関連する話題
神社仏閣珍道中・改

神社仏閣珍道中・改

レス500 HIT数 16869 あ+ あ-

旅人
20/03/09 08:54(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。







No.2796560 19/02/13 05:40(スレ作成日時)

新しいレスの受付は終了しました

投稿制限
スレ作成ユーザーのみ投稿可
投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

No.201 19/06/07 06:16
旅人 

大岩山毘沙門天本堂にはいく体もの御仏像が安置されております。

日本でここだけといわれる御仏像が御本堂を出て、濡れ縁を歩いてぐるりと裏手にまわると裏手の扉が開けられており、そちらに【氷掲羅天童子(ひょうがらてんどうじ)の像】がひっそりと安置されておりました。
氷掲羅天童子は、鬼子母神の抱いている赤ちゃんの成長した姿です。鬼子母神が500人いる我が子を養うために、人間の子供をさらっては食べてしまうので、釈迦が鬼子母神の500人もいる子供のうち一人を隠したのだそうです。鬼子母神は嘆きその赤ちゃんを探し回るのですが見つからず、釈迦のもとをたずね我が子がみつからないことを訴えると、釈迦が「おまえは500人いる子供の一人が見つからないと嘆き悲しんでいるが、たった一人の子供をおまえにさらわれ亡くした母親の気持ちはいかようか考えてみよ。」と諭されたことにより鬼子母神は自分のしたことを反省して改心します。人間に尽くすようになり、その後仏となったそうです。
氷掲羅天童子こそが、鬼子母神が抱いている子供であり、この時に隠された子供が大人になった姿なのだそうです。

左手にザクロを持つたいへん珍しい仏様で、毘沙門さまのお妃の吉祥天とは、姉と弟の関係になりますそうです。
よその子供を浚ってきては食べていた母、鬼子母神の罪を償うため、救いを求めてくる人には、限りないご利益を与えてくれるといわれています。左手のザクロは子孫繁栄の象徴であるといわれています。
蓮の、花の無い台座に座られた御像は、お優しいお顔立ちで女性かと思うくらいにお美しいです。
さすが美の女神、美、幸運、繁栄、豊穣をもたらす神とされる吉祥天の弟君であります。
ですが、母の犯した罪を償うというその有り様があまりに切なくて、胸がつまる思いがいたしました。安置された場所が、本堂の裏手にひっそりとお祀りされておられることもあったかと思います。
氷掲羅天童子はそんな私の思いなどいらぬものだよとばかりに穏やかに微笑まれておられます。

No.202 19/06/08 06:20
旅人 

と、大岩山毘沙門天本堂についてツラツラ書き綴っておりますが、こちらは最勝寺さんの別当でありますので、これは是非最勝寺さんに参拝しなくてはなりません。

そして、毘沙門天本堂内には叶神社・叶権現の分祀がございます。

叶神社さんのことは毘沙門天参拝で初めてその名を知りましたもので、足場が悪いので分祀なさってお祀りしてあるとおっしゃっていたのを、そうなんだあ、とありがたく聞いて、その内陣にお祀りされた叶権現さまをお参りさせていただいたのですが、実は毘沙門天本堂のすぐそばに叶神社さんはございますようで┉(^o^;)

あらためてまた、毘沙門天さまに参拝し護摩祈祷に参加させていただき、叶神社さんにも是非参拝させていただこうと思います。



その節は、また長々と書き綴るかと思われますが┉どうかご容赦くださいませ。




        令和元年六月一日 参拝

No.204 19/06/11 20:01
旅人 

日光に行ったというお客さまから、お写真をいただきました。
『龍頭の滝』┉の┉看板の写真。お茶目だなあ。(^_^;) お花の咲き具合に合わせて一週間後にもう一度行って撮されたという、数々の写真の中から、一枚選んでくださったのが滝でもなく、花でもなく、「看板」と花。
でも、そのためだけに来てくださった。ありがたいことです。

【日光】行きたいところがたくさんあって、行きたい季節がいっぱいあって、いつか私もお客さまみたいに思い立ったら日光!みたいな生き方ができるのかなあ。

【化地蔵(ばけじぞう)】と呼ばれるお地蔵さまにお会いしに行きたい。
慈眼大師天海の門弟子が彫ったという約七十体のお地蔵さまが一列に並んでおられるという。【百地蔵】【並び地蔵】とも呼ばれるそうですが、そもそもなぜ、化け地蔵、などという名前で呼ばれているのか。
そのお地蔵さまが居並ぶ道、行きと帰りにどんなに真剣に数えても、数があっていたことがないことから、お地蔵さまが化けておられるという伝説があります。
また、仏教用語の【抜苦与楽】の『抜苦』がつまって『化』となったという説もあります。
百地蔵と呼ばれることがあるのは、もともとは百体ほどあったようなのですが、明治三十五年に大洪水があり、その際流出してしまわれたお地蔵さまが何体もおられたようです。流された地蔵群の先頭におられた『親地蔵』と呼ばれていたお地蔵さまも流されたのですが、のちに川床に埋もれていたその御首が発見され、【浄光寺】さんというお寺に安置されておられるのだとか。


日光に行きたいなぁと思っていたところ、また、そのお客さまが仕事先にお越しになり「また(日光に)行ってきたんだよ」と、新しい写真をお見せくださいました。最近、奥さまに内緒で買われたという総額八十万円というカメラ、しっかり使いこなしておられました。(^_^;)

No.205 19/06/12 06:29
旅人 

化地蔵さまの伝説は、よく数の数え間違いをする私に(私だけじゃないんだな)というちょっとほっこりとした安心感をあたえてくれていたりします。

でも、そんないつも迂闊な人間が数えると、かえって数があっているのかもしれなかったりして( ω-、)

No.206 19/06/13 23:41
旅人 

群馬県高崎市の【小祝神社】さんに参拝してまいりました。
群馬県の┉上野國の延喜式内社の七之宮であります。

人気テレビ番組の「チコちゃんに叱られる」の決まり文句のひとつではありませんが、式内社のなんたるかも知らずに、やれ式内社を全部まわらせていただこうだの、令和になった奉祝のお詣りはやはり式内社がいいだろうなどと、知ったかぶりな行動をとっている私なのであります。(^_^;)

本日、お詣りは、私一人での単独行動であります。
ナビだけが頼りという珍道中であります。
が、しかし、私の車、実はナビのない車で、あとから買った簡易式のナビがあるのですが、肝心のナビをつなぐソケットからの電源が故障して使えないのです。家での充電に頼るしかないという、充電がいつまで持つかわからないという、すでにスリリングな珍道中、なのであります。

さて、実は【小祝神社】さん、「こいわい」と読むのではありません。
ナビに入力するのには当然正しい名称を入力しなくてはなりません。「┉ ┉」えっと┉、んー、なんだっけ?(゜゜;)
えっ?( ´;゚;∀;゚;)

今回の参拝、スタート地点が自宅からではなくて、すでに前橋市から高崎市に入ろうかという地点です。



┉しかし、安心してください。電話番号もメモして来ております。入力、入力!○○○-○△-△△△っと。ん?なにやら文字の案内が表記されております。「個人宅の電話番号ですので名称を入力してください」
えっ?((゚□゚;))

No.207 19/06/14 19:46
旅人 

┉安心してください。
住所もメモしてあります。ただ、楽に入力できる電話番号から入力しただけであります。
住所を入力すると┉おお、案内が始まりました!お、ここは駅の裏手の道だなぁ。お、市役所のそばだ。
えっ?なんかずいぶんと走らされている?こんなところは走ったことがないかも(^_^;)
これでナビの電源が落ちたら、┉帰れるのかなぁ(^_^;)しっかり覚えながら走らないと!

ああぁ、真正面に高崎観音が見えます。これはありがたい!
ま、とはいえ、高崎観音に自力で来たことがあるわけではなく、帰宅困難者になったときの帰宅の手がかりにできるわけではないのだけれど。(^_^;)
「来た道を覚える、来た道を覚える!」

えっ?案内をそろそろやめようとする発言を、ナビがしだしております。ぜんっぜん、看板やら道案内をみかけません(*T^T)
本当に?
神社さんのお社の屋根や、よくあるご神木や林のような木々なども見当たらないんだけど( ;∀;)

ええぇー?こんな細い道(注:たいした細さではありません)入っていくの?

No.208 19/06/14 20:08
旅人 

わからないとすぐに人に尋ねるというおばさんの得意技も、今回に関しては使えない。だって神社さんの名前の読み方、かなり特殊なのにもかかわらず、その読み方を忘れてしまったのだから( ;∀;)
ナビが案内を続けてくれる限り進もうではないか!みたいな、もうすでに小さな冒険状態であります。

ああ、幼稚園だ。
神社なんて見当たらない。
ん?幼稚園?┉そうだ!神社仏閣さん、幼稚園や保育園を経営なさるところが結構ありました!
もしかしたら、あるのかもしれない、【小祝神社】さん!
お!あった~!!(ノ・∀・)ノ


車がいっぱいです。なにかあるのでしょうか?
一台はかろうじてとめられそうです。 
 
境内に車をいれると、社務所に、正座して筆をふるわれる巫女さんが見えます。梅雨の晴れ間の暑い日です、あのいでたちで正座しているのはさぞ暑いだろうなぁ。などと考えながら車を降りました。


決して広いとは言えない境内であります。赤い拝殿が見えました。


No.209 19/06/15 21:38
旅人 

ようやくその、ヴェールを脱ぐときがやってきました。
【小祝神社】さんの読み方!【おぼりじんじゃ】さんでありました。 
もともとは、九二七年成立の【延喜式】神名帳での当時の読みは「オハフリ」と振られているようです。
「ハフリ」は神さまに人間の言葉を告げること、転じて神祗官の役職名となっているようでもあります。


