モーニング・パーク
不安定な里美と花穂の生活。
俊介と里美は、花穂を連れて旅に出ることを思いつく。
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小さいころ、里美は、花穂のことを、よく「お姫さまみたいだな」と思っていた。
事実、花穂は、きれいな白い肌で、西洋の姫君のようにノーブルな顔立ちをしている。
フリルのワンピースも、おっとりした物言いも、花穂にはよく似合っていた。花穂と遊んでいると、里美は、いつまでもおとぎの世界にいることができた。
花穂が、普通の人と違うと気付いたのは、ずっと後になってからのことだった。
「花穂ちゃん」
里美が呼びかけると、花穂は、座ったままゆっくりとふり向いた。
「行ってくるからね。お昼は、レンジでチンして食べてね」
「うん。わかった。ねぇ、里美ちゃん」
「何?」
「今日、何時ごろ帰ってくるの?」
「なるだけ、6時前に帰ってくるから」
花穂の顔が、不安気になる。
いたたまれない気持ちになり、里美は、急いで呼びかける。
「ねぇ、おみやげ、何がいい?」
「ええとね… プリン」
「わかった。買って帰るね」
そう言うと、やっと花穂が微笑んだので、里美は、「じゃあ、行ってきます」と言って、玄関へ向かった。
小走りでバス停へ向かうと、定刻を少し過ぎたバスが、ゆっくりと止まって、人々が乗り込むところだった。
満員の人波の中で、里美は、つり革につかまり、腕時計をにらんだ。
──遅刻、ギリギリセーフかな…
バス停を1つ過ぎるたびに、少しずつ乗客の数は減っていくが、依然、すし詰めの状態は変わらない。
やがて、バスは、会社の近くにさしかかった。
「次は、小野寺駅前です。バスが停車してから、お席をお立ち下さい…」
車内にアナウンスが響く。あわてて、里美が、ブザーを押そうと手を伸ばしたが、もう少しの所で届かない。
宙にういた手が、前方のおばさんの頭をかすめる。
おばさんは、ゆっくりと横目で里美のほうを見つめる。
──何やってるの、この人── そう言われた気がして、里美は、「すいません、ブザー、押して下さい…」と、かすれた声を出した。
おばさんのすぐ横のメガネをかけた会社員が、あきらかに迷惑そうな表情で、ブザーに手を伸ばして、鳴らした。
バスのタイヤが、きしんだ音をたてて、ざわついた駅前に止まり始める。
昼休み、里美は、俊介に携帯から電話をかけた。
「今度の約束、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。もうこっちの仕事も、あらかた片付いたし」
「じゃ、お店のほうに、予約入れておくわね」
「OK。僕も、残業が終わったら、また連絡するよ」
携帯を閉じ、里美は、パソコンのデータ入力を再開する。
俊介とは、仕事の取引先で出会った。マンションの発注関係を請け負う仕事で、初めての大きな仕事を任された時、いろいろと相談にのってくれたのが、彼だった。
打ち上げや、パーティで、何回か顔を合わせるうちに親しくなっていき、二人でデートしたり。仲になってきた。
恋人同士といってもいいのかもしれないが、里美には、なんとなく、俊介に、もう一歩踏み出せないものを感じていた。
インプットしていたデータを取り出し、もう一台のパソコンに接続する。
夕方、仕事を終えて、里美が帰宅すると、家の中は静まり返っていた。
いやな予感がして、二階に上がり、部屋のドアを開けると、ベットの中に横たわった花穂が、かすれた声をあげる。
「里美ちゃん…… また、足が、動かないの……」
「……いつから?朝から?」
羽根枕の中で、こくんと、花穂がうなずく。渦をまいた長い髪が、白いシーツの上でほつれている。
ショルダーバックを枕元に置き、掛け布団の位置をずらそうとすると、花穂が、里美の手をつかんできた。
「手も…… 痛い……」
こわばった手を1本1本引きはがし、手のひらを包みこむようにして、ゆっくりと、もみほぐしていく。
手首からの静脈をたどって、二の腕までマッサージしていくと、やっと、花穂は、落ち着きを取り戻して、再び眠りにおちていった。
もう片方の腕も同じようにマッサージしてやり、はだけていたネグリジェのボタンを止めなおして、里美は、深くため息をつく。
