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匿名( ♀ )
07/02/28 18:26(更新日時)

私は自律神経失調症とパニック障害を持っています😢

発症原因の大半を占めるであろう過去の出来事を吐き出させてもらおうと思い、今回この場をおかりします🙇

これからの新しい私を大事に楽しく生きていく為のけじめになればと思って…
✨✨✨✨✨✨✨✨✨

No.377066 07/02/26 15:45(スレ作成日時)

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No.1 07/02/26 16:27
匿名0 

これからの人生を前向きに生きる為に過去からのトラウマを書きます✏
全部は書ききれないだろうけど…


[祖父と愛人]

私はとある小さな田舎町で自営業を営む家の長女として生まれました。
周りも商店や飲食店を営む家の多い場所でした。

ハタチで結婚で結婚した母が22歳の時の待望の赤ちゃんとして私は生まれた👶

自営業を営む我が家は父方の祖父母との同居生活🏠
祖父はその地域では名の知れた権力者でした。
本当は自営業なんて継ぎたくなかったであろう父…
普通にサラリーマンしたかったんだよね?せっかく東京に出て、立派な学歴だってあったんだもん大学の友達のように大手の会社に就職したかったんだろうな…だけど祖父に呼び戻された…
一回でも『嫌だ』って抵抗したの?祖父には全く頭があがらない父😔
祖父の言う事は絶対‼な家でした。

私が生まれる前から祖父には愛人がいた…
祖母は健在なのに
祖母と暮らす我が家に当たり前の顔をして愛人はちょくちょく祖父を尋ねてやってきていた。
何する訳でもない、祖父の部屋でお茶をのみ楽しそうに会話をする日々
愛人の家に祖父が出向く事も多々あった。
愛人は若くない。

祖母にも愛人に接するようにもっと大事にしてあげれば良かったのに
周りの誰しもが思ってただろうね
そんな事まだまだ私は知る由もない…


私が物心ついた頃にも愛人は相変わらず家に通っていた
私はずっと愛人の事を親戚なんだと思っていた
いや、そう言い聞かせられていたのかもしれない…

愛人には私と同じ年の孫がいて、私達はよく遊んでいた
今思えばそれも随分とおかしな話

愛人が家にやってくると祖母は挨拶を交わして??部屋を出ていく、祖父と愛人を2人にされる為
本当にどっちが本妻だか分からないね💧そんなおかしな状況を問いただす人は誰もいなかった…
祖父のやること、言うことは絶対だからだ


おばあちゃん…おばあちゃんは随分と辛い思いをいっぱいいっぱいしたんだろんな😢
今の私ならきっともっとおばあちゃんとも仲良くなれたよね??


祖父は初孫の私を溺愛していた❤
すごく可愛がられたし、祖父には色々な所へ連れて行ってもらった。
何も知らない当時の私は祖父が大好きだった。

その反面、私は祖母と馬が合わないと言うかあまり可愛がられず仲は微妙だった…
祖母は私の下に生まれた弟にべったりだった。

祖父は私、祖母は弟…
片一方ずつしか可愛がらなかった…

No.2 07/02/26 17:06
匿名0 ( ♀ )

[祖母と宗教]

旦那は愛人ばかりに気持ちを持っていく、一人息子(父)には嫁がいる…
祖母は友達がいる人ではなかった
遊びに出かける事もしないし、没頭する趣味もなかったのだろう
そんな祖母の寂しさをうめるものは…宗教だった…


噂では亡くなったと聞いたが、インチキくさい教祖のような人間がいた

この人物もまた月に一度我が家にやってきていた。

我が家の中で一番広い部屋、それは仏間だった。
私が保育園の時家を立て直した。
それと同時に大きな大きな仏間ができた。
仏壇が3つ…
異様な空間だった

一つ目は金箔が張り巡らされた金ピカの大きな仏壇、お寺のような大きな木魚や鐘があった

2つ目は五重塔を形どられた仏壇

3つ目は一般家庭でよく見かける仏壇…(これ一つで充分)

仏間を大きく、また3つ作る事を指示したのもインチキ教祖だ😤
祖母はインチキ教祖の言う事をなんでも聞いた、水晶を置いた方がよいと言われれば何百万単位の水晶をすぐ買った。
私には価値すらわからずただのガラス玉にしか見えなかったよ🔮
占い師の真似事をして何か水晶にうつり出さないかと遊んだりはした、なーんにもうつらないただのガラス玉…

掛け軸をかけた方がよいと言われればそれもすぐ用意してた
うちのお墓はまたとてつもなく大きかった…
墓地の中で一番大きかった。
ケンケンパができそうな丸太みたいなものも埋めてあったなぁ…
お墓にお釈迦様の銅像も建てた
インチキ教祖の言う事はとにかくなんでも聞いてた


