神社仏閣巡り珍道中・改
[神社仏閣珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神様、仏様、どうかお導きください。
21/07/02 14:43 追記
脳のCTとかMRIとかを撮ったりしたら、デーンと大きく認知症と刻まれた朱印を捺されそうなおばさんが、国語力もないくせにせっせこ書き綴ったこの駄文スレッドを、寄り添うようにお読みくださる方がいてくださいます。
誤字があろうと、表現がおかしかろうと、花丸をつけてくださるように共感を捺してくださる方がおられます。
本当に、本当にありがとうございます。
気づくとうれしくて本当に胸が熱くなります。
21/07/02 15:02 追記
そんな方のためにも、もう少し上手く書けないものかとあれこれ考えたりもしたのですが、なかなかそれはそれで難しく。
結局自分らしく、ありのままに書くのでいいのだと、なかば開き直りにも近い境地に至って、飾らない、思ったまま書くスタイルをつらぬいております。
今後も今まで通りの誤字脱字、おかしな文章表現かと存じますが、おつきあいいただければありがたいと思っております。┉ずうずうしくてすみません。
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今日から五月。
【正 五 九 参り」 (しょうごくまいり)】という言葉があるということを昨年知りました。
正月と五月と九月にお参りする、ということだそうです。
それをなにで知ったか、そこまでメモする習慣が相変わらずついていない私。
…あれ?、これって神社さん?お寺さん?
困ったときのGoogle先生のご登場です。
するとhitした情報の中、『正五九参り 成田山』というものが目に入りました。
『昔から成田山へのお参りは、正五九参りといって正月、五月、九月と年に三回お詣りするのが良いとされてきました。
これは正五九の月が「三斎月」(さんさいがつ)といわれる月に相当するからです。
仏教発祥の地インドの在家信者は、正月·五月.九月に八つの戒めを守って功徳を積む実践行を行なっていました。この風習が中国を経て日本に伝わり、現在正五九参りとして受け継がれたのであります。
「正月・五月・九月」 の三つの月は他の月とわけて「三斎月」又は「三長月」·「善月」とも言い、
この三つの月の間は八斎戒を守って殺生をやめ、非行を謹んで過ごすことが昔から行われていました。
『四分律行勢』という書物によると、
正月・五月・九月には、冥界にある人間の善悪の行為を映し出す「業鏡」(ごうきょう)が私たちの住んでいるこの南間浮堤のありさまを照らし出して、
そこに行われている良い事と悪い事の全ての行為をこの「業鏡」に映し出してみるのです。
したがって、この「業鏡」が私たちの方に向けられる正月·五月·九月には少しでも悪い事はしないように、
またどんなに小さい事でも良い行いをして、「あの世(冥界)」に行った時に苦しまなくてすむようにしようというわけです。…』
これを見ると、どうやら神仏習合時代に仏教から伝わった形が有力のように思えます。
しかしながら、神社においてもこの正五九参りを三年以上続けるのが正しい参拝の作法としているところがあり、『正五九参り』と称する祈願を設けておられるところもあるようです。
また、これは、陰暦の暦で
「正月=物事の“始まり”」 種まき
「五月=物事が最も“盛ん”になる時」 田植え
「九月=物事が“実を結ぶ”時」 収穫
だからだと言う説もあるようです。
ちなみに、毘沙門天さまのお縁日は、一月・五月・九月の最初の虎の日とされています。
訂正)
誤 元(1616年)
正 元和2年(1616年)
であります。お詫びして訂正いたします。
間違い探しにはうってつけのスレで、添削していただいたら、ほとんど真っ赤な文章となるようなもので、本当に申し訳なく思っております。
さて、龍真寺さんの山門を…山門、なぜか通行止めのようになっておりまして…。
これはもうずっとなことなのですが、何か意味があるのかもしれないと、いつも横の通行口から入ってまいります。
おおっ!
色とりどりの牡丹が満開です。
はあぁ…、まさに花浄土でありましょう。
すごい、すごい!
思わず触れてみたくなるほど、薄い儚げな花びらが幾重にも幾重にも重なって大輪の一つの花となっている牡丹。とはいえ、あまりに儚げなその花びらに触れてみたことはないのですが…。
そんな牡丹の誘惑にどうしても逆らえず、なかなか御本堂へ到達できずにおりました。
ようやく御本堂へ。
お賽銭箱のすぐ上にも品よく牡丹が活けられています。
御厨子は開かれており、聖観音さまが拝することができます。
お賽銭箱の置かれた右横にはお優しいお顔立ちのお地蔵さまがおられます。
こちらの御本堂はいつ建てられたものなのか、なかなかお聞きする機会がなく、存じあげないのでありますが、優しい、心おちつく佇まいの建物であります。
『春は花
夏ほととぎす
秋は月
冬雪さえて
すずしかりけり』
境内に曹洞宗の開祖道元禅師の言葉が、彫られた石碑があるのですが、まさにそんなお寺さんなのだろうなあ、と思わせる境内であります。
シャガ、石楠花、白雪ゲシ…そのほかにも、私の知らない名の花がたくさん咲いておりました。
さて。
花を楽しませていただいたあとは、大好きな石仏さまに会いに行こう。
…あれ?
……あれ?
いらっしゃらない?
記憶ちがい?
いやいや、絶対にこの辺りにひっそりとおられたはず。何度も何度も、同じ辺りをうろつくのですが、小さな小さなお地蔵さまがおられない。
葉の影に埋もれそうになりながらも、優しく微笑む小さな小さなお地蔵。
移動した?
古い石仏さまを集めた辺りも見に行ってみたのですが、おられない。
牡丹園の整備に邪魔になったのでしょうか。
場所もそこにおられるのがなんともいい感じでおられたのに…。
なんとも寂しい思いになった春の一日でありました。
東国花の寺霊場となっております群馬県桐生市の【龍真寺】さんへ参拝させていただきました。
こちらは牡丹のお寺。
まさに今が牡丹の花の頃。
コロナ前には牡丹祭りといったイベント期間もあったようですが、今はネットで調べてもそういった情報はなく、私どもなどはむしろイベントを避けたいタイプ。
平日はかえってデイサービス等の団体さんが訪れることが多いという、かつての情報のもと、本日、日曜日を選んで参拝といたしました。
石標も色とりどりの牡丹に彩られていました。
実は私、何度もこちらを参拝させていただいているのですが、まず最初の参拝は牡丹の季節でなく。
その際に、ご住職さまの御母堂におすすめいただいた牡丹の花の時期に訪れては見たものの、牡丹まつりの前日に来ても牡丹の花の盛りがすぎてしまっていたりと、ちょうどいい時の参拝となったことがなくて、それが今回はまさに今が真っ盛り。
何年か前のネット情報ではまさに今日の日付で、ほとんど咲いていなかったとのことであったのですが、どんどん花の頃が早くなるようです。
こちらは江戸時代初期の元(1616)年の開山であります。
中門前、右手にある鶏亀地蔵(けいきじぞう)とよばれるお地蔵さまはこちらが建立されたとき、悪疫が退散し、付近の鶏が大声で鳴き、亀が像の側へきた、という言い伝えがあるようです。
また、乳飲み子をもつ母親が乳が出ないで困ったとき、この地蔵に願いをかけると乳が出る、といわれ信仰されています。
天明元年(1781年)の鏡水園裏(きょうすいえんり=第十一世住職)謹造立(つつしんでぞうりゅう)の刻銘があります。
こちらは、主に牡丹が植えられてはおりますが、訪れた全ての方に「花浄土の世界」を楽しんでもらうことを願って境内全域にシダレザクラ、ウコン(鬱金)などのサクラと、ヤシオツツジなどの花木や山野草を植栽、花が絶えないように努力している寺院です。
牡丹は回遊式庭園となっております。
鐘楼のそばには、まるで龍が爪をむき出したような形で立つ、樹齢四百年以上の「龍の手松」があります。
今、鐘楼のそばにはたくさんのシャガの花が咲いておりました。
主な花ごよみとして、
ヤシオツツジ3月下旬~4月上旬、ボタン4月下旬~5月上旬、
シュウカイドウ9月上旬~下旬、
ツワブキ10月下旬~11月上旬、などとなっているようです。
このところずっと、神社仏閣巡り珍道中というタイトルを掲げているくせに、ちっともそういう話がなく、申し訳なく思っております。
実は先週、本来なら昨年が御開帳であったものを今年に延期した、長野県善光寺へ行く予定をたてておったのです。
「せっかくな御開帳なのに、行けずに終わってしまうんだろうなぁ」という、母の嘆きを受け息子が、
「明日朝早起きして、善光寺に行くよ」
と言ってくれたのです。
狂喜乱舞…まではしませんでしたが、それこそいそいそ、いそいそと前日から、そして当日の朝まであれを持とう、これを持とうと準備万端整えておりました。
朝の五時半。夫がダイニングキッチンの戸を開けました。
「ごめん、頭が痛くてすぐには出られそうもない」
…。
そ、そうですか…。
夫は偏頭痛持ちであります。
私はともかく、息子も楽しみにしていたのになぁ。案の定、ほどなく息子も起きて動き出したようです。
「ごめんなさい。父、頭痛で今すぐはダメみたいって。
なんなら一人でドライブにでも出かけて」
「あ、そう。じゃあまたってことで」と息子は笑顔で自室に戻っていきました。夫の偏頭痛でアレコレの行事のドタキャンや、家では静かに過ごさなければならない日というのは子供の頃からの慣れっことなってしまっていました。
そんなわけで中止となった善光寺行き、息子が昨日、
「善光寺の御開帳っていつまでだって言ってたっけ?」と。
ああ、まだ連れて行ってくれる気でいてくれたんだ…ありがたい。
今年の御開帳珍道中録が書けるといいなぁと、コロナの感染状況を見つつ、思う日々でございます。
…でもなぁ。
すごくすごく混むのだろうなぁ。
善光寺は御開帳でなくともすごい参拝の方で溢れている寺院でありました。御開帳ともなると通行止めや一方通行等、善光寺の周辺自体が交通整備されるようです。
うーん。
七年に一回、次は六年後。
私さえボケずに健康でいれば、その時でもいいんじゃない?
えっ?それがあやしい?
う、うーム。
新型コロナウイルスの流行は、私たちの生活を大きく変化させました。
しかし、疫病の流行が社会に大きな影響を与えるのはこれが初めてではなく、むしろ人類の歴史は、疫病との闘いの歴史と言っても過言ではないのです。
日本最古の書物である『日本書紀』にも、疫病の流行が何度も記録されています。
古代日本において、崇仏派の蘇我氏と敬神派の物部氏の対立は、歴史の教科書でもよく知られています。
物部氏と守屋は仏像を焼いたり、難波の堀江に捨てたりするなど、仏教の敵のように描かれていますが、実はこの過激な行動には理由がありました。
仏教と共に日本へ入ってきたものの中に、恐ろしい疫病、天然痘があったからであります。
免疫を持たない日本人の中で、天然痘はあっという間に広がり、多くの者が苦しみながら死んでいきました。
物部氏と守屋が外国からの異教である仏教のせいで元々おられる神の怒りが下ったのだと考え主張したのも、当時の神頼りの医療では無理はありません。
しかし当然ながら仏像の廃棄は功を奏さず、天然痘の流行は収まることはなく、何度かの流行の波を繰り返しながら、
種痘が広く行われ、1980年の撲滅宣言まで、人類の長い歴史と共に存在し続けたのでありました。
コロナ禍となって一昨年、昨年と中止されていた、京都の夏の風物詩、【祇園祭】も疫病除けのお祭りであるといいます。
このお祭りは八坂神社の主催するもので、牛頭天王をお祭りしたことから始まったとされているようです。
【牛頭天王】は陰陽道の疫病神で、日本神話の『スサノオノミコト』や『武塔神』と同一視されています。
武塔神という神さまはあの蘇民将来に一族に茅の輪をつけるようにと申された神さまであります。
薬の神様、少彦名命さまを祭る神社も疫病除けの神社。大阪には【少彦名神社】が鎮座し、病気除けの信仰を集めています。
疫病除けの信仰を集める【薬師如来』を本尊とする寺院も、疫病除けの信仰を集めております。
古来、人々はさまざまな方法で疫病から逃れようとしてきました。
それは医学であり、民間療法であり、信仰もまた大きな役割を果たしてまいりました。
新型コロナウイルスは今後いったいどう収束してゆくのでしょう。
かつて、テレビで話題になった、般若心経を歌う僧、『薬師寺寛邦』さんが、最近また話題になっておられるようで、今日たまたま観ていたテレビで薬師寺さんが取り上げられていました。
薬師寺さんのことを初めて知ったのもテレビでありました。もう何年も前のことであります。
薬師寺さんの般若心経ミュージックは心に流れるように入ってくる、自然で、耳に心地よいお声であります。
音楽、と言われてはおりますが、基本的にはお唱えされておられるものと私は感じておるのですが…。
YouTubeなどの動画サイトで【般若心経ミュージック】なるものを配信しており、特にアジアを中心とする海外で高い人気を得ておられるとのことで、ギターに合わせ歌うようにお唱えする般若心経に心惹かれたものでありました。
とはいえ私はその後何回かYouTubeを拝見しただけで終わってしまったいたのですが、コロナ禍ということでお家時間を過ごす方が増えたことで更に新しいファン層が増えられていたようでありました。
今日テレビで「事務作業がはかどるので仕事用BGMに最適!」
「寝る前に3分聴くだけで寝付きや寝起きがよくなった!」というコメントをされておられる方がおられると報じられていました。
コロナ禍以降、英語圏、スペイン語圏、中国語圏の方のアクセスが急増しているということで、宗教や国境を越えて、薬師寺寛邦さんの般若心経は人の心に癒しを与え続けているようです。
現在、彼のYouTubeは23万人の登録者がおり、そのうち40%は台湾、香港をはじめとする中国以外のアジア圏。60%は日本のみならず、アメリカやスペイン語圏の方が登録されているのだとか。総再生回数は7,500万回を記録したようです。
中国では、動画サイトBiliBiliというアプリを通して47万人以上の方が登録・視聴されているのだとか。
四月十日には書籍を出版され、ゴールデンウィークにはコンサートが再開されるようです。
仕事用のBGM…ですかぁ。
たしかに、耳に心地よく、不遜な言い方をすれば邪魔にならず。
…ですが、お経。
ずっとお経の流れる空間が、自宅の仕事場であったり、お風呂場であったら…。すこぉし違和感を感じてしまうのは…私だけ?
うーん修業がたりないかぁ。
わが家には仏壇も神棚もありません。
思うところはいろいろあるのではありますが、自分たちが何一つ祭祀をしてこなかったにも関わらず、ここへ来て突然お祀りするということは子供たちの誰かがそれを継ぐということとなり、その後のことを考えるとなかなか積極的になれずにおります。
そして…祭祀承継のこともさながら、仏教はその宗派によって仏壇からして異なるということを知り、檀那寺さんのない私どもにとってはまずそこからのスタートとなっておるからであります。
とはいえ、今は好みで仏壇を選んでも差し支えがなくなってきてはいるようではありますが…。
とはいえ、自らの勝手な思いで設た〝仏壇もどき〟は存在しております。
仏壇に近しい扱いとして、花供え、毎日水を供え灯明し、お線香をあげて、ご飯を炊いたら仏飯器でご飯をお供えしております。
そんな仏壇にお供えするものでも宗派により異なる決まり事があるのが、お線香。
宗派によっては香炉も異なるようです。
〝浄土真宗〟は、一本を折って二本にし、寝かせて供えるのが基本だと書かれたものがありました。これは線香が発明される前、「常香盤」と呼ばれる香炉を使っていた名残とされるものとされます。
仏具屋さんでは横に寝せて供える香炉が売られておりました。
〝浄土宗〟は一本をそのまま立てるか、二本に折って立てる。
〝真言宗〟と〝天台宗〟は三本の線香を立てる。三は「仏・法・僧」の三宝にちなんでおり、仏教にとって大切な数字であるとされます。
また、あるお坊さんは「過去、現在、未来」であるとお話くださいました。
宗派によって…なのか、お寺の香炉にあげるお線香の本数をお聞きしたところ、「何本でも」とお答えになられたお坊さんもおられました。「普通一本か三本、奇数をあげるのですけど、まぁお好きに」とのことでありました。
またさらには、線香の本数は地域の風習によっても違いがあるようで、他の家庭のお仏壇に線香を供える際は、そのお宅のやり方をお聞きすると良いようです。
追記)
仏教では死者は喉が渇くとされるので浄水を供えるが、〝浄土真宗〟の教義では、すべての死者は、苦しみの一切ない極楽浄土へ往生するので、水を供えないそうです。
極楽浄土には「八功徳水」と呼ばれる、においがなくてやわらかく、冷たくて口当たりの良い、おいしい水が充満しているのだとされます。
かつて〝甜茶〟というお茶がブームになった時がありました。
なんでも花粉症に効くということでありましたものですから、アレルギー体質の子供たちや花粉症の夫のため、毎日家族でそのお茶を飲んでおりました。
世間的にブームが去った後もしばらくはその習慣が続いていたものの、ブームが去ると入手が難しくなることもあり、何よりも私がその味に飽きて家族で飲む習慣は廃れていきました。
…家族では。
夫は未だに甜茶を愛飲しておりまして、その入手がなかなか大変だったりするのではあります。
甜茶は、バラ科の植物一般から作られたものの総称であるとか、果ては甘味のあるお茶全般を呼ぶとかいう説もあるくらいで、そのような広い定義のものの商品化ですので、会社によって味が異なること、異なること!
このメーカーの甜茶が美味しいと思って定めていても、メーカー自体がその商品を取り扱うことを辞めてしまったりと、ブームが去った後というのはこのようなものでしょうかねぇ。
そんな広義から言えば、花まつりでお釈迦さまにお掛けし、振る舞っていただく甘茶も甘いお茶ですので、甜茶に含まれることとなるのでしょうが…。
『甘茶』はユキノシタ科のヤマアジサイの変種アマチャというものから作られるもののようです。
アマチャの若い葉を蒸して揉み、乾燥させたものをさすようです。
天然の甘味料や生薬、化粧品や入浴剤にまでなっているようです。
この甘茶、私は先日の花まつりで生まれて初めていただいたのですが、かなり、かなり甘いものでありました。それもそのはず、一説に砂糖の四百倍甘いとも、一千倍甘いともいわれているようです。
しかしながらカロリーはゼロということで、糖尿病の方の食事にも用いられているそうです。
ただしあまり濃い甘茶を飲むと中毒を起こすので、厚生労働省は2〜3グラムの甘茶葉につき1リットルの水で煮出すことを推奨しているということです。
甘茶のこぼれ話)
このお茶をつけて赤ちゃんの頭を撫でると丈夫に育つと信じられている。
また、このお茶で墨をすって習字をすると字が上達するほか、白い紙に「千早振る卯月八日は吉日よ 神下げ虫を成敗ぞする」と書き、逆向けにして柱に貼ると、害虫除けになるとも信じられている。
とのことでした。
昨日、珍道中ではない用事で出かけた帰りに、桐生市の新里という地区を通り、「ああ、そろそろもしかしたら牡丹の咲く時期が来るのかもなぁ」と思いました。
そばを通ったわけではなかったのですが、新里に『花の寺』の霊場、龍真寺さんがあるということがふと頭に浮かび、と同時に、何年か前に、温暖化の影響で牡丹まつりと花の時期がズレてしまっていたことがあったことも思い出したのです。
牡丹は遣唐使により、薬草として伝えられたとされている花。一説には弘法大師空海上人が伝えたとも言われているようです。
薬草として伝えられたこともあり、薬師如来さまをお祀りするお寺さんに多く植えられているということもあるようです。
お寺さんの彫刻にも多く彫られています。
仏教と共に伝来し、百花の王とされる華やかな花であることも、仏堂の装飾によく使われる理由でもあるのかもしれません。
牡丹、石楠花、藤…。
お寺さんにはお花が多く植えられています。
野に咲く花も美しい季節。
それでも…今年もまた人混みを避け花を愛でるコロナ禍の春となりますかね。
日光では弥生祭例大祭が始まっているというのになぁ。
善光寺の御開帳の年なのになぁ。
そんな私にも、もしかしたら仏教、お釈迦さまのことがわかりやすく書かれているかもしれない本があることを思い出しました。
あの偉大なる漫画家【手塚治虫】氏の描かれた【ブッダ】です。
次男が小学生の時分に繰り返し繰り返し図書館で借りてきては読んでおりました本でありました。…だからといって彼がそういった道に進んだかというと、そのようなことはなく、仏教とはまるで関係のない仕事についております。
ただ、その本の影響があってのかとかどうかは定かではありませんが、
彼はあの東日本大震災の後、何度となくボランティア活動で東北を訪れ、それは社会人になってからもしばらくは続けられていました。
今も図書館とかで借りる事は可能なのかどうか。お釈迦さまの生涯を知るにはとりあえずとっつきは良いのではないかと思うのでありますが…。
次男があまり夢中になって読んでいるので、その何巻かは読んでみたのですが、さっぱり記憶していないのであります。
ということは…もしかしたらやっぱり、ザルの網目よりから漏れる何かよりもいとも容易く漏れ出てしまうのではないのかなぁ。
あるお寺のご住職さまはそのお釈迦さまの足跡を辿るべく訪れたインドの虜になって、何度も何度もインドへと足を運んでおられると聞きました。
お坊さんだから当たり前、と言われたらそれまでですが、お釈迦さまの生涯をスラスラと語るご様子、なおかつその生涯を熱く語るだけの存在を知っておられる幸せなのだろうなと、思わずにはいられません。
ネットの情報で落ち込んだりするのも愚かなことだとは思うのですが、愚かな人間であるのは確かで自覚しておりますので、まぁ、そんなこともあろうかとも。
お経って、…まぁここで述べているのは『般若心経』、なのですが、いまだに聞いても、見ても、読み上げてみても、まるで理解できていないのです。
まぁ、書いてある内容の意訳もありますので、言葉としてはわかる…ような気のするところもあるにはあるのですが…。
檀那寺のある者でもない人間ですので、僧侶の方のお話を伺う機会もほぼなく、ただただひたすらに読みあげているだけでは何かを学ぶことは難しいこと。ましてや僧侶の方のように修行することもないので、お経の真髄、境地に達することなどなく生涯を終えるのだとは思うのです。
でも読経を繰り返すことで何かを得ることができるかもしれない。
そう思って毎日お唱えしてはいるのですが、やはりなんとも理解もできずいる文言を繰り返していることに、なんだか空しさ、というか上っ面だけ読経していることに申し訳なさを感じることも多々あり、ありがたいお経を唱えため息をついていたら、ダメじゃん!という状態で。
そんな迷いと悩みの中、ネットである僧侶の方が述べておられるのを拝読したのです。
『お経を唱える。
唱えればいい。
唱えて満足。
唱えることで何か功徳にあやかる。
唱えることで救われる。
そもそもがそういう行為自体が冷静に考えてみておかしなことをしていると思いませんか。
なぜお釈迦様の言われたことを文字言語化したものを意味も分からず繰り返し唱えてばかりいるのだろうか。
お釈迦さまはそもそも仏法を説かれたのは何の為であったでしょうか。
本道を見失ってはいけないのではないでしょうか。
お経というものはただ読んで終わりというものではありません。読んでその内容を学び、実践することです。
お経の中に書かれていることを良く学んで真意を会得してはじめてお経が生きてくるのではないでしょうか 』
うー、痛いところをズキューンと…。
たしかに。
短いお経だからといってついつい般若心経をお唱えしておりましたが、お釈迦さまは聞く者のレベルに応じた教えを説いたとされ、その中でも般若心経は難しいとされるレベルのお経であるというのです。
これでは難しいに決まっています。
観音院さんの花まつりでは、お経ではなく、お釈迦さまの誕生を祝い感謝するという讃がお唱えされました。
当然…というのも情けない気もいたしますが、仏教徒でもなくましてや僧侶でもない私にわからないことがあることの方がむしろ当たり前です。
聞き覚えのある言葉もあまり出て来なかったように感じた、というのが正しい表現、でしょうか。
きれいな、それはきれいな蓮の花の花びらを型だった色とりどりの散華が空高くまかれました。それが青い空から舞い落ちてくる桜の花びらに重なります。
なんと美しい光景でしょう。
煩悩と雑念のかたまりの私はついついその様に心奪われてしまいました。
やがて風で足元を舞う散華の花びら。
それもまた私の気を散らします。
…やれやれ。
花まつりを終え、参加された方がそれぞれ散っていく中、始まる前に一言二言お言葉を交わした年配の女性の方が、私に向かい手をあげて、
「またお会いしましょう」
と笑顔でおっしゃってくださいました。
…ああ、来てよかった。
本当に来てよかった。
一期一会の出会いをこんなにも大切になさっておられる方にお会いできました。
おそらくはもう会える確率はほとんどない。仮にお会いできたとしても、その時までその方のお顔を覚えていられるほどの記憶力を持ち得てはいない私です。
でも、だからこそ嬉しいではありませんか。
もしかしたら、自惚れて考えれば、私にもう一度会いたいと思ってくださってのお言葉だったかもしれないではないか。
去り際に相手の心に残る言葉を残すことができるって、素晴らしいことではないですか?
きっと普段からそう生きておられるから、スッとその言葉が口から出るのだと思うのです。
そんな生き方をしていきたい。
そんな生き方を教えてくださった方に出会えたことは、まさに仏さまのお導きでありましたでしょう。
わが家の子どもたちが小学一年生の時の国語の教科書に載っていた【大きなかぶ】。
おじいさんが かぶを うえました。
「あまい あまい かぶになれ。
おおきな おおきな かぶになれ」
・
・
甘くて大きなかぶができました。
・
・
おじいさんはかぶをぬこうとしました。
うんとこしょ どっこいしょ
ところが かぶはぬけません。
・
・
ネズミがねこを引っ張って、
ねこがイヌを引っ張って、
イヌが孫を引っ張って、
孫がおばあさんを引っ張って、
おばあさんはおじいさんを引っ張って。
うんとこしょ どっこいしょ
とうとうかぶはぬけました。
おしまい。
…というお話。
「うんとこしょ どっこいしょ」のフレーズは、その教科書で学んだ多くの子供たちの記憶に残っていることでしょう。
これは実はロシアの昔話、A・トルストイの作品です。
こんなにも読み継がれ、愛されている物語を生んだ国が何故…。
そして同じく子どもたちに愛される絵本に【てぶくろ】という作品があります。
雪が降りしきる薄暗い森で、おじいさんが手袋を片方落としてしまいます。
その手袋を見つけたネズミがその中で暮らすことにします。
その後、カエルやウサギ、キツネなど、次々と動物がやってきて手袋の中に入り込みます。
手袋の中に入る動物が、ウサギというところあたりから、ん?と思うところはあるにはありますが、それは物語の世界ということで…。
このお話はウクライナの民話です。
このてぶくろという絵本(福音館書店)、絵が実にきれいなのです。
えぇ、いまだに手放せず家にあるおばさんが言うのです、間違いありません。
この絵を描いたのはロシアの絵本作家、エウゲーニ・M・ラチョフさん。
ウクライナという国とロシアという国はそれほどに近しい国であったはずなのです。
両親のどちらかがロシア人、どちらかがウクライナ人だという方も多くおられるというくらい近しい国であったふたつの国。
ロシアは
人の命を奪い、
幸せを奪い、
街を破壊し、
自然環境を破壊し、
どんな未来を望んでいるというのだろうか。
『この世に生を享(う)けたひとりひとりの命は、他の誰とも代わることのできない尊いものである』
ロシアの戦争に携わっている全ての人に聞かせたい。
戦争によって行われた殺戮や破壊は、大きな大きな悲しみと絶望と、憎しみを生んだだけで、愚かな凡人の私には今後も戦争を継続してロシアが得られるものなど何もないとしか思えないのに…。
ロシア軍の兵士とてその尊い命を失っております。
何故…。
この戦争で何かを得た者は、いつの世も同じ兵器をつくる会社と、兵器を開発する会社。
その会社がある国。
どうすればこの戦争は終わることができるのか。
…その答えが人としての心に基づくものであって欲しいと、切に切に願うのです。
御本堂前に設けられているのは、お釈迦さまが生まれたルンビニの花園を表した花御堂(はなみどう)というものだそうです。
御堂の上に飾られた桜は、今年はすでに散ってしまったからでしょう、造花でありましたが、色とりどりの春の花々が小さな御堂を華やかなものにしています。
その中央にお釈迦さまのがお立ちになっておられ、お釈迦さまのお足元は水鉢になっていて、甘茶がそこに注がれていました。
その花御堂におられるお釈迦さまの御像を、【誕生仏】と呼ぶのだそうです。
誕生仏は、お釈迦さまが右手で天を指し、左手は地上を指した姿をされたもの。
これは、お釈迦さまが産まれてからすぐに立ち上がり、七歩歩いて、右手で天を左手で地を指して「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と話したというエピソードが基になっているのだといいます。
お釈迦さまのエピソードは多々ありますが、産まれてすぐ立って、しかも七歩歩くという、普通ではないこと、普通ではない、ありがたいお方の誕生であったということから生まれたお話であろうとおっしゃっておられました。
また、お釈迦様がお話になられた【天上天下唯我独尊】。
「このお言葉は『この世に生を享(う)けたひとりひとりの命は、他の誰とも代わることのできない尊いものである』という意味をもっています」とおっしゃられました。
また、法要の途中、参列者も花御堂に祀られておられる誕生仏に甘茶かけることをお話になり、「柄杓で三度頭から甘茶をお掛けください」とのことでありました。
これは、かつてお釈迦さまがお生まれになられた刹那、天に九頭の龍が現れ、甘い水を吐き、それをお釈迦様の産湯(生まれた赤ちゃんが初めてつかるお湯のこと)に使ったという説話に由来するものだとお話しくださいました。
「花まつり」は甘茶を潅(そそ)ぐ行事でもあるので、「潅仏会(かんぶつえ)」とも呼ばれる由縁でもあるのだといい、お釈迦さまの頭上に注がれる甘茶のように清らかでありがたいものが私たちの頭上にも注ぎますようにとの思いも込められているとおっしゃられました。
甘いものは美味しいもの、ありがたいもの、喜びにつながるものであるともおっしゃいました。
「花まつり」はいのちの尊さを感じる感謝する日ですといい、御本堂の前の花御堂に向き、法要を始められたのでした。
やがて。
後ろから鐘を鳴らして近づいてくる衣擦れの音、草履の音が。
お二方の僧侶が一列に並んで歩いて来られました。
「これからお釈迦さまのお誕生を祝う法要をいたします」と、誰にでもわかるような優しい噛み砕いた言葉で花まつりについて説明下さった後
、お席につかれました。
花まつりの法要の始まりです。
…ありがたいことに、観音院さんのFacebookにあった花まつりのポスターは、Facebookを始めなくとも観られるところにありました。
『降誕会 十一時より』
よぉーし。
花まつりデビューです♫
…張り切り過ぎて三十分以上前に到着してしまい、境内には私以外はどなたもおらず。
ではまずご本尊さまに参拝を…。あ、あれ?御本堂の前に花まつりの祭壇が設けられていて、入っていいものかいけないものなのか…。
で、御朱印の受付でお声がけして大丈夫なことを確認して、いつものようにご本尊さまの聖観音さまへご挨拶申し上げ、日限地蔵さまへお線香を手向け。
…まだあと二十分。
所在なげに花まつりのために設けられた席に腰かけておりますと、ご住職さまが甘茶をお授けくださいました。
降誕会の前ですのに…お釈迦さまにもご住職さまにも申し訳ない気持ちになりましたが…ひと口くちに含んだ甘茶の甘いこと!
上品なまろやかな甘みで後味もすっきりとしております。同じ甘いお茶であります〝甜茶〟ともまた違った甘みです。
「おいしい」
よほど嬉しそうな表情だったのでしょう、ご住職さまも笑って
「よかったです」とおっしゃってくださいました。
ご住職さまはゆっくりと御本堂の前の降誕会のための祭壇へ身体を向け最終点検をして、再び日限地蔵さまの地蔵堂へと戻って行かれました。
雲ひとつない青い空です。
風に乗って桜の花びらが舞っています。
そんな様をのんびりと眺めておりますと、御本堂前にお一人、年配の女の方がお参りされました。
いつも参拝されておられる方のご様子です。参拝を済まされたあと、私のそばにお越しになられ、
「何かあるんですか?」とお聞きになりました。
…なるほど、いつもの参拝にお越しになられただけだからこそ、降誕会のあることをご存知なかったのでありましょう。
私がポスターを指さしながら簡単にお話しさせていただくと、
「そう、ありがとう。じゃあ私も参列させていただきましょう」とおっしゃって隣の席に座られました。
晴れた日には毎日こちらに参拝されておられるとのことでありました。
一キロほど離れた所にお住まいのようでした。
十一時近くなると人が集まってまいりました。あっという間に設けられた席はいっぱいになりました。
四月八日は【花まつり】。
珍道中を始めて何年か経ちますが、今までずっと花まつりに参列することが出来ずにおりました。
この日、群馬県では入学式・始業式が執り行われることが多く、学齢期の子供のいない私は休みを希望することを避けておりました。
コロナに起因し仕事を辞めてからは、非常事態宣言や蔓延等防止措置のため行事自体が中止されたり、また私自身も参列することを断念していたため、実に生まれてこの方一度も花まつりというものに参列したことなく過ごしておりました。
今年はどうしよう。
今、すでに第七波の到来が口にされてはいるものの、とりあえず非常事態宣言も蔓防も出ておらず、花まつりを執り行うというお寺さんがあるようで…。
どうしよう。
あ、そうだ。
前回お縁日でうかがった、群馬県桐生市の観音院さんにポスターが貼られていたんだ。
うーん、時刻までは見てこなかったなぁ。
今どきのお寺さんなので、ホームページはあるものの、今はFacebookかInstagramが中心で、詳しい情報はそこを見ないと得られないようです。
がスマホデビュー10ヶ月な私、どちらも始めておらず…。
はて…。
【大岩山毘沙門天】は、天平17(745)年に【行基上人】によって開かれ、『聖徳太子御作の毘沙門天(多聞天)』を祀ったのが始まりといいます。
【聖武天皇】の御宇、行基上人は大和国、菅原寺に滞在していた際、聖徳太子作の閻浮檀金(えんぶだごん)で出来た毘沙門天像を常に所持し、関東地方へ行き霊地を開き、この毘沙門天像を安置して衆生を救済したいと誓っていたといいます。
その後ここ足利の大岩山をその場と定め、庵を結び祠を建て毘沙門天像を安置されました。
その旨聖武天皇にご報告申し上げたところたいそう喜ばれ、本堂、経堂、山門、鐘楼、三重塔、十二坊の諸堂を賜るとともに、【大岩山多聞院最勝寺】という山号を賜り、行基上人は大僧正となられます。
その後、大岩山は鎮護国家御祈祷の一大霊場、さらには修験道の修行場として一大霊山となります。
毘沙門天さまは、北方を守護する四天王の一天であるとともに、財宝・福徳の神とされ、七福神の一神でもあります。
さらに毘沙門天は数々の武将たちが信仰し、戦勝を祈願してきた神さまで、大岩山毘沙門天も源義家、鎌倉景政、足利義助、足利尊氏、足利泰氏などの武将が帰依していたとされ、奉納された宝物も現存するものがあります。
最勝寺は開山以来、落雷等による火災で焼失、再建を繰り返してきたようで、文安四(1447)年、雷火により、山門以外の諸堂全てが焼失しその後再建されました。
また宝暦七(1757)年に本堂は再び焼失し、同十二(1762)年に再建され現在に至ります。
大岩山毘沙門天の毘沙門天像は、木造寄木造、像高180.0cm 肩幅34.0cmの木造寄木造で鎌倉時代の作と言われています。
右手に多宝塔を、左手に三つ叉の鉾を備えており、足元では邪鬼を2体踏み付けています。
玉眼は遥かを見据え、悪を打ち据えんと眉間に力を込め、睨みつけております。
背後に見える宝輪は平安時代の作風が見られるものの、全体としては、その写実性やたくましさから、鎌倉時代の特徴を備えていると言われております。
(大岩山毘沙門天ホームページ参照)
たくましくて、お優しい、私の大好きな御像であります。
私が尊敬いたしております僧侶のお一人がご住職をお勤めになられる、栃木県足利市にあります【大岩山毘沙門天】さん。
正式名称は【大岩山多聞院最勝寺】さんであります。
その大岩山毘沙門天さんがあります栃木県足利市では、2021年2月21日に山火事が発生し、その山火事は冬の空気が乾燥した状態の中、強風に煽られ一気に延焼が拡大し、実に九日間燃え続けました。
避難勧告は305世帯に出され、山林は全体で約106ヘクタール、東京ドーム約20個分が焼けてしまう火災でありました。
その際、大岩山毘沙門天さんのあります大岩町にも火の手が上り、ご住職さまはご本尊さまや寺宝を避難することとし、ニ日後の23日に避難を開始されました。
ご本尊さまの毘沙門天像が出堂されるのは、実に江戸時代の落雷による火災の際以来、260年ぶりということで、その傷み具合等も不明のままでの延焼を考えての緊急出堂・搬出となり、経年劣化もあり損傷してしまった箇所が出てしまったのです。
木製で、しかも細やかな彫りの施された毘沙門天さまは、それでもお召し物のひだの部分等は無事でありましたが、左右の足が欠けてしまわれました。後頭部にも損傷があるようです。
右手にお持ちの多宝塔、そして長さもあり、薄くて細く彫りの施された左手の持物である三叉戟は細かに壊れてしまっていました。
毘沙門天さまのお子様であります善膩師童子さまはおいたわしいことにお手が取れてしまわれ、お召し物の膝あたりにも大きな穴があいてしまったようであります。
その修復にご本尊の毘沙門天像及び両脇侍だけで1,000〜2,000万円、トータルで実に8,000万円がかかると算出されたようです。
今、大岩山多聞院最勝寺さんでは勧進を『クラウドファンディング』という形でお願いされておられます。
詳しくは大岩山毘沙門天さんのホームページでご案内されておりますが、美しい動画でご住職さま、副住職さまが切々と訴えておられました。
返礼品の一例は、あの漫画家のちばてつやさんのお書きになった二種類の絵のポストカードであったり、その絵の絵馬が金額によって異なるようですがいただけるようです。
まだわが家には届いておりませんが、ちばてつやさんの漫画は、私ども夫婦はもちろん、子供たちも読んでいて、実はひそかに楽しみにしております。
本来は勧進、なんですけど、ね。
四月八日は花まつり。お釈迦さまのお生まれになられた日であります。
お釈迦さまの誕生を祝う仏事を『花まつり』と称するのは、お釈迦さまは、インド・ルンビニーの花園、お花畑で沢山の花に囲まれて誕生したと伝えられていることから『花まつり』と呼ぶようになったそうです。
他に
『灌仏会(かんぶつえ)』『降誕会(ごうたんえ)』『仏生会(ぶっしょうえ)』『龍華会(りゅうげえ)』、など、様々な名称があるようです。
ちなみに。
今日四月六日は城の日、なのだとそうです。これは言うまでもなく語呂合わせですが。
などと一生懸命調べてはみたものの、正直、あまり身にもなっておらず、頭にも入っていないのが正直なところであります。
実際にお寺さんでお話をお聞きすることがあっても、それを肌で感じることはあまりないような…。
お護摩をされる宗派、されない宗派。
…そんな大雑把に分けたらこれだけ調べて何をやってるの?というレベルではあるかと思うのです。
思うのはありますが…。
このコロナ禍、アフターコロナの時代において、今までは開かれていたお寺さんの門戸が多少はやはり閉ざされ気味となっておりまして。
宗派による違いなど伝わるほどにはお寺さんと繋がれないのです。
檀那寺を定めようと考えてみても、宗派を定めるのか、お寺さんで決めるのか…そこから躓くのが現状です。
うーん。
みんなどうやってお寺を選ぶんだろうなぁ。
檀家料で決めたと、話してくれた年配の方もおられましたし、通いやすいお寺さんに変えたという話もお聞きしました。
檀家料って、大事なことになるけれど、一体どうやってそれを聞くのだろう…。
お年寄りいわく、それは人から人への直接人から聞く情報が多いようです。
…でも私は教えてはもらえませんでした。信頼関係が築けていないから?
まぁ、こんなことで悩んでいるうちは幸せで平和ってことですがね。
他にも悩みはあるんですよ。
悩みも煩悩もたくさん。
【時宗】
時宗とは、浄土教の一宗派で、鎌倉時代に『一遍』を祖師としておこった宗派です。
一日に六回、決まった時間に念仏をとなえる集団を六時念仏衆と言い、一遍は弟子と自分を「時衆」と称していました。「宗」の文字を使うようになったのは、江戸時代以降とされています。
『阿弥陀経』を根本経典とし、『南無阿弥陀仏』を唱えれば、現世において浄土往生が約束されるとしました。
ご本尊は『阿弥陀如来』さま。
地方を遊行して、『賦算』と呼ばれる札を配りました。『踊念仏』といって、踊りながら念仏を唱え歩いたのが特徴的でありました。
総本山は『清浄光寺(遊行寺)(神奈川県)』。
【黄檗宗】
黄檗宗は江戸時代の1654年に、国福建省福州府福清県の『黄檗山萬福寺』の僧、『隠元禅師』が日本へ招かれ、宗祖となりました。
ご本尊は『釈迦如来』さま。
禅宗のため所依の経典はないが通常は般若心経、観音経、三帰依文等を読誦するとされます。
梵唄と呼ばれる読経が存在するようで、四拍子のリズムを刻みながら、歌うように読経することからその名がついたといわれているようです。
黄檗宗は、曹洞宗、臨済宗とともに『日本三禅宗』の一つで、一度臨済宗と合併し、2年後に独立しているようです。本山は『黄檗山萬福寺(京都府)』です。
教義は、臨済禅の一派とされますが、日本における臨済宗とは異なる中国式なため、臨済宗とは分離した独立一派となったようです。
以上、まるで仏教が何たるかを知らぬ者がさまざまな宗派を調べて書き起こしたものに過ぎませんので、多々間違い等があるかとは思うのですが、私個人の覚書として流してご覧いただければ幸いです。
【律宗】
日本における宗祖は『鑑真』。
律宗は中国で始まった大乗仏教の宗派のひとつで、四分律という戒律を持ちます。
受戒することで成仏するとしていて、戒律を守り実行することが教義になっています。
南都六宗のひとつで、中国では中国仏教十三宗のひとつでもあります。
他の宗旨が経や論を重んじるのと違い、律宗の教義は律が中心になっていています。止悪、作善、回向衆生をあらわす三聚浄戒という三つの戒は、摂津義戒、摂善法戒、摂衆生戒から成ります。
本山は『唐招提寺(奈良県)』です。
【華厳宗】
律宗と同じく大乗仏教の宗派のひとつです。
華厳宗が日本に伝わったのは、736年で、唐僧〝道璿〟が伝え、法蔵の弟子である新羅僧『審祥』が東大寺で初めて華厳経を講じて、日本華厳宗の第一祖になっています。
『華厳経』根本聖典にし、独自の教学体系を立てています。華厳教学は、天台教学に並ぶ仏教の代表的な思想なのだといいます。(このあたりについては全く調べてもおらず、おそらくは調べてももう私ごときには理解できないと思っております)
華厳宗では『四法界』と言う世界感があるといいます。
人間の考える〝実法界〟、自我を捨てた虚無の〝理法界〟、この二つが共存している〝理事無礙法界〟、そして虚無であることすらも消えて、ただものごとだけが共存する〝事々無礙法界〟というものだそうです。
この世は個別の事象が無限に重なり合ってできていて、その中で自分本位に考えずに自我や偏見を捨て、ものごとをありのままに見つめることが必要であるという教えなのだといいます。
本山は『東大寺(奈良県)』。
【法相宗(ほっそうしゅう)】
【玄奘三蔵】がインドで学んだ〝唯識教学〟を元に開いたもの。
日本に伝えたのは唐で法相宗を学んだ【道昭】。行基もこの教示を学んでいるといいます。
法相宗はことに学問や経典の研究を中心とする宗派とされています。
本山は『薬師寺(奈良県)』と『興福寺(奈良県)』。
かつては法隆寺も総本山の一つであったが、第二次世界大戦後に脱退したのだといいます。
以上の宗派は仏教の教示の追求に重きを置いたものであるとされています。
【真宗大谷派】
宗祖は浄土真宗本願寺派と同じく『親鸞』で、浄土真宗の一派であり御本尊は『阿弥陀如来』さま。
経典は『浄土三部経(観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経)』です。
本山は『真宗本廟東本願寺』で、浄土真宗本願寺派に対しこちらは“お東さん”とも呼ばれるのだといいます。
【曹洞宗】
宗祖は『道元』ですが、第四祖の『瑩山(けいざん)』が曹洞宗を広く普及させたため、道元と共に瑩山も崇めます。
修行を重視し“悟りを求めない修行”により悟りを得られると説きます。
臨済宗と同じ禅系の宗派ですが、こちらは禅問答はせず、ただひたすら座禅をします。面壁(めんぺき)といって、壁に向かって座禅する修行もあります。
御本尊は『釈迦如来』さまです。特定の経典はありませんが、『般若心経』などを唱えることもあります。本山は『永平寺(福井県)、總持寺(神奈川県)』です。単一宗派で分派がないのが特徴です。
【臨済宗】
宗祖は『栄西』で、座禅などの修行を重視する禅宗のひとつ。
経典に依存せず、問いかけに対して答えを考える禅問答など、人間の心を見つめる修行をおこないます。
すべてのものに仏性を見るという教えから、特に経典や本尊は定められていませんが、基本は『釈迦如来』を本尊とします。
経典に頼らない教えですが、『般若心経』を唱えることもあります。
さまざまな派に分かれ、臨済宗妙心寺派の本山は『妙心寺(京都府)』というように、派ごとに本山が異なるのが特徴です。
【日蓮宗】
宗祖は『日蓮』で、御本尊さまは『釈迦如来、大曼荼羅』です。
かつては法華宗、日蓮法華宗と呼ばれていました。
他の宗派は複数の経典を読むことが多いのですが、日蓮宗は『法華経』のみを重視します。法華経は全てのお経の中で最も優れたもので、釈迦如来の心が映し出されているとされ、非常に尊ばれているそうです。
特に、『お題目』といわれる【南無妙法蓮華経】の七文字には、法華経の功徳が集まっていると説きます。本山は『身延山久遠寺(山梨県)』です。
そうそう、子供の頃、「お経って『南無阿弥陀仏』?『南無妙法蓮華経』?」
と言って大人を困らせた記憶が蘇りました。…宗派によってお経も異なるもの、と言っても子供には伝わらないし「両方お経だ」、と言うしかなかったでしょうね。
【天台宗】
天台宗を開いた宗祖は『最澄』です。多くの仏教宗派を学んだ最澄の教えに従い、奈良時代に流行した「顕教」と、平安時代に流行した「密教」のふたつの要素をあわせ持つといいます。
「全ての人に悟りの世界を」という『妙法蓮華経(法華経)』の考えをもとに、全ての人は仏の子供で、一人ひとりが輝き合う世界にしたい、という教えを伝え、経典は『法華経 、大日経、阿弥陀経』で、本山は【比叡山延暦寺(滋賀県)】。
天台宗では御本尊は定められていないということです。
【真言宗】
宗祖は『空海(弘法大師)』で、お大師さまと呼ばれることもあります。
すべての生命は大日如来の化身であり、仏のような心と言葉でものごとをおこなえば、誰もが仏になれるという教えを説いています。
宇宙を象徴的に表した曼荼羅(まんだら)思想を持ち、基本的には『大日如来』さまを本尊とします。
経典は『大日経、金剛頂経、般若心経』。
本山は『高野山金剛峯寺(和歌山県)』です。
分派が多いのが特徴です。
【浄土宗】
宗祖は『法然』です。
従来の仏教は、出家者が修行することによって成仏できると考えられていましたが、浄土宗では修行によって成仏するのではなく、『念仏』をひたすら唱えることで極楽浄土へ行けると説きます。
念仏を唱えれば誰でも救われるという教えは、当時の仏教としては斬新で、身分を問わず幅広い層の民衆に信仰されました。
御本尊は『阿弥陀如来』さまで、
経典は『浄土三部経(観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経)』とされます。
本山は『知恩院(京都府)』。
【浄土真宗本願寺派】
宗祖は『親鸞』で、親鸞は浄土宗の宗祖である法然の弟子にあたります。
浄土宗から派生して浄土真宗となり、戦国時代に浄土真宗本願寺派と真宗大谷派に分かれました。
本尊は『阿弥陀如来』で、
経典は『浄土三部経(観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経)』です。本山は『龍谷山本願寺(京都府)で、“西本願寺”、“お西さん”とも呼ばれるといいます。
『浄土宗』との違いは、浄土宗は念仏を“唱えること”を重視しますが、『浄土真宗』は“念仏を唱えようとする気持ち“を大事にします。
また浄土宗は戒律が厳しいのが特徴ですが、浄土真宗は僧侶が結婚したり肉を食べたりしても問題ないとされます。
仏教は538年に日本へ伝来しますが、その時代、その時代の人々の心を反映し多くの宗派に分かれます。
〝奈良時代〟には学問的な仏教が盛んになり、〝平安時代〟には唐から帰国した『最澄』が【天台宗】を、『空海』が【真言宗】を開きました。
〝平安末期〟から〝鎌倉時代〟にかけては飢餓や疫病が流行し、不安な民衆の心を救うため、【阿弥陀仏】を信仰する【浄土宗】、【浄土真宗】が開かれます。
【浄土真宗】は浄土宗から派生した宗派です。
どちらも本尊が阿弥陀如来、経典を浄土三部経とするなどは同様であるようです。【浄土真宗】は『浄土真宗本願寺派』と『真宗大谷派』は、双方とも浄土真宗の一派で、元はひとつの宗派でしたが、戦国時代に二つに分かれます。
〝鎌倉時代〟には禅から派生し、【曹洞宗】、【臨済宗】が開かれます。
修行を重視する禅系の宗派は武士の間で好まれ、水墨画や茶道といった文化にも影響を与えています。
また、同時期に『法華経』を中心とするかっ【日蓮宗】も生まれています。
【臨済宗】【曹洞宗】は禅の思想から発展した、禅系の宗派です。
【真言宗】と【天台宗】は教えを外に出さず厳しい修行をする、密教に分類されます。
【天台宗】は多面的な宗派で、天台宗を学んだ人が他の宗派の宗祖となるなど、他宗派と広い関わりを持っているのだといいます。
と、ここまでは歴史の授業であるとか倫社の授業で習ったことかと思います。
もう少しだけ詳しく知りたいと思って調べてみました。
釈迦如来は悟りを開いて以来、たくさんの教えを人々に説いてきました。
その膨大な教えを記したどの経典を重視するか、本尊はどの仏にするかによって、宗派の違いが生まれているようです。
知ろうとすればするほど、理解出来なくなる仏教。宗派の違いなど調べ出してみたものの、数字的なものしかわからない。
どこがどう違うというのだろう。
どうしてこんなに細分化されているのか。
もとは一つ。
インドのお釈迦さまが創始したものであります。ブッダとも呼ばれます。
北インドのシャーキャ族の王子として生まれた、【ゴータマ・シッダールタ】であります。
いろいろな修行の末に悟り(覚り)を開き、それを布教し、シャーキャ族の聖者という意味で『釈迦牟尼』『釈尊』と呼ばれるようになります。
ブッダというのは〝悟りを開いた人〟という意味で、これが中国で漢字に直され【仏陀】となります。それを略して【仏】といいます。
仏教というのは本来、『仏陀になる』こと、つまりは『成仏』を目指す教えなのだといい、『成仏陀教』が略され【仏教】なのだといいます。
その歴史はあのイエスキリストよりも五百年も古い時代の話となります。
ブッダ亡き後、教団はさらに大きくなるものの、指導者を失った中、戒律や修行の基準を巡っての対立が起きやがて大きく二つのグループに分かれてしまったのです。
さらに長い年月をかけて、仏陀が亡くなってから数百年後には二十ほどの部派に分裂してしまいます。
…とは言ってもそれはまだ今から二千年以上も前のことに過ぎないのですが。
そのそれぞれが、仏陀の言葉を記録に残そうと経典が作られ出すので、元は一つの教えであった仏陀の言葉、仏陀の教えが、それぞれの解釈で編纂されてどんどん違う経典ができていったのだといいます。
…そんなにも前からすでに細分化の傾向がみられていたというので、今の日本の仏教で見られる現象などむしろ当たり前とすら思われます。
やがて、戒律や修行の厳しさを重視する〝上座部〟と、厳格さよりも人々の救済に重きを置く〝大乗〟系のグループに大きく分かれていくのです。
日本に伝わるの中国から伝わる大乗仏教となるのは小学校の歴史の授業ですでに学びますよね。
さらに細かく分けられるという宗派。
じゃあ…もっと細かく分けられたとき、一番お寺数の多い宗派はどこなんだろう。
…ありました。
Google先生にお聞きして出ない答えはないようです。
1 曹洞宗 14604
2 浄土真宗本願寺派 10473
3 真宗大谷派 8860
4 浄土宗 7125
5 日蓮宗 5011
6 高野山真言宗 3734
7 臨済宗妙心寺派 3388
8 天台宗 3093
9 真言宗智山派 2920
10 真言宗豊山派 2655
11 真言宗醍醐派 1098
12 真言宗御室派 794
13 真宗高田派 638
14 西山浄土宗 606
15 日蓮正宗 522
16 真宗興正派 514
17 法華宗本門流 449
18 黄檗宗 443
19 臨済宗南禅寺派 428
20 天台真盛宗 422
21 時宗 411
22 臨済宗建長寺派 407
23 真言宗大覚寺派 384
24 真宗仏光寺派 365
・
・
・
ほおぉぉ。
ん?、そ、そうなの?
そうなんだ?
…私は、できれば宗教に深く関わって生きたいとの思いから珍道中を繰り広げておりますし…もとい、さまざまな神社仏閣を廻らさせていただいておりますので、宗派等問うことなく、お参りさせていただいております。
だから、当然たくさんの宗派のお寺さんに参拝させていただくこととなるじゃないですか。
でも…。
でも、ですね。
感覚的に…というよりは過去の私が廻らせていただいたお寺さんを振り返ったときのお寺さん数とはだいぶズレがあるような…。
一時期参拝するお寺、参拝するお寺がみな、ある宗派のもので、単純な私はその宗派にご縁があるのかな?などと思ったくらいでありました。
それこそ市町村どころか県まで異なるのにも関わらず、同じ宗派さんだった時期があったので。
その宗派さんも決して低いランクではないのですが、逆に今まであまり参拝したことのない宗派さんがそれよりも上の順位だったりしたものですから、つい…。
…日蓮宗さんって〝御朱印〟ではなくて〝御主題〟なんですよね。
でも、御主題をお受けしたことは数少ないですし。
まぁ、御朱印や御主題をお授けしていないお寺さんも多くありますのでそれだけからでは決してないのですがね。
なお、さらに日本の仏教には、十三の宗派があるとも言われます。
・華厳宗
・法相宗
・律宗
・真言宗
・天台宗
・日蓮宗
・浄土宗
・浄土真宗
・融通念仏宗
・時宗
・曹洞宗
・臨済宗
・黄檗(おうばく)宗
以上をまとめて『十三宗』と呼ぶのだそうです。
…「さっきのお寺さんの数で言っていた宗派と数が違うだろう」、とか、「そうだよ、さっきはなかったけど○○宗ってあったはずだもの、おかしいと思った」とか、思われた方もおられることでしょう。
そもそもここに挙げられている〝十三宗〟以外にもまだ他にも宗派がありますし。
ちなみに〝律宗〟〝華厳宗〟〝法相宗(ほつそうしゅう)〟は【奈良仏教】という括りになりますし、その他に、一ヶ寺で独立した宗派のお寺さんもあります。
あの海外からの観光客の方にも有名な東京浅草の〝浅草寺〟さんは『聖観音宗』ですし、奈良の〝法隆寺〟さんは『聖徳宗』、京都〝清水寺〟さんは『北法相宗』であります。
そして。
前レスで少しふれました、各宗さらにいくつかの宗派に分かれているものがあり、
前述した真言宗はなんと十八の宗派に分かれるのだそう!
臨済宗は十五派、浄土真宗は十派、天台宗は三派に大きく分かれているようですし、日蓮宗は法華宗など数派の分派があるといいます。
大きな新宗教の一つ、創価学会も日蓮正宗の講社という位置づけとなりますし、日本にはひと口で仏教と言っても実にさまざまな宗派があることがわかります。
でも…でも、ですね。
仏教と一言で言っても、宗派がいろいろあるではないですか。
…ただ正直、そうは言っても珍道中レベルのお寺さんとの関わりでは宗派によっての違いをそうは実感することはありません。
まして私などは宗教とほぼ関わることなく生きてきたのでことさらにその違いを感じられないのかもしれませんが…。
『一隅を照らす』という石碑があったら【天台宗】、
『不許葷酒入山』という石碑、石塔があったら【曹洞宗】、
弘法大師さまの像があったら【真言宗】、
などなどの特徴的な違いはわかるようにはなっていますが、ね。
そうそう、その宗派について、実は中学校の歴史の授業で習っているんです。
高校ではさらに倫理社会の授業でも習ったはずなのです。
それを記憶しているかどうか、という個人差は生じるものではありますが。
……全部言えるか、と問われれば、夫のスパルタ教育で叩き込まれたので、たぶん…大丈夫、かな?
・真言宗(空海)
・天台宗(最澄)
・浄土宗(法然)
・曹洞宗(道元)
・臨済宗(栄西)
・日蓮宗(日蓮)
・浄土真宗(親鸞)
…ああ、日蓮宗の覚えやすいことといったら。
ちなみにその宗派別にみるお寺さんの数は、
1 浄土真宗系 21067寺
2 曹洞宗 14604寺
3 真言宗系 12613寺
4 浄土宗系 9141寺
5 日蓮宗系 6660寺
6 臨済宗系 5576寺
7 天台宗系 4005寺
となるのだそうです。
ただ、曹洞宗は○○派と細かくはわかれていませんので、1団体としては非常に大きな規模となっているといい、○○派というくくりではなく、大まかな系統でみてみると浄土真宗系統の寺院が圧倒的な数をしめているようであります。
そう、そしてこれだけではない、…たとえば真言宗には〝豊山派〟とか〝智山派〟とか、実に十八の宗派があるのだといいます。
また、創価学会や霊友会、立正佼成会などの大きな新宗教もあります。
うーん。
おばかな私などはもうすでについていけていません。
私はよくこちらで、自分は無宗教であると述べています。
檀那寺がないということも大きいです。親から引き継ぐ祭祀がない、ということは、自由でもあり、なんとも宙ぶらりんで不安でもあります。
仏壇もなければ、神棚もない。
聖書もなければ、クロスもない。
これはどこからどう見ても、正真正銘の無宗教でありましょう。
ただ…。
人はいつなんどき、寿命が訪れるかわからない。
檀那寺のある方は、どなたかお身内が亡くなられた際には、とりあえず檀那寺に連絡なさるでしょうし、神道の家の方は神社へ、キリスト教徒の方は教会へご連絡されるでしょう。
無宗教というのは、そんな時、宗教を突然選ぶことになることもある、ということなんです。
私が無宗教のまま死んだりとかすると、困るのは遺された家族。
とはいえ無宗教の葬儀というのも、宗教を問わない霊園というのもあるにはあります。
それはそれでいいような気もするのですよ。
自分が何一つしてこなかった檀家としての役割というものを、誰か…身内の誰かに負わせるのはどうにも気が重いことですし、ね。
ただ、世間一般から言えば極めて異色なことではあるでしょう。
ある程度は、ね。
そんな指針を立てておけたらいいなぁと思ってはいるんです。
それは終活のなかに確実に含まれることなのでしょうね。
仏教?
神道?
キリスト教?
うーん、そもそも日本って…神道?仏教?
日本の寺院数は約七万七千と言われています。これは文化庁の宗教年鑑によるものです。(令和元年のデータです)
あの、至る所にあるとも思われる、コンビニが五万六千前後(…令和二年のデータですみません)といい、実は圧倒的にお寺さんの方が多いという、衝撃の事実であります。
神社さんは約八万六千六百社。数的には神社さんの方がさらに多いのですが、その中には小さな祠までも含まれるとも言われます。
一方、お寺の僧侶の数は約三十四万人であるのに対し、神社の神職の数は、二万二千人ほどなのだといい、圧倒的に僧侶の方が多いようです。
葬儀などに参列しても、そのほとんどが仏式のものであることを考えると、仏教の国と言っても過言ではないのでしょうか。
今はもう、コロナ以前のようには御本堂のなかにまで上がっての参拝をされる方はあまりおられないようでした。
ですが、いつでも誰でもお焼香ができるように香炉の用意をしてくださっています。ありがたいことです。
読経の際は、焼香台の前ですとちょうど後ろが、外からの参拝の方の拝まれるところにあたりますので、少しずらした位置で。かつてちょうどこの辺りに、心の間…だったか、御仏にお話させていただく小さな空間を設けてくださっていました。
こちらのお寺さんは、参拝者が如何様に向き合おうと、それに応じられるようなセッティングをしてくださっているよう思います。
いつものお縁日の賑やかな境内で、それぞれが自分なりに考えたルーティンでまわりながら祈りを捧げられる方たち。
そう…、この日限地蔵さまのお縁日に詣でて、そのあと、御朱印を求めるのも目的の一つであったり、お縁日に出ている露天商の買い物を楽しみにされて来られている方もおられることでしょう。
お友達と連れ立ってお越しになるのが何よりの楽しみな方もおられるでしょう。
私のように御本堂で御仏と静かに向き合わせていただけるのをありがたく思って訪れる方もおられます。
毎月毎月縁日が開かれるお寺さんというのも、こちら桐生市ではこちらだけのようです。私の住まう辺りのお寺さんは大祭が年一〜二回開かれるか、施餓鬼会法要が営まれるくらいです。
お地蔵のお縁日の日には、観音院さんのある通りを一区画分まるまる車両通行止めとしてくださっていますので、露天商のお店をゆっくり覗いたり、土日や夏休みなどには、子どもたちが楽しそうに踊るように歩く姿も見られます。
こちらは昔からそうしたことで有名なお寺さんだったようですが、時代に合わせて進化し、進歩して、いつの世も開かれたお寺さんであり続ける、そんな努力をされているように思いました。
今日はお地蔵さまのお縁日。
群馬県桐生市にある【日限地蔵】さん、観音院さんへ参拝させていただきました。
観音院さんはここ近年、御朱印で有名となっておりますが、実はこちら、法要さえなければ御本堂にあがらせていただいて、心ゆくまで過ごさせていただける、数少ないお寺さんなのであります。
御朱印で名を馳せるようになってかなり経ちますが、ひと頃ほどは混雑していないように思われます。
かつてはこの二十四日のお縁日限定でお書きになっていた月替わりの、花の水彩画の描かれた御朱印を、あまりの混雑から限定枠をはずすようになられたからなのでしょう。
リピーターが多いのも頷けるクオリティーの高さです。
限定御朱印には基本こだわらないこと、それをポリシーとしたいと、最初に思った自分。その初心が揺らいで結局何度もお受けしてしまったのが、唯一、こちらの観音院さまでありました。
その限りなく私の物欲を誘惑する『風雅御朱印』を封印をし卒業してもう一年以上が経つ…かなぁ。
本日も御本堂にあがらせていただき、ご本尊さまである聖観音さまに向かい、読経し、手を合わせました。
なんと心の落ち着くことでしょう。
追記)
忌中に仏壇を閉じておくかどうか、宗派による考え方の違いがあるという記事を見つけましたので、記しておきます。
「手を合わせる対象がご本尊」という意識が強い宗派では「開けておく」という答えが100%であったといいます。
これは、【浄土真宗】【浄土宗】【日蓮宗】【日蓮正宗】などで、理由として、
故人は本尊の導きによって成仏される。葬儀も法要も本尊の前で執り行われる。
という考え方にもとづくもの。
同じ宗派にありながら、ご住職によって意見が分かれたのは、【真言宗】【曹洞宗】【臨済宗】であったそうです。
「閉じる」の理由として、
・参拝のとき誰もが故人に対して手を合わせるが、その時に本尊やご先祖にお尻を向けてしまう事があり失礼にあたる。
・葬儀の準備は騒々しく仏壇の前を横切ったりもする。本尊や先祖に失礼の無いように。
・葬儀は故人対して回向するため。
・日本では葬式は仏式で行うが、神棚をはじめ七五三や厄払い、初詣など神道も信仰している人が多く、仏教の作法だけを行うというのは難しい。
・地域の風習に倣うという考えから。
…実は臨終後の仏壇の開け閉めに関して、葬儀屋さんのホームページで、「閉じる」「閉じてください」と案内している方が圧倒的に多いのだそうです。当然、現場でもそう伝えられることでしょう。
葬儀に慣れているのは僧侶くらいですので、葬儀屋さんにそう言われたら、遺族は専門家である葬儀屋さんに従うでしょう。
で、結局どっちなの?と言われそうですが、
仏教の作法としては「仏壇は開けておく」が正解でいいようです。
特に、浄土真宗は迷信の類を一切認めていませんので、どの寺院に聞いても「開けてください」と仰るはずだと書かれていました。
でも、地域や親族の間で、仏壇の扉を『閉じる』風習がある場合、開けておくと『常識がない』と思われてしまう恐れもありますよね。
多くの葬儀屋さんが「閉じる」と教えていますので、それがすでに常識化してしまってもいることもあります。
やはりそこは最終的には、その家の家長、祭祀承継者が中心となり、その家の作法、ということになるのでしょうね。
えっ?
こんがらがる追記は要らない?
失礼しましたぁ。ε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘
神棚封じの期間を終えた後は、塩で身を清めた上で礼拝をした後に半紙を取り、以前と同じように榊やお米、塩や水、お酒等をお供えします。
貼られていた半紙は、一般の不用物と同じ処分でいいとのこと。
これはお札やお守りなどと違い、神社からお授けいただいたものでなく、一時的な目隠しの紙なので封じが終わったらただの紙と考えていいのだそうです。
…たしかに、舅が無造作に丸めてゴミ箱に捨てていた記憶があります。それが正しいと知っていたかどうかはわかりませんが。笑。
なお、神棚封じは地域によっては祖父母の場合は30日間、父母の場合は50日間というように神棚封じの期間が異なる場合があるといいます。それはその地域の慣習に従ってよいとのことでした。
仏教を信仰されている場合でも自宅に神棚がある際の神棚封じに関しては、あくまでも神道の考えにのっとることになります。
普段、榊やお米、塩やお水など神棚に供えていても、神棚封じの期間はそれらを供えてはいけないそうです。お供えをしない失礼よりも「気が枯れている(穢れている)」時に神棚に触れることのほうがよくないことだといいます。
ところで、神棚封じの半紙がはがれてしまったら?
再び貼り直すだけで問題ないようですが、貼り直す際は、やはりご遺族と無関係の第三者が行うのが望ましいそうです。ただし、難しいようであればご遺族が行っても構わないといいます。
半紙を貼り直す際も、塩で身を清めてから行うとのことであります。
そして。
仏壇はどうするのが正しいか。
神棚を扱う神道と、仏壇を扱う仏教では「死」に対する考え方が全く異なります。
死を穢れとしてとらえる神道とは異なり、仏教では死を穢れと捉えないので、仏壇を封じる必要はないのだといいます。いつも通りお参りをしていただいて問題ないとのことでありました。
うーん。
いくつかのサイトを見てみましたが、皆そのように書かれてはいました。
書かれてはいたのですが…、例えばその家だけのしきたりだとしても、ずっとそう受け継がれてきたものであれば、あくまでも家長、祭祀承継者が判断して決めるもの。
わが家は嫁ぎ先において、次男でありますので、それに従っての今後とはなります。
間違いは必ず正すものではないと、
その家独自のしきたりがあってもいいと思うのであります。
嫁ぎ先の宗派は曹洞宗。
前スレで述べたように、義祖母、義父が亡くなったとき、神棚には白い半紙を貼り付けて、仏壇の扉を閉ざしていました。
好奇心の強い私は「どうして?」と問うたのですが、「そういうもんなんだよ」で片付けられていました。
神さまに穢れが行かぬようというのは、なんとはなしに肌で感じたものなのですが、仏壇がどうにもわからない。
この機に疑問を解くべく、またまたGoogle先生にお聞きしました。
神道以外の宗教を信仰していても、自宅に神棚があるお宅は、ご自宅に神棚がある方のご家族にご不幸があると、神棚に半紙を貼り、封印します。
これを「神棚封じ」と言います。
神道では、古来より「死」は穢れととらえており、神様は穢れがあると力を失ってしまうと考えられています。このため、死という穢れで神様が力を失わないようにするために神棚封じが行われるのです。
ちなみに「穢れ」というと汚いとか不浄という悪いイメージを抱く人が多いと思います。
神道でいう穢れというのは、「気枯れ」とも書き、不浄というわけではなく「気が枯れて」いる状態のことを言います。
人間は悲しいことや辛いことがあると、活力や気力が失われます。特に、大切な方がお亡くなりになったということであれば、深い悲しみで気が沈み込むことになるでしょう。このように、気力が失われている状態を「気枯れ」ている=「穢れ」ていると呼ぶようになったとされています。
神棚封じを行うその時期は、ご家族が亡くなった時点で、そして、神棚封じを行う人はご遺族ではなく、死の穢れが及んでいない第三者が行うのだといいます。
一、 神棚の神様に挨拶をしてから、誰が亡くなったのかを伝えます。
ニ、神棚にお供えしてある御神酒や米や塩などのお供え物や榊を下げます。
三、神棚の扉をきちんと閉めてから、白い半紙などを使用して神棚が隠れるようにします。しめ縄がある場合は、しめ縄の上から半紙を貼ります。
神道を信仰していなくても、神棚が自宅にある場合、このような手順で神棚封じを行うということでありました。
そして、神棚を開く時期としては、神道においては、50日間が忌中の期間となります。
それに従い、50日間神棚を封印しておく必要があるということであります。
その他、神式ならではの儀式等。
【神棚封じ】
神棚や祖霊舎を閉じて、白い紙を貼る儀式。
【祝詞奏上(のりとそうじょう)】 神職が神さまに対する言葉を申し上げること。
【玉串奉奠(たまぐしほうてん)】 仏式の焼香に当たる行為。
榊(さかき)の木の枝に紙を付けた『玉串』を神さまに捧げる。
【清祓いの儀(きよはらいのぎ)】 神棚封じで貼った白い紙を、五十日祭当時または翌日にはがすこと。
【直来(なおらい)】
儀式の後に、神棚から供え物をおろし、出席者で会食すること。
【献饌(けんせん)】
故人のためにお供え物をお供えすること。
ところで。
私の嫁ぎ先では、亡くなった方が出ると神棚、そして扉を閉じた仏壇に、白い半紙を貼っていました。
そこでしかそんな状況を見たことがなく、他の仏式がどうなのか…。
近しい方の葬儀、ご自宅までお邪魔するような仲の方の葬儀でなければ、なかなか知ることのないことではあります。
…どうなのか、なぁ。
霊号は、諡(おくりな)または諡号(しごう)とも呼ばれ、霊璽に書き入れられます。
仏教の戒名に当たりますが、成仏するために仏弟子となる故人にふさわしい名前を寺院にお願いしてつけてもらう戒名とは異なり、生前の名前(フルネーム)をそのまま使います。
名前に続けて、成人男性なら『大人(うし)』成人女性なら『刀自(とじ)』といった年齢・性別に応じた『称名(たたえな)』をつけ、それに『命(みこと)』などの尊称を続けるのだといいます。
霊璽の裏面には帰幽日(亡くなった日)を書き入れ、それに加え、故人の生誕日や享年を書き入れる場合もあるようです。
その霊璽、最初は二体用意されるのだといいます。そのうち一つは納骨の際一緒に墓に納めるのだといいます。
…納骨するところって、位牌…ではなく霊璽を納められるほど広いものだったかどうか…。
神道のお墓を建立する際はそういったことも考慮した造りなのでしょうか。
ちなみに、神社には基本お墓は存在しませんので、共同墓地などの宗教を問わない墓地になるそうです。
姉の元夫さんのお墓は、本家の地所内にあるといいます。
うーん、勉強になりましたぁ。
問題は…私の記憶力です。
その祖霊舎に祀られるのが【霊璽(れいじ)】という、仏教でいうところの位牌に近い神具です。
神道式の葬儀を行う際に、亡くなった人の御霊の宿る依り代なのだといいます。
霊璽以外に「御霊代(みたましろ)」「霊代(たましろ)」などの呼び方もあるといいます。
神道と仏教とでは亡くなった人に対する考え方が異なるため、正確なたとえではありませんが、イメージとしては仏教でいうところの位牌に当たり、形状も位牌とよく似ているといいます。
仏教の位牌には、黒檀や紫檀の色味・質感をそのまま活かした唐木位牌もありますが、一般的なのは漆(または漆調の塗料)で塗られた「塗り位牌」。
一方、霊璽は上から何も塗らない白木製です。桧(ヒノキ)がもっともよく使われ、そのほか檜葉(ヒバ)、栓(セン)なども一般的なようです。
位牌は仏壇にそのまま安置しますが、霊璽には本体と同じ白木で作られた「鞘」と呼ばれるカバーか、金襴で作られた「錦覆(にしきおおい)」をかぶせます。
神聖な存在である祖霊は、目に触れないようにすべきと考えられているためだといいます。
この覆いは、仏教の法要に当たる例祭や、お盆に当たる中元祭(盆祭)で外されることもありますが、基本的には常にかぶせたままとするのだそうです。
また、霊璽の前側には鏡が必要です。自らの心を省みる、心眼をもって神様に向き合う、悪霊をはね返すなどの理由からといわれています。
錦覆には前面に鏡がつけられているものも多くあるようです。白木製の鞘のように鏡がつけられていないタイプの覆いであれば、別途用意した鏡を霊璽の前に置くようにすることとなります。
故人の御霊を霊璽へと移す儀式として【遷霊祭】があるといいます。
遷霊祭は、仏教の通夜に当たる「通夜祭」の中で行われるのが通例とのことで、霊璽はこの遷霊祭のタイミングに必要となるとのことで、つまり、かなり早い段階で準備しなくてはなりません。
神葬祭(神式の葬儀)を執り行う神職が用意します。
仏教では一旦、白木製の仮位牌が用意され、四十九日の法要にて本位牌へと切り替えますが、霊璽は遷霊祭で御霊を移したものをそのまま祀るのが一般的なのだそうです。
霊璽へ書き入れられるのを【霊号】、【諡(おくりな)】または【諡号(しごう)】とも呼ばれます。
神式の仏壇にあたるものを【祖霊舎】というようです。
私は一度だけその祖霊舎に手を合わさせていただいたことがありますが、一見ごくごく普通のお仏壇に見え、なので手を合わせるまでそのお宅が神道=神式であることに気づかなかったくらいです。
実際にはお祀りの仕方が異なっているようですが、しげしげと拝見するものではないのでよくはわからなかったのですが、お線香ではなく、お米を捧げるのだと言われ、いろいろとびっくりいたしました。
神道では亡くなられた方はその家の守護神となり家を守るのだといいます。
その祖霊舎に祀られた方は優しく可愛らしい奥さまでありました。生前馴れ初めなどもお話しくださいました。
毎日毎日奥さまの病床を訪ねる旦那さまでありました。
ある日偶然お会いして、是非にとお声をかけていただき、初めてのお宅に上がり込んでのことでした。
「なんかさあ、寂しくって、まだここにいるんだよ」と、私が合掌の手を解いたあと、その祖霊舎があるお部屋と別のお部屋の方を見ながら、ふうっとため息をつくようにおっしゃいました。
「あっちで一緒に寝てるんだ」と。
そんなにまで結びつきの強かったご夫婦には、その家に守護神となって亡くなった方の霊がいる、という考え方の神道はぴったりだなぁと思いました。
いまはどうしておられるか。
『一年祭』
仏式の年忌法要に相当。
神官を招いて祭詞を奏上してもらう
親族や友人・知人を招くことが多い。
『三年祭』
神官を招いて祭詞を奏上してもらう
親族や友人・知人を招くことが多い
『五年祭』
神官を招いて祭詞を奏上してもらう。身内だけで行うことが多い。
『十年祭』
身内だけで行うことが一般的である。
これ以降十年ごとに百年祭まであるが『五十年祭』で弔い上げとして終了することが多い。
身内だけで行うことが一般的。
ところで…仏式では一周忌は命日から一年後、三回忌は二年後に執り行われますよね。神式では三年後が三年祭。
まぁ、仏式の方が特殊なわけですが、身についてしまっているのでそこは注意が必要なようです。
さて。実はここまでは案内通りに参列すればよいことで。
神道、神式ならではの作法や儀式があり、神式でのNG用語も存在するいたします。
これこそが、神式の葬儀等に参列する際のドキドキのもとであります。
神式には、他の宗教にはない死生観や故人に対する考え方があります。【他界】という言葉は、故人がこの世で神となる考え方を持つ神式では使わないものとなるようです。
また、【冥福】【成仏】【供養】【往生】なども仏教に関する言葉のためNG。
…そもそも、葬儀に参列した際、仏式であってもどうお言葉をお掛けしたものかしどろもどろになりがちだというのに…さすがにもういい歳をしております私、ついつい口にしてしまわないように気を付けなくてはなりません。
◎NG用語 言い換えの例
『他界』=ご逝去
『ご冥福をお祈りします』
例)
御霊のご平安をお祈りいたします。
安らかにご永眠されますことをお祈りいたします。
葬儀につきものとも思われる数珠も神式の儀式には持参しません。ご自身が仏教徒であったとしても、神式の儀式に持っていくのは避けたほうがよいようです。
香典は仏教の言葉で、神式の香典にあたるものは、【御玉串料(おたまぐしりょう)】と呼ぶのが一般的です。【御榊料】などともいいます。
さらに注意しておきたい違いもあります。
【不祝儀袋】『無地』
蓮の花が書かれているものは、仏式なので使えない。
【水引】『白黒、双銀の水引(銀結び切り)』
仏式と基本的に同じ。
【表書き】〝御玉串料〟〝御神前〟〝御霊前〟〝御榊料〟〝御弔料〟などと書き、氏名は仏式同様記入する。
神式(神道)にも仏教の法要に当たる儀式があります。しかし今日本では神式が少ないため、経験のない方も多いのではないでしょうか。少なくとも私はそうなのですが…。
神式の法要とは?
そもそも法要という言葉は仏教用語であり、神式(神道)では本来使われないそうです。
神式で法要に当たる儀式は、
【霊祭(れいさい)】と【式年祭(しきねんさい)】です。
いずれも、故人の魂を祭るために執り行われます。神式の儀式は、自宅または墓前、葬祭会場などで行うのが一般的です。この点が寺院で法要を行う仏式との大きな違いでしょう。
神式では〝故人が氏神となって子孫を守る〟という死生観があるため、家主体で儀式を行います。加えて、死を〝忌むべきもの〟とする考え方もあって、神社で行うことは基本的にありません。
神式の儀式は、かつては墓前で執り行われていましたが、現在は自宅や葬祭会場で行うのが一般的になっているようです。
【霊祭】は、狭義の意味では命日から一年未満に執り行われる儀式の総称だといいます。
霊祭は、御霊祭(みたままつり)、墓前祭、祖霊祭とも呼ばれるといいます。
『墓前祭』と呼ばれているのは、神式では火葬後すぐに遺骨を墓地に埋葬するのが一般的であるから、なのだそうです。
亡くなった次の日に行われる【翌日祭(よくじつさい)】仏式の初七日法要に当たる【十日祭】、四十九日法要に当たる【五十日祭】などがあるといいます。
その後、命日から一年以上経過したのち、執り行われる儀式は【式年祭】といわれるのだそうです。
広義の意味で〝式年祭〟は、霊祭に含まれる儀式のひとつなのだそうです。
また、神社で一定の周期で実施される祭祀のことも式年祭と呼ばれています。
『翌日祭』
葬式を無事に執り行ったことを報告する儀式。
『十日祭』
仏式の初七日に相当。神職を招いて儀式を行う。
『二十日祭』『三十日祭』『四十日祭』
家族のみで行うか、省略することが一般的。
『五十日祭』
仏式の四十九日に相当し、忌明けになる重要な儀式。
神職を招き、〝神棚〟・〝祖霊舎〟の白い紙をはがす【清祓いの儀】という儀式を執り行う。さらには【合祀祭】という故人を祖霊舎に移す儀
式をあわせて執り行う。
これ以降は家の神々として祖霊と合祀される。
【百日祭(ひゃくにちさい)
家族のみで行うか、省略されることが一般的。
お付き合いをしていただいている方の宗教についてなどはあまり知る機会はないかと思います。
それを知る機会が葬儀ということも多々ありましょう。
私は神式のお宅を二軒しか知らず、その内の一軒が姉の嫁ぎ先でありました。
姉は離婚しておりますので、その元、となります嫁ぎ先で不幸があろうとも、もはや私が参列することもないのではありますが
…実はこの一月に姉の元夫が急逝いたしまして、神式の葬儀のあとの儀式等について、姉より聴く機会がありましたので記しておこうと思います。
そして、そのキーワードで検索すると【憾満親地蔵御首】というものが出てきたのです。
その憾満親地蔵さんこそが、
『明治三十五年(1902)の暴風雨でおきた大谷川の氾濫で、【浄光寺】さんの対岸にある憾満ヶ淵で並び地蔵や不動明王像、茶屋などが流出した。その折、並び地蔵の列座の奥に置かれていた親地蔵二体も流された。
そのうちの一体の御首が川床に埋没していたのを地元の人が見つけ、浄光寺に安置した』
とあるではないですか!
やはり私の記憶も、ごく稀にはあっていることもあるんだ♡
添えられた写真も、頭だけおまつりされています。
そして。その【浄光寺】さんこそが、私が心引かれた、帰り道に通りかかったお寺さんであったのです。
やっぱり女の感は当たるんだってば!
もう一体は、今市の小倉町、例幣使・御成両街道の分岐点に、追分地蔵として安置されていると書かれています。
よしっ!
日光だ!♡
二年も行けずに我慢していたおばさんの日光愛に再び灯が灯りました。
問題は、日光までの道。
道は覚えているんです。
運転技術がいまいち、なんです。
日光だけに、〝今市〟。
ああ、おばさんはもうノリノリです。
いつかは行きたいと思っておりましたものの、今回は朝思い立って、急遽日光を参拝することとなり、さらには並び地蔵さまをお参りすることになったのも現地でのこと。
かなり前に調べておいたことなので、すっかり抜け落ちておりました。
並び地蔵さまを参拝して…。
何か違う?
何かが足りない。
大きなお地蔵さまは、頭だけとなってしまった記憶が私の中にはあるのです。
オリエンテーリング…かどうかはわからないものの、学生と思しき人たちがピンポイントでまわっていた、〝少し大きな第一地蔵〟さまは、お首がとれてしまったような様子は一切ありません。
勘違い?記憶ちがい?
…いやいや、そのどちらでもないと言い切れるほど記憶しております。
大谷川の憾満が淵にあるお寺さんであること、お寺ごと、数多くの石仏が流されたこと、みんな一致しています。
うーん…。
頭だけになられた大きなお地蔵さまという記憶は、そしてその頭だけとなってしまわれたお地蔵さまは?
もやもやしながらナビに自宅を入力して、夫の運転で帰路に着きました。
その帰り道となった細い道沿いに、お寺さんがありました。
なんとなく心引かれて、寄ってほしいなあ、と思いながら、
「お寺さんがあるみたい」「お寺さんがあるよ」とだけ。
細い道で急に言われ、しかも本来の妻ならあり得ないほど控えめな物言いでは、よもや寄りたいのだとは思いもせず、
ふーん、とだけ応えた夫。
そうなんです。
はっきり述べても通じないことがあるくらい、そういった微妙な心の動きや控えめに願いを述べるとかいう行動に、たいそう鈍感なのが、我が夫、なのであります。
そんなことより夫は田母沢の御用邸の真横に通じていたことの方が大きなことであったようで、田母沢の御用邸のことをやたらと熱く語っておりました。
自宅に戻って…。
どうしてもどうしても気になっていた大きな、頭だけになってしまったお地蔵さまについて調べてみました。
〝化け地蔵〟〝慈雲寺〟などと検索してもhitしてきません。
うーん。
ところが!
親地蔵というキーワードがいきなり出てまいりました。
親地蔵さま?
この【慈雲寺】さん。
御本堂があるのですが、足元のぬかるみに気を取られている間に通り過ぎてしまうくらいに、小さな、そしてあまり御本堂らしさのない、建物であります。
参道の脇にひっそりと建っています。
1654(承応三)年に天海僧正の四人の弟子の一人、『晃海僧正』によって建立されました。1徳川家綱公の時代であります。
当時の建物は1902(明治35)年の大洪水で流されてしまい、現在の本堂は1973(昭和48)年に輪王寺さんにより再建されたものであります。
ご本尊さまは阿弥陀如来さま。
毎年七月に輪王寺さんにより、『盂蘭盆会』が営まれるようです。
閑話休題。
その、第一地蔵さま。
実はあの対岸におられたという不動明王さまが立っていたという大岩に刻まれた梵字『かんまん』の元となる字を書いたという、能書家の山順僧正が納めたお地蔵さまであるといいます。
弘法大師の投げ筆とは呼ばれてあるようですが、実際にはこちらを創建した晃海大僧正が能書家の山順僧正の字を彫らせたと伝えられているようです。
その山順僧正が納めたというお地蔵さまには胸の部分に文字が彫られています。
この胸の文字を刻んだのは石工でしょうし、文字も私がすぐに読み取れるほど明確に残っているわけではありません。
また、他にも胸の部分に文字の刻まれたお地蔵さまはおられましたしたし。かの若者たちにどんな課題が課せられていたのか…少し知りたい私であります。
並び地蔵さまは、【慈眼大師天海】さまの弟子約百名が、『過去万霊、自己菩提』のために寄進されたもの。
上流の列座には親地蔵と呼ばれる大きな地蔵さまがおられたといいます。
その台座が空いていてそこに代わりの石が置かれていたのか、それともその台座とは別に親地蔵さまがおられたのかは定かではありません。
なにせ、百名とも言われる僧侶がそれぞれお地蔵さまを納めたとされているので、現在数が約七十ということですので。
えっ?、数えてみなかったのか?、ですか。
もちろん。
ありがたいお地蔵さまを数えるなんて畏れ多い。
…どうせ数えているうちにわからなくなるだろうことは明白だったことですし、ね。
行きも帰りも数えていたら、せっかくの石地蔵さまを鑑賞させていただくこともできなくなってしまいます。
そんなわけで…まぁ、化けるかどうかは確認はしなかったという。…断じて怖かったからではありません。強いていうなら数すらまともに数えられない自分と向き合うのは怖かったですが、ね。
親地蔵とかって呼ばれた、一際大きなお地蔵さまはこちらにはおられないのが現状であります。
ちなみに…。若者たちがいなくなった後にまじまじと対岸の大岩を眺めてみましたが、『かんまん』と書かれているという梵字は二人とも見つけることができませんでした。
〝霊庇閣〟に一番近いところに、やや大きめのお地蔵さまがおられ、このお地蔵さまには香炉が設けられています。
…入り口を護るお地蔵さまだから?
実は私、あの若者たちから自らソーシャルディスタンスを取るべく、最初の方に並んでおられるお地蔵さまの前を軽く拝して、あえて先に進んで先におられるお地蔵さまから拝するようにしておりました。
実際、想像通りその若者たちはその第一地蔵さまを取り囲み、まさに写真撮影会!
芸人さん…とお呼びしていいのかわかりませんが、とあるお方の言葉を借りれば、まさに「どんだけ〜っ」、というくらい、長い時間をかけてスマホを向けておりました。
…もしかしたら大学か何かの歴史研究サークルかなにかでしょうか?
驚くべきは、その若者たち、私が他のお地蔵さまに夢中になっている間に忽然と消えておりましたこと。
ええ、第一地蔵さまの写真撮影のみで、見事なまで並んでおられる並び地蔵さま=化け地蔵さまには目もくれず、立ち去って行ったのです。
ついでに(これはこれで失礼ではありますか)見ようとすることなど一切考えることなく、さっさと撤収!
???? ?!
…なんなんだぁぁ?
結局、その後も同じ年頃の女子二人がヒールにフワフワのスカートで訪れ、やはり関心なげに訪れたことから推察するに、もしやその年頃の人物が通うスクール(大学とか専門学校とか)のオリエンテーリングだったのでしょうか。
まあ私とて、そんな時分には神社仏閣やその美術性や歴史には興味はあったものの、宗教的には一切関係なく生きてきた人間ですし、学校のオリエンテーリングならさまありましょう。
彼らがこの数十年後に、石仏研究家になるやもしれませんし、それこそ出家されるかもしれません。
若者の未来は果てしなく広がる可能性を持っているのです。
こういったその可能性への糸口作りは先人、先を歩く者として大切なものであるのだと思うのです。
…まぁ、他人との関わり方は早急に学ぶべきものではありましょうが。ね。
【化け地蔵】の対岸、少し上流には『弘法の投筆』と呼ばれる巨岩があり、その絶壁には、弘法大師が筆を投げ「かんまん」の梵字を刻んだ、と言われているのだそうです。
それを見ようとしていたところそんな災難に見舞われた夫はあきらめきれなかったようで、そののち化け地蔵…並び地蔵さまたち全てにお会いしたのち、いま一度霊庇閣跡に立って目をこらしていました。
かつてはこの岩の上に二メートル余りの不動明王の石像があったと言われています。
この霊庇閣跡に四阿風の建物を再建されたという輪王寺さん、このお不動さまも再建されませんか?…是非。
まぁ、そんな修行の後…(夫はためらいとあきらめと許し、私は怒りと許し…などと言ったら、叱られるか笑われますよね、すみません。)少し進むと、そこはもう並び地蔵さまがおられるところとなります。
圧巻! です。
すぐに怒りなど消えます(まだ怒っていたんじゃない、笑)。
見事に緩やかなカーブを描いて、美しく並んでおられるお地蔵さま。
柔らかな春の陽射しをうけ、苔のみどりも、帽子とお掛けの赤い色も、なんともいえない幻想的な空間を創り出しています。
その数、七十、ともいわれています。
そして、そのお一方、お一方がみな、大きさもお顔も異なっているのであります。
石仏さま好きの私にはたまらない空間でありました。
まるで苔が寒い中おすわりになられているお地蔵さまのひざ掛けのようにすら見えます。なかには衣となられているお地蔵さまもおられましたが。
ただ。
惜しいかなこの日、雪解け水でほぼほぼ水溜りとなっている足元にかなり気をつけながら歩く必要がありまして、お地蔵さまのおそばまで近寄れないところもありました。
大きさは異なるものの、元あった台座は流されなかったようで。
下流のお地蔵さまはもしかしたら流されずに残れた方もおられるのかもしれません。ほぼ原形のまま祀られたお地蔵さまも何体もおられます。
なかにはお顔のないお地蔵さまもおられるのではありますが…。
上流に向かうほどその被害が大きかったからなのか、おしまいの方の台座には石が積まれそれにお掛けと帽子とをつけただけの台座もいくつかありました。
途中、お地蔵さまではなく歴代住職さまのお墓であろうと思われる石柱も含まれていました。
…この辺りのカウントで数がかわるのではないでしょうか?
やがて見えてきたのは一見、鐘楼かと思われた四阿(あずまや)のような建物。二メートル強四方、といったところでしょうか。小さなものであります。
実はこれが【霊庇閣(れいひかく)】と呼ばれるものの名残でありました。
承応三(1654)年の【慈雲寺】創建の折に晃海大僧正が建立したもので、四阿造りの護摩壇であったようです。
なるほど、鐘楼にしては鐘を吊っていたはずの金具もありませんし、かなり低い造りです。
ここも明治の大雨で流されておりますので再建されたものなので形だけ造られたものとも考えられはしましたが、その中央に何やら不思議な穴の開いたコンクリート製を思わせるの礎がある。
見れば見るほど不思議な建物でありました。
その一見コンクリート製とも思われた礎と思えたものが護摩炉、護摩壇跡であるのだと夫が教えてくれました。
対岸の不動明王に向かって天下泰平を祈り護摩供養を行なっていたのだといいます。
その不動明王さまも流されてしまい、今はその不動明王さまが立っていたという岩を眺めるしかないのですが、その岩にどうやら『かんまん』という梵字が彫られているようで、夫は目をこらしてその文字が見えるかどうかを確認していました。
その護摩壇跡に夫が立っているまさにその時、七、八名の二十代前半ほどの男女の集団がやってきて、声もかけず夫のいる護摩壇跡に一緒に入りこみました。一人はマスクもしていない状態で、二メートル四方の四阿はあっという間に過密な状態です。
夫はまるで空気のような扱いで、自分たちだけの会話を展開して、そこから立ち去ることもできないほどの状態です。
女子がほとんどですので、変に動くと身体が密着してしまうので、動くことも躊躇わられているような状況のようです。
(今どきの若い者は礼儀もなっていなければソーシャルディスタンスもお構いなしなんだな!)と内心怒りまくっていたのは、もちろん私。おばさんそのものであります。
とはいえ、こんな無礼な集団は正直見たことは無く、今どきの若者に失礼だなと内心他の若者にお詫びをしていたくらいで。
そのうち、さほど見る気のない女子一、二名がそこを退いたので、ようやく夫は這々の体(ほうほうのてい)でそこを抜け出すことができました。
どうやらその若者たちはそこが〝霊庇閣〟跡であることを最初から知っていた様子です。
【化け地蔵】
…などというと、少し怖いイメージを抱いてしまいますかね。
前回は歩くやきもち地蔵さんで、今回は化け地蔵さん?
オカルトを語るにはまだ少し時期が早いのでは?
と思われますでしょうか。
いやいや決してオカルトなどではありません。
この〝化け地蔵〟と呼ばれるお地蔵さまは、一体ではなく、かつて日光山を再興した僧侶天海の弟子たちが、歴代僧侶の菩提のために刻んだという石仏群であるといい、もともとは百体あったと言われ、現在残っているのは七十体ほどと言われています。
本来は〝並び地蔵〟さまと呼ばれるもののようです。
この何体も並ぶお地蔵さま。その数を数えるたびに数が違うと言われ、いつしかそう呼ばれるようになったようです。
こちらは世界遺産日光二社一寺からほど近いところ、栃木県日光市であります。
かつて、大谷川に沿うこの地に【慈雲寺】というお寺さんがこの地にあったのですが、明治30年代に大雨によって大谷川が氾濫し、その大水で跡形もなく流されてしまったのだといいます。
やがて氾濫がおさまった川の流れのなかに残った住職の墓石や石地蔵さまを拾っては並べていったとか。
流された山門も拾い集められて復元され、再建されはしましたが廃寺となってしまったようです。
慈雲寺は、1654年、【晃海(こうかい)大僧正】によって建立されたといわれ、『霊庇閣』『不動明王の石像』などがあったといいます。
この大谷川の流れのうちに【憾満ヶ淵(かんまんがぶち)】と呼ばれる淵があり、男体山から噴出した溶岩によってできていて、古くから不動明王が現れる霊地と言われていたのだそうです。
川の流れる音が、まるで不動明王の真言を唱えるかのように聞こえるので、
晃海大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り 憾満(かんまん)ヶ淵と名付けたと言われているといいます。
まずは車を停め、公園横の整備された小道を歩いてまいります。
気持ちの良い空気の澄んだ小道です。…ただしこの日は雪解け水が大きなぬかるみをあちこちに作っていて、足元に関しては、うーんΣ(-᷅_-᷄๑)。
道の端に大きな相輪塔があります。
が。足元に気を取られて何かいろいろ見落としそうです。
山門が見えてまいりました。
川に流されたものを拾い集めて再建したという山門は、庵にかかるほどの小さな門でありました。
ふと目が覚め、かすかな水音に気づいて耳をすましました。
…ああ、雨のようです。
思えば大きな災害のあとには必ずといっていいほど、雨が降っている気がいたします。今回のものに関していえば、雨の予報は元々出ていたものであった…それはたしかなのですが、被災した地にあってはどれだけの追い討ちか。
この珍道中、長く綴らせていただくうちに、珍道中録だけにとどまらず、私の日記とも覚え書きともなってきていまして、(それはそれで読んでくださる方には大変なご迷惑なのでしょうが)先ほど見かえしたところ、昨年の二月にも大きな地震があったことを綴っていました。そしてやはりそのあと間を置かずして雨が降ったことも記されておりました。
何故なのでしょうね。
地震だけでなく、大きな災害のあとに雨が続けて降るというのは…。
こんな時、いつも心によぎるのは、〝八大龍王 雨やめたまえ〟
という実朝の歌の一部。
民の嘆きなり
八大龍王
雨やめたまえ
さて、この次に向かうのは、やきもち地蔵さまのお相手の、日限地蔵さまのおられる【深諦寺】さん。
…まぁ当然、でしょう?
来た道とは反対に向かって走ると細い道となります。…ええっ?大丈夫?
大丈夫といえば大丈夫で、間違いなく深諦寺さんへ到着いたしました。問題は細い道な上、駐車場がないことでありました。
なんとか少し膨らんだ路肩のところへ車を停めて、…えっとぉー。
お寺はどこ?
小さな建物がぽつんと一つ。お墓はもちろん、ほとんどお寺さんを感じさせる境内ではありません。
ここは…館林市木戸町の外れ、足利市との境を流れる矢場川のほとりとなります。
あ、あちらの方に小さな門があります。行ってみると、それは庵に建てられらような小さな小さな門です。
深諦寺、と門柱に書かれた文字と、時宗と書かれた文字。
そうですか…。
かつては関東十刹に数えられる程の寺だったという深諦寺さんは小さな小さな平家の一軒家のようにしか見えません。
『日限地蔵』が有名で、縁日には露天が出、たいそう賑わったのと書かれていたし、その繁盛ぶりに〝やきもち〟を妬いて常楽寺さんのお地蔵さまは夜な夜なここまで歩いてこられた、というのに…。
だが、太平洋戦争前後に無住の寺となり、さらには御本尊の仏様が盗まれてしまったとかで、今は縁日もやめてしまったのだといいます。
門柱を入ったところに何体かの石仏像がありました。おそらく宝暦年間(1750年代)以後に廃寺になった東光寺(深諦寺の隣にあったらしいが、現在はその面影もない)の石仏ということが、刻まれた文字から知ることが出来て興味深かったです。
それにしても、なんとも物悲しい光景でしょう。
うーん。
是非とも再拝し、ご住職にお会いしてお話をお聞きしたいとブログを読んで思いました。
いろいろお聞きしたいこともありますし。
うーん、不動明王さまの護摩祈願も参列したいし、火渡りの儀式にも参加したい。
とりあえず、蔓延防止等重点措置がとけてから。行けるかな?
ご住職のブログは2010年から綴られた、内容も多岐にわたるもので大変ためになり、そしておもしろいものでありました。
とは申しておりますが、まだまだ目を通せてはいないのですが、ね。
ミクルさんとは違ってそのブログには栞機能がないので、あれ、あの記事はどこだったかな、とか思ってもその膨大な量のブログ、なかなかそこにたどり着けやしないのです。
こちらのお寺さんは弘安三(1280)年の創建とも言われているようですが、それ以前に十二世の住持がおられるのが確認されているようで、御本堂にもそれ以前の上人さまの等身大像がまつられているとのことで、
現在のご住職が四十世と歴史あるお寺さんのようです。
その長い歴史の中では、下野鶏足寺の末寺であったこともあったようです。
また、現在は群馬県館林市木戸町でありますが、もともとは栃木県足利荘木戸郷で、足利四カ壇林の一寺で十八カ寺の本寺であったようです。
現在のご住職の御祖父さまにあたられる泰圭和尚さまは、明治の廃仏以来無住の寺であった常楽寺住職として昭和八年に任命され 、昭和十三年遷化されたといいます。
世寿38歳。在任わずかに5年であったといいます。
その五年の御在任中、それまで判然としなかった歴代住職の調査をおこない、過去帳を作成されたのだそうです。
さらには涅槃図を作成されたのもこの方であられたといい、大きな賽銭箱を作成されたのもこの方であったようで、精力的に布教活動し寺門興隆をはかっておられた方であったようです。
涅槃図も涅槃会(常楽会)を行うために用意したものであったことでしょう。
それが執り行うことができたかどうか…。
お孫さんである現ご住職は涅槃会を執り行うたびにおじいさまを偲んでおられるようです。
長い歴史はあるものの、無住の時などもあり、伝えられていないことがたくさんあるようです。
なので、現ご住職も推測されることも多々あるようです。
ご住職はかつては阿弥陀堂が御本堂で、今本堂として使っているところは僧堂であったのではないかと推測されてもいました。
山門から建つ位置からも、本堂の大きさからもそう考えても不思議ではないように思われます。
まして阿弥陀如来さまがご本尊であられた過去からも、充分考えられることでしょう。
【常楽寺】さんのフルネームは、
『光明山 無量寿坊 自在院 常楽寺』といいます。
御本尊は【不動明王】さま。『願かけ不動尊』とお寺さんは看板を掲げて(実際にそういう看板があるようです)おられますが、最近、『ぽっくり不動』と呼ばれるようになっているようです。
御本堂の中にそのような貼り紙があり知ったのでありますが、その理由についてはお寺さんにお聞きする機会がなかったので、次回再拝の折にお聞きできたら、と思っております。
元禄時代に不動明王が本尊になったと伝えられているといいます。
ん?本尊になった?
それ以前は違ったので?
それについてはお寺さんのブログに書かれていました。
もとの本尊はなんだったのか…それは先にあげたお寺さんの名前にあらわれているのだというのです。
「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」
阿弥陀如来さまを主に信仰する浄土教の言葉です。(ちなみにこちらは真言宗豊山派のお寺さんですが)
『無量寿坊』の無量寿(むりょうじゅ)は【無量寿如来】で〝阿弥陀〟の漢訳名なのだそうです。
『自在院』の〝自在〟は「観自在王如来(かんじざいおうにょらい)】で、やはり阿弥陀如来さまの別名。
こういったところから、常楽寺さんは阿弥陀如来さまと深い関係の寺であることがわかるのだといいます。
「てか、もろに阿弥陀様だってわかる名前です」…とはご住職のお言葉そのままです笑。
「阿弥陀如来という呼び名は梵語のミターバヤの音写で無量光仏。
また阿弥陀大呪で十回でてくるアムリタは甘露の意味です。
だから甘露王如来ともいいます。」
(…この辺りはもうすでに理解の範疇を超えていたため、そのまま添付しております)
そんな、元禄以前はご本尊さまであられたという常楽寺さんの阿弥陀如来さまは金色に輝く、等身大のお姿をされておられました。
無防備に開け放たれた扉で、思わずドッキリしてしまった小心者の私。
…昨年、御仏像が盗まれてしまったお寺さんがあったことが記憶に新しく、こんなに無防備でいいんだろうかと思ってしまったというわけでありまして。
とはいえ開け放たれた扉自体は本当にありがたく、いつものように御仏像が恥ずかしがるぐらい、そのお堂の前にいたのは言うまでもなく…。
山門をくぐった正面に、茅葺き屋根のお堂がそびえたっています。お堂自体はさほど大きなものではないのですが、茅葺き屋根が重厚なため、そびえ立つ感がすごいのです。
ふらふらとこちらへ向かいたくなる気持ちをぐっと堪えて、体の向きをぐっと九十度右に向け、ご本堂へと向かいます。
ご本堂の方へ身体を向けるとひだりてに背の高い鐘楼がそびえています。
長い棒が鐘楼のそばに立ち、五色の吹流しが真っ青な空に真横にたなびいています。
ご本堂は横に長い、大きく古そうな建物です。『右にお開けください』と貼り紙があります。
おお、入ってもいいんだ!
中も横に長い土間となっています。真正面に大きなお賽銭箱か置かれて、そこに御朱印が何種類か置かれています。こちらはお不動さま(関東不動明王霊場)と千手観音さま(新上州観音霊場)、関東百八地蔵尊の三カ所の霊場となっています。
まずはご本尊さまであられます不動明王さまはじめ、御内陣におられる御仏に合掌いたします。
さほどは大きくないお不動さまが真正面にお祀りされておられます。左右に不動明王さまの迫力ある絵が貼られております。
多くの御仏の御像が不動明王の前に並ばれ、その前にたくさんの仏具が置かれており、護摩壇がきられているように見えます。
立派な彫刻がたくさんめぐらされています。
ご本堂内は自然光であり、奥にある御内陣はほのかに灯りが灯されてはいますが、あくまで暗く、よくは拝観はできませんでした。
自由に入れるご本堂で、御朱印もお書き置きがご用意されており、志納金はお賽銭箱に納めることとなっている、初めてのパターンで、御由緒とかをお聴きしに庫裏にうかがう理由が何一つ見出せないのでした。
まぁ、それでもコロナ禍でさえなければ、エックスキューズミーおばさんは庫裏へと向かったのでしょうが、今回は諦めた次第で。
御守りまでもがセルフでの授与、これで庫裏へ向かう勇気はさすがにありません。
ご本堂をあとに、先ほどの茅葺き屋根のお堂へと向かいました。
こちらは江戸時代中期の享保二年(1717年)に第二十二世恵海和尚が建立したという阿弥陀堂でありました。
常楽寺さんの、通称【やきもち地蔵】さんは享保十一(1726)年像立の地蔵菩薩さま。
台座があるとはいえ見上げるほどの大きな半跏座像でありました。
発願主は、こちらの第二十二世恵海上人とのことで、台座には『仏説延命経』の『枢要文言』を刻してあるのだといいます。ただ、覆屋を取り囲む木材のガードであまり良くは見えないのですが…。
代受苦の心を表す〝すまぬ〟という反省、〝ありがたい〟という報恩感謝、そして〝きのどく〟という真実慈悲。この苦悶代受の大悲大慈こそはまさにお地蔵さんの御心であると説かれています。
そんなお地蔵さまが何故、『やきもち地蔵さん』などと呼ばれるようになったのか。
伝説によると、ここから五百メートルほど北にある【深諦寺】さんの日限地蔵さま(こちらを女地蔵と呼んだといいます)が縁日で大変盛っていることに、こちらの男地蔵さまがやきもちをやかれ、そのうち、夜になると矢場川の土手伝いに女地蔵さまに会いに行くようになったという。
それに困った住職や寺の世話人が男地蔵さまの周囲に頑丈な柵を作り、さらには首の下に鎹(かすがい)を打って、外出を阻止したという。
とまぁ、その伝説はとにかく、実際に、こちらのお地蔵さまは覆屋に入られ、さらには斜めに打たれた木材で、まさにお地蔵さまがお出になられないよう阻止するかのようなっているのです。
このやきもち地蔵さまのご利益は、妄想に纏われた老若男女が、やきもとをやいたり、やかれたりのなまめかしい苦悩を「やきもち地蔵」の方便慈悲によって霧散霧消するというもので。
つまり、煩悩に左右された男女間のやきもちを解消してくれるというものであるといいます。
願が叶ったら、お餅を焼いてお地蔵さんに供物とし、お礼参りをするのが習わしとなっているといい、今でも遠方からも焼きもちをあげにお詣りする方がおられるといいます。
ちなみに私どもが参拝した日には焼きもちのお供えはありませんでしたがね。
群馬県館林市の【常楽寺】さんへ参拝させていただきました。
館林市でまだ参拝したことのないお寺さんということで夫が調べ、向かったもので、到着まで一切予備知識なくての参拝でありました。
最近はもっぱら夫の車で…そう、あの、例の、珍道中をさらに珍道中としてくれる特殊機能のある、天邪鬼ナビの搭載された車です。
大きなお寺さんとのことで、早速ナビにお寺さんの名前を入力します。
…出ません。
はぁ?
