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神社仏閣巡り珍道中・改  東北路編

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旅人さん
21/10/15 22:18(更新日時)

 [神社仏閣巡り珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神さま、仏さま、どうかお導きください。

No.3185734 20/11/22 05:12(スレ作成日時)

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No.1 20/11/22 06:16
旅人さん0 

いつも私のような者の書いた、拙い駄文にお目を通してくださっておられる方々、本当にありがとうございます。

秩父編も途中なまま、実はこの度かねてからの切なる願いが叶いまして、東北を訪ねることができました。


あの未曾有の震災のとき、何か私のような者でもできることがあればと、日々悶々と思って過ごしてはみたものの行動力もなく、家庭や仕事もと考え、二の足を踏んでおりました。
そんな時、当時大学生だった息子は大学のご友人たちと共に東北に向かったのです。夜の道をひた走りに車を走らせ、何度も何度も。
┉私は、自分を恥じ、我が子ながらその行動に感謝いたしました。
大したことなどできなかったかもしれません。それでもマンパワーを必要としていた時の東北に向かってくれた息子たちに、私は感謝しておりました。

東北で、心身を込めたボランティアをし一泊、なおかつ東北路を往復運転する息子に、せめて少しでも休んでもらいたい一心で、かける言葉は厳選して「くれぐれも気をつけて行ってらっしゃい」「どうかよろしくお願いします」そして「おかえりなさい」、それだけ。
息子も何も語らない。
社会人になってもそれはしばらく続いておりました。
そんな彼は今、有給休暇すらとれない職場、週に一度の休みもとれないことすらある職場で┉頑張っているようで┉。




あれから九年。まもなく十年になろうとしている今。
今度はコロナという未知の病に全世界が脅かされています。いまだに復興も追いつかぬままの東北、そして全国の被災地も、コロナは容赦なく襲いかかり。

Go Toトラベルという政策が打ち出された折、私には関係のないことと思っていた時、夫が「実は俺、SL休暇のとれる年なんだ」
えっ?
「こんなコロナの時だから無理、かねぇ」 
うーん。無理、かもしれない。
無理だなぁ。
できないよ。
見えないウイルスはいまだにその全貌は解明されず、慢性の呼吸器疾患を持病とする夫は、万が一にも罹患させてはならない。┉それでもその防ぎようはわからないのだけれど┉。



そのころ、私たちの住まう地域ではほとんど罹患者の発生がなく、さらにさらに東北地方もまた発生の少ない地でありました。


東北┉。
東北?
もしかしたら┉東北なら可能?
車、かぁ。┉私の運転ではほとんど戦力にならない。
無理だ┉。




No.2 20/11/22 12:29
旅人さん0 

またまた悶々と悩む私。
いままでずっと贅沢もせず、黙々と仕事をし、どちらかというと石橋をたたいてなお考えて考えて考えて渡るタイプ。高いところが苦手で食べ物の好き嫌いの多い、海外出張がもっとも向かないのではないかと思うくらいの彼が何ヵ国もの海外出張に出向いて頑張ってきたご褒美であります、SL休暇。
なおかつ私のようなじゃじゃ馬に振り回されてきた彼の人生でのご褒美。
┉どうだろう。

だけど┉。
私もパートとはいえ仕事がある。
休めるのかどうか。
万が一コロナに罹患したら、仕事先にも、同居の息子にも、あってはならない迷惑をかけることになる。
┉ダメだろう。


行く先は私の一存で東北と定めました。
東北が安全だから、ではなく。
東北に行き、せめて東北の経済をまわす一役を買うことで、九年後の東北の役に立つことができればと思ったからであります。
そして、鎮魂のために。
東北の神さま仏さまに、東北の方々の無事をお願いするために。
ずっとそうしたかった。
そんなことしかできないけれど。
そんなの自己満足でしかないけれど。


┉だけどなぁ。
ダメもとで、仕事先の上司に軽く相談をしてみたところ、
「いいじゃないですか。せっかくのお休みじゃないですか。東北なら大丈夫そうだし。┉二週間はちょっと無理だけど、ぜひ行ってきてください」と。
たしかに有給休暇が前年度の残りも未消化で残っている私。
いいの?


そうとなったら早速同僚にも相談し、課長にも相談して、夫の勤務先との兼ね合いで調整した日程を決め。


第三波がくるまえに。

アルコール消毒液のほか、フェイスシールドとN95のマスク、使い捨てのゴム手袋を用意して。
コロナ禍の旅行で考えられる準備という準備をして。

帰宅後、仕事先にも息子にも濃厚接触しない手段を考えて。



┉いま、第三波が確実に到来してしまいました。
あのとき、行かなければもしかしたら一生、旅行というものに行けないまま過ごしたかもしれません。


No.3 20/11/23 03:14
旅人さん0 

本来ならば夫の永続勤務記念的な旅。
良き妻ならば夫の行きたいところを旅先とするでしょう。
ですがこの旅、前日キャンセルをも視野に入れた、コロナ禍におけるもの。できれば夫を落胆させたくはありません。
いくつもの候補地をあげ、そのプランも立ててもらい、コロナの発生状況で決めていくことも条件でした。
移動は公共機関を使わない自家用車によるもの。自ずから国内の、夫が一人で運転可能なところが候補地となっていきます。
その候補地に東北を挙げたのがたまたま私であった。
コロナ禍において、発生状況から考えても第一候補地となった。
┉それでもせっかくとったホテルを直前に変更したり。
石橋が壊れていても突き進むタイプだった私は、結婚三十年で夫より保守的な人間になっていました。
直前にホテルを変更する際も、直前に行かない選択肢を提案したときも、大喧嘩。
どこにいても知らない間にうつることもある、地元に居たってかかるかもしれないコロナを怖れて及び腰になっていたのは私でありました。
本来ならば東北はいま、紅葉真っ盛り、観光シーズンまっただ中でありました。 


周りが後押ししてくれました。
「東北なら平気、私なら行くよ?」職場の方たちであり、子供たちであり、姉でありました。


それでも不安感のほうが大きな私。┉何かのときには東北から私が運転して帰って来ることも視野に入れねばなりません。┉私、こんなビビりだったんだなぁ。
いよいよ出立。荷物も詰めこみいざ出発というとき夫から放たれた言葉は、
「最初は運転してもらうから」



┉そ、そうですよね。

No.4 20/11/23 05:46
旅人さん0 

「○○から高速に乗るからまずはそこを目指して」


┉高速に、そ、そうですよね。

おそらく、それを前から私に伝えるとそれだけで眠れなくなることを想定しての当日発表だったのでしょう。えー、でも何年ぶりの高速走行?しかも今回の旅行は私の車でなくて。o(;д;o)

┉手に汗握る運転はな、なんと隣町まで。
しかもそれは最初からの予定だったそう。全行程運転させたらそれはそれで私の重荷になるだろうと、なんちゃって運転をさせただけで、教習所の高速練習より短いかもしれません。
結婚三十年ともなると、夫が抱えてくれてるものはこんなにも大きなものとなっていました。

運転を代わって、夫は本当に濡れているハンドルにびっくりしつつ、実質の旅立ちはここ、○○サービスエリアからでありました。
ごめんね(≡人≡;)


流れる景色は県を跨ぐと確実にその雰囲気が変わっていきます。
流れる景色さえありがたい。
日本という国の美しさ。
山紫水明。
そして紅葉は走るにつれてどんどんと鮮やかな赤や黄色となっていきました。

こんなにも鮮やかな紅葉は私の住まう辺りではもう見られない光景となっていました。温暖化は確実に確実に地球を変えています。
それは今ありがたくもあり、もはや当たり前となってしまった便利な生活を築いてきた人類のあまりにも大きな代償であるのですが、それはその当時には知るはずもなくて┉。そしてその生活なしでは生きられない私たち。

旅はいろいろなことを学ばせてくれます。

No.5 20/11/23 07:02
旅人さん0 

神社仏閣珍道中、今回は道中が長いためになかなか神社さんやお寺さんが出てこずすみません。



最初の参拝は仙台の【大崎八幡宮】さん。

わが家の、メーカー純正ながらじゃじゃ馬でなかなかキチンとした案内をしないカーナビも今回はスムーズに案内をしてくれ(案内の看板もあったこともあり)、なんなく駐車場に到着いたしました。
あの、鳩が寄り添う八の字の扁額のある鳥居をくぐると、大変穏やかで清んだ気に満ちています。地元の方々がいつもの参拝に、何人も何人も訪れておられ、愛され大切にされている神社さんであることがわかります。鮮やかに紅葉した木々の美しい参道を歩いて行くと┉
ん?
これって┉脇から入ってる?わずかに曲がって行く道の先には、だいぶ下っていく道が見えます。
ま、まあ、行ってみますか。
うーん、末社、摂社が緩やかな下りの道に連なっています。そして中央に明らかに参道があり、さらに下には鳥居が見えます。┉脇というよりは裏。つくづく裏の好きなナビであります。まあ、今回は到達しただけマシであります。

摂社さんの前を頭を下げながら下っていくと、!。長い石段とそれはそれは立派な大きな鳥居が見えます。┉ここだなぁ。仕方ない、すでに境内に入っておりますし、長いこと運転してきてくれた夫にこの長い石段を下ってまた登らせるのはしのびない。ここはお許し願おう、裏の鳥居にも手水舎もありましたし。
と、いうわけで、一つ目の神社さんからすでに珍道中の私どもでありました。

No.6 20/11/23 09:11
旅人さん0 

ここ、【大崎八幡宮】さんは平安の昔、東夷征伐に際し【坂上田村麻呂】が、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀したのが始まりであるようです。
その後、室町時代に【奥州管領大崎氏】が自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬したため、世に大崎八幡宮と呼ばれたのだそうです。

大崎氏の滅亡後、【伊達政宗公】が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、その後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀られました。
社殿の造営にあたっては、当時豊臣家に仕えていた当代随一の工匠が招聘され、その手に成った御社殿は豪壮にして華麗なる桃山建築の特色が遺憾なく発揮されており、仙台六十二万石の総鎮守として伊達家の威風と遷宮当時の絢爛たる息吹とを今に伝えており、安土桃山時代の我が国唯一の遺構として国宝建造物に指定されております。

大崎八幡宮の御社殿は、入母屋造りの本殿と拝殿とを相の間で繋いだ石の間造りであり、後に権現造りと言われる建築様式は、外観は長押上に鮮やかな胡粉極彩色の組物(斗きょう)や彫刻物を施し、下は総黒漆塗りと落ち着いた風格を現し、拝殿正面には大きな千鳥破風、向拝には軒唐破風を付け、屋根は柿葺と意匠が凝らされております。

拝殿内部には狩野派の絵師佐久間左京の筆に成る唐獅子の障壁画や大虹梁の青龍、石の間の格天井には五十三種の草花が描かれており、俗に左甚五郎の作と伝わる花鳥動植物や説話風の人物など多彩な彫刻が組み込まれ、全体的に美しい調和をなし、安土桃山時代の文化を今に伝える我国最古の建造物であり、その貴重さから昭和二十七年に国宝に指定されています。

