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小説大好き
14/08/26 16:39(更新日時)

小さいガキだった頃から愛想のねぇ人間だった

親はこいつは好き勝手に生きていくと思っていたんだろう

小学生の頃に読んだなんかの本に

「我が道を行く」

という言葉があった

えらく気に入ったのを覚えている

それが俺だ

14/07/23 13:40 追記
「可もなく不可もなく」
http://mikle.jp/thread/2106160/
このお話のサイドストーリーみたいなお話です。
よかったらこちらもご一読ください。

14/07/28 12:15 追記
☆感想スレ☆
http://mikle.jp/threadres/2121087/
よろしくお願いします

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No.2119335 14/07/23 13:36(スレ作成日時)

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No.151 14/08/19 14:17
小説大好き0 

その日は終業前に高ちゃんを俺がアパートへ送った。

翌日高ちゃんは再診の予定だったので、病院に行ってから出社すると言っていた。

俺は普段通り仕事をし、昼近くに事務所へ行くと、端末の前に高ちゃんがいた。

高ちゃんが不自由なく動けるようになるまでは、事務仕事をやってもらうと野本が言っていた。

「お、いたか」

そう声をかけると、高ちゃんは律儀に
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
と言った。

俺は高ちゃんの怪我が良くなるまで、俺と塚田で送迎をしてやってくれと社長から言われたことを高ちゃんに伝えた。

高ちゃんはしきりに恐縮していたが、杖をついて歩くには辛い距離なのもあって、「足首が動くようになったら、自分の車で通勤します」と言った。

昨日の今日のことなので、帰りは俺が送るつもりでいたが、仕事の予定が遅れたので塚田に頼んだ。

仕事が終わって帰宅してから、高ちゃんにメールをした。

>>塚田はちゃんと送ってくれた?

>>大丈夫ですよ。買い物にも寄らせてもらいました

>>まぁ、塚田なら安心だよね~

いろんな意味で、俺にとっては塚田は安心な男だ。

>>明日は俺が朝迎えに行くね

俺の通勤ルートから高ちゃんのアパートはそれほど回り道にはならない。

>>RAV4ですね。乗ってみたかったんですよ
そういえば、2ヶ月前に車を買い替えてから、まだ誰も乗せていないことに気が付いた。
高ちゃんが初めて乗せる人間になるのは嬉しかった。

>>今度ちゃんとドライブに連れてってあげるよ。運転してみたい?

>>してみたいです~。運転席の位置が高そうでいいなぁ

>>いいよ~運転してみてね~。でもジンベイザメが先だよね

>>はい。ジンベイは見たいです

怪我が良くなったら、どこへでも連れて行ってやると思った。

とんだアクシデントだったが、これで頻繁にメールする口実ができた。

俺が心配してメールをするので、高ちゃんも診察に行ったとか、痛みが治まってきたと知らせてくれるようになった。

No.152 14/08/19 19:01
小説大好き0 

メールの回数が増えたので、いろいろ話もし易くなった。

どこか遊びに行きたいが、高ちゃんの足がまだ完全に治っていないことを考えると、ドライブくらいがいいかとメールで誘ったら、高ちゃんから

>>連れてってくれるんですか?
と返信があった。

混雑するゴールデンウイークは避けて、連休明けの次の休みに河口湖へ行くことになった。

>>デートだね〜

と送ったら高ちゃんは

>>デートなんですか?

と返してきた。
オウム返しは高ちゃんが最近よく使う手だ。

>>それ以外になんて言うの?

高ちゃんがいつものように照れて困っているのが分かっていて、もっと困らせてみたくなる。

>>わかりません

>>じゃあデートしようね〜

メールだと言いたい放題言えるが、よく考えれば俺も30歳にもなって、デートもなにもないもんだと思う。

高ちゃんの気持ちは、少しは俺に近付いてきたのだろうか。

昔の俺は、自分から惚れた女になにも言えなかった。

高ちゃんが入社してからずっと、俺は高ちゃんを見てきた。

平凡な外見の下に隠されている賢さも、可愛らしさも、俺はよく知っている。

それを高ちゃんに伝えたい。

黙っていたら、なにも伝わらない。

好きだと伝えたら

高ちゃんはどんな言葉を俺に返してくるのか。

どんな顔をするのか。

困った顔はしないでくれ。

俺は柄にもなく、なにかに向けてそう祈った。

No.153 14/08/20 13:14
小説大好き0 

高ちゃんは怪我をして4日くらいで自分の車で通勤できるようになり、送迎は必要なくなって、4月の下旬になると自転車に乗って通勤できるようになっていた。

本人が野本に申し出て、作業場の手伝いもするようになった。

連休間近に「連休はなにしてんの?」とメールすると、
>>初日に専門の先輩と飲みに行きます。あとは多分実家行くか、お姉ちゃんのお供かです
と返ってきた。

>>俺とは遊んでくれないの?

>>遊んでくれるんですか?

とまたオウム返しだ。
返事に困るとそうするらしい。

結局連休後半に映画へ行くことになった。

ウチの会社は大企業のように大型連休にはならない。
カレンダー通りの出勤だ。
前半と後半の間に3日間平日があったのだが、どうも高ちゃんに元気がない。

塚田と下ちゃんのことでなにかあれば俺に相談がありそうなものだが、どうも違うような気がする。

端末の前に座っているときにため息をついてみたり、作業場でぼんやり遠くを見ていたり、なにかに悩んでいるような感じだった。

それでもメールをすれば、普段通りの反応だった。
からかえばオウム返しの返事がくるし、憎まれ口も返ってくる。

まぁ、聞いてみれば済む話だ。

連休後半に高ちゃんと新宿で待ち合わせて映画を観た。

映画が終わってからお茶を飲み、そのあとは飲みに行った。

高ちゃんが「魚食べたいです」とメールで言っていたので、魚と日本酒が美味い店へ連れて行った。

高ちゃんは何種類か料理を選び、嬉しそうに食べている。

いまの姿だけ見れば悩んでいるようには見えないが、それでも気になっていたので
「そういや、ここ何日かなに悩んでんの?」
と聞いた。

高ちゃんは「バレちゃった」みたいな顔をした。

No.154 14/08/20 15:19
小説大好き0 

高ちゃんは連休初日に会った専門学校時代の先輩から転職を誘われたことを俺に話してくれた。

俺は忘れていたが、高ちゃんの前職はデザイナーだった。
声がかかっているのは女性と子ども向けのデザインをする会社で、産休に入るデザイナーの補充と、新規部門の立ち上げ要員ということで、給料も雇用条件も悪くないらしい。

本音を言えば、真っ先に「それは困る」と思った。
この2年以上、会社で高ちゃんが働く姿を毎日見て、俺は高ちゃんに惚れた。
高ちゃんと付き合うことができなくても、同じ会社にいれば、俺は高ちゃんを助けてやることもできるし、いまのように2人で飯を食ったり酒を飲んだりする機会も多い。

いままで惚れた女はみんな、俺から離れていった。

遥はそもそも一箇所でじっとしていられるような女じゃなかったし、綾は言葉足らずな俺から離れていった。

一緒にいるのが当たり前だった女が急にいなくなるのは、ダメージが大きかった。

高ちゃんも、いまより俺と距離ができたら、俺から離れていってしまうのだろうかと、不安にはなる。

でも、心ならずも建築業界で働くことを諦めた俺は、やりたかった仕事に戻れるチャンスを高ちゃんには逃さないで欲しいと思う。

いまの仕事に飽きたから転職するわけじゃない。

高ちゃんが真面目に一生懸命生きているから、身近な人間がこうやってチャンスを運んできてくれるんだ。

引き止めるようなことは言いたくない。

会社から高ちゃんがいなくなっても、もうそんなことが原因で高ちゃんを失うつもりもない。

物理的に距離ができるなら、俺はその距離を埋めるだけだ。
もう昔と同じような失敗はしない。

だから俺は高ちゃんの背中を押すような言葉を言った。

高ちゃんは迷っているようだった。

「もうちょっと考えてみます」

そう言った高ちゃんは、少し寂しそうに見えた。

No.155 14/08/20 15:41
小説大好き0 

連休明け、会社で見る高ちゃんはいつもと変わらなかった。

悩んではいるのだろうが、俺が言ってやれることもないので、夜にメールをしても内容は仕事とも転職話とも関係ない雑談ばかりした。

会社の仕事量も少し落ち着いてきて、木曜には週末土曜も休めることが分かった。

俺は夜高ちゃんにメールを送ってドライブに誘った。
河口湖周辺へ行って、名物のほうとうを食べようという話だ。

>>河口湖に行くなら、おもちゃ博物館あるよ。鑑定団の人のやつ

>>面白そうですね、行きましょう。遊覧船とロープウェイにも乗りたいです

>>いいよ~、乗ろうね~

メールの文面を読む限り、高ちゃんは楽しそうだ。
少し遠出をすれば、高ちゃんも気分転換になるだろう。

長い時間一緒にいたら、また転職の話も出るかもしれない。

もし高ちゃんが転職を決心していたら、応援する言葉が自然にだせるだろうか。

さすがに女々しく引き止めたりはしないとは思うが、ちゃんと背中を押してやれるだろうか。

大丈夫だ。

無愛想で不器用な俺でも、惚れた女をドライブに誘えるようになったんだ。

そのくらい格好をつけることはできるだろう。

No.156 14/08/20 16:17
小説大好き0 

約束の土曜日、俺は約束した8時の10分前に、俺の最寄駅へ行った。

高ちゃんのアパートからの最寄り駅は、会社の人間、つまりパート連中も多く最寄駅になる。
パートのオバチャンたちは、会社のご近所の主婦がほとんどだからだ。

誰かに高ちゃんが俺の車に乗るところを見られて、面白おかしく噂されるのは、俺も高ちゃんも遠慮したいところなのは同じだったので、高ちゃんに俺の最寄り駅まで来てもらうことにした。

