神社仏閣珍道中・改
【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
…そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
なにせ初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間でありました。
そして未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねしております。
もう何年経ったことか…。
相も変わらず、作法もなっていないままかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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【お彼岸】
〝暑さ寒さも彼岸まで〟
とはよく言ったもので、ついこの間まで夏日、それも真夏日の騒ぎをしていたというのに、今晩などは少し肌寒いくらいです。
ただこの慣用句で言うところの『彼岸』は一般的に言う【お彼岸】のことで、〝お〟を付けないと仏教的にはむしろ混乱してしまいそうです。
日本の仏教では、【此岸(しがん)】と【彼岸(ひがん)】という概念があり、
彼岸とは向こう岸、仏さまの住まわれるお浄土の世界(悟りの世界、あの世)を指します。
この、〝暑さ寒さも…〟で指すところのいわゆるお彼岸の期間、お中日を中心に一週間を指します。
私はこのお彼岸期間というのが七日間あることについて、これだけの期間があればどこかしらでお墓参りができるであろう、というものなのかと思っておりましたが、さにあらず、たしかにお墓参りをする期間でもありますが、残りの六日。
これは
『ご先祖様への供養を行い、仏教修行をすることで自分自身を見つめ直す時期』ということのようで、そんな仏教修行の一つ【六波羅蜜(ろくはらみつ)】といわれ、これは出家していない者たちに向けに説いた、悟りに至るための修行、といわれます。
【六波羅蜜】とは
・布施(ふせ)…施しをすること
・持戒(じかい)…規律を守ること
・忍辱(にんにく)…よく正しい心をもつこと
・精進(しょうじん)…目的に向かってたゆまず努力すること
・禅定(ぜんじょう)…常に平静な心をもち続けること
・智慧(ちえ)…智慧を磨き、智慧を働かせること
とされます。
…なるほどぉ。
六波羅蜜はちょうど六個六日間あるお彼岸に努めてこの六波羅蜜の教えを実践するということ?
あらあら、これは大変です。
【絵解き】
四十九日間の旅を終えて、たどり着いた川。
三途の川と呼ばれる川です。
ここには橋が描かれていますが、この川の渡り方はその人間の生きてきた生き方によって篩い分けられています。
そう、四十九日間死出の山を歩いてきながら受けてきた裁きによるものであります。
しかしながら。
そう解く説と、死してまもなくこの川に来るという説とに分かれるものもございます。
この先閻魔大王に会うとするならば、十王の裁きを受けるという説を採ると、辻褄が合わなくなるのです。
十王の裁きを受けて閻魔大王の前に来るとするならば、閻魔大王の裁きは三十五日、であるからです。
初七日=一七日、二(ふた)七日、三七日、四七日、五七日=三十五日、三十五日目に閻魔大王にお会いすることになっているからです。
この後六七日があって、七七日=四十九日となりますので、この死出の山を越えてから、という説ですと、このあとに閻魔大王に会うことになるので、十王の裁きを受けるという説ではおかしなこととなってしまうのです。
仏教で説くところの〝初七日忌には不動明王さまにお会いして過去を懺悔する〟、というものと大きなズレが生じてしまいます。
そもそも同じ仏教であっても、宗派によっては、説かれている死後の世界が大きく異なるのです。
浄土真宗においては死と同時にお浄土に生まれ、仏さまに成らせていただくという教えでありますので、こうした死出の山を歩くこともなければ、裁きを受けるということもなく、死後まもなく御仏のお導きでお浄土で仏となるという考えでありますので、当然この地獄絵図とは無縁となります。
まぁ、その辺は宗教的なものとなり、神道におけるもの、キリスト教におけるもの、その他の宗教におけるもの、さまざまな死後が説かれておりましょう。
そういった違いであると、私のような無宗教な者は、なんでも受け入れられ、逆に受け入れたくないものは避けて通れるというお気楽な考えでいられる存在でございます。
と、まぁ、今回そこについて触れだすとこんがらがります。
実際、この地獄絵図と呼ばれる絵をお持ちのお寺さんにおかれましても、きっと描いた作者とのズレのあるお寺さんもありましょう。
この図は、十王の裁きを受けるでなく、死出の山を越えて三途の川にたどり着いた、といったものが描かれているものでございます。
【絵解き】
さて。この絵の中央に描かれているのが、地獄といえば、というくらいの閻魔大王さま。
これこそがお坊さんにとってなかなか難しい扱いとなる存在で。
この絵解きをしてくださったお坊さんも何度も口を濁すかのように語っておられました。
日本の仏教においては、人が亡くなられたのちの考えがいくつも枝分かれしておりまして、四十九日という考え方すらしない宗派もあるくらいです。
また同じ四十九日、十王の裁きを受けるパターンと、御仏のお導きを受けるパターンとに大きくは分かれます。
四十九日を仏教に基づいて語るならば、十王さまのお裁きではなく、七日ごとにそれぞれの日に定められている仏さまにお会いすることとなっています。
ゆえに、三途の川も存在しなければ、奪衣婆もおらず、この閻魔大王さますらも存在していないのです。
…困るでしょう?
なにせその存在しない閻魔大王さまが大々的に中央に描かれているのですから。
ちなみに。
初七日では不動明王さま。
二七日では釈迦如来さま。
三七日で文殊菩薩さま、
四七日では普賢菩薩さま。
五七日でお会いするのはお地蔵さま。
…ちなみに十王さまの裁きを受けるパターンですと、まさにここでお会いするのが閻魔大王さま、とされているのです。
六七日は弥勒菩薩さま。
七七日には薬師如来さまとお会いするとされています。
もちろん仏さまとお会いしている間もお裁きを受けていることは代わりはありません。
故人はそれぞれの御仏の前で生前(前世)の行いを懺悔し、御仏によっては智慧や、この死後の修行で得た悟りや徳を授けていただきながら死出の山を登って行くのです。
お坊さんは葬儀の席においてはこの故人の四十九日間の修行についての説法をされます。
もちろん、宗派によっては死後まもなく御仏が迎えに来られると説かれます。
この場合は迎えに来られる御仏の数が異なると聞きます。
それは上品(じょうぼん)の上生〜下品(げぼん)の下生の九通りがあり、楽器を奏でながらたくさんの御仏が迎えに来てくださったり、たった一人の仏さまが蓮座(亡くなられた方が乗る台)だけを持ってこられるという、生前の行いによって迎え方のランクがあるのだといいます。
【絵解き】
この閻魔さまの前にうっすらと描かれているものに、お坊さんのお話無くしては気づくことはできませんでした。
こう拡大すると微かに見えますでしょうか。
人が真っ逆さまに落ちていくさまが描かれています。
地獄絵図ではたった一枚の平面に地獄の様子を盛り込んで書くので、実際にはこのように閻魔さまが裁きをされている真ん前を落ちているわけではないのだと思います。
ひたすらひたすらただひたすらに落ちて落ちているのです。
しかもただただ真っ暗な空間なのだと伝えられているといいます。
落ちて、落ちて、落ちて。
底に着くまで実に二千年、真っ暗闇の中を落ち続けるのだといいます。
二千年ひたすら落ち続けることが罰なわけではありません。
二千年落ち続け、ようやく到達した地点で、ようやっと罰を受けることができるのだということなのです。
他にも地獄の責め苦の様子が描かれています。
舌を抜かれているさまを描かれているのは見えます。
針の山を登って行く様は見てとれましたでしょうか。
そう。
地獄は大きく分けて二つとなります。
それがそれぞれに分かれているのだといいます。
ここ。
ここ地獄は『八大地獄』なのだといいます。
そしてその八大地獄に対して、『八寒地獄】となるのだといいます。
そしてそれがまた八つの地獄にわかれます。
等活地獄
黒縄地獄
衆合地獄
叫喚地獄
大叫喚地獄
焦熱地獄
大焦熱地獄
阿鼻地獄
となるのだといいます。
上から罪の軽い順になるといいます。
この一つ一つに、十六の小地獄があるといいます。
書いているだけで気が遠くなりそうです
【絵解き】
お坊さんがまず語ったこのひたすら暗闇を落ちていく地獄は一番重い阿鼻地獄にあるようです。
阿鼻地獄にある、というよりは阿鼻地獄へ落ちる亡者というのが正しいのでしょう。
しかもこのひたすら落ちていく期間はもっともっと長く語られることもあるようです。
別名無間(むげん)地獄。
休む間もなく苦しみ続ける地獄であり、『阿鼻叫喚』の言葉の語源の阿鼻地獄となります。
阿鼻というのもまた『間がない』という意味といいます。
途切れることのない責苦を受け続けること432000000年といわれます。
またその責苦は他の地獄での責苦を全て足してさらにパワーアップしたものだというのです。
さすがに時間の関係で、ここはさらりと流しておしまいとされていました。
ネットで調べるとどんな人が落ちていく地獄であるか、どんな責苦を受けるのかは書いてあります。
私も見るには見たのですが…気が重くなるので割愛します。
小さくて見づらいですが、刀剣の刃が無数にあります。
刀剣の刃の山があるのは衆合地獄、上から三番目に重い地獄のようです。
刀剣の刃の山の上では女の人が誘っているといい、スケベな男はこれを追って刀剣の刃の山を登ってしまうのだと、お坊さんは語っておられました。
血だらけに描かれています。
途中で転落している姿もあります。
ようやく女の人のもとに到達しようかというところで女の人の姿は消え、いつの間におりたのか、今度は下で誘うのだと。
その繰り返しだとおっしゃいます。
そういう男性の堕ちる場所だと。
…私がここでそおっと夫の顔を覗いて見たのはいうまでもありません。
普通な顔で聴いていました。
そこには自分は堕ちないと思う顔でありました。
…ま、そうかもしれないな。
下の方には女の人ばかりが描かれています。
地獄はなんでも136もの種類があるといわれますが、女性専用の地獄があるようで。
一応は女性である私を前にして語りづらかったのか、あまり詳しくは語らなかったお坊さん。
描かれているのは灯芯で竹の根を掘る地獄と、その下に描かれているのはネグレクトをはたらいた母が落ちる地獄だと解説されました。
灯芯で、って…。
あの時代劇で見かけるお皿に油を入れてそこに糸をひたして灯とする、あの糸のことですか?
…どれだけ不毛な。
【絵解き】
…この地獄絵にはもっともっと地獄のようすは描かれており、お坊さんもその地獄での様子を一つ一つこんな罪を犯してこういった責苦を受けているのだといった説明をしてくださいました。
しかしいざ実際こうしてレスするために文章にしたり、果ては不確かとなった記憶をたしかめるべくネットで調べたりすると、気が重く滅入ってしまうのです。
この地獄絵に描かれたものなどほんの一部に過ぎませんので、あと少し、あと少し語れば終わることなのです。
でももう食傷気味で。
絵を揚げるのも、ましてやそれを文章化するのも厳しいと思えて、無理だなぁと、
あと一つだけ、お坊さんが何を思ったのか丁寧に説明してくれた絵で終わりたいと思います。
もうこの絵は拡大もせず、原画のままを載せておきます。
一人の男性が身体が蛇の女性二人に巻つかれた絵があります。
これは妻と浮気相手の女性の顔だといいます。
ずっと体に巻きつかれたまま恨み言を聞く罪なのだといいます。
火車に乗った絵については「これは軽い罪の人です」とだけ。
そして。
この地獄においては死ぬことがない、死ぬことができないので、身体がめちゃくちゃに原型をとどめないほどになろうとも、また元に戻されて延々と同じ責苦を受けるのだといいます。
はあぁ…。
そして最低でも何百年単位、罪を償うべく地獄の処罰を受けたのち、人は転生するのだといいます。
もちろん最下層に落ちれば、限りなく永遠に近い年月をそこでひたすら責苦を受けながら過ごすので、転生の道はほぼ無いのでありますが。
…まぁ、せめて地獄では自分の犯した罪を素直に認めたいと思いました。
嘘をつけばさらに罪が加算されそうです。
そんな嘘通りっこありませんから。
閻魔帳とか浄玻璃の鏡やら、嘘など決して通せるものではありません。
この絵には上部に六道の絵が描かれています。
六道図ともいえましょう。
天道。
人間道。
修羅道。
畜生道。
餓鬼道。
そして地獄道。
どこへ行くか。
そう、それは御仏の元での修行か、
あるいは十王さまのお裁きか。
それを決めるのは実は他ならぬ自分自身、なのかもしれません。
【かつぎ地蔵】さま
さて。
調べてまいりました、群馬県は前橋市の市立図書館で。
こちらの司書さんは大変丁寧なお仕事をなさる、というか心にまで寄り添ってくださるかのお仕事をされる方で、それはもう痒いところに手が届くというか。
私の調べたい資料がバンバンと揃い、びっくりするほど能率的にかつぎ地蔵さまについて調べることができました。
ここをお借りしてあらためて御礼を申し上げます。
結論から申し上げますと、私の推測どおり、あのお地蔵さまはあの上新田という町のはずれを守るお地蔵さまであり、あのお地蔵さまをかつぐわけではありませんでした。
それではいざこのお地蔵さまをどのように?
…じつは、ですね。
それはさすがに図書館ではわからなかったのです。
前橋市の一町会に過ぎない行事のこと、そこまでの資料はありませんでした。
ならば公民館、とも思ったのですが、この地域の公民館は常時人が駐在しているわけではないようで、平日も含め二度ほど足を運んでみたのですが、どなたもおられず、どこにこのかつぎ地蔵さまが安置されているかまではわかりませんでした。
あとは…うーん、気になるところではありますが、運を天に任せるしかないようで。
ですが。
ですがですね、どういった形でかつがれるかはわかりました。
いわゆる〝御神輿〟。
神さまではありませんので、お地蔵さまの御輿と申しましょうか。
お神輿の中にお神輿におさまるくらいの小さな小さなお地蔵さまが、上新田町の〝かつぎ地蔵〟さまに特化するならば二体、安置されており、この御神輿、ならぬ御輿をかつぐのでありました。
しかも上新田町だけはなく、前橋市の一部で同じようにかつぎ地蔵さまの習慣が伝わり、調べられただけで四町会。
同じ前橋市内でも利根川沿い、もしくは少し離れてはいるものの、その間にある町会にもかつてはあったと仮説を立てれば、前橋市の東にその〝かつぎ地蔵〟の慣習があり、それはむしろ、まさにあの【佐渡奉行街道】に沿って、あるいはその町会に隣接した町会で行われている(いた)ことがわかりました。
そしてさらに興味深いことに、前橋市のみならず玉村町にも〝かつぎ地蔵〟の慣習があり、さらにいうならば玉村町もまた【佐渡奉行街道】であるということ。
どんどん壮大に(?)なってまいります。
ワクワクが止まりません。
(愚痴レスが続いております、すみません)
ようやく呼吸器内科にかかることができ、飛躍的に呼吸が楽になったのも数日。
今度は起き上がれないほどのだるさが。
喘息という疾患に最もポピュラーに使われる薬剤が私には合わず、その副作用に苦しむこととなったのです。
二週間後の予約まで待てず、電話で相談したところ、先生からわざわざ折り返しのお電話をいただき
「それはオーバードーズだわ、すぐにその薬剤を減らしていきましょう。日に三錠のんでいる薬を一錠だけ、寝る前に飲んで様子をみましょう。体内に残った薬の効果が落ちてくるまで少し時間が必要になるけど、必ず抜けてくるし、これは就学前くらいのお子さんの飲む量だから怖いだろうけどその量は飲んでいてね」
す、すごいなぁ。
薬の効果も、ですが、先生の対応の神なことといったら♡
薬の効果はまさに匙加減なんだなぁ。
その人その人の体格、体質でこうも副作用という効果を産み出すこととなる。
ちなみに最初から先生は
「子供の飲む量ですが、これで様子をみます」
と体格からの判断をされていてのことです。
なので今はお薬の調整中であり、副作用からの身体の立て直し中となります。
再来年の午年には秩父三十四観音霊場が一斉に御開帳となります。
元気に行くぞぉ〜!
昨日から七十二候の第五十候の菊花開(きくのはなひらく)なようです。
わが家の猫のそれよりも狭い、ネズミのひたいの庭の菊はまだまだ咲きそうにありません。
それでも酷暑であった今年の夏の陽射しにも気温にも負けることなく、青々とした葉を繁らせてくれています。
庭の菊たちはすべて花瓶の中で根の出たものを土に植えたもの。
小さな、新たな命のつながりに感動し感謝して、いそいそと土を買い求め「頑張ってこのまま根付くんだよ。毎日お水をあげるから頑張って」
たまに小さく口に出しているときもあります。(怪しい 笑)
そんなわが家の愛おしい菊たち。
お墓参りのときにご先祖さまに、と思うのですが、お彼岸にはつぼみもついていないし、十月の父の祥月命日にはまだ咲かず、十一月の義父の祥月命日には花の時を終える。
あまのじゃくな私の育てている菊たちは、どこか私に似てしまう?
あともう少しすると、私の好きな菊の香りいっぱいな庭になります。
私がかつぎ地蔵について図書館に行って調べ、わからないことが出てきたのもありましたが、どんどんと壮大なこととなってきたと語っておりましたのを覚えておられますでしょうか。
早くにとりあえず書き出せばよいものを、なかなか気が向かず、体調も悪いこともあり、どうにも書くことができず。
それでも少しづつ呼吸器の不調はコントロールされるようなり、ここで書いておかないとお蔵入りさせてしまう不安を抱きだしました。
図書館の司書さんのお手を煩わせ、それどころか私に寄り添うように適切、的確な資料を揃えてくださったというのに、そこすらも書けていない。
いかんな。
…毎日思うのです。
重い腰をあげてみますか。
それでダメなら、…まぁそれはそれで仕方がない。
始めてみましょう。
まずは前橋市のどこの地域で『かつぎ地蔵』さまの習慣があるか。
それは私が調べたかぎりでは、【東(あずま)地域】。
…これがまた実におかしなことにこの東地区、前橋市の南西部にあるのです。
まずはこの謎解きから。
これは実は明治時代に、『東村』と呼ばれた村であったから、なのだそう。
それが昭和二十九(1954)年にこの東村が前橋市と合併して『東地区』となったから。
…なのだといいます。
さらにはこの東村にはあずま道(東山道=とうざんどう)という道が通り、このあずま道というのは実に奈良時代の官道(かんどう)であったといい、これは畿内から信濃・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・奥州へと続くものであったといいます。
このあずま道がこの明治の合併で東村となった村々をを横断していたといい、そのため東(あずま)村と命名されることになったといいます。
以下に挙げる図が前橋市東(あずま)地区、となります。
あずま地区の郷土カルタの絵札になります。
今日は旧暦九月十三日、十三夜です。
十七日がスーパームーンということもあり、見ることができる天気であれば大きな月でありましょう。
十五夜と十三夜、両方をお祀りしないと片見月といって縁起が悪いともいわれております。
そんなことを言われても、
(十五夜がお天気が悪くて見られなかった年は十三夜遠愛でてはいけないのか?)とおへその曲がったおばさんはずっと思って過ごしております。
この二夜の月(ふたよのつき)がそろって見られる年は縁起が良いとぐらいにしてくれると、ビビりであるためついつい縁起をかつぎがちなおばさんはこころ安らかに月を見上げることができるのですが…。
仏教では月待ちといい『十五夜』や『十三夜』などにそれぞれ仏さまが当てられていて、十三夜の本尊は【虚空蔵菩薩】さまであるとされます。
虚空蔵菩薩さまは、『十三』という数字に縁があり、毎月の縁日は『13日』、十三夜の月待ちの本尊さまであり、『十三参り』の本尊さま、十三佛信仰では十三番目=三十三回忌のご本尊さまとなり、まさに〝十三づくし〟の仏さまです。
あら?
では今日三十三回忌を迎えた父は十三夜でもあるため、より虚空蔵菩薩さまのご加護があるかしら。
三十三回忌は弔い明けとも言われますが、やはりそういう偶然の重なりには感謝してしまいます。
…でも虚空蔵菩薩さまのご加護が必要なのは、いい加減ボケの進んだ私なのだけれどな。
【艮神社(尾道市)】
広島県尾道市に鎮座されます【艮(うしとら)神社】さんへお参りさせていただきました。
広島駅から尾道駅まで移動して、そこからバスに乗って千光寺入り口(的な)で下車いたしました。
え“?
