神社仏閣珍道中・改
【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
…そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
なにせ初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間でありました。
そして未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねしております。
もう何年経ったことか…。
相も変わらず、作法もなっていないままかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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大好きな神社さんにどうしても行きたくて、レスキュー薬を持ってひとり車を走らせました。
七月七日のこと。
夫は一度行ったところへはあまり関心が無いことが多くて、
ここはもう二度一緒に来ているし、行くといえば一緒に来てはくれるだろうけれど…。
ここ毎年、その神社さんへは夏詣として参拝させていただいており、平日にお参りすれば良い。
そうだ、こちらは笹を飾ってくださるから、ちょうど七夕の日に短冊をかけることができる!
心地よい気の満ちた、優しい気持ちになれる神社さん。
ああ、なんと気持ちが良いのだろう。
短冊は子どもたちと孫の健康と幸福を祈願して吊るした。
帰宅したとき、ここずっと体調が良くなかったのに、ここ近年ないくらいに身体が楽なことに気づく。
あ、そうか。
あの神社さんの御祭神の一柱は少彦名命さまだった。
なんとありがたいこと。
願わずとも見てくださっていてお力を与えてくださったのだ。
近いうちに御礼参りに参りましょう。
その時は熱中症のような症状となってしまったという、あの優しい人の体調が早く良くなって新たなお仕事に一日も早く慣れることができるようお願いしてまいりましょう。
早く良くなりますように、ここから祈ります。
お大事になさってください。
(花手水)
日本という国は、八百万の神がおられ…そこへ御仏がお越しになられた。
神がおられるのにと言った者。
神さまに救われなかった者を救うのが御仏であると説いた者。
その異なるところから
年月をかけて
自然と、
神道と、
仏教とが寄り添うようになっていく。
このなんとも特異な考え方に一つの宗教を信じる国の人たちは驚くようだが…
私はこの先人の柔軟な心に感謝しかない。
神を崇め
自然を崇め
御仏の教えに心のあり方を学ぶ。
そんな教えの中、釈迦は四苦を説く。
〝産まれ落ちたときから
苦しみが始まる〟と。
この世に生を受け、
老い、
病にかかり、
そして死を迎える
生命の流れのなか
必ず経験する苦しみ、だと。
生まれてきたことすらが苦しみ?
…少し切なくなる
たしかに産まれ出づるときの
苦しみは大きかろう。
ただ、
そのときのつらさや痛み、苦しさを
覚えている者はいないであろう。
老いたと思うことは日々の暮らしの中どんどん増えていくし
病の苦しみも味わうようになった。
生老病死
わずか四文字でその苦しみはあらわされるけれど
人は一生をかけて
それを味わい生きていく。
この四苦のほかにも苦しみがあると
お釈迦さまはおっしゃった。
愛別離苦
怨憎会苦
求不得苦
五陰成苦
人が生きていく上で味わう精神的な苦しみ。
うん、…味わった。
味わって生きてきた。
…味わって生きている。
まさに生きている上で避けられない苦しみだ。
不安や孤独…さまざまな苦しみがあった。
それはこれからも生きている限りは付いてまわるであろうことは、
今までの生きてきた道を振り返らずとも想像される。
でもそこには喜びもあった。
だから
能天気な私は
苦しみもあろうが喜びもあろうと
生きてきたし
生きていく。
御仏の教えを伝える仏教は、これらの苦しみを言葉としてあらわし伝えただけではない。
苦しみを受け入れること、
その苦しみから解放されるための智慧と方法を教えてくださっている。
…ただなぁ。
私のような煩悩の塊の愚者には
なかなかむずかしい。
おそらく生きている間には
その〝域〟には
達することは不可能であろう。
だから私は
今日も苦しむ。
埼玉県の安楽寺さんの年一回のご本尊さまの御開帳日であるからと、夫が有休をとってくれ、
「夜中の二時から御開帳されるというから、もし行きたければそのときに間に合うように行ってもいいし。
調べたら一時間半かからずに着くらしいから、夕飯食べて早めに仮眠取って行けばいい」
こちらは吉見観音さまと呼ばれ、その御開帳の日の参拝は早い時間であればあるほどご利益が大きいと言われているといいます。
しかしながら私どもは初めての参拝です。
明るいときと異なり、道の案内板等も見えづらいでしょうし、いくらライトアップされていたとしても石仏さまなどは見逃してしまいましょう。
ゆっくり明るくなってから、と、それでも七時半くらいには家を出たのですが、この日は平日。
この時間帯は通勤通学のラッシュ時にあたっており、なんだかんだ二時間かかってしまいました。
真夜中の二時から御開帳されていたということで、真夜中にはさぞ混んでいたでしょうに、この時間になると駐車場もガラガラに空いています。
そしてその駐車場の脇にはたくさんの石仏さま♡
暗いうちに訪れていたならお会いすることはできなかったことでしょう。
参道に露店のお店は二つのみ。
厄除け団子のお店が立ち並ぶ、と聞いていたのに…。
時間帯のせい?
それとも時代による減少?
参道沿いに店を構えるお茶屋さんでは
『厄除け団子売り切れ』
『本日休業』
との貼り紙が。
私の厄はどう祓えばいいのでしょう (;ω;)
参道沿いにあるおうちから、疲れたお顔をされた男の方が出て来られました。
…そうだよなぁ。
普段なら静かであろう道沿いが、一年に一度のこととはいえ、夕べは夜中中大賑わいでしたでしょうから。この頃は季節を先取り夏日が続いておりましたし、眠れない夜、さぞ疲れもたまりましたことでしょう。
石段の上、山門が見えてまいりました。
坂東観音霊場第十一札所【岩殿山安楽寺】さん。
朱色をされた仁王さまが来るものを見張っておられます。
「初めて参拝させていただきます」とご挨拶を申し上げます。
おや?
山門にいろいろな図柄の蟇股です。
これが真夜中の人出の多い頃であったら、気づきもしなかったことでしょう。
ひとつひとつに物語がありそうです。
明るくなってからでも充分なご利益です。
年一回の吉見観音さまの御開帳は六月十八日のことでありました。
山門の彫刻をゆっくりと堪能して。
(…どうせ帰りにもまたそこをうろつくくせに)
山門をくぐると目に入ってくる情報の大変多いお寺さんであるにも関わらず、まっすぐ前の大香炉と、そこからまっすぐ石段の上の御本堂に、心ごと引きつけられてそわそわワクワクいたします。
なんと慈悲深くお力の強い観音さまでありましょう。
夫もそうなのかわき目もふらず真っ直ぐ大香炉へと向かっています。
…ちがうよ〜。
まずは手水舎だよ。
…私も真っ直ぐ前だけを見てそこを目指していたはずなのに、ある地点でふと足が止まり、左側にごくごく自然に目を向けました。
ああ、手水舎!
見えない力がそこに働いているかのようでした。
すっかり明るくなった境内、まさに龍が守っているとしか思われない手水舎がありました。
手を浄めて。
大香炉を目指します。
こちらはお線香に火を着けるのに昔懐かしい練炭を使うのです。
お線香を買い求めるのも私には妙なこだわりがあって、自分のお財布から自分の分だけお払いすることにしています。
神さまや仏さまに捧げるものは全て自らのお財布から。
…働いていない私の支払うお金の出どころは夫が働いて得たお金なのに、ね。
そんな事を考えながらお金を納めていると、年若いお坊さんがあらたな練炭をお持ちになりました。
「ようこそお参りくださいました。こちらの方が早く(お線香に)火が付くかと思うのでよかったらお使いください」
…なんと心のこもった対応をなさるお寺さんでありましょう!
