地獄に咲く花

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2013/11/10 23:01(更新日時)

地球温暖化が進んで人類滅亡も近い世界での、ある子供達の物語。

13/03/21 00:30 追記
※このスレッドは前編となっています。中、後編は以下のURLよりお入り下さい。

中編
http://mikle.jp/thread/1242703/

後編
http://mikle.jp/thread/1800698/

尚、このスレッドはレス263よりサイドストーリーとなっております。もし中、後編を御覧になる場合はこちらも読むことをお勧め致します。

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No.1159506 (スレ作成日時)

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No.351

「私はね、物心ついた時には研究所にいたの。」
「けんきゅう…じょ?」
「うん、大きな建物。世界中の色々な人が集まってて、何かよく分からない実験をしてる所。今まで私はその建物から1度も外へ出たことが無くて。だからね、きっとここへ来たのもその建物の中からだと思うの。」
「…建物の中から、ここへ?」

それは何とも奇妙な話だった。『流れ』の世界は今も姉さんの力で『地球』から切り離されている。恐らく地下に在ることになるのだろうけれど、人間に見つからないよう厳密なコントロールで隠されているのだ。だからそもそも人間が迷い込んでくるなんて滅多にない。どこか自然の洞穴からたまたまここに通じていた、という話ならまだ分かるけど。隔離された建物の中からなんて…?

「だと思う。今、現実で私はどうなってるのか分からないけど…何だか、今は夢を見ているような気がして。なら私は、どこかで眠ってるのかなって思うの。」
「夢だって?」
「そう。随分、長い夢。」
「ルチア。悪いけどこれは現実だよ。僕も最初ここに来たときは夢かと思ってたけど、今なら分かる。ここは『地球』と『流れ』の境目なんだ。ここで僕らがこうしてまた会えたのも、ルチアがずっとここに居たからだ。」

すると、ルチアは軽く俯きながらちょっぴり苦笑いを浮かべた。

「実は、そんな気がしてた。これは夢じゃないって。ただ…あなたの言ってる事は、よく分からなかったけどね。」

No.352

「一体その建物…研究所では何をしていたというんだ?ここに繋がるようなきっかけが、どうやって…?」

きっと、そこに確信がある。そう思いながら僕は独り言のように呟いた。けれど周りが無音なものだから、それは一瞬にしてルチアの耳に届いたようだった。

「ごめんなさい。」
「…え」
「周りの人達が、何をやっていたのかは分からない。私いつも遠くから見ているだけだったから。」
「あ、ああ…そうなのか。」

僕は曖昧に返した。正直、知っていたのならかなり大きな手掛かりになったことだろうと思うが。何とか残念そうな声色は隠せただろうか。ルチアがあまりに自信の無さそうな顔をするから、軽い罪悪感に苛まされてしまった。

「でも、」
「…?」

彼女はぽつりと呟く。これ以上ないくらいに小さな一言だったけど、それでもはっきりと聞こえた。どうやらここで独り言は言えそうにもないようだ…やれやれ、と内心僕は苦笑する。彼女は続けて、これまた消え入りそうな声で言った。


「私は――そのために生まれたっていうことだけは、分かる。」


僕は眉をひそめる。少し、意味が理解しずらい。

「それはどういうことだ?」

No.353

「私が生まれたのは研究のためだって、聞いた。」

研究…即ち研究所とやらでされていた事を示すのだろうか。それにはある目的があって、そのためにルチアが生まれた。

「私、さっき名前はルチアって言ったじゃない?でもね、本当は違うんだよ。
実は、私もあなたと一緒。」
「…え?」
「本当の名前は、持ってないの。私は、ただのクローンだから。」

言葉が出てこなかった。突然何を言いだしているんだろうという考えで頭が一杯で。

名前がないだって?クローンって、何だ?多分その時僕は相当に分からない顔をしていたのだろう。ルチアはすぐに説明してくれた。

「クローンっていうのはね。うまく言えないけど、ある人のコピーなの。その人の体の一部をうまく使えば、その人と全部同じ細胞で出来たもう1人の人間が出来上がる。そうやって生まれたのが私らしくて。だからね、ルチアっていうのはその元の人の名前なんだ。」
「…そんなことが…本当に出来るのか?」
「うん、本当のルチアさんに教えてもらったから、ね。」

彼女は優しく笑って話してくれたけれども何故かそれはどこか寂しそうな表情であった。しかし、それと研究にどんな関係があるというのだろう?

No.354

「つまり、研究にはルチアという人間が2人必要だった…のか?」
「別に2人じゃなくたっていい。本当は、それより多い方が良かった。…だけど出来なかった。沢山作ろうとしたけど、その中でクローンになれたのは、私だけだったらしいから。」
「…そうか。」
「その時の事は、何も覚えてはないけれど。」

そこでルチアはすっと横の方を見渡した。白と黒に分けられた何もない空間、その向こうに何かを見つけようとしているようにも見える、遠い眼差しで。

「でも、どうしてかな。私、忘れてる気がするの。」
「忘れてる?」
「うん。何か、とっても大切な事。早く思い出さなきゃいけないのに…どうしても、思い出せなくて。」

彼女は目を閉じる。すると何だかますます、寂しそうに見えた。僕には全く事情が飲み込めないけれど、形を持たない何かがひしひしと伝わってくるような気がした。


これは――悲しみ?


「ルチア。」
「え?」

僕は沈黙する。何となく、声をかけてしまった。この後何て言うかなんて全く考えてなかったのだが、どうしたものか。

――いや…

言うことは、ある。ただ気が引けているのだと思う。果たして人間相手に僕がこんなことを言ってもいいのか、という考えが頭を過ぎった。

No.355

彼女はきょとんと気の抜けた顔で、僕を見ている。仕方がないから僕は固唾を飲み込み、覚悟を決めた。口を開く前に、心の中で呟いて。

(そんなに見られても困る…)


「――僕は『地球』でのルチアの事をまだよく知らないけど。でも…その。話を聞くことくらいは出来る…」
「?、」

僕の声は自分でも驚く程にぼそぼそとしていた。ああ駄目だ。こんなんじゃ何を言いたいのかさっぱり分からないし、それ以前に聞こえないだろう。もっとはっきり言わなければ相手には伝わらない。けど次に何を言ったらいい?取り敢えず言い直してみるか?

「…そう、話を聞くくらいなら出来る。だから何か。聞いてほしいことがあるなら言ってみればいい。溜め込んでいたら、良くない…うん。良くない、から…」
「――…。」

その時微かにルチアの息を呑む音が聞こえた。でも、それから反応がなく表情も変わらなかった。

そして僕もどうやらこれが限界だったようだ。もう、言葉が続かない。これでもかなり絞ったつもりだったけれど、やっぱり駄目だった。僕は無意識に視線を下に落としていた。あれ、今僕はルチアにどんな反応をしてほしかったんだっけ…?終いにそんなことを思い始めた時――


…クスッ


(え?)

唐突に聞こえたとても小さな笑い。僕が恐る恐る顔を上げてみると。

「クスクス…、ふふっ」

ルチアが、笑っていた。僕の縮こまったこの姿を見て。


何というか
ほっとした。


僕の中で、さっきの落胆がゆっくりと溶けるように消えていくのが分かる。けど同時に少しムッとなったから、僕は彼女にこう言った。

「何が、そんなに可笑しいのさ。」

No.356

「ふふふ、ごめん…ね。ちょっと、似てたから。」
「似てたって?」

僕が怪訝そうに聞くと、ルチアはまだ笑い混じりで答えた。

「ううん、何でもない。」

まあ誰と似てるかなんて、僕が彼女から聞いたところで分かるわけはない。ただルチアと知り合う人間の誰かと似ていると言っている事は確かだろう。人間と似ているなんて聞いただけで虫唾が走るけど、少し気になるところではあった。僕がどんな人間と似ているというのか…それにしても、やけに嬉しそうだった。

「ありがとう。あなたのおかげで、ちょっと元気出てきた。…私、不安だったの。ここに来て、初めてあなたと会った後はずっと1人で。誰とも会えなかったから…すごく寂しかった。このまま戻れなくて。もう一生皆に会えないんじゃないかって、そう思ってたの。」
「ここに来た人間は全員そう思うんじゃないかな。」
「うん。でも、あなたがまた来てくれて。本当に良かった。」