以前から、花穂は、時々発作的に体の統制がとれなくなる事があった。
手足が突発的にマヒしてしまい、各器官の機能もストップしてしまう。それが、右半身、左半身と分かれていればまだいいのだが、右手と左足、左手と右足、というように一定ではないので、医者も、さじを投げた状態だった。
本人が、自宅療養を強く望んだので、両親が家を空けている間は、全面的に、里美が花穂の面倒をみていた。
「ごはん、食べる?」
呼びかけてみたが、返事はない。
血の気がなく透きとおった顔で、低い寝息をたてて眠り続ける花穂を見おろし、里美は、バックを手にとり、部屋を出た。
Tシャツとジーンズに着替え、エプロンをつけ、キッチンにおりて、夕飯の支度に取りかかる。
手際よくカボチャのポタージュを作り、二組ずつお皿をテーブルにセットしていると、携帯のメールの着信音が響いた。
携帯を開いてみると、
18日は、少し遅くなるけど、できるだけ間に合うように行きます。予約は任せたから、お店の中で待ってて下さい。
と、俊介からメールが入っていた。
「里美ちゃん」
不意に、後ろから声がして、ふり向くと、花穂がネグリジェのまま、リビングの入り口に立っていた。
「……どうしたの?」
「おなかへった」
「うん。もう少しで、ごはんできるからね。座ってて」
「……」
「トイレは?おしっこしたい?」
「ううん」
里美は、立ち止まったままの花穂の手をとり、椅子に座らせた。
「スープ飲む?」
「うん」
「熱いよ」
カボチャのポタージュをランチオンマットの上に置くと、花穂は、スプーンを手にとり、ひとさじすくいあげ、ゆっくりと口に運びだした。
「こぼさないようにね」
しばらくの間、カチャカチャと、スプーンがお皿にあたる音がしていたが、里美がマグカップを持ってふり返った時、花穂のネグリジェは、ひどく汚れていた。
白かった木綿の生地も、レースにも、黄色いポタージュがべっとりとこぼれ落ちて、しみをつくっている。
「…花穂ちゃん!」
里美は、泣きそうな表情の花穂をじっと見つめ、マグカップをシンクに置いて、テーブルにかけよった。
「もぉ、どうして汚しちゃうの?ネグリジェが台無しじゃない!」
あわてて、花穂が、ネグリジェのボタンを外す。
里美は、リビングを出ていき、新しいパジャマを手にして戻ってきた。
「里美ちゃん、ごめんなさい……」
汚れてはだけた花穂のネグリジェは、あちこちにポタージュのしみがこびりついている。
あきらめたように、不機嫌な表情で、里美がネグリジェを脱がせると、花穂の胸元には、うすく赤いしみができていた。
花穂と里美の両親は、一年の大半を海外で過ごしていた。
まだ、娘二人が小さい頃は、父と母のどちらかが単身で仕事先に出向いていたのだが、里美が成人したのを期に、両親共に、渡米したまま数ヶ月ほど帰ってこないこともざらにあった。
フリーの買い付け業者とでもいうのだろうか、海外の輸入品を一手に引き受け、国内で販売して利益を上げていた。
長女である花穂が、学力の遅れが目立つようになった頃に、一度、取引先との連絡を断(た)ち、娘達のフリースクールを探してくれた事もある。
里美は、いつも、花穂のお守(も)り役だった。
病院では、学習障害の生徒専門の学校へ入学することを勧められたりもしたが、花穂が、極端に家から離れるのをいやがったので、里美は、仕事をしながら、花穂と一緒に生活することを決心した。
小さい頃から里美は、家の事を全面的に手伝ってきたので、花穂と二人だけでやっていくのも、それほど難しい事ではないと考えていた。
しかし、実際に仕事に出てみると、花穂の世話は、容易ではないことがわかってきた。
最初のうちは、残業ができないことが、かなりのリスクになった。
その次に、得意先の接待等、時間の不規則な仕事を取れないので、同期の人たちがどんどん才覚をあらわし、自分たちのルートを開拓していくのに、里美は、会社の中で、置いてきぼりを食うことが多くなってきていた。
そんな頃に出会ったのが、俊介だった。
珍しく、花穂の容態が安定していた時、上司と共に出席した打ち上げで出会い、メールアドレスを交換して、それ以来、発注の時はいつも彼の意見を聞くようになった。
