熱い日々
その男は、ゆっくりとリングに上がってきた。
空手着の上下を身に付け、まだ手にして間もないであろう新しい黒帯を絞めている。顔や額、道着の隙間から見える胸元にはうっすらと汗が浮いているのが見てとれる。髪は坊主に近い短髪で、二重の鋭い瞳をしている。輪郭がやや丸みを帯びている。
手には、よく総合格闘技の試合等で見られるオープンフィンガーグローブを身に付け、しきりに手を握ったり開いたりしてる。グローブの装着具合を確認しているようだ。
男の名は、上尾大介。21歳。
新しいレスの受付は終了しました
一方、大介とは反対側のリングコーナーには彼の対戦相手である男が自身のセコンドを伴い待機していた。髪は茶髪で上に立てている。端正な顔立ちで俗に言う二枚目だ。普段はピアスをしているのだろうか。耳たぶに穴が空いている。大介と違い、上半身は裸。下半身にはショートパンツを履き、大介と同じく手にはオープンフィンガーグローブ。しなやかで一切の無駄がない筋肉質の肉体だ。
反対側にいる大介を笑みを浮かべながら見ている。
男の名は、吉井駿介。23歳。
場内の観客達は、試合が始まるのを今か今かと興奮を抑えきれないようで歓声を飛ばしていた。
そして観客達の興奮がピークに達したその時、場内に男性のアナウンスが流れた。
「ただいまよりワンマッチトーナメント第4試合を行います。赤コーナーより、181㎝、78㎏、ブラジリアン柔術、飯野ジム、吉井駿介っ」のコールと同時に駿介が笑みを浮かべながらリング中央に移動し片手を挙げながら自身をアピール。観客達から大きな歓声が飛ぶ。余程調子がいいのか軽くフットワークを交えながら自身のコーナーに戻っていく。
それを冷めた表情で上尾大介とそのセコンドに付いている3人の男女が見ている。
続いて大介がコールされる
「青コーナーより、177㎝、83㎏、春日流空手、上尾大介っ~」
駿介と違い、大介はコールに反応する事なく反対側の駿介に直立不動で一礼するのみ。観客からの歓声もほとんどなく、大介も直ぐに自コーナーに向き直った。
「あいつ、本当にここまで来たな。」
駿介のセコンドの一人が言う。
「まぁ、俺は来ると思ってましたよ。ただ俺を相手に道着を着て戦うなんて。空手家としての意地かどうかわかりませんが少しムカつきますよ」
続いて駿介が答える。
「とにかく相手は、空手家だ。スタンド(立ち技)の打撃には付き合わず、すぐにテイクダウンだ。グウランド(寝技)で確実に仕留めろ。」
「おや、それだと俺がスタンドができないみたいじゃないですか。奴にとっては最初で最後の晴れ舞台だ。少し付き合ってやりますよ。」
「ふん、好きにしろ。ただし万が一と言う事もある。負けるなんて事はなしだぞ。」
「はい。」
駿介には、先程とは質の違う怖い笑みが張り付いていた。
「どうだ。目の前に恋い焦がれた恋人が立ってる気分は?」
大介のセコンドの一人である中年男性がニヤニヤ笑いながら言う。
「やめてください。そんなんじゃないんです。」
大介が答える。
「打ち合わせ通り、徹底してスタンド勝負だ。万が一タックルとかを受けて寝かされても落ち着いて逃げて立ち上がれよ。」
今度は大介より少し歳上ぐらいの若いセコンドが落ち着いた口調で話し掛ける。「はい、こちらも柔術家相手にグウランドに付き合うつもりはありません。」
大介が返す。
「しっかりね!」
大介と同じくらいの年齢の女性のセコンドが檄を入れる。
「ここまで来たらすべてを出しきるよ。」
大介が答える。
レェフリーの選手リング中央に、の合図で鋭い二重の瞳をした大介が歩みだした。
リング中央で上尾大介と吉井駿介が向かい合った。 レェフリーが2人を交互に見ながら大まかなルール確認を行う。
「試合は、8分3ラウンド、膠着状態でのブレイク(引き剥がし)なし、股関及び眼への攻撃、噛み付き以外は全ての攻撃が有効。」
次にレェフリーによるボディチェック。まずは、吉井駿介からだ。ボディチェックを受けている間も上尾大介に対し駿介は、笑みを浮かべている。次に大介のボディチェック。レェフリーは、道着の上から異常がないか手で触れて行う。最後にオープンフィンガーグローブの異常確認。 大介は、駿介の笑みを冷めた鋭い瞳で返す。
両者に異常はなく。ついに試合が始まる。
「ラウンド1、ファイっ」 レェフリーの場内開始の声が場内に響く。
上尾大介は、軽く握った左右の拳を目線の位置に構え、右足を前、左足を後ろに置きサウスポーによるアップライトの構え。身体がやや半身になり重心のほとんどが後ろの左足に掛かっている。動かずに相手のいる方向に構えを指向している。
対する吉井駿介は、アップライトより手首をやや外側に向け、右足を後ろ、左足を前に置き軽くフットワークを見せるオーソドックススタイル。ムエタイに近い構えだ。
大介は、構えながら駿介の出方を見つつ、全ての始まりを回想していた。
そう全ては3年前から、大介の長く、一生に一度きりかもしれない熱い日々が始まったのだ。
上尾大介。18歳。
3月に高校を卒業したところだ。
特に特徴のある男ではなく、ほんのすこし身長が高く、身体が大きいだけ。輪郭がやや丸い。二重の瞳をしている。
4月の昼下がり。彼は、自室のベッドに寝転んでいた。4畳あるかどうかの部屋で、あるのは学習机と本棚が1つ。あとは、今寝転んでいるベッドくらいと殺風景な部屋だ。窓は開けられ、心地よい春の風が吹いてくるのを感じられる。気を抜くとその心地よさから眠気に襲われそうだ。
長袖のTシャツにジーンズを履いた大介は、ベッドに寝転んだまま天井の一点を見つめながら何かしら考え事をしているようだ。
「はぁ~、このままどうなるんやろ、俺は?」
自分に問うように大介が独り言をつぶやく。
自分の胸の内を少しでも吐き出したいと言う感情に浸っていたのである。
彼は、18年前に関西のとある県で生を受ける。彼が育った家庭は、典型的な中流家庭であり公務員の父親と同じく公務員の母親を持ち、贅沢とまではいかないが特に不充する事なく育った。しかし元来から冷めた性格をしていた大介は、何かに熱中する事なく小学校、中学校を卒業する。中学では部活動等も行う事なく、ただただ怠惰に生活を送っていた。中学2、3年生ともなると彼の周りの同級生達は、高校進学のために血眼になり、塾に通ったりと必死で受験勉強に専念していた。しかし当の大介は、まるで自分に関係のない他人事の様に同級生達を冷めた目で見ている。
「俺には、いくら進学のためとはいえ無理矢理嫌な勉強をするつもりはない。」と言うのが当時の大介の言い分であった。
そんな大介に対して彼を心配する両親、特に母親からは彼にとって耳の痛くなるような話も時々ある。特に時期が時期だけに。
「あんた、ちゃんと勉強してるん?」
その日も夕食時に母親から問われる。
「ああ、まぁ」
素っ気なく答えながら大介は夕飯を口に運ぶ。
「まぁ、人生の全てが高校進学で決まるってわけちゃうけど高校浪人なんてないように勉強はしておけよ。」
と言いながら父親は、空になったグラスにビールを注ぐ。
「ごっとうさん」
素っ気なく立ち上がると、両親から逃げるように大介は自室に戻っていく。
こういうやりとりに彼もかなりうんざりしているのが見てとれる。
「高校ねぇ」
