あづみ ~恋する小鳥~
このお話は、あづみが神奈川から千葉の高校に転向した時期の物語です。
本編の《あづみ》では触れることがなかった、あづみの恋。
心をこめて、執筆させていただきます。
「早く出せよ!」
「もたもたしてんじゃねーよ!」
三人の男子にかこまれて、一人うつむいている男の子。
「あんた達。やめなよ」
「誰?」
「なんっか。うぜーのが登場!」
三人がじりじりと近寄ってきた。
あづみは手を前に突き出してスマホを三人に見せた。
「この動画、あんた達の顔がはっきり写ってんだけど…。拡散してもいい?」
三人とあづみのほんのわずかな睨み合い…
その時…
「おい!おまえら…!」
また別の男子の声がここから少し離れた場所から聴こえた。
「やっべっ!」
三人はアニメの悪者さながらの体で、声がした反対方向へ逃げていった。
助けに来たらしい男子が、囲まれていた方に「おい、大丈夫か?」と声をかけた。
「うん。大丈夫、あ~もう、そんな心配すんなって、マジ大丈夫だから!」笑って答えた。
「おまえさあ、待ってろって行ったのに…」
「俺、逃げるのは嫌だから…」
二人のやり取りを聞いていたあづみは前にでると
「さっき撮ったムービー、要る?」と聞いた。
助けに駆けつけた方が
「ああ、ありがとう。でも、そういうの俺も持ってるんです。こいつ、あ…俺の弟なんだけど、意地だかプライドだか知らないけど、こういうのは使いたくないって…」
それを聞いて、あづみはもう一歩前に出た。
「意地?プライド?そんなのってさあ、殴られたりバカにされたりするたびに…石鹸みたいに少しずつちっちゃくなっちゃうもんなんだよ。心が削られて消えてなくなる前に解決できる方法があるなら、それを使うべきなんじゃない?…まあ、あとは、自分で考えたら?…じゃあね」
あづみはその場を離れた。
「はーい、みんな静かにして…おい、そこ!静かに!」
担任の男の先生はグレーのトレーニングウェア姿。
受け持ちは体育。
大きく、はっきりとしとた声で教室の中を静かにさせると、隣に立つ私を見てから
「転校生の小鳥あづみさんだ。小鳥さん、簡単に挨拶を…」
ざわついた…
「コトリさん、だって!」
「チルチルミチルって感じ…」
「おい、おまえら、人の名前を笑うな!」
先生がまた大声で言ってから私に「このクラス、ちょっとガキっぽいやつらの集まりだけど、悪気はないから気にすんなよ」と、少し困った笑顔で言った。
「ちょと、先生!ガキっぽいって何よ!」
一人の女子の発言で、教室中に笑いが起きた
「よろしくね!コトリさん!」
「つーか、超かわいいんだけど…」
一呼吸置いてから、
「小鳥あづみです。神奈川から引っ越してきました。よろしくおねがいします」
そう言ってぺこりと頭を下げた。
教室内に大きな拍手が起きた。
口々に
「よろしくー!」
「よろしくね、コトリさん!」
そう言われ、歓迎ムードに包まれた。
私は高校の残り1年半を千葉県にあるこの学校で過ごすことになった。
千葉には母方の祖父母が住んでいる。
そこから学校に通うことになった。
前の高校で、酷い虐めに遭った。
‘死にたい’
とまで思った。
あの時の担任の先生、校長、教育委員会は私に対して虐めがあったことを認めた。
虐めに加担した者達の親が謝罪し、和解が成立したけど、でもここには自分の居場所がないと思い両親と相談した結果、転校することに決めた。
引越しをしたその夜、おじいちゃんは私にこう言った。
「あづみ、生きていくってのは、何を得るかじゃなくてどう生きるか、だと思うよ」
転校した先のクラスに、私ははすぐに馴染むことができた。
転校を考えた時に、逃げるような罪悪感にも似た感情を持ったが、私を助けてくれた担任の先生に
「小鳥さん、逃げるんじゃなくて‘方向転換’なのよ」
そう言われて、私の気持ちは楽になった。
人は言葉で人を傷つけるが、言葉で誰かを救うこともある、私はそれを知った。
同じクラスの女子と廊下を歩いていた時の事だった。
違うクラスの女子に呼び止められた。
「ねぇ、転校生だよね?」
「うん…」
「私のいとこが神奈川の高校にいるんだけどさ、もしかして転校してくる前って虐められてた?」
意地悪そうに言った。
知られたくなかった…
恥ずかしかった…
私が困惑した顔をしていると、一緒に歩いていた女子が
「マジ?イジメ?ダサッ。あづみ、こっちに転校してきて正解だね!」
そう言った。
意地悪そうに言った女子はばつが悪い顔をしてから私たちに背を向けて小走りに去った。
‘マジ?イジメ?ダサッ。あづみ、こっちに転校してきて正解だね!’
