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神社仏閣巡り珍道中・改  東北路編

レス78 HIT数 4261 あ+ あ-

旅人さん
21/10/15 22:18(更新日時)

 [神社仏閣巡り珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま、仏さま、どうかお導きください。

No.3185734 20/11/22 05:12(スレ作成日時)

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No.78 21/10/15 22:18
旅人さん73 

…どうしてこんなにわからない?
あまりにかけ離れた世界でながくいきてきたから?
御仏像大好きなのに、一見してこの御仏像はどの御仏であるか、即答できない私。

…中尊寺の大日堂におわします、ほかの御仏がわからないのです。
写真を見てもわからない。ネットで調べてもわからない。
中尊寺さんで買い求めた小冊子には大日堂すらが扱われていない。

もう何年かは神社仏閣を、…精力的と言えるほどではないにしろ結構な数、回らせていただいているのに、さっぱり進歩がないというか、身になっていないというか。
しかも御仏像を拝するのは本当に癒され大好きであるのに、です。
情けない。


上野の運慶展に行った時、訪れている方々はみな、解説など読まずして、その仏像がどなたかわかっていて、すぐに鑑賞から始められておられました。
それを私はといえば、その美しさにまず感嘆し、この御仏はどなたなのかから始まり、そこから指の美しさとかお召し物の柄やひだの揺れかたの繊細さとかの一つ一つに感動する…、そこから始まる、周りとは明らかに異質な存在で。
例えるなら学者さんや研究者たちに、学校の修学旅行生が混じっているくらいの違和感でありました。
あれから何年?
パンダのシャンシャンが生まれた年だからもう結構経ちますが、いまだにな〜んにもわからないままなんだなぁ。
ああ、情けない、ほんと情けない。

本当にいろんな検索のかけ方をして努力をしたのですが、結局わからない。
大日如来さまのお隣りにおられる御二方。どう検索かけてもヒットしないのです。
金剛界の大日如来さまだから…と、推測をしてみたりもしました。向かって左は阿弥陀如来さまがなぁ?
そして…さっぱりわからないのが右隣少し奥まったところに座しておられる宝冠をかぶられた御仏さま、なのです。

宝冠を被られておられるのは大日如来さま以外は如来さまにはおられないようなのです。なので夫は「菩薩さまなんじゃないの?」と。
たしかに大日如来さまの周りには如来さまがおられたり、菩薩さまや明王さまがおられたり、実にたくさん御仏がおられ、その数、実に1461尊ともいわれているのだとか。

こちらの御堂もたくさんの御仏の像がお祀りされていて、千手観音さまや、お不動さまもおられるのは見えました。


うーむ。わからない。

まさか、とは思うのですが、胎蔵界の大日さまだったりする??

No.77 21/10/12 06:38
旅人さん73 

峯薬師堂の隣には大日如来さまを祀る大日堂があります。なんでも奥州藤原氏の時代には三重塔が建っていたとされている場所なのだそうです。
どこか懐かしい感じのする、小さな飾り気のないお堂です。例えるなら宮司様のおられない神社さんくらいの大きさ…といえば伝わりましょうか、ただしその境内では子供らが遊び、お年寄りが日参するような、よく掃き清められた、人々に愛されている神社さんに大変よく似た雰囲気であります。
お堂は開放されていて、小さなお堂であるため中におられます御仏をよく拝観することができます。
中央には木目が見えるよさようなややもすると簡素ともとれる御厨司があり、そこには金色に輝く大日如来さまが座しておられます。智拳印を結ばれ目を閉じられたお姿は大変神々しく、またまたこの仏像大好きおばさんがポオォォっとしたことは言うまでもなく。


…数多ある印の智拳印などということがよくわかったものだと思われる方もおられましょう。
いや、この智拳印、大変不敬に当たるかとは存じますが、私くらいの年輩の方が忍者ごっこでの忍者のポーズをイメージされたとき、結構な確率で思い描くであろう人差し指をたてて上下に組み合わせるあの手の形にそっくりなのですよ。はい、大変不敬であります、申し訳ありませんでした。
…でもイメージできましたでしょう?


ちなみにこの智拳印を結ばれた大日如来さまは金剛界の大日如来さま、なのだそうで、手を座禅のように膝の上で重ねておられる大日如来さまは胎蔵大日如来さまなのだそうです。
ええ、ご想像通り、さっぱり理解できない私であります。
同じ大日如来さまであられるのはたしかなようですが、ご真言すらが異なり、金剛界大日さまは十三回忌の供養法要のご本尊であるとか、胎蔵大日さまは十七回忌の供養に当たられるのだとか、もはや理解不能の域でありまして…。
と、いうわけで、わけがわかっていない者が何を書いても意味がなく、…情けないなぁとは思うのですが、ね。
とりあえず、大日堂に大日さまがおまつりされておられ、そのおそばには、お召し物から如来さまであることが分かる(如来さまであることしかわからない)御仏がやはり坐しておられるのでありました。

No.76 21/10/07 16:07
旅人さん73 

…結果的には彼のスマホは画面の保護ガラスか割れただけで、その後ネットでそれを取り寄せて貼り直しただけで済んだようで。
やはり御仏がお守りくださっていたということでありましょう。


と、いうわけで、長いことしまいこんでいた東北編を紐解き、筆を進めることとしましょう。

…この言い回し、学生の時分から好きで時折使っていたのですが、そもそも当時から一般的な生活を送る上ではあまり筆を持つこともなく。ましてやこのミクルさんでのこの駄文においては、指でフリック入力しておりますので、当然虚偽、でありますが。
ペンを進めるとかも今はもうあまりないことでありましょうか。
まぁ、このおばさん、とりあえず写経の際には筆を使っておりますので、スマホやタブレット画面のフリックとなんら関係はありませんが、どうかこの言い回しの使用を許してやってください。


御本堂の横には峯薬師堂がございました。〝め〟と書かれたものがやたらと飾られていました。
きっと眼病治癒に御利益があるお薬師さまでおられるのでしょう。

ただ…。

…実は、こちらの御堂の前、インスタだかYouTubeだかにアップするためなのか、勝手にまるで貸し切ったに近い状態で撮影しまくる四十代くらいの男女がおりまして。
どかない、よけない、地面に座り込んでポーズをとり、とにかく撮影しまくって人を通さない、そんな自分たちの所業に一切罪悪感遠感じないような方たちであるようです。
それでもおばさん、一度だけ、「すみません(通してください、どいてください)」と声をかけてみたものの、まるっきり私が見えない聞こえないかのようでして。こういうことを今風に言うとガン無視、というのだろうなぁと思ったくらいでありました。
こういう方たちに腹をたてたところで彼らにはなんら響かないし、響きようによっては喧嘩沙汰、暴力沙汰にすらなりそうで。
珍し〜くおとなしく、その場を立ち去った私でありました。
それにしてもあっぱれ見事だと思うくらい、公共の場において、御仏の前において、二人の世界を築き上げておりました。ほんとすごい。


良いが悪いかはとりあえず置いておき、このくらいの図太さはある意味感動もので、少しだけ分けて欲しいとすら思ったくらいです。

そう、この方たちのこともあって筆が進まなかったというわけでありました。

No.75 21/10/05 13:40
旅人さん73 

東北編の筆が止まったまま、かなりの月数が流れてしまいました。
実は、…それはそれなりの理由があったのでありました。

そのひとつとして。

実はこちらで、夫にはわからないようにお揃いの御守りをお受けしたのです。それをサプライズで手渡したくて、それでも、御守りいただくご縁が結べるように、中尊寺の境内にいる間には身につけている方が良いであろうと、腰掛に座ったときに手渡そうとしたのです。
…夫は旅の何日かめとなり、しかも全行程自分一人で運転して、疲れが出ていたのでしょう。
この旅行のために、買い替えたばかりの、それこそ買って1週間くらいしか経たない真新しいスマホを、御守りを受け取ろうとしてスルッと滑らせ落としてしまったのです。
画面を下に落ちたところに岩が!

…ピキッっと割れたスマホの画面。

しばらくは二人して言葉もないほどで…。

「ごめんなさい!」
謝ろうがなにしようが、画面はひび割れたまま直ろうはずがありません。
…どうして…。

ところが…。
夫は平静を装っていることすら感じさせないのです。というか本当に平静を保っているのです。
「大丈夫、ひび割れてるけどちゃんと地図をみるのにも文字を読むのにも支障ないから」
 ⁈ 
穏やかな顔で私を見つめそう語るのです。
いやいや、買ったばかりですよ?
しかも旅行に万全を期すためにと買った大切なアイテムですよ?
…彼の中の仏が目覚めた?

ちなみに私ほどではないけれど、少なくとも、対私との人間関係においては彼はすぐにイラっとするタイプだしすぐ顔に出るし、言葉にも出すタイプ。
それが…。

彼はこの旅でさまざまな寺社仏閣をめぐることで何かを悟り、彼の中にいる仏が目覚めたのでありましょうか。


何事もなかったように立ち、金色堂へ行こうと言う夫はその後もいつも通りの夫で…。
いつも通りに語り、感動し。
妖怪無駄遣いババアがあれこれ売店を冷やかしていてもいつも通りに待つとはなく待ってくれて…。

ただ、彼が実はいつも通りでなかったことはこの旅を終えて、中尊寺の小冊子に目を通して気づくのです。
金色堂のすぐそばにあった、彼が大好きであろう宝物殿を見ることなく通り過ぎてしまっていたのです。
迂闊でおっちょこちょいな私はやはり気づくことなくそこをす通りしてしまい、後でそれに気づいた時のショックといったら…。夫ではなく私であります。

No.74 21/09/30 05:56
旅人さん73 

ここで少し時を戻させていただきます。
…ぺこぱの松陰寺さんの持ちネタではありませんが、出どころがミーハーな考えからであるところは同じであります。

嵐の櫻井翔さんと相葉雅紀さんが同日に婚姻届を提出されたというニュースに、日本中が久しぶりに明るい気持ちに包まれました。
そのお二人の組み合わせを見たとき、ふっと思い出されたのは宮城県松島の【円通院】さんの境内を仲良くお二人でまわっているネットにアップされていた写真の数々でありました。
円通院さんは【瑞巌寺】の西隣にあるお寺さん。
伊達政宗公の孫で十九歳の若さで亡くなった【伊達光宗の廟所】として【三慧殿(さんけいでん)】が建立され開山されたものであります。
こちらのお寺さんは大変心に残っておりまして、出来うるなら再拝したい、何度でも参拝したいと思っておりますお寺さんの一つ。
境内を歩くだけで胸の中に何やらあたたかいものが満ちて、自然に笑みがこぼれるような、素晴らしい気に満ちたお寺さんであります。

そんな思いで時々円通院さんに関するネットの書き込みを見ることがあり、偶然見つけたのが嵐の櫻井翔さんと相葉雅紀さんのものでありました。

嵐に好感は持っておりますものの、ファンクラブに入ったりコンサートに行ったりするほどではなく、全てのメンバーが仲の良い〝嵐〟の中でお二人がことに仲のよいことをその時まで知らなかったくらいの者であり、ただその写真を通してさらに好感を深めたことは確かで。
それは写真からも伝わるほど、純粋にお参りをされておられたのです。

本当に仲が良いのだなぁ。

同日に入籍って言葉に出すほどは簡単なことではないはずです。
両家への挨拶から段取り。
そして大安吉日のうえ、一粒万倍日で天恩日、大明日、神吉日等々かなりの吉日にあたる日だったようです。
いろんな方に相談して、いろんな方から祝福されて、この日を迎えたことがそれだけでもわかる気がいたします。

どうか末長くお幸せに。

No.73 21/07/28 18:48
旅人さん73 

スレ主であります。
お読みくださりありがとうございます。

タブレットの調子が悪く、スマホからの投稿も考えていかねばならない日のため、スマホからワンレス入れておきます。

No.72 21/07/28 18:43
旅人さん0 

ここに中尊寺さんの御由緒を中尊寺さんのホームページから引用させていただきます。

もともとは嘉祥3(850)年、比叡山延暦寺の高僧、慈覚大師円仁によって開かれます。
その後藤原清衡公が長治2(1105)年より中尊寺の造立に着手します。
まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立します。
この伽藍(がらん)建立は『法華経』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したものでした。

〖娑婆世界で法華経を説く釈迦如来のもとに七宝で美しく荘厳された巨大な多宝塔が現れた。釈迦如来は神通力をもって十方世界で法華経を説く自らの分身の諸仏を一ヶ所に集めると塔の扉を開いた。すると塔中に多宝如来が現れ、釈迦の説く「あまねく平等に開かれる仏への道(三乗即一乗)」をたたえてその真実性を証明した。多宝は座を分かって釈迦に勧め、塔中に二仏が並座した。釈迦は自らの滅後、法華経を永くたもち守るべきことを聴衆に説くのであった。[法華経 見宝塔品]〗

清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。
清衡公は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は「諸仏摩頂の場」であると述べています。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができる。諸仏の功徳を直に受けることができる、という意味です。

法華経の教えに浄土教や密教を加え大成された天台宗の教えに基づく伽藍が境内に建ち並び、その規模は鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、寺塔が四十、禅坊(僧の宿舎)が三百におよんだといいます。

二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。


平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でした。

No.70 21/07/27 09:27
旅人さん0 

┉雑念を捨てるためにこれだけの時間を費やしたかというと、決してそうではなく、雑念以上に記憶が消えていくことのほうがはるかに多くて、珍道中録とはいえさすがにもう、記録を書くにはかなり厳しい、時間の流失があるかとは思います。

それでも、これはこれでどうしても書きたいのです。
夫に連れていってもらった東北の記録だから?
夫の永年勤続記念の旅だから?
それもあります。

私が抱いていた東北への憧れ。
それは実に長い長い年月をかけて、私のなかに地層のように築かれていたのです。その思いを、記録を綴っておきたかったのです。



昔の人は、旅行をすれば必ず民芸品なりのその土地ならではのおみやげを購入し玄関や居間、仏間の飾り棚に飾って置いたもので。それはどこのお宅にお邪魔しても、数の多少や、その行き先の多様さなどは大きく異なるものの、必ず飾られていたものだったといえます。
北海道の木彫りの熊、こけし、あかべこ、などはまさに定番で。
毎日見るとはなしにそのまま置物を見て育ち、ともすればその置物をじっと見ては思いを馳せるような┉と言えば聞こえがいいのてすが、ぼーっと過ごしていた少女期を過ごしておりまして。

さらには。
テレビでは時代劇は当たり前、それこそゴールデンタイムにもそういった番組が放映され、歴史的史事に基づいたものであれば、その歴史上での季節が来れば必ずや定番の番組が┉たとえるなら忠臣蔵ですとか、ね。
そういった番組が豊富に放映されていた時代に育ったのであります。

子供向けの歴史本も数多く出版されておりまして、伝記であったり、源平の合戦であったりの本が、図書館、図書室は当たり前で、学級文庫にもそういった本が普通に並んでいた時代であります。
ウルトラヒーローや仮面ライダーと、伝記や歴史物語が同居している時代でありました。

今でこそ新撰組が大きく取りざたされることが多いですが、子供の頃私がいたく感銘を受けたのは白虎隊でありました。子供でも天狗党という存在くらいは詳細まではわからずとも知っていた時代でありました。


あかべこにこけし。
白虎隊。
そして、源義経と静御前の悲話。
すべてが東北地方であります。

そんなあやしい地層を秘め持つ私が、ちょっと中尊寺に並々ならぬ妄想を抱いていた、そんなわけでありまして。
真新しい御本尊さまが決していけないわけはありません。

No.69 21/04/02 11:21
旅人さん0 

御本堂。
大きな伽藍、です。
┉でも、こちらもさほど古い建物ではないように思えます。

金色の、あの藤原氏の御遺体が安置されているというのは金色堂だということくらいは承知しております。はい。
ただ、その金色堂が残っているということから、私はまたまた勝手な想像をし、妄想をしていたのであります。
京都奈良のように、いにしえの建物が残っているのであろうと、それは金色堂ほどではなくとも、さぞやきらびやかなものであろうと、思い込んでおった次第でありました。
寺塔の数が四十以上とされた、中尊寺。うーん、御本堂は再建なのだなぁ。

もちろん、再建の建物だからといって、なんらありがたみの変わるものではないものであります。そう、ひとえに勝手に妄想して、なんら下調べもしない私がいけない。
おそらくこちらの御本堂は江戸時代後期から近代にかけて再建されたのではないかなぁ。東北の雪の重みに耐えきれなかったのかなぁ。

お線香を香炉に立てながら、悶々と考えていたものの、はたと我にかえり御本堂に参拝させていただくことといたしました。


お、こちら御本堂にあがらせていただけるようありです。
うわぁ。
大きな大きな御本尊さまであります。
しかも金ぴか。
何やら優しい、今風のお顔立ち。
┉。┉┉。
なんだか仏具も新しそうでありますが┉。
もちろんお寺さんはお仏像はもちろん仏具も大切に扱われますから、新しく見えるだけ、なのかもしれません。
でも、お灯明やお線香でどうしても煤けたり、金箔が剥がれ落ちたりしそうですが┉うーん。 


お仏像。
新しいも新しい、平成二十五年に造られ開眼法要をうけた、丈六と呼ばれる大きさのその名も〖丈六皆金色釈迦〗というまだ造られて十歳くらいのお仏像さまでありました。
もともとそこにおられたかのような、自然にそこにお座りになられている御本尊さま。
┉おや?
ではこちらの大きな丈六釈迦如来さまが安置される前の御本尊は?

