空中キッチン
千真ちゃんが最近おかしい。
たとえば夜、いきなり室内でなわとびを始める。それも二重跳び。
人生は過酷だね。
そんなことをいっちょ前に言ったりする。塩せんべいを食べながら。
一日中寝てる日もあるし、一日中働いてる日もある。
もともと変な子だったけど、最近とみに変だ。
−さては恋をしたな。
こないだの日曜、かーさんが台所でそう言った。
−恋?
あたしはびっくらこいて声が裏返った。
−千真ちゃんはそんなものをしてるの?
−あら、恋はいけない?
かーさんは愉快そうだった。ポトフのスープを味見しながら、恋はすばらしいわよ、などと言う。
−信じらんない。
あたしは呟いた。揺れる日差し。
千真ちゃんは昨日から、いきなり鳥取県まで砂丘のゴミ拾いに出かけている。砂丘で、らくだに乗っている千真ちゃんが思い浮かんだ。ボランティアなんてキャラじゃないのだ。全然。
あたしはにわかに不安になって、千真ちゃんにメールを打った。
−千真ちゃんは恋をしてるの?
1分後、簡潔で明瞭な返事が返ってきた。
−してるとも。
あたしは今度こそ、絶句した。
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10月は好きな季節だ。空気がすんとしてくるし、なんたってあたしが生まれた季節だから。
落ち葉をいちまいいちまい踏みながら、ゆっくりと歩く。息はまだ白くならないけど、カーディガンの裾をひっぱるほどには肌寒い。平日の昼間の公園には、存外人が多い。走り回るこどもと、こどもらの母親たち。立ちっぱなしで話に夢中になっているので、あたしはありがたくベンチに座った。ポケットにつっこんでおいたりんごをかじる。母親たちはさすがにあたしに気づいて、ちょっと変な顔をする。それからまた場所を変えて、話を再開する。
あたしは普段洋菓子屋で働いているので、休みはたいてい平日だ。仕事は結構気にいっている。余ったお菓子を持って帰れるし、働くということは人間の美徳だと思っているので、心が安定する。自分がちゃんと世の中に参加しているという感じ。安定は大事だ。
不安定を好む千真ちゃんとは大違い。彼女はあたしの双子の姉で、顔はそっくりだけれど、もちろん中身はまったく違う。高校を卒業して大学生になって、大学には今はほとんど行っていない。代わりに、いきなり鳥取だの滋賀だの岡山だのにふらりと出かけていく。
ボランティアサークルとやらに入ったのだそうだ。別名ゴミ拾い部。日本各地に飛んでいって、ただそこにあるゴミをもくもくと拾うらしい。その怪しげなサークルの活動に精を出し過ぎて、授業にはほとんど出ていない。だけど千真ちゃんは頭がいいので-と言うか要領がいいので-、単位を落としたりはしない。 もし仮に、千真ちゃんがほんとうに恋なんぞをしているのだとしたら、相手はそのサークルの人なんだろうか。あたしにとって大学という場所はまったくの未知数だ。
りんごは噛むとじゅわっとして、美味しい。毎日まるごとりんごを食べるのがあたしの習慣なので、おかげであたしの歯はすこぶる健康だ。いつの間にか母親とそのこどもたちはどこかにいっていた。向こう側のベンチにひとり、おじいさんがほうけた感じで座っている。あたしは芯だけになったりんごをポケットにしまって立ち上がった。帰りにアボガドとピスタチオを買ってきてねと、かーさんに言われているので、スーパーの方に向かって歩き出す。ついでにチョコとみたらし団子も買おう。どらやきも。 10月に入ると、いつにも増して俄然食欲が増す。そんなところも気にいっている。
小さい頃の話をしよう。あたしも千真ちゃんも、もちろん笹ちゃんも小さかった頃。