…いつもこちらをお読みくださっておられる方々はそう思われたことでしょう。
関東圏でさえろくに移動しない私どもが?と驚かれたことと思います。
これは娘夫婦からのプレゼント旅行でありました。
しかも娘の旦那さまのお母さまが広島市出身ということで、幼い頃はかなりこちらに来ていたという彼が同伴してくれての超豪華旅で。
ええ、奈良にいきたい、京都にいきたいと言いつつも一度も重い腰が上がったことのない二人が、それを超えての広島でございます。
自分たちすらがその現実を受け入れがたく、夢のように思いつつ時を過ごしたのでありました。
この艮神社さん。
千光寺さんという高台にあるお寺さんのお膝元に鎮座なされる神社さんであります。
実は事前には千光寺さんへの参拝は決まっていたものの、艮神社さんは計画にはなかったもの。
地図でみると真横に鎮座されている二つの寺社なのですが、千光寺さん、高台も高台、ロープウェイまである高台ぶりで。
しかもこのロープウェイ乗り場は微妙に艮神社さんよりも手前であり、ああ、この艮神社さんは行かれないのだろうな、と思っていたのです。
しかしながら。
「どうする?ロープウェイで行く?それとも艮神社さんへおまいりしてから?逆でもいいし、ロープウェイが無理そうなら、往復歩きでもいいし。…ロープウェイ、怖いんでしょ?」
と娘。
娘が働きはじめるにあたって始めた一人暮らしのあと、始めたこの神社仏閣珍道中。
そんなに寄り添ってくれてのスケジュールであったとは。
ありがたいことばかりの旅の始まりでありました。
(続き)
…この艮神社さんの手水舎をお護りになられているこの亀。
正しくは玄武(げんぶ)、でありましょうか。
ただ亀は万年とも言われております吉兆の動物でありますから、亀でもあながち間違いではないような気もいたしますが。
玄武であれば四方のうちの北方を守る霊獣であります。
一方【艮】は鬼門、北東の方位・方角、やはり北の方位であります。
しかしながら尾道市の南に位置する艮神社。
尾道市という括りがいつからのものか、かつては備後国、であったでしょうか?
この備後国にしても、山陽道にとっても、この艮神社さん、決して北方に位置してはいません。
何にとっての北?
何にとっての鬼門?
はて?。
ここを北とした時、南にあたるのは、…海くらい?
歴史であるとか、ここを治めた人物とか、国司とか、さぁーっぱりわからない私。
夫に
「ここって何にとっての鬼門なの?」
と聞いてみましたが夫にもわからないとのことで。
ま、まぁわからないこともあるって。
そこで考えることをぱっとあきらめた私。
それにしても。
この亀?玄武?
…ポケモンのカメックスに似てません?
まるでカメックス。
見れば見るほどカメックス。
ま、そんなこと娘の前、娘の旦那さんの前では言えません。
今あらためて写真の画像を拡大して見て、…やっぱりカメックスに似ているよう見える。
私の気のせい…かしら?
カメックス
(名草厳島神社さんの続き)
『…石段をのぼるのも拝殿が巨石群の上に建てられているから。
巨石群最大の御供石と、巨石の上に建てられた厳島神社。
落ちついた、装飾は一切ない建物が、巨石の上にまるで意志をもって座っておられるかのような┉ここを護ってくださっていることに喜びと誇りを持ってくださっておられるような威厳を持って、そこに鎮座されていました。
周りのいくつかの巨石の肌を静かに静かに、清らかな水がきらめきながら、岩肌を撫でるように流れています。その神々しさといったら┉。
こちらの厳島神社は、伝承によると、平安時代初めの弘仁年間(810年~824年)、空海上人が、水源農耕の守護として弁財天を祀ったのが始まりといわれているようです。白い蛇の道案内により、清水の流れる大きな岩の前に出た上人は、岩の前にすわり、経文を唱えて弁財天を勘請し、前に祠を建てられたといいます。
元禄六(1693)年、このそばにあります金蔵院住職が、領地検分の家老に、弁天宮の再建を願い出て、下附金三両でお舟石上に石宮を建立したのが本宮であるといいます。
明治の神仏分離令により厳島神社となっています。
一番大きな御供石は高さ約11m、周囲約30mといわれています。一見小さく見える上の三角状の笠石ですら、およそ3mもの高さがあります。
こう書けば少しはその大きさが伝わるでしょうか。その御供石の岩の隙間を通り抜けることを「胎内くぐり」と言っているようで、ここを通り抜けると子宝や安産に御利益があると信じられています。…』
2021年の8月にこちらにうかがったときの珍道中錄を一部貼り付けてみました。
直接そこに誘導できるような技を習得していればそれもよかったのですが、どうにもわからない。
そもそもが全文を読み直していただくほどの内容ではなく、一部ですが貼り付けてみます。
初めてこちらを訪れたときの私の感動が少しでも伝わりますでしょうか。
こちらもまた、大好きな、何度でも訪れたい神社さんの一社でありました。
(以前も貼った、鬼滅の刃の聖地とされる所以であろう岩であります)
(続き)
こちら【艮神社】さんは大同元(806)年の創建と伝えられ、それはお隣の千光寺さんと同じ年のことであるといいます。
古くは【多氣遠宮】・【建遠神社】と称されたといい、素戔男命さまをお祀りした神社であったといいます。
天延三(976)年に吉備津彦命さまが合祀され、1200年ごろ【幣多賀宮】との二社合祭、となったのだといいます。
のちに火災に遭い、文明七(1475)年、平盛祐が願主となって再建されたといいます。
その後も屋根を葺き替えたり、本殿拝殿を造立したりと、されたとあり、たびたび社殿の造営があったようです。
…おかしい。
艮神社さんのご由緒書きであるというのに、書かれていないのです。
艮神社と称されるようになった年月が。
(続き)
艮神社さんのご由緒書きに、いつから艮神社を名乗るようになったかが記載されていない…。
まぁ、いたしかたないことなのかもしれません。
〝のちに火災に遭い、文明七(1475)年、平盛祐が願主となって再建された〟
と書かれておりますことから、この火災以前の資料全てが焼失してしまったのかもしれません。
特にどこかの鬼門を護るようにも思われないこの艮神社さん。
…。
…もしかしていずこかにご鎮座されます『艮神社』さんを御遷座されている?
それがいつの時代かの資料が神社のみならず鎮座されます尾道のどこにも残されていない、とか?
じつはね。
この尾道艮神社さんの〝艮〟の意味や、いつから艮神社さんと称するようになったかをネットで考察される方は多くおられました。
…それはそうですよね。
私のようにぼやーっとした人間でさえ不思議に思ったことなのですから。
みなさんいろいろ考えておられます。
それを読むのも楽しかったです。
で。
これが今現在私のたどり着いたところ、であります。
その先の、ではいずこの〝艮神社〟さんを遷座されたかとかも調べてはみました。
それは無理でしたね。
…艮神社さんが多すぎて。
全部の艮神社さんを調べて、そこにそうした記述が残されていないか、を調べることなんて、ネットの上でなんか到底無理ですから。
そもそもがきっと尾道の艮神社さんの歴代宮司さまがとうにあたられたことでありましょう。
でもわからないのでこのご由緒書きとなっているのだと思います。
全国には六十七社の【艮神社】があります。
そのうちの六十一社が広島県に鎮座されているという(あ、このカウント私がしましたのであまり当てにはならないかも。ご興味がありましたらカウントし直したほうが良いかもしれません 笑)。
そして各々の艮神社さんでお祀りされる御祭神さまは微妙に異なっておられる。
ということから、いつの時代かに、いずこかの〝艮神社〟さんを遷座されたのではないかという〝私なりの〟考えに至りました。
…曖昧ですけどね。
いやぁ、自分なりに調べて納得いくところでストンと落ちつけるのがいいんです。
先人たちが調べて調べてのこと。
この尾道艮神社さんのご由緒書を作られた方が書いた内容がすごく腑に落ちる。
そこまで自分なりに調べてみたから、いいんです。
艮神社さんの左脇を進み、突き当たった場所に連なる路地を『猫の細道』と呼んでいます。
(…この間張り切って書いて消してしまったものは無理なので先に進むことにしました)
猫の細道にお堂がありました。
お地蔵さまがお祀りされています。
苔むしたりはしていないものの、目鼻立ちや衣、手の様子などがよくわからなくなっておられました。
あまりにも白いので、もしかしたら結構強い力で洗浄したりしたのかしら…と思ったくらいでした。
お詣りを終えて道を歩き出そうとすると、何やらポップな、ラミネート加工された貼り紙があります。
…。
えっ?
切り株から出てきたお地蔵さまぁ?
昔ここを開拓したときに切り倒した切り株からでてきたと?
なんでも昭和31年に建物を建てる際切り倒した切り株から出てきたとのことです。
もう少し以前の話なら、伝承かぁと思って通り過ぎるところです。
それでも半信半疑な私。
だめだめ!信じる者は救われる。(…あれ?これはキリスト教?)
それにしても。
木がお地蔵さまを包み込んで生育する…どれだけ気の遠くなるような年月がかかっていることでしょう。
猫の細道というくらいだから猫が多いかとワクワクしておりましたが、さほどはおりません。
むしろ至る所にペイントされた猫が目を引く路地のような細道でした。
小石。
壁。
石段。
福猫石神社なるものもありました。
かなり薄暗くてちょっと私には怖かったです。
神さまをお祀りしている、わけではなさそうで、この細道の至る所に置いてあった猫の顔をペイントした石がたくさん祭ってあるように思われました。
この細道にいる猫さんたちは飼い主さんがいるかもしれないので、写真にはおさめませんでした。
この先を少し行った広場に猫さんが悠々と過ごしていて、しかも人馴れしているので撫でさせてもらいました。
ひとしきり撫でて立ち上がると、娘が
「はいっ」
とお手拭きを手渡してくれました。
い、いやぁ、撫でさせてくれる猫は撫でるってものよ、苦笑。
…いろいろ手のかかる母ですみません。
(日光山 続き)
日光の輪王寺および東照宮の参道は広く、三車線分くらいはゆうにありますが、そこもがらがら。
…どうした?!
しかも時は秋、本当にどうしたというのでしょう。
まずは輪王寺さんへ。
入場券を買い求めて石段をのぼります。
チケットを見せて入ったところもほとんど人がおりません。今までならここは満員電車のそれくらいに押すな押すな…という方は一人もおられませんが、係員は「もっと奥までお詰めください!」と拡声器を使うくらいで(のちにスマートなピンバッチに変わりましたが)。
がら〜っ。
初めてゆっくりと参拝できそうです。
現在、世界遺産登録二十五周年ということで、初めて御開帳された仏像があります。
…初めて、ですよ?
二年ほど前に数年に一度御開帳される軍荼利明王さまのときは、そのまさに詰め込み日光方式でありました。
もはや不気味なくらいです。
係員の誘導もなければそこで必ず展開されるありがたいグッズの説明と販売もありません。
…ちゃんと今回初の御開帳となった五大明王象鼻の特別グッズも作られておりますし売店で販売もされていました。
どうした?! 日光!
(撮影禁止のため画像はお借りしました)
(続き)
護摩堂を出て。
再び参道に戻ると…!!
…これぞ日光!
すごい人です。
それにしてもこんなにたくさんの人。人。人。
私たちそんなに長く三仏堂と呼ばれる輪王寺さんの御本堂にいたわけではありませんし、護摩堂でもそんなに長い時を過ごしたわけではないはずです。
個人の方々も。
ツアーの方々も。
修学旅行or校外学習の子供たちも。
私どもが三仏堂に入る前に見た光景が夢であったかのように思えてきます。
…今までで一位二位を争う混みようです。
東照宮の鳥居の内はもっと大変なことになっていました。
かつて休日に訪れたとき、くらい?いやそれ以上?
と、とりあえずチケット売り場に並びましょう。
前に並んでおられる方々も、そして後ろに並ばれた方々もみな外国からのお客さまでありました。
異国それも海を隔てた小さな島国である日本を目指して、お金を使い、時間を使って、わざわざお越しになった方々でしょう。
凄いなぁ。
そしてありがたい。
日本の文化に関心を持ってくださって、慣れない土地から土地へ、緻密なスケジュールを組んで、夢見た日本のさまざまな地を目指して。
中には車椅子の方もおられます。
移動はどれだけ大変だったでしょう。
「Excuse me.」
へっ?
後ろの方からお声がかかりました。
「How much なんちゃらticket?」
えっ、えっとぉ〜。
おばさん手で1、6、オー、オーとやってみました。
…わからないようです。
「ワンサウザンド シックスハンドレッド」
とほぼ日本語に聞こえる発音で答えたのは夫。
首をかしげるその方たち。
えっ?通じないの?
「Is this enough ?」
…と言ったのかどうか、女の方が一万円札を手にして首を傾げました。
「オッケー」
しかし。
この先にあるのは自動支払機。
大丈夫かな?
私たちの番が来ました。
なんだか日本人にもわかりにくい仕様です。
なんとか購入に成功しました。
そんな私どもは代わりに購入してあげられるかどうかも自信がなく。
せめてもの親切心で英語表示にしてその場を離れました。
「Nice! Excellent! Thank you.」
…いいえ、英語喋れなくてsorry。
(輪王寺でお授けいただいた切り絵御朱印)
(続き)
入場券を購入する受付は仁王門へと向かう石段の左横。
さあ、いざ東照宮へ!
…コロナ禍もあったのですけれど、それでも日光へは何年か前には参拝しておるのです。
おるのですが、輪王寺と大猷院ばかりで、…東照宮は一体何年ぶりになるのだろう。
しかも日光自体が久しぶりです。
仁王門をくぐると。
人、ひと、ヒト。
仁王門をくぐってすぐに目に入ってくるのは【神庫(じんこ)】。
鉤の手に三棟並んでいます。
いまは入ってすぐの下神庫が修復工事中なようでシートで覆われています。
校倉造りの建物です。
以前お聞きしたところ、お祭りで使う道具、装束や道具などが納められているのだといいます。
以前はそばまで行けなかった…少なくとも私どもはそう思い込んでいたのですが、(今は)すぐそばまで行くことができました。
この上神庫は側面が見ることのできる建て方で、この側面、〝妻〟と呼ばれる部分に細やかな彫り物があるのです。
今まではそばに寄ることが、…できなかったのか、できたけど勘違いしていたのか、まぁよくは見えず、象、かなぁと思っていたにとどまっていたのですが、今回ははっきり〝象っぽい〟ことがわかりました。
何?その象っぽいって?
…そう思われた方もおられましょう。
実はこれ〝象っぽい〟であってるんです。
下に写真を添えておきますが、この彫刻、その名も実に【想像の象】!
東照宮建立時のチーフアートディレクターの『狩野探幽』が、実物の象を知らずに想像で下絵を描いたといい、、まさに想像の象、なので、そのままそう呼ばれているのだそうです。
で。
実は、ですね。
この三神庫、鈎の字だとは言ったのですが、実は中神庫の隣、下神庫のそばににもう一つ建物があるのです。
三神庫と同じ朱色に塗られた建物なのですが、小さく、窓もなく装飾は一切なく、存在自体を憚るかの様な建物なのですが…。
これも以前お聞きしました。
使ってはいないけれど、トイレ、なのだそうです。はばかりだけに…憚るように建てられている?
通路を隔てた上神庫の前あたりに、大きくそびえる『高野槙』があります。
その横が神厩、今回はお馬さんはおられませんでしたが。
その右隣にかの有名な【三猿】を含む猿の彫刻が並びます。
(想像の象)
(続き)
この神厩(しんきゅう)の隣にある高野槙(こうやまき)は三代将軍家光公のお手植えのものといいます。
栃木県の名木の一つです。
神厩にお馬さんは不在でしたが、こちらの神馬は白馬であることが条件とされているといい、たしかに以前見たお馬さんも白かったです。
神厩は実際に使用される厩であるため、漆等を使わない白木のままの建物です。
【三猿】を含む猿の彫刻はどれも見事です。
八面の彫り物からなり、猿の一生を描いているといわれます。
三猿は子猿のころ。
子猿とお母さんから始まって、大人となった猿がお母さんとなるというストーリー、…と言ったらあまりに端折り過ぎていて叱られそうですが、まぁ、そういった内容であることは確かなので。
神に仕える神馬の居室にもこんな彫り物が施されます。
猿である理由があり、昔から
『猿は馬を病気から守る』とされていたからといいます。
この神厩の横に御守や御札などを授与する授与所があります。
主に馬や三猿に由来するものが多いですが、刀剣型の物もありました。
実はここも『国指定の重要文化財』。
かつては警備の役人の詰所、日光奉行が支配していた番所でありました。
三猿は人気で人だかりが絶えず、お馬さんもいないこともあって近寄ることもせず、写真も撮ってありません。
(家光公お手植えの高野槙)
(続き)
手水舎が見えてきます。
いろいろな呼び方があり、こちらは【御水舎】と呼ぶようです。
コロナ禍以降使用が開始されないのでしょうか、それともまた改修工事に入るのでしょうか、紐で周囲を囲っています。
でもそのおかげで、ゆっくりと御水舎を見ることができます。
参詣者が手と口を浄める場所ですらがこれほどに豪華な造りとなっています。
どこをとってもため息が出るほどの美しい装飾です。
実はこうした建物として手水舎を造ったのもこの東照宮が最初といわれています。
ところで。
見えますかね?このレスに載せた写真の屋根の下に龍が彫られているのですが、この龍、翼がある、水を司る『飛龍』と呼ばれる霊獣です。
あまりの混みように、ならば私たちはゆっくりと彫刻や建築物などを堪能して進もうではないかと、ここ御水舎でもかなりの時間をかけて。
もう鳥居はすぐそこ、なのですがね。
やはり日本で初めて造られたという青銅製の、その名も『唐銅鳥居』。
その先に石段があって、上にそびえているのがかの有名な【陽明門】。
結構な頻度で補修修復がなされていて、今はその修復が終えて全景が観られる時であります。
高さもあるので見えないところも多いですし、何より人で見えないんですけどね 笑。
そんな陽明門に目を奪われ、石段をのぼってしまいがちですが、その前にもたっくさん見どころがあるんです。
まずは石段のふもとには、かの伊達政宗公が奉納した【南蛮鉄燈籠】。
…まぁ、鉄なのですっかり錆びてしまっているのですが、ね。
そして。
石段を登り終えたところの手すりの柵にとても変わった石造りの唐獅子さんがいます。
私、この子たちが好きでねぇ。
必ず立ち止まって声をかけてしまうんです。
【飛び越えの獅子】という名前があるようですが、あんまり気づかれていないかも。
何せ人が多いですし、目の前に豪華絢爛な陽明門がそびえたっていますし。
この唐獅子さん、柵の柱に直接彫られた、大変珍しく、しかもこれを彫るのは大変難しいものであろうと思われるものです。
もし日光東照宮に行かれたらぜひぜひこの可愛らしい唐獅子さんたちにも会ってあげてください。
(続き)
唐獅子さんが貼りたくて、ちょっとだけ書きます。
陽明門は何度観ても飽きることがありません。
まさに日暮らしの門。
高いところなどまるで見えないんですけれど、ね。
今はスマホの時代。
そのカメラの性能はかなり優れているため、肉眼で見えづらいものを写し撮ってくれます。
これは本当にありがたい。
まぁ、私などはスマホで最も使うのがカメラ機能、…というよりは他の機能など使ってもいないと言っても過言ではないくらいです。
陽明門といえば、その美しさに一日観ていても飽きないということから日暮らし門とも呼ばれるくらいですが、観れば観るほど、観る回数を重ねるごとにその言葉にうなづくものであります。
ゆえに人だかりが絶えません。
みながその門を見上げて立ち尽くしています。
(大好きな唐獅子さん)
(続き)
石段をのぼった先に鐘楼があります。
この日は右側通行とされていますので、向かって右側、ということになります。
実は私、この鐘に違和感を感じています。
普通見かける鐘楼は高さがあり、土台があって柱がありますが、この鐘楼、地面に直接柱が立っています。
ですので厳密には鐘楼ではないのかもしれません。
鐘撞堂となるのでしょうか。
もう一つは鐘の形。
よくお寺さんで拝見する梵鐘より、〝しゅっ〟とした感じ、シンプルです。
〝乳〟と呼ばれるボツボツとした突起がないようにも見えます。
実はこちらは『朝鮮鐘』と称されるもの。
小ぶりに見えますが、直径は一メートル。
四代将軍家綱公の誕生を祝賀して朝鮮からやってきた通信使が献納した物だといいます。
異国のデザイン、異国からの贈り物であるためでありましたか。
鐘を撞く撞木はありません。
これは…明治の神仏分離令によるものでしょうか。
それとも、?
