愛されたくて
(父遍:単略)
父は知能障害を持って生まれました。昔の典型的な長男が1番という家に次男として生まれ親に疎まれ若い時はよく家出をしたそうです。それでも父の稼ぐお金は妹達の学費や生活費に無くてはならないもので家出する度に連れ戻されたようです。
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肝心の長男は田舎暮らしをせず町に出て不在でした。祖父が家を建てる事になると、にわかに長男が田舎に帰ってきました。父は荒れました。家自体は昔からの旧家で家からは何人もの市会議員が出ています。長男も後に市会議員として出馬。親戚や姉妹達の応援が効をきたし当選しました。それが父にとって、また一つの悩みの種となりました。
市会議員としての派手がましい席も時折あり兄弟姉妹が並ぶ事もありました。父は嬉しそうにネクタイを締め出掛けて行きました。父は精一杯の心尽くしでお酌をして回ったりしました。…がそれを恥と思い大人しく席に座らせて置きたい兄嫁の言葉や言動で傷つき、いつも家に帰って来た父はお酒に酔い不機嫌でした。
そんな中でも父は母と私と弟の生活を支える為に一生懸命に働いてくれました。父の背丈は142㎝体重は41㎏しかありません。緑化の仕事をしていた父は身丈に合わぬ草刈り機を自在に操り真面目に仕事をこなしました。
(母遍:単略)
田んぼの広がる百姓が済む田舎の末っ子として生まれた母。祖母のお腹にいる時に祖母が病気をして栄養状態が悪くなり母は生まれつき片目が見えないというハンデを負ってしまいました。そのせいで何事も人に頼る習慣が幼い内からついていたようです。
子供の頃は年の近い姉と厳しい兄とで育ったようです。幼くして祖母を亡くしてしまった家庭での母親役は全て姉が一手に背負い母は子供のまま甘やかされて大人になりました。兄にお嫁さんが来て次々と3人の甥ができました。姉も嫁いで行きました。
そんな母に縁談が来ました。荒れに荒れていた父を落ち着かせる為に嫁を娶らせたいとの父方の親戚での相談の結果でしょう。母の父親は母が可愛くて仕方が無かったので最後まで反対をしたそうですが結果二人は所帯を持つ事になりました。
そんなこんなで1年後このスレの主である私こと千尋が東京オリンピックの年の桜咲く春に産声をあげるのです。大泉家(仮名)の内孫です。父遍で書いた長男はまだ町に住んでいて私から見て祖父母と父母、まだ学生だった叔母の6人暮らしでした。長男の家には男の子と女の子の二人の子供がいましたが田舎に遊びに来る事は無く祖母がよく顔を見に遊びに行っていたようです。祖父は内孫の私を可愛がってくれました。晩酌の時間には私を膝に座らせ面白がって少しお酒を舐めさせたりしたようです。オィオィ😊未成年もいいとこでしょうに。
祖母はよく働く人でした。畑に行く時には私を背中におぶって行ってくれたそうです。私は幼すぎて残念ながら祖母の事を覚えていません。50代の半ばで祖母は病気をして亡くなりました。田舎の山は時期が来ると除虫菊の白い花で一杯になりそれはそれは綺麗な風景でした。山の上からは青い海が一望にでき価値観にもよりますが子供が育つには最高の環境だったかも知れません。
理由は私にはわかりませんが気がつくと父母は私とその3年後に生まれた弟を連れて町に出て小さなアパートに住んでいました。お風呂も無いひと部屋だけの日当たりの悪いアパートでした。トイレも協同でした。1階は小さな食堂でした。嬉しかったのは近くに児童公園があった事。この頃から私の記憶が沢山残るようになりました。
幼いながらも羞恥心が目覚めお風呂屋さんに行くのが恥ずかしいという感情も芽生えました。パンツをはいたまま浴槽に行こうとして叱られた思い出があります(笑)今になって思うのはまだ幼稚園にも行かない年齢の私がいつも一人で公園で遊んでいた事。お小遣いを貰って駄菓子屋さんも一人で行きました。紙芝居もくるこの公園は後の私に大きな思い出となるのです。