夜の二時からの御開帳。
それに向けてもう数日前から動いておられ、きっとこの日は前日から寝ておられないでありましょう。
それなのにこの爽やかで、心のこもった対応。
暗い真夜中からたくさんの人が訪れ、その対応にあたられたこの方は、疲れていたり、眠かったりするかもしれない、まさにそんな時間帯にも関わらず、
全身全霊相手の心に寄り添った、対応をなさるこの方に深い感動を覚えました。
神対応という言葉がありましたが、これはまさにそんな対応。
心を浄めてくださる対応を受けて、御本堂への石段を登ります。
真っ青な空が御本堂の上に広がっています。
五色の幕のかかる御本堂へ一歩、また一歩。
(続きます)
(埼玉県吉見観音さまの続き)
だいぶ間があいてしまいました。
御本堂へお参りさせていただきますところから再開させていただきます。
御本堂の中に置かれた御賽銭箱の前に、玉垣のような柵があり、
ここに安産や子育て満足といった祈りを込めた小さな前掛けをかけるようになっています。
手作りしてきた物でも、こちらで購入した前掛けでも良いようです。
ちなみに今回のお参りの際の前掛けをお授けいただいたときのお納めする代金は七百円と大変良心的なお値段設定でありました。
ご許可いただけるようなお寺さんなりがあればお地蔵さまのお首に御奉納という形で前掛けを掛けさせていただきたい、というのは私のかねてからの小さな夢であり望みであります。
ええ、夫さえいなければきっとこちらでこのお掛けを購入したことでしょう。
そうすればこれを元にお掛けを作れます。
…まぁ、あきらめましたけれど。
たいがいのことは大目にみてくれますので、購入したところで、せいぜい「それをどうするの」と聞く程度でありましょうが、ね。
御本堂前、御開帳されておられる聖観世音菩薩さまとは細紐で繋がれており、お参りの際にはその紐を持ち、ご縁を結んでいただけるようになっておりました。
若い男の方が熱心にその紐を握って長いこと祈っておられたのがとても心に残りました。
ご自分のためでしょうか。
それとも奥さまとか、あるいは奥さまとそのお腹にいるまだ見ぬ我が子のためにでしょうか。
それとも親御さんのため?
彼の敬虔な祈りは観音さまにきっと届いたことでしょう。
え?わたし?
わたしは初めて参拝ができましたことを御礼申し上げました。
(続きます)
(続き)
吉見観音さまの御本堂の内にも入らせていただけ、より近い所から拝観させていただくことができました。
ありがたいことでございます。
御本堂内は撮影禁止とありましたが、御開帳されておられる観音さまを含めた境界の内側とのことで、
左甚五郎作といわれる欄間彫刻【野荒らしの虎】の撮影などはご許可がありました。
『野荒らしの虎』は夜ごと御本堂を抜け出しては付近の田畑や家畜を荒らし、村人に右足を槍で突かれて血まみれになって帰って来たという伝説が残ります。
…なるほど、欄間から尻尾がはみ出して、躍動感あふれる虎であります。
御本堂内の天井にはおびただしいという表現がぴったりなくらいに千社札が貼られていました。
…かつてはこのようなことすらもが許されたのですね。
今はたいてい千社札禁止ですし、お寺の御本堂の内にハシゴなどを持ち込んで、ということになりますからね。
お寺の、高い天井です、足場などがなければ到底不可能ですもの。
このあと御本堂では御祈祷が執り行われました。
外陣にいる者に対しても退出するようにおっしゃることなく、ありがたくその読経を拝聴させていただくことができました。
ただ…拝観の方の中に大変失礼な方がおりました。
今回御開帳されておられる観音さまの真正面に陣取って、観音さまに足を向け伸ばして座り、脚を組んだり、
まるでお家のリビングでテレビでも観ているかのような気楽さで参列されている女の方がいたのです。
…もちろん足がお悪くて足を伸ばしてしかお座りになれない方もおられます。
しかしながら彼女たちはさにあらず。
五十代前半から六十代後半といったところの、十中八九日本の方。
そのうち飽きてしまったようで途中退座されました。
たとえ信仰心など無いにしても、その場でのマナーというものがあると思います。
まあ、観音さまの御前でたとえ内心でとはいえ苛立つ私もまた未熟者。
そんな私の苛立ちも九条錫杖経に合わせて振られる錫杖の音できっと祓っていただけました、よね?
観音さまの右側のお不動さまの御前でのお護摩も焚かれておりましたし。
お護摩の炎、お不動さまの炎はそうした穢れを焼き祓い、焼きつくすといわれています。
観音さま、こんな未熟な私の心が少しでも穏やかなものとなりますよう、お導きください。
(続きます)
独身税とかいう税金の導入が進んでいるようだ。
わが家には独身の息子もいる。
今後のことを考えると、不安もある。
不安しかない。
NHKの綾瀬はるかさんのドラマが観られないくらいには不安だったりする。
独身というだけで、何故そんなに国にお金を搾り取られなければいけないというのだ。
独身というのは罪にあたるというのか?
そもそもどこからどこまでが独身なのだ?
ご近所に八十を超えた生涯独身男子がおられるが、その方も独身税を払うのか?
収入のある独身者がターゲットなのか?
一人悶々と怒っていた。
仏教徒ではないが、法句経というお経の偈文に
『人間は、共に行動する仲間に影響を受けやすいもの。
聡明な伴侶が見つからず、智慧を持っていなかったり、志が異なっている人と旅をするのなら、勇気を持って孤独に進むほうが良いものです」
〜愚かな者を道連れにしてはならぬ〜
とあるくらいだ。
まあ某総理はキリスト教徒で洗礼も受けているようだから、お経を持ち出したところで痛くも痒くもないであろうが。
…そもそも彼には痛覚がない気がする。
で。
本日はこの〝独身税〟なるものを調べてみた。
調べてみたらなんのことはない
【子ども・子育て支援金制度】のことをいつしかそう呼ぶようになっていたということらしい。
まあ、結局のところ独身者の納める額はどうしても大きく、そんなところから独身税と呼ばれるに至ったらしいが…。
ゆえに件のご近所さんは当然支払う事はない。
ヘンテコな表現をして注目を集めるのが目的なのか?
全くもって…わからない。
独身者に対して手厚い制度はできるのか?
無いんでしょ?
そうそう、小泉元首相は収入のある独身者だね。
…そんなちっぽけな税金を納めたところで痛くも痒くもないだろうが。
ほんとね。
ちゃんと国民を、あらゆる方面から見てよ!
お金だけ搾り取って、取りこぼすとかすんなよ!
あーヤダヤダ!
地蔵菩薩さまは大地を蔵にしている仏さま。
奈良時代には虚空蔵菩薩と対で祀られていたという。
虚空蔵菩薩は虚空、つまり天を蔵にしており、地蔵菩薩は大地を蔵にしている。
そして平安時代には【抜苦与楽(ばっくよらく)】の仏として信仰されるようになる。
苦を抜き、楽を与えてくれる仏さま。
やがて、地獄に堕ちた衆生=人たちでも救ってくれるという信仰が強くなっていく。
お地蔵さまはどこにいても救ってくださる仏さま。
救いを求めて、
大切な誰かを救って欲しくて、
あるいは救っていただいたお礼として
多くのお地蔵さまの像がつくられた。
明治の時代を経なければもっともっと多くのお地蔵さまの像は存在したであろう。
同じ立像であっても、よく見るとお地蔵さまの片足が一歩前に踏み出された像もある。
お座りになられる像にあっても、片足は下げて、すぐにでも歩けるようにされている像がほとんどだ。
これは救いを求める声を聞いたならすぐに動けるようになさっておられるお姿をあらわしたからだ。
…生きることは苦しいこととお釈迦さまは説いておられる。
生老病死の四苦をはじめ、八苦、…あの四苦八苦といわれる言葉の始まりは仏教から生まれている。
別れたくないと思う者と別れなければならない苦しみ。
出会ってはならない者と出会ってしまう苦しみ。
などなど…。
あなたが苦しくて声を上げたなら、そこに来てくださる御仏、お地蔵さま。
どうかご自分の苦しいときは、他者ではなくご自分をこそ見てあげてください。
それは決して甘えなどではありません。
ご自分をこそ抱きしめてあげてください。
あなたの優しさも苦しみも、みな、
御仏は、
神さまは、
見てくださっておられます。
そして私はここから
風に頼んで
エアハグを送るよ。
戦後八十年
私とて戦争を知らない世代だ。
語り継ぐといっても
それは
体験された方の生の肉声を
お聞きして初めてできることだと
思うのだ。
しかしながら
時は流れる。
今、
世界は
そして日本は
人の手による自然破壊で異常気象が起き、大きな災害も起き、
それにより食べ物という生きていくため欠かせないものにも大きな支障がきたされている。
富める国は自国のために、保身に動き出している。
日本は…
本来国民のために国のためにその職に就いた者が、もはやそう動いてはいない。
歯車が狂い出していると思うのは私だけではないであろう。
忘れてはならない。
忘れてはいけない。
人の命の重み。
かの人は、平和式典にどんな思いを持って臨むのであろう。
いろいろなお寺さんを巡っております私。
季節や仏教行事の折にふれて、同じお寺さんを参拝させていただきますことも多くありました。
お釈迦さまはご自分の亡くなられたあと、仏教、=仏の教えがうまく伝わらず世が乱れることを予想しておられました。
それこそ仏の道を説く僧からがその教えから外れてしまうことすらも。
まさに今はその、お釈迦さまが憂いた時にあたる時代。
悲しいかなそれは的中していると思うしかないことに出会ってしまうことがたいそう多い。
それは私が仏教徒でもなければ、檀那寺も持たないから、なのかもしれません。
でもそれで仏教に不信感を抱いて仏教離れしていったら、言葉はたいへん悪いでしょうが、営業活動になっていませんよねぇ。
…悲しいことにそれすらがわからないらしい。
本堂御内陣のご本尊の前に灯した蠟燭の火を口で吹き消したりはまだ序の口で。
ここを私どものお寺と定めようかとすら思っていた人格者の僧が、人の道を外れてしまったり。
法具を地べたに置いたり、箱に投げ入れたり、人に殴りかかるかの悪ふざけをしたりポスターの顔面に五鈷杵と呼ばれる尖端を突きつけたり…。
法要の合間の時間に「あの会社はもうおしまいだよね」と名指しで話したり。
…別にね。
聖人であることを強いたりはしないです。
生きた人間ですから。
でも仮にも僧侶という職業人であるならちゃんとその格好をして、自らの治める寺で、法要の合間とはいえ、人目ある時くらいは【演技】してよ!
