神社仏閣珍道中・改
【神社仏閣珍道中】 …御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開であります。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、
神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかネットで調べて、ようやく初詣を果たしたような人間であります。
未だ厄除けも方位除けもしたことがなく、
お盆の迎え火も送り火もしたことがない人間です。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたしております。
相も変わらず、作法のなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
神さま仏さま、どうかお導きください。
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(十王さまの石仏 続き)
この十王さまの石仏のある近くに阿弥陀さまの板碑もあると地元の方の書かれた資料には書かれています。
目こぼし地があったくらいこの名久木という土地はかつて栄えた地であったようで、実際仁田山八郷と呼ばれた頃、八郷の中で最も人口密度の高い地であったようです。
千網谷戸遺跡のあった土地。
縄文時代に栄えたくらい土地が肥えて住みやすかったということなのでありましょうか。
山田川の源流の方まで行ってみたところ体感5℃は低い心地よさで、良い避暑地を発見したと思ったくらいで、この川内という土地は作物に必要な水、作物の生育に必要な寒暖差などもあり、集落で暮らす時代には大変暮らしやすいということであったのでしょうか。
そんなことから、実は名久木の地には鎌倉〜江戸時代くらいまでの石仏さまが多く存在するのだといいます。
よぉ〜し。
名久木に行こう!
(↓名久木の十王さまの石仏。
左手にはグリーンのブランケットをお持ちです 笑)
【群馬県桐生市川内町の十王堂の輪廻車付き石幢】
十王さまの石仏を訪ねるに、ネット上に上がってくる【十王堂の輪廻車付き石幢】。
十王さまの輪廻車付き石幢?
初めて聞きます。
…行きたい。
出ました、知りたがり煩悩。
で。
またまた川を渡って、白滝神社さんのそばを通って、その辺りにあるらしい十王堂輪廻車付き石幢を探します。
…無い。
川内町の史跡ガイドブックにある地図を見ながら、ナビを使って走行しても見当たらないのです。
そのガイドブックの地図上で唯一手がかりになりそうなのがバス停なのですが、そのバス停がそもそも無い。
うーん。
白滝神社さんの道を隔てた反対側辺りのはずなのですが、道案内も、それと思われる道も見当たらないのです。
うろうろとする私たち(のクルマ)。
あ、畑仕事をなさっている方が!
エックスキューズミーおばさんが車を降りて駆け寄ります。
「えっ?しらねぇなぁ、聞いたことないけど」
えっ?
手に持つ川内町ガイドブックをお見せしました。
「うーん、わかんねえなぁ。聞いたことない。白滝神社の反対側辺り?そんなんあったかなぁ。いずれにしてもここは来過ぎてるけど」
ええっ?!
そ、そんなことあるんだぁ。
お礼を申し上げて、Uターンついでに少しまた棒谷戸赤城神社さんの方へ車を走らせます。
と、今度は道路を悠々と歩かれる方がお一人。
しかしながらやはりご存知ないとのこと。
そこへ先ほどの方が道を歩いて私たちを追ってきてくださっていました。
「町会長さんに聞けばわかるかもしれないよ」
…いや、私どもはただただ個人的な関心で動いているだけなのでそんな大がかりなことは…、というかこうしてお声がけさせていただくだけでも充分身に余るありがたいことでございます。
ましてや私どもを追ってまで来てくださって、なおも御助言くださるなど、本当に身に余る光栄、これだけで充分なくらい、よい想いをさせていただいております。
そしてもう一度。
道を戻りながら、Google先生にご教授願いながら注意深く進むと…。
(続き)
川内町五丁目方向から川内町への入り口へ戻っていく形で車を走らせます。
目印となるはずのバス停は資料の作られたときからすると、バス停の配置の見直しが行われたようで相変わらず見当たりませんでしたが、バス停という視点を外し、道を挟んで白滝神社の反対側という見方をすると見落としていた細い道がありました。
その道を入ってしばらく行くと、直進する道と、さらに細い、山へと向かう道があり、ようやくそこに桐生市の設置した『十王堂輪廻車付き石幢』という小さな小さな案内板を目にします。
…これは地元の方も知らないはずです。
用がない方はまず入らない道を入り、さらに山へと向かう道が案内されているのですから。
うーん。
それにしても。
せっかく見つけた案内の立て看板板がなんとなくあまり嬉しく感じられないのはなぜでしょう。
ヘビさんや鹿さん、熊さんに出会いそうな気がするせいでしょうか。
それとも刺してくる一連の毒虫たち?
暗い山道が容易に想像できます。
そこで閻魔さまとかに会うということ。
…日頃の行いの良くはないおばさんです。
ええ、怖いんです。
しかも十王堂と言いながら、そこは、そこへ向かう道中は立派な墓所でありました。
ぼ、墓地〜ぃ?
そんなはずではなかったんです。
ただただ十王さまたちにお会いできるとばかり思って、私はここをひたすら目指してきたのです。
(続き)
山の斜面、あちこちの方向を向いて立つ墓地の間を歩きます。
ほんとちゃんとそう書いておいて欲しい。
…そう、名久木の十王さまの石仏のように。
『墓地の中』、と
心の中でぶつくさぶつくさ言いながら、できるだけお墓の方を見ないように坂をのぼります。
あ。
それでも。
ほどなくお墓とは異なる、屋根はあるものの壁はない小屋のような建築物が見えてきました。
ほっ。
しかもそこに石幢が立っておりました。
ん?
えっ?
石幢に彫られたお姿はどう見てもお地蔵さま、ではないですか!
ええ、六道を示すかの六地蔵さまが彫られています。
…。
…あのぉ〜十王さまは?
十王さまってお話は一体?
呆然とした私がハッと我を取り戻したとき、そのお墓に囲まれた空間に小さいながら御堂が立っているのが目にはいりました。
(あ、ああ、十王堂)
…!
そういうこと?!
〝十王堂の〟、輪廻車付き石幢!
…はあぁ。
左様でございましたか。
たしかに、十王堂の〝隣〟に、輪廻車、南無阿弥陀仏(、だったかしら?)と彫られた摩尼車が付いています。
こうした石幢に摩尼車が付いているのは珍しいものかと思います。
なるほど。
ま、まぁ、それは私の勘違い。
十王堂の扉は閉められていますが、お参りをさせていただきましょう。
!!!
十王堂の小さな覗き穴、ではなくて、一箇所だけ開いた格子の窓に!!
…蝶々が止まっておりました。
私、蝶々は苦手です。
もちろん蛾も。
羽のあるもの、
私より足の多いもの。
そうした生物が苦手であります。
得意技である覗きも出せぬまま、退去です、撤退です。
収まらない怖さを抱えて、お寺さんに立ち寄り、ご本尊さまにそのなんとも言い難い恐れを、畏れをお伝え申し上げました。
それで、それだけでだいぶ気持ちが落ち着きました。
それでもビビりの私といたしましては、浄めの塩を求めてドラッグストアへと立ち寄ってもらいました。
…その駐車場で。
さらに私を恐れさせる事態がおきます。
数珠が、なんの前触れもなく、弾け飛んだのです。
ええ、びっくりするほどの勢いでパーンと弾けて飛び散ったのです。
飛び散った数珠玉に驚きながらも、なんとか一粒でも手元に残そうと大腿の上にはめていた左手首を乗せ、右の手で懸命に押さえますが、瞬時に飛び散った小さな玉をそんな動作で抑えられるものではなく。
そのほとんどが飛び散ってしまい、残ったのはほんの数粒と数珠に合わせて作られた小さな小さな五鈷杵。
そうなんです。
このお数珠はあの弘法大師さまが右手に持たれるあの五鈷杵のついたお気に入りの数珠であったのです。
なんとなくモヤモヤした思いを抱えていたところに思ってもいなかった数珠が切れるという事態に、私はドキドキが止まりません。
それでも幸いなことに助手席に座った状態でのこと。ドアも窓も開けていません。
一粒一粒懸命に拾ううちに、気持ちが少しづつ落ち着いてきました。
この数珠は私を守ってくださった。
…まぁ、何から、なのかは置いておき、そのほとんどを拾えただろうと思っただけ拾い集め、ティシュにつつんでバッグの小さなポケットに数珠玉を大切にしまいました。
この五鈷杵のついたお数珠はよく詣でる真言宗のお寺さんで、一目でこの数珠が気に入って、これが最後の一品だったものを購入したものです。
もう一つ夫なものが欲しくて何度通ってもその数珠が入荷されることは無く、あるとき副住職さまにお聞きしたところ、もうこの数珠は入荷されることはないとのこと、まさに最後の一品、であったのです。
この切れてしまった数珠の玉を持ち、私はそのお寺さんの朝の読経の時間に合わせてお寺を訪ねました。
(念のため申し上げておきますと、その日だけ行ったのではありません、前の日にも伺っております)
事情を話したところ、ご住職さまはその数珠玉の入ったティッシュを両の掌(たなごころ)に包まれ、短い御真言(…かどうかもわからない)をお唱えくださりました。
ああ、ありがたい。
また新たなご縁を結んでいただいた数珠玉を一つ一つつないで、私の手で数珠の形を取り戻しました数珠は、なんだか前のときより重いのです。
糸の太さもありましょうが…。
ありがたいご縁が増えた分、そう思って、今またお寺さんなどを訪ねるとき、私の左手につけられています。
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大好きな群馬県草津白根山。
それはそれは美しいエメラルドグリーンの火口湖で有名なところだった。
もうそこへの立ち入りが禁止されて何年経っただろう。
つい先日も息子と三人で志賀高原に向かう途中、この道を通った。
志賀高原を訪れるのが定番だったわが家の夏。
「…まだだめなのかねぇ」
何年か前から、ここを通ると必ず誰かがつぶやいた。
「寂しいね」
火口湖に向かうハイキングコース、道を隔てて池の周りを散策するコース。
必ず立ち寄ったおみやげ屋さん。
多くの思い出が詰まっていて、そしてそのまま時を止めたかのように封印された。
ひどい時は通行自体が出来なかった。
今はすっかりその頃の面影を無くした駐車場やおみやげ屋さんが痛々しく哀しい。