ええい!私、雑念を捨てよ!


No.68 21/04/02 06:26
旅人さん0 

さらに小さな堂宇が続きます。

地蔵堂。
お優しいお顔立ち、それでいてすべてを見据えておられるような眼差しと、何かあればスッと動ける┉それこそ瞬時に移動できそうにお立ちになられているお地蔵さまのお像であります。
お顔立ちも、立ち姿も、衣の流れるさまもすべてが見事なお地蔵さま。
もう少し居たかったな。
観音堂。
そして、いきなり売店があって。
凛々しい顔立ちのきじとらの猫が客寄せの接待をしています。

私たち夫婦、┉たぶん子供たちも┉出会った猫ほぼすべてを写真におさめているくらいの猫好きです。
夫にいたっては、ついこの間、その中尊寺の売店で撮った猫の写真を夫に見せたところ、
「中尊寺の売店の猫!」
瞬時に答えたくらいです。┐(´~`;)┌

そしてふっと我にかえって後ろを振り向くと、!。

十段ほどの階段のうえ、瓦葺きの門!
中尊寺本坊表門でありました。

ん?
うーん。
┉私のなか、中尊寺といえばきんきらきんの金の、金色のイメージでありました。
いやぁ、たしかにすべてがきんきらきんのわけもなく、ましてや経年の劣化もあるでしょうから、かつての輝きを求めてはいけないとは思っているのですが、なんだか、武家屋敷とかのお屋敷の門みたいな門なのです。
またまた私のなかの妄想の中尊寺像が┉。いけない、いけない。

┉ところが、です。
私の見たイメージのまま、こちらの門、江戸時代の武家屋敷の門を移築したものなのだとか。
しかも、なんでも、あの(┉と言ってもその内容はよくはわかっていない私なのですが)伊達騒動の関係者、伊達兵部宗勝の屋敷門だったと言われているのだとか。

門をくぐると、清んだ空気の満ちた、よく整備され気持ちのよい境内が広がり、どっしりとした御本堂が目の前に。

No.67 21/04/01 13:35
旅人さん0 

【中尊寺】とは一つの建物を指す名称ではなく、「中尊寺」本坊内本堂の他、17の塔頭及び小院(大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、利生院、円教院、円乗院)と諸堂からなる山全体を指す総称。
天台宗の東北大本山でもある。
山内には金色堂を始め、不動堂、旧覆堂など由緒と趣のある諸堂が点在する。



とあります。

┉ほおうぅ。
そんなのもあったんだ? ┉いやいや、とりあえずみんな観てきた┉参拝してきたはずなんだけどなぁ。うーん、こんなにあったんだ?

そして、弁慶の顔出し板のあるところからほど近いところにあるお堂は、ここに記述のない【弁慶堂】でありました。
古くは〖愛宕堂〗と称されていたとのことで、明治以降、弁慶堂と呼ばれるようになったとのこと。
御本尊は【勝軍地蔵】さまとのこと。あれ?、どこかの愛宕神社さまの拝殿にも勝軍地蔵さまがお祀りされていると聞いたことがあったような┉。愛宕さまと勝軍地蔵さまって何か関係しているのでしょうか。

お堂の中央に安置されていたお厨子の扉は開けられていたのですが、白馬さんしか見えなくて、後から勝軍地蔵さまがお祀りされていたことを知りました。
向かって左側にのお堂の端を守り、隣におられる義経を守るように立つ弁慶像。隣におられる義経は椅子に座ったお像でありました。
弁慶さまの像は武装して、眼光鋭く今なお義経を、このお堂を守ろうとしているかのようです。
向かってみぎてには何体かのお仏像がおられるようです。
御本尊の前には護摩炉があるようです。

こちらもまた、あの神仏なんちゃらで愛宕堂から弁慶堂に名前が変わったのでしょうか。
静かな、木々のなかに建つ、落ちついたお堂です。
愛宕堂であったことから、阿吽の獅子がお堂を護っておられます。

今なお武装して常に周りを見張る弁慶さん。弁慶堂という名に変えられて困惑されてもおられるようにも見えました。

No.66 21/04/01 09:36
旅人さん0 

で。
通常、というか普通の人ならば月見坂から山門┉があるかどうかはこの時点での私にはわからないことではあるのですが、そのままの道を素直に進むのでありましょうが。
おへその曲がった私が、月見坂のひだりて上にお堂を見てしまうのでありました。┉ええ、まずは本堂からの御参り、ですよね。┉、┉。

お堂に寄りたい。
いつもなら抑えるその衝動がどうにも抑えられない。
で。
進路をそのお堂めざして歩く私。
夫はさしてそういった順路を気にする人で┉なくともほら、あのじゃじゃ馬を放ってしまったら後々が大変なことはこの世の誰よりも痛いほど知らされ生きてきた人間ですので、ほこほことついてまいります。
と、見えたのが!
あの、観光地といえばかつて必ずあったような、等身大のひとがたの絵の描かれた板。そう、そうしてそのひとがたの顔の部分だけがくり抜かれたあの顔出しする板があるではありませんか。
その人物は、弁慶さん。
中尊寺と言ったら?
藤原氏、なんですけどね、もちろん。
中尊寺と言ったら?
義経と弁慶の悲劇の舞台!
┉弁慶が全身に矢を受けて、の舞台って中尊寺、じゃあありません?
えっ違う?

16歳から22歳まで、奥州藤原氏の元で過ごした源義経が兄頼朝の挙兵に呼応して鎌倉に馳せ参じたのが1180年(治承4年)のこと。しかし、断りもなく官位を受けた事で兄の怒りを買った義経は、吉野に身を隠した後、伊勢、美濃を経由し、最終的に奥州藤原秀衡を頼り、平泉まで逃げてくる。1187年(文治3年)2月のことだ。しかし、秀衡が10月に病没、後を継いだ泰衡は結局頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)4月、衣川館にいた義経を急襲、義経は妻子共に命を落とす。時に義経31歳であった。本能寺の変と並ぶこの歴史的にも有名な最期の場面でも義経の供をしていたのが、五条大橋の出会い以来常に義経の傍で使えた武蔵坊弁慶。歌舞伎の勧進帳の平泉に逃げる際に安宅の関で関守に疑われ、とっさに主人である義経を棒で打つ場面などは歌舞伎好きなら誰もが知る名場面。その弁慶も、義経と共に衣川で最期を迎えた。体に矢を幾本も受けながらも最後の最後まで主人を守ろうとした弁慶の立ち往生として有名┉。

なるほど、ここじゃないんだ。
┉夫が知ったら泣くな。(:.´艸`:.)



                  
              

No.65 21/04/01 06:42
旅人さん0 

奥州藤原氏の栄華を今に伝えるのが、この平泉にある【中尊寺】。
2011年、日本では12番目に世界文化遺産に登録されています。

坂下の駐車場から左に回りこむようにして、〖関山中尊寺〗と書かれた石碑を過ぎるとすぐ始まる坂道は、樹齢300年~400年と言われる立派な杉の木立が続く森厳な雰囲気に包まれる参道です。
この坂は月見坂と呼ばれる坂で、まあそれなりの坂、かなぁ。これがずっと続くとなるとすこぅしつらい、つらいだろうなぁと思った頃、みぎてに木立が途切れ、景観の良い場所が見えてきます。
〖東物見台〗と呼ばれています。
木々越しに北上川、束稲山などが見渡せて┉いるそうです。その場ではなんという川、なんという山かもわからず、ただただ感動と共に大きく息を吸い込んで、そこに立つのでありますが。

実は藤原氏の遠縁に当たり、秀衡の頃に平泉を訪れたという【西行】が束稲山を歌に詠んだ、などということも帰ってきてから知るのであります。
あ、一応は西行さんが藤原氏の出であることくらいは知っていましたよ。(*-ω-))ウンウン





【中尊寺】は850年(嘉祥3年)、「山寺」立石寺や毛越寺と同じく慈覚大師円仁によって開山されたと伝えられています。その後、1105(長治2)年、奥州藤原氏の初代・【藤原清衡】によって中興されています。

清衡は、源頼義の介入した戦い〖前九年の役〗で父を失いました。清衡7歳の時であります。
さらに〖後三年の役〗の際、32歳のときに妻子を失い、この世の無常を身にしみて感じていたのでありましょう。
世の中の平安を願い、戦で失われた命を弔うために七堂伽藍を整備、建立していくのであります。戦で失われた敵味方はおろか昆虫草木の別なくすべてのものに向けられたものであったといいます。
ああ、なんという尊くて切ない思いでありましょう。


┉うーん、やっぱりそれを知っていてその場に立った方が感動するな。


No.64 21/04/01 05:17
旅人さん0 

思い起こせば┉すでに四か月半くらいの時が流れておりました。
ただでさえ記憶をする能力が人より劣るうえ、記憶しておくことに関してはもはやザルの方が上なのでは?と思えるくらいな私が今頃綴っております東北巡礼紀行は、もはや黄砂がかかっているかのような。
そうか!
あやふやなところや、間違った記憶も黄砂のせいにしてしまおう!

というわけで、宮城県のホテルを出発して一時間半強、くらいだったかなぁ。混雑のない、気持ちのよい東北の秋の道路を岩手県まで、走ったのは言うまでもなく夫でありました。
なんでもその走ってきた道は東北地方の大動脈という国道4号線。
列車や車のなかった明治以前には、日光街道、奥州街道(陸羽街道)、仙台道、松前道として、お江戸日本橋から宇都宮、白河を経て陸奥、そして海を隔てた松前までを結び、東北各藩と江戸の人馬物流の要として、往来のあった重要な街道であったのだといいます。

その国道4号線を仙台から北上する事およそ100キロほどのところ。
豊かな田園地帯が広がっています。
美しい自然と田畑の続く日本的情緒溢れる長閑な場所をひた走るまっすぐな道路で、怪しいナビの案内と、のんきに外の景色を眺めているだけの妻という、最悪な条件下で、その駐車場へと曲がる交差点をふと通りすぎてしまう。それはもう仕方ないって!
通りすぎたところで「あれ?いまのとこみたいだけど?」っていう妻。
なんだか何にも言いやしないナビ。
┉彼の苦労は今後も永く永く続くのですね。
どうか末永くよろしくね。(´;ω;`)


名刹・古刹が点在する奥州平泉。
今では美しい自然と田畑の続く情緒溢れる長閑な場所ですが、この地はかつて、東北地方にきらびやかな文化の足跡を残し、歴史にその名の刻まれる奥州藤原氏の一大拠点となったところであります。
いざ中尊寺!
ってもう駐車場なんですけどね。
お土産屋さんやお食事どころが取り囲む広い広い駐車場であります。


いやいやそれ以上に広い広い中尊寺さんの始まりは、なんということない徒歩での山の登り口から始まります。
いやいや平安時代からのものですからね、徒歩以外は駕籠とか馬とかですから。
変にいじられていない中尊寺さんに感動しつつ、その山道を厳かな気持ちで歩き出しました。


No.63 21/03/30 20:07
旅人さん0 

東北の方には叱られてしまうかもしれませんが、私にとって平泉といえばイコール中尊寺。そんな認識でしかありませんでした。
もうそこまでいくと怒る気にもなれずあきれるだけでしょうか。

そうして┉瑞巌寺さん同様、またまた私の妄想が産み出した中尊寺もどきがありました。それはまた追々話すこととなるかと思いますが┉。

そもそも、中尊寺さんって岩手県の┉どこになるのだろう。

┉ごめんなさい、東北の方々。
というか、私に歴史だの地理だのを教えてくださった社会科の先生。

そもそもが平泉、世界遺産だし。

そして、こんなおバカをここまで連れてきてくれた夫よ、こんな猫に小判な妻で本当にごめんなさい。
 
┉そこへあのメーカー純正の優秀なナビが加わることで、珍道中は完ぺきなものとなります。
ええ、通り越すんです。中尊寺さんを。
あり得ない規模の町営駐車場を通り越すんです、私たち。


はああぁ。(´;ω;`)





No.62 21/03/29 18:04
旅人さん0 

次の日も、秋とは思えない┉それも東北だというのに、関東にいたときよりも暖かい日。
あれこれと東北の寒さに合わせ用意した衣類や使い捨てカイロが、邪魔にしか思えない。ありがたいことであります。


「東北に行ったらどこに行きたい?」
何度となく夫に聞かれたものの、日数にも限りがあることで
「あなたが行きたいところ、連れて行きたいと思うところに」
と答えて、ほとんど下調べすらしなかった私。

でもやっぱり行きたいと思うところは確実に含まれています。
まあ┉日数に限りがなくて、お金の心配もなくて、何よりもコロナの心配もなければ┉。
そんな条件下、どうしてもやはり行けるところは限られてはしまうのですが┉。

その日、向かうのは平泉。
ワクワクする気持ちが抑えられない。

瑞巌寺にも行けた!
なのにその次ぐ日には平泉!

どれだけ東北へ来たかったのだ?!




No.61 21/03/28 06:59
旅人さん0 

そののち、西行さんの歌に歌われた〖如月の望月の頃〗とは二月十五日、お釈迦様が亡くなられた日を指すことを知ることとなるのであります。

当時の暦は旧暦(少なくとも今の暦ではない)であり、ゆえに月の満ち欠けによるものであったがために、如月の望月、二月の満月は二月十五日を指すことになるのであり、新暦の二月十五日に生まれている私とは何ら関係のない日を指すのでありますが。
そうは言っても、今、お寺さんで涅槃会を営まれているのは新暦の二月十五日のところがほとんどですし、そんなところからも西行さんが私にとってさらに大きな存在となっていったのでありました。

西行(さんの)戻しの松。
そのいわれは、この松の辺りまで来た西行さんが、童と出会い問答をして負け、松島を見ることなく戻っていった┉帰っていったという地点、だと云われているものであります。

都の武家出身の西行さんが、当時は田舎ととらえられていた東北の地で出会った童に負けて来た道を引き返す。┉なかなか出来ることではないことであります。
年若の、野を駆け回る童に敗けを認めることも、当時これほど遠い地まで来てそんな理由できっぱりと引き返すことも。
さらに西行さんへの思いは膨らみ、その松を一目見上げようと勇んで車を降りました。


┉暗い。


あまり灯りのない、一軒場違いなくらいおしゃれなガラス張りの建物が柔らかな暖かい灯をともしてその場をひときわ明るくしているくらいで、日の暮れかけたこの辺りは、ただただ暗い、ただ暗いだけの林でありました。┉。

西行さん┉。

おしゃれなガラス張りの建物が幻のように感じられます。
私どものようなみすぼらしい旅人が立ち寄ってはいけないような、そんな物悲しい気持ちで、その灯りを遠巻きにみつめていました。
まだ日の落ちきらぬ松島湾もさほどライトアップされておらず、ただただ暗いだけの空間に二人。
「ホテルに戻るか」┉うん。


西行さんが戻された松のあるところに立ち、私たちもまた、戻るしかない思いを胸にその場を立ち去りました。
もう少し明るい時分に来ればこんなはずじゃなかったのでしょう。
買い物に勤しんでしまった私の罪を松の樹の精がいましめたのでしょうか。

夫よ、この日もごめんなさい。
┉珍道中はひとえに私が作り上げているということの証でありました。


No.60 21/03/28 06:22
旅人さん0 

このあと、松島の経済に、私にとっては結構な貢献をしたのち、夕暮れの山道を走って(もちろん夫の運転で)【西行戻しの松】へと向かいました。
西行さんといえば、武士であり、僧侶であり、そして歌人であります。
私が西行さんを知ったのは、歌人としての西行さん。
国語の授業でありました。

  願わくは 花のもとにて春死なん その如月の望月の頃 

現在の国語力からご想像いただけますように、さほど国語に秀でた子供ではなかったので、ほかの和歌とかいうと難解な言葉の羅列にしか思えず、その書かれた文字を見ても、はらはらとまるで桜の花びらのように私の脳裡に届くことなくまた教科書の活字に戻っていくだけでありました。

それが、この西行のこの歌は、目を通しただけでスッと心にまで流れ込んできたのであります。難しい文法のひねりなど一切なくて、
当時国語のテストなどによく出る『この歌を現代語訳しなさい。』などという問題もすらすらと口語訳できる┉学生思いの┉ではなく、ストレートに心を歌ったすばらしい作と言えましょう。

そして、何よりも〖自らの死をみつめる〗といった生き方。

病の床にあっての作品は数多く見ることがありましたが、この作品はそうでないことが読んで伝わるものでありました。┉まあ、思いこみと言われればそうでしかなかったのも事実なのですが、実際この歌を読んでから十年以上の年月を元気に全国行脚してのちに、まさにその如月の望月の頃に亡くなられたことから、この歌を読んだ頃には死をみつめるほどの病を持ってはいなかったのでは┉ということがわかります。
平安から鎌倉時代にかけての方ですから、かくれた持病があったとしても自他共にわからない時代であります。病にたおれてようやく〖病〗であった時代です。
私は、ありがたいことに葬儀へ参列したことが二十代までにただの一回、それも身内のものではなく、死というものがどういったものであるのか、ましてや昔の方にとって死というものがいかに身近で背中合わせであったかなど知るよしもなく、私は学校での学業からゆるゆると死というものを学んだのであります。