冬で、あたしたち姉妹は縁側にいた。ストーブの前に集まって、玄関でぼそぼそと交わされる、最期の会話を聞いていた。かーさんの声は低く、なんの抑揚もなかった。書類は郵送にするから、とか、あとは先生に任せてるから、とか、手続き上の話を淡々としていた。相槌はほとんど聞こえなかった。しばしの沈黙が訪れて、ようやく、じゃあ、と世にも寂しい声が聞こえて、引き戸が開いて、閉まる音がした。それがことのすべてだった。寒い日で、外は珍しく雪が降っていた。とーさん凍え死んじゃうね、と千真ちゃんが呟いた。あたしはおせんべつにもらった変な顔のぬいぐるみを握りしめていた。笹ちゃんは黙って、窓の外を見つめていた。あたしと千真ちゃんは五つ。笹ちゃんが八つ。かーさんは玄関で、でくのぼうみたいにずっと立ち尽くしていた。あの冬。あたしたちがとーさんとやらを失った日。
散歩から帰ると、玄関に桜色のパンプスが揃えられていた。あたしは嬉しくなって居間へと向かう。階段の3段目には小振りなボストンバッグ。
「お帰り、遅かったのね」
かーさんはキッチンできぬさやの筋をとっていた。その隣に立って手伝っていた姉が、あたしを見てにっこりと笑った。
「笹ちゃん!」
あたしはおおげさに姉を抱擁する。ただいま、と笹ちゃんも抱擁を返す。シトラスのコロンの香り。
「どうしたの?ついに
離婚するの?」
「まあ、秒読み、てと
ころね」
面白そうに顔をしかめる。海外ドラマの女優じみた仕草で。笹ちゃんは里帰りするたびに離婚秒読み、と言う。でもそう公言してから、かれこれもう2年は経っている。夫婦というのは複雑だ。
「いつまでいるの?」
あたしはわくわくして聞いた。新しく見つけたカフェに姉を連れて行きたかったし、何より変わってしまった千真ちゃんについて、笹ちゃんに相談したかったのだ。
「そうねえ、ずっとい
ようかなあ」
「馬鹿おっしゃい」
かーさんが呆れたように言う。
「あんたたち何かと言
えばそんなことばっ かり。笹子もね、こ
こは駆け込み寺じゃ
ないのよ」
そう言ってあたしから受け取ったスーパーの袋を物色する。今日は笹の好きなカレーよ、などと嬉しそうに言いながら。
「あたしの部屋に来ない?」
買ってきたみたらし団子を掲げながら笹ちゃんに耳打ちした。
「いいわね」
笹ちゃんもこっそり答える。かーさんは鼻歌を歌いながらカレー作りに突入した。あたしたちは連れだって階段を上がる。
「千真ちゃん鳥取なんだって?」
「ううん、今は岡山」
カエルのプレートがかかったドアを開けて、部屋に入る。右手に二段ベッド、左手に机と大きな窓があるあたしと千真ちゃんの部屋。ベッドの前のテーブル-正方形で、真っ赤なやつ。千真ちゃんのお手製だ。-に団子とコップを置く。冷蔵庫を開けて、作り置きしていた玄米茶を取り出した。
「砂丘のゴミを拾ってたら、いつの間にか岡山に着いてたんだって」
「相変わらずねえ」
呆れるでもなく笹ちゃんが笑う。
「でも確かにちょっとおかしいわね。どっちかって言うと出無精だったのに」
「でしょう?」
お茶を注いで、笹ちゃんに渡す。
「かーさんが言うには、千真ちゃんは恋をしてるんだって」
「恋!」
笹ちゃんはおおげさに眉をあげてみせた。
「あの千真ちゃんもついにねえ」
どこか面白そうに言う。
「面白そうだね、笹ちゃん」
「そりゃあ面白いわよ。俄然」
あたしはげんなりした。ちょっと予想はしていたけど。
「志万ちゃんは?しないの恋」
「しないよそんなの」
暗澹とした気持ちで団子を頬張る。みんなみんな、なんだってそんな厄介なものをしたがるのだろう。゛姉妹の誓い″はどこへやらだ。
「思うほど悪いものじゃないのよ」
あたしの気持ちに気付いたのか、笹ちゃんが宥めるように言う。
恋は素晴らしいわよ。