そんな草津白根山の火口湖へと向かう登山道がこのたび来月下旬から条件付きで通行できるという。
今日のNHKのニュースでそれが報道され、心が躍った。
「…地元草津町では火山活動が比較的落ち着いているなどとして、全面的な立ち入り禁止の措置を15年ぶりに緩和し、来月下旬から条件付きで通行できるようにすることを決めました。
草津白根山のうち、エメラルドグリーンの湖面で知られる火口湖の『湯釜』がある【白根山】では、
火山活動が高まった2009年以降、草津町が、湯釜を臨む展望台につながる中央登山道を全面的に立ち入り禁止にしています。
町は、観光客からの登山道再開の要望などを受けて火山の専門家と協議し、町長らが展望台付近まで行って現場の状況を確認しました。
その結果、火山活動が比較的落ち着いていて登山道にある避難シェルターの修繕も終えているなどとして、立ち入り禁止の措置を15年ぶりに緩和し、来月下旬から条件付きで通行できるようにすることを決めました』
…十五年ぶり。
そうだったな。
末の娘も高校に入り、ちょうど家族で過ごすことも減ってきたさなかのことだった。
久しぶりにとてもワクワクした。
ニュースは続く。
「具体的には、10月下旬までのうちの10日間、1日に2回、1回当たり20人に限定し、監視員のガイドを同行させるということです。
登山道の通行には予約と1人4000円の負担金が必要で、町は26日から予約の受け付けを行っています」
…すごい条件だ。
心がしおしおと萎びた思いがした。
- << 487 【群馬県草津白根山のツアー中止の発表】 群馬県草津町が、今月二十五日から再開する予定だった草津白根山の火口湖「湯釜」の見学ツアーを中止すると発表しました。 気象庁が九日発表した「草津白根山の火山活動資料」をもとに草津町が判断したとのことです。 火山活動資料によると、湯釜付近の白根山では、五月下旬以降、火山性地震がやや増加し、六月頃からは湯釜付近の地下で緩やかな地殻変動が始まっているなどとして、今後、草津白根山の火山活動が高まる可能性があるとのこと。 …あのぉ〜、五月、六月のレベルの資料? それって、今さら? それを受けて中止? 問い合わせっていうか、相談、してたよね? ツアーを決めた地元の人たち、 その準備に動き出していた人たち。 ずっと閉鎖を余儀なくされているおみやげ屋さん、 ガイドをつとめようとしていた人たち、 十五年、淋しさや哀しさを抱えていた草津白根山を愛する人たち、 こんなの、ない。
【群馬県桐生市皆沢八幡宮】
群馬県桐生市の梅田町に桐生ダムがあり、豊かな自然とおだやかなダム湖、さらにはその上流での川遊び、魚釣り、桐生市立の宿泊施設もあり、ここを知る人の多くがリピーターだ。
ダム湖で遊ぶにしろ、魚釣りや川遊びをするにしろ、ダム湖をみぎてにみながら直進するルートをとることがほとんどだ。
ダム湖にかかる橋を渡る人も、車を駐車場に停めて歩いて渡る人がほとんどなくらいだ。
そんなダム湖にかかる橋を車で渡って、道なりにしばらく進むと左側に神社の鳥居が見えてくる。
それが【皆沢八幡宮】だ。
とはいえ、道から見える鳥居もさほど大きなものではない。石造りの鳥居が一つ。
境内はそれなりに広い。
ただ、車で乗り入れることはできない。
少し行った先にある空き地のすみの方に停めさせていただいて徒歩で鳥居まで戻る。
鳥居の前に大きな石灯籠が一つある。
対ではないのが不思議な気がした。
広い境内地に社務所のような、集会所のような建物が二つ、しっかりと窓まで閉ざされどなたももいないことが一目でわかる。
…?
鳥居から突き当たる場所にあたるところに石段があって、高台に、質素な建物がある。
質素というか…正直社殿にあまり見えないのだ。
装飾が何もないし、屋根も瓦葺きでもない白木のままの建物だ。
質素、という言葉が上品に感じるくらい、壁にあたる部分はまるで簀子のような板が立てられそこに細い横板を打ち、壁というよりは塀?
引き戸の扉に鈴は吊り下げられているが、別段お賽銭箱もない。
見晴らしがよいので、石段を上がらずとも見てとれる。
…ん?
『皆沢八幡宮本殿』と立て看板に案内がある。
ほ、本殿?
いきなり本殿?
と、もしかしてこれは覆屋?
覆屋兼…拝殿?
(続き)
拝殿ととらえるべきでありましょう覆屋前に吊るされた鈴、正式名称【本坪鈴】を鳴らし、二礼二拍手し、初めて参拝させていただいたご縁に感謝申し上げて一礼。
そしてさっそく、おばさんの覗きの技が!
えっ?
す、凄い!
覆屋兼拝殿からは想像もできないくらい細やかな彫刻の施された社殿がそこにありました。
おお。
ドキドキします。
そして、どうしてこれだけ立派な本殿に対して幣殿はおろか拝殿すらないのでしょう。
だいぶ高台にあるこの本殿。
水害で流されたまま再建されることなく本殿だけがのこっている?とか、…なのでしょうか?
長い参拝(と覗き)を済ませ、境内を歩いていて見つけた案内板には、『…十八世紀後半に建立されたと思われる…』とのみ書かれるだけで、詳しいことは不詳なようです。
『 名称 皆沢八幡宮本殿
八幡宮は皆沢地区の要所、皆沢川と中川の合流地点南東の高所に鎮座し、宇治川の先陣で名高い上野の武士、足利又太郎忠綱を祀っている。
十八世紀後半に建立されたと思われる本殿は、茅葺き、隅木入りの春日造で正面向拝には唐破風を設け、浜床を持つ。
組み物から上は朱塗りされ、彩色された龍頭の彫刻が施されるなど、鮮やかさが際立っている。建物の壁面に嵌め込まれた彫刻は、縁が鋭い平面的な浮彫で背面の彫刻には
「加(ママ)永四亥 三月廿九日出来上州勢多郡荻原村星野東渓(カ)行年八十才」の墨書がみられる。
また、本殿床下内部の壁面からは、建立時の原寸図と思われる組物と垂木を描いた墨書が確認されている。
本殿内部には忠綱明神像と伝えられる天文十二(1543)年の墨書がある木彫の神像が安置されている。』
とありました。
ん?
この案内、ツッコミどころ満載ですが…。
ま、まぁそれはまずは置いておき。
その見事な彫刻に酔いしれていた私に時を戻します。
(続き)
向拝、垂木、扉脇、胴羽目、脇障子、向拝、など、ひととおり彫り物が施されています。
色もかなりの部分で残っています。
私がとても気に入ったのは、… 縁下持送り、というらしいのですが、本殿の建物の縁の下に当たる部分の龍。
まずそこが目に入って、おばさんの心は一気に舞い上がります。
そしてその上、胴羽目といわれる大きな壁面にはめ込まれた大きな彫刻にはそれぞれ物語があります。
ほとんど読み解けない私ではありますが、いつかこの彫りをみて、その物語がなにか、わかる達人になりたいとひそかに思ってはいるにはいるのですが…
それには中国の故事などを学ばなくてはならないのですが、そこにまだ着手していない時点で、それはかなり遠い遠い道のりであります。
ともあれ。
まず本殿右側の胴羽目。
松の木があり、その木の根元に座る一人の老人。
お腹が少し出た、着ているものからは仙人を思わせる男の人です。
構図がまた素晴らしくて、その人物が右の角の部分に結構大きく位置していて、ゆったりと悠々と座っている様子がよく表されています。
そして松の枝の手前、大きな鳥に乗る、唐子と呼ばれる唐の時代の子供(なのか?)が描かれているのです。
大きな翼の広がるさまといったら!
いかにも優雅に空を飛ぶ様子が表現されているのです。
ただし、この彫り物の、テーマとなっている絵はなんなのかはわからない。
よくみると鳥に乗る唐子(と思しき人物)は何かを手に持っています。
…笙の笛?
いずれにせよ、両の手を離して鳥に乗るあたり、この人物もまた仙人?
不老不死とか?
まぁいくら見ても中国の故事をまだ学び始めてもいない私には答えは出せません。
(続き)
本殿裏側はたくさんの人物が描かれている図柄です。
みぎて上部には旭日を思わせるような放状線というか放射状の帯の描かれた円の中央に人の形をした、人物(?)が描かれています。
御仏の光背遠思わせる…。
そしてその下部に太鼓をたたく人物と笛を吹く人物。
光り輝く人物(?)の前、遠近法を使っていて、なのか、大きな、いかにも力のありそうな人物、…なんだか歌舞伎でみえをきっているかのような力強さを強調した人物が立ちます。
その手前では何やら踊っているかのような女性。
私はその場で思ったことをそのまま声に出してその絵をイメージし直しました。
…ん?
ん?これって…?
「天の岩戸じゃない?」
と先に声に出したのは夫です。
私もちょうどそう思ったところでありました。
まぁ、こうした物語絵には(私の場合は〝は〟ではなくて〝も〟ですが)知識の乏しい二人ではありますが意見がほぼ同時に一致いたしました。
ただ、この絵が天の岩戸であるならば、決定的ともなろう踊り手の女性がしっかりと着物を着ているところがちょっと決定打とまでは言えないところを残すのですが…。
惜しいことにこの裏手の胴羽目は右側に比べて青く苔むしておりました。
上の方に彫られた松には結構しっかりと緑色の着色が残っているのですが。
この絵柄がもし天の岩戸で正しいのならば、まさに肝腎要の天照大御神さまのお顔がうっすら欠けてしまっています。
…二百年以上前の彫刻ですからね。
いつから覆屋で覆ったかはわからないのですが、それだけの年数の経った屋外のものにしてはしっかりと残されていると思います。
どれだけの人口のあった集落は分かりませんが、こうした建築物の保護に対して、先見の明のある方のおられたことに深く深く感謝いたします。
(続き)
本殿左側は海が舞台の彫刻です。
右側に龍がおり、その顔のすぐそばの海面に一人の女性が右手に短刀、…のようなものを持って、それを少し振り上げています。
その女の人のすぐそばには船が一隻あって、三人の男の人がその船に乗り、一人は船から身を乗り出してその女性に棒のようなものを差し出していますし、身なりのいい、いかにも貴族といった男性はなぜか右手に草刈り鎌のようなものを持ち、それを少し振り上げています。
もう一人の男性は、…あまり身分は高くなさそうなのですが、狭い船の中驚き慄いているように見えます。
この彫刻も上部は彩色された赤錆色や緑や黄色の色が結構残っているのですが、下の方は波が苔でまるで緑に塗られたかのように見えます。
龍は空に胴部分があり、とぐろを巻いた状態で、女性、そして船を威嚇しているかに見えます。
女性は龍に立ち向かう強い意思を感じます。
海の中、龍の顔がすぐそばにありながら短剣をかざしているのですから。
龍は極悪な顔をしているように見えます。
…あ、これは!
