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14/08/26 16:39(更新日時)

小さいガキだった頃から愛想のねぇ人間だった

親はこいつは好き勝手に生きていくと思っていたんだろう

小学生の頃に読んだなんかの本に

「我が道を行く」

という言葉があった

えらく気に入ったのを覚えている

それが俺だ

14/07/23 13:40 追記
「可もなく不可もなく」
http://mikle.jp/thread/2106160/
このお話のサイドストーリーみたいなお話です。
よかったらこちらもご一読ください。

14/07/28 12:15 追記
☆感想スレ☆
http://mikle.jp/threadres/2121087/
よろしくお願いします

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No.2119335 14/07/23 13:36(スレ作成日時)

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No.1 14/07/23 14:46
小説大好き0 

「たくちゃん」

俺をこう呼ぶのはひとりだけだ。

月島 綾。

同い年で、同じ建築系の専門学校に通っている。

綾と俺はコースは違ったが、友達に無理矢理連れて行かれた合コンで綾とは知り合った。

付き合って1年と何ヶ月かになる。

初めて綾を見たときは、ただ単におとなしそうな女だと思った。
色が白くて、黒目がちな目をした、小柄な女だった。

合コンの席で俺はあまり喋らなかった。
人数合わせで呼ばれただけだし、俺を呼んだヤツも俺に盛り上げ役は期待してないだろうと思っていた。
だから飲みたいだけ飲んで帰ろうとしか思っていなかった。

綾はそんな俺のなにを気に入ったのか、メアドの交換を求めてきた。
それも、合コンの最後の最後になって、いかにも「勇気を振り絞って」という感じで声をかけてきた。

「あの、進藤くん。メアド、教えて」

特にそのときはなにも感じなかった。

これで綾が女友達にでも頼んでメアドを聞いてきたりしてたなら、相手にしなかったかもしれない。

俺は女のそういう連帯感というか、ベタベタした雰囲気が、なんとなく気に入らないからだ。

綾はそれをしなかった。
だからメアドの交換くらいは受けてやろう。

そう思っただけだった。

No.2 14/07/23 16:45
小説大好き0 

俺の実家は千葉だ。
地図でいうと上のほうになる。

俺の名前は匠という。
大工だった祖父さんがつけたそうだ。
名前のお陰か、手先は器用なほうだ。

祖父さんは大工だが、建設会社を興した。
だけど三男坊だった親父は、なぜか地元でスーパーを経営している。
長男と次男が建設会社を継いだので、親父は祖父さんが資金を出して起業したというところだ。

親父は慎重な男だ。
慎重なりに商才があるらしく、親父の経営するスーパーはそこそこ繁盛している。
地元の激安店!みたいな感じで夕方のニュースのコーナーで取り上げられたこともある。

俺の5歳上の兄貴が高校を卒業すると同時に親父の仕事を手伝い始めた。
兄貴は親父と似ている男だから、そつなくやってくれるだろう。

本当なら俺も親父や兄貴と一緒に働く方がいいのかもしれない。

でも、そんな気はさらさらなかった。

どっちかっていうと俺は大工の祖父さんに似ているらしい。

祖父さんは地元で一戸建ての家を建てては売っていた。
俺は祖父さんに連れられて、時々現場にも行った。
単純に面白かった。

祖父さんが道具を使って木を削る。
それが家になる。
ガキだった俺には、祖父さんが魔法使いみたいに思えた。

俺は地元の高校を出ると、建築系の専門学校に進学した。

物を作る仕事がしたかったからだ。

兄貴が婚約して嫁さんと実家で暮らすことが決まり、俺は窮屈になるだろう実家を出たかったこともあって、東京都内の学校を選んでひとり暮らしを始めた。

学費と独立資金は親父が出してくれたが、生活費は自分で稼ぐと決めた。

No.3 14/07/23 18:51
小説大好き0 

学校は忙しかった。
正直言えば、バイトなんかしてる暇はないくらいだった。

東京の郊外のワンルームのアパートの家賃と生活費、全部で10万もあればなんとか暮らせる。

俺は進学と同時にファミレスの厨房でバイトを始めた。

夜間の時給は高かったので、そこそこ稼げた。

学校の課題をこなしながらのバイトはキツかったが、なんとかこなす毎日だった。

綾と出会った合コンは、入学して3ヶ月後くらいだった。

メアドを交換したあと、時々綾からメールが来た。

俺は気が向いたときに返信した。

多分、5回に1回くらいのペースだったと思う。

それでも綾は、俺が返信すると、深夜0時を回っていても、すぐに返信してきた。

例えは悪いが、実家で飼っていたレトリバーの「ハナ」を思い出した。

ハナは家族の中で俺に一番懐いていた。
賢い犬で、母親はエサをくれる人、父親はボス、兄貴と俺は散歩と遊びに付き合ってくれる人と認識していて、特に俺の言葉をよく理解している犬だった。

俺が学校から帰ってくるのをいつも門の所で待っていて、俺の足音が聞こえると、吠えたいのを我慢して、ずっと尻尾を振っていた。

『今日は友達んちに行くんだ。帰ってから遊んでやるから、もう少し待ってろ』

俺がそう言うと、ハナは大人しく家に戻り、そしてまた俺が帰るころになると、門のあたりで俺を待つ。

その賢さと忠実さが可愛かった。

ハナは俺が高校生のときに死んでしまったが、綾はそのハナを思い出させた。

No.4 14/07/24 10:27
小説大好き0 

綾とはいつから付き合うということになったのか、はっきりとした日は思い出せない。

綾からのメールが続き、綾が「空いてる日はある?」とメールしてきて、いい加減俺も綾の気持ちは分かってきていたから、遊びに行くことにした。

夏休みだったが、バイトで疲れていたので、遠出はご免だった。
その頃は車も持っていなかったので、手軽に出かけるなら、映画に行くくらいしか思いつかなかった。

ちょうど観たい映画があったので「いっしょに行くか?」とメールすると、綾からすぐに「行きたい」と返信が来た。

渋谷や新宿に行くのは休日の人ごみを考えるだけで億劫だった。
それでも有楽町あたりなら俺の電車の便も良かったので、午後から有楽町で待ち合わせた。

8月のある土曜日、約束した時間に駅の改札で綾は待っていた。

小柄な綾は、人待ち顔で立っているだけで、なんとなく頼りなく見えた。
シンプルなストライプのワンピースを着ていたのはよく覚えている。

その綾が俺の姿を見つけると、明らかに顔を輝かせた。

「進藤くん」

「おはよ」

実際起きたのはここへ来る1時間前だったので、つい「おはよ」と言ったのだが、時間は午後の1時だった。
綾はそんなことは気にしないかのように「おはよう」と笑った。

邦画の話題作だったが、映画はあまり面白くなかった。
気が付いたら俺は寝ていた。
画面がエンディングロールになったころ、綾に起こされた。

「おはよ」

綾は怒るでもなく、またそう言って笑った。

No.5 14/07/24 11:45
小説大好き0 

映画館を出て、お茶を飲んだ。
あまり金はないので、ドトールにした。

「飯、食って帰る?」

俺がタバコを吸いながらそう言うと、綾はなぜか少し迷うような目をした。

「……進藤くんが、迷惑じゃないなら……、なにか、作ろうか」

へぇ、と思った。

綾は東京23区の西部にある自宅から学校に通っているのは知っていた。
料理ができるのか、ということと、俺んちに来ようと言うのが、少し意外だった。
自宅住まいの綾が料理をしようと言うなら、ひとり暮らしの俺のアパートに来るしかない。

「なにが作れる?」

「だいたい一通り。お母さんが料理得意だから。でも、進藤くんちに調味料とかあまりないなら、簡単なものの方がいいかもしれない。進藤くんはなにが好き?」

「親子丼とか作れる?」

「それなら簡単だよ」

そんな話の流れから、綾が俺のアパートに来ることになってしまった。

俺の最寄駅の前にあるスーパーで、綾は俺のアパートにある食材を聞きながら買い物をした。
俺が金を払ったが、1000円もかからなかった。
米は実家からお袋が親父の店に仕入れたものから送ってくる。調味料もひとり暮らしを始めたときに、醤油に砂糖に塩、マヨネーズやケチャップなんかは一通り持たされた。
朝はパンを食ったり、昼は学校の食堂やコンビニ、夜はバイト先の賄い。
自炊する機会はあまりないが、麺類とかチャーハンくらいなら作る。

買い物をして俺のアパートに着くと、綾は1つしかないコンロを使って料理をした。
キッチンが狭いので綾に全部任せたのだが、離れて見ていても、綾の手際がいいのは分かった。

「簡単だよ」と言った言葉通り、40分くらいで親子丼と吸い物が出てきた。
40分かかったのは炊飯器で、すぐに料理の仕込が済んだ綾は、米が炊きあがるまで俺の近くに来ていっしょにテレビを観ていた。

No.6 14/07/24 12:30
小説大好き0 

綾が作った親子丼は美味かった。
親子丼の汁も吸い物も、鰹の削り節を買っていたから、出汁からとったらしく、それを褒めると綾は嬉しそうに笑った。

冷蔵庫には兄貴にこっそり送ってもらった缶ビールと缶チューハイが入っている。
綾にすすめると、あまり飲めないと言いながら、一番甘いチューハイを取った。

本当はそんなつもりじゃなかったのに、俺はその日、綾を抱いた。

俺は高校の頃、短期間付き合った女が遊び慣れていて、その女と経験済みだった。

綾が初めてだったかどうかは分からない。
ただ、そんなには慣れていないことは分かった。

18歳だった俺は、誰もいない自分の部屋で、食欲が満たされアルコールも入り、明らかに自分を好きだと分かる女が近くにいて、なにもしないで帰せるほど大人じゃなかった。

なんにも言わずにキスをしたら、綾は拒まなかった。
そのまま綾を抱いただけの話だった。

綾のことは嫌いではなかった。
特に美人ではないが、まぁまぁ可愛かったし、最初からあれだけ好意を示されれば悪い気はしない。

でも、そのときはまだ、それだけだった。

No.7 14/07/24 13:04
小説大好き0 

そんな始まり方だったから、付き合い始めた日というのがはっきりしない。

秋になり、気が付いたら学校で綾は俺の彼女だと認識されるようになっていた。

綾は俺の学校でのスケジュールとバイトのパターンを大体把握していて、気が付くと横にいる、そんな感じだった。

学校の食堂にいると綾が現れて、俺の世話を焼く。

アイス食いたいな、とか、なんか飲みてぇな、と言って小銭を出すと、綾はスッと小銭を受け取って、俺の好みのものを買ってくる。

俺が疲れていると、横で携帯をいじったり雑誌をめくったりしている。

俺の機嫌がいいと、学校の話や、綾がバイトしているドーナツ屋の話をしてくる。

なんというか、まぁ、気持ち悪いくらいに、俺を不快にさせない女だった。

だから、気が付いたら綾が俺の彼女になっていた、という状況もイヤではなかった。

最初に綾を抱いた日から2ヶ月くらいして、「綾はなんで俺と?」と聞いた。

「入学式のとき、たくちゃんを見て、いいなぁ、って思ったの。学校でもときどき見かけてて、そしたら合コンにたくちゃんが来るって聞いて、それで」

いつの間にか俺を「たくちゃん」と呼ぶようになっていた綾は、そう言った。

俺は不細工ではないと思うが、愛想が悪くて目つきも悪いし、あまり女ウケがいいタイプではない。

ただ、なぜか俺のように愛想がない男を好む女もいるらしい。

高校時代に付き合った遊び人の女以外にも、告白してきた女がいた。

でも、俺が好きだったのは、高1から高3まで、1人だけだった。

No.8 14/07/24 19:24
小説大好き0 

「好きだった」

実はちょっと違うんじゃないかと、自分で思うこともある。

そいつの名前は佐々木 遥といった。
高校に入学したとき、1ヶ月隣の席だった。
単に「進藤」と「佐々木」で名前の順に並んだだけだった。

遥かは綾よりも色が白くて、髪の色も薄い、目の大きな女だった。クラスで一番可愛いと思った。

第一印象はやっぱり大人しそうな女。
最初のころは一人で本ばかり読んでいたからだ。

でもそれは一週間も経つと単なる第一印象だったことが分かった。

とにかく喧しい女だった。
生意気で口が達者で頭の回転が速くて、男みたいな性格の女だった。

何人かで連れ立って行動するような女共とは違っていた。

それでも友達がいないわけでもない。

変わった女だった。

俺はあんまり口数が多い方ではないし、とっつきにくいことも自覚しているが、クラスに馴染んだ遥は、遠慮なしに話しかけて来た。

気がついたら「タクミン」と呼ばれていた。

「タクミンはやめろ」

「なんでー?可愛いじゃん」

遥はまったく気にしない。

俺も諦めて返事をするようになった。

遥は男女関係なく友達が増えた。
よくわからないが、いつも誰かが遥のそばにいる。
要は誰からも人気のある女だった。

その遥は、俺を気に入ったらしく、しょっちゅう放課後付き合わされた。

遥には女を感じない。
遥も同じだったんだろう。

複数だったり、俺と2人だったり、そのときによって違ったが、とにかく遥とつるむことが多かった。

No.9 14/07/24 19:48
小説大好き0 

遥のお陰か、俺にも友達が増えた。

女からは「進藤くんて怖い」と言われているようだったが、男の友達はやたら増えた。

俺が友達とつるんでいると、いつの間にか遥が混ざっていたりする。

そういうときに限ってエロ話をしていたり、気に入った女の話をしていたりするのに、遥は違和感を感じさせずに参加している。

本当に面白い女だった。

遥に乗せられて、文化祭では女装までした。

次の年も遥は同じクラスで、その年の文化祭にはホストクラブをやらされた。

修学旅行で行った東北では自由行動が同じ班だった。
遥は見回りの教師の目を上手に盗んで、男の部屋でやっている酒盛りに参加した。

3年でクラスが別れたが、遥はそんなことはお構いなしに、あちこちのクラスを飛び回りながら、俺の所にもよく顔を出し、放課後もカラオケやらゲーセンやらに付き合わされた。

俺の高校生活は、遥に始まって遥に終わった、そう言ってもいいくらい、遥との付き合いは濃かった。

一緒にい過ぎて、もう遥が男でも女でも関係なかった。

遥に彼氏がいたかどうかは知らない。

俺が例の遊び人とちょっと付き合ってた時も、遥との付き合いは変わらなかった。

簡単に言えば、親友だった。

それ以上でも、それ以下でもない。

そう思っていた。

No.10 14/07/24 20:13
匿名10 

次が気になる(^-^)

No.11 14/07/24 20:21
小説大好き0 

>> 10 こんばんは( ´ ▽ ` )ノ
読んでくださってありがとうございます
続きはしばしお待ちを

No.12 14/07/24 20:36
匿名10 

>> 11 すごく読みやすいです(^-^)

あと主さん…私のタイプです(^-^)

次も楽しみ♪

  • << 14 (∀`*ゞ)テヘッ 女ですけど嬉しいです♪

No.13 14/07/24 22:05
小説大好き0 

遥は成績が良かったので、推薦をもらって大学に進学することになっていた。

俺は専門学校に進んで家を出る。

もう、今までのように同じ時間を過ごすことはない。

そのとき初めて、俺は遥を手放したくないと思った。

その気持ちが恋愛感情だったのか、今でも俺には分からない。

ただ、遥と過ごした毎日が好きだった。

卒業式の日、遥はいつものように笑っていた。

「タクミン、またね!」

遥は男のように俺の肩を抱いて、友達に写真を撮らせた。

その写真には、俺が好きだった笑顔の遥と、相変わらず仏頂面の俺が写った。

俺は遥にしか聞こえない声で「好きだ」と言った。

すると遥は

「タクミン大好き!」

そう言って、俺に抱きついた。

遥が俺にそんなことをしても、誰も冷やかしたりしない。

遥はそういうヤツだからだ。

恋愛感情かどうかすらわからないままだった俺と、最後まで遥らしさを通した遥。

これが恋愛感情だったとしたら、失恋なんだろう。

でも、俺にすらわからないんだから、失恋でもない。

ただわかったのは、俺では遥との恋愛のスタートラインにすら立てないということだった。

……相手が遥かじゃ仕方ねぇか

俺じゃどこにスッ飛んでいくかわからない遥を捕まえることはできない。

最後は苦笑いで終わった高校時代だった。

No.14 14/07/24 22:13
小説大好き0 

>> 12 すごく読みやすいです(^-^) あと主さん…私のタイプです(^-^) 次も楽しみ♪ (∀`*ゞ)テヘッ
女ですけど嬉しいです♪

  • << 16 女性?(//∇//) 凄いですね!! 次楽しみにしてます(^-^)

No.15 14/07/24 22:16
匿名10 

遥さん羨ましいです!


また覗きにきます(^-^)

No.16 14/07/24 22:17
匿名10 

>> 14 (∀`*ゞ)テヘッ 女ですけど嬉しいです♪ 女性?(//∇//)
凄いですね!!

次楽しみにしてます(^-^)

No.17 14/07/25 08:32
小説大好き0 

>> 16 10番さんへ
http://mikle.jp/threadres/2107239/
こちらにお返事書きました
よろしくです

No.18 14/07/25 11:21
小説大好き0 

遥の存在が大きかったのは確かだ。

だけど遥はどこへ行っても遥のままで生きているんだろうと思っていた。

高校を卒業してからは、慣れないひとり暮らしと専門学校での生活に夢中だった。

そこに現れた綾。

なし崩しのように綾を受け入れたのは、やっぱり遥という存在がなくなったことが寂しかったのかもしれない。

遥とはまったく違うタイプの綾。

近くにいるのに俺のものにはできなかった遥。
俺のことなどお構いなしに、常に自由だった遥。

いつの間にか俺の側に寄り添っていた綾。
俺を中心に生きていることが嬉しいという感じの綾。

そもそも遥みたいな女は滅多にいないと思うが、それにしても綾はタイプが真逆過ぎて、却って遥を思い出しようもなければ、比べようもない。

それなのに一緒にいるのが当たり前というところは同じなのが不思議だった。

俺は綾がなにも求めてこないのをいいことに、綾に彼氏らしいことを言ったりはしなかった。

綾はそれでも幸せそうだった。

俺はあまり金もなくて、一緒にいるのは大抵学校か俺のアパート。

俺のバイトは日付が変わってから終わることも多く、俺は綾のためにスペアキーを作った。
スペアキーに俺の手持ちのキーホルダーを付けてやると、綾はこっちが申し訳なくなるくらい喜んだ。

キーホルダーは俺がガキの頃から好きで集めている恐竜のグッズで、ガチャガチャでダブった代物だった。

せめて女が好きそうなキャラクターかアクセサリーの付いたものにしてやればよかったと思ったのは、随分後になってからだった。

No.19 14/07/25 12:58
小説大好き0 

綾とはたまに出かけた。

始まりは適当だったが、次第に綾を「俺の女」と思うようになってきて、たまには喜ばせてやろうと思う気持ちがあったからだ。

金がないのは相変わらずだったから、金のかからないことしかしてやれなかった。

秋の終わり頃の休みの日、金持ちの友達に頼んで車を借りて、ドライブに行った。
予算の関係であまり遠出はできなかったが、常磐道で茨城へ出て、海の近くの水族館に連れて行った。

水族館で綾は子どもみたいにはしゃいでいた。
その頃、綾は俺と外を歩くとき、必ず俺の左腕を取っていた。
気恥ずかしくて俺は手なんか繋いでやれなかったから、綾はいつも自分から俺の腕を取った。

綾が観たいと言ったので、綾と並んでイルカのショーを観た。

高度なジャンプなんかをこなすイルカを見て、単純に「イルカってヤツはすげぇ」と思いながら、横にいる綾を見た。

そういえば、綾と知り合った頃、犬のハナと綾が重なったことを思い出した。
イルカの賢さがハナの賢さを連想させたからだ。

なんで綾は、こんなに俺に尽くすんだろう。
たまにしかこんな風に彼氏らしいことなどしてやれないのに。

そもそも、どうして綾は俺のことが好きなんだ。
一目惚れ、みたいなことは言っていたが、それにしたって、どうして俺なんだ。

イルカがトレーナーを信じ、芸をこなすのと、なにが違うんだ。

理由なんて、必要ないのか。

高校時代、遥を無条件に大切に思った俺を思えば、確かに理由なんて必要ないのかもしれない。

No.20 14/07/25 15:23
小説大好き0 

その日、綾は弁当を作ってきていた。

海岸に出て、コンクリートのブロックに座って弁当を食べた。

前に綾が作った骨付きの鶏肉のから揚げを俺が気に入ったことを覚えていたのか、弁当にはそのから揚げが詰められていた。

相変わらず、綾の作る料理は美味かった。

綾は俺が美味そうに食べるのを見て嬉しそうに微笑んでいた。

秋の海岸は人影はまばらで、ところどころにサーファーのグループが見えた。

天気のいい日で、風も波も穏やかで、気分が良かった。

この海は、綾みたいだと思った。

いつの間に俺は、綾が隣にいることを心地よく思うようになったんだろう。

学校で綾は「進藤夫人」とからかわれ気味に呼ばれたりしていた。

そういえば、綾とは口論のひとつもしたことがない。

綾は俺がなにをしても怒らない。

詮索や束縛とは無縁の女だった。

小柄な綾の内部にある心は、どんだけ広いんだ。

そのとき初めて、綾に対する愛情みたいなものを感じた。

もう何度もキスして抱いてきたが、そんな欲望とは離れたところで、俺は綾に愛しさを感じた。

それでも俺は、いまさらそれを表す言葉を口にすることはできなかった。

照れくさかったのもある。
言わなくても分かってるだろうと思っていたのもある。

要は、綾に甘えていた。

No.21 14/07/25 19:42
小説大好き0 

情が移ったレベルなのか、本当に惚れてきたのかまでは分からなかった。

俺から気持ちを伝えたりしなくても、いつも綾は俺の側にいたから、友達の言う「進藤夫人」じゃないけど、結婚して長年一緒にいる夫婦ってこんな感じなのかと思うくらい、綾は俺に一番近い存在でいてくれた。

綾と過ごすようになって1年経った専門学校2年目の夏頃になると、いよいよ俺は綾に気を遣わなくなっていた。

たまに外で会う約束をしても、相変わらず学校とバイトに忙殺されていた俺は、約束の時間になっても起きられずに寝ていることがよくあった。

綾は15分待って携帯を鳴らし、それが繋がらないとまた少し待ち、約束の時間から30分経つと俺のアパートまでやって来て、俺が寝ていることを確かめると、俺を起こさずに一緒に横になって眠ったり、本を読んだりしていた。

俺は半分寝呆けた状態で綾を引き寄せ、そのまま綾の匂いを感じながら、日が落ちるまで眠った。

やっと起きた頃にはもうどこへも行ける時間ではない。

横で眠ってしまっている綾の顔を見て、「またやっちまった」と思うのだが、俺が起きた気配で起きた綾が

「おはよ」

と言う寝呆けたような甘い声になぜかいつも欲情して、そのまま綾を抱いた。

それでも綾は文句など一言も言わずに、俺を受け入れてくれた。

No.22 14/07/25 20:00
小説大好き0 

そんな綾が一度だけ怒ったことがある。

綾が高校時代の写真を見たいと言い出して、アルバムを出してやった。

「たくちゃん、あんまり変わってない」

「そうか?」

「うん」

綾は楽しそうに写真を見ていた。

特に俺が文化祭で女装した写真や、ホストクラブをやった写真を見て笑い転げた。

修学旅行、遠足、意味もなく教室で撮った写真。

俺も楽しかった高校時代を思い出して、俺にしては珍しく、その時々にあったことを綾に話して聞かせた。

アルバムの最後には、俺が遥と最後に撮った写真が入れてあった。

「この子、可愛い」

遥を指差して綾が言った。

「あぁ、遥だ」

綾はまた最初からパラパラとアルバムをめくり、俺を見た。

「たくちゃん、この子のことすきだったんでしょ」

綾はもう一度、卒業式の日の写真の遥を指差した。

「…………」

あまり深く考えずに綾にアルバムを見せていた。
確かに遥は誰よりも一番多く、俺と一緒に写真に収まっていた。

遥に抱いていた気持ちを、綾になんて説明したらいいか、分からなかった。

「そういうんじゃ、ねぇんだよな」

「じゃあどんな?」

綾にしては珍しく突っ込んで聞いてきた。

「なんつうか、男とか女とか、そういうの関係ないヤツだったっつうか……….。とにかく綾が思ってるようなモンじゃねぇよ」

「………そっか」

そのときはそれで終わった。

No.23 14/07/26 08:41
小説大好き0 

千葉の俺の地元では、たまに仲の良かった友達が集まって、飲み会なんかもあった。
中学も高校も、時々友達から飲み会の声がかかった。

俺は忙しかったし、あんまり実家にも帰りたい気分じゃなかったから、進学して最初の正月に実家に帰ったときの中学時代の友達との新年会に顔を出したくらいだった。

専門学校2年目の秋、高校の友達から飲み会の連絡があった。

連休の初日にけっこうな人数が集まるから来ないかと言われた。

地元じゃなく、上野でやるというので、行く気になった。

誘ってきたのは遥と俺とよくつるんでいた光輝というヤツだった。
光輝は地元で就職している。

『遥が来るってよ』

光輝は電話でそう言った。

遥は神奈川にある大学に進学していて、学生寮に入っていた。

遥とは卒業以来、連絡していない。

高校時代は学校を中心につるんでいたし、千葉の田舎の高校生だった遥も俺も、その頃携帯電話みたいなツールは持っていなかった。
だから余計に気がついたら気の合った仲間でつるんでいるという感覚が大きかったような気がする。

遥が来る。

一瞬、高校を卒業した頃に感じた気持ちが蘇った。

単純に、遥に会いたかった。

本当なら、卒業後も遥と連絡を取る手段はいくらでもあった。

でも、遥も俺も、そんなことはしなかった。

薄情とかそういうのとも違う。

そういう付き合いじゃないのだとしか言いようがなかった。

No.24 14/07/26 10:33
小説大好き0 

飲み会の前の日、バイトを終えてアパートに帰ると綾がいたので、「明日の夜は飲み会だから」と言った。

「バイトの人と?」

「いや、地元の連中と」

綾はそこで俺を見た。

「高校の?」

「そうだよ」

「あの人も来るの?」

「あの人」というのが遥のことなのが、なぜかすぐに分かった。

「来るよ」

綾は能面のような顔になった。

「……いかないで」

「え?」

綾がそんなことを言うのは初めてだった。

詮索も束縛もしないのが綾だと思っていた。

「遥のこと気にしてんの?」

「だって、たくちゃん遥さんのこと好きだったんでしょ?」

「そんなんじゃねぇって言っただろ」

「嘘」

綾は引かなかった。

俺は初めて綾がそんなことを言っていることに戸惑った。

「遥だけじゃねぇし。他の連中も集まるんだよ。今回は地元じゃなくて上野でやるから楽だし」

「でも、遥さんに会いに行くんでしょ?」

イラっときた。

確かに遥は特別だった。

でも、俺にすら恋愛感情があったかどうかわからないのが遥だ。

遥との関係を一言でいうなら、やはり「友達」としか言いようがない。

しかも、高校時代に一番濃い付き合いをした大事な友達だ。

会って何が悪い。

そう思った。

No.25 14/07/26 11:29
小説大好き0 

だいたい、いまの俺の女は綾だ。

確かに遥には恋愛感情に似たものを持っていたのかもしれない。

でも、遥に抱いた気持ちと、綾に対する気持ちは、似ているようでまったく違う。

遥は同じ時間を共有していても、常に自由で、どこかにスッ飛んで行ってしまう。

でも綾は、いまの俺の生活の一部だ。
飯を作ってくれるとか、セックスできるとか、そういう都合のいいことじゃなくて、俺の毎日に綾がいるのが当たり前だった。

これが綾じゃなかったら、とっくにうっとおしくなって、離れていたはずだ。

綾だから、こんなに存在が自然なんだ。

でも俺は、そんな気持ちをうまく言葉にできるような人間じゃなかった。

だから、能面のようになった綾に説明するのが面倒だった。

「うるせぇな。勝手にそう思ってりゃいいだろ」

俺がそう言ったとき、綾の白い顔にスッと赤味がさした。

綾は怒ったのだ。

約束をすっぽかして俺が寝ていようが、金がなくてどこにも連れて行ってやれなかろうが、誕生日に安いネックレスしかプレゼントできなかろうが、一度も不満を見せたことのない綾が、怒った。

頭の隅では「不味いことを言った」と思っていた。

でも、いままで俺に尽くしてくれる綾に甘え切っていた俺は、そこで綾の機嫌をとったり、宥めてやる方法が分からなかった。

「帰る」

綾はバッグを持つと、そのまま出て行った。

「待てよ」

No.26 14/07/26 14:31
小説大好き0 

とりあえずこんな時間に綾を1人で帰す訳にはいかない。

頭に血がのぼっていた割にはそれだけは思い出して、俺は綾に付いて外に出た。

綾は足早に駅へ向かって歩いた。まだ終電には間に合う。

綾は俺が後ろから来ていることに気付いていても、一言も喋らず、振り返りもしなかった。

駅前まできたところで俺は「綾」と呼んだ。

「………」

綾はそこでやっと振り返って俺を見た。

「明日、ウチで待ってりゃいいだろ。遅くならねぇように帰ってくるよ」

「………わかった」

綾はそう言って駅に入って行った。

俺はそれで済んだと思っていた。

綾が遥を気にする気持ちは分からなくもなかった。

初めて俺に対して怒りを向けた綾を目の当たりにして、いま大事なのは綾だということに初めて気付いた。

遥は確かに大事な友達だ。

でも、遥との時間は、高校卒業と同時に終わったんだ。

今でも大事な友達であることは変わらなくても、俺のものにできなかった遥より、常に俺に寄り添っている綾の方が、失いたくない存在になっていた。

それでも、綾の要求をのんで、飲み会へ行くことをやめようとは思わなかった。

綾はいつも10時くらいまでバイトして、そのあと俺のアパートで待っている。
俺が帰るのは大体深夜0時前後だ。

明日飲みに行ったとしても、そのくらいの時間に帰ってやれば、綾の機嫌も直るだろう。

俺は簡単にそう考えていた。

No.27 14/07/26 16:01
匿名10 

うわぁ~ん(//∇//)

早く先が気になります~

  • << 29 10番さん お返事書きましたので↓こちらまでよろしくお願いします♪ http://mikle.jp/threadres/2107239/

No.28 14/07/26 17:23
小説大好き0 

次の日、俺は上野にある居酒屋に向かった。

駅を出て、不忍通りを歩き出してすぐに、後ろから人がぶつかってきた。

「タクミン!」

遥が勢いよく背中に抱きついていた。

「遥〜」

俺は呆れながら遥を引っぺがした。

「相変わらずビックリ箱みたいなヤツだな」

「タクミンこそ、相変わらず地球最後の日みたいな顔しちゃって〜」

遥はシンプルなワンピースにジーンズという服装に、高校時代にはしていなかった化粧を薄くしていた。
少し大人っぽくなったように見える。

「タクミン、痩せた?」

「背が伸びたんだよ」

やっぱり顔を合わせた途端に高校時代の感覚に戻る。

一年半のブランクなどまったく感じさせない。

今日は誰が来るのかなど話しながら歩いているうちに、光輝から聞いた居酒屋についた。

「やっほー!」

遥がそう言いながら座敷に入ると、もう15人くらい集まっていたヤツらが「遥!」と言って遥を囲んだ。

相変わらず、1人でその場の空気を持って行ってしまうのが遥だった。

俺と遥が来た後の15分位で残りの参加者も揃い、適当な雰囲気で飲み会は始まった。

遥は昔とまったく変わらない雰囲気で、あちこち動き回り、大きな声で笑っていた。

俺も久し振りに会う顔が多くて、色んなヤツと話が弾んだ。

「タクミン、おまたせ!」

一通りの人間と絡んで気が済んだようで、遥は自分のグラスを持って俺の隣に座った。

「待ってねぇし」

「もー、相変わらずツレないんだから」

No.29 14/07/26 17:29
小説大好き0 

>> 27 うわぁ~ん(//∇//) 早く先が気になります~ 10番さん
お返事書きましたので↓こちらまでよろしくお願いします♪
http://mikle.jp/threadres/2107239/

No.30 14/07/26 18:00
小説大好き0 

遥は自分のグラスを俺のグラスに軽く当てた。

「改めて再会を祝してかんぱーい」

「はいよ」

「タクミン、学校どう?」

「忙しい。遥は?」

「休学する!」

「はぁ?」

「ちょっくらオーストラリアに行ってくる!」

話の飛びっぷりが相変わらずだ。

遥と歳の近い叔母がオーストラリアの人と結婚して向こうに住んでいて、昔から語学留学したいと言っていた遥を呼んでくれたのだそうだ。

「何年の予定なんだ?」

「まだわからない。語学学校の後、もしかしたら向こうの大学に入るかもしれないし」

「遥、英語得意だったもんな」

なんというか、久し振りに会ったと思えば、やっぱり遥はどこかへ行ってしまう。

やっぱり俺は苦笑いするしかない。

「タクミン、彼女できた?」

「できた」

「どんなこ?」

「遥と真逆な女」

「そりゃ、いいこだ!」

「だろ?」

本当は遥と顔を合わせるまで、少し不安だった。

俺はいま、遥をどう思うのか。

遥は、やっぱり高校時代というあの時だったから、恋愛感情かどうかわからなくなるほど大切に思った女なんだ。

いまの俺の女は、綾だ。

「タクミン、どうりで顔つきが優しくなった」

「適当なこと言うな。さっきは『地球最後の日みたいな顔』とか言ってただろ」

「そうだった?」

遥はそう言って声をたてて笑った。

No.31 14/07/26 20:37
小説大好き0 

11時に一旦お開きになった。
物足りない連中は二次会に行くらしい。

「タクミン、帰るの?」

居酒屋の前で遥が言った。

「ああ、帰るわ」

「彼女が待ってるんでしょ」

「うるせぇな」

遥は高校の卒業式の日と同じように、俺に抱きついてきた。

「タクミン、大好き!」

あぁ、俺も遥が好きだ。

遥はいつになっても遥のままだ。

でも、もう俺も遥も高校生じゃない。

遥は遥の思うようにスッ飛んでいけばいい。

俺は俺でなんとかやっていく。

体を離した遥に、俺は手を差し出した。

「遥、頑張れよ」

俺がそう言うと、遥は思い切りよく、俺の掌を良い音をさせて叩いた。

「タクミンもね」

俺は他の連中にも適当に挨拶して、駅に向かった。

遥。

変わった女で、面白い女で

本当に俺の大事な友達の遥。

やっぱりお前はいい女だと言ってやりたかった。

でも、どんなに遥がいい女でも、俺はやっぱり綾がいまは一番大事だ。

遥みたいにどこにスッ飛んで行くかわからないような女の相手は、俺には務まらない。

そうだ。
綾はいつも俺のそばにいてくれる。

俺は綾が好きだ。

俺は、大事なものは、いつも自分の近くに置いておかないと安心できないんだ。

綾に、そう伝えたら、綾はなんて言うだろう。

俺は駅に向かって歩きながら、綾に早く会いたいと思った。

No.32 14/07/27 08:04
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日付が変わる前にアパートに帰った。

でも、綾はいなかった。

テーブルの上にメモが置いてあった。

『今日は帰るね』

ときどきそういうことはあった。

帰りが遅くなる日が続いたり、俺のところに泊まったりした後は、『そろそろ親に叱られるから』と、綾は俺を待たずに帰ったりした。

でも、昨日あんな態度を見せた後だったから、俺は気になった。

>>ただいま。ちゃんと帰れたのか?