陽明門から左右に延びる回廊と、石燈篭。
私の中で東照宮の特色の一つに、〝燈篭の多さ〟があげられると思います。
と、申しましても、全国に百社以上はあるという東照宮のうちのほんの、本当にほんの一部しか知りませんが…笑。
日光の東照宮の燈篭の数は実に百二十三基といいます。
のちに写真であげますが、写真の四本の柱、屋根に覆われた八角形の青銅製のものも燈篭だといいます。
現代の世では使われることはないのかもしれませんが、これは回転式、回転するものなのだそう。
ここに灯りが灯されたら、さぞや美しいものでありましょう。
ちなみに。
この燈篭上部に取り付けられた〝葵の紋〟の上下が逆さなのだとか。
外国で造られ、情報に誤りがあってのことなのか、それとも逆さ柱のように意味あってなものなのか…。
それゆえ、『逆紋の廻り燈籠』とも呼ばれているそうです。
この一角は柵があり奥にあることから、私には上手くとらえることができず、写真には撮れてはいないのですが、〝蓮燈籠〟、〝釣燈篭〟
と呼ばれるものもあります。
東照宮内にある案内の立て看板によると、いずれもオランダ国からの奉納品といいます。
(続き)
さあ、いよいよ【陽明門】。
家に帰ってスマホの写真を撮る見直してみて…なんと!全景の写真がありませんでした!
おのぼりさんなので、テンションが上がり頼まれもしないのに夫を入れての写真を撮ってしまっておりました。
型番の古いiPhone、消しゴムマジックも付いておらず。
…基本、映ったものがそのままに写って残る、それで良いと思うというポリシーを持つのではありますが、それでもそれを使いこなしている夫をみると、時に羨ましく思えるときもないわけではないのですが…おっと、閑話休題!
それにしても。
どれだけの彫刻が施されているのか…。
何度見ても感嘆いたします。
徳川家康公が好きかどうかとか、
徳川の支配とか、
これを建てるにあたって、徳川の、あるいは幕府の威信にかけて行われたであろうあれこれとか、
それをどう思うかとかは取っ払って、純粋に凄いと思うのであります。
見上げるだけではよく見えない、小さな小さな彫刻!
スマホで拡大して見ますとそれはそれは細やかに人物が彫られているのです。
文明の利器スマホ様、様であります。
(ちなみにオペラグラスも持ってはいるのですが、こうした聖域で使用するのはやはり多少の抵抗感があって、仮に持っていても使用できずにおりました。
あくまでも鳥を見たくて購入してみたものですし)
ちなみに人物が彫られているのはこちらの陽明門と唐門のみ、だと聞いたことがあります。
緻密で繊細です。
さすが当時の彫り師たちが、必要とする材料を全て惜しむことなく使うことが許された環境下で、己の持つ技のすべてを注ぎ込んだ彫刻たちです。
どれだけいるのかわからないほどの龍たちも、どんな角度から入ろうと見逃さない、かのように様々な角度で存在しておりました。
隣同士阿吽の口であったり。
龍だけではありません。
吉兆の霊獣がたくさん!
この陽明門の扁額の下に
【息】、と呼ばれる霊獣が彫られているのだいいます。
実はこの霊獣、読み方すらが解明されていないほどの幻獣、なのだとか。
…見えませんが、ね 苦笑。
見えないくらいで良いのかもしれません。
幻の霊獣ですから。
さすが、いつまでながめていても飽きない【日暮らしの門】と呼ばれる門であります。
…人混みが苦手なのと、飽きっぽいのと、でそう長くは観ないのが私ですが、ね 笑。
『カリン』
カリンと申しましても、ドラゴンボールのカリンさまではありません。
ポケモンのカリンでもありません。
果実のカリンです。
先日参拝させていただいたお寺さんで、
『ご自由にお待ちください』
と寺務所の入り口に置いてありました。
まぁ、この『ご自由に』という言葉に弱い人物であることも決して否定いたしませんが、カリンということに心惹かれ、一ついただいてまいりました。
実は私、カリンを初めて手にいたしました。
なんと経験の浅い人生でありましょう 苦笑。
初めて手にしたカリンは、大変やわらかな、優しい、そしてなんとも上品な、天界の香りとはかく言うかと思うくらいの香りがいたしました。
おおっ!と思ったのもつかの間、カリンの実、実にベタベタとするではないですか。
うーん(~_~;)
と、そのカリンを持ち帰る人のために、カリンのそばに紙袋をご用意くださっているではないですか。
かくして、初めてカリンをゲットしたおばさん。
この香りを楽しむだけでも良いようです。
しかしながら。
私の生まれて初めてとなった持病であるところの喘息。
カリンというのは咳止めに効果があるという話をお聞きします。
これはなんとか調理して摂取したいものだと思ったのが、いただいてまいりました理由でありました。
もちろん初めて手にした果実ですので、その調理法など知りません。
さっそくネットでカリンの調理法を調べました。
よく聞くかりん酒は、ほとんどアルコールを摂らない私にはあまり適さず、しかももし上手くいって美味しいものが出来たなら、夫にみな飲まれてしまう危険があります。
で、レシピにジャムとかも出てまいりましたので、これならできると煮込みを始めました。
まず皮を剥いて。
…か、硬い!
スっごく硬い!
かぼちゃでこんな硬さのものがありますが、とりあえずはかぼちゃは皮を剥かずにすみます。
当然実も硬い。
…できないけど?
煮込めど煮込めど、とろみなどでません。
(日光東照宮 続き)
陽明門をくぐると。
目の前に唐門と呼ばれる門があるのですが、陽明門の素晴らしさにみな振り返ってその裏から見た姿を見てはまた感嘆の声をあげる方がほとんどであります。
今回、ひとしきり陽明門の内側を見上げたのち、唐門へは向かわず。
かと言って家康公の墓所にも向かわず、祈禱殿から拝殿へと続く下駄箱にも向かうことなく…。
向かったのは、陽明門をくぐってひだりてにあります『神輿舎』でありました。
神輿は〝みこし〟と読まれるのが普通一般ですが、この〝神輿舎〟は〝しんよしゃ〟
と読むようであります。
…などと綴ってはいるものの、現地ではすっかりその正しい読み方を忘れてしまい、「みこししゃ」と呼んでおりましたが 笑。
神輿舎のなかには三基の御神輿が祀られています。
向かって左側の御神輿の前には奉納されたガンダムのプラモデルが置かれていました。
このガンプラ、今年世界遺産登録二十五周年を記念して奉納されたものだといいます。
家康公が関ヶ原の合戦の際に着用したとされる『南蛮胴具足』の色調を基にした色彩で作られ、またその際の兜を着用しているのだとか。
ところで。
夫曰く、こちらの神輿舎の天井に描かれた天女さまは、天女さまの絵では日本一の美しさと言われているのだとか。
日本一美しい天女さまとあらば、美しさとはほど遠い妻を持つ夫としては、是が非でもひとめお目にかかりたいのでありましょう。
ただ…落ち着いて考えますと、たとえ絵であっても天女さまのお姿に順列をつけるなど失礼な話では?と密かに思ってみたり。
そんな夫、神輿舎の前に立ち「見えない」と落胆の声をあげました。
ガンダムのせいか、それともやはり美しい天女さまをひと目見ようと思われてなのか、何やらやたらと人が集っているのです。
それも男性が圧倒的に多い。
自撮り棒とやらを差し込む強者も男性でありました。
こちらは間違いなく天女さまが目的でありましょう。
(続き)
真正面に見て見えなければ少し屈めば良いと、実際にそうしながら夫に伝えて…。
屈んだまま撮影させていただいた天女さまの御姿をあげさせていただきます。
拡大し、少し明るさを調整しておりますが、肉眼で拝する天女さまはこの画像とはまるで異なる美しさでございます。
ちなみに。
このあと、拝見させていただいた天女さまのお美しさを少しでも目に焼き付けたいのか、
…しばらく私から離れて歩いていた夫でありました。 ε-(-。-; )
この神輿舎から御神輿が三基出された状態となるお祭の日。
この天女さまの下で手を打つと、なんと、鳴き龍のように鈴を鳴らすかのような音が聞こえるのだとか。
どこまでも心憎いほどの演出の施された日光東照宮でございました。
(もちろん、この神輿舎には、たとえ神輿が無かろうと一般の参詣者は昇殿することはできません)
(続き)
奥社へと向かう『坂下門』の下はいつ行っても人だかりが凄いです。
たとえるなら、『福まき』という神社さんやお寺さんで行われるイベントで、撒かれる〝福〟を手に入れたいと集まる方々でしょうか。
眠り猫には特にご利益等は一切ありませんが、有名であること、日光東照宮のシンボルの一つであること、国宝であること、などなどそれぞれの方そこに群がる理由はありましょう。
しかしながら、そんな一切合切の理由より、ただただその彫刻の素晴らしさ、猫のあまりのリアルさ、そして何より可愛らしいことにも寄るところが大きいかもしれません。
写真であらためて見れば見るほど、その素晴らしさにため息がでます。
白黒の猫の、毛の微妙に混ざった感じ、
撫でたら本当にあの猫の毛なのではと思うくらいにふわふわな感じ、
つぶった目の感じ、
鼻のところの輪郭、
顎のところの輪郭、
猫の寝姿のリアルさも
全てがここに表現されています。
初めて見たとき、その小ささにも驚いたものです。
おそらくは実際の猫よりも小さな彫刻です。
この眠り猫の小さな彫刻単体で国宝というのですから驚きです。
それを特にプラ板などで覆ったりしないところが日光らしい潔さです。
眠り猫の裏側には同じくはめ込まれた雀の彫刻があります。
猫も居眠りし、本来なら餌とも言える雀と共存するほどの平和をあらわしている、ともいわれ、それゆえにこの二枚一組の小さな彫刻はまさに平和の象徴であるとされています。
彫刻も間違いなく素晴らしいもの、それは言うまでもありませんが、このキュートでリアルな猫の寝姿に癒されるから、なのではないかしら。
世の中に動物好きさん、猫好きさんが多いから?
…今回は某優秀な(ただし型遅れ)のスマホにより、この眠り猫の拡大した写真を撮影することができました。
ここをくぐって、坂下門を抜けると、…長い長い奥社への参道となります。
(日光東照宮 続き)
日光東照宮【奥社】は、御祭神徳川家康公の墓所。
石段を登りつめた先に拝殿があります。
後の世にこのように世界各地から参詣の方々が訪れることなどは夢にも思わず、
ただ家康公の
「(御自身の)遺体は久能山におさめ、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神としてまつること。」
との御遺言に従い、死後、朝廷より
【東照大権現】の神号を贈られた家康公をこの地に祀られたものであったものです。
ただ、家康公が望んだ『小さな堂』は、家康公を敬愛する三代将軍家光公によって、いま見るような絢爛豪華なものに生まれ変わっておりますが 笑。
この奥社=家康公の墓所に関する限りは、江戸時代には将軍さましかこちらを参拝することができなかったところですので、拝殿前のアプローチの短さが短くて、今石段の途中必ず渋滞が起こりますが、
お一人のみの参拝ということから考えればごく当たり前、普通のことでありました。
それにしても、この長い石段。
将軍さまにおかれましても、大変なこともあったのですね。
天和三(1683)年に、それまでこの参道に建てられていた石鳥居が唐銅鳥居に建てかえられています。
勅額は、後水尾天皇の直筆といいます。
が。
この鳥居は石段の途中から見上げる形で、こんなところでバランスを崩した日には、石段上で将棋倒しがおこり、大変危険ですので、気をつけて見上げ見るくらいしかできません。
ゆえにこの鳥居の撮影は少なくとも眩暈持ちの私には不可、であります。
鳥居の向こう、右隣に見えるのは『銅神庫』。
宝蔵とも呼ばれ、江戸時代には家康公の位記や宣旨類、甲胄、刀剣など貴重な神宝を収蔵していた建物だといいます。
奥社拝殿へと続く最後の石段脇を護る小さな小さな狛犬さん。
直置き、ではありませんが、ほぼ地面、まるで本当に番犬のように、忠犬のようにたたずむこの狛犬さんが大好きです。
こちらは、
松平右門大夫正綱、
秋元但馬守泰朝、
両氏の寄進によるものだといいます。
このご両名は家康公の御遺臣で、寛永年間の当宮造営の功により、特に奉納を許されたのだと説明にありました。
(続き)
ちょうど長い石段を登ってきて、奥社の拝殿の姿が見えてホッとする場所でもあるからでしょうか。
この神庫のあたりはいつも渋滞が発生しております 笑。
そして。
石段をのぼるとすぐに拝殿前なため、人の多さもありこちらも写真撮影どころではありません 笑。
奥社の、というより日光東照宮で一番の聖域でありましょう、奥社拝殿の裏手から家康公の墓所へと続く青銅製の門、です。
『鋳抜(いぬき)門』と呼ばれます。
なんでもこの門、扉以外の、柱や梁などを一つの鋳型でつくったことからこう呼ばれるのだといいます。
門一つを(扉は別だとしても)一つの鋳型からとは。
驚きます。
こちらの門の内側の、宝塔の内に収められているものこそが家康公の神柩。
建立以来一度も開けられたことはないといいます。
ただし、宝塔自体は当初は木造て、後に石造りとなったものの大地震があって破損したといい、第五代将軍綱吉公が現在の『唐銅製(からかねせい)』に建て替えたといいます。
〝唐銅〟とは、金・銀・銅の合金だといいます。
一際目を引く鶴の像はなんとロウソク立てだといいます。香炉や花瓶とあわせて朝鮮国王からの贈り物だといいます。
おそらく写真に見える唐獅子さんが香炉の蓋に取り付けられているのだと思います。
鶴の足元には…亀、でしょうか。
(続き)
鋳抜(いぬき)門の…腕木とか肘木とかいわれる部位にあたるのかどうか…くるっと大きくカールした三本の何かを口から出している『蜃(しん)』と呼ばれる蜃気楼を産み出す霊獣がいます。
肉眼ではくるっとカールしたものが見えるかどうかというくらい。
距離もあることながら、角度があってなかなか全貌が見えないのです。
それならば写真で…とも思ったのですが、やはりスマホぐらいでは撮ることができませんでした。
…いつかリベンジ…出来るかしら。
距離もあるうえ、何せ腕が致命的に悪いし。
その姿は龍に似ているといいます。
ネットを検索するとそれはそれは美しくて凛々しいのです。
まぁ、蜃気楼自体がなかなか見られるものではありません。
そんなことから蜃はここに配置されているのかもしれません。
ここは聖域中の聖域でもあります。
でもいつかこの〝蜃〟をなんとか自分の手で撮影して見たいもの。
夢は大切です♡
(この〝蜃〟の画像はネットからお借りしております)
(続き)
家康公の墓所であります奥社への参拝の後は、あの唐門の内側、拝殿へ参拝を。
と、その前に。
唐門のわきに連なる透塀(すきべい)の右側に延び、それがちょうど直角に曲がる辺りに、一基の鋳銅製の灯籠があります。
そう、一基だけ、なのです。
あたりを見回して見てももう一対はありません。
通例灯籠は参道の左右に置くものと考え一対で奉納されるのがほとんどです。
この灯籠は東福門院さまが奉納なされたもので、その名も『東福門院の一本灯籠』、最初から一本奉納されたものといいます。
東福門院さまは徳川和子さま。
二代将軍秀忠公の娘で御水尾天皇の中宮であらせられます。
灯籠の、まさに灯りを灯す部分は格子状になっていて、天人の像が取り付けられています。
天人のある部分の上部には五鈷杵のようにも思われる飾りと、また天人の下には丸に桐の桐紋が鋳られています。
笠には如意宝珠、下部には蓮の花びらと、かなり仏教色の強い灯籠であると思われます。
この灯籠と、祈祷殿の間に、拝殿へと続く通路があります。
拝殿へと向かう際は靴を脱ぎ靴箱に納めます。
ここから先は写真撮影は禁止です。
朱塗りされたピカピカ、ツルツルの廊下を歩きます。
靴下越しにひんやりとした冷たさが伝わります。
Lの字に本社の周りを囲うこの回廊は柱も天井裏(梁がみえる天井板のないもの)もみな朱塗りで、とはいえ日の光が射すよう明るい廊下となっており、歩く脇にも見事な彫刻がはめ込まれています。
唐門の内側が拝殿の入り口につながっています。
階段があって。
拝殿の入り口から見えない金色の光の粒が溢れ出てきているような、圧倒されるオーラがあります。
…参詣者も多くてまさに満員電車に乗り込まんとするかといった状態、こちらにも圧倒されます 笑。
通行口は三箇所。
左側は出口専用と指示されます。
人の多さにも圧倒されますが、この入口の豪華なこと、豪華なこと✨✨
これでもかというくらいに金色に光り輝いております。
すし詰め状態の拝殿内。
かつてはここで解説する係員の方がいて、ここで解説を聞いたのち、ありがたい御守のご紹介を賜るのがいつものパターンでありました。
こうした〝ザ・日光〟的な販売方式はやめたのでありましょうか。
(一本灯籠)
栃木県日光市【清滝神社】さん
夫が、日光でずっと行きたいと思っていたところがあると言い、向かったのは『清滝(きよたき)』。
ところが。
彼がナビにセットしたのは『清滝(きよたき)神社』さん。
その滝をお守りくださる 神さま、神社さんをお詣りするところから始めるなんて、自分の夫ながら、すごく良いこと。
良い心がけだなぁと内心感心しつつ…。
…ただその神社さんを見逃して通り過ぎてしまうところも、さすがわが夫 笑。
Uターンして。
Uターンしたおかげで、反対車線を走行中には気付けなかった駐車場の存在もわかり、もしかしたら、この神社さんにおられる神さまのお導きでありましたでしょうか。
規模こそさほど大きくはありませんが、広い境内がそれはそれはきれいに掃き清められ、大変あたたかで優しい気に満ちた、居心地のよい神社さんでありました。
御神木、でありましょうか。
大きな大きなイチョウの木です。
手水舎があります。
少し変わった手水鉢です。
すぐそばを小さな小さな、川というのもはばかられる水の流れがあります。
これは…。
とても心の癒やされる、そして心落ちつく境内であります。
朱色に花青 青銅色の美しい拝殿です。
古伝によれば。
弘仁十一(820)年 弘法大師空海が来晃し、滝尾・寂光・生岡等と共に当社を創建した。
社名は、社殿背後のお滝を含めた地形が、中国大鷲山の清滝に似ているところから命名されたという。
往時は、二荒山登拝の要路として、又、密宗修験の霊場として大いに栄えた。
お滝の御神水は、古来生命保全の霊水として広く信仰されており、又社前の池は、応永十二(1406) 鎌倉管領の追討を受けた 常陸国小栗城主小栗判官満重を恋慕する美女照手姫が判官の無事息災祈願の際に洗顔したところから〝照手姫の化粧池〟と伝えている。
御祭神は、大海津見神さま
配神は、高龗神さま
二荒山三神さま
(大己貴命さま・田心姫命さま・味耜高彦根命さま)
八坂神さま
稲荷神さま
特殊神事 古式 湯立神事
とありました。
まずは、何をおいてもお詣りです。
社殿のすぐ前を護られる狛犬さま。
大きさは小さめながら、迫力ある眼光と美しい肢体です。
すっかり魅了され、しばし周りをウロウロと♡
ん?
社殿の横に立て札が…。
清滝の滝とあります。
(続き)
小さな小さな、でもその水は大変美しく、そして趣きのある池がありました。
…照手姫さまの化粧池、でしょうか。
前レスで書かせていただいている
『…鎌倉管領の追討を受けた 常陸国小栗城主小栗判官満重を恋慕する美女照手姫が判官の無事息災祈願の際に洗顔したところから〝照手姫の化粧池…』
のこと。
もしやご利益で若返ったり、美しくなれたり、…しなかったのは、車に戻って見たバイザー裏のミラーですぐにわかりました 苦笑。
そもそもがそのようなご利益があるなどとは一ミリも書いてはありません。
ただの私の願望でありました。
落ち葉と、何の囲いもない池のほとりであることとから、ズルっと足を取られそうなところを歩いて。
御本殿の傍を拝しながら。
小高い山?
あ。
た、滝だっ!
こんな社殿のすぐそばに…。
なんとありがたくも神々しい光景でありましょう。
しばし滝を見上げて。
かつて空海上人がここを訪れ、この滝を見上げ、清滝、と名付けたことに思いを馳せ。
…なるほど。
『清滝』は『清滝神社』さんの内にありましたか。
それはナビに清滝神社さんをセットするはずです。
清らかな滝からの流れを追うように歩いてまいりました。
美しい水です。
流れのゆるやかなところでは、まさに鏡のように、木々や青い空を映しています。
そんな豊かなものを心にお授けいただいて…。
もう一度、社殿にご挨拶にまいりますと、お書き置きの御朱印が柱に掛けてあることに気づきました。
社名の記されたものと、
見開きで筆で描かれた龍の絵のあるものと。
手書きの龍がとてもかわいらしくて、迷わず見開きの絵入りのものにいたしました。
そおっと。
破れたり折れたりしないように。
あれ?
