地獄に咲く花

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2013/11/10 23:01(更新日時)

地球温暖化が進んで人類滅亡も近い世界での、ある子供達の物語。

13/03/21 00:30 追記
※このスレッドは前編となっています。中、後編は以下のURLよりお入り下さい。

中編
http://mikle.jp/thread/1242703/

後編
http://mikle.jp/thread/1800698/

尚、このスレッドはレス263よりサイドストーリーとなっております。もし中、後編を御覧になる場合はこちらも読むことをお勧め致します。

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No.1159506 (スレ作成日時)

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No.301

「……え、」

僕は突如、はっきりとした気配のようなものを感じた。周りにはどう見ても何もないのに。僕しかここに居ないはずなのに。自分のすぐ目の前に誰かが居る、という感覚をおぼえた。

(何だろう……誰?)

影も形もない。寧ろ目を閉じていたほうが、その存在が分かるような気がした。


だから僕は目を閉じて――右手を前に伸ばし、手探りでその気配を探ってみることにした。もしかしたらそれに触れることが出来るかもしれない、とあまり深く考えずに。

けれど僕が居れるような世界で、アリシア姉さん以外に誰が存在することが出来るというのだろう?この気配は明らかに姉さんのものとは違う。そうしたら必然的に、それは僕ら以外の誰かということになる。


…僕ら以外に地球を守る者がいるとは聞いたことがない。そういうものじゃないなら、あと残ってくる可能性は?


その瞬間だった。


「…!」


僕は息を呑んだ。何故なら、右手が何か柔らかいものに触れたからだ。それに…暖かい。もう少し手で探ってみると、それは手の形をしていることが分かった。

閉じていた目を開けてみると、僕の右手はぼんやりとした白い光に包まれていた。この光の向こうに、誰かがいるのだろうか?


そう思ったところで僕ははっとした。

No.302

「っ!」

僕は反射的に手を引っ込めた。

この手が僕達と同類の者でないなら、きっと…いや、間違いなく地球からここに迷い込んだ人間のものだ。僕は姉さんの言葉を思い出した。

僕達が人間に近寄れば――災いが起こる。そうだ、だから人間は僕達の手で元の地球に返さなければならないんだ…まさか、もうこんな事が起きるなんて思わなかった。

しかしその時、



「え…、」


僕が何もしないうちに、目の前にあった白い光がふっと掻き消えた。瞬間周りの真っ白な世界が急に薄暗さに包まれたかと思うと、空間は音もなく歪み、無数の亀裂を産み始める。


亀裂の向こうに目を凝らしてみると、真っ黒な闇しかなかった。
そこに向かって僕は――


「?!」


気が付いた時にはもう落ちていた。上も下も分からない空間を落ちるというのはおかしな話かもしれないが。僕は頭から大きな亀裂の向こうにある闇に向かっていたのだ。


「ぅあ、……!」


かすれた僕の悲鳴が響く。それがこの空間での最後の出来事だった。

No.303

イイ題名ですね。(笑)

No.304

「!!っ……あ…」


――僕が目を開けると、そこには見慣れた世界が広がっていた。


今僕は、エメラルドの海の真ん中に立っている。あの奇妙な空間に飛ばされる直前までいた所と同じ場所だ。景色はどこに行っても同じだけど、その辺は僕らには何となく理解できる。

「…はぁ、はぁ…っ」

鼓動が激しく波打っている。僕は息を切らしながら、胸に左手を当てていた。それは今までに味わったことのない感覚で、少しだけ新鮮だった。


今のは一体何だったんだろう?
やはり、夢というやつだろうか。


多分その可能性が高い。目を閉じて行って目を開けて帰ってきたのだから。だけど、どうも僕は腑に落ちなかった。そもそも立った状態で目を醒ますなんて…。

それに、今でもあの出来事はこの目に焼き付いている。まるで現実で起こった事みたいに、僕ははっきりと覚えているのだ。


――あの手の感触も。


「はぁ、………。」


僕は、まだじんわりと暖かい右手を広げてぎゅっと握ってみる。きっとこの熱は、光の向こうにあった手の暖かさに違いない。そう思った。


でも、あれは本当に人間の手だったのだろうか?ついさっきはそうに違いないと思った。けれど今思うと、正直僕には信じられなかった。


だってあの暖かさは、姉さんの手の暖かさと同じだった。


昔姉さんが撫でてくれたり、抱きしめてくれたりしたときに感じた時に感じたものと、全く同じだったのだ。

No.305

人間は僕らとは違う存在だ。僕らは人間の姿をしているけれど、それでも人間とは全く違う筈だ。それなのに。


何というか、単に暖かかったとか冷たかったとかいう問題じゃなくて。その先に、『同じもの』を感じた気がする。…姉さんと同じ?いや。もっと根本的な、何かだ。


何だろう?


それから僕はしばらくそこに突っ立ったまま考えてみた。でもいくら腕を深く組んでみても、柔らかな光が射し込んでいる水面を睨んでみても答えは出なかった。


心がすっきりしないまま、僕は小さく溜息を付いた。


でも、仮にその何かが本当に人間と僕らに共通するものであったならば。そう思うと、僕の中で1つの疑問と共にあの言葉が浮かんだ。


『人間と自分達は相容れぬもの。』


相容れないってどういうことだろう?
例えば会った瞬間から互いの存在を否定しあうとか、争いになるとか。もしかしてそれによって、姉さんが言っていた『災い』が起こる?


果たしてそんなことが起こるのだろうか…?




パシッ!




そこで僕は両手で自分の頬を叩いて、思考を止めた。


この先を考えてしまってはダメだ。きっと、悪いことが起きる。それに、もし次に人間が本当にここに迷い込んできたとしても。きっと僕は何も言わず、それを地球に返すだろう。


姉さんを今までずっと苦しめてきた人間となんて――話したくもないからだ。

No.306

僕は、今起こったことを頭の奥にしまい込んだ。本当は忘れてしまうのが1番いいのだろうが、どうしても手にあの感覚が残っていて無理だった。


…無理なら考えないようにだけすればいいだけのこと。結局の所、結論はそれだ。
僕はこの事を姉さんには黙っておくことにした。


そのまま、僕と姉さんは5日程過ごした。

本当は、この世界で時間なんていうものはよく分からない。今のは僕の勝手な感覚だ。もしかしたら姉さんはもしかしたらこれを1日と言うかもしれない。

地球ではその間に30回日が昇って落ちたのだから、別に30日と数えてもいいとは思う。けれど、どうもそれだと僕らにとっては時間が経つのが速すぎるように感じるみたいだった。


僕はこの間に5回眠った。だから5日でいい。そんな適当な話で僕はいつも済ませていた。


そして――それは僕が6回目の眠りについているときに、起こった。


ドクン!
「!」


僕は膝を抱えた姿勢のまま、ぱっちりと目を開ける。

今、何かが動いている。周りの様子は今までと何も変わらないけど、僕にはその異変が手に取るように分かった。波打つ鼓動が、教えてくれているのだ。


何だろう、この感覚は。……気持ち悪い。僕は思わず自分の口を片手で押さえた。
 

うまく説明出来ないけれど、それはまるで何かが無理やり吸い上げられていっているような感覚だった。


どこから?何が吸い取られてる?


そう考えた時何故か、僕は急に胸騒ぎがした。

No.307

――…そうだ、姉さんは?!


