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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣珍道中・改

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旅人
20/03/09 08:54(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。







No.2796560 19/02/13 05:40(スレ作成日時)

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No.151 19/05/12 09:12
旅人 

こちらのお寺の御本尊さまは【千手観音】さま。「千手観音さまの像は三つあって、一番古いのがここ観音堂のまんなかのもの、行基上人の作とされているもの。その次が江戸時代のもので御本堂の御本尊さま。」
「そしてね、実はこの観音堂の向かって右の観音さま。実はよくわかっていないのだけれど、一番造作がよく、細かな細工の施された大変綺麗なものなんだよね。調べたらとても価値のあるものかもしれないなぁと思っていて、いつか調べてみようかと思っているのだけど、」御住職、実に嬉しそうに┉いたずらっ子のような笑みを浮かべながら、語られています。

「桐生市に式内神社がふたつあるのだけれど、神社とお寺は一つだったという時代があって、広沢の【賀茂神社】は【法楽寺】が別当寺で、【三和神社】の別当寺がウチということだったんだよね。それが神仏を分けようという動きの中で、三和神社にあった千手観音さまが光明寺に安置されることとなったわけなんだけど、式内神社というと平安時代くらいだから、この仏さまは下手するとそれ以前からのもののという可能性もあるし┉」
「でも、調べてもらったら┉みたいなこともあるものだから、どうしようかなぁと思って、とりあえず警備を強化して、防犯カメラを配置してセコムを入れてみたいなことはしてるんだけど、笑」
ちなみに天満宮のなかにあったのが、大蔵院で移動して別のところに移ってるんだよね。」


観音堂や、御本堂が開けられておられることも少なく、ましてや檀家の者でもない私などには儚い、かなうことのない夢でしかありませんが、こちらの三体おられる千手観音さまを一度でいいからお側で拝観させていただきたいなぁ┉と、切に思った御住職のお話であります。

No.152 19/05/12 18:45
旅人 

以前、光明寺さんに参拝に訪れた┉冬のあたたかに晴れた日、清んだ青い空に飛行機雲が気持ちよいくらいまっすぐに描かれたのを見上げたとき、光明寺さんのすぐ裏の小高いところに、鳥居があるのが見えました。「あれ?」よくよくみると、墓地のあいだにその鳥居に向けて道があり、石段があるようです。┉ これは神さま、仏さまがこちらにもお参りするようにと飛行機雲で私を導いてくださったにちがいない。行こうっと。
そこは【御嶽神社】さんでありました。境内のなかから参拝させていただいてしまいましたが、上までまいりますとキチンと参道があり、後で知ることとなるのですが、参道に続く一般の道には御嶽橋なる橋の架かった小川が流れておりました。

その御嶽神社さんについても、御住職のお話がありましたので、まずはそちらからごしょうかいさせていただきます。

「光明寺の裏山は〖御嶽山〗言われていて、そこには御嶽神社さんがお祀りされているんだけど、かつてこの山は修験者(山伏)が訪れて修行していた山だったんだよね。御嶽山には大きな岩も現存しているから、この大岩を仏とし、山全体を霊地として日夜修行が行われたのだろうね。
今、外国の人たちに忍者、忍者って騒がれているけど、山伏の流れをくんで忍者が発生してるんだよね。このへんもなんか少し開発してそんなテーマで集客するのもいいなぁなんて、そんなニュース観ると思ったりすることもあるけど。」
と、御住職。


たしかに、この御嶽神社さんの境内には石仏さまがたくさんおられました。そのとき、私は墓地のあいだに造られた参道を通って、石段をのぼり参拝させていただいたのですが、もうひとつ参道があり、後で知ることとなるのですが、そちらからの道は一の鳥居があり、さらにその前には一般の道路に小さな小川が流れており、そこに御嶽橋という赤い橋が架かっていました。
そちらの参道沿いにはたくさんの石仏さまが参道を見守るようにお立ちになられていました。

No.153 19/05/12 23:54
旅人 

群馬県桐生市という街は、徳川家に大切に護られた街なのだそうです。御住職のお話はそんなお話にもおよびました。江戸時代、徳川家が桐生を擁護して桐生新町をつくり整備したということで、それは神社仏閣の配置すら、鬼門に当たる方向を護るようにと移転までしての大がかりなものであったということであります。桐生市に現存する浄運寺というお寺です。
あ、そういえば、そんな話を聞いた気がします。そうだ、まさにその浄運寺さんの参拝をした際に。桐生新町は桐生天満宮から浄運寺までを指しているらしく、浄運寺はその端を護るべく移転をしたと寺伝をお話くださいました。
光明寺の御住職はさらに、栄昌寺というお寺の権現堂と大蔵院というお寺がちょうど二十七度の角度をもって配置されているとおっしゃっていました。
徳川に護られた桐生新町は、整備されたうえで、商人、豪商に土地を提供して町を栄えるように幕府が支援したというのです。徳川にとってそれだけの意味がある土地だったということはなにを意味したのか、御住職はいろいろ調べてみたようです。桐生新町は江戸とちょうど並行して作られていたとか┉、日本平の東照宮と日光の東照宮との位置関係とか┉。おバカな私はメモをとるのが精一杯で、さっぱり理解できないものであり、まさに猫に小判、馬の耳に念仏といったものとなってしまい、せっかくの御住職のお話、聞き間違えや、勘違いなどもあるかもしれません。

そして、徳川家の恩恵を受けたという桐生も、いまはその効力をすっかり失ったように、桐生新町は静かに時を重ねています。豪商の遺した足跡も少しづつ失われていっているようであります。


光明寺さんは、そんな江戸時代よりさらにさかのぼる頃、栄えた時代に創建された、桐生で一番古いお寺だということであります。
今回、偶然、御住職の貴重なお話をうかがうことができ、本当にありがたかったです。御仏の御導きでありましょうか。


      令和元年五月十一日  参拝

No.155 19/05/14 06:03
旅人 

群馬県桐生市の【栄昌寺】さん。
失礼ながら初めてお聞きしました。Googleで調べると光明寺さんからさほど遠くないようです。┉ 便利な世の中であります。
そうと知ったら行くしかありません。山の手通りを桐生新町と呼ばれた町並み、本町通りに向かって少し入ったところにありました。
こじんまり、という言葉は失礼でしょうか。御本堂の大きさも、境内もさほど大きな規模のお寺さんではありません。ただ、明るい穏やかな気に満ちたお寺さんです。
御本堂のならび、少し奥まったところに二つの御堂がみえます。
小さな小川に見立てた池があり、そこに小さな石橋が架かって、弁天堂があります。さほど古いものではなさそうにみえます。
そのとなりにさらに小さな御堂があります。しかしながらその扉には銅板にしっかりと刻印された、直径三十センチ程度の葵の御紋が、左右、一つづつつけられています。【東照大権現】の篇額が掲げられています。ここが先ほど、光明寺の御住職のお話にあった権現堂でありましょう。
庫裏にうかがうと、御住職がお出になられたのですが、こちらのお寺では御朱印の取扱いはなさっておらず、ご由緒書きもないとのことでありました。

お寺の山門を出ると、御住職のお言葉が壁に貼られておりました。

『はるか先の未来と思われたあの日が やがては明日になり それは昨日となって 今日を生きる』
『たとえ本物の宝の地図であったとしても 行動をおこさなければそれは偽物と変わらない  たとえ偽物の宝の地図であったとしても行動を起こすことで何かを見つけられたのなら それは本物と変わらない』

こちらの御住職のお話を、ぜひうかがってみたいと思わせる一文、一文でありました。




     令和元年五月十一日    参拝

No.156 19/05/16 03:50
旅人 

群馬県太田市の【冠稲荷神社】さんに参拝してまいりました。

冠稲荷神社は、平安時代の1125年、新田氏の始祖 新田義重公の父、源義国公創建と伝えられています。
伏見稲荷、豊川稲荷、信田、王子、妻恋、田沼(一瓶塚)とこちら冠稲荷で、日本七社といわれているとのことであります。
1174年、源義経公は奥州下向の折に、当社が源氏ゆかりの社であることを知り、冠の中に勧請してきた京都伏見稲荷大社の御分霊を奉斎。また、時を経て、新田義貞公は1333年、鎌倉幕府討伐の兵を挙げるにあたり、こちらの神社の神前にて、兜の中に神霊の来臨を請い、戦勝を祈願されたと伝えられているようであります。この故事にちなみいつしか冠稲荷大明神と人々から呼ばれるようになったようです。

冠稲荷神社は境内へ入る鳥居がたくさんありますが、一際大きな赤い鳥居があります。本日はこちらからの参拝とさせていただきます。ちなみにそのたくさんある鳥居の一つは、ブラタモリという番組でタモリが扁額に漆を塗っていた鳥居があります。

この一番大きな鳥居の左側には猿田毘古社があります。猿田毘古神を祀る境内社の1つで、交通安全に御利益があります。車の交通安全祈願はこちらでして頂くようであります。
そのすぐ隣にはペット社殿があります。立派なお社であります。
参道を進んでいくと、桜の木の前に鳥居が設置されているのがみえます。こちらは縁結びの木と呼ばれている桜の木です。二手に分かれた木の幹が途中で再び結びついていることから、縁結びの御利益があると言われているようです。
そしてそのすぐそばには大きな大きな木瓜(ぼけ)の木があります。樹齢四百年を超えるといわれ、群馬県の指定天然記念物に指定されている木です。縁結びや子宝伝説があるようで、こちらのシンボルツリーとなっております。

No.157 19/05/16 08:12
旅人 

境内を進んでいきますと、こちらの方角から行くと少し戻る形になりますが┉石の鳥居があり、それをくぐってすぐに手水舎があります。手水舎の水が御神水となっていて、厄除に御利益がある聖水ということであります。そしてなんと、手水舎にペーパータオルが用意されているのです。そこまで至れり尽くせりの神社を私はここしか知りません。

手水舎の向かい側あたりに形代納め処があります。ここに用意されている人の形をした紙(形代)に穢れを移し、お焚き上げをして貰うということで、6月末と12月末に行われる大祓の儀式で主にお焚き上げしてくださるようです。
拝殿の前には義経の使ったと言われる御神水が小さいながらも立派なお社の中に流れており、そこからこの御神水をお分けいただくことができます。百円を奉納し、用意された50CCほど入るプラスチック容器に水を受けて持ちかえることができるようになっております。