参道脇には宮司さまのお宅と社務所があり、その反対側に車が六台くらいでしょうか、停められています。そこも車を置かせていただいてよいのでありましたが、あとで鳥居の前にも何台かの車を置くスペースがあったことに気づきました。
私はようやく見つけた神社さん、そしてその駐車場と思われるスペースに車を停めさせていだいていたのではありますが┉いつも思うのですが、鳥居の中まで車で乗り入れたり、参道を車で走行したり、鳥居に向けてバックで車を停めたり、なんともまあ罰当たりな気のする、現代の神社仏閣の参拝の実態であります。


小祝神社さんの参拝をさせていただきます。
手水舎は水が張られておらず、段ボールが鉢底を覆うように乗せられておりました。
手水舎のすぐ斜め裏手には神楽殿があり、鳥居から真正面、三~四十メートルくらいでしょうか┉のところに朱色に塗られた神々しく厳かな拝殿があります。大きな拝殿ではありませんが、神さまを敬い、大切に思って建てられたという、思いの伝わってくるようなしっかりとした造りであります。そしてその彫刻の凝った造りといったら!おじいさんが亀に乗っている彫刻がなんともリアルで、しかも彩色も美しく目を奪われます。ちょうど拝殿の真上に位置して飾られております。屋根の瓦の紋様もなにか不思議なものであります。
拝殿はなんとも神さまを身近に感じさせる、あたたかなものであります。

ただ、拝殿の真横に保育園の裏口が位置していて、保育士さんがなんともドキドキするような大きな声でなんともドキドキするような言葉、罵声が丸聴こえで、どうにも落ち着いて参拝ができなかったのが現実ではありました。

裏手にまわると、本殿の裏にそれは見事な彫刻にきれいに彩飾がほどこされています。その見事な彫刻にあまりそぐわない、平坦なそれでいて色彩の鮮やかな絵が描かれている側面に、多少違和感を抱きながらも、全体的になんだかワクワクするような可愛らしいという印象を受ける社殿であります。



No.210 19/06/15 21:54
旅人 

社務所では、巫女さんが正座され御朱印をお書きくださっています。実はこちらの御朱印をお書きくださる日は、月に何度からしいのですが、今日はたまたまその日にあたっているようです。何種類も御朱印がご用意されています。
【少彦名命】さまの御朱印がございます。
小祝神社さんのものと少彦名命さまのものをお願いいたしました。

ところでこちらの御朱印、【開運】【昇運】という御朱印があったのですが、その御朱印は一度ではひとつだけしかお受けできないということで、さんざん悩んで【開運】をお受けいたしました。聞けばこの御朱印、四連のものとなっているとか。
でも、こちらは、御朱印をすべて集めたいとかでなく、是非再拝させていただきたいと思わせる、やわらかな穏やかな気があふれた心地よい神社さんでありました。

待たせていただくあいだに、見るとはなしに貼り紙を見ていると、貸し腹帯の文字が!びっくりびっくり!
お忙しそうな巫女さんにお声がけするのもなんだか気が引けて、確認はできなかったのですが┉。
いつかまた再拝の折には、【貸し腹帯】確認したいものであります。





    令和元年六月十三日  参拝

No.211 19/06/16 11:19
旅人 

アマテラスオオミカミさま、スサノオノミコトさま、オオクニヌシノミコトさま┉日本の神話に登場する人物の御尊名を耳にされたことはあるでしょう。でも、古事記を実際に読んだことがある人は少ないと思います。え?そんなことはない?そうだったらすみません。

ただ、私が子どもの頃には本屋さんで、日本の神話の絵本や子供向けの神話の本がたくさん売られておりました。「いなばのしろうさぎ」のお話などもまさに神話であります。
ところが、私の子育て中になると、日本の神話の子ども向けの本などはほとんど見かけることがありませんでした。それどころか平成になる頃には日本の昔話の絵本もかなり少なくなっていたよう記憶しております。あの人気番組だった【まんが日本むかし話】も終了し、ディズニーが映画化した【シンデレラ】【ラプンツェル】【ピーターパン】などがあたかもディズニー作品のように誤解され、世に知られるものとなっているように感じるのは私だけ、でしょうか。


私のように神社さんに縁なく育ったような人間でも、特に子どもに本を買い与えるような親でなくても、学校の図書室なり学級文庫で、目にし、読む機会がありました。伝記や日本や世界の名作などももっと数多く出版されていたように思います。

私はどちらかといえば、本の好きな子どもでありました。
オオクニヌシノミコト=大黒さまと少彦名命さまが出会われたシーンを覚えており、少彦名命さまが主祭神としてお祀りされる神社さんに、おそらく初めてお詣りさせていただき、たいへんうれしく思いました。小さな小さな神さまが、大黒さまと国造りに歩かれるさまは、魔法のような、冒険のような胸弾む物語であったものです。
一寸法師のモデル?原型?になったという説もありますが、私のなかでの少彦名命さまは一寸法師とは全然異なる存在です。

小祝神社さんの広くない境内も、もしかしたら少彦名命さまには広いのかも知れませんが境内を走り、地を駆け、天を駆けてあちらこちらで困っている人を助けて歩いてくださるお姿を想像するだけで、心あたたまる、少彦名命さまにございます。

No.213 19/06/16 22:50
旅人 

群馬県高崎市の県立歴史博物館で、【大新田氏展】なるものが開催されていることは知っていたのですが、新田義貞公ゆかりの神社仏閣を実際に歩いて巡っておりましたので、もうそれでいいかなと思っておりました。
が、最終日の前日の昨日、外は雨。室内の展示だし。┉行ってみようかな。それにしても【大新田氏展】の【大】って一体なんなのだろう。

と、いうわけで、今回、神社仏閣珍道中、番外編、であります。



今年、2019年度に開館40周年を迎える歴史博物館の記念展として、新田氏を取り上げてみたとのことです。
群馬県民には、【上毛カルタ】というものを通じて老若男女、幅広い層からその名を知られる新田義貞公ですが、その全国区における歴史的評価は、天皇の忠臣から凡将まで、時代によって大きく変わるらしいのであります。
まあ、私などにいたっては新田義貞公について知っていたことは、上毛カルタの読み札にある文言、『 [れ] 歴史に名高い新田義貞 』程度という、小学生レベルでありますが。
この新田氏展では、新田一族に関わる〖甲冑〗・〖彫刻〗・〖古文書〗などの資料をとおして、南北朝動乱を駆け抜けた新田義貞とその一族の歴史に迫ります。とのこと。私のような者にはお勉強になり、大変有意義ですが。 ┉同行の歴史オタクの夫にはどうなのでありましょう。当然、いろいろ知っていることばかりでしょうし┉。なにせ、いつも歴史上の有名な人物が関与している社寺に行けば、何も見ずにしてそれはそれは分かりやすく歴史の流れから、複雑なその絡みまで語ってくれる人ですので。今回のこの新田展のテーマのひとつ「新田氏から岩松氏へ」も、理解力の大変悪い私が、おぼろげながら記憶の片隅に引っかかっているくらいに語ってくれています。

ま、いいか。またきっと、ポソポソ解説してくれて、それが夫婦の会話になりましょう。


え?入場料六百円~~っ?!!(゜ロ゜ノ)ノ
ちゃんとそれだけの価値のあるものであることを願いたい。
あ、おさいふに一万円札しかない。入場料を買う自販機は千円札しかお札は対応しておりませんでした┉「ごめん、出して」



さあ、大新田氏展の会場の扉を開けます。

No.214 19/06/17 05:33
旅人 

新田氏展の扉を開けるとすぐに、【新田義貞の像】が出迎えてくれます。┉ものを知らないにもほどがあるおばさんが率直に言えばチョコレート色(!)の、四十センチくらいの像です。
義貞公を象徴するといっても過言ではない、『両の手で大刀を額の高さまで掲げ持ち、祈る』姿の像であります。


さて、以前のスレでお話しさせていただいているのですが、私の小学校の修学旅行先は【鎌倉】でありました。まあ、出身校の異なる子どもたちの代になっても鎌倉であったので、この辺り┉かなりの広域にあたる群馬県の小学生は鎌倉に修学旅行にいく確率は高いようですが。
私の頃の小学校の修学旅行は、先生と旅行会社が相談して決めたコースを団体行動┉クラスごとにまわるといったもの。しおりの作成も先生がお作りくださったもので、今の自分たちで調べてオリエンテーリングで班行動するようなものとはかけ離れた、授業の一環で校外学習にでむく出向くといった内容のものでありました。
作られたしおりには鎌倉に関係した歌までが盛り込まれ、♪【真白き富士のね】♪【鎌倉】などがありました。そ、そしてその歌を、みんなでバスの中合唱できるように充分に練習してから、修学旅行にいくんですよね。
その【鎌倉】、八番まであるという歌なのですが、その栄えある一番は
〖七里ガ浜の磯づたい 稲村ガ崎 名将の つるぎ投ぜし古戦場〗
というもの。全員覚えるまで練習して練習して。意味すらわからないまま、歌だけが脳裡に残った状態で大人になりました。まあ、そんなヤツは私だけなのかも知れませんが。

閑話休題。その、名将こそが【新田義貞公】だったわけであります。が、それを知った┉気づいたのは、そんなに昔じゃないんです。
でも、いいわけをさせていただくと、その修学旅行のしおりには、新田義貞の名前は一回出てはくるのですが、年表の中にポツンと
『1333(元弘3) 新田義貞が鎌倉に攻め入り北条高時一族は自刃し、九代110年の北条氏が滅び鎌倉幕府も滅んだ』
と書かれているのみですし、稲村ガ崎には行っていないし。
その後もぼーっと生きてきた私なので、このしおりに書かれた文章を越えることない、知識しか身についていなかったのであります。
だって華々しく語られるのは、源頼朝公や実朝公だし、北条氏だし。後醍醐天皇だし、足利尊氏公だし。
太平記なんて読まなかったし。

