帰路
書いてみたくなったので
書いてみます
13/02/21 22:29 追記
高校生の舞台は学校だけじゃない!
木崎明人は、事情がありバイト生活を送っている高校2年生。
毎日でもしたいが、現状は安定しない、呼ばれた時だけバイトだった。
そんな時友人から紹介された店に行くと、そこには極道ぽい男と別種族ではないかと思える程の美人がいた。
さあ、どうなる
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アリカの態度など気にもせず、店長は薄ら笑って、
「ゴールデンウィークの時、俺が休むでしょ? その時は美咲ちゃんと明人君、アリカちゃんで上手くやってくれるかな~。そうしないと美咲ちゃんの負担が、ちょっときついかなと思ってね。実際、明人君がくるまで負担かけてたからね」
なるほど、確かに美咲さんは店長が不在の時、代わりに表屋を一人でやっていると言っていた。
そうなると食事とか休憩が取りづらいだろう。俺がバイトに来てから食事休憩してる姿は、初出勤の日にドーナツを食べていた姿しか見たことがない。
他の日に聞いても、「もう休憩したから」と言っていて、鵜呑みにしていたが、実際、休憩していたんだろうか。
「オーナーと店長で決めた事なら……。アリカちゃんよろしくね」
美咲さんは、複雑な表情を浮かべた後、踏ん切りがついたのか、アリカに微笑みながら言う。
「はい! よろしくお願いしますね。美咲さん」
アリカは上の人に対しては礼儀がいい。前島さんの教育の賜物なのか、元々こういう感じだったのだろうか?
挨拶をするアリカを見て、美咲さんの目が怪しくなっていた。
あれは何かする目だ。
「やっぱり可愛いわ!」
そう言うと、いきなりアリカに抱きついた。
「あわわわ、み、美咲さん! く、苦しい」
急に抱きつかれたアリカは目を白黒とさせて、硬直している。
美咲さんは、アリカが硬直するのもお構いなしに、アリカの頭に頬を擦り付けている。
「あ~、可愛いわ~。癒されるわ~。私、姉しかいないから妹が欲しかったの~。いつかアリカちゃんギュッってしたいと思ってたけど、こんなに早く出来るなんて。はぁ~クンカクンカ」
目の前のエサに耐え切れなくなったのか、美咲さんは頬すりしながら、アリカの匂いを嗅いだ。
太一といい美咲さんといい、なぜか俺の周りには犯罪予備軍がいる。
アリカは、どう対応していいか分からないようで、硬直して顔が真っ赤になっていた。
「や、やめて~。み、美咲さん。わ!? きゃっ!」
アリカは身体を一瞬ビクっとさせると、アリカが出したとは思えない可愛い声で悲鳴を上げる。
美咲さんが調子に乗って身体をまさぐり、アリカの平らな胸や尻を触ったようだ。
いやらしさを感じられないのは、アリカが幼児体型のせいだろうか。
「よいではないか、よいではないか」
美咲さんは時代劇に出てくる悪者のような台詞を吐き、口元が緩み『はあはあ』言いながら嫌がるアリカを執拗に攻めている。
綺麗な顔でその行動は台無しだろ。
「もう、やめて~。うひゃひゃひゃひゃ」
今度はくすぐったいところを触れられたのか、アリカは涙目になりながら腹をよじっている。
「美咲ちゃん。そろそろ勘弁してあげなよ~。アリカちゃん泣いちゃうよ?」
いい加減みかねたのか店長が助け舟を出す。
「え~。もっとハグハグ、さわさわしたい~」
美咲さんは渋々開放すると、アリカは脱力し崩れ落ちた。
アリカは相当疲労したようで、肩で息をして恨めしそうに美咲さんを見つめている。
その美咲さんは、アリカをニコニコと可愛い動物でも愛でるように見ていた。
こればかりはアリカに同情してしまう。
「あんたもぼーっとしてないで助けなさいよ!」
アリカが睨みつけてきて、俺に八つ当たり気味に叫んだ。
「そりゃ無理だ。これから先、美咲さん相手だから、覚悟しといたほうがいいぞ?」
その言葉を聞いたアリカは、がっくりと頭をうなだれた。
どたばたとした騒ぎはあったものの、俺らは店じまいを終えた後、いつものように美咲さんを送って行く。
帰り道での美咲さんとの話は、アリカのことが主な話題だった。
今日の事が嬉しかったのか反省しているのか、美咲さんの表情がコロコロと変わっていって、表情の豊かさに俺も笑みがこぼれた。
美咲さんの家が見える距離になった時、部屋の明かりがついているのが見えた。
今日もはるなさんが先に帰っているようだ。
家の前に着き、
「んじゃ、明人君おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
俺はまた、美咲さんが部屋に入るのを確認した後、窓を見上げる。
美咲さんとはるなさんが窓辺に近付いてきて、俺をみて小さく手を振っている。
なんだか習慣みたいになってきているが、妙に心地よかった。
手を振り返すと、また嫌いな帰路への時間に入っていく。
誰かと一緒にいれば嫌なことなんて忘れられるのに、一人の時間はやっぱり嫌いだ。
昼休み、太一と一緒に学食へ行った。
俺は日替わり定食を、太一はラーメンを頼んだ。
今日の日替わりのメインであるメンチカツを頬張っていると、太一がラーメンをすすりながらニヤニヤしているのが、目についた。
「どうした太一? 何か良い事あったのか?」
「……昨日さ、明人が帰るときにさ、俺、川上さんたちと話してたろ?」
口に入ったラーメンを飲み込むと、クラスにいる女子の名前が出てきた。
「川上? ああ、そういやそうだったな」
川上と言われても名前は分かるが、顔はすぐに思い出せない。
二年生になってから、一緒のクラスになった女子の顔と名前が、いまだに覚えきれていないからだ。
多分昨日の女子の中に川上がいたのだろう。
「うちのクラスにゃ派手な女子はいないけど、それなりの子ばっかだろ?」
A組からE組まである中で、E組に学年一の美少女がいるとの噂は聞いたことはあるが、いまだに実物を見たことはない。
他のクラスにも組を代表するような美少女がいるよう。
あいにく、うちのクラスの女子にずば抜けた美少女はいない。しかし、女子のアベレージは隣のA組やC組に比べると高いようだ。
本来なら喜ばしいことだが、クラスの女子と交流自体していない俺にとっては、あまり興味のないことだった。
「それで、何の話してたんだ?」
「最初はたいした話じゃ無かったんだが、そのまま遊びに行こうって話になった」
「太一には夢のような話だな。にやついてたのも分かるわ」
「俺としては、バイトがなけりゃ明人も誘いたかったぞ」
「気持ちだけは貰っとく。でも昨日はバイト以外に用事もあったからな。どっちにしても無理だったわ。お前もそう思って他の奴誘ったんだろ?」
「あー松本と藤川を誘った。急だったからな」
太一の話では男三人、女四人の合計七人で一緒にカラオケに行き、フリータイムの時間いっぱいまで遊んだようだ。
「それでな明人に聞きたいんだけど。お前、美咲さんと付き合ってんの?」
「はあ? 何言ってんだお前? 何の冗談だ」
「実はな、昨日一緒に行った女子から聞いたんだが、夜にコンビニに行く途中の道、お前が綺麗な人と仲が良さそうに一緒に歩いてるのを見たって言っててな。その女の人は木崎君の彼女なのか知ってるかって聞かれたぞ。」
なるほど、太一が誘われた理由が分かったような気がする。
目撃情報の裏を取るために誘い出された口か。
彼氏彼女の恋愛関係は男子女子問わず噂になりやすい。情報が曖昧で不確実なものも多いから、きっかけが有れば真実を探りたくなるのが人間心理というものか。
それにしてもクラスの女子の行動力には驚きだ。
「それは確かに美咲さんだな。帰り道が一緒だからついでに送ってるだけだ」
俺が淡々と言うと、太一は心持ち残念そうな顔をして、
「なんだ浮ついた話じゃ無かったのか。俺はてっきり、そういう仲になったのかと思って、あーそうかもって女子に言っちまったぞ」
おい、それは大きなお世話すぎるだろう。しかも曖昧な情報を渡してるじゃないか。ということは、俺はこのクラスの女子から、彼女がいる可能性が高いと思われてるってことになるじゃないか。
「勘弁してくれよ。ただでさえ、俺はバイトばっかりで、学校の女子と交流無いのに。学校生活で彼女作る機会すらなくなるじゃねえか」
「明人はバイト先で女の子と交流あるじゃねえか。しかも美人と美少女」
太一の言う美人と美少女は、美咲さんとアリカの事を指しているのだろうが、ただ単にバイト先が同じなだけの話だ。
「俺はこのまま彼女もできないまま、学校生活を続けていくんだな……」
なんだか急に自分が惨めに思えてきた。
「そりゃ明人次第だろ。バイトしてる奴他にもいるけど、彼女いる奴だっているぞ?」
追い討ちをかけるように太一が正論をぶつけてきた。ますます落ち込みそうだ。
確かに恋愛関係に発展するのは、俺次第なのだけれど、今は好きな子がいないし、気になっている子もいない。
今までのバイト先の女子とも交流自体がなく、俺の周りで交流があるといえば美咲さんくらいだ。
美咲さんが綺麗なのは、誰が見ても認めるであろうし、性格も暴走すること以外、基本は良い人だ。歳が俺よりも上だし、まず向こうが高校生を相手にしないだろう。
*
帰りのホームルームが終わり、帰り支度をさっさと終わらせ、俺は教室を出ようとした。
「明人悪い。ちょっとだけ待ってくれ」
太一が俺を呼び止める。
「どうした?」
何かの用事かと思い聞き返すと、
「バイトだろ? 俺もそっち方面に用事があるからさ。一緒に行こうぜ」
「オッケー。分かった」
二人で自転車の駐輪場まで行くと、昨日、自転車を直してあげた一年生の姿が見えた。彼女はまだ俺に気づいていないようだ。
「明人どうした?」
「いや、昨日ちょっと自転車を直してやった女の子がいてな」
「どの子よ」
彼女にばれないように目線で合図を送ると、太一もわかったようだ。
「無茶苦茶可愛いな。名前なんていうの?」
太一も可愛いと思ったようで、興味をそそったらしい。
「いや、名前は聞いてないけど。一年生みたいだったぞ」
「あんな子がいたとは、全然気付かなかったな。一年生のチェックを怠ってたぜ」
太一は悔しそうに言う。
「そんなもん、どうでもいい。行くぞ太一」
「おいおい! お前、声かけないのかよ?」
「なんで声をかける必要がある?」
「明人、お前はもうちょい出会いを大切にしたほうがいいな」
太一の上から口調に少しいらつきを覚えたが、無視することにした。
太一の用事を聞いてみると、釣り道具が入荷したので取りに行くらしい。
釣具屋は、郵便局の少し手前を曲がらなければいけないから、その辺りで別れることになる。
「明後日、夕方の何時ごろに行けばいいんだ?」
「ああ、そういや正確な集合時間を聞いてなかったな。今日聞いて、後でメールするわ」
「ああ、頼むわ。はるなさん、美咲さん、それにアリカちゃん美人が三人も揃うなんて楽しみだぜ」
「お前は食い気よりそっちが大事そうだな」
俺が苦笑いしながら言うと、
「明人、事の重要性が分かっていないようだな。美人とイベントなんて、まず無いことだぞ。男ならはしゃいで当たり前だろう。これで、お近づきにでもなれたら万々歳だ」
太一の力説に俺は哀れみつつ、太一の場合は、親しくなっても友達どまりか、いい人どまりだろうなと思ってしまった。
「あのさ明人、明日時間あるか?」
太一は何か嫌なことを思い出したのか、苦虫を噛み潰したような顔で聞いてきた。
「あ? 昼からファミレスでバイトだから午前中だけならあるぞ。バイトに行く時間考えると十一時くらいまでならいいぞ」
「それでもいいからさ。ちょっと手伝ってくれないか? 綾乃の馬鹿がさ」
「綾乃?」
聞いたことがない名前だ。誰だ?