「これ、あの足利の毘沙門天さまにある絵馬のやつじゃない?
龍宮から、盗まれた珠を取り返すとかいう画題の…。
女の人が珠を取りにいってて、船があって、画風はだいぶ違ってたはと記憶してるけど」
夫はまるで記憶にないようで、私の話を否定しておりますが、私は毘沙門天さまの絵馬の絵が当時珍しい遠近法で描かれている、というご住職さまのお話まで含めて覚えています。
ただ、こちらの八幡宮のこの彫刻がこれと同じ画題であるかは別ですが。
藤原不比等が龍神に盗まれた「面向不背の宝珠」を、竜宮へ海女を潜入させて奪い返すという【龍宮玉取姫之図】、【玉取姫】とか【海女の玉取り伝説】と呼ばれる物語のようです。
けっこう有名なお話なようで、歌舞伎や浄瑠璃、浮世絵となり刺青の画題になっていたりするようです。
この左側の胴羽目はたぶん、十中八九、この画題で彫られたものに違いない、と、私は思うのです。
帰宅後調べたところ、この八幡さまの胴羽目をそう解説なさる方がおられ、どうやら間違いなさそうで、三枚のうち、二枚も彫物の画題がわかって、なんだかとても嬉しい、おばさんでありました。
記録的台風が日本を襲来してしまいました。
ご自分の命を守るためにどうか今できる最善を尽くしてください。
とはいえお仕事でどうしても出勤しなくてはならない方は多くおられます。
ただどうかどうか決して無理はなさらずに。
命は一つ。
あなたはこの世の中、たった一人、唯一無二の存在なのですから。
こんな時、語彙力のない自分が本当にいい歯痒く情けなく思います。
皆さまのご無事をお祈りしております。
玉取姫の物語を調べてみると、こうした伝説にはありがちで語り部によって話の内容は若干異なってきます。
歌舞伎や能、浄瑠璃にもなって伝わることから、さらにその幅は広がっているものでありましょう。
共通点は
藤原鎌足の死去にともない、唐の国の皇帝に嫁いだ娘から、兄藤原不比等都に宛てて、父の追善のために宝物が届けられること。
そのうちの一つが龍神に奪われてしまうこと。
不比等がその宝物である珠を取り戻そうと、身分を隠してその珠を奪われた海岸の村に住み、その生活を送る中海女と結ばれ子をなすこと。
海女が不比等の真の素性を知り、さらにはその目的も知って、命懸けで海へと潜って珠をとり返し、絶命すること。
です。
その不比等と海女との子の将来まで描かれたものもあれば、姫…海女の悲劇で終わるものもあります。
その中の一つをここにあげておきます。
【海女の玉取り伝説】
天智天皇の御代。
藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝、高宗に嫁いでいた娘は父の追善のため、三つの宝物を贈ります。
ところが都への船が志度浦にさしかかると、三つの宝物のうち『面向不背(めんこうふはい)の玉』が龍神に奪われてしまいます。
鎌足の子であり、唐の皇帝に嫁いだ娘の兄である不比等は玉を取り戻すため、身分を隠して志度に住みつきます。
やがて海女と契り、子どもも生まれます。
しかしながら、いつまでもこの浜辺の村に身分を隠したまま住むわけにもいかず、不比等は数年後に素性を明かし、この奪われた珠の奪還を海女に頼んだといいます。
海女は
「わたしが玉を取り返してきましょう。その代わり、私どもの子を藤原家の跡取りにすると約束してください」
といい、龍宮へと潜っていったといいます。
やがて腰に命綱をつけた海女の合図があり、綱をたぐると、海女の手足は龍に食いちぎられていたが、自らの手で十文字に切った乳房の下に玉が隠されていたといいます。
そして不比等の腕の中で亡くなっていったと。
ま、この物語、いろいろ思うところはあります。
妹からの父の菩提追善の品とはいえ、実際は唐の皇帝からの贈り物。
しかもこの珠、なんとか失った珠を取り戻したいという一心から、海に潜れる海女をてなづけたのか?とか、キーっと思うとこはあるんですが。
あくまでも伝説であると、思うことで落ち着きたいと思います。
(続き)
さて。
こちら皆沢八幡宮さんに設置された案内板に対して、ツッコミどころが満載だと申しておりました私。
ツッコンでみたいと思います 笑。
ただすっごく長くなりそうで、そこもまたちょっとしんどいのですが…。
まずはこちらの御祭神。
八幡宮というと八幡神(やはたのかみ/はちまんしん、旧字体:八幡神󠄀)さまをお祀りしているものだと思っておりました私。
ところがこちらは八幡神さまをお祀りしてはおらず、足利忠綱公をお祀りしていると記されています。
実際、こちらの御本殿には忠綱明神像が祀られているといいます。
八幡宮に合祀したのではなく、あくまでも足利忠綱公をお祀りしているということであります。
八幡神さまは、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の多くの武家から武運の神(武神)として崇敬を集めた神さまであります。
誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされています。
東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元(749)年に、
宇佐八幡の禰宜尼、大神朝臣杜女(おおがのあそんもりめ)らが上京し、
八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあるといいます。
早くから仏教と習合しおり、天応元(781)年、朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈ります。
これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなるのです。
八幡神さまを祀る神社は八幡宮(八幡神社・八幡社・八幡さま・若宮神社)と呼ばれ、その数は一万社とも二万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国二位であるといいます。
御祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国一位であるともされます。
と、なると…。
こちらの八幡宮、八幡神さまをお祀りしていないとなれば、厳密には八幡宮ではないということになる?
実際、地元で伝承される伝説では、亡くなられた忠綱(実はこれに関しても諸説あります)の死を悼み、その屍を拾い集めた里人たちが貝沢川の左岸に葬り、その墓所に祠を建てて【忠綱明神】としてお祀りしたと伝えられています。
のちにこの社が『八幡宮』と改称されたといいますが、…なんだか少し乱暴な気がするのはわたしだけでしょうか?
(続き)
そして。
こちらの御祭神であります、忠綱明神さま。
案内板の説明では
〝上野の武士、足利又太郎忠綱〟と紹介されています。
はて?
上野の?
いくら歴史にうとい私といえども、足利氏と言ったら栃木県の足利氏であろうと即座に思うのです。
上野の武士は違和感しかありませんが?
たしかにこの辺りで亡くなられたという忠綱公の死を悼み、その屍を拾い集めた里人たちが貝沢川の左岸に葬り、その墓所に祠を建てて忠綱明神としてお祀りしたと伝えられています。(これも諸説あるようですが)
しかしながら亡くなられた土地が上野国=群馬県だからといって、上野の武士と言ってしまうのはおかしなことではないだろうかと思うのでありまして。
それにしても。
…忠綱公ねぇ。
やたらと聞き覚えがある方な気がいたしますが?
ご存知の通り私は歴史には(も)全く詳しくありませんが、珍道中のペアである夫は歴史の教科書などにはこれっぽっちも載ってはいない地方の歴史などにたいそう詳しく、出向いた先で地元の歴史に詳しい方と突然対談を始めてしまうくらいな人物です。
かつて足利の地をそうした歴史的な視点で歩いたことがあった気がいたします。
そう、なんとか足利氏とか、なんとか足利氏とか、なんとか源氏とか、なんだか複雑なことをその時口走っていた気がいたします。
そしてそれは足利尊氏などよりも古い時代の話であった気が…。
そうだ!
鑁阿寺とか、樺崎寺とかの時代だ!
うーん、…忠綱さん?
忠綱さん!
わかった!
(続き)
さて。
「わかった!」とは言ったものの、
ここに書くからには間違いがあってはいけないので。(…とか言って、いつも誤字脱字ばかり。本当に申し訳ありません)
足利忠綱公について調べてみました。
すると…。
なんだか私が思っていた忠綱さんとは異なるような…。
あれ〜?
でもよくよく考えても間違いはないはずなんです。
なぜならば、歴オタ夫に導かれてたどった足利の地はたしかに忠綱公であったのです。
うーん。
あ。
そうか、そうだった!