学生時代のように、気軽につきあえればいいのだろうが、両親から任された家と、花穂の世話を考えると、もうこの先、自由に恋愛する事はないんじゃないかと、里美は、ひとり考えている。
「竹下さん、社員旅行は、どうする?」
上司が、声をかけてくる。そんな時も、いつも里美は、
「私は、いいです。姉の体調が、良くないので…」
と、断っていた。
「ヨーロッパ一周するかもしれないよ?」
「いいえ、みなさんで、楽しんでこられて下さい。私は、日本で留守番してます」
「そうか。ご両親は、ずっとアメリカ?」
「はい」
「そしたら、わざわざ会社から行かなくても、家族旅行で渡米できるんだよね… わかった、また今度ね」
そうやって、会社の行事に不参加でいるうちに、だんだん里美に声をかけてくれる人も、いなくなってきた。
少しさみしくなり、俊介にメールすると、
今度、こちらでも社員旅行があるから、それが終わったら、どこか国内旅行に行こうか。行きたい場所を選んでおいて下さい。
と、返事が返ってきた。
普通の恋人同士のように、もっとたくさんデートや旅行に行きたいと思う時もあったが、家にいる花穂の事を考えると、里美は、気が重くなる。
俊介に花穂を紹介するとして、美しい花穂のほうが気に入って、自分には、もう興味がなくなってしまうのではないかという不安もあった。
かかりつけの病院に行ったあと、里美は、花穂に聞いてみた。
「花穂ちゃん、最近、体は、ちゃんと動く?」
「うん、お薬飲んでるから、大丈夫みたい。トイレも、一人で行けるし」
旅行に、行ってもいい?──そう聞こうとして、言いだせず、里美は、車を止めて、後部座席から必死にはい出そうとする花穂の肩を抱え上げて、玄関まで一緒に歩き出した。
花穂をネグリジェに着替えさせてベットに寝かせ、自分の部屋に入り、会社で片付かなかった仕事を取り出す。
つい睡眠不足になり、うとうとしながら、書類をのせたキーボードの上でまどろんでしまい、パソコンのデータを全部消してしまう事もある。
(このままじゃいけない…‥)
両親に相談しようにも、国際電話のわずらわしさを考えて、里美は、もろもろの悩みを一人でかかえ込んでいた。
つい、交際相手の俊介に助けを求めたくなるけれども、それで気まずくなり、迷惑がかかってはいけない、と、電話するのをためらうこともあった。
小さい頃は、母親か里美が、いつも花穂の心拍数のチェック、マヒしている手足のマッサージを行ってきたので、今さら誰か看護師に任せる気にもなれない。
ぽっかりと空いた空間があると──マンションでも、美術館でも、ホテルや銀行のロビーでも── 里美はいつも、この中に花穂がいたら、どこに座るんだろうと思い浮かべる。
きれいな服を着て、背もたれのある椅子に座っていると、外国のお姫さまのように見える花穂。髪を結いあげて、ティアラをかぶせれば完璧だ。でも、その玉座は、どこにも見あたらない。
夜中に、ふと気になって部屋をのぞいてみると、寝汗でじっとりとぬれた長い髪を、顔一面に張り付かせている。
里美は、ため息をつき、「花穂ちゃん、着替えするから、起きて」と言い、汗じみたネグリジェのボタンを外す。
延々と続く毎日の日課に、里美は、切実に転機を求めていた。
「高原の旅館?」
「うん。感じのいい所だからさ。一泊二日だけど、平日だから高速道路もすいてると思うし。予約していいかな」
「うーん…‥ そうねぇ…‥」
新しくできたカフェの一角で、里美と俊介は、旅行雑誌をはさんで、語り合っていた。
「あんまり、うちを空けられないっていうか…」
「お姉さんの容態が、良くないの?」
「うん、ちょっと障害があるから、私がついてないとダメだし」
「一緒に連れてくれば?」
思わず、里美は、俊介の顔を正面から見た。
深いみずうみのような瞳が、じっと、里美の返事を待っている。
「……でも、いいの?」
「二部屋とって、お姉さんはゆっくり休んでもらってたらいいんじゃない?」
「そういうわけには…」
「大丈夫だよ。ちゃんと、バリアフリーの所だし。もし体調が悪くなるようだったら、遠慮せずにスタッフに連絡すればいいわけだし」
「……俊介くん、身内に、障害を持ってる人、いる?」