「あ、妹の名前。あいつ自分の部屋に置く棚を買ったのはいいんだけど。それが自分で組み立てるやつ買ったんだよ。それが昨日届いてさ、親父は仕事でいないし、母親は危なっかしくて手伝わせるほうが危ないし、妹は人任せで手伝いすらする気なくてよ。組み立てるの手伝ってくれ」
太一は、なんだかんだ言いながら、妹を大事にしている。随分と微笑ましいものだ。本人に言ったら認めないだろうけど。
「ああ、いいぞ。お安いご用だ。午前中には余裕で組みあがるだろ。そういや俺、太一の妹を見たことがないな。名前も今日初めて聞いたぞ。お前いつも妹って言うからな」
「あれ? そうだったっけ?」
「春休みに太一の家に行った時も、誰もいなかったし」
「あの時は留守番だったからな」
「太一と似てるのか?」
太一に女装させてる姿を想像してみたら、胸が気持ち悪くなってきた。太一の顔は決して不細工ではないが、もし似てるなら妹の将来が心配だ。
「んー、全然似てないな。今まで一度も似てるって、言われたことない」
「お前に似てなくてよかったな」
俺が意地悪くいうと、太一は「どうせイケメンじゃねーよ」とふてくされた。
しばらくすると、俺と太一の分岐点になる交差点にたどり着いた。
ここから、てんやわん屋まで五分とかからない距離だ。
太一が行く釣具屋は、交差点から左に曲がって行った所にある。
「じゃあな、明人。後でメール入れといてくれよ。また明日な」
「ああ、わかった。」
釣具屋に向かう太一を見送ると、俺はてんやわん屋へ足を進めた。
てんやわん屋に着き、店内に入ると店長と美咲さんがいた。
美咲さんはレジの椅子に座ったままで、カウンター越しに店長が立っている。
美咲さんが目線をこっちに向けたので、店長も俺が来たことに気付いたようだ。
「あーちょうど良かった。準備しておいで~」
「はい。すぐ着替えます」
更衣室に入り、私服に着替えエプロンを着ける。
ロッカーに荷物をしまい準備完了。
店長たちのところへ向かう。
「明人君、日曜日のことだけどね。五時にお店閉めて、それからバーベキューするから。時間ちゃんと伝えてなかったでしょ? あと準備は俺と高槻さんでするからね~、君達は五時に閉めてから裏屋のガレージに来ればいいから。おなかはすかせておいてね」
薄ら笑いを浮かべ、店長は言った。
俺が来たのは、ちょうどいいタイミングだったようだ。
店長は美咲さんにこの件を伝えに来たところだったらしい。
「店長と高槻さん、バーベキューとか準備するの好きですよね? 前回も二人で全部用意してたじゃないですか」
「こういうときくらい動かないと、普段何もやってないからね~。」
そんなに自分を卑下することはないと思うが。
「あの俺、本当に手伝わなくていいんですか?」
「あ~いいよ。明人君の歓迎会も兼ねてるんだから。主役をこき使ったら駄目でしょ。また次の機会の時はお手伝いしてもらうことにするよ」
店長は頭を掻きながら、やる気のない口調で言った。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「そんなにかしこまらなくていいよ~。遠慮せずに食べるんだよ」
優しげに言う店長が、なぜ家族と別居しているのだろうか。
夫婦の間で一緒に暮らせない理由でもできたのか、昨日の話を聞いてから、つい思い起こしてしまう。
「んじゃ、俺、戻るから~。後でアリカちゃんをこっちに寄越すから頼むね」
俺が気になってることなど、気付かずに店長は言うと、裏屋へと戻っていった。
「突っ立ってないで、明人君も座りなよ」
美咲さんが自分の横にある空いた椅子を、ポンポンと叩きながらいった。
俺はその言葉にしたがってレジに入り、椅子に座る。
ここから見えるのは、相変わらず客のいない店内で、寂しいものだった。
「……相変わらずの閑古鳥ですね」
「今はいないけど。今日はアウトドアグッズとか結構売れたよ」
「あー、ゴールデンウィーク近いからですかね?」
「かもねー。明人君は家族でお出かけしないの?」
「うちは忙しいんで、ゴールデンウィークどこも行けないんですよ」
俺は笑顔で嘘をついた。
去年の俺なら、少し戸惑っていただろうが、この一年で家族の話題を振られても、ごまかしの対応ができるようになった。
父親の姿を正月に見てからは、一度も帰ってきていない。
ゴールデンウィークに帰ってくるかどうかも知らない。
帰ってきても、俺の生活に変化が起きることはないのだから。
それならばいっそ、帰ってきてくれないほうがましだ。
「美咲さんは今回帰らないって、言ってたけど。こっちに用事あるんですか?」
「用事は特にないけど、三月に一度、帰ったからいいかなって。私の家パスタ屋をやってて、ゴールデンウィークとか関係ないし」
「パスタ屋ですか? パスタ食べ放題ですね」
パスタは好きなので、うらやましそうに言うと、
「明人君、それは大きな勘違いだわ。新メニュー開発の時、毎日パスタ食べさせられるのよ? しかも、微妙に違う似たような味を毎日……。私、トラウマになってて、普段パスタ食べたいと思わないの」
うんざりした表情で美咲さんは言った。俺も毎日パスタを食べさせられたら、いくら好きなものでも嫌になってくると思う。
「……それは分かるような気がします」
「姉も私と似たようなこと言ってたわ。」
「そういや、昨日アリカに絡んでた時、お姉さんの事言ってましたけど、お姉さんと歳は離れてるんですか?」
俺がお姉さんの話をした瞬間、美咲さんの体がびくっと揺れた。
「姉は四歳上よ」
触れてはいけない話題だったのか、美咲さんの顔が引きつっている。
「……私が帰らない本当の理由は、姉のせいなのよ」
「お姉さんとは仲が悪いんですか?」
「ううん。むしろ仲は良いほうよ」
「んじゃ、なんでお姉さんのせいなんですか?」
「姉が…………腐ってるからよ」
美咲さんはためらいながら言った。
「腐ってる?」
「BLって分かる? 姉はそれの本を作ってるの。腐女子道まっしぐらな人なの。」
BLってボーイズラブの略だよな。たしか男同士の性行為もあって、好きな人には、たまらない世界らしいが、実物は見たこともないし、気持ち悪さが先行して見ようとも思わない。
「作ってるって作家さんですか?」
「うん。姉は小説作家をやってるの。一応ちゃんとした出版社のお世話になってるわ。その他に趣味で同人誌作ってるんだけど、その世界では、かなりの有名人で信者もいるらしいわ。何度、その道に洗脳されそうになったか」
「BLって、ガチでホモの話ですよね?」
「それ、姉の前で言うと殺されるわよ?」
真剣な表情で美咲さんは言った。
「ええ!? 中身はそうなんでしょ?」
「あの人たちには違うのよ。愛のある世界なのよ。私達の理解を超えているわ。日曜日に電話したら、また修羅場に入っているらしくて、帰ったら確実に強制連行の上、手伝わされるわ。あの地獄に自ら飛び込むなんて耐えられない……。」
美咲さんは、顔を青ざめながらぶるぶると身を震わせていた。
修羅場とか、地獄って、どんな環境なんだ?
美咲さんが、それほど恐れているとは……。
「普段の姉は、優しくてのんびりしてて、家事全般もできるから、どこに出しても恥ずかしくない姉なのよ。だけど病気が出ると、ドラマを一緒に見てたら、若い男の子が二人出て来るシーンとかで『右の子が受けね』とか真顔で言い出すのよ! いくら姉でも怖いものは怖いわよ! 特に友達と一緒に製作してる時なんか……鬼や悪魔のほうが、ましだと思うくらい怖いのよ! しかも今回は、仕事じゃなくて趣味のほうの修羅場だから余計に嫌!」
美咲さんは、たまっていた鬱憤をぶつけるかのようにまくし立て、ぜえぜえと息を吐く。
昨日アリカを襲っていたことを思うと、美咲さんもお姉さんの事が言えないくらい、変な性癖があるじゃないかと言いたくなったが、身の危険を感じるので、その事は黙っておこう。
「それで今回は帰らないんですね」
「こういうときの姉には近寄りたくないの」
美咲さんは腕を組み、ため息を漏らしつつ呟いた。
「お姉さんって、美咲さんに似ているんですか?」
「顔は似てるわね。……でも姉は体つきがはるちゃんと同類だから……」
悔しそうにちらりと自分の胸元をみていう。
「えーと、胸がでかいと?」
「うん。姉は私よりスタイルいいもん。明人君も胸おっきい方がいいでしょ?」
美咲さんは、俺の顔色を伺いながら聞いてきた。
その返しづらい質問はやめてほしい。
目線のやり場に困るじゃないか。
「そりゃ、男なんで全く気にしないってのは嘘になりますけど。それだけじゃないですから。男が全部巨乳好きというのは妄信ですよ」
男が胸の話をするのは少し抵抗があったが、正直な感想を述べると美咲さんは安心したような顔で「そっか」と呟いた。
美咲さんの体つきはバランスがいいから、正直な感想としてはこれでいいだろう。
「ちなみに明人君、幼女に手を出すのは犯罪だよ?」
「俺にそんな趣味はねえ!」
あなたもお姉さんと一緒です。ある意味こわいよ。
しばらくすると、珍しく客の入りが多くなってきた。
四人連れで入ってきた男の客は、音楽関係の商品を手にとっては、ああでもない、こうでもないと討論しているようだ。
見た感じ大学生のような感じだが、そのうちの一人が、やたらとレジの方を見ている。
いや、美咲さんを見ているのか?
ちらりと、美咲さんを見ると、俺と目が合い小首をかしげている。
美咲さんは客からの視線に気がついていないようだ。
「明人君なに?」
俺の視線を疑問に思ったのか美咲さんが聞いてきた。
「あの人たち見たことありますか? 何か美咲さんを知ってるような感じで、さっきからこっちを見てますよ」
「んー。見覚えないけどねー」
指を顎にやり、思い出そうとしているが、記憶になさそうだ。
あの男は美咲さんの美貌に惹かれているのだろうか?
はるなさんは、美咲さんが大学でも大人しくて男の影も見ないと言っていたが、これだけ人懐っこい美人が大学でもてないわけがないだろうに。
「美咲さんって、大学とかで仲がいい男の人いないんですか?」
「へ? 男の子で? いない、いない! だって私、全然もてないよ?」
……この人、マジで言ってるんだろうか?
「美咲さん。それはないでしょ?」
「え? 本当だって、私声かけられたことなんて、今まで一度しかないし、それだって、はるちゃんと一緒にいた時だよ? 大学だって、私から話かけても冷たくされること多いし……」
……それは多分緊張しているんだろう。
美咲さんみたいな美人に声かけられたら、女慣れしてる奴ならともかく、普通の男だとドキドキして固まってしまうと思う。
俺も美咲さんと初対面の時、心臓を何度も攻撃された覚えがあるし。
「だから大学でも、いまだに親しい男友達いないわ。自分で言ってて、なんて寂しい大学生活送ってるのかしら……」
美咲さんの表情が一気に暗くなる。もしかして気にしてるのか?
「いやいや、美咲さんは綺麗すぎて普通の男なら緊張しちゃいますよ。俺だって、美咲さんとここで知り合ってなかったら、近寄れなかったと思います」
これはフォローじゃなくて本心だ。
「わ、私が綺麗?」
俺の言葉を聞いた美咲さんは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「自覚ないんですか?」
「だって、そんなこと言われたことないもん」
「この間、俺が言ったじゃないですか?」
「え? あれ冗談でしょ?」
顔を赤らめたまま、慌てた表情で俺を見る。
「え? 冗談だと思ってたんですか?」
「へ? え? ええええええ!?」
美咲さんは、俺が本心で言ったことに気付くと、さらに顔を真っ赤にして慌てふためいている。
「はるなさんだって、顔はいいのにって言ってたじゃないですか?」
「だって、はるちゃんは家族みたいなもんだから、あばたもえくぼって言うじゃない」
あれだ、この人マジだ。マジで自覚ないんだ。
「美咲さんはマジで綺麗ですよ。鼻にかけてないなと思ってたけど、自覚が無かったんですね」
「私が……綺麗……」
そう呟くと、力が抜けたようにヘナヘナと椅子に座り込んだ。
自覚して急に恥ずかしくなったのか、うつむいて何かぶつぶつと呟いている。
これは、しばらくほっておいたほうが良さそうだ。
視線を美咲さんから四人連れの男に戻すと、商品を手にした男が購入を決意したのか、手にしたままレジに向かってくる。
美咲さんは、まだうつむいてぶつぶつ言っていたが、俺が「お客さん来ましたよ」と言うと、虚ろな表情で立ち上がった。美咲さんその表情ちょっと怖い。
男はレジに商品を置くと、美咲さんに向かってこう言った。何で俺じゃない?
「すいません。これの型番違いを探してるんすけど、無いですか?」
このパターンは初めてのパターンだぞ。どういった対応取るんだろうか。
「こちらの型番違いですか? 少々お待ちください」
美咲さんはいつのまにか普通の表情に戻り、事務的な対応をちゃんとしている。
インターフォンを手に取り店長に型番を伝える。
なるほど、こういった対応すればいいのか、覚えておこう。どうやら商品は倉庫にあるらしく、持ってきてくれるようだ。
「お客様の言ってる商品はあるそうです。今から係のものが持ってきますので、お待ちください」
その言葉を聞いたお客は「ほらみろ。聞いてみるもんだ」と連れの三人組に言った。
俺は気を利かせて、お客が置いた商品を手に取り尋ねてみた。
「こちらの商品は元に戻しておいても構わないですか?」
「あ、すんません。かまわないっす」
俺のほうがどう見ても年下なのに、このお客見た目と違って礼儀正しいようだ。
商品を元の棚に置き戻ってくると、美咲さんがなにやら話しかけられていた。
「君、同じ大学の子だよね? 見たことあるよ。ここでバイトしてるの?」
さっき、レジの方をちらちらと見てた奴だ。俺がいなくなった途端声をかけたのか?お前のことはチャラ男と呼ぼう。
「え、あ、はい、バイトしてます」
美咲さんは少しうろたえながら返事していた。
「今度の日曜日にさ、俺ら駅の近くのクラブ借りてライブやるんだけど、良かったら見にきてよ」
「わ、私そういうの苦手で……」
「同じ大学のよしみで頼むよ。人集まんないと格好悪いからさ」
嫌がってる女にしつこく言ってる時点で、お前格好悪いぞ。チャラ男、下心丸見えだぞ。
「日曜日はお店の親睦会があるから無理ですね。残念ですね、せっかくのお誘いなのに」
俺は美咲さんに言うように見せかけて、やんわりと断りの手助けをした。実際、日曜日はバーベキューをやる日だから、この話は乗れないはずだ。
「あ、日曜日はそれがあったね。ごめんなさい。私やっぱりいけないです」
「残念だなあ。先約があったのか。次の時はよろしく頼むよ」
無理強いしなかったのは偉いと思うが、あきらめていないのは感心しないな。
「ふられてやんの~」
チャラ男は商品を持ってきた連れから馬鹿にされている。俺も便乗させてくれ。ざまあみろ。
でも何、この空気?