ある日突然襲った恐怖の地震❗母は「千尋、逃げよう」と行ってアパートの部屋を飛び出し1階で住人達の集る場所に避難しました。そこで私がハッと我に返り「秀人❗」と叫びました。そうです。母は乳児の弟を部屋に忘れて飛び出して来たのです。
祖父が訪ねて来ました。「千尋の幼稚園の入園手続きを田舎で済ませているから帰って来い」という内容で嫌が応うでも既に決定時効でした。孫可愛さの祖父の作戦勝ちというところでしょうか。私達親子はまた祖父の居る田舎に帰りました。祖母を早くに亡くして祖父も一人で淋しかったのでしょう。
祖父は私をとても可愛がってくれましたが祖父に懐かない弟は完全無視していました。弟は母に似て余りしゃべらないおとなしい性質でした。祖父は出掛ける時も私だけを連れて色々な場所に行きました。ただ時々面倒になるのか置き去りにされて迷子になる事がよくありました。私は子供ながらに臨機応変に賢く対応したと自分でも思います。決して泣き叫んだりオロオロしたりしませんでした。
転機が訪れました。父遍で書いた長男が帰って来る事になったのです。町で1番大きな立派な家が建ちました。昔の田舎の家なのに1階にも2階にもトイレがありました。町で初めての水洗トイレでした。2階からは海を見ながら寛げるスペースもありました。余り知らないイトコのお兄ちゃんとお姉ちゃんの部屋を見せて貰っている時に母は私に「この部屋は千尋の部屋になる筈だったんだよ」と耳打ちしました。寝室には大きな虎の絵を描いた壁一面のタペストリーがかかっていました。母は悔しかったんだと思います。
母は「おじいちゃんに私にも家を建ててって言いな」と言い私を家から出しました。私は別に何も考えず母に言われた通りに「おじいちゃん、うちも新しいお家を建てて」と言いました。祖父の虫の居所が悪かったのか生まれて初めて祖父の大きな声を聞きました。「金が要るんじゃ💢」と…。優しかった祖父の荒げた声に心底ビックリして私は驚いて家に飛んで帰りました。その頃は伯父さん伯母さんと祖父。そしてイトコ達と住んでいたので今までのようにおじいちゃんと遊ぶ事は少なくなっていたことろにこの事件があり私は祖父に恐怖を覚え、もう祖父の家に行く事は無くなりました。怯えてしまったのです。
祖父は「ごめん」と謝る事を知らない人でした。自尊心の強い人だったので悪かったと思っても口にはしない人でした。それでも幼い頃から一緒にいた私可愛さに今度は祖父の方から「アイス買ってやろうか」とか言いながら遊びに来るようになりました。大きくなって一緒に住み出したイトコ達は年寄りと一緒に生活をした事がないので「おじいちゃんは臭い」とか「汚い」と言って側にも寄って来ないようでした。兄嫁は綺麗好きで「あぁ~もう汚い」とか言う人でした。居心地が悪かったのでしょう。でも、それは祖父が選んでそうした事でした。私と祖父の間に出来た溝は埋めようにも埋められない川になっていました。
足腰の弱った祖父は杖をつくようになりました。杖を頼りに私を訪ねてくる祖父の姿を近所の人が色々と噂をしだすと伯母が祖父を外に出すのを嫌がりました。「お義父さん、そんな足で出歩いてコケて怪我でもしたら困る」と言われ祖父が訪ねて来る回数も減りました。祖父はその頃、家に来てはよく愚痴をこぼしました。そんな弱気な面を見せる祖父ではなかっただけに私には段々祖父が違う人に思えるようになりました。
そうこうする内に昔は稀だった老人ホームに祖父が入所してしまいました。そうなってくると祖父が可哀相に思えて私は進んで祖父に面会に行きました。しかし、ある日、祖父は私の顔を見て泣き笑い?何か変な笑い方をして正直小学生だった私は気味が悪くなり何も言わずにホームを出てもう2度と会いに行きませんでした。どう接していいかわからなかったのです。孝行し損ねました。