そう思い立った瞬間。僕はもう姉さんの場所に降り立っていた。この世界の仕組みはこんな時にはにとても有り難いものだった。

けれど、今はそれに感謝している余裕はない。僕は少し遠くに見える、姉さんのいつもの大きな椅子へと急いだ。


すると――


「!…」


そこに姉さんはいた。椅子に座ったまま背中を丸め、激しく息を切らしていた。それはとても苦しそうで、一目で異変が起きていることが分かった。

「はぁ……はあ、…!…ぐっ!」
「姉さん?姉さん!!一体どうしたんだ!!」

僕は、取り敢えずその背中を支える。けれどその後にどうしたらいいのか分からなかった。

「胸が苦しいの?!」
「っ…命、…。はぁ…はぁ!!」
「姉さん、喋らない方がいいよ。…今はその椅子の背にもたれて。」

そして、僕はゆっくりと姉さんを椅子に寝かせる。しかしそれでも息切れは治まらず、結局僕には様子を見ることしか出来そうにないようだった。何も出来ず、僕はとても歯がゆい思いを味わった。

No.308

しかしそれからしばらくすると、姉さんの呼吸は徐々に落ち着いてきた。僕はずっと姉さんの脇でそれを見守っていた。

「…、ぅ…」

僕は姉さんの小さな呻きでぐっと眉を寄せる。今まで、こんなことは起こったことがなかった。姉さんがこんなに苦しむ姿なんて見たことがなかったから…とても不安だった。そして、何も出来ないことがこんなにももどかしい。『地球』に干渉出来ない上に、結局ここでも何も出来ないなんて。

僕はぎりっと奥歯を噛み締めた。


「……命。」
「!」

その疲れ切った声に僕はぴくりと反応する。どうやら、話せる程度まで容態が落ち着いた様だった。取り敢えず僕は心の中でほっと胸をなで下ろしたが、やはりそれだけで不安が消えることは無かった。


「済まなかったな、命。私は…もう大丈夫だ。」
「全然大丈夫そうに見えないよ。」
「じきに元に戻る。まあそんな顔をするな。」
「……姉さん。さっきの『異変』、僕も感じたんだ。」
「それは、そうだろうな。この世界は私達の体も同然なのだから。」
「あの時、よく分からないけど何かが吸い取られる感じがした。…この世界が、僕らの体?それじゃあもしかして、」


すると、姉さんはそこに横たわったまま小さく首を縦に振った。

No.309

「どうやら、起こってはならないことが起こってしまったらしい。…人間が、『流れ』に干渉してくるとはな。」
「!」

僕は姉さんの言葉に息を呑んだ。

「まさか人間が。僕等の世界の『流れ』を吸い取った?」

『流れ』とは、この世界を構成している物質だ。姉さんの教えによれば、地球上で息絶えた生命はこれに還元され、また新たに生まれてくる生命の糧となるらしい。

今も上を見上げれば、綺麗な水面が揺らめいている。あれは『流れ』の水面だ。


「『流れ』の異変は、私が経験したことのないものだった。自然には起こりえないこと…外部の力が働いたとしか考えられない。それも、とても大きな力だ。」
「そんな。…どうすればいい?このままじゃ、またいつ人間が『流れ』を吸い取ってくるか分からない!そしたら姉さんが!」


すると姉さんはそんな風に焦る僕を静かに見つめた後、すっと目を閉じる。

その表情でもう分かった。姉さんが次に言うであろう言葉が。僕はその言葉を信じたくなくて、ずっと姉さんの顔を見入っていた。

しかし。




「どうしようもない。」




「…!!」

返ってきたのは予想通りの一言だった。


「前に教えた筈だ。私達には、何も出来ない。出来ることといったらせいぜい『流れ』の方向を変えて、『流れ』を人間に見つからないようにすることくらい…だ。」

No.310

ああ、――またこうなるのか。
そう僕は心の中で落胆する。


「時間稼ぎにしかならないだろうが、これでしばらくは持つ筈だ。まだ、その時は来ない。だから…命。お前は自分の成すべき事に専念しろ。」


分かってる。ちゃんと理解している。だって姉さんは今までずっと何も出来ない苦しみに耐えてきて。僕が生まれた頃には、自分の存在を自身で否定するようにまでになっていた。

だから姉さんは、自分と同じ道を歩まないようにとあれほど僕に言い聞かせてくれていたんじゃないか。僕はそれらを全て無視して、姉さんと同じこの身体を得たんだ。

その時、僕は確かに覚悟した。
姉さんの使命を引き継ぐと共に、姉さんが長い間感じてきたその苦しみも引き継ぐと。


でも。


僕はそれ以上に、
何も出来ていないんじゃないか?


『地球』のことは勿論のことだが、この世界でだって僕は何も出来てない。目の前で姉さんが苦しんでいても見ていることしか出来なかった。そして自分の成すべき事…即ち人間の『愛』を探し出すことさえ、僕には未だに出来ていない。


(……畜生……)


頭が、痛くなった。

No.311

人間が『流れ』を吸い取る。

その目的は、僕には分からない。けれどあれから『鏡』を見ていると、確かに時々不審な動きをしている人間が映し出された。この間見た時は、集団で何か大きな道具を使って地面を掘っていた様だった。

姉さんは『流れ』が見つからないように、その方向を変え、隠すと言っていた。…でもそれは時間稼ぎでしかない。いずれ『流れ』は行き場を無くして、人間に見つかってしまうのだろうと思う。

「何とかならないのか…」

僕は今日もまた『鏡』を見ながら零す。いくら『地球』を見ていたって、いつもの荒廃した世界が広がっているばかりで、そこには一片の答えもない。それどころか、僕は『流れ』を見つけようとする人間の動きをみる度に戦慄し、焦りが生じるばかり。

そう。もはや僕等は袋小路に立たされていたのだ。

「……。」

どこにも逃げ場はない。『地球』はこのまま朽ち、滅びる。そして僕らも消える。そういう運命なのだと、僕は半ば諦めた。




その時だった。




…オォ……ン…


「え?」


突然聞き慣れない音が『鏡』――傍観の間に響き渡った。微かな音だったけど、普段僕らの世界は殆ど音がないからすぐに反応出来た。その音を言葉で表現するとしたら「空間が鳴いた」とでも言えばいいのかもしれない。

すると『鏡』の映像がふっと消え失る。僕はその場で辺りを見回した。

No.312

『鏡』が無くなったことで、僕の足元がふわりと浮く。その後じわじわと、周りの景色が変化していくのが分かった。それらは幻が実体化するかのようにゆっくりと現れていった。

「あっ、」

まず、僕の下にゆらゆらと揺れる透明な水面が生まれた。どこまでも、どこまでも続いている水面が。けれど上を見上げてみても、それと同じような水面が存在していた。

更に。上の水面の奥には光に満ちているような真っ白な空間が広がっていて、逆に下の水面の奥には真っ暗な黒い空間が広がっている。それは光と闇の狭間のような、不可思議な世界だ。


(ここは……)


見たことのある景色だった。


つい最近、僕はここに来たことがある。僕は素早く記憶の糸を手繰り寄せ、思い出した。あれはそう、夢の中の出来事だった筈だ。けれど僕は今こうして、それと全く同じものを見ているのだ。


――じゃあ、これは夢?僕は自分で気付かないうちに眠ってしまった?……そんな筈はない。僕はちゃんとさっきまで起きてた。そもそも、この間のことが夢だったのかそうでなかったのかすら怪しいじゃないか。



いや、そんなことはどうでもいい。問題は、この後何が起こるのかということなんじゃないのか。



その考えに至り、僕ははっと息を呑んだ。

No.313

それとほぼ同時だった。


(?…あれは?!)