次に出てきた龍の絵は、私が手にしたものと全く異なったものです。
うわあぁ✨。
すっかり嬉しくなった私。
宮司さまの心こもった、一枚一枚思いを込めてくださった素敵な、素晴らしいおもてなしでありました。
宮司さまの心こもった、一枚一枚図柄の異なる龍の絵の描かれた御朱印。
一枚一枚が手書きであることから、この御朱印の画には著作権があるものと考え、こちらにあげることは控えておくことにいたしますが、この龍の絵、墨でスッと迷うことなく筆を走らせて描き、色もおつけになられたものです。
そんななんとも心のこもったおもてなしを受けて、後ろ髪を引かれる思いで車に戻ります。
あ、そうそう、お隣に小さなお堂があったので、行ってみなくては。
【清龍寺(せいりゅうじ)跡】と書かれています。
お寺さんがあったんだぁ…。
たしかに。
清龍神社さんは弘法大師さまが訪れて建立された神社さんでありました。
その横にお寺さんがあったとて、なんの不思議もありません。
【清龍寺跡(清龍権現別当勝福山金剛成就院清滝寺)】
弘仁十一(820)年、沙門空海上人(弘法大師)により創立。
その後円仁(慈覚大師)によって天台宗に改宗した日光山満願寺(今の輪王寺)別院として、蜜門灌頂の道場であった。
お堂の前に設置された案内板に書かれています。
このあと。
夫がナビに入力し向かったのは…。
『清龍(せいりゅう)寺』さんでありました。
栃木県日光市【清龍寺】さん
栃木県日光市の【清滝(せいりゅう)寺】さんへ参拝させていただきました。
少し細くなった急なカーブの道を曲がった先を少し行くと、すぐにお寺さんが見え、お寺さんの門前を通り過ぎるとすぐに駐車場がありました。
清龍寺さんの前のお宅の方が、きびきびと洗車をされておられました。
動きに無駄がなく、車のお好きな方なのだろうなと好ましく思いながらそばを通りますと、目があい、お互いにご挨拶したその後に、
「お寺にご用ですか」
とおっしゃられました。
お若いのにコミュ力のおありになる方だなぁと感心しながら
「はい。清龍寺さんはこちらから入るのでよろしいのでしょうかね」
こちらでは曲がってすぐのお寺さんであるためなのか、丁寧に案内の立て札が二箇所ありました。
「ええ、どちらからでもお入りになれます」
とその好青年がおっしゃるのを聞き、
お礼を申し上げて、すぐそばにある手前の入り口から入らせていただきました。
…あれ?
庫裏?
しかしながら。
近年一見一般的な家屋に見える御本堂があります。
ここは慎重に見極めましょう。
「…奥、かしらね?もう一つの入り口から入るのが正しかったかな」
そんなことをブツブツと話していると、先ほどのお若い方が作業の手を止められて、やって来られました。
「何かご用がありますか?」
え。
もしかしてお寺の?
まさに洗車用のコーディネートに身を固めておられ、ましてやお寺の敷地内でもなかったため、お寺の関係の方とは思いもせず。
それにしても作業の手を止めてまでお越しくださるとはありがたい。
「お参りさせていただきにまいりました。
それと。
もし御朱印をお授けなさっておられるなら、お授けいただきたいのですが…」
「ああ、大丈夫です。ただ少し時間をいただきますが大丈夫でしょうか?」
…ん?
この話し方…。
この話の展開…。
もしかしてお坊さんで?
内心びっくりする私どもを庫裏へと招き入れてくださいました。
広くて綺麗に整った玄関です。
と、そこには…
(続き)
前レスの可愛らしい画像は
しょうぐうさん❣️
天台宗のマスコットキャラクターです。
『一隅を照らす』からの
〝照隅〟さん、なのだと思います。
かの総本山である比叡山でのイベントではこのしょうぐうさん(の着ぐるみ)が境内を歩くこともあるといいます。
一度で良いので歩くしょうぐうさんにお会いしたいものであります。
あれ?
…て、天台宗?
たしか空海さんが開かれたお寺さんなのでは…。
ま、まぁ、長い歴史の中宗派が変わることはままあるようです。
ましてやここ日光にあっては、輪王寺さん、殊、天海上人の影響もありましょう。
それはさておき。
この〝しょうぐうさん〟のぬいぐるみさんにお会いできたのも初めてのことでありました。
…可愛くないですか♡
しかも小さな木彫りの火鉢や鉄瓶、茶器、なんてセンスの良い♡
と、しょうぐうさんで騒いでおりますが、このときお参りがまだでございます。
洗車のお手をとめて、御朱印帳への墨書きをしてくださるということで、先に庫裏へとお邪魔しておりました。
庫裏から境内を通って。
途中、池がありました。
池の向こうにお不動さまがおられます。
手水舎があります。
美しい水が絶えずあふれ出ています。
湧き水、でしょうか。
そして御本堂。
赤いお堂です。
格子にはめられたガラスに、深まりゆく秋が映ります。
この清滝寺さんはかつて明治の廃仏毀釈により廃寺となったといいます。
現在清滝寺さんが建つ場所にはかつては『円通寺』(=長興山福聚院円通寺。明治四年廃寺)さんが建っていたということです。
こちらのご本尊【千手観世音菩薩】さまは、『日光山中禅寺』のご本尊の末木で彫られたものと伝わり、(距離としてはだいぶ離れてはいますが)中禅寺の前立ち本尊の役割を担っていたといいます。
男体山に建つ中禅寺はかつては女人禁制であったため、この清滝寺は女性の参拝者のための札所として栄えたといいます。
しかし、明治時代となり廃仏毀釈の動きを受けて、円通寺さんと共に廃寺となります。
それを明治四十二年、足尾銅山採掘に本格的に着手した『古河電工』さんが、足尾への進出という大きな力を得、町も潤い、復興し、この清滝寺さんの再興とあいなったようです。
その際清滝寺さんを円通寺さん跡に建て、合併再興としたようです。
(続き)
御本堂のわきに苔むした石仏さまが並んでおられます。
苔でもとのお姿がわからなくなっています。
青々としたお髪とお召し物のように苔が…。
ちょっと可愛らしくてクスッと笑った瞬間、
…失われた手に気づいて言葉を失いました。
それでも微笑んでくださる石仏さま。
御本堂わきのつきあたりにおられた御仏さま。
遠くから見るとまるで内陣におられるご本尊さまのようであります。
ワクワクして近づくと…。
やはり痛々しい傷跡が。
思わず声が出ました。
…そうでした。
こちらはあの維新で廃寺とされたほどのお寺さんでありました。
苔がまるで人間の愚かな過去を静かに覆い隠してくれているかのようにも思えます。
御仏が意思をもって、あえて苔をお召しになられたかにも思えてしまい、切なく、そしてありがたく…。
…愚かでごめんなさい。
こちらのお寺の御詠歌は
『おおいなる 仏の御手のちからにて 濁る心も澄む清滝』
とのこと。
より深い言葉のように思えて、心にささります。
(続き)
御本堂の横から再び御本堂の前へ。
おや?
…舟?
舟に乗る御仏、でしょうか。
前にまわってみますと、なるほど舟に乗られた如意輪観音さまてありました。
水の豊かな地であります。
石工さんの遊び心、でしょうか?
それとも有事の時、如意輪観音さまが舟で移動なされるように?
その前には美しく並ばれた六地蔵さま。
一体だけ少し大きく彫られたのでしょうか?
視線を少しまわしてみますと何やらお堂があります…というよりは覆屋ですね。
額が掲げてあります。
『しらみ地蔵』さま。
…し、しらみぃー?
まさかのしらみ。
まさかあのしらみでしょうか?
紹介文の書かれた案内板があります。
『日光市指定有形文化財
石造地蔵菩薩坐像
年記銘から天正年間(1573~1591)に製作されたことがわかり、この時期の日光における石仏研究の貴重な資料である。
像容は近世の坐像と比較し、肩が極端になで肩となっている。袈裟の文様線は単純で、首部の襟ぐりが深い。像の厚みもあり量感あふれるが、全体的に簡素である。
かつては清滝神社付近の路傍に祀られていたと伝えられ、この前で浮浪者がひなたぼっこをしながらシラミ取りをしていたといい、そのことから『しらみ地蔵』と呼ばれている。
平成18年3月3日指定
日光市教育委員会』
えっ…。
そ、そんな命名?
なんだかとてもバチ当たりな気がするのは私だけでしょうか。
ひなたぼっこをし、虱を取るのが、長閑な光景、といえば光景でもあり…。
虱を取るのを見守るお地蔵さまが、イヤなものをとり除くのを見守り、それをとり除けるようお力を貸してくださるというご利益へとつながったようです。
うーん。
…空が白んでくる、とかじゃなくて、虱?
ちなみに。
このしらみ地蔵菩薩さまは関東百八地蔵尊霊場の四十九札所のお地蔵さまとなります。
入り口に大きな石塔がありました。
【坂東十八番】
…坂東三十三観音霊場のこと?
…こちらは違うはずですが。
坂東三十三観音霊場の十八番札所は…、
あ、なるほど、…中禅寺です。
こちらはかつて中禅寺の前立ち的なお寺さんでありました。
中禅寺さんに詣でたくとも許されない、女性たちが、せめて思いは中禅寺へと馳せることができるようにと、このような石塔を建てたのでしょうか。
栃木県足利市【薬師寺】さん
しばらく前となりますが栃木県足利市にあります【薬師寺】さんへ参拝させていただきました。
初めてのお寺さんです。
山門の前に立つと、
一瞬立ち止まって見返す斬新なデザインの御本堂がお出迎えくださいました。
昭和の時代建てられた鉄筋コンクリート製の御本堂には、往々にして既存のお寺さんの建物の概念を覆すものをみることがあります。
一礼し境内に足を踏み入れると、ひだりてにある昔ながらのお堂に何やら人が集まっています。
実はこの日こちらの普段は非公開の薬師如来さまが公開していただけるとのことでありました。
足利市の文化財公開日でもあったのですが、来年春、修復のためしばらくこちらのお寺に不在となることもあって、この日から申し出をすれば拝観させていただけることとされたようです。
逸る気持ちを抑えて、抑えて…。
まずは御本堂へと向かい、ご本尊さまにご挨拶を申し上げます。
御本堂の戸も開けてくださっておられ、ご本尊さまに直接お目通しいただくことができました。
ありがたいことです。
その後、焦る気持ちを抑えて、走らず、薬師堂と思われるお堂へと向かいます。
こちらの薬師堂は昔ながらの木造のお堂であります。
薬師堂は思った以上に人が集まっていました。
そんな人と人の隙間から、見えないお薬師さまに手を合わせます。
隙間から見える僧の座られる座の彫物もすばらしい!
どうしても下の方しか見えないので、目にはいったのは畳。
畳敷きのお堂は今は珍しい気がいたしました。
しかも新しい、まだ緑の残る畳です。
護摩壇が組まれています。
御護摩が焚かれるということですと殊更畳敷きは珍しいかもしれません。
そしておばさんは少しずつ更なる人と人の隙間を探して移動するのでありました。
あ。
立派な御厨子の中にお薬師さまのお姿が見えました。
柔らかな眼差しと、お姿を拝した瞬間、包み込んで護ってくださるようなお力を感じるお薬師さまがそこにおられました。
そしてさらには。
一見、昔の家庭によく見られた部屋の二辺を使って祀った神棚を思わせるような棚があり、そこにはお像がたくさん祭られている、…ように見えました。
中で説明をしてくださる方がおられるのが見えました。
作務衣姿であられます。
ご住職さまでありましょうか。
(続き)
栃木県足利市に建つ川崎薬師寺さんは、お若いご住職さまに、新しそうなお寺さんですが、実は建久元(1190)年に創建されたお寺さんだといいます。
もとは天台宗のお寺さんであったものがおそらく江戸の時代に改宗されたようだとお話しされていました。
古くから伝わる伝統を大切にしつつ、新しい風を取り入れていこうとされるお姿に頭が下がります。
このたび拝観させていただきましたお薬師さまは来年以降修繕事業を控えられているとのことです。
江戸時代に補修された部分の塗膜を剥離させ、欠損部分の再建も行い、平安時代のお姿を取り戻す修繕となるとのことでありました。
ちなみに。
このお薬師さまは通常は非公開なだけで、秘仏ではないとのこと。
真の秘仏の御仏は小さな御厨子に納められたお薬師さまと伝わるとおっしゃっておられました。
ご住職さまにおかれましては、大変丁寧なご説明をいただきありがとうございました。
(続き)
その後、思ったよりも登った先に、…三列に整然とお並びになられた観音さまがおられました。
そのお姿は同じ大きさで統一されており、たくさんの尊像が並ばれる様子が目に入った瞬間、まだ斜面にいながら思わず手を合わせたくらいに、神々しい光景でありました。
【西場の百観音】
勧行寺(廃寺)跡に石造の観世音菩薩像が百体、南面して三段に整然と並んでいる。
これは、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の各霊場の観世音菩薩像を勧請して、造立されたものである。
造立時期は記年銘から寛政二(1790)から同十年にわたるものと推定される。
一部に若干の損壊が見られるが全体的に保存も良く百体整然と立ち並ぶ状態は偉観であり、西国・坂東・秩父の霊場巡礼の功徳を分かち合おうとした勧行寺僧侶の布教姿勢と、それに呼応した村人の信仰の姿を知る上で貴重な資料である。
…足利市教育委員会
…前回のレスと分かれてしまったのでお気づきになられるのはむずかしくなってしまい申し訳なく思いましたが、
前回のレスでは『百番観音』
そして今回のレスでは『百観音』と、それぞれ異なる表記がなされているのです。
これはおっちょこちょいでガサツな私の写し間違いではなく、書いた先、この案内板を設置したところがそれぞれ異なっている事に由来したものであるのです。
前レスのものは『西場町文化財保存会』さまが、
今回ご紹介しているものは『足利市教育委員会』が設置したもの。
当然書き手が異なって、そこに込められたものに違いがあってのこの違いになっているのだなと私はある種の感動をすら覚えました。
前者は自分たちの住まう地域の先人が、…おそらくその中にはご自分の祖先に当たる方が奉納されたという方が多くおられる、そんな方々の中のお一人が書かれたもので、後者は市の文化財課の方が学術的なご意見と地元の方々のお話を元に、あるいはその専門の方が書かれたもの、という事です。
かつてご住職さまが発案された観音さまの造立に深く感銘された、ご先祖さまが、もしかしたら苦しい生活の中にあっても、どうしてもここに観音さまを奉納したいと思われた方々がここを誇りに思って書かれたものと、貴重な歴史的資料、文化財と思って書かれたものはこうした違いを生じるものなのだなぁ…この一字の違いが私にはそう思えました。
(続き)
おおっ✨
御手。
御手ひとつを見てもなんとしなやかで美しい御指✨
合掌なさるために自然に曲げた手首の美しさ。
まったく力みのない御仏の肩のラインの美しいことといったら。
衣から見える素の御御足。
なんと尊くて、そしてお美しいことでしょう。
(何回美しいと…笑)
彫られた石工の方が何人かいるよう思われます。
お顔にその違いがみられます。
同じ大きさに切り出された石があって、
同じ形、大きさの舟形光背という取り決めをした上で、
百ヶ寺観音霊場のそれぞれの観音さまを石工たちが彫ったのであろうと思います。
…おそらくは石工同士がそれぞれ自らの腕の限りを注ぎ、その上で腕を競うといったこともあったのではないかと私は思います。
どの観音さまも、すべて美しいお姿をされておられます。
彩色の跡が残るものもありました。
この観音さまが建立され一同に並んださまはさぞ神々しいものであったことでありましょう。
奉納された方々の思いが伝わってまいります。
また…、何度でも行きたいと思う、百番観音さまでありました。
ここに載せる一枚をどれだけ時間をかけて選んだことか…
(続き)
そこには暖かくおだやかな光に包まれた阿弥陀如来さまがおられたのです。
お姿を前にしてすぐに、もう自然に身体がそうすることが当たり前とばかりにそこに正座し、手をついて頭を深く下げる私がおりました。
そして。
頭を上げた私の目の前には香炉がありました。
「お線香をあげさせていただいてよろしいでしょうか」
先ほどの作務衣の女性に声をかけさせていただきました。
すぐに女性は快くそこにあるろうそくに火を灯してくださいました。
大変良い香りのお線香でありました。
あらためて阿弥陀如来さまのお姿を拝します。
なんとおだやかなお姿でありましょう。
なんとおだやかな癒しの空間でありましょう。
それにしても大きい。
大きな御像です。
入った瞬間には丈六?と思ったくらいです。
ですがよくよくみるとそれほど大きくはありません。
のちに見た資料によると像高九十七センチ、とあります。
ただ、それはおそらくは阿弥陀如来さまのお座りになられた御姿の像のみの高さでありましょう。
光背も大きく、その高さはあきらかに坐像の像高を超えています。
台座は…どうかしら。
私の感覚では台座すらも含まない、まさに阿弥陀如来さまだけで九十七センチあるように思えます。
ただ、いつも申し上げております通り、私、こうした目測の能力が皆無な人間で。
まぁ、そのあたりは置いておいていただいて、かなり大きな坐像なのだなぁと思ってやっていただければ間違いありません。
あれ?、お顔に何か?
表面の剥落、剥離でありましょうか、まるで瘡蓋のように見えます。
…それが痛々しく思えたのは私一人でありますでしょうか。
左右には向かって右に千手観音さま。
左には馬頭観音さま。
…あれ?
この三尊って…。
天台宗のお寺さんですし、もしかしたら?
「日光の輪王寺さんと同じ御本尊さまですね」
と私が申し上げますと、先ほどの女性の方が
「あら、お気づきになられたのですね。それはそれは」
とそれは嬉しそうにおっしゃいました。
あの大きくて金色に光り輝く輪王寺さんの三仏堂の仏さまと同じでありますから。
あのインパクトは一度拝すれば忘れません、…って私、もう何度参拝させていただいたことか。 笑。
配置もまさに日光の三仏堂と同じであります。
(続き)
御朱印をお願いいたしましたところ、そのまま女性は御朱印帳を手に御本堂の脇間にあった文机に向かわれ、墨書を始められました。
…もしかしてもしかすると、この女性こそがご住職さま?
私、失礼は無かったかしら。
あ。
夫はこちらで思いっきり失礼をしたんです。
御内陣まで入ることまでお許しくださり、
失礼が無いよう失礼の無きよう、御簾に頭をぶつけたりしないように、気をつけて、気をつけて…。
上にばかり気をつけて、御内陣のほんの少し高くなっている段差に気づかず(本当は昇っているので、正しくは忘れて)、
すっ転んだんです。
ええ、御本堂の中で。
隣で大きな異音がすると同時に、真横に並べられていた椅子が倒れて、そこに夫の足があるびっくりといったら!
一瞬何が起きたものかまるでわかりませんでした。
理解するまでちょっと時間を要したくらい。
でもお寺の調度や椅子を傷付けることなく、本人も(痛みはあったでしょうが)無事で、これぞまさに阿弥陀如来さまのお力のおかげ、千手観音さまの御手の救い、馬頭観音さまの功徳でありましょう。
(続き)
お寺さんのことはあまり調べることなく参拝し
神社さんは最低でも御祭神、ことに主祭神さまは調べられる限り調べてから参詣する
それはこの珍道中を歩きながら、いつしか作ったマイルール。
お寺さんをないがしろにしているわけなど毛頭ありません。
神さまに失礼なきようと思ってのことからではあります。
それはひとえにビビりだから、でもありました。
御仏は救いと諌めと、何より見守ってくださる存在であるとの、またまた私の勝手な思い込みもあり、そうした存在のもとへ訪れ、日ごろの悪しき行いや考えをお詫び申し上げ、都度身を正す機会を与えていただき、
そして日頃の感謝を申し上げる存在としてとらえているので、どの御仏にもそうした考えのもと訪れるので良いかと思うようなりました。
…なにより。
ときめきも欲しい 笑。
あまりにも詳細に書かれたものを読んでしまうと、出逢いの煌めきが少しくすんでしまう気がして、
神社さんは最低でも主祭神さま、
お寺さんは宗派すら知らぬままに
参詣させていただいております。
まぁ、行ってから今回のように
(ああ、もう少し調べてから来れば…)
と思うことも多々ありますが、その愚かさも私らしいことで。
そうして来年もまた変わらぬ珍道中を続けるのであります。
閑話休題。
話を正善寺さんへと戻しましょう。
なるほど。
こちらは一目でわかるくらいに古墳の上に墓地があります。
その墓地の麓を、円墳の周りを、不動明王さまと童子さんたちが護っておられます。
十二支の守り童子さんでもあるようです。
私の守り童子さんは…
秘密です 笑。
この墓地のそばに鳥居がありました。
弁天宮、とあります。
下っています。
…下り宮?