結局全てお金はインチキ教祖に回っていたんだろう。

でも祖母はそこにすがるしかなかったんだと思う。
自分の生きてる価値とか一切感じなかったんだろうな…


おばあちゃんごめんね😢私幼かったから何もわからなかったんだ
もっとおばあちゃんの気が宗教でない方向に向けるよう接してあげたかった
今は強くそう思う…もう遅いけど😢
いっぱい優しく出来なかった事、凄く後悔してるよ💧
力になってあげられず本当にごめんね


インチキ教祖との付き合いは家がなくなる日までずっと続いた…

No.3 07/02/26 21:56
匿名0 ( ♀ )

[母へのいじめ]

短大を卒業後、社会にでる事もなく母は結婚した。
ほんの少しの短期アルバイトしか経験のない母にとって商売屋に嫁いだ後の世界は想像以上のものだったのだろう。


母は若くて昔は綺麗だった
どちらかと言うと内弁慶で、人前で上手にあれこれ出来るタイプではない

近所の奥様連中からは若くて綺麗な母は少し鼻についたようで、何かと町内の集まり等ではよく嫌みを言われたり、女特有の嫌がらせがあったりもしたらしい…母は必死で我慢していたと数年前に聞いた

ママごめん、私何にも知らなかったよ
近所からもいじめられてたんだね😢
怖いおばさん達揃ってたもんね、同時のママは標的にされそうだもんな😔


祖父は権力者だったが、中にはそんな祖父の存在を疎ましく思っていた人もいたようで、直接祖父へ何かする訳ではなく、母に嫌みを言ったり…とする事も少なくなかったようだ😔

まだ家庭が円満なら良かったのかもしれない…母へのいじめは家の中でも起こっていた。
祖父母がそろって母をいじめていた。
父は祖父に頭があがらない、母を守りたいが祖父に何も言えないでいた…
パパ…それは本当に情けなかったと思うよ😔ママの為に一度でもおじいちゃんやおばあちゃんにキレてあげて欲しかった。ママはそれを待ってたんだよ…😢

祖父母は母のする事が何かにつけて気に入らないでいた。
母はよく泣いていた💧母は泣き虫だ、幼い私の記憶の中にも母の泣き顔は一杯ある。

我慢しきれなくなった時、母は幾度となく、家を出て行った…実家に帰って行ったんだ。

何度も『ママと一緒にくるの?パパと一緒にここにいるの?』と泣き叫びながら言われた😢
弟には何も言わない、どうして私ばかりに言うの?
お姉ちゃんだから??

No.4 07/02/27 06:09
匿名0 ( ♀ )

>> 3 私は、父と母どちらも選ぶ事なんて出来なかった😢
ただ泣いて『ママ行かないで~😭』と言うのが精一杯…
同時の私は幼稚園から小学校にかけての年頃だった。
そんな私を押しのけて母は何度も出て行った……

母が出て行っても父が迎えに行く事はなかった。
祖父がそんな事は許さなかったんだろう
今思えば、何でそんなに祖父に従っていたのか??私には全く理解できないよ

母が出て行けばやはり心配する父
決まって私に電話をかけさせる…☎
母に電話する
『ママ帰ってきて…』これは本心でいつも言った

後は父が言いたい事を私を通して言わされた
幼いながらにそれは凄く嫌だった…
でも嫌だと言えなかった😢
パパ、この時くらいから私は嫌な事でもなかなか嫌って言えなくなって、嫌でも引き受けちゃう人間になっちゃったんだ…


大抵一週間くらいすると母は帰ってきた。実家の両親にも帰るよう説得されてたんだろう。

母は帰ってくるとまず祖父に頭を下げて謝っていた。
土下座して謝ってる姿を見たこともある。
その光景が今でもたまに思い出される。

幼いながらに私は、大人の険悪なムードを察知するのは本当に早かった
おかしいという空気にはすぐ気付いた
気付かなきゃ良かったのに😢
いつも気付いちゃうから、私がどうにかしなきゃ…と言う思考に回るんだ
小さい私に何ができた??
その場の雰囲気が嫌で凄く辛かったんだよ…


両親は基本的に仲が良かった。
年上の父は本当に母の事が大好きだったと思う。
専ら2人の喧嘩の火種は祖父母だった…
本当によくもめてたな…隠してるつもりだったかもしれないけど私は気付いてたよ😢それで悲しくなってモヤモヤしてた
弟は何も気付いてない…仕方ないね、私よりも小さかったんだから。気づかなくていい、こんな思い弟にはさせたくないから。。

祖父母は、母方の祖父母をいつも下に見ていた、馬鹿にしていた事もあったんだろうな

両家にとって私は初孫…両家から大事にされた
大事大事な初孫だった

No.5 07/02/27 07:00
匿名0 ( ♀ )

[お金持ち?]