そう言ったのがこの後、大親友になる曽根崎香奈だった。
私は祖父母の家からバスで通学している。
バスの車内、隣に立っている同じ学校の制服を着た男子がこちらをじっと見ているのに気付いた。
翌日も、そのまた翌日もその男子は、私を見ている。
“怖い…”
私はバスを一本遅らせて登校するようになった。
ひと安心した。
一本遅らせるだけで、乗客はすごく少ない。
たまに座れることもある。
私は、このバスから見える景色が好き。
秋を迎え、稲刈りを済ませた田園風景は、見ているだけで藁の香りが漂ってくるような…
この日、私は空いていた席に座って、いつものように景色をぼんやりと眺めていた。
隣に誰かが座る気配を感じ、奥に詰めて座り直しながら、ふと横を見た。
瞬間…
全身に鳥肌が立った…
あの男子だ…
悪びれた様子もなく、男子は私の顔を覗き込むように見て、小さい声で「よぉ」と言った。
「す…」私は、やっと搾り出すように声を出そうとした。
「す?」男子があづみの顔を不思議そうに見る。
「す…」
「えっ?」
「す…すとーかーあぁぁぁぁーっ!!!!」
のどかな田舎の砂利道を走るバスの車内に
私の声が響いた。
私は横に座った男子を学生カバンで押しのけるようにして立つと、次のバス停で慌てて下車した。
「なんで…?」
あの男子も一緒に下車してきた。
走って逃げた。
後ろから
「マジかっ…ちょっと、待てって!」
声が聞こえた。
私は全力で走った…
それを追う男子…
わき腹を押さえながら走ったが、ついに追いつかれ…
「ちょっと…ま…待てよ!」
男子も息切れしている様子だ。
「はあはあ…あ、あのさぁ…お…俺!俺のこと、覚えてない?」
は?
誰っ?!
気を静めて呼吸が落ち着くと、やっとまともにその顔をみることができた。
「誰なの?」
「あ、忘れた?君って…俺の弟がボコられそうになってた時、助けてくれた子だろ?」
ん~…。
記憶の糸を手繰り寄せる…
「ああ!、あの時の…!」
「あん時に、ちゃんとお礼言ってなかったから…」
「いいよ…お礼なんて…あぁ、怖かったぁ…」
その場にぺたんと座り込んでしまった。
「なんか…ごめん…」
「もっと早く、そう言ってくれたら良かったのに…」
「似てる人がいるなぁ~って、近くに行ったんだけどさあ、もしも違う人だったら寒いなあって思ったら、なんか声かけそびれちゃって…で、やっと勇気だして話しかけたら…」
「?」
「こうなった…」
男子は情けない笑みを浮かべた。
その表情に、私は思わず笑ってしまった。
「俺、坂本昂。三年」
「コウ…先輩?…私は小鳥あづみ。二年…ちょっと前に転校してきたばっかりなんだけど…」
二人で畦道を歩いた。
「この前の…弟さん、大丈夫?」
「うん、あれからさあ、ちゃんと話し合って動画を学校に提出しようってことになったんだけどさ、あいつ、意地とかプライドじゃなくて、ホントは仕返しが怖いみたい」
「そう…それ、わかる」
「そう?」
「私、前の高校で虐められてたんだよ。でね、転校してきたの…」
「そっか…この前言ってたのってすげぇ説得力あったもんな」
「そうかな…なんかムキになっちゃた…」
「あづみは今の学校に転校してきて良かった?」
「はっ?いきなり呼び捨て?」
「いいじゃん。俺の方が先輩なんだから‘あづみちゃん’の方が良かった?」
「…‘あづみ’でいい…です。今の学校、すっごく楽しいよ!」
「そっか、んじゃ良かった」
それから取り留めのない会話が続いた。
コウ先輩がスマホで時間を見て「やっべ!もう2時間目が始まってるし…」
「うそ!行かなきゃ!」
来た方向に戻ろうとした
その時…
「ちょっと待って…」
私の手首をコウ先輩が握って引き戻した…
振り返る私…
