幸せな最後
コンコン
玄関ドアをノックする音が聞こえる。
オートロックのマンションなのだし、玄関にもインターホンがついているのに、誰が、ドアを叩いているのだろうか。
ちょうどベッドに入り、眠りにつくタイミングだった。
訝しげに思いつつも、一応起き上がり、玄関へ向かう。こんな時間に、誰が来たのだろう。
不気味に思いながらも、のぞき穴から外を見る。
見慣れない男が立っていた。
ジーンズのパンツに、ありふれた感じのパーカー。なにかの集金屋やセールスマンのようにも見えない。
ドアチェーンをかけたまま、少しだけドアを開く。
「なにかご用ですか?」
「私は誰も呼んでいませんし、そもそもあなたはどなたですか? まったく知らない方を呼ぶはずもないと言うか、呼ぶ手段がないじゃありませんか」
「それでも、呼ばれたのですから。そんな風に雑に扱わないでください」
なんだコイツは。
見ず知らずの男が、私に呼び出されて家まで来たと言っている。
こういっちゃあなんだが、少し頭のおかしいやつなのだろうか。
時々、変なヤツはいるものだ。
おだやかな語り口調でもあるので、通り魔みたいなものとは違うのだろうけれど。
もしかして、ストーカーか? いや、男性同士だし、違うだろう。仮にそういった趣味を持つ人物なのであったとしても、一度どこかで対面しているだろうから、顔ぐらいは覚えているはずだ。
「本当に呼んだ覚えはないですし、失礼ですが、あなたのことを存じ上げません。お引取り願えますか。私もそんなに暇じゃあないのです。そろそろ寝ようとしていた時間ですし、そもそもこんな夜遅くに突然訪ねてくるのは、非常識ではありませんか」
ごく当たり前のことを伝えたはずだ。
しかし、その男は、さらに同じ言葉を繰り返した。
「あなたが、私を呼んだんですよ。あなたが」
ますます混乱が深まり、あまりのしつこさに少し憤りすら感じ始めていた。
ただでさえ、親族問題でゴタゴタがあったり、仕事で失敗をしたり、友人関係がうまく行かなかったり、恋人にふられてしまったりと、とにかく上手く行っていない日々を過ごしている時に、こんな厄介な人物が現れるなんて、頭がどうにかなってしまいそうだ。
「本当に申し訳ないですが、帰っていただきたい。あなたを呼んだ覚えはありませんし、私は、今すぐにでもベッドに入りたいのです」
「ずっと入っているではないですか」
そんなことを言っていたようにも聞こえたが、こんなヤツにかまっている暇はない。とにかくドアを締めた。
その男は、そのまま立ち去ったようだ。
とりあえず、面倒くさいことにならなくてよかった。いや、面倒くさいことではあったが、無事に追い返すことが出来たのだから、結果オーライだ。
もう少し居座られたとしたら、警察にでも連絡していたかもしれない。そう思いながら、その日は眠りについた。
それにしても、相変わらず、上手く行かない日々だ。
仕事もプライベートも、なかなか、思い通りには進まない。とはいえ、それこそ成功者と呼ばれるような人ではない、多くの人達は、皆、そういう感じなのだろうとも思う。
いや、成功者として見られている人たちだって、それはそれで、私たちには体験できないような、大変な苦労をしていることだろう。
そう考えつつも、ではあるが、色々なプレッシャーや、不安、後悔に、日々押しつぶされそうになっていた自分が存在していた。
それを自認しつつも生きつづけ、なんとか、一日、一日を終える。
眠る時にふと、誰かから、客観的に今の自分の行動について、なんらかのアドバイスを貰えたらな、なんて考える瞬間もあるが、昔から自分は出来る人間だと思い続けていたプライドも邪魔しているのだろうか、相談や教えを請うようなことはしたことがなかった。自分で考え、自分で解決するのが正しい道のはずだ。
自分への問いかけをしながらも、たいした答えは見つからないまま、いつの間にか眠りにつく毎日。苦しいままの、なにも変わらない日常が、明日も待っているのだろう。
どうにか変えたいと思いながらも、なかなか思ったようには行かない。
また始まる明日のことを考え、憂鬱になりながらも目を閉じる。
相変わらず、精神的にはとても疲労した一日を終え帰宅する。苦痛すら感じ始めていたのかもしれない。
シャワーを浴び、ほんの束の間のくつろぎの時間を過ごす。