〖病などでなくて死をみつめる〗、この西行の作品は、その内容だけでなく、〖生き方〗、〖生きざま〗としても、私の心のなかに大きな流れをもってはいりこんだものでありました。

No.59 21/03/23 01:18
旅人さん0 

天長五(828)年、慈覚大師円仁が【延福寺(現在の瑞巌寺)】を開基の際、【大聖不動明王】を中心に、【東方降三世】、【西方大威徳】、 【南方軍荼利】、【北方金剛夜叉】の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになりました。
伝説では、 慈覚大師が五大明王を安置したところ〖坂上田村麻呂〗が祀った〖毘沙門天〗は、ある夜、光を発して沖合いの小島に飛び去り、 その島は【毘沙門島】といわれるようになったそうです。

秘仏とされる五大明王像は、五代藩主吉村が500年ぶりにご開帳した1700年代以降、三十三年に一度ずづご開帳されるようになりました。
平成18年8月18~20日に、御開帳が行なわれ、記念品の色紙が授与され〖端虚〗と書かれていたそうです。〖端虚〗とは〖すみずみまで、心配りをする〗という意味なのだそうです。

現在の建物は、 伊達政宗が慶長9(1604)年に創建したもので、桃山式建築手法の粋をつくして完工したものです。堂四面の蟇股と呼ばれるところにはその方位に対して十二支の彫刻を配しています。白木のままの五大堂にみごとに彫られた十二支はアクセントとなり、観る人の目をたのしませていました。
こちらも当時には珍しかった瓦葺の屋根で、見事なまでに反ったところや変わった形の鬼瓦など、ここでも政宗公のこだわりがあちこちに見られます。


そうして、またあの透かし橋で修行させていただき、五大堂を後にしたのでした。心構えのあった帰路は若干スムーズに渡れた┉はずです。


No.58 21/03/22 20:22
旅人さん0 

瑞巌寺に属する【五大堂】は、道路を隔てた、陸地にほど近い小さな島に建てられています。
瑞巌寺の石標のあるところから東に百メートルほど行ったところが五大堂の入口となっています。
緩やかな登り坂をのぼるとすぐに橋が見えて┉見えて┉見えてきた橋は、な、なんと!
隙間だらけで直下の海面が見えているではないですか!
あ、あり得ない。
ここを作ったとき木材が不足でもしていたというのでしょうか。
夫がそれはそれは嬉しそうに、
「渡れる?頑張ってね。」笑。

五大堂に続く橋。【透かし橋】というのだそうです。
江戸時代中期の頃からこうした造りになっていたと云われているとのこと。
五大堂の参詣する時身も心も乱れの無いように足もとをよく見つめて気を引き締めさせるための配慮とされているのだそう。┉もうしわけありませんが、このような橋ではかえって見も心も乱れるのでは?
少なくとも私は確実に確実に乱れます。

ようやく渡り終わり、お土産店がありました。心引かれるけれどまずはお参りを。┉また橋だ。
嘘でしょ?!
手すりにつかまろうが、下を見ないようにしようが、海の上であることはどうしても視界に入ります。はああぁ。┉。
まあ、そうは言っても吊り橋ではないので揺れはしないので、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
だいぶへっぴり腰ではあったかとは思いますが、なんとか五大堂のある島へと到達いたしました。
夫がそんな私の勇姿を画像に残さなかったのは、┉よほどひどかった、ということなのかなぁ。

この日の東北も季節外れのあたたかさ、五大堂のあるこの小島は風一つない穏やかな心地よいところでありました。潮のかおりもせず、あの橋がなければここが島であることを忘れてしまいそうでありました。


ここ、五大堂は坂上田村麻呂が毘沙門堂を建てたのがはじめであったといいます。その後、慈覚大師円仁が一堂を建立して五大明王を安置したことから五大堂と呼ばれるようになったのだそうで、現在の建物は政宗公が建立したものだということであります。

No.57 21/03/22 09:52
旅人さん0 

この【三聖堂】の御本尊であります聖観世音菩薩さまは、またの名を【蜂谷観音】ともいうのだそうです。古く鎌倉時代の初めに彫られた観音さまで、蜂谷氏が大切にしていたものなので、蜂谷観音と呼ばれているとのことでありました。

【蜂谷観音にまつわるエピソード】
北条時頼公の家臣【蜂谷美濃守】の子孫に、子宝に恵まれず悩んでいた【蜂谷掃部(はちやかもん)】という人がいました。
掃部が観音さまにお願いをしましたところ男の子が生まれました。その子の名は小太郎と名付けられすくすくと成長しやがて立派な青年になりました。
小太郎の許嫁は秋田県象潟というところに住んでいました。 
ところが小太郎は結婚を前に病死してしまいます。

掃部は小太郎が亡くなったことを、許嫁に伝えました。
しかしその許嫁の女性は、夫無き松島に嫁いで来ました。そして小太郎の
父親の蜂谷掃部とその妻を、親のように慕い面倒を見たのだということです。
そして┉その蜂谷夫妻を看取った後、女性はその名を紅蓮とかえて出家したのだそうです。


うーん。
紅蓮さんのようにはなかなか生きられるものではないです。
もしかしたら親同志の約束事で、本人同士会ったことすらなかった可能性すらあります。
それでもその家に嫁いだ。嫁いで、夫ともならなかった、もしかしたら会ったことすらなかった男性の親を、親と慕い面倒をみ、看取った。
┉うーん。
無理だなあ、私には。
かつての日本にはこういった女性がいたのですね。


蜂谷観音さまはそんな紅蓮の生きざまも見守ってくださった観音さまであります。そんな生き方から何かしらを学ばなければ申し訳ない。
うーん。┉難しいなあ。

No.56 21/03/22 09:37
旅人さん0 

円通院を後にし通路を歩いていると、ひっそりと建つ茅葺きの小さな御堂が見えてきました。とても懐かしい感じのする、かつてそこここによく見かけた、そんなお堂でありました。

【三聖堂】と扁額にあります。

三聖堂のご本尊は、聖観世音菩薩様。
そして、その左側には、達磨大師さまが、また、右側には菅原道真公がお祀りされているとのことであります。
三体が安置されているお堂なので、三聖堂というのがこのお堂の名前の由来なのだそうです。
お堂の扉はかたく閉じられそのお姿はまるで拝することはできません、

それでも三十三年に一度、御開帳されるようで、なんでも前回の御開帳は平成十八年だったとかで、次の御開帳は┉令和二十年?、で合ってますσ(^_^;)?。


このお堂、かつては現在の向きとは逆の、瑞巌寺の参道側を向いていたのだそうです。
それを瑞巌寺の第104代夢庵如幻(むあんにょげん)が現在の位置に変えたそう。

江戸時代のころ、瑞巌寺には、女人禁制の日というのが設定されていました。現代では考えられませんが、昔はそのような制度があり、そしてそれは、月に15日ぐらい、なんと月の半分です。
瑞巌寺へのお参りもそうですが、三聖堂へのお参りの機会も以前に比べ極端に減ってしまいました。瑞巌寺の参道を通らなければ、三聖堂に行けず、女人禁制の日は参道を通ることもできなかったのです。

そこで104代夢庵如幻は、女性のお参りの機会を増やすためにはどうしたらよいか考え、そこで思いついたのが〖お堂の向きを、参道と逆側に変えてしまう〗、ということでした。

お堂を逆向きに変えたことにより、禁止されていた瑞巌寺の参道を通ることなく、三聖堂へのお参りができるようになったという、裏技的なものでありました。瑞巌寺にあった厳しい規律、それは、住職でさえかえることができなかったということなのでしょう。
現在、三聖堂が目立たない場所にあり、瑞巌寺側を向いてないのは、そのような理由からなのだそうです。











No.55 21/03/22 08:33
旅人さん0 

見えてきたお屋敷のような建物は二方向を開放できる造りで、そこをずっーと縁側が取り囲み、さらにはそこにあがりやすいように二段ほどの木の上がりはなが取り付けてあります。縁側の内側には昔からの障子。
なんと人を癒す休憩の場でありましょう。

御仏壇があるのがみえます。
どうやらあがってもよいようです。

んん?
ん?!

お屋敷の御仏壇の真ん前に、お寺さんによくある大きな香炉が設けてあります。そして御賽銭箱が┉。


えっ?まさかこちら、お寺のお堂?
┉お堂もお堂。円通院と書かれたものが掲げられています。
まさか、とこの期に及んでも思った私も私ですが、この建物こそが【円通院本堂】であったようです。

嬉しい!

こんなにも開放的で、こころゆくまでいられる御本堂で、何より心から癒していただけくつろげるような御本堂は、日本全国各地、いくつあるでしょう。
まるで懐かしいお屋敷にでもあがるような心はずむ思いで靴を脱ぎ、畳敷きの仏間に上がらせていただき、読経させていただきました。
ああ、なんと癒されること。


【円通院本堂】は【大悲亭】と呼ばれるそうです。
もとは光宗が江戸で納涼の亭としていたもので、父忠宗公が解体させ、海路にてこの地に移築されたものだといいます。
┉ああ、光宗は短い生涯ではあったけれど、こんなにも開放的で癒される空間で過ごされていた時があったのだなあ。それだけでも少し救われる思いがいたしました。
光宗はここを大切に大切に思っていたのだなあ。
そして父はそれを知っていたのだなあ。
このお屋敷┉御本堂の前にひろがる庭園は、仙台藩江戸屋敷にあった、小堀遠州が作った庭を移設したものだといいます。
心字池にかかる橋にもはらはらと散った赤い紅葉の葉。
光宗の、そして光宗を若くして喪った父母の御霊を今なお癒してくれているかのようでありました。
普通の御仏壇に安置されているかのようなご本尊さまも、実は鎌倉時代のものであったようです。
すごいなあ、ありがたいなあ。


秋の紅葉真っ盛りの時に参拝させていただきますこととなりましたが、その見事な庭園よりも、私の心に残った円通院御本堂であり、三慧殿でありました。

No.53 21/03/18 18:13
旅人さん0 

【三慧殿】は正保三(1646)年に造られたといいます。

伊達政宗公の嫡孫【光宗】は幼少の頃より文武に優れ、その才智は徳川幕府にとっておそるべき逸材であったとされています。
江戸城内において19歳という若さでこの世を去るのですが、その死因には諸説あり、毒殺されたともいわれているようであります。
霊屋はその死を悼んだ父、二代藩主伊達忠宗公により建立されたもので、宮殿型の厨子の中には白馬にまたがる衣冠束帯の光宗像、殉死した七人の像が祀られているのだそうです。
また、その厨子は全面に金箔を施した華麗なもので、装飾の図柄には洋バラ、スイセン、ガーベラ、トランプの図柄などヨーロッパ風の模様が刻まれているのだそうです。支倉常長が持ちかえったものをもととしていて、
当時鎖国していた徳川幕府に対して、あくまでも伊達家のところへ霊廟と申し立て、扉を開けることはなかったのだそうで、三世紀半も公開されることなく現代に至ったということでありました。

今、その扉は開け放たれて、金色に光り輝く厨子のなか馬にまたがる光宗の像と、光宗を取り囲む像がみえます。
建物自体は奥まったところに建てられ、白木造りの一見質素な建物であります。ですがこちらもまた当時には珍しい本瓦葺きと、こだわりある建物であります。
その一見質素な白木造りの建物と光り輝く厨子との格差に、自慢の将来を嘱望する息子を喪った父の哀しみと怒りを感じさせられた、三慧殿でありました。

さらに進むと、こちらにもまた洞窟群が。洞窟のなかには古びた石碑や石塔、石仏がたくさん安置されています。 

さらに進むと見えてくるのは、庭園の中にひときわ存在感をみせる、おんこの木(イチイ科)。
八方睨みの名木と称せられ、樹齢も700年を超えているそうですが、樹勢の衰えを感じさせません。 さらに進むとなんと!
境内には珍しい、バラ園が!
日本最古の洋バラもあるとのことですが、いかんせん、私どもが参りましたのは紅葉真っ盛りの秋。いくつか咲いているバラもあるにはありましたが、かえって寂しさ、憐れを感じさせられました。

また、紅葉した庭が見えてきたところに茅葺きの大きな屋敷のような建物が見えてきます。

No.52 21/03/18 14:21
旅人さん0 

【円通院】は瑞巌寺の西隣にあるお寺さん。
伊達政宗公の孫で十九歳の若さで亡くなった【伊達光宗の廟所】として【三慧殿(さんけいでん)】が建立され開山されたものであります。

茅葺きの薬医門をくぐると、すぐひだりてに石で彫られた小さな観音さまおられます。少し奥まっておりますのですがひきりなしに人が立ち寄ってお参りをされています。
うわあぁ。
こちらの観音さまの、なんとお美しくて清らかで、お優しいことか!
これは、なるほどこちらの観音さまのファンも多いことでありましょう。
半彫りの観音さまのそばにすずらんの花でもあるのかと思った彫りは、よくみると波しぶきのようであります。?!、観音さまはどうやら龍にお乗りになっておられます。
ほぉお。
去りがたい思いを抑えて立ち去ろうとすると、┉?
観音さまの左右には小さな┉五センチくらいのこけしが棚にびっしりと奉納されています。これは┉?
私も奉納させていただかなくてはと、こけしが授与されている、先ほど御朱印をお願いした窓口に申しあげたところ、┉こちらの観音さま、縁結び観音さまなのだとか。
縁結びには全く関係ないおばさんが、いつまでもうろうろしていた様子はさぞ滑稽であったことでしょう。

それでも去りがたい思いを残し縁結び観音を後にすると現れるのが石庭であります。

うわあぁぁ!

私どもが参りましたのが十一月中旬、まさに紅葉の美しい盛りでありました。これは┉。
白い砂利にまるで計算して一枚一枚の紅葉の葉を人の手で置いたかのような美しさです。白砂利の池に散った紅葉と、今を盛りの紅葉。
ため息しか出ません。

この石庭は松島湾を表現した「天の庭」と、人生を表現した「地の庭」で構成されているのだとか。
でも、私にはもうそういった、┉本当に計算して造られた石庭を愛でるような余裕はもうまるでありませんでした。
途中途中、休んで庭を愛でるよう、和風の腰かけが置かれていたり、苔むした茅葺きのあずまやがあったりいたします。
丸窓から見える紅葉も美しく。
これは、┉すごい!


と、しばし、自分がどこに来ているのか、まるで意識の飛んでいた私は、またまた反省し次の進路に進みました。


No.51 21/03/15 11:43
旅人さん0 

【瑞巌寺】さんの宝物館を後にして、再び【法身窟】前を訪れることとなります。
前述しました通り、政宗公が瑞巌寺と名を改める前は【円福寺】でありました。が、もともとの開山時は【延福寺】。
延福寺は第28代住持儀仁を最後に破却され、禅宗の円福寺に転換されています。



宝治2(1248)年、延福寺で〖山王七社大権現の祭礼〗が行われていた。
東国修行中の執権【北条時頼】が舞楽の上演を楽しんでいたが、つい面白さの余り「前代未聞の見物かな」と大声を発した。 その大声に驚いた稚児が舞の途中で立ち往生してしまった。
神楽を中断させると言うことは、いかなることがあっても許されることではない。このことに荒法師達 は怒り、時頼は殺されそうになる。
一人の僧の「山王大師祭礼二依リ殺生二及ブ可カラズ」の一言で事なきを得、近くの岩窟に逃げ込んだ。

岩窟(法身窟)にはこのとき修行僧の【法身】がいた。
時頼が、一夜の宿を貸しては頂けないかと頼むと、僧は「沙門は三界を宿とし一心を安んじて本宅となす。誰を主とし、誰を客とせん」と答え、時頼を丁寧に迎えた。二人は意気投合し法談で時を重ねた。話すうちに時頼は法身の禅僧としての高潔さに心うたれた。

時頼は、鎌倉に帰った後、〖三浦小次郎義成〗率いる千人の軍兵を松島に向かわせ、延福寺から三千の衆徒を追放し、儀仁和尚を佐渡に流した。僧達の一部は福浦島に逃れ、経文はすべて経ヶ島で焼かれたという。

その後、時頼は、岩窟の僧を捜し出して新しく円福寺と名を改めた寺の住職とした。
この時から、瑞巌寺は円福寺という臨済宗の寺として生まれ変わることになり、北条氏の庇護を受けることになった。     【天台記】



うーん。

瑞巌寺さんにおりますときは、ここで時頼公と宋より戻った僧が出会ったという記述を読み、ただ単になるほどなぁ、と思い、こんな遠くまで移動する昔の人に思いを馳せてすごいなぁと思っただけであったのですが、実はそういったことであったということを知るのでありました。
お武家さまのなさることは┉。(*´;ェ;`*)

ですが、この詳細、歴史的背景をを知ったことで、突如として改宗し、寺の名まで変えた意味を正しく理解することとなりました。

No.50 21/03/15 05:55
旅人さん0 

【瑞巌寺】さんについてここまで書かせていただいて┉。
宝物館に安置されている円空の仏さまのお名前を間違えてはならないと、〖瑞巌寺円空佛〗と検索すると、瑞巌寺さんの公式ホームページがありました。
おお、ありがたい!
ありが┉ありが┉ありがた過ぎるページを発見いたします。
瑞巌寺さんの御本堂の中を3Dツワーなるものであります。開いてみますと、な、なんと!
瑞巌寺360度映像3D参拝ツワーということで、御本堂内を映像で拝することができるではありませんか!

