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神社仏閣珍道中・改

神社仏閣珍道中・改

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旅人
20/03/09 08:54(更新日時)

 [神社仏閣珍道中]  御朱印帳を胸に抱きしめ


人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。


ふと、思いました。
神様や仏様にお会いしにいこう!




┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。


そんなやつが、自分なりに神様のもと、仏様のもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。


神様、仏様、どうかお導きください。







No.2796560 19/02/13 05:40(スレ作成日時)

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No.101 19/04/24 06:38
旅人 

何度か述べております通り、私の両親は無信心、無信仰であったと思います。神社に連れていくのは七五三のときのみ。お寺さんに詣でるときは父方祖父母が中心で、それにともなう形で母が一緒だったことはありますが、父とは記憶にないくらいであります。

ただ、父と母は教会で結婚式をあげていたようで、私が生まれ記憶に残るくらいの歳になるまでは、もしかしたら教会の日曜ミサに行ったりしていたのかも知れないのですが┉。少なくとも私が記憶している限りは日曜ミサに行くこともなくなっており、自宅に聖書すらも存在しない、キリスト教徒を思わせる、感じさせるような物、雰囲気は一切ありませんでしたけど。 

なんの因果か、私は小学生の四年生くらいから同級生に誘われて隣町の教会の日曜学校に通うことになるのですが、そのくらいの年頃になれば親(特に母親)が、どちらかというと宗教一般によい感情を抱いていなそうなことを感じとっておりますので、遊びに行くと言っては家を出たものであります。
御賽銭の類いも、代表者(父方祖母)があげればいいからとあげなかったり、1円でいいと豪語しているような無信心者!
教会の日曜学校では毎回献金をするのでありますが、お小遣いを与えられておらず、お年玉も全額強制で母親に預けなければならなかったため、日曜日が近づく毎に私は金策に追われるのでありました。それも母親はおそらく理由を言ったところで「もったいない!」と言われ下手をすると日曜学校にさえ行くことを禁じられてしまいます。
なので私の金策の対象は祖父母や父親。おてつだいするからお金をください、と言っては十円、五十円のお金を得て日曜学校に通っておりました。
あるとき父が「毎週毎週お小遣いを欲しがるけどなにに使っているんだい」と笑顔でお金を手渡しながら聞いてまいりました。
父なら秘密を打ち明けてもいいだろう、と日曜学校に通っているので献金のお金が必要なのだと話しました。驚いた父は「献金は十円なんかじゃいけないよ」と当時私がいただいていたお年玉の平均額が五百円だった時代に百円を渡してくれました。驚きの金額です。


「どこの教会だい?」と笑顔で聞く父に少し離れた隣町の教会であることを告げると、父は言葉を発することができないほどびっくりしておりました。「○○先生はおられるかい?」
「?!」┉

No.102 19/04/24 20:19
旅人 

「なんでパパは○○先生を知ってるの?!」
┉父は教えてはくれませんでした。

まあ、好奇心旺盛な私は当然○○先生に直接聞いてしまいます。
「ああ、おとうさんかおかあさんに聞いたのかな?昔二人はこの教会にきていたんだよ。懐かしいなと思って貴女をみていたんだよ。二人はこの教会で結婚式をあげたけど、おかあさん、きれいだったんだよ」
( 。゚Д゚。)はぁーーーー?!
○○先生、誰かと勘違いしているじゃない?

教会の結婚式って、たしかウエディングドレスですよね。あり得ないから!あの母が、ウエディングドレスなんて想像すらできないし。
なんの冗談をいきなり言い出すのでしょ。先生、どうかしてしまったんだ。こんなにも真面目な、○○先生に何が起きたというの?



┉○○先生はまるで信じていない私に、一枚のセピアいろの写真を見せてくれました。似┉ている。

大変なショックをうけた私は(なぜ? 笑)祖父に聞きました。
「ねえじいちゃん、パパとママってさぁ、教会で結婚式をあげたって、ほんと?」「ああ」


絶句。



No.103 19/04/24 22:59
旅人 

よりにもよって、自分の親の結婚式をあげた教会に、なんにも知らず友達に誘われて通っていたなんて!Σ( ̄□ ̄;)

まあ、なんにせよ、両親はすでにその教会に通わなくなっていたくらいに、信仰心を失っていたことだけはたしかな事実であります。
キリスト教を信仰していたなら、神社仏閣のさまざまな行事に関心がないということもありましょう。キリスト教の信仰をやめたところでよほどのことがない限り、神道や仏教には興味を抱かないでしょうね。 
昭和40年代のことではありますが、よくよく考えるとわが家のクリスマス飾りはかなり豪華なものでありました。あくまで、それだけ、なんですけどf(^ー^;


  

No.104 19/04/24 23:24
旅人 

【十一面観音】
文字通りに十一面、十一ものお顔をお持ちの観音さまは、なぜ十一もの顔があるのでしょう?
もともと観音とは『あらゆる方角を向くもの』の意味であるとされています。あらゆる方角とは十方、つまり四方八方の八方に上下の二方を加え、本来の正面のお顔のほかに十の別の顔を持つことになったのだそうです。本来のお顔(本面)の頭部に十面が並ぶというその異相から、人々は強力なお力を感じたようで、十一面観音の尊像は変化観音のなかで最も数多くつくられたようです。

十面のうち正面の3面が温容で静寂をたたえた菩薩面、
左3面が怒りの表情、右3面は菩薩的な表情ではありますが、牙を剥き出すもの、
そして後ろの1面は『暴悪大笑面』という“怒り笑い”の表情をされておられる尊像がスタンダードなようであります。

No.105 19/04/25 02:07
旅人 

【千手観音】
平安期以降、日本人の観音信仰の中心といえば千手観音さまといわれるくらいであります。京都の三十三間堂は正式には蓮華王院といい、千手観音が蓮華王であるとも称されるところからきています。1001体もの千手観音、まさに荘厳でありました。

なんと、初期の像には文字通り1000本の手を有するものがあり、それが正式ではあるようではあります。それでも平安期以降は合掌の二本の手を合わせた42本のものが大多数を占めるようです。その御手には実にさまざまなものをお持ちになられ、御仏をもその手に乗せておられます。千手観音さまを近く拝観できるときは、ついついその御手の数やお持ちになられているものはなんだろうなどと見いってしまうやつであります。
この手の多さは観音さまの救いの手や慈悲が無量、無限なことの象徴なのだということであります。
そして、正式名は【千手千眼観自在菩薩】。この千手に一つづつ眼があり『千眼によってすべてを同時に見守り、千手によりあらゆる衆生を救う』存在であられます。
 

京都の三十三間堂について書いてはおりますものの、高校の修学旅行で訪れただけ。今、神社仏閣の珍道中を始めてからは憧れつつも遠い遠い地であります。
それでもウン十年の年月が流れて(しまって)なお、鮮明にその美しさを思い出せ、さらにはガイドさんのお話までも覚えているくらいであります。この御像の中には必ず自分や自分の身近な人に似たお顔があると。



嗚呼、京都に行きたい!奈良に行きたい!

No.106 19/04/25 08:32
旅人 

【暴悪大笑面】
なかなか御仏の尊像を細かな部分までも拝観できるような機会はなく、ましてや尊像の後ろ=背部は、到底あり得ないので私はまだ『暴悪大笑面』を拝観させていただいたことはありません。
仏像展などは、それこそ手が届くくらいお近くまでに寄らせていただくことができますが、それはそれで尊像は大きく、台の上に展示されておられる尊像の頭頂部は到底身長158cmの私には拝観することはかないません。

どんなだろう、どんなだろう?

一葉の写真が、手持ちの仏像の写真をふんだんに扱った本に、偶然おさめられておりまして、それはそれは可愛らしい、┉言葉を知らない私のあり得ない失礼な言葉をお許しいただき、思ったままを述べさせていただくなら、お茶目な表情、でありました。
慈悲、気高さやお美しさをたたえた観音さまのお顔の後ろに、このようなお顔がある。


ますます御仏の尊像が好きになりました❤

No.107 19/04/25 09:53
旅人 

【准胝観音】
『准胝仏母(じゅんていぶつも)』・『七倶胝仏母(しちくていぶつも)』ともいわれます。
もとはヒンドゥー教の女神で、シヴァ神の妃とされています。とてもお美しい姿ですが、神々の武器を持って魔族を倒した戦いの女神であられます。そのため本来は女尊であり、観音ではないという指摘もあるようであります。
仏教に取り入れられてからは慈悲深い「清浄」をもたらす神とされ、『七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)』ともいわれています。これは多くの仏を誕生させた仏の母という意味だとのことです。
真言宗系では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられます。
  ※天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類されています。
   不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。


修道者守護、無病息災、延命のご利益があり、安産や子供が授かるなどの功徳があるとのことであります。
京都の【醍醐寺】の開祖自ら霊木を刻んで祀った御像に醍醐天皇の皇子誕生を祈願し、後の村上天皇がお生まれになったことから子授けの仏として信仰されるに至ったようであります。

御手は18本、3つ目の姿であることが多く、中央の手は説法印と施無畏印をとられております。またお持ち物は武器や数珠、蓮華などをお持ちになり、左手に般若経典を持たれています。台座下には二龍王が観音の立つ蓮弁を支えています。┉とのことであります。



あまりお目にかかれる機会のない仏さまではありますが、いつかお会いできますように(。-人-。)

No.108 19/04/25 19:39
旅人 

【如意輪観音】
仏法の象徴である法輪、如意輪がどこにまでも、どこまでも転がっていく、そんな法輪の動きのようにどこにまでも現れてくださり私たちを救ってくださるといわれる仏さまです。