そして目の前すぐに豪華絢爛な造りの拝殿が見えます。拝殿には鹿の首の剥製が!初めてそれを見たときの衝撃といったらありませんでした。後々知ることになるのですが、神事として鹿の首を奉納するといったものが近年まであった神社さんがあったくらいなようで、こちらの神社とは御祭神も異なりはしますが、とはいえ、こちらの神社は武将が創建したものであり、狩りをして腕を研いた武将が祈願に訪れていた神社では、狩りでの獲物を貢物として奉納することもあったのかもしれません。そう考えると、さほど不思議はないのかもしれません。


参拝を済ませると、拝殿右手に全面ガラス張りの近代的な建物が唐突にみえてまいります。初めて参拝した折にはありませんでした。再拝の際にみかけたときの衝撃に近い驚き。しかも自動扉!
┉こちら、中はおみくじ売場となっております。リラックマみくじ、トーマスみくじ、ゲゲゲの鬼太郎みくじなどキャラクターものから、かわいらしい狐の張り子のお人形がみくじを口にくわえたキツネみくじなど、まるでキャンディー売場やファンシー小物売場のように、心弾む、実にさまざまなおみくじが並べられております。
そしてさらに大きなガラス張りの建物が隣接して建てられていて、そちらは御守りや、御札、絵馬などの売場となっております。

No.159 19/05/17 04:10
旅人 

拝殿の左手を進んでいくと、あの観光地などでたまに見かける顔出し看板があります。顔を出す部分は持ち上げ式の看板が付いていて、顔を出すときだけ持ち上げるようにします。この絵は稲荷大明神が眷属の狐に乗られる図であります。なにげなく、観光地と同じような気分で夫に顔を出してもらい写真を撮ってまいりましたが、これは罰当たりな行為ではないのかなぁ( ;´・ω・`)


本殿の両脇には高さは1メートル強くらいですが展望台があり、ここに登るとと、本殿の彫刻をよく見ることが出来ます。彫刻の解説もなされていました。本殿の彫刻を拝観したあとの順路は、裏手の塚山竹林をとなっています。ここには小さな稲荷社が並んでいます。
参拝順路によると、次に参拝するの琴平宮、白狐社となります。白狐社にはたくさんの白狐の像が並んでいます。本当にすごい白狐の像の数で、そのすべてが祈りと感謝の証であります。結構大きなお社が二舎、すべてが白狐で埋め尽くされています。       
白狐社の隣に菅原社。言わずと知れた菅原道真公をお祀りしたお社であります。
そのすぐ近くに厳島社があります。橋の架かったお社であります。
この厳島社までが本殿からの参拝順路と言われています。

厳島社の隣に、ステージ状の開かれたお社があり、中央に八坂社があります。諏訪社もあります。
その隣に冠稲荷七福神。中央には大きな彫刻の絵馬が飾られています。こちらでは、十四礼十四拍いたします。なんだか数をかぞえることのほうに気持ちが集中してしまいそうであります。もちろん、私はそればかり気にしておりました。一回でも間違えたら神さまに失礼にあたることになりますものね。



No.160 19/05/17 08:21
旅人 

境内社のひとつ、【寒咲社】はこちらのお社に対して鳥居があります。シンボルツリーの木瓜の木のすぐ真横、手水舎のすぐそばです。鳥居をくぐると左右に小さなお社が並んでおります。
正面に小さな小さなお社があって、チョロチョロと、ちょうど少し開いた水道の蛇口から流れるくらいの水量で水が流れております。
小さな┉50CCくらいのプラスチックの容器が、1つ100円の奉納金で用意されており、この容器に社の手前の水を汲みます。そして左右に並ぶ6つの社の中から、授かりたい御利益のお狐のお社の前に水の入った容器を奉納します。
〖子育てきつね〗、〖安産きつね〗、〖健康諸願成就きつね〗(2体)、〖子宝きつね〗、〖縁結びきつね〗のお社となっており、お社に祀られた像はそれはそれはかわいらしい現代風のキャラクター的な像となっております。容器のキャップ(蓋)の部分は持ち帰り、御守として大切に持ち歩くことで神様とのご縁が続くのだと言われています。こちらへの絵馬の奉納もあります。

御朱印の授与所の近くにもう1つお社があります。やはりこのお社に対しての鳥居があって石段をのぼったさきにあるお社は【聖天宮】であります。
伊邪那岐神、伊邪那美神等をお祀りしている社で、縁結び、夫婦和合、親子和合、災難・ストーカー除けに御利益があるとなっております。正面には伊邪那岐神、伊邪那美神等のリアルに着色された高さ50センチから30センチの御像が祀られております。天井絵や彫刻も大変凝った見事な作りとなっております。
参拝を済ませると、さらに裏に進んでいくよう案内があり、拝殿裏手に災難やストーカー除けに御利益がある【悪縁断大鈴古墳磐座】があります。
長い竹の棒に鈴がついており、それを地中より出ている石に振動を伝え祈願するというもので、祈願には用意された紙をその竹に巻いて、竹を衝くように振り鈴を鳴らし、その後祈願に使った紙を捨てます。



こちらの神社の縁結びのご利益はお力が強いようで、年若い後輩たちからよくその名を聞いておりました。実際、出会いから結婚まで、こちらに詣でてから短期間でトントン拍子に進んだ娘さんが三人もいると、その霊験あらたかなこと、思わずにはいられません。
彼女たちが御祈祷までお受けしたかはわからないのですが┉。



      令和元年五月十一日  参拝


No.161 19/05/17 18:17
旅人 

ひとつきに最低でも1~2度は必ず通る道路沿いに、ずっと気になっている看板があります。
群馬県前橋市の【矢島の七観音】。看板のさきはその道路からすると細い道路で、走行する道路からは寺院を思わせるような建物や屋根は見えません。
昨日もそこを通ることが前々からわかっていて、時間にも余裕があり(どうしよう)と悩んだのですが、珍道中をサポートしてくれている歴史オタクの夫も、一緒にそこを通るたびに気になっているようであり、一人で行ったら残念がるのだろうな┉というか、またまた近いうちに再拝することになる。昨日も横目で看板を見ながら通過いたしました。
で、そちらのこと、Google先生にお教えを請いましたところ、鎌倉時代からの御由緒ある七観音さまのようでありますが、年に二回のみの御開帳のようであります。普段は無人の御堂のようで。
その年二回のうちの二回目の御開帳が、今年はなんと、土曜日であります。駐車場があるのかないのかもわからない情報量ではありますが、これはきっとご縁であります。


カレンダーにしっかり書き込んで、と。



No.162 19/05/19 00:26
旅人 

【群馬県の寺社信仰】
群馬県は山の信仰が色濃いとされています。全スレでお話してきた、上毛三山の赤城山・榛名山・妙義山、そして浅間山、白根山、武尊山など、山々が信仰を集めております。

赤城神社はかつて上野一宮であったと伝え、一宮の座を貫前神社に譲ったのは機織りの生糸を借りた礼との逸話があり、群馬県が古くから養蚕や絹織物が盛んであったことがうかがうことができます。
今も県内各地に、桐生市の織姫神社、伊勢崎市の倭文(しどり)神社(上野九宮)、吾妻郡長野原町の養蚕神社(荒神さん)、富岡市蛇宮神社、安中市の絹笠神社、雲門寺など養蚕や織物の神々が祀られております。

また群馬県は上州三名湯の草津・伊香保・四万(しま)のほか、水上、礒部、老神などを有する温泉国であり、その各地で薬師信仰がみられます。草津の光泉寺、伊香保神社(三宮神社を本宮とし伊香保神社を上野三宮とするようです、本人がよく理解できないでいるまま書いており、申しわけありません)は古くは温泉神社と称し、温泉寺が別当を務めていたようです。

高崎市の少林山達磨寺は日本における達磨信仰の一大拠点であり、ちなみに全国のダルマは8割が高崎市で生産されています。
また、前橋市の産泰神社と板倉町の雷電神社は、それぞれ産泰・雷電信仰の総本社であるようです。

徳川将軍家は、かつて太田市にあった得川郷の出身といわれ、徳川家の祖が創建したとされる長楽寺には日本三大東照宮とされる世良田東照宮が建てられ、その社殿は日光東照宮の古社を移転したものであります。また、この地は新田荘遺跡でもあります。新田荘は鎌倉幕府を倒した新田義貞を輩出した地であり、義貞公を祀る新田神社もあり、太田市には新田触不動と千体不動塔を祀る明王院、呑龍上人を祀る大光院新田寺、今は廃寺ではありますが縁切寺の満徳寺などがあります。


神社仏閣珍道中、まだまだ道中、初めの一歩のようであります。

No.163 19/05/19 07:45
旅人 

今日、栃木県宇都宮市にあります【多気山不動尊】で、火渡り祭があるようでうかがいたいと思っておりましたが、体調がいまひとつ整わず断念したところであります。
残念ですが、そういった決断も大切なことかと思ったので。


とか言いつつ、ご存じのとおり未熟者な私。
起死回生とかいう四字熟語が頭を離れないでおります。

No.164 19/05/19 23:35
旅人 

わが家の玄関には、今年、榛名神社さんでお受けした破魔矢と、亥年ということで亥のかわいらしい置き人形の御守があります。元旦に長男が受けて来てくれたものです。

【榛名神社】さんは私の大好きな神社さんであります。。

上毛三山の一つ、榛名山の神さまをお祀りしております。古くは元湯彦命をお祀りし、春名満行権現と崇められたということであります。また、こちらは【勝軍地蔵】で、【天台宗榛名山巌殿寺】が祭祀しておりましたが、神仏分離で仏教色が廃されて現在に至ります。そのため、瓦棒銅板葺きの八脚門の仁王門を随神門に変えるなどがなされており、一キロ弱の参道の途中には三重の塔があったりします。
境内は巌山とよばれる、標高九百メートルほどの山全体であり、九折(つづら)岩鞍掛岩などと名のつく奇岩があります。
近世には榛名講とよばれるものがあったようで関東一円で盛んだったようです。講の全員が参詣を果たすと、記念に太々講として【榛名神社神代神楽】を奉納したようであり、この神楽は男舞22座・巫女舞14座の演目があり、摺り足を基本とする無言の舞なのだとか。宮廷神楽を伝承するもので、現在も二月神楽始式と五月の端午祭、神輿渡御祭などで奉納されているようであります。

今の時季、さぞや清々しい爽やかな空気がいっぱいでありましょう。
新緑の合間をぬうように射し込むきらきらときらめく日の光が美しい、自然豊かな神社さんであります。こちらも式内社。


ああ、榛名神社さんに行きたい!
 