No.215 19/06/17 18:45
旅人 

ちなみに、ですね、私、その小学校の修学旅行のしおり、まだ持っていたりするんです。まあ、ずっと手元にあったわけではなくて、最近実家から持ってきたのてありますが。
いやあ、先生方、本当に丁寧に作ってくださっております。
とはいえ、六年生を対象にしている文章とは到底思えず、どちらかというと大人になって懐かしく思って紐解いたとき、思い出とともに役立つ情報を得ることができる、、みたいな内容のものであります。
だって、大仏さまの滞在時間三十分ですし。五クラスがそれぞれ集合写真撮ったら時間切れでしょう?しかもかなりの雨だったし。
どおりであんまり記憶らしい記憶がないはずです。


と、いうわけで新田義貞公が稲村ガ崎で剣を投じたといったことは、六年生の修学旅行では歌を覚えただけだし、その後も歴史の授業では、よほど新田義貞が好きといった教師にかかわっていただかないと教えていただくことはないのじゃないかな?
一般教養?!!(゜ロ゜ノ)ノ
それがあれば、今こんなに苦労はしていないでしょうね┉。
(*T^T)

No.216 19/06/18 15:37
旅人 

群馬県民であります私ではありますが、本当に新田義貞公のことは現在勉強中。歴史博物館がこの企画展のために作成したその名も【大新田氏展】という、九百六十円の冊子を購入してまいりましたくらいです。
福井県で亡くなった義貞公は福井県にゆかりの神社仏閣もあり、鎌倉には北条氏の冥福を祈り、義貞公が建立した九品寺があります。
新田庄においては当然、ゆかりの社寺が数多くあり、あの、上毛カルタの〖は〗にあたる読み札も、義貞公ゆかりの女性、匂当内侍が関与していたようなのです。
内侍がこの地で義貞の菩提を弔ったという説があり、その地に数多く植えられていたつつじ(一説には義貞公が内侍のために植えた)を館林城主が移植したとされるつつじが今なお現存しているとのこと。樹齢八百年を超えるヤマツツジであります。
大変残念なことに、その『[は] 花山公園つつじの名所』と詠われる、花山公園に何度も行きながら、┉ちなみに昨年も二度ほど行きながらそのつつじを見たのか見ないのか┉大きなつつじを見た記憶はあるのですが、それが匂当内侍ゆかりのものであったかどうかわからないまま、公園をあとにしていたのでありました。
そもそも、その伝説を知ったのは、私が少しだけ新田氏について知ることが増えて訪れた、内侍のお墓を参拝したからで、その後、花山公園を訪れてはいないのであります。


福井県の、義貞公の亡骸を安置したとされる寺院から阿弥陀三尊像をお借りすることができ、遠く離れた群馬の地で拝することができました。
両脇侍であられる観世音菩薩さま、勢至菩薩さまはやや前傾姿勢をとられ、堂々とお立ちになられる阿弥陀如来さまにかしづくような印象がありました。
九品寺からは石仏さまがお越しくださいました。薬師如来さまの座像で、お優しい笑みを浮かべ、大変状態のよい、彫りも見事な仏さまであります。ただ、鎌倉時代の1296年の作でありますので、義貞公が建立する以前にすでに造られておられた石仏さまであります。

新田氏ゆかりの地における社寺では、総持寺、金龍寺、長楽寺、円福寺、金剛寺、青蓮寺、明王院、新田神社が、それぞれゆかりの品を出品してくださり、桐生市の青蓮寺からも御本尊の阿弥陀三尊像および新田家の位牌が出品いただいていました。
青蓮寺の阿弥陀三尊像は年に一度の御開帳でありますのに、思いかけず拝することができ大変うれしく思いました。

No.218 19/06/18 15:49
旅人 

ただ┉購入した【大新田氏展】(冊子)、これで本当に勉強するのは夫で┉、私は、写真撮影できないこの新田氏展でお会いさせていただきました御仏像の写真をみるにとどまりそうな気がしてなりません。


No.219 19/06/18 17:32
旅人 

本日、六月十八日は観世音菩薩さまの功徳日であります。この日に観音様にお詣りすると、四百日お詣りさせていただいたのと同じ功徳を受けられるというありがたい日。

さいわい今日は仕事が休みであります。
御本尊が聖観世音さまの、群馬県桐生市の【観音院】を参拝いたしました。御本堂をいつも開放してくださっておられるこちらのお寺は、私の癒しのお寺のひとつであります。

功徳日に参拝させていただいたあかしにと、御朱印をお願いいたしました。日限地蔵さまのお縁日の限定御朱印を希望して御朱印帳を預けていかれる方がほとんどのようで、副住職さまも「お預かりですか?」とお聞きになられます。
「今日は観音さまの日なので参拝させていただきましたので、聖観音さまの御朱印をお願いいたします。」と申し上げました。
「ああ、わかりました」なんだか嬉しそうにかすかに笑みを浮かべたように見えたのは私の気のせいなのかな。

なんだかいつも以上に待つ気がするのは暑さのせい?
朱印を捺しておられる音が聞こえます。受付の窓口近くで待たせていただくと、私の御朱印帳を手に副住職さまがあらわれました。
「観音さまの日なのでいつもと違う御朱印にしてみました。お待たせしてすみませんでした。」
┉なんとありがたいことでありましょう。
おそらくは私のためだけの、世界にたったひとつの限定御朱印であります。
なんとお書きになろうかと、私のために悩んで文言をお考えくださったのであります。

ありがたい。本当にありがたいことであります。

暑い日でありますのに暑さを感じることなく、観音院さんの境内は爽やかな風がそよぎ、心の洗濯をしていただきました心持ちでありました。そう、お日さまにあたってよく乾いた、ふわふわの気持ちのいい洗濯物のようであります。


この心持ちがいつまでも保てますように。



    令和元年六月十八日   参拝

No.220 19/06/21 22:35
旅人 

ニュースで、御朱印帳の盗難を報じていました。本当ににあり得ないことであります。

御朱印は、御守りや御札と同様に神聖なものであります。それだけでなく、そこには行った先々での思い出や、ひとつひとつの御朱印をいただく際に書き手の僧侶や宮司さまとの会話やお教えなどがこめられている、かけがえのないものであります。
他人さまの集めた御朱印、御朱印帳をいったいどんなつもりで盗んでいったのか。
その神社さんで、最後の一頁が埋まるという、まさに感慨もひとしお、という御朱印帳だったようです。
私も同じものを持っておりますが、日光東照宮の陽明門の平成の大修理完成の記念に発行された、いわば限定の御朱印帳であったようです。

番号札をなくしてしまったという申し出をし、それがまさか虚偽の申し出などと思うことなどない、人の好意も踏みにじっての犯行だったようです。
御朱印帳の盗難というニュースが、全国ネットで放送されるほど御朱印がブームだということでもあるのでしょう。
でも、本当に、他人さまが集めてまわった御朱印、御朱印帳になんの価値を見いだそうというのでしょうか。盗んだという時点で、御利益などは望めませんし、転売目的にしても、その御朱印帳を手にいれるまで、どちらをまわられてどんな御朱印を受けておられるものかなどは、わからないものです。高値の取引ができるかどうかなど、わからない。
ましてや、神社さんの社務所で、番号札云々のやり取りをしているときに、真の持ち主があらわれるかもしれないというのに。
四、五十代の連れのない一人の女性が犯人のようですが、大胆不敵というか、なんというか┉。

限定の御朱帳ではありますが、よく見かける=数多く出回っているものでありますので、もしすれ違った女性が同じものを手に持っているなと思うことがあったとしても、まさか自分のものだとは思わない。


情けない世の中であります。
御朱印がブームとなり、ネットで高値取引され、盗難事件まで起きる。それが奇異なことだから┉珍事件だから全国ネットのニュースにまで取り上げられたのであります。


どうか、犯人の女性が良心の呵責に耐えかねて、持ち主に戻してくれますように。



No.221 19/06/21 23:24
旅人 

飯盛山 白虎隊墓守の方が、ネットで御自身の嘆きを、怒りを再度発信されておられました。

狛犬の背にのる中学生を叱るどころか写真を撮る教師がいたそうで、注意をしたところ、不思議そうな顔をし、「えぇ?だめなんですか?」とニヤニヤしながら応え、さらに中学生に対して「怒られちゃったから降りて~っ」と言ったのだとか。
おそろしい時代になったものです。
白虎隊がどのようなものであったのか、そこがどんな地であったのかも知らない教師に、子供を引率などさせてはならないです。
歴史のみならず、文化財(本来文化財ではなく、そこに志を持って散っていった貴い命があり、それを鎮魂するために建てられたものでありますが、教育の場に宗教色を絡ませていけないというならと、あえて文化財、という表現をいたしました)に対しての接し方やら、人としての陳謝のしかた、そのなにもかも教えることができないような人間は、本来教師ではないです。

墓にのぼる子供を注意したところ、母親が「何がいけない?!私たちお客なんだけど!」と逆ギレしてくってかかってきたとかの記述もありました。
そこまで時代は変わってしまったのでしょうか?
お墓ですよ⁉  
ものの善し悪しのわからない子供が、仮にそんな行動をとったら、叱って理由を教えるのが親ですが、ね。
お墓がなんなのかわからないまま、親になったのでしょうか。



来ないでください!と書いておられます。 
当然のお気持ちだと思います。

┉ごくごく一部の方ではありましょうが、なんと情けなくて悲しいことでありましょう。

No.222 19/06/24 23:23
旅人 

埼玉県熊谷市妻沼の能護寺さんに参拝してまいりました。
東国花の寺の紫陽花のお寺さんであります。
小雨がぱらつく日ではありましたが、紫陽花には雨もお似合いかな?と、思い立ったが吉日とばかりに車を走らせました。あ、もちろん、夫が、です。( ´~`)ゞ
紫陽花の花真っ盛りの今、駐車場の誘導係が駐車場入口そばに立ち、雨の日でありますが、駐車場もほぼ満車であります。
山門のなか、真下で入場料の受付が設けられていました。
┉ま、しかたがない、とは思うのです、入場料をとるにはそこでそういうかたちで取るのが一番能率的ですから。ただ、その山門がなかなか趣のあるものなので、開け放った門扉の片側をふさいでテーブルを置いてしまうというのは非常に惜しいなぁと、思ったのであります。