御社殿前の長床と呼ばれる建造物はは創建年月不明ながら御社殿とほぼ同時期の建築として国より重要文化財の指定を受けており、簡素な素木造りは端麗にして瀟洒な佇まいを示しています。
 

と、いうことであります。
総黒漆塗りに金の飾りは青空に映えていかにも荘厳でありました。


うーん、私、ここの神社さんのこと、テレビで拝したことがあるかも┉。

No.7 20/11/23 14:27
旅人さん0 

参拝を済ませて。長床と呼ばれる門を出たところで夫が手招きをしています。うん?
「そこ」ん?
「そこそこ!」「なあに?」
 ! 「えー?なんで?」

┉黒い鶏が一羽、木の根元にたたずんでいます。囲いなどありません。ただたまたまたたずんでいるだけで、自由に動き回れる状況です。近づいたところで特に逃げようともせずに、優雅にその空間を楽しんでいるかのようです。

鳩がいるのはわかるような気がします。鶏?
飼ってるってこと、ですよね。
よく見るとあと一羽、白い鶏が木の奥に隠れるようにたたずんでいました。

Google先生にお聞きしたところ、神社と鶏の関係は実は深いようで、
【天照大御神様(あまてらすおおみかみさま)】が天の岩戸に御隠れになられて世の中が真っ暗闇となった時、人々は困り果て夜明けを告げる「長鳴き鳥」(にわとり)を集めて鳴かせ、天照大御神様が姿をあらわす事となったという古事記の一説がありました。
また、【鳥居(とりい)】は神社の入り口に建つ門でありますが、鳥(にわとり)の止まり木が「とりい」の語源という説 もあります。かくして鶏は日本人にとって由緒深い鳥でもあり、神社にとって神聖な場所の神様のお使いの鳥(にわとり)でもあったようです。

さらに、大崎八幡宮境内の西側に「鶏橋」と呼ばれる橋があるそうで。
これは
『毎夜一羽の金色の鶏が橋の欄干で鳴くので、人々が不思議に思い、八幡様へお参りしたところ、
八幡宮に奉納された「鶏の絵馬」から抜け出して橋の方角へ飛んでいき鳴いていたことが分かりました。絵馬に金網を張ると鶏は鳴かなくなりましたが、その夜から雨が降り続き間もなく大洪水が起こってしまいました。人々は毎夜鳴いていたのは洪水を知らせるためであったのだと知り、橋の名前を「鶏橋」と名付けました』という話があるそうです。

こちらの八幡宮とはいろいろご縁がある鶏ですが、境内に居るのは実は鶏ではなく少し小型の鑑賞用として飼育されてきた矮鶏(チャボ)なのだそうです。

思いもよらない鶏┉チャボとの出会いにテンションがあがった私どもでありました。

No.8 20/11/24 23:43
旅人さん0 

次に向かったのは【瑞鳳寺】さん。
【二代藩主忠宗】が政宗の追善のため、寛永十四(1637)年【霊廟瑞鳳殿】の香華所として創建したというお寺さんであります。江戸時代には多くの塔頭・傍院を有しましたが、度重なる火災と明治の廃仏毀釈に伴って廃寺同然となったのだそうです。
たいそう立派なお寺さんでありながら、たまたま時を同じくしてその参道を歩いておられた方の大半が、観光名所【瑞鳳殿】を目指してここに来て、通り道にあるお寺さんに気づいて寄ってみた、というように感じられました。
こちらの山門は立派なもので、敬虔な思いでくぐらせていただいたところ┉賑やかな、はしゃぐ子供たちの声が聞こえてきました。┉遠足? それともGo Toトラベルで学校を休んで来ている親子連れ? いやいや境内に建てられた幼稚園のようです。
お寺さんに保育園や幼稚園はつきもののようで┉。
賑やかな声も一時のこと。境内を進むとまもなくその声も気にならないくらいに穏やかな落ちついた空気に一変いたします。
さほどは広くはない境内であります。落ちついた雰囲気の御本堂で、派手ではないもののどっしりとした造りのものであります。
御本堂は開放されており、自由にその中に入ることができます。
特記すべきはその御本堂正面、内陣のみぎてに、なんとマネキン、というのでしょうか、観光地などで見られる等身大のリアルな人形が飾られておりました。伊達騒動の一場面をあらわしたもののようです。

私、ここ、東北の地に来て、いかに私が歴史に疎い者かをイヤというほど知らされることとなるのですが、その第一歩となったのがこの【伊達騒動】。耳にしたことはあるものの、はて、その内容はさっぱり思い出せず。



こちら瑞鳳寺さんは、大正四(1915)年、【京都妙心寺】貫主がその荒廃を嘆き、復興に当たらせたものだとのこと。大正十五(1926)年に瑞鳳寺の本堂が落成。
その折、【平泉毛越寺】から遷座した釈迦牟尼を本尊、文殊・普賢菩薩を脇仏とし、その後、逐次復興したのだそうです。
境内には、忠宗公寄進の瑞鳳殿梵鐘(銅鐘)や、綱宗公手作りの雪薄紋が配される側室椙原品の邸門(高尾門)が残されています。
お寺さんをあとにする頃、ちょうど幼稚園の下校時間と重なったようで、なんと幼稚園バスが山門の内側に待機しておりました。

風情もなにもがいっきに色褪せる一瞬でありました。

No.9 20/11/26 20:45
旅人さん0 

次に参拝させていただいたのは【瑞鳳殿】です。伊達政宗公の墓所であります。


伊達政宗公は、仙台の経ヶ峯にというところにある【瑞鳳殿】で眠っておられます。地元の人は「瑞鳳殿」とは呼ばず【御霊屋=おたまや】と言います。

こちらは古くは名取郡根岸村黒沼〖萩ヶ崎(はぎがさき)〗と呼ばれ、中世末期に出羽三山で修業した〖満海上人〗が、この地の東峯に経文を納めたことから〖経ヶ峯(きょうがみね)〗と呼ばれるようになったと言います。
政宗公がホトトギスの初音を聴きに訪れ、自らの墓所に決めたと言われる経ヶ峯の頂きに建つ瑞鳳殿は老杉に囲まれ、まさに幽玄の一言でありました。

藩政時代以後〖伊達家の墓所〗が置かれる霊域となり、限られた者だけが入ることのできた場所で、正式には【経ヶ峯伊達家墓所】といいます。
経ヶ峯は標高が73.6mあり、伊達家の霊域として長いこと禁断の地であったため、当時のままの自然環境が残っているといわれています。
瑞鳳殿造営時に植林されたという樹齢350年以上の杉もあり、またそこを緩やかに登ってゆく当時の石段があります。
伊達政宗公が六十二万石だったのでこの石段も六十二段、なのだそうです。
天を仰ぐように見上げる杉の生い茂る参道も、さすが伊達男という言葉の語源となったくらいの粋で雅なことが好きであった政宗公の墓所であります、森林浴気分を味わえるそれはそれは居心地のよい空間でありました。

ですが。 



実はこちらの瑞鳳殿、昭和五十年~六十年代に建てられたもの。
第二次大戦の昭和二十年七月の空襲で残念ながらすべてを焼失、再建されたものなのだそうで。

歴オタの夫はそれがたいそう無念だったようで、何度も何度も「でも昭和に造られたものなんだよな」とくりかえし、あまりにもくりかえし言われるので、耳にタコのイヤリングでもつけてやろうかと思ったくらいでありました。
それでも夫は出立前、絶対に外せないコースの一つとしてここ、瑞鳳殿を挙げていたくらいでありました。それくらいの入れ込んでいたところであります。

自然ゆたかで、大変空気の清んだ緩やかな登り坂を登っていくと、墓所への入口が見えて参ります。

No.10 20/11/27 03:59
旅人さん0 

【瑞鳳殿】の入場受付で入場料を支払って。
まもなく見えてくる涅槃門で、伊達家がどれだけ仙台の方々に愛され
誇りに思われてきたかを、一目見るだけで胸が熱くなるほど知ることとなりました。
黒の漆塗りに金の装飾。伊達政宗公が与えられたという菊の御紋も配されています。その美しさに思わず立ち止まります。
涅槃門といえば煩悩を捨て去り涅槃へと向かう門、百八どころか無限にある私の煩悩をぜひ捨てさせていただきたいという思いは叶わず、涅槃門は伊達家藩主、藩が無くなってからは”伊達当主”しかくぐれません。脇にある朱色の門から入ります。これがなんともバリアフリーでない造りでありまして、下には何段かの階段があり、背の高い方にとっては身を縮めてくぐるような高さの門、なので、前回の参拝時頭をぶつけた経験をいかして上に注意してくぐったという夫は今回は階段につまづくという、なんとも身の引き締まらないかに思われるような参拝となったようです。
燈籠にかこまれた階段を登ると瑞鳳殿本殿前の唐門を兼ねた「拝殿」があります。
拝殿前の空間のみぎてに焼失してしまった瑞鳳殿の屋根に飾られていたという金属製の龍の飾りが祀られているのですが、その火災の激しさからなのか、訪れる人々が触るからかのか鼻の部分の色が剥げ地色が出ているのがなんとも可愛らしいものでありました。もちろん、私は撫でさせていただきました。すべすべでたいそう気持ちのよいもので、私がしばしそこにとどまっていたことはご想像通りであります。

そして、さらに歩を進めると、瑞鳳殿と呼ばれる政宗公の墓所となります。
その黒塗りを基調とした、私のように語彙力のない者には〖豪華絢爛〗という言葉しか出てこないようなきらびやかな御陵が建っておりました。さながら神社のような、日光東照宮にあってもおかしくないような、建物にございました。
さすが伊達政宗、伊達男の墓所であります。
政宗公は、七十歳で江戸で亡くなると遺言通り、ホトトギスの声が聞ける経ヶ峯に葬られ、この【瑞鳳殿】地下で眠りについておられます。
まわりには政宗公の葬儀に先立って殉死した家臣15名と陪臣5名の墓(宝篋印塔)が、政宗公を守るかのように整列しています。
瑞鳳殿の中には木彫りの伊達政宗像が安置されているようで、一月一日~二日、五月二十四日の政宗公の命日のみ「御開帳」となっているようです。








No.12 20/11/28 03:11
旅人さん0 

瑞鳳殿を参拝いたしましたあと続いている順路に沿って歩いていきますと見上げるほど大きな【弔魂碑(ちょうこんひ)】がありました。戊辰戦争の犠牲となられた御霊を弔うもののようです。

