今を生きる意味
4年前に死のうとして失敗。
精神科に強制入院。
今も精神科に通院中。
ずっと死にたいって、そればかりを考えている。
考えて考えて
やっと、誰にも迷惑をかけずに死ぬ方法を思いついた。
そしたら、それが今を生きる意味になった。
僕はその時を目指して今日を生きることにした。
とても幸せな気分になれた。
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言われるがまま、ドアを引くと飛び込んだ。
足音はドアの向こうを通り過ぎ、そして遠ざかって行った。
ほっとした時だった。
背後から
「おやおや、中村さん」
と、声をかけられ、僕達は揃って飛び上がった。
文字通り、多分10センチは飛んだだろう。
「あ〜、マスター。お久しぶりです」
中村さんが照れた顔をして、親しげに声のに応えた。
60代半ば、いや70代前半かも知れない。
黒いニット帽の小柄な初老の男性。
ニット帽からはみ出た髪や口髭が白いが、肌には張りがある。
「ちょっと追われてまして…かくまってもらえます?」
「君は確か追う方の人間だと記憶してるんだが?」
“マスター”と呼ばれた男性は、そう言って笑みを浮かべた。
カウンター8席だけの、小さな店内。
マスターが立つカウンターの背後には、数段ある棚にズラリと洋酒のボトルが並んでいる。
店内は黒光りするオークを基調としてあり、温かみのある間接照明と曲名は知らないが、適度なボリュームのジャズが心地良い。
「マスター、俺はターキーをロックで…あ、こっちは多田邦雄くん」
と、中村さんはマスターに僕を紹介すると続けて「邦雄は何飲む?」
と聞いた。
「じゃ、同じので…」
かち割りの氷の入ったロックグラスに琥珀色の液体が注がれる。
ひと口飲んで、「キッツ!」と、口をついて出たが、「キツイけど、美味い!」と言うと、中村さんもマスターも微笑した。
マスターは
「私は奥に行ってるから、何かあったら声をかけてくれ」
と言って、カウンターから出ると、奥へと消えた。
「あのマスター、昔は刑事だったんだぜ」
ロックグラスを傾けながら、中村さんが言った。
そして、
「それにしても、しつこいヤツラだな。よっぽどあのチャカに用があるらしいな」
と呟いた。
僕は「チャカとハジキって、違うんですか?」と聞いた。
「関西ではチャカ。関東はハジキって呼ぶんだけどな、俺の相棒の迫田さんは関西出身だから、何となく俺もチャカって言ってるんだ。銃によって呼び方もいろいろある。“れんこん”なんてのもな」
と、笑いながら説明してくれた。
そして急に真面目な顔になった。
「邦雄、お前さ、つけられて追われて…やっぱり怖くなかったのか?」
と、聞いた。
「うん。息切れはしたけど怖くは無かった」
「あのさぁ、ちょっとプライバシーに立ち入るが、悪く思わないでくれよ」
「うん…」
「お前、精神科への通院歴はあるのか?」
「…うん。…でも、もう行ってない…」
「うつ病か?」
「うん…」
「そっか…」
うつ病の患者の中には、死に対しての恐怖心を持っていない人が稀にいるんだ。
だから本人にとっては明日なんか、どうでもいい。
今があればそれでいいし、たとえ明日死んでも構わない。
もっと言えば、生まれてきたこと自体が間違いだったと思っていたりする。
生への執着が無く、自殺願望があったりもする。
人間が感じる恐怖の本質ってのは、つまり生存本能なんだよ。
恐怖を感じることができなければ、自分の命に危険をもたらす物とか状況、人物を避けることができない。
だからな、
恐怖心が無いということは、とても危険なことなんだ。
中村さんは、ひと息に話すと、小さく呼吸して続けた。
だから、邦雄、
慎重になれ!