自室に戻った大介は、ベッドに転がりながら低くつぶやいた。
そして時は経ち、しばらくして大介は高校生になっていた。
結局、受験勉強といった勉強をするでもなく大介にとっては入学できる高校に入学したと言う感じだ。この時、15歳。
この高校生活でも部活動等する事なく、ましてや勉学に励むという事もなく怠惰な毎日を送っていた。
しかし、ある日、大介の冷めた心を揺さぶり、熱いものを目覚めさせるものとの第一遭遇に遭ったのだ。
その日、彼は居間でテレビを見ていた。大介の部屋にはテレビがないためである。元々、それほどテレビを見る方でもなかったがたまにこうして見る時もある。テレビをつけチャンネルを適当に回し、ある局の番組にセットした時だ。
「おもしろそうやな。すこし見てみるか。」
大介が眼にしているテレビの中には、リング場にいる2人の男が写し出されていた。
2人とも上半身が裸で、それぞれデザインの違うショートパンツを履いている。両方とも筋肉質の肉体で、手にはボクシンググローブをはめている。
片方が、日本人と思われる東洋系。
もう片方が、国籍は分からないが肩から胸にかけて派手な黒い竜の刺青を入れた白人。
この2人が、テレビの中で殴りあい、蹴りあっているのだ。
試合開始のゴングがなった。どうやら1ラウンド目で試合は始まったばかりだ。
東洋系の男も白人の男もオーソドックスの右構えでボクシングスタイル、フットワークを使っている。
互いに相互の出方を伺っているようだ。
両者の距離が段々と縮まる。
とその時。
東洋系の男の右脚が、白人の男の左大腿部を叩いていた。
ローキック。凄まじい速さで放たれた。
ローキックは、白人の大腿部を叩くと元の位置に素早く戻る。
しかし当たりはそれほど深くなく、白人は構わずに距離を詰め東洋系の顔面に対して激しいパンチの乱打を叩き込み始めた。
左右のフック。
続いて右のフック。
そしてさっきのお返しとばかりに白人の左ローキックが、東洋系の右内大腿部を打つ。
コンビネーションと呼ばれるものだ。
「蹴ってるやん!ボクシングじゃないのか。」 大介は、つぶやきながらテレビを見つめている。
白人の激しいコンビネーション攻撃を受けながら東洋系は、あっとゆう間にリングのロープ際に追い詰められる。
もう後がないと思った時、東洋系が白人のコンビネーションが一瞬止む隙をつき素早く左に避けつつ、白人のバックに回ったのだ。今度は、白人がロープ際に密着する形になる。
白人が東洋系の方に振り返った瞬間、
バシッ
白人が右方向に崩れ、倒れたのだ。
東洋系の左脚が、白人の右側頭部を蹴っていた。
東洋系の左ハイキック。空手で言う、左上段回し蹴り。頭ごと首を刈るような破壊力。
それを見た大介は、鳥肌がたっていた。
「人間の足が、ここまで素早く高く上げるもんなんか。」
大介は心の中で自問自答しながら、その手はいつの間にか固く握られていた。
レェフリーが、ダウンした白人にカウントを取る。
「1・2・3・・・」
実況放送であるため解説席から声が飛ぶ。
「ピール選手、立ち上がれるのか!?」
ピールと呼ばれた白人は、6カウント目でなんとか立ち上がった。しかし東洋系の左ハイキックが、かなり効いたのだろう。格闘技に関しては、ど素人の大介にもピールがすでに虫の息である事が分かる。
「ファーイっ!!」
レェフリーから試合続行の大声が飛ぶ。
ピールが再びアップライトの構えを取るが、ダメージで体力を奪われフラフラなのは明白だ。
だが東洋系は、チャンスとばかりにピールに対し左右のフックを連打する。 ピールもフックをガードし、フックにばかり意識が集中した時。
再び東洋系の左足が、素早くピールの右側頭部に駆け上がった。
ピールが、また崩れた。
レェフリーがカウントを取るが、今度はピールは立ち上がれず死体の様に仰向けになりそのままだ。
ピール側のセコンドがリングに流れ込み、ピールを介抱する。
「ただいまの試合、1ラウンド1分50秒、倉本選手の左ハイキックによるKO勝利です。」
場内に放送が流れる。
レェフリーが、倉本と呼ばれる日本人の右手を高く持ち上げ倉本の勝利を場内にアピールする。
倉本はその後自分のセコンドと抱き合い、勝利の喜びを共有する。
テレビを切った。
「ヤバイ、喉乾いたな。」大介は、キッチンに向かい冷蔵庫から冷えたペットボトル入りの麦茶を出し一気に飲んだ。
ペットボトルの半分程の量の麦茶が、大介の喉を通った。
「何かわからんけど、鳥肌が立つくらい興奮して胸が高鳴ったわ。」
大介は、不思議な感覚に襲われ、その感覚が何なのかを考えた。
元々冷めた性格をしていた自分が、初めて覚える感覚。
考えたが、わからない。
さっきのピールと倉本と呼ばれる男達の試合を見たためか?
大介は、再び考える。
大介は、自室のベッドに寝転びまだ考えていた。
もう時刻は、深夜12近くになっている。
考えたがまだ分からない。段々とイライラ感が募ってくる。
しかしいつの間にか眠気に襲われ、その日は眠ってしまった。
次の日。地元の駅からいつもと同じ時刻の電車に乗り、大介は高校に登校していた。
降りた駅からゆったりした坂を10分程登ると大介の通う高校がある。
「めんどくさい。もう3年だが、よくもまぁ毎日こんな所を歩いてるもんだ。一向にこの坂を上るのに慣れへん。」
大介は毎日そんな事を考えながら登校通路の坂を登っていたが、この日は考えている事が違っていた。
そう昨晩のあの不思議な感覚の事を考えていた。
「おっす、上尾」
教室に着き、自分の席に座った大介に同級生が話しかけてきた。
「よう、おはよう、矢口」大介がその同級生、矢口に返す。
「上尾、お前も相変わらず冷めてると言うか無愛想やな」
矢口は、笑いながら話す。「ほっといてくれ、俺はこうゆう性格やねんから」
「それはそうと昨日の闘神観たか?」
「闘神?」
「倉本のKO勝利は、しびれたなぁ~。あのハイキックなんて凄すぎやわ。」
「ああっ~、あの格闘技の番組は、闘神って言うんか?」
「おいおい、知らへんかったん!ほんま頼むで。」
矢口が、あきれたように言う。
「おっ、春香ちゃん来たやん!おはよう、高崎さん。じゃあまたな、上尾っ。」矢口はそう言うと登校してきたばかりのお気に入りの女子に話しかけに行った。
「闘神かぁ。」
大介は、一人呟くとまた何かしら考え始めた。
授業中も大介は、ずっと考えていた。
「俺が初めて言い様のなく、胸が高鳴る気分にされたもの。それは、格闘なのか!?」
その日は、同級生や教師に何を言われても上の空であった。ずっと昨夜の不思議な感覚と自分をそのような気分にした格闘技の事を考えていた。
そして大介は、その日の下校時に地元の駅に着くと近くの書店に行った。
目当ての物は、すぐに見つかった。
スポーツ関係の雑誌コーナーに行くと大介は、それを一冊手に取った。
それは、マーシャルアーツマガジン。格闘技専門の週刊紙だった。
手にしたマーシャルアーツマガジンを持つと大介はそそくさとレジに向かう。
「お会計380になります。」
「じゃあ500円で。後、レシートは結構っす。」
家に帰ると制服の上衣だけ脱ぎ、自室のベッドに寝転びながら先ほど購入したマーシャルアーツマガジンを読む。
(倉本、余裕のKO勝利!ピールを1ラウンド撃破!!)
