神社仏閣珍道中・改
【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。
相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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(続き)
江戸時代の初めの頃、喜多院の住職も務めていた天海僧正さまは、深く慈恵大師に帰依されていたといいます。
そんな天海僧正さま、何事にも大師のお告げを仰いでいましたが、
『…ある時夢に慈恵大師が現れて、信州戸隠神社に観音の百籤ひゃくせんをしまっておいたので、それを私の像の前に置き、信心を凝らして吉凶を占えば、祈願に応じて福禍ふくかを知らしめよう。大いに衆生を利益せよとの、お告げを受けました。
早速、戸隠に向かい社殿を探すと、夢のお告げ通りに百枚の籤(くじ)が収められていました。
天海僧正は注釈を付け【観音籤(かんのんせん)】としてまとめました。
これが今日の「おみくじ」の始まりです。』
(喜多院HPより)
私の恐れる元三大師にお伺いをたてるというおみくじは、かの【比叡山延暦寺】の【元三大師堂】のみのようです。
優れた霊力をお持ちであったという元三大師が亡くなられて、さらに霊力を増しておられるような気もいたします。
私のような愚かな人生を歩んできてしまった人間に対して、どんなお告げがくだされるというのでしょう。
怖さしかありません。
しかしながらその比叡山の元三大師堂でのおみくじについての内容に私の思い込みがないかあらためて調べてみました。
この比叡山の元三大師堂でのおみくじは、元三大師に直接お伺いをたてるという形式のため、修行を重ねた僧侶しか引くことを許されていないのです。
そのため、このおみくじを希望する参拝者は、お伺いしたいことを紙に書いて僧侶に代わりに引いてもらい、説法のようにおみくじの内容を聞く、というもののようです。
…えっ?
私のテレビの映像を観て抱いた先入観とはだいぶ異なるような…。
むしろこのおみくじなら引かせていただきたい気がいたします。
…やはりなにごとにおいても思い込みというのは愚かしいもの、でありました。
喜多院のおみくじも、この観音籤を用いているといいますが、現在は簡素化されて、参拝者がご自身で引くものでありました。
えっ?
引いてみたか、ですか?
それは…ご想像通りであります。
今年もあい変わらない珍道中を繰り広げるおばさんでありました。
(続き)
御本堂への参拝を終えた私ども。
次に向かうは…。
次に向かったのは、仏像大好きな私が十年以上前からずっと訪れたいと想い願っていた【五百羅漢】であります。
諸説あるようですが、日本三大羅漢の一つに数えられているのだそうです。
・栃木県足利市の「徳蔵寺」
・神奈川県鎌倉市の「建長寺」
・大分県中津市の「羅漢寺」
そして『喜多院』の四つが候補とされているらしく、ちなみにこのうちの二カ所にはすでに参拝させていただいており、残る一つは大分県。
…大分まではさすがに行けそうに無いです。
大分県にも素晴らしい、行ってみたい神社仏閣がたくさんあるのですが、ね…。
なお『喜多院』の羅漢様は、圧巻の五百三十八体おられるといいます。
川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、天明二(1782)年から文政八(1825)年の約五十年間にわたり建立されたものです。
『十大弟子』・『十六羅漢』を含めた五百三十三体のほか、
中央にひときわ高い座を設けて、さらなる高座の大仏に『釈迦如来』さま、
脇侍の『文殊・普腎の両菩薩』、
左右高座の『阿弥陀如来』
『地蔵菩薩』
合わせて全部で五百三十八体が鎮座しています。
この五百羅漢、境内の売店に密着した、…というより、この造りだと売店の施設のように取れるくらいであります。
入り口に受付があり、入場料を支払います。
このいかにも売店の施設、見せ物のような感じに十年以上抱いていた熱い想いは一気に失せてしまいました。
はぁ…。
しかし!
その五百羅漢の居並ぶ場所にはいった途端、萎れてしまった思いは一気にまた、はじけそうなほどに膨らむのでありました。
…私らしいでしょう?
笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。
仏具や御仏の像を手に持っていたり、日用品を手にしていたり。
動物や、なかには龍を従えていたりと、いつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。
きゃー♡
ええもうご想像通りに、はしゃぎ回るおばさんでありました。
また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。
ただし現在では夜ここに立ち入ることはできません。
↓(龍を抱く羅漢)
【仙波東照宮】
慈眼堂の石段と鐘楼門との間の道を歩いていくと、白い、いかにもお洒落な、新しいカフェが見えてきました。
なんとこちら、社務所を兼ねた建物でありました。
この社務所の受付の前が参道となっております。
受付からひだりてには随身門が見え、みぎてには長い階段が見えます。
受付の前にはよく日の当たる、ところどころにベンチの設置された広場があります。
五十段の階段をのぼると朱色の拝殿が見えてきます。
階段を登りきったところには赤い背の高い鉄製の門扉があり、葵の御紋が飾られていました。
さほど広くはない空間です。
みぎてに手水鉢が置かれています。
手水舎は無く、手水鉢には龍の吐水口。
ただ、こちらの手水鉢、鉢いっぱいに柑橘類が浮かべられていました。
初めて見る気がいたします。
花手水ならぬ柑橘手水。
なん種類かの柑橘類が浮かべられています。
水に浮かべられた柑橘類が日を受けてきらきらと光っているさまもなかなか綺麗です。
参道を守る狛犬さん。
この狛犬さんはなんと、江戸城から移設されたものだといいます。
柑橘手水となっている手水鉢も同じく江戸城からの移設といいます。
川越の大火の折に焼失してしまったこちらを再建するように指示されたという家光公が、同じく焼失してしまった喜多院に客殿と書院を寄贈したように、狛犬と手水鉢を奉納されたのでありましょう。
ちなみに、〝髄身門〟・〝石鳥居〟・〝拝殿〟・〝幣殿〟・〝本殿〟すべてが国指定重要文化財となっているのだといいます。
↓(仙波東照宮さんの手水鉢)
【川越氷川神社】
川越氷川神社さんは川越の総鎮守だといいます。
その御由緒は大変古く、古墳時代の欽明天皇二年に創建されたと伝えられています。
室町時代の長禄元(1457)年、太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。 江戸時代に入ってのちも歴代の川越藩主より社殿の造営や特別の計らいを受けました。
現在の本殿には緻密な彫刻が施されているといい、県の重要文化財となっているとのことであります。
いにしえより縁結びの神様としての信仰を集め、人々のご縁を取り持ってまいりましたのは、お祀りしている五柱の御祭神にあります。
こちらの主祭神さまは
素盞鳴尊(すさのおのみこと)さま。
脚摩乳命(あしなづちのみこと)と 手摩乳命(てなづちのみこと)の
夫婦神さま。
さらにその娘であり、素盞鳴尊の妃神でもある
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)さま。
そして、素盞鳴尊と奇稲田姫命のご子孫ともお子様ともいわれ、また出雲大社の縁結びの神さまとしても知られる大己貴命(おおなむちのみこと)さまの五柱の神さまであります。
これらの神さまがたはみなご家族であることから、【川越氷川神社】は『家族円満の神さま』、
また、ご祭神に二組のご夫婦神様が含まれていることから、
『夫婦円満・縁結びの神様』として川越の人々から厚く信仰されております。
近年はメディアを通じ全国的にも有名な神社さんでもあります。
紅い大鳥居から再び拝殿の方角に向かうと、みぎてには温かな飲み物や甘味のキッチンカー、ひだりてには川越氷川神社さん名物の一つ、『鯛みくじ』、『鯉みくじ』、そして『芋みくじ』があり、人だかりができていました。
今ではこの『鯛みくじ』、何年も前私が地元で引いたことがあるくらい、『全国区』となって久しいようですが、ご存知ではない方もおられるかと存じますので、軽くここに書いておきます。
手のひらにちょこんと乗るくらいの、張子の真っ赤な鯛のしっぽにおみくじが入っています。
鯛は古くから神様へのお供えものであり、縁起のいい魚としても知られています。
この鯛の張子には『一年安鯛』と書かれた紙片が貼ってあります。
この赤い鯛の張子がたくさん入った桶から、備え付けの竿を使って鯛を釣っていくといった遊び心たっぷりのスタイルのおみくじです。
…いかにもこのおばさんが好きそう、でしょう?
赤い色の一年安鯛みくじはその年の運勢などが記された、一般的な内容のおみくじで。
もうひとつのピンクや水色の鯉みくじは花言葉や花の名前、出会いなど恋愛について詳しく記された恋みくじだといいます。
そして、度肝を抜かれた『芋みくじ』はやはり張子のさつまいもおみくじが仕込まれているもののようです。
こちらは…あまり可愛らしさもなくて、私は近づいてみることもしなかったのですが。
なんでもその〝おいも〟を網ですくったり、芋掘りをしたり、とそのときそのとき、人出とかも考えながら、なのでしょうが、何パターンかいもの取り方=おみくじの引き方があるようです。
同じく左側には少し奥まった鳥居があり、護国神社さんが鎮座していました。
そして…。
みぎてには小さな小さな小川があって、鯛みくじよりも多い人だかりができていました。
(昨日参拝したとある神社さんで
満開を迎えていた梅)
【佛手山 金剛王院 鶏足寺】
『その昔、周囲の山々が突然地鳴りを起こして揺れ動き、異様な音を出しはじめました。
しばしの後、他の山は静まりかえり、一つの山だけがいつまでも鳴り続けます。
山が音を出し始めて七日目、山は急激に大きく揺れ、そこから一尊の石仏が生まれました。
土地に暮らす人々は皆、その山を「鳴山」と呼んで、崇めておりました。』
……。
これは単なる昔話ではありません。
これは栃木県足利市にある【鶏足寺】さんのHPにある〝縁起〟の出だしであります。
私は〝西遊記〟の始まりにも似たこの縁起に、この文を書いた方のセンスを思い、思わずクスッと笑ってしまいました。
いやいや、このお寺の縁起はいたって真面目に書かれたもの。
センス云々などと言っていたら、叱られてしまいそうです。
今日は節分。
そんな鶏足寺さんで本日【節分会追儺式大護摩供】が執り行われるとのことで、何年かぶりとなる参拝に、そして初めての護摩法要へ参列させていただきにうかがいました。
こちら鶏足寺さんは栃木県足利市の外れ、群馬県桐生市に近いところにある、自然豊かな山林に囲まれたところにある古刹であります。
久しぶりに訪れた鶏足寺さんは梅の木の多いお寺さん。
全体的にはまだまだこれからではありましたが、一本だけ満開を迎えた白梅が良い香りを当たり一面に放っていました。
青い空に満開の白梅。
ああ、なんてしあわせな。
(中尊寺金色堂展 続き)
大治元(1126)年の中尊寺落慶供養に際し、清衡公が自ら読み上げたとされる『供養願文』には、次のような願いが述べられています。
『戦乱の中で、失われた夥しい命、
父をはじめとする肉親、敵味方両軍の兵士、女性や子供ら非戦闘員、更には、食糧として狩られた鳥や獣たちに至るまで、全ての魂が「浄土」へと導かれ、安らぎを得られるように』
『今生きている者たちが、「浄土」の存在を信じられるように』
『東北の地に仏の住まう「理想郷」を現出させたい』
そして金色堂落慶から二年後、清衡公は七十二歳でその生涯を終えられました。
御遺体は金箔を張った棺に納められた後、金色堂中央の須弥壇の内部に安置されました。
その供養願文(の写し)の展示された横には、国宝である【紺紙金銀字一切経】が展示されていましたが、
これがまた美しい美しい手によるものとなっていました。
金の一行、銀の一行。一行、一行色が変わることによって、どこを読んでいるかを見失わずに、スムーズに読むことができるのです。
そして.…。
この紺紙金銀一切経の写されたものには、巻頭に金でたくさんの御仏が集う絵か描かれていました。
細い細い線。
しかしながらこの穏やかで、あたたかな気持ちになる気持ちになれる絵でありました。
極楽浄土を表したものでありましょうか。
たくさんの御仏が描かれています。
その優しい穏やかな表情といったら♡
おばさん思わずこの絵の絵はがきを買い求めてしまったほどですあります。
さらに。
この展示物のならびには【金光明最勝王経金地宝塔曼陀羅】がありました。
こちらは縦長の紺紙の中央に大きく九重の宝塔が描かれていました。
が。
よく見ると、屋根も壁も全てが経文の文字によって表されているではありませんか!
その繊細なことといったら。
そこでこの掛け軸の宝塔が小さな小さな細かな字で、経で描かれていることに気づいた人たちはみな、一同、声にならないため息をつき、そこから離れられなくなっていました。
その素晴らしさといったら…。
作品を作った絵師の腕の素晴らしさもさることながら、これらは、まさに莫大な富と権力あってこそ作りえたものでありましょう。
(続き)
私はここ、この東博へはただただ御仏の尊像にお会いしに参っております。
芸術や美術的なセンスも知識もなく、歴史的価値あるものにもほぼ興味がないため、十一体の尊像を拝見いたしますと、もう他にはあまり関心がありません。
今回のこの金色堂展の売りである『8KCG』なるものも、めまいの持病のある者にとってはどちらかというと苦痛の方が大きくて…。
この8KCGとは、『金色堂と壇上の仏像をはじめとする堂内空間の8K画像データを活用した超高精細CG』となるらしい。
これにより、幅約七メートル×高さ約四メートルの大型ディスプレイ上に原寸大の金色堂が再現されているのです。
8KCGはNHKと東京国立博物館が共同で開発した超高精細なデジタルアーカイブなる手法で、まるで実物を写し取るかのように文化財を記録をすることだといいます。
現地においては、金色堂はガラスの外から拝観するしかありません。
それを8KCGを使い、仮想的に堂内へといざなうというものとなっているのです。
きらびやかなこの世の浄土が、
御仏たちが、
大画面で凄い勢いでせまってまいります。
黄金の聖空間のこの迫力と美しさは圧倒的な体験でありました。
(ほんの少ししか見てはいませんでしたが…)
正直にいえばのちにNHKで放送された映像くらいが私にはちょうどよかった。
つまりはそのくらいの〝ど迫力〟ということです。
縮尺5分の1の金色堂の模型も展示されていました。
ここも人気のスポットでありました。
ここだけか撮影の許された場所でもあり、少しでも良い写真撮ろうと人だかりができていました。
夫は他の展示品を見てまわっていました。
…もう一回♡
夫にことわって、私はもう一度御仏たちの元へ。
【鬼宿日】
今日は【鬼宿日(きしゅくにち、またはきしゅくび)】 という日に当たるといいます。
『鬼』という字が入っているので怖いイメージですが、実はこの日は鬼が宿にいて出てこないので、〝何をするにもよい日〟とされているのだといいます。
鬼宿日という考え方は、『二十八宿』という古代中国の天文学・占星術に基づいて決められたものだとのこと。
『二十八宿』とは、月の運行を観察するために天空を28等分した区画のことで、『鬼宿』はその中の一つにあたります。
また、一説によると鬼宿日はお釈迦様が生まれた日だったという逸話もあり、仏教の開祖の誕生日としても重要な意味を持っているという考えを持つこともあるようです。
鬼宿日に神社仏閣にお参りするのは大変良いともされているようです。
〝鬼のいない日に神仏に感謝をお伝えし、自分の厄を落とす〟
という考え方のようです。
今日は一日。
ちょうど一日参りということで、いつも参拝させていただいている神社さんへ参拝してまいりました。
うーん、なんだか嬉しくなります。
ところでこの鬼宿日と呼ばれる吉日、なにをするにも良い日、とされるのに、何故か入籍や結婚式は避けた方がよいとか。
…なんででしょうね。
えっ?
私のような鬼嫁にならないように?
もしかして私どもの結婚式って鬼宿日だったのかしら。
うーん。
ちなみにこの鬼宿日は二十八日周期であるようです。
鬼といえば…。
『鬼滅の刃』という漫画がありますが、映画やテレビアニメとしても映像化もされ、なんでも今何シリーズ目かの映画が上映されているとか…?