中学生の時に祖父が亡くなりました。臨終の席で祖父の妹や子供達が集って最後のお別れをしました。もう最後の注射は要りません。と断り祖父の妹が「あにさん?あにさん?しっかりして。あにさん」と何度も何度も…私は未だ子供だから家に帰れと言われて母と帰ってきました。母が嫁入りと一緒に持ち込んだ宗派の仏様に「おじぃちゃんが楽に逝けますように」とお祈りしました。その夜、私は原因不明の熱が出ました。その頃の私の環境が良くなかった事を知っている祖父が私を一緒に連れて行きたかったのかも知れません。私は今でもあの時に祖父が連れて逝ってくれてたら…と思う事がよくあります。
翌日は熱もケロリと下がり葬儀に参加。霊柩車の後から別の車で追う私達。霊柩車の後ろのガラスに私はハッキリと祖父と顔を見ました。誰に言っても信じては貰えませんでしたが、それは祖父との最後の別れとなりました。祖父は死んでも尚、私の行く末を案じていたのだと思います。あの夜、熱があった事は誰も知りません。母は我関せずで私のお陰でうっとおしい席から逃げられてやれやれでよく眠っていましたから。中学生にもなった私と一緒に帰される嫁。それが親戚一同からの母の評価でした。
私の性格は几帳面でプライドが高く勝ち気な性分で勉強もスポーツも狭い田舎ではよく出来ると言われる子供でした。地区の文化祭でも金賞を取ったり陸上競技会にも出場したりしました。でも他の子供達と決定的に違うのは大人の顔色を見るのに長けていました。よく言われる八方美人的な性格は子供時分に作られた模造の自分自身でした。
本来の私は気が小さく何かする度にこんな事を言えば嫌われるのではないか?こんな事をすれば嫌われるのではないか?といつも考えている小心者でした。でもその姿を見せたくなくていつも片意地張って馬鹿にされまいとして口汚なく「オラオラ」なんて言ってた馬鹿な時期が小学生3年生位から高学年にかけてありました。
目の悪い母は心臓も弱く体が弱いと言い、家から出たりする事も親戚付き合いもしませんでした。もちろん友人の話など聞いた事もありません。(私の知人に母のような人がいたら一目散で逃げるでしょう。)近所の人は父の事を知っているので知能に問題のある父のところに嫁いで来たんだから嫁も、もしかしたら?と思われていたかも知れません。少なくとも母はそう信じていてよく私に「私の母」という作文を書かせて添削し発表するようにさせました。「私の母は体が弱く目も不自由だけど一生懸命私達を育ててくれています。女学校も卒業しています。世界一のお母さんです」と…。発表しながら、こんなの全部デタラメ…と悲しくなりましたが大人受けする文章だという事も学習しました。
母はまず朝起きが出来ません。いつも布団の中から「学校に行きな」と言うだけです。眠い私はいつも遅刻していました。田舎の学校は子供の足で歩いて45分かかる道のりでした。集落から山肌を登って行くので通学している子供達は町からよく見えました。朝起きて顔を洗う事も歯を磨く事も母からは教わりませんでした。母自身がそういう習慣を持たない人だったので気にも止めなかったのでしょう。お陰様で遅刻常習犯と忘れ物常習犯の2っの名前が与えられ虫歯検診でも必ずひっかかりました。
忘れ物の中には必ず給食エプロンと上履きが入っていました。土曜日に持って帰って月曜日に洗った物を持って行くんですが母はエプロンにも上履きにも触る事が無かったので自分で洗ってアイロンをかけなければいけなかったからです。幼稚園と1年生位まではしてくれたような気もしますが気がついた時には一切手を出さないようになっていました。遊ぶのに夢中になって寝てしまう子供の計画性の無さと言うんでしょうかね。
よく汚い代名詞に靴下を裏返して履くというのがありますが正にその通りで裏返しに履いてもう履きようがなくなると冬でも裸足に靴を履いて学校に行きました。靴下チェックでもひっかかりました。「履くのを忘れた」と嘘を言いました。給食が無ければ私達、姉弟は生きて行けなかったかも知れません。学校から帰って友達と遊び夕方になると友達のお母さん達が「ご飯だよ。はよ帰り」と呼びにくる。町のあちこちから美味しそうな匂いがしてくるのをよそ目に家に帰りお風呂も用意されていないし遊んで泥が付いた着衣のまま布団に潜り込む生活でした。