(続き)
石造りの羅漢さまたちが語らう玉砂利の敷かれた場。
その奥に建てられているのが五百羅漢さまのお堂です。
普段は閉ざされているという扉は開け放たれておりました。
もっとも申し出れば普段のときでも扉を開けてくださるとのことでした。
近づくにつれて少しづつその様子がわかってまいります。
おおっ!
こ、これは!!
これは凄い!
思わず息をのみました。
ピラミッド型の大きなひな壇が、狭い御堂の中央に設置されています。
というかほぼその段でいっぱいです。
壇の最上段には阿弥陀如来さま、でしょうか。
脇侍の菩薩さまがその前に立たれます。
こういったときの百であるとか五百というのは、『とても多くの』といった意味合いでありますので、百とあっても必ず百はおられないこともありますくらいです。
長い年月の間に失われてしまうこともありましょう。
ですがこの五百羅漢さまの像は五百を超えるといいます。
ただただ圧倒されます。
しかしながら羅漢さま好きの私。
ハッと我に戻って、出来うる限りその一体一体の羅漢さまを拝見したいとあらためて見上げました。
木造の、まさに大きい雛人形くらいの羅漢さまが、それぞれの異なった表情、異なった思い思いの姿勢で刻まれ並べられています。
うーん♡
ん?
他の羅漢さまのお像ではいかにも人間臭く、怒っておられたり、居眠りしておられたりするのですが、こちらの五百羅漢さまの像は、そのほとんどが祈っておられたり、黙想されたりされるお姿が多いような…。
よくよく拝見いたしますと、やはり抱き合っておられたり、まどろんでおられたり、にこぉ〜っと笑っておられたりする羅漢さまもおられるのですが、大多数の像が静かに椅子に座っておられるのです。
いかにも人間臭く、…まぁ羅漢さまたちはあくまでも人間なので、人間臭いどころではないのですが、ね、…怒ったり、泣いたり、居眠りしたりという羅漢さまに親近感を抱く私といたしましては、ちょっと残念だったりも…。
とはいえ本来の羅漢さま、正確には阿羅漢さまというのは、『もはやなんら修行のいらない存在』
なのだそうですから、そうした泣いたり怒ったりする羅漢さまの方が本来は特殊なのだとは思うのです、がね。
この感情を一言で言い表わすならば、…寂しい?
(続き)
足利市の徳蔵寺さんの五百羅漢さま。
いろいろなお顔、いろいろな表情、いろいろなポーズの羅漢さんがおられます。
ユーモラスで可愛らしい、と撮らせていただいた羅漢さま、あらためてよく見たらお手が欠損されていました。
保存状態が良いとはいえ、やはり年数の経つ木彫の御像、淋しいけれどそんなこともありましょうか。
ピラミッド状の段に五百体。
お雛様とは異なりずっと数百年このまま祀られているのでしょうね。
煤払いくらいはするにしても、一体一体をおろしてお掃除とかしようものなら…戻す場所かわからなくなりそうです。
えっ?
そんなのは私だけ?
お堂に対してほぼいっぱいの台、羅漢さまをおろそうにも堂内にはスペースはありませんし、ね。
上の方の羅漢さまをおろそうにも、上の方は当然奥まっておりますから、脚立をかけてもお降ろしするのは難しそうです。
続いて。
お隣にあります千庚申の塔が収められている覆屋へと向かいました。
(続き)
千庚申堂。
千庚申塔の覆屋です。
とはいえ千基庚申塔、もしくは青面金剛さまが祀られているわけではありません。
初めての参拝、初めて拝観させていただいておりますがこれが実に凄い!
庚申塔を彫るにあたって必要な要素全てを彫り込み刻んだかのような立派な塔が一基、祀られているのです。
彫りの見事なこと、見事なこと!
そしてさらには保存状態が大変良い。
大きく
『千庚申』
と彫られた文字のほかに、文字が彫られているのですが
庚申 庚申 庚申…
と
ひたすら〝庚申〟とのみ彫られているのです。
〝竿石〟というので良いのですかね、この石の部分全てに
〝庚申〟とただひたすらに彫られており、これがなんと千字あるのだといいます。
千字〝庚申〟と彫られているので〝千庚申〟。
一字一字が丁寧に丁寧に彫られています。
気が遠くなるような気がいたします。
そんな中、一部朱が入れられています。
これにはどんな意味かがあるのでしょう。
墓石の裏面の建立者の名が赤いのはその方が生きておられる証であるといいますが、この千庚申には当てはまらない。
…もしかして。
…あくまでも私のひらめきに似た推測でしかありませんが、こうして置くことで験を担いだとか?
この、一部に朱を入れることで、この千庚申の石塔はまだ未完成であると。
完成したあとは崩壊していくという世の常を憂いての…。
そう、あの日光東照宮にみられる逆さ柱のような。
まぁ、私、こうした石造物とかにも全く造詣がございませんので、あくまでもそうした考えに至っただけで、なんの根拠もありません。
あくまでもど素人のひらめきに過ぎません。
(続き)
青面金剛さまの彫られた石柱は笠を逆さにしたような台座(…と呼ぶのでよいのでしょうかね?)に乗るように祀られています。
この部分にも何やら模様が彫られていますが、雲を表現したもの…なのかもしれません。
その下には梵字が、やはり四面ともに彫られています。
青面金剛さまの彫られたメインの面には、青面金剛さまの両脇に立つ人物も描かれています。
青面金剛さまに仕える童子さんでありましょうか?
また、青面金剛さまのおられる竿石(この呼び方が正しいかもよくわかりませんが)の両側面には二体ずつ計四体の鬼神が彫られています。
スペースの関係もありましょうし、技術ある石工への支払い金額も嵩むといった現実的な問題もありましょう、そこまで彫られている青面金剛像を今まで拝したことがありません。
塔の正面一番下には三猿と二羽の鶏か彫られています。
この三猿の可愛らしいことといったら♡
しかも鳥の羽、お猿さんの毛の流れまでリアルに丁寧に彫られています。
この、正面以外の面には何が彫られていたかというと、この塔のいわれ。
細かな文字がぎっしりと彫られ、中には人名と思しきものも含まれておりました。
徳蔵寺さんのHPを拝見いたしますと、銘文を写されたものが載っていました。
高さ262cm.
銘 寛政12年庚申12月
記述文:浅草寺別当代法印権大僧都淵海。
銘の概要
塔の建立者 長 真勝という人である。
(徳蔵寺さんのHPより)
なんでもこの長真勝さんという方は、足利市の廻船問屋さんであったようです。
足利市というのは川の多い街。
かつては廻船問屋さんがあって、この町の繁栄を大きく担っていたのですね。
…ちなみに。
〝かいせんどんや〟と入力しましたら『海鮮丼屋』となりました 笑。
そして銘文に出てくるようにこの塔は『庚申の年』に造立されたもので、庚申塔、ことに青面金剛さまの彫られたものは〝庚申〟の年に当たっているものが大変多いです。
それにしても、262センチ!
この細かな彫りといい、千字の庚申の文字といい他に例を見ないと思われます。
それは言い換えると足利という街の繁栄ぶりと、この廻船問屋さんの繁栄ぶりがよくわかるものであるということに他ならない、です。
私信。
昨夜 九州四国で津波を伴う地震が発生いたしましたこと、被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。
お邪魔させていただいておりました方のスレッドにも九州の方がおられるため、お見舞いを申し上げにうかがったところ、ほぼクローズ状態となっており、レスすることが出来ず、このようなおばさんの独り言のスレをお読みではないかとは存じてはおりますが、せめてこちらからご無事でありますようお祈りし、お見舞い申し上げます。
またお若いスレ主さんにおかれましても、何かあったのか大変心配しておりますが、こんな時、何事かがあっても連絡の取りようがないのがネット上でのお付き合いであるのだないと、歯痒く、そして寂しく思うのでありました。
スレ主さまのご無事をお祈りしております。
本来私のような年配の者がお邪魔させていただいているのもおかしいくらいのスレでありましたので、再開されても今後はお話させていただくのも控えたいと思います。
長いことお世話になり本当にありがとうございました。
昨日は暦のうえでは、〝大寒〟、一年で一番寒いころといわれる日でありましたが、群馬県は大変暖かい春を思わせる一日でありました。
そんな暖かさに、桐生市の菱町まで出かけてみました。
あ あじさいの山寺 普門寺
だるま市
菱町カルタの看板のある【普門寺】さんです。
あじさいのお寺さん、なのですかね。
時期が異なるのもあって特に紫陽花の木と思しきものは見当たりませんでした。
山寺とあるだけあって石段の先に仁王門が見えます。
仁王門をくぐると石仏さまがお出迎えくださいます。
仁王門の裏側には、大きく傷付いた石仏さまたちがひっそりと並んで祀られていました。
気づかない方は気づかない、そんなお祀りの仕方は、そのあまりにも傷付いたお姿に驚かれる方に配慮したものと私には思われました。
傷付いた石仏さまも大切にお祀りくださるお寺さんにいたく感動し心より感謝いたしました。
さらに進んでいくと…。
やはり明らかに台座と石碑が異なるものがありました。
台座の三猿さんのお姿から、かつてはもしかしたら青面金剛さまがおられたものとも考えられます。
もしそうならば、この三猿の見事さといい、保存状態の良さといいとても立派な青面金剛さまであったかもしれません。
あくまでも私の妄想にすぎませんが、これもまた諸行無常ということでありましょう。
石段の長さから、でありましょうか、結構な人数が休める休憩所がありました。
休まず進みます。
みぎてに六地蔵さまがお祀りされておりました。
文政四年、とあります。
驚くほど状態の良い石仏さまでありました。
傷付いた石仏さまも大切にされるお寺さん、御仏のご加護があるのでしょうか。
さて先へ。
…!!
な、なんと!
道が二手に分かれています!
はて、いったいどちらへ?
道標はありません。
困って石段二つを眺めてみますと、少しカーブした石段の先にある建物が御本堂を思わせる屋根であります。
こちら、で行ってみましょう。
間違っていたらごめんなさい、と内心。
まあ、そんなことでお怒りになられる御仏はおられないでしょう。
(続き)
『保輪華』
輪華とは仏教で万物を生成する要素のこととありました。
それを保つ、ということ…?
うーん、もしかしたらどなたか仏さまの別称だったりするのでしょうか?
検索をかけてもなかなかhitしません。
輪華についても、なんと命名のためのサイトでようやく得た情報であります。
桐生仏教会が発行された、
平成の合併以前の桐生市内のお寺さんの紹介された小冊子があり(いま、こちらはネットでも見ることができます)、
それを見てみますと、
御本堂のご本尊さまは聖観音さま、
あともう一体、
観音堂に祀られる十一面観音さまがおられる、とのことであります。
こちらのお堂にお祀りされている御仏が十一面観音さまであることはわかりました。
では十一面観音さまの別称?
…しかしながらそれもまた、素人の検索では調べることができませんでした。
昨日の参拝がちょうどお昼どきに当たってしまい、お聞きするのは失礼なタイミングとなってしまい、そのまま帰宅してしまいました。
ところで。
もう一つこちらのお堂にかかる木札に、なんとも興味深いものを見つけました。
それは
『坂東 足利 第八番札所 無畏山 普門寺』となっているもの。
こちら桐生市の菱町はかつては栃木県でありました。
その頃からの札所であったということなのでありましょう。
足利坂東三十三観音霊場を調べてみたところ、七番札所は毎月のお護摩に参列させていただいている鶏足寺さんでありました。
他の札所はそのほとんどが足利市にあるお寺さんで他の二ヶ寺が佐野市。
令和三年に足利仏教会が発足した足利三十三観音霊場とはまた別の観音霊場があったのですね。
坂東足利観音霊場の第一番札所はいまは無住となってしまった『浄因寺』さんがあたっておりました。
次に鶏足寺さんへ伺った時にお聞きしてみたいと思います。
昭和となって県を跨いでの合併は、以前調べたところ、全国でも大変珍しいケースで十件ほどであったと記憶しております。
そのうちの二件が群馬県桐生市への合併であったと知って大変驚いたものです。
生活圏としての利便性からの合併であったようですが、いままでの長い歴史もあること、
いろいろ複雑な思いもあったかと思います。
そんな名残りをみた気がした、足利の札所である事実でありました。
【もう一つの】
群馬県桐生市のお寺さんで…今は御朱印で有名なお寺さんに、大々的に【日限地蔵】をうたう観音院さんというお寺さんがあります。
もともと桐生市近辺では日限地蔵と言わないと伝わらないほどであったようですが、今はさらにお地蔵さまをキャラクター化したり。
…決してそれがイメージアップとはなってはいないよう思うのは私だけ?
そんな群馬県桐生市の広沢町というところにも『日限地蔵尊』さまがおられると、親しくしていただいている元同僚さんから聞き、そうと知るとムズムズしてしまう私。
ヒントは広沢町にある『大雄院』という寺院のそば、ということ、なのでまずは大雄院さんをめざします。
国道50号線を少し入っていくようです。
車が絶えず走る片道二車線の道路からほんの少し入っただけなのに、のどかな人々の暮らす住宅地と変わります。
その一画に、『はらぺこあおむし』の遊具のある広場がありました。
どうやら保育園の遊び場のよう。
反対側に園舎があり、園舎に続いた園庭もあります。
なんだかワクワクするような保育園です。
えっ?
なんと園庭に立派な、屋根の付いた土俵があるではないですか!
こう書くと和の園庭?と思われるかもしれませんが、カラフルな大きなお花のモニュメントや遊具もあって、それらが見事にマッチしています。
保育園にみとれていると、目の前に一見してお寺さんの建物がまるでそびえ立つように見えてきていたではないですか。
結構な高さまである石垣の上です。
石垣の高さにビビり、さらにはそこにそびえるかのように立つお寺さんに畏敬の念を抱きました。
(続き)
まず大雄院さんをお詣りさせていただきます。
見上げてみた以上に高く積まれた石垣に少しまたビビりながら横にも長いコンクリートの階段を登ります。
楼門をくぐろうとするとそれはそれは色鮮やかな龍が睨みをきかせておられます。
「お参りをさせていただきたくどうかお通しください」
そして。
門をお護りになられておられます方々にもご挨拶を…。
!
仁王さまではなく、天部の神さまがお護りです。
それも四天王さまが揃ってお護りになられておられる!
同じ桐生市のお寺さん、梅田町にある『鳳仙寺』さんも天部がお護りで、宗派も同じ曹洞宗です。
(鳳仙寺さんは二天でありましたが)
これは総本山永平寺さんに倣ってのことでしょうか。
大好き、…などと申し上げるのは不敬でしょうが、思わぬところでお会いできた四天王さまにわくわくドキドキしつつ門をくぐりました。
ただ。
鳥や野生動物、何よりも悪しき心を抱く人間から守るため、でしょう、四天王さまは網越し。
少し寂しくもある私でありました。
門のひだりてに手水舎があります。
イケメンの龍さまからお水をお授けいただき、手を清めました。
門のみぎてには一瞬足が止まりそのままかたまるほど大きな鐘楼に大きな梵鐘が!
どうやら撞いて良いようです。
鐘楼の数段の段をのぼります。
遠くから見ても大きかった鐘は近くに寄るとさらに大きいっ!
大きな鐘は低くて重い音でありました。
梵鐘には般若心経、そして道元禅師さま瑩山禅師さまのお言葉と、この梵鐘は供養のために奉納された旨、
奉納された方の先祖代々、そしてお二方の戒名とが刻まれておりました。
…と、淡々と書いてはおりますが、何度も書いておりますがこの梵鐘、かなり大きなものです。
どうやらこの鐘、そして鐘楼、お一方の御寄進のようなのです。
お金の話はあまりにも下賎ではありますが、この大きさって…。
普通サイズ、というものがあるかどうかは置いておき、倍はあるのではないかと思われる大きさです。
第二次世界大戦の供出により失われたお寺の鐘は、今なお再建できないお寺さんも多いというのに、これは凄いことかと…。
(続き)
御本堂へと向かいます。
やはり大きな御本堂です。
中を覗くと、ひ、広い!
横にも広く奥行きもあります。
御本堂前に座って手を合わせて。
ご本尊さまの輝くお姿はかろうじて見えますが、距離があるためどなたがおまつりされるのがどなたであるかはまるでわかりませんでした。
御本堂の前に正座して、ふと左側を目をやると。
多重塔がある!
はやる気持ちを抑えて抑えて。
今登った階段を気をつけて降ります。
青い空にそびえ立つ三重塔。
さらにはその姿が池に美しさといったらありません。
なんと癒される光景でしょう。
こんなに癒しの空間が車で三十分走るか走らないくらいのところにあるなんて…✨
大変良いお導きをいただきました。
池のほとりに何故か作家山本有三氏の『路傍の石』の一節の刻まれた碑が?
はて?
何かご縁があったのでしょうか?
ちなみに栃木県出身である山本有三氏のお墓は栃木県にあります。
こちらではありません。
宗派も異なっていたような…。
たった一人しかいない自分を
たった一度しかない一生を
本当に生かさなかったら
人間
うまれてきたかいがないじゃないか
〜『路傍の石』 山本有三
ま、まあいいですかね。
(続き)
こんなに医学が進歩した今であっても、お産が命がけであることは全く変わっていないのです。
かく言う私も医療側の目でみればまさに命がけの妊娠経過をたどり、病室の廊下にすら出られない程の安静度を三か月以上過ごしましたし、
輸血騒ぎをするお産を二度も経験しております。
意識が遠のく中、
「輸血準備しろ!」
「すぐオペだ!」
というドクターの緊迫した声を聞きながら、
(へえ〜、自分の人生でこんな場面に直面しようとは思ってなかったなぁ、まして自分がその対象だなんて夢にも思ったことなかったなぁ)
とのんきにも思っておりましたが、ね。
産まれたばかりのわが子を抱きもせず死ぬわけが無い、というよりも〝死〟であることとか死ぬことなど、微塵も思わない。
当然ですよね。
前の日までピンピンとして日常生活を送っていて、ほんの少し前に赤ちゃんが産まれたばかりの二十代の若き身です。
ただ…。
その思いはしごく当然、なのにも関わらず、そのまま助からない方がおられるのも、…かなしいかな事実なのです。
これはもっともっと男性に知って欲しい。
知っていて欲しいです。
…まぁ、その頃自宅で祝杯をあげ、ぐっすり寝込んでいた夫は、
いまだにお産が命がけであること、ましてや自分の妻がそんなギリギリのところにいたことをすらわかってはいないのですがね。
貴方の奥さまは命がけで貴方との子を産んでいるのです。
貴方のお母さまは命がけで貴方を産んでいるのです。
二月十五日。
〜いつまでも悲しんでいてはいけない
〜教えを守って生きるように
そう説かれて亡くなられたお釈迦さまの教えを一番ストレートに受け止められる日だと私は思っております。
死の床でお釈迦さまが語られ説かれた最期の教えだといわれる【遺教経】にふれるとことさら、です。
だから涅槃会、お釈迦さまの亡くなられた日に生まれたのだって決して悪いことはないと、胸を張って言えます。
…まぁたしかに。
あの春の日、多くの花咲く日に、すべてのものから祝福されお生まれになられたというお釈迦さまのお誕生日と同じ方が素敵だとは思わなくはないけれど 笑。
もう少しで同じ日に産まれた方、
少し早めにはなりますが
おめでとうございます✨
ステロイドの吸入、そして内服をして、頓服の吸入薬を使ってなおすぐには収まらない喘息。
夕方になると咳が始まり止まらない毎日。
気持ちは落ち込むばかり。
あるとき息子がスマホの画面で、もうすでに一目でなんのものかわかるくらいに観ている画像を見せてきた。
「行こう!」
「ごめん、これで出先で大きな発作を起こすとすごい迷惑をかけちゃうから…」
仕事でみてきた患者さんの心理パターンの典型的な一例、自分で寂しくなる。
前の晩にも咳が止まらなかった。
また声をかけてくれる息子。
彼は今貯まった有給休暇を取っているため平日休みの連休中だ。
「うんありがと」
それは…。
長野県上田市立美術館において開催中の特別展
【ハッケン!上田の仏像】
の期間が今月九日(日)までであることをたまたまネットで息子が知ってのこと。
そして、昨日息子の運転で上田市へと向かいました。
ポスターにない御仏のご尊像も素晴らしいものが多く、江戸時代に仏師によって定朝作と鑑定されたという【阿弥陀如来坐像】などはことに私の胸を打つものでありました。
一時間半以上かけて仏像を観て回る母につかず離れず見守る息子。
感謝してもしきれない。
それにしても。
地方のそれもただの一つの市に過ぎない上田市はなんと壮大な企画をされたことでしょう。
驚きしかありません。
このように数多くの御仏の尊像をお借りするにはどれだけのご苦労があったことでしょう。
お借りして、それこそ一片の破損もさせることの無きよう運搬にも細心の注意を図り(運搬のプロに依頼してのことでありましょうが)、美術館内においてはより良い形での展示を考え、このような見事な展覧に至っております。
並々ならぬご苦労があってのこの特別展でありましょう。
展示は年代を追って展示されており、上田市の仏教のあゆみを垣間みることができました。
本当に本当に素晴らしい特別展でありました。
そんな帰宅途中、ラジオを長野放送からNHK第1放送に切り替えたところ、
長野県上田市の大きな火災を報じていて息子と二人大変驚きました。
長野県の、それも同じ上田市にいて、消防車のサイレンも聞かなければ、
長野放送を聴いている間一度としてそのような情報が流れてくることがなかったのです。
NHKの放送でも一度きり。
これは…事実?