(´;ω;`)
ああ、まぁとりあえずあってる。
あってることはあってたけれど、なんと拙く、しかもあちこちに話が飛んでいることか┉。


私の拙い駄文でお目汚しをいただいた方々におかれましては、【国宝 瑞巌寺】という公式ホームページをご覧いただき、3Dツワーというところをお開きいただければと思う次第であります。
きっと私が何を書いていたかがご理解いただけると同時に、その素晴らしさに心洗われること間違いなし!であります。

No.48 21/03/14 05:34
旅人さん0 

【瑞巌寺】の正式名称は【松島青龍山瑞巌円福禅寺】というのだそうです。
┉認知症予防┉ではなくて認知症進行防止のために暗記して三回繰り返すと良さそうな気すらするほどなかなか長い名称であります。
衰退していた円福寺の再興に尽力した伊達政宗公が慶長13(1608)年、寺名を瑞巌寺と改めた際、前身となる円福寺に敬意を表してその名を織り込み残したのでしょうか。

その政宗公が、紀州熊野から取り寄せた木材を使い、京都から宮大工を呼び寄せて造られたもの。政宗は宮大工に対して、土足を禁じ、誤って落とした釘などは使ってはいけないと命じ、造らせたという瑞巌寺。
慶長9(1604)年から約5年かけて造営し、完成したもののようです。
とはいえ、さすがに経年の劣化を止めることは出来ません。
経年の劣化を修理修復して、耐震補強もしようということで行われた【平成の大修理】は2009年9月から約7年間の工事を終えての今現在であります。
今回の平成の大修理は地盤沈下による建物のゆがみなどを直すことが目的で、瓦や壁、建具の解体・修復、さらに耐震補強工事なども行われる大がかりなものであったようでした。
大屋根の瓦は5万枚以上あるうちの約3万枚を新たに葺き替えたそうで新たな鬼瓦をのせたようです。
鬼瓦は創建当時のものを再現して作成されているとのことですが、屋根が高くて双眼鏡でも使わないと見えはしないのではありますが。

その、かつての鬼瓦が宝物館の入口に展示されていました。
大きい!
ですがその大きさは想定の範囲内のものであります。
その繊細さにびっくりいたします。高級なケーキにのせられた繊細なバラの花弁を思い出すような鬼の前髪です。
うわぁぁ。
その繊細さにびっくりし、さらにはそれがなんと長きにわたり、海辺の風雨や熱い日射しにさらされ、雪の重みに耐え、今現在のすがたであることに驚愕いたします。屋根瓦ひとつにも政宗公のこだわりと当時の職人さんの努力を思い、思わず手を合わせ拝んでしまいました。

後に、当時、瓦屋根の本堂は大変珍しいものであったにもかかわらず、政宗公がどうしても瓦屋根にしたい、とこだわられたものの一つであったことを知りました。



はああ。



No.47 21/03/13 05:32
旅人さん0 

入らないで次に行こうとしていたのではないのか?
┉ハイ。

┉ほんっと、手綱をとるのが上手い夫でよかったぁ。
そう、そして本当に手綱をとるのが最高に上手な夫は、“入らないで次に行こうとしてたんじゃないのか?”などという言葉はおくびにも出さずに、つかず離れず歩いてくれていました。



ここには、修復前の瑞巌寺の板戸絵であるとか障壁画であるとかも含めた什宝物の保存管理がされているようです。ただ、このコロナ禍、感染対策の一環で現在はそれをみることが出来ませんでした。
それを観られなかったにしてもなおあまりある宝物が、展示されつつ、より良い状態で保存管理されています。
経年の劣化を少しでも遅れさせるしっかりとした管理は、後世につなぐためにもありがたいことであり、普通はしまわれていて一般の参拝者などは一生涯目にすることなどない什宝物を拝見することができるという利点もあり、本当にありがたいものなのですね。
┉ハイ、私の場合は夫にも感謝、です。

本来でしたら一年に一度しか拝することのできない【涅槃図】も展示されており、このコロナ禍という状況下で、もしかしたら最初で最後の参拝となるかもしれない私には、ありがたいありがたい宝物管理でありました。
こちらの涅槃図はかなり古くて、瑞巌寺の前身であった【宮寺】【円福寺】当時のもののようです。
一時は無住の寺にまでなっていたこちらに、よくぞ残っていたものであります。経年劣化は否めず、目をよくこらさないと涅槃図であることにも気づけなかったものとはなっておりましたが、一人一人の人物、一体一体の動物が大変細かやかに丁寧に描かれたものでありました。


今年の涅槃会はコロナのために、一般の参拝者どころか檀家の方に向けての法要すらをすらを取りやめたお寺さんがほとんどでありました。
雨のそぼ降る二月十五日、自宅で静かに写経をして過ごしながら、今ごろは御本堂の室中孔雀の間に移され、お祀りされているであろう、瑞巌寺さんのこの涅槃図を思い浮かべました。
私の誕生日ということもあるため、有休をとった夫は、雨の降る空を恨めしげに見上げたのち、ともに写経をして過ごしました。ともすればたいそう暗めの誕生会でありますか。
プレゼントも【石仏・石の神を旅する】という本。
┉珍道中夫婦らしいでしょ( *´艸`)

No.46 21/03/13 00:28
旅人さん0 

宮城県宮城郡松島町の【瑞巌寺】さん。
あまりの素晴らしさにまるで気が抜けたように御本堂をあとにし、庫裡の玄関を出ました私。
庫裡を出てひだりてには、なにやら小高い丘のようなところがあり、そこは天然の岩屋を利用して加工したものなのか、そもそもが岩肌なのかなんなのかもよくはわからなかったのですが、小高い丘をすぱっと削ったかのような壁面に、建物をはめ込んだような不思議な場所があるのです。
そこがなんなのか、今現在使われているものなのかどうかすらもわからなかったのですが、┉不思議な場所があったことだけ、記しておきます。

庫裡の正面には、宝物殿があります。ガラス張りのいかにも新しそうな建物です。お寺の中の宝物殿。なんだか御本堂での感動が薄れてしまいそうな気がして、次に向かおうとしたのですが、夫に
「仏像もあるかも知れないよ」と言われ、しぶしぶ入って行ったのですが、おおっ!
大きな大きな木彫りの御釈迦様がおられるではないですか!
┉いつものことではありますが、我ながらなんと現金な。
この感じは円空さまの彫られたものでしょうか。それにしても大きい。
欅の根株を用い彫られたものということであります。獅子の背上で、蓮台に坐る釈迦如来像を彫り出しています。
円空さまの彫られた仏様はどれも一気に彫りおこすものですが、この御釈迦様は頭部の髪や蓮台には細かな彫りがなされています。そして┉円空仏の特徴である、まるで微笑んでいるようなお優しい表情をうかべておられます。
ただ、お痛わしいくらいに肩から袈裟懸けに大きなひびがはいり、胸と右腕から左の腹部から膝にかけて、削られたようにお傷みになられてしまっていました。
うろうろと円空さまの釈迦如来像にまとわりつくあやしいおばさんを見かけたかたがおられたら、それは私だったかもしれません。

ようやく円空仏から離れると、こんどは不動明王さまの御像が見えてまいりました。左右に愛くるしい表情の矜羯羅(こんがら)・制吒迦(せいたか)童子を従えています。
なんでもこちら【五大堂】の秘仏五大明王像(平安時代・国指定重要文化財)の御前立であられるのだそうで。
お不動さまも大好きな私。またまたしばらくここをうろついたのはいうまでもありません。

No.45 21/03/11 23:57
旅人さん0 

三月十一日が巡ってきました。
東日本大震災の発生した日。
何を書いても偽善のように感じ、自己満足でしかないように感じて、書いては消して過ごしました。

今日、十四時四十六分、私はひとり仏壇もどきの前で黙祷をしました。
ろうそくを灯し、お線香をあげました。
その後、東北の地に、海につながった空を見上げたくて外に出ました。
┉外はびっくりするほどに静まりかえっていました。
車一台通っていません。
無音の、静まりかえった空間に、雲一つない青空が広がっていました。

みんな、思いはひとつだったのでしょう。


十年経ったといえ、それはあくまでも通過点に過ぎないということ。
今を生かされた者として、しっかりと生きていかねばならないと思いをあらたにした日でありました。


No.44 21/03/09 19:29
旅人さん0 


仏間の隣にあります【羅漢の間】。
羅漢の間の前で、私は少し違和感をおぼえました。
他の〖間〗と呼ばれている部屋とくらべて、どうにも手狭な印象を受けたのです。
こちらには、伊達政宗公・忠宗公に殉死した家臣のお位牌が安置されています。お一人お一人のものではなく、奥の二基一対のお位牌は政宗に殉死した二十名、手前の二基一対のお位牌は忠宗公に殉死した十六名の法名が刻まれています。
そもそもが羅漢の間でありながら、お位牌と、中央に不動明王像。
羅漢さんたちがお祀りされている様子はありません。
こちらに、こうして書きながら、どうにも気になったのでGoogle先生に聞いてみたところ、こちらの羅漢さんは明治以降に壁に描かれたようです。それ以前になんと呼ばれていたのかはわからないのですが、もともとはお位牌を安置する間として、そのような呼び方をしていたのではないかと、勝手に推察する私でありました。

続く【墨絵の間】は住職の応接室であったようです。
こちらも他の間と異なる印象を受けるのは、墨絵の古くてくすんだ印象だけでなく、むしろそこが唯一、使い勝手のよい、使われていた印象を受ける部屋であったからであります。
そして、金色のなかにそれはそれは美しく咲く、満開の白と黄、紅色の菊が描かれた【菊の間】は、御殿医の控えの間であったとか。
うーん、お寺に御殿医の控えの間までありますか┉。
すごいなあ。


私たちは、ちょうど、もともとなされていた修復も、東日本大震災による被害の修理修復も、地蔵堂の建設も、すべて終わったときに参拝したことになります。
金箔の襖の金色がもっとも美しい盛りであったかと思っています。

たましいが抜けたみたいにふらふらとまわらせていただきましたので、見落としたところがあるような気がしてなりません。
はああ┉。

No.43 21/03/05 22:18
旅人さん0 

さらに進むと、【上段の間】。その横に【上上段の間】。
┉やっぱり、ここは少しお城の様式を取り入れている?それともやはり一国の大名の建てたお寺さんはこういったもの?
上段の間は藩主御成の間であり、一段高いところに藩主さまの座る間が設けてあり、そしてそのむかって左側にある上上段の間は藩主の席よりさらに一段高くなっていて、藩主よりも位の上の、将軍であるとか天皇陛下がお越しになられたとき御迎えする間であるとされていると言われています。
┉この前テレビで観たなぁ上上段の間。
それを┉ここ瑞巌寺さんで拝見することになろうとは、思ってもいなかったことであります。
私が、本堂を真横から見渡せる、開門された中門をくぐることすら躊躇ったのは、自分の身分をそのくらいであるということを肌で感じていた、ということなのかなあ。

その、上段の間の隣に仏間。
そして【羅漢の間】、さらに隣の【墨絵の間】。
┉墨絵の間だけが妙に暗く、ふと気づいたことは金箔ではない襖であるということで。他の間がすべて金色の間であったからかと思ってみても┉うーん暗い?
いやいや、襖自体が古くて、経年により表面の一部が薄く剥がれ、何より全体がくすんでいるのです。もしかして┉、造られた当時のもの⁉
か、どうかも聞けぬまま、振り出しの松の間が見えてまいります。

その、回廊で隔てられた向かいの中庭には、枯山水の庭が設けられており、なんでも、ここでは松島湾をイメージしたもののようで。

細部の細部までこだわり抜いた瑞巌寺さんであります。私はといえばそんな瑞巌寺さんに終日圧倒されているのでありました。


┉この瑞巌寺さんでは、庫裡を入ってすぐから写真撮影禁止ゾーン。
まもなく四カ月前となろうかという東北の旅を思い出しながら書いております。
うーん、写真がないときつい、きつい!
まあ、これ以上にない、よい脳トレにはなっているとは思います。
私の記憶だけで書かれておりますので、間違いがありましたら、┉ごめんなさい。 

No.42 21/03/05 14:07
旅人さん0 

絵にも描けない美しさ、とは〖唱歌〗〖浦島太郎〗の一説であります。画才のある方であれば、この瑞巌寺さんの美しさも絵とすることもできるのてしょうし、文才のある方が書けばこちら瑞巌寺さんの素晴らしさも表現することはいくらでも可能なのかもしれませんが。
如何せん、この日本語すらおぼつかない、さらには認知症の始まりを疑うような私でありますので、どうにもこの瑞巌寺さんの素晴らしさを伝えていく術がない。ないくせにそれをあえて挑むので、すぐ脱線したり、行き詰まったりして、ただでさえ読みづらい文章が、読みとくのに努力を必要とするようなものとなってしまっていて、本当に申し訳ありません。


瑞巌寺さんの、法要が営まれるところであるという【孔雀の間】のむかってひだりの間は【文王の間】と呼ばれているところとなります。
こちらは伊達家一門、伊達家の親戚が使用したとされた部屋。〖文王〗という、┉まあ、日本の歴史も詳しいこととなると首をかしげるような私には一言で言わせれば中国の昔の偉い人、的な言い方にしかなりませんが、なんでもこの部屋の金の襖に描かれているのは、その名の通り文王をテーマにしているようであります。
文王の築いたという〖洛陽城〗を遠くに見やる絵があって、右側には文王と〖太公望呂尚〗の出会いの場面、左側にはその時代の狩りの場面が描かれているのだとか。 うーん、太公望は聞いたことがあるな。などと書いているのが夫や子供たちにバレたら、どんなに嘆き悲しまれることか。
まあ、ここは等身大の私が書いておりますので、お読みいただく方におかれましても、┉ああ、やはりそんなレベルのやつか、と流していただければ幸いです。





No.41 21/03/04 15:48
旅人さん0 

ちなみに┉さすがにこの目の眩むような金色の襖絵、建立当初のままではなく。当時のものに忠実に忠実に再現されたものであります。


┉あの東日本大震災のとき。

瑞巌寺さんは実は道路を隔てて海岸、という立地にありながら、津波の到達したのは総門から杉並木のある参道までであったという、まさに奇跡のような被害状況であったのだそうです。
杉並木は、津波の前は今の何倍にも杉の生い茂るものであったといい、塩害で立ち枯れてしまい今のような青空の見渡せる参道になってしまったのだということです。
そして。
その杉並木の途切れるころ見えた新しそうな地蔵堂。
その地蔵堂こそが津波の到達点であり、鎮魂のために建てられたものであったのだそうでありました。
┉地蔵堂にはそんな云われ一つ書かれておらず。
普通に手を合わせいつも通りのお参りをしただけで通り過ぎてしまった。


さらには、ちょうどその時大改修工事のさなかであった瑞巌寺さんは、屋根の瓦をすべて下ろしてあったために、そういった被害も免れることができたのだとか。 
┉何か大きな大きな力がここを護ったのでありましょうか。


被災当時、参拝の方もおられ、直ぐ様、全員の無事を確認してまわり、ここの被害状況、他の被害状況も明らかではない被災当初から、ここ、瑞巌寺を避難所として解放し、お寺にあるもので炊き出しなどを行ってくださっていたということ。
私は帰宅後ネットで調べてあらためてそういった事実を知りました。


♪松島のサーヨー 瑞巌寺ほどの
 寺もないトーエー

と唄うのは【大漁節】。


本当に。
┉本当だ。

No.40 21/03/04 15:11
旅人さん0 

金の襖、金の襖と書いてはおりますが、角のお部屋には松の絵が描かれています。何畳あるのか、┉もはや魂が抜けたような状態の私はそんなことまで考えたりすることなどできる状態でなく。
とりあえず、お部屋にまでは入ることはできないので遠くからではあるのですが、遠くから見ても松の葉の一本一本が生き生きと描かれている絵が描かれているのです。こちらは松の間といい、あとで知ったことによると茶道衆の詰所なのだそうです。はあぁ。

その隣の家来の控えの間は鳥が描かれていました。
近く描かれているもの、遠くに描かれているもの。
様々な立ち姿で描かれていました。
┉建物の中は庫裡からすべて、写真撮影は禁じられており、なんの鳥の絵であったかと調べたところ、その鋭い眼光といったら!
これがまた実にリアルな絵であります。

はあぁ。

┉まあ、でもこちら瑞巌寺さんが、どれだけ重厚で上品な建築である学習いたしましたので。先に進むことにいたしました。
!┉!!