目の前に見えている白の世界の少し向こうに、何かの影が見えたのは。


ここからではまだ全体的に薄ぼんやりとしていてよく見えない。けれどあれが何なのかは、一瞬で予想がついた。


即ち――人間。


今思えば、あの『夢』で触れた手も人間に違いないと思えた。何故ならあの出来事があってからあまり経たないうちに、僕達の世界に人間の大きな干渉があったからだ。

…もし『夢』が夢じゃなかったとするなら、辻褄が合う。あの時触れた人間がこの世界の存在に気付き、『地球』に戻ってから他の人間にそれを知らせたとすれば。

僕は戦慄した。これが『夢』と同じ状況なら、すぐに対処しなければならない!僕はすぐさま、影の方に自分の意識を飛ばす。すると一瞬で影の近くに移動できて、そこから形がはっきりと見えた。


それはやはり
人間の形をしていた。


一見佇んでいるように見えたが、どうやら空間に浮かんでいるようだった。手足は力無く垂れて、動く様子はない。


「…、」


僕はその姿に息を呑んだ。


僕よりも小さい、女の子だった。金色のウェーブのかかった長い髪。白い服は何だか全体にふわふわしていた。『地球』で言うネグリジェというやつだろうか。背中で音もなく揺れる艶やかな金髪とよく合っている。


彼女は目を閉じて、
眠っていた。


静かに、そこに存在していた。

No.314

始めて間近で見る、アリシア姉さん以外の人の形。『地球』の人間。それは今まで見たことのない感じがした。


何かが、違う。
何が違う?


気付けば、僕はぼうっとその小さな人間を見つめたままでいた。けれど理性が僕の中でけたたましく警鐘を鳴らした。


何をしているんだ。
早く、僕がこの人間を『地球』に戻さないと。


姉さんは言っていた。僕らはこの世界の意識体で、『流れ』を操る力を持っている。念じる事で、人間を『地球』に戻すことが出来ると。なら、やってみよう。出来るかどうかは分からないけど、今はやるしかない。


僕は強くイメージした。


この人間が、在るべき場所に戻れるように。災いが起こることがないように。


(――行け――)


すると、


「…!」


僕は少し驚いた。どこからか現れた柔らかな白い光が、ゆっくりと人間を包み始めたのだ。…どうやらやり方はこれで合っていたらしい。こんなに簡単に出来るとは、正直思っていなかった。

でもまだだ。まだ足りない。
もう1度だ。


「……、」


同じ事を念じると、案の定。人間を包み込む光は強くなった。その後試しに片手を軽く人間に向かってかざしてみたが、

コオオォ……!

効果は絶大だった。
その瞬間、眩しい光があっという間に人間を飲み込んだ。姿が全く見えなくなる程に――

(よし…このまま…っ!)

僕はぎゅっと目を閉じた。

No.315

その時。


ピシッ!!!
「っあ!」


頭の中で何かが激しく弾けるような感覚がして、極限まで達していた僕の集中力が途切れた。僕は思わず片手で自分の額を押さえ、狼狽する。


「な、」

(何だ?今の――)


指の間から覗くと、人間はまだそこに存在していた。しかもまだ白い光に包まれているものの、その光の強さは見る見るうちに弱まっていく。

(失敗した…?)

多分、この方法で合ってる。途中までは確かにうまく行っていた。それなのにどうして?

仕方がなく、僕はうまく行かなかった理由も分からないままもう1度念じた。すると、人間の体はまた強い光に包まれ始める。僕はそこに手をかざして、姿が光で見えなくなるまで念じ続けた。

でも。

ビシッ…!!
「ぅっ!」

同じ事が起こった。白い光は急速に弱くなっていき、人間の姿は始め見たときと全くと言っていい程元の状態に戻っていった。


No.316

その後も、試した。
何度も何度も試した。

だが結局、それは全て同じ事の繰り返しにしかならなかった。


「く…」

何でなんだ。やっぱり僕じゃ駄目なのか。そうなら姉さんをここに呼ぶしかない。…でも、こんな所から呼べるのか?


仮に呼べたとしても、まず姉さんは起きあがることが出来ないだろう。


もう何日も姉さんの立っている姿を見ていないんだ。きっと今も、あの椅子の上で眠ったまま『流れ』を保っている。幾億年で消耗しきった体を使っているんだ。


だから、僕が何とかしなければいけないに違いない。僕しか、いないのだから。


それなのに!


「どうして…っ?!」


僕はがくりとその場に膝を突く。奥歯をぎりりと噛み締めても、どうにもならない。こんな所に放り込まれてまで何も出来ないなんて…もう一体僕はどうすればいいのか分からない。


目頭がじわりと熱くなる。それから喉の奥から何か形のないものがこみ上げてきて。それは嗚咽となって僕の口から吐き出された。

僕という存在の意味が分からなくなる。
僕は、何のためにここにいるのか。


何のために生まれてきたのか。


「ぅ…ぅうっ!!…ぁあぁ…っ」


頬に温い水が伝う。口に入るとしょっぱくて、苦い味がした。それを味わうと何故か余計に苛立って、悲しくなって。

また水が出た。




その瞬間だったかもしれない。




「――どうしたの?」

No.317

(?!)

細く、微かな音だった。まるで小さな硝子の珠が落ちたようなその透き通った声は、すぐ上の方から聞こえてきた。僕の嗚咽は一瞬にして奥に引っ込む。

まさか、と思いながらも。僕はそれから反射的に顔を上げて声のした方を見てしまった。濡れた頬に髪をはりつかせたまま。見てはいけないことを分かっていたのに――僕は、


「……、」


息を呑んでいた。

真っ先に目に入ったのは、
青い瞳だった。

この色はどこかで見たことがある。そうだ、『地球』の空の色だ。どこまでも、どこまでも果てがないような青…そのものだ。

彼女はその瞳で少し戸惑ったような表情を浮かべて、情けなくそこに這いつくばっている僕を上から見つめていた。

「大丈夫?」

また硝子珠が転がる。すると今度、彼女はふわりと僕の方に跪いた。その時に鳴ったさらりという音が金髪の流れる音なのか、服の布が擦れる音なのか判別がつかなかったが。とにかく雪のように白い肌をした彼女の顔が僕の目の前に近付いて。


「……」


声が出なかった。


どうすればいいのか分からず、パニックになっているのもあったかもしれない。でももしかすると、僕は単に感嘆していたのかもしれない。


彼女のあまりの美しさに。

No.318

「ねえ、あなたは誰?」
「ぁ…」


駄目だ。
駄目だ、駄目だ!

人間と関わったら、災いが起こる。どんなことが起こるかは分からない。でも絶対口をきいては駄目だ…絶対に!

彼女は真っ直ぐと僕の目を見つめてきている。この状況を何とかしなければ。

始めに、僕は彼女から顔を背けた。


「どうして泣いているの?」


彼女が問いかけてきても、僕は沈黙を守る。けれどこんな時間稼ぎは長くは持たないだろうということは十分予想がついた。

そうだ、まずはこの空間から抜け出すのが先決だ。いつものように、行きたい場所をイメージすればいい。僕の居場所でも姉さんの所でもどこでもいい。どこでもいいから、早く!

僕はぎゅっと目をつむって素早くイメージを描く。すると姉さんの椅子がすぐにはっきりと頭に浮かび上がった。これで行けるはずだ。いつもなら、もうこの瞬間には大体は移動できてるのだから。


しかし。


「?…ねえ、」
「っ!」


また声が聞こえて、僕は肩を揺らした。そんな、まさか移動できてない?!ぱっちりと目を開けてみると確かに、まだ彼女は僕の前にいた。

No.319

僕は慌てて、また視線をそらした。

逃げ場がない。
その事に気付いたのは、それから少しもしない内の事だった。

走って逃れようにも、この良く分からない空間では下手に動けない。いつまでも、元の場所に戻れなくなる危険があるからだ。その上、まるで彼女の視線が僕を貫いているかのように、僕は何故かその場から立ち上がることが出来ない。


どうしたらいい。


「…くな……」
「え?」

気付けば、僕は酷く低い声を絞り出していた。…声を出してしまった。なんということだろう。これでもう関わったことになってしまうのだろうか。そうだとしたら――

でもきっと、こうするしかない。


「……僕に、近付くな……」


そう言うのが精一杯だった。
また少しさらりという音が聞こえるも、僕は目を合わせない。これ以上、何を言われても絶対に何も言わない。


すると、


「そう…ごめんね。1人で、いたかったんだ。」


彼女の静かで、優しい声が響いた。
彼女がどんな表情をしているかは分からないが…何だかもやもやしたものが沸き上がってくる。

No.320

それにしても。この空間から抜け出せない限りは、僕はここにいるしかないのだ。本当に、一体どうしろというのだろうか。

「ここは…何だか不思議な場所、だね。私、どうしてここに来ちゃったのか良く分からなくて。」
「……。」
「ここから出たいけれど、どこが出口なのか分からないの。あなたは知ってる?」
「………。」

