神社仏閣巡り珍道中・改 東北路編
[神社仏閣巡り珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま、仏さま、どうかお導きください。
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【瑞巌寺】さんの宝物館を後にして、再び【法身窟】前を訪れることとなります。
前述しました通り、政宗公が瑞巌寺と名を改める前は【円福寺】でありました。が、もともとの開山時は【延福寺】。
延福寺は第28代住持儀仁を最後に破却され、禅宗の円福寺に転換されています。
宝治2(1248)年、延福寺で〖山王七社大権現の祭礼〗が行われていた。
東国修行中の執権【北条時頼】が舞楽の上演を楽しんでいたが、つい面白さの余り「前代未聞の見物かな」と大声を発した。 その大声に驚いた稚児が舞の途中で立ち往生してしまった。
神楽を中断させると言うことは、いかなることがあっても許されることではない。このことに荒法師達 は怒り、時頼は殺されそうになる。
一人の僧の「山王大師祭礼二依リ殺生二及ブ可カラズ」の一言で事なきを得、近くの岩窟に逃げ込んだ。
岩窟(法身窟)にはこのとき修行僧の【法身】がいた。
時頼が、一夜の宿を貸しては頂けないかと頼むと、僧は「沙門は三界を宿とし一心を安んじて本宅となす。誰を主とし、誰を客とせん」と答え、時頼を丁寧に迎えた。二人は意気投合し法談で時を重ねた。話すうちに時頼は法身の禅僧としての高潔さに心うたれた。
時頼は、鎌倉に帰った後、〖三浦小次郎義成〗率いる千人の軍兵を松島に向かわせ、延福寺から三千の衆徒を追放し、儀仁和尚を佐渡に流した。僧達の一部は福浦島に逃れ、経文はすべて経ヶ島で焼かれたという。
その後、時頼は、岩窟の僧を捜し出して新しく円福寺と名を改めた寺の住職とした。
この時から、瑞巌寺は円福寺という臨済宗の寺として生まれ変わることになり、北条氏の庇護を受けることになった。 【天台記】
うーん。
瑞巌寺さんにおりますときは、ここで時頼公と宋より戻った僧が出会ったという記述を読み、ただ単になるほどなぁ、と思い、こんな遠くまで移動する昔の人に思いを馳せてすごいなぁと思っただけであったのですが、実はそういったことであったということを知るのでありました。
お武家さまのなさることは┉。(*´;ェ;`*)
ですが、この詳細、歴史的背景をを知ったことで、突如として改宗し、寺の名まで変えた意味を正しく理解することとなりました。
【円通院】は瑞巌寺の西隣にあるお寺さん。
伊達政宗公の孫で十九歳の若さで亡くなった【伊達光宗の廟所】として【三慧殿(さんけいでん)】が建立され開山されたものであります。
茅葺きの薬医門をくぐると、すぐひだりてに石で彫られた小さな観音さまおられます。少し奥まっておりますのですがひきりなしに人が立ち寄ってお参りをされています。
うわあぁ。
こちらの観音さまの、なんとお美しくて清らかで、お優しいことか!
これは、なるほどこちらの観音さまのファンも多いことでありましょう。
半彫りの観音さまのそばにすずらんの花でもあるのかと思った彫りは、よくみると波しぶきのようであります。?!、観音さまはどうやら龍にお乗りになっておられます。
ほぉお。
去りがたい思いを抑えて立ち去ろうとすると、┉?
観音さまの左右には小さな┉五センチくらいのこけしが棚にびっしりと奉納されています。これは┉?
私も奉納させていただかなくてはと、こけしが授与されている、先ほど御朱印をお願いした窓口に申しあげたところ、┉こちらの観音さま、縁結び観音さまなのだとか。
縁結びには全く関係ないおばさんが、いつまでもうろうろしていた様子はさぞ滑稽であったことでしょう。
それでも去りがたい思いを残し縁結び観音を後にすると現れるのが石庭であります。
うわあぁぁ!
私どもが参りましたのが十一月中旬、まさに紅葉の美しい盛りでありました。これは┉。
白い砂利にまるで計算して一枚一枚の紅葉の葉を人の手で置いたかのような美しさです。白砂利の池に散った紅葉と、今を盛りの紅葉。
ため息しか出ません。
この石庭は松島湾を表現した「天の庭」と、人生を表現した「地の庭」で構成されているのだとか。
でも、私にはもうそういった、┉本当に計算して造られた石庭を愛でるような余裕はもうまるでありませんでした。
途中途中、休んで庭を愛でるよう、和風の腰かけが置かれていたり、苔むした茅葺きのあずまやがあったりいたします。
丸窓から見える紅葉も美しく。
これは、┉すごい!
と、しばし、自分がどこに来ているのか、まるで意識の飛んでいた私は、またまた反省し次の進路に進みました。
【三慧殿】は正保三(1646)年に造られたといいます。
伊達政宗公の嫡孫【光宗】は幼少の頃より文武に優れ、その才智は徳川幕府にとっておそるべき逸材であったとされています。
江戸城内において19歳という若さでこの世を去るのですが、その死因には諸説あり、毒殺されたともいわれているようであります。
霊屋はその死を悼んだ父、二代藩主伊達忠宗公により建立されたもので、宮殿型の厨子の中には白馬にまたがる衣冠束帯の光宗像、殉死した七人の像が祀られているのだそうです。
また、その厨子は全面に金箔を施した華麗なもので、装飾の図柄には洋バラ、スイセン、ガーベラ、トランプの図柄などヨーロッパ風の模様が刻まれているのだそうです。支倉常長が持ちかえったものをもととしていて、
当時鎖国していた徳川幕府に対して、あくまでも伊達家のところへ霊廟と申し立て、扉を開けることはなかったのだそうで、三世紀半も公開されることなく現代に至ったということでありました。
今、その扉は開け放たれて、金色に光り輝く厨子のなか馬にまたがる光宗の像と、光宗を取り囲む像がみえます。
建物自体は奥まったところに建てられ、白木造りの一見質素な建物であります。ですがこちらもまた当時には珍しい本瓦葺きと、こだわりある建物であります。
その一見質素な白木造りの建物と光り輝く厨子との格差に、自慢の将来を嘱望する息子を喪った父の哀しみと怒りを感じさせられた、三慧殿でありました。
さらに進むと、こちらにもまた洞窟群が。洞窟のなかには古びた石碑や石塔、石仏がたくさん安置されています。
さらに進むと見えてくるのは、庭園の中にひときわ存在感をみせる、おんこの木(イチイ科)。
八方睨みの名木と称せられ、樹齢も700年を超えているそうですが、樹勢の衰えを感じさせません。 さらに進むとなんと!