古くからあるいくつかの札所ともなっているお寺さんのようですのに?
とはいえ、出ないものは出ないので、しかたありません、スマホから場所を調べて、その情報からナビの地点登録をして、向かうこととなりました。
ほうほう、今回は指示した地点への案内なためスムーズなようです。
…。……。
お寺さんの入口であるとしか思えない場所へと案内されました。…されましたが…駐車場がなく、幼稚園の入り口と兼任しているようです。
駐車場がないぃ?
今どきのお寺さんでありますし、幼稚園を経営しているようでありますので、ことさら駐車場が必要なのでは?
ですが、エックスキューズミーおばさんが車から降りて、その近辺を歩いてみても見当たらず。人も民家も見当たりません。
…幼稚園の園庭横の敷地に車がニ、三台置けそうです。この日は休日で園児も先生もおられません。そこに置かせていただいて。
目の前にありながら、なかなか車の置き場所に苦労して、ようやく山門を通ることができました。
入ってすぐのところに、何やら金属の棒で、まるであえて中にある仏像を見づらくしているかのような高さ三メートルくらいの覆屋があります。
そのすぐそばに案内の看板があります。
【やきもち地蔵尊】と書かれています。
えっ?
もしかして、…いつか必ず参拝させていただきたいとひそかに思っていた、やきもち地蔵さんのおられるお寺さんだったの?
お寺さんでいただいた一枚の紙に書かれていた文。
【陰徳】
陰徳とは
だれもみていないところで
よいことをすること
陰徳とは
だれもみていないからといって
わるいことをしないこと
陰徳とは
そのひとにきづかれないように
そのひとのためにすること
陰徳とは
ひとからしてもらった
よいことにきづくこと
陰徳とは
きょういちにち
それが
できたか できなかったか
ふりかえること
夜通し家の柱につかまり、水に浸かって過ごした方がおられた。
家ごと流された方がおられた。
…目の前で、お身内の方が黒い海にのまれた方もおられます。
ご自分の使命と津波に立ち向かい、命を落とされた方がおられたこと、忘れられやしません。
夜は明けても、津波の残した水は街を覆ったままでした。
とはいえ、私はテレビを見守るだけ。体験したわけではありません。
どうしても記憶していないことが多くなりました。
ただ断片的に、忘れられない光景や
忘れられないお話はある。
当時大学生だった息子はボランティアとしてその後何度も足を運ぶこととなりますが、…彼は未だに一言もそのことを語ろうとはしません。
それほどに悲惨な状況であったのでしょう。
何年か後に少しだけ復興した…なにも無くなった町の写真を見せてくれました。
それも無言でありました。
そして…。
さらに飛び込んできたのは、事故発生からかなり遅れて、福島原発の事故。
津波での被害ではなく、突然、家を、街を棄てて逃げるよう指示された方々。
立ち入りも禁止された町。
十一年。
忘れてはならないという言葉がテレビで伝えられるようになって何年経つか。
忘れられはしません。
行方不明の方は未だに2,523名おられる。
未だに避難生活をする方がおられる。
復興予算は大幅に減ったようだ。
政府主催の追悼式も開かれなくなった。
必要な支援は届くのか。
私に出来ることはなんだろう。
忘れてはならないのはそう思うこと。
出来ることをきちんと実行すること。
被災者の方の声を聞くこと。
あの、後に東日本大震災と呼ばれることとなるあの地震。
東北はまだ雪の舞う時期で、春の近づく関東地方とは異なるまだまだ寒い頃。
津波が発生し、徐々に退いていった後に目にした景色はほんの数時間前とはまるで異なって。
そして無情にも夜となる。
ああ、地震発生時刻だ。
あの日は今日と同じ金曜日だった。
次ぐ日、土日休みの仕事であった私は、不安ながらも子供たちや夫と共に過ごせたことをどれだけ感謝したことか…。
あの日。
想像をはるかに超えた大惨事であることをその後テレビの画像から知ることとなる。
実は震源地は私の住まうところではなく、はるかに遠い東北であったこと。
私の体験した地震よりはるかに大きな揺れであって、しかも津波が発生していると報じられたのだ。
その映像をみて凍りついた。
言葉になどならない。
あれは同じ日本で起きている現実なのだ。
到達はあっという間だった。
本当にあっという間。
黒々とした大きな破壊力を持った水が、あっという間に全てを飲み込んでいる。
あの黒々とした海の色を忘れられない。
十一年目の3・11が巡ってきました。
あの日。
私は午前中の仕事が終わらず、ようやく座ってようやく食事を取り終わった、まさにそのときだった。
緩やかな揺れから一気に激しい揺れとなった。
これは大きい!
机の下にもぐることがどれだけの効果があるかわからないが、とりあえずそれだけが頭に浮かんだ。
揺れが長かったのか、短かったのか、今まで経験したことがないくらいに強かったことしか覚えていない。
それでも、私の居たところは特に落下物も倒れた物もなかった。
ビルの一番端の太い柱の何本かある、そんなところであったからで、その後、同じフロアでも壁にクラックが入っていることを知ることとなる。
揺れが落ち着いて、まず自宅に自分の無事を知らせる一報をいれた。
その後すぐに私の頭に浮かんだのはこのビルを訪れておられるお客様の無事を確認することだった。
床に座り込んでおられる方の肩を抱き、とりあえず椅子に掛けて、今後もし揺れが再度来るようなら、椅子の下に潜れるようにと伝えた。
今のうちに外に逃げた方がいいかと問われる方もおられた。
現状からはビルの中の方が危なくないように私は考えた。外の様子はわからない。ガラスが割れるなどして危なくないか、車が出せる状況なのか、なにもわからない。
とりあえず、クラックの入った壁からは離れて、その後おそらく誘導の放送が入るであろうから、それまではビル内にいる方がよいかもしれませんとだけおこたえした。
上の階から徐々に職員が降りてきた。上の階ではガラスが割れ、パソコンやテレビなどが全て落下した階もあるという。
これは…思ったよりも大きな地震だ。
とりあえずその後、午後の業務が徐々に再開した。
昼休みの続きを再開して、今度は子供たちの携帯に電話をかけた。通じない。
誰にも。
不安は大きくなる。
定時刻まで仕事をして帰途についた。
長女が心配して途中まで迎えに来てくれたのに出会えた。私は自転車で通勤していたので、娘も自転車で迎えに向かってくれたという。
家に帰ると家族全員が揃っていた。
夫の会社も子供たちの学校もみな、揺れが落ち着いた時点で帰ることとなったらしい。
スゥッ。
その車は石段の前に静かに停まりました。私が渡るために停まったのではなく、私の前に停まったのです。
「よろしければ、乗ってください」
えっ?
毘沙門天さまがあまりにトボトボ歩く私を憐れに思って車を運転しておこしになられた?
若く爽やかなイケメンです。
…あ。
ご住職の息子さん!
男坂を登って来たことをたいそう驚かれ、褒めてくださっただけでなく、糖分を摂るようにと飴をくださった方です。
「ついでですから」
いやいやいやいや。
そんなことをしていただいてはバチが当たります。
「本当についでなんですよ。お昼を買いに行くので」
いやいやいやいや、そのお気持ちだけで。
…なんともありがたいことにございます。
先ほどまでのモヤモヤなど全て吹き飛んでしまい、幸せな、温かな気持ちで帰路に着くことができました。
うーん、また近々勧進をお届けにあがらなければ、な。
今度は必ず女坂で!
…本来捨てるべく訪れた場で、かえって雑念やら煩悩を溜め込んでもやっとする気持ちを鎮めるべく、ご本尊の毘沙門天さまの前に座して手を合わせました。
毘沙門天さまの御像はもう少しで、修復の為、このお堂をあとにされることとなっておられます。
お戻りになられるのは何年か後とのこと。
今回はその勧進のために訪れたのも一つでありました。
が、受付は一時間経っても順番が来ない。
そう、御朱印のやり取りでずっと順番が来ないのです。三人いても一人は御朱印の書き手にまわっていました。しかも実際受け付けているのはその中の一人だけ。一人だけなのです。
住職の息子さんにお渡ししようとしたのですが、勧進の受付はあちらなんですよ。と申し訳なさそうに一言。
はぁ。
「今日は帰ります」。
とぼとぼと石段を力なく降りて。
今度は絶対、『女坂』で降りよう!
というか男坂で降りるのは不可能だから。
なんなら車道を歩こう。
そう思って石段を降り終えたとき、一台車が来たので道路を渡るのを待ちました。
そ、そんな。
…たしかに護摩修行が始まってからもずっと受付ではあれこれを販売する声が絶えず続いていました。
少ない(でも三人はおられた)人数で受付をこなして、大変だったのかもしれません。
でも、御護摩に祈願する護摩祈願で、祈願が読み上げられないって、どう考えても『無し』、なんじゃないでしょうか。
販売の手を止めてでも届けるべきものではないでしょうか?
結局、座がひらけて、すっかり炎が消えた頃に、ご住職の手に届いた私ともう一かたの祈願文は、取ってつけたように読み上げられましたが、ご住職もテンションの下がった声でありました。
…なんだかなぁ。
ようやく到着しました、栃木県足利市の大岩山毘沙門天堂。
さていつものように受付を。「御護摩修行に参列させていただきたいのですが」
「ああ、それでしたら御札を受けてください」
…ええっ?!
お、御札、ですか?
…今までは護摩木をお授けいただくだけで御堂の中に入れたのです。
護摩木とは御護摩の際使用する特別な薪(?)となります。
祈願したい願い事と名前を護摩木に書き込み、それをお焚き上げいただくことで、炎が祈りと願いをご本尊さまに運んでくださるという法であるといいます。
こちらでは実際に自分が書いた祈願の護摩木を炎にくべるのはいつなのかわからないのですが、護摩木に祈願や願い事をお書きして護摩修行に参列する、流れとしてはしごく当然の流れでありました。
こちらでは参列者は護摩の炎に割り箸を一本くべるのですが、ご本尊さまの御前で焚かれた護摩の炎に木をくべるという神聖な行為に、自分の罪穢れと向き合い、それを浄化していただけるよう祈願して、その時、何かを捨て去ることができるような気がする、私にとって大切に思う儀式であります。
御札を受けた者のみが参列できるとなると、毎回御札をお受けすることとなるのでしょうか?
しかも護摩木は書かないようです。受付から護摩木が消えて、寅年の特別な御札や特別御朱印等が前面に飾られています。
コロナ対策、なのでしょうか…。
何やらモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、御本堂へと入りました。
十時から、という御護摩は一向に始まる気配がありません。私は呼吸を調え汗を引かせるのにちょうどよかったと思っていましたが…。
十五分が過ぎ、辺りから少しざわめきにも似た声があがります。
「今日は遅れて始まるのかしら」
受付に近い席なため、やたらと商品の金額やお金のやり取りの声ばかりが響きます。
うーん…。
何かが変わった?
護摩修行が始まりました。
般若心経を繰り返し御唱えする間に、ご住職が護摩壇に静かに火をくべられました。
やがて、本日の御札を受けた者の祈願の内容と名前を一人づつ護摩壇に向かって読み上げが始まりました。
炎は高く天井にも届くかという勢いです。
…私の名前は、無い。
時間に充分間に合って御札をお願いし、しかも三十分は遅れて始まっているというのに、私の祈願したものの内容は受付から届いていなかったのです。
閑話休題。
そう、舞台を(?)ふたたび栃木県足利市の大岩山へ。
悲しいかな、そこはふたたび四つん這いで前へ、上へと向かう道です。
「つかまるとこ、ないじゃない〜っ」と心の声をあげながら。
ですが…、ここまでまいりますと、なんだか不思議なことに、恐さだけでない、達成感にも似た心地よさが生まれています。
…達成どころか先すら見えていないんですけれど、ね。後ろ、今来た道なんて恐くて見られやしないし。
後戻りは決してできない。
ただ進むのみ。
…人生をも思わせるこの道を、どこか楽しんでいるような自分がいます。
前腕も土につけて、かなり離れた木の根をやっとの思いで掴みます。あ、足場は…うん、大丈夫!
(護摩修行の時刻に)もう間に合わないかな。まぁいいや、次の回もある(次の回は四時間後、ですが…)。
焦っても仕方ない。
一歩づつしか進めない。
おおっ、また平かな道です。
東屋まであるではないですか!
とりあえず道は間違えてはいなかったということです。
気分はすっかり晴れ晴れしています。
時計を見ると、かなりの時間を費やしたかに思っていたのに、十時までまだあと二十四分もあるではないですか。
これは…余裕で間に合うではないか。
…このあとまた、手をついて四足歩行となる場所が何ヵ所かありましたものの、その後はたしかに岩のゴツゴツしたものが多い道ではありますが、二足歩行が可能な道です。
これは…きっとあと少し!
予想は当たり、石塔などが見えてきました。
あ、車の屋根が見える!
登り道の先に車の屋根が見えてきました。
これは四台くらいしか置けない、毘沙門天の御堂の真下の駐車スペースに置かれた車に違いありません。
やったぁ!
車を見たときは、そう思ったのです。ですがね、その先に急な少し長めの石段があることを、すっかり失念していたんです。
…ぁ、ぁぁ。
呼吸するにも声が出ているようなあり様で石段を登りました。
いつもなら鐘を突いてから向かう本堂ですが、もうそんな余力がありません。ちょうど十時。
無事に、無事に到着しました。
これも毘沙門天さまと、御本坊におられるお不動さまのお導きでしょう。
ありがたい、かけがえない体験をさせていただきました。
【日光山輪王寺】で2月4日から、同寺に伝わる秘仏【鎮将夜叉尊(ちんじょうやしゃそん)】が九年ぶりに特別公開されています。
立春の同日から一年は、九年に一度の世相が荒れやすくなる星回りとされる【九星術】の『五黄中宮(ごおうちゅうぐう)』に当たることから、人々の厄難を払うべく、秘仏を公開してきていたのだといいます。
『鎮将夜叉尊』は徳川幕府の宗教顧問を務め、日光山中興の祖とされる【天海(てんかい)大僧正】が天下泰平や国家安穏をひそかに願ったとされる仏像であるといい、夜叉の首の上に座す毘沙門天像で右手に宝棒、左手に宝塔を持つのだといいます。
白檀製で高さは約五センチ、製作年は分かっていないとのこと。
かつて僧侶や信奉者は小さな御仏の像。袈裟(けさ)に入れたり、髪に結い込んだりしていたといいます。
うーん。参拝したい。
この日光大好きなおばさんがもう二年以上日光へ行けていないのです。(/ _ ; )
御札ももう二年分を郵送していただいての授与。
日光に、 行きたいぞぉ!!
四つん這いでしか進めないような、岩肌むき出しの道、草すら生えない、生えた跡すらない渇いた土の道。
掴まるところといえば少しだけ飛び出した岩肌にあるゴツゴツの一部。
土が流れてむき出しになった木の根。
それすらが遠いとまさに匍匐。
そんな道だと知っていれば、グローブとかの用意もしたし、靴だって登山用にしたし、…いや、そもそも単独で登らなかった。
そう!そもそも登ろうと思わなかったからぁぁぁ。
ロープとかも鎖とかも一切ない、そんな岩の突起をたよりに山道を必死に、自らを鼓舞しながら一這い、一よじ登り。
でもいつかは毘沙門天さまの道につながる道。
あっ。
ここは立てる!
立てる道まで来た!
ここからは歩けるんだ!
よぉし、ここからは巻き返すぞぉ!
…少し早足で歩き出しました。
二足歩行できてる幸せを一歩一歩噛みしめながら…。
……。
嘘だあぁ。
また、こんな道ぃ?
さっきより急斜面じゃない?
…Oh my god!
いや、私無宗教だから…。
石段なら大丈夫ぅ?
結構急な上に傷んだ登りづらい石段です。それをようやく登り終えた、私の目の前には…。
…。
……。
……う、嘘でしょ?
これって…道じゃないでしょ?
道じゃなくて…。そ、そうだ!大量の水、鉄砲水が流れた跡ってちょうどこんななのじゃない?
こんなの道じゃないー!
…ま、まぁ、きっとここだけでしょう。たぶん本当に鉄砲水が流れたので、かつてはきっと道だったに違いない。
だって、ここ、参拝道ですし。
ハイキングコースですし。
嘘だあぁぁぁぁぁ。
これって岩肌じゃない?
傾斜だって結構急で。
嘘でしょ?
ここ、修行道じゃないですかぁぁ!?
もう必死ですっ。
ロッククライミングとまで言ったら大袈裟かもしれませんが、掴まれる岩、足をかけられる岩を確認しつつ確認しつつの四つん這いです。
後ろなんて決して振り向けない!
バランスを崩したら転落事故ものです!!
戻る?
無理、無理、無理、無理、無理!
後ろが振り向けないから四つん這いのままバックするしかないんだから!
それこそ転落事故の可能性が上がってしまう。
…どうしてこんなことになったの?
私はただ毘沙門天さまの護摩修行に参加したくて来ただけなんですよぉ〜。
何かあったら…。
そうだ!
ここってスマホの電波は大丈夫なとこ?…スマホなんて見れないから〜〜っ!
恐い、恐い、恐い。
恐いよぉ〜。
ケモノとかも出そうだぁぁ。
熊鈴、…出せない〜っ!
落ち着け!
一歩づつ、一歩づつ!
絶対大岩山毘沙門天さまのもとに繋がっているのだから。
がんばれ、私!
…本当に?
本当に繋がってる?
私どこかで道をまちがえていない?
でも、石段からずっと道っぽいところを来ているはずなのだけれど…。
…本当に?
私が時々お参りさせていただいております栃木県足利市にございます【大岩山毘沙門天】さま。
今年は寅年という事で、毘沙門天さまの使徒であります寅にちなんで二度ほど特別な行事もございましたが、一度目は都合が合わず、二度目は起きたら予報にすらなかった雪が降っており、その際には参拝が叶いませんでした。
しかもこちら、麓の本坊から山道をくねくねと登って実に二キロ行くというところにございます。山道は狭く、対向車が来たらすれ違えない道がいく箇所もあり、片側は崖であったりと、到底、私のような者は運転を避けた方がよい、何より本人が走りたくないと思う道にございます。
そんな大岩山毘沙門天さまへと徒歩で登って行く道がございます。
本坊よりさらに登って行くとその道のすぐそばに広い駐車場があるのです。
平日お参りしたい時はそこから登ろうと常々思っており、先日の雪となってしまい断念した特別な祈祷日にも、実はそこから登ろうと思っておりました。
そもそも山道が苦手なだけでなくて、方向音痴で道が覚えられないという、すでに特殊能力ともいえるものも持っていたのでは?、とお思いになられた方もおられましょう。
が。こちらへは行けるのです。
ただしこの時点では、〝たぶん〟という文字が必要でしたが…。
それでもドキドキしながら、護摩修行の一時間前には自宅を出発いたしました。これだけ余裕を持てば、はじめての山道であっても余裕で着くであろうとは思ったのですが、そもそも普通に向かう道路を間違わないとも限らず、山道を間違えるようなことになれば遭難という事態です。
それでも本坊への道は間違うことなく、あとは真っ直ぐ一本道というところまで来ることができました。(それが本来普通の人には当たり前)
本坊も高台にありますので、道を走っている際には見えないのでありますが、その横を通る際には心の中で、ここまで無事にご案内くださった、本坊のご本尊さまのお不動さまにお礼を申し上げながら通過いたしました。
そこからほんの少し車を走らせると駐車場があり、その道を隔てた反対側に立派な石標が建っています。
石標の先は石段が見えています。
石段なら大丈夫。
さらに御本堂の前には喚鐘(と呼ばれると後から知りました)がありました。
この喚鐘、ネットで調べていて気づいたのですが、実は左右に二つあり、それぞれに向かって右側が湧出韻、左側は寿量韻という名まであるもののようでありました。
粗忽者の私は一つしか目に入らず、その一つを高らかに打ち鳴らしたのでありましたが、二つあるということは、そこに大きな意味があり、作法…たとえば左右どちらかから打つとか、参拝前に左右どちらかを打って参拝後に残った側を打つなどなど、決まり事があったに違いありません。(特にそのような注意書きは一切なかったのではありますが)
閉ざされた戸越しにお参りしたご本尊さまはお地蔵さま。きっと、きっと、この粗忽者でいつまで経っても初心者マークの外せないおばさんを、笑ってお許しくださったことでしょう。
その御本堂から見て向かって右側に多宝塔があります。多宝塔はおそらくは鉄筋コンクリート製の比較的新しい時代に建てられたものではないかと推測されました。階段を何段か上がって拝んで、その後できたならご住職さまにお会いしたいとあちらこちらの建物を回っておりました私。
夫は多宝塔の前に長いことおりました。
結局、業者さん曰く、おられるはずのお寺の方にお会いすることはできず(呼び鈴等が一切ないお寺さんでした)、夫と合流した私は、多宝塔に何かあったのかと聞きました。私はネットでこちらの多宝塔は歴代のご住職を祭ったものと知っていたので、そのようにお参りしたものですので。
すると、
「うん、寝釈迦さまがおられた」
えっ!?、寝、寝釈迦さま!?
ご想像通り、当然多宝塔に戻る私。
覗いてみるとたしかに!金色に輝く寝釈迦さまがおられます。おおっ!
その横には亡くなられたご住職の顔写真が祭られています。
思ってもみませんでした。
ネットの情報も確かではありましたが、寝釈迦さまは、若くして亡くなられたという先代のご住職を偲んで、最期のお教えをなさるお釈迦さまの元にお祀りしたのでありましょうか。
泉蔵寺さんにおられる石仏さまは、どの石仏さまも柔和な穏やかな笑みを浮かべられておられます。
そして、お召しになられておられる衣装が今まで拝したことのないようなお召し物。
たとえば、どう拝見しても髪が長いか、尼御前さまのような石仏さま。天女が空を舞う時頭上に舞うリボンのような薄い布のような物を抱く如意輪観音さま。
平安時代の貴族のような衣冠束帯姿としか思えないお姿をされた石仏さま。
…ご想像通り、私、立ち止まっては歩き、その歩みも牛歩の歩みとなりました。私どもの他にはどなたも参拝の方がおられなかったからよけいです。とはいえ場所の脇、参道に沿って並ばれる石仏さまゆえ、そんなには長く留まれはいたしませんが。
比較的新しい六地蔵さまがおられる横に、それはそれは立派な山門がございました。
白塗りの壁の続く、白木が経年変化し落ち着いた木の色を出した、瓦葺きの四脚門です。この山門、まさに細い住宅地の生活道路に面しております。車でのすれ違いも難しそうな道。
かつては皆徒歩かあるいは馬で訪れていたこと、このくらいの道幅があれば充分すぎるものでありましたでしょう。
さらには明治の廃仏毀釈のとき、さらには戦時下の被災で町並みが変わってしまったり、戦後土地を返上という名で無償提供しなければならなかったりで、いろいろお寺さんを取り巻く環境が厳しかった時代の流れを受けてのものかもしれません。
白壁はさほど長く続いてはおらず、こちらの山門は、中の境内とは違和感のあるもののように感じもいたします。
こちらの山門は文化六(1809)年建立とありました。
そして御本堂の前にようやく到着いたします。『殿頂華』という右から左へと書かれた、でも比較的新しい扁額が掲げられています。
屋根の高くない、あまり見ない建て方の御本堂をリノベーションされているようにも思われます。
御本堂の左右に建物がくっついて建てられてもいます。
御本堂の前には大きくて立派な石造の香炉もありました。
香炉は象の上に香炉部があり、蓋はとぐろを巻き可愛らしく口を開けた龍が乗り蓋をおさえておられます。
…業者さんらしい方は、リアゲートを開けて何か始められた様子です。どうやら車が動くことはなさそうです。
…!?
それならば、こちらの車の前に置かせていただいても大丈夫?さぁ、エックスキューズミーおばさんの出動です。
「ああ、ずっと動かさないで作業してるから大丈夫ですよ」
なんとありがたい。
なんとか車を停めることができ、先程からずっと気になっていた仁王像のところへ小走りに向かう私。
そうなんです。
仁王さまがおられるのです。
ただし仁王門、とかではなく、小さな入り口のところに…まるで、そうまさにテレフォンボックスのような、透明なアクリル板張りのボックスのなかで、その入り口を守るように立っておられます。
いつ頃のものなのか、素材は何であるのか、透明なアクリル板越しではわかりませんが、眼光鋭い、なかなかイケメンの仁王さまであります。
吽形の仁王さまの側の奥に、古い石仏さまがポツンポツンとおられます。…仁王さまの入り口から入った正面は墓所なのですが、その横、つまりは仁王さまの入り口真正面にも、等間隔で石仏さまがお立ちになられておられます。
まずは吽形さまの後ろにおられる石仏さまのところへ向かいます。
おおっ!
…時折見かける家のような石造物(未だに名称がわからない)があるのですが、一つ、今まで見たことがないくらい大きなものがあるではないですか!
その中には御仏が鎮座されておられますが…これはどう拝見してもかなり後からそこに入られた御仏で。
元はおられなかったのか、はたまた紛失してしまった(人聞が悪いので念のため書いておきますが、お寺さんの管理が悪くてということではないです。石仏さまや石鍾等が盗まれたことなども過去様々なところであるようですので)ものなのか。
全体としては私の背の高さよりも高い、そんな石造物であります。
そのお隣には今まで見てきたような大きさの、家型石造物がありまして、そちらにおられる御仏さまはおそらくは建物(?)と同じくらいの石仏さまがお入りになられておられます。
うーん♡
と、思ったものの、さしては細くはないけれど、住宅街の生活道路を走ります。本当にここを行くの?
と、思ったところに唐突にお寺があらわれました。
えっと、駐車場は?
境内に三台車が停まっています。その三台でいっぱい…かもしれない。ど、どうしよう。
とりあえず、入れてみるか。
おおっ!多宝塔がみえます。
が、駐車スペースがない。どうしよう。
そこへ業者さんらしい方がその一台にやってきました。…出るか?
群馬県前橋市の駒形神社がかつて属していたという、同じく前橋市にあります【泉蔵寺】さん。
前述したように、駒形神社さんが属すには結構離れたところにあります。
こちらは、よく通る県道から多宝塔が見え、いつか参拝させていただきたいとネット等で調べていたお寺さんでありました。
そしてまた、こちらは関東百八地蔵尊霊場の一カ寺となっています。百八巡るのはなかなか大変かとは思いますが、群馬県内だけでもお参りできたら…とも思ってもおりました。
ですので、この泉蔵寺さん、是非お参りしたいと思っているのに、なかなか行けないでいたお寺さんでありました。
よく見ているのに?
…そうなんです。
よく通る道から多宝塔の屋根が見えるものの、よく通る道から少しはいっていくようで、ついでに寄るにはちょっと、くねくねと奥まった所へ入っていくようなのです。
どうせなら駒形神社さんと同じ日にお参りしたいと、
くねくねとナビの示すまま車を走らせてまいりました。
…?
うーん、またぁ?
細い道をいくのかぁ。
こちら【駒形神社】さんの勧請年月は元亀元年(1570年)と伝えられています。
神仏混淆(神道と仏教が合体した信仰)の時代は、同じ前橋市の天台宗【泉蔵寺】に属していたのだといいます。
泉蔵寺さんって…ここからは結構離れた所に位置していますが?
慶安年間(1648-1651)頃、社殿を改築し「別当 山伏修験本明院」として駒形の氏神として祀られるようになったといいます。
現在の社殿は明治三十八(1905)年に新築されたものといいます。
明治四十(1907)年には本社境内末社三社(八坂社・稲荷社・秋葉社)並びに同じ町内に鎮座していた琴平神社とその末社四社、同じく同町内に鎮座していた雷電神社とその境内末社三社を合併し、今の駒形神社の形となったようです。
また、駒形神社には『駒形牛頭天王の獅子頭一対』があるのだと境内内の案内板に書かれていました。
雌雄一対のこの獅子頭は厚さ4cmの檜材五枚からなり、彩色は朱色の漆塗りで仕上げられているものだといいます。
駒形町は江戸時代藩主酒井氏の命によって町づくりが始まったといわれます。
しかし大勢の人を寄せて町づくりすることは容易なことではなかったことから、駒形住民統合の象徴として牛頭天王を祀り、住民の団結を図ったと言われています。
その祭りは6月14日を例祭日とされ、駒形宿を上から下まで巡行し、そこで獅子頭を韮川に流し、下に行って拾い上げ、これを何回も繰り返す。
こうした行事が、文化九(1812)年より明治末年まで約100年間続けられたといいます。
勇壮闊達な行事と共に歩んだこの町の歴史をしのばせる貴重な文化財となっているのだといいます。
川に流す?
それを拾い上げ何度も繰り返す?
ええっ?!牛頭天王さまの獅子頭を、ですかぁ?
なんともまぁ荒っぽい。
とりあえず写真で見る限りはボコボコに傷んでいるようなことはなさそうではありますが。
川の水位が高かったのでしょうかね?それにしたって川の中、大きな石とかもありそうですけれど…。
とりあえずこの行事は今は行われていなそうです。
要するに。
駒形という町づくりのなかで、人心を一つにするためにまず、山王さま、牛頭天王さまをお祀りして氏神さまになっていただき、のちに戸数も増えたころ、泉蔵寺さんから駒形明神をもらい受け、これを氏神さまとした、ということのようです。
ナビの入力で気づいたのですが、どうやら駒形神社さんは全国にある神社のよう。
だとしたら、もしやこちらが総本社で?
そもそも私は純粋に駒形という地にあるから駒形神社さんなのだと思っておりました。
で。いつものようにGoogle先生にお聞きしました。…即座に違うと確信いたしました。
陸中一宮(新一之宮)駒形神社本社なる神社さんがヒットし、こちらの御祭神が駒形大神(天照大神・天常立尊・国狭立尊・吾勝尊・置瀬尊・彦火尊の六柱の総称)とあり、駒ヶ岳を御神体とされているとのことで、こちらの駒形神社さんとは御祭神が異なります。また、全国に数えられるだけでも二十はゆうにある駒ヶ岳を御神体とするならば、当然のように全国各地にあることでしょう。
そして、駒というのが馬を指す雅語であること。
紀元前の昔から人の生活になくてはならない存在であったことから考えるとさらにその駒、馬を祀るということは考えられます。それから考えると私が思っている以上に全国各地に駒形神社さんはあるのかもしれません。
こちらの駒形神社さんの御祭神は【保食神】さま。また、「『野の神』『山の神』『水の神』『土の神』の他社より清き土を採り駒形を造り、野馬守護のためにこの四神を祀る」とあります。
さらにこちらには【源頼朝公】の愛馬『磨墨(するすみ)』の蹄と伝えられるものが御神体の一部にあるのだといいます。
二の鳥居の先には大きな一枚石を何枚も敷きつめた立派な参道が続いています。途中には左右に狛犬さんがおられます。
そしてさらに進むと、参道の左手に、手水舎があります。
きれいな花手水になっており、溜め水ではなく常にチョロチョロと、それも4箇所くらいで流れている手水舎です。
花手水だけでなく手水鉢奥の淵にもいろいろ飾ってあり、大層華やかで品のある手水舎です。
!!!
…手水鉢のいろいろ飾ってあります中央に、馬の首が!!!
馬の顔が!!!
…乱心いたしました。
もちろん生のお馬さんではありませんが、いきなり、そこにあるのが不自然でしかない石造の馬の顔がぬっと置かれているのですから!
そして…置かれている…のではなく、どうやらそれは、おそらくはコロナ前にはその馬の顔から手水が流れ出ていたものなのだと思いました。
どうして?
いやあびっくり!
そうしてもう一つ鳥居をくぐると目指す拝殿がございます。
参拝させて頂きました。
拝殿の右手前に小さな馬の像があります。コロナ対策でしっかりマスクをしている馬でありました。
そしてさらに右手を見遣ると同じく神楽殿。
さらには拝殿の横には境内社としてはかなり立派な駒形伏見稲荷神社。
こちらは京都にある伏見稲荷大社より神様を勧請しているという神社です。
拝殿には見事な彫刻が施されています。
そして拝殿の左手にはたくさんの境内社が並んでいます。
そして、本殿の後ろにも古い小さなお社があります。
道祖神さまもおられます。
群馬県前橋市の【駒形神社】さんに参拝させていただきました。
駒形というところは実によく通るのではありますが、文字通り通るだけで、駒形神社さんのお名前はよく聞くものの今回が初めての参拝であります。
今回も夫の車で、そしていつものように夫の運転で。
初めての参拝ですのでナビを使います。…ええ、あのメーカー純正でありながら、持ち主の妻に似てしまったのか天邪鬼にして適当(⁈)、じゃじゃ馬で、珍道中をより珍道中たるものとする機能を備えたナビであります。
『こまがたじんじや』、そう入力をいたしました。
いくつもの駒形神社さん候補は挙げられたものの、肝心の前橋市駒形町の『駒形神社』さんは、ない!
入力しなおそうが、ない!
仕方がないので住所で入力し、気を取り直していざ駒形神社さんへ。
そもそも夫はある程度はその場所を把握してきてはいるようでしたがナビは夫の思っていた通りには指示することなく進路を指示します。
でもね、腐っても(!)ナビ。
ちがう案内をするとは言っても、せいぜい、目的地の真裏でどこからも目的地の敷地へと繋がっていないところへ案内するとか、しかもそれがUターン不可能な細い道であったり、突き当たりであったりとする程度(しかしこれはこれで案内、ナビとしては失格でありますが…)。
少なくともその目的地のそばまでは(!)確実に案内してきてはいました。
とりあえずこの地点での案内は従っていて大丈夫。
そのうちに、目的地である駒形神社さんが画面に現れました。
何やら細い道を曲がるようナビが指示します。
緊張が二人に走ります。
細い道を曲がると…。
いきなり鳥居です!
(えっこ、この鳥居、車でくぐるのぉ?)道に唐突に鳥居、です。
(あ、でも対向車もいないし、その鳥居はやり過ごせばいいのか…。)
運転していない私の心の中の声であります。
あ、突き当たりに鳥居が見えます。
どうやら今回はきちんと案内をしてくれたようです。
前回のレスで、いくつかの神社さんによっては仏滅はお休みされているようだと知り、なぜだろうと思った私。何故仏滅になのだろう、と。
「日曜定休日、とするのとなんら変わらないものだと思うよ。たまたま仏滅という日に休もうと決めただけだと思う」というのは夫。
納得のいかない私はそれを聞きながらGoogle先生にお聞きいたします。
なおも続ける夫。
「そもそも仏滅というのは仏教とはまるで関係のないものだからね。むしろ六曜というのは神道と関係しているのだと思うよ。もともと仏滅というのは『物が滅する』と書いていたものを仏という字を当てただけだから」
Google先生、夫を静めたまえ〜。
おっ!あったぞぉ!
「神社さんのサイトで六曜と神道は無関係と書いてあるけど」
「ふーん、そうだったんだ」と夫。素直に私の話を聞き、自分でも調べています。
そこが物事を理解して覚えるために大切な基本なのでしょうね。
私のように素直でない者はそこでずいぶんと時間を損し、下手をすれば新たな知識すら得ずに終わってしまいます。
……私の場合、そこにさらに記憶する能力の著しい低下が加わるのだから、せめて素直にならないとなりませんね。
とはいえ、仏滅にお休みされる神社さんの謎は完璧には解けておらず。夫のいうことが正しいようにも思えもいたします。
まぁそれは、実際仏滅にお休みされる神社さんにお聞きするのが一番手っ取り早いのでしょうが、ね。
ところで。
これとはあまり関係はないのですが、
お釈迦様のお誕生日の『花祭りは
大安』、入滅の日の『涅槃会は仏滅』と決まっているのです。
(以前も書いたよう記憶しているのですが…そこがまた、私の記憶なので、我がことでありながら @#?#?! でございます)
それは【六曜】では陰暦の毎月1日は決められているのだといいます。
1月と7月は『先勝』
2月と8月は『友引』
3月と9月は『先負』
4月と10月は『仏滅』
5月と11月は『大安』
6月と12月は『赤口』
から始まると定められているのだそうです。
それを基に六曜星を循環させる。
すると陰暦四月八日は必ず大安、陰暦ニ月十五日は必ず仏滅になるというわけで。
日本各地にある産泰神社の総本社というこちらは社伝によると履中元(四百)年に創建されたと伝えられているとのことですが、その歴史を示すものは焼失してしまい何も残ってはいないのだといいます。
現在の社殿は前橋藩主酒井氏の尊崇が篤かったことから、前橋城を守護するため西向きに建てられたのだといいます。
彫刻の見事なことや、拝殿の百枚を超える大層綺麗な天井画は、前橋藩主の思い入れがあってのことでありましょうか。
拝殿の前には手水舎とは異なる水鉢が置かれており、抜け柄杓と呼ばれる底の抜けた柄杓が置かれており、妊婦さんがその柄杓で掬えない水を掬うよう書かれています。ぬけるように安産であるようにとのことで、昔は実際に抜け柄杓を奉納していたようです。
拝殿の横には背の高い神楽殿があります。その間を歩いて行くとまた鳥居があって、石段の上には金比羅宮があります。
その金比羅宮の向かって右側に巨石群があり、そこは胎内くぐりとなっており妊婦さんがそこをくぐるとお産が軽く安産で済むと言われているとのこと。
かつてはその巨石群の上の方にある石の間をくぐるものだったようですが、今は危ないことから立ち入りを禁止しております。
妊婦でなくとも足を滑らせそうなほど危ない足場と高さであります。
幣殿、本殿の彫刻がまた見事です。本殿後ろは大きなその一面を使って高砂の図が彫られていました。
こちらは仏滅が休業日となっているとのことでありました。
先日参拝させていただきました国定赤城神社さんも仏滅が休業日でありました。
神社さんに休業日といったものがあることも、それが仏滅だというのも、ここへきて初めて知ったことであります。
ちなみに本日は戌の日の友引ということで、お宮参りや出産予定の家族が何組も何組も参拝に訪れていました。
初宮参りがあたたかな日でよかったなぁと、幸せそうな親子連れとすれ違うたびに思った一日でありました。
そして…幸せのおすそ分けをいただいたような気持ちになれた、そんな一日でありました。
風もなく寒さの緩んだ本日、群馬県前橋市の【産泰神社】さんへお参りしてまいりました。
産泰神社さんは群馬県内で安産祈願で有名な神社さんで、県内はもとより関東一円から参拝の方が訪れると聞きます。
いつ行っても必ず何組も参拝者さんがおられる神社さんで、しかもこちら、決して観光の方が訪れるような神社さんではなく、そのほとんどの方たちが安産や良い子育てをと願い訪れておられる神社さんであります。
その御祭神は木花咲耶姫さま。
今まで何度も参拝しておりますが、いつもあたたかくやわらかな気が鳥居のそとにまで満ちた神社さんなのであります。
何度見ても「おおっ!」と足を止めて見上げるほど大きくずっしりとした随身門。それが何十段かの石段の上にあるのですから、下から見たときの大きさといったらありません。
でも決して威圧感などではない、待っていてくださったかのようにあたたかな感じ、なのであります。
その随身門をくぐると正面に、やはり大きな拝殿が見えます。
ただ…何年か前に御祈殿という祈祷のための施設が建てられて、それまではこちらの拝殿に昇殿しての御祈祷であったのですが、今はそちらに新たに拝殿が設けられ、こちらの拝殿に昇殿することは出来なくなってしまったのです。
そして、それまではいつも開けられていた拝殿の扉も閉ざされているようになってしまい、こちらの拝殿が大好きで、いつか昇殿させていただけることを密かに夢見ておりました私にとってはなんとも悲しくて寂しいこととなってしまったのであります。
新しい御祈殿はバリアフリーで授乳室、おむつ交換台、エアコン完備のユニバーサル対応のもののようですが、…うーん。
こちらの拝殿が大好きであったこともあり、なかなか新しい御祈殿とやらを受け入れられないおばさんなのであります。
今は閉ざされたままとなってしまった拝殿はそれは見事な天井画が描かれていたように記憶しております。
姫神さまをお祀りしている拝殿ということもあってか、凛とした中に優しい雰囲気のあった拝殿。
…それでも、閉ざされた扉のガラス越しにほのかに見える灯りが、木花咲耶姫さまが「見ていますよ」とおっしゃってくださっておられるようで、それだけで嬉しくなるおばさんなのでありました。
本殿・幣殿・拝殿・神門の四棟及び境内地が、十八世紀中期から十九世紀初頭のもののようであります。
二月二十四日、ロシアがウクライナに侵攻を始めてしまった。
しかしながらこの侵攻は極一握りの人間が決め、そこに飲み込まれて進軍した人たち。
ロシア国内では戦争反対のデモが起きている。
ふと、ロシアで信仰されている宗教とはなんなのだろうと思いました。
いつものようにGoogle先生に聞いてみました。
今日はそんなロシアの宗教のお話を。
ロシアという国は国土が広く、モスクワなどのヨーロッパ地域とシベリアなどのアジア地域はかなり離れ、ロシアの国土の東西は約1万Kⅿ離れているそうです。
そんなロシアも十世紀にはキエフ(現在のウクライナの首都)を中心とする小さな国であったといいます。
988年にウラジーミル1世によってキリスト教が導入され、そのウラジーミル1世がキリスト教の洗礼を受けたのはクリミア半島のケルソンだったといいます。
ロシアにおけるキリスト教は、【ロシア正教】といわれる正教会の一宗派です。
ロシア正教では【八端十字架】と呼ばれる特別な十字架が用いられているようです。
ロシアにおけるキリスト教は、EUに加盟している国々に代表される所謂「ヨーロッパ」のキリスト教とは若干趣が異なるようです。
キリスト教導入前のキエフ大公国では自然崇拝が為されていました。具体的には、大自然との深いかかわりの中で、母なる大地のすばらしさ、親子のぬくもり、祖先の霊を崇める、といったものであったようです。
十世紀当時の政治状況や「文明国」としてキエフ大公国が認められるためにキリスト教の導入が必要であった、という経緯があだだようです。ただ、結果として導入されたキリスト教がロシアの中でそれまでの土着の神々と共存するために変容し、変容させていったようです。
もともと信仰されていた土着の神々は、キリスト教における「唯一の神」と「人間」とをつなぐ媒介(仲介者)として変容していきます。
ロシアの土着宗教(自然崇拝)とキ
リスト教の関係は、キリスト教を「主」として、そこに自然崇拝の神々の中から当てはまる神だけを当て嵌めるといったもののようでありました。
それが今あるロシア正教のようですが、広い領土の中、ロシア正教の信者は40%程度のようではあります。
どうか一刻も早く、平和を願う民の心が届きますよう、祈るばかりです。
民の声が届くようなら、侵攻はなかったかもしれませんが…。
【膳八幡神社】さまの現在の社殿は、寛保元(1741)年に前橋城主【酒井忠恭(さかい ただずみ、前橋藩第9代藩主)】の命に依り再建に着手し、延享元(1744)年に落慶したもののようです。
前橋城主の命で造られたものということだけあり、そこここに見事な彫りのなされた、拝殿の裏に本殿のある本格的な造りの社殿であります。
元々白木のままの社殿であったよう思われます。
拝殿の中は質素とも思われました。
経年劣化を免れることはできず、かと言ってこれだけ立派に造られた社殿の修復はかなりな費用が必要、だからなのでしょう、本殿は覆屋で覆われてほとんど外から見ることはできませんが、わずかに見える本殿の土台部分が一部朽ちてもいるように見え、思わず目を逸らしました。
こういった建物の維持管理の難しさをあらためて感じます。
同じ前橋市にあります、前橋東照宮さんは修復工事の方が費用がかかるとの理由で、解体して新たな社殿を建て替えたくらいです。ちなみに…私はこの旧前橋東照宮さんの社殿が好きでありましたので、それを知ったときにはかなりショックを受けたものです。
かすかに見える本殿に施された彫刻の見事なさまに、なんとも物哀しい思いを抱きました。
こちらの拝殿の横に掲げられている絵馬がまた、透かし彫りの見事なものであります。幾重にも深さを変えては遠近をつけてあります。中央に両手を掲げ天を仰ぐ子供がおり、その子を愛おしそうに見守る女性が立っている、といった構図で、その上には花が咲き、鶴が舞うものであります。
見る方が見れば何か題材があってのものなのかもしれません。
境内の向かって左側には稲荷神社がありました。こちらも覆屋で覆われています。
境内向かって右側、鳥居をくぐって間もない辺りには白山神社さんがあります。
こちらは一見するとこの建物本体が白山神社のように思われましたが、中は土間となっていて、その奥に屋根のある小さなお社が中に祀られていました。
地元の方が管理されておられる神社さんなのでしょうが、毎日拝殿の扉を開けてくださり、広い境内は樹木が多いにも関わらず綺麗に清掃されており、こちらの神社さんが大切にお祀りされていることを感じました。
群馬県前橋市粕川町の【膳八幡神社】へ参拝させていただきました。
粕川町にかつてあった膳城。
以前からこの辺りを通ると、夫が
「この辺りに膳城という城があってね。城内で宴をしている時にちょっとした諍いが起こって、ほとんど武装していない武田軍があっという間に攻め倒してしまったということで、『膳城素肌攻め』と呼ばれる、情けないような落城で有名なお城なんだよ」
…とかなんとか語っていた、膳城のそばに、この膳城の守り神として祀られた八幡神社があるといい、そこに参拝したいと夫が申しまして、今回の参拝となりました。
本当は膳城趾とかを含めて歩きたかったのかも知れませんが、私が城址にまるで関心がないことを知って、言い出せなかったのかもしれません。
膳城址公園の駐車場に車を停めて、赤城山の雄大な姿に感嘆しながら、のどかな、畑の広がる道を歩いて参りました。
そんな道の突き当たりの辻に八幡神社さんはありました。
石の古びた鳥居。
そこから拝殿がみえます。
あ、お社の扉が開け放たれています。やったぁ。
何段かの石段を登って鳥居をくぐると…。みぎてにひとつ鳥居のあるお社が、ひだりてには手水舎があります。
こちらの創建は不詳なようですが、石祠だったのを鎌倉幕府の初代問注所執事(長官)・【三善康信】が建久年間(1190~98年)に社殿を築造し、膳城の守り神として【鶴岡八幡宮】さんの分霊を勧請したといわれる。
三善氏の子孫・【善】氏(後の膳氏)没落後は、大胡城主・大胡高繁の崇拝を受け、天正12年(1584年)に社殿を造営している。また、延元元年(1744年)に前橋藩主・酒井忠知の命で再建されている。
この珍道中録でたびたび出てまいります【上毛かるた】。
いろはの最後にあたる『す』は、
『裾野は長し赤城山】となります。
赤城山はその裾野の面積が富士山に次いで二番目に広いとされています。
その赤城山。
「赤城の山も今宵かぎり」とか「かわいい子分の手前たちとも別れ別れになる門出だぁ」というセリフで有名な国定忠治という博徒がいたようです。
そう、その国定忠治の生まれた地とされる国定に建つ【赤城神社】さんであります。
国定出身ということで、国定忠治と呼ばれているようですが本名は長岡忠次郎、であったようです。
この国定赤城神社さんの帰り道、すぐそばに国定さんというお宅があったようで
「国定忠治の子孫の方、なのかなぁ」と夫がポツリ。でもすかさず
「あ、でも本名は長岡だったか」と一人ツッコミを入れていました。
ヤレヤレ。
実はこちらの拝殿向かって右側のお社には扁額がなく、どなたがお祀りされておられるお社なのかわからず、社務所でお伺いいたしました。
「あちらは木花咲耶姫さまがお祀りされているんですよ」
とおっしゃりながら境内図をくださって、
「桜のころになると何種類もの桜が、少しづつ咲く時期をずらして咲いているので、ぜひまたお出かけください」
と。
ああ、木花咲耶姫(このはなのさくやびめ)さまが♡
お美しい見目と芯の強さで有名な女神さまにございます。
天照大神さまのお孫にあたられる瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の奥さまになられます。一度の契りでご懐妊なされたことを瓊瓊杵命さまに疑われ、潔白を証明するため産屋に火をつけ、火の中で出産なされたという神話がございます神さまにあられます。
ひと柱でこのように大きなお社でお祀りされておられるのは浅間神社さん以外ではなかなかないように記憶しております(ただしあくまでも私の記憶)。
社務所でお声がけさせていただくにあたり御朱印をお受けいたしました。
御朱印をお授けくださる際、二つのお菓子とたいそう綺麗な水引きをくださいました。
「あちらの方とご一緒でいらっしゃいますよね」と、かなり離れたところでうろうろしている夫の方を見ながらおっしゃいました。
「おひとつづつですが」と。
すごいです。
私とてどこに夫がいるかわかってもいなかったというのに。
ありがたいことにございます。
桜の頃。
コロナは少しでも落ち着いてくれるでしょうか。
大きな赤い鳥居からほどなく二の鳥居となります。どちらの鳥居も平成に建てられたもののようです。
そこから真っ直ぐに敷かれた敷石を歩いて、狛犬さまの見守る間を通って拝殿の前に。
【赤城大明神】と扁額が掲げられています。
そう、赤城神社さまと言えば赤城大明神さま。そして大己貴命さまと豊城入彦命さまとなります。
【赤城神社】は、「赤城」を社名とする神社で、群馬県にあります赤城山を祀る神社であります。
赤城山(あかぎやま、と読みます)は上毛三山の一つであり、大きな火山活動を何度か繰り返して関東平野北西縁に裾野を長く広げたたいそう美しい山であります。
群馬県のほぼ中央に位置し、県内各地からその姿をのぞめ、日本百名山、日本百景にも選ばれています。
赤城神社は赤城山を神体山として祀る神社であり、赤城山そのものに対する山岳信仰に由来いたします。
群馬県内だけで百社を超え、全国的にも関東地方を中心にして約三百社の赤城神社があるといわれています。
そのうちの一社で、国定と呼ばれる地域の村社であります。
後鳥羽天皇の御代に、頼朝公の家臣である安達藤九郎公が上野國の守護となった際社殿を創建したと伝えられているとのことで、かつてはここではないところに祀られていたようですが、昭和四年に現在地に移転したとのことで、もともとはこちらへは菅原神社さんがあったのだといいます。
いま、その菅原神社さんは拝殿向かって左に国定天満宮としてお祀りされ、右側には木花咲耶姫命さまがお祀りされる社殿があります。
拝殿の裏手には御本殿があり、その背後には古い石のお社がいくつもおまつりされていました。屋根の造りのたいそう凝ったものもある…と言いたいところですが、残念ながら壊れてしまい屋根のみ残されているようなものがいくつかあるという感じです。
その石のお社と一緒に、タオルを姉さんかぶりしていたものが解けたといった風に頭に乗せられたお地蔵さまがおられました。そのタオルがすでに苔むしており、それはそれで絵になるものの、お地蔵さまの頭に汚れ物が載っているとも思われなくもなく。
とはいえもう一つの絵のように苔むした布をお被りになられており、なんとも複雑な思いでお地蔵さまを拝んでまいりました。
うーん、何やら住宅街のよう。困ったぞ、Uターンできるスペースがありそうには到底思えないのです。
前からやってきた軽自動車と譲り合ってのすれ違い、いつものように神社の敷地にすら入れない裏手に案内されたら、これはかなりの難業苦行となりそうです。
!
おおっ!!
赤い大きな立派な鳥居が見えました。
これは神さまのお導きでしょうか、たまには我らがナビもきちんとした案内、きちんとした誘導ができるようです。
鳥居のほぼ前までやってきて…うーん?、またまた珍道中二人組が唸ります。
境内のなかに『参拝者駐車場』という小さな看板が見えるのに、鳥居のすぐそばには大きく『➡️国定赤城神社駐車場』とされているのです。
もちろんどちらでもよいと思うのです。が、鳥居の前で見る限り境内のなかにある駐車場へはどこから入って行くのかわからないのであります。
「えっ?ど、どうしよう」
「え?書いてあるんだから境内に入れさせていただけばいいんじゃない?(左側に)行けばどこか入るところがあるんじゃない?」
と、運転してもいないくせに簡単に言っておりますが、曲がったところで入口が見当たらなければバックで丁字路で方向転換するという、あの教習所の教習コース張りの運転を余儀なくされるのであり、さらに教習所とは異なり、後続車やら対向車(対向できるかどうかも難しい道)が登場してくるやも知れないという、スリリングな挑戦となるわけでして。
「じゃあ行ってみるか」
…結果から言えば、ヘアピンカーブしての侵入となりますが、入口はありました。
その入口は鳥居からは絶妙に見えないのであります。境内の駐車スペースは三台ほど。
…安心してください。停められますよ。
車を停めると。
すぐそばに手水舎がありますが『手水中止』とあります。そ、そうかぁ、こちらも中止されているんだぁ。
かつては(衛生面はどうなんだぁ⤵︎⤵︎)と泣きたくなるほど嫌だった手水鉢での手水の浄めも、出来ないとなると神さまに失礼な気がして気が咎めます。
ナビ同様天邪鬼な私で…天邪鬼を二人(一人と一台)を同行しての珍道中、これはかなりの修行であります。笑。
桜で有名な、群馬県伊勢崎市にあります【国定赤城神社】さんへ参拝させていただきました。
桜で有名なのにいま?
こちらは初めての参拝でありまして、駐車場情報がなく、桜を愛する日本人、どれだけの方が訪れるやも知れぬ時期に初めての参拝は危険かと、その時期を避けて参拝させていただくことにしたのです。
神さまの御もとにうかがうのに、最初からお花見を兼ねているなど、あまりにも失礼かと思ったこともございます。
群馬県内の御朱印を紹介するコーナーのある、地方の宅配フリーペーパーに何年か前紹介されておりましたのと、群馬県内の御朱印をお集めになられている方のブログなどでもよく取り上げられている神社さんでありますので、御朱印でも有名なところなのかもしれません。
あまり混んでいるようであれば遥拝させていただき後日また出直すつもりで、国定赤城神社さんを例のナビに入力して、向かった次第でありました。
細い道を入っていく、そんなナビ案内です。神社仏閣はそのようなことはよくあることではあるのですが、なにぶんにもなかなか天邪鬼な案内をするナビであることから、途端に二人に緊張が。
この道で大丈夫なのか?もし違ったらこの先Uターンは可能なのか?
珍道中をさらに珍道中に仕立て上げてくれる、そんな立派な(⁉︎)機能も搭載されたナビと付き合いすでに三年。
さて、珍道中の運命やいかに。
風が強いと思っていたら…吹雪いていました。
もうすでに積もっていました。
実は今日、寅年の寅の月、寅の日ということで、栃木県足利市の【大岩山毘沙門天】さまで特別護摩修行が営まれることになっております。
前回の二月六日に営まれた際はどうしても外せない用事があったのと、たまたま休日があたっていることもあり人が集まるかと思って、一日三回営まれるうち行けそうな回もあったのですが、あえて避けて今日、一人で行こうと思っていたのでありました。
それも山道の運転を避けるため麓の駐車場から何キロか歩くことを考えて。
無理だ。
無理です。
あきらめました。
…そもそもそんな予報は出ていなかったというのに。(TT)
たまたま外に出てみなければ、夫が出社するために玄関を開けて初めて気づいたこととなったかもしれません。
早くに気づけただけでも、ありがたいことです。
この本に書かれたお寺さんはじつに全国津々浦々。
私どもが行ったことのあるお寺さんはわずか五寺に過ぎません。まぁ、修学旅行で行ったお寺を加えればその倍以上にはなるものの、まさにこれから行きたいと願っておりますお寺さんばかりであります。
このコロナ禍。
夢で終わるか、行ける時が再び訪れるか…。
いずれにせよ、このコロナ禍だけは終息して欲しいもの。
日々神さまに祈り、仏さまに祈る私であります。
そして広隆寺にもう一体おられるという弥勒菩薩半跏像にはなんと「泣き弥勒・いしだ壱成」と名づけている。
いしだ壱成以外にも、あるお寺さんでは反町隆史似であるとか、松嶋菜々子似であるとかいろんな方似としてとらえ書いているのだ。
うーん。
さすがにそういう見方をしたことは未だにないけれど、たしかに、心惹かれるお顔立ちというのはあるのは事実です。
そこをズバッと書いちゃうところ。
小心者の私などは畏れ多くてヒエェとなってしまったものですが、エッセイ、書き物として読む分にはとっつきやすい…かもしれない。
そう、この本がぶつぞう入門、とあるのは、かつての柴門ふみさんが仏像に入門された時の頃のことを書いていることから、厳密にいうと(柴門ふみの)ぶつぞう入門(録)となるのかもしれません。
仏像入門の柴門ふみさんが、恋心を抱いて書くこの本は、仏像初心者にとって、これからお寺巡りを考えている方にとってまさにうってつけの本かと思います。
同じ(いつまで経っても)初心者でも私のような日本語もおぼつかない者が書いている駄文とは違い、ユーモアあふれる中、ふっと
『明王とは、じつは如来なのだ。如来が怒り狂って民を救おうとしてくれてる姿が明王だったのだ。不動明王ってキレちゃった大日如来が変身した姿だったのだ』
と、仏教入門者には、ホウっと学びが織り込まれていたり。
御開帳された御本尊さまを拝観するため出向いた先で、ありがたく拝んだ御仏像が、いつも祀られているお前立ちの御仏だったりしたという〝あるある〟をちゃんと書いてくださって、(ああ、私だけじゃないんだ)と安心感を(私に)与えてくれたりと、なかなか楽しくてためになる本だと思います。
ただ、厚く仏教に帰依されておられる方や、真面目な方にはちょっと(かなり)向かない本かと…。
ユーモアあふれるお坊さんなどは楽しくお読みになられることかとは思います。
現にこの本、あの瀬戸内寂聴さんとの対談も収録されておるくらいであります。
またその内容が、ぶっ飛んだ内容となっているのは言うまでもないのでありますが…。
この柴門ふみさんの『ぶつぞう入門』、のっけからいい。
『…
仏像の何がそんなにいいのですかと聞かれると、
「好きなものは、好き。恋と同じ。ある日突然、仏像と恋に落ちたのさ」
と私は答える。
「仏像にお詳しいんで」
「いいえ、まったく」
「専門的な勉強をなさったんで」
「入門書一冊、ロクに読んでおりません。ミロクと観音がどういう位置関係かもいまだあやふやです」
…』
そうそう。たしかに。
自分の空虚さに空しさとあせりを感じて、孤独感に押しつぶされそうになって、そんな中、自問自答して、ふと思ったのが、神さまや仏さまにお会いしに行くこと、でした。
古から、人々が救いを求めてすがり、畏れ敬ってきた存在に触れることもなく生きてきた私が、自分と向き合うにあたって、ふと、…まるで天から一筋の光が差したかのように、神さま仏さまのもとを訪ね歩きたいと思ったのも、柴門ふみさんと言葉こそ違えど、まさにある日突然、のことだったのです。
もともと突飛な考え、突飛な行動をとる私を、誰よりも“痛いほど”知り、知り尽くしている夫や子どもは、「へえぇ」とも言わず、夫は行動を共にしてくれ、子どもたちは温かく見守ってくれて、いまに至っておりますが、初詣もしなかったおばさんが百八十度方向転換したことに多少は驚きもあったのではないかとは思うのです。
まさにある日突然、です。
周りにとってだけでなく、何より自分自身にとってもある日突然、のことでありました。
柴門ふみさんと違っているのは、彼女はキチンとその後得たものを自分の知識として修められておられること。
私の場合は、ザルだっですもっと掬えるというくらい、勿体ないものをしゃあしゃあとこぼして、いまだになにも身になっていないという、それに尽きるかと思います…書いていて情けなくもありますが…。
この本ではまず、彼女が最初に向かうのが【広隆寺】そして【清水寺】、2000年のこととされており、清水寺の三十三年に一度とされる御開帳の時とされています。
そののっけから仏像鑑賞に出向いたと明言されており、広隆寺といえば弥勒菩薩、というくらいの弥勒菩薩半跏像をいとも簡単に『…でも私には完璧すぎて、抽象化しすぎていて、ちょっと「ゴメンナサイ」という気分になったしまう。とりつくシマのないスーパースター。それがあなた…以下略』と書かれているのだ。
一冊の本を読み終えました。
【ぶつぞう入門】という本です。著者は柴門ふみさん。漫画家さんのようです。
私はこの方の漫画作品をよんだことがなく、この本が〝柴門ふみ〟デビューとなります。
ふーん、でもドラマは観たでしょ?と思われるかもしれません。
この方の代表作は社会現象ともなった【東京ラブストーリー】でありますので。
ところが私、その〝東京ラブストーリー〟のドラマさえ観てはいないのです。「かんち」という主人公(?)の名前くらいは知っているのですが、そこまで。
しかも最近もリメイクしたのか、ドラマを放映していたようなのですが、そちらもまた未だ観ておらず。
あ、自宅にテレビがないわけではありません。ただ何となく。
なので、この柴門ふみさんという方の作品はこの〝ぶつぞう入門〟が初めてだったのです。
で、この柴門ふみさんのぶつぞう入門、まずはそのぶっ飛んだ内容に、目を白黒。
ま、漫画家さんってことだから…
…もしかして〝東京ラブストーリー〟ってギャグ漫画だったりします?
この本は漫画ではなく、エッセイで、随所随所に柴門さんの描いた仏像の絵が散りばめられています。
その絵、さすがプロ!ささっと描いてある風なのに凄いのです。
漫画チックに描いてみたものもあるのではありますが、それでもその仏像の特徴はしっかり描かれていて、とにかく上手い。
こんなふうに御仏の絵が描けたなら、幸せだろうなぁ。
で、そのぶっ飛んだ内容とは何かというと、
たとえば、ですね、
『…それと、どこにでもある空海像。(中略)相変わらず変な手つきで三鈷を胸に当てている。』
ひええぇぇっ。
あ、あのお大師さまを、ですよ。
こ、こんなふうに言ってのけちゃうなんて!
…たしかに変な手つきで三鈷を胸に当てておられる、んですがね。でも思っても口にすることのないことを、スパッと言っちゃう。
恐れ多い。
が、歯に絹着せぬ物言いがなかなか楽しいのです。おもしろいのです。
全国各地の仏像を見て歩き、その感想や、仏像の姿を言葉や絵で描いているのです。
これは凄い。
と、いうわけで、ただでさえ盛りだくさんな十五日。
そこへ涅槃会と自分の誕生日が加わる二月、いつも参拝している総鎮守さまと、義父と実父の墓参り。そうして群馬県桐生市の【観音院】へと参拝へ行ってまいりました。
観音院さんはかつての、コロナ前のような一般の方にも開かれた涅槃会を開催してはおられませんが、それでも御本堂へ上がり、涅槃図を拝することはできました。
ありがたいことです。
以前同様、御本堂を解放くださり、心ゆくまで御仏の前にいられるという、なんとも贅沢な時間を与えてくださいました。
お焼香の炭が消えていたのを新しいものをご準備くださり、そのあとは何を話しかけるでなく、今回もまた、自分のペースでの参拝をさせてくださるのでありました。
なんと贅沢な参拝でありましょう。
月に一度の日限地蔵さまのお縁日の時は御本堂にも人が多く(それでもコロナ前とは比較にならないほど少なくなっておりますが)、鐘の音も絶えず聞こえ、賑やかな中で少しの時間の参拝となりますが、普段の日静かな心落ち着く御本堂であります。
そして…。
誕生日ということで、仕事に行く前の忙しい時間を割いて、お嫁さんを封切りに息子や娘、友人から次々と心のこもったLINEが届きました。
こんな嬉しいことはありません。
本当に便利でありがたい時代となったことです。
私どもは足に自信がなく、未だその参拝を果たせてはいないのですが、群馬県みどり市の山の中に【寝釈迦】がおられるといいます。
寝釈迦のお像は、まさに涅槃におかれるお釈迦さまの最期のお姿を刻んだものであります。
【袈裟丸山(けさまるやま)】という山に寝釈迦、正確には釈迦涅槃像はあります。寝釈迦に至るまでニ時間はかかるといい、林道を歩く軽登山であり、登山靴やクマ鈴などを必要とすると言われています。
袈裟丸山の登山ルートのひとつ、塔ノ沢筋は、古くから修験道の修行の場でもあったとされます。
その沢筋の〝不動岩〟と呼ばれる巨岩に【釈迦涅槃像(しゃかねはんぞう)(寝釈迦)】が彫られているといいます。
像は、頭部を西に、長さ368センチ、幅130センチの大きさといいます。
そんな大きなものを誰が…。
像の造立は、弘法大師説や、足尾銅山でなくなった人々の魂をしずめるためともいわれていますが、江戸時代後期の思想家高山彦九郎の天明2年の旅行記「沢入道能記(そうりみちのき)」に「近の作なり」記されていることから、それ以前にすでに存在したと考えられます。
像のある塔ノ沢筋には、〝相輪塔(そうりんとう)〟、〝賽米之塔(せいまいのとう)〟、〝不動岩〟、〝不動の滝〟、〝般若の滝〟、〝賽の河原〟と呼ばれる景観がみられるのだといいます。
寝釈迦は善光寺信仰とも関係するとされ、袈裟丸山には弘法大使伝説も伝えられているように、沢筋は様々な信仰がまじわった場所であったことがうかがわれます。
うーん、と、登山かぁ。
明日二月十五日は涅槃会。
涅槃会は、お釈迦様が八十歳で入滅(にゅうめつ)されたとされるニ月十五日に営まれます。
実際に、お釈迦様が入滅された日ははっきりとはしていませんが、南伝仏教ではインド暦の二番目の月がヴァイシャーカ月の満月の日と定められていることから、一般的に二月十五日とされています。
入滅は涅槃に入ったということであり、涅槃はニルヴァーナの和訳で、煩悩や迷いがなくなり、悟りを開いた境地を意味するのだそうです。
涅槃会は、日本では飛鳥時代に奈良の興福寺で始まったと言われています。
涅槃会では、お釈迦さまが沙羅双樹の木の下で、頭を北にして西を向き、右脇を下にした姿で臥している最期の様子を描いた【涅槃図】を本尊として掲げ、お釈迦さまの最後の教えを伝える【遺教経(ゆいきょうぎょう)】をあげらのだといいます。
京都では、涅槃会は春の風物詩として親しまれているのだといいます。また旧暦のニ月十五日にあたる三月十五日に涅槃会を営む寺院もあります。
涅槃会の際、東福寺や泉涌寺では日本最大級の涅槃図や本法寺では長谷川等伯が描いた涅槃図など、各寺院では普段は見ることのできない涅槃図が公開されています。
また、花供御(はなくそ)と呼ばれるあられを授与する寺院もあり、食せば無病息災になると言われているといいます。
何年か前、参列させていただいた涅槃会は団子を配っておられたり、お団子の入ったぜんざいを振る舞っていただいたものでありました。
このコロナ禍、そんな一般の者にも開かれていた涅槃会は中止されてしまいました。
それぞれのでお寺お寺の涅槃図は全て異なり、みな素晴らしいものだありました。
涅槃図を拝することができるのは通常は今の時期だけであり、まさに一日だけおまつりするお寺さんもあるくらいです。
コロナ禍となる前、よく伺わせていただいていたお寺さんは、まさに二月十五日、一日だけ壁に掛け、朝の六時(五時だったかもしれません)に遺教経をお唱えするのが涅槃会だとおっしゃっておられました。
明日涅槃会。
まぁ、義父も実父も十五日が月命日に当たるのでお寺さんにはうかがうのですが…実父のお寺さんの涅槃図は拝見したことがありません。
お声がけしたら二つ返事で見せてくださりそうなご住職さまでおられるのですが…。
そして…私の誕生日でもある、二月十五日でありました。
一台しか停まっていないこちらの駐車場。資料館の方に一声かけて、薬師堂まで徒歩で向かいます。
このご時世なので、資料館に入室しますと、皆、体温測定はもちろんのこと、住所氏名、電話番号まで記入した用紙を提出するようです。
薬師堂はここに来るまでの道中、通り過ぎてきておりますので、場所はすぐにわかります。…交差点で夫は左に、私は右に向かおうとしたというちょっとした食い違いはありましたが…。もちろん、夫に従いましたとも。(^_^;)
御堂まで三、四分、といったところでしょうか。畑の横を通って行きます。
ここからの景色は先ほどの駐車場などよりももっと雄大です。
目前に赤城山がその大きな姿そのままに広がっています。
こんなところで日々畑を耕す。
なんだか羨ましいくらいです。
もちろん農家さんは天候で左右され、休みのタイミングも自然任せ、寒くとも暑くとも、畑の仕事は待ってはくれません。大変なお仕事です。
…そう、たまたまそこで作業されていたご夫婦も軽く口論されていたくらい…。
さ、薬師堂へ向かいましょう。
薬師堂は畑と畑のあいだの道の辻にあります。御堂の前に、向かってひだりてに馬頭観音さまがお祀りされています。
その薬師堂内には、ニ体…正確には二基の薬師如来がお祀りされていました。
向かって左におられます、右手を上げ掌を外側に向けた施無畏印(せむいいん)を結び、左手には薬壺を持つ、素朴な造りのお薬師さまが戦国時代の作と伝えられています。
光背がほぼ欠けてしまって、奇跡のように頭部だけきちんと残されています。
もうお一人のお薬師さまは江戸時代のものとされているようです。こちらはお腹のあたりに薬壺をお持ちになられておられます。
こちらのお薬師さまは〝目の神様〟として地域の人々の信仰を集め、毎年十一月十二日を縁日としていると、馬頭観音さまのそばに立てられた看板に書かれていました。
のどかな畑道をもと来た道とは逆に歩き出しました。
…そうなんです。先ほどの交差点、右に行っても左に行っても同じ道につながっているのです。
だから夫も正解、私も正解ということだったというわけで。
こちらの道は先ほどの公園の端を通って行く道となります。笹がたくさん生えていて、サワサワと風の抜けるたび音がいたします。
のどかなゆったりとした気分を味わうことができました。
群馬県みどり市の【長昌寺】のすぐそばには縄文時代の遺跡が発掘されたという場所があり、そこに公園が造られていると聞いたことがありました。
みどり市笠懸町というのは、日本の歴史を学び出すにあたり、そのまさに初っ端に登場する、『旧石器時代』が日本にも存在していたことを明らかにした遺跡が存在するところ、なのであります。
この旧石器時代の遺跡とは異なり、長昌寺さんのそばのものは縄文時代の遺跡となります。
その遺跡跡に作られた公園ということで、歴史オタクの夫にはできた当初に伝えたものの、なかなか行く機会に恵まれず(私がまるで無関心であることが一つの原因なのかどうかは定かではありません)、ようやくそこへも足を伸ばす機会を得たというわけであります。
ここへ行ったという方のお話で、
「なんにもないただの公園だよ」と聞いていたことはさらに私の関心を失わせたことは言うまでもなく、今回、夫の気がすむまで付き合うとするかと思ってそこに向かいました。
…。
…こういった歴史に関心のある方や、子供たちの歴史への関心を引き出すためには、まぁよい公園なのかとは思います。小さいながらも資料館もありましたし、そこには先に述べた旧石器時代の存在を明らかにした考古学者、【相沢忠洋】氏が実際に使用していたというメジャーの展示もありました。
あとは…、かつてここから発掘された住居跡を再現したものとかがポツンポツンと点在する芝生の広がる公園でありました。
この公園で一番感動したのは、ここから見える赤城山の姿!でありました。
関心がないというのはそんなものかと…(^_^;)
私の密かな目的は、さらにここからすぐそばにあるという、『薬師堂』、でしたし。
まさに江戸の時代の人たちと同じで、〝小高いところ〟としか思えない感覚の私。
ふーんと見上げてみてそれでおしまい、それよりも辺りにある石仏さまに胸ときめかすおばさんでありました。
ほとんど鑿を当てずに作られた素朴な造りの石仏さまは、あの、忍者の代表的な(?)ポーズ、〝ドロロンパ〟とするときにする二つの手を胸の前に組んで人差し指を立てるあの〝印〟を結んでおられます。ただ、その御仏の御像は無惨にも頭部をなくされており、石が乗せられている状態でありました。
愛おしそうに両の腕で赤ちゃんを抱きしめておられる観音さまの石像。
こちらにおられる石仏さまは年代を超えてやわらかな優しい表情をされておられます。
うーん、し・あ・わ・せ♡
円柱の庚申塔や、己待供養と書かれた石碑など、はじめて目にするようなものがたくさんあります。
白梅が一分咲きの時を迎えていました。
小ぶりですが枝振りのよい枝垂れ桜の木もありました。
裏手の墓地にまわって、古い石仏さまと、古墳を拝見していると、ご住職さまが何やら手に持ち私どものところへとお越しになりました。
わざわざご由緒書きをお持ちくださったのです。
申し訳ないことです。
由緒書きによりますと、
『…天保十一(1840)年の火災により、本堂、庫裏、不動堂、表門等は全焼したが、本尊、過去帳、御納物等は消失を免れた。現在の本堂は天保十五年に再建されたものである』
ちなみに天保の火災により、当時の住職は7日間の「遠慮」という処罰を受けたとの記録が残っているということでありました。
「遠慮」とは江戸時代の軽微な刑罰で、現在でいう謹慎のようなものなのようです。
いただいたご由緒書きは、ちょうどハガキ二枚ほどの大きさで、御本尊さまのお写真がその一面いっぱいに、まるで絵葉書のように美しい仕上がりで印刷されたもので、その紙の材質もまさに絵葉書のように厚手の立派なものでありました。
そのお写真となる御本尊さまは聖観音さま。
御本堂を覗いて見た(苦笑)際には、黄金に輝く御厨子のみが見えましたので、普段は厨子の中におられるようです。
ご由緒書きによると、元々は阿弥陀如来さまが御本尊であったようなのですが、こちらを中興した領主である旗本久永氏が江戸小石川の廃寺となってしまったお寺の本尊をたくし、以降聖観音さまが御本尊としてまつられたようで。
それ以前からの御本尊であられた阿弥陀如来さまは御本堂に安置されておられると書かれています。
聖観音さまの修復を平成二十六(2014)年に行われており、その際聖観音さまの胎内よりその謂れ書きが出てきたようです。
さて長昌寺の墓地には2基の古墳があることは前述いたしましたが、『長昌寺A号墳・B号墳』という名称で呼ばれているようです。
A号は径17m、高さ2.5mの円墳で、7世紀前半の築造と推定されるているもののようで、墳丘を囲むように石仏や庚申塔が多数並べられておりました。墳丘上にもなにか石標のようなものが置かれていました。
B号は径20m、高さ2mの円墳で、6世紀後半の築造と推定されるもののようで墳丘は削平されており、歴代住職の墓になっているようです。
ご住職いわく、「ここが古墳とも知らず昔は墓を建ててしまっていたので」と。
たしかに、古墳と書かれていなければそうとわからないくらいの小高いところ、でしかありません。
群馬県みどり市の【長昌寺】さんへ参拝いたしました。
広い駐車場があり、そこから御本堂の大きな屋根が見えています。
こちらは境内に古墳が存在するというお寺さん…というか、古墳があるところにお寺がたった、ということになるかと思いますが、駐車場から見る限り、古墳らしきものは見当たりません。
御本堂前、向かってひだりてに手水舎がありました。
手水鉢のすぐ横にカエルの親子の石像が置かれています。
その親ガエルの背中、子ガエルの横に異質の石の何かが乗っています。
…、…!!小さめの、光背のあるお地蔵さまではないですか!
何故?なんで?
ちゃんとコンクリートかなにかで固定されています。
どうして?
まるで石の質も異なり、決してコラボを考えてのものではないと思われます。
そんな奉納があったということなのでしょうか。
気を取り直して御本堂の前へ。
大きめの陶の香炉が置かれています。お線香もマッチも置かれています。
が…灰が少なくて、しかもなんとマッチの吸い殻が灰に立てられてしまっているではないですか。
思わず固まる二人。
気を取り直し、持参した短めのお線香ならばこの少ない灰に立てられると思い、火を付けました。
夫から先にお線香を立て合掌礼拝、ひと足遅く私が手を合わせました。
合掌を解くと、夫が誰かに挨拶をしているような感じで…、私にも「ほら」と声をかけます。
夫より髪のある(あ、…笑)普通の洋服を着た、男の方が一人、こちらに歩いて来られます。
(だれ?檀家の方?)と思いながら私もご挨拶いたしました。
「どうぞこちらをお持ちください」
?なんでしょう?
〝お供物〟、…って、まさかこの方、ご住職さまぁ?
うかがう前に拝見したホームページによりますと
『天元元年(978年)慶範和尚の開山と伝わる。その後、寛永2年(1625年)に忠慶和尚の開山、当地領主の旗本・久永源兵衛重勝の開基で中興されている。創建から中興までの期間が長く、またその間の資料もなく、創建に関しては不明な点が多い。
本堂は天保11年(1841年)に焼失、同15年(1845年)の再建』
とありました。
「歴史あるお寺さんのようで…」と申し上げましたところ、
「それは別の場所にあった寺で、それを江戸時代のはじめにここに持ってきたというものなので、ここはさほど古いものではないんです」
そ、そんなご謙遜を。
昨日、引きこもりのための本との出会いを求め少し大きめなスーパーの中の書店に立ち寄りました。
関心あるジャンルがほとんど被らないので、神社仏閣めぐりの時以上に夫とは別行動です。
新刊の文庫本とコミックと、話題の本、趣味どきっっというNHKeテレのテキストをながめたらもうおしまい、夫のいそうなあたりを探しました。
あれ?あんなところに…。
昨今異様なくらいに増えた御朱印関係の書籍のコーナーの付近におりました。
そのすぐそばに群馬県についての書籍がジャンルを問わずまとめられたコーナーもあるのですが、今までの夫はあまりその辺りにいたことはなく、大概がクルマ関係の雑誌コーナーにいたのですが…。
私は御朱印はその時の〝出会い・出逢い〟だと思っているので、こと、最近は全くこの手の本にあまり関心を持っておらず、さらにはコロナ禍ということもあり、ましてやこの目を覆いたくなる新規感染者数の昨今、行きたくとも行けやしないところの情報はもうすでに溢れるばかりに集めてあります。
とはいえなにが彼をそんなに惹きつけているものかと近寄って声をかけたところ、
「高野山、行きたいねぇ」
まさにそのタイトルずばり〝高野山〟という背表紙を見ては申すのでありました。
はいはい、そうだねぇ。
私の好きな〝古寺巡礼〟シリーズの書籍が、暮れに見た時よりずいぶんと増えて並べられていました。
そう、どちらがメインかはわからないものの、神社仏閣のガイド本も、こちらのコーナーに並べられているのです。
〝弘法大師空海の寺を歩く〟という本を二人同時に見ていたのでしょう、
「弘法大師のお寺巡り、行ってみたいねぇ」と夫。
そうだねぇ。
「坂東三十三カ所の本は持っていたんだっけ?」
「ううん、それは持ってないけど」
…だってネットで調べられるじゃない、という心の声は、さすがに本屋さんの中では出さなかったものの、その本を手にした夫の嬉しそうな横顔を見て、これはもしかして欲しいのかも知れないと、さらにその言葉は私の中で打ち消すことといたしました。
「これ買おうか」
「いいんじゃない?いつか行こうと眺めているのも。
坂東三十三カ所ならば夢で終わらないで済むだろう身近な場所だし」
「誕生日のプレゼントに」
?
ああ、そういうことか。
そうね、もうすぐ私の誕生日だったわ。すでに涅槃会という感覚でとらえる自分になっていました
渋川八幡宮の参拝を終え、駐車場に戻ろうとしていると、先程〝カエル〟を選ばせてくださった、授与所の職員の方が勤務時間を終えられたようで、石標を出たところで一緒になりました。
「お疲れさまでした」
と、お声がけしますと、先ほどと同じ、やわらかな笑顔とお声で
「お参りありがとうございました。どちらからですか?」
と。
私がどこどこからだと申し上げますと、
「それは遠いところから。お気をつけてお帰りください」
その後も二言三言会話をして、最後はわざわざ車のまだまで開けてご挨拶くださってお別れいたしました。
…そんな一見当たり前のような会話をいたしました。
ですが…コロナ禍って、こんな当たり前な会話すら奪っていたりもします。
話しかけてもいいのかな?
話しかけると嫌がられるかな?
ノーマスクの方とは話さないで距離を取る。あたりまえなのだけれど、一抹の寂しさがよぎる。
逆にノーマスクでも平気で近距離で話しかけて来られ、それも十分以上の立ち話を平気で続ける方には、その方の常識を疑うようになった。
適度な距離をとってのみじかい、ちょうどいい会話。
…何と心地よいものだったでしょうか。
人とのふれあい、人との交流に飢えていた自分にあらためて気づきました。
八幡さまが参拝のご褒美をくださったような気がいたしました、素敵な笑顔との会話でした。
下山(笑)し、指示通りに進むと拝殿の前に戻りました。
なにやら盛りだくさんな神社さんでありました。
実は境内内、まるで運動会の万国旗の飾りなように思えるくらいに、墨書きの紙が紐にさがって飾られています。
川柳のような文章が、いくつもいくつも書かれています。
ほお。
うなづける内容のもの=共感できるものが多々あります。
…その全てが同じ字で書かれています。文章も同じ方のものなのでしょうか。
御朱印をお授けいただきに授与所にまいり、御朱印のほか、くだんの焼きものでできたカエルも購入いたしました。
このカエル、やはり願いを込めてカエル石の上に置くのだそうですが、私は連れて帰ることにしました。
大きさは三種類あって、小さなものは五百円、大きなものは千五百円。
参拝者は何人もおられましたが、いつも参拝されている地元の方のようで、授与所には私一人ということもあり、カエルを連れ帰るという私に、「お好みの物をお選びください」とおっしゃってくださり、いくつかのカエルをお盆に乗せて見せてくださいました。
「焼きものなので一つ一つ顔が違っているものだから…」と。
一番生き生きとした目のカエルをお受けしてまいりました。
そして。
あの、〝登龍門〟と書かれたところに行き、階段を登っていきましたところ、何やら石が組まれたようなところになっていて、そこで何をするのか、さっぱりわからなかったのですが…。
とりあえず登龍門のてっぺんまで行って…下山してまいりました。
なにが登龍門なのかわからないまま、狐につままれたような気分でありました。
それでもまだ、拝殿の扉は閉められずそのままにしてくださっておられ、拝殿の扉が開いていると、なんだか神さまに直接お会いできたような気持ちがいたします。
…本当は鳥居をくぐらせていただいた時点でもう、いや、渋川市に入った時点から、八幡さまのもとに参じているのでありますがね。
こちらの拝殿は明治に造られたもののようで、本殿は江戸時代のもの。本殿の屋根は明治時代に茅葺きだったものが今のものに葺き替えられているようです。
そして本殿・拝殿のひだりてには、拝殿よりも少し小さめなくらいの社殿があり、出雲大社と恵比寿大黒社となっていました。
恵比寿大黒社の前には神楽殿があります。
その恵比寿大黒社のすぐそばに、群馬ならでは…なのか?大きな白いだるまがあり、たくさんの願掛けがされています。
だるまの隣にはまた鳥居があります。
鳥居の奥に進みます。
みどりあふれる静かな境内に七福神が鎮座していました。
その七福神の拝殿を過ぎると、何やら矢印があります。へっ?
そこは、さっきお参りを済ませだばかりの恵比寿大黒社の裏手、しかも当然薄暗く細い細い道であります。
ずっと進んでまいりますと、御本殿横に抜けました。
潜り戸をくぐって、本殿の裏手をのぬけると、木の根元にある洞にたくさんのまぁるい小石が詰められたものかあります。これが渋川八幡宮のご利益である〝子授子宝の石〟。
すぐそばに「こんな坂なんの坂」と書かれた看板と坂道が。
私は一体どこまで
行くのだろう。
坂の上には天神様が祀られていて、そのそばには本殿の縮尺さたものが立派な屋根付きで飾られています。
渋川市の八幡宮は、天然の岩を見立てて祀るふうがあるようです。
県道沿いに置かれていたイノシシのような岩のように。
それはいつ、どなたが始めたものなのか、どうやら十二支すべて、さらには〝高砂〟、〝カエル〟といったものもあります。
カエルに見立てられた大きな石には、素朴な焼きもののカエルがいくつもいくつも置かれています。
?
なんだろう。
何かの願掛けなのでしょう。
大きさも三種類あるようです。それがなんともかわいらしいのです。
ああ、筑波神社さんのそばのお土産屋さんで売っていたカエルの焼きものによく似ています。
…カエルがすごく好き、というわけではないのですが、かつてこどもの時分にテレビでやっていた(記憶というにはあまりにかすかなものになってしまっているのですが)、ケロヨンというカエルの、人が中に入って動く〝人形劇〟があり、そんな刷り込み効果があってのことかどうか…小さなアマガエルならば、かわいいと思うくらいには好きなようで。
きっとこの焼きもののカエルも、社務所に売っているに違いありません。
カエルに見立てた石は『勝かえる』『若かえる』という『願掛けカエル』となっているようです。
病気、悩み、癒し、直しなどの願かけができると書かれています。きっとこの焼きもののカエルを置いて願をかけるのか、それか願いが叶ったお礼にこの石に乗せていくか、どちらか、といったところではないかと思うのであります。
ようやく拝殿にたどり着いた時、スッと動く人影があり、中に点されていたろうそくの火が、消されました。
ああ、あと一息なところ。
【渋川八幡宮】さんは社伝によると、建長年間に渋川義顕公が創建、鎌倉にある【鶴岡八幡宮】を勧請したとのことです。
県道沿いにすぐ石標があって、紅い…神社さんの柱の角によく見られる、象の花を抽象化したような飾りが取り付けられています。?初めて見るものとなります。
しかも真ん中少し上、といったところ、石の柱に唐突に異質の紅い突起物。なんの、どんないわれがあるものなのだろう。
と、首をかしげた先に大きな天然石が置いてありました。大きな雄々しいイノシシを思わせます。
なにか書かれた看板があります。
イノシシ、ウリボウが八幡さまのお使いであること、自然環境と人間界の生活形態の変化で野生動物が迫害されていることを憂いた…といった内容が書かれていました。
ほうっ。そうなんだぁ。
と、神職の方による動物保護的な発言に心温まる思いを抱いて、その石標をくぐりました。
と。
ひだりてに凛々しい、例えがたいそう悪いのですが、漫画〝ドラゴンボール〟の〝神龍〟の正面から描かれた構図にそっくりなポーズの〝龍〟のおられる手水鉢があり、その龍の口から水が流れておりました。
…その奥、裏手に『登龍門』と書かれた看板があります。
?!
なんでしょう?
でも、まずはご本尊さまに参拝です。
左側の後ろ髪を引かれる思いで進むとすぐに鳥居があって、そのすぐそば、神さまの通り道とされる参道中央に六角形の石が設置されています。
真正面に〝百度石〟と書かれているのは読めましたが、あとは〝養志在沖○〟とか、私には読めもしなければ、当然意味すらわからない言葉が書かれています。
『お百度を踏む』という行為があるようですので、その際の目安石ででもあるのでしょうか?
さらに少し進み、左側通行をしていた私の背の高さより高いくらいの大きな石が置かれています。
ふっと見上げると、大きな大きな狛犬さまがおられるではないですか。
凛々しくもあり、可愛らしくもあり。
ええ、狛犬さまも大好きなおばさんです。
拝殿が石段の上に見えてまいります。
右手には大きなお札・お守り授与所があります。御朱印もここでお受けできるようです。
その建物の前に〝戌〟だの〝亥〟だの書かれた小さな看板が足元くらいの高さにあります。
戌?後ろには天然の岩があるのみです。亥の看板の後ろも同じこと。
ああ。
なるほど。
そんな【イニシャルD】の、聖地巡礼をしたわけでは決してありません。
たまたま、ずっと気にかかっていた神社さんに今回参拝できたならと、ナビで向かったところ、その神社さんのすぐ裏手に、主人公の通ったと(たぶん)設定される、高校名が映し出されただけなのです。
その神社さんは何度も参拝を思って、そこに向かってはたくさん停まっている駐車場の車と、ひきりなしに出入りなさる老若男女の参拝の方々をみて、このコロナ禍ということから怯んでしまい、すごすごとそこを車中から拝んでは(いつか必ず参拝させていただきます)と心の中で申し上げておりました。
今回、なんと!
その駐車場に停まっている車は一台!
やったぁ!
…そこで初めて気づいたのです。
ナビに映る渋川の公立高がすぐ裏手になっているのだということに。
もちろん、ミーハー心はここまでで、その高校を見に行くことも、渋川市内に何ヶ所かあるというイニシャルDのマンホールを見にも行かなかったですが、ね。
でも…かつて私どもの憧れの車の描かれた車だけのマンホールは、それが色褪せないうちに見ておきたいような気がするおばさん、なのですがね。(^_^;)
【イニシャルD】という漫画をご存知でしょうか。
…などと言っているくせに、読んだのは本当に初めの方くらいに過ぎないので、逆に全部読まれた方やファンの方に語られたら、それこそチンプンカンプンなくらい、詳しくなどはないのですがね。
ご存知ない方もおられるかもしれませんので、軽く私の知る限りを語れば、時代はいつぐらいかはっきりとはわからない…とはいえ登場する車からするともしかしたらまさに私や夫がちょうど免許を取って走り出した頃、なのかなぁと思えたり、それよりは少し後ぐらいの時代のことか…、と思っていたら、作品には199x年と書いてありました。
峠道で高速で走行させる〝走り屋〟の若者たちが描かれた漫画作品です。
ちなみにこの漫画の存在で走り屋という言葉を知ったくらいの私、読んでいてもこれまたチンプンカンプンな言葉がたくさん出てくるのですがね。
…よく話のとぶおばさんだが、神社仏閣の話をするはずなのに、どこまでぶっ飛ぶつもりなのかと、心配されたりためらわれたりなさったことかもしれません、ごめんなさい。
実はこの漫画【イニシャルD】の舞台、群馬県、なんです。
しかもその主人公が住む場所こそが、【渋川市】、なのです。
アニメ化、さらには実写化もされ、ゲームにもなっておりますが、漫画を読んでもチンプンカンプンなおばさんは友人や上司からご好意で貸していただいたにも関わらず、夫や子どもに観せて自分は家事をしたり寝たりしていたというヤツなのですが、漫画作品を見る限りでも、かなりリアルな描写がされており、それはもちろん車、でもあるのですが、渋川市をはじめ、群馬県内の(かつての)実際にある交差点であるとかお店であるとか、観光地であるとかが、実にリアルに描写されているのです。
そう、イニシャルDのファンにとって、かつて渋川市は〝聖地〟であったと思われます。
実際、渋川市もそれに応じて、マンホールにイニシャルDの絵を使っているのだということを、昨年娘から聞きびっくりしたのでありますが。
さすがに今はもうマンホールくらいしかイニシャルDを思わせるものは渋川市には残されてはいないのでしょうが、そんな聖地でありました渋川市の、主人公が通ったとされる高校のモデルとなった学校のすぐそばにも今回出向いたのでありました。
群馬県渋川市の【龍傳寺】さんの境内は、一見、新しく整備されたものにみえます。
実際、整備された、よく日の当たるきれいな墓地であります。
そんな墓地に、古い石仏さまのお姿が見えます。少し墓地入らせていただきますと、思ったよりもたくさんの古い石仏さまや石幢(せきどう)、五輪塔がおまつりされていました。
こちらのご本尊さまが釈迦如来さまであられますので、(おそらくは)釈迦如来さまの坐像がおられます。
その左側におられるのは金剛界の大日如来さま。(たとえるなら、忍者のよくする、両の手のひらを合わせて組んで、人差し指を立てる、〝印〟をお組みになられ、装飾品を身につけておられる、特徴的な御仏さま、大日如来さまのお姿であられます)
そしてお地蔵さまが何体かおられ、上半身を修復された観音さまが一体。…こちらの観音さまのお姿はほぼ元のお姿に戻されておられるのではないかと思われるほどに修復されているのですが、石の新しさだけはどうにもならないようで、それはそれで痛々しく思えた、観音さまの石仏さまでありました。
そしてその周辺に気づいただけでも三つ、石幢がありました。
石幢、これがまた私、たいそう好きなんです。
御仏さまがぐるっと彫られている、傘のついた石塔ですが、御仏の数はそれぞれの石幢によって異なります。
お地蔵さまであることが多いようですが、そこに彫られた御仏の可愛らしいことといったら!
そんな石幢がなんということもなさげに三つ。なんて素敵なことでしょう♡
なんと幸せな気分になれた参拝でありましたでしょう。
でも…。
私が、龍傳寺さんの情報を何から得たものか…未だにその〝発掘〟には至っておりません。
今後行きたい神社仏閣のメモを取るときには気をつけたいものであります。
掌(たなごころ)の御仏さまたち。
その一つ一つが実に丁寧に彫られています。ことに表情♡
穏やかで、やわらかな笑みを浮かべておられるかのような、実にお優しい表情をされています。
御仏によってはそのお役目がら、少し厳しい表情や、表情を消されたお顔をなされておられますが、そのくらいに、丁寧に彫られているのです。
どの石仏さまも苔むすほどに古いものでありますので、なかにはお顔もお姿も薄れて輪郭のみになられてしまわれた御仏さまもおられます。
ですがそうでない石仏さまは、お釈迦さまがおられ(…もしかしたら、です。それは私が如来さまのお姿だけでははっきりと断言できるほどの知識を得ていないからに過ぎません)、薬師如来さまがおられます。お地蔵さまがおられ、観音さまは、馬頭観音さまが多くおられますが、聖観音さまのお姿もあります。
閻魔大王さまと思われるお姿もあり、管原道眞公かと思われる像もおられます。(※注 私の私見にすぎません)
そのくらいに、掌の御仏さまたちのお膝元に過ごした私でありましたが、さすがにずっとそこにはいられません。
お名残惜しく思いながらも歩を進めその御仏さまたちの並んでおられる石垣の角をまがりますと。…まだ掌の御仏さまたちがおられました。
通常の、少し小振りな青面金剛さまのそばにも掌の御仏さまたちが並んでおられます。中には馬の駆ける姿の彫られたものもありました。
その中の一体に文字が読める御像がありました。『奉 天明○年 』とまでははっきり読めます。
て、天明?
○の字は確実に一桁の文字しか入りません。
浅間の大噴火は天明三年のこと。
埋没したかつてのお寺の跡を掘られた際に発掘できた御仏さまたちということなのでしょうか。
その際はきっと御仏さまたちだけを目的とせず、行方不明の方を探しての行いであったことでしょう。
…。
…、浅間の大噴火による多くの犠牲者の方々に、あらためて手を合わせました。
浅間の大噴火による犠牲者は、火砕流による方もおられましたが、村一つを押し流すほどの火砕流は、川を堰き止め、水害を起こして、さらにいくつもの村、何千を超える人の命を奪ったようです。
…さて。
私、渋川市の【龍傳寺】にいかなる理由を持って行きたいと思ったのか…。
御本堂前で参拝して、御朱印をいただいて、お供物までもいただいて、さて?
江戸時代、天明の浅間の大噴火で、その全てが埋没してしまい、さらには明治時代に類焼にてまたまた悉くその全てを失ってしまわれたという、悲劇のような運命をたどられ、大正時代に再建された御本堂には、おそらくは開山の頃より伝わる物は何一つとして残されてはおられない。
しかも江戸時代のあの天明の大飢饉という苦難の時代の後に場所を変えて再建されたお寺さんであります。
さらには再再建されたという大正時代ともなると、なかなか寺院等の細やかな彫り物をすることができる職人さんも減ってきていたのではないだろうか。
一体何が私を惹きつけたのだろう。
この日お会いできなかった、ご住職さまのお話かなにかをお読みしたのだろうか。
うーん、思い出せない。
…そうそう、薬師堂のお参りがまだでありました。
お参りを済ませて…。
!?
!!
こ、これは…。
これは!
ちょうど光背もふくめて私の手のひら大ほどの石仏さまがずらーり。
しかも皆、小さくおられるもの
その一体一体がていねいに彫られたものであります。
こ、これだ!!
ここに違いない!
この小さな小さな、手のひらに乗るほどの小さな御仏の石像に違いありません!
なんて素朴であたたかな…。
…お寺さんのご家族の方というのも、僧侶としての資格はお持ちではないかもしれませんが、やはりご自分がお寺という、御仏のお足元で暮らす存在で、無意識のうちに善い行いをするよう、身に染み込んでおられるのでしょうか。
お寺という特殊な環境下では突然の来訪者があることは当然と捉えて、その時できるおもてなしをするよう身についておられるのでしょうか。
嫌な顔一つせず、むしろ笑顔でお出迎えくださりることがほとんどであります。
…今回、御朱印をいただいても志納金もお求めにならず、さらにはお供物までいただいたから、というわけでは決してありません。
常々そのように感じており、そんなおもてなしを受けては我が身を振り返って反省するもののまた元に戻るという悪循環を繰り返してはいるのですが…。
ましてやコロナ禍。
あまり人と接したくはないと思われても不思議はない時代において、変わらないのがお寺さんであります。
たしかに御朱印等の対応をおやすみになられていたり、書置きに替えられたり等はあるかも知れませんが、こちらが恐縮するほどに、歓待してくださるお寺さんも多々あり。
相変わらずの無宗教者ではありますが、宗教の素晴らしさにだけはたくさん触れさせていただきました。
このまま無宗教のままで一生を終えるかも知れないし、一つの宗教にお教えをいただく身になるやもしれません。
…我がことながら、未だにどうなることやらわからない、フウテンのおばさんです。
背の高い大きな石碑を見上げて読み終えたとき、お寺に戻られたご家族の方か、それとも御用がある方か、女の方が庫裏に入ろうとしておられるのが見えました。
「こんにちは」とお互いご挨拶した後に、御由緒書きがございますか?とお聞きしようとしたのに、初めての方にお声がけするのに少し緊張する私は(…そうなんですよ、内心は、本当に。笑)間違って、
「こちらは御朱印をお受けすることができますか?」と、
コロナ禍前に身についた、かつてのいつもの台詞が口をついて出てしまいました。
(しまった!こんなコロナ禍だというのに、非常識な)
自分で自分が口にした言葉に慌てふためいていた私に、
「ああ、大丈夫ですよ。少しお待ちください。そちらに参りますから。
そもそもこの方、お寺の関係者かどうかもわからなかったんじゃないの?と思われた方もおられましょう。
そこは大丈夫。庫裏の鍵を開けておられたので。
お帰りになられたばかりなのに、嫌な顔一つなさらずにお寺の本堂に向かうためのもう一つの玄関からお出ましになられました。
私はその方の移動中に、御朱印帳を慌てて取り出しました。そもそも最近は御朱印帳を持って歩かないようになっていたので、あってよかったです。
しかも御朱印帳を受け取ってくださったので、直書きくださるようです。
最近はコロナ禍ということもあり、書置き対応のお寺さんや神社さんがほとんどです。
夫がようやくこちらへやってきました。相変わらずの別行動です 笑。
「へえぇ、ここに御由緒が書いてあるんだね」うんうん。
夫がその御由緒を読み終え、
「浅間の大噴火で、かぁ。悉く埋没かぁ…」とつぶやいたとき、
「おまたせしました」と、引き戸が開きました。
「ありがとうございます、お納めは…?」と申し上げますと、うふっと可愛らしくお笑いになって、
「その辺にコンビニがあるでしょ、そこに何かしらの募金箱があるから、そこにお気持ちをお納めください。うちは一切受け取っておりませんので」
へっ?!
さらに続けて
「こちらもどうぞ」とお供物と書かれているものを、ちゃんと二つお持ちくださいました。
御朱印帳をお渡ししたときには夫はそばにおらず、妻の私とてどこにいるものか知らなかったというのに…。
龍傳寺】さんの寺伝は、本堂隣の庫裏の前にある、背の高い見上げるほどの石碑に書かれておりました。
天正八(1580)年に、剣城の領主であった半田筑後守という方が、渋川市の常法院というところにあった一庵を改めて寺となし、〝玉輪山 龍傳寺〟と称したのが始まりといいます。
半田筑後という方の名を、もちろん私は初めて聞くのでありますが、なんでも、武田氏に仕えていたものの武田が滅び、その後真田信之公に仕えた方のようで、大阪の陣で名を残している方のようです。
天正十年に甲州征伐があり武田氏一族が滅亡し、本能寺の変が起きていますので、その二年前、ということになるかと思われます。
龍傳寺は天正九(1581)年に、信濃国松代の〝長国寺〟第二世禅師を招請して開祖と成し堂宇を営むこととなります。
それが、天明三(1783)年、浅間の大噴火により、伽藍は悉く埋没してしまったといいこれをもって寺域を現在の地に移したのだといいます。
明治二十(1887)年類焼にあい、堂塔伽藍悉く烏有に帰してしまったといいます。
大正十三(1924)年に本堂、昭和三十(1955)年にからの再建が叶ったのだといいます。
なるほど新しい建物、新しく整備されてたお寺さんです。
それにしても、実に数奇な運命を辿られたものです。
私はいつか行きたい神社仏閣を小さな手帳に書き出しています。
本からであったり、新聞や雑誌、フリーペーパーからであったり。
そんな中、ネットからであることはかなり多いものであります。
ふとした隙間時間に開いたネットから思いがけずに拾った情報など、まさに心躍るものです。…が。
ネットからの情報って、結構抜けていってしまうもので…。
なのでメモ的に手帳に書くようにしたのですが、これが実に適当で。
自分自身が書いておいたものなのに、どうしてそこに行きたいと思ったのか、さっぱりわからないことがあります。
(〇〇県)〇〇市の〇〇寺、としか書いていないことがあるのです。
…何故?
どうしてそこを参拝したい?