足利の伝説巡りって言っていたんだ。
足利の伝説巡りは他の伝説の伝わる伝承地も巡りましたが、このときは私に流れがわかるように、忠綱公のルートという形をとってまわってくれたんだった。
それは国宝鑁阿寺から始まって、鑁阿寺の北裏にある逆さ藤天神、馬打峠、そこを抜けてこのときはそこで終わりましたが、樺崎寺跡(現在の樺崎八幡宮)、法玄寺へも参りました。
また今回、私は初めてでしたが夫は過去にこの皆沢八幡宮さんへもお参りしていたといいます。
これらは全て、足利忠綱公に関する、というより忠綱公と、それから鑁阿寺の開基である足利義兼公とその妻時子さまの一連の伝説につながる地であります。
そうだった、そうだった。
私はこれによって足利義兼公を知るのであり、忠綱公に関してはこの伝説巡りの登場人物としてしか知らなかったのです。
ありていに言えば、不勉強。
まずは歴史上に残る足利忠綱公について調べたことを書いていきたいと思います。
が、その前に。
ここに足利義兼公と足利忠綱公が出てまいります。
この二人、姓こそ同じ足利氏ですが、実は流れが異なるよう。
足利氏というと、室町幕府を開いた足利氏が有名ですが、平安時代の後期、下野国足利には、藤原秀郷を祖とする足利氏と源氏の流れをくむ足利氏が並立していたのだといい、この両足利氏を区別するために、
藤原秀郷を祖とする足利氏を「藤姓足利」、
清和源氏を祖とする足利氏を「源姓足利」とよぶのだといい、この藤姓足利氏と源姓足利氏は、平安中期から鎌倉初期まで並立していたのです。
当初は藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の勢力が大きく、足利郡内を中心に広大な所領を持っていたのだといいます。
【足利忠綱】公の略歴
藤姓足利氏の第五代当主。
戦いではいつも先陣を切る勇敢な猛将であったといいます。
忠綱と敵対した鎌倉幕府の記録書である【吾妻鏡】によると、
治承四(1180)年
以仁王が平家討伐の挙兵をした際、以仁王からの挙兵の令旨が、時を同じくして同じ下野国にあった小山氏には届いたが足利氏には届かなかったことを、一家の恥辱として平氏方に加わったといいます。
この時忠綱は十七歳であったといいます。
一門を率いて上洛し、平氏の有力家人軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃したといい、宇治川の戦いの時には、増水した宇治川を前に怯む味方側を横目に、忠綱が、
「深さ、速さは利根川と変わらない。皆続け。」と、真っ先に馬を川に乗り入れ、約三百騎が「馬筏(うまいかだ)」となって続いたといいます。
このような華々しい戦功があの【平家物語】に書かれている、…のだそうです。
まさに坂東武者の誇りを示した名場面であるといえましょう。
…ま、教科書以外で平家物語を読もうと企てては挫折を繰り返す私は、この忠綱の活躍のシーンを実際に読んだことはないのですがね。
『…このことにより大いに武名が高まったため、総大将・平清盛に対して、恩賞として父・俊綱以来の宿願である上野国十六郡の大介職と新田荘を要求した。
清盛はこの申し入れを受け入れるが、忠綱の配下が、恩賞は一門で等しく配分すべきであると清盛に抗議したため、わずか数時間で撤回されたという。そのため、巳の刻(午前11時頃)から未の刻(午後1時)までの間の、午の刻のみ上野大介となったことから、「午介」とあだ名されて笑われたという。(「源平盛衰記」による)
(※)寿永二(1183)年、忠綱は常陸国の志田義広の蜂起に同調して野木宮合戦で頼朝方と戦ったが敗れ、上野国山上郷にのがれたが、その後の消息は不明である。父・俊綱も家人に裏切られて殺害された。
最後は源氏に帰順したとの説もあるが、ここに藤姓足利氏の宗家は滅亡した。』
と。
ここ!
これです。
忠綱の最期が
※にあるように伝承が異なるのです。
とすると足利市に伝わる伝説はあくまでも伝説となるかに思われてしまいます。
うーん、…悲話なんですよね、この伝説。
でもなぁ。
ずっと一連の忠綱悲話のルートを、…よくわからないままながらも巡った私としては、なぁ。
(続き)
自分の『平家物語 ビギナーズ・クラッシック』や、家にある夫の蔵書『足利の伝説』やら『栃木県の歴史散歩』『吾妻鏡』をゴソゴソいじっていることに気づいた夫が、
「忠綱について調べてるの?」
と。
…まぁ、気づきますよね。
桐生市の梅田にあるという皆沢八幡宮に行きたいと言ってきた妻が、帰宅後ゴソゴソと本をかき集めていれば。
そんな夫が今日、外出先から帰宅する車中、
「忠綱はその活躍からも結構有名な人物で、それでいて謎もある。
すごく魅力的な人だよね。
吾妻鏡を読みたいって思ったのも忠綱がどう描かれているか知りたいと思ったからなんだ」
…なるほど。
だから忠綱公の伝説の地を巡ってみたわけか。
しかも実際には二度目だったようで、高校生の時に原付でまわってみたよう。
その時はまだ整備されておらず、場所がわからなかった馬打峠を巡りたかったようでした。
はあぁ、私とはまるで違う高校時代を送っていたようで。
(続き)
足利市民に『大日様』と呼ばれ親しまれている、【鑁阿寺】。
鑁阿寺は『足利氏居館跡』で、足利氏の祖・源義康が居宅を構えたのが始めです。
鑁阿という僧が開基であり、この僧こそが【足利義兼】公であるのです。
鑁阿寺は建久七(1196)年に義兼が自宅である居館に【大日如来】さまを奉納した自仏堂を建てたのがはじまりで、文暦元(1234)年に足利義氏が伽藍を整備し、足利氏の氏寺となります。
この鑁阿寺が出来る以前の建久六(1195)年に、
足利氏邸宅内で待女 藤野 が起こした、籐姓足利氏最大のスキャンダル事件こそが、
足利忠綱、そして北条時子(=足利義兼の妻)の悲話の一連へとつながるのであります。
義兼は頼朝の従兄弟であり、頼朝と主従関係にあり、かつ頼朝の妻政子の妹(一説によると姉)と結婚したことから頼朝と相婿であります。
簡単にこの足利に伝わる忠綱、そして時子の悲劇の概要だけ紹介いたしますと。
領主の足利義兼が、源 頼朝に従って半年ほど足利を留守にした際のこと。
この年、頼朝は東大寺の供養に上洛しており、義兼は鎌倉御家人の筆頭として供奉しておりました。
留守を預けられた客将の忠綱に恋をした、時子の待女の藤野が告白するが失恋してしまいました。
一方で。
夫の留守で寂しそうな時子夫人を慰めようとお花見を勧め、喉の渇きを訴えた時子に藤野は野水を汲んでそれを飲ませます。
その後どうしたことか時子のお腹はふくれ、ちょうど妊娠したかのようになったのです。
義兼が帰館した際、藤野は「忠綱が夫人と密通した。」とウソの報告をします。
真に受けた義兼の激怒に、忠綱は鞍も付いてない裸馬に乗って逃亡。
雪の降る中で、どう逃げても雪に跡が残ることから追っ手に追いつかれ、馬もなかなかのぼれない急坂で馬をおりたもののやはり追手はその足跡をたどり、多くの矢傷を受けながら、入彦馬郷 貝沢(現 桐生市梅田町皆沢)まで逃げた忠綱はそこで討ち死にしてしまいます。
時子は身の潔白の証に死後腹を裂き確認するよう言い残し自害。
その後藤野のウソがばれ。真相がわかった義兼は激怒、藤野は牛裂の極刑に処されました。
夫人の死後、義兼は剃髪し高野山に入り、後に仏像を背負い諸国を行脚、その後義兼は足利の樺崎寺に隠棲し、同寺にて生入定(1199年)したと伝わっています。
(続き)
この伝承とは別に、
忠綱は源平の合戦で大活躍した後、寿永二(1183)年野木宮合戦に敗れ、その後この群馬県桐生市梅田町の皆沢で打たれたという説もあります。
まぁ、兎にも角にもとりあえずこの説は、伝説と同じく終焉の地は皆沢の地ということになっています。
ところが。
群馬県桐生市の新里町にあったと伝わる葛塚城に潜んでいたのではないかという説もあるのです。
『群馬県の中世城館跡』(群馬県教育委員会 1988年刊行)に、
築・在城者として『山上氏、足利忠綱、羽生衆』との記述があるのだといいます。
また、『吾妻鏡』巻二に、
『寿永二年二月廿五日、足利又太郎忠綱雖令同意于善廣。野木宮合戦敗北之後。悔先非。耻後勘。潜籠于上野国山上郷龍奥。』
(寿永二年二月二十五日、足利忠綱は(志田)善廣に同意し、野木宮合戦で負けた後、先の行いを後悔して、罰せられることを恥ずかしく思って、上野国山上郷龍奥に逃げ潜籠した)
とあるというのです。
『吾妻鏡』ではさらに、その後、桐生六郎の諫めにより山陽道を経て西海に赴いたともあるといいます。
いずれにせよこの山上郷にさほどの長期間いたということではなさそうですが、その後は全く記述がないのだといいます。
そこがまた謎で魅力的なのだと夫は言います。
忠綱の辺りがどう描かれているかを知りたくて吾妻鏡を手にして紐解いたと。
さらに夫は、吾妻鏡ではこの忠綱の辺りの書かれたものが、順番が前後してしまっているとのことで、正確性を欠くのだとも申しておりました。
なのでこの正統派(?)歴オタは、分からないことは
「諸説あってわからない」とはっきり言います。
なぜ山上という地にやってくるのか?
…理由は全くわかりません。
同じ桐生市とはいえ、
梅田町の桐生ダム湖から、新里の城址公園まで、22から26キロは離れています。
…まぁ、昔の人は日本列島を駆けまくり戦をしております。
そんな距離はむしろ近いくらいのものかもしれませんが。
(続き)
さて。
皆沢地区のこと。
実はこちらは以前は栃木県の領土(笑)だったようです。
梅田湖にかかる橋を渡ると、以前そこは栃木県だったよう。
まぁ、ダム湖となる前は川に架かる橋、ですがね。
ようするにつまりは忠綱が絶命したとされる皆沢は忠綱のころは栃木県。
それがいつごろ群馬県の桐生市となったのか調べてみました。
別段国取り合戦をしたわけではなく、この皆沢地区は他の隣接した地区とともに栃木県から群馬県へとなったようです。
…平成の合併で、栃木県からという県を超えた合併を受けた桐生市と、隣接する現みどり市は結構揉めて、結局この二つの市は飛地状態をつくって新たな市をつくることとなっています。
そもそも県を超えての合併って結構あることなのかしら。
…やはり県を超えての吸収合併は近代以降は珍しいことのようであります。
市町村合併の際に都道府県の境をまたいで実施するものを越境合併というのだといいます。
戦後においては全国で十例ほどしかない越境合併ですが、そのうちの二例が現在の群馬県桐生市にある地域なのだとか。
一つは栃木県足利郡菱村の桐生市への編入、
もう一つがこの皆沢地区を含んだ、栃木県安蘇郡田沼町入飛駒地区の編入なのだといいます。
この合併があったのは昭和四十三(1968)年のことだといいます。生活の多くを桐生市側に依存していたことと、先に実施された菱村の合併が影響したようです。
栃木県田沼町飛駒にあった入飛駒には入飛駒地区には今倉、落合、皆沢などの小集落があり、その名は今もそのままなようです。
…一つの集落を除いては。
この梅田湖は、ダム湖、です。
ご多聞に漏れずダムに沈んだ集落があります。
私は桐生市のことは(も)そう詳しくは知りません。
調べてみたところ、桐生川ダムの着工が、入飛駒合併の四年後にあたる昭和四十七(1972)年。
それから十年後の昭和五十七(1982)年に竣工したものだといいます。
なんと!