そしてルチアはもう1度「ありがとう」と告げると、ふわりと僕に微笑みかけた。さっきまでとはまた違う、柔らかくてとても優しい笑顔。

「…別に…」

接し方に迷ったので、取り敢えず返したのは一言だけ。何となく視線もそらしていた。でもここで1つ分かったのは、僕がルチアの力になりたいと思い始めているという事だった。

『地球』に行くための手掛かりを掴む。ただそれだけの目的で近付いた筈だったのに、いつの時点からこうなってしまったのか。理由もよく分からないけれど…とにかく、これから先彼女の力になれたらと。その笑顔が見れるならと、僕は思うのだった。

No.357

でも僕には分かった。ルチアは、やっぱり本心を語ろうとはしていない。その笑顔の裏側に隠されている何かを、見せようとしない。

当然か。まだ会ったのが2回目なのに、何が話せる?僕がその立場になったとしても、多分話さないだろう。野暮な事を言ったものだと後から自分で呆れた。しかし言ってしまったものは仕方がない…

取り敢えず、僕の中で今までの事を少し整理してみることにした。まず、ルチア自身はどうやってここへ来たか分からない。けれど建物…研究所という密封された空間の中から来たことははっきりしている。そこでされているという研究がルチアをここへ導いたのか。それはまだ分からないけど、やっぱり僕としては気になっている。クローンであるルチアを生み出した研究とはどんなものなのか。その事を分かる必要があるだろう。

「ねえ。」

考えてる間に突然ルチアが呼び掛けてきた。そして返事をする間もなく、彼女は僕を覗き込んみながらこう言った。

「あなたのその目、綺麗な緑色だね。透き通ってて。…キラキラしてて。まるでエメラルドの石みたい。」
「…え?」

僕はそのよく分からない事に間の抜けた声を出した。

No.358

「エメラルドの石、だって?」
「そう、その色にそっくりだよ。私が前に見たのと――」

そこで急に、言葉が途切れた。

「…どうかした?」
「ううん、何も。ただ、私前にそれを見たことがあったんだけど、それがいつの事だったか忘れちゃったの。」
「石を?」
「うん、…それだけ。いつだったんだろう、あんなに綺麗だったのにな。」


(また覚えてない…か。)


それはさっきから僕の心に引っかかっていた。どうも、ルチアはあいまいな記憶しか持っていないように思えるのだ。見たところ、彼女が『地球』に生まれたのはごく最近に見える。だから長い年月を経て記憶がなくなっている、という風でないのは確かだと思っているのだが。

なのに、ルチアには思い出せないことが沢山あるようだ。自分の生い立ちはともかくとして、今までに見てきたものもはっきりとしないみたいだし――何より、彼女が口にしていた、『何か大切なこと』というのが僕の中では一番気になっていた。

「でも、やっぱりね。私、その色見てるととっても懐かしくなるの。何だかとっても……い気持ち…なれる…」
「?」

その時後半がやけに聞き取りにくかったので、僕は思わず眉を潜めた。

(何だ?)

何故か聞こえてくる音が急激に掠れていっているような気がする。僕の目の前で、今もルチアが嬉しそうに話してる。その口が動いているのは分かるけれど、音だけが聞こえてこないのだ。

No.359

次に視界がぼやけていく。その時点で僕は気付く。この感覚にははっきりと覚えがあった。

(そんな…まだ足りないのに…)

前と全く一緒の状況だ。段々と全ての景色が白に染まっていくのも。今襲ってきている強烈な睡魔も。

「…っ――」

たまらず僕は目を閉じる。それで、おしまいだ。もう後は何も感じないで。いや、寧ろ体そのものが無くなってしまったような感覚で、次に目を開くと元の場所に戻されているのだろう。と思ったけれど。


どくん

しばらくしてからの事だ。無音の中で僕の鼓動が1つ鳴った。一瞬苦しくなって、思わず声が出そうになったけど出なかった。鼓動は僕の頭の中で大きく、何重にも響いて聞こえた。手も足も動かない。目も開かない、暗闇の中で。

すぐに分かる。

この息苦しくて重たい感覚は間違いなく『流れ』だ。僕は今『流れ』の中を漂っているのだろうか。何か大きな力を感じる。形はないけれど、とてつもなく大きいことだけは分かった。

すると――


『望むのか』


(?)

その力が。眠っている僕に呼びかけてきたような気がした。


『望むのか』


声はないのに。どうしてか聞こえる。聞こえないものが聞こえるなんて、意味が分からなかった。それに、何を言ってるのかも僕にはあまり理解できなかった。

(何が、だよ…)

取り敢えず悪態をつくと。その瞬間、僕の意識は今度こそ完全に闇に飲まれたのだった。

No.360

「――」

手足がまだ重い。僕は『鏡』の中心に座り込んだままゆっくりと目を開いた。まるで悪い夢からでも覚めたように、体がとても気だるい。

でも。何度目に言うか分からないが、彼女に会ったのは夢なんかじゃない。姿も声もはっきり覚えているし、会話の内容だって全部覚えている。

もし夢だとしたら、こんなに馬鹿げていることはない。研究だのクローンだの、自分の妄想があまりに度を越し過ぎていることに笑うしかなくなる。出来れば今の所、それは信じたくはないものだった。

ルチア

それが彼女の名前。人間を毛嫌いしてる僕が、初めて出会った人間。彼女は、一言で言えばとても不思議な存在だった。何故だか、目が覚めた今でも理解できない。どうして僕が、彼女を助けたいと思うに至ったのか。


――どうして、あんなにも彼女の青に惹かれるのか。


僕はぐっと手を膝に置いて、軽く息を止めながらその場に立ち上がると、ふーっと胸に溜まった息を勢いよく吐き出した。体のだるさを吹き飛ばしたくてやったのだけれど、あまり効果はないようだった。僕はそれから何もない空間の彼方に目を向けた。

No.361

(――よし。)

今から僕がするべきことは?そう考えた後、僕は思い立った。何だか気持ちがごちゃごちゃして忘れかけていたけれど、

要は元々の目的に戻ればいいのだ。

即ちルチアがどうやって地球からここに来たのか、どこかに道があって何かの拍子に来てしまったのか。それを僕が調べられれば、自然と導ける。僕が地球に干渉する方法も、彼女を助ける方法も。

ルチアは何も覚えていないと言っていたけれど、僕には『地球』の全てを見通せる『鏡』がある。そこからルチアの過去を辿ることが出来れば――と期待が膨らんだが、それはすぐに萎んだ。

『鏡』で『地球』の過去を見ることは出来る。でもその範囲はとても広いのだ。どこの箇所に絞って『鏡』に映すは、彼女が居た場所が特定できないことにはどうしようもない。

(どうにかならないのか?どうにか…)

ヴン。

その時周囲の景色と空間が崩れ、いつもの僕の場所になった。大して戻らなくてはならない理由があったわけではないけど、今のところは『鏡』を使っても無意味だと感じたからかもしれない。自動的に戻ってきてしまった。

すると、遠くを見上げていた僕の目に映った。ゆらゆらと光を帯びながら揺れる綺麗な水面が――

「あ、…。」

No.362

僕はその時無意識に右手を軽く上げた。そしてルチアに再会する直前にやっていたように、手の平をぎゅっと握って、開いて…目を閉じる。

すると、まるでかつて『地球』にあった森林に交差し、分岐する枝のような――無数の『流れ』の脈を感じられた。

体に情報が一気になだれ込み、浸透していくようなこの感覚。何だか1本残らず全ての脈を読み取れるような気がした所で、頭の中にふっとある考えが浮かんだ。それは、ルチアが『地球』の表面に現れた『流れ』を通じてここに迷い込んだのではないか、という事だ。

かなり今更な事ではあるけれど、普通に考えたら人間と僕らが接触する機会なんて『流れ』を通じてしか有り得ないのだ。ただ、姉さんは極力人間に見つからないように『流れ』をコントロールしていた筈だから不思議だった。

それなら、ルチアはかなり特殊な状況で『流れ』に触れたことになるだろうか?実際彼女が言っていた、外には1歩も出ていないというのが分からない…

まあ、それはいずれ分かるとして。僕が重要だと思ったのはそこじゃない。

そうでなくて、今把握出来ている『流れ』のどこかに彼女の痕跡が残っていないだろうかという事だ。

その結論に行き着くと、僕は更に神経を研ぎ澄ました。

No.363

それは途方もなく微かなものかもしれない。けど『流れ』を経由してきたのであれば、残っている可能性は高い。僅かな、この世界における異物が。

(どこだ…)

僕はそこで思い出した。僕らという存在は『流れ』の意識を具現化したものだと姉さんが言っていたことを。それならば『流れ』は僕らの体にも等しいという訳だ。…それならばもしかして、と思った。

果たして今思い浮かべたことが起こるか?
僕は少し躊躇していたが、その内意を決し、1度深呼吸してから試すことにした。


「…どこにある?」


ぽつり、と僕は問いかける。その言葉ない存在へと。

すると以外と簡単にゆらりと空間全体が揺らいだ。…いける。そう僕は直感する。そして更に、僕は命令した。歪んだ水面を見上げながら高らかな声で、呼びかけたのだ。


「応えろ。そして僕を――

僕を、そこに連れていけ!」


…ヴン!!