本人なのにわからない。
今回群馬県渋川市に向かうということで、その手帳を引っ掴みバッグに入れて出かけたのです、が…。
まさにそれ。
理由がさっぱりわからないで、お寺さんの名前だけが書かれているのです。
うーん、しかも住所とか電話番号すらもなく、本当にお寺の名前だけ。
大概がなんとかスマホで検索が可能なんですけれどね。
でもどうしてそこに行きたいと思ったのかは本人にしかわからない。せめて何を見てそう思ったのかくらい書いてあれば。
…それは今後の課題とすることで。
で、今回書かれていたのは、【渋川市龍傳寺】とのみ。
行けばわかる。
わかるはず。
わかるかもしれない。
…わからなくとも、きっと心に響くものを得ることでしょう。
…ということで、次に向かったのは龍傳寺さん、でありました。
綺麗に整備されたお寺さんです。
前述の群馬県渋川市の宮田不動尊保存会についての記事は、地元で各戸に配られ、さまざまな観光地などに配置されるフリー冊子に書かれたもののようでありました。
そのページの部分のみが貼り付けられたネット情報でありましたが、こんなご苦労のもと、今の宮田不動尊さまがあるのだと初めて知ることができました。
あの、お優しい方々によって今なお守り継がれている…そして宮田地区の方々の心のよりどころであり、御守護くださっておられる宮田不動尊さま。
いつまでも続いてほしいとあらためて思った次第でありました。
(宮田不動尊保存会の方々、続き)
貞享元(1684)年、前橋城主・酒井侯の家臣、古市剛が著したという『前橋風土記』に、宮田の不動堂の記述があるが、それ以前の資料がなかったという。
とはいえ、由来こそ不明でも地域で厚く信仰されてきた宮田不動尊に大きな転機が訪れることとなる。
明治四十二(1909)年、さきに行われた廃仏棄釈の影響から状況が一変したのだという。(廃仏棄釈のときからはだいぶ時が経過しているようには思うのですが)
無格の小神社とともに新しく作られた『宮田神社』に吸収され、それまで認められてきた〝独立仏堂〟の扱いも無効にされ、『奥の院』や『仁王門』は解体・売却され、県の仏堂台帳から削除されてしまったのだという。
ここから不動尊さまと地域住民にとって不遇の時代は二十五年も続くこととなる。
転機が訪れたのは昭和九()年。
当時、群馬・栃木で行われた陸軍特別大演習の記念事業として、村内の名所や旧跡をまとめた書籍を制作するため、関係者が不動堂のあった洞窟に入ったところ、明王像が倒れた状態で発見されたのである。
この際、石造仏の継ぎ目に銘文が見つかり、建長三(1251)年、掃部権助源朝臣氏義(かもんごんのすけみなもとのあそんうじよし)の発願により、仏師の院隆と院快によって造られたことが明らかとなる。
長らく不明だった由緒の突然の判明。
その後、地域住民が県にかけあい、不動尊は昭和十五()年に独立仏堂は復活し、翌十六年には当時の文部省から重要美術品の指定を受けたが、苦労はまだ続いたのだという。
当時の宗教法により、仏堂はいずれかの寺院に所属するか、寺院として独立する必要があった。
新寺院の建立には、二百戸以上の檀・信徒と、三十坪以上の建物が必要だったのだが、当時の宮田には百三十戸程度しかなかった。
そこで地域の人々は隣村住民を信徒に勧誘。買収や交換で土地の取得に努めた。
また、隣村にあたる樽村出身で、『東京・高輪泉岳寺』の住職だった小坂氏の全面的な協力のもと、昭和十九()年、泉岳寺の末寺として、本尊に不動尊像を祭った『曹洞宗宮田不動寺』を建立し、今日に至る、のだという。
実は…。
この東円山観音堂さんの千手観音さまのことをネットで調べていて、上杉謙信公の名前が出てきたことで、渋川市のことを少し調べておりましたところ、偶然、宮田不動尊さまの保存会のことの書かれたものを見つけました。
【石造不動明王立像】が、渋川市の誇る国指定の重要文化財、宮田不動尊の正式名称である。
岩山にある自然洞窟に安置されている。
原則として年に一回、一月二十八日の大祭にしか開帳されないため、当日は宮田地区はもちろん、市内外から多くの人が訪れる。
「お不動さまは、古くから宮田地区の住人が守り、受け継いできたもの。宮田の全戸は不動寺のだんかなんですよ」と、宮田不動尊保存会の特別世話人は話す。
地区では、自治会とは別に保存会が組織され、同寺と共に不動尊を管理している。
一人だけいる永代世話人は終生、各戸に順番で回ってくる特別世話人五名は最低五年以上、世話人十二名は一〜二年の任期をつとめる。
(中略)
古来、こちらの不動尊は、村内はもちろん近郷在住の尊信が極めて厚く、初不動の祭典には数千名もの人々が参拝に訪れたと伝わる。
不動尊の造立年代、作者、願主などは、長らく不明だったという。
こちらの…東円山の千手観音さまについての御由緒は何一つ書かれておらず、立派な案内看板に書かれていたのは、鰐口と石仏さまが、旧北橘村の文化財であるという案内が書かれているのみでありまして。
帰宅してからネットで調べたところ、一年に一度御開帳され、かつては一月十七日であったものを、今は一月の第二日曜日に行うようになったとか…。
その際は【雙玄寺】さんというお寺さんのご住職さまが法要を営まれるようです。雙玄寺さんの境外堂であるかどうかまでは調べられませんでした。
永承四(1049)年に、順永という僧が、行基作と伝わる千手観音さまをこちらに安置されたことがはじまりだとされているようです。
上杉謙信公も信仰されたと伝わる、由緒ある観音さまのようで、その年一回の御開帳には近隣の住民のほかにも多くの人々が訪れる、たいそう賑やかなもののようです。
たしかに上杉謙信公はこの近くに居を構えたことがあるようですので、それは単なる言い伝えだけではないのかもしれません。
うーん、こちらの御開帳に参列させていただく時はいつになることでありましょう。
そしてまたまた覗きを企てるおば(か)さんが一人。
お堂の中には炎の形をかたどったかのようなお灯明立ての台が、中央に置かれています。
ご本尊様であられる千手観世音さまは御厨司の中におられるようです。
シンプルですが、綺麗に片付いた空間でありました。
観音堂の壁面には奉納された絵馬がいくつかあります。
お堂の参拝を終えて。
お堂の向かって左手にはさらに奥があり、古い墓石や石仏さまが見えているのですが…。
洞穴(どうけつ)の塞がれたものなど見え、何より竹林に、風が抜けるときのカシャカシャと鳴る音がなんとも怖くて、恐くて、観音堂より先へは行く気にならず…。
御仏の御堂を覗くような、神をも畏れぬおばさんのくせに、怖いものは怖いんです。恐いものは恐いんです、はい。
いつもなら(へっ⁈)って思うくらい奥へと向かう夫が、こちらではそちらの方へ向かおうとせず…。
うーむ。…。
というわけで、早々に御堂をあとにして石段をおりました。先ほど、釘付けになっておりました〝庚申地蔵さま〟をもう一度拝んで。
そこに並んでおられる、小さな石仏さまたちにご挨拶いたします。
馬頭観音さまがほとんどのようです。
仁王門を抜けて、先ほどの細い登り道を登って鎖の隙間を抜けて…。
少し大きめな声でご挨拶申し上げて、車を出しました。
下山(笑)しても、なんだか駐車場らしいものは見当たりません。
あのお宅の方にお会いできて、ご好意で車を置かせていただけたこと、本当にありがたいことでありました。
(また、前レスを少し手直しをしての再投稿です。すみません)
そうして…。
その(不動明王さま改め 笑)勝軍地蔵さまを拝み、観音堂へ向かおうとして振り向いたときに、石段のすぐそば、境内の左側におられる、なんとも素朴な掘り方をされている一体の石仏さまが目に入ります。
(…青面金剛さま?)。
なんだかスカートを履いてでもいるかのようなお召し物をつけておられるように見え、斜め掛けのお荷物をしょっているかにも見えます。
左手には何か小さな物をおもちのようで、右手には大きく長い杖のような物をお持ちです。
まるで子供が描いた絵のような、子供が彫って造ったような素朴さが大変可愛らしい、御像です。
ちょうど頭の部分に緑の苔が生えて、まるで頭髪のようなのも可愛らしさをよりプラスしています。
『奉 造立地蔵菩薩』と頭の上に彫られています。『庚申供養二世安楽』とも彫られています。
庚申供養のために造られたようですが、通常青面金剛さまであるはずのものが、お地蔵さまが(…正直申し上げますと地蔵菩薩の文字がなければ決してお地蔵さまとは思えません。さりとて青面金剛さまにも見えはしないのではありますが…。)彫られているのです。寛政八(1668)
年の建立のようです。
見たことのないお地蔵に目は釘付けであります。
それでもひと目見て青面金剛さまだと思ったのは…、この石像がもともと庚申のために奉納され、ずっと長いこと祀られていることで、そうしたオーラが生まれたのかもしれません。
本来なら石段を登って観音堂へと向かうのですが、もう目も、何よりも気持ちが釘付けです。
ひとしきりその庚申地蔵さまのもと、いろいろな表情を拝し、手を合わせたのち…、ようやく石段を登ったのでありました。
石段を登ると…。
さほど大きくはない観音堂、御堂に、およそ似つかわしくはないほど大きな鰐口が掲げられています。
この鰐口については、かつてこの地区が渋川市に合併される前の北橘村と呼ばれていた頃には村の重要文化財であったようです。
明治時代の作ではありますが、何より直径百二十糎という大きさで、歪みもないもので、その青銅鋳造の高度な技術に対して評価したもののようです。なんでも鰐口というのは梵鐘よりも鋳造が難しいのだといいます。
鰐口を打って、手を合わせます。
…などと書きながらも、ただでさえ記憶力という能力の低い、さらには加齢によりそれが著しく下降曲線を描いて低下している身といたしましては、撮りためてまいりました写真を見て振り返りをするのであります。
で。
こちらの千手観音さまへと訪れた際にお不動さまだと思い、前レスでもそのように書いた、〝小さな小さなお不動さま〟と書いておりました写真を、何気に拡大してみたところ…!
『愛宕山』と光背(?)部分の上部に彫られているではありませんか!
【愛宕山】でありましたら、愛宕信仰、愛宕権現さま。
【勝軍地蔵】さまではないでしょうか?
ズームした画像ではたしかに馬に乗られ、錫杖と剣をお持ちになられた方の御像となっていました。
これだけの情報から、あの手水舎の奥にひっそりと居られた小さな石仏さまは、お不動さまではなく、勝軍地蔵さまで間違いありません。
ここにお詫びして訂正させていただきます。
群馬県渋川市北橘(ほっきつ)にあります、【東円山観音堂(とうえんざんかんのんどう)】の仁王門を入ってお堂へと続く石段のすぐそば向かってひだりてにあります、石仏さまは【勝軍地蔵】さまの御像でありました。
そうそう、リアルにこの地点にいた時にはこちらの正式な名称もわかっておらず、×△○…などと仮を立てて(不敬な!)おりましたが、東円山観音堂という名称でありましたことを、ここから先の観音堂を参拝させていただきましたのちに、初めて知ることになるのです。
…もしかしたら…。
この鎖からの急な坂をおりていくところは、こちらのお宅専用の参道、なのかもしれません。
結構無理やりな急坂な道(?)であります。
そこをおりると、すぐ先ほど上からみえていた山門、仁王門のまえとなります。
大きなものではありませんが、お寺というわけでもない御堂には立派な仁王門であります。大悲殿と書かれた額もあります。
仁王さまの像も近年塗りなおされたのか、きれいな赤い色をされています。目の大きな、親しみのもてるお顔立ちの仁王さまであられます。
門をくぐると。
竹藪の隙間から木漏れ日のさす、なんとも幻想的な空間に、たくさんの石塔、石仏さまが並んでおられます。
向かって左側にはあまり見ない青面金剛の石碑がいくつか。特に円形の…例えるならパンケーキ型?なものは初めて見る形です。
さらにやはり見たことのない、彫りが経年により薄れてしまった坐像が二体並んでおられます。
一体はあぐらをかくように、もう一体は脚を広げてしゃがんでいるような、着物姿に袴を履いているかのように見える坐像、であります。胸元が結構はだけています。
その着物姿の石像は見ようによっては頭に髷があるようなないような…。千八百年の年に奉納されたもののようですので、もしかしたらお侍さんの石像なのかもしれません。
お侍さんの石像で、ましてやそんなふうにしゃがんでいる石像は、初めて見るものではあります。
石像に詳し詳しいわけではないので、私が見たまま感じたままに書いているので、間違っているかもとは思いますが。
そのお隣には閻魔大王さまと奪衣婆さまが並んで座っておられます。こちらの方が若干古いもののようですがこちらの二体の方が彫りがしっかり残っています。
そのまたお隣には背の高い、すらりとしたお地蔵さまがおふたり並んで立っておられます。
その横には手水舎があって、その奥に小さな小さなお不動さまが立っておられました。
さて、反対側、みぎてには。
小さな観音さまたちが並んでおられます。
曲がりくねった細い道を登っていくと、民家の駐車場の入り口となっていて…さらに奥へと道は続いているにはいるのですが。
「ここを奥に行くのかなぁ」
うーん。
なんとなく、私たちのどこかがそれを否定しています。
ナビは設定できなかったため、頼ることは出来ず。
私たちの第六感が違うんじゃないか?…と教えているさらに奥へと続く道。どうしよう。
その民家の駐車場の入り口でグズグズしていると、そのお宅の方がちょうど戻ってこられました。
シャーー、シュッ。
私どもの車の横をスイッとすり抜けて駐車場へ納車されました。
エックスキューズミーおばさんは、まずは今回お詫びです。
「駐車場の入り口付近でグズグズしていてすみませんでした」
「いいえ」
「千手観音さまのところへ来たつもりだったのですが、なんだか道に迷ったようで…」
「ああ」
「あのぉ、千手観音さまはこの道をまっすぐ行くのでいいのでしょうか」と私。
「いいえ、そこよ」
そ、そこ?
そこって?
崖…とまではいきませんが、ここは高台になっていて、よもやこの下に御堂とかがありそうでは…
あるんじゃん!
御堂どころか山門があるではないですか!
さっき上がってくる時には全然見えなかったのですが…。
あ、そうか。
ちょうど角度的に見えないのか。車を降りて覗いてみてようやく見える感じなんだ。
「あのぉ、あちらへはどこから行くのでしょう?」とエックスキューズミーおばさんがさらにお聞きいたしますと、
「そこの鎖のとこから行くのよ」と。
「えっ?」
「そこから行けるの」
えっとぉ〜、そうではなくて…。車をどこへ置いてそこへ行けばよいかということなのですが…。
「…車はどこへ置いたらいいのですかね」
「ここに置いておいていいわよ。どうぞごゆっくりどうぞ」
…!。
「いいんですか?」
「どうぞ、帰りは特にお声がけいただかなくていいですから」
…♡!。
「ありがとうございます」
お言葉に甘えて。
駐車場の入り口で良いとおっしゃるので、そこに車を置かせていただき、鎖のあるところへ向かいました。
結構な斜めの入り口(?)…無理やり入り口となっている?ところに鎖でそこを塞いでいます。
うーん、ここから行っていいのだろうか?
まぁ、そこから行くと言われたくらいなのでよいのでしょうが…。
今回は私の運転ということで、近道もせず、速くに走行できる道も通らず、電車で言うなら鈍行で、いつもとは異なるルートでまいりました。
そんな来る途中で、今まで見たことのない、『×△○千手観音』という看板を見かけました。×△…と伏字なのは運転していてそこまでは読めなかったから、に過ぎません。
まぁ、来た道を戻ればその看板を頼りに辿り着くことができましょう。一応、メーカー純正のナビも搭載されていますし、ね。笑。
「ここを左折して」
こんなとこ曲がってきたんだっけ?
口には出しませんでしたが、しばらく走行して(おお、来た道だ!)。
…そうなんです。
そういう、道を覚える能力がかけらも備わっていないんです、私。
そのくせ、「ここをしばらく行くと、イチゴ狩りのできるとこがあるんだよね」とか、四年も前に一度通っただけの道を覚えていたり。
…基本は、お店。
夫には「そういう覚え方はだめだよ。そのお店がなくなったり、リニューアルしたりしたらもうダメでしょ?」と言われるのですが、じゃあ何で覚えればいいっていうのでしょう?
と、いうか、夫や、特に子供たちの、一度も来たことのない道をスイスイ行ける能力が、「神〜」であります。超能力としか思えないのだけれど、そんなにその能力を備えた人間がいるということは、普通の人ならば普通に備わっている能力が、私には欠如しているのかもしれない。
ま、夫とは知り合ってからもう半世紀近くの〝知り合い〟ですし、私がいろんな能力が欠如していることも知り尽くしております相棒さんですからね。
…今後も頼りにしておりますよ、〝相棒さん〟。
と、お決まりの脱線はここまでにしておいて…。
『×△○千手観音』という看板が見えてまいりました。
ん?で?
どっちに?
大きな、道から一目でわかるほどの案内の看板を二つも出しながら、その後がいたって不案内。
おいおい!
ここを登る?…まぁ運転はすでに夫、なんですがね。
お灯明くださったのは弁財天さまの御像の前でありました。
ふくよかな、お優しいお顔をされた弁財天さまが蓮の上にお座りになられておられます。
こちらの弁財天さまはいくつものお手があり、その一つ一つの手に琵琶以外にも、たとえば剣などをお持ちになられておられます。
コロナ禍にご好意に甘えての参拝ですので、夫がお線香をあげているときと、手を合わせる前後のほんのちょっとした時間に拝見しただけですので、お手が何本おありになるか、なにをお持ちになられているかまではわかりませんでした。
御本堂のなかはそれは見事な襖絵ですとか彫刻の施された欄間でありますとか、見ごたえあるものがたくさん、です。
ひえぇぇん、もっとゆっくり拝見させていただきたい〜っ。
いやいや、普通、御本堂へあがらせていただけることすら稀なことで、ましてやこのコロナ禍に、御本堂へとあがらせていただいただけでも、もう本当にありがたいことで。
…コロナが落ち着いたら。
ご由緒書きはないとのことでありましたので、一つだけ、いつからのお寺さんなのかとお伺いいたしましたが
「ごめんなさい、私はそういうこと詳しくなくて…」とのこと。
「ご本尊さまは阿弥陀如来さまなんですよ」
ほうほう。
天台宗のお寺さんですので、そう、なんですかね。天台宗ではご本尊は規定はなくて、そのお寺さんお寺さんで異なることがあるようですのですが、一般的には阿弥陀如来さまのことが多いようです。
…ところが、です。
ネット上で情報を提供されておられる方でご住職さまからお話を直にお聞きした方のものをお読みしたところ、ご本尊は釈迦如来さまと紹介されているではないですか。
うーん。
これは再拝、だな!♡
いつの日かコロナが落ち着いたら。
そうそう、あの大きな象の像が動くという花まつりにも参列させていただきたい。
いつの日か。
…それが近い将来であることを切望いたします。
御本堂の前で手を合わせて。
境内のなかにはあまり石仏さまはおられないように見受けられます。
ただ、御本堂の屋根のあたりを見上げるようにぽつんと一人で立っておられるお地蔵さまが、童のように可愛らしいお顔で、もう石仏さま好きの私のハートはキュン。
横から拝したり、同じ視点になって御本堂を見上げてみたり。
御本堂の左側には新しい墓石の並んだ、新そうな墓所が連なっています。
基本、お墓は亡くなられた方の眠られる場所、という考えでお寺さんにお邪魔しておりますので、墓所にまで行こうとは思わず、このお寺さんでは墓地には足を踏み入れなかったのですが。
後々知ることに、裏手には宝篋印塔やら古い石仏さまがおられたようで、またまたほぞを噛むおばさんが一人…。
この日。
御本堂のよこの庫裏の縁側の戸が全開にされ、なにやら虫干しをされておられるようで、言い換えるとどなたかおられる、ということです。
ご由緒書きとかあるようならばいただけないかと一声お声をかけさせていただきました。
私より少し目上にあたられるご婦人が対応してくださいました。
「どうぞ御本堂へおあがりください」
…へっ?
このコロナ禍に?
いやいや、コロナ禍でなくともなかなかお寺さんの御本堂へ上がらせていただけることなどないというのに、…「よろしいんですか?」
おばさんはご好意は素直に受けるタイプなんです。笑。
御本堂にお通しくださりながら、
「冷蔵庫みたいなところなんですけど、ね」と、いたずらっ子のような可愛らしい笑みを浮かべながらこちらを振り向かれました。
ご本尊さまに手を合わせておりますと、なにやら左隣の間におまつりされておられる方の前に供えたろうそくに火を灯されておられます。
?
ご本尊さまにじゃないんだぁ。
なんだか不思議な感じであります。
「どうぞ、お線香をあげてください」
はあ…。
どなたがおまつりされておられるのでしょうか。
外陣の通路には大きな木馬ならぬ、大きな白い(白かったような…記憶があるのですが)象が置かれています。
ぞ、象っ?
初めて見るパターンです。
大人三人から四人くらいの大きさ、といえば伝わるでしょうか。
引いて歩けるよう引き手の縄があり、下には小さな車輪があるように見えます。
「ああ、花まつりに使うんですよ」
ほぉぉ〜花まつりに。
なるほど〜。(誤字を見つけ再投稿しました)
テレビ番組のタイトルではありませんが、〝せっかく群馬県渋川市に来たのだから〟、というわけで渋川市にある【興禅寺】さんに参拝させていただきました。
ナビの中途半端で、実際に従っていたら到着はできなかったという、いつものおきまりの案内を無視して、ナビの示す地図を頼りに興禅寺さんに向かいました。
到着すると、どこに車を停めてよいのか悩むくらいに広い駐車場がありました。区画を仕切っていないこともあり、そういったことにも神経を使う夫はこれまたいつものように、
「どこに停めればいいのかな」と躊躇っております。
端っこの端っこに停めて。
駐車する前から見えていた、そびえ立つ赤い山門目指して、いつものように私は足早に歩き出しました。
その門までに至る長い参道に沿って、向かって右側には不動明王さま、釈迦如来さま、文殊菩薩さまと並んで石仏様が並んでおられます。
この順ですとおそらくは十三仏さま。
なにぶんにも広い駐車場の隣に沿っての参道に並んでおられるので、先にどなたが何体おられるかまで、パッと見では見えない、確認できないのです。
一方の左側には七福神様の石像が並んでおられます。
こちらは少し大きな石像でしかも立像のためもあり、その特徴からすぐに七福神様とわかります。
その十三仏さまのお顔立ちがなんともお優しく綺麗です。
またまた珍道中ペアはそこで一体一体の御仏にご挨拶。
そんなこんなでようやく赤い山門に到達いたしました。
仁王門でありました。
近年赤い塗装をやり直されたのでしょう。遠目で見ると新しいものかとも思えたのですが、木部を見ると経年を感じるものでありました。
仁王さまのお顔立ちもなにやらお優しく、これだと悪者も怖がることなく通ってしまいそうです。
仁王門をくぐると目の前に大きな御本堂がございます。
興禅寺さんは上州七福神の寺の一つで弁財尊天霊場となっているようで、その案内の真新しい看板が御本堂前のみぎてに立てられていました。
明日は【節分】。
【立春】という季節の変わり目の(季)節を分ける、という意味で節分というので、本当は立夏、立秋、立冬の前の日も〝節分〟という事、なのですが、一年の始まりでもあり、また、まだ寒さ厳しい頃であり、季節の変わり目には体調を崩しがちということで、風邪などの病を祓う意味で、【豆まき】などの行事が生まれた春の節分が大きく取り上げられて残っているということのようです。
平安時代には、追儺(ついな)や鬼遣(おにやらい)などの儀式が貴族の間で行われ、魔物を払っていたものでしたが、室町時代から江戸時代に豆で払うようになり、それが庶民の間にも広がっていきました。
豆をまくようになった由来は、
「魔目(まめ)」に通じるから、ということのようです。
豆には鬼の目を滅ぼす力があるとされたのです。
ダジャレのような感はありますが、昔から伝わるものには結構そんな語源から起こったものが多々あります。
言霊には、霊力と意味があるとされています。
また、五穀とされる〝米〟〝麦〟〝ひえ〟〝あわ〟〝豆〟には、払いの力があるとされ、神事や密教系の仏事にはよく用いられていらものです。
そして。「鬼」とは、「隠(おぬ)」に語源があり、隠とは、病や災害などの禍のこと。
鬼というと、ついつい赤鬼や青鬼の姿を思い浮かべてしまいますが、その語源が、病や災害であるならば、まさにこのコロナ禍、そして異常気象の頻発する現在こそ、その『鬼』を払いたいものであります。
「あれーっ。いま帰っちゃったんだよなぁ」
御札をお受けできるかどうかお聞きした途端、開口一番、少し慌てたようにおっしゃる、そこにおられた方の中のおひとり。
「いやぁ、拝んである御札はあるんだよ。拝んではあるんだけど、(厄除とか授与者の名前とかを)書き手が、今帰っちゃったんだよなぁ。本当、今なんだよ」
いやいや、そんなにお心を痛めないでください。
「今年はさぁ、町内で申し込んだ人の分は用意して置いたんだけど、ああ…今、なんだよなぁぁ。車がでてったろ?」
そう言いながら、ふと思いついたように胸ポケットからスマホを取り出されました。
!
「いやいや、そこまでしていただかなくて大丈夫ですから。また来年参りますから。来年こそは例年通りの大祭が行われることお祈りしてますので」
「そうかい?わざわざ来てもらってすまなかったなぁ」
皆さんがすまなそうに頭を下げてくださいます。そんなぁ…。
「実は教育委員会に電話して中止だと言われていたのに、どうしてもお参りしたくて来ただけなんで。ただみなさんが破魔矢や御札をお持ちなので、もしかしてとお声がけさせていただいただけなんです。本当、来年またお邪魔させていただきますから。このコロナ禍、お邪魔してしまってかえってすみません」
「いやいや、今日はわざわざお参りくださって申し訳ない。是非また来てやってください。今日はすまなかった」
…なんて良い方々でしょう。
こちらのお不動さま、実はお不動さまには珍しく笑みを浮かべておられるのです。
そんなお不動さまがお護りになられる地に住むからでしょうか。
いやいや、お不動さまに感謝して生きておられる方々だから、お不動さまに恥じぬよう生きてこられたから、ずっと清らかな生き方、考え方をされてこられたからのお言葉でしょう。
自然に口をついて良い言葉しか出ない生き方をずっとされてこられたからのこの対応なのでしょう。
…やっぱり、信仰って大切なんだなぁ。
すっかり心洗われウキウキとした気分で山を下りていると、先ほどの方々のおひとりが車で降りてこられました。
「悪かったなぁ。護摩は十時からだから、十時から十時半。また是非来てやってください」
と、窓を開けてまた私どもにお声がけくださいました。
来てよかったぁ。
すっかり心が洗われました。
それも人から。人によって、です。
ありがたいことです。
で。
結構苦労してUターンしていただいて、路肩の車を停められそうなスペースに駐車して…いただきました。
そこから歩いて、数分。
懐かしい宮田不動尊さんへとつながる道を登っていきます。歪んだ石段を気をつけ気をつけのぼって。
それ以上に危険と判断されたのだろう長い石段は、前回同様、綱で通行止めにされています。
横に道があります。枯れ葉の積もった細くて結構急な上カーブしている道をのぼっていくと、不動堂の横に出ます。
お寺さん、ですが、拝殿があって本殿があるような…そんな造りです。
ところで。
なんだか手に破魔矢やら御札を持った方々とやたらとすれ違うのです。
その方々は皆、手に折を入れた透明なビニール風呂敷を持っています。
もしや?
もしかしたら御開帳されていた?
足早に御堂に向かったのですが、やはり、その扉は固く閉ざされています。
うーん。遅かった?
まぁ、元々それでもいいと思ってやってきたので、御不動さまのおられる岩屋の閉ざされた鉄の扉に向かって、これまでのお礼を申し上げました。
御真言を御唱え申し上げて。
お隣にある宮田神社さんへも参拝いたしました。
そのあと、人々が集っていた建物へと向かってみました。
もしかしたら御札をお受けできるかもしれない。
群馬県渋川市に1月28日の初不動の日にのみ御開帳のお不動さまがおられます。【宮田不動尊】、さまです。
これは初不動の日と日を決めての御開帳なので、曜日に関係なく開催されますので、仕事をしているとなかなかその日に休みを取ることが出来ず、ちょうど日曜日の当たった平成三十年に初めて参拝することができました。それからはまたしばらく平日が続きます。なかなか休みの取れない時が続きました。
そしてとうとう…コロナの時代を迎えてしまいました。
昨年は休みは取れるものの、コロナ禍ということで中止、という話を聞きました。
ところが。
去年、実はコロナ禍でもしめやかにご開帳されたことをネットでポツポツンとあげられる情報で知るのです。
へっ!?
臍を噛むとはこのことかと。
お会いしたかったぁぁぁぁ。
こちらはいつもは無人の御堂で、その扉は固く閉ざされています。連絡先は…渋川市の教育委員会。
お電話を差し上げたところ、保存会の方とは密に連絡が取れているようでしたが、昨年のように誤報もあります。
今年は行く!
たとえ中止と言われようと行く。行って扉のこちらから、いつもお護りいただいていることをお礼申し上げたい。
で。行ってみました。…私の運転で。
へっ?
…と思った方もおられましょう。あの山とかの細くてカーブの続く道でなければ、心の準備のなかった高速道路の運転でなければ、大丈夫なのです。
ディズニーランドまでだって、幕張メッセだって、私の運転で行ったことがあるくらいなんで。
高速道路は心の準備が必要、なんですがね。
閑話休題(笑)。
宮田不動尊の入口に[御開帳中止]と看板に貼り紙がされています。
くうぅぅぅ!!
でも、お参りだけは絶対する!
…なんですがね、御開帳ですと臨時駐車場が設置されるんですが、なにぶんにも中止。駐車場、というか駐車スペースがないのですよ。
で、変なところでUターンを企てたせいで、とんでもなか細くて上りの道に入ってしまうのです。
ヒエェェっ!
「…代わるよ」
ええ、かの素晴らしい珍道中の相棒の登場です。
ありがたや、ありがたや、です。
…和尚の真心に賛同した大勢の信者の協力に依り念願の地蔵尊と供要碑が完成した。其の時、石工の設計違いに依り、お顔の部分が出来ず石工は逃げてしまい、お顔を四角にしてしまい、お名號を桐生塚角地蔵尊と命名。善男善女を集め、ねんごろに開眼供養をした。…』
まぁ、この設計ミスという説から〝角地蔵〟さまは別名〝間違い地蔵〟とも呼ばれているようなのですがね。
とはいえ。こーんな長い、石碑に刻まれた文章を頭にしっかり入れちゃうんだ…。
すごいぞ、これは。
もっともっと尊敬しなくてはいけない…かもしれない、珍道中の相棒でありました。
ちなみにPart2(笑)。
夫の頭に残っていた、角地蔵さまと正円寺さんとの関係に関する文章は、
『天正七年八月太田金山城主由良国繁公は藤生紀伊守、金谷因幡守を将として、潮の如く高津戸要害城を攻落し、さらに神梅城の阿久沢能登守、沢入城の松島古柏式部等の黒川勢にいどみかかって来た。由良国繁は部下の無益の殺生を避ける為黒川勢の不戦降伏を計り松島淡路守を軍使として派遣したが丁度渡良瀬川が増水で氾濫しており、松島淡路守は水練の達人であったが心せくまま濁流に入り渡ろうとしたがついに馬もろ共濁流に呑まれ流されてしまい、軍使としての任を果す事が出来なかった。其の日のうちに其の事が由良国繁のもとに知らされたので、黒川に出陣をする事になった。時に八月廿三日の事であった。折しも黒川方においても力及ばざる事を悟って古柏の嫡男松島弥太郎を人質軍使として由良方に派遣をしたが、其の時すでに遅く、由良勢は現地において黒川勢と激突に及んだ。渡良瀬川をはさんで、東は由良勢が穴原に陣を敷き、西は黒川勢が神梅側に陣をしいて、攻め太鼓も物々しく、両軍一千余人が対陣暫らくして渡良瀬の流れを越しつつ越されつつ揉合ううち組落ちる者、流れ溺れる者、生捕れる者、手負う者、入交じり修羅場と化し、死者の数は多数にして、数へるべくもなかった。激戦の半ばにして由良方より、和議許諾の報伝はり敵味方の大将、何時とはなしに引太鼓を打ちならし、夫々軍を引上げて、激しい戦いは終った。
星移り歳を過ぎる事一七四年、宝暦二年の正月、修法山正圓寺廿八世盈仙和尚元旦の恒例に依り旧本丸跡の天守閣跡八幡宮に勤行し帰途不思議な光景を見た。新宿飯米場辺りに怪火玉、中天に散飛し、数線の軍勢が渓流に合戦をするような現象、盈仙和尚ふと昔の天正七年の古戦場であった事を想起し当時の戦死者が成仏出来ずに居る事を感知、赤城山地蔵御地蔵尊に七日七夜勤行精進する。結願修行の朝、数百霊魂紫雲に乗じ地蔵嶽の仙境に入り怪火玉全く止む。
其の歳の六月盈仙和尚深沢宿を始として近郷の善男善女に地蔵尊の御利益を説法一丈二尺の地蔵尊と供要碑の建立の浄財を募った。
…。』
(長すぎて一部抜粋なのに入りきらないので、続きます)
ちなみに。
私の回線がショートしていたために、この度伺った正円寺さんと角地蔵さんがすぐには繋がらなかった、だけではないのです。
【角地蔵】さまは群馬県みどり市の市文化財指定。
そして【正円寺】さんは群馬県桐生市。
市が違うのです。
このあたり、歴史にも疎く、さらには地理にも疎い私にはもう見事なロジックでありまして…。
まぁ歴史と言っても、群馬県の東毛地区と呼ばれる、現太田市から現みどり市、現桐生市の辺りの郷土史という、かなりオタッキーなものではあるのですが…。
たしかに、昔の人って…移動手段が馬か徒歩でしかないのに、信じられないくらいに移動して、戦ったり、布教活動されたりしています。
車はもちろん、鉄道や飛行機という移動手段を手に入れている現代においてだって、結構、それなりに大変ですのに。
すごいなぁ。
そして今回、またまた歴史に詳しい夫に、私レベルに噛み砕いた解説をしてもらい、その歴史というものにあらためて興味を持ったのでありました。
桐生氏であるとか、由良氏(新田)であるとか。
新田城跡、桐生城跡、高津戸城跡、永明(ようめい)砦跡。
今それらは新田城跡には新田神社が建ち、高津戸城跡には要害神社、永明砦跡には永明(ようめい)寺が建っています。新田氏の屋敷跡には反町薬師(照明寺)、里見兄弟の墓とその御堂、桐生氏の菩提寺である西方寺、由良氏が新田氏のゆかりの寺であるためと移築した桐生市の青蓮寺、由良氏の菩提寺である鳳仙寺。
東毛地区だけでこんなにも、私にとっては純粋に神社仏閣を参拝するために訪れていたところが、実にこんなにも歴史的遺産であったという事実。
それはある意味当たり前でもあるのですが、ね。
それぞれの神社仏閣に長い長い歴史があります。
そこに時の城主や武将が大きく関わりを持ったこともあるでしょうし、開基になっていることもあるし。
鎮魂の意味があったり、神として祀られることもあったり。
歴史に興味を持ったなら、最高の師が毎日目の前にいるという最高の環境。私のレベルを知り尽くして、わかりやすいレベルまで噛み砕いて説明してくれるのですから、ね。
まぁ、すぐにさめるのだろうなぁ。
なにせ膨大過ぎる情報量に私は潰れるに違いありません。
中学生レベルの歴史すらも頭に残っていないことに気づいたくらいです。
「角地蔵さんのお寺は正円寺さんだったんだね」
ほあ?
そんなことご住職は一言もおっしゃっておられません。
「ん?」
「角地蔵さんのところに書いてあった由緒書にあった、城跡に建つお寺って正円寺さんだったんだね」
はあぁ…?そんなこと書いてありましたっけ。
角地蔵さんって…この辺で合戦があって多数の戦死者が出たあと、深沢城跡に怪しい火の玉がたくさん飛んで、さらには河原で合戦している軍勢を見たお坊さんが、多くの戦死者が未だ成仏できていないことを知って七日七晩の法要を営み、その後お地蔵さまを立てようとしたところ、石工が仏像を彫っているとやたら不思議なことが起き、怖くなって彫りかけのまま逃げてしまってしまった頭の部分が手付かずで残されて四角いままだから、角地蔵。というお話。
たしかに四角い石のまま、目鼻もない坐像でありましたのを参拝した覚えがあります。
ほおぉ〜、ではお地蔵さまのお縁日に角地蔵さままで出向いて法要を営んでおられるのがこちらのご住職さまだというわけで…。
なるほど、なるほどです。
春になったら角地蔵さまと正円寺さんにお参りの再拝させていただきましょう。
「こちらは深沢城ですか?」
と聞いたのは夫。
あ、そうだった。歴オタの夫が涎を垂らしそうなお話でありました。
「こちらは、深沢城とも呼ばれていましたが、阿久沢城とも呼ばれて、神梅城とも呼ばれていたお城なんです」
!?
何?なんとおっしゃいました?
「普通なら…すぐそばの五覧田城でしたら普通に五覧田城でしかないのが普通ですが、こちらは深沢城でも阿久沢城でも神梅城でも通じる、三つの名前を持ったお城だったのです」
「こちらの住所自体が〝城〟なんですよ。桐生市黒保根町宿廻…小字城、なんです」
…本来ならばお寺の仏さまのお話などもお聞きしたいところではありましたが…すでにここまでのお話を覚えるのでもういっぱいいっぱいで、右の耳からも左の耳からも、それどころか口やら目からまで漏れ出ていきそうです。(こうして振り返っている今に至っては半分くらい漏れ出て紛失してしまっています)
この次にまたこちらを再拝させていただきます折に。
こちらのお寺には御朱印の写真が額に入れて飾られていました。
「本来なら御朱印状とはお受けして確認したあと幕府に戻すものだったのです。今はこれだけの御朱印というもので、その後また審査を経てその値が変わるといったものなので。
ですがここのすぐそばのお寺は御朱印自体が残されているのです。
本来戻すはずのものがなぜ残っているのかわからないのですがね」
「この辺りは赤銅街道ということで宿もありだいぶ幕府に優遇されたのですよ」
夫は嬉しそうに写真など撮らせていただいています。
私はそんなことよりボイスレコーダーでご住職のお話をとらせていただきたかった!
「桜のころにまたお越しください」
とのこと。
その後見て歩いた堀のあとや本丸跡には見事な桜の木がたくさんありました。
それをまた嬉しそうに見て歩く夫。
来てよかったね。
場所には古い石仏さまがたくさんおられました。
手桶置き場には奪衣婆さまの石像が二体もおられました。
来てよかった。
そして是非また再拝させていただいて、今度は石仏さまのお話を伺いたい。
「実は…。こちらはお城の跡に建っているのです。
かつてこの辺りを治めていた阿久沢氏という殿様が治めていたのですが戦があって落城し、その後はここで帰農し、この辺りの世話役のような役割をしていたのです。
そのうちに子孫にあたるほとんどの人は宮城村の方に移られて、今はこの辺りには一軒も阿久沢家は残っていないのですがね。
この寺に阿久沢氏のお墓はあるのですが、今はこちらの檀家さんではなくなっていて、ただ…子孫の方が何かの折にはお墓参りに訪れておられるにはおられるのですがね。
火災で全て焼失してしまったとき、阿久沢氏の菩提寺ということで、寄進をお願いしたようなのですが、断られてしまったのです。
なかなか寄進をお願いする先もなく、廃寺となって使われていなかった寺を移築することとなったのです。
古いとはいえ、文化財になるようなほど古いものでなかったため、いわゆるリフォームもできたので、あちらこちら直すこともいじることも可能でしたので、結構直して使っているのですがね」
「そちらにおまつりしてある仏さまは実は隠すように埋められていたものが掘り出されたもので…。
おそらく元々のご本尊さまであったと思われるのです。
この仏さまの大きさから考えると元の御本堂が大きなものだったことがわかります。
今のご本尊さまは本堂に入って来て、立ったままの目の高さでちょうど目が合うのです。
こちらの仏さまは座って向き合うと目が合うのです。」
はあぁ…。
火災から守るために埋めたのでしょうか。
で、御本堂の再建のために思いのほかかかってしまった月日によって、仏さまの埋められていたことが伝わらなかった?
なんだか、あまりにいろいろなことをいちどきにお聞きして、私の頭はすでにキャパオーバーしてしまっています。
「この辺りは銅を日光まで運ぶ赤銅街道ということで、徳川家に手厚い扱いをされた土地柄でありまして。
徳川家康から三代家光まで仕えたという天海上人がこの辺りを通って日光へと向かったということで、実際に立ち寄ったお寺などもあるようです」
ろうそく消しが置かれていますので、消すものなのか、それともこのままにしておいていいものなのか、火を灯してくださった女の方は席を外されておられます。消そうか。
…それがなかなか、太いろうそくが溶けて形が変わっておるため、うまく消すことができません。
すると、
「太いろうそくなので、なかなかうまく消せないんですよ」
と。
お声がけくださったのは、先ほど御本堂へ入ることをお許しくださった男の方です。衣を着ておられなかったけれど、作務衣(?)をお召しで、よく見ると髪を剃られておられました。ご住職さまであったようです。
ところで。
こちらのお寺さんの御本堂は、ご本尊さまさまのおられます内陣左右にも同じくらいの広さの間があります。
その左の方の間には大きめの御仏の御像がおまつりされており、さらにその左右にも少し小さな御仏の御像がおまつりされてており、脇侍をおつとめになられている御仏と思われます。
「すみません、あちらにおられる仏さまにも…」と申し上げ、隣の間におまつりされておられる御仏にも手を合わさせていただきました。
三尊像のさらにひだりてには、御厨司に祀られた御仏もおられます。
御厨司…というよりお社に見える立派なものにおまつりされておられます。
その、隣の間の御仏三尊像に手を合わせ、お礼を申し上げ退出しようといたしますと…
「どちらから来られました?」
「〇〇〇です」
すると、ご住職さまはこちらのお寺の御由緒をお話しくださり始めたのです。
こんなコロナ禍、連絡も無く突然訪れた参拝客、申し訳ないほどの対応です。
「(合併してこちらも桐生市となりましたが、もとからの桐生市は戦争で焼けることがなかったこともあって、古くからのお寺がそのまま残されていますから、素晴らしいお寺さんがたくさんあるのですがね。
こちらは火災で一切を消失してしまった経緯があって、古いものはほとんど残されていないのですよ。
建物自体は以前からあって使われなくなっていたお寺をここに移動して組み立て直しているのですが、いつ建てられたものかもわからないもので、建て方や木部の感じから江戸時代に建てられたものだろうことはわかっているのですが…」
それは【正圓寺】さんというお寺さん。
坂を登って行くとひだりてに見えてきたのは、あの雪国とかで見られる雪の重みから枝を守るために行うという〝雪吊り”のしてある木。
その手前には墓所があります。
そして…何やら高い突出した小部屋のようなもののある建物が見えます。
なんだろう?
それよりも車を停める場所はどこなのだろう。舗装されていない土のままの土地に一台車が停まっています。こちらでいいのだろうか?
恐る恐るそこに車を置いて、お寺の名と宗派の書かれた石標をくぐりました。
ちょうど庫裏に入ろうとなさっている男の方がおられます。遠くからご挨拶をして、御本堂へと向かいます。
御本堂の窓には元三大師さまのお姿のポスターが貼られています。
そう、こちらは天台宗のお寺さんであります。
合掌ののち…。
御本堂前にほんの数段のきざはしがあって、靴を脱いでそこに上がらせていただきました。窓からいつもの〝覗き〟をして御仏のお姿を覗こうとしていると…。
「どうぞお入りください」と、男の方の声がいたします。
⁈
先ほどの男の方です。
バレた!
いい歳をしながら覗きをしているのが!。
なんと恥ずかしい。
…やれやれ、です。
とは言いながら、「よろしいんですか?」とか言う私。
厚顔無恥とはこういう人物をいうのでしょう。
ただ、その方は特に御本堂に向かうことなくそのまま庫裏へと入っていかれました。
「失礼します」そろりそろりと戸を開けます。
「どうぞ」女のかたのお声がかかります。
御本堂は横に長く、そのままおそらく庫裏へとつながっているのでしょうが、その中間地点のお部屋でなにか作業をされておられるようです。
正座をしてご本尊さまに向かい手を合わせておりますと、ススっとこちらにお越しくださりろうそくに灯を灯してくださいました。
「ありがとうございます」
この桐生市の氷柱は自然が織りなすもので、桐生市も別に観光として案内などしていないものですので、口コミで広まったものに過ぎません。
今年見た方から直接お聞きするか、さもなくばネットでアップされた情報を見なければ、氷柱が出来ているかどうかはわからないのです。
うーん、良いものを見られた♡。
…とはいえ氷柱を何時間も見るような美的な感覚を持ち合わせてもいない私は、ひとしきり感激し感動したものの、うーん、もういいかな。
三十分もしないうちに…有り体に言えば飽きてきました。
飽きていないフリをしながら氷柱を見上げて、夫から声がかかるのを待ちます。
ほんと、連れてくる甲斐のない妻で申し訳ない。
文章にもできず、さりとて写真の腕も…それどころかカメラもないし、あの才能もない私は、「綺麗だったね。すごかったね」とかありきたりな感想を述べるだけの人間で…。
せめて夫がその美しさを堪能するまで、飽きてきている内心を悟られないよう見物をしている、そんなことしかできません。
思ったより早く撤収の声がかかりました。
長い付き合いです、すでに妻の内心などもバレバレなのかもしれませんが、ね。
出会って四十数年以上経つ二人です。結婚してからも昨年三十五年目をむかえていたらしいし。
ところで…。
ここへ向かう道中、実はひとつお寺さんへの小さな案内表示がありました。
そのような表示を見かけると、行きたいとかもなくとりあえず言葉にに出している私。
今回、そのお寺さんの名前に食いついていた夫。…行きたいところだったのかなぁ。
「さっき通りながら見かけたお寺さん、行きたかったところなの?」
「うーん、あることは知っていた程度なんだけど」
「寄らせていただく?」
「御朱印とかをされているかどうかも、一切情報がないけど、それでよければ…」
?
今日も無住のお寺さんに行っていますし、何より今日御朱印帳など携えてきてはおりません。
前回の緊急事態宣言下よりも緊迫した新規感染者数を次々と記録し、蔓延防止措置のとられている現在ですので、あまり御朱印は求めないようにしておりますし。
「ぜひ♡! あっ!行くならこの道を曲がるんだよ!」
そんなドキドキをひそかに胸に進むと…。
ああ、ここだな!
氷柱見学のための人が停める駐車スペースがキチンと確保されていました。が、いっぱい。
前に私どもを抜いていかれた車の方も停められず、待機しておられます。
ん?空いてるじゃない?
ひと区画、車幅の広い三ナンバーの車やワンボックスカーでなければ停められる区画が空いています。
今回夫の車で来ていたため、その区画にスッと停めることができました。
おおっ♡!
さて、氷柱(ひょうちゅう)、氷柱!
ん?目の前に連なる山肌には、先ほど来る途中で見られた氷柱はない。
…ない?
でも、この先には一本道、そして駐車スペースの反対側には川を隔てて梨木温泉館があるだけです。
この先の一本道上に?
ここにないのに?
すぐ出現するエックスキューズミーおばさん。
「ちょうど車に戻られた方に氷柱ってどちらにありますか?」とお声がけ。
「あちらに進むとありますよ」
丁寧にお教えくださいました。
あちら…、やはり一本道を進んでいくようです。
駐車スペースから徒歩で二、三分ほどのところに。
先ほどの駐車スペースの前の山肌とは全くおもむきの異なる、氷柱が現れたではないですか!
おおぉっ!うわぁぁ!
岩肌からの湧き水、さらには浸み出す水の全てが凍っている!
それも流れ出たままの形で、それぞれの水流が凍っています。
氷の織りなすオブジェです!
雪国の軒先の太いつららもすごいもので、目を見張るような天然のオブジェではあります。
が、これは凄い!
榛名でも滝が凍るくらいの寒さです。
滝のように絶えずあの水量水流が凍ってしまうのだから、確かにゆるやかに流れる湧き水が凍るのも当たり前って言えば確かですが…。
うーん、私のような日本語すらうまく使えない人間にはとうてい言葉にできない、表現できないそのさまであります。
もし氷柱(ひょうちゅう)をご存じなくて関心をお持ちになられた方がおられたら、ぜひ氷柱(ひょうちゅう)で検索してみてください。
毎年こちらを訪れているという方が、「今年は寒いから、見事ですよ」とおっしゃっておられました。
…そうかぁ。
ありがたい。
この、今年の見事な時に来られたことも、何よりいつもいろいろなところに連れて行ってくれる夫に、感謝しかありません。
前回【氷柱】氷柱、氷柱と書いていて、なんの疑問もなかったのですが、ふとこの字が『つらら』とも読めることに気付きました。
そう、私は『ひょうちゅう』と打ち込んでこの字を使っていたため、その言葉の表わす意味が、通常では『つらら』と読むことが多いため、今、このスレを読んでくださっておられる方にはうまく伝わっていない可能性があることに気づいたのです。
【氷柱(ひょうちゅう)】は、岩肌から湧き出る湧水によりつくりあげられる、大規模な氷のオブジェのことを指すことがあります。
私ども夫婦が一時期観音霊場巡りのため足繁く(?)通っていた、埼玉県秩父市に、この氷柱(ひょうちゅう)で有名なところが三もしくは四ヶ所あります。
天然のものと人工的なものがあるようですが、こちらはライトアップなどもされるようで冬の観光名所ともなっているようです。
毎年この秩父市の氷柱まつりに行きたいねぇと言いながら、なかなか足の向かないまま、こんなコロナ禍をむかえてしまったのですが、写真で見る限り、それはそれは素晴らしい幻想的で美しいものでありました。
その氷柱(ひょうちゅう)が群馬県桐生市でも見られることを知ったのは昨年冬。
冬…に知ったにも関わらず、運転技術に難ありの私が知った情報のため、行こうと発案はできず、そのまま伝えるだけ伝えてあたためるだけで終わった情報であったのですが、それを認知症状を疑われることすら出てきた夫はちゃんと覚えていてくれ、今回連れてきてくれたのでありました。
その目的地に着かずとも、すでに途中の道すがらに氷柱は見られておりました。
おおっ!
あまりに感動している私のため、優しい夫は(本人を前にしては決して言わないセリフですが)そこに車を停めてくれました。
車から降りはせずにその氷柱を見上げていると、それまで後続車などミラーに映らなかったのに、続々とその姿をあらわして、なんとこの地点で四台もの車に抜かれてしまうこととなりました。
(駐車場、大丈夫かなぁ?)
正式に発表されている地点は梨木温泉という宿泊施設に至る道すがらにあるようです。宿泊のお客さまのお車等とのトラブル回避を考えたなら、あまり梨木温泉の駐車場がお借りできる状況は考えづらく…。
抜いていかれた車の方々も一本道でしかないこの先、目的地は梨木、温泉か氷柱見学か、そのどちらかです。
うーん、しまった、…かなぁ。
この後向かったのは…。
近年有名になっている桐生市の氷柱。
ただ…なにぶんにも本人がただでさえ山道の運転が苦手で不安なうえ、氷柱ができるほどの寒さとあれば、寒さもさながら、当然凍結した路面が考えられて、私から行きたいとは言えず、密かに憧れあたためていた妄想にも似た計画、だったのですが…。
「ここまで来たんだから、梨木まで行ってみようか」
と夫がぽつんとのたまうではありませんか!
棚からぼたもち、天にも昇る心地とはこういうことかと。
ん?…今回行ったのって、みどり市って言ってなかった?
とお思いになられる方もおられましょう。
実は桐生市って、みどり市を挟んで飛び地となっている市なんです。
この辺りはまさに入り組んでいて、みどり市を走行して桐生市に入ったかと思うとまたみどり市になるという複雑な地域となっているのです。
そもそも、桐生市だ、みどり市だと言ったところで、あくまでも行政の上のこと。
住んでいる方たちにとっては大間々町は大間々町だし、さらにはその中であっても小平であったり、高津戸であったりと、その地区その地区独自の文化があり習慣がある、それぞれの地区であるのが現実です。
中には隣の地区ではあるものの、長きに渡り二つで一つのような仲の良い地域が、平成の大合併により二つの市に分けられてしまったような地域すらあるように感じます。
お寺さんの境外舎が異なる地区になったようなこともあるようです。
…いつものお話の脱線はこの辺にして。
要は梨木というところは桐生市になるのではありますが、車という移動手段からいえば、まさにこの辺、というわけで…。
おっかなびっくりの氷柱見物へと向かう珍道中夫婦でありました。
やっぱり想像通りの山道です。
…というか、この辺りって、免許取った頃結構友だちとよく来ていたところで…。
あの頃私、山道運転できてたんじゃん。
今は?
運転する視線で見てみると…凍ってたら無理かな。
…私、もしかして、甘えてる?
いや!子供たちも高速と山道はやめときなと、異口同音に言うはずです。夫は…下品な笑みを浮かべながら、「運転してみる?」とは言いますが…。
努力してもダメなものはダメと認め、己を知ることも大切です。こと、運転に関しては…。
石段を登ってすぐのところにぽつんとおひとり、御本堂の方を少し顔を上げて…そう、中におられるご本尊さまを見守るかのようにお立ちになるお地蔵さま。
台座の下に『法性地蔵…大(?)』と読み取れます。
少し大きめなお地蔵さまです。
ふと、となりに目をやると、『陀羅尼地蔵』とまで読み取れる台のみがあり、さらに法性地蔵さまの台座の下にはめ込まれている楕円の薄い台が二つあります。
そしてその横には御首から上を失われたお地蔵さまが地べたに立っておられました。何度見ても胸の詰まるような、心痛むお姿です。
手を合わせはするものの、人間の罪深さ愚かさに、申し訳なさしかなく、あまりお姿をよく見ることはできません。
…そういえば夫は?
夫はどこにいる?
相も変わらず単独行動の珍道中ペアであります。
時々、よもや神隠し?とまで不安にさせるくらい、行方不明になる夫で…などと言っている私も相方からみれば同じくらいの時間行方がわからない存在なのでしょう、がね。
σ(^_^;)
あ、いました、いました。
「結構大きなご本尊さまだった」
…覗き癖のある夫婦ってところは似たもの夫婦?、そんなとこ似てたらやばいですよね、すみませんね、はい。
それにしてもピッタリと閉ざされた戸でありますが…「どこから拝見させていただいたの?」
「戸と戸の隙間から覗かせていただいた、失礼だけど」と夫。
「ええっ?だってほとんど隙間なんてなかったでしょう?」
「うん、その隙間から」
そんな隙間からまで覗こうとは。…などと言いつつ足早に御本堂の方へ向かう私。目的はもちろん、隙間からの覗き。…やれやれな夫婦です。
靴を脱いで。
おおっ、たしかに覗けます(ほんとにやれやれな夫婦)。
少し施された金箔がおちてはおられるものの、大きく立派なご本尊さまです。…お地蔵さま?
薄暗い御本堂の中、わずかな隙間から覗かせていただいているので、よくは見えませんが、凛としたお美しいお顔立ちの御仏の御像であります。
脇侍であられるのか左右におふたり。こちらは見るのもやっとです。
「ほんとだ、三人おられるね」
「えっ?三人?おひとりしか見えなかった」…覗きの腕は私の方が上、ということでしょうか。
もちろん、そう言われて再び覗く夫。
これだから珍道中の域を越えられないんだよな。(^^;
元来た道を戻って、戻って。
ん!? 人が!
人がおられる!
エックスキューズミーおばさんが出撃いたします。
「あの、恐れ入ります。この辺りに桂禅寺さんというお寺さんがあると観光案内板を見て訪ねて参ったのですが、虚空蔵菩薩さまをさらに奥に行ったあたりにあるようなのですが、ご存知ではないですか?」
「ああ、それなら、この道をま〜っすぐのぼって行けば、突き当たりに寺があるよ」
!
私が言っていた道じゃないですか!
「桂禅寺さんというお寺さんですか?」
「う〜ん、寺の名前?寺の名前はなんだったかなぁ。
ウチの寺なんだけど、名前、わかんねえや、でもここ行くと寺があるんは間違いないよ。だ〜れもいない寺だけどね」
…ご自分のお寺さんの名前を覚えていない?
いやいや、そんなこともあるもんです。この先にお寺さんがあるなら行こうではないですか。
なにせ今回のミッションはお寺クエストです。(うそです)
…まぁ賢い私は「だっから私がこっちだって言ったじゃない!」などとは口にせず、とはいえ内心勝ち誇って助手席へ。
ほどなく、お寺さんが見えてまいりました。
石段の先、青い空に…シュロの木?椰子の木?南洋のを思わせる木が高くそびえています。
そのそばに決して大きくはないお寺さんが建っています。
さあて、車を停めましょう。(運転しているのは、いつも通りに夫でありますが…)
ん?
えっとぉ〜?
大きな、そしてやたらと頑丈そうな檻があります。…なにか飼っています?
あ、でもおばあさんが無住だとおっしゃっていました。
かつて何か飼っていた?
いやぁほんとに結構大きめな檻なんで。
何かいる?
なにもいません。
どうやらこれほどに大きなものではありますが、これ、猿の捕獲用の罠、らしいです。
いやぁ、よかった、よかった。
野生生物が罠にかかっているのは正直恐いです。
お寺さんは当然ながら鍵がかかっており、中は見えません。
今回は覗こうとはしないで、早々に御本堂を後にした私。
入り口付近のお地蔵さまを拝しておりました。
そして…。
次に向かったのは【桂禅寺】さん。こちらも大間々駅にある、かつての山田郡大間々町であった頃作成され、そのままに掲示されている古い方の観光案内地図上にあった、【虚空蔵菩薩木像】さまのそばにあるとされるお寺さんであります。
…それが、ですね。
ナビに入力すると『禅桂寺』という違うお寺を示してしまいます。それがまた、車で行こうとするならば、それなりに遠くはないところにあるお寺さんなのです。
そちらには何年か前に伺ったことがあるため、そのナビのまやかしには引っかかることなく済んだのですが、おぼろげに記憶した、くだんの大間々駅にある観光案内の地図による案内が、夫と私の記憶が異なっておりまして…。
さらにはこちらのお寺さん、Googleマップですらhitしないという、秘湯ならぬ秘寺のようでありまして。
私は、たって、この虚空蔵菩薩さまのまつられている場所までの道の、さらなる延長線上にあるはずだと言うのですが、…類い稀なる方向感覚の持ち主で、かつ、認知症をかなり疑う妻の言うことなど鼻にもかけず。
私の言うのとは二本も異なる道を走り出したのであります。
それが、冒険の始まりとなろうこととはつゆしらずに…。
ええ、まさにクエスト。
お寺クエストとでも言いましょうか。
よく晴れた、ここ最近ではかなり暖かい、風もない日だというのに、あの、最初にお会いした男性以人っ子一人歩いておらず。
猫も歩いておりません。
当然、人に道をお尋ねすることもできず。洗濯物を干したお宅は何軒もあるにはあるのですが、このコロナ禍、わざわざ人さまのお宅を突然訪ねるわけにもいかず。
自らの信じる道をひた走る夫。
ですが…。
さすがにこれだけ走ったら、もはや違う地区に、下手すれば違う市に出てしまう、…そんな気配を感じるところまで走って、
「違ったかなぁ」と夫。
「もういいじゃん。幻のお寺さんってことで。
駅のすぐそばにあるみどり市職員さんの詰めている観光案内所に伺っても、パソコンを確認してすら〝虚空蔵菩薩〟さまも〝桂禅寺〟さんもわからない、ってことだったじゃない。
戻ろ、ガソリンも高騰してることだし」
と私。
…なぜか清々しいくらいの気持ちで今来た道を戻ります。
それは、車だから、でしょうね、ええ。
群馬県の重要文化財指定の、【虚空蔵菩薩木像】さまは、その後調べた群馬県の重要文化財一覧に、個人の方が所有されている旨記載されていました。
一族の方が長い長い年月守り続けておられる…そんな素晴らしい歴史をもった虚空蔵菩薩さまであるようです。
すごいなぁ。
そして、なんだかとっても羨ましかったりする私がいます。
維持保存は想像以上のものなのでしょうが、ね。
ずっといつまでもこの一族の方をお護りください。
なんとか到着した、そのプレハブ(?)の建つところは少し広い平坦な土地になっていました。
緑の屋根と破風、白い壁と両開きの引き戸。戸にはちょうど目の高さほどのところに五センチ×十五〜二十センチ程度ののぞき窓がそれぞれの戸にひとつずつ。
またまたその窓から覗くおばさん。
トンボ柄の暖簾を掛けて、日の光やすきま風から保護してあるようです。
その布で覆われたものは何なのか、どのくらいの大きさなのか、何一つわかりません。
そう…そこに虚空蔵菩薩さまがおられるのかどうかすらわからないのが実情です。
ただ、このプレハブ(?)の左横に燭台等を載せた台が置かれています。
こちらに虚空蔵菩薩さまがおまつりされておられるのに間違いないでしょう。
大間々町の時代の木製の標柱に【木造虚空蔵菩薩】と書かれ、管理者の方のお名前まで入っています。
平成に入っての大合併も十年以上前のことであります。
燭台を最近使用した感じはまるで感じられません…おそらくはここ何年か。
御開帳はされているのでしょうか?
南北朝時代の木像虚空蔵菩薩さま。
できれば虚空蔵菩薩さまにお会いしたかった。
あとで調べたことによると…こちらは現在は群馬県の重要文化財になっているようで、御開帳も特に法要もされていないとのことでした。
このままこちらでずっと収めたままですと、虫などの害で傷んでしまうのではないのだろうか。
あまり保存状態が良いとは思えない建物とその内部。
私どもが御開帳に立ち会えなくてもそれは仕方ないこと、せめて一年に一度くらいは日に当て虫干しなどをしないといけないのではないだろうか。
誰かそのご様子の確認や、法要などはされているのだろうか。
うーむ。
みどり市のホームページにある重要文化財の紹介にあるお写真でそのお姿を拝見する事ができました。
ほっそりとした美しいお姿でありました。
秘仏であるならそれはそれで良いのです。
でもそれでしたらそれで法要をしていて欲しいし…。
群馬県さん、お願いです。
このお美しいお姿をお守りくださるか、こちらの法要を営む僧をお遣わしください。
いやいや、(かつての)道じゃん!
行ってみる価値はあるだろう。
偵察、偵察!
…とはいえ、そんな話を聞くと、左右、前方から(後ろは夫がおりますので)突然、野生動物たちが現れる不安が途端に大きくなります。
立ち止まって辺りを見回して…。
再び、止める夫を無視して(!…やれやれ)前へと進みます。
かつて段を造り横木で堤防をした歩道は崩れて形跡を残すのみとなっている所が続きます。
枯葉だらけでそこに何かが潜んでいそうな気すらしてまいりました。
すっかり探検隊の気分です。
携帯は…圏外ではなさそうです。
…ちなみに前回訪れた『岩穴観音』さまの辺りはかなりの範囲で圏外でしたし、みどり市の奥の方にあたる地域ではまだまだ境内の電波が圏外のところがあるようです。
携帯電話が使えれば、
とりあえずは単独ではないので、何か事があっても、連絡する手段と連絡できる可能性は残されています。
大丈夫!
そもそも虚空蔵菩薩さまがお護りくださるにちがいありません。
脳内にあえて音楽を流します。
♪歩こぉ〜、歩こぉ〜、
わたしは元気〜っ♪
そんなわたしの目の前の道が、突然ふさがれます。
倒木って…こんな根こそぎ倒れた大きな木でしたか!
そして道をふさいでいたんですね。
…お勧めされなかったわけです。
へいき!
道なき時は作ればいい!
…というかその倒木の横の藪の中に入り込んで、先にある道に向かいます。
すっかり探検気分になっています。
(いやいや、虚空蔵菩薩さまの参拝に訪れてるんだよ、おまえは)
と心のなかで自分にツッコミをいれました。
そこで
「あ、合ってるみたい」と夫から声がかかりました。
えっ?まだ疑ってたんだ。…というかこんな凄い道をスマホ見ながら登って来てたんだ。凄っ!
(歩きスマホは危険ですよぉ〜)
辺りはすっかり藪の中、林の中、森の中、です。
!
見えた!
屋根だ!、屋根が見える!
茅葺きでもなく、瓦葺きでもない、プレハブを思わせる屋根が見えます。
「…やっぱり間違ってたのかなぁ」
と夫。
いや、むしろ合ってるでしょ?
こんな山ん中、小さなプレハブって、他に何の目的がある?
…まあ、林業の作業の道具の物置とかトイレとか、いっぱい考えられるけれど…。
そこに通りかかった救いの人影。
男の方がいかにも近所をウォーキングされている、といった感じです。
「あのぉ〜、この辺りに虚空蔵菩薩さまがおまつりされているという案内板を見て来てみたのですが、車はこちらに停めて大丈夫でしょうか。それと…どちらになりますか?」
…エックスキューズミーおばさんの登場です。
このコロナ禍でありますのでマスク越し、三メートルくらい離れた所からお声がけいたしましたが、快くお応えくださりました。
「車はそこなら全然大丈夫だけど…。虚空蔵さんは、正直、行ってもしょうがないと思うんだけどなぁ。木は倒れている所はあるは、藪んなか歩いて行くようなとこだよ?なんもないし」
!?。
…なんもない?
いやいや、大間々駅のそばで車の中から気さくに話しかけてきたおじさんも、数ある観光名所を
「なぁ〜んもないよ。今なんか花も咲いてないから、ほ〜んとな〜んもないから」
とおっしゃっていました。
きっと慎しみ深い住民の方々が謙遜してそうおっしゃっておられるのに違いない。
倒木は先日うかがった『岩穴観音』さまも倒木が囲い屋を直撃して囲い屋の一部が大きく損壊していたではないですか。
大丈夫、大丈夫!
「行くんなら、そっから右に行くんだよ」とおっしゃって、深々と頭を下げるおばさんを後にお散歩…ウォーキングの続きに向かわれました。
えっとぉ〜。右…。
前述いたしましたが案内標示はありません。
先ほどの方がおっしゃっていました中に〝藪んなか〟というワードがありました。
藪んなか、藪んなか。
?!
こ、これは道だ!
藪の中に一部、身をかがめて歩くようではありますが、自然を活かした緩やかな段を造ったようなところがあります。
まるでトトロの世界…というよりはかつての参道?山道の名残りのようなケモノの世界にあるかつて人が遺した細い登り道、で…。
さっさとそこを登り始める私に、
「ええ?行くの?やめておいた方が良くない?」と夫が声をかけたくらいの道(かつての)であります。
登るのを躊躇う夫を置いてさっさとそこを登るのは偵察するつもりでなのですが、そこはやっぱり心配して追ってくるのが夫。
片手にスマホを握りしめ、Google先生にご意見をうかがいながら歩く夫から、
「なんか離れていってるみたいなんだけど…間違えてるかもよ」
と。
はっ?
群馬県みどり市の大間々地区に観光案内のための大きな地図の看板があります。
みどり市というのは、かの平成の大合併で三つの町村が合併し新設されたもので、そのもととなったのが、旧山田郡大間々町、旧新田郡笠懸町、旧勢多郡東村であります。
それぞれの地がそれぞれの歴史を持った町村の合併であるため、合併から二十年以上経つ今も、行政以外はほとんど別個のものといった感じのままであるのが現実です。
その行政とて、もともとあった大間々町役場、笠懸町役場、東村役場が合併したものですので、分庁方式を取り、今なお模索しているのが現状のようですが…。
このもととなった三つの町村は、それぞれ郷土愛の強い土地でもあり、合併こそすれ、今なお独自の活動、催事をそれぞれの地区で行い、維持、発展させているのであります。
そんな大間々地区にある観光案内の地図は、実はふた種類存在しています。かつての山田郡大間々町であった頃のものと、みどり市大間々町となってからのもの、であります。
今回はかねてより気になっていた古い方の観光地図上にあります、『虚空蔵菩薩』と書かれたところと、その先にある『桂禅寺』さんへ参拝に伺いました。
その古い観光案内地図、
実に大間々駅にあり、しかもみどり市の市の観光案内所のすぐそばにあるのであります。
ですが、観光案内所でいただいたみどり市になって作成されたパンフレットにはことごとくその記載がなく、観光案内所で伺っても市の職員さんたちもさっぱりわからない様子で…。
「行ってみればわかるであろう」
そう考えて向かったのでありますが…。
当然(⁉︎)私どもの愛車に搭載されたメーカー純正ナビにはそのどちらも表れず、Google先生にご案内いただくこととなったのですが、直近になったところで小さく小さく表示された『⬅︎虚空蔵菩薩』の案内標示を発見した後すらGoogle先生に頼らなければたどり着けないありさまでありました。
予想はしては来たのですが当然ながら駐車スペースなどなく、なんとか停められそうなスペースに駐車してはみたものの、先ほど見かけた小さな『⬅︎虚空蔵菩薩』の案内標示以降一切その案内は途絶えます。
右?
左?
岩穴である御堂は、奥行き約30尺(9.1メートル)・高さ約10尺(3メートル)の自然洞窟。
その奥に石仏さまが二体安置してあるのが拝見できました。
当然、『岩穴観音』さま、ですので観音さまの石像がおまつりされている、そう思って覗かせていただいたのですが…(このおばさん、覗くのがどうにもやめられない、不敬なやつであります)。
私の今まで拝してまいりました観音さまの石像とはどう拝見しても異なります。
えっとぉ…?
石に浮き彫りされた坐像の御仏であります。
夫も首を傾げます。
「こちら…観音さま?なのかなぁ。なんだか観音さまではないように思えるのだけれど」
みどり市のホームページで確認したところ、
『この本尊は観音様と呼ばれているが、実際に安置されているものは室町期の地蔵菩薩座像(凝灰岩)と、戦国期の阿弥陀如来座像(砂岩質)であり、それぞれ像種は異なったものとなっている。』
おっ?
やっぱり?
…ではどうして?
説明の書かれた板に、ご本尊さまは准胝観音さまだという説があります。
この准胝の〝胝〟の字を読みたがえて、〝眼〟と読み、そこから眼病にご利益のある観音さまということで、馬の関係者の他にも眼病に悩む患者さんやそのご家族が参拝に訪れるようになっていった経緯があったといいます。
薄暗い岩山の洞の中に准胝観音さまもおまつりされておられるのかもしれません。
静かな、穏やかな空気が流れる、自然豊かな心地よいところにあるこちら。
かつて、一日に何百頭もの(…前レスで何百等と誤記しておりました。すみません。)飾り馬が引かれて訪れていたという時代を偲ぶことはなかなか難しいのが正直な感想です。
強いて言えば、あの演芸舞台の大きさからは、大変多くの人々が集まったであろうことを偲ぶことはできるかと。
それでも、私どもとすれ違い、すれ違いで二組の参拝者の方々がおられました。
ことに最初におられた方は慣れた様子で奥の方の参拝まで済ませて来られたようにも思えました。
あとからみえた方々は、栃木ナンバーということもあり、話の様子からも初めての参拝のようであり、それこそYahooニュースのおかげ(?)、影響のように思われました。
帰りに。
小さな御堂を見かけ立ち寄った際に、二十メートルくらいの位置に鹿がいてびっくりいたしました。
野生動物との遭遇は多々あるようで…。
こちらは先ほど通り過ぎてまいりました正福寺さんを本山とする末寺で馬の神さまが祀られているといいます。
建立年などの創建は不明。鎌倉幕府討伐で活躍したた楠正成が愛馬を供養するために建立したという伝説がありますが定かではないと書かれていました。
岩穴観音は馬の神様として崇められていたため、最盛時には一日に何百等もの馬が参拝に訪れたのだそう。
旧暦二月の初牛と新暦十月十日に縁日があり、露天商も出てたいへん賑わいを見せていたといいます。
きっと私の推測による演芸舞台でも催し物が行われたのではないでしょうか。
演芸舞台…かどうかはさだかではありませんが、だとするとたいへん大きな立派なものであります。
枯れ葉も積もりかなり昇りづらい石段を横歩きでのぼって、山門に到着いたしました。山門には新しそうな観音さまの絵と、かつての境内図が掲げられていました。
山門には鰐口がかけられています。
このコロナ禍、どちらの神社仏閣でもこぞって鰐口や鈴の紐ははずされたり、まとめられて撞けないようになっておりますが、こちらは撞くことができます。
山門をくぐるとお地蔵さまや馬頭観音さまの石仏や馬の供養塔などの石像、石塔が入り口に立ち並びます。
みぎてには小さいけれどかなり立派な太鼓橋がかかっております。
が…その先には。
その先には潰れて瓦屋根の部分だけがしっかり残っている小さな建物の跡形が残っています。
また、その太鼓橋とお堂の脇には緩やかな林道があり、奥に進めるようになっています。なにかその奥にもおまつりされているようだと夫は申しますが、林道は…なぁ。
おまつりされておられるかどうかも不確定で、どちらかというと思わぬ野生動物との遭遇の可能性の方が大きく、遥拝とすることいたしましょう。
石段をさらにのぼっていくと。
新しそうな囲い屋があってその奥にそれなりに大きい岩山があります。
その囲い屋!
岩山の上の木が倒れて囲い屋の一部を潰しているではないですか!
あれあれ…。
とはいえ岩穴におまつりされておられる観音さまにはなんの被害もありません。
囲い屋の隙間から覗かせていただきます。
…。
えっとぉ…?。
群馬県みどり市の【小平の里】からさらに山の方へ。
これ以上進んで行き止まりとかはないよなとドキドキするような山道のところもありまして。とはいえ基本、ずっと一本道を来ているので間違いはないと思われます。
うーん。
間違えてはないよな。
そう思い始めた頃、まるで御仏の救いかと思うタイミングで、『岩穴観音➡︎』という看板が!…みどり市の職員さんの立てたものです、はい。
さらに林道、とも思われる道を進んで。
川沿いの道に唐突に『岩穴観音』という看板が現れました。
えっ?、えっとぉ、駐車場とかはないか。駐車してよさそうなスペースはあります。
その一番端っこにそろりそろりと駐車して。到着、であります。
おおっ、赤い建物が見えています。
御堂というには大きなもののように見受けられます。
裏側の右端が見えているようです。
…えっ?、えっとぉ、これは?。
どう見ても大きな演芸舞台のようにしか見えません。
ええっ?
ですが扁額と思しきものや奉納画等も飾られています。
かつてはそんな演芸等も楽しまれていた人々の集まる御堂であったのだなぁ。
そこから視点を変えると、昔懐かしい、パラソルを少し開いたような回転する遊具があり、その横に石段があるではありませんか。
苔むした、22.5センチの足の私の靴すら乗りきらないくらいの細い幅の石段があります。
その先には山門があるではないですか!
その石段に登る前に。
とてもとても綺麗な、お優しいお顔立ちの石造りの如意輪観音さまがおられるではないですか!
調和のとれた端正なお顔立ちであります。
パァ〜っというかぽぉぉとしばしその如意輪観音さまにまとわりつく私でありました。
夫がスマホ片手に私のもとに寄ってきて、珍しくその画面を見せてきました。
「あの岩穴観音さんがYahooニュースのトップになってるぞ!」
えっ?あの岩穴観音さま?
…悲しいかな認知症の私は『あの』岩穴観音さまが『どこの』岩穴観音さまのことかすらピンときていませんでした。
「どこ?」
「あのみどり市の小平の奥の岩穴観音さんだよ」
ほう。…行った覚えがないのだが。
「俺たちはあの辺に行って看板とか見て知ってはいたけど、よもやあそこがYahooニュースになるとは」
…行ったのか?悶々と自問自答をしつつスマホの小さな画面を見る。行った記憶がないんだけど…。
まぁ、若いときデートと称していいのか二人で出かけた神社仏閣をことごとく記憶していなかったくらいの私ですので、そんなこともあるのかも。
若いときはいざ知らず(?)、神社仏閣巡りを始めてからのことだとしたら、それはあまりに情けないことだし、何より連れて行ってくれた夫に大変申し訳ない。
必死に記憶の糸を辿ってみていると、
「行ってみようか」とのたまう夫。
「ええっ?Yahooニュースのトップになったんでしょ?いろんなとこから人がわんさか訪れるんじゃないの?」
「いやいや、それはないだろう。ニュースの写真を見てもわんさか人が訪れるとことは正直失礼だけれど思えないし、御朱印とかもない無住のお堂のようだし」
!。
答えが導かれました!
まだ行ってはいないところだったんだ。よかったぁ、記憶も正しかったし、夫にも申し訳ないことをしてはいなかった(…このことに関しては…)。
ということで、Yahooニュースのトップを飾ってか五日後、話題の岩穴観音さまに初参拝いたしました。
みどり市には【小平の里】という水遊びのできる公園があって、子供たちの小さな頃にはよくそこに行ったものです。
が…結構車を走らせようやく到着するイメージがありました。
大人二人の今、わざわざそこに出向くことはないのですが、こちらのすぐそばに正福寺さんというお寺さんがあり、さらには個円空佛のあるという個人宅があったりと、ちょこちょこ再びこの辺りを訪れるようになっておりました。
やはり結構車を走らせてそこに到達する場所であります。
そこからさらに奥へ。
未踏の地であります。
一日と十五日には神社さんへ詣でるものだということを知り、行ける限りは出来るだけ参拝するよう心がけております。
今回は認知症の始まりを疑われた夫と、認知症の進行が心配な私が是非参拝すべきであろう、学問の神さまのおまつりされる群馬県桐生市の【桐生天満宮】さんへと初詣をいたしました。
おおぉっ!
茅の輪くぐりがあるではないですか!
やったぁ!
念願の茅の輪くぐりであります。これで溜まりに溜まった穢れをお祓いいただけます。…これって本来なら年の暮れ大晦日にすべきものなのでしょうが…ま、穢れを祓って神さまに参拝することができるという意味ではなによりでありましょう。
「…あれ?これって…もう一回左を回るんだっけ?」とは夫。
「えっ?…覚えてない」(ーー;)
…そうなんです。
こちらでは茅の輪くぐりのくぐり方の案内など一切書かれておらず、まさかこちらに茅の輪があるとは思いもせず。
どうせ茅の輪のくぐり方の説明があるだろう的な軽いノリで覚えていたので、夫婦揃って茅の輪のくぐり方を覚えていなかったという…。
結果的には夫の記憶が正しかったのですが、ね。
新年早々あちらこちらの神社仏閣さまでくりひろげる珍道中。
認知症の進行予防に知恵授けも必要かもしれません。
参道にはソーシャルディスタンスをとっての参拝を促す白線がたくさん貼られていました。
うわぁ、さすが桐生市の総鎮守さんであります。
でも…通常の年にしたらかなりのソーシャルディスタンスかもしれないけれど、この白線ではせいぜい『前へならえ』くらいの間隔なのでは?
などとさっそく穢れを抱いたかのような思いをふりはらって、参拝を。
やはりこちらも手水舎の水は張られていませんでした。
心の中で手を洗い口を漱いで…。
こちらは、拝殿の二十メートルくらいの位置に門があります。
昨年一年間のお礼と今年の無事を祈願させていただきました。
認知症の進行予防はまさに必須。
努力するにもこのコロナ禍で人と接する機会もほとんどなく、無職の私としては並々ならぬ努力をしなければなりません。…それがなかなかに難しくて。
こちらでの珍道中録も認知症対策の一環でもあるのではありますが、対策になっていないような駄文珍文で…。
お目汚しをしており申し訳ありません。
…そんな相変わらない珍道中を、夫の実家のお墓参りでも繰り広げるという私たち。
困ったものです。
うーん、…私のボケの進行も抑えてもらえるようにお願いしてくればよかったかなぁ。
そして、私の…離婚した父親の眠るお墓へ。
父親と祖父母、叔父の眠るお墓では、いつも賑やかにお参りします。
こちらは叔父の息子さんが守ってくれていると、以前ご住職さまに伺いました。
「お参りしていてもいいのでしょうかね」
と、ご住職さまに伺ったところ、
「大丈夫ですよ、どうぞお参りして差し上げてください。遠方でなかなか来られないことを気になさっているくらいだから、喜んでくれますよ」
伯父まで入ったお墓をしっかりと守って下さっている、一度もお会いしたことない従兄弟さん、本当にありがとうございます。
嫁いでいて、ましてや父と母が離婚しているとはいえ、実の親のお墓を会ったことすらない従兄弟さんに守っていただいている負目を、何よりも深い感謝を持ってお参りさせていただいております。
そのわりに声に出して祖父母や父に話しかけてるんですけどね。(^^;。
「いいお孫さんに恵まれて本当に良かったね。
(亡くなったことも知らなかった叔父に)いい息子さんに育ててくれて本当にありがとう」
あらためてそう語りかけたお墓参りでありました。
一月十五日。
定例の、義父と父親の月命日のお墓参りの日であります。
お掃除して花をたむけ、お線香をあげる、ただそれだけのいつものお墓参りです。
違っていたのは夫がいたこと。
そう、今回土曜日ということで、夫の仕事が休みだったのです。
普段は好き勝手に(?)お参りをするけれど、いつも珍道中で常に一緒に仏閣を参拝して歩いている夫なのだけれど、何故か手順がくるうのです。
お掃除の途中…というか、始めたばかりの段階ですでにお線香に火をつけ出す夫。
はあぁ?
夫の父親や祖父母の眠るお墓の前だというのに、つい一言。
「お掃除がまだだからもう少し待って」
聞こえないらしく、なかなかつかないお線香と格闘すら夫。
「お掃除がおわってからにして、お花もまだ生けていないし…」
もう人の声など耳にも入らないほど熱中しているらしい。…やれやれ。
たまに一緒に主人の実家とお墓参りに来らようなことがあった時、いつもそうだったことを思い出した。
いやいや、あれは大人数で来ていて、あっという間に狭い墓所のお掃除も終わるし、大人数分のお線香を用意することが結構大変な作業となるから、だから。
二人だから、ね。
掃除も私一人だし…?…いやいや、自分の身内の眠るお墓、率先して掃除しようよ。
ああ、少ない人数分のお線香もあっという間に用意できてしまったようです。
鳥フン、落とせてもいないんだけど!
「お掃除終わってないし、お花もまだなんだけど」
夫「ああ、そうだったんだ。お線香の入った袋渡されたから用意しろってことかと思った」
…お義父さん、それからこの人のおじいさん、おばあさん、なんとかしてください。T^T。
思わず墓前で訴えた一コマでありました。
お掃除もまだな、お花もたむけていないお墓に早々にお線香をあげるハメとなり、鳥フンと格闘している妻に
「もういいんじゃない?」とかのたまう夫。
何回も何回も二人でお墓参りしてるはずなんだけどなぁ。
…まさかボケた?
お義父さん、おじいさん、おばあさん、まだボケられては私も子供たちも困ります。こんな早くから両親がボケて介護が始まったらあまりにも悲惨です。せめて夫がボケることだけは防いでください、死守してください!
あ、亡くなっておられるから、死守は無理か…。
ほんとお願いします。
…と、長々とお願い申し上げる新年のお墓参りとなりました。
朝ミクルを開けて、飛び込んできた津波の文字。
えっ!?
大急ぎでNHKをつける。
こんな時にはNHKにはしる。
岩手で津波警報が出ているようだ。
その他の太平洋側の海岸でも広い地域で津波注意報が。
避難指示も多くの場所で出されているようだ。
この異常寒波と、異常なまでの積雪の中、しかも真夜中の津波警報、津波注意報、避難指示とは…。
こんな時、神や仏はいるのだろうかという思いが襲う。
おかけする言葉がない。
どうか御身をお守り下さい。
祈るしかできませんが、祈ります。
…そう、そうして祈るのもまた、神や仏である私。
なんという身勝手であろう。
なんと愚かな存在であろう。
でも祈ろう。
祈っています。
祈ります。
十三日は虚空蔵菩薩さまの御縁日。
何年か前に栃木県足利市の【徳正寺】さんの「まゆ玉市」が開かれるという初縁日に参列させていただきましたが、初めての参拝でもあり、その人出と賑やかなまゆ玉市に圧倒されたものでした。
御本堂で手を合わせ、さらに石段を登って虚空蔵堂に向かうのですが、みなさん毎年訪れておられるようで、見慣れない私どもにいろいろお声がけくださり、決して押し付けがましくない控えめな優しい口調で作法や流れをお教えくださいました。
そんなこともあって、すっかりこちらの、初虚空蔵菩薩さまの御縁日の大ファンとなってしまいました。
徳正寺さんのこの御縁日の大祭は約二百八十年前から、虚空蔵菩薩の新年最初の縁日に合わせて一月十三日に開かれているものであります。
参道には、〝まゆ玉飾り〟と呼ばれる白やピンクなどのプラスチック製の丸い玉の下がるお飾りやだるまなどの縁起物の出店に、じゃがバターや人形焼き、お好み焼きといった食べ物の屋台が居並び、心はずむお祭りでありました。
…行きたいなぁ。
今年は平日ですので、行くにしても私一人ですが、ナビがなくとも行けるお寺さんです。
今年、感染対策を施して開催されることもわかってはいます。
うーん。
しかしながら、ここへきて新型コロナウイルス感染症の新規感染者数が爆発的に増えています。
人混みであることは間違いありません。
あきらめよう。
御縁日は開かれていなくとも、虚空蔵菩薩さまのおまつりされているお寺さんにお参りすることと致しましょう。
そうだ、群馬県桐生市の円満寺さんの御本尊さまが虚空蔵菩薩さまであります。
そして…長男が何年か前にこちらの【鏑矢】と〝干支の福鈴〟をお授けいただいてきましたのを機に、それ以来ずっとこちらの鏑矢と福鈴をおまつりするのが恒例となっておりました。
が…やはり今年は福鈴はもう残っておらず。
先だって光榮寺さんでお受けした小寅くんをいつものところにおまつりすることとなりました。
ところで。
この〝鏑矢〟というもの、私はつい最近まで〝破魔矢〟だと信じて疑いませんでした。
みどり市の貴船神社さんで頒布しているものに〝破魔矢〟〝鏑矢〟とそれぞれに名称が書かれていて、見ればたしかに形が異なり、うちに毎年飾られていたのは〝鏑矢〟であったことを、そこで初めて知ったのでした。
【鏑矢】という名称である以上、〝破魔矢〟とは違うのだろうと、調べたところ、
鏑矢というのは射ると音が出るといい、戦国時代に戦闘の合図として用いたもの、なのだそうです。
互いの大将が名乗りをあげた後、空に向かって戦闘の合図として放ったのが鏑矢だったといいます。このため『戦闘で一番最初に放たれる矢』ということで、鏑矢は『一番矢』という意味があり、その年新たなスタートを踏み出すときなどに最適な縁起物、ということでありました。
〝破魔矢〟はその名の通り『魔を破り、厄を祓う』という意味を持つ縁起物とのことであります。
【破魔】はもともと、『悪魔や煩悩を打ち破る』意味の仏教語で、丸太を輪切りにしたものか、藁を丸く編んだ的のことを指していたのだそうで、その〝破魔〟を宙に投げて弓矢で射落とし、その結果で一年を占う『破魔打ち』という正月の行事があり、この競技が形式化されて正月の縁起物となり、男の子の成長を祈願して弓矢を組み合わせたものを贈る風習が江戸時代に生まれました。
そこからさらに発展したものがこの、お正月に頒布される〝破魔矢〟となっているようです。
私同様、鏑矢を大きな破魔矢と勘違いされておられる方は多いのだと書かれてはいたのですが…。
実はうちには車のお祓いを受けた際授与された〝破魔矢〟もありまして。その形の違いを見て私は小さなものだから簡素化しているのだろうと思い込んでしまっていたのです。
この形の違う矢は、形だけでなく、その持つ意味もまた違っていたということをようやく学んだのでありました。
やれやれ、でありますね。
参拝を終えて。
…やっぱり何か違うなぁと。
拝殿の背後、本殿の上にそびえる御姿岩があって、その御姿岩こそが御神体である、それが榛名神社さん。
その拝殿に向かわない参拝は、どうしても何かが違うという感覚が否めないのです。
もちろんこちら全てが神域であって、神様のおそばで参拝していることはなんら違わないのですが、ね。
そして、そんな参拝者の思いを考慮して、拝殿の写真を印刷した覆い布も背後の景色とほぼずれることないように同じ大きさの写真を使い、御姿岩とズレなく張られているのですが…。
それはそれでとてもすごいことなのでしょうし、そのご努力には感謝しておるのでありますが。
足場の組まれた拝殿、本殿の横を通って、見上げると御姿岩が拝することができました。
そこで手を合わせて、はじめてこちらの神さまに参拝できた気がいたしました。
この工事が完了するのは令和七年十二月の予定ということで、それまでの間は国祖社での参拝となることとなります。
神さまの居心地こそがあまり良くはないこととは思いますが、広い神域のなか、落ち着いてお過ごしになれるところもございましょう。
この修理修復工事は神楽殿の工事で全てが終了となるようです。
完成したころには、コロナも落ち着きをみせていると信じたいものです。
石段を登るとさらなる門があります。
こちらは扉が閉まる門です。
そこをくぐると…。
見上げてもその先が見えないくらいの(この位置から、という意味、です)の大きくそびえ立つ岩山があります。そしてその岩を全て見渡せる位置へと移動すると。
石段の途中に白木の彩色されていない門があります。
こちらも扉が締められる門です。
こちらの門は昨年修理修復工事を済ませたばかりの、双龍門という名の門であります。
この双龍門の彫りの見事なことといったら!
ですが、今回はそれなりの人出であるため立ち止まっての鑑賞は難しいので、くぐるだけで先に進みます。
石段がカーブして神楽殿と天狗さまのブロンズ像が見えてまいります。
見慣れないスロープと、見慣れた拝殿が…、見慣れた拝殿の写真を印刷した覆い布がみえてまいりました。
おおぉぉ、こういうことか。
スロープは国祖社の前まで続いています。
思っていたよりは広めに参拝することも、待つ間を過ごすこともできそうです。誘導の方が一人ついておられます。
国祖社の中でご祈祷が始められるようです。
ご神前では昨年のお礼を申し上げました。
さらに登るとまず見えてくるのが石段の上の三重塔。
そして石段を登り切ったところで狛犬さんのお出迎えをうけます。
それにしても…。
狭い参道の途中、いったい何故ここに三重塔を?
どうやらこちら古いものではなく、明治二年に完成したもののようです。
しかしその当時といえば、明治政府により神仏分離令が発令された頃真っ只中が建立工事中であったかと思われます。
このとき、地元の方々の強い訴えでなんとか残されたという経緯があったようで。
榛名神社さんもまさに神仏が混在しおまつりされてきたところであり、実際、こちらにおまつりされていた多くの仏具・仏像はその際うしなわれています。
現在随身門となっているところにも仁王さまがおまつりされていたといいます。仁王さまもどこかに移送するいとまも与えられず、なくなっています。
そんな状況下にあっても、三重塔を残すということはどれだけの苦労があったことか…。
…そんな歴史的経緯のある三重塔のようです。
その三重塔を通るとまた鳥居かあります。
さらに進みます。
【萬年泉】というのがひだりてに見えてまいります。木の覆屋の中、しめ縄が張られています。こちらは
干天が続くと榛名神社に参拝し、雨乞祈願後に萬年泉から汲んだ御神水を竹筒に入れて帰村すると雨が降ると伝えられています。
さらに石段をのぼります。
御水屋(おみずや)手水舎が見えてまいります。榛名山麓の天然水。
今年はこの手水舎は一部しか凍っていませんでした。
御水屋のみぎてに【瓶子の滝(みすずのたき)】が見えます。落差二十メートルの見事な滝です。
滝の流れている両脇の岩を神に捧げる神酒を入れる器の瓶子(みすず)に見立てて、そこから落ちる滝ということで、この名が付いたそうですが…。
今年はなんと!この滝さえもが凍っています。ひえぇぇ、今年の寒さって、どんな?
真っ直ぐに天を突く姿で、参詣者を出迎える【矢立杉】の横を通って石段をのぼります。この杉は武田信玄が箕輪城攻略の際、矢を立て戦捷祈願をした杉であり、名前の由来もここからなものと言われています
矢立杉から石段を登った左側にあるのが【神幸殿】。
毎年春の大祭には、御神体が本殿から神輿に移され神幸殿に遷座されるそう、なのですが…。この石段、急だし狭いし。
何より石段の途中って…。
どうしてよりによってここに?
青銅の鳥居をくぐって、一つ、赤い橋を渡ります。
そして見上げるだけで心穏やかになる随神門。
神域に邪悪なものが入り来るのを防ぐ御門を護る神さまをまつる門です。今年も門松がたてられています。
こちらの門は
ん?
ん、ん、んん⁉︎
…随神さまがおられない!
ええぇっ?
随神さまがおまつりされたのって、確か明治のあの神仏分離令以降だったはず。
まだそんなに経っていない…こともないのか。こちらの随神さまは明治三十九(1906)年におまつりされたものと聞きます。百十余年は経過しているんですね。
彩色の剥落はたしかにありましたが、金網越しにはわからないお傷みがあったということでしょうか。
昨年十月頃には搬出され、現在は東京で修理修復をされているとのことで、完了は令和五年三月を予定とのことであります。
「…私、通ります。
とくだん、以前より悪くはなってはいないと、本人は思っておりますので、神域に入ることお許しください。」
小心者は心の中で、そうつぶやいて随神さま不在の随神門をくぐったのでありました。
さて、ここから五百五十メートルといわれる参道を登ってまいります。
参道のわきとなる、眼下の川は凍っています。昨年は普通に流れていました。
神橋を渡ってすぐの滝は、落ちつつあった流れのままに凍っております。まるで時を止めてから凍らせたかのようです。
そんなことも影響しているのか、いつもの榛名神社さんの参道と、少し気が変わっているような気が…。
先ほどの常識のない親(子)への怒りも不思議なくらいスッと引き。
榛名神社へとさらに登ってまいりました。
我慢に我慢をし、今年は正月三が日の参拝を避けました。
といいますのも…実は榛名神社さん、昨年の十一月より工事に入っているのであります。
このところ工事続きの榛名神社さんでありましたが、今回は特に本社・幣殿・拝殿保存修理工事。
昨年十一月の工事着工まもなくの頃には参拝自体が中止となっていたくらいでありました。
ということで…社殿周辺の状況が例年とはかなり異なっているとのことで、前々回保存修理工事を行い終了した国祖社においてのお参りとなるようです。
うーん。そ、そうかぁ。
参拝路はもともと一方通行なのですが、国祖社の前というのが実はかなり狭いものなのです。
ホームページによりますと、賽銭箱前も非常に狭くなっているとのことで、ただでさえ参拝者が多く、七百メートルともいわれる参道が満員電車の車内のようになる榛名神社さん。それどころかその前からぎゅうぎゅうの長蛇の列となるというこちらの初詣、なのであります。
さらにコロナ禍で、どれほどの人出になるのか予想ができません。
ということで、榛名神社さんとしても初詣の行列は例年にも増して長くなることを予想されており、ホームページでも、
『ご参拝に際しては、駐車に伴う渋滞、社殿前行列等でかなりの所用時間が想定されますのでご留意ください』
と記されていたくらいです。
また、ここへきて、コロナの新規感染者数が激増している状況であります。
ただでさえ混雑が嫌いな珍道中コンビとしては今年は三が日を避けての初詣とすることといたしました。
ただ。
今年は御守り等を例年に比べ少なめに用意されたとも書かれており、例年お受けになられている御守り等がないこともあるかと思いますがご了承くださいとも。
こちらの干支の福鈴を玄関に飾るのがここ何年かの定例となっていたのですが…。
さて。
榛名神社さんへの、遅めの初詣。
どうなりますか…。
昨日、群馬県高崎市の【榛名神社】さんに参拝してまいりました。いつものように運転したのは夫と息子。いつものように、乗せていってもらっての参拝です。
やはり凍結した路面でありました。
:(;゙゚'ω゚'):。
とはいえ、今年は路面自体は昨年よりもずっと凍結した部分は少なく、むしろそれ以外、湖や滝、川などが昨年見られなかった凍結が多く見られました。
波のまま凍る湖面。
草に打ちつけた波がそのままに草ごと凍っています。
すごいなぁ…。
でも一番すごいと思ったのは、その凍った湖にいくつも、『危険!凍った湖面立ち入り禁止』という大きな立て看板が設置してあるにも関わらず、しかもすぐそばが凍っていない場所で、中学生くらいの男の子とその母親が湖面を歩いて遊んでいたこと。
父親は止めもせず静観。
そんな親と、そんな親に育てられている息子さん。
万が一凍った湖面が割れて落ちたとしたら、命にも関わることであり、そうしたら、してはいけないという行動をして起きた事故で救助の手を煩わすことになるというのに…。
ここまで車で上がるのにどれだけ時間がかかるかは登ってきた自分たちにもわかっていることでしょうに。
その間、救急車の一、二台を塞ぎ、救急隊の手を塞ぐというのに!
最悪、冷たい湖に入っての救助になることだってあるかもしれない。
そうしたら、その救助にあたる方の命を脅かすことだってあるのです。
馬っ鹿じゃないっ!!!!
イライラを通り越し、かなり怒った私が近づくころには、そこから立ち去って行きましたが、やって良いことと悪いことを教えるのが親でありましょう。
それを!…。
はあぁぁ。
でも、そんな怒りも、「何事もなかったから良かったか」
…おばさん(と私ほど激しく怒ってはいないものの夫も)の激しい怒りがすぐに沈静化いたしましたのは、湖の精やら山の神さまのおかげ、なのかもしれません。
ちなみに正義感の強い息子は顔にも声にも出しはしませんが、内心では私同様に怒りで煮えたぎっていたかもしれません。
ふぅぅぅ。
11、すべての人々が飢えや渇きに苦しむことがないようにする。
第十一願 飲食安楽
食事に関する苦悩を除き健全な食を与える。
12、すべての人々に衣服を与え、心慰めるものを与えて満足させる。
第十二願 美衣満足
満足する衣類を得て健全な精神を宿らせる。
というものであります。
そして、薬師如来さまの周りを守護する十二神将は、この御誓願を護るため十二の方角を守っているのだといいます。
悟りを開き如来となられるために、さらにこの御誓願をたてられた、薬師如来さま。
ありがたいことでございます。
初薬師に寄せて。
昨年あるお寺さんの御本堂に大きく掲げられていた【薬師如来さまの十二の御誓願】を拝見する機会があり、初めて薬師如来さまの御誓願を知りました。ご住職さまにお願いして、その御誓願だけ写真を撮らせていただきました。
今回、初薬師ということでもありここに記させていただきます。
薬師如来さまの十二の御誓願
お薬師さまは如来になられる際に衆生を救うために次の十二の願いを叶えるようお誓いになられました。
1、すべての人々をほとけにする。
第一願 光明普照
自身から発する光明で世界を普く照らす。
自らの光明は極めて盛んに無量無辺の世界を照らし、一切の衆生も自分と同じように悟らせるという願い。
2、すべての人々を明るく照らし、人々が善い行いをできるようにする。
第二願 随意成弁
威徳と人徳により人々を悟りの境地に導く。
瑠璃のように清浄で傷や汚れがなく暗闇を照らし、衆生の意の赴く所にしたがって諸々の事業を成就させるという願い。
3、すべての人々が必要なものを手に入れることができるようにする。
第三願 施無尽仏
人々の願いを叶え、満ち足りた環境に導く。無量無辺の智恵をもって衆生に無尽の施しをして豊かにするという願い。
4、すべての人々を大乗仏教の正しい教えに導く。
第四願 安立大乗
人々の悟りを確立させ、永遠のものにする。異端の道を行ずる者を菩薩道に導くという願い。
5、すべての人々に戒律を保たせる。
第五願 具戒清浄
人々の日々精進させるとともに善行を促す。
6、すべての人々の身体上の障害を無くす。
第六願 諸根具足
迷いを生ずる原因をことごとく消滅させる。
7、すべての人々の病を除き窮乏から救う。
第七願 除病安楽
人々の病気を完治し、心身に安楽を与える。病苦を取り除き心身ともに安楽にするという願い。
8、女であることによって起こる修行上の不利な点を取り除く。
第八願 転女得仏
女性的な優しさだけでなく力と勇気を得られるよう。
9、すべての人々をさとりの妨げをなす魔から救い、菩薩の修行を修習させて完全なさとりに到達させる。
第九願 安立正見
心中の邪悪な感情を除き健全な精神を得ることができるよう。
10、災いなどの災難や苦痛から解放する。
第十願 苦悩解脱
人々の苦悩や災難をことごとく消滅させる。
さて。
つつがなく光榮寺さんの初薬師厄除大護摩への参列を終え、無事帰宅いたしました私。
ええ、ここで終わらないのが珍道中をひたすら続ける人物で…。
帰宅してすぐ、あの、抱きしめんばかりにお受けしてまいりました干支の寅の福鈴を玄関におまつりしようと、小さな箱の蓋を開けました。
開けましたところ、中から出てきたのは…、中には小さなザラ紙をくしゃくしゃっと丸めたもの、のみ!
え?
思わず振ってみる私。
もちろん、小さな箱…五、六センチ四方の小さな箱の中、小寅の隠れる余地はありません。
えっとぉ〜、空ってこと?
空箱ってことですか?
:(;゙゚'ω゚'):
せ、せっかくの縁起物なのに?
嘘でしょ?
で、電話する?
いやいやあの大変な行事の中、そんな電話は迷惑なだけです。
後日にでも?
万が一今日この福鈴が売り切れてしまったら、干支の福鈴、当然、売り切れ終了です。
何よりこの人相、後日では信用されないかもしれません(やれやれ…(^^; )
…もう一回、行くか…。
行くしかないか…。
くうぅぅぅ。
縁起が良いと思えないんですけど(T^T)
ええ、多少の悪態(…おいっ!笑)をつきながら、今きた道を再び光榮寺さんへと向かいました。
あのぉ、空箱だったんですけど…。
善人の信徒さんはすぐにそれは信じてくださり、ただ「すみませんねえ。いやぁ、こんなことあるんだぁ」とのみ。すぐに交換してくださいました。
展示した〝寅くん〟の空箱を普通に販売するものに混ぜておいてしまっていたようです。
もぉぉぉ(T^T)。
あんまりない珍事、でも縁起物にはありがたくない珍事です。
ちょうど行われていた十一時の護摩の炎に加持していただくことができました。
今年も珍道中は続きそう、です。
【光榮寺】さんは、
『京都東山にある智積院を総本山とする真言宗智山派に属しているお寺さんです。
正式には『瑠璃光山醫王院光榮寺』と称し、【薬師如来】さまをご本尊としてお祀りし、慶長八(1603)年にこの地に良瑜上人と大間々六人衆と呼ばれる豪商によって創建されました。
開山の良瑜上人が携えてきたご本尊の薬師如来さまは柿の木で造られている為、別名【柿薬師】の寺といわれております。
毎年十一月の第一日曜日には【柿薬師大祭】が行われ、御本尊薬師如来の功徳にあずかろうと多くの善男善女で賑わいます。
渋柿が太陽の光を浴びると、渋みが取れ、甘柿になることから、人間を柿に見立てて御本尊の光を浴びることで、知らず知らずに犯してい悪(アク)を取り除き、きれいな心と身体になって、来る寒い冬を乗り超えるという信仰で三百年程続いているお祭りです。
ここ近年にはこの日人形供養も行っています。
また一月八日には【初薬師厄除け大護摩供法要】を行っています。
厄除、家内安全、方位除、交通安全、商売繁盛などの祈願を行っており、近在の方々がその年の無事を祈ってお参りをされます。(後略)』
初薬師の日のみ御護摩が焚かれ、他の日は護摩祈祷は行われ無いとのことです。
さほど広いとは言えない境内ではありますが、いつも掃き清められた美しい境内であります。
いつ建てられたものかは分かりませんが、御本堂も山門も庫裏も、檀家さんの集会所も、みな新しいものです。
六地蔵さまも昨年建てられたものです。
御本堂の左横には墓所が広がっていますが、境外墓所があちらこちらにいくつもあるような檀家さんの多いお寺さんです。
山門には木彫の仁王さまがおられるのですが、これはなんと!仏師でない檀家の方が彫られ寄贈されたというものなのであります。
素人の方の彫られたものとは、そう知るまで…そう知っても思えないくらいの見事な造りであります。
慎ましい方なのでしょう、人から見えるところに彫られた方=寄贈された方のご芳名は一切見当たらないのです。
八日は【薬師如来】さまのお縁日。
一月八日は【初薬師】ということでお薬師様に縁をいただくお寺さんで法要が営まれましたことでしょう。
いくつか前の珍道中録の冒頭となった、柿薬師さんで有名な群馬県みどり市の【光栄寺】さんの【厄除大護摩】に参列してまいりました。
以前のように御本堂の中でのものでは無いことは承知しておりましたし、人混みが多ければ、山門の外からでもいいと思ってのことです。
十時からの御護摩に間に合えばと家を出たのですが、うわぁ!
駐車場、ガラガラですか…。
それはそれで寂しいですが、少なくともコロナ禍、ましてやここへ来て急激に感染拡大が進んでいることを考えると、まさに薬師如来さまのお導きな気がしてなりません。
もちろん中も、ゆったりゆっくりと参拝できるだけの人出であります。
まずは御本堂前で、お灯明をお願いして参拝いたしました。
それから再び、境内の一つのテントへと向かいました。
御守りはお受けしてあるのですが、少し気になっている縁起物がありまして特設の御守り授与所となっているテントを覗きました。
あっ、あった!♡
干支の福鈴がなかなか手に入ることが叶わず、密かに探し求めておりましたが、ここ、光榮寺さんにあったではないですか!
ただ、いつものものとは大きさが異なっていて、しかもいつもですと神社さんでお受けしていたのですが、…かわいい♡
小ささだけでなく、なんとも可愛らしいお顔立ちなのです。寅くん自体は眉尻を上げ「がおぉ〜」と吠えているのですが、それすら可愛らしいもので。
ええぃ、縁起物がいくつあっても縁起がいいじゃないか!と、いうことで、探し求めていた寅の福鈴(土鈴)、ゲットすることができました。
それを手に再び御本堂前に進むと、そろそろ十時からの御護摩が始まる頃。
一年玄関を御守りいただく福鈴さんと、先日お受けした御守りを胸に、御本堂外からではありますが御護摩に参列することができました。
もともと、広い御本堂にもかかわらず、多くの方が訪れるため、御護摩に入りきれなかった方は外で参列することでありましたし、そんな方のためにマイクを使っての法要ですので、読経などのお声は外までしっかり聴こえてまいります。
さまざまな願意にご祈祷をなさってくださっておられました。
貴船神社さんの御守りの種類は、到底簡単に数えられるものではありません。…そもそも数えること自体が不敬にあたりますが。
厄除の御守りも、〝厄除開運〟というもの、〝前厄〟〝本厄〟〝後厄〟というそれぞれのものが用意されていました。
その他に厄除のものでは割り札になっている御守りもありました。
割り札の御守りは〝厄除〟と〝方位除〟のものがあり、左右に手で割ることができるようになったもので、真ん中にそれぞれ厄除、であったり方位除であったりの文字がちょうど札を割ると半分に割れるように印字されています。
右側にあたる札に名前や住所、生年月日を記入して、これを厄除や方位除けの祈願の念を込めながら割るのだといいます。
割るとちょうどその左右一つ一つに、絵馬のように紐が付けられていて、その名前を書いた札の方を絵馬掛けにかけ、左側の木札を持ち帰り家の清浄な場所に掛けて一年間御守りいただくもののようです。
このようなお札?御守り?は初めてお目にかかりました。
当然、昇殿してご祈祷いただくことが一番なのでしょうが、我が家のような神棚の無い家ですと、おふだをお受けすることに畏れ多さがありなかなかお受けすることができずにおります。
これならば、厄年といわれ気に病みつつも三年過ごすことなく受けることができるおふだな気がいたします。
ありがたい。
いろいろな個々の諸事情に合わせて、その方なりのご祈願やお札、御守りを用意してくださっているのだなぁ。
御神籤もいくつか。
水で文字の現れる龍神さまの御神籤をひかせていただくことにいたしました。人生二度目。
結果は…大安。
良いことばかりが書かれています。
願望…願いのままに叶う
ほおぉぉぉ!
旅行…どこへ行っても良い
…うーん、それはお気持ちだけ。
ここへ来てまたコロナの新たな変異株が異常なスピードで広がりつつあるようで、新たな株なものなのか新規感染者数が激増しております。
帰ってから夫に見せますと、
「二人で仲良くすすめ、だって」
いや、それ〝恋愛〟、だから。
「あれ⁉︎健康に注意だって!」
…あのぉ、そこ、〝出産〟だから。
やれやれ。
御神籤一つでも珍道中な二人。
今年の運勢、というか神社仏閣めぐりの行方を暗示するような一コマで…。
大丈夫!
大吉、大吉!