俺は綾にメールを送った。

するといつもと同じくらいの早さで

>>おかえり。 ちゃんと帰ったよ。

と返信があった。

とりあえず返信があったことに安心した。

でも、綾に会いたかった。

いま、俺が大事なのは綾なんだと、伝えたかった。

メールなんかで伝えたくなかった。

綾の顔を見て、綾を抱きしめて、伝えたかった。

せめて電話で伝えようかと思ったが、やめた。

綾とはまた学校で会える。

綾を怒らせてしまい、それでも俺は遥と会った。

でもそのお陰で、俺は綾への気持ちをはっきり自覚することができた。

これから綾を、もっと大事にしよう。

春になれば、俺も綾も就職だ。

学校という場がなくなっても、俺は綾を手放さない。

この頃の俺は、馬鹿だった。

もう20歳だというのに、ひとりよがりで、一番大事な女のことを本当には理解できないでいた、ガキだった。

No.33 14/07/27 17:50
小説大好き0 

そんなことはあったが、その後の綾は以前と変わらず俺のそばにいた。

俺も綾も就職は内定しており、俺は相変わらずの毎日だった。

卒業しても、俺も綾もまだ20歳で、これから社会人になるという時期では、まだ結婚は現実的な話ではなかった。

同棲も考えなくはなかったが、俺の頭が古いのか、いっしょに暮らすのは結婚するときという意識があった。

綾は相変わらず穏やかで、俺は遥の件で綾を怒らせたことを次第に忘れた。

俺が遥に会った飲み会の日、綾がいなかったことで、俺は綾に対する気持ちを伝えるきっかけを失った。

以前と変わらない綾を前にして、あらためてなにかを伝えるのは、気恥ずかしかった。

そして俺と綾は2年間の専門学校を修了し、それぞれ違う職場で働くことになった。

綾は親戚の紹介で、新宿にある設計事務所の事務兼任のCADオペレーター、俺は東京郊外にあるそれほど大きくはない建設会社に入社した。

施工管理をやりたかったのだが、欠員のあった積算の方に配属された。

要は図面を見て使用する材料の選定と数量を拾い出す仕事だ。

もちろん、新卒で入社したばかりの俺は、現場の経験もなく、先輩社員の指導を受けて補助的な仕事をするところから始まった。

最初に俺の指導係になった加山さんという30代の男性社員は、ちょっと暗い感じの人だったが、まぁそれなりに普通に指導をしてくれた。

現場に出ずに机に向かうことが多かったが、もともと図面を見るのは嫌いじゃなかったし、案外細かい仕事に向いているのだと自分で思うくらい、仕事は面白かった。

No.34 14/07/27 18:13
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綾とはお互い就職したばかりで忙しく、なかなかゆっくり会うというわけにはいかなかった。

俺が就職した会社は一言で言えば中小企業だった。
土曜は交代で隔週休みというのは完全な建前で、仕事に慣れない俺は日曜しか休めなかった。

綾は土曜の夜に俺のアパートへ来て泊まっていったり、日曜の午前中に来たりした。
最初はそれも毎週とはいかず、月に2回とかにもなった。

それでも学生時代も忙しかった俺に慣れている綾は、アパートにくるとやっぱり一緒に昼寝をしたり、飯を作ってくれたり、会えば以前と変わらない雰囲気だった。

そんな毎日の繰り返しで3ヶ月ほど経ち、俺も少し仕事に慣れてきた。

ところがその辺りで、俺の指導係だった加山さんが体調不良で休みがちになった。

最初は風邪で1日2日休んでいたのが、1ヶ月もすると、休職ということになっていた。

経験の浅い俺では、加山さんがやっていた業務などとてもこなせない。

そこで加山さんの1年先輩に当たる主任が新たに俺の指導係になることになった。

金井さんというこの主任は、加山さんとは違い、明るくて人当たりのいい男だった。

ただ、それはあくまでもただの印象だった。

一緒に仕事をするようになってすぐに、加山さんは俺のことを根掘り葉掘り聞いてきた。

どこの出身か、どこの専門学校に行ったか、その辺はまだいい。

彼女はいるのか、この会社の女の子なら誰が好みか、そんなことを聞いてくる。

馬鹿か。

そう思った。

No.35 14/07/27 18:21
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>> 34 ☆訂正☆
>>一緒に仕事をするようになってすぐに、加山さんは俺のことを根掘り葉掘り聞いてきた。

正)
>>一緒に仕事をするようになってすぐに、【金井】さんは俺のことを根掘り葉掘り聞いてきた。

すみません

No.36 14/07/27 19:35
小説大好き0 

でもまあ、まだその程度ならただのお喋り野郎で済ませることもできる。

だけどこの金井という男は、まず俺に休職した加山さんの悪口を言いたい放題言った。

あいつは無能だった。
現場の経験が浅いくせに知ったかぶっていた。
あいつのミスを何度も尻拭いさせられた。

そして加山さん以外の人間も、いちいち個人名をあげては批判する。

そして、誰と誰が付き合っているだの、不倫しているだの、誰は誰にフラれただの、それほど多くもない社内の人間の噂話を事細かに話して聞かせる。

……仕事しろよ。

俺は3日でゲンナリした。

金井が言うには、自分は前社長で今は会長の甥にあたり、いずれはこの会社は自分が継ぐのだと。

これには思わず失笑した。

今の社長は会長の息子で、まだ50歳前だ。
社長の息子も30代で、やはりこの会社で働いている。

どこに金井の出る幕があるのだ。

でも一番問題だったのは、金井は仕事ができないことだった。

以前は施工管理もやっていたらしいが、どうもメチャクチャな仕事ぶりだったらしい。
おまけに取引先や下請けを何度も怒らせるようなミスをして、それで社内に引っ込めたらしい。

俺のようなペーペーが見ても、こいつは図面を読めないのかと思うような有様だった。

それでも、他のベテラン社員がどうにかフォローしてなんとか回してる状況だったのだが、加山さんが休職したら、今度は俺の教育係に出しゃばってきたらしい。

俺にはいい迷惑だった。

No.37 14/07/27 20:02
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「災難ですね」

そう声をかけてきたのは、経理をやっている俺より2年先輩に当たる、宇田川さんという女子社員だった。短大を出て2年目なので、歳も2歳上だった。

俺は昼休みに会社の近くのファミレスにいたのだが、後から1人で食事に来た宇田川さんが俺の前に来て「一緒にいいですか?」と言ったのだ。

「災難?」

「金井さんですよ」

「あぁ」

ここで宇田川さんと一緒になって金井の悪口を言うわけにもいかない。
俺は簡単に答えた。

「加山さんが休職したの、金井さんが原因ですよ」

「へぇ」

「まぁ、パワハラですよね。金井さん、自分ができない仕事は全部加山さんに押し付けて、成果が上がれば自分の手柄、ミスがあったら加山さんのせい。そんな感じだったから。加山さんの体調不良って、鬱病です」

なるほど。
まぁあの男がやりそうなことだ。

「だから進藤さんも気を付けた方がいいですよ。油断してると潰されちゃいます」

「そうすか。まぁ気を付けます」

「私、進藤さんのファンなんです」

「は?」

「ふふ、だから金井さんには負けないで欲しいと思って」

「はぁ」

物好きな女だ。

まぁそこそこ可愛い雰囲気の女だが、興味はない。
俺には綾がいる。

そういえば、独身の金井はこの宇田川さんがお気に入りのようで、よく「宇田川さんて彼氏いるのかなぁ」とか言っている。

……アンタこそ気を付けた方がいいよ

俺は心の中でそう思った。

No.38 14/07/28 10:25
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金井のお陰で変に神経をすり減らす毎日が続いた。

金井の指示も指導もいい加減なので、勢い残業も増え、日曜すら休めないこともあった。

そのため、綾に会えない日が続いた。

綾に会社の愚痴など言ったことはなかったが、察しのいい綾はときどき返事のいらないメールを寄越してくるくらいだった。

綾だから。

俺はそう思って安心しきっていた。

でも、綾はそうじゃなかった。

>>明日休めそうだ

9月のある土曜日、俺は綾にそうメールした。

>>明日行くね

綾からそう返信があった。

日曜の昼過ぎ、綾は俺のアパートにやってきた。
会うのは3週間ぶりだった。

部屋に入ってきた綾は、俺の前に座ると、バッグからスペアキーを出してテーブルに置いた。

「たくちゃん。これ返す」

「え?」

俺はテーブルの上にある肉食恐竜のフィギュアがついたキーホルダーを見た。

あぁ、こいつはスピノサウルスだ。
中生代白亜紀。
ジュラシックパークに出たヤツだ。
渡したときに、綾にそんな薀蓄を語ったような記憶が蘇る。

「もう、ここには来ない」

綾は、背筋を伸ばし、正面から俺を見て、そう言った。

「………なんでだよ」

そう言いながら、俺は頭の隅で、綾がこんなことを言い出すのも当たり前だと、冷静に考えていた。

No.39 14/07/28 10:39
小説大好き0 

「好きな人がいるの」

綾はそう言った。

綾の言う好きな人とは、綾がバイトしていたドーナツ屋の常連だった男だった。
そいつは30歳、バツイチだが、子どもはいない。
大手のコピー屋の営業をしている男で、綾のバイト先でよくコーヒーを飲んでいたそうだ。
専門学校を卒業する半年くらい前から、ときどき声をかけられていた。

綾は最初はそいつに興味などなかったが、卒業してバイトを辞めるときに、連絡先は教えた。

綾は就職してから、そいつに誘われて、何回か食事に行ったりした。

そいつは、綾が俺と付き合っていることを知っていた。
それでもいいから、付き合って欲しい。

綾は何度もそう言われた。

「………そいつと、付き合うのか」

「うん」

「もう、決めたんだな」

「うん」

本当は、綾を追求したかった。

なぜだ。
どうしてそんなバツイチ男のほうがいいんだ。
俺を嫌いになったのか。

でも、俺はそんなことは言えなかった。



なぜなら俺は。



一度も綾に好きだとも愛してるとも言ったことがなかったからだ。

No.40 14/07/28 11:25
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「………遥のこと、まだ気にしてるのか」

きっかけと言えば、ただ一度だけ綾が怒った、あの一件しか思いつかなかった。

「………あのことだけが原因じゃないけど、関係なくはないかな」

「本当に、遥はそういう関係じゃないんだけどな」

「分かってるよ。だけど、それだから余計に気になった」

俺は、そのとき初めて、失敗を痛感していた。

遥と会ったことは、別に構わなかったと、いまでも思っている。

でも、綾があれほど気にしていたことを分かっていて、なぜフォローのひとつもしてやれなかったのか。

なんで俺は、いま俺が好きなのは綾なんだと言わなかったんだ。
なんで俺は、いま俺が一番大切に思ってるのは綾なんだと言わなかったんだ。
なんで俺は。

綾がいなくなったら困ると、綾に言わなかったんだ。

出会ったときから、全身で俺を好きだと表していたような綾。
俺がなにをしても怒らない綾。
いつも俺のことを考え、俺のためになにかをしていたような綾。

その綾を安心させてやるようなことを一言も言わなかったのは

俺だ。

いつか茨城の海で思った。
穏やかな海が綾のようだと。

でも俺は忘れていた。
海は荒れることもあることを。

そんな簡単なことも忘れるほど、俺は綾に甘えきっていた。

大事なものは手元に置いておかないと安心できない。

手元に置いておくだけではダメだった。

大事にしないと。

壊れてしまう。

俺はそんな簡単なことも分からないような、馬鹿なガキだった。

No.41 14/07/28 11:57
小説大好き0 

☆感想スレ☆
たてさせていただきました。
読んでくださっている方がいらしたら、よろしくお願いします(´∇ ‵*)
http://mikle.jp/threadres/2121087/

No.42 14/07/28 12:45
小説大好き0 

綾が友達から「なんで進藤くんと付き合ってるの?楽しい?」とか聞かれていたことは知っている。

俺の友達から「もっと綾ちゃんを大事にしてやれよ」と言われたついでに、そいつの彼女の話ということで聞かされたりしてたからだ。

綾は、そんなことは気にしなかった。

綾はそれでも俺が好きだから、俺のそばにいたんだろう。

そう。
綾はおとなしいだけの女じゃない。
芯が強くて、意思が固くて、頑固なところがある女だった。

だから周囲からなんと言われようと、俺のそばにいた。

その綾が、俺と別れると決めた。

そのバツイチの男に惚れたから、俺と別れることに決めたんだろう。

きっと、迷っていたに違いない。

俺と過ごした時間と、新たに現れた男との間で、迷って、考えて、そして

その男を選んだんだろう。

引き止められなかったのは、俺のせいだ。
俺が、綾をもっと大事にしていたら、大事に思う言葉を口にしていたら、もしかしたら綾はこの先もずっと俺のそばにいてくれたのかもしれない。

でも、もう遅い。

俺には綾を引き止めることはできない。

「ごめんな、綾」

俺は綾にそう言った。

綾は一瞬泣きそうな顔をしたが、唇を噛んで首を小さく横に振った。

本当はなりふり構わずに、好きだと言って抱き締めて、俺のそばにいてくれと言えば良かったんだろうか。

でも、俺にはそれはできなかった。

No.43 14/07/28 14:22
小説大好き0 

その日、俺は冷蔵庫にあった酒を片っ端から飲んで、気が付いたら眠っていた。

目が覚めたのは、朝だった。

頭がガンガンした。

それでも、その頭痛のお陰で、綾のことを考えずに済んだ。

考えたって、綾は戻らない。

俺は吐き気を堪えながら食パンをコーヒーで流し込み、シャワーを浴びて会社に向かった。

最悪の気分だった。

それでも会社に行けば、また違う最悪な気分が綾のことを忘れさせてくれる。
その日も金井は反吐が出るような仕事ぶりだった。

機械的に飯を食う。
会社ではどうしようもない人間に従いながら仕事をこなす。
アパートに帰って酒を飲んで寝る。

その繰り返しだった。

綾を失った喪失感は、そんな毎日をこなしているうちに薄まるのだろうか。

いつか俺でも心の底から綾の幸せを祈ってやれるようになるんだろうか。

そうやって1ヶ月が過ぎたころ、金井が大失敗をやらかした。

けっこう大きな案件の積算を、金井が間違えたのだ。

本当は他の人間がやるはずだった案件に、横から手を出してきたのが金井だった。
それでまんまと図面を読み違えた積算をし、会社はその案件を受注できなかった。

ウチの会社としては大きな金額だった案件を逃した。

前までならその仕事の面倒なところは全部加山さんにやらせて、金井は成果だけ持って行ったんだろう。
しかし、今回は加山さんがいない。

なんとなく流れを察していた俺は、金井がどうするのかと、陰でほくそ笑んでいた。

No.44 14/07/28 15:03
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「進藤くん、ちょっといい?」

俺が金井に手招きされたのは、金井の失敗が明らかになった2日後だった。

金井が会長のところに何度も行っていたのは知っている。
会長は妹である金井の母親を可愛がっており、自動的に金井も溺愛している。
だから金井は会長に泣きついて、今回の失敗を不問にしてもらおうと工作しているのだろうと思っていた。

俺が席を立つと、金井は俺を会長と社長が使っている部屋へ連れて行った。

部屋へ入ると、会長と社長、そして積算部門の部長がいた。

「進藤くん、金井くんから話は聞いたけど」

部長がそう言い出して、嫌な予感がした。

金井は自分のミスを俺のミスに仕立て上げていた。

俺がやりたいと言ったので、今回の積算の大部分を俺に任せたと。
金井は忙しくて、チェックが甘くなったと。

そんな馬鹿な話があるか。
この積算は、会社と昔から取引のある大事な客先からの仕事だった。
内容も多岐に渡り、規模も金額も小さくない。

そんな仕事を、まだ経験の浅い、入社1年目の人間に任せる馬鹿がどこにいる。

部長の話を呆然と聞きながら、俺はストーリーが作られていることを感じた。

会長は馬鹿じゃない。
なのに、いい歳したこの出来損ないの甥を可愛がっている。
でも、昔からの客先の信用を大きく損なうわけにはいかない。

今回の失敗を、新人の勇み足にして、言い訳しようというのではないか。
この先、他の仕事で多少無理を聞けば、客先も取引をやめるとまでは言わないだろう。

そして金井を庇うこともできる。

俺も、新人ということで、今回はお咎めなしにしてやる。
だから余計なことは言わずに、黙って言うことを聞けばいい。

そんなストーリーが見えるような気がした。

No.45 14/07/28 17:16
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俺は、なにも言わなかった。

部長が説教めいた話をし、金井はどこか偉そうな口調で部長に同調し、社長は会長の意向を伺い、そして会長は「まぁ、今回は残念だったけど、進藤くんもこれからは金井くんの指導の元で成長してもらって、頑張ってくれればいいから」と話を締めくくった。

俺がなにも言わなかったのは、怒っていたからではない。

この出来損ないの茶番劇を客席から観て、大笑いしたいのを堪えていただけだ。

こんな茶番しか演れない役者の下で働いている自分を、笑いたいのを堪えていただけだ。

俺は一人部屋から出されると、自分の机に戻り、パソコンから社内の申請書類を引っ張り出した。

もちろん、「退職願」だ。

もし、綾と別れていなかったら、ここで辞めようとまでは考えなかったかもしれない。

まぁ、金井から離れるために、現場や営業に回してもらうよう、希望くらいは出したかもしれないが。

綾もいない今、こんなクソみたいな会社にしがみつく意味はないと思った。

加山さんは心を病んだが、俺はそこまで会社に忠誠を尽くすつもりはない。
というより、そこまで忠誠を尽くす価値のある会社じゃないと思った。

学生のころ、バイトしていたファミレスや、単発で働いた引越屋、高校生のころバイトさせてもらった親父のスーパー。
いろんな人間を見たが、金井ほど腐った人間は見たことがなかった。

個人の性格、能力、やる気、相性、いろんな人間を上に立つ者は上手に使い、その労働への対価として給料を払う。
働いている人間は、多少誰かと相性が悪くても、仕事上はどうにか折り合いをつけて自分の能力で働く、それも給料への対価の一部だ。

それが仕事だと思っていた。
商売人の子として育った、俺の感覚だ。

別に一族経営の会社で、身内が優遇されているのは構わない。
仕事さえちゃんとしてくれればいい。
中小企業なら、そんな面がプラスに働くこともあるだろう。

でも、金井のような無能で腐った人間を、身内だという理由だけで庇うような会社、先は見えている。

こんな体質の会社では、ろくな物は作れない。

もう、この会社には用はないと思った。

No.46 14/07/29 09:55
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会社を辞めるなら、金井に言いたいことを言ってやろうか、下っ端の俺にすら分かったような不始末をバラしてやろうか、そんなことを少し考えた。

でも止めた。

俺はもうこんな会社は辞めるんだ。
馬鹿に付き合っている暇はない。

部長に退職願を渡すと、部長は一応慰留した。

面倒なので、親父を病気にした。
親父が倒れたので千葉の実家に帰って、兄貴を手伝うと。

もちろん親父はピンピンしているが、まぁ勘弁してもらおう。

あの騒ぎの直後で、部長も金井も、俺がなぜ辞めると言い出したのかは分かっていたはずだ。

それでも俺の作り話の真偽は追及されず、退職願を出した次の日から俺は実家に帰ると言って会社を休んだ。

一応、ネットで調べて、退職の日付は2週間先にした。
でも、入社後まだ半年経っていない俺には有休はない。
当然、欠勤扱いになって、日割りで給料が引かれる。
辞めた後も失業手当は給付されない。

このままでは食っていけない。

そこで俺は、休んだ日に最寄り駅へ行って、求人のフリーペーパーをもらってきた。

※アルバイト募集※
『倉庫内業務・配送業務補助』

俺のアパートから自転車で20分くらいの場所にある会社だった。

俺は履歴書を買って帰り、その会社に電話をかけた。

次の日には面接に行った。

50歳にも40歳にも見える人の好さそうな社長と、年増の女が俺を面接した。

今の会社を辞める理由は、「向いてなかったので」とだけ言ったが、社長も年増もあまり突っ込んで聞いてこなかった。

社長が「いつから来られる?」と言ったので、「今日からでも大丈夫です」と言うと、「じゃあ明日8時に来て」と言われた。

「社長、この子、フォーク乗れるみたいよ」

横にいた年増が、俺の履歴書を見てそう言った。

資格のところに、普通自動車免許とフォークリフト免許と書いたからだ。

「建築の学校で免許取れるの?」
社長も履歴書を覗き込んでそう言った。

「実家がスーパーやってるんで、手伝うために18になってすぐ取りました」

No.47 14/07/29 10:38
小説大好き0 

本当のところは少し違う。

俺は高校生になると、親父のスーパーでアルバイトをしていた。
男なので、裏方ばかりやっていた。

バックヤードにいたニーチャンオッサンたちは、みんな社長の息子である俺を可愛がってくれた。
休憩時間になると、ライトバンやトラックを敷地内で練習させてくれたり、俺が乗りたいと言ったので、フォークリフトも教えてくれた。
田舎のスーパーなので、敷地がやたら広いのだ。

お陰で、車の免許は教習所に通わずに、18歳になってすぐ、試験場一発で通った。

そこで俺は親父に頼んで、フォークリフトの技能講習に通わせてもらった。
車の免許取得に金をかけなかったし、俺がフォークの資格を持っていれば役に立つと思ってくれたのか、そっちの費用は親父が出してくれた。

実際は、俺は高校を卒業してからは、ほとんど親父のスーパーを手伝ったりしていないから、役に立ったと言えるのは高校卒業までの間だけだったが。

「どのフォークもいける?」

「大体できます」

「それはいいなぁ」

社長は喜んで、俺はフォークリフトの資格のお陰で、求人内容よりも高い時給で雇ってもらえることになった。

親父と親父のスーパーにいるニーチャンオッサンたちに感謝した。

No.48 14/07/29 10:58
小説大好き0 

退職日付に書いた日、俺は手続きのためにアルバイトを休んで出社した。

一応、部長や金井、同じ部署の社員には「お世話になりました」と頭を下げた。

金井がニヤニヤしながら「いいねぇ、避難できる場所があると、逃げ帰れて」と言ったときには殴ってやろうかと思ったが、どうにか堪えることができた。

俺は総務に行って退職関係の書類をもらい、早々に会社を出た。

「進藤さん」

会社を出て少し行ったところで、経理の宇田川さんが立っていた。

「どうしたんすか」

「銀行に行くの」

「お世話になりました」

俺はそう言って歩き出したが、宇田川さんが付いてきた。
俺は駅に向かうのだが、銀行も駅周辺なのだ。

「私、進藤さんのこと応援してたのに、やっぱり金井さんのせいで辞めちゃうのね」

「…………」

うるさい女だ。
クソみたいな会社に見切りをつけだだけだと言ってやりたかったが、負け犬の遠吠えになりそうなので黙っていた。

「怒った?ごめんごめん」

宇田川さんは気にした様子もなく、機嫌よく早足の俺に付いてくる。

「ねぇ、今夜暇なら飲みに行かない?送別会」

「遠慮します」

「彼女に義理立て?」

「…………」

「行こうよ」

なんか面倒くさくなって、つい「わかりました」と言ってしまった。

いや、そうじゃない。

俺の気持ちなどお構いなしにポンポン話しかけてくる口調が、少しだけ遥に似ていたのだ。

でも、あくまでも少しだけだ。
別に、この女を気に入ったわけじゃない。

ただ、この女なら余計な気遣いは無用なのかもしれないと思った。

駅に着くまでの間に携帯で連絡先を交換させられ、夜どこかで飲むことを約束させられた。

No.49 14/07/29 13:39
小説大好き0 

場所は池袋にした。
宇田川さんがどこに住んでいるのかなど知らなかったので、単に俺が行きやすかったので決めた。

パルコの下で待ち合わせた。
時間ちょうどに着くと、宇田川さんもほぼ同時くらいに来たようだった。

「来てくれないかと思った」

「どうして」

「気分が乗らないみたいだったから」

「まぁ酒は飲みたい気分なんで」

適当に目についたチェーンの居酒屋に入った。

宇田川さんは酒が強かった。
最初の中ジョッキを俺と同じペースで空けると、そのあとはジントニックに変えて美味そうに飲んでいた。

うるさい女だというイメージしかなかったが、案外さっぱりした性格で、一緒に飲むには悪くないと思った。
下の名前が「翔子」というのも、この日初めて知った。

「進藤さんが辞めて残念だな」

「俺、もう会社辞めちゃったし、俺の方が歳下なんだから、『さん』はやめてくださいよ」

「じゃあ『たくちゃん』」

「それはやめてください。別れた女がそう呼んでたんで」

「あらま。じゃあ『匠くん』」

「まぁ好きに呼んでください」

「そっちも敬語やめてくれる?仕事してるみたいで肩こるから。『翔子』でいいし」

うるさいけど、面倒くさいところのない女だと思った。

俺はここのところ酒の量が増えていたので、結構早いペースで飲んでいたが、翔子も似たようなペースでグラスを空けた。

No.50 14/07/29 16:48
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「金井には気をつけたほうがいいよ」

余計なお世話と思いつつ、俺は翔子にそう言った。

「私は仕事ではほとんど絡まないもん」

「あいつ、翔子さんのことお気に入りだったよ」

「私、色白でムチムチした男は嫌いなのよね。なんかあの人ネバネバしてるし。だから何回か食事に誘われたけど、断った」

「彼氏いるんだろ?」

「まぁね」

「ふーん」

「匠くんはさっき『別れた女』とか言ってたけど、最近のこと?」

「1ヶ月くらい前」

「じゃあ寂しいでしょ」

「別に」

「慰めてあげようと思ったのに」

「ひとの物には興味ないんだよ」

「ひとの物だから気楽っていうこともない?」

「フン」

いくら俺でも、翔子が誘ってきていることは分かる。
このままホイホイ乗っかってしまっていいものか。

「前に言ったでしょ、ファンだって」

「物好きな女だな、って思ったよ」

「見るからに優しそうな男にも、あんまり興味がないの」

「Mなんじゃねぇの?」

「かもね」

翔子とは妙に話が合った。
というより、今日会ったときに感じたように、余計な気遣いは必要のない女だった。

No.52 14/07/29 20:04
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>> 51 えーと
小説でオールフィクションなので、お許しくださいな
もし良かったら感想スレにお願いします
読んでくださってる方もいるので
m(_ _)m

No.53 14/07/30 09:32
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結構飲んで、携帯で時間を見たら、10時半だった。

「そろそろ帰るか」

俺はそう言って、残っていたウーロンハイを飲み干した。

「帰るの?」

「帰らねぇの?」

腰を上げかけた俺のシャツの裾を翔子が引いた。

「彼氏が浮気してた」

「へぇ」

俺は座りなおしてタバコに火をつけた。

「で?そのあてつけに俺と浮気し返したいわけ?」

「………わかんない。でも、寂しい」

『寂しい』

俺だって寂しい。

綾。

後悔ばかりだ。

「彼氏とはどんくらい?」

「2年くらい」

「好きなんじゃねぇの?」

「なんか、わかんなくなった」

「だからって、俺にちょっかい出すこともねぇだろ」

「匠くんは今の彼氏の前に付き合ってた人に、ちょっと似てる。喋り方とか、雰囲気が」

「今の彼氏と別れて、その元彼とやり直せば?」

「他の人と結婚しちゃった。それで寂しくて付き合ったのが今の彼」

「グダグダだな」

「匠くんは、グダグダじゃないの?」

「グダグダだよ。惚れてた女にフラれて、会社も辞めて」

「似た者同士でしょ」

「だからって、俺は翔子さんと付き合う気ねぇよ」

「付き合って欲しいなんて、言ってないよ」

No.54 14/07/30 10:20
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俺の中に、黒い感情が湧いていることに気付いた。

反吐が出るようだった金井。
金井のお気に入りの翔子。

金井が相手にされなかった翔子を抱いたら、溜飲が下がるだろうか。

………小せぇな、俺も

でも、それでもいいような気がした。

どうせ俺は、惚れた女も大事にできなかったんだ。

翔子も彼氏に浮気されて、俺にちょっかい出そうとするような女なんだ。

そして、俺も翔子も、寂しい。

最低な人間同士で傷を舐め合う。

「翔子さん。俺、めんどくさいことは嫌いだよ」

「私はめんどくさい女じゃないと思うよ」

利害が一致したということなのか。

「行こうか」

会計を済ませて店の外に出ると、翔子は黙って俺に付いてきた。

そしてそこから一番近いホテルで、俺は翔子を抱いた。

翔子を抱いているとき、「女も惚れてないヤツとできるんだな」と、変な感心をした。

それでも、寂しさは少し紛れた。

翔子も同じだったんだろう。

でも、やっぱりそれだけだった。

No.55 14/07/30 12:01
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アルバイトで雇ってもらった会社は発送代行の会社だった。

俺は主に倉庫でフォークリフトを操作することが多かった。

倉庫には男の社員が2人いて、俺に仕事を教えてくれた。
1人は30代後半で大川さんといい、もう1人は40代半ばくらいで瀬尾さん、2人とも既婚者だった。

2人ともフォークリフトの操作に関しては職人技だった。主に大川さんがフォークの指導をしてくれたが、お陰で俺もどんどん上達した。
大川さんは見るからに優しそうな人で、よく自分の子どもの話をした。

瀬尾さんとは、トラックでの配送でよく一緒になった。
瀬尾さんは無口で、俺もあまり喋らないから終始車内は静かなのだが、仕事のポイントはちゃんと教えてくれる人だった。

ただ俺はアルバイトだったので、ときどき人手が足りないと、梱包やピッキングの手伝いもやった。

そっちは倉庫の業務と違い、女だらけだった。
アルバイトや派遣もいないわけではないが、基本的にパートのオバチャンが仕切っている世界だった。

俺が入社した当時でも、常勤パートが30人以上いた。

最初は正直、引いた。

下は20代から上は60歳過ぎ。
年代は違っても、大半は主婦だ。

親父のスーパーでバイトしていたときも、レジや惣菜売り場に主婦パートはいた。
それでも俺はバックヤードがメインだったから、何十人もいるオバチャンに混ざって仕事をするのは初めての経験だった。

No.56 14/07/30 13:36
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最初は集団になったオバチャンの喧しさに驚いた。

さすがにオバチャンとはいえ、就業時間中は黙々と仕事をしているから、それはいい。

でも昼休みや3時休憩の休憩室の騒々しさは、俺の想像をはるかに超えていた。

タバコが吸いたくて休憩室の中の喫煙コーナーへ行くのだが、入ったばかりで、まだ若い男のアルバイトがもの珍しいのか、いろいろ話しかけてくるのには参った。

仕方なく、タバコは会社の外、飯は事務所のソファーや会社のハイエースを使わせてもらうようになった。

誰に話しかけられても、俺は元々口数が少ないので、オバチャンたちも次第に飽きたらしく、そのうちあまり話しかけられないようになった。

そんな中で、1人だけ変わらず俺を構うオバチャンがいた。
真田さんという60歳のオバチャンだ。
勤続20年近いベテランで、パートのリーダーをしている。
夫も子どももいるが、長男が俺と同い年らしく、なにかと俺に構ってくる。
性格は一言で言うと「がらっぱち」という感じで、口も悪い。
会社の主みたいなオバチャンだった。

真田さんは俺がハイエースの中で寝ていたりすると、自分が作ってきたおかずを持ってやってくる。

最初は遠慮していたが、何度も来るので断りきれず、食べ物をもらう。
俺が「美味い」と言うと、真田さんは喜んだ。

俺は作業場の仕事のほとんどを、真田さんに教わった。
俺でも重いと感じる荷物を、真田さんは小柄なくせにひょいひょい運ぶ。
細かい作業は恐ろしいほど手早くて、この人は老眼とは無縁だと思った。

真田さんには社長ですら頭が上がらない。
面倒みが良くて、経験の浅いパートさんの指導も上手かった。

会社の人間は真田さんを「オバァ」と呼んだ。
沖縄風に真田さんへの敬意を込めた呼び名だった。

No.57 14/07/30 17:37
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俺は真田さんを見ていて、こんなオバチャンもいるんだと感心した。

倉庫で一緒に働いている大川さんも瀬尾さんも普通にいい人だ。

前の会社を自棄になって辞めたような感じになって、正直気持ちはささくれ立っていたが、真田さんたちのお陰で落ち着いてきた。

落ち着いて周囲を見てみると、パートのオバチャンたちは相変わらず喧しいが、結構有能な人が多いのも分かってきた。

ただ、社員の野本という年増は厄介だった。
社長と一緒に俺を面接した女だ。

勤続は5年くらいだが、去年パートから社員になったらしい。
こいつはどうも社長の従兄弟にあたる部長とデキているという話だ。
お喋りなベテランのパートが俺に「だからあの人には気を付けなさい」と吹き込んだのだ。

社長はそれを知ってるのかどうかは分からないが、とにかく野本は陰で「女帝」と呼ばれるほど社内で力を持っているらしい。

それでも、前の会社にいた金井に比べれば可愛いもんだった。

強引な気分屋で、年増にありがちなひとりよがりな仕事をすることもあったが、現場のことはよく知っているし、普通に仕事をしている限りはなにも問題はない。

俺と絡む仕事もあまりないので、まぁあまり近寄らなければ済む話だった。

俺の時給は普通のアルバイトより高く、早出に残業、土曜出勤も結構多いので、月の手取りは前の会社より多くなった。

食いっぱぐれないために始めたアルバイトだったが、思ったより居心地は悪くなかった。

No.58 14/07/31 10:16
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アルバイトを始めて3ヶ月たち、年が明けた1月、社長から正社員にならないかと誘われた。

「いずれはどこかで正社員って考えてたんでしょ?だったらこのままウチに来ればいいじゃない。丁度ハローワークに求人かけようと思ってたところだったし」

建設業界に戻りたいという気持ちはあった。

でも、俺の経歴では大手への中途採用などまず無理だし、東京周辺の中小企業となるとどこかで金井と関わりがありそうな気がする。

金井などどうでも良いが、ヤツとトラブって入社半年で会社を辞めたことが原因で面倒なことが起きたらと思うとウンザリした。
どこの現場で前の会社と関わりができるかわからない。

今の仕事は性に合っている。

フォークリフトやトラックに乗るのは純粋に楽しい。
力仕事も細かい仕事も嫌いではない。

最初は喧しいとしか思えなかったパートのオバチャンたちにも慣れた。
愛想のない俺でも仕事さえちゃんとしてればオバチャンたちともそれなりに上手く付き合えたし、若い女が少ないのは、今の俺にとって逆にありがたかった。

それに、建築用語や図面、CADから離れることは、綾と過ごした時間を忘れさせてくれるような気もした。

まだ綾のことを引きずっている自分が女々しく思えたが。

そんなことを考えたりはしたが、20歳も過ぎた男がフリーターでいるのも情けないし、安定した仕事に就けるならそれに越したことはない。

だから俺は、ありがたく社長の誘いを受けた。

社長は入社祝いだと言って、お年玉をくれた。

業務内容は正社員になっても大して変わらなかったが、事務的な仕事が多少増えた。

ときどき「女帝」野本のヒステリーにも遭遇したが、俺は適当にかわしていたし、野本も無愛想で表情の乏しい俺には変に気を遣っているようで、それほど軋轢はなかった。

パートのオバチャンたちは今まで俺を「進藤くん」と呼んでいたが、正社員になってからはいつの間にか「進藤さん」と変わった。
ただ、真田さんだけは「進藤くん」と変わらず呼び、俺など小僧扱いだった。

No.59 14/07/31 12:34
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翔子からは月に2、3回メールがくる。
俺は疲れていなければ返信し、1、2ヶ月に一度くらい、予定が合えば会って一緒に飲んだ。

翔子は自分で言った通り、めんどくさいことは言わなかった。
俺がメールを返信しなくても気にしないようだったし、会ったときの感覚は完全に友達だった。

だから俺も翔子には余計な気は遣わなかった。

翔子が彼氏と上手くいってるかどうかも興味なかった。

ただたまに会って飲んで、お互い気が向いたらセックスして帰る。

まぁこれがセフレと言われればそれまでだが、俺はセックスしたくなったから翔子を呼び出すということはしなかった。

会ってそういう雰囲気になったらホテルへ行く。
だから寝不足だったり疲れていたら会わなかったし、会っても酒を飲むだけで別れるということも結構あった。

綾がいなくなって、しばらくは彼女と呼べる存在はなくてもいいと思っていた。

もう綾のときのような馬鹿な失敗はしたくない。

翔子は最初に彼氏がいると言っていたし、俺と付き合いたいわけでもないというのも本当のようだった。

翔子には遙に感じたような恋愛感情なのか友情なのかもわからないような気持ちも、綾のように常に側にいて安心して安らげるような気持ちも持たなかった。

他の男と付き合っている女と思えば、気持ちも深入りしなかった。

それでも、翔子は友達としてはいい女だった。

No.60 14/07/31 14:01
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会って飲んでいるとき、翔子に聞かれるまま綾のことを話した。
翔子に対して格好をつけようとも思ってなかった。

「それはフラれちゃうかも」

翔子も遠慮なしに思った通りのことを言った。

「俺でもそう思う」

「なんで『好きだ』の一言くらい言えなかったの?」

「さぁ。好きだと思ったときには見切りをつけられてたみたいだからな」

「どうせなにも言わなくても『こいつは俺に惚れてるから』って思ってたんでしょ」

ずけずけと痛いところを突いてくる。

「口下手なんだよ」

「それは見てればわかる」

「まぁ当分女はいいや」

「そうなの?………って、私も一応女なんだけど」

「俺の女じゃねぇし」

「そうするつもりもないくせに」

「まぁな」

「あー。今の『まぁな』って、元彼にすごい似てた。ねー、もう一回言ってみて」

「やだよ」

翔子とはいつもそんな感じだった。
ホテルにいても、そんな雰囲気のままだった。

お互い気楽なままそういう付き合いができるなら、別にそれはそれでいいかと思った。

No.61 14/07/31 17:05
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今の会社で働き始めて7年が経った。