吠えた瞬間ふっと意識が遠くなって、後ろに倒れたような気がした。けど実際どうなったのかはよく分からない。ただその後、僕はとても速い『流れ』をこの目で見た。

見た、という言葉で表現するより。僕自身が『流れ』になったような気がしたといった方が正しいかもしれない。1本の脈の中を、僕の意識はまるで『流れ』の粒子にでもなってしまったかのように物凄い速さで駆け抜けていき――しかし、ある所で急に止まった。

No.364

がくんっ!と強い衝撃が体全体に襲ってきた。

「ぅわ!」

それに抵抗する間もなく、僕の体は思い切り前にのめりこむ。しかし『地球』とは違ってここには重力というものがないので、倒れたりはしなかった。浮かび、漂って少し落ち着いた後、僕は自分のこめかみの辺りを軽くさする。…頭ががんがんと痛かった。

(成功…した?)

痛みで若干目を細めながら見てみると、僕の周りにはいつもと殆ど変わらないが広がっていた。でも、すぐに分かった――僕は来たことのない場所にいる、と。

いつもと違うと感じたのは、うまく表現できないけれど空気感だろうか。何故だか分からないけれど、ここは酷く居心地が悪い。『流れ』が停滞していて、凄く淀んでいるような感じがした。

僕は胸に溜まった息をゆっくりと、全部吐き出す。

『流れ』を自分の意志に従わせる――恐らくは成功だ。まさか1発で決まるとは思っていなかったけど、僕は確かな手応えと達成感を感じていた。姉さんはこうして、いつも『流れ』を自分の手足を動かすかのように自在に操っていたに違いない。僕はそれに少しでも近付けた、成長できた自分を心の中で誉めた。

しかし『流れ』に連れてきてもらったのはいいものの、僕は一体どこに出たというのだろう?まずは、状況をよく探ってみることが必要なようだった。

No.365

まず、やっぱりここに来たときからずっと胸が悪い。とてももやもやしていて、下手をすれば息が出来なくなるほどに喉が詰まりそうだ。

どうしてここの『流れ』はこんなに淀んでいるのか。今の時点では何となくしか分からない。でも本来の『流れ』が何かに妨害されているような、そんな気がした。

(『流れ』を止めている何かがあるってことか…?)

取り敢えず僕は少し進んでみることにした。頭の中に歩くイメージを描き――そこから無重力に1歩、2歩、3歩。

その3歩目で、変化が起こった。

ゴポ…
「?!」

前触れもなかった。突然、『流れ』の色が濁ったのだ。一瞬のうちによく分からない黒ずみのようなものが空間全体にまだら模様を作っていて、しかもそのせいで辺りは薄暗くなっていた。

(何だよこれ…っ!)

僕は思わず片手で口を押さえ、黒ずみを間違って吸ってしまわないように気をつける。この黒ずみが何なのかなんて考えたくもなかった。が、そこで僕はふと気が付いた。

目の前の方向、その奥に。
ここよりもっと暗い場所が見える。

まだら模様なんて生易しいものじゃない。奥の奥の方では黒ずみが密集しているのか、完全に黒く染まっている。それは闇を生じさせている、とても不気味な光景だ。

一言で言うなら、行きたくない。
最初に思ったのがそれだった。

でもそんな事を思う時点で、自分が心のどこかであそこに行かなければいけないと思っているのが丸分かりだった。――そう、僕は行くべきなのだろう。だってきっと、あそこには僕の求めている何かがあるのだから。

No.366

このまま引き返したところで、何もしたことにはならない。僕はぐっと構えて、踏み出した。暗い方、暗い方へと。1歩出すのに2呼吸程かけて、慎重に進む。

正直なところ僕はとても怖かった。『流れ』にこんな異常な場所があったなんて。このまま進んでいって何が起こるか、皆目見当がつかない。

やがて僕は濃い闇に飲まれつつあった。辺りは黒で埋め尽くされて、何も見えなくなってくる。周りの風景も、僕自身も。

(くっ…)

さっきより強めに口と鼻を押さえているが、意味があるのかは怪しいものだった。というのも、黒ずみに触れるという感覚は無かったからだ。

熱くも冷たくもないし、異臭がするわけでもない。ただそれは僕を包み込んで闇を作っているだけで。固体なのか気体なのか液体なのか、そのどれでもないものなのか分からなかった。もしかしたら空間に固定でもされているのかもしれないけど…とにかく、何も感じなかった。僕にとってはそれが逆に不安だった。正体が分からないもの程怖いものはないと、僕は思っているからだ。


そんなこんなで四苦八苦している内に、辿り着いた。1番、闇が深いと思われる場所へ。

No.367

「ぐ、」

汚れた闇が溢れている。…息苦しい。もう本当に何なんだ、と僕は心の中で悪態をついた。それでも何とか探ってみると、どうやら闇はある1点から湧き出ているようだった。それは丁度今、僕の目の前にある。

注意深く見ないと分からなかったけど、片手に握れるくらいに小さな球状のものが浮かんでいた。球の中では、凝縮された黒いもやが時折少しの光を交えながらながらぐるぐると渦巻いている。その闇が、煙のようになって球の外へと放出されている。――僕にはそんな風に見えた。

手を伸ばせば、すぐにでもそれに触れられる。しかしざわざわと胸騒ぎがする。言いかえれば、嫌な予感しかしない。まあこんなもの、僕の他の誰が見たっていい気分はしないだろうが、それにしたってとてつもなく嫌なものを感じる。

「…っ!…」

だけど、それでも僕は手を伸ばした。闇をかき分けて、その不可思議な球体に。当然だ。覚悟だけはもう心の底で決まっていたのだから。ただ体が中々それに追いついていかず指先が震えてしまっていたが。

「くそ…!」


僕は腕をぐいと伸ばして、


パシッ!


苛立ちに任せるように、乱暴にそれを掴みとった。

No.368

それからどうなったのか、僕はよく理解できなかった。辺りの闇しかない状況は変わらない。でも、気付けば手足の感覚が消えているような気がした。…またか、という感じだ。この世界は夢と現実が曖昧になることが多いから最近うんざりしてくる。

とにかく、今は闇と無音に包まれた世界だった。そして少しすると――何やら、空間のどこからか誰かの声が響いてくる。僕は瞬時にそれに気づき、聴覚を研ぎ澄ました。

(――誰の声だろう?)

