに魅了され、そこにいつまでもいられたならとまで思った【中尊寺】さんの【金色堂】。

【皆金色(かいこんじき)】と呼ばれる美しい金色堂【阿弥陀堂】は、金箔が箔され、さらには柱や手すりのひとつひとつに蒔絵や、螺鈿細工が施されており、夜光貝だけでなく象牙や宝石もまた使われており、
しかもこれだけ贅を尽くしていてもいやらしさは感じず、ただただ荘厳な心洗われる、まさに〝極楽浄土〟そのもののような空間でありました。

その中尊寺金色の建立九百年を記念して、現在、東京国立博物館において、一月より『特別展』【中尊寺金色堂】が開催されております。

このことを知ってから、まるで乙女のように胸をときめかせ、是非、絶対、東博へと意気込んでおりましたおばさん。
夫の忙しい仕事が一段落した合間をぬって、しかも平日を狙い有給を取得してもらって、…連れて行っていただきました、東京上野の国立博物館!

もうまさに自宅から最寄り駅までですらスキップでもステップでも踏みそうな勢いでありました。


ちなみにおばさん、光り物が好きなわけではなく、結婚指輪すらどこかにやってしまうくらいの人間で…。

そこにおわします三十三の美しい御仏にただただ魅せられて、のことでありました。

金色堂の中では、ガラス越し。
しかもそれなりの距離があり、しかも三十三という御仏の御像の数。
一日かけようとも私が満足いくだけ見られるはずもありません。


そんな金色堂の御仏の御像が✨
はるか東京へとお越しくださるという。

胸がときめかないはずがありません。

しかも、しかもです。

金色堂内中央の須弥壇に安置される(国宝の)御仏像十一体が、
同じガラス越しではありますが、一体一体、全方向から拝することができるというのです。

こんなこと、本来でしたら一生涯に一度でも無いことであります。
なにしろ、九百年という年月で初めてのことであるというくらいのことなのですから。


上野の駅で降りてから、走ること、走ること!

「そんなに走らなくても…」


いや、韋駄天さまにお手伝いいただきたいくらい、走りたい!

救心も持った!


東・はく〜っ♡




No.59

?!


…鬼だ。

赤と緑の鬼が現れました。
怖がらせようとか、強そうに見せようとかいう演出一切なしの、町内会の出し物のような(…ちびまる子ちゃんに出てきた町内会のクリスマス会のイメージ 笑)。

とはいえ、ちゃんと上から下まで赤鬼は真っ赤ですし、緑鬼は緑色。
ぼうぼうボサボサの黒髪(明らかに毛糸)と、陳腐といえば陳腐ですが、それでも異形であることはたしかです。

…今のお子さんって、こんなものには怖がらないんですね。
しかも別段退治してやろうとかいうこともなければ、誰が化けているかあばこうとするでもなく、ただひたすらクールに見守っているだけ。
いやいやそれどころか自ら手を差し出して握手まで!

…たしかに、世の中もっともっと恐い存在が山といるし。
鬼ヶ島なんかよりももっと悲惨な現場がテレビの画面に映し出されていますものね。

でもやっぱりそんなお子さんたちにびっくりして衝撃を受けました。

そんな時の止まったおばさんを取り残し、お坊さんは
「鬼が出てきましたので、豆をぶつけて退治いたしましょう。こちらは『福はウチ、福はウチ、鬼は外』と申す決まりとなっていますのでご一緒に」
などと申されているではないですか。


えっ?
豆を撒く?

たしかに売っていたおじさんは、鬼が出るかもしれないから…っておっしゃっていました。

ええ〜っ?
神聖な御堂の中、豆をまいちゃうんで?



滞りなく、鶏足寺さんの追儺は終了いたしました。
御堂の中、大量の豆が落ちて散らばっています。

ま、まぁ、振り返ってみれば鬼が出てくるお寺さん、結構ありましたし。







No.58

(鶏足寺さんの続き)

定刻になると遠くから御鈴の音が聞こえてきました。
そそとした足取りでお二人の僧がご入場されてまいりました。

お一方は一番上の御内陣と護摩壇のある段へ、もうお一方はそのすぐ下の段へとお進みになられました。

下の段の僧の方が開経偈を、そしてそのあと九条錫杖経をお唱えになられました。
よく通るきれいなお声です。
九条錫杖経はお不動さまに向けて唱えられたり、お護摩の前に唱えられるお経であります。

そのあと太鼓をたたきながら三度、般若心経を繰り返しお唱えになられました。

その間上の段の僧は、お護摩の前に行なう儀式を執り行われています。

やがて、ゆらゆらと炎が上がる様子が見えてまいりました。

下の段の僧はさまざまな御真言をお唱えになられています。

時折、法被をお召しになった方が御札を護摩壇へと運んできます。

No.57

ネットで素敵な御守を見つけました。
【結守(ゆわいまもり)】というものだ。

自身でまず好きなお守り袋を選び同封の〝願い紙〟というものに願い事を書き込み、祈祷済みの木札と塗香とを共に包んで、お守り袋にしまうのだといいます。

そしてそのお寺さんで毘沙門天さまにおまいりして、望みを丁寧に書いて毘沙門天さまの前で手を合わせて〝宣言〟する、のだといいます。
約二十分のお守りづくり体験。

祇園にある臨済宗の『両足院』さん、というお寺さんでのもの。
一体一体手作りされているもので好きなデザインを選べるようです。


うーん♡

No.56

ヒマラヤの麓にあるカピラ城にお生まれになったお釈迦さまは三十五歳の時に悟りを開かれました。

それからの御一生は、インド各地を遊行され、仏教の布教の道に尽くされました。
村から村へと大勢のお弟子様を従えて歩かれてのご生涯でありました。

修行と伝道の生活が四十年を過ぎる頃、お釈迦さまも時々、背の痛みを弟子の阿難に告げることがあったと伝えられます。

八十歳を迎えられ、伝道の旅が終りに近いことをお悟りになったお釈迦様は、最後を故郷で迎えようと決意されます。

最後の長い道のりの間にも、日々の生活は変わりません。

そんな旅の途中、パーヴァーという地で鍛治屋のチュンダの茸料理の供養を受けられ、その際その毒にあたったと伝えられ、それからだいぶ身体が弱られたとものこされています。

やがて、終焉の地クシナガラ(現在のゴラクプール東方50キロの地点)に到着されました。


「この世で変らぬものは何も無い。皆、怠らず精進しなさい」。

そのお言葉を最後に二月十五日の夜半、偉大な御生涯を遂げられたのです。



今日、二月十五日はお釈迦さまの入滅された日、涅槃会であります。

日本各地の寺院で涅槃会の法要が営まれます。(寺院によっては三月の旧暦で営まれます)



高野山金剛峯寺では前日の夜十一時より本日の夜十一時まで、【常楽会】という法要が執り行われています。

いつかこの常楽会に参列させていただきたい。
とはいえ冬の高野山、あまり歳を重ねてからでは行くことも叶わなくなりましょう。

何より、穢れ多く煩悩多きこの身を、少しでも軽きものとするためにも、なるべく早くに。


本日はご厚意で檀家さま以外にも門戸を開いてくださっておられるお寺さんの涅槃会に参列させていただきます。

これは、仕事を辞めたら必ず毎年そうして過ごしたいと願い思っていたことでありました。

その願いが叶っておりますことに感謝して。
また一つ歳を重ねます。



No.54

(鶏足寺さんの続き)

集まった人たちのそれぞれの話し声が飛び交います。
子供をあやす声、普段は離れて暮らす息子さんや娘さんとのいかにも弾んだ声、etc…。

ふとみると、堂内入ってすぐのひだりてで、小さな白い袋に入った『福豆』が売られていました。
よかった♡
こちらでの販売やお授けが無ければこれから買わなくてはならなかったので。

一袋ではいくら小さなわが家でも足りなそうなので二袋買い求めました。

「そうだね。ここにも鬼が来るかもしれないしね」
そう言いながら、係の人が福豆を手渡して下さいました。

は?
いつも護摩を焚き、五大明王さまがお護りになっておられる御堂に近づけるような鬼がいたら、それこそ大変でしょ?
それこそ『GODZILLA』の世界だわ。

そんなことを考えながら、右端の、まだ誰もいない席へ向かおうとすると、
「え?せっかくだから、よく見える真ん中の席に座ろうよ」
と夫。

ええっ?

…この人は本当に。
喉元過ぎれば人間で困ったものです。
定期的な通院の欠かせない慢性呼吸器疾患を患う自覚が無い!

何のために遠出を避け、人混みを避けて、行きたいところをひたすら我慢しているのか…。
ひとえに、呼吸器を脅かす流行り病に罹らないようにとの努力であったはずなのに。
私が仕事を辞めた理由の一つにも挙げられたくらい、その感染を恐れていたはず。

それが…。
「こんなところではマスクをしなくても平気だよ」
「みんなもうコロナ前のように出かけているよ」

…みなさんは若いんです。
抵抗力もあるし、何より呼吸器疾患を持つ人も…少なくはなくとも多くもない。
名実ともに爺さんの、しかも慢性呼吸器疾患で朝に晩に薬を欠かさず飲んで、吸入もしているような人間とは違うんですが?

まるで小学生のように「みんなしてるよ」「みんなしてないよ」
…sigh

ああ、そういった意味では若いわね。

しかしながら、確実に加齢しているおじ(い)さん、このところやたら頑固で意固地なんだよなぁ。

…はいはい、わかりました。

夫の希望する中央の席、真ん中辺に席をとりました。
えらいなぁ、私。


…明王さまがた、どうかこの夫婦の心に住む鬼どもを祓ってやってください。

御内陣におられる明王さまに向かい、心よりそう申し上げました。

No.53

『よくお檀家さんにお話する事

年中行事を楽しみましょう。
梅が咲いたら梅を愛でましょう。
桜が咲いたら桜を見に行きましょう。
その為に予定を立てましょう。
予定は当日立てることは出来ません。事前に立てましょう。

100年生きたとしても、春は100回しかきません。この瞬間も二度と来ません。

上巳の節句にはお祝いしましょう。
どこかに行く必要もない、お家でビールでもいいです。
自分に関係がないと思ってしまうのではなく、自分は世の中の女の子の成長をお祝いするんだという気持ちでご飯を食べましょう。
その時、私たちの心はとても優しい気持ちになっています。

頑張って生きている自分を褒めてあげるという事。
仏様も神様も、ご先祖様も精一杯生きていることを褒めてくださってます。

たった一度しかない人生、たくさん楽しんで心豊かな人生を共に歩みましょう。


合掌』


京都にある真言宗のお寺さん【遍照山 西福寺】さんのご住職さまのお言葉です。

身近で誰でもでき、そしてそれがとても大切なことなのだと気づかせてくださるお言葉として心に沁みました。

No.52

(鶏足寺さんの続き)

まずは訂正をさせていただきます。
恵比寿さまの御像と思っていた石像が写真で確認をしたところ、布袋さまであったことに気づきました。
それほどに大きくて、特徴が掴めないほど…ということは決してなく、ただ単におばさんが思い込んでいただけであります。
お詫びして訂正させていただきます。