境内には珍しい、バラ園が!
日本最古の洋バラもあるとのことですが、いかんせん、私どもが参りましたのは紅葉真っ盛りの秋。いくつか咲いているバラもあるにはありましたが、かえって寂しさ、憐れを感じさせられました。
また、紅葉した庭が見えてきたところに茅葺きの大きな屋敷のような建物が見えてきます。
見えてきたお屋敷のような建物は二方向を開放できる造りで、そこをずっーと縁側が取り囲み、さらにはそこにあがりやすいように二段ほどの木の上がりはなが取り付けてあります。縁側の内側には昔からの障子。
なんと人を癒す休憩の場でありましょう。
御仏壇があるのがみえます。
どうやらあがってもよいようです。
んん?
ん?!
お屋敷の御仏壇の真ん前に、お寺さんによくある大きな香炉が設けてあります。そして御賽銭箱が┉。
えっ?まさかこちら、お寺のお堂?
┉お堂もお堂。円通院と書かれたものが掲げられています。
まさか、とこの期に及んでも思った私も私ですが、この建物こそが【円通院本堂】であったようです。
嬉しい!
こんなにも開放的で、こころゆくまでいられる御本堂で、何より心から癒していただけくつろげるような御本堂は、日本全国各地、いくつあるでしょう。
まるで懐かしいお屋敷にでもあがるような心はずむ思いで靴を脱ぎ、畳敷きの仏間に上がらせていただき、読経させていただきました。
ああ、なんと癒されること。
【円通院本堂】は【大悲亭】と呼ばれるそうです。
もとは光宗が江戸で納涼の亭としていたもので、父忠宗公が解体させ、海路にてこの地に移築されたものだといいます。
┉ああ、光宗は短い生涯ではあったけれど、こんなにも開放的で癒される空間で過ごされていた時があったのだなあ。それだけでも少し救われる思いがいたしました。
光宗はここを大切に大切に思っていたのだなあ。
そして父はそれを知っていたのだなあ。
このお屋敷┉御本堂の前にひろがる庭園は、仙台藩江戸屋敷にあった、小堀遠州が作った庭を移設したものだといいます。
心字池にかかる橋にもはらはらと散った赤い紅葉の葉。
光宗の、そして光宗を若くして喪った父母の御霊を今なお癒してくれているかのようでありました。
普通の御仏壇に安置されているかのようなご本尊さまも、実は鎌倉時代のものであったようです。
すごいなあ、ありがたいなあ。
秋の紅葉真っ盛りの時に参拝させていただきますこととなりましたが、その見事な庭園よりも、私の心に残った円通院御本堂であり、三慧殿でありました。
円通院を後にし通路を歩いていると、ひっそりと建つ茅葺きの小さな御堂が見えてきました。とても懐かしい感じのする、かつてそこここによく見かけた、そんなお堂でありました。
【三聖堂】と扁額にあります。
三聖堂のご本尊は、聖観世音菩薩様。
そして、その左側には、達磨大師さまが、また、右側には菅原道真公がお祀りされているとのことであります。
三体が安置されているお堂なので、三聖堂というのがこのお堂の名前の由来なのだそうです。
お堂の扉はかたく閉じられそのお姿はまるで拝することはできません、
それでも三十三年に一度、御開帳されるようで、なんでも前回の御開帳は平成十八年だったとかで、次の御開帳は┉令和二十年?、で合ってますσ(^_^;)?。
このお堂、かつては現在の向きとは逆の、瑞巌寺の参道側を向いていたのだそうです。
それを瑞巌寺の第104代夢庵如幻(むあんにょげん)が現在の位置に変えたそう。
江戸時代のころ、瑞巌寺には、女人禁制の日というのが設定されていました。現代では考えられませんが、昔はそのような制度があり、そしてそれは、月に15日ぐらい、なんと月の半分です。
瑞巌寺へのお参りもそうですが、三聖堂へのお参りの機会も以前に比べ極端に減ってしまいました。瑞巌寺の参道を通らなければ、三聖堂に行けず、女人禁制の日は参道を通ることもできなかったのです。
そこで104代夢庵如幻は、女性のお参りの機会を増やすためにはどうしたらよいか考え、そこで思いついたのが〖お堂の向きを、参道と逆側に変えてしまう〗、ということでした。
お堂を逆向きに変えたことにより、禁止されていた瑞巌寺の参道を通ることなく、三聖堂へのお参りができるようになったという、裏技的なものでありました。瑞巌寺にあった厳しい規律、それは、住職でさえかえることができなかったということなのでしょう。
現在、三聖堂が目立たない場所にあり、瑞巌寺側を向いてないのは、そのような理由からなのだそうです。
この【三聖堂】の御本尊であります聖観世音菩薩さまは、またの名を【蜂谷観音】ともいうのだそうです。古く鎌倉時代の初めに彫られた観音さまで、蜂谷氏が大切にしていたものなので、蜂谷観音と呼ばれているとのことでありました。
【蜂谷観音にまつわるエピソード】
北条時頼公の家臣【蜂谷美濃守】の子孫に、子宝に恵まれず悩んでいた【蜂谷掃部(はちやかもん)】という人がいました。
掃部が観音さまにお願いをしましたところ男の子が生まれました。その子の名は小太郎と名付けられすくすくと成長しやがて立派な青年になりました。
小太郎の許嫁は秋田県象潟というところに住んでいました。
ところが小太郎は結婚を前に病死してしまいます。
掃部は小太郎が亡くなったことを、許嫁に伝えました。
しかしその許嫁の女性は、夫無き松島に嫁いで来ました。そして小太郎の
父親の蜂谷掃部とその妻を、親のように慕い面倒を見たのだということです。
そして┉その蜂谷夫妻を看取った後、女性はその名を紅蓮とかえて出家したのだそうです。
うーん。
紅蓮さんのようにはなかなか生きられるものではないです。
もしかしたら親同志の約束事で、本人同士会ったことすらなかった可能性すらあります。
それでもその家に嫁いだ。嫁いで、夫ともならなかった、もしかしたら会ったことすらなかった男性の親を、親と慕い面倒をみ、看取った。
┉うーん。
無理だなあ、私には。
かつての日本にはこういった女性がいたのですね。
蜂谷観音さまはそんな紅蓮の生きざまも見守ってくださった観音さまであります。そんな生き方から何かしらを学ばなければ申し訳ない。
うーん。┉難しいなあ。
瑞巌寺に属する【五大堂】は、道路を隔てた、陸地にほど近い小さな島に建てられています。
瑞巌寺の石標のあるところから東に百メートルほど行ったところが五大堂の入口となっています。
緩やかな登り坂をのぼるとすぐに橋が見えて┉見えて┉見えてきた橋は、な、なんと!