No.165 19/05/20 18:58
旅人 

【勝軍地蔵】?
最近、その文字を見かけましたが、あのおだやかなお地蔵さまと『軍』という、戦に結びつくような文字が私の中でうまくつながらない。今回も榛名神社さんを調べていて、そのお地蔵さまの御名をお見かけしました。
この勝軍地蔵はそのお名前が示すとおり、祈願することで戦に勝利できるとされているお地蔵さまであるようです。一説に、坂上田村麻呂が東征のとき、戦勝を祈って作ったことからおこったといわれる勝軍地蔵菩薩さま。
なんと甲冑を身に付け、右手に錫杖を左手に如意宝珠をもち、軍馬にまたがっているお姿のようであります。こちらの勝軍地蔵さまを拝むと、戦いに勝利し、宿業・飢饉などをまぬがれるということで、とりわけ戦国時代に武将に手厚く信仰されたようです。

この勝軍地蔵さま、平安時代から鎌倉時代にかけて日本各地に広まっていき、今でも多数現存しているのだそうです。
え?私はいまだかつてお会いしたことがないのですが?!


┉じつはどうやら東京巣鴨にある【巣鴨とげぬき地蔵尊】もその1つであるようなのです。微妙な年齢をむかえた私が、いましばらくあとに参拝させていただこうと、あえて、参拝をさき延ばししている【高岩寺】さん。うーん、お会いしたければ○○の原宿とうたわれる巣鴨に詣でるようなのか┉(;´・ω・`)

京都の六波羅蜜寺には運慶が作ったとされる勝軍地蔵があるようです。さらに、奈良の東大寺、室生寺、神奈川県鎌倉市の建長寺などの勝軍地蔵も大変有名なものとされています。ん?(,,・д・)
え?建長寺さん?
┉たしかに建長寺さんは御本尊がお地蔵さまでありますが┉御本尊には何度もお会い申しあげているのですが。
大きな、大きなお地蔵さまであるため、この迂闊なおばさんは甲冑を身に付け馬にまたがっておられるお姿をされていたことに気づかなかったということ?!!

あわてて御本尊さまのお姿を確認させていただきましたところ、御本尊さまは勝軍地蔵さまではなかったです。ホッ。


┉いつかお会いできるかなぁ。鎧兜を身に付けて、お馬にまたがるお地蔵さまに。



No.166 19/05/21 10:02
旅人 

私自身が住んでいる市も、長い長い歴史の中で、例えば川のそばであれば早くから人が集まり集落ができたり、野の広がるだけのところで畑作をしたり、山のそばで猟をしながら山のめぐみを受けてくらしたり。その小さな集落をたばねるものができ、集落と集落の間での争いや、それで小さかった集落が大きくなったり。
恵まれた土地を我が物にしたいと戦がおきたり┉。
前述のとおり、群馬県は養蚕や織物の盛んな土地であったようで、そこからの商業も発展したような土地がらであったようです。

同じ市内でも全く異なる文化が息づいているのを、神社仏閣を訪ねて町を歩くと、その異なった空気を肌で感じます。
さらには平成の大合併で、成り立ちの全く異なる町と町が一つの市となったこともあり、その以前の町であったり、村であったところは、行政という括りは変わろうとも、自分たちの生活を普通に続けるだけでありますから、その土地その土地のなかで息づいていた伝統はそのままの形で残っています。

その昔、┉そうは遠くない明治、大正、昭和の初期のころまでは、神さまや仏さまがいつも人々の身近におり、神社に詣でること、お寺に詣でることが日々の暮らしに欠かせないほど、大切なものでありました。神棚があり、仏壇があり、神社やお寺さんでお授けいただいた御札が必ずのように貼られ、それは富めるものも貧しきものも同様に崇め奉った存在でありました。
長い長い歴史の中で、その土地にあった、その土地ならではの信仰の形があったりもしましょう。それをできるだけ忠実に残していきたいと思って守るその神社仏閣の、神主さまであったり、御住職であったり、世話人の方々であったりがおられることもあるでしょうし、新しい時代にあわせて永く存続することを願って新しい試みを取り入れるところもあるでしょう。
ですが、やはり長いことその土地その土地にあった特色はなかなか消えはしないのでしょうね。移動が車のせいもあり、降り立ったときの空気がその町、その町で異なるのを肌で感じます。

同じ市内でも異なるこの独特な空気感。
それがまた、新鮮で楽しみな神社仏閣珍道中であります。

No.167 19/05/21 11:02
旅人 

車で道路を走っていると、市と市の境に、走行していた市がそこから変わったことを告げる看板がありますよね。しばらく走行すると、その市その市で空気が異なり、風景や町並みすらが異なってきますよね。

県境はまさにそれが顕著。

群馬県の隣接する県は、福島県、栃木県、埼玉県、長野県、新潟県、です。いやいや、看板が要らないくらい、明らかにすべてが変わります。山の中のなに一つ特徴を見いだせないような道を走っていたとしても、道を整備する県なり市なりが変わるからなのでしょう、路面、道幅が変わっています。
なので、神社仏閣もその土地その土地、その土地その土地の特色がある。

栃木県は世界遺産【日光の社寺】で全国、世界に知られ、東照大権現(徳川家康)を祀った日光東照宮は平日でも参拝の人々が列をなしております。何年か前に改修工事を終えた陽明門は見惚れて日が暮れるのも忘れてしまう美しさということで別名日暮の門とよばれておりますが、ほかの社殿、拝殿もすばらしいものばかり。徳川の一番栄えた時代、その威光を全国に知らしめ、全国の大名に寄進させた贅を極めた、これまた日暮の社寺、日暮の社殿、日暮の彫り物となっております。

日光社寺信仰の中心は、勝道上人が開いた、男体山を観音浄土の補陀洛山として祀る二荒山神社であり、こちらは宇都宮の二荒山神社とともに下野一宮とされています。宇都宮という地名は一宮が転じたものといわれているくらいです。二荒山神社の御祭神の本地仏をお祀りする日光山輪王寺は天台宗三本山の一つだということであります。
勝道上人は、阪東17番出流山満願寺や、中禅寺湖畔にある阪東18番立木観音、日本三大蓬莱の蓬莱山神社なども開いたとされており、その生誕地は真岡市の仏生寺とされています。

栃木県は古くから仏教が栄えたようで、日本三戒壇の一つ、下野薬師寺がおかれたとあります。それは本当に栃木県の寺院を参拝するとひしひしと肌で感じます。

No.168 19/05/21 12:39
旅人 

栃木県の古社とされる寺院を訪ねると、建物うんぬんではなくて、創建うんぬんでもなく、その空気の重厚なことにただただ圧倒されます。なにかを感じとるようなことなどない私のような者が畏怖するような空気の寺院があることが、その古くから栄えた仏教の伝統と歴史、なのかもしれません。

【慈覚大師】という、偉いお坊さまを輩出した土地であることも大きいのかもしれません。
なんて書いてはおりますが、Google先生のお教えをいただき知ったことによりますと、【最澄】の弟子であり、遣唐使として唐に渡り、布教のため東北を訪れ、恐山を霊山し開山された方だとあります。
誰もが知っている「鳴くよウグイス平安京」と、暗記に使ったそのまさに794年に生まれた方だということで、日本ではじめて大師という謚号を授かった方のようでありました。
それもあってなのて、なのでしょう、栃木県には天台宗の名刹が多いようであります。
日本三大岩船地蔵の一つ【高勝寺】、元三大師の信仰で多くの参拝者を集める関東三大大師の【佐野厄除け大師】も天台宗であり、家康を日光に祀った日光山貫主の慈眼大師も天台宗の大僧正であるということであります。

そういった意味合いからなのかもしれませんが、群馬県の天台宗寺院は前橋市と高崎市には多いものの、他の市町村ではさほど多くはないように感じました。
とはいえ、同じ天台宗寺院であっても、高勝寺と佐野厄除け大師は、まるでその雰囲気の異なる寺院ではありますけれど。





No.169 19/05/21 17:17
旅人 

【佐野厄除け大師】は金色の梵鐘という、燦然と輝く大梵鐘の鐘楼が駐車場すぐ脇にあり、また、御守りやおみくじの自動販売機など、私のような凡人には思いもつかない進化をとげたお寺さんでありますが、こちらの歴史は古いもので、平将門の乱を平定した俵藤太藤原秀郷が、開基とされています。
居城跡の唐沢山にある【唐沢山神社】は秀郷を祀っているようであり、こちらの御朱印はブームの御朱印マニアのあいだでは人気のものとなっているようです。

わが家の歴史オタクが怪しげに語る、藤姓足利氏だの、源姓足利氏だの、なんとかの流れを汲む○○氏とかいう話になってくるのですが、秀郷は藤姓足利氏の祖なのだそうで、室町幕府将軍を輩出した足利氏は源姓足利氏になるのだそうです。その足利氏の出身が栃木県であり、その名も足利市には【大日様(だいにちさま)】と親しまれる金剛山鑁阿寺があり、こちらの御本堂と鐘楼は国宝であります。足利氏の館跡として国の史跡ともなっております。


うーん、栃木県ってなにげにすごい。


No.170 19/05/25 00:57
旅人 

みどり市の【神明宮】さんに参拝してまいりました。緑豊かな明るいおだやかな気の満ちた、よく参拝させていただく神社さんであります。

境内入口には石造の大きな鳥居があります。鳥居をくぐると、左手に手水舎。大きめな狛犬は新しそうだと思ってみると八十年は経ったものでありました。
社殿は新しく、木の匂いがしそうな【神明造】と呼ばれる造りのものであるようです。境内の由緒書によると、鎮座六百五十年、中興遷座四百年の記念事業として平成十二年に社殿が新築されたようでようです。総桧造!┉気のせいでなく本当に木の匂いがしていたんだ。