かーさんはそう言った。千真ちゃんならなんと言うだろう。恋、というものについて。
あたしたちの父親は地元ではそれなりに名の知れた画家だった。かーさんはとーさんのモデルで、二人は強烈に惹かれ合い-かーさんいわく-、結婚した。とーさんが42、かーさんが23の時の話だ。3人の子供に恵まれたが、結婚して10年目のある日、とーさんはいなくなった。愛人に本気になり、愛人に貢ぐあまり借金をして、それをすべてかーさんに報告して、出ていったのだ。
自分が出ていくから、家は自由に使っていい。お金も毎月ちゃんと送るし、お前が会うなって言うなら、こどもたちにももう会わないよ。
そんなようなことを、馬鹿正直にかーさんに全部話して、出て行ったのだ。かーさんは黙ってそれを受け入れた。泣きもわめきもしなかったし、訴えたりもしなかった。ただ一言、とーさんが出ていった夜、縁側でひとりワインを飲みながら、疲れた…と言ったのだった。
疲れた。
それは、およそかーさんらしくない言葉だった。溌剌、という言葉が歩いてるみたいな人だったのに。よく笑い、よく歌い、よく怒り、よく泣く、こどものあたしからしても魅力的な女だったのに。
泣きもせず、ただぼんやりと空を見上げて、疲れきった声で、疲れた、と言った母。
あたしはその夜眠れなくて、トイレをしに起きたのだった。縁側に、母を見つけた。やたらと明るい月夜だった。雪が積もっていたからだろう。 かーさんはあたしに気づいて、ふ、と声を漏らした。泣いたのか、笑ったのかわからない声だった。
ねむらないの?
なんと言えばわからなくて、あたしはそう聞いたと思う。
うん、疲れた…。
あたしは心臓がしわくちゃになるのを感じた。こんな、まるで生気のない、感情を失くしたみたいな母を見るのは初めてだった。あたしは父を憎んだ。母をぼろ雑巾みたいにして、余所の女のところに行ってしまった無神経な父を。
志万、こっち来て。
かーさんが抑揚のない声であたしを呼んだ。だらりと腕を伸ばして、右手にグラスを持ったまま。
縁側はすこし窓が開いていて、寒かった。かーさんはうすいカーディガンを羽織っているだけだ。あたしはもこもこに分厚いパジャマにスリッパ。抱きしめられると、かすかにタバコの匂いがした。タバコと、お酒と、香水の入り交じったかーさんの匂い。
あったかいのね。
ぎゅうぎゅうあたしを抱きしめながら、息を吐くみたいに呟く。声は震えてるみたいだった。あたしは気づかない振りをした。
あの日。あの夜。
あたしは誓いを立てた。かーさんをぼろ雑巾みたいにした、諸悪の根源。恋とやらいうものを、自分は絶対にしたりしない、と。誓いは姉妹全員でした。布団の中で寄り添って、ぐずぐずと泣きながら。あたしたちは父を憎み、恋を憎んだ。その愚かな衝動と結果を。
もちろん、その誓いを今も守っているのはあたしだけだ。嘆かわしいことに。
父とは、あの日以来会っていない。どこにいるかは知らないが、お金は今でも毎月振り込まれているし、個展やら、新作の発表会やらの案内状を送ってきたりするので-神経を疑うが-元気に生きているらしい。この間、12月に開かれる展覧会の案内状がテーブルに広げられているのを見た。信じられないことだが、かーさんはいちいちその案内状を開封する。ふうん、とかへえ、とか言って、あたしたちも見れるようにさりげなく、それを机に置く。あたしはもちろん行ったことはないし、これからも行かないだろう。展覧会のタイトルは、『さまようこどもたち』だった。なんだか、なんだかなあ、と思う。
かーさん特製アボガド入りココナッツカレーを食べていたら、千真ちゃんが帰ってきた。ずいぶんと厚着をして、梨と桃をどっさり抱えて。
「ただいま」
「千真!」