隙間だらけで直下の海面が見えているではないですか!
あ、あり得ない。
ここを作ったとき木材が不足でもしていたというのでしょうか。
夫がそれはそれは嬉しそうに、
「渡れる?頑張ってね。」笑。
五大堂に続く橋。【透かし橋】というのだそうです。
江戸時代中期の頃からこうした造りになっていたと云われているとのこと。
五大堂の参詣する時身も心も乱れの無いように足もとをよく見つめて気を引き締めさせるための配慮とされているのだそう。┉もうしわけありませんが、このような橋ではかえって見も心も乱れるのでは?
少なくとも私は確実に確実に乱れます。
ようやく渡り終わり、お土産店がありました。心引かれるけれどまずはお参りを。┉また橋だ。
嘘でしょ?!
手すりにつかまろうが、下を見ないようにしようが、海の上であることはどうしても視界に入ります。はああぁ。┉。
まあ、そうは言っても吊り橋ではないので揺れはしないので、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
だいぶへっぴり腰ではあったかとは思いますが、なんとか五大堂のある島へと到達いたしました。
夫がそんな私の勇姿を画像に残さなかったのは、┉よほどひどかった、ということなのかなぁ。
この日の東北も季節外れのあたたかさ、五大堂のあるこの小島は風一つない穏やかな心地よいところでありました。潮のかおりもせず、あの橋がなければここが島であることを忘れてしまいそうでありました。
ここ、五大堂は坂上田村麻呂が毘沙門堂を建てたのがはじめであったといいます。その後、慈覚大師円仁が一堂を建立して五大明王を安置したことから五大堂と呼ばれるようになったのだそうで、現在の建物は政宗公が建立したものだということであります。
天長五(828)年、慈覚大師円仁が【延福寺(現在の瑞巌寺)】を開基の際、【大聖不動明王】を中心に、【東方降三世】、【西方大威徳】、 【南方軍荼利】、【北方金剛夜叉】の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになりました。
伝説では、 慈覚大師が五大明王を安置したところ〖坂上田村麻呂〗が祀った〖毘沙門天〗は、ある夜、光を発して沖合いの小島に飛び去り、 その島は【毘沙門島】といわれるようになったそうです。
秘仏とされる五大明王像は、五代藩主吉村が500年ぶりにご開帳した1700年代以降、三十三年に一度ずづご開帳されるようになりました。
平成18年8月18~20日に、御開帳が行なわれ、記念品の色紙が授与され〖端虚〗と書かれていたそうです。〖端虚〗とは〖すみずみまで、心配りをする〗という意味なのだそうです。
現在の建物は、 伊達政宗が慶長9(1604)年に創建したもので、桃山式建築手法の粋をつくして完工したものです。堂四面の蟇股と呼ばれるところにはその方位に対して十二支の彫刻を配しています。白木のままの五大堂にみごとに彫られた十二支はアクセントとなり、観る人の目をたのしませていました。
こちらも当時には珍しかった瓦葺の屋根で、見事なまでに反ったところや変わった形の鬼瓦など、ここでも政宗公のこだわりがあちこちに見られます。
そうして、またあの透かし橋で修行させていただき、五大堂を後にしたのでした。心構えのあった帰路は若干スムーズに渡れた┉はずです。
このあと、松島の経済に、私にとっては結構な貢献をしたのち、夕暮れの山道を走って(もちろん夫の運転で)【西行戻しの松】へと向かいました。
西行さんといえば、武士であり、僧侶であり、そして歌人であります。
私が西行さんを知ったのは、歌人としての西行さん。
国語の授業でありました。
願わくは 花のもとにて春死なん その如月の望月の頃
現在の国語力からご想像いただけますように、さほど国語に秀でた子供ではなかったので、ほかの和歌とかいうと難解な言葉の羅列にしか思えず、その書かれた文字を見ても、はらはらとまるで桜の花びらのように私の脳裡に届くことなくまた教科書の活字に戻っていくだけでありました。
それが、この西行のこの歌は、目を通しただけでスッと心にまで流れ込んできたのであります。難しい文法のひねりなど一切なくて、
当時国語のテストなどによく出る『この歌を現代語訳しなさい。』などという問題もすらすらと口語訳できる┉学生思いの┉ではなく、ストレートに心を歌ったすばらしい作と言えましょう。
そして、何よりも〖自らの死をみつめる〗といった生き方。
病の床にあっての作品は数多く見ることがありましたが、この作品はそうでないことが読んで伝わるものでありました。┉まあ、思いこみと言われればそうでしかなかったのも事実なのですが、実際この歌を読んでから十年以上の年月を元気に全国行脚してのちに、まさにその如月の望月の頃に亡くなられたことから、この歌を読んだ頃には死をみつめるほどの病を持ってはいなかったのでは┉ということがわかります。
平安から鎌倉時代にかけての方ですから、かくれた持病があったとしても自他共にわからない時代であります。病にたおれてようやく〖病〗であった時代です。
私は、ありがたいことに葬儀へ参列したことが二十代までにただの一回、それも身内のものではなく、死というものがどういったものであるのか、ましてや昔の方にとって死というものがいかに身近で背中合わせであったかなど知るよしもなく、私は学校での学業からゆるゆると死というものを学んだのであります。
〖病などでなくて死をみつめる〗、この西行の作品は、その内容だけでなく、〖生き方〗、〖生きざま〗としても、私の心のなかに大きな流れをもってはいりこんだものでありました。
そののち、西行さんの歌に歌われた〖如月の望月の頃〗とは二月十五日、お釈迦様が亡くなられた日を指すことを知ることとなるのであります。