山門をくぐると、境内に色とりどりの紫陽花が咲き乱れております。
紫陽花が見上げる鐘楼のしたのほうをデコレーションしています。
境内に80種類800株をこえる紫陽花が植えられているのだとか。本当にさまざまな種類、色の紫陽花が、おそらくいま、一番美しく満開のときをむかえているかと思われます。
大きな白い観音様が境内をみおろしておられます。そのお足元にも淡い赤紫と紫の紫陽花。
紫陽花に思わず目を奪われがちでありますが、まずは手や口を浄めて御本堂にお参りをいたしましょう。


なんと立派な手水鉢でしょう!おとな三人で両手をつないで周りをやっと取り囲めるほどの大きな大きな石をくりぬいた手水鉢であります。それがまた決して派手でなく趣あるものであります。竹を渡して柄杓を置くようにされているのも風情があります。


御本堂はその戸という戸を開け放ち、中を拝見できるようにしてくださっています。時期外れではありますが、かなりの数の吊るし雛が御本堂の中を飾っています。ご本尊さまがそれを愛でておられるような御本堂のなかであります。福島県の復興を支援するものなのだそうであります。
そして襖絵や天井画もまた、すばらしい。色こそ褪めてきてはいるものの、まだまだそのあでやかな頃を偲ぶことのできる人物であり、鳥であり、花であり。虎や蛇なども描かれています。


No.223 19/06/25 08:54
旅人 

能護寺さんは、もともとは利根川北岸の群馬県大泉町にあり、河川の氾濫などさまざまな理由から、何度か移転をくりかえし、いつの頃かは不明なようですが現在の地に移ったと伝えられています。

現在の御本堂は文化十一年(1814年)に再建されたもののようで、内陣に大日如来さま、外陣には阿弥陀如来さまが安置されています。
回廊などは最近直したものだということでありますが、それ以外は当時のまま。ジャッキアップなどをして、補強や床下などを修理したのみだということでありました。堂内の格天井には、花鳥図が色鮮やかに描かれています。
回廊に座って境内を眺めますと、御本堂の仏さまがご覧になられているのと同じ、さまざまな色の紫陽花に彩られた境内を同じ視線で見させていただくことができます。菩提樹の黄色い花が紫陽花の上に咲いているのも見てとれます。
境内にあります虚空蔵堂には、丑・寅生まれの守り本尊である【虚空蔵菩薩】さまが祀られ、お縁日であります十三日には、十三参りをする親子連れがおられるようです。ま一月、三月、六月のお縁日には御開扉され、虚空蔵菩薩さまに直接参拝できるということでありました。
梵鐘は乳の間に百字真言の梵字が鋳込まれているのが特徴であるとのこと、鐘楼堂自体は明治二十六年(1893年)に再建されたものだということです。大きく高さのある鐘楼堂であります。



境内にはしだれ桜の木などもありましたが圧倒的に紫陽花。特に鐘楼堂の周りは通るのに不自由するくらいの密度でさまざまな種類さまざまな色の紫陽花が植えられていました。お子さんなどは紫陽花に埋もれるという感じでしょうか。かくれんぼができそうなほどであります。御本堂の周りにもプランターなどの紫陽花が置かれております。


納経所でお受けしました御朱印は、【虚空蔵尊】と書されておりました。もともとは虚空蔵菩薩さまをご本尊さまとされていたお寺さんだったようです。参拝の方がお参りをしやすいように虚空蔵堂を造り、虚空蔵さまにお移りいただいたということでありました。

いつか御開扉のお縁日に参拝させていただきたいと思います。




     令和元年六月二十二日  参拝


No.224 19/06/25 19:27
旅人 

「埼玉県に東国花の寺の紫陽花寺があるんだけど┉あとなんだかその近くには国宝に指定されたお寺さんがあるみたい。埼玉県って遠いかなぁ?」
「いや、埼玉県って隣接しているから、場所によっては県内に行くよりも近いよ。どこら辺?」
「えっとねぇ。┉どこだろ」
「┉調べるよ」
┉すみません。だいたいがこんな感じの妻であります。
「川をわたってすぐだから近いよ。行こうか。」

そんな感じでスタートいたしました今回の珍道中。
感謝しなくてはバチがあたりますよね。


能護寺さんに続いて向かいましたのが、国宝であります聖天山さん。
能護寺さんでも何人かのスタッフさんから「お時間がありましたら聖天山さまにも是非お出かけください。」とお薦めをされました。

ところが雨がいよいよ本格的な降りとなり、どうしようかとほんの少しだけ迷ってはみたものの、やはり、最初からの計画どおりに参拝をしたいということで、埼玉の日光とも称される聖天山さんに向かいました。


No.225 19/06/27 06:15
旅人 

【妻沼聖天山】さん。
はて?お寺さんのようでありますが、通称ばかりで正式なお名前をなかなか耳にすることがありません。【聖天山歓喜院】さんが正式な名称なようです。
熊谷市にはいってお話する機会のあった方々が口を揃えて【聖天山】というより【聖天さま】に行くようお薦めをされます。もとより聖天山さんに詣るつもりでこの地を訪れております。
ナビが一つ駐車場を指定し案内をしているのですが、そこを目指す間にもいくつか駐車場をみかけます。いくつも駐車場を通り越していきます。
「もうさすがにここの駐車場でいいんじゃない?」
さらに先の駐車場を指示するナビを無視して車を停めましたところ┉山門さえみえません。少し┉かなり遠めの駐車場でありました。ナビは少しは運動するようにという、なにか意志でももっているのでしょうか。雨なんですけど(-""-;)

境内がみえてきたにはきたのですが、わきからはいりこむような道で参道は目の前を横にのびています。遠回りして門に向かいます。 

ガラガラに空いた駐車場が見えます。( ;-`д´-)
もぉーナビってば。

No.226 19/06/27 23:27
旅人 

総門が見えてまいりました。大変立派な、高さのある大きな門で【貴惣門】と呼ばれる門であるようです。右側に毘沙門天さま、左側に持国天さまの像があり、邪鬼を踏んだ像となっています。大きな御像で、背伸びしてやっとお顔を拝することができるくらいで、どちらかというと私の場合覗きこんだ際踏みつけられている邪鬼と目が合う感じであります。
さらに上にある施された彫刻の立派なことといったら!木そのものの風合いを生かした彩飾のない彫刻なのですが、だからこそより美しい彫り物でありました。
それにしても高さのわりには二階があるような造りではなく、立派な変わった形の屋根があり、それを支えるには奥行きが少ないような総門でありました。

総門をくぐると広い広場のような空間があります。まあ、あくまでも参道でありますが┉ん?やや大きな銅像が見えます。
これがやや変わった御像でありまして、右側に脱いだ兜を置かれて、右手に持った丸いものを遠手に覗き見、左手には何やら筆のようなものを持って、戦地で武将が座るような椅子に座った像、なのであります。【斎藤別当実盛公】という方のようです。
「┉知ってる人?」
聞いた私がバカだった┉。
嬉しそうに満面の笑みを浮かべて、「斎藤実盛について語ると長くなるけどいいかな」
「┉じゃあいいや」
「斎藤実盛について語ってもいい?」
「┉」
「話せば長いんだけど、斎藤実盛といえば平家物語にも出てくる歴史上有名な人物なんだ」
┉いや、だから語らなくてもいいと申しているのだが。

No.227 19/06/28 22:49
旅人 

夫が延々と語り、私がいつものように右の耳から左の耳へ聞き流した、【斎藤別当実盛公】について。であります。
「長くなるけど」なので、長文であります、念のため。(^_^;)


【斎藤別当実盛公】
平安時代末期、源頼朝の父義朝とその弟である義賢は兄弟で仲が悪く争っていたが、義朝の長男の悪源太義平(長男でありながら嫡男ではなかった)が叔父の義賢を攻めて殺害してしまう。
義賢の息子=後の木曽義仲(駒王丸)はまだ幼く、義平は駒王丸も殺害しろと家来に命じたが、家来がこんな幼子を殺害するのはしのびないと秘かに斎藤別当実盛に頼み、実盛は木曽に住む中原兼遠にたくした。その後、保元・平治の乱で源氏義朝と義平は討死。頼朝は伊豆に流刑となる。斎藤実盛は平家の世となり平家にしたがっていた。
頼朝が伊豆で挙兵し、義仲が木曽(岐阜)で挙兵。平氏に反抗する勢力が力をましていき、義仲は北陸から京都に攻めこもうとし、迎え撃つ平氏と加賀国(石川県)で戦いとなった。
実盛は平氏の軍に従っていた。その時すでに高齢で白髪であったが実盛は若い者に侮られたくないと髪を黒く染めて戦っていたという。戦は平氏が総崩れとなったが実盛は一歩も引かずに戦った。しかし、源氏方の手塚太郎光盛と戦ってついには討ち取られてしまう。
一騎討ちの際名乗りをあげなかった相手の首を光盛が持ち帰ると、首実検で実盛を知る人がおり、髪が黒いのを不審に思いながら首を洗うと白髪であったため実盛だったことが分かった。義仲は命の恩人を知らぬこととはいえ、殺してしまったことを嘆き涙した。
実盛の最期は平家物語で詳しく語られている。