【箱根神社】さん
かねてから、いつか行きたいと思っていた箱根神社さんへお詣りすることが叶いました。
駐車場から入る、傍の小さな鳥居をくぐるとまもなくひっそりと建つ石碑に気づきました。
【金剛王院東福寺の跡】
と大きく刻まれており、その下に小さく刻まれた文字。
かつてこの地には【東福寺】さんというお寺があったようです。
【金剛王院東福寺の跡】
奈良朝の末、当地に建立された箱根権現の別当寺、【金剛王院東福寺】は古義真言宗御室派に属し、開創の萬巻上人いらい千年の歴史をもつ関東屈指の名刹であった。
鎌倉期には、源頼朝や幕府の崇敬篤く、近世に至るまで歴代の武将も信仰し、箱根修験の名を高めた山伏等の根拠地としても栄えた。
金堂や鐘楼、僧坊等が軒を連ね、また親鸞上人自作の像をまつる親鸞堂もあったが、明治維新の神仏分離により、明治元年三月、『権現号』が廃止されるまで累代の別当が居を構えていた。
当時の七十一世住僧等は復飾し神職となったが、東福寺は廃止され、寺宝等は悉く消滅した。
とありました。
ことごとくの消滅。
…こんな短く書かれた文章。
短い文章にはそこから読み手が想像する余地が含まれています。
ただ単に寺としての役割、機能を失ったと捉えて、(ああ、神社一本として歩み出したということか)ととらえられることもありましょう。
…あえて、なのだろうな。
〝消滅〟。
少し調べると、それはまさに消滅であったことがわかりました。
御仏像から仏具、寺宝、仏塔、御堂が全てことごとく、
…破壊され、火をつけられて〝消滅〟されたようでした。
…学ぶと、明治政府はそこまでの指示を出していたわけではなかったようではないようでで…。
ただ、その行間の隙間に、人々は自らの解釈、曲解を含め、
ここ、箱根神社においては〝消滅〟に至るまで神仏分離を行った人、人々がいた、ということ。
昨日まで畏れ多く、崇め奉っていた御仏を破壊し、火を放つ…。
…人は恐い。
ただそこにはひがみや嫉みを買うような、やはりただびとである寺の姿勢があったことも否めないようではあるのだが、そこを含めて人は恐い。
初めて参拝させていただいた箱根神社さんは、そんな愚かな人間を温かくお迎えくださる気に満ちていました。
神さま、仏さまはどこまでもありがたい存在でありました。
(箱根神社さん 続き)
遠く異国の地から訪れた人々も多くおられました。
…半数以上がそうだったやもしれません。
ほとんどの方が異国の神さまに対して敬意を表し恭しく手を合わせておられました。
その姿もまたありがたいと思い、知らず知らずそっと手を合わせ頭を下げていた私でありました。
とはいえ。
やはり異国のロケーションの素晴らしさで訪れている人たちがいるのもたしかなことで。
境内社の曽我神社さんを占拠して写真撮影に興じる一集団がいたのも事実。
鳥居を塞ぎ、中で小物まで替えて、三十分以上。
鳥居をくぐろうとすることさえ拒否して罵声を浴びさせられました。
三十分が過ぎたところでメンバーチェンジするだけで、そこを占拠する状況は変わらない。
たしかに、高額のお金を使い、日本という地を訪れたかもしれません。
けれど日本人だって、ここを初めて訪れて、これが最初で最後かもしれないと思って訪れた人だっている。
彼らの撮影会のためのセットではない。
ここは日本の祈りの場。
無理に鳥居をくぐろうとすると、大柄の男性が手を出そうとまでしました。
さすがに周りがとめました。
男の人はずっと罵声を浴びさせます。
平常心!
鳥居に戻ろうとすると、まだ鳥居を塞いだまま、私が映らないよう撮影を開始しています。
「ここは祈りの場です」
鳥居をふさぐ人たちにそう宣言しました。
ま、そこは日本語、なところが私なんですがね。
でも英語圏でも無い、アジア系でも無い方々ですから、英語が通じたかどうかもわからない。
神さまの前で争うことは決して良くはないでしょう。
でも私は日本人としての矜持を持ち生きていきたい。
写真を撮ることは決していけないとは言わない。
祈りの場であること、人が来たら譲る、そうした人としての常識を持ってさえいてくれれば良い。
彼らは全くそうではなかった。
ここは曽我兄弟を祀る場。
何一つ知らず、日本らしい建物として写真撮影に興じる異国の人に私は屈しない。
明後日四月八日は、お釈迦さまの誕生日。
【花まつり(灌仏会:かんぶつえ)】と呼ばれ、日本各地で昔からある仏教の伝統行事です。
この日には全国の多くのお寺さんで、
さまざまな草花を飾った【花御堂(はなみどう)】と呼ばれる小さなお堂を飾り、そこに【誕生仏】と呼ばれる、お釈迦さまが生まれたときすぐに歩いて右手で天を左手で地を指したという言い伝えに基づく像を祀り、
甘露の雨が降ったという言い伝えからそのお釈迦さま(誕生仏)の像に
甘茶を注いでお祝いをします。
お釈迦さまは生まれてすぐ東西南北に向かってそれぞれ七歩ずつ歩かれ、
右手は天、左手は地を指さし
「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」とおっしゃったと言われています。
また、お釈迦さまが生まれた際、九頭の龍が天に現れ、お釈迦さまの頭上から『甘露の雨』を注いだという言い伝えがあり、それが甘茶をかけるということへとつながっています。
ちなみに、花まつり(灌仏会)のほかにお釈迦さまに関する【三大法会】として
【成道会(じょうどうえ)】…悟りを開いた日である十二月八日
【涅槃会(ねはんえ)】…ご命日二月十五日
があります。
先だっても書きましたが
本日四月八日は【花まつり】
お釈迦様のお誕生日です。
灌仏会(かんぶつえ)
降誕会(ごうたんえ)
仏生会(ぶっしょうえ)
浴仏会(よくぶつえ)
龍華絵(りゅうげえ)
花会式(はなえしき)と呼ばれることもあります。
ご入学・ご入園のおめでたい日であります方もおられましょう。
平日ですのでお仕事の方が多いかと存じます。
かくいう私も、在職中は、
始業式であり、
あるいはご入学・ご入園のご子息のおられる同僚の休み希望が集中する日、花まつりへの参列は土日でも当たらない限りは無理でした。
行きたいけれど…と思われておられる方に、
花まつりに飾られる花御堂と誕生仏さまをあらためてここに飾ってみました。
今日一日がみなさまにとって良い日でありますように。
栃木県足利市の【恵性院】さんの
【稚児の碑】
歴史オタク…歴男の夫はそれに寄り添うように存在する民話や伝説にも詳しくて、民話の地を訪ねることもあります。
栃木県足利市の笛吹山恵性院さんの境内にはやはり伝説にまつわる碑が残されているとのことで、もう十年ほど前になりますか…その碑を訪ねこちらを参拝させていただいたことがありました。
そのときはこの碑を知る方がたまたま不在で、碑をみることはかないませんでした。
いま、私が毎月八日の鶏足寺さんのお護摩祈願に参列すべく一人車を走らせているまさにその道、
気持ちの良い、少しカーブになった坂道、笛吹坂と呼ばれる坂であります。
この坂道をのぼる、向かって左側にその名も笛吹山恵性院さんがあります。
笛吹山恵性院さんがあるから笛吹坂、と呼ばれているわけではありません。
この恵性院さん、かつてはその名を明月院といったといいます。
そして、そのころはまだ、この坂は笛吹坂と呼ばれていたわけではなかったのです。
名月院は平安末期に真言宗別格本山鶏足寺末寺として吽誉法印により開創されましたお寺さんですあります。
〜稚子と郷土の娘の悲恋物語〜
今を遡ること六百年以上前、京都の公郷の息子で信光という稚児が故あって明月院で僧道修行に励んでいました。
信光は笛の名手で、毎夜明月院の境内から坂を見下ろすよう笛を吹き、静かな村里に美しい音色を響かせていたと言われています。
いつしかそれに合わせるように琴の音がおこり、やがてふたつの音が一つの曲のようになったといいます。
それから毎晩のように琴と笛が美しい曲を奏でるようになりました。
その琴の音の主は寺の西に住む郷士、大川義種の娘で、里人から菊枝姫と呼ばれ慕われていたといいます。
笛の主に会いたい、会ってみたいと、ある夜、菊枝姫は明月院に通じる坂道を登っていったといいます。
そして坂の上で月の光を浴びながら笛を吹く稚児信光を見ます。
信光は笛の名手であると同時にたいそう美しい少年であったといいます。
二人はいつしか恋に落ち、相思相愛の仲となっていきました。
(続きます)
【磯山弁財天 御開帳】
十二年に一度、巳年の年に御開帳されるという磯山弁財天さまの御開帳日が四月二十日ということを知ったのは一年ほど前。
この日を指折り楽しみにしていよいよ今日参拝させていただきました。
ただこちらは駐車場が大変少なく、稚児行列や法要はあきらめて、それが終わったころを目指して栃木県の出流原へと向かいました。
さすが十二年に一度の御開帳です。
人出が凄い!!
列をなしてのぼる石段は百八十段。
小さなお子さんが並んで、一生懸命石段を一段一段登っているのが愛おしかったです。
鐘を撞いて、手水鉢で手を浄めて。
ようやく御堂が見える石段です。
この日は曇り。
それでも赤いお堂の色は鮮やかです。
それもそのはず、昨年よりクラファンをし、このお堂の修理修復を行われたのです。
鎌倉時代に造られたという、そびえ立つ岩山に寄り添うよう建てられた【懸造り】の御堂は、御開帳で集まった多くの人々が乗ろうとびくともいたしません。
おお、御堂が開いています。
それも両側面の戸まで開け放たれているではないですか!
新しそうな畳の間に、分厚い座布団が置かれ、その前には護摩壇があります。
そして。
なんとも美しい…ほどこされた彫りも、そこに塗られた色の色調もたいそう美しいもので、その内には弁財天さまがおられるのが見てとれます。
さらには小さな御厨子なのですが、十五童子が共にお祀りされているではないですか!
【迦葉山弥勒寺】さん
『天狗のお山』として知られる群馬県沼田市の迦葉山竜華院弥勒寺さん。
今年は十年に一度の御開帳の年であり、現在まさにこの御開帳期間です。
前回参拝させていただいたのが七年前。
そう次の御開帳にはほど遠く、寂しく思えたものでした。
煩悩のかたまりにして、執念深い私は毎年指折りつつ今年の春の御開帳を待ちました。
まあ…ただただ指折り待っていただけなんですけど、ね。
こちらは同じ群馬県とはいえ片道二時間はかかる場所(自宅より片道四十五キロ弱)なうえ、峠を越える!
運転ほにゃららな私は自分でこちらに来るのはちょっと…だいぶ難易度が高いのです。
今年新年を迎えるや否や、
「今年は迦葉山弥勒寺さんの御開帳の年だからね」
と声高らかに夫に告げました。
…人にものを頼むときは?
「連れて行ってください!」
ですよね、はい…。
妻にそんな高らかに宣言された夫はといいますと、けなげにも同日他にも参拝をするお寺さんや神社さんを調べ、同じ沼田市のお寺さんで一年に一度四月二十九日に御開帳されるところがあることまでも調べてくれたのでありました。
そして。
まさにその四月二十九日、迦葉山弥勒寺さんへ連れて行ってくれた…下さったのでありました。
この場を借りて御礼申し上げましょう(えっ?、直接は?)。
(続き)
〝天狗のお山〟といわれる群馬県沼田市の迦葉山竜華院弥勒寺さん。
石段をのぼると、橋があって、その両サイドには石造の天狗さまが二体でお出迎えくださいます。
【中峰尊】と書かれた扁額のかかる御堂か天狗さまのお祀りされた御堂です。
鰐口をたたいて御堂へと入ります。
!!!
何度か目の参拝であるにもかかわらず、やはり驚いてしまいます。
正面むかって左側には壁の上から下までを覆うほどの大きな天狗さまのお面が祀られています。
正面には一体いくつあるのかわからないくらいの、よくある顔に被るくらいの天狗さんのお面。
そして、お借り面といわれる、お借りするお面が、お面屋さんにだってこんなにあるだろうかというくらい平台に置かれています。
前を見ても後ろを向いても大小さまざま、年代もいろいろの天狗さまのお面がお祀りされています。
…御開帳だから、ではありません。
これはいつもと変わらない光景であります。
ただ一ついつもと違っていたのは、正面に紅白の、鉢巻を太くしたくらいの質感の長い長い布がさげられていたこと。
【おさがりの
紅白の綱は
善のつなと申し上げ
中峯尊御真躰の御手より
連なっております。
この綱を握る事は
御尊真体と手を結ぶ事に
なりますから御運が開ける基となります】
と書かれております。
お参りされた方々はみな、この綱をしっかりと両の手で握って祈りを捧げておられました。
…もちろん私も。
十年に一度御開帳される中峰尊さま。
…神さまではないので御真体というのだなぁ。
(続き)
今回は十年に一度の御開帳です。
…この正面の天狗さんたちのから覗くのかしら?
奥に天狗さまの御像が見えますが、よもやこんな大きな、木製のお像ではないであろう。
そんな、
得意技『覗き』をそっと使っている私に、
「なんだかそろそろ何か始まるから急ぐように言われてるから、ここはまた後でにして」
と少し焦ったような口調で言う夫。
は?
何がなんだかわからないんですけど?
とはいえなんとなく夫もよくはわかってはいな口調ですし、とりあえずしたがってついて行きましょう。
御堂を出て。
おや?
先ほど御堂に入る時には気づかなかったのですが、御堂の前にスノコが渡してあるではないですか!
どうやらここで靴を脱いで奥へ歩くようです。
中峰尊さまの御堂をぐるっとめぐつて…。
おや、こんなところに入り口があったのですね。
ここは通常ですと御祈祷を受ける方々がお通しされる間です。
すでに何名かの方々が椅子に座ってお待ちです。
そして。
こちらにも紅白の善の綱が下げられています。
ここでもご縁をいただいて。
御開帳で来た私どもは、天狗さまの御像の手前で拝観料をお納めいたします。
受付をされておられるお坊さまに拝観料をお納めすると、お守をくださいました。
(続きます)
大好きな神社さんにどうしても行きたくて、レスキュー薬を持ってひとり車を走らせました。
七月七日のこと。
夫は一度行ったところへはあまり関心が無いことが多くて、
ここはもう二度一緒に来ているし、行くといえば一緒に来てはくれるだろうけれど…。
ここ毎年、その神社さんへは夏詣として参拝させていただいており、平日にお参りすれば良い。
そうだ、こちらは笹を飾ってくださるから、ちょうど七夕の日に短冊をかけることができる!
心地よい気の満ちた、優しい気持ちになれる神社さん。
ああ、なんと気持ちが良いのだろう。
短冊は子どもたちと孫の健康と幸福を祈願して吊るした。
帰宅したとき、ここずっと体調が良くなかったのに、ここ近年ないくらいに身体が楽なことに気づく。
あ、そうか。
あの神社さんの御祭神の一柱は少彦名命さまだった。
なんとありがたいこと。
願わずとも見てくださっていてお力を与えてくださったのだ。
近いうちに御礼参りに参りましょう。
その時は熱中症のような症状となってしまったという、あの優しい人の体調が早く良くなって新たなお仕事に一日も早く慣れることができるようお願いしてまいりましょう。
早く良くなりますように、ここから祈ります。
お大事になさってください。
(花手水)
埼玉県の安楽寺さんの年一回のご本尊さまの御開帳日であるからと、夫が有休をとってくれ、
「夜中の二時から御開帳されるというから、もし行きたければそのときに間に合うように行ってもいいし。
調べたら一時間半かからずに着くらしいから、夕飯食べて早めに仮眠取って行けばいい」
こちらは吉見観音さまと呼ばれ、その御開帳の日の参拝は早い時間であればあるほどご利益が大きいと言われているといいます。
しかしながら私どもは初めての参拝です。
明るいときと異なり、道の案内板等も見えづらいでしょうし、いくらライトアップされていたとしても石仏さまなどは見逃してしまいましょう。
ゆっくり明るくなってから、と、それでも七時半くらいには家を出たのですが、この日は平日。
この時間帯は通勤通学のラッシュ時にあたっており、なんだかんだ二時間かかってしまいました。
真夜中の二時から御開帳されていたということで、真夜中にはさぞ混んでいたでしょうに、この時間になると駐車場もガラガラに空いています。
そしてその駐車場の脇にはたくさんの石仏さま♡
暗いうちに訪れていたならお会いすることはできなかったことでしょう。
参道に露店のお店は二つのみ。
厄除け団子のお店が立ち並ぶ、と聞いていたのに…。
時間帯のせい?
それとも時代による減少?
参道沿いに店を構えるお茶屋さんでは
『厄除け団子売り切れ』
『本日休業』
との貼り紙が。
私の厄はどう祓えばいいのでしょう (;ω;)
参道沿いにあるおうちから、疲れたお顔をされた男の方が出て来られました。
…そうだよなぁ。
普段なら静かであろう道沿いが、一年に一度のこととはいえ、夕べは夜中中大賑わいでしたでしょうから。この頃は季節を先取り夏日が続いておりましたし、眠れない夜、さぞ疲れもたまりましたことでしょう。
石段の上、山門が見えてまいりました。
坂東観音霊場第十一札所【岩殿山安楽寺】さん。
朱色をされた仁王さまが来るものを見張っておられます。
「初めて参拝させていただきます」とご挨拶を申し上げます。
おや?
山門にいろいろな図柄の蟇股です。
これが真夜中の人出の多い頃であったら、気づきもしなかったことでしょう。
ひとつひとつに物語がありそうです。
明るくなってからでも充分なご利益です。
(埼玉県吉見観音さまの続き)
だいぶ間があいてしまいました。
御本堂へお参りさせていただきますところから再開させていただきます。
御本堂の中に置かれた御賽銭箱の前に、玉垣のような柵があり、
ここに安産や子育て満足といった祈りを込めた小さな前掛けをかけるようになっています。
手作りしてきた物でも、こちらで購入した前掛けでも良いようです。
ちなみに今回のお参りの際の前掛けをお授けいただいたときのお納めする代金は七百円と大変良心的なお値段設定でありました。
ご許可いただけるようなお寺さんなりがあればお地蔵さまのお首に御奉納という形で前掛けを掛けさせていただきたい、というのは私のかねてからの小さな夢であり望みであります。
ええ、夫さえいなければきっとこちらでこのお掛けを購入したことでしょう。
そうすればこれを元にお掛けを作れます。
…まぁ、あきらめましたけれど。
たいがいのことは大目にみてくれますので、購入したところで、せいぜい「それをどうするの」と聞く程度でありましょうが、ね。
御本堂前、御開帳されておられる聖観世音菩薩さまとは細紐で繋がれており、お参りの際にはその紐を持ち、ご縁を結んでいただけるようになっておりました。
若い男の方が熱心にその紐を握って長いこと祈っておられたのがとても心に残りました。
ご自分のためでしょうか。
それとも奥さまとか、あるいは奥さまとそのお腹にいるまだ見ぬ我が子のためにでしょうか。
それとも親御さんのため?
彼の敬虔な祈りは観音さまにきっと届いたことでしょう。
え?わたし?