会社は少し大きくなって、倉庫と作業場が広くなり、近くに別の倉庫も借りるようになった。

社員も増えて、俺の後に入社した社員も何人かいる。

ただ、俺が入社した時に仕事を教えてくれた瀬尾さんが、持病のヘルニアが悪化して故郷へ帰ると言って4年前に退職した。

その後に入社した俺と同い年の塚田という男は、穏やで落ち着いた性格で、前職は運送屋のドライバーだったこともあり、入社3年目になった今は瀬尾さんの抜けた穴も完全に埋められるくらいになった。

パートの人数も増えたが、「オバァ」と呼ばれていた真田さんは、去年辞めた。
既婚の長女と同居するために引っ越すとのことだった。

リーダーだったオバァの後任には、今年で5年目になる下川さんというパートがなった。
「オバァ」という会社の生き字引みたいな人の後任なので、パート主体の現場を管理する野本は悩んだらしいが、オバァが下川さんを推した。
下川さんはまだ30歳そこそこだが、仕事はほぼすべてこなせるし、なにより人柄が良く、年長者のパートでも下川さんなら仕切れるとオバァは言った。

俺は男で社員だから、外から見ているだけなのだが、常時40人以上パート主婦がいると、女同士ということもあって、人間関係がなかなか複雑だった。

少し長く働いている人間を中心に派閥ができる。
常に誰かと誰かがいがみ合っている。
外から見ている俺は面白がっていればいいが、それを仕切る野本やオバァは大変だった。

だけどオバァはその辺も上手く操って、逆に作業効率を上げていた。

いがみ合っている人間同士をわざと隣同士にして競争させるようにスピードアップしたり、仕事によって派閥の人間をくっつけたり離したりと、その加減が絶妙だった。

いつか俺が「オバァはウチの会社の諸葛孔明だな」と言ったら、オバァは「アタシはそんな頭脳明晰じゃないよ」と笑っていた。

オバァは息子に借りたマンガの三国志を愛読している人だった。

No.62 14/07/31 19:22
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「下ちゃんなら、猛獣みたいな連中、やんわり仕切って上手いこと回してくれるから、進藤くんも安心して見てられるよ」

オバァは下ちゃん、下川さんのことをそう評価した。

下ちゃんはオバァとはまったくタイプが違うが、確かに下ちゃんならオバァとは違ったやり方で、一筋縄ではいかないパートのオバチャン軍団を仕切っていけるかもしれない。

「オバァ、いつまで来られんの?」

「今月いっぱいは来るよ。まぁ倉庫の方はアンタや大川ちゃんがいれば安心だろ。アンタも入社したころに比べれば大分丸くなったからね」

オバァは俺のこともお見通しか。

「早く彼女作って結婚しな」

「余計なお世話だよ」

「この会社は女だらけだけど、みんな結婚してるからね。たまにバイトの女の子いても、アンタは愛想がないからみんな怖がって近寄らないし。せめて塚ちゃんくらいに優しく喋れればいいのにね」

「塚田は優しいんじゃねぇよ。事なかれ主義だから、誰にでも優しくしてるように見えるんだろ」

「そんでも塚ちゃんの方が人気あるじゃないの」

「この会社には結婚してる女ばっかだって言ったのはオバァだろ。オバチャン連中にモテたって意味ねぇし」

「そりゃそうだけどさ、会社の外でもそんな仏頂面してたら、女の子が近寄れないだろうに」

「あいにく女には困ってねぇよ」

俺がそう言うと、オバァは豪快に笑った。

そのオバァは、6月の終わり、会社のみんなに惜しまれながら、でっかい花束を持って退職していった。

No.63 14/08/01 11:30
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オバァが言った通り、後任となった下ちゃんこと下川さんは、リーダーになって約1年経つが、仕事をそつなくこなしている。

「下ちゃん、可愛いですよね」

後輩の塚田と2人で飲みに行ったとき、塚田がそう言った。

「へー。塚田はあぁいうタイプが好きなんだ」

「綺麗だし、優しくて素直だし、仕事はできるし。進藤さんは下ちゃんみたいなタイプ好きじゃないんですか?」

塚田は同い年の俺に対していまだに敬語をやめない。
まぁ、本人の好きにすればいいと思う。

「好きもなにも、結婚してるじゃねぇか。俺は人のものには興味ねぇんだよ。下ちゃん32か33歳だっけ?子どももいただろ」

「そうは見えないですよね。進藤さんより年下に見えますよ」

「俺が老けてるとでも言いたいのかよ」

「そういうわけじゃないですよ」

塚田は笑った。
なにを言っても爽やかに感じさせる男だ。
パートのオバチャンの中には塚田のファンも多いらしい。

「あーあ、彼女欲しいなぁ」

「そんなこと言って、お前こないだ俺を無理矢理連れてった合コンで『ピンと来ません』とか言ってたな。メアドとか聞かれてたじゃねぇか」

「進藤さんみたいに合コンで仏頂面してないから話しやすかっただけですよ。もう誰とも連絡してません」

「どうせメール来ても相手しなかったんだろ。塚田はニッコリ笑って相手を斬るタイプだからな」

「そんなことないと思うんですけどね」

No.64 14/08/01 11:58
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「塚田は理想が高すぎるんだよ」

「そういう進藤さんこそ、理想が高そうですよ。彼女いないんですか」

「俺はひとりが気楽でいいや」

そう言いながら、タバコに火を点けた。

綾と別れて以来、彼女と呼べる女はいない。

強いて言うなら、翔子とは友達なんだかセフレなんだか分からない付き合いがまだ続いている。

翔子は俺と初めて寝た日に言っていた男と、結婚するでもなく、どうやら別れたりヨリを戻したりしながらの付き合いが続いているらしい。
お互い他の相手がいたりいなかったりということもあるようだが、俺がなにも聞かないのではっきりとは分からない。

ただ、俺との付き合いは一言で言うなら腐れ縁で、その彼氏ともやっぱり腐れ縁という感じだった。

俺が翔子と会うペースは適当で、月に2回会うときもあれば、半年とか間が空くときもあった。

会ってもセックスはしたりしなかったりだ。

そういえばここ3ヶ月くらい、連絡すらとっていない。

まぁ、お互いその程度の関係ということなのか。

誰かと飲みたいときとか、人肌恋しいときとか、お互い都合のいいときにだけ会う関係だ。

それ以上でもそれ以下でもない。

めんどくさいことがなにもないから続いているんだろう。

No.65 14/08/01 13:06
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オバァは俺を丸くなったと言ったが、確か そうかもしれない。

同い年の塚田が入社して以来、会社の人間と飲む機会が増えた。

塚田は人当たりがいいので歳の近いパートとも仲がよく、俺もパート連中と一緒に飲みに行ったりするようになった。

リーダーになった下ちゃんや、下ちゃんと同い年のナカちゃんこと中澤なんかは、2、3ヶ月に一度は飲み会をするメンバーみたいになった。

パート連中と飲むのは気楽だった。

そもそもパートは既婚者ばかりだから合コンみたいにガッツいた空気はないし、歳が近いから話も合う。

俺の愛想のなさも口の悪さもみんな知っているから、俺も気を遣わなくていい。

職場に親しい人間は増えたが、俺は仕事中に必要のないことは喋らないし、パート連中はやっぱり噂好きで喧しいからあまり近寄りたくなかった。

俺も社歴が長くなったので、手を止めてくっちゃべってるパートには注意もするから、余計に煙たがられる。
「進藤さんてコワーイ」ってところだ。
まぁ言葉足らずなのは自分でも認めるが。

でも、オバチャン連中に好かれようが怖がられようが、俺は痛くも痒くもない。

会社では仕事さえしてくれればいいのだ。

それでも、下ちゃんたちが他のパート軍団に、俺のことを「仕事には厳しいけどいい人」とフォローしていることは知っているので、奴らには感謝している。

ちなみにそのことを教えてくれたのは、辞めたオバァだった。
もちろん、多分一番フォローしてくれていたのはオバァだと思うので、オバァには今でも頭が上がらない気分だ。

No.66 14/08/01 15:42
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9月の下旬、朝から暇だった俺が会社の前でハイエースを軽く水洗いしていると、まだ暑いのに紺色のスーツをきっちり着込んだ若い女が会社の敷地内に入って来た。

20歳そこそこに見えるその女は、辺りを見回してから困ったように俺を見た。

「すみません。面接に来た高橋つぐみといいます。入り口はどこでしょうか」

言葉はきちんとしているが、いかにもおっかなびっくりという感じで俺にそう聞いた。
ウチの会社は倉庫の前が大きく開いていて、その少し横にある事務所の入り口がわかりにくかったらしい。

「そのドア」

俺がそう言って指差すと、その女は「ありがとうございました」と律儀に頭を下げて会社に入って行った。

その後俺は洗車が終わったので倉庫の整理をし、昼前に事務所に戻ると、社長と野本がソファーで話をしていた。

「じゃあ社長、電話していいのね」

「うん、来週の月曜からでいいんじゃない?」

話の流れから、さっきの女のことだと分かった。

去年辺りから会社で請け負う仕事が増えて、勢い事務方の手も不足気味らしい。
先月辺りからハローワークで求人をかけていたようだが、社長と野本がさっきの女を面接して、目出度く採用されたらしい。

………気の毒に

思わず俺はニヤリとした。

野本とあと2人の女子社員がいるが、全員既婚者でパートからの昇格だ。
野本は50代、あとの2人は40代。
気分屋でヒステリー気味の野本と、野本に追従するばかりの残りの2人。

今日来たあの女はまだ若いから、事務所の雑用から作業場の手伝いまでなんでもやらされるのだろう。
となると、現場に出ればパートのオバチャン軍団にもまれながらの仕事となる。

事務所にいても、現場に出ても、一癖も二癖もあるようなオバチャンだらけだ。

2、3年前に事務所のアルバイトで入った20歳くらいの女がいたが、そいつは半年ももたずに辞めてしまった。
まぁ、俺から見ても使えない女だったから、元々向いていなかったのだろうが、同世代の同性の同僚がいない環境が若い女には厳しいことはなんとなく想像がつく。

さて。
今日採用されたらしいあの女は、何ヶ月もつんだろう。
気が強そうには見えなかったが。

いや。
何日かな。

No.67 14/08/02 10:38
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面接に来た次の週明けから、高橋つぐみが来るようになった。

野本が言っていたが、前職はデザイン関係ということで、事務経験なし、軽作業経験なし。

それを聞いて俺はまた「あの女も前途多難だな」と思った。

高橋は23歳。
ありふれた苗字の通り、これといって特徴のない女だった。

会社に来た高橋は、まず下ちゃんに預けられた。
最初は現場から、ということらしい。

下ちゃんはバランスのとれた人間だから、新人に辛く当たることもないし、甘やかしたり、指導に手を抜くこともない。
高橋も下ちゃんの横で仕事の段取りを覚えたり、パートのオバチャンに混ざって作業をするようになった。

事務所にいるときは、野本の下で、それこそ事務所や休憩室の掃除やゴミ捨てから、電話応対や書類の整理なんかもやらされていた。

畑違いの仕事ということと、元々あまり器用な方でもないらしく、俺が見ても悪戦苦闘しているのが分かった。

下ちゃんはともかく、野本は難しい女だから、野本が「こっちが先なんじゃないの?」とか言うキーキー声がときどき聞こえてきた。

高橋を見ていると、作業場にいても事務所にいても「はい」と「すみません」しか言っていないように見える。

………やっぱ数日コースかな

俺はあたふたと走り回る高橋を見てそう思った。

高橋が入社して半月くらい経ったころ、資材倉庫で高橋がゴソゴソとなにかをしているのを見た。

俺が資材倉庫に入ると、高橋は少し怯えたように見えた。
多分、愛想のない俺が怖いんだろう。

「すみません、オートテーパーってどれですか?」

お。
怖がってるくせに必要なことはちゃんと言いやがる。

「これだ」

俺が上の棚から取ってやると、高橋は「ありがとうございます」と言った。

てっきり俺は「すみません」が返ってくると思っていた。

そうだ。
仕事なんだから謝る必要はない。
誰かになにかをしてもらったら、礼を言えばいい。

なんとなく、こいつはもつかもしれないと思った。

No.68 14/08/02 11:55
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昼休みにコンビニへ行くと下ちゃんがいた。

「新人、どう?」

「高ちゃん?頑張ってるよ」

高橋は入社して半月だが、もう周囲から「高ちゃん」と呼ばれている。

「半月もたねぇかと思ったんだけどな」

「高ちゃんは大丈夫そうだよ。仕事はまだ慣れないみたいだけど、なんかあの子、すーっと周囲に馴染むタイプみたい。なんか何年も前からいるみたいに違和感のない子だよ」

「へぇ」

オバチャンだらけの職場に放り込まれて、その馴染み様か。

「人懐っこいようには見えねぇけどな」

「そういう感じでもないんだよね。誰にでも丁寧に話すし。なんていうのかな、毒がないんだよね。美沙なんかお気に入りだよ。いじって遊んでる」

「へー。ナカちゃんが。あいつ新人には厳しいのにな」

ちょっと意外だった。

パートの新人が入ると、たいてい最初の1ヶ月くらいは浮いている。
さすがに大人だから誰も苛めたりはしないが、ある程度仕事ができるようになる頃までは、あまり馴染めないことが多い。

パートは女ばかりだから、入社が近いとか歳が近いとか、子ども同士が同級生とかで固まっていて、なかなか新人は混じれない。
それでも下ちゃんあたりは新人によく声をかけたりしているが、それでも居心地は悪そうだ。

高橋はまだ若いし、独身だし、仕事もまだサッパリだが、それでオバチャン軍団に受け入れられているというのが、男の俺には謎だった。

ちょっと興味をもって高橋を見るようになった。

No.69 14/08/02 13:25
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特徴のない女。

高橋は確かにその通りの女だった。

まだ慣れないようで、仕事は手際がいいとはいえない。

野本にもよく叱られている。

その叱られている様子を見ていて俺は感心した。

野本はひとりよがりなところがあるので、勘違いや行き違いがあっても自分の責任を認めたがらない。

例えば高橋にやらせた仕事があるとする。
高橋は教わった通りにやる。
でも、その仕事は普段は教わった通りでいいのだが、月の特定の日にはやらなくてはいけないことが増えたりする。
でも野本は教えたと思い込んでいて、手順の違う処理した高橋を叱る。

すると高橋はじっと野本がギャンギャン怒るのを聞いている。
例によって合間に「はい」と「すみません」が出る。
高橋は言い訳をしない。

そのうち野本の気が済んでくる。
それを見計らったように、あらためて手順を確認する。
「教わっていない」とは言わずに「メモし忘れました」とか「確認していいですか」と聞く。

怒りの治まった野本に確認が終わると、「ありがとうございました。すぐやり直します」と言って仕事を処理する。

………なかなか賢いかもしれないな、こいつ

野本のヒステリーは聞き流すに限るとしか思っていなかった俺は、高橋のやり方を見て感心した。

No.70 14/08/02 14:40
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高橋はいつもニコニコしている。

事務所で野本やベテランのパートが一緒になって、ちょっとクセのあるパートや派遣の噂話や陰口を言っていると、高橋はただニコニコと聞いている。

パートのオバチャンに「彼氏はいないの?」とか「塚ちゃんみたいなタイプはどう?」とか言われても、ただニコニコと当たり障りない返事をしている。

自己主張もしない。
絶対に出しゃばらない。

意地の悪い女なら「良い子ぶってる」とか言いそうなものだが、高橋の場合は存在感が薄いから、そんなことも言われない。

高橋は、人畜無害を絵に描いたような女だった。

ストレス溜まらねぇのかな

高橋を見ていて、俺はそう思った。

周囲に気を遣いすぎだ。
気を遣ってるのに、誰もそれには気付かない。
なるべく目立たないように、高橋自身が振舞っているからだと思う。

俺は暇なときに行ったパチンコやスロットで取ったチョコレートや、コンビニで買ったお菓子を、「新人に食わせてやって」と、ときどき下ちゃんに渡した。

女なら甘い物でも食えば、少しはストレスも紛れるだろうと思った。

塚田あたりもたまにジュースやアイスをおごってやったりしているようだったが、俺は柄じゃないので、下ちゃんに任せるほうが楽だった。

誰かを面白い女だと思ったのは久しぶりだった。

そう。遥以来だ。

綾とは違う意味で、遥とは真逆な女だ。

綾を面白いと思ったことはなかったが、高橋のことは面白いと思った。

No.71 14/08/02 15:54
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久しぶりに翔子に会った。
この日は新宿で会ったが、例によって適当な居酒屋で飲んだ。

「面白い女がいるんだ」

俺が高橋の話をすると、翔子は「へぇ」と面白そうな顔をした。

「なんだよ」

「会社の話するなんて珍しいなと思って。しかも女の子」

「かもな」

自分でも珍しいと思うのでそう答えた。

「気に入ったなら付き合ってみればいいのに」

「そこまで思ってるわけじゃねぇし。それに社内なんてめんどくせぇ」

「でもお気に入りみたいじゃない」

「向こうは俺のこと怖がってるけどな」

「あー。そりゃ怖いだろうね」

翔子は美味そうにビールを飲みながら笑った。

「もう少し女の子に優しくしてみたら?」

「それこそめんどくせぇよ。会社は仕事するところだからな」

「まぁね~。巧くんは私にも優しくないし」

「人のものに優しくするほど心は広くねぇよ」

「永遠に結婚できなさそうだね」

「翔子さんに言われたくねぇな」

「私は結婚願望薄いもん」

「そうだよな。貞操観念も薄いしな」

「そんなことないけど」

「よく言うよ」

本当ならその日、俺は翔子とセックスしても良かった。

会ったのは久しぶりだったし、俺だってヤれる女がいれば、欲望もわく。

でも、その気にならなかった。

自分でもよく分からなかった。

No.72 14/08/03 08:48
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特定の女に興味を持ったのは久しぶりだが、俺は恋愛に関して不器用なことは十分自覚していた。

遥などは恋愛感情かどうかすらも自分で分からなかったし、綾はさんざん向こうから想ってもらったのに、俺が綾を好きだと思ったときにはフラれてしまったし、翔子に至ってはお互い恋愛感情のない付き合いだ。

愛想がなくてクチの悪い俺は、自分から女を口説くことには向いていないのだろう。

高橋とは仕事ではときどき話はする。

でもそれだけだ。

俺はあまり口数は多くない。
高橋は俺を怖がっている。

今までの女はみんな向こうから距離を縮めてくれたが、高橋ではそれもない。

高橋に興味は持ったが、正直社内の女に手を出すことを考えただけで先に「めんどくせぇ」と思うし、それをうまくコントロールできるほど器用な男でもない。

高橋はあっという間に周囲に馴染み、不器用ながらも確実に仕事を覚え、入社3ヶ月も経つと、ずっと前から会社にいた人間のような存在になっていた。

器用ではないが、教わったことは確実に覚えてこなす。
クセのあるパート連中からも信頼されつつある。
気分屋の野本ですら、「高ちゃん高ちゃん」と呼んで重宝しているようだ。

No.73 14/08/03 09:15
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高橋を見ていると、言葉を発する前に一拍おいて考えているように見える。

いまこの人に頼み事をしてもいいのか
この質問にはなんと答えればいいのか
みんなが盛り上がっている雰囲気で自分はどう動けばいいのか
ミスをしたらどうリカバーすればいいのか

それを一瞬で考えて、自分にとってベストな反応をする。

高橋は自分をよく分かっているんだと思った。

自分の年齢、性格、ポジション、能力と欠点。

俺は高橋に尊敬に近いものを感じた。

俺にはできない芸当をする人間だからだ。

俺がこの会社に入ったとき、瀬尾さんや大川さんのフォークリフトやトラックの操作テクニックに感動した。

真田のオバァの人の使い方接し方に感心した。

下ちゃんの手先の早さに驚いた。

あの野本に対してさえ、取引先とのやり取りの上手さに感心した。

そして俺は、自分より年下の新入社員に、自分にはないものを見て、尊敬していた。

どこにでもいるような、平凡な女。

その女を尊敬できるということが、面白かった。

会社の人間は、そこまでは考えていないだろう。

高橋に対する評価は「素直で真面目で一生懸命ないい子」というところだ。

それだけじゃない。

高橋は賢いんだ。

俺は自分の無愛想さや人付き合いの不器用さは、仕事さえ完璧ならどうにかなると思っていた。

高橋とは真逆な俺だから、高橋を賢いと思うのかもしれない。

女というより、一人の人間として、俺はその賢さを尊敬した。

No.74 14/08/03 14:04
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ナカちゃんが飲み会を設定した。

ナカちゃんと下ちゃん、俺と塚田、たまに他のバイトやパートを誘うこともあるが、基本的にはこの4人が多い。
歳が近い人間が集まる感じだ。

ナカちゃんと下ちゃんは既婚で子どもが1人ずついるが、子どもが大きくなって手がかからなくなった一昨年あたりから、たまに子どもをダンナに任せて飲みに行くようになった。

今回は高橋を誘ったらしい。

「若い子が来るから嬉しいでしょ」

お調子者のナカちゃんはそう言った。

比較的早く仕事が終わることが多いので、飲みに行くのは大抵土曜だ。

ナカちゃんが予約した駅前の居酒屋で飲むことになった。

俺は一昨年から自分の車で通勤している。
この会社で働くようになって7年、給料は多くもないが、入社した頃よりはかなり上がった。
賞与もそこそこもらえる。
たまに飲みに行って、たまに暇潰し程度にパチンコやスロットをするくらいなので、そこそこ貯金もできた。
電車通勤が面倒で、思い切って車を買ったのだ。

飲みに行く予定が分かっていれば、電車で来る。

専門学校時代から住んでいたアパートは、電車だと乗り換えがあるし、そもそもボロかったので、3年前に引っ越した。

会社の近くはなんとなくうっとおしいので、3駅離れたところにした。

勤め先も住まいも変わり、そういう意味ではもう俺の中に綾の気配はなくなっていた。

それでもたまに思い出せば、苦いような気持ちにはなるが、昔のような苦しさはとっくに消えていた。

No.75 14/08/03 18:25
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この日は3時ごろ仕事が終わり、会社から家が近いナカちゃんと下ちゃんは一度帰り、塚田は買い物があると言って先に会社を出た。

高橋は通勤に時間がかかるらしく、帰るかどうか迷っていた。

「暇ならお茶でも飲みに行くか?」

俺が声をかけると、高橋はビックリしたように俺を見た。

「は、はい」

意外と迷わず返事が返ってきた。

会社の作業用の服から私服に着替えて、高橋と一緒に会社を出た。

私服の高橋は学生みたいに見える。
まぁまだ23歳だから、大学生とそれほど変わらないのだが。

駅までの道を高橋は俺から一歩くらい後ろを付いてきた。
誘ったはいいが、話すことも思いつかず、とりあえず黙って歩き、駅の近くのコーヒーショップに入った。

カウンターで俺がコーヒーを注文すると、高橋が黙って立っているので、「頼めよ」と言うと、「えっ、いいんですか?」と目を丸くした。

「誘ったんだからお茶ぐらい奢ってやるよ。ケーキ食っていいぞ」

「……いいんですか?」

高橋は遠慮がちにそう言ったが、さっきからレジの横にあるケーキを見ていた。

「いいから選べ。遠慮すんな」

ケーキを見る高橋が子どもみたいなのがおかしくて、俺がつい笑うと、高橋はまた驚いたように俺を見た。
俺が笑ったのが珍しいのかもしれない。

でもそのせいか、高橋は「じゃあこれ食べていいですか?」とチョコレートのケーキを指し、俺が頷くと、一緒にアイスティーを注文した。

No.76 14/08/04 09:39
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高橋に断って喫煙席に座ると、高橋は「ありがとうございます。いただきます」と言ってケーキを食べ始めた。

「……高ちゃん、甘い物好きなんだな」

俺がタバコを吸いながら言うと、高橋はちょっと驚いたような顔をした。

「?なんだよ」

「え、いえ。なんでもないです」

「甘い物好きかって言われて驚くか?」

高橋は困ったような顔をして、少し考えてから俺を見た。

「いえ、あの、進藤さんにそう呼ばれると思わなかったんで」

「……ああ」

高橋は俺から「高ちゃん」と呼ばれたことに驚いたのだろう。

そう言えば言葉の足りない俺は、単語や短文で会話を済ませているかもしれない。
まだこいつの名前を呼んだことはなかったようだ。

「みんな『高ちゃん』て呼んでるから」

「あ、はい、そうですね」

『高ちゃん』の顔に安堵の色が見えた。

多分俺に嫌われてるとか、新人としてうっとおしがられてるとか、そんな風に思っていたんだろう。
きっと下ちゃんやナカちゃんはフォローしてくれていたんだろうが、当の俺を前にすれば、「怖い先輩」に違いない。

それにしても高ちゃんを見ているのは面白かった。

きっとこいつの頭の中では、俺という怖い先輩を相手に、どんな返答をするのがベストかとめまぐるしく考えているに違いない。
そして今は「失言だったかも」というような雰囲気で困っている。

………気を遣いすぎだ

そう言ってやりたかったが、上手く伝える自信もなかったので、代わりに「ケーキ美味い?」と言った。

「はい、美味しいです」

高ちゃんはホッとしたように笑った。

よっぽど俺が怖かったようだ。

No.77 14/08/04 10:43
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「仕事、どうだ?」

幸せそうにケーキを食べていた高ちゃんは、口の中を空にしてから「はい、楽しいです」と言った。

「楽しいか?オバチャンばっかじゃねぇか」

「みなさん優しくしてくれますから。私、あんまり器用じゃないんで、迷惑ばっかりかけてるんですけど、いろいろ助けていただいてます」

回答としては優等生アンサーだ。
でも、高ちゃんの場合、本当にそう思っているのだろう。

「下川さんとか仕事ができる上に優しいし、中澤さんも楽しい方だし、今日も誘ってもらって嬉しいんです」

なんというか、本当に毒のない女だ。

こんな人畜無害な女が、どうして転職したんだろうと思った。
前職はデザイナーと聞いているが、能力はともかく、俺みたいに人間関係でつまずくことはなさそうに見える。

「なんで前の仕事辞めたんだ?」

ちょっと踏み込みすぎかと思ったが、聞いてみた。

「倒産しちゃったんです。印刷会社だったんですけど、一番大口の取引先が不祥事で大変なことになっちゃって」

「なるほど」

高ちゃん自身の問題ではなくて、会社が潰れたなら不可抗力だ。

「でもまた随分畑違いの仕事を選んだな」

「自己都合退職じゃなかったんで、すぐに失業手当も出たんですけど、手続きでハローワークへ行ったときに求人検索もして、『未経験可』の企業にあちこち応募したんです」

「自宅だろ?慌てて再就職しなくても、ゆっくりデザイン関係の仕事も探せたんじゃねぇの?」

「デザイナーで正社員はすぐ見つからないし、フリーでやっていくのも厳しい世界だし……。いくら自宅でもやっぱりちゃんと就職していないと親にも悪いし……。だからなるべく早く正社員になりたかったんで、やったことのない仕事でもやってみようと思ったんです」

No.78 14/08/04 13:03
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要は食ってくために働いているんだ。

俺は建設業界で働きたかった。

専門学校に行って、望み通り建築に携わる仕事に就いたのに、人間関係につまずき、自棄になって辞めてしまった。

きっと高ちゃんもデザインという仕事が好きだったんだろう。

それでも生活していくために畑違いの仕事に就いた。

少し親近感を覚えた。

「あー美味しかった」

高ちゃんはいかにも満足したようにフォークを置き、グラスに入ったアイスティーを飲んだ。

たかだか380円のケーキを食べて、こんな幸せそうな顔ができるのかというような表情だった。

………こんな簡単なことでよかったのか

俺は女に優しくする、ということが、28歳にもなって分かっていなかったらしい。

別に塚田のように分かりやすい優しさがなくてもいいのか。

「良かったな」

「はい」

今まで会社で恐る恐るにしか俺に声をかけられずにいた高ちゃんが、今まで怖いだけだった俺に向かって笑った。

………餌付けか

高ちゃんに対して、そんな失礼な言葉が思い浮かんで、俺は少し笑った。

高ちゃんはそんな俺につられて、やっぱり笑った。

No.79 14/08/04 22:26
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「高ちゃん、進藤さんに苛められなかった?」

飲み会の席でナカちゃんが言った。
予定の6時には全員顔を揃えていた。

「ケーキご馳走になりました」

高ちゃんはにこにことそう言った。

「へぇ〜。進藤さん、優しいじゃん」

「ナカちゃんが知らないだけだよ」

「私もケーキ食べたーい」

「美沙も高ちゃんみたいにいい子になれば食べさせてもらえるよ」

下ちゃんにそう言われて、ナカちゃんはふくれっ面になった。

「えー、塚ちゃん、私もいい子だよね〜?」

「うん。ナカちゃんはいい子だよね」

「ほらー。進藤さんもホントはそう思うでしょ?」

「そうだな。もう少し静かにしてたらナカちゃんもいい子だな」

「えー。それはムリ」

飲み会のときは大抵いつも賑やかなナカちゃんがこんな感じで喋り続けている。

うるさいヤツだと思うが、なぜか憎めないのがナカちゃんだ。

会社でオバチャン連中が喧しいのは苦手だが、ナカちゃん1人くらいなら面白いレベルだ。

そもそもナカちゃんが塚田と仲良くなり、ナカちゃんと一番親しい下ちゃんも混ざり、塚田と同い年の俺が引っ張られた感じで、飲みに行くようになった。

そこにナカちゃんお気に入りの高ちゃんも呼ばれたというところだ。

No.80 14/08/05 11:19
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高ちゃんはナカちゃんと塚田に挟まれた席に座り、やっぱりにこにこと笑っていた。
俺は塚田の前で、隣には下ちゃんがいた。

元々酒好きの集まりだったのだが、高ちゃんもそこそこ飲めるようで、ビールの後に梅酒サワーを飲んでいる。

高ちゃんはときどきナカちゃんにいじられたり、塚田や下ちゃんに話しかけられて答えたり、リラックスしているようだった。

下ちゃんは現場での指導者みたいなものだし、ナカちゃんもベテランで仕事を教わることも多いだろうし、塚田は人当たりがいいから話しやすいだろうし、今日の面子は高ちゃんにとっても居心地がいいメンバーなんだろう。

唯一怖いのは、俺に違いない。

その俺にしても、一緒に飲んでイヤな面子ならそもそも来ていないし、酒が入れば普段よりは喋る。

それにさっき高ちゃんの好物を奢ったばかりだから、高ちゃんも少しは和んだようだ。

「ねーねー、高ちゃんは彼氏いないの?」

ナカちゃんが聞くと、高ちゃんはちょっと情けない顔をした。

「いないんです」

「じゃあ塚ちゃんなんかどう?」

「塚田さんがイヤだと思いますけど」

高ちゃんがそう言うと、塚田は例によって爽やかに笑った。

「そんなことないよ。高ちゃんはいい子だよね」

「塚ちゃんさぁ。私にいい子、高ちゃんにもいい子って、適当に答えてるでしょ」

「だって本当にそう思ってるよ」

「塚田は下ちゃんタイプがいいんだよな」

俺が口を挟むと、塚田は苦笑いした。

「そんなこと言いましたっけ」

「言わなかったか?」

「進藤さんも適当なこと言ってるでしょ」

横にいた下ちゃんがそう言って俺の背中を叩いた。

No.81 14/08/05 12:39
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その日は10時くらいにお開きになった。

自転車で来ている下ちゃんとナカちゃんとは居酒屋の前で別れ、残りの3人で駅へ向かった。

塚田が下り、俺と高ちゃんは上りだった。

先に来た下り電車に塚田が乗り、その5分後くらいに上りが来たので、高ちゃんと一緒に電車に乗った。

電車に乗ると高ちゃんは2駅先で乗り換えると言った。

「楽しかったか?」

「はい」

「そうか、良かったな」

「はい。転職してうまくやっていけるかどうか不安だったんですけど、ホント良くしていただいてるんで良かったです」

電車が乗換駅に着くと、高ちゃんは「お疲れ様でした」と言って降りて行った。

高ちゃんはホームに立ったまま電車が出るのを待ち、ドアのところに立っている俺に会釈をした。

……今どき珍しいくらいに、素直な女だ。

背は高くも低くもないし、太ってもいなければ痩せすぎてもいない。
不細工ではないが、特に特徴のある顔でもない。
仕事ぶりは勤勉、真面目としか評価しようがない。
内気ではなさそうだが、あまり騒がしくはなく、存在感が薄い。

なぜ周囲は高ちゃんを可愛がるんだろう。

「いい子」だからなのか。
同僚としては付き合いやすいに違いない。

でも、高ちゃんの賢さに気付いたのは、俺が最初だろう。

もしかしたら俺は、誰かを賢いと思い、それを尊敬までしたのは、初めてかもしれない。

お茶を飲んだときの反応からして、あまり男慣れはしていないようだった。
まぁ、俺もあまり人のことは言えないが。

そうだ。
俺はひとのものには興味はない。

高ちゃんは誰に対しても空気のように笑う。

そんな女がもし。

俺のものになったら。

どんな風に笑い、どんな風に怒り、どんな風に泣くんだろう。

「いい子」なだけではない高ちゃんを見てみたいと思った。

No.82 14/08/05 13:33
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俺は高ちゃんに興味を持った。

多分、好意に近いものも生まれたんだろう。

でも、それだけだった。

高ちゃんはこれでもかというほど素直だが、ちょっとみんなで飲みに行ったからといって、急に馴れ馴れしくなるような女じゃない。

そして俺はやっぱり愛想が悪くて口数が少ない。
下ちゃんやナカちゃんにさえ、仕事以外で自分から話しかけることは少ないのに、まだ入社して日の浅い高ちゃんとベラベラ喋るようなことはまずありえない。

それでも、高ちゃんは仕事のことなら俺に声をかけやすくなったようだった。

高ちゃんは事務所でも現場でも雑用やら使いっ走りみたいなことが多いので、よく俺のところにも来る。

俺がフォークを操作していたりすると、俺が気付かない少し離れたところで待ち、作業がひと段落したところで声をかけてくる。
それがなかなか絶妙のタイミングで、俺は感心する。

そんなとき、たまに綾を思い出した。

綾も、俺の機嫌や疲れ具合を読んで、俺に話しかけていたからだ。

でも、高ちゃんは綾とは違う。

綾は俺を好きだったから、いつも俺を気遣っていただけだ。

高ちゃんは仕事の流れを妨げないように、俺の作業の邪魔にならないようにと考えているだけだ。
要は、相手が俺だからではなく、仕事に必要な気配りをしているだけの話だ。

まぁ、そんな感じでも、高ちゃんが入社したころに比べれば、多少話す機会は増えた。
休憩時間などなら、多少の雑談もする。
怖がられていただけの頃より親しくはなったようだ。

No.83 14/08/05 16:17
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ある晩、仕事を終えてアパートに帰った俺が風呂から出ると、携帯に着信があった。

下ちゃんからのメールだった。

「珍しいな」

ナカちゃん辺りは仕事の愚痴だったり、なにか面白いことがあるとたまにメールを寄越すが、下ちゃんは基本的に用事があるときしかメールは来ない。

>>今日元気なかったねぇ。どうしたの?

………なんのことだ。

俺は今日も昨日もいつもと変わらず仕事をしていた。
下ちゃんが気にするようなことはなかったはずだ。

>>なんだよ、誤爆か?