途切れ途切れであまり聞き取ることが出来ないけど、細い声だ。これは…同じ言葉を繰り返しているのか?いやそれ以前に、よく聞けば聞いたことのある声だ。あまりにか細くて判別がつきにくいけれどこれは――うん、間違いない。僕はひどく懐かしい気持ちになった。


『…ぉく。…き…おく。』


ああ今回は夢か、と確信した。
だって、これは聞こえる筈がない声だ。それでも僕は辺りを見回しながら、その姿を探す。

「姉さん。…姉さん、どこにいるんだ?」
『記憶……これは記憶。『流れ』の……記憶……』


No.369

だが、どんなに探しても姉さんの姿は無かった。僕の視界を覆うのは、闇一色のみ。

(やっぱり、駄目なのか…)

そう、姉さんは今も眠っている筈だ。消えてなくなってしまう、その間際で。

分かってる。姉さんが目を覚ます可能性が、もう無いに等しいことくらい。姉さんが背負っていた『流れ』が殆ど僕に回ってきているのだから、体で理解出来る。

姉さん。

目を閉じてしまったあの時から、どれくらい経ったのだろう。記憶を辿ってみると、その内胸がじわりと苦しくなった。最近やっと心の奥に押し込めることが出来た感情が――ああ、甦ってしまう。


『記憶…、『流れ』……』


僕は何も出来なかったという罪悪感にも似た感情が、また。
こみ上げてくる。


「姉さん、…姉さん。」
『『流れ』……穢れ……』
「姉さん。僕…姉さんに会いたいんだ。答えてくれよ……」
『記憶。残骸……』
「お願いだから――」

いくら呼びかけても、姉さんはそれに応える事はない。無性に、悲しかった。夢の中ですら、声が届くことがないなんて。気付けば、僕の目頭は熱くなっていた。

「どうして。」

僕は力なくうなだれ、その場にしゃがみこむ。何に対して「どうして」という言葉が出てきたのかは分からない。自然に口から滑り出た言葉だった。

No.370

その時――不意に視界が開けた。

キィィン!!
「っ!」

どこか、遠くの方から現れた真っ白な光が辺りを一瞬にして包んだのだ。僕は思わず少し呻きながら目を瞑り、両腕で顔面を覆った。

それから、急に前方からゴォッと風が押し寄せてくる。物凄い力で、たちまち体の自由が利かなくなった。足場も無く、それはどこかへ勢い良く落ちていく感覚に似ていた。

「姉……さん…」

最後の掠れた呟きは霧散し
僕は脱力して、落ちていく。

しかしその途中――

「…、?」

真正面に空気を受けながら、うっすらと目を開いた時。何かの映像が瞳に飛び込んできた。見たこともない景色が沢山、変わるがわる現れるのだ。

(な、…んだ…?)

それによって僕は徐々に熱に浮かされた頭を覚醒させ、ぼんやりとしていた思考を取り戻していいった。終いには両目を大きく開いて、それを見る。

(この景色は?)

次々に、絶え間なく僕の視界いっぱいに映像が映る。その中には時々人間の姿があった。一瞬で分かりずらいけれど、どれも印象的だった。

大きな湖のような場所に巨大な金属の筒が差し込まれている風景。沢山の白い服を着た人間達がせわしなく行き交う風景。暗い部屋に、各々時折小さな光を発しながらひしめいている無数の可笑しな金属の箱。

…まだ終わらない。

No.371

(これは『地球』の景色。きっと姉さんが言った『流れ』の記憶――その中の、)

広い銀色の机に所狭しと並べられている何かの器具。
その傍ら、白い台で仰向けに裸で横たわっている何人もの人間達。


何となく気味の悪い映像が続く中で、僕は姉さんの残した途切れ途切れの言葉を思い出していた。

これは『流れ』の記憶。なら、『流れ』がこの景色を見てきたとでもいうのだろうか?

まあ僕も体が無い頃でも視界はあった。だからもしかして『流れ』に目があっても不思議ではないかもしれないけれど…だとしても分からない。

まずどうして地球のものなんか見ることができる?地中にある『流れ』が地上のこんな場所を見れるわけが――

そう思いかけたところで僕ははっと思い出した。


(…地上に出る事が有り得ないのなら、強制的に地上に移されるしかない。)


ぞくりと背筋が冷える。僕は自分に静かに言い聞かせた。そう言えば前に1度『異変』があったじゃないか、と。

人間が『流れ』に干渉してきた。その時の、何かが吸い取られるような気持ち悪い感覚。姉さんが苦痛にゆがんだ表情で呼吸を荒げていたあの様子は、忘れもしない。

人間は『流れ』を吸い取っていた。その事実から、別の事実へ。僕の中の細い糸が音もなく繋がった。

No.372

つまり地上に吸い上げられたオメガを通じてルチアがこちら側に来たと考えれば、簡単な足し算が出来上がる。それは十分に有り得ることだった。

その理屈で行くなら、ルチアはこの記憶に映っている場所にいたということになる。ならこの変な場所が、ルチアの言っていた研究所だというのだろうか。そしてルチアが『流れ』を使った研究に使われている――?

研究所という所が何の目的があって建てられてたものなのか。そしてどうしてオメガが抜き取られたのか、まだ僕には理解できない。でも、考えただけでざわざわという胸騒ぎを感じた。人間が大量の『流れ』を得たら、何が起こるというのだろう?

頭が疑問と不安で満たされてきたところで、不意に記憶の画面が途切れた。

あれ、と思って目を凝らしてみると、代わりに真っ白視界の真ん中にぽつりと黒い点のようなものが見えた。そのまま見ていると点はぐんぐんこちらに近づいてきて、大きくなっていくようだった。見れば、それは何かの穴に見えなくもない。

(出口?)

心の中で呟く間もなく穴はあっと言う間に巨大になって、僕はそこに呑み込まれた。中はやはり何も見えない。僕は再び闇に呑まれ――意識が途切れたのだった。

No.373

それからどれくらい経ったのか、

「ぅ…」

僕は瞼をうっすらと開ける。まるで長い眠りから目を覚ましたかのように体が重く、だるかった。全身に全く力が入らなくて、僕は空間の浮力にぐったりと身を任せる。

ああ、何だか激しく精神を消耗した気がする。何かを考える気力が沸いてこない。

僕は無意味に辺りに視線を巡らせた。また見慣れない場所だったけど、でも何となく見たことがあるような場所だった。天井に光があって、下には底知れない闇がある。そしてそのどちらにも透明な水面のようなものが広がっていて。

「……、…?」

いや、違う。そう感じて、僕は少しだけ目が覚めた。僕は確実にここに来たことがある。ここは…境目じゃないか?『鏡』から通じていて、僕はそこで――

「わっ?!」

そこでいきなり僕は声を出してしまった。自分で言うのもなんだけど、無理もないと思う。

だって。気付いたら彼女がすぐ目の前にいて、向かい合わせになっていたのだから。

音もなく、出現したといってもいいかもしれない。驚きすぎてひっくり返るかと思った。けれど、彼女は何も言わずじっとしている。目を閉じていて、どうやら眠っているようだった。

「…ルチア…?」

No.374

取り敢えず、ここが『鏡』から通じるところと同じなら、僕は違うルートからここに来れたことになるのか。でも何かが違っているような気がした。見た目は全く同じなのに、何かが。

「ルチア。…ルチア、」

僕は試しにルチアの両肩に触れ、軽く揺すってみる。ちゃんと暖かい体の感触があった。それに彼女の金髪がさらりと僕の手の甲に当たる感じも、ある。

今度は夢ではなく、幻でもない。寧ろやけにはっきりと彼女を認識する事が出来る。その内、彼女は目を覚ます時特有の小さな呻きを上げた。

「ぅ…ん、」
「ルチア。」

そしてさっき僕がそうしたように、彼女は重たそうな瞼を開ける。半開きが限界のようだった。その中の青い瞳がゆっくりと僕の顔を捉え――

「えっ?…」

僕は、またもや変な声を上げた。さっきみたいにひっくり返りそうになったりはしなかったけれど。でもさっき以上に驚き、動揺したのだった。

何故なら、突然彼女の頬に1筋涙が伝ったからだ。

僕は目を丸くしたまま固まってしまった。訳が分からない。でも、確かに彼女は泣いていた。目にはじわりと涙が溜まり、唇が僅かに震えている。更に彼女は、

「…リタ…」

か細い声で呟くと、
今度は2筋涙を零した。

No.375

僕は身を固めたままパニック状態になっていた。

今の呟きは…名前?誰だろう。人間の仲間だろうか。その後しばらく、彼女はまるで僕が見えてないような虚ろな表情で俯いていた。僕も勿論何も言えず、ただそれを呆然と見ていることしかできなかった。

「…、」

けれど流石に向かい合っているだけあって、僕の存在は分かっていたようだった。彼女は不意に両手を交互に使ってぐっと涙を拭う。そして、何とかこちらに顔を向けてくれた。

「、…あなたは…」

震えを押さえ込んだ不安定な声だった。その声で、僕の体はやっと固まった空気から解放されたような気がした。でも、この後どうしたらいいというのか。僕はまばたきを数回した後無意味に視線を泳がせ、迷った末におずおずと再び口を開いた。

「どうして…泣いてるんだ?」

…としか言えなかった。

駄目だ、これ以上何も思いつかない。しかし返事は返ってこない。気まずい沈黙が容赦なく襲ってきた。ああ、何だかこんなことは前にもあった。ここと同じ場所で…そう、彼女と初めて出会った時だ。あの時は立場が逆だった。