その、戦の前に髪を染める実盛の像が、惣門と中門の間の広場のような空間に建てられていた、というわけであります。



余談ながら手塚治虫は手塚太郎光盛の子孫であると話をしていたようであると、さらにつけ加えた夫であります。

No.228 19/06/29 00:37
旅人 

【妻沼聖天山】は【斎藤別当実盛公】がこちらの地を治めていた際、祖先伝来のご本尊聖天さまを治承三年(1179)にお祀りされたことにはじまるようです。
御本尊聖天さまは、正しくは大聖歓喜天と称せられるようであります。弘法大師が、唐より密教とともに仏法の守護神として請来された福運厄除の神さまであられます。
お寺でありますが、お祀りされておられますのが聖天さま、神さまであられることから、毘沙門天さま持国天さまの惣門、中門、さらには仁王門をくぐって正面にありますのは【御本殿】であります。
国宝【歓喜院聖天堂】であります。
当時の庶民や農民が永年わたって浄財を出し続け、四十四年かかって完成したもののようであります。

拝殿より奥となる、相の間と奥殿より先は入場料七百円志納しての拝観となります。一時間毎にボランティアのガイドの説明があるため、それに合わせて見学することも可能であります。

ガイドさんも受付の方も、それはそれは聖天山を誇りに思い愛していることが伝わる熱のこもったお話をなさいます。
それこそがこちらを開創した斎藤別当実盛公の志した〖庶民の心の拠り所、祈りの場〗としての役割がいまなお立派に引き継がれている、ということでありましょう。

平成二十三年に保存修理を終了した御本殿は、多少色が褪せてきたと受付や案内のボランティアのかたはおっしゃっておられましたが、いまなおたいそうきらびやかで、それは美しい彫り物であり、素晴らしい彩飾でありました。埼玉の日光を名乗るだけのことはあります。
彫刻はその名の高い群馬県の石原吟八郎、彩色は狩野派の絵師があたったということでありました。石原吟八郎の彫りは本当に緻密で見事なもので、いつどこでみてもため息がでるほどのものであります。
ボランティアの方は、ひとつひとつそれはていねいにご案内くださいます。ひとつひとつの絵のいわれについて、歴史について、お話しくださいます。
ボランティアの方のお話を聞いてからもう一周されると、さらにじっくり楽しんでみることができるかもしれません。

No.229 19/06/30 08:25
旅人 

上野國の延喜式内社をお詣りさせていただきたいということで、【倭文(しどり)神社】さんに参拝させていただきました。

相も変わらずナビに牽かれての珍道中であります。看板などは一切なく、住宅地の生活道路といった感の細い道を進み、さらには大きな公園が見えてまいります。上空にはセスナ?と思われるような大きな飛行機がかなりの低空を飛行中だったり。
うーん、と思った瞬間、突然右手に鳥居が現れました。よかったぁと思ったものの駐車場がありません。先ほど見えた公園の方まで行ってそちらにちょっと車を置かせていただいて、いざ、参拝へ。

先ほどの鳥居とは違う位置に赤い小さな神橋が見えます。
のどかな雰囲気で、川のせせらぎが聞こえます。境内に入ると社務所はありますが、みるからにどなたもおられる雰囲気ではありません。大きな木の向こうには神楽殿が見えます。
参拝させていただきます。┉ん?何やら小さな貼り紙がございます。
はやる気持ちを鎮めて、参拝させていただきます。
先ほどの貼り紙は?
御朱印をいただきたい場合は、との内容のもので、総代の方二名のお名前と電話番号が記載された案内であります。申し訳ないような気分ではありましたが、連絡させていただくと快く対応してくださいまして、十分ほどで来てくださるとのことでありました。かっこいい自転車に乗ってお越しくださった総代の方はそれはそれは丁寧にご対応くださり、社務所にあがらせてくださってお話も伺うことが出来ました。


こちらの御祭神は、【天羽槌雄命(あめのはづちのおのみこと)】さま。天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされ、文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物であるのだそうです。天羽槌雄神さまは「機織りの祖神」とされています。
また平絹を織る部民倭文(しどり)氏の遠祖でもあられ、織物の神、機織の神として信仰され、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきました。

創建は、垂仁(すいにん)天皇の御宇三年と伝えられているそうです。戦国時代の争乱にまきこまれ兵火などにより社殿は焼失、社家も離散し一時荒廃してしまいました。









No.230 19/06/30 08:42
旅人 

その後、徳川家康公の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、江戸時代前期の元和年間から寛永年間に入る頃、社殿も再建され、別当寺として、慈眼寺が定められました。
三代将軍徳川家光の慶安元年(1648年)に、御朱印地十石を賜わり、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至り、その後約八十年を経た享保十二年(1727年)、八代将軍徳川吉宗から社殿再建勧進の許可を得て 上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめたようであります。
しかし、この社殿は江戸時代末期の慶応二年(1866年)火災に会い、悉く灰燼に帰してしまったのだそうです。
現在の社殿はその後の明治十三年(1924年)に再建されたものであるのだとか。
御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となりました。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、近代社格制度において郷社に列せられたようです。
第二次大戦後、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っています。

とはいえ、こちらは大きな工場が招致され工場団地となり、住宅の減少にともない、子どもの数も激減。大きな公園もそばにあることから子どもの遊び場であった神社、子どもの楽しみの一大イベントでありましたお祭りは昔とはすっかり変わり果ててしまったと寂しそうに総代が話されておられました。



倭文神社には特殊神事である【田遊び】があるようです。これは毎年一月十四日に行われる田植えの予祝行事なのだとか。

祭員が笹竹を振りながらご神歌を唱え、鳥居と拝殿を三往復した後、町内を巡行する。戻ると再び鳥居前に整列し、同様に三往復する。昔は最後に参会者による笹竹の奪い合いがあった。この竹で蚕箸を作ると蚕が当たるといわれた。ご神歌は中世まで遡り、県内に類例が無く大変貴重なものである。

寒くて大変だよ~と総代さん。「暗い夜道をなん往復もするし。まあ、よかったら来てみて下さい」
うーん、お言葉だけちょうだいしようかな。(^_^;)



       令和元年六月二十三日  参拝

No.231 19/06/30 09:12
旅人 


「カライ神社には行ったかね?」と総代の方。
「?」カライ神社?
辛品神社の聞き間違いかな?「ええ、以前」と答える私。
「これからお参りしようと思っているところです」と応える夫。は?カライ神社ってどこよ?私、聞いてないけど?これからお参りするの?
「そうかね。ナビはあるんかね?」「はい」
「ナビがあるなら大丈夫だ。ちょっと細い道を入ってく分かりづらいとこだから」
( 。゚Д゚。)
話が読めない上に、ウチの最新のディーラーお薦めのナビ、全然違うとこに案内することのあるじゃじゃ馬なんです~(;ω;)

「そうか┉」「ここを出て、右に曲がってまた少し行ったら右に曲がって」「駐車場はないんだけど、お隣の農家さんがいい方で停めちゃって全然平気だから。もし出てきてたら、カライさんにお参りに来ましたって言えば、ごくろうさまって言ってくれるよ」

えっ?( -`Д´-;A)


ナビに入力したうえで、総代さんの説明を胸に出発、です。


珍道中の予感、しかない( ´-`)

No.232 19/06/30 12:06
旅人 

「ねえねえ、カライ神社ってなに?これから行くの?聞いてないんだけど。辛科神社さんのことなの?」
「┉火雷神社さんのことだと思うよ。これから行く┉」
「えっ?なになに?ほんとはカライ神社さんって読むの?」
車に乗るやいなや、やつぎばやの質問。
「んーほのいかづち神社さんだと思ってたんだけど、カライ神社さんって読むのかなあ、わからない」
「ま、行けばわかるか」
┉行ければ、です。
早くもナビと総代の方のおっしゃる道が違っています。
「よく行くっておっしゃってたから、総代さんのおっしゃる通り行ってみるか」

違うやーん(;`∀´)


仕切り直して、火雷神社へ。

しかもおっしゃってた農家さんの空き地がわからない。
車が置けそうなところにチョイ置きして、地元の方にうかがうと、「平気、平気」と。
先ほど聞いてきた農家さんの方といい、この辺の方はおおらかなのでしょうか。入口もわからないため、わき道から入っていくと、すでに鳥居の中、境内であります。
そそくさと鳥居のある方に向かい、鳥居の外からあらためて参拝であります。鳥居の横にいかにも農家さんの空き地!があります。


ん?
えっ⁉ ええっ?
や、山羊~?
なんと山羊が好き放題に歩き、空き地に生えた草を食べています。あたりに人影はなく、山羊もたった一頭です。野良山羊?
野生かもしれないというのに、平気で近寄る私。
近づいても驚くようすもなく、ひたすら草を食み、少し移動してはまた草を食む山羊。
神社さんへの参拝は?

No.233 19/07/01 19:26
旅人 

野生の山羊がいるかいないかはとにかく、この山羊はどうやら長い長いリードにつながれて、隣のお宅から、空き地に生えた草を食べたり好きなように歩いたりしている、飼い山羊さんのようです。いつまでも、山羊とたわむれて過ごすわけにもいかない、というか、本来の目的、火雷神社さんへの参拝をしなくては!
参道にふたたび戻って、鳥居をくぐり、花の形の手水鉢で手や口を浄めました。合祀なされている菅原道真公の特に好んだといわれる梅の花を象ったもののようで江戸時代に造られたものであります。(ちなみに山羊を撫でたりはしていませんし、草を与えたりもしておりません)
二足くらいで渡れてしまうくらいの太鼓橋の上にまっすぐに枝を伸ばした松の枝がまるで門のようになっています。太鼓橋の左手には神楽殿があります。かわいらしい、動きのある阿吽の獅子像の間を抜けて参拝させていただきます。
赤を基調としたお社でありますが、どこかかわいらしい色調です。本殿には七福神さまを浮き彫りにした板をはめ込んでいるように思われます。合祀された神々のお社が本殿、拝殿脇にきれいに並んで安置されています。

┉なんということでしょう。( T∀T )
拝殿の貼り紙をあらためて読みますと、「御朱印を希望される方は参道を抜け、通りを渡って、○○さんへのお宅へ」というような内容の文言が!
ふたたび、鳥居をくぐり山羊を横目に参道を抜けて、御朱印をいただけるという○○さんのお宅へ向かいます。
○○さんのお宅はご在宅なのでしょうか?