そういえば伊達家の菩提寺である瑞鳳寺には、官軍側の犠牲者の墓がございました。いずれも薩摩藩士で、引き取り手がなかった方のものだといいます。

動乱の明治維新、日本を分けた戦い【戊辰戦争】で、東北、北越諸藩は、〖奥羽越列藩同盟〗を結んで、西国諸藩と戦ったのだそうです。
この戦いで同盟軍1260名、及び幕府軍を合わせると8000余名が亡くなったといいます。
弔魂碑はその御霊を弔う為、明治十年に十四代当主である「伊達宗基」が、瑞鳳殿鐘楼跡に建てたものとありました。伊達藩はなくなったのちも伊達家は仙台の地で当主でありました。
さらに歩を進めると見えてくる二代目藩主ならびに三代目藩主の墓所へと続く階段であります。


二代藩主・忠宗公の墓所は【感仙殿(かんせんでん)】と呼ばれていました。
忠宗公は政宗公ご正室愛姫(めごひめ)の第二子で、三十八歳で藩主となると仙台城二の丸、東照宮の造営、藩の基盤固めに尽力し、父伊達政宗の菩提を弔う為に「瑞鳳殿」「瑞鳳寺」を寄進されました。
感仙殿は、万冶元(1658)年六十歳で亡くなった忠宗公の御霊を弔う為、寛文四(1664)年、伊達家四代藩主綱村時代に創建、昭和六十年に再建されています。
やはり黒塗りの建物に金の飾り、色鮮やかできらびやかな建物であります。細かく美しい装飾で扉のデザインが可愛らしく、家紋などつけた他二つとは少し異なっていました。
政宗公の眠る「瑞鳳殿」同様、まわりに「忠宗公」への十六人の殉死者の供養塔が並んでいます。

感仙殿のひだりてにありますのが三代藩主・綱宗公を祀る【善応殿(ぜんおうでん)】であります。
二代藩主、忠宗の第六子で、十九歳で三代藩主となった綱宗公が眠られています。ゆえあってわずか二年で隠居を命じられた綱宗は、江戸の品川で七十一歳で亡くなるまで過ごし、和歌や書画、茶道や能などの芸術的分野で活躍したと言います。
瑞鳳殿や感仙殿よりは簡素ながらも、規模も形式も同じく作られた「善応殿」も昭和六十年再建です。

No.13 20/11/28 03:58
旅人さん0 

感仙殿のみぎてには趣を異にした石塔石碑の並ぶ、いかにも墓所、といった空間がひろがっています。【妙雲界廟(みょううんかいびょう)】とあります。

四代藩主綱村公は「前例にならい、御霊屋を建てたならば子孫は大変である。自分が死んだら墓石を建て瓦屋根で覆えばよい」と言う遺命をお残しになり、以後御霊屋は建てられなくなったのだそうであります。
綱村公のお墓はこちらにはなく、綱村公が自ら鍬(くわ)を持って開いたという〖大年寺山(太白区)〗に、四代以後歴代の藩主のお墓が残っているのだとか。
たしかにみまわしたところ(失礼なやつであります)四代も五代もなく、何代かのお墓がありませんでした。

【妙雲界廟】は九代藩主周宗(ちかむね)、十一代藩主斉義(なりよし)と芝姫(あつひめ)の墓が置かれる墓所でありました。
戦国の世においても、江戸幕府の支配下にあっても、名のとおる御家の後継ぎ問題等は大変そうであります。
こちら伊達家にあっても歴代の藩主の歴史を追うと、切なくも御家の為の苦労が偲ばれます。

妙雲界廟の参拝をさせていただき順路にしたがってすすむと階段があります。階段の途中、ひだりてに御子様御廟という案内板がありました。こちら御子様御廟(おこさまごびょう)へは現在立ち入りが禁じられておりました。
こちらは、幼くして亡くなった伊達家の公子公女のお墓であるそう側室や老女のお墓もあるそうで、藩主の華やかな霊廟とはあまりに違って物悲しさをかもし出しています。

No.14 20/11/29 16:52
旅人さん0 

「つぎはね。」
ん?次に向かうのは青葉城じゃないの?
「青葉城はライトアップしているみたいだから、もう少しあとでいいかなと思って」
えっ?
仙台に入ってから何度も青葉城の方角をもとに話してたくらいじゃない。青葉城はあちらの方角だ、とか。
歴オタで、お城の遺構をみても感動して写真を撮りまくってるような夫が、そう言い出したのは三時を少しまわった頃。
もはや気を使う必要など何一つない、車に積まれた荷物となんら変わらないくらいお荷物でしかない私に気を使っている?もうこちらについてすでに神社さんもお寺さんも参拝させていただいています。
「えっ?だってお城好きじゃない。明るいうちから見たほうがいいんじゃないの?」
「今回はいいや」
あ、そういえば夫は職員旅行で仙台に来ているんだっけ。でも職員旅行じゃあ自分の見たいところがゆっくり見られてないんじゃないかな。

と、いうことで彼が向かったのは、【陸奥国分寺跡】。正確にはかつて国分寺があったそこにあるという【陸奥国分寺薬師堂】さんであります。
国分寺といえば聖武天皇の命により全国に建立されたもの。
長野県も群馬県も栃木県もその跡地を示すものは遺されているものの、現存するものはなく、こちらもやはり跡地、であります。
あ、歴オタには跡地もロマンなのかなぁ。
でもそのどこも(私と一緒には)立ち寄ったことがなかったのだけど。


┉まあ、そういうわけで、お荷物でしかない妻はありがたく夫の行きたいというところに連れていっていただくのでありました。


ここに向かうまでの道、ナビに映りこむお寺さんの数の凄いこと、凄いこと。確実にコンビニより多い。いやいやコンビニなど比較にならないくらいに多い。あとでこのナビの画面を写真に録っておかなかったことを後悔したくらいに、一画面にぎゅっとお寺さんが詰めこまれていました。


すごいなぁ。


東北、すごい。

┉たぶん私、これから今回の珍道中東北編、いくどとなくこのフレーズをつぶやくこととなります。










No.15 20/11/29 23:42
旅人さん0 

国分寺についてGoogle先生に聞きましたところ。

奈良時代の中頃の国内は、日照り、台風、地震の発生といった自然災害のせいで飢饉が起き、さらには大陸から恐ろしい伝染病である天然痘が伝わり、多くの人々が亡くなりました。
また、新羅国との関係の悪化、天皇の親戚や家来たちによる反乱が起き、激しい戦いがありました。

聖武天皇は、そんな乱れてしまった国を安定させるため、仏教の力を借りることとし、741年、都には東大寺(とうだいじ)を、全国およそ60か所には「国分僧寺(こくぶんそうじ)」と「国分尼寺(こくぶんにじ)」をそれぞれ造るように命じます。
その際どの国分寺にも、七重塔とお釈迦様の像を造るように命じ、また、国分寺を建てる場所はその国の最も良い場所を選ぶように命じました。それは交通の便がよいところ、災害が少ないところ、人があまり住んでいないところといった土地であります。

陸奥国において当時の国府があった多賀城からやや離れた場所で、上記の条件を充たしたのがここ、仙台の陸奥国分寺跡でありました。


平安時代まで陸奥国の財政的支持を受けて大伽藍を維持していたようですが、室町時代には「草堂一つのほか何もなし」と言われるほどに衰退してしまったようです。
それを十七世紀初めに伊達政宗公が再興し、1607年に建てられた薬師堂を中心に二十五坊を擁する大寺院として栄えたのだといいます。
ところが明治時代にはいり仙台藩の保護を失い、廃仏の風潮もあってふたたび急激に衰退し、その際二十五坊のうち二十四が廃絶してしまったのだそうです。唯一残った別当坊が、薬師堂の管理と陸奥国分寺の名を単独で引き受けたとのことでありました。


うーん、歴史の流れとは壮大で、人の織りなすものであるもののその流れにはなんとも抗えないものがあるようであります。そんなところが、歴オタを魅了するロマン、なのかなぁ。





No.16 20/12/01 03:22
旅人さん0 

ナビの上で【国分寺薬師堂】が現れほっとしたとまもなく、例の「目的地周辺です。音声ガイドを終了します」という言葉。
おっ!あった!
すごいすごい!再建された平安絵巻のような、ほんの少しではあるものの、回廊?のような建築物もあり、その先に茅葺きの、おもむきのある門が見えています。
まぁ❤ じゃじゃ馬とか言っていますが、さすがナビ。
以前なら、地図を見て(夫の)頭にたたき込み、さらにわからなくなれば地図を広げて確認して走る、それが当たり前、というかそれしかなかった時代を思えば、ありがたいものであります。
┉って、ここ、たしかに正面の仁王門が見えてるけど、一方通行じゃないかぁー!
周辺には車が置けそうな(おそらくは駐車場)が見えてはいるものの、いま来た道を戻るようであります。
やっぱり?┐('~`;)┌

と、いうわけで、大変感動した仁王門を一旦あとにしてふたたびいま来た道を戻る私たち(運転はあくまでも夫)。さすが、じゃじゃ馬ナビ、、、。
そんないつもの私とナビにふりまわされながらの夫の珍道中。ありがと。感謝しています。


いったん退去してようやくそばで見ることのできた茅葺きの仁王門に、感動もひとしおです。




No.17 20/12/01 05:39
旅人さん0 

仁王門をくぐると、小学生くらいの子どもの小さなグループがいくつか、自転車でだったり、秘密を隠しきれないで思わず笑ってしまって軽く小走りしている子たちだったり、ここは自然に子どもたちが集うお堂のようです。うーん、子どもたちが集うお堂ってすっごく好き❤
しかも大声で騒いだりしない子たちばかりです。お薬師さまのお足元で遊ばせていただいているという気持ちがしっかりと根づいているのでしょうか。

そしてその境内に漂う空気の清んでいてそしてやわらかいことといったら。なんて居心地のよいところなんでしょう。
ずっといたいような、何度でも、毎日でも来たいところです。
┉まあ、引っ越して来る以外、それは叶わないことですがね。
だから子どもたちが集うんだ。
見るからに優しそうな若いお母さんが、子どもの手を引きベビーカーを押してお参りに来ておられました。

政宗公はなんと素敵な空間をよみがえらせてくださったことか。


【陸奥国分寺薬師堂】さんは、御堂というには大きな建物でありました。大きな瓦屋根のどっしりとした御堂です。その御堂の扉が障子貼り、なんです。もう、どれだけ私を魅了するんだろう。狛犬さんも可愛らしいし。
そうそう、手水舎はなんとカエル!
カエルの水を使う手水舎は初めてかもしれない。
しかも暗くなってからでもお参りできるようにか、やわらかい灯りで小さくライトアップしています。

そして、御朱印をお受けしようと詰所にうかがうと、若くきびきびと動く、しかも控えめなお坊さまが対応してくださっていました。
かねがね数珠入れを欲しいと思っていた私が数珠入れを見せて欲しいと申しますと、お数珠の扱い方をお教えくださいながら、「こちらのお数珠には(こちらの数珠入れは)少し小さいけれど使えないほどではないですかね」と。
きれいに使いやすく整理された詰め所でありました。
そして子どもたちもお坊さまに話しかけていたりしていて、ここに集う子たちともよい関係を築いておられるようでした。