わたしは初めて参拝ができましたことを御礼申し上げました。
(続きます)
(続き)
吉見観音さまの御本堂の内にも入らせていただけ、より近い所から拝観させていただくことができました。
ありがたいことでございます。
御本堂内は撮影禁止とありましたが、御開帳されておられる観音さまを含めた境界の内側とのことで、
左甚五郎作といわれる欄間彫刻【野荒らしの虎】の撮影などはご許可がありました。
『野荒らしの虎』は夜ごと御本堂を抜け出しては付近の田畑や家畜を荒らし、村人に右足を槍で突かれて血まみれになって帰って来たという伝説が残ります。
…なるほど、欄間から尻尾がはみ出して、躍動感あふれる虎であります。
御本堂内の天井にはおびただしいという表現がぴったりなくらいに千社札が貼られていました。
…かつてはこのようなことすらもが許されたのですね。
今はたいてい千社札禁止ですし、お寺の御本堂の内にハシゴなどを持ち込んで、ということになりますからね。
お寺の、高い天井です、足場などがなければ到底不可能ですもの。
このあと御本堂では御祈祷が執り行われました。
外陣にいる者に対しても退出するようにおっしゃることなく、ありがたくその読経を拝聴させていただくことができました。
ただ…拝観の方の中に大変失礼な方がおりました。
今回御開帳されておられる観音さまの真正面に陣取って、観音さまに足を向け伸ばして座り、脚を組んだり、
まるでお家のリビングでテレビでも観ているかのような気楽さで参列されている女の方がいたのです。
…もちろん足がお悪くて足を伸ばしてしかお座りになれない方もおられます。
しかしながら彼女たちはさにあらず。
五十代前半から六十代後半といったところの、十中八九日本の方。
そのうち飽きてしまったようで途中退座されました。
たとえ信仰心など無いにしても、その場でのマナーというものがあると思います。
まあ、観音さまの御前でたとえ内心でとはいえ苛立つ私もまた未熟者。
そんな私の苛立ちも九条錫杖経に合わせて振られる錫杖の音できっと祓っていただけました、よね?
観音さまの右側のお不動さまの御前でのお護摩も焚かれておりましたし。
お護摩の炎、お不動さまの炎はそうした穢れを焼き祓い、焼きつくすといわれています。
観音さま、こんな未熟な私の心が少しでも穏やかなものとなりますよう、お導きください。
(続きます)
地蔵菩薩さまは大地を蔵にしている仏さま。
奈良時代には虚空蔵菩薩と対で祀られていたという。
虚空蔵菩薩は虚空、つまり天を蔵にしており、地蔵菩薩は大地を蔵にしている。
そして平安時代には【抜苦与楽(ばっくよらく)】の仏として信仰されるようになる。
苦を抜き、楽を与えてくれる仏さま。
やがて、地獄に堕ちた衆生=人たちでも救ってくれるという信仰が強くなっていく。
お地蔵さまはどこにいても救ってくださる仏さま。
救いを求めて、
大切な誰かを救って欲しくて、
あるいは救っていただいたお礼として
多くのお地蔵さまの像がつくられた。
明治の時代を経なければもっともっと多くのお地蔵さまの像は存在したであろう。
同じ立像であっても、よく見るとお地蔵さまの片足が一歩前に踏み出された像もある。
お座りになられる像にあっても、片足は下げて、すぐにでも歩けるようにされている像がほとんどだ。
これは救いを求める声を聞いたならすぐに動けるようになさっておられるお姿をあらわしたからだ。
…生きることは苦しいこととお釈迦さまは説いておられる。
生老病死の四苦をはじめ、八苦、…あの四苦八苦といわれる言葉の始まりは仏教から生まれている。
別れたくないと思う者と別れなければならない苦しみ。
出会ってはならない者と出会ってしまう苦しみ。
などなど…。
あなたが苦しくて声を上げたなら、そこに来てくださる御仏、お地蔵さま。
どうかご自分の苦しいときは、他者ではなくご自分をこそ見てあげてください。
それは決して甘えなどではありません。
ご自分をこそ抱きしめてあげてください。
あなたの優しさも苦しみも、みな、
御仏は、
神さまは、
見てくださっておられます。
そして私はここから
風に頼んで
エアハグを送るよ。
戦後八十年
私とて戦争を知らない世代だ。
語り継ぐといっても
それは
体験された方の生の肉声を
お聞きして初めてできることだと
思うのだ。
しかしながら
時は流れる。
今、
世界は
そして日本は
人の手による自然破壊で異常気象が起き、大きな災害も起き、
それにより食べ物という生きていくため欠かせないものにも大きな支障がきたされている。
富める国は自国のために、保身に動き出している。
日本は…
本来国民のために国のためにその職に就いた者が、もはやそう動いてはいない。
歯車が狂い出していると思うのは私だけではないであろう。
忘れてはならない。
忘れてはいけない。
人の命の重み。
かの人は、平和式典にどんな思いを持って臨むのであろう。
いろいろなお寺さんを巡っております私。
季節や仏教行事の折にふれて、同じお寺さんを参拝させていただきますことも多くありました。
お釈迦さまはご自分の亡くなられたあと、仏教、=仏の教えがうまく伝わらず世が乱れることを予想しておられました。
それこそ仏の道を説く僧からがその教えから外れてしまうことすらも。
まさに今はその、お釈迦さまが憂いた時にあたる時代。
悲しいかなそれは的中していると思うしかないことに出会ってしまうことがたいそう多い。
それは私が仏教徒でもなければ、檀那寺も持たないから、なのかもしれません。
でもそれで仏教に不信感を抱いて仏教離れしていったら、言葉はたいへん悪いでしょうが、営業活動になっていませんよねぇ。
…悲しいことにそれすらがわからないらしい。
本堂御内陣のご本尊の前に灯した蠟燭の火を口で吹き消したりはまだ序の口で。
ここを私どものお寺と定めようかとすら思っていた人格者の僧が、人の道を外れてしまったり。
法具を地べたに置いたり、箱に投げ入れたり、人に殴りかかるかの悪ふざけをしたりポスターの顔面に五鈷杵と呼ばれる尖端を突きつけたり…。
法要の合間の時間に「あの会社はもうおしまいだよね」と名指しで話したり。
…別にね。
聖人であることを強いたりはしないです。
生きた人間ですから。
でも仮にも僧侶という職業人であるならちゃんとその格好をして、自らの治める寺で、法要の合間とはいえ、人目ある時くらいは【演技】してよ!
…そういった意味では法を犯した僧侶は少なくとも僧としての仕事中はそんな素ぶりを見せたことのない、檀家以外の者からも慕われ敬愛された人物であったくらいでしたよ。
そんなことを見る機会、聞く機会を与えられてしまって、なんかちょっと…興醒めしているところがあるのが否めない。
檀家ならば見ない?見せないかもしれないし、逆に檀家ならばもうそういう寺、そういう僧だと認識した上で付き合ってきている歴史学あるのかもしれないし。
御仏の教えは決して揺るぐものではない、そう自分に言い聞かせて言い聞かせている、まさにその最中、であるのです。
もちろんそうでないお寺さん、僧侶も多くおられます。
その方のおられるお寺をお訪ねしては、自らの思いを修正中というのが正直な実状です。
…だいぶ間が開いた事もあり、どうしようか迷いもしたのですが、
吉見観音さまはある方とつながりの地。続きを書きたいと思います。
(吉見観音さまの続き)
御朱印を拝受させていただくため納経所へと向かいました。
穏やかな佇まいの庭園を進んでまいります。
ここを歩くだけで癒される、そんな空間でありました。
と、向こうから年若いお坊さま。
やわらかな所作で道をお譲りになりながら、
「ようこそお参りくださいました」
私、この日何度こう言っていただいたのだろう。
人の心に残るのは、人の心ある言葉であり、人の優しさ、思いやり。
そんなことを、身についた普段通りの行いで私にお伝えになるお坊さま。
なんと良いお寺さんでしょう。
納経所に着き、係の方が渡された私の御朱印帳を開いて捺印なさろうとしたまさにその時、
あの、心の臓をつかむかのような緊急警報Jアラートが鳴り響いたのです。
(納経所の建物は新しい。
この建物が倒壊するようならそれはもはや地震の規模の問題。
すぐに外へと出るのも可能な位置にはいるけれど、
どこをどう動けば良いか、初めて訪れた場所ではなかなか判断も難しいから、このあとどうなるかもう少し様子をみよう)
怖さは全くといっていいくらいありません。
いたって冷静にそんなことを考えていると、Jアラートに続いて女の方の声でアナウンスが聞こえてきました。
「緊急地震速報、大地震です」
夫は様子を見に外へ出て行きました。
(ほう、そばには居なくていいんだ…)
冷静にそんなことまでを考えていると、
「震度5弱の地震です」
と再びアナウンス。
?
…おかしい。
私のiPhone鳴ってない。
何故?
さっき御本堂を出たあとマナーモードは解除したはず。
歳で指の力が足りなかった?
いや、そもそもマナーモードであろうとJアラートは鳴るはず。
夫のスマホも鳴ってない。
…これ、なんか変。
なんかおかしい。
そう思ってiPhoneを開いてみたところ、やはり私のものにはJアラートの受信履歴が無い!
「これは訓練放送です。これで訓練放送を終わります。」
は?…訓練でしたか。
ま、一般人には言われませんか
…訓練にならないし。
吉見観音さまのご利益は即効にして絶大でした。
…穏やかでしたでしょ?私
(続き)
【吉見観音】さまは正式には【岩殿山安楽寺】。
今から約1300年ほど前、行基菩薩が岩窟に観音像を安置したのが始まりといわれているといいます。
平治の乱後、源範頼がこの地を領するようになり、本堂と三重塔を建立しました。
範頼の館跡とされます。
…ええ、どこかの歴男子がやたらと解説をしておりました。
しかしながらこの時の伽藍は天文年間(約450年前)の上杉憲政と北条氏康の松山城合戦に際し、すべて焼失してしまいました。
現在の本堂は寛文元年に再建されたものであり、五間堂の平面をもつ密教本堂です。
また、堂内の間には左甚五郎の作といわれる「野荒しの売」も納められています。
三重塔は本堂よりもさらに古い覚永年間の創建といいます。
現在の塔は総高24・3メートルとのこと、
それだけでも十分高い塔ですが、かつての塔はその倍の48メートルあったと伝えられるといいます。
仁王門は元緑十五年に再建された三棟造りの八脚門という建築様式をもち、内部に仁王像二体が安置されます。
三重塔は修復や保全にお手を加えておられるのでしょうが、全く古さを感じないどころか、新しいものにさえ見えます。
御本堂よりも古いものには到底見えません。
この塔の説明板に穏健な雰囲気の塔とありますが、まさにその表現がぴったりする塔であります。
中には誕生釈迦尊像が安置されているといいます。
そのお姿を見ることはできませんが、つい見えないそのお姿を想像しては重ねて見上げている私でありました。
(続きます)
【平和への誓い】
いつかはおとずれる、被爆者のいない世界。
同じ過ちを繰り返さないために、多くの人が事実を知る必要があります。
原子爆弾が投下されたあの日のことを、思い浮かべたことはありますか。
昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分。
この広島に人類初の原子爆弾が投下され、一瞬にして当たり前の日常が消えました。
誰なのか分からないくらい皮膚がただれた人々。
涙とともに止まらない、絶望の声。
一発の原子爆弾は、多くの命を奪い、人々の人生を変えたのです。
被爆から80年が経つ今、本当は辛くて、思い出したくない記憶を伝えてくださる被爆者の方々から、直接話を聞く機会は少なくなっています。
どんなに時が流れても、あの悲劇を風化させず、記録として被爆者の声を次の世代へ語り継いでいく使命が、私たちにはあります。
世界では、今もどこかで戦争が起きています。
大切な人を失い、生きることに絶望している人々がたくさんいます。
その事実を自分のこととして考え、平和について関心をもつこと。
多様性を認め、相手のことを理解しようとすること。
一人一人が相手の考えに寄り添い、思いやりの心で話し合うことができれば、傷つき、悲しい思いをする人がいなくなるはずです。
周りの人たちのために、ほんの少し行動することが、いずれ世界の平和につながるのではないでしょうか。
One voice.
たとえ一つの声でも、学んだ事実に思いを込めて伝えれば、変化をもたらすことができるはずです。
大人だけでなく、こどもである私たちも平和のために行動することができます。
あの日の出来事を、ヒロシマの歴史を、二度と繰り返さないために、私たちが、被爆者の方々の思いを語り継ぎ、一人一人の声を紡ぎながら、平和を創り上げていきます。
今年の広島の平和式典でのこども代表のことばです。
もう私の文章なんて、ここに書くのをすらやめたくなるくらい立派だし、その立ち居振る舞いの立派なことといったら。
この子たちの素晴らしさもなのだけれど、今の子供たちって、堂々としていて、テレビのインタビューなどでも立派な受け応えをするし、恥ずかしがったりしないで普通に会話するかのようにカメラに向かうんだよなぁ…。
この素晴らしい子供達の未来を守ろうよ。
心からそう思う。
(吉見観音さまの続き)
三重塔を拝し、御本堂裏手へとまわります。
御本堂の裏手には石垣が組まれ、その一角、ちょうど御本堂の中央の真裏にあたる位置に洞が造られています。
輪違の御紋の石碑がまるで表札のように置かれています。
この輪違の御紋はこちらのお寺さんが属する真言宗智山派の宗紋です。
そして。
この洞の内には石造りの大日如来さま館お祀りされておられました。
お詣りさせていただき、さらに進むと石段の上へとのぼる石段があります。
のぼっていくと鐘撞き堂があります。
はて何故このような奥に?
高台にある方がより遠くまで音が響くから、なのでありましょうか。
先の大戦で供出され新たに造られた梵鐘のようです。
どれだけ無駄な労力を使って全国からこのような大きな梵鐘をかき集めたのでしょう。
そして無駄な労力を使って、このように立派に造られた歴史ある梵鐘を溶かし。
あるいはそれすらも追いつかず、集められただけで放置され、帰る先がわからなくなった梵鐘が雨ざらしになって錆びていったことでしょう。
帰る場所がわかったところで、その運搬にかかる費用や労力はもはや国の手からは離れており。
あるいは溶かされ、あるいは行方知れずのままとなって、
鐘楼だけとなったお寺さんをどれだけみてきたことか…。
再建にあたっては莫大な金額のお金が必要で、さらには鐘を造る専門職も激減した中でのこと。
鐘一つとってもいかに戦争で失われたものが多かったかが伝わります。
美しい音色の鐘。
素晴らしい技術をもって造られた梵鐘。
鐘を造る技術をもった技術者。
そして…人類はそれでもまた戦争を起こしています。
そんな思いをもって梵鐘を拝みます。
鐘撞き堂をぐるっとまわると八起き地蔵尊のお堂が眼下に見えます。
八起(やおき)地蔵尊とは
七難を克服し、七福を授かり幸せを築くことができるようにと建立されたといいます。
私たち衆生の願いを叶え、悩み、苦労を代わって受け、救済してくださるといわれるといいます。
やはり手には輪違の御紋をお持ちです。
七難くらいではまだまだ私の悪いところは到底とり去ることはかないませんがありがたく拝ませていただきました。
七福は…子どもたちにお授けくださいと、お願いしました。
(続きます)
お地蔵さまは菩薩ですので、本来は観音さまや弥勒菩薩さまと同じ菩薩の格好をしておられますが、
我々衆生を救いたいというお気持ちから頭を丸め衣と袈裟を着ておられるといいます。
お地蔵さまといえばば子供を守ってくれる「ほとけ様」としてよく知られますがでありますが、大人にとっても大変ありがたい存在です。
地蔵菩薩の信仰には「十益十福」がある言われているといいます。
地蔵菩薩を信仰すれば
1、女人泰産(良縁で安産になる)
2、身根具足(健康で健全な体になる)
3、除衆病疾(病気や怪我から逃れ回復する)
4、寿命長遠(健康で長生きする)
5、聡明智恵(知恵が発達し学問に優れる)
6、財宝盈溢(商売が繁盛し財に恵まれる)
7、衆人愛敬(人に好かれ仲良くなる)
8、穀米成熟(作物が実り豊かになる)
9、神明加護(神仏の護りがあり家内安全でいられる)
10、證大菩提(大きく豊かな心が日々の幸福を招く)
という「十種の福徳」の功徳があるということ。
仏教徒でもない私には正直、信仰する、という根本的なことすらが理解できていない、そういった自覚があります。
心が八方塞がりで苦しく過ごしていても、その心をすら救ってくださるというその信仰というもの自体がよく理解できず、その縁がいただけないということはきっとその資格がないのだろうと思ったりもします。
それでもお地蔵さまのお優しいお顔に癒されます。
そしてそんな時間を持てるということはお地蔵さまのお力の強さなのでありましょう。
今は、そのお力に気づかせていただいたことに感謝し心に描くお地蔵さまに手を合わせます。
十もの福徳は希望いたしません。
(トイレをお護りくださる御仏のお話の続き)
そうした毎日を送っていると、自然、外出先でお手洗いをお借りしても、きれいにお掃除されていると感謝の思いでいっぱいになります。
汚すのは掃除をしている本人ではありません。
どこの誰とも知らない人間です。
それをピカピカに磨き上げ、埃もないようにしておられるトイレ。
それだけではなく、使用される方の目を、心を少しでも楽しませるよう、季節の花を置いてくださったり、飾りを置いてくださるトイレまであります。
これに感謝せずして、何に感謝する?
私のかつての勤務先では清掃の方が入っておられました。
その方のお掃除もまたとても丁寧で、道端の花を手折ってきては、とてもセンスのある生け方をしてくださっていました。
そんなことは会社のマニュアルになどもちろんありません。
その方の御心からのもの。
職種も、なんなら勤める事業所も異なりましたが、時々ご一緒にお食事をさせていただくくらい親しくしていただきました。
そう生きてこられたから、トイレ掃除一つにしても生き方があらわれるのだなぁと、思います。
ただ、…この烏枢沙摩明王さまは、ご自身のご誓願である、汚れたところをきれいにするということを心がける、あるいはご職業、ボランティアでなさる方に自然寄り添ってくださるといいます。
ありがたいことです。
今はもう連絡もとっておりませぬ彼女が健康で幸せに暮らしておられますように、烏枢沙摩明王さまに祈ります。
(岩室観音堂 続き)
こちらのお堂の二階にある御内陣のひだりてに小さな折り紙が置かれていました。
なんだろう…。
読むとその一枚一枚に般若心経の一文字が書かれていて、その折り紙で折り鶴を折ると書かれています。
願いを込めて。
昨年秋に広島で泊まったホテルで折り紙が置かれていたことを思い出しました。
広島での折り鶴に込める願いは祈りでもあり、その願いはひとつ、あるいはふたつ。
戦争のない世、原爆の無い世界をと強く願い、
亡くなられた方の冥福を祈ること。
ここでも同じ思いで折れば良いのだろうけれど、ここではいろいろな方のいろいろな願いに紛れてしまいそうで。
折り紙を手にすることなく、お姿の見えない観音さまに手を合わせて、…下へと向かう階段を降りました。
そういえば、あの広島の地で平和を願い、冥福を祈る千羽鶴が燃やされた事件がありました。
人の心を失ってはいけない。
でもそうした、人の心を持つ人間の所業とは思えない、思いたくもない事件はここ数年多発しております。
人の心を失った人間には、神仏など怖くはありません。
神仏を信じる心など持ち合わせてはおりません。
人の心を持つことはない、動物にすら劣る行為、劣る心根。
それも恥ではないので、何もこたえない。
人という文字は支え合う姿から、というのはまったくの後付けなようですが、
支え合って生きるということは大きな大きな力となる。
そういった歴史も振り返ってみるといいと、
戦で落城した城跡のふもとに建つ観音堂で思うのもまたおかしななこと、なのかしら。
…話が逸れ過ぎましたね。
(続き)
階段を降りると正面を入っての右側に出ます。
少し高いところにお祀りされた石仏、左側と同じような…趣きはかなり違うけれど…洞があって、その入り口からお顔を失った石仏さまが一体おられるのが見えます。
でもまずはそこではなく奥に広がる急な斜面を見上げます。
そこは自然のおりなしたものをかつて人的に手を加え、城への侵入をふせぎ、かつ登り口の一つであったろう路。
ひとしきりそこを見上げ(登る人もいるようだが、かなり難易度は高い)
やはり自然がおりなした岩くぐりを見上げる。
鉄製の鎖を使って登るものです。
一瞬躊躇ったのは前日の雨でかなりぬかるんでいること、岩場も湿っていかにも滑ること。
でも〝ハート型〟と言われると登りたくなるのが一欠片だけは残っていたらしい乙女心。
えっちらおっちら、よっこいしょ。
……ハ、ハート?