ありがたいことにご在宅でありました。記帳をしてしばし玄関先でご記入いただくのを待たせていただきました。お書きくださった朱印帳と鈴の御守りを手にふたたびお姿をあらわした○○さん。
もうすぐお昼、お忙しいなかをありがとうございました。
カライ神社さんなのかホノイカズチ神社さんなのか、お聞きするのも申し訳ないような気がして、それについてはネットで調べようと思います。

なん往復すれば用が足りるのでしょう。もう、山羊を見る元気もありません。もう一度拝殿で参拝をして、火雷神社さんをあとにいたしました。


カライ神社さんなのかホノイカズチ神社さんなのか。
┉わからなかった、というご報告であることをお許しください。
自分でもびっくりであります。



    令和元年六月二十三日  参拝

No.234 19/07/02 01:42
旅人 

新田義貞公に関するお勉強は少しも進んでいないのだけれど、本日七月二日は義貞公の亡くなられたとされる日であります。実際には、死没 延元三年/建武五年閏七月二日で、1338年8月17日にあたるようでありますが。

もちろん、偶然なのではありますが、六月最後の土曜日、二十九日に、義貞公ゆかりの神社仏閣に参拝させていただきました。
鎌倉への挙兵で必勝祈願をされたとされる【生品神社】さん。それも称して生品神社巡り、といえるような生品神社さんを三か所と、新田義貞公の館跡とされる【照明寺】さん、別名【反町薬師】さんと【正法寺】さんに参拝をいたしました。
挙兵し必勝祈願したとされる群馬県太田市新田市野井町の生品神社さんと、反町薬師さん、正法寺さんは再拝となります。

太平記という大河ドラマの頃は大にぎわいだったという生品神社さんも、いま普段は無人の神社さんでさびしい思いをしておりますが、宮司さんにたまたま今回お会いすることができ、なんと宮司さん、十か所の神社を兼務なされておられるとか。
そういえば以前読んだ本によると、全国に八万社あるといわれる神社さんに対し神職は二万人、ということが書かれておりました。その本が書かれてからかなりの年月が経っており、その数はだいぶ変動していることかとは思いますが。


わが家の歴史オタクがことあるごとに語ってくれるので、義貞公の最後についてはかなり記憶されているかもしれません。
かいまふと気づいたのですが、普段なら休みの今日、仕事だったことを思いだし、今日はこの辺で。



      令和元年七月二日   合掌

No.235 19/07/03 19:53
旅人 


鎌倉幕府を倒し、【建武の新政】をうちたてた【後醍醐天皇】に反旗ををひるがえした【足利尊氏】は湊川(みなとがわ)に勝利して京都を制圧し、後醍醐天皇は比叡山へと逃れました。

しかし比叡山で籠城を続ける事が不可能と判断した後醍醐天皇は、皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王に皇位を譲り、自らは尊氏とかりそめの和睦します。
恒良親王と異母兄の尊良親王を新田義貞に託して北国へと落ち延びさせます。

敦賀に入り、越前金崎城(福井県敦賀市)で本拠を構える義貞でしたが、翌・延元二年・建武四年(1337年)三月、足利軍の猛攻を受けて、金崎城は陥落してしまいます。
この時、たまたま援軍要請のために杣山城(そまやまじょう=福井県南越前町)にいた義貞と、その弟【脇屋義助】(わきやよしすけ)は難を逃れましたが、留守を預かっていた義貞の長男【義顕】と尊良親王が自刃し、なんとか脱出した恒良親王も、ほどなく捕えられてしまいます。

金崎城の陥落後は、世は足利一色に傾いていきますが、義貞は杣山城に陣取って全軍を再編成し、再起をはかります。

それを受け尊氏は、越前国府(越前市)に攻撃軍を派遣、しばらく、両者のこう着状態が続きますが、延元三年(建武五年・1338年)二月に、ついに、義貞が国府を落とします。

義貞軍は、さらに支城を次々と攻略、たちまちのうちに越前の大半を制圧します。やがて五月に入り、義貞は、足利軍の総司令官である斯波高経(しばたかつね)の籠る足羽城(あすわじょう=福井市)の攻略に取りかかります。

越後(新潟県)に本拠を置く新田勢も越中(富山県)へと侵出し、高経ら足利軍を挟み撃ちの態勢、足羽城の陥落は時間の問題と思われていました。

延元三年(建武五年・1338年)閏七月二日、高経の呼びかけに応じ、足利方についていた平泉衆徒の立て籠る藤島城(福井市)を攻撃中、義貞は全軍の指揮をとりながら、状況などを視察し、一進一退を続ける現状に、苛立ちを感じはじめたのでしょう。
義貞は、藤島城の最前線の現状を確認すべく、わずかに50騎ほどの馬廻りの者を連れて、現地へと視察に出向きます。

しかし、その時、たまたま救援のために藤島城に向かっていた足利配下の300騎と遭遇してしまうのです。






No.236 19/07/03 20:22
旅人 

┉残念ながら、この時出陣ではなく視察であった義貞、その装備はいたって軽い物、弓隊どころか楯を持つ兵すらいなかったのです。
前面の歩兵は矢面に立ち義貞を守ろうとしますが、格好の標的となって、ただただ死んでいくだけ。
この状況に【中野藤内左衛門尉宗昌(なかのとうないさえもんのじょうむねまさ)】は、義貞に「大将たる者が小者を相手にしてはいけない」と退却を勧めます。

しかし、義貞は「士を失(しつ)して独(ひと)り免(まぬ)がるるは、我が意に非(あら)ず」と馬に鞭を当て、敵の中に突進していきます。

義貞の馬は、駿馬の誉れ高い名馬で、普段なら、二、三メートルの掘でも軽々と越えて行くのですが、すでにその体には五本の矢が突き刺さり、泥田に足を取られ、その身を横たえてしまいます。さらに運悪く、義貞の左足が馬の下敷きとなり、身動きが取れない状態でようやく上半身を起こそうとした、その瞬間、白羽の矢が義貞の眉間を貫いたのです。

急所に矢が刺さった事で、意識もうろうとする義貞、「もはや最期の時」と、抜いた刀を左手に持ち替えて、自らの首を掻き切ったのです。義貞三十八歳の夏でありました。

義貞の死を目の当たりにした者たちは、次々と切腹、わずかに残った者も射殺され、視察に出向いた隊は全滅します。

誰ともわからない武将を討ち取った足利方は、その身につけていた物から、「ただ者では無い」と感じつつ、高経の前へその首を献上します。その首を見た高経は、「義貞に似ているが・・・」
と、半信半疑であったものの、左眉の上にあった矢傷、持っていた太刀が源氏の宝刀鬼切と鬼丸であった事から、その首の主が義貞であることを知ります。最後の決め手となったのは、その懐深くに大事に大事にしまい込んでいたお守り袋に、義貞に宛てた後醍醐天皇の宸翰(しんかん=天皇自筆の手紙)が収められていた、ということでありました。


以上歴史オタク夫語ったことを思い出しつつ、確認をとりつつ、書き綴りました。


┉いま=now、さらに南北朝への時代の流れを語っております、夫であります。


No.237 19/07/04 08:35
旅人 

群馬県太田市【円福寺】さんに参拝いたしました。

円福寺は、新田荘の遺跡として国史跡に指定された内の一つともなっております。正式名を゙御室山金剛院円福寺と称し、【新田本宗家第四代新田政義公】が、京都御室の仁和寺から招いた僧侶を初代住職として開基した寺と伝えられています。義貞公のひいひいおじいさんにあたるようであります。
古くは大坊、大日坊、阿弥陀房、その他十二房を持つ大寺だったようですが、いまはそのような面影はありません。


実はこの政義公の代に、鎌倉幕府より預かった囚人を逃がしてしまったり、京都大番役のときに幕府の許可なく出家をしたりと次々と過ちを犯したため、幕府に所領を没収され、上野国由良郷別所の地(群馬県太田市別所町)に蟄居謹慎を申し渡されてしまいます。
このくらいのお咎めで済んだのは政義公の妻が足利氏の出で、朝廷のおぼえのめでたい足利氏のおかげであったのではという説もあるようです。
なお、円福寺は、この謹慎の頃に開かれたと考えられています。義貞公の代に至るまでの新田氏の苦難は、この政義公の幕府内での失脚より始まったようであります。


総門は重厚な造りで古いものと思われます。境内は広く、公園のようになっており、隣接する幼稚園の園庭とは門一つでつながっています。御本堂は見上げるほどに大きな建物で、どこか中国やインドの寺院を彷彿させるような比較的新しいものと思われます。
参拝に訪れる方、トレーニングに訪れた方、小さなお子さんとその子の自転車を手に訪れたおかあさん。参拝中にさまざまな方がさまざまな目的でひきりなしに訪れていました。
ですが、こちらはすでに無住のお寺さんとなっているようで、庫裏と思われます建物は引き戸に蜘蛛の巣が張っていました。

境内には【新田氏累代の墓】があり、囲いのなか、20基余りの層塔と五輪塔が群立しております。義貞公の祖父の基氏公の墓とされる層塔は特定されていますが、開山した政義公の墓はどちらになるのかわかりませんでした。

石段を登ると観音堂があり、鐘楼があります。正面にありますのが千手観音さまの大悲殿、左手に馬頭観音さまの観音堂がございます。
右手にはさらに石段を登り【十二所神社】さんがあります。
こちらは茶臼山古墳に隣接する神社であり、先日の大新田氏展にこちらの神像がお越しくださっておりました。