ここで私は、やはりこちらは間違いなくお寺、寺院であることをしかと実感いたしました。
先ほどの外から拝した、御本堂の建物のちょうど真ん中、御本堂の中心にあたります。
そう、こここそが本堂の中心であります。


ひ、光輝いている~ぅ‼

その部屋に至っては、なんと床まで光り輝いております。とはいえ、床が金箔とかではなく、例えるなら┉例えば群馬県桐生市の宝徳寺さんの、あの、床に映す逆さ紅葉のような感じで、その襖の金色が映って、床までが光っているのです。
まばゆいばかりの御本堂。

はあー。


ちなみにこちらは孔雀の間、と呼ばれているそうで、ここで法要が営まれるのだそうであります。


No.38 21/03/01 19:40
旅人さん0 

廊下だけでこのドキドキ、であります。

が、はっと我にかえり、その横にある部屋に視線を移すと、目に飛び込んできたのは、金色に煌めく襖。
はあぁぁぁ。
金、だあぁ。初っぱなの角部屋から金の襖!
思わずそこから目をそらすように上を見上げたところ、そこには欄間があり、その欄間は欄間で、松のあの細かい枝葉まで細かに彫られた、芸術品でしかない彫刻がはめ込まれているではないですか、、、。いまにも動き出しそうな鳥とか。
ここは┉日暮の舘?
なんだかもうふわふわと、出口に向かわないといけないと、本能が訴えているかのように、ふわふわと歩き。
それでも隣の間に再び目をやると、金。
まあそうですよね。初っぱなの角部屋から金なのに、その隣に進んでいきなりわが家にあるような普通の襖なんてあり得ない、金の次は金。
しかも先ほどの部屋よりも数段広い!
┉控えの間?家来の方の控えの間?
控えの間┉。
あれ?┉ここどこでしたっけ。
お、お、お、お寺、だった気が┉。
お、お、お城?

家来の控えの間┉。



No.37 21/02/27 06:05
旅人さん0 

┉。

┉庫裡に入れるようなのでと、あくまでも庫裡に入っただけだった私。その庫裡でももうすでに圧倒されるくらいの感動をさせていただいておりました。
それがいきなり御本堂の中!
心の準備がまるでなかった。


いきなり現れた、磨きぬかれた美しい広い廊下!
すべすべで、そして柔らかく良い色に光っています。現代の人工的に作られた板とはまるで異なりますもの。ただ現代の人工的な板と一つだけ共通するものがある、というとなんだかもう叱られてしまいそうですが、節目等が一切なくて歪みや撓み等なく、あくまでも平らかである、ということ。
人の歩いたあとが少しづつあとが残ったりとか、減って少し凹凸、とまではいかなくても少しづつの目減りとかも一切感じられない、建って十年経つか経たないかみたいな美しさなのであります。
┉いきなり迷いこんだ御本堂(あくまでも私だけ)、一歩も踏み入れもしない廊下ですでにこの感動!
語彙力のない、文才はさらにない私の筆がどんどん遅れていった理由はここにあったかもしれません。
改修工事こそ行われてはいるようですが、この廊下を張り直したりはしていないよう記憶しているのです。
どれだけ、伊達政宗はここを建てるにあたって様々なこだわりをもって建てたというのか┉。

だって、伊達政宗公って、江戸時代の人ですよ?
それも厳密に言えば、江戸時代となる以前に生まれていて、あの関ヶ原の頃には立派に伊達家当主であったはず。そんなはるか昔の方ですよ?
その方が建てた建物ってことですよ?
それがこの廊下!
このクオリティーの高さ!

田舎の貧乏人であばら家に住む私には廊下だけでもう平伏すレベルの瑞巌寺の建物であります。┉というか、外観ですでに圧倒されていましたですね、はい。




┉と、綴っている今、足利市の山林火災の消火に向かうヘリコプターの飛ぶ音が聞こえてまいりました。ようやく明るくなり出した空でありますのに。
┉足利市、桐生市、両市で発生している山林火災の消火にあたってくださっているすべての方に感謝いたします。そして疲労が貯まってきておりますのでくれぐれも体調にお気をつけて、怪我などのなきよう、ご無事をお祈りします。祈ることしかできません。
なんだか自分が本当に無力でちっぽけな存在であることを思い知らされている気分で過ごしています。

No.36 21/02/23 05:28
旅人さん0 

また門があり、そこをくぐると大きな庫裡となるのですが、どうやらその庫裡には入ることができるようです。
と、足元を見ると大きな平らな石が埋められて敷石となっているのですが、その表面が不自然にそれはそれはたくさんキズが付けられています。鑿?とかでガツンガツンと表面が平らかでないように加工されていました。┉雪対策?凍ったときとかに?何らかの効果があるのでしょうか?
誰に聞くこともできずその効果はわからないままなのですが、なぜか私にはとても印象に残っておりましたので書いておきます。

庫裡に入ると!
いきなり大きな観音さまがそこに。
圧倒されるのは大きさなどではありません。それはそれは美しい色彩をされた、金色に輝く光背と冠や衣。真っ白でそれはそれは清らかなお顔の聖観音さまのお姿であられます。
お美しい。しかも無造作になんら囲いもなくそこに、庫裡に入ってすぐのところに、┉言葉をあえて選ばなければ置かれているのです。
はああぁ。
「高村光雲の作だって。素晴らしいねぇぇ。」
瑞巌寺に圧倒され普段の私でないことに気づいているのかいないのか、夫が小声で話しかけます。ほおぉっ。
あの、安達太良山の┉。
いやいやこれは東北に向かって来るときに曇って見られなかった安達太良山は全くここには関係ないのですが、高村光雲といえば高村光太郎であり、あの智恵子抄を思い浮かべる年頃の私達でありまして、その中のひとつの詩がつつっと頭に浮かんでしまっただけなのですが┉。

素晴らしい。
そう、それは美しく清らかな観音さまの御像です。┉作品ではないですね。観音さまであられます。それは高村光雲作であろうがなかろうが、ただただ観音さまであられます。素晴らしい、というよりやはりありがたい、であります。
またまたさらに圧倒されて歩をすすめました。
曲がり廊下を進むと、そこは┉!

御本堂ではないですか。

No.35 21/02/23 04:56
旅人さん0 

【瑞巌寺】さんに話をもどします。
【中門】、という太鼓塀につながる門が大きく開け放たれていました。そこに入っていいものかどうかをなぜかためらう私がおりました。┉この図々しさを絵に書いたような、おばさんの中のおばさん!という私が、なぜ?
他の方も入っておられるのですし、そもそもが扉が開けられ足止めのようなものもなく、ためらっている自分自身にむしろ驚きを感じためらうくらいであります。
でもきっとそれは、門の外からですら圧倒されるような御本堂の威風であったのでありましょう。
はあぁ。
敷きつめられた白い砂利には枯葉一枚落ちておらず、まるで常に均しているかのようにみえます。目の前にひろがる御本堂はその所々の戸が開けられていますが、やはり圧倒されて側によることすらできない私。
その威風堂々とした御本堂、横に四十メートルあるのだそうです。
御本堂に圧倒された私は、ただ立ちつくして、まるでお白洲にでもいるかのよう。
国宝指定の御成玄関も南蛮鉄燈籠も遠くからただ見つめるだけで、私がここにおることすらなにか罪のように思え、そおっと中門を退出したのでありました。

┉ここは、さきの津波による被害はどうだったのだろう。
海岸は目と鼻の先です。そもそもが震度も凄まじかった地であります。
不思議なくらいに、たぶん元のまま、なのだと思われます。
とはいえ、私は初めてここに訪れたものであり、さらにはさきの東日本大震災からすでに九年の年月が流れてはおります。
あくまでも、そう感じた、というだけなのですが、そう思わせるくらいに、古くからの年月の重みを感じさせる瑞巌寺御本堂でありました。

いつもの私であれば、もしかしたらもう二度と来られないかも知れないところを訪れたのですから、少しでも多く見て感じて行こうとするのですが、少しもそうならなかった不思議は、まああとになって後悔となるのですが。

中門を出たところには岩に腰掛けたお姿の観音さまがおられます。
この観音さまは灌水観音さまとおっしゃるようで、右手に小さな水差しを持ち気だるげに腰のあたりにその手を置いておられます。
こちらの観音さまが松島、瑞巌寺に何かあったときにはお水を調整してくださっておられるのでしょうか。

No.34 21/02/15 09:25
旅人さん0 

十三日深夜の地震の影響で、宮城県仙台市にある伊達政宗が眠る霊廟(れいびょう)、【瑞鳳殿(ずいほうでん)】で、全体で220基以上ある石灯籠など約100基が倒れるなどの被害が出たというニュース映像が流れました。先の震災時はほとんどが倒壊。その後、耐震補強を施していたものがまた半数ほどが倒れてしまったということです。

瑞鳳殿によると、最も古い灯籠は伊達政宗が亡くなり作られた約385年が経過したものだということで、本殿や伊達政宗の木像、境内の石垣や石段には被害はなかったようでした。本殿の地下3メートルに伊達政宗公の墓室があり、埋葬されている遺骨も無事とみられています。

今を生き、十年かけてようやく立ち直ろうとしておられた方々を再び襲ったこの震災であります。
福島では余震が続いているとの報道も耳にしました。
水が止まり、この寒さのなか停電している地であります。
道路や線路が寸断されてようやく家に帰られた方もおられたと聞きます。
過去のものについて嘆いている場合でないかとも思ったりもいたしました。
それでも、胸が痛みました。
戦災で失われて、ようやくここまでに甦らせた瑞鳳殿であります。さらには先の震災でそのほとんどが倒壊しようやく戻したところでこの被災でありました。

この寒さのなか、ましてやこのコロナという悪疫が全世界を襲ったあとであります、この度東北を襲った大きな地震による被害。

┉神や仏はおられますか?
おられてここまでにとどめてくださっているということですか?


どうか、どうか、この地震の余震をお鎮めください。
どうか、どうか、このコロナ感染症をお鎮めください。


祈る先も、神仏。

No.33 21/02/06 07:44
旅人さん0 

お地蔵さまは
『地が一切の宝を含蔵するごとくに一切の徳を含蔵するもの』
その役割は釈迦入滅後、弥勒菩薩が世にでるまでの間、一切の衆生を永劫に救済することを本来の誓としている。その救済の範囲は人間界に限らず、〖地獄〗〖餓鬼〗〖畜生〗〖阿修羅〗〖天〗の各界全てにおよぶもの。
そこここにおられて、未熟な私を救おうと手を差し伸べてくださっている。お地蔵さまが微笑んで見守っていられるくらいに穏やかに生きられたらと思うのですが┉。

紅葉した木々をバックに私を見おろして微笑んでおられたのは延命地蔵さま。
ここから先、拝観料を納めて進むことになります。心を整えて、御仏にお会いいたすこととしたいものです。が┉、ここには私の物欲をくすぐる授与品が数多く並んでおり、唸りに唸って、御朱印だけにいたしました。そのくらいで自分で自分を褒めてしまうから成長しないのだな。┉。


先に進むと、格子戸のはまった岩窟が見えてまいりました。その前には石碑に爪弾くように描かれた観音さまがお二人。
なんでもこちらの岩窟は鎌倉時代に宋より戻ったという僧がここに遁世していたのだとか。そしてここでその僧侶と時の執権北条時頼が出合ったのだと伝えられているようです。
船と馬くらいしか移動手段のなかった時に、ここまで来るのに大騒ぎする現代人(私)もおるというのに、昔の方は驚くくらいに遠くまで赴いているものであります。

ようやく、私の思い描いていた瑞巌寺さんに近いものとなってまいりました。┉たしかに THE、観光地 なのではありましょうが、やはり寺院はそれに毒されてはいけないよな、などと勝手に思う私であります。

そして、白い太鼓塀が見えてまいります。その向こうに巨大な伽藍が甍を連ねているのが見えます。太鼓塀というのは中が空洞であることからそう呼ばれるのだとか。
このあたりからはもう、瑞巌寺さんの重厚にして壮大な空気にのまれてただ溜め息をつくばかりの私でありました。

No.32 21/02/06 06:20
旅人さん0 

【国寳 瑞巌寺】と彫られた大きな石塔を道路反対側からあらためて見て思ったことは、お寺さんが建てたのではなく奉納されたのかもしれないということ。松島の名を全国に知らしめ、松島の象徴とも言える瑞巌寺が国宝に選ばれたことを誰もが誇りに思いうれしくおもったことでしょうし。
参道にはお店が並んでいます。┉。山門のまん前に、お店の前に置かれるような二つ折りになる小さな看板が置かれています。「ずんだ餅 TakeoutOK」やり過ぎでは?景観を損ねるようなものはできるだけ慎んだほうが瑞巌寺が瑞巌寺らしくあると、お店の方には誇りをもって思っていただきたい。
そして、これまた山門が見えなくなるくらいに山門に取りつけられた提灯を提げる木で作った提灯台が┉これはさすがに瑞巌寺さんによるものでありましょうが。

山門を抜けると、空を突くほどにそびえ立つ木々が、見上げて歩くのに景観として本当にこれ以上ないくらいの、まるで計算されたかのような間隔で並んでいます。うーん♥
先ほどのモヤモヤした気分など全て払拭されてしまうような参道です。
雲ひとつない青空に飛行機雲がすっと一すじ。
心が穏やかに整っていきます。

そこにまた、お寺であることを一瞬忘れそうな鮮やかで色とりどりの和傘が、地面にひろげられて空間を飾っています。┉それぞれの方の好みによるものなんですけど、ね。この季節、落ち葉の自然に散るさまも趣あるものだと思う私でありました。小さな地蔵堂がなんだか居心地悪そうにみえてしまいました。なにより目をひく和傘に気をとられて、地蔵堂に足を運ばれる方の少なかったことは本末転倒、なんじゃないかなぁ。

少し進むと見事に紅葉した木々をバックに微笑んで見守っておられるお地蔵さまがおられました。私の乱れた心を整えるかのように。
さすがお地蔵さまであらせられます。お地蔵さまは
『地が一切の宝を含蔵するごとくに一切の徳を含蔵するもの』

No.31 21/02/02 06:53
旅人さん0 

松島の街は、そこここに見え隠れする海がそれは美しくて。
青い空と。キラキラときらめく海の水面。なんて美しいものなのでしょう。
紅葉した並木が息をのむくらい素晴らしくて。┉それはもう何年も見ていなかった、赤は明るい赤で、黄色は鮮やかに色を変えた、鮮やかで艶やかな紅葉です。
そう、いつの間にか私の住まう辺りは、くすんだ赤や白っぽい黄色の紅葉となっていました。温暖化、なのでしょうね。ひさしぶりに本当の本物の紅葉を見させていただくことができました。
そこここに咲く草花の無造作にひろがる大地すらが、美しく見えます。
そこに生える植物の種類は、東北と関東でさほど変わらないのだろうけれど、それでも、海無し県の群馬県と海風の吹き抜けていく松島とではまた同じ植物であっても育ち方が異なるかも知れないし。┉何より走れる車の窓からの流れゆく景色のなかの草花で、そんなに見えてはいないのだけれど。
┉あの津波に飲まれた町に、なんということの無い草花が生えていることに、感謝のような感動が私のなかにめばえていたのも確かであります。

そんないつまでも見ていたいような景色のなかを走り、やがて見えてきたのはいったん通りすぎた、白い船が並んだ海岸と、その反対側にある【瑞巌寺】さんであります。【国寳 瑞巌寺】と彫られた大きな石塔。
う?うん?
えっとぉ。
┉どうやら、私が幼少の頃から勝手に思い描いていた瑞巌寺とは少し、趣が異なるのかもしれません。でもそれは私が勝手に思い妄想したありもしない瑞巌寺。やっとのこと空いている駐車場に車を置くことができ、あらためて瑞巌寺さんへと向かいました。






No.30 21/02/02 06:27
旅人さん0 

┉今も┉二度。
松島瑞巌寺についての文章が、消え去ってしまいました。

立ち直りもう一度と思い書き出したものまでが。(*T^T)


突然固まって、登録画面になってしまう。
止められないし、戻れない。

コピーしておかなくちゃと思う頃に、先回りされる。

これは┉また少し立ち直るのに時間がかかるのでありました。
┉未熟者です。(´;ω;`)

No.29 21/02/01 18:10
旅人さん0 

松島~東松島間を結ぶ道路はたいそう整備されていて、しかも高速での走行となる、┉もしかしたら高速道路の無料区間で、これほどの道路が何故無料で走行させていただけるのだろうかと、首を傾げることしかり。
気持ち良さそうに車を走らせる夫。
でも┉もしかしたらここは、あの震災のとき、被災された方々に物資を輸送するために必死に復興し、なんとかつながった道を多くの車がひた走った道なのでは┉。

どうしても来たかった、来ずにはいられなかった東北は、なにも語らない。なにも語らなかったです。語らないからこそ、心の声で聴き続けていかなくてはいけないとあらためて思いました。


何より、いまだ行方不明の方が2529名おられる現実。
折しも今日、テレビで、海上保安庁の方が行方不明の方を捜し海に潜る映像が映し出されていました。それを見守る御家族の方。
┉言葉になどできません。

今年、十年目を迎える東日本大震災。
忘れられることなどない未曾有の災害であります。

私は東北産の食品を積極的に購入するくらいしかできませんが、そんな消極的な形でも東北の経済をまわす力になれば、と、無い頭で考えられる一つの手段です。

No.28 21/01/29 05:41
旅人さん0 

┉私の操作に何らかの問題があってのことか。
はたまた息子に初のお給料で買ってもらったタブレットが、乱暴者の使用により病んでしまっているのか、考えたくはないけれど老いたのか┉。
最近、よく立ち止まったまま動かなくなったり、文字を入力していたまさにその途中でキーボードにあたる文字列が全て消え去って入力できなくなったり。なぜだかワープを覚えて、私が書いていたものすべてを消し去って初期画面に戻っていたり。
その度に怒り、哀しみ、落ち込んでおりますが、特にこの東北編は、鎮魂の旅でもあったため思い入れが深く強いので、立ち直りにもたいそうな時間がかかるのでありました。できれば、あのきらめく時を、東北の素晴らしさを、できるだけ再現したいと思っていたものだったので┉。
気持ちを立て直すのに時間をおいて、はたと気づきました。
そんなことをしていたら私の記憶な方が薄れてしまうではないか!