********************


「あのぉ〜、今日の節分会の御護摩はどちらで行われますか?」
御守りなどをおわかちくださる授与所の方にお聞きしました。

「ああ、それなら、あちらの御堂だよ。ここを道なりに行くとすぐわかるから」

ほう。

大きな布袋さまの像をみぎてに見て、教えていただいた通りに道なりにまいりますと、ありました。
十数段の石段を登って、さらに数段の階段を登る、縦に高く見える御堂、『護摩堂』またの名を【五大尊堂】がありました。

現在の護摩堂は享保十七(1732)年に建立されたものといいます。
お堂は朱に塗られ赤御堂(あかみどう)と当時呼ばれていたそうで、見上げるとかすかに黒っぽくなった赤の色が残っています。

向拝には見事な大きな龍がこちらを向いた彫りがなされています。
迫力あるカッと見開いた目であります。

こちらのお堂の前には、あたたかな陽射しの中、ゆったりとくつろげるようなテーブルと縁台が置かれており、またみぎてには護摩木を販売したり、お札の申込みをする受付所がありました。
それがまたなんとも癒しの空間となっています。

護摩木を二人分おわかちいただき、願目を書いてお渡しし、堂内に入りました。


堂内は煤けて黒ずんでしかもそれが照りを出しています。それがまたなんとも厳かな雰囲気を醸しており、思わず手を合わせていました。

こちらの護摩壇はかなり高いところにありました。
これは大勢で護摩を囲んでも誰もが等しくその炎のゆらめくさまを見ることができましょう。

こちらは五大尊堂というだけに、五大尊をお祀りしています。
五大尊とは即ち中尊に『不動明王』さま、東方『降三世明王』さま、南方『軍荼利明王』さま、西方『大威徳明王』さま、北方『金剛薬叉明王』さまであります。


しかしながらその五大尊は御簾の中でお姿を拝することはできませんでした。

No.51

(鶏足寺さんの続き)

境内の東側の山手の造成した広い墓地の、その南側にある駐車場から、【定宥上人】が百三十六歳で入定したといわれる『入定塚』を見上げて一礼し、狭い意味での境内へと入ります。
こちらのあまりに広い境内地は、とても一望することなどできないくらいのものでございます。

寺標を入ってまもなくのみぎてに『慈猛庵』と称される、たいそう立派な会館があります。その並びに庫裏があり、その向かいに『赤門』と呼ばれる門があります。

そしてまた同じくみぎてに信徒のための会館があり、この日、…節分会の開かれた日は、多くの檀家の方々がこちらへ入って行かれる様子が見受けられました。

その、御本堂すぐ隣に建てられた檀信徒の控えの建物の斜め前に、小さな御堂がありました。

しゃがみ込んで得意技の覗きを発動し、御堂の中を拝見させていただきますと、小さいながらも二人の童子さんを従えたブロンズのお不動さまがお祀りされていました。
しかもお不動さまの御像の後ろにもう一体のお不動さまがおられます。
古くに祀られていた石仏さまでありましょうか。

このななめ前辺りにありますのが鐘楼。

そして。
御本堂となります。
大きな、見上げるほどの建物であります。
この御本堂からは穏やかで優しい気が溢れ出てくるかのようで、前に立つだけで心が癒され穏やかになります。

御本堂前には勅使門が開かれています。

勅使門を入ってすぐ左側には、御守り等の授与所があります。
こちらはこの日のような特別な日日のみ開かれるように思われます。

どっさりと大きな(本当にかなりの大きさです)恵比寿さまの石像があります。


はて、御本堂の前は固く閉ざされておりますが、一体今日の護摩供養はどちらで?



No.50

本日は紀元2684年二月十一日【紀元節】。

2684年前に神武天皇が即位をされた記念の日であります。

世界で最も歴史が永い皇国(王国)ということでギネスにも認定されています。

あまりに古くから続く国であるために、始まりをいつとするかについて異論もあり、その辺りから『建国記念日』と言わず『建国記念の日』とぼかした表現をしているのはそうした事情によるものなのだといいます。

神武天皇が橿原宮において御即位されたのが辛酉の一月一日で、現在の太陽暦でいうと二月十一日頃になるのだといいます。


橿原神宮まで詣でることは叶わず、せめて紀元祭を執り行われる神社さんへお詣りさせていただこうと、群馬県前橋市に鎮座します【前橋神明宮】さんへとお参りさせていただきました。

とはいえこの神事に参列するつまりでもなく、ただお詣りをと参った次第でありました。

入り組んだ住宅街の一角にあるこちらの神社さん、しかしながら大変清らかな澄んだ気に満ちた神社さんでありました。

宮司さまは神職として神社とはこうあるべきだという信念を持つ、お若いながらしっかりとされた方でありました。

No.49

京都の晴明神社さんがSNSを通じて注意を呼びかけておられました。

【晴明神社】さんは、平安時代中期の天文陰陽博士として名高い【阿部晴明】公をお祀りされている神社で、晴明公の屋敷跡に社殿が建てられたものであります。

晴明公は唐の仙人の神伝を受け継がれた上で、それを元に日本独自の陰陽道を確立された方。
それが元となって、今現在のわたしたちの日常生活の基準となっている〝年中行事〟や〝暦術〟〝占術〟はみなこの頃に成立しています。

今年の大河ドラマはまさにこの時代、そして晴明公も登場される物語となっています。


晴明公は生前、天皇、貴族から庶民に至るまで、その〝力〟を通じて、広くその悩みや苦しみを払い、大きな信頼を寄せられておられ、神として祀られた現在も、魔を除け、厄を除けてくださる存在として、信仰されておられます。


その晴明神社さんに、『晴明井』なる井戸があるといいます。
晴明公が念力によって湧出させた井戸であるといい、湧き出す水は今でも飲用できるもので、『病気平癒』のご利益があるといいます。

この井戸の水の湧き出るところは、その年の恵方を向き、〝吉祥の水〟が得られるといいます。

恵方は毎年変わるものですので、立春の日にその向きを変えるといいます。

今年の吉方 は【東北東 】。

ところが。

そのわずか二日後、二月六日の午後四時ごろ、この『晴明井』を無理に回転させ水が流れる方角を変更した人間がいたのだといいます。


なんと罰当たりな…。

『神をも恐れぬ』という言葉がありますが、かの陰陽師阿部晴明公を祀った神社さんででありますか。

…はあぁぁぁあ。


No.48

今朝みていたテレビで、ベイマックスというディズニー映画のキャラクターが、実は監督であるドン・ホール氏が2011年に新宿を散策した際に花園神社を訪れたことがあり、そのときに見た境内の鈴からベイマックスの顔のデザインを思いついたのだそうです。

なんでもこのベイマックスなる映画、ディズニー史上初の日本人の主人公なのだとか。

主人公の兄が遺した心優しきケア・ロボット〝ベイマックス〟が繰り広げる、〝3Dコンピュータアニメーション・アクション・ファンタジー映画〟なのだそうです。


…ぜーんぶが〝聞いた話〟口調で書かれていることでお気づきでしょうが、私、このベイマックスなる映画を拝見したことはありません。

さすがにキャラクターの名前と顔は一致いたしますが 笑。

…私とディズニー、あまり結びつきませんでしょ?

可愛げのないおばさん、子どもの頃から可愛げがなく、ディズニーの姫さまを見ても心ときめくことなく、小学校の入学で買い与えられた筆箱がディズニーのキャラクターであったことに軽くショックを覚えたくらいの、可愛さのかけらもない女の子でありました。

お年頃のデートも当然ディズニーランドを選ぶことはなく、子どもができて、子どもたちのために重い腰を上げてようやく行くような人生でありました。

孫ができて。
どうかな、…どうやら孫のためには腰が上がらないようです。


とはいえ。

どおりで〝ベイマックス〟、キャラクターの顔と名前が一致したはずです。

近年のディズニーキャラクターに至っては、あのアナ雪でさえ顔と名前が一致しないくらい、ディズニー音痴のおばさんですから。


ところで。
鈴って、鳴らすと音もそれぞれ異なりますが、音を鳴らすための穴にもいろいろな形があって、私はそうした形までが好き。

ベイマックスの〝眼〟となっている鈴は、その穴が丸かったがために監督の閃きに通じましたが、ハート♡形のものもあります。

まあ、これはハート形というよりは猪目(いのめ)という文様(もんよう)でありましょう。

お寺さんや神社さんで見かける、隠れミッキーならぬ隠れハート、猪目は古来より魔除けのために使われているもの。


ハートの穴の鈴に出会うと(おっラッキー!♡)と思うのは、猪目だから?
いや、やはりこれはハート。

おばさんにも♡は可愛いと思われるもの、なんです。







No.47

(鶏足寺さんの続き)

第一駐車場は…。
でブツっと途切れ、?と思われたことでしょう。
申し訳ありません。
しかもその後どうでもいい呟きを書き、本当に申し訳ない。

第一駐車場は、まず御本堂へとお参りして、その後また駐車場を通って墓地へと向かうのに便利な駐車場となっております。

だから私どもに関しては第一駐車場でなくともよかったのでありますが…。

実はこちらには、よく見ないとわからないくらいひっそりと、
安和元(968)年の十一月二十四日に【定宥上人】が百三十六歳で入定したといわれている塚が、『入定塚』として残っているのです。

定宥上人は天皇より【定宥尊誉僧正】という名誉ある名を追諡されています。

あの天慶の乱(939年)で、平将門調伏祈願が成就せしめた法印こそが、この定宥上人であったといわれます。

この調伏祈願にまつわる三本足の鶏のいいつたえから、『世尊寺』から【鶏足寺】と改名されたとされ、このことから鶏足寺では定宥上人のことを〝改号上人〟として尊んでおり、この場はこちらにとって大切な
浄域として大切に守っておられます。

ただ、さきにも述べたように、大々的にここをまつるわけではなく、知る人ぞ知る、という場所。

こちらのHPを読んで初めて知ることであり、その上で第一駐車場を訪れなければ気づくことすらない、ひっそりとした塚であります。



No.46

朝五時半からの雪掻き。

仕事に向かう者がせめて家から出る所では苦なく車が出せるよう、家のそばを歩く方が転ぶことが無いように。
家のそばの交差点も。

家の周りからは、子供からは悲しまれそうなくらい雪がなくなった。


あー、これを毎日毎日、日に何度も繰り返して、さらに仕事に向かわれる雪国の方のすごいこと。
雪掻きのみならず雪下ろしもある。

頭が下がります。

汗びっしょり。

雪掻き終えて、あらかじめ温めておいたあったかいおでんを食べる幸せ。


雪に慣れない地方で雪に難儀されている方々のご無事を祈ります。

No.45

次から次へと。
グググっと屋根を転がる雪のかたまり、そしてそれがドサっと落ちる音に目が覚めた。

雪国の方に笑われそうだけれど。

…というかそんなに積もっているの?

わが家は今二階で寝ている者がいないので二階で暖房を使ってはおらず、つまりは純粋に積もって斜面に耐えきれなくなった雪が、かたまりとなって落ちているだけで。

外を見るのが恐いぞぉ。
玄関開けたらそこは雪国だった
…って?