入飛駒の一部の地域、今倉も湖の底に沈んだのだといいます。
…合併からわずか四年、ですよ?。
自分の故郷を失うために群馬県に合併を決めたわけではないでしょうに。
ダム湖にはこの入飛駒にあったという小学校、お寺や神社も沈んでいるといいます。
…詐欺にあったような気はしなかったのでしょうか。
川場村の吉祥寺さんへの参拝の帰りに、ようやく川場村の道の駅『川場田園プラザ』へと立ち寄ることができ、そこでじつは私、小さな運命の出会いを果たしたのでした。
それは、鷺草。
高校時代、友人のおばあさまが育てておられた鷺草の、その繊細さ、まさに鷺が飛ぶかのようなその花の形に魅せられて、いつか自分のもとにもこの鷺草を、と思ったのでした。
それから早、うん十年。
川場村田園プラザの園芸コーナーのすみっこに、まだつぼみすら無い、小さな小さなポットに植えられた鷺草の茎と葉だけの苗を見つけたのです。
ようやく巡り逢えた鷺草の苗。
この夏の灼熱の暑さにもまるで動じることなく、すくすくと背をのばし、…と言ったところで五センチ強の高さですが。
しかしながら全く蕾を持とうとはしない。
八月が花の頃とネットには書いてあります。
(今年は花を持たないのかなぁ)
ところが。
一週間ほど前にその茎の先端に、今までの葉とは異なる小さな葉のようなものが。
少しづつ、少しづつ、小さなふくらみをもち、一昨日そのふくらみに白いものが見えて…。
今朝ほど花が咲いていたのです。
前日群馬県は台風ばりの降水と風に見舞われ、しかもそれが突然だったため、植木鉢をしまうこともかなわず。
厳重に括り付けてあったすだれが壊れて落下し、背の高い菊の植木鉢はみな庭に吹き飛んでいたというのに。
…こんな悪条件であったのに、咲くのだなぁ、咲いてくれるのだなぁ。
朝の挨拶と同時に夫と息子に報告して。
彼らが見逃すことのないよう、そして道ゆく人が見られるようにと、門柱の上に飾って。
そして。
小さな白鷺が翼を広げて飛んでいるかのような鷺草の花を、ミクルのみなさんにもご覧いただけたらと、
ここに貼らせていただきます。
大好きな松屋での昼食後、気になっていましたお寺さん、そしてナビ上にあるお薬師さまを参拝させていただきました。
お薬師さまは駐車場もなく、一部隣接する御宅との堺も曖昧で、路駐と、そして不法侵入にあたらないかとドキドキしながらお参りさせていただきました。
住宅街のへの字になった交差点のすぐ近くという立地であります。
なんとか路駐しても大丈夫そうな場所に車を停めて、ドキドキ車を振り返りつつ、そわそわとお薬師さまの元へと向かいます。
小さいながら立派な御堂には、やはり小さいながらも金色に輝くお薬師さまがお祀りされていました。
御堂の中も、そして境内もきれいに手入れされたいへん居心地の良い薬師堂でありました。
境内には庚申塔や道祖神さまが並んでおられます。
もっとゆっくりしたい気持ちを抑えて、路駐している車へと戻りました。
住宅街であり、しかも大きな通りのそば、きっと昔はこんな通りでは無かったであろうし、そもそもが駐車場も必要がなかった。
こちらへ再拝させていただく機会はほぼないかと思うと少し寂しい、そんな街中のお薬師さまでございました。
その薬師堂の路駐地点、ナビ上にはほど近い位置にいくつかのお寺さんが映り込んできます。
今までも気になりながらも、なかなか細そうな道路にあきらめていたお寺さん。
この日は夫と一緒。
ナビもあり、私と違って細い道もそれなりにオッケーな夫にわがままを言ってお詣りさせていただきました。
群馬県前橋市の養行寺さん、そこからほど近い正幸寺さんであります。
【養行寺】
群馬県前橋市にある養行寺さんへ参拝いたしました。
この養行寺さん、JR前橋駅からも、私鉄の上毛電鉄の新前橋駅からも、さらには国道50号線からもほど近いところにあるお寺さんなのですが、実はこの辺り、結構細い道であったり、一方通行の道であったりと車泣かせの道が多いのです。
そんなわけもあり、ナビが無くてはなかなか辿り着けない複雑な場所に位置しています。
しかもナビがあってもわが家の夫の車のナビはじゃじゃ馬ナビで、とにかくそばに案内すればよしが信条のナビで、今回もヒヤヒヤしながらナビの案内する道の通りに走行しました。
すると。
保育園に突き当たる道。
しかもその道は左折も突き当たりとなっているため進入禁止の案内、右折は狭くて、一気に曲がるのはかなり厳しいという道でありました。
(いやぁ、車だけ借りてここ養行寺さんを一人でお詣りしようと思わず、夫に運転しててもらってよかった〜っ)
と思う私。
そもそもたどり着くのか?
これでお寺の裏手であったりで、境内のどこにも繋がっていないとか…。
そんな道を平気で案内するのがこのじゃじゃ馬ナビ。
うーん。ドキドキハラハラ、です。
この道で対向車が来たら、と思うとおそろしいです。
しかも右折するとすぐ左折です。
ハラハラハラハラ。
ハラハラするだけの全く役に立たない助手席のお荷物です。
おっ!
お寺さんだぁ♡
珍しく素直に山門のあるお寺の正面に案内されました。
山門ではない、もうひとつの境内への入り口は余裕で車が入れます。
よかったぁ〜っ。
お寺の敷地に車を入れると、なかなか見ないほど大きくて立派な日蓮上人さまの像がそびえたっています。
おお、でしたらこちら日蓮宗さまですか。
(続き)
車で参詣いたしますと、どうしても鳥居であったり、山門であったりを車で通過してしまうことがあります。
というよりそうなることがほとんどです。
つまらないこだわりであるとわかってはいるのですが、よほど遠くない限り、いったん境内から出て、鳥居なり山門をあえてくぐります。
…大宮氷川神社さんのように一の鳥居から境内手前の三の鳥居まで約二キロもあるような場合は当然あきらめます。
場合によっては駐車場が氷川神社さんを通り越して何百メートルとか下手すると一キロといったところに停めたものなら、三キロの道のりを戻って一の鳥居をくぐり、二キロの道のりを戻ってようやくお詣りとなることとなり、それはさすがにちょっと…考えるまでもなく、やめます。
まぁ、この神社さんは日本一参道が長いことでも有名な神社さんですので、特殊な例えでもありますが。
と、いうわけで、大きく開かれた通用門から境内に入り車を停めたのち、いったん塀の外へと出て、山門前を目指します。
目指す、などというほどは遠くないところに立派な山門があり、その前のひだりてに寺号標がありました。
【法華宗 世久山 養行寺】
…!
…法華宗でありますか。
私、記憶に間違いがなければ法華宗のお寺さんは初めてであります。
ちょっと衝撃を受けました。
…法華宗って、…どんなでしたっけ?
あの境内中央に大きくそびえ立つようにお立ちになっておられたのは、てっきり日蓮さまだと思ったのですが…。
日蓮さん、だと思ったのだけれど、なぁ。
ん?
そもそもやはり大きな石碑に、
【南無妙法蓮華経】と彫られていたはず!
えっとぉ〜。
…法華宗?
…法華宗。
…あとで調べることとして、とりあえずお寺さんをお詣りさせていただきましょう。
おお、山門前にも『南無妙法蓮華経』とあの独特な書体で彫られた石碑があります。
うーん、このお題目、日蓮宗、ではないんだぁ。
やはりいつまで経っても神社仏閣巡りの初心者マークは取れません。
ところが!
このあとすぐ、法華宗で悩んでいた私の脳みそが、もっともっとびっくりいたします。
そのお題目、『南無妙法蓮華経』と書かれた石塔の隣に三つ、同じ大きさの石塔があって。
そのうちの一つに私は大きな衝撃を受けるのでありました。
(続き)
それは山門へと続く塀の前、斜めとなった塀に沿って一番奥に建っているさほど大きくない、文字の彫られた石標で、そこに彫られた文字こそが私に衝撃を与えたもの。
【静御前 終焉供養多重塔】
と彫られております。
し、静御前〜?!
た、たしかに静御前は鎌倉において一人の男児を産み、その子を頼朝の命で殺害されたのち行方知らずとなっていたかと。
しかしながら、何故に群馬県?何故前橋市?
混乱しながらも、そういえば…と思い当たるものが。
そう、そういえば前橋市、静御前ほにゃららが何箇所かにありましたわ。
静御前のお墓とか。
お顔が静御前に似ていることと、静御前が義経と別れたのちその行手を振りかえり振りかえり見たと伝承されることとを合わせて『みかえり地蔵』と呼ばれるお地蔵さまがおられるお寺さんとか。
そうそう、なんなら巴御前のものもあります。
判官贔屓という言葉があるくらい、義経と静御前は昔から愛され惜しまれ語られた方々ですし、ね。
真偽はとにかく、その昔お祀りしたいと思った方がおられ、それをお参りする方々がいた、ということは確かなことであります。
私の判官贔屓は、ここ最近あるドラマで演じられた演者さんが好みではなかったことからだいぶ薄れたものではありますが、それでも小学生の頃から、ずっとこの二人の悲話に惹かれていた歴史は今も息づいておりまして。
山門を入ってすぐ、…普段でしたらどんな誘惑にも負けずに向かう本堂、なのですが、このときばかりは静御前の供養塔へと向かいました。
…なるほど。
石造りの五重塔が。
ええ、あくまでも供養のために建てられた塔、多重塔でありました。
(続き)
その静御前の供養塔の隣に石仏さまがお二方。
お優しいお顔をされた大きくお美しいお姿をされておられます。
と、右側の石仏さまの右隣にこれまた立派な石標が立ち、水子供養と彫られています。
軽く手を合わせてその御前を立ち去ろうとしたとき、 そのすぐ下に鬼子母神と書かれてあるのが目に入りました。
えっ?鬼子母神さま?