私は一度も観たことが無いのですが、姉などは同じものを何度か観に行ったくらいハマったようです。
鬼滅隊の隊員は鬼宿日が休日になるのでしょうか。
(ミモザの花が咲きはじめました)
物欲もいい加減にして、シンプルに生きていけたらと思うのに、煩悩おばさんの物欲はなかなか手強くて、しかも新たなる物への欲もすぐに湧くので困ってしまう。
今欲しい物の三本の指に入るのが、この御朱印帳と、こちらの神社さんの御朱印。
救いはこちらの神社さんが、配送サービスなどされていないこと。
鎮まりたまえ〜っ。
(続き)
上野東照宮さんの社殿を拝観させていただく進路は決まっており(拝観料を納めますので、そういった意味でもそのように定められましょうが)、拝殿正面となる唐門は閉ざされておりますので当然ながらそこからではなく、本殿の横から拝することとなります。
神さまが御鎮座されておられる本殿は、通常拝殿よりも豪華に、…たとえば格の高い彫刻を施したり、より細かな彫刻を配したりされています。
道が狭いんじゃないかなどと、ぶうぶう心でつぶやきながら歩いてきた煩悩おばさん、一目その本殿を見て、言葉を失います。
…まぁ、ここのスレ主は元々言語能力のいたって乏しい人物ではありますが。
それにしても…。
金。
金。
〝かね〟ではなく〝きん〟、金色=こんじき、であります。
いやぁ…金色だあぁ。
修復を終えて十年ほど…でしょうか、その神々しいまでの金色は少しも衰えてはいませんでした。
…煩悩のかたまりではありますが、実はこのおばさん、貴金属には一切興味を示さない、特殊にしてある意味お得な女人でありますので、他の方々より金(きん)を見慣れていないという特異性はありましょうが、それにしても突然現れた異空間に立ち尽くすことしばし。
(まぁ、金をあえて括弧して〝きん〟としなくともお金もそんなに見慣れていない、根っからの貧乏人ではありますが。)
いやぁ、金。
なので本当のことを言えば、内側の透塀の彫刻よりも先にそちらに目を、心を奪われていたのが第一であったのでありますが。
金の貨幣価値はわからなくとも、ここ、外気に晒される外にありながら、こんなふんだんに惜しげもなく金箔を、と驚き。
さらにはあの薄い薄い金箔をこれだけ貼り付けるとは、なんと気の遠くなる作業であったろうと、感嘆したのでありました。
(続き)
※人が亡くなられたときのことを書いておりますので、おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。
記憶をたどってみると、私はもっと枕経の席に参列させていただいていた記憶があるのです。
しかしながら親族としての葬儀など五本の指にも余るほどで、親しくさせていただいていた方といっても枕経にとお呼びいただいた記憶はありません。
何故だろう。
…思い出しました。
お通夜の席で枕経も兼ねて執り行われることも増えているようです。
そして、前レスでも申し上げましたように宗派によって枕経でお唱えするお経はそれぞれ異なるようですが、と同時にその儀式の執り行い方も異なっているようです。
記憶の中、通夜の儀式の冒頭に剃髪の動作をして、故人様が三宝に帰依できるようにするとおっしゃっておられたご住職さまがおられます。
宗派は思い出せませんが、これを拝見して、その昔平安や鎌倉時代の書物を読んだ折に書かれていた臨終のシーンを思い出し、たいそう感動いたしました。
これこそが枕経の形であろうと思うので。
そしてまた、やはりお通夜の冒頭に、仏さまをお招きする儀を執り行う宗派もありました。
なるほど。
たしかに大切な儀式の一つである枕経を略していいとはお考えにはなりませんよね。
こうして形を変えて、枕経はお唱えいただけていたようです。
…なにせ私、ビビりなものですから 笑。
義母の葬儀告別式まで日時に間があったものですから、義母の家のそばを歩くことがありました。
大変良い香りが漂っているお宅のお庭があり、見上げると木蓮の花がもうすでに咲いていました。
お彼岸前だというのに、もう木蓮が咲く…。
それでも、花の好きだった義母の亡くなったときにこの香りを嗅がせていただき、正直とてもありがたく思いました。
春の訪れを肌で、そして香りで、目で感じながら、義母を送ることができます。
(浄運寺さんの聖観音像・続き)
浄運寺さんは今年一月、報道陣にこの観音像公開したといいます。
実はこの観音さま、これまで『秘仏』でありました。
ご住職さまはこの席で、
「この観音様はお寺の守り本尊であります。
このたび修理を終えたので、今後は多くの方にお参りしていただきたいと考えます」
と話されたといいます。
しかしながら御本堂はこの三月から大規模な改修工事に入っており、屋根瓦は下ろされ、床板もはずされた状態で、観音さまは今、檀信徒会館の奥の間に厨子に入ってお祀りされておりました。
そのお姿は、なんともお美しく、優しく微笑まれておられました。
軽く背を曲げ前屈みとなり、その優美なことといったら。
左手にはやや大きめな未敷(みふ)蓮華をお持ちになられておられます。
この未敷蓮華とはまだ蕾の蓮の花であり、これは観音菩薩さまが蕾のごとくに閉じている人の心、仏心を開かせる存在であることを表しています。
これは今回新たなものを作ったとのことなので、少し大ぶりなものとしたのにも何か意味があるのかもしれません。
お背の高さは六十センチほどでありましょうか、しかしながらもっと大きく感じられるずっしりとした存在感があります。
お召しになられた薄衣に透ける肢体はなんとも艶やかで…。
私などもっとずっとここにいたいくらいであります。
経年されて濃い茶褐色をされておられるのがまたお美しく、ぜひまたお会いしたいと強く思うおばさんでありました。
惜しまれるのは、まだこちらの御本堂におられるときにお会いさせていただきたかった。
あ、でも、この今の状態でおられるからこそお側に寄って拝することができているのかも…。
ちなみにご本尊であられる阿弥陀三尊もこちらの間にお移りになられておられます。
ご住職さまは焼香の香炉をご用意くださり、その後は私たちを残してこの間を立ち去られました。
ゆっくりと拝観できるようご配慮くださったようです。
なんともありがたいご配慮です。
こんなどこの馬の骨ともわからない初めて会った人間にそこまでお心をお許しくださる懐の大きさに、私はたいそう感動いたしました。
(私どもにしたらこちらのお寺さんを訪れるのは初めてではありませんが…)
思い出してもほんのり心温まる思いがいたします。
ありがとうございました。
朝日新聞画像
【曹洞宗の葬儀】
※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。
曹洞宗の葬儀に初めて参列した、ということはないはず…。
昨年友人の御母堂がお亡くなりになられた際のご葬儀が曹洞宗であったし、そもそも十八年前の義父の葬儀が当然のことながら曹洞宗であるのだから。
たしかに十八年前の葬儀のこととなると、この記憶力の乏しい私、忘れていることが多いのですが、でも昨年の友人の御母堂のご葬儀はまだまだ記憶に新しいもの。
なのにこのたびの義母の葬儀では驚くことばかり。
それは葬儀社さんによるものではなく、あくまでも〝曹洞宗の葬儀〟について、でありました。
「お導師様入場となります。参列者の皆さまは合掌してお迎えください」
チリン。
チリン…。
鈴の音とともに衣擦れの音が、…それはさすがに聞こえはしませんが、鈴の音が近づくのがわかります。
。
…被り物を被られるんだ。
友人の御母堂のお通夜では特にそのようなことはなく、お坊さんと言ったら、とでもいいましょうか、まさにトレードマークのような剃髪された頭のままのお姿でありました。
今回、義母の菩提寺のご住職さまは被り物をなされていました。
その被り物を例えるならば、…雪吊り?。
三角帽子とは違います。もっと長く耳も隠れ肩まで覆うような金糸銀糸の美しい織物で作られた被り物でありました。
…き、きっとこれが正装なんだろう。
義父の時のことは、正直ほとんど覚えてはおりませんでした。
(曹洞宗の葬儀の続き)
※葬儀についてのレスとなります。おつらい思いを抱かれておられる方はここでお閉じください。
これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関
これは百人一首の蝉丸の歌ですが、ここで念のため申し上げておけば、子どもの頃から〝記憶する〟能力の少ない人間だったので、『百人一首の歌を全て覚える』…などという目標を立てても頓挫して坊主めくりをすることくらいしかできなかった人物です。
坊主めくりといえば坊主が出ないことを祈って遊ぶものですが、この蝉丸、一人だけ頭に被り物を被っており、子どもたちはまず蝉丸を覚えることが多かったりします。
今回もありがとう僧侶の被られた被り物ということで、懐かしい〝蝉丸〟が頭に浮かんでまいりました。
そうして、(蝉丸は曹洞宗の僧だったのだろうか)、…などとぼんやり考えたりしたものであります。
お通夜を終え、次ぐ日は葬儀・告別式。
合掌する中、また、チリン、チリンと鈴の音が近づいてまいりました。
(今日は別にびっくりしないぞ)そう思ったような思わなかったような…。
…びっくりしたんです、私。
昨夜の被り物とはまた違う形の被り物をかぶっておられるではないですか。
…このおばさん、厳粛な席で何を見てなにを考えているのだ、と思われましても、しかたがないですが、それが事実であるという悲しい人間であります。
この日の被り物は、頭の大きさよりやや大きいくらいの円をご想像いただき、そこを中央に布が縫い付けられたヴェール状のものを思い浮かべていただけば、それに近いものかと思います。
ええ、おそらくそんな感じであったかと…。
この葬儀社、通常とだいぶ変わっておりまして次男の嫁という立場でありながら親族席でのほほんと座っていたのであります。
本来なら前に立つのが一般的である立場でありましょうが、そうではなかったため、心にゆとりが生じ、なおかつ一番前の席という、他の参列いただいている方々の様子は見られず、自然お坊さんの後ろを見るともなく見ていた次第でございます。
でもさすがにその時〝蝉丸〟なことは一度も頭に浮かぶことはなったのですが…。
【瑠璃唐草】
わが家の庭のプランターに気の早いネモフィラが一輪咲きました。
毎年毎年、知らずのうちにこぼれた種から、芽を出す時期がくると、ひょい、ひょいっと小さな双葉を芽吹かせ、しばらくすると特徴的な本葉が顔を出すのです。
植えてあったプランターなどは当たり前、隣りにあった鉢、それどころか自転車置き場、洗濯物を干すテラス屋根の下、駐車場のコンクリートの隙間や公道のアスファルトの隙間までまで、つまむのも至難の業のようなケシ粒のような種ですので、びっくりするようなところまで飛んでいて、芽を出すのでありました。
ネモフィラといえば近年人気の花。
ネモフィラ畑を見るため多くの人が集うようです。
ネモフィラの日本名は、『瑠璃唐草』だといいます。
花びらが瑠璃色をしていて、葉っぱが唐草模様に似ているためそのように呼ばれているのだとか。
なんとも安直な気がいたしますが、瑠璃といえば『お薬師さま』。
薬師如来さまの正式な御尊名は【東方浄瑠璃教主薬師瑠璃光如来】、
であります。
『東方』というのは、太陽が東から昇る…、つまりは私たちが生きている世界のことを示すといい、今生きている私たちを救い導いてくださる仏さまが薬師如来さまであるということ。
しかしながら薬師如来さまのおられる世界は、
〝東の方向へ、十劫(ガンジス川の砂の数の十倍)という果てしないくらいたくさんの仏国土を通り過ぎたところにあるという浄瑠璃という世界〟で、そこの教主が薬師如来さまであるのです。
また、『瑠璃』とは、深い青色の宝石(ラピスラズリ)。
昔は御仏の功徳を様々な宝石に譬え、薬師如来さまは瑠璃。
それゆえに〝浄瑠璃世界〟、〝瑠璃光如来〟と表現されているのであります。
ネモフィラの青い花は中心が白いので、英語では『赤ちゃんの青い瞳(Baby blue eyes)』とも呼ばれているのだとか。
"可愛い" だけではない、強い生命力を持ち、多少の日陰やアスファルトの隙間でもへっちゃら。
厳しい環境でもぐんぐん育っていく丈夫な一面も持つネモフィラ。
今年は、こぼれ種から芽吹いて、ぼわぼわにあふれるプランターのネモフィラを間引いて、空いている植木鉢やプランターに植えたものだから、庭のあちこちにネモフィラが。
このネモフィラが全て咲いたら、ネズミの額のような庭も可愛らしく見えるかもしれません。
これはあらためて後述しようと思っておりますが、昨日参拝させていただいた群馬県館林市の、『分福茶釜』で有名なお寺、【茂林寺】さんの境内では、見事なしだれ桜が満開のときを迎えていました。
あまりに見事でありましたので、みなさまと共有できましたらと、先に写真だけアップいたします。
茂林寺のしだれ桜
【月々の守り本尊さま】
四月、旧い暦では卯月。
卯月は『ウヅキ』の花からきているそうです。
このウヅキの花の咲く時期は五月から六月とされていますが暦は旧暦、その名残りであります。
花より団子のおばさんは卯の花というと『ウヅキ』の花というより、食べ物の『卯の花』=おからの煮物を思い出してしまいます。
この食べ物の『卯の花』、私は大好きなのですが、夫は一箸を付けるのもイヤというほど嫌いだといいます。
おからというのは、安くて、食物繊維も豊富で、イソフラボンも含まれて、大変良い食品なのですが、一人二人のおからの煮付け『卯の花』を作るには多い量で売られています。
残った半分を冷凍したり、クッキーを作ったり。
『卯の花』の煮付けの惣菜を買ってしまった方が安くつく様な気すらするのではありますが、好物だけあって、こだわりが強い私。
そこは長い年月かけて自分好みにと編み出した自分なりのレシピが外せない。
そうすると冷凍したおからを抱え、好きではない(しかもめんどくさい)クッキーを作ることになるので、私は『卯の花』を食べたくなると密かに葛藤をするのです。
あ、『卯の花』の煮付けのことなど書いてしまったから、この葛藤のループにはまってしまった。
閑話休題。
ええと…、そうそうそもそもが卯月のことではなく、毎月毎月の守り本尊さまについて書こうと思ったのでした。
卯月、四月。
四月、五月の守り本尊は『普賢菩薩』さまであるといい、普賢菩薩さまは辰年巳年の守り本尊でもあられます。
同じ仏教であっても宗派や、お坊さまのお考え一つで、この守り本尊さまという考え方にあまり肯定的でないこともありますが、そこは弱い人間でありますので、守り本尊さまがおられると知れば、やはり知りたくもなりその守り本尊であるという御仏に(言葉に語弊があろうかと思いますが)親近感がわくものであります。
つまり、十二支だけでなく月々に守り本尊さまがおられるということは、誕生月の守り本尊さまもおられるということにもなりましょう。
ということから考えると、前述した辰年巳年に生まれ、四月五月に生まれた方は、守り本尊さまは『普賢菩薩』さま、ということになりましょう。
(せっかくなのでウヅキの花)
群馬県館林市にあります茂林寺さんは知らなくとも、日本昔ばなしの【分福茶釜】はご存知の方が多いことでしょう。
…どうかなぁ。
今って。
そもそもうちの子どもたちが知っているかどうかすら不安になってきた。
でも平成生まれの子どもたち、あの「♪坊や、よい子だねんねしな」の『まんが 日本昔ばなし』は生まれた頃〜生まれる前にすでに終わっていたものの、『ふるさと再生 日本の昔ばなし』を一緒に観たし…。
さすがに知っているかな。
知っているんじゃないかな。
…そう思いたい。
あとで聞いてみるとしましょ。
念のため【分福茶釜】を簡単に書いておきます。
『上野国の茂林寺の和尚さんは茶の湯が趣味で、あるとき茶釜を買ってお寺に帰ります。
和尚さんが居眠りをしていると、茶釜から狸の頭や手足を生やしたのです。
それを見た小坊主たちはびっくり仰天。
ところが、和尚さんはそれをまったく信じようとしませんでした。
そんなあるとき、和尚さんがお湯を沸かそうと、茶釜を炉にかけると、茶釜は頭を生やし尻尾を生やし、足を生やした狸が正体を表しました。
(これはなんと怪しい茶釜だろう)と和尚さんは、屑屋さんに茶釜を売り渡しました。
その日の夜のことです。
茶釜は自ら頭と手足の生えた正体を現し、猟師から逃れるために茶釜に化けたことを屑屋さんに明かし、ぶんぶく茶釜(分福茶釜)と名乗りました。
狸は、火にかけられたり、カンカンと叩かれたりと寺で散々な目にあったことを打ち明け、屑屋さんには自分をもっと丁重に扱って欲しいと懇願します。
『丁重に扱ってくれるなら、軽業や踊りの芸を披露しましょう』と狸が持ちかけ、屑屋さんは見せ物小屋を作りました。
狸は音楽に合わせて踊りを踊ったり、綱渡りをしたりして人気を博しました。
一財を成した屑屋さん、疲れ果てた狸を憐んで、儲けの半分をお布施とするとともに茂林寺に茶釜を返却しました。
それから…もう二度と狸にも戻らなくなったぶんぶく茶釜。
茶釜は茂林寺のお宝として、今でも御本堂に祀られています。』
というもの。
館林の茂林寺のそばには、この絵物語が何話かに分けて看板にされており、館林駅から茂林寺に行く道中の塀に取り付けられています。
(東昌寺さん 続き)
道を曲がるときには、運転もしていないのにそのなかなかの狭さと直角の曲がり角にビビっていたものの、
その道を曲がってから続く、まっすぐな一本道に、私は魅了されます。
ぽつんぽつんと離れて建つお宅の間をまっすぐ縫うように伸びた道。
お寺さんの石段が見える頃には、その道の脇に石仏さまのお並びになられるのが見えてきます。
✨✨
大きめな石仏さま、
小さめな石仏さま、
参道の右側に並んで立っておられます。
駐車場と思しき空き地に車を停めると(運転は夫)、走って石仏さまのところへと向かいます。
…ええ、こういう時の私の内心の声は「きゃー♡」。
ワクワクドキドキが止まりません。
おお、青面金剛さまがおられます。
青面金剛さまはその時代時代であったり、土地による違いがあったり、石工による表現の違いがあったりとさまざまな御像があります。
こちらの青面金剛さまは、今まで拝したことのない新バージョン。
…古い石仏さまなので、新バージョンという表現もおかしなものではありますが。
まずはその表情。
困ったような、なんともいえない表情をされておられるのです。
力強い幾つもある手にはそれぞれに何かをお持ちです。
…えっ?神鏡?
宝輪なのでしょうが、神鏡のようにしか見えません。
しかも両手持ち、両手に高く掲げています。
それから一鈷杵?
巻物?
何よりもある意味特徴的なのは腕組みをされているところ、でしょうか。
光背部分、お腰の辺りには両サイドに鶏が彫られています。
邪鬼を踏みつけ、というよりは邪鬼の上に立ち、その邪鬼の下には、邪鬼の下に笑顔でその全てを支える存在がおられる。
えっ?
お猿さん、ではないと思えます。
前後、右方から見てもお猿さんではない。
すごく良い笑顔です。
これこそがまさに初めて。
…とはいっても、今までもそういった尊像を拝しながらも気づいていなかったことは充分あり得る私ではあるのですが…。
四月八日はお釈迦さまのお生まれになられた日。
【花御堂(はなみどう)】という小さなお堂の屋根をたくさんの花で飾り、中にお釈迦さまのお姿【誕生仏】を納め、甘露(かんろ)に見立てた甘茶をかけてお祝いします。
【灌仏会(かんぶつえ)】、
【降誕会(ごうたんえ)】、
【花まつり】とも呼ばれます。
お釈迦さまの誕生には次のような伝説があります。
お釈迦さまのおかあさまの摩耶さまは、王子が生まれる用意や、ご両親に会われるために、里帰りをされます。
その旅の途中、ルンビニ(藍毘尼園)というところにさしかかった時、この場所で一休みなされました。
そして木の下でお釈迦さまをお生みになられたのです。
それは右脇からと伝えられます。
その時の伝説では、お生まれになったお釈迦さまを、梵天と帝釈天の二人が、お釈迦さまを受け止めたと伝えられるといいます。
そして、二人の竜王がそのお釈迦さまに甘露水を注いで清めます。
その時、ハスの花が忽然と咲き、その上にお釈迦さまが立たれると、七歩歩いて立ち止まり、四方八方を見られてから、右手を天に向け、左手を大地に向け、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと伝えられています。
花御堂の中のお釈迦さまの仏像に甘茶をかけるのは、この竜王にならってのこと。
このお釈迦さまの誕生を祝う祭典はインドや中国では古くから行われていたようで、日本でも推古天皇の時代には伝わっていたようです。
今年、東博の金色堂展に行った際、法隆寺の宝物館にも寄らせていただきました。
古い時代の御仏の尊像がいったいいく体こちらに納められているのだろうと思うほど実にたくさんの仏像が飾られています。
たぶん、軽く見積もっても百はゆうに超えています。
そんな中に摩耶夫人の像が片隅にひっそりと飾られていました。
まさにそのお釈迦さまのお生まれになられるときを表した摩耶夫人の尊像です。
お寺にあったらこんな至近距離で拝することなどありませんし、そもそもこれだけの仏像をこちらに収めて置くくらいたくさんの御仏の像がおありなお寺さんです。
こうした宝物殿であればこそ拝することができたかと思います。
思わず声が出たくらいに感動の出会いでありました。
この目でこの摩耶夫人の尊像を拝することができようとは思ってもいなかったので。
【浄因寺さんの】
このところ、耳閉感はひどいわ、ふわふわしてまっすぐ立ててすらいないわ、今日などは頭痛までして、
(春なのに)などと歌のタイトルのようなことを思うのですが、春だから、なのかもしれません。
まぁ、これは自分の身の内からの声。
その声にちゃんと耳を傾けて、うまく操作、操縦していくしかないのです。
ええ、お風呂掃除も、買い物も、食事の支度も、この辺はもう毎日のこと、当たり前のことで、うま〜く自らを操縦して。
週一階段の雑巾がけと窓拭き、月一換気扇掃除もしちゃう。
以前はこの症状と闘いながら仕事をして、おんなじように家事をしていたのだから、屁みたいなもの…なはずなんだけど…なぁ。
去年はこの換気扇掃除で、バランスを崩して、足の脛の皮がズザザ〜っとえぐられる怪我をしたし。
バランスが悪いから、この間の義母の葬儀では、普通の人ならありえない、ただのお焼香で倒れそうになるし、本当は正直、階段掃除は恐い。
ただ。
それを言い訳にして、安静と称してスマホで神社仏閣やら仏像やらを検索して過ごす時間がある。
スマホいじってたらダメじゃん?