うーん、すっごく好き。いいなあ。

No.18 20/12/01 08:57
旅人さん0 

通路を隔てたところにもうひとつの御堂が見えます。
仙台【准胝観音堂】のようです。

その手前にまさに紅葉の見頃の、形のよい、大きな大きないちょうの樹があります。
その樹の下、外国人の親子がきれいに敷かれたいちょうの絨毯の上で戯れていました。すごーい。映画の1シーンのようであります。
見頃のいちょうにも、そのかわいらしい親子にも見とれてたたずむことしばし。
はっと我にかえって御堂に目を向ける私。夫はすでにお参りをさせていただいています。

こちらは仙台藩五代藩主伊達吉村夫人・長松院により准胝観音さまが寄進されたことを受け、六代藩主伊達宗村により延享2(1745)年に建立されたもののようです。朱塗りのかわいらしい御堂です。

准胝観音さまは延命、厄除けなどを司るといわれています。私の記憶にあります限り、准胝観音さま単体でお祀りしておられる御堂はこここぐらいだったように思い出せません。

准胝観音さまは准胝仏母(じゅんていぶつも)さま、七倶胝仏母(しちくていぶつも)さまともいいます。
もとはヒンドゥー教の女神であるドゥルガーで、シヴァ神の妃とされています。とても美しい姿ですが、神々の武器を持って魔族を倒した戦いの女神です。そのため本来は女尊であり、観音ではないという指摘もあります。しかし、ここでは観音として紹介します。



仏教に取り入れられてからは慈悲深い清浄をもたらす神とされ、七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)ともいわれています。これは遙か過去より多くの仏さまを誕生させた仏の母という意味です。
そのため、真言宗系では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられますが、天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類されています。不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。

ご利益といわれているのは修道者守護、無病息災、延命のご利益があり、安産や子供が授かるなどの功徳があります。


こちらもまた、やわらかい気の満ちた境内でありました。

No.19 20/12/01 13:51
旅人さん0 

そしてさらに准胝観音堂の裏手には、なんと、塔が見えているではないですか!おそらくは新しいものであるかとは思われます。創建当初のものは落雷で平安時代にすでに焼失しているようです。
「行く?」
もちろん!

早足が駆け足になって、夫から
「そんなに慌てなくても」と声がかかります。まるで子ども。

バックにジャーン!なんて効果音が聞こえそうなほど、威風堂々と立つ多宝塔がありました。大きな大きな多宝塔は昭和五七(1982)年1に落成されたものだということです。正式には「六大法身塔」であり、略称「大塔」と呼ばれていて、 大日如来さまをお祀りしているのだとか。お寺さんはもっと新しいものでしょうか。ロビーとかフロワーとかいう言葉が似合うお寺の庫裏でありました。
なんでもこちらの御住職は女性の方なのだとか。おしゃれな感じは御住職のセンスなのでしょうか。
日が落ちてきています。

青葉城に行かなければ!
また走り出す私に、もはや夫はかける言葉もないようです。


No.20 20/12/01 14:21
旅人さん0 

うっ。


なんという道?!

いやいや国道なんとかとかいう道路の呼び名ではなくて、その道幅にびっくりします。
すごーい!片道四車線!
私には走れないな。
すっごいなぁ、仙台!
東京とも千葉とも神奈川ともちがう、大都会がそこにありました。
ぐ、群馬県、ですか?群馬県には片道四車線なんてないと思いますよ、はい。
ましてや群馬県の片田舎の町に住む私たち。走行している夫も走りづらいようであります。ごめんなさい、絶対走れない。
そんな四車線をすいすいと車線変更して追い越しをしていく車の多いこと、多いこと!こわいよぉ。
まるで町のネズミと田舎のネズミのおはなしのようですね。

そして、実はもっと怖かったのが、実は青葉城の大きな大きな石垣。

ライトアップされているのですが、ね ┉蒼、なんですよ。蒼。
青葉城だから、ではなくて、おそらくは医療従事者さんへの感謝とエールの青。
でも、いきなり暗くなりかけた道に蒼い大きな石垣って立派なホラーでしたよ。怖い、怖い。
これはもっと穏やかな暖色のほうが石垣にも合っているし、医療従事者さんも喜ぶんじゃないかと┉。

怖かった。


そして、青葉城。
売店はかろうじてまだ開いていたのですが、辺りはすでに暗い。
伊達政宗公の騎馬像があるはずなのですが┉どこだろう。
うわぁ、青い。

青くて蒼い、青葉城。
あとは暗くて見えなかったです。
仙台の夜景はすばらしかったです。


ちなみに、青いライトアップはしばらくは続くもようであります。


私たちはもうおそらく二度とは見ることはないので┉ここにちょっと恐怖体験を書いておこう。(*`艸´)





No.21 20/12/01 14:45
旅人さん0 

夫から出題されます。

最初に行ったのはどこかなぁ?
二日目はどこに行ったかなぁ?



すみません、覚えてないんですよ、びっくりするくらい。
いやいや本当にびっくりしている夫でして。

いやあ、秩父とばして東北編書かないとならない、切羽詰まった理由はそこにありました。


で、二日目。┉どこだっけ┉。

No.22 20/12/01 17:21
旅人さん0 

と、認知症の疑い濃厚なところを披露したところで、二日目は。
ジャーン。
ちゃんと覚えてますって。なにせ歴オタにして名ガイド、解説者の夫が、いろいろ考えに考えて立ててくれた計画に基づいているスケジュールなので。
ただ、長い名前が覚えられていないんですよね┉。

あとは助手席の魔導士が、唐突に案内板を読んでは突然そこに行きたがるものでついついあってもない計画になってしまうので、突然行ったお寺さんの名前がわからなかったり。
まあ、ふたり合わせてなんぼの初老の二人三脚、珍道中、ということで。┉おんぶに抱っこの珍道中ですよね、すみません。


あらためて二日目。
あの鬼滅の刃のどこをどうすれば聖地となるのかわからない、二人が向かったのは【塩竈神社】さんであります。字?ですか?
そんな二人が抱いた不安はまさかの密集。聖地って┉。
┉大丈夫、でした。
鬼滅の刃の聖地としての塩竈神社さんはとりあえず避けられたようでした。ですが┉聖地でありますことはたしかでした。
凛とした研ぎ澄まされた空気。
凛として、澄んでいて、音すら失っているんじゃないかというくらいに、張りつめた、それでいて泣きたくなるくらい優しい気に満ちた神社さんでありました。
一歩一歩歩くだけで邪念とか穢れが削ぎおとされていくかのような神域であります。それは夫も同じ感覚だったよう。
清らかな、ただただ清らかな境内。
雲ひとつない青い空。
胸のなかが空っぽになったような感覚です。

ここに来られたことを感謝し、お参りをさせていただきました。
願ったことはこの地に住まう方々が災害に合うことなく、コロナが流行することなく生活できるようにお守りくださいと、それだけ。
東北の神社仏閣ではずっとそう願わせていただこうと思って訪れました。私にできるもうひとつのことであります。
偽善と言われればそれまでのこと。
ただ私はそうしたい、そうしようと思ってこの地を訪れておりましたので。
まあ、こんな邪な人間が祈ることで、どれだけのご利益がありますことか。( ´-`)
でも祈らずにはいられなかった。┉自己満足?
いいんだ!
ずっと祈っていた。┉テレビの前で指を組んで。
ここで祈らずどこで祈るのだ。

あのとき犠牲になられた多くの方のために。



No.23 20/12/03 02:02
旅人さん0 

┉こちらの神社さんは┉
どこまでもどこまでもきよらかな気高い気に充ちています。
涙が出そうになるくらいに、澄んだ空間、┉雲ひとつない空と相まって、静かにただ静かに時が流れています。
建物がどう、とかいうものではありません。


こちらにお祀りされている神さまはいったい?
こちらの本宮は左宮と右宮とがあり、左宮にはタケミカヅチノカミさまを、右宮にはフツヌシノカミをお祀りされています。

タケミカヅチノカミさまとは国譲りの際、アマテラスの使者としてオオクニヌシと交渉をした神様で雷の神であり、地震の神とも言われ、地震を引き起こすオオナマズの頭を踏みつけ、地震を制御する役割も担っておられるのだといいます。
さらには、剣の神。タケミカヅチさまは、最も強い武神としてその名を知られる神さまであられるのだそうです。

タケミカヅチノカミさまは、日本神話最強にして最高の武神と言われているが、同時に正義の神であられるとされています。
その武力のみに頼るのではなく、忠義に従い、アマテラスから言い渡された言葉をしっかりと伝え、交渉し、それでも交渉が滞った時には、剣を使わず力くらべで解決されています。そしてそれが相撲の発祥とされているそうです。

剣神、武神、軍神、雷神であらせられます。

【御利益】
武道守護、殖産興業、国家鎮護、芸能上達、豊漁、航海安全、安産、病気平癒、厄除け、縁結び、延命長寿

とありました。
フツヌシノカミさまもまた武神で刀剣神にあらせられます。
【御利益】
勝負運に恵まれるので、絶対負けたくない試合・試験・交渉事
そのほか
家内安全、産業指導、海上守護、心願成就、縁結び、安産、勝運、交通安全、厄除け、体育勝運守
とあります。


そして。
かつてこちらは陸奥国正税の六分の一にあたる千石の歳幣を受けていたという全国的にみても大きな、特別な扱いをされてきた神社さんだということであります。奥州一宮という位置付け。
富めるものも貧しきものも、ここを崇拝してきた長い長い年月があって、神さまはその民にお応えしてくださっていまがあるのかと思います。




No.24 20/12/06 07:09
旅人さん0 

塩竈神社さんの本宮境内は、まるでしんしんと降りしきる雪のなかに一人立ちつくす感覚にも似た、清らかなるものに囲まれているような、いつまでもそこにいたい感情というか感覚になります。
そう、まるで異空間。

雲ひとつない青空にそびえ立つ金属製の燈籠のその大きさ、その細やかな飾りにほうぅっと声にならない吐息がこぼれます。
でもあくまでもそれはそれであって。
こちらの神社さんの┉神さまの、気高い清らかな、それでいて私のような穢れた者も受け入れてくださる懐の深さに心を包んでいただいているような心地よさと身の引き締まる思いは、いまなおはっきりと残っております。


去りがたい思いを引きずって、次に向かったのは境内社というにはあまりにも大きな【志波彦神社】さんであります。こちらは優しいやわらかな気の神社さんでありました。狛犬さんがのんびり境内でひなたぼっこしているかのような、やはり居心地のよい神社さんでありました。
 

┉なんだかこちらの神社さんでのことを書くとただただ私の感覚ばかり書いておりますが、本当に圧倒されるものでありました。
門も大変大きくてそれはそれは立派なもので、中にはかなりイケメンの随神の左大臣右大臣さまがおられるのです。