商売を営む近所の中でも家は比較的裕福だったように思う。祖父は愛人の家のせわもよくしていたようだし(貢ぎ)祖母の宗教への半端ないお金も用意出来ていたのだから…

そのお金がちゃんと貯蓄されていたらね…家はあんな事にはならなかったよ…


小さい頃からよくブランド物の服を着せてもらってた

あたり自らあれ欲しい、これ欲しいと言う子供ではなかったけど、欲しいと言った物はすぐ買ってくれた。


母は洋服を買うのが好きで、よく買い物にもついていった、と言うよりは付き合わされた😥
田舎町だから地元にはいい店がなく🚗か🚃を使って少し遠出の買い物だった。

同時の母はおしゃれで、母の衣装部屋は何だかいつも賑やかでちょっと好きだった。
値札をそんなに気にする事なく、買っていた。


同時新しくできたホテルの会員権も持ち、そのホテルのオープニングレセプションに家族で出席した時の事を今でも覚えてる。

店をなかなか休む事ができなかった為、どこかに遊びに連れて行ってもらう…と言う経験が少なかった。
その分、よくそのホテルに父・母・私・弟で泊まりに行ってた。


家にはお手伝いさんが2人いた。
お手伝いさんを雇うまでもないだろうに…😔母はその事にも戸惑っていたみたいだ。
お手伝いさんは掃除等をしていたように記憶している。

周りからは裕福な家だと思われていた。確かに裕福な時期はあったと思う。

その当時は気づかなかった、お金がどれだけ人を変えていくのかと言う事を…


多分私が小2の頃、うちの店が大きく関わっていた観光客向けのホテルが倒産し、多額の借金を背負う事になった…

時同じ位に税務署?国税局?もうちの店に入った…
祖父が雇っていた税理士がまた怪しげな人物だったようで、随時適当に管理していたらしく、かなりの金額を取られる事になった…
この時位から徐々に家は傾きはじめたんだろう


祖父は知人の借金の連帯保証人にもなっていた。
祖父の事だ、きっと調子よく引き受けたのだろう
数年後その知人は借金苦に自殺した…
その知人の多額な借金も祖父が、いや家がかぶる事になった…😔😔😔

知人の家族は何食わぬ顔でいた
かぶった借金で家がどんどん苦しくなっていく中、その家族は普通に暮らしていた。
悔しかったよ…何で?家が借金を払って、あんた達は好き勝手やってるの?
おかしいよ…

No.6 07/02/27 09:08
匿名0 ( ♀ )

[中学受験]


なんだかんだお金のゴタゴタはあったもののまだなんとかなっていた。
今思えばこの時もうあの日へのカウントダウンは始まっていたんだろうね…


小学校の頃の私の成績…中の上~上の下?と行った所かな?
そのまま市立の中学に進むのが嫌だった😔ヤンキー校だったからだ。
私は背が高いから何かにつけて目立っていた。ヤンキー校に行くのが嫌だった、きっとすぐに目をつけられると思ったから😥
成績もどっちつかずなくせに私は背伸びしたかったのか?自分の実力に過信していた、だから高校もエスカレーターな私立中学に受かると思っていた。

6年生の夏休みと冬休み、普段通っていた塾の先生のすすめもあり私は片道🚃で30分、徒歩10分の所にある某進学塾の夏期講習・冬期講習に通った。
🚃にのる際、小学生はまだ子供用の運賃、しかし私は大人並みの身長に服装もやや大人っぽかった為、小人の切符を出すとよく駅員に睨まれていた…
小学生には見えなかったようだ。(今思うと確かに…)
睨まれるのが本当に嫌だった。
だって小学生なんだもん、ズルしてないよ、何で睨むの??

身長へのコンプレックスは常にあった
周りの友達は小さくて可愛い👩
当時私は可愛いなんて言われた事はなく、大きいねが私の代名詞だった。


進学塾では地元以外の友達もできたし、好きな男の子もできた☺爽やかでかっこよかったな🌟彼は今頃どうしてるんだろう?幸せに暮らしているといいな⭐

塾では最初はやや置いてけぼり状態だったがなんとかみんなのレベルについていけてた。
この調子なら受かるかなと思っていた。

私は、昔から何かにつけて家族や身内からの期待の大きな子供だった、この子なら大丈夫。応援してくれる家族の期待の大きさが度々プレッシャーにもなっていた😔

私の受験した私立中学はその当時一クラスの定員しかとっていなかった。
母と一緒に願書を提出しにいき、受験番号をもらった。
受験番号は49番
その数字を見た母はすぐに四苦八苦という言葉を思い浮かべたようで、嫌な数字だと言っていたのを今でも覚えてる。

受験日、家族みんなが応援してくれた。午前中は筆記試験、午後からは面接。
正直テストは難しかった…


合格発表は郵送されてきた、通知が届くその日、私は学校でも落ち着かずそわそわしていた。
学校が終わると走って帰った。
家の近くまでくると何度も家の様子を伺った…

No.7 07/02/27 09:33
匿名0 ( ♀ )