ねえぇ。
閑話休題。
この花まつりの頃になると、なんなら秋の紅葉もそうなのだが、行きたくなる、だけれど行くのがとてもつらいお寺さんがあります。
それは。
…栃木県足利市の浄因寺さん。
実はこちらは無住となって久しいお寺さん。
しかしながら。
かつては『関東の高野山』と称されたお寺さんであり、かの葛飾北斎が描いた清心亭という懸け造りの茶室ヘ掛かる『天高橋』があります。
そして秋ともなると赤や黄色に紅葉する木々、そこからの木漏れ日。
それはもう風光明媚なところであります。
そして三万三千といわれる石仏。
…おばさんが好きな理由がここでもうバレましたね。
そして。
かつてもう一つ、ここのお寺さんといえば、といわれた優しい風景がありました。
それは…四匹の猫たち。
ご住職が亡くなられ、世話をする人がいなくなったことを憂えた方が、ここの猫たちを保護してご自宅に連れて行ったのですが、ご住職を慕う猫たちは、かなりの道を歩いて歩いて、山道をのぼって、こちらの庫裏に戻って来てしまったのだと言うのです。
そんな猫たちに、毎日食べ物をあげにきてくださる方がおられ、猫たちはここで四匹仲良く住んでいました。
『高遠城址公園』
長野県伊那市のホームページより
武田信玄の五男仁科五郎盛信が織田信長の長男信忠と戦い、壮絶な死を遂げた高遠城は、明治四(1871)年の廃藩置県で、城が取り壊され、明治八(1875)年に公園となりました。
高遠藩の旧藩士達が「桜の馬場」から桜を移植したことにより、今では全国でも有数の桜の名所となりました。
本丸の老木はこの時植えられたもので、四月には、130年生以上の古木二十本、50年生以上のもの五百本などに若木を加えた約1,500本の【タカトオコヒガンザクラ】が、淡紅色で小ぶりの花を枝いっぱいにつけます。
また、秋にはタカトオコヒガンザクラ独特のほとんど紅葉せずに落葉した公園に、およそ250本のカエデがきれいに色づき紅葉が楽しめます。
公園内には、国の登録有形文化財の指定を受けた高遠閣や城下から移築された問屋門、太鼓櫓、新城藤原神社のほか、高遠公園碑、無字の碑、靖国招魂碑などの碑文等、古きを偲ぶ歴史的資料がたくさんあります。
春の桜のほかに、夏の新緑、秋の紅葉など年間を通じて多くの観光客がこの城址公園を訪れています。
(光前寺さんの続き)
私ども二人の神社仏閣珍道中では、御本堂の参拝までは基本共に行動いたします。
そしてその後は何を語ることもなく、各々が自分の関心のあるところへと移って行くのが普通であります。
それでもあまり広くない境内の神社さん、あるいはお寺さんで夫の姿を見失って、かなり長いことその姿を見かけないとかなどは、よもや神隠しにでも?とドキドキ不安になるビビりな私。
一方の夫はまず私を探したりはせずに、マイペースに境内の中を探索しております。
しかしながらこの光前寺さん、駐車場に入る前から桜と水仙が咲き乱れている様が観てとれ、それはちょっとした桜の名所など足元にも及ばない素晴らしさで。
しかもこちらもまさに満開の時。
気持ちがついついそちらへといってしまいがち。
山門前からすでに別行動。
ま、どうでもいいのですが、ね。
それだけこちらのお寺さんに来たかったのでしょうし。
でもこちらが桜の名所であることは到着するまで知らなかったようで。
来たかった理由は?
…まぁそのうち、聞きたくなくとも語り出すでしょう。
スタスタと山道を歩き出す私にようやく夫は追いつきました。
「ここね、あの『まんが日本昔ばなし』にもなった伝説のあるお寺さんなんだよ」
あ、ああ、そういえば来る時チラッと言っていたな。
でもそれ、行けたら行ってみようってくらいのノリで、確定ではなかったよね。
しかも『まんが日本昔ばなし』って…。
それ、あなた、子どもたちほったらかして一人で観てたんですよね。
子どもたちはまだそれが理解できるかどうかという歳でしかなくて。
私、一緒に観たのかしら?
あとで聞いたところ、やはり息子もそんな話に記憶はないと申しておりました。
「昔早太郎って犬がここに住んでいてね」
…はあ。
彼が熱く語る『まんが日本昔ばなし』の
【猿神さま】というお話の回の拾い画像です。
(光前寺さんの続き)
光前寺さんの御本堂の階段を降りました左側になにやら人だかりができています。
『延命水』と書かれた立て看板があります。
「飲む?」と夫。
「いや、私はいい。延命でしょ?ボケ防止の水なら持ち帰るくらい飲みたいけどね」
効き目はたしか、かもしれません。
何故ならここ、駒ヶ根にはあの〝養命酒〟さんの工場があるのです。
早太郎の墓がありました。
お墓自体は小さな、丸石を積んだだけの簡素なものですが、高く積み上げた石の立派な台と、同じく立派な囲いに囲まれています。
早太郎は本当に実在したと私は思います。
早太郎のために奉納された大般若経も実在しますし、遠州府中の見付天神社さんにも早太郎の伝説が残っていて、今、この二つの市は姉妹都市となっているとか。
早太郎の墓は御本堂の…方は向かずに歴代和尚さまのお墓と向き合って建てられています。
…なんとも早太郎らしい、賢い忠犬の墓、という感じのお墓ではないですか?
(早太郎の石像と三重塔)
(続き)
語り出すとキリがない、大好きなお寺さんであり、ご住職さまであり、奥さまであります。
過去記事はいくつもありますし。
半僧坊大祭に話を戻しましょう。
お寺さんの駐車場が近づくと、読経の声に合わせて〝カンカン〟という少し甲高い、木を打ち合わせるような音が響いています。
六地蔵さまのお並びになられる入り口を通ると、真正面に御本堂が見えます。
まっすぐ歩いて行きますと、いつもとは異なって、御本堂の右手前に誕生仏、お釈迦さまの小さな像が同じ素材の小さなトレイにおられます。
トレイの中には甘茶と小さな小さな品の良い柄杓。
花御堂こそありませんが、『花まつり』も兼ねたお祭りのようです。
そばにはジャグと紙コップが置かれています。
はて。
こうしたとき、私はまず一番にすべきは、…なに?
まず手を浄めて。
御本堂?
誕生仏?
はたまた半僧坊さま?
迷ったときはまず御本堂へ。
ご本尊さまの真ん前には几を置いてご住職さまが座っておられます。
お辞儀をしてお賽銭をお入れして、もう一回丁寧にお辞儀をして、ご本尊さまに手を合わせました。
じぃーっと、ずっとご住職さまが、私の一挙一動をみておられます。
緊張!
悪いこともしてないし、間違ったことは…してるのかなぁ。
それはなんとも…わからないことで。
そして。たしかに折にふれてはこちらのお寺さんをお訪ね申し上げてはおりますが、私、ご住職さまとはそんなにお話ししてはおりません。
今年は一度ひろさちやさんの本をこちらで購入させていただいた時だけです。
私のことを覚えておられないのはたまにお話したときの会話でわかります。
(見たことがある…)そう思われての視線でしたでしょうか。
こちらのご住職さまの目は、じっと見られると緊張するのです。
緊張を隠して、一連の動きでご本尊さまへの参拝を終え、御本堂をあとにしました。
…ちょっとだけホッとしながら。
そして、…誕生仏?
半僧坊?
誕生仏、お釈迦さまにご挨拶させていただくことといたしました。
この日の目的はたしかに半僧坊さまの大祭なんですがね。
こういった時、学びのない自分が情けなく、ちょっとだけ悲しくなります。
そしてきっとこれは、…正解がない。
(続き)
死後の裁きといえばたいていの人が思い浮かべる方がおられましょう。
そう、かの【閻魔大王】さまです。
【閻魔大王】さまは冥界(=めいかい 死後の世界)の最高の王ともいわれます。
閻魔帳や人頭杖(じんとうじょう)、浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)を用いて、亡者が【六道】の『地獄道』『餓鬼道』『畜生道』『修羅道』『人間道』『天上道』といった世界のどこに輪廻転生するかを決定されると言われています。
この閻魔大王さまの審判を受けるとされているのは、実は三十五日のとき。
その前の段階、初七日から四七日(よなのか)の間、四王による取り調べを受けてのこの審判、裁きとなります。
…仏教での法要では、初七日は不動明王さまにお会いするとお話しされます。
…実はここが突き詰めるとわからなくなる仏教特有のものとなるのですが、閻魔大王さまの所属(!)される【十王】と、十三佛さまは表裏一体とされており、不動明王さまは【秦広王】さまと表裏一体、不動明王さまの化身が秦広王とされています。
【十王】とは
秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻羅王(閻魔大王)、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王とされます。
こちらの十王さまによって裁かれるというのは、『十王信仰』と呼ばれるもので、中国において、仏教と道教の両信仰が合わさって生まれているものとされます。
歴史はかなり古いもので、唐の時代にはもうこの信仰の形は成り立っていたといいます。
なので、この十王信仰は、日本の神仏習合の形ではなく、中国由来なものとなります。
秦広王さまで例をとりましたが、たとえばこの秦広王さまに対する不動明王さまのことを、【本地仏】あるいは【本地身】と呼ぶのですが、
この本地仏さまは当然、十王さまそれぞれにおられるとされます。
初七日 秦広王 …不動明王
二七日 初江王 …釈迦如来
三七日 宋帝王 …文殊菩薩
四七日 五官王 …普賢菩薩
三十五日 閻魔大王 …地蔵菩薩
六七日 変成王 …弥勒菩薩
四十九日 太山王 …薬師如来
百か日 平等王 …観音菩薩
一周忌 都市王 …勢至菩薩
三回忌 五道転輪王 …阿弥陀如来
となっています。
十三佛であられます。
このあと七回忌があり、十三回忌があり、三十三回忌までお護りくださる御仏がおられ、その御仏に対しての王もおられるとする説もあります。
(続き)
全てのシールを貼り、社務所に〝報告〟いたしましたところ、
白い小さな紙の袋をお授けいただきました。
宮司さま、いったんその紙袋を夫に渡したあと、もう一度ご自身のお手に戻されて、中を出してお見せくださいました。
「おおっ♡ なんて可愛らしい!」
なんとも可愛らしい、そしていかにも現代的な根付けタイプの御守でありました。
白狐がお祈りをしているフィギュアの御守です。
…なんか凄くうれしい。
白狐さまと一緒に家に帰れるような気がいたしましたし、なによりこれからこの白狐さまとずっと一緒にいられるのです。
大切に手のひらに包ませていただいて家に帰りました。
かわいい私の守り白狐さま、です。
(続き)
今回で三回目の参拝となりますこちらの出流原弁財天堂さん、私にとってとても心が穏やかになる癒しの空間であります。
入り口から上りとなる参道。
こちらの山門は、実になんとも変わっているのです。
赤い楼門、とでもいいましょか。
石段の途中に楼門が設けられているのですが、そのくぐる部分が赤い太鼓橋の下といった感じ…なのです。
太鼓橋の下をくぐるように山門をくぐると目の前に大きな蛇の銅像があります。
この蛇の像、口から出した細い舌までが表現されたなかなかリアルな像であります。
その左側には石造の弁財天さまがお祀りされています。
右側ヘ折れてさらに上を目指します。
すると右側に鐘楼があって、こちらの鐘は撞くことができます。
私が撞いたあと、順番待ちの人の列ができ…七、八人はいたでしょうか。
撞いて良いとされる梵鐘は必ず撞かせていただく私ですが、こんなに並
んでいたらちょっと躊躇われたかもしれません。
まあ、そんな煩悩の一つを消してくださるという梵鐘ですので、私のような人間はどれだけ並んでも撞くようにしなくてはいけないかもしれませんが。
さらに進むと三方向に道別れします。まっすぐに山を登る道と、右側にある銭洗弁天さまへと進む道、そして左側が弁天堂へと続く石段となります。
石段の下に蛇の像のある手水所があります。
ほとんどの方がきちんと手を浄め石段をのぼりはじめます。
少し急な石段をのぼると、赤い御堂が見えてきます。
そしてその御堂のある段までのぼるとまた白蛇の像が祀られています。
御堂は懸造り、右側面に石段がつながっています。
木でできた床を歩きだすとまもなく、展望台かと思うくらいの眺望が広がります。
青い空と、緑豊かな大地が広がっています。
その美しいことといったら。
(出流原弁天堂の楼門)
(続き)
懸造りは、懸崖造り、舞台造りなどともいわれます。
この舞台造りは日本でしか見られない建築様式で、京都の『清水寺』が有名です。高さや規模では敵わないものの、出流原弁天堂の舞台造りからの眺めの良さは引けを取りません。
ところで。
この出流原にありますこちらの弁天堂さんを私はずっと『出流原弁天堂』と呼んでおります。
実はもう一つの呼び方として【磯山弁天堂】というものがあります。
この懸造りの掛けられた山が磯山であるからなのですが、私はこちらの御朱印に『出流原辯財天』と書かれていたから、であります。
しかしながらこちらの弁天堂の管理は今現在では【磯山弁財天観光協会】さんがしており、御朱印もホテルのロビーでの授与となります。
そちらのホテルは出流原弁天池のすぐそばにあり、〝山〟よりも〝池〟に重きをおいた、ということがあったりする…のかもしれません。
こちらの弁財天さまは、今を去ること千年の昔、唐沢山城主【藤原秀郷】公の勧請によるものといわれ、【弘法大師】さまが『相州江ノ島弁財天』にて護摩修行の際、その護摩の灰にて造られたものといわれているといいます。
そして、その当時は一帯に七宝伽藍が林立して隆盛を極めたといいます。
しかしながら、その後幾度かの火災に遭い、寺宝等をことごとく焼失してしまったといい、現在の本殿は鎌倉時代に再建されたものといわれています。
釘を使わぬ昔日の力学工法の建築美を今に伝える貴重な文化財として大切に現代まで継承されてきたもので、近年では平成元年に保存のための修復がなされています。
磯山弁財天も、以前は弁天池の中の小島に祀ってあったものといいます。
霊泉の不変の恩恵に浴した出流川沿岸の住民、特に水車講農民等の信仰が厚く感謝の総意により現在地に奉安したと云われ、日本広しといえど弁天様を山腹に安置するのは磯山弁財天のみとされます。
紫陽花
詩 白居易
何れの年にか植えて
仙壇の上に向う
早晩移栽して梵家に到る
人間に在るといえども人識らず
君に〝紫陽花〟と名づける
(意訳)
いつの頃から天上の仙人の世界に植えてあったのか、いつしかこの寺に移植された。
せっかく人間界にやって来たのに誰も名前を知らない。
あなたに「紫陽花」と名付けましょう。
作者、白居易は中唐の詩人です。
白楽天の名前でも知られています。
この詩は、彼が若い頃、江州の郡守をしていた時、招賢寺というお寺を訪れた時に作られたと言われています。
〝仙壇〟は仙人の住む場所。
〝梵家〟は仏教関連の家、ということでお寺となります。
僧侶が名前の分からない紫色の美しい花を白居易に紹介した時に、この詩を読み、紫陽花と名付けたようです。
なんとも素敵なお話です。
お寺と紫陽花、こじつけのようにこの詩を紹介しましたのは、紫陽花の花の画像をここに貼りたくて。
最近母の日はカーネーションに限らず、クレマチスであったり、ブーゲンビリアであったり、紫陽花であったりと、母の好みや自分の好みの花を選ぶことも増えているようです。
今日娘の突撃訪問があり、大きな花束のような紫陽花をプレゼントされました。
わたしのTシャツにハーフパンツといういでたちに顔をしかめつつ、照れくさそうに花を手渡してくれる娘に、涙がこぼれそうになり、抑えるのが大変でした。
(続き)
それはそれは一つ一つの御札や御守りを大切にお手にお持ちになって、ご住職さまは壇上にあがって行かれました。
節分会のときと違い、お一人でのお護摩ですので、お座りになられるときの衣の裾の直しも皆ご自分でなさいます。
まず九条錫杖経から始まって、いくつもいくつもの御真言をお唱えになられました。
そうしてようやく火を焚べられました。
私ども一人一人の願意を御祈願くださって、それから年間の祈願をされた方の祈願をお願いされ、時々植物の葉などをお焚べになりました。
炎は不思議な形に燃え上がります。
やがて小さくなった炎を確認し、お護摩を終えたご住職さまのお手には私どもの御札や御守りが乗せられたお盆。
それをお持ちになられ、高い高い壇上から降りて来られたご住職さまから一人一人御札等を手渡されます。
それが決まりごとのように壇上へと上がる方が一人。
その方に続いてもう一人の方も壇上へと上がられ、ご住職さまも「お気をつけて」とお声をかけます。
私も。
こちらの 御内陣はかなり高さがあり、そこに上がるために箱段が置かれています。
この箱段の一つ一つがまた結構高い。
気をつけて上がらないと上がり損ねたり、バランスを崩して踏み外しそうになろうかという感じの箱段です。
一段一段気をつけて…。
あぁ♡
ひとめで大好きになったお不動さまをはじめとする五大明王さまたちの尊像です♡
この五大明王さまの尊像のお写真はこちらのHPにもありません。
…そうなんです。
この尊像にお会いしたくてこちらのお護摩に参列させていただいているところもあるおばさんで…。
もう少し参列者が多ければもう少しおそばにいられるのになぁ。
もう先に参拝されたお二人はもう堂内にお姿が無いくらいです。
私の拙い手彫りのお不動さまを見て、「これはなかなか…」とお褒めくださりました。
お世辞なのは私が一番わかっておりますが、それでもそのおっしゃりようがとても暖かくてお優しいので、とてもとても嬉しくて。
来月も来られたらいいなと思う私でありました。
帰り道。
鶏足寺さんの参道を悠々と雄の雉が歩いて横断しておりました。
なるほど、鳥に縁のあるお寺さんらしい。
鶯の鳴く音も聞こえています。
のどかで、心が穏やかになりそして癒される鶏足寺さんでありました。
(花御札)
牡丹の花の時期も終わりました。
なんだかんだと毎年お邪魔させていただいております〝花の寺〟の一つ、群馬県桐生市の【龍眞寺】さんに参拝させていただいたのは少し前のこと、五月の三日でありました。
大好きだったお寺さん、なのですが、少しずつ雰囲気が変わってしまい、それが牡丹寺を名乗ったせいなのかどうなのか…。
それでも今年はあちこちに活けていた牡丹の数も少なくなっており、そう、でもないのかなぁと思ったり。
たぶん大好きだった石仏さんがどこを探しても見つからなくなってしまったことも私の中で大きいのかもしれません。
こちらの牡丹は毎年黄色い牡丹が咲くと花の時期が終わることを告げます。
今年はそれでも他の色の花もかなり残っていた、…というのか黄色の牡丹が早く咲いたのか、そこはわからないのですが…。
お隣の県にある、あの有名な足利フラワーパークさんも紫や白の藤はすっかり花を散らしたようですが、そんな頃になると黄色い藤が花の時を迎えるようです。
黄色い花というのは何か特別にそんな役割を果たすものなのでしょうか?