いいか、うつ病ってのは一朝一夕で治るものじゃないし、お前が治そうと思ってさえいないことも分かる。
だから、恐怖心を凌駕するくらいに慎重に生きるんだ。
わかったか?慎重に、な。
慎重に
生きる…
生きる…
話し終えると中村さんはスーツの内ポケットからスマホを出し、電話した。
「中村です。多田君を保護してください。また狙われました。今、沖田のマスターの店にいます、お願いします」
しばらくすると、ドアをノックする音がした。
「沖田さーん、開けてくださーい!」
迫田さんの声が聴こえた。
奥からマスターが出てきて鍵を開けドアを押すと、迫田さんと二人の制服警官が入って来た。
迫田さんもマスターに「お久しぶりです」と、挨拶を交わしていた。
中村さんは「マスター、ありがとうございました」と言って財布から千円札を二枚出してカウンターに置いた。
僕はマスターに頭を下げた。すると、
「またおいで。次はもっと美味い酒を飲みに、ね」
と低くて優しい声をかけてくれた。
「はい!」
と、返事をして僕は店を後にした。
温かい人だな、と思った。
また来たいと思い、出る時に確認したら、看板も無く、店の名前がわからなかった。
中村さんも迫田さんも知らないらしく、揃って首を傾げていた。
警察官の独身寮の一室。
「こんなに安全な場所は無いだろ?」
と、ドヤ顔の中村さん。
「退屈だろうが、捜査が進むまで、しばらくここにいてくれよ」
と、迫田さん。
六畳くらいの洋室で、築年数が経っているらしく、所々、床がきしむ。
ベッドと、カラーボックス、その上に小さなテレビが置いてある。
部屋のすみに足を折りたたむ使い古したローテーブルが立て掛けてある。
カーテンは元の色がわからないほど褪せている。
なんとも殺風景な部屋だった。
警察の寮は独身寮だ。
結婚したら、退寮しなくてはいけない。
門限もあって、退寮したいがために結婚する者もいる、と中村さんが笑いながら説明してくれた。
ここには寮母さんがいて、十畳ほどの狭い食堂に並んだ事務机で好きな時に食べることができる。
トイレは共同で、個室が3つ。
朝は早い者勝ちだとか…
風呂は男4人くらいが一緒に入れるくらいの広さがある。
トイレと風呂掃除は新人の仕事だと聞いた。
僕は警官ではないけど、ここの新人ではあるので進んでやろうと決めた。
まぁ、ヒマだし…
中村さんも、この寮に住んでいるが、今は警察署内に泊まり込んでいるそうだ。
迫田さんは既婚で、家族とマイホームに住んでいるそうだ。
奥さんと、最近彼氏が出来た娘さんとの三人暮らしだと教えてくれた。
翌日、中村さんが僕の自宅アパートから着替えを持ってきてくれた。
新しいパンツを買ってきてくれるように頼んでいたのが、一緒に入っている。
夕べは、隣の部屋の18歳の新人警官、田口君がTシャツとスウェットのパンツと新しい下着のパンツを貸してくれた。
新しいパンツは田口君に返すためだ。
借りたTシャツとスウェットパンツを、浴室のすぐ外に置かれている洗濯機で洗濯して、屋上に干した。
かすかに夏を帯びてきた風が心地良い。
昨日、沖縄地方では梅雨入りしたとニュースで観た。
こっちもあと一ヶ月もすれば、梅雨入りだろう。
昨日、田口君と風呂に入り、食堂で晩ごはんを食べた。
さばの味噌煮、野菜サラダ、味噌汁は豆腐とワカメだった。それと漬け物。
炊き立てのご飯は美味いんだなぁ、と、この年になって改めて気付いた。
そうだ。
この年…
田口君は18歳で警察官になる夢を叶えた。
僕は22歳にもなるっていうのに、いったい何をやっているんだろう…
ずっと、ずっと
失敗しない、
誰にも迷惑をかけない自殺方法を模索し、
SNSに《死にたい》と、そればかりを愚痴って、
何もかもを親のせいにして、
あの“最強魔王”に小馬鹿にされて…
あれ?
そういえば、最近SNSを覗いていなかったな…
何度ブロックしても現れる“最強魔王”のヤツ、また何か書き込んでるかも…
後で見てみよう。
夕方、風呂掃除を終えて部屋のベッドに寝転んでSNSを開いてみた。
ヤツだ!
《まだ生きてんの?www》
《死ぬ死ぬ詐欺じゃね?》
最強魔王!殺してやりてぇ!
今度もブロックした。
腹立たしい気持ちのやり場が無い。
テレビをつけたが、観る気になれずすぐに消した。
そこに、ドアをノックする音がして「僕ですけど…」と、田口君の声がした。
「どうぞー」
「あの、僕、コンビニに行くんですけど、何か欲しい物があったら買ってきますよ」
と、いがぐり頭の田口君が笑っていた。
「ん〜、ヒマだし、オレも一緒に行くよ」
「だ、ダメですよ!多田さんは保護されているんですよ?外に出てはいけませんよ!」
「まぁ、硬いこと言うなよ。コンビニって、すぐそこじゃん」
田口君はものすごく困った顔をしたが、それに構わず僕は玄関に向かって歩き出した。
田口君は、ちょこちょこと後ろを着いてくる。
コンビニかぁ…
シフト、大丈夫かな?
真帆と店長に、また心配かけちゃったなぁ…
帰りにポテチや缶ビールが入ったレジ袋を下げて歩きながら、ぼんやりと考えていると、田口君が横から僕の顔を覗き込み
「どうかしましたか?」
と、聞いてきた。
その時、グレーのセダンが僕達の前を塞ぎ、車から人相の悪い男が二人、出てきた。
「多田君みっけ」
と薄笑いしている見たことの無い男。
もう一人の男の手にはナイフが光っている!
「多田さん、逃げてください!」
田口君は自分よりも体格の良い薄笑いの男を背負い投げると、股間に蹴りを入れた。
そして素早く振り返り、ナイフの男と対峙した。
僕に背中を向けたまま、かん高く怒鳴った。
「多田さん!早く!走って!逃げて!」
僕は寮に戻り、非番で待機している警官を呼ぶために走り出した。
田口君、すぐに助けを呼んで戻るからな!