…そういった意味では法を犯した僧侶は少なくとも僧としての仕事中はそんな素ぶりを見せたことのない、檀家以外の者からも慕われ敬愛された人物であったくらいでしたよ。
そんなことを見る機会、聞く機会を与えられてしまって、なんかちょっと…興醒めしているところがあるのが否めない。
檀家ならば見ない?見せないかもしれないし、逆に檀家ならばもうそういう寺、そういう僧だと認識した上で付き合ってきている歴史学あるのかもしれないし。
御仏の教えは決して揺るぐものではない、そう自分に言い聞かせて言い聞かせている、まさにその最中、であるのです。
もちろんそうでないお寺さん、僧侶も多くおられます。
その方のおられるお寺をお訪ねしては、自らの思いを修正中というのが正直な実状です。
…だいぶ間が開いた事もあり、どうしようか迷いもしたのですが、
吉見観音さまはある方とつながりの地。続きを書きたいと思います。
(吉見観音さまの続き)
御朱印を拝受させていただくため納経所へと向かいました。
穏やかな佇まいの庭園を進んでまいります。
ここを歩くだけで癒される、そんな空間でありました。
と、向こうから年若いお坊さま。
やわらかな所作で道をお譲りになりながら、
「ようこそお参りくださいました」
私、この日何度こう言っていただいたのだろう。
人の心に残るのは、人の心ある言葉であり、人の優しさ、思いやり。
そんなことを、身についた普段通りの行いで私にお伝えになるお坊さま。
なんと良いお寺さんでしょう。
納経所に着き、係の方が渡された私の御朱印帳を開いて捺印なさろうとしたまさにその時、
あの、心の臓をつかむかのような緊急警報Jアラートが鳴り響いたのです。
(納経所の建物は新しい。
この建物が倒壊するようならそれはもはや地震の規模の問題。
すぐに外へと出るのも可能な位置にはいるけれど、
どこをどう動けば良いか、初めて訪れた場所ではなかなか判断も難しいから、このあとどうなるかもう少し様子をみよう)
怖さは全くといっていいくらいありません。
いたって冷静にそんなことを考えていると、Jアラートに続いて女の方の声でアナウンスが聞こえてきました。
「緊急地震速報、大地震です」
夫は様子を見に外へ出て行きました。
(ほう、そばには居なくていいんだ…)
冷静にそんなことまでを考えていると、
「震度5弱の地震です」
と再びアナウンス。
?
…おかしい。
私のiPhone鳴ってない。
何故?
さっき御本堂を出たあとマナーモードは解除したはず。
歳で指の力が足りなかった?
いや、そもそもマナーモードであろうとJアラートは鳴るはず。
夫のスマホも鳴ってない。
…これ、なんか変。
なんかおかしい。
そう思ってiPhoneを開いてみたところ、やはり私のものにはJアラートの受信履歴が無い!
「これは訓練放送です。これで訓練放送を終わります。」
は?…訓練でしたか。
ま、一般人には言われませんか
…訓練にならないし。
吉見観音さまのご利益は即効にして絶大でした。
…穏やかでしたでしょ?私
(続き)
【吉見観音】さまは正式には【岩殿山安楽寺】。
今から約1300年ほど前、行基菩薩が岩窟に観音像を安置したのが始まりといわれているといいます。
平治の乱後、源範頼がこの地を領するようになり、本堂と三重塔を建立しました。
範頼の館跡とされます。
…ええ、どこかの歴男子がやたらと解説をしておりました。
しかしながらこの時の伽藍は天文年間(約450年前)の上杉憲政と北条氏康の松山城合戦に際し、すべて焼失してしまいました。
現在の本堂は寛文元年に再建されたものであり、五間堂の平面をもつ密教本堂です。
また、堂内の間には左甚五郎の作といわれる「野荒しの売」も納められています。
三重塔は本堂よりもさらに古い覚永年間の創建といいます。
現在の塔は総高24・3メートルとのこと、
それだけでも十分高い塔ですが、かつての塔はその倍の48メートルあったと伝えられるといいます。
仁王門は元緑十五年に再建された三棟造りの八脚門という建築様式をもち、内部に仁王像二体が安置されます。
三重塔は修復や保全にお手を加えておられるのでしょうが、全く古さを感じないどころか、新しいものにさえ見えます。
御本堂よりも古いものには到底見えません。
この塔の説明板に穏健な雰囲気の塔とありますが、まさにその表現がぴったりする塔であります。
中には誕生釈迦尊像が安置されているといいます。
そのお姿を見ることはできませんが、つい見えないそのお姿を想像しては重ねて見上げている私でありました。
(続きます)
【平和への誓い】
いつかはおとずれる、被爆者のいない世界。
同じ過ちを繰り返さないために、多くの人が事実を知る必要があります。
原子爆弾が投下されたあの日のことを、思い浮かべたことはありますか。
昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分。
この広島に人類初の原子爆弾が投下され、一瞬にして当たり前の日常が消えました。
誰なのか分からないくらい皮膚がただれた人々。
涙とともに止まらない、絶望の声。
一発の原子爆弾は、多くの命を奪い、人々の人生を変えたのです。
被爆から80年が経つ今、本当は辛くて、思い出したくない記憶を伝えてくださる被爆者の方々から、直接話を聞く機会は少なくなっています。
どんなに時が流れても、あの悲劇を風化させず、記録として被爆者の声を次の世代へ語り継いでいく使命が、私たちにはあります。
世界では、今もどこかで戦争が起きています。
大切な人を失い、生きることに絶望している人々がたくさんいます。
その事実を自分のこととして考え、平和について関心をもつこと。
多様性を認め、相手のことを理解しようとすること。
一人一人が相手の考えに寄り添い、思いやりの心で話し合うことができれば、傷つき、悲しい思いをする人がいなくなるはずです。
周りの人たちのために、ほんの少し行動することが、いずれ世界の平和につながるのではないでしょうか。
One voice.
たとえ一つの声でも、学んだ事実に思いを込めて伝えれば、変化をもたらすことができるはずです。
大人だけでなく、こどもである私たちも平和のために行動することができます。
あの日の出来事を、ヒロシマの歴史を、二度と繰り返さないために、私たちが、被爆者の方々の思いを語り継ぎ、一人一人の声を紡ぎながら、平和を創り上げていきます。
今年の広島の平和式典でのこども代表のことばです。
もう私の文章なんて、ここに書くのをすらやめたくなるくらい立派だし、その立ち居振る舞いの立派なことといったら。
この子たちの素晴らしさもなのだけれど、今の子供たちって、堂々としていて、テレビのインタビューなどでも立派な受け応えをするし、恥ずかしがったりしないで普通に会話するかのようにカメラに向かうんだよなぁ…。
この素晴らしい子供達の未来を守ろうよ。
心からそう思う。
(吉見観音さまの続き)
三重塔を拝し、御本堂裏手へとまわります。
御本堂の裏手には石垣が組まれ、その一角、ちょうど御本堂の中央の真裏にあたる位置に洞が造られています。
輪違の御紋の石碑がまるで表札のように置かれています。
この輪違の御紋はこちらのお寺さんが属する真言宗智山派の宗紋です。
そして。
この洞の内には石造りの大日如来さま館お祀りされておられました。
お詣りさせていただき、さらに進むと石段の上へとのぼる石段があります。
のぼっていくと鐘撞き堂があります。
はて何故このような奥に?