かーさんが目を白黒させて千真ちゃんを見た。まるでエスキモーみたいな格好をしているのだ。刺繍いりのざっくりした毛糸の上着に、革のスカート。分厚いブーツみたいな靴下。
「なんなの、その格好」「鳥取ばり寒い」
何弁だかよくわからないことを言う。あ、カレーだカレー、と無表情で嬉しそうに言って-千真ちゃんはいつもたいてい無表情なのだ-、桃と梨をキッチンの机に置くと、すたすたと手を洗いに行ってしまう。手をぴらぴらしながら戻ってきて-千真ちゃんは手を拭かない-、空いていた席-笹ちゃんの正面、かーさんの隣-にどかりと座る。そこではじめて、おお、笹ちゃんがいる、と言った。
「さっきからいたのよ」
「離婚するの?」
打てば響く速さで聞く。笹ちゃんはけらけらと笑った。
「双子よねえ、あんたたちって」
「千真、帰ってくるならそう言いなさい。準備ができないじゃないの」
かーさんが慌ただしくキッチンに向かう。コンロのスイッチを押す音。食器を棚から出す音。
「志万ちゃん久しぶり」
千真ちゃんがあたしのほうを向いて言う。久しぶり、とあたしも答える。
「その服どこで買ったの?可愛い」
「もらったの」
誰に、と聞きたかったが、かーさんがカレーを運んできたのでやめておいた。
「うまそう」
無表情で言って、早速豪快に食べはじめる。
あたしたちはもうおおかた食べ終わっていたので、しばらくみんなが千真ちゃんの食べっぷりを観察する形になった。千真ちゃんは一口が大きい。そして恐ろしく手際がいい。片手でカレーを口に入れながら、片手ではサラダをつきさしていて、カレーがなくなるとサラダを食べ、空いている手がコップを掴む。じっとしているのが嫌いなのだ。一気に食べる。すいすい食べる。あたしは毎回見とれてしまう。
「千真」
カレーを食べる千真ちゃんを見つめながら、かーさんがどこか上の空で呟いた。
「何」
「大学、行かないの」
「行く」
「じゃあちゃんと行きなさい。行かないなら行かない。学費はただじゃないのよ」
「うん、ごめん、わかった」
「行くの?」
「行くよ」
「ならいいのよ」
それで会話は終了した。なんだか聞いてるあたしたちが緊張してしまう。梨、剥きましょうか、と言ってかーさんが立ち上がる。
「サークル活動はもういいの?」
「うん、多ケ谷さんがしばらくはないって」
「多ケ谷さん?」
「多ケ谷さん」
押し問答のようだ。千真ちゃんはいつも、ちゃんと質問しないと何も教えてくれない。
会話も単語が多い。だからあっという間に終了してしまう。
「いい梨ねえ、美味しそう」
かーさんが切った梨をテーブルに置いた。みんな一斉に手を伸ばす。
「本場だからね」
千真ちゃんも手を伸ばす。カレーはいつのまにか空になっていた。
「本当に鳥取にいたの?」
「いたよ」
「次が岡山?」
「うん」
あたしは疑わしい気持ちになった。いくら名産品だからって、鳥取だから梨を、岡山だから桃を本当に買ってくる人っているんだろうか。
「誰といたの?」
「多ケ谷さん」
「男の人?」
「うん」
「ふたりきりだったの?」
「うん」
千真ちゃんがあっさりと答えた。あたしはちょっとぎょっとした。笹ちゃんもかーさんも、ぎょっとしたのがわかった。
「サークル活動なのにふたりきりなの?」
つっこむわねえ、志万。笹ちゃんがちょっと戸惑っている。
「だってふたりきりだもん、サークル」
しゃくしゃくと梨をほおばりながら、千真ちゃんが言う。
「え?」
「あたしと多ケ谷さんしかいないもん、サークルのメンバー」
あたしはまたもや絶句した。
またまた小さい時の話をしよう。今度は遊園地の話。