数人の待機警官を連れて戻った時には、男たちとセダンは消えていた。
大きな血溜まりの中に倒れている田口君がいた…
おい!田口!
救急車を呼べ!
田口!田口!おい!
僕はただ、
突っ立っているだけだった…
頭の中で中村さんの声が聞こえた。
『いいか、慎重に生きるんだぞ!』
雨が降っている。
田口くんの死から、すぐに梅雨に入った。
僕は日々、なにもせず、何も考えず、ただ息をしていた。
雨の音が、うるさい…
まだ18歳だったのに。
これからだっていうのに…
いきなりノックも無く、ドアが開いた。
壁にもたれ、床に足を投げ出して座っていた僕は、虚ろな目でそちらを、見た。
中村さん、だ…
「いつまでそうやってるつもりだ?ぁあ?」
しゃがむと、僕の襟首を両手で掴み、強く揺すった。
「わかるか!これが死ぬってことだ!お前がクソほども気にしてねぇ死ぬって、こういうことだ!」
手を離し、タブレットを僕の目の前に出した。
笑っている田口君。
敬礼している田口君。
小さな子に何か話しかけている田口君…
生きていた田口君が、そこにいた。
「僕が殺したんだ…」
「見ろよ!目を逸らすな!よく見ろよ!生きてた者が無に帰すことが、死ぬってことなんだよ!邦雄、わかるか!」
中村さんはタブレットをスクロールして、次々に映し出される生き生きとした田口君の姿を僕に見せつけた。
僕は今までにない押し潰されそうな、何とも言えない初めての感情に悲鳴を上げて泣き喚いた。
これが、恐怖ってやつなのか?
“死”って、こんなに怖いことなのか?
怖い?
そうだ、怖いんだ…!
“恐怖心”が僕の中を支配して、全身がガタガタと震える。
震えが止まらない。
恐怖に嗚咽した。
「田口君、怖かっただろ?痛かっただろ?ゴメン、田口君、ゴメンナサイ!」
「田口だけじゃねぇよ、加西春香っていう女性も怖い思いをした上に殴り殺されたんだ」
中村さんが、次にスクロールすると、あの引っ越しの日に小さな犬を抱いていた加西春香の顔が映し出された。
「それにしても…ヤツラが探してる拳銃は、かなりの訳ありだろうな。警察官の命を取っても取り戻したいくらいの、代物か…」
スクロールを続けながら、中村さんが呟いた。
タブレットには、加西春香の殺害現場でもある、引っ越し先のマンションの部屋が次々と映し出されていた。
ふと、違和感で時が止まった気がした。
「な、な、な、な、中村さん!中村さん!中村さん!」
「おっ?あっ?何だ?」
「い…、今の写真、もう一度見せてください!」
「この洗濯機!俺が積んだのは縦型だったんだよ!」
が、タブレットに映し出されている洗濯機は、横型だ。
これじゃない!
「ホントか?」
「はい!それから、思い出したんですけど、廃工場で拉致られた時に、首に入れ墨をしてた男は関西弁じゃなかったけど、拳銃のことをハジキじゃなくて、“チャカ”って言っていました!」
「そっか…、邦雄、署でもう一度詳しく聞かせてくれるか?」
「はい!」
「その前に、鼻をかめ!鼻を!」
僕の顔は洟水と涙で、ぐちゃぐちゃだった。
行き詰まっていた加西春香の捜査が動き出した。
加西春香は引っ越しを終えた翌日、近くの家電量販店で横型の洗濯機を購入していた。
翌日には、家電量販店の下請け業者が洗濯機を納品。
そして、これまで使っていた縦型洗濯機を引き取りしていた。
下請け会社と、納品、引き取りした担当者の身元はすぐに割れた。
川中運送。
担当者は、野原祐也(34)、成瀬誠司(24)の二人だった。
迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。
野原祐也に会うことができた。
「ああ、覚えてますよ。あの引き取った洗濯機、まだ新しかったから『これ、廃棄してもいいんですか?』って、聞いたんですよ。そしたら『捨てるなり、売るなり、好きにしてよ、私、横型のが欲しかったのよ』って、ちょぃ高飛車な女の人がそう言っていました」
「引き取った方の洗濯機の中に何か入っていませんでしたか?」
「洗濯機の中?…そう言えば、一緒に行った成瀬ってのが『タオルが入ってる』とか、言ってたけど、客が見もせずに一緒に捨ててくれって言ってたな…」
「その成瀬さんにお会いできませんか?」
「ああ、アイツ、急に辞めたんですよ。挨拶もなく、来なくなって…バイトにはよくある話ですよ。ああ、あの洗濯機を引き取った翌日から来なくなったんですよね」
「引き取った洗濯機はどうしました?」
「まだかなり新しかったから、成瀬のヤツが貰っていいか?って言うから、好きにしろっ言いましたけど?」
拳銃は、成瀬誠司の手に渡った可能性が濃厚となった。
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