高ちゃんは8時5分前に駅の出口に現れた。

「おはようございまーす」

「おはよ」

高ちゃんはショルダーバッグ以外にもう一つバッグを提げていた。

「そのバッグ、なに?」と聞くと「おやつと飲み物です」と楽しそうに答えた。

「遠足だな」

Tシャツとカーゴパンツという服装と合わせて、デートというよりやっぱり遠足という雰囲気が高ちゃんらしかった。

一番近い首都高のICから入り、中央自動車道で河口湖へ向かった。
途中サービスエリアに寄ったが、河口湖へは予定通り2時間くらいで着いた。

富士山が近くに見えると、高ちゃんは「やっぱり富士山綺麗!」とはしゃいだ声で言った。

最初にメールで言っていたおもちゃの博物館へ行った。
あまり期待していなかったのだが、思ったより面白い展示物が多くて楽しめた。

そのあとでほうとうを食べ、高ちゃんが遊覧船に乗りたいと言うので、乗り場に向かった。

遊覧船でも高ちゃんははしゃいでいた。
俺は照れくさいから嫌だと言ったのに、高ちゃんは強引に近くにいた人に頼んで俺と一緒に写真を撮ってもらった。

遊覧船が船着場に戻ると、高ちゃんは船を下りるなりソフトクリームの看板を見つけて走って行ってしまった。

足はすっかり治ったのか、足の怪我を忘れるほどソフトクリームが好きなのか。

どっちにしろ高ちゃんは子どもみたいで可愛かった。

No.157 14/08/20 17:01
小説大好き0 

高ちゃんはソフトクリームを食べ終わると、
「次はロープウェイですね」
と張り切っている。

高ちゃんはロープウェイの中でも、山頂でも、楽しそうだった。

こんなに楽しんでくれるのが、俺も単純に嬉しかった。

前にも思った。

なんてこの女は欲がないんだろう。

どんな小さな厚意にも、最大限の感謝を返してくれる。

俺は、そんな高ちゃんになんでもしてやりたいと思う。

いつも真面目で一生懸命な高ちゃんが、なにかにつまずいたり、傷付いたりしないように、俺が守ってやりたいと思う。

俺の近くにいて欲しいとは思う。

でも、本当に「いい子」としか表現しようがない高ちゃんには、仕事も、この先の人生も、もっともっと欲張って欲しいと思う。

山頂にある展望台に上ると、高ちゃんは富士山を見ていた。
俺も並んでしばらく富士山を見ていたが、「転職どうするか、決めたのか?」と聞いた。

「…………まだ、決められません」

高ちゃんは前を向いたままそう言った。

「高ちゃんなら、どこに行っても大丈夫だ」

遥みたいに好きなようにスッ飛んで行けとは言わない。
でも、自分のやりたいことを、思うようにやってみろ。
それだけの力を高ちゃんは持っている。

すると高ちゃんは「寂しいんです」と言って下を向いた。

「高ちゃんがいなくなったら、会社のやつらも寂しがるけどな」

一番寂しいのは俺だ。
でも俺はそれでも高ちゃんから離れるつもりはない。
だから高ちゃんの背中を押してやる。

なんとなく空気が重くなった。
いつものようにからかうつもりで
「もしかして高ちゃん、俺と会えなくなるのが寂しいんじゃねぇの?」
と言った。

No.158 14/08/20 21:55
小説大好き0 

てっきり「寂しくないです」とでも憎まれ口が返ってくると思っていたのに、高ちゃんは下を向いたままなにも言わない。

俺はそんなに高ちゃんを困らせることを言ったのかと思っていたら、高ちゃんの足元になにか落ちた。

足元の木でできた床に、小さな黒っぽい染みができた。

……泣かしちまった?

なんで泣くんだ。

もしかして、本当にそう思ってくれているのか。

それは、高ちゃんの心が俺に向いていると思ってもいいということか。

………こんなときにまで、まだ俺は馬鹿だ

高ちゃんの気持ちが知りたいなら、どうすればいい。

俺の。

俺の気持ちを言葉にするのが、先だ。

高ちゃんの心が欲しいなら、俺が。

俺が自分の思いを言葉にしないでいてどうする。

いつも相手のことを気遣って、いつも一歩引いたような高ちゃんは、俺から本気で言葉を伝えなければ、本音を曝け出してなんかくれないだろう。

俺と会えなくなることが寂しいと言ってくれ。

そのために、俺はなんて言えばいい。

口下手な俺はどうすればいい。

言葉を伝えられれば、高ちゃんは俺に答えてくれるのか。

No.159 14/08/20 22:15
小説大好き0 

「わっ。高ちゃん、泣くなよ」

「だって………」

「女帝にギャンギャン怒られたって泣かないクセに………」

ここまできて俺は、こんなことしか言えない。

この口が役に立たないなら、いつもの手を使ってみればいい。

俺はポケットからスマホを取り出した。

何回かこいつを使って高ちゃんをからかった。

でも今日は違う。

高ちゃんに一番伝えたいことを、文字にして送信する。

間が空いて、高ちゃんのバッグでスマホが鳴る。

高ちゃんは不思議そうに一瞬俺を見てからスマホを取り出し、メールを開く。

メールは一行





>>泣くな。好きだ





そう送った。

俯いている高ちゃんの涙が落ちたのか、高ちゃんは指でスマホを拭い、またしばらくスマホを見つめているように見えた。

俺は麓の河口湖を見ながら、待った。

すると、俺のスマホが振動した。

俺が、ずっと欲しかった言葉が、スマホの画面に現れた。




>>大好きです





高ちゃんの返信も、一行だった。

No.160 14/08/21 10:12
小説大好き0 

「いい加減、分かってんだろうと思ってたんだけどな」

「分かりません」

「俺と仕事して2年以上経つだろ。性格とか分かってんだろ」

「怖くて偏屈なのは知ってます」

「そうだよ、その偏屈な俺だと、メールが精一杯だ」

「優しいのも知ってます」

「俺が優しくするのは高ちゃんだけだろ」

「ホントですか」

「前に言っただろう。安売りはしねえんだよ」

「私なんかでいいんですか」

「高ちゃんがいいんだよ」

「ホントですか」

「だから好きだって言っただろう」

「言ってないです。メールが来ただけです」

「今も言ったじゃねぇか」

「あ」

「ほらみろ。高ちゃんも言わないと不公平だな」

「不公平……」

「俺のこと好きか」

「………大好きです」

「……泣くなよ」

No.161 14/08/21 10:49
小説大好き0 

『大好きです』

高ちゃんの口からこの言葉が出たとき、背中がゾクゾクするような気がした。

欲しくてたまらなかったものを、やっと手に入れたガキのようだ。

だけど俺が手に入れたのは物じゃない。

高ちゃんの心だ。

いままでこんなに欲しいと思ったものはない。

こんなに大事にしたいと思ったものもない。

頭がおかしくなりそうだ。

好きだ。

好きだ。

俺は目の前で泣きながら俺に『大好きです』と言ってくれた高ちゃんが

好きでたまらない。

俺の。

初めて自分から欲しいと思って心を手に入れた女だ。

No.162 14/08/21 11:27
小説大好き0 

気が付いたら目の前の富士山も、麓に見える河口湖も赤く染まっていた。

高ちゃんを見ると、夕日に照らされた顔が笑っていた。

「そろそろ下りるか」と言って俺が高ちゃんの手を引くと、高ちゃんはその手を握り返してきた。

下りのロープウェイに他の乗客はいなかった。

「進藤さんは手なんか繋いでくれないと思ってました」

高ちゃんは俺を見上げてそう言った。

「なんで?」

「恥ずかしいって言いそうだから」

俺は高ちゃんが思っているほど硬派じゃない。
高ちゃん限定だが。

「高ちゃんは恥ずかしいの?」

「嬉しいです」

「俺も嬉しいよ」

そう言うと高ちゃんは照れたように笑った。

麓に着いて、湖の周りを歩きながら、俺は高ちゃんに「なんて呼ばれたい?」と聞いたが、高ちゃんは「?」という風に首を傾げた。

「名前」

「いまのままで構いませんけど」

「高ちゃん」と呼ぶのは会社だけでたくさんだ。

「俺はイヤだ」
と言うと、高ちゃんは「進藤さんが好きなように呼んでください」とおかしそうに言った。

「つぐみ」

俺がそう呼んだら、高ちゃんが「はい」と答えた。

「会社では『高ちゃん』だけど、俺と2人でいるときは、そう呼ぶから」

「はい」

返事は「はい」。
相変わらず固いなと、おかしくなるが、きっとしばらく敬語のままだろう。
それでも一応聞いてみる。

「つぐみは?」

「はい?」

「ずっと『進藤さん』なの?」

「…………ダメですか?」

「無理しなくていいよ」

思った通りだ。
だけど、俺はつぐみが「はい」と答えるのが、可愛いと思う。
『です』も『ます』も、しばらくは抜けないだろう。

その言葉遣いを聞くたびに嬉しくなってしまう俺は。

Sっ気があるのかもしれない。

そう思ってつい笑ってしまった。

No.163 14/08/21 11:58
小説大好き0 

ゆっくり歩きながら、高ちゃんが
「転職のことですけど」
と話を切り出した。

「うん?」

「転職自体が不安っていうのと………」

「俺の側にいたい?」
もう遠慮なくそう聞ける。

「いたいです」

つぐみの敬語は、どうしてこういじらしく聞こえるのか。

「俺もつぐみにはずっと側にいて欲しいよ。会社に行ってつぐみがいなかったら、やっぱり寂しいと思うさ」

「進藤さん」

「前に言っただろ?俺は大事なものは手元に置いておきたい性格なんだ。だから、つぐみが違う場所で働くことになったら、やっぱり心配なんだよ。怪我してるんじゃねぇか、誰かにいじめられてんじゃねぇか、地震がきてなんかの下敷きになってんじゃねぇか、どっかの男にちょっかい出されてんじゃねぇか、いろいろ考えるだろ」