「これは、昨日の!」 雑誌の冒頭に昨日、大介が観ていた試合結果と内容が事細かく載っていた。 「なるほど、これが闘神とか言う格闘技イベントか。昨日は、倉本対ピール戦を入れて10試合か。」
大介は、とりつかれたように雑誌を隅から隅まで読んでいた。
2時間、3時間と、不意にキッチンから聞こえる母親の夕食を告げる声で大介はその作業をストップした。
夕食を食べている大介に、母親が切り出した。
「今まで聞かなかったけど、あんた、進路は考えてるん?」
「はぁ?突然、何やねん!?」
「突然ちゃうわよ!来年、高校も卒業するんだから大学進学なり就職なり、考えてるんやろ?」
「・・・」
「それとも専門学校とか?」
「・・・」
「まぁいいわ。来月に高校の三者面談もあるし、しっかり考えときや。他人じゃなくあんた自身の進路やねんから。」
「わかったよ!」
大介と母親の会話が一旦途切れた時に、父親が言う。「うちは、高校を卒業したお前を遊ばせるつもりなんかないからな。就職なり進学なり早よう決めときや。」
そーゆうと父親は、グラスに入ったビールを飲み干す。
大介にとっては煩わしい会話だ。しかしいくら冷めきった大介自身もさすがに進路に対する危機感は、少しはある。
自室に戻ると先ほどまで見ていたマーシャルアーツマガジンに載っている選手の構えを何となく真似し、何もない空間に左のストレートを打った。
腰も入っていなく、引きも遅いド素人の見様見真似だ。
「ふぅ~」
と溜め息まじりの息を拍く大介。
その日の夜が、更けていく。
マーシャルアーツマガジンを買った次の日の夜だった。
自室で大介が、何やら体を動かしていた。
「左に構えてからの正拳突きってのはこうか?」
実はこの日も大介は、昨日行った地元の書店に下校時に寄り今度は空手とキックボクシングの参考書を買ってきたのだ。2冊で2000円ちょっと。高校生でありバイトもしていない大介にとっては、決して安くない金額だ。
この日も学校にいる間考えていた。
「あの鳥肌が、立った不思議な胸の高鳴りはなんだったのか!?」
「!!ひょっとしたら今まで冷めてた自分があの闘神とか言う格闘技番組を見て、格闘技に魅せられたのかもしれない!」
「なら答えは、簡単。ちょっと真似事くらいやって、それを確かめて見よう。」
これが、あの感覚に対する大介の出した結論だった。
「せやけどどうする!?格闘技をやると言ってもどこかの道場とかに習いに行くのか?」
「道場とか行くとなったら月謝払わないとダメやし、そんな金ないしなぁ。親がそんな金出すわけないし。とりあえずの真似事だしなぁ~・・・」
大介は、お決まりの自問自答をする。
「何や、珍しく何考えてんねん?」
同級生の矢口が話しかけてきた。
「ちょっとなぁ」
愛想悪く大介が返す。
「上尾君でも考え事するような時あるんや!?」
同じく同級生の高崎春香が、矢口に続き大介に話しかける。
「悪いんやけど一人にしといて。」
大介が、再び愛想悪く返すと2人はクスクス笑いながら大介から離れていく。
「スポーツ参考書でも買って真似するか。」
大介は、離れていく2人を冷めた視線で見送りながら閃いた。
そして下校時に昨日の書店に再び寄り、スポーツ参考書コーナーに足を向かわせる。
しかしここで大介は、ある事に迷った。
「空手とキックボクシングかっ。どちらを買えばいいんや!?マーシャルアーツマガジンには倉本は空手、ピールはキックボクシング出身って書いてたなぁ~。」
大介は、かなり迷った。
闘神のルールは、明らかにキックボクシング寄りのそれだがこの時の大介にはそれが全く分からない。
とりあえず両方の参考書を取りパラパラとページをめくる。
「鍵突きとフック、下段回し蹴りにローキック、後ろ蹴りにバックサイドキックかっ。全くわからん~。ふぅ~」
溜め息を付く大介。
しばらく考えた後。
「両方買えっ!」
両方の参考書を持ち、レジに向かう大介だった。
自宅に戻った大介は、自室でさっそく2冊の参考書を袋から取り出す。
「まず構えからやな。」 2冊を交互に見ながら、参考書に掲載されている構えを一つ一つ真似ていく作業をしていった。
その中で一番、大介にとってしっくりきたのがキックボクシングのアップライトスタイル。両腕を直角に曲げ、拳は頭をガードするように構える。ボクシングでも見られる構えだ。
大介は、更にそのスタイルに空手の半身を若干取り入れた。
半身。身体を真っ正面からやや斜め外側に向ける状態だ。こうする事により、攻撃を受ける面積を縮める事ができる。ただ気を付けなければならないのは、あまりにも半身になり過ぎると体を動かし辛くなり、こちらからの連続攻撃が出しにくくなる点だ。 大介はこのスタイルに構え、構えを解き、また再び構える。
何度かこれを行う。
時間を過ぎるのを忘れたかの様に熱中する大介。 彼にとって格闘技に直接的に触れた第一歩であった。
大介の生活が、今までの怠惰なものから少しずつだが確実に変わり始めていた。
2冊の参考書を買って、空手とキックボクシングの真似事を始めてから早3週間。
参考書以外からも自宅のパソコンでインターネットを使い、空手やキックボクシングに対する情報をこまめに取り入れ、大介なりに知識を詰め込み、シャドー形式であるものの実践していたのだ。週刊紙であるマーシャルアーツマガジンも毎週欠かさず買うようになった。
「やっぱ魅せられてたんやな。はまったやんけ。」 技の練習以外にも、柔軟運動や筋力トレーニング、ランニングも取り入れた。
段々と格闘技にはまり、変わっていく自分自身に大介もいつしか誇りの様なものを覚え始めていた。
学校にいる間も、格闘技の事ばかり考えていた。
「早く家に帰って、練習したいわ。」
この3週間の間に大介の中では、真似事から練習へと変わっていた。
土曜日の昼食時だった。 「あんた、ここ最近よく食べるなぁ~。」
ご飯のおかわりを頼んだ大介に母親が言う。
「まぁ、こいつも男だからな。それくらいどっさり食う期間もあるやろ。」
母親の言葉に父親が続く。
今日は、土曜で高校生の大介は休みである。父親と母親も公務員であるので土曜は休みであった。
「それはそうと、ここ2~3週間あんた何かしてるん?お風呂の脱衣カゴに毎日汗まみれのジャージとか下着入ってるし。」
「変な事してるんちゃうんやろな?」
母親の後に父親が、少しからかう様に聞いてきた。
「そんなんちゃうわ!」 大介が、ご飯を噛みながら少し曇った声で返す。
「来週は、三者面談もあるし頼むでぇ。ほんまに」 母親が、また大介の耳が痛い事を言う。
「わかった、わかった、ごっとうさん!」
そう言うと大介は、自室へと戻っていった。
「あいつ、大丈夫なんやろ?」
キッチンには父親の心配そうな声が響くだけだった。
昼食が終わった大介は、自室へと戻りベッドに寝転ぶ。
この日は、午後から中学時代の友人達と会う約束をしていた。
午後3時に地元の駅に集合する予定なのでまだ少し時間がある。
大介は、うつ伏せの状態で午前中に買ったばかりの今週号のマーシャルアーツマガジンを読んでいた。
「ほぅほぅ、先週の日曜に大阪で空手の試合があってんな。」
「次の闘神は、7月下旬か。倉本参戦予定ね。」
などと思いながら黙々と読んでいる。
夏を目前に控えた時期の暖かい風が、部屋の窓から入り込んでくる。のんびりとした時間が過ぎていく。
しかしこの日の午後、更に大介を格闘技に打ち込ませる出来事が起こる。
「やべっ、もうすぐ3時やん!!のんびりし過ぎたわ!」
大介は、慌てて集合場所である地元の駅へ向かった。
大介が駅に着いた頃には、すでに大介以外のメンバーが揃っていた。
「遅いやんけ、上尾っ!」「どうせ昼メシ食って寝とってんやろ!」 メンバーが、笑いながら口々に大介に言う。
「悪い悪い、ちょっとな」普段冷たく無愛想な大介もこの時ばかりはニヤニヤ笑っていた。
この日集まったメンバーは大介を入れて4人。全員、小学校や中学校時代からの友人達だ。通っている高校は、バラバラだがたまにこうして集まり遊ぶ。
彼らは、いつも集まるとまず地元のファーストフード店に入り、ドリンクを飲みながらそれからの予定を決める。毎回予定など最初から決めていないのだ。行き当たりばったりが当たり前だった。
今回もご多分にもれず、ファーストフード店に入りドリンクを注文する。
注文したドリンクを手に持ち席に座った大介は、メンバーの一人が持っていたリュックサックに目が止まった。
「おい、中井。そのリュックサックは何なんさ?」 さっきからリュックサックに目が止まっていた大介が問う。
「えっ、これ?ちょっとな、気にしてはいけない。」
中井が、イタズラっぽく笑いながら言う。
「エッチな本やらDVDやらいかがわしいもんちゃうやろな。」
友人達は、中井をからかう。