つまり今。僕は彼女の立場に立っている事になるのだ――

No.376

それは何とも不思議な感覚だった。状況は同じで、立場だけが逆。僕は今、過去の彼女と同じ様に言葉をかけた。彼女は今、過去の僕と同じ様に泣いている。

思えば人間が泣いているのを見るのはこれで初めてだ。それで感じたのは――人間も僕らと同じに泣けるのだな、ということだった。まあ寧ろ、僕達が人間の形を模した形なのだから涙は流せて当然なのだが…。

でも形は同じでも、人間と僕らは根本から違うものの筈だ。僕らは悲しい時に涙を流すけれど、人間がどんな感情を持って涙を流すものなのか、僕は知らない。知らない筈だと、僕は半ば強引に決め付けている。

(だって、嫌だ。)

でもそこで、ある彼女との会話が思い出された。その記憶は、今の今まで必死になって自分の奥底に押し込めてきた疑惑を無慈悲に引っ張り出し、露呈していく。


本当はもう分かっている。僕が駄々をこねているだけだって事は、

分かっている。


『どうみても、人間なのに?』
『僕は君達には理解できない領域の所で生きている。だから僕が何を思っているかなんて…人間の君に分かるはずがないんだ。』
『そう、かな。私はそんなことないと思うよ。』


(嫌だ…!)

分かっている上で、僕は最後まで足掻いた。けれどその思いとは裏腹に、声がが止まる事は無かった。押し寄せてくる鮮明な記憶の波を抑える事が出来ない。

「っ!」

僕がぎゅっと目を閉じた瞬間、彼女の言葉が脳裏に蘇った。


『あなたが話してくれるなら、きっと私は聞いてあげられると思う。…あなたが人間でなかったとしても。だってあなたは、私達人間と同じものを持ってるもの。』

No.377

同じだと、いうのか。

分かりきっていることだった。でも認めたくなかった。人間は『地球』における生命という存在の1つだ、そして僕らもそれと同じ生命だということを。

何で分かりきっているかって?それは姉さんが、僕のことを『命』と呼んでいたから。

名前がない。けど存在と意識はあるまっさらな生命として。そういう意味しか、思い付かない。どんな理由で生命でないものに対して『命』と呼ぶというのか。


つまり、間違いないのだ。


彼女は軽く首を振りながらふっと弱々しい微笑みを浮かべて返した。

「ううん…何でもない。」

ああ、僕もよくそうするから分かる。見え見えの嘘だ。果たして感情が全ての生命において共有されるものかは分からない。だけど似すぎている。もう、誤魔化しきれない。僕らは同じ様に感情、いや、心を持っている。

悲しみを隠したい心も。
悲しみから助けたいと思う心も。


「リタって…誰の事だ?」
「……。」

隠そうとしているのに余計に話に突っ込まれたら、どうしようもなくなって、何も言えなくなる。あるいは僕だったら「放っておいてくれ」と怒りも沸いてくるだろうか。


「思い出したのか?それとも…」


彼女はただ視線を落としていた。


「本当は、覚えているのか?」

No.378

それでも、僕は聞かなければならない。僕らと人間が同じもと分かっていたからこそ望めた。彼女の幸せを、笑顔を。

「…エメラルド。」
「?」

彼女の声は、小さな雫の様にそこに落ちた。

「大切な事だった。けれど後悔するって、分かっていたから…だから1度忘れたのに。それなのに、やっぱり駄目だった。

私は、忘れることが出来なかった。あなたという些細なきっかけで歯止めが効かなくなってしまうなんて…思わなかったけど。」

よく意味が分からない。それだけでも混乱の材料は十分だったけれど――更に、僕はさっきから違和感を感じていた。それは彼女の目が覚めた時からずっとつきまとっていた。

どこか、彼女の雰囲気は前と変わった気がする。僕より幼い筈なのに、何だか大人びたというか。正確な時間は分からないけれど、僕はすぐ前に彼女と会っているのに。その間に、こんなにも変わるものなのだろうか?


「リタは、この硝子の向こう側にいる人。毎日、私の友達のアンジェリカと一緒にお見舞いに来てくれるの。…今も、そう。」

(硝子?)

やっぱり分からない。僕は取り敢えず生じた疑問を1つずつ解決していくことにした。リタは、恐らくは『地球』の人間のことだと思う。その人間が硝子の向こうから見てるというのは、一体どういう事なのだろう。

No.379

「…もしかして、ルチアには見えているのか?『地球』の景色が。」
「うん。ここは多分――リタの研究室にあったカプセルの中だと思うから。」

またもや聞いたことのない単語だ。彼女は大分落ち着いた様子で淡々と事実を述べた。首を捻ってばかりの僕を真っ直ぐに見つめながら。

「カプセルの硝子から、見えるの。」

僕は彼女の言うことを何とか少しでも理解できないかと、試しに辺りを再び見回してみた。…でも他の人間の姿など無い。いくら全方向に視線を巡らせても、ここにあるのは可笑しな闇と光の空間だけだ。

「だけどルチア。ここから『地球』が見れるなんてあるはずがないと思う。ここが『地球』と『流れ』の境目なのだとしても――やっぱり僕がここにいられるから、ここは『流れ』の中だと思うんだ。」
「『流れ』って?」
「ん……、『地球』の内側にあるもう1つの世界っていう感じかな。」

僕も未だにその実体は分かりきってはいない。ただ『流れ』の世界からは『鏡』のような特殊なものでも使わない限りは『地球』が見えるはずは無いということだけは、経験上からも分かっていた。

「そもそも普通人間は来ることが出来ないし、『地球』からは完全に遮断されている世界なんだ。…だから、『地球』が見れる筈は無い。」

No.380

でも、既に異常は起こっている。ここに人間がずっといるという時点で。彼女が偶然『流れ』を見つけて迷い込んできたなどという考えはもう浮かばない…そう。答えはきっと、目の前にあるのだ。

と思った、その時。
彼女は微かに息を呑む。

「…そうなんだ。やっぱり私、」

そして納得したような表情で1人零した。何か思い当たる節があったのだろうか?けれどその先を待たず、僕は更に聞くことにした。多分この質問が核心――そう思ったからだ。

「ルチア。君は『地球』から『流れ』を見たことがある?」
「…ながれ…」

もし彼女が見たことがあるとしたら、どこで見たのか。前にも考察したかもしれないけれど、その場所は限られてくるだろう。彼女は生まれてから1歩も建物の外に出てないという、動かない事実から。

『地球』で『流れ』がどんな形をしているのか。多分液体なのだろうけど、僕は正確に見たことがない。でも『地球』の人間の目には、確かな形で映ったはずだ。

だって『流れ』は覚えていた。
人間によって吸い上げられ、
人間の目に晒されたことを。
『地球』の景色を。

可笑しな人間達。可笑しな箱の山。あれは絶対――建物の中だった。

No.381

ルチアは一瞬下唇を噛み口を噤んだように見えた。その仕草だけで、心に迷いが生じているのが何となく分かる。だけどやがて、彼女はその迷いを振り切るようにしてこう語った。

「あなたが『流れ』と呼んでいるのは…きっと、私達がオメガと呼んでいるもの。」

1つ1つの言葉をゆっくりと紡ぎ出す。それを言い終えられた時、僕はこめかみから頭に電流が走ったような衝撃を受けた。

「じゃあやっぱり…ルチアが言っていた研究っていうのは、」
「――オメガを使った、研究。」

オメガ。人間達にとっての『流れ』の呼び名。僕はその名を繰り返し記憶に刻みつける。よく分からないけど無駄に大げさに聞こえる名だった。

『流れ』を無理矢理吸い上げた挙げ句、勝手にそんな名をつけて、人間達は何を期待していると言うんだろう。ふつふつと、自分の胸の奥から苛立ちが沸き上がってくるのが分かった。

「だから君は『流れ』に触れる機会を得て、ここに来た。」
「そう、私は今ここにいる。…だって、望んだから。」
「…望んだ?」
「私にしか、できないから。」
「何を?」


「私達の………地球を守ることは。」


「――え?」

僕は目を丸くした。

No.382

まあ、人間でも今の状況を見れば『地球』の寿命が尽きそうなことくらい分かるだろうとは思う。でも今までエネルギーを喰い潰すだけだった人間が。

(…守る、だって?)