雪国と違っているのは、除雪車が無いこと。

雪に取り囲まれていたりはしないだろうけれど。

No.44

石川県珠洲市、奥能登でいくつかの神社を兼務される宮司さまが発信されるSNSで。


『明日そっち行く』という一本のメールを受けて、正直、そんな無茶な…と思われたといいます。
40年近く前に一緒に神職となる学校を卒業された方からだとのこと。

そして…。


遥か宮城県から車で一人で、物資を届けてくださったそうです。


『…一番の目的はこの、一時的にご神体をお納めする、仮宮の社殿を届けることだったのです。

宮城といえば、当然、東日本大震災の地で、
奉務する神社は内陸ゆえ、津波の被害はなかったものの、
社殿は大きく歪み、一時的にご神体を仮遷座するため、もらい受けたやしろだそうで、
外でも置けるよう、屋根は銅板が葺いてあります。…』


宮城県から…。
たったお一人で。

途中で一泊されたとのことですが、宮城県から奥能登、
特に奥能登へはまだまだ道路状況が悪くて通常の倍以上の時間がかかるといいます。

「年取ったら涙腺ゆるくなって、ブログで倒れた羽黒神社見たら、涙が出た」
とおっしゃり、いてもたってもいられなくなったとのこと。


同じつらい経験をなされた方だからこそ、でしょう。

思わず胸の前で手を組んでいました。
涙が頬をつたっていました。



珠洲市の神社の宮司さま。
二月十一日の紀元祭のご案内を掲示されておられました。

崩れた神社のなんとか無事な部分を使って、今までもお勤めをはたしておられます。

あちこち受け持たれておられる神社も回られ、同じく被災された氏子の方々と交流を持たれています。


ただただありがたい。
頭がさがります。




…屋根から落ちるドサっという雪の音を聞きながら。

No.43

夫と息子が帰って来る時刻にあわせて、これでもか!ってくらいに雪かきしてのけておいた路面が、
今、どこを掻いて、どこは手をつけなかったかもわからないくらいに降り積もっている。

まるで人生のようだ。

それでも、とりあえず今日無事に帰宅してきてくれた二人が家にいると、雪が美しく見えるものだな。


十センチは積もっている。
栂の木が重たそうに、恨めしそうにしていた。

No.42

(続き)

文永六(1269)年、下野薬師寺長老『慈猛(じみょう)上人』がこの寺に迎えられます。
それまでは天台・真言兼帯のお寺であった鶏足寺は、この時から真言宗となり、高野山から伝わった【真言宗慈猛流】の全国総本山として密法専修の道場となりました。

全盛時は、山内に二十四院・四十八僧房を持ち、全国に三百六十余の末寺があったと伝えられ、遠く四國の善通寺までその教線は及んだといいます。

天皇祈願寺として、又、修行道場の基盤を古くからととのえ密教文化の聖地として栄えていましたが、天文二十二(1553)年、上杉謙信関東鎮定の折兵火にかかり、勅使門を除く堂舎はみな焼失してしまいました。

現在の本堂は江戸時代中期の正徳三(1713)年に、護摩堂(五大尊堂)は享保十七(1732)年に建立されたものといいます。

江戸期再建され、やゝ旧観に復したが十分の一程度の規模に縮小されたのは誠に惜しまれます。


今に伝わる文化財に寺の盛時をしのばれます。
・勅使門
正和年間(1312~1316年)の建立。
・銅印(平安時代)
・太刀銘力王(室町時代)
・梵鐘(鎌倉時代)

など。


この日、勅使門は開かれていましたが、私どもの停めた駐車場は墓地に近い第一駐車場。
どうやら第二駐車場に停めると、この勅使門を通って本堂前へと入るようです。
第一駐車場は

No.41

(鶏足寺・続き)

鶏足寺さんの縁起から。

その後何年もの時が流れて。

大同四(809)年平安時代の初期に
奈良県の『東大寺』さんの【定恵(じょうえ】上人が、『鳴山』より生まれたこの石仏を山の麓に移し、釈迦如来をお祀まりに世尊寺一乗坊」というお寺を建てられました。

仁寿元年(851年)、比叡山の【慈覚大師)によって、寺の山号は「仏手山」、院号は『金剛王院」と定められました。
境域を大きく広げ、釈迦堂を始めとした八つの寺坊や山王社・蓮池などがつくられたたといいます。

天慶二(939)年、下総国(千葉県北部)で勢力を拡大していた【平将門】が坂東全域を巻き込んだ大規模な反乱を起こし、朝廷に反旗を翻しました。(これを『承平の乱』というと夫)
朱雀天皇の命を受け、下野の押領使・【藤原秀郷】は、兵三千騎を率いてその討伐に向かいました。
しかし、当時、隆盛を誇った将門の軍勢は強大で、秀郷の討伐軍は苦境に立たされます。

秀郷の乞いを受け世尊寺(現在の鶏足寺)の法印は、勅願により将門調伏の法を修する事になりました。

五大尊を祀り、その前に護摩壇を築き、中央不動明王壇には、土でつくった将門の首を供え、百人の僧を従えて十七日間、法印は昼夜問わず、修法を続けました。

満願の日、疲れ果てた法印が眠気に襲われ、うとうとしていると、三本足のにわとりが、血にまみれた将門の首を踏まえて、高らかにときの声をあげる夢を見ました。

はっとわれにかえった法印が壇上を見ると、土首の三カ所に、三角のにわとりの足跡がついていたといいます。
法印は「調伏は成功した」と思い、なおも一心に修法を続けたといいます。
すると今度は七・八歳の童子がどこからともなく現れて、
「今、秀郷が将門を討取った」と告げ、告げたかと思うまもなくたちまちその姿を消して見えなくなり、そのお告げの通り、そのとき将門は討取られたといいます。



この霊験により、『世尊寺』は
【鶏足寺】と改められ、勅願・宣旨をはじめ、五大明王像・両界曼荼羅などが朝廷から下賜されたということです。

ちなみに。

足利市には【大手神社】さんという、将門の手が飛んできたという場所に建てられたといういわれの神社さんがあります。

No.40

【節分】

「節分から新しい年になる」


これは星回りということを大切にされる、日光山輪王寺さんで学んだことです。

立春・立夏・立秋・立冬の前日は、各季節の始まりの日とされ、
『季節を分ける』ことから【節分】と言われています。

昔は季節の変わり目には疫病を流行らせる鬼が生じると信じられていた事から、節分で鬼を追い払う風習が生まれたとされるといいます。

また、中国の『儺(な)』という疫鬼を追い払う儀式【追儺(ついな)】が日本に伝わったとも聞いたことがあります。

豆まきも中国の鬼払いの一つですが、日本では『豆』を『魔目』にぶつけて『魔滅』させるという〝言霊〟の信仰からも盛んに行われたとされています。

『魔滅の豆』だったんですね。
そしてこうして文字として書くと『鬼滅の刃』を思い出すあたり、自分がいかに幼稚で世俗的かを目の当たりにいたしますが、それが等身大の私。
成長は必要ですが、背伸びも虚栄もいけません。

そうした心の中の鬼を退治して、明日からまた新たな一年を迎える。


気持ちを新たにすることってとても良いことだと思いますし、そんな機会が幾度もあればあるほど、前に進む力を得る気がいたします。

今年の豆は【鶏足寺】さんでお授けいただいて参った物。
…これがとても美味しかった物ですから、珍道中のペアの夫、撒くのを惜しんで食べる分を確保しておりました。

それって…、心の鬼、煩悩を払えてない証拠なんですけど。

いつになっても幼稚な夫婦でありました。


今日は同じ足利市の鑁阿寺さんで、武者行列の後、豆撒きが行われました。
体調がすぐれないので、そちらは諦めましたが。

ま、良くなったら、今度は武者行列に武者の一人として参加しても良いかなぁ。


No.39

【佛手山 金剛王院 鶏足寺】


『その昔、周囲の山々が突然地鳴りを起こして揺れ動き、異様な音を出しはじめました。
しばしの後、他の山は静まりかえり、一つの山だけがいつまでも鳴り続けます。
山が音を出し始めて七日目、山は急激に大きく揺れ、そこから一尊の石仏が生まれました。
土地に暮らす人々は皆、その山を「鳴山」と呼んで、崇めておりました。』

……。


これは単なる昔話ではありません。
これは栃木県足利市にある【鶏足寺】さんのHPにある〝縁起〟の出だしであります。

私は〝西遊記〟の始まりにも似たこの縁起に、この文を書いた方のセンスを思い、思わずクスッと笑ってしまいました。

いやいや、このお寺の縁起はいたって真面目に書かれたもの。
センス云々などと言っていたら、叱られてしまいそうです。


今日は節分。

そんな鶏足寺さんで本日【節分会追儺式大護摩供】が執り行われるとのことで、何年かぶりとなる参拝に、そして初めての護摩法要へ参列させていただきにうかがいました。

こちら鶏足寺さんは栃木県足利市の外れ、群馬県桐生市に近いところにある、自然豊かな山林に囲まれたところにある古刹であります。

久しぶりに訪れた鶏足寺さんは梅の木の多いお寺さん。
全体的にはまだまだこれからではありましたが、一本だけ満開を迎えた白梅が良い香りを当たり一面に放っていました。

青い空に満開の白梅。
ああ、なんてしあわせな。



No.38

(続き)

こちらの【玉村八幡宮】さんへは、もう幾度とも数えきれないくらい参拝させていただいておりますので、この何スレか立てさせていただいている珍道中録でも幾度か書かせていただいております。

お読みくださっておられる方には繰り返しになることとなりますが申し訳ありません。
とはいえ、今回は孫と一緒でありましたので、拝殿までの参拝にとどまっておりますが…。


こちらの手水舎のそば、神門の前の神橋は小川があり鯉が飼われています。
この神橋から少し外れたところに御神水のお水取りできるところがあって、この日はお一方一升瓶におわかちいただいておられる方がいました。

私どもはついつい手ぶらで来てしまい、一度もこちらのお水をおわかちいただいたことはないのですが…。


こちら群馬県玉村町は、かつて『水の溜まる村』といわれ、今でも稲作が盛んに行われています。
『溜まる村』から『玉村』という名になった、…という説もあるようです。
そんな豊かな水に恵まれた地に御鎮座されるこちらの御神水は、なんと地下百メートルから汲み上げているのだとか。

そしてその元を辿るならば、かつて前橋市の総社藩藩主であった秋元氏が引いた利根川天狗用水の水となるのです。
十七キロほど離れた地にもこの恵み、秋元公の偉大さをあらためて思います。

こうして歴史を知ると、知らずに恩恵を賜っていたことを知ることとなったりと、本当に興味深く、ありがたいことであります。



あ。
また夫の空けた一升瓶を処分してしまった。
ま、まぁ、すぐに空くこととなりましょうが。
いつかこちらの御神水をおわかちいただいて来られますよう、…もはや祈るような気持ちであります。

No.37

(続き)

特設テントということも人目を引くのか、夢みくじには列ができていました。
たくさんの若い巫女さんが対応しており、時折、…大吉でも出た時なのか、あのくじで大きな当たりが出た時に鳴らす鐘を鳴らしています。

日光の東照宮でも、お正月限定で、景品付きのおみくじがありました。


三人とも夢みくじを引いて…しかしながらその鐘が鳴ることはありませんでした。

なんでも大吉か末吉が出ると鐘を鳴らして景品がもらえるということで、景品は『令和六年 末広日記帳』という、ちょうど大きさも厚さも大学ノートくらいのもののようでした。

その中身、大変気になるものではありましたが、残念ながらそれは閉じた状態で置かれているのみでしたので、その詳細は一切わからないまま、なのでありました。


しかしながら。
この夢みくじで私、人生初の経験をさせていただかせていただきました。
それは、〝おみくじ〟というと思い浮かぶ、あの六角形の木でできた箱を振って、その数で御神籤をいただく、というもの。

欲深なおばさん、やれ張子やら焼きものの可愛らしい人形がついたものとか、水みくじであるとか、いわゆる変わり種のおみくじしか引いたことがなく、この〝the御神籤〟という大道は実に初体験であったのです。

孫娘はおみくじ自体が初めての経験で、神妙な顔つきで箱を振っておりました。…そのかわいらしいことといったら♡


おみくじを引いたのち、やはり特設の縁起物の置かれたコーナーを見るともなく見たのでありますが…。

こちらの神社さん、この一年間飾ってお祀りする縁起物の種類の多いこと、多いこと!

