忘れられる記憶
「なあ、私に散々暴言を吐き散らかしてくれないか」
医学博士である彼は、一緒に酒を酌み交わしていた友人に唐突にそう言った。
「何を言っているんだ? 友人であるお前に、特に不満なんかないぞ。今だって楽しく酒を飲んでいたじゃないか」
「良いから。私が激怒するようなことを、とにかく精一杯まくし立ててくれ」
そう言われると、その友人は、困ったような表情を浮かべながらも、まあ、頼まれたのだし、普段のストレスを発散する良い機会だと考え直し、あることないこと怒鳴り散らかした。
「やい、この禿頭、根暗やろう。インチキ臭い、陰気な面しやがって。たまには面白いことの一つでも言ってみろってんだ。そんなんだから、友人と呼べるやつが一人もできねーんだろうが。俺だって、お前の金目当てで近づいてるだけなんだからよ。ほら、怒れよ、なんとか言ったらどうだ」
それを聴くと、博士は、すました表情で、栄養剤のようなものを飲み干した。
「うん、かなり良い効き目だ。すばらしい」
「何が素晴らしいんだ? あれだけ悪口を聞いて、さすがに少しは腹もたっただろう」
「いや、私が研究してきたこの嫌なことを忘れる薬は、たった今起きた嫌なことだけを一瞬のうちにすべて忘れ去ることができるのです。それを、今実際に自分で試してみたところ、清々しい気持ちだ。これが認められれば、世界中で飛ぶようにヒットするぞ」
「なんだって、そんな薬を研究していたのか。ぜひ、俺に売ってくれ」
「そうはいかない。効能は、今、私の独断による自主臨床試験で確かめられたが、まだ私一人なのだし、そもそも、その前段階の非臨床試験というものをほとんどやっていないのだ。本来なら、非臨床試験に3〜5年、臨床試験に3〜7年といった期間を経て、問題がないと判断してから、ようやく販売にこぎつけられるものだ。今この瞬間大丈夫だったとしても、副作用などがある可能性だってある。こういった特殊な薬はなおのこそ、慎重に試験を重ねていかなければならない」
「いいじゃないか。とりあえず、今のところ、お前は大丈夫そうだ。回数なら俺が一人で何度でも治験とやらをやってやるから」
「ううむ。まあ私とお前の仲だ。では、一旦一週間ほど、私の様子を見て、問題がなさそうなら、特別にお前にも譲ってやろう」
「そうこなくっちゃ、持つべきものは友達だ」
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一週間後、博士の元を訪ねた友人は、どっさりと有り金を持ってやってきた。
「なあ、大丈夫だったんだろ? とりあえず、俺の全財産だ。これで今ある分だけの薬を売ってくれ。このあと、もっと大金を持ってくるから、それようにも作っておいてくれよ」
「何をする気なんだ? それを販売するのだけはよしてくれよ」
「まあまあ、もちろんだよ。自分にしか使わないし、迷惑はかけないから。お前は俺に売る分の薬を作りつつ、本来の薬の認可を取る作業にでも集中してくれ。まだまだ何年もかかるんだろ? それまで俺の方は俺の方でがっぽり稼がせてもらうぜ」
そういうと、大量の薬を手に、その男はでていった。
「よし、これで俺も大金持ちだ」
男はさっそく「怒鳴られ屋。ストレス発散にどうぞ」といったキャッチコピーで大々的に宣伝を始めた。
最初こそ、面白半分や半信半疑のお客さんがぽつりぽつりとやってくる程度だったが、せいぜい15分も怒鳴り散らせば、怒りたいはずの客の方も、結局は言うこともなくなり体力的にも疲れてしまう。男はというと、疲労回復とばかりにドリンク風の「嫌なことだけ忘れ薬」を飲む。そして次の客へ……。
いやはや、世の中には、なんと不満を持っている人々の多いことか。
繰り返していくうちに、口コミなどでも話題になり、男はまたたく間に有名になった。
そして行列のできる「怒鳴られ屋」としてテレビなどにも取り上げられていく。
何せ、さんざん怒鳴られた後、一瞬でにこやかで柔和な表情になり、お客様に愛想よくお礼を述べ、「また怒鳴りに来てくださいね」と伝えるのだ。
怒鳴ってストレス発散した直後に、このように丁寧に接客されるのだから、そのギャップにもまた魅力を感じる客は、たちまちリピートの予約を入れてしまうのだ。
評判が評判を呼び、単価も上がり、男はあっという間に大金持ちになっていった。
「やれやれ、怒鳴られ屋自体は楽な商売だが、こうも客が途切れないと、体力的には疲れてしまうな。あいつが疲れを忘れてくれる薬もセットで作ってくれれば、延々とこの仕事で儲けられるものだが」
そんな風に考えながらも男は、その仕事を続け、おおよそ5年が経った頃、博士は血相を変えていた。
「やや、これはまずい。すぐにあいつに連絡を取らなくては」
博士は、すぐさま友人に電話をかけたが、さすが人気者ゆえか、全く電話が通じない。博士は急いで彼の家へと向かった。そして、ガックシと肩を落とした。
友人は、真っ暗な部屋で泣きわめき、全身が震え、博士がかける言葉を聴くだけで涙を流して謝り続ける始末だった。土下座をしながら、「許してくれ、許し……」と言葉にならない声を発し、電話の音に怯え、時には地獄でも見たかのような苦悶の表情を浮かべていた。
「心配していたことが起こってしまった。この薬は嫌な記憶を完全に消すのではなく、普段は使われていない脳の中の小部屋のような場所へ隔離する効能をもっていたのだが、非臨床試験によって、それがあまりにも多いと溢れ出してしまうことが判明した。一度そうなってしまうと、これまで隔離してきた嫌な記憶がすべて一気に押し寄せてくる。彼は今、何千人もの人間からの憎悪に満ちた罵詈雑言を一斉に受け続けている状態だろう。こうなってはもう、可哀想だが私の手には負えない……」
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