僕は知っている。そう遠くない未来、『地球』が1度死ぬことを。具体的にどうなるかはまだよく分からないけれど、姉さんは言っていた。今尽きかけている僅かな『流れ』を全て集結させ、僕に移す。その時には『地球』は『流れ』を完全に失って滅びる、同時に――自分も消えると。

そして姉さんの力を継いだ僕は徐々に『地球』の『流れ』を再構築していき、そこで生まれる新しい世界を見届けるのだと。姉さんは今この時もきっと。眠りについてしまってさえ、その予定調和を計っているに違いないのだ。

ならもし死に至る前の、今の『地球』を守れたなら。姉さんは消えずに済むのだろうか?つまりこの『地球』を守るということは…姉さんを守ることにもなる?

出来るのだろうか。
そんなことが、人間に。

No.383

にわかには信じがたいことだ。気付けば僕の中には好奇心と共に淡い期待が持ち上がっていた。正直、どんな方法でも姉さんを助ける方法があるのなら、知りたかった。例えそれが人間に頼ることだとしても。
僕は奥歯をぐっと噛み締めた。

「だから私はここにいる。…カプセルの中に、入っているんだと思う。」
「それ、さっきも言ってたけどさ。カプセルって何なんだ?何かの入れ物?」

するとルチアは僕にちょっぴり意外そうな顔を向ける。もしかしたら僕が人間じゃない、『地球』の事が殆ど分からないということを忘れていたのかもしれない。それから彼女はふふ、と軽く笑って言った。

「うん、そんなところ。とっても大きい…入れ物。」

その微笑みはこの重苦しい空気を僅かに払拭してくれたような気がした。さっきまで泣いていたのに笑えるなんて…僕にはそんな器用なこと、出来る気がしない。いや、器用というより、単に心の強さの問題なのかもしれない。

「最初からね、私がそこに入ることは決まっていたから。寧ろ、私はここにいなければ可笑しいと思うの。」
「でも、ここがそのカプセルの中だっていうのか?こんな場所が?」

ルチアは何も言わずに頷いた。

No.384

「でも。そしたらここは……地上?」

そのカプセルというものは間違いなく『地球』のものだ。つまり、僕は知らない間に人間が吸い上げた『流れ』の中に来てしまったことになる。

僕は心底驚いた。何故?何時のことだ?『流れ』の闇に触れた瞬間か。記憶の夢を見ていた時か。人間が『流れ』を採取する時に使っていた大きな筒を通ってきたとでもいうのか。

というか、ここが本当に地上なら――僕は元の場所に戻れるのだろうか?

「そうとしか、考えられない。」

彼女の呟きが、僕の考えを後押しした。今までは『鏡』から来れていた、この場所。もし『鏡』が間接的な手段だったら、今回は直接来てしまったということなのだろうか。

愕然とする。

これは推測の域になるけれど、『鏡』を使っていたときは意識だけがここに来ていたのかもしれない。本当の僕はずっと元の場所にいて、夢を見ているのとほぼ同じ状態だった。それで彼女に会っている途中で意識が途切れた時、目を覚ました?

(そんな馬鹿な…)

「あなたは人間じゃない。なら『流れ』に溶けている存在なのかな。」
「え?あぁ…はっきりとは言えないけど。『流れ』の意識みたいなものだよ。」

No.385

「『流れ』の、意識。」
「『流れ』の意識は、僕の意識だ。」

勿論、姉さんの意識でもある。人間にそのことを知る者はただの1人もいない。なら、今こそ言おう。『地球』を守るためにここに来たという、この人間に。

「だけど、所詮は『地球』から見たら見えない物質でしかない存在だから。僕らは何も出来ないで、ただ見ていることしかできない。だからずっと見ていたんだ。人間が長くに渡って『地球』で生死を繰り返すのを。そしてその度に『地球』が荒らされていくのを。」

すると、

「…そう。そういうことだったの。」

意外なことに、ルチアは僕の言っていることを1度で理解したようだった。けどその酷く落ち着いた様子や口調から、何もかも初めから知っているようにも思えた。まあ『流れ』の事を研究とやらで調べていたのなら、不思議ではないかもしれないが。

「生命のサイクルを作り出す物質、オメガ。…でも、驚いた。まさかリタの言っていたことが、本当だったなんて。」
「?」
「彼はいつも言っていた。オメガには星を維持する計り知れない力がある。そこに何かの意志が存在していたとしても不思議じゃないって。もしかしたらそれが、神と呼ぶべきものかもしれないって――」

No.386

「あなたが、そう。」
「……。表現が大きすぎると思うけど、言っていること自体は正しいかな。」
「ごめんなさい。」
「え?」

僕は微かに声をあげた。一瞬、戸惑ったのだ。何かルチアが謝るようなことはあっただろうか?と考えた。けれど、ルチアはまたも全てを分かっているような、憐れんだ表情を浮かべてこう言った。

「ずっと、苦しかったのでしょう?」

それからルチアはもう1度。同じ言葉を途切れ途切れに繰り返した。俯いて、ただ瞳を閉じて。ごめんなさい、と。

「私達人間が、愚かで。あなた達が保ってきた秩序をここまで壊してしまった。そしてあなた達はその過程を、ずっと見てきたのね…何をすることも出来ずに。」

ああ、そうか。僕が『地球』が荒らされてると言ったから。それでルチアは、自分も人間の1人だから謝った。全ての人間の罪を謝った。その時やっと、僕は理解した。

「僕らは、そういうものだったから。」
「ごめんなさい…。」
「…仕方がないよ。」

その一言は僕の口からふっと出てきた。1番妥当だったと思う。僕らは、いつだって『仕方がない』から。それにこの大きすぎる罪は、ルチアが1人で背負いきれるものじゃないと僕は思った。

「いくら謝っても、きっと謝りきれない。でも、だからこそ。私はここに来たの。」

No.387

まだよく分からないことが多すぎるけど、僕は今までの話を一旦整理してみることにした。

取り敢えず、僕が知らぬ間に来てしまったここは、地上に存在するカプセルという容器の中であって、ルチアは何らかの目的を持って『地球』からここに来たと言う。恐らくリタという人間も同じ目的を持っているのだろう。その何らかの目的とは――『地球』を守ること。

そこで当然疑問になるのは、方法だ。僕は順を追って話を切り出していくことにした。

「どうやって、守る?一体君は、ここに来て何をするつもりなんだ?」
「あなたなら、十分に分かっている筈。本来地球を循環するオメガが…枯渇しようとしている。そうでしょう?」
「…ああ、そうだよ。」

もう僕は驚いたりしなかった。彼女が何を知っていても、不思議ではないだろう。…複雑な気持ちだった。今まで誰にも気付かれることのない存在だった『流れ』が。人間に気付かれ、干渉されて、怒りを感じてはいるけれど。

でもそのおかげで、彼女は僕らに気付いた。そして理解した。どこまでも孤独で、誰にも打ち明けることの出来なかった、僕らの苦しみを――知った。

どこか、解放されたような気分だ。

そんな僕を、

「だから…作り出すの。」

ルチアは真っ直ぐ見つめた。

No.388

「…作り出すって、何を…?」

思わずそう聞いてしまったけれど、前の会話から答えは分かりきっていた。でもまさか。僕はそう言いたくなる衝動をぐっと抑える。

「今までに失われた、枯渇してしまった全てのオメガを作り出すの。私の、この手で…。」

予想は外れるはずもなかった。
やはり、開いた口がふさがらない。

「君が?全てのオメガって…」
「足りなくなった生命源を補えば、かつての『地球』の姿が戻ってくると考えた。私達人間の、最後の計画。貴方には信じられないかもしれないけれど、私はそれが出来る力を持っている。いいえ…私にしか、出来ない。」
「……。」
「私とリタははじめ、人工的にオメガに似せたものを作った。けれどそれはここにあるオリジナルのような機能は示さない、ただの液体だった。でも私の血や肉は、それを変えることが出来る。」
「ルチアの――血や肉が?」
「そう。リタの作り出す擬似オメガと私あれば。今の『地球』を元に戻すことが出来る!あなた達を守ることができるの…!」

その時ルチアは感情的になったのか、僕の両腕の服の裾をぎゅっと掴んだ。僕は相も変わらず訳の分からないまま驚いた顔をしているのだろう。そのまま自分より少し背の低いルチアを見下ろすと、彼女の真剣な、呼びかけるような眼差しが突き刺さった。

「だから私はここに来た。リタと2人で『地球』を守ろうって、そう決めたから!