チャラ男のせいで美咲さんの肩身が狭いじゃないか。
美咲さんに申し訳なさそうな顔をさせるとは、腹立たしいぞ。
何とかしてあげたいけど、どうにもならず困ってしまった。
そんな空気を一気に変えるように、奥の扉が開いてアリカが現れた。
「おまたせ。いわれた物持ってきましたよ」
アリカは物を持ってカウンターの中に入ってきた。
今日のアリカは淡いブルーのパーカーとショートパンツに膝上までのソックスと、これまた幼い格好だった。
茶色のエプロンにひよこのプリントは幼さを強調しているようにも見える。
ひいき目に見ても中学生にすら見えないぞ。
お前、わざとだろ。実は計算しているだろと問いただしたい。
美咲さんと俺の間に並んだアリカは物を置くと一歩後ろに下がった。
アリカが物を置いた時に頭頂部がよく見えるなーと思ったが、言うと絶対喧嘩になるので心にしまった。
アリカの事よりも、俺の目の前にいる四人連れのうち、ずっと黙っていた二人がアリカの姿を見てから、浮ついた感じになったのが気になる。
お前ら実はロリコンだろ。気の高ぶりが隠しきれてないぞ。
アリカを見る目線がいやらしい、ひそかに興奮するな。
商品の状態を確かめ、値段も予算内であったからか、男は商品を購入した。
美咲さんとアリカが並んで「ありがとうございました」と営業スマイルを送ると、男たちは少しにやけながら店を後にした。
アリカに視線をやると、俺と視線を合わすなり睨んできた。俺はお前のかたきか?
「そう睨むな。何も言ってないだろ?」
「あんたの目が悪口言ってるように見えるのよ」
「ちょっと待て! それは被害妄想って奴だろ」
ふんと、そっぽを向かれたが、一体なんなの? 俺、何も悪いことしてないのに。
「とりあえず、接客は見れたから、次は実際にやらせてくださいね。美咲さん」
アリカは俺を無視するかのように、横に立っている美咲さんに話しかけたが、美咲さんは虚ろな顔で、無言のまま頷いた。
「み、美咲さん?」
その表情を見たアリカは、戸惑ったように、もう一度名前を呼んだ。
「みみさきさんなんていないわよ?」
美咲さん……そこは返すのか? やっぱりトラウマ持ってるだろ。睨むからアリカが驚いてるじゃないか。
「おい、あれは気にするな。あのワードは美咲さんにとって許せないものらしい。俺も何度か言われた」
俺はそっと驚いているアリカに耳打ちすると、
「え? そ、そうなの? わかった。次から気をつける」
アリカは小さな声で俺に返してきた。気にするな。お前は悪くない。
「はあ……。明人君……。さっきのってナンパだと思う?」
「完全に下心ありに見えましたけど?」
「え? なになに? 何の話?」
途中からきたアリカは話の状況が見えず、俺と美咲さんの顔を交互に見ている。
さっきのお客が、美咲さんをライブに誘ったことをアリカに教えると、
「うわあ、やっぱり美咲さんってもてるんですね?」
アリカの言葉に美咲さんは身体をビクッとさせて、俺達に顔を向けた。その仕草は、まるでさび付いた機械のように、ギギギ……とぎこちなく動いていた。
「…………」
美咲さんは何か言いたいようだったが、言葉を飲み込んだように見えた。
アリカはキョトンとした顔で美咲さんの表情を見ている。
「まあ、もてないよりはいいんじゃないですか? なあ?」
美咲さんがこれ以上気落ちするのも見たくないので、横にいるアリカに同意を求めるように言うと、何を勘違いしたのか、アリカのこめかみがヒクッと動き、
「あんた、あたしに喧嘩売ってる?」
お前どういう受け止め方してんだ? 誰もお前がもてないとは言ってない。
「そういう意味で言ってねえよ。お前だって可愛い部類にはいるだろうが」
アリカの顔がボッと真っ赤になる。 あれ? 俺、今変なこと言った?
アリカの頭越しに、美咲さんがジト目で俺を睨んでいる。え? 何で美咲さんまでそんな目で見てるんですか?
「あれ? 俺、変なこと言ったか? なんでお前、顔真っ赤にしてんだ?」
「あ、あたしが可愛い? ちょ、ちょっとなに言ってんのよ! あんた目がおかしいんじゃない?」
可愛いと言ったことを照れてるのか、アリカの瞳が左右に揺れ動き落ち着かない。
「俺に言われたくらいでそんなに動揺するなよ」
「うるさい!」
アリカは俺から表情を隠すように背を向けた。
アリカの頭越しに見える美咲さんの顔が凄く怖いんですけど?
俺と目線が合うと近寄ってきて、俺の肩にぽんと手を置くと、
「あきとく~ん? 君はアリカちゃんを口説こうとしてるのかな~?」
眉毛をピクピクしながら言う。あの、口調が凄く怖いんですけど?
「いえ、そんなつもりありません!」
「私を差し置いて、アリカちゃんを口説こうとするなんて……。しかも、私の目の前でするなんて。罰です! ハグしなさい!」
「俺の話聞いてた? それにハグとか関係ないし!」
誰か助けてくれ。
迫られた俺を助けてくれたのは一組の客だった。
美咲さんは、客が入ってくるのを見るや、「いらっしゃいませ」と営業スマイルに戻っていた。
助かった……。
その客は、まだ若い夫婦かカップルのようで、何を探しに来たかわからないが、店内をぐるぐると回り始める。
「アリカちゃん、お客さんが商品持ってきたら、レジやってみる?」
美咲さんがアリカに問いかける。
「はい! ぜひ!」
アリカは体育会系を思わせるような気合振りで答えた。
若い男女は、数点のブランド物のタオルやティーカップセットをレジに持ってきた。
贈答品で貰ったものを未開封のまま、売りに来る人が多いようで、いろんなブランドのものが店内には陳列されている。
定価の半額以下で未使用のブランド品が手に入るので買っていく人も多い分野の商品だ。
美咲さんはいつものようにお客さんに商品の確認を取ると、カウンターに商品を並べていく。
俺はアリカに商品の値段を一つ一つ言いながら、袋に入れていき、アリカは間違えないように復唱しながら打ち込んでいく。
少し緊張していたようだが、問題なく済ますことができていた。
会計を済ませたお客に商品を渡し、「ありがとうございました」とアリカは営業スマイルを送る。
女性の客から、「おうちのお手伝い偉いね」と言われ、笑顔が引きつっていたが、その件については触れないでやろう。
その後、二組の客が来店し、一組は商品を購入し、もう一組は見物だけして帰っていった。
客の引いた状態をアリカは少し退屈してるのか、両手を上げ背筋を伸ばしている。
その後ろでは、アリカの動きを見ていて誘惑に駆られたのか、美咲さんが獲物に飛びかかろうと、猫のようにじわじわと近づく。
防衛本能が働いたのか、美咲さんが近寄る気配を察知したアリカは、すばやい動きで振り向いた。
二人揃ってウルトラマンが戦う時のようなポーズで対峙しているが、はたから見ると奇妙だからやめてほしい。
二人は対峙したまま、笑顔で敬遠しあっていると、レジ脇にあるインターフォンが鳴った。
受話器を取ると店長からで、アリカと二人で裏屋に来て欲しいとのことだった
受話器を置いて振り向くと、まだ対峙していた二人に伝え、俺とアリカは裏屋に向かった。
裏屋への扉を開けた時に、お留守番の美咲さんをちらりと見ると、
「後でハグを要求する!」
置いてけぼりにされることへの報酬を要求しているのか、またわけがわからないことを言っているが、聞こえない振りをして扉を閉めた。
扉を閉めると、アリカが俺の背中をチョンチョンと突いて聞いてきた。
「あんたさ、美咲さんと付き合ってるの?」
「は? どこをどう見て言ってる?」
「だって、さっきあんたがあたしのこと、か、可愛いとか言った時もヤキモチやいてたみたいだったし、美咲さんにハグしなさいとか言われてたじゃん」
可愛いと自分で言うのが恥しいのか、照れ隠しのように腰辺りまであるツインテールの髪をぎゅっと握りしめている。
「はあ? ヤキモチって、そんなんじゃねえよ。あんなのいつもの事だぞ?」
「え、あんた、付き合ってないのにハグとかするの? エロ! キモ!」
「エロとか、キモっていうな! ハグなんて、実際にしたことねえし!」
「そうなんだ?」
アリカは「……ふーん」と呟き、目を細めて俺の顔を見つめると、くるりと向きを変え足を進み始めた。
何なんだ?
店長の所に行くと、アリカが裏屋を簡単に案内して、それが終わった所で今日は表屋に戻ってもいいらしい。
俺はアリカに導かれて裏屋の各仕事場に移動した。
最初に連れてこられたのは買取部門で、ここは立花さんが担当している所だ。
立花さんはパソコンの前に座り、パソコン脇に置いたファイルと画面を交互に見て何かを調べているようだ。
俺が来たことに気づくと、片手だけ挙げて挨拶し、また作業を続けていた。
「立花さんはてんやわん屋の在庫で相場の上下があった物とか毎日チェックしてるのよ。大体閉店する前は、ずっとこの作業してることが多いわ。この店の物の状況を一番知ってるのは、店長よりも立花さんかもね。あたしらがいない昼間に値段の変更とか店長とやってるらしいから。」
アリカは俺に立花さんが普段何をやっているか説明してくれた。
骨が折れそうな仕事を一人で黙々とやるのは大変そうだな。
俺でも何か手伝えることがあるのだろうか?
「次、行くわよ」
次に連れてこられたのは、修理工房だった。
工房では、高槻さんと前島さんがそれぞれの机で作業をしていた。
二人とも作業に集中しているのか、俺達が来たことに気づいていないようだ。
高槻さんはマスクをつけていて、分解した電化製品を小さなエアーガンのようなもので清掃している。
前島さんは、半田ごてを手にして、机の上に置いてある基盤のようなものを、ルーペで覗きながら手を動かしている。
前島さんが何をやっているのか良くわからないが、あれも修理の一つなんだろう。
修理工房の中には、見たこともない種類の工具が並べられていて、その工具に興味がわいた。
俺の知っているスパナやドライバーなどの普通の工具もあるが、ペンチのような物を挟む工具で先が、くの字に折れ曲がっていて、狭い所でも入れそうな工具や、ハンマーも金属製やラバー製、ラバーよりも固そうな材質のわからない物など、数種類はある。
何を計る物かは知らないが、計測器みたいな物も置いてあり、まさしく修理する現場だなと感じた。
「ここが修理工房よ。あたしも普段はここでお手伝いしてるほうが多いわ。道具の使い方に慣れないと仕事にならないから、早く慣れたほうがいいわよ」
アリカは、工房の中の工具をまるで愛でるように撫でて言う。
高槻さんは俺達に気づいたようで、エアーガンを机の脇に引っ掛ける。
「明人じゃねえか。何だ? 見学か?」
「はい。今日はそれぞれの場所を少しだけ見てくるように言われました」
高槻さんの問いに答える。
マスクをしているせいで、顔半分の表情はわからないが機嫌は良さそうだ。
前島さんも高槻さんの声で作業を中断し、俺達の方を向いた。
「あんだ? 明人、物取りに来たのか?」
「この間、店長が聞いてきただろ? 裏屋でも仕事やってもらおうかって、今日は見学だとよ」
俺の代わりに高槻さんがマスクを外しながら答える。
「あー、例の事すね。明人、見るのはいいけど邪魔すんなよ」
前島さんはそう言うと、また作業机に向かいルーペを覗き込んだ。
「あの馬鹿は放っておいていいからな。今日は大事な所作っているみたいで、ずっとあれやってんだ。まあ今日は修理も少ないから、何の問題もねえがな」
「あたしも前島さんの作業見ていたいけど、ああいう風に集中してる時の前島さんは、説明後回しなのよね。試行品ができた時の話を聞くのが楽しみだわ」
二人揃って前島さんの背中を温かい目で見守りながら笑って言う。
なんだかんだ言いながら、前島さんと付き合いが長いからか、前島さんの事を理解していて、いい関係が築けているようだ。
なんだか羨ましいと思えるのは、この雰囲気が家族っぽいからだろうか。
工房で軽く説明を受けた後、俺とアリカは修理工房を後にして店長の所に戻った。
「明人君どうだった~? いつもと違って新鮮な感じしたでしょ?」
店長はいつもと同じように薄ら笑いを浮かべて言う。
「はい、なんか色々勉強になりそうです」
「明人君は生真面目だね~。そんなに構えなくてもいいんだよ? まあ、今日は表屋に戻っていいからね」
「店長、あたしも表屋に行くの?」
アリカが聞くと、店長は少し考えて
「ん~。そうだね。今日はもういいかな?」
「んじゃ、着替えて高槻さんところに戻りますね」
「はいはい、また頼むね~」
アリカは俺をチラッと見て挨拶代わりに片手を挙げると、事務所から出て行き、そのまま修理工房の方へ向かっていった。
「今日は前みたいに喧嘩しなかったみたいだね~」
「そうですね。前よりはましだと思います」
俺の言葉を聞いた店長は薄ら笑いを浮かべたまま、顎に手をやり頷く。
「俺も戻りますね」
何か店長が考えていたようで少し気になったが、聞くことはせずに事務所を後にした。
表屋に戻ってくると、椅子に座った美咲さんがちょいちょいと俺を手招きしている。
レジに向かいながら店内を見ると誰もおらず、一人で退屈していたようだ。
俺がレジカウンターに入ると、美咲さんがすくっと立ち上がり、「はい」と言って両手を広げた。
「え? なんですか?」
「ハグよハグ! 後で要求するって言ったでしょ?」
「あんた何考えてんだ! マジで要求するな!」
美咲さんは「ちぇっ」と舌打ちすると、
「ふーんだ。私を差し置いてアリカちゃんと店内デートだなんていいわよねー」
そう言って椅子に座りなおし、カウンターに突っ伏して拗ねはじめた。
店内デートってなんだ? 成人がそんなの理由に拗ねるなって言いたい。
俺がマジでハグしたら、美咲さんはどういう態度に出るのだろうか?