破魔矢・鏑矢の他に金色の神通矢なるものがあり、卓上タイプのものもあったような…。
福扇も二種類、台付のもの、金運舞扇というもの。
熊手にいたっては小・普通・豪華・特大があり、羽子板札なる、まさに羽子板の縁起物もありました。これは赤と青があったので二種類となりますか?
その他纏の形の火災除なものもありました。

そういえば。
こちらの神社さん、良い初夢を見られる御札もおわかちくださっているのでした。
今年になってまだ夢を見ていなかったのではありますが、一応初夢というのは見る日というのは決まっているようなのでお受けしても来年用となりましょう。
…その間に無くしてしまう可能性も大、やめておきました 笑。

No.36

(続き)

さて。

こちらの玉村八幡宮さん、最近では『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』で出川さんが立ち寄ったり、(もしかしたら放映前?前後編のようで前半は放映済みなようなのですが…)、サンドイッチマンさんが、このすぐそばで売られている八幡茶屋のわらび餅を食べて「美味しい!」と絶賛していたりと、メディアでもいろいろ取り上げられているようです。

過去にはあの、現 Number_i となった三人がKing & Prince時代に訪れてもいます。

また神事と併せて境内でイベントも開かれることも多いようで、人混み嫌いな珍道中ペア、知らずに行くと大変な目に遭います。

今回、お正月の三が日は避けたものの、まだ松の内という、まだまだ人出も多そうな時の参拝。
どうなる?珍道中ペア!

…いや、別にどうにもなりませんでしたが、とにかく混んでおりまして、駐車場は第三という、増設中のところへ案内されたくらいでありました。

それでも中に入ればさほどな混雑は見られず、いつもきれいな花手水もお正月バージョン。
孫娘も大好きな花手水をゆっくり愛でさせていただきました。

神門の前には門松が立てられており、孫は生まれて初めての門松を拝見させていただきました。

駐車場の混雑ぶりはどこへやら、拝殿前も並ばずに参拝ができました。

…これは亥年の孫と一緒の御利益?


境内には特設のテントがあり、『夢みくじ』と書いてあります。
あれ?
何やら当たりつき?

おばさんの目が光ります。


No.35

(続き)

ところで。

十二支、干支の守り本尊さまはよく聞くのですが、はて?

…戌・亥年生まれの守り神さま。

えっ?
他の干支の守り神さまは?

戌亥年生まれではない子どもたちの守り神さまは?

と、気になってしまったおばさん、なのですが…実に今年のこの初詣に行くまで、それについて調べてみなかったずぼらぶり。

ようやくウン年の時を経て、その秘密にせまりました。


こちらの御祭神・応神天皇さまは十二月戌の月・十四日亥の日に生まれ。百歳を超える長寿であったと伝えられることから、古くから八幡さまをお祀りする神社は
【戌亥八幡】と称されるところがあるということでありました。

こちらの玉村八幡宮さんでは『氏子崇敬者』さんの戌亥年生まれの方たちにより【戌亥講】なるものが組織されているとか…。

そんなことから、こちら【玉村八幡宮】さんは戌年・亥年生まれの守護神として広く崇敬をあつめているのだということでありました。

No.34

【玉村八幡宮】

明日には二月になろうというのに、初詣のことを書こうというおばさん。


おばさん、おばさんと自ら言っていては、老化が進むばかりです。
とは思うのですが。
…おばさん業、思いの外〝楽〟なんです。

初めて行ったお店でセルフレジでスマートに操作できなくも、間違って変な操作をしてしまっても、以前と違って恥ずかしいと思わなかったり…(←おいっ! 笑)

変な背伸びもしないし、変なプライドも無くなって、とても楽ちん、なんです。


閑話休題。


玉村八幡宮さんのことは何度かこちらに書いております。

が、初詣は初めて。
と言っても、三が日は過ぎていたのではありますが…。

こちらのご祭神は

・誉田別命(ほんだわけのみこと)さま(=第十五代応神天皇)
神道界だけでなく、仏教界でも仏法守護の神として「八幡大菩薩」称号を奉られるほど強いご神徳があります。
・気長足比売命(おきながたらしひめのみこと)(=神功皇后 応神天皇の母)
応神天皇の母神として、安産・教育・子育てなどのご神徳があります。

・比咩神さま
神道の女神さま。

であります。

ところで。
こちらの神社さん、戌年・亥年の守り神さまとうたっております。

娘は戌年。
孫は亥年。

この二人を思うとき、こちらに参拝させていただくことが多くなりました。

この日はこの亥年生まれの孫を預かっており、ならば本人を連れて初詣に行こうと、じじばばと孫の三人で参拝させていただきました。

No.33

                                
…自己肯定感の低さ故生きづらさを抱える人達に、優しく強く寄り添える様な作品にしたいという思いが強くあり…


そんな尊い思いを持ち生きておられた方が…。


ただただつらい。
辛くて、悔しい。
胸が締めつけられて涙が出てしかたない。

このニュースが流れると瞬間的に目を伏せてしまう。
指先が震えてしまう。



No.32

(続き)

金色の御仏の像を思い浮かべてみてくださると、お気づきになられるかもしれません。
御仏の螺髪と呼ばれる頭髪に当たる部分が美しい『青』であったことを思い出されたでしょうか。

またその瞳も『真青眼相』と呼ばれる群青色をされた御像もあります。


これはまさに【群青】という色で、『アズライト』という鉱石から精製される、いわゆる【岩絵の具】と呼ばれるものを使っての色なのです。

岩絵の具は石の希少価値によって値段が異なります。
このアズライトを使った『群青』はとても高価なものだといいます。

アズライト自体が貴重なのですが、それだけでなく、他の鉱石が混じって採れるので、その精製がまた非常に難しいのだといいます。
不純物が少しでもあると美しい青色が出ないこともあって、他の色よりもずっと高額なのだといいます。

そして、さらにこの『群青』、硫酸に反応すると変質する性質があるといいます。
『朱』という赤い絵の具には硫黄が含まれているので、もし朱の上に群青を塗ってしまったら、何十年後かな黄ばんでしまうのだといいます。

仏像などの修復にあたる『彩色師』と呼ばれる方は、こうした鉱物の性質に至るまで勉強が必要なのだといいます。


私の思い出の中のくれよんの群青色はこの御仏や神社に使われるものとはまるで異なるものではありますが、美しいブルーというひとくくりで言うならば群青色はまさに『聖なるブルー』、なのであります。

ちなみに。
くれよんの群青色も他のものと比べるとたいへん高い一品でありました。


「私のあのくれよんはどうしたでせうね。
ええ、あの群青色のくれよんですよ。」


と、パロディを一つ。

No.31

ふだんは何かを買ってもらうにも作戦を練って、それでも撃沈するようなことばかりであった子供の頃。

突然、父が三十六色のくれよんを買ってくれた。
おねだりをしたわけでもなく、誕生日とかでもないというのに、学校から帰ったらポンと机の上に置かれていた、まさにサプライズの贈り物であった。
もちろん絵が上手いわけでもない。

どうやら妹たちに十二色のくれよんを買ってあげて、そこで見かけた三十六色という、当時は珍しく、クラスの友だちも持っていなかったような目を見張るほどのキラキラのくれよんであった。

友だちが持っていて、羨ましかった金色、銀色といった色もそこには他の見慣れた色と同じように、ちょこんと並んで入っていた。

そうだ。
ねだりこそはしなかったものの、父に
「あのね、金色と銀色のくれよんがあるんだよ」
と日々のなにげない報告の中で、そんな話をしたことがあった。
父はちゃんとそれを覚えていてくれて、しかも金と銀ならば二十四色のセットでも入っていたのに、おそらく私の驚いて、そして喜ぶ顔を見たくて奮発して三十六色のものを買ってくれたのだ。

父の思惑以上に嬉しかった。
今でもその光景が目に浮かぶほど嬉しかった。
中学生になっても大切にしていたくらいだった。

…しかし、そのくれよんの存在を知っていた母によって、私が学校に行っている間に、勝手に机からそのくれよんを取り出され妹たちにあたえられてしまったのだ。

同じ学校に行っている間という条件のもと、父と母は真逆の驚きを与えてくれたものである。
父からは喜び、母からは哀しみを。


その三十六色のくれよんを手にしたとき、ある一本のくれよんに、私は目が釘づけになるほど惹きつけられた。

それは『ぐんじょういろ』と書かれた、初めて見るそれはそれは美しいブルーであった。

この色を私はとりわけ大切に使った。
今でも(…とはいえ、今この歳になって好きな色など聞かれることなどないが)好きな色と聞かれたら、
「群青色」と即答するくらい大好きな色となった。


この群青色という美しい色と、今時々出会うことがある。

それはどこであろう、他ならぬ神社仏閣なのである。

No.30

(川越氷川神社さんの続き)

いつもなら、境内をくまなく歩く私どもですが、この日は息子も一緒。
へたをすると、一時間でも二時間でも軽く一社一寺にとどまってあちらこちらを巡らさせていただく珍道中ペアですので、この日は通常の参拝にとどめました。

摂社・末社さんのたくさん並んだところも見えてはいたのですが、またいつか必ず再拝できますようにと願いを込めて、この日はこれで、川越氷川神社さんをあとにしました。


こちらの見どころといわれているものの一つ、『絵馬トンネル』も覗いただけでくぐらなかったのですが…、これはきっと、再拝してもくぐらない、かなぁ。

この絵馬トンネルと称される、結構長い通路には、おびただしいという言葉がまさに相応しい、びっくりするほどの絵馬がかけられているのをテレビかネットで見たのです。
左右はもちろん、記憶違いでなければ上部にも。

売っているときのように重ねて吊るされた絵馬が、売っているものよりもはるかに多い数あるのです。

一体いくつの絵馬が奉納されているのやら…。

尊い、人の心からの願いが、その一枚一枚に込められていることを考えると、とても軽々しく歩けない気がして、吊るす絵馬を持たない私はそこのそばまで行くのも憚られたくらいです。