俺が返信すると、5分くらいして返信があった。

>>ゴメン、間違えちゃった。理沙あてだった。

>>下ちゃんでもボケるんだな

>>もう年かな(笑)

俺は携帯を置いて、買ってきたコンビニ弁当を食べ始めた。

食べながら、なにかが引っかかるような感じがした。

ナカちゃんは今日、会社でなにかやらかしたか?
まぁ、ナカちゃんはあれでも既婚者だから、子どもやダンナのことでなにか悩むこともあるのかもしれない。
それにしても、今日もナカちゃんは能天気だった。

「あ」

漬物を噛み砕きながら俺は思わず声を出した。

今日なにかをやらかしたのは、塚田だ。

運送屋に頼む荷物を間違えたのだ。
半分積んだところで俺が気付いて積み直したが、あのまま気付かずにいたら、神奈川の配送センターに行くはずの荷物が茨城へ行ってしまい、期日が間に合わなくなるところだった。
前も同じ依頼主でミスがあり、元々ミスにはうるさい会社で、しかも毎月けっこうな量を委託されているところなので、あってはならないミスだった。

普段は穏やかな社長が、事務所で塚田をいつもより厳しく注意していた。

塚田もさすがに落ち込んだようだった。

………まさかな

そう思ったが、また違う違和感が湧き上がった。

No.84 14/08/06 10:08
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そうだ。
この間、高ちゃんが参加した飲み会だ。

席順がいつもと違ったんだ。
小さいことだから気にしていなかった。

今までの飲み会、俺の隣はいつもナカちゃんだった。
そして塚田と下ちゃんが並ぶ。
ナカちゃんと俺が憎まれ口を叩き合って、塚田と下ちゃんが前で笑っているのがいつもの光景だった。

でもこの間は高ちゃんが塚田とナカちゃんに挟まれて座り、俺の隣に下ちゃんが座った。

初参加の高ちゃんがいたから、あのときはなにも気にしなかったが。

まぁ、高ちゃんを引っ張ってきたのはナカちゃんだし、高ちゃんも賑やかなナカちゃんの隣にいれば溶け込みやすいだろうとは思うから、あの席順で良かったんだろうが。
それでも、他の人間が参加したときでも、塚田と下ちゃんは並んでいたと思う。

下ちゃんを気に入っていた塚田。

下ちゃんは以前の飲み会で、夫婦仲のことをこぼしていた。

『仮面夫婦なのよ~。だから私が飲み会に行こうがなにしようが、ダンナは興味ないみたい』
『娘が独立したら離婚したいな。だからお金ためようと思って働いてるんだ』

そんな風に言っていた。
そのときはよくある主婦の愚痴として聞き流していたが。

まぁ、塚田は俺と同じ28歳、下ちゃんは32か33歳。
年齢的にはありえない話ではないか。

下世話な話、あの2人、デキてるんだろうか。

もしそうなら、不倫ってやつになるのか。

No.85 14/08/06 12:38
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俺には縁のない話だ。

今まで俺は自分から女に惚れて付き合ったことがない。

遥とは恋愛以前で終わったし、綾は向こうから来てくれたから俺も惚れた。
翔子とはいい加減な関係だが、最初に来たのは翔子の方だ。

そういう意味で俺は、その辺の中学生よりも女に関しては不器用かもしれない。

そもそも俺はめんどくさがりだから、社内恋愛でしかも不倫なんていう面倒なことには手を出さないと思う。

しかも下ちゃんはいくら家庭がうまくいっていなかろうが、ダンナがいる。
ダンナや彼氏ががいるという時点で、俺はその女には興味がなくなる。

俺は多分嫉妬深くて独占欲が強いんだろう。

だから、今までみたいな恋愛しかできない。

そんな俺から見ると、仮面夫婦だと言っていた下ちゃんはともかく、独身の塚田が面倒やリスクを冒してまで不倫をするというのは、正直理解の範疇を超えている。

翔子と適当な付き合いをしている俺だから、別に道徳やら倫理やらを言うつもりはないが、ひとの物をそうまでして欲しがる気持ちがわからない。

まぁ、仕事に支障がでないなら、いくらでもヨロシクやってくれ、と思うが。

あの穏やかな性格の2人が、そんな激しい感情を持っているとは想像がつかない。
今のところ、俺が小さな違和感を覚えただけなんだが。

でももし本当に俺の想像が当たっているなら。

そこまで誰かを想うことができることが、少し羨ましく思えた。

No.86 14/08/06 14:48
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誤爆メール以来、塚田と下ちゃんをちょっと気にして見ることは増えた。

そういう目で見れば怪しくも見えるし、気にしなければやっぱり俺の思い込みかとも思える。

ただ、詮索するつもりもないので、本当のところは分からなかった。

高ちゃんに関しても似たようなものだった。

好意を持ったにしても、特別なにも変わらない。

俺は会社では相変わらずだった。

高ちゃんは日が経つにつれ、仕事の能力も上がっていった。

休憩時間などには、いろんなパート連中やアルバイトの人間と楽しそうに話をしている姿を見ることが増えた。

高ちゃんは着実に会社で自分の居場所を作っている。

俺に対する態度も変わってきた。
たまに冗談を言ってきたり、雑談をしたりもするようになった。

気の遣いすぎは相変わらずだが、入社して間もない頃の緊張感がない分、高ちゃんは会社で楽しそうに仕事をしているように見えた。

最初に高ちゃんが参加した飲み会の後、帰りが同じになったとき、飯に誘った。
誘ったといっても、俺が食べるついでなので、ファミレスだった。

俺が「飯食ってく?」と聞くと、高ちゃんは「はい、行きます」と言って付いてきた。

そのときも俺が払ったのだが、高ちゃんは自分の財布を出して「いいんですか?」と言った。

年も社歴も上の人間が、会社の女の子とファミレスで飯を食って割り勘はないと思うのだが、高ちゃんはそう言う。

男から飯を奢られたことも少ないのかと思うと、逆に俺は嬉しかった。

No.87 14/08/06 16:07
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「今度引っ越すことにしました」

高ちゃんが入社して1年半が経った頃、昼休みに俺と雑談していた高ちゃんがそう言った。

「へー。なんで?」

「通勤がちょっとしんどいんです。いまドアツードアで40分くらいかかるんで、残業とかあるともう疲れちゃって。ここでお世話になって独立資金も貯まったし、いつまでも実家にいるのもどうかと思うから、思い切ってアパート借りることにしました」

「どの辺?」

「下川さんちに結構近いところです。会社からだと自転車で10分くらいなんで」

「そうか、偉いな」

俺がそう言うと、高ちゃんはキョトンとした。
褒められたのが意外だったのか。

「引越し祝い、なんかやろうか」

「えー、いいですよ」

「遠慮すんな。馬鹿高いものじゃなければ買ってやるぞ」

高ちゃんは少し考えて口を開いた。

「………じゃあ、薬缶」

「ヤカン?」

「はい。薬缶が欲しいです」

ヤカン。
生活必需品ではあるなと思った。

その数日後、帰りが高ちゃんと一緒になったので、「飲みに行くか?」と声をかけた。

例によって「はい」と返事が来たので、高ちゃんを俺の車に乗せて駅の近くまで行き、車はコインパーキングに停めた。

「飲みに行く前に、ヤカン、買いに行くか?」

車を降りて俺がそう言うと高ちゃんは「覚えててくれたんですか?」と喜んだ。

高ちゃんがパーキングの近くに雑貨屋があると言うので、一緒に行った。

No.88 14/08/07 10:41
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「これ可愛い」

雑貨屋に入り、台所用品のコーナーに行くなり、高ちゃんはすぐに白く塗られたヤカンを手に取ってそう言った。

「それでいいのか」

「はい。これが欲しいです。ホントに買っていただいていいんですか?」

ヤカンに付いていた値札は定価の上に値引きのシールが貼られて、1890円と書いてあった。

「こんなんでいいの?他にいるもんねぇの?」

「はい。これがいいです」

レジへ行き、俺が金を払い、高ちゃんは袋に入れられたヤカンを受け取ると、満面の笑みを浮かべた。

店を出ると、高ちゃんは
「進藤さん、ありがとうございました。すごく嬉しいです」
と言った。

欲のない女。
こんなささいなことで喜んでくれる女。
どんな小さな好意でも、最大限の感謝で返してくれる女。

可愛いのはヤカンじゃねぇだろう。
高ちゃんだ。

平凡を絵に描いたような女。

俺は高ちゃんの賢さに気付いたときから、高ちゃんを気にかけるようになっていた。

美味いものでも食わせてやりたい
仕事が大変なら助けてやりたい

そう。
なにかをしてやりたいんだ。

なぜなのかよく分からないが、俺は高ちゃんが可愛いんだ。

そうだ。

俺は高ちゃんに惚れているんだ。

No.89 14/08/07 11:42
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自覚したはいいが、だからといってどうなるものでもない。

そもそも高ちゃんは会社の後輩だ。

そして恋愛音痴の俺だ。

俺は会社で自分のプライベートはほとんど喋らない。

会社の人間が知っているのは、俺が千葉県出身で独身でひとり暮らしだということくらいだろう。

彼女がいるかどうかを聞かれることがあっても、はっきり答えたことはない。
実際、翔子みたいな適当な付き合いの女もいて、なんとなく周囲は「いい歳なんだから彼女くらいはいるんだろう」と思っているようだ。

正直、いくら高ちゃんに惚れたといっても、社内恋愛が面倒なことには変わらない。

オバチャン連中に「進藤さんて高ちゃんのこと好きなのかしらね」と噂されることを想像するだけで、ゲンナリする。

でも俺が高ちゃんと飯を食ったり飲みに行ったりしても、不思議なほど周囲はそのことを色恋沙汰には繋げない。

高ちゃんがよく言われているのは「塚ちゃんどう?」が一番多かったりする。

まぁ、無愛想な俺と、目立たないけどいい子の高ちゃんとでは、恋愛に繋げる要素がそれだけ少ないのかもしれない。

実際、高ちゃんと2人でいても、高ちゃんは仕事中と大差ない態度だし、始終敬語だから、多分知らない人間が俺と高ちゃんを見ても、先輩と後輩、上司と部下、師匠と弟子、そんな雰囲気なんだろうと思う。

でも、俺はそれでいいと思っていた。

高ちゃんが同じ職場にいる限り、今の関係は続くだろう。

入社当時、俺を敬遠していた高ちゃんが、いまは飯に誘えばにこにこして付いてくる。
高ちゃんが仕事で失敗したり、困っていたりしたら、俺なら自然に助けてやれる。

いまはそれでいい。

もし高ちゃんが他の男に惚れてしまったらそれまでだが。

恋愛音痴な俺が下手な動きをするよりも、会社という俺のテリトリーにいる限り、俺は高ちゃんを一番近いところに置いておける。

もう、昔のような苦い失敗はしたくない。

大事なものは、近くに置いて、ちゃんと見ておかないとダメなんだ。

No.90 14/08/07 13:52
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半年振りに翔子と会った。
今は8月で、前に会ったのはまだ寒い時期だった。

2年前、高ちゃんが入社した直後に翔子と会ったときもそうだが、俺は翔子とセックスしなくなった。

会う頻度も半年くらい間が空き、会っても飲んで帰るだけになった。

「匠くん、彼女できたの?」

翔子にそう聞かれた。

「いや。できてない」

「もともとツレないけど、最近ますますツレないよね」

「俺がいなくても翔子さんにはいろいろいるだろ」

「わかった。例の会社の女の子と進展あったんでしょ」

「ねぇよ」

「そうかな。でもその子のこと好きなんでしょ」

「まぁね」

俺がそう言うと、翔子は驚いた表情をした。

「なんだよ。おかしいか」

「おかしくないけど、匠くんが認めると思わなかった」

「翔子さんにカッコつけてもしょうがねぇし」

翔子とは長い付き合いだ。
お互い気持ちが深入りしていない分、割と本音が言えるところがある。

「………なんか、ショック」

「今更?」

「匠くんは一生独身でいるような気がしてたのに」

「別に結婚するなんて言ってないだろ」

「『恋愛?結婚?めんどくせぇ』とか思ってたでしょ」

「いまでも思ってるけどな」

「それなのに、好きな子ができたんでしょ」

「まぁな」

「自分から女の子口説いたりするのはめんどくさい匠くんが」

「別に口説こうと思ってねぇし」

No.91 14/08/07 14:13
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「………本気、なんだ」

「多分な」

俺がそう答えると、翔子は普段見せないようなションボリしたような顔をした。

「珍しいな、弱気じゃねぇか」

翔子の遊び相手は俺だけではない。
腐れ縁の彼氏とはいまだにウダウダ付き合っているし、どっかの金持ちだとか、水商売の男だとか、適当に遊び歩いている。
俺も翔子もお互い執着していないから、逆に10年近くもこんな付き合いが続いている。

「もう32歳になるし」

「いいんじゃねぇの?どうせ結婚して、子ども産んで、なんて考えてねぇんだろうし」

「まぁね。でも、最近誰とも本気になれないのが、ちょっと寂しいような気もして」

「俺はそこまで面倒みきれねぇよ」

「冷たいのね」

「器用じゃねぇからな。惚れた女で手一杯だ」

「ずるい」

「ずるい、とか言ってねぇで、翔子さんもそろそろ落ち着きゃいいだろ」

「誰と?」

「腐れ縁の彼氏でいいじゃねぇか。何年グダグダやってんだよ」

「匠くんとも腐れ縁じゃない」

「惚れてねぇからな。腐ってようが新鮮だろうが、あんまり関係ねぇし」

「はっきり言うのね」

「俺はひとの物には興味ねぇって何度も言ってるだろ。それに俺に惚れてない女に優しくするほど寛大じゃねぇんだよ」

No.92 14/08/07 16:13
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「しょせん、ただのセフレか」

翔子は置いてあった俺のタバコを1本抜くと、火をつけた。

「セフレっていえるほど、やってねぇじゃん」

「嫌いな男とはしないわよ」

「俺だって翔子さんは嫌いじゃねぇよ。正直なところ、前の女と別れたときは、失業とダブルパンチでかなり打ちのめされてたからな。翔子さんには助けられたと思ってるよ」

「でも惚れてないんでしょ?」

「翔子さんだって俺を嫌いじゃないけど惚れてねぇだろ」

「よく、わからない」

「寂しかっただけだろ。俺がそうだ」

「その子と付き合ってるわけじゃないんでしょ。寂しくないの?」

「俺の近くにいるからな。だんだん懐いてきたし」

「野良猫じゃないんだから」

翔子は笑った。

「もう私はいらないのね」

「別にそんなことはねぇよ。セックスしなくてもこうやって一緒に飲んでるじゃねぇか」

「でももしその子と付き合ったら、もう会わないだろうね」

「そうだな」

最初から俺のものにできるとも、しようとも思わなかった。

俺のものじゃないから、気楽に抱けたし、飲み友達でいられた。

でも俺は、まだ自分のものにはできないが、いつか俺の手元に置いておけたらと思う女ができた。

そんな女を自分の内に抱えながら、翔子は抱けない。

この日、翔子と別れ際に「じゃあね」「じゃあな」と言い合った。
いつも「またね」とは言わない。

「さよなら」も言わない。

そもそもなにもないところにいたからだろう。

No.93 14/08/08 12:57
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9月の中旬くらいから、どうも高ちゃんの様子がおかしいことに気が付いた。

別にいつもと同じように仕事をしているし、普通に話もするのだが、休憩時間やちょっと手の空いたときに考え込んでいるように見える。

高ちゃんは春先にひとり暮らしを始めたが、初めてのひとり暮らしだから慣れないのかと少し心配になったが、たまに話をしても、特にそのことについては問題はなさそうだ。

そう思っていたら、仕事帰りに寄った会社近くのブックオフで、偶然高ちゃんに会った。
時間もまだ早かったし、飲みに誘った。

高ちゃんがひとり暮らしを始めてから、誘う回数が少し増えた。
ウチの会社の事務職は給料が安いから、「ちゃんと食ってるのか」となんとなく心配になる。

高ちゃんは自転車なので一旦別れてから駅の近くにある焼き鳥屋に行ったが、最近の様子については聞かず、会社とは関係ない話をした。

高ちゃんは基本的に人の話を楽しそうに聞く。
話を振れば一生懸命考えて返してくる。
嬉しそうに食べたり飲んだりする。

どこにも作為的な「いい子さ」を感じさせないのが高ちゃんだ。
それでも自分がどう振舞うべきかを、いつも考えている。

俺は高ちゃんを賢いと思うが、その賢さは作られた物ではなくて、高ちゃんがもつ天性のものなんだと思う。

噂話や陰口に参加せずに笑っているのも、天性の賢さだ。

そんな高ちゃんを前にして思った通りの言葉を口にした。

「高ちゃんは賢いな」

すると高ちゃんは目を丸くした。

「そうですか?あんまり勉強はできないですけど」

高ちゃんは褒められ慣れていないのがよくわかる。
大抵褒められると謙遜の言葉が出てくる。

「そういう『賢い』じゃないよ。人間として『賢い』って言ってんの」

「そうかなぁ。自分で言うのもナンですけど、あんまり取り柄がないんですよ」

「クチが固いのは取り柄だろ」

俺がそう言うと、高ちゃんは明らかに動揺した。

No.94 14/08/08 13:44
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なんで褒められて謙遜じゃなくて動揺するんだ。

……なんか言えないことがあるんだな

だけど、クチの固い高ちゃんは言わないだろう。
俺に言いにくいことなら、それはきっと会社に関係することだ。
なら、多分突っ込んでも言わないだろう。

そう思ったとき、塚田と下ちゃんのことを思い出した。

誤爆メール以来、やっぱりたまに気になってはいるのだが、どうしても疑念が拭えない。
俺がそういう目で見ているからなのか、仕事中や飲み会のときにも、なんとなく以前と違う雰囲気のように思える。

俺の勘違いならそれでいいが、もし本当に2人になにかあったらどうか。

ウチの会社には噂好きのパートのオバチャンがわんさかいる。
俺が怪しいと思うなら、パート連中がなにか勘付いていてもおかしくない。

高ちゃんはそんな連中に混ざって仕事をしている。
噂を耳にすることも多いだろう。

他の連中には聞けないが、クチの固い高ちゃんになら、塚田と下ちゃんのことを聞いてもいいような気がした。

「塚田と下ちゃんて怪しいと思うんだよな」

俺がそう言うと高ちゃんは「ええっ?!」と驚いた。
純粋に意外なことを聞いて驚いているように見えた。

結局「気のせいじゃないですか?」となったのだが、途中で高ちゃんは俺に「進藤さんは、彼女とかいないんですか?」と聞いてきた。

「いない」と答えるのは簡単だ。
でも、高ちゃんの反応を楽しみたくなった。

「彼女はいないよ。遊ぶ女ならいるけど」

翔子のことが頭に浮かんだのでそう言うと、高ちゃんは返答に困っているようだった。

ウブなんだな

分かってはいたが、目の前で困っている高ちゃんは可愛かった。

適当にからかって「さて、帰るか」と言うと、高ちゃんはホッとしたような顔をした。

あんまりからかいすぎて嫌われても困るが、またこんな顔が見たいと思った。

No.95 14/08/08 19:30
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俺は高ちゃんの困った顔を見るのが好きなようだ。

それでも高ちゃんが野本辺りに叱られるのを見るのは嫌だった。

野本は忙しくなると高ちゃんや他の部下への指示が抜けたりする。

俺は毎日帰る前に次の日の予定表をチェックするが、高ちゃんが担当している業務を気にする癖がついた。

たまに何かの手配が抜けていたりすると、それが高ちゃんの責任ではなくても、叱られるのは高ちゃんだった。

俺がからかって困っている高ちゃんは可愛いが、理不尽に叱られて困っている高ちゃんを見るのは嫌だった。

だから他の人間のミスは余程業務に支障があること以外はわざわざ限り探したりはしないが、高ちゃんの担当していることは丁寧にチェックした。

そう。
これは依怙贔屓だ。

この間も野本の勘違いから起きた手配漏れに俺が気付いたのでフォローしておいたら、高ちゃんは俺にお礼を言いに来た。

お礼を言われても照れ臭いだけなので、どうしても素っ気なくなるが、高ちゃんは慣れたもので気にしないようだ。

自分でも随分遠回りなことをしていると思う。

でも、高ちゃんがあの素直さで、俺への信頼感を深めてくれるのを感じるのは、やっぱり嬉しかった。

仕事は仕事でキッチリこなさないと、気分が悪い。
私情を挟む余地はないはずだが、高ちゃんは別だ。

惚れた女だからだ。

No.96 14/08/09 18:49
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ある日仕事中に手が空いたので、俺は事務所のパソコンをいじって遊んでいた。
事務所には高ちゃんがいて、野本に言われた書類を作っていた。

俺はガキのころからなぜか恐竜が好きだった。
まだ幼稚園とかだった頃、恐竜図鑑を買ってもらって以来、恐竜にはまった。

ジュラシックパークは全部観たし、DVDも持っている。
恐竜のフィギュアも好きで、実家にはかなりの数が置いてあり、いま住んでいる自分のアパートにも置いている。

ガチャガチャや食玩にもときどき手を出す。

中学の部活でバスケをやったくらいで、小説も読んだりするが、いまでも一番の趣味といえば恐竜だ。

SNSには興味はないが、あるサイトの恐竜マニアのコミュニティだけはときどき見る。

この日もそのコミュニティを見ていたら、恐竜のイベント情報がアップされていた。

リンクから飛ぶと、イベントのホームページに入れた。
精巧なジオラマが展示されているとあって、行ってみたくなったが、場所が横浜だった。

東京郊外のこの辺りからだと、結構遠い。

「いいなー、これ」
思わずつぶやくと高ちゃんが顔を上げた。

「なんですか?」
「『大恐竜展』。見に行きたいなー」
「恐竜好きなんですか?」
「ガキの頃から」
「行くんですか?」
「遠いんだよな、横浜だってよ」
「車ならすぐですよ」
「運転めんどくせ〜」

No.97 14/08/09 19:14
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……高ちゃんを連れて行けるなら、何時間でも運転するけどな

横浜自体はデートスポットだが、いくらなんでも恐竜みたいなマニアックな趣味のイベントに、惚れた女を誘うほど俺も間抜けじゃない。

時計を見ると、そろそろ俺が担当している会社の荷物が入る時間だった。

俺はパソコンの電源を落として仕事に戻った。

そのときはそんな感じだったが、結局俺はジオラマ見たさに、次の土曜日が仕事も休みだったので、1人電車で横浜まで行った。

石川町駅から中華街へ出て、たまに友達と来る裏通りの店でパイコー飯を食べた。
美味いのでときどき食べたくなるのだが、なかなか横浜まで来ようとは思わないので、ちょうどよかった。

それから中華街を出て、歩いて赤レンガ倉庫へ向かったのだが、通り沿いのコインパーキングの前で意外なものを見た。

トヨタ、黒のハチロク。スポーツカーだ。

ハチロクといって思い出すのは、会社の塚田だ。
塚田は車が趣味で、薄給のくせにハチロクを去年新車で買った。

「塚田のじゃねぇか」

塚田は車道楽らしく、抽選のナンバーを付けている。
「33」なので間違えようもない。

……塚田もこの辺りにいるのか

横浜くんだりまで、誰と来るんだ。

まぁマニアックな趣味のために1人で来ている俺だから、ひとのことは言えないが。

そう思いながら俺はコインパーキングの前を通り過ぎ、赤レンガ倉庫へ向かった。

No.98 14/08/09 20:53
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赤レンガ倉庫に着いた。

赤レンガ倉庫にはいろんな店が入っているが、女じゃあるまいし、見て回る趣味もないので雑貨屋やら洋服屋の前は素通りしたが、一軒の女物の洋服屋の前で俺は足を止めた。

「………塚田」

思わず声に出してつぶやいた。

塚田が女物の洋服屋にいる。
塚田が動くと、連れがいるのが見えた。

……やっぱりそうなのか

連れは下ちゃんだった。

俺はそのままそこを離れ、別棟にあるカフェに入った。

誤爆メールから始まって、なんとなくあの2人は怪しいとずっと思っていて、高ちゃんにも探りを入れてみたりした。

だから驚くよりも、やっぱりと思うだけだ。

ただ、実際目の当たりにすると、なんとも座りの悪い気分になった。

塚田。
なんで下ちゃんなんだ。

そりゃあ、下ちゃんは美人だ。朴念仁の俺でもそれは認める。
性格もいい。
仕事でも有能だ。

でも、下ちゃんは人妻じゃねぇか。

なんでひとのものが欲しいんだ。

下ちゃんの家庭環境は俺だって知っている。

下ちゃんの旦那は会社の近くの小学校と中学校を卒業していて、旦那の父親は町内会の会長で、ウチの社長とも商工会で付き合いのある土建屋だ。
旦那の親戚には市議会議員もいる。

下ちゃんは都内の出身で、結婚して嫁に来た人間だ。

そんな女と不倫なんかするのは、面倒を自分から呼び込むようなもんじゃねぇか。

No.99 14/08/10 08:49
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俺と塚田は恋愛の相談をし合うような関係ではない。

一緒に合コンに行ったこともあるし、塚田から「下ちゃんて可愛い」とか、どんな女が好みだとか、そんな程度の話はしたことがあるが、それ以上深い話はしたことはない。

塚田と俺は同い年だから、親しい方だが、それでも俺が先輩となってしまうし、そもそも俺も塚田も会社の愚痴や文句は多少言っても、プライベートな悩みを相談するようなタイプではない。

お互い今までの女関係すらほとんど知らない。

そんな感じだから、塚田は下ちゃんのことを俺に相談することはないだろう。

塚田は穏やかで誰にでも優しい男だ。
5年くらい一緒に仕事しているが、30歳の男として、普通に常識も節度もある。
だからこそ、会社のオバチャン連中にも人気があるし、俺を含めた会社の塚田より立場が上の人間からの信頼もある。

そんな塚田が、不倫、しかも会社のパートに手を出していた。

なにが塚田を狂わせたんだ。

確かに下ちゃんは家庭が上手くいっていない。

下ちゃんも塚田と同じように人柄も仕事ぶりも会社で信頼されて、パートとはいえリーダーを任されるような人間だ。

そんな2人でも、狂うのか。

2人で会う場所を地元から遠く離れた横浜に選ぶほど、慎重で、発覚を恐れているのに、それでも会うのか。

No.100 14/08/10 09:07
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俺にはわからない。

俺は社内恋愛すら面倒に思っていた。
会社の主婦パートに手を出すなんて、考えたことすらなかった。

いまは高ちゃんに惚れてはいるが、会社の後輩だからこそ、迂闊なことはできないと思っている。

俺は高ちゃんだから、惚れた。
社内で面倒なのは分かっていても、高ちゃんを知って、気持ちが入っていくことを止められなった。

塚田も下ちゃんも、そこは同じなのか。

不倫と分かっていても、発覚したらとんでもない事態になると分かっていても

それでもお互いが欲しかったのか。

ハードルが高くても、リスクが大きくても、それでも。

ウチの会社の人格者代表みたいな塚田と下ちゃんでも、そんな激しい感情を持つのか。

………人間て、わかんねぇもんだな

塚田と下ちゃんのことをよく知っているから複雑な気持ちにはなるが、世間一般で見れば、社員とパート主婦の不倫なんて、さして珍しい話ではない。

別に俺は不倫が絶対悪だと思うほど、高尚な人間でもない。

実際、千葉の地元の友達にも、不倫をしている人間がいるが、「まぁ頑張れ」としか思わない。

会社で見ている限り、塚田と下ちゃんが怪しいと思っているのは俺だけのようだし、俺が黙っていれば、余程2人が間抜けな失敗をしたり、なにかのきっかけで黙っていられなくならない限り、そうそう発覚はしないだろう。

………黙っててやるけどな

お節介も悩み相談もしてやれないが、知らないことにしといてはやれる。

No.101 14/08/10 14:31
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俺は気持ちを切り替えて、当初の目的通り、カフェを出て大恐竜展の会場へ向かった。

なにも知らない塚田と下ちゃんにその辺で会ってしまうかもしれないが、そのときはそのときだ。
俺がコソコソする必要もない。

大恐竜展の会場に入り、目当てだったジオラマを見た。
恐竜マニアのSNSコミュニティで絶賛されていた通り、いい出来だった。

満足して、会場の入り口近くにあるガチャガチャをやってみた。
集めているシリーズがあと3種でコンプリートするのだが、このときは3回で持っていない内の2種が出た。

塚田と下ちゃんを見て微妙だった気分が変わった。

もう一度ジオラマを見てから帰ろうかと思ってガチャガチャの前から立ち上がると、ジオラマの人垣の中に高ちゃんの顔が見えた。

恐竜好きだとは思えない高ちゃんがいることを不思議に思ったが、高ちゃんの横に高ちゃんとよく似た女と、高ちゃんとその女によく似た顔をした小さな男の子がいた。

一見して高ちゃんの姉妹とその子どもだろうと分かる。
恐竜好きの甥っ子のためにやって来たのだろう。

「よー」

俺が肩を叩くと、高ちゃんはそれほど驚いた様子もなく振り返った。
数日前に俺が行きたいと言っていたイベントだと知っていて来たからだろう。

「やっぱり来たんですね」

「高ちゃんはデート?」

俺がわざとそう聞くと、高ちゃんは「また進藤さんはからかって」とでも言いたそうな顔をして
「お姉ちゃん、会社の人。進藤さん。進藤さん、姉と甥っ子です」
と俺を姉さんという人に紹介した。

No.102 14/08/10 14:48
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俺に挨拶した高ちゃんの姉さんは、高ちゃんとそっくりなのに、どことなく華やかな印象だった。
俺に挨拶した喋り方も、遠慮がちな高ちゃんと違い、溌剌とした感じだ。

子どもにも「こんにちは」と声をかけ、「なんて名前なの?」と聞くと、「あらいしょうたです」とちゃんと答えてくれた。

俺は特に子ども好きではないが、実家へ帰れば兄貴の子どもがまとわりついてくる。2人とも男なので、俺が帰ると実家にある俺の恐竜コレクションを見たがる。

3歳くらいの高ちゃんの翔太という甥っ子も、恐竜好きなら仲間の気分になる。

「翔太くん、あっちの方がジオラマよく見えるよ。肩車してあげようか」
と声をかけると、翔太くんは喜んで付いてきた。
恐縮する姉さんが後ろから付いてきたが、気がつくと高ちゃんの姿がなかった。

「高ちゃん、はぐれましたか?」
と姉さんに聞くと「すみません、お手洗いですって」と言った。

翔太くんにジオラマを色んな角度からみせてやると、翔太くんが「にくしょくきょうりゅうどうしは、ともぐいするの?」とか、「たまごはどこにうむの?」とか聞いてくるので、俺は子どもにも分かるように説明してやった。

しばらくたって、高ちゃんが戻ってきたときには、翔太くんはすっかり俺に懐いていた。

ジオラマ以外の展示やグッズのコーナーまで見終わると、姉さんが「ありがとうございました。お茶でもご一緒にいかがですか?」と言ってくれたのだが、俺は用があると言って、会場で高ちゃんたちとは別れた。

No.103 14/08/10 18:13
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俺は石川町駅への道を歩きながら、高ちゃんの様子を思い返した。

なんとなく元気がなかった。

急にトイレに行って、しばらくして戻ったと思うと、様子が少し変わっていた。

多分高ちゃんも、塚田と下ちゃんを見たんだ。

そしてそれを俺に言うわけにはいかないと思って、動揺していたんじゃないか。

俺がお茶の誘いを断ったとき、高ちゃんの顔には安堵の色が見えた。

多分、高ちゃんのことだから、ただでさえこの間探りをいれていた俺に、決定的な瞬間を見られたらまずいとか考えたんだろう。

高ちゃんは気持ち的にはあの2人の味方でいたいに違いない。

ただ、あの素直で善良を絵に描いたような高ちゃんが、あの2人のことを必要以上に気にしたら参ってしまうだろうと思う。

あの2人は今のところ会社でボロを出すようなヘマはしていない。

高ちゃんの方からお節介をするほど、高ちゃんは馬鹿じゃない。

俺と同じように、高ちゃんも知らないフリをするだろう。

ただ、ひとつ可能性として考えられることがあった。

高ちゃんが塚田に惚れている場合だ。

そうだったら不倫を知ったことよりも、失恋のショックが大きいだろう。

高ちゃんは塚田に特別な好意を寄せているようには見えないが、賢い高ちゃんならそんな分かりやすい素振りはしないだろう。

こればかりは高ちゃん本人に聞かないと分からないことだが。

いずれにしろ、高ちゃんがこんなことで傷付いたりしないように、俺がしてやれることはないかと考えたが、ただ見守るくらいしかないのかと思った。

No.104 14/08/11 11:53
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週明けに会社で会った高ちゃんは、俺に声をかけてきた。
翔太くんの相手をしたことと、翔太くんにガチャガチャでダブったフィギュアをあげたのだが、その礼だった。

その後もそれとなく高ちゃんのことを気にしていたが、やっぱり少し元気がないように見えた。

悪いパターンで考えれば失恋なのだが、それにしては落ち込みが軽そうに思える。

やっぱり塚田と下ちゃんのデート現場を見てしまって気に病んでいるのが妥当なところか。

そんなときにナカちゃんから飲み会をしたいと声をかけられた。

「ふーん。誰が来んの」

「ヤマザキに声かける」
山崎は倉庫と作業場に来ているフリーターだった。

「だったら高ちゃんも呼んでやれよ。若者が少ねぇだろ」

「そうだね~」

これで飲み会の面子はいつもの4人プラス山崎と高ちゃんの6人になる。

もしかすると、高ちゃんは塚田と下ちゃんが揃った席に来るのは気が重いかもしれない。
でも、場合によっては高ちゃんにそのことを聞くこともできるだろうし、ひとりで悶々と悩んでいるくらいなら、飲み会にでも来たほうが気が晴れることもあるだろう。

俺も塚田と下ちゃんの件に関してはスッキリしないのが本当のところだ。

そして俺は、高ちゃんの本音が知りたい。

想像しているばかりでは高ちゃんの気持ちはわからない。

高ちゃんは塚田をどう思っているんだ。
ショックを受けているなら、それは塚田に特別な気持ちがあるからなのか。

俺は高ちゃんのためというより、自分のためにそれが知りたい。

………まだ誰のものでもねぇんだ

俺は、高ちゃんの気持ちが欲しい。

No.105 14/08/11 12:41
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飲み会はその週の土曜だった。

定時より早く作業自体は終わり、みんな早目に帰ったのだが、俺は一件連絡待ちがあったので、それを済ませてから会社を出た。

駅近くの居酒屋に着くと、店の前でフリーターの山崎と一緒になった。

店に入った途端、ナカちゃんの声が聞こえてきた。
ナカちゃんと仲のいい山崎も苦笑いしていた。

席に案内されて座ったが、やっぱり今日も塚田と下ちゃんは並んで座ってはいなかった。

一番奥から塚田、ナカちゃん、山崎と座り、反対側の奥から高ちゃん、下ちゃん、俺と並んだ。

相変わらず賑やかなナカちゃんが中心になって話題が続き、途中から高ちゃんがいじられはじめた。

最初はナカちゃんが、俺と塚田に彼女がいるかどうかを聞けと高ちゃんに命令し、俺はナカちゃんをからかって終わり、塚田も適当に逃げた。

ナカちゃんはハイペースで機嫌良く飲んでいて、テンションがいつもより更に高い。

俺もつい調子に乗った。
ナカちゃんが「若い人の恋バナ聞きたい」とか言ったので、話を高ちゃんに振ったのだ。

ナカちゃんは喜んで食いつき、高ちゃんに「今いる男3人の中なら、誰がいい?」と聞き始めた。

高ちゃんは見るからに困り果て、やっと「私は、彼女とか奥さんがいない人で、私のこと好きになってくれる人がいいです」と答えた。

でもナカちゃんから「そんなの当たり前〜。この3人なら誰がいいか、ハイ、答える!」とあっさり一蹴され、更に困った高ちゃんは、トイレへ避難してしまった。

No.106 14/08/11 15:14
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「やば。ちょっといじり過ぎた?」

高ちゃんがトイレに立ったあと、ナカちゃんが急にションボリとした。
俺もちょっと調子に乗り過ぎたようだ。

「大丈夫だよ、高ちゃんこんなことで怒ったりはしないと思うから」

下ちゃんがニコニコと笑いながらそう言った。

「でも酔って気分が悪いといけないから、様子見てくる」

そう言って下ちゃんはバッグを持ってトイレへ向かった。

高ちゃんも下ちゃんもなかなか戻って来なかったが、ナカちゃんは下ちゃんのフォローに気を取り直し、また賑やかに喋り始めた。

しばらく経って高ちゃんは下ちゃんと一緒に戻って来たが、特に気分を害した様子もないようだった。

その後はいつものような雰囲気で、11時くらいにおひらきになった。
俺は高ちゃんと山崎の会計を持ってやり、塚田も少し多めに支払った。

そのまま店の前で解散したが、俺はなんとなく飲み足りなくて塚田と山崎に声をかけた。
塚田は「寝不足なんで帰ります」と言ったので、山崎を連れて次の店に向かったが、その途中で高ちゃんに「もう一軒行くけど来るか?」とメールをした。

下ちゃんとナカちゃんは既婚者ということもあってか、たいてい日付が変わる前に帰るが、ひとり暮らしの高ちゃんなら誘ってもいいだろう。

すぐに「行きます」と返信があったので、店の名前を返していたら、スマホを見ていた山崎が「スンマセン、彼女から呼び出しです」と言って帰ってしまった。

……高ちゃんと話したかったから、まぁ、ちょうどいいか

俺が連絡した居酒屋の前で待っていると、高ちゃんが自転車に乗って戻って来た。

「あれ?おひとりなんですか?」
「山崎がいたんだけど、彼女に呼び出されて帰りやがった。塚田は眠いってすぐ帰ったしな」
「フラれちゃったんですね」
酒が入っているせいか、高ちゃんが珍しくナマイキなことを言った。
いじられたことは気にしていないようで安心した。