高台にある方がより遠くまで音が響くから、なのでありましょうか。
先の大戦で供出され新たに造られた梵鐘のようです。
どれだけ無駄な労力を使って全国からこのような大きな梵鐘をかき集めたのでしょう。
そして無駄な労力を使って、このように立派に造られた歴史ある梵鐘を溶かし。
あるいはそれすらも追いつかず、集められただけで放置され、帰る先がわからなくなった梵鐘が雨ざらしになって錆びていったことでしょう。
帰る場所がわかったところで、その運搬にかかる費用や労力はもはや国の手からは離れており。
あるいは溶かされ、あるいは行方知れずのままとなって、
鐘楼だけとなったお寺さんをどれだけみてきたことか…。
再建にあたっては莫大な金額のお金が必要で、さらには鐘を造る専門職も激減した中でのこと。
鐘一つとってもいかに戦争で失われたものが多かったかが伝わります。
美しい音色の鐘。
素晴らしい技術をもって造られた梵鐘。
鐘を造る技術をもった技術者。
そして…人類はそれでもまた戦争を起こしています。
そんな思いをもって梵鐘を拝みます。
鐘撞き堂をぐるっとまわると八起き地蔵尊のお堂が眼下に見えます。
八起(やおき)地蔵尊とは
七難を克服し、七福を授かり幸せを築くことができるようにと建立されたといいます。
私たち衆生の願いを叶え、悩み、苦労を代わって受け、救済してくださるといわれるといいます。
やはり手には輪違の御紋をお持ちです。
七難くらいではまだまだ私の悪いところは到底とり去ることはかないませんがありがたく拝ませていただきました。
七福は…子どもたちにお授けくださいと、お願いしました。
(続きます)
(続き)
八起き地蔵さまの参拝をし、三たびのご本堂前。
参拝のご縁をいただきました事を御礼申し上げ、石段をくだります。
青銅製の半跏坐のお地蔵さま。
錫杖を手に、何か事あればすぐに立とうとされておられる、なんともありがたく尊い地蔵菩薩さま。
大きな、同じく青銅製の阿弥陀如来さま。
『吉見の大仏』さまと呼ばれるようです。
新しいものに見えますが寛政二(1790)年に鋳造されたものといいます。
この阿弥陀如来さま、山門をくぐるとその大きく威厳あるお姿に目がいき、ついお参りに参じたくなるのですが
自らの心を律して、まずは御本堂へと向かいましたもの。
お詣りのマイルールは『まず御本堂、まずご本尊さまへ』なのであります。
大きな宝篋印塔。
境内参道を左右に対で置かれております。
お堂の内にある六地蔵さま。
…お地蔵さまが多く祀られるお寺さんであります。
うーん。
今までで見た中で一番紙が貼られておられます。
中にはもう衣のように御札を貼られたお地蔵さまもおられました。
どこかでお授けいただいた御札?
いや全文手書きのものから、印刷して名前と日付だけ手書きされた物までいろいろあります。
決まった文言があって、それを個々に用意してこうして石仏さまに貼らせていただく風習がこの地にあるのだと思いました。
私はこうした深い信仰のある地がとても好き。
もはや道端の石仏さまを見かける機会すらを失ってしまった自らの住む町にあると、こうした風習は憧れでもあります。
いつかこの御札を携えて再びこの地を訪れたいとすら思うくらい。
参道を超え。
御本堂と三重塔を見護るかに立つ弘法大師さま。
十数段の石段を登ると御堂がふたつ。
石段真正面は薬師堂。
覗きみますと、中央にはたいそう立派な御厨子があり、左右を十二神将さまが護っておられました。
…御開帳があるのかしら?
そうしたらその日にもまた参拝させていただきたいです。
薬師堂むかってみぎてには百観音さまの安置された観音堂。
お参りさせていただきありがとうございました。
一番心に残ったのはやはりお寺の方々みなさんが、参拝に訪れた人々に道を譲りながら、
「ようこそお越しくださいました、ごゆっくりお参りください」
とおっしゃっておられたこと。
また参拝できますように。
お地蔵さまは菩薩ですので、本来は観音さまや弥勒菩薩さまと同じ菩薩の格好をしておられますが、
我々衆生を救いたいというお気持ちから頭を丸め衣と袈裟を着ておられるといいます。
お地蔵さまといえばば子供を守ってくれる「ほとけ様」としてよく知られますがでありますが、大人にとっても大変ありがたい存在です。
地蔵菩薩の信仰には「十益十福」がある言われているといいます。
地蔵菩薩を信仰すれば
1、女人泰産(良縁で安産になる)
2、身根具足(健康で健全な体になる)
3、除衆病疾(病気や怪我から逃れ回復する)
4、寿命長遠(健康で長生きする)
5、聡明智恵(知恵が発達し学問に優れる)
6、財宝盈溢(商売が繁盛し財に恵まれる)
7、衆人愛敬(人に好かれ仲良くなる)
8、穀米成熟(作物が実り豊かになる)
9、神明加護(神仏の護りがあり家内安全でいられる)
10、證大菩提(大きく豊かな心が日々の幸福を招く)
という「十種の福徳」の功徳があるということ。
仏教徒でもない私には正直、信仰する、という根本的なことすらが理解できていない、そういった自覚があります。
心が八方塞がりで苦しく過ごしていても、その心をすら救ってくださるというその信仰というもの自体がよく理解できず、その縁がいただけないということはきっとその資格がないのだろうと思ったりもします。
それでもお地蔵さまのお優しいお顔に癒されます。
そしてそんな時間を持てるということはお地蔵さまのお力の強さなのでありましょう。
今は、そのお力に気づかせていただいたことに感謝し心に描くお地蔵さまに手を合わせます。
十もの福徳は希望いたしません。
仏教で密教と呼ばれる教えのなかに御真言というものがあります。
私は檀那寺をもたないので、ごくごく一部の、上っ面な知識しか無い者でありますので、ここでお経についても御真言についても詳しく書くつもりはないのでありますが…。
お地蔵さまなどの御真言はWikipediaにも挙げられるくらいなので、もし中途半端にここに綴ったものがお気になりましたなら、どうかWikipediaをご覧いただければと思います。
そのお地蔵さまの御真言の一部に
『カカカ』
とお唱えするところがあります。
それははお地蔵さまの種子、梵字のha(ハ)であるといいます。
それを、明るい笑い声、だとおっしゃったお坊さまがおられました。
そのときは私のような仏教徒でない者に親しみを持たせようとおっしゃった言葉遊び的なものであろうと思っていたのですが、実はそれは本当なのだと別のお坊さまに教えていただきました。
お地蔵さまのこの〝かかか〟が明るい笑い声であるとするのは、お地蔵さまの希有なる忍耐力を表わしているのだといいます。
踏まれても耐え、笑顔で救おうとする対象を支えることのできる大地のようなお徳だと。
地の蔵
それがお地蔵さまであります。
虚空蔵菩薩さまは
虚空に蔵を持つ菩薩さまだといいます。
そこからお智慧をお授けくださるという…。
前回、御真言について密教でお唱えされるものと書いた。
これについては宗派もあり、さらには僧一人一人の考え方でだいぶ扱いが異なるようで。
御真言は師から弟子へと授けられて初めてお唱えできるものであるとすることもあり。
あるいは僧から教えていただいたり、
御真言の書いてあるものが壁などに貼ってあったりするものがあれば、なんの修行も積んでいない、
なんなら私のように仏教徒でもない者がお唱えしても良いという、ありがたい説もある。
私は根っからのビビりなので、長い歴史ある宗教の、御真言とされる言葉に込められたものを簡単にここに書くことができないくらい、この御真言というものの持つちからを、パワーを信じているところがある。
もちろんむやみやたらにお唱えもしないのだが。
宗派によってはお念仏をお唱えする。
もちろんこの文言を知らないわけではないが、お寺さんでお唱えするよう言われた時にしか唱えない。
これはその宗派の教えを檀家として授けていただいた方ならばいざ知らず、私はそうではない。
そもそも極楽浄土へそうは簡単に行かせてもらえるような人物ではない。
そう世の中は甘くはないということだけは理解しているのだ。
…あれ?