でも…!」

そこで、ルチアは急に僕から視線を外して――弱々しい声で、こう言った。


「私、もう。
あの人には会えない…」

No.389

「だって私はもう、消えるしかない。…2度と、一緒にはいられない…」

俯いて、長いウェーブのかかった髪が彼女の顔を隠した。だけど顔なんて見えなくても分かった。掠れた声。それに服の裾を掴んだ小さな両手から伝わってくる、小刻みな震えで。

「ルチア――」
「馬鹿だって、思うでしょう?こんなことになるって始めから分かってたのに。覚悟、してたのに。

……リタ……」

それからしばらく、僕らは互いに言葉を交わさなかった。ルチアのすすり泣く声だけが響いていた。それは始め、聞き取れるか聞き取れないか分からないくらい小さかったけれど、少し経つにつれて、やがてはっきりと聞こえるようになってくる。
その時、

「!」

ふわり、という感触と同時に僕は息を呑んだ。暖かく、柔らかい。この暖かさは、体温だ。生命が宿っているという証拠の、温度。

「…、ぅ…」

ルチアは、僕にすがって泣いていた。僕の胸に顔を押し付けて――泣いていた。

「……。」

じわりと伝わってくる温度に、僕は何度目かの懐かしさを感じていた。…そう、この温度は姉さんとまるっきり同じだったから。こんな時、僕はいつもならどうしていいか分からなくなるだろう。けどこの時の僕は、いつもとは違かったのかもしれない。

ただ僕は、少し緊張しながらも
ルチアの背に自分の両手を当てる。
そしてゆっくりと、
目を閉じた。

No.390

ややあって僕達は落ち着き、離れた。でも、僕は少し違和感を感じていた。

「ルチア、前に君は言っていた。自分は研究のために生まれた、…クローンだって。」

確かそんな名前だったか。とにかく今の話を考えてみると、ルチアは『流れ』を作り出す研究のために生み出された。

でも、もし本当に研究に使われるだけだったのなら、リタという人間を恋しがる余裕は与えられるものなのだろうか?それに見たところ、ルチアは生まれてからそんなに月日が経ってないようにも思える。

「…そう。」
「生命を捨てると、君は1度決めた。でも今は、そのリタという人間のために生きたいと願っているんだね。」
「……。」

『生きたい』という感情は全ての生命に宿っている本能のようなものなのかもしれない。それはたとえ自分が犠牲になると分かっていてもきっと避けられないものなのだと思う。――姉さんだって、きっと。

「いっそ『地球』で意識を持たないまま、ここにくれば良かったのかもしれないね。そうすればリタのことは知らないまま…生命に未練を残すことはなかった。」

使われるだけの存在なら、自我を持ったところで苦しむだけ。それは姉さんが最も知っている事で…僕が最も教えられたことだった。

自分の意識など何の意味をなさないという絶望を、知っている。そういう意味では、僕らはよく似ていた。

No.391

「そのために、記憶を消していたから。クローンとして目覚めた時から…ずっと。」
「え?」
「まあ結局、こうして思い出してしまったのだけれど。」

ルチアは片手を胸に当て、瞼を伏せる。けれど心なしか、本当に僅かだけど口の端が上がっている様な気がした。だからその表情は悲しそうなのか、それとも少し嬉しそうなのか判別がつきづらい。

でも、やっぱり
それは少し可笑しな話だった。

「クローンとして、目覚めた時から?なら、その前に記憶があったっていうのか。…生まれる前から?」

僕が疑問を口にすると、ルチアはまた沈黙した。生まれて自我を持つ前、まだ眠っているときにも意識はあるものなのだろうか。その時に、記憶が作られた?

かなり分かりづらい言葉ではあるけれど、僕はそれはないと思っている。だって僕の記憶でも、物心ついて姉さんと話していた時以降のものだけだ。それ以前、生まれる前の記憶なんて、ない。

それなら生まれた直後の記憶か?でもそれにしては、ルチアの語った記憶は鮮明すぎだ。この様子では彼女はリタと会話していたのだろうし、自分で『流れ』の研究に身を捧げるという決意もしている。人間の幼少期は『鏡』で見たことがあるけれど、とても彼女の言ったようなことが出来るとは思えないのだ。

なら――どういうことだというのか。

No.392

「私はクローンじゃない。」
「ーーえ?」

それは、唐突だった。1人で考えを巡らしていた分余計に唐突に聞こえたのかもしれない。…あれ、また何か変だ。意味がわからない?

「ちょっと待って。君はクローン…なんだろう?」
「いいえ、私はクローンじゃない。」
「…??」

どういうことか頭が追い付いていかない。さっきまで、クローンとして生まれたルチアの話をしていたはずじゃなかったか。

「クローンなら外にいるわ。本当の私はここ。」
「本当の、ルチア?」
「そう、20年はとっくに生きてた。還元によってこの姿になったのは、そこで彼と知り合った随分後のこと。」
「それはつまり、生まれる前にもーー生きていたということ?」

ルチアは少し僕に訴えかけるような視線を向けた。

No.393

「私は、私だけだった。だけど、私では無くなってしまった…。」

クローンは、ある人間のコピー。元の人間とコピーされた2人の人間がいると、確かにルチアは言っていた。その存在が、入れ替わってしまったということなのだろうか。彼女は来るべくしてここに来たと言った。ならもしかして本当にここに来るはずだったのは、クローンの方?

「でも、どうしてそんなことになってしまったんだ。」
「どうして…」

何かの間違いだったのか。それとも何かの意志が働いていたのか。話が本当に分かっているのかどうかは怪しいけれど、そこが疑問だった。

「君が『地球』のリタっていう人間と離れて、クローンの代わりになってまでここに来たのは、何故?…君はさっき望んできたって言ったけど、本当にそうだったのかい?」
「…私は…」
「僕には、そう思えないよ。」
「………。守ってくれた…」
「?」

ルチアは自信が無さそうに僕から視線を下の方に反らし、ぽそりと呟く。

「まだ、全部は思い出せないけど。私、彼に守ってもらったような気がする。こうするしか…もうどうにもならなかった。そこで、約束してくれたから。」 
「約束?」

No.394

「迎えに行くって。」
「!…」
「言ってくれたの。今は離れても最後には必ず助けるからって。」

ここに迎えに来る、ということだろうか。…そうかもしれない。ルチアは今ここにいるのだから。だけど、人間に分かるだろうか。『流れ』の本体は把握しているしても、僕らは形を持たない存在だ。その形を具現化させているこの世界も、人間には見えていない可能性の方が高い。

「私、嬉しかった。とっても…」

ルチアは目を閉じて、思い出しているように見えた。少しだけ微笑んで、自然と両手を組み合わせて。そんな幸せそうな姿を、多分僕は複雑な表情で見ていた。

この世界が把握できないものなのだとしたら、そこに存在しているルチアだって。人間が触れることはかなり難しいと思う。『地球』にルチアの体が残っているのか、いないのかは分からない。でも少なくとも意識はここにあるのだから、それを取り戻さないことには意味がないだろう。

こっちからだって、ルチアをどうやって『地球』に返せるか全く分からないっていうのに…そもそも、帰す方法なんて本当にあるんだろうか。

そう思った時だった。

「でもね、今なら何となく分かるの。もう、あそこには戻れないって。」
「…えっ」

どきり、と全身が強ばった。

「ど…、どうして?僕は君を『地球』に返すって言った。今はまだ方法が分からないけど…きっと見つかるさ!時間がかかっても、探していけばきっと…!」

そんな風に慌てて、必死に思考を隠そうとする僕をいさめるかのように、ルチアは静かに首を左右に振るのだった。


「もし方法があるのだとしても。私には、するべきことがあるから。」

No.395

「私にしか出来ない。」
「まさかーーそれって。」
「責任を、果たさなければいけないから。」

その瞬間、何か強い感情が胸の奥から沸き上がってきた。何か、熱い。1番近いのは怒りなのかもしれないが、良く分からない。ただどうしようもなく、僕はルチアの言葉を否定したい衝動に駆られた。