「まぁ、隠すもんでもないし。道着が入っとるんさ。」
中井があっけらかんと言う。
「?道着?」
大介が、小さく問う。
「うん、ちょっと前から空手しとるんさ。今日は練習日でな、お前らと別れた後にその足で道場行くからこうやって持って来てるんさ。」
「おいおい、予備校や塾なら分かるけどこの時期に空手かよ!?」
この日のメンバーの1人である西山が、中井に半分あきれ顔で言う。
西山が言ったこの時期とは、人生の分岐点を迎える直前の時期。つまり彼らは、来年から進学なり就職を迎える高校3年生だ。(だからこんな時期に空手をやるよりも別にやるべき事があるだろう。)
西山が、言ったのはそういう意味合いを含んでいたのだ。
「大丈夫やって。俺は、お前らと違って大学進学組ちゃうから。それに若いうちだけやで、趣味を楽しめるんは。」
中井が笑う。
「じゃあ、お前は就職組か。それとも専門?」 真面目な顔で西山が、質問した。
「就職や。まぁうちの親は、俺に大学行って欲しかったらしいけど俺は興味なかったし、また勉強するん嫌やったしさ。」
中井も少し真面目な顔になり返す。
「空手やる余裕あるって事は、就職もどっか決まったんか?」
西山が、ドリンクを少し飲むとまた中井に聞いた。
その時、パチパチと手を2回叩く音がした。
「今日は遊ぶために集まってんねんからさ、かたい話はこれで終いにしよ。」 西山と中井のやりとりを黙って聞いていた森井が言う。
「それもそーやな、はぁ~、最近受験勉強やらで気持ちも殺伐としてたんかなぁ~。」
西山が、ふぅ~と息を吐く。
「なぁ、中井!空手やってるんやろ。フルコン空手か?」
「いきなりどうしてん、上尾!?んまぁ~、フルコンや!隣町に真王会館の道場あるやろ!あそこに習いに行っとるんさ。」
いきなりの大介からの質問に中井が答える。フルコン空手は、手による顔面打撃や股間等の場所以外はどこに打撃を加えても良しとする直接打撃式の空手の事である。しばしばフルコンと略す言い方をされているが、正式な呼び名はフルコンタクト空手である。
中井の通う真王会館は、数多く存在するフルコンタクト空手の流派の中でも最大規模で各都道府県に支部を持ち、海外にもいくつか支部がある。
「そうかぁ、真王会館で空手してるんか!」
毎日空手やキックボクシングの知識を積極的に吸収していた大介には、真王会館に対するある程度の知識はあった。大介の持っている空手の参考書も真王会館の関係者や幹部達によって編集されていたのだ。
「なぁ、中井。ちょっと頼み事あんねん!」
「どーしてん!急に改まって。いつものお前さんらしくないやん!」 中井が、大介にびっくりした眼差しを向けている。
「お前さ、空手の稽古は何時からなんさ?」
「7時からやけど。」
「えっ~と、今は3時40分やからまだちょい時間あんな」
大介が、ファーストフード店の置き時計を見ながら言う。
「何かするんか!?」
中井と西山、森井が、怪訝な顔で大介を見る。
「俺さぁ、最近闘神を見て空手やキックボクシングに興味覚えてん。でさ、うまい事言われんねんけど自分で参考書とか買ってきてここ3週間程練習しててん。」
「うんうん、つまり空手やりたいから道場の練習を見学したいんけ?」
自分なりに大介の言いたい事を考えて返す中井。
「ちゃうよ。実はな!」 大介が、力んだ声で話し始めた。
「実はな、今の自分を試してみたいんさ。確かにお前みたいに道場に通ったりとか正式な練習してへんし、始めたんもたった3週間前やねんけど。」
「ははぁ~ん、なるほどな。お前さんの言いたい事は分かったわ。」
中井がニヤリと笑う。
―30分後―
大介、中井、西山、森井の4人は大介の家の庭にいた。庭と言っても中流家庭の一戸建ての庭だ。たいして広くない。適度に芝生の手入れがされている。
西山、森井は最初に集合した時の格好だが大介と中井は違った。
「ほんまええんか?軽くと言うてもある程度は痛いでぇ。」
そう言うと真王会館の空手着を身に纏った中井が、手首を軽くほぐしている。左胸に真王会館の「真王会」の文字が、縦に黒く刺繍された真っ白い道着だ。手首まである長袖を上腕の中間付近まで折っている。帯は、青帯を締めていた。
「ああ、わかっとる。」 大介は、黒いジャージの上下を着ている。
西山と森井は、「すげぇなぁ~」と普段見慣れない空手着をマジマジと見つめている。
「悪いなぁ~、稽古前に道着に着替えさせた上に付き合わせて。」
大介が中井に申し訳なく言う。
「別にええよ。真王会館じゃ他流試合や私闘、ケンカなんかは厳禁やがこれは私闘やケンカなんかとちゃうし、どの流派にも属してないお前相手やから他流試合でもない。まぁ、軽いじゃれ合いやなっ。」
中井が大介に返す。
二人とも素手で大介は軽いランニングシューズを履き、中井は裸足。
「ルールは、真王会館ルールなっ。大体分かってると思うけど、手による顔面攻撃や金的への攻撃は禁止。あと掴んだり捕まえたりもなし。当然、頭突きや肘打ちもなしや。」
中井が淡々と説明する。
「わかった、オッケー。」大介が返す。
「時間は、3分間。それからな・・・」
「ん?」
「グローブないから今は素手やが、試合以外の道場での組手とかスパーリング時はグローブはめるんや。特に俺みたいな白帯や下級の色帯クラスはな。」
中井の顔が少し歪みつつ強張る。中井が続ける。
「つまり言いたい事は、さっきも言ったけどホントに軽くやぞ!それでなくても素手は危ないんや。下手したら自分の拳も痛めるし、最悪骨折の危険もあるしな。」
「あぁ。」
普段あまり見せない中井の強張った表情や言葉にすこし大介は緊張していた。
「悪いけどお前らは、俺の時計のストップウォッチで3分計っといて。それから壁とかに激突しそうになったら間に入って止めてくれ。」
中井が、西山と森井にそう言うと自分の腕時計を森井に渡した。
「何回もひつこいようやけど軽くやで、軽く。3分経ってなくてもどっちかが熱くなりだしたら危険やから止めるで。」
「うん、わかった。」
大介が頷く。
「二人ともケガとかすんなよ。」
森井が心配そうに声を掛ける。
「じゃあ、始めんで。」 中井が構える。
続いて大介も構えた。
「はじめっ!!」
西山の声が庭に響く。
始まった。
大介が、177㎝、65㎏。
中井は、174㎝、63㎏。
身体のサイズは、大介がやや大きいものの両者にその差はほとんどない。
大介が、やや半身のアップライトスタイル。右足を前、左足を後ろに置いた左構え。
一方の中井は左拳を顔のやや前方に置き、右拳は右側頭部の真横に置いている。典型的なフルコンタクト空手スタイルの一つだ。右足を後ろ、左足を前に置いた右構え。
両者が、互いを見つめ合う。中井の瞳が、明かにいつもと違う。大介もそれに対し二重の瞳で応じる。
いきなり大介が、動いた。一気に中井との距離を詰め、中井の右脇腹に左のフックを打ち込みに行った。
中井が、それを左斜め前方にステップしてかわした、次の瞬間。
コッ!
大介が、右側頭部に弱く浅い衝撃を感じた。
「まずは、俺のKO勝利、いやこれは空手ルールやから一本勝ちやな。」
いつの間にか元の構えに戻っていた中井が、笑う。
開始して12秒での出来事だった。
「おい、今の何やってん!?」
何が起こったのか分からない西山が、隣にいる森井に聞く。
「はっきりとはわからん。ただ中井が、上尾のパンチをかわした後に左足を上げたんは見えた。」
森井が、大介・中井と腕時計を交互に見ながら言った。
「じゃあ続けよか。」 そう言うと中井は、フットワークを使いながら大介に接近する。左右ジグザグに動きながら一気に距離を詰めてきた。
素早い。大介は、目で追うのがやっとで身体が反応しきれていない。
左太ももに強い衝撃が走る。
中井の右下段回し蹴り。
大介が衝撃を受け後方に下がるが、すぐに中井が前に出てきた。
左足を後ろにステップバックしようとした瞬間。
また中井の右下段回し蹴りが、大介の左太ももを叩く。
「っう!!」
何とか後方に下がり、中井との距離をとった。
(何て鈍い痛みなんや!これが、ローキックか!しかも中井は、かなり加減して蹴ってんのにこの痛み・・・)
大介は、生まれて初めてその身体に受けた下段回し蹴りに驚愕した。額から冷たい汗が流れる。蹴りを受けた場所にジーンと鈍い痛みが走り続いている。
(どーする。どう攻めればいいんや)
大介は、中井に構えを指向しながら考えていた。 喉がカラカラになってくる。毛穴から一気に汗が噴出しそうだ。
たった2発で下段回し蹴りに対する脅威を覚えた。
中井が、フットワークを使い前に出てきた。大介の腹に左右の突きを連打する。
大介が必死に腕で受け流すが、何発か確実に腹に入る。軽くとは言え、何発ももらうと危ない。
大介の意識が、自然に腹のガードに集中する。 反撃する余裕が無い。
そして
ズッ!