俺はいままで言えなかったことをここぞとばかりに言い連ねた。
そうだ俺は心配で心配でたまらない。
俺の大事なつぐみが、俺の知らない世界へいくことも、俺の見ていないところでなにか起きるんじゃないかということも、心配でたまらないんだ。

つぐみはそんな俺の気も知らず、プッとふき出してクスクス笑っている。

「笑うなよ」

「だって、最後の心配は無駄ですよ」

「俺みたいにつぐみのいいとこに気付く男がいるかもしれねぇだろ。困るんだよ、そういうの」

つぐみは自分のことを分かっていない。
人目を惹くような容姿じゃなくても、いつも出しゃばらずに目立たずにいても、なにかのきっかけで俺みたいにつぐみの可愛さは簡単に気付くことができるんだ。

「本当はこのまま連れて帰って、俺んとこにずっと置いておきたいんだよ。でもそれじゃ恐竜のフィギュアと一緒だろ。つぐみは、自分で考えて判断して働いて、それができる賢い女なんだ。転職だって悪いことじゃない。だからつぐみが決めたら、それでいい。四六時中一緒にいることだけが、付き合ってるってことじゃないだろう?」

No.164 14/08/21 13:11
小説大好き0 

つぐみに言った言葉は、半分は俺が自分に言い聞かせていたようなものだ。

本当はどこにもやらずに俺のそばにいさせたい。

でも、それじゃ昔と同じ馬鹿な俺のままだ。

つぐみを縛り付けるような真似だけはしたくない。
それでも俺は、つぐみと一緒にいたいんだ。

そのためには、つぐみに俺が考えていることを、ちゃんと伝えなくちゃいけないんだ。

帰りの車に乗ったときに、つぐみの手を探したら、それに気付いたつぐみから手を取ってくれた。

そんなことでは相変わらず俺は口下手だ。
それでもつぐみはずっと俺の手を握ってくれていた。

途中で晩飯を食べてから、つぐみのアパートまで送っていった。
つぐみは朝待ち合わせた駅前でいいと言ったのだが、気持ちを伝えたいま、もうつぐみを途中から1人で帰すような真似はしたくなかった。

「次の遠出はジンベイザメだな」

俺は前からの約束を思い出してそう言った。

「はい。とりあえずまた月曜に」

帰り道、つぐみは明日の日曜に実家へ転職の相談へ行くと言っていた。

「おやすみ」

「ありがとうございました。おやすみなさい」

つぐみはそう言って俺の手を離すと、車から降りた。
俺の車を見送るつもりなのか、動こうとしないので、俺は目で自分の部屋へ行くようにつぐみを促した。

つぐみは階段を上り、自分の部屋のドアを開けると、俺に小さく手を振ってからドアの中へ消えた。

ドアが閉まるのを見てから、俺は車を出した。

本当はつぐみを降ろさずに俺のアパートへ連れて帰りたかった。

でもそんなガッついたことをつぐみにはしたくない。

よく我慢したなと、俺は自分を褒めてやりたくなった。

No.165 14/08/21 14:42
小説大好き0 

よく考えたら、俺はまともに女と付き合うのは10年振りだった。
その間には翔子もいたにはいたが、翔子は半分セフレ、半分友達みたいな関係で、彼女と呼べる存在ではなかった。

その前が綾ということになるが、手酷く失恋したことでも分かるように、俺はろくに綾を大事に扱っていなかった。
若かったこともあるが、綾がいつも先回りするように甲斐甲斐しく俺の世話してくれていたから、俺が綾を気遣うということ自体少なかった。

そんな俺に久し振りにできた彼女がつぐみだ。
しかも初めて自分から惚れて、距離を縮めて、やっと気持ちが伝わった女だ。

俺ってこんな男だったのかと、自分で思うようなことばかりだ。

つぐみが俺以外の誰かと喋っているだけで気に入らない。男なんてもってのほかだ。
暗くなってから帰る姿を見たら、無事に着いたのか心配だし、なにかにつまづいたところを見たら怪我をしたんじゃないかと思い、くしゃみをしていたら風邪をひいたのかと思う。

視界にはいらないことまで心配はしないのだが、会社にいればどうしてもつぐみばかりが気になる。

束縛しようとは思わないし、つぐみも呆れながら笑っているようなので、まぁいいかと思うことにした。

幸い俺は、仕事を始めたら、ちゃんとスイッチを切り替えることができた。

塚田や新人の水谷に口を酸っぱくして事故やミスに気をつけろと言っているが、余計なことを考えずに仕事に集中しないと、とんでもない事態を引き起こすことはよく分かっている。
つぐみと付き合い始めたせいで仕事に影響が出るようなことは、自分でも許せない。

だから会社にいる間は基本的に以前の俺と変わらないと自分でも思う。
元々口数は少なくて無愛想な俺のままでいるのは簡単だ。

それでもちょっとした隙に人目がなければ、つぐみに声もかけたりする。
その一瞬に見せるつぐみの顔が可愛いと思う。

そのつぐみは転職を決めた。

誘ってくれた先輩を通して面接などの手続きをクリアし、9月から新しい会社で働くことが本決まりになった。

俺はその間もたまに会って話を聞いていて、ウチの会社へは7月の中頃に言えばいいんじゃないかとつぐみと話した。
本当なら1ヶ月前の8月最初でいいのだが、間に盆休みもあるし、少し早めの方がスムーズに事が運びそうに思えた。

No.166 14/08/21 17:13
小説大好き0 

6月の下旬ごろ、俺が昼休みにハイエースで寝ていたら、野本がきて「進藤さん、ちょっといい?」と声をかけてきた。
わざわざ会社の外にいる俺のところまでくるのだから、あまり他の人間に聞かれたくない話のようだ。

「なに?」

俺は起き上がってタバコに火をつけた。

「下ちゃん、来週から休むから」

「へぇ、どうしたの」

「入院するんだって」

「ふーん」

野本は用件が済むと事務所に戻っていった。

多分つぐみはこのことをもう知っているだろう。
下ちゃんとは不倫の件もあって親密といえる付き合いだし、下ちゃんにしてもつぐみは信頼できる同僚だろうから、つぐみに黙って休職することはなさそうだ。
つぐみは病気という個人的な話を、俺にでもペラペラと話すような人間ではない。

塚田は知っているんだろうか。

塚田の立場では、見舞いすら行きにくいだろう。

入院が必要なほどの病気。

今日も下ちゃんは普段通りに仕事をしていた。
傍目には病的なところはなにも感じられない。

最近の塚田はどうだ。
そういえば、多少元気がないような気がしないでもない。

あらためて不倫という関係の危うさを感じているのか。

相手が病気になろうと、公には同僚という立場を超えたことはなにもできない関係。

それを塚田は思い知らされているんだろうか。

やっぱりそんなのは、俺には無理だ。

つぐみがくしゃみひとつしただけで心配になるような俺には無理だ。

塚田。
お前はいまそれでも幸せなのか。

それでも愛せる女がいるのは、やっぱり幸せなのか。

No.167 14/08/21 17:35
小説大好き0 

下ちゃんは休職し、パート連中には体調不良でしばらく休職すると伝えられた。
リーダーの代理はナカちゃんが務めることになった。
主だった社員にはとりあえず入院することだけが伝えられた。

7月に入り、つぐみは下ちゃんの見舞いへ行くと言った。
下ちゃんと親しい何人かも、個人的に見舞いへ行っているようだ。

見舞いへ行く日、つぐみは6時に上がり、俺へ「いってきます」とメールを送ってきた。

8時前に俺の仕事が終わり、つぐみに「いまどこにいるの?」とメールを入れた。
まだ病院にいるならすぐに返信は来ないだろうと思い、俺は会社の近くのブックオフへ寄った。

何冊か文庫本を選んでレジへ向かうと、つぐみから病院を出たとメールが来た。

下ちゃんが入院しているのは会社の最寄駅から2駅先にある大学病院だが、ブックオフからは車なら5分くらいで行ける。

俺はつぐみに電話をかけ、病院の前で待っているように伝えた。

会計を済ませてすぐに病院へ向かい、病院の敷地に入ると、つぐみが玄関横のベンチに座って待っているのが見えた。

つぐみを乗せて車を出したが、腹が減っていたのですぐ近くのファミレスで晩飯を食べることにした。

俺は頼んだハンバーグのセットがくると、10分もかからずに平らげた。

ゆっくりパスタを食べているつぐみに、「下ちゃんどうしてた?」と聞いた。

「んー、まぁまだ手術前だし、普通に元気そうでした」

下ちゃんの休職が俺にも知らされたあとで、つぐみから下ちゃんは手術の予定で入院したことだけは聞いていた。

食事中ということもあって、俺は「そうか」とだけ言って、とりあえず下ちゃんの話はそこで一旦終わった。

でも、どうもつぐみに元気がない。

食事が終わったら、話を聞こうと思った。

No.168 14/08/21 19:59
小説大好き0 

食事を済ませて車に乗り、走り出すと、つぐみが
「あのね、下川さん、塚田さんと別れるつもりなのかもしれない」
と言った。

つぐみの口調から、ちょっと込み入った話になりそうだと思い、俺は国道沿いにある公営の大きな公園に車を入れた。
公園はとっくに閉園しているので人目につかないし、少しくらいなら車を停めて話していても大丈夫だ。

つぐみは下ちゃんと会って聞いたことを話し始めた。

下ちゃんの旦那は、子どもが生まれたころに、もう既婚者だった昔の彼女と連絡を取り、付き合い始めた。
気の小さい旦那は罪悪感から下ちゃんを避けるようになった。
子どもが小学生になったころ、旦那はその女とは終わったが、下ちゃんはもう旦那に見切りをつけていて、働き始めた。