『こいつは春から縁起がいいわいぃっ』と、見得でもきってみましょうか。
駐車場の誘導係の方が三〜四名出ております。一見満車に見えましたが良い位置に一台分の空きがあり、そこに誘導していただくことができました。
車を降りて…。
こちらの神社さんは石段の横に一か所、石段を登り終えた左端にひとつ、手水舎があります。私は下の手水舎で、持参したマイ柄杓…かわりの取手のたためる、キャンプ用品のステンレス製のカップで手や口をきよめます。
いくつかの鳥居をくぐりながら石段を登っていきます。
清々しい空気が私を包みます。明るい気です。
拝殿が見えました。
大きな絵馬が拝殿の右横に置かれています。今年の干支の寅。なんともいい顔の引き締まった身体の寅です。
拝殿の正面、向拝には天狗さまのお顔が祀られています。
ガラス越しに拝殿の中がみえます。
明るく広い拝殿です。
分散参拝ということもあるのでしょうが、平日の十一時、まさにゆったりゆっくり参拝できるくらいの人の数でありました。
ありがたいことです。
参拝を終え。
すぐに向かったのは絵馬の前。
寅の絵馬を写真撮影いたしました。
そして、御守り等の授与所に向かいます。
うわぁぁ。
なんと豊富な種類の縁起物でしょう。
破魔矢、鏑矢もいくつかの種類が用意されています。
熊手に干支の福鈴。
そして…。
一体何種類の?!
…何種類の御守りがあるというのでしょう。
すごい!
ドキドキしながら車を進めます。
曲がるところひとつ間違えなければ、あとは一本道、…だったはず。
その、誰でも間違わないような曲がり道を間違う特技を持つ、類まれな人間なのだよなぁ、私って。(^^;。
お、『貴船神社へは橋を直進』
と書かれた看板が出ています。
さすが大きな神社さん♡
これでドキドキものだった曲がり道の間違いはおこらない!
橋を渡って左折。
ほとんどの車が左折していきます。
この道は刺繍御朱印で有名となった【松源寺】さんへ向かう道でもあるんだよな。
あ、一台松源寺さんへと向かう道に曲がった。
最近は絵の描かれた御朱印はもう当たり前とすらなり、刺繍御朱印ですとか切り絵御朱印ですとか、飛び出す絵本のように飛び出す御朱印もある時代を迎えました。
御朱印を求める方と、それに寄り添いさまざまな工夫をされる神社仏閣さん。
それはそれで開かれた神社仏閣となって、神さまや、御仏の教えを広めるためにも良いこと、なのかもしれませんし。
ただ…、それでその神社さんやお寺さんの本来あった良さが失われてしまわないことを祈るばかりであります。
新年早々に、いつもの脱線をすみません。
気持ちのよい一本道を進みます。
ああ、この道って、運転するとこんなに気持ちのよい道だったんだ。
のどかな風景が続きます。
あ、蝋梅が咲き始めたようです。
貴船神社さんが近づくにつれて、対向車が増えます。先ほどまでは対向車一台、前を走る車すらいなかったというのに。
おお、車が連なって走ってきます。
うーん、これはほぼ間違いなく貴船神社さんの参拝を終えた方々の車なんだろうな。
ん?、だとすると駐車場が少し空いた、ってことかな。だといいんだけれど…。
光榮寺さんで御守りをひとつお受けして…。
次に向かったのは、やはり群馬県みどり市にあります、【貴船神社】さんであります。
こちらはこの辺りでは初詣客の方の多い神社さんとしても有名なところであります。
もともとが初詣の習慣のない私などは、コロナ前から正月三が日に参拝するようなことはせず、とりあえず松の内にお参りするような初詣であり、今回もそんな初詣に伺ったのでありました。
子どもたちの方がよほど、キチンと大晦日から元旦にかけての参拝であったり、少なくとも毎年元旦に参拝しているようでありました。
うーん、いつの間に…。
いつの間にかぐうたらで不信心な親を追い越して生きていてくれました。
とはいえ貴船神社さんに一人で参拝するのは初めてのこと。
ええ!ナビのない愛車と、ナビがあろうと迷うときは平気で道に迷うおばさんのドライブであります。
以前の珍道中録の冒頭を飾った、群馬県みどり市の【光栄寺】さんの初薬師護摩修行の日がまもなくまいります。
その年の初めの薬師如来さまのお縁日、一月八日に毎年行われているものであります。昨年はお問合せをしたところ規模を縮小して、御護摩には一般の方は参加せずおふだをお渡しするだけということでありましたので、当日はあえてお邪魔せず、後日初詣という形をとりました。
今年も、やはり例年通りとはいかず、御本堂へは入らず、御護摩の様子を境内から拝するだけ、と伺いました。
昨年同様おふだを希望される方にお渡しし、御守り等を授与するだけとして、荷物加持も中止するとされていました。
ですが本日参拝に伺ったところ、もう山門の外には出店屋台の準備もされ、境内にはテントが用意されております。
…そうだよなぁ。
檀家でもない私が二度参列しただけで、そのありがたさに、この規模縮小を残念に思ったくらいです。檀家の方々におかれましては、秋季大祭の柿薬師大祭の二年連続中止もあって、初薬師護摩修行もせめてこのくらいにはされたいことでありましょう。
なにせ、平日で、冬休みも終わった学校に行く前の小中学生が、朝六時からの護摩修行に参列し、神妙に本堂で座ってお経を聞いていたくらい、子供たちにもこの行事に参列する大切さが浸透しているくらいの檀家さんたちです。
来年こそ、檀家さんたちが笑顔で初薬師護摩に参加できますよう、祈らずにはいられません。
納経しに事務所に向かうと…。
おおっ!?
机という机に椅子を置けるだけ置いて、檀家さんたちが熱心におふだを作成しています。
おふだにつける紙に、名前と、祈願の内容を記入しているようです。
すごい、すごいなぁ。
大きくはないお寺さんですので、お寺の職員さん等はおられないと思われます。
そうか、こういったことも檀家さんたちがしていたんだなぁ。
檀家さんって、大変なんだなぁ。
これも修行というのだろうな、もしくは徳を積む?
なるほど…。
大好きな…という表現は不敬に当たるのかもしれませんが、私どもにとって心洗われ心引き締まる、神社さんのひとつが、群馬県桐生市にあります、式内社【賀茂神社】さんであります。
こちらはいつ参拝に伺っても、広い境内でありますのに、常に掃き清められ、凛とした空気の漂う境内であります。
いつも拝殿の扉は大きく開け放たれて、神さまに直接向き合わせていただける神社さんであります。
本日、一月も五日を過ぎておりますというのに、拝殿前には一枝一枝綺麗な紙垂の結び付けられたものが用意されていました。
!
…なんとありがたいことでしょう。
そうなのです。
こちらの宮司さまは、参拝する者のためなど一切なく、日々の祭祀として、境内を清め、拝殿の扉を開け、灯りを灯し、神饌を捧げておられるだけ、なのです。
さすがに初詣とされる期間は過ぎているから、なのもありましょうが、こちらは神職の方が常駐される神社さんでありますにも関わらず、御守りなどをお授けくださるような社務所がありません。
ご自宅は境内にありますので、お声がけすれば、御札や御守りなどをお授けいただけるのかもしれませんが。
ただ…こちらの神社さんは、御札をお受けしたり御守りをすることよりも、直接参拝させていただくことが何より大切なことなのだろうと思わせ気づかせてくださる、そんな神社さんであります。
節分の夜に、神事【御篝神事】が執り行われます。
境内において、火のついた浄薪を、二手に分かれ対峙した氏子同士が一斉に高く投げ合う、といったものであります。
一昨年、昨年と、執り行われているいないに関わらず、参列することを自粛すると決めていたため、もう何年か前の記憶になりますが、回転しながら飛び交う浄薪から火の粉が舞い散る、勇壮な神事でありました。
今年は…。
群馬県はここ数日の新型コロナウイルスの、人口あたりの新規感染者数が全国三位という状況であるのが現状で。
神事に参列する、そんな当たり前のことが、いつになったら当たり前にできる時が戻るのでしょうか。
初夢をご覧になられましたか?
私はほとんど夢というものを見ない者で、『初夢を見る日』というのが定められたものですと、殊更それが難しいものとなります。
Wikipediaによりますと【初夢(はつゆめ)】とは、新年のある夜に見る夢。この夢の内容で、1年の吉凶を占う風習がある。
字義どおりに新年最初に見る夢ではあるが、「大晦日の夜から元日の朝」「元日の夜から2日朝」「2日夜から3日朝」の三つの説が混在している。
とあります。
これですと私などは今までの人生でほぼ初夢を見ずに過ごしたことになるのかと思われます。
その年に最初に見た夢、とするのは?
まぁそういった説をとることもなくはないようですが。
初夢に見ると縁起が良いものとして昔から言われているものに『一富士二鷹三茄子(いちふじ にたか さんなすび)』があります。
その意味にもまた諸説あるようです。
夢すらをほとんど見ない私などは今までの人生で一度としてこのような夢を見たことがありません。
なかなか難易度が高いものであります。
そんな私ではありますが、実は私、今年初夢を見たのであります。元旦の夜から二日にかけて。
それがなんとも不思議な夢で、思わず夢占いをしたほどなのでありますが、一言で言うとお葬式の夢、になるかと思われます。
…イヤでしょう?新年早々。
ネットの夢占いに引っかかるほど単純な葬儀の形ではなく、あまり気分は良くありませんでした。
それが!
あの一富士二鷹三茄子の後に続く四以降について、〝地域・文献などからいくつか存在しており、それについても諸説ある〟という、この中に私の初夢を良いものとしてくれる〝もの〟があったのです。
四以降の諸説。
①四扇(しおうぎ、しせん、よんせん)、五煙草(ごたばこ)、六座頭(ろくざとう)
一富士二鷹三茄子と四扇五煙草六座頭はそれぞれ対応しており、富士と扇は末広がりで子孫や商売などの繁栄を、
鷹と煙草の煙は上昇するので運気上昇を、
茄子と座頭は毛が無く、「毛がない=怪我ない」との連想から家内安全を意味しているというものがある。
②四(または五)を「葬式・葬礼」としたもの。
四そうろう(葬礼)に五せっちん(雪隠、便所) もしくは四雪隠、五葬式。
又は四葬式、五火事。
とあったのです。
これだと私、良い初夢を見たことになりますよ。
よし!
豆料理は『まめまめしく動けるように』と言われます。ことに【黒豆】。
『黒』は邪除けの色で、気学・易学では新しいことの始まりを表わすのだそうです。
また調理の際、豆を水につけて置くのは、乾物を戻していることとなりますが、そこにはさらに『水の霊力を取り入れる』意味もあるのだそうです。
【数の子】は卵。卵にも邪気を祓う力がある考えられたもののようです。
また卵は生命力のシンボルですし、
卵が多い数の子は、子孫繁栄に通じるという縁起物であります。
小形の片口鰯(かたくちいわし)の【ごまめ】は、「五万米」に通じ、
お米の豊作を願った縁起物だといいます。
【ごぼう】は、黒が邪を祓い、また地中深く根を張ることから、「開きごぼう」と呼ばれ、開運の象徴とされています。
【紅白】のかまぼこ。
【伊達巻き】は、巻き物を連想させるので、学問に秀でることを意味するといいます。
【栗きんとん】は、「勝栗(かちぐり)」に通じらといいます。
〝勝ち栗〟は栗の実を殻のまま干して、臼(うす)で搗(か)ち(臼でつくこと)、殻と渋皮を取り除いたものだといいます。
「搗」が「勝」に通じることから、
勝利の祈願になるのだといいます。
【鰤】は出世魚。
【海老】は腰が曲がっても元気でいられるようにと、健康長寿を。
【レンコン】は、「極楽に生える植物」という縁起物であり、穴の開いた形状から先が見通せる、といった験担ぎもあるようです。
【昆布巻き】は、「喜ぶ」に通じるとされます。
【里芋のやつがしら】は、
「頭(かしら}=「長」になること、つまり立身出世。
【タケノコ】はすくすくと伸びることを。
【梅の花の形に切った梅花(ばいか)人参】は、
吉兆とされた梅を表したものであります。
とはいえ、人間、好き嫌いもあります。
なかなか個人的にこれすべてを揃えるのも大変なことで、家族的に残ってしまうお料理は決まっています。
横着者で貧乏人、さらには残飯処理担当者としては、このすべてを揃えることはなく。
縁起を読むと、ヤバっ!とか思ったりしなくもありませんし、何よりも歳神さまへのお供え物という意味合いからははずしていいとも思えなくはなるのですが…。
息子がプレゼントしてくれたおせち料理、美味しくてみんな揃っていたよなぁ。楽ちんで…。
こんなヤツだから、大切なのは豆料理かな?
大人となった今、私がお正月といえば、と思い浮かぶのは、まずは【お年始】の品選びと発送、それから【おせち料理】、でしょうか。
まぁ、どちらも私には苦痛でしかなく、こんな時にも〝日常〟という〝時〟のありがたみを実感していたりするのですが…。
おせち料理の準備も、お取寄せなり注文して済ませればもう少し楽だろうし楽しみともなるのかもしれませんが、なにぶんにも貧乏症な貧乏人、なので、息子がプレゼントしてくれていた何年かしかそんな贅沢をしたことがなくて。
おせち料理は、あれこれ買い求め、作り、傷まないよう気をつけて、家族が飽きれば片づけ係となって。
正直あまり好きと思えるものではなく、有体に言えば、苦痛、であります。
とはいえ。
おせち料理の食べ物はみな【縁起物】で意味が込められていますから、やはりそこのところはなかなか廃止できない弱み、となっております。
おせち料理は元々は、季節の変わり目である〝節句(一月一日、三月三日、五月五日、九月九日などの式日)〟に歳神様に供える料理であったようです。
今は、世間一般では家族の繁栄を願うお正月料理になっています。
『煮しめ』『酢の物』『焼き物』を
祝い肴三種と呼び、
関東では、
黒豆、数の子、田作り(ごまめ)、
関西では、
黒豆、数の子、たたきごぼう、
など、地方によっても異なるようではありますが。
また、おせち料理は「福が重なる」とか、
「めでたさが重なる」という意味で、【重箱】に入れられます。
【一の重】には、口取り
(かまぼこ、きんとん、伊達巻きなど)
【二の重】には、焼き物
(海老、鰤の照り焼き、イカの松風焼きなど)、
【三の重】には、煮物
(レンコン、里芋、人参など)、
【四の重】には、酢の物キラキラ
(紅白なます、酢レンコンなど)を
入れる風習となっているのが正式なようです。
重箱も、五重が正式で、
【五の重】は、歳神様が授けて下さる福をいれるために空にしておくのだそうです。
わが家の重箱は三段、です。
…福を入れるために空にして置く?
三段目が空でよければ、これは楽?
…いやいや細々と足していく手間がもっと増えるだけ、ですよね(^^;
縁起物なので、おせち料理はお料理それぞれに、語呂合わせを介在させて、呪術性をもたせています。
『お正月』と言ってすぐに連想されるものはなんですか?
お年玉?
お年始?
年賀状?(…も日本郵便が後世に残したいという言葉を使うようになったほど、廃れつつあるようでありますが)
初詣?
初夢?
おせち料理?
書き初め?
…長い年末年始のお休みを利用しての〝旅行〟であった方も、今はコロナのせいで帰省すらむずかしい事態となってしまっておりますが、〝旅行〟や〝帰省〟が再び、楽しみとなれる[時]がまいりますよう祈らずにいられません。
文字通りの童謡【お正月】には
♪ お正月には凧揚げて、独楽をまわして ♪ 遊んだり、♪ 鞠ついて、追羽根ついて ♪ 遊んだりする光景が描かれていますが、これはもういつごろの事かもさだかではなくなった過去のこと、ですよね。私どもの住む辺りにおいては私のものごころ付く前から廃れてしまった行事だったくらいです。
凧も〝カイト〟🪁であったり、〝鞠〟もゴム製のボールでしかなかったし。〝ベイゴマ〟をする男子などはおりましたが、あのお正月の絵などに描かれている〝独楽〟や〝羽子板〟で遊ぶことなどを見かけたことも皆無でありました。それでも商品としては店頭にはあったものではありますが。
〝ベイゴマ〟はいまでも見かけることがありますが、〝ベイブレード〟という新たなコマも産み出されているので(とはいえこの商品も私の息子の子どもの頃からの玩具で、すでにけっこうな歴史を持つ商品ですが…)今現在の子どもはやはり、するならベイブレードということになるのでしょうか。
私の子ども時代から、追羽根に近い遊びとしてバドミントンをすることはありましたが、羽子板は手にしたこともなく、どうしても経験してみたくて、大人になって自分の子どもたちに買って一緒にやってはみたのですが、これがまた難しい。
もしあのサザエさんなどに描かれていた、『羽根をはずしたら顔に墨を塗る』ようなことをしていたら、私などすぐに顔一面真っ黒になったに違いありません。
私は子供の時分、お年玉が大変楽しみでありました。
普段はお会いする機会もない大人の方とひと言二言お話しする機会も楽しみでありましたし、さまざまな絵柄のお年玉袋が嬉しくて、何年ぶんも箱に入れてとっておいたくらいであります。
私の家は『中身』は全額親に預ける決まりとなっていましたので、こちらは正直楽しみなどとは言えませんでしたが。
…台風張りの風が吹いています。
ときどき、遠くから風に乗ってきた雪が舞っています。
群馬県ではそんな雪を【風花】、といいます。
怖いくらいの風が吹いています。風の音が凄いです。
明けましておめでとうございます。
旧年中は私の駄文をお読みくださり、大変ありがとうございました。
今年がみなさまにとって良い一年になりますよう、心よりお祈り申し上げます。
今朝は日の出の少し前に、一人で氏神さまに参拝させていただき、ちょうど神社の境内鳥居越しに御来光を仰ぐことができました。
いつもは無人の拝殿の扉のすべてが開け放たれ、やわらかな気が流れています。
ああ、優しい神さまがここにはおられたのだなぁ。そう感じられるほどに、今までになく神さまに近い距離での参拝をさせていただけました。
いつもですとこの時刻にはもう誰もいない元旦の朝、なのですが、今年はおそらくコロナ禍ということで密を作らないためにそのように工夫されたのかもしれません。
確かに、そのためにこの時刻にしては人出がありましたが、おかげでゆっくりゆったりと参拝することができました。
氏神さまの祭典委員さんの方々に感謝しかありません。
ひとつ、御守りをお受けいたしました。トラの可愛らしいものであります。
〝今年〟という年もさまざまなことがありましたが、それでも今日一日で〝今年〟も幕を閉じます。
私の稚拙な駄文をこりもせずにお読みくださっておられる方、今年も一年も本当にありがとうございました。
年頭、人の人数分だけ、それぞれの過ごし方があろうかと思います。
お休みもなく働かれる方もおられるでしょう。
コロナによって、誰もがみな大きく生活を変えられることとなり、今まで過ごしてきた当たり前が当たり前でなく、ありがたいかけがえないものだったのだと気づかされることとなりました。
お正月の過ごし方も然り。
家族が離れ離れになったままに、会えずに過ごすこととなったコロナ禍、今年こそはと帰省できることとなった方も、帰省されるご家族を迎えることができた方もおられましょう。
どうぞ…。
コロナ禍という限られた中ではありましょうが、良いお年をお迎えください。
良いお正月をお過ごしください。
何度でも行きたいと思った神社仏閣はいくつもありますが、そのうちの一社【大洗磯前神社】さん。
初日の出スポット人気ランキング、堂々の第一位とのこと、フジテレビの朝の番組で放送されていました。
…ちなみに、これはこのスレで普段からよくある入力ミスではなくて、〝初日の出の人気スポット〟で間違いありません。
うーん、ですよね(´;ω;`)。
…また来年も二月、かな?
でも来年の二月は一日も十五日も〝平日〟なんだよなぁ。
うーん(-_-)
姉から先日電話がありました。
「来年、私、方位除の歳に当たるらしいんだけど、どこか良いところ知ってる?」
お読みくださる皆さまはご存知のことですが、私ども夫婦はそういった習慣なくこの歳まで生きてきた人間であります。
神社仏閣巡りをしていることを知っている姉は、てっきり〝信心深い妹〟と勘違いしていたようです。
信心深く生きることに憧れてはいるものの、その生き方そのものを模索している存在なだけで、しかも煩悩の塊ゆえになかなかそのスタート地点にすら到達できずにいる者であります。
話の流れから、私は
「もし方位除けをした上で、お願いしたいことがあってそれがどんなことか明確ならば、その御祭神さまであるとかご本尊さまのご利益を知った上でいくと良いんじゃないの?」と申しました。
「何か解決したいことがあるなら、…知恵の神さまの、思兼命さまとか、天神さまとか。文殊菩薩さまとか虚空蔵菩薩さまとかをご本尊にされているところとか?
なにか病気で悩んでいるなら少彦名命さまとか、薬師如来さまとか、なんじゃないかな」
姉はしばらく絶句して「…。…。えぇっ?そんな細かいんだぁ?」
「いや、だってご利益を得たくてなのかなぁと思ったから。…ちなみに私、この歳まで生きてきて、一度としてそういったお祓いを受けたことないから」
「ええっ⁉︎」
「だってうち(離婚した両親父方のいえと、離婚後の母のいえ)って、そういうこと何にもしない家だったじゃない。うちの人(夫)もそういう人だったから、ずっと今までそういう機会を持たなかったんだけど」
「…お寺とか神社とかいろいろいっているみたいだから、そういうことも大切にしてるのかと思った」
…。
ああ耳が、胸が痛い。
「知らないからいろいろまわらせていただいているんだよ」
「そうなんだ。私は厄除はいつも〇〇というお寺に行ったんだけど、神社とかなの?」
(°_°)
…いやいや、いつも行ってるところがあるなら相談しないでください。
「…そこで良いと思う」
たしか…お寺さんでしていただけるのが【厄除け】で、神社さんでは【厄祓い】、だったんじゃないかな。それも厳密ではないとも言われているし。
…私の悪いとこを幣(ぬさ)で払っていただくのも良いなぁ。
炎で焼き尽くしていただくのもありがたいことだなぁ。
また新たな煩悩が一つ生じた私でありました。
【桐原大日堂】さんをめざし、恐る恐る進んでいきます。
そもそも道自体が合っているのかどうか。
「大丈夫、もう少し歩くとみぎてに見えてくるはず」とは夫です。
…スマホの地図で確認すればいいんでしたね。
常識、ですよね。
スマホデビューからまもなく六か月というのに、まだこの程度しか使っておらず…
というよりこれはガラケーでも出来たこと、なんですが、ね。
まぁ、追々(^^;。
その道を進んで行くと…みぎての高台にお墓が見えてきました。
ここかな?
歩幅の小さな石段があります。ここからはまだ御堂は見えません。
あ、ひだりてにお地蔵さまがおひとり、ぽつんと立っておられます。
お顔もお姿も見えきらない内から、「かわいいっ♡」とつぶやく私。
…ええ、たぶん、ではなく絶対不敬なな発言、なのですが、これ、もう止められないんです。
どうやら後ろ姿のようです。
どんどんお地蔵さまに近づいて…まぁ、それもたしかなのですが、本来は御堂が、なんですけれど。
お地蔵さまの方に意識がいっているので、私の感覚からはそういった感じでありました。
ん?おおぉ〜っ!
すばらしく見事な枝垂れ桜です!
太い太い幹です。
そして、その幹から空を包み込んで大地を撫でるかのような太く立派な枝が何本も何本も伸びています。
これは…。
この桜に花が咲いたら、どれだけ見事なものでありましょう。
桜の名所はいくつもありますが、ここ、この桜も立派にそこに名を連ねられるだろうと思います。
まもなく御堂が見えました。
御堂といっても、詰めて入ればだいぶ人が入れそうなほどの広さです。八畳、より広いでしょうか。
窓越し正面に、大日如来さまが拝することができます。
御堂の右裏手の高台に、石造の覆屋のようなものが塔のようになった、あまり見ることのない塔(?)がお祀りされています。
窓のように穴が開いていて、その覆屋のような石造のものはよく見受けられるもの、なのですが…。
中になにかお祀りされているのですが、赤っぽいもの?文字が彫られているように見えます。
どなたがお祀りされておられるのだろう。
お墓もだいぶあることから、どちらかのお寺さんの境外堂であることは間違いないと思います。
お寺さんがわかれば、その覆屋のような石塔にどなたがお祀りされているかもわかると思うのですが…。
群馬県みどり市を走行していると、ナビの画面に【桐原大日堂】という名称が映し出される道があります。
気になってはいるものの、なにぶんにも細い道のようだし、どこかに行ったついで…ということはほぼほぼない道であります。そして何より!私の車にはナビがありません。
このままずっと気になったまま過ごすのか?
(というより、むしろ記憶から記憶から消滅してしまう確率の方が断然高いのだが。)
とはいえナビ上にその大日堂が映る道を走ることは滅多にありません。
うーん。
ん?もしかしたらここ、光榮寺さんのそばではないか?
…うん、そうだ!
光榮寺さんの近くだ!
先日も薬師如来さまのお縁日に参拝させていただいて、写経したものを納めさせていただきました。
光榮寺さん参拝の際に併せて参拝させていただこう!
初薬師の法要の中止が発表された光榮寺さんの参拝をさせていただきました。
お護摩にくべる護摩木にご祈願を書いて来ようと思ったのです。
うーん。
うーん。
桐原大日堂さん。
光榮寺さんの参拝を済ませて、ずっと気になっている大日堂さんへとむかいました。
文科省に怒っている!怒り心頭だ!
新型コロナウィルスオミクロン株の濃厚接触者は大学受験不可って、なんだ?
陰性であっても、なのだそうだ。
自分の今後の人生をかけて、何年も前からコツコツと頑張ってきた人間の大きな大きなチャンスを、だ。
濃厚接触者というだけで奪ってどうする。
何度もいうが濃厚接触者、というだけだ。コロナ陰性を確認し、何ら症状がなくとも、だ。
しかもこんな超直前に、そんな政府の発表を受けて、どれだけ動揺すると思う!
これは明らかに異常であろう。
だとしたら医療従事者の家族はどうなる?当然その危険を通常より多く持つであろう。
かけがえない子供の将来がかかったら、大多数の医療従事者である親は、その自らの尊い仕事に疑問を抱く。辞めるという選択をする方もおられると思う。
ウィルスは必ずその形、型を変える。
もう新型コロナウィルスがこの世に出でてどれだけの時が経つ?
今後収まるという予想は未だにない。Withコロナとして生きていく時代ととらえるしかない。
たしかに、高校野球の全国大会が春夏中止され、感染者の有無もなく長年の夢破れた若者もいた。
発熱者がいたということでチーム自体が試合に出られないこととなり、号泣した若者もあった。これもコロナ感染の有無なく発熱した者がいたというだけではあった。
濃厚接触者。
…ここへきてその枠が少し広げられている。飛行機で同乗していた者全てが濃厚接触者に指定される。
だがすでに市中感染が起きている。
普通に学校に通う小学生が、家族からでもなく感染しているようだ。
隔離するなら隔離してもいい。
受験の形を考えてあげようよ。
…今までの過去は覆せやしない。
それは悲しいことだがすでに取り返しもつかない過去となってしまった。
だからこそ、これからのこと、未来のことにおいては、それを考えそれを糧に、変えていかなければならないでしょう。
そもそもこれだけコロナ禍の時を過ごして、こういうタイミングで、こうしたことが起こることなど想定できたことではないのか?
これからの日本を創る、これからの日本を支える若者の未来を大切にしてほしい。
がんばれ受験生!
がんばれ日本!
政治を司っている方!もっと日本を動かす自覚を持って、政治をおこなってください。
【クリスマスツリー】にはいろいろな意味があります。
ツリーに使う木は【モミ】の木ですが、これはモミの木が『常緑樹』で、冬でも枯れないことから、〝永遠の生命〟を象徴しています。そして、また、モミの木のように枝分かれしたものには、神霊が宿るとか邪気を祓う力があると言われているのだそうです。
それはキリスト教だけではなくて、神社でお祓いの時に使う幣(ぬさ)もまたそういった形状ですし、箒(ほうき)のように、複雑に広がっている形のものには、広がっている方に邪気が祓えたり、魔法がかかる効果があるといわれているそうです。
玉串を捧げる時に、枝の方を神前に向けるのも同じ意味であるといいます。
枝分かれしたものには神霊が寄ることで、人間関係が豊かになったり、
末広がりになる力があるようです。
ツリーの飾りにもそれぞれ意味があるといいます。
頂上のトツプスターはキリストが生まれたときに、空に輝いていた〝シュピッシェ〟と呼ばれる星です
ベルは神霊を呼び出すことが出来る
といわれるアイテムで、これもまた日本の神道でも仏教でも同じ意味あいを持ったものであります。
ただ、ツリーに飾るのは、キリストの誕生を知らせる喜びの音を鳴らすベルという意味のようです。
天使は誕生を知らせる役目。
オーナメントボールは、今はキラキラしたいろいろな色のものを飾ることが多いですが、昔はリンゴを飾っていました。
リンゴは、智恵の実であり、〝実り〟のシンボルだからだといいます。
赤と白の杖の形のものはキャンディ。
羊飼いが羊を導く杖を表していて、
キリストが人を導いてくれることを
意味しています。赤と白のストライプは、キリストの白い心と血と愛を
象意しているといいます。
【リース】が〝円〟であるのは、始まりも終わりもない永遠の形ということを意味しているといいます。
そこに飾られる〝リボン〟は永遠の絆で結ばれることを、〝松ぼっくり〟は、豊作を表すといいます。
そして。
【イルミネーション】はイエスキリスト自身だといいます。世の中を明るく照らし、人々を幸せにする光、だといいます。
日限地蔵さま=観音院さまにほど近いところに、カトリックの教会があります。
納め地蔵の日はクリスマスイヴとも重なるため、実は一昨年この教会にも立ち寄らせていただきました。
本来、クリスマスはイエスキリストの生誕を祝う日。
ケーキを食べて祝っているからには、と、お声がけをいただいたこともあり、無宗教の強みでチャペルの中まで入らせていただき、拝ませていただきました。
今年はどなたもおられず、ただ『どなたもご自由にお入りいただけます』との貼り紙のみ。
お祝いのミサも中止のようです。
小学生の時分に数年教会に通っていたこともありますので、教会にもさほど抵抗なく…。
祭壇の前に生誕の時を祝うベツレヘムの馬小屋を再現した何分の一かのフィギュアが小屋とともに飾られています。
こちらの教会の祭壇の正面には、まさに骨と皮だけに痩せこけたイエスさまが十字架にかけられている像のある、十字架が掲げられています。
うーん、これは…。
胸に突き刺さるような辛さを感じます。
キリスト教。
もしかしたら人生で一番深く関わっていただいた宗教なのかもしれませんが、どこか異国な感じが拭えず、引っ越しを機に日曜学校にも通わなくなって…。
仏教も異国から入ってきた宗教なのですがね。
今、この無宗教の状態をどうしていくか、残りの人生どう宗教と関わって生きていくか、それこそが今私が珍道中している道なのですがね。
悩みに寄り添うと会う意味合いからは、たしかに観音院さまの意向と同じベクトルなのでしょうが…。
今回のお縁日では、境内、それも大黒天さまがおまつりされているところに占いが出店していました。
一度見て、もう二度見直したくらい、びっくりいたしました。
占いというのは、宗教と紙一重のようですが、なにぶんにも宗教と縁なく生きてまいりました私は、それと同じ意味合いからなのか、お金を払って占いをしていただいたことがありません。
おみくじすらが、この神社仏閣の珍道中を始めてから、それもだいぶ経ってからのデビューだったくらいです。
大黒天さまだけを拝んでそこを去ることも可能なのでしょうが、たまたまどなたも占っていただいておられる方がおられないタイミングでもあり、なんだか立ち寄りづらく、大黒天さまを心の内で拝むのみでその場を立ち去りました。
占いデビューもいいかもしれない…などという思いも脳裏をかすめはしたのですが、なにぶんにも貧乏性で貧乏な私といたしましてはお値段のわからないことに近寄ることができず。
そう、今流行りの占いの番組を見ていると、占い師さんには自分のあれもこれも見えてしまうようで…善人とは程遠い私には怖い存在だったりもして…。
>> 293
観音院さんの風雅御朱印は、今年もクオリティの高い、素敵な季節の花の絵が描かれていました。
お書き置きのものはバックナンバーがあるようです。
うーん、うーん、我慢、我慢!
御本堂での参拝のあとは、日限地蔵堂へと向かいます。
人が少ない…とは言ったものの、御本堂前にも、地蔵堂の前にも、賓頭盧尊者さまのお像の前にも、十人を超える列ができています。
地蔵堂の前にある大きな香炉は、炎が上がるほどお線香が立てられています。
そうそう、この煙を浴びると悪いところがよくなると言われており、この煙を手に受けるようにしていろいろなところに擦り付ける方がたくさんおられます。
えっ?私ですか?
もちろん、頭と心に浴びてまいりました。
日限地蔵さまは秘仏であります。
御前立ちのお地蔵さまがお立ちになっていますが、御前立ちのお姿も、大きな灯明立てでお堂の正面に立っても拝することができません。
ご祈祷をお願いすると地蔵堂の中に入ることができるので、そこではお地蔵さまの尊顔を拝することができるのでしょうが、私はまだご祈祷をお願いしたことがなく。
今日はなぜかご祈祷を受付されておられないようでした。
…御住職を亡くされ、まだいろいろな立て直しができていないということなのかなぁ。
観音院さんの境内には所狭しとさまざまな御仏が祀られています。
水かけ不動さま、賓頭盧尊者さま。
大黒天さまは建物の入り口におまつりされています。
眼病に霊験あらたかとされる禰宜師大明神さまと金精大明神さまは、一つのお堂に背中合わせにお祭りされています。
舎利仏さまの前には御足参道と称される石の埋められた小さな参道が作られていて、裸足でそこを歩いてお参りするようになっています。
弘法大師さまのお像の周りには四国霊場のお砂が埋められていて、ここを回ると四国巡りをした功徳が得られるとされています。お大師様の足元に五鈷杵が置かれていて、お大師様とつながれるような気持ちがいたします。
そんな境内のあちこちに古い石像、石仏がひっそりお立ちになられています。
かつて…それも三、四十年前ほど前には、本当に御本堂だけだったと聞きます。
その、頃賓頭盧尊者さまがまずおまつりされたといいます。
これは亡くなられた御住職さまので代になってのことでしょうか。
参拝者の、声に出せない悩みに寄り添うような思いから、だったのでしょうか。
なかなか行けずにいた群馬県桐生市の日限地蔵さん=観音院さんに、どうしてもどうしても行きたい気持ちが強くて、午後になってから車で行ってまいりました。
納め地蔵だから、いつも以上に人出も、そして屋台も出ているのだろうなぁ。
そんなことを考えながら、歩行者天国となっている参道に到着いたしました。
⁉︎
うわぁ…。
なんて閑散としているのだ。
コロナ禍となってからも、何度かは参拝していたのですが、これほど人も出店も少なかったことなどなかったと思うのですが…。
とはいえ、コロナ禍の参拝には最適です。まずは御本堂へと向かいました。
いつも通りにお焼香ができるようにしてくださっています。
お焼香をさせていただき、ご本尊さまに目をむけ手を合わせ、今年一年のお礼を申し上げました。
…?
どなたかの御遺影が片隅に飾られています。ん?
⁉︎
ご、御住職⁉︎
御住職さまではないですか。
えっ?ここにこうして飾られているということは、間違いなく御遺影、ですよね。
うそ…。
御本堂の中に御朱印をお書きいただくコーナーがあるので急ぎそちらに向かいました。
…五月に亡くなられたのだとおっしゃいます。
そんな前に…。
ん?いや、私、夏にも参拝させていただいています。
ぁ、そうか。まだ警戒レベルも高く、レベル4だったんだ。だから御本堂へはあがらずの参拝とさせていただいたんだ。
そしてそうこうしているうちに緊急事態宣言が、…たしか八月に発令されたんだった。
そうかぁ。
もしかしたら御住職さまにご焼香するためもあって、お導きいただいたのかもしれません。
よく通るお声の、いろいろな心配りのできる御住職さまでありました。自ら動く方でありました。
子供好きな御住職さまでした。
ご冥福をお祈りいたします。
…まぁ、私などが祈らずとも、たくさん修行をされたし、御子息で僧侶という、これ以上ないご供養をされてはおられましょうが。
寂しくなりました。
明日は納め地蔵。
群馬県桐生市の日限地蔵さんで有名な観音院さんで縁日が開かれます。
父たちの月命日に今年のお礼を伝えるお墓参りができたものの…このところずっと体調がすぐれず、いつもの年のようには大掃除も進まずにおります。
うーん。、
なんだかとっても行きたい私。
ただ…駐車場、参拝者が多くてほとんど置けないし、その場で空き待ちもできないんです。
電車に乗って…と言ってもそれはそれでなかなか歩くようだし。
うーん。
本日は上皇さまのお誕生日。
日本中の神社さんでそのお祝いをされるのでしょう。
この神社仏閣巡りを始めて、あらためて天皇家が神代の代から代々受け継がれてきたものなのだなぁと思うことにであうことでありました。
それはひとえに私が神社仏閣に詣でることがなかったからに過ぎないのですが…。
そう、まさに上皇さまが生前退位され、令和の時代を迎えたとき、どこの神社さんをお参りしても新たな天皇陛下の御代をお祝いされていたことで、あらためてそれを実感したというわけです。
今、上皇さまが美智子さまと毎日、お住まいの仙洞仮御所のお庭をお散歩され、さらに今なお〝ハゼ〟のご研究にお励みになられておられるとのことを、大変嬉しく思っております。
お誕生日をお祝い申し上げらと同時に、日々穏やかにお過ごしいただけますよう、お祈り申し上げます。
米寿をお迎えになられた天皇は初めてとのこと。
…そ、そうか、そうでしたか。
昭和天皇は八十七歳で崩御されたのでしたか。
昨日、寒い中をご近所の方がわざわざ届けてくださった柚子を入れて、冬至に柚子湯をたてることができました。
スーパーで一つ99円の柚子を三つ買ってきてはいたのですが、ご近所の方の心のこもった柚子には、もっと温かくなる力があるような気がいたします。
それにしても三つしか買わないって…。
我ながらケチだなぁ、これでは効果もないんじゃない?と思ったのですが、お風呂に入れて終わりだと思うと三つが最大の贅沢!と思ってしまう根っからのケチなヤツでありました。
いただいた柚子のおかげでとても立派な柚子湯になりました。
かぼちゃも煮ました。
かぼちゃを〝南京〟とも呼ぶようで、冬至の日に【ん】のつく食べ物を食べると運を呼び込むという言い伝えもあるようです。
よい冬至となりました。
明日は【冬至】。
冬至には、【かぼちゃ】を食べる風習がありますが、私の実家…祖父母とも暮らしていた両親が離婚する前の家も、離婚してからの家でも、とりたててかぼちゃを食べるような習慣はありませんでした。
ことに母は、かぼちゃ等の穀類が嫌いな人間で、あの戦争中においてもそれを拒否して、困った母親(祖母)がなんとか調達してきた米飯を食べていたという強者だったらしく、当然自分の嫌いな食べ物を料理などすることもなくて。
だから〝冬至にはかぼちゃを食べると風邪をひかない〟という言い伝えがあるという知識を得ても、特に冬至にかぼちゃを食べるようなこともなく大人になったのであります。
〝 かぼちゃを食べると風邪をひかない〟かどうかはさておいて、かぼちゃは黄色ということで、なんでも『陰陽道』で『黄色』は
〝邪気を祓う色〟であり、なおかつ〝太陽の色〟でもある大変縁起の良い食べ物でもあるようです。
また冬至には、【ゆず湯】に入る風習があります。
これもまた、そんな洒落たお風呂に入ることもなく育った私。知識として知っても、今でこそスーパーで売っている柚子がどうにも入手できない。
ご近所さんとかでも柚子の実るお宅があったかどうか…。
高校時代ようやく同級生のおばあさんから柚子をいただき、ワクワクした思いで帰宅したものの、変わったことを嫌う母に柚子をお風呂に浮かべることを止められてしまったという…。
私にとっての冬至の思い出は、およそ冬至らしくない過ごし方をした、というものでありました。
大人になって。
柚子をいただく機会が増え、冬至でなくとも柚子湯を楽しむ時を過ごすことができるという、なんとも贅沢なお風呂タイムをすることも増えました。
柚子湯は身体が大変温まるし、よい香りがして、今では大好きな入用法であります。
そして、なんでも、柚子湯は運を呼び込む前に厄払いをする禊(みそぎ)になるのだといいます。
〝端午の節句〟に〝菖蒲湯〟に入るのと同じ意味なのだといいます。
香りの強いものは、邪気を祓う力が強いのだといいます。
…とはいえ、菖蒲湯は未だに入ったことがありませんが。
柚子もまた、黄色く丸いということで陰陽道で縁起が良いといい、
さらに柚子は実るまでに時間がかかるのだそうで、『長い苦労が実りますように』という意味合いもあるとのことですよ。
大変面白くためになる本…とかいうと、なんだか子どもの時分に読んだ(与えられた?)本の帯にあった文言のようですが…。
まさにそんな本を見つけました。
【眠れなくなるほど面白い神社の話】というタイトルの本です。
神社さんのあれこれを書いてあり、今まで疑問だったことはもちろんのこと、今まで疑問にすら思わなかったこと、鳥居の部位と名称と種類とか今までどう表現したらお伝えできるか悩んでいたものとかが、まるで〝痒い所に手が届く〟といった感じにあれこれ書かれている本です。
これに古事記を加えれば、かなりのこと神社さんについて詳しくなれそうであります。
ただ…。
以前から思っておりました神さまの長い長いお名前。これが覚えられるかどうか、問題はまさにそこではないかと思っております。
これで神社さんで失礼なことをせずに済む…する確率がグンと減る…少しは減るのではないかと、今から神社さんへお参りに伺うのが楽しみな私なのであります。
…古事記を読んでいます。
と、言っても原文でないことはもちろん、ビギナーズ・クラシックという、わかりやすく通釈されたもので、何より全文、ではありません。
私にちょうど良い長さでちょうど良いレベルにまでかみ砕いて下さっている良書といえましょう。
今までも興味を持ち、何度かトライしたものの、それこそ古文の教科書だか参考書だかを見ているようで、まるで頭に入ってこず、つまりは心に響かない。そんな書物は結局すぐに飽きてしまい、お蔵入り…。
とはいえこの本とて今買った本ではなくて、もしかしたら娘が置いていった本?平成十四年発行となっています。
まぁ私の学生のころの本と比べたらまだまだ新しいものの部類。なにせ字が大きい!行間が開いている!
昭和の終わりくらいか平成の初めかに、本は大変読みやすいものに改良されたのであります。
何より軽くなった。
この厚さ、この装丁で、この重さ?とびっくりするくらいなのです。
さらにいえば、電子化されているので、本という形ですらなくなっている時代で、もっと小さくもっと手軽になってはいるのですが、本人がレトロなもので、本の香り、本の重さ、本をめくる感覚が好きなもので、なかなかそこは電子化されないのであります。
何よりも目に優しい。
このブルーライト、殊にスマホの小さな画面で、この半年で老眼の進んだこと進んだこと!
とはいえ、電子書籍も〝無料〟という言葉に弱いおばさんは読んではいるのですがね。
で、話を戻すと…。
【古事記】。
神さま方が大変わかりやすく紹介されています。
…小学生の頃、低学年向けのものも高学年向けのものも読んだんだけどなぁ。
ほとんどが抜け出てしまっていたので、たいそう新鮮で、神社さんに行っては、ただもうこんがらがってわからないまま拝ませていただいていた神さま方が、おひと柱おひと柱、わかって大変楽しいのであります。
親しみを込めて…などと申しましたら不敬そのものでありますが、今後神社さんに参拝した際には、少なくともこの古事記に出てこられた神さま方に関してはどういった神さまであられるか分かった上でのご挨拶することができそうです。
…。…たぶん…。
師走に次々と飛び込んでくる痛ましいニュース。
私にできることはご冥福をお祈りすることしかできないけれど…。
これもコロナで人の心が荒んだこともあるのだろう。コロナで大きな孤独を抱え、そこから救われない方が多いのだろう。
生きることは修行というが、それにしても…。
つらいな。
大好きな日光東照宮・輪王寺。
今年は一度も参拝することができませんでした。
姉はなにやらテレビ番組で話題となったという破魔矢を求め一人日光に行ったと言っていました。
緊急事態宣言解除後の秋の日光は、平日九時前に到着しても駐車場がすでに満車で、それでも一時間待ちでなんとか駐車できたと言っていました。
しかもその破魔矢、どうやらそのテレビ番組の影響もあってなのか品切れ状態で、一ヶ月以上待ちとのことで、宅配をお願いしてきたと申しておりました。
うーん。
来年こそは行けるかな?と、思っていたのだけれど、今、何より群馬県が全国的にも新規感染者数の多い地区となっています。
〝遥拝〟などという、なんだか都合の良い考えは人が作ったものに過ぎないけれど、この新型コロナウイルス感染症の感染対策としては、これほどありがたいものはありません。
昨年末から今年の立春、節分までの間、日光行きは無理であろうと、遥拝どころか、一年間をお護りいただく御守を宅配していただいております。
さすがにそれが二年続くのは心苦しくあるのではありますが…。
輪王寺さんから送られてまいりました授与品の申込書を枕元に置いて、
時々手に取ってはうーんと唸る私なのでありました。
うーん。
新年明けてから考えよう。
そ、大掃除、大掃除!
この何スレ目かになる珍道中録、今回【夏越の大祓】から書き始めておりました。
早いものであと少しで【年越の大祓】の時を迎えようという時となっております。
…で。
あの例の茅の輪くぐり。
なんだかどうしてもこだわっている私がおります。それはひとえに穢れが多いことを自覚しているから、なのでありますが…。
裏を返すと茅の輪くぐりにこだわって悶々としていることがすでに煩悩というわけでありまして、そんな事実に気づいてはまた悶々とする私でありました。
思えば榛名神社さんは茅の輪を設けておられなかった気がいたします。(そうだったような…。苦笑。)
だからこだわる必要など何一つなく、いつも(とはいえごく最近、ここ近年ようやく始めた、初詣初心者でありますが…)初詣をさせていただいている神社さんに伺えばいいだけのこと、なんです。
そもそも初詣で茅の輪くぐりは間違っているのだし。…何故ならば年越の大祓、だから。
うーん。
ちょこちょこ参拝させていただいている神社さん、今年夏越の茅の輪は設置されなかったんだよなぁ。だとしたら年越の大祓でも設置されないだろうなぁ。
悶々と時は過ぎます。
いやいや!
それより、そんなことよりまずは大掃除!悶々としている場合ではありません。
歳の神さまに感謝して新しい歳の神さまを迎える準備は、何より自宅の大掃除から!
それが一番の難関である私でありました。(´;ω;`)
ご住職さまのご配慮で、今年最後のお参りに直接ご本尊さまに今年のお礼を申し上げることができました私は、あまりの達成感で、お墓参りに来ていたことを一瞬忘れたようないないような…。
お墓の前でもご先祖さまと、祖父母、父、叔父に、今年一年のお礼を申し上げました。
相変わらずゴミひとつない、掃き清められた墓地内でありました。
通常のお墓参りに来て、お線香を手向けるところにも灰が残っていることもありません。
ありがたいことです。
檀那寺のない私たち夫婦ですが、「こちらのお寺さんはいつ来ても気持ちがいいよね」と二人の意見は合致しています。
檀那寺さん…かぁ。「そろそろ考えなければね」と言いながら、なかなかその一歩が踏み出せないでいます。それは後継者問題であるのですが、ね。
今、墓じまいをされる話はあちこちで聞かれ、実際こちらの墓所も、これから向かう夫の実家のお寺さんも、墓じまいをして空いた土地が目立つようになってまいりました。
こんなに頼りになる心の拠り所はないんだけれどなぁ。
さて。
今度は夫の実家のお墓参りです。
…実はこれ、はじめてのパターン。
いつもは嫁ぎ先からまわっておりました。
そうすることが正しいであろうと、神社さんから向かうようになってからはかなりの遠回りなのにも関わらず、ずっとそうしてまいりました。
時には時間がなくなって、
「じいちゃん、ばぁちゃん、パパ、ごめん!この次は必ず来るから、今日はごめんね」
と心の中で詫びつつ、心の手を合わせて済ませたりしたこともあったくらい。
でも…。
ふと、どちらが先でも二つのお墓をお参りできる方が良いではないか、と、自転車を漕ぎつつ思い直し、今回の順路となった次第であります。
おじいさん(舅)、怒ってるかな?
…舅はなにかとこだわりが強い人で、嫁にもよくそれを強いていました。
離婚した父方とは縁が切れているのだから、喪に服す必要はないだの、墓参りなど必要ないだの。
次男(である)のおまえんちは、お前たちの墓じゃないんだから、いくらお参りしたってしょうがないだの。
…なんなんだかなぁ。
まぁ、夫の実家のお寺のことは長男が少しづつ継ぎ出しています。実際長男が承継者になったあかつきには…やっぱり私、同じようにお墓参りに来るな。
車で来る時は駐車場から、なので、標柱のある正式な入口(?)を通ることはありませんが、今日は自転車、標柱の間をくぐってまいりましょう。
思えば子供の頃、祖母とお墓参りに来るときにもここを通った記憶がありません。
石段を登って。
…なんと新鮮な景色でしょう。
あ。真正面。
当然といえば当然。分かりきっていた位置関係なのに、真正面にそびえる御本堂に感動いたしました。
…あれ?御本堂が開いてる?
お彼岸とかお盆とか、そうそうお正月とか、限られた時しか開いていることがない御本堂が開いているではありませんか。
うーん?ご本尊さまの御縁日ではないし。
ま、いいや。
嬉しいなぁ。今年最後のお参りにご本尊さまに直接お会いできるなんて。
石段をはずむような足取りでのぼっていると…あ、ご住職さまです♡
大好きなご住職さま。
今日は黒い衣をお召しです。やはり何か行事があるようです。
えっ?
ご住職さま、戸を閉め出しました。
うーん、行事が終わられたところでしょうか、残念!
そんなことを考えながらも石段をのぼっていると、私に気づいたご住職さまが手を止めました。
いつもの、とびっきりの笑顔です。
ですがすぐに、戸を閉め始めたご自分の行為に少し躊躇われたような表情が浮かびました。
「大丈夫です。私にかまわずお閉めください」とお声がけしました。
石段はまだ続いています。
「そうですか、すみません。これから法事なものですから」
…そうかぁ。法事ですか。
ん?
法事中ならむしろこの戸は開いていた気がするんだけど…。
最後の一締めの手を止めて、ご住職さまがふたたび私に笑顔をお向けになられています。?
「どうぞ、せっかくですので中でお参りください。ここは閉めさせていただきますが、ここではない出口から出られますので、どうぞごゆっくりお参りください」
ああ。このご配慮。
お忙しい法事の直前というのに、さすがです。
申し訳なさと、何より嬉しさでいっぱいで、ご住職さまに向け思わず自らの膝が見えるくらい深々とお辞儀をしておりました。
本日十五日。
神社さんへお参りする日で、舅と実父の月命日であります。
今日はよく晴れた、風も弱いたいへん気持ちの良い日です。
…これはお財布にも環境にも優しい、自転車で行けるぞ。
ということで、颯爽と愛車=愛自転車にまたがって出かけました。
うーん、本当にあたたかくて気持ちのよい日です。
決してあっという間にはつかないのですが、文字にするにはなかなか文才もなくて。とりあえずあっという間につかないことは、神社さんまで七キロほどという距離がそれを物語りましょう。
へいこらへいこら自転車を漕いで、…ダウンベストとニット帽は結構早めに脱いで前かごに押し込んで。
ようやく見えてきた石の鳥居をめざします。
そばまで来ると結構大きな石の鳥居です。すぐそばに自転車を停めて、鳥居をくぐりました。
一の鳥居、二の鳥居。
太鼓橋の神橋を渡って三の鳥居です。
そのそばに手水舎があるのですが、大きな金属製の蓋がされています。
境内一面にあたたかで明るい日の光が差し込んでいます。
今年一年のお礼を申し上げました。
そうして、次に向かったのは父のお墓のあるお寺さんであります。ここは二キロほど。
ただし登り坂であります。
うー、きつい、きつい!
新型コロナウイルスの新種〝オミクロン株〟の拡がりに不安はあるものの、日本中で今新規感染者数はとりあえずの落ちつきを見せ、ほっとひと息というところで、そんな中、群馬県は東京都を上回りもはや全国一位の新規感染者数となっています。
とはいえその数字はとりあえず二桁どまりといえばそうなのですが…。
限られた地域でいくつかのクラスターが発生しているようです。
それなのに、もはやマスクの着用すらせず、大きな声で談笑する老若男女の多いこと…。
人の集まる公園内等でも、最近本当によく見かけます。
公園のいたるところに「マスクを着用してご利用ください」と掲示してあるにもかかわらず、です。
歩きながら結構な声量で歌う若いの女性も複数名見かけたりもします。
「ワクチン接種された方も店内ではマスクの着用をお願いいたします」と大きく書かれて掲示物のあるお店でも、マスクをせずに買い物したり、あげく大声で話すお客がみられます。
…これでは当たり前といえましょう。
コロナにかかってもかまわないという、強い意志での行動であったとしても、その人たちが感染していて無症状であれば、他者にうつすということを理解していないのか。
さまざまな理由でワクチン接種のできない方がおられることも自覚していただきたいのです。
せめて感染拡大している状況はふまえて行動をしていただきたいです。
マスク警察などという言葉もありますが、マスクをしない権利を主張されるならば、貼り紙という形で
【ここではマスクの着用をしてください】
という決まり事を提示しているところでは、その公園や店側、およびそこを利用している他の利用客の権利を踏みにじっている行為でしかないと考えます。
もちろんマスクが万能でないことは理解しておりますが、さりとてマスク非着用とは明らかにその差は大きなもの。
私の一意見です。
…私の頭は固いのかもしれません。
でも新型コロナウイルス感染症は決して終息はしていませんし、せめて決まり事として提示されていることは守っていただきたいのです。
マスクもワクチン接種もできない弱者を守る義務、責任についても考えていただきたいのです。
先日ちょっと時間ができたから…と立ち寄ってくれた息子に、何気にその話をしながらスマホの写真を見せたところ、
「ん?あれ?…ここ、ついこの間行ってきたよ」
えっ?
新婚ほやほやの息子たちがぁ?
なんで?
なんかの間違いじゃない?
いやいや確かにここに行ってきたみたいです。メインは大谷石資料館だったと言いますが…。
なんでまた、こんな渋いとこに?
奥さまの希望だったといいます。
…ふ、ふーん。
渋い好みなんだなぁ。
そういえば娘も何年か前、JR上越線の土合駅に行ってきたと言っていたなぁ。
土合駅は一日の平均利用者二十名足らずの無人駅で通称モグラ駅。四百六十二段プラス二十四段の地下にあるといいます。エレベーターやエスカレーターなどない、ひたすら階段を使うしかない、無人駅で…。
最近は何かこの駅、駅自体、この辺り自体を楽しむ施設が造られたようですが、娘が行ったのはその何年も前のことで…。
言葉には出さなかったものの、なんでまた?と思ったものでした。
若者たちはわたしたち世代…というか私ども夫婦とは違った感性、感覚なんだなぁ。
いろいろな若い感覚、そして…何よりいろんなお嫁さんの生き方感じ方を知っていく楽しみもできました♡
その宝物館。
夫はこうしたものが好きなので、とりあえずは入りましたものの、やはりその縄文時代の人骨には近づけず。うーん、この浪漫は理解できないなぁ。
宝物館の裏手にまわると、落ちついた秋の景色によく合う日本的な風景が広がっていました。
赤い橋のかかった大きな池の真ん中に、赤い弁天堂がありました。
あの弘法大師さまの退治した蛇が、改心し白蛇となってここを守っているという伝説に基づき、弁天様をおまつりし、白蛇はここで弁天様のお使いをしているということで、遠くから見てもわかるくらい大きな白蛇の像が置かれています。
…これ、なくてもいいのに…。
その向こうにはあの大谷石の岩山がそびえています。
見事な景観です。
所々に古い石仏さまがおられます。
ああ、幸せ♡
さらに奥にはまた池があります。
ん?
おとめ山?
おとめ山と書かれた案内の立看板があります。
…おとめ山?
⁈ あのお止山でしょうか!
そうみたいです。感動‼︎感動です。
こんな大騒ぎしているお止山は、実は私の大好きな漫画家さんの漫画に出てきたという、ただそれだけなんですけどね。
松茸が取れるということで幕府が立ち入りを禁じ、入山した者はお手討ちになったくらいのお山だと描かれていました。内容はそんな厳しいものではなくて、その山をめぐっての愛ある心温まるお話だったんですけれど、ね。
そんな個人的な感動でしかないんです。お騒がせしてすみません。(^^;
【御止山】
御止山は標高184m、大谷石(緑色凝灰岩)で構成され、約2400万年前の海底火山の噴火活動により堆積、生成された比較的に軟らかい性質を持っているため、姿川によって削られ300mに亘って奇岩が重なるような景観を作り出しているものといいます。
往時は周辺が田園地帯で御止山の岩肌だけが海に浮かぶような島のような姿だった事から「陸の松島」との異名があり文芸の題材になるなど広く知られていたといいます。
大谷石は加工し易かった事から古墳の石室や建築資材など古くから利用され、国内でも馴染みの深い石材を産出していました。
そうそう、そういえば先日、群馬県桐生市を訪れた折に、大谷石のノコギリ屋根をみました。
御止山の名称の由来は江戸時代に松茸が取れた事から入山が禁止されていたことからと言われ現在では大谷寺が管理しています。
松茸…今もとれるのかなぁ。
こちらは古くから【大谷観音】と称され、鎌倉時代には坂東19番の霊場となり、多くの人々から尊崇されてきました。
調査した結果、最初はこの千手観音さま、表面に赤い朱を塗り、粘土で細かな化粧を施し、更に漆を塗り、一番表には金箔が押されていたということがわかったようです。
「…最新の研究では、バ―ミヤン石仏との共通点が見られることから、実際はアフガニスタンの僧侶が彫刻した、日本のシルクロ―ドと考えられています。」
とは自動音声で流れる説明によるもの。
うーん。
そう言われるとたしかにそんなイメージかもしれません。
お顔立ちがまさにそういった感じにも思えます。
シルクロードに浪漫を感じるか、弘法大師さま伝説に心癒されるか…。
その人その人の自由でいいのかもしれません。
ご本尊さまのおられる間を名残惜しく思いながらも、道順通りに進むと…。
おおっ!
こちらにも壁面に彫られた御仏の像があるではないですか!
それもこちらは一体ではありません。
釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊と、ほどよい間をあけて並んで立っておられるではないですか。
こちらの御仏たちはよく見慣れたお顔立ちで、蓮の台座に座られた、これまたよく見るお姿でございます。
こちらは脇堂と称するようです。
正直、お寺さんを訪れている感覚が薄れてまいります。
古くからあるお寺さんでありながら既成概念を根底から覆す造りであります。
さらには…この先向かうのは、宝物館なのですが、そこには一万一千年前の人骨が展示されているのです。
…ええ、本物の人骨です。
すごく立派な頭蓋骨です。
横を向いて寝ている姿勢のままで展示されています。
…怖いんですけど…。
な、なんでぇぇ?
なんでも、昭和四十年にここ大谷磨崖仏の防災工事を行なった際、お堂の下約百五十センチくらいの土中に埋まっていたのだといいます。
いやいや、展示しなくていいですから。
しかも支払った拝観料に、ここの拝観券が付いている!
見たくないんですけど
そんないろいろ衝撃的なことの多いお寺さん、大谷寺さんでありました。
まるでその穴に深い意味があるかのように、不規則に大きな穴が無数に開いた大きな大きな岩山。
その岩山に文字通り守られている御本堂。
日本最古の石仏と言われる【大谷観音】さまは、平安時代、弘法大師さまの作と伝えられている千手観音さまであります。
その昔、この辺り一帯は大小の岩が、まるで屏風のようになっていて、その中は広く平らに広がり、大谷と呼ばれていたといいます。…まぁ今も大谷と呼ばれてはいるのですが。
岩下から水が湧き出して川となり、まるで自然が作った城のようであったといいます。
この中に毒蛇が住んでいて、時々毒水を流し出したといいます。鳥獣虫魚がこれに触れると、たちまち死んでしまったため、ここを地獄谷と呼んでいたのだそうです。
もちろん人間も、この水に触れると病気になり、最悪の場合は死に至り、五穀は枯れ、草木もしぼみ、ここに住まう人々は苦しみ、この地を捨てようとしていました。
大同、弘仁(810年)の頃、といいます。
弘法大師さまが東国巡錫の折にこの話を聞き、里人の憂いを除こうと、単身毒蛇の谷に入って行ったのだといいます。
十余日の後、谷から大師さまが出てきて、「毒蛇は退治した」と告げ、立ち去って行ったのだそうです。
人々が谷の奥に入り中の様子を見ると、岩山に光り輝く千手観音が彫ってあったのだそうです。
観音さまの光明は山谷を一面金色に変えたといい伝えられています。
人々は弘法大師さまの不思議な力に感謝し、大師さまの偉業を貴み観世音に帰依して仏教を信仰する者が増えました。これが大谷寺の始まりと言われています。
その千手観音さま、高さ約四メートルといいます。
今まで拝してまいりました石仏さまのどなたにも似ていない、唯一無二の石仏さまであります。
ちなみに…。
この御本堂にはいると、センサーがその気配を察知し、自動で案内を始めてくれます。
落ちついた、穏やかなお声であります。
その後向かったのは栃木県宇都宮市にあります【大谷寺】さん。
大谷観音とも呼ばれ、坂東三十三観音霊場の一寺であります。
大谷石と呼ばれる石の産出される地区で、宇都宮二荒山神社さんの辺りとはだいぶ町並みの異なる風景が、車窓に流れます。
宇都宮二荒山神社さんは県庁のすぐそばの宇都宮市の中心部にあり、大谷町はそこから直線距離で六キロは離れた(私の私見で、です。 笑)
ところとなります。
まぁ、全国的にも有名な石の産出地、街中と風景が違って当たり前です。
そして。
明らかに景色が異なる場所が、大谷寺さんの一帯に近づいた付近であります。
おおぉぉ〜!
なんだかもう物々しいくらい。巨大な岩山に囲まれたところであります。しかも風化して所々さまざまな形に穴が開いている、奇岩?であります。
おおぉだとかうわぁぁだとか、そんな言葉ばかり連発しながら、大谷寺さんの駐車場に車を停め、そしてそのままのテンションで大谷寺さんへと向かいました。
なんだか別の惑星にワープでもしたかのような空間です。
こちらの駐車場は参拝料に駐車場料金が含まれているということなので、そのまま山門に向かいます。
真っ赤な仁王さまと係の方がお出迎えしてくださいます。
この係の方はアルコール消毒を手に噴霧する担当の方で、受付は山門をくぐってすぐのところにあります。
こちら朱印所でもありますが、現在はコロナ禍ということでお書き置き対応をされていますが、坂東三十三観音霊場の御朱印帳にのみ直書きをされるそうです。
受付を済ませて御本堂に目を向けると…。
!。
うわぁぁ〜!
埼玉県の秩父でも橋立堂さんや観音院さんといった、やはり岩山を背にたつお寺さんはありました。
群馬県の榛名神社さんなどは岩山自体が御神体であるため、お社の一部はその御神体である岩に組み込まれ建てられています。
そこでもやはり、「うわぁぁ!」とか言っておりました。
そのどれとも規模が違うかもしれません。
そもそもがこちらのご本尊さま、その大きな岩山に直接彫られた〝千手観音〟さま、なのです。
はあぁぁ。
【二荒山神社】を名乗る神社は関東地方を中心に数多くあるようです。こちらの神社さんと日光の二荒山神社さんのニ社が古社として知られていらといいます。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として、
「下野国河内郡 二荒山神社」の記載があるようですが、その帰属を巡って日光社との間で議論があるようです。
宇都宮二荒山神社さんはその後神階は正一位まで進み、下野國一之宮となったとされますが、日光社もまた一之宮を称するということで…。
…私どもの住まう群馬県も〝上野國の二之宮〟である【赤城神社】さんも三社が二之宮を名乗っていて、どこが二之宮かということについては…私などは全てと思っているのですが…。
まさにそういったことなのですね。
御祭神についても、日光社とこちらは異なりますし、どちらかが一之宮ではなく、異なる、古くから土地を守ってくださっておられる神社さん、ということなのでしょう。
また、【宇都宮】という地名はこちらの二荒山神社さんに由来するものとされます。
一宮(いちのみや)の訛りという説、遷座したことから「移しの宮」の転という説。
「二荒山の神の現宮(うつつのみや)」という説、豊城入彦命が東国の総監として此処に住し、国がよく治まったことから「宇津くしき宮」と呼ばれ、それが「うつのみや」に転じたという説など諸説あるようです。
お隣の県であり、かつては同じ毛の国ではありましたものの、私の住まう町からは日光も宇都宮も遠く、宇都宮にはあまり訪れたことがありませんでした。
これを機に宇都宮の街を知りたいと思った私であります。
そ、名物として有名な餃子も食していないことですし、動物園もあるようです。
…また、訪れたいと思う、のですけどね…私の運転で来られるかどうかは…。
うーん、高速使わなければどのくらいかかるのかなぁ。
こちらの主祭神さま。
かつて東国を鎮められた【豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)】さまを主祭神とされています。
第十代崇神天皇の第一皇子で、天皇の命で東国を鎮めたとされ、毛野国(のちの下野国・上野国)の開祖とされるお方であります。
江戸期には〝日光山大明神〟と称されたこともあり、その時代時代においておまつりされている神さまが異なることもあったようですが、
社伝では、仁徳天皇の御代に〝毛野国〟が〝下野国〟と〝上野国〟に分けられた際、〝下野国国造〟に任じられた〝奈良別王(ならわけのきみ)〟が〝曽祖父・豊城入彦命〟をこの地域の氏神として祀ったのに始まると伝えられているようです。
ただし、それ以前に豊城入彦命によって三輪山から勧請された【大物主命】が祀られていたとも伝えられているようです。
地元では、こちらに参拝すれば下野国にある全ての神社の御利益を受けられるとされ、古くから人々の信仰を集めたようです。
〝豊城入彦命〟さまは武徳にも優れ、〝藤原秀郷公〟〝源頼義公〟〝源義家公〟〝源頼朝公〟〝徳川家康公〟など著名な武将らも戦勝祈願し、こちらの宇都宮二荒山神社さんに種々の寄進や社殿の改築をしたと伝えられているようです。
〝平将門の乱〟にあっては、〝藤原秀郷公〟がこの神社で授かった霊剣をもって将門公を討ったと言われるているといいます。
【平家物語】によると、〝屋島の戦い〟にあって〝那須与一〟は平家船上の扇の的を射る際に、
「日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神」と祈ったといわれています。
宇都宮二荒山神社さんの駐車場、ナビもだけれど、有料な割には不案内で…どちらに行くのがよいのか、いちいち停まって確認するようでありました。
ことに平日で混んでいなかったこともあって案内の人も先導車とかもなく、なんとも分かりづらかったです。
駐車場から境内に近いと言われた小さな案内に従って駐車したものの、そこは実に裏手で、古いお札をかたす場所を通って、拝殿の横に出る道でした。うーん、鳥居すら通らない入り口であります。
おぉ。
明るい境内です。
拝殿で神さまが参拝者を見守ってくださっておられるようなあたたかな気が溢れ出ています。
拝殿前に出てしまったものの、手水舎が門のすぐそばにあるのが見えます。
どうせなら門をくぐって手水舎に向かおう。
と、いったん門の外に出て。
うわぁ、高い。高い所にある神社さんなんだぁ。
何段あるのか結構な石段が続いていて、大きな鳥居が見えます。
鳥居の向こうは、大きな商店街。
ドンキ・ホーテが見えます。そこから流れてくる賑やかな音楽。…。
ああ、こちらはこうして常に宇都宮の街を見守ってくださっておられる神さまのおられるお社なんだ。
少し石段を下った所には八つのお社が祀られています。
が、まずは御本殿。いやいやその前に手水舎へ。
そうして、ようやっと拝殿前へと進みました。
あぁ、やっぱり優しい神さまが見守ってくださっておられる。
拝殿前に立つだけで柔らかくて優しい気が包んでくださるかのようです。
絶えず人が参拝に訪れています。
それも町の方々が。
お仕事の合間に手を合わせに訪れていると言った感じの方がたくさんおられます。それも若い方が多いように思えます。
拝殿から末社をゆっくりまわられ手を合わせる、お仕事着の若い女性。
拝殿に手を合わせキビキビと末社をまわられる、やはり仕事着の若い男の人。
年配の男の方は井戸の周りを何か決まり事があるようで、ゆっくり井戸の方を向いて手探りでまわられてから稲荷社へと参拝されていました。
いいなぁ。こういう神社さん。
人が絶えず参拝される神社さん。
ふっと時間ができた時、さっと参拝に向かえる神社さん。
そしてなによりも、人々にそう思わせる神さまのおられる神社さん。
すごいなぁ。
【二荒山神社】さん。
栃木県一之宮である二荒山神社さんです。
世界遺産ともなっている日光二荒山神社さんがあり、宇都宮市にもまた宇都宮二荒山神社さんがあります。
ともに一之宮。
…?
一って、一つではなくて?
とはいえ同じく二荒山神社さんです、そういうこともあるのかなぁと思いながら、なんだかんだとちょくちょく参拝させていただいている日光の方の二荒山神社さんだけではどうも片手落ちな気がして、ずっと気になっていた、【宇都宮二荒山神社】さんにようやくの参拝ができました。
はじめての参拝、例の珍道中を巻き起こす一因のナビに夫が入力いたしました。
すでに宇都宮にいるにもかかわらず、ものすごい距離が示されます。
「これ…日光だよな」
「宇都宮って入れないとダメなんじゃない?」
『二荒山』。
宇都宮の二荒山神社さんは
『ふたあらやま』、
一方日光は『ふたらさん』。
『ふたあらやま』と入力しないと検索されないようです。
…妙なところで頭のかたいナビであります。
【二荒山神社】さん。
栃木県一之宮である二荒山神社さんです。
世界遺産ともなっている日光二荒山神社さんがあり、宇都宮市にもまた宇都宮二荒山神社さんがあります。
ともに一之宮。
…?
一って、一つではなくて?
とはいえ同じく二荒山神社さんです、そういうこともあるのかなぁと思いながら、なんだかんだとちょくちょく参拝させていただいている日光の方の二荒山神社さんだけではどうも片手落ちな気がして、ずっと気になっていた、【宇都宮二荒山神社】さんにようやくの参拝ができました。
はじめての参拝、例の珍道中を巻き起こす一因のナビに夫が入力いたしました。
すでに宇都宮にいるにもかかわらず、ものすごい距離が示されます。
「これ…日光だよな」
「宇都宮って入れないとダメなんじゃない?」
『二荒山』。
宇都宮の二荒山神社さんは
『ふたあらやま』、
一方日光は『ふたらさん』。
『ふたあらやま』と入力しないと検索されないようです。
…妙なところで頭のかたいナビであります。
で。案の定、駐車場へは誘導せず。
本当に夫にとって、このナビと妻との珍道中は修行でしかないようです。
以上は群馬県伊勢崎市国定町にある神社さんが、コラムで取り上げたものを参考…というかほぼ引用したものです。
…んー。
国定忠治。
映画も芝居も観たことないし、でも何度もその名前を聞いた覚えがあるのです。なんだろう。
…。
ああぁ!
わかったぁ!
…わかりました。群馬県の一部地域で歌い踊られる〝八木節〟です!
八木節の一節、それもなんだか耳に残る一節に国定忠治と歌われていたはず!
で、調べたところ、な、なんと!
群馬県桐生市役所のホームページで、十五番まである歌その全てを掲載していました。…。
忠治の地元でもないのに?
八木節の発祥も栃木県と言われています。
…ああ、そういえば桐生市の一大イベントがその名も〝桐生八木節まつり〟というんでした。それで?
うーん。
なにやら地元伊勢崎市ではかつて行っていた国定忠治のイベントを、博徒で何より殺人まで行った人物を公的機関が税金を使ってイベント開催するのはいかがなものかということで中止されて以降途絶えていると、今回調べていて読んだばかりなんですけど、ね。
まぁただ単純に歌の全曲を掲載しているだけなのでどうでもいいのかなあ。
でも…。天保の被害者の子孫が住んでいる可能性の高い桐生市で?
まぁそこのところは私の感覚なので流すとしましょう。
そもそも忠治の子孫や親類縁者の末裔の方もおられることでしょうし。
強いて言えば市のホームページに、全曲歌詞を掲載するって必要なのかなぁ?
いやいや流す、流す!
そして…。
赤城山。
「赤城の山も今宵限り…」というセリフ、聞いたことがありました。
芝居を観たとかではなくて、それを真似するテレビとか?なにでそれを聞いたかすらわからないのですが。
それから、祖父の世代?が歌う歌に「男ごころぉ〜に 男が惚れぇて」という歌!
そこしか覚えていないんですけど、それも忠治のことを歌った歌謡曲(?)だったようです。
昭和十四年に発表されているうたのようです。
なるほど。
国定忠治は全国区で著名人だったようです。群馬県に住む者として、このくらい知らないとダメ…だった?
で。
国定忠治。
名前はよく聞いていたんです。
でも、どんな方だったのか、今更ながらまるで知らないことに気づきました。
そもそも、多分、歴史の授業とかに出てきてはいないんじゃないかなぁ。…そこすらも確かではないのですがね。
そう言っているくせに国定忠治のお墓のあるお寺さんに参拝した折、お墓にもおまいりしているという…。その時調べたんじゃ?
そこんとこは…封印いたしましょう。
国定忠治
生年: 文化七(1810)
没年: 嘉永三年十二月二十二日(1851.1.22)
江戸後期の侠客。
本名は長岡忠次郎。
上野国(群馬県)佐位郡国定村の裕福な農家に生まれる。
十七歳のとき人を殺し、博徒の許に身を寄せ、博徒の親分として売り出す。
博奕を業とするが縄張りのためには武闘を辞せず、子分を集めて私闘を繰り返した。
天保五(1834)年敵対する博徒を謀殺したことから関東取締出役に追われる身となり、以降一貫して長脇差、鉄砲などで武装し、赤城山を根城としてお上と戦い、関東通り者の典型となった。
逃亡、潜伏を繰り返すうち、同七年、信州の義弟を殺した相手を討つため大戸(群馬県)の関所を破ったり、同十三年には博奕場を急襲した八州廻りの手先で二足の草鞋の者を、子分を使って殺すなど幕府のお膝元関八州の治安を脅かす不遜な存在となった。
逃亡、潜伏を支えたのは一家の子分の力もあるが、忠治をかくまった地域民衆の支持もあった。
伝承によれば、同七年の飢饉(天保の大飢饉)に私財を投じて窮民に施したり、上州田部井村の名主と語らい、博奕のあがりで農業用水の磯沼をさらったりし、地域の者にとってはヒーローのような存在であった。
もっとも、私財、といわれる金も桐生の商家数軒に押し入り金を奪ったもので、しかもその際何人もの女性に性的暴行を加えている。
嘉永三(1850)年夏、潜伏先の国定村で中気となり隣村(田部井村)の知人宅で療養中捕らえられ、江戸に送られ勘定奉行の取り調べの上、罪状が多すぎるため最も重い関所破りを適用され、磔と決まった。
磔に当たっては、刑場大戸まで威風堂々と道中行列を演技し十四度まで槍を受けて衆目を驚かせたという。
死後の忠治は、時代が閉塞状況となるたびに国家権力と戦う民衆のヒーローとして映画や芝居などを通して甦った。
こちらのご本尊さまは釈迦如来さまになります。釈迦三尊像、ということで文殊菩薩さまと普賢菩薩さまがお隣におられます。
ご本尊のおられるところは一段高くなっていて、いわゆるあちらの世界、悟りを開かれた方がおられるところ、なので、欄間にも天女や龍が配されています。
内陣といいます。
こちら側はまだ修行をしている者のいる世界、なので、羅漢さんたちが修行している姿が彫られています。
それから、この内陣右側には中央にお不動さま、不動明王さまがいて、それから慈覚大師さま、天神さまがおまつりされています。
そんなことを思いながらどうぞゆっくりご覧になってみてください」
「それと。
元三大師さまの一月三日には護摩を焚いて厄除けをするので多くの人で賑わいます。よろしければ是非お出かけください」
こんなにも至れり尽くせりの対応をしていただき、本当にありがたいことです。
うん、ここまでなら私一人でも来られるぞ。
なにせこの日の運転は私だったくらいです。
大好きなお寺さんと大好きなご住職さまに出会えた、大変嬉しい一日となりました。
「こちらは西暦八百六十年くらい、平安時代に慈覚大師さまによって開かれたお寺です」
何度か衰退し、ことに室町時代の天文年間に北条上杉の戦いの戦火によって、山王宮社堂伽藍藍宝物記録等一切を焼失してしまった…のは先程の山王日枝神社さんと同じ時のこと。
その後、やはり室町時代の永禄年間に現在の山王宮社とこちらが再建され中興となったといいます。
さらに江戸時代となって家光公に御朱印を賜り景観が復興されます。
ところが。
天明、天保と二度の火災があり、共に本堂、庫裏を焼失したといいます。
「実は、国定忠治が赤城山から逃れてきた際、この本堂の天井裏に隠れたんですよ」
ほおぉ〜。
真剣に天井を見上げる私。
しばらく間を置いて…。
「ここから逃げる際、忠治は寺に火を放って逃げたんで、この本堂の天井ではないんですよ。
国定忠治に焼かれたお寺ってなんともありがたくもないことで名前が知られることとなったなんとも不名誉なことで…」
お、おぉ、なんという不義理な…。
ま、国定忠治がどういう人物かは実はよく知らないんですが、ね。
なんでも博打うちとかヤクザとかじゃなかったかな。…その辺はまた後で調べてみます。
で、ようやく再建されたのは、二十年かかったと言い、それが今の御本堂、なのだそうです。
綺麗な色彩豊かな欄間の飾りは明治に入ってからのものだそうで、少しづつ足して今の荘厳な御本堂となったのだそうです。
「こちらは日枝神社さんの別当寺で、明治までは神社までが境内で、
私のおじいさんまでは日枝神社さんにある鐘楼まで鐘を突きに行っていたんですよ。その鐘も戦争で供出して今は鐘楼しかないんですけど、ね。」
…はい、それ見てまいりました。
言えなかったですけど。
「天台宗は寺の隣に神社があるのがほとんどなんですよ。
長い歴史の中で宗派が変わることもあるので、別の宗派になっていることもあるんですがね。」
「ではどうぞごゆっくり中をご覧になってください。」
そうこうしているうちに、ご住職さまが御朱印帳を手にお戻りになられたようです。張りのあるよく通るお声がいたします。
「あのぁ、正面を入ってすぐのところに…」と言いかけると、
「あ、御本堂?どうぞお入りください」
いやいやいや、…うれしい。
「あ、ありがとうございます、よろしいんですか?急な参拝ですのに…」
「ああ是非お参りください」
「あ、それとは別に、あの正面を入ってすぐの石像さまなんですけど…」
と石像さまについて伺って。
いそいそと御本堂へと向かいます。
網戸は閉められているものの、戸は開けられています。
素直に嬉しい私であります。
お寺さんのほとんどが御本堂の扉を閉ざし、なかなか御本堂の中へとはおっしゃってくださらないもの。
ありがたい。
…とはいえ、本当は御本堂に入れようが入れまいが、御仏のお像を拝することができようができまいが、御仏がそこにおられ、参拝させていただいていることになんら変わりはないのですがね。
ともあれ、ワクワクする気持ちを抑えて扉を開けます。
いつどこで合流したのか夫もおります。
うわぁぁぁ♡
すごい欄間の飾りです。
立体的に季節の花と鳥が浮き出しています。色も艶やかで、一般的な物よりも大きな彫り物となっています。
うーん、綺麗。
雉や孔雀、白鷺…。なんて美しいことでしょう。
あ、てんてんいけない、いけない!
おまいり、おまいり!
几に鐘と香炉とがありますが、万が一にも火災などとなってはいけないので、鐘を打ち手を合わせるだけといたします。
そのままそこに座って、ぼおぉっと内陣におられる仏さまを見つめていると、
「あっ」と声がいたしました。
「あ、お邪魔しております」
お?
ご住職さまではないですか。
うーん。
そんなに長く居たのか…。すぐ時を忘れるからなぁ…ん?でも入って、手を合わせて拝んで、そんなに経っては居ないんじゃないかなぁ。
ん?
そうか、そうだ、夫がいたのをご存知なかったんだ。
「よろしければ少しお話させていただきましょう」
ええっ?♡
…今回一体何度ハートマーク♡を使っているのだろうか。
そうなんです。
ありていに言えば、日枝神社さんへの参拝に伺って、そこにお寺さんがあることに気づいた、というわけでありまして。
それにしても…。
工事レベルの庭師の方々の数です。
えっとぉ〜、庫裏はどちら?
とにかく車も多いので、通り道が通せんぼされていたりもして境内の様子がよくわからない。
小屋のような建物をとりあえずまわってみると、犬が二頭いるではないですか♡
一頭の若いほうの子は、作業の音やあまりに多い人が多いことを恐れて小屋(?)のかげに隠れて小さくなっています。
もう一頭の、だいぶお年を召しているであろう犬は、「お前は何者?」という顔をしてこちらを見ています。思わず座って話しかける私。
あ、人目が…。
いつもならしばらく座り込んで話しかけているところを我慢して、庫裏探しを再開しました。
あ、ありました。
御本堂のすぐ横なのにまるで見えなかった。
呼び鈴を押し、応答してくださったお声に向かって「御朱印をお授けいただけますでしょうか」と。
…こんな時って、なんと申し上げたらよいのでしょうね。
口下手というか、語彙力がないというか、コミュ力がないというか…おそらくその全てが当てはまる私は呼び鈴を押すことも修行の一つなくらいです。
「はい、どうぞ」
うーん素敵なお声です。
しどろもどろながらも再び「御朱印をお授けいただけますでしょうか」と申し上げると、「ああ、大丈夫ですよ。少しお待ちください」
と快諾くださり、奥へと向かわれるご住職さま。
うーん。このコロナ禍、玄関の内でお待ちするのは申し訳ないといった意味で殊に抵抗があります。
戸を開けて再び外へ出ました。
…ここでも、あまり玄関から離れるのはどうかと思い、ただおろおろするおばさんが一人。
おじさん…夫はそんな時、私を探していることもあれば、境内のあちこちを拝見させていただいていることもあり、とにかく庫裏に来ることはないのだけはたしかで。
以前、「ご住職さまとお話しさせていただける絶好の機会なんだよ」と伝えてはみたのでありますが…。
まぁ、結婚してすでに三十何年か(実は本当に何年経つのかわかっていないのですがね)。
少しもお互いが理解できていない夫婦であります。
…ん?
珍道中おばさん、たしかお寺さんのご住職さまのお話を忘れないうちにって言ってだと思うんだが…。
と思われた方、ごめんなさい。
こちらの日枝神社さんのことは存じあげていたのですが、到着した日枝神社さんの駐車場から、すぐそばに大きな、いかにもお寺さん、といった屋根がみえたのです。
おっ♡
おばさんはそう思いました。
そして、ふらふらと夫と車を置き去りにして、そのお寺さんと思しき建物に向かって歩き出したのでして。
う〜ん、お寺さんだぁ♡
天台宗【禅養寺】さんと書かれています。厳密にいうと禅ようのようの字は今の漢字ではない字で刻字されていましたが。
検索しても出せないのと、他のところはすべて禅(禪)養寺とされていましたので、これでよいのだと思います。
その二つの門柱をくぐると、左右にたくさんの石仏さまが並んでおられます。
パァァ…♡
おばさんの顔が嬉しくてほころびます。
お!十王さまの石像だぁ!
向かって右側に、十王さまがずら〜っと並んでおられます。
うわぁぁ♡
おおっ、十王さまの十番目のお方の隣には奪衣婆さんの石像も並んでいるではないですか。…。…大丈夫です、こちらの奪衣婆さんは怖くはありません。そしてそのお隣には…。
二つのお顔が一つの石碑に彫られたものが並んでおられます。
ん?うーん?
も、もしかして、なんですけど…、人頭杖?
…これはあくまでも私の私見です。
あ、いけないいけない!
まずは御本堂におまいりして。
いやいや、その前に神社さんに置いてきぼりの夫を迎えに行かなくては!
と、門柱を出るとそこに夫の運転する車が来ているではないですか。
ぷっ、さすがです。
夫遠誘導して。
今度こそ御本堂へと向かいましょう。
この日は大勢の庭師の方が作業をされていましたので、境内、駐車場には人も車も多くおられました。
手水舎は…見つかりません。
おそらくこの作業されている車両や道具などて目につかないのだろうとは思ったのですが、そこをウロウロしても作業の邪魔なだけでなく、なんだか不審者のようかなぁと。
大丈夫、日枝神社さんの手水舎で浄めてあるある。
外に置かれている大きな香炉にお線香をあげ、御本堂の階段をのぼって手を合わせました。
さて。
このあと私どもは宇都宮の二荒山神社さんと大谷町の大谷寺へと向かうのですが。
昨日参拝いたしましたお寺さんで、お忙しいところ突然伺ったのにもかかわらず、大変丁寧に由緒などご説明くださったご住職さまのお寺さんを先に記させていただこうと思います。
メモ等を一切とらなかったので、ただでさえ〇〇な脳みそからどんどん溢れ出てしまうお話を少しでも早く記しておかないと、せっかくのご住職さまのご厚意が無になってしまいます。
と、いうわけで、群馬県前橋市の参拝録となります。
まず向かいましたのは前橋市山王町というところの【日枝神社】さんです。
こちらの歴史は古く貞観二(858)年、嵯峨天皇の皇子、二品親王が上野国大守に任じられたのを祝して、社殿を造り近江国に鎮座の日吉山王大権現さまを遷祀して産土の神と仰いだのがこちらの興りといわれます。
源頼朝が参拝し、三百余町を寄進し、国家安全の祈祷をしたといわれる由緒ある神社さんのようです。
その後応仁の乱によって、この辺り一帯も戦場と化し、兵火により社殿僧房旧記のほとんどを焼失してしまいます。
永禄年間に社殿を再造、僅かに旧態を保ったという、まさにその際の本殿こそが現存するものだといいます。
明治の神仏分離令で社僧、別当は廃止され、神田は国に返還、今に至るのだといいます。
かつてあった特殊神事は陰暦四月中の申の日におこなっていた就農神事及び、九月九日を中心におこった勇壮な儀式は、ともに昭和初期に絶えたといいます。
うーん、…すごくないですか?
頼朝公が参拝された神社さん。
今は明治に村社となって、縮小されたという境内となってはおり、神職の方も常駐しない神社さんとなっていますが、地元の方に大切にされ、お祭りの際にはソーシャルディスタンスをとるのが大変なくらい賑わうようです。
大きくはない社殿ではありますが立派に塗装修復された大変きれいな神社さんです。
結構大きな神楽殿と、その向かいには主=梵鐘のない鐘楼があります。
社殿の赤と、イチョウの黄色が日の光を浴びて大変美しく、やわらかな気の、大変居心地のよい神社さんでありました。
こちらの庫裏の玄関先におまつりされておられます聖観音さま、な、なんと、あの御本堂から移しているのだといいます。
さらにはもう一体は、お寺の運営する施設に移されて拝観できないのだとか!
びっくり仰天で。
こちらに着く前、道に迷ったんじゃないかと車を停めたのが、まさにこちらが運営しているという診療所でありました。
〝診療所〟というにはあまりに大きなものでありましたが、さもありなん。
見た目通り、十九床の入院施設を持つようです。
さらにこちらのお寺さん、介護老人保健施設、…自立復帰を図るものから、認知症高齢者の介護付き住居、居宅介護支援事業所までを、この山のあちらこちらに建てられているのだそうです。
それぞれ、〝院〟であるとか〝坊〟であるとかの名称であるようで、その紹介がお寺のホームページ日本載っているくらいでありました。
…たしかに、出開帳、とか、展覧会、とかに御仏の像が出向くこともあるくらいですので、施設に移してその入居者さんやスタッフさんを癒し見守る役割を担う御仏の像があってもいいのかもしれませんが…。
私には斬新過ぎて、ただただびっくりした次第です。
時代とともにお寺さんは変化し進化しているのだなぁ。
そして三重塔。
さほど大きなものではありませんが、見れば見るほど立派なものです。
彩色を施されたあとはないように見え、それが当初からのものなのか、経年変化でそう見えるだけなのか、それすらわからないですが、塗装されていない白木のままにしては、傷みもなく、これは新しいものなのでしょうか。
…いいえ。
天文七(1538)年、建立とあります。室町時代のもののようです。
当時の西明寺城城主、益子(一説では宇都宮、ともにこの西明寺さんの資料によります。…?)家宗公が建立したと、説明の立看板に記載されています。
すでに〝西明寺〟が地名となっています!…すごいなぁ。
この塔、屋根がなんとも独特な感じに、結構なウェーブで反り返っています。
それがとても美しくて、何よりその技術力の高さに感動します。
板屋根といわれるもので、塔としては日本唯一のものなのだそうです。
説明によると、初層は和様、二層は折衷、三層は唐様の三様式、三間三層となっていると書かれています。
水煙と呼ばれるてっぺんの部分も独特なものだそうです。
関東以北では最も古いものの一つ、とあります。
いやいや、そんな古いものには到底思えないです。
木部の傷みがないことや歪みなどは全くない(…私の目には)、昭和の初めの作と言われても、平成の初めのものと言われても、ふーん、とうなづくほどのものです。
外に建てられているものですよ。
日は当たり、風雨にさらされ、鳥や獣のほうが生息密度が高そうな、そんな山あいにありながら、奇跡としか思えない。…。
しかも囲いとか一切なくて、そばに寄ることも可能です。というか触る気なら触れます。
私などは畏れ多くて、息さえかかるのをためらうくらいでしたが、よくよく考えてみれば、マスクをしていたのでそれはさほど心配しなくてもよかったことかとあとで思ったのですが、それくらい、尊いオーラがあふれるものでありました。
しずかに、まるで御仏の像のように佇んでいました。
そうして、山門を出て…。
ふたたび受付のある建物=休憩所の前に。
その建物の真ん前に、これもまた新しい建物があります。庫裏、とありますが、受付で拝観料をお渡しした際に、
「そちらに聖観音さまがおまつりされていますので是非お参りしてください」と言われています。
ジャーン!
扉を開けるとすぐに、聖観音さまが。
こちらの閻魔堂には、閻魔大王さまと、悪童子さんと善童子さんと呼ばれるお二人、そして画像で見るしかなかった奪衣婆さま、それを見守ってお地蔵さまが向かって右端におられます。
閻魔さまの御像は、なんと申しましょうか、大笑いされておられ、なんとも斬新なお姿をされております。
左右におられるニ童子さんのいかにも〝事務次官〟といった感じの様子とは明らかに違う、…あまりに異なる作風なので、もしかしたら作者も違うのかもしれませんが…、まさに大爆笑されております。
もしかして、閻魔大王さまの前ですら、あれこれ嘘八百を並べる死者がいて、そのあまりに上手な嘘っぷり、演技にお笑いになられる姿を描いてみたのでしょうか。
あまりに斬新な造りですので、新しい時代のものと思いきや、なんと思いのほかに古いもので江戸時代の作とのこと。
でも江戸文化ならば充分あるかもしれません。
あとで画像で見たところ、ジャンボ鉛筆そっくりのものを持っていると記述しておりました方は、もう一つの手に紙のようなものもお待ちになっていまして、書記官、といったところなのでしょうか。
そして…見えなかった奪衣婆さまの迫力といったらなかった!
怖いです!
かつて子供は「嘘つくと閻魔さまに舌を抜かれるよ!」と言われて育ったものですが、こちらの閻魔さまはどうもそういった怖さを感じさせるような感じまではなくて、ただただ奪衣婆さまが左の端に控えているお姿が怖かった。本当に地獄の使いそのもの、であります。
いやほんとに。
『西明寺閻魔堂 画像』で検索できますので、ご興味を持たれたら是非検索してみてください。
そうしてその審判のようすを全てを見守っておられるお地蔵さま。
こちらのお地蔵さまは私どもがよく目にする伏し目がちに静かにお立ちになられる金色に輝くお姿です。
閻魔大王さまと事務次官二人がはっきりとした色調で彩られているのに対し、奪衣婆さまはモノトーンというか白木の経年したもの?(それがまた怖さを際立たせています)。
その色調や像の造作の違いすらが、人々に地獄の裁きの怖さを伝える効果、役割を担っている一つのように感じたくらいです。
西明寺さんの御本堂をあとに、まず向かったのは弘法大師堂。
ここは弘法大師さまの石像を奉納するお堂のようです。古いもの、新しいものと年代もいろいろなので石工もさまざまなようです。
なかには何体ものお大師さまの像を奉納されているご夫婦がおられるようです。
…こうした石像の奉納にも憧れます。それこそ墓よりもそちらの方がいいなとひそかに思っているのでありますが…。
と、こちらの大師堂、どうやら八十八体の弘法大師像を寄進することを目標として建てられており、それにはまだ五十七体必要なようです。
…。…できれば自分でお参りできるところがいいです。
すみません。
そしてその前を通らせていただき、御本堂の裏手をぐるりとまわって。
ああ、坂東三十三カ所のそれぞれの観音さまの石像がこちらにもおられます。
よく晴れた日です。
日の光を浴びて、観音さまのお顔も笑っておられるように見えます。
イチョウの葉の絨毯がきらきらと光るようにすら見えます。
鐘楼が見えてまいりました。
茅葺きの、決して大きくはない鐘楼と梵鐘です。
梵鐘はなんと寛文十一(1671)年の作だといいます。
あの第二次世界大戦でよく残されていたものであります。
こちらの梵鐘が残された理由はわかりませんが、こんな山奥のお寺さんからまで供出させたの?ということも、今までの珍道中で見てまいりました。
そのまま鐘のない鐘楼もいくつも見てきました。
そんなことまでしなくてはならなかった時代は、そう遠い過去ではないのですよね。
戦争を知る世代の方もだいぶお亡くなりになられた時代とはなりましたが、この世界から戦争のなくなる、そんな時代が来ても良い頃なのではないでしょうか。
そして鐘楼向かいにあります閻魔堂。
こちらに〝笑い閻魔〟、と呼ばれる御像が安置されているはずです。格子戸がはめられ、その格子越しにしか拝することができません。
薄暗くてよく中は見えないです。
スマホのカメラ越しに見るとよく見えます。…なるほど。
かなりダイナミックに笑っておられます。
その横におふたり。
善童子と悪童子さん。手に巻物をお持ちの方と…なんだろう?かつてあったジャンボ鉛筆そっくりのものを胸より高い位置にお持ちになられている方と。
格子越しなので見えなかったのですが、奪衣婆さんもおられるようです。
西明寺さんの御本堂で、衝撃に近いほどな形で自分が今いる立ち位置に気づくことができましたものの、さりとていきなりそう改心して御仏の教えにそうよう歩きはじめられるわけもなく。
焦らず騒がす一歩ずつ、自分なりの今後の人生を模索していくしかありません。
とりあえず、生きたいように生きてみようかと。
変わりたい自分、こうしてみたい自分。
みんな自分です。
今までの自分が嫌いであることに気づいたとしても、そこから変われれば、死ぬときに、そこからの自分を少しであっても誇れるかもしれない。
人生などあっという間。
今から始める一歩は、どんな未来もある!
そう思って生きよう。
…まぁ、やっぱり急には変われないのでアリの一歩よりも短く、ナマケモノ🦥のようにスローではあるだろうけれど。
今Twitterでちょっとした話題となっている神社さんがあるようです。
それは一枚の手水舎に貼られた貼り紙で、
『ご注意.
利口なカラスが ひからびた小魚を水につけてもどすことをおぼえ、
手水鉢の水をとりかえても
一日で水が濁ってしまいます。
小魚の骨や肉片がたまって
不衛生ですので
この手水は使用しないで形だけの
所作にして下さい。』
大変可愛らしく読みやすいまる文字で書かれています。
へえぇ。
カラスは賢いとはよく聞いていたものの、もはやここまでとは。
私はこのニュースを夫から聞いただけなので、〝手水舎〟〝カラス〟と入力して検索をかけたのですが、
どうやらこの手の賢いカラスは今に始まった事だはないようで、最初にヒットしたものをフンフンと読んでいると日付がかなり古い。
…?
実は〝干からびたものを戻す〟、とまではいかないものの、そもそもが汚れを落とすようなことはしていたみたいで、かなり大きなステーキの肉が浸かっていたりした神社さんの呟きがあったり、
フィンガーボールを用意したり、テグスでカラス除けをしたりと、工夫し苦労するさまざまな神社さんの姿がありました。
…こう申し上げてはなんですが、そもそも手水鉢、何百年という年季ものもザラで、そこに流水でもない溜めた水で手を洗い口を漱ぐよう言われても抵抗がある方がむしろ当たり前といえば当たり前ではないでしょうか。しかも共用の柄杓。
元々がいろいろ不衛生といえば不衛生でして。
とはいうものの、今このコロナ禍となって、手水舎をクローズされた神社仏閣さんが増えると、今まではそうしないと不敬のよう言われていましたのにと、それはそれで不安なわけで…。
ただ、このコロナ禍で、手水が流水のところもだいぶ増えまして、これは大変ありがたかったことでした。
私はこのコロナ禍で、持ち手が折りたためるキャンプ用品のステンレス製のコップを持ち歩くようにいたしましたが、これもコロナ禍という状況でなければ思いつきもしなかったし、もし思いついて実行していたとしても周囲から白い目で見られそうな気がいたします。
カラスの害、ですか。
神社さんやお寺さんも大変なことで…。
七十二節で今の時期を【橘始黄】(たちばなはじめてきばむ)というそうです。
ああ、橘。あのお雛様の右近の橘!
…そうなんだぁ。
他の柑橘類よりも少し遅い?
そんなことをぼぉっと考えていたら、まるで痛いところに手が届くようなニュースの記事がありました。
橘ってみかんの元となったものなのですね。
でもそのお味はとても食べられないほどの苦くて酸っぱいものなのだとか。でも、ジャム、マーマレードにすると美味しいというもの。
…美しい日本の四季を表した七十二節を、よりにもよって切り取るのは食する的な部分とは…(^^;;
あ、元となるニュースはあくまでも花の頃からその花の香り等、さまざまな橘を語ったものでありました。
切り取った私があくまでもここに注目しただけ、です。
やれやれ。
…。
私がわくわくしながら御本堂御内陣で御仏の像を拝観しているとき、一人の女性が読経する声が外から聞こえてまいりました。
はっ!
般若心経を御唱えされ、さらに十句観音経を御唱えされておられます。
…ここが信心深い方と無宗教者との大きな違いなのだ。
多少経を覚え、いくつも神社仏閣をまわろうと、〝珍道中〟に過ぎない理由は、自分がおバカなせいだと思っておりましたが、そうではなくて。…それも多分にはありますが…。
どのお寺さんを訪れても、この方のように読経され御仏を敬い、信仰する気持ちがないこと、それに尽きるのだと。
こちらは坂東三十三観音霊場の一寺ということを、その度胸の声を聞いてはっ!と思い出しました。
あの、秩父でしたように、納め札と写経したものを手に訪れるべきところでありました。
持ってきたのはお線香のセットのみ。
いくら急に決めたこととはいえ、書き溜めた写経はたくさんあって、いつもいつでも納経できるよう、参拝用のリュックに納めてあったというのに…。
そんな奢った、観光気分の私を戒めるために、御仏が遣わしてくださった巡礼の方だったのかもしれません。
真摯な気持ちが足りないから、いつまで経っても〝珍道中〟でしかなかったのです。
お寺さんをいくら参拝しても、どこか門外漢な気がしていたのは無宗派だから、ひいては檀家でないから当然だと思っておりましたが、そうではなく、〝信心〟というものが足りないのです。
そうかぁ。
そこかぁ…。
これは気のせいではなくて、本当に御仏が気付きのために遣わしてくださったのだと思います。
宗教と向き合うことというより、純粋に御仏を信心して敬愛することこそが大切なのだと。
…でも。
気づいてしまったもう一つの気持ち、仏像大好きという気持ちはもう抑えられない。
それはお許しいただこう。
と、またまた自己中な私。
…これがいけない?
まぁ、少しづつ少しづつ、正しい方へと向かえればよい、か。…よいかな。
ご本尊であります十一面観音さまは、本来ならば閉ざされた御厨子の中。
コロナウイルス退散を願い、午年の御開帳のものを、今年、丑年結縁事業として特別に御開帳されています。知らずに参拝いたしましたので、本当に本当に嬉しく、ありがたいことでした。
御簾越し…というのか、私が下々過ぎて〝御簾〟と呼ばれるものなのかどうかすらがわからないのですが、オーガンジーのような薄い布に刺繍のほどこされた美しい布越しの拝観であります。
その布が厨子の上部に取り付けられ、それが頭から上を隠すような掛け方をされており、お姿の一部が見えないようなかたちであります。
少し…身体を傾けてお立ちになられておられますでしょうか。
白い、といった表現が一番近い、白木のままのお姿のようです。
いたってシンプルなお姿であられるのに、その存在感はまさに圧倒されるものです。
御仏像大好き人間としますと、秘仏という扱いがいまいち理解できないのが本当のところ。
それでもこうやって、御開帳の折にお会いできる機会を得ますと、そのパワー、お力に圧倒されます。
秘仏であるという、その意味は、人間の穢れた念に、煩悩に、触れることなく御開帳の時までお力をためておられる…ということになるのでしょうか。
なんにせよ、お美しくて…。
こちら西明寺さんにはかねがね参拝いたしたいと思っておりましたのですが、夫に、仕事の休みの日に一人で行こうと思うのだけれど、と、かつて相談したことがあったくらい。
夫はその時、鼻で笑ったのち、
「絶対無理だから」と即座に断言いたしました。
今日、たしかに高速を使ってすら一時間以上かかるこちらへ、私一人で来ることなど、絶対、絶対、絶っ対無理だったと思った次第でありましたが…。
あの時、意地をはってこちらへ一人で向かうこともなく、
さらには夫が私を憐れんですぐにこちらへの参拝を決めることなく今に至ったのも、すべてが御仏のお導きであったのでしょうか。
自分に都合よく考えたいのが人の常でありましょうが、そう思いたくなるのも少しわかる気がしません?
本来ならば午年の御開帳。
コロナの緊急事態宣言がようやく解除され、さらにはそのまま新規感染者数が減少している今、当日こちらへと向かうことと決め、今年いっぱいの御開帳のタイミングに間に合ったという奇跡。
なんにせよ、本当にありがたいことです。
…と、思いきや!
見上げ見ると紅い色が褪せてはいるものの、御本堂の上の方には赤い色が残っております。
かつては赤い御本堂だったのです。
屋根は銅板葺、…ですがもしかしたらかつては茅葺きのものだったと思われる形状をしています。もしかしたら茅葺きを覆ったのかもしれません。
やはりこちらの扁額も色褪せて文字を読むのが難しいものとなっております。
御本堂正面は紫の幕で上と下を覆っております。その幕がなければ扉も壁もない直接外陣に入れる造りとなっています。右側面のビニールシートをまくって、中に入ることとなっています。
外陣には欄間部分に細やかな彫刻がほどこされています。…少し新しい?
実はこの御本堂、やはり室町時代の建造、なのですが、江戸時代初期の火災で焼損しているのだそうです。
焼損した部分、外陣から前面にかけてを元禄十五(1702)年に再興したのだといいます。
なるほど、どおりで彫刻や残っている彩色が新しく思えたはずです。
とはいえ、扉も壁もない造り。
やはりその影響は壁で覆われた建物よりも傷んだり風化は進んでいるよう思われます。
天井絵はおそらくは龍、龍を墨で描いたもの…なのだと思われもするのですが、確かにそうだといえないくらい劣化してしまっていました。
御内陣へと向かいます。
外陣との境には簡易的な扉がつけられています。
…。
ほのかな灯りの中に、たくさんの御仏の像がおられます。
はあぁ…。
今までいた空間と異空間のようです。
そのほとんどの御仏の像が等身大のものです。
その大半が赤茶色に塗られ、大きな部分部分で色落ちして黒くひきしまった木肌が見えています。光背や台座等に金が残っているのはおそらく修復の際塗られたものがまた少し剥げ落ちたもののように思えます。
軽やかな動きとしなやかな肢体の毘沙門天さまは頭部と両の腕が失われてしまっていました。(;_;)
そんな御仏たちが護るように前に立つのは、壁に建てつけられているように見える、大きな大きな御厨子であります。漆黒の、ずっしりとした、厨子の屋根も反りのある凝った造りで大変品のあるものであります。
そして。
御簾越しに見えるのは本来は秘仏であります十一面観音さまでございます。
みぎてにお堂、ひだりてには鐘楼。
どちらも茅葺きのものであります。
見ない、見ない!
…馬車馬の顔の横につけられる横が見えないようにするものが欲しいくらいです。
真っ直ぐ御本堂へと進みます。
石段の左脇に、手水舎ではないのですが清らかな水が絶えず流れている、ちょうど洗面台くらいの大きさのものがあります。湧き水でしょうか、大変綺麗な水が、水道の蛇口をスッと軽くひねった時に出るくらいの、結構な流量で竹で作られた水路から絶えず流れています。
そのさらに左には回向柱が数本立っています。
そんなところに目をやっている私に、
「これはなんだろう」
夫の声のする方に目をやると、結界のように囲われた舟形の石が、石段を登り切ったところに敷き込まれています。
…なんでしょう?三十センチ、位でしょうか、そんなに大きなものではありません。結界のように囲ってはありますが、そこに吊るされているのは、…五円玉?五円玉です。
なんでしょう?
とりあえず御本堂の真ん前に仕切られているもの、何かしらの意味があるものでしょう。合掌して横を通りました。
おおっ!