語彙力のない人間が書いておりますのに、その者が言葉にならない感覚を書こう書こう、書きたいとあがいた結果がこれでありました。



志波彦神社さんの鳥居を出たところで、きらびやかな花嫁衣装と羽織袴のお二人がはち切れんばかりの笑顔で写真撮影をされていました。
そのお二人に会ってようやく人の世に戻ったような気がしたくらいに、神さまのお膝元に置いていただけていたようであります。

No.25 20/12/06 08:40
旅人さん0 

次に向かったのは。
松島。

あの『松島や ああ松島や 松島や』と詠われた松島であります。
ちなみにこの句、私の子ども時分にはかの松尾芭蕉の詠んだものと言われておりましたが、いまはそうではなかったと言われていますよね。誰が詠んだものであろうと、松島といえばこの句を思い出させるといった意味ではこれ以上ない名句、なのではないでしょうか。

きらきらとのぼる朝日を受けて光る水面と見えてきた島の姿。
またまた声にならない吐息を漏らす私たちでありました。
これ、なんでしょうね、松島やああ松島や松島や、って。
語彙力のない私はとりあえずため息をつくのでありました。

おお、瑞巌寺さんです!
思っていたのとは異なって、狭い道を入っていくようにみうけられます。
瑞巌寺さんを通り越して┉ええ、松島といえば瑞巌寺と言っても過言ではないだろう瑞巌寺さんを通り越して。
通り越して、向かったのは、【航空自衛隊松島基地】、であります。


ええ、神社仏閣巡りではありません。瑞巌寺さんを参拝するよりも先に松島基地。
ごめんなさい。夫は好きなんですよ。こういった自衛隊の航空機とか船とかが。でもこの旅でそれをコースに入れておらず、前日ホテルで聞いてみたんです。松島基地へは行かなくてもいいの?と。
すると、
「自衛隊の基地に入るには何ヵ月も前から申し込む必要があって、だから行ったところで中には入れないし、ね。ブルーインパルスの練習も飛ぶかどうかもわからないし、行っても仕方ないかなって思ったんだ。それに俺しかおもしろくないだろうし」
┉やっぱりぃ?
「あなたの永年勤続記念の旅行じゃない!なんでそんなに遠慮するのよ。
やだやだ、そ~んなに恐いんだ、私。いいじゃん、行こうよ松島基地!私だって好きだよブルーインパルス」と熱く脅すように私に語られて、突如組まれた松島基地、でありました。
できればブルーインパルスの飛ぶ頃に。
ということで午前中の練習時刻に合わせて(夫は)車を走らせたのであります。

飛んでる、飛んでる!
時間より早いけど。

なんとか松島基地の駐車場へin!

「もしもし。」若い自衛官から声がかかります。おお!


No.26 20/12/28 05:59
旅人さん0 

青空に描かれた白線を見上げながら、その白線を描く機体が飛び立つ勇姿を遠巻きではあれまもなくこの目で見ることができると、まさに胸ときめかせて到着した私。

ゲートに立つ若い自衛官に話しかけられたものの、その後は他の車輌の対応をされていて、次の言葉はなかなかかけられることはなく、車の中で待機しておりました。ようやくこちらを向いて何か話しかけられたのですが、折からの強風でとばされて何をおっしゃっているかがわからない。
車を降りて聞くことに、こちらは国家機関の所有地で民間の車は侵入を禁止されているのでここには駐車できません、とのこと。
ひえぇぇ、国家の?法にふれてる行為だあぁ?
別の意味で胸がバクバクしそうです。
でもそんな民間人はたくさんおられるようで、すっかり慣れた様子で「ブルーインパルスをみるのは、今来た道を戻って┉あ、今ちょうど車が入っていったあの道を行くと車を停められるところがありますから、そこに停めてご覧ください。車屋さんのところを手前に入っていく道です」
と。

図々しいおばさんは、胸がバクバクするくらいの事態だとか思っていたくせに、せっかく自衛官と話すことができた機会を逃すことなく
「いつもご尽力くださり本当に感謝しております。先日の医療従事者への感謝飛行ではコロナのために日々闘ってくださっておられる最前線の医療従事者の方々はもちろん、私にも勇気を与えてくださいました。ありがとうございました」
とか言ってしまうのでありました。
┉そんな言葉より早く退いて欲しかったでしょうにね。きちんと笑顔で頭を下げて私どもを見送ってくださいました。
「なにしゃべってたの?」と夫。秘密~っ!

自衛官の教えてくださった駐車スペースへの道順だけはしっかり伝え、そこに向かうと┉ 何台もの車に驚き、轍の残り、穴すら空いた荒れ地に驚き、それでもなんとか一台停めるスペースをみつけて停車しました、ええ、夫が、ですが。(^^;

車を降りて見やると少し歩いたさきに土手がひろがっています。そこにはたくさんの人が空を見上げています。三脚も何体も見えます。
いざ!┉防寒具を。
防寒具なく過ごせる記録的な秋の日ではありましたが、さすがにここでは冷たい風が吹きつけていました。
やっとやっと、用意してきた防寒具の出番です。

No.27 20/12/29 12:49
旅人さん0 

┉松島基地のすぐそば、だからといって、離陸するブルーインパルスが見られるわけではなかったようで。(;ω;)
そもそも、あの基地の駐車場に行ってしまったタイムロスもあり、すでに離陸をしてしまっていたようでありました。

さらには、基地のそばで飛行訓練をおこなうわけではないようで。
遥か彼方の空に白煙のあとを見ることができるくらいで、機影すら見えないのでありました。

それでも。
松島基地のそばの土手から、ブルーインパルスの飛行している辺りを無言で見守る人たちのなんと多いことか。
誰もが無言で、ただ空を見上げています。

┉ここ、松島もあの東日本大震災で、震災と津波の大きな被害を受けた地であります。
夫いわく、松島基地も大きな被害を受け、あの大空を駆けめぐるジェット戦闘機も被災したということでありました。
今、初めて訪れた東北の地は、その傷跡を見事に乗りこえ立ち直ったように見えもいたします。
ですが┉心に残る傷は消えることなどありません。
ただ、それを感じさせることなく、笑顔で過ごされる方々がそこにおられる。
道路を走っていると、【津浪到達点】などの看板があります。
それは想像していた以上に高くて┉。
あの恐ろしい、でも事実でしかない津波の映像がよみがえります。
忘れられない方々の住む地で、あの恐ろしい現実を忘れることはありません。
私の目に見える場所の復興は済んだ┉進んだかにみえても、生活する場所場所に置いての復興はわかりはしないことで。
何よりも被災された方々の心に残った傷を、忘れてはならないのであります。

あの日を、あの時をむかえるときまでは、歓声をあげ見上げていたのかもしれないブルーインパルスを、今、無言で見上げる人たちと共に見上げて、あらためてその傷跡の大きさを思いました。

そんな思いで見上げていた空から、いつのまにかブルーインパルスが基地に帰還しておりました。
基地内のトラックをゆるやかにまわって、乱れなく整列したブルーインパルスに、私も感動で言葉を失い、いつまでもみつめておりました。
気づくとまわりにいた人たちはほとんどおられず。
寒そうに身を縮める夫がそばに立ち尽くしておりました。


No.28 21/01/29 05:41
旅人さん0 

┉私の操作に何らかの問題があってのことか。
はたまた息子に初のお給料で買ってもらったタブレットが、乱暴者の使用により病んでしまっているのか、考えたくはないけれど老いたのか┉。
最近、よく立ち止まったまま動かなくなったり、文字を入力していたまさにその途中でキーボードにあたる文字列が全て消え去って入力できなくなったり。なぜだかワープを覚えて、私が書いていたものすべてを消し去って初期画面に戻っていたり。
その度に怒り、哀しみ、落ち込んでおりますが、特にこの東北編は、鎮魂の旅でもあったため思い入れが深く強いので、立ち直りにもたいそうな時間がかかるのでありました。できれば、あのきらめく時を、東北の素晴らしさを、できるだけ再現したいと思っていたものだったので┉。
気持ちを立て直すのに時間をおいて、はたと気づきました。
そんなことをしていたら私の記憶な方が薄れてしまうではないか!

┉だいぶ薄れた記憶との戦いに挑むことになってしまいました。
稚拙にして文章力のない私なりに、ではありますが、自己満足でしかありませんが、あの時の感動を一つ一つ書いていこうではないかと思い、再チャレンジしようと思いました。

タブレットの調子は相変わらずであります。新しいものに買い換える気は今はありません。このタブレットの老い具合は私のそれとおんなじで、いい二人三脚をしている気がして。
あまりにヒスる母親に、同居の息子がiPodを買ってくれたのでiPodの速さを知ってはおりますが、それはそれで私の無能さをも知ることとなり。

このタブレットと二人三脚。
夫との二人三脚。
どこか似ていて、哀しくもありいとおしくもあります。

No.29 21/02/01 18:10
旅人さん0 

松島~東松島間を結ぶ道路はたいそう整備されていて、しかも高速での走行となる、┉もしかしたら高速道路の無料区間で、これほどの道路が何故無料で走行させていただけるのだろうかと、首を傾げることしかり。
気持ち良さそうに車を走らせる夫。
でも┉もしかしたらここは、あの震災のとき、被災された方々に物資を輸送するために必死に復興し、なんとかつながった道を多くの車がひた走った道なのでは┉。

どうしても来たかった、来ずにはいられなかった東北は、なにも語らない。なにも語らなかったです。語らないからこそ、心の声で聴き続けていかなくてはいけないとあらためて思いました。


何より、いまだ行方不明の方が2529名おられる現実。
折しも今日、テレビで、海上保安庁の方が行方不明の方を捜し海に潜る映像が映し出されていました。それを見守る御家族の方。
┉言葉になどできません。

今年、十年目を迎える東日本大震災。
忘れられることなどない未曾有の災害であります。

私は東北産の食品を積極的に購入するくらいしかできませんが、そんな消極的な形でも東北の経済をまわす力になれば、と、無い頭で考えられる一つの手段です。

No.30 21/02/02 06:27
旅人さん0 

┉今も┉二度。
松島瑞巌寺についての文章が、消え去ってしまいました。

立ち直りもう一度と思い書き出したものまでが。(*T^T)


突然固まって、登録画面になってしまう。
止められないし、戻れない。

コピーしておかなくちゃと思う頃に、先回りされる。

これは┉また少し立ち直るのに時間がかかるのでありました。
┉未熟者です。(´;ω;`)