美咲さんもぎゅっと抱きしめ返してくる? 有得ないな。
もしくは驚くか、最悪大声出されて変態扱いだな。
そんな事になったらバイトが続けられないじゃないか。やっぱり無理だ。
しかし、アリカにも聞かれたが、俺達のやり取りを見ていると、付き合ってるように見えるのだろうか。
美咲さんに嫌われていないとは思うけど、彼氏彼女の関係になるほどの好きってのは無さそうだし、俺もそんな感じだ。
美咲さんは美人だから彼女になったら、それはそれで嬉しいし、周りから見れば羨ましい事だろうとは思うけど。
正直、恋ってものが、俺にはまだ分からない。
甘酸っぱいとか、苦しいとかもピンとこない。
多分、俺はまだ人を本気で好きになったことが無いからだと自分でも思う。
人は恋をすると見えていた世界が変わると、聞いたことがあるけれど、本当に変わるのだろうか?
俺も恋をするほど人を好きになれる時がくるのか?
家族とも上手くいってないこの俺が人を好きになれる?
……こんなこと考えても、何にもならないのに。
現実的でない事に気付いた俺は、拗ねて反対側に顔を向けたまま突っ伏している美咲さんを見やり、空いている椅子に腰をおろした。
……………………。
二人とも沈黙しているせいで、店内の静けさがまた一段と深くなったような気がする。
俺は美咲さんにどんなことを話しかけようかと模索していると、横から小さく「すー」っと音が聞こえた。
音を立てないように椅子から離れ、反対側を向いていた美咲さんの顔を覗くと、どうやら突っ伏してるうちに眠ってしまったようだった。
「……子供と一緒だな。とても年上とは思えんな」
独りごちて、起こすかどうか悩んだ挙句、とりあえずは客が来るまで寝かせておくことにした。
音を立てないように、そっとさっきまで座っていた椅子に腰掛け、カウンターの上に肘をついて誰もいない店内を見渡す。
これが綺麗な風景なら、なんと有意義な時間を過ごしているのだろうと思うけれども、いかんせん、これが与えられた現実の世界だ。
無駄で退屈ともいえる時間を、この景色の中で過ごすしかない。
暇つぶしに店内を整理するのもありだが、動くと美咲さんを起こしてしまうかもしれないからじっと我慢しよう。
突然、隣で寝ている美咲さんの身体がびくっと上下に動く。
ああ、授業中に寝た時たまに起きる例のアレだな。
俺も経験はあるけど、アレで起きた時すっごい恥しいんだよな。
周りの人に見られたと思うと、マジで恥しい。
後ろにいる奴は普通気付くよな。あれだけ体が揺れたら、たいていの奴はスルーしてくれるけど、指摘してくる奴がいたら呪い殺したくなると思う。
俺がそんなことを考えていると、美咲さんの顔が突然、ぐりんとこっちに向いた。
「ねえ、私寝てたよね? もしかして寝顔見た? それよりも今なんか見た?」
何、その必死な形相? 答え辛いだろ。さっきのアレで起きたのか。
「え? 何も見てないですけど? 寝息が聞こえたんで寝てるとは思いましたけど」
俺は言葉を選んで問いに答えると、美咲さんは顔を真っ赤にしてカウンターに突っ伏した。
「寝息聞かれちゃった。はずかしいいいいいいいいいいいいいい!」
多分アレを俺が見た事は本人も気付いていると思うが、俺の口からは言えない。
他の事でごまかしたにしても、結局こうなったような気がする。
「寝てたら寝息くらい当たり前でしょ。そんなの気にしないで下さいよ」
俺は慰めようとして言うと美咲さんは突っ伏した顔を上げ、その顔は真っ赤のままで、目に涙を浮かべて俺を見つめてくるが、アレを見られたことへの羞恥心が上回ったのか、また突っ伏した。
「……くすん」
恥ずかしがっている美咲さんには悪いが、その姿がちょっと可愛いと思ってしまった。
美咲さんをなだめている内に店じまいの時間になり、俺はまたいつものように表周りの掃除と片付けにかかる。
美咲さんは、カウンター付近で箒をチョコチョコと動かしながら、ため息をついている。
アレを見られたのがやっぱりショックだったんだろうか。
大体、それぞれに片付けが終わった頃、裏の扉が開いて店長が現れた。
店長に、後はやっておくから着替えて上がっていいと言われたので、二人して更衣室で帰宅準備をする。
俺達は帰宅準備を終えて店長の所に向かった。
「店長、俺明日はファミレスで最後のバイトなんで明日はこれません」
「ああ、そうかい。わかったよ。アリカちゃんにも手伝ってもらうから、こっちは大丈夫だよ。ちゃんとけじめをつけておいで」
「はい。ではお先に失礼します。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
「はいはい。お疲れ~」
店長に挨拶した後、店を出て、俺は自転車の所に行って、かごに荷物を入れる。
自転車を手で押しながら、俺を待つ美咲さんのもとへ向かった。
「美咲さん、行きましょうか」
「うん」
帰り道を進む美咲さんはいつもより口数が少なめだ。
まだ今日の出来事が尾をひいているのだろうか。
今日の美咲さんを思い起こすと、いつもの暴走キャラよりも、うろたえていた姿の方が印象深い。
いつもは俺がうろたえてばかりだけど。
「ねえ、明人君。裏屋どうだった?」
美咲さんは口を開いたかと思うと、突然真剣な表情で俺を見つめてきた。
「そうですねー。まだやってないから一概には言えないですけど、面白そうだとは思いましたよ」
「……そうなんだ」
少し気落ちした表情で俯きながら小さく呟く。
「どうしたんです?」
「私のときは、こういうの無かったから羨ましいのもあるんだけど……」
「けど? 他にもあるんですか?」
「うー、あー、なんて言うか、その、私も一緒に行きたかったって言うか……」
ああ、なるほど、一人でお留守番状態だったのが寂しかったのか。
「そうですねー。美咲さんも一緒に行ってたら、俺ももっと楽しかったでしょうね」
「……ふえ?」
俺の一言に何故か顔を真っ赤にして硬直した。
「どうしたんですか? 顔赤いですよ?」
「あー、なんでもない、なんでもない」
美咲さんは手をぶんぶんと振ってごまかしたけど、俺変な言い方したっけ?
「そういえば、明人君、明日来ないんだよね」
「明日はお昼から夜の九時までファミレスでバイトですね。まあ、これで最後なんですけど」
「明日は退屈しそうだな……」
「店長はアリカにも手伝わせるって言ってたから、話し相手になるんじゃないですか?」
そう言うと美咲さんの足がピタっと止まった。
俺をじろりと睨んできて口を尖らせる。
「え? なんか今、俺悪いこと言いました?」
「また言った……」
「へ? な、何が?」
「アリカちゃんのこと、また『アリカ』って呼び捨てで言った……。これで三回目」
「はい?」
え、そこなの? 三回目? 意識して無いから覚えてないけど、いつの話のときだ?
「明人君は普段アリカちゃんのこと『あいつ』とか『お前』って呼んでる。私には『さん』付けなのに、何でアリカちゃんは呼び捨てで言うの?」
「えーと、一応美咲さんはバイトの先輩で年上だし、あいつは同じ高二だからなんですけど?」
美咲さんは頬を膨らまして不貞腐れた顔になり、俺の袖をぎゅっと握り、
「私も呼び捨てがいい」
「それ無理があるから!」
俺は歩みを止めていた足を動かして、この話題を止めようと試みた。
しかし、美咲さんは、俺の袖から手を離さないように追随し、この話題を止めなかった。
「やだ。私も呼び捨てがいい!」
「目上の人にそれは良くないと思います」
「本人が良いって言ってるんだから、良いじゃない」
「だから…………。」
どうしようか、この駄々っ子動物の対処に困ったぞ。
このままだと家に着くまでずっと続きそうだ。
うーん、どうしたものか……。
「んじゃ、ここはちょっとお互い妥協しましょうか」
俺はあることを思いつき、提案してみることにした。
「妥協?」
美咲さんはキョトンとした顔で俺を見つめてくる。
「例えば、今みたいに二人だけの時は美咲さんの希望通り『美咲』って呼びますけど、他に誰かいるときは今まで通りの呼び方で呼ぶってのはどうですか?」
美咲と言った時に嬉しかったのか、美咲さんの顔が一瞬綻んだ。
「これが俺にできる最大の譲歩ですからね?」
「……分かった。普段も突っ込みの時みたいに敬語じゃなくていいんだよ?」
「そこは臨機応変ってことで。タメ口すぎるのは良くないと思いますから」
「……うん。分かった。明人君が譲歩してくれたから、そこは我慢する。じゃあ成立ね。では早速、はい」
俺の袖口をつかんでいた手を離し、俺に差し出してくる。
成立の握手でもしたいのか? 俺が手を握り返そうとすると、
「違う違う。名前呼んで? はいどうぞ」
「う、いきなりですか? ちょっと時間下さいよ」
「さっき一回言ったじゃない。呼んで」
えーい、やけだ。あ、『みみさき』にならないように言わないとな。
「……美咲。これでいい?」
「うん! んふふ、やった、やった。」
満面の笑みを浮かべて、ぴょんぴょんと飛んで喜んでいる。
「人前では今まで通りですからね。それは覚えといて下さいよ?」
「うん、分かった。明人君との約束は守るよ」
「あれ? 美咲さ、いや、美咲は明人って呼ばないの?」
「えー無理無理! そんなの恥ずかしくて無理!」
「おい、ちょっと待て! それおかしくないか?」
「おかしくないもーん」
そう言って俺の横から逃げるように小走りに駆け出す。
少し距離が開いたところでくるりと振り返り、月と電灯の光に照らされてか、やけに眩しい笑顔を俺に向ける。
「明人君は本当にいい子だねー。私が想像してた通りの子だよー」
そんな笑顔で言われたら何も言えないじゃないか。
家の前に着くまでの“美咲”は、ご機嫌で、機会があるごとに名前を呼ばされた。
今日は部屋の明かりが点いておらず、はるなさんはまだ帰ってきていないようだ。
週末だというのに忙しいのだろうか。
「まだ、はるなさん帰ってないみたいですね」
「そんなに遅くならないと思うよ。いつもありがとね。おやすみなさい」
「お礼はいらないって言ったでしょ。おやすみなさい」
いつもなら、ここで直ぐに家に入る美咲なのに、今日は何故か動かない。
「どうしました?」
「最後にもう一回名前呼んでほしい……」
照れくさそうに俯いて呟いた。
もう何度か言わされた後だったので、仕方ないなと思いつつ、少し慣れつつあった俺は、この駄々っ子動物のおねだりに応じることにした。
「おやすみ、美咲」
言った途端、美咲はくわっと目を見開いて俺を睨みつけると、
「今、みみさきって言った?」
「言ってねぇし! そこ普通繋げないだろ!」
台無しだよ。すんごい残念だよ。すんごい格好良く決めたつもりだったのに。どんだけトラウマ持ってんだよ?