こちらの御祭神は素戔嗚尊さまと奥さま、
そのお子さんともお孫さんともいわれる大己貴命さま、
奥さまのご両親神さま、

というファミリーをお祀りされた神社さんということで、それぞれの神さま方の御利益にプラスして、家族円満であるとか付加された御利益も得られるありがたい神社さんです。

私のような煩悩おばさん、お願いすることを探せばきりがありません。

が、こちらはなかなか遠く、願い叶ってのお礼にすぐにすぐ参拝することが叶いません。

それなので基本絵馬を奉納することはないのです。


遠くの神社さんでお参りするときは、お参りさせていただいたお礼と、その地をお護りいただいているお礼と、今後も末長くこの地をお護りくださいという三つだけを申し上げております私。


いつかまた川越氷川神社さんを訪れることができますように。

No.29

驚いたこと。

わが家の〝鼠のひたい〟と称する庭では、(今日はさほどではないけれど)この一年でもっとも寒い今、カワラナデシコの花が次々と咲くのである。
花の咲く時期とされる頃よりは、ずっと小ぶりの、やっと咲いているような、弱々しい花ではあるのだけれど。

それどころか先日まではコスモスの花が咲いていた。
直径一センチくらいの小さな小さな花だったけれど、二週間ぐらい咲き続けていた。

寒さに凍えるように咲くこれらの花々に、ごめんねと思わず語りかけてしまう。

異常気象で夏が長かったから、ことコスモスなどは溢れた種から発芽してしまい、こんな季節外れに咲く羽目になってしまったのだ。


そして。
今日は道端でまるでそこだけ季節が異なるかのように、ヤグルマギクが咲いていたのだ。
このヤグルマギクにいたっては、その季節の頃と同じくらいの花を、普通に大きな花を咲かせていた。


地球は一体どうなっていくのだろう。

No.28

(続き)

この小川、境内地下の水脈から汲み上げた御神水が流れるものだといいます。
この小川に人形(ひとがた)とよばれる、水に溶ける和紙(人の形にカットされたもの)を流して、心身の穢れを祓う『人形流し』を行います。

人形に三度息を吹きかけ、さらに人形を体に撫で付けると、穢れが人形に移るとされています。
その人形を折らないように気をつけて、
「祓えたまえ 清めたまえ」
と唱えながら小川に浮かべます。

この人形、水に浮かべるとすぐに溶けて分解が始まるんですよね、ほんとびっくりするくらいです。

本当は流し始める場所も決まっていて、そこから、小川上にあるしめ縄のかかった部分を超えるように、ということのようなのです、が。
とにかく人が多いのです。

そして。

この小川、地下水脈から汲み上げた水がゆっくりと流れているという人工のもので、もう、その水面が白い、白い!
紙漉きがそのまま出来そうなくらいの白さです。

ええぇ?

ここでみんなの穢れが澱んでいるんじゃ?
これでは私の穢れはしっかり水に溶けないぞ。

私は独自の方法で人形流しをすることといたしました。
人があまり行かない、水が水である上流で流すことにしたのです。

せっかくこの身の穢れを流せるというチャンス、活かさなくてはいけません。

「祓えたまえ 清めたまえ」

お陰で、紙漉きの出来そうな所に到達する前に、私の穢れを移しとった人形はきれいに溶けてゆきました。

…決して順番待ちが嫌だったわけではありません。本当です。


この小川に、大きな岩があって、この岩は本殿に鼻先を向けた戌(いぬ)の形をしているとされ、『戌岩(いぬいわ)』と呼ばれているといいます。

この岩の犬の鼻先を撫でると子授けや安産祈願によいと言われているのだそうで。

…どおりで若い親子連れの方がその辺りに多かった。

私が人形を流した辺りが、まさにその戌岩のそばであったのです。
そうとは知らない私、周りの方から向けられる不思議そうな視線が何であったのか、ようやくその理由がわかりました。









No.27

紅い大鳥居から再び拝殿の方角に向かうと、みぎてには温かな飲み物や甘味のキッチンカー、ひだりてには川越氷川神社さん名物の一つ、『鯛みくじ』、『鯉みくじ』、そして『芋みくじ』があり、人だかりができていました。


今ではこの『鯛みくじ』、何年も前私が地元で引いたことがあるくらい、『全国区』となって久しいようですが、ご存知ではない方もおられるかと存じますので、軽くここに書いておきます。

手のひらにちょこんと乗るくらいの、張子の真っ赤な鯛のしっぽにおみくじが入っています。
鯛は古くから神様へのお供えものであり、縁起のいい魚としても知られています。
この鯛の張子には『一年安鯛』と書かれた紙片が貼ってあります。

この赤い鯛の張子がたくさん入った桶から、備え付けの竿を使って鯛を釣っていくといった遊び心たっぷりのスタイルのおみくじです。

…いかにもこのおばさんが好きそう、でしょう?


赤い色の一年安鯛みくじはその年の運勢などが記された、一般的な内容のおみくじで。
もうひとつのピンクや水色の鯉みくじは花言葉や花の名前、出会いなど恋愛について詳しく記された恋みくじだといいます。

そして、度肝を抜かれた『芋みくじ』はやはり張子のさつまいもおみくじが仕込まれているもののようです。
こちらは…あまり可愛らしさもなくて、私は近づいてみることもしなかったのですが。

なんでもその〝おいも〟を網ですくったり、芋掘りをしたり、とそのときそのとき、人出とかも考えながら、なのでしょうが、何パターンかいもの取り方=おみくじの引き方があるようです。


同じく左側には少し奥まった鳥居があり、護国神社さんが鎮座していました。


そして…。

みぎてには小さな小さな小川があって、鯛みくじよりも多い人だかりができていました。



 (昨日参拝したとある神社さんで
  満開を迎えていた梅)

No.26

御朱印をお授けいただくため、社務所にお邪魔いたしました。
そこで対応してくださった巫女さんのやわらかな物腰とやわらかな言葉に、感動し、そして癒されました。

たしかに、こちらの神社さんの良い教育があってのことでもありましょう。

しかしながら、決してそれだけではなく、巫女さんご自身が、こちらの、川越氷川神社さんを、心から大切に思い、できうる限りの良いおもてなしをして、ここでの良い思い出を胸に抱いて帰途についてもらいたい、という思いをもって、一回一回の対応に心を込めておられるからだと、強く感じられるものでありました。

その後別の巫女さんにも話しかけましたが、やはり同じで。
やわらかな物腰と、やわらかくて優しい、相手を大切にした言葉、優しい笑顔で対応してしてくださいました。

なんと良い神社さん♡

すっかりこの川越氷川神社さんのことが大好きになりました。

御朱印をお授けいただいて。
今年の干支の土鈴をお受けいたしました。

御守りもたくさんあったのですが、…こちらの御利益、〝縁結び〟、ですからねぇ。

このあと、私が『川越氷川神社』さんを参拝したなら、必ずこれだけは欠かせないと、意気込んでまいりましたところへと向かいました。


向かって、目に入ってきたのは大きな大きな赤い鳥居でありました。

あ、これこれ、これだっ

…テレビを見て、川越氷川神社さんには赤い大きな鳥居があると、私の脳に刻み込まれていたのです。

一の鳥居を見たとき、…それは思い出せてはいなかったのですが…、抱いた小さな違和感はこれ、だったのです。

この、見上げるほど大きな大きな赤い鳥居。
これはあの平成の御代替わりを奉祝して平成二年に建てられたものだといい、日本で一番大きな木造の鳥居、なのだといいます。

思わず吸い寄せられるようにその赤い鳥居へと向かいました。

高くてまるで見えはしなかったのですが、この扁額はあの『勝海舟』の直筆のものだといいます。

はあぁ。


さて。
再び社殿の方へともどります。



No.25

川越城の本丸御殿の前を通って。

突き当たりの道を渡ると小ぶりながらも品の良い博物館と美術館が並んで建っています。その横にある歩道を歩いて進むと。

大ぶりな人よりも縦横大きいほどの、大きな大きな白ウサギので像のある、明るい、建てられた建物はいかにも新しい和菓子屋さんがありました。
『道灌まんじゅう』とあります。
…太田道灌!お饅頭になっていましたか!

食い意地が張ったおばさん、道灌まんじゅうにも、この大きなウサギの像にもいたく心を惹かれましたが、…まずは神社さんへお参りです。
後ろ髪を引かれつつ、真っ直ぐその前の道を歩いてまいります。

とまもなくみえてくるのが、道を隔ての石の鳥居、【川越氷川神社】さん一の鳥居でありました。

ん…。少し、なんとはない小さな違和感が…。
でもまぎれもない一の鳥居で、続く二の鳥居はすぐそこです。
目の前には拝殿が見えて…。
おばさんの小さな違和感は跡形もなく消え去りました。

やわらかな、あたたかい気が溢れて流れくるような、前に立つだけで幸福感に包まれるような、素晴らしい神社さんでありました。

はやる気持ちを抑えて、手水舎へと向かいます。

足早に拝殿前へと進みます。
もう、早く拝殿の前に行きたい気持ちでいっぱいになってその気持ちが溢れてのことでありました。

境内にはそれなりに人がおられたのですが、拝殿に向かうものは私どもだけという奇跡。

手を合わせて。
…。
手を合わせているだけの時間が少しあったくらいに、胸いっぱいに幸せが詰まった瞬間でありました。

初めて参拝させていただきました御礼を申し上げて、胸いっぱいいただいた幸福感を感謝申し上げて。

何もお願いすることなく、拝殿前をあとにしました。


凄いお力の神社さんでありました。


No.24

こちらの神社さんといえば、一番に挙げるとしたら、…どれかしら。

そう悩むくらいに特色のある神社さんです。
…などと申してはおりますが、あくまでもおばさん、この日が初めての参拝であります。

でもやっぱり。
あの数量限定のあれ、でしょうか。
毎朝八時に無料でお授けいただけるという『縁結び玉』♡

こちらは“境内の玉砂利を持ち帰ると良縁に恵まれる”という言い伝えから、身を清めた巫女が小石を拾い集めてひとつひとつ麻の網で包み、毎朝神職がお祓い・御祈祷し、個数限定でお授けいただける、というもの。

テレビで拝見したのですが、これを求めて朝の5時前からこれを求める方々が列をなしていました。

ちなみにこの『縁結び玉』、いったいどのくらいの方がお授けいただけたのかを知りたいと思ってSNSをのぞいてみたのです。

…いないのです。

お一人も。

びっくりです。

No.23

【川越氷川神社】

川越氷川神社さんは川越の総鎮守だといいます。
その御由緒は大変古く、古墳時代の欽明天皇二年に創建されたと伝えられています。

室町時代の長禄元(1457)年、太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。 江戸時代に入ってのちも歴代の川越藩主より社殿の造営や特別の計らいを受けました。
現在の本殿には緻密な彫刻が施されているといい、県の重要文化財となっているとのことであります。

いにしえより縁結びの神様としての信仰を集め、人々のご縁を取り持ってまいりましたのは、お祀りしている五柱の御祭神にあります。


こちらの主祭神さまは
素盞鳴尊(すさのおのみこと)さま。
脚摩乳命(あしなづちのみこと)と 手摩乳命(てなづちのみこと)の
夫婦神さま。
さらにその娘であり、素盞鳴尊の妃神でもある
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)さま。
そして、素盞鳴尊と奇稲田姫命のご子孫ともお子様ともいわれ、また出雲大社の縁結びの神さまとしても知られる大己貴命(おおなむちのみこと)さまの五柱の神さまであります。

これらの神さまがたはみなご家族であることから、【川越氷川神社】は『家族円満の神さま』、
また、ご祭神に二組のご夫婦神様が含まれていることから、
『夫婦円満・縁結びの神様』として川越の人々から厚く信仰されております。


近年はメディアを通じ全国的にも有名な神社さんでもあります。


No.21

ところが。

何の気なしに見ていたネットで、

『満月の前は体調やメンタルが揺らぎやすいときでもある』とか、
『満月前夜いらいらが高じた時』とか、いった言葉が目に入ってきたのです。

えっ、そうなの?