世界が止まったような不思議な感覚…
ドクン…
ドクン…
なに…これ…
私の心臓の音?…
「不良、しちゃおうか?」
先輩のその言葉で、止まったように思えた世界がまた動き出した。
初めてのサボり…
ひと気のない公園で、背中を合わせて座ってスマホでテトリスの対戦。
犬を連れたおばあさんがリードを離してしまって、その逃げ出した犬を二人でおっかけっこ。
小さな食料品店で、先輩が買ってくれたジャムパンと牛乳でランチ。
『ねえ、いつも‘不良’してるの?』
『まさか』
『ふぅ~ん』
『あ、その顔は信じてねーな!』
『だって、ストーカーだもん』
『ひっでーなぁ…』
『あははっ』
『あづみは、ちっちゃいんだから牛乳をもっと飲みなさい!』
『あーそれ、気にしてんのにぃ~!』
『俺、ちっちゃい子、嫌いじゃないよ』
ドクン…
ドクン…
また、心臓の音が大きくなった…
小高い丘に登り、背の高い木の下に寄りかかって並んで座った。
『すごい…ここってきれいな景色だね』
『だろ?町が見渡せる』
『俺さぁ、大学でもっと勉強がしたいんだ』
『何の勉強?』
『宇宙!』
『へぇ~、ロマンチックだね』
『ここでよく天体観測してんだ』
『素敵だろうね、私も観てみたい…』
『次の土曜日に来るつもり。あづみも来いよ』
『いいの?』
『うん』
私のスマホの着信音が鳴った。
「あ…家からだ…もしもし…、ごめんなさい、え、…私?無事だよ。もしもし?…」
「どうだった?」
「切れちゃった…」
「すっげー怒ってた?」
「ううん…‘無事ならいい’って…」
「なに、それ?」
「日ごろの行いって感じ?絶対的信用があるってこと…かも」
「すげーな」
「でも、もう帰らなきゃ」
「そうだな」
帰宅すると、玄関に迎えにでてくれたおばあちゃんに
「サボるって教えてくれなきゃ、学校から連絡がきたら何て言えばいいかわかんなくて、困っちゃうでしょう?」
と、トンチンカンな意味で叱られた。
「ごめんなさい」
縁側で新聞を広げていたおじいちゃんは、私を見ると手をゲンコツの形にしてそこに「ハァー…」と息を吐く仕草をしてから、老眼鏡の向こうに優しい目を見せた。
「ごめんなさい」
私は、解き放たれたような開放感でいっぱいになった。
私の体も心も誰にも支配されていない。
私は、自由なんだ…
そして、自由だからこそ、自分自身を律する強さを持たなきゃいけないんだ。
そう強く思った。
夜、寝る頃にラインがコウ先輩から届いた。
《大丈夫だった?》
うん
《そっか。じゃ、おやすみ》
おやすみなさい
ドクン…
ドクン…
ドクン…
私は自分の心臓の音で、なかなか眠れなかった…
「うわぁああ~…すごい…」
望遠鏡を覗き込みながら、ありきたりだけど…私の口をついて出たのはその言葉だった。
ここは‘町が見わたせる丘’
この前、約束した天体観測に先輩と二人で来ている。
振り向いて見ると、先輩はちょっと自慢気な顔をして笑みを浮かべていた。
「すっげーだろ?」
「うん!」
しばらくの間、先輩は星のことをいろいろ教えてくれた。
交代で望遠鏡を覗く。
肩が触れる。
手が触れる。
私の心臓の音が聞かれてしまいそう…
「近い!」
思わず、先輩を突き飛ばしてしまった。
「なんだよ、びっくりしたぁ」
「あ…ははは…ごめんなさい。あ、そーだ!」
「ん?」
「これ…おばあちゃんが持たせてくれたの」
ポットに入ったココアを紙コップに注いだ。
「んーっ、うまっ!」
「あったかぁい!」
この前来た時と同じようにあの大きな木を背にして座った。
「先輩、きのうはありがとう」
「ん?」
「うちに来て、おじいちゃんとおばあちゃんに挨拶してくれて…」
