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神社仏閣巡り珍道中・改  東北路編

No.66 21/04/01 09:36
旅人さん0
あ+あ-

で。
通常、というか普通の人ならば月見坂から山門┉があるかどうかはこの時点での私にはわからないことではあるのですが、そのままの道を素直に進むのでありましょうが。
おへその曲がった私が、月見坂のひだりて上にお堂を見てしまうのでありました。┉ええ、まずは本堂からの御参り、ですよね。┉、┉。

お堂に寄りたい。
いつもなら抑えるその衝動がどうにも抑えられない。
で。
進路をそのお堂めざして歩く私。
夫はさしてそういった順路を気にする人で┉なくともほら、あのじゃじゃ馬を放ってしまったら後々が大変なことはこの世の誰よりも痛いほど知らされ生きてきた人間ですので、ほこほことついてまいります。
と、見えたのが!
あの、観光地といえばかつて必ずあったような、等身大のひとがたの絵の描かれた板。そう、そうしてそのひとがたの顔の部分だけがくり抜かれたあの顔出しする板があるではありませんか。
その人物は、弁慶さん。
中尊寺と言ったら?
藤原氏、なんですけどね、もちろん。
中尊寺と言ったら?
義経と弁慶の悲劇の舞台!
┉弁慶が全身に矢を受けて、の舞台って中尊寺、じゃあありません?
えっ違う?

16歳から22歳まで、奥州藤原氏の元で過ごした源義経が兄頼朝の挙兵に呼応して鎌倉に馳せ参じたのが1180年(治承4年)のこと。しかし、断りもなく官位を受けた事で兄の怒りを買った義経は、吉野に身を隠した後、伊勢、美濃を経由し、最終的に奥州藤原秀衡を頼り、平泉まで逃げてくる。1187年(文治3年)2月のことだ。しかし、秀衡が10月に病没、後を継いだ泰衡は結局頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)4月、衣川館にいた義経を急襲、義経は妻子共に命を落とす。時に義経31歳であった。本能寺の変と並ぶこの歴史的にも有名な最期の場面でも義経の供をしていたのが、五条大橋の出会い以来常に義経の傍で使えた武蔵坊弁慶。歌舞伎の勧進帳の平泉に逃げる際に安宅の関で関守に疑われ、とっさに主人である義経を棒で打つ場面などは歌舞伎好きなら誰もが知る名場面。その弁慶も、義経と共に衣川で最期を迎えた。体に矢を幾本も受けながらも最後の最後まで主人を守ろうとした弁慶の立ち往生として有名┉。

なるほど、ここじゃないんだ。
┉夫が知ったら泣くな。(:.´艸`:.)



                  
              

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