父が仕事から帰って来て「飯は?」と聞く事がありました。温厚な父でも機嫌の悪い時だってあるんです。仕事で疲れたり嫌な思いをして帰って来て、掃除はしてない。お風呂も用意されてない。ご飯も無いではキレるのも当たり前です。父が怒ると母は逆ギレしました。「体の弱い私にそんな事させて私がしんでもええんやな」「あぁわかったよ。死んでやる」って家を飛び出した時には普段外に出ない母だけに本当かと子供心にえらく心配したものでした。
ものの30分もしない内に帰って来て口もきかない母に正直言って「なぁ~んだ」と思いました。やっぱり口だけなんだと思い知りました。それでも一応、白ご飯だけは炊いてくれました。お腹が空くと各自好き好きにフリカケか沢庵で食べるのが家のご飯でした。気紛れのように作ってくれたカレーの嬉しかった事⤴
遠足や運動会が嫌いでした。友達が何の気もなくお弁当を開くのが羨ましくて。私は自分で赤いウィンナーを炒めたのと卵焼きを入れてご飯にフリカケをかけたお弁当を急いで食べて後はおやつを安心して食べました。おやつだとどこで買っても同じ物なので恥じることが無かったので。中学になると給食が無くなったのでお金を貰ってパンやその頃出始めたばかりのカップヌードルに夢中になりました。
インスタントカレーなんかも出回りました。ポテトチップスなんかもこの頃でした。私はお金を貰っては新しい味に夢中になりました。私が買い食いをするようになって母も外で買い物をするようになりました。近所のお店ではなくて町のスーパーでお惣菜とかを買うようになりました。「さて、おふくろの味のコーナーは何処かな?」と言う母。おふくろの味って…って…つい苦笑してしまいました。旅○の友(←その頃愛用のフリカケ名)と沢庵?ちょっと意地悪い気持ちになりました。
父は運転免許を持っていなかったので何処へ行くのも自転車でした。母は自分が買い物に行く時はタクシーを使い父に頼む時は自転車で行かせました。町まで車で飛ばして20分自転車だと1時間以上かかります。そうです。母は人の痛みには百年でも耐えられる人だったのです。
運動会とかに出来合いの巻寿司やらお惣菜を持って来られるのが嫌で嫌で仕方がなかった。けれど父が自転車で往復2時間以上かけて買って来たと思うと文句は言えなかった。早く昼休みが終り競技に入ったらいいのにと願っていた。私は父が大好きだった。
父は子煩悩だった。仕事から疲れて帰っても私達子供の相手を嫌がった事など1度もなかった。弟はよく怪獣ごっこと名付けて父を怪獣に見立てて正義のヒーローを気取って父を叩いたりしたが怒ったり叱ったりした事も無かった。ただ可愛くて堪らないという風で目尻を下げて遊んでくれた。
そうやって子供達が父親と楽しく遊ぶ姿を微笑ましく見ていた時もあるだろうが、そうでない時もあった。母はよく父の悪口を子供達に吹き込んだ「父ちゃんは馬鹿だから」とか「今時、自分の名前も書けないアホ」とか。言うに事欠いて「近所の後家さんの○子さんの所へ夜這いに行っている」とか言われた。当然、小学生の私達に夜這いの意味などわかる筈も無い。突っ込むと「とにかく父ちゃんは悪い奴やから母ちゃんの言う事をきいていたらええんや」と言って私達が「わかった」と返事をしたら納得するようだった。
小学校も高学年になると色々な角度で物が見え始めた。今まで普通だと思っていた自分の家の在り方が余所とは違う事に気付いた。ずっと母の顔色ばかり見て母の言う事しか聞いて来なかった私が「?」と思い出した。父が働いてくれるから食べていける事にも気付いた。雨の日も風の日も自転車に乗って仕事に出て行く父を母はなぜ悪く言うんだろう?が始まりだった。
色々な事が頭に浮かんで来た。父の過去も母から聞かされたものだ。両親に疎まれて可哀相だったから私は嫁に来てあげたんだ。父は若い頃大阪まで逃げたのを占い師を使っても探し出して連れ戻された。その時、父はアカセンの女と一緒にいた(アカセンと言う言葉も母から学んだ)がお金を渡したら消えて居なくなった。父ちゃんは港で見えなくなるまでその女が泣いてたと言っているけどね。とか…それって子供が知っていなくちゃいけない出来事?