水子の供養のための石仏さまにしてはたいそう珍しい鬼子母神さまの石像です。
お優しいお顔つきでお子さまを右手に抱き、左の膝を立てて座られています。
そのちょうど中央あたりにももう一人赤ちゃんがいます。
鬼子母神さまは両の胸をはだけられ、ちょうど昔の人がお乳をあげる1シーンを切り取って石像にしたかのような御像です。
その左隣におられたのは悲母観世音さま。
やはりお美しい石像で、小首を可愛らしく傾げておられるお姿に思わず足を止めてしまいます。
そして境内社の稲荷神社さんがあり、その視点を90度変えると大きな大きな御本堂がそびえ立っています。
大きな御本堂が少し小高くなったところへ建てられているので、さらにさらに大きく見えます。
かつて前橋市を何度もおそった坂東太郎と呼ばれる利根川の氾濫を計算し建てたのでしょうか。
こちらは前橋市三河町一丁目にありますお寺。
『三河町』という地名がなんとなく群馬県らしくなく思えて、ずっと不思議に思っておりました。
まぁ、あくまでも私の感覚なだけです。
前橋市は利根川とその支流が多く流れる町。
なのでもしかしたら、その川がいくつかあることから『三河』としたのかなぁとか。
…その謎も解けました。
こちらのお寺、三河国からやってきたお寺さんだったのです。
養行寺さんは安土桃山時代の天正三(1575)年に、
三河国西尾の城主【酒井正親(さかいまさちか】公の妻『世久院雪姫』さまの発願により、大乗院(依正院ともいう)日耆聖人(東京都豊島区巣鴨の本妙寺二祖)を御開山として三河に創建されましたお寺さんであったのです。
ご開基・雪姫の法号「世久院殿妙養日清大姉」と御開山聖人の法号から、世久山大乗院養行寺と称することとなったといいます。
なるほど…。
それで三河町でありましたか。
(続き)
三河国西尾の城主【酒井正親(さかいまさちか】公は、松平氏の家臣で、松平清康・広忠・徳川家康の三代に仕えた方。
養行寺さんはその正親公の妻『世久院雪姫』さまの発願に依り、大乗院(依正院ともいう)日耆聖人を御開山として三河に創建されましたことはすでに述べましたが。
雪姫さまは、酒井家と同じように徳川家康の重臣『石川安芸守清兼(いしかわあきのかみきよかね)』公の息女であります。
石川家は代々法華経を深く信仰し、雪姫が正親に嫁すときも、お持(たもち)曼荼羅を携えて入輿されたといいます。
この正親・雪姫の二男【酒井重忠(さかいしげただ)】公は、天正十八(1590)年、川越城主となり、
次いで酒井家前橋藩の初代藩主として移封されました。
慶長六(1601)年のことでありました。
当時はその菩提寺も城主と共に移動することとなっており、養行寺さんも重忠と川越へ、そして前橋へと共に移り、厩橋(前橋)城内本丸近くに寺域を与えられたのです。
もちろん建物を移築するわけではなく、移動する先が以前いた城主の住んでいた城であるよう、寺もまた以前の城主が菩提寺として使っていた建物を使うというものです。
移った寺域には小高い山があり、
その頂上に件の『静御前の塔』が悲劇の伝説と共に立っていたのだといいます。
現在養行寺さんの境内に残る黒い石造りの多重塔であります。
この寺域にあった山は、やがて城主の重忠の霊夢に『天神様』が出現したことから『天神山』と呼ばれるようになりました。
この天神さまもまた、養行寺さんの境内に安置されております、
この養行寺さんの御本堂のお隣に、立派な、…村社などですとこのくらいの大きさのお宮でございますくらいの御堂があります。
この御堂に対して門柱が建てられているくらい大切にされている御堂であり、どなたが祀られておられるのかとお参りさせていただきましたところ、こちらもまた鬼子母神さまでありたました。
これだけ鬼子母神さまをお祀りするお寺さんはあまりありません。
解説を読むに、この鬼子母神堂もまた、雪姫さまが領内の子供の安全を祈願するために建立されたものと伝えられているといいます。
かつてこの鬼子母神さまは【おメコ(お命講)】さまと親しまれ、その大祭は近郷近在の善男善女で埋まり、日本百奇祭の一つと云われたくらいのものだったようです。
(続き)
地元の『中川かるた』というかるたでは読み札「き」として
『鬼子母神 酒井氏ゆかりの 養行寺』とよまれているようです。
境内にはやはりこのカルタの紹介の案内板が設置されていました。
前橋城の城主をたびたび悩ませた坂東太郎と呼ばれた利根川が城の西側にあり、とうとうこの川の大変流は大洪水となり城郭、天守と共に当山の寺域の大半をも流失させ崩壊させてしまうにいたりました。
家康をして『関東の華』と言わしめた前橋城、なんですが、ね。
酒井重忠公はこの関東の華の大改修を行い、近世城郭へと変貌させたといい、城には三層三階の天守も造営されたといいます。
そんな華々しい城も暴れ川の氾濫(反乱ではなく)・洪水により侵食を受け続け、十七世紀後半になると城の崩壊が一段と進み、十八世紀初頭には本丸の移転を余儀なくされ、その後、養行寺さんは現在の地に寺域を与えられて、今に及んでいるといいます。
この日本一の暴れ川・利根川に江戸時代後期の安政五(1858)年に萬代橋という架けられました。五年後の文久三(1863)年に激流に洗われて流失したと伝えられています。
この萬代橋の描かれた錦絵が今も残っているのですが、この橋の袂に大渡の関という関所があり、
『大乗経王一石一字供養塔』という大きな石塔が描かれています。
この石塔こそがこちら養行寺さんの本堂前の大石塔がそれであるといい、歌人としても知られた行妙院日戒聖人の建立されたものであるといいます。
場所的にはそれなりに離れたところ、…前橋観民稲荷神社のあるあたりではないかと考えられているといいます。
この萬代橋とされる場所の下流に前橋城があり、現在この城跡あたりに群馬県庁が建っています。
(続き)
そして。
実はこの辺り、観民稲荷神社辺りが静御前の終焉の地と伝えられているといいます。
(もう少し上流ではないかという説もありますが、そもそもが静御前の話自体が伝承の域を出ないものであり、全てが推測するしかないことであります)
この観民稲荷さんのそば。
少し高くなった場所に静御前の墓と伝わる祠があるといいます。
地元では『静さま』と呼ばれているといいます。
静御前がこの辺りまで来て病に倒れたとき、水車守りが看病したといい、その家に『静』の姓を与えたと伝わり、今でもこの〝静姓〟の家が数軒あるといい、静御前の墓と伝わる祠の隣には静家之墓があるといいます。
…次はこちらに。
あれ、またおばさんの煩悩が一つ増えたようです。
【呑龍さま】
近年、ご当地番組などで群馬県を取り上げていただく機会もあり、『上毛かるた』というワードをお聞きになられたことのある方も増えているように思うのは…どうかな。
私もこの雑文で時折ふれることのある、郷土かるたなのですが、これが県民のほとんどの人が語れるくらい、熱く愛されるかるたでありまして。
たぶん、昭和生まれの方なら全ての読み札を記憶しており、しかもパッと瞬時にその絵札を頭に思い描けるほどに、まさに血となり肉となっているかるたといっても過言ではないかと思われます。
私は小学二年生のとき、群馬県内での引っ越しに伴う転校をしたのでありますが、転校する前の学校ではその存在すらを知らなかったかるたでありましたのに、転校先の学校では授業時間を使ってまで上毛かるたを興じるという熱の入りようで、大きなカルチャーショックを覚えたものです。
私には初見のかるたを、同級生たちはすでに読み札を全て暗記し、まるで百人一首のように素早く取れるようなポーズで構え、最初の一文字二文字ですでに絵札をゲットするようなレベルにまで到達しているのですから。
そんな上毛かるた。
読み札【お】といえば
【太田金山子育て呑龍】、であります。
なんのことかさっぱり分からない方がほとんどかと思います。
群馬県に太田市という市がありまして、そこに金山町という町があるのですが、そもそもそこに金山という山があって、その山頂にはかつて金山城があり、新田神社さんが鎮座しております。
その麓に【大光院】というお寺さんがあるのですが、こちら、大光院という名前は知らなくとも『呑龍さま』『子育て呑龍さま』と言えば通じるくらいのお寺さん。
それはたしかに上毛かるたのおかげでもありましょうが、やはりそれだけではなく、県外からの参拝者も多く訪れるくらい有名なお寺さん、なようで…。
まぁ、私などは神仏の信仰にほぼ関わりなく生きてきたおばさんですので、この珍道中を始めるまで一度しか訪れたことが無かったですが、ある意味、そんな人物でさえ一度は訪れているほどのお寺さん、といえましょう。
そんな『呑龍さま』に本日参拝いたしました。
それは他ならぬ開山忌の法要に参列するため、であります。
(続き)
毎年九月七日〜九日、群馬県太田市の大光院の開山で『子育て呑龍さま』として親しまれる【呑龍上人】の忌日法要が営まれます。
群馬県民には大光院というよりも『呑龍さま』という方が伝わるくらいでありましょう。
大光院は慶長十八(1613)年、
徳川家康の命により、
徳川家の始祖と言われる新田義重の追善供養と
徳川氏一族の繁栄・天下泰平のため創建された浄土宗の寺院です。
コロナ禍となる前のとある夏の日参拝した折に、たまたま境内に貼られていたご案内を目にし、この法要に参列させていただきましたのがはじめでありました。
その厳粛さに圧倒されると同時にすっかり魅了された私は、同じ年に二度参列させていただいたくらいです。
大きな太鼓の音が開山堂から響くのが始まりの合図です。
御本堂から笙の笛の音が聞こえ、長い渡り廊下をまず僧侶が歩きます。
その後笙の笛を先頭にいくつかの楽器を奏でる僧がそれに続きます。
その後、何人かの僧に囲まれて唯一被り物を着けられた僧が通られます。
お導師さまでございます。
続いて冠をつけ、お揃いの装束を身に纏い、それぞれの持物を手にした稚児が通ります。
稚児は十二名、…ほどでしたでしょうか。
それぞれ手に、
手持ちの吊り幡、首から描けるようにされた小鼓、シンバルによく似た妙鉢、タンバリンによく似た楽器、
小さな蓋の付いた金属製の容器、散華盆を恭しく持ち厳かに歩いてまいります。
これだけを見るだけでもう胸は高鳴り、私の穢れ多い身も心も浄められる思いがいたします。
(続き)
呑龍上人は弘治二(1556)年四月二十五日、武州一の割(現在の春日部市)に誕生され十三歳の時に得度して仏門に入られましたが慧解人に優れ忽ち頭角を現して当代に学徳を謳われました。
慶長十八(1613)年、徳川家康公がその祖新田義重公追善の為当山(義重山大光院新田寺)を建立されるや選ばれて開山上人として入寺され元和九(1623)年八月九日の御遷化に至る十一年間力を尽くして人心の教化に務められました。