極楽浄土はあの世のことか。
うーむ。
と、とにかく、このお念仏をお唱えする宗派は浄土宗・浄土真宗、あるいはここから派生した宗派である。
私はこのお念仏をお唱えする宗派の法事・法要に参列したこともなく、いわんや法話をお聞きしたこともない(…と記憶している)
だからその真意もわからない。
どうして勝手に〝お念仏〟をお唱えできようか
そもそもお念仏をお唱えするだけで極楽浄土へ行くって…どうよ。
(続き)
そんな法然、親鸞の教えは浄土教といわれる。
人は、阿弥陀仏の、生きとし生けるもの(衆生)を救うという願い(本願)により救われるというものである。
具体的には、来世に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれ(往生)、悟りを開くというものである。
拠り所となるお経は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経」で、『浄土三部経』といわれるが、
一般にはまずお念仏をお唱えする。
平安時代に現れた風獄の著した『往生要集』によって、浄土教の信仰
は盛んになり始める。
そこには厭い離れる穢土(汚れたこの世)と、よろこんで求める浄土が説かれている。
しかしながら
『往生要集』により、地獄の恐ろしさが強調され、浄土を求める心が起こったとしても、
そこに生まれるには阿弥陀仏やその浄土を観想するという難しい行法が必要とされたため、多くの人々にとっては阿弥陀仏の救いは、まだ手の届かないものであった。
日本は平安末期から鎌倉時代にかけ、時代はまさに地獄のような様相となる。
仏教ではお釈迦さまの在世から離れるにしたがい、正法、像法、未法と
仏法が衰退していくとが他ならぬお釈迦さま本人が言い残している。
正法とは教説(教)とその実践(行)とその結果(証)の三つが備わる時代で、釈尊の教えが広く行われている時代である。
像法とは教と行だけが備わる時代で、釈尊の教えに像たものが行われる時代である。
未法は行も証も失われ、ただ教のみのこる時代で、仏法の衰退した時代である。その内容はしばしば五濁悪世と表現される。
五濁とは
劫濁(時代、社会の汚れ)、
見濁(誤った見方、思想の汚れ)、煩悩濁(頻悩が盛んになること)、衆生濁(衆生の心身の資質がおちること)、
命濁(寿命が短くなること)、
であるという。
まさに未法到来を示すかのようにな地獄のような凄まじい時代であったといい、それはその後も歴史の中で繰り返し繰り返されることとなる。
お釈迦さまが亡くなり、弥勒菩薩が世に現れるまでの長い長い間が末法の世である。
その間実に五十六億七千万年。
その間衆生を救うべく世に遣わされておられるのがお地蔵さま、地蔵菩薩である。
(続き)
法然の生まれ生きた時代、人々は現世の地獄を生きていた。
そして法然もまたその一人であった。
法然が九歳の時、父親は日頃から対立関係にあった者の夜襲を受け非業の死をとげている。
法然は目の前で父親が殺されるという地獄を見たのである。
臨終に際し、父は法然に、
「もしもお前が恨みを抱き、仇を討ったら、その子供もまたお前に恨みを抱き、仇を討つだろう。
だから恨みを捨て、出家し私の菩提をとむらい、悟りを求めなさい」
といったという。
これが法然の出発点である。
法然は十三歳で比叡山に登り、学び、修行に励んだ。
そして修行をしつつ考えたのであった。
『仏像や塔を造ることを本願とするなら、貧窮困乏の者は往生する望みを全く絶たれる。しかも現実には、富貴の者は少なく、貧賤の者が非常に多い。
もし智慧や才能のすぐれていることを本願とするなら、愚かな、智慧のない者は往生の望みを全く絶たれることになる。しかも現実には、智慧ある者は少なく、痴愚の者が非常に多い。もしよく見聞し、学問をすることを本願とするなら、見聞できず学問のない者は往生の望みを全く絶たれる。
しかも現実に多聞の者は少なく、少聞の者が非常に多い。も戒律を守ることを本願とするなら、破戒無戒の人は往生の望みを全く絶たれる。しかも現実には持戒の者は少なく、破戒の者は非常に多い』
法然の生きた時代は、貧しい人、智慧のない人、学問のない人、破戒の人がほとんどであった。
富んでいる人、智慧ある人、学問のある人、戒律を守る人だけが救われるとしたら、ほとんどの人は救われないということになる。
法然は考えた。
仏の慈悲とはすべての人が救われるはずなのに、これはおかしいと。
ここから法然の長い求道が始まるのである。
(続き)
法然は十八歳で比叡山を下り、
その何年か後、唐の善導(中国浄土教の大成者)の影響のあった永観、珍海の浄土教にふれる。
善導の「観経疏」の
『一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるを、是れ正定業と名づく、彼の仏の本願に順ずるが故に」
(一心にもっぱら阿弥陀仏の名号を称え、行住坐臥に、時間の長い短いを問わず、常に忘れない。これを正しい行法という。これはこの阿弥陀仏の願にかなっているからである)
という一文に遭遇して、
『口に南無阿弥陀仏と称えれば必ず極楽浄土に往生できるのだ』
という確信に至る。
この教えは専ら念仏を修するところから、修念仏の教えと称される。
法然四十三歳の時のこと、浄土宗の開宗の年ともされている。
口に南無阿弥陀仏を称えれば誰もが往生できるという法然の説いた教えは当時、破竹の勢いで人々の中に広がっていった。
救われたいと願う人々が、ひたすら南無阿弥陀仏と称えていたともいわれ、しかも、その数は、推測の域をでないが、当時の人々の半数以上であったように考えられているという。
それほど、念仏は生き生きとして、人々の心をとらえたのである。
方丈記の時代である。
羅生門の時代であった。
人々の救いを求める思いは藁をもすがったであろう。
そこにしか光を見出せない。
見出せなくとももはやそこにしか光がない時代であったのだ。
南無阿弥陀仏という念仏に秘められた過去を紐解き、
地獄のような現実を生きる人々は、極楽往生も夢見たろうが、少なくともいまよりはマシな未来を、来世を望んだであろうし、
その人々をなんとか救いたいと一心に経を読み、学んだ一人の僧をそこに見たのであった。
浄土宗。
なるほど法然上人の詠む歌はだからこんなにも優しく心に染み入るものであったのか。
こうした学びを経ても、私がこの南無阿弥陀仏をお唱えしたところで極楽に行けるなどという甘い考えには至らない。
けれど人々を救わんとした一人の僧を心からありがたいと思い、それに救われた多くの人々の心をも心から良かったと思うのであった。
学ぶということはいくつになっても大切だということもまた学んだ今回であった。
ありがたいことである。
なん年前だったでしょう、『トイレの神様』という歌が大ヒットしました
…あまりその内容はよくは覚えていないのですが 笑。
私の場合、おなかに子どもがいるとき、母親に
「トイレ掃除をするとキレイな子が産まれるんだよ」
と言われました
…母は掃除が苦手、特にトイレ掃除が嫌いな人でありました。
…なるほど…。
顔も、だけれど、心根のきれいな子になるよう祈りを込めて〝実家の〟トイレを掃除いたしました。
トイレの神様ならぬ、仏さまがおられます。
この仏さまがクローズアップされ有名になったのは、やはりあの歌のおかげなのかもしれない。
このお方のお姿を写した仏像を見ると、トイレを汚したままにすると何やら叱られてしまいそうな気がする。
その御仏は烏枢沙摩明王(うすさ(し)まみょうおう)さま。
明王さまと呼ばれる御仏はとても恐いお顔をされておられます。
たとえば不動明王さま。
お不動さま、と呼ばれ親しまれています。
恐いお顔をされておられますが、悪いものは許さないという強い御意志の表れであって、その実とても優しく寄り添ってくださるお方でございます。
烏枢沙摩明王さまもそのお姿は恐いです。
ですが、不浄なものをきれいにしてくださる仏さまであられます。
それを誓願とされた御仏でございます。
私は神社仏閣とはほど遠く、神仏を崇めることなく生きてきた期間の長い人間ですので、烏枢沙摩明王さまの存在を知ったのも早くはありません。
なので烏枢沙摩明王さまに叱られるからきれいにしよう、しておこうといった感覚を持つ以前から、仕事に向かう前、どんなに忙しくとも必ず欠かさなかったのがトイレ掃除でありました。
この狭い空間くらいなら、短時間でも掃除できる、そういった思いもありました。
もう長いことこれが私のルーティンとなっています。
(続きます)
(トイレをお護りくださる御仏のお話の続き)
そうした毎日を送っていると、自然、外出先でお手洗いをお借りしても、きれいにお掃除されていると感謝の思いでいっぱいになります。
汚すのは掃除をしている本人ではありません。
どこの誰とも知らない人間です。
それをピカピカに磨き上げ、埃もないようにしておられるトイレ。
それだけではなく、使用される方の目を、心を少しでも楽しませるよう、季節の花を置いてくださったり、飾りを置いてくださるトイレまであります。
これに感謝せずして、何に感謝する?