当時の暦は旧暦(少なくとも今の暦ではない)であり、ゆえに月の満ち欠けによるものであったがために、如月の望月、二月の満月は二月十五日を指すことになるのであり、新暦の二月十五日に生まれている私とは何ら関係のない日を指すのでありますが。
そうは言っても、今、お寺さんで涅槃会を営まれているのは新暦の二月十五日のところがほとんどですし、そんなところからも西行さんが私にとってさらに大きな存在となっていったのでありました。
西行(さんの)戻しの松。
そのいわれは、この松の辺りまで来た西行さんが、童と出会い問答をして負け、松島を見ることなく戻っていった┉帰っていったという地点、だと云われているものであります。
都の武家出身の西行さんが、当時は田舎ととらえられていた東北の地で出会った童に負けて来た道を引き返す。┉なかなか出来ることではないことであります。
年若の、野を駆け回る童に敗けを認めることも、当時これほど遠い地まで来てそんな理由できっぱりと引き返すことも。
さらに西行さんへの思いは膨らみ、その松を一目見上げようと勇んで車を降りました。
┉暗い。
あまり灯りのない、一軒場違いなくらいおしゃれなガラス張りの建物が柔らかな暖かい灯をともしてその場をひときわ明るくしているくらいで、日の暮れかけたこの辺りは、ただただ暗い、ただ暗いだけの林でありました。┉。
西行さん┉。
おしゃれなガラス張りの建物が幻のように感じられます。
私どものようなみすぼらしい旅人が立ち寄ってはいけないような、そんな物悲しい気持ちで、その灯りを遠巻きにみつめていました。
まだ日の落ちきらぬ松島湾もさほどライトアップされておらず、ただただ暗いだけの空間に二人。
「ホテルに戻るか」┉うん。
西行さんが戻された松のあるところに立ち、私たちもまた、戻るしかない思いを胸にその場を立ち去りました。
もう少し明るい時分に来ればこんなはずじゃなかったのでしょう。
買い物に勤しんでしまった私の罪を松の樹の精がいましめたのでしょうか。
夫よ、この日もごめんなさい。
┉珍道中はひとえに私が作り上げているということの証でありました。
次の日も、秋とは思えない┉それも東北だというのに、関東にいたときよりも暖かい日。
あれこれと東北の寒さに合わせ用意した衣類や使い捨てカイロが、邪魔にしか思えない。ありがたいことであります。
「東北に行ったらどこに行きたい?」
何度となく夫に聞かれたものの、日数にも限りがあることで
「あなたが行きたいところ、連れて行きたいと思うところに」
と答えて、ほとんど下調べすらしなかった私。
でもやっぱり行きたいと思うところは確実に含まれています。
まあ┉日数に限りがなくて、お金の心配もなくて、何よりもコロナの心配もなければ┉。
そんな条件下、どうしてもやはり行けるところは限られてはしまうのですが┉。
その日、向かうのは平泉。
ワクワクする気持ちが抑えられない。
瑞巌寺にも行けた!
なのにその次ぐ日には平泉!
どれだけ東北へ来たかったのだ?!
東北の方には叱られてしまうかもしれませんが、私にとって平泉といえばイコール中尊寺。そんな認識でしかありませんでした。
もうそこまでいくと怒る気にもなれずあきれるだけでしょうか。
そうして┉瑞巌寺さん同様、またまた私の妄想が産み出した中尊寺もどきがありました。それはまた追々話すこととなるかと思いますが┉。
そもそも、中尊寺さんって岩手県の┉どこになるのだろう。
┉ごめんなさい、東北の方々。
というか、私に歴史だの地理だのを教えてくださった社会科の先生。
そもそもが平泉、世界遺産だし。
そして、こんなおバカをここまで連れてきてくれた夫よ、こんな猫に小判な妻で本当にごめんなさい。
┉そこへあのメーカー純正の優秀なナビが加わることで、珍道中は完ぺきなものとなります。
ええ、通り越すんです。中尊寺さんを。
あり得ない規模の町営駐車場を通り越すんです、私たち。
はああぁ。(´;ω;`)
思い起こせば┉すでに四か月半くらいの時が流れておりました。
ただでさえ記憶をする能力が人より劣るうえ、記憶しておくことに関してはもはやザルの方が上なのでは?と思えるくらいな私が今頃綴っております東北巡礼紀行は、もはや黄砂がかかっているかのような。
そうか!
あやふやなところや、間違った記憶も黄砂のせいにしてしまおう!
というわけで、宮城県のホテルを出発して一時間半強、くらいだったかなぁ。混雑のない、気持ちのよい東北の秋の道路を岩手県まで、走ったのは言うまでもなく夫でありました。
なんでもその走ってきた道は東北地方の大動脈という国道4号線。
列車や車のなかった明治以前には、日光街道、奥州街道(陸羽街道)、仙台道、松前道として、お江戸日本橋から宇都宮、白河を経て陸奥、そして海を隔てた松前までを結び、東北各藩と江戸の人馬物流の要として、往来のあった重要な街道であったのだといいます。
その国道4号線を仙台から北上する事およそ100キロほどのところ。
豊かな田園地帯が広がっています。
美しい自然と田畑の続く日本的情緒溢れる長閑な場所をひた走るまっすぐな道路で、怪しいナビの案内と、のんきに外の景色を眺めているだけの妻という、最悪な条件下で、その駐車場へと曲がる交差点をふと通りすぎてしまう。それはもう仕方ないって!
通りすぎたところで「あれ?いまのとこみたいだけど?」っていう妻。
なんだか何にも言いやしないナビ。
┉彼の苦労は今後も永く永く続くのですね。
どうか末永くよろしくね。(´;ω;`)
名刹・古刹が点在する奥州平泉。
今では美しい自然と田畑の続く情緒溢れる長閑な場所ですが、この地はかつて、東北地方にきらびやかな文化の足跡を残し、歴史にその名の刻まれる奥州藤原氏の一大拠点となったところであります。
いざ中尊寺!