こうなったら、この空間が解けるまで黙りを決め込んで粘り続けるしかない。けれど、いつ解けるというのだろう?夢であるなら早く醒めてほしい。それから少しの沈黙の時間の後、彼女はこう続けた。


「もしかして、あなたもここに来た理由が分からない?抜け出す方法が、分からない?」


図星をついてきた。でもまあ、当然か。相手に近付いてほしくなければ自分から離れればいい。僕にはそれが出来ていないのだから。

「そうなんだ。それで、泣いてたの。」
「…なっ!それはちが――」
「?、違うの?」


「あ…っ」


何をやってるんだ…僕は。


無意識に彼女に振り向いて
無意識に言っていた。


大馬鹿にも程があるじゃないか。



「なら、どうしてこんな所で泣いていたのかな…?」


彼女は再び無垢な瞳を向けてきた。

No.321

僕は一瞬どきりとする。あの瞳に見つめられると、何だか――


僕はそんな風に動揺した自分の顔を見られたくなかった。だから、


「君には関係ないだろっ!!」


即座に俯き、勢いに任せて吐き捨てた。すると彼女は少し驚いたような表情をしたかと思うと、その内悲しそうに目を伏せる。

「ごめんなさい。でも少し気になったの。私の目の前で、泣いていたから。…今まで人が泣いてる所は沢山見てきた。何回も何回も。けれどそのどれを前にしても、私は何も出来なくて。」


そして目を閉じた。その表情は、まるで何かを祈っているような感じだった。見れば両手を胸の前で軽く組んでいる。

「だから今度こそ私、何かしたかったんだと思うの。もう、泣いて欲しくないから。」


…大体にして、さっきからとっくに泣き止んでいるじゃないか。僕はその時かなり複雑な顔をしていたと思う。思わず深い溜め息が出た。


「どうせ、分かるはずもない。」
「?…どうして?」
「僕は人間じゃないからさ。」
「え?」

彼女は僕の言ったことが良く分からない、というような怪訝な声を漏らした。


「どう見ても、人間なのに?」
「僕達は君達には理解できない領域の所で生きてる。だから僕が何を思ってるかなんて…人間の君に分かるはずがないんだ。」

No.322

僕はその言葉を出来る限り冷たく言ったつもりだった。もう話しかけないでくれという意味を含ませながら。しかし、

「そう、かな。

私はそんなことないと思うよ。」


僕は目を丸くする。彼女は、まだ口を閉じなかったのだ。その上おびえた様子も、困っている様子もない。


「あなたが話してくれるなら、きっと私は聞いてあげられると思う。…あなたが人間でなかったとしても。

だってあなたは、
私達人間と同じものを持ってるもの。」


あっさりと。当然のことを言うかのように、彼女は言った。真っ直ぐ、こちらから目を逸らさずに。


何て言った?


僕が、人間と同じものを持っているって?『地球』を好き放題に荒らす、あの人間達と?今まさに姉さんの命を食い潰しているあの人間達と?


…何て言った?


(――ふざけるな。


ふざけるな…ふざけるなふざけるな、ふざけるな!!ふざけるなっ!!ふざけるな!!!)


「ぐっ」

心の中で連呼したら、吐き気がこみ上げてきた。僕は胸のあたりで手で押さえる。続いて、空間がぐにゃりと曲がって見えた。だが彼女の顔だけは、今もはっきりと見えている。

さっきと表情が全く変わらない、それどころか、どこか凛としたようなうな顔をしているように見えた。

No.323

「もう、止めてくれ…何も君に分かりはしない。僕には、それがはっきりと分かるんだ。」

僕は込み上げた吐き気と目眩を何とか抑えた後にその場を立ち上がった。あまり急な動きをするとまた具合悪くなりそうだったので、本当にゆっくりと。


もう、限界が見える。これ以上ここに居たら、僕は色んな意味でどうにかなってしまいそうだ。もはや自分の感情さえも良く分からなくなってきた。

いま1番表にでているのは怒りだ。
でもその裏に、変な感情がある。理由が良く分からないけど、悲しい気持ちと嬉しい気持ちがごちゃまぜになったような。

(…何だこれ…)

あるいは、彼女のあのあまりに真っ直ぐな瞳に見惚れているのか?…いいや、やっぱり訳が分からない。

とにかく離れた方がいいだろう。
少しでも――1歩でも、ここから。

僕は彼女に背を向けて歩き出そうとするが、


「ならせめて――」


ぴたりと、彼女の高い声で足が自然に止まった。まだ何かあるというのか。これほどまでに拒否しているというのに。僕がゆらりと気怠そうに振り返ると、また目が合った。

そこで彼女はくっと少しだけ俯くと、そのまま小さくこう言った。


「名前だけでも、教えてくれないかな…。」

No.324

(…名前?)


僕は一瞬何のことかと思い眉をひそめて沈黙する。しかしその内、それが僕の名前を指すものだと気付いた。何故なら、この空間には僕と彼女以外何も存在しない。名前が付いていそうなものはどこを見渡してもなかったのだ。


でも、僕にも名前がない。


そうか――と感じる。僕には姉さんの本当の名前を聞いてからもずっと、名前がなかったのだ。過去にあれだけ『僕達』という存在を姉さんに主張しておいて。


しかし、誰が決めるというのだろう?


しかも仮に僕に名前があったとして。果たしてそれを彼女におしえることに意味はあるのか?

何と答えればいい?
それとも聞かなかったフリをしてこの場を離れるのか。多分それが一番いい方法のような気はするが――


「僕は……」


僕は、口を開いていた。

No.325

しかしその瞬間。

「…?」

急に、目の前の景色が白く霞んできた。彼女の姿も。全部、白い霧に包まれていくかのように。

(あれ、)

目を擦ってみたけれど直らない。


「え?…よく…こ…ない」


さっきまで普通に聞こえていた筈の彼女の声が、遠ざかっていく。それに、何だか自分の意識まで遠くなっていっているような気がした。


もう体も支えられないくらいに
凄くだるくて、眠くて。


激しく苛立ちを感じた。




(どうして今になって――)




僕はその内。


ぐらぐらする両足で何とかそこに立ちながら、うなだれていた首をぎこちなく上げる。

すると、僕が立っている場所はいつもの『鏡』の上になっていた。

「――っ」

真っ暗な空間の中にぼんやりと浮かぶ、大きな円形の『鏡』の上。つまり、ここは傍観の間だ。


まだ頭がぼーっとしていて状況が理解できない。僕は、さっきまでどうしていた?


…いや違う。だから、
つまり僕は。


(戻って、きた?)