如意輪観音の姿は、実はお釈迦様の王子時代の姿をモデルにしたものといわれているようです。宮中でどうやって苦しむ一切の衆生を救うことが出来るかを、考えておられたお姿であるのだそうです。
それなので如意輪観音さまの尊像は、何か物思いにふける姿になっているわけですね


御仏の本性と法力は、その像の手足や指の形、持ち物などに表現されておるようです。


如意輪観音は左右に三本の御手をお持ちであります。
右の御手の、上から一番目の手は指先を頬に当てています。これはどうやって衆生を救おうか考えているところです。
二番目の手は、如意宝珠という特別な力を持った珠を掌に乗せて胸の中央に置いています。この宝珠は思うがままに財宝を取り出せるものので、如意輪観音は衆生の望むものを全て与えてくれるのです。
如意輪観音の「如意」は、ここからきています。
三番目の手は、下方に伸ばして数珠を持っています。これは、仏界の108の仏の存在を示し、それらへの信仰を勧めています。


左の御手の一番上の手は人差し指を天に向け、その指先に法輪を乗せています。この輪宝を回すと全ての煩悩(心の惑いや悩み)を打ち砕くことができます。如意輪観音の「輪」はここからきています。

輪宝は太陽を図案化したもので、古代インドでは帝王のシンボルマークであり、仏教では釈迦のシンボルマークになっています。
つまり、仏教の信仰をすすめていることになります。
二番目の手は、蓮華を持っています。これは、仏教を信じる者にはこの浄花を与えようということです。
三番目の手は、腕を下に伸ばして掌を下に、抑えるような形になっています。これは、降魔を意味します。また、一番目の手で天を指し、この手で地を示すことで、一切の衆生を救いの対象にしていることを意味しています。

また、右脚はひざを立てて蓮台の上面を踏み、左脚はまげて足裏を天に向けています。
これは足裏でも天地を示していて、同時にすぐにいつでも立ち上がって助けにかけつけてくださる姿勢をとっているというわけです。

No.109 19/04/25 20:43
旅人 

如意輪観音さま。
すぐに助けに立てるようにとあの姿であられたんですね。

┉またしても言葉を知らないおバカなおばさんが失礼にも思ったままを述べさせていただけば┉じつに色っぽいというか、艶っぽいというか。どこをごらんになられていらっしゃるのかといったお顔で、立て膝を崩して頬杖をつかれお座りになられるお姿に、ぽおっとしてしまいます。


そんな如意輪観音さまは、安産や子育て、子供の健康を祈願するための女性の集まり、毎月十九日の夜に行われる十九夜講の御本尊であられ、別名子育て観音さまとも言われているようです。

No.110 19/04/26 05:35
旅人 

【魚籃観音】
『魚籃』と書いて『びく』とも読みますが、『ぎょらんかんのん』とお読みします。文字通りに籠を(魚のはいった籠であることであることも多い)お持ちになられたり、大きな魚の上に乗っておられたりする尊像であるようです。

中国で生まれた仏さまとされ、そのいわれは以下のような言い伝えによるもののようです。


『中国の唐の時代、 竹籠(魚籃)に魚を入れて行商する美しい女がいました。その女は大変美しく若者たちは競って求婚しました。

すると、その女は「経本や経典を諳(そら)んじることが出来た者のところに嫁にまいります」と言い、
経本や経典の難度をだんだんと高め、諳じることを競わせるようにさまざまな経本や経典を提示しました。
最後に出題された経典を暗誦できた若者はたった一人。女はその若者に嫁ぐこととなります。
ところが約束の婚礼の日、女は忽然と消えてしまいました。後に残っていたのは、黄金の観音像だったということです。
結果として、村には経本や経典の普及がすすんだことで、以前と違って仏教を信じる若者が増えました。
この美しい女性は観音さまの化身だったのです。仏教心の薄い村に仏法をひろめ、救済するために、竹籠(魚籃)に魚を入れて売り歩く、魚の行商人に身をやつしていたのです』


このため、【魚籃観音】の尊像は、魚を入れた籠を持ったり、魚そのものに乗る姿であらわされるようです。
岬や港町で、大漁、海上安全を願って祀られることが多く、また、毒を除くご利益もあるとして、ふぐを扱う漁師・調理人・料理屋に信じられています。

さほど数多くは存在しないとされていますが、葛飾北斎がそのお姿を描いたり、筒井康隆が小説に書いているようであります。
絶世の美女というところからか刺青の図柄にされることもあるようです。
あの、まんが日本むかしばなしでも日本に伝承する昔話をもとに取り上げられたことがあったようです。


私が直接拝観しましたのは群馬県高崎の洞窟観音の尊像の一回だけでありますが、観音さまはみなお美しく、魚籃観音さまだけがとりわけ御美しかったという記憶は特にはありません。

No.111 19/04/26 06:28
旅人 

【聖観音】
三十三身のさまざまな変化観音が生まれたため、もともとおられる変化なさらない一面二臂(一顔二手)のお姿の観音さまを【聖観音】とお呼びするようになったようです。【正観音】とも呼ばれることもあるようです。

宝冠の中央に阿弥陀如来の小像を戴いており、この小さな像を【化仏(けぶつ)】というそうです。観音菩薩は阿弥陀如来の化身とされているそうで、そのため【十一面観音】などの変化観音も同じように【化仏】を戴いているのだそうです。
菩薩は出家以前の太子時代の釈迦をモデルとするため、華麗な衣装や宝飾品を身につけた貴族的なスタイルで温和なお顔立ちとふくよかな肢体で表現されます。
左手には未開の蓮華(ハスの蕾)をお持ちになることが多く、未開な蓮華は人々の心が本来仏性を有するのに自覚していないさまを表しているとされ、それを観音さまが慈悲の徳で開かせることを約束するという、救いの象徴であるのだそう。


勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍となる三尊形式も多くみられます。

聖観音さまのこと、今回調べて初めて知ったという情けないほどの超初心者にしてこれまた珍道中、ですよね、これだけお寺さんをまわり、疑問に抱きながら今ごろようやく調べるなどという。


           反省

No.112 19/04/27 14:08
旅人 

群馬県前橋市の赤城山の麓にあります、その名も美しい【珊瑚寺】さんへお参りしてまいりました。東国花の寺百ヶ寺ということでもあり、その花はまさに春、桜、であります。ただ今年の桜の花の時期になかなか都合がつかなかったことと、なにぶんにも運転技術の下手なことも方向音痴も上級レベル(?)、四月になり雪など降ったことなど、いろいろな条件が重なり、散った花びらがかろうじて残るこの時期の参拝となりました。

駐車場に着いた時点で、大きな心字池にかかる赤い橋が目に飛び込んできます。その風情ある上品なたたずまいに、駐車場にいながらすでに「来てよかったぁ~っ」と思った次第でありました。
桜はそれでもかろうじて一枝花が残った樹があったという時期はずれなこととなりましたが、紫菜花が今まさに満開の時期を迎えておりました。
なんて美しいお寺さんでしょう!

山門にちょうどもうひとつの門があるかのように、桜の大振りな枝がかかっております。白壁越しに見える鐘楼も計算された場所に位置して建てられているのでしょう。石段をのぼっていく山門を守る仁王さまは真正面ではなく、少しだけ外を向くようにお立ちになられています。正面の参道をのぼる参拝の者を、外からくる悪しきものから守ろうとしてくださっておられるように思えました。

本堂までの距離は短く、鐘楼も山門入ってすぐにありました。お参りを済ませて、今歩いてきた道を振り返ると!
まもなく夕陽となる空をバックに、山門、そして鐘楼の美しく建つ姿といったらありません。思わず声が漏れます。
そして┉本堂の右手には大きな大きな樹があります。その堂々とした存在感と見守っていただいているような安心感たるや。しばし見上げておりました。その樹下には開山の勝道上人の像があります。あの日光山の開山の師であります。
その対面し対置には、釈迦苦行像がありました。断食してなにかを得ようとしていた頃のお釈迦様のお姿です。目はくぼみ、身体の肉という肉は削げ落ちた、初めて拝観したお姿でありました。



No.113 19/04/27 15:28
旅人 

大きな大きな杉の樹の右手には参道がみえます。さらなる門があり、高台には色鮮やかな御堂が。子育て地蔵尊の奉られた地蔵堂でありました。ここ何年かの間に修復されたのでしょう、本当に色鮮やかな、そう、日光の東照宮を思わせるようなきらびやかな御堂です。
さらにその右手にも参道が連なり、御堂がみえます。

しかし、地蔵堂のすぐそばに、穴のなかに小さな小さなお薬師さまがいらっしゃるのがみえます。可愛らしいお姿が石穴のなかにちょこんとお座りになられています。そこには看板がありました。
〖珊瑚寺七不思議/穴薬師〗
弘法大師の作と言われており、今と同様に石穴のなかに祀られておりました。弘法大師の作と言われる御像を保護しようとでもしたのか、他の場所に移したことがあったようです。薬師さまはその夜のうちにその石穴に戻られてしまうということが何度かあったようで、穴薬師と呼ばれるようになった、ということです。
七不思議、ということは、あと六の不思議があるということになりますが、午後の三時をまわったこの時間から六の不思議を探して境内をまわる時間は残念ながらありません。┉うれしいうれしい再拝決定です。