ところが。
どうやらこの黄色い藤、実は『黄花藤』は同じマメ科でも属が違うのだといいます。
『藤』はフジ属で『黄花藤』はキングサリ属の花木、なのだといいます。
花の姿が「藤」に似ており花色が黄色なのでこの名がついたのだそうです。
この黄花藤、実は藤のように蔓性ではないのだとか。
花ばかり見るので、そんなことに気づきもしませんでした。
この花、花の姿が鎖のようにも見えるので、「金鎖(きんぐさり)」という別名があるといいます。
花の世界も奥が深いです。
(続き)
この日、お宮参りの赤ちゃんとそのご家族がみえました。
スタッフの方々が観音経読誦は一旦中断のようなお話をされていました。
そして入った中断の為、私はその裏手におられる御仏をさぁゆっくりゆったり拝観させていただける、そう思ってゆっくり手を合わせておりました。
なので太鼓の音が聞こえても、お宮参りなお子さんに対しての御祈祷が始まるのだと思っておりました。
「ねえ、始まるみたいだよ、みんな座って準備してる」と夫。
へ?
まぁ、夫の勘違いにしても赤ちゃんのお宮参りに参列させていただくのも光栄なことと、できるだけゆっくりそっと、座の雰囲気を壊さぬように先ほどの席に戻りました。
ご住職さまが開経偈をお唱えになりました。
そうそう、やっぱり赤ちゃんのお宮参りでしょ。
赤ちゃんは眠っているようですし、お兄ちゃんはずっと静かに、神妙に、ご本尊さまの御前に置かれた椅子に座っています。
無駄口のひとつも言いません。
(なんてお利口さんなんだろう)、と感心していると
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品 第二十五」と続くではないですか!
えっ、えっ?
よくよく考えれば、ご住職さまも副住職さまも、観音さまの御前に座しておられます。
ご本尊さまの御厨子の前にはぽつんと四人のご家族が。
ええ、そのまま観音経の読誦が始まりました。
…夫に騙されておいて良かった、ではなくて、夫を信じてよかった、です。
わが家の子どもたちは昇殿したり、昇堂したりしてのお宮参りはしていませんし、孫は神社さんでのお宮参り、生まれて初めてのお寺さんだのお宮参りへの参列です。
…でも普段ならやはりご本尊さまの前で、ご本尊さまに御祈願?御祈祷するのだろうな。
私の拙い、というかもはやほとんど観音経でない読経を乗せてしまって良いのだろうか?
悩むところであります。
できうる限り間違えないよう努力しよう。
…でもやっぱりうまくはいきませんでした。
でも大丈夫。
大日さまと観音さまのご加護は、私の読経になど左右されたりはいたしません。
(観音経読誦会の後、御本堂のわきにてくつろぐ猫さん♡)
(続き)
「それではご案内させていただきます。その前にお願いがございます。
置かれているものに手を触れないでください。壁にもふれないように注意してください」
足元よろよろのおばさんは急に緊張いたします。
それでもゾロゾロと前の方について進んでまいります。
おおっ!
拝殿です。
ぱっと上を見上げます。
…ん?
やっぱり源氏物語ではない。源氏物語ではなくて花鳥風月が描かれています。
ええぇっ?!
だったらやっぱり幣殿、ですか?
これはこれは貴重な体験です。
一般の参拝者は入って拝殿まで。
幣殿になどはいれはしません。
すごい、すごい!
幣殿に入らせていただくんです!
幣殿は御祈祷される神職の方が入るのみ、本殿などは神職の方ですら、中に入るのは特殊なときだとおっしゃいます。
そして上を見上げて…。
う、うわぁ💕
(足利伊勢神社さんの続き)
うさぎの人形のおみくじを社務所のカウンターに見つけたときの嬉しさといったらありません。
やはり月読宮に飾られていたうさぎはおみくじの子でありました。
しかももうその残り三体のみでありました。
もちろん、新しいものがご用意されていて、この子たちがみな、誰かの手に渡ったら、新しいおみくじとして陳列されるやもしれませんが、とにかく、出会えたことがうれしくて、しばし見惚れたものでありました。
社務所のガラス窓は閉ざされていました。
そっと手にかけると、…開かない!
えっ?
開かないってことは…?
他のおみくじは違うところにあって、お金を入れるところもそこにあるのですが、
うさぎのおみくじだけは社務所でお金を払ってお授けいただくようなのです。
ええっ!
狼狽えた私は時計を見ます。
まだ三時半。
時間的にはおられそうな…。
と、玄関にあるような呼び鈴があるのを見つけます。
その上を覆うように貼り紙がしてあって何か書いてあります。
ほっ。
これを押してお呼びすれば良いんだ。
とはいえ小心者のおばさん、実際にどなたか出て来られるまでは不安です。
「はい」
女の方が出てこられました。
…おそらく私、満面の笑をうかべ、その方にご挨拶をしたことでしょう。
まずは御朱印をお願いいたしました。
その間にどのうさぎに私の元にきていただくか、一体一体、お顔を見て心の中でそっと話しかけます。
「私の元に来てくれる?」
優しいお顔で微笑む子と、少しだけ寂しそうな子と、あまり視線を合わさない子と。
寂しい私は優しいお顔の子をそっと手に取りました。
手のひらでそっと包んで、御朱印に筆書きしてくださる間を楽しんでいました。
お金を納めて。
残りの二体、特に寂しそうな子に心の中で手を振ると。
なんと寂しそうな子、左足の先が欠けてしまっていたのに気づきます。
私はお人形を手に取っては選ばないので選んでいるときには気づかなかったのです。
…ああ、それで、それで寂しそうな悲しそうなお顔に見えたのか。
なら、あの子にすれば良かったな。
それでもおみくじです。
御神籤。
神さまからのメッセージです。
もう一体、というわけにはいきません。
ごめんね。
心でそう告げて、足利のお伊勢さんを後にしました。
(桔梗草)
【お経】
以前にも一度書いておりますが、お経は全てお釈迦さまの教えであります。
お釈迦さまは三十五歳で仏のさとりを開かれて、八十歳でお亡くなりになるまでの45年間、教えを説かれました。
その間、お釈迦さまご自身は何一つ書き残されず、その時その時の相手に応じて話をされたのでした。
つまりお経の全ては、お釈迦さまの死後に弟子たちによって編まれたものです。
お釈迦さまがお亡くなりになった後、
五百人のすぐれたお弟子が集まって、
お釈迦さまの説かれた教えを確認し、まとめました。
これを【仏典結集(ぶってんけつじゅう)」と言うのだそうです。
仏典結集は、どのように行われたかというと。
まず、お釈迦さまのおそばに二十年以上仕えた、『多聞第一』といわれ極めて記憶力のいい【阿難】というお弟子が、
「私はこのようにお聞きしました」と語ります。
それについて他のお弟子達が検討して、
五百人全員間違いないと認めたものが、お経となったといわれます。
他にも、すでに弟子たちは分裂していたり、あるいは広いインドで、かつてお釈迦さまの教えを受けた者たちがいたり、その者たちが自分たちの受けた教えをそれぞれに書き残し、それもまたお経になったとも。
つまりはお経とは、お釈迦さまが、
生きている人たちに説かれたご説法を書き残されたもので、決して死者に対してのものではないのです。
ところが、私たちが普通に生活していてお経を聴く機会というと、大抵が葬儀・告別式であり、そうでなければその後の法要であって、熱心な檀家さんであるとか、仏教徒であるとか、…まぁ、私のような門外漢もごくごく一部存在していますが、…以外はまさに、そうした時以外はお経にふれることは無いと言っても過言ではないと思います。
「それは死者の冥福を祈るのであろう」
「亡くなった方が迷わず成仏できるようにであろう」
…それが、ですね。
「そうではない」と。
はっきりと断言された方がおられるのです。
それは誰あろう『お釈迦さま』ご本人なのでありました。
(八重咲きのドクダミ)
六月に入り、紫陽花の美しい時期となってきました。
紫陽花は、日本古来の伝統的な花で、その七変化する色味は虹にたとえられます。
そんな紫陽花を使ったおまじないがあります。
あるいは昨年も紹介したかと思われます。
それは。
六月の六がつく日、六日・十六日・二十六日に、紫陽花の花を一輪摘み、半紙でくるみ、可能なら〝水引〟でしばって、軒下や玄関に逆さに吊るすと『厄除け・開運』になるというものです。
また穢れの多いとされるトイレの浄化にもこれを飾ると『浄化』になるといいます。
諸説あるようで、六月ならばよいとするものもあるようですし、『六月十八日』とする説もあります。
十八日は密教系の占いで『健康祈願の日』とされていることに由来するようです。
一年経ってカリッカリに乾燥した花は、砕いて粉々にしてお塩をまぜ、それを川や海に流すと良いとされる説もありますが、いずれにしても感謝の意を込めて処分します。
関西によく知られるおまじないのようです。
このおまじないをされている方を一人知っていて、この方は群馬県生まれでありますが、大阪で長く暮らされ、それでももう群馬に戻られてかれこれ二十年ほど経つのですが、いまだに大阪弁バリバリで、性格もさっぱりとし、芯の強い方なので、てっきり大阪人かと思っていたのですが、実は群馬生まれ、群馬育ち出会ったという方であります。
この方は玄関に吊るされておられます。
お庭にあるのは鉢植えの小さな紫陽花なので、あるいはこのおまじないのためにこの鉢植えがあるのかもしれません。
紫陽花の切り花も最近は売られていたりもしますが、ごくごくわずかなものでしょうか、家に紫陽花がないとなかなかできるおまじないではありませんよね。
話は変わりますが、あの【花まつり】でお釈迦さまの誕生仏と呼ばれる御像にかけることで知られる【甘茶】も、紫陽花の仲間ですので、今まさに花の時期であります。
甘茶として使われるのは葉の部分ですが、せっかくなので写真を。
(〝甘茶〟の花)
猫どころかネズミの額くらいと称するわが家の庭には、いま六種類の花が咲き、もう一種類があと少し、日に日にその蕾を大きく、そして青い色合いを滲ませながらふくらんでいるところであります。
地植えのものは四本で、今年娘から贈られたもの、昨年やはり娘からもらったもの、四種類が鉢植えとして玄関の門扉を開けたところに所狭しと並べられています。
紫陽花が好きなのかと思われるかと思いますが、実はそれはここ数年のこと。
むしろ夫が紫陽花が好きだと申しておりました。
最初は七色に次々花の色を変えるという緑色の紫陽花に魅せられ購入したことから始まりました。
物珍しいこと、そうした花を愛で癒されたかった時期とが重なってのことでした。
毎日毎日残業して、次ぐ朝寝不足な顔で出かける夫に、せめて朝仕事に向かうとき、玄関に咲く紫陽花の花を見て癒されて欲しいと思ったのです。
が。
夫は紫陽花の花を愛でる余裕すら無かったようで。
というか花を見て綺麗だとは思うものの、その時だけでよいタイプであったような。
花に水やり、とかは義務化でもされなければ、思いすら抱かないタイプの人で、さまざまな花の時期をうたうニュースを観てはあちこちに行きたいと言う、育てるとかいう気はさらさらありません。
今、狭い玄関前に、これでもかというくらい紫陽花の鉢植えが並んで、ちょっとした紫陽花の小道…道ではないですね、数歩の通路となっていますので、さすがの夫の目にも入っていますが。
娘からの鉢植えもあることですし、ね。
この時期が来ると、鎌倉に行きたくなります。
とはいえ、紫陽花で有名なお寺さんは、…たとえば明月院などは行列で歩くほどだと言われ、そうした時期をあえて外して参拝するくらいです。
それは東慶寺さんの〝イワカガミ〟という花の時期だから、なのでありました。
とはいえイワカガミもアジサイ科の花なのですが…。
コロナ禍以来、そして鎌倉殿の大ブームもあってすっかり鎌倉から遠ざかっており、さらには今、コロナ禍が過ぎ去ってオーバーツーリズムが叫ばれ、人混み嫌いな珍道中ペア、近くて遠い、遠くて遠い鎌倉に、今なお行けずにいるのでありました。
(イワカガミ)
(続き)
鐘を撞いて。
こちらの鐘の音は澄んでいてとても好きです。
さあいよいよ御本堂です。
もう少しだけ石段を登ります。
おお。
よかったぁ。
御本堂は何も、何一つ変わらない、変わっていない。
とはいってもたとえば護摩木だけ奉納したい人のために、護摩木が御本堂の濡れ縁に置かれたテーブルの上に綺麗に、祈願内容ごとに整頓されてすぐにスッと選べるように置かれています。
たくさんの願意があらかじめ印刷してあるので、ここから自分の願いたい内容に近いものを選べば良いのでこれは実にありがたいです。
以前より願意の内容が増えたようにも思いました。
以前は漠然としてそれでいて含みのある『諸願成就』とか『心願成就』を選んでいましたが、最近は自分の望んでいるもの、願うものが何かがはっきりとしているのに気づいたので、そのままの願意を選んでいます。
それにしても。
平成の足利市における大火以降、いろいろこちらのシステムが変わり、そしていろいろと値上げがされています。
かつては二百円だった護摩木は五百円。
しかも護摩木を書けば参加できた護摩修行も、今は千五百円支払うようになっていました。
ちょっと前には護摩札を希望しないとお護摩に参列できなかったので、それは改善されたのかもしれません。
御札を受けても三千円。
護摩木だけで参列すると二千円。
御札と護摩木で三千五百円。
護摩札は一度お授けいただけばさすがにいくつもはいりません。
願意ごとに一枚とは言われますが、そんなに家に何枚も護摩札が祀られていたら、わが家に訪れるお客さまなど数少ないとはいえ、なにかこの家にはあるのだろうかと、気を病ませたり、気味悪がられたりしそうです。
毎回毎回お護摩を、と思ったら、一年で十二枚ものお札をいただくことになってしまいます。
ところで。
煩悩おばさんがこれと決めた願意は?
あれこれと望みが多そうです。
…まぁそれは秘密、ということで。
願い事は口に出さない方が叶うという説もありますし。
(鑁阿寺さんの手水鉢)
(続き)
暦を見ると本日は『寅の日』で『毘沙門天』さまの縁日とされ、ご縁を結びやすく、願いが届きやすい日とされています。
その由来は、かつて聖徳太子さまが、毘沙門天さまを祈られたところ『寅年の寅の日の寅の刻』に毘沙門天さまが現れたとの言い伝えがあり、以降寅の日は、毘沙門天の縁日と言われるようになったそうです。
そういったことから大岩山毘沙門天さんでは、寅の日にもお護摩修行を執り行っておられます。
毘沙門天さまは、先にも書かせていただきました通り、『四天王』でありますので『八方天』・『十二天』・『十六善神』のうちのお一人です。
四天王としては『多聞天』と称し、単独尊としては『毘沙門天』といいます。
また、大般若経を守護する【十六善神】としては
【吠室羅摩拏善神(べいしらまだぜんしん)】とも称します。
…なるほど。
毘沙門天さまの御真言はまさにここからきておりましたか。
(私はこうしたところにむやみに御真言を書くことに畏れを感じますので、御真言をお知りになられたい方はどうぞネット等でお調べください。ビビりなものですみません)
須弥山中腹の水精埵の『天敬城』、
または北方倶廬州に住し、〝夜叉〟や〝羅刹〟を眷属とする北方守護の天部であらせられます。
(大岩山毘沙門天さんの御仏像のうちの一体・クーベラ像)
【錫杖経】
九条錫杖経は私の好きなお経です。
と申しましても、あと自分でお唱えできるのは『般若心経』と、『十句観音経』。
何を得意そうに、と自分でも思うのですが。
初めてこのお経を聞いたときは、独特の節まわしでのもの。
この節まわしでお唱えしろ、と言われてもそれはちょっとできかねますが…。
このお経にある錫杖というのは、文字通りの、あの、お地蔵さまの像がお手に持たれるもの。
あるいは弘法大師さまの行脚像がお手になさっているもの、…でもよいかと思います。
密教法具の一つで、柄の短いハンディタイプのものと、柄の長いつえになっているものがあります。
私が欲しがっているものの一つ、でもあります。
錫杖経をお唱えするときはこれを上下左右にゆらし、しゃんしゃん、じゃらじゃら鳴らして使います。
お釈迦さまの時代に既にあったもの、なのだそうで、錫杖の音によって、人々の注意を呼び起こし、行く手にひそむ獣、へび、毒虫などから身を守るために使われました。
この錫杖、煩悩を払うとも言われるまさに宝具。
…煩悩おばさんが欲しがるわけで。
錫杖経にもまた、魔障を祓い、煩悩を払い、衆生の心をふり起こす功徳があるとされます。
このお経に出会えたことを御仏のお導きと思わずにはいられないおばさんでありました。
ところで。
今回、タイトルには『錫杖経』、そして『九条錫杖経』という表記もしております。
書き忘れ?
…ではないのです。
この錫杖経、一条から九条まであって、すべてをお唱えしないこともあり、ゆえに、九条をお唱えしないときのことをふまえ、こう表現を変えてみた、というわけなのでありました。
…そう、九条錫杖経が書かれている経本を買い求めたというのに、〝(後略)〟と書かれていて、全文が掲載されていなかった、というおばさんの悲劇。
…ちゃんと表題としては『九条錫杖経』とあるのですよ?
調べてみて分かったのですが、九条目が〝略〟されていたのです、…詐欺じゃ?
おばさんが憤るのも無理はないでしょう?
(続き)
生まれて初めての沢入駅。
さあ、紫陽花は?
…いくつかの株は美しい花を抱いておりましたが、全体の一割にも満たないくらい。
ただ紫陽花の木がたくさんある、ということはみとめられました。
う、うーん。
今年紫陽花の花の時が早くて、そろそろ咲いているのでは?と来てみたのでしたが…なにぶんにもこちらで紫陽花祭りを催すのは七月とのこと。
やはりこちらではそのくらいにならないと咲かないのだなぁ。
駅周辺の案内板があります。
行ってみたいと思いつつ、この眩暈を持病としては危ないところにある『寝釈迦』の像が案内に載せられています。
ここから二十キロ、とあります。
(ここからは行かんわ〜)
そこに。
『沢入薬師如来堂』と書いてあるではないですか!
ありがたいことにここ、沢入駅からわずか百メートルの距離だとか。
ああ、このお導きで今日こちらへ来たのだなぁ。
息子に
「どうしてもここに行きたいので行ってきます。ここで待っていて!」
…走る!
(ユキノシタの花)
【三澤不動堂】
こちらは沢入駅からの帰りに通った道沿いに、偶然見つけた御堂です。
「あ〜不動堂がある。行きたい。どこかで停めて」
なんと迷惑で自己中心なおばさんでしょう!
…しかしながら今日の運転手は哀しいことにこのおばさんのこういうところに慣れている、慣れさせられて生きてきた息子。
停めてと言われる前に停められるところを考えております。
なんなら小さな御堂を見かけただけでも、
「ここ、寄りたい?」
と声をかけてくれるくらいですし、ともすると言わずともすでに駐停車する場所を考えていて停めてくれるくらいです。
夫はそんな空気など一切読まない。
まぁそれが当たり前と言えば、運転中ですので、当たり前。
それどころか通りかかるかなり前に言っても、面倒だと
「そんな急に言われても無理だよ。諦めて」。
…これが自分が拝したいと思ったところだと、何度もUターンして停められる場所を考えなんとか停めるんですけれど、ね。
私だって運転する人間。そこが全く停められなそうな所なら言い出しもしないんで、停められると思うから言うんですが…。
…おや、愚痴になってきたぞ。
そんなわけで停車してもらえた私は、なるべく手短にと、…走る。
以前のようなスプリンターのような走りは(それは前世のこと?)すっかりどこかへ消えて、ドタドタと走って、たどり着いた御堂こそが、この三澤不動尊さまでありました。
規模は下手をすると先ほどの沢入薬師如来さまと同じくらいかそれ以上。
ですがこちらは案内板等もない道端の御堂。
いわれもわからなければ何一つわからない。
成田山の先達の方の揮毛された扁額が掲げられています。
おばさんの得意技で中を覗かせていただきます。
…尊像は…見えない。
どんなに目をこらそうと、見えない。
どうやら瑟瑟座と呼ばれる不動明王安置される台座、…五寶の一つである珠を切り出して重ねて造った台座の周りにさらなる演出の為された木造の像なようで、その演出物(…おそらくは)、おそらくはぼうぼうの草、の部分かあるような…?