拝殿の扁額には「皇大神宮」とあるが、こちらの正式名はあくまで神明宮。
御祭神は天照大神。
御由緒は、もともとは、南北朝時代の貞和三年(1347)、現在地の東100mほどの渡良瀬川の伊勢ケ淵岩頭に、天照皇大神をお祀りし、黒川郷(渡良瀬川流域の里)の一宮として崇敬された神社であったようです。慶長二年(1597)大間々町の鎮守として、現在地に仮宮をたて、慶長四年(1599)正式に遷座したということです。
境内の左手奥に、貞和三年に祀られた石祠が、【御隠居様】として祀られております。御隠居様って┉なんだかびっくりする表現だと思うのは私だけでしょうか。

その、もともとの神明宮のあったところ、伊勢ケ淵の名は、こちらが鎮座していたためとする説の他に、天正六年九月、金山城主由良成繁が、当社対岸の山頂にあった高津戸城の里見氏兄弟を攻め滅ぼした時、里見勝政の妻、伊勢の方が、殿に殉じて入水自害したことに由来するとする説もあるようです。このへんはわが家の歴史オタクの得意分野でありますので(^_^;)

創建以来、明治十二年まで、二十一年目毎に社殿の建て替え、または修復などの式年遷宮が行われていたようです。なんと豪儀なことでしょう!正徳五年(1715)には、外宮 豊受大神の分霊を合祀し、明治五年、一町十八ケ村の惣鎮守として郷社に列したとのことであります。

しかしながら明治二十年、大間々町の大火で社殿を焼失し、ただちに再建されたものの明治二十三年再度の火災に遭い、社殿を縮小して再建されたようで、なんとかもとの郷社に相応しい社殿をとの願いもむなしくその後の大恐慌などで断念されて、ようやく平成の御代にこのお社が建てられたということのようです。



No.171 19/05/25 02:05
旅人 

神社仏閣初心者の私、神明宮さんによく参拝するなどと言ってはおりますが、まだ日の浅い新参者であります。
ただ実はこの辺り、小さな頃からよく訪れていた地、なのであります。

道路を隔てた神明宮さんのお向かいに、ながめと呼ばれるちょっとした観光の名所となっている場所があり、私も幼稚園の遠足がこのながめであったり、祖父母に連れられてこちらに来たりという記憶があります。
実は┉ながめとその名前、実はすぐそばにある高津戸峡の眺めがいいからということで、その名が付けられたという衝撃の事実を今回調べていて初めて知りました。なんと安直なネーミングだったのでしょう。びっくり、であります。
そのながめ、かつては今で言うならば小さなテーマパークのような行楽地だったらしい。

敷地の一角に「ながめ余興場」という、昭和12年に建てられた木造二階建ての劇場があります。廻り舞台や花道、二階席もある本格的な造りで、玄関は歌舞伎座を模したと言われているとのことで、古い建物ではありますが味のあるものであったと記憶しています。
最盛期、昭和20~30年代には人気劇団や流行歌手が訪れるなどしていた超人気の娯楽施設であったようです。
ただ、私にはすでに古い建物という記憶しかなく、古い映画を上映していたり、もう何も上演することない過去の建物と化していた時期でありました。
今はまた、古きをたずね新しきを知るとでもいうのでしょうか、その良さを見直されて、よくイベントが開催されるようです。

また、こちらで毎年秋に行われる「関東菊花大会」は、菊の花を衣装に散りばめた菊人形や、盆栽菊など、さまざまな菊が会場を彩り、今でも愛好家をはじめとする多くの人々に親しまれているようで


ところが、私、こちらに神社があったという記憶がまったくなくて┉(^_^;)
信心深い祖母をもち、歴史オタクであります夫に連れられて参拝するまで、こちら神明宮さんを知らなかったくらいの迂闊者であります。

境内は林につながり、川のせせらぎや小鳥のさえずりを聴きながらの森林浴ができるといった、素敵な神社さんであります。また、すぐそばの高津戸峡は、ながめというネーミングがされるくらいです(^_^;)


仕事に疲れるとこちらに行きたくなる、私の癒しの神社さんであります。



        令和元年五月  参拝

No.172 19/05/25 08:19
旅人 

追記)
私の幼稚園の遠足が、40㎞くらい離れたながめであったことから考えても、当時の「ながめ」の盛況さをうかがい知ることができますが、いまも秋にその辺を通ろうものなら、道が渋滞して、駐車場が満杯状態です。秋には神明宮さんの参拝がむずかしかったくらいです。

秋は高津戸峡の紅葉も見事なので、いまのようにネットの発達した時代はかえって人が集うのかもしれません。

ちなみに、ながめからは絵手紙風の御朱印で有名な【桐生市】が近いです。絵手紙風の御朱印で有名な桐生市のいくつかの寺院はいま、バスが┉場所によっては数台、県外から訪れる観光スポット化しておりました。





No.173 19/05/25 17:12
旅人 

ずっと気になっていたお地蔵さまに、ようやくお会いすることができました。一年半かけて、やっと❤
群馬県伊勢崎市にある【あかぼり小菊の里】という、小菊が一面に植えられたところに行ったときのこと。秋桜も楽しもうとあえて遠回りをしたところ、標識より小さな、桐生市が設置した道案内の看板が目にはいりました。

←【野の六地蔵幢】

えっ?そんなお地蔵さまのこと、知らなかったけど。

そもそもこの道、実はカリビアンビーチという室内プールがあるため、何度も何度も通った道であります。
もしかしたら、その頃と異なり、道が整備され、当時あった野菜の無人販売所や、ブドウの直売所がなくなって、見通しがよくなったせいかもしれません。
いつからその看板があったのか┉、小さな看板とやや狭い道。方向音痴の私でも迷いこまない道。そこを曲がって行くようわざわざ行政が看板を立てるお地蔵さまがおられる!
もう秋桜の道だの小菊の里だのは頭から消え、お地蔵さまにお会いするためハンドルを左にきりました。
住宅の点在する畑のひろがる道であります。進むにつれて対向車が来たら道を譲り合うような道になってきました。もうひとつ、看板。

ん?看板消失?!

ちょ、ちょっと待って!もう細い細い、民家や業者の営業所の建ち並ぶ住宅街の道でしかないところで、最終案内がない?!┉このまま進んで行き止まりでバックして戻るしかないようなことになったら┉
( ; ゚Д゚)ノno
┉あきらめてあかぼりに向かう道に進路を変えました。


その後もチャレンジしたものの┉同じように最終案内はなく、見放されたように通りかかる地元の方もおられず。
諦めきれない私は市役所に行ってその場所を教えていただこうとしましたが、担当の方がいないとわからないらしく、無駄足におわり┉。
ナビにはでません。
夫に悲しみを訴えると、夫がスマホでGoogle先生にお尋ねしたところ、キチンと案内をかってでてくれていると!!

さすが、困ったときのGoogle先生であります。ちなみに私はいまだにガラケー。Google先生と夫にひかれて、野の六地蔵幢詣りとなりました。
( ;∀;)

いやいやこれは、わからなくて当然!最終案内の看板はなく、民家脇の細く狭い生活道路を入って行くのです。これはムリだ、ムリだった!こんな不親切な案内の看板は最初から立てないでほしい(*T^T)

No.174 19/05/25 17:41
旅人 

写真では拝見しておりましたものの、ようやくお会いすることができたお地蔵さま。

高さ1.82メートルあります、石塔(?)の幢身とよばれる部分に、東西面に1体ずつ、南北面に二体ずつの計六体のお地蔵さまが線刻されておられるものであります。
その塔のそばには何軒かの、現在も守まれ、まつられている墓所となっており、そこに混在して古い石仏がかなりの数、お祀りされていました。
また、初めて拝見する、観音様が膝に(?)子どもを抱いた石仏像がお祀りされていました。女人供養の文字が見てとれます。寛政の時代のもののようです。
そのそばには白色の石で造られたお美しい立ち姿の石仏がお祀りされているのですが、仏さまのみぞおちを中心に斜めに折れて破損してしまっておられ、しかもそのみぞおちの辺りがえぐられ削られているかのようになくなってしまっております。
お美しいお姿だけにことさらに痛々しい御姿で、哀しく切ない思いでいっぱいになりました。

いま、この文を綴りながら、もう一度あの二体の観音さまにお会いしたいと思う自分がおります。
もう道には迷わない。
けれど、駐車する場所がまるでないのです。今回は夫にワガママを言ってその細い狭い道に路駐してもらいました。おそらくはその奥にはお住まいの方はおられないように思えました。
ですが、私の運転テクニック!
この道に車を入れてUターンは┉(;ω;)どうかな?



      令和元年五月二十五日  参拝


No.175 19/05/26 21:15
旅人 

  
  暑くなりました。
  日光の季節です。


┉ということは特にはありません。
暑さの夏も、遅い春の訪れを迎えたころも、
見事に紅葉した木々のころも、雪深い冬すらも、
日光の季節です。
┉熱くなっていたのは、私がこの一週間あたためていた「日光に行きたい!」という思い、であります。
日光を語れるほどにはまだまだ修行が足りませんが、この間、神社仏閣にお参りできないでいた期間に、こちらで栃木県の神社仏閣を少し語ったりしたものだから、もう私のなかが【日光】、【日光】に行きたい。日光に行きーたいっ!となっておりまして。
で、日光。

日光輪王寺の修復が終わり、あとはシートを外すのみ、というくらいに行ったのが最後、まさに「絵にかいた輪王寺」を拝観しておりました。ただ工事・修復作業中の輪王寺もみることができたのも、貴重な経験であります。
そのヴェールがようやくとれたというのに、なかなか参拝することができずにおりました。
さあ、輪王寺、輪王寺っ❤

No.176 19/05/27 12:02
旅人 

あ、暑い。

日光、涼しいだろうとひそかにそんな期待もあっての前回冒頭文。
見事にうらぎっての熱く暑い日光でありました。さもあらん、夕方帰宅して観たテレビのニュースで、北海道でまさかの三十九度超え!
┉もう、いつ、どこがどれだけ暑くてもおかしくないんだなぁ。
(;´・ω・`)