私のかつての勤務先では清掃の方が入っておられました。
その方のお掃除もまたとても丁寧で、道端の花を手折ってきては、とてもセンスのある生け方をしてくださっていました。
そんなことは会社のマニュアルになどもちろんありません。
その方の御心からのもの。
職種も、なんなら勤める事業所も異なりましたが、時々ご一緒にお食事をさせていただくくらい親しくしていただきました。
そう生きてこられたから、トイレ掃除一つにしても生き方があらわれるのだなぁと、思います。
ただ、…この烏枢沙摩明王さまは、ご自身のご誓願である、汚れたところをきれいにするということを心がける、あるいはご職業、ボランティアでなさる方に自然寄り添ってくださるといいます。
ありがたいことです。
今はもう連絡もとっておりませぬ彼女が健康で幸せに暮らしておられますように、烏枢沙摩明王さまに祈ります。
【烏枢沙摩明王】さま
烏枢沙摩明王さまは、
インドの火の神【アグニ】が元になっているとされ、
不浄を燃やし清浄にするため【火頭金剛(かずこんごう)】さまとも称されるといいます。
【不動明王】さまを中心とした【五大明王】と称せられる明王さま方がおられます。
その北方には金剛夜叉明王さまが配されますが、
天台宗では烏枢沙摩明王を配することがあるようです。
金剛夜叉明王さまと烏枢沙摩明王さまは、誓願に共通点があり、同一視されたのではという説もあります。
烏枢沙摩明王さまは古くから、不浄な場所を清浄にする力が強いので、トイレなどに祀られること多い明王さまです。
初めてそのお姿をトイレで拝見した時、
(なんとバチ当たりな!)と畏れおののいたものであります。
不浄除け以外の御利益としては、
子宝安産、
病魔除けや魔除けなど、
祟りを鎮める霊験があると伝わります。
また、枯れかけた樹木や野山に花を咲かせたり、枯れ井戸や泉に水を戻したりなど、生命や水にまつわるご利益があるようです。
憑き物除けのお力も強いと伝えられます。
怨みや妬み、怨念などの不浄な心や魂をも清浄に変えてしまうとされ、人間関係の悩みも消し去ってくださるそうです。
うーん。
烏枢沙摩明王さまにおかれましては、トイレに御鎮座いただくよりも人の世での大きな悩みであります、人間関係のこと、
そして人の心の中にある恨みや妬み、邪念などをお収めいただきたいと切に切に思うのですが…。
そういったことを願うこと自体が穢れた心、ということでありましょうか。
…ですよね。
【吉見百穴】という史跡をご存知でしょうか?
埼玉県吉見町というところにある、『古墳時代の横穴墓群』であります。
こちらは国の史跡に指定されておりますが、…群馬という地は埼玉県とはお隣という位置関係、情報が入りやすい土地柄でありますので、それゆえまったく興味のないような私でも知っているものとはなりますが、なにぶんにも日本は広い。
世界的にみれば狭い島国となりましょうが、いくら情報の豊かな時代を迎えたといっても、人間、興味のないもの、ましてや遠くに存在する遺跡などはあまり知らないもの、…えっ?そんなことはない?
私などはその名を子供の時分から存じてはいるものの、どんなに古くとも〝お墓〟というだけで行きたいとは思えないビビりですし。
実際何度か吉見百穴が見えるところまで行きながら、行っていないという…。
じゃあ何故?
何故ここで吉見百穴の話を?
…当然そう思われますよね。
まあ、長くこちらをお飲みくださりおつきあいくださっている方は、
(ああ、またか)と、お笑いになっておられるやもしれませんが。
実は今年、その吉見百穴のすぐそばに【岩室観音堂】と呼ばれるお堂があると夫が連れて行ってくれたのです。
吉見百穴から南へ150メートルに位置し、町中心部に通じる幹線道路の近くにありました。
…ええ、わずか150メートルほどですから、当然吉見百穴はそこから見えておりました。
おりはしましたが、またまた今回も遠巻きに見ておしまい。
百穴、といいながら実は二百以上の墓穴が存在するというだけあって、遠くからでも草も生えない砂岩の岩山にぼこぼこと穴の開いた様子は見えるもの。
お墓だから怖いというビビりおばさんでなくとも、一見ちょっと異様な光景に見える、…はず。
…本当はね、どうせこの世に生まれたからには
『なんにでも好奇心をもってとりあえず見る』方が良いのはわかるんです。
ですが、短い人生だから、『見たいものを見る』、でも良いじゃない?
そんな吉見百穴のすぐそばの【岩室観音堂】は、私の好きな懸造りの建物でありました。
(岩室観音堂 続き)
こちらの縁起は、嗟峨天皇の御宇・弘法大師が諸国を遊歴しこの地に至り、岩窟を選び三味に入り、観世音の尊像を彫刻し岩により殿をかまえ【岩室山】と号したのがはじまりといわれています。
その開山は弘仁年間といわれますが、たしかな記録は残っていません。
この岩室観音堂はかつてあった松山城にほど近く、松山城主が代々信仰し護持しておりましたが、
天正十八年松山城の攻防戦の際に兵火にあって当時の堂宇はことごとく焼失してしまいます。
しかしながら党宇は残らず消失したにもかかわらず、聖観音さまの尊像だけは不思議にも岩窟内に無事おわしたといいます。
現在のお堂は、江戸時代の寛文年間に龍性院第三世堯音が近郷近在の信者の助力を得て再建したもので、
お堂の懸造りは江戸時代ののとしては、めずらしいものだといいます。
また、こちらには四国八十八ヶ所弘法大師巡錫の霊地に建てられた寺々の本尊を模した石仏が八十八体祀られています。
今も龍性院さんの境外仏堂であります。
(続きます)
(続き)
近づいて行くにつれ、岩室観音堂は他の懸造りのお堂とはだいぶ異なるものであることに気づきました。
今までに私がお参りさせていただいた懸造りのお堂は、上にそびえるお堂のそり出した部分の下側を見ながら、脇に設けられた坂なり、きざはしを登って上がっていき、お堂の前に向かうものてありました。
しかしながら、この岩室観音堂さんは懸造りの建物の真下に入り口が設けられ、さらには簡素ではありますが囲いがあり、それは四方を囲むものではありませんが形として一階部分になっておりました。
さらに変わっていたのは、一階部分とはいえ、剥き出しの岩場、さらには自然が作り出した洞があって、一階部分の真正面は明らかに山の麓といった景色が広がっていたのです。
むしろ異質にさえ見える、二階へのきざはしでありました。
ちょっと怖い…それが正直な私の気持ちでありました。
お堂の建つ場所にあって、地面には水たまりがあり、岩肌にはイワカガミが生い茂り、
この建物が何故江戸時代から残って建っていられるのかが不思議でなりません。
そしてこの懸造りの建物の一階部分に入り込んだ左右に洞があって、そこには数多くの石仏さまがお祀りされておられるのです。
いつもなら石仏さまを拝見させていただくと心ときめくような私が、その洞に足を踏み入れることすらためらうような…。
本来、ここは四国八十八霊場にあたるお寺さんのそれぞれのご本尊さまのお姿を写しとった石仏さまがお祀りされておられるので、この洞に入ってお参りすることこそが正しいお参りであるのにも関わらず、です。
実はこちらの地域、どういった信仰なのか、その石仏さまにお札を貼り付け供養する習慣があるようなのですが…。
石仏さまの胸元に貼られたおびただしい供養のためのお札が、その光景を見慣れていない私にはどうにも怖く感じさせるものであったのでありました。
お札をよく拝見すれば、その意図は理解できるもの。
ですが、その光景に尻込みした私はなかなか近づくことができなかったのです。
…ビビり、ですから、ね 笑。
(続きます)
今日の深夜一時頃、細い月が明るい木星を伴つ て東の空に昇ってきます。
今日は旧暦七月二十六日。
今夜の月は二十六夜月と呼ばれ三日月を反転させた美しい姿をしています。
かつて『二十六夜待ち』といって、お酒を酌み 交わしながらこの月の出を待つ風習があったといいます。