「そんなに重い病気の人はいないけどさ、学生の頃、旅行の直前に親父が左脚を骨折して、車の運転から、松葉杖の手配から、お袋が引き受けたんで、そういう大変さは少しはわかるつもりだよ。幸い、親父は良くなったけど、治るか治らないかの違いでしょう?僕も協力するからさ、大丈夫だよ」
里美は、心の中で、ため息をついた。幸せな家庭で育った人に、障害を持つ子供がいる家族の苦労は、分かりっこない。
「今度の仕事が一段落したら、また連絡するから、それまでに考えておいて」
そう言って、俊介は、スーツの上着とレシートを手にとり、席を立った。
残された里美は、ぬるくなったカプチーノを一口飲み、旅行するとした場合の事を考える。
もし、旅先で花穂の体調が悪くなった時、旅館の近くに病院は、あるのかどうか─
それに、病院以外に、家からほとんど出たことがない花穂に、旅行をすすめて承知するのかも、わからない。
(私たちが帰ってくるまで、花穂のことは、里美に任せるから)
最後に空港で見送った時の、両親の言葉が、胸にせまってくる。
仕事で大変なのに、たかが親しい友人と一泊旅行するからって、余計な相談なんてできない。
その夜、花穂は、夕食を食べたあと、バスルームでつまずき、そのままもどしてしまった。
嘔吐物をシャワーで洗い流しながら、濡れたTシャツと七分丈のジーパンを脱いで洗濯機に放り込み、里美は、キャミソールのままで、思索にふける。
もし、俊介が、花穂の障害を受け入れられないのだったら、恋人でいることはやめてしまって、ただの仕事仲間に戻ろうか─
深夜のバスルームの淡い光の中で、里美は、じっと、洗濯機のスイッチを押そうかどうか、迷っている。
結局、病院の先生が「環境のいい所の空気は、体にもいいし、旅行は気分転換にもなるから」と言ってくれたこともあり、花穂を含めて、里美と俊介は、高原へと出発することとなった。
高速道路を走っている間、ずっと、花穂は、青白い顔でぐったりと後部座席で横たわっていた。
「花穂さん、大丈夫ですか?」
俊介が呼びかけても、返事がない。白いハンカチを顔にあてて、しきりに汗をぬぐっている。
「車酔いしてるんじゃない?もうちょっとゆっくり走ってもらったら、助かるんだけど…」
里美が言うと、速度計のメーターが、少しずつ下がっていった。
途中のパーキングエリアでは、ウェットティッシュを目と鼻の上にあてて、そのまま後部座席で動かずに花穂が横たわっているので、里美と俊介はやむをえずサンドイッチとコーヒーを買ってきて車内で食べることにした。
俊介は、ずっと、新しく郊外に建設する住宅地のモデルルームの構想についてしゃべっていたが、里美は、適当に相槌をうちながら、花穂に薬を飲ませるかどうか悩んでいた。
せっかく、俊介の新しい車に乗せてもらったのに、汚したりしたら、イヤな思いをさせてしまう。乗り物酔いの薬がバックの中にあるのを確かめ、里美は、そっとボタンを押して、車のウィンドウを開けた。
「そろそろ、出発しようか」
ゆっくりと、三人が乗った白い車が、パーキングエリアから動き出していく。
仕事の、建設予定地の話題も尽きてきて、里美が、ついうとうとし始めたころ、いきなり、目の前に緑の木立があらわれてきた。
「もうすぐ到着するよ」
車が、ゆっくりとスピードを落としながら、ゆるいカーブの道を上っていく。周りの緑の鮮やかさに、里美は、言葉を失っていた。
ふと、気付いて、「花穂ちゃん、具合はどう?」と呼びかけると、後ろから、「気持ち悪い…」と、低い声が聞こえてきた。
「もうちょっとだから、我慢してね。おなかへってない?」
呼びかけても、花穂の返事は、ない。後ろをふりむくと、花穂が横たわっている座席の下に、小さな一輪の花がついたサンダルが、二足、ころがっている。
里美は、あきらめて、きれいな緑色の風景を、窓の中から目で追っていた。
やがて、車は、ロータリーを周回して、モダンな造りの平べったい二階建ての旅館へと進んでいった。
「いらっしゃいませ」
車のエンジンが止まると、薄紫の和服を着た女性達が、一斉に頭を下げる。
俊介が、車から降り、「予約していた、太田ですけど…」と、言った。