「ごめんごめん。もう一回お願い」
「もうやだ」
「えー、もう一回だけ! 変な受け取り方しないから」
俺は明日会えない事を思い出した。どうせなら……。
「……明日ファミレスのバイト九時くらいに終わるんで、その後、店に行きますから」
「へ? 何で?」
美咲は目を丸くして驚く。
「帰り道、一人だと危ないから送ります」
「えー、いいよ。明人君遠回りになっちゃうでしょ?」
「仕事の後、挨拶してから行けばちょうどいい時間位だし、俺がそうしたいから行くつもりですけど、美咲さ、いや、美咲は嫌?」
「嫌じゃない……どっちかって言うと嬉しい」
俯きながらぼそぼそと呟く。
「んじゃ決定。それじゃあ美咲、また明日。おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい」
美咲は満面の笑みを浮かべたまま、部屋へ向かった。
いつものように少し時間を空けて美咲の部屋の窓を見ると、美咲が小さく手を振っていた。
俺は手を振って答え自分の家への帰路へと足を進めた。
一人になって、急に恥ずかしくなってきた。
自分で決めたとはいえ、年上の女性を呼び捨てだなんて、でも、美咲の喜んだ顔を思い浮かべると、なんだかどうでも良くなってくる。
すごく嬉しそうだった。
こんな俺でも喜んでくれる人がいると思うと、それだけで救われるような気がした。
いつも帰路の時は、陰鬱な空気が俺を包んできていたけど、今日はなんだか温かい何かが俺を包んでいて、その温かいものが何か分からないまま、帰路を進んでいく。
ずっとこのまま包まれていたいと思うほど、それは優しく温かいものだった。
- << 150 美咲は俺の姿を視認すると俯いて聞こえない声で何かを呟き、すぐさま顔を上げると満面の笑みで両手を広げてこう言った。 「明人君! さあ、私の胸に飛び込んでいらっしゃい!」 「理由がわからねえよ!」 「え? いつもと違うの?」 「いつもって言うな! したことねえし!」 店長はいつものように薄ら笑いを浮かべているが、アリカは明らかに俺を蔑んだ目で見ていた。 「おい、勘違いするなよ? 言ってるような事してないからな?」 蔑んだ目で見ているアリカに向かって言う。 「何であたしに言い訳してんのよ。関係ないし!」 ぷいっと顔を背けられる。いや、誤解されたくないだけなんだけど。 「明人君たら~、照れちゃって~、飛び込んできてもいいのに~」 美咲は俺の横でクネクネと身体を動かして、訳の分からない事をのたまう。 「いや、しないから」 「ぬ~、正直じゃないんだから」 いやいや、本当に飛び込んでいったらおかしいでしょ。 「時間も時間だし、片付けするでしょ。来たついでだから手伝いますよ」 ここはとりあえず場の空気をかえるべく行動しよう。 「あ、明人君それだったら、アリカちゃんに教えてあげてくれるかい?」 「はい。わかりました。アリカ、表周りやるからこいよ。」 俺が外を指差して言うと、 「偉そうに言ったら承知しないからね」 素直について来れないのか、こいつは。 ちらっと美咲を見ると顔の下半分は笑顔なのに目が笑ってない。なんか怖い。 「んじゃあ、私レジ周りの掃除しよう~っと」 その顔のまま、箒を取りに行く。 なんかドス黒い気を放っているのは気のせいか? 俺とアリカは表の掃除をやった後、表周りに置いてある看板の類を店内に入れる。 表の扉を閉めて施錠の仕方をアリカに教える。 「鍵閉めはこの下側のロックを廻す。んで、左右にある赤いストッパーレバーを下げればいいから」 「これでいい?」 下側のロックを廻すと『ガチャリ』と音が鳴った。 「そうそう。それで扉自体のロックな。んで、左右のストッパーレバー下げて」 「これ?」 アリカの小さな指が赤いレバーを下げると、『ガチャ』と音がした。 「そうそれ。それで扉が固定されたから、これで入り口は終わりだ。内扉も同じだから」 「なるほど。高い所じゃなくて良かったわー」 「それ、コメントしづらいわー」 「へ? あたし背が低い事はそれほど気にしてないよ?」 「え、まじで? なんで初対面の時に怒ったんだよ?」 「あれはあんたが小学生とか中学生とか言ったからじゃん。背が低い事は事実だからしょうがないけど、小学生とか言われたら流石にむかつくわよ」 「えー、そこなのかー。それ難しいな、おい」 「でも格好とかでわかるもんでしょ?」 いや、お前の着てる服装とか見ても小中学生に見えちゃうから。 「ごめん。俺、格好だけじゃ分からないと思うわ」 「それはあんたの見る目が無いからよ」 アリカはそういうとふふっと笑って見せた。 なんだよ、可愛い顔もできるじゃねえか。
土曜日
学校があるときと同じ時間にセットしておいた目覚まし時計が、主人を起こそうと、けたたましくアラームを掻き鳴らす。
俺は寝ぼけながらも使命に燃えたうるさいアラームを手探りで止める。
ついさっきまで美咲さん……いや、美咲が夢に出てきていた。昨日の事で浮かれていたからかもしれない。思い返すと、自然と顔がにやけてくる。
あんなこと言うってことは、美咲は俺の事好きだったりするのかな。いや、浮かれてちゃ駄目だ。付き合ったわけじゃないんだし、美咲は呼び捨てがいいって言っただけだ。もし俺の勘違いだったら、合わせる顔がなくなってしまう。
……そもそも、俺はどうなんだ?
嫌いじゃないけど……。好きなのか? わからん……。
しゃきっとするために、一階に降りて洗顔を済ませよう。
鏡に映る俺の顔は、いつもと違って妙に活き活きとしている。
こんな事ここ一年なかったことだ。
洗顔を済ませた後、昨日の夜に作っておいた残り物を朝食にして、腹ごしらえを済ませ、俺は出かける用意にかかった。
母親はまだ起きてきていないのか、物音一つしない。
そういえば、最近母親の顔も見ていないような気がする。てんやわん屋でバイトし始めてから、今までより遅く帰ってきているからか。
土曜日には母親も仕事は休みなので、家にいるのが当たり前だが、普段は午前中に俺の部屋以外の掃除を済ませると出かけているようだ。
そもそも会話自体がないので、どこに出かけていると聞いたこともないが、趣味であるフラワーアレンジメント教室に通ったり、買い物に行ったりとかしているのだろう。
俺が中学の頃はそんな感じでいたから、おそらく変わっていないはずだ。
俺がバイトから帰ってきたときには、台所や洗濯物はクリアにされた状態なので、家事はそれなりにやっているようだった。
出かける用意ができた俺は、部屋の掃除を軽くして、時間に余裕があったので、まだやっていなかった学校から出された課題を終わらせた。やらなければいけない事を終わらせると達成感か安心感からか、気持ちが軽やかになる。
時計を見ると、そろそろ出かける時間としてはいい感じだ。
九時頃には太一の家に着くだろう。
一応、太一に『今から出るけど大丈夫か?』とメールを送ってみたら、すぐに返信が返ってきて、太一の方も準備ができているとのことだった。
家の鍵を閉めて、自転車に乗って太一の家を目指す。今日も天気が良くて清々しい。
四月も後半になると、通り道にある雑木林の木々が、新緑の濃淡の色彩も鮮やかに、朝の暖かな日差しを受けてか、若々しい成長を示した少年のように存在感にあふれている。
道端にある雑草も、生命の息吹を感じさせるかのように、青々と天に向かい小さな身を伸ばしている。
これがあと一、二ヵ月もすれば、育ちすぎだろと言いたくなるくらい、道にはみ出してきて、うざったくなるのだが、それもまた生き抜いた証とすれば仕方がないのだろう。
自転車を漕ぐこと四十分ほどして、太一宅にたどり着いた。
この辺りは五年ほど前に宅地醸成された区画であり、比較的新しい住宅が立ち並んでいる。
そのうちの一つが太一の家だった。
太一の話では高校入学と同時にこの家に引っ越したと言っていた。
前に住んでいた家も、この付近だとも聞いた。
俺は家の前に自転車を止めると、千葉と書かれた表札の下にあるチャイムを押して、太一に出てきてもらおうとした。
すると二階の部屋の窓から、太一が顔を出し声をかけてきた。
「明人、おはよーさん。朝から悪いな。すぐ行くから、ちと待って」
朝から元気な所を見せているが、寝癖がひどい状態のままだった。
玄関の扉が開き、太一が出てきたかと思いきや、そこには赤い眼鏡をかけた可愛い女の子がいた。太一の妹の綾乃って子か?
太一のやろう、普通に可愛いじゃないか。
幼い顔つきにポニーテールが妙に可愛さを引き出していて、肌も白く、線も細い、それでいて健康的な感じはする。
タンクトップの上にキャラクターが描かれたぶかぶかのロングTシャツを着けていた。
Tシャツに描かれているキャラは確か、馬鹿売れしてる漫画に出てくる愛くるしいマスコットキャラだ。
アニメにもなっているその漫画は中高生を中心に大人気で関連グッズも多い。
ただ彼女の着ている服は、明らかに寸法が違うと思う。
七分丈の綿パンツも妙にぶかぶかに見えるが、だぼだぼな感じを演出したいのか?
彼女は両手で眼鏡をくいっとかけなおすと俺に微笑みながら声をかけてきた。
「おはようございます。木崎明人さんですか?」
「おはよう。そうだけど」
「兄がいつもお世話になってます。妹の綾乃です。初めまして」
深々と頭を下げて挨拶してくる。俺もつられて頭を下げる。
礼儀正しい妹さんだ。とても太一の妹とは思えない。
ちょうど頭を上げた時に太一が玄関から出てきた。
「明人、今日は、一丁頼むわ」
「あいよ。早めにやっつけちまうか」
「もーお兄ちゃん、頭ぼさぼさじゃない! ちゃんとしてよ。みっともない」
兄のだらしない姿を見て恥ずかしく感じたのか、赤面しつつ太一に怒っていた。
「綾乃は黙ってなさい。今日、兄ちゃんらはお前の棚を作るんだからな。偉そうにしない。どうせお前、また外面よくしてたんだろ? げふっ」
「あら? お兄ちゃんどうしたの?」
うわー、俺から見えないような位置に身体をかぶせてから、一瞬で太一にボディブローを食らわしてる。右手の動き見えなかったぞ。
しかも食らわせた本人が心配を装うとは、この子こわー。
「あ、明人。と、とりあえず、上がってくれ」
痛みに耐えながら太一は言う。お前、打たれ慣れてるのか?
「あ、あの明人さんって呼んでよろしいですか?」
綾乃は緊張気味な顔で尋ねてきた。俺としては全然問題ない。
「ああ、いいよ。えと、俺は綾乃ちゃんでいいかな?」
俺が言うとほっとしたようで、にこりとすると、
「それで結構です。どうぞ、お上がりください」
「綾乃~、俺と明人じゃ随分と態度が違うじゃねえか? あいたっ!」
うわ、今度は振り向きもせずに脛に蹴り入れてる。綾乃ちゃんマジ怖い。
「おじゃまします」
「……妹に虐げられる兄って可哀想だよな?」
しゃがんで脛を押さえて涙目になりながら俺に訴える太一。
「お兄ちゃんは大変だな。でも綾乃ちゃん可愛いから許せるだろ?」
俺がそう言うと、綾乃は頬を赤く染める。
「ええ~。可愛いだなんて、そんな照れますー」
「ぶるな、クソが。ぐぉ!」
余計な一言で手傷を増やす太一である。いい加減学習すればいいのに。
しかし、しゃがんでいたとはいえ、今のエルボーも綺麗に側頭部に入ってたな。
綾乃は格闘技でもやっているのか?