旧暦の一月と七月、年に二回行われていたのだそうです。
年に二度、夜空を見上げながら月の出を待つ日、…なんとも風情があって素敵な気がします。
夫は飲むのは好きだけれど、月の出の頃まで起きてはいられない人。
私はといえば万が一に備えてお酒を飲まない。
今宵は一人、窓から月を愛でるとしますか。
読みかけの本でも読みながら。
(岩室観音堂 続き)
観音堂の一階部分の左右に洞があって、それぞれの洞に四国八十八霊場それぞれのご本尊さまの石仏さまが祀られているということですが、左側の洞を覗いてみると、
その石仏さまの胸元に、縦長の紙が貼られているのが見えます。
それも何枚も重ねて貼られて。
こちらに来る前に参拝させていただいた吉見観音さんでも石仏さまの胸元にお札が貼られてはいたのですが、こちらはその比ではないほど重ねられ貼られているのです。
石仏さまの数の多さもあって、この初めて見る風習に私は正直ビビっておりました。
で、その洞に立ち入ることができない。
この石仏さま大好きおばさんが。
ただ、この観音堂、順路が設けられていて、まずは二階にあがるよう矢印で指示されています。
ま、まずは二階へ。
この階段、背の高い方には少し登りづらい。
とはいえ江戸時代に造られたお堂ですので、当時の日本人の身長からすれば少し頭を下げるくらいで登れる造りでありましょう。
夫は百八十センチほど身長がありますので、なにやらブツブツ申しておりましたが、私は当時の日本人男性の身長くらい、トントントンと登ってまいりました。
階段はくるっとまわって二階部分へ。
奉納された大きな絵が飾られているのが目に入りました。
そしてその反対側、お堂の正面からいうと左側に御内陣様の場が設けられ、そこは木の柵で覆われており、その奥におられるであろう観音さまのお姿は垂れ幕の影で見えないのか、それともその垂れ幕に隠れた御厨子でもあるのか、まったく拝することはできません。
古い境外堂ということもあり、あまり手をかけることがないのか少し荒れているようにもみえます。
ちなみにこの日、観音さまの御縁日ということで、毎月法要を営むこととなっているよう書かれておりましたが、そうした様子は感じられませんでしたし、ひと月に一度でも手入れをし、法要をしているお堂には、正直見えませんでした。
あのお札を見ても、こちらを信心されておられる方は多いようなので、年に一度とかでも法要が営まれているといいのだけれど…。
(続きます)
飛び飛びになってごめんなさい。
本日二十二日は【如意輪観音】さまの御縁日です。
新月も重なりますので、より願いが届きやすいともいわれます。
如意輪観音さまは、
『意の如く願いを叶える【如意宝珠(にょいほうじゅ)】と、
煩悩や災いを滅し、仏法が広がる【法輪(ほうりん)】の御力が強い仏さま。
六道の衆生を救済するため、六本の腕がある観音さまです。
六道にあてられた六観音では、天道(天界)を司る観音さまにあたられます。
天道を司る如意輪観音さまは、古くは
月待ちの女人講・十九夜念仏講の御本尊で、そのことから女性を守る観音さま、女性の願いをよく聞いてくださる観音さまとされています。
ただご本尊さまとしてお祀りされておられることはほとんどなく、どちらかというと月待ちの女人講、念仏講の石仏さまとしてお祀りされていることがほとんどです。
その信仰を裏付けるかのように、もしかしたらお地蔵さまに次いで石仏さまとして彫られ祀られておられるかもしれません。
右の手の一本を頬に当てるかかの仕草と、輪王座という胡座に立て膝のような独特な座り方と、右側に顔を傾けた物憂げなその表情は、なんともアンニュイなお姿であり、一度覚えたら二度と忘れない観音さまでありましょう。
とはいえ。
新暦のため、月待の御縁日が新月となっていると、なんだか不思議に思えてしまうのですが、新月はより願いが届きやすいといわれているという説を信じますか。
いろいろと生きづらい世でありますが、
すべての人が自分なりに心穏やかに過ごせますよう、
心身のどこかを病む方のお痛みが少しでも早く癒えますように、
祈ります。
(岩室観音堂 続き)
こちらのお堂の二階にある御内陣のひだりてに小さな折り紙が置かれていました。
なんだろう…。
読むとその一枚一枚に般若心経の一文字が書かれていて、その折り紙で折り鶴を折ると書かれています。
願いを込めて。
昨年秋に広島で泊まったホテルで折り紙が置かれていたことを思い出しました。
広島での折り鶴に込める願いは祈りでもあり、その願いはひとつ、あるいはふたつ。
戦争のない世、原爆の無い世界をと強く願い、
亡くなられた方の冥福を祈ること。
ここでも同じ思いで折れば良いのだろうけれど、ここではいろいろな方のいろいろな願いに紛れてしまいそうで。
折り紙を手にすることなく、お姿の見えない観音さまに手を合わせて、…下へと向かう階段を降りました。
そういえば、あの広島の地で平和を願い、冥福を祈る千羽鶴が燃やされた事件がありました。
人の心を失ってはいけない。
でもそうした、人の心を持つ人間の所業とは思えない、思いたくもない事件はここ数年多発しております。
人の心を失った人間には、神仏など怖くはありません。
神仏を信じる心など持ち合わせてはおりません。
人の心を持つことはない、動物にすら劣る行為、劣る心根。
それも恥ではないので、何もこたえない。
人という文字は支え合う姿から、というのはまったくの後付けなようですが、
支え合って生きるということは大きな大きな力となる。
そういった歴史も振り返ってみるといいと、
戦で落城した城跡のふもとに建つ観音堂で思うのもまたおかしななこと、なのかしら。
…話が逸れ過ぎましたね。
(続き)
階段を降りると正面を入っての右側に出ます。
少し高いところにお祀りされた石仏、左側と同じような…趣きはかなり違うけれど…洞があって、その入り口からお顔を失った石仏さまが一体おられるのが見えます。
でもまずはそこではなく奥に広がる急な斜面を見上げます。
そこは自然のおりなしたものをかつて人的に手を加え、城への侵入をふせぎ、かつ登り口の一つであったろう路。
ひとしきりそこを見上げ(登る人もいるようだが、かなり難易度は高い)
やはり自然がおりなした岩くぐりを見上げる。
鉄製の鎖を使って登るものです。
一瞬躊躇ったのは前日の雨でかなりぬかるんでいること、岩場も湿っていかにも滑ること。
でも〝ハート型〟と言われると登りたくなるのが一欠片だけは残っていたらしい乙女心。
えっちらおっちら、よっこいしょ。
……ハ、ハート?
ま、見様によっては?
客寄せだなぁ。
『願い事をしながらくぐると願いが叶います』
え。
あのぉ〜…。
「滑らないように、滑らないように」と心で唱え続けていた私です。
速攻で願いは叶いましたぞ。
……。
さすが四国八十八ヶ所霊場のご本尊さまが勢揃いなさっているだけあります。
…もっと違うことを願いたかったなぁ。
気を取り直して。
右側の洞へと入ります。
(続きます)
↓ハート型に見えますか?
(続き)
右側の洞は若干斜め、そして天井も低い。
そこへ四十体ほどの石仏さまが安置されておりますので、なかなかお詣りしづらいです。
しかしながらこちらの洞は横に長いので、足を踏み入れないことには奥におられる石仏さまの尊顔を拝することができないのです。
ここでようやく石仏さまに貼られたお札を読むこととなるのですが、
【奉拝 百地蔵尊二世安樂之為也】
とあります。
いやいや、こちらには四国八十八ヶ所霊場の〝それぞれの〟ご本尊さまのお姿を写した石仏さまが祀られている…。
それはたとえばお不動さまであったり、十一面観音さまだったり、お釈迦さまであったり。
阿弥陀さまであったり、千手観音さまであったり、お薬師さまであったりと、実にさまざまな御仏の尊像となります。
百地蔵と書かれたお札であるならば、せめてお地蔵さまに貼り付けないといけないのでは?