そんなの私、うん十年生きてきて初耳なんだけど。

実はまさに今日は満月。
とは言っても、日付が変わってAM2:54という時刻にまん満月の瞬間を迎えましたので、今はもう少しづつ欠けていっているのですが…。

つまりはまさに〝満月の前〟であったわけで。

その記事を読んでみれば、

『満月には、感情があふれ出して、なんだかイライラしたり、
せつなくなったり、
やたら心配になったりすることが多い 』

と綴られています。

ほう。なるほど。

さらに

『一月十一日の新月からのここニ週間、自分の気持ちの器を越えるようなことが多ければ多いほど、その反動が満月前後にやってきて、気持ちがあふれやすくなるのです。』

とも書かれていました。

ん?
そ、そうかなぁ。
たしかにイレギュラーに突然孫を預かる日が二日あったりしましたが。
しかも片道一時間の道を運転して…。

でも別にそれは大したことではないと、自分ではなんとも思ってはいなかったのだけれど?

うーん、そう言われてみると同居の息子が高熱を出したりもあったなぁ。


ま、満月の前はそうしたことがあるらしいことにはすぐに納得はいきました。

なぜなら月の満ち欠けで、お産の数が増えたり、喘息の発作が起きやすかったりと、科学では説明できないことがあることを、現場の医師や助産師さんが言っているのを何度となく聞いていたから。

気圧も凄いことになっています。

デリケートな私が影響を受けても不思議はありません。(えっ?)笑


今、不整脈で心の臓すらも不安定な時でもあります。

うーん。

…写経でもいたしましょうか。

No.19

未熟者の私、ここ三日ほどすぐにイラっとくることが多くて、自分でもびっくりするくらい沸点が低くて、沸騰した時のブクブクも大きく、正直戸惑ってもいた。


…カルシウムが足りない?

寒さの中カルシウムのサプリメントを買いに出かけたくらい、自分でもその感情の不安定さが不安でもあった。


一例を挙げるならば。

出かける前にはよく晴れて風もさほど吹いてもいなかったというのに、帰ってきたら、布団干し四つで留めておいた布団は吹っ飛んでおり(…それでもここで〝布団が吹っ飛んだ〟というフレーズを使う、気持ちのゆとりはかろうじてある 笑)、夫の服に至ってはハンガーを2箇所も3箇所も洗濯バサミで留めていたというのに、どこにどう飛んだのか影も形もないのである。

他の洗濯物は一切飛んでなどいないというのに。

元々上州の空っ風のもとで育っているので、たとえ風が吹いていなくともかなりの風対策はしているのだ。

はぁ?

この日テレワークで在宅で仕事をしていた夫、ほんの10分前まで昼休みだったというのに…。

まぁ、彼はそういったことに関心もなければ気も利くタイプではない。
仕方ない、彼は家にいなかったと思えば、これはただの事故、事故。

そう思っていったん家に入ると。


!💢


この日、9時台という早い時刻に彼宛てに届いた子供がそれこそ三、四人入れそうなダンボールで届いた宅配物があり、彼が仕事中に使うものと知っていたので、開けてからの仕事部屋に届け、そのやたらめたらどデカいダンボールは玄関に置いておいたのだ。

実はこの日、私は前日にバッテリーが上がってしまった車の対応に追われていたのだ。
この車のディラーは毎週二日の休みで、よりにもよってその1日目。
「これからでは対応できませんね」
…まだ午後になって間もない時間だというのに、いともすげないお言葉でバッサリと切られてしまったのだ。

そもそもバッテリー上がりがどうかもわからないその車の対応でレッカー車を呼ぶことになり、それでもそのレッカーの会社の方のジャンピングでなんとか復帰した車を、そのまま整備工場を持つカー用品店に行っていたのだ。

そんな中でも彼の昼食の用意はして出かけている。
なのに、ダンボールをたたむことすらできない?💢


まぁ、この時彼は仕事中、胸ぐらをつかむことはできませんでしたので、ご安心ください。



No.18

心に響いた歌がありました。


わが心 鏡にうつるものならば
さぞや姿の 醜くかるらん


古い歌だとだけ書かれていて、詠み人もわからない歌のようです。


うーん。

…はるか昔の私が詠んだ?
いやいや、かつての私とて、かような文才は無いはず。

はあぁぁ、命尽きるまでの間、少しでもがんばって生きよう。
心を磨いて。


No.17

今日から『七十二候第七十一候』の【水沢腹堅(さわみずこおりつめる)】です。

沢の水も凍るほど寒い頃、という意味であります。
実際に沢の水はそうそう凍るものではありませんが、今、まさに寒さの底といったところでしょうか。


庭の、メダカを飼っている鉢も今日は表面に氷が張っていました。

冬眠、というほどではないのでしょうが、秋頃からメダカはあまり動かなくなり、そして餌もあまり食べなくなります。
初めての越冬のときには、氷を張らせてしまったことで、メダカにひたすら謝りながら、氷をのけて、あたたかい場所に移動したものですが、氷の張った表面から離れた底で、しっかり越冬できることを知った今は、せいぜい氷をのけてあげるくらいで。

一年くらいしか生きないと言われているメダカですが、一年半以上生きている個体がおり、一番食欲旺盛で活発に泳ぎ回っています。
このメダカを猫可愛がりしているおばさんであります。


榛名神社さんの滝は今年も見事に凍っておりました。
榛名湖の水も波の形に凍ります。

そうそう、桐生市には見事な氷柱の見られるところがあります。

まぁ、どちらも私の運転技術では行かない方が良いかと思うので、自分一人では行か(け)ないのではありますが…。


そうそう、今日は一粒万倍日のようです。
そして冬の土用。
庭いじりは避け、せいぜい悪いことをしないよう気をつけて過ごしたいと思います。


…それにしても。

ビビりのおばさん、信心深くもなく、スピリチュアルとかには興味もないのですが、なにせビビり。

以前のようにあまりそうした、やれ一粒万倍日だとか、土用の期間だとかを知らずにいた方が縛られずに、のびのびいられたような…。

こうしたことともうまく付き合っていくことがおばさんの新たな課題です。

No.16

(続き)

そろそろ、このおばさんいつまで喜多院さんについて書き続けるのだろう、という声が聞こえてきそうな気がいたします。

再拝したならまた、今回拝観できなかった客殿や書院について書くに決まっているというのに…。


この喜多院の七不思議、実は全て喜多院さんの境内にあるわけではなく、道の端にあったり、場所によっては一キロほども離れているといいます。

今回たまたま通りかかった一つを書いて、喜多院さんに関するレスは終了したいと思います。

それは喜多院さんから本丸御殿へと向かう途中、喜多院にほど近いところにあるのを、偶然見かけたものでありました。
それは『明星杉と明星社』と書かれた案内板でありました。
そしてその看板から少し奥まったところに、小さな石のお社がありました。

小さなお社です。
夫は足も止めず素通りしようとしたくらいです。

しかしながら。
実はここは喜多院さんがここに建立されることとなったゆかりの地であり、ここの伝説が喜多院さんの山号となっているほど大切な場所であったのです。


『永仁四(1296)年のこと。
仏法を広めるため、尊海僧正は牛車に乗って仙波の地(現在、喜多院が建っている場所)を訪れました。

ところが、橋の前で牛が急に立ち止まってしまいます。
尊海は「この場所には何かあるに違いない」と考え、仙波の地に留まることにしました。

すると、その晩、近くにあった池の中から不思議な光が浮かび上がってきたといいます。
その光はあっという間に空高く舞い上がり、明星となりました。
そして、古い杉の上にとまり、キラキラと輝き始めたというのです。

尊海僧正は
「この地こそ霊地に違いない」
と考え、ここにお堂(喜多院)を建て、仏法を広めるための拠点といたしました。

このことから、喜多院の山号が『星野山(せいやさん)』となり、この地に『明星(みょうじょう)』という字名が付いたといわれているのだといいます。


これから向かったのが、川越城の本丸御殿でありました。
その途中、童謡【とおりゃんせ】の舞台となったという神社さんのそばを通ります。


ただ、今回はその二箇所はそばを通っただけで、このあと【川越氷川神社】さんへと向かったのでありました。

No.15

あ。

早速漏れを発見しました。
しかも、一レスを使って書いていたあの、仙波という地名にまつわる竜神さまの池のお話です。

情けなや、情けなや。

しつこくもなりますが、一挙していた方がいいと思い、あらためて列挙いたします。

【喜多院の七不思議】

一、明星杉と明星の池
一、潮音殿
一、山内禁鈴
 ※これについてはさらにいくつもの伝承があるようです
一、三位稲荷
 ※これについても二つほど伝承があるようです
一、琵琶橋
一、底なしの穴
 ※これについても二つほど伝承があるようです
一、お化け杉
一、五百羅漢
一、鐘楼門の鷹

一、竜の池弁天(追記分)

No.14

(続き)

喜多院さんには『七不思議』があるのだといいます。
それはHPにも七不思議の一つとして紹介されているものもあったくらいです。

ですがさすがにその伝承全てを載せるとあまりにも膨大になってしまうためなのか、七不思議について触れているのはほんの一部であり、その全てはなんなのか、そういった伝承好きのおばさん、調べてみました。

調べてみますと、なんと私が気になって調べた前レスの〝仙波〟についての伝承も七不思議の一つであり、(これはなかなか感のいい)と、鼻が数ミリ伸びた気がするようなおばさんです。

しかし、それよりも先に、疑問に思っていた七不思議について調べていればよかったのでは?と思うと、伸びた気がする鼻が元よりも少し低くなったような…。

そんな簡単に鼻が伸びたり縮んだりするようではほら吹きおばさんであることを証明したようで、かえって情けないことで。


閑話休題。


喜多院さんの七不思議について調べてみますと、諸説あり、ある紹介ではこの七つを挙げ、別のものではまた異なる七つを〝七不思議〟として紹介していることがわかります。

しかしながら。
かつて別の七不思議を調べた際、七不思議の〝七〟は必ずしも数字の〝七つ〟ではないと述べておられたものがあり、こういった伝承を〝七不思議〟として取り上げようとしたとき、どうしてもその〝七〟〝七つ〟にしばられて、選抜されることが生じてしまう、とのことで、ここ喜多院さんにおいてのそれも、まさに七つを超える七不思議でありました。