>> 6 家の様子はいつもと変わっていないようだったが、何故か足が重かった。

もし落ちていたらどうしよう…そんな事ばかり考えていたからだ。
なかなか家に入れずに曲がり角の所でソワソワしていたら、母方の祖母がたまたま家から出てきた
(家に来ていたようだ)私を見つけた祖母…結果はなんとなく祖母の雰囲気で分かった

👩『おばあちゃん、私受かってた?』

👵『ダメだった……家に入りなさい』

やっぱりだめだったか…気が重かったが家に入った。
不機嫌な母の姿が目に入った
『ただいま。おばあちゃんから結果聞いた、ごめんなさい』私は謝る事しかできなかった😭
母はヒステリックに何か言った後、泣き崩れてその場を去った。

私も自分の部屋に入るなり大泣きをした。合格できなかった悔しさ、期待にこたえられなかった悔しさ…溢れ出した涙はなかなかとまらなかった。
どうしよう私…私どうしよう
そんな事ばかり思ってた


しばらくすると父が私の部屋に入ってきた
父は優しく慰めてくれてた、私の嗚咽がおさまってきた頃、
『○が(←私)悲しんでいるようにママも悲しんでるんだよ』
と言った…

期待の我が子が期待通りにならなかった
我が家にとってそれは切なく苦しい事のようだった…


そして私は結局地元のヤンキー校へ入学する事となる…

No.8 07/02/27 09:49
匿名0 ( ♀ )

>> 7 気持ちを切り替えて観念した。


私の通っていた小学校は9割方の生徒が卒業式に進学する中学の制服をきていた。
真新しいセーラー服、嫌だと言いつつも制服はなんだか嬉しくて、早く欲しかった

制服の受け渡しが始まり、すぐに取りに行こう!!と満面の笑顔で私は両親に言った。
父は『今日はちょっと無理かな~もう少し待ってね』と言った
私にはどうして無理なのか理解できず、『今日じゃなきゃ嫌だ!!』と言った
母は凄く怒った
『パパだって今日買ってあげたいって思ってる!でも今日はお金がないの!お金がなきゃもらえないでしょ!』またヒステリックになった…
お金がない??うちはお金持ちじゃなかったの??
そんな思いが頭をグルグル回っていた


当時、商売上、手形での引き落としが多数あった
これまでの色んな事で徐々にお金が回らなくなってきていたらしい
私が制服を取りに行く!と言った日は、いくつもの手形が重なって落ちる日だったようだ…
制服を買うお金すらなくなりつつなっていたみたい

そんな事も知らず、私はふてくされていた。
優しい父はなんとかしようとしたらしく、その日父が制服を買ってきてくれた。

パパごめんなさい…私どうしてもすぐセーラー服を着てみたかったんだ
家がそんなに大変になってきてるとは知らずにごめんなさい…

着々とあの日は近づいてきてたんだね…

No.9 07/02/27 14:13
匿名0 ( ♀ )

[借金状況]

中学に入学してからも家は傾むいた状態のままなんとかもっている感じだった…多分

借金が増えた状態になっても祖父と愛人、祖母と宗教の関係は変わらなかった。祖父母だけでどれだけのお金を使ったんだろう…家の状況はお構いなし
そういったややこしい事だけ祖父は父に押し付けた。
でも社長の座は父には譲らない
あくまでも社長は祖父だった
肩書きだけだけど…小さな商店、誰が社長でもそう変わらない
借金は全て父に押し付けた😣
祖父が保証人になってできた借金も全部

でも借金事情を知ってか知らずか!?祖父母のお金の使い方が変わる事はなかった

借金は雪だるま式に増えていった

当たり前だ…


どうしてもっと早くもっと強く祖父母の暴走を止めなかったの??
おかしいよ


おかしな光景…
それは幾度となく見てきた
その一つ
祖父が病気で倒れた時があった
祖母も母も看護にあたった
入院中の病室のおかしな光景
ベッドで寝ている祖父を三人の女が囲む
祖母・祖父の妹・愛人…おかしいだろうよこのフォーショット😔こんな事が日常茶飯事…


借金はどんどんかさんだ…私の知らない所でどんどんと…


よく理解できてなくてごめんなさい。
状況が厳しいのにも関わらず父は母にも全てを話していなかった。
当時の私はまた何だかんだなっていってるんだな…位にしか思っていなかったんだ😢
私は両親の反対を押し切り、高校は自宅から🚃🚲で片道一時間半の私立に入学した

田舎だったから高校が少なかった

県立はヤンキー校か賢いかの2択
間がない…唯一間になるのは商業高校、もしくは私立になる
私は私立を選んでしまった。
またお金かかっちゃったね
ごめん…私を育てるのにかなりのお金がかかってるよね
やはり私も祖父の頑固さの血をひいていたのだろうか?
これ!と決めた事はそうそう譲らなかった。
そんな私をなんだかんだ言っても父は味方してくれていた。
パパありがとうね
本当にありがとうね弟はお金がかからなかったよね😢
金食い虫は祖父母と私だった???