┉だいぶ薄れた記憶との戦いに挑むことになってしまいました。
稚拙にして文章力のない私なりに、ではありますが、自己満足でしかありませんが、あの時の感動を一つ一つ書いていこうではないかと思い、再チャレンジしようと思いました。

タブレットの調子は相変わらずであります。新しいものに買い換える気は今はありません。このタブレットの老い具合は私のそれとおんなじで、いい二人三脚をしている気がして。
あまりにヒスる母親に、同居の息子がiPodを買ってくれたのでiPodの速さを知ってはおりますが、それはそれで私の無能さをも知ることとなり。

このタブレットと二人三脚。
夫との二人三脚。
どこか似ていて、哀しくもありいとおしくもあります。

No.27 20/12/29 12:49
旅人さん0 

┉松島基地のすぐそば、だからといって、離陸するブルーインパルスが見られるわけではなかったようで。(;ω;)
そもそも、あの基地の駐車場に行ってしまったタイムロスもあり、すでに離陸をしてしまっていたようでありました。

さらには、基地のそばで飛行訓練をおこなうわけではないようで。
遥か彼方の空に白煙のあとを見ることができるくらいで、機影すら見えないのでありました。

それでも。
松島基地のそばの土手から、ブルーインパルスの飛行している辺りを無言で見守る人たちのなんと多いことか。
誰もが無言で、ただ空を見上げています。

┉ここ、松島もあの東日本大震災で、震災と津波の大きな被害を受けた地であります。
夫いわく、松島基地も大きな被害を受け、あの大空を駆けめぐるジェット戦闘機も被災したということでありました。
今、初めて訪れた東北の地は、その傷跡を見事に乗りこえ立ち直ったように見えもいたします。
ですが┉心に残る傷は消えることなどありません。
ただ、それを感じさせることなく、笑顔で過ごされる方々がそこにおられる。
道路を走っていると、【津浪到達点】などの看板があります。
それは想像していた以上に高くて┉。
あの恐ろしい、でも事実でしかない津波の映像がよみがえります。
忘れられない方々の住む地で、あの恐ろしい現実を忘れることはありません。
私の目に見える場所の復興は済んだ┉進んだかにみえても、生活する場所場所に置いての復興はわかりはしないことで。
何よりも被災された方々の心に残った傷を、忘れてはならないのであります。

あの日を、あの時をむかえるときまでは、歓声をあげ見上げていたのかもしれないブルーインパルスを、今、無言で見上げる人たちと共に見上げて、あらためてその傷跡の大きさを思いました。

そんな思いで見上げていた空から、いつのまにかブルーインパルスが基地に帰還しておりました。
基地内のトラックをゆるやかにまわって、乱れなく整列したブルーインパルスに、私も感動で言葉を失い、いつまでもみつめておりました。
気づくとまわりにいた人たちはほとんどおられず。
寒そうに身を縮める夫がそばに立ち尽くしておりました。


No.26 20/12/28 05:59
旅人さん0 

青空に描かれた白線を見上げながら、その白線を描く機体が飛び立つ勇姿を遠巻きではあれまもなくこの目で見ることができると、まさに胸ときめかせて到着した私。

ゲートに立つ若い自衛官に話しかけられたものの、その後は他の車輌の対応をされていて、次の言葉はなかなかかけられることはなく、車の中で待機しておりました。ようやくこちらを向いて何か話しかけられたのですが、折からの強風でとばされて何をおっしゃっているかがわからない。
車を降りて聞くことに、こちらは国家機関の所有地で民間の車は侵入を禁止されているのでここには駐車できません、とのこと。
ひえぇぇ、国家の?法にふれてる行為だあぁ?
別の意味で胸がバクバクしそうです。
でもそんな民間人はたくさんおられるようで、すっかり慣れた様子で「ブルーインパルスをみるのは、今来た道を戻って┉あ、今ちょうど車が入っていったあの道を行くと車を停められるところがありますから、そこに停めてご覧ください。車屋さんのところを手前に入っていく道です」
と。

図々しいおばさんは、胸がバクバクするくらいの事態だとか思っていたくせに、せっかく自衛官と話すことができた機会を逃すことなく
「いつもご尽力くださり本当に感謝しております。先日の医療従事者への感謝飛行ではコロナのために日々闘ってくださっておられる最前線の医療従事者の方々はもちろん、私にも勇気を与えてくださいました。ありがとうございました」
とか言ってしまうのでありました。
┉そんな言葉より早く退いて欲しかったでしょうにね。きちんと笑顔で頭を下げて私どもを見送ってくださいました。
「なにしゃべってたの?」と夫。秘密~っ!

自衛官の教えてくださった駐車スペースへの道順だけはしっかり伝え、そこに向かうと┉ 何台もの車に驚き、轍の残り、穴すら空いた荒れ地に驚き、それでもなんとか一台停めるスペースをみつけて停車しました、ええ、夫が、ですが。(^^;

車を降りて見やると少し歩いたさきに土手がひろがっています。そこにはたくさんの人が空を見上げています。三脚も何体も見えます。
いざ!┉防寒具を。
防寒具なく過ごせる記録的な秋の日ではありましたが、さすがにここでは冷たい風が吹きつけていました。
やっとやっと、用意してきた防寒具の出番です。

No.25 20/12/06 08:40
旅人さん0 

次に向かったのは。
松島。

あの『松島や ああ松島や 松島や』と詠われた松島であります。
ちなみにこの句、私の子ども時分にはかの松尾芭蕉の詠んだものと言われておりましたが、いまはそうではなかったと言われていますよね。誰が詠んだものであろうと、松島といえばこの句を思い出させるといった意味ではこれ以上ない名句、なのではないでしょうか。

きらきらとのぼる朝日を受けて光る水面と見えてきた島の姿。
またまた声にならない吐息を漏らす私たちでありました。
これ、なんでしょうね、松島やああ松島や松島や、って。
語彙力のない私はとりあえずため息をつくのでありました。

おお、瑞巌寺さんです!
思っていたのとは異なって、狭い道を入っていくようにみうけられます。
瑞巌寺さんを通り越して┉ええ、松島といえば瑞巌寺と言っても過言ではないだろう瑞巌寺さんを通り越して。
通り越して、向かったのは、【航空自衛隊松島基地】、であります。


ええ、神社仏閣巡りではありません。瑞巌寺さんを参拝するよりも先に松島基地。
ごめんなさい。夫は好きなんですよ。こういった自衛隊の航空機とか船とかが。でもこの旅でそれをコースに入れておらず、前日ホテルで聞いてみたんです。松島基地へは行かなくてもいいの?と。
すると、
「自衛隊の基地に入るには何ヵ月も前から申し込む必要があって、だから行ったところで中には入れないし、ね。ブルーインパルスの練習も飛ぶかどうかもわからないし、行っても仕方ないかなって思ったんだ。それに俺しかおもしろくないだろうし」
┉やっぱりぃ?
「あなたの永年勤続記念の旅行じゃない!なんでそんなに遠慮するのよ。
やだやだ、そ~んなに恐いんだ、私。いいじゃん、行こうよ松島基地!私だって好きだよブルーインパルス」と熱く脅すように私に語られて、突如組まれた松島基地、でありました。
できればブルーインパルスの飛ぶ頃に。
ということで午前中の練習時刻に合わせて(夫は)車を走らせたのであります。

飛んでる、飛んでる!
時間より早いけど。

なんとか松島基地の駐車場へin!

「もしもし。」若い自衛官から声がかかります。おお!


No.24 20/12/06 07:09
旅人さん0 

塩竈神社さんの本宮境内は、まるでしんしんと降りしきる雪のなかに一人立ちつくす感覚にも似た、清らかなるものに囲まれているような、いつまでもそこにいたい感情というか感覚になります。
そう、まるで異空間。

雲ひとつない青空にそびえ立つ金属製の燈籠のその大きさ、その細やかな飾りにほうぅっと声にならない吐息がこぼれます。
でもあくまでもそれはそれであって。
こちらの神社さんの┉神さまの、気高い清らかな、それでいて私のような穢れた者も受け入れてくださる懐の深さに心を包んでいただいているような心地よさと身の引き締まる思いは、いまなおはっきりと残っております。


去りがたい思いを引きずって、次に向かったのは境内社というにはあまりにも大きな【志波彦神社】さんであります。こちらは優しいやわらかな気の神社さんでありました。狛犬さんがのんびり境内でひなたぼっこしているかのような、やはり居心地のよい神社さんでありました。
 

┉なんだかこちらの神社さんでのことを書くとただただ私の感覚ばかり書いておりますが、本当に圧倒されるものでありました。
門も大変大きくてそれはそれは立派なもので、中にはかなりイケメンの随神の左大臣右大臣さまがおられるのです。

語彙力のない人間が書いておりますのに、その者が言葉にならない感覚を書こう書こう、書きたいとあがいた結果がこれでありました。



志波彦神社さんの鳥居を出たところで、きらびやかな花嫁衣装と羽織袴のお二人がはち切れんばかりの笑顔で写真撮影をされていました。
そのお二人に会ってようやく人の世に戻ったような気がしたくらいに、神さまのお膝元に置いていただけていたようであります。

No.23 20/12/03 02:02
旅人さん0 

┉こちらの神社さんは┉
どこまでもどこまでもきよらかな気高い気に充ちています。
涙が出そうになるくらいに、澄んだ空間、┉雲ひとつない空と相まって、静かにただ静かに時が流れています。
建物がどう、とかいうものではありません。


こちらにお祀りされている神さまはいったい?
こちらの本宮は左宮と右宮とがあり、左宮にはタケミカヅチノカミさまを、右宮にはフツヌシノカミをお祀りされています。

タケミカヅチノカミさまとは国譲りの際、アマテラスの使者としてオオクニヌシと交渉をした神様で雷の神であり、地震の神とも言われ、地震を引き起こすオオナマズの頭を踏みつけ、地震を制御する役割も担っておられるのだといいます。
さらには、剣の神。タケミカヅチさまは、最も強い武神としてその名を知られる神さまであられるのだそうです。

タケミカヅチノカミさまは、日本神話最強にして最高の武神と言われているが、同時に正義の神であられるとされています。
その武力のみに頼るのではなく、忠義に従い、アマテラスから言い渡された言葉をしっかりと伝え、交渉し、それでも交渉が滞った時には、剣を使わず力くらべで解決されています。そしてそれが相撲の発祥とされているそうです。

剣神、武神、軍神、雷神であらせられます。

【御利益】
武道守護、殖産興業、国家鎮護、芸能上達、豊漁、航海安全、安産、病気平癒、厄除け、縁結び、延命長寿

とありました。
フツヌシノカミさまもまた武神で刀剣神にあらせられます。
【御利益】
勝負運に恵まれるので、絶対負けたくない試合・試験・交渉事
そのほか
家内安全、産業指導、海上守護、心願成就、縁結び、安産、勝運、交通安全、厄除け、体育勝運守
とあります。


そして。
かつてこちらは陸奥国正税の六分の一にあたる千石の歳幣を受けていたという全国的にみても大きな、特別な扱いをされてきた神社さんだということであります。奥州一宮という位置付け。
富めるものも貧しきものも、ここを崇拝してきた長い長い年月があって、神さまはその民にお応えしてくださっていまがあるのかと思います。




No.22 20/12/01 17:21
旅人さん0 

と、認知症の疑い濃厚なところを披露したところで、二日目は。
ジャーン。
ちゃんと覚えてますって。なにせ歴オタにして名ガイド、解説者の夫が、いろいろ考えに考えて立ててくれた計画に基づいているスケジュールなので。
ただ、長い名前が覚えられていないんですよね┉。

あとは助手席の魔導士が、唐突に案内板を読んでは突然そこに行きたがるものでついついあってもない計画になってしまうので、突然行ったお寺さんの名前がわからなかったり。
まあ、ふたり合わせてなんぼの初老の二人三脚、珍道中、ということで。┉おんぶに抱っこの珍道中ですよね、すみません。


あらためて二日目。
あの鬼滅の刃のどこをどうすれば聖地となるのかわからない、二人が向かったのは【塩竈神社】さんであります。字?ですか?
そんな二人が抱いた不安はまさかの密集。聖地って┉。
┉大丈夫、でした。
鬼滅の刃の聖地としての塩竈神社さんはとりあえず避けられたようでした。ですが┉聖地でありますことはたしかでした。
凛とした研ぎ澄まされた空気。
凛として、澄んでいて、音すら失っているんじゃないかというくらいに、張りつめた、それでいて泣きたくなるくらい優しい気に満ちた神社さんでありました。
一歩一歩歩くだけで邪念とか穢れが削ぎおとされていくかのような神域であります。それは夫も同じ感覚だったよう。
清らかな、ただただ清らかな境内。
雲ひとつない青い空。
胸のなかが空っぽになったような感覚です。

ここに来られたことを感謝し、お参りをさせていただきました。
願ったことはこの地に住まう方々が災害に合うことなく、コロナが流行することなく生活できるようにお守りくださいと、それだけ。
東北の神社仏閣ではずっとそう願わせていただこうと思って訪れました。私にできるもうひとつのことであります。
偽善と言われればそれまでのこと。
ただ私はそうしたい、そうしようと思ってこの地を訪れておりましたので。
まあ、こんな邪な人間が祈ることで、どれだけのご利益がありますことか。( ´-`)
でも祈らずにはいられなかった。┉自己満足?
いいんだ!
ずっと祈っていた。┉テレビの前で指を組んで。
ここで祈らずどこで祈るのだ。

あのとき犠牲になられた多くの方のために。



No.21 20/12/01 14:45
旅人さん0 

夫から出題されます。

最初に行ったのはどこかなぁ?
二日目はどこに行ったかなぁ?



すみません、覚えてないんですよ、びっくりするくらい。
いやいや本当にびっくりしている夫でして。

いやあ、秩父とばして東北編書かないとならない、切羽詰まった理由はそこにありました。


で、二日目。┉どこだっけ┉。

No.20 20/12/01 14:21
旅人さん0 

うっ。


なんという道?!

いやいや国道なんとかとかいう道路の呼び名ではなくて、その道幅にびっくりします。
すごーい!片道四車線!
私には走れないな。
すっごいなぁ、仙台!
東京とも千葉とも神奈川ともちがう、大都会がそこにありました。
ぐ、群馬県、ですか?群馬県には片道四車線なんてないと思いますよ、はい。
ましてや群馬県の片田舎の町に住む私たち。走行している夫も走りづらいようであります。ごめんなさい、絶対走れない。
そんな四車線をすいすいと車線変更して追い越しをしていく車の多いこと、多いこと!こわいよぉ。
まるで町のネズミと田舎のネズミのおはなしのようですね。

そして、実はもっと怖かったのが、実は青葉城の大きな大きな石垣。

ライトアップされているのですが、ね ┉蒼、なんですよ。蒼。
青葉城だから、ではなくて、おそらくは医療従事者さんへの感謝とエールの青。
でも、いきなり暗くなりかけた道に蒼い大きな石垣って立派なホラーでしたよ。怖い、怖い。
これはもっと穏やかな暖色のほうが石垣にも合っているし、医療従事者さんも喜ぶんじゃないかと┉。

怖かった。


そして、青葉城。
売店はかろうじてまだ開いていたのですが、辺りはすでに暗い。
伊達政宗公の騎馬像があるはずなのですが┉どこだろう。
うわぁ、青い。

青くて蒼い、青葉城。
あとは暗くて見えなかったです。
仙台の夜景はすばらしかったです。


ちなみに、青いライトアップはしばらくは続くもようであります。


私たちはもうおそらく二度とは見ることはないので┉ここにちょっと恐怖体験を書いておこう。(*`艸´)





No.19 20/12/01 13:51
旅人さん0 

そしてさらに准胝観音堂の裏手には、なんと、塔が見えているではないですか!おそらくは新しいものであるかとは思われます。創建当初のものは落雷で平安時代にすでに焼失しているようです。
「行く?」
もちろん!