「なあ、太一。綾乃ちゃん格闘技でもやってるのか? 妙に技を掛け慣れてるようだが」
綾乃に聞こえないように注意しながら太一に囁く。
「やってねえよ。あいつ、ゲームとかアニメとかの真似して吸収してんだよ。何度、実験台にされたか……」
太一もさすがにこれ以上はダメージ受けたくないのか、綾乃に聞こえないように俺に囁き返す。
「格闘技やってないのに、あの動きかよ。どんだけ研究してんだ」
「散らかってますけど、どうぞ」
俺は綾乃に案内されるまま、二階の部屋に入る。太一の部屋かと思えば綾乃の部屋だった。
女の子の部屋に入るのは緊張したが、彼女が好きなのであろう漫画のカレンダーが飾ってあったり、そのキャラクターの小さな人形が部屋のあちこちに飾られていて、趣味部屋としても機能していた。
「綾乃ちゃんは漫画とかアニメ好きなんだね」
視界に入ったカレンダーを見ながら言うと、
「はい! 大好きなんです。子供っぽいですか?」
「いや、そうは思わないよ。好きなものを好きって言えなかったら駄目でしょ」
正直な感想を述べると、綾乃は嬉しかったのか、口の端が今まで以上に釣りあがる。
「綾乃の趣味は男向けの漫画やアニメが多いんだよなー」
寝癖部分を手櫛で直そうとしながら太一は言う。
「男の兄弟がいるから、その影響はあるんじゃないか? 確か太一、この漫画が載ってる雑誌、毎週買ってたろ」
「あー、買ってる、買ってる」
「私が漫画とか好きなのは、兄のせいですね。それは間違いないです」
「え? 俺のせいなの?」
「そうだよ。お兄ちゃんのせいなんだよ。だからお兄ちゃんは、私をイベントとかに連れて行く義務があるの。わかった?」
とりあえず、太一のせいにしておけば万事うまくいくらしい。
この兄妹のお約束事なのだろう。
部屋にはベッドと机が一体になっているシステムデスクが置いてある。
上の部分がベッドになっていて、その下の空間に机と本棚が入っているタイプだ。
狭い部屋ではかなり効率のいい物だ。
これのおかげで六畳位ある綾乃の部屋は、さらに広く使えている状態なのだが、ベッド下の本棚には彼女の集めた漫画や小説なのであろう本が大量に置いてある。
ただ、すでに置き場所が不足していて、あふれた本は机の上にまで侵攻していた。
あふれた本のために買った収納棚が今日の俺達の相手のようだ。
部屋の中央に置いてある大きな箱がそれだろう。
早速、俺と太一は作業にかかる。
まず箱を開けて内容物の確認――問題なし。
……思ったよりパーツが多い。
ちゃんと順番とか考えて分けておかないと、失敗したら手伝いにきた甲斐がなくなる。
といっても、それほど組み立て自体は複雑ではなく、順番さえ守れば問題はなさげだ。
工具もドライバーがあれば組み立てられる。
贅沢を言えばゴムハンマーがあれば、木枠を入れるのには便利だろう。
太一が工具を取りに行くと言って、部屋を出て行く。
「あの……難しそうですか?」
綾乃は心配そうに聞いてきた。
「いいや、難しくはないよ。パーツが多いから、時間はそれなりにかかると思うけど」
「道具持って来たぞ。電動ドライバーもあるから楽だろ」
太一は手に電動ドライバーと先端が変えられるラチェット型のドライバーを二本持ってきた。
「揃いがいいな」
「親父が日曜大工好きだからな」
「んじゃ、始めようか」
俺と太一は箱の中から板を取り出して、種類別に分けた。
役割分担も俺は部材を支え、太一が固定していく事に決めた。
俺が側板と底板を支えている間に太一が電動ドライバーを使って固定していく。
中間の板と天板を取り付けたところで、まず枠組みができた。
「やっぱ、支えがいると楽だなー。明人呼んで正解だったわ」
作業の手応えに満足しているかのように太一は言う。
太一の横で綾乃も満足そうな顔でうんうんと頷き、組み立てを見守っている。
「これなら俺がバイト行くまでには十分終わるな」
俺の言葉に綾乃が反応する。
「兄からも聞いてましたけど、明人さん、毎日バイトしてるんですよね?」
「ああ、そうだよ」
「いいなー、私も高校になったらバイトしたいんです。欲しいグッズとか高いし、種類も多いから、お小遣いじゃすぐに買えないこと多くて」
「バイトしてたら確かにお金は貯まるけど、その分、自分の時間は無くなっちゃうよ。でも、自分が欲しいものを自分で働いて手に入れたいって考えは偉いね」
俺が感心して言うと綾乃は少し頬を染めて、照れ隠しか前髪をくしくしと撫でる。
「あー、明人。俺のいる前で妹を誘惑しないでくれるか? さわやか光線出してんじゃねえよ」
太一がジト目をして言ってくる。さわやか光線ってなんだよ、わからないぞ。
「どこが誘惑してんだよ! 誰もそんなつもりで言ってねえよ」
「明人さん、誰かとお付き合いしてないんですか?」
「え? 一度も付き合ったことなんてないよ。さっきも言ったろ? 自分の時間が無いから、そういう機会も無いし。まあ、そもそも女の子にもてた事ないから、時間あっても出来たかどうかわかんないけどね」
自嘲気味に質問に答えると、綾乃は驚いた顔を見せた。
「えー!? 明人さんもてた事無いって嘘でしょ? 兄なら分かりますけど」
いや、本当にもてた事無いし、それよりお兄ちゃんいじるの止めてあげようか。
なんか太一の顔が可哀想な事になってるよ?
「ほんと、ほんと。もてた事無いって。学校の女子とまったく交流無いし、あるって言ったらバイト先くらいだよ」
「えー、私だったら、明人さんみたいな人が彼氏だったらいいなーって思いますけど?」
そう言った綾乃は、ふと我に返ったように顔が真っ赤になる。
そこは勘違いしないから安心して欲しい、お世辞として受け止めておこう。
「そう言ってくれると救われるね。俺も綾乃ちゃんみたいな子が彼女だったらいいなって思うよ」
一応お世辞のお礼とばかりに返す。
その言葉を受けて、綾乃は更に顔を紅潮させて、照れた時の癖なのか、前髪をくしくしと撫でる速度も上がっていた。
「綾乃なんて彼女にしたら大変だぞ? 兄の俺が言うんだから――いえ、何も無いです」
綾乃の眼光が鋭くなり、その背後にドス黒いオーラを感じたのであろうか、太一は話を途中で止めた。
眼力だけで太一を黙らせるなんて、綾乃ちゃん、マジ怖い。
雑談をしながら作業を続けていると、ドアがノックされ開けられた。
「たっ君、綾ちゃん。今、帰ってきたんだけど、もうお友達来てるの?」
俺のいる位置からだと、ちょうど死角になっていて、その姿は見えないが、どうやら太一らの母親のようだ。
家に来たときに顔を出さないなと思っていたけど、留守にしていたからか。
母親から『たっ君』って呼ばれるのは、太一は抵抗ないのだろうか?
俺も小さい時『あっ君』って呼ばれていた時期があったけど、五年生位の時に母親に止めてくれって言った記憶がある。
今じゃ『あんた』だけど……。
「あー、母さんお帰り。もう来てるよ。今、手伝ってもらってる」
「あらあら、それじゃあ、ご挨拶しないとね」
その声と同時に部屋の中に入ってくる太一の母親を見て驚いた。
凄く若く見えるけど何歳なんだ?
目の前に現れた女性は、どう見ても三十歳前後にしか見えない。
眼鏡はかけていないが、綾乃の未来の姿が、まるでそこにいるように見えるほど、母親と綾乃はそっくりだった。
「初めまして、木崎明人です。お邪魔してます」
俺は立ち上がり、頭を下げて挨拶すると、太一の母親も丁寧に頭を下げて返してくる。
「初めまして、太一の母です」
「町内会の集まりはもう終わったの?」
綾乃が聞くと、母親は困ったような顔をして答える。
「……うん。終わったんだけど。母さん話がよくわかんなかったのよねー」
「お母さん……何しに行ったの?」
綾乃が憐れみに帯びた目を母親に向けて言う。
「大丈夫でしょ。またお隣の加藤さんにでも聞くわ」
お気楽母さんを地でいってるな。
知らないけど、隣の加藤さんは凄く頼りにされているようだ。
加藤さん、千葉家のために頑張ってください。
なんとなく太一の性格は、この人の影響が大きいのだろうと思ってしまった。
「木崎君、ゆっくりしていってね。後でお茶もってくるわ」
太一の母親はそう言って部屋を出て行った。
「太一のお母さん若いなー。それに綾乃ちゃんはお母さんに顔そっくりだねー」
「ああ見えて四十三なんだぜ? 一種の妖怪だよ」
自分の母親に向かって失礼な言い方をする太一である。
しかし、四十三歳にはまったく見えない、独身と言っても通じるんじゃないか?
「見た目が若いのはいいんですけどねー。そっくりすぎると色々……」
げんなりした表情で綾乃は言う。
何かその事で嫌な思い出でもあったのだろうか。
「若く見えるほうが何かといいだろ。それに優しそうだし」
「そうですねー。優しいのは優しいですけど、天然というか……心配になることが」
綾乃は笑顔で言うが、心配することの方が多いのか目が笑ってない。
俺はどう答えていいか分からずに愛想笑を浮かべた後、作業を再開した。
今の作業の現状だと、雑談を交えながらでも、時間的に余裕がある状態ではある。
組み上がってくると、ゴミも増えてくる。
緩衝材やら発泡スチロールとかビニール袋が部屋の空間を占めてきて邪魔になってきた。
「綾乃、母さんの所に行ってゴミ袋もらってこいよ」
太一もゴミが気になってきていたのか、綾乃に指示を出す。
「はーい」
その指示を聞くや否や立ち上がり、綾乃が素早く部屋から出て行くと、太一はゴミを入り口付近に集めだす。
兄妹ならではなのか、役割分担の素早い対応に感心する。
俺は俺で、最終的な組立段階である可動式の前面部を組立していた。
組み立てている棚は、前面にマガジンラックが付いているタイプなので、棚の中は見えない。
ファッション雑誌を前面に置くことで、いわゆるお洒落な部屋も演出できそうだ。
これが太一の物ならマガジンラックには少年誌が置かれ、中の棚にはエロ本でも隠しそうだけど……。
綾乃がゴミ袋を持って戻ってくると、太一と二人で持ってきたゴミ袋にゴミをわしゃわしゃと入れていく。
聞こえてくる発泡スチロール同士の擦れる音が気持ち悪い。
「できた!」
可動部分は細かい取付部品が多かったので、少し時間がかかったが完成した。
「ありがとうございます。明人さん」
綾乃は目を輝かせながら、嬉しそうにしている。
静電気を帯びた発泡スチロールの欠片と格闘していた太一は「お兄ちゃんには無いの?」といった表情だった。
「後は設置だな。置き場所は、この壁際で良いの?」
ベッドの置いてある対面側の壁を指を差す。
「はい。その壁際でお願いします。ほら、お兄ちゃんも反対側持って」
太一は「俺には命令なのね」と言いながら、諦めの表情を浮かべ反対側を持った。
二人で持ち上げ、壁にぶつけないように慎重に置く。
「うわー。イメージ通りの部屋になったー。部屋綺麗に飾るぞー」
綾乃は置かれた棚を見て、両手をあげて喜んでいる。
これだけ喜んでくれると手伝った甲斐もある。
「とりあえず綾乃は軽く掃除しとけよ。俺と明人はゴミ片して下で休んでるから」
「うん。ぱぱっとやって、私もそっちに行く」
ゴミを庭先まで運ぶと、その後リビングに連れて行かれた。
リビングには大型の液晶テレビが壁面にあり、その正面には小さなガラスのテーブルと三人掛け用の黒い皮製のソファーが置いてある。
太一に促されソファに座る。
リビングからキッチンがカウンター越しに見えていて、キッチンでは太一の母親がお茶であろうか、なにやら用意しているのが見えた。
「ごくろうさま。休みの日にわざわざ手伝いに来てくれてありがとうね。これどうぞ」
太一の母親はそう言うとトレイにお茶を載せて来て、俺の前にコップを置いた。
作業も終わってちょうど喉も渇いていたので、早速いただくことにした。
「すいません、お茶いただきます」
コップに口をつけ、冷たいウーロン茶を流し込むと、渇いた身体が潤ってくる。
太一の母親はテーブルの脇にちょこんと座ると、何かを思いついたように聞いてきた。
「ねぇ明人君、どうしてたっ君に彼女できないのかしら?」
「ごふっ! げほっげほっ!」
突拍子も無いことを聞かれ、お茶が気管に入りむせこんだ。
そんなの俺が知るわけ無いだろ! 息子に聞け、息子に。
「母さん、いきなり何聞いてんだよ? 全く関係ない話だろ!」
太一は慌てて母親に抗議の声を上げた。
「だって、母親としては気になるじゃない? 息子がもてないのは何でだろうって。たっ君イケメンじゃないけど、不細工ってわけでもないし、内気ってわけでもないし、お母さんわかんないの。明人君、たっ君って学校の女子で仲がいい子いないのかな?」
「ごふっ、ごほごほ。えーと俺の知る限りではいないですけど?」
まだ気管に少し残っていてむせ返っているが、俺は事実のみを伝えた。
「えー、そうなんだ。お母さん悲しいわ。たっ君が彼女連れてきて、『わー、可愛い彼女ねー』とか『何この子? 今から嫁姑したいの?』とか話するのに憧れてたのに。お母さんの夢、叶えてくれないのね……」
すいません。俺があなたの息子でも、それは叶えてあげられないと思います。
てか、二番目の台詞なんですか?
その事を聞いた時点で家に連れてくるのは止めようと考えます。
「母さん……お願いだから向こう行っててくれる?」
太一が羞恥心の限界を突破したのか、懇願し始めた。
「たっ君、お母さんいつも言ってるでしょ? お母さんを仲間はずれにしちゃ駄目って。私も明人君とお話したい」
いや、お母さん。その原因作ってるのあなたですよ?
太一の母親は太一の訴えなど無かったかのようにスルーして、俺を見てニコニコとしている。
「俺の事はいいからさ、別の話にしてよ! 明人の事聞いたらいいじゃん」
太一は母親の態度に排除することを諦めたのか、今度は別の話題を振ろうと必死になっている。
「明人君はお付き合いしてる人いないの?」
「さっき綾乃ちゃんにも聞かれましたよ。俺もいないんです」
言うたびに何か心が痛く感じる。なんか落ち込みそうだ。
「あらあら、明人君ならいそうな感じなのに」
少し驚いたような表情で言う。
「そ、そうですか? 俺もてた事も無いんで分からないんですけど。イケメンじゃないし」
「明人君はなんて言うのかしら……。構いたくなる感じがするのよね。多分親しくなったら、好きになられるタイプよ」
言われた瞬間、脳裏に美咲が浮かぶ。
「今、誰かの事思い浮かべたでしょ? そういう子がいるのね?」
「え!?」
言い当てられて続く言葉が出なかった。
俺が美咲を気にしてる?