尊像の安置された場所を見るに、それしか見えないのでありました。
垂れ幕に『沢入宿講中一同』とあります。
御堂はおそらくは昭和初めから遅くても四十年代前半のもの。
外陣と内陣があって、建物も二つの屋根を葺いてあります。
今日から〝七十二候〟第二十九候の【菖蒲華(あやめ はなさく)】。
私はアヤメ、
カキツバタ、
ハナショウブ、
の違いを見分けることができません。
もはや諦めの境地 笑。
菖蒲(アヤメ)は五月に咲き、
杜若(カキツバタ) は五~六月、
花菖蒲(ハナショウブ)がいまの時 季六~七月に咲く、
などとも言われるようですが、この温暖化、いつなんどきこれがズレるかわかりません。
そもそもショウブって五月の端午の節句に飾るのではなかったっけ?などと思ったり…、まぁ旧暦とすればショウブの咲く頃でよさそうです。
ということから、『あやめはなさく』というのも、旧暦ですので、まさに今、ということなのでしょう。
芸術の世界でも、尾形光琳の国宝【燕子花(カキツバタ)図屏風】や、ゴッホの【アイリス】など、多くの巨匠たちの心を動かし、描かれてきた花たち。
今年こそ覚えてみる努力をしてみましょうかねぇ。
まぁ昔から「いずれアヤメかカキツバタ」という言葉があるくらいです。
アヤメとカキツバタそしてハナショウブは大変よく似ております。
得意ぶって間違っていたらと思うと、いっそ知らない方がいい、と思ってきたところもあります。
夫は一生懸命調べて、この見分け方を覚えたようなのですが、なにせその正解を確認する相手が私では、正解はわからないまま、ですよね。
夫の調べた見分け方は…。
一つ目のポイントは【花弁の根元部分】。
アヤメは網目模様、
カキツバタは白い筋、
ハナショウブには黄色い筋
が入っているといいます。
二つ目は【生えている場所】。
アヤメは乾燥したところを好みますが、
カキツバタは水の中に生えています。
ハナショウブはちょうど中間で、半乾湿地でよく見かけます。
…ハナショウブよ、中間はやめておくれ、とちょっと思ったおばさんが一人。
そんなおばさん、今年こそ覚えられるでありましょうか。
ところで。
実はあの端午の節句の菖蒲は、今ここに上がっているよく似た花の三姉妹とは、似ても似つかぬ別物なのだそうで。
そもそもが『菖蒲』と書いて、端午の節句では〝ショウブ〟と読んでおりますが、この七十二候では〝アヤメ〟、です。
どうやら同じ字を使うのは間違いなさそうです。
しかし別物なのもたしか。
葉はそっくりなのですが、花がまるで違うのだそう。
昨日は夏越の大祓。
早いものでもう今年が半分過ぎてしまいました。
それを早いと感じるか、遅いと感じるか、人それぞれかと思いますが…。
それにしても生きているといろいろあるものです。
そんな半年間で穢れは人一倍の私、…決して自慢になるものではありません、神さまのお力をお借りして穢れを取り除くことができるならばと、群馬県前橋市の【産泰神社】さんの【大祓式】に参列させていただきました。
生まれて初めての大祓式です。
茅の輪をくぐるのは体験したことはありますが、大祓式への参列は初めて。
SNSで何日か前に茅の輪をお造りになる様子をアップしておられました。
そうそう、この茅の輪も茅を使わずに人工物のものを毎年飾る神社さんも見かけるようになってからだいぶ経ちます。
たしかに作るにも処分するにも一才手間がかかりませんし、楽といえば楽かもしれません。
けれど、穢れをとるといった意味ではどうなのかなぁとその人工茅の輪を見るたび思うのであります。
あの繊維が穢れを吸ってくれてひっかけてくれているのでは?
つるっつるの表面の輪っかではなんだか効き目が薄いような無いような…。
えっ?お参りすることに意義があるる?
まぁ、茅の輪の始まりは茅で作った輪飾りを腰につけるといったものであったこと、蘇民将来の一族、子孫であることを証明したものであったのだから、そういった穢れをとるような役割もそもそもがどうなのか、といった話になりそうですが。
そんなワクワクしたおばさんを乗せて走り出した車は、フロントガラスに一滴二滴と水滴があたり出したと思うまもなく、大きな雨粒がポツポツとあたり出しました。
「あれ、せっかくの夏越の大祓なのに」
そんなことを口にしながら、ふとなぜそう思ったのかを考えたところ、ここ数年、おそらくずっと晴れていた。
梅雨どきだというのにこの日に限って晴れていたような気がいたします。
あっという間に大きな雨粒が絶えずガラスに音を立ててあたるようになりました。
(雨だから来る人も少ないかしら?)
…なんとまぁなんでも都合よく考えるおばさんですこと。
(続き)
前回随身門を山門と書いてしまっておりました。
お詫びして訂正させていただきます。
正しくは随身門でございます、その随身門、この日は随身さまのおられる場所もライトアップされておりました。
人出が予想されることからさらに護りを強化した…のでしょうか?
〝随身さま〟などといかにも親しげに呼んでおりますが、お召し物を見るだけで身分高き方であることがわかります。
初めてこの随身さまを(意識して)見たとき、
(あれ?なんだか見たことがあるような…?)と思ったものです。
さもありなん、この随身さん、あのおひなさまと共に飾られる右大臣さまと左大臣さまなのだそうです。
童謡『うれしいひなまつり』では
♪ 少し白酒召されたか 赤いお顔の右大臣
と歌われておりますが、この随身さまも右側におられる方のお顔が赤いこともあります。そうではないこともあります。
左右を護る存在として知られる『仁王』さまであるとか『狛犬』さんであるとかのお口が【阿吽】であるように、この随身さまたちのお口元も『阿吽』であることが多いです。
この上ない高貴な存在をお守り申し上げるのだからこの守りを固める方たちのご身分も高くて当然であります。
とまた恒例の話の脱線が生じたところで、…戻りましょう。
入ってすぐのところで禰宜の方と巫女さんが人形(ひとがた)の入った袋をお配りになられていました。
袋にも名前を書くところがあるためお聞きしたら、こちらは袋に名前を書くので人形には書かなくてよいとのこと。
そう夫に伝えたところ
「人形にも名前を書くって袋に書いてあるよ」と。
読まずに聞いた私も悪いのですが、では禰宜の方のおっしゃっておられたのは?
ま、まぁ、より多く穢れを祓っていただけますよう人形にも名前を書きましょう。
人形にも太くハッキリと名前を書きました。
と。
この袋の中、人形と同じ種類の紙が一センチ四方に切られたものと細くて小さな植物の干して乾いた糸状のものが入っておりました。
ん?
まあ、あとで説明もありましょう。
袋と人形にそれぞれ名前を書いてとりあえずまた袋に戻します。
止まない雨を見上げても少しも苦に思えない、美しい佇まいの社殿がそこにありました。
それはそれは大きな随身門も見上げます。
大変重厚な屋根が葺かれています。
もとは茅葺きであることを物語っています。
(続き)
近年、…たぶんコロナ禍以降のこと、だったと思うのですが、こちら産泰神社さんの手水鉢はお水が使える状態でなくなってしまいました。
冷たい水が心地よく、さらさらとした肌ざわりの水は心まで清めてくださるようで、私は好きだったのですが、コロナの扱いが感染症第五類となってからもそれは戻ることはありませんでした。
手水舎、手水鉢をめぐる問題はコロナ禍以前からのものであったのもたしかで、私などはこの柄杓を使って口をすすぐことにたいそう抵抗があったものです。
溜め水の手水鉢ですと、これは決して浄められはしないだろうと内心思ったものです。
手はまだしも口に含むことは大変抵抗があり、くちびるを湿らすことでお許しを願っておりました。
それでも浄め、潔めは大切なことと、ともすると全く矛盾することも思っておりましたので、コロナ禍以降は水を入れた入れ物と柄杓代わりにキャンプ用品のスノーピークという取っ手のたためる小さなカップを持参しておりました。
これが自己満足ながらなかなか良い。
本当はそこのお水が使えるのが、一番良いのはわかってはおりますが、そこも止められている寺社がかなりの数ありました。
こと神社さんにおかれましては御神水といった意味合いがございます。
わが家の水道水ではなぁ、と思わないわけでもなかったのですが…。
今なお手水鉢の使えない産泰神社さん、この日は水の用意を忘れ、持参のアルコール消毒でごめんなさいと心の中申し上げ丁寧にアルコール消毒をいたしました。
そんななんちゃって手水を済ませたあと、こちらの神社さんで私は拝殿前に向かう前に、寄らせていただく場所があるのですが。
そこにこの日はテントが設営され、榊等が置かれており、近寄ってはならないような空気感があります。
そこは【祓戸】であります。
祓戸はきっと穢れを祓う神聖な場でありましょう。
とはいえ、どうそこをお参りすれば良いか等は一切書かれてはおりません。
ただ木が植えられ、そこを厳重なくらいに赤い木の柵で囲ってあるのです。
人一倍穢れの多いおばさん、こちらの神社さんではそちらに寄って礼拝してから拝殿前へと向かうのであります。
うーん。
…今日はアルコール消毒だけでごめんなさい。
(続き)
「それでは人形をお出しいただき穢れを移していきましょう」
えっ?
どこらへんの?
…私全身穢れだらけなんですが、足とかお尻とかは失礼、ですよね。
頭とかはとにかく、顔とかは失礼ではないですか?
内心を駆けめぐる疑問を抱えた私、ふと見ると、神職の方々も人形に穢れを移しておられます。
おおっ、顔もいいんだ。
ん?足も撫でておられるぞ。
お尻、…はとにかく腰は撫でておられます。
出来るだけ、出来るだけ人形で撫でて、穢れの移し残しがないようにしなければ!
口の穢れも移すべく、人形に口を寄せます。
「それでは最後に息を三回吹きかけて、袋にお戻しください」
はい!
ふうぅ〜っ。
すぅー。
ふううぅぅ〜っ!
すぅー。
ふうううううぅぅぅ!
「そうしましたら、その人形(ひとがた)をまた袋の中にお戻しください。
袋をお預かりしにまわります。
大祓の儀式がおわりましたら、後日すべてをお焚き上げさせていただきます」
おっ?
お焚き上げ、ですか?
考えてみれば近くに川が流れているわけではありません。
なるほどお焚き上げ…。
そもそも二百人くらいおられる参拝者さん、川があっても軽く環境破壊だ、環境汚染に抵触しそうです。
(続き)
このあと、今度は拝殿正面から昇殿させていただきました。
かつて、開けられた扉から流れるようにあふれてくる、優しいあたたかな気を感じながら、見上げていた拝殿の中であります。
前回の、薪能のときよりは少ない人数での昇殿で、二回目ということもありゆっくりと花鳥図を見上げることができました。
優しいタッチの、水彩画をも思わせるタッチの絵でありました。
「さあこちらへもお入りください」
へっ?
そちらって、…幣殿ですか?
「せっかくですので、こちらの天井画もぜひご覧ください。
今テレビでドラマ化されております源氏物語の天井画となります」
!?。
きょ、今日も、ですか?
嬉しい♡
なんと嬉しいことでしょう。
もはやもう昇殿すら叶わないであろうと思ってありましたのに。
幣殿はふだん神職の方が祝詞をあげ、お供物をおそなえするときくらいしか入ることのない〝間〟、であります。
たとえ祈祷などで昇殿することがあっても決して入室することのない〝間〟であります。
そして。
こちらに昇殿される方もごくごく限られたいま、やはり入室することもできなくなっている控室に、雨天ということで入室をお許しいただきました。
この控えの間、幣殿の天井画のコピーしたものが展示されており、まずそこでゆっくりと拝見することもできました。
ああ、これが須磨を描いたものであろうかとか、これはあのシーンであろうなとか、もう妄想と感謝が止まりません。
まことにありがたいことにございます。
これはその控えの間の壁に貼られた源氏物語の絵であります。
【穴原薬師堂】
夫に目の病があり、目の病に効くというお薬師さまがあると訪れては手を合わせています。
その一つに、群馬県みどり市の【穴原薬師】さまがあります。
少し前訪れた際、大々的な補修工事が入っており、参拝を断念したので、工事が終わっているか否かを確認がてら伺ってみました。
こちらはかつて貴船神社さんを参拝するため車を走らせていた通り沿いに、案内の看板をみつけ、参拝してその存在を知ったという経緯がありました。
この日もまずは貴船さまへ参拝し、その帰りに、穴原薬師さんへと向かいました。
ちょうどその辺りに沿道に紫陽花が並んで植えられている道があります。
色とりどりの紫陽花が並んでいるさまがとても綺麗で癒されました。
きっと土地をお持ちの地主さんが、そこを通る人たちのためにと植えてくださったものでありましょう。
何度となく通っている道でありますのに初めて気づきました。
車で通るものですから、花の時期にしか気づかないのでありましょう。
沿道に花を植えてくださる方は多くおられますが、自分のためでなく、ただそこを通る方のためを思ってのこと、そのお心をとてもとてもありがたく思います。
貴船神社さんからの道となるとヘアピンのようにカーブして道を曲がる必要があります。
貴船さんへ向かう道から分岐した、細い坂道となります。
晴れた日でも少し薄暗い、豊かな自然の中、まさに神聖な霊地へ向かうかのような道で、少し怖いような気すらする坂道を下ると、畑があり、お家がある集落となります。
なんだかんだ一キロ弱走って(あ、これはあの距離に対しての感が全くない私の感覚に過ぎません 笑)、右側、少し奥まったところに楼門が見えてきます。
初めてこちらを訪れたとき、あまりにも立派な門があるのをみて、大層びっくりしたのを今も覚えています。
ああ、工事は終わったようです。
あっ、ここ、…こんなに細い道だったか。
そこを入らないと路駐は無理、楼門まで続く道は車幅プラス十センチ強、…そんなことすらすっかり忘れられちゃうところがいかにも、…です 笑。
七月十日。
…七月十日、?
何かが引っかかっている。
なんの日?
うーん。
夫の在宅勤務の日でしょ?
姉が遊びに来る日、でしょ?
はて…。
思い出せない。
ただぼーっと思い出そうとしていても時間がもったいないので、庭の草むしりと軽い剪定をした。
思い出そうとしていたことがあったことすら忘れて、シャワーを浴びて、仏壇もどきに朝のお勤めをしに向かう。
ここで思い出そうとしていたことがあることを思い出す。
…あっ!
観音さまの功徳日だ!
『四万六千日(しまんろくせんにち)』と言われる観音さまの特別な縁日とされている、一年に一度の功德日だ。
四万六千日は、約百二十六年にあたり、人間の寿命の限界とされ(えっ?そ、そんな長いの?)、この日観音さまにお参りをすると、人の一生分お参りしたことになる、と言われている功德日であります。
究極の裏技でありましょう。
そんな裏技を使うのはなにか姑息な気がして、最近はあまりこの日にお参りすることも減ってきていました。
でも揺れるおばさん心。
四万六千日分お参りすることにならなくとも観音さまにお会いしたいなぁと思う思いで揺れ動くのです。
と、雨音。
……。
ま、夫とお昼を食べてから、姉と相談してみよう。
この四万六千日、
一升(いっしょう)の米粒の量が約四万六千粒となるのだそうで、一生を一升にかけて、一生分参拝したことになるという説もあります。
…ああ、雨だなぁ。
暑さのため軒下の日の当たらないところへ置いたメダカを、雨の当たるところへ移動してあげよう。
メダカ、雨粒が水面に当たると嬉しそうに水面近くを泳ぐんです。
それがなんともかわいらしい。
今日は白い桔梗がたくさん咲いています。
これだって、…良い日であります。
そうそう、いつもはつっかえてばかりの観音経が初めスムーズに読むことができました。
これは観音さまの功徳でしょうか。
また読経した際、つっかえつっかえとなったなら、お縁日の功徳、ということになりましょう。
僧とても人、そう思うことなど何度もあった。
なにせ末法の世である。
御朱印で有名なお寺では、
「この絵(預かった御朱印帳の表紙の絵)次の御朱印に使えそうじゃん」
という話がもろに聞こえ、さらには
「今日はやたらと御朱印が多いな」「うん儲かる儲かる」
といった耳をふさぎたくなる声まで聞こえたこともありました。
「うちの寺は御朱印三枚で千円、バラ売りはしてないから」
と、もはや商品であることを隠さなかった。
自寺の御本堂を貸しての撮影会を開き、ご本尊の真ん前ヒラっヒラの衣装のおねいさんがポーズをとるのが見えたりする中、一般の参拝客も参拝していたり。
貸切りにしたら、せっかくお越しになった参拝者に失礼と思われたのか、一般の方からの〝収入〟も得たかったのか…。
そんな世知辛いお寺さん事情を垣間見てしまうこともある一方で、お会いできるだけで、心が晴れ晴れする、癒しの力をもつ僧侶。
佇まいだけで、その毎日の生き方を伝えて、一見さんとでもいうのか、初めて寺を訪れもう二度とは来なそうな者に対しても、おもてなしをしてくださり、仏道をお説きくださる僧侶。
たくさんたくさんおられるのもまた事実です。
だからお寺さんに行くのがとてもとても好きであるし、仏教にも興味を持ったくらいです。
今回の、この逮捕という衝撃的な事件の主となった僧侶は、確実に、この後者の僧であったのです。
私どもにとってもそうでありましたし、檀家さんにおかれましてはまさに寝耳に水で、今なお胸を痛めておられますことでしょう。
…それでも。
やはり僧とても人、一介の人間に過ぎないことを私は忘れてはならないのです。
それは決して悪い意味などではなく。
人は産まれて生きているこの現世で常に修行の身であり、誘惑があり、大なり小なり罪を犯すこともあるということ。
僧とて聖人ではなく、ましてや仏などではない、ただ人であるということを。
そうした人の色眼鏡は生きづらさを産むこともあるということを忘れてはいけないのだと。
まぁ、それを力としてさらに修行し精進される方もおられましょうが、善人であって当たり前などと思われて生きるのは、やはりただ人であれば生きづらいものでありましょう。
彼は罪をすでに認めているといいます。
人を殺めたといった罪ではないので、罪は償えばいい。
そう、それだけ。
【穴原薬師】さま
目に持病を抱える夫。
祈ることしかできないので、眼病に効くという仏さまを見かけるとつい足を伸ばしてしまいます。
そしてそこに通ってみたり。
…などというとなんだか良妻のように思えたりしてしまうかとも思いますが、夫にとってはまさに悪妻の鑑であります。
…などということは、こちらをお読みくださっておられる方にはもうすでにバレバレ、周知の事実でありましたね。
やはり眼病に霊感あらたかといわれる群馬県みどり市の【穴原薬師】さまにお参りしてまいりました。
このたびは夫と一緒。
夫は二度目の参拝となります。
ここ、穴原薬師堂を知ったのはほんの偶然から。
地元で有名な『貴舩神社』さんへの参拝へと向かう途中で、小さな案内板を見つけたことに始まります。
そして初めての参拝をして、こちらが眼病に効くといわれるお薬師さまであることも知ったくらいでありました。
無住の、お堂自体はあまり大きくはないものの、どういうわけなのか仁王門、しかも十六羅漢さまがおられる楼門を構えた、どこか不思議なお堂であります。
参拝に来て人と出会ったことはないくらい、貸し切り状態で、高台から見下ろす田園風景の素晴らしさは本当に大好き、…なのですが、なにやら今年は獣臭が漂っており、お参りをしても早々に立ち去ることとなっているのです。
そんな穴原薬師さまについ先日もお参りしたばかりだというのに、今度は夫まで伴って参拝した理由といえば、な、なんと!