No.31 21/02/02 06:53
旅人さん0 

松島の街は、そこここに見え隠れする海がそれは美しくて。
青い空と。キラキラときらめく海の水面。なんて美しいものなのでしょう。
紅葉した並木が息をのむくらい素晴らしくて。┉それはもう何年も見ていなかった、赤は明るい赤で、黄色は鮮やかに色を変えた、鮮やかで艶やかな紅葉です。
そう、いつの間にか私の住まう辺りは、くすんだ赤や白っぽい黄色の紅葉となっていました。温暖化、なのでしょうね。ひさしぶりに本当の本物の紅葉を見させていただくことができました。
そこここに咲く草花の無造作にひろがる大地すらが、美しく見えます。
そこに生える植物の種類は、東北と関東でさほど変わらないのだろうけれど、それでも、海無し県の群馬県と海風の吹き抜けていく松島とではまた同じ植物であっても育ち方が異なるかも知れないし。┉何より走れる車の窓からの流れゆく景色のなかの草花で、そんなに見えてはいないのだけれど。
┉あの津波に飲まれた町に、なんということの無い草花が生えていることに、感謝のような感動が私のなかにめばえていたのも確かであります。

そんないつまでも見ていたいような景色のなかを走り、やがて見えてきたのはいったん通りすぎた、白い船が並んだ海岸と、その反対側にある【瑞巌寺】さんであります。【国寳 瑞巌寺】と彫られた大きな石塔。
う?うん?
えっとぉ。
┉どうやら、私が幼少の頃から勝手に思い描いていた瑞巌寺とは少し、趣が異なるのかもしれません。でもそれは私が勝手に思い妄想したありもしない瑞巌寺。やっとのこと空いている駐車場に車を置くことができ、あらためて瑞巌寺さんへと向かいました。






No.32 21/02/06 06:20
旅人さん0 

【国寳 瑞巌寺】と彫られた大きな石塔を道路反対側からあらためて見て思ったことは、お寺さんが建てたのではなく奉納されたのかもしれないということ。松島の名を全国に知らしめ、松島の象徴とも言える瑞巌寺が国宝に選ばれたことを誰もが誇りに思いうれしくおもったことでしょうし。
参道にはお店が並んでいます。┉。山門のまん前に、お店の前に置かれるような二つ折りになる小さな看板が置かれています。「ずんだ餅 TakeoutOK」やり過ぎでは?景観を損ねるようなものはできるだけ慎んだほうが瑞巌寺が瑞巌寺らしくあると、お店の方には誇りをもって思っていただきたい。
そして、これまた山門が見えなくなるくらいに山門に取りつけられた提灯を提げる木で作った提灯台が┉これはさすがに瑞巌寺さんによるものでありましょうが。

山門を抜けると、空を突くほどにそびえ立つ木々が、見上げて歩くのに景観として本当にこれ以上ないくらいの、まるで計算されたかのような間隔で並んでいます。うーん♥
先ほどのモヤモヤした気分など全て払拭されてしまうような参道です。
雲ひとつない青空に飛行機雲がすっと一すじ。
心が穏やかに整っていきます。

そこにまた、お寺であることを一瞬忘れそうな鮮やかで色とりどりの和傘が、地面にひろげられて空間を飾っています。┉それぞれの方の好みによるものなんですけど、ね。この季節、落ち葉の自然に散るさまも趣あるものだと思う私でありました。小さな地蔵堂がなんだか居心地悪そうにみえてしまいました。なにより目をひく和傘に気をとられて、地蔵堂に足を運ばれる方の少なかったことは本末転倒、なんじゃないかなぁ。

少し進むと見事に紅葉した木々をバックに微笑んで見守っておられるお地蔵さまがおられました。私の乱れた心を整えるかのように。
さすがお地蔵さまであらせられます。お地蔵さまは
『地が一切の宝を含蔵するごとくに一切の徳を含蔵するもの』

No.33 21/02/06 07:44
旅人さん0 

お地蔵さまは
『地が一切の宝を含蔵するごとくに一切の徳を含蔵するもの』
その役割は釈迦入滅後、弥勒菩薩が世にでるまでの間、一切の衆生を永劫に救済することを本来の誓としている。その救済の範囲は人間界に限らず、〖地獄〗〖餓鬼〗〖畜生〗〖阿修羅〗〖天〗の各界全てにおよぶもの。
そこここにおられて、未熟な私を救おうと手を差し伸べてくださっている。お地蔵さまが微笑んで見守っていられるくらいに穏やかに生きられたらと思うのですが┉。

紅葉した木々をバックに私を見おろして微笑んでおられたのは延命地蔵さま。
ここから先、拝観料を納めて進むことになります。心を整えて、御仏にお会いいたすこととしたいものです。が┉、ここには私の物欲をくすぐる授与品が数多く並んでおり、唸りに唸って、御朱印だけにいたしました。そのくらいで自分で自分を褒めてしまうから成長しないのだな。┉。


先に進むと、格子戸のはまった岩窟が見えてまいりました。その前には石碑に爪弾くように描かれた観音さまがお二人。
なんでもこちらの岩窟は鎌倉時代に宋より戻ったという僧がここに遁世していたのだとか。そしてここでその僧侶と時の執権北条時頼が出合ったのだと伝えられているようです。
船と馬くらいしか移動手段のなかった時に、ここまで来るのに大騒ぎする現代人(私)もおるというのに、昔の方は驚くくらいに遠くまで赴いているものであります。

ようやく、私の思い描いていた瑞巌寺さんに近いものとなってまいりました。┉たしかに THE、観光地 なのではありましょうが、やはり寺院はそれに毒されてはいけないよな、などと勝手に思う私であります。

そして、白い太鼓塀が見えてまいります。その向こうに巨大な伽藍が甍を連ねているのが見えます。太鼓塀というのは中が空洞であることからそう呼ばれるのだとか。
このあたりからはもう、瑞巌寺さんの重厚にして壮大な空気にのまれてただ溜め息をつくばかりの私でありました。

No.34 21/02/15 09:25
旅人さん0 

十三日深夜の地震の影響で、宮城県仙台市にある伊達政宗が眠る霊廟(れいびょう)、【瑞鳳殿(ずいほうでん)】で、全体で220基以上ある石灯籠など約100基が倒れるなどの被害が出たというニュース映像が流れました。先の震災時はほとんどが倒壊。その後、耐震補強を施していたものがまた半数ほどが倒れてしまったということです。

瑞鳳殿によると、最も古い灯籠は伊達政宗が亡くなり作られた約385年が経過したものだということで、本殿や伊達政宗の木像、境内の石垣や石段には被害はなかったようでした。本殿の地下3メートルに伊達政宗公の墓室があり、埋葬されている遺骨も無事とみられています。

今を生き、十年かけてようやく立ち直ろうとしておられた方々を再び襲ったこの震災であります。
福島では余震が続いているとの報道も耳にしました。
水が止まり、この寒さのなか停電している地であります。
道路や線路が寸断されてようやく家に帰られた方もおられたと聞きます。
過去のものについて嘆いている場合でないかとも思ったりもいたしました。
それでも、胸が痛みました。
戦災で失われて、ようやくここまでに甦らせた瑞鳳殿であります。さらには先の震災でそのほとんどが倒壊しようやく戻したところでこの被災でありました。

この寒さのなか、ましてやこのコロナという悪疫が全世界を襲ったあとであります、この度東北を襲った大きな地震による被害。

┉神や仏はおられますか?
おられてここまでにとどめてくださっているということですか?


どうか、どうか、この地震の余震をお鎮めください。
どうか、どうか、このコロナ感染症をお鎮めください。


祈る先も、神仏。

No.35 21/02/23 04:56
旅人さん0 

【瑞巌寺】さんに話をもどします。
【中門】、という太鼓塀につながる門が大きく開け放たれていました。そこに入っていいものかどうかをなぜかためらう私がおりました。┉この図々しさを絵に書いたような、おばさんの中のおばさん!という私が、なぜ?
他の方も入っておられるのですし、そもそもが扉が開けられ足止めのようなものもなく、ためらっている自分自身にむしろ驚きを感じためらうくらいであります。
でもきっとそれは、門の外からですら圧倒されるような御本堂の威風であったのでありましょう。
はあぁ。
敷きつめられた白い砂利には枯葉一枚落ちておらず、まるで常に均しているかのようにみえます。目の前にひろがる御本堂はその所々の戸が開けられていますが、やはり圧倒されて側によることすらできない私。
その威風堂々とした御本堂、横に四十メートルあるのだそうです。
御本堂に圧倒された私は、ただ立ちつくして、まるでお白洲にでもいるかのよう。
国宝指定の御成玄関も南蛮鉄燈籠も遠くからただ見つめるだけで、私がここにおることすらなにか罪のように思え、そおっと中門を退出したのでありました。

┉ここは、さきの津波による被害はどうだったのだろう。
海岸は目と鼻の先です。そもそもが震度も凄まじかった地であります。
不思議なくらいに、たぶん元のまま、なのだと思われます。
とはいえ、私は初めてここに訪れたものであり、さらにはさきの東日本大震災からすでに九年の年月が流れてはおります。
あくまでも、そう感じた、というだけなのですが、そう思わせるくらいに、古くからの年月の重みを感じさせる瑞巌寺御本堂でありました。

いつもの私であれば、もしかしたらもう二度と来られないかも知れないところを訪れたのですから、少しでも多く見て感じて行こうとするのですが、少しもそうならなかった不思議は、まああとになって後悔となるのですが。

中門を出たところには岩に腰掛けたお姿の観音さまがおられます。
この観音さまは灌水観音さまとおっしゃるようで、右手に小さな水差しを持ち気だるげに腰のあたりにその手を置いておられます。
こちらの観音さまが松島、瑞巌寺に何かあったときにはお水を調整してくださっておられるのでしょうか。

No.36 21/02/23 05:28
旅人さん0 

また門があり、そこをくぐると大きな庫裡となるのですが、どうやらその庫裡には入ることができるようです。
と、足元を見ると大きな平らな石が埋められて敷石となっているのですが、その表面が不自然にそれはそれはたくさんキズが付けられています。鑿?とかでガツンガツンと表面が平らかでないように加工されていました。┉雪対策?凍ったときとかに?何らかの効果があるのでしょうか?
誰に聞くこともできずその効果はわからないままなのですが、なぜか私にはとても印象に残っておりましたので書いておきます。

庫裡に入ると!
いきなり大きな観音さまがそこに。
圧倒されるのは大きさなどではありません。それはそれは美しい色彩をされた、金色に輝く光背と冠や衣。真っ白でそれはそれは清らかなお顔の聖観音さまのお姿であられます。
お美しい。しかも無造作になんら囲いもなくそこに、庫裡に入ってすぐのところに、┉言葉をあえて選ばなければ置かれているのです。
はああぁ。
「高村光雲の作だって。素晴らしいねぇぇ。」
瑞巌寺に圧倒され普段の私でないことに気づいているのかいないのか、夫が小声で話しかけます。ほおぉっ。
あの、安達太良山の┉。
いやいやこれは東北に向かって来るときに曇って見られなかった安達太良山は全くここには関係ないのですが、高村光雲といえば高村光太郎であり、あの智恵子抄を思い浮かべる年頃の私達でありまして、その中のひとつの詩がつつっと頭に浮かんでしまっただけなのですが┉。

素晴らしい。
そう、それは美しく清らかな観音さまの御像です。┉作品ではないですね。観音さまであられます。それは高村光雲作であろうがなかろうが、ただただ観音さまであられます。素晴らしい、というよりやはりありがたい、であります。
またまたさらに圧倒されて歩をすすめました。
曲がり廊下を進むと、そこは┉!