また中井の右下段回し蹴りが、大介の左太ももを捕らえた。
「がぁっっ」
大介が低い悲痛の声を出し、左足が大きく揺らぐ。大介の身体が膝から芝生の上に崩れた。
「上尾っ!」
西山が、大介の側にやってきた。
「大丈夫か!?もぅやめろ、中井もこの辺でもうええやろ!?」
森井も心配そうに大介を見る。
「すまん、ちょい力入れ過ぎたわ!マジ大丈夫か!?」
中井も大介に声を掛けた。
「いやっ、こっちこそ悪りぃ。俺から誘っといて。」大介が、立ち上がる。
「森井の言う通り、この辺でお開きやな。」
中井が、言う。
「後一本だけ。・・・すまん、中井。あと一本だけ付き合ってくれ。」
そう言うと大介は、軽く屈伸運動をする。
「上尾・・・」
「もう止めとけって!」 西山が制止する。
「わかった。あと一本だけな。」
中井が、そう言うと大介がにこりと笑った。
再び大介が構える。
中井も大介の構えを確認するとゆっくり構えた。
「2人とも、これで最後やで!」
森井が両者に言う。
「はじめっ!!」
大介は、動かない。さっきよりも慎重になっているのだ。
中井も動かない。
(中井の狙いは、多分さっきと同じ右ローやな。)
大介は、中井の動きを推測した。
とその直後。中井が動いた。素早く左右にサイドステップした後に右に動いた。
大介の斜め左側に近づくと同時に。 右の下段回し蹴りが、大介の左足を襲う。
(来た!!)
中井の右下段回し蹴りは、大介の太ももではなく、すねにヒットした。
大介が足を上げ、右下段のカットに成功したのだ。
(なるほどな。これがローキックのカットやな。)
大介が、中井の右下段回し蹴りのカットに成功した。
しかし中井は、お構い無しにとばかりに攻めてきた。
中井の右足が、はね上がる。
(中段回し蹴りか!?)
大介が、腕を曲げボディーをブロックした。
しかし中段回し蹴りではなかった。
中井の膝から先が、大介のボディーを打つ前に角度を変えた。
ドッ!!
打ち落としの右下段回し蹴りに変化して、大介の左太ももを撃ち抜いていた。
通常の下段回し蹴りと違い、上から下へ打ち落とす下段回し蹴りは使い手の筋力だけではなくそれにプラスわずかとは言え重力加速が加わり破壊力が上がる。大介は、それをまともにくらった。
再び大介が、ダウンした。
(こんなのってありかよ!キツすぎるわ。)
大介の完敗だった。
「大丈夫か?明日になったらもっと痛みよるかもしれんからよく冷やしとけよ。」
「ああ。それより今日はすまんかったな。」
氷を詰めたビニール袋を左足に当てながら大介は答える。
「ふぅう~、俺がそんな風にしたのに謝られたら調子狂うわ。」
中井が、笑う。
「まったく、お前らは。」西山が、あきれていた。
「なぁ、上尾。今日、俺と一緒に道場行かんか?」 中井が不意に言った。
「えっ!?真王会館の道場にか!?」
大介が驚く。
「あぁ。そないに空手に興味あるんなら習う習わんは、別として1回うちに見学しにこいよ。まぁうちの空手は、今流行りの闘神とは別物やけどな。」
中井が続ける。
「かぁ~、マジかよ。」 西山が、何とも言えない表情を2人に向けていた。
まだクラスが始まる前だったが道場の中を熱気が包んでいた。
柔軟体操をする者、天井から吊り下げられたサンドバックに打ち込みを行う者、型稽古を行う者。クラスが始まる前に早めに道場にやってきて、何人かがそれぞれに自主練習を行っているのだ。
中学生くらいの者から40歳前後の者まで全員、年齢はバラバラだ。体格もバラバラ。しかし全員が左胸に「真王会」と黒く刺繍された空手着をその身にまとっている。
中井の通う真王会館の道場だった。
中井の誘いを受けた大介が、道場見学に訪れた。
道場の隅に用意されたパイプイスに大介が座り、その横に同じくパイプイスに座る西山の姿があった。森井は、家に帰宅していた。
クラスが始まる時間が近づき次々と練習生達がやってくる。
「オス!」
「オス!」
練習生同士が、挨拶を交わす。
見学者は珍しくないのだろう。練習生達は一瞬大介達の方をみるが、ほとんど意識していない。
始めての体験と言う事もあり大介や西山は、かなり緊張していた。
大介達の元に一人の男性が近づいてきた。
空手着を身に纏い、かなり色褪せた黒帯を締めている。
「こんばんは。」
男性が、少し頭を下げて大介達に挨拶をする。
大介達もパイプイスから立ち上がり、頭を下げ挨拶をする。
「あっ、楽にしておいて。話は、中井君から聞いてるから。そろそろ中級クラスの稽古も始まるし楽な気持ちで見学していって。」 男性が優しい口調で言う。年齢は、40歳半ばだろうか。穏やかな表情をしている。道着の上からでも大介達一般人と違う鍛え上げられた肉体を有しているのが分かる。身長は、大介よりほんの少し低いくらいか。
「それじゃあ、本日の稽古を始めます。」
男性がそう言うと、20人程集まった練習生達が「オス!」と返事して男性の前に前後左右列を作り集まる。
(始まるんやな!稽古が。)大介は、静かに唾を飲み込む。
まず礼から始まった。 空手は、勝負がつくまでお互い激しく打ち合う格闘技の面を有しているがそれと同時にお互いを尊敬し合い礼節を重んじる武道としての側面も併せ持っている。
男性が両拳を膝に置き正座をし、男性に向かい合っている練習生達も同じように正座をしている。
「神棚に礼っ!」
男性の掛け声と共に男性と練習生達は、道場の前の壁にかけられている神棚に正座の状態で頭を下げ礼をする。
神棚への礼が終わると、男性が練習生達に向かい合う。
「黙想!」
声と共に男性と練習生達が目を閉じ黙想を行う。
「黙想やめっ!お互いに礼。」
男性と練習生達が互いに礼をする。
礼が終わると続けて男性が「お願いします。」と大きな声で言う。
続いて練習生達も「お願いします!」ともう一度礼をする。
(お願いします!)
大介も心の中で呟いていた。
礼が終わり、準備体操が始まる。その場での軽いジャンプから始まり両手を組んで頭上に腕を伸ばしてからの背伸び、腰回し、膝屈伸、膝の回旋、伸脚、足首の捻転、首の捻転等、淡々と続き次は柔軟体操に移行する。
練習生達が、2人1組になり柔軟体操を行う。
「股割り!」 と男性が言うと練習生達が両足を開脚し股関節の柔軟を行う。パートナーが実施者の肩をリズムをつけながらゆっくりと押し、実施者の柔軟の補助を行うのだ。
大介が驚いたのは、この柔軟体操だけで実に20分以上の時間を割いている事だ。(柔軟な肉体があってこそ破壊的とキレのある突きや蹴りを放てるのはわかるがここまで時間を割くとはな!)