それが、その広い境内の敷地にはいった途端、涼やかで爽やかな気に柔らかく優しく包まれます。
思いっきり深呼吸!身体も心も軽くなります。
┉いや、私、スピリチュアルっていうんですか?そういうのが一切なくて、なんっにも感じないんですよ。だからこそ、こんな歳になって神社仏閣初心者をやっているくらいで。そんな人間であっても、こんな恩恵を賜ることができる、日光山。
実は日光に向かう道中で「救心」飲んだくらいの体調で。そう、あの「動悸、息切れ、めまいに、」っていう救心です。夫に「無理はしないんだよ?!」「大丈夫?」と頻繁にたずねられるくらいだったんです。ま、夫にとって言い出したら聞かないヤツですから、ねぇ。もうしわけない(*`艸´)
それが、石段をのぼっていくにつれむしろ身体が軽くなる!
もう、こうなると小学生┉幼稚園児のように、足どり軽く先へ先へと突き進む。┉今の幼稚園児はおりこうで、さしたる指導もしなくても、おとなしく列をなして歩くように見えるし、それ以下かもしれません。


【輪王寺】! 
大きな布に描かれたものではなくて、どっしりとしたあの落ちついた朱い大きな大きな御堂です。金堂にして三佛堂、でいいのかなぁ?
入口を入りますと、御本尊前の御賽銭箱の前に大勢の人たちがご案内にあたる僧の解説を聞いており、私のはいった入口は少人数の方々に向けてご案内される僧がやはり解説をされています。ん?
私はしゃぎすぎて入口を間違えたのかしら?(((・・;)
正面入口と私の入った入口はコーンなどで隔ててあります。? 
御賽銭箱の前、御本尊の前からの参拝が正しかったよな、申し訳ない。そおっとその隙間から御本尊前の集団に交ざりこむと、「そっちじゃなくて、あなたはもっとお近くで御本尊にお会いできるんですよ。こっちで大丈夫です」と男の方の声。よく、わからない。
まあ、わざわざお声がけいただくくらいなので、隙間をくぐったことはやはり間違いで正しくない行動だったんだな (´-`;)
┉やっぱり幼稚園児以下だった。

No.177 19/05/27 15:04
旅人 

ま、そんなヤツでありますが、まあ、あながち間違いでもない参拝の順路であったはずだと、さっさと自分の失態は切り替えて、切り捨てて┉。(^_^;)


ただ、御堂に入った時点ですでにどちらのグループに対しても、ご案内の方の解説が始まってしまっておりました。私、┉高校時代の修学旅行でも、ガイドさんや案内の方の、一語一句も聞きのがしたくない(聞きのがしたら自己責任)タイプなので、どちらにしても途中からの解説になり、やや、テンションが低めなスタートをきることになりました。
解説は今年の年廻りについてというところまで進んでおります。
厄年ではなくて、九星気学という(らしい、占いの一つのようです)
二黒土星とか五黄土星とか八白土星とかで表現されるもので、
「次の節分までの星回りとなるので、悪い星回りとなってる方は覚えておいてください」と、おっしゃっております。
へぇー、悪いんだぁ。┉覚えておいてください?(((・・;)
何にかかってくるのでしょう。そこには御守りが展示されていますが、そちらについてのコメントは一切ありません。


ご案内いただくままについてまいりますと、御内陣です!
こちらに足を踏み入れられるのは、修復作業中だけだとうかがっておりましたのに!(pq゚∀゚*)
ありがたいことでございます。
改修工事中には自由に中を歩くようなものでありましたので、お側での参拝は可能でありましたが、簡単な説明とどちらかというと御内陣を監督していらっしゃるような僧の方がおられただけでしたので、今日はお側での参拝と解説をうかがうことができるようです。


大きな大きな仏さまでいらっしゃいます。台座から光背頂まで七メートル半ということであります。今回の修復期間にお色直しをなさったようで、今が一番綺麗なお色でおられるとのことです。次は五十年以上後にならないとこのお色の状態での参拝はないとのお話でありました。

向かって右てから、〖千手観音さま〗、〖阿弥陀如来さま〗、〖馬頭観音〗さまになります。
こちらは脇侍というご関係ではなく、日光山の山信仰とも結びついて、〖男体山〗、〖女峰山〗〖太郎山〗、お山を神さまと考え、そしてその神さまが仏さまにお姿を変えられたという形をおとりになられた、御家族であられるとのことでございます。

No.178 19/05/28 01:05
旅人 

三体の御本尊さまにつながる五色の紐。
こちらについての説明は特にありませんでした。┉いつの間にか三~四倍にもなった人数のせいでしょうか。
抜かりのないおばさん=私はしっかりとその紐を握ってお祈りをしてまいりました。
しかも二本。(*`艸´)



その間にもご案内くださいます僧侶は、他の方を連れて次のゾーンへ。千手観音さま、虚空蔵菩薩さまと何体もの御仏像が並んでおられます。守り本尊さまだ。


 子年(ねどし)  = 千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)
 丑年(うしどし) = 虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
 寅年(とらどし) = 虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
 卯年(うどし)  = 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
 辰年(たつどし) = 普賢菩薩(ふげんぼさつ) 
 巳年(みどし)  = 普賢菩薩(ふげんぼさつ)
 午年(うまどし) = 勢至菩薩(せいしぼさつ)
 未年(ひつじどし)= 大日如来(だいにちにょらい)
 申年(さるどし) = 大日如来(だいにちにょらい)
 酉年(とりどし) = 不動明王(ふどうみょうおう)
 戌年(いぬどし) = 阿弥陀如来(あみだにょらい)
 亥年(いどし)  = 阿弥陀如来(あみだにょらい)

十二支の生まれどしで八尊の守護仏がそれぞれの干支の方をお守りしてくださっているというものであります。それぞれの干支の守り本尊さまを教えてくださり、その前に立つようおっしゃって、合掌するようにうながされました。

┉日光山名物とも言える授与品のご案内はこちらでありました。
守り本尊さまの凡字の書かれた1×2.5cmほどのペンダントトップの御守りであります。┉そうだった、思えばご案内の方の首にずっと光り揺れていたんだ。
そして私、欲しかったんだなぁ┉ずっと肌身離さずつけておける御守りが┉。
そうそう、日光のここでしか手に入らないんですよね。

┉僧侶の方の説明が終わると同時に、授与を申し出たのは私で、そして、あんなにいた人々のなかで唯一、だった。(^_^;)
どうしてわかるかって?
そのすぐあと御朱印の授与所があって、そこにも並んだものですから、御守りの授与所の様子が見てとれたので┉。(^_^;)

日光山に来るたび、なんらかの授与を受けているのは他ならぬ私、なのでした。
┉ちゃんとずっと使っています。本当!(^_^;)



No.179 19/05/28 06:30
旅人 

【鬼門除札】について

日光山では多種多様な御守りが授与されています。その中にも、「限定の御守り(御札)」があります。この御札、日光山の数ある御札の中でも、少し別格の御札となります。
毎日、授与されていますが数に限りがあるようであります。授与される数の決まっている上、すぐに売り切れてしまうといった大変、貴重な御札となっているようなのです。

この御札を「鬼門除札」というのだそうです。

輪王寺で「鬼門除札」の入った封書を授かり、その封書を開けると「鬼門除札」と一緒に同封されている「角大師護符」が納められているようです。
「鬼門除札」の裏側に御札を入れるスペースがあって、「角大師護符」を入れるようになっているのだそうです。「角大師護符」に、家族全員の名前を書いてから、「鬼門除札」の裏側の御札を入れるスペースへ差し込んで納めるようです。

御札自体の有効期限は1年間ですが、なんと三年間1年毎に新しい御札が自宅へお送りいただけるのだそうです。そして、古い御札は、お焚き上げで燃やしていただきます。これは日光まで出向かなくてもよいようであります。

家の鬼門となる方角へお祀りし、家族に降りかかる厄災を御札が身代わりとなっていただけるとのことであります。


こちらはその日の数量限定をうたうだけあって、御守りや御札の授与所でおすすめされることはありません。私の覚え書きとして書かれたものと思ってください。(^_^;)

No.180 19/05/28 11:12
旅人 

三佛堂を出口から出ると、御堂の濡れ縁を歩いて裏手に抜けます。すぐに目の前に【大護摩堂】が見えてまいります。御護摩祈祷をお受けする御堂ですが、こちらは盛り土のない、地面に対してフラットな造りで、護摩祈祷を受けない者でもお詣りすることができます。
御祈祷を受けたことがないので、後込みしてしまうようなところもあるのですが、お願い事が多すぎて一つにしぼれないのも一因かと思ったりもします。そういう者こそが御祈祷を受けるべき、なのかもしれませんが。

護摩堂の正面に五大明王さま、十二天さま、七福神さま、祖始像がずらっとお並びになられ、入った時点では身の引き締まる思いがいたします。ですが、すぐに穏やかにお見守り下さっている視線であることに気づくかのように、自分自身も穏やかな気持ちになれます。
護摩祈祷は毎日三回、行われているようです。
天井には見事な龍が描かれております。【大昇龍】と名づけられているようです。
こちらの授与品は御祈祷をお受けする御堂なため御数珠と御線香が中心となっておりました。梅の木で作られた守り本尊さまが内蔵された御数珠となっています。御数珠は木で作られたものがよいという俗説があるそうで、火葬の際石でできた御数珠は残ってしまい成仏できないということからのようであります。
また、御数珠はお下がりや形見の品を使ってはいけないそうですが、その理由はちょっと聞き逃してしまいました。現世の者によくないのか、旅立たれた方によくないのか、記すことができなくてごめんなさい。


護摩堂を出ますと正面には┉もちろん三佛堂があるのですが、それよりも目につく背の高い塔があります。
こちらは家光公が発願され、あの栃木出身の慈眼大師さまが比叡山の宝搭に似せてお造りになられた高さ15mの青銅製のものであります。空にそびえる、といった表現がぴったりなこちらの搭には千部を超える数のお経が納められているのだそうです。
どちらを廻らせていただいてもみな大きなものが多いです。


No.181 19/05/28 16:52
旅人 

今回は日光輪王寺へやってきた。東照宮は次回、次回。((。。;)
┉どうする?五重塔。
そもそも輪王寺の鳴き龍で有名な薬師堂は東照宮本地堂とも呼ばれ、別個での東照宮拝観が必要です。輪王寺の管轄ではあるのだけれど。

夫は「任せるから。好きにしていいから」を繰り返すのみ。
「わかった。今日は大猷院と二荒山神社で。」


二荒山神社、そして大猷院に向かう参道は大きな木々に囲まれ、小さな川が流れております。その空気の清んだ道を歩くだけで、心が洗われて新たな自分にでもなったかのよう。心だけでなく身体も軽くなります。踊るような足どりで砂利道を歩くと二荒山神社の楼門が見えてまいりました。
大猷院から上ってくると神門をくぐることになるのですが、心よりも身体よりも、頭の中身の軽い私、ご機嫌で歩をすすめ、楼門につながる「上新道(かみしんみち)」という参道を歩いて来たことも頭になかった(^_^;)
鳥居を前にして、今さら大猷院を先に、という理由もなく、嬉しいような楽しいようなワクワクした気分のまま、楼門をくぐりました。