大きな。思ったより大きな御本堂でありました。
やはり白木のままの建物であります。
石段を登っていくと、茅葺きの屋根が見えてまいります。
楼門です。
大きなどっしりとした門は、白木のまま…だったのか、それとも長い年月を経て塗りが落ちてしまったものなのか、塗装のあとは見当たりませんでした。扁額に塗られた塗装が色褪せてその文字が読めないくらいになっています。
しっかりとした造りで、大きな傷みなどは見当たりませんので、江戸時代末期くらいのものかと思いきや、室町時代に建てられたものなのだとか。
ほおぉぉ。
そのような古さを一切感じさせない見事なものです。とにかく傷みがない。
門に取り付けられた木の柵のかげから仁王さまが見えます。そのお顔はお二方ともよくはみえないのですが、側面の柵の間から見える脚や衣の流れるさまなどたいそう見事な造りです。
こちらもよくは見えないながらも傷みなどはあまりないように思われます。
茅葺きの屋根は…隅棟というのかどうか隅部が大きく反り返った造りとなっていて、それがこの楼門をさらに大きく豪華なものにみせています。
茅葺き屋根なんですよ。
すごくないですか。
そしてその楼門のひだりてに三重の塔がそびえ立っております。
うわぁぁ‥‥。
圧倒されるような感覚に感動が相まって、何やら自分でも自分の感覚をどうとらえていいのかすらわからない状態で。
三重の塔を見に行きたい思いをなんとか抑え、門をくぐります。
うわぁ。
正面にはさらに一段高いところとなって御本堂が。
みぎてにはやはり茅葺きの大きなお堂、ひだりてには鐘楼があります。
感動で自分だけ時が止まったかのようになりました。
ナビにもよく出てこないような、山の中腹にポツンとあるお寺さんなんです。
バスも通わず、ふもとにも参道の気配などなく、お土産屋さんなども一切ないお寺さんです。(とはいえ坂東三十三観音霊場の一寺ではありますが…)
すごい…。
こちらの歴史は古く、行基菩薩の草創とされます。紀貫之の祖先となる方の建立となります。
時は天平、737年のことだったといいます。
建立から五十年かけて一山十二坊という大きな寺院となったようです。
それが。
1127年、兵火によりお堂から塔から、十二坊全てが焼失してしまったのだそうです。
…うーん 。…>_<…。
思えば。
ここでお手洗いをお借りしなければ、そのまま石段を登ったに違いありません。
御朱印は参拝させていただいたあとに、ということが大抵の寺社で言われております。
その神社さんあるいはお寺さんの方針…ご好意で先に御朱印帳をお預かりくださっているところではそのご好意に甘えさせていただきますが、そのように明記されていないところでは基本的に参拝させていただき御朱印をお願いしておりますので。
それがここでお手洗いをお借りするような状況であって。
受付の方にお声かけしたからもう一度御礼のお声がけをしようと受付に立ち寄り…。
それではじめて今年御開帳されているという、結構長いお知らせを目にすることとなったのです。
そうでなければ御開帳されていることに気づくことなくお参りを済ませ、御朱印をお願いしたあとも下手すればそのお知らせを読むことなく、普通に参拝してこちらのお寺さんをあとにすることとなったに違いありません。
これはもしかして御仏のお計らい?
…すぐに自分に都合よくとらえるのはどうかとも思うのですが、そこから御仏にさらなる感謝の気持ちがうまれ、さらには受付の方への感謝と、良いことにつながっていれば、おあとよしということで。(これがまた自分に都合よく考えていることに気づくべきではありましょうが)
ともあれそんな晴れやかな思いで石段を登りはじめました。
現実は数段のぼっては石仏さまの元へ立ち寄り、なかなか進まないのですが…。
こちらの石段から始まって、境内のそこここに同じ作り手の石仏がお立ちになっております。光背にあたる部分に〝坂東○番○○寺〟と刻まれています。坂東三十三観音霊場のそれぞれの観音さまの像がお祀りされているようです。
なかなか全てのお寺をまわれない方のために、建てられたのかもしれません。
石段はそれなりに長いものであります。そして結構急な傾斜でありました。
立ち止まった際にそこでバランスを崩し転倒などすると、階段落ちを演じてしまいそうな危険を感じるものでありました。
この日あまり参拝の方がおられなかったこともあって、人がおられないタイミングで立ち止まって観音さまを拝してみて。石段の途中の坂東三十三の観音さまを一つ一つ拝むのは危険であると思いました。…えっ?そんなレポートはいらない?
…ですよね。(^^;)
その、受付のところにありました触れ書きには、
『…本来午年の御開帳ですが…コロナウイルス退散を願い丑年結縁事業…御開帳しております。本堂内陣にお入りになる場合は…受付で…』
…。
…午年の御開帳かあ。
…ん?ちがうぞ!御開帳してくださってるんだ!
御内陣まで入れるんだ♡!
う、受付!
受付でしどろもどろになるくらいに興奮している私に、〝どうどう〟と馬でも落ち着かせるかのように手慣れた感じで、自然な感じで話を進めてくださる受付の方。
「ではこちらにご記入ください」
…ってこの受付の紙、御朱印の受付書でもあるんじゃない!
「あっあの、御朱印もお願いしたいんでよろしいですか?」
「ああ、それでしたら…これだけ御朱印の種類があるのですが、どれをお書きしましょうか」
じゃーん!
…結構な種類です。ん?
あ、こ、これは!
何度となく本で見たことのある、閻魔さんの、それも大きな口をあけてお笑いになる閻魔さんの描かれた御朱印がその中の一枚として紹介されているではないですか!
うーん。うーん。
ひたすら悩む私。
そんな私をみて、受付の方は本来なら書いて出す書類を引っ込め、
「お名前だけ教えてもらっていいですか?」
名前を書いての受け付けとなる紙に、受付の人が名前を記入してくださっています。二人で来ているのにそんなことまでさせて、本当申し訳ございません。
御朱印は三種類お願いいたしました。あれもこれもお手数ばかりですみません。
悩んで、でもやはり閻魔さんのものもとお願いしたことは言うまでもありません。
栃木県芳賀郡益子町にあります【西明寺】さんは、のどかな田園風景の広がるところをさらにさらに奥へと向かう人里離れたところにありました。
ナビを信じきれない珍道中ペアは、途中で車を停めて見たほどであります。車を停めたところは病院のそばで、のちにこの病院が西明寺さんが地域のために建てた病院であったことを知るのですが…。
…そこから少し登っていくと西明寺さんの駐車場でありました。
ナビには目的地は映るものの、道もなく当然駐車場もない、点ですらないところにポツンと西明寺さんの名だけが表示されるものですから、なんとも不安だったのです。なにしろ平安の頃からここにあるというお寺さんに道すらないはずがなく。
おそるおそる車を走らせ、ようやくたどり着いたのはあまり広くはない駐車場でありました。
たどり着いたものの、その駐車場から見える建物はどう見てもお寺さんという建物ではなく、テラス席のある食堂?事務所?
不安ばかりがつのります。
ただ…。
ここが仮に西明寺さんでなかったとしても、高速を走らせてきた(走らせてきたのは夫ただ一人ではありますが)身としては、一定時間を過ぎるともよおす生理現象がかるくサインをおくります。
こちらでお借りしてお話を伺おう。
…って、事務所のように見えていた建物、窓の外が平台のようになっており御守等が置いてあるではないですか!
ここ、西明寺さんの…庫裏とかですか?
何やら入り口にはトイレのことすらも書かれています。至れりつくせりで…。
受付の方にお声がけして、まずは手水以外の身を清めましょうか。
ところで、あとで夫から聞かされるのですが、男性用トイレにはたいそうユーモアあふれる貼り紙があるそうな。
あとで紹介いたしましょう…忘れなければ、ですが。
さて身を清めたところで。
こちらの方にお礼を申し上げに受付へとまわりますと、何やら貼り紙がされています。かなりの長文です。
…なんでしょう?
ずっと心であたためておりました、お寺さんと神社さんへ行ってまいりました。
栃木県の【西明寺】さん、【大谷寺】さん、そして【宇都宮二荒山神社】さんです。
都道府県魅力度ランキングというものが毎年発表されており、今年は群馬県知事がこれを不服として会見を開くなど、毎年その注目度も上がっているようです。
ちなみに群馬県民としては何よりこの県知事の行動および発言こそが一番恥ずかしく、意欲を削ぐものなのですが、大体の政治家は民の意見や考えを知ることもなく、その努力をしないという一例で。本当にご勘弁願いたいものです。
ランキングというからにはどうしても最下位という不名誉な立ち位置となる都道府県が生じますが、あくまでもそういった数字的なもの。
昨年最下位となってしまった栃木県にしろ、今年その立場となってしまった茨城県にしろ良いところを挙げたらキリがないくらいです。
その証拠に昨年の最下位を脱して栃木県は群馬県を上回っています。
少なくとも県知事がめくじらを立てることなどないことです。住んでいる者たちは自分の住む土地の良さを知っているものです。憧れと現実は違うものです。
閑話休題、すぐに脱線するのが私の悪い癖です。
とはいえ、栃木県、素敵なところがたくさんあります。語ればキリがないし、今回行かせていただいたところも本当に素晴らしかったです。
まず向かいましたのが芳賀郡益子町にあります西明寺さんです。
坂東三十三観音霊場の一寺となるお寺さんです。
こちらへ行きたかったのは、茅葺きの楼門や閻魔堂。そして三重の塔。
もう、このシチュエーション、胸がときめきます♡
で。今回は私の苦手分野の高速を使うということで、その運転は夫まかせ。本当におんぶしてばかりで心苦しくは思うのですが、運転だけは他者への迷惑や、ひいては事故にもつながるもの。可能な範囲での運転だけにとどめておきたいのでありまして。
実際、仏像に大して興味がなかった方ですらが、この室生寺さんの十二神将さまに一目で魅せられたと語られる方は数多くおられます。
異口同音に豊かな表情と、躍動感あるそのお姿に一瞬で心奪われたと語られます。
そして十二神将さまそれぞれの個性。自分の好みの…というと不敬ながら、でもやはりその一体一体の個性で、人はそれぞれお好きな神将さまがいるようです。
さらに不敬ながら、その好みの十二神将さまを聞けば人気ランキングなども出来るくらい、関心は高いようです。
人が生まれながら持つ、生まれた年の干支にまつわるそれぞれの神将さまが必ずおられることも興味を持つ一つのきっかけともなります。
私の干支は…秘密ですが (^^;)。
ちなみに。
若いころは長いものに巻かれないタイプだっただけあって、長いものに苦手意識があるのかどうか…、それぞれの神将さまのお名前がまるで覚えられない。
真達羅大将(亥神)
摩休羅大将(戌神)
波夷羅大将(酉神)
因達羅大将(申神)
珊底羅大将(未神)
末儞羅大将(午神)
招杜羅大将(子神)
毘伽羅大将(丑神)
宮毘羅大将(寅神)
伐折羅大将(卯神)
迷企羅大将(辰神)
安底羅大将(巳神)
…。
お読みすることすらが困難です。
覚えられないことのなんと多いヤツでしょう。
好きと言いながらもそのお一人すら覚えられない十二神将さましかり。
全てまわったと言いながら、認知症の進行予防に使われているくらいな秩父三十四箇寺さん。
…まったくもってやれやれ、でございます。
そんな【室生寺】さんの宝物殿の設置の背景には、温暖化の影響によって虫害など仏像にとって有害なことが増加していることがあるのだそうなのです。地球環境の変化は文化財の保存にとっても脅威となって迫っているようです。
お寺としてはそれでもやはりそれぞれのお堂の本尊はやはりそのお堂でまつりたいという思いがあったようで、金堂の十一面観音像、地蔵菩薩像と十二神将像のうちの六体、そして弥勒堂の客仏の釈迦如来坐像、合わせて九体が宝物殿に移されるにとどまったようです。
十二神将像はこれまで金堂内に十体が一列に並んでおられたようでした。宝物殿ができたタイミングで博物館寄託の像を戻した上で、金堂と宝物殿に半分ずつ安置することになったのが今現在の在り方であるようです。
十二神将像は高さ各約1メートル、ヒノキの寄木造で、鎌倉中期ごろの作といわれています。
保存状態は全体に良好で、台座もすべて当初のもので、一部には戯画が描かれているものもあります。…かつて博物館で一度お会いしただけに過ぎませんが、それはたしかなことと思うのです。
私を一目で虜にいたしましたこちらの十二神将さまの御像の魅力は、引き締まった体躯、ぴしりときまったポーズ、それぞれが個性的な姿をしていてそれでいて全体としてよくまとまっているところにありましょう。
しぐさが大きく、また体のひねりがきいている像が多く、これがまたたまらなく魅力です。
表情もまたさまざまで、怒りをあらわにされた方、おどけたユーモラスな表情をされる方、さまざまで、それがまたお一人お一人のたまらない魅力であります。
十二神将さまは、十二の方角に基づく十二支の動物がそれぞれの頭部に標識となるよう動物の頭が記されております。
子神、辰神はその標識であります動物を失っているので、厳密にはどちらであるのか不明であるともいわれてはいますが、兜を着け、左手を高く上げる御像が子神とされています。
いま、丑、午、申、戌、亥の六体が金堂に安置され、宝物殿には寅、卯、辰、巳、未、酉の六神将が移されておられるようです。
こちらの十二神将さまたちの、生き生きとしたさまといったら!
一目で虜になってしまいます。
躍動感あふれる、そしてさまざまな表情をした素晴らしい素晴らしい御像です。
それにしても…。
今、その十二神将さまたちは一堂に会してはおられないのです。
本来はご本尊さまを中心にして、十二の方角を護っておられる方たちであります。
なんともそれが寂しくてなりません。
それでも私がこちら【室生寺】さんの十二神将さまを知った頃はまだ、たしか二体…二柱だけ国立博物館(だったと思うのですが…)に移られてはおられたものの、ご本尊さまを残りの十体…十柱の神様たちでお護りになられていたのですが、ここ何年かの間に宝物殿が建ち、そちらに六体移されて、残る六体がご本尊さまをお護りになるようになられたのです。
長い年月を経て、お力はますます強くなられ、六柱の神様たちでも充分お護りになれることかとは思いますが、神さまたちは今までずっと共に居られたのに、お寂しくはないだろうか。人間の勝手で持ち場を離れることに抵抗はなかったのだろうか。
…などと人間の視点で思わず考えてしまうのでありますが、神さまのお力はそんな小さなものではないので、きっとそれくらいの距離などなんということもないのでありましょうが、人間の感覚で言えばやはり十二神将さまはみなひと所におられ、それぞれのお役目を果たしておられるお姿が見たいと。
…そうかなぁ。
本当は私が思う通りにそこに居たかったのではないかなぁ。
それでも笑って人のするがままに身を任せてくださったのではないかなぁ。
いつか室生寺さんを訪れることが出来たなら、十二神将さまにそっとお尋ね申し上げてみようかしら。
もしそんな日がきたら、一寺一社、最低でも一日かかるとしか思えない。うーん。
…それこそが煩悩です。
Eテレの【趣味どきっ!】の【仏像の世界】も残るところあと一回となりました。
前回は奈良県の【室生寺】さん。
この室生寺さんの回を観ていて、あらためて自分が仏像が好きなことを思い知るのでありました。
室生寺さんには修学旅行でも行っておらず、この趣味どきっ!を観て初めて知ることばかりでありました。
?。
あれっ?。
だったら何故私は(いつか室生寺さんへ行きたい)と思っているのだろう。
この番組は、駒澤大学の仏教美術史の教授、村松哲文氏と二人のアイドル…一人は毎回村松教授と案内人を務めるアイドルさんで、もう一人は毎回別のアイドルさんが、仏像にお会いする旅をする、というものであります。
アイドルさんにしろ、お笑いタレントさんにしろ、この手の番組に出演すると、『特別に』! という理不尽な理解できない言葉のもと、本来は拝観できない御仏の御像に間近でお会いでき、私どもはその度にテレビの前で一頻り憤慨するのでありますが。
そもそもがお仕事で、旅費もかからずに日本各地をまわられることすらが、貧しい私には羨ましい。
こんな風に羨ましく思う心こそが貧しいものであります。…などということは私のなかのどこかは微かに理解しているのではありますが、まだまだ未熟な私の本音はやはりそんなレベルにしか過ぎないのです。
とはいえ、隣の芝生は青いという言葉もあるように、そういったお仕事の大変さはみえないのでありますが、ね。
明るいスポットライトの光の作り出す影は、もしかしたら濃いのかもしれないし。
まぁ、そんな悲しい貧しいこころを秘め、テレビの画面を通じてアイドルさんたちと一緒に毎回お寺さんを知る旅をなぞるのでありました。
閑話休題。
で、室生寺さん。
建物を観ても、何一つピンとこず、御本堂のご本尊さまを拝しても、金堂のご本尊さまを拝しても、やはりピンとこず…。
何が私を呼ぶのであろう。
あっ!
おられた!
そうだ、十二神将さまたちだ!
うーん♡
恐る恐る廊下に足をおろします。
…そう、私くらいの年の方ならご存知の、あの、回転するレコードプレーヤーの上で回るレコードに針をおろす時にも似た感覚で。
ンン⁉︎
何、何?
斜めだ、斜め!何?
なんで?
とりあえず、斜め、でした。
その理由は。
台風だとか雷雨の時に吹き込んだ雨を掃き出しやすいように、とのことであります。
…はあ。
しかも庭に面した廊下だけな理由は、「人の通る往来にはできないから」
…はあぁ。
実は感覚が鈍くわからなかったのですが、一階の庭側の廊下もそうなっているのだそう。
はあぁ…何から何まで、至れり尽くせりのおうちです。
で。
この床の間のある方のお部屋。
お客様が座られる位置にもとんでもない、計算された工夫がされていたのです。
それは…あの大きな大きな窓を開けると。
床の間に向かって右の窓には観音山と呼ばれる山が。
左の窓には吾妻山。
床の間の横に造られた窓からもやはり地元では有名な山の姿が見えるように造られたというのです。
そのため、蔵と母家の建つ位置すらずらして建てているのだそう。
はあぁぁ…。
追記すれば、あの、こちらに入るのに通ってきた庭の向こうには、テニスコートがあったのだそうで。今もその名残がありました。
どんだけ〜っ⁉︎
はあぁ。
四辻というのは、以前からの名称で、四つの町名がクロスする辻にあるから、そう呼ばれていたのだそうです。
はあ。
見上げた天井は太い梁。船底天井、というのだそうです。
なるほどまさに船底を逆さまにしたかのようです。中央の部分が周囲より高くなっております。
それもどちらかというとまるで大きな船の船底のように、傾斜が急で梁が太いのです。言い方を変えると天井に平らな板の部分がない。
まさに船の底です。
そのため大変空間が広く感じられます。これにもきっと深い意味があるのでしょうね。
太い梁には何年何月に造られた、大工は誰だれという墨書きが残されています。その脇に長い棒が沿うように置かれております。
蔵の二階の中央部分に、がっしりとした格子の柵がはめられています。
大きな荷物を出し入れするとき、この格子を外して荷物を移動するのだそうです。
いやぁそれにしても本当にここの蔵の二階、私にとって最高の居心地の空間です。
もう少し居たいのだけれど、なぁ。
無情にも手慣れた案内をされる案内人の方は、スッスッと慣れた様子で先ほどの急階段を降りていきます。
ちなみに、こちらのように室内となっている蔵の戸は通常開け放っておかのだそうです。金網の戸もあり、さらに有事の時だけ締める扉もついていて、大火の多かった時代、火災に対する対策は万全!でありました。
蔵をあとにして。
今度は二階へと案内されます。あのハコ階段を登っていくと、昔の…今で言う出窓がありました。
これって…風情があるとかないとかよりもやはり空調的な意味があるのかも。…わからないんですよ?ど素人ですから。
で。
階段を登りきり、廊下へと向かいます。大きな窓です。
吹きガラスの窓がこの廊下にあるものはみな、一部分磨りガラスで模様があります。
ずずっと同じに窓が続く廊下です。
ふぅー。
その廊下からの部屋は、まあ当然といえば当然ですが畳の間です。二間あります。十から十何畳かの部屋が二つ。
おお、素敵なお洒落な欄間です。
そして奥の間には床の間が壁一面。
畳の間を抜けるとまた廊下があって、またまた大きな大きな掃き出しの窓です。
「この廊下、実は普通じゃないんですよ」?
いや?
いたって普通の板敷の廊下ですが?
板が立派?…まぁそれも当然そうなんでしょうが。
いやぁ、…なに?
「立ってみるとわかります」
?
立ってみると?
…まさかの床暖房とか?いくらなんでもそれはないでしょう。
蔵の二階へと続く階段は、狭くて急でちょっと怖いです。
で、そういった蔵特有(?)の階段の登り方っていうのがあるらしく、案内してくださってる方がレクチャーしてくださる。
そんな階段ですら素材も造りも一切手を抜くことはなかったようで、見た目も美しいし、やはりヘタリも歪みも軋みも何一つないのです。
登り終わった空間は、今は蔵としては使われていないこともあって、広い一つの部屋でした。
さすがに土蔵ではあるし、蔵として使われていた期間があるので、壁とかはやはり汚れがありますし、塗りも土蔵では回数を控えたのか、そもそもの色がくすんでもいますが…。
選んだ照明の色が、暖色系なこともあり、なんともあたたかな居心地の良い空間です。ええ、蔵、なんですけどね。
しかも澱んだような、カビ臭いような、古い建物にありがちな匂いは一切しないのです。ええ、一切!
上手に換気できるような工夫があちらこちらにされているのだといいます。
それがどこの蔵もなのか、ここの…「金はいくらかかってもいい」という建主の言葉によってそういった工夫がされているのかは一切不明です。そうそうお蔵に入ることなどない人生を送ってきていますので。
置かれていたのは立派な作りの箪笥が二棹。
それとこちらのお宅が商売で使われていた書類だったり書物だったり。五玉で厚い木で裏打ちされた算盤が二つ。
それと織物で使った何か。
なにより私の目を釘付けにしたのが、こちらのお宅のヒストリーであります写真が幾葉か壁に飾られたもの。
その写真一枚一枚、けっこうな大きさなんです。写真館とかで撮られる、大きな方のサイズのものです。
でもね…。明治から大正時代でしょう?今とは違ってそんなに気軽に写真が撮れる時代ではなかったのですよ。
それがしっかり残されている。
こちらを建てたご当主のお顔の写真と、こちらを建設中の様子のもの、それも二枚。どなたかの結婚式の際撮られた集合写真。この家のどなたかが出征される際の…見送る側を撮した写真。
そして…。この家を建てた方の葬儀の際の野辺の送りの様子を撮った遠景写真。
すごい、すごい、すごい!!
しかもこの家を手離すまでの間の保管がよかったのでしょう、まるで色褪せていないのです。
これもまたすごいことです。
はあぁぁぁぁ。
ここにずっと居たいくらい居心地がいいのです。蔵の二階、ですよ?
この家を建てたときの主さんは、「金はいくらかかってもいいから、そのかわり納得いくものを造って欲しい」といい、宮大工を雇って造られたのだそうです。
なんともカッコいい。
そう言って造った家は築九十九年経った今も、軋み一つない。
ほおぉぉぉ〜。
はあぁぁぁ。
案内していただきながら、何度そうつぶやいたことでしょう。
古さを感じないのです。
先へ進むと、二階へと向かう階段があります。これはまた急なこと。
ん!
階段箪笥…ハコ階段だ!
黒光りする階段は移動可能でその側面には立派な戸棚と引き出しがいくつもあります。
この引き出しがなんとも軽く開くのです。造り自体は厚く重厚なのですが、建てつけがいいのです。中は桐が使われています。
このハコ階段、しっかりと木を乾燥させて造らせたものだからこその建てつけの良さなのだそう。
手摺には飾り彫りが施されています。これを鑑定してもらった結果、この階段だけでも一千万の値打ちがつけられているのだとか。
はあぁぁぁぁぁ…。
でもそうかも。こんなにしっかりとしたもの、なかなかない物だと思いますもの。ふー。
そして食器棚が並びます。
階段の向かいには蔵の壁があります。家の中に蔵、かぁ。
その蔵の扉の大きなこと!
扉には女扉と男扉というのがあるそうで。扉も漆喰。
その扉、なんと開け閉め体験もさせてくれます。おおっー。
その大きな扉、思ったより重くはなかったです。
蔵もすごい!と思いつつ、私は気になってしかたない、大きな大きな黒光りする金庫が!
思わずびっくりマークが多用されます。
その面には家紋が飾られています。
金庫も実にスムースに開きます。黒光りは漆。中には桐の戸棚が設えてあります。火事となっても中の物を守れる桐という素材が実に多用されているおうちです。
思わず合掌してしまっていました。
蔵の中は古い家具を綺麗に配置して、部屋のようになっています。
茶箪笥があり、中にはびいどろの
小鉢や、やはりノリタケのフルに揃ったままのティーセット。縁取りは、金。…。
おままごとセットのいくつかも残されてここにしまわれているのですが、小さな小さな…そう、リカちゃん人形に持たせる…には少し大きいくらいのサイズの羽子板があるのですが、一切の手抜きのない本物をそのまま小さくした物なんですよ。
こんなものまで職人に作らせているんですねえ、はあぁぁぁ。
もう少しだけ、横道珍道中録を。
「お次はどちらへ?」
うーん、ん?何をカッコをつけてる?そもそもがこのイベントのことを告げたとき、大きなため息をついて「いいねぇ〜っ」とか言うから、なら行こうか、ってことになったんでしょうが。
ま、じゃあ、どうしても行きたかったとこ!
【四辻の斎嘉】とかいう名称になっている、織物会社のおうちと蔵のあとをできる限り当時のままで保ちつつ、お食事を提供しているというお店です。
私が知るところでは高級料亭的な…。この機会を逃したら一生入れないんじゃないかという、貧しい珍道中夫婦はこの機会を決して逃してはならない!
で、到着いたしました。
…おうち、でしたかぁぁ…。
そうですか…。
これは…。
高級なオーラがが道路を歩いていても感じられます。
あがっていいのか?
って…ここ縁側。ここから?
玄関ってどこでしょう。うーん。
あ、なにやら呼び鈴が置いてあります。これでお呼びする?
チン!
「はい」奥の方からお声がします。
「お待たせしました。どうぞお上がりください」
「…ここからでいいんですか?」
「沓脱石ですので」
いやいや、それは知ってるんですけど、ここから?っていう意味合いなんですけど…ま、いいか。そうおっしゃってるし。
あがってすぐに、やや早口の慣れた様子で、こちらの建物や家具などの説明をしてくださいます。おおっ!
ここって、いつもこんな感じってこと?
高級料亭って書いてあったのは間違い?
…間違いなようです。
「こちらのような高級料亭さんには一生縁がないだろうと、今日からの一斉公開にと参った者なのですが…」と申し上げたところ、
「今はこんなご時世なこともあって、喫茶のようなことをしているんですよ」
とのこと。おぉ、…喫茶くらいなら私たちでも大丈夫なんじゃない?
入ってすぐの間に。
「この電灯の笠、ノリタケのものなんですよ。隣の間にある物も。」
ノ、ノリタケの電灯の笠〜っ?
何やら天井も特殊なようです。しかもこの建物、築九十九年とのこと。なのにくすみなどなく美しい木なのです。
欄間も上品な明り採りと、その明かりを楽しむべく美しい組み木となっています。
「これ、こちらのオリジナルなんですよ」
んっ⁉︎オリジナルぅ?
本日と明日、大阪府大阪市の同修町にあります、病気平癒・健康成就の社 【少彦名神社】さんの例大祭【神農祭】の日となっているようです。
地元では神農さんと呼ばれ大変親しまれている神社さんのようです。
大阪のお祭りは、今宮戎神社の「十日戎」で始まり、少彦名神社の「神農祭」で終わるため、神農祭は「止めまつり」あるいは「とめの祭り」と呼ばれているのだとか。
【神農祭】で授与される、【五葉笹】という笹に吊るされた「張子の虎」(神虎)が有名であるようです。
これは安政5(1822)年、大坂でコレラが流行した際、道修町の薬種仲間が疫病除薬として「虎頭殺鬼雄黄圓」(ことうさっきうおうえん)という丸薬を調合し、少彦名神社の神前で祈祷して、罹患者(りかんしゃ)などに施したのだといいます。そのときに、合わせて「張子の虎」を配布したといいます。
その丸薬の効能が高かったため、「張子の虎」の御守がよく知られるようになったのだそうです。
この縁起物の五葉笹には、表面に「祈願 家内安全 無病息災」と記された赤い紙札、「薬」の文字印が腹に押された「張子の虎」、少彦名大神御靈と記された布製の神札、花詞(はなことば)の札が付けられているのだといいます。
そんな少彦名神社さん。
少彦名神社さんどころか、大阪にすら行ったことのない私が、実はネットの情報から少彦名神社さんを知ることとなって、その授与品の御守のひとつ【開運金虎】という置守に一目惚れいたしまして。
こちらは少彦名神社さんの前にあおられる虎の像をそのままに模したもののようですが、虎が低い姿勢からこちらに向かって威嚇するように吠えている姿をしているのです。
写真で見るだけでもなんとカッコいい!
「どうしてもお授けいただきたいんだけど。郵送もしてくださってるようなんで、いい?」
と夫に宣言して。
お送りいただいたのは実に九月!
いつこの虎さんを飾らせていただこう。そう考えたとき、神農祭であろうと思い込んだのであります。
早く開けさせていただきたい思いを抑えて抑えて、ようやく今日の日を迎えました。
カッコいい♡
目にしっかりとした光のある、本当に素敵な素敵な虎の像です。
さっそく玄関に祀らせていただきました。
うー、朝から幸せです♡
ところで。
水道山という一風変わった名称は、やはりこの山に配水池が造られ、配水事務所が置かれたことによって呼ばれるようになった通称のようです。
そして、そういった理由で、全国にもいくつかそう呼ばれる山があるようです。
しかも群馬県桐生市でそう呼ばれている山は『雷電山』・『小曾根山』・『金毘羅山』の三つの山をみなひっくるめての通称なのだそうで。
小曾根山の中腹に桐生市の高区及び低区配水池があり、雷電山は水道山公園として整備され、国の登録有形文化財に登録された旧配水事務所は昭和七年に建設されたもので、それが今、『水道山記念館』として保存され、会議や研修等で市民に利用されているのだということでありました。
ちなみに上皇陛下が皇太子時代にこちらに訪れた経緯は、那須の御用邸に向かわれる途中の休憩地点として群馬県から桐生市に急遽白羽の矢が立てられ、急遽決まったものだったようで、御用邸からのお帰りにもまたお寄りくださったようでした。
…ちょうど死角となっていた窓が開いていた、ただそれだけのことでありました。
風はほとんどなかったものの、やはり時折は風が吹き、風の向きもあってちょうどテラスにいる時に、その音となる風が吹き、けっこうな音をたてたのでありました。
ええ、怖くもなんともない、ごくごく当たり前の現象でありました。
で、謎が解けたところで!
そうだ!
…上皇陛下(皇太子時代の)の御写真はおそらくこのテラスのどこかでお撮りになられているご様子でした。
かつての上皇さまと同じ場所で写真を撮りたいという思い上がった思いにかられ、私は夫に頼んだのであります。
「下に行って写真を撮るからちょっとここで待機してて」と。
「えっ?どうして?」
「上皇さまと同じところでの写真が欲しいだけだけど」
「ええっ?そんな写真あった?」
…ありました!
彼がイミテーションアンティーク電話で騒いでいたとき私が見ていた写真を、最後まで見もしなかったようです。
「だったら俺が下に降りて撮ってあげるよ」
えぇぇ?
ㆀ˘・з・˘)
元となる写真を見てもいないくせに?
しかもその写真のあるところを教えようとしている私を、「いいから、いいから」と制して、スタスタと坂の下に下りて行ってしまうのです。
…これだから年老いた男は。
同じところで同じアングルで、
陛下と同じようなポーズで撮りたいんです!
な〜んて思いは一切伝わらない、通じない!
で、出来上がった写真は…見せることすらなく。
こやつ…。今の若者の爪の垢を少し…だいぶ!、煎じてあげるから毎日飲むとよい。
写真の共有など一切しない私ども。
きっとそのままお蔵入りです。
素直に「見せて」と言えばよいものを、言えない、言わない、私もどうかと思うのですがね。
〝なんとか鍋になんとか蓋〟というやつでしょうね。やれやれ…。^^;
大きな音は決して遠いものではありません。この建物のすぐそば…少なくともテラスくらいに近い位置からのもの。
でも人影とかは一切なくて、そもそも人にしろ、鳥や動物にしろ、気配というものがまるでありません。
突然、規則性もなく、ドーンとか、ゴンとか。
窓は開いていますが、その窓も微動だにせず。
…そうなんです。しばらくは窓を疑ってずっと凝視していたので、それは間違いないのです。
で。
私の脳が気のせいにするよう、指令を出したようです。
山だから、何か私どもには想像もできないような何かがあって、そんな音がすることもあろうと。
そう結論づけたのも脳の指令に対して、後付けして考えたものに過ぎない、本当に本能的にそう思考を持っていったようです。…我がことながら、ですがね。
そう指令を出した脳のおかげで、なんの気配もなくいきなりする大きな音を怖いとも思うことなく、とはいえ、いくら豪華でもテーブルと椅子があるだけの部屋にそういつまでも居たいと思うものでもなく、
展示された水道山の風景の写真、新旧の比較ができるよう、同じ場所で撮られた写真パネルを見たあとは、テラスからの景色を楽しもうと、室内をあとにすることにしました。
でも…でもですね、実はあの大きな音、私が窓を注視して、なおかつこれは怖くない!と思ったときから、不思議なことにぱったり鳴らなくなるのです。
それこそ怖いんじゃ…。
でもそれに気づいたのは建物を出たあとなんです。しかもやっぱりこの現象を怖いと思うことはなくて。
で、テラスに出て、その謎はあまりにも簡単に解けるのであります。
私が上皇さまのお若い頃の御写真に釘づけとなっていたのを破ったのは、まぁ、当然ながらあと一人しかいない入場者の夫であります。
「うわぁ。この古い電話!これだけでもすごいよね」
…いや、上皇さまがお越しになられていた事実を超えるすごいものなど、何一つないはずだが?
でも一応そちらを見る。
ああ、画像でしかみたことない、交換手がつなぐようなアンティークな電話機があります。…ほぅ。
だがやはり上皇さまが皇太子の時分にお越しになられた事実以上のものではない。
「しかもこれ、今も使えるんだぁ!へえぇぇ、すごいなあ」
「はあぁ?嘘でしょ?」
「だって、緊急連絡先とかいろいろ貼られてるよ?使えるってことじゃない?」
…それはすごいかも。
私が近寄ると、夫が小さな声で
「あ、違うかも。アンティーク風にしてあるだけかも。…そうだよな、さすがに使えないか」
と一人つぶやいている。
…たしかに。
シルバーのプッシュ式のボタンが付いています。
…ですよねぇ。
まぁ、そこは何も語らず次の間にさっさと向かってあげました。なんとできた妻でしょう。d( ̄  ̄)
次の間は、ちょっと豪華な感じに古いテーブルや椅子の置かれたお部屋です。
まぁ一見、…食堂?
大きな窓で、天井も高く、明るくて大変気持ちの良いお部屋です。
今風なのは、椅子の背もたれにところどころ、黒いマジックで大きくバツ✖️と書かれた白い紙がセロテープで貼り付けてあることと、この十一月という季節にいくつかの窓が大きく開け放たれていること、でありました。
なんの部屋?
喫茶コーナーとかになっているのかなぁ?
そのわりにはまるで人の気配はしません。
次の間は…。
小さな洗面所があって、
…トイレです。
他は何もありません。
何やらあと一つか二つ、行けなくされている部屋はありそうですが…。人の気配はありません。
ただ一つ。
時々それなり大きな音がします。〝ドーン〟
…な、なに?
目標発見、されど駐車地点無し。
(T ^ T)
気短さではどっこいどっこいの、珍道中ペア、とりあえず、今回は夫が諦めて違う場所へと移動しようとした、…その時です。
前方から二人、男の方が歩いて来られ、一台の車に近づきそのまま乗り込まれたではありませんか。
いやいや車での休憩ということもあります。
そもそも夫は気づかずさらに移動しかけています。
「今の人、車に乗ったよ?少し待ってみたら?」
幸いなことに後続車はなし。
すぅぅー。
その方の車はすぐに移動を。やった〜。
車のサンバイザーで身支度を整えて、いざ出陣!
またまたいつものように夫を置いて先に向かう…といつもならそうする私、今回は膝を痛めて、そうすることができず、一見すると夫の後ろを三歩下がって歩く妻に…は、さすがに無理があるかとは思いますが、まぁちょうどそのくらいの距離で後を追う形で歩きました。
うーん♡素敵な洋館です。
…、…閉まってる?
いやいや、まさか!ちゃんとそこは確認してから来ております。
しかし人の気配は全くない。
こんなに駐車場はいっぱいなのに?
そんなに大きな建物ではありません。しかも平屋。
夫がこわごわドアノブに手をかけました。
…カチャ。
ほっ。開きました。
スリッパに履き替えるようです。
おおっ!
外見に恥じぬ立派な空間です。
ガラスケースが置かれ、何やら資料が展示してあります。
壁にも…、壁に…、写真が!
上皇さまのお若い時の御写真が飾られております!バックはここ、ここ水道山記念館であります!
ええっ⁉︎
上皇さまがこちらに来られた?
こんな何もなさそうな山の中腹に?
しかもご結婚されておられれば必ずお側におられるであろう美智子さまがおられず、妹さんと思しき方がご一緒です。
と。…ということは、ここって…上皇さまが皇太子時代にお越しになられたってこと?
とたんに私の中でこの水道山記念館という建物の格式が俄然上がります。
…帽子は被ってていい?
どこと勘違いをしているのやら。
… …。
本日も横道珍道中。
十月二十日は【近代文化遺産の日】なのだそうです。十月から十一月にかけて全国各地で近代文化遺産を公開しているのだそう。
本日から九日間、群馬県桐生市で近代文化遺産の公開があるということで、二日続けての桐生市通いとなりました。
でもそれがどこにあるものなのかさっぱりわからない。なのでネットで検索して、そのうちのいくつかに行ってまいりました。
実は先日ご馳走になったフランス料理のお店もその〝近代文化遺産〟にあたるのだそうです。
それは大変上品な洋館で、しかもかなりの広さです。ご一緒した方のなかには県外からの方たちもおられましたが、
「ここが個人宅ですか?」とびっくりされておられました。その方たちのお住まいの街もこうした古い建物を使ったお洒落なお店が増えているのだそうですが、そのフランス料理店の規模と上品さに驚いておられました。
ちなみにお味も大変美味しいお店であります。
今なお続く名家の旧住宅なのだそうで、〝〇〇家住宅主屋〟というのが文化財におけるそのお店の呼名称となるそうです。
あ、今回はそちらは行ったばかりなのでパス。…フランス料理をそう何回も食べられはしません。(とか言ってその日は全てご馳走していただいた)
まず最初に向かったのは水道山記念館というところ。写真のお洒落な外観にひかれて、でありました。
ナビに入力…まぁ出ません。
そもそも水道山って…?まさかあの蛇口をひねるとさぁーっと水が出る水道から名付けられたものではないのでしょうが、なんとも変わった名前です。
まぁ行ってみれば解りましょう。
おぉ〜‼︎
けっこうな傾斜角度の上り坂です。
上って、平坦な、そして左側にはなにやら機械のような施設のあるところがあって、…その平坦なところを左に折れてもう一度上って。
ん?
ちゅ、駐車場がいっぱいです!
人気スポットらしいことは知っていたものの、こ、こんな?
これほどとはつゆほどにも思わなかった!
そ、そんなぁ…。
その駐車場で途方に暮れて斜め後ろに目をやると…。!。
ありました。お洒落な洋館が!
さほど大きくはないもののシックなブラウン系に白を刺し色とした素敵な建物であります。
屋根は赤茶色。
うーん、素敵です。
まだ早い時刻だからでしょうか。
閉じていた扉を前に、少し落胆したものの気を取り直して、参拝させていただきました。
本来どこの神社さんでも扉が閉じていることの方が圧倒的に多く、落胆すること自体、もう不敬なこと。
神さまのおられる境内に入らせていただいている時点でもう、神様の元に来ているのだから、扉一つで隔てられるものなどではないのでありますものを。
思い上がりと申すものでありましょう。
その思い上がった心をお詫び申し上げて、日ごろの感謝をお礼申し上げました。
境内には他にも沢山のお社があります。
まず目に入るのが八意思兼神社さま。
…それがちょうど灯りの加減で神社さんの額の名前が見えなくて。
「こちらは…どちらの神さまの御祀りされた神社さんだっけ?」とは夫。
「えっと…、あの秩父神社さんの御祭神さまなんだけど、…えっとぉ」
思い出せない妻。
〝ごめんなさい。こんな物覚えの悪くて、物忘れのひどい者であります。どうかせめて人様にご迷惑をおかけしない程度の知恵をお授けください〝とお詫びしてお願い申し上げました。
八意思兼命さまは、そう、知恵の神さま。「やごころおもいかねのみこと」さまとお読みいたします。
あの、天照大神さまが天岩戸の奥にお籠りになられた際に、天照大神さまを岩戸の外に再びお出ましいただくための策をお考えになられた神さまにございます。
やごころおもいかねのみことさま
やごころおもいかねのみことさま
やごころおもいかねのみことさま
…これだけ書いたら覚えていられる?
いやいやしばらくは毎日口に出して…。
それでも不安しかない、物覚えが悪いのか、物忘れがひどいのか、なんとも情けない私であります。
やれやれ 、でございます。
ƪ( T_T)ʃ
清らかな水が絶えず流れる手水舎。
やはりこの手水鉢に水の満ちているさまは清らかで、身の引き締まる思いのする、それでいて心落ち着くものなのだなあとあらためて思います。
それでも感染対策のため柄杓は置かれず、チョロチョロと流れる水を直接手に受け、手を清め口をすすぎます。
さあ。と顔をあげ、さらに続く石段を見上げます。神聖な空気が辺りを包んでいます。
照らす灯りのせいもありあたたかな感もする石段の参道には、黄色く色づいたイチョウの葉が、まるで散華を巻いたかのように散りばめてあります。
その景色がまた美しく、思わず足を止めて見入るのでした。
通常の、コロナ禍以前のえびす講では考えられないことであります。
たしかに来た時刻自体が通常とは異なる早朝ということもあるのかもしれませんが、それでもこのように足を止めて景色を楽しむことができたのかどうか…。
とにかく人人、人の人の波で、自分の足元すら見えずにのぼる石段で、昼間きたところで、足元こそは見えるもののやはりその行列は、道路となる参道からずっとずっと続くものでありまして。
まさに至福の時です。
ゆっくりと石段をのぼり、二メートルも三メートルもソーシャルディスタンスを取り。しかも後ろは偶然人が途切れており、拝殿前ではゆっくりと参拝することができました。
…昨年参拝できなかったことをお詫びして、日ごろお護りくださっていることへ感謝を申し上げました。
こちらの神社境内はもともとは美和神社さんで、そのそこに勧進された西宮神社さんであります。
おとなりの美和神社さんへもお参りをいたしました。
えびす講なので西宮神社さんの参拝だけで帰られる方も多くおられます。コロナ前の自分の足元すら見えない人の波に流されるような参拝ですと、実際もうそのような流れになっているくらいで。
美和神社さんは大好きな神社さんの一つです。大好きな狛犬さんもおられます。
最近では平日の昼間から拝殿の扉が開け放たれていて、神さまと直接お会いできるような心はずむ思いをいたしました。
以前のえびす講ではやはりその扉が開けられておりましたので、もはやそれが当たり前なことと思い、はずむような足取りで…実際は膝を痛めていて、ひょっこらひょっこらと、なのですが…拝殿前に向かうと。
…扉は閉じておりました。
ようよう白くなりゆく山ぎわ少し明かりて…いる中を、
少しひんやりする空気の中を、
車で向かうは、群馬県桐生市の【西宮神社】さま。
【えびす講】です。
なんとあたたかなえびす講でしょう。
そんな幻想的な景色のなか、「うーん、どうしよっか…」とつぶやく夫。
「えっ?」能天気な私の声に、
「駐車場」…あっ、そうだった。
ええ、ほんとの本当に駐車場はないんです。一台分も。
それなりに離れたところのコインパーキングはあるにはあるのですが、コロナ前などもはやそこすらが通行止めとなりさまざまな屋台が並びます。
桐生八木節祭りというイベントはあちらこちら無料の臨時駐車場が用意されているのですが、このえびす講に関する限りは私が知る限りほんの少しあるのみで。
…うーん。
そもそもコロナ禍。
どれだけの縮小なのだろう。
いくつか候補を挙げ合うもののなかなかこれといったところが思い浮かばない。
「あっ、あそこは?」
「えっ?どこ?」
「〇〇!」
「うーん…」渋い顔で何やら不満そうな夫。でも結局は思い付かず、私の発案したところへ。
あとで西宮神社さんの広告チラシを手に入れて、思った以上に駐車場が用意されていたことを知るのですが、ね。
ともあれ無事に駐車場に停め、徒歩で西宮神社さんへと向かいます。
うわあぁ!
……。
まだ明けやらなぬ景色のなか、…こんな時間の参拝は初めてなのですが、提灯の灯りに照らし出された西宮神社さんとその参道は、なんと幻想的なものでしょう。
…何度も幻想的と表現しているのは、やはり非日常な雰囲気を表現するにはひとえに語彙力がないこともありますが、それだけではなくやっぱりそう、幻想的、なのです。
熊手などの縁起物の屋台が、コロナ前と変わらずずら〜っと並んでいます。
背の高い、電線に届こうかというくらいの高さの特殊な屋台です。白木だけのシンプルな屋台に、少しづつ熊手などを飾り出す様子がまた、なんともいえない心引き締まる感じです。
さあ、手水舎へ。
清らかな水が絶えず流れています。
おはようございます。
五時前から起きて、行ってまいりました、群馬県桐生市の【西宮大祭】、【えびす講】。
起きた頃には待宵月とも小望月とも言われるという満月一日前の月が西の空に大きく大きく輝いていました。思わず頭を下げて合掌するほどの神々しさでありました。
昨年に引き続き…とはいえ昨年はコロナの感染拡大を考慮した結果、まことに身勝手な考えではありますが、遥拝をさせていただきました。
今年は、今年は行きたいなぁ。
でも密になるのだろうな。
昨年に引き続き分散参拝という異例な開催でありますえびす講。
ネットで検索してはため息をついておりました。私一人で昼間参拝してこようか…。でも夫も行きたいだろうなぁ。うーん。
朝六時からの開催かぁ。
これは無理だろう。夫は朝に弱いので。
そうかといって、仕事からいったん帰宅してからの参拝は、駐車場のないこちらの神社への参拝は結構きびしい。駐車場探しからさらにはすごい人混みを見ることとなって参拝を諦めることになるかもしれないのです。
うーむ、今年も遥拝かな?
それとも許可を得て私だけで参拝してこようか。
昨夜おそるおそるそれを話したところ、
「えっ?六時からやってるの?じゃあ行こう」
えっ⁉︎
いやいやこちらの方が「ええっ⁉︎っ」て感じです。六時だよ?六時。
七時二十分には家を出る出勤でしょう?、しかも本当朝に弱いし。
まぁまだまだ若いからということにしておいてあげても、ずぅえったい無理でしょ?
まぁ、行けなかったら昼間混まなそうな時間に私一人で行かせてもらえばいい。
とりあえず夫が起きないことを前提にしつつも、一応洗濯機を回して、朝ごはんの支度をしておりました。
うーん、朝に弱い夫は、朝はほとんど食欲がないんだよなぁ。そう思いつつも三つ葉入りの卵焼きとお味噌汁を用意しておりました。
「遅くなっちゃった」
∑(゚Д゚ノ)ノ
お、起きたぁ!
おおっ。これはまさに神さまの思し召しでありましょう。
Google先生に投稿されたものに、この移菊について寄せられたものに、こんな文がありました。
『古今和歌集の中に
これさだのみこの家の歌合せのうた
色かはる 秋の菊をば ひととせに
ふたたび匂ふ 花とこそ見れ
詠み人知らず
と言う歌があります。
「寒くなるにつれ色が変わって行く秋の菊を、一年のうちに二度華やぐ花なのだと思う」という意味で、
この他にも古典文学の中で、菊の花の「移ろひ=変色」を描いている箇所がそこここに見られます。』
と。
〝敦盛〟の一文、〝人生五十年〟をそれなりに過ぎているのにも関わらず、誠に無知無教養な私でありますことをまたまた思い知るのでありますが…。
こうして移菊を知る機会を得ることができたのも、たった一輪の菊からでありましたこと。
一輪の、仏壇(もどき)に供えた菊から根が出て、たくさんの花を咲かせ、そこから一つの知識を得る…
なんだか〝わらしべ長者〟のようです。
やはり御仏のお導き、でありましょうか。
無知無教養なその上、ガサツな私が何気に手折ってしまった菊を差した物から、今、菊の清々しい香りが漂っています。
愚かな者にも平等に、ただただ菊は咲き香るものです。
今年はわが家の鼠のひたいほどの庭に菊がたくさん咲いています。
それも、どれも仏壇もどきに供えた切り花の菊から根が出たものを植えたもの。
たった一輪の菊だったものから五十を超える花が咲いているものもあります。
その大量の菊たちに(…なんという文才の無さ!)、毎日毎日小さな蜂やアブが訪れてくる。その愛おしさといったら。
ずっと止まったまま、小さなおしりを上下に振っている様子が、小さくともその生を精一杯生き働いていることを、その健気さを私に伝え、感動で胸がいっぱいになるくらい。
あたたかな日が続くためか、今年は舅の祥月命日の墓前に、初めてわが家の庭に咲いた菊をたくさん供えることができました。
花の盛りの花を手折ることほど、申し訳なくもの悲しく思うことはないのだなぁと、初めて知りました。
そんな菊の花が、ここ一週間くらいのあいだに紫が混じるように変化してまいりました。
白いものも黄色いものも。
それはそれで美しいのですが、なぜなんだろう。私の水やりしかしない手入れがいけないのだろうか。…まぁ良くはないだろうけど。
もちろんそれを初めてみたわけではないのですが、なにぶんにも今年は花の数が多いため、よけいそれが目につくのだと思うのではありますが…。
そう思っては見守っていたところ、その紫に変わるのがどんどん増えていく。
私の不安も少しずつ増えていく。
で、万能先生Googleさんの登場です。どんな疑問にもどこでもいつでも瞬時に答えてくれる、本当に本当にありがたい先生であります。
よき時代に生まれたものです。
で。
Google先生いわく。
それを【移菊(うつろいぎく)】というようです。
『移菊とは晩秋のころ白菊が花弁の端から紫がかって来たものを言う。 有体に言ってしまえば、花弁に霜が触れるなどして植物組織が損傷を受け色が変わったもので、園芸用語で言う「霜焼け」に過ぎない。 ... うちしおれていくほどに色の美しさが勝るのだから。』とありました。
有り体に〝霜焼け〟いわれ拍子抜けしたものの、それを忘れてしまうほどのその【移菊】という表現の美しさといったら。
日本の美しさを、日本人の細やかな美しい感性で表現した、美しい言葉に、思わぬことから触れる事ができました。
【えびす講】では、家内安全や商売繁盛を願って、大判小判、鯛やだるまなど、たくさんの縁起物を飾った【熊手】や【福笹(ふくざさ)】が販売されます。
それはもうずらーっといくつもいくつもの出店が並びます。
大きな物から小さな物までいろいろです。
【熊手】は、農作業や掃除のときの道具で、ものを掃き集めることから「福や金運を掃き込む」「福や金運を集める」として招福の縁起物となったようです。熊手には縁起物の飾りがつけられています。
【福笹】は、プラスチックの笹・竹が使われており、これはえびす様が持っている釣り竿を見立てているといわれています。また、竹はまっすぐに伸びるので商売繁盛にご利益があるといわれています。
この笹にやはり招福の縁起物が色とりどりにつけられています。
熊手や福笹のほかに「福箕(ふくみ)」も販売されているようです。
箕(み)は、米など穀物を選別する際にゴミや殻を取り除くための農具で、「福箕」には「福をすくいとる」という意味があり、やはり箕の中にえびす様の顔や縁起物が入っているようです。
小さな頃、すれ違う人すれ違う人がこの縁起物を持って幸せそうに歩いているのが羨ましくて、私も欲しいとねだったものです。
もちろん子どものおもちゃではない、神事に伴う縁起物ですので、これを買ってもらえたことは一度もありません。
祖父母の家の神棚にはこの福笹が飾られていて、それをおもちゃにしたいともねだった記憶があります。
テレビでちょうどこのえびす講の頃、熊手の販売をする【酉の市(とりのいち)】の様子が放送されるため、私などは、
「えびす講を酉の市という地域もあるのだなぁ」などと思いこんでおりましたが、【酉の市】は【大鳥神社】の祭礼として行われるもので、えびす講とは無関係、まったくの別物なのだそうです。
今年もえびす講を神社関係者の方々のみで執り行うところが多い中、去年に引き続き、群馬県桐生市は本来十一月の十九、二十日におこなわれているものを、密にならないようという配慮から、十六日から二十日まで、時間を短縮して執り行うのだそうです。
うーむ、夜のお祭りは寒いんだよなぁ。そもそも車で駐車場を探すのが一苦労です。
子どもの頃はあんなに楽しみで大好きだったえびす講なのになぁ。
…珍道中おばさんはまだまだ信心深くなれていません。
【七福神】は、えびす様のほかに、【大黒天(だいこくてん)】さま、【毘沙門天(びしゃもんてん)】さま、
【弁財天(弁才天・べんざいてん)】さま、
【福禄寿(ふくろくじゅ)】さま、【寿老人(じゅろうじん)】さま、【布袋(ほてい)】さま
がおられます。
よく宝船に乗って描かれるあの神さまたち、ですが、こちらの神さまたち、お寺さんでおまつりされていることが多く、仏教の神さまと考えてよいのかなあと思ってみると、えびす講を開かれるのはどこも神社さんのよう。
私にはなかなかこの謎は解けません。
ちなみに、宝船に乗っている絵が多いのは、七福神が海の向こうの世界からいらっしゃるという発想からきているそうです。
【えびす】様は『恵比寿』と書き、右手で釣竿を持ち、左手には大きな鯛をお持ちになっておられます。
えびす様は七福神の中で唯一、日本土着の神様で、日本神話のイザナミノミコトさまとイザナギノミコトさまの間に生まれたお子様とされ、大漁追福(たいりょうついふく)や商売繁盛、五穀豊穣をもたらす神様といわれています。
漁業、商業、農業の神様として信仰され、知恵を働かせて体に汗を流して働けば、えびす様が福を授けてくださると考えられています。
【神無月】には日本中の神さまが、島根県の【出雲大社】に集まるといわれていますが、日本中の神様が出雲大社へ集まると、その間、神様が不在の土地ばかりになってしまい、それでは困るということで、留守番をする神様がいて、その代表的な神さまが「えびす様」、なのです。
留守番をしているえびす様に感謝し、五穀豊穣、商売繁盛などを祈願するのが「えびす講」で、日本各地で行われます。
その時期がまさに十一月。
旧暦と新暦のズレを考慮し新暦の十一月二十日に執り行われているようです。
が、調べていると、なんとえびす講の日にちは実は地域によってさまざまなようなのです。
十一月二十日に行う地域が多いようですが、旧暦十月二十日をそのまま新暦の十月に行う地域。
さらには十月二十日や十一月二十日の前後の土日に行ったりする地域もあるようです。
ほかにも「歳の市(年の市)」と結びつけて新暦十二月二十日に行う地域、「十日えびす」として新暦一月十日や十五日に行う地域もあるようです。
今日、外に出てしみじみ思ったこと。「ああ、えびす講の空気だなぁ」、と。
子供の時分、えびす講というのはどこでもあるお祭りなのだと思っておりました。が、実はそうではないということを結構大きくなってから知りました。
学生時代、小さな学校ながらそれこそ全国から集まった同級生たちと、たまたまえびす講の時期をむかえ話していて、まるでえびす講ということが通じない人がいることを知ったのです。私にとっては夏祭りよりも大きくて心はずむお祭りであったので、たいそうびっくりしたことを覚えています。そう、そもそもその学校のある市にもえびす講はありませんでした。
えびす講とは全国的には行われているもののどこの市町村でもあるというわけではないようです。
【えびす講】とは、神無月(かんなづき・旧暦10月)に【えびす】様を祀る行事で、「えびす祭り」や「えべっさん」ともいわれています。
えびす講(こう)の「講」は、宗教行事を行う結社のことで、行事や会合のことも「講」といいます。
【えびす】は七福神のえびす様のことです。
七福神とは、福徳(ふくどく・幸せや財産に恵まれること)の神様として古くから信仰されている七柱の神様のこと。
【仏教経典】の『七難即滅七福即生(しちなんそくめつしちふくそくしょう)』から、七柱の神様になったと言われ、室町時代(1336年~1573年ごろ)のころから、〝幸運〟〝金運〟〝福〟を授けてくださる神様としてまとめて信仰されるようになったといわれます。
『七難即滅七福即生』とは、
【難が消滅すれば七福が生じる】という意味なのだそう。
「七難即滅七福即生」の「七難」は仏教で説く七種類の災難のことで、〝水難〟〝火難〟〝日照りのような天災〟。
〝侵略されたり、内乱が起こるような国政に関する災難〟〝牢獄に囚われる難〟〝悪霊や死霊の難〟などのことで経典によって異なるのだそうです。
『七難が消滅するよう努力したり祈ったりすることで、七つの福が生まれる、または七難が消滅する』ということなのだそうです。
【七つの福】とは、「寿命」や「幸運」「金運」「人望」など七福神が授けてくださる福のことを指しているようですが、
ほかに金や銀、瑠璃など七つの宝石のことだという考え方や、あらゆる災難を速やかに消し去ることだという考え方などもあるようです。
スマホデビューして四か月ちょっと。
削除してはならないものを削除してしまったようで、また新たなナンバーで入ることとなってしまいました。
相変わらずタブレットは調子が悪く、そちらを開くのに三十分以上かかりました。(T-T)
これもスレ主の記述となります。
すみません。
参拝を終えて。
拝殿の前の石段の右わきに、砲弾?
砲弾とかに思われるものがぽつんと立てられていました。本物なのか、造りものなものなのか、由来すらもわからない。神社の方にお聞きしましたが、お若い方で、もしかしたらアルバイトさんなのか、お二方にお聞きしましたが、わからないとのこと。
まぁ、それが本物なのか否かもわからない人物が聞いているので、謎は謎のまま。
そして、石段を降りてまずは石造の二つのお社を参拝しました。
そして…その横に立つ大きな馬の銅像にどうしても目がいきます。
説明の書かれたものが建てられていまして、それを読むに、全国におられる山名一族の方々が奉納されたものなのだと書かれています。
すごいです。
今なお山名一族の出であることを誇りに思い、何よりその血のつながりをいまだに大切にされていること。
こうやって祖先の建てた神社を今なお大切にし、全国に散らばる山名一族のみなでこのような奉納をする。
うーん、感動。
しかもこの馬の顔は西国に向けているとのこと。
すごい。
狛犬も向かって左側の狛さんはツノがあります。何度見てもツノに見えます。一角獣…と申し上げてよいのでしょうか、一本のツノが頭頂部少し前寄りに生えています。
その横で自動車のお祓いをされています。県外ナンバーの車です。わざわざここ山名八幡宮さんまでお祓いをしていただくために訪れているのです。
山名一族の出の方なのか、それともこちら山名の地の出の方なのか、はたまたこちらの山名八幡宮さんの熱心な信者さんなのか…。
いずれにしてもここまで片道一時間半以上かかる地名です。
うーん。
山名八幡宮さん、すごいです。
【山名八幡宮】さんが創建されたのは平安時代後期の1175年から1177年と言われています。
【源義家】公の孫に当たる【新田義範】公が、豊前国の【宇佐八幡宮】を勧請して高崎の地に社殿を造営したという言い伝えがあります。
宇佐八幡宮は全国に44000社あまりもあると言われる八幡宮の総本社で、武運の神様として有名です。
新田義範もまた、山名八幡宮に武運を祈願したそうです。
新田義範公はその後、山名郷の地名にちなんで姓を山名に改め、山名氏の家祖となりました。
そして新田義範=山名義範公は山名城を築城し、鎌倉時代には【源頼朝】公の〝御家人〟として活躍します。
【山名氏】は山名郷の他にも、但馬国などいくつかの土地に広がり、現在も関西を中心に約一万人ほど存在しているのだそうです。
【応仁の乱】の際、西軍の指揮をとった【山名宗全】公が西国で勢力を誇った影響のようです。
こちらの山名八幡宮はそんな山名姓及び血縁関係のある末裔も含め、全ての山名一族の総氏社であるのだそうです。
【山名八幡宮】の御祭神は、【玉依比売命(たまよりひめのみこと)】さま、【品陀和気命(ほんだわけのみこと)】さま、【息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)】さまの三柱です。
山名八幡宮では春と秋の例大祭の他、節分や夏越祓に大祓といった祭祀が執り行われているようです。
春と秋の例大祭は虫きり(虫封じ)で有名なようです。
疳の虫、夜泣きを封じ、健やかな成長を祈る子育ての祈願が行われるようです。
戌の張り子や虫きり鎌の入った御守り、獅子頭の被り物などなど、この日だけの授与品があるようです。
また獅子舞の奉納やま神輿渡御等、大変大きなお祭りのようです。
これは…。
これは七五三の比ではない混みようなのだろうなぁ。
すごいなぁ、山名八幡宮さん。
ちなみに。
うちの孫、娘を悩ます夜泣きっ子なようなのですが…。うーん。
珍道中ペアはコロナ禍以前から人混みが苦手で嫌いな二人なんだよなぁ。
それにしても…。
素晴らしい彫刻です。
ただ…あまりゆっくりは拝見してはいられません。後ろから七五三やお宮参りの親子さんが次から次から石段を登ってくるのが見えます。拝殿前の土地は狭いのです。見上げて建物が見きれないくらいです。
で。
なんとか参拝を終えた私は、神社さんの書かれた順路に従い、社務所の前を通って、社殿の横をまいります。
大きな社殿です。
そして横から見た社殿の大きなこと。そして彫刻の見事なこと!
極彩色に塗られた彫刻です。
そして他の神社さんより何やら神獣が多いような…。神獣のお顔がやたらとまつられた社殿です。
あとで知ったのですが、県最大級とも言われているようです。
そしてなぜか、石造の碁盤?将棋盤?が二つも配してあり、その横で写真を撮れるようなセッティングになっています。?。
この神獣たち、関口文治郎の作なのだとか。
そしてその神獣は六種。【蜃】【象鼻】【龍】【唐獅子】【獏】【鳳凰】。六体の神獣のそろうのは関東では山名八幡宮さんだけなのだそうです。
裏手にまわって行くと、先ほど狛犬さんと間違えた絵の元となる獅子頭さま。
大きい!
白木の大きな獅子頭さまが裏手を護っておられます。
古来より【疳の虫】【厄】を食い切る神獣とされているとのことでありまして、さらには神社さんの案内書によると正面をお参りして裏神さまをお参りするのは陰陽合わせの考えによりさらにご利益があると伝わえられているのだそう。
ちなみにこの獅子頭さまがそれはそれはかわいいんです。
さらに進むと弁財天さまのお社があります。錦鯉のいる池にかかる石橋を渡っての石造のあまり大きくはないお社です。
さらに進むと…?
なんだろう?待合所、となっています。七五三の親子さんが待っているようです。そこにも入りきれない親子連れが写真を撮って、ここもまた人人、人。
すごいなぁ。
でも本当に前にも述べましたが、ここって周りにはせいぜい無人の駅くらいな立地な神社さんなんですよ。
それだけ霊験あらたかな愛されている神社さん、ということですよね。
明るくてあたたかな気の満ちた気持ちの良い神社さんであります。
で…。待合所の向こうには実は神楽殿があるようなのです。ですが本当に親子連れであふれていて、近寄れない見られない。
なんでも縁起物が納められているとか書かれています。
神門は、私が今まで参拝させていただいた神社さんは随身、武官姿の財産像像を左右に安置していることがほとんど。
こちらは、山名八幡宮さんは神馬が左右にお祀りされ、例の線路の下をくぐる参道を見据えています。そしてその裏というか横に随身さまがおられる形でありました。
そこをくぐり、みぎてに手水舎と古い石造のお社が二つ。そして大きな、今にも駆け出しそうな馬の銅像が建っています。
さらには二つの稲荷社がお祭りされていました。
正面には大きな鳥居。
その左には御神木がそびえ立っています。
まずは手水舎へ。
手水はセンサーで人を感知すると水が流れるようになっていました。でもそれに気づいたのは帰り。
絶えず人が浄めの水に向かうためずっと出っ放しとなっていたので、参拝前には気づきませんでした。手水鉢には榊の葉が浮かべられています。
その緑がなんとも美しくて。
最近流行りの花手水はコロナ禍で使用を控えるようにしたその鉢に花を浮かべたものですが、こちらはきちんと手水を浄めることとしていての榊です。
なんだかそれだけで心が弾みます。
赤い大きな鳥居をくぐると石段が続きます。石段の先には大きな屋根と絶えず人の行き交うのが見えます。
大きく立派な狛犬さんの奥にはやはり大きな狛犬さんの絵が飾られていました。あとで知るのですが、実はこの絵は山名八幡さまの裏神さまとして祀られている獅子頭さまの絵でありました。
はやる気持ちで少し速足で石段を登ります。
うわぁぁ!
なんと立派なお社でしょう。
実は山名八幡宮さん、石段の前はあまり広くなくて。
たぶんこれでは参拝者は石段で待つこととなるでしょう。そんな拝殿前は、それでも参拝は終えている方たちらしく、拝殿前へとすぐに行くことができ、参拝を…、参拝…。
拝殿内は人人、人。
ぎゅうぎゅうに座った人のお尻しか見えません。
うわぁぁぁ。
すごい!
と、とりあえずおまいり、おまいり!
「神さま、私は後方からではありますが、人のお尻ではなく神さまを拝しておりますので…」
思わずそんなことから神さまにお声がけしたくらい。…もちろん、声には出しませんがね。
それにしても…。
すごい!
未だかつて混み合って列をなすような参拝をしたことがない私はただただびっくりです。
たしかに、神社さんやお寺さんの参道を線路が走っているような光景は、何度か見かけたことはあります。でもあくまでもそれはフラットな状態でのこと。
線路の下をくぐる参道なんて、私の貧困な想像力では思いつくことすら出来なかった。
この日訪れていた方々は、そんなことに驚いた様子の方は一人としておらず、子どもたちですら別に電車が通ろうが騒ぎもせず。私どもだけが驚き、騒いでおりました。
そうそう、この日は七五三シーズンということもあって、たくさんの子供たちたちが参拝に訪れていました。
七五三の子たちは綺麗な着物を着て、コロナ前と変わらないいかにも幸せでうれしくて仕方ないといったはじけるような笑顔で歩いています。
よかった。
子どもはこうでなくちゃだめです。
子どもがこうでなくちゃだめです。
お宮参りの赤ちゃんもいます。
…それにしても何組も何組も。
ここって高崎市とはいえ、市中からはだいぶ離れたところにある神社さんなのです。辺りに大きな建物も商店街もあるわけでありません。
すぐそばに駅はありますが、小さな無人駅のようで、住宅街といった感じでもありません。
実は創建当時は武神として崇敬されていた山名八幡宮さんですが、現在では安産と子育ての神社として大変有名なのだそうで。
そのきっかけは室町時代に遡り、後醍醐天皇の孫に当たる君長親王が妻の安産を祈願したことと言われています。
君長親王の妻とは当時の山名城主であった世良田政義の娘で、生まれた男の子は良王君と名付けらて健やかに成長したといいます。
それを機に、それにあやかろうということで、こちらの神社さんへは今も多くの家族が子どもに関わるお参りに訪れているようです。
それにしても…少子化と言われているのがまるで嘘のようです。
私が地元で見かける七五三の家族連れの何倍いるというのでしょう。
この日だけで何年分もの七五三姿の子供たちを見た気がいたします。
そして同じく群馬県高崎市にあります【山名八幡宮】さんへ参拝させていただきました。
こちらは初めての参拝となります。
何故か珍道中により珍道中っぷりを添えてくれるメーカー純正のナビの指示のもと向かったのは…。
ナビの地図上で神社さんとはかけ離れたところで「音声案内を終了します」と容赦ない言葉。
まぁ、ナビにはありがちな冷酷さであります。
「ええっ⁉︎」夫は嘆きました。
ええ、地図上ではほんと、かなりの距離があるのです。
しか〜し!
優秀な助手席の荷物は見逃さなかった!本当に小さな看板『山名八幡宮⇨』と書かれたものを。
「えっ?あっほんとだ。ありがとう」
いやいやいつもいつも運転していただきあちこち連れてきていただいております身としてはそのくらいは…、ねぇ。
そこを入って行くととりあえずは駐車場がありまして、無事到着いたしました。
ん?、えっ?
線路?
線路の下に通路が作られています。
ええっ?
思わず強度を心配する厚みの橋でしかないのですが…。
みんなその下を何事もないよう行き交っています。
その橋の向こうに提灯のさがった神門が見えています。
鉄橋でもなく鉄筋コンクリートの橋の上を、まるで公園の柵程度の柵の橋を、普通に電車が通過していきます。ほおぉぉ〜!
リアルプラレールのような、まさかまさかの通路です。
いやいやいやいや。
…マジかよ。
背が高い人ならきっと線路に手が届くから。
あ。
背の高い人と一緒に来ていた。
小祝神社近くを流れる烏川には聖石橋という橋がかかり、烏川の川の中に「聖石」「赤石」「川越石」の三石があるといわれる石があるとのことでその石とかかわりの深い神社であるようです。
いわれはよくわからなかったのですが、少彦名命さまはいつも水に関わる地から御降臨されておられるので、その川、その石にまつわる何かがあったのかもしれません。
…ちなみに、見に行ってはみたものの、それなり大きな橋でありまして(貧困な発想しかできない私は、こちら小祝神社さんのそばを流れる小川を勝手に想像しておりました)、川の中洲にあると言われる石は発見することはできませんでした。
近世以降は安産の神としても信仰されており、戌の日の祈祷に訪れる人も多いようです。この日も初宮詣、七五三などのご祈祷に訪れた方々が短い間に三家族もおられましたくらいでした。
鳥居をくぐると右側に社務所がありその奥にみぎてに手水舎が、ひだりてに絵馬掛けがあります。
手水舎は蓋がされており、アルコール消毒液が置かれておりました。そしてなんとも風情ある季節の飾りを盛り付けたカゴが飾られ、そのそばに可愛らしい動物の人形がいくつも置かれています。
あの可愛らしくて優しい女性の神職の方がなさったのかなぁ。
そして鳥居から真正面に社殿があります。
装飾が綺麗で見事な拝殿であります。そして何よりも明るい気がここから溢れ出てきているかのような気持ちのよい拝殿正面。
この日は七歳の七五三と思われる女の子とそのお兄ちゃんが、拝殿の中から出たり入ったりしていました。
子どもにも居心地いい場所であるのでしょう。
現在の社殿は本殿と拝殿・幣殿が一体となっていますが、もともとは本殿のみが単独で建設されていたとの記録が残されており、拝殿・幣殿は後補とのことです。
本殿内部は外陣と内陣に分かれ、内陣には厨子が安置されているのだとか。
背面の彫刻は鮮やかで美しく、重要文化財に指定されているようですが、私はその本殿背部にある小さな鳥居が一目見た時からお気に入りです。
いかにも少彦名命さまの神社さんという感じです。
少彦名命さまがそこから出たり入ったりして、忙しくそのお役目を果たしてくださっておられるさまを想像してはニコニコとしている、怪しいおばさんなのでありました。
先日、群馬県高崎市に鎮座されている【小祝神社(おぼりじんじゃ)】さんへ参拝させていただきました。
何度か目の、久しぶりの参拝となります。
こちらの神社さん、閑静な住宅街の一画にあり、境内もさほど広くはない神社さんなのではありますが、なんともあたたかくて柔らかい気が満ちた、大好きな神社さんのひとつ、なのであります。
そう、それは神社さんの境内からも溢れ出ているかのようで、小祝神社さんの周辺も同じようにあたたかな気を感じます。
かつてはそこも小祝神社さんの境内地だったのかもしれません。…あくまでも私の推測ですがね。
小祝神社さんは上野国(こうづけのくに)『式内社の七之宮』とされる由緒ある神社であります。
上野国式内社は群馬県内に十二社あり、延長5(927)年に成立した格式「延喜式神名帳」に記載される神社です。旧社格は郷社、ご神紋は三つ巴となります。
正式な建立年度は不明ですが、これが成立した平安時代中期には存在していたということが分かっています。
現在の本殿は、江戸時代に高崎城主であった『間部詮房(まなべあきふさ)』公によって、享保2(1717)年に棟上げされたもので、高崎市の神社本殿としては最古のものとされています。
小祝神社の御祭神は、全国的にも希少とされる医薬の神【少彦名命(スクナヒコナノミコト)】さまであります。お姿がとても小さく一寸法師のモデルになった神様といわれています。
無病息災・病気平癒・厄除けなどの御利益があるといわれます。
小さなお身体をされているといわれる少彦名命さま。
かつて大国主命さまと国造りをされ、その後常世国にいったん戻られたものの、人々の難儀を救うために再びこの地、日本にお戻りくださった神さまであらせられます。
子供の時分に読んだその大国主命さまとの出会いや国造りの際のお二人の生き生きと楽しそうなさまを描いた本のおかげで、この物語は今も私の中で息づいており、境内の中を見えない少彦名命さまがお忙しくなされるさまなどをついつい想像しては自然と笑みが溢れてしまうのであります。
そんな国造りをなされた神さまは穀物の神さま、酒造りの神さま、温泉の神さまでもあるので、一年中が忙しい神さまであります。
ことにこの新型コロナウイルス感染が起こってからは、お休みを取られておられるのか心配になるくらいであります
昨日からテレビでは寂聴さんの死を悼んだ特集が組まれています。
…それにしても。
彼女が以前、「百歳手前で死んだらかっこいいと思うんだけど」と、語っていた映像を観て、その通りになったことに驚いた。まるで西行法師のようではないかと。
「かっこいいでしょう?♡」
あの可愛らしいお茶目な笑顔で、ちょっと前までいたこちらの世界を見て、Vサインでもしていそうです。
このときを迎えてなお、彼女の過去をあれこれ言う方もいるようです。
でも、過去は過去で、彼女がその後どうか、なのだと思うのです。
…というより私の場合は思いたい?
過去は過去、やり直しはできない。けれど、取り返しはきくものなのかもしれない、それを身をもって、示そうと力むでもなく、ただただ自然にそう生きてくださった、私はそのように思っております。
こんなかたちでその仏の道、教えを伝えてくれる僧は彼女しかいないです。
そして、誰がなにを言おうと彼女にはまず愛があって。
だからこそ多くの人を言葉で救うことができたのだと思うのであります。
人の生き方なんて、一人一人人の数だけあって、本気で修正するときを迎えればよいのだと、
私には大きな心の支えとなる教えを伝えて遺してくださったと思っております。…まぁ、私に都合よく、思っているところも多分にあるのでしょうけれど、ね。
小学三年生の時からずっと小説家になりたいと思っていたという晴美さん。
小説を書くために出家したという寂聴さん。
今、彼女の小説を読んでみたいと心より思う私であります。
瀬戸内寂聴さんが亡くなられたと、昼のテレビ番組の途中で速報が流れました。
いつもお元気でハツラツとされていたお姿だけが印象に残っており、それでもそのお歳は九十九歳となられていたことは存じあげておりました。といいますのも、彼女はインスタグラムをなさっておられ、今年のいつだかにその記事を読ませていただいておりましたので。
そこでは、ご自分の一生を振り返られられ、全てに悔いがないと綴られ、死に様は考えないとおっしゃっておられたよう記憶しております。
このコロナ禍、私は生き様と死に様を考え、愚かゆえにもがいておりましたので、その『死に様は考えない』という一文を読んだとき、それが胸に突き刺さるよう思えたものです。
私の中で、瀬戸内寂聴さんはあくまでも僧侶という位置におられる方であります。
とはいえ私は小説家瀬戸内晴美という名がサラッと出てくる世代ではあります。
ただ私は彼女の小説家としての作品は読んだことがないのです。
読ませていただいたのは仏教家として、あるいは僧侶として書かれたものばかりでありました。
私は彼女が出家されたときをテレビのニュースだったかが報じたのをおぼろげな記憶ではありますが覚えております。
その時は作品も読んでいない女流作家さんでしかなく、そんな方が出家するようなこともあるのだなと思っただけでありました。
ですが、ここ何年か神社仏閣を巡るようになり、僧侶としての寂聴さんの書かれたものを読ませていただくことも増えて、あらためて寂聴さんを知ることとなるのでありました。
彼女の説くお釈迦さまの御教えはわかりやすく、心にスッとしみいるものです。
それでもそんな彼女が出家された歳が五十を超えていたということが私に大きな力を与えてくれました。
彼女の生き様はまさに波瀾万丈であったかと思われます。
でもだからこそ彼女しか伝えられないものが多くあり、大きな力を持ったものとなっていたのだと思うのであります。
もうあの可愛らしい笑顔が見られないのは寂しいですが、彼女の説いた教えは人の心にずっとずっと残るもの。
いま、新たな御仏の道に向かわれ、微笑みながらゆっくりゆっくり歩いていかれる寂聴さんのお姿が目に浮かぶようです。
ご冥福をお祈り申し上げます。
群馬県みどり市の【光榮寺】さんは、今年も秋の大祭の開催を中止することとされました。
これは英断であります。
こちらの大祭は、檀家の方々はもちろんのこと、ご近所の方々から、噂を聞いてお越しになった方々で大変賑わうものであります。御本堂では寺宝を飾ってお見せくださり、写経や写仏もできるのです。
柿の種をプッと吹いて飛ばしてその距離を競うというイベントでは一等賞はなんとディズニーランドペアチケット、なのだそう!
それでも昔ほどではないと寂しそうに語る檀家代表役員さんがおられるくらい、かつてはもっともっと賑わったもののようです。
このお祭りはその由来から【柿薬師】さまと呼ばれるご本尊さまにちなんで、その名も【柿薬師大祭】。
その日お参りに来た全ての人に、それはそれは見事な柿をひとつと、ご本尊さまの御札を一枚お授けくださるのであります。
そのお薬師さまの御札は一昨年からずっとこのコロナ禍をお守りくださっていました。
先日副住職さまにお会いした際に、「そろそろお戻し申し上げた方がよいでしょうか?」とお聞きしたところ、
「ああ、お待ちくだされば新しい御札と交換いたしますよ」と。
!。
…いやいや、ずっと二年、大切におまつりしておりました御札ではありますが、ただでお授けいただきましたもの。
お祭りが中止された今年、それはあまりに図々しすぎと、辞退いたしました。
すると、
「いや、そうおっしゃらずに。本来ならみなさんにお集まりいただいて、みなさんに無料でお渡しさせていただいているものですから、大変でなければ是非お越しください」とおっしゃってくださるのです。
で、本来なら大祭の開催された十一月の第一日曜日に光榮寺さんにうかがい、新しい御札をお授けいただきました。
お布施も受け取らずに、新しい御札と交換してくださるお寺さん。
…ただだから、ではなくてですね。
このお金にこだわらないで、御仏のお教えのまま、御札をお授けをなさるお寺さんの姿勢。
これこそ、人の心に響く教えとなりましょう。
ありがたいことであります。
来年こそはまたお祭ができますように。
さしあたっては初薬師大祭。
楽しみにしております。
秩父観音霊場二十八番札所の【橋立堂】さんは高さ六十五メートルの切り立った岩山を背にして建っています。正面から見てもその迫力はなかなかのものであったのですが、奥の院である橋立鍾乳洞から出て、横からその姿を見たときこそがその全体像が見え、あらためてその切り立つ岩山の凄さを実感いたします。
今へいこらと抜けてきた全長百三十メートル、高低差三十三メートルという鍾乳洞を中にする巨大な岩山なのですから。
たまたま堂内は私ども二人だけでしたのでゆっくりと好きなことを語り合いながら、その中を歩くことができました。
〝弘法大師の後ろ姿〟はなるほど、たしかに!と唸るほどのものでありました。
そのほかにも〝仁王の足〟〝下り龍〟などなどさまざまな尊像や神獣に譬え名がつけられています。
…うーん…これはちょっと無理があるのでは?と思うものも。
また所々に石仏もおられます。
実はこういうところが嫌いではない私でありまして、なおかつ秩父路の運転は全て夫任せであり、私は正直、疲れたというほどのことはなく、ただ運動不足で体力がないからヒーコラ言っているだけで、本来はさほど大変なものではないことを書いておきましょう。
これだけの立派な寺院が今は無住で、民間の方々か管理しているということに諸行無常を感じる私であります。
なんだかんだでアップダウンのある三峰さんのあとに【橋立堂】は結構ハードかもしれません。
私のような助手席の荷物のようなヤツはとにかく、スリリングな道を運転して、さらにはあちこち登っておりての三峰神社さんの境内を歩いております夫には。
実は夫、百八十センチ超える身長で、さらには膝だの腰だのに持病を抱えておりまして。
ずっと中腰、しかも首を屈めて歩く鍾乳洞内はまさに修行!
狭い狭い迷路のような鍾乳洞内、思わずヒエェ、グエェと奇声をあげそうなほど狭いところもあります。
全体の三分のニが竪穴なのです。
全長約百三十メートル、高低差三十三メートルという堂内だそうです。
急な梯子に近い階段を登って…この鉄製の錆びた梯子の安全性は大丈夫なのか?というスリリングさも加わりなかなかの冒険気分。
…なにしろ今年、橋が落ちてますからね。洒落にもならない。
しかも急階段を上がった先の出口がまた狭い狭い。
途中、〝弘法大師の後姿〟と名付けられた鍾乳石やら、石筍などがありました。
言われてみればたしかに修行。
いやいやいやいや…。
疲れたあぁぁ。
あとどのくらいあるんだ?
と、思うころ、突然日の光が差し込んできます。
参道にありました一軒のお店でようやく昼食にありついたのは、十四時近い時刻となっておりました。
お客さんのはけ出したお店のテラス席のあるお店で、とりあえずコロナ対策をできうる限り努力して。で。
なんとこのテラスから、鹿が二頭餌を食むさまが見えるではないですか!
うーん、なんと贅沢なランチでありましょう。…とはいえ、食べたメニューは秩父名物〝わらじカツ〟定食なんですけどね。
一方夫はとろろうどんと味噌おでん。…?あんなにお腹が空いた騒ぎをしていたというのに?
な、なんと、私のわらじカツの上前をはねようとしていたと言うのです。はあぁぁ?
なんでもどんぶりからはみ出すほどの大きなわらじカツが運ばれて行くのを見て、これはどうせ食べきれないであろうと勝手に思っていたそう。
そう言われては助手席の荷物でしかない私としてはわらじカツを分けないわけにはいきません。
シェアして欲しければ、頼む前に申告して欲しいものです。(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎)
「このあとどうする?できたら奥宮の鳥居くらいまで行ってみたいと思うんだけど…」
とか言いつつ、車に向かって歩く夫。…今来た道を戻っていただく身としては全ておまかせいたします。が、奥宮はもう山じまいを済ませています。
「どこまで行けるんだかわからないしね」とのこと。
仰せのままに。
その後向かったのは、橋立堂。
仰せのままにとか言いつつ、二十八番札所の【橋立堂】に参拝した際、鍾乳洞内の橋が落ちてしまったとのことで入洞できなかったものが今はもう直って入れるようになっているようだよと、何の気無しに私が話したものだから。
こちらの鍾乳洞への入洞は〝胎内潜り〟や〝穴禅定〟といわれる宗教体験なのだそうで、橋立堂への参拝のとき、絶対その奥の院とも言われる鍾乳洞には絶対入洞したいと勇んで行ったものだから、ダメだとわかって大変気落ちしたものでありました。
…まぁ、そんな経緯があった橋立堂の鍾乳洞の、橋が直ったようだよと言われれば、向かいたくもなるものであったでしょう。
誘導したようなものでしたよね。
ほんと、何の気無しに語っただけだったんですがね。
その後向かったのは、結構急な登り坂でしかもヘヤピンカーブまである高台にある…広場?
…日本武尊の大きな銅像が、まるで遠くに連なる山や麓の町を見渡しているように建つ広場でありました。
ちなみに石碑が日本武尊蔵像から離れた所にいくつもありました。
どうやら歌碑のようです。
その歌碑を一つとして見ることなく早々に下へと向かった二人。
…実はかなりな空腹でありました。
それでも次に向かったのは、遥拝所。三峰神社の奥宮のある山(妙法ヶ岳)を拝するところであります。
そうです。あの、三叉路となっていてどこから巡るか悩んだ、もう一つの鳥居のところであります。
先ほどの広場に向かう登りは苦でしかなかったのに、こちらは最初の一段登るのにもうワクワクしている私がいました。
一段一段と登るごとに明るくなってまいります。
ひらいた。。。
明るいところ、清らかな場所に、来させていただけました。
気がただただ澄んでおります。
なんぴとが訪れようと、何人人が訪れようと穢されない、決して穢されることのないひたすらに澄んだ気。
そして。
なんという景観でしょう。
三峰が連なるさまの美しさ、素晴らしさと言ったら!
そしてこの三峰神社のあるところがどれだけ高いかを実感するところでもあります。
そういえば、ここではよく雲海が見られるようです。
この地に立って雲海を目にしたら、この世とも思えない気持ちになるのではないかと…。
とにかくずっとここにいたいと思うくらいに、清らかで心地よい空間であります。
でも、そうはいきません。
入れ替わり立ち替わり人が訪れています。
うーん、名残惜しいが降りることとしようか。
そう思って石段に向かうと。
鳥居の横、かなり高いところに狛オオカミさんがおられるではないですか!通常、石段を登って来たらその鳥居の石段側に向いて立つものが遥拝所にお顔を向けて立っています。
たしかに、狛オオカミさんが守るまでもない地、なのかもしれません。
奥宮のある妙法ヶ岳に向け建つ、壁のない遥拝殿に向かって立つでもなく、ただただ鳥居の横の上に立っています。
お顔の向いた方向から、向かって右側の狛オオカミさんは高い位置にあることと、木の影となっているためそのお顔がよくは見えません。
でもそのお姿は可愛らしいこと間違いない!
…またしばしの足止めとなる私でありました。
…また寄り道をしてしまいました。
実際にはきちんとお仮屋神社さんへと向かって歩いていましたのでご安心ください。…ほんとかな。
歩いてまいりますとほどなく小さな屋根が見えてまいります。
『えんむすびの木』と呼ばれる木の根元に建てられた、例えるなら屋根のあるバス停を想像していただければ、それなりに近いものに…なるかなぁ。
なんでもここで、縁を結びたい方の名前を書いて収める所、なようです。
ふーん縁結びかぁ。
そんな真剣な願いごととはすっかり縁遠くなった自分を少し寂しく思いながら、そこを通り過ぎました。
歩いて10分、そう書かれていたよりは早くに到着するお仮屋神社さんへと向かう参道は、結構急で所々足元に注意が必要なものでありました。
そしてほどなく到着したお仮屋神社さん。
パァァ〜♡、思わず破顔するような石造りがあるではないですか。
本来、狛犬、狛オオカミさまがお立ちになるところに、それはそれは可愛らしい狼たちが岩のまわりで思い思いに過ごしている…そんな石造のものが一対、建っているのです。
向かって右側には三頭の、左には二頭の狼が彫られています。
撫でたくなるような、ともすれば抱きつきたくなるような思いを必死に抑えて、こちらのお宮をいつも守ってくれていることに感謝して。この子たちは神さまを護る、御社を護る狛さんたちですからね、撫でるなどは不敬です。…よね。
おのれの心の葛藤を鎮め、あらためて神さまの御前に参拝いたしました。狛さんたちが護る空間そのままの大変居心地の良い神社さんでありました。
しばらくまた狛さんたちの周りにまとわりついていたものの、こちらの社殿のある土地は広くはないので、次の参拝の方がお見えになったので、その方に場を譲るべく身を寄せていると、?
お仮屋神社さんの真ん前にまっすぐにつながる階段があるではないですか!
ぷっ、さすが珍道中コンビです。
でもお仮屋神社さんに到達した時、右側狛さんたちの真横に出て、きっと来た道からの方が感動が大きかったはずです。これは神さまの粋な計らい、お導きでしょう。
ま、夫はブツブツ申しておりましたけどね。
こちらお仮屋神社さんへの参道は紅葉が真っ盛りでありました。
赤さや黄色がちょうど深まったばかりで、枯れ始めたもののない、本当に美しい時期でありました。
ありがたいことです。
…以前、御守をお受けしたのちに神前に参るのが良い、と読んだことがありまして。
…もう一度拝殿に向かい、この御守にて御守りいただきたい者をお伝えして、御神木のパワーをお受けしてまいりました。
少しでも子どもたちにこちらのパワーが届きますように。
そんな御守をお受けした後の我流の儀式を終えてのち、向かったのはお仮屋神社さん。境内社であります。三峰神社さんの御眷属であるオオカミさまをおまつりする神社さんであります。
向かう途中には売店あり喫茶店あり、三峰神社さんの宿坊…というとお寺さんの表現になってしまうのかな…宿泊施設があります。
元は神仏混淆のお山でありました三峰さんですからそれはそれで良いのかもしれませんが、ね。ただ、少しびっくりしたのはその宿泊施設にある〝三峰神の湯〟という温泉に、日帰り入浴もできること。
たしかに、かつてここ千メートルを超えるお山に登って来た方はみんな徒歩でしかなくて、今とは全く状況が違うし、身体を休めて清らかな神の湯に浸かって身も清めて下山するのは大変ありがたい施設であったことでしょう。
なんでも湯に一瞬手を浸しただけで肌がスベスベになるほどの質の良いお湯のようです。
そ、そうかぁ。身を清めるって意味では全身を清められるものだなあと思い、一瞬心が動いたものの、残念なことにコロナ禍。日帰り入浴は中止されておりました。
そんな建物のかげになるところに、『鐘楼』があったのだそうで。
帰りに立ち寄った秩父鉄道の『三峰口駅』で入手した三峰神社さんの案内書=パンフレットに書いてありました。
キィー。ここに寄らない者にも手に入る場所にも配置してください(TT)。
ちなみにこのパンフレットにある〝三峰神社案内絵図〟、スマホから見ることができるので、実際夫はそれを見ながら歩いていたのですが、いかんせん小さなスマホ画面は初老の身には見づら過ぎる!
是非ご一考をよろしくお願いいたします。
三峰神社さんのTwitterやFacebook等に今週、三峰神社さん境内での献血が行なわれる旨が書かれていました。
献血…ですか…。
歩きで来られた方にはちょっと難しいかな。
あ、これは完全予約制なようで、たまたま当日参拝なさった方が参加できるものではないようです。
なにやら献血に参加すると、特別な特製の御守がお受けできるよう書かれています。
うーむ…無理だなぁ
その後、道なりに進むと社務所にたどり着きました。
御朱印の受付と、御守や御札の受付は別の窓口となっておりましたので、まずは御朱印をお授けいただきにあがりました。
今は直書きのお取り扱いがないところがほとんどなので、こちらもそうされておられましたが、三種類あるとなっております御朱印も一種類に絞られておりました。
そして…御守を拝見しようともう一つの受付に参りますと…?
御守もお札も何一つ置かれておらず、いたってシンプルな窓口となっており。えっ?
…とオロオロと周りを見渡すと、何やらアンケートでも書くような簡易なテーブルがありまして、そこにはなんと!
御守や御札の申込書が置いてあるではないですか!
御守や御札の見本はその後ろ、反対側に壁…ではないのですがあたかも壁に飾ってあるかのようにしてあります。なんとも斬新な感がいたしました。
あれやこれや悩み、黒の〝氣守〟を子供たちの分お受けいたしました。
うーん、さすが全国的に有名な神社さんでありました。
受付に申込書を提出するとほどなく名前が呼ばれて、レジ袋に入った御守が手渡されました。
お、おう。
…レジ袋代はここではかかりませんでした。
三峰さんの社殿や鳥居、手水舎、燈篭。全てがまったく古さを感じない、美しいものであります。
それは修理、修復をしているからだろう?
いやぁ、ですがね。
その修復からもけっこう経っているんですよ。それが傷みも見当たらず、塗りも剥げていない、つい最近の修復のように思えるくらいに綺麗なのです。
やっぱりこれは…清らかな気がその傷みを止めている?
お使いを務める山神さまが清めている?
それはずっと不思議に思って過ごしておりました。
よく、こちらで龍を見た方とか、山神さま=オオカミさまに導かれたとかおっしゃられる方がいらっしゃいます。家で寝ていた時、オオカミさまが枕元に立ったとか、霧が出たら歓迎されている合図だとか…。いろんなことが言われている神社さんで、お山であります。
私の参拝時、霧も発生しませんでしたし、龍に至っては誰もが必ず見ることができる手水舎の天井にいたという龍の彫り物も見逃しましたし、拝殿の前に突如として見られるようになったという石の龍も見てこなかったくらいです。
でも…不思議な力が働いているのではと思うのであります。
それは…女の勘?
摂末社の参拝を終えて、伊勢神宮の前へと戻りました。いつのまに走り去ったのか、先ほどの車は影も形もありませんでした。
伊勢神宮。
…その名を名乗るだけの建物です。
そもそも覆屋があります。
私は伊勢神宮を参拝をしていないのでイメージするしかなく、だからこそそう思ったのかもしれませんが、伊勢神宮のミニチュア版といった感じであります、…たぶん。
そこまで参拝して。
どちらに行こう。まずは拝殿の向こう側に行こう。
石段を登った分、高台にあるここ、この場所から下に神楽殿が見えます。
神楽殿をみよう!そうしてそこから拝殿の向こう側へと行こう。
神楽殿は他の建物と違い(伊勢神宮は別ですが)、白木のままのものでありました。明治四十一(1908)年に奉献されたものということ。およそ110年前の建物ということになりますが、やはりこちらもそうはみえない、もっと新しか感じるものでありました。
そのすぐ横に、大きな大きな杉の御神木。
あたたかな気が降り注ぐような優しい木であります。その木の下はそれはそれは気持ちのよい、居心地のよい場所でありました。
この御神木は樹齢800年と言われており、鎌倉時代の武将・畠山重忠公が奉献したと伝えられ、別名「重忠杉」とも呼ばれているようです。重忠公は頼朝公の御家人で秩父地方を治めていた方であります。三十四カ寺をまわっているとよくその名を見かけたものであります。
御神木の前の立て札には以下のように書かれていました。
『神木より発する「氣」は活力そのものです。
神前にお参りの後、神木に向かい三度深呼吸をし 手を合わせて祈ってください』
とのこと、でした。
御神木のそばにどなたもおられなかったのをよいことに、両手を広げ御神木の頂に向かって、思いっきり手を掲げ、思う存分氣を浴びた私でありました。
くぐってきた青銅鳥居のみぎてに大きな大きな紅いなにかがあります。
「八棟灯籠」とあります。
この燈篭、高さ六メートルの木製で、なんと安政四(1857年)に建立されたものだそう。細やかで精巧な彫刻がこれでもかというくらいに施された、見事な見事なものでありました。
目前の豪華絢爛な拝殿に目を奪われあまり記憶に残っていなかった鳥居も、やはり見事なものでありました。弘化ニ(1845)年に建立されたものだそうですが、まったく古さを感じないものでありました。
【三峰神社】さんは【秩父神社】さん【宝登山神社】さんとともに【秩父三社】とよばれる一社であります。
東征中、この地を通ったヤマトタケルノミコトさまが、三峯の山々の素晴らしい風景に感動し、イザナギノミコトさま・イザナミノミコトさまの国造りを偲んで祀ったのが起源とされます。
ご眷属の狼(山犬)信仰と三峯講、三ツ鳥居、熊野修験との関わりなど、修験霊場の三峰山を中心に、独特の信仰を形成しています。
修験道の祖・役小角が修業をし、弘法大師空海が観音像を安置したとされています。
『三峰山(妙法ヶ岳・白岩山・雲取山の3つの峰)は、「進龍」という綺麗に連なる高い山々の形勢を持ち、富士山から東京へと流れる強い龍脈上にあります。』
と書かれたものがあります。
…この辺はちょっときちんと理解してはおらず、すみません、書き写しです。
でも本当に美しい山並みでありますことは一見しただけで私にもわかります。
さらに『三峯神社は三峰山中、標高1102mの高海抜地帯にあり、その山々の強い気が流れ込む龍穴スポット(大地の気がみなぎる場所)です。』と続いています。
…ようはスピリチュアルと言われるもの?
スピリチュアルというのもだいぶ関心を持たれているジャンルのようですが、おバカな私には横文字が加わるだけでもう難解と思ううえ、実際に難解というか理解ができない分野のようでして…。
まぁ、勉強一般、かもしれません。情けないことです。
そのスピリチュアルな説で。
三峰さまの強く厳しい気は心身が弱っている・迷っているときは、ここの厳しい気は合わないので、優しい気の他の神社へといろんなところで異口同音に書かれているんです。
そんなことをいわれると、自分、心身弱っているかもなあと、だから今行ってはいけないんだなあと、思っちゃったんですね、十年前くらいに。
でも優柔不断であれこれ悩み、不安や不満の塊だったりする私、じゃあいつ行けるんだ?と思いまして。
行きたいと願っていることこそ、三峰さまを求めているんだと勝手な理論を導き出しまして。
で、今回の初の参拝となったのでありました。
打ち明け話)
いつもお読みいただきます方、本当にありがとうございます。
実は一レス削除しています。
すでにその削除前のレスをお読みになられた方、申し訳ありません。
慌てて訂正して削除した理由にお気づきになられておられる方もおられるかもしれませんが、
…そう、よりにもよってお寺さんの名前を間違えて記載してあったのです。
中断しては思い出したように(実際思い出しながらひいこらひいこら書いているのですが…)書いている、『珍道中東北路編』を書かねばなぁとか思っては写真を見たり、買ってきた資料を見たりしているんですよ。
そんな中、テレビのニュースを見て、あっなんかこれでは、万が一これをお読みいただいて、そうか今は三峰さんは結構空いているもんなんだと思われ、行ったところ、違うじゃん!!となったら申し訳ないと思って書き出し、そういえば姉の日光混雑状況も書いておこうと思って書き出し…。
…そう。
当たりです。輪王寺と書くべきところをよりにもよって中尊寺と書いてあったんですよ。
Σ(×□×;)
…いつもいつもそんなヤツで本当にすみません。
やれやれ( ; ; )です。
ヤダヤダ。
たった今テレビのニュースを見て、一応お詫びして訂正しておこうと思いました。
三峰さんへと続く県道三峰線、祝日の昨日は渋滞がひどくて、待機所となる路肩に路上駐車している車が多く警察までが出動したようです。
インタビューで、「待機所に駐車して神社まで歩いた方が早いから」と申しておられました。
テレビで見る限り待機所も満車状態でした。
渋滞で待つ方はUターンして帰る選択をしようにもできなかったわけで。緊急車両をやり過ごすこともあるはずです。
しかも下山方向に向かって停めてある。
まったく自分たちのことしか考えていないのだなあ。こちらは神社さんなのになぁ。
私どもはたまたま良い日に参拝することができたようでした。
そ、そうですよね。
前日の夕方から並ぶ車があったほどの神社さんです。
ちなみにこの祝日に日光に行ったという姉はすごかったよぉ〜と愚痴電話をかけてきたくらい、凄かったようです。渋滞もさながら駐車場の空きがなかったと。九時ちょっとには着いていたようですが、十時過ぎても駐車できなかったそうで…。
いやぁそれって日光では当たり前なんだけどな、まして休日ではなぁ…。
取材と思われるヘリが何機も飛んでいたようです。
姉のお目当ては【輪王寺】さんでお授けいただける【破魔矢】。
なんでも占いの人気番組で紹介されたのだと言います。
それが欲しいがためにオンボロ軽自動車で一人日光へとひた走ったようです。
その報告は…。なんと三ヶ月待ちとのことで、宅配の受付をしていたそうです。
その宅配の受付がまたすごい列だったのだとか。
なるほど…。マスコミの力は大きいものです。
私はといえば…久しぶりに会った孫を手おんぶして二キロ近くの距離をお散歩をして過ごしていました。
初めての手おんぶが気に入ってしまい歩かない歩かない(~_~;)
まぁ、それも幸せ。生涯に一度しかない大切なとき、であります。
参拝を終えてひだりてに抜けた夫とみぎてに抜けた私。
みぎてには境内社が並んでいます。つぎに向かうのはこっちじゃないかな?
夫に手招きし、夫が来るまでと見上げた社殿を、また立ち尽くし拝する私。
繊細にして色鮮やかなこの彫刻は一体いくつあるのだというのか。
夫が来たことにすら気づくことなくただただ見上げておりました。
はあぁぁ。…。
本殿に向かって脇から参拝させていただきました。拝殿と本殿は繋がっておらず、本殿正面が拝することができます。本殿の脇には柵がありお側によることはできません。…それが当たり前、当然こととと思う三峰さまであります。
それでも、その本殿の前にもオオカミさんのお像がお護りに立っています。
気づいた限りのオオカミさんの写真を撮ってまいった私ではありますが、ここにおられるオオカミさんだけはご本殿前で失礼に当たるかと控えました。
ちなみに可愛らしいオオカミさんでありました。
拝殿のみぎてには境内社、そして多数の摂末社が並んでいますことは前述いたしました。
本殿の脇には祖霊社。その隣には日本神話の根源神・国常立尊(くにとこたちのみこと)さまを祀る国常立神社。
どちらも立派な社殿です。
『国常立尊さまは(スピリチュアル的に)長い間の隠遁から近年復活したと言われ、現在進行中のアセンション(地球の次元上昇)で重要な役割を担う「地球の主宰神」とされる』とネットに書かれておりました。
日本語すらおぼつかない私にはさっぱりわからないのですがね。
スピリチュアルといわれる分野は神さまの世界に近いものなのか、よく目にすることがあるのですが、そもそもが日本神話すらについていけていない人間なので、到底理解不能なのでありましょう。
さらに続くは日本武神社、そして伊勢神宮。
伊勢神宮の前は車祓所となっていてちょうどお祓いを受けている車がありました。全ての戸を開け放ち、さらにはボンネット部分まで開けてのお祓いに感動した私でありました。
お祓い中であったので、摂末社を先にお参りさせていただきました。
伊勢神宮のおとなりは月讀社で。いくつ並んでいたのか…。摂末社の並びに少し大きな御宮があり、そちらは東照宮でありました。こちらの前におられる狛オオカミさんの可愛らしいことといったら。
拝殿にある装飾は全てに意味のあるもの。全て観ることは到底叶わないものの、そう考えただけでこの社殿を造った人々全ての三峰さまへの信仰と畏敬と誇りを感じます。
そして何よりその絶大な信仰をお生みになられた三峰さまのお力に、大きな大きなお力を感じ、圧倒されます。
なんでも社殿に彫られている龍のような生き物は、蜃気楼を出して人々に幻を見せるという蜃(しん、伝説の生き物)という存在で、ここが神界と現実世界が交わる場所であることを表しているのだそうです。
もちろんなかには龍神さまもおられるのでありましょう。
私はご存知のようにさまざまなことに知識のない人間なので、どれだけ見上げて観ていても、おそらくたぶんとしか語れませんが、鳳凰や麒麟なのかなぁと思われる彫り物もありましたし、美しい花鳥風月もまた彫られていました。
故事にまつわる彫り物もたくさんありました。その故事にも無知な私。まさに〝猫に小判〟だと、見上げながら思ったものです。
少し勉強しようかな。
ちなみに夫は少しその方面にも知識があるようで、今までもそういった彫刻の解説をしてもらってきました。同じ時を生きて、この差はやはり勤勉であったか否かなのだろうな。
時々そういう夫の一面をみては尊敬するのでありますが、本人に伝えたことはない、天邪鬼であります。そういった感謝や尊敬の念を素直に伝えたら、夫婦間はもっともっと良いものになるのでしょうにね。ま、それは追い追い、ということで。
拝殿前で参拝する順番がきて…拝殿に進むと中からすごい高貴な気が流れてくるのを感じ、思わずハッと姿勢を正しました。もともと神前ですので静々と進んでおりましたし、姿勢も凛としていたつもりではあったのですが、胸に直接お力を感じるような強い流れを感じました。
手を合わせ、こちらに来させていただいたお礼を申し上げました。
参拝を終えて。
拝殿前のひだりての手桶の前に、不自然に木の枠で被われたところがあります。
なんでもそこの石畳に水をかけると、龍神が浮き出てくるのだといいます。
この龍神、辰年の2012年に突如として浮き上がったというものであります。三峰さまの拝殿前にあってはさもあらんと納得するものでありました。…水を掛ける人はなかなか居はしないのではありましょうが、ね。
ちなみに一番興味深そうに覗きこんでいたのは夫でありました。
随身門の前におられるオオカミさまは、赤いさし色のあるヤンチャな感じのする二体。またまた門をくぐるまでしばらく時間のかかる私。
…あ、安心してください、その間夫をずっと待たせているわけではないので。夫は夫で何やら自分の興味あるものを見て歩いていたり、写真を撮っていたりしております。夫のタイミングを待つこともあるくらいですので。
門をくぐってしばらく歩くと、立派な青銅の鳥居が見えてきました。何段かの石段を登っていくと徐々に境内の様子が見えてまいります。
大きな杉の木と、密にならぬよう少し戸惑いながら並ぶ人たちの後ろ姿と。
白い四本の太い柱に立派な屋根と、これまた見事な彫刻と装飾のほどこされた手水舎が見えてきました。
石段の上の方にはやはり左右にオオカミさまがおられます。
こちらのオオカミさまはシュッと引き締まったお顔で、銅像か黒い石像でシンプルな彫りのお像です。うーん素敵。
ですがここではとどまることはできません。後ろ髪引かれる思いで石段を登りました。
まずは身を清めましょう。こちらでは手水舎での清めが可能です。ありがたい。
それにしても豪華な手水舎であります。華麗な装飾、今にも動き出しそうな龍などなどの見事な見事な彫刻、ここに足を踏み入れることが畏れ多い気すらする手水舎です。
手を清め口を清めて。
さあ参拝の列に加わりましょう。
おおぉっ!