今まで言葉の意味とかが解らなくて流して聞いていた事柄が過去から甦ってきて「なぜ?なぜ?」と自問自答した。弟のは更に酷い。弟を身籠もった時、母は子供は一人でいい。と言い即座に堕胎するつもりだったのをその頃、健在だった祖母に「男の子かも知れない。跡継ぎやったらどうする」と止められて仕方なく産んだ。と弟を目の前にあっけらかんと喋った。弟は今もその事を根に持って「どうせ俺や、要らん子やったんやろ」と毒づく。当たり前だ。地震では置き去りにされ要らん子やったと宣言され最悪だ。
弟は小さい頃からの境遇(祖父から無視されたり)からか持って生まれた性格なのか思う事を上手く言葉にして言う事が出来なかった。これはもしかしたら父の遺伝かも知れないと今ふと思った。とにかく口数が少ない。生憎、弟のクラスにはイジメっ子がいて弟はターゲットにされた。ストレスから子供の手の平もある程のハゲが出来ていつも帽子を被っていた。自分でも無意識に髪の毛を抜く事が止められなかったのだ。
私は…と言えば色々な面で気がつくのが遅かった部分もあり私は私でイジメにあっていた。ある日友達の耳から耳へ内緒事を送る輪に偶然私が入っていた。友達は私が居ると気がつかずに「千尋ちゃんの耳の後ろ垢だらけ」と言い、言い終わって私だと気付いて飛び下がった。私はただのイジメラレっ子ではなかった。子供の頃に有りがちな勉強の出来る子は偉い。という壁が私を幾分守ってくれていたから。
それがあってから初めて私は清潔の大事さを自分で学び取った。お風呂も母の許可を貰い自分で準備した。お風呂の準備と言っても今のように蛇口からお湯が出て来るわけでは無い。田舎なので昔の五右衛門風呂にポンプで水を汲み上げて牧をくべて火を焚くのだ。小学6年の私にはキツイ仕事だった。6年生にもなれば下校も遅い上に通学時間が長いので冬などは帰宅すると真っ暗だった。山を越えて帰るので余り遅くなると帰り道が怖くて泣いた事もあった。
3年生から6年生まで同じ先生が担当を受け持った。熱心な先生だった。忘れ物をすると取りに帰らされた。学校に帰る頃には授業は終わっているのは解り切っていても「取りに帰りなさい」と言われた。男の子が騒いで授業が進まなくなると口を閉ざして1時間座ったままの時もあった。その分1時間余分に時間を取り帰りが遅くなるという訳だ。
先生は何処まで私の境遇を理解していただろう?母は先生に自分は体が弱く子供達に十分な事がしてやれない。と嘆いていた。アカギレした私の手指を気遣って皆に内緒でゴム手袋をプレゼントしてくれた事があった。複雑な心境だった。私が清潔の大事さに気付いても知識がなくてどうしようも出来ない出来事があった。
それは…頭髪にわいたシラミだった。いつからシラミがわいていたのかは意識にない。気がついた時には猫のノミを取るように私と弟を交互に膝に乗せて楽しむように髪の毛を抜く母が居た。私達は痛いので母に「こっちに来い」と言われるのが怖かったが逃れる術は知らなかった。そうしなければ害虫は取れないのだと信じて痛みに耐えていた。それまで他の子に移らなかったのが不思議な位だ。小学6年生の時に他の子にシラミがわいたとクラス中が騒然とした。その子はスミスリンパウダーで駆除したのだろう。この薬の事も大人になるまで知らなかった。
原因は誰だ?と犯人捜しが始まった。…と言うより最初から私だと皆で噂をしていたのだろうが面と向かって言えなかったのだろう。しかし、ある日一人の女の子が私に「千尋ちゃん、悪いけど頭を調べさせて」と言われた。私と同じ位勉強が出来る子だった。その子は後にも何かと私と対立する事になる。その子と3人位の友達の前で私は座らされて頭を調べられた。案の定シラミや卵が見つかった。先生にも報告された。卒業が迫っていた時期に先生は私に「千尋ちゃん、最後に先生のお願いを聞いて」と言い背中まで伸びた長い髪を切るように言われた。私は黙ってうなづいた。髪を短くした事のない私は別人になるような気がして泣いた。目が覚めると髪の毛が無くなっている夢を見るようになった。怖かった。
それでも誰も駆除の仕方を教えてくれた人は居なかった。私は頭の皮が破れる程、頭皮や髪の毛を洗った。短くなった髪を何度も何度も洗った。そのせいかシラミはいなくなった。こんなに簡単に長年の悩みが解決するのか。と気が抜ける思いだった。短くなった髪の毛を見て友達はタマネギ頭と呼んだ。でもそれは決して侮辱を孕んだものではなかった。私自身が長年の悩みが解決して気持ちが軽くなったからかもしれない。今でも思う。母は戦後シラミを殺す白い薬の話を私に話した事があった。駆除の仕方を知っていて、なぜ実行しなかったのか?もし知らなかったとしても私にうつされた子の親のように薬局で相談する位はしても良かったんではないだろうか?なぜ?なぜ?
