地の底から見上げた景色
いつかここから見上げた景色。
私はあの場所へ行きたかった。光の当たるあの場所へ…
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「おかえり。」
時計に目をやると朝の8時。いつも通りの時間に帰ってくるこの人。
私は急いで食卓に料理を並べた。
「今日はね、ハンバーグだよ!!好きでしょ?」
この人の好物は子供が好むようなものが多い。朝から毎日、肉料理にうんざりしながらもこの人の喜ぶ顔が見たくて…
「ああ。ハンバーグね。」
料理に目をやることもなく、携帯ゲームに夢中になっている。
私はこの人の妻となり三年たつ。彼女時代からだと五年ほどだ。
「ねえ、咲夜。おいしい?」
今日の味付けには自信があった。きっとうまいと言ってくれるだろう。私は頬杖を尽きながら彼の顔を覗き込んだ。
「いつもと同じ。てかちょっと味薄めかも。さっきさ、同僚からパンもらったから腹一杯でさ、残してもいい?」
ハンバーグを半分と味噌汁は口を付けたかさえ、分からない。私の一時間が無駄になったわけだ。
「いいよ。私食べるから。」
私は彼の皿からハンバーグを自分の皿に移し、味噌汁は噐ごと自分の前に持ってきた。
咲夜はもう携帯ゲームに夢中だ。
「ごはん作って待ってるの知ってるんだからさ、パンとかはあまり食べないでほしいな…」
言わないでおこうとは思ったけど、私はつい注意をしてしまった。
「は?なんでそんな事まで指図されなきゃならないの?うざいわ。」
今日初めて目があった。その目はとても冷たく私を睨んでいる。私は自分の口を抑え、口走ったことを後悔した。
「ごめんなさい。」私は急いで謝った。早くこの悪い空気を一掃したかった。
「うざいわ…」
咲夜はボソッとそういった後、携帯を持って寝室に行ってしまった。残された食事からは湯気がまだあがっている。
彼が帰ってくる時間に合わせて熱々に作った食事。彼の好物のハンバーグ。私はゴミ箱にそれらを投げ捨てた。
なぜこんなことで怒るのか?私が悪いのか?
彼と結婚してからこういうことに、うんざりしていた。
毎日浮かぶ言葉。彼はなぜ私と結婚したのか?私はなぜ彼と結婚したのか?
考えても仕方ない。私は自分の頬を叩き、寝室にもう一度謝りにいった。
「咲ちゃん…ごめんなさい。」
私は床にひざまずいて土下座をした。
「気を付けろよ!!」
「はい。ごめんなさい。」
私は言葉とは裏腹に拳を握りしめ、
爪が手のひらに刺さって血が出ていることにしばらく気づかなかった。
私には職場にも居場所がない。
子供のころ、社交的だった私だけど中学生になってから人間ほど信じられないものはないと確信していた。
昨日まで仲のよかった友達。それが私を今日は無視するんだ。見た目とか持ってるものとかでランクが決まったりもする。そんな関係に気持ち悪さを感じていた。
ここの職場も同じだ。私は冷凍食品のコロッケを作っている。女たちの職場だ。男はちらほらとしかいない。
私はとにかく浮いた存在で友達もいない。同僚ともほとんど話すこともない。私はここでは最低ランクなんだ。女たちの輪からは完璧に隔離されていた。
この醜い容姿と人見知りの暗い性格。仲間外れにされるにはもってこいの人間。
家では旦那にうざがられ、職場では人に見下され、精神的にはギリギリなところで生きていた。毎日が辛くて、無意味で価値の無いものだったから。
「あの…これってあそこに置いてきたら良いですか?」私は不良品の袋を持ってリーダーに話し掛けた。
「は?あぁ。そこ。」
私が話しかけたことに嫌そうな顔をしている。そっけない返事で、あっちにいけと言わんばかりだ。彼女はいつも独りでいる私を嫌っている。
「はい。」
私は指示された場所に不良品を置いた。今日は機械の調子が悪く不良品が多い。みんなイライラしてるのが伝わってくる。
リーダーと仲のいい女たちが私の方をチラッとみて、何かブツブツと言っている。どうせまた悪口だろう。
そろそろ昼ご飯。私にとっては生きてる中で一番の癒やしの時間なんだ。
私は彼女たちの視線を背中に感じながら、足早に休憩に入るため、更衣室に向かった。彼女たちとはロッカーが近い。私は鉢合わせしないように急いだ。
私は深緑の紙袋と小銭入れを持って、更衣室を出た。
私は工場の駐車場裏にあるベンチで昼食をとっている。工場の玄関先にある自販機でいつものホットココアを買い、ベンチへ向かった。
私は自分の左にはココア、右には深緑の紙袋をおいた。
今日は天気がいい。私はぐっーと背伸びをした。まるで何百年もの間、箱の中に閉じ込められていたみたいだ。どこからかキンモクセイの香も漂っている。
さて、私が楽しみしているものはこの深緑の紙袋の中にある。私はプレゼントの包装を開けるときのようにワクワクしながら袋に手を入れた。中身は知っているのだけれど、この瞬間がたまらない。
袋の中からはフワッとバターの香ばしい香りが。丸くて手のひらに乗るほどの大きさ。私はそれ必ず2つ買うのだ。