ってもう駐車場なんですけどね。
お土産屋さんやお食事どころが取り囲む広い広い駐車場であります。
いやいやそれ以上に広い広い中尊寺さんの始まりは、なんということない徒歩での山の登り口から始まります。
いやいや平安時代からのものですからね、徒歩以外は駕籠とか馬とかですから。
変にいじられていない中尊寺さんに感動しつつ、その山道を厳かな気持ちで歩き出しました。
奥州藤原氏の栄華を今に伝えるのが、この平泉にある【中尊寺】。
2011年、日本では12番目に世界文化遺産に登録されています。
坂下の駐車場から左に回りこむようにして、〖関山中尊寺〗と書かれた石碑を過ぎるとすぐ始まる坂道は、樹齢300年~400年と言われる立派な杉の木立が続く森厳な雰囲気に包まれる参道です。
この坂は月見坂と呼ばれる坂で、まあそれなりの坂、かなぁ。これがずっと続くとなるとすこぅしつらい、つらいだろうなぁと思った頃、みぎてに木立が途切れ、景観の良い場所が見えてきます。
〖東物見台〗と呼ばれています。
木々越しに北上川、束稲山などが見渡せて┉いるそうです。その場ではなんという川、なんという山かもわからず、ただただ感動と共に大きく息を吸い込んで、そこに立つのでありますが。
実は藤原氏の遠縁に当たり、秀衡の頃に平泉を訪れたという【西行】が束稲山を歌に詠んだ、などということも帰ってきてから知るのであります。
あ、一応は西行さんが藤原氏の出であることくらいは知っていましたよ。(*-ω-))ウンウン
【中尊寺】は850年(嘉祥3年)、「山寺」立石寺や毛越寺と同じく慈覚大師円仁によって開山されたと伝えられています。その後、1105(長治2)年、奥州藤原氏の初代・【藤原清衡】によって中興されています。
清衡は、源頼義の介入した戦い〖前九年の役〗で父を失いました。清衡7歳の時であります。
さらに〖後三年の役〗の際、32歳のときに妻子を失い、この世の無常を身にしみて感じていたのでありましょう。
世の中の平安を願い、戦で失われた命を弔うために七堂伽藍を整備、建立していくのであります。戦で失われた敵味方はおろか昆虫草木の別なくすべてのものに向けられたものであったといいます。
ああ、なんという尊くて切ない思いでありましょう。
┉うーん、やっぱりそれを知っていてその場に立った方が感動するな。
で。
通常、というか普通の人ならば月見坂から山門┉があるかどうかはこの時点での私にはわからないことではあるのですが、そのままの道を素直に進むのでありましょうが。
おへその曲がった私が、月見坂のひだりて上にお堂を見てしまうのでありました。┉ええ、まずは本堂からの御参り、ですよね。┉、┉。
お堂に寄りたい。
いつもなら抑えるその衝動がどうにも抑えられない。
で。
進路をそのお堂めざして歩く私。
夫はさしてそういった順路を気にする人で┉なくともほら、あのじゃじゃ馬を放ってしまったら後々が大変なことはこの世の誰よりも痛いほど知らされ生きてきた人間ですので、ほこほことついてまいります。
と、見えたのが!
あの、観光地といえばかつて必ずあったような、等身大のひとがたの絵の描かれた板。そう、そうしてそのひとがたの顔の部分だけがくり抜かれたあの顔出しする板があるではありませんか。
その人物は、弁慶さん。
中尊寺と言ったら?
藤原氏、なんですけどね、もちろん。
中尊寺と言ったら?
義経と弁慶の悲劇の舞台!
┉弁慶が全身に矢を受けて、の舞台って中尊寺、じゃあありません?
えっ違う?
16歳から22歳まで、奥州藤原氏の元で過ごした源義経が兄頼朝の挙兵に呼応して鎌倉に馳せ参じたのが1180年(治承4年)のこと。しかし、断りもなく官位を受けた事で兄の怒りを買った義経は、吉野に身を隠した後、伊勢、美濃を経由し、最終的に奥州藤原秀衡を頼り、平泉まで逃げてくる。1187年(文治3年)2月のことだ。しかし、秀衡が10月に病没、後を継いだ泰衡は結局頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)4月、衣川館にいた義経を急襲、義経は妻子共に命を落とす。時に義経31歳であった。本能寺の変と並ぶこの歴史的にも有名な最期の場面でも義経の供をしていたのが、五条大橋の出会い以来常に義経の傍で使えた武蔵坊弁慶。歌舞伎の勧進帳の平泉に逃げる際に安宅の関で関守に疑われ、とっさに主人である義経を棒で打つ場面などは歌舞伎好きなら誰もが知る名場面。その弁慶も、義経と共に衣川で最期を迎えた。体に矢を幾本も受けながらも最後の最後まで主人を守ろうとした弁慶の立ち往生として有名┉。
なるほど、ここじゃないんだ。
┉夫が知ったら泣くな。(:.´艸`:.)
【中尊寺】とは一つの建物を指す名称ではなく、「中尊寺」本坊内本堂の他、17の塔頭及び小院(大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、利生院、円教院、円乗院)と諸堂からなる山全体を指す総称。
天台宗の東北大本山でもある。
山内には金色堂を始め、不動堂、旧覆堂など由緒と趣のある諸堂が点在する。
とあります。
┉ほおうぅ。
そんなのもあったんだ? ┉いやいや、とりあえずみんな観てきた┉参拝してきたはずなんだけどなぁ。うーん、こんなにあったんだ?
そして、弁慶の顔出し板のあるところからほど近いところにあるお堂は、ここに記述のない【弁慶堂】でありました。
古くは〖愛宕堂〗と称されていたとのことで、明治以降、弁慶堂と呼ばれるようになったとのこと。
御本尊は【勝軍地蔵】さまとのこと。あれ?、どこかの愛宕神社さまの拝殿にも勝軍地蔵さまがお祀りされていると聞いたことがあったような┉。愛宕さまと勝軍地蔵さまって何か関係しているのでしょうか。
お堂の中央に安置されていたお厨子の扉は開けられていたのですが、白馬さんしか見えなくて、後から勝軍地蔵さまがお祀りされていたことを知りました。
向かって左側にのお堂の端を守り、隣におられる義経を守るように立つ弁慶像。隣におられる義経は椅子に座ったお像でありました。
弁慶さまの像は武装して、眼光鋭く今なお義経を、このお堂を守ろうとしているかのようです。
向かってみぎてには何体かのお仏像がおられるようです。
御本尊の前には護摩炉があるようです。
こちらもまた、あの神仏なんちゃらで愛宕堂から弁慶堂に名前が変わったのでしょうか。
静かな、木々のなかに建つ、落ちついたお堂です。
愛宕堂であったことから、阿吽の獅子がお堂を護っておられます。
今なお武装して常に周りを見張る弁慶さん。弁慶堂という名に変えられて困惑されてもおられるようにも見えました。
さらに小さな堂宇が続きます。
地蔵堂。
お優しいお顔立ち、それでいてすべてを見据えておられるような眼差しと、何かあればスッと動ける┉それこそ瞬時に移動できそうにお立ちになられているお地蔵さまのお像であります。
お顔立ちも、立ち姿も、衣の流れるさまもすべてが見事なお地蔵さま。
もう少し居たかったな。
観音堂。
そして、いきなり売店があって。
凛々しい顔立ちのきじとらの猫が客寄せの接待をしています。
私たち夫婦、┉たぶん子供たちも┉出会った猫ほぼすべてを写真におさめているくらいの猫好きです。
夫にいたっては、ついこの間、その中尊寺の売店で撮った猫の写真を夫に見せたところ、
「中尊寺の売店の猫!」
瞬時に答えたくらいです。┐(´~`;)┌
そしてふっと我にかえって後ろを振り向くと、!。
十段ほどの階段のうえ、瓦葺きの門!