「野郎にフラても痛くも痒くも」

俺は高ちゃんが戻って来たことに気を良くして、高ちゃんを連れて居酒屋に入った。

No.107 14/08/11 15:29
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席に着くと、高ちゃんはケーキと梅酒ロックがいいと言った。

酒と一緒にケーキを食べる感覚が俺には分からないので「気持ち悪ぃ」とブツブツ言いながら俺の水割りと一緒に注文した。

せっかく2人で飲むことになったのだから、聞きたいことを聞いてしまおうと思った。

「大丈夫なのか」

「え?私ですか?」

「最近落ち込んでただろ」

高ちゃんが「しまった」という感じで首をすくめた。

「だから飲み会誘ってやれって言ったんだけどな。バカザワ、調子に乗っていじりすぎたしな」

とりあえずいじったことはナカちゃんのせいにしておいた。

「大丈夫ですよ。元気です」

「ならいいけどな」

ケーキが来て、高ちゃんは実に嬉しそうにケーキを食べ始めた。

俺はその様子をタバコを吸いながら眺め、タイミングを測った。

高ちゃんが満足そうにフォークを置いた。

「見ちゃったんだよな」

俺がそう言うと高ちゃんは目を丸くして俺を見た。

「えっ?」

「塚田と下ちゃん」

「えっ?どっ、どこで?」

「横浜。大恐竜展」

俺はあの日のことを高ちゃんに話した。

高ちゃんが自分はどうしたらいいか迷っているのが手に取るように分かった。

高ちゃん、いいんだ。

他人の秘密なんか、ひとりで背負い込まなくていいんだ。

No.108 14/08/11 18:47
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>> 107 「高ちゃんも見たんだろ?」
俺から水を向けた。

「えっ」

「赤レンガで。様子が変だったから、多分そうなんだろうと思ってたんだけど」

「………はい。見ました」
高ちゃんは観念したようにそう答えた。

「それ気にして、最近元気なかったんだろ」

「多分、そうだと思います」

「なんで高ちゃんが落ち込むんだよ」

「………ショック、だったんだと」

いまなら俺が一番聞きたいことを聞いてもいいだろう。

「塚田のこと好きなの?」

「なんで進藤さんまで……」

なんだそのセリフは。
他の人間からも高ちゃんは塚田を好きなように見えるのか。

「他の誰かにも言われたのか?」

俺がそういうと高ちゃんはまた「しまった」という顔をした。

「………下川さんに」

下ちゃんか。
他の人間ならともかく、下ちゃんがそんなことを言うのは、なにか裏があるのか。

高ちゃんは俺にここまで聞かれて、やっと知っていることを話し始めた。

姉さんと甥っ子と出かけたときにサービスエリアで塚田と下ちゃんが一緒にいるところを見たこと。
赤レンガ倉庫で俺と2人が会ってしまわないように小細工をしたこと。
さっき下ちゃんから、高ちゃんが塚田のことを好きだと思っていたと言われたこと。

やっぱり9月ごろから高ちゃんの様子がおかしく思えたのは、俺の気のせいではなかったようだ。

No.109 14/08/11 21:14
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9月に偶然、塚田と下ちゃんが一緒にいるところを見かけて以来、高ちゃんは2人を気にしてきた。

横浜では下ちゃんが1人になったときに自分から声をかけ、自分以外にも俺がいることも伝えた。

2人を庇おうと、一生懸命だったようだ。

高ちゃんの話を聞いてから、俺も前に下ちゃんから誤爆メールが来て以来気になっていて、それで口の固い高ちゃんに会社の中で2人が噂になっていないかを聞いたことを話した。

下ちゃんの旦那や旦那の実家のことといった家庭環境を高ちゃんに話すと、高ちゃんは首を傾げた。

「独身の塚田さんはまだ転職すれば済むけど、下川さんはどうしてそこまでリスクあるのに、不倫なんてしてるんだろう」

「そんなことは解らねぇよ。塚田も下ちゃんもリスクばっかりで、物質的なメリットないからな」

俺はリスク云々より、形だけだとしても他の男のものだということが耐えられない。

「それだけ、お互い好きなのかなぁ、って私は思ったんですけど」

「そりゃそうだろ。それじゃなきゃ不倫なんかしねぇだろ」

俺にも2人が本気なのだろうということは分かるような気がする。

「あの、私、そんなに塚田さんのこと好きそうに見えますか?そりゃ塚田さんは優しくていい人だし、こんな彼氏だったらいいなぁ、くらいは思うけど、だからってイコール好きってわけじゃないんですけど」

高ちゃんは、俺が一番聞きたかった答えを言った。

そうだ。
塚田と下ちゃんは心配だが、俺はそれよりも高ちゃんのほうが心配で、高ちゃんのことばかり気になるんだ。

No.110 14/08/12 09:08
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高ちゃんが気になるのは、どうして下ちゃんがそんなことを言うか、だ。

「下ちゃんに言われたことか。嫌な考え方すれば、高ちゃんが塚田を好きって噂がたてば、下ちゃんはバレるリスクが減るからな。あとは単純にヤキモチかもしれねぇし」

どっちかっていえば、利用するよりも嫉妬のほうがありそうな気がする。

「下川さんみたいな美人系の人からヤキモチ妬かれるような女じゃないです」

「そうじゃねぇよ。高ちゃんはまだ25歳だろ。それで独身。高ちゃんが塚田を好きだってなっても、しがらみもなけりゃ悪いこともない、しかも若い。36歳で子どももいる下ちゃんからすれば、羨ましいかもしれないだろ」

年齢や既婚者ということからは、どうあがいても下ちゃんは逃れられない。

「それでも、塚田さんは下川さんが好きなんですよね。私じゃなくたって、バイトとか派遣にもっと若くて可愛い女の子だって来たりするのに、それでも下川さんがいいんですよね」

「実際、塚田は理想が高いからな。だからって人妻に手を出す気持ちは俺には解らねぇけど」

多分下ちゃんは塚田の理想の女だったんだろう。

俺は高ちゃんに惚れたが、塚田は下ちゃんに惚れた。

確かに高ちゃんより可愛い子がアルバイトに来ることがある。
それでも俺は高ちゃん以外の女には興味がなかった。

それは、塚田も同じなんだろう。

年齢とか、結婚してるとか、関係ないところで、塚田は下ちゃんにしか気持ちが向かなかったんだろう。

No.111 14/08/12 11:21
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まぁこれで高ちゃんが最近塚田と下ちゃんのことで悩んでいたことも、塚田に特別な気持ちがないことも分かった。

ただ、高ちゃんは2人のこと、特に下ちゃんのことを慕っているから、傍観する以上にこのことに関わってしまいそうなのが、俺から見ると危なっかしく思えた。

賢い高ちゃんのことだから大丈夫だとは思うが、塚田と下ちゃんのことを他に漏らさないことや、自分から下ちゃんに打ち明けたり、協力したりしないように、一応釘を刺した。

塚田と下ちゃんは自己責任だが、高ちゃんが面倒なことに巻き込まれることはない。

すると高ちゃんは
「進藤さんは優しいですね」
と言った。

「優しい?そんなことねぇよ。塚田と下ちゃんのことがバレたら、会社の中がめんどくさいことになるのが嫌なんだよ」

俺が一番心配なのは高ちゃんだ。
あいつらは自分でなんとかすればいいんだ。

「進藤さんはホントに彼女いないんですか?」

高ちゃんはなにを思ったのか、そう聞いてきた。

「だから遊ぶ女がいれば、それで十分なんだよ。それ以上はめんどくさいだろ」

前に言ったことと同じことを言った。

いまはまだこう思ってもらってていい。

俺は高ちゃんと秘密を共有したんだ。

これからいくらでも距離を縮めることができるだろう。

俺は、高ちゃんを守りたい。

高ちゃんが傷付いたりしないように、俺が近くにいて見ていたいんだ。

No.112 14/08/12 14:35
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せっかくの機会だ。
もっと高ちゃんのことを聞いておきたくなった。

「高ちゃんは彼氏いないって言うけど、いつからいないの?」

高ちゃんはちょっと情けない顔になった。

「5年前ですね。専門学校のときにちょっとだけ付き合った人がいて、卒業と同時にフラれました」

「ちょっとだけって、どんくらい?」

「半年くらい」

「ふーん。どんなヤツだったん?」

俺が突っ込むので高ちゃんは「え~~~。進藤さん、自分のこと話してくれないくせに、ズルくないですか~」と不貞腐れた。

それでも高ちゃんは、専門学校の同級生に申し込まれて付き合ったが、卒業直前にフラれたことを話してくれた。

「フラれたとき、なんて言われた?」

俺がそう聞くと、高ちゃんはヤケクソみたいに
「『つまんない女』って言われました」
と言った。

なんてそいつはバカなんだ。
こんなに賢くて、いつも自分がどう行動したらいいかを一生懸命考えている高ちゃんは、見ているだけで面白くて可愛いことが、そいつには分からなかったんだ。

俺は密かに満足した。

俺だけが知っている。
高ちゃんの見た目の平凡さ、雰囲気の地味さに隠された部分を、高ちゃんが入社してから見てきた俺だけが知っている。

高ちゃんはいまのままでいいんだ。

だから俺は高ちゃんを褒めた。
俺にはない、高ちゃんのすごいところを、分からせたかった。

そして最後に「高ちゃんはそのままでいいんだよ」と言った。

すると高ちゃんはちょっと元気を取り戻したように見えた。

会計をして店を出ると、もう午前1時に近かった。

高ちゃんが自転車に乗って帰ろうとしたので、俺は「送ってやる」と言った。

いくらなんでもこんな時間に高ちゃんをひとりで帰すわけにはいかない。

高ちゃんは遠慮したが、俺が押し切った。

俺が歩き出すと、高ちゃんは自転車を押して付いてきた。

振り返って高ちゃんと目が合うと、高ちゃんは笑った。

入社したころでは考えられないような、笑顔だった。

No.113 14/08/12 15:11
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秋から冬にかけて、会社は繁忙期に入る。
残業も土曜出勤も増え、飲み会どころか休憩もとりにくいような時期だ。

会社はパートとアルバイトを増員した。

その中の1人に若い女がいた。

山本さんというその女は、野本が言うにはバツイチだが、子どもはおらず、最近会社の近くにある実家に帰ってきたらしい。

見た目も派手な女で、オバチャンだらけの作業場では明らかに浮いていた。

その山本さんはどうも塚田がお気に入りのようで、なにかというと塚田に声をかけ、休憩時間も塚田の横でタバコを吸ったりしている。

塚田はそれでも山本さんを邪険にすることもできず、愛想よく話に付き合っているように見える。

それを見て、下ちゃんはどう思っているのか。

どう見ても山本さんは塚田の好みではないのだが、あれだけ四六時中塚田にまとわり付く女を見て、下ちゃんも楽しいわけがない。

塚田や下ちゃんはどう出るのか。

見ているだけなら面白がっていればいいが、下ちゃんや山本さんと仕事をする機会の多い高ちゃんは、また要らぬ心配をしているかもしれない。

そこで俺はある日仕事が終わってから高ちゃんにメールを送った。

>>面白いことになってるね

すると高ちゃんから返信がきた。

>>板挟みでけっこう大変なんですけど

山本さんはパートのオバチャン連中に嫌われているらしい。
仕事ぶりよりも、普段からタメ口だったり、オバチャン連中に人気のある塚田にまとわり付いていることで反感を買っているようだ。

そのことは、ナカちゃんから聞いている。
ナカちゃんは山本さんを毛嫌いしているクチだ。

俺は相変わらず会社では無愛想だからか、山本さんは俺には近付いてこない。
昔の高ちゃんよりも怖がっているような気がする。

山本さんの話でメールが何通か行き来した。
高ちゃんは塚田と下ちゃんのことよりも、現場の板挟みのほうが大変なようだと分かり、ひとまず安心した。
板挟みくらいなら放っておいても大丈夫だろう。

そういえば、高ちゃんと連絡以外でメールするのは初めてかもしれない。

顔が見えない分、メールのほうが話しやすいような気がする。

忙しくて飲みにも誘えないが、メールという手があったのかと、今更俺は気付いた。

No.114 14/08/13 11:55
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12月の下旬には会社の忘年会がある。

幹事は俺と塚田と高ちゃんということになっているが、俺や塚田は繁忙期で動きづらいので、高ちゃんが予約やら出欠確認やらの雑務を一手に引き受けている。

忘年会では景品を配るのだが、その買出しも高ちゃんの担当だ。
ただ、物の数が多いので、俺か塚田が車を出してやらないと高ちゃんが大変になる。

塚田の方から俺に「今週の土曜あたり、忘年会の買出しに行ってきましょうか」と言ってきた。

本当なら俺が行きたいところだが、物理的に忙しくて、塚田に行ってもらうと助かる。

まぁ塚田なら安心だ。
車の運転が上手いとかいうことより、下ちゃんに惚れてる塚田なら、高ちゃんと2人で出しても気にならないだけだ。

俺も結構なヤキモチ妬きなんだなと苦笑いした。

そんな感じに慌しく日が過ぎて行ったが、パート連中の中で浮きまくっていた山本さんが、気が付いたらナカちゃんと仲良くなっていた。

俺も知っている話だったが、ナカちゃんがやらかしたミスを山本さんがフォローしたことがきっかけだったようだ。

ナカちゃんは山本さんに恩を感じたのか、急速に仲良くなった。
ついこの間まで毛嫌いしていたのが、今日は親友かというような変わりっぷりだ。

元々喧しいナカちゃんと、いかにも自由人な山本さんがつるむようになって、作業場は以前よりも賑やかになった。
山本さんは明らかに周囲から浮いて嫌われていたのが、ナカちゃんと仲良くなってからは他のパート連中まで態度が変わっていた。

………女ってわからねぇな

まぁ、作業場が喧しくなったのはともかく、パート連中が揉めているよりは仕事が捗るだろう。

ナカちゃんが山本さんと一緒になって、しょっちゅう塚田と話していることが増えた。

下ちゃんは心穏やかとはいかないだろう。
ナカちゃんにしてみれば、下ちゃんと塚田が付き合っていることは知らないのだから、仲良くなった山本さんを応援しようということになる。

そんな気持ちも、下ちゃんは自分で消化できるのだろうか。

ただ、高ちゃんは山本さんとパートのオバチャン連中との板挟みからは解放されたようなので、それは良かったと思った。

No.115 14/08/13 12:14
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12月後半の土曜に会社の忘年会があった。

パートとアルバイトの人間も全員呼ぶので、結構な人数が集まった。
今年は会社の近くの焼肉屋を貸し切りにした。

準備に奔走した高ちゃんだが、当日も集金やら最初の飲み物の注文などで走り回るので、忘年会の司会進行は俺と塚田の担当だ。
といっても、ほぼ塚田に丸投げだが。

俺は以前退職した「真田のオバァ」の次に在職期間の長いリーダー経験者の猪瀬さんというオバチャンとずっと話をしていた。
オバァよりは穏やかな人だが、やっぱり俺など小僧扱いされる。

社長や部長と話しているより、猪瀬さんの孫自慢を聞きながら飲んでいるほうが気楽だ。

猪瀬さんもオバァと同じようなことを言う。

「進藤さんも早く結婚しなさいよ」

「うるせぇな」

「じゃあ彼女作りなよ」

「だからうるせぇって」

猪瀬さんくらい年上だと、却って話しやすい。

猪瀬さん相手に憎まれ口をたたきながら、店内を見ると、塚田はやっぱりナカちゃんと山本さんに囲まれて笑っている。

下ちゃんはその近くで他のパートと喋っている。

高ちゃんは店の人間となにか話したり、野本のところへ行ったりと、まだ動き回っていたが、そのうちやっと幹事用に空けてある席に座った。

すると下ちゃんが高ちゃんのところへ行った。
多分下ちゃんのことだから、高ちゃんをねぎらいに行ったのだろう。

もしかしたら、ナカちゃんと山本さんとじゃれている塚田の側から離れたかっただけなのかもしれないが。

No.116 14/08/13 13:02
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猪瀬さんに他のオバチャンがお酌しにきたのをきっかけに、俺も幹事席へ戻った。

「高ちゃん、食ってるか?」

俺がそう声をかけると、高ちゃんはビールを飲みながら「食べてます」と笑った。

宴会が始まってからずっと動き回っていたから、まだロクに食ったり飲んだりしていないはずだ。
高ちゃんはそれでも不満げな顔はしないでよく働く人間だ。

「肉いっぱい食っとけよ」

「はーい」

「進藤さん、高ちゃんのおとーさんみたい」

俺と高ちゃんのやりとりを聞いていた下ちゃんがそう言って笑った。

「下ちゃん、失礼だな。俺と高ちゃん5歳しか違わねぇのに」

「だって、保護者みたいなんだもん」

言われてみればそうかもしれない。

高ちゃんはキビキビと要領よく仕事をこなすタイプではないが、一つずつ確実に物事を片付けていくタイプで、ミスは少ない。
野本にギャンギャン言われることはあるが、それすらも上手にやり過ごすことができる。

だから本当は見ていても安心できるはずなのだが、どうしても心配になる。

もっといろいろ手伝ってやれることもあるのだろうが、普段無愛想な俺がそんなことをしたら、変に目立つのも困る。

「麗子ちゃーん!れーいーこー!」

俺が下ちゃんと話していたら、ナカちゃんが大声で下ちゃんを呼んだ。

ナカちゃんは山本さんを従えてテンションが最高潮らしい。

下ちゃんは「もー、ウルサイなぁ」と言いながらナカちゃんたちのいる辺りに戻っていった。

下ちゃんがいなくなって、幹事席には俺と高ちゃんだけになってしまったが、それでも誰も俺と高ちゃんを怪しいと思わないだろう。
それだけ俺と高ちゃんでは、恋愛に繋がる空気がないようだ。

好都合だが、若干納得いかない面もなくはない。

No.117 14/08/14 00:10
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俺は食うより飲みたい感じだったので、高ちゃんの分の肉を焼いてやりながら、ときどき塚田や下ちゃんがいる方を見ていた。

塚田はベタベタひっついてくる山本さんにも迷惑そうな顔はしない。
むしろ楽しそうに見える。
もちろんそれは塚田の性格がそう見せてるだけであって、内心は下ちゃんがいるところでそんなことはしたくないのが本音だろう。

でも、いくらなんでも優柔不断過ぎだ。
あれじゃあ山本さんも、けしかけているだろうナカちゃんも調子に乗るだけだ。

下ちゃんのことを隠すことと、あからさまな好意を寄せる女を遠ざけようとしないことは、まったく違う話だ。

あれじゃあどっちの女にも良くないだろう。

山本さんがあんな態度でいれば、下ちゃんとの仲が発覚するリスクは減るかもしれないが、それではいくらなんでも山本さんに失礼な話だ。

嬉しそうに俺が焼いた肉を食べている高ちゃんに、他の人間には聞こえないように考えていたことを話した。

「それこそ、山本さんは高ちゃんなんかよりずっと危ねぇよな。バツイチったって独身だし、高ちゃんより若くてあの性格。好き好きオーラ全開だし。ちょっとうるせーけど、性格悪いわけじゃないしな」

「でも、明らかに塚田さんのタイプじゃなさそうですけど」

「正解」

俺がそう言うと、こともあろうに高ちゃんは「進藤さんが付き合っちゃえばいいじゃないですか」と言った。

「ばーか。俺のタイプでもねぇよ」

まったく、高ちゃんは素直すぎる。
というより鈍感なのか。

No.118 14/08/14 08:44
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下ちゃんはいつもの飲み会よりも早いピッチで飲み続けていた。

フリードリンクコーナーにある焼酎をドバドバいれて適当にウーロン茶で割ったものをガンガン飲んでいる。

山本さんのことが原因なんだろう。

まぁ飲んでやり過ごせるなら飲めばいいと思うが、いくらなんでも飲み過ぎだ。
俺の横にいる高ちゃんもしきりに気にしている。

10時に忘年会がおひらきになると、塚田はナカちゃんや山本さんに引っ張られるように、次の店に行くようだった。
下ちゃんは行かないらしい。

高ちゃんもナカちゃんから声をかけられていたが、首を横に振っていた。

ちなみに俺はどうせ下ちゃんを心配する高ちゃんが、下ちゃんと一緒に帰るのだろうと思っていたので、ナカちゃんたちがいなくなるまで離れたところで様子を見ていた。

どうも今日の下ちゃんは危ない。
そのせいで高ちゃんが変な流れに巻き込まれそうな気がして心配だった。

焼肉屋の前に溜まっていた輪の中から下ちゃんが出て、歩き出した。

その少しあとから高ちゃんも出たので、焼肉屋から見えなくなったところで高ちゃんの肩を叩いた。

「進藤さん」
高ちゃんがちょっと驚いたように振り返った。

「下ちゃんが心配なんだろ。一緒に行ってやる」

「ありがとうございます。やっぱ進藤さん、優しいですね」

「ばーか」

本当に高ちゃんは分かっていない。

俺は高ちゃんにしか優しくする気なんかないんだ。

No.119 14/08/14 09:01
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高ちゃんと一緒にすぐ下ちゃんのあとを追いかけたのだが、下ちゃんの姿は見えなかった。

下ちゃんの帰る方向は合っているので、飲み過ぎまで酔っ払った下ちゃんに追いつかないわけもない。

来た道を戻ると、途中の公園で、来た方向からは資格になるベンチに下ちゃんが座っているのが見えた。

とりあえず下ちゃんのことは高ちゃんに任せて、俺は公園の隅でタバコに火をつけた。

高ちゃんに気付いた下ちゃんが少しなにか言い、そのあとは並んで座ったまま2人とも黙っているようだった。

そのうち下ちゃんがバッグからスマホをとった。
なにやら話してすぐに切ったようだ。

多分、電話の相手は塚田だろう。
先に帰った下ちゃんを気にして、ナカちゃんたちの目を盗んでかけてきたというところか。

塚田は馬鹿だ。

不倫だろうがなんだろうが、惚れた女くらい自分で守ってやれ。
公に一緒にいられないなら、裏でいくらでも守ってやることだってできるだろう。

山本さんあたりに気を遣って、下ちゃんを傷付けてどうする。

誰にでも優しい男。

一番惚れてる女に優しくできなくて、なにが優しいんだ。

俺が見たってわかる。
下ちゃんはぶっ壊れかけてるじゃねぇか。

だから高ちゃんは下ちゃんを追いかけた。

塚田。
お前が肝心なときに踏ん張れなくて、この先お前らの危なっかしい関係を保たすことができるのか。

No.120 14/08/14 09:05
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>> 119 【変換ミスです】

資格×
死角○

No.121 14/08/14 09:17
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【お知らせ】
感想スレNo.36をご参照ください
http://mikle.jp/thread/2121087/36

No.122 14/08/15 06:57
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電話を切った下ちゃんがゆらりと顔を上げた。

高ちゃんは目を見開いて下ちゃんを見ている。

今日の下ちゃんはダメだ。
本当にぶっ壊れかけてる。
理性だとか自制だとか、スッ飛んだ目をしている。

山本さんが入社して以来、ストレスばかりだったんだろう。

下ちゃんは立場上、山本さんに指導する立場だ。
もともと穏やかな性格の下ちゃんは、他のパート連中と一緒になって、山本さんにキツく当たることもできなかっただろう。

なにも知らない山本さんは、自由気ままに塚田に近付き、更には親友ともいうべきナカちゃんまでが山本さんとつるむようになってしまった。

隠れて不倫をしている身では、それは全部当人が堪えなくてはいけないことだ。

でも、一番肝心な塚田があの優柔不断さでは、会っているときにどんな優しい言葉をかけられても、堪えきれなくなるかもしれない。

ぶっ壊れた下ちゃんが、これからなにをやらかすかだ。

下ちゃんを慕う高ちゃんが横にいる。

下ちゃんから見ても、高ちゃんは口の固い、信頼できる人間だろう。

下ちゃんが一人で担いでいる、なにがなんでも隠し通さなくてはいけない秘密を、下ちゃんは誰かに一緒に担いでもらいたくなっているんだと思った。

………甘いな

人の道から外れようが
バレたらなにもかも失うとわかっていようが
周囲すべてを欺き続けなくてはいけなかろうが

それがお前ら2人が選んだ道だろう。

隠すなら死ぬ気で隠せ。

そして墓場まで持っていけ。

No.123 14/08/16 19:18
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下ちゃんは、赤レンガ倉庫で高ちゃんに会ったとき、あれが高ちゃんの小芝居だとなんとなく察していたんだろう。

ただ、高ちゃんが知らないフリをしている以上、下ちゃんもそれに合わせていただけに違いない。

たからいま、高ちゃんに自分が背負っている秘密を打ち明けようとしている。

高ちゃんは成り行きだろうとなんだろうと、この先ずっと下ちゃんの協力者になってしまうだろう。

重い荷物を誰かに何割かでも託すことの楽さを覚えたら、どんなに強い人間でも楽することをやめることは難しいだろう。

だったら、俺も登場してやる。

俺は、そんな甘えは許さない。

自ら飛び込んだアホな状況を、高ちゃんみたいな人間を利用して、楽になろうなんてことは、絶対に許さない。

俺が惚れた女を、そんな状況に流させるわけにはいかない。

「高ちゃん、知ってるんでしょ?」

ゆっくり2人に近付くと、下ちゃんがつぶやく低い声が聞こえた。

「……しっ、知ってるって、なに、を?」

高ちゃんのとぼけ方もボロボロだ。

「………下ちゃん、俺も知ってるよ」

俺が2人の後ろでそう言うと、高ちゃんがホッとしたように「進藤さん………」と言った。

「高ちゃん、女の子ひとりのアパートなのに悪いけど、寄らせてもらっていいか?……下ちゃん、話は移動してから」
こんなところでできる話じゃない。

「いいですよ。下川さん、行きましょう」

労わるように高ちゃんが下ちゃんの腕に自分の手をそっと添えた。

No.124 14/08/16 19:35
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込み入ったヤバい話を迂闊な場所でするわけにもいかないので、一番近かった高ちゃんのアパートに突然押しかける形になってしまった。

高ちゃんはコーヒーを淹れると言ってキッチンに立った。

高ちゃんの部屋はロフトの付いたワンルームで、期待を裏切らない簡素さだった。

シンプルなカーテンや必要最低限の家具、小さなテレビ、来客に備えたように綺麗に片付いている。

高ちゃんが3人分のコーヒーを出して座ったのを機に、俺は下ちゃんに一番言いたかったことを言った。

「まずさ、下ちゃん。最初に反省しなよ。酔った勢いとはいえ、既婚ででっかい子どももいるようないい大人が、年下で独身の高ちゃんには荷が重い秘密をバラそうとしたこと。軽率としか言いようがねぇ」

「……ごめんなさい……」

下ちゃんは少し冷静さを取り戻したように見えた。

そこで高ちゃんを促して、いままで高ちゃんが知っていたことを説明してもらい、そのあとで俺も自分が感じたり見聞きしたりしたことを話した。

高ちゃんが塚田と下ちゃんのことを知ってから、いろいろ悩んでいたことを俺が言うと、下ちゃんは
「……ごめんね。ごめんね、高ちゃん。本当に、ごめんね」
と言った。

「……私は、いいんです。途中で進藤さんが気付いてくれたから」

高ちゃんは俺と下ちゃんの顔を交互に見ながら、いつにも増して慎重に言葉を選んでいるように、そう言った。

No.125 14/08/16 20:01
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高ちゃんの言葉に少し満足を覚えながら、俺は下ちゃんに話を促した。

下ちゃんは懺悔でもしているような顔で話し始めた。

下ちゃんと旦那が10年くらい仮面夫婦だということ。
5年前に塚田が入社したとき、一目惚れしたこと。
塚田も下ちゃんに惚れて、そのために付き合っていた彼女と別れ、3年前、それを下ちゃんに打ち明けたこと。
それでもなんとか下ちゃんが自制して、メールだけの付き合いが続いたが、休日に偶然新宿で会ってしまい、その日から今日まで不倫の関係がもう2年続いていること。

罪悪感があっても、発覚したら周囲を巻き込んで酷いことになることが分かっていても、別れられない。

子どもと塚田のことは守りたいと、下ちゃんは言った。

そんなことを下ちゃんは話した。

ありきたりな、不倫話だ。

旦那と上手くいっていないときに、好きな男ができた。
悪いことだと分かっていてもやめられない。
好きだから別れられない。
バレたら子どもが傷付くし、塚田も巻き込んだ騒ぎになるから隠したい。

なにもかも、不倫している当人たちに都合のいい話だ。

だから俺は
「不倫してるヤツはみんなそんなこと言うけどよ、まぁ、自分にばっかり都合のいい話だよな」
と言った。

No.126 14/08/16 21:00
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「でも俺は別に、非難したりはしないさ。なに言ったって他人事だからな。ろくでもねぇ話だとは思うけど、だからって塚田と下ちゃん自身をロクデナシとまでは思わねぇし。俺はこんなしょうもない話、ひとには言わねぇし、高ちゃんも賢い上にクチは固いからな。会社に迷惑かけることさえなければ、塚田も下ちゃんも好きにすればいいと思ってる」

誰だって惚れた相手のことは、自分でなんとかするしかないんだ。

「……うん」

「でも、下ちゃん、なんで高ちゃんに探り入れたり、塚田のこと好きなのか聞いたりしたんだよ。普通に考えると、高ちゃん利用して自分らの不始末隠そうとしてるように思えるんだよ」

この辺が一番俺の気に入らない話だ。

「………ごめんなさい。別れられないって言いながら、塚ちゃんに早く他に彼女ができたらいいって、ずっと思ってたから……。それが高ちゃんだったらいいな、って……」

「勝手だな。高ちゃんなら良くて、山本さんはダメなのか」

下ちゃんはなにを勘違いしているんだ。
高ちゃんも山本さんも、塚田の意思すらも関係ない。
下ちゃんにとってだけの、都合のいい考えだ。

「馬鹿にした話だな」

高ちゃんはもとより、山本さんもあんな風でいて本当に塚田のことを好きだとしたら、残酷極まりないやり方だ。

追い詰められたからって、関係ない他人を傷付けかねないことをするな。

下ちゃん自身の価値をそんな泥の底まで下げることはないだろう。

「だって……。塚ちゃんには幸せになってもらいたい…」

「知るか、そんなこと。そんなこと本人に聞けよ」

No.127 14/08/16 22:30
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塚田は下ちゃんに本気で惚れているんだろう。

不倫だろうと、惚れた女の気持ちを手に入れたことは、塚田にとっては幸せなんだろう。

幸せってなんだ。

誰が決めるんだ。

それでも塚田を真っ当な人生に戻してやりたいなら、自分で突き放せ。

「とにかく、俺も高ちゃんもこの件については全てノータッチだ。下ちゃんはそんだけわかってんだから、それなりの覚悟もあるんだろう?」

「うん」

下ちゃんの目に力が戻ったような気がした。

そうだ。
高ちゃんの優しさに甘えるな。

「だったら、山本さんが現れたくらいで動揺するな。隙を見せるな。辛かろうがなんだろうが、他人に秘密を一緒に背負ってもらおうなんて考えるな。死に物狂いで隠せ。悪いことだってわかってるなら、一人で墓場まで持っていけ」

俺が言ってやれるのはこんなことだけだ。

下ちゃんを守るのは塚田の役目だ。
塚田を守るのは下ちゃんの役目だ。

「俺と高ちゃんにバレたことは、塚田には言うな」

誰も味方はいない。
そのくらいの強い覚悟がないと、また今日みたいにぶっ壊れるだろう。

そんな世界に、俺が惚れた女を巻き込むな。

俺は高ちゃんを守りたいんだ。

だから、塚田も下ちゃんも馬鹿だとは思うが。

お互いに本気で惚れてることだけは、分かってやれるつもりだ。

No.128 14/08/17 08:25
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下ちゃんは話がひと段落した辺りで「ごめん、高ちゃん、トイレ貸して」と言って、トイレに駆け込んだ。

ドアが空いたまま高ちゃんが「大丈夫ですか?」と言っていたので、下ちゃんが吐いたのだと分かった。

しばらくして下ちゃんは戻ってきた。

「ごめんね、高ちゃん」

「大丈夫ですよ」

高ちゃんは下ちゃんに水を渡し、心配そうに俺を見た。

下ちゃんが落ち着いたところで、俺は下ちゃんと一緒に立った。
一人で下ちゃんを送るつもりだったが、高ちゃんも一緒に付いてきた。

5分ほど歩いたところにある下ちゃんの家に着くと、下ちゃんは「ごめんなさい」と言って、家に入って行った。

「さ、高ちゃんも帰るぞ。付いてこなくて良かったのに」

高ちゃんと一緒にまた高ちゃんのアパートまで歩き始めた。

「心配だったんですよ」

高ちゃんは下ちゃんの家をチラッと振り返りながらそう言った。

「優しいこった」

高ちゃんは下ちゃんが心配でたまらないのだろう。

だからずっと下ちゃんを庇い、一人で秘密を抱え込んでいた。

慕っている下ちゃんのため、必死だったんだろう。

どうにもならないことは、高ちゃんにも分かっているはずだ。

それでも高ちゃんは、下ちゃんのために、なにかをしてやりたいんだろう。

下ちゃんは、俺と高ちゃんに不倫を知られたことが分かって、少しホッとしたのと同時に、以前よりも発覚のリスクが高くなったことも分かっているだろう。

No.129 14/08/17 08:46
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秘密は知っている人数が少ないほど守られる。

いくら俺や高ちゃんを信用していても、リスクが高くなったことに変わりはない。

でも、それでいいんだ。

これで下ちゃんは、もう二度と自分から馬鹿な告白を誰かにしようなんて考えないだろう。

高ちゃんはこんなことで悩む必要はない。

悩み苦しむのは、当人たちだけでたくさんだ。

高ちゃんにとっては、俺が秘密を共有したことは、悪いことじゃないだろう。

俺が。
高ちゃんに余計な火の粉がかからないようにしてやれる。

俺は、こうやっていつでも他人のことを考えてばかりいる高ちゃんが好きだ。

要領が悪くて、あたふたして、それでも一生懸命になるべく正解に近い行動を探すことができる高ちゃんが好きだ。

俺は高ちゃんみたいに優しい人間じゃない。

それで散々失敗してきた。

惚れた女のことも大事にできなくて、後悔するのは、もうたくさんだ。

高ちゃんの言葉を聞いて、俺の言いたいことも伝えて、高ちゃんの近くにいたいんだ。

大事なものは近くに置いておきたい

正確には、俺が、近くにいたいんだ。

高ちゃんが俺のそばにいたいと、そう思ってもらいたいんだ。

高ちゃんのアパートの前に着くと、高ちゃんは
「進藤さん、ありがとうございました」
と言った。

「じゃあな」

俺がそう言うと、高ちゃんはアパートの外階段を上がり、ドアを開けると、俺に手を振ってから中に入っていった。

No.130 14/08/17 10:39
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忘年会が終わり、週明けからは年末の慌ただしさに戻った。

下ちゃんはいつものように有能なパートとして働いていた。
もちろん塚田も、いつもと同じように仕事をこなしている。

高ちゃんも2人は気になるのだろうが、定時にも帰れないような忙しさに走り回っているようだった。

そして仕事納めの日になった。

通常の業務は前日までにほぼ終わらせてあるので、この日は全員で大掃除がメインだ。

作業場や事務所は他の人間が掃除するので、俺を始めとする男連中は、倉庫や会社の外回り、フォークリフトや車の洗車をやる。

昼過ぎまでには大体ケリをつけて、掃除の済んだ作業場で社員もパートアルバイトも全員揃って軽く飲むのが恒例だった。

俺は乾杯のあと少し付き合って、やり残したことを片付けに戻った。

どうも性分なのか、掃除となると徹底的にやらないと気が済まない。

ハイエースやトラックの洗車は終わったので、掃除機を外に担ぎ出して中の掃除をした。

合間に電話や、最終日の預かり荷物が少しあったりしているうちに、パートとアルバイトの人間が外にパラパラと出てきた。
飲み会がとりあえず終わりになったようだ。

俺は仕上げに車内のホコリを払い始めたが、使い捨てのハンディモップが限界まで汚れてきたので、備品の倉庫へ替えを取りに行った。

誰かが整理し直したのか、いつもの場所に掃除道具が見当たらず、探していると、高ちゃんが入ってきた。

No.131 14/08/17 11:01
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高ちゃんに聞くと、高ちゃんは「あー、ここです」と言って、上の棚に手を伸ばして飛び上がった。