そして下ちゃんは数年後に塚田と付き合い始め、旦那とはそのまま仮面夫婦という状態が続いていた。

その旦那が、下ちゃんが病気になったことを知って、やり直したいと言い出した。

手術が必要になるような病気と直面して、旦那は下ちゃんを失いたくないと言ったそうだ。

旦那は下ちゃんの前で泣いたらしいが、当然下ちゃんはなんとも思わなかった。

ただ、旦那から「こうなったのは、なにもかも、自分が悪いのだ」と言われた下ちゃんは、旦那が自分の不倫に気づいていることを悟った。

旦那は全て承知の上で、それでも下ちゃんともう一度夫婦としてやり直そうとしている。

下ちゃんはそれで気持ちが激変したわけでもないが、とりあえず病気を治してから考えたいと言った。

以前も下ちゃんはつぐみに、塚田とは別れたほうがいいのは分かっていると言っていた。

下ちゃんからそんな話を聞かされたつぐみには、下ちゃんが塚田と別れることを考え始めてあるように見えたそうだ。

No.169 14/08/21 21:26
小説大好き0 

「まぁ、当事者次第だな。塚田がなんて言うか、俺には分からねぇし」

「うん」

「なんでつぐみが落ち込んでんだ?」

つぐみが下ちゃんを慕っているのは分かるが、落ち込むことはないと思う。

「なんか、悲しくなっちゃって」

「悲しい?」

「うん。不倫って悲しいなって。下川さんも、下川さんのダンナさんも、塚田さんも、どこで歯車が狂ったのかなって。いけないことだって解ってるのに、どうしてこんなことになるんだろうって」

俺は窓を開けてタバコに火をつけた。

「みんな、弱いからな。強くて正しくいられりゃ、そんなアホな真似はしねぇんだろうけど、誰だって弱いとこがあるからな。道を踏み外すこともある」

「進藤さんも?」

「弱いよ」

つぐみには言わないだけだ。

惚れた女も大事にできずに失った寂しさを、都合良く慰めてくれた翔子と、俺は何年いい加減な付き合いを続けていたか。

塚田も下ちゃんも、下ちゃんの旦那も、不倫なんかして馬鹿だと思うが、それでもどうしようもなく誰かに惚れてしまう気持も、寂しさを埋めたくなる気持も、分からないわけではない。

人間は弱いからだ。

だから俺は塚田や下ちゃんを馬鹿だとは思っても、軽蔑まではできないんだ。

「進藤さんが弱いなら、私はもっと弱いじゃないですか」

つぐみはそう言って下を向いた。

「つぐみはそんなに弱くないよ」

No.170 14/08/21 23:57
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つぐみはどんなときでも、周りのことをよく考えて、自分のするべきことを考えられる女だ。

自分よりまず他人。
そんな考え方で動くことができる女だ。
その優しさや慎重さ、賢さが、要領良くはできなくても、確実に周囲からの信頼を得て、目立たなくても周囲の人間から愛される。

そんなつぐみは、弱くなんかない。

でもつぐみは自分ではそのことを全く自覚していない。

「……怖いんです。私はずっと、なんの取り柄もないと思って生きてきました。恋愛だって、ろくにできませんでした。進藤さんは私を賢いって言ってくれるけど、自信なんかないんです。下川さんみたいな人だって道を誤るのに、私なんか、進藤さんに好きだって言ってもらってもいまだに信じられないくらい自信がなくて、いつ嫌われちゃうかって怖いんです」

「『私なんか』って言うな」

つぐみは俺が惚れた女だ。
そんな言い方は、本人だって許さない。

「俺はつぐみがいいんだって、何回言えばわかるんだよ。『私なんか』って言葉は、俺に失礼だと思わないのか」

「……ごめんなさい」

謝らなくてもいい。
俺の言葉を聞いてくれ。

「つぐみがわからないなら、何回でも言うさ。俺は一見無害なだけに見えて、そのくせ賢くて、誰からも可愛がられて、不器用でも真面目に仕事してて、俺のことを好きだって言ってるつぐみが好きなんだ。つぐみは知らねぇだろ。こうやって車に乗せて、どっかで降ろすとき、いつもそのまま連れて帰りたいと思ってんだよ」

No.171 14/08/22 00:12
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「……ごめんなさい」

つぐみが泣いている。
泣くな。
泣かなくていいんだ。

「先のことは誰にも分からねぇよ。ただ、俺はつぐみが好きだし、ずっと一緒にいたいと思ってるんだ。他の女なんかいらねぇよ。かわいくて仕方ないと思ってた女をやっと手に入れたんだからな」

「……ごめんなさい」

「……ごめんなさい、じゃねぇだろ」

「なんて言えばいいんですか」

つぐみは泣いている。
泣くなと思いながら、もっとこんな顔を見たいと思っている俺がいる。

つぐみは可愛い。
こんなことで悩むつぐみが、俺は好きだ。

俺はタバコを携帯灰皿に放り込むと、つぐみの涙を手で拭った。
つぐみの目が、涙で濡れている。

「泣くなよ」

我慢できずにそのままつぐみの顔を引き寄せた。

「泣かないで、こないだみたいに『大好きです』って言ってくれよ」

「………大好きです」

こんな顔でこんな言葉を、乞われるままに素直に言う女を前にして、なにもしないでいられるような男がいるのか。

俺はダメだ。
そんな冷静な男にはなれない。

「つぐみ」

俺はそのまま「好きだ」と言いながら、つぐみにキスをした。

どれだけ俺がお前を好きなのか、分かってくれ。

そう思いながら、ただ唇を重ねるだけのキスをした。

No.172 14/08/22 10:52
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唇を離してそのまま抱きしめると、つぐみの髪から微かにいい匂いがした。

思わず理性が飛びそうになって、もう一度キスしたくなったところで、俺は思い止まった。

やっちまった。

そう思って「あーーーー、ダメだダメだ」と言いながらハンドルを叩くように握った。

つぐみは目を丸くして
「………どうしたんですか?」
と言った。

「理性がもたない」

俺がそう言うとつぐみは「え」と言って真っ赤になった。

「つぐみが退職するまでは手を出さないって決めてたんだよ。ケジメがつかねぇからな。俺、Sっ気あるんだな~。泣き顔には弱いんだよな。チクショー、油断した」

つぐみが退職するのは8月の終わりだ。

つぐみにこれ以上なにかをしたら、俺は会社で今まで通り仕事をする自信がない。

ケジメがつかないのは困る。

「よし、帰るぞ」

俺はエンジンをかけて車を出した。

あんな人気のないところにいるからダメなんだ。
とっととつぐみをアパートに送り届けないと、本当にこのまま連れ帰ってしまいそうだ。

無理に仕事中のような顔を作る。
それでもつぐみの手を握ると、つぐみは笑ってくれた。

「今日はちょっとフライングしちゃったけどな。続きはつぐみが退職してからだ」

つぐみのアパートに着いて、俺がそう言うと、つぐみは
「続き………」
と呟いて、ちょっとポカンとした。

「覚悟して楽しみにしとけ」

つぐみが部屋に入るのを見届けてから、俺は車を出した。

窓を開けているのに、まだつぐみの残り香があるような気がした。

消えてしまうのが名残惜しかった。

No.173 14/08/22 11:45
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7月の中旬、俺が事務所にいると、野本が入ってきた。

「あ、進藤さん」

「うす」

この女は苦手だが、今日はちょっとションボリしているのが分かる。

「進藤さん、高ちゃんが辞めることになったのよ」

「高ちゃんが?」

もちろん知っている。
昨日今日辺りで社長と野本に退職希望を伝えるということも知っている。

「なんかさ、転職するんだって。ウチの会社がイヤとかじゃなくて、前やってた仕事に親御さんの関係で紹介されたみたいなのよ。社長も私も引き止めはしたんだけど、本人にとって良い話だから、って社長も応援して送り出してあげようって」

「へぇ」

俺のように普段口数が少ないと、こういうときに便利だ。
相手は勝手に喋ってくれる。特に女は。

「せっかく最近しっかりしてきたと思ってたのになぁ。これからもっと責任持っていろいろやってもらうつもりだったのよ」

ヒステリー起こしてばかりの割りに、野本は案外人の使い方が上手い。
つぐみは野本にとっては、使いやすい部下だったろう。

「大変だね」

「本当よ。ウチみたいな会社だと、なかなか若い子が居ついてくれないのよね。また求人かけるけど、いい人こないかなぁ」

「どうかな」

つぐみみたいなタイプは、その辺にゴロゴロいそうで、実はいないだろう。

そうか。
これでつぐみが本当に会社からいなくなることが決まったんだな。

つぐみがやっていた雑用や細かい仕事は、しばらくは野本や他のヤツがやるようになるのか。
やりにくくなるといえば、そうかもしれない。

そして単純に俺はつぐみと一緒にいる時間が少なくなる。

それでも、会社ではただの先輩と後輩の関係でいなくちゃいけないことを思えば、つぐみが転職した方がなにかと都合はいいのだ。

No.174 14/08/22 12:51
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つぐみの退職日は8月の末日と決まったが、つぐみは有休がたくさん残っている。

野本から消化するように勧められたつぐみは、仕事が暇な日を選んでときどき休みをとるようになった。

>>明日、下川さんとランチに行きます

7月の下旬、つぐみからメールでそう報告された。

下ちゃんは7月の上旬、手術が無事に済んで、半ばに退院したそうだ。

つぐみは下ちゃんのことが心配で仕方ないようだ。

病後の経過は良いようだが、それよりもつぐみは塚田とのことが気になるらしい。

つぐみの性格もあるのだろうが、やはりつぐみにとって下ちゃんは会社の中では特別な存在のようだ。

ちょっと妬けるが、まぁ仕方がない。

塚田といえば、ここ最近やはり落ち込んでいるようだ。

あの様子では、つぐみの言う通り、あの2人はもう終わりなのかもしれない。

常識的に考えれば、隠れて何年も不倫を続けるより、綺麗に別れたほうがいいに決まっている。

それでも塚田が本気で下ちゃんに惚れていたのなら。

大事な女を失う辛さなら、俺も知っている。

だけど俺は同情などしない。

それが塚田の選んだ道だ。

No.175 14/08/22 13:07
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>>仕事が終わったよ