とーさんがいなくなってすぐの頃だ。かーさんが遊園地に行こうと言い出した。あんたたち暗い顔ばかりするんじゃないのよ、と言って、なかば強引にあたしたちを遊園地に連れて行った。確かにかーさんは、あの夜以降、無駄に元気だった。精力的に仕事をこなしたし-言い忘れていたがかーさんは料理研究家とやらをしている。時々テレビに出たり、本を出版したりお菓子教室を開いたりしているので、とーさんと同じく地元ではそこそこ有名だ。-、いきなり習い事を始めたり、近所の人を呼んでお茶会を開いたりしていた。あたしたちはそのどれもがかーさんの涙ぐましい努力だとわかって-信じて-いたので、そっと見守っていたけれど、正直ちょっとうんざりしていた。お茶会に来るおばさまたちの、あからさまな同情と好奇の視線。うすっぺらい台詞たち。あたしたちは面倒事がきらいだった。ひっそりと穏やかに暮らしていたかった。家の中に自ら嵐を呼び込もうとする、かーさんの思惑が理解できなかった。
「志万、ほらジェットコースター乗ろう」
かーさんがはしゃいだ声で言う。
「乗らない」
あたしは遊園地がきらいだった。絶叫系が心底怖かった。速さと高さを楽しむなんて、みんなひどい変態だと思う。千真ちゃんは人混みがきらいだったし、笹ちゃんはお化け屋敷がきらいだった。つまり、あたしたちほど遊園地を楽しめないこどもはいないのだった。馬鹿馬鹿しく明るい間の抜けたBGMも、恐怖すら覚えるいびつなマスコットたちも、走り回るこどもたちの歓声や色とりどりの風船さえ、あたしはきらいだった。ここにいるべきではない、という気がして落ち着かない。この場所に相応しくないという感じ、と言ったほうがいいかもしれない。
「乗らないの?つまらないわねえ」
かーさんは本当につまらなさそうにため息をついて、さっさとひとりでジェットコースターに並ぶのだった。あたしたちは荷物を持って-お弁当とか水筒とか-、かーさんが手を振りながらぐるぐる回ったり落ちたりしているのを見ていた。ひとりで乗っているのに、かーさんは誰より大声を出して楽しんでいた。うひょ-とかひゃあ-とか。そうやって園内のほとんどの乗り物にひとりで乗っていく。あたしたちは押し黙って、もくもくとかーさんの後をついて回った。
最後にみんなで観覧車に乗った。あたしはそれさえいやだったけど、できるだけ周りを見ないようにして、我慢して乗った。千真ちゃんはやたらと動き回り、笹ちゃんは黙って下界を見下ろしている。陽はもう沈みかけていて、ゴンドラはオレンジ色の海に浮かんでいるようだった。
「楽しかったわね」
かーさんがしみじみと、そう呟いた。しみじみと、心底さみしそうに。
あたしたちは胸がいっぱいになって、めいめいぎこちなく頷いた。ちっとも楽しめなかったことが申し訳なくて、やっぱりさみしかった。何かの決定的な欠落。それをみんなが認めた瞬間だったと思う。オレンジ色の観覧車の中で。
帰り道、かーさんはずっと鼻歌を歌っていた。調子のはずれた「マイウェイ」。つめたい、真冬の日のだった。あたしたちがまだ小さかった頃。
一緒にお風呂に入りなから千真ちゃんから聞き出した情報によれば、多ケ谷さんというのは大学の先輩で、36歳で、でもまだ大学生で、ゴミ拾いサークルの-部員ふたりきりの-部長なんだそうだ。
「36歳で大学生なの?」
あたしは信じられない気持ちで聞いた。
「うん」
千真ちゃんはガーゼをバスタブの中で膨らますのに夢中になっている。
「どうして卒業しないの?」
「出来ないんだって」
「どうして」
「要領が悪いから」
あたしはシャンプーを洗い流した。桃の香り。
「学費はどうしてるの?」
「バイトして払ってるみたい」
「…じゃあ、授業は?」
「出るひまないみたい」
「それって…」
あたしは腑に落ちない、という顔をした。思いきり。
「本末転倒だよね。今のあたしみたい」