「それは、ルチア一人だけの責任じゃない。ルチア1人が背負うべきことじゃない…!」

ルチアに希望を持って欲しかった。
だって、生きていて欲しかったから。
『地球』に帰すと約束したから。

だけど実際のところは、違ったのだ。その時の僕は、一時的に心の根底にある無意識を忘れていたのかもしれないが。

「出来る。だって…あなただって、背負ってきたのだから。」
「、…!」
「私は人間の、生命の汚れを背負ってきたあなたの苦しみを少しでもやわらげたかった。そのために今まで研究をして、ここまで来たの。

私は…ずっとあなたを助けたかったの!」


そう、ここだ。

ルチアのまるで訴えかけるような瞳に貫かれ、僕は息を呑む。ここで、気がついたのだ。ついさっき『期待』していたことも一緒に。


僕は、助けて欲しかった。


このまま、全てを背負ったまま消えてしまう
ーー姉さんのことを。

No.396

「ルチアはーー……」

その先は、喉の奥に声が詰まって言えなかった。僕はどうしようもない矛盾に『立ち止まった』のだ。このままでいれば、姉さんは間違いなく消える。姉さんを消さない方法は、ルチアが犠牲になること。

言葉が途切れ、そこに居心地の悪い沈黙が生まれる。それに耐えきれなくなった頃、僕は沈黙に背中を無理矢理押されるように言ったのだった。

「ルチアは…本当に出来るのか。『流れ』を作り出すなんて。」

短時間で必死に考えた末僕が選んだのは、姉さんの無事だった。その時、ルチアは何を思っただろう。何も言わず小さく、頷いた。それからしばらくして、濡れた頬と目元をそっと指で拭う。

「それが、私の生きる意味だったから。」
「…ルチア、」
「大丈夫。」

そしてーー

「私、出来るから。」

まるで何事もなかったかのように、朗らかに微笑んだ。その眩しさに、息が止まる。まさか…こんな顔出来るはずがない。だって、さっきまで泣いてた。あんなに悲しんでいたじゃないか。

大切に思う人に、二度と会えなくなる。それは、僕が姉さんに会えなくなることと同じ事を意味するに違いなかった。だから、今なら理解できる。

彼女は、出来ない。それが真実であることは明白だ。

なのに…どうしてなのか。
真っ白で、柔らかい何かに飲み込まれるような感覚で
僕はーー何だか、もう救われたような気がした。

こんな微笑みが浮かべられるとしたら、彼女はこの世界を愛している。『地球』を、『流れ』を。きっと全ての生命を。


(どうして……君は……)

No.397

ふと、僕は思い出した。

いつだったか。まだルチアとも出会っていない時だから、僕が自分の形を得て間もない頃だったかもしれない。とにかくその時は、姉さんはいつもの調子だった。いつもにように、全てを見透かしたようなふてぶてしい笑みを浮かべながら。ある日こう聞いてきたのだった。

「なあ、命。お前は『地球』がどんな色をしているかーー知っているか?」

僕はその日も『地球』の酷い有り様を見た後で、疲れと焦りが入り交じった変な表情を向けたと思う。それに、僕にはその質問の意味が分からなかった。

「色…?『地球』の色なんて決まってないでしょ?砂とか海とかあるし…どれの事だか分からないよ。」

何故なら僕はこの時理解していなかった。単に、『地球』というところに広がる世界しか見ていなかったから。姿は、まるで知らなかったのだ。まあ、知らなくても大して問題にならないことなのかもしれない。姉さんはまるで世間話でも話すように、他愛なく続けた。

「前に一度話したかもしれないがな、『地球』というのは星なんだ。…分かるか?『地球』が暗闇に包まれるときがあるだろう。その時上の方に見えるのが星だよ。」
「…ああ、あれ?空にたくさん見えるやつ?」
「そうだ。太陽や月も、その一種なんだぞ。」
「へえ、…なら尚更、色なんて無さそうなものだけどね。」

だから僕も始めは軽く聞き流しながら相づちをうつだけだった。あまり考える気力がなかったというのもあったかもしれないが。

「確かに、星はただの光の集まりにしか見えない。ところが『地球』は違う。『地球』には色がある。」
「ただの光じゃないってこと?」
「ああ。こういう星は稀だそうだな。…で、お前には想像がつくか?『地球』にはどんな色がついていると思う?」
「………。強いて言えば、赤かな。」
「何故だ?」
「一番広い、海が赤いから。」
「…なるほどな。正解じゃないが、初めて考えるにしては上出来だ。」

姉さんは1人で満足そうに頷いている。どうしてか、どことなく楽しそうにも見えた。

「正解は何なの?」
「うーん、そこまで行ったのなら。折角だからもう少し考えてもらおうか。」
「…えぇ?分からないよ。いいから教えてって。」

No.398

僕の若干覚めた様子も気にせず、姉さんはそこにある良く分からない歪な形をした白い椅子に、ゆっくりと半身で寄りかかるように腰かける。片方手すりに丁度いい場所もあったので、やれやれと言ったように頬杖をついた。気だるそうにも見えるけれど、相変わらず優雅に見えるのが不思議だった。

「海よりももっと広いものがあるだろう。」
「海より…広い?」
「分からないか?さっき自分で言ったばかりだというのに。」
「ーー空か…?」
「その通り。」

成る程、確かに空より広いものなんて『地球』にはないだろう。空は、青い。『地球』でただ1つしかない色だ。

「なら、『地球』は青いの?空が青いから?」
「正確には空気が青いんだ。実はここからは私もよく理解してはいないんだが、太陽の光を『地球』特有の成分で構成されている大気ーー即ち空気が吸収すると、それが青く見えるらしい。だから、地上から見る空は青い。そして、宇宙からは『地球』が青い膜に包まれているように見える。」
「宇宙ーー確か『地球』の更に外にある世界、だっけ?全然想像がつかないけど、そこから見ると『地球』は青く見えるってことか。」
「ああ、そうだ。例え海が赤く汚れてしまっても、空だけはああして青い。澄みわたってる。海も、かつては青かったがな。」
「……」
「命よ。青とは、清い色だとは思わないか?」

『地球』でただ1つしかない色。海でも、大地でも、勿論生命でもない。空だけは『地球』で唯一いつまでも清い。姉さんの意図は読めないが、その時の僕は何故か妙に納得していたと思う。

「…うん。僕もそう思うよ。」

No.399

「…そうか。」

姉さんは落ち着いた様子で微笑んだ後、言った。

「私は最近こう思うんだよ。『地球』という世界は、どれほど汚れているように見えてもーーその本質は清いままなのではないか、とね。」
「本質が、清い?」
「その青を湛える限り、『地球』は美しい。いっそのこと、そう考えるのもいいんじゃないか。まあ平たく言うとするなら…私達が守る価値のあるものかもしれないってことだよ。」
「………。」

僕を見ていた。だけど僕を通り越してその向こう、遠くをを見ていた気がする。空を見ているのだろうか、と一瞬感じた。ここには存在しないけれども、『地球』の無限に広がる空を見ているのではないか、と。

僕は思った。空の青は、僕達の希望に置き換えられるのかもしれない。今となってはたったひとつ残された清い存在なのだから、と。

No.400

…だから今。彼女も僕にとって希望なのかもしれない、そう思えた。あのときの会話はすっかり忘れていたけれど、僕は自然と彼女の青に惹かれていた。始めは瞳の色、でも今となってはそれだけじゃないのだと感じた。

「私達の世界はとても素敵なものだったと思うから。
だから、守ってほしい。」

例え『地球』が再生したとしても、ルチアは決してその光景を見られない。『地球』に帰ることなど2度と出来ない。そんなこと、納得出来るはずがないのだ。

そこから明らかになったのは彼女は強くて、僕は弱かったということ。彼女は手を差し伸べ、僕は都合よくそれに頼ったという、それだけのことだ。

どうしようもない。
どこまでも、どうしようもなく何も出来ない。
それを再度突き付けられただけのこと。


またなのか。
どこまで、付きまとうというのか。


もう、失笑するしかなかった。


「もう誰も悲しまないように、あなたも。
だからその時が来るまで……少しの間……よろしくね。」
「え、」

彼女の瞼がゆっくりと閉じていく。そして完全に青い瞳が見えなくなると。突然細く白い光が束になって現れ、彼女をふわりと包み込んだ。

「!…」

一瞬姿が掻き消えたように見えたけれど、彼女はそのまま消えるわけではなかった。どうやら眠りについたようだった。ほのかに光りながら、彼女は静かに眠っていた。

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