「三名様ですね。和室、二部屋でよろしいですか?」
「はい」
「和室のお客様が、先ほど出られましたところなので、しばらくの間、奥座敷のほうでおくつろぎ下さいませ」
俊介は、片手に車のキィを持って、「行こうか」と、里美にうながした。
小さなショルダーバックを手に、里美が助手席から降りようとすると、後部座席の花穂が、頭を持ち上げるのが見えた。
肩のあたりでからまってほつれた髪が、だらしなくたれ下がり、淡い水色のツーピースのスカートのすそはぐしゃぐしゃにしわが寄り、途中でこぼしたらしいジュースの細かいシミが、点々と、小さな模様のように散らばっている。
花穂と目を合わせ、しばらくの間、里美が黙っていると、「ご気分が悪くなられました?」と、若女将のようなしっかりした顔つきの女性が、笑顔で、車の中をのぞきこむ。
「少し… 足が悪いんで…」何か聞かれる前に言ってしまおうと、里美がこわばった笑顔で言うと、その女性は、「車椅子を、ご準備いたしましょうか?」と聞く。
「いえ、大丈夫です。歩くことはできますから」
花穂が、ゆっくりと起き上がる。「里美ちゃん… ついたの?」
「うん、お部屋に入るからね… くつ、はける?」
「うん……」
けんめいに、青白い顔で、サンダルをはこうとしている花穂を見かねて、里美が片足のサンダルをはかせる。
「痛くない?」
「痛くないけど、こっちの足に、力が入らないの…」
「私につかまって」
花穂を、わきから抱きかかえながら車から降ろし、里美は、旅館の玄関に向けて歩きはじめた。
まるで二人三脚のように、よろけながら歩いていく二人の姿を、和服の女性達が、じっと見つめている。
「荷物は?」
俊介の声が後ろから聞こえてきて、すでに汗をかき始めていた里美は、「ごめんなさい、後で取りに来るから」と、声をあげた。
苦労して花穂に旅館のスリッパにはき換えさせて、ロビーのソファーに座らせて、里美は、そのまま崩れるように、やわらかいクリーム色のソファーの中に沈み込んでいった。
奥座敷のタタミの上に荷物を置きながら、里美は、籐の椅子の中に、きつそうに座り込んでいる花穂を横目で見た。
着替えもできずに、いまだに車酔いの状態のまま、まるで酸欠の魚のようにしきりに口をパクパクさせている。
ツーピースのジャケットのやわらかい原型はあとかたもなく、不器用な子供が無理やりにそでを通したかのように型くずれしてしまっている。
さっきから、俊介は部屋の中を移動しながら、仕事先に携帯電話で連絡をとっている。時々電波が届かなくなるらしく、かけ直しては、難しい英語の専門用語で話を続けている。
「お待たせいたしました。和室がととのいましたので、どうぞ…」
和服の女性が、にこやかに、開いていた扉の外から声をかけてきた。
「花穂ちゃん、お部屋があいたから、向こうに行こうか」
「え?」あいまいだった花穂の瞳の焦点が、里美をとらえる。
「里美ちゃんといっしょじゃないの?」
「…家でも、ひとりで大丈夫でしょう?ごはんの時は、一緒に食べるから。太田さんが、せっかく用意してくれたんだから、和室のほうに行こう。ね?」
「いやだ… ひとりになるの、こわい…」
花穂の細い腕が、里美の茶色いシャツのすそにふれ、その指先が、思いもよらぬ強い力で、ぎゅっと、布地をにぎりしめる。
「わがままいわないで。もう、具合も良くなってきたんでしょ?」
「あちらのお部屋は、お山が見渡せて、景色がすごくきれいですよ。ベランダに小鳥も来ますから、こわいことなんてないですよ」
和服の女性は、いろいろな客の対応に慣れているらしく、やさしげな声で、花穂を誘導しようとしている。
里美が、少しイライラしてきて、「花穂ちゃん、はなして、手をはなしてよ」と、シャツにしがみついた花穂の手を引きはがそうとした時、
花穂が、ひゅうっと、するどく息を吸い込んだかと思うと、背もたれにのけぞるような格好で、小刻みに、ガタガタと体をふるわせはじめた。
「……けいれんですね」
ぼう然とする里美たちの前で、和服の女性は、入口にある白い内線電話の受話器を外し、「……フロントですか?奥座敷のお客様、一名、少しけいれんを起こされたので…… はい、お願いします」と、伝えた。
花穂は、依然、不規則にけいれんを起こしている。