穴薬師さまのさらに左手の方向から、水音が絶えることなく聞こえます。その音が気になり、そちらに向かうと、人工の滝が見えてきました。地蔵堂のように新しいものではなく、それなりに古い滝であります。こちらも七不思議のひとつであり、看板がありました。
〖珊瑚寺七不思議/不動の滝〗
昔、このあたりに住んでいた男が、あるとき夢で「珊瑚寺の境内に滝を作るべし」というお不動さまのお告げを受けます。信仰深い彼は早速工事に取りかかるものの、難航し思案にくれていたところ、お不動さまがあらわれてあっという間に滝を作ってくださった、というものであるようです。

あと五つの不思議を楽しみに、次は蓮の花咲くころに再拝させていただきたいなぁ。
そのときは境内すべてをまわれるだけの時間をもって参拝したいと思います。御住職から帰り間際に由緒書きと境内見取図、七不思議などの書かれたご案内をいただくことができました。今度はしっかり予習をして。



    平成三十一年四月二十五日  参拝

No.114 19/04/27 16:13
旅人 

【賓頭廬尊者】私が幼い頃はあまり見たことのなかった、お賓頭廬さまは、今、いろんなお寺さんでお見かけするようになってきております。
この方はお釈迦様が存命のころの実に直属のお弟子さんということであります。とても弁が立ち、神通力もきわめて強かったのですが、その力をやたらと誇示してみせたため、お釈迦様のお怒りを買い、「お前は悟りを得て仏の世界に入ることはまかりならん。この世に留まって人々を救いなさい。と言われてしまいます。
そのため今でも他の仏さまとは違い、お堂の外や、お堂の中でも少し離れたところに一人でいらっしゃることが多いのだそうです。
┉たしかにお賓頭廬さまはお堂の外におられることが多いです。

お釈迦様を怒らせた理由はもうひとつあって、それはお酒が好きで、お釈迦様に隠れてしょっちゅう飲んでいたこと。飲酒はお釈迦様が厳格に禁じる戒律のひとつです。

お賓頭廬さまは、いま、「おびんずるさん」と呼ばれしょっちゅう人々に身体を撫でられ信仰されています。撫でる者の悪いところを撫でると治ると言われています。
お釈迦様は賓頭廬さまの神通力をいかすには仏の世界よりこの世におられたほうがいいことを見抜いていらしたのでしょう。

お賓頭廬さまは悟りを得ていないため、姿は普通のお坊さんと同じです。お酒が好きなことからもともとは赤い顔だったようですが、今はそうでもありません。また、最初は赤かった御像も何度も撫でられて、すっかり磨耗し色が消えていることも多いのです。

えぐられたかのように磨耗したお賓頭廬さまをお見かけしたことも、触られ続けてすっかり黒くなられた御像もありました。
医学の進歩した今ですら、列をなしお賓頭廬さまを撫でるのです、祈ることくらいしかなかった時代においては、お賓頭廬さまを毎日のように撫でる信心深い老若男女がいたことでありましょう。

No.115 19/04/27 20:47
旅人 

群馬県桐生市の【宝徳寺】さんの、逆さ紅葉(新緑)と牡丹まつりに行ってまいりました。

こちらは由緒あるお寺さんながら、心機一転といった感じなのでしょうか、本堂も鐘楼も、なんと御本尊も新しく、同じく新しい枯山水の庭も見事なお寺さんであります。
何年か前の〖どん兵衛〗のCMで、お白洲に仕立てた枯山水の庭に、捕らえられた武士に扮した佐藤健が座るといったものを撮影したのがこのお寺だったようです。
本堂での着物を着たモデルの撮影会など、新しい試みの多いお寺さんですが、何よりもこのお寺、御朱印で全国レベルで有名なお寺さんであります。
今日も大きなバスが三台、駐車場に来ておりました。そして三ヶ所ある駐車場は満車、臨時駐車場もほぼ満車の状態でありました。

境内に入っても、もはや自分がどこに来たのかわからないほどに賑わっており、御朱印を求める人はやはり多かったです。四月限定や、さよなら平成とか、さまざまな絵の添えられた御朱印であります。
御朱印帳も何種類かあるのですが、令和の記念という御朱印帳がすでに用意され、何人もの方が購入しておられました。

本堂での逆さ紅葉は床に寝そべっての撮影者も!しかもよりによって御本尊にお尻をむけての撮影になるのですが、お寺の方がそのように案内しております!   Σ( ̄□ ̄;)



境内には大きな花弁を大きく広げた牡丹が、さまざまな色で咲き誇っておりました。爽やかな青い空のもと、涼やかな風に吹かれてゆらゆらと踊るように揺れておりました。

No.116 19/04/28 03:23
旅人 

同じく群馬県桐生市の【龍真寺】さんに参拝してまいりました。

こちらも牡丹まつりを開催されております。牡丹つながりですはありますが、とりたてて牡丹の花が好き、というわけではありません。
昨年もこの牡丹まつりツワーを開催(?!)いたしましたが、実は昨年は夫入院中でありまして、牡丹の花の写真をお見舞にという意図でもあっての参拝でありましたが、昨年は早くより暑い日がつづき、そのため牡丹まつりに入った時分にはもう花が終わっていたという┉残念な牡丹まつりになってしまっておりました。


こちら【龍真寺】さんは東国花の寺百ヶ寺。その花はまさしく〖牡丹〗でありまして、牡丹寺を名乗られているくらいで、その数はじつに数多く植えられております。その数二千五百株以上とのことで、またこちらでは随所随所、牡丹の花の生け花をさりげなく演出されていて、それが大変見事で感動いたしました。
御本堂も例にもれず牡丹の生け花がありまして、ほの暗い御本堂にやさしい柔かな明るさを感じさせる存在でありました。
花の頃を終えた大きな大きな垂れ桜があり、鬱金(うこん)の桜という緑黄色の花が咲く桜の樹があり、来年は桜の花の時期に是非参拝させていただこう。

【龍真寺】さんは古い石仏が多くみられ、私は樹下に奉られた名もない小さな小さなお地蔵さまがいとおしいくらいに好きであります。
如意輪観音様の石の御像もやさしい笑みを浮かべておられます。
門の外には六地蔵の側にはお地蔵さまとしては大きな石像があり、こちらは【鶏亀地蔵】と呼ばれているようで、建立のおり、悪疫が退散し、近所の鶏が一斉に鳴き、亀が側に来たという伝承からそのように呼ばれているようです。
その他にも樹齢四百年を超え、その枝振りから〖龍の手松〗と呼ばれる松や、子抱きの沙羅の木など、境内にはたくさんの花や樹があります。境内の中を散歩させていただくのも気持ちのいい、花のお寺さんであります。



      平成三十一年四月二十七日   参拝

No.117 19/04/28 06:55
旅人 

【御朱印】
一度うかがって御朱印をお受けした神社仏閣に、再拝、再々拝、もっともっと何度もうかがうことがあります。そんなとき、もうこちらでは御朱印をお受けしてあるから、と二度はお受けしないのがほとんどではあるのですが、時としてもう一度お受けしたり、何度も同じ神社仏閣のものをお受けしたり┉、みなさんどうされているかと直接お話できるほどは周りに御朱印をお受けしている方はおらず。
まあ、月替わりの限定御朱印であったり、特別な日限定の御朱印であったりすれば当然同じ神社仏閣のものであってもお受けするでしょう。
発願から結願までの巡礼を再度巡るとかであれば、また同じものをお受けするのだろう┉そう思っておりました、当然新しい御朱印帳を用意して。
憧れの秩父三十四霊場巡りの本を見ていて、〖朱印のみは○○円の志納金となります〗とか書いてあっても、歩きでまわられるのが当たり前だった時代からある巡礼地では、時間がなくて印だけの方がおられるのだろうなとか思いこんでおりました。が、
【重ね印】というのがあるのだそうです。
何度も何度も同じ場所を、拝する度に印だけをどんどん(あえて少しずらして?)上に重ねて捺していただくのだそうです。

御朱印をお書きくださる書き手の方も、重ね印をみると「何度もお越しくださっているのだなぁ」とうれしく思い、言葉をかわすきっかけになることもあるのだとおっしゃっていました。

やはり奥が深い。

巡礼でこそが重ね印が多いのでありましょうが、なにぶんにも一度としてどこの霊場巡りもコンプリートしておりません身としては、まあ、当然、といえば当然ですかね。
気が遠くなりそうではありますけど、ね。何度も巡礼するなどということ。そこが信仰心の差なのですよね、信仰心をもち、札所で札を納めたり、納経されてまわられておられる方と、神さまや仏さまのことを知らないのでまわらせていただいてる私とでは。ふうっ。

No.118 19/04/28 09:03
旅人 

また、夫が今日も「今日はどこに行きますか?」と聞いています。
ぷっ

この間私が一人で行った【珊瑚寺】さんに行きたいくせに。


    ※龍真寺さんの粋な生け花です。

No.119 19/04/29 05:51
旅人 

「令和と元号の変わる五月一日に、一番再拝したいと思う神社仏閣に行きたいと思うんだけど、どこかな」と、私。
世はまさに御朱印ブーム!じつにさまざまな神社仏閣で、『限定の御朱印を先着何名限定で授与します』というお、貼り紙やら、ネット配信やらでお触れが(笑)出されています。
そういう限定御朱印とかでなくても、新しい御世に変わられたその日の記念となる日付の書かれることにはなりますので、どこでお受けしても記念にはなります。
「どこだろう?んー一番は決められないよねぇ、どちらもいいところで┉」
「今まで参拝していただいて、是非もう一度再拝したいと思ったところとか。できうるなら自分たちを御守りしてくださる縁のある神社仏閣かなぁと思うんだけど」