心の中でそっと呟いてみると――ぞくりという感覚とともに、一瞬のうちにさっき起こった全てのことが思い出された。

No.326

そうだ、僕は人間と関わってしまった。夢じゃない。僕はあんなにはっきりとした意識で、彼女と言葉を交わしたじゃないか。


あろうことか――美しいとまで思って。


恐怖心で、僕は自然と自分の両肩を抱いていた。体の奥からじわじわと何かが這い上がってくる。やがてそれは震えとなって体表面に現れ始めた。


僕は大罪を犯したのだ。


自分の役目を果たすことも出来ず、姉さんの警告を無視した。これからどんな災いが起こるというのか見当もつかない。もしこの世界も『地球』も崩壊してしまうようなことがあれば、

それはきっと僕のせいだ。
秩序を乱した、僕のせいだ。
姉さんが今までずっと守ってきた世界を、僕が壊したことになるのだ。


がたがた、がたがた。


いくら両手で抑えようとしても、震えは止まらない。どうしてこんなことになったのだろう。


もう、姉さんに会わせる顔などあるはずもなく。僕は傍観の間からそのまま自分の場所へと戻った。そうするといつもどうり、天井にはエメラルドの水面が静かに揺れている。そこから射し込む光も柔らかで――その中で僕は腰を下ろし、膝を抱え込んだ。


この日常が、きっといつなくなっても可笑しくない。その異変を、僕は怯えながら待つしかないということなのだろう。


僕は


「嫌だっ……嫌だ…」


顔を埋めて、嘆いた。

No.327

それから数十日は、僕はいつもの場所から動かなかった。ずっと目を閉じてうずくまっていた。勿論怖かったからだ。未だに周りに変化はない。しかしもしかしたら僕がここから1歩でも動けばそれが起こるのではないか、という考えが浮かんできて。

動けなかった。

ただ、姉さんの事が心配だった。今までは頻繁に姉さんの様子を見に行っていたが、こんなに見に行かない期間が長いのは初めてだ。この世界にまだ異変がないからまだ姉さんが消えていないことは分かるが。

今どうしているのだろう。やはりいつも通り眠っているだろうか。僕はこのことを報告するべきなのだろうか。


「………」


僕はゆっくりと瞼を開いた。






No.328

そうだ。

考えてみれば、それらの答えは凄く簡単なものだった。結局どんな結論が出るにしたって、僕はこれからずっと姉さんに会わないという訳には行かないのだ。

あの名前を教えてもらった日、僕は姉さんの事をちゃんと見届けると約束したのだから。それは僕をここまで育ててくれた恩返しでもあり、姉さんの跡を継ぐということの証でもある。


だから今日も、僕は姉さんの見に行かなくてはいけない。いつ消えてしまうか、分からないから。

人間のことはどうしよう。こっちはまだ黙っていた方がいいだろうか…


まだ迷いながらも僕は立ち上がるために、ぐっと背中と足に力を入れた――が。

「!…」

一旦動きが止まった。そのまま僕は辺りをぐるりと見渡してみる。…静かで、穏やかだ。いつもと何も変わらない空間。僕は半分立ち上がろうとする体勢で固まっていた。

(…大丈夫だ。まだ何も起きない。…まだ。)

そう自分に言い聞かせた。
改めて考え直して見れば僕があの人間に会ってからここに来るまで、辺りに変化はなかった。つまりそれは僕が動いても反応は起こらず、時間的に起こるものということなのだろうか。

取り敢えず、今は大丈夫。
何も起こっていない。

僕は鈍った両足に力を入れた。

No.329

そうして立ち上がってから目を閉じる。 その次の瞬間には、


「姉さん。」


僕は目を開けて声を上げていた。少し遠くに大きな椅子と姉さんの姿があった。その時僕はちょっぴり驚いた。何故なら、珍しく姉さんが椅子から立っていたからだ。こちらに背を向けていて、長い銀髪が流れている。

「?…」

姉さんはゆっくりと振り向くと、

「――命か。」

優しく微笑んでくれた。
僕は姉さんの元に駆け寄る。

「姉さん。今日は体は大丈夫なの?」
「ああ、今日は大分調子がいいよ。」
「本当に?よかった…!」

前の『異変』からまだ数日しか経っていないのに、こんなに早く持ち直すなんて。僕は思わず感嘆の息をこぼしていた。

「少し前、何とか『流れ』の向きを変えて人間の目から隠すことが出来たんだ。そしてどうやらその効果は高い。これで、しばらく時間は稼げるだろう。」
「凄い…流石アリシア姉さん!そんなことがこんなに早く出来てしまうなんて!」
「『流れ』を守る者がこれくらいできなくてどうする。お前もいずれ出来るようにしなければいけないだろうさ。」

No.330

その姉さんの一言が、僕の胸を音もなく突いた気がした。当然のことか。実際、僕はまだ何も出来ないでいるから。何も学んでいないし、何もしてない。その上で、あの失敗を犯した。

「うん。そうだね。」

僕は表情を変えないまま、比較的明るめにそう返したつもりだった。だけどその時、姉さんはクスリと僕に笑って見せる。

「随分と自信がなさそうだな。」

…見抜かれていた。まあ今まで姉さんと接っしていて常に自信が無い状態だったからいつも通りとも言われても仕方がないと思う。

だがしかし、

今は悟られてはいけない。僕が取り返しのつかないことをしてしまったことを。

「うん…全然前に進んでる感じがしないから。」

ああ、僕は何て最低なんだろう。取り返しのつかないことをしてしまった上に、今度はそれを隠そうとしている。いずれ、知られる時が来るだろうに。

姉さんは何も言わずに横目に僕の顔を見ると、

「………。」

しばらくしてふっと息をつく。それから椅子の方に歩み寄り、ゆったりと腰をかけた。何か動作する度に白いドレスが擦れる音を立て、髪はさらりと優雅に流れた。

No.331

その時、どきりと。

何故か僕の胸の中で鳴った。ただ姉さんが椅子に座ったというだけなのに。背もたれに寄りかかった時また髪が流れ、椅子から垂れる。今度は一瞬息が止まった。

変だ。今までずっと姉さんを見てきて、こんな感覚は無かったのに。段々と鼓動が大きくなってくるような気がする。
そして。

ザザッ
「!」

雑音混じりに、頭の中に何かがよぎった。それは今見えている姉さんの顔と重なって、

(…あ、)

ザザ!


映像が見えた。それは人間だった。勿論この前の、僕が『過ち』を犯してしまった元凶だ。

(――そうか。)

僕は納得する。多分僕は姉さんを見てあの人間を思い出していたのだ。金髪と、青い瞳…姉さんとは全然違うのに。


深く印象に残っているからなのか。
未だに忘れられてない。


「ん?…どうした、命。」
「ううん、何でもないよ。」

僕は慌てて表面で取り繕った。


結局…僕がここに戻った後。あれはどうなったというのだろう。1人、あの空間に残されたのだろうか。『地球』に戻れもせずに。だとしたらこれからどうなるのか。

それだけは気になった。
だから、

「…ねえ、姉さん。」

No.332

「?、何だ。」

思い切って聞いてみることにした。これだけを聞くのにもかなりの勇気が必要だ。僕は掠れそうになる声を喉の奥から振り絞った。

「ぁ、あのさ…姉さんは前に話してくれたよね。『地球』からこの世界に迷い込んでくる人間がいるって。もし僕がそれを見つけたら、すぐに『地球』に返すようにって。」
「ああ。言った。」
「でも。もし、僕にも姉さんにも見つからなかった人間はどうなる?『地球』に帰れずに一生ここにいることになるのか?」

すると心なしか、姉さんは僕の顔を見ながら少し眉をひそめたように見えた。背筋がひやりとする。まさかこれだけで全てを読まれはしないだろうが。

「そうだな。人間が一度ここに来れば、自身で元いた場所に帰るのはかなり難しい。『流れ』を移ろい、さまよい続けることになると私は思う。」
「なら、そのまま…」

僕が言い淀むと、姉さんはちらりと視線を下に逸らした。

「いや、『流れ』は生命の海だ。人間が生存するのに必要なエネルギーは、周りにいくらでもある。だから少なくとも、本人が生きたいと願えば、命を落とすことはないだろうな。」
「…そうなんだ?」
「ただ。もしそれを願わないのであれば――『流れ』に還ることも簡単に出来るだろう。」


言葉は淡々と続く。それらを聞いている内に、何だか複雑な気持ちが増していくような気がした。…今僕は、どんな表情をしているのだろう。

No.333

「まあ、私達に見つけられた人間は極めて幸運と言ってもいいのかもしれないな。」
「……」

なら僕は、彼女を見つけておきながら『地球』に返せなかった。つまり見捨てたという事になるのだろうか。…でも実際は、仕方がなかった。どうしても、返すことが出来なかったのだ。理由なんて分からない。

それに、僕はあの人間がどうなろうと知ったことではない筈じゃないか。この世界に存在することで別の人間からこの世界が干渉を受けるような事があるなら問題だが。そうならないのであれば…後は生きるも死ぬも自由だ。

そのまま僕らとは、何の関係も無くなる。それでいいじゃないか。


「…命。」
「――えっ」


不意に出た姉さんの声に、僕は少し頓狂な反応をしてしまった。気付けば、姉さんは僕に真剣な眼差しを向けていた。

――前と同じ。人間と関わるなと僕に警告した時と。そう思って相当ぎくりとしたが、

「…何?姉さん。」
「私から1つだけ、お前に伝えておきたいことがある。」

この後、姉さんは意外なことを口にするのだった。

「いつか。お前には、重要な選択をせざるを得ない時が来るだろう。それは今すぐかもしれないし、私が消えてからかもしれない。

だが、そのいずれの時においても。
お前は、お前自身の手で選択をするんだ。私でも、他の誰でもなく。…お前自身の選択をな。」


(え…?)