No.10 07/02/27 15:39
匿名0 ( ♀ )

[将来の夢]


借金はあっても、祖父母とのいざこざがあっても、父・母・私・弟の家族は暖かかったよ。
いい家族だったと思う🌟🌟
家族で笑ってた時間も多かったよね😊

そんな家族の笑顔が時間の経過とともに段々と少なくなっていった
冷たい空気に包まれた家族…🍂


私の高校生活は友達にも恵まれ充実していた
家のいざこざはあっても学校に行けば私も普通の女子高生
恋愛もした💕
楽しい時間もあった、悪い事ばかりじゃない


私には夢があった
芸大に行き美術の勉強がしたかったんだそして、イラストレーターや絵本作家、グラフィックデザイナーなどなんらか原点の絵に関わる仕事につきたかったんだ。

小さい頃から絵を描くことが好きだった🎨絵を描いている時間は幸せだった。
家に置いてあった筆ペンを使い、思いのままに絵を描いたりした(結構斬新な絵だったな)
普通なら筆ペン潰してなにしてる!!😣って親は怒るかもしれない
でもうちの親は怒らなかった。
本当に絵を描くのが好きだね~今日は何を描いたの?これはなぁに?
仕事と合間に両親は私の描いた絵に興味を持ってくれた😃
これはね~と私は嬉しそうに答えていた光景は今でも思い出される
幼いながらにもそのやり取りが嬉しくてますます絵が好きにった😃

数多くの習い事をしてきたが、どれもピンとこなかった
一番身になって楽しめたのは絵画教室だった。そこで油絵も始めた。
父も絵を描いたのか??油絵道具は父のお古を譲り受けた
お古でもとても綺麗な状態だった

絵の具を見るだけでワクワクしたなぁ


芸大に進むには早い段階から美術専門の受験勉強を行っておく必要があった
でもそういった準備は出来ていなかった
私は上手だね…と言われる程度の趣味レベル
実技テストには到底受かりっこない
気付いた時にはもう遅かった…
色々進路は悩んだ、子供が好きだから保母さんとかもいいなとか色々
でもやはり美術の勉強がしたかった


色々大学も探した末に、実技試験の入らない文学部の中に美術コースがある大学を見つけ出した。
私の気持ちは固まった!そこに行きたい!!

その事を両親に話した

その大学は遠く離れた県外だった
大学に行けば一人暮らし
四大となればましてやまた私立…これはお金がかかる

母は短大の推薦をしてもらえばいいじゃないか?と言っていた

No.11 07/02/27 15:46
匿名0 ( ♀ )

父は大学時代がきっと一番楽しかったのだろう、満喫していた学生時代の話は何度か聞いた事がある。

父は自分が味わった楽しい大学生活を私にもさせてあげようと強く思ってくれていた。

私が望なら行かせてあげたいと…

パパ、本当に本当にありがとう。
その頃の我が家はもう、娘を大学に出す余裕なんてこれっぽっちもなかったのにね…薄々気付いていたのに夢を諦められなかった
いつも意地を通してごめん。

父は大学進学を了承してくれた。
部屋探しも一緒に行ってくれた。

No.12 07/02/27 16:06
匿名0 ( ♀ )

[家族会議]


私が高校生の時に、神妙な面もちで、話があると父に言われ、家族全員が祖父の部屋に集まった。
こんな事は初めてだった。
何が始まるのか…大体の予測はつく
そういう時のカンは昔から冴えていたから


借金で家が相当ヤバい状況だと言う事が父から告げられた
初めて祖父に刃向かう父をみた
何十年も押し殺していた思いが爆発したのだろう
いや、爆発するしかないくらいの状況に追い込まれていたんだろうな

家族全員が泣きながら言い合いをした。普段あまり泣かない弟も泣いていた。
あまりに感情的で、凄い場面だったからか、言い合いの内容全部は覚えていない
ただ、初めて父は祖父に愛人との付き合いについて強く問いただしていた
病気をしても勢いはそのままの祖父もかなり言い返していた
いろんなはなしが二転三転していた

祖父が母をせめる場面もあった
昔から祖父母が母をいじめた時、文句を言うのは私だけだった

祖父に責められ母はただ泣いていた…手をギューッとグーにしてした、悔しくて悔しくて言葉にならなかったんだろう

そんな母をみて私は母を守らなきゃと思い、今までにないくらいの勢いと口調で祖父に食ってかかった
自分でもどこからそんな感情が出てくるのかわからないくらい興奮し、ひたすら祖父に文句を言った
愛人の事にも口出しした