┉そんな会話をしたせいでしょうか。ミステリーツアーは、なんと!すでにお参りさせていただいた群馬県における一之宮、二之宮、に続く、「今日は三之宮に行きます」とのことであります。
仰せのままに┉。
方面をいくつかあげてくれた中から、「○○方面がいい!」という、もっとも重要にして重大な決定をしている者でございますもの、お連れいただくだけで光栄にございますって。

ところが、カーナビに入力するも出てこない!
三ノ宮神社➡ノーヒット、上野国三ノ宮神社➡ノーヒット。住所➡ノーヒットぉ?!、電話番号➡ノーヒットだぁ?!おいおい、どうしたナビ!
仕方がないのでスマホのGoogle先生に道案内をお願いしました。カーナビ!Google先生はちゃんと案内してくれるよ!!
Google先生の指示くださる道、住宅街の細い生活道路やらいわゆる名もない道というところばかりを通ってようやくたどり着きました。
着いたところでカーナビの画面にはしっかりその名が出ているそうな!Σ( ̄□ ̄;)


鳥居の真ん前を、舗装された車がなんとか対面通行できるくらいには広い道路が通っています。「ええぇ、ここを通るの?」と、夫が騒いでいます。┉ 本鳥居、の真ん前であるからなのかなぁ。
時代の流れとともに、神社仏閣が本来であれば譲れないものすらを譲って、道が作られていることは多々ありますが┉境内に車を乗り付けるようになっている時代ですし。
┉彼のこだわりも現代の交通の前には抗えない、というか従わないと神社に行けないですが。

No.120 19/04/29 07:44
旅人 

群馬県吉岡町にありました【上野国三ノ宮神社】さん。
本鳥居の前を道が通っているどころか、なんと! 境内地を、関越自動車道が通ったようであります。
あとからわかったことですが、道路そばに参道入口があり、木々の参道を北上して来る道もあったようですが、なにぶんにも初めて訪れるため、Google先生のおっしゃることしか頼るものがなく、本鳥居の前の道も、それなりに車が通る道路でありました。

一段高い境内は、綺麗に整備され、朱色を基調とした社殿が美しい。やさしいお顔の狛犬が守る境内はやさしい気が充ちていました。拝殿本殿のほか、神楽殿も朱色と黒を基調としている建物で、落ち着きのある神社さん。
火防神社も小さなものではありますが境内内に建てられております。そしてご自宅兼、といった風情の社務所があります。御朱印をお受けできるかどうかお聞きしようと玄関に向かうと!どなたもいらっしゃらない様子であります。あ、それで?それで電話番号の検索ができなかったということなのか。┉寂しさが胸がいっぱいになります。由緒ある、式内神社さんも時代とともにどんどん変えられていってしまうのが、いま現代、なのでありましょう。


    平成三十一年四月二十八日  参拝

No.121 19/04/29 10:30
旅人 

群馬県北群馬郡榛東村にある【柳澤寺】さんに行ってまいりました。

吉岡村の三ノ宮神社さんからはさほど離れてはおりませんでした。とは言うものの、まあ、運転していないので、そう発言するのもなんだかおこがましいのでありますが (^-^;

私のおぼろげな記憶によると、東国花の寺百ヶ所にはいっていた、比較的大きな寺院であったように思うのですが、畑と畑の間だったり、畑と民家の間だったりの細めの生活道路ばかりを走ります。
ナビのなかった頃の家族旅行で、農道を走っていきどまり、左右がギリギリ車幅におまけしたくらいの土の道を、バックしたこともある夫。まさか、ナビがそういう過去まで分析して(どうやって、だ?)好みと思ってこんな道ばかりを選んで誘導しているのではないのだろうか?(;´・ω・`)
そんな疑問すら抱くくらい、本日そんな道ばかりを走っているような?┉ 看板ひとつ見えてこないんだけど┉
そう思った瞬間! あ、ここだ!

柳澤寺さんの入口自体が、民家さんの間に畑のある、そんな道に面していました。明るくきれいな駐車場を、大きな観音様の御像が見下ろしてお守りくださっています。車を停めて石段を登ると、通常門の他に勅使門があります。通常門を通って、勅使門の正面にある参道に向かい、御本堂にお参りさせていただきます。中から法話を語られるお声が漏れ聞こえます。法事中、かな?

┉綺麗なお庭です。三鈷の松が切り揃えられたかのように綺麗に垂れております。三鈷の松の葉で三本ものはお守りとしてご利益があると伝えられていますが、見上げ見るだけでみな、三本のはになっているかに見えます。そのすぐ側には少しだけ花を残した垂れ桜があり、さらには牡丹が咲いております。
そんな花々に目を奪われつつ、庫裏に向かうと、若い若い十代の僧侶が、出ておいでなり。「御朱印をお願いできますか」とうかがうと、「お時間をいただくようなのでどうかお参りをお済ませください。」「あ、お参りは済まさせていただきました」
「本堂ですか?」「はい」
「失礼ですが、庫の境内のなか、すごそこにあるのは客殿になります。本堂はこの門をでていただいた、仁王門をくぐり真正面にあるのが」
 ゚ ゚ ( Д  )

たしかに勅使門の向こう側に大きな大きな五重の塔が見えていました。しかし、ここがまさか御本堂でないだなんて!

No.122 19/04/29 16:22
旅人 

いかにも新しい五重の塔は、平成十年に建立された県内初の五重塔で高さは11メートル。京都から専門の宮大工を呼び寄せ、五年の歳月をかけて建立したもののようです。
若いお坊さん、というよりいずれはあとを継ぐこととなる、一緒に住んでいるお孫さん、なのかもしれません。それくらいに若いお坊さん(わからないので、以後はこのままお坊さんと呼ばせていただきます)いわく、「仁王門を通ってもらって、まっすぐの位置にあるのが本堂になります。よく、勘違いされる方がおられるのです。なんでしたら、この客殿のわきを抜けて、道なりに行っても本堂に出ますので┉」
┉ごていねいにありがとうございます。しかし、 そんなよくできた若者の言うことに耳を傾けることなく、おばさんは仁王門にむかいます。


大きな大きな二階建ての仁王門です。ここを通って、ただでさえ多いかもしれない雑念やら穢れやらを払ってお参りをしないといけません。見事な仁王門です。屋根の上には大きな尾びれがぴんと上向けに立っています。
でもこれが駐車場からは見えなかったんだよなぁ。


本当の御本堂に向かいます。御本堂のある芸大通に向かう途中たくさんの石像があるのですが┉初めて見るお姿であります。
大きな石に彫り出したものなのですが、みな、着物姿の僧形であります。
まるで雨でも降りそうな空を心配そうに見上げるように見えるもの。
何かを大切そうに、それがなくなったりしないかいかにも心配そうに抱いていたり。
短い法具の棒を持つ僧にも見えるもの。
雨宿りしていた洞から空を見上げて手のひらを上に向け、雨のやみ具合を確認しているようなもの。
濡れ縁にでもすわって、横目で空を見上げているように見えるもの。大切に布で包んだ直径にして五センチとか、長さは五十センチ強の長目の荷物に頬擦りするように抱えているもの。などなのですが┉。
みな、それぞれが心なごむお姿です。
どんないわれのある石像なのでしょう。

石僧の像と戯れるかのように過ごしている私に、気づくことすらなく、夫は御本堂のお参りを済ませたようで、こちらに戻る姿が見えます。
右手に大きなお地蔵さまがお立ちになられ、その背後に赤と黒を基調とした鐘楼があります。

落ち着いたたたずまいの御本堂であります。やはり赤と黒を基調とした建物でありますが経年のため、白木のようになっている部分も多々あります。

No.123 19/04/29 20:00
旅人 

あまりに立派なお寺さんのため、御本堂と客殿を間違え、参拝のまえに御朱印をお願いしてしまうといった大失態をしてしまいました。御朱印帳を預けたきり、いつになっても戻らないあやしいおばさんを、若いお坊さんは笑顔で迎えてくれました。
お納めしたお金を募金箱にお入れくださいと爽やかにおっしゃいました。「そのようにするように祖母に言われているので」とのこと。
この立派なお寺のあとを継ぐという覚悟と、それをまた誇りに思っているといった姿勢を感じさせる若者でありました。

できることなら再拝して、あのかわいらしい石像の意味をお聞きしてみたいなぁ。




     平成三十一年四月二十八日 参拝

No.127 19/04/30 15:16
旅人 

夫は三ノ宮、四ノ宮とまわって参拝させていただくようです。

群馬県四ノ宮は【甲波宿祢神社(かわすくねじんじゃ)】さん。
甲波宿祢神社さん、って┉一枚の地図で確認するだけで四ヶ所ありますけど(;´・ω・`)

【行幸田】という地にあります甲波宿禰神社さんは、その三社のある吾妻川から三キロほど離れたところの、住宅の何軒か建つところに鎮座しています。こちらも小さな川ながら柔らかな春の小川といった感じで、さらさらと流れている川の真横に建っています。季節の野の花が風に揺れる気持ちのいいところであります。
鳥居をくぐると、手水鉢にこんこんと溢れるように水が注ぎ込んでいます。キレイに手入れされた手水舎です。これは神社を訪れる人たちのために、毎日毎日、手入れをされている方がおられるはず。
境内もきれいに掃き清められています。
やさしいお顔の、でも大きな狛犬はそれなりに古くからのものであります。社殿自体は新しいものですが、彫りも細かく、おそらくは以前の社殿を再現しようと努力をしたのか、小さいながらも立派な社殿です。本当に柔らかなやさしい気の満ちた神社さんです。