僕は、眉を潜めた。

No.334

一瞬、理解できなかった。
姉さんが何を言っているのか。

「それって…」
「『選択』するべき事が分からないのなら今はそれでいい。だが決して忘れるな。お前は私とは違って、お前自身の生命を生きることが出来ることを。」

姉さんでもない、他の誰でもない、僕の選択。それはつまり――

「でもそれじゃあ、僕は果たすことが出来ない。『流れ』を守る役目を。…姉さんは今までずっと姉さんの『選択』をせずに、星を守ってきたじゃないか。」

僕がそう言うと、姉さんはとてもゆっくりと首を横に振った。

「お前は『選ぶ』ことが出来る。」
「え?」
「お前はもう、私とは違う存在なのだから…。」

見れば、何だか姉さんは眠そうな顔をしていた。さっきまで元気そうにしていたのが嘘のように。瞳は今にも閉じてしまいそうな瞼に隠れ、声は次第に小さく掠れていっていっていた。


「…姉さん?」


No.335

返事はない。そして、姉さんは目を閉じた。背もたれに完全に背を預けた状態で、両手は指先まで力が抜けたようにくたりと椅子の上に置かれていた。

「姉さん、」

再度呼びかけても、返事がない。…眠ってしまったのだろうか。それにしてもさっきまではっきりと起きていたのに、こんなに早く?



とても嫌な予感がして
僕は息を呑んだ。




反射的に僕は姉さんの椅子の横に駆け寄り、その華奢な右手を手に取ってみると違和感を感じた。


やけに軽い。それに何というのか、はっきりと触れている感触が伝わってこなかった。目を閉じてみれば、今本当に姉さんの手を取っているのか疑問に感じるほどだ。


…トッ

「?」

その時近くで物音がした。初め、その音源が分からなかった。目の前で鳴ったような気がしたが――

「あ、」

そして気付く。今さっき僕が持っていた姉さんの手が、椅子の上に戻っていることに。普通に考えれば、僕が姉さんの手を椅子に落としてしまったということなのだろうが、それにしても変だった。

「…あれ…?」

僕の手の形は、微塵も変わらずそのままなのだ。姉さんの手を両手で握った形、そのままだったのだ。

No.336

(まさか――っ)

バッ
「姉さん、…姉さん!!」


僕は姉さんの細い両肩を掴み、揺すった。何度も呼びかけながら。ただただ必死に…

「姉さん!!起きてよ…ねえってば!」



だが結局。その日姉さんが再び目を開くことはなく、僕は仕方なく自分の場所に戻った。そこでしばらくうずくまりながら考えて

理解した。

一応、まだ体が残っている分『流れ』は保たれているのかもしれない。だけど、

姉さんは、寸前なのだ。
もういつ消えてもおかしくない。
その証拠に姉さんの手が透けた。


(…姉さん…)


時が、容赦なく刻まれている。姉さんが消えてしまえば、僕は1人ここに残されることになる。新たな『流れ』を守る者として。

どくん!
「ぐっ!!」


突如、僕は激しく胸が押しつぶされるような感覚に襲われ目を見開く。その痛みを通して、電流が走ったかのように一瞬で頭に伝わった。何かが――


(この感じ…)


浮かんだのは
ゆらゆら、ゆらゆらと揺れる水面。
勢いよく流れ、駆け巡る激流。


(『流れ』?)

うまく言葉に出来ない。あえて言うとするなら、それはまるで全ての『流れ』が自分と一体化しているような感覚だった。とてつもなく大きな、『地球』中の『流れ』と。

No.337

目と耳が。手が、足が。全身が、膨大にある『流れ』を感じている。そのせいか、胸が苦しさはどんどん増していった。物凄く重くて、重くて。今にも押しつぶされてしまいそうだ。

「ぅう…ぁ…!!」

だから全く動けなかった。でももしこの状態で、例えば腕を動かしたなら…全ての『流れ』を自在に操れそうな気がした。それはまるで自分の身体の一部であるかのように。そう思った時、


その感覚はすっと消えた。


「ゲホ!!ゲホゲホ!」


急に胸の苦しさから解放されて、僕は激しくせき込む。それから元の呼吸を取り戻すまでのしばらくの間は息を切らしている事しかできなかった。


(今のは…)


僕は立つことも出来ない中で考える。今のは何だったのか?と。そう思いつつも、答えは既に僕の中で出ていた。根拠は何もなかったが。


きっとあれは、姉さんが今まで負っていた感覚なのだろうと。


姉さんが今消えかけている中で、それが一時的に僕に移ったのではないか?そう考えれば自然だった。姉さんが『流れ』を動かせる力を持っていたのも、多分あの感覚があったからこそなのだと思う。しかし、姉さんはあんなにも重いものを背負いながら、ずっと『流れ』を守ってきたというのだろうか――

No.338

ついに姉さんが目を覚まさなくなってからというもの。どれくらい経ったのかははっきりしないけれど、僕は度々『流れ』の感覚に襲われる日々が続いていた。それは前触れもなく、毎回突然にやってくる。

その度とても苦しかった。苦しくて苦しくて、もしかしたらこのまま死んでしまうんじゃないかと思うくらいに。胸を中心に、体全体が激しく圧迫されるのだ。

1番酷かった時は、ある時自分の場所で目が覚めてすぐになった時だった。それは凄く長く続いて、結局その日は1歩も動けないままずっと極限の苦しみの中にいた。

あの時は、本当に死を覚悟した。

それでもやっと眠りについて次に目が覚めたときには収まっていたけれど。それからしばらくは、いつまた『流れ』の感覚が来るかかなり怯えて過ごしたものだった。




でも、今思えばそれがきっかけだったのかもしれない。




どくん!
「!」

僕は胸の前にぎゅっ…と拳を作る。いつものように『鏡の間』の中心で1人少し姿勢を崩して座っていた時のことだった。実を言うと、その時は『地球』を見ていたわけではなかったのだが。

ややあって僕は拳を離し、これといって意味はないがゆっくりと拳を開いて、青白い光に照らされた手の平をじっと見つめてみたりする。

そして


(またか…)


とだけ感じた。

…自分で驚く。いつの間にかあの恐ろしい感覚を「またか」だけで済ませられるようになっていたのだから。

No.339

思うに、いい加減僕は気付いたのだ。即ち、自分の身に降りかかってくるあらゆる出来事は、じっとしているだけでは何も話が進まないという事を。『流れ』の事も、姉さんが死に瀕しているだろう事も。いくら僕が恐れたり悲しんだりしても、痛みが和らいだり姉さんの目が覚めたりする筈はない。

端的に言ってしまえば、「自分がやるしかない」ということだろう。


この世界は、いまや僕1人しか居ないのと殆ど一緒だ。だからきっと僕が動かなければ世界は変わらない。絶望に暮れている暇があるなら、僕は少しでも前進しなければいけないのだと思う。