中尊寺本坊表門でありました。
ん?
うーん。
┉私のなか、中尊寺といえばきんきらきんの金の、金色のイメージでありました。
いやぁ、たしかにすべてがきんきらきんのわけもなく、ましてや経年の劣化もあるでしょうから、かつての輝きを求めてはいけないとは思っているのですが、なんだか、武家屋敷とかのお屋敷の門みたいな門なのです。
またまた私のなかの妄想の中尊寺像が┉。いけない、いけない。
┉ところが、です。
私の見たイメージのまま、こちらの門、江戸時代の武家屋敷の門を移築したものなのだとか。
しかも、なんでも、あの(┉と言ってもその内容はよくはわかっていない私なのですが)伊達騒動の関係者、伊達兵部宗勝の屋敷門だったと言われているのだとか。
門をくぐると、清んだ空気の満ちた、よく整備され気持ちのよい境内が広がり、どっしりとした御本堂が目の前に。
御本堂。
大きな伽藍、です。
┉でも、こちらもさほど古い建物ではないように思えます。
金色の、あの藤原氏の御遺体が安置されているというのは金色堂だということくらいは承知しております。はい。
ただ、その金色堂が残っているということから、私はまたまた勝手な想像をし、妄想をしていたのであります。
京都奈良のように、いにしえの建物が残っているのであろうと、それは金色堂ほどではなくとも、さぞやきらびやかなものであろうと、思い込んでおった次第でありました。
寺塔の数が四十以上とされた、中尊寺。うーん、御本堂は再建なのだなぁ。
もちろん、再建の建物だからといって、なんらありがたみの変わるものではないものであります。そう、ひとえに勝手に妄想して、なんら下調べもしない私がいけない。
おそらくこちらの御本堂は江戸時代後期から近代にかけて再建されたのではないかなぁ。東北の雪の重みに耐えきれなかったのかなぁ。
お線香を香炉に立てながら、悶々と考えていたものの、はたと我にかえり御本堂に参拝させていただくことといたしました。
お、こちら御本堂にあがらせていただけるようありです。
うわぁ。
大きな大きな御本尊さまであります。
しかも金ぴか。
何やら優しい、今風のお顔立ち。
┉。┉┉。
なんだか仏具も新しそうでありますが┉。
もちろんお寺さんはお仏像はもちろん仏具も大切に扱われますから、新しく見えるだけ、なのかもしれません。
でも、お灯明やお線香でどうしても煤けたり、金箔が剥がれ落ちたりしそうですが┉うーん。
お仏像。
新しいも新しい、平成二十五年に造られ開眼法要をうけた、丈六と呼ばれる大きさのその名も〖丈六皆金色釈迦〗というまだ造られて十歳くらいのお仏像さまでありました。
もともとそこにおられたかのような、自然にそこにお座りになられている御本尊さま。
┉おや?
ではこちらの大きな丈六釈迦如来さまが安置される前の御本尊は?
ええい!私、雑念を捨てよ!
┉雑念を捨てるためにこれだけの時間を費やしたかというと、決してそうではなく、雑念以上に記憶が消えていくことのほうがはるかに多くて、珍道中録とはいえさすがにもう、記録を書くにはかなり厳しい、時間の流失があるかとは思います。
それでも、これはこれでどうしても書きたいのです。
夫に連れていってもらった東北の記録だから?
夫の永年勤続記念の旅だから?