「あぁ…、この前さ、学校サボらせたからな。夜に連れ出すと心配するんじゃないかって思って」
先輩のこの優しい気遣いが私は嬉しい。
私の周りも含めてぞんざいにしないところ…
「月曜日にさ、俺の弟、イジメのことを学校側に話すって…」
「そう…」
満天の星空を仰ぎながら、私は先輩の弟のリク君の覚悟を知った。
翌日。
私は昨日の夜のことを思い返して、一喜一憂していた。
《先輩、優しかったな…》
《私、なんで突き飛ばしたりしたんだろ…あぁぁ…》
《先輩の顔があんなに近くに…きゃーっ!》
《私、変な顔してなかったかな?はぁ…》
一日中、この繰り返しだった。
夕方…
秋の夕暮れは早い。
もう陽が落ち始めている。
ん?電話…
知らない番号…
誰だろう…
「はい…?」
「あの…、僕、坂本です。坂本陸です!」
「リク君?」
先輩の弟だ…
「あの、今日ってアニキと一緒じゃなかったですか?」
「昨日の夜は天体観測したけど、今日は会ってないよ…」
「アニキ、夜出る時は必ず、一緒に行くメンバーの名前と連絡先をメモって行くんで…、でも今日はメモがないし望遠鏡も部屋にあって…、ケータイも繋がらないし…、それに、ちょっと前に僕、コンビニに行ったんですけど、帰りにあいつら…僕を虐めてるやつらを見かけて、それで気になって…昨日のメモを見て、小鳥さんに電話しました」
リク君は、早口でそう言った。
「分かった。リク君、一緒に捜そう!私、そっちに行くから!バス停で待ち合わせ!じゃ…」
時計を見た。
バスが出た直後だった。
「おじいちゃん!自転車貸して!私出かけてくるっ!」
急いで家を飛び出すと、おじいちゃんの古い自転車に乗って先輩が住む近所のバス停に向かった。
先輩…
先輩!
無事だよね!
先輩!!!
じわじわと陽が沈み、空が紺色に染まり始めていた。
私は夢中でペダルをこぐ足を速めた。
「リク君!」
「小鳥さん!」
「先輩は?」
「まだ、家に帰っていません、ケータイも出ません」
「あいつらを見かけたコンビニって、どっち?」
「こっちです!」
私はバス停で自転車を停めるとリク君の後ろをついて走った。
「こっちはさっき探したんですけど、いませんでした」
「じゃあ、反対側を探そう!」
「はい!」
スマホの明かりを頼りに用水路の脇道をゆっくりと進む。
「ね、今…そこの茂み、動かなかった?」
二人でその方向に明かりを照らした。
「アニキ!」
「先輩?」
倒れている人影に二人で駆け寄った。
「先輩!」
「アニキ!」
「リク君!救急車呼んで!!」
陽が沈んだ闇の中に先輩の…
血に染まった先輩の姿があった。
そこからの記憶は曖昧だ。
あの時…
ぐったりとした先輩の頭を膝に抱きかかえて、私は何かを叫んでいた…
遠くから救急車の音が聴こえた…
警察では聴かれた質問に機械的に答えた。
「おじいちゃん…?」
「もう遅い時間だから、保護者を呼びました」
刑事さんにそう言われて、もう一度おじいちゃんを見た。
その表情で、すごく心配していることが分かる。
「おじいちゃん、ごめんね、心配かけてごめんね。でもね、でも…、私、先輩の病院に行きたいの」
おじいちゃんが泣きじゃくる私の頭に大きな手を置いて、優しくなでた。
その手があまりにもあったかくて、私の涙腺は崩壊してしまったように涙が溢れ落ちた
「小鳥さん…」
「リク君…終わったの?」
事情聴取を終えたリク君が力なく頷いた。
コウ先輩の弟だと知ったおじいちゃんは、リク君の保護者になってくれて警察署を三人で出た。
そしてタクシーで病院に向かった。
「あの、坂本昂の弟ですが兄の病室は…?」
「ICUですが…面会はまだ…」
看護師さんがそう言った。
それでも私達はICUに向かった。