「床が抜けるからドスドス飛ぶな」

俺がそう言って箱を下ろすと、高ちゃんは「毒舌納めですね」と言った。

最近こうやって憎まれ口を返して来るところが可愛いと思う。

「高ちゃんはいつ実家帰るんだ?」

「そうですねぇ。大晦日かなぁ。一応アパートも大掃除したいし。元旦の夜に地元の友達と飲み会あるんです」

「ふーん」

地元というと、やっぱり同級生の集まりか。
男もいるだろうと思うと、余計な心配をしそうになる。

「進藤さんは帰省しないんですか?」

「帰省ったって千葉だからな。大晦日に友達と飲み会して、1日には帰ってくる。実家に長居するのもゾッとしねぇし」

今のところ予定は大晦日だけだ。
高校の仲間と集まる。
そういえばいま遙はどうしているのか。

もう何年も会っていない。

「高ちゃん、どうせ飲み会以外は暇なんだろ?3日辺りに初詣でも行くか?」

辺りに人がいないのをいいことに、思いついてそう言った。

「どこ行くんですか?」
高ちゃんは俺の誘いに驚いた様子でもなく、そう聞いた。

「浅草寺かな」

「混んでますよ」

そうは言ったが、特にそれが嫌だという風でもなさそうだ。

No.132 14/08/17 11:29
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正月の3日に高ちゃんと初詣に行く約束をして、そのあと残った掃除と仕事を片付け、今年の仕事が終わった。

俺は大晦日の午後に自分の車で実家に帰った。

例によって実家に同居している兄貴のとこの甥っ子たちにまとわりつかれたが、適当に相手をしてやってから、夜になって高校の友達が集まる飲み会に行った。

飲み会の連絡は昔からいつも遥と俺とつるむことが多かった光輝がくれる。

地元駅前の居酒屋へ行くと、知った顔がたくさん集まっていた。

光輝がいたので声をかけた。

「光輝、生きてたか」

「匠もな」

他の連中も入れ替わり立ち替わり声をかけてくる。

昔ほど頻繁には集まることは減ったが、大晦日には毎年こうやって人が集まる。

「そういや遥はいまどうしてんだ?」

俺が光輝に言うと、
「あー、匠知らねぇのか。遥、去年までアメリカで働いてたのは知ってんだろ?それが今度日本の現地法人立ち上げるとかで、秋に帰国したんだよ。今日も来れたら来るって言ってたよ」
と言った。

「結婚したのかな」

「知らね。帰ってるって聞いたのも最近だしな。遥なら2、3回結婚しててもおかしくねぇけどな」

「遥ならありえるな」

そう話していたら、誰かの「遥!」と言う声が聞こえた。

声のした方に視線を向けると、昔とさほど変わらないように見える遥が、ニコニコしながら座敷に上がっている姿が見えた。

No.133 14/08/17 20:15
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遥が現れただけで、場の雰囲気が変わったような気がする。

懐かしいとかを通り越して、一気に高校時代そのままの空気になるような感じだ。

遥はあちこちの輪に呼ばれたあと、俺と光輝がいる席にきた。

「タクミン、光輝!久しぶり!」

「変わんねぇな、遥」

「タクミンは大人っぽくなったね」

「匠、老けたって言われてるぞ」

「老けたのは光輝だろ。結婚して所帯染みてきたぞ」

「光輝、結婚したの?」

「一昨年したってメールしたら、遥『おめでと〜』って返信くれただろ」

「あれー?そうだっけ?」

遥は相変わらずマイペースそのものだった。

よく飲み、よく食べ、よく喋る。

なんで遥だけはいつまでも変わらないんだろう。

光輝がトイレに立ったときに、遥は「タクミンは結婚しないの?」と言った。

「結婚はまだだな」

「あのときの彼女は?」

綾のことか。

そういえば、遥が来る飲み会に行ったことから、綾との関係がおかしくなったんだな。

もう10年も前の話になってしまった。

「とっくに終わったよ」

「いまは彼女は?」

「彼女はいねぇよ」

「好きな人ならいるんだ」

「まぁな」

「どんなこ?」

「いい子だよ」

いままで見たことないくらい、いい子だ。

「タクミンは点が辛そうだからなー。タクミンがいい子だって言うなら、とんでもなくいい子なんだね」

「そうだな」

No.134 14/08/17 22:05
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「遥は結婚したのか?」

「してないよ」

「ふーん」

「タクミン、私と結婚する?」

「遥の相手は俺には無理だ」

「どういう意味よぅ」

「そのまんま」

「ひどーい」

遥はグラスに入ったスパークリングワインを飲みながら笑った。

俺は高校時代、遥に惚れていたんだろうか。

ずっと自分でも分からないと思っていた。

いま、こうして遥の隣で、一緒に飲みながら話していると、高校時代の俺は、なんてガキだったんだと思う。

そうだ。
遥は高嶺の花だった。

遥は綺麗で可愛くて
自由気ままなのに
なにをやっても許されて
誰からも好かれて

そんな遥に惚れたって、俺など相手にされないと思っていたんだ。

高校を卒業してもう12年経った。

もう30歳だ。

いまさらカッコつけることもないだろう。

遥が俺の初恋だったんだ。

なにも始まらないまま終わった初恋だったんだ。

綾とうまくいかなかったのは、俺がそれを認めなかったからなのかもしれない。

綾は、そんな俺に不安を感じたのかもしれない。

そうだ、やっぱり俺はカッコつけたいだけのガキだったんだ。

遥はこんなに昔と変わらないのに、俺はずいぶんオッサンになったような気がする。

いや。
本当は遥も変わったんだろう。

苦労があっても
悩みがあっても
辛さがあっても

それを人には見せないのが遥なんだ。

遥の強さなんだ。

だから遥はみんなから愛されるんだ。

No.135 14/08/18 00:02
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「俺、遥のこと好きだったんだよな」

俺がそう言うと、遥は「ほぅ」と言いたげな顔をした。

「過去形」

「高校のころの話だからな」

「いまは?」

「いまでも好きだけどな。惚れた女がいるから」

「なるほど」

遥はもう一度「なるほど」と繰り返した。

「私はずっとタクミンのこと大好きだよ」

「知ってるよ。何回も言ってたじゃねぇか」

「うん。大好き」

本当に遥は昔のまんまだ。

いま仕事内容は知らないが、遥は遥のままで、どんな苦労も飲み込んで、変わらず笑うことができるのだろう。

どこにでもスッ飛んでいく遥。

どこにでもスッ飛んでいく勇気と力をもっているんだ。

まるでタイプは違うのに、高ちゃんを思い浮かべた。

高ちゃんは遥とはまったく違うやり方で、どんな場所でも自分の居場所を作り上げ、周囲から受け入れられる。

俺はそんな高ちゃんに惚れた。

俺にはないものを持っているところに、俺はどうしようもなく惹かれるんだ。

「今日遥に会えて良かったよ」

「なんで?」

「惚れた女のいいところ、遥のお陰で再確認できたから」

「私のお陰?なら感謝して」

「あぁ」

また遥は俺の手の届かないところにスッ飛んでいくんだろう。

高校時代、いつも一緒だった遥。

俺が昔惚れていた女が、いつでもどこでも変わらずに頑張っている。

そう思える女がいるのは悪くないと思った。

No.136 14/08/18 10:16
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年が明けた。

元日にはなにも予定を入れていなかったのだが、小中学校の同級生から声がかかって、夕方から2日続けての飲み会になった。

翌日の2日は二日酔いもいいところだった。

3日には高ちゃんと初詣の約束がある。

とりあえずメールをしてみた。

高ちゃんも昨日は飲み会だったはずだ。

高ちゃんからの返信は、
>>あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします
と、相変わらず話す口調と同じく敬語だ。

>>大晦日と昨日と飲み会で飲み過ぎちゃった

俺がそう送ると

>>辛いなら初詣やめときますか?

そう返ってきた。

>>ダメ。三が日に行かないとご利益がなくなるでしょ。もうだいぶ復活したから大丈夫( ̄▽ ̄)δ⌒☆

こうやって顔文字でも入れておけば、高ちゃんの心配も減るだろう。

>>まぁ無理そうだったらまたメールください

>>浅草で鰻食べようねー。混むから浅草に10時集合、鰻11時!朝ご飯控え目で

浅草に俺がたまに行く鰻屋がある。
正月だし、そこに高ちゃんを連れて行ってやろうと思っていた。

>>はーい

俺はその日の夕方に実家を出て、自分のアパートへ帰った。

高ちゃんは俺のことを会社の先輩として信頼してくれているんだろう。
だからこうして誘っても、迷いも警戒心もなく、来てくれるんだろう。

きっと下ちゃんを慕うのと大差ない状態だ。

まぁ、それでもいい。

高ちゃんと話したりメールをやり取りしたりしていると、俺まで素直に話せるような気分になるのは、イヤなことじゃない。

No.137 14/08/18 11:15
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翌日、約束の時間の少し前に浅草駅の改札で待っていると、高ちゃんが律儀に5分前に現れた。

新年の挨拶をする高ちゃんを連れて、仲見世通りから浅草寺に向かった。

まだ三が日の浅草寺は初詣客で混雑していた。

参拝の列に高ちゃんと並び、けっこうな時間をかけて賽銭箱の前に来て、俺は賽銭を投げた。俺の前で高ちゃんも手を合わせている。

顔を上げた高ちゃんが俺を見失ってキョロキョロしていたので、後ろから高ちゃんの腕を引くと、高ちゃんが「進藤さんが迷子になったかと思いました」と真面目な顔で言った。

それほど背の高くない高ちゃんは、人混みに紛れていると、小さい子どものように頼りなく見える。
男の俺が横にいれば、少しは動きやすいだろう。

俺は笑いたいのを堪えて「逆だ」と言って御守りの授受所へ進んだ。
去年と同じく、交通安全の御守りをもらう。
そういえば去年は地元の幼馴染の男連中と来て、初詣のあとしこたま飲んだ。

「よし、これでまた1年無事に過ごせる」

俺がそう言うと高ちゃんがプッと笑ったので「笑うな、罰当たりめ」と睨んでやった。

「だって、なんかおかしくて」
高ちゃんは涼しい顔でそう言う。

「自分こそ当たり障りない御守り選びやがって」
高ちゃんは観音の守護の御守りをもらっていた。
万能系の御守りだ。

「私は平凡に過ごせればいいんです」

高ちゃんはそう言って、御守りを大事そうに肩からかけたバッグにしまった。

そのあとすぐに浅草寺から少し歩いたところにある鰻屋へ行った。

俺の奢りだと言うと、高ちゃんは値段を気にしながらも俺と同じうな重を頼み、美味しそうに完食した。

とりあえずこれで今日の目的だった初詣と鰻が済んだのだが、せっかく連れ出した高ちゃんをこのまま帰すのもつまらない。

「スカイツリーでも行くか?」と言うと、高ちゃんが「行ってみたいです」と答えた。俺も高ちゃんも行ったことがないので、散歩がてら見物に行ってみることにした。

No.138 14/08/18 11:40
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「さっき平凡に過ごせればいいって言ってたな」

店を出て歩きながら俺はそう言った。
浅草寺から離れると、人の流れも少し緩やかで、歩きやすい。

「はい。やっぱり平凡が一番いいな、って思うから」

「自分から泥沼劇場に突っ込んでいくヤツらもいるけどな」

会社では塚田と下ちゃんの話などできないが、いまなら聞いてもいいだろう。

「塚田さんも下川さんも普通にいい人で、真面目に生きてきた人なのに、世間から見れば道を踏み外したわけだし。恋愛って、そうやって人間を狂わせちゃうんだと思うと、ちょっと怖くなりました」

高ちゃんはきっと平凡なりに良い家庭で、真面目に素直に育ったんだろう。
あの姉さんを見ても、それがよく分かる。
そんな高ちゃんから見れば、不倫なんていうことは怖い話なんだろう。

「高ちゃんは賢いから大丈夫だろ」

「賢いって誉めてくれるのは進藤さんだけですよ。賢いっていうより、私は臆病なんだと思います」

臆病は悪いことばかりじゃない。
高ちゃんは自分を外側から観察し、慎重に振舞うことを知っている。

「自分を客観的に見られるのも、賢さの一つだろ」

「そっか。そういう考え方もあるんですね」

高ちゃんは謙遜せずに感心したようにそう言った。

「そうそう。素直なとこもいいところだ」

「さすが『おとーさん』」

「それを言うな」

守ってやりたいと思うのは、保護者だからじゃない。
惚れてるからだ。

いつかそう言ってやったら、高ちゃんはどんな顔をするだろう。

No.139 14/08/18 11:58
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スカイツリーの真下まで来た。
634mの高さがあるというこの馬鹿でかい建造物は、真下に立つと自然と見上げてしまい、首が痛くなるような体勢になる。

俺の横で高ちゃんが口を丸く開けて見上げていたので「クチ開いてるとアホヅラになるぞ」と俺が笑うと、高ちゃんは慌てて口を閉じてから、なぜか不思議そうに俺を見た。

「進藤さんはなんで会社だといつも怖い顔してるんですか?」

「仕事なんだから別にあれで普通だ」
いまは仕事中じゃない。
しかも惚れた女と一緒にいて、笑わない男がいるわけないだろう。

「もーちょっとマイルドになると、人気が出ますよ」

「オバチャンに人気が出てどうすんだよ」
塚田じゃあるまいし、そこらじゅうに振りまくほど、俺の愛想の持ち分は多くない。

「そりゃそうですけど」

きっと高ちゃんも、陰で俺を怖いだの口煩いだの言っているオバチャン連中にフォローしてくれているのだろう。
仕事をしていて陰口を言われるくらいなんとも思わないが、それでもそういうフォローがあるから、やり易くなっているのは分かる。
愛想のいい人間にはなれないが、そういう存在に感謝することは忘れないようにしよう。

「高ちゃんも俺のこと怖い?」

「最初は怖かったです」

「今は?」

「怖くないです。けっこう優しいとこあるし、私は良くして頂いてるんで」

優しいとこ?
そんなもん、高ちゃんだけで売り切れだ。
他の人間に優しくできるほど、俺の器は大きくない。

「安売りはしねぇ主義なんだよ」

「は?どういうことですか?」

「言った通りの意味だよ。解んねぇならいいよ」

本当に意味が解らないのか、とぼけているのか。

もっと突っ込んだことを言ってみたくなった。

No.140 14/08/18 12:52
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夜どこかで飲んで帰ろうと誘うと、高ちゃんはOKしてくれた。

さすがにまだ時間が早いので池袋まで移動し、映画を観て時間を潰した。

映画館を出て串揚げ屋に高ちゃんを連れて行くと、高ちゃんは楽しそうに串揚げを選んだ。

さっきは自分で保護者の気分を否定したが、目の前で串揚げを美味しそうに食べている高ちゃんを見ると、つい「もっと食うか?」と父親みたいな台詞が出てくる。

父親気分のついでに、高ちゃんが元旦に行ったという地元の友達との飲み会のことを聞いた。

俺の知らない高ちゃんを知っている人間の集まりということが気になる。

「元旦の飲み会って、高ちゃんの中学とか?」

自分でもおかしくなるくらい、俺は言葉を選んで言った。

「そうです。まだ地元にいる子が多いし、50人くらい来ました」

「初恋の人とか来たわけ?」

いい加減、俺も嫉妬深いところがあるんだと、高ちゃんに関しては思う。

「来てましたよ。元気そうでした」

高ちゃんはアスパラの串揚げを食べながら、なにも気にしないような口調で言った。

「へー、再会してなんか進展したりしない?」

あまり突っ込んでもしつこく思われるだろうが、どうせ酒も入っているんだからいいかと続けて聞いてしまう。

「ないですね。特に仲が良かったわけじゃないですから。進藤さんこそどうなんですか?」

あっさり答えて、高ちゃんは俺に矛先を向けてきた。

「俺の同級生の女共は7割がた結婚してるからな」

俺の地元では20歳過ぎくらいから結婚していく女が多かった。
もちろん遥のように仕事仕事で独身の女もいる。

「初恋の彼女とかいないんですか?」

高ちゃんは自分が聞かれた仕返しのように、面白がっている口調で言った。

「来てたよ」

「どんな人ですか?」

「知りたい?」

遥の話なら、高ちゃんにする気はない。
俺がこう言えば、高ちゃんはこれ以上突っ込んでこられない、そんな性格だ。

案の定、高ちゃんはゴホゴホとむせ、治まってから口をへの字に曲げて「別に知りたくないです」と言った。

No.141 14/08/18 15:20
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俺は楽しくなって
「やっぱり最近生意気だなぁ」
と言った。

「生意気ですか?」

「入社した頃は『はい』と『すみません』しか言えないのかと思った」

「今でもそうですよ」

「いや、なかなか生意気になってきた」

俺は酔ってるのか。
目の前で憎まれ口を叩く高ちゃんが可愛くて仕方ない。

そうだ。
入社した頃、俺を怖がっていた高ちゃんが、こんなことまで言うようになったのが、嬉しくて仕方ない。

少し高ちゃんを困らせてやろう。

俺はテーブルの上に置いておいたスマホでメールを打った。



>>生意気な高ちゃんはかわいいよ



高ちゃんの手の横にあるスマホが振動する。

高ちゃんは俺を不思議そうに見てから、自分のスマホをタップした。

高ちゃんの顔が、みるみるうちに赤くなる。

俺はその反応に満足しながらタバコをくわえて火をつけた。

「真っ赤になっちゃって」

俺がそういってからかうと、高ちゃんはますます赤くなった。

「だ、だって、だって、こんな不意打ちは、ず、ずるいです」

「ふーん」

追い討ちといこうか。



>>照れちゃうんだ。かわいいね



高ちゃんの手の中でスマホのバイブ音がする。

「もー、やめてください。私をからかって楽しいですか」

困っている。
俺のメールを見て、なんと言えばいいのか分からずにあたふたしている。

会社でなら、どんな困ったときにも、静かに一生懸命に考えながら話すのに、いまの高ちゃんにはそんな余裕はないようだ。

会社で見ることのない高ちゃんを、もっと見たい。
俺しか知らない高ちゃんを、もっと見たい。

「楽しいよ。からかってるわけじゃないけど」

俺がそう言うと、高ちゃんは俺を見て、また困った顔をした。

No.142 14/08/18 15:40
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「あんまりいじり過ぎると、高ちゃんがオーバーヒートしちゃいそうだから、今日はこの辺で勘弁してやるよ」

俺がそう言うと、高ちゃんはホッとしたように息をついた。
顔からスッと赤みが引いていくのが面白い。

「塚田さんと下川さん、お正月の間、どうしてるんでしょうね」

もうからかわれないようにか、高ちゃんは話題を塚田と下ちゃんのことに向けた。

「塚田は山梨の実家に帰るって言ってたな。下ちゃんは正月はダンナの実家の手伝いと、自分の実家に顔出して終わるって去年言ってた」

「お休みでも、会えないんですよね」

「そういうもんだろ」

下ちゃんと旦那が仮面夫婦でも、家庭が崩壊しているわけじゃない。
不倫カップルは盆や正月には一緒にいられないものだろう。

「塚田さんは他の人と付き合おうとか考えられないんですかね。山本さんみたいな人を好きになれたらいいのに」

「塚田もそれは解ってるだろ。塚田と一緒に合コンにも行ったことあるけどな、あいつホント面食いなんだよ。見た目綺麗系、性格は明るくて素直、えれぇストライクゾーンが狭くてな。ちょっと可愛いくらいじゃ、全部却下。多分、塚田も下ちゃんに一目ぼれだからな。あいつの基準は全部下ちゃんなんだよ。下ちゃんを上回る女じゃないと、あいつは無理なんだな」

「塚田さんは理想の女性に出会っちゃったんですね」

「馬鹿だよな。俺だったら惚れた女が仮面夫婦だろうがなんだろうが、他の男と一緒に暮らしてると思うだけで無理だ。俺は大事なものは手元に置いておきたい性格だからな」

「恐竜のフィギュアと同じ扱いですね」

「………。そうだな。同じかもしれない」

No.143 14/08/18 16:00
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高ちゃんにはそう言ったが、本当は少し違う。

恐竜のフィギュアはケースにしまい込んだり、飾ったりしておけば満足だが、惚れた女は近くにいるだけじゃダメだ。

心が手に入らなければ、本当にフィギュアと同じだ。

心を手に入れても、他の男のところに戻らなくちゃいけない女は、俺はイヤだ。

塚田は下ちゃんが家に帰るのを、会うたびにどう割り切っているんだ。

俺だったら、嫉妬で気が狂いそうだ。

塚田は、それでも下ちゃんでないとダメなのか。

最初から既婚者と分かっていて、そこまで惚れてしまうのか。

結局そのあとはまた違う話題に移り、10時前に店を出た。

今日は実家へ帰るという高ちゃんの行き先を聞き、送るつもりで駅へ向かった。
高ちゃんも今日は遠慮することなく、素直に付いてきた。

やっぱり俺は、人妻なんかとは付き合えない。

こうして休みの日に一緒に出かけることも、送ってやることも、なにをするにも人目を気にする付き合い。

人のものを盗んでいるような、卑怯な気分。

俺は、そんな風に女を愛することなどできない。

人混みで俺を頼りに歩き、並んで歩くと俺を見上げ、憎まれ口を叩いたり、困ってみせたり、赤くなってみたり

高ちゃんは今日はそれを俺だけに見せてくれた。

いつか、心まで全部手に入れたいと思う。

俺のそばにいたいと思ってもらいたい。

そんな気持ちが、誰かのものを奪う形になるのは、どうしても俺にはできないだろうと思った。

No.144 14/08/18 19:05
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正月休みが終わった。

「山本さん、辞めるんだって」
朝の打ち合わせのあとに野本が言った。

「へぇ、なんで」

「就職するんだって」

「ふーん」

ウチの会社みたいにパートがたくさんいると、けっこう出入りが多い。

山本さんは塚田を追っかけ回してたし、最近は他のパート連中ともうまく付き合っていたから、辞めると聞いて少し意外だった。

でもまぁ、まだ経験の浅い山本さん一人が辞めたところで大勢に影響はないのが現実だ。

ただ、辞めるにあたって、塚田のことは彼女なりにどうケリをつけたのか、とは思った。

山本さんは見るからにタフだし、見かけよりは馬鹿ではなさそうだから、大人しく辞めて行くのだろう。

仕事始めの次の週が山本さんの最後の出勤日になった。

業務のあと、他のパート連中や、事務所にいる社員に挨拶していた。

怖がっていただろう俺のところにも来て、山本さんは頭を下げた。

「ナカちゃんと作業場が静かになるな」

喧しいコンビだったが、不思議と作業効率は良さそうだった。

「お騒がせでした」

山本さんはそう言って頭をかいていた。

その夜、高ちゃんからメールが来た。

初詣の待ち合わせでメールして以来だ。

なんだと思えば、塚田と下ちゃんの話だった。

山本さんは塚田にフラれたらしい。
塚田は「好きな人がいる」と言ったらしいが、山本さんはそれが下ちゃんだと勘付いた。
そして山本さんは塚田と下ちゃんの様子がおかしいと高ちゃんに言った。

それを聞いた高ちゃんは、俺はなにか気付いてないかと聞きたくてメールを寄越したらしい。

No.145 14/08/18 19:22
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塚田と下ちゃんのことで、高ちゃんが気を揉むこともないだろう。

正直俺は塚田と下ちゃんの雰囲気が変わったとは気付かなかった。
というより、あまりそこまでは気にしていない。

忘年会から正月休みにかけて、あいつらにはあまり楽しい期間とは言えなかっただろうが、そんなことは本人たちの問題でしかない。
不倫を続けるなら、そのくらいは耐えるしかないとしか言いようがない。

だから高ちゃんにもそんな内容を返した。

>>私が気にしても仕方ないですね
高ちゃんからもそう返信がきた。

>>そうそう。仕事が終わったら会社のことは忘れちゃうのが一番だよ

>>はーい

せっかく高ちゃんがメールを寄越したんだ、違う話を振ってみよう。

>>あったかくなったらどっか行きたいね~。仕事も少し落ち着くし

>>どっか連れてってくれるんですか?
高ちゃんが話に乗ってきた。

>>高ちゃんはどっか行きたいところある?連れてってあげるよ

>>ジンベイザメ見に行きたいです

>>美ら海?沖縄は遠いよ
ジンベイザメと言えば、沖縄の美ら海水族館しか知らないが、まさか高ちゃんが俺と沖縄に行きたいと言うわけもない。

>>横浜の八景島でいいんですけど

>>そうか~シーパラにもいたね~。いいよ、連れてってあげるよ~

そういえば前にニュースかなにかでやっていた。

横浜の八景島なら遊びに行くならいいだろう。

No.146 14/08/18 19:36
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そのあと10分ほど空いて、高ちゃんから返信がきた。

>>なんでメールだと雰囲気違うんですか?

一生懸命、この文面を考えていたのか。

顔が見えないメールでなら、普段言いにくいことも言えるからだ。
だけど俺は、他の人間とは用事があるときにしかメールなんかしない。

>>高ちゃんとしかこんなメールしないからだよ~

思ったままそう返信すると、高ちゃんから返信は来なかった。

想像しなくても、高ちゃんがスマホを穴が空くほど見つめながら、アパートでひとり、あたふたとしているのが分かる。

ここはまた追い討ちのかけどころか。

>>また困ってるんでしょ

そう送ると今度はすぐに
>>困ってません
と返ってきた。

>>また生意気でかわいいって言わせたいの?

>>違います
今日は高ちゃんも俺の顔が見えないメールだからか、なかなか頑張る。

>>やっぱ高ちゃんは可愛いね~

>>いじめられたんで、泣きながらもう寝ます

俺は思わずスマホの画面を見ながら、クックと笑った。

>>あ、嫌われちゃった?いじめてないよ~。おやすみ~。また明日ね♡

高ちゃんがこのメールを見て、膨れっ面をしているような気がして、俺はまたひとり笑った。

No.147 14/08/19 11:39
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冬から3月にかけてはウチの会社の繁忙期だ。
暇な時期に比べれば休みも少ないし、残業も多い。

だから遊びに行こうといっても、やはり春先くらいまでは難しい。

それでもたまに俺からメールをしたり、高ちゃんからメールがきたり、仕事が早く終わった日には飯や飲みに行ったりした。

以前よりは高ちゃんとの距離は近付いたと思う。

塚田と下ちゃんの不倫という秘密を共有したことも大きいだろう。

あいつらには悪いが、そのお陰で高ちゃんが俺への信頼を深めてくれたことはありがたいと思う。

繁忙期がひと段落し、4月になると、数年ぶりに新卒の新入社員が入社した。

男なので、俺が教育係をすることになってしまった。
社長の指名なので仕方がない。

水谷というその新入社員は、若いだけあってやる気があるのはいいが、先へ先へと急いで進みたがるところがあった。

水谷は普通自動車免許は取っているが、フォークリフトはこれからだし、車の運転にしても初心者をいきなりトラックに乗せるわけにもいかない。
倉庫内や作業場での基本的な作業方法や細かい手順など、覚えることはたくさんある。

とにかく、きっちりと基本的な部分を押さえないと、倉庫内の作業や配送のときにミスや事故が起きる原因になる。
ミスは会社の損失に繋がるし、事故は怪我にも繋がる。
どちらも注意して手順を守れば防げることなので、俺は繰り返し細かい部分まで教える。

水谷は素直な方だとは思うが、どうしてもフォークやトラックに乗る方が楽しいようで、現場での細かいことは上の空になりがちだった。

気持ちは分かるが、最初が肝心なので、そこは厳しくいくしかない。

それなのに、俺が一番心配していたことが起きてしまった。

No.148 14/08/19 12:01
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その日の午前中、俺は水谷に荷物の積み替え作業をやらせた。

1個の重量がそれほどないダンボールを仕分けて、午後の作業に使う資材を違うパレットに移すだけの作業だ。

資材の種類を説明し、積み方を教えた。
2人でやるような仕事量でもないし、複雑な内容でもない。
水谷が積み替えを終わらせてから、フォークリフトでパレットを移動すればいい。
水谷はフォークはまだ練習中だから、俺が戻るまでパレットは動かさないように念押しして、俺は野本に呼ばれて事務所に行った。

10分ほどで倉庫に戻ると、変に騒がしかった。

嫌な予感がして、水谷に作業をさせていた辺りを見ると、フォークリフトの位置が変わっている。

その横ではパート連中が騒いでいる。

「なにやってんだよ!」

パート連中の輪の外で呆然と立っている水谷を怒鳴りつけた。
あんな中途半端な位置にフォークを放置するのは、水谷しかいない。

「勝手にフォーク動かすなっつったろう!」

俺がそう言うと、「進藤さん、高ちゃん怪我した!」と叫ぶナカちゃんの声がした。

人垣を割って入ると、高ちゃんが床で足を伸ばして座っている横にナカちゃんがいた。

高ちゃんの脇や足元には資材が散らばり、パレットが普段なら置かない位置に立てかけてあり、その下に角が潰れたり変形したダンボール箱が何個か置かれていた。

「高ちゃん、大丈夫か?」

「大丈夫です。でも足首やっちゃったみたいです」

倒れたときに足首は捻ったのか。
靴を脱いだ右足のつま先は、白い靴下に血が滲んでいた。

「つま先もダメだな。医者行くぞ」

俺がそう言うと、高ちゃんは首を傾げて
「フォークで病院まで運んでください」
と言った。

冗談のつもりか。

自分が怪我をしたというのに、場を和まそうとでも思ったのか。

こんなときまでどうして周りにそんな気を遣う。

自分の心配をしろ。

No.149 14/08/19 12:43
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俺も周りにいる連中も、一瞬固まった。

「もー、この子、こういうときにこういうボケ、する?」

最初にそう言って笑ったのは、やっぱりナカちゃんだった。

他の連中もつられて笑い出し、俺も苦笑いするしかなかった。

「アホなこと言ってないで、医者行くぞ。ナカちゃん、俺ハイエースで高ちゃん連れてくから、塚田と野本さんに言っといて」

俺はそう言って出入り口の一番近くまでハイエースを持ってくるために外へ出た。

会社から車で5分ほどの場所にある総合病院へ行くと、もう午前の受付が終わっていたので、高ちゃんは救急外来へ回された。

高ちゃんが処置室で治療を受けている間、俺は自分の不手際を悔やんだ。

水谷がフォークリフトに乗りたくて仕方ないことは分かっていた。
技術が未熟な人間が、フォークを操作することの危険性は何度も教えていたが、入社したばかりの若い水谷がどこまでそれを真剣に考えているか、俺には分かっていなかった。
パレットのあった位置も、狭い場所だから置いてはいけないと教えていたのに、水谷は守らなかった。

いくら新入社員とはいえ、もう子どもではないから、禁じたことくらいは守るかと思っていた俺の考えが甘かった。

そのせいで、よりにもよって、こうして高ちゃんが怪我をしている。

指示を守らなかったのは水谷だが、その責任は指導を任されている俺にある。

俺の失敗だ。

No.150 14/08/19 13:33
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高ちゃんの怪我は足首の捻挫と、右足の親指の爪がはがれていたということだった。
足首の捻挫もけっこう酷いらしく、高ちゃんは病院から貸し出された杖をついていた。

労災扱いになるので、窓口に寄ってからハイエースに乗った。
高ちゃんに手を貸して、広い後部座席に乗せた。

俺は運転席に座ると「ゴメンな」と高ちゃんに謝った。

「なんで進藤さんが謝るんですか?」

高ちゃんの暢気な声が後ろから聞こえた。

「俺の監督不行き届きだ」

「私がどんくさいんですよ」

違う。
俺が気をつけていれば、高ちゃんは怪我なんかしないで済んだんだ。

車が動き出すと、高ちゃんは遠慮がちに
「水谷くんのこと、あんまり怒らないでくださいね」
と言った。

高ちゃんは、自分が怪我をしたというのに、水谷のことを心配している。
本当に高ちゃんはいい子だとしか言いようがない。

「怒りゃしねぇけど、こういうことが二度とないようにしてもらわねぇと困る」

事故は俺の責任だが、引き起こした張本人には反省してもらう。
事故の怖さをこれで身をもって知ったなら、二度と同じような失敗をしないように気をつければいい。
自分の認識の甘さが分かったなら、これからは仕事に対して真剣に、慎重に向かえばいい。

責任は、俺がとる。

会社のすぐそばの信号で停まると、大人しく黙っていた高ちゃんが「進藤さん」と俺を呼んだ。

「なんだ」

「足が治ったら、ジンベイザメ、連れてってください」

チラっとバックミラーを見ると、ミラーの中の高ちゃんと目が合った。
高ちゃんはニコニコと笑っている。

「治ったらな」

自分に腹を立ててささくれ立っていた気分が、スッと軽くなった。

俺も単純だが、高ちゃんは相変わらず、賢い。

No.151 14/08/19 14:17
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その日は終業前に高ちゃんを俺がアパートへ送った。

翌日高ちゃんは再診の予定だったので、病院に行ってから出社すると言っていた。

俺は普段通り仕事をし、昼近くに事務所へ行くと、端末の前に高ちゃんがいた。

高ちゃんが不自由なく動けるようになるまでは、事務仕事をやってもらうと野本が言っていた。

「お、いたか」

そう声をかけると、高ちゃんは律儀に
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
と言った。

俺は高ちゃんの怪我が良くなるまで、俺と塚田で送迎をしてやってくれと社長から言われたことを高ちゃんに伝えた。

高ちゃんはしきりに恐縮していたが、杖をついて歩くには辛い距離なのもあって、「足首が動くようになったら、自分の車で通勤します」と言った。

昨日の今日のことなので、帰りは俺が送るつもりでいたが、仕事の予定が遅れたので塚田に頼んだ。

仕事が終わって帰宅してから、高ちゃんにメールをした。

>>塚田はちゃんと送ってくれた?

>>大丈夫ですよ。買い物にも寄らせてもらいました

>>まぁ、塚田なら安心だよね~

いろんな意味で、俺にとっては塚田は安心な男だ。

>>明日は俺が朝迎えに行くね

俺の通勤ルートから高ちゃんのアパートはそれほど回り道にはならない。

>>RAV4ですね。乗ってみたかったんですよ
そういえば、2ヶ月前に車を買い替えてから、まだ誰も乗せていないことに気が付いた。
高ちゃんが初めて乗せる人間になるのは嬉しかった。

>>今度ちゃんとドライブに連れてってあげるよ。運転してみたい?

>>してみたいです~。運転席の位置が高そうでいいなぁ

>>いいよ~運転してみてね~。でもジンベイザメが先だよね

>>はい。ジンベイは見たいです

怪我が良くなったら、どこへでも連れて行ってやると思った。

とんだアクシデントだったが、これで頻繁にメールする口実ができた。

俺が心配してメールをするので、高ちゃんも診察に行ったとか、痛みが治まってきたと知らせてくれるようになった。

No.152 14/08/19 19:01
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メールの回数が増えたので、いろいろ話もし易くなった。

どこか遊びに行きたいが、高ちゃんの足がまだ完全に治っていないことを考えると、ドライブくらいがいいかとメールで誘ったら、高ちゃんから

>>連れてってくれるんですか?
と返信があった。

混雑するゴールデンウイークは避けて、連休明けの次の休みに河口湖へ行くことになった。

>>デートだね〜

と送ったら高ちゃんは

>>デートなんですか?

と返してきた。
オウム返しは高ちゃんが最近よく使う手だ。

>>それ以外になんて言うの?

高ちゃんがいつものように照れて困っているのが分かっていて、もっと困らせてみたくなる。

>>わかりません

>>じゃあデートしようね〜

メールだと言いたい放題言えるが、よく考えれば俺も30歳にもなって、デートもなにもないもんだと思う。

高ちゃんの気持ちは、少しは俺に近付いてきたのだろうか。

昔の俺は、自分から惚れた女になにも言えなかった。

高ちゃんが入社してからずっと、俺は高ちゃんを見てきた。

平凡な外見の下に隠されている賢さも、可愛らしさも、俺はよく知っている。

それを高ちゃんに伝えたい。

黙っていたら、なにも伝わらない。

好きだと伝えたら

高ちゃんはどんな言葉を俺に返してくるのか。

どんな顔をするのか。

困った顔はしないでくれ。

俺は柄にもなく、なにかに向けてそう祈った。

No.153 14/08/20 13:14
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高ちゃんは怪我をして4日くらいで自分の車で通勤できるようになり、送迎は必要なくなって、4月の下旬になると自転車に乗って通勤できるようになっていた。

本人が野本に申し出て、作業場の手伝いもするようになった。

連休間近に「連休はなにしてんの?」とメールすると、
>>初日に専門の先輩と飲みに行きます。あとは多分実家行くか、お姉ちゃんのお供かです
と返ってきた。

>>俺とは遊んでくれないの?

>>遊んでくれるんですか?