今まで人一倍可愛がってきた孫からの仕打ち??祖父には相当こたえたようだった
泣きながら
『お前にそんな事を言われるなんて思ってもみなかった』と言っていた

私はみんなの分も代弁した!してやったりと言う気持ちとこのままうちの家族はどうなっていくんだろうと言う不安でいっぱいいっぱいだった…怖かった


愛人との事について祖父は
『俺も寂しかったんや』
といった言葉を今も覚えている
寂しかった?ふざけんなと強い憤りを私は感じた。

どういう話でその会議が終わったのかは覚えていない…

No.13 07/02/27 16:29
匿名0 ( ♀ )

[新たな出発]


私は後ろ髪をひかれるような思いがあったが父の『大丈夫』と言う言葉に後押しされ大学に進学した
自分でも出来る限りの事はしようと思っていたから、高校時代はバイトをして、受験にかかる費用等は自ら捻出した。

大学入学と共に県外に出た。
早くにバイトも見つけた
新しく通帳を作り、両親に内緒でお金を貯めてプレゼントしようと決意した。
その通帳に少しずつお金を入れていった。

親元を離れて初めて様々な親のありがたさが分かった。
私にも反抗期があり、父とはあまり口を聞かない時期もあった
母とは顔を合わせば喧嘩だった

母はストレス発散が下手なのか色々なイライラがたまるとそのうっぷんを私にぶつけてきた
その時は何で私ばかり??勘弁して欲しいと常に思いウンザリしていた。

私も子供だったからママの辛さを受け入れてあげられる器は持ち合わせてなかったよ😢ごめん
ママが切れるから私も切れ返したね
私は自分の部屋にこもる事も多くなってた。
親を疎ましいと思っていた時期だったから…


離れて暮らすと両親にも優しくなれた。感謝する気持ち…忘れてたなぁと反省もたくさんした。
ホームシックにもなった😢
度々家に電話をしていたね。

休みが出来るとよく家に帰っていた
交通費もかかるんだからそんなしょっちゅう帰ってこなくていい!と言われるくらい帰っていた

ゴールデンウイークの長い休みに帰った時、うちの仕事用の車はそのまま三台あったが乗用車がなくなっている事に気付く…
『車どうかした?』

『売ったんだ…』

『えっ??そうなの…』

借金におわれる家の状況がひしひしと伝わってきた

帰る度に何かがなくなっている事が多くなった

店の仕入れの品揃えも徐々に少なくなってきていた

もう仕入れる余裕もなかったんだな…

本当に私を大学に行かせてる状態ではなかったんだ

でもまだ当時の私にはその事が分かっていても分からないふりをするような…なんとも割り切れない状態だった


もしも未来が見えていれば、私、大学には行かなかったよ
私が家計を更に苦しめてたね
親不孝な娘でごめん

ヤバいヤバいと思いながら今までなんとかなってきたから、今回もなんとかなるんじゃって希望があったんだ…

No.14 07/02/28 06:21
匿名0 ( ♀ )

[金策]


大学が夏休みに入る。
私は例のごとく実家に帰ろとしていた。

そのころはまだ大学生活をやっと楽しめるようになってきていた🌟田舎者の私はどこかで一線をひいてしまっていたのかもしれない
友達もでき、実技の時間等、周りはレベルが高いなと思いつつも新鮮で楽しかった
あの頃大学でもよく笑ってたな
秋には文化祭!大学の文化祭ってどんなだろうなぁ~なんて思ったりもした

夏休み帰ると、いつものように実家に電話する
いつもは交通費がかかるからそんなしょっちゅう帰ってこなくていいの!と言う母
今回もそう言うもんだと思っていた

『○ちゃん…早く帰ってきて…お願い』
ママ?帰るよ帰るけどさ、どうしたの??
変な胸騒ぎがした…
でも電話で色々聞けず『○日に帰るからっ』といつものように明るく答えた

私は極力早く家に帰ろとした


帰宅…
『おかえり…』
泣きそうな母がいた
空気や家(店)雰囲気で気付く
変わった…状況はますます酷い…肌で感じる

父もおかえりと迎えてくれたが、私が知っている父の姿ではもうなかった
笑顔もない、どっと疲れきっていて少し痩せていた
痩せたのは夏のせいじゃないね
あまりご飯食べてないんじゃない?すぐそう察した

商店を営む我が家、従来父はいつも前掛けをしていた
首にはタオル、Tシャツ・短パン…それが夏の定番スタイル
が、前掛けやタオルはなく、その代わりに脇にセカンドバックがあった…
バックの中には通帳や手形、印鑑もろもろが入っている

会話もそこそこに父は外へ出て行った
金策に走っていたんだ…
母は今にも泣き崩れそうな状態
私を見て安心したから余計感情が込み上げてきていたのかもしれない

ママ、またいっぱいいっぱい色んな葛藤を自分の中にため込んでるんだね
大丈夫、私帰ってきたからね、そばにいるよ
守ってあげる
ママを家族を!!