「大丈夫ですよ。ここは、高地になりますので、お客様の中で時たま体調を崩される方がいらっしゃいますが、ゆっくり静養していただくと、すぐによくなりますので…… 今、冷たいお水と温かいお茶をお持ちしますから、しばらくお待ちください」
女性は、前かがみになり、にっこりと微笑む。
里美と俊介は、なすすべもなく、ふるえている花穂を、じっと、見守り続ける。
その後、回復した花穂は、旅館の従業員達になだめられながら、和室へと移動した。
「花穂ちゃん… 夕ごはん、一緒に食べようか?」
Tシャツにスウェットという、いつもの格好に着替えた里美が、部屋に来て声をかけるが、ぐったりと布団の中に横になった花穂は、「いらない」と、か細い声を出すだけだった。
「花穂さん、大丈夫?」
夕食の席で、俊介が聞いてきた。
「うん… 旅行なんて、十年ぶりぐらいだから、ちょっと、パニックになってるんだと思うけど。明日の朝ぐらいには、だいぶ落ち着いてると思う」
「そう。散歩ぐらいは、出られるかな。この近くは、なだらかな地形だから、きっと歩きやすいと思うよ」
彩りよいフランス料理風の夕食を向かい合って食べながら、俊介は、何気ない様子だったが、里美は、笑顔で会話しながら、心は深く落ち込んでいた。
─やっぱり、ろくに面識もない同士で旅行なんて、無理があったんだ。帰ったら、あらためてちゃんと俊介に謝って、これからは距離をとってつきあっていこう。
「一人分、とっておこうか?あとで花穂さんが食べられるように」
俊介が、皿の中に、手がつけられていないムニエルや、野菜ゼリーを取り分けていく。その様子をぼんやりと見ながら、そんなに食べられるわけないのに、と思いつつ、里美は、ただ黙って自分の皿の料理を口に運んでいた。
「お風呂に入ってくる?」
俊介がたずねたが、里美は、「ううん… 明日、花穂が気分がよくなったら、一緒に入ってくる。今、男湯のほう、あいてるんでしょ?入ってくれば?」と、言った。
「うん、そうしようかな」
俊介が、部屋を出ていくと、一人残された里美は、高原の一室の静寂の中、急に心細くなった。
─耳が痛くなるような静けさって、あるんだな…
そう思いながら、荷物の整理をしていると、ドアをノックする音が、聞こえてきた。
耳をすませると、「里美ちゃん…」という声が、ドアの向こう側から、かすかに響いてくる。
「どうしたの?」
ドアを開けてみると、白いパジャマ姿の花穂が、青ざめた顔で立ちすくんでいる。
「変な音がする… コツコツ、って」
「変な音?」
おそるおそる、里美が、花穂の部屋の扉を開くと、青っぽいタタミのいぐさの匂いが漂ってきた。
「何も、変な音なんて、しないじゃない」
「でも… さっきは、すごく変な音がした… 鳥の音みたいな、カツ、コツ、カツ、って…」
「鳥?こんな夜中に、鳥はいないわよ、カツコツって… キツツキとか?」
「でも、ほんとに音がしたの、ほら、今も少し聞こえる…」
里美の後ろから、花穂が、ぎこちなく片足を引きずりながら、不意に、Tシャツのそでをつかんだ。
「こわい…」
その時、花穂のやせた体を片腕でささえながら、里美の中で、何かが、切れた。
「花穂ちゃん…?ねえ、花穂ちゃん、花穂ちゃんは、私の、お姉さんなんだよ?どうして、いちいち私が、面倒なことを、引き受けなきゃならないの?夜、一人でいるのが、こわいの?私なんて、会社で一人で残業して、一人で暗い道を歩いて帰ることだってあるんだよ。その間、花穂ちゃんだって、一人でお留守番してるじゃない。どうして、こんな、旅行にきてまで、私を頼りにするの?」
いつのまにか、泣き声になっていく里美の背後に、ただならぬ事態に気付いたらしい、スウェット姿の俊介が、近づいている。
「それは、わかってるんだけど、何か音がするから…」
「音がするって、何?いつも、私たちの家なんて、車の音とかバイクの音とか、うるさいくらいするじゃない。こんな静かな所で、鳥も何もいないような所で、少しくらい音がするくらい、何なの?そんなこと言ってて、これからどうやって生きていくのよ?」
「里美ちゃん、落ち着いて」
俊介が、里美のうでをつかんだ。
「花穂さんも、ちょっと座って下さい」