一般的に 楼門 とは2階造りの門で最上階に屋根をかけたもので各階に屋根をかけたものを「二重門」と言います。日光二荒山神社の 楼門 は新しい門で勝道上人の男体山登頂1200年を記念して1982年(昭和57年)に作られました。
踊るような足どりのまま、拝殿に向かうとおしゃれをした可愛いらしい子供がこちらに駆けてきます。それを追う若いおばあさま。
あ、花嫁さんだ!
結婚式が執り行われた直後のようです。うーん、残念。
拝殿のきざはしのしたに設けた腰かけに座り、お嫁さん、角隠しをつけていただきました。
名残惜しいけれど、私は私のお礼を申し上げ、お願い事を申し上げる役割があります。
拝殿に向かって参拝し、置かれたオオヌサと呼ばれる、┉神主さまが行事の際ふさっふさっとお振りになるあの神具をさわるとよいと書かれて┉そのオオヌサをそっと、時間をかけてさわりました。
あまりオオヌサに興味を示される方がおられなかったのもあって、思う存分さわることができました。
さあ、社務所に御朱印を受けにまいります。
こちらの社務所、いくつもの御朱印を扱われておられます。中宮祠の二荒山神社以外の神社の御朱印、お祭りの町内の鉾の御朱印もこちらでお受けします。

No.182 19/05/29 07:51
旅人 

この日、これから参拝せていただく予定となっている【瀧尾神社】さんと、それから御神刀の【太郎丸】、【奉祝天皇陛下御即位 奉拝 日光二荒山神社】の三体の御朱印をお受けいたしました。こちらはみなお書き置きなので、待ち時間なし。
「瀧尾神社さんと┉」と申している時点で、お書き置きの御朱印紙に、こちらを一度も見ることなく、さらさらっと日付を書き込まれる巫女さん、少し寂しかった┉虚しかったです。


気を取り直して!
この日二荒山神社に参拝の折に今度こそ!と、かねてより思っておりましたところへ参拝をいたしました。

No.183 19/05/29 21:39
旅人 

今、日光の社寺は【ユネスコ世界遺産】となり、世界中から人々が訪れています。その景色の素晴らしさから訪れる、外国からの観光客の方もおられるでしょう。でも、なかにはしっかりと歴史背景や日本の神々や仏について調べた上で、神仏を崇め奉るお心で訪れる方もおられます。

正直に申しますと、私は以前日光の社寺を訪れたときには、完ぺきな観光客でした。
「神社では二礼二拍手一礼で、お寺では手を合わせるだけ」くらいの知識と、郷に入れば郷に従えくらいの感覚だけで。手水も知らなかったし、「御賽銭はいつのタイミングであげるんだ?」だし。
いや、そもそもお寺というものは檀家の人しか行かないものという感覚もありました。
そのくせ、修学旅行では神社仏閣に行きまくってたけど、それは日本の文化を修学、学ぶためだから、と思っていたし。歴史の勉強でもあるからなのだろう、と思っていました。
まあ、そのへんはいまもそれに毛が生えたくらいかもしれませんが
(;´・ω・`)
ただ一つ、変わったのは、観光客ではなくなったと、とりあえず言えること。
それは自分の心の持ちよう、なので、まだまだ何一つわからないまま参拝させていただいている点では、あまり変わってはいませんが。


日光二荒山神社さんにはいままでも何度かは参拝させていただいておりましたが、【神苑】と呼ばれる、【本殿】のある、参拝料をお納めするゾーンには、観光客として二度訪れたのみ。本殿と拝殿の違いもわからず、ご神木をみても「デカイ木!」と思うだけ。 



そんな私がどうしてもお詣りせていただきたいと、思ったのは┉
【高天原】です。
以前、訪れたときにも実はこの場所に気づいてはおりました。
でも、そのとき私は「ふーん、神社だから高天原かぁ」と、そばによることもなく通りすぎてしまったのです。






No.184 19/05/31 00:42
旅人 

砂利が敷かれたなかに石がポツンとひとつ。綱で囲まれた空間が、日光二荒山神社【高天原】であります。

その神域を、この文才のないおばさんが表現するとこんなことに┉(;ω;)

その結界のなかの地面=大地ではなく、空間そのものが【高天原】、神のおわす空間であります。何人たりとも足を踏み入れることなく守られ続けている結界のなか。
人々が神さまを崇め奉り建てた社殿も、神さまへの思いが込められておりますが、この場所は、神さまのおわす、人が足を踏み入れることすら許されない神聖な場所として、その結界のうちを長い長い年月守り続けられたことによる、神域としての重みがございました。

こちらは日本書紀にその存在が記されているほどの歴史があるとのことであります。どれだけ長い年月、人が足を踏み入れることなく経過しているか、そこからも知ることができます。


私はここで今まで不遜であったことを御詫び申し上げ、御守りくださっていたことの感謝を申し上げたかったのでありました。
ようやく、その思いを果たすことができました。



春の大祭の神事で、こちらに本社、瀧尾、本宮の三社の御神輿が集結するのだそうです。八乙女が御前神楽を舞うのだそうです。
弥生祭は神事であるため、毎年日時が決められております。なかなか仕事を休むことのできる機会に恵まれず、いまだ奉拝することができずにおります。いつか、仕事をがんばった褒美として神さまがその機会を与えてくださる日まで、仕事をがんばろう。
そんなことも考えるようなお力添えをくださった、日光の神さまでございます。
ありがたいことでございます。




ちなみに ┉ この高天原の真の有りようを知ったのはテレビの番組でありました。テレビにも感謝 (。-人-。)



No.185 19/06/01 07:20
旅人 

日光二荒山神社の【神苑】は、盛りだくさん!であります。


参拝料をお納めしてすぐに、弘法大師お手植えの樫の木があります。そのすぐそばに本殿が拝める場所が設えてあります。こちらで参拝なさる方はさほど多くはないのですが、神さまとお話をされるように、長い祈りを捧げる方が多い気がいたします。並んで待っているような方もほとんどない、祈りの場となっている気がいたしました。
【本殿】はこちらの神社の社殿のなかでは最古のもので、徳川二代将軍秀忠公が寄進したものとのことです。現在本殿は修理中で外観を見ることはできませんが、千円の志納金で小羽板に自身の名前と願い事を記入し、本殿の修理にその小羽板を使っていただけるようです。修理の様子も見ることができるようなっておりました。

神苑にあります末社は、
【日枝神社】
【朋友(みとも)神社】
【大黒殿】
【銭洗い弁天】
末社ではございませんが【神輿舎】、
拝殿ではありませんが、【若子神社遙拝所】【日光連山遙拝所】がございます。


朋友神社さんには、四体のカエルの石像があり、それぞれが「知恵カエル」「福カエル」「一言カエル」「厄カエル」と名前があり、それぞれ役割がございます。
知恵カエルは、知恵を授かるものなのてすが、藁をもすがりたい私は元々少なかった知恵が少しでも戻り、これ以上ぼけが進まないようにと、よーくよくその頭を撫でてまいりました。
ちなみに一言カエルは、一言返ってくる、口の多い誰かを想像してしまいそうですが、一言願った、一つだけの願いをかなえてくれるというものであります。

銭洗い弁天さまのそばには霊水がこんこんと湧き出でておりまして、やはり一口飲むと長寿だったり、知恵だったりを一つだけ授けてくれるものであります。ここでも知恵の水を飲んだのはいうまでもありません、かね。

その他にも子授け安産石があり、良縁の笹があります。

また、古くなって倒木した御神木の中を掘り人がくぐれるようになったものをくぐる、【御神木胎内くぐり】がございました。

No.186 19/06/01 07:35
旅人 

神苑内はさらに多くのみどころがあります(みどころという言葉を神社さんがお使いなのでそのまま使わせていただきますが、私的には失礼な感がああります。が、言葉を知らないおばさんは、これしか頭に浮かばなかった(;ω;))

【化け灯籠と呼ばれる銅製の灯籠】。
【太郎丸と呼ばれる御神刀】。


日光連山遙拝所にあります【良い縁の刀】【祈願石納め】【日光ハート投げ】。
【運試しの輪投げ】【ルーレット型菓子占い】など。
この辺はやや、アミューズメントパーク的なイメージがあるとは思えますが┉。

No.187 19/06/01 19:12
旅人 

神門をくぐり、【大猷院】に向かうと大きな鳥居があります。二荒山神社と大猷院の境界となります。ん?鳥居の向かって右側に大黒さまがおられます。石で彫られた優しい笑顔の大黒さまであります。
以前の参拝のときにはおられなかったような気がいたしますが┉。

大猷院の参拝受付では、参拝の前に御朱印をお願いすることになっております。御朱印をお願いすると今は【大猷院】【金閣殿】がセットになっているようであります。大猷院=金閣殿ですので、「大猷院のものだけで」と申し上げると、怪訝そうなお顔をされました。
実は以前、二天門改修記念として同じ御朱印紙をお受けしてあり、私のなかでは【二天門改修記念の御朱印】なので。今回お受けしてしまうと、記念した御朱印の意味合いが薄れてしまう気がいたします。

さあ、大好きな二天門の持国天さま、広目天さまにお会いする前に手水舎で身を浄めましょう。
こちらの手水舎は湧水がそのままひかれたものであります。木で作られた水の路を受けての手水となります。その手水舎の天井には龍が描かれているのですが、前回の参拝のときよりもさらに傷みが進んでしまい、もう、龍の姿をそこに見いだすことはかないませんでした。
(*T^T)


さあ、大好きな持国天さまと広目天さまです。
まだ塗りたての香りがいたします。
ああ、今日も美しくお袖がひるがえっている。

No.188 19/06/02 01:53
旅人 

持国天さまと広目天さま。
鍛えぬかれたしなやかで美しい肢体と、まとわれた御召し物の美しさ。躍動感あるお体の動きと御召し物の流れるようなさま、彫刻であることを確認してしまうほどの布の薄さとひるがえる布の動き。布の模様の美しさ。凛としたお顔。見るたびにため息が溢れます。

篇額の【大猷院】の文字は後水尾天皇の筆によるものであります。

門をくぐって振り返りますと、雷神さまと風神さまがお守りになられています。雷神さまは太鼓を背負われ両の手にはばちをお持ちです。そのお指は三本で現在過去未来をあらわしているのだということであります。風神さまは袋を背負われ、そのお指は四本。東西南北をあらわしているのだということです。私は知らなかったのですが、足のお指は二本なのだとか!二本であることは天と地をあらわしているのだということで、次に参拝の折にはしっかり拝見してこなくては!