それもあります。
私が抱いていた東北への憧れ。
それは実に長い長い年月をかけて、私のなかに地層のように築かれていたのです。その思いを、記録を綴っておきたかったのです。
昔の人は、旅行をすれば必ず民芸品なりのその土地ならではのおみやげを購入し玄関や居間、仏間の飾り棚に飾って置いたもので。それはどこのお宅にお邪魔しても、数の多少や、その行き先の多様さなどは大きく異なるものの、必ず飾られていたものだったといえます。
北海道の木彫りの熊、こけし、あかべこ、などはまさに定番で。
毎日見るとはなしにそのまま置物を見て育ち、ともすればその置物をじっと見ては思いを馳せるような┉と言えば聞こえがいいのてすが、ぼーっと過ごしていた少女期を過ごしておりまして。
さらには。
テレビでは時代劇は当たり前、それこそゴールデンタイムにもそういった番組が放映され、歴史的史事に基づいたものであれば、その歴史上での季節が来れば必ずや定番の番組が┉たとえるなら忠臣蔵ですとか、ね。
そういった番組が豊富に放映されていた時代に育ったのであります。
子供向けの歴史本も数多く出版されておりまして、伝記であったり、源平の合戦であったりの本が、図書館、図書室は当たり前で、学級文庫にもそういった本が普通に並んでいた時代であります。
ウルトラヒーローや仮面ライダーと、伝記や歴史物語が同居している時代でありました。
今でこそ新撰組が大きく取りざたされることが多いですが、子供の頃私がいたく感銘を受けたのは白虎隊でありました。子供でも天狗党という存在くらいは詳細まではわからずとも知っていた時代でありました。
あかべこにこけし。
白虎隊。
そして、源義経と静御前の悲話。
すべてが東北地方であります。
そんなあやしい地層を秘め持つ私が、ちょっと中尊寺に並々ならぬ妄想を抱いていた、そんなわけでありまして。
真新しい御本尊さまが決していけないわけはありません。
ここに中尊寺さんの御由緒を中尊寺さんのホームページから引用させていただきます。
もともとは嘉祥3(850)年、比叡山延暦寺の高僧、慈覚大師円仁によって開かれます。
その後藤原清衡公が長治2(1105)年より中尊寺の造立に着手します。
まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立します。
この伽藍(がらん)建立は『法華経』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したものでした。
〖娑婆世界で法華経を説く釈迦如来のもとに七宝で美しく荘厳された巨大な多宝塔が現れた。釈迦如来は神通力をもって十方世界で法華経を説く自らの分身の諸仏を一ヶ所に集めると塔の扉を開いた。すると塔中に多宝如来が現れ、釈迦の説く「あまねく平等に開かれる仏への道(三乗即一乗)」をたたえてその真実性を証明した。多宝は座を分かって釈迦に勧め、塔中に二仏が並座した。釈迦は自らの滅後、法華経を永くたもち守るべきことを聴衆に説くのであった。[法華経 見宝塔品]〗
清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。
清衡公は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は「諸仏摩頂の場」であると述べています。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができる。諸仏の功徳を直に受けることができる、という意味です。
法華経の教えに浄土教や密教を加え大成された天台宗の教えに基づく伽藍が境内に建ち並び、その規模は鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、寺塔が四十、禅坊(僧の宿舎)が三百におよんだといいます。
二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。
平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でした。
ここで少し時を戻させていただきます。
…ぺこぱの松陰寺さんの持ちネタではありませんが、出どころがミーハーな考えからであるところは同じであります。
嵐の櫻井翔さんと相葉雅紀さんが同日に婚姻届を提出されたというニュースに、日本中が久しぶりに明るい気持ちに包まれました。
そのお二人の組み合わせを見たとき、ふっと思い出されたのは宮城県松島の【円通院】さんの境内を仲良くお二人でまわっているネットにアップされていた写真の数々でありました。
円通院さんは【瑞巌寺】の西隣にあるお寺さん。
伊達政宗公の孫で十九歳の若さで亡くなった【伊達光宗の廟所】として【三慧殿(さんけいでん)】が建立され開山されたものであります。
こちらのお寺さんは大変心に残っておりまして、出来うるなら再拝したい、何度でも参拝したいと思っておりますお寺さんの一つ。
境内を歩くだけで胸の中に何やらあたたかいものが満ちて、自然に笑みがこぼれるような、素晴らしい気に満ちたお寺さんであります。
そんな思いで時々円通院さんに関するネットの書き込みを見ることがあり、偶然見つけたのが嵐の櫻井翔さんと相葉雅紀さんのものでありました。
嵐に好感は持っておりますものの、ファンクラブに入ったりコンサートに行ったりするほどではなく、全てのメンバーが仲の良い〝嵐〟の中でお二人がことに仲のよいことをその時まで知らなかったくらいの者であり、ただその写真を通してさらに好感を深めたことは確かで。
それは写真からも伝わるほど、純粋にお参りをされておられたのです。
本当に仲が良いのだなぁ。
同日に入籍って言葉に出すほどは簡単なことではないはずです。
両家への挨拶から段取り。
そして大安吉日のうえ、一粒万倍日で天恩日、大明日、神吉日等々かなりの吉日にあたる日だったようです。
いろんな方に相談して、いろんな方から祝福されて、この日を迎えたことがそれだけでもわかる気がいたします。
どうか末長くお幸せに。
東北編の筆が止まったまま、かなりの月数が流れてしまいました。
実は、…それはそれなりの理由があったのでありました。
そのひとつとして。
実はこちらで、夫にはわからないようにお揃いの御守りをお受けしたのです。それをサプライズで手渡したくて、それでも、御守りいただくご縁が結べるように、中尊寺の境内にいる間には身につけている方が良いであろうと、腰掛に座ったときに手渡そうとしたのです。
…夫は旅の何日かめとなり、しかも全行程自分一人で運転して、疲れが出ていたのでしょう。
この旅行のために、買い替えたばかりの、それこそ買って1週間くらいしか経たない真新しいスマホを、御守りを受け取ろうとしてスルッと滑らせ落としてしまったのです。
画面を下に落ちたところに岩が!
…ピキッっと割れたスマホの画面。
しばらくは二人して言葉もないほどで…。
「ごめんなさい!」
謝ろうがなにしようが、画面はひび割れたまま直ろうはずがありません。
…どうして…。
ところが…。
夫は平静を装っていることすら感じさせないのです。というか本当に平静を保っているのです。
「大丈夫、ひび割れてるけどちゃんと地図をみるのにも文字を読むのにも支障ないから」
⁈
穏やかな顔で私を見つめそう語るのです。
いやいや、買ったばかりですよ?
しかも旅行に万全を期すためにと買った大切なアイテムですよ?
…彼の中の仏が目覚めた?