家の近くのメープルというパン屋でメープルという名前のその店オリジナルのパンだ。
その丸くて可愛いパンの中には甘いメープルが名前通り入っている。いい匂い…
一口食べると先ほどまでの疲れが吹き飛ぶようだ。私はうっとりしてしまう。これが無ければ私は死人と変わらない。この時だけが生きてると感じるのだ。ココアを、一口飲むと私は笑顔になった。
端から見たら気持ち悪い女だろう。
ひとりでベンチに座りニヤニヤとパンとココアを味わっている。そんな光景を妄想するとさらにニヤニヤと笑けてくるのだ。
永遠にこの時間が続けばいいのに…
そんな無理なことを毎日繰り返し考えるのだ。
そろそろ仕事に戻らなければ。後四時間働けばここから解放される。
「真田さん!ちょっといい?」
リーダーが私を手招きしている。リーダーの隣には見知らぬ男が。
「この人今日からここでしばらく研修らしいの。現場を勉強するみたいで。で、悪いんだけど、あなたと一緒に倉庫の廃棄物捨てるのをとりあえず今日はお願い。明日からはラインにも入ってもらうけど、私たちは忙しいからあなたに指導頼むわね。」
私、パートなのに…この男性がイケメンなら私になんか任せないだろうけど、見るからに…
その男性は田崎光さんといって、30後半に見える。若い子が研修なら分かるけどこの年齢で研修とは珍しい。背は高いけど、猫背で私と同じ暗いオーラが漂っている。確かに私とはお似合いかも。
「あの…真田です。田崎さん、倉庫はこの奥にあるので…」
「はい。」
リーダーは私たちの話す姿をバカにしたようにニヤニヤ笑っている。しばらくは格好のネタだろう。気分が悪いので足早に倉庫に向かった。
「こっちの右側にあるものは全て廃棄物です。捨てるための箱もってきますね。」
私たちは黙々と廃棄物を箱に詰めた。お互いに人見知りなのは何となく分かる。下手に話せば余計に微妙な空気になるだろう。私はとにかく夢中で作業に没頭した。
ただ分かったことがある。この男性はとても気が利く。うちの咲ちゃんとは大違いだってこと。
作業もとても丁寧だし無駄はない。それに重いものは必ず彼が持ってくれる。咲ちゃんはめんどうなことは私任せだし、私を女扱いして重たい物を持ってくれることもない。
仕事場とはいえ、彼の気遣いに少し気分が良くなっていた。
「これで今日は終わります。お疲れさまでした。ラインには入ってないのでお掃除は大丈夫なので。」
ラインに入っていると時間がきても掃除しなければならないけど、今日は楽でいい。
「あの。ありがとうございました。」
田崎さんは深々頭を下げると、猫背のまま背中を向けて帰っていった。
ぶっきらぼうだけど、いい人だなと私のセンサーが言っている。こう見えても人を見る目はあるつもりだ。
いつも独りの職場だったけど、明日から一緒に行動できる人がいると思うと何となく嬉しかった。
「ただいま」
咲夜はまだ寝ているだろう。6時に起こさなければいけない。それまで夕食の下準備をしなければ。
帰ってきてすぐ作れる、お蕎麦と天ぷらにした。咲ちゃんは海老の天ぷらが好きだから大きめの海老をたっぷり用意してある。
時計が六時を指している。
「咲夜~起きて~」
うぅ″~といううなり声が寝室から聞こえる。起きたのだろう。
彼がお風呂から上がるまでに夕食を完成させなければ。私は海老の殻を急いで向いた。
イタッ!海老の殻で指を切ってしまったようだ。朝のうちに剥いておけば良かったと後悔。私はとてもせっかちでおっちょこちょいなので焦ると良いことがない…
早くしないとシャワーを終えて咲ちゃんが出てきてしまう。
「ごはんできた?」
咲ちゃんはまだ眠いのかダルそうにしている。
「できたよ!でもね、手切っちゃった~」
私は絆創膏した手をヒラヒラと、見せた。
「はぁ~。あんたらしいね。血入ってないよね?」呆れた目で私を見ている。指よりも血が入ってないことが彼には重要なのだろう。
「入ってない。」
大袈裟でなくていい。大丈夫?って一言が聞きたいが為に余計なことを聞いてしまった。もう期待するのはやめようと思っていたのに。
この人にとって私は食事を作り掃除をするだけの人。もうそうとしか思えなくなっていた。
「ねえ、咲ちゃん。服買ってもいい?」
私たち夫婦は勝手に買い物をしない約束になっている。
「え?なんで?まだいいでしょ?」
まだいいって、破れるまで着ろってこと?この人は私が服にお金をかけることが気に入らないのだ。私だって女だし、服だってたまには買いたい。
でもここで、買いたいと自分の意見を通すとこの人は必ず怒り出す。
「そっかぁ。」
私は自分の気持ちを飲み込んで、そばをすすった。前の彼女とは海外旅行にいったり、プレゼントもしていたみたいだけど、私には2000円ほどの服を買うのも惜しいのだろう。
私の苛立ちや不満はもうこの時、限界を超えていたのだと思う。
私たち夫婦には、思いやりや相手を尊重する優しい気持ちなどは無いものとなっていた。
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