様々な「なぜ?」を残したまま私は中学に上がった。その頃には母に対する不信感が募り母を「あの人」と呼んでいた。「千尋は勉強して学校の先生になり。そして私を馬鹿にしている人を見返す」とずっと言っていた。私の進路はそれで決定なんだと思っていた。中学生ともなれば感性が大きく開き友人関係も隣りで家が近いから。なんて小さい頃のようにはいかない。先にあげた私と対立する女の子は一緒に帰る約束をしていても他の子をそそのかし黙って先にかえったりする軽いイジメをやりだした。
家が隣りで何時も一緒だった子も他の子と仲良くなって私は居心地の悪い1年間を過ごした。思春期真っ直中で私の感情は上がったり下がったりを繰り返した。その頃から私は(死の美学)に取り付かれた。最初は単に自分がこの世から消え失せたら一時の事にせよ、自分はヒロインになれる。きっと母も泣いてくれる。というものだった。私は空想遊びをするようになった。私には実は本当の親が居ていつか迎えに来てくれるとか、余所の国に行ってお姫様のような生活をする自分を想像したり…そこに母は居なかった。私は心の中で母親を殺した。…筈だった。
中学3年生。現実を直視したくない私に嫌でも現実がやってきた。受験だ。夏休みの3者会談で私は自分の耳を疑った。ずっと「千尋は先生に…」と言われ続けてきたから当然その筋の学校へ行くものだと思っていたら突然「家はお金がないし、女の子に学をつけさせる気も無いので商業高校1本でお願いします」と言ったのだ。私は俗に言う文学少女で国語系なら百点を取っても先生から「貴女なら当たり前」って褒められもしない位だったが事、理数系はダメだった。数字が嫌いなのだ。赤点取る程でもないけれど出来れば避けて通りたい科目だった。その私が商業?はぁ?商業行って何するんですか?ってその場で私の将来は決められてしまった。
運の悪い時は悪いものでその時の担任は私達が最後の受け持ちという年寄りの先生で受験にも余り関心を示さずとにかく行けるとこに行けば?という先生だった。奨学金という知識も余り持ち合わせていなくて田舎で町の子よりずっと精神年齢の低い子供だった私にはどうする術もなかったし、する気力も無かった。母が望んだ商業高校を受験した。私はその頃仲良くしてた友達と合格発表を一緒に見に行こうと言った。その子は「落ちているとショックだから一緒にはいけない」と拒んだがその時、私より成績が良かったその子が落ちる筈が無いと信じて疑わなかったし自分が落ちるなんて考えもしなかった私は強引にその子と一緒に発表を見に行った。
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満員電車とアタシとイケメン痴漢
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224レス 3291HIT 恋愛博士さん (50代 ♀) -
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酉肉威張ってセクハラ脇と肘の角度は90度天井に声をぶつける咽喉を拡げる…(小説家さん0)
3レス 72HIT 小説家さん -
私の煌めきに魅せられて
お風呂は入った。臭くはない。 なのにみんなの視線が刺さって痛いΣ(>…(瑠璃姫)
98レス 1247HIT 瑠璃姫
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16レス 492HIT 読者さん -
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🌊鯨の唄🌊②
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11レス 175HIT 永遠の3歳 -
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1レス 215HIT 小説家さん -
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