ちなみに私ほどではないけれど、少なくとも、対私との人間関係においては彼はすぐにイラっとするタイプだしすぐ顔に出るし、言葉にも出すタイプ。
それが…。
彼はこの旅でさまざまな寺社仏閣をめぐることで何かを悟り、彼の中にいる仏が目覚めたのでありましょうか。
何事もなかったように立ち、金色堂へ行こうと言う夫はその後もいつも通りの夫で…。
いつも通りに語り、感動し。
妖怪無駄遣いババアがあれこれ売店を冷やかしていてもいつも通りに待つとはなく待ってくれて…。
ただ、彼が実はいつも通りでなかったことはこの旅を終えて、中尊寺の小冊子に目を通して気づくのです。
金色堂のすぐそばにあった、彼が大好きであろう宝物殿を見ることなく通り過ぎてしまっていたのです。
迂闊でおっちょこちょいな私はやはり気づくことなくそこをす通りしてしまい、後でそれに気づいた時のショックといったら…。夫ではなく私であります。
…結果的には彼のスマホは画面の保護ガラスか割れただけで、その後ネットでそれを取り寄せて貼り直しただけで済んだようで。
やはり御仏がお守りくださっていたということでありましょう。
と、いうわけで、長いことしまいこんでいた東北編を紐解き、筆を進めることとしましょう。
…この言い回し、学生の時分から好きで時折使っていたのですが、そもそも当時から一般的な生活を送る上ではあまり筆を持つこともなく。ましてやこのミクルさんでのこの駄文においては、指でフリック入力しておりますので、当然虚偽、でありますが。
ペンを進めるとかも今はもうあまりないことでありましょうか。
まぁ、このおばさん、とりあえず写経の際には筆を使っておりますので、スマホやタブレット画面のフリックとなんら関係はありませんが、どうかこの言い回しの使用を許してやってください。
御本堂の横には峯薬師堂がございました。〝め〟と書かれたものがやたらと飾られていました。
きっと眼病治癒に御利益があるお薬師さまでおられるのでしょう。
ただ…。
…実は、こちらの御堂の前、インスタだかYouTubeだかにアップするためなのか、勝手にまるで貸し切ったに近い状態で撮影しまくる四十代くらいの男女がおりまして。
どかない、よけない、地面に座り込んでポーズをとり、とにかく撮影しまくって人を通さない、そんな自分たちの所業に一切罪悪感遠感じないような方たちであるようです。
それでもおばさん、一度だけ、「すみません(通してください、どいてください)」と声をかけてみたものの、まるっきり私が見えない聞こえないかのようでして。こういうことを今風に言うとガン無視、というのだろうなぁと思ったくらいでありました。
こういう方たちに腹をたてたところで彼らにはなんら響かないし、響きようによっては喧嘩沙汰、暴力沙汰にすらなりそうで。
珍し〜くおとなしく、その場を立ち去った私でありました。
それにしてもあっぱれ見事だと思うくらい、公共の場において、御仏の前において、二人の世界を築き上げておりました。ほんとすごい。
良いが悪いかはとりあえず置いておき、このくらいの図太さはある意味感動もので、少しだけ分けて欲しいとすら思ったくらいです。
そう、この方たちのこともあって筆が進まなかったというわけでありました。
峯薬師堂の隣には大日如来さまを祀る大日堂があります。なんでも奥州藤原氏の時代には三重塔が建っていたとされている場所なのだそうです。
どこか懐かしい感じのする、小さな飾り気のないお堂です。例えるなら宮司様のおられない神社さんくらいの大きさ…といえば伝わりましょうか、ただしその境内では子供らが遊び、お年寄りが日参するような、よく掃き清められた、人々に愛されている神社さんに大変よく似た雰囲気であります。
お堂は開放されていて、小さなお堂であるため中におられます御仏をよく拝観することができます。
中央には木目が見えるよさようなややもすると簡素ともとれる御厨司があり、そこには金色に輝く大日如来さまが座しておられます。智拳印を結ばれ目を閉じられたお姿は大変神々しく、またまたこの仏像大好きおばさんがポオォォっとしたことは言うまでもなく。
…数多ある印の智拳印などということがよくわかったものだと思われる方もおられましょう。
いや、この智拳印、大変不敬に当たるかとは存じますが、私くらいの年輩の方が忍者ごっこでの忍者のポーズをイメージされたとき、結構な確率で思い描くであろう人差し指をたてて上下に組み合わせるあの手の形にそっくりなのですよ。はい、大変不敬であります、申し訳ありませんでした。
…でもイメージできましたでしょう?
ちなみにこの智拳印を結ばれた大日如来さまは金剛界の大日如来さま、なのだそうで、手を座禅のように膝の上で重ねておられる大日如来さまは胎蔵大日如来さまなのだそうです。
ええ、ご想像通り、さっぱり理解できない私であります。
同じ大日如来さまであられるのはたしかなようですが、ご真言すらが異なり、金剛界大日さまは十三回忌の供養法要のご本尊であるとか、胎蔵大日さまは十七回忌の供養に当たられるのだとか、もはや理解不能の域でありまして…。
と、いうわけで、わけがわかっていない者が何を書いても意味がなく、…情けないなぁとは思うのですが、ね。
とりあえず、大日堂に大日さまがおまつりされておられ、そのおそばには、お召し物から如来さまであることが分かる(如来さまであることしかわからない)御仏がやはり坐しておられるのでありました。
…どうしてこんなにわからない?
あまりにかけ離れた世界でながくいきてきたから?
御仏像大好きなのに、一見してこの御仏像はどの御仏であるか、即答できない私。
…中尊寺の大日堂におわします、ほかの御仏がわからないのです。
写真を見てもわからない。ネットで調べてもわからない。
中尊寺さんで買い求めた小冊子には大日堂すらが扱われていない。
もう何年かは神社仏閣を、…精力的と言えるほどではないにしろ結構な数、回らせていただいているのに、さっぱり進歩がないというか、身になっていないというか。
しかも御仏像を拝するのは本当に癒され大好きであるのに、です。
情けない。
上野の運慶展に行った時、訪れている方々はみな、解説など読まずして、その仏像がどなたかわかっていて、すぐに鑑賞から始められておられました。
それを私はといえば、その美しさにまず感嘆し、この御仏はどなたなのかから始まり、そこから指の美しさとかお召し物の柄やひだの揺れかたの繊細さとかの一つ一つに感動する…、そこから始まる、周りとは明らかに異質な存在で。
例えるなら学者さんや研究者たちに、学校の修学旅行生が混じっているくらいの違和感でありました。
あれから何年?
パンダのシャンシャンが生まれた年だからもう結構経ちますが、いまだにな〜んにもわからないままなんだなぁ。
ああ、情けない、ほんと情けない。
本当にいろんな検索のかけ方をして努力をしたのですが、結局わからない。
大日如来さまのお隣りにおられる御二方。どう検索かけてもヒットしないのです。
金剛界の大日如来さまだから…と、推測をしてみたりもしました。向かって左は阿弥陀如来さまがなぁ?
そして…さっぱりわからないのが右隣少し奥まったところに座しておられる宝冠をかぶられた御仏さま、なのです。
宝冠を被られておられるのは大日如来さま以外は如来さまにはおられないようなのです。なので夫は「菩薩さまなんじゃないの?」と。
たしかに大日如来さまの周りには如来さまがおられたり、菩薩さまや明王さまがおられたり、実にたくさん御仏がおられ、その数、実に1461尊ともいわれているのだとか。
こちらの御堂もたくさんの御仏の像がお祀りされていて、千手観音さまや、お不動さまもおられるのは見えました。
うーむ。わからない。
まさか、とは思うのですが、胎蔵界の大日さまだったりする??
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
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