いつから、であったろう。
私が厄除けであるとか、方位除けであるとかを知ったのは。
さらにはそれが気になるようになったのは。
私の育った家は、厄除けであるとか方位除けであるとかを全く気にしない家であった。
さもあらん、のちに知ったことだが、私の両親は教会で、ウエディングドレスを着て結婚式を挙げていたのであった。
だからといって日曜日に教会に行きミサに参列するような事も一切なかった。
私が物心がついた頃にはもはやその信仰心は失っていたのか、
とにかく、家には仏壇も神棚もないが、かといってクロスや聖書があったわけでもないのだった。
そんな家庭でもあったこともあり、お寺さんに行くのはもっぱら父方の祖母と。
それも、お盆であるとかお彼岸であるとか、まあ大抵の日本人がお寺さんに行くようなタイミングでのみであった。
神社に至っては、年に一度の県内外から人が集まるような大きなお祭りの時と、七五三のときだけ。
あとはもっぱら友人との遊び場でしかなかった。
今思うと冷や汗モノ。
さすがに厄除けという言葉くらいは聞いたことはあったが、この世に御祈祷であるとか、御祈願であるとかがあることすら知らずに、結構な歳になったのが私である。
今年、結構私の子どもたちは前厄であったり、方位除けの年にあたっておりました。
なんなら孫に至るまで。
でも今までずうっと、そんなことを気にしたこともなく、お祓いも受けたことなどない私。
まあ、方位除けや厄除けの御守りをお授けいただいて、各々に渡せば良いであろう。
毎年初詣に伺う神社さんには割札のようになっている絵馬のようなお札があり、片方を神社の絵馬掛けに掛け、片方を自宅にお祀りするといったお札?絵馬?をお授けいただき、御守りと一緒に渡したのでありました。
そんな令和七年も十月をむかえました。
…いやぁ、方位除けの人たち、実にいろいろありました。
怖っ。
なんでだよぉ〜。
凄い的中率。
私、たいそうビビって、早々に来年の厄年、方位除けの年廻りをチェックしました。
…またいるよ。
厄年が二人、
方位除けが一人。
ひえぇ〜っ。
私の寝る部屋の窓から、今の時期、今の時刻は月がよく見える。
今宵の月はなんと優しい月だろう。
上弦の月から少しふくらんだ、
やわらかな優しい黄色い月だ。
こんなお菓子があったよな。
来週には十五夜を迎える、…ん?だとしたら今日は十日ん夜かしら。
昔の人は月をよく愛で、そしてそこに信仰を結びつけ、ご近所さんと講をもったようだ。
今そんなお付き合いはどうなのだろう。
人付き合いのよい人、
人付き合いの盛んな地域では月と結びつけることはなくとも、夜集まっては話したり、お酒を酌み交わし、持ち寄った食べ物を食べたりしているのかもしれない。
私は人付き合いは苦手だし、それほどのお付き合いをさせていただいている方もいない。
それでも月の光はすべての人の上に平等に注ぐ。
寂しい人の心にも。
嬉しい思いを抱いた人の心にも。
…つらい思いを抱えて、月を見上げることすら出来ない人の上にも。
今日は達磨大師の亡くなられた日、逹磨忌とされます。
達磨さまは南天竺において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶であります。
幼名は菩提多羅といいました。
若い頃に父である国王が亡くなり、菩提多羅王子は国政を二人の兄に頼み、お釈迦さまから二十七代目にあたる般若多羅尊者のもとに出家し、『菩提達磨』の僧名を頂きました。
師に就いて四十年修行、般若多羅尊者から釈尊正伝の第二十八代目を継承しました。
しかし師より「六十七年間はインドを布教し、その後に中国に正法(しょうぼう)を伝えなさい」と遺言され、それに従って老年になってから、海路を三年かかって中国・広州へと渡ります。
梁(りょう)の武帝と問答し、縁かなわず揚子江を渡って洛陽の都のはずれ、嵩山(すうざん)少林寺の裏山の洞窟に住み、『面壁九年』壁に向かって九年間の坐禅をされました。
その結果、その手足は壊死し失われてしまいます。
そんな達磨のもとに求道者・神光(しんこう)が現れ、その熱意に感じ中国で初めて弟子をとり、慧可(えか)と名付けました。
達磨さまはこの慧可にすべてを伝え、中国に禅宗の基礎を築かれます。
しかしながらその教えを理解できない者たちによって毒殺され、熊耳山(ぎゅうじざん)定林寺(じょうりんじ)に葬られました。
それが今日、十月五日と伝わります。
達磨大師を知らないとおっしゃる方も、あの赤い張子のダルマさんはご存知でしょう。
群馬県の高崎市には【少林山達磨寺】というお寺があります。
このお寺さんこそが一説によるとあの赤いダルマさんの発祥の地と伝えられているのであります。
全国的には何種類かのダルマがあるといいますが、高崎ダルマは眉が鶴、口元の髭が亀という縁起をかついだ画風が特徴です。
高崎市はこのダルマを誇りとし、道路沿いや駅にもダルマさんが飾られ、高崎駅ではプラスティック製のダルマさんの容器に入った『だるま弁当』という駅弁が売られています。
このだるま弁当、私の子どもの頃からのロングセラー商品。
お弁当の空き容器はコイン大の穴を開けて貯金箱になるとか言われていますが、そうした使い方をされている方を見たことはありません。
お砂遊びや雪遊びで型として使うのは時折見かけましたが、ね。
(群馬県高崎市の少林山達磨寺の続き)
室町時代、群馬県高崎市の碓氷川の南側、鼻高村の高台に
【行基菩薩】が彫られたとされる四尺ほどの厄除・子授け・縁結びにご利益のある観音さまを祀る小さな観音堂がありました。
延宝年間(1673~1681)のある年、大雨が降り碓氷川が氾濫はんらんしたことがあったといいます。
水が引けたころ、川の中に黒光りした大きなかたまりがあるのを見つけ、引き上げてみると香りのする大きな古木でありました。
村人たちは霊木としてその木を観音堂に納めたといいます。
観音さまの尊像の前に安置すると、不思議にも紫の霞がたなびいたといい、村人はみな、よいことのある前兆であると大変喜びました。
ちょうどその洪水があった頃、全国を行脚する『一了居士』という行者の夢枕に達磨大師が立たれ
「この私の像を彫りなさい、その木は鼻高にある」
とおっしゃったといいます。
延宝八(1680)年、一了居士は鼻高の地を探しあて、村人に夢枕の話をしました。
それは観音堂に納められた霊木のことであろうと村人が案内しました。
一了居士はまさにそれこそが達磨大師のお告げの木であると涙を流して喜びました。
一了居士は、沐浴斎戒(身を清めて、肉・魚・酒や臭いのきつい野菜などを絶つこと)をし、
一刀三礼(一彫りごとに五体投地の礼拝をすること)、心を込めて見事な達磨大師の坐禅像を彫りあげました。
達磨大師の像は村人たちの評判となり、この観音堂のあたりはいつともなしに“達磨出現の霊地”として【少林山】と呼ばれる用になり近隣に広まりました。
その頃の領主『酒井雅楽頭忠挙』公は厩橋城(前橋城)の裏鬼門を護る寺として、
『水戸光圀』公の帰依された中国僧・『東皐心越禅師』を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じて、元禄十(1697)年【少林山達磨寺】を開創しました。
享保十一(1726)年、水戸徳川家から三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜い、永世の祈願所とされました。
天明三(1783)年は浅間山の大噴火などの天変地異が多く起こり、かの有名な大飢饉となります。
この惨状を見かね、付近の農民救済のため九代住職東嶽和尚が、開山心越禅師の画いた【一筆達磨坐禅像】をもとに木型を彫り、張り子のだるまの作り方を豊岡村の山縣友五郎に伝授します。
これが縁起だるまの始まりといいます。
今日は旧暦の八月十五日、
【中秋の名月】です。
旧暦の暦に当てはめてのものなので、十五夜が必ず満月とは限らず、今年は明日が満月🌕にあたります。
『月々に月見る月は多けれど、月見る月はこの月の月』
うーん。
この素晴らしい読みようにただただうなるばかりでありますが、この歌、実は読み人知らずであるといいます。
お月見は平安時代に中国から伝わり、貴族たちは池の水やお酒に映した月を眺めて楽しんだそうです。
江戸時代になると庶民にも広がり、豊作を願って里芋などのいも類をお供えしたことから〝芋名月〟と呼ばれることもあるのだとか。
アメリカでもこの十月の満月は〝ハーベスト・ムーン〟と呼ばれます。
ちなみに満月のピークは七日の12時48分。
真昼の月、ですか。
はて。
離れ住む子供たちに
『月がきれいですね』
とメッセージを送るタイミングは、いつになるだろう。
今日はさらに一粒の種が万倍にも実るという【一粒万倍日】
天が赦しを与える吉日【天赦日】だといいます。
うーん、吉日♡
ちなみに仏滅ではありますが、十五夜は暦の上では必ず仏滅が当たります。
それゆえ『仏滅名月』というあまりありがたくない呼び方もあるようです。
月が明るくきれいな夜であることから【良夜】とも呼ばれる今日。
みなさんに良き日となりますように。
「月がきれいですね🌕」
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