┉と、書いていることはまぎれもない事実で、とても良い気のあふれる神社さんなのですが┉。
鳥居をくぐる前から拝殿前に異様な物影が見えていて、それが、それだけが異質。何体か市松人形が御賽銭箱のそばに置かれているのでありました。その一つだけ大きい上にあらぬ方向を向いているので、少し怖い雰囲気を醸し出しています。明るい昼間だからいいのだけれど。
以前、テレビでやっていた、捨てるに困る、でも要らなくなったものを、自分的には納めたつもりになっている不法投棄にあたるものなのかもしれません。

でも、拝殿のそばまでいくと、怖くない! 拝殿前で童女が遊んでいる風にさえ感じます。こちらの神さまがそんな風に納めた人の思いをしっかり受けとめてくださって、お預りくださっているかのようであります。お優しい神さまでよかったね、お人形さんたち。
この人形を買ってくれた人の思い、いただいたときの思い、手離さざるをえなくなった今を、すべてわかって受けとめてくださっておられます。ありがたい。

ただ、だからといって、お人形さんはあくまでこちらにこんな風に納めてはいけないと思います。やさしい神さまを、だからこそ困らせないようにしたいものです。

No.128 19/04/30 15:29
旅人 

取り乱したレスの連続で申し訳ありません。資料としてみていたものに矛盾があり、調べても結局、四ノ宮であっていたようであり、歴史を経て少しづつずれた情報が入り乱れていることもあるようで、ド素人、神社仏閣初心者であります私は、正直、何が正しいのかわからず、振り回されて、結局何が本当かは、いくつかの資料を比較して多数決のような形をとるしかありません。

ごめんなさい。

これからも、誤字脱字、寝ぼけて打ち込んだまま、決定してしまい送ってしまった意味不明な文章、文章力がなく『なにこれ?』みたいな文章などなど、多々あることかと思います。
ご迷惑をかけ、ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。

No.129 19/05/01 09:20
旅人 

【甲波宿禰神社】

はじめは全国にある甲波宿禰神社の一部が渋川にたまたままとまっているのかと思いましたが、調べたところによると、甲波宿禰神社というのはここにしかないらしいのであります。
今回参拝を見送った三カ所の【甲波宿禰神社】、〖川島〗、〖祖母島〗、〖箱島〗いづれも島のつく地名のところに、ほぼ等間隔で並んで吾妻川の川沿いにいることから、なんらかの川の信仰にまつわる神社であるとされています。

川を挟んで雨乞山という山があるようです。この三つの甲波宿禰神社と関係があるのかどうか┉
昭和初期まで雨乞い行事が行われていた記録もあるということですが、関連性はわかっていないようです。夫いわく、本当に近距離で一直線に並んでいるようです。ただ〖川島〗の甲波宿禰神社は、もっと川沿いの、天明の浅間石のある場所にあったものを移築したようであります。


調べれば調べるほど早く参拝したいのですが、私のドライブテクニックと方向感覚に乏しいという条件をもって、そこまで行けるのか┉。
そもそも、絶対行きたがる夫を置いていけば、再拝は必至であります。
いつか、きっと\(_ _)



     平成三十一年四月二十八日 再拝


No.130 19/05/02 07:11
旅人 

「もう一ヵ所だけまわってもいいかな」と夫。御意。
遠出というと頼ってしまっている身としては、連れてきていただくだけでありがたい。 


あ、ちなみに、自分の名誉のために申しておきますが、別にペーパードライバーというわけでもなく、ゴールド免許を更新しております(┉運?) ┉私、運転が基本好きではないんです。殊に急なカーブの連続する山道!これはもう、後続車に迷惑なレベルの遅さかも。
普通の道であればナビさえあれば結構な遠くまで一人ででかけるし、夫と運転を変わることもあります。 



ま、それはさておいて┉。
さらに向かったのは【若伊香保神社】さん。ナビのセットをして向かいます。(夫が、ですが)
えっ?こんな道? 行き止まりじゃないのかな?しかも見えているのはどこからどうみてもお寺さん、だよね?σ(^_^;)?
目的の若伊香保神社さんはもうあと少しのようです。
これはこちらのお寺さんに、縁あってお導きいただいたのであります、ありがたいことです。
駐車場に停めて歩き出してお寺の石段の下に立ちますと┉ ⁉ すぐ横に少し古びた石の鳥居がありました。「┉ここ?」と、私。
「┉違うんじゃないかな?あと少し、みたいな表示だったし」
夫の話はみなまで聞かずにいそいそと石段を登り出す私。く(^_^;)

【泰雙寺】さん、とおっしゃるお寺さんであります。
古い石段。風情のあるお寺さんです。石段の上には山門があり、おきれいなお顔立ちのお地蔵さまがお立ちになり、山門を見守っておられます。御本堂前には大きな大きな獅子が┉無知で言葉も知らないおばさんが畏れもしらずに申し上げれば┉セントバーナードのように大きくて力があり、でも柔らかなやさしいお顔で、御本堂を護っていました。立派な御本堂です。御由緒や御本尊さまをお教えいただけたなら、と、庫裏を訪ねてみました。 
庫裏には人がおられず、隣の建物からお声が漏れ聞こえます。
庭師の方と和尚さんがお話をされていました。こちらは御朱印もなさっておられないということで御由緒書きもないとのことでしたが、こちらのことを書かれた本のページを、わざわざコピーしてくださいました。ありがたいことであります。
大きな、よく手入れされた朱色のツツジが満開の、気持ちのよいお寺さんであります。


      平成三十一年四月二十八日  参拝

No.131 19/05/02 07:48
旅人 

お隣の神社さんに、境内からいく道があります。夫が「こちらからで申し訳ないけど、ここから(入らせていただいて)お参りさせていただこう」と。
縁あってのお導きいただいた神社さん。古い鳥居があります。ようやく読める神社のお名前は┉〖正一位若伊香保大明神〗!!
こここそが【若伊香保神社】さんなのでは⁉
鳥居をくぐって石段を登り、拝殿があります。お参りを済ませ拝殿に掛かる扁額を見ますと【若香保神社】!?
┉ああ、それではこちらは若伊香保神社さまではないのだな。
拝殿の左横には大きな、注連縄の巻かれた石があります。〖子種安産の大石〗という看板があります。
お社の後ろには古い小さな石の社殿が奉られていました。
柔らかな気の神社さんであります。決して広い境内ではないのですが、少しここにとどまりたいと思うような安らかな気持ちにさせてくれます。
お参りを済ませて石段を下まで下ると【村社若伊香保神社】と大きく彫られた石柱のような門。
こちらも同じ若伊香保さまをお祀りしている、ということなのかな?


伊香保神社さんは式内神社さんの一社ですが、こちらはそこに関係した神社さん、ということなのでしょうか?



   平成三十一年四月二十八日  参拝


No.132 19/05/02 21:38
旅人 

思っていたとおり、【珊瑚寺】さんの再拝であります。

〖珊瑚寺七不思議/臥牛石〗
大人が二人で取り囲んでそれぞれの両手を繋ぎちょうど一周するくらい、高さは40センチ┉くらいの石が、〖臥牛石〗と呼ばれているといいます。
この石に願いごとをすると、石が牛に姿を変えて、願いごとをした人の代わりに信州信濃の善光寺にお参りしてくれるといわれているようです。なるほど、赤城山の麓にあるこのあたりの人たちにとって、善光寺詣りは望んでも中々かなわない夢であり、願いであったかと思います。そんなこともあって、こんな伝説が生まれたのかもしれません。
そんなことを思いながらも、臥牛石に長々と願いごとをした私でありました。

〖珊瑚寺七不思議/乳房の銀杏〗
千仏堂と呼ばれる御堂のそばに銀杏の大木があります。産後お乳の出の悪い女性が、この木でつくった箸で食事をすると乳の出が良くなるといわれているようです。なるほど、この木、幹が削れているように見えます。
しかしながらこのお寺さん、特に授与品としてお箸を用意しているような様子はありませんでした。お金儲けに精を出すようなお寺さんであれば、この言い伝えもバッチリ活かして授与品の一つとして箸を用意するんじゃないかなぁ。

〖珊瑚寺七不思議/鏡池〗
地蔵堂の右側にある丸い池は、作物が枯渇するような日照り続きのときも、長雨で大水がでるようなときも、水量が増減することなく一定の水量で清水をたたえているということです。

No.133 19/05/03 01:15
旅人 

〖珊瑚寺七不思議/赤面観音〗
鏡池の中央に祀られている観音様。この観音様にお顔に水をかけながら一心に願いをかけ、観音様のお顔が赤く変わるとその願いがかなうと言われているそうです。
で、実は私、ひそかにこちらの観音様にお願いをしようと思っておりましたんですが┉御池の中央、結構遠いんです。ひしゃくでもあればまだしも、なにもない状態だと┉無理、かな。どういうことだろう?真剣に悩むところが私の欲が深いところ、なのかもしれませんが、なにもない状態で観音様のお顔に水をかけるには、池のなかに入っておそばに行くしかないと思うのです。池のなかに入るほどの勇気はなく、それほどに願いの強い者が願いをかなえていただけるということなのでしょうか。
観音様は立て膝をされてお座りになられ、そのお膝に頬杖をつかれどこをみるでもないようなお顔で御池の中央にたたずんでおられました。