御在世中尊寺数々の不思議な御法力尊い菩薩行は枚挙に暇がありませんが、今日子育て呑龍さまとして尊信される謂れは当時流行していた堕胎、捨児の悪習を制止され禄米を施して困窮者の児女を弟子といふ名目で養育され幾多の尊い命を救われたことに始まります。
御滅後の霊験又あらたかに愛児の無事成長を宝前に祈念する参詣の年と共にふえ行くのも有難い極みであります。
(大光院と呑龍上人 大光院リーフレットより)
追記させていただきますと、
江戸時代初期の元和二(1616)年、呑龍上人は、親の病気を治そうと、国禁を犯し鶴を殺した少年源次兵衛を匿います。
この事は幕府に露見するところとなり罪人となってしまいます。
呑龍上人は弟子とした源次兵衛を伴い信濃国に入り小諸にある仏光寺に逃れました。
五年後の元和七(1621)年に、
恩師であり徳川家康とのつながりがあった観智国師の遺言によって幕府より赦免となり、六十六歳の春に大光院に帰山しました。
元和九年(1623年)夏、病床にあった上人は衰弱が目立つようになりました。
八月三日、弟子や関係者を枕辺に集めた上人は
「上人予眼光落地の後は遺骸を荼毘に附すことなく須らく東面し堂の西霊廟の傍に葬れ、予永く国を鎮め寺を守り、予が塔前に祈念するものあれば必ず心願成就せしむべし」と遺言しました。
そして九日の正午、雷鳴がとどろく中、入寂しました。
時に元和九年八月九日世寿六十八歳でした。
(『大光院と呑龍上人』より一部抜粋)
(続き)
この長い通路を僧侶や稚児が厳かに歩くさまの神々しさ、美しさといったら…。
その列はそのままの厳かさで開山堂へと静かに入堂いたします。
その歩は秩序を保つため、入り口で滞ることようなこともないのです。
人の世はかくあるべきだと歩みからすら学ぶのであります。
この後、一般の参列者も開山堂の中へと入堂させていただけこの法要に参列させていただくことができるのです。
入堂に際しての資格もいらず、奉納金も特にお求めにはなられません。
御札などを求めるような決まり事もありません。
開山堂左右にある引き戸が大きく開かれ、外陣に置かれた結界の置物の外側のどこでも好きに座ることができます。
ただ一つの決まり事として、開山堂内での写真撮影は禁止されている、ただそれだけです。
なんとありがたいことでしょう。
全ての者が平等に法要に参列できるこの開山忌、他ならぬ全てに平等であられた呑龍さまの教えを守るお寺さんであることを、あらためて感じる時であります。
法要は一時間強続きます。
翔の笛や太鼓、妙鉢などに合わせての読経。
稚児による礼賛舞の奉納は見事としか言いようがありません。
歩く時の足さばき一つひとつとっても美しく、前の人の動き見えぬ状態にありながらきちっと揃ったものであります。
小さなお子さんまあられます。
気を散らすこともなく、緊張も大きかろうにそれで固まってしまうようなこともなく。
何よりこの暑さの中、昔ながらの装束で緊張に身を包んでの長い長い法要で、私などはひそかに熱中症を心配したくらいでありました。
誰一人体調すらも崩すことなく、恭しく三宝に乗せた花などの供物を僧へと届け、美しく舞い、高く高く散華を撒きました。
ひらひらと開山堂の中央に舞う散華は空から降ってくる蓮の花弁のように清らかで美しかった…✨
その後法要を営む僧たち、稚児が全員列を成し、御内陣の裏手と外陣を回りながらの散華が行われ厳かなうちに法要は幕を閉じるのでありました。
三日間営まれる開山忌。
八日には夜七時から百万遍念佛が行われるといいます。
九日は十二時半から散華行道という法要らしく、旧暦八月九日にお隠れになったという呑龍さまのお命日と考え、この日は御本堂のひだりてにある呑龍さまのお墓まで僧たち、そして稚児たちが列を成し詣でるようです。
来年はぜひ九日の日に。
(追記)
旧暦八月九日の日にお隠れになられたという呑龍さまのお命日から、九日の日の法要は特に特別なものなのでありましょう。
前回の何年か前の参列の際も、そしてら今回も僧侶は三十人は軽く超えるかと思われ、呑龍さまゆかりの地からも多くの僧が参列されます壮大な法要でございます。
来年もまた参列できますように。
大光院でいただいた散華。
一枚はお導師さまの御手からの
ものでありました。
いかにも大光院らしい絵の描かれた散華でございます。
開山堂の絵があり、開山堂の欄間に舞う天女さまの絵があり。
(今回ようやく開山堂の中を見渡す心の余裕がもて、この天女さまの彫られた欄間に気づくことが出来ました)
>> 457
大好きな群馬県草津白根山。
それはそれは美しいエメラルドグリーンの火口湖で有名なところだった。
もうそこへの立ち入りが禁止されて何年…
【群馬県草津白根山のツアー中止の発表】
群馬県草津町が、今月二十五日から再開する予定だった草津白根山の火口湖「湯釜」の見学ツアーを中止すると発表しました。
気象庁が九日発表した「草津白根山の火山活動資料」をもとに草津町が判断したとのことです。
火山活動資料によると、湯釜付近の白根山では、五月下旬以降、火山性地震がやや増加し、六月頃からは湯釜付近の地下で緩やかな地殻変動が始まっているなどとして、今後、草津白根山の火山活動が高まる可能性があるとのこと。
…あのぉ〜、五月、六月のレベルの資料?
それって、今さら?
それを受けて中止?
問い合わせっていうか、相談、してたよね?
ツアーを決めた地元の人たち、
その準備に動き出していた人たち。
ずっと閉鎖を余儀なくされているおみやげ屋さん、
ガイドをつとめようとしていた人たち、
十五年、淋しさや哀しさを抱えていた草津白根山を愛する人たち、
こんなの、ない。
【お彼岸】
今年の秋彼岸は、【9月19日(木)から9月25日(水)】までの七日間。
〝今年の〟という言い方からお分かりのように、毎年お彼岸の期間は変わります。
春彼岸は『春分の日』、秋彼岸は『秋分の日』を中心とした前後三日間(合計七日間)がお彼岸として指定されています。
春分・秋分の日は、どちらも言わずと知れた国民の祝日ですが、毎年太陽の動きに合わせて国立天文台が定めており、前年の二月一日に政府が発表することで正式に決定しているのです。
例年、春分の日は三月二十日~二十一日ごろ、秋分の日は九月二十二日~二十三日ごろになる場合が多いようです。
…私はぼぉーっとした子どもでしたので、そんなことには全く気づくことなく大人になりましたし、大人になって就いた仕事は土日祝日全く関係のないものでしたので、この〝今年の〟祭日という細かな変化もあまり気にすることなく過ごしてきました。
結婚して。
それぞれの考え方、慣習等が異なる家との結びつきを持ち、大人として知っているべきこと、知らないと恥ずかしいようなことの無きよう、いろいろ努力をいたしました。
そんな一つに彼岸の入りという節目もありました。
お彼岸が近づけば、彼岸の入りはいつなのかカレンダーで確認して、その日に婚家にお線香あげに行くよう努力をしたものです。
片親であることを何かと言葉に出してバカにするような婚家でありましたので、そうした小さなことすら余計に気をつけたのです。
今どきこんなに片親であることをバカにする家があったのだということもびっくりで、新婚早々離婚も考えたくらいの扱いもたびたびありました。
それは実にもうずっとずっと続いたものでしたので、何度も離婚の危機を迎えたものです 笑。
次男という扱いも第三子という扱いも、江戸時代とか明治時代とかか?というような時代錯誤な婚家でしたので、第三子次男の嫁である私、余計風当たりが大きかったのかもしれませんが。
あれあれ、話が大きく外れてしまいました。
まぁ、過去は過去として、それも葬る時がきたのが〝今〟ということ。
この秋彼岸は義母の初彼岸。
私のそうした過去、そうした負の感情もすこぉしづつ、葬ってまいりましょう。
お彼岸は、主に『お墓参りやお供えを通してご先祖様を供養する期間』、と考えられています。
しかしながらこのお彼岸、実は『日本独自の行事』なのです。
もちろん仏教行事であることに間違いはないのですが、他の仏教国にはこうした行事としての『彼岸』という概念はないのだといいます。
古来より農作が盛んであった日本には、仏教が伝来するはるか前から作物を育てる太陽と私達を守ってくださる祖先神への感謝を基本とした太陽信仰が定着しており、この信仰は【日願(ひがん)】とも呼ばれていたといいます。
日本の仏教では、『此岸(しがん)』と『彼岸』という概念がありますが、この際の彼岸は仏の住むお浄土の世界であり、悟りの世界であり、俗にあの世と呼ばれます。
一方の此岸は、私どもがいるこの世であります。
このあの世とも呼ばれる仏の世界、西方の遥か彼方に浄土の世界(彼岸)があるとする『西方浄土(さいほうじょうど)』の考えに基づき、太陽が真東から出て真西に沈むお彼岸の時期は、浄土への道しるべができる時といった考えが生まれたといいます。
こうした浄土との距離が近い時期には御仏やご先祖さまと思いが通じやすいとお彼岸の時期に、古来からの日願とが重なり、さらにはこの日願と彼岸の言葉の合致ともあり、日本の風土になじんだお彼岸という行事は仏教伝来後早い時期からうまれたようです。
とはいえ日本最古のお彼岸は、平安時代初期に行われた、無実の罪を訴えて死去した早良親王(さわらしんのう)の怨霊を鎮めるための祈りの行事だとされています。
その後、「彼岸会(ひがんえ)」という行事として、春分・秋分を中心とする七日間に開催されるようになり、江戸時代にかけて年中行事として民衆に定着したとされています。
ちなみに、『お彼岸』とだけ言った場合は『春の彼岸』を指すといい、秋のお彼岸は「秋彼岸」または「後の彼岸」と言うのが正しい言い方なのだとか。
牡丹餅とお萩の違いもこのお彼岸に関わりのあることでしたね。
要約すれば、お彼岸は春分の日、もしくは秋分の日をはさんだ七日間で、お墓参りをする仏教行事、ということで…よいのでしょうかねぇ。
…ずっと苦しんできた症状がありました。
二年はゆうに経ちましょう。
痰が切れず息が苦しかったり、それで胸すらが痛くなったり。
二軒の内科に受診して胸のレントゲンを撮っても、異常なしと言われ、三日分くらいの薬が出て終わり。
人間ドックでも相談したが、胸のレントゲンには異常がないと、呼吸器科への紹介には至らず、精密検査にも結びつかなかった。
このところずっとその症状が強かったのだけれど、昨晩はうまく息が吸えないくらい苦しんだ。
夫は目の前で苦しむ私に目もくれず、テレビに夢中で、「大丈夫?」の声すらかけない。
…これ、やっぱりなんでもなくはないはず。
とはいえ喘息の症状でよく表現されるゼイゼイという喘鳴といわれる症状はない。
生まれてこのかた自ら喫煙したことは一度もないが、祖父や父、夫もかつては喫煙していたので副流煙は吸っていた。
…その程度でCOPD?