No.238 19/07/04 17:54
旅人 

歴史ある神社仏閣が、後を継ぐ方がおられず、無人になる┉これは仕方のない事なのかもしれません。後を継ぐ方が生まれなかったり、その家に生まれたというからといって、そういった資格をとり、修行をして後を継ぐことを選ばないという人生の選択をなさることもあります。
先日参列させていただいたご葬儀でも、お寺も存続しお墓もありながら、その菩提寺さんが現在僧籍をお持ちの方がおられないということで、埼玉県の同じ宗派のお寺の御住職が葬儀に駆けつけ、読経をし戒名をお付けになられていました。
そもそも、お墓も後を継ぐ者が絶えてしまうことが近年増加しているのではないかと思ったりいたします。

新しい発想、新しい形をとることとなっても、その歴史ある神社仏閣が、なんとか後世に残されていけますことを願ってやみません。

円福寺さんはいま何名かの世話人さんが管理され、御朱印は【正法寺】さんにお預けになっているようでした。

ほど近いところにあり、新田氏縁のお寺さん繋がりということで、快く引き受けてくださったようであります。
正法寺さんの御住職も学校の先生も兼務しておられると、御住職の御母様がおっしゃっていました。

午年にだけ御開帳される正法寺さんの【聖観音】さま。次の午年に参拝させていただけるといいな。
それから、四月十八日に御開帳される円福寺さんの【千手観音】さまにも、是非参拝できたら、と思います。


     令和元年六月二十九日  参拝

No.239 19/07/06 01:23
旅人 

生品神社巡り。
【生品神社】さんを三か所まわらせていただいたら、巡り、って言っても大げさではないですよね。
生品神社さんが三か所もあること、今年になって知りました。それもなんと、そのうちの一つの情報源は息子。桜のころ、車を走らせていたら目の端に桜の並木が見えたとかで、寄ってみたと言っていたように記憶しています。満開の桜の花と、茅の輪。素敵な写真を見せてくれました。
神社さんの名前をみて、違和感を感じたもののよもや生品神社さんが二つあるとは思わず、「へえ、生品神社さんに行ったんだ。こんなに桜があるんだね。茅の輪もあるんだ。いい時期にお参りできたね」
「私が行った頃は桜の時季じゃなかったから、もう少しさびしい感じだったかな。宮司さんもおられなくてまだ御朱印もお受けできていないんだ。宮司さんはおられた?」
「いや、宮司さんがいるような神社さんじゃなかったけど?」
「ねぇ、さびしいよね。新田義貞が挙兵して必勝祈願した神社さんなのにね」
「あぁ、そっちの生品神社さんじゃなくて薮塚なんだ」
「薮塚?新田の方じゃなくて薮塚なの?」

異常なほど道がわからず、地理オンチ、方向オンチな母親なのを悲しいほど思い知らされている息子は、後日車にカメラを固定して動画で道順がわかるようにしたうえで、道を教えてくれました。これで辿り着けなかったら救いようがないというくらい、至れり尽くせりの道案内であります。
おかげでナビなしで到着できました。というか、ナビを使って迷子になってしまった夫をしっかり道案内できた、が正しいのですが(^_^;)


群馬県太田市藪塚町の【生品神社】さん。
群馬県太田市市野井町の【生品神社】さん。
そして、さらには群馬県みどり市笠懸町にも【生品神社】さんがあることを偶然ネットで知り、今回の生品神社さん巡りとなった次第であります。

【藪塚町の生品神社】さんは、東武沿線の畑のなかに鎮座する、明るくきれいに整備された神社さんでありました。石の鳥居をくぐるとさらに六つの赤の奉納された鳥居が続きます。六つ目の拝殿に一番近い鳥居に茅の輪が設営されていました。
社務所はなくて、電話でやり取りし、お祓いや御祈願をお願いするようでありました。
お電話を差し上げたところ、御朱印はあるのだけれど御正月三が日のみお書きくださるのだとお教えくださいました。

No.240 19/07/07 07:32
旅人 

藪塚町の生品神社さんの境内に、本殿への参道とは別に、鳥居の扁額に「しあわせ」と書かれている赤い鳥居がめにつきます。鳥居の左の石碑には「人生路 山あり谷あり平地あり」と刻まれています。
石段も設けられていますが、狭くて少し歩きづらいです。石段の両脇には、御仏像さまや、招き猫やら思いつく限り縁起物と思われます置物が置いてあります。
石段を上って下りると、しあわせと刻まれた大きな石碑が祀られていて、大黒さまと┉少彦名命さまなのかなぁ、仲よく肩を組んでおられる小さな像と、恵比寿さまの同じくらいの大きさの像とが石碑の前にお祀りされていました。なんだかちょっとしあわせ気分をいただけました。世話人さんたちが建てたものになるのでしょうね。
群馬県桐生市の白滝姫さまの【白滝神社】さんの分社となるのでしょうか、白滝稲荷神社さんもお祀りされていました。
本殿裏、脇に並ぶ末社群。

町指定文化財生品神社敷石住居跡という、石器時代の遺跡もある、神社さん。水路がすぐそばにあるため、水のせせらぎを聞きながら参拝させていただき、おだやかな気持ちになることができました。



      令和元年六月    参拝

No.241 19/07/07 08:08
旅人 

群馬県みどり市笠懸町に鎮座する【生品神社】さんは、大通りから少し入った住宅街にありました。大通りから見える位置でもなく、何度となく近くを通りながら気づくことなく通りすぎておりました。まあ、もっとも、私自身が神社さんにご縁のないような生活をしてきていたので(^_^;)

由来を読んでも新田義貞公が旗揚げの際に立ち寄ったとかではなさそうで、笠懸野の北に位置するこちらは新田氏の地でもなかったようではあります。新田義貞を慕う後生の方がこちらにお祀りなさったのかな。


実はこちらの神社さん、「ゆるキャラ」マスコットキャラクターがいるようです。境内で遊ぶ子どもたちの“守り神”として、地元の住民団体「生品の森クラブ」が生み出したものとのこと。

境内に手づくりの、とはいえ大がかりな本格的なアスレチック遊具が設置され、バスケットゴールなども設置されていました。ゆるキャラは、境内にあったクスノキの大木を彫って制作されたそうで、身長120センチの男の子、という設定であるようです。神社のご神木であるカシのドングリを擬人化。おなかには新田氏の家紋「一つ引」をデザインし、頭にある木の芽は「すべての願いに芽が出るように」との思いを込めた。右手で握手して頭をなでると願いがかなう、という文言が書かれたものも添えられていました。
同神社本殿の横にある子育て杓子(しゃくし)稲荷の前に置かれ、境内を見渡しています。

夫が握手し頭を撫でておりましたのが、こちらの神社さんで一番印象に残っております。┉『願い』にはもうすでに芽が出てるんじゃないかな?と、思った矢先のことでありました。( ;´艸)
そう、夫は純真なのであります。はい。



        令和元年六月   参拝

No.243 19/07/07 11:16
旅人 

群馬県桐生市の【宝徳寺】さんが、風鈴まつりと、逆さもみじのイベントをされているようです。

息子の見せてくれました写真で、色とりどりのガラスの風鈴がそれはそれはたくさん吊るされていました。爽やかな風の吹き抜ける境内です。風鈴の音もさぞや鳴り響き、涼しさをよぶことでしょう。
ホームページもあるようです。関心を持たれた方は確認してお出掛けください。

夜とか、悪天候のときとか、どうされておられるのだろう?と、思ったくらいのたくさんの風鈴でありました。お近くには民家はなくて、山の上に建つお寺さんでありますので、近隣への騒音は心配はないのですが、御住職さまたちはお休み二なれるのかなと。私は写真で見ただけなのであくまで、想像するだけでありますが。
悪天候のときは┉ガラスの風鈴だからなぁ (;´・ω・`)



No.244 19/07/07 17:03
旅人 

子どもが幼い頃、よく行った遊園地。
寺社を珍道中し始めてからも、その名に『寺』がつくことになんの違和感も感じることなく、その目印ともなるほど大きな観覧車のそばを通っても通っても、遊園地、もしくは公園としか思っていなかった、群馬県伊勢崎市にある【華蔵寺(公園)】。
たぶん、群馬県民のかなりの人が、【華蔵寺】イコール遊園地、【華蔵寺公園】を指すと思われます。
ふとした拍子に、まるで老朽化してほとんどつながることのない回線が突然つながったかのように(┉もしかして、華蔵寺というお寺さんがあっての、華蔵寺公園?)
Google先生に教えを請うと、!!!。
ある! やっぱりある!

時はあのまさに暇をもて余した超大型連休のゴールデンウイーク。
入場料のかからない、安価で、しかもそれなりに大きくなった子どもも、小さな子どもも、大人も楽しめる、恋人同士もたぶん楽しめる華蔵寺公園そばにそんな大型連休中に近寄るような無謀な真似はいたしません。
ところが御朱印仲間の八十も近い男性が、遊びにきたお孫さんを連れて華蔵寺公園に行ったのだそうな。
「ねぇねぇ○○さん、華蔵寺公園のどこかにお寺さんがありました?」
「ねえよ、そんなもん。ありゃぁ公園の名前なだけだ。」
「それがねえ、調べたらあるらしいんだけど、○○さんなら場所がわかるかと思ったんだけど知らないかぁ。」
「ふん、なんかどっかと間違えたんじゃねえか?そんなもん聞いたこともねえぞ」
「ええーっ、ちゃんと調べたもん!」
┉すみません、なれなれしいやつなので、目上の方にそんな口をきいております。

なかなか○○さんに立証できないまま時だけは過ぎ┉。


昨日、ちょこちょこあった母親の野暮用も落ちついて、ようやく『いざ、華蔵寺(寺院)』ということになった次第であります。


┉それが、ですね。やっぱり最新式と言われて付けたはずのデイーラーお薦めのナビ、伊勢崎市の華蔵寺は、やれ、【第二駐車場】だの【華蔵寺公園売店】だの、事細かに【華蔵寺公園】の案内はしてくれるのですが、【華蔵寺】は拾わない!
私の携帯型のナビを連れてきてよかった。ちゃんと案内してくれました。

えっ⁉駐車場がない?