言いにくいことを自分で言う。千真ちゃんは今サークル活動のための旅費を稼ぐためにバイトをしている。ほとんど毎日。ガーゼをほっぺたに押し付けてはつぶし、また膨らませながら、のぼせた、と呟く。
「交代ね」
千真ちゃんがバスタブから出て、あたしがバスタブに浸かる。
「…好きなの?そのタガヤさんのこと」
交代ざまに、あたしは聞いた。ざばり、という水音に紛れて。
「…わかんない」
珍しく、千真ちゃんが言いよどんだ。
「わかんないの?」
あたしは千真ちゃんの顔を見た。千真ちゃんは困ったような顔をしている。本当にわからないみたいに。
「そばにいてあげたいって思うの。できるだけ四六時中」
四六時中。真剣な顔でそう言う。
「それって…」
つまり好きって言うんじゃないだろうか。あたしにはよくわからない感覚だけど、でもともかく世間一般的に見て。
「すごいのね」
あたしはなんだか感心してしまった。本当に恋をしているらしい千真ちゃん。
「うん」
千真ちゃんもよくわからない相槌を打つ。頭をわしゃわしゃ洗いながら。飛び散る泡。
なんとなく、お互い黙った。気まずい感じではなかった。
『ちょっと~、まだなの~?』
壁についてる操作パネルから笹ちゃんの声がした。スピーカーがついていて、居間から話しかけることができるのだ。あたしたちは気づけば1時間以上お風呂に入っていた。
「上がろうか」
のろのろと連れだって、お風呂を出た。ひんやりとした空気。
「白バラ牛乳買ってきたの。飲もう」
頭をわしゃわしゃふきながら、千真ちゃんが言った。あたしはすっかり嬉しくなった。白バラ牛乳というのは、鳥取の牛乳ブランドだ。濃厚で美味しい。
「志万ちゃん」
千真ちゃんが感情の読めない顔であたしを見た。
「なに」
あたしはちょっと緊張した。
「今度、多ケ谷さんが飲み会開くの。志万ちゃんも来ない」
何故だか悲壮な面持ちで、意を決したみたいに言う。
「えっと…それって、変じゃないかな?」
あたしは困惑してしどろもどろになる。
「変って」
「だって、まったくの部外者だよ」
「平気だよ」
千真ちゃんは妙に雄々しく頷いた。
「そこに来る人の大半が、関係ない人だらけだもん。あたしも知らない」
「そうなの?」
なんだかますますよくわからない。なんであたしが行くんだろう?
「お酒飲めるし、美味しいごはんも食べれるよ。ねえ行こう」
「うん…」
あたしが困っていると、千真ちゃんは王手を打った。
「パフェもあるよ」
「行く」
あたしのお馬鹿な舌が、すごい速さで答えたのでびっくりした。千真ちゃんが嬉しそうに-無表情で-あたしをハグする。まあ仕方がない。そんな怪しげな飲み会に千真ちゃんを一人にするのは心配だし、何よりそのタガヤさんとやらを観察するいい機会だ。千真ちゃんに抱きしめられながら-パフェについて考えながら-、自分に言い聞かせた。
包装紙を中指で、内側に折り込む。ずれないように角を合わせて、シールで留める。紙袋に底板を入れ、お客に金額を伝える。お待たせいたしました。2625円でございます。雨よけのカバーはおかけいたしますか?かしこまりました。クレジットカードをお預かりします。
カードを通し、お客に返す。商品を持ってケース前に回り、商品を手渡す。最後に深々とお辞儀。もちろんとびきりの笑顔で。
「ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ~」
今日は朝から雨が降っていて、お客さんがとても少ない。初老の上品そうなおばさまを笑顔で見送って、ケース内に戻る。暇な日はもっぱら売場の整理整頓と内職-配送伝票のコード記入とか、袋菓子のギャランティ付けとか-ばかりしている。冷蔵ケースの小さくうなる音。お客の、と言うよりは販売員たちのお喋りする声。下手くそなジャズのBGM。