柔軟体操が終わり本格的な稽古が始まる。
「正拳中段突き!」
男性の声に続き、左右前後に整列し互いに間隔をとった練習生達が正拳を打つ。
「ヤァ!」
「セィっ!」
突きを打つ練習生達から気合いの声が挙がる。 その中には中井の姿もある。
「少し肩が入りすぎですね。」「もう少し腰を入れて!」
正拳を打つ練習生達に男性が巡回指導を行い、練習生達のズレを矯正していく。
「では、10分間休憩をして次は移動稽古から始めます。」
基本稽古が終わり、男性がそう告げると練習生達が「オス!」と一礼し、続いて男性も練習生達に一礼し休憩に入った。
「ほぉー!!」
西山が、緊張状態からしばし解放され大きく息を吐く。
「すごかったなぁ~!」 大介が西山に話しかける。「まったく!でもこんな経験する事ないと思ってたしな。最初は、こんなトコ来るの嫌やったわ。けど中井の口車に乗せられて、お前の付き添いやったけど、まぁ悪くはないな。」
西山が苦笑いを浮かべる。そんな2人に中井が、近づいてくる。
「2人共、お疲れさん!」 中井の額に汗が、浮いている。
「お疲れさん!」
大介が、中井に返す。
「どうや?稽古見て。」 「すごい迫力やな。座ってるだけやのにこっちも汗かいとるわ!あの人が先生なんやな?」
大介が、中井にあの男性について聞く。
「ああ、うちの道場主でな、北条師範や。あっ、休憩終わったら移動稽古とかスパーリングに入るからもっと緊張するかもな。」
中井が、ニヤリと笑う。
休憩後は、先程北条が言っていた通り移動稽古から始まった。
練習生達が、5人ずつ横一列に並び突きや蹴りを打ちながら道場の隅から隅に前進していく。最初の5人が道場の中間まで来ると次の5人がスタートし始める。そしてまた次の5人というローテョンだ。道場生達の力強い突きや蹴りが飛ぶ。道場内は、一層熱気を帯びてくる。北条が、それを見ながら「もっと素早く!」「相手が実際に自分の正面にいるとイメージしてください!」など指導を行う。
大介や西山は、道場生達のそんな姿に熱いものを感じながら見いっていた。
稽古はしばらく移動稽古が続き、クライマックスのスパーリングに移行する。
練習生達が、スパーリングの準備のため各々のグローブやすね当てを装着する。それまでかいた汗をタオルで拭いたり、水分補給を行う者もいる。
(一番見たかったスパーリングが、始まる!) 大介もこの時は、緊張よりも胸が高鳴りウキウキしていた。
北条や練習生達の準備が終わりスパーリングが、始まる。
「時間は、いつも通り2分で行います。それではお互いに礼っ!構えて!始めっ!」
北条の合図でスパーリングが始まった。北条は練習生達の動きや危険防止のための安全確認を行うとともにストップウォッチで時間を計っている。 大介が中井を見る。
中井は、自分達と同じくらいの歳の練習生とスパーリングを行っている。
中井の動きが、速い。昼間に大介とスパーリングをした時とは比較にならない。それほど相手の実力は、中井と拮抗しているようだ。
中井が、相手のボディーに左右の突きを連打する。
相手もそれを受け流しながら中井のボディーに突きを叩き込む。
中井の右足が、跳ね上がる。右上段回し蹴りだ。
相手は中井の右上段回し蹴りをガードしつつ、中井の左内太ももに左下段回し蹴りを叩き込む。
左下段を受けた中井は、バランスを崩しそうになるが踏ん張り転倒を避けた。
相手の体が、中井に背を向けながら素早く左方向に回転する。右の中段後ろ蹴りだった。
中井が、間一髪で右にサイドステップしてそれをかわす。
まだ後ろ回し蹴りを放ち、構えに戻りきれていない相手に中井の右中段回し蹴りが刺さる。
相手も素早く腕を曲げボディーをガードし、後方にバックステップ。
中井は、小刻みに左右ジグザグにフットワークを使い相手を追いかける。昼間に大介に見せた動きだが、あの時より速い。 中井の突きの乱打が、相手を襲う。
相手が嫌がって、更に後方に下がる。
離れ際に中井が、右下段回し蹴りを放ち相手の足に叩きつける。しかし当たりが浅く、相手にそれほどのダメージを与えていないようだ。
中井も相手も元の構えに戻り、互いの出方を探る。
「残り1分!」
道場内に北条の声が、響く。
北条の「残り1分」の声を聞き、中井と相手が2人同時に飛び出した。
中井が、右下段回し蹴りを放つ。しかも大介に使用した打ち落としのタイプだ。
相手が左膝をやや外側に角度を付けながら腹の位置まで上げ、それをカットする。
中井は相手が右下段をカットするのを確認すると素早く右足を戻し、左の上段回し蹴りを放つ。
しかし相手の反応も速かった。左上段は、ガードされる。
それからが、すごかった。
中井も相手も至近距離、それもお互いの胸と胸が当たるような距離で突きを打ちまくる。
双方どちらも後退する事なく確実に互いの拳がボディを打って打って打ちまくる。中井が、拳打の合間を縫い下段回し蹴りを放つ。そうすると相手も中井の脇腹目掛けて膝蹴りを撃つ。 まるで意地比べをやっているようだ。こうなれば引いた方が負ける。両者共にそれが分かっているようだった。2人の顔が、苦痛に歪む。
「やめっ!!」
北条の声が、響く。
緊張に包まれた2分間だった。
「中井君と市村君の組手は、毎回すごいなっ!見ているだけやのにヒヤヒヤやわ!」
北条師範が、2人に声を掛ける。嫌味等ではなく、2人の実力を認めているという口調だった。
「2人共、高校生やし勢いあるなぁ!」
他の道場生達からも2人の実力を評価する声が挙がる。
「中井のやつ、すげぇなぁ~!」
西山が、声をあらげる。
「あぁ、中井が本気を出したら俺なんてすぐやられるわ!でもその中井と互角にできるあの人もすごい!」大介も興奮していた。
「よしっ、では続けましょう。」
と言う北条の指示と共に中井や市村は、別々の相手とのスパーリングに入る。
中井と市村は、さっきまでのスパーリングで息は上がりダメージを受けているもののスパーリングを続ける。
「俺なんかが、勝てないはずやわ。」
大介は、苦笑いした。
「お互いに礼っ!ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
練習生達の大きな声と共にこの日の稽古は終わった。
「お疲れさまでした。」 北条が、大介と西山に声を掛ける。
「今日はどうもありがとうございました。貴重な時間を過ごさせていただきました。」
大介と西山が、頭を下げる。
「今日は、中級者クラスの稽古だったから少し激しかったけど初心者クラスも週2回あるからもし良かったら来てよ。あっ、入会案内用のパンフレットとうちの道場の時程表を渡しておくね。ちょっと待ってて。」そう言うと北条は道場の奥にある事務所に行き、すぐにA4サイズの茶封筒を2つ持って出てきた。
「具体的な事は、ここに書いてるから読んでおいて。待ってるよ。」
北条は、2人に笑顔を送った。
「上尾、西山!帰ろかぁ~。」
奥の更衣室で着替え終わった中井だった。
「そーやな、帰ろか。」
大介達もちょうど北条との話が終わったところだった。
「オス!お先に失礼します。」
中井が、北条や他の練習生達に挨拶をする。続いて大介達も頭を下げ、道場を後にした。
「どーやった!?」
帰り道で中井が、それとなく大介達に聞く。
「ああ、良いもの見せてもらったわ。それにしてもお前さんのスパーリング激しかったな!」
西山が、まだ興奮冷めやらぬ口調だった。
「昼間やったけど俺なんかが、軽くやられるはずやわ」
大介も笑みを浮かべながら答える。
「まぁ、一回スパーリングモードに入ったらあんな感じやからなぁ~。」
中井も笑っている。
「それはそうと、どーするねん?入会か?」
中井が、続ける。
「あぁ、俺は入会はなしやな。確かにすごいもん見せてもらったけど、俺は受験勉強とかあるしな。」
西山が、返す。
「上尾は?」
中井が、大介に聞く。
「えぇ~、俺は保留ってことで。」
大介は、困ったような感じで答える。
「まぁ、ゆっくり考えてからでいいよ。どうせうちに来なくても空手やキックの練習は、するつもりなんやろ?」
「ああ、そのつもりや。でも今日見学させてもらって空手っていうのは、考えてたよりももっともっと奥深いなぁ~。って思った。」
「まぁなっ!」
中井が、笑う。
この後3人は昼に集合した地元の駅に着き、その日は解散した。 時間は、午後10時前だった。
大介の長い1日が、終わりを迎えた。
大介達が、ちょうど真王会館にいたのと同時刻。
東京都23区内 某所
そこには、床一面に薄い緑色の畳が敷かれていた。
全ての壁には、衝撃吸収用のマットが張り巡らされている。
2人の男がお互いに向き合い、畳の上に立っている。二人とも柔道着の様な道着を着ていた。
1人は、茶髪で髪を上に立てている。俗に言う二枚目顔だ。普段はピアスをしているのだろうか、左耳に穴が空いている。白帯を締めている。
もう1人は、坊主頭をしている。こちらは、青帯を締めている。
「じゃあ始めようか。」 坊主頭の男が言う。
「はい。」
茶髪の男が答える。その唇には、少し笑みが張り付いている。
2人は、両手を開いた状態で顔の位置まで上げると構えた。足はそれぞれの自然体。
シュ!