知らなかったことといえば、仁王門をぬけて続く石畳は濡れると赤や青の色に変化する石が使われているのだとか。
雨の日の参拝も良いなあ。


こちら、大猷院はお祖父様であられる家康公を深く尊敬し、なくなる間際に「死んだあとも東照大権現にお仕えする」という言葉を遺されたことを受けて、四代将軍家綱公の命によってわずか一年二ヶ月という年月で造られたものであります。東照宮を見守る位置、見守る向きで建てられているのみならず、決して東照宮を超えることも模倣することもないようにとの工夫の凝らされたものとなっているようです。
いずれにしても、徳川家の威光をあらわした贅の限りを尽くしたものであることはまちがいありません。

大猷院のご案内のなさる僧が、「天にのぼっていく感じがする」という表現をされる上へ上へと上がっていく家光公の廟所でありますが、その美しさに夢中で歩く私は、そのような感覚になったことがありませんが、他の方はそうなのかなあ。(;´・ω・`)



No.190 19/06/02 21:39
旅人 

日光山【開山堂】に向かいます。

初老を自覚する五十代後半の二人。自覚して、復活する努力をするタイプではなく、せめて、神社仏閣巡りではできるだけ歩くように心がければよいものを、ついつい駐車場を探しては近くまで車でいってしまう、困った珍道中コンビであります。
二荒山神社わきを歩いて徒歩25分ほどの案内が出ておりましたが、
やはり、車で向かうことに。( ;´・ω・`)
細い道となります。
いくつもの輪王寺さんの別院が並んでおります。勝道上人の像を曲がって、輪王寺、東照宮の境目の辺りの裏手にある駐車場の道をさらに車を走らせます。

【開山堂】は日光山の開祖、勝道上人が亡くなられたとき荼毘に付された地であります。その後、勝道上人の霊をまつるところとして、御堂を建て、御本尊の地蔵菩薩さまと、勝道上人、勝道上人の弟子十人の像が安置されたとのことであります。開山堂の裏手、上人の墓所には五輪塔がたてられており、脇に弟子の墓もありました。
こちらの境内にはさらに【観音堂】があります。
その観音堂、実に奇異な外観をしており、びっくりしました。
それは建物自体ではなく、お供えされた品とその数であります。大きな将棋の駒が御堂の前を埋めつくし、側面後部にまで大きな駒が飾られています。それはすべてが『香車』の駒、でありました。
こちらは【香車堂】とも呼ばれていて、本当にその名前の方がしっくりくるくらい、香車の駒が置かれています。香車の駒の動きは、前にまっすぐ進むことしかできないから、その動きのようにお産がスムーズに進むように、ということなのですね。無事出産の暁には、お借りした駒に加え、我が子の駒を作成し「お七夜」ごろに奉納(返納)します。
将棋のルールで将来的に「と金」となる、そうなるようにとの親の願いが込められてもいるようです。お礼に納める駒がお借りした駒より少し大きめであること、スギの木素材が多いことから判るように「真っすぐ大きく育って欲しい」親心が伺えます。裏に名づけた名前を書かれる方も多いようです。
奉納する駒は日光市内で購入できるようですが、手作りの駒もありました。【産の宮】とも呼ばれ楊柳観音さまがお祀りされているようです。右手に柳の枝をお持ちの観音さまであります。十月十八日がお縁日で、輪王寺の僧侶が読経に訪れるようであります。



No.191 19/06/02 23:13
旅人 

観音堂の左には陰陽石と呼ばれる二個の天然石が結界のなか祀られています。
陰陽石と呼ばれるその石は、陰が女性、陽が男性を意味しているらしいのですが、凡人である私には石が二つ、地面の離れた位置に埋まっているようにしか見えないのですが、安産祈願に訪れた方はこちらでも祈願するようです。



そして、その陰陽石の向こうには石のゴツゴツした岩肌の絶壁となった小さな山があり、その前に石仏が何体か並んでいるのが目に入ってきます。その岩肌の断崖を【仏岩(ほとけいわ)】と呼ぶようです。もともとは、その岩肌自体に仏に似た岩が並んでいたようですが、地震で崩れたと伝えられています。石仏は六体並んでおられました。長い年月の経過で埋まってしまったのか腰下や膝下を地中に埋めてお立ちになられています。
向かって右から帝釈天さま・持国天さま(?)・梵天さま・不動明王さま・増長天(?)さま・広目天さま(?)で、「六武天像」とよばれているようです。
石仏さまとしては本当に彫りが精巧で、とても端正でお美しいお顔だちであられます。観音さまを思わせるようなお優しい、石であって石での表現ではないように思えるくらい表面はすべすべであり(触らせていただいたわけではありませんが)、御堂におられる御仏像と遜色ないできばえであります。
手が欠損しているため、御尊名が断定できないようですが、肩をいからせた鎧姿の体躯の三体の四天王は大変力強く表現されており、石工だけではなく、仏師、しかも本格的な仏師がかかわった石仏であるように思われます。
腰から下や膝から下が埋まってしまわれてお立ちになるお姿が、より痛ましさを増していました。


静かな、それでいて重厚な気が境内全体をおおっているような空間でありました。

No.192 19/06/03 05:22
旅人 

┉今、ふと思ったのですが┉もしかして、六武天さまがおひざや腰まで土に埋まっておられるのは意味のあることなのかもしれないなぁ、と。
なぜそう思ったのかというと、かなり埋まっておられる。
そして、そこは勝道上人がまさに荼毘に付された場所であり、埋葬されている墓所だから、であります。
根拠などはなにもありません。私がまさに今、そう感じ、思っただけであります。

ただ、そう思ったと、書いてみました。

勝道上人をお守りし、現世の私たちも見ていて下さっているのかなぁ、と思ったりしました。


No.193 19/06/03 06:12
旅人 

開山堂から道に出ると鳥居がみえる位置に、【北野神社】さんが鎮座されています。車を停められるスペースが限られているため、そこから歩いて北野神社さんにお参りさせていただきました。
菅原道真公のお祀りされている神社であります。御社の後方に梅の御紋が、御社の前にはちょこんとそれはかわいらしい牛の石像が座っていました。
実は帰宅してから調べたところによると、北野神社さんのすぐそばに、【手掛け石】という石があって、北野神社さんにお参りしたのち、その石に手を掛け祈ると学問が向上し、字がうまくなるといわれる石があったようです。車で参拝して歩いていたため、気づくことなく通りすぎてしまいました。
認知症がほぼ疑われること間違いない私、学問向上ではないけれど、認知症に少しでも効きそうな御利益にすがりたくなるのでありました。(;ω;)

そして、向かったのは【瀧尾神社】さん。
駐車場に停めて車を降りて、瀧尾神社さんに向かおうと歩を進めたちょうどその時、行者さんが列をなして瀧尾神社を参拝にお越しになっていました。
御真言(だと思ったのですが┉)を唱えては祈りの場を変えられる、早いペースでの御詣りでありました。後ろからひそかにご一緒させていただいて、どこでお参りされておられるかを見させていただき、その後同じ場所場所でお参りをさせていただきました ┉つもりではあるのですが ┉合っていたかなぁ?( ;´・ω・`)

二荒山神社の脇にある道を歩いてくると【行者堂】という御堂があったようです。
日光山は今も行者さんが修行されるお山であることをあらためて感じました。

No.194 19/06/04 14:30
旅人 

この滝尾神社は、二荒山神社と同時に建てられ、二荒山神社の別宮とされています。

滝尾神社は空海が女峰山に滝尾権現を建立し、女峰山を拝むために創られた神社と伝えられております。
山道の奥まったところにひっそりと鎮座しているのですが、ひっきりなしに参拝の方が訪れておりました。

境内に入ると、川の流れる音が絶えず聞こえ、苔むした巨木や巨石などがあり、辺り一帯が神聖な雰囲気に包まれております。
境内に足を踏み入れると同時に滝が左手にみえます。
滝が神社の入口にあるので瀧尾、というのでありましょうか。


瀧尾神社さんは重厚な気が満ちていたという記憶があるのですが、写真を見るとそれは美しい光にみちた穏やかな空間でありました。
写真ひとつひとつにある光に、胸が洗われ、逆に自分の愚かさと向き合えるほどの光が満ちた写真でありました。


私のつたない文章では表せないかな。


【神域】なのだと、実感させていただいた地でありました。


  


       令和元年五月二十六日  参拝
















No.195 19/06/04 21:30
旅人 

何度その名を聞いたことか┉とくに、神社仏閣珍道中を始めてからはそれこそ何度も夫がその名を口にした、栃木県足利市の【大岩毘沙門天】さま。ことに、一日が土日に当たろうものなら、「どうかな?」と毘沙門天さま行きを示唆してきました。

令和元年六月一日、ようやく、夫の念願かなっての【大岩毘沙門天】さま、参拝です。一日にこだわってきたのは、月に一度の御開帳の日だから、でありました。
なぜ、そんなにもったいぶってなかなか参拝にgoサインを出さなかったかといえば、山道だから、です。結構な距離をのぼって行くようだという情報をもともと知っていた上、昨年、入院している夫の体調を考慮してのことでありました。ええ、決して意地悪してたわけではないのです、ほんとに (^_^;)


結局、そのハイキングコースともなっている、長い長い参道を歩くことなく、すれ違い不可!みたいな道を車で向かうことに。
一応、その長い参道の麓にある駐車場には車を停めたのですが、1.7㎞の登り坂を実際に目の当たりにして、(びびった)夫が「車で行く」と。
それならもっと早く来られたんじゃ┉ ( ´д`)
ま、体調が第一ですよ。こんな山道、私じゃ運転できやしないし、お任せしようじゃありませんか。