ガラス張りのそこには薄いブルーのカーテンが曳かれていて、中の様子を窺い知ることは出来なかった。
ICUの出入り口には警察官が二人立ってる。
「陸!」
「父さん、母さん…アニキは?」
「まだ、意識が戻らないの…」
先輩のお母さんがリク君にそう言うと、お父さんがリク君の傍に行って彼の肩に手を置いた。
「あの、こちらが一緒にアニキを見つけてくれた小鳥さんと、警察からタクシーでここまで送ってくれた小鳥さんのおじいさん」
リク君の説明を聞いた二人は交互に私の手を握ると、
「ありがとう!発見がもう少し遅れていたら、あの子は…」
涙を流してそう言った。
「あづみ、今夜はもう帰ろう、なっ?」
おじいちゃんが私にそう言うと、リク君が「小鳥さん、アニキが目を覚ましたら、すぐに電話します」そう言ってくれた。
「うん、分かった…」
帰り際に、立ち止まって振り返った私は
薄いブルーのカーテンをもう一度見た。
おじいちゃんに促されて、やっと足を進めた。
先輩
先輩
先輩…
神様お願いします
どうか先輩を助けてくだい!
お願い!
お願いします!!
「ない、ない、ないっ!!!」
おじいちゃんと病院からタクシーで家に帰ってから
私は自分のスマホが無いことに気がついた。
‘アニキが目を覚ましたら、すぐに電話します’
リク君、そう言ってたのに…
リク君はうちの電話番号まで知っているわけがない。
私はリク君の番号を記憶していない。
あの事件現場で落としたのかも…
それなら、警察に保管されてるのかな…
「あづみ、今夜はもう寝なさい」
おばあちゃん、きっとして帰りを待ってたはず。
でも、何も聞かずにそう言ってくれた。
ごめんね…
おばあちゃん
おじいちゃん
最近の私は、心配させてばっかりだ
私は眠れないことが分かっていたけど…
おばあちゃんの言うことをきいて、ベッドに入った。
眠れないまま朝が訪れた。
朝ごはん…
食欲は無い。
不安で、表現が難しいくらいのとっても嫌な気持ち。
その時、
静寂を覆い隠すようにけたたましく電話が鳴った。
古い黒い電話機。
ジリリリリーン!
ジリリリリーン!
おばあちゃんが受話器を上げて「もしもし」と言った。
「あら、おはよう。あづみ?ちょっと待ってね」
そして私を見て
「あんたのお母さんからよ」
おばあちゃんはそう言って受話器をこちらに差し出した。
「もしもし…お母さん?」
「え…?え…?そう、分かった!ありがとう!!!」
「なんだって?」
お茶碗を手にしたおじいちゃんが、電話を終えた私に聞いた。
「私のケータイ、昨日のタクシーの中に落ちてたって!タクシーの運転手さんが警察に届けてくれて、私、住所変更してなかったから、神奈川の家に警察から電話があったって!」
「そうか、じゃあワシが警察に取りに行ってやる」
「え…?」
「あづみ、おまえは学校に行きなさい」
「うん…」
「取りに行ったら学校に届けてやるから」
「おじいちゃん、ありがとう」
「あづみ、ちゃんとご飯食べないとダメだよ、あんた夕べは眠れてなかったんでしょう?栄養つけないと倒れちゃうよ」
「うん、わかった。おばあちゃん」
先輩の容態が気になる…
ざわついた教室の中。
早朝、この学校の一年生が三人、傷害容疑で逮捕されて、三年生の被害者が重体だという噂で持ちきりだった。
「ねっ、重体の三年生って…もしかしてあづみの彼?」
香奈が小さな声で私に聞いた。
「彼…ではない…けど…」
「やっぱり、そっか…あのさあ、私ね、前にね、逮捕されたっていう一年生達とケンカしてるとこを見たことがあるんだよね」
「先輩が?」
「うん…」
先輩は、弟のためにずっと戦っていたんだ…
そして、一時間目が終わった時におじいちゃんがスマホを持ってきてくれた。
すぐに電源を入れた。