6時過ぎにつぐみへメールを送ると、つぐみから
>>お疲れ様でした
と返信がきた。

今日は早く終わったので飲みに誘った。

車は駅近くのコインパーキングに停めた。
飲みに行った帰りは、つぐみをアパートまで送ってから駅に戻り、電車を使うのだが、つぐみはいつもそれを気にする。
俺が疲れてるだろう、帰りが遅くなると寝るのが遅くなるだろう、そう言う。
つぐみが1人で夜道を歩くくらいなら、俺の睡眠時間などいくら減っても構わないのだが、つぐみは「私は飲まなくてもいいですから、運転しましょうか?」などと言う。
そうすると俺のアパートまでつぐみが運転してきて、結局1人で帰すことになる。
それでは意味がない。

いや、もしそんなことをしたら、つぐみを帰せなくなると思う。

つぐみに宣言した通り、いまはつぐみに手は出さない。

もちろん、つぐみのアパートにも行かない。

駅前のコーヒーショップで待っていると、つぐみが自転車で来た。

店に入ってきたつぐみは、軽く息が上がっている。
多分、全力で自転車を漕いできたのだろう。
それでいてニコニコしている。

可愛いと思うと、つい頭のひとつも撫でてやりたくなる。

こういうところが、下ちゃんやつぐみから「おとーさんみたい」と言われてしまう原因なのか。

可愛いものは可愛いのだから、仕方ない。

つぐみの頭をひと撫でしてから、居酒屋へ移動した。

No.176 14/08/22 14:55
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居酒屋で飲み物と料理が揃うと、つぐみは今日下ちゃんと会って聞いたことを話し始めた。

下ちゃんの旦那はいままでの仮面夫婦状態が嘘だったかのように、入院中の下ちゃんの元に頻繁に通ってきた。

やり直すとかそういう話はしなかったが、手術の日も、退院の日も、ずっと下ちゃんに付き添っていた。

それで下ちゃんの心が動いたわけではない。

ただ、今回のように入院などという事態が起きたときに、塚田は決して表に出てこないことを、下ちゃんは思い知った。

お互いが病気になろうが怪我をしようが、不慮の死を遂げようが、不倫という関係でいる以上、同僚という域は決して超えられない。

下ちゃんは、自分の病気と手術ということを、塚田と別れるきっかけにしようと思った。
俺は病名こそ知らないが、決して軽くはなかった病気が、下ちゃんの意思に影響したようだ。

下ちゃんは、塚田と隠れて付き合うことに限界を感じていた。
そこへ病気と、旦那がやり直そうと言い出したこと、それで下ちゃんはいままでのように塚田と付き合う気力を失った。

下ちゃんはもう会社には復帰しないつもりらしい。
休職したまま会社を去り、塚田の前からもそのまま消える。

下ちゃんは自分のことを卑怯だと言ったそうだ。
逃げ出すのだと。

それが卑怯なことでも、その方がいいんじゃないかと。

それでも下ちゃんはつぐみに「本当に塚田さんのこと、好きなんですね」と聞かれ、

「死ぬまで好き」

と言ったそうだ。

本当は塚田と幸せになりたかったと。

No.177 14/08/22 15:13
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「それが一番いいんだよな。きっかけがないと、別れられねぇんだろうから」
そもそも不倫という間違ったスタートなら、別れることが正解なのは間違いない。

「塚田さん、大丈夫かなぁ」
つぐみは梅酒のロックが入ったグラスを弄びながら、ため息をついた。

「大丈夫じゃねぇだろ。そんでもいつかそうなるかもしれねぇのも分かってたんだろうから、そうなっても塚田は自分でケリつけるしかねぇしな」

「そうですね」

「まぁヤツは暴力沙汰にするような人間じゃねぇし、ストーカーにもならねぇだろ。そんな精神なら、とっくになんかやらかしてるんじゃねぇかな」
いろんな意味で、塚田も普通の男だ。
根は真面目だし、常識もある。
ただ、恋愛に関しては、不倫という最大の自己中心的な行為に走った。
それになんの罪悪感も持たないような男でもなかったということか。

「でも辛いだろうな」

「それがヤツらが選んだ道だからな。俺には無理だ」
手順を間違えた恋愛をすれば、清算したあとの辛さも、普通の恋愛とは違う辛さが増えるのは当たり前かもしれない。

「私も無理です」

「俺は欲張りだからな。俺だけのものじゃねぇとダメなんだ」

俺がそう言うと、つぐみはそっぽを向いた。
照れているようだ。

「塚田さん、最近どうですか?私はあんまりお話しないんで、あまり分からないんですけど」

「んー?下ちゃんが休職してからはやっぱりしょげてるよな。普通に仕事してるけど、ボンヤリしてたりすることが多い」

「下川さん、連絡もしてないみたいだから」

「誰かに相談できる話でもねぇからな」
下ちゃんは塚田との別れを考え始めたころには、もう連絡を絶ったのだろう。
塚田は、下ちゃん本人はもとより、他の誰にも下ちゃんの真意を聞くことはできない。

1人で下ちゃんからの連絡を待つしかない中、きっと塚田も頭のどこかで下ちゃんとの関係が終わることを予感しているんだろう。

それが、不倫なんだ。

「同情しても仕方ねぇよ」

こうなるかもしれないと思いながら、ヤツらは付き合っていた。

2人ともお互いのために全てを犠牲にすることができなかったのだから

こうなっても文句は言えないんだ。

No.178 14/08/22 18:53
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下ちゃんはつぐみに言った通り、会社を辞めた。
会社の他の人間は、病気が原因としか思っていないから、下ちゃんの退職を残念がる声はあっても、退職理由を詮索する人間はいなかった。

野本は、つぐみが退職する上に、リーダーだった下ちゃんまで退職することになり、ため息をついていた。

下ちゃんの後任は休職中も代理を務めていたナカちゃんにそのまま決まり、業務自体にそれほど支障はなかった。

下ちゃんは、塚田が配送に出ている時間を見計らったように、退職の挨拶に来た。

貸与物の返却や、給料関係の手続きを終え、挨拶を終えた下ちゃんが会社の外に出たとき、俺はちょうど積み込み作業を終えたところだった。

「進藤さん」

下ちゃんがフォークリフトが停止したのを見計らって声をかけてきた。

「下ちゃん、辞めるんだな」

俺がそう言うと、下ちゃんは「うん」と思いの外清々しい顔で笑った。

俺が倉庫の横に積んだパレットに腰掛けてタバコに火をつけると、下ちゃんも並んで座った。

「進藤さんにはいろいろ迷惑かけちゃったね」

「別に迷惑なことはなかったさ」

「そう?」

「ああ」

俺はなにもしていない。
ただ、余計なことは言わなかっただけだ。

「高ちゃんから聞いたかもしれないけど、もう、やめたから」

近くに人はいないが、固有名詞を伏せた言葉は、塚田のことだとわかる。

「もう終わったのか?」

「まだ、これから。今日で正式に退職したから、今夜にでもメールするつもり」

No.179 14/08/23 11:57
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「もう会わないんだ」

「うん、会わない」

「そうか」

下ちゃんは本当に決心したんだな。

塚田は。
塚田は、思い切ることができるんだろうか。

綾が去ったときの俺のように、なにも言わずに別れを受け入れるんだろうか。

俺は後悔ばかりだった。

塚田は。
後悔はないんだろうか。

それとも後悔するくらいなら、最初から道を踏み外したりはしないんだろうか。

「進藤さん」

「うん?」

「大事にしてあげてね」

下ちゃんは俺とつぐみのことを知ってるんだな。
つぐみは自分から余計なことはなにも言わないだろうが、下ちゃんなら気付いてしまうのかもしれない。
なにしろ、俺とつぐみよりもバレてはいけない塚田との関係を、社内で3年近く続けているんだから。

「当たり前だ」

「そうかぁ」

下ちゃんは母親みたいな雰囲気で笑った。

「あの人も」

会社では名前さえ気安く口にできない相手。

「今度こそ、幸せになって欲しいな」

下ちゃんが思う塚田の幸せは、塚田の望む幸せとは違ってしまった。

下ちゃんは、塚田との幸せな未来を望みながら、諦めた。

正解なんて、ないだろう。

下ちゃんと塚田が別れても、それが不幸だとも言い切れないだろう。

下ちゃんが覚悟したなら、塚田はそれを塚田なりに受け止めて、違う道を行くしかない。

「またそのうち、一緒に飲みに行こう」

「そうだな」

でもその席に塚田が来ることはないんだろう。

No.180 14/08/23 12:59
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その2日後、つぐみから下ちゃんが塚田と別れたことを聞いた。

つぐみは塚田を心配している。

下ちゃんはきっかけがあったから俺とつぐみに塚田とのことを告白した。
発覚するリスクは増えたが、ある意味ホッとした面もあっただろう。
ましてや下ちゃんはつぐみにはいろいろと話していたから、一人で悩むという重圧も少しは軽くなっていたはずだ。

でも塚田はそのことを知らない。

もしかしたら会社とはまったく関係のない人間には打ち明けているのかもしれないが、塚田の慎重な性格を考えると、それもないような気がする。

それでも塚田は表面上はいつもと変わらない。

それはそうだ。
下ちゃんが退職して間もない時期に、目に見えて落ち込んだりしたら、関連づけて考える人間がいないとも限らない。

もう終わってしまった今なら、本当は俺から話してもいいのだとは思う。

でも、塚田はいままでも、そしていまも、1人で耐えている。

俺が話してやれば塚田が背負っている苦しみは多少軽くなるかもしれないが、根本的にはなにも変わらない。

塚田が惚れた女を、もう取り戻すことができないのは変わらないのだから。

それでも、塚田を何度か飲みに誘ったが、塚田はなんやかや理由をつけて断った。

しばらくは放っておくしかないのだろうと思った。

No.181 14/08/23 18:05
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「やっと会えたぁ」