〖珊瑚寺七不思議/涙の梅〗
稲荷堂に向かう石段のすぐそばにある梅の木を“涙の梅”と呼ぶのだということであります。
鎌倉時代の武士梶原景時の女であった女性が『勝道上人開山の寺で景時父子、源頼朝の霊を供養せよ』というお告げを受けて、この珊瑚寺にたどり着き、三人の霊を祀ったのだそうです。その際杖として携えた梅の枝をここに挿したところ根づいたものがこの梅なのだそうです。
あるときのお住職がこの梅の木のすぐそばにある座禅石の上で一心に禅定に入っていると、まるでその姿に感服したかのように梅の木からしきりに露がしたたり落ちたといい、以後この梅の木を“涙の梅”と呼ぶようになったのだそうです。この梅の周りを念仏を唱えながら三廻りすると露がしたたると伝えられているということです。

┉梶原景時さんって誰だっけσ(^_^;)?
実際こちらのお寺に梶原景時父子のお墓と源頼朝のお墓があります。歴史オタクにそのお墓のすぐそばで「ここ(のお寺)に梶原景時のお墓と頼朝のお墓があるよ」と申したところ、すぐにその人物がわかった様子です。ありゃ、これは有名なお方なのだな(^^;)ゞ


No.134 19/05/03 01:38
旅人 

  ◎梶原 景時(かじわら かげとき)
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。
石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。頼朝の信任厚く、その一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」とも評せられている。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。


ほほぅ(((・・;)。
石橋山の戦いという言葉は聞いたことがある、かな。 
墓前に「教養がなくて申しわけありません」と手を合わせました。歴史の授業、嫌いだったわけではなくて、サボってたわけでもないんだけどなぁ。┉寝てたくらいはあったかも(^^;)ゞ


そんなことで、珊瑚寺さんの七不思議、コンプリートであります。


こんどは心字池に蓮の花さくころに、再拝したいなぁ。そして桜のころにぜひ。


    平成三十一年四月二十八日  参拝




No.135 19/05/03 12:04
旅人 

平成最後の日をどう過ごすか。御朱印ブームの昨今、ネットで検索すれば、平成最後の記念の御朱印を授与される神社仏閣はかなりの数hitいたしますが┉。
子供たちの成長を、命名からお宮参り、七五三や合格祈願。成人のお参りや就職祈願と、節目節目にお詣りにあがった地元の神社さんに、御礼のお詣りに参拝いたしました。
雨のなか、新緑煌めくような緑のご神木の葉から、ぽつりぽつりと雨の滴がしたたるのも、神々しく、ありがたい光景でありました。

新しい時代もお守りください。

No.136 19/05/03 13:15
旅人 

令和元年の初日にあたります、五月朔日。
やはりこれは群馬県の一ノ宮であります【貫前神社】さんに参拝をしたいと、ここ上州名物かかあ天下の五本の指に入る私の一存で(まあ、本当にはそんなこともないんじゃないかな、たぶん)、貫前神社さん参拝決定、であります。
息子が運転して連れていってくれました。彼が今年こちらの交通安全の御守りを私達二人にお受けしてきてくれています。
御守りを受けてくれた当人と一緒に御礼と祈願の参拝ができるなんて、ありがたいことであります。これこそ、神さまの御導きでありましょう。

雨が降りだしました。
雨に一つの時代が終わり、雨に始まる新しい時代。
恵みの雨でありましょう。

ふとみると、遠くの長く連なる山々に、大きな大きな、そして長い長い一つの雲がかかっています。高い山は頭を出して、低めの山は山頂にかかって。! まるで龍のようだ!
龍が山々に身を休ませているかのようです。
これはまさに吉兆でありましょう!
ありがたい。
若人が夢と希望をもって、生きられる時代となりますように。
そして生まれ来る新しい命がすべて、皆から祝福され見守られる時代でありますように。

あ、ここはまだ走行中の車中だ。、雲にむけての祈りをしていた。(^_^;)ゞ


貫前神社の石門です。急な坂をのぼります。
ああ、大きな赤い鳥居です。これだけでありがたいと感じます。
ん?! ! 
┉やはり考えることはみな同じ、ということでありましょうか。
満杯の駐車場であります。

それでもなんとかクルマを停めることができ、参拝をさせていただきます。こちらは門をくぐるとすぐにくだりの石段です。
下がり宮という造りとなっております。門をくぐるとすぐ、石段があり、石段下まっすぐに随神門が見えております。?!
こちらの神社、随神門をくぐるとすぐに拝殿、本殿とつながっているのですが┉不思議なくらいに拝殿も本殿も見えてこない。高さの関係、なのでしょうか。私にはきちんと計算し尽くして、下り宮という造りである故に、随神門をくぐってはじめて拝殿、本殿におわします神さまに参拝できるように造ったか。あるいは神さまのお力でそのように木々が繁り、見えないようになっているのか。その両方のように思えてならないのですが。

そして、ふとみえる、授与所に連なる長蛇の列!
あれは、!Σ( ̄□ ̄;)

No.138 19/05/03 20:19
旅人 

┉御朱印ブームって、ほんとなんだなぁ。
これから御朱印をお受けする人の列は、軽く石段の三分の一くらいにまで連なっています。御朱印帳をすでにお渡しして待つ人がたむろしています。うーん、どれくらい待つようだろう(;´・ω・`)

そんなことを考えていると、すぐ後ろから、やけに賑やかな声がします。
♀「ねえ、○○の結婚式の写真、ちょうだいっていってるじゃん」♂「えっ?いま?」♀「ずっと言ってるじゃん」♀「早くしろよ、グズ!」
「遅えんだよ、ばか!」
四十代くらいの男女二人。どうでもいいけど、ここ、よりにもよって、随神門の真ん前、拝殿の真ん前なのです。
どうにもイラつく自分に気づき、平常心を取り戻そうと随神門を見やり、うん、落ちついた、と思った瞬間、
♀「ねえ、なんとかいう儀式やってるんかな?」♀「あ、やってるやってる!」
えっ?音、出して観るんですか?
♂「見せろよ」♀「やだね!一人で観るんだもん」
はあぁぁぁ┉⤴💢
いやいや、平常心、平常心。

前の方々は女性二人。「へえぇ、まるで流れ作業だね」「どうでもいいから私のだけはちゃんと丁寧に書いてよね」

(´;д;`)


お願いです、いたらない私にこの二組の会話が気にならない精神力をください。


No.139 19/05/04 02:27
旅人 

┉すごいです。さすが上野国一之宮の神さまであります。いつのまにか、この二組の会話が気にならない自分に気づき、あらためてその霊験あらたかなことに畏れ入りました。

御朱印を求めて並ぶ列も少しずつ前に進んでおります。ほっとして石段の上を見やるとさらに後ろに列が長くなっている!
これでは神職の方々は、お昼を食べるひまもありません。いやなお顔ひとつなさらず、たんたんと、着実にお仕事をなさっておられます。ある方は受付をして、朱印を捺し、御守り等の授与をなさっています。宮司さんは御祈願御祈祷の依頼があれば、拝殿に、あるいははるか石段の上総門の外にある車の祓い所まで幾度となく足を運ばれておられます。書き手の方は本当に黙々とひたすら筆を走らせています。
申し訳なくもありがたいことにございます。

ようやく御朱印をお願いすることができました。待ち時間は不明。一緒に珍道中をしている夫はとにかく、息子に申しわけないなと思っていると
「あれ?○○?」息子に声をかける方がいます。親しそうに嬉しそうに話す息子。一之宮の神さまは本当に細やかな心遣いをしてくださる神さまです。ありがたいことにございます。
それにしても┉息子も親しい方に呼ばれるとき○○って呼ばれかたをするんだな。(≧ω≦。)┉私もおんなじ!
聞けば携帯の故障で連絡が途絶えてしまっていた、高校大学と一緒だった方なのだとか。とても嬉しそうな息子であります。
「神さまが逢わせてくださったのだね」と私がいうと「ほんとそうだな」と息子。

今日もあたたかく包み込んでくださるような気に満ちた境内であります。随神さまの横には天皇陛下の即位を祝う記帳所がもうけられています。
今日は月読神社さまにもお詣りして┉。
ようやく御朱印帳をお受けすることができました。


    平成三十一年五月  再拝

No.140 19/05/04 18:40
旅人 

ネットで、テレビで、“限定御朱印”だったり、元号の変わった初日の御朱印をお受けする人の列だったり、限定数だったり、限定御朱印の画像だったり画像だったり、御朱印にまつわるさまざまなことが取りざたされています。九時間待ちだとか、限定数に対して先着順で○時から並んだ、とか。限定一点などという御朱印もあったようで、それは抽選会が開かれたようです。
御朱印に関心のない方にとっては、まさに異様なことでありましょう。

上皇陛下と新天皇陛下の御誕生というおめでたい形で、迎えた令和という時代。
天皇家所縁の明治神宮が、御朱印を求める人の列で九時間待ちということになったのも、その新しくめでたい御代を祝う人々の気持ちのあらわれでありましょう。


令和でのお参り、少しは珍道中でなくなりますように努力したいと、新しい御代にあらためて思うのであります。

No.141 19/05/05 06:43
旅人 

子どもたちが偶然集まることができ、どうせだからとこかに出かけようかという話になりました。今からだとさほど遠くへはいけないということで、そこはもう言い出したものの勝ち、早い者勝ちとばかりに、「じゃあ赤城山」と私。
【上野国二之宮赤城神社】を名乗る神社┉というか、本宮を名乗る赤城神社さんは三つあるのですが、今回、赤城山山中にある【大洞赤城神社】さんに参拝して参りました。運転は立候補する人たちが何人もいるくらい。大船に乗って、山登りであります。(車で┉ですが)