同じく足利市の行道山浄因寺さんに向かう道もたいへんでしたしね。
┉でも、あとで聞いたところ、側溝はあるは、距離は長いは、片方は崖だは、カーブの連続だはで、毘沙門天さまに向かう道の方が大変だったそうであります。
そうは言っても、何台も車で毘沙門天さまのすぐそばの駐車場や、そこを通り越しての公園┉見晴台の駐車場まで来ている方はおられはするのですがね。ことに後に知ることになる、足をお痛めになられている和尚さまは、毎週土日は参拝のかたのために、こちらの毘沙門天さまにお越しになって御堂を開けて下さっているようですから。┉ん?まさか、歩き⁉なのかなぁ、片道1.7㎞なんですけど┉(((・・;)

No.196 19/06/05 00:00
旅人 

【大岩山毘沙門天】は、天平17年(745年)に行基上人によって開かれ、聖徳太子御作の毘沙門天(多聞天)を祀ったのが始まりと言われています。その後、聖武天皇より、本堂、経堂、山門、鐘楼、三重塔、十二坊の諸堂を賜るとともに、【大岩山多聞院最勝寺】という山号を賜り、御祈祷の一大霊場となるとともに、修験道の修行場として一大霊山となり、足利氏などの名だたる武将から信仰を集めてきました。
人々の厚い信仰によって法灯は受け継がれますが、落雷等によりいくたびも諸堂は焼失、その度に再建を繰り返してきています。
現在の毘沙門天本堂は、江戸時代の宝暦12年(1762年)に再建されたものだそうです。

毘沙門天は、北方を守護する四天王の一天であるとともに、財宝・福徳の神とされ、七福神の一神でもあります。

大岩山毘沙門天は、京都の鞍馬山・奈良の信貴山と共に日本三大毘沙門天の1つといわれております。



この地に行基上人が訪れたのは、夢で「あなたの関東地方へ教えを広めたいという願いは長い年月にわたるものだ。関東の足利に霊山があり、その山に登れば、所願を叶えることができる。私は山王権現である」とお告げを受けたことによるのだそうです。
夢から覚めた行基上人は、この願いが成就した際には、必ず山王権現を一山の鎮守としようと心に堅く誓い、遠い下野の足利郡をめざしました。
上人は夢を信じ、足利郡で修法を続けましたところ、ある夜の夢で、甲冑を纏った武人が現れ、こう告げてきます。
「ここより北にある大岩山という山に登ると衆生済度の為になる。私はあなたが信じる所の多聞天王(毘沙門天)である」と言って、光を放って消えていったということであります。
行基上人が御守りである毘沙門天像を見ると、口が少し開いて幽かに光っていたのだそうです。行基上人はますます信じ、告げられた通り北にある嶺に分け入っていくと、忽ちに金色の光が強く輝き、山の中が明るくはっきり映し出されたのだそうです。
行基上人は喜び、ずっと持っていた毘沙門天像を用い、盤石の上に安置して乾いた茅で堂を作りました。それが大岩毘沙門天の始まりなのだそうです。
行基上人は天平十七年(745年)に大僧正になり、聖武天皇により【大岩山多聞院最勝寺】という山号寺号を頂き、さらに翌年には、本堂・経堂・釈迦堂・三重塔・山門・開山堂・鐘楼堂などを賜ったということです。

No.197 19/06/05 00:23
旅人 

毘沙門天のすぐ下にある駐車場は5台くらいしか車が置けず、その更なる上の公園駐車場に車を走らせました(夫が)
時間的にもうすでに御護摩祈祷には間に合わないので、毘沙門天をめざして歩き出すと、太鼓を激しく打ち鳴らす音が聞こえてくるてはありませんか。
運転して連れてきてくれた夫を置いて、小走りに走りだす、なんとも恩知らずな妻であります。その坂が思っていた以上に急だったようで、小走りは韋駄天走りに!止まらない、止まらない‼

お、車が停まっている、ということは、ここだ!
おお、【大岩山毘沙門天】であります。

さらに聞こえる太鼓の音!
石段すらも駆け上がって、┉下の道を見下ろしましたが、夫の姿はまるで見えません。とりあえず、手水を済ませ御堂に向かいます。
正面からは中のようすは見えません。


右手の戸が開け放たれています。おお、なんと山伏姿の僧侶がおられます。

No.198 19/06/05 23:39
旅人 

おばさんの好奇心はうずくのですが、護摩祈祷中に御堂に入ることは祈りの場の空気を乱すことになりますので、外で待機。
山伏姿の僧侶が法螺貝を吹いておられます。
これは絶対、再拝させていただき、護摩祈祷に参加させていただかなくては(`・ω・´)

夫の姿がようやく見えだしました。
┉ちょうどご祈祷が終わったようです。

大岩山毘沙門天本堂にはそれはそれはたくさんの絵馬・奉納額が掲げられています。本堂に足を踏み入れると、圧倒されるほどその壁面いっぱいに飾られております。

ご祈祷を終えた御住職が、『竜宮玉取り図』という絵馬の解説を、誰に語るでもなく、唐突に始められました。
「この絵馬は、藤原不比等が龍神に盗まれた『面向不背の宝珠』を、竜宮へ海女を潜入させて奪い返す様子を表しているんです。この絵馬は、浮世絵と呼ばれる当時では珍しい遠近法が使われているんですよ」

天井に目を向けますと、巨大な黒龍が天井一面に描かれています。

御本堂の護摩壇(ごまだん)と呼ばれる木製の壇に据えた炉の切られた外陣に入らせていただき、さらには内陣によらせていただき間近で御本尊さまにお参りさせていただくことができました。
大きな毘沙門天さまであります。像高180.0cm  肩幅34.0cm ということでありました。
毘沙門天像は木造寄木造、鎌倉時代の作と言われています。右手に多宝塔を、左手に三つ叉の鉾を備えており、足元では邪鬼を2体踏み付けています。
その脇侍として吉祥天・善膩師童子(ぜんにしどうじ) がおたちになられており、このお二方はそれぞれ、毘沙門天のお妃様、善膩師童子は息子の一人とのことであります。
御住職が一体一体丁寧にご説明くださいました。ありがたいことです。













No.199 19/06/07 00:34
旅人 

以前、【日本の奇祭】が書かれた本を読んだことがあり、そのなかに【悪口祭り(あくたいまつり)】というものがあったのですが、実にこの大岩山毘沙門天でとり行われている伝統行事だったのです。

一言でいえば大晦日の夜に大声で悪口をつきながら列をなして歩くというものであります。


【悪口祭り】は江戸末期、慶応年間より始まったもので、大晦日の夜11時より、ふもとから登山道を出発し、毘沙門天本堂まで歩いて参るといったもののようです。
山頂の毘沙門天本堂までの道中、参加者の皆様が「ばかやろう」等の悪口を言いながら登って行き、一年の厄を落とし、溜まったうっぷんを晴らして、清々しい新年を迎えるという行事なのだそうです。


厄落としの木札に一年間の厄(災いや苦しみ、災難)を書き込み、山頂の毘沙門天まで持ち歩き、お焚き上げで木札を焚き上げ、厄落とすのだそうです。


悪口祭りでは言ってはいけない悪口があって「びんぼう」や「どろぼう」などの「ぼう」のつく悪口は言ってはならないとされています。それ以外であれば何を言ってもかまわないとか。実際に参加したことがないため詳細はわかりませんが、ここに挙げられている「ぼう」がつかない暴言の方が、恐かったりしないかと思ったりするのですが┉。


「悪口祭り」の由来は諸説あるようですが、その一つに架空の動物「獏(ばく)」に関するものがあり、江戸末期、厄病で亡くなる人が多く、厄病退散を願っており、悪夢を食べる架空の動物「獏」にこの悪夢のような現実を食べてもらい、 厄病退散を願ったとされます。「獏」を「ばくさま」と祈っていたものが「ばくやろう」、「ばかやろう」と訛っていったという説。
この他に飢饉などで年貢を納められずに苦しむ農民に粋な計らいで悪口をつく御許しがあった説など、定かではないそうです。
この「獏」に災難や厄を食べて頂き、開運厄落とし祈願をする絵馬がせんだっての参拝の折も授与品としてご用意されておりました。


悪口を言いながら山道を登っていく際、暗い山道を提灯(ちょうちん)で照らして行列を作っていたことから、提灯行列とも呼ばれるそうです。暗くて細い真夜中の山道を提灯を持ってねり歩くだけでも充分に奇祭ですが┉。
希望すると提灯と毘沙門天のお面を授与していただけるようです。
うーん、参加してみたいような、無理なような┉ (・・;)








No.200 19/06/07 01:13
旅人 

【悪口祭り】について調べていると、大岩山毘沙門天さまでは、なんとさらに引き続いて奇祭が執り行われるとのことであります。
【滝流しの式】というもののようです。

大岩毘沙門天における一年最初のお祭り、【滝流しの式】。
江戸時代の寛永年間(1624年~1643年)から始められたと言われているようです。
大晦日の深夜12時(元日0時)より、国家安泰ならびに家内安全、商売繁盛をはじめとした諸願成就の大護摩の祈願をし、その際に行うのが「滝流しの式」なのだそうです。
お神酒を「滝のように」額から受け、大盃で飲み干すことで、福やご利益が滝のごとく尽きることのないように、という縁起で執り行う儀式なのだそうですが┉お神酒を”滝”の如く?(゜゜;)


参加者は毘沙門天さまの前に正座し、直径30cm以上もある大きな朱盃を両手に捧げ、その盃を口にあてがい、そこへご住職がお神酒なみなみとたてた酒器を持ってまいられるのだそうです。
鼻の頭からお神酒を注ぎ、額、頭へと、酒器をだんだんと高くしてお神酒を休まず注いでいき、最後には頭のてっぺんから、額、鼻へと、滝のようにお神酒が朱盃に流れてくるので滝流しというようです。
あ、頭のてっぺんからですか!Σ( ̄□ ̄;)
新年早々、頭からお酒で濡れた髪で山道を下る⁉
┉き、奇祭ですね、はい。
ちなみにお神酒が十分(これ以上はいらない)になったら、左手を上げストップの合図をし、滝流しの式が終わりになるのだそうです。

いま一人がお飲みになる量は多くても二合(0.36リットル)程度なのだそうですが、昔は一升(1.8リットル)くらいは普通で、二升(3.6リットル)以上も飲んだ人がいると伝えられているのだとか。


御住職がお疲れになられる行事であります。(´Д`)

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