会社は夏期休業にはいり、ずっと前から延び延びになっていた八景島シーパラダイスにきた。

つぐみの目当てはやっぱりジンベイザメで、他の水槽は全部後回しになった。

「でけぇなぁ」

つぐみも俺も、ジンベイザメを見るのは初めてだった。

「つぐみが最初『ジンベイザメを見に行きたい』って言ったとき、大胆なこと言うと思ったんだよな」

「大胆?どうして」

「沖縄の美ら海だと思ったからだよ」

「どうしてそれが大胆なんです?」

「俺と沖縄に行きたいって言ってんのかと思ったからだよ」

「………。あ」

「照れるなよ」

本当につぐみは素直というか、純情というか、やっぱり可愛い。

「もうすぐつぐみは会社にいなくなるんだな」

「寂しいですか?」

「寂しいよ。でも、違う楽しみが待ってるからな」

つぐみが近くにいなくなるのは寂しいが、つぐみが退職したら、会社での芝居が必要なくなる。
会うときはいつも俺だけのつぐみだ。
そのためにいまは手を出さずにいるんだ。

「何年待ったと思ってんだよ」

「え?」

「3年近く待ったんだ。つぐみが入社して、餌付けして、やっとここまできたんじゃねぇか」

「餌付けって、野生動物ですか、私は」
と憎まれ口をきいたつぐみが、俺を見上げた。

「3年近くって………」

「悪いか。つぐみは見るからに奥手そうだからな。ちょっとずつ手なづけてやろうと」

「そんなに前から……?」

「そうだよ。言っただろ。つぐみが賢いって気付いたって」

思えばつぐみが入社してすぐ、つぐみに興味をもって、ずっとつぐみを見てきた。

No.182 14/08/23 19:37
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「……まさかつぐみ、俺が散々メシだの酒だの奢ってやって、仕事でフォローしてやったりしたの、全部単なる親切だと思ってたのか?」

「思ってました」

確かに俺は無愛想だし口下手だし、初めてデートに誘ったのも初詣だったから、俺がつぐみに惚れてると分かってもらえなくても仕方ないが。

それでも自分は他の人間より特別扱いされてるということくらい、少しは感じているかと思ってたんだが。

「社内だから失敗して面倒なことにならねぇように、いろいろ考えてきたのに….…。もしかして全部無駄な努力だったのか」

「無駄じゃないですよ。最初はクチも聞けないくらい怖かったのに、『怖そうだけどいい人だなー』って思うようになってましたから」

……進展が遅すぎだろう。

「ついこないだまでそんな感じだったのか?」

「……?はい、そうでしたけど。まさか進藤さんが私のこと好きになってくれるなんて思ってなかったんで」

つぐみの性格が自惚れとは一番遠いところにあるのは分かってはいたが。

「鈍すぎだろ」

「……でも今は、大好きですけど」

照れて最後は尻すぼみになっても、俺の欲しい言葉を言ってくれる。

「そんなこと言ってると、帰りに俺んちに連れ込むぞ」

「ケジメがつかないんじゃないんですか?」

「ホントにつぐみ、生意気なこと言うようになったな」

なにも計算していないくせに、俺のツボを外さない。

俺が惚れた女は、本当に可愛くて、賢い。

No.183 14/08/24 09:03
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夏期休業が終わり、会社ではつぐみの退職の話が社員以外のパート連中にも広がってきた。

つぐみはいろんな人間から「辞めちゃうんだって?」と声がかかり、みんな残念がっているようだった。

社長の声掛けで、つぐみの送別会が開かれる。
つぐみは8月最後の一週間は有休消化に当てることになり、最後の出勤日になる土曜日が送別会と決まった。
送別会にはパートの中のリーダークラスの人間までが来るのだが、野本と幹事をやるナカちゃんが下ちゃんにも声をかけたが、やはり下ちゃんは来ないとのことだった。

休業明けで会社はそこそこ忙しいが、俺は塚田の様子が気になった。

一応普通に仕事をしていて、普段通りに振舞ってはいるが、俺から見ても塚田は痩せた。

ナカちゃんもそれには気付いて「塚ちゃん、痩せたねぇ」と塚田に言ったら、塚田は「夏バテかなぁ」と笑っていた。

あまり食わずに酒を飲む。
眠れずに酒を飲む。

そんなことが昔の俺にもあった。

考えても仕方ないことを繰り返し考え
悔やんでも仕方ないことを悔やみ
自分の内で持て余すような衝動を宥め

どうにもならないまま、機械的に毎日の生活を送る。

きっといまの塚田は、綾が去ったときの俺と同じように、そうやって一日一日を、不味い物を無理矢理飲み込むようにして過ごしているのだろう。

No.184 14/08/24 09:36
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塚田はミスが増えた。

積荷を間違えかけたり、伝票を付け忘れたり、倉庫内での段取りがおかしかったり、そんな小さなミスなら、俺の管理範囲内で食い止めることができる。

それでも塚田は他の失敗もやらかした。

フォークリフトの操作をミスして出荷待ちの段ボールを傷付け、この間は会社の敷地内でハイエースをぶつけて凹ませてしまった。

塚田の集中力が目に見えて落ちている。
塚田はもともと慎重で、車の運転もフォークリフトの操作もそこそこ上手い男だから、そんな失敗は滅多にやらない。

その程度の失敗ならまだどうにでもなるが、いつかの水谷のように社内で怪我人を出したり、最悪の場合、会社の外で事故を起こすようなことになったら、塚田自身はもとより、会社にとってもとんでもないことになりかねない。

幸い、新人の水谷が最近仕事に慣れてきて、少しずつ外に出る仕事も増やしてきたところなので、俺や他のベテラン社員と一緒に水谷をいろいろ動かすようにして、塚田を外に出す機会を減らした。

ハイエースを凹ましたことは隠しようがないが、とりあえず塚田の他のミス自体は目立たなくなった。

上の人間は俺のそんな考えにも、塚田の変化にも気付いていないようだが、塚田自身は俺が敢えて塚田の業務内容を変えたことに気付いたようだった。

No.185 14/08/24 11:12
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塚田が俺になにか言いたそうにしているのは分かったが、とりあえず気付かないフリをした。

ここで優しいことを言うつもりもないし、逆に厳しいことを言うつもりもない。

塚田自身がいまの自分のことは一番よく分かっているだろう。

俺がしてやれるのは、仕事のフォローだけだ。

惚れた女を失った傷などは、どうにもしてやれない。

俺にも、他の人間にも。

下ちゃんは塚田の前から自分の意思で消えた。

下ちゃんは塚田を嫌いになったわけじゃない。
できることなら、いまでもなにもかも捨てて、塚田の元に走りたいのだろう。

それでも。
下ちゃんは塚田の前から去り、家族の元へ戻った。

どんなにそれが辛いことだろうと、最善の道であることは変えようがない。

塚田にもそれくらいのことは分かっているんだろう。

だから1人で耐えている。

下ちゃんが人妻と分かっていて惚れた塚田
仮面夫婦を言い訳にして塚田に惚れた下ちゃん
最初に下ちゃんを裏切った下ちゃんの旦那

みんな馬鹿だ。
どうしようもなく愚かだ。

でも、馬鹿で愚かじゃないヤツなんか、この世にいるのか。

俺だって、馬鹿だ。

それでも、いまはつぐみという惚れた女がいる。

馬鹿でも愚かでも、こうやって生きている。

塚田。
お前も同じだ。
下ちゃんは下ちゃんなりに、お前への思いを貫いたんだ。

ここでお前が潰れたら、お前は本当の愚か者だ。

下ちゃんに本当に惚れていたなら、泥を食らってでも、這い上がれ。

No.186 14/08/24 17:24
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つぐみの最後の出勤日になった土曜日、つぐみは作業場の手伝いに出ていた。

誰かが通るたびに、つぐみになにか声をかけている。

3年近くこの会社にいたつぐみは、決して目立つ存在ではなかったのに、確実にこの会社から必要とされていた。

クセのあるパートやチャラチャラしたアルバイトの若い連中にも、つぐみは自然と受け入れられていた。

ウチの会社に出入りする運送屋の連中や、自動販売機の補充に来る飲料メーカーの人間、コピー屋、仕出し弁当屋、どんな人間もつぐみを可愛がっていた。

その証拠に、そういう社外の人間もつぐみの退職を知ると、ちょっとした餞別を渡したりしてつぐみの退職を名残惜しみ、俺にまで「あの子辞めちゃうんだね」と残念がっていく。

善良で誠実であること、そんな当たり前のことが、つぐみの魅力なんだと思う。

それに気付かないのも、つぐみのいいところだ。

作業場での仕事が昼前に終わると、今日の送別会に来ないパート連中がつぐみに花束を渡していた。

つぐみは人と花束に埋まるようにして泣いていた。

つぐみなら、転職先でもうまくやっていける。

どんなときも、自分よりまず周囲のことを考え、話すことを言葉にする前に考えることのできるつぐみは、転職先でも違和感なく溶け込んでいけるだろう。

それでも、端末とにらめっこしていたり、俺に電話を取り次いだり、作業場で動き回る姿を見るのが最後だと思うと、やはり寂しかった。

No.187 14/08/24 18:10
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会社の業務は3時に終わった。

送別会は6時からなので、ほとんどの人間は一度帰宅してから送別会に来るようだった。

社長の知り合いがやっている小料理屋を貸し切りで送別会が始まった。

何回か飲みに誘っても乗ってこなかった塚田も、今日は来ている。

つぐみは社長から始まって、上の人間から順に挨拶に回っている。

俺のところにも瓶ビールを持って回ってきて、「進藤さんにもお世話になりました」と大真面目に言うので、「高ちゃん、これからも頑張れよ」と言ってやると、口元が僅かに緩んだ。
どうやら笑いを堪えているらしい。

つぐみが全員の席を回り終えたころには最初の席順も乱れ、つぐみはナカちゃんの近くに落ち着いたようだった。
ナカちゃんの隣には塚田がいて、いつものようにナカちゃんの馬鹿話を聞きながら笑っていた。