ご厚意でご本尊さまを御開帳いただけることになったから、なのです。
実はこちら無住なだけでなく、もはや寺院でもなく、地元の保存会が管理しているものとなっていたのです。
まぁ、それすらも知らず参拝を繰り返しているところが、いかにも私、なのですがね。
知らぬがゆえに、文化財指定をしているみどり市の文化財課に、御開帳の有無を問い合わせてみた結果が今回のこういったご厚意へとつながったというわけなのですが…。
ものを知らないという意味での〝眼〟の不自由な私に、御利益があったのかもしれません。
これはもうかなりの御利益があるお薬師さまでございます。
ちょうど草むしりとシロアリの薬剤散布をする日があるので、その日でよければ、といったことで、保存会の会長さんから御本堂と楼門を開けていただけることとなったということなのですが。
(【穴原薬師堂】続き)
穴原薬師堂は貴舩神社さんへと向かう県道の途中を左下へと分かれる道へと向かいます。
下り坂は木々のトンネルをくぐるような道で、今まで走ってきた明るい道から急に暗くて細い道となり、少し心細く思われる道です。
坂を下りきると一転、田や畑や家、町工場などがある明るい道となるのですが。
畑の広がる空間をみぎてに見てまもなく、奥まったところに赤い山門が見えてきます。
参道が畑の隣なので、赤くそびえる楼門はとても目立ちます。
山門を見ながらひだりてにハンドルをきると、車の駐車できるスペースがひろがり、そのわきにはあづまやのある広場もあります。
山門の一階部分は両脇表側に仁王さまがおられます。
昭和六十年に解体修理された際、仁王さまのお首の部分から古文書が出てきたといい、その文書により寛政四(1792)年に地元の仏師『田村利八』他二名により彫られたものであることが明らかになりました。
田村利八は桐生天満宮の棟札に〝箔方〟として名を残す方であります。
山門の建造年も同じく寛政四年。
木鼻の形や浮き彫りの文様などからも十八世紀後半のものと考えられ、文書との一致が見られるといいます。
また、門に彫られた渦巻き模様からも、門の格式は高いものだとも言われているそうです。
屋根は鉄板で覆われていますが、その重厚さから茅葺き屋根であったことがみてとれます。
横から見た屋根の感じが私は大変好きで、また、二階部分の手すりの奥の閉ざされた扉をみあげては中におられるお釈迦さまにご挨拶を申し上げます。
山門の表側のひだり側には背の高い石幢があり、六地蔵さまが彫られています。
お地蔵さまが比較的大きく、また状態も良くて、私はいつもこの石幢の周りを一周するくらい、好きなものであります。
門をくぐると門の裏側右側に鉄で作られた階段があります。その上は板で覆われています。
門をくぐった正面に御本堂へとのぼる石段があります。
石段は十九段。
右側には大小の庚申塔が並んでいます。
後年整備したものと思われます。
庚申塔の並ぶ裏手は石垣が組まれています。
左側には不自然なほど高いフェンスが組まれており、中に石仏さまがたくさん祀られています。
(続き)
この一連の流れは相生賀茂神社さんの神さまのお導きでありましょうか。
…それが本当ならば本当に嬉しいのですがそんなことはゆめゆめありえないでありましょう。
そんなことよりそもそもがかつて駐車場が見当たらず参拝を諦めた神社さんです。
お祭で、しかもお神輿の渡御ともなれば、気づかなかった駐車場があろうとも駐車することは不可能ですし、かつて通りかかった際に路駐が無理であったことはわかりきっています。
「なんか調べてみたら〇〇ショッピングセンターから数百メートルみたいだね」
…あら♡
…ではそこに停めさせていただいて、お祭の後買い物すればよいかしら?
当日、そのショッピングセンターさんの駐車場の端っこに小さな罪悪感を抱きつつ車を停め、橋の側にある信号のある交差点へと向かいます。
初めて歩く道は新鮮です。
しかしそんなことよりお祭です。
御神輿です。
ええ、おばさんいつものように走ります。
これもまたすでに慣れきった夫は、
「あの白い傘をさした人のいるあたりを左折ね」
と後方から早めに声をかけてくれます。
数百メートル走って。
「白い傘の方、いなくなっちゃったんだけどぉ〜」
「行けばわかるよ、この通りではそれなりに大きな交差点だからぁ〜」
ここか?
いや違う、ここは民家のお庭。
ここだ!
左に曲がる。
あったぁ!
赤い鳥居が見え、そのすぐ向こうにはやはり小さいながらも赤い神橋がかかっています。
その真正面に黒い瓦葺き、白い壁に赤い柱のお社が見えます。
あ、ちょうど御神輿を男衆が担ぎ上げたところです。
御神輿を担いだ誰もが、それはそれは誇らしそうなお顔をされています。
思っていたよりも少ない人数で担いでおられます。
…剛力の方々が揃った?
さして広くはない境内を小さく静かに一周して御神輿は鳥居をくぐって私たちが今まさに来た道へと出て行きました。
いくばくかの寂しさが残ります。
境内では手水舎で遊ぶ子供、そのすぐそばに設置されたミストをくぐってはまた戻る子供が数人。
いくつか町内の出店が出ており、かき氷のコーナーには長蛇の列ができています。
大きな御神輿が出て行ったあとは、いかにも小さな町会のお祭といった感じです。
皆さんが顔見知りのようで、途端に自分たちだけ異邦人のような疎外感が生じます。
(続き)
開け放たれた神輿庫。
いや、この神輿庫こそがこちら相生賀茂神社さんの境内社、八坂神社さんであります。
御神体は御神輿のまま鎮座されておられる、立派な社殿の一つであります。
神輿庫…八坂神社さんをのぞくと、今は御神輿ががらんと広いお社の中、
世良田の八坂神社さんから御神輿が遷移されることとなった経緯を示したものが、大きな板に墨書きされて飾られていました。
『本社の御神体の御輿は以前は報養寺境内に有りしが、昭和三年当地に安置し給う。
御輿に就きては昔から任へ有り新田郡世良田村に鎮座する旧郷社八坂神社より遷移すと言ふ。
その来歴は安政の頃、八坂神社祭礼の折力競べ有り。
神官の言ひしにこの御輿を四人で担ぎ御神木を廻り鳥居を潜れば賜ふとなり。
祭礼に行きし如来堂村の若者は我が村にと剛力四名が渾身の力を込めて御輿を荷ぎ上り、御神体を廻り鳥居に近づくや徐々に姿勢を低め一歩々々歩み、遂に鳥居を潜りたり。
是れを待ち構えていた村人は大いに喜び、代る代る担いで当村まで運びたりと。
其後御輿は当社の例祭の外、旱魃の際の雨乞ひや悪病流行の時の病気退散にも渡御し霊験灼かなりと言ふ。
斯かる謂れある御輿なれば子々孫々まで大事に伝へんと願ひ、神事番一同、茲に由緒を誌す』
近隣で知らない者は無い世良田の八坂神社の御神輿を、剛力の者のお手柄で遷移することができたのですから、それはそれはさぞ誇らしいかったことでありましたでしょう。
(続き)
御神輿の後を追うこととしました。
御神輿はあちこちの中継地点で休みます。
後を追ってみるとたやすく追いつくことができました。
黒塗りのシックな御神輿であります。
アフターコロナ、だからなのでしょうか、掛け声ひとつない静かな渡御でありました。
歴史ある御神輿だから、でしょうか、よくある水かけなどもありません。
ただ、この黒いシックな御神輿はこうした静かな渡御もなかなかしっくりきます。
神さま、どうぞこのコロナという病と、この異常な暑さ、相次ぐ自然災害から私たちをお救いください。
渡御の途中でポツンとお休みされる御神輿に向かってそっと手を合わせた私でありました。
殺人的な暑さに加えて、不安定などという生やさしいものではない天気、
ゲリラ雷雨、記録的短時間大雨警報、竜巻、突風。
山形では河川が氾濫し、緊急安全確保で避難を余儀なくされておられる方々。
いまだに復興の進まない被災地の方々。
コロナは新たな新型株が流行し、ヘルパンギーナ及び手足口病も爆発的に流行、コロナと同時感染もあるようです。
ヘルパンギーナ・手足口病は、今年のものは大人も感染し、重症化する例があるようで。
そして物価がまた異常に高騰し続け、さらには米不足が起きており、安価で買えたお米から無くなっていっています。
住みづらさ、生きづらさを感じるかたも多いかと思います。
それでも。
幸せはすぐそこに。
自分の中に。
小さな小さな幸せに気づいて生きていきたいと思います。
花の蕾が開いた朝。
雨上がりの蜘蛛の巣の美しさ。
散歩中の犬が見上げて足を止めてくれたこと。
猫が日陰で眠る姿。
赤ちゃんの笑顔。
赤ちゃんの寝顔。
見切りの安い商品が買えた時。
みなさまが良い一日でありますよう。
さまざまな災害で被災された方々が少しでも心地良く過ごせる一日でありますように。
少しでも早く復旧、復興が進んでいきますように。
しばらく前になりますが、珍しく息子がとあるお寺さんに行きたいというのです。
たしかに息子と一度行ったことがありました。
でも彼は御本堂には入らず、何やら境内を散策していたような…。
と、いうか、御本堂の前に行った茅葺きの御堂を御本堂だと思っていたようでした。
そう思ってもしかたない、その御堂には大きくて立派な釈迦三尊像がお祀りされているのです。
このお寺さんは花の寺として群馬県では有名なお寺さん。
息子は風景、花の写真や鳥の写真を撮るのが好きなようですので、たしかに境内はそうした写真を撮るにも良いところなのかもしれません。
しかしながら。
実はこの日の天気は今後雨が降る予報。
うーん、今日?
そのお寺さんの名は【青龍山吉祥寺 (せいりゅうざん きちじょうじ)】といい、鎌倉の建長寺を本山とする臨済宗の禅寺であります。
また、建長寺派四百有余ヶ寺の寺院の中で一番北域に位置することから、『建長寺北の門』、とも呼ばれているのだといいます。
群馬県の利根郡川場村というところにあり、全国道の駅人気ナンバーワン『川場田園プラザ』で有名なところのすぐそばにあります。
なんとか雨の降らないうちに到着することができました。
こちらのお寺さんは境内のうちに小川が流れていたり、立派な山門に昇ることもでき、境内には石仏さまも多く、茅葺き屋根の御堂もあってと、そういった意味では私も好きなお寺さんであります。
そして。
この日私はちょうど吉祥寺さんで『レンゲショウマ』という花の時期と聞いており、できればこのレンゲショウマというお花を見られたらいいなと思っておりました。
駐車場からお寺の山門へと向かう道には色とりどりの紫陽花が咲いておりました。
もう私の住む町では紫陽花は見頃を終えて、色とりどりの百日紅が町のあちこちで咲く頃となっていました。
大好きな紫陽花。
なんだか得をした気分です。
このお寺さん、群馬県では珍しい拝観料を支払ってのお寺さんです。
支払いを済ませて進むと。
風鈴の小路が設営されていました。
(吉祥寺 続き)
群馬県川場村の吉祥寺は南北朝時代の暦応二(1339)年、
中巌円月(ちゅうがんえんげつ)禅師(鎌倉建長寺四十二世、五山文学の巨匠としても知られる名僧)を開山和尚として開かれた古刹です。
当時上野国の利根荘は鎌倉武士大友氏の領地であり、
その大友氏が九州に移った後、守護大名であり大友貞宗の五男、七代当主【大友氏泰】公が、父の意志を継ぎ先祖の発祥の地に聖地建立と先祖の供養を兼ねて寺を建てたのが始まりといいます。
これは吉祥寺のパンフレットに書かれています。
ちなみに戦国の大名として有名な大友宗麟は二十一代の当主にあたるといいます。
吉祥寺の創建は、大友氏六代当主『大友貞宗』と中巌円月禅師との出会いから始まります。
本場中国での勉学の志をもった円月禅師は博多へやってきますが、鎖国令のため渡航が禁止された中国(元)に渡れず難儀していました。
その頃大友貞宗は出世武将として博多守護の重責を担っていました。
渡航をあきらめきれずにいた円月禅師と面会した貞宗は禅師の才能と情熱に惹かれ、特別の計らいを以って渡航(渡元)の道を開きます。
これを機に円月禅師と貞宗との間には尊信の友情が芽生えます。
帰国後の円月禅師は貞宗庇護のもと禅僧として鎌倉建長寺で活躍しますが、正慶二(1333)年、鎌倉幕府の滅亡した年の十二月に貞宗は死去します。
円月禅師は、生前貞宗と語り合った大友氏の発祥の地川場に禅寺を創るとの約束を果たすために、延元二(1337)年に利根荘入りいたします。
暦応二(1339)年十二月に【吉祥寺方丈】が落成、大友貞宗公七回忌法要が営まれています。
当時の建物は残されてはいませんが、釈迦堂に祀られる釈迦如来像は創建当時の鎌倉期のものであるといい、文化財指定となっているといいます。
息子が御本堂と勘違いしてもしかたがないといえばしかたがない、大変大きく存在感のあるお釈迦さまでございます。
とりあえず大好きな山門へと話を戻します。
山門は文化二(1815)年に建立されたもので、【青龍山】の勅額は後光厳天皇の筆によるものだといいます。
なんとこの山門、自由に楼上に上がることができ、文殊菩薩さまを中心に十六羅漢が安置されています。
窓も開かれ、ここから見下ろす景色がまたなんともいえない風情があります。
(続き)
その道を進むと。
大きな寺院に不慣れな私ども親子には御本堂かと思われるほど立派な草葺きの御堂が見えてきました。
道の左右をかためるのは、進路むかってひだりてに奪衣婆さま。
その真正面には閻魔大王さまが佇んでおられます。
奪衣婆さまの存在感といったら。
対で造られたでありましょう閻魔大王さまも大王さまだけ見れば迫力ある表情をされたもの、なのですが、建物側にあることからどうしても奪衣婆さまから目に入ってくるのです。
そのお二人の裁きをすり抜けて。(おいおい! 焦)
さらに進むと大香炉があり、その向こう側にもたくさんの石仏さまがおられるのですが、ま・ず・は・釈迦堂へ。
…これもまた順路としては正しくはありません。
本来なら御本尊さまのおられる御本堂が先でございます。
ここ吉祥寺さんではどうもその当たり前が崩れてしまう私です。
まぁお釈迦さま、ですので先にお参りしても決して間違いではないでしょう。
(続き)
釈迦堂、…宝泉堂をあとにして、いざ御本堂、…と思うのです。
思うのですが、この宝物庫泉堂の前にもまた、石仏さまがたくさんおられる。
しかもここにもまた私の大好きな石仏さまがいらっしゃる。
道祖神型のお地蔵さまであります。
時折そうしたお地蔵さまもおられるにはおられるのですが、こちらはなんと三体のお地蔵さまが彫られたもの、なのです。
うーん、…どうかまた参拝させてくださいと、心の中で祈りながら先へと向かいます。
御本堂入り口はあまりお寺さんの雰囲気はありません。
入り口を入って両サイドにさまざまな〝商品〟が展示されているのです。
むかって左側には主に御朱印関係が。
右側にはお数珠であったり、置物であったり、まさに多岐にわたる商品が展示されています。
この辺が、ね。
ちょっと苦手なんです。
なのであまり見ずに進んでまいります。
玄関の間を過ぎると、すぐ廊下と思われるところとなり、そこにはお賓頭盧さまのお像やら、烏枢沙摩明王さまがお祀りされています。
そして。
目を引く窓。
この窓を見ただけで心がときめくのです。
そう、『火灯窓』と呼ばれる窓です。
座ってその窓をみていたい気持ちをおさえておさえて。
さらに先に進みます。
(ここはお寺?純和風のカフェとかではなく?)
と思われる空間が広がっています。
そうなんです。
まさにカフェとしか思えない空間なのです。
そして明り取りの窓は亥の目の形♡
そう、ハートの形の窓。
しかもその亥の目の窓の下には、ものが映る板で造られた大きな、ステージを思わせるような段が置かれていて、見事にその逆さハートが映っているのです。
今流行りの映え=バエの空間です。
こちらが私の好きな火灯窓。
この前にいつまでも座っていたい、と思う気持ち、伝わりますでしょうか。
(続き)
レトロなカフェを思わせる間を通り抜けると、回廊が連なります。
見上げると欄間彫刻が素晴らしいのです。
ついつい今流行りの映え空間に目を奪われてしまいがちですが、こちらは江戸時代、延宝三(1675)年に建てられた御本堂。
そうした現代風にアレンジされ(てしまっ)たところを取っ払うと、そこには、いかにも禅寺らしい趣きがみてとれるのです。
…いつからこういった趣向になったのか。
年々そういった現代風のアレンジが加わって(しまって)きている気がいたします。
やはりこれは写真機能を搭載した携帯電話の普及とともに変化してきている…そんな気がしてなりません。
もうあまり変わらずいて欲しい、そう思うおばさんでありました。
だって、ですよ?
レトロカフェ風の間を過ぎて回廊に何やら和机が置かれ、お賽銭箱があって、ふとその回廊からレトロカフェ風の間の隣の間に目をやるといきなり仏間、ご本尊さまの祀られた間になるんですよ。
おばさんはついていけない。
全くついていけない。
その和机には祈願文を書く紙が置かれていて、その回廊に座ってご本尊さまを拝んでいると、その先の回廊にはテーブルと椅子が置かれていて、枯山水の庭園を眺めながらお抹茶と和菓子を楽しむ方々がおられるんですよ。
この切り替えは私にはまるでできないので。
せめて回廊ではなくて、仏間に少しスペースをとって中に一歩入っての空間を作っていただければまだしも、テーブルと椅子と同じ空間に正座するって、いかがなもの?
ま、そうした異空間を除けば、こちらのお寺さんは大変好きなお寺さんなのです。
現代風なアレンジを以て、スルースキルを育てる修行?