いやいや、昨日の今日だから、思い浮かべただけのはずだ。
うん、多分そうだ。
「ふふっ、私、勘は鋭いのよ? たっ君がいたずらした時とか隠し事した時だって、すぐ分かっちゃうんだから」
ニコニコと笑みを崩さず太一を見やる。
「母さん、そんな小さい頃の話を。高校なってから、そんなのしてないだろ」
口を尖らせて言う太一だが、中学まではいたずらしていたように聞こえる。
「たっ君も明人君もよく聞いてね。好きな人ができたら待ったら駄目よ? 自分から動かないで彼女が欲しいなんてのは甘いんだからね。がっぷりよっつよ!」
最後、意味がわかんないんですけど。
「お片付け終わったよー」
片付けを終えたらしく、綾乃がリビングにやってきた。母親の横にちょこんと座る。
「何の話してたの?」
俺らの顔をちらりと見た後、綾乃が母親に聞く。
「ん? 明人君に彼女がいるのか聞いてたのよ」
「あ、私もそれ聞いた。明人さんならいそうな感じなのにね」
「あら、綾ちゃんもそう思った? お母さんもそう思ったのよね。でも、何か気になる人がいるみたいだけど」
綾乃は母親の言葉に驚いた様子で俺を見つめる。
「明人さん、好きな人いるんですか?」
「……いない。さっきも言ったけど交流がある女子はいないし、交流あるのはバイト先の人だけど……。好きな人って言われるといないな」
そもそも異性に対する恋愛感情自体を俺は分かっていないから、こう答えることしかできなかった。
太一に助けを求めるように視線を投げかけると、何か言いたげにニヤニヤとしている。
この状況だと孤立無援の模様だ。
「バイト先の人とは交流あるんですよね?」
綾乃が畳み掛けるように質問をしてくる。
「ほら、仲良くできなかったら気まずいだろ? それにバイトの時だけだし」
何だ、この空気。
何で俺、尋問されてるんだ?
「綾ちゃんは、明人君の事気になるみたいね」
母親の言葉に綾乃の顔が一瞬で真っ赤になり、前髪をくしくしと撫で始める。
「ち、違います。こういう話って聞きたくなるじゃない。お母さんもそうでしょ」
「ええ、こういう話お母さんも大好きよ。で、明人君どうなの?」
標的が変わったと安堵させた途端、俺に向けるの止めてほしい。
「いや、何も――ないですよ。仲良くはできてると思いますけど」
話題を変えたい。
自分の話するのって意外と難しい。
「母さん、明人のバイト先っていえばさ。明日だよ。叔父さん所のバーベキュー」
太一が援護射撃の如く別の話題を出してきた。おお、心の友よ。
「あら、バーベキュー明日だっけ? 忘れてたわ」
「え? バーベキューって、何の話?」
綾乃が何それ聞いてないといった顔で母親と太一を見る。
「綾ちゃん、バーベキューはね、お外でお肉とか野菜を焼いてみんなで食べることよ」
「お母さん……それぐらいは分かるよ?」
綾乃は、母親に憐れみの目を浮かべて言う。
「明人のバイト先って、叔父さんの所なんだ。んで、明人の歓迎会と親睦会を併せてバーベキューするんだ。叔父さんらの計らいで俺も誘われたんだよ」
太一は、母親のボケをスルーして綾乃に説明を続ける。
「えー、お兄ちゃんだけずるい!」
「そうよ、たっ君だけずるい!」
綾乃は分かるけど、お母さんまで何言ってるんですか……。
「ちょ、それ、俺に言うなよ。叔父さんらが決めたんだから」
「それじゃあ、了解を取っちゃいましょう」
母親はポンと手を叩くと立ち上がる。
「「「え?」」」
俺達がぽかんとしている中、リビングに置いてあるコードレス電話を取り、電話をかけ始めた。
「あ、兄さん? 涼子です。今、大丈夫ですか? ……明日、太一がそっちでお世話になるでしょう? …………ええ、そう、それ。……明日、弘樹さん仕事でいないから、私と綾乃も参加させてもらっていいかな? ……ええ……うん…………ありがとう。では明日お願いします」
受話器を置いた母親――涼子さんは俺達に指でOKサインを送ってきた。
それを見た綾乃は喜び、太一は微妙な顔をした。
家族の監視付きだと太一も無条件に楽しめないからだろう。
美人との楽しい一時を楽しみにしていただけに可哀想な奴である。
「聞いたら兄さんは『むしろウェルカムだぞ』って言ってくれたわ」
その電話の相手本当にオーナーか? そんな言い方しそうに無いんですけど。
ともあれ、明日は人数が増える分、賑やかになるような気がする。
壁に飾ってある時計を見ると、まもなく十一時になろうとしていた。
バイトに向かう途中のコンビニか何かで、軽く昼食を取るつもりだったので、そろそろ出る用意をしないと。
「すいません。お昼からバイトなんでそろそろ出ます」
「あ、ちょっとまって。すぐ用意するからお昼食べていって」
俺が返事をする前に涼子さんはそういうとキッチンに向かい、準備を始めた。
「明人、時間的には食べて行っても大丈夫だろ?」
「まあ、ここで食べていけば時間的に余裕あるけど。なんか悪いな」
「気にすんな」
既にある程度準備がされていたのだろうか、五分ほどで食卓に呼ばれた。
食卓に並んでいたのは、ペペロンチーノで偶然にも俺の好きな物だった。
家族で食卓を囲む事がこの一年間無かった俺には、妙に気恥ずかしさを感じるものだった。
俺の気恥ずかしさを遠慮と受け止めたのか、涼子さんはニコニコとして言った。
「遠慮しないで食べてね。しっかり食べないとバイトで力が出ないわよ」
「ありがとうございます。いただきます」
にこやかに過ごす昼食の一時は安らぎに満ちていて、俺には少し眩しく、また羨ましくもあったが、一緒にいて居心地は悪くなかった。
友人宅で過ごす昼食に気分的にも肉体的にも満たされていく。
俺と太一は、ほぼ同時に食べ終わった。
「ごちそう様でした。おいしかったです」
「ごちそーさまー」
「はい、おそまつさまでした」
「んじゃ、明人見送ってくるわ」
太一が自分の食器と俺の食器を一緒にキッチンに置きながら言った。
「はいはい、明人君バイトがんばってね」
「はい、がんばってきます」
「あ、明人さん。今日は本当にありがとうございました。また、遊びに来てくださいね」
「いやいや、また何かあったら気軽に言ってきて。また今度来た時もよろしく」
太一と一緒に玄関先まで出た俺は、自転車に荷物を積んだ。
「明人、今日はサンキューな。また何かあったら頼むわ」
「任せろ。んじゃ、今日もいっちょ、がんばってくるわ」
「おーがんばれよー。勤労青年」
太一に見送られ、自転車を漕ぎ出し、バイト先のファミレスに向かう。
満ち足りた昼食を取ったからだろうか、妙に身体が軽い。
今日一日のバイトが楽に感じられそうだ。
もし、俺の家族が太一の所みたいだったなら、そう感じられたのだろうか。
いつか、俺が家族を持つことになるなら、そうなりたいと切に願う。
時間的に余裕もあり遅れること無く、バイト先のファミレスに辿り着いた。
店内は昼食時間の頃合に入ったせいか、混雑が始まっていた。
土曜日は特にその傾向が強く、俺は急いで更衣室に入り、ユニフォームに着替え、店内に入った。
「おはようございます。木崎はいりましたー」
この店のルールに従い、先に店内入りしている人たちへ店入りした事を伝える。
レジカウンターにいた店長の中村さんが、その声に気付き声をかけてくる。
「木崎君、おはよう。今日で最後だけどお願いね。早朝入りした人も入れ替わるから。そろそろラッシュの時間だから気合入れてね」
「はい、わかりました。注文まだのところ入ります。おすすめはまだチェンジしてないですよね」
「ええ、おすすめはそのままだからよろしく」
店員の呼び出しを知らせるベルが鳴る。
呼び出し番号を確認し、その席に向かうとお客は家族連れでまだ幼い子供がいた。
注文を受け取り、手にした端末機で入力し、復唱して確認を取り、あわせて幼い子供がいる場合の質問もしておく。
「お子様用の小さい器とスプーンとフォークは、おつけしましょうか?」
「あ、お願いします」と女性が言った。
「ご注文承りました。料理ができるまでしばらくお待ちくださいませ」
お客に対する決まり文句を告げると一礼して席を後にする。
注文は端末機の決定送信を押すことによって、自動的に厨房に伝達される仕組みだ。
厨房前にある表示機で送信されているかの再確認をする。
俺が受けた注文はちゃんと表示されていたので問題はなかった。
確認を終えた俺は子供用の小さい器とスプーンとフォークを用意して、先ほどの席に向かい一礼する。
「お子様用の器とスプーン、フォークになります」
お客は頭をぺこりと下げて、暗黙の礼をする。
俺が席を離れた時にまた呼び出しのベルが鳴る。
ちらりと入り口付近を見ると、既に待機している人が現れ始めていて、ラッシュを迎え始めている事を暗に示していた。
こうなると店内はすべての所が戦場になる。
全部で四十席ほどある店内はどんどんと埋まっていき、案内、水出し、注文、料理の搬送、後片付け、これが引っ切り無しにあちこちで発生する。
厨房でも注文が殺到し、処理に追われて行く。
こういった時のレジは正社員もしくは店長が入り、バイトやパートの人は基本的に店内を処理していく。
今日の店内要員は俺を合わせても三人しかいない。
これで乗り切らないといけないのだ。
各戦場での戦いは、今のところ順調にこなされていて問題は起きていない。
「七番キャリー入ります! 三番リフレ願います!」
何度か席と厨房前を行き来していると同じバイトの人からの声が聞こえた。
直訳すると、七番席に料理搬送するから、三番席の片付けを願いますって事である。
ちょうど身体が空いた俺はすぐに三番席の片付けに向かう。
会社が決めたルールで、こういった専門用語も飛び交うので注意が必要なのである。
ラッシュの始まりからあっという間に二時間が経過した頃、段々と客足が落ち着いてきた。店内も空席が目立つようになってきた。
店長の中村さんも昼食時のラッシュを問題無くこなせたからか、安堵の表情を浮かべて店内の様子を窺いながら、俺たちの所へやってきた。
「お昼のピークは終わったわね。今日はスムーズにいけたわ」
問題が起きると、その問題の解決に一名もしくは店長が捕まるために、新たな問題を招くことがある。
俺がバイトしていた期間でも何度かあったが、ラッシュ時に起きるとその余波をまともに食らうのでメンタル的にもきつくなる。
「そうですねー。やっぱ、お昼のラッシュはきついっすね」
「次は夕食時のラッシュが来るから、それに備えていてね」
夕食時までのファミレスは比較的、客足は少なくなる。
遅い昼食の客か、軽食目当ての客層になるからだ。
この時間を利用して、九時頃から勤めている人たちは先に休憩に入る。
俺のように昼から勤務する者は、その間の店を切り盛りするのである。
俺の今日の勤務時間は、休憩を挟んで夜の九時まで、四時頃に一度休憩に入り五時からの長いラッシュに備えるのが通常だ。
お昼のラッシュは二時間ほどだが、夜のラッシュは少しだけ長い。
夜の八時を過ぎるまではラッシュが続く。
今のこの時間帯は客足が少なくなり、ゆっくりとした時間が進む。
ここでのバイトは約一年ほど続けていたが、気が付けば俺よりバイト暦が長い人は誰もいなくなっていた。
ファミレスはバイトの中でも人気があるので、代わりは幾らでも入ってくるが、忙しさに割が合わないと辞める人も後を絶たないからだ。
平日だけならそれほど混み合わないのだが、土日となると過酷な状況が生まれやすい。
ましてやイベントが近くであった時などは、もっと最悪になる。
「ただいま。特に何も無いよね?」
店長が休憩を終えて戻ってきた。
店長はいつも休憩を短くしか取らないけれど、身体は大丈夫なんだろうか。
「店長おかえりなさい。何も問題ないですよ」
「まあ、今日は慣れてる木崎君いるから大丈夫だね」
「がんばりますけど。ここの変なルールさえ無ければ辞める事も無かったでしょうね」
ここのファミレスの変なルール――高校生のバイトは週三回まで、土日の場合は連続で勤務させることを禁止。
週の勤務時間の合計が十六時間を超えることを禁止。
これらを守らない店長は、ペナルティが与えられると聞いたことがある。
他にも夜の十時以降勤務禁止など、法律でうたわれている部分もあるので、理解できるものも多々あるのだが、これがネックとなり俺は週二回が限度になってしまった。
「あれ、私も本部に文句言ってるのよ。これ無理がありすぎでしょうって。各店に任せて欲しいのよね」
「変わるといいですけどねー」
話の途中だったが、レジに向かって客が移動し始めたのを見て、店長は「あ、ちょっと行ってくる」と言ってレジに向かう。
俺も客がレジまで行ったのを見届けてから客席の片付けに向かった。
それからしばらくして休憩する時間になり、更衣室に入り軽く休憩する。
ロッカーの中から鞄を出して携帯を見てみると、二件のメールが来ていた。
一件目は太一からで、二件目は美咲だった。
美咲の用件……そういや初めてだ。
メアド交換してから一度もやり取りしてなかった。
先に見てみると件名は『えーと』って、わかりにくいわい。
中身を見ると、『昨日言った事ホント?』と短い文章だった。
冗談だと思っていたのか、確認したかったのかよく分からんが、一応『ホントですよー。こっちのバイトが終わったら、そっちに行きますからね』と返信しておく。
太一の件名は『返事不要』いつものことながら律儀な奴である。
用件は、今日のお礼とあの後、綾乃から俺の事を質問されたとの事だった。
余計なことを言っていないかちょっと心配になったが、明日になったら分かるだろう。
携帯を鞄に仕舞おうとした時、デフォルトのメール着信音がなる。
着信を見てみると美咲だった。
『ホントにいいの?』
あら、遠慮してるのかな?