とまたオウム返しだ。
返事に困るとそうするらしい。

結局連休後半に映画へ行くことになった。

ウチの会社は大企業のように大型連休にはならない。
カレンダー通りの出勤だ。
前半と後半の間に3日間平日があったのだが、どうも高ちゃんに元気がない。

塚田と下ちゃんのことでなにかあれば俺に相談がありそうなものだが、どうも違うような気がする。

端末の前に座っているときにため息をついてみたり、作業場でぼんやり遠くを見ていたり、なにかに悩んでいるような感じだった。

それでもメールをすれば、普段通りの反応だった。
からかえばオウム返しの返事がくるし、憎まれ口も返ってくる。

まぁ、聞いてみれば済む話だ。

連休後半に高ちゃんと新宿で待ち合わせて映画を観た。

映画が終わってからお茶を飲み、そのあとは飲みに行った。

高ちゃんが「魚食べたいです」とメールで言っていたので、魚と日本酒が美味い店へ連れて行った。

高ちゃんは何種類か料理を選び、嬉しそうに食べている。

いまの姿だけ見れば悩んでいるようには見えないが、それでも気になっていたので
「そういや、ここ何日かなに悩んでんの?」
と聞いた。

高ちゃんは「バレちゃった」みたいな顔をした。

No.154 14/08/20 15:19
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高ちゃんは連休初日に会った専門学校時代の先輩から転職を誘われたことを俺に話してくれた。

俺は忘れていたが、高ちゃんの前職はデザイナーだった。
声がかかっているのは女性と子ども向けのデザインをする会社で、産休に入るデザイナーの補充と、新規部門の立ち上げ要員ということで、給料も雇用条件も悪くないらしい。

本音を言えば、真っ先に「それは困る」と思った。
この2年以上、会社で高ちゃんが働く姿を毎日見て、俺は高ちゃんに惚れた。
高ちゃんと付き合うことができなくても、同じ会社にいれば、俺は高ちゃんを助けてやることもできるし、いまのように2人で飯を食ったり酒を飲んだりする機会も多い。

いままで惚れた女はみんな、俺から離れていった。

遥はそもそも一箇所でじっとしていられるような女じゃなかったし、綾は言葉足らずな俺から離れていった。

一緒にいるのが当たり前だった女が急にいなくなるのは、ダメージが大きかった。

高ちゃんも、いまより俺と距離ができたら、俺から離れていってしまうのだろうかと、不安にはなる。

でも、心ならずも建築業界で働くことを諦めた俺は、やりたかった仕事に戻れるチャンスを高ちゃんには逃さないで欲しいと思う。

いまの仕事に飽きたから転職するわけじゃない。

高ちゃんが真面目に一生懸命生きているから、身近な人間がこうやってチャンスを運んできてくれるんだ。

引き止めるようなことは言いたくない。

会社から高ちゃんがいなくなっても、もうそんなことが原因で高ちゃんを失うつもりもない。

物理的に距離ができるなら、俺はその距離を埋めるだけだ。
もう昔と同じような失敗はしない。

だから俺は高ちゃんの背中を押すような言葉を言った。

高ちゃんは迷っているようだった。

「もうちょっと考えてみます」

そう言った高ちゃんは、少し寂しそうに見えた。

No.155 14/08/20 15:41
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連休明け、会社で見る高ちゃんはいつもと変わらなかった。

悩んではいるのだろうが、俺が言ってやれることもないので、夜にメールをしても内容は仕事とも転職話とも関係ない雑談ばかりした。

会社の仕事量も少し落ち着いてきて、木曜には週末土曜も休めることが分かった。

俺は夜高ちゃんにメールを送ってドライブに誘った。
河口湖周辺へ行って、名物のほうとうを食べようという話だ。

>>河口湖に行くなら、おもちゃ博物館あるよ。鑑定団の人のやつ

>>面白そうですね、行きましょう。遊覧船とロープウェイにも乗りたいです

>>いいよ~、乗ろうね~

メールの文面を読む限り、高ちゃんは楽しそうだ。
少し遠出をすれば、高ちゃんも気分転換になるだろう。

長い時間一緒にいたら、また転職の話も出るかもしれない。

もし高ちゃんが転職を決心していたら、応援する言葉が自然にだせるだろうか。

さすがに女々しく引き止めたりはしないとは思うが、ちゃんと背中を押してやれるだろうか。

大丈夫だ。

無愛想で不器用な俺でも、惚れた女をドライブに誘えるようになったんだ。

そのくらい格好をつけることはできるだろう。

No.156 14/08/20 16:17
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約束の土曜日、俺は約束した8時の10分前に、俺の最寄駅へ行った。

高ちゃんのアパートからの最寄り駅は、会社の人間、つまりパート連中も多く最寄駅になる。
パートのオバチャンたちは、会社のご近所の主婦がほとんどだからだ。

誰かに高ちゃんが俺の車に乗るところを見られて、面白おかしく噂されるのは、俺も高ちゃんも遠慮したいところなのは同じだったので、高ちゃんに俺の最寄り駅まで来てもらうことにした。

高ちゃんは8時5分前に駅の出口に現れた。

「おはようございまーす」

「おはよ」

高ちゃんはショルダーバッグ以外にもう一つバッグを提げていた。

「そのバッグ、なに?」と聞くと「おやつと飲み物です」と楽しそうに答えた。

「遠足だな」

Tシャツとカーゴパンツという服装と合わせて、デートというよりやっぱり遠足という雰囲気が高ちゃんらしかった。

一番近い首都高のICから入り、中央自動車道で河口湖へ向かった。
途中サービスエリアに寄ったが、河口湖へは予定通り2時間くらいで着いた。

富士山が近くに見えると、高ちゃんは「やっぱり富士山綺麗!」とはしゃいだ声で言った。

最初にメールで言っていたおもちゃの博物館へ行った。
あまり期待していなかったのだが、思ったより面白い展示物が多くて楽しめた。

そのあとでほうとうを食べ、高ちゃんが遊覧船に乗りたいと言うので、乗り場に向かった。

遊覧船でも高ちゃんははしゃいでいた。
俺は照れくさいから嫌だと言ったのに、高ちゃんは強引に近くにいた人に頼んで俺と一緒に写真を撮ってもらった。

遊覧船が船着場に戻ると、高ちゃんは船を下りるなりソフトクリームの看板を見つけて走って行ってしまった。

足はすっかり治ったのか、足の怪我を忘れるほどソフトクリームが好きなのか。

どっちにしろ高ちゃんは子どもみたいで可愛かった。

No.157 14/08/20 17:01
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高ちゃんはソフトクリームを食べ終わると、
「次はロープウェイですね」
と張り切っている。

高ちゃんはロープウェイの中でも、山頂でも、楽しそうだった。

こんなに楽しんでくれるのが、俺も単純に嬉しかった。

前にも思った。

なんてこの女は欲がないんだろう。

どんな小さな厚意にも、最大限の感謝を返してくれる。

俺は、そんな高ちゃんになんでもしてやりたいと思う。

いつも真面目で一生懸命な高ちゃんが、なにかにつまずいたり、傷付いたりしないように、俺が守ってやりたいと思う。

俺の近くにいて欲しいとは思う。

でも、本当に「いい子」としか表現しようがない高ちゃんには、仕事も、この先の人生も、もっともっと欲張って欲しいと思う。

山頂にある展望台に上ると、高ちゃんは富士山を見ていた。
俺も並んでしばらく富士山を見ていたが、「転職どうするか、決めたのか?」と聞いた。

「…………まだ、決められません」

高ちゃんは前を向いたままそう言った。

「高ちゃんなら、どこに行っても大丈夫だ」

遥みたいに好きなようにスッ飛んで行けとは言わない。
でも、自分のやりたいことを、思うようにやってみろ。
それだけの力を高ちゃんは持っている。

すると高ちゃんは「寂しいんです」と言って下を向いた。

「高ちゃんがいなくなったら、会社のやつらも寂しがるけどな」

一番寂しいのは俺だ。
でも俺はそれでも高ちゃんから離れるつもりはない。
だから高ちゃんの背中を押してやる。

なんとなく空気が重くなった。
いつものようにからかうつもりで
「もしかして高ちゃん、俺と会えなくなるのが寂しいんじゃねぇの?」
と言った。

No.158 14/08/20 21:55
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てっきり「寂しくないです」とでも憎まれ口が返ってくると思っていたのに、高ちゃんは下を向いたままなにも言わない。

俺はそんなに高ちゃんを困らせることを言ったのかと思っていたら、高ちゃんの足元になにか落ちた。

足元の木でできた床に、小さな黒っぽい染みができた。

……泣かしちまった?

なんで泣くんだ。

もしかして、本当にそう思ってくれているのか。

それは、高ちゃんの心が俺に向いていると思ってもいいということか。

………こんなときにまで、まだ俺は馬鹿だ

高ちゃんの気持ちが知りたいなら、どうすればいい。

俺の。

俺の気持ちを言葉にするのが、先だ。

高ちゃんの心が欲しいなら、俺が。

俺が自分の思いを言葉にしないでいてどうする。

いつも相手のことを気遣って、いつも一歩引いたような高ちゃんは、俺から本気で言葉を伝えなければ、本音を曝け出してなんかくれないだろう。

俺と会えなくなることが寂しいと言ってくれ。

そのために、俺はなんて言えばいい。

口下手な俺はどうすればいい。

言葉を伝えられれば、高ちゃんは俺に答えてくれるのか。

No.159 14/08/20 22:15
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「わっ。高ちゃん、泣くなよ」

「だって………」

「女帝にギャンギャン怒られたって泣かないクセに………」

ここまできて俺は、こんなことしか言えない。

この口が役に立たないなら、いつもの手を使ってみればいい。

俺はポケットからスマホを取り出した。

何回かこいつを使って高ちゃんをからかった。

でも今日は違う。

高ちゃんに一番伝えたいことを、文字にして送信する。

間が空いて、高ちゃんのバッグでスマホが鳴る。

高ちゃんは不思議そうに一瞬俺を見てからスマホを取り出し、メールを開く。

メールは一行





>>泣くな。好きだ





そう送った。

俯いている高ちゃんの涙が落ちたのか、高ちゃんは指でスマホを拭い、またしばらくスマホを見つめているように見えた。

俺は麓の河口湖を見ながら、待った。

すると、俺のスマホが振動した。

俺が、ずっと欲しかった言葉が、スマホの画面に現れた。




>>大好きです





高ちゃんの返信も、一行だった。

No.160 14/08/21 10:12
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「いい加減、分かってんだろうと思ってたんだけどな」

「分かりません」

「俺と仕事して2年以上経つだろ。性格とか分かってんだろ」

「怖くて偏屈なのは知ってます」

「そうだよ、その偏屈な俺だと、メールが精一杯だ」

「優しいのも知ってます」

「俺が優しくするのは高ちゃんだけだろ」

「ホントですか」

「前に言っただろう。安売りはしねえんだよ」

「私なんかでいいんですか」

「高ちゃんがいいんだよ」

「ホントですか」

「だから好きだって言っただろう」

「言ってないです。メールが来ただけです」

「今も言ったじゃねぇか」

「あ」

「ほらみろ。高ちゃんも言わないと不公平だな」

「不公平……」

「俺のこと好きか」

「………大好きです」

「……泣くなよ」

No.161 14/08/21 10:49
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『大好きです』

高ちゃんの口からこの言葉が出たとき、背中がゾクゾクするような気がした。

欲しくてたまらなかったものを、やっと手に入れたガキのようだ。

だけど俺が手に入れたのは物じゃない。

高ちゃんの心だ。

いままでこんなに欲しいと思ったものはない。

こんなに大事にしたいと思ったものもない。

頭がおかしくなりそうだ。

好きだ。

好きだ。

俺は目の前で泣きながら俺に『大好きです』と言ってくれた高ちゃんが

好きでたまらない。

俺の。

初めて自分から欲しいと思って心を手に入れた女だ。

No.162 14/08/21 11:27
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気が付いたら目の前の富士山も、麓に見える河口湖も赤く染まっていた。

高ちゃんを見ると、夕日に照らされた顔が笑っていた。

「そろそろ下りるか」と言って俺が高ちゃんの手を引くと、高ちゃんはその手を握り返してきた。

下りのロープウェイに他の乗客はいなかった。

「進藤さんは手なんか繋いでくれないと思ってました」

高ちゃんは俺を見上げてそう言った。

「なんで?」

「恥ずかしいって言いそうだから」

俺は高ちゃんが思っているほど硬派じゃない。
高ちゃん限定だが。

「高ちゃんは恥ずかしいの?」

「嬉しいです」

「俺も嬉しいよ」

そう言うと高ちゃんは照れたように笑った。

麓に着いて、湖の周りを歩きながら、俺は高ちゃんに「なんて呼ばれたい?」と聞いたが、高ちゃんは「?」という風に首を傾げた。

「名前」

「いまのままで構いませんけど」

「高ちゃん」と呼ぶのは会社だけでたくさんだ。

「俺はイヤだ」
と言うと、高ちゃんは「進藤さんが好きなように呼んでください」とおかしそうに言った。

「つぐみ」

俺がそう呼んだら、高ちゃんが「はい」と答えた。

「会社では『高ちゃん』だけど、俺と2人でいるときは、そう呼ぶから」

「はい」

返事は「はい」。
相変わらず固いなと、おかしくなるが、きっとしばらく敬語のままだろう。
それでも一応聞いてみる。

「つぐみは?」

「はい?」

「ずっと『進藤さん』なの?」

「…………ダメですか?」

「無理しなくていいよ」

思った通りだ。
だけど、俺はつぐみが「はい」と答えるのが、可愛いと思う。
『です』も『ます』も、しばらくは抜けないだろう。

その言葉遣いを聞くたびに嬉しくなってしまう俺は。

Sっ気があるのかもしれない。

そう思ってつい笑ってしまった。

No.163 14/08/21 11:58
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ゆっくり歩きながら、高ちゃんが
「転職のことですけど」
と話を切り出した。

「うん?」

「転職自体が不安っていうのと………」

「俺の側にいたい?」
もう遠慮なくそう聞ける。

「いたいです」

つぐみの敬語は、どうしてこういじらしく聞こえるのか。

「俺もつぐみにはずっと側にいて欲しいよ。会社に行ってつぐみがいなかったら、やっぱり寂しいと思うさ」

「進藤さん」

「前に言っただろ?俺は大事なものは手元に置いておきたい性格なんだ。だから、つぐみが違う場所で働くことになったら、やっぱり心配なんだよ。怪我してるんじゃねぇか、誰かにいじめられてんじゃねぇか、地震がきてなんかの下敷きになってんじゃねぇか、どっかの男にちょっかい出されてんじゃねぇか、いろいろ考えるだろ」

俺はいままで言えなかったことをここぞとばかりに言い連ねた。
そうだ俺は心配で心配でたまらない。
俺の大事なつぐみが、俺の知らない世界へいくことも、俺の見ていないところでなにか起きるんじゃないかということも、心配でたまらないんだ。

つぐみはそんな俺の気も知らず、プッとふき出してクスクス笑っている。

「笑うなよ」

「だって、最後の心配は無駄ですよ」

「俺みたいにつぐみのいいとこに気付く男がいるかもしれねぇだろ。困るんだよ、そういうの」

つぐみは自分のことを分かっていない。
人目を惹くような容姿じゃなくても、いつも出しゃばらずに目立たずにいても、なにかのきっかけで俺みたいにつぐみの可愛さは簡単に気付くことができるんだ。

「本当はこのまま連れて帰って、俺んとこにずっと置いておきたいんだよ。でもそれじゃ恐竜のフィギュアと一緒だろ。つぐみは、自分で考えて判断して働いて、それができる賢い女なんだ。転職だって悪いことじゃない。だからつぐみが決めたら、それでいい。四六時中一緒にいることだけが、付き合ってるってことじゃないだろう?」

No.164 14/08/21 13:11
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つぐみに言った言葉は、半分は俺が自分に言い聞かせていたようなものだ。

本当はどこにもやらずに俺のそばにいさせたい。

でも、それじゃ昔と同じ馬鹿な俺のままだ。

つぐみを縛り付けるような真似だけはしたくない。
それでも俺は、つぐみと一緒にいたいんだ。

そのためには、つぐみに俺が考えていることを、ちゃんと伝えなくちゃいけないんだ。

帰りの車に乗ったときに、つぐみの手を探したら、それに気付いたつぐみから手を取ってくれた。

そんなことでは相変わらず俺は口下手だ。
それでもつぐみはずっと俺の手を握ってくれていた。

途中で晩飯を食べてから、つぐみのアパートまで送っていった。
つぐみは朝待ち合わせた駅前でいいと言ったのだが、気持ちを伝えたいま、もうつぐみを途中から1人で帰すような真似はしたくなかった。

「次の遠出はジンベイザメだな」

俺は前からの約束を思い出してそう言った。

「はい。とりあえずまた月曜に」

帰り道、つぐみは明日の日曜に実家へ転職の相談へ行くと言っていた。

「おやすみ」

「ありがとうございました。おやすみなさい」

つぐみはそう言って俺の手を離すと、車から降りた。
俺の車を見送るつもりなのか、動こうとしないので、俺は目で自分の部屋へ行くようにつぐみを促した。

つぐみは階段を上り、自分の部屋のドアを開けると、俺に小さく手を振ってからドアの中へ消えた。

ドアが閉まるのを見てから、俺は車を出した。

本当はつぐみを降ろさずに俺のアパートへ連れて帰りたかった。

でもそんなガッついたことをつぐみにはしたくない。

よく我慢したなと、俺は自分を褒めてやりたくなった。

No.165 14/08/21 14:42
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よく考えたら、俺はまともに女と付き合うのは10年振りだった。
その間には翔子もいたにはいたが、翔子は半分セフレ、半分友達みたいな関係で、彼女と呼べる存在ではなかった。

その前が綾ということになるが、手酷く失恋したことでも分かるように、俺はろくに綾を大事に扱っていなかった。
若かったこともあるが、綾がいつも先回りするように甲斐甲斐しく俺の世話してくれていたから、俺が綾を気遣うということ自体少なかった。

そんな俺に久し振りにできた彼女がつぐみだ。
しかも初めて自分から惚れて、距離を縮めて、やっと気持ちが伝わった女だ。

俺ってこんな男だったのかと、自分で思うようなことばかりだ。

つぐみが俺以外の誰かと喋っているだけで気に入らない。男なんてもってのほかだ。
暗くなってから帰る姿を見たら、無事に着いたのか心配だし、なにかにつまづいたところを見たら怪我をしたんじゃないかと思い、くしゃみをしていたら風邪をひいたのかと思う。

視界にはいらないことまで心配はしないのだが、会社にいればどうしてもつぐみばかりが気になる。

束縛しようとは思わないし、つぐみも呆れながら笑っているようなので、まぁいいかと思うことにした。

幸い俺は、仕事を始めたら、ちゃんとスイッチを切り替えることができた。

塚田や新人の水谷に口を酸っぱくして事故やミスに気をつけろと言っているが、余計なことを考えずに仕事に集中しないと、とんでもない事態を引き起こすことはよく分かっている。
つぐみと付き合い始めたせいで仕事に影響が出るようなことは、自分でも許せない。

だから会社にいる間は基本的に以前の俺と変わらないと自分でも思う。
元々口数は少なくて無愛想な俺のままでいるのは簡単だ。

それでもちょっとした隙に人目がなければ、つぐみに声もかけたりする。
その一瞬に見せるつぐみの顔が可愛いと思う。

そのつぐみは転職を決めた。

誘ってくれた先輩を通して面接などの手続きをクリアし、9月から新しい会社で働くことが本決まりになった。

俺はその間もたまに会って話を聞いていて、ウチの会社へは7月の中頃に言えばいいんじゃないかとつぐみと話した。
本当なら1ヶ月前の8月最初でいいのだが、間に盆休みもあるし、少し早めの方がスムーズに事が運びそうに思えた。

No.166 14/08/21 17:13
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6月の下旬ごろ、俺が昼休みにハイエースで寝ていたら、野本がきて「進藤さん、ちょっといい?」と声をかけてきた。
わざわざ会社の外にいる俺のところまでくるのだから、あまり他の人間に聞かれたくない話のようだ。

「なに?」

俺は起き上がってタバコに火をつけた。

「下ちゃん、来週から休むから」

「へぇ、どうしたの」

「入院するんだって」

「ふーん」

野本は用件が済むと事務所に戻っていった。

多分つぐみはこのことをもう知っているだろう。
下ちゃんとは不倫の件もあって親密といえる付き合いだし、下ちゃんにしてもつぐみは信頼できる同僚だろうから、つぐみに黙って休職することはなさそうだ。
つぐみは病気という個人的な話を、俺にでもペラペラと話すような人間ではない。

塚田は知っているんだろうか。

塚田の立場では、見舞いすら行きにくいだろう。

入院が必要なほどの病気。

今日も下ちゃんは普段通りに仕事をしていた。
傍目には病的なところはなにも感じられない。

最近の塚田はどうだ。
そういえば、多少元気がないような気がしないでもない。

あらためて不倫という関係の危うさを感じているのか。

相手が病気になろうと、公には同僚という立場を超えたことはなにもできない関係。

それを塚田は思い知らされているんだろうか。

やっぱりそんなのは、俺には無理だ。

つぐみがくしゃみひとつしただけで心配になるような俺には無理だ。

塚田。
お前はいまそれでも幸せなのか。

それでも愛せる女がいるのは、やっぱり幸せなのか。

No.167 14/08/21 17:35
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下ちゃんは休職し、パート連中には体調不良でしばらく休職すると伝えられた。
リーダーの代理はナカちゃんが務めることになった。
主だった社員にはとりあえず入院することだけが伝えられた。

7月に入り、つぐみは下ちゃんの見舞いへ行くと言った。
下ちゃんと親しい何人かも、個人的に見舞いへ行っているようだ。

見舞いへ行く日、つぐみは6時に上がり、俺へ「いってきます」とメールを送ってきた。

8時前に俺の仕事が終わり、つぐみに「いまどこにいるの?」とメールを入れた。
まだ病院にいるならすぐに返信は来ないだろうと思い、俺は会社の近くのブックオフへ寄った。

何冊か文庫本を選んでレジへ向かうと、つぐみから病院を出たとメールが来た。

下ちゃんが入院しているのは会社の最寄駅から2駅先にある大学病院だが、ブックオフからは車なら5分くらいで行ける。

俺はつぐみに電話をかけ、病院の前で待っているように伝えた。

会計を済ませてすぐに病院へ向かい、病院の敷地に入ると、つぐみが玄関横のベンチに座って待っているのが見えた。

つぐみを乗せて車を出したが、腹が減っていたのですぐ近くのファミレスで晩飯を食べることにした。

俺は頼んだハンバーグのセットがくると、10分もかからずに平らげた。

ゆっくりパスタを食べているつぐみに、「下ちゃんどうしてた?」と聞いた。

「んー、まぁまだ手術前だし、普通に元気そうでした」

下ちゃんの休職が俺にも知らされたあとで、つぐみから下ちゃんは手術の予定で入院したことだけは聞いていた。

食事中ということもあって、俺は「そうか」とだけ言って、とりあえず下ちゃんの話はそこで一旦終わった。

でも、どうもつぐみに元気がない。

食事が終わったら、話を聞こうと思った。

No.168 14/08/21 19:59
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食事を済ませて車に乗り、走り出すと、つぐみが
「あのね、下川さん、塚田さんと別れるつもりなのかもしれない」
と言った。

つぐみの口調から、ちょっと込み入った話になりそうだと思い、俺は国道沿いにある公営の大きな公園に車を入れた。
公園はとっくに閉園しているので人目につかないし、少しくらいなら車を停めて話していても大丈夫だ。

つぐみは下ちゃんと会って聞いたことを話し始めた。

下ちゃんの旦那は、子どもが生まれたころに、もう既婚者だった昔の彼女と連絡を取り、付き合い始めた。
気の小さい旦那は罪悪感から下ちゃんを避けるようになった。
子どもが小学生になったころ、旦那はその女とは終わったが、下ちゃんはもう旦那に見切りをつけていて、働き始めた。

そして下ちゃんは数年後に塚田と付き合い始め、旦那とはそのまま仮面夫婦という状態が続いていた。

その旦那が、下ちゃんが病気になったことを知って、やり直したいと言い出した。

手術が必要になるような病気と直面して、旦那は下ちゃんを失いたくないと言ったそうだ。

旦那は下ちゃんの前で泣いたらしいが、当然下ちゃんはなんとも思わなかった。

ただ、旦那から「こうなったのは、なにもかも、自分が悪いのだ」と言われた下ちゃんは、旦那が自分の不倫に気づいていることを悟った。

旦那は全て承知の上で、それでも下ちゃんともう一度夫婦としてやり直そうとしている。

下ちゃんはそれで気持ちが激変したわけでもないが、とりあえず病気を治してから考えたいと言った。

以前も下ちゃんはつぐみに、塚田とは別れたほうがいいのは分かっていると言っていた。

下ちゃんからそんな話を聞かされたつぐみには、下ちゃんが塚田と別れることを考え始めてあるように見えたそうだ。

No.169 14/08/21 21:26
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「まぁ、当事者次第だな。塚田がなんて言うか、俺には分からねぇし」

「うん」

「なんでつぐみが落ち込んでんだ?」

つぐみが下ちゃんを慕っているのは分かるが、落ち込むことはないと思う。

「なんか、悲しくなっちゃって」

「悲しい?」

「うん。不倫って悲しいなって。下川さんも、下川さんのダンナさんも、塚田さんも、どこで歯車が狂ったのかなって。いけないことだって解ってるのに、どうしてこんなことになるんだろうって」

俺は窓を開けてタバコに火をつけた。

「みんな、弱いからな。強くて正しくいられりゃ、そんなアホな真似はしねぇんだろうけど、誰だって弱いとこがあるからな。道を踏み外すこともある」

「進藤さんも?」

「弱いよ」

つぐみには言わないだけだ。

惚れた女も大事にできずに失った寂しさを、都合良く慰めてくれた翔子と、俺は何年いい加減な付き合いを続けていたか。

塚田も下ちゃんも、下ちゃんの旦那も、不倫なんかして馬鹿だと思うが、それでもどうしようもなく誰かに惚れてしまう気持も、寂しさを埋めたくなる気持も、分からないわけではない。

人間は弱いからだ。

だから俺は塚田や下ちゃんを馬鹿だとは思っても、軽蔑まではできないんだ。

「進藤さんが弱いなら、私はもっと弱いじゃないですか」

つぐみはそう言って下を向いた。

「つぐみはそんなに弱くないよ」

No.170 14/08/21 23:57
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つぐみはどんなときでも、周りのことをよく考えて、自分のするべきことを考えられる女だ。

自分よりまず他人。
そんな考え方で動くことができる女だ。
その優しさや慎重さ、賢さが、要領良くはできなくても、確実に周囲からの信頼を得て、目立たなくても周囲の人間から愛される。

そんなつぐみは、弱くなんかない。

でもつぐみは自分ではそのことを全く自覚していない。

「……怖いんです。私はずっと、なんの取り柄もないと思って生きてきました。恋愛だって、ろくにできませんでした。進藤さんは私を賢いって言ってくれるけど、自信なんかないんです。下川さんみたいな人だって道を誤るのに、私なんか、進藤さんに好きだって言ってもらってもいまだに信じられないくらい自信がなくて、いつ嫌われちゃうかって怖いんです」

「『私なんか』って言うな」

つぐみは俺が惚れた女だ。
そんな言い方は、本人だって許さない。

「俺はつぐみがいいんだって、何回言えばわかるんだよ。『私なんか』って言葉は、俺に失礼だと思わないのか」

「……ごめんなさい」

謝らなくてもいい。
俺の言葉を聞いてくれ。

「つぐみがわからないなら、何回でも言うさ。俺は一見無害なだけに見えて、そのくせ賢くて、誰からも可愛がられて、不器用でも真面目に仕事してて、俺のことを好きだって言ってるつぐみが好きなんだ。つぐみは知らねぇだろ。こうやって車に乗せて、どっかで降ろすとき、いつもそのまま連れて帰りたいと思ってんだよ」

No.171 14/08/22 00:12
小説大好き0 

「……ごめんなさい」

つぐみが泣いている。
泣くな。
泣かなくていいんだ。

「先のことは誰にも分からねぇよ。ただ、俺はつぐみが好きだし、ずっと一緒にいたいと思ってるんだ。他の女なんかいらねぇよ。かわいくて仕方ないと思ってた女をやっと手に入れたんだからな」

「……ごめんなさい」

「……ごめんなさい、じゃねぇだろ」

「なんて言えばいいんですか」

つぐみは泣いている。
泣くなと思いながら、もっとこんな顔を見たいと思っている俺がいる。

つぐみは可愛い。
こんなことで悩むつぐみが、俺は好きだ。

俺はタバコを携帯灰皿に放り込むと、つぐみの涙を手で拭った。
つぐみの目が、涙で濡れている。

「泣くなよ」

我慢できずにそのままつぐみの顔を引き寄せた。

「泣かないで、こないだみたいに『大好きです』って言ってくれよ」

「………大好きです」

こんな顔でこんな言葉を、乞われるままに素直に言う女を前にして、なにもしないでいられるような男がいるのか。

俺はダメだ。
そんな冷静な男にはなれない。

「つぐみ」

俺はそのまま「好きだ」と言いながら、つぐみにキスをした。

どれだけ俺がお前を好きなのか、分かってくれ。

そう思いながら、ただ唇を重ねるだけのキスをした。

No.172 14/08/22 10:52
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唇を離してそのまま抱きしめると、つぐみの髪から微かにいい匂いがした。

思わず理性が飛びそうになって、もう一度キスしたくなったところで、俺は思い止まった。

やっちまった。

そう思って「あーーーー、ダメだダメだ」と言いながらハンドルを叩くように握った。

つぐみは目を丸くして
「………どうしたんですか?」
と言った。

「理性がもたない」

俺がそう言うとつぐみは「え」と言って真っ赤になった。

「つぐみが退職するまでは手を出さないって決めてたんだよ。ケジメがつかねぇからな。俺、Sっ気あるんだな~。泣き顔には弱いんだよな。チクショー、油断した」

つぐみが退職するのは8月の終わりだ。

つぐみにこれ以上なにかをしたら、俺は会社で今まで通り仕事をする自信がない。

ケジメがつかないのは困る。

「よし、帰るぞ」

俺はエンジンをかけて車を出した。

あんな人気のないところにいるからダメなんだ。
とっととつぐみをアパートに送り届けないと、本当にこのまま連れ帰ってしまいそうだ。

無理に仕事中のような顔を作る。
それでもつぐみの手を握ると、つぐみは笑ってくれた。

「今日はちょっとフライングしちゃったけどな。続きはつぐみが退職してからだ」

つぐみのアパートに着いて、俺がそう言うと、つぐみは
「続き………」
と呟いて、ちょっとポカンとした。

「覚悟して楽しみにしとけ」

つぐみが部屋に入るのを見届けてから、俺は車を出した。

窓を開けているのに、まだつぐみの残り香があるような気がした。

消えてしまうのが名残惜しかった。

No.173 14/08/22 11:45
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7月の中旬、俺が事務所にいると、野本が入ってきた。

「あ、進藤さん」

「うす」

この女は苦手だが、今日はちょっとションボリしているのが分かる。

「進藤さん、高ちゃんが辞めることになったのよ」

「高ちゃんが?」

もちろん知っている。
昨日今日辺りで社長と野本に退職希望を伝えるということも知っている。

「なんかさ、転職するんだって。ウチの会社がイヤとかじゃなくて、前やってた仕事に親御さんの関係で紹介されたみたいなのよ。社長も私も引き止めはしたんだけど、本人にとって良い話だから、って社長も応援して送り出してあげようって」

「へぇ」

俺のように普段口数が少ないと、こういうときに便利だ。
相手は勝手に喋ってくれる。特に女は。

「せっかく最近しっかりしてきたと思ってたのになぁ。これからもっと責任持っていろいろやってもらうつもりだったのよ」

ヒステリー起こしてばかりの割りに、野本は案外人の使い方が上手い。
つぐみは野本にとっては、使いやすい部下だったろう。

「大変だね」

「本当よ。ウチみたいな会社だと、なかなか若い子が居ついてくれないのよね。また求人かけるけど、いい人こないかなぁ」

「どうかな」

つぐみみたいなタイプは、その辺にゴロゴロいそうで、実はいないだろう。

そうか。
これでつぐみが本当に会社からいなくなることが決まったんだな。

つぐみがやっていた雑用や細かい仕事は、しばらくは野本や他のヤツがやるようになるのか。
やりにくくなるといえば、そうかもしれない。

そして単純に俺はつぐみと一緒にいる時間が少なくなる。

それでも、会社ではただの先輩と後輩の関係でいなくちゃいけないことを思えば、つぐみが転職した方がなにかと都合はいいのだ。

No.174 14/08/22 12:51
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つぐみの退職日は8月の末日と決まったが、つぐみは有休がたくさん残っている。

野本から消化するように勧められたつぐみは、仕事が暇な日を選んでときどき休みをとるようになった。

>>明日、下川さんとランチに行きます

7月の下旬、つぐみからメールでそう報告された。

下ちゃんは7月の上旬、手術が無事に済んで、半ばに退院したそうだ。

つぐみは下ちゃんのことが心配で仕方ないようだ。

病後の経過は良いようだが、それよりもつぐみは塚田とのことが気になるらしい。

つぐみの性格もあるのだろうが、やはりつぐみにとって下ちゃんは会社の中では特別な存在のようだ。

ちょっと妬けるが、まぁ仕方がない。

塚田といえば、ここ最近やはり落ち込んでいるようだ。

あの様子では、つぐみの言う通り、あの2人はもう終わりなのかもしれない。

常識的に考えれば、隠れて何年も不倫を続けるより、綺麗に別れたほうがいいに決まっている。

それでも塚田が本気で下ちゃんに惚れていたのなら。

大事な女を失う辛さなら、俺も知っている。

だけど俺は同情などしない。

それが塚田の選んだ道だ。

No.175 14/08/22 13:07
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>>仕事が終わったよ

6時過ぎにつぐみへメールを送ると、つぐみから
>>お疲れ様でした
と返信がきた。

今日は早く終わったので飲みに誘った。

車は駅近くのコインパーキングに停めた。
飲みに行った帰りは、つぐみをアパートまで送ってから駅に戻り、電車を使うのだが、つぐみはいつもそれを気にする。
俺が疲れてるだろう、帰りが遅くなると寝るのが遅くなるだろう、そう言う。
つぐみが1人で夜道を歩くくらいなら、俺の睡眠時間などいくら減っても構わないのだが、つぐみは「私は飲まなくてもいいですから、運転しましょうか?」などと言う。
そうすると俺のアパートまでつぐみが運転してきて、結局1人で帰すことになる。
それでは意味がない。

いや、もしそんなことをしたら、つぐみを帰せなくなると思う。

つぐみに宣言した通り、いまはつぐみに手は出さない。

もちろん、つぐみのアパートにも行かない。

駅前のコーヒーショップで待っていると、つぐみが自転車で来た。

店に入ってきたつぐみは、軽く息が上がっている。
多分、全力で自転車を漕いできたのだろう。
それでいてニコニコしている。

可愛いと思うと、つい頭のひとつも撫でてやりたくなる。

こういうところが、下ちゃんやつぐみから「おとーさんみたい」と言われてしまう原因なのか。

可愛いものは可愛いのだから、仕方ない。

つぐみの頭をひと撫でしてから、居酒屋へ移動した。

No.176 14/08/22 14:55
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居酒屋で飲み物と料理が揃うと、つぐみは今日下ちゃんと会って聞いたことを話し始めた。

下ちゃんの旦那はいままでの仮面夫婦状態が嘘だったかのように、入院中の下ちゃんの元に頻繁に通ってきた。

やり直すとかそういう話はしなかったが、手術の日も、退院の日も、ずっと下ちゃんに付き添っていた。

それで下ちゃんの心が動いたわけではない。

ただ、今回のように入院などという事態が起きたときに、塚田は決して表に出てこないことを、下ちゃんは思い知った。

お互いが病気になろうが怪我をしようが、不慮の死を遂げようが、不倫という関係でいる以上、同僚という域は決して超えられない。

下ちゃんは、自分の病気と手術ということを、塚田と別れるきっかけにしようと思った。
俺は病名こそ知らないが、決して軽くはなかった病気が、下ちゃんの意思に影響したようだ。

下ちゃんは、塚田と隠れて付き合うことに限界を感じていた。
そこへ病気と、旦那がやり直そうと言い出したこと、それで下ちゃんはいままでのように塚田と付き合う気力を失った。