ええ、なんだかある種の修行をしている気分になるのです。
仏間は立ち入りを禁じており、入らないよう低い人止めが置かれています。
だからお寺さんとしては仏間はあくまでも清浄な空間を保っているという感覚なのでしょう。
でも純粋にこちらを〝寺院〟として訪ねた人としたら、なかなか…。
…いやいいんですよ、回廊でお参りするのは全く問題に思ってはいないのです。
ここを取り巻くカフェ空間が、どうにも納得がいかないだけです。
上を向いて歩いて、外を向いて歩いてまいりましょう。
欄間彫刻の素晴らしさ、【臥龍庭】と呼ばれる枯山水の庭。
【佛手山金剛王院鶏足寺】さん
栃木県足利市の鶏足寺さんで毎月八日に営まれる月次(つきなみ)の護摩祈願へと行ってまいりました。
ええ、結局通えております 笑。
ただ、一連の出来事からもうすっかり御祈願申し上げる気持ちは失われ、ただただこの穢れ多い私の心身を浄化していただけたならと詣でております。
世間では学校は夏休み。
いつもですと九時からの通勤ラッシュにモロ被りの時間帯の移動となるのですが、おそらく今は少なくとも父兄の送迎のクルマや、なんなら学校教師の方の通勤の車も少なかろうかと、いつもより遅くに家を出ました。
さらには、御札をお授けいただくにあたってお金をちょうどにお渡しできるよう、どこかコンビニに寄って何かしらを購入し、お金をくずす必要もありました。
案の定道は空いています。
ペットボトルのレモングラスティーを一本買って、いつもの道を走ります。
ただ油断は禁物です。
なにせナビのない車です。
このおぼつかない記憶と戦うおばさんにとっては毎回がクエストです。
まぁ今回も無事に到着し、着いた先もお寺さんということもあり、その時点で自然と御仏に感謝している私がおります。
墓地の駐車場からですので、正式な門は一切通らないのではありますが、門柱の立った入り口で深く一礼いたします。
時計を見るに開始時刻の二十分前。
…もはやお護摩が始まっていようと動じなくなってしまった私は、御本堂へお参りして…ゆうゆうと護摩堂へと歩いて行きました。
?
あれ?いつもならある(参拝者の)靴がない。
あら、私そんなに早く着いたのかしら?。
鰐口を鳴らして。
戸に手をかけようとした次の瞬間!
中から小さな咳払いが聞こえ、スッと戸が開いたではないですか!
今はごくごく稀に通るだけの道となった道に、あるとき道沿いにぽつんと、たった一体の石仏さまを見つけました。
その道はそれなりに車の往来も多く、道端に車を停めることはむずかしい、そんな道。
いつ通っても必ずきれいなお水がお供えてしてある、大切にお祀りされている石仏さまです。
いつかあの仏さまにご挨拶をさせていただきたい。
通るたびに頭を下げてはそう心で思っておりました。
一瞬で通り過ぎてしまう景色のなかにおられる御仏は、おそらく舟形光背のある、でもお手の多い御仏のようにみえます。
とするとお地蔵さまではない。
そんな石仏さまに昨日ようやくお詣りすることができました。
青面金剛さまでありました。
午後の二時過ぎという、お天道さまが熱く熱く照らすアスファルトの道を、…さすがに走ってまでは行けませんでしたが、一目散にシャカシャカと石仏さまのもとへと向かったおばさんでありました。
(続き)
そこはお寺さんの角を曲がった公民館の隣にありました。
なるほど。
どうしてかつてここにたどり着いたのか、その謎も解けました。
そのときそのお寺さんをお訪ねしていてお祭りの装いのお子さん等のそのお母さんにお会いしたのでありました。
古い石柱遠門としたお堂でありますが、そのお堂はいかにも新しいものと思われます。
石柱には『當村中』と浮き彫りされています。
お堂の戸は開け放たれ、新しい〝浄財〟と書かれたお賽銭箱が置かれています。
!!
お堂の中には一体何体おられるのかわからないくらいに石仏さまが祀られています。
圧巻というか、圧倒され息を飲みました。
おびただしい、という言葉をここで使うのはあまり適切ではないでしょうが、私の脳裏にはまさにその言葉が浮かびました。
中央には少し大きな白っぽい石の坐像の御仏がおられます。
御仏は少し摩耗されており、よくその全貌はわかりませんが、事前に調べてお薬師さまであることはわかっています。
お薬師さまの前には小さな角のとれた四角い水鉢が置かれ、水鉢の中には黒ずんだ水がほんの少し入っておりました。
お薬師さまの尊像は灰色がかった黒い小さな粒が混ざるものであるのに対し、卵形の光背はやや黄色味がかった石で、明らかに素材が異なります。
後から付けられたものでしょうか。
…とはいえこの光背も決して新しいものではありません。
落ちついてからよく見ると、お薬師さまの右側には(向かって左側)小さな観音さまと、やはり小さな如意輪観音さまが祀られ、その横には石造の屋根の部分だけが祀られています。
また左側には石堂が祀られ、そのお隣にはお地蔵さまが二体。
たくさんお祀りされていますが全てが同じ石佛、お薬師さま、というわけではないようです。、
このお堂自体が新しいのでこの近辺におられた石仏さまを合祀されたのでありましょう。
それにしてもなんてたくさんのお薬師さまでしょう。
お堂の中は雛壇となっており、さらには壁にも棚が設けられそこにも所狭しとばかりにお薬師さまが祀られています。
(続き)
【由来】
『この薬師は「新田新田野薬師」さまと呼ばれ、願をかけると万病に良いとされ、周辺の村から参拝する信仰がいまも続いています。
願をかけるときは水を持っていき、水鉢に手を入れて手を濡らし具合の悪い石仏の部分をなでまわしたので、俗に「濡れ薬師」ともよばれております。
撫でるときは、まず線香をあげ全佛をなで、次に特に悪い部分をていねいになでました。とりわけ目に効くということで、目はよくなでられ、祭日にはワラツトッコ(?)に赤飯を入れて供えました。
この周辺には以前もみじの巨木がそびえ、前には川が流れ、石の橋がかかっておりました。そして石仏を中心に千数百体もの小石仏が回りに置かれておりましたが、これは願をかけた人が古市の石工などに頼んで造らせたもので十月八日の祭日の前に、二、三十代の大世話人と十七、八歳の小世話人が安置をし直しました。
また二月二十二日の二十二夜講の時に、この薬師の和讃を唱えます。
伝説では、武士がこの石仏を背負ってここまできたが、重くなったのでここにとどまりたいのだと思い安置したということであります。
中心の石仏は印相と像容から阿弥陀如来坐像と考えられますが、風雨と信仰による摩耗が著しいため判然としません。角閃石安山岩製で桃型光背とも一石造りであり、小さい肩張も、線刻の衣紋、連座の両端が上がっているところから南北朝時代のものと考えられます。
平成三年四月前橋市の文化財指定に伴い、前橋市の援助と地域住民三百余人の協賛を仰ぎ、平成四年九月「保存御堂」を建設し、石仏を安置しました。
平成四年九月吉日
稲荷新田町自治会 』
平成四年って…私にはまだまだ最近な気がするのですが、こうしてこの案内板を見るに、もう三十年以上前のこととなっていて、三十年も経つとこんなにも経年劣化するのだなぁと、今さらながら驚くのであります。
読みづらくて何度も推敲したのですが、誤りがあったらごめんなさい。
以下が実際の由来の書かれた案内板です。
私のお盆
〝人の数だけ〇〇はある〟
そんな表現があります。
そう、たとえば御先祖さま。
誰にでも御先祖さまがいて、そして、実はそれは親子であっても、兄弟であっても、その関係性は異なり、けっして同じではないことに気づくのです。
えっ?
そうお思いになられる方もおられましょう。
親子なら同じなのでは?
兄弟でも異なるって?
それは成人して、当人であれ兄弟であれ結婚というかたちで変化が生じてまいります。
結婚というかたちから結婚相手の御先祖さまがそこに加わり、そこで親とも兄弟とも違いが生じ、また、兄弟の中でも祭祀承継者とそうでない者とで、少し違いが生じます。
祭祀承継された方にとってはずっと〝自分の家のお寺さん〟であり、〝自分の家のお墓〟であるのに対し、そうでない立場の方にとっては場合によってはその立ち位置が確実に変わってくることがあります。
今年義母が亡くなったことで、祭祀承継者が義兄に変わり、なんとな〜く居心地の悪さと寂しさを味わうこととなったお盆であります。
見慣れたお仏壇も義兄の家に移り、義実家は確実に〝なにか〟をうしない、お線香をあげに行くのも、夫が育ち、子どもたちが義父母との楽しい思い出を紡いだ家は、ともすれば空気すら澱んだ建物、となってしまいました。
義父のときは義実家で、どこかはなやいだような新盆となったのに対し、今回の義母の新盆はよそよそしい、どこか居心地の悪いものとなってしまっております。
義姉は新盆ではありますが帰郷しては来ないと連絡が来ています。
こうして新しい時代が、築かれていくのでしょうね。
義兄の家で。
祭祀承継者によってはずいぶんとお寺さんとの関わり方なども変わってまいります。
私の母などは自分で買っておいた墓地の区画はありながら、いまだに納骨されず、すでに四年経過しております。
私は御本堂に仮安置させていただいている母の遺骨に手を合わせに行くのです。
お墓はあるし、と安心して死んでいったであろう母。
哀れでなりませんが、これもまた運命なのでありましょう。
母の遺骨にかける言葉もありません。
画像はあくまでもイメージとして選んだ、群馬県太田市の曹源寺さんにおられる私の大好きなお地蔵さまの御像でございます。
(続き)
こちらはいつからお祀りされているのか由来を知る方は少ないようです。
それを伝えるようなものは何一つ残されていないと、今この御堂の管理をされておられる方は話されていました。
お寺さんの境外堂でもなく、もう長いこと地元の方がお祀りし、毎月十七日に御開帳をし拝んでいる観音さまなのだと。
御堂もかつて道路拡張に伴い、その場所を少し移動されたとのことで、御堂を動かす前には境内に大きな桜の木があって、お花見を兼ねての大祭もあったとのことでした。
御堂の移動の際、裏手に石垣を組んで、その際裏手の小山にあった石仏さまを下におろして境内のみぎてに並べて建て直したのだといいます。
お寺さんの管理下にはなくとも、毎月の御開帳を欠かさず、お灯明をあげ、お線香をあげて祀られるこちらの聖観世音菩薩さまは、大変優しく微笑んでおられました。
傷みを補修し保護するために、あるとき地元に縁ある方が観音さまを塗り直しをされたといいます。
こうしてずっと、これからも永きにわたって、地元の方に守られ、厚い信仰を受けて、今後もこの地をお護りくださることでありましょう。
群馬県桐生市川内町には四箇所赤城神社さんが鎮座されています。
このたび全ての赤城神社さんをまわって参拝させていただきました。
一丁目、二丁目、五丁目に二箇所。
五丁目に二箇所なのは川内という地が西から南を川に囲まれた土地であり、もともとは八か村あった村を合併して一つとなった経緯があり、五丁目といっても川を挟んだ、それぞれの地にお祀りされているものであるからで、その立地を実際回ってみるとなんの不思議もありません。
【東小倉の赤城神社】と呼ばれるのが川内町一丁目の道路に面した長い石段をのぼった高台にあるもの。
この社殿の裏手一帯が『上ノ山遺跡(縄文・弥生期宝蔵地)であるといいます。
御祭神は大穴牟遅神さま。
この地の【崇禅寺】の開基である智明上人が元久二(1205)年に、赤城山頂の赤城神社を分祀した神社であるといいます。
『川内という地は水利に乏しいといい(川に囲まれた地であるのになんだか不思議な気がいたしますが)、干天にあえば田はたちまち亀裂が生じ、枯渇を免れず、農民の憂いの種でありました。
ある干天時に、上人が赤城神さまに降雨を祈ったところ、たちまち慈雨があって五穀豊穣をみたとのことで、よって上人は赤城神を勧請して鎮守としました。
その後、場所を遷座し、さらには近隣の八社を合祀したという経緯があり、今にいたるといいます。
鳥居の扁額が落ち、少し寂しい気がいたしましたが、高台の広い境内は草もほとんど生えておらず、気持ちのよい広い空間でありました。
またこの赤城神社さんの石段の下向かって左に【摩多利神社】さんという小さな御堂がありました。
こちらの御祭神は大己貴命さま。
この神社名は桐生市内唯一、といいます。
(群馬県桐生市川内町の赤城神社さん・続き)
【西小倉赤城神社】さん
群馬県みどり市大間々町を走る国道122号線を、桐生市方面に曲がり、大間々町に鎮座される神明宮、そしてそのすぐそばにあるながめ公園を過ぎ、高津戸橋という赤い橋を渡って直進します。
のどかなとても良い景色が広がります。
あの里見兄弟の伝説の残る地を通り過ぎ、さらに直進し、小さな川(山田川)にかかる橋を渡ると正面はつきあたりという道となります。
右に行くとコンビニが見え、その駐車場辺りから少し高台に鳥居が見えます。
鳥居へはどう見ても細い、通れてバイクといった道しかありません。
コンビニの駐車場から歩いて向かうしかなさそうです。
買い物をして、心の中で(ごめんなさい、ちょっとだけ)とお詫びをしながら走って鳥居へと向かいました。鳥居のところへの道はまさに徒歩でしかあがれません。
鳥居をくぐると。
思ったよりかなり新しく思われる社殿が目の前にあらわれます。
狛犬さんもおられます。
境内社もいくつか目に入りますが、まずは拝殿へ。
こちらは大穴牟遅神(おおなむちのかみ)さまの他、誉田別命(ほんだわけのみこと)さまなど四柱をお祀りされているとのことです。
拝殿前には、何枚かにわたる川内町にある赤城神社さん三社の案内の書かれたものがケースに入れられ、ご自由にお取りくださいと書かれていました。
ありがたく頂戴し、一緒に置かれていたお書き置きの御朱印も拝受いたしました。
御朱印のお納めは小さなジッパー付きのビニール袋に入れて納めるよう書いてありました。
こちらを大切にお守りになられる方の一生懸命さが伝わってとても嬉しい気持ちになりました。
境内は塵ひとつ無い、どころか草一本生えていないくらいに丁寧に掃除され清められています。
拝殿幣殿、そして本殿のある社殿であります。
境内社は三つ。
明治時代に諏訪神社さんを合祀したといいます。
そして。
その内の一つに戸のない御堂があって…。
不思議な御像がありました。
石造のものですが赤く塗られ、なぜかお手も御御足もなく、お顔もないのです。
大きな御像が一体、同じく赤く塗られた小さな像と中くらいの御像。
これについてはなんの説明もありません。
説明書きもなく、御堂に扁額もありません。
(十王さまの石仏 続き)
この十王さまの石仏のある近くに阿弥陀さまの板碑もあると地元の方の書かれた資料には書かれています。
目こぼし地があったくらいこの名久木という土地はかつて栄えた地であったようで、実際仁田山八郷と呼ばれた頃、八郷の中で最も人口密度の高い地であったようです。
千網谷戸遺跡のあった土地。
縄文時代に栄えたくらい土地が肥えて住みやすかったということなのでありましょうか。
山田川の源流の方まで行ってみたところ体感5℃は低い心地よさで、良い避暑地を発見したと思ったくらいで、この川内という土地は作物に必要な水、作物の生育に必要な寒暖差などもあり、集落で暮らす時代には大変暮らしやすいということであったのでしょうか。
そんなことから、実は名久木の地には鎌倉〜江戸時代くらいまでの石仏さまが多く存在するのだといいます。
よぉ〜し。
名久木に行こう!
(↓名久木の十王さまの石仏。
左手にはグリーンのブランケットをお持ちです 笑)
大好きな群馬県草津白根山。
それはそれは美しいエメラルドグリーンの火口湖で有名なところだった。
もうそこへの立ち入りが禁止されて何年経っただろう。
つい先日も息子と三人で志賀高原に向かう途中、この道を通った。
志賀高原を訪れるのが定番だったわが家の夏。
「…まだだめなのかねぇ」
何年か前から、ここを通ると必ず誰かがつぶやいた。
「寂しいね」
火口湖に向かうハイキングコース、道を隔てて池の周りを散策するコース。
必ず立ち寄ったおみやげ屋さん。
多くの思い出が詰まっていて、そしてそのまま時を止めたかのように封印された。
ひどい時は通行自体が出来なかった。
今はすっかりその頃の面影を無くした駐車場やおみやげ屋さんが痛々しく哀しい。
そんな草津白根山の火口湖へと向かう登山道がこのたび来月下旬から条件付きで通行できるという。
今日のNHKのニュースでそれが報道され、心が躍った。
「…地元草津町では火山活動が比較的落ち着いているなどとして、全面的な立ち入り禁止の措置を15年ぶりに緩和し、来月下旬から条件付きで通行できるようにすることを決めました。
草津白根山のうち、エメラルドグリーンの湖面で知られる火口湖の『湯釜』がある【白根山】では、
火山活動が高まった2009年以降、草津町が、湯釜を臨む展望台につながる中央登山道を全面的に立ち入り禁止にしています。
町は、観光客からの登山道再開の要望などを受けて火山の専門家と協議し、町長らが展望台付近まで行って現場の状況を確認しました。
その結果、火山活動が比較的落ち着いていて登山道にある避難シェルターの修繕も終えているなどとして、立ち入り禁止の措置を15年ぶりに緩和し、来月下旬から条件付きで通行できるようにすることを決めました』
…十五年ぶり。
そうだったな。
末の娘も高校に入り、ちょうど家族で過ごすことも減ってきたさなかのことだった。
久しぶりにとてもワクワクした。
ニュースは続く。
「具体的には、10月下旬までのうちの10日間、1日に2回、1回当たり20人に限定し、監視員のガイドを同行させるということです。
登山道の通行には予約と1人4000円の負担金が必要で、町は26日から予約の受け付けを行っています」
…すごい条件だ。
心がしおしおと萎びた思いがした。
- << 487 【群馬県草津白根山のツアー中止の発表】 群馬県草津町が、今月二十五日から再開する予定だった草津白根山の火口湖「湯釜」の見学ツアーを中止すると発表しました。 気象庁が九日発表した「草津白根山の火山活動資料」をもとに草津町が判断したとのことです。 火山活動資料によると、湯釜付近の白根山では、五月下旬以降、火山性地震がやや増加し、六月頃からは湯釜付近の地下で緩やかな地殻変動が始まっているなどとして、今後、草津白根山の火山活動が高まる可能性があるとのこと。 …あのぉ〜、五月、六月のレベルの資料? それって、今さら? それを受けて中止? 問い合わせっていうか、相談、してたよね? ツアーを決めた地元の人たち、 その準備に動き出していた人たち。 ずっと閉鎖を余儀なくされているおみやげ屋さん、 ガイドをつとめようとしていた人たち、 十五年、淋しさや哀しさを抱えていた草津白根山を愛する人たち、 こんなの、ない。
【群馬県桐生市皆沢八幡宮】
群馬県桐生市の梅田町に桐生ダムがあり、豊かな自然とおだやかなダム湖、さらにはその上流での川遊び、魚釣り、桐生市立の宿泊施設もあり、ここを知る人の多くがリピーターだ。
ダム湖で遊ぶにしろ、魚釣りや川遊びをするにしろ、ダム湖をみぎてにみながら直進するルートをとることがほとんどだ。
ダム湖にかかる橋を渡る人も、車を駐車場に停めて歩いて渡る人がほとんどなくらいだ。
そんなダム湖にかかる橋を車で渡って、道なりにしばらく進むと左側に神社の鳥居が見えてくる。
それが【皆沢八幡宮】だ。
とはいえ、道から見える鳥居もさほど大きなものではない。石造りの鳥居が一つ。
境内はそれなりに広い。
ただ、車で乗り入れることはできない。
少し行った先にある空き地のすみの方に停めさせていただいて徒歩で鳥居まで戻る。
鳥居の前に大きな石灯籠が一つある。
対ではないのが不思議な気がした。
広い境内地に社務所のような、集会所のような建物が二つ、しっかりと窓まで閉ざされどなたももいないことが一目でわかる。
…?