俊介にうながされるまま、花穂は、タタミの上に、よろよろと座り込んだ。白いパジャマのすそが広がり、こんな時でさえ、青ざめた花穂の姿は、お姫さまに見える。
俊介は、花穂の正面に正座して向きなおり、里美に、「君も、座って」と、うながした。
「お姉さん」
とまどった表情の花穂が、少し、首をかしげる。
「お姉さんの体調もよく考えずに、旅行に来てもらって、僕も、反省しなきゃいけないと思ってます。でも、里美さんも僕も、仕事が忙しくて、今しか、ここに来れなかったんです。これから先、僕も、家族ぐるみで、ずっと、里美さんとおつきあいをしたいと思っているので、どうか、よろしくお願いします」
そこまで言うと、俊介は、花穂に向かって、頭を下げた。
里美は、涙があふれ出してしまい、俊介の言葉の途中で、むせかえるように泣き出してしまった。
花穂は、ぼう然とした表情のまま、「里美ちゃん…?」と、里美を見る。
しばらく、里美の泣き声だけが、静かなタタミの部屋の中にすいこまれていたが、やがて、しびれを切らした俊介が、「じゃ、部屋に戻ろうか」と、里美に呼びかけた。
「ううん…‥」
鼻とまぶたを真っ赤にした里美は、顔を上げられないまま、言った。
「ごめん… 今日は、ここで、花穂ちゃんと一緒に眠るから…‥」
その夜、里美と花穂は、布団を並べて、寄り添って横になった。
やわらかい羽根布団の中にくるまれていると、小さい頃、かくれんぼをしている時、家の綿布団に二人でもぐり込んだ記憶が、よみがえってきた。
「花穂ちゃん、体は、もう、大丈夫、、、?」
「うん」薄暗い闇の中で、天井を向いていた花穂が、里美のほうに寝返りをうつ気配がする。
「里美ちゃんも、大丈夫なの?もう、、、かなしくない?」
「かなしくないよ」里美は、笑いながら、はなをすすった。
「私は、これからも仕事していくから、もう、花穂ちゃんとあまり一緒にいられないかもしれない。でも、がんばるから、花穂ちゃんも、がんばって、ちゃんと歩けるようになってほしい」
「うん」
花穂の白いうでが、里美の肩を包みこんできた。
「里美ちゃんがどこにいても、お父さんやお母さんみたいに遠くに行っても、ずっと、心は一緒だよ。だって、きょうだいだから。だから、もう、泣かなくていいんだよ」
「泣かないよ、もう」
二人が笑って顔を見合せていると、ふと、かすかな音が聞こえてきた。
「あ、この音、、、」
花穂が、枕から顔を上げる。
「今から行こう」
「え?」思わず、里美がふりむく。
「でも、足は、痛くない?」
「今日は痛くない。今から、外に行こう」
いつもより明るい表情の花穂につられて、里美も、「じゃあ、行こうか」と、スニーカーを取り出す。
二人が手をつないで、ゆっくりと、吹き抜けのロビーまで歩いていると、ちょうど、革張りのソファーに座って新聞を読んでいる俊介の後ろ姿が見えた。
「俊介くん」
「あっ、おはよう。元気になった?」
「うん。ねえ、今から、散歩に行かない?」
「今から?」俊介は、おどろいた顔で、しばらく考えた後、新聞をたたんで、笑顔になった。
「そうだね、じゃ、散歩してから、朝ごはん食べようか」
朝の高原の空気は、どこまでも澄みわたっていて、深く吸い込むと、胸が痛くなるくらいだ。
「思ったより、広々してるね。冬になって雪が積もったら、スノーボートとかできそうだなあ」
一人で前を歩いていく俊介の後方で、里美と花穂はそれぞれ、ゆっくりと、歩いていく。
歩くときにうまくバランスがとれない花穂は、時々立ち止まり、あえぐように息をつきまた、少しずつ歩きだす。
里美は、花穂と歩調を合わせながら、緑の風景を見わたして、また、見わたして、ゆっくり歩(ほ)をすすめる。
さえずり出した小鳥の声につられるように、どんどん歩いていく俊介。だいぶ遅れている花穂が、立ち止まった。
「どうしたの?」
「お花が見えるんだけど、、、 すごく遠いみたい」
里美は、微笑みながら、花穂のそばまで歩き出す。
「また、今度来た時に、摘んでみようか。そして、お土産に持って帰ろう」
まだ、朝もやがかすかに残っている草地の上で、里美と花穂は、笑って、手をつないだ。
〈End〉