今は『翔んで埼玉』という映画が大ヒットしているようですが、少し前には『お前はまだグンマを知らない』という映画がありまして、その映画やら原作の漫画でも、「群馬県には赤城神社だらけ」といわれているくらい、赤城神社さんの数は多いのでありまして、群馬県内では約50社を超え、全国的には関東地方を中心に約300社の赤城神社さんが存在するといわれているようであります。
総数からいうと、群馬県内50社しかないなら、赤城神社だらけというほどでもないなとか思ったりしてもみたのですが、実際、この日出かけるときも、
「どこの赤城神社さん?」と確認しあうくらいに、群馬県民、家族間でも、ややこしいことになっていることが判明したくらいでありました。

本宮がどちらであろうと、この三つの赤城神社さん、ちょうど一直線上に位置しておりまして、神輿が渡御するお祭りもあるくらいに結びつきのある神社さんであるのであります。
この内の【二宮赤城神社】さん、【三夜沢赤城神社】さんでの御朱印はすでにいただいておるのですが、赤城山山中にありますこの大洞赤城神社さんには、なかなか参拝する機会に恵まれず、念願の参拝、しかも子どもたちが子供であった時分に参拝したとき以来の記念すべき再拝、であります。
【赤城山】、冬にはスキー場やら氷上魚釣りができて賑わうくらいの雪のお山でありまして、私のドラテクでは不可!なのでありましてσ(^_^;)ゞ でも〖己を知って無理はしない〗は、車の運転に関してさえ言えば、これほど正しいことはないと思っております。ええ、悲しいことに、謙遜でも甘えでもないんです。さりとてまだ五十代、仕事もあり免許返上にはまだまだですが。


この日、半袖でもちょうどいい陽気。「寒くないようにしないとダメだよ、かあさん」「わかってるって」┉わかってなかった

No.142 19/05/06 03:40
旅人 

電光掲示板に〖ただいまの気温 8℃〗 !!(゜ロ゜ノ)ノ

大丈夫、別に今寒くないし。と車内でそっと心でつぶやく、私。まだまだ目的地は遠くであります。もっと寒いのかな?
だって┉せっかく久しぶりに集まった子どもたちと出掛けるのに、ちょっとはオシャレしたいのが母心ってもんじゃないですか?普段はなんだかんだとタンスにしまいこんで、二回くらいしか着ていないニットの長袖ワンピースで、充分大丈夫だと思ったんです。だって、さっきまで20℃超えてたんですもの。
そ、雪が残ってるわけじゃないし、大丈夫、大丈夫。(((・・;)


あ、赤い橋が見えてきました。啄木鳥橋というのだそうです。
息子がすーっと車を駐車場にいれました。
「あ?橋渡れないんじゃん!だから駐車場、空いてたのかぁ」
えっ?橋が渡れないってどういうこと?思わず、息子がふざけて一休さんにでもなったのかと思ったくらいでありました。考えてみればアニメ一休さんは私の子供の頃のものであります。
さあ、降りるぞと、橋の方など見もしなかったのですが、そう言われて橋を見ると鎖で閉鎖してあるではないですか。ここを渡って行くのが赤城神社さんなのに┉涙。
切り換えの速い(あたりまえか)息子はすでにもうUターンしており、私の止まったままの思考をのせて、本殿の裏手にある(らしい)駐車場に向かって車を走らせます。おお、こちらの駐車場は満車であります。でも、神さまが駐車場の誘導をしてくださっているかのように、誘導の係もいないのに、入ってくる車があれば、同じタイミングで一台出る!
さすが本殿の裏手であります、神さまも事故のないように采配してくださっておられるようです。

真っ先に降りて走る母。御朱印をお受けするにあたり、できるだけみんなを待たせたくない一心であります。一足先に参拝をして、授与所に行きました。もう子どもたちも(夫も)拝殿に並んでいます。
あ、そうだ、赤城神社さんの御朱印帳、ずっとずっと欲しかったんだ!┉どうしよう(;´・ω・`)、神社さま用の御朱印帳、まだ半分くらい残ってるんだけど。
いいや、たくさんたくさん神社をお参りさせていただこう。
御朱印帳┉何種類あるんだ! おおまかに言えば二種類。こまかに言えば、神社の風景の絵柄のものが二種類。姫神さまが描かれたものが何種類? 

No.143 19/05/06 04:11
旅人 

「きのうからの新しい限定の御朱印帳がこちらでございます」と巫女さんがご案内してくださいます。
そうだった、こちらの御朱印帳は、以前、御朱印を待つ間にお話させていただいた若い女のかたが「思わず二冊買ってしまいました」と言っていたんだった。そして、そこここでこちらの姫神さまの御朱印帳をお見かけするんだった。
「こちらの御朱印帳をお願いいたします」と、ずっと欲しかった神社の絵柄のものを手にしてお代にあたる奉納をしようといたしますと、
「こちらはいつでもお買い求めいただけるものですが、よろしいですか?」と巫女さん。季節、季節で背景の絵柄が変わる姫神さまの御朱印帳は大変人気なようで、季節が変わる前に終了してしまうほどの人気のようであります。
一瞬、心が揺れたもののそこは初志貫徹!(忘れてたけど、笑)
素敵な赤城神社さんが描かれた御朱印帳を手にいれた私は、巫女さんに「こちらに御朱印をお願い致します」とすかさず申し上げました。
「御朱印は現在お書きしていないんです」
? いま、なんと申されました?( 。゚Д゚。)
┉私、本当に「えっ?」とか「へっ?」とかいう顔のまま、しばし固まっていたんでしょうね。そんな自覚がうっすらあります。
心ここにあらずという状態のまま御朱印紙を授与しておりました。
┉全部印刷だし┉( ´-`)


ちょっとへこんだ私を、湖岸で三人笑顔で戯れる子どもたちがむかえてくれました。完全復活であります。息子が一人一人に使い捨てカイロを渡してくれました。ありがとう❤
写真好きな息子は、時々やっぱりみんなを待たせないようにと、走って絶好ポイントにとんでいきます。みんな、待っててくれるから大丈夫だよ。

さらに移動してトロッコのある見晴台へ。さすがに寒い!風も強い!
でもなんだかんだ景色を楽しんだり、幼くてここへ来たことも記憶していなかった子どもに昔話をしたり。

赤城神社の神さま、そして子どもたち、素敵な一日をありがとうございました。


     令和元年五月二日  参拝

No.144 19/05/06 10:11
旅人 

長野県の【龍顔寺】さんに参拝させていただきました。長男が長野県に連れて行ってくれると言い、こちらのお寺さんにサプライズのように到着いたしました。大きなお寺さんでありますが、なにせ神社仏閣初心者の母をもつ長男は、神社仏閣巡りをするというようなことを聞いたことはないのですが┉。
今回、両親へのサプライズ日帰り旅行でいろいろ調べてくれたのでしょう。ありがたいことです。ただサプライズ過ぎて、御朱印帳は一冊も携帯しておらず。御由緒もわからないので、御朱印は諦めるにせよ庫裏にうかがいました。残念ながら、ワンちゃんがお留守番しているだけのようでお話をうかがうことはできませんでした。

真田の家紋の六文銭のお印が至るところにみられ、【真田宮内之助の墓】の文字が見えます。あとで調べたところ、こちらは真田宮内之助高勝公館跡にして高勝公の菩提寺として開創されたお寺だということでありました。高勝公は信光とも称し、上田城主、真田昌幸公の弟であり、幸村は高勝公の甥に当たります。開山四百年ほどのお寺さんであります。
まあ、この辺は本来夫に聞くと詳しく私に分かりやすい言葉で解説してくれるのですが、あいにく今日は夫も長男も仕事で留守。



話は逸れますが、昨日は朝から日付が変わる直前まで運転だけでなく十キロの山道を歩くというハードなスケジュールでありまして、まさか、今日が仕事とはつゆ知らず、すまない気持ちでいっぱいであります。しかも、美ヶ原、標高二千メートルを超える山の急カーブにして急斜面を往復してくれております。ありがたいけど、そんなに無理をしたスケジュールでなくてよかったのに(*T^T)



山門をくぐるとすぐに大きな池を渡る参道となっており、途中、太鼓橋が架かっております。そしてさらに参道を進むと、大きな御門があります。白塗りの柱が四本、どっしりとした造りで、見上げるとどうやら楼門であります。その屋根の両端に金色に光り輝く鯱のような┉魚の尾のような形状の飾りがあります。鴟尾(しび)というのだそうです。これは、木造建築において最も恐れる火事を防ぐための祈りがこめられ、水中を自由に泳ぎまわる魚は水を自在に操って火を消すことができるという考え方からのものとのことで、鴟尾は火から守ってくれる象徴なのだそうです。

No.145 19/05/06 10:44
旅人 

こちらのお寺さん、もともとの開山されたお寺は川の氾濫により流され、こちらにあらたに寺を創ったものの明治元年に門を残すのみという大火に見舞われたようであります。
しかしながら客殿は皇女和宮が徳川に嫁ぐ際に和田宿においてお泊まりになられたという建物であるようです。今回の参拝では気づかなかった裏門や、十六羅漢堂などもあるようであります。

また、漫画「のらくろ」の原作者である故・田河水泡さんが昭和18年にこちらのお寺のある依田村へ疎開され、先代18世住職と親交があり度々当寺を訪れ、こちらの山門を描いた絵などがあるようであります。