どうすれば姉さんという存在に近付けるのか。どうすれば姉さんのように『流れ』を操り、星を守っていけるのか。


考えて、考え抜く。
僕はそのために生きている。
…姉さんを継ぐ者として。


そう思い始めた頃からか、不思議とあの痛みが軽くなってきたのだ。こんな考え方1つで状況が変わるものなのか、まだ半信半疑だが。

僕は開いた手の平を再び閉じ、拳を作ってぐっと握りしめた。そして目をつむってみる。

するとやはり感じられた。…『流れ』だ。今は、ある急流が見える。それは様々な方向に数え切れないほど分岐していて、四方八方、星の広範囲に『流れ』の脈が張り巡らされているのが分かる。

(………うん。)

僕は確かめるように、小さく頷いた。

No.340

さて、さっきも言ったとおり。今僕は『鏡の間』にいながら『地球』を観察していないわけなのだが、それには理由がある。

姉さんには全くもって及ばないだろうけれど、僕はもう大分長い期間『地球』を観察してきた。でも――いくら穴の開くほど真剣に見ていても、分からなかったのだ。姉さんの言う人間の『愛』というものが。姉さんは、僕らには見ていることしかできないと言った。だとしたら、きっと僕には一生『愛』が理解できないまま終わってしまうだろう。

なら、どうしたら僕に『愛』が理解できる?そう考えた時に、僕の中で突拍子もない案が浮かんだのだった。普通に考えればそれは不可能という3文字でしか表せない事柄に違いない。しかし不可能な事でもしない限り、この状況を打開することは出来ないと僕は確信していた。


そう。それは、僕がここを抜け出して『地球』に行けないかということだ。


背筋に悪寒が走る話ではあるが、僕は『地球』で人間に紛れて暮らせないかと思っている。人間が何を考えていて、どんな時にどういう感情を持つものなのか。それに直接触れることで、今まで分からなかったことが解明できるのではないか。そして多分この世界で1番『地球』に近いのがこの『鏡の間』だ。ここを通じて何とか抜け出せないものか。


と思って、僕は座り込んでいたのだ。


幸い、僕らの容姿は人間を模したものだ。この姿で話しても、人間でないと気付かれることはまずないだろう。しかし、何しろそれ以前の問題が山積みだ。これから僕がそれらを1つ1つ解決しなければいけないと思うと、とても気の遠くなる話だった。

No.341

今の時点で大雑把に問題を把握するとしたら、2つ。それは果たして僕らは『地球』に出ることが許される身体なのかということと、姉さんの言っていた人間と関わることで起こってくる『災い』とは一体何なのかということだ。

…『災い』なんて、僕らからしてみたらもう起こっているも同然じゃないか。人間がいるせいで、今まで姉さんがどれだけ苦しんだと思っているんだ…

一瞬そんな黒い感情が沸いたが、僕はそれを振り払った。だって、姉さんはそれでも『地球』の全てを守ってきたから。今も僕が『流れ』を感じない時は、きっと姉さんに感覚が降りかかっているに違いないのだ。

もうこれ以上姉さんを苦しめないためにも。姉さんの幾万年を無駄にしないためにも、僕が早く『地球』を守れるようにならなくてはいけない。勿論その中に生きる人間も例外なく――守らなければ。


僕は小さく溜息をついた。とにかく、人間と関わろうが関わらまいが『災い』は訪れるのだから。


問題の大きさとしては、前者の方が上だと思っている。僕らは『流れ』の意識体のような存在だ。僕の目には今こうして自分の形が見えているけれど、『地球』に出たらこの形が保たれてるかどうかはかなり怪しい。そもそも今の僕は人間の目に映る存在なのだろうか。

そんな時、僕は過去のあの出来事を思い出した。

No.342

僕が人間に出会ってしまった、あの時。あの人間には、僕が見えていた。会話もした。つまりこの世界――『ここ』でなら人間にも把握されるのだ。

いや、

あの人間に合った場所は、本当に『ここ』だったんだろうか。あそこはよく分からない場所だった。夢の中にいるような、とても不思議な空間。全体が白と黒の2極に別れていて、まるで何かの境目のような。


そこで僕ははっとした。


(境目?)


突然頭の中にぱっと1つ明かりが点いたような気分だった。あの空間が『地球』と『ここ』との境目だった…そう考えれば自然じゃないか。人間は『地球』から来てあそこに居た。そこに『ここ』から来た僕が現れ、出会うことがない筈の者同士が出会ったんだ。

ならもう1度あそこに行けば、僕は少なくとも『地球』に近づくことが出来るんじゃないか?


(そうか…!)


僕はその場にいきり立った
が、すぐに萎えた。

「………。」

何故なら、今でもどうやって僕があそこにいけたのか謎のままだからだ。ぬか喜びだと分かると、僕は乱暴に頭を掻いて肩を落とした。

でも、あの空間にはこの『鏡の間』から通じた筈だ。何か手掛かりはないものだろうか、と思いつつも。


(結局…あれからどうなったんだろう。)


僕はあの人間の事を思った。彼女は死んでしまったのだろうか。…それとも。

No.343

死んでしまった確率の方が高いだろうが、もしかしたら生きているかもしれない。まだあそこにいるか、あるいは自分で『地球』に帰ることが出来たか。

でも、あの時僕が彼女を帰そうとしても出来なかった事が気掛かりだ。僕が初めてだったからというのもあるかもしれないけれど、どちらかというとあれは何かに妨害されたような感じだった。何か、外的な理由があるのかもしれない。


だとしたら彼女はまだいる。ここのどこからか繋がっている、境目に。


…本当に、僕はどうやって彼女と会ったのだろう?気付いたらあそこにいた。確実に僕の意思では行ったのではない。ただいきなり変わった音がした後に『鏡』が消えて、違う空間になっていた。それが全てだ。


一体、何の音だったんだろう。


……オォ…ン……


あの時は、空間が鳴いたと思った。空間の鳴き声。よく考えてみればそんなものあるわけがない。別のものが、鳴いているのだろうか…


次の瞬間には、僕の足元は無くなっていた。


「…え、」


思わず声が出る。ふと気付いたら『鏡』が消えていたものだから僕はとても驚いた。まさか、こんなことがあるというのだろうか。丁度思い出していた時に――

No.344

手足が宙に投げ出されて浮いている。上も下もよく分からない。きっとその時、僕は酷く呆けた顔をしていたと思う。僕の周囲にあった暗闇はあっと言う間に崩れて、またあの二極化した空間へと変貌していったのだから。

しかしさっきまでここに来ることを望んでいたとは言え、「また来てしまった」という思いはいがめなかった。

まずここには、姉さんに人間と関わるなと釘を刺されていたのに無視してしまったという後ろめたさがある。それに彼女と会った時の自分といったら。泣いている所を正面から見られたり、その後には怒鳴ってみたり。今思い出しても取り乱していて…かなり恥ずかしい。

僕はそこで目をつむり、かるく頭を振った。

そんなことはどうでもいい。幸運にも唯一『地球』と接点があるだろうと推測した『境目』へ来ることが出来たのだから。


(ここで、何かを掴まないと。)


ぐっと息を押し殺して気合いを入れた時だった。


「――あなた、」


声はすぐ後ろで聞こえた。

「…っ?!」

いきなりのことだった。ここに来れたのもいきなりのことだったけれど、それよりも上回っていた。反射的に首を捻って目を後ろに向けてみると――

『あっ…。』

互いに、小さく声が出る。

No.345

よりにもよって、どうして僕のすぐ後ろに?今さっきまで背後には何もなかったのに。空間がうまく捻れて一気に彼女の場所へと繋がったのか、それとも最初からそこにいて僕が見ていなかっただけなのか…いずれにしてもこんなどこがどこだか分からないような場所で、簡単にまた会えた事に違和感をおぼえずにはいられなかった。