鳥居から突き当たる場所にあたるところに石段があって、高台に、質素な建物がある。
質素というか…正直社殿にあまり見えないのだ。
装飾が何もないし、屋根も瓦葺きでもない白木のままの建物だ。
質素、という言葉が上品に感じるくらい、壁にあたる部分はまるで簀子のような板が立てられそこに細い横板を打ち、壁というよりは塀?
引き戸の扉に鈴は吊り下げられているが、別段お賽銭箱もない。
見晴らしがよいので、石段を上がらずとも見てとれる。
…ん?
『皆沢八幡宮本殿』と立て看板に案内がある。
ほ、本殿?
いきなり本殿?
と、もしかしてこれは覆屋?
覆屋兼…拝殿?
(続き)
拝殿ととらえるべきでありましょう覆屋前に吊るされた鈴、正式名称【本坪鈴】を鳴らし、二礼二拍手し、初めて参拝させていただいたご縁に感謝申し上げて一礼。
そしてさっそく、おばさんの覗きの技が!
えっ?
す、凄い!
覆屋兼拝殿からは想像もできないくらい細やかな彫刻の施された社殿がそこにありました。
おお。
ドキドキします。
そして、どうしてこれだけ立派な本殿に対して幣殿はおろか拝殿すらないのでしょう。
だいぶ高台にあるこの本殿。
水害で流されたまま再建されることなく本殿だけがのこっている?とか、…なのでしょうか?
長い参拝(と覗き)を済ませ、境内を歩いていて見つけた案内板には、『…十八世紀後半に建立されたと思われる…』とのみ書かれるだけで、詳しいことは不詳なようです。
『 名称 皆沢八幡宮本殿
八幡宮は皆沢地区の要所、皆沢川と中川の合流地点南東の高所に鎮座し、宇治川の先陣で名高い上野の武士、足利又太郎忠綱を祀っている。
十八世紀後半に建立されたと思われる本殿は、茅葺き、隅木入りの春日造で正面向拝には唐破風を設け、浜床を持つ。
組み物から上は朱塗りされ、彩色された龍頭の彫刻が施されるなど、鮮やかさが際立っている。建物の壁面に嵌め込まれた彫刻は、縁が鋭い平面的な浮彫で背面の彫刻には
「加(ママ)永四亥 三月廿九日出来上州勢多郡荻原村星野東渓(カ)行年八十才」の墨書がみられる。
また、本殿床下内部の壁面からは、建立時の原寸図と思われる組物と垂木を描いた墨書が確認されている。
本殿内部には忠綱明神像と伝えられる天文十二(1543)年の墨書がある木彫の神像が安置されている。』
とありました。
ん?
この案内、ツッコミどころ満載ですが…。
ま、まぁそれはまずは置いておき。
その見事な彫刻に酔いしれていた私に時を戻します。
(続き)
向拝、垂木、扉脇、胴羽目、脇障子、向拝、など、ひととおり彫り物が施されています。
色もかなりの部分で残っています。
私がとても気に入ったのは、… 縁下持送り、というらしいのですが、本殿の建物の縁の下に当たる部分の龍。
まずそこが目に入って、おばさんの心は一気に舞い上がります。
そしてその上、胴羽目といわれる大きな壁面にはめ込まれた大きな彫刻にはそれぞれ物語があります。
ほとんど読み解けない私ではありますが、いつかこの彫りをみて、その物語がなにか、わかる達人になりたいとひそかに思ってはいるにはいるのですが…
それには中国の故事などを学ばなくてはならないのですが、そこにまだ着手していない時点で、それはかなり遠い遠い道のりであります。
ともあれ。
まず本殿右側の胴羽目。
松の木があり、その木の根元に座る一人の老人。
お腹が少し出た、着ているものからは仙人を思わせる男の人です。
構図がまた素晴らしくて、その人物が右の角の部分に結構大きく位置していて、ゆったりと悠々と座っている様子がよく表されています。
そして松の枝の手前、大きな鳥に乗る、唐子と呼ばれる唐の時代の子供(なのか?)が描かれているのです。
大きな翼の広がるさまといったら!
いかにも優雅に空を飛ぶ様子が表現されているのです。
ただし、この彫り物の、テーマとなっている絵はなんなのかはわからない。
よくみると鳥に乗る唐子(と思しき人物)は何かを手に持っています。
…笙の笛?
いずれにせよ、両の手を離して鳥に乗るあたり、この人物もまた仙人?
不老不死とか?
まぁいくら見ても中国の故事をまだ学び始めてもいない私には答えは出せません。
川場村の吉祥寺さんへの参拝の帰りに、ようやく川場村の道の駅『川場田園プラザ』へと立ち寄ることができ、そこでじつは私、小さな運命の出会いを果たしたのでした。
それは、鷺草。
高校時代、友人のおばあさまが育てておられた鷺草の、その繊細さ、まさに鷺が飛ぶかのようなその花の形に魅せられて、いつか自分のもとにもこの鷺草を、と思ったのでした。
それから早、うん十年。
川場村田園プラザの園芸コーナーのすみっこに、まだつぼみすら無い、小さな小さなポットに植えられた鷺草の茎と葉だけの苗を見つけたのです。
ようやく巡り逢えた鷺草の苗。
この夏の灼熱の暑さにもまるで動じることなく、すくすくと背をのばし、…と言ったところで五センチ強の高さですが。
しかしながら全く蕾を持とうとはしない。
八月が花の頃とネットには書いてあります。
(今年は花を持たないのかなぁ)
ところが。
一週間ほど前にその茎の先端に、今までの葉とは異なる小さな葉のようなものが。
少しづつ、少しづつ、小さなふくらみをもち、一昨日そのふくらみに白いものが見えて…。
今朝ほど花が咲いていたのです。
前日群馬県は台風ばりの降水と風に見舞われ、しかもそれが突然だったため、植木鉢をしまうこともかなわず。
厳重に括り付けてあったすだれが壊れて落下し、背の高い菊の植木鉢はみな庭に吹き飛んでいたというのに。
…こんな悪条件であったのに、咲くのだなぁ、咲いてくれるのだなぁ。
朝の挨拶と同時に夫と息子に報告して。
彼らが見逃すことのないよう、そして道ゆく人が見られるようにと、門柱の上に飾って。
そして。
小さな白鷺が翼を広げて飛んでいるかのような鷺草の花を、ミクルのみなさんにもご覧いただけたらと、
ここに貼らせていただきます。
【呑龍さま】
近年、ご当地番組などで群馬県を取り上げていただく機会もあり、『上毛かるた』というワードをお聞きになられたことのある方も増えているように思うのは…どうかな。
私もこの雑文で時折ふれることのある、郷土かるたなのですが、これが県民のほとんどの人が語れるくらい、熱く愛されるかるたでありまして。
たぶん、昭和生まれの方なら全ての読み札を記憶しており、しかもパッと瞬時にその絵札を頭に思い描けるほどに、まさに血となり肉となっているかるたといっても過言ではないかと思われます。
私は小学二年生のとき、群馬県内での引っ越しに伴う転校をしたのでありますが、転校する前の学校ではその存在すらを知らなかったかるたでありましたのに、転校先の学校では授業時間を使ってまで上毛かるたを興じるという熱の入りようで、大きなカルチャーショックを覚えたものです。
私には初見のかるたを、同級生たちはすでに読み札を全て暗記し、まるで百人一首のように素早く取れるようなポーズで構え、最初の一文字二文字ですでに絵札をゲットするようなレベルにまで到達しているのですから。
そんな上毛かるた。
読み札【お】といえば
【太田金山子育て呑龍】、であります。
なんのことかさっぱり分からない方がほとんどかと思います。
群馬県に太田市という市がありまして、そこに金山町という町があるのですが、そもそもそこに金山という山があって、その山頂にはかつて金山城があり、新田神社さんが鎮座しております。
その麓に【大光院】というお寺さんがあるのですが、こちら、大光院という名前は知らなくとも『呑龍さま』『子育て呑龍さま』と言えば通じるくらいのお寺さん。
それはたしかに上毛かるたのおかげでもありましょうが、やはりそれだけではなく、県外からの参拝者も多く訪れるくらい有名なお寺さん、なようで…。
まぁ、私などは神仏の信仰にほぼ関わりなく生きてきたおばさんですので、この珍道中を始めるまで一度しか訪れたことが無かったですが、ある意味、そんな人物でさえ一度は訪れているほどのお寺さん、といえましょう。
そんな『呑龍さま』に本日参拝いたしました。
それは他ならぬ開山忌の法要に参列するため、であります。
(続き)
毎年九月七日〜九日、群馬県太田市の大光院の開山で『子育て呑龍さま』として親しまれる【呑龍上人】の忌日法要が営まれます。
群馬県民には大光院というよりも『呑龍さま』という方が伝わるくらいでありましょう。
大光院は慶長十八(1613)年、
徳川家康の命により、
徳川家の始祖と言われる新田義重の追善供養と
徳川氏一族の繁栄・天下泰平のため創建された浄土宗の寺院です。
コロナ禍となる前のとある夏の日参拝した折に、たまたま境内に貼られていたご案内を目にし、この法要に参列させていただきましたのがはじめでありました。
その厳粛さに圧倒されると同時にすっかり魅了された私は、同じ年に二度参列させていただいたくらいです。
大きな太鼓の音が開山堂から響くのが始まりの合図です。
御本堂から笙の笛の音が聞こえ、長い渡り廊下をまず僧侶が歩きます。
その後笙の笛を先頭にいくつかの楽器を奏でる僧がそれに続きます。
その後、何人かの僧に囲まれて唯一被り物を着けられた僧が通られます。
お導師さまでございます。
続いて冠をつけ、お揃いの装束を身に纏い、それぞれの持物を手にした稚児が通ります。
稚児は十二名、…ほどでしたでしょうか。
それぞれ手に、
手持ちの吊り幡、首から描けるようにされた小鼓、シンバルによく似た妙鉢、タンバリンによく似た楽器、
小さな蓋の付いた金属製の容器、散華盆を恭しく持ち厳かに歩いてまいります。
これだけを見るだけでもう胸は高鳴り、私の穢れ多い身も心も浄められる思いがいたします。
(追記)
旧暦八月九日の日にお隠れになられたという呑龍さまのお命日から、九日の日の法要は特に特別なものなのでありましょう。
前回の何年か前の参列の際も、そしてら今回も僧侶は三十人は軽く超えるかと思われ、呑龍さまゆかりの地からも多くの僧が参列されます壮大な法要でございます。
来年もまた参列できますように。
大光院でいただいた散華。
一枚はお導師さまの御手からの
ものでありました。
いかにも大光院らしい絵の描かれた散華でございます。
開山堂の絵があり、開山堂の欄間に舞う天女さまの絵があり。
(今回ようやく開山堂の中を見渡す心の余裕がもて、この天女さまの彫られた欄間に気づくことが出来ました)
(続き)
ただ、やはり『仏陀』、ブッダといえばお釈迦さまの別称であると考えてよいかと思われます。
他の、お釈迦さま以外の御仏を仏陀と呼ばれることは(ほとんど)ないでしょう。
(この〝ほとんど〟という言い方は私がまだまだ不勉強な、仏教をほんのちょっとだけ知ったばかりの、…知った気になっている学びはじめの者だから、に他ありません)
一方、〝如来さま〟は、
たとえば阿弥陀さま、大日さまやお薬師さまなど、他にも如来と呼ばれる仏さまはおられます。
ちなみに。
その『如来』になるために修行中の方のことを『菩薩』と呼びます。
菩薩と呼ばれる御仏には観音さまがおられ、お地蔵さま、弥勒菩薩さま、文殊菩薩さま、虚空蔵菩薩さま、普賢菩薩さまなどからおられます。
菩薩さまは〝悟りを求めて修行されている方〟と書いておりますが、実際は衆生と呼ばれる私どもをお救いくださる存在でもございます。
実際にはすでに悟りを開いておられながら、衆生を救うためあえて菩薩でおられる御仏もおられるのだとお聞きいたします。
お釈迦さまもまた、菩提樹の下で悟りを開いて『ブッダ』『如来』になられる瞬間までは『菩薩』だったわけです。
お釈迦さまはシャカ族の王子としてお生まれになられる前の過去世でも修行を続けておられた、と伝えられます。
たとえばウサギに生まれたり、オウムに生まれたこともあったといい、その間もずっと修行していたわけで、そういったことから考えるとそのウサギやオウムもまた菩薩となると思われるのですが…。
と考えたとき、菩薩というと観音さまやお地蔵さまようなお姿ばかり想像いたしますが、菩薩という存在は、この世のあらゆる動物の中に存在しているとも考えられる、ということにもなります。
(群馬県太田市にあります曹源寺 さんの、私の大好きなお地蔵さま の御像)
貧しく、しかも片親であった私は高卒で働くべく、秋には早々に就職先が決まり、のんびりと最後の学生生活を楽しんでいた。
とはいえ進学校であったため、それはあくまでも密かにに密やかに。
周りは受験勉強のまさに追い込みにかかる頃だ。
正直な気持ちを言えば、…淋しかったし悔しくもあった。
全国模試で自分でもなかなかと思う成績を修めようと、大学へいっていよいよ専門的な勉強をする道は私には望めない、望むことが出来ない。
進学校における高三の秋、私はバイトに勤しんでいた。
気難しい老医師の営む耳鼻科で、無資格でも許される程度の手伝い的な仕事内容だった。
バイト料は本屋でのものよりだいぶよかった。
そんなある日。
担任のN先生に呼び出された。
(なんか悪いこと、したっけ?)
…そうすぐさま思うところが小心者だ。
「Y。お前の成績なら上の学校にだって行けるぞ。奨学金制度だってある」
…はっ?
ちょ、ちょっと待って?
「先生?もう就職先も決まっています。
今から就職を断るのは学校的に今後のことを考えたら良くないのでは?
そもそも今から受験勉強って、…もう十二月になろうかという時期ですよ?そんなに受験は甘くは無いです。
先生もご存知でしょう。
就職も断り、受験も失敗するような、そんな余裕は私には無いです。
母だって就職が決まって喜んでいます」
N先生はなおも続けられました。
「もうお母さんとは相談してある。お母さんの承諾は得ている」
はあぁっ?
「就職を断るのは学校が責任をもって良いように断るから、そんな心配はしなくていい。勉強は…これからのお前次第だ」
いつの間にか他の先生も加わっていた。
外堀は固められていた。
そう、N先生は私に進学の道を開いて下さった大恩の方、だった。
決まっていた就職先にも自ら出向いてくださり、穏便に断ってくださった。
つまり、N先生は、その後私がなんとか合格できた学校を卒業し、就職した先までをも、何十年も経った今でも覚えていてくださった、ということ、なのだ。
有難い出会いでありました。
本当に本当に、有難いという言葉がこれほどに適切なことは私が生きてきた中そうはありません。
…これもまた御仏のお導きであったのでありましょう。
惜しむらくは私がこの恩をまだ誰にも返していないこと。
【かつぎ地蔵】
群馬県前橋市のとある道路沿いに、それは大きく立派なお地蔵さまが立っておられるのを見かけて…一体何年経ったことか。
そこは私がそう何度も使う道ではない上に、そのお地蔵さまのお立ちになられるそばには車を停めるスペースは全くなく、しかもひきりなく車の通る片道一車線の道路沿い、なのでありました。
それでも現代は便利な世の中で。
ある程度の情報を入力できれば、少なくともその場所の地名、あわよくばそのお地蔵さまの由来さえもがネットで検索できてしまう時代です。
そのお地蔵さまはどうやら【かつぎ地蔵】と呼ばれるお地蔵さまのようです。
え?
…距離とか高さとかの目検討がほぼ当たらない特技を持つ私であることを差し引いても、このお地蔵さま、台座などを含めれば、間違いなく三メートル、いや四メートルあるかもしれません。(ま、まぁ…三メートルはあると思うんです。なぜなら夫が一・八メートル、ですので、足すことの一メートル、…たぶんこれよりあるん、…では?)
えっとぉ、〝かつぎ〟って、かつぐ、んですよね?
それとも何かをお地蔵さまご自身がかついだとかいう伝説でも?
…いや、そのネット上にあげられた写真に写る案内板によると、やっぱりお地蔵さまを〝かつぐ〟んです。
しかも子どもが、とあります。
いやいや…無理でしょ?
ムクムクと私の中に、このお地蔵さまにお会いしたい気持ちが湧き上がります。
それでも一年、二年、三年…。
とうとう、とうとう行ってまいりました。
背高のっぽのお地蔵さまのお足元へ♡
ただし、一人でまいりましたので、あの高さの指標の夫がおらず、比較してある程度の高さを算出することはできなかったんですが、ね 笑。
(続き)
などとブツブツ心の中でつぶやくうちに、かつての北の上新田集落入口から南の上新田集落入口へと到着いたします。
えっ?
…新しいんですけど?
ええ、洗って磨いてとかで綺麗になった、とかではなくて、これは確実に新しい。
ぴっかぴかの新しさ、素人目に見ても機械彫りのものであります。
…場所をまちがえた?
ここは前橋の上新田と下新田と呼ばれる町の境くらいのところにあたります。
お寺さんがすぐそばにあります。
いつもですと、初めてのお寺さんですしいそいそお参りにまいり、ついでにこのお地蔵さま、さらにはかつぎ地蔵さまについてもうかがう、エックスキューズミーおばさんでありますが、このときすでにお彼岸さんが目前。
お寺さんのとても忙しい時期でございます。
うーん。
と、そのお地蔵さまのお足元に一つ石碑と、もう一つ案内板があるのがみえました。
『かつての地蔵尊は昭和十年の大洪水で頭部を欠損したものを当福徳寺檀徒の◯◯様が修復したものでした。
またこの土地も同檀徒の〇〇様の先祖からの借地でしたが平成二十四年十月、同氏により当寺に寄進されました。
現在の地蔵尊はこれを機に同年十二月に新規建立したものです。
…以下略 』
…あれ、やはり、新たなお地蔵さまであられましたか。
そして、北の入口とそっくりそのままの文章が書かれた説明の案内板がありました。
…どうやら南のお地蔵さまであることは間違いなさそうです。
しかしながらこの上新田のかつぎ地蔵さまの謎は深まるばかりです。
お寺さんにお聞きできればある程度わかるのかもしれませんが、このお地蔵さま二体、私の全くの想像ではありますが、かつぎ地蔵さまとは異なっていて、かつての上新田集落の北と南を護るお地蔵さまであるのでは?
そしてかつぎ地蔵の慣習にこのお寺さん、福徳寺さんが関与されておられず、さらにはご住職さまがこの土地でお生まれでない、ご本山から遣わされたお坊さまであったりすれば、かつぎ地蔵さまのことはご存知ないかもしれません。
うーん。
ネットで調べてもこの上新田のかつぎ地蔵さまについてはこの説明板を超えるものは何一つあがってこないのです。
というよりも違う地域のかつぎ地蔵さまの情報がHITしてくるくらい。
…これは、図書館、だな。
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