そして目をひかれたのは、庫裏の前に祀られた境内におられる【首つなぎ地蔵】さま。
このお地蔵さまは、300年くらい前、つくられた六地蔵のうちの一体であると推定されているようです。こちらのお寺近隣の二ツ木峠を工事している際、工事関係者によって地中深くから首だけがない状態で発見されたのだそうです。発見当初、工事現場の隅に安置し作業をし、その翌日現場に行ってみると掘り出された元の場所に戻っていたということがあったのだそうです。そのような不思議な出来事があるためもあり、こちらのお寺に運びこまれ、新たに首をつなげてご供養をされているようです。
このお地蔵さまは、「首がつながった」ということから、就職、転職成就のお地蔵さまとして、「首つなぎ地蔵」の愛称で皆様から親しまれ、大勢の方々が訪れるようになって現在にいたるということです。

いつかまた、参拝をさせていただきたいお寺さんであります。



     令和元年五月五日   参拝

No.146 19/05/06 13:15
旅人 

┉もう、今さら削除した上での訂正はできないし。

┉お恥ずかしいミスを発見いたしました。
『平成三十一年五月』です。

御朱印の授与に際して、こんなミスがあったというテレビのニュースを見ても、まあ、慣れもあるし、何時間待ちだったりした大きな大きな神社さんでのこと、お受けした方にはショッキングなことであるかもしれないけれど、こんなこともおきるよな┉とか、思っていたのですが。まさかの自分のミス!
ええ、わたくしは全然忙しくもない、十連休のうちの一日でありました。
令和元年であることを意識して参拝しており、意識してこちらにレスさせていただきました。
なのに、これは┉(*T^T)

神社仏閣でのご祈願させていただくのも大切ではありますが、これは本気で脳トレをしないといけない!


実はそもそもこちらのスレ自体が、
文章を綴る。
文章だけで読んでくださる方にイメージしていただけるような文章を心がける。
関連する写真はできうる限り避ける。
という目標をもって綴らせていただいているはず、なのでした。

もう┉(。´Д⊂)
いつもいつも、怪しいレスばかりではありますが、こんなミスもありましたので、お詫びして訂正させてください。



一応、【れ】と、打ち込んだだけで【令和】と変換されるようになっているので、今後は大丈夫┉かな?【へ】とさえ打ち込まなければ大丈夫かと思われるのですが。

No.147 19/05/07 19:48
旅人 

鎌倉はお寺さんが多くて、歴史もあると思うのですが、鎌倉の御仏像で国宝とされているのは、唯一、高徳院の御本尊、阿弥陀如来さまなのだそうです。そう、あの有名な大仏さまであります。国宝が露坐!雨にさらされ、風に吹かれ、あの近年の体温すら超える暑さにもさらされて(まあ、大仏さまには体温はありませんが┉)五百年以上。
歴史の授業で(?)習ったようにもとは露坐ではなく、大仏殿がありました。現在も大仏さまの周囲に大仏殿の礎石が残されております。

今回、長いお休みではありましたが、混雑したところの苦手な私ども夫婦、明らかに混雑しているだろう鎌倉に、┉行きたい気持ちはやまやまだったのですが┉無理!ぜーったい、絶対無理!
平日ですら、バスがギュウギュウ詰め、もう少しで整理の警備員が必要なのでは?ってくらいの人人、人の、有名寺院。行けません!
平日、有給休暇をとって鎌倉に行く日まで、鎌倉についての本を読んで予習しておこう!ということで、今回の【鎌倉の大仏さま】について、調べてみました。

鎌倉の大仏さまって、二代目、ヘタすると三代目だったらしいんですね。最初に作られた大仏さまは1244年に完成した木造のものだったということです。しかも高さ24メートル!現大仏さまの高さは11メートルほど、二倍以上の規模であります。すごいなぁ!クレーンとかもない、昔のこと。下から作っていって、最後を完成して、てっぺんから降りるとき、どうやって降りたんだろう。
ただこの大仏さまは、大きすぎたためか1248に大風で倒壊しております。
そこで1252年から新たな青銅製の大仏さまの建立となりました。これが現在の大仏さま┉┉だと思われてる。大仏さま二代目説はここにあります。記録ではこの大仏さまは『釈迦如来』となっているらしいのです。前述のとおりこちらは『阿弥陀如来』。
二代目または三代目の説はここからきているこです。ま、そうは言っても単なる記述まちがいかもしれないらしいです。いまとなっては確認のしようもないことであります。

No.148 19/05/08 22:22
旅人 

【鎌倉大仏】
奈良の大仏さまが聖武天皇の勅願による、一大国家事業であったのに対し、鎌倉大仏は一般庶民に呼びかけて造られたらしいのです。発願は源頼朝の侍女〖波多野局〗と言われているとのこと。
当時のものは木造のものだったとはいえ、24メートル!どれをとってもすごいとしか言いようがありません。

そして、今はなき大仏殿。 
1335年、そして1369年には、ともに大風で倒壊。特に1369年のときには風を避けて堂内にいた北条時行の軍勢から500人の死者がでたといいます。さらに再建された三度目の大仏殿も、1495年の地震と津波のため失われたのだという。大仏さまとはよほど相性でも悪かったのでありましょうか。
それにしても、覆っていた建物が地震で倒壊し、さらには津波で流されても、それに耐えてお座りになっておられた大仏さま。御仏のお力を感じます。当時被害にあった人々のどれだけの心の支えになったことでありましょう。
五百年以上露坐でおられ、大仏さまご自身の傷みはいかがなのでしょう?( ;´・ω・`)

大正時代の関東大震災では大仏さまが台座から滑るのを和らげる免震構造を採用したのだそうです。
昭和35年の修理では前に傾いている頭部を支えるために首の部分を強化プラスティックで補強したとのこと。


やっぱり、なにより驚くべきは露坐で五百年も変わらずにおられる御姿なのだと思います。小学生のときの修学旅行のときとさほど変わらないように思えます。


こちらで御朱印をお受けしたときが、今まででは一番並んで時間がかかったところであります。そしてここで、小学生が自分の御朱印帳を持って神社仏閣巡りをしていることとか、諸外国の方度目も御朱印帳をお持ちになっておられることを間近で見かけたのが、こちらでありました。
いつかまた、再拝したいものです。

No.149 19/05/09 21:49
旅人 

┉じつは、
鎌倉の大仏さまが阿弥陀如来さまだったことだって、高徳院の御本尊だったことだって、今回知ったことであります。
奈良の大仏さまは┉、そうだ、廬舎那佛さまだった気がする。廬舎那佛さまって┉?廬舎那という言葉が仏教の教えそのものを神格化した仏のことだ、ということです。

台座は1000の連弁をもち、そのそれぞれが100億の世界を持っているとされています。そして毘盧舎那は1000の釈迦仏を化現し、そのそれぞれがまた100億の釈迦仏を現して世界を説法するとされています。このように仏の智恵のはかり知れない大きさを象徴し、十方諸仏を包括し、広大な仏教世界の中心に君臨する如来が毘盧舎那です。

ご利益は、
現世安穏、所願成就などのご利益があります。

毘盧舎那如来(びるしゃなにょらい)の像容
蓮華台座や光背にはたくさんの釈迦仏が描かれており、教えを説いているとされています。右手は施無畏印、左手は与願印を結ぶのが一般的です。

No.150 19/05/11 23:35
旅人 

群馬県桐生市の【光明寺】さんに参拝させていただきました。大きな垂れ桜もすっかり若葉のまぶしい季節を迎えておりました。
山門をくぐると、なにやら観音堂の前に人だかりができております。? 御住職の低くてよく通るお声がこんなに離れていても聞こえてきます。なんだろう?
はやる気持ちをおさえて、御本堂にお参りをさせていただきます。今日は御本堂の戸が開け放たれています。御本尊のお姿がよく拝観できます。御本堂のなかに御住職の奥さまがおられます。
「こんにちは。今日は観音堂でなにかイベントをしているのでしょうか?」「ああ、なんだかお寺の話をしてほしいって頼まれてお話をしているだけなのよ」「私も一緒にお話を聞いても大丈夫ですか」「ああ、全然大丈夫よ」
とぶようにして観音堂にむかいます。

「┉聖武天皇の勅願で霊地を求めておられた行基さまが、ある夜、観音様からの夢のお告げを受け、「渡良瀬川のほとりの吾妻山景に囲まれたところに聖地がある。そこに観音像を刻んでお祀りすれば、多くの人々を済度することができる」と言う内容のお告げであったんだって。観音様のお告げの土地を訪ねると、これが見事な霊地で、さっそく一宇のお堂を建て、刻み上げた千手観音像を祭祀されたと言われているんだよね。
お堂は、月光が輝くが如くに池に映る荘厳なまでの境内の景観を賞でて「水月庵」の名を付け、永く桐生の護りをと祈願されました。
それが天平十一年、七三九年のことだと言われてるんだよ。まあ、実際に行基がここまできたのか、なぞなんだけど、まあ、天皇の勅願であれば、行基本人でなくても弟子だったかもしれない人物でがこんなとこまできたんだということは間違いない。

九百年ほど経って、徳川時代の初期の寛永元年(一六二四)に、【水月庵】に鳳仙寺七世・儀拈牛把禅師を開山に迎え一寺を建立し、そのときに【水月庵】を【大慈山光明寺】と改めて、曹洞宗の修業道場として発展させたのが現在の光明寺のもとなんだ。」
と、すらすらと御住職が語られていました。

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