早足が駆け足になって、夫から
「そんなに慌てなくても」と声がかかります。まるで子ども。

バックにジャーン!なんて効果音が聞こえそうなほど、威風堂々と立つ多宝塔がありました。大きな大きな多宝塔は昭和五七(1982)年1に落成されたものだということです。正式には「六大法身塔」であり、略称「大塔」と呼ばれていて、 大日如来さまをお祀りしているのだとか。お寺さんはもっと新しいものでしょうか。ロビーとかフロワーとかいう言葉が似合うお寺の庫裏でありました。
なんでもこちらの御住職は女性の方なのだとか。おしゃれな感じは御住職のセンスなのでしょうか。
日が落ちてきています。

青葉城に行かなければ!
また走り出す私に、もはや夫はかける言葉もないようです。


No.18 20/12/01 08:57
旅人さん0 

通路を隔てたところにもうひとつの御堂が見えます。
仙台【准胝観音堂】のようです。

その手前にまさに紅葉の見頃の、形のよい、大きな大きないちょうの樹があります。
その樹の下、外国人の親子がきれいに敷かれたいちょうの絨毯の上で戯れていました。すごーい。映画の1シーンのようであります。
見頃のいちょうにも、そのかわいらしい親子にも見とれてたたずむことしばし。
はっと我にかえって御堂に目を向ける私。夫はすでにお参りをさせていただいています。

こちらは仙台藩五代藩主伊達吉村夫人・長松院により准胝観音さまが寄進されたことを受け、六代藩主伊達宗村により延享2(1745)年に建立されたもののようです。朱塗りのかわいらしい御堂です。

准胝観音さまは延命、厄除けなどを司るといわれています。私の記憶にあります限り、准胝観音さま単体でお祀りしておられる御堂はこここぐらいだったように思い出せません。

准胝観音さまは准胝仏母(じゅんていぶつも)さま、七倶胝仏母(しちくていぶつも)さまともいいます。
もとはヒンドゥー教の女神であるドゥルガーで、シヴァ神の妃とされています。とても美しい姿ですが、神々の武器を持って魔族を倒した戦いの女神です。そのため本来は女尊であり、観音ではないという指摘もあります。しかし、ここでは観音として紹介します。



仏教に取り入れられてからは慈悲深い清浄をもたらす神とされ、七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)ともいわれています。これは遙か過去より多くの仏さまを誕生させた仏の母という意味です。
そのため、真言宗系では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられますが、天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類されています。不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。

ご利益といわれているのは修道者守護、無病息災、延命のご利益があり、安産や子供が授かるなどの功徳があります。


こちらもまた、やわらかい気の満ちた境内でありました。

No.17 20/12/01 05:39
旅人さん0 

仁王門をくぐると、小学生くらいの子どもの小さなグループがいくつか、自転車でだったり、秘密を隠しきれないで思わず笑ってしまって軽く小走りしている子たちだったり、ここは自然に子どもたちが集うお堂のようです。うーん、子どもたちが集うお堂ってすっごく好き❤
しかも大声で騒いだりしない子たちばかりです。お薬師さまのお足元で遊ばせていただいているという気持ちがしっかりと根づいているのでしょうか。

そしてその境内に漂う空気の清んでいてそしてやわらかいことといったら。なんて居心地のよいところなんでしょう。
ずっといたいような、何度でも、毎日でも来たいところです。
┉まあ、引っ越して来る以外、それは叶わないことですがね。
だから子どもたちが集うんだ。
見るからに優しそうな若いお母さんが、子どもの手を引きベビーカーを押してお参りに来ておられました。

政宗公はなんと素敵な空間をよみがえらせてくださったことか。


【陸奥国分寺薬師堂】さんは、御堂というには大きな建物でありました。大きな瓦屋根のどっしりとした御堂です。その御堂の扉が障子貼り、なんです。もう、どれだけ私を魅了するんだろう。狛犬さんも可愛らしいし。
そうそう、手水舎はなんとカエル!
カエルの水を使う手水舎は初めてかもしれない。
しかも暗くなってからでもお参りできるようにか、やわらかい灯りで小さくライトアップしています。

そして、御朱印をお受けしようと詰所にうかがうと、若くきびきびと動く、しかも控えめなお坊さまが対応してくださっていました。
かねがね数珠入れを欲しいと思っていた私が数珠入れを見せて欲しいと申しますと、お数珠の扱い方をお教えくださいながら、「こちらのお数珠には(こちらの数珠入れは)少し小さいけれど使えないほどではないですかね」と。
きれいに使いやすく整理された詰め所でありました。
そして子どもたちもお坊さまに話しかけていたりしていて、ここに集う子たちともよい関係を築いておられるようでした。


うーん、すっごく好き。いいなあ。

No.16 20/12/01 03:22
旅人さん0 

ナビの上で【国分寺薬師堂】が現れほっとしたとまもなく、例の「目的地周辺です。音声ガイドを終了します」という言葉。
おっ!あった!
すごいすごい!再建された平安絵巻のような、ほんの少しではあるものの、回廊?のような建築物もあり、その先に茅葺きの、おもむきのある門が見えています。
まぁ❤ じゃじゃ馬とか言っていますが、さすがナビ。
以前なら、地図を見て(夫の)頭にたたき込み、さらにわからなくなれば地図を広げて確認して走る、それが当たり前、というかそれしかなかった時代を思えば、ありがたいものであります。
┉って、ここ、たしかに正面の仁王門が見えてるけど、一方通行じゃないかぁー!
周辺には車が置けそうな(おそらくは駐車場)が見えてはいるものの、いま来た道を戻るようであります。
やっぱり?┐('~`;)┌

と、いうわけで、大変感動した仁王門を一旦あとにしてふたたびいま来た道を戻る私たち(運転はあくまでも夫)。さすが、じゃじゃ馬ナビ、、、。
そんないつもの私とナビにふりまわされながらの夫の珍道中。ありがと。感謝しています。


いったん退去してようやくそばで見ることのできた茅葺きの仁王門に、感動もひとしおです。




No.15 20/11/29 23:42
旅人さん0 

国分寺についてGoogle先生に聞きましたところ。

奈良時代の中頃の国内は、日照り、台風、地震の発生といった自然災害のせいで飢饉が起き、さらには大陸から恐ろしい伝染病である天然痘が伝わり、多くの人々が亡くなりました。
また、新羅国との関係の悪化、天皇の親戚や家来たちによる反乱が起き、激しい戦いがありました。

聖武天皇は、そんな乱れてしまった国を安定させるため、仏教の力を借りることとし、741年、都には東大寺(とうだいじ)を、全国およそ60か所には「国分僧寺(こくぶんそうじ)」と「国分尼寺(こくぶんにじ)」をそれぞれ造るように命じます。
その際どの国分寺にも、七重塔とお釈迦様の像を造るように命じ、また、国分寺を建てる場所はその国の最も良い場所を選ぶように命じました。それは交通の便がよいところ、災害が少ないところ、人があまり住んでいないところといった土地であります。

陸奥国において当時の国府があった多賀城からやや離れた場所で、上記の条件を充たしたのがここ、仙台の陸奥国分寺跡でありました。


平安時代まで陸奥国の財政的支持を受けて大伽藍を維持していたようですが、室町時代には「草堂一つのほか何もなし」と言われるほどに衰退してしまったようです。
それを十七世紀初めに伊達政宗公が再興し、1607年に建てられた薬師堂を中心に二十五坊を擁する大寺院として栄えたのだといいます。
ところが明治時代にはいり仙台藩の保護を失い、廃仏の風潮もあってふたたび急激に衰退し、その際二十五坊のうち二十四が廃絶してしまったのだそうです。唯一残った別当坊が、薬師堂の管理と陸奥国分寺の名を単独で引き受けたとのことでありました。


うーん、歴史の流れとは壮大で、人の織りなすものであるもののその流れにはなんとも抗えないものがあるようであります。そんなところが、歴オタを魅了するロマン、なのかなぁ。





No.14 20/11/29 16:52
旅人さん0 

「つぎはね。」
ん?次に向かうのは青葉城じゃないの?
「青葉城はライトアップしているみたいだから、もう少しあとでいいかなと思って」
えっ?
仙台に入ってから何度も青葉城の方角をもとに話してたくらいじゃない。青葉城はあちらの方角だ、とか。
歴オタで、お城の遺構をみても感動して写真を撮りまくってるような夫が、そう言い出したのは三時を少しまわった頃。
もはや気を使う必要など何一つない、車に積まれた荷物となんら変わらないくらいお荷物でしかない私に気を使っている?もうこちらについてすでに神社さんもお寺さんも参拝させていただいています。
「えっ?だってお城好きじゃない。明るいうちから見たほうがいいんじゃないの?」
「今回はいいや」
あ、そういえば夫は職員旅行で仙台に来ているんだっけ。でも職員旅行じゃあ自分の見たいところがゆっくり見られてないんじゃないかな。

と、いうことで彼が向かったのは、【陸奥国分寺跡】。正確にはかつて国分寺があったそこにあるという【陸奥国分寺薬師堂】さんであります。
国分寺といえば聖武天皇の命により全国に建立されたもの。
長野県も群馬県も栃木県もその跡地を示すものは遺されているものの、現存するものはなく、こちらもやはり跡地、であります。
あ、歴オタには跡地もロマンなのかなぁ。
でもそのどこも(私と一緒には)立ち寄ったことがなかったのだけど。


┉まあ、そういうわけで、お荷物でしかない妻はありがたく夫の行きたいというところに連れていっていただくのでありました。


ここに向かうまでの道、ナビに映りこむお寺さんの数の凄いこと、凄いこと。確実にコンビニより多い。いやいやコンビニなど比較にならないくらいに多い。あとでこのナビの画面を写真に録っておかなかったことを後悔したくらいに、一画面にぎゅっとお寺さんが詰めこまれていました。


すごいなぁ。


東北、すごい。

┉たぶん私、これから今回の珍道中東北編、いくどとなくこのフレーズをつぶやくこととなります。










No.13 20/11/28 03:58
旅人さん0 

感仙殿のみぎてには趣を異にした石塔石碑の並ぶ、いかにも墓所、といった空間がひろがっています。【妙雲界廟(みょううんかいびょう)】とあります。

四代藩主綱村公は「前例にならい、御霊屋を建てたならば子孫は大変である。自分が死んだら墓石を建て瓦屋根で覆えばよい」と言う遺命をお残しになり、以後御霊屋は建てられなくなったのだそうであります。
綱村公のお墓はこちらにはなく、綱村公が自ら鍬(くわ)を持って開いたという〖大年寺山(太白区)〗に、四代以後歴代の藩主のお墓が残っているのだとか。
たしかにみまわしたところ(失礼なやつであります)四代も五代もなく、何代かのお墓がありませんでした。

【妙雲界廟】は九代藩主周宗(ちかむね)、十一代藩主斉義(なりよし)と芝姫(あつひめ)の墓が置かれる墓所でありました。
戦国の世においても、江戸幕府の支配下にあっても、名のとおる御家の後継ぎ問題等は大変そうであります。
こちら伊達家にあっても歴代の藩主の歴史を追うと、切なくも御家の為の苦労が偲ばれます。

妙雲界廟の参拝をさせていただき順路にしたがってすすむと階段があります。階段の途中、ひだりてに御子様御廟という案内板がありました。こちら御子様御廟(おこさまごびょう)へは現在立ち入りが禁じられておりました。
こちらは、幼くして亡くなった伊達家の公子公女のお墓であるそう側室や老女のお墓もあるそうで、藩主の華やかな霊廟とはあまりに違って物悲しさをかもし出しています。

No.12 20/11/28 03:11
旅人さん0 

瑞鳳殿を参拝いたしましたあと続いている順路に沿って歩いていきますと見上げるほど大きな【弔魂碑(ちょうこんひ)】がありました。戊辰戦争の犠牲となられた御霊を弔うもののようです。

そういえば伊達家の菩提寺である瑞鳳寺には、官軍側の犠牲者の墓がございました。いずれも薩摩藩士で、引き取り手がなかった方のものだといいます。

動乱の明治維新、日本を分けた戦い【戊辰戦争】で、東北、北越諸藩は、〖奥羽越列藩同盟〗を結んで、西国諸藩と戦ったのだそうです。
この戦いで同盟軍1260名、及び幕府軍を合わせると8000余名が亡くなったといいます。
弔魂碑はその御霊を弔う為、明治十年に十四代当主である「伊達宗基」が、瑞鳳殿鐘楼跡に建てたものとありました。伊達藩はなくなったのちも伊達家は仙台の地で当主でありました。
さらに歩を進めると見えてくる二代目藩主ならびに三代目藩主の墓所へと続く階段であります。


二代藩主・忠宗公の墓所は【感仙殿(かんせんでん)】と呼ばれていました。
忠宗公は政宗公ご正室愛姫(めごひめ)の第二子で、三十八歳で藩主となると仙台城二の丸、東照宮の造営、藩の基盤固めに尽力し、父伊達政宗の菩提を弔う為に「瑞鳳殿」「瑞鳳寺」を寄進されました。
感仙殿は、万冶元(1658)年六十歳で亡くなった忠宗公の御霊を弔う為、寛文四(1664)年、伊達家四代藩主綱村時代に創建、昭和六十年に再建されています。
やはり黒塗りの建物に金の飾り、色鮮やかできらびやかな建物であります。細かく美しい装飾で扉のデザインが可愛らしく、家紋などつけた他二つとは少し異なっていました。
政宗公の眠る「瑞鳳殿」同様、まわりに「忠宗公」への十六人の殉死者の供養塔が並んでいます。

感仙殿のひだりてにありますのが三代藩主・綱宗公を祀る【善応殿(ぜんおうでん)】であります。
二代藩主、忠宗の第六子で、十九歳で三代藩主となった綱宗公が眠られています。ゆえあってわずか二年で隠居を命じられた綱宗は、江戸の品川で七十一歳で亡くなるまで過ごし、和歌や書画、茶道や能などの芸術的分野で活躍したと言います。
瑞鳳殿や感仙殿よりは簡素ながらも、規模も形式も同じく作られた「善応殿」も昭和六十年再建です。

No.10 20/11/27 03:59
旅人さん0 

【瑞鳳殿】の入場受付で入場料を支払って。
まもなく見えてくる涅槃門で、伊達家がどれだけ仙台の方々に愛され
誇りに思われてきたかを、一目見るだけで胸が熱くなるほど知ることとなりました。
黒の漆塗りに金の装飾。伊達政宗公が与えられたという菊の御紋も配されています。その美しさに思わず立ち止まります。
涅槃門といえば煩悩を捨て去り涅槃へと向かう門、百八どころか無限にある私の煩悩をぜひ捨てさせていただきたいという思いは叶わず、涅槃門は伊達家藩主、藩が無くなってからは”伊達当主”しかくぐれません。脇にある朱色の門から入ります。これがなんともバリアフリーでない造りでありまして、下には何段かの階段があり、背の高い方にとっては身を縮めてくぐるような高さの門、なので、前回の参拝時頭をぶつけた経験をいかして上に注意してくぐったという夫は今回は階段につまづくという、なんとも身の引き締まらないかに思われるような参拝となったようです。
燈籠にかこまれた階段を登ると瑞鳳殿本殿前の唐門を兼ねた「拝殿」があります。
拝殿前の空間のみぎてに焼失してしまった瑞鳳殿の屋根に飾られていたという金属製の龍の飾りが祀られているのですが、その火災の激しさからなのか、訪れる人々が触るからかのか鼻の部分の色が剥げ地色が出ているのがなんとも可愛らしいものでありました。もちろん、私は撫でさせていただきました。すべすべでたいそう気持ちのよいもので、私がしばしそこにとどまっていたことはご想像通りであります。

そして、さらに歩を進めると、瑞鳳殿と呼ばれる政宗公の墓所となります。
その黒塗りを基調とした、私のように語彙力のない者には〖豪華絢爛〗という言葉しか出てこないようなきらびやかな御陵が建っておりました。さながら神社のような、日光東照宮にあってもおかしくないような、建物にございました。
さすが伊達政宗、伊達男の墓所であります。
政宗公は、七十歳で江戸で亡くなると遺言通り、ホトトギスの声が聞ける経ヶ峯に葬られ、この【瑞鳳殿】地下で眠りについておられます。
まわりには政宗公の葬儀に先立って殉死した家臣15名と陪臣5名の墓(宝篋印塔)が、政宗公を守るかのように整列しています。
瑞鳳殿の中には木彫りの伊達政宗像が安置されているようで、一月一日~二日、五月二十四日の政宗公の命日のみ「御開帳」となっているようです。








No.9 20/11/26 20:45
旅人さん0 

次に参拝させていただいたのは【瑞鳳殿】です。伊達政宗公の墓所であります。


伊達政宗公は、仙台の経ヶ峯にというところにある【瑞鳳殿】で眠っておられます。地元の人は「瑞鳳殿」とは呼ばず【御霊屋=おたまや】と言います。

こちらは古くは名取郡根岸村黒沼〖萩ヶ崎(はぎがさき)〗と呼ばれ、中世末期に出羽三山で修業した〖満海上人〗が、この地の東峯に経文を納めたことから〖経ヶ峯(きょうがみね)〗と呼ばれるようになったと言います。
政宗公がホトトギスの初音を聴きに訪れ、自らの墓所に決めたと言われる経ヶ峯の頂きに建つ瑞鳳殿は老杉に囲まれ、まさに幽玄の一言でありました。