極彩色の華麗な装飾の拝殿です。
ずっしりとした重さを感じます。
標高1,102メートルに位置する拝殿となります。建立は1800年、2004年に塗替えがされたといいますが、つい最近なのではと思うくらいに美しいものです。
一体何色の色が使われているというのでしょう。そんな中でも金で塗られたものが多いように思えます。色の組み合わせも絶妙で、匠の技を感じます。
そしてどれだけの彫刻があるというのか…。
拝殿のなかから太鼓の音が鳴り響いています。
誰もが静かに並んでいます。
みな、三峰さまのお力に圧倒されているかのようです。
お土産店とかが乱立するようなゴミゴミした感じのしない仲見世を通り過ぎると、鳥居が見えてまいりました。
白い横長の、大きな鳥居の左右に小さめな鳥居がついた、『三ツ鳥居』と呼ばれるものなようです。
そして。
その前には対のオオカミ(山犬)さまの狛犬が鳥居をお護りになられています。二体ともそれはそれは誇らしげなお顔で、入り口となるここをお護りであります。
狛犬さんも好きな私でありますが、オオカミさんはシュッとしたお顔立ちと引き締まったお体に、有事あらばすぐに走り出しそうな感じなのです。
普段景色しか撮らない私が、夫の構えたスマホのカメラに向かって写真を撮ってもらうくらい、大好き。本殿の入口をお護りになられていた二体以外の全てのオオカミさんを撮してきています。しかも角度を変え、向きを変えて何枚も何枚もの写真を撮ってまいりました。
そんな私の撮影会を終えてようやく鳥居をくぐらせていただきましたところ。さあぁとひんやりとした空気が私をつつみました。
風が吹いたとかではありません。
「わぁっ」思わず小さな声をあげました。
「鳥居をくぐった途端に空気がひきしまったね。さすが三峰さんだね。」と夫。
そう、寒いとかではないんです。三ツ鳥居を境に一瞬でぴりっとひきしまった場に変わったのです。
すごい!
身の引き締まる思いで一歩一歩進んでいきます。
すると古い、立派な造りであるのでそれがまたいい味わいの駐在所があり、そこを交差点の角として、三叉路となっています。
登りの鳥居と、下りの随身門と、
階段を登っていく上り坂と。
どちらへ先にいけばいいのだ?
…うーん、随身門、かな?
三ツ鳥居からひだりてに艶やかな…とかいうと不敬になるかもしれませんが煌びやかな装飾の施された随身門が真正面に見えます。
あの、例の神仏分離令以前は仁王門であったようで、約二百二十年前に建てられたものといいます。
大きな門守の神さまがどっしりお座りになり門を通る者を見下ろしておられます。
うーん、ワクワクしてきた私です。
私どもが参拝させていただいた日、駐車場は空きスペースが結構ありましたが、緊急事態宣言が明けての紅葉シーズン、次から次から車が入ってきます。コロナ以前はもっともっと参拝者が多かったのでありましょうか。到着したのは十時くらい、早くもなく遅くもない時間帯でありました。
あまりに有名になり希望者が殺到し休止したという〝白の気守〟が授与されていた頃は、前日の夕方から先ほどの葛折りの道が渋滞の車でうめつくされたようですし。
写真で見ましたが本当に只事ではない渋滞で、あのUターンなど絶対できない道で、しかも前日の夕方から⁉︎
標高千メートル超える山への道の途中で車中泊をする⁉︎
…ネットの情報で、たしかに四時には駐車場にいるくらいでないと限定何体と言われる〝白の気守〟を授与するための整理券をすら手に入れることはできないと書かれていたのは十年以上前のこと。「だったら真夜中の一時二時に出て行けばいいかね?」などと話していて実現には至らなかった珍道中コンビは、そんな時間に苦労して出かけたところで、前日の夕方からあんな長い距離渋滞して停車したまま夜を明かす人たちがいたなら、いつ三峰神社さんにたどり着けるかわからないほど、車の中で待機することとなったでしょう。
あの写真の渋滞では、体調を崩しても緊急車両がたどり着けるのかどうか。お山を守る山犬たち…大口真神さまたちはさぞお忙しかったことでしょう。
駐車スペースに停めて、ようやく落ち着いて辺りをみわたすと、駐車場も広く、何よりも美しい山々が見渡せる絶景です。広い駐車場には大きなバス待ちのステーションがあり、かなり大きな公衆トイレと思われる建物も見えます。
ん?神社は…?
どうやら階段を登っていくようです。
階段を登り始めると…何やらやたらと人の声がいたします。人の声くらいするだろう、…いやいやそれがどうも仕事の電話対応をしているよう。それが一人ではなく三人くらい。
平日、だからなぁ。
…ご苦労さまです。どうかお参りはゆっくりできますようにと祈らずにいられませんでした。
さらに登っていくと参道に立派なお食事どころが並んでいます。美味しそうな匂い。
運転で心身疲れた夫は小腹が空いたと申しておりますが、「まずは参拝でしょ」
助手席のお荷物が、どの口で言うのか!やれやれ…。
そのニ瀬ダムと呼ばれるものだとのちに知ったダムに至るまで、荒川に沿った道をひた走ります。その途中の景色たるや!
近く遠く見える山々の色とりどりに紅葉し始めていること、川の流れもまた、近くを流れていたかと思えば、かなり低い位置に流れるものとなったりといろいろな景観が楽しめます。
途中、これまた有名な【三十搥の氷柱(みそつちのつらら)】と呼ばれる奥秩父の冬の名所となる場所を通ります。が…駐車場等すらがさっぱりわからない。そもそもが秋の三峰さんへの道で大騒ぎしている私には到底たどり着くことはできない、真冬の風物詩でありますが。なんでも岩肌にしみでる湧き水が凍って創り出す、高さ約八メートル、幅三十メートルにも及ぶもののようです。それがライトアップされるようですが、…つまりは夜!
いやいやいやいや…。
さらに追記すれば、三峰神社までの最後のトイレだのいう立て看板まであるくらいでありました。
そんないろいろスリリングな想像をかき立てる道でありました。
閑話休題。横道にそれてばかりですみません。ちなみに、珍道中の運転手は夫なので、道中徒歩以外は横道にはそれませんのでご安心ください。
そのニ瀬ダムと呼ばれるダムを通り過ぎるとトンネルがあり、そのトンネルを過ぎてしばらく行くと、観光地とされる有名な山々でよく見られるような道路になります。まあ、それもヘアピンカーブが続く…葛折りといった方が神社仏閣の道中には似合う言葉でしょうか…そんな道をひたすら登るのでありますが、もうここまで来れば、普通のドライバーさんには普通の道なのだと思います。
夫いわく以前は有料道路だったくらいの道らしいですし。道には[県道秩父多摩国立公園三峰線]という名称まであるようです。
そこを五キロ以上走ってようやく駐車場が見えてまいります。
ちなみに…かつて聞いていた駐車場待ち渋滞とかも一切なく、駐車区画も選べるくらいでありました。もしやこれは…神無月であるが故?
いやいや三峰神社さんの御祭神はイザナギノ命さまとイザナミノ命さま。そして大口真神さまと呼ばれる神さまのおつかいが常におられるお山です。
おそらくは平日であり、月例祭の日でもないからなのでしょう。
…この都市伝説は平日に限っては大丈夫なようです。
悪路、という意味ではもっと凄い所もありましたし、崖スレスレとかもありました。すれ違い困難な道とかも多々ありました。
しいて言えばそれは全て夫に頼りきって私は助手席の荷物に過ぎなかったし、今回もそうでありましたけれど。
ただ…三峰神社さんといえば全国区でも有名な神社さんで、参拝者も多く、ましてやネットの上でそんな記述もなかったし、よもやと油断するところがあったのだと思います。
[この先すれ違い困難な道です]とか[トンネル内すれ違えません]とかやたらと続く立て看板。
うーん。
とはいえ別に悪路というわけではなく、ただ細い。細い林道という感じ?
細い林道、悪路ではないのですが長い!。ひたすら続く細い道です。まあ思い出せばそんな道を登ったところにある神社さんへとお参りしたこともありましたが。
今回通った道はすれ違い困難な道がやたらと長く続くわりに道を譲るスペースがほぼ無い!のでありました。まあ、私は運転が下手なヤツですので、多少オーバーにお取りいただいてもいいかなとは思うのですが、夫もヒヤヒヤしながら走行していたことだけは記しておきましょう。待機所がほぼ無いすれ違えない道がやたらと長く続く…という難所が一つ。
そこを這々の態で抜け、その後は切り拓かれた道となるかというと、それがまた細い。対面通行の道ではあるのですが、やたらとダンプが多く上から出動していくのであります。ダンプは確実にセンターラインギリギリで、中にはオーバーして下りてくる車両もあるのです。
たぶんダンプとすれ違うことがなければその辺にある普通の対面通行できる生活道路なのですが。なんだかんだ二十台くらいのダンプとすれ違いました。ダンプの起点となる建設会社さんがあるのでしょう。
さらに進むと。
ダムの中を通って行くような道。
ダム内の通路です。決してすれ違えない道を通ります。
信号すらなくて一体こんな道をどうやり過ごしあえばよいというのか…。
ちなみに本当に絶対一台しか通れません。両サイドは子供の背丈くらいまでの壁でおおわれた道です。
そんな道を抜けたとき、ダンプが一台待っていてくれました。さすがだ!
…帰りにそこでダンプが待っていた意味は解き明かされるのですが、ね。
その時には、神対応のこの道に長けたダンプの運転手さんだと何度も何度も頭を下げてお礼をして先へと進んだものであります。
どのくらい前からだったことか、かるく十年以上は経つ気がいたしますが、以前からずっとお参りしたいと願っておりました三峰さんへお参りすることができました。
行く気になれば行く機会などいくつもあったのですが、あまりにも有名な神社さんにありがちないろいろな都市伝説などに惑わされたり、あまりの人気に休止されたままになっている白い〝気守〟をお授けいただきたく思い、その月一度だけという授与日の〝一日〟にお参りすることにこだわったりしていたりして、なかなかお参りに至らなかっただけなのです。
いろいろなしがらみが少しずつ解け。白い〝気守〟にこだわる気持ちも無くなるほどとなって、…それは休止されているからということも通り越したという意味で。
三峰さんにお参りできる身となったのではと勝手に思って、いろいろな感謝の思いを胸にお参りするため出立いたしました。
…私は群馬県と埼玉県の境まで運転、後の長い長い道のりは全て夫に頼ってでありますが…。
埼玉県の【三峰神社】さんに参拝してまいりました。
それにしても…ネットで見聞きした以上に凄い道のりでありました。
たしかに。
白い〝気守〟の月一回の限定授与日は、戻ることもできない一本道でずっと延々と待つことだとか、早朝四時には駐車場に着いていないとお受けできないとか、駐車場が少ないため駐車場待ちでずっと車の行列のなか、車で待ち続けることになるとか、凄まじい情報がアップされていました。
…それでも、その白い〝気守〟をお受けしに行こうと思っていた時期もあったのではあるにはあったのですが…ある時これは欲でしかないよなと悟り、一つの欲、白い気守をお授けするという欲を満たして願いを叶えてしまったら、本来の強く願っています願いを叶えていただくのは図々しいかと思うことがあり、その内白い気守も休止となって、たしかにそれで一つ気持ちが軽くなるにはなったのですが…。
一つ乗り越え、また一つ乗り越えて、強く願うものがどんどん一つにしぼられてまいりました。
いろいろな節目もあって、今回、三峰さんにお参りすることをお許しいただこうと思ってのものとなっての道。
三峰さんへの道のりは思っていた以上の難所が待っていたのです。
今日はハロウィン。
ハロウィンはキリスト教から発生したイベントでもないようで。
三大宗教でもないこのイベントが、よくまあ世界に拡がったものであります。
まあ、仮装もお菓子も嫌いでないので、別に否定的な発言をするつもりなどでは決してありません。
ただ…。
ハロウィンの夜(正確にはハロウィン・イヴの夜?)のこんな時刻に目が覚めちゃって眠れない哀しさを一つつぶやこうと、思った次第であります。
はね瀧道了尊さまの境内には、小さく古そうなお不動さまの石仏がおまつりされています。
お堂にではなく、いくつもの自然の石をコンクリートで組み上げた、人工の岩穴のようなところに鎮座されておられます。
先日の道了尊さまの大祭の時、檀家さんの代表を務める方のお一人に、お不動さまの前でお聞きしたことがあるのでここに書いておきます。
こちらのお不動さまは江戸時代かそれ以前のものなのだそうです。もともとここに御鎮座されておられたものではなく、ここから距離的には近いのですが、すぐ下を流れる川の川岸の急な崖の途中におられたもののようです。
熱心な信者さんの多いお不動さまであったようです。
崖の途中というなんとも危なげなところにあるため、そこに行く事にかなりの危険を伴うようになってしまったこともあり、移動されたというお話でありました。
「…これ、御堂ではないんですよ。少しでも元おられたところに近づけたものにしようとしたものなのですよ」
そうですか。
崖の途中におられましたか。
「私は行ったことはないのですが、熱心に通われる地元の方が多かったです」
そう言われると俄然ありがたみが増すような…いやいや、もともとお不動さま好きの私のハートをしっかりとつかまれておられたお不動さまであります。
かねの薄い板を切って作った剣の奉納もおさめられています、お堂…ではなくて洞穴のなか、お不動さまは今も川の方を見守っておられます。
群馬県みどり市の光栄寺さんでは十一月の第一日曜日にご本尊さまの薬師如来さまの大祭、【柿薬師大祭】を開催ます。ですが…、昨年は新型コロナウイルス感染症のためやむなく中止。
「今年はどうされるのですか?」
昨日のはね瀧道了尊さまの大祭の日に副住職さんにお聞きしました。
「中止です。
みなさんが楽しみにして下さっているので、できれば開催したかったのですけれど…こればかりはねぇ。」
とのこと。
一昨年のお札をお受けしたままになっていることもお話ししたところ、な、なんと。
「お持ちくだされば新しいものと交換いたしますので」とのこと。
ありがたいことにございます。
一年ぶりの副住職さんの読経。ふだん話される声とはまるで別人のような、太くて遠くまでよく通る法要の時の声。
お経をお唱えすると声が美しくなっていくものだと何かで読みました。おなかの底から声を出されるからでしょうか。
いつお聞きしてもまったく変わらないお声です。
私などは自分でもわかるくらいに日によって声が変わるものです。
それゆえ、(あ、今日はなんだかしわがれ声だぞ。心が乱れてるのが出るのだなぁ)とか思ったり。
そしてたいがいがしわがれ声だったり、つかえたり。いつも心が乱れている、煩悩のかたまりであります。
本日は法話もしてくださいました。
なんでも講習会があったのだそうて、そこで見聞きし、副住職さんの心に響いたお話のおすそ分けでありました。
ちなみにその講習会もリモートであったのだそうで、お寺さんも今はパソコンが使えないとだめなんだなぁ。
その講習会の講師はなんと、あの北京五輪のフェンシングの銀メダリスト、太田雄貴氏だったのだそう。
学生時代、フェンシングの全日本の大会が観客席がガラガラであることをさびしく思い、フェンシング連盟の方にそのわけを問うと、「メダリストがいないからだよ」と言われ、一念奮起し、努力してオリンピック選手となり、日本が唯一メダル獲得していない競技であったフェンシングで初となるメダルを獲得。
勇んで全日本の大会へと足を運ぶと再びガラガラ。信じられない思いで再び連盟の方に問うと「個人のメダルではなく団体でのメダルが必要なんだ」
と言われたのだそう。またまた努力してオリンピックで銀メダルを取ったのだそう。
それからまたまた全日本選手権があり、出場し観客席に目をやると…三度ガラガラ。
三度目に聞いた答えは
… 。
「銀ではなく金をとらないと」と言ったのだそうです。
そこで太田氏は気づいたのだそうです。これは連盟自体を根本から変えなければ、と。
そして太田氏は連盟の理事となり、改革を試みたのだそうです。そして…。
今やフェンシングの大会のチケットは入手が難しいというものにまでなったのだといいます。
太田氏は、努力してもなかなか報われないこともあるけれど、無駄なことはひとつもないと結ばれたのだそうです。
副住職さんはその話から、努力していてもなかなか収束しないコロナを思い、それでもその努力から学ぶものはあったはずだと結ばれました。
本日は、群馬県みどり市の【光栄寺】さんの境外堂にあたる【はね瀧道了尊】の大祭日。
毎月二十八日がお縁日ということで祈願法要をなさっています。ですがこれもコロナ禍ということ、ましてや群馬県は緊急事態宣言が発令されていたため、ようやく先月から再開したようです。
実は本日十月二十八日は群馬県の県民の日にあたっています。学校は休みになり、県内の施設が無料開放されたり、格安で利用できたりという、ちょっとお得な気分のする日であります。
さすがに仕事しておりました時は
いくら群馬県民とはいえ休みとはならないのではありますが、子供たちは休み。夫婦で有給休暇を取って、ディズニーランドや群馬サファリパークなどなどに行ったものでありました。
…話が逸れてしまいました。(^-^;
はね瀧道了尊の大祭には今年で三年連続して参列させていただきました。
コロナ以前は小さなお堂でのお祭りでありますのに、出店も並び、老若男女子供たちも多く参列する賑やかなものでありました。そうそう、マジックショーまであったくらい。
それが昨年は本当に関係者の方くらいしか参列者がおられないさびしいものでありました。
今年は用意された椅子がすべて埋まり、立っている人もいるほどのものとなりました。
檀家の方、ご近所やお友だち同士、仲良く談笑されていて、音声だけ聞いているとまるでコロナ前に戻ったかのようでしたが、以前とは違っていたのは皆さんがマスクをつけておられること。
コロナは新規感染者数こそ激減してきてはおりますが、決して終息したわけではなく、今後はマスク着用が当たり前な世の中のままなのかな。
今回は副住職さんのみでおこなわれました。以前は三名の僧侶が法要をなさっておられたものですが。…。
鮮やかな緑の衣を纏われた副住職さんのお手により、流れるように法要が執りおこなわれます。
こちらの副住職さま、本当によく周りに目が行き届き、よく気のつく出来たお方で、なにか思うと同時に行動なさる方。
尊敬するお坊さんの一人であります。
道了尊とお不動さまの祀られたこちら。それぞれのお縁日ということで二か所とも法要なさいます。
あたりまえのことを
こころをこめて
実行してゆくこと
最近、毎日仏壇もどきに向かい般若心経を唱えながらふと思ったことと重なり、ハッとした次第でありました。
一つのことを、たとえそれが自宅の掃除ひとつにしても、心を込めてすることに実は大きな意味があるのだなあとしみじみ思ったことでありました。
…たしかに相田氏は、在野の僧、であったのかもしれません。
【相田みつを】さんが、〝現代版禅問答〟として書いておられるものがあります。
「ほとけさまの教えとはなんですか?」
郵便屋さんが困らないようにね
手紙のあて名を
わかりやすく
正確に書くことだよ
「なんだ、そんなあたりまえのことですか」
そうだよ
そのあたりまえのことを
こころをこめて
実行してゆくことだよ
相田みつをさんは、今でこそ有名な方となり、カレンダーは毎年発売され、相田みつを美術館もあるくらいな方ですが、長く不遇の時を過ごされたようです。
作品に対して妥協を許さず、〝逢〟という一文字をかくために何百枚何千枚という紙を使用したり、自分の作品を買ってくれたお客様のところへ出向いて「もっとよいものが出来たから」とお客様の意向なども聞き入れず新たなものに無料で交換して、お客様が気に入っていたとしてもその作品は持ち帰り焼却処分してしまうほどのこだわりだったようです。
相田みつをさんについて書こうとすれば、それこそ何レスも費やすほどになりますし、お好きな方は私などよりもっともっとご存知かと思うのですが、私の相田みつをさんの作品との出逢いは和菓子屋さんの包装紙でありました。
これは実は相田氏が生活のために栃木県足利市の商店に出向いては売り込みに歩いていた結果、その和菓子屋さんが注文してくれたのがはじまりであったようで、今なおその包装紙はそのお店の顔として使われています。
亡き母が最中が好物のひとつであったため、高校生の頃のバイト代で最中バラ売りとかを購入したりしておりましたが、その最中こそが相田みつをさんの文字を個別包装に使い、最中にまでその文字を使ったものでありました。それを知ったのは十年ほど経っていよいよ誰もが相田みつをさんを知るほどの時代が訪れてからのことでありました。
そんな相田みつをさんはご自分のことを「自分は書家ではない。在野の坊主だ」とおっしゃっておられたようです。
そんなことから生まれた〝現代版禅問答〟だったのでしょうか。
寺社仏閣をまわらせていただくなか、相田みつを氏のお墓のあるお寺さんへお参りしたこともありました。
足利市の【法玄寺】さんであります。
よく日の当たる、いつ訪れてもきれいに清められた心地よいお寺さんです。
お参りさせていただいた〝相田家之墓〟という文字は相田氏の文字をもとに彫られたものでありました。
わが家ではお蔵入りしている〝アベノマスク〟。
それがなんと国でもお蔵入りしていたとは…。
開いた口がふさがらない。
8,200万枚、115億円相当という。
休業を余儀なくされ、しかもその休業手当として支払われるはずのお金が支払われないとか、仕事を失い生活に苦しむ方とか、アフターコロナで多くの方が経済的にも苦しんでいるこの国で、よくもこれだけの金額をドブに捨てるようなことを。
いや、どうやらそれだけにとどまらないようだ。そのマスクの保管料が年間六億円かかるのだという。
配れば?
配ればいい!
確かにそれだけの物を動かすにもまたお金がかかることであろう。
でも少なくとも年間六億円の保管料は今後かからなくなる。そもそも寝かせて置けば置くだけ不衛生なだけだ。
オリンピックでもしでかしたよな。あれはマスクやアルコール消毒剤等を廃棄したのだったな。
この国の未来はどうなるのだろう。
この国に生きる方全てのために、この国は大きく変わらなければならないとあらためて強く思った、今日のこのニュースでありました。
ドンキで猛省セールなるものを開催しているようです。私も今日猛省したところなので、親近感を抱きました。
ドンキは仕入れをしくじって在庫を抱えてしまったことに対しての〝猛省〟。私の場合、(今回に関しては)しくじったわけではなく、夫がせっかく連れて行ってくれ、無事結願を果たすことが三十四カ所観音霊場のお寺の名前が出てこなかったというもの。
夫に対してもでありますが、ご縁をいただいた観音さまにも、お手を煩わし御朱印を書いてくださったご住職や地域の書き手の方に対しても本当に申し訳ない思いでいっぱいです。
うーん、単語帳でも作る?
夫曰く「なんならすごろくにでもすれば?」す、すごろくですかぁ?
誰が?…私か。
どんな?
どうせ出来上がっても笑うだけで興じることなどないくせに…。
まあとりあえず、復習いたしましょう。
第一番札所…。これは大丈夫。
それはそうと…二年近く行っていないドンキに行ってみたいなあ。
実は…。
私、大変夜に弱い。
今どき小学生はおろか保育園児だって起きている子は起きている、八時九時に睡魔がくるのです。もちろんその魔の時間帯を乗り切れば、なんということはないのですが。
この生活、いつからかと振り返るに、大変素直であった中学生のころに「受験はまず生活を朝型に変えることが望ましい」という話を聞き、まず自分で出来ることから始めようでないかと、八時くらいから寝る習慣を付けました。
その後高校生となりその生活はそのまま続き、バイト以外の日は八時というゴールデンタイムに友人からの電話で起こされるという変な女子高生でありました。
バイトの日はバイトが八時まででしたので、もちろん自転車で帰りながら寝るようなことはなく、ただただ暇だと寝るというぐうたらな生活であったのではないかと思われます。
その後進んだ進学先はハードで勉学で徹夜まですることすらあり、
無事社会人となれば、いろいろなお付き合いもあり、八時九時に寝るような習慣はすっかりなくなっていた…影を潜めていたのです。
それが復活したのは、〝添い寝〟。
子どもたちを寝かしつけるために添い寝をする…これがまたたいそう心地よいもので。
大きくなって添い寝の必要がなくなってもその時間がくるとなんだか眠い。
最初は仕事や家事で疲れているんだろうと見守ってくれていた家族も、ああこういう睡眠パターンなんだとあきれ、あきらめ、今に至る…のかと。
つまりはこのゴールデンタイム、やれ月9だのロードショーだの話題のテレビ番組が盛りだくさんなこの時間帯、〝起きていられないおばちゃん〟、なのです。
そう。
…あの楽しみにしているEテレの『趣味どきっ!』も私の睡眠のゴールデンタイムに当たっているのであります。
夕べ。
夫と二人で観始めたのです。
夫はごろごろと寝た姿勢で、私は正座をして。いかにも観る気満々で。
…寝ました。正座をしたままで。
薬師寺の薬師如来さまがアップで映され、脇侍の日光月光菩薩さまが映されたところまでの記憶で途切れています。
ハッとした時にはまだ何か解説をしているぞ、よしよし。…そう思ったのです。
ん?この人、だれ?
徐ろに夫が起きあがってテレビを消しました。
…そう、番組は終了しておりました。。゚(゚´ω`゚)゚。
薬師如来さまの薬壺に安眠できるお薬が入っていたのかなぁ?
奈良の長谷寺さんはテレビや写真で見ているだけですので、語ることなど何もない、語ることなどできない者であります。
これから書かれているものはいつか行く長谷寺さんへの憧れとでも思ってやってください。
長谷寺は仁王門から本堂まで緩やかなきざはしを登っていくのだそうで、その数三百九十九段といいます。
その階段をのぼりきると、その頭上に梵鐘が見えるのだそうです。
その梵鐘は、【尾上の鐘】と呼ばれているのだそう。
そして毎日正午、巳の刻に法螺貝が吹かれているのだといいます。
そういえば…栃木県足利市の最勝寺さんでも、お護摩修行の際ご住職が法螺貝を吹かれます。
同じく足利市の鑁阿寺の節分のお祭りでも武者行列で法螺貝が吹かれます。鑁阿寺さんは真言宗大日派。豊山派から分かれたものであります。
法螺貝は難しいものだと聞きます。長谷寺での修行の一つなのでしょうか。
その尾上の鐘と呼ばれる鐘のある鐘楼はひだりてに、そして十一面観音さまのおられる御本堂はみぎてにあるのだといいます。
懸造となっている礼堂と呼ばれる空間。テレビで見ても本を見ても、イメージできない長谷寺さん。
いつか行けるのかな。
いつか行ける。
いつか必ず行ける。
いつか必ず行くぞぉ!
ちなみに今夜の〝趣味どきっ! 仏像の世界〟は【薬師寺】さんであります。
…たしか、高校の修学旅行で行ったんだよなぁ…。
NHKのEテレで現在週一回(再放送含めれば二回)放映されている、〝趣味どきっ!〟の『仏像の世界』。
第二回目は奈良県【長谷寺】さん。
長谷寺さんは真言宗豊山派の総本山であります。
敬愛するご住職のおられる栃木県足利市の大岩山最勝寺さんも、前述いたしました群馬県桐生市の観音院さんも、真言宗豊山派のお寺さんであります。
一時、精力的に神社仏閣をめぐっておりました時期に、まわるお寺さんお寺さんがみな、偶然にしてはあまりに続くなぁと思うくらい真言宗豊山派のお寺さんということがあり、これは仏縁なのでは…とまで思ったほどであったくらい。
…ちなみに鎌倉の長谷寺さんは同じ長谷寺でご本尊も同じ十一面観音さまですが、こちらは浄土宗系の単立寺院のようです。
そんな真言宗豊山派の総本山の長谷寺さんのご本尊の十一面観音さまは、なんと、あの有名な昔話『わらしべ長者』の観音さまであられます。
テレビでも最初に紹介されたくらい有名なお話であるようですが、私はこの事実を、豊山派のお寺さんで配られている小冊子で知ったくらいです。
そんな有名な十一面観音は日本で一番大きな木造の御仏像。像高な、なんと1018.0センチメートルということです。室町時代の作ながら、実は八代目なのだといいます。
そんな大きな御仏像でありながら、しっかりと目が合う造りとなっているのだとか。しかも、春秋の特別拝観時にはさらに御本堂内部に入って、その御足に触れることができるという。
行きたい行きたい。
そう願っていく年月。
テレビでは若いアイドルの女性がそれはそれは光栄なことと、鳥肌が立って止まらないと、喜びに頬を紅潮させています。
御御足からは大きなパワーというか力強いものが伝わってくると、心から漏れ出た言葉をつぶやきます。
それが、なんとも初々しくて可愛らしい。
羨ましいなんて雑念もわかない可愛らしさ。
ああ、出来うるならその御御足に触れることのできる時期に私も参拝したいです。
奈良京都、かぁ。
一ヶ月、では見切れないなぁ。うんうん。
この日限地蔵で有名な群馬県桐生市の観音院さん。正確には【諏訪山観音院能満寺】さんとなります。開基は岩崎彦右衛という大きな機屋さんであったといい、開創は正保元(1644)年であります。
もっとも、【日限地蔵さま】【お地蔵さん】と呼ばれることがほとんどで、お寺さんの名前を知らない方がたくさんおられるよう。
観音院までは知っていても能満寺とまで知っている人はほとんどいないようです。
その、日限地蔵さま、観音院の由来は桐生の民話としても語られています。
『昔大きな機屋があって、大勢の奉公人は夜も遅くまで夜なべ仕事をしていた。
この機屋の窓辺に毎晩大入道が出るので、気味悪がって家中の騒ぎとなった。
ある晩鉄砲で撃った。確かな手ごたえがあったので、さっそく行ってみると影も形もなかった。
すっかり肝をひやした家人はろくろく寝ずに夜明けを待って調べてみると、土に点々と血の流れた跡があり、その跡をつけて行くと観音院の庭で消えてしまった。
ある夜この家の主人の夢まくらにお地蔵様が現れ「わたしが毎夜そなたの家の外に立っているのは、そなたの家を守護するためだ。わたしは野天に立っているため衆人の信仰もない。
大勢の人々を守護するためお堂を建ててほしい。
その時は何日なりと日を限って願かけをすれば必ず願望をかなえよう。」とお告げがあった。
主人はさっそく村人にこの話をして、大勢の人の浄財により今のところへお堂を移して盛んな法要と祈願をした。
不思議にもお地蔵様の肩には鉄砲玉の跡が残っているという。
日限地蔵尊のご利益は真摯な信仰によってだれでも得られる』
といったものであります。
観音院さんの御本堂は江戸時代末期の嘉永年間の造営で、名工と言われた〝弥勒寺音八〟の手による向拝の龍、欄間や、格子天井画の見事な御堂です。
その御本堂、ありがたいことにいつ参拝しても開放されていて、中での参拝ができるのです。
今はまた季節の花の描かれた御朱印で有名になっており、たえず参拝者が境内にいらお寺となっています。この花の画が大変上品で見事なもので…。
ついついリピーターになりそうな欲を抑えるのが大変でありました。
今時々参拝させていただいては、昔と変わらず頭にやたらとお線香の煙をあおぎかける私なのでありました。
そここそが群馬県桐生市にあります観音院さん、通称【日限地蔵】さまでありました。
お地蔵さまと言われてさっぱり通じていなかった私を察して、友だちはお寺の境内へと連れて行きました。
さらにさらに密な空間で、鐘の音はさらに大きく響き渡りボウボウと煙が上がっているではないですか。
いつもしていたことなのか、慣れた様子で友だちはお寺に向かって手を合わせたのち、お線香を買い求め大きな大きな香炉に束になったままのお線香に火をつけてそのまま香炉に立てました。
友だちいわく「このお線香の煙を浴びると風邪をひかなかったり悪いとこが治るんだよ」
こんなおじいちゃんおばあちゃんや両親に教えてもらうようなことを友だちがひとつひとつ丁寧に教えてくれました。
興奮して家に帰って母に伝えてもふーんというばかりで。隣に住んでいた祖父母にも報告に行ったところようやく「いいところへ連れて行ってもらえたね。良い友だちを持ったね。よかったよかった」と言ってくれました。
今となってはそれが誰だったかも思い出せないバチ当たりなヤツで…。
でもそれからずっと〝二十四日はお地蔵さまの日〟とインプットされている私なのでありました。
大人になってから子供たちを連れてこちらの日限地蔵さまのお縁日にお参りに来たこともあるくらい、思い出に残っていることなのに…いったい誰だったのかなぁ。
ありがたいと思い申し訳なく思う友だちと初めて行った桐生日限地蔵さまのお縁日の思い出であります。
昨日二十四日はお地蔵さまのお縁日。
これは珍道中を始めるずっと以前から頭に入っているもので、ああお地蔵さまの日だとすぐに思うものとなっております。
でも、これを教えてくれたのは祖父母でもなければ親でもなくて、
中学の同級生。
「明日、お地蔵さまに行かない?」
そんな誘いに当時の私は目が点になったものであります。
お地蔵さまといえばお寺さんの六地蔵さまの、雨風にさらされた石像しか頭に浮かばない。それを(失礼な言い方ではありますが当時のままの感覚で書いていきます)、花も恥じらう乙女が友だちとお参りに行く?せっかくの日曜日、…当時はあたりまえのことながら土曜日も半日授業、半日部活という日常で、唯一の休みである日、お地蔵さまに行く…?歩行者天国とかでなく?
…まあ、それでも小学生の時分には教会の日曜学校に通っていたくらいですから、お地蔵さまの何かがあるのかと思い、ふたつ返事で約束しました。
自転車でへいこらへいこら向かううち、何やら鐘の音が聞こえるような気がすると思うと、そこには人人人!道路いっぱいに人。
ああ、たしかにこれは歩行者天国!人しか見えない、今でいう密。
お祭り?お地蔵さまにと言われたけれど…?
当時の私はお縁日というのが神仏によるありがたい日という知識がまったくなくて、お地蔵さまに行くと言われたのにこれはまるでお祭りじゃない?
そんな人混みを進むうち、美味しそうな甘い匂いやソースの焦げる香ばしい匂いがしてきます。…お祭りじゃない!
狭い道の両サイドにさまざまな露店が並んでいる、並んでいる。
わたあめ、たい焼き、お好み焼きにたこ焼き。セルロイドのおままごとに、干物や刃物まで売っています。
露店をあれこれ覗いては食べ歩き、思いもかけず楽しい時を過ごした思い出であります。
地元民でなくとも桐生まつりや桐生のえびす講は知っていて桐生まで来たこともありましたが、これは知らなかったなぁ。
そんなことを思いながら、「そういえばお地蔵さまに来たんじゃないの?」と友だちに聞くと、
「そうだよ、お地蔵さまじゃん」
…?
いやいやお祭りでしょ?
あ、でも絶えることなく鐘をつくような音が聞こえています。でも私の頭にはあのひっそりと立つ六地蔵さまの石仏しか浮かんでこないので、鐘の音を聞いてもお地蔵さまに結びつかないし。
眞子さまのご結婚の日が近づいています。
結婚に関する一切の儀を行わないとお決めになったということで、眞子さまお一人で淡々と眞子さまなりの皇室を去る儀を行っておられるご様子がテレビで報じられます。
眞子さまの心には今どんな思いが去来するのか…。
眞子さまが成年となられてから、天皇陛下の即位があり、皇室ならではの儀式に皇族として参列されておられます。
その際におすべらかしに十二単といった正装をされ参列されておられる眞子さま。
ご自身のご結婚は異例な形でのものとなり、皇室にお生まれになられてからずっと、それが当たり前であった皇室の生活を去られることとなる。
本来であれば古式ゆかしい装束姿で宮中三殿に拝礼するものを白いドレス姿で外からの参拝でありました。これも眞子さまのご希望であったのかどうか…。
あくまでも一人の女性として、愛する男性の元へと嫁ぐ姿勢を貫いての今ではありますが、賢所皇霊殿神殿謁するの儀は皇室の先祖や神々に結婚の報告をすべく拝礼するものであるようですので、これはこのような形でなく、正式な形での儀式を行われてもよかったのではないかと、個人的に思った次第でありまして。
一切の儀を執り行わないと決めたのはどういった経緯でのものか何もかも存じ上げない一おばちゃんです。
ですが、皇室にお生まれになられ皇族としてお育ちになられ、省いてもいい儀とそうでないものとがあったのではないかと思ったりもするわけで。
眞子さまのご意志であったにしろ、秋篠宮の決定したことであったにしろ、長い皇室の歴史、ひいては神事をも曲げてしまうのはどうかと…。
正す存在はおられなかったのでしょうか。
たしかに、かつて、宗教色の濃い儀式を公費で行うのはいかがなものかというような内容の発言をされた宮様ではあったようですが…。
こうして何気ないように流れていく時の中、皇室の歴史を大きく変えておられる。それは良いことなのか…。
天皇陛下の即位を祝って国中の神社が、そして仏閣も幡を立て祝ったものでありました。
今上陛下のそれを見て、皇室がそういった存在であった事をあらためて知ったくらいのペーペーの独り言です。
眞子さまがお生まれになられた時から、テレビでではありますが見守ってきたおばちゃんは。
お祝いしたい。
皇室を去られる最後に良い思い出を持って嫁いでいただきたかったのです。
Google先生に書かれていたのは驚きの結果でありました。
『こたつを出す日は「亥(い)の日」です。』
とまで断言されているものすらあるではないですか!
ひとつだけではありません。
火入れに良い日で検索すると[亥の月亥の日]がずら〜っと羅列しております。
なんでも江戸時代には亥の月亥の日を「炬燵(こたつ)開き」と呼んで、この日にこたつを使い始めたと言われているのだというではないですか!
こ、これは…。
しかも、
『なぜ勘違いしたのか定かではありませんが、「こたつを出すのは戌(いぬ)の日」と思っている方も多くいらっしゃるようですが、正しくは「亥の日」です。』とまで。
こ、これは…由々しき事?
まあ、ゲンを担ぐとかを気にしなければ、いいわけで…、ってずっと間違えたゲンを担いでたってことなわけで、もう…(TT)
夫の家では酉の日以外の吉日なら良いとしていたという事だし。
…えっ?
じゃあ十月十八日は一体何の日だったの?
…まさかの酉の日だったりしない?
結果、ありがたいことに亥の日でありました。ありがたやありがたや、です。
以下、Google先生からの引用です。
【武家では、「最初の亥の月亥の日」に暖房器具を出したといわれ、「二番目の亥の月亥の日」は庶民が出したそうです。
「亥の月」とは旧暦の10月のことで、新暦が採用されて以降は、一ヶ月遅らせた11月の最初の亥の日になります。
「亥(い)」はイノシシのことです。
イノシシは摩利支天(まりしてん・仏教の守護神、炎の神)の神使といわれ、火を免れる(火災が起こらない)と考えられていました。
また、「亥」は[陰陽思想(いんようしそう・この世のすべてのものを陰と陽に分類する思想)]では「陰」に当てはまることから、火を弱める(火を制御する)と考えます。
さらに[五行思想(ごぎょうしそう・万物は木、火、土、金、水の五種類の元素からなるという自然哲学の思想)]では「水」に当てはまります。五行思想では、「水は火を消す」と考えます。
これらのことから、亥の日に暖房器具を使い始めることで家の防火を祈ったのです。』
…非の打ちようがない。
ま、今年に関してはもうすでに使用開始してしまっているし。
夫思いの妻ということで…よかったよかった。
…こだわるくせに楽天家な、いいかげんなヤツですこと。
寒さが来ると、天気予報士の方々が異口同音に告げていたのに。
もう十月も半ば過ぎ、寒さが来て当たり前だというのに、今年の私はなぜかのんびりと衣替えもせずにおりました。
と言いますのも、もともと急に寒くなったり暑くなったりする時を考えて一〜二着はシーズンオフの衣類も出しておく習慣でありますし、何より、今までは仕事の合間をぬってやっていたことを、仕事を辞めた今はいつでもできるからと慢心していたのでしょう。
来ました。しかも十一月中旬くらいの寒さがいきなり!です。
…いやいや正確に言えば、天気予報士さんたちはきちんとそう予報して、衣替え衣替えとおっしゃっておられたのです。
もう少し大がかりな、部屋の模様替えに熱中していて、気づいたら寒さが訪れていたのです。
テレワークの夫は、基本動かない仕事のためよけいに寒いらしく、足元サイズのホットカーペットをすでに使っておりました。
それでもまだ寒いとのことで、小型のファンヒーターを持っていってあげました。
亡き母は、そのシーズン初めて暖房器具を使うときは『戌の日の大安』に!とたいそうな騒ぎをしておりました。九月の中旬くらいからカレンダーとにらめっこをし、まだ寒くもないうちからとりあえずと暖房器具に火を通しておくのでした。
ですからそれを幼少期からそんな母の様子を見聞きしていた私は、妊娠して腹帯を巻くのに『戌の日の大安』を選ぶのを、(ふーん、暖房と一緒なんだ)と普通の人とは違った反対の感覚でとらえたくらいでした。
それを昨日はすっかり忘れて暖房を使い始めてしまったものだから、なんとなく後ろめたいような、気持ち悪いような思いがしてしまいました。
でも、何故戌の日の大安?
夫に聞くと「うちは酉の日はダメだというだけだったけど、なんで戌の日?」と。
彼のおばあさんはたいそう信心深い方で縁起を担ぐ方でしたのに、酉の日以外って…。
もしかして、我が家だけに伝わってた何かがあったり?
…などということは考えづらく…。
まさかの間違い?
さあ、Googleさんの出番です。
すると!
ちなみに。
昨夜、夫は一人で散歩に行き、私は一人庭でしばし月を見上げておりました。
だって、散歩に行ってしまったら、『趣味どきっ! 仏像の世界』を見逃してしまいますから。
おかげで一人心ゆくまで番組を堪能させていただくことができました。
でも、ここだけの話、番組よりこのテキストの方が好き。
写真を撮られた方の腕の良さったら♡
テキストを見るとこの写真を撮られたのは女性の方のようです。
ああ、京都奈良に行きたいっ!
一ヶ月くらい居座って心ゆくまでお寺さんや神社さんをまわりたい!
「そうだ!京都へ行こう」
…なんてJR東海のCMのように、気軽に身軽に行ってしまいたい。
一ヶ月で済むのか?
うーむ、むずかしいかも。
今日は十三夜。十五夜のときは何度時間を変えて外に出てもずっと白い雲が広がっていてお月さまのお姿を拝することはできませんでした。
夫が「今日は十三夜なんだろ?一緒に散歩に行こうよ」と言いました。七時頃外に出て確認したところ、全天に白い雲がかかっていたので、「えぇぇ、七時ごろ見てみたけど一面雲だったよ」
と申しますと、「十三夜に曇りなしって言うじゃん」と強気な発言をして、外に出たかと思うとすぐに、「来てごらん、出てるよ」と申します。
えっ?
信じられないと思いながら外に出ると天頂にすこぉし欠けたお月さまが出ています。
うわぁ、ほんとだ♡
しばし空を見上げました。
ところで。
仏教では月待ちという言葉があるようで、『十五夜』や『十三夜』などにそれぞれ仏さまが当てられ、十三夜の本尊は『虚空蔵菩薩』さま、なのだそうです。
虚空蔵菩薩さまは、十三という数字に縁があり、毎月の縁日は13日、十三夜の月待ちの本尊、十三参りの本尊、十三仏信仰では十三番目にあたる三十三回忌の本尊となり、まさに十三づくしの仏さま、なのだそうです。
ちなみに十五夜は『勢至菩薩さま』なのだとか。
虚空蔵菩薩さまは宝剣と宝珠を持つお姿で、五仏の智恵をそなえることから『智恵の仏さま』と言われています。
また、虚空蔵菩薩の司る虚空はそのまま宇宙に繋がり、宇宙に煌めく星とも関係が深く、明星(金星)を神格化した『明星天子』を虚空蔵菩薩の化身とする説があるのだそうです。
昨日、書店に立ち寄り、NHKのテキストコーナーの前に何気なく立つと…。雷神さまが私を見下ろすではないですか。
『趣味どきっ!』という番組で
、昨年も秋に『仏像の世界』というシリーズをやっておりました。それが今年もあるようでした。
…御仏が仏像好きな私を導いてくださったのでしょうか。
それはそれは美しい写真ばかりです。
うわぁぁぁ。
はあぁぁぁぁ。
ため息しかない。
しかも再放送となりはしましたが、第一回の放送はなんと今日!
さらには本放送も今夜九時半から!
うーん、幸せだぁぁ♡
神無月という、なにやら不安にもなりそうな名前でありますが、そんなことに不安を覚えるくらいには神仏に関与している生活をするようになったのかもしれません。
そんな神無月、実はやっぱり留守をお護りくださる神さまがおられるという、ありがたい情報を得ることができました。
出雲に行くのは大国主神系の国津神だけであるという説は前回述べさせていただきました。
実はところが天照大神を始めとする天津神も出雲に行くという説もありました。ですが、〝出雲に出向きはするが、対馬の天照神社の天照大神は、神無月に出雲に参集する諸神の最後に参上し、最初に退出する〟と言う伝承もあるようです。
また、諏訪大社の祭神の諏訪明神が龍(蛇)の姿を取り出雲へとお出向きになられたのですが、あまりにも巨大であったため、それに驚いた出雲に集まった神々が、気遣って「諏訪明神に限っては、出雲にわざわざ出向かずとも良い」ということになり、諏訪大社にも神が有ることから諏訪地方でも神在月とされているということでありました。
能登でも、神さま方が出雲に集っている間、宝達志水町の志乎神社の神さまだけはこの地にとどまり能登を守護するということとされているようです。そのためこの神社は「鍵取明神」と呼ばれるのだそうです。ちなみに志乎神社は素盞嗚尊さま・大国主命さま・建御名方神さまを祭神とするが、能登にとどまるのは建御名方神さまとのことであります。
家に祀られている竈の神さまである荒神さまも出雲に旅立つとする地域がある一方で、荒神さまは出雲には出向かないという地域もあり、【留守神】と呼ばれている神さまは、〝荒神さま〟や〝恵比須神〟さまが宛てられることが多く、10月に恵比須を祀る恵比須講を行う地方もあるようです。
群馬県大泉町や大胡町では荒神と恵比須神を留守神としており、伝承では荒神は子が多く連れていけないため留守番をしているといわれているようです。
福島県石城地域では荒神には眷族(けんぞく)が多いため遠慮して出かけないという伝承がありやはり留守神となっているようです。
【鹿島神宮】では〝安政の大地震〟が十月に起きたことから、〝要石〟で大鯰を押さえつけていたご祭神の【鹿島大明神】が不在であったためと伝えられているようです。
いずれにしても小心者には朗報であります。
この間、神さま方が集まられておられる【出雲大社】では【神在祭】を開催するといいます。
神迎神事・神迎祭|
日時:旧暦十月十日
場所:稲佐の浜、出雲大社神楽殿
19時頃に稲佐の浜で御神火が焚かれ、神籬(ひもろぎ)と龍蛇神が配置されます。神事が終わると、豊漁・家門繁栄などの信仰を持つ龍蛇神を先頭に、参拝者とともに神迎の道を通って浜から出雲大社へ向かいます。
神在祭|
日時:旧暦:十月十一・十五・十七日
場所:出雲大社上の宮
人生諸般のことや男女の結びなどについて、神議りにかけて決められるといわれています。この期間は神様の会議に粗相があってはならないということで、土地の人はひたすら静粛を保つことから御忌祭(おいみさい)ともいわれます。
縁結大祭|
日時:旧暦:十月十五・十七日
場所:出雲大社御本殿
縁結びの神議りが行われる神在祭に併せて、行われます。集まった神様に対し、世の人々の縁結びを祈る祝詞が奏上されます。
神等去出祭|
日時:旧暦:十月十七・二十六日
場所:出雲大社御本殿
出雲大社の他に、日御碕神社や佐太神社などで神在祭が行われ、それが終わると、万九千神社から神様はそれぞれの国に還られます。
十七日は出雲大社から神様がお発ちになる日、二十六日は出雲の国を去る日として、ニ回に分けて執り行われるのだといいます。
伊勢神宮も出雲大社も参拝していない私。いつか行ける日が来るでしょうか。
ちなみに夫はその二社とも参拝しております。
そういえば、若かりし頃に出雲大社の御守りをもらったような…。
私にはなんだかんだ良い縁だったかなぁと、思ったりもする今日この頃ですが、出雲大社でお参りをして御守りを受けた夫にとっては…どうだったのかなあ。
本心は決して明かさないヤツだからなぁ。
まあ、私の今後にかかっているか…。頑張ろっ。
そんなわけで神無月について調べてみました。
和風月名で十月を神無月(かんなづき・かみなづき)といいます。全国から日本の神様が出雲に集まるからという理由が一般的ですが、他にも、「雷が鳴らない月=雷無月(かみなしづき)」や「新穀でお酒を醸す月=醸成月(かみなしづき)」からきているのでは、という説もあるようです。
出雲に神様が集まるとの言い伝えが世間で広く信じられるようになり、出雲では、神在月と呼ばれるようになりました。
ただ、出雲に神様が集まるとされていますが、すべての神様が集まるわけではないのだそうです。
一説によると、出雲に集まるのは国津神(くにつかみ)のみで、天津神(あまつかみ)は特に集まることはないともされているようです。
国津神・天津神とは、古事記・日本書紀など日本神話において、
地上に住む神様を国津神、天の高天原に住む神様を天津神といいます。
伊勢神宮におまつりされておわれる天照大神さまや豊受大神さまは天津神さまであらせられるので出雲へ出向かれることはないとされています。
出雲大社におまつりされておられるのは大国主神さま。かつて天照大神さまの孫の瓊瓊杵命さまに出雲国をお譲りになられた際、自分が住むところとしてお建てになられたのが出雲大社と言われています。
もともと大国主神さまは全国各地をお子さまに治めさせておられ、国譲り以前より、お子さまたちが一堂に集まった際その報告と会議を行っておられたようであります。
全国の神さまはまず、旧暦十月十日に出雲大社から約1km西方にある稲佐の浜に上陸されるのだそうです。
稲佐の浜というのは国譲りや国引きの神話で有名なところのようです。
その後、出雲大社へ向かい、旧暦十月十一日から十七日の間に、自らが鎮座する土地に関しての縁結びや翌年の収穫などについて会議を行うのだとされています。
その会議は、正式には神議り(かむはかり・かみはかり)と呼ばれ、出雲大社の境外摂社である上の宮で執り行われるとされます。
会議の期間中、神さまは出雲大社の本殿の東西にある十九社(じゅうくしゃ)に宿泊なさり、上の宮と十九社を行き来しておられるとされています。
会議がすべて終わる十七日には、神さまは出雲大社を出発しますが、すぐに元の場所に戻るわけではなく、出雲に数日滞在し二十六日に出雲から各地へ還られるとされてます。
ふと…。
神無月であることに気づきました。
神社さんをお参りしても神さまは出雲にお出かけになられている?
なんだかすごいショックです。
いやいやこういったことは大概旧暦、なのでまだ神さまはそれぞれの神社におられるはず。
そんなことを考えながら…。
神無月について調べてみました。
日本中の神さまが出雲の国に集まり会議を開くため、他の国には神様が居なくなってしまうことからこの会議の開催中を神無月と呼び、神さまの集まる出雲の国では反対に十月は神在月(かみありづき)と呼ばれます。
この会議は旧暦の10月11日から17日までの間出雲大社で開かれ、その後、佐太神社に移動し26日まで会議の続きを行うのだといいます。
その期間、出雲大社と佐太神社では神在祭が行われるのだといいます。
おお、私の読み通り、旧暦で、ということなので、今回のお参りには神さまは御在宅されていたということでありました。よかったよかった。
ただ…こちらはそれなりの規模の神社さんであり、ひきりなく参拝の方が訪れるようなところであります。
神さまとの正しい関わり方をお教えいただける機関でもあって欲しいかな。
写真を撮る時のマナーについては、神さまに不敬にあたることをお教えくださってはおられるのですが、何枚もの貼り紙は少し…。
えらそうに述べてはおりますが、そも、私本人が雑念が多いから、そういったことが気になる、ということなのでしょうね。
こちらに限らず、結構狛犬さんに副業をさせている神社さんは結構ありますので、狛犬ファンとしてのセンサーがただ単に発動しただけかもしれません。^_^;
昨日行った神社さん。
やたら貼り紙が増えていました。主に撮影についてのことで、あちらこちらに貼り紙がしてあります。
うーむ、何かあったのかな。
たしかにこちらの彫刻は目を見張るほど細やかで美しいものであります。
ただ、その貼り紙のせいでなにやら心にさざなみが立ったことも事実であります。なにぶんにも拝殿のすぐそばのものばかり。
そんな貼り紙をするくらいなら、拝殿のすぐそばにある社務所?お守りや御札の授与所にどなたが一人立つだけで、十分抑止されるでしょうに…。
一日だろうが十五日だろうが、この授与所に人がいたことはここ何年もありません。立派な授与所なんですけどね。ここが使われるのはお正月くらいなんでしょうか。
境内の中の宮司様宅で授与されるようになって久しいようです。
いろんなお考えがあってのことでしょう。
ただ…。
私を含めてファンの多い狛犬さんに、大きな立て看板を立て掛けたのはどうかと思うのであります。
七五三の御祈祷の受付について、だったかな?
もっと他にも立て掛ける場所はあると思うのです。門の入り口とか橋の手前とか…。
狛犬さんには本来の大切なお役目がございましょう。立て看板を立て掛けるとことかではありません。神職の方が一番それをご存知なのではないでしょうか。
狛犬ファンはここ近年増加しております。ちなみに私はその一人ですが、そもそもこちらはもともと門の中は撮影禁止とうたわれていて、なのでこちらの狛犬さんの写真は持っていないくらいです。
思えばこちらはコロナ禍となるかなり前から、大きくて立派な手水鉢に頑丈そうな蓋がされてしまっている神社さんでありました。
手水舎も立派なものなのに、なぜだろうといつも思っていたものです。
まあ、ちょっと見方を変えれば、コロナ禍でなくとも衛生面では好ましくはないかもしれません。
そういったことに神経質な方であれば、手水舎での一連の行動はかなり抵抗のあることでしょうし、ましてやそれを管理される方がそういった行為に抵抗がある方であれば、そう考え行動されても仕方ないのかも…。
たぶんあと二日三日もすれば、とりあえず一輪は咲くであろう庭の菊。例年になくたくさんのつぼみをつけた菊たちですが、例年通りに父の祥月命日のお墓には供えられない。笑っちゃうくらいに咲かない。
で。
あと少しで咲こうという菊たち、ちょうど一ヶ月後の義父の祥月命日には間違いなく全てが花を終えている。
ほんっとに育ててる私そっくりの頑固で融通が利かなくてあまのじゃくな菊たちです。
そんなことで、明日は神社さんへ参拝し、父と義父のお墓参りに行きます。
そうそう、神社さんもお寺さんも、軒並み手水舎がコロナのせいで閉鎖されてしまったいるんだ。
こんなとき、ペットボトルの水で浄めるのでは…だめなんだろうな。
神社の中の清らかな水で身を清めるのが正しい作法のようだから。
かといって、今までは手と口を清めてからお参りするものだとされていたのに、そのままお参りするのもひどく失礼にあたりそうで。
…小心者はそんなことでもドキドキそわそわすることであります。
群馬県知事、心底恥ずかしい。
都道府県魅力度ランキングに対し法的措置を検討って…。
このランキングって民間の調査会社が毎年年一回おこなっているものに過ぎないじゃないですか。
ゆるキャラグランプリと同レベルなものだと思っていたくらいです。
これに対して臨時会見まで開いて「なぜ群馬県の順位が下がったのか、判然としていません。根拠の不明確なランキングによって、魅力がないと誤った認識が広がることは、県民の誇りを低下させるのみならず、経済的な損失にも繋がる由々しき問題」とか述べてるし。
この発言、この行動こそ県民の誇りを低下させてますけど。
しかも毎年行われていたのに、何故突然今年に限って…。
昨年最下位となった県知事さんは不本意としながらも努力しアピールされておりました。
弁護士に相談して法的措置って…。
魅力あるならアピールすればいいじゃないですか。
解散総選挙の際縁起を担いで使われるダルマはそのほとんどが群馬県で作られてるものだとか、関東一の温泉地だとか。
ヤマダ電機もビッグカメラも、JINSもみんな群馬発祥ですよ、とか。
サッポロ一番のメーカーも蒟蒻畑のメーカーも群馬県発祥のもの。
マスコミに向けて語るなら、どうせなら良いとこをアピールすればいい。
日本に旧石器時代があったという遺跡が発掘されたのも群馬県だったとか。吉永小百合さんがCMで訪れたほど古墳がたくさんある県なのだとか。
うーん、語るほどではないか…。
そもそも昨年最下位となった県などは私に言わせれば、
「どうして?」
「あんなに素晴らしい歴史ある観光地がたくさんあって、美味しい食べ物もいっぱいあるのに」と思ったくらいで。
…ほんと恥ずかしいんですけど。
そんなことで臨時会見開くほど、群馬県って平和だってこと?
嗚呼、恥ずかしい。
やれやれ、です。
群馬県みどり市の【自音寺】さんの境内には十四年ほど前に造られた、【自音寺四国遍路】があります。
先代と現住職が四国遍路に出、その際それぞれが、八十八カ所各霊場のお砂をいただいて来られたのだそうです。
そのお砂を、踏み石の下と、八十八カ所各霊場のご本尊さまを写仏した石仏の下にそれぞれ敷いてあるのだといいます。
境内の狭い空間の一角に造られたもので、本当の四国八十八カ所のお遍路とはくらべることすら烏滸がましいものではありましょうが、それでも八十八の御仏の像一体一体に手を合わせて歩くと小一時間は掛かるもの。
祈りを捧げながらにしても、無心に手をあわせるにしても、八十八の御仏の前を進むうち、心のモヤモヤしたものが晴れていくのを感じます。
また、季節の花がここそこに咲いていて、今はホトトギスの花が咲いておりました。
そして…。今回、遍路のコースを終えて空を見上げると、な、なんとご褒美のように満開の秋の桜が咲いておりました。
青い空に満開の秋の桜。
…なんて幸せなのだろう。
短い、…本来ならお遍路というのも烏滸がましいものでしかありませんが、毎回心が洗われる思いがいたします。
こちらのお寺さんの檀家さんは四国遍路に行かれた方が多いようです。
いつか…いつか歩いてみたいのだけれど。
車で回るのでもいいから、いつか八十八カ所をまわりたい。
「とりあえず言えるのはなんだかんだ四国遍路にはお金と時間が必要だよ」とは自音寺さんの檀家の方で四国遍路の体験者の方。
うーん。やはりそうか…。
そうだよな。
仏様のいらっしゃる世界には、【青蓮華(しょうれんげ)】という花が咲いているといわれているといいます。
これはハスの一種であり、非常に美しい青~青白色を持っている花なのだそうです。優美なラインを描くこの花は、細く長い葉っぱを持っているのだそうです。
この青蓮華、昔から「仏様の瞳(の様子)」を例える表現として用いられてきたのだといいます。
【樒(しきみ)】は、この「青蓮華」の葉っぱとよく似た形をしていると当時の人達は考えていました。
また、樒も青蓮華も、仏様のいらっしゃる天竺(てんじく。現在のインド)に生えている花・植物なのだそうです。故郷を同じくする植物であること、また樒(しきみ)を日本にもたらしたのはあの【鑑真】さまであったことから、樒が〝仏教の花・植物〟となってあったのではないかと言われているそうです。
江戸時代の書物に【樒の形は、天竺の池の青蓮華に似ている。そのため、これを仏様に供す]という文章があるのだそうです。
花・植物の香りがそれほど多様化していなかった昔は、樒の持つ個性的な香りが、仏様や故人に捧げる香に相応しいと考えられ、さらには一年を通して美しい緑色の葉っぱをつけていらことからも冬場でも雪山のなかでも美しい緑色を放つ樒は、仏さまや故人の心を慰めるのにふさわしいものだと考えられたのではないかと言われているようです。
現在はさまざまな花が一年を通して手に入りますが、かつて花は「季節物」でした。こと冬場などは美しい花を手に入れるのが大変難しかった。
「季節を問わず、亡くなった人に美しい花・植物を捧げたい」という気持ちから、樒(しきみ)は仏事に使われる花になったという解釈もあるようです。
なるほど…樒かあ。
とはいえ猫の額どころかネズミの額ほどしかないわが家の庭にはもう、樹木を植えるスペースはないかぁ。
ところで。
【樒】という葉、枝は、私のように植物に(も!)詳しくない人間には、あの【榊】との違いがさっぱりわからない。
護摩壇のそばに置かれた樒の枝を見て、榊?と思ったくらいです。
強いて言えば、枝として置かれていたら、榊は左右対称に葉が生えているのに対して樒は違うかなぁ、と。それゆえ〝榊ではなさそうだ〟とその場で気づいたくらいであります。
しかし葉だけにちぎったらもうその違いはさっぱりわからない。そのくらい似ているんじゃないかと思ったのでありました。少し樒の方が柔らかいかな?
そんな樒。
実は毒のある植物なのだそう。
2.香りによって獣を退けることができたり供物にできたりすると考えられたから
昔は今に比べるとご遺体を守ることが非常に難しいものでありました。
遺体の安置も密閉された空間でもないため、野生動物からも守らなければならず、また、ご遺体の傷みを防ぐためのドライアイスなどもありませんから当たり前で。
そこで用いられたのが、樒なのだそうです。
樒(しきみ)は毒性が強く、香りを放ちます。このため、この香りによって獣を遠ざけることができると考えられたわけです。
また、ご遺体が腐敗していくときに生じる臭いをわかりにくくさせるという役目も担っていたのだといいます。
樒(しきみ)は、また、非常に長持ちをする花・植物でもあります。水を張った花瓶にさしておくだけで花瓶の水を腐りにくくする効果もあるとされています。季節の花と一緒にさしておくと、花の管理もしやすいとされています。
とはいえ、私の住まうあたりではスーパーの生花コーナーにも榊は置かれていますが、樒は見かけたことがありません。
葬儀の際にも特に希望しなければ、樒が使用された生花の祭壇に使われることはないのだといいます。
宗派によっては樒はかなり重要視されたもののようなのですが…。
これが関西に行くと、お店には榊も樒も、常に置かれているのだとか。
関西と関東圏は宗教でも異なった点が多々あるようです。
お護摩を焚き始めた副住職さまが、一人の女性と何か話をされておられます。どうやらお護摩についての説明をされている様子です。すかさずそばに行って聞き耳を立てるおばさんが一人…と思ったらもう御一方。そのうちさらに御二方が集まって、いつの間にやら副住職さまのお話を聴く輪となっておりました。
最初のお話は聞き逃したものの、お護摩での木の組み方、重ねる段数の決まり事などなどをつらつらとお話くださいました。
本日のお護摩はお不動さまの不動護摩で五本の木を組んで置くのだとか。本数とか組み方にそれぞれ決まりがあって、これがお正月には本尊護摩、つまりは観音護摩となるのだそうで、組み方とかいろいろな決まり事が変わってくるのだそうで。
コロナ禍でなければ護摩木に参列者の祈願等を書いたものをお焚き上げするのだけれど、この二年は木のみを組んでお焚き上げされているとのことでありました。
お焚き上げの炎にくべる木の葉は樒(しきみ)。お寺には必ずある木なのだそうです。
知らなかった…。
樒という名こそ聞いたことはあったものの、お護摩は一つのお寺さんの護摩修行に参列したことがあったものの、そこで樒をくべておられた記憶はなく…まるで異なった木の枝であったと記憶しています。葉の形がまるで異なっていたので記憶違いということもないかと思うのです。たぶんそちらでは杉の葉をくべておられたはず。
樒という葉はまさに葉っぱの代表といった形をし、濃い緑色の…椿とか榊とかの葉によく似たものであります。
また一つ学んだ私でありました。
この樒という葉、火にくべると良い香りが漂うものでありました。
実はこの樒という葉は、真言宗の修行に欠かせないものなのだといい、お山での修行では十四枚の樒を炎にかざしそれを一日三回する修行があるのだそうで、その時の樒は今でも持っておられるのだとか。それはご自分がお亡くなりになられた時にお使いになるものとなるのだとのことで、御本堂の内陣の下にしまってあるのだとおっしゃっていました。
深いなぁ。
そして、今、樒について調べたところ、私この木この樒の花を見たことがあったことを知りました。どこかのお寺さんの境内で、変わった花の咲く木だと見上げたものです。
スマホで検索をかけたものの名前がわからず、ずっとそのままになっていたのがこの樒の花でありました。
昨日十月十一日は群馬県みどり市の【自音寺】さんの大縁日。毎月十一日がお縁日でありますこちらは真言宗のお寺さんでご本尊は【十一面観世音菩薩】さま。
…十一面観音さまだから、十一日?私の知っていた十一面観音さまのお縁日は、〝二十日〟となっていたはずなのですが…。
気になって十一面観音さまをご本尊とされるお寺さんのお縁日を調べてみると、実に千差万別。
十八日であるのは、観世音菩薩さまのお縁日であるからでありましょう。
変化(へんげ)観音の初めが十一面観音さまといわれているくらいです。観音経にあります【普門】というのがあらゆる方向を向く顔の意味で、十一面はそれを具象化した菩薩さま、なのであります。
二十一日というところもございました。
二十一日は弘法大師さまのお縁日であります。こちらは真言宗のお寺さんですのでそういったこともあるのでしょうか。
なにぶんにもこの日は大祭でありますので、お寺のあちらこちらを行ったり来たりされておられるお忙しいご住職さまにうかがうこともはばかられ。
真相はのちほどご住職さまに伺ってあらためてご報告させていただくといたしましょう。
自音寺さんに私が到着したとき、御本堂の真正面に護摩壇が設けられていました。まだお護摩には火をくべられてはいない状態で。
まずは御本堂におまいりに。
檀家の方々がさまざまな場所で大祭の担当をされておられます。御本堂の前では消毒液を手に持つ方、お線香をすすめる方…。
「ご真言をどうぞ」とその中のお一人が申されます。
ええぇっ?!
普段なら御本堂の前にご真言が大きな字で書いてあるのですが、それが大祭のため掛けられた五色の垂れ幕で見えないんです。
…。
「まあ、ご真言は無理にとは言わないので。」
さては意地悪をされました?
私のかけがえのない相棒が再び元気になって帰ってきてくれました。
これは自動車整備士の方が並々ならぬ努力をしてくださったおかげであります。部品の調達をいかにすればスピーディーに入手できるかまで努力いただいた賜物なのであります。
すでにありとあらゆるところが経年劣化が考えられる相棒でありますが、長いお付き合いで私がどれほどこの車を大切に思っているかを知っていてくださっていての計らいでありました。
ディーラーに頼んだらどれだけかかったことか…。それは日数のみならず金額的なものもであります。
相棒はすでに高額(?)納税車。大腕を振って長生きしてもらいたいものです。
夫が何を言っても聞く耳はもちませんが、この整備士さんのおっしゃることであれば、今後必ず訪れる相棒の寿命も受け入れることができましょう。
どんなメーカーの車でも、どんな年式の車でも診られる整備士さんはまだ二十代。
修行するためにはとディーラーのピットには勤めないポリシーを持って勤めておられます。
そんな信念を持った働きを、神さまや仏さまは必ず見てくださっておられます。
昨日は髪や顔に黒いオイルがついたままだった。
どうか彼に幸多くあれ、と心の底から祈り願うおばさんであります。
感謝。
昨晩は、関東地方で大きな揺れをともなう震度5強の地震が発生しました。前日の真夜中には東北地方でやはり震度5強の、そして同日夕方には九州地方で震度4の地震が発生しています。
テレビで電車の脱線や不通、それに伴って帰宅困難となられた方々。滝のように噴き出す破裂した水道管からの水。
大きな被害があったことを知りました。
それでも津波の発生がなかったことには本当に安堵いたしました。
ここ何週間は余震の発生する可能性があると言われております。どうか余震はありませんよう、祈るばかりです。
それにしても地震アラート、どうにもドキドキしてたまらない。
本日8日は『お薬師さまの縁日』。薬師如来さまとご縁を結びやすく、願いや祈りが届きやすいとされています。
お薬師さまがご本尊のお寺さんにお参りさせていただこうかと朝からソワソワしているおばさんです。
いつものように仏壇もどきでお経をお唱えし終え…なんだかお縁日だからとあちらのお寺さんこちらのお寺さんといろいろなお薬師さまをお参りするのも気が引けて、
仏壇もどきでお薬師さまのご真言をお唱えするだけにいたしました。
薬師如来さまは正式には【薬師瑠璃光如来】さまで、東方浄瑠璃世界の教主であり、瑠璃色に光輝く霊薬が入った薬壺(やっこ)を持ち、その御力であらゆる病を癒すとされています。
瑠璃色というと、スッと松田聖子さんの『瑠璃色の地球』が浮かぶ罰当たりなヤツであります。
このところ新型コロナウイルスの新規感染者数がかなり減少してきております。
人々の努力もありましょう。
…毎日仏壇もどきに新型コロナウイルス感染症の収束をお祈り申し上げておりました私といたしましては、薬師如来さまをはじめ、神さまや御仏のお力、救いの手であると思い、感謝を申し上げる日々が続いております。
亥の子餅かぁ…。
ウリボウと呼ばれる、成獣とは似ても似つかない可愛らしい子どものイノシシを模した和菓子かぁ。
練り切りみたいなものなのかなぁ。
そこでまたまたGoogle先生にお聞きします。
小豆や胡麻を練り込んだ茶色いお餅で餡を包んだものが一応一般的なようです。が厳密に素材や形状に決まりはないらしくお店によってさまざまな工夫がされ、そのバリエーションは多種多様なようです。
それよりも!
亥は陰陽五行で水性に当たるため(当然ながら私は読み下しておりません。あくまでも書かれたものを参照しているだけです)、火難を逃れるといった信仰があり、この日にこたつを出す習わしがあるのだとか。
えっ?
こたつを愛する私ではありますが、全くの初耳初情報でありました。
茶の湯の世界でも炉開きを行い、茶席のお菓子として亥の子餅が用いられるのだとか。
茶の湯の作法がわからず突然お茶を立てていただくと内心パニックを起こすくらいの私には、茶の湯の世界すら遠い世界でありまして…。
突然でなくとも、非日常な作法のあれこれは当然事前学習をしようとも、付け焼き刃に過ぎず、しかも流れ落ちるが如く覚えられない脳みその持ち主には、やはり茶の湯の世界は別世界であるのでした。
また、イノシシは多産であることから、子孫繁栄を願う意味もあったりと、実は私の知らないところではしごく一般的な行事で食べ物であるのかもしれません。
まぁ、夫も知らないようだし(聞いてもいないくせに(苦笑))、まぁ来年、記憶にあったなら、和菓子店に行ってみることにしましょうか。
うーん、たぶん無理…、だな。^_^;
昨日は亥の子餅を食べて健康を祈願する日であったようです。
はて、亥の子餅。
和菓子が苦手な私は和菓子がの知識がほとんどなく。それでも記憶には確実にその名前が残っています。食べたことはおろか、見たこともないとは思いますが、ではこの亥の子餅も記憶はどこから?
そこでGoogle先生にお聞きして、どこで亥の子餅の話を目にしたかというところまで思い出すことができました。さすがGoogle先生であります。
亥の月の最初の亥の日亥の刻に、イノシシの子のようなかたちをした亥の子餅を食べると万病から逃れられると伝えられるもののようです。
そしてそれはかの紫式部の源氏物語にも登場するものであるという…。
あ。
わかった。
源氏の君がお屋敷の者が持ってきた亥の子餅をみて、惟光を呼んで明日あらためて餅を持ってくるよう言った、あのくだりに違いない。それが三日夜餅で、三日夜餅というものがあったのだなあと知ったのがそこであったので。
煌びやかな貴族の生活は想像すらつかないものばかりで、この亥の子餅もすでに過去のものとなっているものと思っておりましたが、和菓子屋さんでは今なお伝わるものであったとは!
とはいえ私がよくお団子を買いに行くような庶民的な和菓子屋さんでない、練り切りなどの高級和菓子が綺麗に並び置かれた和菓子屋さんでのことなのでしょうが…。
大人になって和菓子のおいしさも多少はわかるようになり、練り切りは本当に上品で美味しいと思ったものでありますが、いかんせん高い。
ショートケーキ一個より高いかそれと同じくらいか。
まぁあの芸術的な見た目を持ってのあの味であります、当然のお値段かと存じます。
もともと和菓子の苦手な私は和菓子店にすら行くこともなく、結局その亥の子餅を見ることすらなく亥の月の最初の亥の日を過ごしたのでありますが…。
亥の子餅よりも三日夜餅の方が思春期の私には衝撃的で、すぐには亥の子餅を思い出すことはできなかったのでした。
やっぱりガサツな私にはそんな歴史ある高貴な食べ物はほど遠いようです。
それにしても…。
今回皇室のご結婚に際してほんの少し調べてみて、三日夜餅の儀があることを知りました。
すべてがはるか昔から引き継がれた大切な儀式。
それを大切に伝承することが皇族に課せられた大切な役割なのでありましょう。それはそれで本当に大変なことと存じます。
帰宅してすぐにシャワーを浴び、ようやく一息ついた今、一天にわかにかき曇り、轟々と…まではいきませんが風が音をたてて吹いてきました。
あんなに晴れて暑かったのに。
神さまが見守ってくださっておられたよう思え、手を合わせます。
…干せるだけ干した布団と洗濯物をしまってから。
なんともありがたいことです。
私の相棒が病んでしまった。
…子供たちとの思い出がたくさん詰まった、愛車のことです。
このところかすかにエンジン音にバラつきを感じて夫に相談していたのだけれど、帰ってきた答えはNo problem!
その後もやっぱりおかしいと思うと何度か訴えてみるもいつも答えは同じ。
…そこでプロに相談してみればよかったのです。回転数が上がらないような、かすかにバラつく音が混じるようなうちに、そうっと相談してしまえばよかった…のかもしれない。
今日はもう明らかな異音。
私の動物的な感が、このままクルマ屋さんに行くのだと強く訴えてきます。
…お騒がせ?
イヤイヤ、それはおばさんの特権だ!
特権を使おう!
整備士さんに事情を話し、整備士さんがうなずきながらエンジンをかけた、瞬間、「ああぁ、これは…」と顔を歪める。
「もう今日はこのまま走らない方がいいです」
やはり判断は(珍しく)正しかったのです。即入院。
すぐにすぐは代車はないので、とりあえず送っていきましょうというありがたいお話を断って、徒歩で二時間(もちろん、寄り道はしている)。
何度も挫けそうになりながら、ようやくたどり着いた家で夫に報告したところ、
「そっかぁ」
「買い替えかなあ」
ふざけっ!
私の相棒、私の片腕、私のゆりかごを!
入院してしまった相棒。
新しい子はいらない…(TT)
大型で強いと言われた台風十六号は上陸せずとも大きな傷痕を残して今なお移動しているようです。
しだいに遠ざかりつつはあるようですが今日なお強い風と波も高い状態が続くとのこと。
天気予報も進歩を遂げ、予報の的中率はかなり高確率で、それはそれでありがたいことかとは思うのです。思いはいたしますが、そうかといって避けられないことには変わりなく。
上陸せずして関東地方でも緊急安全確保が発令され、河川の氾濫があり、停電が発生したとニュース速報が次々と流れました。
全国各地でこの台風により被災された方々にお見舞いを申し上げます。
このさまざまな進歩によって尊い命が失われることを防ぐことができる可能性が格段にあがったのであろうことには感謝いたします。
ただ…逃れようのない自然災害にはただただ胸が痛みます。
それを乗り越えて生きてきたし生きていくのが、生きとし生けるもののさだめなのでしょうが、そんな言葉で簡単に語れるほどの苦しみや悲しみではないものであります。
さいわいなことに私の住まうあたりでは雨も風もさほどなものではなく過ごすことができました。
息子からは無事に過ごしているとLINEで確認もとれました。
台風対策で移動したあれこれを、何事もなく元に戻すことのできることに素直に感謝しかない私であります。
夫は基本、データに基づいて考えて行動するタイプなため、むやみやたらに片付けて後でまた物の移動に時間をかける私とは対照的。
でも実際のところ〝台風対策〟できる人なのかどうか…、正直内心不安なのですが。
…信じよう。
信じる者は救われるというし。
うーむ。
これはキリスト教、だったかな?
仏壇にお供えするお花にりんどうが含まれることがあります。…まぁわが家の場合は仏壇もどきでしかありませんが。
そのりんどう、いままで一度として咲いたことがありません。
手入れが悪いのか?
そうは言っても毎日必ずお水は変えているし、切り花を長持ちさせるといわれる粉末の何かをその水に入れたりすることもあるのですが、とにかく咲かない。
咲かぬまま、葉が枯れつぼみも茶色く萎んでしまいます。
一度として例外なくそうだったため、夫はこの青い花のつぼみはなんの花であるかと聞いてきたくらいです。
今回も葉が枯れ蕾のまま枯れた一輪。
ですが今回、何やら下葉が枯れてはきたものの、まだ蕾の近くにある葉はしっかりとしており、何よりつぼみ自体がふっくらとして、その花先が微かに開きかけているような…。
りんどうだけを仏壇もどきの花瓶から取り出して、食卓に置いてみました。
ですがやはり少しづつ葉の方が枯れ始めてしまっております。
つぼみもさほどは開いてはきません。
うーむ。
咲かないかなあ。
咲いてくれないかなあ。
みなさんの仏花のりんどうはいかがでしょう。
私のうちだけ?
庭の菊がようやくつぼみを持ちはじめました。毎年、お彼岸が終わって父の祥月命日が終わる頃に咲いて、義父の祥月命日には枯れてしまう、お墓用にはなったことがないわが家の菊たち…。この天邪鬼さは植えた人間に似たのでしょうか。
むらさきしきぶが綺麗な実をつけて、花のない今、殺風景な庭を紫の色で飾ってくれています。
ご近所の庭にシオンが咲き誇っています。
シオンはなぜか群生しても寂しさを感じる花だと感じます。
シオンは十五夜草とも呼ばれるのだそうで、十五夜にそこはかとない寂しさを感じる私としてはなるほど納得。
シオンが咲き誇る家にはご主人が早くに亡くなられた奥さまがお一人で住われています。
シオンの花言葉は〝君を忘れない〟なのだそうです。その家の方はそんな花言葉を知っていて植えたのかなぁ。
シオンは思い草とも呼ばれるそうです。
そんな花言葉を知って、満開のシオンの花が切なく、でもロマンチックな気がしてくる私であります。
五十歳で亡くなられたその旦那さまは、私の中学の美術の先生でありました。
奥さまが知っていて植えてくださったのだといいなぁ。
なんとなく十月一日という日には、節目という感覚が強い私。なぜだろうと考えて、ああ、学生時代の衣替えの影響かと。
夫は会社の制服があり、冬服と夏服のあるところでありますが、とはいえ、寒ければ冬服を早めに着、近年のように早くに暑い日が来るとなれば六月を待たずして夏服が着られるというものでありますし、私服もオッケー。私にいたってはオールシーズン同じ服。
学生時代など遠い昔であり、子供たちとて制服のある学生時代からはだいぶ時が経っています。それでも、やはりすり込まれたかつての習慣はどこか頭に残るもののようです。
今日は朝から雨。
その十月一日、実は栃木県足利市の大岩毘沙門天さまの大祭とのことで。
ずうっと行きたい、参拝したいと思っておりましたが、対向車が来たらすれ違い困難だったり、片側がほぼ直角な斜面だったりの山の上に建つ毘沙門天さまの御本堂、私の腕では到底上までは上れません。
なので本坊であります最勝寺さんの少し上にある駐車場に車を置いて、二キロの山道を歩いて上がろうと考えておりましたのですが…。
この雨では…。しかも台風で。
泣く泣く諦めたものの、もう一か所、どうしても参拝させていただきたいところがございました。
…欲をかいてはいけないとは思うのです。
思うのではありますが、
一日と十五日には神社さんにお参りするものだと知ってしまった以上はやはり参拝したい。
うーん。
朝から何度窓の外を覗き見たことか。何度玄関の戸をあけてみたか。
行こう!
仕事ならば雨が降ろうと槍が降ろうと当たり前に出かけるものです。
濡れることなど恐れるのは神さまに失礼でしかありません。
いろいろお礼を申し上げることがあります。
神社さんの御賽銭箱には、小さな日本酒の瓶と、お米、そして榊の枝がお供えしてありました。
なるほど…。
そうか、正式なおまいりをするにはこんなお供えも必要なんだな。
…いつか。
…そうは言っても、お賽銭だけでお祈りと願い事だけはしっかりたっぷりとしてまいりました。
やれやれ。
秋海棠(しゅうかいどう)の花があちらこちらに咲いています。とはいえそろそろ花の時期は終わりでしょうか。
白や薄桃色の、透明がかった花が風に揺れて、私の好きな花の一つです。
秋海棠は瓔珞草(ようらくそう)とも呼ばれ、仏さまに飾る花なのだと知りました。
秩父三十四カ所観音霊場三十二番の、花浄土を名乗る【法性寺】さんの貼り紙に、そう書いてありました。
花言葉は〝慈しみの心〟。
『瓔珞』とは仏さまがまとう宝石を繋いだ髪飾りや胸飾りをさします。
なるほどあの風に揺れる可憐な感じはそんな飾りにもみえます。
…なんだか、秩父へ行ったことも、三十四ヶ寺をまわったことも、夢だったような気すらしてきました。
「秩父が呼んでいる」
とまで言って、笑いあっていたのが嘘のように思えるくらい、遠い過去のような、もう行けないとすら思えるくらいに遠く感じるくらいです。
新型コロナウイルス感染症が、日本にまたたく間に広がって、恐れ。
それでも緊急事態宣言が解除されたその合間に、人混みを避け、混んでいたなら立ち寄らず、N 95のマスクとフェイスシールドをつけて、アルコール消毒液を携帯し、秩父を巡り、東北まで足を伸ばしてまいりました。
が…デルタ株が出回るにつけ、爆発的に増加した新規感染者数。と同時に医療崩壊が起き。
ワクチンを二度接種したものの、
到底それを信じきるまでにはいけず。
昨年より外出も激減しましました次第であります。買い物すらも短時間で、なおかつ使い回しのきく野菜や肉類を少し多いか?というくらいにまとめ買いするようにするようになりました。
デルタ株に変わった新型コロナは確実に罹患する年齢幅を広げ、かつ重症化するものとなり、深刻な医療崩壊をまねきました。
そんな中ではもうどこかへ行こうとすら思えなくなり…。
いつかまた…旅にでる、出られる日は来るのでしょうか。
まもなく緊急事態宣言は解除されるようですが、私は…しばらくはいままで通りの生活を送ろうかと思っております。
浄運寺さんの蓮池の中島の弁天堂にいつのまにか住むようになったと思われていた白蛇さまが、ある時姿がみえなくなってしまったのだといいます。
それがどうやら元いた辺り、新川の弁天池のあった辺りに戻っていたようなのです。
新川という川は子供たちの遊ぶ川でもあったようです。
今、その新川のかつて流れていた辺りに、桐生市の図書館が建っているのだといいます。
隣にある公園?広場?に親水コーナーがあって、そこに何度か子供を連れて遊びに来たことがありました。
川が流れていたような形跡はすっかりなくて、もしかしたら洪水で川の流れが大きく変わってしまったのでしょうか?うーん、それは少し無理があるかなぁ。
ここに来るまでに渡ってきた川からは結構離れていますし。
それとも町の下の地下の川となって流れているのでしょうか?
桐生市役所にでも問い合わせればわかるのかなぁ。…まぁそんなに関心があるわけではないのでやめておきます。
閑話休題。
そんなわけで。
古巣に戻っていた白蛇さまを、川に遊びに来ていたいたずら盛りの子供たちが見つけたのだといいます。
昔の子供達はヘビを恐れるようなことは一切なく、まるで変わったおもちゃでも見つけたかのように棒で突いたり叩いたりして、白蛇さまを殺してしまったのだといいます。
地元の人々は、子供たちの心ないことで殺してしまった白蛇さまを懇ろに供養したのだといいます。
ところが。
その後この辺りで不審火が相次いだり、度々火災が起きたりといったことがあったようで、これは白蛇さまの祟りでは?という話がささやかれるようになり、再び白蛇さまを供養をしたそうです。
そのあと、度々起きていた火災がピタッとおさまり、のちにこちらの弁天堂は火防の神さまとしてもあがめられらようになったそうです。
今は大きかったという蓮池はすっかりなくなってしまって、何やら大きなビルが建っています。
その蓮池があったらどれだけよかったことか…。いつからなかったものなのか、
惜しまれることであります。
そんな【浄運寺】さんの境内には丈六とも思われるほど大きなお釈迦さまの石像があります。
大きな山門をくぐってすぐの左側、御本堂の斜め前となる位置で静かに黙想されておられます。まずはその大きさにびっくりして立ち止まりますが、お優しいお顔立ちのお釈迦さまに心が和らぎ癒されて、その場を立ち去りがたい思いでしばしそこに立たこととなります。
そして、そこから少し左に歩を進めると、かつておもちゃ屋さんだったというビルを観音堂として使用している入り口が見えます。
今でこそ葬儀場のおかげで、ビルの中に御仏の像や仏画や仏具があることに違和感が薄らいだものの、それでもやはり違和感を感じてしまったこちらの観音堂さんで…。
都会にはビルの中の一室にある神社さんやお寺さんもあるようですので、私の先入観に基づく偏見みたいなものにすぎないのですが。…神社仏閣に縁なく生きてきたくせに。自分でもそう思ったものです。
またその側に鰐口もある小さいながらも立派な御堂が一つ建っています。
その反対側には鐘楼があります。
その横には古い石仏さまや墓石がきれいに並んでおさめられていて。
ちょうどその間に。
鳥居があって、神橋があって、石の祠がおまつりされておりました。
こちらが桐生の民話におさめられていた『弁財天石祠』でありました。
かつて、近くを流れていた新川という川のほとりに〝弁天の池〟と呼ばれた所があってそこに祀られていた石塚があったのだそうです。
そこには白蛇さまが主として住んでいたそうで、弁天さまとそのお使いである白蛇を、人々は大変ありがたがりみな足繁くお参りしていたのだそうです。
それが新川の大洪水で流されてしまったのだそうで、なんとか洪水後の生活が落ち着いた人々は、弁天さまと白蛇の祠を再建したいと思案したのだそうです。
新川にほど近い浄運寺さんには当時鐘楼堂のそばに大きな蓮池があったらしく、人々はそこに弁天堂を建立させてもらえないかと頼んだのだそうです。浄運寺さんはすぐに快諾してくださったとのことで、蓮池の中島に弁財天石祠が祭祀されたのがこちらの石祠の始まりだったようです。
その後、なんと白蛇さまがこちらの石祠にも住まうようになり、人々はその奇跡にますます崇拝するようになったのだそう。
ところが。
前述したレスを読むだけですとあまり良い印象を受けないかとヒヤヒヤものの群馬県桐生市の【円満寺】さん。
境内は明るく、小さな花壇には季節の花が植えられたきれいな心地よいお寺さんです。
御本堂が高い位置にあることが少し難点なだけで、大変良いお寺さんであります。
そこだけはどうしても書いておきたかったし、書かねばならないこと。
円満寺さんはその境内が【桐生が岡動物園】と、【美和神社さん・桐生西宮神社】さんとほぼ直結した、大変良い環境にあります。
とってつけたわけでは決してなく、私の大好きなお寺さんの一つであります。
同じ日。
ここのところよく話題にしている、〝ふるさと桐生の民話〟にお話のある、【浄運寺】さんへも参拝いたしました。再拝、となります。
以前お邪魔させていただきました際には、品の良い優しそうなおじいちゃま住職さまが御朱印の墨書きをしてくださいました。
この日はそのご住職さまにはお会いできなかったのですが、民話にあります弁天堂に参拝することができ、さらには御本堂へと入らせていただいてお参りすることができました。
こちらは天正の時代に開山されたお寺さんで、慶長年間に桐生新町づくりと称した町づくりので、桐生新町の南を護るお寺として、同市内の新宿町というところにあったものが誘致されたということです。
1624年に浄運寺三世が、江戸増上寺の二代将軍秀忠公の法要に随喜し、この時の布施金で本堂を建立したのだといいます。この時の本堂は水害のため、残念ながら宝暦三(1753)年に再建されており、それが現在の御本堂のようです。
また、三代将軍家光公の法要にもこちらの五世が随喜し、その布施を基に庫裏の中心部分が建てられたのだそうです。
なかなか御本堂内へおまいりすることは叶いませんが、お彼岸中ということで御本堂へと上がらせていただくことができました。
広くて、そんな古さを感じさせない、大変整った御本堂でありました。彫刻がたくさん施され、天井絵も見事なものでありました。
大きくて長い数珠が欄間にかけてあります。十月に通常であれば十夜会として大数珠繰り念仏と千灯供養がとり行われるようです。
本堂右手には千体十一面千手観音さま、左手には千体大勢至菩薩さまの…総尺十二尺とされる大きな大きな立像が安置されていました。
御本堂の全てに感動する圧巻の御本堂でありました。
群馬県桐生市の【円満寺】さんに何度目かの参拝をいたしました。
円満寺さんは鉄筋コンクリート建ての御本堂、それもけっこうな階段を登ってお参りするお寺さんで、境内にそびえ立つような、そんな印象を受けますお寺さんであります。
しかもただでさえ高台にありますのでここから見下ろす…見渡す景色はなかなかのものであります。
ただ、こちらの御本堂、歳をとったらお参りはなかなか難しい。
階段がなかなかに急なうえ、段数も多く、そんな傾斜角度からスロープもつけられず、車椅子では当然あがれないし、足腰が弱ってきたり呼吸器や循環器などが衰えてきたら御本堂へお参りするのは厳しいかと…。
どうしてこのような建て方をしたのだろう。
初めて見たときも、そしてあらためて見上げてもそう思うもので。
扉もしっかりとした大きな鉄の扉で、普段はその鉄の扉も閉められております。なにかものものしいとすら思える御本堂であります。
現在のご住職さまは、この御本堂が建てられた頃はこちらに縁のあった方ではないようで、こちらの御本堂は昭和四十八年に建てられたものとのこと、ご住職さまはやっとお生まれになられた頃でしょうか。…さすがにそのご住職のお年あたりはお聞きしたわけではないので、あくまで推測に過ぎませんが。
その御本堂とは別に旧本堂とも思われる大変立派なお堂があります。今はそのお堂は使われていないようで正面のガラス戸にはカーテンが掛けられています。
旧本堂?
正面に北辰殿という額がかかげられています。
北辰…妙見さま?
近くで見ればこの北辰殿、たいそう立派な彫刻が施されています。
ご住職さまにお聞きしたところやはり妙見さまがこちらにおられるとのことでありました。
北辰殿がこれだけの造りということは、昭和に建てられる前の御本堂はさぞ立派なものだったことでありましょう。
こちら、大同年間(806〜810)に開創開基されたということであります。
開山以来何度も火災に見舞われ、特に明治31年の火事で北辰殿と鐘楼以外全て焼失してしまったようです。
その火災以降、北辰殿が長いこと仮の本殿であったようです。…これは私が本堂と思ったのも当たらずといえども遠からず、と言えます、かね?
昭和の時代、耐火建築に重きをおいた頑丈な造りとなったのでしょうか。うーん、少し残念。
私が高校時代に離婚した父のお墓参りに行ってきました。
いつも御本堂にお参りしてから。
幼いときばあちゃんとお墓参りするとき、いつもそうしていました。帰りは必ずお地蔵さんにご挨拶して。
父方の菩提寺のご住職さまは笑顔の素敵な方。いつも穏やかにニコニコ微笑んでおられる方です。
檀家でもないのにそれこそ盆暮れ正月、参拝して、どこかの墓参をしているのが目についたのか、ある時話しかけてくださったことがあり、
○○の身内の者なのですが離婚していたため父のみならず祖父母のお見舞いにも死に目にも会えず、葬儀にも列席できなかったとお話したことがありました。
もうなんだかんだ十年くらい経つかと思います。
その時、そうでしたかとのみ語られ、御本堂の扉を開けてくださって、御本尊さまにお参りさせてくださいました。
その後はお会いできないことの方が多く、もう何年か前にお会いしたのが最後でした。
その時もわざわざ近づいてきてくださってお声がけくださり、二言三言お話してくださいました。
今日、そんなご住職さまのお姿を内陣にお見かけしました。目があったのかなぁと思った瞬間、もう私の目の前に飛んできたかのようにおられて、いつもの笑顔で「こんにちは、どうぞお参りください」と、御本堂の中へとご案内くださいました。
さらにはわざわざお焼香の香炉も火をつけてくださり、お焼香をすすめてくださったのです。
…なんとありがたいことでしょう。
顔を覚えてくださっていただけでなく、おそらくはそんな私の話まで覚えていてくださってのことでしょう。
思わず涙がにじみ、せっかくの御仏、虚空蔵菩薩さまのお姿もかすんでしまいました。
御仏に仕えるとはこういうことか…。
まるで生き仏さまのようであります。
境内はいつ来ても綺麗に掃き清められ、季節の花が何かしら咲いています。
一つの花に特化してなになにの寺とかにすることなどなく、あくまでも檀家さんがお墓参りに見えたときのために、春には春の、夏には夏の、それぞれの季節の花が植えられ、季節季節の花木もあり。
日の当たる明るい境内です。
心がほんわか温まって、来るたびああ来てよかったと思えるお寺です。
じいちゃん、いいお寺さん選んでくれて本当にありがとう。
じいちゃん、ばあちゃん、パパ、
いつも守ってくれてありがと。
♪神さまは
その一人子を
世の中にくださったほど
世の人を愛されました♪
実は私、小学生の時、友人に誘われて三年くらいだったかと思うのですが、教会の日曜学校に通っておりました。
その後転校したと同時に日曜学校へ行くこともなくなり、信仰心のかけらも育たないまま、卒業(?)したのですが。
それでも、歌っていた讃美歌や、〝主の祈り〟等を今でもそらで歌え、そらで言えるくらいには私の中に残っています。
そんな一番学んだはず(?)のキリスト教にはたどり着くこととはなりませんでした。…まぁ、今後のことは自分でもまだわからないことでもありますが、この心地よい夫婦二人三脚、珍道中を続けている限り、そこにたどり着く可能性はたいそう薄いよう思いますけれど。
そして、その二人三脚の片割れの夫も、実は保育園が教会系のものだったようで、幼児期はシスターに関わっていただき育ったようです。そうは言っても彼にはキリスト教の教えのかけらも残っていないようですが…。
かく言う私とて日曜学校に通ったことのない方にも劣る知識しかなく、一生懸命に子どもに信仰心を!と高く尊い志でキリスト教の教えを説いた方には本当に申し訳ないことであります。
♪慈しみ深き友なるイエスは、
罪とが憂いを
とり去りたもう♪
うーん、罪とが憂いを取り去ってくださるのか…。…そうかぁ。
煩悩の塊がまた一つ煩悩を作ったような…。
先だって、
少彦名命さまを主祭神となさる神社さんについて書かせていただきました。
私の住まうところあたりで、
天照大神さまを主祭神とされる神社さんはどちらだろう。
…いまはほんとぉ〜っに便利な時代でスマホからサッと検索が可能です。
思いのほか少ないようで、そういうものなのかとびっくりした次第。
昔ほど神社仏閣との繋がりは深くはないかも知れない現代。ましてや私のように親やその上の世代からもそういった教えのもと生きてこなかった人間にとっては、どこどこの神社さんにはどんな
神さまがおまつりされているから、こんな願いごとだから、どこどこ神社さんへ御祈願に参拝しようとか一度とてなかったもの。
そこへいくと、先日桐生の図書館でお借りして(一部)読んだ【ふるさと桐生の民話】という本には、三十ニキロメートルも離れた世良田の八坂神社さんの縁日に行くだのとあり、当然徒歩。
片道三十ニキロメートルといえば車でだって一時間くらいはかかる距離です。
それが楽しみの一つであったと考えても私には到底考えられない、考えたくない。
でもかつて人たちは、そんなふうにどこどこの神社さんやどこどこのお寺さんの御利益を伝え合い、信仰して生きていた。
誰もが知っていて当たり前の情報で。
そんな噂を聞きつけてはるか遠くからも参拝する方も多かったくらい、信仰は日常であった時代がありました。
どこの神社さんにはどんな神さまが祀られ、どこのお寺さんの御本尊さまはどんな御仏であるかなんて、生まれたときから刷り込まれ、頭の引き出しなんて開ける必要すらないくらいにスッと思い浮かぶものであったこと。
そこへいくと無信心で過ごしてきた私とそんな親に育てられた子どもたち、なんか情けな句、子どもたちには申し訳なく思うほどであります。
そんなわけで(?)調べてまでみたのだからお参りしないと申し訳なく、地元の神社さんへ参拝させていただきました。
…何度もおまいりしておりました、神社さんで、そこでまたあまりに情けな〜い申し訳なさに落ち込んだ私でありました。
やれやれ。
いままでは母方の菩提寺であったお寺さん。いろいろ考えて母は自分の墓所、永眠の地を先祖代々が眠るところに定めました。
いまは母の眠るお寺さんとなった、そのお寺さん。
…かえってすべてがよそよそしくなってしまい、居心地の悪いお寺になってしまったと感じています。
大好きなお寺さんの一つだったのになぁ。大好きな叔父の眠るお寺でもあります。
母の菩提寺において、私は外戚でしかなく、あくまでもその祭祀承継者である檀家のみが家族で遺族。
たしかに、檀家とはビジネス関係にあり、そうでない者はビジネス外で。
でもね、お寺さんに支払われているお金も私たちからも徴収し、なおかつ法要のお包みもしているという祭祀承継者なんで…。
つまりは代表者でしかないんですけど。
どこの身内か顔を覚えられるほど参拝している私には、挨拶すらおざなりな和尚さん。
こちらのお寺だけは終のすみかには選ぶまい。
それにしても嫁ぐということが、長男とそれ以外ということが、お寺という古い歴史を持つ組織においてはこんなにも大きなことなのだなあ。まだまだ旧体制の家制度がしっかりと根強く生きてたものなんだと、ここのところイヤというほど知らされています。
他のお寺さんが優しすぎたから、今まで気づかず来ただけだったのだろうけれど。
お寺も慈善事業ではないということ、もとい、そういったお寺さんもあるということか。
こちらのお寺さん、庫裏である住居は大変新しく住みやすそうな大きな平家建て。何台ものクラッシックカーが車庫に居並び、さらには通常の移動に使う車も人数分プラスニ〜三台あって…。
一方本堂や山門は、あまり手入れをされておらず、今修理修復しないと朽ちてしまいそうな江戸時代からの山門もそのままで。…まぁこうしたものは檀家からの寄附金でするものらしいけれど。
かといって茅葺き屋根が銅板で覆われてしまうのもそれはそれでイヤなのだけれど。
…こら、私!
それが煩悩っていうのだよ。
暦によると、今日九月二十一日は〝一粒万倍日〟だそうです。満月に一粒万倍日、なんだかとっても良い日そうです。
ところが。〝仏滅〟ともあります。
…実は調べていて知ったことなのですが、十五夜は暦の上では必ず仏滅にあたるのだとか。
ええっ?
…初めて聞きました。
『仏滅名月』とも言われているのだとか。
ここで疑い深い私、昨年の十五夜の暦を調べてみました。スマホ様々であります。
おおっ!( ゚д゚) たしかに!
昨年のものしか調べてはみませんでしたが、なるほど、昨年と今年に関しては間違いなく仏滅であります。
ふぅー、知らなかったこと、知らないことがなんと多いことか。
毎日勉強です。
昨日は敬老の日。さすがに私どもの祖父母はかなり以前に他界しており、むしろ孫がいるので私どもがその対象者?
いやいや、そんな歳ではない!
というか、敬ってもらえるような中身が備わっていないので、そうあれるよう頑張ろうと思うことではあります。
そして彼岸の入り。お彼岸週間であります。よく晴れたまさにお彼岸!といった一日でありました。
とはいえ、コロナの新規感染者数が減りつつあり、ワクチン接種者数が増えた三連休の最終日でもあるためか、墓参の方はさほど多くなく思えました。
彼岸花があちこちに咲き誇っておりました。本当にお彼岸のころに咲くものだなぁと感心しました。
わが家の庭のネリネと呼ばれる彼岸花科の花はまだ影もかたちもないのですが…。
今日は【中秋の名月】。
『中秋』とは旧暦の8月15日を指し、なので新暦では毎年毎年日付が変わります。
お月見というと『満月』のイメージですが、今年の中秋の名月は、8年ぶりに『満月』が重なる中秋の名月となります。
『中秋の名月』=『十五夜』ではあるのですが、月の満ち欠けや満月というのは、月、地球、太陽の位置関係で決まるため、新月から満月までの日数は変動し、なんでも13.9〜15.6日かかるのだそうで、旧暦15日とは合わないことが多いのだそうです。
お月見では『ススキ』や『お団子』をお供えますが、これは穀物の神さまであり、月の神さまでもある【月読尊(つくよみのみこと)】さまに、稲穂に見立てた『ススキ』や無事に収穫できた感謝の心を表す『団子』、収穫された野菜や果物などを捧げたことが由来とされています。
なかでも『ススキ』は月読命の依り代と言われていて十五夜では重要となるのだそうです。
うわぁ、やっぱりススキって必要不可欠なものだったのだなぁ。…これがなかなか手に入らないんです。今どきそこら辺にはススキ生えていないんです。
で、子供たちが小さな頃、いろんな体験をさせたいと努力しておまつりしていたお月見の行事もいつのまにか断念してしまったという悲しい思い出があります。
花屋さんやスーパーで売ってはいたりするんですが、これが高い!
さらに『片見月』は縁起が悪いと舅に言われ、ついつい十三夜を忘れがちになることもそこに拍車をかけたのも事実です。
その頃からうっかり者であったので、認知症がいつ始まったかとかがなんとも判断しにくい奴で…。
秋の花咲く頃となりました。
秋の七草をそれぞれ植えたお寺さんを巡る七巡りもあるようです。
埼玉県の長瀞町では七草寺と称した七カ寺で長瀞七草寺めぐりというものがあります。
専用の御朱印帳を購入して七カ寺すべてで御朱印をお受けすると最終寺でなにやら記念品がいただけるのだとか。
今年は緊急事態宣言下、七草寺めぐりは開催されているのかどうか…。
群馬県太田市にも秋の七草がそれぞれ植えられた七カ寺があります。
こちらは全部まわっても記念品とかいったものはなさそうですが、太田市のそれは七福神も兼ねており、七カ寺まわると七福神めぐりとなるものです。
そもそも、秋の七草を全部ご存知な方はあんがい少ないのだと、思います。えっ?違う?…ごめんなさい。
ご存知ない方のためにとりあえず。
〝秋の七草〟は、奈良時代の歌人、山上憶良(やまのうえのおくら)が万葉集において選定したものなのだといいます。
「秋の野に 咲きたる花を
指折り(およびをり)
かき数ふれば
七種(ななくさ)の花
萩の花 尾花葛花 撫子の花
女郎花 また藤袴
朝貌(あさがお)の花」
と歌われたそう。
1.萩(はぎ)
2.尾花(おばな)= 薄(すすき)
3.葛花(くずばな)= 葛(くず)
4.撫子(なでしこ)
5.女郎花(おみなえし)
6.藤袴(ふじばかま)
7.朝貌(あさがお)
→ 「朝顔」ではなく「桔梗」
であるとの説が定説
『春の七草』は〝七草がゆ〟にして食べるなど、〝食〟を楽しむものですが、『秋の七草』は花を〝見る〟こと楽しむもののようです。
そんな群馬県太田市の萩の寺とされるお寺さんに参拝いたしました。
【離悩山受楽寺】さんです。
萩の花はまさに盛りでありました。高い所から枝垂れて咲く萩。山門のそばに咲くもの。ハラハラと散った花びらも可憐で美しかったです。
萩は二色。
こちらへは以前私一人で参拝いたしております。私は再拝、夫は初めてであります。
…こちらのお寺さんの名前、すごくないですか?『悩みから離れ楽を受ける』ですから。
煩悩の塊の情けない私。このお名前だけでもう救っていただけてしまいそうで、今日もこちらのお寺さんのそばまで来たからぜひ寄りたいと申した次第で…。
緊急事態宣言下なのでお寺さんの方とはお会いせずにただお参りさせていただきました。
『少彦名』と入力するだけでその名が出てくるほどの神社さんが、大阪にあります。
その名も【少彦名神社】さん。とある漫画にも出てくるくらい有名な神社さんのようであります。
大阪のお祭りは【今宮戎神社】さんの『十日戎』で始まり、少彦名神社さんの『神農祭』で終わるといわれているようで、止めの祭ともいわれるようでたいそう賑わうお祭のようです。
そんな思わぬ形で開いた少彦名神社さんの公式ホームページ、御守りやおふだを郵送していただくことができるようであります。
少彦名神社さんの授与品は何やら虎の絵の御守りや絵馬、置き守りが多いようです。オリジナル御朱印帳にも張子の虎と神笹が刺繍されています。
これはかつてコレラが流行していた折、『虎頭殺鬼雄黄圓』という丸薬を、病除けの張子の虎『神虎』とともに授与したことに起源するようです。
そんな授与品の中、金色の今にも吠えそうなリアルな虎の置き守りが目にとまりました。どうやら少彦名神社さんの境内にある像を模した置物のようであります。
その置物、置き守りに私、一目惚れいたしました。
お参りもできないくせに、そんな形で御守りをお受けしていいのかどうか…。
でもどうしてもどうしても欲しい。
来年は寅年、そんなこともあります。
よぉし。
これをご縁と思ってお送りいただこう!生まれて二度目の現金書留です。
そして。
本日その金色に輝く少彦名神社さんの虎の置き守りが届いたのです。
うれしい!