実家に帰り2.3日たつと状況の酷さや今の家の状態がおおよそ把握できた

父は銀行がしまる午後3時までは金策に走り回っていた

消費者金融…闇金にも手をだしていた

必要事項を記入し、印鑑を押してFAXすれば50万程かりられるシステムをよく利用していた

やめなよそんな胡散臭い所からお金かりるの…

父は人格を失っていた
ただひたすら今日をしのぐ為のお金を作る
先の事など考えない
ただ今を(今日を)乗り切る事しか頭になかったんだ…

No.15 07/02/28 07:05
匿名0 ( ♀ )

>> 14 持っているクレジットカード全てのキャッシングをして引き出せるだけの額を出していた父

私にもお金ないか??と度々聞いてきた
私は両親の為にと少しずつ貯めていた金額を全ておろし父に渡した
まだ数万円しか貯まっていなかった


近所からもありとあらゆる所からお金を借りていた

父の人柄を信用し、近所の人達もお金を父に渡していたようだ
借金の連帯保証人にもなってくれた人が数人いたらしい

うちは祖父が連帯保証人になり何千万という全ての借金をかぶった事があった…その苦しみを他の家族にもさせるの??
私は何度もそう思った


その当時、弟は高校生、毎日のように部活に出かけていた


いいなぁいつも部活でこの場(家)から解放されて…
なぁんてその当時の私は思っていた

違うよね…
弟だって気付いていたはず
口には出さないけどいっぱい苦しんでいたはず
だって普段ずーっと家にいるんだから
弟からしたら、お姉ちゃんの方が羨ましかったよね
だって普段は家にいなんだもんね
壊れている家族の過程をずーっとそばで見てないもんね

あの時もっと弟の事も気遣ってあげたら良かった…

ごめん、あなたは今もあの当時の事をあまり口にしない
自分がどれだけ苦しんだのかも…胸の奥に閉まっていたんだよね

お姉ちゃんもパパと一緒だ…
家族を守る!!といきがっていたものの周りが見えてなかったね…ごめん
一番多感な時期にこんな嫌な思いをさせてしまった
お姉ちゃんあんたのなんの力にもなれなかったね、こんなお姉ちゃんでごめん


朝、銀行が開店するとまず電話がかかってくる、本日の入金金額は○円です…と
何万の単位ではない百万を超える日も多々あった

その電話はよく私が出ていた…辛かった…メモ用紙に○月○日、○円入金…と言われた事のメモをとる
そのメモを父に渡す

銀行が閉店するまでの時間が毎日本当に長かった
怖かった…

中には借金の取り立ての電話もかかってきた
電話口で怒鳴られた…私はただそんな大人が怖かった
まだ19歳になったばかりの私…大人の事情なんてやっぱり理解できなかった

怖い…怖い…

でも極力ママに電話を取らせないように努力した
これ以上母を追い詰めたら壊れてしまう…

母のヒステリックはどんどん酷くなっていた

無理もない…

あの時はみんながみんな自分を忘れていたよね
私達家族が家族でないような、そんな苦しい時間だった…

No.16 07/02/28 10:08
匿名0 ( 20代 ♀ )

>> 15 銀行が営業している月曜日から金曜日は地獄だった…

毎日毎日おかしくなりそうな日々が続いたよね

金曜日の銀行が閉店した時間が一番ほっとできた
明日明後日は銀行が休みだからだ
一時の休息時間だった

その時間は幾分家族も平和だったね



[閉店後の銀行]


父が銀行に行くと長い…
銀行員達にあれこれ言われたりするんだろう

父は私に銀行に行って欲しいと頼んできた

『いいよ』
気持ちは複雑、でも私が行くしかない!
変な使命感みたいなものがあった


私が銀行に連れて行かれたのは閉店後だった
父は銀行から少し離れた所に車を止め

父『ここでまってる』

私『うん、分かった、行ってくる』

私は何を手に持っていたのか覚えていない
確かに覚えている事は、その日入金するはずの金額が揃っていなかった事…

銀行の正面はもうシャッターが下りている

私は裏口に周り、インターホンを押した
『○○の家の者です』

『どうぞ』低い声で言われた

裏口のドアが開けられ、銀行内のすみにある応接スペースに案内された

銀行員全員の冷たい視線が私に突き刺さった

その視線が痛かった…凄く凄く痛かった
ひそひそと何か言われている声も聞

No.17 07/02/28 11:22
匿名0 ( ♀ )

[行き着く先は家庭崩壊]


父は相変わらず胡散臭い所からお金を借りていた

父に連帯保証人欄に母の名前を書けと私は幾度も強要された

私『これママしらないでしょ?私書けないよ』

父『いいから書け!』

私の知ってる父じゃない…父はこんな人じゃない
父は怒ると怖いけど普段は優しく、人の事を悪く言わないよくできた人間だった
私は何度も父から
人の悪口を言うな!と言い聞かされていた