ま、見様によっては?
客寄せだなぁ。
『願い事をしながらくぐると願いが叶います』
え。
あのぉ〜…。
「滑らないように、滑らないように」と心で唱え続けていた私です。
速攻で願いは叶いましたぞ。
……。
さすが四国八十八ヶ所霊場のご本尊さまが勢揃いなさっているだけあります。
…もっと違うことを願いたかったなぁ。
気を取り直して。
右側の洞へと入ります。
(続きます)
↓ハート型に見えますか?
(続き)
右側の洞は若干斜め、そして天井も低い。
そこへ四十体ほどの石仏さまが安置されておりますので、なかなかお詣りしづらいです。
しかしながらこちらの洞は横に長いので、足を踏み入れないことには奥におられる石仏さまの尊顔を拝することができないのです。
ここでようやく石仏さまに貼られたお札を読むこととなるのですが、
【奉拝 百地蔵尊二世安樂之為也】
とあります。
いやいや、こちらには四国八十八ヶ所霊場の〝それぞれの〟ご本尊さまのお姿を写した石仏さまが祀られている…。
それはたとえばお不動さまであったり、十一面観音さまだったり、お釈迦さまであったり。
阿弥陀さまであったり、千手観音さまであったり、お薬師さまであったりと、実にさまざまな御仏の尊像となります。
百地蔵と書かれたお札であるならば、せめてお地蔵さまに貼り付けないといけないのでは?
今日は達磨大師の亡くなられた日、逹磨忌とされます。
達磨さまは南天竺において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶であります。
幼名は菩提多羅といいました。
若い頃に父である国王が亡くなり、菩提多羅王子は国政を二人の兄に頼み、お釈迦さまから二十七代目にあたる般若多羅尊者のもとに出家し、『菩提達磨』の僧名を頂きました。
師に就いて四十年修行、般若多羅尊者から釈尊正伝の第二十八代目を継承しました。
しかし師より「六十七年間はインドを布教し、その後に中国に正法(しょうぼう)を伝えなさい」と遺言され、それに従って老年になってから、海路を三年かかって中国・広州へと渡ります。
梁(りょう)の武帝と問答し、縁かなわず揚子江を渡って洛陽の都のはずれ、嵩山(すうざん)少林寺の裏山の洞窟に住み、『面壁九年』壁に向かって九年間の坐禅をされました。
その結果、その手足は壊死し失われてしまいます。
そんな達磨のもとに求道者・神光(しんこう)が現れ、その熱意に感じ中国で初めて弟子をとり、慧可(えか)と名付けました。
達磨さまはこの慧可にすべてを伝え、中国に禅宗の基礎を築かれます。
しかしながらその教えを理解できない者たちによって毒殺され、熊耳山(ぎゅうじざん)定林寺(じょうりんじ)に葬られました。
それが今日、十月五日と伝わります。
達磨大師を知らないとおっしゃる方も、あの赤い張子のダルマさんはご存知でしょう。
群馬県の高崎市には【少林山達磨寺】というお寺があります。
このお寺さんこそが一説によるとあの赤いダルマさんの発祥の地と伝えられているのであります。
全国的には何種類かのダルマがあるといいますが、高崎ダルマは眉が鶴、口元の髭が亀という縁起をかついだ画風が特徴です。
高崎市はこのダルマを誇りとし、道路沿いや駅にもダルマさんが飾られ、高崎駅ではプラスティック製のダルマさんの容器に入った『だるま弁当』という駅弁が売られています。
このだるま弁当、私の子どもの頃からのロングセラー商品。
お弁当の空き容器はコイン大の穴を開けて貯金箱になるとか言われていますが、そうした使い方をされている方を見たことはありません。
お砂遊びや雪遊びで型として使うのは時折見かけましたが、ね。
どこにその木があるのかわからなくともその香りでその花が咲きはじめたこと、その存在を知ることができる、金木犀の季節がやってきました。
すっかり秋の空です。
色づき始めたもみじ。
毎月八日のお護摩供に足利まで車を走らせて
八月に入院した家人の病の平癒をご祈願していただきました。
秋の日を浴びて気持ち良さそうに破顔される布袋さま。
稚児大師さまもひなたぼっこ。
実りの秋。
お寺さんにも実りが♡
今日のお護摩には
跡取りとなられるお坊さまが参加されました。
うれしそうで誇らしげな奥さまと娘さん。
カメラでその勇姿おさめようと早々とお堂の前でスタンバイされていました。
…すこぉしだけ居心地悪そうなご住職さま。
お寺さんに幸あれ。
そして…。
離れ暮らす家人が寛解いたしますよう、家人一家が幸せに暮らせますように。
群馬県に【赤城山】という山があります。
なんとこの山、群馬県のかなりの市町村から見ることのできるというお山。
多くの群馬県民に愛される山であります。
ただ、【赤城山】と呼ぶ単体の峰はなく、ひとつの火山帯ではあるのですが複数の山頂を持つ連山の総称ではあります。
標高1800mから1200mの峰々が取り囲んで円頂を構成し、裾野の大きさは、約35kmの富士山に次ぐ日本で2番目の規模であるといわれます。
山岳信仰の対象ともされ、関東一円に約三百社の赤城神社が分布しています。
そのうちの一社がこの赤城山の大沼にある【大洞赤城神社】さま。
こちらにお祀りされる神さまは
【赤城大明神】さま。
女神さまにございます。
この山を訪れると私は、どうにもすぐれなかった体調が良くなるという〝不思議〟が起こることが多く、とはいえ運転がたいそうほにゃららな私、そうそうはこちらのお山に来ることも叶わない。
それゆえ、赤城山の見えるところでは必ず赤城山の神さまを遥拝するのでありました。
きのう夫が赤城山へと連れて行ってくれました。
赤城山は赤城おろしと呼ばれる強い風が吹いてくるお山とされますが、きのうはたいそう優しい、風ともいえぬくらいのやわらかな空気が包んでくれました。
優しくて、人の心配ばかりしている、可愛らしいあの方に、あのきのうの赤城のやわらかな空気が届きますように。
里の道ばたにおられる石仏さまをお訪ねしました。
道の傍におられる石仏さまは
お地蔵さまや馬頭観音さま、
如意輪観音さま、
そして青面金剛さま
がほとんどなのだけれど…。
時代の流れに合わせて、区画整理をし、道を新たにつくったり、家を建てるべく宅地造成されたりとして、石仏さまは元おられた場を移動されることもしばしばです。
道の傍に小さなお堂があることもあり、今回は薬師如来さまの御像にお会いすることが多かった。
季節の変わり目、そして夏日からいきなり冬のような寒さ。
体調を崩される方も多いかもしれません。
そして、かつては冬だけ、あるいはオリンピックの年にだけ何故か流行った流行病が、もうずっと蔓延状態が続いています。
コロナは型を変え続け一向に収まる気配をみせません。
どうかみなさんが心身の不調無く過ごせますように。
どうぞくれぐれもご自愛ください。
とあるお寺さんで、年に二日だけの御開帳があり、
大好きな阿弥陀如来さまにお会いできると久しぶりにワクワクする気持ちを胸に出かけたところ…
以前とは異なり、夜のイベント開催中のみの御開帳となっていた。
昨年からプロジェクションマッピングなどを始めたようで、趣ある、たくさんの蝋燭の灯りの灯る法会ではなくなっており、それはちょっと…と思ってあえて昼間に参拝したのだが…。
お堂の中の阿弥陀如来さまにそっと手を合わせてトボトボ帰宅した。
御開帳とイベントは別物にはできないのでしょうかね?
これでは信仰心をそぐ気がして…。
拝観料くらいは惜しまないのだけれど、な。
千五百円の拝観料を納めていただくお寺さんの、妙な配慮があるのでしょうか。
普段は決して入れない御本堂が開かれていて、ちょっと嬉しく思ったけれど、
同じ宗派のお寺さんのご住職の作品展が開かれていた。
しかも全てに値段が付いて…。
この日限定の御朱印は三千円。
…儲かりますか?
今日十二月八日は仏教において大切な日。
三仏会と呼ばれる中のの一日でお釈迦さまがさとりを開かれた日であります。
お釈迦さまの人生は【八相成道】と表現されます。
一、降兜率
お釈迦さまは幾世も修行を積み重ね、前世、兜率天という天界で修行をほぼ完成し
最後の生として【仏陀】になるために白像に乗って人間界に降りてきたとされています。
前世から今世への結節点であるとされ下天ともいわれます。
二、入胎
お釈迦さまは自分が生まれるにふさわしい家系はどこかと〝兜率天〟から人間界を見据え釈迦族、摩耶夫人の右脇より胎内に宿ったとされます。
三、出胎
ルンビニーの花園で摩耶夫人の右脇から誕生するとすぐに七歩歩き、右手を天に、左手を地に向けて
「天上天下唯我独尊」
とおっしゃったという話は有名ですが
これは『この世を掌握し自分がこの世の人々の救済をするため生まれてきたことを宣言した』ということを示したのだとされます。
これが四月八日であるとされ、三仏会のうちの【降誕会】にあたります。
四、出家
お釈迦さまの人生においての分岐点【四門出遊】。
城からでようとしたとき東西南北のそれぞれの門の外で人生の現実を目のあたりにされます。
「東門」には力ない老人に、
「南門」ではやつれて苦しんでいる病人に出会う。
「西門」死者の葬列に出会い、
「北門」輝かしい出家者に出会いそこから城を出、出家、修行生活を始められます。
この四つの門でそれぞれ出会ったのはまさに人間が生きる上でさけて通れない生老病死。
こうして二十九歳で釈尊は全てを捨て出家、修行生活を始められます。
五、降魔
釈尊は様々な師の元で修行します。
さらにひとり六年にも及ぶ苦行を行ったが悟りは得られず、極端に偏らない【中道】こそ真理にいたる最善の道だと考えるにいたります。
ブッダガヤーと呼ばれる場所で禅定に入り、そこで、悪魔の誘惑(釈尊は煩悩を悪魔と例えている)と戦い、全てを降伏させたとされます。
これこそが「成道」直前の出来事で悟りを妨げる悪魔を下したと表現されます。
そして
六、成道
三十五歳にして悟りを開かれたのが、今日、十二月八日であると伝えられ、世界中の仏教界において恭敬する仏教行事が営まれるといいます。
あけまして
おめでとうございます
旧年中は私の拙いスレをお読みくださりありがとうございました
iPhoneの最新のバージョンアップがあってから、ミクルにログインされていないと表示される状態になってしまい、パスワードを入力して戻れたかと思いきや、毎回毎回パスワード等を入力しないでは入れない、
そんな状況になってしまって、なかなか来れずにおりました。
時々喘息発作を起こしておりますが、まぁあとは比較的元気に過ごしております。
新年のご挨拶に
先日参拝させていただきました神奈川県に御鎮座されます、
寒川神社さまの門に飾られていたねぶたの画像をお届けさせていただきます。
みなさまがご健康で
良い年でありますよう
お祈り申し上げます。
群馬県みどり市の光榮寺さまの初薬師護摩修行の前に、東京のお寺からこちらのお護摩のお手伝いにお越しのお坊さまから、思いもかけなかった法話をいただくことができました。
護摩修行に参列するにあたっての心構えをお話しくださり、それはとても心に残るものでありました。
「参列されておられる方々、それぞれお薬師さまに叶えていただきたい願い事があって参列されていると思います。
お護摩の炎に自分の身につけるものを翳してもらって、一年の無事を祈ってもらうものと思っておられる方もいるかと思います。
それは実はちょっと違います。
光榮寺さんのお護摩は『修行』です。
修行という言葉を聞くと、例えば滝に打たれるとか、何か大変なことをするよう思いがちでしょうが、決してそうではありません。
この護摩修行を受けることで、お薬師さまが功徳をお授けいただくご縁を授けていただいたと思っていただきたい。
その功徳を受けとれるような…器のようなものを自分の内に置くようなイメージをしてください。
その器が小さければ、せっかくお薬師さまが功徳をお授けくださってもその全てを受け取ることができません。
器が曲がって傾いていれば、お授けいただいた功徳が溢れてしまいます。
自分の内に、大きくてどっしりと安定した器が常にあるよう努めていれば、自然お薬師さまが功徳をお授けくださり、それをしっかりと自分のものにできるのです。
それがこの修行と思っていただいてよいかと思います。
器が常に自分の内にあるように意識して、
その器の大きさや容量が小さくなったりしないよう、
傾いてしまったりしないよう、
意識していただいて、
どうかお薬師さまのお授けくださる功徳をもらさぬようしっかりと受け止めてください」
言葉や表現は、お坊さまのお話そのものではありません。
このお話がストンと私の心に入ってまいりました。
心が、そして身が引き締まるような思いもいたしましたし、器という例えにワクワクもいたしました。
私の器だから、そんなに大きくはないだろう。
両手でそっと持てるくらい、そんなものだろうな。
安定性もあまり良くはないだろうけれど、傾いたら、整える。
私だけの器を
お坊さまに授けていただいた気がいたします。
それはいかようにもなる器です。
とある僧の言葉 覚書
『心を病む人は過去や未来を考え過ぎです
人生は「今を生きる」の積み重ねなのに
もっと今に目を向けて過ごしてください
人生は「今を生きる」の積み重ねなんです
「あの時こうすればよかった」
「この先どうなってしまうんだろう」
そうやって思考を回すほど、
心はどんどん疲れていきます
でも、よく考えてみてください
過去はもう消えた出来事
未来はまだ来ていない想像
現実があるのは、
いつだって“今”だけなんです
仏教では「一瞬一瞬を生きる」と言います
呼吸を感じて、光を見て
今ここで生きること
それが本当の意味での「人生」です
未来を案じるのは悪いことではありません
けれど、未来は“今”の延長線にしかありません
だからいちばん大切なのは
今この瞬間を丁寧に生きることです
禅では「只管打坐(しかんたざ)」といいます
ただ座る。ただ呼吸する
何かを変えようとせず
今ある自分をそのまま受け入れる
そこに、心の静けさと力が戻ります
あなたが疲れているのは
生きること自体ではなく
過去と未来を考えすぎた“時間の旅”です
一度、今に戻ってください
深く息を吸って、ゆっくり吐く
それだけで頭の中の嵐が少し静まります
今を生きる人は自然と明日に強くなる
なぜなら未来は今の積み重ねだからです
今日の一呼吸が
きっと明日のあなたを少し軽くします
だからどうか焦らずに
「今」に帰ってきてください
あなたはもうこの瞬間をちゃんと生きています
それに気づいたとき、
きっと心が少し明るくなるはずです』
…軽く、明るくなればいい。
とりあえず
深呼吸、深呼吸。
栃木県足利市には虚空蔵尊大祭である【まゆ玉市】の開かれるお寺さんがあります。
初虚空蔵の日となる一月十三日、
足利のまちに号砲が鳴り響き、まゆ玉市の開催が知らされます。
曜日に関わらず、虚空蔵菩薩さまの御縁日に開催されるため、今年のように平日であることも多々ありますが、平日であることを忘れてしまうほど多くの人が参拝に訪れていました。
まゆ玉市の開かれるお寺さんは
【行基山 徳正寺】さん。
天平三(731)年、行基上人が六十二歳のとき、足利の山中に草庵をむすび、そこに自らの手で造られ、諸国行脚の際背負って歩いた虚空蔵菩薩さまの像をお祀りしたといいます。
その草庵がお寺となり、それゆえ行基山と号するといいます。
その後山中にあった寺は火難消滅を恐れ、宝永七(1710)年に麓の現在地に新たに御本堂を建立したといいます。
このお寺では開山以来、この虚空蔵菩薩さまがまつられてきました。
元文四(1739)年に虚空蔵堂を改修したのを機に、新年最初のお縁日「初虚空蔵」の市が立つようになったと伝わります。
足利というまちは古来、養蚕や機業が盛んで、縁起物としてまゆ玉が売られるようになったといいます。
足利では今はもう養蚕業は絶え、繊維関係の会社も減ったといいますが、年に一度この市で多くの参拝者が今でも「まゆ玉」を買いに訪れています。
木の小枝に「まゆ」を模した丸い玉や縁起物をさげた「まゆ玉」かざりを売るのは、今は群馬県邑楽町の女性が一年かけて作ったものを売る露店が一軒だけになっています。
以前は三軒くらいはあったと記憶しているのですが…。
やはりコロナ禍がここにも大きな影響を残したということ、なのでしょうね。
虚空蔵菩薩さまは惜しみなく智恵をお授けくださる仏。
「人並みくらいに賢くなれますように。
ボケませんように」
虚空蔵菩薩さまをお祀りする御本堂前、手を合わせて祈る私。
しかしながら。
虚空蔵菩薩さまは、広大無辺な虚空へ災いや厄難を消し去ってくださる仏さまでもあります。
『災難が除かれ、世界が平和となりますように』
祈りを重ねます。
今日は観音さまの御縁日。
初観音です。
観音さまのご利益がすべての人に注ぎますように。
本日二十二日は【如意輪観音】さまの御縁日。
年明け初の御縁日ですので、初如意輪観音、となります。
岩場で蓮台に座る、六本の腕をお持ちになる如意輪観音さま。
【如意】は如意宝珠(にょいほうじゅ)、
【輪】は法輪(ほうりん)を意味し、
輪廻(りんね)する衆生(しゅじょう)を苦から救い、利益を与えるとされます。
すこし首を傾け、右手の一番上は頬に添え、二番目は胸の前で宝珠を、三番目は数珠を持ちます。
左手の一番上は手元の補陀落山(ふだらくせん)につけ、二番目はひじを曲げて輪宝(りんぽう)を指にのせ、三番目は胸の前で蓮華の茎をお持ちです。
意の如く願いを叶える『如意宝珠(にょいほうじゅ)』と煩悩や災いを滅する『法輪(ほうりん)』の御力が強い観音さまといわれます。
輪王座という独特な座り方をしていますが、一説には足の裏と裏を合わせて足で合掌している姿とも言われています。
この如意輪観音さまは月待ちの女人講の本尊で、特に女性を守る観音さま、女性の願いをよく聞いてくださるとされています。
煩悩を滅してくださり、
災いを滅し、願いをもかなえてくださるという如意輪観音さまの御利益が
悩めるすべての人々のもとにそそがれますように
気持ちがふさいだまま迎えた新年でありました。
この気持ちをなんとか鎮め前に向かおうとするたび、
目の前にあるトラップに
また心乱されてしまう日々でありました。
まあそれは一生もの。
上手く立ち回らなければならない。
それも無理なのが現実だからきびしいといえば限りなく厳しい。
昨年来、
心がそこから離れないし、
また離れてはならないし、
離れられない。
それはどこかへ出かけるにしても。
何をしても心がはずまない。
今年の目標など建てられない現実と、
己の思いと…。
そういえば昨年は
【比企を攻める】って目標だったな。
一度しか行けずに一年を終えることになってしまいました。
そんな日々のなか。
週末に
息子に連れられてうかがった神社さまで
心惹かれる狛犬さまに出会えました。
この狛犬さまを彫らせていただこう。
小さな、だけれど心がはずむ目標がもてました。
先日 思ってもいなかった東国三社をお参りさせていただく機会を得ました。
もはや
ご縁をお授けいただいたとか、
ましてや
お導きいただいたとか
思うことすらもったいない
ありがたい参詣でありました。
いつかここに
それを綴ることができますよう、
我がことながら祈るのであります。
その帰り道
夕焼けの空の中に
御仏がおられ思わず目をこすりました。
それは驚くことなど何ひとつない
かの有名な
牛久の大仏さまのそばを通っていた
ただただそれだけのこと。
ですが…。
私の心には
まるで
光がさすかのように
そのお姿が映ったのです。
その御手の
お美しいことといったら…。
御仏は
その御手で
衆生にさまざまなことを
お伝えくださいます。
この御手は
お導きの手
人の目には
見えないけれど
そこに
御仏はおられます。
その御手を差し伸べてくださる
御仏がおられます。
一方で
私たちの手は小さくて
持ちきれないもの
持ちきれないこと
がたくさんあります。
…時には手離して良いと思うのです。
手離しても縁があるものは必ずまたその掌に戻ると、わたしはそう信じます。
心がいっぱいになったなら
いろんなことを手離して
自分の心を
自分の心だけをその掌にのせてあげて
優しく撫でてあげて良いのだと
私たちは
人間だから
大きさの差こそあれ
その掌に乗るものは限られている。
それで良いのだと思うのです。
人間だもの。
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