御本堂ではないですか。

No.37 21/02/27 06:05
旅人さん0 

┉。

┉庫裡に入れるようなのでと、あくまでも庫裡に入っただけだった私。その庫裡でももうすでに圧倒されるくらいの感動をさせていただいておりました。
それがいきなり御本堂の中!
心の準備がまるでなかった。


いきなり現れた、磨きぬかれた美しい広い廊下!
すべすべで、そして柔らかく良い色に光っています。現代の人工的に作られた板とはまるで異なりますもの。ただ現代の人工的な板と一つだけ共通するものがある、というとなんだかもう叱られてしまいそうですが、節目等が一切なくて歪みや撓み等なく、あくまでも平らかである、ということ。
人の歩いたあとが少しづつあとが残ったりとか、減って少し凹凸、とまではいかなくても少しづつの目減りとかも一切感じられない、建って十年経つか経たないかみたいな美しさなのであります。
┉いきなり迷いこんだ御本堂(あくまでも私だけ)、一歩も踏み入れもしない廊下ですでにこの感動!
語彙力のない、文才はさらにない私の筆がどんどん遅れていった理由はここにあったかもしれません。
改修工事こそ行われてはいるようですが、この廊下を張り直したりはしていないよう記憶しているのです。
どれだけ、伊達政宗はここを建てるにあたって様々なこだわりをもって建てたというのか┉。

だって、伊達政宗公って、江戸時代の人ですよ?
それも厳密に言えば、江戸時代となる以前に生まれていて、あの関ヶ原の頃には立派に伊達家当主であったはず。そんなはるか昔の方ですよ?
その方が建てた建物ってことですよ?
それがこの廊下!
このクオリティーの高さ!

田舎の貧乏人であばら家に住む私には廊下だけでもう平伏すレベルの瑞巌寺の建物であります。┉というか、外観ですでに圧倒されていましたですね、はい。




┉と、綴っている今、足利市の山林火災の消火に向かうヘリコプターの飛ぶ音が聞こえてまいりました。ようやく明るくなり出した空でありますのに。
┉足利市、桐生市、両市で発生している山林火災の消火にあたってくださっているすべての方に感謝いたします。そして疲労が貯まってきておりますのでくれぐれも体調にお気をつけて、怪我などのなきよう、ご無事をお祈りします。祈ることしかできません。
なんだか自分が本当に無力でちっぽけな存在であることを思い知らされている気分で過ごしています。

No.38 21/03/01 19:40
旅人さん0 

廊下だけでこのドキドキ、であります。

が、はっと我にかえり、その横にある部屋に視線を移すと、目に飛び込んできたのは、金色に煌めく襖。
はあぁぁぁ。
金、だあぁ。初っぱなの角部屋から金の襖!
思わずそこから目をそらすように上を見上げたところ、そこには欄間があり、その欄間は欄間で、松のあの細かい枝葉まで細かに彫られた、芸術品でしかない彫刻がはめ込まれているではないですか、、、。いまにも動き出しそうな鳥とか。
ここは┉日暮の舘?
なんだかもうふわふわと、出口に向かわないといけないと、本能が訴えているかのように、ふわふわと歩き。
それでも隣の間に再び目をやると、金。
まあそうですよね。初っぱなの角部屋から金なのに、その隣に進んでいきなりわが家にあるような普通の襖なんてあり得ない、金の次は金。
しかも先ほどの部屋よりも数段広い!
┉控えの間?家来の方の控えの間?
控えの間┉。
あれ?┉ここどこでしたっけ。
お、お、お、お寺、だった気が┉。
お、お、お城?

家来の控えの間┉。



No.40 21/03/04 15:11
旅人さん0 

金の襖、金の襖と書いてはおりますが、角のお部屋には松の絵が描かれています。何畳あるのか、┉もはや魂が抜けたような状態の私はそんなことまで考えたりすることなどできる状態でなく。
とりあえず、お部屋にまでは入ることはできないので遠くからではあるのですが、遠くから見ても松の葉の一本一本が生き生きと描かれている絵が描かれているのです。こちらは松の間といい、あとで知ったことによると茶道衆の詰所なのだそうです。はあぁ。

その隣の家来の控えの間は鳥が描かれていました。
近く描かれているもの、遠くに描かれているもの。
様々な立ち姿で描かれていました。
┉建物の中は庫裡からすべて、写真撮影は禁じられており、なんの鳥の絵であったかと調べたところ、その鋭い眼光といったら!
これがまた実にリアルな絵であります。

はあぁ。

┉まあ、でもこちら瑞巌寺さんが、どれだけ重厚で上品な建築である学習いたしましたので。先に進むことにいたしました。
!┉!!

ここで私は、やはりこちらは間違いなくお寺、寺院であることをしかと実感いたしました。
先ほどの外から拝した、御本堂の建物のちょうど真ん中、御本堂の中心にあたります。
そう、こここそが本堂の中心であります。


ひ、光輝いている~ぅ‼

その部屋に至っては、なんと床まで光り輝いております。とはいえ、床が金箔とかではなく、例えるなら┉例えば群馬県桐生市の宝徳寺さんの、あの、床に映す逆さ紅葉のような感じで、その襖の金色が映って、床までが光っているのです。
まばゆいばかりの御本堂。

はあー。


ちなみにこちらは孔雀の間、と呼ばれているそうで、ここで法要が営まれるのだそうであります。


No.41 21/03/04 15:48
旅人さん0 

ちなみに┉さすがにこの目の眩むような金色の襖絵、建立当初のままではなく。当時のものに忠実に忠実に再現されたものであります。


┉あの東日本大震災のとき。

瑞巌寺さんは実は道路を隔てて海岸、という立地にありながら、津波の到達したのは総門から杉並木のある参道までであったという、まさに奇跡のような被害状況であったのだそうです。
杉並木は、津波の前は今の何倍にも杉の生い茂るものであったといい、塩害で立ち枯れてしまい今のような青空の見渡せる参道になってしまったのだということです。
そして。
その杉並木の途切れるころ見えた新しそうな地蔵堂。
その地蔵堂こそが津波の到達点であり、鎮魂のために建てられたものであったのだそうでありました。
┉地蔵堂にはそんな云われ一つ書かれておらず。
普通に手を合わせいつも通りのお参りをしただけで通り過ぎてしまった。


さらには、ちょうどその時大改修工事のさなかであった瑞巌寺さんは、屋根の瓦をすべて下ろしてあったために、そういった被害も免れることができたのだとか。 
┉何か大きな大きな力がここを護ったのでありましょうか。


被災当時、参拝の方もおられ、直ぐ様、全員の無事を確認してまわり、ここの被害状況、他の被害状況も明らかではない被災当初から、ここ、瑞巌寺を避難所として解放し、お寺にあるもので炊き出しなどを行ってくださっていたということ。
私は帰宅後ネットで調べてあらためてそういった事実を知りました。


♪松島のサーヨー 瑞巌寺ほどの
 寺もないトーエー

と唄うのは【大漁節】。


本当に。
┉本当だ。

No.42 21/03/05 14:07
旅人さん0 

絵にも描けない美しさ、とは〖唱歌〗〖浦島太郎〗の一説であります。画才のある方であれば、この瑞巌寺さんの美しさも絵とすることもできるのてしょうし、文才のある方が書けばこちら瑞巌寺さんの素晴らしさも表現することはいくらでも可能なのかもしれませんが。
如何せん、この日本語すらおぼつかない、さらには認知症の始まりを疑うような私でありますので、どうにもこの瑞巌寺さんの素晴らしさを伝えていく術がない。ないくせにそれをあえて挑むので、すぐ脱線したり、行き詰まったりして、ただでさえ読みづらい文章が、読みとくのに努力を必要とするようなものとなってしまっていて、本当に申し訳ありません。


瑞巌寺さんの、法要が営まれるところであるという【孔雀の間】のむかってひだりの間は【文王の間】と呼ばれているところとなります。
こちらは伊達家一門、伊達家の親戚が使用したとされた部屋。〖文王〗という、┉まあ、日本の歴史も詳しいこととなると首をかしげるような私には一言で言わせれば中国の昔の偉い人、的な言い方にしかなりませんが、なんでもこの部屋の金の襖に描かれているのは、その名の通り文王をテーマにしているようであります。
文王の築いたという〖洛陽城〗を遠くに見やる絵があって、右側には文王と〖太公望呂尚〗の出会いの場面、左側にはその時代の狩りの場面が描かれているのだとか。 うーん、太公望は聞いたことがあるな。などと書いているのが夫や子供たちにバレたら、どんなに嘆き悲しまれることか。
まあ、ここは等身大の私が書いておりますので、お読みいただく方におかれましても、┉ああ、やはりそんなレベルのやつか、と流していただければ幸いです。





No.43 21/03/05 22:18
旅人さん0 

さらに進むと、【上段の間】。その横に【上上段の間】。
┉やっぱり、ここは少しお城の様式を取り入れている?それともやはり一国の大名の建てたお寺さんはこういったもの?
上段の間は藩主御成の間であり、一段高いところに藩主さまの座る間が設けてあり、そしてそのむかって左側にある上上段の間は藩主の席よりさらに一段高くなっていて、藩主よりも位の上の、将軍であるとか天皇陛下がお越しになられたとき御迎えする間であるとされていると言われています。
┉この前テレビで観たなぁ上上段の間。
それを┉ここ瑞巌寺さんで拝見することになろうとは、思ってもいなかったことであります。
私が、本堂を真横から見渡せる、開門された中門をくぐることすら躊躇ったのは、自分の身分をそのくらいであるということを肌で感じていた、ということなのかなあ。

その、上段の間の隣に仏間。
そして【羅漢の間】、さらに隣の【墨絵の間】。
┉墨絵の間だけが妙に暗く、ふと気づいたことは金箔ではない襖であるということで。他の間がすべて金色の間であったからかと思ってみても┉うーん暗い?
いやいや、襖自体が古くて、経年により表面の一部が薄く剥がれ、何より全体がくすんでいるのです。もしかして┉、造られた当時のもの⁉
か、どうかも聞けぬまま、振り出しの松の間が見えてまいります。

その、回廊で隔てられた向かいの中庭には、枯山水の庭が設けられており、なんでも、ここでは松島湾をイメージしたもののようで。

細部の細部までこだわり抜いた瑞巌寺さんであります。私はといえばそんな瑞巌寺さんに終日圧倒されているのでありました。


┉この瑞巌寺さんでは、庫裡を入ってすぐから写真撮影禁止ゾーン。
まもなく四カ月前となろうかという東北の旅を思い出しながら書いております。
うーん、写真がないときつい、きつい!
まあ、これ以上にない、よい脳トレにはなっているとは思います。
私の記憶だけで書かれておりますので、間違いがありましたら、┉ごめんなさい。 