口調も変わってしまった父
私は言うことを聞くしかなかった…


ねぇパパ、一体何人、イヤ何十人の友達や近所の人からお金をかりたの??
友達もなくしていったよね
海外に赴任した友達にも泣きついて送金してもらった事があったよね


みなさんごめんなさい
お金を返せなくてごめんなさい…


何日か後
一回目のふあたりが出た

よく分からないが二回出たらアウトらしい…


ふあたりが出た時、みんなどうしていただろう
何を思っていただろう

母は家を出て行くと言った
『こんな家出ていく、あんたも出て行く用意しなさい!!』ヒステリーを超えた叫びだった

私『今出て言ったらパパ…パパ死んでしまうよ』

母『男なら死んで借金返せばいい!!』

……

勿論母の本心ではなかった


母は出て行く勢い満々だった

私は心臓がバクバクしてどうしていいか分からなかった

気付くと泣きながら弟の通う高校へ向いて歩き出していた

弟はその日も部活だった

高校までは歩いて40分くらい

泣きながら歩いている途中、叔母が私を見つけた

叔母『○、どうしたの?』

私『もうあかん…ふあたりがでた…』

叔母『えっっ?』
『あんたはどこへ行こうとしてるの?』

私『△(弟)の所…』
叔母『……連れて行ってあげるわ、車乗りな』


弟の高校に着く

グラウンドのフェンス越しに弟を見つけた

フェンスをつかんで弟が来るのを待っていた…

しばらくして私に気付いた弟がやってきた

弟(困惑した表情で)『何?どうした?』

私は涙が止まらなかった

『ふあたりが出て…ふあたりが』

弟『ふあたりって何?』

私『もううちはダメなん、ママ家出て行くって』

弟『……』

その時、一度でもふあたりを出したらもうダメだと私は思っていた


私は決めた
家を出ていかない
父と一緒に残ると…

No.18 07/02/28 11:59
匿名0 ( ♀ )

>> 17 家に戻り、母に家に残ると告げた

弟も残ると言った

『勝手にしなさい!!!』と言っていた母も結局家に残った


二回のふあたりが出るのはもう時間の問題だった


何も考える気持ちになれなかった

家族は家に残っても殆ど会話がない…

生きている心地が全くしなかった
最悪な夏休みだったよ

こんな状況ではもう大学どころではない

私…うちの家族どうなるんだろう…



二回目のふあたりが出た
父は逃げる事を決めたようだ

一家離散になった…
みんなバラバラ…



かなり中略しましたが過去のトラウマの半分位は吐き出せました。
やはり色々思い出してしまって、文字をうつボタンをおすスピードもかなりかかってしまった…

おかしな文章になってしまったけど
もし読んでくれた人がいたなら、ありがとうございます🍀

色々あり、家のゴタゴタがあった2年後、突然発作が出て、病院に運ばれた時、最初は脱水症状と栄養過多と言われました
点滴をうち帰宅したものの
今までにない体調不良が私を襲いました
再度病院に行った所、ストレスによる胃腸不良と言われ、胃関係の薬を処方されました

でも一向によくならない
病院を変え、心療内科に行ってみた所、自律神経失調症だと言われました。
その後は体調が良かったり悪かったりの繰り返し…
ここ3.4年でパニック障害の症状も発症しました…
薬を飲みながら、もうダメだと叫ぶ身体を奮い立たせて仕事をしてきました

借金返済の為に…


8年頑張ってみたけれど体調がどん底まで来てしまって、とても仕事を続けられず昨年退職しました。


少しずつ少しずつ体調は回復してきているように思います。過去は過去、せっかく命を授かり生きている🌱

しっかり前を向いて歩いて行きます。
自分のペースで…
吐き出せて良かった??と今はまだ思えないのですが、きっと大丈夫


大なり小なりみんな色んな心の傷を持っていると思います。今過去や病気と闘ってる人も多いんだろうな…

一度きりの人生、笑顔いっぱいの日々が送れますように🌠🌠🌠


穏やかな日々をまた手に入れましょうね😊

一人じゃない
大丈夫🍀大丈夫🍀


大学は中退しましたが今でもちょこちょこイラストを描いています🎨
いつか私の描いたイラストが世に出て少しでもみなさんの心の癒やしや、和みを与えられる日がきたらいいな✨✨✨


とりあえず過去からは卒業🎓します🙋
ありがとうございました

No.19 07/02/28 18:26
匿名0 ( ♀ )

読み返してみたら所々文章が途中かけで終わってるレスもありました…😥

動揺してたのかな私❓

そしてやっぱり一番辛い部分はしっかり書けなかった…😥

それでもいい😊
今までここまでの洗いざらいを言葉にした事がなかったから
言葉にできる勇気が持てた✨✨✨

それでもかなりの進歩🙌

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