また眠って、目が覚めると、同じような苦しい一日が始まってしまうのかな。そんなことを考えながら、ベッドへと向かう。
レム睡眠というやつだろうか、眠っているようで、完全には眠っていないような状態の時に、また、ドアをノックする音がした。
夢かなとも思いながら、なんとか起き上がり、玄関へ向かう。
外を覗くと、先日来たその男が立っていた。ドアを開ける。
「呼ばれたので、来ましたよ」
この男は何者なのだろう。また、深夜に訪れて、意味のわからない言葉を発する。断じて、呼び出したりはしていない。なにせ、眠ろうとしていたわけなのだから。
「帰れと言われるのであれば、おとなしく帰りますが、また呼び出されたのです。あなた、おそらくこのままだと良くない亡くなり方をしてしまいますよ」
突然そんなことを言われた。
「亡くなる」と、ヤツは言った。不謹慎なやつだ。馬鹿なことを言うんじゃない。事件に巻き込まれるとか、そんなことを予言できる能力を持っているようには見えないし、私は生死に関わるような病気も持っていない。色々と不安はあるけれども、万が一にも、自殺のようなことを考える性格ではない。さすがに不快だったし、からかわれているのかと思い、何かキツい言葉で、怒鳴りつけてやろうと思ったのだが。
「閉じ込めている色々なことを、吐き出してしまわないと、このまま、このままずっと、苦しむだけの日々が続くことになりますよ」
これまで自分の弱さというものは、極力他人には見せないようにし、気丈に振る舞い、出来る限り尊敬されるような人間であろうとしていたが、その裏側は、本当に弱い心を持った人間ではある。
そんな心が、幻を産んだのだろうか。多分、この男を追い返したって、きっと、またやってくるのだろう。試しにヤツに聞いてみた。
「私はどうすれば良いのです?」
「心を、静かに。そうするだけで良いのです。苦しいことは誰にでもありますが、意識すればするほど、より苦しくなりますよ」
なにか、具体的なアドバイスでも貰えるのかと思った自分が間違っていたのだろう。
ふんわりとした、そんな言葉しか聞くことは出来なかった。
とにかく、コイツが私にとっての救世主のようなものではないことは理解した。少しでもそんな期待をした自分が馬鹿だった。
「そうですか。ありがとう。今日はこれで失礼します」
あまり取り合ってもどうしようもない相手なのだろうと察し、そそくさと切り上げた。
失礼します、と私から言うのもおかしなものだが。勝手にヤツが押しかけてきているのだから。
いったい、アイツはどこから何の目的で現れた、誰なのだろうか。
疑問ばかりだが、扉を締め、ベッドへと戻り眠りにつく。
「心を、静かに」
確かに、具体的なアドバイスではなかったが、少しだけ、その言葉が頭に残っていた。
まあでも、色々思い悩んでいても仕方がないのだろうな。
常に張り詰めた日常的な緊張感やプレッシャー。失敗への見えない恐怖、不安。
そういったものに、クソ真面目に真っ向から向き合う必要はなかったのかもしれない。
こういった事を考えるキッカケをくれたという意味では、ある意味では、ヤツは役立ったというところか。
そんな事を思っていると、少し気持ちが落ち着いたような感覚を覚え、そのまま眠りに入ったのだと思う。
ピーっという長い電子音とともに、心電図のグラフは、まっすぐな線を表示していた。
ベッドに横たわるこの男は、意識が戻らない状態になったまま、随分と長い年月をここで過ごし、たった今、息を引き取った。
長い間、この場所で大変苦しそうにし続けていたが、最後は、なぜだか、とても安らかな表情で亡くなった。
「若くしてこのような状態になり生を終えるというのは、本当にかわいそうだった。自殺を試みようとするぐらい苦しんだあげく、死にきれずに植物状態になってしまい、さらに苦しみ続けるなんて。こういった患者は何人も看取ってきたものだが。しかし、苦痛に歪んだ表情のまま死を迎える方も多い中、彼は、とても良い表情で亡くなったように見える。身体は動かせず、言葉も発することができない状態でも、自問自答し、何かを考えていたのかもしれないな。人生の最後が苦しみだけでなかったとするならば、医療に携わる私たちにとっても、救いになるものだ」
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