「小菅さん、暇だしもう休憩に行こうか」
店長が言った。あたしははい、と笑顔で答える。
「トキいただきます」
もうひとりのメンバーにも声をかけて、売場を出た。トキ、と言うのは百貨店の隠語で休憩を意味している。
働く、というのは気持ちがいいことだ。気持ちが安定する。やるべきことがあって、着るべき制服があって、売るべき商品がある。とても単純。
『飲み会?そんな面白そうなものに誘われたの?』
今朝、朝ごはんを食べながら笹ちゃんは楽しそうだった。トーストのはんぶんにジャム、はんぶんに上白糖をかけた笹ちゃん定番の朝ごはん。それとブラック。
『いいなあ、若いっていいなあ』
自分もまだ十分若いくせに、おばさんみたいなことを言う。あたしは何も良くないよ、とため息をついた。昨日は勢いで-パフェにつられて-ああ言ったけれど、あたしはどんどん憂鬱になっていた。あたしは大学生というものが嫌いだ。ちゃらちゃらちゃらちゃら、遊んでばっかり。
『笹ちゃんは?どうするの』
これから、という言葉をつけずに聞いてみた。ゆで卵にコーンフレーク、ヨーグルトにチョコレートひとかけというあたしのいつもの朝ごはんを食べながら。
う-ん、と笹ちゃんはわざとらしく唸った。
『とりあえず、どこかに出かけるわ。羽根田が訪ねてくるだろうから』
羽根田、というのは笹ちゃんの離婚秒読みのだんなさん。
すごく背が高くて、眼鏡をかけていて、いつも薄い色合いのポロシャツを着ている。キリンみたいな人だ。しずかで、すこし動きがゆっくりしているとこなんかまさに。はじめて家に挨拶に来た時、羽根田さんは有名な店のバウムクーヘンを持ってきた。だからあたしは気に入っている。
食堂は比較的空いていた。ちっとも美味しくないきつねうどんのセットを食べながら、あたしは結婚、というものについて考える。結婚と恋愛が、どうやら必ずしも同じ位置にはないらしいということを、あたしは最近知った。お昼のバラエティー番組で。
「前、いい?」
妙に大きい声がして、顔を上げると見知らぬ男の子が立っていた。
「駄目です」
あたしははっきり言ったのに、彼はさっさと椅子を引いて座ってしまう。がちゃん、と無遠慮にトレイを置く音。
「ロワールの小菅さんでしょ。俺鳥一の斎木っての」
あたしは返事をしないでうどんを啜ることに専念する。
「さすが噂どおりだね~可愛くて無愛想!」
何がうれしいのか、声がでかい。あたしはうんざりする。こういうことはたびたび起きる。
あたしはうどんを啜ることに専念する。
「大学生?何大?」
ずるる。
「今度みんなで飲み会するんだけどさ、来ない?」
ずるずる。
「彼氏はいんの?」
ずずずずず~っ
つゆを一気に飲み干して、丼を置いた。男の子は呆気にとられてあたしを見る。露骨に腹の立った顔をして、ゆっくり席を立つ。外人みたいに肩を上げるジェスチュアをして、ウケるし、という意味のわからない台詞をはいて、さっさと男どもがたむろしている別のテーブルにいってしまった。あたしはよしよし、と満足する。
こういうことは昔からたびたびあった。あたしと同じ顔の千真ちゃんは、そういう輩が来ると片っ端から奇怪な行動で相手を威嚇-猿歩きをするとか、いきなり奇声を上げるとか-するので、今では滅多に声をかけられないらしい。男なんてう〇こよ。そう言って憚らなかった千真ちゃん。あたしよりよっぽど男を嫌い、軽蔑していた千真ちゃん。千真ちゃんのバイトは昼からなので、あたしが起きる時間にはいつも寝ている。夜遅くに帰ってきた時には、あたしはたいてい寝てしまっているので、近頃なんだかすれ違いだ。
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