丁寧に一字一字墨書きされた私の宛名も、お忙しい中ありがたく、切り取って保管したほどです。
こちらは来月神農祭の日に箱を開けて飾ることとしようと思っております。
私の世代は学級文庫が盛んな頃でありました。年度ごとに変わるクラスであるのに、毎年予算が組まれていたような話を、高学年の時の担任であった先生からお聞きした記憶があります。
クラスで話し合い、どんな本が欲しいかをクラスで決定し、結構な冊数の本が用意されたよう記憶しております。
男子が好んだのが戦争ものと歴史もので、当時はまだそんな内容の児童書が発行されていました。
しかもシリーズ化されていて、〝古事記〟や〝平家物語〟、〝義経ものがたり〟、〝太閤記〟などなど、しかもそれぞれ低学年向けから高学年向けまであったものです。
ただ、そこで読んだものがしっかりと脳内に残っている人いない人には分かれてしまうのも悲しい事実で、私などもその何冊かは読んだ記憶があるにはあるのですが…。
それでもおぼろげに
イザナギノミコトさまやイザナミノミコトさま、
天照大神さまや素戔嗚尊さま。
そしてオオクニヌシノミコトさまのお話なども部分部分覚えており、兄さまたちが神さまと思えないほど意地悪だったこととか、皮膚トラブルにはガマの穂が効くんらしいとか、小さな神さまと楽しく旅して国を造られておられたことなどは覚えておりました。
その小さな神さまと再会…ということではないですが、少彦名命さまをおまつりした神社さんに初めてお参りいたしましたとき、子供の時分に憧れていた方に出会えたような思いにも似た大変嬉しく心はずんだ思いがしたものです。
少彦名命さまを主祭神としておまつりされている神社さんはそうはなくて、群馬県では私が知る限りは高崎市の小祝神社さんくらいでありましょうか。
おまつりされている神さまを存じ上げぬまま参拝にうかがった茨城県の大洗磯前神社さんなどは、その憧れの神社さんの主祭神さまたちが、なんと子どもの頃胸はずませて読んでいたあのオオクニヌシノミコトさまと小さな神さまであったという感激と、素晴らしい神社さんでありました感動とで、いつかまた必ず再拝させていただきたいと願っておりますくらいであります。
少彦名命さまは医療神であります。さらには穀物神であり温泉神、酒造の神であられます。
このコロナの時代、是が非でも御祈願申し上げたい神さまでありましょう。
ただこの緊急事態宣言下、なかなか参拝も難しい状況であります。
ところが…。
そして…。
十五日は奇しくも、夫の父親と私の父親の月命日にあたります。
もう少しすれば秋のお彼岸、とも思ったりもしたのですが、ギリギリ一件ならば時間的に大丈夫そうです。そんなわけで夫の実家のお寺さんにだけお参りいたしました。…父には心の中で、ごめんなさいとお彼岸に行くからねと詫びながら。
夫の実家のお寺さんの駐車場に、赤い彼岸花が咲いておりました。
彼岸花を摘んで帰り母に結構強く叱られた思い出があります。
お墓によく咲いている彼岸花、純粋に縁起でもないからという理由だったのですが、のちに彼岸花には毒のあることを知り、それを母が知っていたかどうかはわかりません。
なんでも花にも茎にも、葉にも、球根にもすべての部分に毒があるのだといい、特に強い毒を持つのは球根なのだそうです。
その時の私には美しく思えた彼岸花でしたが、結構きつく叱られたので、それ以降はなんとなく不気味さをすら感じるようになってしまったものです。
それでも。
かつて日本中から愛され惜しまれながら引退した『山口百恵』さんが歌った【曼珠沙華】という歌。
この曼珠沙華が彼岸花の別名であると知り、こうした呼び名の方が世に浸透していれば、あの時叱られなくて済んだだろうになと思ったものです。
これの曼珠沙華という呼び方は仏典に由来し梵語で紅色の花を意味するのだそうです。
ほかに仏具の天蓋に似ていることから『天蓋花』とも呼ばれるようです。
ところが実は彼岸花の別名はほかにもあり、その数なんと千以上ともいわれるようです。
死人花、地獄花、幽霊花、剃刀花、狐花、毒花、痺れ花、雷花等々、良いイメージのものは曼珠沙華と天蓋花くらいでしょうか。
今、彼岸花の群生地や彼岸花のお寺など、彼岸花を愛でるところも数多くあります。
そして…わが家の庭にも『ネリネ』というヒガンバナ科の花が植えられています。薄紅色の可憐で美しい花ですが…亡き母がこれを見たらまた叱られるのかなぁ。
なんとなくきれいだねとか言いそうな気がしてなりません。
秋晴れの今日、十五日。
一日と十五日は何やら神社へのお参りの日らしいと、周囲の気配から学んだものの、その由来はなんなのかはわからない。
旧暦に由来するものであれば、まさに新月と満月にあたるのだとは思うのだけれど、今のカレンダーで一日と十五日、であるようです。
で、とりあえずなぜかはわからないものの、行けるときは自分の住まうところの総鎮守の神社さんへと参拝するようになりました。
そんなお参りのときにいつもお会いする方がおられます。この方が毎日来られているのか一日と十五日のお参りなのかはわかりませんが、お車で参拝されるので、ご近所の方が日参されておられるのとは異なるようです。
このたび、さすがになぜ「一日」と「十五日」なのかを調べてみました。
一日に神社へ参拝することを御一日参(おついたちまいり)と言うのだそうです。
そしてどうやらやはり旧暦に由来したもののよう。
旧暦では一日は必ず新月(物事の始まり)で、十五日は必ず満月(物事の完了、成就)と決まっていました。
昔から月の満ち欠けには大きな力があると信じられており、人体に及ぼす影響もあると言われてもおります。
そんな月の満ち欠けによって何かが起こるか起こらないか別にして、こういった暦の考え方を元に「一日」「十五日」にお参りするといった事が生まれたようです。
…当たってたようです。
旧暦に由来しているので、今日は満月ではなく、今月の満月は二十一日のようです。
新月満月の日に参拝するのが正しいとか、今は今のやり方でよいのだとか、これはあくまで自分の判断でよさそうです。
ただ、私としては月毎に変わる新月満月の日を暦で調べて参拝するよりも、一日、十五日とかの方が覚えやすくてよいかもしれません。
九月十二日から十七日までを白露(はくろ)次候、鶺鴒鳴(せきれいなく)というそうです。
セキレイ…?
その名前こそは聞いたことはあるもののどんな鳥なのかはさっぱりわかりません。
全長十八センチ〜二十二センチメートルほどの鳥で、細いくちばしと長い尾が特徴的だと書かれています。羽の色は白と黒、長い尾羽を上下に振る鳥だといいます。
それゆえ〝石たたき〟とか〝庭たたき〟と呼ばれることもあるのだとか。
うーん、イメージはできても、「ああ、あの鳥のことかぁ」とまではいかないです。
そもそもが鳥をみてもその名がわかるほどには鳥に関わった生き方をしてきてはいません。
そんな私とは縁がないらしいこの鳥、〝恋数え鳥〟、〝恋知り鳥〟という異名があるのだとか。…これはたしかに縁がないかもしれない。
日本の美しい四季と暦を時々紐解いては、いにしえ人の心の豊かさをあらためて感じ感心しています。
とはいえ、今はもう四季の移ろい
すらもずれて、なかなか当てはまらなくなっていることもあります。
特に神事はこの四季折々の時を神さまに感謝する儀式がたくさんあります。
少しづつ、そんな儀式との関わりをも拝していけたならいいなと、思う秋の一日であります。
今日はまさに秋らしい、そんな一日であります。
そんな気持ちの良い日、息子は昨夜打った二回目のモデルナワクチンで発熱しております。
いくつになっても、具合の悪い子供をみるのは胸の痛いものです。
ワクチンに思うこと。
新型コロナウイルス感染症に思うこと。
いろいろありますが…。
ここまで生きづらい世を迎えようとは、思ったことすらありませんでした。
こんな世にあっても、若者たちはその中で幸せを探し感謝して生きていって欲しいと、切に思い、切に願うものであります。
群馬県桐生市の白瀧神社さんの境内には【降臨石(こうりんせき】と称する周囲30~40mともいわれる大岩があります。
この岩が、大きいからというのではない存在感あるもので┉なんだかそこで微笑んでいるかのような、おだやかな、あたたかな気を放出しているかのようなものであります。
苔が生え、木の芽が芽生えた、この石の存在が〝神„のようです。
なんでもこの石、七夕の夜に突如として星が落下して岩となったと伝えられています。さらには岩肌に耳をあてると白瀧姫の機音と糸を繰る音が響くと近隣に知られたものの、ある不心得者が雪駄を履いて岩に上がって以来機音が止まってしまったとの言い伝えがあります。
秋の日を迎えまた参拝させていただきたいと思う、神社さんです。
なんでも近年は、身分の差を乗り越えて夫婦になった事から縁結びの御利益があるとも云われているようですよ。
白瀧姫さまと山田奴のお話。
時の帝から許された二人も、避けては通れぬ別れがあります。
〖愛別離苦〗。死がこの二人を別つ時がやってきます。
姫さまが病の床に着かれたのが先であったようです。
山田奴は懸命に看病したのですが、やがて姫さまは息をひきとられます。その悲しみようは見る者の涙を更に誘うものであったようでありました。
葬儀後。
山田奴は姫さまの葬られた境内にあります【降臨石】のそばで、ある時は泣き崩れ、またある時は放心し、食事もとらずに日がな過ごしていたようです。
そして┉ある時、ふいに姿を消してしまったのだといいます。
村人たちはその悲しみの深さを知っていたため、山田奴の行方をたいそう心配したようでした。
その後。もう一度山田奴は、見る影もない姿で戻ったものの、再び姿を消しその後の行方は誰も知らないということのようでありました。
┉山田奴が葬られたところが無いわけです。
┉┉。
群馬県桐生市の白瀧神社さん。
宮司さまも常にはおられず、例祭のときにしかおみえにならない神社さんですが、こちらの落ちついた、やわらかな、明るい雰囲気が好きで、何度か参拝させていただいております。┉私一人でも。(*`艸´)
何やら文化遺産になっているようで、小さな山里にあります神社さんですが、いろいろなところで記事として扱われているようです。
でも、どなたにもお会いすることなく(例大祭のときは別です┉って書くまでもないことですね)一人で心ゆくまで神さまとご一緒させていただけております。
私の穢れを浄めてくださろうと神さまが寄り添ってくださっておられるのでしょうか。┉それはちょっとずうずうしい考えでありますかね。
ただひとつ。
こちらにおまつりされておられる白瀧姫さまは元々は都から山田奴の妻としてお越しになられたお方とされています。
姫さまはこちらにおまつりされ、山田奴さんはどうされたのだろう┉。
姫さまも山田奴もお寂しい思いをされてはおられぬだろうか。
たいへん仲むつまじかったお二人であられたようなのに、一説には姫さまはこちらに埋葬されたとまであるのです。
山田奴さんはいずこへ?
まあ、こんな煩悩だらけの凡人の私とはもともとの考え方すら違うのかもしれません。姫さまが神として祀られたことを純粋に〝喜び〟と考えたかもしれません。そしてご自分はあくまでも村人、里人の一人であると自覚されていたのかもしれません。┉周りの人たちもそうだったかも知れず。
だとしたら山田奴さんのお墓とかはどこか別のところへ?
┉そんな山田奴さんのこと、【ふるさと桐生の民話】という本に、しっかりと書かれておりました。
とはいえ、行ったことのない神社さんのことを私があれやこれや語るのはまさに笑止千万。
ただこちらは伊弉冉尊(いざなみのみこと)さまの墓所であると言い伝えられており、一説には伊弉冉尊さまそのものであるとされています。
気の遠くなるくらい昔からありますこちらの岩はもともと侵食で穴が開いているものであったようで、崩落自体はつい一ヶ月前ほどにもあったようです。
ただ、今回大きさが大きかったのでしょうか。それとも拝所に落石していたことで大きく取り扱われることとなったのでしょうか。
その辺はよくわからないのですが、ともあれ御神体の岩ももともと侵食で穴があったことを知り、ひとまずホッといたしました。
とはいえ、その場に誰もいない時間帯に崩落したあたり、やはりさすが母なる神さまのまつられた神社さんであります。
そこにお参りしておられる方がいたらと思うと…ただただゾッとすることであります。
私がこのニュースを見ていてちょっとショックを受けたことがありまして、それは御神体の崩落した岩を重機で撤去したということ。
いやぁ、120㎝×70㎝という岩ですから、ね、重機でなければなかなか難しい。
でも、そこはやはり撤去って言葉を使わずにいて欲しかったかなあ、と。
神社さんにおかれましては、御神体の一部、然るべくところへ移動して、いずれきちんとおまつりされるのであろうかとは思うのですがね。
御神体(の一部)を撤去、とか言わずに欲しかったなぁということ。
それだけ言いたくてこの長文?
…はい、さようにございます。
夕食の支度をしながらいつも、テレビでニュース番組をつけております。
ほとんど見ることなどないし、見たくとも見られない〝料理の佳境〟というものもありますのでラジオでいいのではないかと思ったりもし、実際ラジオにしたこともあるのですが、やはりテレビの音だけを聴いているのとラジオのそれは全く別物で、これが結構なストレスで、すぐにお蔵入りしたラジオ。
ちなみに車で移動するときや、掃除、ことに片付けのときはラジオであります。
そんな、昨夜のながら料理の最中に〝…神社…〟というフレーズが耳に飛び込んできました。
そう、テレビですと手が離せるタイミングですとその画像が見られたりするので、聞き逃ししたことを補えることもあるのです。
もちろん、メインはあくまでも料理ですので、まるで見られない聴くことも無理みたいなときはあるのですが…。
『三重県熊野市の世界遺産「花の窟神社」でご神体の岩の一部が崩れ落ちているのが見つかりました。』
えっ?
…いつかは行きたいと願っております、熊野古道にある神社さんのようです。【花の窟神社】
なんとも可愛らしいお名前の神社さんであります。
行きたい、と思っているわりに詳しくないじゃない、と思われた方もおられるかと。
そう、こちらは日本最古と言われる神社さんのようですので、行きたいと思ったならそのくらい知っていて当然、…な場所なのかと。
ですがね…。調べても行けない。
今それが虚しいのです。
このコロナ禍で、コロナに罹患することなく生きていられる奇跡に感謝して生きる日々。…それでも煩悩の塊人である私は、先の見えない不安からすこぉしばかり逃避するというか、虚しい思いとかをあえてしないよう、できるだけ平かな気持ちで過ごせるよう心がけておりまして。
いつかは…といった淡い期待すらが今少し重たい感じでありまして。
そんなわけで今は行けない、アフターコロナの時代、いつ行けるかわからない場所などから目を背けているのであります。
何より、コロナが落ち着いて、行けるであろうときが来たとき、今調べたことを覚えている自信がカケラもない( ;∀;)
いつか…ね。
閑話休題。というか脱線しすぎました。m(_ _)m
花の窟神社さんは高さ45mの大きな岩がご神体であるとのこと。ご神体は世界文化遺産に登録されています。
訂正してお詫びいたします。
桐生市市民文化会館。このコロナ禍に、よもや名称が変わっていようとは!
2021年2月、そうまさに今年の2月、群馬県桐生市に本店を置く日本料理店美喜仁がネーミングライツを取得して、美喜仁市民文化会館となっているそうな。
桐生市の古きは訪ねておりましたが、新しきはとんと存じ上げず。
桐生市の方ごめんなさい。
なんでも市民球場とか、動物園&遊園地のある桐生が岡公園も名称が変わっているのだとか。
勉強になりました。…覚えられたかどうかは…。
たぶん無理だな。 (^^;;
ネーミングライツとかいう横文字も覚えられたか…。やれやれ。
このコロナ禍となった今でこそ、その大きさ、なんとも奇抜なデザインがかえって物悲しい桐生市市民文化会館。
コロナ前はコンサートやらイベントが数多く行われておりました。
宝塚公演も行われ、その日は桐生の街の、ことこのあたりの雰囲気が一変すると、この文化会館のそばにある病院に勤めていた方からお聞きしたことがあるくらい。
そんな文化会館の前に神社の建物があります。
かつて【織姫神社】と呼ばれた神社さんであったといいます。
もともと宮司さま等おられなかったようで、桐生市のこの辺りの自治会が市との契約で管理していたもののようでした。
1895(明治28)年、この地にあった『日本織物会社』が桐生市川内村(現川内町)のあの【白瀧神社】から勧請し敷地内に建立したのがはじめだったといいます。当時、白瀧姫の立ち姿を商標に用いた「織姫繻子(しゅす)」の売れ行きが好調で、神社建立には末永い繁栄への願いが込められていたようです。
織姫神社さんはこの会社の屋敷神社だったようで神社庁への登録もなかったもののようであります。
第2次大戦後の1955(昭和30)年、建物と敷地が桐生市に譲渡されると、翌年、神社のお膝元である第3区が桐生市と契約し、以来約60年にわたって無報酬で神社の管理を続けてきたのだといいます。
桐生市のものでありながら自治会が管理することとなったのは「政教分離の原則もあり、市が管理するわけにはいかなかったのでは」と推測されているようです。
そんな親しみある織姫神社さんではありましたが、人口の著しい減少、高齢化と、管理が難しい状況が続いていたようで桐生市との委託契約が切れる2017(平成29)年を前にした2015年の【織姫神社120年記念行事】の際に【抜魂式】を執り行い、正式に神社の額面を下ろしたのだといいます。
ただ、こちらに安置されていた『安本亀八』という人形作りの手による『白瀧姫の生(いき)人形』があるようで、私はまだ拝見したことはないのですが、大変美しいものなのだとか。五年に一度、それをどこかで見られるようなネット情報もあるのですが…。
1100平方メートルほどの元神社の境内には、銀杏など落葉樹も多いのですが、今なおきれいにお掃除してくださる方がおられるようです。そのせいもあり、いまだに神社さんであると思って参拝される方がおられるようです。
最後のお別れの儀式であります、ご葬儀。
このアフターコロナにおいて、葬儀自体がさまざまな形で変化を強いられたことも多分にあったことと思います。
コロナ感染でお亡くなりになられた方の葬儀は言葉を失ったくらい、衝撃的なものでありました。
身を切られるほどつらいものと思っております。
また、初めての非常事態宣言下においては、斎場が件数を制限したため、葬儀の日延べが多かったと、私の住む辺りでは聞かれたものです。通夜振舞いもお清めも自粛で、それまでの葬儀とは趣きが大変異なり、切なくも悔しい思いで亡き方を送られた方は多かったのではないかと思います。
母は緊急事態宣言も解除され、かなり制限の解かれた状況での葬儀でありましたが、それゆえに仕事先などで「コロナ禍なのに」とまで言われたものであります。感染対策は当時でもかなりしっかりとしたものであったかと思うのですが、家族葬でなかったことが当時の世論としては受け入れられないものだったようです。どちらかというと親族が多かったがゆえ、大きめな会場にせざるおえなかったのですがね…。会場が大きかったおかげで余計、しっかりとした感染対策がとれたこともあるのですが。
群馬県において二度目の緊急事態宣言下、葬儀に参列いたしました。葬儀社の葬儀場でのものであり、ましてコロナ禍となってすでに一年半以上、感染対策は大丈夫であろうと信じての参列でありましたが…。
入り口での検温、アルコール消毒は義務化されておりました。が、ノーマスクの参列者が入り口すら入れるザルぶり!
会場に行けば、隣の席の椅子と30㎝も離れておらず、隣を空けるといった措置もとられておらず。前の椅子とは、背の高い脚の長い方などは膝がぶつかるほどの間隔しか空けられていない。もちろん仕切りなどありません。
このコロナ禍の席とは到底思えない、ビフォーコロナの会場です。
葬儀の流れもビフォーコロナ。
今は親族の焼香を待たず、参列者が焼香をしてさっと帰れるようなものになっているとも聞きましたのに。焼香も列をなしその列はせいぜい40㎝開いていればいいほうで。
飲食業だけに焦点を当ててあれはダメこれもダメで、こんな葬儀をするのはOK?
この葬儀社のプロ意識を疑ってしまった、そこだけは大変残念な葬儀でありました。
当日会場のチェックなんて余裕あるご家族はまずおりませんから。
胎内くぐりができないことに気落ちしたものの、ようやくの参拝となりました厳島神社さん拝殿に向かいます。
石段をのぼるのも拝殿が巨石群の上に建てられているから。
巨石群最大の御供石と、巨石の上に建てられた厳島神社。
落ちついた、装飾は一切ない建物が、巨石の上にまるで意志をもって座っておられるかのような┉ここを護ってくださっていることに喜びと誇りを持ってくださっておられるような威厳を持って、そこに鎮座されていました。
周りのいくつかの巨石の肌を静かに静かに、清らかな水がきらめきながら、岩肌を撫でるように流れています。その神々しさといったら┉。
厳島神社は、伝承によると、平安時代初めの弘仁年間(810年~824年)、空海上人が、水源農耕の守護として弁財天を祀ったのが始まりといわれているようです。白い蛇の道案内により、清水の流れる大きな岩の前に出た上人は、岩の前にすわり、経文を唱えて弁財天を勘請し、前に祠を建てられたといいます。
元禄六(1693)年、このそばにあります金蔵院住職が、領地検分の家老に、弁天宮の再建を願い出て、下附金三両でお舟石上に石宮を建立したのが本宮であるといいます。
明治の神仏分離令により厳島神社となっています。
一番大きな御供石は高さ約11m、周囲約30mといわれています。一見小さく見える上の三角状の笠石ですら、およそ3mもの高さがあります。
こう書けば少しはその大きさが伝わるでしょうか。その御供石の岩の隙間を通り抜けることを「胎内くぐり」と言っているようで、ここを通り抜けると子宝や安産に御利益があると信じられています。
┉子宝には恵まれたし、なんだかんだ安産だと言い切れるほどではなかったけど難産だったとまではいかないだろうし。
そういったご利益であれば、そもそもがくぐる必要もないってことかぁ┉。
まぁ、再拝させていただいたときに胎内くぐりが可能なら、絶対にするおばさんですがね。
名草の巨石群は国の天然記念物となっているそうです。花こう岩の大きな塊が外から風化していったもので玉ねぎ状に風化し、水に洗われた節理間の核心の部分が球状に残り巨岩を積み重ねた形になったものなのだとか。境内の立看板に書かれていました。
まるで理解していない書き写しですがね。
とりあえず言えることは足元たしかな靴と、水分補給の飲物必携、ということでありましょう。
石造りの鳥居をくぐると【弁慶の手割石】と書かれた立札があります。なんでも弁慶がこの上に仁王立ちになって錫杖で石を割ったと書かれています。
うーん、弁慶かぁ。
弁慶、こんなところを通ったのかしら?
まあ、伝説にありがちなものでありましょうか。とはいえ、最近ちょこちょこ話題として登場している【ふるさと桐生の民話】という本にも、桐生の山を義経公の一行が山越えした伝説があるとかないとか。前橋市にも“ここで義経公と静御前が別れた„と言われているところがあるようで。
それだけ義経公や弁慶が愛されていた、ということでありましょう。
通ったといえばまるっきりあり得ないわけではないですが。
そして、そんなことより!
この巨石、私の背丈よりも高いほど大きな石なのですが、上から下まで実に真っ二つ!
こ、これは!
あの鱗滝さんの竈炭治郎が最終選別に出ることができるか否か課した、課題の石そのもののようです。炭治郎が全集中の呼吸を修得した時の!
┉わからない方、ごめんなさい。
要はあの空前の話題作〖鬼滅の刃〗の1シーンのようだ、ということが言いたいのです。
きっとここも今で言われるところの聖地、なのでしょうね。
そういえば、足利市にはもう一つ〖鬼滅の刃〗の聖地がありました。
藤の花が咲き乱れる藤襲山にちなみ、藤の聖地┉ではなくて全国的にも有名な【足利フラワーパーク】です。
おかげでこのコロナ禍、警戒レベル2まで下がっていたフラワーパークに、今年は人が全集中しそうで行くことが出来なかったくらいです。
閑話休題。
その弁慶の手割石のわきにある、でこぼこと不揃いな石段の先を見上げると、ようやく拝殿の屋根が見えてきたではないですか。
登っていくとみぎてには神楽殿、そしてひだりてには、巨石!
巨石です緑の苔が生えた大きな大きな石であります。その手前に小さな┉あ、別に小さくはないですね、普通の大きさの弁財天さまの石像がまつられてあります。台座には安産子宝弁財天と彫られています。
そして、胎内くぐりという小さな立看板が!
胎内くぐり、ぜひともしたい!
┉規制線が張り巡らされています。
出来ない┉。
そうかもしれない。
だって参道すらが水が流れるほどになっています。
石と石の隙間をくぐるということは、予期せぬ事故が起こることだってあります。(T^T)
栃木県足利市は、豊かな自然と数多くの寺社仏閣が残る歴史ある街であります。
郊外に名草と呼ばれる地域があり、螢の生息する里としても有名なようですが、名草といえば巨石群というくらい神秘的な巨石群のある景勝地となっています。ここは古くから磐座(神様が宿る岩)として信仰されており、巨石群のなかに厳島神社、弁財天さまがおまつりされています。
ナビに引かれて厳島神社参り。
うーん、山道。細い道。
足利市、結構そんなところが多いです。
で。
案内された先に唖然。
えっ?ここは神社じゃないよね。
ええ、誰が見てもここは┉観光地にありがちなかき氷だとか焼きそばだとかおでんとか売ってる売店と、噴水や見晴台などがあるおしゃれな子供たちの喜びそうなつりぼり。マスのつかみ取りもできバーベキューのできるところもあるようで┉。いやいや、そうじゃなくて、巨石群に!厳島神社さんにお参りに来たんですってば!
とりあえず、停めるしかありません。
うーん、楽しそう。
孫と来たら娘が喜びそうです。娘、マスのつかみ取り大好きなんです。
お?
あ、あれ、あります、ありました、鳥居があります。
ここでよかったんだね、ありがとうナビ♡
赤い鳥居がそびえています。
明るく楽しそうな空間のすぐそばでありますが、そこからは一転空気が凛としております。
参道はすぐそばを小川が流れ、なんとも澄んだ空気です。
が、結構な傾斜で未舗装な道。すぐに息があがります。マスクがキツい。
歩けども歩けども、道、道。
巨石と呼ばれるものにしては、まあ結構いろいろなところで見かけるくらいの大きさでしかありません。うーん。
歩く、歩く、登る、登る。
ええぇっ、まだ登るのぉ?
┉当たり前です、神社、見えてきませんから。
ウソでしょ~。
♪登って登って登って登る~っ♪
おおっ!何やら建物が見えてきたではないですか!
┉ト、トイレだ。
進んで進む。
おおっ!今度こそあづま屋です。
ここまでどのくらいのぼったのだろう。
さらにようやく巨石が見えてきた。
『うつるんです』
って商品、ご存知でしょうか。なんだか今若者に人気があるらしい、レンズ付きフィルムの商品名です。
私などは携帯電話に写真機能がついて、カメラ自体を持つことがなくなっておりまして…。スマホで撮した写真なんて、自分はプロになれるんじゃ?なんて錯覚するくらいよい写真がバンバン撮れてしまうじゃないですか。
まあ、スマホになってようやく二ヶ月なんですけどね。
それとは全く関係はないんですが、ウチのあの運転手にして名ガイドの夫、実は秋の虫の音を聞くと
鬱るんです。(T-T)
毎年毎年、虫の音を聞いたらそうなると思い込んでいるので、虫の音を聞いたら下手するとテレビからだろうとスイッチを入れちゃうかもしれない厄介者です。
そうなったら何を言おうともうダメです。
たしかに季節性もあるもののようです。
でも彼の場合は入れなくてもいいスイッチをたかが虫の音ひとつで入れてしまう。
秋って楽しいじゃないですか。
運動好きじゃなかったけど運動会は好きだったし、遠足とかあるし、空はきれいだし。
まあこの能天気な私、春も夏も秋も好きな気がします。寒いのが嫌いなので冬はちょっと苦手かなぁ。群馬県でも雪の少ない(ほぼない)地域なので、逆に降るともうパニックものですが、子どもたちが育ち、自分だけ通勤すればいい状況になってからはあえて歩いて雪を楽しみながら通勤していたくらいだから、やはりなんだかんだ能天気。
虫の音なんて聞き入ってしまうくらい癒やされるんですが…。
暗〜い顔でため息ばかりついている夫に、ついイライラしちゃう鬼嫁で。ため息ついて不味そうにご飯食べられると秋を楽しむ気持ちもすっかり萎えて、こっちまで暗くなりそうです。
関西にはスズムシ寺と呼ばれるお寺さんがあるようですが、そのお寺さんに修行に行ってもらえば治るかしら。
せめてスズムシ飼ってみようかな。でも私虫を飼うとかは嫌だしな。
我が家の庭には何種類もの虫たちがさまざまな音を奏でてくれています。
これ、幸せだと思うんだけどなぁ。
そ、そっかぁ。
そ、そうですかぁ。
人生の本質は苦であるとか言われると、やっぱりそうだったか、そうだよなぁ、と落ち込んじゃうとこがすでに煩悩人間。
ちょっと前に、お釈迦様がいろいろ苦しみ、苦行をして、そしてようやく悟りをひらかれたことを思って、悟りをひらけないという末法の世であっても、お釈迦様も苦しんで生きておられたのだから、そこは同じ。
お釈迦様のおられた時代に生まれようと、私は間違いなく悟りをひらけるだけの生き方ができたとは思えないし。
だからいつの世に生まれても苦しいことはおんなじだ、┉みたいなことを書いたくせに。
でも┉。
いつも笑顔で過ごしておられる方も、少なくとも前述した四苦八苦からは逃れられない。すべての人間が負う苦しみなわけで。
そこをどう生きるか、というわけですかね。
そこを苦しい苦しいとあがいているだけでは中道というところには立つことができないということ。┉かぁ。
不惑といわれた歳をとうの昔に過ぎているくせに、苦行をするわけでもないのに苦しい苦しいとへいこら言って生きている私。
このコロナ禍という有事の時に生きている意味を考えたなら、もう少しいい生き方をしていたい。
この緊急事態宣言下。
ほんの少しでいいから、あがいてもいいから、少しいい生き方をしたいと考える、おばさんが一人。
もともと頭の許容量がたいそう少なく、これだけ珍道中を重ねながらなかなか理解するのが難しかったり、記憶したつもりがいつのまにやら抜け出ていたり。
仏教においては青少年向けという資料をいただけるお寺さんがあり、これを読んでみればあるいは?と思ってみたものの、やはりそんなものではなかった。
第一章の、お釈迦様の御教えの基本というところからつまずく有り様です。
でもそのつまずいた中にキチンとヒントがありました。
┉煩悩のせい?柔軟性を欠いた脳みそのせい?
108といわれる煩悩が、私だけ特別仕様で216あるのでは?と思ったりするくらい、歩く煩悩で。
なんでも、
人生は快楽のみを求めるのはもちろん、心身を痛め苦しめる苦行も実は自己満足でしかなく、その両端でないところ、中道という柔軟な自由な立場に立つことをお釈迦様は説いておられるといいます。
そして、
世の中のすべてのことは〖因〗と〖縁〗によって変化し、連続した変化の流れとして考え、すべての結果にはなんらかの原因があるという〖縁起〗という思想があるといいます。┉この辺ですでに立ち止まる私。
そう、まさに柔軟でない頭が作動しているせい。
縁起がいいとか悪いとかの縁起という言葉がひらひらと脳内を舞ってしまう。
なるほど、これも仏教語で、要はすべての現象は原因や条件が相互に関係しあって成立しているってことですね。
そして、そんな原因とか因縁とかを悟って、中道を歩くということを説いておられるということでしょうか。
そしてその中道を歩む具体的実践法として四つの真理〖四諦〗というものを説いておられるという! よぉし(*>∇<)ノ
四諦とは〖苦諦〗、〖集諦(じったい)〗、〖滅諦〗、〖道諦〗というものがあるようです。
〖苦諦〗とは、
楽しみがあってもまた悲しみがあり、人生の本質は苦である。
( 。゚Д゚。) えっ┉
┉この苦諦のなかに【四苦】と【八苦】があり、これにとらわれないことと説いておられるようです。
四苦とは、〖生〗・〖老〗・〖病〗・〖死〗。
八苦とは〖愛別離苦〗・〖怨憎会苦〗・〖求不得苦〗・〖五陰盛苦〗。
┉ああ、このお話はお坊さまのお話にありました。
人として生まれたら決して逃れられない苦しみというものがあり、それが上記されたものであるという。
皇室の儀式は神事であるので、これは皇室に育った眞子さまであればその重要性を充分認識されておられることと思います。
あるいはご自分のご結婚がここまで反対され延びてしまったのも皇室にお生まれになられたからと、お恨みになられておられるかもしれません。
でも皇室の長い長い歴史のなか、ご自身のことでその歴史を曲げて変えてしまったら、それは日本という国が続く限り、歴史として語られるほど大きなことでもありましょう。
何より神事であったならば、やはりそこは曲げてはならないのではないかと小心者のおばさんは思うのであります。
年若いお相手は、皇室儀式が神事であることを知らないのかもしれません。…ほんのちょっと前のこのおばさんがそうであったように。
お相手のお母様ももしかしたらご存知ないのかもしれません。
たまたま運命の女性が皇室の方であったかもしれません。
でも、そこから離れて自分のもとへ嫁いでくれる最後の儀式でもあります。
どうか少しでも今よりよい形でご結婚されますように。
一国民がごちゃごちゃ言うことでない、というか、ごちゃごちゃ言う世論のためもあり、お二人のご結婚はここまで延びてしまったのでしょうけれど。
私はまさに同世代の子を持つ親で、我が子と重ねての考えもあったりします。
とはいえ、眞子さまのお生まれになられた環境は特殊であり、そうではない、一国民であればもっと早い時期にいろいろな方向に向かって動いていたことと思います。
五年に近い年月が流れています。
ずうずうしく、自分に置き換えたなら、もっと早くに、今眞子さまが取ろうとなさっているだろう道を選んだかもしれない。
…若いから。
しかもちゃんと成人していたし、双方働いてもいたし。
親となり我が子となればまた考え方は変わるのですが…。
まぁその辺は置いておき。
眞子さまのご結婚、これだけ長い年月を経、お父様である秋篠宮も「結婚を認める」と公言されたことです。
『多くの人が納得し喜んでくれている状態』など、本来ならここまで問われることない結婚という個人と個人の結びつき(実際には一国民も家と家ではありますが…)
皇室なればこそでありましょう。
でも。
国民がこう考えるに至ったのも眞子さまの幸せを思えばこそでありましょう?
…皇室の方が皇籍離脱される際の一時金の金額の大きさに物思う方がおられるのもまた事実でありましょうが。
それすらも辞退され、結婚の儀式一連も辞退され嫁ぐというご発言をされるほど、強い意志を示されておられる眞子さま。
でも国民はそんなご結婚を望んでいるわけではありません。
眞子さまの幸せを願うだけ。
お二人がお子さまをとお考えになられた時、このご結婚の時期は決して急でもなく、むしろ充分過ぎる時間を費やされたと思います。
ましてこのコロナの時代を迎え、遠く離れたままの四年という年月はあまりにも不安で長過ぎるものであったでしょう。
それでも変わらなかった思いです。
ただ。
納采の儀を執り行うことはできないとお考えになられたとしても、その他皇室ならではの儀式諸々、賢所皇霊殿神殿に謁するの儀とか、神宮に謁するの儀とか、皇室として欠かしてはならない儀式もあろうかとも思うのです。
皇室である眞子さまを嫁として迎えるのだから、そういった儀式が執り行われるべく、男としてのケジメをつけて欲しいなと、一おばちゃんは思うのであります。願うのであります。
緊急事態宣言下。
私はもともと出不精、よく言えばインドア派なのであまり(まるで)苦はなく過ごせるのですが、夫はテレワークのため休日も家で過ごすのはストレスとまではいかなくとも、気分転換にならないようです。
そこで。夫の休みの日、天気でも良く過ごしやすい日であったりと条件が良ければ、どこにも立ち寄らないドライブとか、人のいないような里山とかを歩いたりと工夫し過ごしています。
おかげさまで野仏さまにお会いするであるとか、民話の里を歩くとか、城址を歩くであるとか、私どものライフワークはうってつけ。
ところがそういったところはえてして、マダニであったりマムシであったり、スズメバチであったり、危険生物の出没が多いのであります。
イノシシやサル、シカ、クマなどにも遭遇しても不思議ではない、むしろ普通なところであったりいたします。
私どもはそもそもがマムシもそうでないヘビも、一見してわかるような人生を歩んできていないし、どんなところからヘビが出てくるのかとかの予備知識?経験値がまるでないので、こういった非日常な空間で過ごすのはまさに冒険なのであります。
なんとも小っぽけな冒険であります。
そして…緊急事態宣言が明けても、やっぱりおんなじような過ごし方をするだけな、珍道中二人でありました。
八月に少し、仏教から発生した言葉、仏教語について少しふれましたとき、あみだくじについて書いておりましたが、その際、阿弥陀如来さまの光背=後光の形に似ているからあみだくじと呼ばれるようになったということに疑問を抱いたと述べていました。
今日その謎が解けましたのでここに一筆書いておきます。
本日は九月二日ということで、【くじの日】 なのだといいます。
そんなお話をされていた方が、あみだくじについて書いておられたことに、
現在は、縦や横の線を引き、線をたどってどれに当たるか、というようなくじの引き方をしますが、昔のあみだくじは違っていました。
放射線状に線を引き、くじを行っていて、この放射線状に引いた線が阿弥陀如来の後光にそっくりだったので『あみだくじ』と呼ばれるようになったのだそうです。
とのこと。
なるほど…、形が今とは異なっていたのですか。
納得です。
くじの日。
私ども夫婦は宝くじを今まで一度も買ったことがなく、せいぜい『ガシャガシャ』『ガシャポン』程度。それもだいぶご無沙汰しています。
くじかぁ。
くじというと駄菓子屋さんで引いたいろいろなタイプのものを思い出します。
この駄菓子屋さんのくじも年代によってさまざまながあって思い出もさまざまなのでしょうね。
今は児童虐待とかで、そういったことも少なくなっているのでしょうが、昔の子供は親の言うことを聞かなかったり、悪いことをしたりすると、外に出されるといったことがよくありました。
言うことを聞かない子供に手をやき、懲らしめのため、…だったのかもしれませんが、子供にすればなかなか不安で心細くてたまらないお仕置きでありました。
この外に出されるというお仕置きに、この梅田の道了尊さまのまつられている地域では、さらにもう一つお仕置きというかバツというか、道了さまのところまで行ってお参りして来るよう言われていたようです。
実はこの外に出されるというお仕置き、案外効果もあるもので、
高ぶった気持ちをおちつかせるには、親子共々ちょうどいい距離で。
落ち着いたところで子供が反省するかどうかは個人差があるものではありますが…。
叱られて、外に出され、道了さまのところまで行って、
「いい子になりますから許してください」とお参りしてくる。
なかなかこれは子供心にしっかり届くお仕置きだったのではないでしょうか。
親の方は親の方で、はね瀧道了さまのとこと同じように、ねじり木をお借りし願がかなったら、前回お借りしたねじり木をお返しし、新たなねじり木を奉納するといいます。
今もなおおまいりをなさっている方もおられるようですよ。
夫が桐生市立図書館で手続きをしてまで借りてきた【ふるさと桐生の民話】の本。
私はパラパラっとまくって、面白そうな、あるいは参拝させていただいたお寺さんや神社さんのところだけ読んでいるにすぎませんが、夫は、桐生市の白地図を購入して、さらにはなにやらいろいろと調べて資料を作製している模様。
同じ書を手にしても、これだけの差があること。
これが彼の知識と私の徹底的な差であったのだなあと、今さらながら反省し、夫のそのあくなき探求心に感心した次第であります。
さて。そんなふるさと桐生の民話のとある一冊の目次を見るに、桐生市にも【道了尊】さまがまつられているような。
道了尊さまとの初めての出会いは群馬県みどり市大間々にあります、【はね瀧道了尊】さま。
何やらお堂があるようだと訪ねたのが初めての参拝でありました。そこで初めて道了尊さまのお名前を知りましたくらいで、そもそもが読めず。
ようやく参列叶った道了尊大祭で、【どうりゅう】とお読みすることを知ったくらいでありました。
道了尊さまは神奈川県足柄市の最乗寺さんよりお招きされたとのこと。
最乗寺さんの建立に際して尽力された実在された人物、┉神通力をお持ちであったようで、天狗さまのお姿になられることがあったとか。
お姿は背中に羽をお持ちであり、両手両足に幸運の使い蛇を従え、白ぎつねに乗られたもので、右手にはしゅ状(ねじり棒、もしくはねじり木)を左手には縄をお持ちであります。
願をかけるに際しては、ねじり棒をお借りし、願いが叶ったあかつきには、お借りしていたねじり棒を返すとともに、天然にできたねじり木をお供えするということでありました。
桐生市の道了尊さまは、梅田町四丁目というところにおまつりされているようです。
そもそもが梅田町というところへあまり行くことがなくて、桐生の民話という本には地図も写真も載せてくださってはおりますが、地図も白地図に著者が矢印を付けたものを拡大しているものに過ぎず。当然のことながら、ナビには出なそうで┉。
さて。
桐生市の道了尊さまへの参拝はかないますものかどうか┉。
【末法思想】という言葉、高校時代の倫理で知ったのか、それとも中学生のときの社会の歴史ですでに学んでいたのか…。
まぁその辺はおいておき。
仏教における思想の1つで、簡単に言うと「お釈迦さまの教えはその死後、時間が経つと次第に人々に行き届かなくなる」というもの。
お釈迦さまが亡くなってから最初の期間は正法(しょうほう)の期間。人々にお釈迦さまの正しいが伝わり、悟りを開くことができる。
次の期間は像法(ぞうぼう)の期間。人々にお釈迦さまの正しい教えは伝わるが悟りを開ける者がいなくなってしまう時代。
そして、やってくるのが末法(まっぽう)の期間。お釈迦さまの正しい教えも伝わらなくなり、悟りを開ける者も居なくなる時代。
というもののようです。
像法の時代は、悟りは開けないけどブッダの教えは伝わるので、いわゆる「仏様のご加護を得る」というような発想ができ、現に奈良時代以降の日本は仏法によって国を守る鎮護国家という考え方がありました。
が、末法になるとそれすら叶わない…。
正法・像法・末法のそれぞれの具体的な期間は様々な考え方がある
のですが、日本では1052年に末法が到来すると考えられていました。ちなみに末法はなんと10000年続くというのです。一万ですよ、一万年。
そう、まさに末法真っ只中。
僧は布教より金策に走り…とか荒れた末法の世はすでにお釈迦さまが生きておられた頃から懸念されていたようです。人々の世は乱れるであろうと、そんな昔から予言されていた…。
それを聞いた私はなんとも意味のない落胆をするのです。
そんな世の中なんだぁぁぁ。
ただ、それで長いこと無信心であった…というわけではなく、あくまでも親がそういった人で何一つ伝えられることなく育ってしまっただけ、なんですが。
今とて、なんの信仰を信心しているといったところまで至ったわけでもなく、未だ迷えるなんとか…なんですけれど。
言いかえれば仏教徒でもなく、それならば末法の世も本来なんら関係ないという考え方もできるわけですが。
末法真っ只中、まだ九百六十九年目。
でも人々は確実にその九百六十九年、きちんと生きてきた。
人をいたわり助け合い、与えられた運命のなか、生きる道を模索して。
末法なら末法で仕方ないじゃん。
お釈迦さまだって苦しい世の中を生きておられた。
その違いは悟りがひらけるかどうか。
ニュースをみて愕然とした。
激しい怒りをおぼえた。
五輪で未使用に終わった医療用マスクやガウンなどを、実に五百万円分を廃棄したのだという。
医療関係者への譲渡は手続きに時間がかかり、保管場所がないため捨てたのだと。どうして他に相談できないのだ。
しかもそれはパラリンピックで活用しようと確認して廃棄が判明したのだといいます。それは本来一枚岩であるべきであろうに、何故?
お弁当の廃棄量の凄さも怒りをおぼえたものだが、この暑さで食中毒の危険もあり、それはそれで納得する材料があった。
だが今回はまるでみつけられない。
五百万円分という金額ではない。
このコロナ禍、それがどれだけ需要のあるものであるかを、これっぽっちも考えられない人がいるのか。その廃棄を止めようとした人は何人いたの?
その声ってやっぱり届かないものなんだ。
これは┉。
日本っていう国はここまで腐敗しているのか。
吐き気すらする。
信長の側室、吉乃(きつの)の方の墓のあるというお寺が取り壊しになるというニュースを見ました。
廃寺と同時に取り壊し、跡地は市に売却され公園になることがすでに決まっているようです。
この国の歴史の中では幾度となくあったことで、珍しいことでもないのかもしれませんが、それでも結構な衝撃を受けました。
たしかに、お寺の建物がそのまま活用されて、歴史資料館のようなものになっていたり、そのまま譲渡され一般の方が住み、本堂跡でエアロビの教室などが開かれているとかいうことがあるのも存じてはおりましたが…。
老朽化に伴い、維持管理が難しくなっての苦渋の決断だったようで、なんともお辛い決断をなされたことと思うのでありました。
市は取り壊し後の土地の買い上げということで、歴史あるこの寺の保存という方向での動きは取れなかったようで、やはり市の財政も苦しいということでありましょうか。このコロナということがなければ、この寺の建物の将来は少し変わったものになっていたのでしょうか。こればかりはわからないことです。そしてこれはそうした運命だったということであったのだと思うしかないことなのでしょう。六十年前から専属住職のおられなかったなかで、今までの維持管理、そしてお寺じまいのご苦労を感謝申し上げます。
吉乃の方は地元有力者生駒家の娘。信忠公、信雄公、そして家康の長男信康公の妻徳姫の母であります。
吉乃の方の墓は生駒家歴代当主の墓とともに市の文化財となっているとのことで取り壊し・売却の対象にはならないとのことです。
織田信雄公の墓は群馬県甘楽郡甘楽町小幡にあり、そんなこともあって、余計に寂しさを感じるのかもしれません。
ワクチン接種との関連性は定かではないものの、その後ずっと頭痛が続いております。
…これが治ると頭が良くなるとか?そんなのだったらいいなと思うところがのんきもの。
それにしてもだいぶ夜明けが遅くなりました。一時間ほど前にはちょうど天頂に月が輝いておりました。
…涼しくなってくるだろうか。
近年十月になっても台風が上陸するようになってきているから、それはただの希望でしかないことは分かっているのだけれど、それでもコロナ感染が少しでもうちばになっていくといいと切に願う、心から祈ります。
ぶっ!
お地蔵さまの仕業とわかって、荒縄で縛ってしまったぁ?
ど、どうして?
わからない。
お地蔵さまが歩いてお豆腐買いに行っておられたのって、なんでダメなんだろ。
いやいや、確かに怪異だけれど。身元は判明したわけで。それだけ美味しいってことで、それを売りにすれば…。
それはお豆腐屋さんにすれば葉っぱのお金では困ったことだとは思うけど、何も荒縄で縛らなくても…。
と、長年無信心であった我が身を棚に上げて、伝承話に熱く語るおばさんでありました。
小学校のそばの岡崎山は本当に小さな小山であります。
小学校のすぐそばまで行きますと何やら高台に御堂が見える、なんとも分かりやすいところでありました。
ただ…駐車場がない。
すぐ近くの民家の方にお聞きすると岡崎山の石段のすぐ下に置いて大丈夫だとのこと。
幅寄せして車を停めて…夫が、ですがね。石段を登ってまいります。
…墓地だ。
完璧に墓地。右も左もお墓です。
ええっ?
こ、こんな?
それでも御堂はたしかに見えておりましたし、近くにお住まいの方に確認もしてあります。
御堂、御堂っと。
御堂のことしか考えないよう意識しながら階段を登って行くと、…ありました。
御堂がありました。
ほんのちょっと先に着いた夫がなにやら絶句しておる様子。?なに?
御堂の中には…
貼り紙が一枚。
参拝のかたへ、
修復のため黒地蔵さまは下山いたします。令和三年三月に戻る予定です。というような内容が書かれております。そうか…。
「令和三年三月って…まだ修復が終わらないのかなぁ。それとももうここには戻らないってことなのかなぁ」と夫。ん?
あ、そうか!
三月ってもう過ぎてたわ。
我ながらやれやれなヤツだこと。
修復先でお豆腐のお供え、していただけてるといいな。
それとも光得寺さんの御本堂におられるのかしら。
いつかお会いできたら嬉しいです。
なんでも黒地蔵さま、夜泣きにご利益があるらしい。娘の子供の夜泣きをぜひ鎮めていただきたい。
晴れて夜泣きが治まったなら、お礼は…絹ごしがいいですか?木綿でしょうか?
「足利の昔話」より。
昔々の話です。まだ黒地蔵様が樺崎寺の地蔵堂に祀られていた頃の事。
ある秋の夜更けに村の豆腐屋の戸を叩く見られぬ坊主姿の若者が在りました。豆腐を求めるその者に豆腐屋の主が「どちらからお出でかな?」と尋ねてみましたが、愛想無く「村の者です」と返すのみで坊主姿のその者は求めた豆腐を持って立ち去りました。その日以来、その坊主姿の者は毎夜豆腐屋を訪れ、一丁の豆腐を求めては闇夜に消えるように立ち去るようになりました。
はじめは売れ残りの豆腐を買いに来てくれるありがたい客と思った豆腐屋の主も、話し掛けても愛想も崩さず無表情で不愛想な客を次第に不気味に感じるようになってゆきました。やがてその客が狐狸妖怪の類では無いかと心配した主が、その客の話を知り合いに相談したところ、娯楽の少ない時代のこと瞬く間に噂が村中に広がり、興味にかられた者がその者の顔を拝みに来るような有様となりました。やがて
「あの顔、どこかで見た事がある」
「間違えない。俺はあの顔を知っている」
と、言い出すものが現れます。しかしどうにも思い出せないのです。そこで或る晩、いつものように豆腐を買って帰るその者を村の若者が気づかれないように灯りを消して密かに後をつけてみると、その姿が村はずれの地蔵堂の近くで不意に闇に消えてしまったのです。若者たちは急いで手元の灯りに火を入れて辺りを探し回りますが、結局、坊主姿のその者を見つける事が出来ませんでした。諦めた若者達は地蔵堂の前に集まり村に戻ろうとすると、彼らの手にした灯りが地蔵堂の中を微かに照らし出したのでした。
「あっ、あの顔!」
若者たちが手にしていた灯りに照らし出されたお地蔵様の顔は豆腐屋で見た得体の知れない坊主の顔その者だったのです。そしてその口元は今、豆腐を食べたと言わんばかりに濡れているでは無いですか。
大慌てで村へと戻った若者の話を聞いた豆腐屋の主が、改めて坊主姿の者から受け取ったお金を確かめると、それはいつの間にか木の葉に変わっていました。村人たちは相談し、お地蔵様が二度と出歩かぬ様にと荒縄で縛ってしまいました。それ以来お地蔵様が豆腐を買いに来る事は無くなったそうです。
いつとは無しに、黒地蔵さまは安産と夜泣きの効験があると信仰されるようになり、願いが叶ったお礼にお豆腐がお供えされる習慣になったのだそうな。
光得寺さんは御本堂も庫裏も新しいお寺さんでありました。
明治元年に大火があって、当時のご住職さまが命がけであの大日如来さまを運び出したという経緯があったようです。それ以外のものはほぼ焼失してしまったとのことで、寺宝も樺崎八幡宮さんとのやり取りの記録なども一切失われてしまっていました。
その明治の大火後、再建したものとしてはあまりに新しい御本堂で、おそらくは平成の建築であろうかと思われるものでありました。
樺崎八幡宮さんから保存と供養を頼まれたという十九のも五輪塔も、新しく、たいそう立派な覆屋にきれいに並べて建てられていました。これだけ立派な覆屋に守られておれば、今後の風化や劣化はかなり防ぐことができることでしょう。
ところで。
樺崎八幡宮さんから移されたというもので、その初めての参拝の際には知らずにおりました、木造のお地蔵さまがおられることを、やはり民話を通して知ることとなりました。
その名も【黒地蔵さま】。
それも境外のお堂におられるといいます。ただ、なかなかその場所がわからず。
ようやくネットでその黒地蔵さまのまつられたお堂のある場所を知ることができました。
小学校のそばに岡崎山と呼ばれる小高い山にあるといいます。
よぉし、ここまでわかれば。
ナビにはさすがに出ないでしょうが、小学校のそばの山っていうヒントをもとにすればきっと見つかるはず。
それは2017年【国立美術館】の【運慶展】の会場でのことですありました。
他の作品…御仏の御像が等身大あるいはそれ以上の大きさでスポットライトを浴びて展示されている会場の中にあって、会場のサイドにある、ガラスの陳列台の中にし
ずかに展示されていた、小さな御厨子にふと目がいき、そばに寄って見るにしばし言葉も発することすらできず、まさに棒立ち釘付けとなったのがその御仏との出会いでありました。
美しい御厨子には小さな御仏が印を結びお座りになられておられるのですが、その神々しいお姿はその会場におられる大きな御仏の像に劣ることなく。
しずかに会場を見守っておられるかのようでありました。
大きな光背。
その周りには何体もの雲に乗る御仏が舞うようにお側におられます。その精巧さ!
御仏は大日如来さま。
その大きさは三十センチほどのものでありながら、わずかに開かれた目は今にもさらに開きそうにも閉じられそうにも見え、肩のライン、腕の柔らかなふくらみ。
少しくびれたお腹、自然に組まれた足。
こんなに小さなお像でありますが、実に写実的に、…まるで生きておられるかのように作られております。
そしてそこに添えられた説明を読むと、なんとその御仏さま、栃木県足利市のお寺さんのものであるというではないですか!
そのお寺さんの名は【光得寺】さ
ん。
まだ珍道中を始めてさほど経っておらず、初めてお聞きするお寺さんでありました。それは歴史オタクの夫もそうであったようで、違っていたのは、そのお寺さんの名前をしっかりと胸に焼き付けたのが夫で、その御仏の素晴らしさに嘆息して終わったのが私という。
何年かののち栃木県足利市の足利氏にゆかりの【樺崎八幡宮】さんを参拝した際、その足で光得寺さんにお参りしようとした夫が、私にその、東京国立美術館でお会いした御仏のお寺さんであることを伝えるのにどれだけの時間を費やしたか。
樺崎八幡宮さんは元は樺崎寺であり、足利義兼公がそこで過ごされたという由緒あるお寺であったもの。
八幡宮となったのちもそこに安置されていた御仏であったり、五輪塔をおまつりしていたものの、あの明治の神仏分離令で光得寺へと移されたのだといいます。
つまり、この八幡宮と光得寺さんは夫にとってはまさに一緒にお参りすべき場であったというわけでありました。
ワクチン接種後二十九時間、腕の痛みは一回目よりはるかに楽で、腕を挙上しても左右差がないくらいに挙げられます。ま、痛いってことは確かですが。
ただ頭痛は一回目より強いです。
とはいえ発熱もなく、副反応も普通に報告されているものでありましょう。
ただ鼻水がすごい。
これは副反応というより、秋の花粉でも飛び始めたでしょうか。
以上、コミナティ®︎(ファイザー社)を接種した者の一報告例であります。
ちなみに。
このたび群馬県は二十〜三十代の方を対象に、九月末までに二回ワクチン接種をし、応募すると、
抽選で一名にスバル社製の車、SUBARU XV(1・6Eye Sight)を、また県内旅行券五万円分百名、同じく県内旅行券二万円分二百五十名にプレゼントするという施策を打ち出したようです。
二十代は子宮頸がんワクチンの接種が定期接種となって、その副作用、副反応が重篤であったため、その接種を不安に思った親と子の世代。まさにうちの娘がその対象者でありました。
それを考慮したか否かはわからないけれど。
ワクチン接種が広がることも大変重要だとは思いますが、感染が急拡大しております昨今、コロナに罹患された方の医療面の充実を切に切に願っております。
ますます疲弊されておられるであろう医療従事者の方には感謝しかございません。
この費用、そちらに当ててもらいたかったと思わずつぶやいたおばさんでありました。
今。
頭痛が結構きつく、腕は寝返りを打つと思わず「いてっ」と声が出るくらいに痛い。
例えるなら…このまま枕に固定して動かしたくないと思うくらいと、
きつく掴まれて爪を立てられたくらいに、
痛い。
でも、コロナ発症はこんなレベルではないという。
インフルエンザの百倍ツラいとか例える方がおられたけれど…私、インフルエンザにかかったこともないんだよな。
本日、二度目のワクチン接種。
打って10分ほどで頭痛が出現。
これは⁉︎
パァーッと顔が紅潮するような熱感があって、熱が一気に37・8℃
うーん、これは重篤?
非接触型体温計の誤作動らしい。ほっ。
でも二度目は結構多くの人が局所の痛みとか熱とか言っているよな。
一回目から夫より強い副反応のあった私は戦々恐々。
…接種から四時間。相変わらず頭が痛いけど、なんか平気?
局所の痛みってこれからだったっけ?
まあ、頭が痛いからごろごろして過ごしていますが。
お夕飯、どうしよう。
ただ今の熱は36・8℃。
うーん、腕、少し痛くなってきたぞぉ。
…普通に作れそう。だな。
ネットで調べることも多い、この珍道中。ネットで調べてるのによくまあこんなに珍道中を繰り広げられるものだと、われながら感心いたします。
群馬県桐生市には桐生に伝わる民話をご自身の足で現地を歩き、その地に伝わる民話を現地の方から実際にお聞きし、さらには郷土史等の文献を元に確認して、採話された当時の写真や地図まで載せての本を出版された方がおられたようです。残念ながら、その方はすでに亡くなられておられるようですが、その数、実に十三冊。
発行数は少なかったようで、今はもう購入することはかなわないようです。
ネット情報によると、桐生市立図書館にご本人より寄贈されたその何冊かが残っているようです。
そのいくつかのお話はネットで読むことができるので、桐生市のお寺さんを知る際の参考にさせていただいておりましたが、珍道中を支えてくれる頼もしい(…うーん、珍道中では、間違いなく、頼もしい)存在であります夫は、歴オタで、そこに深く関わりをもつ民話にも深い関心を持っており。
桐生市立図書館に行って、貸出のできる手続きをして、その何冊かを借りてまいったのです。
ああ…。
だいぶわかるようになってきていたつもりであった桐生市市内のこと、まるっきり!であったことを嫌というほど自覚いたしました。
まあ、私は自分の住まうところのことすら知らないことの多いやつですので、さもあらん、といったことに過ぎませんが、それにしてもよくまあこれほどに調べられたものであります。
もっとも、一巻しか読まないうちに、返却されてしまいましたので、その一巻を元にして語っているにすぎないのでありますが…。
もちろん民話でありますので、事実と異なるであろう内容もありますし、すべてが神社仏閣と関わるお話ではありません。
それでも神社仏閣にまつわるお話もたくさんあるので、今後はこの本を参考にしてまわることができたなら、と思うのであります。
先だって参加させていただきました桐生市川内町の白瀧神社さんのお話もありました。梅田町の栖松寺さんのものはこちらに書く際参考にさせていただきました。
緊急事態宣言が発令されている今、その地を実際にまわることは難しいですが、かつてまわらせていただいた神社仏閣さんのお話を読んでみるのは楽しいかもしれません。
読み込んだ夫はさらにパワーアップ、するのかなぁ。うーん。
母の月命日にお寺さんへまいりました。
桔梗が満開でありました。
睡蓮が厳し過ぎる日射しを避けているかのように、葉と葉の間に小さく隠れて咲いていました。
お参りを済ませて帰ろうとすると、どこからかピアノの旋律が聞こえてきます。かなり速いテンポの曲…。
あれ?
この曲は⁈
[天国と地獄]だ!
そうそう、あの運動会といえば必ずこの曲!ってくらいの!
そういえば、今はどうなのか、
カステラの文明堂のCMがこの曲に歌詞をつけて白い(…私の記憶では、)クマ(←私の認識)がラインダンスを踊ってるものだったな。
そうね、夏休み開ければすぐに運動会。まあ、まさか校庭にピアノを持ち出して生演奏はないだろうけれど。
などと考えながら、この曲を弾いているだろうお子さんを微笑ましく思い歩いていてハタと気づきました。
ぷっ。…ここ、お寺だった。
よりにもよって天国と地獄のBGM。
楽しいっ!楽しすぎる。
たしかにここはそういった世界に一番近いところだ。
一人ウケながら帰宅の途に着いた私でありました。
無住、ではないのでしょうが…。
先日紹介させていただきましたお寺さんの後日談。
六三大師さまのおられたお寺さん、やはり群馬県桐生市にあります【長泉寺】さん。
…こちらのご住職さま、な、なんと三年ほどまえに亡くなられたのだそう。
御朱印を求め庫裏へと向かい、お尋ねしたところ、奥さまが寂しそうにそうおっしゃってました。
こちらは大変古い、歴史ある御本堂です。彫りも大変重厚で美しく、見ていても飽きないものであります。
今度こそご住職さまからお話がお聞きできるかと思っていたのですが。
六三大師さまのお話もお聞きしたかった。
御本堂の前に置かれた鐘は、綺麗でさほど古いものとも思えないのですが、実は割れてしまっているのだそう。
一時期参道の入り口の寺標のところに置かれていたこともあったそうなのですが、今兼務されておられるお坊さまが、あそこでは勿体ないからと戻されたのだそう。
奥さまはご主人との思い出もあってそこに置いておきたかったよう。
うーん、やっぱりご住職さまがおられなくなったお寺は淋しくて哀しいです。
【栖松寺】さんは【桐生市のお寺】という小冊子にもすでにその名が載らないくらいでありました。御堂と間違えたくせに、それはそれで淋しく思う私でありました。
…それでは何故?
何故夫は栖松寺さんの存在を知っていたのでしょう。
答えは簡単!栖松寺さんにある石幢が桐生市の文化財の指定を受けているから、であります。
歴オタの興味は当然の事そういったものにも向けられていて、石仏さまが大好きな私は、おかげさまで、普通に生活していたら絶対にお会いできない野仏さまたちにお会いできたりしているのであります。
さらには、民話とかの造詣もあり、惜しむらくはどうしてそれを子育ての時に子供たちに伝えようとしなかったのか、と。
家族で民話の里を訪ねる、なんて、なんてロマンチックで素敵なことかと思うのですが、ねえ?
「思いつかなかった」そうで…。
…そ、そんなやつです。
夫婦二人で民話の里を訪ねるのだってロマンチックでは?と思われた方。
それが長い髪と長いスカートの裾をなびかせて、すずやかに笑う奥さまと、見目爽やかな長身で脚の長い、お洒落な旦那さまが、
二人でのんびりと野の花を楽しみ、野仏さまに手を合わせる…とかだったら、ねえ。
私どもだと、長身な夫ってとこと、髪の長い妻ってとこしか当てはまらない。
野の花も楽しんでおりますし、野仏さまにも手を合わせてはいますが、ね。
よろよろ、のたのたと歩いている初老の二人はハタから見ても、当人たちが想像しても、ロマンチックとは程遠く。
これがもうちょっと歳を重ねて、おじいさんとおばあさんがだったら…んー、それでもやっぱり絵にはならない夫婦です。
だって珍道中夫婦ですもの!
ま、せめてもう少し歳を取ったら少しは落ち着いていたいと、できたら可愛らしいおばあさんになぞなりたいものだと、思い願うのではありますがね。
野を歩いていて周りから魔女とか山姥とかに間違われることのないことも祈ろう。
【栖松寺(せいしょうじ)】さんというお寺さんは、群馬県桐生市の梅田町にあります。
そのお寺さんのことを知らずにまいりました私は、お隣にある碧雲寺さんの御堂の一つだと思っていたくらい、小さな小さなお寺さんです。
御堂と思い込んだおばさんがいるくらいですので、小さな御本堂と少しばかりの墓地がある、庫裡さえない無住のお寺さんです。
そもそもがこちらの御本堂に掛かられた額に書かれているのは、
【子安観世音】とのみ。
これでは御堂と思い込んでも…しかたがない、ですよね。
それでもこちらのお寺さん、梅田町という土地の、著名な旧家の菩提寺であるとのことで、同じく梅田町にある梅田山西方寺さんの和尚さんが兼務住職をお勤めなされているのだそうです。
こちらのお寺の境内におられる石仏さまはそれはそれは穏やかな優しいお顔をされています。
石幢もあるのですが、そこに彫られた御仏も可愛らしいかたばかりです。
こちらの観音さまは子授け観音さまとして有名だったようで、かつては、
観音さまの抱いておられる赤ちゃんの像をお借りして、一晩祈願するという風習があったようです。
今はどうなのか、九月八日にお祭があったようで、その日は西方寺さんの和尚様が来られて、読経をする日であったようです。
手作りのお団子や果物、生花をお供えし、百匁ローソクがお供えして読経をされるのだそう。
妊婦さんたちは、読経終わるまで待って、
その短くなったろうそくをお分けいただいて帰るのだそうです。
そうして、出産が近くなったら、このローソクに火を灯して、安産を念ずると、ローソクが燃え尽きないうちに子供が生まれるというものだったようです。
うーむ、九月八日かあ。
群馬県の本日のコロナ感染者は314名と過去最多となりました。
二十日から緊急事態宣言が適応されます。病床の稼働数は66.8%。
緊急事態宣言云々よりもこの感染拡大していくスピードに危機感をいだき、外出自粛を自ずから実行している日々を過ごしておりますが。
医療の現場を支えてくださっておられる医療従事者の方々、外出自粛できないお仕事をされておられる方々に感謝し、自分の生活をそうした方々が支えてくださっていることを噛みしめて日々を生きていきたいと思います。
今回、神社仏閣の参拝について、必要ではあるものの不急ではあろうという結論にいたり、遥拝させていただくことといたしました。
それに…実はまだまだ書けていない珍道中録が結構な数、ありまして。
何年か前のもの、…書こうとして筆が止まったもの、いろいろで。
歴オタの夫との珍道中ゆえ、廃寺跡などもあります。
外出自粛の巣ごもり、あいも変わらないめっちゃくちゃな文章がさらに更新されてまいります。
…ごめんなさい。m(_ _)m
仏教から発生した言葉をもう少しだけ書いてみます。
【挨拶】
禅では相手の悟りがどの程度かを測るため「一挨一拶」と呼ばれる問答を行います。
「挨」とは相手に問いかけを行うこと、「拶」とは相手の問いかけにすかさず切り返すことです。
この問いかけと返事の組み合わせが転じて、相手とコミュニケーションをとって親しくなることを指す「挨拶」という言葉になったといわれています。
【ありがとう】
ありがとうは仏教の「有難し」という言葉から来ています。
法句経(ほっくきょう)という教えの「人間に生まるること難し。やがて死すべきものの、いま生命(いのち)あるは有難し。」という一文から取られ、人として生まれたことに感謝して生きようということから転じて、一般的に感謝を表すときに使われるようになったといいます。
【玄関】
玄関は『玄妙(げんみょう)な道に入る関門』からできた言葉で、〝玄〟は深い悟りの境地=仏教であり、〝関〟は関所という意味だそうです。
その意味の通り、元々は寺院の入り口を玄関と呼んでいました。
それが明治時代以降さまざまな建物に寺院の玄関に似た形の入り口が作られるようになり、さらには仏教の道だけでなく単純に外と内を出入りする場所の呼び名として「玄関」が定着したそうです。
なるほど…。
神社仏閣に無縁に生きてきたような私であっても、自然と生活の中に仏教語が使われていたのですね。
仏教から発生した言葉で、日常的に使われている言葉はいくつもあるようです。
【相続】という言葉もその一つなのだそう。仏教語、というのだそうですが、意味は【心の相続】。
土地やお金といった相続とかではなく、亡くなられた方の生き方であった〝あたたかな心〟〝他人を思いやる心〟〝正義の心〟なとを伝え残すことを相続というのだそうです。
これは…。
本当の意味も知らないで、遺産相続で争う。まさに笑止千万、でありますが…。
なかなか、ね。
これがお金や土地ともなると円満にいかないことも多いようで。
心を相続する。
相続してもらえるような心の持ち主になりたいものです。
また、【阿弥陀如来】さまへの信仰は多くの日本語も生み出していらようで…例えば【あみだくじ】。
その様子が阿弥陀如来の〝後光〟に似ていることに由来しているといいます。
そ、そうかな?
もう1つは十八番(オハコ)。
得意なこととか、得意技・必殺技に使うことが…今もあるんでしょうかね。私でもあまり使うことはありませんが。
オハコという言葉は、浄土宗や浄土真宗において、阿弥陀如来さまの四十八願の中で十八番目の願を最も重要視していたことに由来しているようです。
施餓鬼法要も中止されたお寺さんが多いようです。
毎年迎え盆の日に檀家の方が集まって盛大に執り行われていた縁あるお寺さんも、昨年とは異なるコロナの爆発的感染拡大をうけ、今年は御本堂内施餓鬼棚を設営するのみとし、特設したお布施をお渡しする受付があるのみでした。
縁あるお寺さんであっても、檀家と一般をしっかり分けて、声もかけないお寺さん(ご住職)もあれば、
檀家筋でないこともご記憶してくださっていてなお、丁寧な対応をしてくださるお寺さんもあって。
まあ、基本的には檀家を一切持たないお寺さん以外は、檀家さんあってのお寺さんですので、檀家さんが大切なことはたしかなことです。お寺さんも慈善事業ではありません。ビジネスと考えるならば、そういったこともあるのかもしれません。
今回、声もかけないどころか、一瞥して、他の受付にいる家族の方に「あの人たちは違うから」と、こちらに聞き取れるほどの声で接待をしなくてよい旨伝えられたご住職がおられました。さすがに意気消沈してしまいました。
まあ、お布施もしませんし、卒塔婆もお願いしておりませんし。
コロナ禍で檀家さん以外は招かれざる客、ということなのでしょうか。
御朱印で有名となっているお寺さんは逆に、どなたもお客さま、ということでしょうか。
お寺さんも時代とともに様変わりしているのかもしれません。
うーん。
でも、でもですよ?
お寺さんを持たない、旦那寺を探している方もいるかもしれないのですよ?
ひとこと声をかけるだけのことすら、お金にならないことはしない主義なのでしょうか。
血縁の近い先祖の縁もあることだし、そこのお寺さんの雰囲気も好きだったので、日を追うごとに気落ちしてしまう自分がおります。
お寺さんって、本来は先祖供養の大切さを教える立場なのじゃないでしょうかね。
まあお坊さんも人、ということでしょう。
無住となってしまわれたお寺さんは、なんとも切なく哀しい思いがいたします。
川内にあるお寺さんでもう一ヶ所参拝させていただこうとうかがったお寺さんはいつからか無住になっておられたようです。
高源寺さんというお寺さんであります。
こちらの御本堂も大きくはないものでありますが、高台に建ち、川の流れを見守ってくださるような、この地をお守りくださる仏さまがおられる感のするお寺さんであります。
こちらの建物自体は昭和三十一年に檀家の方数名の寄進によって移築されたものだといいます。
お寺の歴史は、同じく川内にあります雲祥寺さんの第五代住職さまが明暦元(1655)年に建立され、開山されたのが始まりのようです。
御本尊は釈迦如来さまで、大日如来さまと聖観音さまをおまつりされておられるようです。
自然豊かな、心がおだやかになる、そんなお寺さんであります。
ほんの少し見える庫裏は少し荒れてしまっていて、そこがなんとももの悲しいものでありました。
今思うと、表札の掛けられた千手寺さんで、その玄関に立ってお声をかけようとか、呼び鈴の有無を確認もせず、どうして千手寺さんをあとにしたのだろう。
大変きれいに住われておられるように見えます。
雑草も生えておらず、きれいなカーテンがかけられています。
ただ、少なくともその日はご在宅されてはいないのだろうと、なんの疑いもなく思ったのであります。
お車もない上、カーテンが閉められていたこと、良いお天気なのに洗濯物一枚干されていなかったことなどからそう思い込んだのです。
一年に二度、ご本尊であられる千手観音さまがご開帳されるようです。一月十七日と、まさにもうすぐの八月十七日。
その日また参拝できれば、お話もうかがうこともできましょう。
ただ、駐車場がなく、路駐も不可能な場所であります。
まして蔓延防止策のとられている今、地元の方が楽しみに訪れておられるその日に、私がうかがうのもいかがなものかと。
…また、いつか。
いつの日か。
戦国末期か慶長前後のものとされる金色の千手観音さまにお会いしにまいりたいと思います。
せっかく、というのもなんですが、この日せっかく桐生市の川内町という地区に出向いたので、川内町にあるお寺さんを巡り参拝させていただくことといたしました。
東禅寺さんにほど近いところに【千手寺】さんというお寺さんがあり、東禅寺さんに向かう途中に案内が出ておりました。
なかなかに急なカーブの細い道で、通り過ぎてしまったこともあり、東禅寺さんのあとに参拝することにさせていただきました。
ただ、帰りに寄るにはヘアピンのように曲がることになります。
「平気平気っ!」とは当然夫。
私ならばいったん通り過ぎてUターンして臨むパターンです。
が。
そのあと続く道が、またまた細い!カーブ続き!片側が低く斜めに掘られたようになっている!
そ、そうね、昔は車でなんかお寺さんに来ないものね。
くねくねとした民家さんの私道のような道をゆるゆると走って、まもなく赤いお寺さんの屋根と思われるものが見えてきました。
…そ、そうかぁ。
昔は車でなんかお寺さんに来ない。故に駐車場もない、かぁ。
ど、どうしよう、…とりあえず境内に入れさせていただくしかないですね、Uターンとか不可能な道ですし、ごめんなさい、ごめんください。
車を停めると、こちらのお寺さん、御本堂と庫裏が一体となっています。お寺さんの入り口は庫裏と一緒のようで、個人の表札があります。えっとぉ…。
まるで見ず知らずの個人のお宅の駐車場に勝手に停めた気分です。
あ、いやいや、参拝という尊い目的があって訪れたんだ。
そ、そうは思ってみても、あまりお寺さんらしい雰囲気のお寺さんではなくて、…石塔や石灯籠、石仏があるとかもなく、香炉もないし、鰐口もお賽銭箱もないのです。
壁面に千手寺と書かれた扁額があることが唯一お寺さんであることを物語っているくらいでありました。
ただ、入り口のところに、案内版の立てられた、四方は囲いはないものの瓦屋根の葺かれた建物があって、そこにおまつりされているものはありそうです。
七面庚申塔と書かれています。
本来角塔と呼ばれるものは板碑と同じ一種の供養塔なのだそうですが、この塔の側面下部には、横にほり込んだ穴があるのです。
結構大きく、明らかにそうしようという意思を持って抉り取った、大きさでいうと拳二つ、いや三つくらいの穴です。
側に備え付けられた案内板によれば、
『遺骨でもおさめられていのではないかと思われる。これは供養塔がある面で墓石化してきたものと考えられる』
とあります。
い?
い、遺骨ですかぁ?
墓所の奥、側にはたくさんのお墓があるのにもかかわらず、途端にその角塔がなにやらちょっと怖いようなものに感じられてしまう小心者の私。…えっ?だ、誰の?どなたの遺骨を?なんでこんなとこに?
…墓石化してきたと考えられるって書いてあるでしょう。
と一人でビビり自分でなだめる、一人劇場を繰り広げ、その角塔をあとにするのでありました。
ええ、知る人ぞ知る
『あなたの知らない世界』を、
頭からすっぽりかぶれる毛布とかを用意して、それでも欠かさず観ていた世代ですから、私。
それにしても…、現在のBGMは新聞配達のバイクの音すらかき消すような、降り込めるような雨音であります。
すでに水を吸い込めなくなった庭の土は大きな水溜まりを作っています。
大きな災害を起こしているこの雨。夫はこの雨の水をギリシャやトルコに持って行けたら、お互いがどれだけ助けられるか分からないのに、うまくはいかないものだと嘆いております。
どうか人命だけはお守りください。
八大龍王雨やめたまへ、であります。
大きな御本堂は一見江戸時代に造られたとは思えないほど、新しいものに見えるもの。
近くに寄ってみても昭和初期と言われれば、そうかと納得するくらい、しっかりと、どっしりとした造りであります。
よほど丁寧に造られたものなのでしょう。
正面は一面がガラス戸であります。そのガラスはさすがに年代を感じるもので、木造校舎をご存知の方であれば、そんな懐かしいガラスでありました。
瑞雲閣と名づけられた禅堂=研修道場は、御本堂と同じくらいに大きなもので、御本堂とは渡り廊下でつながっています。
瑞雲閣の裏手には大きな池があり、心字池がある見事な庭園となっています。
そんな人目に触れない場所にあるものであってもよく手入れされたものでありました。
境内も広々としているだけでなく、本当に気持ちよく手入れされています。
作られたものというのではなく、そう言った意味ではあくまでも自然に、毎日毎日の手入れをされている境内であります。
かと言ってその作業に使うような道具など一切目につくところに置かれていない、本当に大切にされておられる感のあふれる境内であります。
鐘楼も江戸時代のものとは到底思えない、しっかりと威風堂々としたもの。
櫓のように高いもので、青空によく映えるものでありました。
結局この日、御住職さまにお会いできたわけでもなく、御本堂に入ったわけでもないのですが、
もうこの居心地のよさにすっかりこのお寺さんのファンとなってしまいまして。
石仏さまもみな優しいお顔で、この辺り一帯をお守りくださっておられるのが伝わってくる、そんな御仏ばかりであります。
お寺の参道には個人のお宅の所有される観音堂がありました。しっかりと造られたもので、お堂の中には等身大の白い観音さまがお立ちになっておられました。
マリア像を思わせるような真っ白な観音さまであります。
で。
角塔は?…どこだろう。
わからないのでお寺の方にお聞きしました。
墓所の奥の方にありました。
いやぁ、檀家の方でなければ、ここまでは入って来ないです。
角塔は白い柔らかそうな石で造られたものでありました。古いものであるのに南無阿弥陀仏という文字がしっかりと読み取れるものであります。屋根こそあれ囲いなどはありません。
塔の後ろの左下に、たしかに不自然に抉られたような穴があります。
鎌倉時代末期の正中二(1325)年に開創されたお寺さんのようです。
群馬県太田市世良田にある長楽寺から来錫した南海宝州さんという方が、釈迦堂を建て庵を結び、郷民の摂化伝道に勤め、後に堂宇を建立し、縁師仏乗禅師を勧請し開創されたもののようです。
世良田の長楽寺は、その昔臨済禅の名刹であり、常に数多くの雲納、僧侶が参集し、修行伝道の大道場でありました。
建武三(1336)年、新田義貞公は、出兵に当り、園田七郎秀成の実子園田四郎左衛門尉秀澄を家臣に加え、一族の戦勝を祈念して東禅寺へ「毘沙門天像」を寄進し、寺領を奉納したのだといいます。
しかし武運つたなく建武五(1338)年七月、両者共に戦死されています。現存する市指定文化財「建武の碑」は、その供養塔と思われるとのことであります。
その後、天文(1532-1555)年間、永禄(1558-1570)年間は戦国の世となり、上杉・武田、及び桐生・由良両氏の交戦の戦禍に巻かれ総ては灰燼と化し、開創以来二百余年の歴史に空白を生じるのだそうです。
安土桃山時代の天正元(1573)年、東禅寺開創者の子孫の帰依を受け、再興され今にいたるようです。
現存する東禅寺本堂は、江戸時代前期の寛永八(1631)年現在地へ移築したものだそう。
江戸時代中期の宝永八(1711)年には梵鐘も鋳造し鐘楼も建立して名実ともに臨済寺院としての形容も整えられます。
しかしこの梵鐘は第二次世界大戦の時応召され鐘楼のみが残され、現在の梵鐘は昭和四十八(1973)年に再鋳奉納されたものなのだそうです。
そして平成に入り、本堂・禅堂・庫裏の整備を行い、平成七年(1995年)秋に落慶大法要を厳修したといいます。
先に述べた「建武の碑」とされる供養塔は、「東禅寺角塔(角塔婆)」と呼ばれています。
高さ87cm、底部の一辺が28cmの上部がやや細くなった角柱で、材質は疑灰岩でできています。四面には「南無阿弥陀仏」、左側面下部に「建武五年七月三日」と制作日が陰刻されているそうです。
閏七月三日は新田義貞が戦死した次ぐ日であり、さらに東禅寺が新田氏所縁の寺であるとの伝承もあることから、この角塔が新田義貞と関係があると推察されているようです。
桐生のお寺という冊子と角塔の案内板を参考に書かせていただいきました。
群馬県桐生市にはあと一つ、東という文字から始まるお寺さんがあります。
こちらは川内町となります。
広沢町からはずいぶんと離れたところとなります。何をもって東としているかな。
桐生市の中で東にあるものなのか、というとそれは否定してよさそうであります。桐生市の地図を見る限り、広沢町というところは南にありますし、川内町というところはどちらかというと西に位置する…のかなぁ。なにぶんにも地図を読むのも苦手な人間なので…。
広沢町のなか、東にあるのかもしれない、東方寺さんと東沢寺さん。結局憶測の域を出ることないものとなりました。すみません。
川内町というところにあります東という文字のつくお寺さんは【東禅寺】さんといいます。
川内町というのも広そうです。
ん⁉︎
あ!東禅寺さんはたぶん川内町のなかで東にある!
川内町を奥に向かっていく道が何ルートかあって、東禅寺さんはそのルートのなか、一番東のルートで行くお寺さんです。
おおっ!なんだか金田一少年の台詞を言いたくなるほどスッキリしました。…まあほんとはちっとも大したことではなく、夫に聞けば即答されるレベルなんでしょうがね。
歴史もダメ地理もダメ…ときたら、社会科はダメな訳だし、算数もダメ、日本語もあやしいとくれば英語だってダメ。やだなぁ、通知表を貼り付けてるような気分すらしてきたぞ。あ、もちろん理科もダメです。-_-b
閑話休題。
そんなわけで今度は川内の東禅寺さんのお話を。
東禅寺さんは先日参拝させていただいた、永明寺さんと大変密な関係にあるようです。
一時期は永明寺さんの御朱印が欲しい方はこちらでいただいくといった時もあったくらい。
ちなみにこちら東禅寺さんは御朱印の対応をされてはおられないのですが。
そんな東禅寺さんはなだらかな坂道を登っていく少し高台にあるお寺さんであります。
なんとものどかな景色が広がっています。
お寺さんの境内も大変にのどかで居心地のよいところであり、鐘楼が青空にまっすぐそびえ、境内の真ん中にあるのもまたいい感じです。
御本堂と同じくらいの大きさで瑞雲閣と名付けられた研修道場があります。
屋根には大中黒と夫が呼ぶ紋がついています。ということはこちらは新田氏ゆかりのお寺さんということ。おおっ。
お盆の期間にお寺さんの御本堂におまつりされていることが多い祭壇を【施餓鬼棚】と言うそうです。
【施餓鬼(せがき)】の由来は、
お釈迦様の弟子の阿難尊者(あなんそんじゃ)が座禅瞑想していると、餓鬼の霊が現れて、
『あと三日で命が尽き餓鬼道へ生まれかわる』
と宣告されたのだそうです。
驚いた阿難尊者は、お釈迦様に餓鬼の霊への供養法(施餓鬼法要)を教えてもらい、命を永らえることができたということです。
これが施餓鬼会のルーツとなっていくようです。
【施餓鬼会】の法要をお盆中ではないときに営まれるお寺さんもあります。
施餓鬼会は期日を設定して行うものではないもののようです。
ただ、お盆の期間はあの世とこの世の境があいまいになり、ご先祖さまの霊だけでなく、無縁精霊や餓鬼の霊、地獄の精霊もやって来るため、盂蘭盆の期間に施餓鬼会を行い、多くの精霊が救われるよう供養することが多くなっているそうです。
施餓鬼会では、施餓鬼棚に『三界萬霊』の御位牌が祀られます。
三界とは、欲界、色界、無色界のことで、全ての世界の精霊(萬霊)を指すのだそうです。
お盆やお施餓鬼は、先祖代々の供養だけではなく、あらゆる精霊に祈りを捧げ、魂の安楽を願う法要なのだそうです。
…などと冷静を装ってここまで書いてまいりましたが。
お盆の期間はあの世とこの世の境があいまいになり、ご先祖さまの霊だけでなく、無縁精霊や餓鬼の霊、地獄の精霊もやってくる〜?
いやいや、そんなことサラっと言わないで欲しい。
罪深い我が身は自覚しております。
お盆が怖くなるじゃない〜っ。
せっかくお寺さんへお参りすることの大切さを覚えたおばさんは、小心者なんだから〜っ:(;゙゚'ω゚'):
お盆のお墓参りに行かなければ、ご先祖さまに叱られそうだし、さりとてそんな霊とか怖いんですけど〜っ(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)
どうしたらいいんだ。
…やっぱり行くか。
お墓参り。(´;ω;`)
ご先祖さま?
絶対絶対守ってね。
お寺のご本尊さまもどうか是非是非お護りください。
しかも今日は雨。
家にお迎えする御霊のいない私は、それぞれのお宅がお迎えに行く前にお寺さんに行かなくてはいけません。
がんばるぞぉ。
夏のある日、目連尊者の家の前を通りかかった人が一杯の水をめぐんでくれるように頼みました。
水瓶の水はあふれんばかりでしたが、母親はふたを取ろうとしません。何度も乞う声に母親は「この水は目連の水!」とこたえたのだといいます。
インドは暑く、特に水はどこにでもあるというわけではありません。
お釈迦様は、布施(物を施すこと)は執着心を離れることとして奨励されましたが、それは「心」の問題ばかりでなく、社会の貧困を解決することを考えておられたこともあるのでしょう。
目連を思うあまり施しを忘れ、道理を見失った母親は、その死後地獄行きとなるのでした。
目連尊者にとって、自分のため地獄に堕ちてしまった母親の姿はおどろきであり、この上なく辛く苦しいことであります。
悲しみに打ちしおれる目連尊者は再びお釈迦様をたずねました。
お釈迦様は過去を取り返すことはできないが、母親が生前できなかったことをすることはできると話されました。
「七月十五日(八月に行う地方も多い)は雨期もあがり僧侶も夏の修行に一段落つく日である。人々も町に出てくる。この人たちに母親の出来なかった施しをするがよい」と示されました。
目連尊者は飲み物の他、百味百果の食べ物を用意し、衣服をも用意されました。修行僧のほか、そこを通る全ての人々へ、母親ができなかった施しをし、母への供養としたのだといいます。
目連尊者は再び神通力で母親を訪ねました。
白い雲に包まれた母親がうれしそうに空に登っていくところであったといいます。
目連尊者はその後毎年供養を続けることを誓ったのです。
この行いが二千数百年経た今も、お盆という行事となって伝えられ、行われているのだといいます。
なので、私がここでお盆について語るなどということは、まさに笑止千万、であります。
子供の頃から当たり前のようにお盆さまの行事に参加されてこられた方々にはなにを今さらそんなことをわざわざ書いているんだ?となることと思われます。
で、まあ、私の覚書と思っていただければ。
お盆はサンスクリット語で【ウラボン】、漢字に置き換えると【盂蘭盆】となります。
意味は【倒懸(とうけん)= [逆さ吊り]】という意味なのだとか。
?
お盆は逆さ吊りって┉?
【盂蘭盆会】といえば【逆さ吊りになった者を救う法会】ということになるというのです。
逆さ吊りになった者?
実はこの逆さ吊りになった者とは、餓鬼道に堕ちてしまった、お釈迦様のお弟子さんの目連尊者という方のおかあさんだというのです。
目連尊者は、過去・現在・未来のできごとなどを見通すことのできる神通力をお持ちであった方だといいます。
目連さんはその力を人々のために活かされ、多くの人々から尊敬されていました。
有る夏の暑い日のこと。
木陰で休んでいる目連尊者の前を楽しそうに話ながら母子が通っていきました。その姿に、何年も前に亡くなってしまった母親を思いだした目連尊者は、神通力の一つ天眼を利して死後の世界へ会いに行くことにしたのだそうです。
母を探し探して、とうとう地獄の入り口にたどりついた目連尊者はまさかと思いながら入ってみました。
地獄にはいろいろあるそうです。
お湯が煮えたぎって人間が苦しんでる地獄。 針山地獄。血の池地獄。楯刀を持たされて争っている地獄。人間が切り刻まれる地獄。
そんな地獄が際限なく続くそうです。
焦熱地獄を覗いた時です、そこに横たわっている者こそが目連尊者お母さんであったのです。
目連尊者に気づき、駆け寄る母親は一杯の水を頼みました。
しかし、器で運んだ水は熱さで煮えたぎり、持ち寄った食事は火と化してしまいます。
大泣、悲号し目連尊者はお釈迦さまの前に進み出て、ことの子細を話しました。
が、そこで仲間から聞かされたことは目連尊者の母親の悪業だったのです。
目連尊者の母親は目連を大変かわいがりましたが、そのあまり、道理がわからなくなってしまっていたようです。
私の住まう地域では明日からがお盆となります。
まあ、最初に書いてありますが私はいまだかつて迎え火も当然送り火もしたことがありません。
お盆の際のキュウリの馬も、ナスの牛も作ったことも飾られた家に住んだこともありませんし、精霊棚も厳密に正しいものが飾られた家でもありません。
たまたま伺ったお宅が精霊棚をおまつりしているのを[みたことがある]というレベルです。
とはいうものの、最近は珍道中ではありますが、お寺さんを訪れることが増えて、お盆の期間にお寺さんの御本堂へとあがらせていただく機会もあり、お盆中ご本尊さまのおられるところの真正面に祭壇を設けられるのだということも知りました。
荘厳な祭壇には五色の幡があり、大きな御位牌が祀られ、ほおずきが飾られたりしておりました。
また四方をお護りになられるのか四方に御仏に仕える方々のお名前が祀られてもいました。
こういったありがたくもどこか畏れ多いものを写真におさめるようなことは小心者の私にはさすがにできなくて、資料となるものはネットも含めてなかったので、全くのうろ覚えで昨年の記憶をたどり書いているので、間違っておりましたら申し訳ありません。
なんだか葉っぱの上にお米と小さく刻んだ何かの野菜を置いてあるものとか、いわくのあるであろうものがたくさん飾られていたことをうろ覚えに覚えておりますレベルです。
この御本堂で提灯に灯をいただきますところや、施餓鬼会という盛大な法要を営んだりと、お寺さんによってさまざまなようです。
棚経というものがあるようで、これはお寺さまが一軒一軒、檀家さんのお宅を訪問して仏前にお経をあげて回られるもののようです。
お盆も親が亡くなったり、施設入居になったりと、代替わりしたことでだいぶ様変わりしております。
私の周りでは、[お互い様]という、明らかに使い途を間違っているとしか思えない言葉で、お盆のお線香上げで親戚や親しい知人の家を訪ねることもなくなりつつあります。
東沢寺さんの境内はトンボがまるでお祭りを開いているかのようでした。
境内を所狭しと踊りまわっているかのように飛び回っています。何トンボ?
ひゅいひゅいと飛び回って、わかるのはある程度の大きさと、色はベージュっぽいのかな?くらい。
まあトンボに詳しいわけでもなく、止まっていたところでGoogle先生にお聞きしなければわからないのでありますが…。
しばしトンボの乱舞にみとれ、ハッと我に返って、御本堂へと向かいました。
御本堂はガラス越しにお盆さまの支度がされているのがわかりました。もしかしたら普段ならばガラス越しにご本尊さまを拝することができるのかもしれません。
御本堂での参拝を済ませて振り向くと、少し大きめな観音さまの石像が目にはいります。
おっ?
おおっ!
魚籃観音さまではないですか!
なかなおられない観音さまのように思っておりましたので、びっく
りであります。
手にお持ちになられた籠には籠から顔と尾があふれ出るくらいの大きな鯉がおります。
なかなか活きのよい見事な鯉です。
ああ、そうか。東沢というからには沢が近くにあるのでしょう。
そこで鯉が取れるのでしょうか。
そんな観音さまの周りもトンボが飛び交っています。
そして参道である石段をはさんでお堂があるのが見えました。
お堂には延命地蔵さまがおまつりされていました。
窓越しに覗きこむと、ん?
き、胸像のお地蔵さま?
初めて拝見いたします。
さして延命は希望してはいないのですが、このコロナの爆発的な拡大を収束させていただけたならと心より思います。願います。
祈ります。
年若い方が自宅待機中に亡くなられたニュースがまた今日も報じられています。
災害級の感染拡大だと、論じた方がいるようです。
そこへまた、自然災害が日本列島を襲っています。
いや、世界を襲っています。
神さま、仏さま、
どうかお助けください。
お救いください。
【東方寺】さんは桐生市の広沢町といわれるところにあります。
この広沢町というのがまた広いようであります。
そのなかの一寺に、やはり東という文字が使われた【東沢寺(とうたくじ)】さんというお寺さんがあるようです。
ナビの示す道がなんだかどうにも狭そうな┉。
夫は急がばまわれと訴えたのですが、運転もしないくせに、ナビがせっかく教えてくれているのだしという私の一存で、┉ナビと私の意見という多数決で、細くてグニグニとした道を行くことに。
想像を絶する細さ。
その細さのまま、急に鋭角に曲がる道。
片側崖ではないものの、タイヤが少しでも踏み外したら、そのまま横滑りで倒れるか一回転しそうな道。
おーい、冒険したい訳じゃないんだよ~っ!
この車のナビにはぜひ、安全安心な道を案内する学習をしてほしいと、切に切に思うのであります。
そんな冒険をさせられて(被害者はあくまでも夫)、這々の体でようやくたどり着いた、東沢寺さん。
『はじめ、唐沢にありしゆえ唐沢寺と称せしが、一本木に移してより、東沢寺と改む』とあります。
慶長二年に、一本木村(今の広沢七丁目)の村民が、栃木県足利市の光泰寺二世を招いて開かれたのが始まりといいます。
なので開基は一本木村民となっています。
唐沢というところがどこなのか、わからないのでありますが、ともあれ、村民の方々が自分の住む村にもお寺さんが欲しいと熱望して建てられた、という、なんとも心があたたまるお話であります。
そう言われてみれば、桐生市の反対の端より、よほど太田市や、栃木県の足利市のほうが近いかもしれない位置関係です。
それにしても広沢町というのは少なくとも七丁目まであるのですね、道理で広いわけです。
いま来た道よりもだいぶ高台にお寺さんも墓所もあるようであります。
道に立ってもお寺さんの建物はまるで見えません。
石段があります。
何段か登った辺りの横の土地に、六地蔵さんが安置されていました。
お顔は、赤いお掛けが風にあおられて、みんな隠されてしまっておりました。
この日はまだお盆というわけでもない平日の月曜日だというのに、四組ものご家族連れがお墓参りにおみえになっておられました。
コロナ禍の新しいお盆の在り方、なのでしょうか。
まあ、とりあえず、平日ではなくて、今年特例の祝祭日であったようでしたが、ね。
群馬県桐生市の【東方寺】さんへ参拝してさせていただきました。
こちらのお寺さんは彦部出雲秀昌さんという方が建立したもののようです。
桐生市で彦部家というのはなんでも、さかのぼると天武天皇の長子、高市皇子を祖としているとのことで、鎌倉時代に陸奥国斯波郡彦部郷に移った際より、彦部姓を名乗ったのが始まりという、由緒あるお宅のようで。
室町時代に足利将軍家に仕え、永禄四(1561)年に、桐生市広沢の地に屋敷を構えたと伝わるようであります。
その屋敷は今も現存していて、建物は江戸時代初期のものから後期の物が残っており、彦部家住宅と称して一般にも解放されているようです。
彦部出雲秀昌さんとおっしゃる方が、その何代目に当たられる方なのか、あるいは分家筋の方なのか、ごめんなさい、わかりませんでした。
こちらの近くに福厳寺さんというお寺さんがあり、そちらは彦部屋敷の彦部家の方が建てられておられ、こちらの東方寺さんが曹洞宗のお寺であるのに対し、福厳寺さんは真言宗豊山派であり、関連性はあまりないようであります。
その辺曖昧でわからないままの記述のままでごめんなさい。
どちらも今なお続く家柄のお家であります。
そして東方寺さんも法灯約400年に亘り継承され現在に至る由緒あるお寺さんであります。
長い歴史の中で栄枯もあった様ですが、時の檀信徒の方々と歴代の住職の信心と報恩の浄行によって支えられ、現在の堂宇が整備されたようです。
こちらのお寺の紹介文をご住職さまがお書きになられたものがあるのですが、
『宝物は、文化財として価値のある物はございませんが、寺にあるもの全てが宝物であり、何よりも承継がれた仏法こそが当山の宝でございます。
観光としてお出で頂くには適さない寺ですが、安心を求めてお参り下さい』
と書かれていて、なんとも謙虚でかわいらしく好感が持てました。
そして実際にお会いしましたご住職さまも、
「あんまり字がうまくなくて申し訳ないんだけど」
とおっしゃっておられましたが、大変お美しい手で如是とお書きくださってありました。
やっぱり謙虚なお人柄のようであります。
【用明砦】とは。
名君と言われた桐生助綱公の家臣に里見入道勝広という者がいた。
助綱公の信頼の厚い者であったという。
当時の桐生のためにいろいろ尽くして、助綱公とともに桐生を盛り立てていった人物といわれる。
助綱公には子供がおらず、栃木県佐野市から養子をとった。
その子が親綱と呼ばれる人物であった。
助綱亡き後、親綱と、その親綱について佐野よりやってきた家臣が里見勝広の讒言を繰り返し、勝広はついには切腹させられてしまう。
そのとき里見勝広は川内の地の赤萩の砦にいた。
桐生氏の追手から逃れたものの、赤萩の砦にいた者からの裏切りを受けての自刃であったという。
里見勝広の息子二人はその頃、上杉謙信公のところにいたという。
親の最期を聞き、今の群馬県みどり市大間々町の要害山の廃城へと戻ってきた。
その間に桐生氏は群馬県太田市の由良氏に滅ぼされてしまう。
石原兄弟はその後由良氏に仕え、桐生市川内の用明砦を守っていた。その用明砦こそが今の永明寺の建つところであるのだということである。
里見兄弟は、親の仇である石原兄弟を討とうと、用明砦へ向かうが、すでに石原兄弟はそこから逃げ出していたという。
由良氏の家臣となっていた石原兄弟を討とうということは由良氏を討とうとしたこととみなされ、里見兄弟は要害山で討ち死にしてしまった。
…以上が(嫌がる夫に無理やり口伝させたものであります。
まあ、地方の戦国時代の一つの悲話としてお読みください。
そんなわけで、今までわからずにいた用明砦の場所が、お寺さんへのお参りという思わぬことから知ることができ、夫はたいそう感動していたということであります。
それにしてもよくもまぁ、そんな、地元のものでもないところの細かな歴史まで知っているものだと自分の夫ながら感心いたします。
ほんと。
これが県を越えても地元の方とペラペラ喋れるので、なんだか私は置いてきぼりをくらった気分でそんな会話を聞いています。
私がバカなのか、夫が詳しすぎるのか、その両方なのか…。
いま、群馬県でも蔓延防止等重点措置がとられています。
しかし現実には、最初に出された緊急事態宣言下よりも感染力が強く、重症化する変異株となり、今まで以上に外出も自粛するようでしょう。
なんとかこの状況を乗り越えるために。
夫から歴史でも学びましょうか。
…喧嘩になるとしか思えない。
群馬県桐生市の川内町に、急な傾斜でなおかつカーブした道をのぼっていくお寺さんがあります。
坂をのぼり切ったところにある、清浄な空気と鳥や虫の声しかしない空間は、私が心を空っぽにできる、無になれる空間であります。
この清らかな山はなんという山なのだろう。
いつかお聞きしたいものだと思っておりました。
そのお寺の名前は【永明寺】さん。
初めてお邪魔したときはまだ庫裏が出来上がっておらず、どなたもおられない状態でありました。
その後もなぜかご住職さまも参拝の方すら誰一人居られない、貸し切りのことが続き、私はそんな境内にたたずんでボーっとして過ごすのが大好きでありました。
この日、珍しく庫裏に車がありました。おっ??
まずは御本堂の前で御仏さまにごあいさつ。
私、こちらのお寺さんの方にお会いできたら、お聞きしたいことがありました。
一つはこの清らかな山はなんという名前であられるのかどうか。
そして、もう一つは境内向かって左側にある御堂にまつられたお堂におられるお地蔵さまはどんないわれがあるのか。
…お聞きすることができました。
このお山は【用明山】だということであります。
あ、ちなみに山号ではなくてです。このお寺さん、永明寺さんが建っているお山のことです。
なんでも桐生の地にまだ【桐生氏】がいた頃。こちらには用明砦と呼ばれる砦があったのだそう。その砦の地名から用明山と呼ぶようになったと伝えられているのだとか。
その時、
「そうですかぁ。こちらが用明砦だったんですかぁ」とやたら興奮している男が一人。
ええ、夫です。
若いご住職さまもよもやその砦があったことを知っている人が来ようとは、ましてや用明砦という存在を知った人物が来ようとは思ってもおられなかったようで、
少しびっくりされ、少し嬉しそうに、
「あの墓地の入り口にある桜の根元とかに、馬をとめておく馬止めとかが出てきたと伝えられているのですよ。
墓地の方からもいろいろ出ていたようなのですが、お墓が次々と建って今ではもう掘ることができなくなってしまいましたがね」
と、お教えくださいました。
用明砦で興奮した夫が帰りながら語った話はまたあとで。ʅ(◞‿◟)ʃ
【猿田彦之舞】※猿田彦之命(道祖神、庚申、船魂神…旅の安全を守る神)
この舞は二人で舞われるものでありました。あと一人は供人(従者)が登場します。
猿田彦が剣と鈴を持ち、国家繁栄を願いテンポの良い囃子で舞い、
供人が登場して、刀と鈴を手に猿田彦の所作をまねながら舞う、といったもの。
猿田彦が衣装も舞もこれがまたカッコよくて。
とはいえ、日本書紀で
[その神の鼻の長さは七咫(ななあた)背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、赤酸漿(あかかがち)のように照り輝いている]
とあるくらいの神さまであらせられるので、つけられている面は、
さながら天狗さまのようであります。
こちらの髪が千々に乱れていても、それは動きに沿うものでもあり、男の神さまであり、帽子もお召しでありますので、それはそれが当たり前のことのようでありまして。
深く腰をおとし、勇ましく舞う舞に心奪われることでありました。
一通り猿田彦が舞を舞ったのち、現れたのは供人。
頭には豆絞りの手ぬぐいをかぶって、白い上着に赤い色のちゃんちゃんこを着、下は白を基調とした花柄の、さながらニッカズボンのようないでたちで。
面はひょっとこを想像していただければ、ほぼそのような面であり、手には前述した通り、鈴と刀を持って、猿田彦の動きをコミカルに真似て舞うのでありました。
基本は猿田彦の舞を真似るのでありますが、途中で神楽殿の床に寝転んでしまったり。
子供たちにお菓子を配りだし、そのまま神楽殿から落ちそうな…本当に落ちるのでは、とハラハラするくらい、ギリギリのところでギリギリの演技をしたり。
そもそも手に持つ刀は、もしかしたら、程度の良いものではあるものの、子供らが手に持って遊ぶあれとしか思えないように見えてなりません。
猿田彦の舞にはキュンとして、供人の舞には思わず声を出して笑ったところまであるくらいであります。
すっかり御神楽のとりこになった私であります。
昇殿させてくださった世話人の方には、三度も
こちらのお祭りがほかにいついつあるから是非お越しください、とお声がけいただきました。
さらには御神楽のメンバーの一人の方に、「次はえびす講だよ」
と、リピーターとなったであろうおばさんに心にくいお声がけもあり。
…次はえびす講_φ(・_・
蝉しぐれの中、心地よい陽の光の下で久々にお祭りを堪能させていただきました。
1945年8月9日午前11時02分、長崎市に米軍が原子爆弾を投下しました。七万人以上が死亡したとされ、76年が経つ今も多くの人が健康被害に苦しんでいます。
先日、76年の長い時を経てようやく被爆者の認定を受けることができたのは広島の原爆被害者のみであったという事実に衝撃を受けました。一つ一つ?
同じく原爆の被害を受けながら、
その差はどこから生じるのでしょう。
菅総理はこれについて一切語ることはありませんでした。
そして。
今年一月に核兵器の開発や製造、使用などを全面的に禁じる【核兵器禁止条約】が発効してはおりますが、このコロナ禍でその後の進展はなく、しかも現時点で、核保有国や米国の「核の傘」の下にある日本政府はこの条約を批准していません。
難しいことは分かりません。
日本語もおぼつかない文章を書く馬鹿ですから。
でも、世界で唯一の原爆被災国自体が、この条約にサインできないのでは、ようやくここまでこぎつけたことが、世界にはどうとらえられるものか。
軽んじられてしまっていい内容でしょうか。
国としてどうあるべきかという問題は私には大き過ぎるかもしれません。
あまりにも大きな大きな船であります。
ただ、人としてどうあるべきかはわかっているつもりです。
この日午前中に奉納された演目は三つ。
前述の【翁之舞】のほか、【天宇豆女之舞】【猿田彦之舞】と続きました。(このへんも本来の順番として紹介されているもののニ座と三座が入れ替えられておりました)
私の絶賛しておりました【翁之舞】は、本来は宮司さんから大幣をお受けして始まるものらしいのですが、今回は一人でトーチを持って登場するところから始まりました。トーチを神前にまつり、神前に置かれている大幣と鈴を持ち、静かに静かに舞うものでありました。
天下泰平、国土安穏、五穀豊穣を寿ぎ舞われるもの、とあります。
【天宇豆女之舞(あめのうずめのまい)】※天宇豆女命(神楽の神、芸能の神)
天宇豆女之命の舞は、神々の魂ヲ鎮め蘇生させると云われているそうです。幣束を持ち鎮魂の舞を一人厳かに舞う…と解説にはあるのですが手にお持ちだったのは鈴と五色の糸の巻かれた糸巻きを持って舞われていた記憶があります。
この白瀧神社さんの太々神楽はすべて男性の方が構成されているので、当然この女神さまも男性。
わざとそのように演出してあるものなのかまではわかりませんでしたが、明らかに男性の動きです。
黒髪も今の質のよいかつらとは違う剛毛の鬘で、それをガバッと被ってきましたという感じで千々に乱れた乱れ髪で、装束も足元がきゅっと絞られたモンペふうのもので…。
これはちょっと女神さまがお気を悪くされなければいいけれど…と思ってしまった私でありました。そしてそっと小声でそう言うと、夫は、
「だって天宇豆女之命さまって、美しい方ではなかったと伝えられているから…」
いやいや、お面も『おかめ』『お多福』の面より明らかに醜女に造られているけれど、そうではなくて…。まぁ表現の自由?