『俺が行きたいから行くんです』と返信しておく。
それからすぐに返信が入り『うん、わかった。ごめんね何度も』と遠慮がちな内容に夜の帰り道での美咲を思い起こしてしまって、思わず微笑してしまう。
気のきいた返信でもしようかと携帯片手に悩んでいたが、いい言葉が浮かばずに休憩時間が無くなってしまった。
鞄に携帯を入れ、ロッカーに仕舞うと更衣室を出て仕事に向かう。
あと、小一時間もしたら夕食ラッシュが始まるだろう。
それに備えての準備もしておかなければならない。
まず分かれて、客席の上に置いてある紙ナプキンや塩、コショウなどの調味料の補充をする。
このファミレスでもサラダバーやドリンクバーといった定番商品があるので、手が空いた者はこちらの準備に移る。
ラッシュ時にもなると、これらの補充、交換作業もままならない事が多々ある。
痛まないように冷蔵保温されているサラダバーも、品質確保のために時間で交換しなくてはならず、六時間毎に交換するのがこの店のルールだ。
ラッシュ時に補充はともかく交換作業するのは、はっきり言って自滅行為なので、この店ではラッシュ前の時間を利用して準備する。
また客がいる中での作業は決して慌しく見せてはならないと教育されているので、あたかも自然にこなす必要もある。
ドタバタと店員が準備してたら、俺が客でも落ち着かないと思うから、その教育は理解できた。
従業員もこの時間帯に入れ替えが発生する。
昼食ラッシュを共に切り抜けたバイトの人が帰り、見たこともないバイト員が二人入ってきていた。
はっきり言って、これが一番怖い。
この時の組み合わせで、経験によって処理能力に差が出るのは仕方がない事だが、対処方法など無く、自分が泥を被る覚悟をしておく事くらいしかできないのだ。
大体の準備が出来上がった頃、客足が少しずつ増え始めていた。
客の中には混み合うのを嫌って、早めに夕食を摂りに来る人も多い。
店内をざっと見回して問題の無いことを確認して、レジ付近にいる店長の所へ向かう。
「店長、店内オールオーケーです。客入り案内貰います」
「はーい、サンキューです。ふふっ、木崎君そのまま正社員やれそうね」
「一年もやってたら覚えますって。あ、お客入りますね」
入り口から、三人連れの家族が入ってきた。
俺はそのまま客席に案内し、水を運んだ後、当店のお奨めを紹介して席を後にした。
いざ、開戦の幕が切られんとばかりに、客足は増えていく。
時間と共に埋まっていく客席、あちらこちらから呼び出しのベルが鳴る。
夜の従業員数は一名増えている状態だが、あまり機能していない。
おそらくまだ不慣れな者がいるのだろう。
対応が何かにつけて遅い。こうなってくると戦況は怪しくなってくる。
店長が少し不安げに店内を見ている。
「二十一番キャリー入ります。十五番席オーダープリーズ」
俺がワゴンで料理を運びながら、初めて見る眼鏡を掛けたバイト員に声を掛けたがスルーされた。
ああ、駄目だ。余裕がないのか耳に入っていない。
自分の経験則から言うと、ここで慌てると二次災害が勃発しやすくなる。
まず自分の手持ちをやっつけることを優先させる、これが大事だ。
二十一番席に料理を運び、注文の抜けが無いか確認――問題なし。
さあ、次だ。
すぐさま十五番席に向かい、すぐさま非礼を侘びる。
「大変お待たせして申し訳ありません。ご注文お伺いします」
その時、厨房の前から『ガッシャーン』と何かをひっくり返したのであろう音が響く。
客は何事といった感じで、その方向に視線を集中するが、こういった時にも慌ててはならない。
「お騒がせして申し訳ありません。すぐに係の者が処理いたしますので。ご注文の続きお伺いします」
問題が起きても一つでも接客処理してから次のことを進める。
これが俺がここで教わったことの一つだ。
問題に囚われて物事の流れを遮断するほうが、後々響くことになるからだ。
ひたすら忙しい時間はあっという間に流れ、怒涛のラッシュが落ち着きを見せ始めたのは、俺が休憩に入る時間のほんの五分ほど前だった。
概ね三時間にわたる戦いに正直疲れていた。
店長もレジ以外に店内を駆け巡り、フォローやカバーなどの対応に追われて大変そうだった。
「木崎君、お疲れ様。もう大丈夫そうだから休憩に入って」
店長が俺のところに来て指示してきた。
「はい。ありがとうございます。俺、早めに戻るんで、店長も少し休んでくださいよ」
俺が言うと優しげな目で俺を見つめて微笑んだ。
「ふふっ。ありがとう、木崎君は優しいね。ささ、休んで休んで」
店長の言葉に従って、更衣室に入り休憩する。
『はあ』ため息が一つこぼれ出る。
この休憩が終わったら、ここでのバイトも少しだ。
この一年、慣れるまでは苦労したけど、いい経験はできたかなと自分で思う。
今までの事を思い浮かべていると『コンコン』と更衣室のドアがノックされた。
「木崎君、休憩中ごめんね。今、大丈夫かな?」
店長の中村さんだった。
「はい、どうぞ」
俺が返事すると、中村さんは手に封筒を持って入ってきて、俺に手渡した。
「今までのお給料は振込みなんだけど、これは今までよく頑張ってくれた、ちょっとしたお手当てよ。ちゃんと社則に従っているから問題ないわ。受け取ってね」
封筒には『慰労金』と書かれていた。
「え、いいんですか?」
「いいわよ。ちゃんと本部にも相談して決めた事だもの。あなたへの評価ってかなり高かったのよ。あなたが高校生じゃなかったらって、何度思った事か。やる気も仕事もバイトどころか正社員並みだったもの。正直辞めてほしくないけど、次の所でも、同じようにがんばってね」
中村さんに言われて、ちょっと泣きそうになってしまった。
自分のやってきた事への評価が高く認められた事への嬉しさからくるものだった。
「ありがとうございます。俺、そう言ってもらえて嬉しいです」
中村さんはニコッと笑顔を向けると、
「仕事に戻るわね。まだゆっくりしててね」
そう言って更衣室を後にした。
俺は受け取った封筒を何故か開封する事ができなかった。
中身なんか幾らでも良かった。
ただ、嬉しかった。
俺という個人の働きを認めてくれたのが嬉しかった。
鞄を取り出し、封筒をしまい最後のお勤めへと、張り切って更衣室を出る。
「あら、もっと休んでていいのに。もういいの?」
中村さんは目を丸くして俺を見てきたが、
「店長も休んでくださいよ。店長潰れたらこの店やばいんですから」
そう言うと、中村さんは「本当に木崎君は生真面目ね」と笑って休憩に入っていった。
しばらくして店長が戻ってきたが、残された時間が少ない時というのは、あっという間に過ぎるもので、それから少しして今日の勤務時間は終わった。
「木崎君。時間だわ。上がっていいわよ。今までありがとう」
「こちらこそお世話になりました。今度は客として来させてもらいます。忙しくない時間狙って」
「ふふ。そうしてちょうだい。うちのファミレスごひいきにしてね。あ、後ユニフォームは、ロッカーの中に入れたままでいいからね。まとめてクリーニングに出しちゃうから」
「はい、わかりました」
更衣室に着替えに行く前に、厨房にも顔を出して世話になった挨拶をすると、見知った顔の人たちから『お疲れさん、元気でな』と励ましの声を貰った。
更衣室で着替え終わり、ロッカーに鍵をさしてから自分のネームプレートを外す。
更衣室から出て、最後にもう一度中村さんに挨拶する。
「今まで色々とお世話になり、ありがとうございました」
「こちらこそありがとう。またお店に来てね」
「はい。では失礼します」
店を出るときに時計をちらりと見ると、九時三十分になろうとした所だった。
ここからてんやわん屋まで二十分ほどだから、ちょうどいい感じになりそうだ。
車の通行が少なくなってきているなと思いつつ、てんやわん屋への道を進める。
今日は美咲とアリカで表屋をやっているはずだ。
美咲がアリカを襲っていないかが心配だ。
店長の事だから、おそらく何度か様子を見にきてくれていただろうとは思うけど。
いつものように郵便局を通り過ぎ、てんやわん屋に辿り着く。
そろそろ片付けを始める時間だ。
外から見た感じだと、アリカの頭らしきものがピョコピョコと動いていたので、アリカも表屋にいるようだ。
美咲の姿がレジ周りにいないようだけどどうしたのだろうか?
俺は自転車をいつもの所へ止めると入り口から店内に入っていった。
「いらっしゃいませー。――なんだ、あんたか。……ち」
アリカが猫被ったような可愛い声から一転して残念そうな声になる。
おい、そういうの止めろ。地味に傷付くから。
しかも今お前、小さく舌打しただろ。
「美咲さんは?」
「店長の所に行ってる。ついさっき呼ばれたよ」
「あー、そっか」
「あんた、何してんの? 今日、他のバイトだったんでしょ?」
アリカはじろっと睨みつけてきた。
「あー、終わった帰りなんだよ。ちょっと気になって、こっち見に来た」
「なんで?」
「いや、ほら、俺がいないと美咲さんとお前が表屋の店番になるだろ?」
「うん。今日は確かに殆どこっちだったけど」
「また美咲さんに襲われてやしないかと心配したんだけど、お前の様子だと大丈夫だったみたいだな」
アリカの顔がなんでか赤くなる。
「え? あんた、あたしの心配――いあ、そうじゃなくて、あんた暇なのね」
ゆらゆらしていたツインテールをギュッと握り締め、顔を赤らめたまま睨んでくる。
「ほっとけ。もうすぐ店仕舞いだろ。手伝うわ」
「あんた、ホントに暇なのね」
「うるせ」
その時、奥の扉が開いて店長と美咲が現れた。
「おや、明人君どうしたんだい?」
店長は俺の姿を見て少し驚いた表情を見せる。
「あ、ファミレスのバイト終わったら、こっちが気になっちゃって帰りに寄ってみました」
「おやおや、疲れているだろうに。よっぽど心配な事でもあったのかな~?」
店長は薄ら笑いを浮かべると、アリカから美咲へと視線を写した。
>> 129
家の前に着くまでの“美咲”は、ご機嫌で、機会があるごとに名前を呼ばされた。
今日は部屋の明かりが点いておらず、はるなさんはまだ帰っ…
美咲は俺の姿を視認すると俯いて聞こえない声で何かを呟き、すぐさま顔を上げると満面の笑みで両手を広げてこう言った。
「明人君! さあ、私の胸に飛び込んでいらっしゃい!」
「理由がわからねえよ!」
「え? いつもと違うの?」
「いつもって言うな! したことねえし!」
店長はいつものように薄ら笑いを浮かべているが、アリカは明らかに俺を蔑んだ目で見ていた。
「おい、勘違いするなよ? 言ってるような事してないからな?」
蔑んだ目で見ているアリカに向かって言う。
「何であたしに言い訳してんのよ。関係ないし!」
ぷいっと顔を背けられる。いや、誤解されたくないだけなんだけど。
「明人君たら~、照れちゃって~、飛び込んできてもいいのに~」
美咲は俺の横でクネクネと身体を動かして、訳の分からない事をのたまう。
「いや、しないから」
「ぬ~、正直じゃないんだから」
いやいや、本当に飛び込んでいったらおかしいでしょ。
「時間も時間だし、片付けするでしょ。来たついでだから手伝いますよ」
ここはとりあえず場の空気をかえるべく行動しよう。
「あ、明人君それだったら、アリカちゃんに教えてあげてくれるかい?」
「はい。わかりました。アリカ、表周りやるからこいよ。」
俺が外を指差して言うと、
「偉そうに言ったら承知しないからね」
素直について来れないのか、こいつは。
ちらっと美咲を見ると顔の下半分は笑顔なのに目が笑ってない。なんか怖い。
「んじゃあ、私レジ周りの掃除しよう~っと」
その顔のまま、箒を取りに行く。
なんかドス黒い気を放っているのは気のせいか?
俺とアリカは表の掃除をやった後、表周りに置いてある看板の類を店内に入れる。
表の扉を閉めて施錠の仕方をアリカに教える。
「鍵閉めはこの下側のロックを廻す。んで、左右にある赤いストッパーレバーを下げればいいから」
「これでいい?」
下側のロックを廻すと『ガチャリ』と音が鳴った。
「そうそう。それで扉自体のロックな。んで、左右のストッパーレバー下げて」
「これ?」
アリカの小さな指が赤いレバーを下げると、『ガチャ』と音がした。
「そうそれ。それで扉が固定されたから、これで入り口は終わりだ。内扉も同じだから」
「なるほど。高い所じゃなくて良かったわー」
「それ、コメントしづらいわー」
「へ? あたし背が低い事はそれほど気にしてないよ?」
「え、まじで? なんで初対面の時に怒ったんだよ?」
「あれはあんたが小学生とか中学生とか言ったからじゃん。背が低い事は事実だからしょうがないけど、小学生とか言われたら流石にむかつくわよ」
「えー、そこなのかー。それ難しいな、おい」
「でも格好とかでわかるもんでしょ?」
いや、お前の着てる服装とか見ても小中学生に見えちゃうから。
「ごめん。俺、格好だけじゃ分からないと思うわ」
「それはあんたの見る目が無いからよ」
アリカはそういうとふふっと笑って見せた。
なんだよ、可愛い顔もできるじゃねえか。
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