No.44 21/03/09 19:29
旅人さん0 


仏間の隣にあります【羅漢の間】。
羅漢の間の前で、私は少し違和感をおぼえました。
他の〖間〗と呼ばれている部屋とくらべて、どうにも手狭な印象を受けたのです。
こちらには、伊達政宗公・忠宗公に殉死した家臣のお位牌が安置されています。お一人お一人のものではなく、奥の二基一対のお位牌は政宗に殉死した二十名、手前の二基一対のお位牌は忠宗公に殉死した十六名の法名が刻まれています。
そもそもが羅漢の間でありながら、お位牌と、中央に不動明王像。
羅漢さんたちがお祀りされている様子はありません。
こちらに、こうして書きながら、どうにも気になったのでGoogle先生に聞いてみたところ、こちらの羅漢さんは明治以降に壁に描かれたようです。それ以前になんと呼ばれていたのかはわからないのですが、もともとはお位牌を安置する間として、そのような呼び方をしていたのではないかと、勝手に推察する私でありました。

続く【墨絵の間】は住職の応接室であったようです。
こちらも他の間と異なる印象を受けるのは、墨絵の古くてくすんだ印象だけでなく、むしろそこが唯一、使い勝手のよい、使われていた印象を受ける部屋であったからであります。
そして、金色のなかにそれはそれは美しく咲く、満開の白と黄、紅色の菊が描かれた【菊の間】は、御殿医の控えの間であったとか。
うーん、お寺に御殿医の控えの間までありますか┉。
すごいなあ。


私たちは、ちょうど、もともとなされていた修復も、東日本大震災による被害の修理修復も、地蔵堂の建設も、すべて終わったときに参拝したことになります。
金箔の襖の金色がもっとも美しい盛りであったかと思っています。

たましいが抜けたみたいにふらふらとまわらせていただきましたので、見落としたところがあるような気がしてなりません。
はああ┉。

No.45 21/03/11 23:57
旅人さん0 

三月十一日が巡ってきました。
東日本大震災の発生した日。
何を書いても偽善のように感じ、自己満足でしかないように感じて、書いては消して過ごしました。

今日、十四時四十六分、私はひとり仏壇もどきの前で黙祷をしました。
ろうそくを灯し、お線香をあげました。
その後、東北の地に、海につながった空を見上げたくて外に出ました。
┉外はびっくりするほどに静まりかえっていました。
車一台通っていません。
無音の、静まりかえった空間に、雲一つない青空が広がっていました。

みんな、思いはひとつだったのでしょう。


十年経ったといえ、それはあくまでも通過点に過ぎないということ。
今を生かされた者として、しっかりと生きていかねばならないと思いをあらたにした日でありました。


No.46 21/03/13 00:28
旅人さん0 

宮城県宮城郡松島町の【瑞巌寺】さん。
あまりの素晴らしさにまるで気が抜けたように御本堂をあとにし、庫裡の玄関を出ました私。
庫裡を出てひだりてには、なにやら小高い丘のようなところがあり、そこは天然の岩屋を利用して加工したものなのか、そもそもが岩肌なのかなんなのかもよくはわからなかったのですが、小高い丘をすぱっと削ったかのような壁面に、建物をはめ込んだような不思議な場所があるのです。
そこがなんなのか、今現在使われているものなのかどうかすらもわからなかったのですが、┉不思議な場所があったことだけ、記しておきます。

庫裡の正面には、宝物殿があります。ガラス張りのいかにも新しそうな建物です。お寺の中の宝物殿。なんだか御本堂での感動が薄れてしまいそうな気がして、次に向かおうとしたのですが、夫に
「仏像もあるかも知れないよ」と言われ、しぶしぶ入って行ったのですが、おおっ!
大きな大きな木彫りの御釈迦様がおられるではないですか!
┉いつものことではありますが、我ながらなんと現金な。
この感じは円空さまの彫られたものでしょうか。それにしても大きい。
欅の根株を用い彫られたものということであります。獅子の背上で、蓮台に坐る釈迦如来像を彫り出しています。
円空さまの彫られた仏様はどれも一気に彫りおこすものですが、この御釈迦様は頭部の髪や蓮台には細かな彫りがなされています。そして┉円空仏の特徴である、まるで微笑んでいるようなお優しい表情をうかべておられます。
ただ、お痛わしいくらいに肩から袈裟懸けに大きなひびがはいり、胸と右腕から左の腹部から膝にかけて、削られたようにお傷みになられてしまっていました。
うろうろと円空さまの釈迦如来像にまとわりつくあやしいおばさんを見かけたかたがおられたら、それは私だったかもしれません。

ようやく円空仏から離れると、こんどは不動明王さまの御像が見えてまいりました。左右に愛くるしい表情の矜羯羅(こんがら)・制吒迦(せいたか)童子を従えています。
なんでもこちら【五大堂】の秘仏五大明王像(平安時代・国指定重要文化財)の御前立であられるのだそうで。
お不動さまも大好きな私。またまたしばらくここをうろついたのはいうまでもありません。

No.47 21/03/13 05:32
旅人さん0 

入らないで次に行こうとしていたのではないのか?
┉ハイ。

┉ほんっと、手綱をとるのが上手い夫でよかったぁ。
そう、そして本当に手綱をとるのが最高に上手な夫は、“入らないで次に行こうとしてたんじゃないのか?”などという言葉はおくびにも出さずに、つかず離れず歩いてくれていました。



ここには、修復前の瑞巌寺の板戸絵であるとか障壁画であるとかも含めた什宝物の保存管理がされているようです。ただ、このコロナ禍、感染対策の一環で現在はそれをみることが出来ませんでした。
それを観られなかったにしてもなおあまりある宝物が、展示されつつ、より良い状態で保存管理されています。
経年の劣化を少しでも遅れさせるしっかりとした管理は、後世につなぐためにもありがたいことであり、普通はしまわれていて一般の参拝者などは一生涯目にすることなどない什宝物を拝見することができるという利点もあり、本当にありがたいものなのですね。
┉ハイ、私の場合は夫にも感謝、です。

本来でしたら一年に一度しか拝することのできない【涅槃図】も展示されており、このコロナ禍という状況下で、もしかしたら最初で最後の参拝となるかもしれない私には、ありがたいありがたい宝物管理でありました。
こちらの涅槃図はかなり古くて、瑞巌寺の前身であった【宮寺】【円福寺】当時のもののようです。
一時は無住の寺にまでなっていたこちらに、よくぞ残っていたものであります。経年劣化は否めず、目をよくこらさないと涅槃図であることにも気づけなかったものとはなっておりましたが、一人一人の人物、一体一体の動物が大変細かやかに丁寧に描かれたものでありました。


今年の涅槃会はコロナのために、一般の参拝者どころか檀家の方に向けての法要すらをすらを取りやめたお寺さんがほとんどでありました。
雨のそぼ降る二月十五日、自宅で静かに写経をして過ごしながら、今ごろは御本堂の室中孔雀の間に移され、お祀りされているであろう、瑞巌寺さんのこの涅槃図を思い浮かべました。
私の誕生日ということもあるため、有休をとった夫は、雨の降る空を恨めしげに見上げたのち、ともに写経をして過ごしました。ともすればたいそう暗めの誕生会でありますか。
プレゼントも【石仏・石の神を旅する】という本。
┉珍道中夫婦らしいでしょ( *´艸`)

No.48 21/03/14 05:34
旅人さん0 

【瑞巌寺】の正式名称は【松島青龍山瑞巌円福禅寺】というのだそうです。
┉認知症予防┉ではなくて認知症進行防止のために暗記して三回繰り返すと良さそうな気すらするほどなかなか長い名称であります。
衰退していた円福寺の再興に尽力した伊達政宗公が慶長13(1608)年、寺名を瑞巌寺と改めた際、前身となる円福寺に敬意を表してその名を織り込み残したのでしょうか。

その政宗公が、紀州熊野から取り寄せた木材を使い、京都から宮大工を呼び寄せて造られたもの。政宗は宮大工に対して、土足を禁じ、誤って落とした釘などは使ってはいけないと命じ、造らせたという瑞巌寺。
慶長9(1604)年から約5年かけて造営し、完成したもののようです。
とはいえ、さすがに経年の劣化を止めることは出来ません。
経年の劣化を修理修復して、耐震補強もしようということで行われた【平成の大修理】は2009年9月から約7年間の工事を終えての今現在であります。
今回の平成の大修理は地盤沈下による建物のゆがみなどを直すことが目的で、瓦や壁、建具の解体・修復、さらに耐震補強工事なども行われる大がかりなものであったようでした。
大屋根の瓦は5万枚以上あるうちの約3万枚を新たに葺き替えたそうで新たな鬼瓦をのせたようです。
鬼瓦は創建当時のものを再現して作成されているとのことですが、屋根が高くて双眼鏡でも使わないと見えはしないのではありますが。

その、かつての鬼瓦が宝物館の入口に展示されていました。
大きい!
ですがその大きさは想定の範囲内のものであります。
その繊細さにびっくりいたします。高級なケーキにのせられた繊細なバラの花弁を思い出すような鬼の前髪です。
うわぁぁ。
その繊細さにびっくりし、さらにはそれがなんと長きにわたり、海辺の風雨や熱い日射しにさらされ、雪の重みに耐え、今現在のすがたであることに驚愕いたします。屋根瓦ひとつにも政宗公のこだわりと当時の職人さんの努力を思い、思わず手を合わせ拝んでしまいました。

後に、当時、瓦屋根の本堂は大変珍しいものであったにもかかわらず、政宗公がどうしても瓦屋根にしたい、とこだわられたものの一つであったことを知りました。



はああ。



No.50 21/03/15 05:55
旅人さん0 

【瑞巌寺】さんについてここまで書かせていただいて┉。
宝物館に安置されている円空の仏さまのお名前を間違えてはならないと、〖瑞巌寺円空佛〗と検索すると、瑞巌寺さんの公式ホームページがありました。
おお、ありがたい!
ありが┉ありが┉ありがた過ぎるページを発見いたします。
瑞巌寺さんの御本堂の中を3Dツワーなるものであります。開いてみますと、な、なんと!
瑞巌寺360度映像3D参拝ツワーということで、御本堂内を映像で拝することができるではありませんか!

(´;ω;`)
ああ、まぁとりあえずあってる。
あってることはあってたけれど、なんと拙く、しかもあちこちに話が飛んでいることか┉。


私の拙い駄文でお目汚しをいただいた方々におかれましては、【国宝 瑞巌寺】という公式ホームページをご覧いただき、3Dツワーというところをお開きいただければと思う次第であります。
きっと私が何を書いていたかがご理解いただけると同時に、その素晴らしさに心洗われること間違いなし!であります。

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