下ちゃんはもう会社には復帰しないつもりらしい。
休職したまま会社を去り、塚田の前からもそのまま消える。

下ちゃんは自分のことを卑怯だと言ったそうだ。
逃げ出すのだと。

それが卑怯なことでも、その方がいいんじゃないかと。

それでも下ちゃんはつぐみに「本当に塚田さんのこと、好きなんですね」と聞かれ、

「死ぬまで好き」

と言ったそうだ。

本当は塚田と幸せになりたかったと。

No.177 14/08/22 15:13
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「それが一番いいんだよな。きっかけがないと、別れられねぇんだろうから」
そもそも不倫という間違ったスタートなら、別れることが正解なのは間違いない。

「塚田さん、大丈夫かなぁ」
つぐみは梅酒のロックが入ったグラスを弄びながら、ため息をついた。

「大丈夫じゃねぇだろ。そんでもいつかそうなるかもしれねぇのも分かってたんだろうから、そうなっても塚田は自分でケリつけるしかねぇしな」

「そうですね」

「まぁヤツは暴力沙汰にするような人間じゃねぇし、ストーカーにもならねぇだろ。そんな精神なら、とっくになんかやらかしてるんじゃねぇかな」
いろんな意味で、塚田も普通の男だ。
根は真面目だし、常識もある。
ただ、恋愛に関しては、不倫という最大の自己中心的な行為に走った。
それになんの罪悪感も持たないような男でもなかったということか。

「でも辛いだろうな」

「それがヤツらが選んだ道だからな。俺には無理だ」
手順を間違えた恋愛をすれば、清算したあとの辛さも、普通の恋愛とは違う辛さが増えるのは当たり前かもしれない。

「私も無理です」

「俺は欲張りだからな。俺だけのものじゃねぇとダメなんだ」

俺がそう言うと、つぐみはそっぽを向いた。
照れているようだ。

「塚田さん、最近どうですか?私はあんまりお話しないんで、あまり分からないんですけど」

「んー?下ちゃんが休職してからはやっぱりしょげてるよな。普通に仕事してるけど、ボンヤリしてたりすることが多い」

「下川さん、連絡もしてないみたいだから」

「誰かに相談できる話でもねぇからな」
下ちゃんは塚田との別れを考え始めたころには、もう連絡を絶ったのだろう。
塚田は、下ちゃん本人はもとより、他の誰にも下ちゃんの真意を聞くことはできない。

1人で下ちゃんからの連絡を待つしかない中、きっと塚田も頭のどこかで下ちゃんとの関係が終わることを予感しているんだろう。

それが、不倫なんだ。

「同情しても仕方ねぇよ」

こうなるかもしれないと思いながら、ヤツらは付き合っていた。

2人ともお互いのために全てを犠牲にすることができなかったのだから

こうなっても文句は言えないんだ。

No.178 14/08/22 18:53
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下ちゃんはつぐみに言った通り、会社を辞めた。
会社の他の人間は、病気が原因としか思っていないから、下ちゃんの退職を残念がる声はあっても、退職理由を詮索する人間はいなかった。

野本は、つぐみが退職する上に、リーダーだった下ちゃんまで退職することになり、ため息をついていた。

下ちゃんの後任は休職中も代理を務めていたナカちゃんにそのまま決まり、業務自体にそれほど支障はなかった。

下ちゃんは、塚田が配送に出ている時間を見計らったように、退職の挨拶に来た。

貸与物の返却や、給料関係の手続きを終え、挨拶を終えた下ちゃんが会社の外に出たとき、俺はちょうど積み込み作業を終えたところだった。

「進藤さん」

下ちゃんがフォークリフトが停止したのを見計らって声をかけてきた。

「下ちゃん、辞めるんだな」

俺がそう言うと、下ちゃんは「うん」と思いの外清々しい顔で笑った。

俺が倉庫の横に積んだパレットに腰掛けてタバコに火をつけると、下ちゃんも並んで座った。

「進藤さんにはいろいろ迷惑かけちゃったね」

「別に迷惑なことはなかったさ」

「そう?」

「ああ」

俺はなにもしていない。
ただ、余計なことは言わなかっただけだ。

「高ちゃんから聞いたかもしれないけど、もう、やめたから」

近くに人はいないが、固有名詞を伏せた言葉は、塚田のことだとわかる。

「もう終わったのか?」

「まだ、これから。今日で正式に退職したから、今夜にでもメールするつもり」

No.179 14/08/23 11:57
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「もう会わないんだ」

「うん、会わない」

「そうか」

下ちゃんは本当に決心したんだな。

塚田は。
塚田は、思い切ることができるんだろうか。

綾が去ったときの俺のように、なにも言わずに別れを受け入れるんだろうか。

俺は後悔ばかりだった。

塚田は。
後悔はないんだろうか。

それとも後悔するくらいなら、最初から道を踏み外したりはしないんだろうか。

「進藤さん」

「うん?」

「大事にしてあげてね」

下ちゃんは俺とつぐみのことを知ってるんだな。
つぐみは自分から余計なことはなにも言わないだろうが、下ちゃんなら気付いてしまうのかもしれない。
なにしろ、俺とつぐみよりもバレてはいけない塚田との関係を、社内で3年近く続けているんだから。

「当たり前だ」

「そうかぁ」

下ちゃんは母親みたいな雰囲気で笑った。

「あの人も」

会社では名前さえ気安く口にできない相手。

「今度こそ、幸せになって欲しいな」

下ちゃんが思う塚田の幸せは、塚田の望む幸せとは違ってしまった。

下ちゃんは、塚田との幸せな未来を望みながら、諦めた。

正解なんて、ないだろう。

下ちゃんと塚田が別れても、それが不幸だとも言い切れないだろう。

下ちゃんが覚悟したなら、塚田はそれを塚田なりに受け止めて、違う道を行くしかない。

「またそのうち、一緒に飲みに行こう」

「そうだな」

でもその席に塚田が来ることはないんだろう。

No.180 14/08/23 12:59
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その2日後、つぐみから下ちゃんが塚田と別れたことを聞いた。

つぐみは塚田を心配している。

下ちゃんはきっかけがあったから俺とつぐみに塚田とのことを告白した。
発覚するリスクは増えたが、ある意味ホッとした面もあっただろう。
ましてや下ちゃんはつぐみにはいろいろと話していたから、一人で悩むという重圧も少しは軽くなっていたはずだ。

でも塚田はそのことを知らない。

もしかしたら会社とはまったく関係のない人間には打ち明けているのかもしれないが、塚田の慎重な性格を考えると、それもないような気がする。

それでも塚田は表面上はいつもと変わらない。

それはそうだ。
下ちゃんが退職して間もない時期に、目に見えて落ち込んだりしたら、関連づけて考える人間がいないとも限らない。

もう終わってしまった今なら、本当は俺から話してもいいのだとは思う。

でも、塚田はいままでも、そしていまも、1人で耐えている。

俺が話してやれば塚田が背負っている苦しみは多少軽くなるかもしれないが、根本的にはなにも変わらない。

塚田が惚れた女を、もう取り戻すことができないのは変わらないのだから。

それでも、塚田を何度か飲みに誘ったが、塚田はなんやかや理由をつけて断った。

しばらくは放っておくしかないのだろうと思った。

No.181 14/08/23 18:05
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「やっと会えたぁ」

会社は夏期休業にはいり、ずっと前から延び延びになっていた八景島シーパラダイスにきた。

つぐみの目当てはやっぱりジンベイザメで、他の水槽は全部後回しになった。

「でけぇなぁ」

つぐみも俺も、ジンベイザメを見るのは初めてだった。

「つぐみが最初『ジンベイザメを見に行きたい』って言ったとき、大胆なこと言うと思ったんだよな」

「大胆?どうして」

「沖縄の美ら海だと思ったからだよ」

「どうしてそれが大胆なんです?」

「俺と沖縄に行きたいって言ってんのかと思ったからだよ」

「………。あ」

「照れるなよ」

本当につぐみは素直というか、純情というか、やっぱり可愛い。

「もうすぐつぐみは会社にいなくなるんだな」

「寂しいですか?」

「寂しいよ。でも、違う楽しみが待ってるからな」

つぐみが近くにいなくなるのは寂しいが、つぐみが退職したら、会社での芝居が必要なくなる。
会うときはいつも俺だけのつぐみだ。
そのためにいまは手を出さずにいるんだ。

「何年待ったと思ってんだよ」

「え?」

「3年近く待ったんだ。つぐみが入社して、餌付けして、やっとここまできたんじゃねぇか」

「餌付けって、野生動物ですか、私は」
と憎まれ口をきいたつぐみが、俺を見上げた。

「3年近くって………」

「悪いか。つぐみは見るからに奥手そうだからな。ちょっとずつ手なづけてやろうと」

「そんなに前から……?」

「そうだよ。言っただろ。つぐみが賢いって気付いたって」

思えばつぐみが入社してすぐ、つぐみに興味をもって、ずっとつぐみを見てきた。

No.182 14/08/23 19:37
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「……まさかつぐみ、俺が散々メシだの酒だの奢ってやって、仕事でフォローしてやったりしたの、全部単なる親切だと思ってたのか?」

「思ってました」

確かに俺は無愛想だし口下手だし、初めてデートに誘ったのも初詣だったから、俺がつぐみに惚れてると分かってもらえなくても仕方ないが。

それでも自分は他の人間より特別扱いされてるということくらい、少しは感じているかと思ってたんだが。

「社内だから失敗して面倒なことにならねぇように、いろいろ考えてきたのに….…。もしかして全部無駄な努力だったのか」

「無駄じゃないですよ。最初はクチも聞けないくらい怖かったのに、『怖そうだけどいい人だなー』って思うようになってましたから」

……進展が遅すぎだろう。

「ついこないだまでそんな感じだったのか?」

「……?はい、そうでしたけど。まさか進藤さんが私のこと好きになってくれるなんて思ってなかったんで」

つぐみの性格が自惚れとは一番遠いところにあるのは分かってはいたが。

「鈍すぎだろ」

「……でも今は、大好きですけど」

照れて最後は尻すぼみになっても、俺の欲しい言葉を言ってくれる。

「そんなこと言ってると、帰りに俺んちに連れ込むぞ」

「ケジメがつかないんじゃないんですか?」

「ホントにつぐみ、生意気なこと言うようになったな」

なにも計算していないくせに、俺のツボを外さない。

俺が惚れた女は、本当に可愛くて、賢い。

No.183 14/08/24 09:03
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夏期休業が終わり、会社ではつぐみの退職の話が社員以外のパート連中にも広がってきた。

つぐみはいろんな人間から「辞めちゃうんだって?」と声がかかり、みんな残念がっているようだった。

社長の声掛けで、つぐみの送別会が開かれる。
つぐみは8月最後の一週間は有休消化に当てることになり、最後の出勤日になる土曜日が送別会と決まった。
送別会にはパートの中のリーダークラスの人間までが来るのだが、野本と幹事をやるナカちゃんが下ちゃんにも声をかけたが、やはり下ちゃんは来ないとのことだった。

休業明けで会社はそこそこ忙しいが、俺は塚田の様子が気になった。

一応普通に仕事をしていて、普段通りに振舞ってはいるが、俺から見ても塚田は痩せた。

ナカちゃんもそれには気付いて「塚ちゃん、痩せたねぇ」と塚田に言ったら、塚田は「夏バテかなぁ」と笑っていた。

あまり食わずに酒を飲む。
眠れずに酒を飲む。

そんなことが昔の俺にもあった。

考えても仕方ないことを繰り返し考え
悔やんでも仕方ないことを悔やみ
自分の内で持て余すような衝動を宥め

どうにもならないまま、機械的に毎日の生活を送る。

きっといまの塚田は、綾が去ったときの俺と同じように、そうやって一日一日を、不味い物を無理矢理飲み込むようにして過ごしているのだろう。

No.184 14/08/24 09:36
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塚田はミスが増えた。

積荷を間違えかけたり、伝票を付け忘れたり、倉庫内での段取りがおかしかったり、そんな小さなミスなら、俺の管理範囲内で食い止めることができる。

それでも塚田は他の失敗もやらかした。

フォークリフトの操作をミスして出荷待ちの段ボールを傷付け、この間は会社の敷地内でハイエースをぶつけて凹ませてしまった。

塚田の集中力が目に見えて落ちている。
塚田はもともと慎重で、車の運転もフォークリフトの操作もそこそこ上手い男だから、そんな失敗は滅多にやらない。

その程度の失敗ならまだどうにでもなるが、いつかの水谷のように社内で怪我人を出したり、最悪の場合、会社の外で事故を起こすようなことになったら、塚田自身はもとより、会社にとってもとんでもないことになりかねない。

幸い、新人の水谷が最近仕事に慣れてきて、少しずつ外に出る仕事も増やしてきたところなので、俺や他のベテラン社員と一緒に水谷をいろいろ動かすようにして、塚田を外に出す機会を減らした。

ハイエースを凹ましたことは隠しようがないが、とりあえず塚田の他のミス自体は目立たなくなった。

上の人間は俺のそんな考えにも、塚田の変化にも気付いていないようだが、塚田自身は俺が敢えて塚田の業務内容を変えたことに気付いたようだった。

No.185 14/08/24 11:12
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塚田が俺になにか言いたそうにしているのは分かったが、とりあえず気付かないフリをした。

ここで優しいことを言うつもりもないし、逆に厳しいことを言うつもりもない。

塚田自身がいまの自分のことは一番よく分かっているだろう。

俺がしてやれるのは、仕事のフォローだけだ。

惚れた女を失った傷などは、どうにもしてやれない。

俺にも、他の人間にも。

下ちゃんは塚田の前から自分の意思で消えた。

下ちゃんは塚田を嫌いになったわけじゃない。
できることなら、いまでもなにもかも捨てて、塚田の元に走りたいのだろう。

それでも。
下ちゃんは塚田の前から去り、家族の元へ戻った。

どんなにそれが辛いことだろうと、最善の道であることは変えようがない。

塚田にもそれくらいのことは分かっているんだろう。

だから1人で耐えている。

下ちゃんが人妻と分かっていて惚れた塚田
仮面夫婦を言い訳にして塚田に惚れた下ちゃん
最初に下ちゃんを裏切った下ちゃんの旦那

みんな馬鹿だ。
どうしようもなく愚かだ。

でも、馬鹿で愚かじゃないヤツなんか、この世にいるのか。

俺だって、馬鹿だ。

それでも、いまはつぐみという惚れた女がいる。

馬鹿でも愚かでも、こうやって生きている。

塚田。
お前も同じだ。
下ちゃんは下ちゃんなりに、お前への思いを貫いたんだ。

ここでお前が潰れたら、お前は本当の愚か者だ。

下ちゃんに本当に惚れていたなら、泥を食らってでも、這い上がれ。

No.186 14/08/24 17:24
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つぐみの最後の出勤日になった土曜日、つぐみは作業場の手伝いに出ていた。

誰かが通るたびに、つぐみになにか声をかけている。

3年近くこの会社にいたつぐみは、決して目立つ存在ではなかったのに、確実にこの会社から必要とされていた。

クセのあるパートやチャラチャラしたアルバイトの若い連中にも、つぐみは自然と受け入れられていた。

ウチの会社に出入りする運送屋の連中や、自動販売機の補充に来る飲料メーカーの人間、コピー屋、仕出し弁当屋、どんな人間もつぐみを可愛がっていた。

その証拠に、そういう社外の人間もつぐみの退職を知ると、ちょっとした餞別を渡したりしてつぐみの退職を名残惜しみ、俺にまで「あの子辞めちゃうんだね」と残念がっていく。

善良で誠実であること、そんな当たり前のことが、つぐみの魅力なんだと思う。

それに気付かないのも、つぐみのいいところだ。

作業場での仕事が昼前に終わると、今日の送別会に来ないパート連中がつぐみに花束を渡していた。

つぐみは人と花束に埋まるようにして泣いていた。

つぐみなら、転職先でもうまくやっていける。

どんなときも、自分よりまず周囲のことを考え、話すことを言葉にする前に考えることのできるつぐみは、転職先でも違和感なく溶け込んでいけるだろう。

それでも、端末とにらめっこしていたり、俺に電話を取り次いだり、作業場で動き回る姿を見るのが最後だと思うと、やはり寂しかった。

No.187 14/08/24 18:10
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会社の業務は3時に終わった。

送別会は6時からなので、ほとんどの人間は一度帰宅してから送別会に来るようだった。

社長の知り合いがやっている小料理屋を貸し切りで送別会が始まった。

何回か飲みに誘っても乗ってこなかった塚田も、今日は来ている。

つぐみは社長から始まって、上の人間から順に挨拶に回っている。

俺のところにも瓶ビールを持って回ってきて、「進藤さんにもお世話になりました」と大真面目に言うので、「高ちゃん、これからも頑張れよ」と言ってやると、口元が僅かに緩んだ。
どうやら笑いを堪えているらしい。

つぐみが全員の席を回り終えたころには最初の席順も乱れ、つぐみはナカちゃんの近くに落ち着いたようだった。
ナカちゃんの隣には塚田がいて、いつものようにナカちゃんの馬鹿話を聞きながら笑っていた。

俺は倉庫の連中と飲んでいたが、途中トイレに立った塚田が戻ってきたときに声をかけると、塚田は俺の隣に座った。

「高ちゃんがいなくなると寂しいですね」

塚田はなにかのサワーを飲みながら言った。

「そうだな。下ちゃんも辞めたし、ちょっと会社の雰囲気変わるかもな」

俺が下ちゃんの名前を出しても、塚田の表情は変わらず、「そうですね」と答えた。

俺は内心「大した精神力だ」と感心し、雑談に変えた。

No.188 14/08/25 12:03
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俺も一緒にナカちゃんに呼ばれて席を移ったが、塚田の飲むペースが早い。

つぐみも心配して塚田に声をかけているようだ。

でも塚田は機嫌よく酔っ払ったような感じで、手酌で飲み続けている。

塚田の酒は大人しい。
もちろん普段よりは多少口数も増えるが、絡んだり愚痴ったりするようなことはない。

1人で鬱々とした気分で飲むよりは、ナカちゃんみたいな人間と笑いながら飲むほうがまだいいだろう。

酒で紛れることがあるなら、飲めばいい。

「塚田、このあとも飲みにいかないか?」

俺は塚田が隣にきたときに声をかけた。

「いいですね~、行きましょう」

最近何回か誘っても来なかったのに、今日はあっさりOKしてきた。
良い方か悪い方かはわからないが、塚田のテンションも上がっているのだろう。

一度、とことん飲んで、落ちるなり上がるなりした方がいい。

11時近くなり、つぐみは野本に言われて挨拶に立った。

つぐみはいかにも困ったような顔でその場で立った。

「今日は送別会を開いていただいてありがとうございました。
ご迷惑ばかりおかけしましたが、この会社でみなさんに親切にしていただいて、本当に幸せでした。
今回転職のために退職しますが、社長もみなさんも快く送り出してくださって、却って申し訳ないと思ってます。
転職しても、みなさんのご厚意を忘れずに、がんばります。
本当にありがとうございました」

一生懸命、という言葉がぴったりの挨拶だった。

その場にいる人間は皆、つぐみを娘か妹のような目で見ているのだろう、年配の人間は涙ぐんでいる人もいる。

つぐみは恥ずかしそうに一礼して座った。

そのあとは部長が音頭をとって三本締めをして、送別会は終わった。

No.189 14/08/25 12:52
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店を出ると、先に出ていたつぐみがナカちゃんに抱き締められていた。

情に厚いナカちゃんは泣いているようで、つぐみも涙ぐんでいるようだ。

俺は一緒に出た塚田の肩を抱いて「塚田、行こうぜ」と言った。

「高ちゃんも最後なんだから付き合えよ」

俺がつぐみに声をかけると、横にいたナカちゃんが「え~、私も行きたーい」と言った。

「うるせーからナカちゃんはハヨ帰れ」

悪いが今日はナカちゃんにいてもらっては困る。
そもそもあれでいて中身は良妻賢母のナカちゃんは、滅多に午前様などしないから、今日も他の主婦連中と一緒に帰るのだろうが。

それでも「けち~」と悪態をつくナカちゃんは放っておいて、俺は塚田と歩き出した。

つぐみは社長や上の人間のところへ行って挨拶をしてから、俺と塚田を追いかけてきた。

少し歩くと駅近くの飲み屋街だったので、個室のある居酒屋を選んで入った。

さんざん飲み食いしたあとなので、軽いつまみを取り、俺と塚田は冷酒を頼み、つぐみは梅酒のサワーを頼んだ。

「高ちゃん、デザイナーなんだよね。すごいなぁ」

塚田は感心したようにつぐみに言った。

「すごくないですよ。好きで専門学校に行っただけで、雇われデザイナーが精一杯ですから」

「それでもすごいよ。俺は絵なんか描けないから」

塚田がそう言ってコースターの裏になにか描いて、俺とつぐみに見せた。

「………犬か?」

「………馬?」

「猫ですよ」

つぐみは「ごめんなさい」と言いながら笑い転げた。

そのあとはつぐみの転職先の会社のことや、車の話をした。

塚田は酔ってはいたが、いつもと変わらず穏やかだ。

俺は塚田に言っておきたいことがある。

「なぁ、塚田。お前最近どうしたんだよ」

俺がそう言って塚田の桝に冷酒を注ぐと、塚田は目を伏せた。

「ハイエースぶつけたり、らしくねぇことばっかしてるじゃねぇか」

「すみません」

「事故が一番心配だからな。なんかあったのか?」

溜め込んでいることを、いまなら聞いてやる。
吐き出して楽になるなら聞いてやる。

塚田は桝に口をつけながら俺を見た。

目が赤い。

飲みすぎなのと、寝不足なのと、疲れているのとが、全部混ざった目だ。

No.190 14/08/25 13:08
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「失恋でもしたのか」

お節介なのはわかっているが、俺から水を向けた。

塚田はため息をつくように「そんな、とこです」と言った。

塚田に言えるのは、そこまでか。

塚田は下ちゃんの「し」の字も口にするつもりはないんだろう。

それならそれでいい。

「そうか。まぁ飲めよ」

俺がそう言うと、塚田はまた一口酒を飲んだ。

「進藤さんは、失恋したとしたら、どう立ち直りますか」

「どうもこうも、酒飲んでじっと耐える。気が付いたら、少し楽になってる。その繰り返しだな」

俺はそうだった。
他の女を抱いても、一時の慰めにしかならなかった。

「………そうするしか、ないんですよね」

そうだ。
そうするしかないんだ。

「そんなに惚れてた女がいたんだ」

「はい。破滅してもいいと思うくらい、惚れてました」

塚田は破滅してもいいと思っていたのか。
それでも下ちゃんを強引に奪うような真似をしなかったのは、下ちゃんを地獄に落すような真似ができなかったからなのか。

下ちゃんは塚田と幸せになりたかったと言っていたそうだ。

お互いそう思っていて、破滅の道を選ばなかったのは、臆病だったからなのか、それとも。

それがお互いのためだと思っていたからなのか。

それでも俺は。

「よかったじゃねぇか」

そう思うから、言葉にした。

すると塚田とつぐみが同時に「え?」と俺を見た。

「そこまで惚れる女なんて、なかなかいねぇしな」

不倫をした塚田も下ちゃんも、馬鹿だ。
でも、お互い惚れていたのは確かなんだ。

罪悪感があろうと、隠れて付き合おうと、結局は別れるしかなかろうと

惚れてたんなら、それでいいじゃねぇか

「でも、俺のものにはなりませんでした」

塚田はテーブルに置いた桝に目を落とした。

No.191 14/08/25 14:39
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「じゃあ、その女に会わないほうがよかったのか?」

俺がそう言うと、塚田は少し考えてから「そうは、思いません」と言った。

「だろ?惚れた女がいたら、自分のものにしたいと思って当たり前だけどな。手に入らなくても、そこまで惚れた女がいて、その女が幸せでいるなら、それでいいんじゃねぇ?」

塚田が下ちゃんと出会ったとき、下ちゃんは既婚者だった。
それでも惚れたのは塚田だろう。
それでも惚れたのは下ちゃんだろう。

お前らは、最初から間違っていたんだ。
それくらい、自分達も分かっていただろう。

それでもお前らは、その気持ちを抑えられなかった。

馬鹿だ。
本当に馬鹿だ。

綺麗な不倫なんて、この世にはない。
そんな純愛なんてあるわけがない。

それでも、お互い本気だったんだろう?

下ちゃんは地獄に落ちてもいいと言い
塚田は破滅してもいいと言い

馬鹿みたいにお互いを思い合ったんだ。

塚田と下ちゃんが別れたのは、不倫だったからだ。
それでも不倫という形でしか、思いは遂げられなかったんだ。

下ちゃんを手に入れることはできなかった。

それでもそこまで思う女がいたなら、惚れたことを後悔するな。

馬鹿だった自分も、傷付けた人間も、周囲を欺いた罪も、それは塚田と下ちゃんがこれから自分で償うしかないんだ。

「でも、辛いです」

「だから飲めよ」

酔っても酔っても、なんの解決にもならない。
それでも、落ちるとこまで落ちれば、あとは上がるだけだ。

「そうですね………」

塚田はそう言って桝の中身を空にした。

No.192 14/08/25 14:52
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塚田は酔ってトロンとした目でつぐみを見た。

「高ちゃんには幸せになって欲しいなぁ。高ちゃんはホントにいい子だから」

そうだ。
塚田もつぐみみたいな女と付き合えば、幸せになれるかもしれないんだ。

でも、残念だがつぐみは俺の女だ。

馬鹿だった俺が、やっとこの歳になって見つけた、大事な女だ。

つぐみは苦笑いしながら俺を見ている。

「こいつの心配はすんな。俺がいるから」

俺がそう言うと、塚田は俺とつぐみを交互に見た。

「………え?………進藤さん、もしかして」

「そういうことだ」

「えー、俺、全然知らなかったですよ。えー、高ちゃん、ホントに進藤さんなんかでいいの?怖いでしょ」

塚田は驚きを隠せない口調で、随分と失礼なことをつぐみに言った。

つぐみは照れながらもおかしくてたまらないという感じで「はい」と答えている。

つぐみは俺が怖いのか。
塚田も塚田だ。
「進藤さんなんか」、「なんか」とはなんだ。

「怖いのかよ」

俺がそう言ってつぐみを睨むと、つぐみは慌てて手を振りながら「えっ、そこに『はい』って言ったんじゃないですよ」と言い訳した。

「ならいい」

俺が不貞腐れたままそう言うと、今度は塚田が堪えきれずに笑った。

「一番意外じゃなさそうで意外な組み合わせですよ。みんな驚くだろうな」

そんなに俺とつぐみの取り合わせは意外なのか。
それじゃあ、つぐみがつい最近まで俺の気持ちに気が付かなかったのも、仕方ないのかもしれない。

「お前しか知らねぇよ」

「わかりましたよ、秘密ですね。あー、でもそうかぁ。高ちゃんが進藤さんと。そうかぁ」

なんで塚田がこんなに嬉しそうなんだ。
まるで塚田がつぐみの兄貴かなにかで、可愛い妹の幸せを喜んでるみたいじゃないか。

塚田。
それも俺の役目だ。

No.193 14/08/25 15:07
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「進藤さんに彼女ができたなら、俺にもできるかなぁ」

「どういう意味だよ」

「ああ、悪い意味じゃないですよ。進藤さんみたいに無愛想で、女性への態度が優しくなくても、ちゃんと中身を見てくれる高ちゃんみたいないい子がいるかなぁ、みたいな」

「塚田お前、先輩に向かって随分失礼なこと言ってるぞ。大体塚田は愛想を振りまきすぎなんだ。俺はちょっとシャイなだけだ」

「シャイ………そうですか?いやー、だって会社でもパートさんたち、『あっ、進藤さんが来た!静かにしなくっちゃ』って感じですからね」

「俺は山の中のヒグマか」

「ヒグマの方が繊細かもしれませんね」

塚田も俺も、酔って普段より口が滑らかになっている。

本当は塚田にもっと本音を吐き出させてやるつもりだった。

でも塚田はこれ以上なにも言わないのだろう。

俺とつぐみが付き合っていることを聞いて、なぜか自分のことのように喜んでいるだけだ。

それも、つぐみの人徳なのか。
つぐみが幸せそうだと、塚田まで気分が良くなるのか。

それならそれでいい。

下ちゃんは、塚田に惚れていたんだ。
それだけは確かだ。

その下ちゃんは、塚田の幸せを願っているんだろう。

それは塚田も同じはずだ。

自分の幸せじゃなく、相手の幸せが大事なんだろう?

なにが幸せなのかは、本人にしか分からないかもしれないが、相手の思いを受け止めてやるのも、惚れた相手への誠意だろう。

塚田。
幸せになれ。

No.194 14/08/25 15:24
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終電がとっくに出たあとで店を出た。
駅前のタクシー乗り場から3人でタクシーに乗った。

ここから一番近いのはつぐみのアパートだが、俺は塚田の家に行くように運転手に頼んだ。

タクシーが塚田の家に着くと、つぐみは塚田と一緒に降り、塚田にあらためて挨拶をした。

「これからも頑張ってね。幸せに」

塚田はそう言ってつぐみに握手を求めた。
つぐみは「はい」と言って笑いながら塚田の手を握り、塚田はつぐみの手を両手で包んだ。

握手までは仕方ないが、両手で握るのはやりすぎだ。

「塚田、握りすぎだ」

俺がそう言うと、塚田は「やきもち妬きだなぁ」と笑った。
どうも、酔った振りをしてわざとやっているような気がする。

つぐみが再びタクシーに乗って発車すると、つぐみは後ろを振り返り、車を見送る塚田を見ていた。

「次はどちらまで?」

運転手に聞かれ、俺は「Y駅東口のセブンまで」と言った。

つぐみが俺を見た。

今日はもともとつぐみを帰すつもりなどない。

俺のアパートに連れて帰る。

俺は黙ってつぐみの手を取った。

タクシーを降りて、コンビニに寄ったあと、俺のアパートに向かって歩き出すと、つぐみが少し後ろを付いてきた。

「つぐみ」

俺がそう言って手を差し出すと、つぐみは「はい」と言って俺の手を取った。

俺がつぐみを呼ぶと、いつも「はい」と返ってくる。

つぐみが言う「はい」はどうしてこんなに可愛いのかと思う。

No.195 14/08/25 15:37
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「塚田、一言も下ちゃんのことは言わなかったな」

「はい」

「言っちまえば少しは楽になるのかもしれねぇのにな」

「それでも、少しは話せてよかったのかも」

「そうだな」

「つぐみ」

「はい」

「浮気はしないでくれ」

「………絶対にしません」

「俺も、しない」

「はい」

つぐみは俺のものだ。
俺の大事な女だ。

一生手放す気はない。

だから、下ちゃんみたいに余所見などはしないでくれ。

俺はずっとつぐみを大事にする。

他の女など、もういらない。

頼むからこれからもずっと、俺のそばにいてくれ。

「俺はつぐみが俺を嫌いにならない限り、つぐみを好きでいられる」

「ずっと、好きでいてください」

「今日は帰らないでくれ」

「はい」

「また、『大好きです』って、言ってくれ」

「大好きです」

「ばーか。家に着いてからだよ。ここで言うなよ」

本当につぐみは、素直すぎる。
その素直さが、俺の堪え性をどこかへ飛ばしてしまう。

「ごめんなさい」

「ここで襲うぞ」

「………早く、帰りましょう」

つぐみ。
俺の家に「帰る」んだな。

「ああ」

俺はもうすぐそこに俺のアパートが見えているのに、堪えきれなくなって、つぐみを抱き寄せてキスをした。

No.196 14/08/25 15:53
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つぐみ

俺はお前が好きだ

やっとこの腕にお前を抱けた

俺が名前を呼ぶたびに

はい

そう答えるつぐみが好きだ

頭がおかしくなりそうなくらい、つぐみが好きだ

無愛想で馬鹿な俺は、一番言わなくちゃいけないことをなかなか言えずにいる

本当は

ありがとう

そう言いたいんだ

でも、今日はやっとつぐみをこの手に抱くことができたことに夢中で

そんな照れくさいことを言う余裕などないんだ

今日のところは好きだと言うだけで、勘弁してくれ

つぐみ

好きだ

No.197 14/08/25 16:10
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「進藤さん!」

走ってきて息の上がったつぐみが、ぶつかるような勢いで俺の腕に飛びついてきた。

池袋の東武デパートの地下入り口。
金曜日ということで、仕事の終わった7時に俺はつぐみと待ち合わせていた。

つぐみが転職してから2年になる。

つぐみは俺が思った通り、転職してからもしっかり頑張っているようだ。

俺は相変わらず、会社でフォークリフトやトラックに乗っている。

つぐみが俺を「進藤さん」と呼び、返事が「はい」なのも相変わらずだ。

「なに興奮してんだ?」

つぐみの口にかかった髪を指で払ってやりながら俺が言うと、つぐみは
「来て。こっちこっち」
と言いながら、俺の腕を引いた。

つぐみは東武デパートの食品売り場に俺を引っ張って行く。

「ほら」

なぜかつぐみは店内の角に隠れるようにして、近くのパン屋の中を指差した。

つぐみが指差した先には、塚田がいた。

「塚田じゃねぇか」

「うん。ほら隣に」

塚田の隣には、塚田や俺と同じ年頃に見える女がいた。

「へぇ。女連れか」

「見ちゃった」

つぐみは舌を出して笑った。

「つぐみ、お前さぁ。なんで隠れなくちゃいけねぇんだよ」

「………あ」

「声かけりゃいいだろ」

「そうでした」

池袋は会社の連中もよく来るエリアだ。
まぁ金曜の夜だと主婦連中が池袋まで来ることは少ないだろうが、以前と同じような状況なら、塚田はこんな人目につくようなところで女と買い物などしていないだろう。

No.198 14/08/25 16:25
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「あれ?高ちゃん?……あっ、進藤さんも」

パン屋から出てきた塚田は、俺とつぐみを見て笑った。
こいつも相変わらず爽やかなヤツだ。

「塚田さん、お久し振りです」

「高ちゃん、元気そうだね。……あ、紹介します」

塚田は俺とつぐみに横でにこにこ笑いながら立っている女を紹介した。

小柄で、明るい感じのする女だ。

塚田は彼女を、高校時代の同級生だと言った。

「高ちゃん、仕事はどう?」

「周りの方に助けていただいて、どうにかやってます」

「進藤さんに苛められてない?」

「うるさいぞ、塚田」

「やっぱ怖いでしょ」

「慣れました」

「結婚とか、考えた方がいいんじゃない?」

塚田が茶化したようにそう言うと、つぐみは

「もう手遅れです。入籍しちゃいました」

と言って笑った。

「えっ。本当ですか?」

「本当だ。日曜に届けだけ出した」

「引越しも済みました」

「えっ。知らなかった」

「知るわけねぇだろ。まだ会社には言ってねぇよ」

塚田の横で黙っていた彼女が、塚田の腕を軽く叩き、耳打ちをした。

「………?あっ、そうか。そうだね。すみません、おめでとうございます、が先でしたね」

「ありがとうございます」

つぐみは塚田とその彼女を見て、嬉しそうに笑っていた。

No.199 14/08/25 16:42
小説大好き0 

塚田たちと別れ、俺はつぐみを連れて駅の外に出た。

「塚田さんと彼女さん、お似合いだったね」

つぐみは俺の腕を握りながら上気した顔で言った。

「そうだな」

塚田は彼女とつぐみが挨拶をしている隙に「高ちゃん、綺麗になりましたね」と言った。

「俺の女なんだから当たり前だ」と軽く蹴飛ばしておいた。

塚田にとって、下ちゃんとのことは、だんだん過去の出来事のひとつになっていくんだろう。

「進藤さん、今日はどこへ行く?」

つぐみは駅前に乱立するビルを見上げながら言った。

「つぐみ、お前いつまで俺のこと『進藤さん』て呼ぶわけ?」

「………ダメ?」

「ダメ……ってわけじゃねぇけど」

「じゃあそのままでいい?」

「いいよ、奥さん」

「えっ、あっ、えっ、あっ、そうか。私、もう奥さんなんだ」

「そうだよ。つぐみもこないだから『進藤さん』なんだけどな」

「んー。それでも『進藤さん』は『進藤さん』なんだけど」

「変える気なしだな」

「うん。だって、初めて会った会社でそう呼んでたんだもん。あのころのことも、忘れたくない」

「そうか」

「うん、そう」

「つぐみ」

「はい」

「呼んだだけ」

「はい。進藤さん」


☆☆☆了☆☆☆

No.200 14/08/25 16:46
小説大好き0 

無事に完結を迎えることができました。
いままでお付き合いくださった方、本当にありがとうございました。
よろしかったらご感想をお願いいたします。

☆感想スレ☆
http://mikle.jp/threadres/2121087/

No.201 14/08/26 16:39
小説大好き0 

次のお話を書き始めました
今度はまったく違うお話になりますが、よかったらまたよろしくお願いします
タイトルは「交差点」です
http://mikle.jp/threadres/2131155/

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