リク君からの着信は無い…
まだ、ICUにいるなら、電源を切っているはずだし迷惑をかけたらいけないと思って、こちらから電話はしないことにした。
先輩…
まだ意識がないんだ…
私は机の上に置いた手をゆっくりと握り締め
そうして泣きたい気持ちをぐっとこらえた。
たっぷりと柔らかな風を孕んだカーテンが揺れている。
先輩は、ベッドに上半身を起こしてカップのアイスを口にしたところだった。
そして
きょとんとした顔でこっちを見てる。
後ろから「小鳥さん」とリク君の声、
「アニキがICUから出て、電話したけど出ないから心配してました」
「それって、思いっきり自転車こいでた時だと思う…」
先輩がいつもと変わらない笑顔で
「よう、あづみ」
と言った。
「先輩!もうっ!なんで、そんな…のん気に…」
「あづみ?」
私の名前を呼んだ先輩の頭の包帯や頬のガーゼが痛々しい…
「うわぁああーん…」
私はその場にペタンと座り、まるで子供みたいに大きな声で泣いた。
その後でリク君に聞いた話では
先輩は未明に意識が回復していたけどいろいろ検査があって、
「あづみが不安になるとイヤだから…」
って言って、リク君に結果が出てから私に連絡するようにって言ったんだって。
で、検査結果が出て、異常がなくて一般病棟に移されて、
それで私に電話したけど、私はそれに気が付かずに自転車で疾走してたってわけ。
※
転校してきてからの半年は、あっという間に過ぎた。
先輩の卒業式。
早咲きの桜はもう散ってしまっていた。
先輩とのお別れに薄桃色の花びらがハラリと舞う、…そんな刹那過ぎるシチュエーション、私は嫌だったから…
もう緑の見え始めた桜の木を見上げ、感謝。
「あづみ…」
後ろから、先輩の声。
振り返ると、卒業証書の筒を手にした先輩が立っていた。
私は
いっぱいの笑顔を浮かべた…
「アニキ、たまには帰って来いよな!」
「おう!」
駅のホーム。
見送りにはリク君も来ていた。
ご両親とは旅立ちの挨拶を自宅で済ませてから来たと言う。
「夏休みには帰るからな」
「うん!」
先輩とリク君の会話…
二人のやり取りが
なんだか…遠く感じる。
先輩の目を見ることができない。
私はただ、にっこりと笑っていることが精一杯で…
何も言えない。
一言でも何か言ったら、涙がこぼれてしまう。
ホームに発車のベルが鳴り響いた。
先輩…
先輩…
プシューっと、音がしてドアが閉まる…
その瞬間…
先輩が私の手首を握って、力いっぱい引き寄せた。
よみがえる記憶…
『不良しちゃおっか?』
いたずらっ子みたいな笑顔。
『やっべ!もう2時間目が始まってるし…』
『うそ!行かなきゃ!』
『ちょっと待って…』
私の手首を握って引き戻した先輩…
振り返る私…
あの時が…
今と重なった。
私の後ろでドアが閉まった…
「え…?」
電車が走り出した。
「あづみ、必ず…」
「……?」
「必ず迎えに行くから、俺と…、結婚してください!」
驚いた後に、こらえていた涙がぽろぽろと私の頬を転がり落ちた。
「はいっ!」
と、笑顔で涙をこぼしながら返事をした。
先輩が、思いっきりのガッツポーズを見せてから、私をぎゅぅっと抱きしめた。
「大好きだよ」
「私も…先輩が好き!」
そして、不器用なキスをした…
私は次の駅で電車を降りると、先輩を乗せた電車が見えなくなるまで手を振り続けた。
し…ん、と静まり返ったホームには春の匂いが漂った。
電車のレールを見つめて、
「繋がってるんだね」
呟いた。
レールも、心も…
先輩に繋がっているんだね。
小説・エッセイ掲示板のスレ一覧
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