俺は倉庫の連中と飲んでいたが、途中トイレに立った塚田が戻ってきたときに声をかけると、塚田は俺の隣に座った。

「高ちゃんがいなくなると寂しいですね」

塚田はなにかのサワーを飲みながら言った。

「そうだな。下ちゃんも辞めたし、ちょっと会社の雰囲気変わるかもな」

俺が下ちゃんの名前を出しても、塚田の表情は変わらず、「そうですね」と答えた。

俺は内心「大した精神力だ」と感心し、雑談に変えた。

No.188 14/08/25 12:03
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俺も一緒にナカちゃんに呼ばれて席を移ったが、塚田の飲むペースが早い。

つぐみも心配して塚田に声をかけているようだ。

でも塚田は機嫌よく酔っ払ったような感じで、手酌で飲み続けている。

塚田の酒は大人しい。
もちろん普段よりは多少口数も増えるが、絡んだり愚痴ったりするようなことはない。

1人で鬱々とした気分で飲むよりは、ナカちゃんみたいな人間と笑いながら飲むほうがまだいいだろう。

酒で紛れることがあるなら、飲めばいい。

「塚田、このあとも飲みにいかないか?」

俺は塚田が隣にきたときに声をかけた。

「いいですね~、行きましょう」

最近何回か誘っても来なかったのに、今日はあっさりOKしてきた。
良い方か悪い方かはわからないが、塚田のテンションも上がっているのだろう。

一度、とことん飲んで、落ちるなり上がるなりした方がいい。

11時近くなり、つぐみは野本に言われて挨拶に立った。

つぐみはいかにも困ったような顔でその場で立った。

「今日は送別会を開いていただいてありがとうございました。
ご迷惑ばかりおかけしましたが、この会社でみなさんに親切にしていただいて、本当に幸せでした。
今回転職のために退職しますが、社長もみなさんも快く送り出してくださって、却って申し訳ないと思ってます。
転職しても、みなさんのご厚意を忘れずに、がんばります。
本当にありがとうございました」

一生懸命、という言葉がぴったりの挨拶だった。

その場にいる人間は皆、つぐみを娘か妹のような目で見ているのだろう、年配の人間は涙ぐんでいる人もいる。

つぐみは恥ずかしそうに一礼して座った。

そのあとは部長が音頭をとって三本締めをして、送別会は終わった。

No.189 14/08/25 12:52
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店を出ると、先に出ていたつぐみがナカちゃんに抱き締められていた。

情に厚いナカちゃんは泣いているようで、つぐみも涙ぐんでいるようだ。

俺は一緒に出た塚田の肩を抱いて「塚田、行こうぜ」と言った。

「高ちゃんも最後なんだから付き合えよ」

俺がつぐみに声をかけると、横にいたナカちゃんが「え~、私も行きたーい」と言った。

「うるせーからナカちゃんはハヨ帰れ」

悪いが今日はナカちゃんにいてもらっては困る。
そもそもあれでいて中身は良妻賢母のナカちゃんは、滅多に午前様などしないから、今日も他の主婦連中と一緒に帰るのだろうが。

それでも「けち~」と悪態をつくナカちゃんは放っておいて、俺は塚田と歩き出した。

つぐみは社長や上の人間のところへ行って挨拶をしてから、俺と塚田を追いかけてきた。

少し歩くと駅近くの飲み屋街だったので、個室のある居酒屋を選んで入った。

さんざん飲み食いしたあとなので、軽いつまみを取り、俺と塚田は冷酒を頼み、つぐみは梅酒のサワーを頼んだ。

「高ちゃん、デザイナーなんだよね。すごいなぁ」

塚田は感心したようにつぐみに言った。

「すごくないですよ。好きで専門学校に行っただけで、雇われデザイナーが精一杯ですから」

「それでもすごいよ。俺は絵なんか描けないから」

塚田がそう言ってコースターの裏になにか描いて、俺とつぐみに見せた。

「………犬か?」

「………馬?」

「猫ですよ」

つぐみは「ごめんなさい」と言いながら笑い転げた。

そのあとはつぐみの転職先の会社のことや、車の話をした。

塚田は酔ってはいたが、いつもと変わらず穏やかだ。

俺は塚田に言っておきたいことがある。

「なぁ、塚田。お前最近どうしたんだよ」

俺がそう言って塚田の桝に冷酒を注ぐと、塚田は目を伏せた。

「ハイエースぶつけたり、らしくねぇことばっかしてるじゃねぇか」

「すみません」

「事故が一番心配だからな。なんかあったのか?」

溜め込んでいることを、いまなら聞いてやる。
吐き出して楽になるなら聞いてやる。

塚田は桝に口をつけながら俺を見た。

目が赤い。

飲みすぎなのと、寝不足なのと、疲れているのとが、全部混ざった目だ。

No.190 14/08/25 13:08
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「失恋でもしたのか」

お節介なのはわかっているが、俺から水を向けた。

塚田はため息をつくように「そんな、とこです」と言った。

塚田に言えるのは、そこまでか。

塚田は下ちゃんの「し」の字も口にするつもりはないんだろう。

それならそれでいい。

「そうか。まぁ飲めよ」

俺がそう言うと、塚田はまた一口酒を飲んだ。

「進藤さんは、失恋したとしたら、どう立ち直りますか」

「どうもこうも、酒飲んでじっと耐える。気が付いたら、少し楽になってる。その繰り返しだな」

俺はそうだった。
他の女を抱いても、一時の慰めにしかならなかった。

「………そうするしか、ないんですよね」

そうだ。
そうするしかないんだ。

「そんなに惚れてた女がいたんだ」

「はい。破滅してもいいと思うくらい、惚れてました」

塚田は破滅してもいいと思っていたのか。
それでも下ちゃんを強引に奪うような真似をしなかったのは、下ちゃんを地獄に落すような真似ができなかったからなのか。

下ちゃんは塚田と幸せになりたかったと言っていたそうだ。

お互いそう思っていて、破滅の道を選ばなかったのは、臆病だったからなのか、それとも。

それがお互いのためだと思っていたからなのか。

それでも俺は。

「よかったじゃねぇか」

そう思うから、言葉にした。

すると塚田とつぐみが同時に「え?」と俺を見た。

「そこまで惚れる女なんて、なかなかいねぇしな」

不倫をした塚田も下ちゃんも、馬鹿だ。
でも、お互い惚れていたのは確かなんだ。

罪悪感があろうと、隠れて付き合おうと、結局は別れるしかなかろうと

惚れてたんなら、それでいいじゃねぇか

「でも、俺のものにはなりませんでした」

塚田はテーブルに置いた桝に目を落とした。

No.191 14/08/25 14:39
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「じゃあ、その女に会わないほうがよかったのか?」

俺がそう言うと、塚田は少し考えてから「そうは、思いません」と言った。

「だろ?惚れた女がいたら、自分のものにしたいと思って当たり前だけどな。手に入らなくても、そこまで惚れた女がいて、その女が幸せでいるなら、それでいいんじゃねぇ?」

塚田が下ちゃんと出会ったとき、下ちゃんは既婚者だった。
それでも惚れたのは塚田だろう。
それでも惚れたのは下ちゃんだろう。

お前らは、最初から間違っていたんだ。
それくらい、自分達も分かっていただろう。

それでもお前らは、その気持ちを抑えられなかった。

馬鹿だ。
本当に馬鹿だ。

綺麗な不倫なんて、この世にはない。
そんな純愛なんてあるわけがない。

それでも、お互い本気だったんだろう?

下ちゃんは地獄に落ちてもいいと言い
塚田は破滅してもいいと言い

馬鹿みたいにお互いを思い合ったんだ。

塚田と下ちゃんが別れたのは、不倫だったからだ。
それでも不倫という形でしか、思いは遂げられなかったんだ。

下ちゃんを手に入れることはできなかった。

それでもそこまで思う女がいたなら、惚れたことを後悔するな。

馬鹿だった自分も、傷付けた人間も、周囲を欺いた罪も、それは塚田と下ちゃんがこれから自分で償うしかないんだ。

「でも、辛いです」

「だから飲めよ」

酔っても酔っても、なんの解決にもならない。
それでも、落ちるとこまで落ちれば、あとは上がるだけだ。

「そうですね………」

塚田はそう言って桝の中身を空にした。

No.192 14/08/25 14:52
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塚田は酔ってトロンとした目でつぐみを見た。

「高ちゃんには幸せになって欲しいなぁ。高ちゃんはホントにいい子だから」

そうだ。
塚田もつぐみみたいな女と付き合えば、幸せになれるかもしれないんだ。

でも、残念だがつぐみは俺の女だ。

馬鹿だった俺が、やっとこの歳になって見つけた、大事な女だ。

つぐみは苦笑いしながら俺を見ている。

「こいつの心配はすんな。俺がいるから」

俺がそう言うと、塚田は俺とつぐみを交互に見た。

「………え?………進藤さん、もしかして」

「そういうことだ」

「えー、俺、全然知らなかったですよ。えー、高ちゃん、ホントに進藤さんなんかでいいの?怖いでしょ」

塚田は驚きを隠せない口調で、随分と失礼なことをつぐみに言った。

つぐみは照れながらもおかしくてたまらないという感じで「はい」と答えている。

つぐみは俺が怖いのか。
塚田も塚田だ。
「進藤さんなんか」、「なんか」とはなんだ。

「怖いのかよ」

俺がそう言ってつぐみを睨むと、つぐみは慌てて手を振りながら「えっ、そこに『はい』って言ったんじゃないですよ」と言い訳した。

「ならいい」

俺が不貞腐れたままそう言うと、今度は塚田が堪えきれずに笑った。

「一番意外じゃなさそうで意外な組み合わせですよ。みんな驚くだろうな」

そんなに俺とつぐみの取り合わせは意外なのか。
それじゃあ、つぐみがつい最近まで俺の気持ちに気が付かなかったのも、仕方ないのかもしれない。

「お前しか知らねぇよ」

「わかりましたよ、秘密ですね。あー、でもそうかぁ。高ちゃんが進藤さんと。そうかぁ」

なんで塚田がこんなに嬉しそうなんだ。
まるで塚田がつぐみの兄貴かなにかで、可愛い妹の幸せを喜んでるみたいじゃないか。

塚田。
それも俺の役目だ。

No.193 14/08/25 15:07
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「進藤さんに彼女ができたなら、俺にもできるかなぁ」