坊主頭が、一気に間合いを詰め茶髪の胴を捕らえる。素早い胴タックルだった。
茶髪は体重を前方に掛け、テイクダウン(倒される)されないように胴タックルを切ろうとしたが一気にテイクダウンされた。
坊主頭が、自分の足を内側から引っ掛け踏ん張っている茶髪の足を刈ったのだ。
グラウンド(寝技)の展開になる。
坊主頭が、テイクダウンすると同時に茶髪の上を取りマウントポジション(馬乗り状態)を狙う。
すかさず茶髪は、両足で坊主頭の胴体を挟みガードポジションを取った。
しばし膠着状態が続くが茶髪が動いた。
ガードポジションを解き、下から三角締めを狙う。
坊主頭は、体重を茶髪に預け頸動脈を絞められるのを防御する。
坊主頭の前方への巧みな体重移動で三角締めが、封じられる。
ギッ
グッ
坊主頭の首が、完全に三角締めから脱出した。
しかし茶髪は、それを何もしないで堪えているだけではない。 素早く両足を三角締めの体勢から解除し、移動させる。両足が、坊主頭の腕を挟む体勢になる。坊主頭の腕を捕り、自身の身体に反りを掛ける。
下からの腕ひしぎ逆十字固め。
坊主頭が、茶髪に腕を極められたまま立ち上がろうとする。
茶髪も下からの不安定な姿勢で技を掛けているので極めが甘く、不完全である。
坊主頭が、茶髪を自分の腕から引き剥がそうとする。
両者の額から汗が流れる。
ズル
ズルッズルッ
重力と自重で茶髪の身体が、坊主頭から少しずつ滑り落ちていく。
しかし依然として茶髪は、腕十字に極めた腕を離さない。
坊主頭は、少しずつ腕十字のポイントをずらす。
スルッ
茶髪が滑り落ち、完全に腕十字が抜けた。
坊主頭は、この時を見逃さない。今まで自分に絡んでいた茶髪の片足の足首を捕まえると素早く自分の脇の下に挟みロックした。 更に両足を捕まえた茶髪の足に絡み付かせ、自分から後方に倒れた。
坊主頭のアキレス腱固めが、ガッチリと極る。
「がっ!がぁっ~!!」 茶髪が苦悶の表情を見せた。
「どうだ?ギブアップか!?」
坊主頭が、力んだ表情を浮かべ問う。
「くぅ~!」
茶髪は答えずにアキレス腱固めに耐え続ける。
「ギブアップしろっ!」 坊主頭が、叫んだ。
「まだっすよ!」
茶髪が、濁った声を吐き出す。
茶髪は、アキレス腱固めを極められたまま足首に力を入れて、これ以上極るのを防ごうとした。同時に極められていない方の足で坊主頭の腕のロックを蹴飛ばした。
「くっ」
坊主頭が、茶髪の蹴りに逆らって腕のロックを更に強化するがお構い無しに茶髪は蹴る。蹴る。蹴る。 しかし坊主頭のアキレス腱固めは、弱まる事がない。
「やめておけ!ここまで完全に極ったらもうエスケープは不可能だ。ギブアップしろ!」
もう一度坊主頭が、茶髪にギブアップを促した。
「くぅ~!」
パッ
パッ
茶髪が、坊主頭の足を手の平でゆっくり叩いた。 ギブアップの意思表示だった。
「吉井、足首の方は大丈夫か?」
坊主頭が、茶髪の男に聞いた。
「えぇ、もう痛みはないですよ。」
茶髪の男―吉井駿介が答えた。
2人はまだ所属するジムにいたが既にこの日のスパーリングを終え、両者とも柔術着から私服に着替え終わっていた。時刻は、午後10時を少し過ぎたところであった。
「田原さん、こっちこそこんな時間まで付き合わせてすいません。」
「別にいいよ、明日は仕事は休みだからな。それに俺も今日はスパーリングを多くしたい気分だったから。」
坊主頭の男―田原は、駿介に穏やかな表情を浮かべながら答えた。
「吉井、この後少し時間あるか?一杯飲みに行こう。もうハタチだから大丈夫だろう?」
「はい、行きます。」
2人はジムを後にする。
ジムの最寄りの駅の近くにある居酒屋だった。 駿介と田原のテーブルに中ジョッキのビールが運ばれてくる。
「お疲れ!」
「お疲れ様です!」
2人は、乾杯して運ばれてきた生中ジョッキのビールを喉に流す。
「かぁ~、うまい!」
田原が、何とも言えない表情で言う。
「うまいっすね!まだ自分は、あまりビール飲んだ事ないっすけど、喉にしみわまりますよ!」
駿介が、たまらない声を挙げた。
「だろっ!」
と答えると田原は、ビールと一緒に運ばれてきた枝豆を殼から剥き口に放りこむ。
「でも田原さん、今日は誘ってもらってありがとうございます!」
駿介が、ビールを喉に流し込んだ余韻の残っている表情で言う。
「いやぁ~、いいんだ!俺から誘ったんだから!それよりお前に聞きたい事があるんだ!」
「聞きたい事ですか!?」駿介が、不意打ちをくらったように問う。
「うん。柔術の事だよ。」と言うと田原は、一気に中ジョッキを飲み干した。
「なぜ柔術を始めようと思ったのかなぁ~と思ってさ。」
田原のジョッキが空になっていた。
「すみません!生中2つ追加!」
駿介が、すぐに田原の問いに答えずに近くにいた店員にビールの追加注文をした。
「いやぁ~、最初は運動不足解消の為でした。それに元々格闘技好きだったんで。」
駿介が、少し答えに迷ったような表情で言った。
「そっか。でも格闘技なら別に柔術じゃなくてもいいじゃないか。空手とかボクシングとか。」
田原が、穏やかな表情で笑う。
駿介が少し間を置いて真剣な表情で答えた。
「打撃が怖いんです。殴ったり蹴られたり。観ているのはいいんですけど実際に自分がやるのはちょっと・・・でも人より何かしら優れたものが欲しかった。それが、たまたま柔術だったんです。」
追加のビールが運ばれてくる。駿介は、まだ3分の1程残っていた一杯目のビールを一気に飲み干した。大きく息を吐いた。
日曜日の早朝だった。時刻は、午前6時前。7月も中旬を向かえ明るい朝の陽気が漂っている。まだ早朝なのに気温はかなり高く、暑い。
黒いジャージの上下を着た上尾大介は、自宅の近くにある市立の図書館前の広場にいた。上衣は長袖、下はハーフパンツだ。頭には、上衣のフードを被っている。
まだこの時間には図書館は、閉まっている。
大介は、柔軟体操を行っていた。 毎朝5時に自宅を出て、一時間程ランニングをする。距離で言えば10キロ前後。ランニングを終えた後は、この広場でダッシュ、クールダウン、柔軟体操、補強トレーニングである腕立て伏せ・腹筋・背筋を行うのが日課になっていた。
最初は、朝早く起きてこのメニューを消化するのが苦痛であったが1週間程で慣れた。慣れたの同時にランニングの距離や補強トレーニングの回数を徐々に伸ばしてきたのだった。
フードを被った大介の顔には、玉のような汗が浮いている。重力に負けた汗が、顎から地面に滴り落ちていた。
メニューは、ランニング~ダッシュ~クールダウンと終わり柔軟体操に移行している。 アスファルトの地面に座り両足を開脚している。太股の筋が伸び、下半身全体により一層血流が行き交うのを大介が感じていた。 柔軟性を増すことにより力強く、スピードの乗った鋭い蹴りを打つことができる。また各種ステップの足捌きが、スムーズになる。
大介は、柔軟を行いがら昨夜の真王会館での事を一つ一つ回想していた。
突きや蹴りの基本稽古、移動稽古、そして何よりもスパーリングでの中井の姿。と柔軟体操を行う大介の頭の中を駆け巡る。
開脚を行いながら前のめりに身体を倒した。ここ数週間の柔軟体操で身体は、柔らかくなったがまだまだ額や胸は地面についてくれない。
その時広場の入り口に2人の男が、姿を現した。一人は中年。もう一人はバンダナ状に頭にタオルを巻いた大介よりも少し歳上と見える男だった。2人ともジャージを身に付け、大介の様にランニングが終わった感じであった。
中年の方は、まだ息が上がっているらしく顔を真っ赤にしながら肩で息をしていた。
若い方は、自然体で落ち着いていた。
(あの2人もランニングか?ここ数週間この広場に来てるけど人を見るのは初めてやな。)
最初は大介もそれ位にしか意識していなかった。
大介のメニューは、補強トレーニングへと続く。 広場から図書館への入り口に続く階段を利用した腕立て伏せ。階段の上に両足の爪先を乗せ、それを肩幅間隔より少し広めに開いてのプッシュアップ。これを3セット。
最初の1セット目はゆっくりとした動作で30回。
1分程のインターバルを置き次の2セット目。今度は5秒かけて身体を下ろし、下ろした状態で5秒間キープ、そして5秒かけて身体を上げる。これを20回。
最後の3セット目は、素早く身体を下ろし上げる。これを50回。