No.245 19/07/07 23:34
旅人 

お寺さんは目の前にあるのに、駐車場が見あたらない。
仕方がないのですぐそばの華蔵寺公園の駐車場へ┉やはり満車、ですよね。休日の、梅雨の晴れ間の天下の華蔵寺公園の駐車場ですものね。
┉えっ⁉なに?なに?!
この大きな鳥居はいったい?!お寺さんだけでなく神社さんまであるというのか。
さらなる駐車場への移動。お寺さんが┉鳥居が┉(;ω;)


駐車場に到着と同時に車外へ飛び出す私。おお、鳥居との再会!
鳥居の先には神橋、なのだろうな、小さなコンクリート製の橋が架かり、三百メートルくらい先にはそれなりに長い石段がみえます。石段は逃げも隠れもしないのに、走っちゃうんですよねえ、私。
お、二の鳥居です。これは大きな神社さんでしょうね。ぼん!
目の前に現れたのはなんと銅像!それも近代的なあの偉人さんとかの銅像です。ん?┉おお、さらに階段があるじゃないですか。
銅像さんのうしろの小高い丘を登るように階段らしきものがみえます。そうかぁ、丘の上に鎮座されているんだぁ。
ん?ん?展望台?え?
いやいやこれはあの長い長い滑り台でしょ?!
えっ⁉ええっ?
神社さん、逃げも隠れもしちゃいました?

動揺して、子ども連れの外人さんに「神社はないですかね」とか聞いてしまった。片言の日本語で、「ええっと、神社?ええっと、あっちに、神社?」と、一生懸命答えてくださるイケメンパパさん。「ありがとうございます。あっちにお寺があるんですね」
「はい、そうです。」

神社さんの謎は解けないのですが、ないものはない。当初の目的の【華蔵寺】さんをめざします。神社(?)からはぐるっとひとまわりしないと華蔵寺さんには着かないようです。ファイトo(`・д・´)o

ぐるっと一周して、華蔵寺さんの境内に到着いたしました。
勅使門があります。
境内はさほど広くはありませんが、爽やかな風の吹く心地よい境内であります。いつものように一度門のそとへ出て、門をくぐって参拝を。お墓の上にあの華蔵寺公園のシンボルの観覧車が見えます。ようやく公園との位置関係がわかりました。なるほど、観覧車は公園の端に設置されていました。観覧車の向う側がお寺さんだったんだ。


No.246 19/07/08 20:52
旅人 

華蔵寺(寺院)。開山は872年、御本尊は運慶作と伝えられる釈迦三尊像。大きな大きなお寺であったようですが、一時期┉三百年ほど荒廃してしまっていたようです。
平安時代にはいってから、太田市の世良田長楽寺さんの僧を頼って修復してなんとか旧観に復したと言われているようです。
江戸時代、天保五年(1834)に焼失してしまったものの、同八年には再建され、それが現在の本堂だということです。

第二次大戦戦後、住むところ、土地を失った者に土地を与えて、広大だった境内は今の決して広くはないものとなったということでありました。
お寺の女性に、あの大きな鳥居はどういったものなのかとお聞きしましたところ、明治時代まではお社があったのだそうです。


毎月十七、十八日には聖観音さまのお縁日とし、二十八日にはお不動さまのお縁日ということで護摩祈願をおこなっているということでした。
お歳を召された御住職の御朱印はそれはそれは見事な御手でありました。

桜やつつじ、萩や金木犀が四季折々境内を彩るようであります。
そんな花の頃のお縁日に再拝できたらいいな。



     令和元年七月六日   参拝

No.247 19/07/09 08:48
旅人 

群馬県伊勢崎市に【退魔寺】という、なんとも私の好奇心をくすぐるお寺さんがあって、ずっとずっと参拝させていただきたいと思っておりました。


創立は、室町時代初期の応安四年(1371年)茂呂城主が深く信仰し、念持仏の伝法大師作の「不動明王」を本尊として、城内の一角にあった光円坊を改め香華院とし、足利小俣の鶏足寺より道照上人を開山上人として迎えて開創されたことが、当山の始まりと伝えられているようです。

寺号【退魔寺】の由来は、安土桃山時代の天正十八年(1590年)の頃、豊臣秀吉公の命により小田原城攻略に参戦すべく、石田三成公が当地を通り、この近くに架けられた【土橋】に夜な夜な妖怪が出没すると聞き、兵を遣わしてその妖怪を退治したということであります。
この土地の民はおおいに喜び、感謝して、石田三成公を讃え後世にこの事実を伝えようと【寺紋】を石田三成公の家紋である三階松、【寺号】を【退魔寺】とし広瀬川に掛かる橋を光円橋と名付け今日に至るのだそう。
その後、江戸時代初期の寛文三年(1663年)に火災のため堂宇すべてを焼失してしまいますが、寛文十年(1670年)本堂を再建、その際胎蔵界大日如来を祀ったということであります。さらには延宝五年(1677年)不動堂を再建、合わせて観音堂を建立したということであります。
江戸時代末期の寛政四年(1792年)本堂改築のおり、内陣・外陣の天井に檀徒の狩野派鈴木春山宣得による天井絵を施し、この本堂をはじめ伽藍の数々が現在まで引き継がれているということ。



┉ワクワクします。

かつて妖怪が出たというところ。どんなところかなぁ。
まあ、私が知らないだけで、いたるところに妖怪伝説はあるのかもしれないし。案外自分の住むところにだってかつて妖怪が出たというところなのかもしれなかったりするけど。
退魔寺付近には石田三成公の妖怪退治の跡とか残っているのかなぁ?
ずっとワクワクしていた【退魔寺】さんに、いよいよ参拝の機会がおとずれました。
一人ででも行けたと思われるのですが、そこはほら、例のあの歴史オタク氏がまたすぐに「俺も行きたい」って一週間も経たないうちに再拝することがほとんど、ですので(^_^;)


No.248 19/07/09 22:55
旅人 

妖怪退治伝説にワクワクし、いろいろな妄想して訪ねました【退魔寺】さん。
門の前には私好みの仁王さまがお立ちになられておられました。

門をくぐると正面には聖観音堂と不動堂が建てられていました。御本堂は聖観音堂とL字に┉門からはいった真横、右手に建てられております。あまり広くはない境内に、ちょっと身を小さくして建っているような印象を受ける、御本堂であります。
あとで気づくのですが、真横(西)に川が流れており、その岸を┉堤をまるで護るかのように御本堂が建っているようです。
門の正面に建つふたつのお堂は川を背に建っています。
のちほどいただく【略縁起】に付して書かれていることによると、この隣を流れる川は、その昔『古利根の七里の片土手』と言われていたそうです。今でこそ護岸工事がなされていますが、護岸工事の施される前、危険な箇所に十三仏を配置したと言われているようで、その最初こそがどうやら退魔寺の不動明王だったようです。
なるほど┉。私の推理はあたっていたようです。σ(`・・´)

しかし。

妖怪退治の跡とかもなく、妖怪の遺したなんとかとかもなく┉。石田三成公の何かとかもどうやら残ってはいないようであります。
勝手に妄想して抱いてきた期待はもののみごとに打ち砕かれたのでした。
考えてみればお寺の参拝にまいりますのに、あまりに幼稚で愚かな考えでありました。反省。

No.249 19/07/10 00:31
旅人 

前に書いた寺紋に間違いがありましたのでお詫びして訂正させていただきます。
退魔寺さんの御本堂には、大きく○が二つクロスしている寺紋の布が張られておりました。これは真言宗豊山派の紋のようです。

そもそもが石田三成公の家紋、以前、我が家の歴史オタクに聞いたことがあったのでした(^_^;)
【大一大万大吉】。読み方は、「だいいち、だいまん、だいきち」になるようですが、とても変わったものだったんだ!
しかも、それはあくまでも旗紋で、家紋はいくつかあったようだけどとかなんとか。
そこで歴史オタクに隠れてコソコソGoogle先生にお聞きしましたところ、三階松という説はほぼなくて下がり藤とか九曜紋とかがほとんどでありました。あぁ、そういえば下がり藤、歴オタさんが語っていたような気がするなぁ。

少なくとも、寺紋は石田三成公の家紋ではないようです。
間違いの発信をしてしまい、申し訳ありませんでした。


嫁ぎ先の家紋もわからないようなやつなので、お許しください。
そういえば、実家のは?丸に橘だった?ええっと、なんだったっけ?
関心のないことは頭に残らない、入らない年頃であります。
(≡人≡;)

No.250 19/07/10 22:56
旅人 

浅草に行こうかな (人*´∀`)❤
だって、今日七月十日は、観世音菩薩さまの「功徳日」のなかでもこの日にお参りすれば、四万六千日分の功徳があるとされる日ですもの。いくら方向音痴でも、電車一本です。行ける、行ける!(たぶん)
あの有名な【浅草のほおずき市】も【四万六千日】に由来しているもの、だったし。

それとも去年と同じところに参拝させていただこうかなぁ。やっぱりいつもお会いできる、いつも見守ってくださってる観音さまの方が、よいのかもしれない。



そんなことを昨日からずっとつらつらと考えておりました、今日、七月十日。有給休暇をいただいています。

投稿順
新着順
主のみ
画像のみ
付箋

新しいレスの受付は終了しました

関連する話題

小説・エッセイ掲示板のスレ一覧

ウェブ小説家デビューをしてみませんか? 私小説やエッセイから、本格派の小説など、自分の作品をミクルで公開してみよう。※時に未完で終わってしまうことはありますが、読者のためにも、できる限り完結させるようにしましょう。

  • レス新
  • 人気
  • スレ新
  • レス少
新しくスレを作成する

サブ掲示板

注目の話題

カテゴリ一覧