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そこのお寺の和尚さんは太鼓の名人といわれてます。そのためタヌキさんの太…(なかお)
2レス 77HIT なかお (60代 ♂) -
北進
わからないのか?この厨二病は、おまいらの超劣悪カス零細、と、まともなこ…(作家志望さん0)
14レス 308HIT 作家志望さん -
依田桃の印象
バトル系なら 清楚系で弱々しく見えるけど、実は強そう。 恋愛系…(常連さん7)
7レス 177HIT 依田桃の旦那 (50代 ♂)
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🌊鯨の唄🌊②4レス 129HIT 小説好きさん
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人間合格👤🙆,,,?11レス 128HIT 永遠の3歳
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酉肉威張ってマスク禁止令1レス 134HIT 小説家さん
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今を生きる意味78レス 512HIT 旅人さん
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黄金勇者ゴルドラン外伝 永遠に冒険を求めて25レス 958HIT 匿名さん
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🌊鯨の唄🌊②
母鯨とともに… 北から南に旅をつづけながら… …(小説好きさん0)
4レス 129HIT 小説好きさん -
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人間合格👤🙆,,,?
皆キョトンとしていたが、自我を取り戻すと、わあっと歓声が上がった。 …(永遠の3歳)
11レス 128HIT 永遠の3歳 -
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酉肉威張ってマスク禁止令
了解致しました!(小説好きさん1)
1レス 134HIT 小説家さん -
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おっさんエッセイ劇場です✨🙋🎶❤。
ロシア敗戦濃厚劇場です✨🙋。 ロシアは軍服、防弾チョッキは支給す…(檄❗王道劇場です)
57レス 1397HIT 檄❗王道劇場です -
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今を生きる意味
迫田さんと中村さんは川中運送へ向かった。 野原祐也に会うことができた…(旅人さん0)
78レス 512HIT 旅人さん
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スパゲティの分け与え
あなたは彼氏の家にアポ無しで遊びに行ったとします。 ちょうどお昼時で彼氏はナポリタンスパゲティを食…
35レス 1810HIT 恋愛中さん (20代 女性 ) -
まだ10時すぎなのにw
友達2家族と家で遊んでて別れ際に外で少し喋ってたら 近所の人に、喋るなら中で喋って子供も居るようだ…
31レス 879HIT おしゃべり好きさん -
好きな人に振られてからの行動
初めての投稿で拙い文面はお許しください 私は27歳男性でマッチングアプリで出会った24歳の女性…
17レス 546HIT 一途な恋心さん (20代 男性 ) -
家出したいです。
自分は高専に通う一年生です。でも、四月に入って今日で二回目となる無断欠席をしました。 理由は、周り…
33レス 1056HIT 学生さん -
喧嘩した後のコミュニケーションを教えていただけませんか。
先日彼女とデートで些細なことで喧嘩し、そこから彼女とうまくコミュニケーションができなくなりました。 …
16レス 420HIT 恋愛好きさん (20代 男性 ) - もっと見る