調べたものを羅列してみます。

一、明星杉と明星の池
一、潮音殿
一、山内禁鈴
 ※これについてはさらにいくつもの伝承があるようです
一、三位稲荷
 ※これについても二つほど伝承があるようです
一、琵琶橋
一、底なしの穴
 ※これについても二つほど伝承があるようです
一、お化け杉
一、五百羅漢
一、鐘楼門の鷹



他にもあるかもしれません。
他ならぬざるおばさんの調べでありますので。

…それにしても。
私が私を語るとき使う〝〇〇おばさん〟という別名も、やれ〝(歩く)煩悩おばさん〟だの、〝エックスキューズミーおばさん〟だの〝ざるおばさん〟もそうですが、調べたら七つくらいありそうな。
その全てがしょうもないものである事かいかにも情け無いおばさんです。



No.13

(続き)

それにしても…仙波って、なんだろう。
もちろん地名であるのではありますが…。

…調べてみました。

昔、この仙波のあたりは海だったといいます。
それについてこの辺りにはこんな伝説があるのだといいます。


『…むかし、仙芳(せんぽう)という仙人がお寺を建てようとこの辺りを訪れます。
しかし、周りは海ということで、なかなかいい場所が見つかりません。

仙芳仙人は竜神で海の主である老人に会いました。
そして、お寺を建てたいことを伝え、自分の衣を広げた分の土地をいただきたいと頼み、竜神はそれを快諾しました。

仙芳仙人は衣を広げるようにして投げました。
すると。
衣はどんどんと大きくなって数十里にも広がりました。

竜神は驚き、自分の住む場所を残してほしいと頼み、仙芳仙人は竜神のために小さい池を残しました。

仙芳仙人は土仏を作り、それを海に投げました。
すると瞬く間に海はしりぞいて陸地になったということです。 

伝説には信じにくい内容がありますが、たしかに今から7~8千年前、東京湾は仙波周辺にまで入り込んでいたことが分かっています。

そして仙芳仙人が竜神のために残した池は、今『龍池』と呼ばれ弁財天さまがまつられています。』

…という伝説があるのが、この喜多院さんの辺りでありました。



No.12

(続き)

昨年(令和四年)川越市政百周年にあわせて、こちらの御本殿が特別公開され、御神体も初めて公開されたといいます。

一般的に神社の御神体は鏡や剣、勾玉が安置されていると聞きますが、こちら仙波東照宮の御神体は、金箔の厨子(ずし)に納められた甲冑姿で馬に乗っている木像の家康公であるといいます。

長い年月人目に触れることのなかった御神体。
この特別公開は市政百周年を以て初めてというもの。
大河ドラマの影響もあったのでありましょうか?
いずれにしてももう生きているうちにはお目にかかれないであろうと思うものでありました。

その他、拝殿の『三十六歌仙額』や幣殿に飾られている『十二聡の鷹絵額』、入口随身門の左右に昔、安置されていた『木造随身像』二体も拝殿の中で拝観できたといいます。

はあぁぁ…。


煩悩おばさん、こうした〝特別〟〝限定〟といった言葉に大変弱うございます。

しかしながら…。

コロナ禍より以降、こうした欲はどうも薄れた気がいたします。

限定〇〇、特別〇〇、たとえば特別御朱印等、気持ちは揺らぐものの、それはさざなみよりも静かで穏やかなものとなりました。


これが、御開帳ラッシュの午年やらを迎えたとき、どうなることか…。

やっぱりまだまだその辺あやしいおばさんな気もいたします。


社務所で書置きの御朱印を授与していたバイトの高校生の男の子。
こちらでの御朱印希望は、切り絵の美しい御朱印希望がほとんどのようで、「御朱印を一体お授けください」と申しましたら、何も聞かずして切り絵御朱印を用意しだしました。
「そちらでない普通の御朱印を…」
と申しましたところ、あからさまに顔つきや声が変わり、なんともぞんざいな手つきで御朱印を渡してまいりました。

…切り絵御朱印も美しいんですけれど、ね。

切り絵御朱印を受けるにしても、通常御朱印ははずせません。


ちなみにこちらは社殿を斜め左から映し取った美しい切り絵でありました。

こういった切り絵タイプのものは、それ専用の御朱印ファイルに収めないと、どうしても折るしかなくて、
そこまでして集めるほどの情熱がなくなっている私でありました。

まぁ、スイッチはゆるゆるで、いつでもどこでもオンになる気がいたしますが 笑。



No.11

(続き)

【仙波東照宮】さんは赤い、さほど大きくない拝殿であります。
澄んだ、清らかな気が満ちている静かであたたかな空間です。

しかしながら。
まことに不敬な言い方をいたしますが、…東照宮にしては、三大東照宮にしては少しコンパクトな気がいたしました。
彫刻などの装飾も、一つ一つは丁寧な造りながらも、少ないように思います。
美しくて歪み等一切ない葵の御紋、左右の木鼻には麒麟。
そう、一つ一つはまことに心惹かれるものであります。

三大東照宮という見方をはずせば、私はこちらの神社さんが大変好きであります。
落ち着いた、穏やかな神社さんであります。

塵一つない境内一つとっても、ここをどれだけ大切に思っているか、
大火で再建した際、この神社を、東照宮をどれだけ大切に思っていたかが、ここに立つだけで心の中に流れてくるかのように伝わってくる社殿であります。

ただ、規模的なものとしては、こちらの社殿は再建であったというだけでなく、このあまり広くはないところに建てられでありますいたことからも、もともとあまり大きなものではなかったようです。

一番、東照宮らしいなぁと思ったのは、拝殿域、そして本殿域にある統一された大きさの石灯籠でありました。
大きさのみならず並べ方も大変美しく均等に配列されています。
これは歴代の川越城主より寄進された全部で二十六基の石灯籠。
このうち拝殿域の左右に二十三基が配置されています。

そう、これなんですよね〜。
東照宮といえば。

…などと熱く語ってはおりますが、全国で社殿という形で残る東照宮は少なくとも五十を越えるといい、そのうちのほんの一握りしか参拝していないというのに、相変わらずなおばさんです。

岩槻城主の名も見られます。

…ですよね〜。江戸時代ですから。


こちらの御祭神は言わずと知れた徳川家康公。

こちらの解説によると、
『…本殿内に安置されている円形厨子の中には、天海が彫作した冑を着け槍を右手に持ち、駿馬に騎っている家康公の木像が祀られている。
本殿の周囲に巡らす瑞垣は、本瓦葺で透し塀。
中央正面の唐門は、一間一戸の平唐門で銅瓦葺である。』

とありました。

No.10

【仙波東照宮】

慈眼堂の石段と鐘楼門との間の道を歩いていくと、白い、いかにもお洒落な、新しいカフェが見えてきました。
なんとこちら、社務所を兼ねた建物でありました。

この社務所の受付の前が参道となっております。
受付からひだりてには随身門が見え、みぎてには長い階段が見えます。
受付の前にはよく日の当たる、ところどころにベンチの設置された広場があります。

五十段の階段をのぼると朱色の拝殿が見えてきます。
階段を登りきったところには赤い背の高い鉄製の門扉があり、葵の御紋が飾られていました。

さほど広くはない空間です。

みぎてに手水鉢が置かれています。
手水舎は無く、手水鉢には龍の吐水口。
ただ、こちらの手水鉢、鉢いっぱいに柑橘類が浮かべられていました。
初めて見る気がいたします。
花手水ならぬ柑橘手水。
なん種類かの柑橘類が浮かべられています。
水に浮かべられた柑橘類が日を受けてきらきらと光っているさまもなかなか綺麗です。

参道を守る狛犬さん。
この狛犬さんはなんと、江戸城から移設されたものだといいます。
柑橘手水となっている手水鉢も同じく江戸城からの移設といいます。

川越の大火の折に焼失してしまったこちらを再建するように指示されたという家光公が、同じく焼失してしまった喜多院に客殿と書院を寄贈したように、狛犬と手水鉢を奉納されたのでありましょう。

ちなみに、〝髄身門〟・〝石鳥居〟・〝拝殿〟・〝幣殿〟・〝本殿〟すべてが国指定重要文化財となっているのだといいます。


 ↓(仙波東照宮さんの手水鉢)

No.9

(続き)

この五百羅漢のおられるところに立派なエノキの樹があります。
苔むす表皮と力強い根っこ。
思わず立ち止まってその樹を見上げます。

まるで外に設けられた内陣のように、高いところにお祀りされた御仏の像。
その真ん前には十大弟子、十六羅漢が居並びます。

そこにいる方々はそれぞれ伝えられている特色を出しながらも、お釈迦さまの(像)前にいるということで、みな、神妙な表情をされています。
羅怙羅尊者さんという尊者さんがおられますが、この尊者さんは胸をガバッと開いて(着物では無い、身体の)中におられる御仏の顔を見せていますが、年月を経た石像だというのに実にリアルに造られたことがわかる出来でありました。

ところが。
そこから離れたところとなると…。

子どもを愛おしそうに抱く羅漢さん。
巻物を広げ片手に掲げて持つ羅漢さん。
托鉢姿の羅漢さん。
動物を抱いたり、纏わりつかれたりする羅漢さん。
いろいろなところに点在しておられますが、干支の動物と関わる羅漢さんもおられました。

膝を抱えて顔を伏せる羅漢さん。
隣同士で談笑する羅漢さん。
ごろ寝するいる羅漢さん。
一杯やってる羅漢さん。
鼻をほじる羅漢さん。

……。


いかにも私が好きそうなところでしょ?

ここで出会った方々は、男女問わず楽しそうにあちこちの羅漢さんを眺めては語らっておりました。

まぁ…。
ここで出会った方々、私どもより年配と思しき方々でありました。
…ですよね〜。


ちなみに。
この日は年末でも、年始でも無い平日でありましたが、国指定重要文化財であります『家光公誕生の間』である【客殿】、『春日局化粧の間』である【書院】はお休みで拝観できず。


【仙波東照宮】へと向かいます。

No.8

(続き)

御本堂への参拝を終えた私ども。
次に向かうは…。

次に向かったのは、仏像大好きな私が十年以上前からずっと訪れたいと想い願っていた【五百羅漢】であります。

諸説あるようですが、日本三大羅漢の一つに数えられているのだそうです。

・栃木県足利市の「徳蔵寺」
・神奈川県鎌倉市の「建長寺」
・大分県中津市の「羅漢寺」
そして『喜多院』の四つが候補とされているらしく、ちなみにこのうちの二カ所にはすでに参拝させていただいており、残る一つは大分県。

…大分まではさすがに行けそうに無いです。
大分県にも素晴らしい、行ってみたい神社仏閣がたくさんあるのですが、ね…。

なお『喜多院』の羅漢様は、圧巻の五百三十八体おられるといいます。

川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、天明二(1782)年から文政八(1825)年の約五十年間にわたり建立されたものです。

『十大弟子』・『十六羅漢』を含めた五百三十三体のほか、
中央にひときわ高い座を設けて、さらなる高座の大仏に『釈迦如来』さま、
脇侍の『文殊・普腎の両菩薩』、
左右高座の『阿弥陀如来』
『地蔵菩薩』
合わせて全部で五百三十八体が鎮座しています。

この五百羅漢、境内の売店に密着した、…というより、この造りだと売店の施設のように取れるくらいであります。
入り口に受付があり、入場料を支払います。

このいかにも売店の施設、見せ物のような感じに十年以上抱いていた熱い想いは一気に失せてしまいました。

はぁ…。



しかし!
その五百羅漢の居並ぶ場所にはいった途端、萎れてしまった思いは一気にまた、はじけそうなほどに膨らむのでありました。
…私らしいでしょう?

笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。
仏具や御仏の像を手に持っていたり、日用品を手にしていたり。
動物や、なかには龍を従えていたりと、いつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。

きゃー♡

ええもうご想像通りに、はしゃぎ回るおばさんでありました。


また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。

ただし現在では夜ここに立ち入ることはできません。


  ↓(龍を抱く羅漢)

No.7

(続き)

徳川家康公の絶大な信頼を得、顧問的な存在として知られる天海僧正は、以後、秀忠公、家光公に仕え、実に百八歳まで生きたとされます。

深く慈恵大師に帰依した天海僧正は、慶長十七(1612)年に家康公に進言し、ここ無量寿寺(=喜多院の前身)再興を認めてもらい、【喜多院】と名を改めて、ここを関東天台宗の本山と定めました。
再興された喜多院は天海の在住を招請します。
これを受け、以後、関東の天台宗寺院はすべて喜多院・天海のもとに属することとなりました。

寛永二十(1643)年、東叡山寛永寺にて入寂され、それから五年後、朝廷から【慈眼大師】の諡号を賜いました。
天海僧正は朝廷から賜る大師号としては史上最後、日本で七番目の大師様となりました。


御本堂である慈恵堂をあとにして。

境内の中心に立つ、白地に黒い文字の四角柱の看板まで歩き、そこからみぎてを見ると、長い石段があるのが見えてその先には御堂がそびえています。
……長いなぁ。

しかしながら、この御堂は外せません。
こここそが慈眼大師(=天海僧正)をお祀りする【慈眼堂】であります。
この小高い岡、実は七世紀初頭のご飯であるといいます。

さあ、御堂と言ったら?

…そう、おばさんは覗きます。


…ゔっ!!

…暗い御堂の中に白い顔の等身大の坐像が浮かび上がります。
かなりの暗さで全体的に見ることは難しいのですが。
その、顔だけぼぉーっと白く浮かび上がるかのような…、もしかしたら等身大よりもだいぶ大きいかもしれない像は、目を凝らしてもよく見えず、そのうち、私の脳内に(即身仏みたい)という言葉がぶくぶくと沸き出てきました。

むろん即身仏ではありません。
こちらには即身仏はおられません。

でもまさに即身仏のイメージそのものにしか見えないのです。

(こ、怖いぃっ!)

とびのくようにその御堂を離れたわたしは、譫言のように呟いていたとかいないとか…。


いませんよ、…本当です。

No.6

(続き)

天台宗『川越大師』【喜多院】の御由緒は、故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれないといいます。
喜多院のHPによりますと、

『 いい伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長七(830)年、【慈覚大師円仁】により創建された勅願所であって、本尊『阿弥陀如来』をはじめ『不動明王』『毘沙門天』等を祀り、【無量寿寺】と名づけました。

その後、慶長二(1205)年、兵火で炎上の後、
永仁四(1296)年、
伏見天皇が『尊海僧正』に再興せしめられたとき、
【慈恵大師(元三大師)】をお祀りし、官田五十石を寄せられ、関東天台の中心となりました』

とあります。

『 正安三(1301)年、後伏見天皇が東国五百八十ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は『星野山(せいやさん)=現在の山号』の勅額を下しました。
天文六(1537)年、北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。

慶長四(1599)年、
【天海僧正(慈眼大師)】は第二十七世の法灯を継ぎますが、慶長十六(1611)年、【徳川家康】公が川越を訪れたとき親しく接見しています。
そして天海の意見により寺領四万八千坪及び五百石を下し、
『酒井備後守忠利』に工事を命じ、
『仏蔵院北院』を【喜多院】と改め、又、四代【徳川家綱】公のとき東照宮に二百石を下すなど寺勢をふるいました。

寛永十五(1638)年一月の川越大火で現存の山門(寛永九年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。

そこで三代将軍【徳川家光】公は『堀田加賀守正盛』に命じてすぐに復興にかかり、
『江戸城紅葉山(皇居)の別殿』を移築して、客殿、書院等に当てました。
【家光誕生の間】【春日局化粧の間】があるのはそのためです。
その他【慈恵堂】、【多宝塔】、【慈眼堂】、【鐘楼門】、【東照宮】【日枝神社】などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています』


     (喜多院HPより)

No.5

(喜多院・続き)

比叡山の元三大師堂さんのおみくじは極めて特殊なものであると言えましょう。
私の参拝させていただきました、元三大師さま由来の『〇〇大師』と呼ばれる寺院であっても、元三大師さまと天海僧正さま所縁の『観音籤』と呼ばれるものを採用なさってはおられても、いずこの寺院でもいわゆる一般的なおみくじの形態をとられています。

このいわゆる一般的なおみくじは、
・みくじ棒と呼ばれる細長い棒の入った箱を振って、中から一本取り出してその棒に書かれた数字を読み取り、それぞれの数字の書かれた引き出しに納められたおみくじを取り出すもの、
というもの。

.折り畳まれた小さな紙片に数字と吉凶を記したものを、やはり専用の引き出しからその数字の書いてある引き出しから取り出すもの。

・折り畳んだ小さなものに、すでに吉凶や神仏からのメッセージが書かれていたりするもの。

…等々。


このようなおみくじは、江戸時代以降に広まったようです。

さらに現在においては、硬貨を入れておみくじが出てくる自動販売機を設置している所もあります。
この自販機のおみくじも、まさに慈恵大師をお祀りした寺院に設置されていたものでありました。

ガシャガシャ(?)ガチャポンで出てくるといった所もありました。
こちらは真言宗のお寺さんでありましたが。


そうは言っても、自販機やガチャポンのおみくじも、みくじ棒を引くタイプの御籤も、私は今でもまだ引いたことがないのですが…。


No.4

                                
仕事を辞めている今なので…今度こそと思ったのに。

体調の整わない者は被災地でのボランティアは御迷惑でしかない。

定年まであと数年あるという歳なのに、悔しいなぁ。
情けないなぁ。

それどころか地元でいつもしていたボランティアも、この症状ではできない。

ああ口惜しいこと。


No.3

                                


不整脈が出てしまった。

悔しいが、口惜しいが、今は祈ることしかできなくなってしまった。





No.2

(続き)

江戸時代の初めの頃、喜多院の住職も務めていた天海僧正さまは、深く慈恵大師に帰依されていたといいます。

そんな天海僧正さま、何事にも大師のお告げを仰いでいましたが、

『…ある時夢に慈恵大師が現れて、信州戸隠神社に観音の百籤ひゃくせんをしまっておいたので、それを私の像の前に置き、信心を凝らして吉凶を占えば、祈願に応じて福禍ふくかを知らしめよう。大いに衆生を利益せよとの、お告げを受けました。

早速、戸隠に向かい社殿を探すと、夢のお告げ通りに百枚の籤(くじ)が収められていました。
天海僧正は注釈を付け【観音籤(かんのんせん)】としてまとめました。
これが今日の「おみくじ」の始まりです。』
     (喜多院HPより)


私の恐れる元三大師にお伺いをたてるというおみくじは、かの【比叡山延暦寺】の【元三大師堂】のみのようです。
優れた霊力をお持ちであったという元三大師が亡くなられて、さらに霊力を増しておられるような気もいたします。
私のような愚かな人生を歩んできてしまった人間に対して、どんなお告げがくだされるというのでしょう。
怖さしかありません。


しかしながらその比叡山の元三大師堂でのおみくじについての内容に私の思い込みがないかあらためて調べてみました。

この比叡山の元三大師堂でのおみくじは、元三大師に直接お伺いをたてるという形式のため、修行を重ねた僧侶しか引くことを許されていないのです。
そのため、このおみくじを希望する参拝者は、お伺いしたいことを紙に書いて僧侶に代わりに引いてもらい、説法のようにおみくじの内容を聞く、というもののようです。

…えっ?
私のテレビの映像を観て抱いた先入観とはだいぶ異なるような…。

むしろこのおみくじなら引かせていただきたい気がいたします。

…やはりなにごとにおいても思い込みというのは愚かしいもの、でありました。


喜多院のおみくじも、この観音籤を用いているといいますが、現在は簡素化されて、参拝者がご自身で引くものでありました。


えっ?
引いてみたか、ですか?
それは…ご想像通りであります。

今年もあい変わらない珍道中を繰り広げるおばさんでありました。

No.1

(喜多院・続き)

神社にもそしてお寺さんにも置かれるおみくじ。
その起源が元三大師さまであるということも〝珍道中〟を始めてから知りました。

そもそも珍道中を始めてからもしばらくはおみくじを引くということはなく、初めておみくじを引いたと記憶しているのは日光東照宮の新春のみ引くことのできるという〝当たりつき〟おみくじであったような。
…おみくじを引くことですら煩悩の捨てられないおばさんでありました。
その後も、〝ゆるみくじ〟と呼ばれる可愛らしい小さな陶器でできた置き物に詰められているおみくじであるとか、水に濡らすとその内容が浮かび出るものであるとか、本来のおみくじとしてではない、くじ引きのような感覚でおみくじを引くことしかありませんでした。

おみくじを心のどこかで占いのようなものとして捉えているのだろうと思います。

とはいえ、さすがに神さまや仏さまのおられる所でお受けした、ありがたいご助言(御神託)の書かれたもの、ですので、その助言の内容は心の片隅に置いて行動するようしてはおります。

大吉やら小吉、凶などと書かれたところに関しては、(ふーん)と流して見ているところがあり、それは悪い結果を見たくない、受け入れたくない気持ちから、自分で線引きしているようにも感じるのですが…。


しかしながら。

ビビりでもあります私。
このおみくじは引くのが恐いと思ったおみくじがあります。
幸いなことに、今まで訪れたところではそのおみくじが置かれておらず、やれ、「この狐の目が優しいから〝この子〟にしよう」だとか、「このねこの表情と仕草が可愛いから〝この子〟にしよう」とか、どこかのファンシーストアにでもいるかのような選び方をしているおばさんなのでありました。

そんなおばさんが恐れるおみくじこそが、…この元三大師さまのお作りになったというおみくじでありました。


なんでもそれは、慈恵大師をお祀りする御堂を礼拝し、観音経を3回読み、その後修行僧におみくじを引いてもらい、吉凶を解説してもらうというもので、今の一般的なご自分で引く物とはまるで異なります。

また、このおみくじ、『観音籤』は吉の類が七割弱、凶の類が三割強という凶が出る確率が高いおみくじであるというのです。

テレビでその光景を観ているだけでも、背筋がピンといたしました。


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