藩政時代以後〖伊達家の墓所〗が置かれる霊域となり、限られた者だけが入ることのできた場所で、正式には【経ヶ峯伊達家墓所】といいます。
経ヶ峯は標高が73.6mあり、伊達家の霊域として長いこと禁断の地であったため、当時のままの自然環境が残っているといわれています。
瑞鳳殿造営時に植林されたという樹齢350年以上の杉もあり、またそこを緩やかに登ってゆく当時の石段があります。
伊達政宗公が六十二万石だったのでこの石段も六十二段、なのだそうです。
天を仰ぐように見上げる杉の生い茂る参道も、さすが伊達男という言葉の語源となったくらいの粋で雅なことが好きであった政宗公の墓所であります、森林浴気分を味わえるそれはそれは居心地のよい空間でありました。

ですが。 



実はこちらの瑞鳳殿、昭和五十年~六十年代に建てられたもの。
第二次大戦の昭和二十年七月の空襲で残念ながらすべてを焼失、再建されたものなのだそうで。

歴オタの夫はそれがたいそう無念だったようで、何度も何度も「でも昭和に造られたものなんだよな」とくりかえし、あまりにもくりかえし言われるので、耳にタコのイヤリングでもつけてやろうかと思ったくらいでありました。
それでも夫は出立前、絶対に外せないコースの一つとしてここ、瑞鳳殿を挙げていたくらいでありました。それくらいの入れ込んでいたところであります。

自然ゆたかで、大変空気の清んだ緩やかな登り坂を登っていくと、墓所への入口が見えて参ります。

No.8 20/11/24 23:43
旅人さん0 

次に向かったのは【瑞鳳寺】さん。
【二代藩主忠宗】が政宗の追善のため、寛永十四(1637)年【霊廟瑞鳳殿】の香華所として創建したというお寺さんであります。江戸時代には多くの塔頭・傍院を有しましたが、度重なる火災と明治の廃仏毀釈に伴って廃寺同然となったのだそうです。
たいそう立派なお寺さんでありながら、たまたま時を同じくしてその参道を歩いておられた方の大半が、観光名所【瑞鳳殿】を目指してここに来て、通り道にあるお寺さんに気づいて寄ってみた、というように感じられました。
こちらの山門は立派なもので、敬虔な思いでくぐらせていただいたところ┉賑やかな、はしゃぐ子供たちの声が聞こえてきました。┉遠足? それともGo Toトラベルで学校を休んで来ている親子連れ? いやいや境内に建てられた幼稚園のようです。
お寺さんに保育園や幼稚園はつきもののようで┉。
賑やかな声も一時のこと。境内を進むとまもなくその声も気にならないくらいに穏やかな落ちついた空気に一変いたします。
さほどは広くはない境内であります。落ちついた雰囲気の御本堂で、派手ではないもののどっしりとした造りのものであります。
御本堂は開放されており、自由にその中に入ることができます。
特記すべきはその御本堂正面、内陣のみぎてに、なんとマネキン、というのでしょうか、観光地などで見られる等身大のリアルな人形が飾られておりました。伊達騒動の一場面をあらわしたもののようです。

私、ここ、東北の地に来て、いかに私が歴史に疎い者かをイヤというほど知らされることとなるのですが、その第一歩となったのがこの【伊達騒動】。耳にしたことはあるものの、はて、その内容はさっぱり思い出せず。



こちら瑞鳳寺さんは、大正四(1915)年、【京都妙心寺】貫主がその荒廃を嘆き、復興に当たらせたものだとのこと。大正十五(1926)年に瑞鳳寺の本堂が落成。
その折、【平泉毛越寺】から遷座した釈迦牟尼を本尊、文殊・普賢菩薩を脇仏とし、その後、逐次復興したのだそうです。
境内には、忠宗公寄進の瑞鳳殿梵鐘(銅鐘)や、綱宗公手作りの雪薄紋が配される側室椙原品の邸門(高尾門)が残されています。
お寺さんをあとにする頃、ちょうど幼稚園の下校時間と重なったようで、なんと幼稚園バスが山門の内側に待機しておりました。

風情もなにもがいっきに色褪せる一瞬でありました。

No.7 20/11/23 14:27
旅人さん0 

参拝を済ませて。長床と呼ばれる門を出たところで夫が手招きをしています。うん?
「そこ」ん?
「そこそこ!」「なあに?」
 ! 「えー?なんで?」

┉黒い鶏が一羽、木の根元にたたずんでいます。囲いなどありません。ただたまたまたたずんでいるだけで、自由に動き回れる状況です。近づいたところで特に逃げようともせずに、優雅にその空間を楽しんでいるかのようです。

鳩がいるのはわかるような気がします。鶏?
飼ってるってこと、ですよね。
よく見るとあと一羽、白い鶏が木の奥に隠れるようにたたずんでいました。

Google先生にお聞きしたところ、神社と鶏の関係は実は深いようで、
【天照大御神様(あまてらすおおみかみさま)】が天の岩戸に御隠れになられて世の中が真っ暗闇となった時、人々は困り果て夜明けを告げる「長鳴き鳥」(にわとり)を集めて鳴かせ、天照大御神様が姿をあらわす事となったという古事記の一説がありました。
また、【鳥居(とりい)】は神社の入り口に建つ門でありますが、鳥(にわとり)の止まり木が「とりい」の語源という説 もあります。かくして鶏は日本人にとって由緒深い鳥でもあり、神社にとって神聖な場所の神様のお使いの鳥(にわとり)でもあったようです。

さらに、大崎八幡宮境内の西側に「鶏橋」と呼ばれる橋があるそうで。
これは
『毎夜一羽の金色の鶏が橋の欄干で鳴くので、人々が不思議に思い、八幡様へお参りしたところ、
八幡宮に奉納された「鶏の絵馬」から抜け出して橋の方角へ飛んでいき鳴いていたことが分かりました。絵馬に金網を張ると鶏は鳴かなくなりましたが、その夜から雨が降り続き間もなく大洪水が起こってしまいました。人々は毎夜鳴いていたのは洪水を知らせるためであったのだと知り、橋の名前を「鶏橋」と名付けました』という話があるそうです。

こちらの八幡宮とはいろいろご縁がある鶏ですが、境内に居るのは実は鶏ではなく少し小型の鑑賞用として飼育されてきた矮鶏(チャボ)なのだそうです。

思いもよらない鶏┉チャボとの出会いにテンションがあがった私どもでありました。

No.6 20/11/23 09:11
旅人さん0 

ここ、【大崎八幡宮】さんは平安の昔、東夷征伐に際し【坂上田村麻呂】が、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀したのが始まりであるようです。
その後、室町時代に【奥州管領大崎氏】が自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬したため、世に大崎八幡宮と呼ばれたのだそうです。

大崎氏の滅亡後、【伊達政宗公】が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、その後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀られました。
社殿の造営にあたっては、当時豊臣家に仕えていた当代随一の工匠が招聘され、その手に成った御社殿は豪壮にして華麗なる桃山建築の特色が遺憾なく発揮されており、仙台六十二万石の総鎮守として伊達家の威風と遷宮当時の絢爛たる息吹とを今に伝えており、安土桃山時代の我が国唯一の遺構として国宝建造物に指定されております。

大崎八幡宮の御社殿は、入母屋造りの本殿と拝殿とを相の間で繋いだ石の間造りであり、後に権現造りと言われる建築様式は、外観は長押上に鮮やかな胡粉極彩色の組物(斗きょう)や彫刻物を施し、下は総黒漆塗りと落ち着いた風格を現し、拝殿正面には大きな千鳥破風、向拝には軒唐破風を付け、屋根は柿葺と意匠が凝らされております。

拝殿内部には狩野派の絵師佐久間左京の筆に成る唐獅子の障壁画や大虹梁の青龍、石の間の格天井には五十三種の草花が描かれており、俗に左甚五郎の作と伝わる花鳥動植物や説話風の人物など多彩な彫刻が組み込まれ、全体的に美しい調和をなし、安土桃山時代の文化を今に伝える我国最古の建造物であり、その貴重さから昭和二十七年に国宝に指定されています。

御社殿前の長床と呼ばれる建造物はは創建年月不明ながら御社殿とほぼ同時期の建築として国より重要文化財の指定を受けており、簡素な素木造りは端麗にして瀟洒な佇まいを示しています。
 

と、いうことであります。
総黒漆塗りに金の飾りは青空に映えていかにも荘厳でありました。


うーん、私、ここの神社さんのこと、テレビで拝したことがあるかも┉。

No.5 20/11/23 07:02
旅人さん0 

神社仏閣珍道中、今回は道中が長いためになかなか神社さんやお寺さんが出てこずすみません。



最初の参拝は仙台の【大崎八幡宮】さん。

わが家の、メーカー純正ながらじゃじゃ馬でなかなかキチンとした案内をしないカーナビも今回はスムーズに案内をしてくれ(案内の看板もあったこともあり)、なんなく駐車場に到着いたしました。
あの、鳩が寄り添う八の字の扁額のある鳥居をくぐると、大変穏やかで清んだ気に満ちています。地元の方々がいつもの参拝に、何人も何人も訪れておられ、愛され大切にされている神社さんであることがわかります。鮮やかに紅葉した木々の美しい参道を歩いて行くと┉
ん?
これって┉脇から入ってる?わずかに曲がって行く道の先には、だいぶ下っていく道が見えます。
ま、まあ、行ってみますか。
うーん、末社、摂社が緩やかな下りの道に連なっています。そして中央に明らかに参道があり、さらに下には鳥居が見えます。┉脇というよりは裏。つくづく裏の好きなナビであります。まあ、今回は到達しただけマシであります。

摂社さんの前を頭を下げながら下っていくと、!。長い石段とそれはそれは立派な大きな鳥居が見えます。┉ここだなぁ。仕方ない、すでに境内に入っておりますし、長いこと運転してきてくれた夫にこの長い石段を下ってまた登らせるのはしのびない。ここはお許し願おう、裏の鳥居にも手水舎もありましたし。
と、いうわけで、一つ目の神社さんからすでに珍道中の私どもでありました。

No.4 20/11/23 05:46
旅人さん0 

「○○から高速に乗るからまずはそこを目指して」


┉高速に、そ、そうですよね。

おそらく、それを前から私に伝えるとそれだけで眠れなくなることを想定しての当日発表だったのでしょう。えー、でも何年ぶりの高速走行?しかも今回の旅行は私の車でなくて。o(;д;o)

┉手に汗握る運転はな、なんと隣町まで。
しかもそれは最初からの予定だったそう。全行程運転させたらそれはそれで私の重荷になるだろうと、なんちゃって運転をさせただけで、教習所の高速練習より短いかもしれません。
結婚三十年ともなると、夫が抱えてくれてるものはこんなにも大きなものとなっていました。

運転を代わって、夫は本当に濡れているハンドルにびっくりしつつ、実質の旅立ちはここ、○○サービスエリアからでありました。
ごめんね(≡人≡;)


流れる景色は県を跨ぐと確実にその雰囲気が変わっていきます。
流れる景色さえありがたい。
日本という国の美しさ。
山紫水明。
そして紅葉は走るにつれてどんどんと鮮やかな赤や黄色となっていきました。

こんなにも鮮やかな紅葉は私の住まう辺りではもう見られない光景となっていました。温暖化は確実に確実に地球を変えています。
それは今ありがたくもあり、もはや当たり前となってしまった便利な生活を築いてきた人類のあまりにも大きな代償であるのですが、それはその当時には知るはずもなくて┉。そしてその生活なしでは生きられない私たち。

旅はいろいろなことを学ばせてくれます。

No.3 20/11/23 03:14
旅人さん0 

本来ならば夫の永続勤務記念的な旅。
良き妻ならば夫の行きたいところを旅先とするでしょう。
ですがこの旅、前日キャンセルをも視野に入れた、コロナ禍におけるもの。できれば夫を落胆させたくはありません。
いくつもの候補地をあげ、そのプランも立ててもらい、コロナの発生状況で決めていくことも条件でした。
移動は公共機関を使わない自家用車によるもの。自ずから国内の、夫が一人で運転可能なところが候補地となっていきます。
その候補地に東北を挙げたのがたまたま私であった。
コロナ禍において、発生状況から考えても第一候補地となった。
┉それでもせっかくとったホテルを直前に変更したり。
石橋が壊れていても突き進むタイプだった私は、結婚三十年で夫より保守的な人間になっていました。
直前にホテルを変更する際も、直前に行かない選択肢を提案したときも、大喧嘩。
どこにいても知らない間にうつることもある、地元に居たってかかるかもしれないコロナを怖れて及び腰になっていたのは私でありました。
本来ならば東北はいま、紅葉真っ盛り、観光シーズンまっただ中でありました。 


周りが後押ししてくれました。
「東北なら平気、私なら行くよ?」職場の方たちであり、子供たちであり、姉でありました。


それでも不安感のほうが大きな私。┉何かのときには東北から私が運転して帰って来ることも視野に入れねばなりません。┉私、こんなビビりだったんだなぁ。
いよいよ出立。荷物も詰めこみいざ出発というとき夫から放たれた言葉は、
「最初は運転してもらうから」



┉そ、そうですよね。

No.2 20/11/22 12:29
旅人さん0 

またまた悶々と悩む私。
いままでずっと贅沢もせず、黙々と仕事をし、どちらかというと石橋をたたいてなお考えて考えて考えて渡るタイプ。高いところが苦手で食べ物の好き嫌いの多い、海外出張がもっとも向かないのではないかと思うくらいの彼が何ヵ国もの海外出張に出向いて頑張ってきたご褒美であります、SL休暇。
なおかつ私のようなじゃじゃ馬に振り回されてきた彼の人生でのご褒美。
┉どうだろう。

だけど┉。
私もパートとはいえ仕事がある。
休めるのかどうか。
万が一コロナに罹患したら、仕事先にも、同居の息子にも、あってはならない迷惑をかけることになる。
┉ダメだろう。


行く先は私の一存で東北と定めました。
東北が安全だから、ではなく。
東北に行き、せめて東北の経済をまわす一役を買うことで、九年後の東北の役に立つことができればと思ったからであります。
そして、鎮魂のために。
東北の神さま仏さまに、東北の方々の無事をお願いするために。
ずっとそうしたかった。
そんなことしかできないけれど。
そんなの自己満足でしかないけれど。


┉だけどなぁ。
ダメもとで、仕事先の上司に軽く相談をしてみたところ、
「いいじゃないですか。せっかくのお休みじゃないですか。東北なら大丈夫そうだし。┉二週間はちょっと無理だけど、ぜひ行ってきてください」と。
たしかに有給休暇が前年度の残りも未消化で残っている私。
いいの?


そうとなったら早速同僚にも相談し、課長にも相談して、夫の勤務先との兼ね合いで調整した日程を決め。


第三波がくるまえに。

アルコール消毒液のほか、フェイスシールドとN95のマスク、使い捨てのゴム手袋を用意して。
コロナ禍の旅行で考えられる準備という準備をして。

帰宅後、仕事先にも息子にも濃厚接触しない手段を考えて。



┉いま、第三波が確実に到来してしまいました。
あのとき、行かなければもしかしたら一生、旅行というものに行けないまま過ごしたかもしれません。


No.1 20/11/22 06:16
旅人さん0 

いつも私のような者の書いた、拙い駄文にお目を通してくださっておられる方々、本当にありがとうございます。

秩父編も途中なまま、実はこの度かねてからの切なる願いが叶いまして、東北を訪ねることができました。


あの未曾有の震災のとき、何か私のような者でもできることがあればと、日々悶々と思って過ごしてはみたものの行動力もなく、家庭や仕事もと考え、二の足を踏んでおりました。
そんな時、当時大学生だった息子は大学のご友人たちと共に東北に向かったのです。夜の道をひた走りに車を走らせ、何度も何度も。
┉私は、自分を恥じ、我が子ながらその行動に感謝いたしました。
大したことなどできなかったかもしれません。それでもマンパワーを必要としていた時の東北に向かってくれた息子たちに、私は感謝しておりました。

東北で、心身を込めたボランティアをし一泊、なおかつ東北路を往復運転する息子に、せめて少しでも休んでもらいたい一心で、かける言葉は厳選して「くれぐれも気をつけて行ってらっしゃい」「どうかよろしくお願いします」そして「おかえりなさい」、それだけ。
息子も何も語らない。
社会人になってもそれはしばらく続いておりました。
そんな彼は今、有給休暇すらとれない職場、週に一度の休みもとれないことすらある職場で┉頑張っているようで┉。




あれから九年。まもなく十年になろうとしている今。
今度はコロナという未知の病に全世界が脅かされています。いまだに復興も追いつかぬままの東北、そして全国の被災地も、コロナは容赦なく襲いかかり。

Go Toトラベルという政策が打ち出された折、私には関係のないことと思っていた時、夫が「実は俺、SL休暇のとれる年なんだ」
えっ?
「こんなコロナの時だから無理、かねぇ」 
うーん。無理、かもしれない。
無理だなぁ。
できないよ。
見えないウイルスはいまだにその全貌は解明されず、慢性の呼吸器疾患を持病とする夫は、万が一にも罹患させてはならない。┉それでもその防ぎようはわからないのだけれど┉。



そのころ、私たちの住まう地域ではほとんど罹患者の発生がなく、さらにさらに東北地方もまた発生の少ない地でありました。


東北┉。
東北?
もしかしたら┉東北なら可能?
車、かぁ。┉私の運転ではほとんど戦力にならない。
無理だ┉。




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