腕立て伏せを終えた頃には、大介の顔は日本猿の様に真っ赤になっていた。息や心拍数も限界近くにまで上がっている。
大介が呼吸を戻すためにしばらく地面に寝て伏せる。
寝ながら大介は、それとなく先ほどの2人を見た。
(組手!?いや・・・)
その2人は、お互いにそれぞれのスタイルに構え対面していた。しかし組手やスパーリング等では、なかった。
若い方が、ゆっくりと中年のボディに対しパンチを放つ。中年は、自分に対し放たれたパンチを左手で外に受け流す。
今度は、中年がゆっくりと右のローキックを若い方の左大腿部に放つ。若い方は、左膝を曲げそれをカットする。
2人共立っている場所からほとんど動かずにそういった動きが、続いた。もちろんフットワークやサイドステップ、バックステップ等の動きもない。
1つ1つの技の確認動作をしている。
しかしその時の大介には、その知識が無かった。 大介は、自分の残りの補強トレーニングを忘れ2人をまじまじと見ていた。
心なしか両者の打撃のスピードが、少しずつ上がってきている様に見えた。
ボディへのストレートやフック、ローキック。それに伴い受け流しやカットのスピードも上がってきている。
若い方のローキックが、中年の大腿部を少し強めに叩いた時に両者は動きを止め、構えを解いた。
「今日は、ここまでやな。」
中年が、言った。
「ああ、この辺で終わりにしよ。段々熱くなって危ないからな。」
若い方が、頷きながら返す。
2人は、そう言う会話をするとそれぞれ思い思いに柔軟体操や整理体操を始めた。
大介は2人に近付き、中年に声を掛けた。
「あの~、突然すいません。今のは、空手かキックですか?」
中年は、いきなり大介に話しかけられほんの少し間が空きつつも答える。
「まぁ~、空手やな。」
大介は、中年の「まぁ~」と言うのが少し引っ掛かったが構わずに続けた。
「自分、道場とか行ってないんですけど空手に興味があるんです。あれは何を・・・」と言ったところで若い方の男がそれを遮った。
「あれは、約束組手って言うやつや。まぁうちらも道場通いしてるワケちゃうけどな。」
若い男が、ぶっきらぼうに言った。
「もしよかったら自分にも教えてもらえませんか?」大介が、思い切った口調で若い男に言う。
若い男が、「ふぅ~」と軽く息を吐くと「そんなにやりたかったら習いに行きなよ。確か隣街に真王会館の道場あるやろ。あとは同じ隣街に闘神を主宰している神門会館の道場もあるし。俺らなんかとやらずにどちらかに行けば教えてくれるさ。」
そう言うと中年に声を掛けた。
「親父、そろそろ帰ろうや。気温もかなり上がって暑くなってきたし。」
大介は、若い男の言葉に納得していなかった。振り上げた拳の下ろし場所が無いような感じであった。
そんな思いをかき消すかのようにシャドーを行っている。
自分の前に実際に相手がいるとイメージして、右ジャブ、左ストレートから左ローキック。このコンビネーションを何度も繰り返す。たまに左ミドル、左ハイ等の蹴り技も混ぜ込む。
ローキックはそこそこだが、ミドルやハイにはまだまだスピードや鋭さがない。
(あんなぶっきらぼうな言い方をしなくてもいいやんけ。)
思い出す度に少し腹が立ってくる。
大介の左ハイキックが、シュと言う小さな音をたて空気を切り裂いた。そこで大介は動きを止め、シャドーを終わらせた。どうやら自分の納得のいく技が出せたようだった。
「もう一度頼んでみるか。」
大介が、自分自身に言うようにポツリと呟いていた。
「上尾君の成績は、それ程悪くないんですが・・・進学となるともう少し頑張ってもらわないとダメですね。本人の将来ですから。」
「すいません、先生。うちでも言い聞かせているんですが、こういう性格なんでのんびりしていると言うか何と言うか。」
高校での夏休み前の三者懇談であった。大介は、3年生という事もあり必然的に進路の話になる。しかし三者懇談と言ってもさっきから母親と担任教師のやり取りだけが続く。事実上の二者懇談と言ってもいい。大介は、自分にとって耳の痛い話を一方的に聞かされているだけだ。
(早く終わらんかな。ダルいなぁ~。)
大介は、進路の事よりも三者懇談が早く終わる事ばかり考えていた。
「大介、あんたも何とか言ったら。他人事じゃなくあんた自身の事なんやで。」母親の激が飛ぶが、大介はめんどくさそうにしていた。
今の大介にとっては、母親や担任教師の激などまるで上の空であった。
家に帰った大介は、いつもの黒いジャージに着替えて筋力トレーニングを行っていた。先日自分の小遣いで買ってきたダンベルを使う。まだ始めたばかりのウェイトトレーニングであるためあまり回数をこなせない。
ダンベルの重量が、大介の体に大きな負荷を与える。ネットで調べたトレーニング法を見様見真似で実行しているだけだが、まだ筋力の少ない大介にとっては相当キツい。夕方とは言え、夏の気温も相まって全身から汗が吹き出る。
大介の頭の中にあるのは進路の事ではなく、自身を強化する事だけだった。
ダン・・・ダン・・
サンドバッグを蹴る甲高い音が、道場内に響く。
この音を発している主は、中井であった。
真王会館の道着を着て30分程前からサンドバッグに打ち込みをしていた。
中段突き、鍵突き、裏拳、下突き、前蹴り、回し蹴り、後ろ回し蹴りといった技がサンドバッグに突き刺さる。
その日は中井のクラスの練習日ではなかったが、道場自体は毎日開いているのでたまにこうして自分のクラスがある日以外も打ち込み等の練習に来る。
まだこの日のクラスが始まるまでかなり時間があったので道場にいるのは中井1人だけであった。
中井は、同じ同学年の市村についてずっと思うところがあった。
真王会館に入門したのは、市村の方が遅い。つまり同学年とは言え、空手歴は、中井よりも市村の方が後輩であった。級位も市村の方が、中井より下。体格もほぼ同じ。
しかしスパーリングになれば互角。その日の調子によっては押される事もある。
中井は、それが我慢出来なかった。ランニングや筋力トレーニングも自分が考えれる限りすべて実行してきた。こうして自分のクラス以外の日も道場に来て打ち込みを行う。
それでもスパーリングでは、実力差がつかない。
(なぜなんや!才能なのか!?)
中井は、怒りや焦り等あらゆる感情を込めてサンドバッグを殴り蹴りしていた。
「よう、中井!」
「おう上尾!足の方は、大丈夫か!?」
「あぁ、そんなに痛まなかったわ。余裕余裕~♪」
「お前なぁ~。俺の下段蹴りくらってペタ~ンとなってたくせにぃ~。」
中井が、大介に笑いながら答えた。
中井とは、真王会館での道場見学以来3週間ぶりに会った。
大介から中井に「会いたい。」と言う連絡を入れた。場所は、いつも行く地元のファーストフード店であった。
「で、急にどーしたんや。お前さんから連絡くるん珍しいからな。」
中井が席に着き、すぐに大介に言った。
「ちょい相談があってな。」
大介が、切り出す。
「なるほどなぁ~。」
中井は両手を組んでそれをテーブルに置き、大介の話を一部始終聞き終わった。
「と言う事やわ。」
大介は中井に自分が行っているトレーニングの事、このままそれを続け強くなれるかという事、日曜の朝に図書館の広場で会った2人の事、その1人に道場入門を勧められた事、それに対して自分が入門するかどうか迷っている事等を話した。
「話は、大体分かったわ。結論から言うな。1人で今のままトレーニングを行うよりも練習相手を設けてトレーニングする方が効率良く強くなれるはずやわ。強くなるには、スパーリングも必要になってくるしな。相手いた方がモチベーションも高まるしな。」
中井の話に大介は、黙ったまま頷く。
「実はな、俺も思うトコあって退会するかもしれん。」
中井が小さな声で言う。
「退会!?真王会館を辞めるかもって事か!?」
大介が、動揺したかの様に少し大声で返した。
「まぁ、そんなトコや。」中井が、苦笑を浮かべる。
「いきなりやな!何でやねん?森井とか西山みたく大学進学の為の勉強するんか?」
「いやっ、そういうワケちゃうよ。さっきも言ったけど少し思うトコあってな。」
「思うトコってまた思わせ振りな言い方やな。何があってん!?」
「はぁ~、わかったわ。」中井は、観念した様に話始めた。
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