でも神楽の神さまで芸能の神さまであらせられるわけで、ちょっと私の感覚とは違う納得のいかないものではありました。
【猿田彦之舞】※猿田彦之命(道祖神、庚申、船魂神…旅の安全を守る神)
この舞は二人で舞われるものでありました。あと一人は供人(従者の意。神楽では抵悟(もどき)、道化の名前)が登場いたします。
猿田彦が剣と鈴を持ち、国家繁栄を願いテンポの良い早舞の囃子で舞うものであります。
まず猿田彦が一人一通り舞い終わると供人が登場して、刀と鈴を手に猿田彦の所作をまねながら舞うものでありました。
桐生市の指定重要無形民俗文化財に指定されております【白瀧神社太々神楽】。
『白瀧神社には古くから神楽が伝承されているがその起源は定かでないが、面の大半は江戸時代のものである。
現存の記録では明治二十一年の「太々神楽施行願」があり、明治三十一年、「神正流大和太々神楽座記録」に十二座の舞の記録が舞人の姓名とともに記載されている。舞人の議定書もあり第一條から第十條までに舞人の心得が細かに記され署名捺印されている。
第一座「翁之舞」
第弐座「猿田彦之舞」
第参座「天宇豆女之舞」
第四座「剣玉之舞」
第五座「岩戸開伎之舞」
第六座「巨蛇退治」 …と続き、
楽器は太鼓、胴長締太鼓、笛の二鼓一管である。
式舞は大祓詞の奏上により始まる。四方を祓い清めた大幣を手に宮司は平舞の囃子で「宮司之舞」を厳かに舞う。舞終わり神前に着座し「翁」を待つ。』
とは白瀧神社太々神楽の公式サイトに記されたものです。
神楽の起源は明らかではないようですが、面の大半は江戸時代のものだといいます。
現在伝えられる神楽は前述の十二座のうち、式舞五座、興舞五座であり、囃子は太鼓、長締太鼓、笛では構成されています。
この神楽、実は代々川内地区に住む長男が継承してきたが戦後後継者不足で消えかかったといいます。そんな中の昭和27年ころ青年有志が古老より受け継ぎ、受け継がれ今に至ったようです。
そこでふと気づいたことがあります。
『式舞は大祓詞の奏上により始まる。四方を祓い清めた大幣を手に宮司は平舞の囃子で「宮司之舞」を厳かに舞う。舞終わり神前に着座し「翁」を待つ』
【宮司之舞】というものが存在するんだ。
ですが今回の御神楽は【翁之舞】から始まっています。
もしかしてこれもコロナ禍における特例であったのでしょうか。
実は白瀧神社さんの太々神楽公式サイトには動画もアップされており、たしかにそこには宮司之舞が残っていました。
宮司之舞から翁之舞へと移行するのが伝統であったものを、こうして形を変えていく必要性も生じることもあり、それでも御神楽衆はあくまで明るく、神楽を繋いでいければと舞い、太鼓を叩き、笛を吹きます。
もし私の拙いあやしい駄文をお読みになって関心をお持ちになられた方は、『白瀧神社太々神楽』で検索されるとそのページを探すことができると思います。
うーん、十一時半からだったのかもなぁ、そう自分の記憶力の無さを心底心配したその時でした。
「お、終わったぞ」と、神楽殿でくつろいでいた男の方々の動きが一転しました。ごろごろしていた(ほかの表現を知らなくてごめんなさい)方々が、スッと立ち、ある方は襟を正して太鼓に向かいました。
ああ、なるほど。
拝殿でもう一度執り行われていた(らしい)玉串奉奠の儀が終わるまで待っていたということだったようです。それはそうですよね、神事が拝殿で行われているのに同じく神事で神さまに奉納すら御神楽を始めるはずがありません。
始められた舞は【翁の舞】。
…その演目が筆書きされているのですが、それがまた感嘆するほどに力強く美しい文字であります。
翁の面をつけた方が舞台へと入って来られた瞬間、境内がシーンと静まりかえりました。
年老いた方の動きをどれだけ観察してこの舞に活かされておられるのか。
腰をかなりに曲げての動きは、どうしても身体に負担がかかりましょうに、まるでそれが自分の普段からの動きであるかのように一瞬も若い動きに戻ることない所作であり、舞であります。
子供たちも十人以上、二歳から小学生までの子がいるのに、境内にいるすべての人が固唾を飲んで見守っているのです。
翁の舞ですので、派手な動きもありませんし、見方によっては美しいと思えはしないかと…。
たぶん、子供たちにすらその美しさがわかるのでありましょう。
静かに静かに舞は続きます。
実は登場時に、翁の手に持たれていたものは、かのトーチでありました。トーチをうやうやしく神楽殿に設られた神前にまつったのであります。
その自然な動き。
この舞人の素晴らしさはそこから始まりました。
トーチを神前にまつる。
国内で開催されたオリンピックならではであり、なおかつ、この神楽のメンバーが聖火ランナーに選ばれたからこその粋な計らいでありましょう。
長い神楽の歴史の中で最初で最後のことでありましょう。
となれば、私、その歴史的な瞬間に立ち会えた、ということになりましょう。
でも、私の中では、翁の舞の素晴らしさの前でそれすら霞んでしまっておりました。
えっ?玉串奉奠はきちんとできたのか、ですか?
うーん、そこはこれからの修業、かな。
そして、この日は神楽の奉納もあります。事前に十一時からと伺っております。あと二十分ほど。
どこで拝見させていただこう。
…ん?
あの、ヘッドカットマネキンに着せられた白装束は…もしや、まさかのオリンピック聖火ランナーのユニフォーム⁈
間違いない。
となりにトーチが飾られている。
そ、そうなんだあ。
桐生市の聖火ランナーの一人は川内町在住の方だったんだぁ。
トーチを収めるケースも立派なものです。
「へえぇすごいな。鏡になってるんだ」
何が?
「いや、このトーチを上から見ると桜の花の形になっているのが、わざわざ覗かなくてもわかるように鏡になってるんだよ」
へっ?
「だから、トーチの上に桜の形があるでしょ?あれ鏡に写ってるものなんだってば」
へっ⁈
…言われてもすぐにはわからないくらい、美しく光り輝くものであります。
聞けば、神楽の代表の方が選ばれて走者を務められたのだそう。
ほおぉ。聖火ランナーの方の舞はどんなだろう。
聖火ランナーを務めた前と後ではやっぱりものの見方考え方とか名、変わりはあるものなのだろうか。神楽の舞や演奏には何か変化あったのかなぁ。
実は後でトーチを持たせていただくことができまして。
見た目は重厚な感じなのに、やはり持って走る物なので、とても軽いものでありました。
前の東京五輪のときのトーチとは本当に形も見た目も凝ったものであります。
うーん、十一時を過ぎたのに、御神楽は一向に始まる気配がありません。あれ?トーチも片付けられています。
十一時というのがそもそも私の記憶違いなのだろうか。
とはいえ、最初から昇殿までさせていただけるなどとは思ってもおらず、みなさん顔見知りの方々ばかりのお祭りに参列させていただけただけでも本当にありがたく思って、拝殿前で参拝したあとは離れたところでお邪魔にならないように拝見させていただいておりました。
神職の方がおみえになりいよいよ神事が始まろうかというときに
お邪魔にならないだろうという位置の拝殿前で、神職の方が修祓(しゅばつ)をなさる様を、私もお祓いいただけるように頭を下げつつ拝見させていただいておりました。
その時です。
進行係をお務めになられている方が私どもにお声をかけてくださったのは。
「どうぞお上がりになってください」
へっ?
「是非玉串をあげて行ってください」
はっ?
よろしいのですか?
「是非」
へっ?
あ、ありがとうございます。
正式に床几までご用意してくださり、ど、どうしようと思うくらいの対応です。
降神の儀、献饌(けんせん)と儀式は続きます。
祝詞が奉上され、玉串奉奠。
うわぁぁぁぁぁぁぁぁ。
人生で三回目に過ぎない昇殿、及びに玉串奉奠ですがね。
しかもまるでそんなはずじゃなかったから、まるっきりその作法が頭にはいっていないんですって。
うわあぁぁぁぁぁぁぁぁ。
それと私、この進行係をお務めになられておられます方より先に玉串を奉上することだけはあいならない。
そのくらいは頭がまわりはしました。
この儀を執り行うお一人で、私どもに昇殿をお許しくださった恩ある方より先に神さまの御前に参じてはならない。
小声で玉串奉奠の順を誘導されておられるときに、なんとか、お先にお願いしますとお伝えすることができました。
すぐにご理解してくださって、それでも私を除いた最後に玉串を奉上される、なんとも人の出来たお方であられます。
神職ではなくとも、神さまにお使えになると自然とそうしたことが身につくものなのでしょうか、それとももともとそうしたことが身についておられる方なのでしょうか。
とにかくお一人で式進行の案内役から酒杯の準備までされておられました。
…私、この方の爪の垢ももらうともっと御利益があるかもしれません。
神職の方の所作の美しさもまた目を奪われるものでありました。
昨日、群馬県桐生市の白瀧神社さんの大祭に参列させていただくことができました。
それも、昇殿して玉串奉奠(たまぐしほうてん)までさせていただく丁重な接待をお受けし、本当に涙が出るほどに感動し、ただただ感謝しかございません。
いつもは無人の白瀧神社さんに、人が集まって…はおりました。
しかし驚くほどの徹底した感染対策をして、であります。
厚手のビニールのカーテンで仕切られた受付、マスクはすべての方々が着用されているのはもちろんのこと、フェイスシールドをされた方もおられます。
もともとが無人の時であっても、アルコールの手指消毒液が設置されているくらい、管理をされておられる世話人さんが努力されておられるところであります。
人々はほどよい距離で自然なソーシャルディスタンスを保ち、まずはそこに感動したくらいです。
無人である通常時でも綺麗に掃き清められた、明るい気の満ちたたいそう気持ちのよい白瀧神社さん。
お護りいただくことに感謝して大切に維持管理されておられる方々がおられることはわかっておりましたが、これだけの徹底した感染対策をしての開催を、相談して計画して、準備して臨んだ、絶対に開催したい大祭であったのでありましょう。
とはいえ、一時は警戒レベル2までに下げられておりました群馬県であります。どうあっても開催するためにはと、レベル2の時からすでにこうした対策を取ることを決めて、調べて行動されておられたのでありましょう。
しかも、申請してもすぐには政府が出してこない緊急事態宣言や蔓延防止対策。それが幸いして、この大祭の次ぐ日から蔓延防止対策が施行されることとなるのであります。
まるで白瀧姫さまが里人のためにそうしたかのような、見えない力を考えずにはいられませんでした。
いつもと違っていたのは、手水鉢に並々と、日の光遠受け煌めく水が張られていたことと、当然のことながら、拝殿の扉が開け放たれ灯が点されていたこと。社務所も開けられ、神楽殿にはミヤマクワガタではなく白に浅葱色の装束を身に纏った方々がおられること。
ただ、なぜか境内の気はいつもと変わらない。
人がいてもいなくとも明るい清んだ気の満ちた白瀧神社さんであります。
一応、新形コロナウイルスワクチン第一回接種後の最終報告を。
接種後、48時間を経過した時点ではまだ軽い痛みがありましたが、54時間後の今は、挙上時に重い感じと、触るとまだ痛いかもな、程度です。
次回ご報告するかどうかは┉そのときの体調と気分で(`・ω・´)ゞ
初めて秋の気立つがゆゑなれば、とされる【立秋】。
暦の上では今日のこの立秋から立冬の前日までが秋となります。
立秋からの暑さは残暑と呼ばれるものとなり、昨日までは暑中見舞いだったものは今日から残暑見舞いとなります。
いやいやいやいや。
今の暑さを残り物扱いするのはなかなか抵抗があります。夏本番でありますってば。
まあ、私が子どもの頃からその辺はもうズレていたもののようで、
手紙の書き出しの慣用に『暦の上では立秋といいますが』というものがありましたくらいですし。
温暖化って表現も、なんだかもう緩く感じるこの異常な暑さ、体温より暑いってことも結構ざらに観測されらようになって、暦も『優雅なかつての言葉』となりつつあらのでしょう。
ちなみに、八月二日から六日までを大雨時行(たいうときどきにふる)というらしい。時として大雨が降りやすい頃という意味のようです。
集中豪雨やゲリラ豪雨のような降りはどうであったかはわかりませんが、過去にもにわかに激しい雨が降ることはあって、
篠竹を突き立てるように激しく降る『篠突く雨』だとか、弾丸のように大粒の『鉄砲雨』などという言葉が存在します。…まあ、最近これを使う方ももうほとんどおられなくなりました。
とりあえず、秋にしてもらえるならほんとそうして欲しいですし、昨日までで大雨は収まって欲しいと心から思うのですが。
この後、暦は【寒蝉鳴】となるのですが、これが『ひぐらしなく』と読むようで、ヒグラシだけでなくツクツクボウシなども含んだ秋に鳴くセミの総称のようなのですが、もはやこの蝉たち、春から鳴いていますからね。
その季節のずれてしまった蝉たちを私が嘆いておりましたところ、街中で育った夫などは
「へえぇ、この蝉って秋に鳴くものなの?そんなの知らなかったけど?」と宣う。
あのぉ、ここそんな大都会じゃあありませんが?
子どもの頃、終わらない夏休みの宿題に途方に暮れるころ、聴こえてくるヒグラシやツクツクボウシの鳴き声に秋の訪れと世の無常…というよりは無情を毎年毎年感じたものですが?
風情のない人だ。
…いやいや夫はとうに宿題を終えているタイプであったのでありましょう。蝉たちの鳴き声などにあわれなど感じることなく子どもらしく遊んでいられたのだろうな。
わが家の子供たちもみな、夫寄りの夏休みの過ごし方であったな。
…これは秘密にしておこう。
今日は広島の原爆忌。
忘れてはならない日であります。
それはもう想像すら絶する、この世の地獄であったとしか思えません。
小学生の頃、夏休みということもあり、毎年この広島の原爆慰霊のテレビ中継を一人見るのが、決まりごとのようでありました。
中学生となって部活やら何やらで、この中継を見る機会は減っていきましたが、その時に刻まれた思いは変わりありません。
息子は高校生のとき、原爆被災者の方から体験をお聞きする機会をお与えいただきました。
若い世代には、広島に住む方だけでなく、戦争の悲惨さを伝えていくべきだと思うのであります。
国語の教科書に必ず挙げられる戦争の話はそういった平和への祈りが込められたものと思っています。
今年、戦後どれだけの時を経てか、ようやく黒い雨を浴びた方々に原爆被災者の認定がおりました。
その間抱えておられた健康被害はいかようであったものか。
私にとって、
戦後の日本を生きて、次の世代に繋いでくださったすべての方々に感謝する一日でもあります。
今朝の排尿は臭いが昨日同様、今まで嗅いだことのないものだったものの、絞り出すような感覚はほぼ消失しました。
ちなみに発熱もなかったため、鎮痛剤は服用しておらず、いつも以上に水分摂取を心がけていたため脱水ということは考えづらいのです。
あとは動悸。
熱感はなく、体温も36.9℃。
念のためSpO2を測ると96%。
接種した側の腕は耳の横まではいかないもののほぼ上に上がるようになったものの、小指に違和感。
まあ、接種後19時間、こんなとこなのかもしれないな。
接種後、初めての排尿は今まで嗅いだことのない臭いがしました。
うーん、効いているらしい。
夜寝る前の排尿は腹圧をかけてもかけても出せず、しぼりだすようなものでありました。
夫には一切見られなかった症状であります。
自分では治験を受けている認識を持っているため、少しの症状でも書いておこうと思います。
腕の痛みは結構強くて、水平の高さまで挙げるのがやっとでそれ以上には挙がりません。寝る前に冷湿布を貼りました。
頭痛は同程度で変化なし。
ちなみに┉蚊に刺されて痒くて目が覚めただけです。(*´∀`*)ゞ
新形コロナワクチンについて、思うことはいろいろありました。
けれども、この爆発的感染拡大を受け、考え方を変えざるをえませんでした。
正直、治験に参加しているという認識が強く、その効果がどうあろうと、一応現段階唱われている新形コロナウイルス感染症に効くであろうというその効果が得られたならば、ひいては及ばずながら感染の抑止力になれるという認識のもとに接種したに過ぎません。
あまりにも早いスピードで拡大しているため、本来ならば三~七年かかる治験をすっ飛ばしての全国民対象の接種にふみ切っているだけだという認識であります。
私は人生を折り返し地点にたった人間で、その一つの布石になろうではないかと思ってのこと、正直、異物を受け入れるという感覚は強かったですし、残りの人生で、ワクチンの副反応がどんな形で現れるかという不安を抱きつつの接種に過ぎなかったです。
ここへ来て変異株、殊にデルタ株の発現により更なる急拡大となっているため、本来ならば決して勧めることなどない子供たちに、ワクチンを勧める発言をしてしまいました。
感染力も大きく、重症化をする事例がかつて重症化しないようだと言われていた若い世代にも急増しているだけでなく、医療崩壊しつつある中、罹患しても中等症化しても、入院できない現実を見せつけられてのことだ。
政府は方針を変えたのではなく、感染拡大についていけず医療崩壊しかけている現実をああいう形で発表したにすぎないのだと思っています。
対象年齢である全国民分のワクチンはすでに確保しているという発表も嘘。
配付できないくらいに供給量がないことがそれを裏づけていると思います。
だから、せめてその機会を得た私は受けよう、そう思っただけです。
なにも生活は変えません。
ワクチンをさほどは信用はしていないからです。
マスクもします。
コロナが日本に発現して以来、外食は三回ほどしておりますが、今後もある程度の収束がみられるまで外食はしないと思います。
外出をすれば今まで通り、一番外に着ていた衣服はすべて洗濯し、あるいは外に干して一定時間経過しなければ室内に入れないマイルールも変えません。
私の大切な存在を守ることになることだけを信じて。
今回は神社仏閣のお話から脱線して新型コロナワクチン接種記録を書いております。
接種して八時間が経過した今、注入された薬液量よりだいぶ多い‥広い範囲に、強打したような痛みがあって、若干手首や指の動きも鈍い、かなぁ。
だからといって鎮痛剤を使うほどではないです。
頭痛は重い程度。
首にずっと同じ姿勢でいた時のようなコリ感のような感じもあります。
若いから痛いんだなぁ、でしょ?
ちなみにこの症状は50%以上発現する可能性があるもの。
うーん、普通の人だ♡ p(^_^)q
このたび政府が発表した方針は、重症者については入院のための病床を確保するが、中等症や軽症者に関しては自宅療養を基本とする内容で、感染者増による医療提供体制の逼迫(ひっぱく)に備える、といったものでありました。
その重症者の定義は人工呼吸器等を使用しなければ命に関わる者でありましたよね。
菅総理はさらに、
「重症患者、重症化リスクの高い人は確実に入院していただけるよう病床を確保する。それ以外の人は、自宅療養を基本とし、症状が悪くなればすぐに入院できる体制を整備する。そのため往診の診療報酬を拡充する」と説明していました。
嘘ばっかり。
入院しか無いと判断された方が、もうすでに二十軒医療機関に近く断られている現状は伝わっていますよね。確実って言葉は、政治の世界では一般とは異なる使い方をするのでしょうかね。
「確実にすぐに入院できる病床を確保する」って、現状確保されてはいないですよね。
「国民の皆さんの安心安全」ってよく口にするけれど、どっこも安心じゃないし安全じゃないです。
何を根拠におっしゃってますか?
新型コロナウイルス感染症は高熱だけじゃないんですよ、呼吸が苦しいんで。
一人で療養すら不安って半端ないと思うけど、その辺とかはもう一切切り捨てた方針ですよね。
やることやるべきこと、やらなくてはならぬことが山積しているのは存じ上げているつもりです。
でもね、一人の命は一つなの。
貴方もそうですよね。
苦しいのは嫌だし、死ぬのは恐いでしょう?
国民の安心安全はどうしたら得られるとお考えですか?
安心安全に開催しているはずのオリンピックも、どんどんタガが外れていっていますよね。
感染者の外出すら、説得しても同意が得られず、野にはなっておられましたね。
ノーマスクで国を超えて抱き合う選手たちを観て、微笑ましく思う思いはあってもそれはまた別もの。コロナ禍のオリンピックでは本来なら違った方針で開催するはずでしたよね。
これが違う国での開催であれば、もっと国の安全を考えた徹底した開催をした気がしてならない。
コロナに、「ま、いいか」なんてないからね。
片方では緊急事態宣言、片方では夢の国。
覚めたとき待っているのはどんな景色なんだろう。
うん?
体熱感と頭痛がするなあ。
接種から四時間半。
体温は接種前36℃、現在36.9℃。
腕にも注意すると筋肉痛のような痛みがある。
おやっ?これは‥‥
夕飯作らなくてもいいパターンでしょうか?(๑>◡<๑)
毎日お唱え申し上げております【般若心経】。
そらで唱えることができるのかどうなのか‥‥。
ただ。お坊さま方は異口同音に、たとえそらで唱えられるようになっても、読経する事が大切なのだとお教えくださいました。
まあ、それ故、私などは覚えなくてよいと、いいようにも解釈したため諳んじることなどしたこともありませんが、一字一字を目で確かめて、言葉に出すことが大切なのだとお教えいただきました。
その言葉の意味だけは、わかるようにはなってきたように思います。
私はまだ、この唯一なんとかお唱えできるようになったお経の説くところを少しも理解できていないので、仮に諳んじることができたとしても、一字一句意味が込められたこの般若心経をお唱え申し上げたことにはならないということ、なのだと思うのであります。
それでも毎日のこと、ふと気づくと読経の最中、何かを考えている自分に気づくことがあるので、そういった瞬間には私は誦じているのだと気づかされます。
だめだな、とも思うのでありますが、いかんせん、それも無意識のうちのこと。
ああ、今日の読経は駄目だったなあ、明日こそはと思って次ぐ日につなぎます。
そもそもが、般若心経はすべてのものが【空(くう)】であることを説いているように理解しております。
まあそれはこのいいかげん大魔人の私がそう理解しているということでとばしてお読みいただきまして。
その般若心経を空(くう)の状態でお唱えすることが一つの修行ともなるのだろうに、なかなかそうできない。もともとが雑念の塊りなのだから、この時くらい雑念を払ってお唱えできればいいものを、雑念の塊りゆえに気づくと何かが心中に、頭の中にうようよしているのがほとんどで。
空(くう)を理解できれば穏やかな毎日を送ることができるのでしょうが、その道はあまりに遠い、のであります。
かつてゴダイゴが歌ったガンダーラの歌詞にもありました。
そう、そして、そのガンダーラをエンディング曲としていた番組こそが西遊記であり、その西遊記の主人公である三蔵法師。三蔵法師のモデルとなった人物、玄奘こそが、この般若心経を漢訳したのです。
作詞された方はおそらくそんな背景もご存知で作られたのでありましょうし。
うーん、今あらためて歌詞を読むと、奥深いものであります。
それにしても、‥‥名曲だなあ。
もう全国的に緊急事態宣言出そうよ。
などと家の中でわめいたところで、いやたとえ国会議事堂の前で叫んだところで逮捕されることはあっても、個人では何にも変えられないことで。
私に変えることができるとすれば、心中どう思っていようと、新型コロナウイルスワクチンの接種を、焦らず騒がず、さりとて機会あるならば躊躇わず受けること。
それしかありません。
そして今回その機会を得て、本日一回目のワクチン接種をいたしました。
刺したかどうかわからないくらいだったとほとんどの方がおっしゃっておられ、一足先に接種した夫もそう申していたのに、‥‥い?痛いんですけど?!
針刺した感覚もしっかりありますし、薬液注入中もさらなる痛みがあるんですが‥‥。うーむ、だが指先の痺れ等はない。これは個人差の範疇だな。
インフルエンザワクチン接種の際は抜いた後にあった痛みは、このワクチン接種ではありません。
疲労感が‥ないな。
頭痛が‥ないな。
うーん、何も変わらないままの私であります。
接種から二時間。
動悸がするのは?
‥‥更年期か。
いやほんとに、更年期の診断がくだされているのです。
くー、夕飯作れないかもなって期待していたのに。
仕方ない、作ろうか。
‥‥いろいろ誤字、表記ミス等見つけたのですが、訂正するものがふたつ前のレスだったりすると、ふたつ削除して、直したものを改めてレスして、一つ前のものを再レスするようなややこしいことになって。
それが三つも前だと、もはや手に負えない。
だから、ちゃんと読んでからって、‥‥。(´;Д;`)
最近、ますます不調のタブレット端末、突然電源落ちしたりするものだから、タブレットのご機嫌が良いうちに送らないと!と、焦って速攻送ってしまう。途中でもなんとか文章をまとめあげて。
そんなだから、後で読み返して気づいて、ひえ〜っと声に出してしまうくらい、頭を抱えるくらい、ありえないミスに気づく。
ごめんなさい。
今回のミスは直さずいかせてください。
自分でも、もうずっとスマホからでいいじゃない?って思ったりもしたんです。
そうすると、スマホで撮ってきた写真が見られない。
なおかつ、やっぱり小さい。
そうしてアンドロイドとアップル社製の使い勝手の違いにまた、イライラし。
‥‥スマホデビューしてまだやっとひと月なんです。
ガラケーの終了も近づき、あり得ない動かず、クリックしてるとことまるで違うところを出してきたり、さらには突然の電源落ちするタブレット。
スマホデビューせざるおえなかったのてあります。
ガラケーでいいんだけど!
ガラケー好きだし、ガラケーくらいがちょうどいいんだけど。
ま、iPhoneは半端なくすごいです。
でも使うのが私なんです。
iPhoneに申し訳ない。
それでもiPhoneさんは持ち主に合わせて、寄り添ってくれる。
そんな珍道中の新たな仲間と、出来るだけ失敗せずに、綴っていけたらと思います。
群馬県前橋市粕川町月田の東壽寺さんのかつてのご住職さまであり、童謡詩人の青柳花明は、近戸神社さんの月田ささらを、こんな歌にしています。
【お祭り獅子舞】
うぶすなさまのひろ庭で
お祭り獅子が舞い躍る
笛に合わせて首を振り
唄に合わせて足を踏む
高い万燈花万燈
ゆらりゆられて灯がともる
そうかぁ。そうだ。
月田に住まう方々は、皆、月田近戸神社さんがうぶすな神社にあたるのだなあ。
そうして自分の生まれるはるか昔から行われてきた、月田ささらが大好きなんだ!
この歌詞にあるように、高い花万燈もあるお祭りなのでありましょう。
さすがの(?)私もこの唄は知らないのですが、獅子舞のようすが目に浮かぶような歌詞であります。心がはずむ、そんなお祭りの描かれた歌詞であり、歌詞を読むだけで心がはずんでまいります。
外宮まで獅子連に神輿が、列をなしこの外宮まで訪れたのち、獅子舞が奉納され、さらに御川降(おかおり)という神事が執り行われるようであります。粕流しと呼ばれる神事は、外宮であります石祠の裏手で、実際に川に粕酒をなごすのだとか。他に例を見ないお祭りであると思われます。
しかも六百年、中止されることなく続いてきたというこのお祭り、月田ささら。
お神輿もたいそう立派なものと聞きます。
神さまも神事のみならず、欠かさず奉納されてきていた舞や、川を渡っての外宮まてのお散歩も、さぞお楽しみになされていたことと存じます。
ぜひ来年こそは!
口伝でのみ伝えられているというささらは、伝承者に何ごとかあっては未来につなぐことができなくなってしまいます。
医療崩壊が目前に迫っています。
もしかしたらもうすでに起きてしまっているかもしれません。
日本国に住むすべての民が皆、もうコロナに罹患してはならない、そんな局面をむかえています。
想像すらできなかった未曾有の世界に、あっという間に世界中が飲み込まれてしまいました。
今だかつてない不安でいっぱいです。
どうか、神さま、仏さま、
世界をお救いください。
人々をお救いください。
ここで訂正をさせてください。奥宮、ではなくて【外宮】でありました。
お詫びし、訂正をいたします。
近戸神社さんの外宮の駐車場というよりは、川に沿ってある公園のもの、であるかもしれません。というよりはやはり奥宮に公園を設けたのでしょうか。
どこに外宮があるのでしょうか。
奥宮と思い込んでいた私はその言葉から、他の神社さんの奥宮のありますような場所を想像し山深いところだとばかり思っておりました。そもそもが奥宮ではなくて外宮で、近戸神社さんの外宮は川に近い小高い丘、といった場所でありました。
川沿いに歩いてみることにしました。きっとどこかに案内標示板があるにちがいありません。
あ。
橋が見えます。
大きな立派な吊り橋であります。近づいて見ました。
【さらさはし】と書かれています。
えっ?!
遠くから見たときは立派な吊り橋としか見えなかったさらさはしは、そのほとんどが木製で、どこが、といえばたぶん全体的な老朽化を指摘されてなのかもしれないし、よく見ると手すりの基の部分が一部傷んでいるのが確認されたのでその部分だけなのか┉。
その名も〖さらさ〗。
橋の向こうには鳥居が見えます。
ここを渡ってのお参りができないのは、なんとも哀しいことであります。
宮司さまの無念なお気持ちを思うとなんとかならないものかと思わずにはいられません。
┉その上、六百年の伝統を誇る獅子舞(ささら)は、昨年まで一度とて途切れることなく奉納されてきたものでありましたというのに、新形コロナウイルス感染症のために昨年に続き、今年も規模を縮小しての開催が決定しているようです。
半年前初めてお会いしたときより、一回りも二回りも小さくなられたように感じられた宮司さま。
橋の修復はともあれ、来年こそは月田のさらさを例年通り奉納できますよう、祈らずにいられません。
渡れないさらさはしを後に、外宮へと向かいました。
外宮はここからさほど登ることもないところに、おまつりされていました。
獅子舞とお神輿が列をなし、この外宮まで来るという神事、宮司さまのおっしゃられるようにさぞや見ごたえあるものでありましょう。
いつか、必ず、皆が笑顔でそのお祭りを楽しめる日が来るように、今、私にできることは、不要不急の外出をせず、その日が一日も早く来るよう祈ること。そして心豊かに過ごすこと。
この日、【近戸神社】さんへもお参りさせていただきました。
広い境内にはどなたもおられません。┉そう、宮司さまのお姿もありませんでした。
前回は落ち葉を掃き集め、落ち葉焚きをされていた宮司さま。
たしかに、落ち葉の時期でもないですし。
お参りをさせていただき、御朱印をお受けしたい旨お電話いたしますと、宮司さまがお出になられ、「それでは(ご自宅に)お越しください」
とのこと。┉コロナウイルスの爆発的感染拡大となるほんの少し前のことであります。
今はもう、あり得ないことでしょう。
┉本当にほんの少し前でしかないのです。新形コロナウイルスの変異株の感染力の凄まじさを如実に物語るものであります。
御朱印をいただき、近戸神社さんの〖虚空蔵菩薩〗さまがどこにおまつりされておられるのかと、〖奥宮〗への道をお聞きいたしました。
虚空蔵菩薩さまは秘仏であるとのことで、まあそれには特に驚きはしなかったのですが、な、なんと!
本殿におまつりされておられるのだということでありました。
道理で、境内をくまなく歩いたところで御堂などが見当たらないはずであります。
そして、奥宮への道をお聞きしたところ、
「橋が使えなくて、回り道をするようなんだけど」とのことで、ん?だとしたらお祭りのときも大変だろうに、┉でもまあ、橋の工事って大変なんだろうな。
お教えいただいた道は、
「粕川大橋を渡ったら少し行くととうもろこし畑があるからその真ん中の道を道なりに行くと駐車場があるから。そうしたら案内板もあるしすぐにわかると思うよ」
と、とうもろこし畑の真ん中の道、ですか?
こ、これは運転を代わってもらうようかなぁ。あ、そうそう、この日は私の運転でありました。
で、結局いつものように夫が運転手を務め奥宮へと出発!
おおっ、とうもろこし畑だ!
背の丈が私の二倍はあろうかというとうもろこしが両サイドにズラァとい並ぶ風景の中車を走らせると、お、なんということなくすぐに駐車場があるではないですか。これなら私の運転でも来られたんじゃない?と思った瞬間、トラックが一台停まっているのが目に飛び込んできました。
これか対向車で今来た道ですれ違う事になったなら┉うーん夫の運転で正解だったな。
前橋市粕川町月田にある【東壽寺】さんの、かつてのご住職は昭和の初期においての児童歌謡の作詞者だったようで、その作品はレコード化されたものも多かったのだといいます。
著名な、同じく童謡詩人である【野口雨情】とも親交があり、そのご住職がこの村において開催していた、夏期児童学園の講師として雨情を招き、その際雨情は何日かこちらのお寺に滞在もしているのだとか。
その際雨情はいくつかの作品を残し、その歌碑が近戸神社に建立されておりました。
┉ようやく、謎が溶けました。
何故雨情が?どうして雨情が群馬県の、決して有名でも観光地でもない近戸神社さんをおとずれることになったのか、ずっと謎ではありました。松尾芭蕉でもない、童謡の作詞者が、ネットもない時代にこの地を知り、訪れようと思ったかが謎でしかありませんでした。
なるほどぉ。
雨情というと私がまっ先に思うのは〖しゃぼんだま〗であります。
とはいうものの、平成、そして令和の時代をむかえ、その当時の童謡を知らない世代が増えているように感じます。
なんとも寂しく哀しいことではあります。
こちらの本堂は江戸時代に建てられたもので三百年ほど経つものなのですが。
それ以前は実は山上(現桐生市新里町)の方にあったのですが、山上城落城の折に焼失してしまったのですよ。その後膳(前橋市粕川町)のほうに再建したのですが、そこも火事で焼失してしまって、こちらに移ってきたのです」
…長い歴史あるお寺さんはこのようなこともあるのですね。
こちらの御本尊さまは薬師如来さまなのですが、傳教大師さまがかつて東の地にも教えを伝えようと出向かれた際にここ東壽寺にもお寄りくださり、仏さまをお授けくださったのです。その傳教大師さまの仏さまを胎内仏としておられるのが今こちらにおまつりしている御本尊さまなのです」
歴史あるお寺さんでありました。
御本堂の彫り物もたいそう見事なものであります。さすがにお写真は遠慮いたしておきました。
あ、山門のところになにか時計があると書かれていたのだった。
「あのぉ…山門のところに何か時計があると書かれていたのですが、それはどちらになるのですか?」とお聞きいたしましたところ、
「ああ、こちらです。どうぞこちらへ」とご案内くださったのは御本尊さまのおられる須弥壇の横。
櫓時計というたいそう立派な物が無造作に置かれておりました。
「これ、こう見えてまだ動くんですよ」と、時計の下に何本か伸びた紐についた重しをくいっくいっと動かされると、おお!
カチカチと時を刻みだすではないですか!
すっすごい!
いろいろ本当にありがとうございますとお礼を申し上げていると、何やらミャオミャオと声が近づいてきました。
「あ、来ちゃったな。」
やってきたのは白黒の大きな猫ちゃん。あまりに長いことご住職さまを引き止めてしまったので様子を見にきたのでありましょうか。
「さっきまでテーブルの上で寝てたんですけどね」
ぷっ、やっぱり。
あんまりに大きくて猫ちゃんに見えなかったけれど、猫ちゃんがべったり寝ていたんだ。
可愛い顔だちの猫ちゃんです。
「撫でると噛むかもしれないので気をつけてください」
お、おっと。可愛いお顔だけれどそんな気性の子なんだ。
番猫さんみたいでそれはそれでまた可愛いです。
猫ちゃんとご住職さまは門を出るまで見送ってくださいました。
群馬県前橋市の東壽寺さんに参拝いたしました。
月田近戸神社さんにほど近いところにあり、かつての神仏分離令の際、近戸神社さんにおられる虚空蔵菩薩さまをお遷ししたお寺さんであります。
寺標をくぐると、参道の両サイドに対となって、五重塔と等身大のお地蔵さまがお出迎えくださいました。
すぐそばに桜が植えられていて、緑の葉が五重塔とお地蔵さまの日傘のようになっていました。
青面金剛さまのお足元には紫の紫陽花がまだ咲いており、まるでお供えしてあるかのようでありました。
正面に瓦葺きの山門が見えます。
薄桃色のツツジがチラホラと咲いていて、なんとも心地よい参道であります。
山門をくぐって正面には庫裏があり、そのひだりてに御本堂がありました。向拝には細かな彫りが施されています。
境内にもお地蔵さまがおまつりされているお堂があり、お乳をあげる石仏さまもおまつりされておりました。
御朱印をお願いしようと庫裏に向かいますと、あちらこちらの戸すべてが気持ちよく網戸にされて開け放たれています。
呼び鈴等が見当たらないため、少し大きな声でお声がけしてみたのですが、まるで反応がありません。
私の大きな声は工事中の駐車場にまで聞こえたようで、(作業中、ではありませんよ、念のため┉)作業をされている方が何か教えてくださっています。
うん?こちらからでは聞こえないところにおられるということなのかな?
ふと見るとはなしに目にはいったテーブルに、大きな白黒の何かがデーンと乗っています。よく片づけられたお部屋に不似合いな大きな何か┉。猫?
でも猫ちゃんにしても大きいしな。┉おい、これじゃ覗きじゃないか。
違う入口、違う入口。
あ、ありました。コの字に折れたところにちゃんと呼び鈴のついた玄関がありました。
呼び鈴を押すと、どうぞとの声があり、戸を開けるとお若いお坊さんがお立ちになられておりました。お、お若い!
御朱印をお受けしたい旨告げますと、あ、わかりましたとお答えくださり、
「本堂のお参りをされますか?」と続けておっしゃってくださいました。
ありがたいことでございます。
コロナ以前であっても、なかなか御本堂へ上がらせていただけるところはありませんでしたのに。
ましてやこのコロナ禍、どこから来たかもわからぬ者を、何のためらいもなく、御本堂へとご案内くださいました。
群馬県前橋市の近戸神社さんの令大祭は、【月田のささら】と呼ばれており約600年の歴史がある伝統芸能です。〖ささら〗は神社に奉納される獅子舞に由来するといいます。
八月の最終土曜、日曜に開催されています。
〖群馬県重要無形民俗文化財〗に指定されている獅子舞は、土曜日にも行われますが、日曜日の〖本祭り〗では天下泰平・五穀豊穣を祈念して社頭での奉納後、神輿(市重要文化財)の渡御に従がって粕川対岸の【外宮】まで道中を連ねるのだといいます。
【外宮】は〖獅子山〗とも呼ばれ、獅子舞が奉納されたのち、神官により粕川への濁酒(糟酒)流しが行われるのだそうです。これら一連の神事は「御川降り(おかおり)」神事と呼ばれ、【粕川】というこの辺りの地名のの名の由来といわれているそうです。
獅子舞奉納の始まりは室町時代との記録も残されていて、口伝により舞いの所作が連綿と受け継がれてきたものだといいます。
獅子舞は〖獅子掛り〗少年三人、〖笛掛り〗青年六人、〖歌掛り〗壮年四人の〖獅子連〗によるもので、数種類の舞や舞曲(笛)はすべて【口伝】で、昨年までは一度も絶えることなく奉納されてきたものだったようです。
伝承者たちは子供の頃から生涯をかけて伝承しているものなのだといいます。
宮司さまの絞り出すようにおっしゃった「中止はできない」という言葉。
重い重い、長きにわたって絶えることなく受け継がれてきた〖伝統〗を担う方の重い重い言葉でありました。
神職の方だけでは決して伝承できないものであります。
今年はどうなのであろうか。
今日見た前橋市のホームページには昨年の中止が告げられているのみでありました。
すべてが口伝であるこの月田のささらは伝え手の記憶のなかにすべてがあります。伝えていくことができない状態が続けば、室町の世から続いた伝統が途絶えてしまうこととなってしまうのであります。
無観客でもいい。今年こそ開催がなされますよう、祈ります。
ただ、獅子舞以外にも多くの方々が参加する神事であるようです。
無観客として開催できるものなのか┉。
宮司さまの笑顔が見たいです。
白瀧神社さんの例大祭は今年開催されるようで、川内の、かつて仁田山と言われた辺りのそこここに、ポスターが貼られておりました。
┉時間の記載はないんです。
地元の、神社の世話人をお務めの方々や御神楽を舞われる方々、そしてこの辺りに住む方々のみで集まられ、ずっと受け継がれてきた祭りをなさるのでしょう。
昨年はコロナ禍ということで全国で軒並みお祭りが中止されています。
そして。
今年、ここに来て日本全国、今までにない勢いで感染者数が増えています。
お祭りというのは、開催される期日、あるいは期間は短くとも、それはそれは長いことかけて準備してくるものであります。
通年であれば前の年の祭りが終わったその日から、次の年の準備を始めるところすらあるようです。┉まあ、それが楽しみであり、生き甲斐であるのでありましょうが。
群馬県みどり市の【大間々祇園まつり】がまさにそれで、昨年コロナで中止が決定されたとき、まさにそのおぎょんを楽しみとし生き甲斐でもある町のお年寄りたちがまるで腑抜けのようになってしまったのでありました。
生まれてこのかた毎年毎年八月の一日二日、三日と、必ず必ず行われていたおぎょんが生まれて初めて、それがない八月となったのです。
お祭りのために集まっていた会合も当然開かれず、毎年毎年、顔を合わせていた人たちとも会えない日々となり、それはもうみなが元気を失って当たり前でありましょう。
今年、規模を縮小し、日数も三日から二日に減らして開催される、はずでした。
もう今日は七月三十日、八月一日まで秒読みであった、今日。
今から二時間ほど前に中止が発表されたようです。
群馬県の警戒度がレベル2から3に上がったら中止すると決まっていたことではあったようです。
今年も関係者のみで神事が執り行われることとなりました。
そもそもがこの大間々祇園まつり、疫病退散を願う祭りであります。
なんとも皮肉なものです。
新調された提灯や緞帳、修繕を終えた山車の人形。
もうほとんどの準備はできていました。
今年の喪失感は昨年の比ではないでしょう。
そして┉前橋市の月田近戸神社さん。
昨年うかがった際、よかったら是非見に来てよと言っていた宮司さま。
そのあと、絞り出すように、来年は絶対中止にはできないと言っていた姿が忘れられません。
山田舎人との結婚を許され、白瀧姫は山田の故郷の仁田山に移り住み、宮中で覚えた養蚕、製糸、製織の技を里人に教え、村は栄えることとなります。
仁田山というのがこの桐生市川内町五丁目のことであったようです。
白瀧姫の伝えた技は土地の産業としての礎となり、のちには時の朝廷に絹織物を献上するほどになったといいます。村人たちは織物の祖人として白滝姫に機神天神という称号を送り、祭事をおこなっていたのだといい、明治の初年にその名も白瀧神社となったようです。
境内に足を踏み入れてすぐ、降臨石と呼ばれる大岩があります。
かつては耳をあてると機音がきこえたのたなだと言いますが、不心得者が雪駄で岩に登り、その後、機音が止まってしまったという言ういい伝えがあるようです。
また、身分の差など困難を乗り越え晴れて夫婦になったことから縁結びのご利益があるといわれてい
るようです。
だいぶ民家の減ったところにあるこちらの神社さん
な、なんとこちら世界遺産と関連し、群馬県絹遺産なのだとか。
うーむ。
白滝姫さまはたいそうお優しいお顔をされたお美しい立ち姿で描かれていました。
年に一度の大祭では御神楽の奉納があるようです。
私が伺ったとき、神楽殿にはミヤマクワガタがのんびり日向ぼっこをしていました。
群馬県桐生市というのも広いところのようで、先日避暑に行った梅田町というところもかなり奥深いところでありましたが、川内町というところも川に沿ってかなり奥深いところだと聞きます。
平成の大合併以外にも、過去に何度となくあった合併によるものでもあるのでしょうか。
御朱印で全国にその名をとどろかせる宝徳寺さんというお寺がこの川内の地にあります。
その川内町に白瀧神社という神社さんがあります。
宝徳寺さんを通り越して、さらにさらに奥へと向かい、通り過ぎてしまったのではないかと不安になる頃白瀧神社という案内が見えてきます。
さほど広くはない、坂になっている生活道路を入っていくと、これまた風情ある小川が流れていて、小さな橋がかかっています。
その橋を渡るとまもなくひだりてに石の鳥居が見えてきます。
鳥居をくぐって十メートルほど行くと石段があって、その石段をのぼると明るい居心地のいい、光あふれる境内となります。
さほど広くはない境内ですので、すぐ真正面に拝殿が見えます。
かわいらしい狛犬さまが二体、お社をお守りになっておられます。こちらは神職のかたのおられない無人の神社さんでありますので、お役目は大変なのでしょうが、なんとも穏やかなお顔をされています。
お賽銭箱には糸巻き(?)の焼き印(?)があります。
そう、こちらにお祀りされている神様は天八千々姫命(アメノヤチヂヒメノミコト)さまでありまして、織物、紡績の神様であります。
さらにこちらに白瀧姫さまの霊を合祀したものということで、白瀧神社さんというのであります。
白瀧姫さまは横萩右大臣豊成公の二女として京でお生まれになり、御所に白瀧の前と称し官女として奉仕していた方であります。
郡役として御所に来ていた仁田山の住人山田舎人と申す若者と出会います。山田は低い身分でありながら、和歌の素養があり、しばしば催されていた御歌の会の歌合せで思いを通わせるようになり、二人の歌には思慕の情が表れるようになっていったようです。
それが帝の耳に届き、御前の歌合わせで山田が勝てれば二人の結婚をゆるされることとなったのだそう。
夏の切り花は傷みやすい。
一週間もたないことが多い。
この時期咲く庭の花もなく、(そもそもが手入れをしないので飾れるほどよく育ったものもないのですが)「スーパーに行ったら忘れずに買わなくては」と声に出して記憶しようと涙ぐましい努力をいたします。
母も、姑も、もうずっと長いこと一年通して造花を飾るようになっていました。
母は花をたむけられる存在となり、姑は老人施設に入居して早二年。
誰もいない家であっても、枯れない花が仏壇に色を添えています。
ただ、なんともわびしいのであります。
とはいえ、たまに誰もいないその家に行ったところで、生花を一時お供えしたところで、持ち帰らなければ痛んで悪臭を放つお仏壇になってしまいます。お供えしてすぐに取りあげるような真似もなんだか申し訳なくて、「ごめんね」とつい声に出して、お線香をあげるだけで、夫と居心地の悪い思いを残してそこを去るのがいつとのパターンであります。
そもそも、お供えする花は私たちの方を向いていますが、あるときふと、それでいいのか?という疑問が浮かんで頭から離れなくなりました。
でも、どこのお宅でも、お寺さんでさえそう飾られています。
いいのか┉。
いいのだそうです。
花により綺麗に飾られた仏壇、仏さまに向き合うとき、自然に浄土を想い、私どもの心が清浄になる、それだからいいのだそうです、それでよいのだそうです。
今お供えしてある花は、一目惚れしたグラデーションのある菊の花を含めた五種類の花です。
仏壇もどきのそばに行くと、菊の花の香りがその辺りを清らかなものにしてくれています。
夫の定年後、節約生活を送ることになっても、できる限り生花を飾れるよう、季節季節で咲く花を植えておこう、かな (*`艸´)
そもそもが、今庭には、仏さまにお供えしてあった花から根が出たために植えた菊がいくつも大きく育っています。
ただ┉ほんと、お盆はもちろん、お彼岸にも、秋の、舅や父の祥月命日にも咲かないんだよなぁ。
長泉寺の創建は室町時代の文明8(1476)年に、この地を支配した桐生氏の位牌所として開かれたのが始まりと伝えられています。
寺号の「長泉寺」は桐生家4代目当主桐生在義(在俊)の法名である「長泉菴殿竜宕性白大禅定門」にちなむとも云われ、桐生氏との関係が深かったことがうかがわれます。
その後一時衰退しますが室町時代末期から江戸時代初期に再興したであろうとされ、その再興にあたった人物については二つの説があり、それゆえ年代に幅があるようです。
(※再興では無く創建説もあります)
御本堂は再興時である室町時代末期から江戸時代初期に建てられた推定されています。
御本堂の前に立つと、┉カメラでもあるのでしょうね、「どうぞお入りください」とどこからか声がしました。
「よろしければ御本堂に入ってお参りしてください。お時間は大丈夫でしょうか?」
(*゚∀゚)*。_。)*゚∀゚)*。_。)うんうん、もちろんです。
御本堂の醸し出すなんとも懐かしい感じといったら!
広い御本堂、正面も側面もそのほとんどがガラス張りであるため、晴れた、そう、ちょうどこの日のような天候であれば、電灯がついていなくても充分に明るく採光が得られています。
好き!
こちらのお寺さん、私の心をつかんで離さないです。
欄間の彫刻がまた、なんともいえない素晴らしい彫りです。正面の彫刻は龍ですが、なんとも生きているかのような立体感と眼光です。鱗の1枚1枚がまさに鱗、という感じです。
石原吟八、の銘があるようです。
なるほど。
この見事さも、石原吟八ならうなずけます。
私がその名を覚えるくらいの宮彫物師で、国宝であります妻沼の聖天堂の彫刻もこの人の作品であります。
そして御本堂自体も当時の曹洞宗方丈形式本堂が見られるものとして平成に桐生市指定重要文化財に指定されているようです。
御本尊さまは釈迦牟尼佛さま。小さなお姿でありますがきれいな優しそうなお顔をされておられました。
六三大士堂は御本堂の手前左側にありました。
覗いてみると、昔のおみくじが見えました。
あとはよくは見えませんでした。そう、竹筒に入っているというお酒も。( *´艸`)
そんな避暑地からの帰り道。
珍道中ペアはお寺さんへの入り口の石標をしっかり見逃し、通りすぎたときに気づくというお約束通りの失態をし、Uターンしてふたたび石標をめざしました。
この石標の間の道がこれまたお約束通り狭い。なので結構曲がるのがたいへんです。うーん、これは一人で来るのはムリだな。
路地、といったら失礼ですが、その道沿いのおうちの生活道路としか思えない参道を走行して、結構な広さの駐車場につきます。
どこに停めようか迷うくらい広い駐車場の、石段のよこには【六三大士(ろくさんだいし)】の看板がありました。
お、記憶はあっていたようです。
〖梅田の民話〗とあります。
〖六三除けで重病人を救ったという為雲(いうん)和尚さまの話。この和尚さまはお酒が大好きでお礼はお酒でしたものだという。
長泉寺境内にある六三大士堂には、今でも竹筒に入ったお酒が供えてある〗と、書いてあります。
ちなみに、梅田というのはこのだいぶ手前の辺りから、避暑地と称した桐生川の水源のあたりまでの一帯の地名であります。
六三、という言葉は聞いたことがあります。
六三除けといった気がいたします。
もちろん、そのようなお祓い(?)を受けたことはありませんが。
簡単にいうと年齢による身体の部分的な厄除け、だそうです。
今年どこが六三に当たるかは、数え年を9で割り、余った数字で判断するそうで、そして、六三に当たる場所と、具合の悪い場所とが一致する場合六三除けの祈祷をする、といったもののようです。
今でもこの六三除けをされる方はおられるようで、とくに、病気の原因がはっきりしないとき、薬の処方を受けても効果が現れなかったり、といったとき、このお祓いを受けるようです。
こと、医学の発達してなかった時代には、六三大士さまはありがたい存在だったのでしょう。
さぞ御礼のお酒がいっぱい届いたことでしょうが、ただ┉。
こちらのお寺さん、曹洞宗でありまして、〖不許葷酒入山門〗と彫られた大きな石碑がしっかりと建てられておりまして。
うーん。(*-ω-)
ま、まあ、お酒の飲み過ぎで体を壊したりなんてことはなかったと思いたい。
群馬県桐生市にある桐生川は避暑には最適と、最近では県外ナンバーの車も多い人気のスポットとなっています。
避暑と自然のなかでのんびりと何もせず何も考えずに過ごそうと、その桐生川の上流をめざして走行しておりましたところ、なにやら小さな立て看板にお寺の名前があるものを一瞬目がとらえました。
【長泉寺】、とあったように思えます。
参拝させていただいた記憶はありません。しかも〖六三大士〗とも書かれていたような┉。
とはいえ、今日の目的はあくまでも森林浴の日本百選、水源の森百選に選ばれたという桐生川上流。
そのまま車を走らせました。
だいぶ走ったところで長泉寺という、やはりあまり大きくはない看板と石標を目にしました。うん?
結構な距離離れていたものですから、同じお寺さんかどうかすら自信がないくらいで、とりあえずそのまま目的地を目指しました。
九時半くらいというのに、車でいっぱいです。
しかもそれは駐車場などではなく路駐された車。
あくまでも川とそれに沿った、決して太くはない道路の端に路駐された車でいっぱいです。まあそれでも路駐された車さえなければ、対向車とすれちがうことはじゅうぶん可能です。
川にはすでに水に入って遊ぶ親子の姿があちらこちらに見受けられます。
うーん、早いとは言えないけれど、決して遅くはない時刻に出てきたはずなのだけれどなぁ。
それでもなんとか車を停めて、アウトドアチェアを持って河原へとおりました。
うああぁ!
水しぶきをあげてざぁざぁと音をたてながら、流れる川の水の透明なことといったら!
ここの空気をマイナスイオンといわずに何をマイナスイオンというのだというくらいに清んだ空気が辺り一面にひろがっています。
木漏れ日が水面をキラキラと輝かせています。
最高っ!
ああ、珈琲でも持ってくればよかったなぁぁ。
浅原観音堂の前にでーーんと停められた車は、後部シートをも倒して荷台として、積める限りのペットボトルを積んでいて、そのペットボトルにこのそばにある水源から水を汲んでは車に積み込んでいるようです。
温泉?
私が先に降りて、車をなんとか停めようと誘導しようとすると。
「水、汲みに来たん?」
と、若干の敵意を感じるような声がかけられました。「ちがいます。おまいりにうかがわせていただいただいたので」
すると突然、うって変わったように笑顔で
「ふーん、そうなんだ。今日はもう水、出ないから」
?、は?、はあぁ。「お水が出るんですか?」
すると少し小馬鹿にしたようにふっと笑い、
「観音さまの水だよ。今日はもう出ないからね」 は、はぁ。
内心少しムカッと来ながらも、観音さまの御前、観音さまのお水のこと。
笑顔で「お飲みになられるんですか?それともお風呂とかにされるんですか?」
「何にしてもいいんだよ。コーヒーいれると美味しいよぉ。もう出ないけどね」キーっ。「一度沸かしてから飲むんですか?」
「そのまんまで飲めるよぉ、おいしいから。今日はもう出ないからまた来な」と言いながらも水を汲んではいるのですがね。
┉本当に出ないと思ったのか、その後しばらくしてサッサと立ち去ったご夫婦らしい二人組。お水の情報ありがとうございましたぁ。
夫はにこやかななごやかな会話だとずっと思っていたようで。
うーん、大人の対応できてたんだな。
私が怒っていたことに気づいたのは、私が「観音さまのお水じゃないじゃん!お薬師さまのお水って書いてあるじゃない。お水いただくならそのくらい知っておこうよ、もう」とつぶやいたから。
観音さま、ごめんなさい。やっぱり私、未熟者でしたね。
御霊水は、ここから700mほど山中にある水元薬師堂そばに湧き出す湯の入り鉱泉から引かれているようです。600年ほど前に発見され、皮膚病に
いいと伝えられている鉱泉のようです。
たらたらとしか出なくなったお水をさわると、!?。
さらっさらのてざわりです。
水が乾いたあとの手はずっとサラサラとした感じが残っています。
そんじょそこらの温泉に入った時よりも良い感じ、かも。
飲料水としての調査も行われていました。
これはたしかにいい!
お薬師さまありがとうございます。┉。
浅原の百観音さまは、かろうじて屋根こそはあれ、風雨や夏の暑さ、直射日光にさらされてそのお姿は少し薄らいでしまっておられました。
光背右上には○番 左下には○○観音、と文字が刻まれているのですが、そのすべてを読むことができるのはいったい何体おられることか。
それでも特記すべきは、百体の観音さまのすべてがお姿そのままに残っておられる奇跡でしょう。
山に分け入るような小さなお寺さんですら、そのお頚が落とされた痛々しい変わり果てたお姿となっておられたり、明らかに、後からすげられたお顔であったりと、あの憎むべき明治の悪政、廃仏毀釈による被害の爪痕はいたるところに残されています。それが一体も欠けることなく揃ってお並びびになられているのです。
村人の方々がどれだけこの百観音さまをまもろうと必死の努力をなされたかを物語るものです。
百観音さまは石の種類でありましょうか、さまざまな色の石がありました。それが建てる方の好みであったか、石の入手が困難だったかは知るよしもありませんが。
いくつかは番号の読めるものがあるので秩父の観音さまなのかそれとも西国、あるいは坂東のものなのかと見て歩いては見たのですが┉。
なにぶんにも暑い!暑くて、薄れて読めない文字との格闘がつらい!
馬頭観音さまのように特徴的な観音さまを見つけてもその番号が読み取れなかったり。
┉もう少し穏やかな陽気のころに再拝させていただいて、百体の観音さまのご尊顔をゆっくり拝したいと思います。
ちなみに。
こちらは駐車場などない道の端に、屋根だけがあるといったところに百体の観音さまが肩寄せあっておられます。それでも路肩に一~二台は停められるでしょうか。
ただ、私どもが着いたとき、百観音さまのまん前にでーーんと一台占拠してよけようともしない車がありまして。
あとから来る人のことなどまるで考えもしない停め方であり、あとから来た車が駐車スペースに困っていようが一切お構いなしで、こちらをみてはなにやら大きなペットボトル(三リットルとかの大きなサイズ)を手から手へ渡し車に詰め込んでいます。
┉なんだぁ?
百観音霊場の巡礼や四国八十八カ所のお遍路は、思い立って行けるものではありません。
強い強い決意と、そこをまわるのに費やす潤沢な時間と。
しっかりとした体調の管理を行うためにも欠かせない、衣食そして寝るところを確保するだけの金銭が必要であります。
定年退職後、というタイミングは、たしかに時間をたっぷりとることは可能なのかもしれませんが、果たしてそこに体力面がついていくものかどうか┉。それこそ潤沢なお金が用意できれば、良い宿に泊まり、食べるものも用意していただけるような旅もできましょうし、宅急便などでできる限り荷物を少なくして、なおかつできうる限りの交通機関を駆使して┉
それでもなお、大変な旅路であります。
それでもかつて、馬や駕籠くらいしか交通機関がなく、出先で簡単に物を手に入れることなどできなかった時代においても、死を覚悟しても人はその旅を切望し、数えきれない人たちがその巡礼や遍路を成し遂げてきました。
今でさえなかなか行けるものではない、巡礼あるいは遍路。
それをせめて思いだけでも、ということで遠隔地に住む人たちはお砂踏みであったり、このさざえ堂のように同じ御仏を拝することができるようにとさまざまな努力をしてきたようです。
また、鎮魂の意を込めて造られた百観音も多いようで、先日うかがわせていただいた埼玉県の百観音堂のように百観音をまつったところもあるのでしょう。
その一つ。
群馬県みどり市の浅原というところにも百観音さまがまつられています。
そこはお寺ですらなく、僧侶でもない一人の人が近郊に住む人に働きかけて、一人の石工に西国、坂東の観音さまを二年かけて彫らせ、さらにそのあと秩父三十四カ所の観音さまを彫って百観音とし完成したものなのだといいます。
その年代は天保年間。
そう。
天保の大飢饉であります。
こちらは天保の大飢饉の折、信心深い願主が西国そして坂東の観音霊場をまわり、各霊場で御姿をお受けし、常陸國の石工を自らの家によんで住まわせ、願主の呼び掛けで集まった寄進者が108人。まずは六十六体を彫り、その後、浅原在住の者たちがお金を出しあって秩父三十四カ所の観音さまを彫ってできた百観音さまのようです。
願主もさながら、三年かけて百観音を彫り上げた石工もまたすごいと思うのであります。
曹源寺さんの魔除け地蔵尊さまは、大正期のご住職さまが万民安楽を祈念して造顕されたのだといいます。なるほど彩飾も綺麗なはずです。
┉神社仏閣における大正時代とかって、なんだか新しい時代のもののように錯覚してしまいますが、かれこれ100年とかになる、立派に(?)古い物なのですよね。
他にも、【賽の河原地蔵尊】さまとかおそらく他に類のないお地蔵さまが奉られていたりもしました。
賽の河原を再現したかのような空間とそこにおられるお地蔵さまと何十体かの小さな子どもたちの石像のジオラマ的なものであります。
うーん、┉少し遊び心を感じてしまうのは、信仰心からはるか離れたところにいる邪念のかたまりのような私だからでしょうか。
最近はこちらも月替わり御朱印ですとか限定御朱印、コラボ御朱印等、御朱印に力をいれだしたご様子です。季節感あふれるきれいな御朱印にリピーターも多いようです。
紫陽花が境内のあちこちに植えられていてたいへん見事なもので、群馬の紫陽花寺と呼ばれているとのことでありました。
また、こちらは太田市の七福神さまのお寺でありまして、その七か寺が秋の七草を配しており、曹源寺さんは女郎花(おみなえし)のお寺となっております。
その女郎花、すでに紫陽花のころから咲いており、紫の紫陽花に黄色を添えて美しいコラボレーションが見られていました。
そういえばわが家の桔梗も春咲きであります。
最近の異常気象で花々も季節がわからなくなっておりますかね。
┉でもわが家の菊はみな頑固者で、秋のお彼岸が終わるまで絶対に咲いてくれないのだよなぁ。
家計に優しくしてほしい、欲のかたまりの私に対抗してのことかしら。
こちらは三つのさざえ堂のなかでは通路が狭く、階段などはかなり急なうえに頭をぶつけそうなくらいのところを通る、ある種胎内的なイメージもあります。
秘密基地的にも思えるのかなあ。
┉ですが、たまたま子供さんと一緒の参拝になったときなど、子供さんたちはやはりほの暗い古い建物の中、あまり興味を抱けないようで、さっさと通りすぎて行くばかりでありました。
たしかに、うちの子どもたちが小さなころにここへ連れてきていたら、と思うと┉やっぱり同じようにさっさと通りすぎてあっという間に外へと出て終わった気がいたします。
私とて、その当時は寺院とかに縁もなく、畏れ多いことに感心も持たずに過ごしていましたから、同じようにさっさと外に出て終わったのだと思われますくらいですし、ね。
今回の参拝、じつは、関東百八地蔵尊霊場にもあたっておられるこちらの魔除け地蔵尊さまを拝したかったのでありまして。
悲しいくらいにその魔除け地蔵尊さまの記憶がない。
本当にもうしわけないくらいであります。
なかなか魔除け地蔵尊さまという存在は他に類がない┉のではないかと思うのでありまして。しかも魔除けといったありがたい御利益。
この煩悩の塊がそこを訪れないはずもなく。
魔除け地蔵尊さま、三階の回廊におられました。
金や赤、青、緑の模様のついた衣をお召しになられ、小さな、子どもくらいの背丈の赤鬼の手をつないだお姿をされていました。
その赤鬼のなんとも言えないばつの悪そうな、照れくさそうな、嬉しそうな表情がなんとも可愛らしく、その手を引かれたお地蔵さまの表情がまた本当に慈悲深いもので。
御祈願申し上げることすら忘れて見入っておりました。
色彩も美しいままで、特に金の錫杖の素晴らしさといったら。
そのお隣にはお不動さまがおられました。
うーん、魚籃観音さまと百観音さまだけではなかったのだな。
この三つのさざえ堂では唯一ご住職がおられるお寺さんにありますこちら。
いずれにせよ維持管理も大変なこととは思いますが、是非とも後世に残していっていただきたいと思うのでありました。
久しぶりに地元のさざえ堂へも行きたいと思って、実はこの埼玉県本庄市のさざえ堂へ行く前に何度か訪れていたのですが、二度訪ねて工事中とかで参拝することが叶わず。
ただ境内のあちらこちらに色とりどりの紫陽花が咲き誇っていて、それはそれで楽しめたのでありますが┉。
本庄市のさざえ堂を訪れた翌週に、それこそ三度目の正直で、群馬県太田市のお寺、曹源寺さんに参拝することができました。
こちらの御本尊さまは魚籃観音さま。
百観音をお祀りされているのは本庄市のさざえ堂と同じなのですが、一階の向拝正面にあたる部分に御本尊が祀られた内陣が設けられていて、その左右からすでに秩父三十四カ所の観音さまが祀られているので、秩父の十カ所近くが拝することができないのであります。
うー。
残念!!
秩父三十四カ所をまわった今、ことさらご尊顔を拝したかったなぁ。
このような造りとなったのは、おそらくは過去二度の火災にあります。
1852年の火災によって御本堂は焼失し、観音堂であったさざえ堂のみが残り、それ以降このさざえ堂を御本堂とされるようになったといいます。
御本堂から遷された御本尊をお祀りするスペースを無理矢理設けざるおえなくなり、現在のようになったのだと推察されます。
こちらは平成二十七年から二十九年まで大規模な保存修理をいたしました。この修理中に壁を覆っていた化粧ボードや塗料を除いたところ、な、なんと!参詣者の残した落書きが発見されたのだと言うのです!
しかもその落書きを、壁の塗り直しを施したあと、元あったあとに戻したのです!!
かなりの数の落書きの墨書が残されていました。
そもそもがここお寺さんですよ?
どうして落書きしちゃう?
なんてなんて罰当たりな!!
ええ、住んでいる所から名前から、参拝日時まで。
絵だってあります。
びっくり、しかありません。
まあともあれ。
進みましょう。
この三大さざえ堂と称される三カ所をみなまわることができました私ども。
その一つであります福島県会津若松市にあります飯盛山に建つさざえ堂【円通三匝堂(えんつうさんそうどう)】。
正宗寺(しょうそうじ)の僧・郁堂(いくどう)が1796(嘉慶元)年に建立したもので、飯盛山一帯を神域とした厳島神社(明治以前は宗像神社)の別当だった正宗寺は、明治のあの廃仏毀釈で廃寺となり、円通三匝堂だけが現存しているという現状であります。
かつてはそのスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるとされていたのですが、明治の神仏分離、廃仏毀釈で、残念ながら三十三観音像は取り外されてしまっております。
現在、さざえ堂(円通三匝堂)の所有者はさざえ堂脇の「山主飯盛本店」さん。廃寺という形をとらざるおえなかった正宗寺、そしてそこに建てられていたさざえ堂は運命の歯車は大きく変えられてしまいました。
とはいえ、山主飯盛本家は、さざえ堂建立以前から飯盛山を拝領した名家。廃寺以来円通三匝堂を守り続けているのであります。
円通三匝堂は、高さ16.5mの円柱状のお堂ですが、よく見ると六角形三層という不思議なものでありました。他の二カ所とは異なり、内部には階段がなく、右回りの螺旋(らせん)状のスロープを上ると頂上に太鼓橋があり、橋を渡ると今度は左回りの下り坂で背面の出口に出るといった仕組みでありました。
こちらは外観までもがサザエ(栄螺)を思わせるフォルムで、まさに「さざえ堂」の完成形といえるかもしれません。
くー!
こちらのさざえ堂のなかに江戸の頃のように観音さまがおならびになられていたら、どんなに見ごたえあるものであったか。
悔やまれてなりません。
明治時代の廃仏毀釈さえなかったら┉(T^T)
┉何度そう思ったかしれません。
江戸時代に建てられた「さざえ堂」のうち、現存しているのは
円通三匝堂(福島県会津若松市)
長勝寺栄螺堂(青森県弘前市)
長禅寺三世堂(茨城県取手市)
曹源寺さざえ堂(群馬県太田市)
成身院百体観音堂(埼玉県本庄市児玉町)
西新井大師三匝堂(總持寺/東京都足立区)などがあるようです。
青森、かぁ┉。
全制覇は無理かと思われます。
〖百体観音堂は、生物のすべての鎮魂の塔で、高さは約二十メートルある。外観は二層となっているが、内部は三層で回廊をめぐらし、合わせて百観音をまつっている。
階段を順次登ると、中央にまつられた阿弥陀如来さま・釈迦如来さま・薬師如来さまを三巡りし、仏を礼拝する作法として、最も丁寧な礼拝をすることができるように造られている。〗
(本庄市の案内板より、一部改めさせていただいてあります)
ほ、ほほう。
なるほど。
栄螺堂のなかを三回ぐるぐる廻らなくても、一度三層の栄螺堂をめぐっているだけで中央におられた阿弥陀如来さまやお釈迦さま、お薬師さまを三巡りする造りになっているということだったんだぁ。
なんとありがたい造りの建物でありましょう。
たしかに、百観音さまということでまわっていた御堂のなかで、突如如来さまがお祀りされていましたので、ん?と思ってはいたのです。
少なくとも二度はそのお姿を拝することができたよう記憶しております。
実際、群馬県の者の鎮魂のために造られた観音堂を、感謝の意を込めて三回ぐるぐるしようかと一瞬は思っていたくらいでした。
追記)
百体観音堂建立の起因となったのは、天明の浅間の大噴火であって、この時溶岩が山麓の村をひとのみにし、吾妻川、利根川流域沿岸三十数か村の人馬を埋めた。焼死、溺死する者数知れず、川辺に近づくとうめき声が聞こえ、それに周辺の者たちはただ怯えるのみで、誰一人弔う者がいなかったという。
これを知るや成身院第七十一世元映上人は、利根の川原に壇を築いて修僧を集め一人一人を救い、一体一体を弔って、七日七晩法華経一万部を読誦
し、死者の冥福を祈った。
さらに上人は、永代にわたって供養するため慰霊堂建立を思い立ち、近郷に呼びかける一方、自ら江戸に上って辻辻で寄付の呼び掛けを行ったところで、上人の悲願は多くの人々の協力によって実り、ここに百体観音堂が建立されたものである。
(本庄市案内板より)
┉ありがたいことにございます。
栄螺堂の二層目は〖坂東三十三観音〗さまが、三層目は〖西国三十三観音〗さまがお祀りされています。
細くて天井が低く頭をぶつけそうな階段ですが、通路は比較的広く、通路であり観音さまの祀られた堂(?)の前はゆったりお詣りができます。
また市指定の有形文化財の三仏、〖阿弥陀如来像〗、〖釈迦如来像〗、〖薬師如来像〗もお祀りされています。
百体観音堂には文字通り100体の観音像が並んでいるのですが、お堂を時計回りに歩いたり登ったりしながら観音様に参拝し、別の通路を通って外に出るという一方通行の構造になっています。まさにソーシャルディスタンスで、すれ違わない造りの建物であります。
このような構造の礼法を【右繞三匝(うにょうさんぞう)】と言うようです。
仏教において時計回りに三巡りするのは、死者に対する鎮魂の意味があるのだそうです。さざえ堂はどれも一方通行なので他の観光客と鉢合わせすることがない、不思議な構造になっています。
実際のところ百体観音堂は、折り返し地点が三層部の中心部の部屋の中央にあるので、他の参拝客と顔を合わせることもあるのですが、一方通行なので道をゆずる必要がない作りになっています。
ただ┉三巡りは┉なかなかできないかなあ。
三層目の天井には、それは美しい花鳥風月の日本画が描かれています。江戸時代に建てられた元の観音堂は火事で焼失してしまっているので、それほど古い時代ものではありませんが色合いも鮮やかで丁寧に描かれた美しい天井画です。これはお薦めのものであります。┉農業センターの方も、ですが、私たち夫婦もお薦めいたします。
狭い通路をぐるぐると何度も曲がって歩き、同じ道を歩くことなくいつの間にか外に出る不思議なお堂は、神秘的な信仰体験につながるのかもしれません。
最後に戻るのは、聖観音さまとお不動さまが祀られ護摩壇のきられた、観音堂正面にあたる仏間となっておりました。
電灯を消して鍵を掛けるのは夫。
拝観者に全幅の信頼をおき、参拝をさせてくださる方式であります。
そんな百体観音堂、実は明治時代の1888年に火事で消失してしまいます。その際こちらの大きな鰐口(わにぐち)だけは奇跡的に火災をまぬがれたのだといいます。
大きさは直径180cm、厚さ60cm。重さは750kgもある大きなもので、1795年に鋳造されたものといいます。
火事で焼失後、明治四十三(1910)年に百体観音堂は再建されます。その入仏式の時に安置された観音像は六十体だったといいます。
しかし、大正八(1919)年に今度は花火が元で本堂を全焼され、そのショックでご住職がおなくなりになられ無住寺になったのだといいます。
太平洋戦争中には供出命令で梵鐘や灯籠も失ってしまい、さらには戦後のどさくさで半数以上の観音像が盗まれてしまったのだといいます。
貴い発心から建てられた百体観音堂だというのに、なんという不運続きなことでありましょう。
そう、そうなんです。
今は無住となられてしまったこちらの成身院さん。
こちらの管理をされ、入場料を納めますのが、本庄市観光農業センター、なんです。
珍道中トリオ(含むナビ 笑)はその情報を持ってしても、案内板を目にしても、なかなかそこにたどり着くことができず、車を降りてそこを目指し、ようやくたどり着くことになるのでありまして。
まあ、そんなわけでようやくたどり着いた、蜂蜜やら工芸品やら、鉢植えやらの売られる観光農業センターで、そのありがたいお話を聞くこととなるのです。
御朱印もこちらで。うーん┉。
栄螺堂であります百体観音堂へは、特に案内されることはなく、自力でそちらを目指し、自力でそこの鍵を開け、自分で電灯を点します。
まずは鰐口を撞いて。
野性動物が入り込まぬようやけに重たい金属製のドアに差し込むだけの鍵を開け、電灯を点けて歩きだします。
階段を登ると、回廊がぐるりと建物の中をまわっています。まあ、当然ながら狭いんですけれど。それでも綺麗に整備されており、さらには綺麗に掃き清められています。そこは本当にありがたいこと。
第一層は聖観音さまをお祀する護摩堂を中心に秩父三十四観音が並んでいました。造られた仏師の方が、自分なりの観音像をお造りになられるため、いろいろな造りの観音さまがお並びです。
これが盗まれてしまった観音さまを補充された悲しい結果をものがたっているということなのでしょう。
その後、埼玉県本庄市の【成身院百体観音堂】へ参拝いたしました。
こちらは【日本三大さざえ堂】の一つと言われています。
栄螺(さざえ)堂とは巻き貝のサザエのような螺旋状の構造を持つお堂で、こちらの成身院百体観音堂は外から見ると2階建てですが、中は3階建てになっている不思議な建築となっています。
実際にはらせん構造を持つ仏教のお堂は各地にあるようですが、【福島県会津若松市の栄螺堂】、【群馬県太田市の栄螺堂】、そしてこちら本庄市の百体観音堂は特に有名で、日本三大さざえ堂と言われます。
ことに昨年秋に訪れた福島県の栄螺堂は外側からも渦巻くような構造が見られた建築でありました。
こちらは浅間山噴火犠牲者の供養として建立されたものだといいます。群馬県に住まう私はそれを知り、大きな衝撃を受けました。
天明三(1783)年、浅間山の大噴火による火砕流やなだれ、大洪水で1500名以上の人が亡くなりました。それはまさに歴史に残る大災害であります。浅間山のふもとにあった鎌原村では火砕流にのまれ村全体が埋まり、村民466名が亡くなられています。生き残った村民の方は91名であったといいます。鎌原村は日本のポンペイとも称されるほどです。
さらに岩なだれは浅間山の北側にある吾妻川に入り、大泥流となって村々を襲い、田畑や家屋、人々をのみ込んで利根川に流れ込んだというものであります。この災害では1500名もの人が犠牲となりましたが、その亡骸は江戸川の川岸にまで流れ着いたといいます。
そうか┉ここにも┉。
見知らぬ人々の亡骸┉、その数も四百を超えたといいます。
まさに地獄絵図のような光景でありましたでしょう。
その亡骸を一体一体、葬ってくださったのがこちらの成身院の僧、元映さまであったといいます。川のほとりに壇を設け、僧徒を集め、法華萬経を誦読くださったといい、さらにはその冥福を祈るために百体観音堂を建てるべく奔走してくださったのだといいます。
なんとありがたいことでしょう。
そのお話をお聞きしながら、胸がいっぱいになり、両の手を合わせ拝んでおりました。
金鑚大師さんでも御朱印をお願い申し上げました。
その時の会話で、実は留守番を頼まれた近隣のお寺のお坊さんでありますことを知るのですが。
こちらの御朱印。
なんとも刺激的な墨書書きがなされておりまして、いつまでも神社仏閣初心者の私、目が点になりました。
【生身元三大師】とあるのですが、生身って?なまみ?
生身の身体とか言いますけれど、生身って、血肉の通った生きた身体ってことじゃなくて?
えっとぉ┉(´д`|||)
元三大師さまの神通力はすごかったようですが、今なお生身、┉ってわけにはいかないだろうし┉。
お聞きすればお答えくださったでしょうが、さすがに御朱印帳を開いたのは車に乗ってからだったもので、さすがにこれを聞きにだけ戻るのも┉。
きっとこれは私のような無学の者は知らない仏教用語だったりするのだろう。
そこまでは考えついたのですが、生身=なまみっていう、勝手に思い、勝手にいろいろ妄想した初動の脳みそがなかなかそのショックから脱け出せないのでありまして。
ほら。空海さま、弘法大師さまも、今なお高野山で生きておられるってことじゃないですか。
元三大師さまもぉ?いやいや、だって元三大師さま、って寛和元年正月三日に亡くなられたから〖元三〗とお呼び申し上げているのでしょ?
生身(なまみ)って┉。
うーん。
はい、Google先生にお訊ねしました。
しかも生身=なまみという言葉の衝撃と妄想から立ち直れない妻の代わりに夫が調べてくれました。
生身=しょうじん、と読むようです。その意味も、
特に仏 菩薩が衆生を救済するために化現(けげん)する化身(けしん)としての身体と同一視される┉とかなんとか。
仏像⇔生身みたいなところから発しているようです。
そ、そういえば、御本堂の平台に並べられていた授与品の中にあった護符にも〖生身元三大師○○〗と書かれたものがありました。自分の視線をスライドさせて見なかったことにした気がする┉。
元三大師さまが法力で姿を変じたお姿を写したといわれるあのよく見るお札に描かれたあのお姿が生身なまみって┉想像してたりした星5つクラスのおバカなおばさんを、元三大師さまも苦笑いされるしかないだろうな。
世も末と現在をはかなんで、なおいっそう救いの手を差しのべてくださりそうな気が┉しません?
金鑚大師さんへは、最初私一人で来る計画を立てていました。
でも調べれば調べるほど、夫が「俺も行きたかったな」「行こう!」と近々の再拝になりそうな予感しかなくて。
~えっ?金鑚大師さんって、埼玉県って言ってなかった?
┉そう思って下さった方、本当にいつもお読みくださりありがとうございます。
そうです、埼玉県。
~車の運転が苦手で助手席で威張ってるおばさんが?
そうなんですよね。
山道とか細い道とか、まずまずダメだと思っておりまして。
~そんなん免許返上した方がいいんじゃない?
なんか自分でもそう思ったりもするんですけど、まずまず日常生活ではそんな道は走らないのですよ。
言い換えるとカーブの連発する山道、片側か崖のようなしかもすれ違い不可!みたいな道でなければ、結構どこまででも行けちゃうんですよ。
ナビがあることは必須ですけれど、ね。
~高速も苦手って言ってたじゃない?
┉そうなんですよ。自分の車以外だと、なんですけどね。
つまり旅行とかなると自分の車でなければまさに戦力外!
と、私のドラテク(すでにテクニックはないと思われるだけだけれど)はこの辺で置いておき。つまり、そういったすべての条件を充たしたとき、私一人で、あるいは私の運転で目的地まで行ける、ということなのです。
埼玉県と群馬県は隣接した県でありまして、金鑚大師さんや金鑚神社さんを地図で見ると、本当にすぐ近く、なんです。私の住むところから高速を使うこともなく、思い立ったら行けちゃうくらいのところにあるのです。
そう、遠くの県内よりも近くの埼玉県、みたいなところなのであります。
実際に行ってみまして、本当に近い。
なので、金鑚大師さんでは群馬県から来た、などと言われても驚きもしない。県を越える移動にもあたらないくらいだと笑って話されるくらい、群馬県からの参拝者は多いのだそうで。
実際県境のところなど標識があるから県を跨いだと思うだけだと思いますし、この辺りで先祖代々暮らして来られた方々には県を跨いだ感覚などない生活圏なのだと思われました。
┉まあ、悲しいかな、国力というか、県の財力の違いが所々に感じられるところはあるのですが。
金鑚大師さんの御本堂のなかは、横に長い土間(靴のままでOKだったけれど┉土間だったか板の間だったか記憶が曖昧となっております)が続く造りで、外から見たよりも広さのある建物でありました。
入ってすぐの正面には御賽銭箱が置かれており、きらびやかな外陣と内陣が見え、閉ざされた御厨子がお祀りされておりました。
横に長い御本堂、畳の間であります外陣と地続きでいくつかの祭壇が並んで祀られています。右にひとつ隣には護摩檀がきられています。奥にお祀りされておられる御像は暗くて拝することができませんでしたが、不動明王さまがお祀りされておられるようです。
そのお隣はお地蔵さまであるようです。やはり暗くてよくは拝することができないのですが、こちらは関東百八地蔵尊の霊場となっており、その冊子を見るにおそらくお祀りされておられるのは将軍地蔵さまでありましょう。
そしてそのまたお隣には千手観音さまがおられます。
目を凝らしてもよくは拝することができなくて、なんとも歯痒い思いでその畳の間を見ておりますと、それはそれは見事な彫刻がほどこされ、美しい画が描かれているのであります。
敬虔な祈りの場をそのような目で見ていてはいけないのであるのはわかっているつもりなのですが、煩悩の塊はついつい気がつくとそんな見方をしてしまっているのであります。
畏れ多くもそんな間にあっても千社札が貼られております。
まあ、霊験あらたかな元三大師さまゆかりのお寺さんでありますからこそ、すがりたい思いで貼られたものなのでしょうが、ね。
御本堂の、畳の間の地続きの形はここで途切れるのですが、土間続きには続きがあってお社にお祀りされたそれはそれはお美しくてかわいらしい弁天さまがおられます。まるで愛でるために作られたかのような、両の手でお抱き申しあげられそうな大きさと上質で品のあるひな人形を思わせるような美しさであります。
こちらは毎週日曜日には御護摩修行が行われているようなのですが、この日は土曜日。さらにはこの日はご住職がお留守で、同じ宗派のお坊さんがお手伝いに来られていたくらいであり、やはり一日ずらせばよかったのかなぁ、と小さなため息をついてしまった私なのであります。
金鑚神社さんに向かう際、一度通りすぎた【金鑚山大光普照寺】さん。
【金鑚の大師さま】、【金鑚元三大師】という通称の方が伝わるようです。
こちらは迷うことなく着ける立地と、大きな看板、大きな駐車場が目印となります。
通りから斜めに建つ赤い瓦葺きの大きな門も目を引きます。
その赤い門をくぐると、ゆったりとしたなんとも贅沢な広さの空間がひろがっており、林の中に鐘楼が見えます。
そのゆったりとした、上品な公園をすら思わせる空間の左側にある、やはり瓦葺きの門をくぐると目の前に大きな御本堂が。
はやる気持ちをおさえて手水舎で手と口を浄め、香炉にお線香を手向けました。
向拝を美しい彫刻が彩っています。その見事なことといったら!
まずはお参り、お参り。
御本堂のなかは横に広く広がっています。
うわぁ。
なんて見事な彫刻が。なんと見事な絵が。
が、御本堂内では写真撮影は禁止されています。
こちらは、聖徳太子の創建で舒明天皇(629~641)の勅願寺と伝えられているとのことです。
平安初期に【伝経大師最澄】の高弟、後の第三代天台座主【慈覚大師円仁】が入山、本尊に十一面観音を安置して天台宗の寺とし、金鑚山一乗院大光普照寺と名づけて開基となられたのだそうです。
その後平安中期になると第18代天台座主の【元三慈恵大師】の御溜錫があり、ご自作の尊像を安置されたので元三大師の寺として世に知られるようになるのでありました。
武将による信仰もあり、源義家公の東北征伐の戦勝祈願に霊験あり、寺領3千石と諸珍宝(現在神社々宝)を賜わったようです。
戦国末期には地元御嶽城主や鉢形城主の寺領寄進があり、
また徳川家康公からも御朱印30石の寺領を賜わったようで、大いに隆盛を見たようでありました。
しかしその反面戦火もあり、天文21(1552)年、小田原城主北条氏康と上杉傘下の安保氏との合戦で、御嶽城が落城し、全山が焼失、唯一残ったのが天文3年(1534)建立の邦の重文多宝塔であったといいます。
さらに失火で七堂伽藍を焼失し、文化5年(1808)再建されたのが現在の御本堂なのだそうです。
もっとずっと新しく思えたのだけれど┉。
【金鑚神社】さんの創始は
「景行天皇41年(111)に【日本武尊】が東国遠征の折に、〖倭姫命〗より授けられた〖草薙剣〗とともに携えてきた 〖火鑽金(火打金)〗を御霊代として山中に納めて、【天照皇太神】と【素戔嗚尊】の二柱の神を祀ったことによる」と伝えられております。
そんないわれを持つこちらの神社では、授与品に火打ち石があるとのこと。
私、実はこの火打ち石なるものが長いこと欲しくて欲しくておりましたのでありまして。それはまだ神社仏閣をお参りさせていただくようになる前からのことでありました。
〖火〗というものに神力を感じて、〖災禍防除〗のために外出時に火打ちすることを、今どれだけの方がご存じかどうか┉。
┉毎週のように連続時代劇が放映されていた時代の方々であれば、おかみさんが出がけに、「ちょいとお前さん!」とか言って、火打ち石で火を打ちかけていたのをご覧になられたことがあろうかと思うのですが、今はなかなか時代劇自体を放映しておらず┉。
そんな毎週のように連続時代劇が放映されていた時代であれば、あるいはご自宅でも、何かの折に火打ち石を打っていたお宅があったのではないでしょうか。
私の祖父母も何の時にかは今となってはわからないのですが、火打ち石を打つことがあったのです。
かつて┉イヤなことつらいことが続いていた頃、災難除の清め火として火打ち石がいいとネットか何かで知ったんですよね。
神社さんでお分かちくださるところがあるという情報をもとに、授与品をいつも拝見させていただいていたのですが、なかなか火打ち石をお分かちされている神社さんに出向くことができず、ようやくこちらに参拝させていただき、念願かなってようやく火打ち石を手に入れることができました。
これはずうずうしくお導きと思ってもよいのでしょうか。いやいや、それはやっぱりずうずうしいな。
ともあれ。
その火打ち石。
なんだかもったいなくて、いまだ箱に入ったまま、なんです。
宝の持ち腐れ?
猫に小判、豚に真珠、私に火打ち石、でしょうかね。
拝殿のあります境内のさらに奥へと向かう道があります。
そちらにまいりますと、ふたつ末社がお祀りされていました。ひとつは横に長いお社であります。
そこを通らせていただきますと二てに別れた道があり、1つは池へ、1つは【鏡岩】へと向かう道であります。
鏡岩とはこちらの境内にあります岩肌のことで、なんでも特別天然記念物に指定されているとのことであります。
その鏡岩、伝説によると、上州の高崎城が落城した際には火災の炎が岩面に映ったといいます。
また、この辺りを【御嶽山】というようで、かつてそこには山城があり、 月明りが反射して敵の標的とならないよう 松明でいぶして赤褐色にしたとも伝えられているようです。
その鏡岩をのぞむ遥拝所がこの二股の分かれ道の分岐点にあり、そこでしっかりと遥拝したくせに、┉やっぱりその鏡岩を拝見したくてついつい登ってしまうのでありました。
登っていく道々には、一般の方々がご自身の歌を刻んだ歌碑をお納めしたようで、かなりの歌碑が建てられていました。
カエルの石像やら幼少期の義経公の石像もあり、また道もチップが敷かれて歩きやすい道となっていました。
もう少しで鏡岩、とか書かれた小さな案内があり、そのそばにチェーンで仕切っていたりするところに大きめの岩肌などがあったりするものだから、珍道中夫婦はそのなんでもない岩肌を鏡岩かと思って写真など撮ったりしたのですが。さらに進むと、説明の書かれたしっかりとした案内板があって、先ほどの岩はただの岩肌だったことを知るのです。ああ、恥ずかしい。
そこは神社から約400メートルほど登った御嶽山の中腹で、幅5メートル 高さ9メートルの平らな岩肌でありました。
〖紅鉄変岩スレ肌という およそ9000万年前の岩断層活動の跡で、断層面が出来るときに強い摩擦力で 岩面が鏡のように磨き上げられた 貴重な地質学資料である。昭和31(1956)年に国の特別天然記念物に指定された。〗とのことです。
そうですね、どのくらい鏡のようだったかといえば、顔はおろか人がいることすら映らないものではありましたが┉確かに月を反射してそこにこの岩肌があることはわかるであろう、といったものでありました。
私でも美人に見える、というネタもちょっと使えない鏡岩でありました。
〖主要社殿は拝殿・中門からなり、中門の背後には一般の神社に見られる本殿がなく、 神体山とする御室山(御室ヶ獄)を直接拝するという形式を採っている。 旧官幣社・国幣社でこのように本殿を設けない古例を採るのは、他に 長野県の諏訪大社・奈良県の大神神社のみである。〗
と、金鑚神社さんの公式HPに書かれております。
ん?本殿がなくて岩や山を御神体としてお祀りされている神社さんは他にもあったんじゃ?
いやいや、よく読むと「〖旧官幣社・国幣社〗で」とあります。式内神社さんというのはよく聞くことでありますが、なにぶんにもいつになっても初心者のまま珍道中をしております私なので、知らないこと、覚えられないことばかりで。
┉調べてみました。
官幣大社・国幣社、これは、まあ予想通り神社の「社格」を示す言葉でありました。
六十年ほど前までは、神社ごとに社格が決められていたようで。つまりは、神社が格付けされていたわけであります。
社格制度とは私にとっては耳慣れない言葉でありますが、簡単にいえば神社の“格付け”のよう。
今では神社本庁の下、〖規模の大小はあっても、すべての神社は平等〗ということになっているようですが、第二次世界大戦が終わった六十余年前まで、神社の世界には「社格」という名のランク付けがあったのだそうで。
「近代社格制度」と呼び習わされる社格ができたのは、1871(明治四)年。政府が国内すべての神社を対象に、大きく官社(官幣社と国幣社)、諸社(府県社と郷社と村社)、無格社に等級分けしたのだそう。
なんでも上位の官社のなかでも官幣社は国幣社より格上とされたとかなんとか。
ただし、皇室の祖神・天照大神を祀る伊勢の神宮だけは「別格」として、社格の枠外に据えられたようです。
うーん。調べて余計分からなくなるあたりがこの困ったおばさんであります。
まあ、明治政府の政策の一環のようで、あの神仏分離令とセットだったのかどうか┉いろいろやりたかったんですかね?
調べてみましてわかったことは、群馬県にはその認定を受けていた神社は、一社のみだったということ。
聞きなれなかった理由はそこ?
神橋の向こう側から見えた、手水舎と神楽殿のある空間は、それは神々しく、白く靄のかかった、幻想的なものでありました。
拝殿は。
神職のかたは一人もおられないにも関わらず、四方の、開けられる戸すべてを開け放った状態でありました。
そこを抜ける清らかな、つつみこんでくださるようなやわらかな風が、まるで見えるかのようなありがたい社殿でありました。
拝殿と、中門、と呼ばれる社殿の神々しい明るさといったら!
とてもとても居心地のいい空間であります。
こちらの拝殿は四方が開けられる造りであることは述べました。
一般には拝殿に連なって【幣殿】と呼ばれる建物があって、本殿へとつながっていることが多いのかと思います。
こちらには幣殿がありません。幣殿があるべきスペースにはなにもありません。そして、拝殿の奥に、こちらでは中門と呼ばれている社殿があります。
そして┉。本殿は、ありません。
こちらは社殿後拝の御室山を御神体、神体山としてお祀りされているのです。
とはいえ。
心こめて書いたレスNo.7を消してしまってあったこと、これは別にタブレットの不調は関係なくて、おそらくは寝ぼけた自分の所業なのだろうけれど。
あまりにもショックで、筆が止まってしまいました。(っT.T)っ
あらためて書こうか、あきらめて先に進もうか┉。
なんだか人生のようだ。
まあ、人生のひとこまではありますがね。
こちらに参拝できたことに感謝を申し上げ。
┉もう、それしかなかったです。
願い事するような気持ちになど少しもならなかったのであります。
それはここを訪れたことで、ただそれだけでこちらの神さまが私の欲や穢れをお祓いくださった証なのだと思い、また神さまへの感謝の思いが私のなかに沸き上がりました。
合わせた手をおろしたとき、夫が小さな声をあげました。
「どうかした?」
「カエルがいるよ。色が周りと似ているし、小さいから、踏まなくて本当によかった」
見ると夫の足元のすぐそばに、小さな黒いカエルがいます。
黒いからだにふたつ丸い模様の入ったカエルです。アマガエルより少し小さいか同じくらいか。
アマガエルとは異なって皮膚にイボのような凹凸があります。
細い足で一生懸命に動く姿がなんとも可愛らしく見え、二人で談笑していると、あとから石段を上がってこられた方が
「なにかありますか?」
とお声をかけてこられました。
「カエルです」
と、二人して拝殿の前を左右にわかれるようにお譲りしながら、夫が答えました。
「ほう、カエルですか。カエルは大好きです」
と、杖をついておられます年配の男性がいかにも嬉しそうにおっしゃいました。
┉こんな、微笑ましい一期一会の場面を、このコロナ禍、マスクが隔てます。
その男性はきっと満面の笑みをうかべておられました。
私どもも笑顔で振り返って答えました。
カエルを大好きとおっしゃった笑顔が拝見したかったです。
たったそれだけのことが叶わないこのときを、私ども地球人はほんの一年半前は思ってもいなかった。
そんな当たり前だったひとこまが、かけがえないことと思えるほどに、
こんな驚くほど短い間に、世界中が変わってしまうなどということを、誰が予測できたでしょう。
もう一匹のカエルがぴょこんと跳ねました。
金鑚神社さんの大鳥居が見え、ようやくホッとしたのもつかの間、駐車場が見当たらない。車社会の現代など想定外でしたから、駐車場などの設置は当然後付け。
ただ、神社さんがゆるしても(仕方なく許した経緯は当然ありましょうが)、やはり鳥居を車でくぐること、参道を車で走ることにはいつになっても慣れられない。
ごめんなさいの気持ちいっぱいでそろそろと車を走らせます。┉二の鳥居が見えても駐車場らしきものが、ない!
ええっ?そもそも、それじゃあ大鳥居自体を通ってはいけなかった?
どこか少し離れたところに駐車場があったとか?
二の鳥居の横、ちょうど車が通り抜けするのに十分な幅に道があります。
行くしかないのでそこを進みます。
おっ?!
奥まったところに数台は置ける駐車場があるではないですか。ホッ。
┉公園、とあります。
まぁ、大きな神社さんともなると公園が隣接というか境内にあることもありました。ここでいいかな。
あ、この日のドライバーも当然のように夫。なので私以上に悩み困ったのも、ここに停める決断も当然夫でありました。
上り坂の境内を歩き出すとすぐに、参道みぎての高台に立つ【多宝塔】が見えてまいります。その神々しさといったら。
「神社さんなのに多宝塔があるんだ」とは夫。
┉そうなんです。もともとはすぐそばにあります大光普照寺さんと一つであったという歴史があるのです。そう、あのしつこいように出てくる神仏分離令によって分けられたがために、お寺さんにあるはずの多宝塔が存在することとなったのであります。
〖多宝塔(たほうとう)は、寺院建築のうち仏塔における形式のひとつである。一般に、平面が方形(四角形)の初層の上に平面が円形の上層を重ね、宝形造(四角錐形)の屋根を有する二層塔婆〗とあります。
神々しさ、とか書いておりますが、本来お寺にあるべきものだということくらいはさすがに覚えられましたのでそこはご安心ください。
ちなみに国の重要文化財に指定されているようであります。
武蔵国二ノ宮 【金鑚神社】に参拝させていただきました。
カナサナ、とお読みするようであります。
埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮に鎮座されています。┉すごくないですか?
神川町字二ノ宮、ですよ。
古くからある神社仏閣はその土地の地名自体になっていることがよくあります。まぁ、私のような者はすぐそういった地名である土地を訪れると、その古くからの歴史を感じ、もうそれだけで感動してしまうのですが。
社名であります、このなかなか読めず、しかも覚えづらい(それは私たち夫婦だけ?)金鑚の由来は諸説あるようです。
神流川周辺ではかつて刀などの原料となる良好な砂鉄が得られ、御嶽山からは鉄が産出したといいます。
社名「金鑚(かなさな)」は、古くは「金佐奈」と記載され、、砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」が語源とする説、
産出する砂鉄が昆虫のサナギのような塊だったため「金サナギ」が語源とも考えられているようです。
また、児玉郡は 1,380基の古墳が確認されており、この地域を 「魏志倭人伝」にある2~3世紀頃の倭人のクニの1つ「華奴蘇奴(かぬそぬ)国」に比定する説があり、そこから転じたという説もあるようです。
金鑚神社の創始は古く、
『景行天皇41年(111)に【日本武尊】が東国遠征の折に、倭姫命より授けられた〖草薙剣〗とともに携えてきた 〖火鑽金(火打金)〗を御霊代として山中に納めて、【天照皇太神】と【素戔嗚尊】の二柱の神を祀ったことによる』と伝えられている。
また、
古くは「金佐奈神社」とも表記された【名神大社】である。 武蔵国の名神大社は【武蔵一ノ宮氷川神社】と当社のみで、他は式内小社である。
金鑚神社は、古代から官社として神階を授かり、他の式内社より格が上位であり、 江戸時代には武蔵国二ノ宮と呼ばれるのにふさわしい祭祀組織が築かれていたと思われる。
と金鑚神社のホームページに書かれています。
ほうほう┉と言いながら半分くらいしか咀嚼されてはおりません。
主祭神さまが、
天照大神 (あまてらすおおみかみ)さま
素戔嗚尊 (すさのおのみこと)さま
であることと
配祀神さまが
日本武尊 (やまとたけるのみこと)さまということと、延喜式内神社のなかでも明神神社さんだということで┉いいかな。
【ハレの日】、【ケの日】
ハレの日、という言葉を聞いたことがあります。なにやら特別な日、それはしかもお祝い事のような特別な日を、「今日は晴れの日」であるとか、「今日は晴れて○○の日」とかいう表現をしておりました気がいたします。たとえば婚礼の日であったり、七五三であったり、入学式や卒業式であったり。
漢字はまさに晴れの日でよいようです。
どうやらそれに対して使われるのがケの日のようであります。
ケの日とは褻の日、と書くようです。
ケは日常で、普段通りの日。普段通りに仕事をして普段通りの食事、普段通りの衣服で過ごす日、なのだそうです。
現代においては少し、そのわけ方に準じていないところがあるのかと思ったりしました。
仕事の休みの日には特別おしゃれをして、あるいは奮発して食事をしたり、レジャー等楽しい特別な日にして、仕事への意欲を高めることもあれば。
お仕事の日はスーツ等ビジネス等、仕事先に向かうに適した服装をしていて、お休みの日はジャージ、とか?
まあ、それでも婚礼とか、お祝い事のような日とはその差は歴然でありますが、ね。
そのケの日。一年のほとんどがケの日でありますが、そんな日常生活を送るうちにケ(褻)が枯れてくるという考え方があるのだそうで、ケが枯れる=ケガレ=【穢れ】であるのだといいます。
ケガレはハレの日を向かえることでケ(気)が回復するという考え方のようで。
一月一日はお正月の始まり、元旦であると同時にかつてはこの日をもって一歳の年齢を重ねたハレの日、であるのだそうです。
そう、数え年というシステムが一般的であった頃においては誰もがみんなお誕生日、というわけなので、特別なハレの日、というわけですね。
で、ハレの日に着る特別なものだから晴れ着。
雨でも雪でも晴れ着であるのです。
私、初詣にも、産まれ落ちてうん十年という年月のなか、数えるくらいしか行ったことがなく、また晴れ着などは持ってもおらず。
これではハレの日を祝っていなかったのだな┉。
まあ晴れ着などは今さら用意はいたしませんが、とりあえず、今後は少しでもおしゃれをして、初詣をさせていただきましょう。
┉駐車場は満車かなぁ。みえてきた鳥居の奥には、まだ一台も車はないようです。
できるだけ鳥居から離れたところに停めて┉いると一台、また一台と車が入ってまいりました。やはり信心深い方は夏の祓を欠かさないものなのだなぁ。
マスクを着けて。あれ?マスクを持ち忘れた?
大丈夫です、私の車にはもう二十年以上も前からマスクの箱が常備されています。
マスクを着けて。
あれ?
茅の輪が┉茅の輪が┉ない。
そ、そうか。
無いこともあるとGoogle先生に言われていました。昨年はあったよう記憶しているのだけどな。
これもコロナ禍、ということなのでしょうか。
境内には、とりたてて夏の大祓を思わせる何かはなにもありません。
茅の輪は繊維だし、本来は触りながらくぐるものではないけれど、何が感染源となるかはわからないもの。うーん、ちょっぴり残念。
ですが、一番大切なのは、本来の目的は、半年間お守りくださったことに感謝して、半年の穢れを落としていただくというもの。
茅の輪があろうとなかろうと、人形(ひとがた)がなかろうと、感謝と祈りをささげることが大切です。
鳥居をくぐり、神橋を渡って。
こちらの神社さんも手水舎は蓋をされています。
心のなかで身の穢れを取り除いていただくようお願いをいたしました。
神前に向かい、日頃の感謝と半年間お守りくださったことへの感謝を述べ、いま直面している問題にしっかりと向き合うことを誓いました。
その上で、また今後をお守りくださいますようお願い申し上げました。
境内にはいつのまにか車の台数が増えています。
老若男女が参拝に訪れております。
うーん、今まで私、何してたんだろ。┉まあ仕事をしていたんですけどね。
それぞれの方がそれぞれの悩みを抱えて、それでも、神に感謝し祈りながら生きておられるんだなぁ。
そう思ったら、気持ちが明るく、軽くなりました。
紳士が一人、御神木に手を当て額をすりつけ
さあ、あらたな一歩を踏み出そう。
ところで、なぜ茅の輪をくぐると良いのでしょうか?それはある昔話が起源となっているようであります。
昔、旅の途中で宿が見付からず困っている神様がいました。
神様は、蘇民将来(そみんしょうらい)、巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟に宿を貸してほしいと頼んだそうです。しかし弟の巨旦将来は、裕福な暮らしをしていたのに断ってしまいました。
兄の蘇民将来は貧しい暮らしをしていましたが、神様に宿を貸してもてなしたそうです。
神様はお礼に、「もしも疫病が流行した時は、茅の輪を腰に付ければ逃れられるでしょう」とお教えになりました。
すると数年後、その地域で疫病が流行したにも関わらず、茅の輪を腰に付けた蘇民将来の家族だけは助かったそうです。
その神様こそ「スサノオノミコト」さまであったということであります。(備前国風土記、蘇民将来説話)
それから腰に茅の輪を付ける信仰が広まり、それが時代とともに大きな茅の輪となり、くぐることで罪や穢れを取り除けると考えられるようになっていったようです。
そもそも大祓のはじまりは古代であるということ。
イザナギノミコトが、黄泉の国で受けた穢れを祓うため、水で禊祓(みそぎはらい)をした故事からも、日本人にとって禊がいかに大切な儀式であるか伺えます。
古代・中世を通じて行われてきた大祓ですが、室町時代の「応仁の乱」によって中断されることになったのだといいます。
長い間中断されてきた大祓を再興したのは明治天皇でありました。
明治四年、明治天皇の思し召しで、宮中の賢所(かしこどころ)の前庭で大祓が行われ、翌五年には全国の神社で行うよう布告をお出しになり、400年以上途絶えていた大祓が再興されたそうです。
大祓では、「人形(ひとがた)・形代(かたしろ)」を用いて祓をするようです。人の形に切り抜いた紙に、自分の名前と年齢を書き、その人形で身体を撫でて息を吹きかけます。自分の罪や穢れを人形に移し、その人形を海や川に流したり焚き上げたりすることで、自分の代わりに清めてもらうというものです。神社によって撫で方や息の吹きかけ方・回数が詳しく決まっているところもあるのです。。最近では、車形のものもあるようです。
今年も早いものでもう半年が終わろうとしています。
本日、六月三十日は【夏越の大祓(なごしのおおはらえ)】という神事の日。
毎年、ちょうどこの頃に神社に参拝いたしますと茅の輪(ちのわ)が設置されているところがありました。初めて茅の輪を見たのは、何年前であったことか。それが夏越の大祓という神事によって設置されたことと知るに至るまでまたまた時を費やして、本日、ようやく夏越の祓に行った次第です。
夏越の大祓とは、心身の穢れ、罪や過ちを祓い清める「大祓」の神事。
全国の多くの神社で、6月と12月の晦日に「大祓式」が行われるのだそうです。
六月の大祓、6月30日・・・夏越の祓または夏越の大祓
十二月の大祓、12月31日・・・年越の祓または年越の大祓
六月三十日に行われる夏越の祓では、一年の前半を無事に過ごせたことに感謝するとともに、半年間の罪や穢れをお祓いし、残り半年も清らかな気持ちで過ごせるよう願う神事だということであります。
うーん、なんとありがたい神事でありましょう。
ちなみに初めて茅の輪をくぐった時、願い事のかなう輪、とかの認識で、それはそれは神妙に願いを込めてくぐりました記憶があります。
夏越の祓の時期、茅の輪(ちのわ)を設置している神社は多くあります。
茅の輪とは、チガヤで作られた輪のことで、この茅の輪をくぐることで更に穢れを祓い、無病息災を願うのだそうです。これを「茅の輪くぐり」「茅の輪神事」などと言うそうです。
茅の輪くぐりの方法は、
①一礼してから茅の輪をくぐり、左に回る
②再び一礼してから茅の輪をくぐり、右に回る
③また一礼して茅の輪をくぐり、左に回る
④最後に一礼して茅の輪をくぐり、そのまま神前へ進み参拝
一般的にこのような手順となっているということ。
簡単に言うと、左右に「8の字」に回るというイメージだとあり、しかと頭に叩き込み、勇んで、事あると(※あくまでも七五三とかの人生儀礼とよばれる、本当に誰もが神社さんに行くであろう時、程度にすぎません)うかがう神社さんに向かいました。
記憶力の低下著しい私、もし忘れてしまっても、きっときっと茅の輪のくぐり方が書いてあるに違いないと、それでもドキドキしながら、雨降る中車を走らせたのでありました。
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