彼女は僕から見て空間の少しだけ高い位置にいた。初めて会った時と全く変わっていない姿でいて、驚いた様子で青い瞳を僕に向けている。僕の体は固まってしまったようで、ずっと振り向いた体勢のまま直らなかった。

「君は…」

そんな状態で、何とか声だけ絞り出した。けどこれ以上は言葉が出なかった。色々と聞きたいことがあった筈なのだが、何しろ思考が追いついていかない。すると、彼女の驚いていた表情がふっと和らいだ。

「やっぱりあなただった。」

それは少し微笑んでいるようにも見える。

「また、会えたね。よかった、1人で不安だったから。」
「…。」
「けど、またここに来ちゃったんだね。」「……。」
「それとも、来てくれた?」
「……、どっちでもない…」

ようやく返事が出来た。何というか、複雑の一言だった。僕はゆっくりとそちらに向き直り、小さく彼女を見上げた。

No.346

ゆらゆらと白い布と艶やかな金髪が揺らめいている。彼女は僕を小さく見下ろして、今度は悪戯っぽく笑っていた。僕は意を決し、一旦溜まっていた唾を飲み込んでからすっと口で息を吸う。

「聞きたいことがあるんだ…君に。」

自分で言ったら、少し気分が落ち着いた。そうだ、今は落ち着かないといけない。前みたいに逆上するのではなくて、冷静に話を聞く事に専念しよう。大丈夫、これくらいなら災いは起きない。きっと…

彼女はこくっと小首を傾げた。

「君は、どうやって『地球』からここに来たんだ?どうしてここに来ることに?」
「……。その時のことは、よく覚えてない。気がついたら、ここにいたから。もうね、いつ来たのかも覚えてないの。ほら。ここ、時間がよく分からないから。あなたがどのくらい前に来たかも、はっきりしなくて。」

あまり期待はしていなかったが、やっぱり予想したような答えが返ってきた。それでも僕は出来る限りを聞き出さなくてはならない。少しでも、手がかりを掴まなければ。

「覚えてる限りでいい。意識を失ってここに来る前にどんな事があったのか。『地球』での事を、僕に教えてほしいんだ。」
「……。」

彼女は困ったように視線を脇へと逸らすと、少しの間黙り込む。どうやら何かを考え込んでいるようだ。

No.347

「どうして、知りたいの?」

彼女は思い出したように単純な疑問を口にする。けれどそういうものが返ってくるとは思っていなかったので僕は一瞬言葉に詰まった。そんなことどうだっていいじゃないか…と思ったけれど、自分が『地球』へ行くための手掛かりを探している事を言うのは、何となく気が引けた。そこで、

「…君を『地球』に帰すために。」

さらりと出てきたのがこれだった。別に嘘はついていない。もし『地球』に行けるようになったら、前のような方法で駄目だったとしても、ここに迷い込んできた人間を直接帰す事も簡単になるだろう。

「あなたが?」
「そう。ここにきた人間を『地球』に帰すのは僕らの仕事だから。この間だって僕は君が目を覚ます前に試した…その時は、駄目だったけれど。」
「…やっぱり、あなたって普通の人間じゃない、のかな?」
「人間じゃないって前に言っただろう?」
「じゃああなたはここにずっと、住んでる事になるのかな。」
「この場所とは少し違うけど、そんな所だよ。僕は『地球』じゃない場所で生まれた。」
「そうなんだ…。」

彼女は何か納得したような表情をした。

No.348

そして彼女はおもむろに言う。彼女独特のゆったりとした、丁寧な話し方で。

「じゃあ。私のこと話す前に…自己紹介、しておくね。」
「!」

僕は少しどきりとする。それから彼女は「ちょっと、遅くなっちゃったけど」と付け加えた。正直、名前の事なんてすっかり忘れていた。前の彼女との別れ際に、僕の名前を聞かれたとき以来――

「私の名前、ルチアっていうの。」
「…ルチア?」
「うん。」

彼女はこくりと頷く。姉さん以外の名前を聞くのはこれで初めてだった。

「ルチア、か。」

僕はその実感を名前と共にゆっくりと噛みしめる。しかし、

「それで。あなたは、何て言う名前なの?」
「…っ…」

やっぱりこうなってしまうか。仕方がないから、ここは本当のことを言うしかないだろうか。僕は深く溜息をついた。過去にあれだけ姉さんに名前は無いのかと問いつめておきながら、自分の名前が未だに無いのだ。

だって驚く程何も思いつかないし、そもそも自分で名前を付けるなんて照れくさい。姉さんがどういう経緯でアリシアという名前がついたのかとても気になるところだった。

「…僕に名前なんて無いよ。」
「え?どうして?」
「無いものは無いんだ。僕はルチアみたいにはっきりと体があるわけじゃないから。」
「でも、あなたはここにいるじゃない。」
「……。」


あまりに激しい既視感に目眩が起きそうだった。少し違いはあるけれど、まさか今になって姉さんのような立場になるなんて。結局、僕らはこうして堂々巡りしているしかないのだろうか?

けれど、いつか僕も人間のような肉体を持てればそれは変わるだろう。そしてその時きっと――この『見ていることしかできない』現実を変えることが、出来るのだろう。

No.349

「深く追求する事じゃない。」

僕は胸の中に熱いものをたぎらせながら、外ではさもどうでもいい事のように振る舞った。やっぱり説明するのも面倒臭いし、人間に『見ていることしかできない』僕らの気持ちが分かるとは、到底思えない。

「そうなの?」
「ああ、あなたでも何でも好きに呼んでくれていいよ。」
「それしか、呼びようがないけどね。」

ルチアは少し腑に落ちない様子で僕に目を向けている。まあ、僕があまりに話さないから仕方のない事なのかもしれない。その内何かの拍子で彼女が宙をゆっくりと下降して僕と目の高さが同じになると、ますますじっと目が合った。ああ、またあの大きな青い瞳が――

「…………。別にいい。」

うまく言えないが、何だか瞳に吸い込まれそうになったような気がして僕はとっさに顔を横に背ける。それは初めてルチアを見た時と一緒の感覚だった。一体、何だと言うのか。

少しの間の後、ルチアは僕の視界の外で呟いた。

「でも、早くつくといいよね。」
「何が。」
「名前だよ。」
「…僕は別にいいって、」
「そうだ、私も一緒に考えてあげる。」
「はあ?」

何がどうしてそんなことになるのか。思わず変な声を出してまた向き直ると、ルチアは恐ろしい程邪気のないにこにこ顔になっていた。

「きっとそのほうがいいよ。だってつけてくれる人、いないんでしょう?」
「え?いや、」
「自分で自分の名前決めるなんて、あんまり出来ないだろうし。」
「だから…!」
「うん、そうだよ。大丈夫。私も手伝ってあげるから。やっぱり私、呼び方に困っちゃうし、ね?」
「……。」

僕はただ、唖然とするしかなかった。

No.350

「きっと、いいの考えるからね。」
「…はぁ…」

まあいい、放っておこう。どうせ僕の性格のことだ。人間に名前を貰うなんて癪に触るから、ルチアがどんな名前を提案してこようとも首を横に振るに違いないのだ。こんなことになるんだったら、姉さんが眠ってしまう前に名前をつけてもらうんだった…と今更ながら本当に後悔するのだった。



「ところで、そろそろ話してくれないか?」
「?…」
「君がどういう経緯でここに来ることになったのか。」

僕が仕切り直すと、忽ちルチアは自信が無さそうに顔を少し下の方に向けた。

「さっきも言ったかもしれないけど、直前のことはよく覚えてないの。だから多分、私が話すことが出来るのはそれより前の事とか…私自身の事くらい。それでもいい、かな?」
「話してみればいいさ。少しでも手掛かりになりそうなことは、聞かせてほしい。」
「そう。…なら、いいよ。今私の知ってること、なるべく話すから。」

ルチアがすっと目を閉じると、それから僕は口を閉ざした。ぐっと息を飲み込んで、彼女から紡がれる言葉に耳を傾ける――

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