「どういう意味だよ」

「ああ、悪い意味じゃないですよ。進藤さんみたいに無愛想で、女性への態度が優しくなくても、ちゃんと中身を見てくれる高ちゃんみたいないい子がいるかなぁ、みたいな」

「塚田お前、先輩に向かって随分失礼なこと言ってるぞ。大体塚田は愛想を振りまきすぎなんだ。俺はちょっとシャイなだけだ」

「シャイ………そうですか?いやー、だって会社でもパートさんたち、『あっ、進藤さんが来た!静かにしなくっちゃ』って感じですからね」

「俺は山の中のヒグマか」

「ヒグマの方が繊細かもしれませんね」

塚田も俺も、酔って普段より口が滑らかになっている。

本当は塚田にもっと本音を吐き出させてやるつもりだった。

でも塚田はこれ以上なにも言わないのだろう。

俺とつぐみが付き合っていることを聞いて、なぜか自分のことのように喜んでいるだけだ。

それも、つぐみの人徳なのか。
つぐみが幸せそうだと、塚田まで気分が良くなるのか。

それならそれでいい。

下ちゃんは、塚田に惚れていたんだ。
それだけは確かだ。

その下ちゃんは、塚田の幸せを願っているんだろう。

それは塚田も同じはずだ。

自分の幸せじゃなく、相手の幸せが大事なんだろう?

なにが幸せなのかは、本人にしか分からないかもしれないが、相手の思いを受け止めてやるのも、惚れた相手への誠意だろう。

塚田。
幸せになれ。

No.194 14/08/25 15:24
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終電がとっくに出たあとで店を出た。
駅前のタクシー乗り場から3人でタクシーに乗った。

ここから一番近いのはつぐみのアパートだが、俺は塚田の家に行くように運転手に頼んだ。

タクシーが塚田の家に着くと、つぐみは塚田と一緒に降り、塚田にあらためて挨拶をした。

「これからも頑張ってね。幸せに」

塚田はそう言ってつぐみに握手を求めた。
つぐみは「はい」と言って笑いながら塚田の手を握り、塚田はつぐみの手を両手で包んだ。

握手までは仕方ないが、両手で握るのはやりすぎだ。

「塚田、握りすぎだ」

俺がそう言うと、塚田は「やきもち妬きだなぁ」と笑った。
どうも、酔った振りをしてわざとやっているような気がする。

つぐみが再びタクシーに乗って発車すると、つぐみは後ろを振り返り、車を見送る塚田を見ていた。

「次はどちらまで?」

運転手に聞かれ、俺は「Y駅東口のセブンまで」と言った。

つぐみが俺を見た。

今日はもともとつぐみを帰すつもりなどない。

俺のアパートに連れて帰る。

俺は黙ってつぐみの手を取った。

タクシーを降りて、コンビニに寄ったあと、俺のアパートに向かって歩き出すと、つぐみが少し後ろを付いてきた。

「つぐみ」

俺がそう言って手を差し出すと、つぐみは「はい」と言って俺の手を取った。

俺がつぐみを呼ぶと、いつも「はい」と返ってくる。

つぐみが言う「はい」はどうしてこんなに可愛いのかと思う。

No.195 14/08/25 15:37
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「塚田、一言も下ちゃんのことは言わなかったな」

「はい」

「言っちまえば少しは楽になるのかもしれねぇのにな」

「それでも、少しは話せてよかったのかも」

「そうだな」

「つぐみ」

「はい」

「浮気はしないでくれ」

「………絶対にしません」

「俺も、しない」

「はい」

つぐみは俺のものだ。
俺の大事な女だ。

一生手放す気はない。

だから、下ちゃんみたいに余所見などはしないでくれ。

俺はずっとつぐみを大事にする。

他の女など、もういらない。

頼むからこれからもずっと、俺のそばにいてくれ。

「俺はつぐみが俺を嫌いにならない限り、つぐみを好きでいられる」

「ずっと、好きでいてください」

「今日は帰らないでくれ」

「はい」

「また、『大好きです』って、言ってくれ」

「大好きです」

「ばーか。家に着いてからだよ。ここで言うなよ」

本当につぐみは、素直すぎる。
その素直さが、俺の堪え性をどこかへ飛ばしてしまう。

「ごめんなさい」

「ここで襲うぞ」

「………早く、帰りましょう」

つぐみ。
俺の家に「帰る」んだな。

「ああ」

俺はもうすぐそこに俺のアパートが見えているのに、堪えきれなくなって、つぐみを抱き寄せてキスをした。

No.196 14/08/25 15:53
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つぐみ

俺はお前が好きだ

やっとこの腕にお前を抱けた

俺が名前を呼ぶたびに

はい

そう答えるつぐみが好きだ

頭がおかしくなりそうなくらい、つぐみが好きだ

無愛想で馬鹿な俺は、一番言わなくちゃいけないことをなかなか言えずにいる

本当は

ありがとう

そう言いたいんだ

でも、今日はやっとつぐみをこの手に抱くことができたことに夢中で

そんな照れくさいことを言う余裕などないんだ

今日のところは好きだと言うだけで、勘弁してくれ

つぐみ

好きだ

No.197 14/08/25 16:10
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「進藤さん!」

走ってきて息の上がったつぐみが、ぶつかるような勢いで俺の腕に飛びついてきた。

池袋の東武デパートの地下入り口。
金曜日ということで、仕事の終わった7時に俺はつぐみと待ち合わせていた。

つぐみが転職してから2年になる。

つぐみは俺が思った通り、転職してからもしっかり頑張っているようだ。

俺は相変わらず、会社でフォークリフトやトラックに乗っている。

つぐみが俺を「進藤さん」と呼び、返事が「はい」なのも相変わらずだ。

「なに興奮してんだ?」

つぐみの口にかかった髪を指で払ってやりながら俺が言うと、つぐみは
「来て。こっちこっち」
と言いながら、俺の腕を引いた。

つぐみは東武デパートの食品売り場に俺を引っ張って行く。

「ほら」

なぜかつぐみは店内の角に隠れるようにして、近くのパン屋の中を指差した。

つぐみが指差した先には、塚田がいた。

「塚田じゃねぇか」

「うん。ほら隣に」

塚田の隣には、塚田や俺と同じ年頃に見える女がいた。

「へぇ。女連れか」

「見ちゃった」

つぐみは舌を出して笑った。

「つぐみ、お前さぁ。なんで隠れなくちゃいけねぇんだよ」

「………あ」

「声かけりゃいいだろ」

「そうでした」

池袋は会社の連中もよく来るエリアだ。
まぁ金曜の夜だと主婦連中が池袋まで来ることは少ないだろうが、以前と同じような状況なら、塚田はこんな人目につくようなところで女と買い物などしていないだろう。

No.198 14/08/25 16:25
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「あれ?高ちゃん?……あっ、進藤さんも」

パン屋から出てきた塚田は、俺とつぐみを見て笑った。
こいつも相変わらず爽やかなヤツだ。

「塚田さん、お久し振りです」

「高ちゃん、元気そうだね。……あ、紹介します」

塚田は俺とつぐみに横でにこにこ笑いながら立っている女を紹介した。

小柄で、明るい感じのする女だ。

塚田は彼女を、高校時代の同級生だと言った。

「高ちゃん、仕事はどう?」

「周りの方に助けていただいて、どうにかやってます」

「進藤さんに苛められてない?」

「うるさいぞ、塚田」

「やっぱ怖いでしょ」

「慣れました」

「結婚とか、考えた方がいいんじゃない?」

塚田が茶化したようにそう言うと、つぐみは

「もう手遅れです。入籍しちゃいました」

と言って笑った。

「えっ。本当ですか?」

「本当だ。日曜に届けだけ出した」

「引越しも済みました」

「えっ。知らなかった」

「知るわけねぇだろ。まだ会社には言ってねぇよ」

塚田の横で黙っていた彼女が、塚田の腕を軽く叩き、耳打ちをした。

「………?あっ、そうか。そうだね。すみません、おめでとうございます、が先でしたね」

「ありがとうございます」

つぐみは塚田とその彼女を見て、嬉しそうに笑っていた。

No.199 14/08/25 16:42
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塚田たちと別れ、俺はつぐみを連れて駅の外に出た。

「塚田さんと彼女さん、お似合いだったね」

つぐみは俺の腕を握りながら上気した顔で言った。

「そうだな」

塚田は彼女とつぐみが挨拶をしている隙に「高ちゃん、綺麗になりましたね」と言った。

「俺の女なんだから当たり前だ」と軽く蹴飛ばしておいた。

塚田にとって、下ちゃんとのことは、だんだん過去の出来事のひとつになっていくんだろう。

「進藤さん、今日はどこへ行く?」

つぐみは駅前に乱立するビルを見上げながら言った。

「つぐみ、お前いつまで俺のこと『進藤さん』て呼ぶわけ?」

「………ダメ?」

「ダメ……ってわけじゃねぇけど」

「じゃあそのままでいい?」

「いいよ、奥さん」

「えっ、あっ、えっ、あっ、そうか。私、もう奥さんなんだ」

「そうだよ。つぐみもこないだから『進藤さん』なんだけどな」

「んー。それでも『進藤さん』は『進藤さん』なんだけど」

「変える気なしだな」

「うん。だって、初めて会った会社でそう呼んでたんだもん。あのころのことも、忘れたくない」

「そうか」

「うん、そう」

「つぐみ」

「はい」

「呼んだだけ」

「はい。進藤さん」


☆☆☆了☆☆☆

No.200 14/08/25 16:46
小説大好き0 

無事に完結を迎えることができました。
いままでお付き合いくださった方、本当にありがとうございました。
よろしかったらご感想をお願いいたします。

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http://mikle.jp/threadres/2121087/

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