レントゲンに写らない異常ならCTを撮ればわかることもあるのではと素人ながら思うのだが、レントゲンに異常がないと医師はCT検査には進まないようだ。
こんなに苦しいのに、レントゲン検査で異常がないがために…。
その症状に苦しむ姿に見慣れた夫はすっかり気にもならなくなっているようで、息がうまく吸えないで、SpO 2が96だと伝えても、一瞬こちらに目を向けてまたすぐにテレビを観る。
悔しさすら生じた。
…見慣れるんだ。
いつもより苦しいと伝えてもテレビの方が大事なんだ。
紹介状が無いとかかれない呼吸器科。
紹介状無く飛び込んだ。
結果は喘息。
昨夜の症状は結構それなりに大きな発作だったようだ。
聴診と問診だけで呼吸器科の医師がそう口にした。
即日CTを撮ってくださり、気管支が広がって大きくなっているので慢性的に呼吸が苦しかったはずとおっしゃった。
…ようやく私の苦しい症状に耳を傾け、寄り添ってくださる人に出会えた。
それなりに大きな肺炎の跡もあるけれど、普通のレントゲンでは映らない場所だったから、見逃されてしまったのねともおっしゃった。
ようやく…だ。
専門外のドクターとの差はこんなにも大きなものなんだ。
こんなに呼吸の楽な晩は何年ぶりだろう。
たった二回喘息の薬を飲んだだけなのに。
夫は相変わらず何も気にせず今日もテレビに夢中だが、…女の恨みは恐いんだよ?
【お釈迦さま】
お釈迦さまという存在は仏教徒でなくとも誰もが知るものであろうかと思います。
このお釈迦さまの呼び方は他にもたくさんあり、たとえば『仏陀』と呼ばれたりもしますし、本名、というとなにかおかしな気もいたしますが、お生まれになられたとき、お父上である釈迦族の王によってつけられたお名前があります。
生まれたときのお釈迦さまが父である釈迦族の王『シュッドーダナ王』からつけられたお名前は、
【ゴータマ・シッダールタ】というものでありました。
これはパーリ語という古代インド語での発音で、
サンスクリット語という別の古代インド語で発音すると『ガウタマ・シッダールタ』となります。
要は発音の問題でどちらでも正しい呼び方となります。
ゴータマ(ガウタマ)というのは王の姓であり、これには『最も優れた牛』という意味があるようです。
は?
となってしまいそうですが、日本における姓にも、こうした動物の名の含まれるものもあることから考えれば、別段なんの不思議もないのだと思いました。
ただ訳されると(ん?)となってしまうのも事実ですが、ね。
お釈迦さまのお父さまであるシュッドーダナ王と后マーヤー夫人は長く子に恵まれなかったといい、実に二十幾年の歳月ののち、ようやく授かったのが、後の世にお釈迦さまと呼ばれることになる『王子』でありました。
お生まれになられたのはマーヤー夫人の生まれ故郷へと向かう途中のルンビニーという花園でありました。
王子がお生まれになられたという知らせを聞いたシュッドーダナ王の喜びはたとえようがなく、王子に名付けたのは、
『一切の願いが成就した』
という意味の『シッダールタ』=『悉達多(しっだった)』であったのです。
王の心がそのままに込められた、なんとも感動するお名前であります。
そんなゴータマ・シッダールタという名がありながら、【お釈迦さま】と呼ばれるようになったのは、釈迦族の王子だからという説が有力です。
また、悟られてからは、釈迦族の聖者として「釈迦牟尼(しゃかむに)」、
釈迦族の尊者として「釈尊(しゃくそん)」とも呼ばれています。
実にたくさんの呼称のあるお釈迦さまであります。
それだけ偉大な存在であるということの他ならないのですが。
(続き)
お釈迦さまについてを私のような者が語るようなことはそれは大変烏滸がましいし、お釈迦さまを知りたいと思えば、お釈迦さまが亡くなられたのちに書かれたものがそれこそ世界中に、それこそ数さえ分からないほどの数存在しております。
なのでここではあくまでもその呼称について語ってまいります。
お釈迦さまをあらわす別の呼称に仏陀、ブッダがあります。
ちなみにその名も『ブッダ』という漫画をかの有名な漫画家、手塚治虫氏が描いておられます。
これはお釈迦さまが出家され、長い修行ののち菩提樹の下で悟りを開かれた時、
『智慧の力で煩悩を取り除いて、目が覚めた』ということで
【目覚めし者】と呼ばれるようになりました。
これがインド語の『ブッダ』です。
ちなみに『目覚め』そのもののインド語は『ボーディ』といい、これが【菩提】という語になりました。
またお釈迦さまは
〝シャカ族が生んだ偉大なる聖者〟
ですので【釈迦牟尼(シャカムニ)】とも呼ばれるようになりました。
『ムニ』というのが『偉大な聖者』という意味です。
ただシャカムニ(釈迦牟尼)という語は長く、長い年月を経て【釈迦】と短い形に省略されるようになり、それで「お釈迦さま」と呼ばれるようになっていきます。
さらに、ブッダは
〝この世をあるがままに正しく理解した人〟とも言われるようになり、これが『タターガタ』というインド語で、これを中国では【如来】と訳しました。
つまりはこの流れで、
ゴータマ・シッダルータ
=仏陀
=如来
となっております
ただし、この三つの呼称、
特定の一人の人物を指す固有名詞は『ゴータマ・シッダルータ』だけ。
仏陀とか如来は〝ゴータマ・シッダルータ〟さまでなくても、
悟りを開いた優れた人物なら誰に対して用いることができるということ。
つまりは仏教世界にはブッダは他にもおり、如来さまがおられると考えることができるということになりましょう。
(続き)
ただ、やはり『仏陀』、ブッダといえばお釈迦さまの別称であると考えてよいかと思われます。
他の、お釈迦さま以外の御仏を仏陀と呼ばれることは(ほとんど)ないでしょう。
(この〝ほとんど〟という言い方は私がまだまだ不勉強な、仏教をほんのちょっとだけ知ったばかりの、…知った気になっている学びはじめの者だから、に他ありません)
一方、〝如来さま〟は、
たとえば阿弥陀さま、大日さまやお薬師さまなど、他にも如来と呼ばれる仏さまはおられます。
ちなみに。
その『如来』になるために修行中の方のことを『菩薩』と呼びます。
菩薩と呼ばれる御仏には観音さまがおられ、お地蔵さま、弥勒菩薩さま、文殊菩薩さま、虚空蔵菩薩さま、普賢菩薩さまなどからおられます。
菩薩さまは〝悟りを求めて修行されている方〟と書いておりますが、実際は衆生と呼ばれる私どもをお救いくださる存在でもございます。
実際にはすでに悟りを開いておられながら、衆生を救うためあえて菩薩でおられる御仏もおられるのだとお聞きいたします。
お釈迦さまもまた、菩提樹の下で悟りを開いて『ブッダ』『如来』になられる瞬間までは『菩薩』だったわけです。
お釈迦さまはシャカ族の王子としてお生まれになられる前の過去世でも修行を続けておられた、と伝えられます。
たとえばウサギに生まれたり、オウムに生まれたこともあったといい、その間もずっと修行していたわけで、そういったことから考えるとそのウサギやオウムもまた菩薩となると思われるのですが…。
と考えたとき、菩薩というと観音さまやお地蔵さまようなお姿ばかり想像いたしますが、菩薩という存在は、この世のあらゆる動物の中に存在しているとも考えられる、ということにもなります。
(群馬県太田市にあります曹源寺 さんの、私の大好きなお地蔵さま の御像)
【正五九詣り】
神社仏閣巡りをはじめて、分からないことをネットに学ぶことが多い私。
神社に詣でても、お寺さんをお参りしても知れること、学べることはどうしても限られます。
『正五九詣り』という言葉もまさにネットで知ったものでありました。
インドから日本に伝わったものだといい、一月(正月)・五月・九月に参詣することを
【正五九詣り(しょうごくまいり)】というといいます。
『正五九』、一月、五月、九月にお詣りをすると特に功徳が得られるとされ、 それは神道、そして仏教が、日本の農耕⽂化に深く関係しているもの、ともされます。
『正五九』は
【三斎月(さんさいがつ)】、
【三長斎月 (さんちょうさいがつ)】
ともいわれるといいます。
この三月は精進をし、功徳を積む風習があり、
それが農耕⽂化においては、豊穣祈願の一⽉、⽥植えの五⽉、収穫祭の九⽉として、 ⼀年を三等分した区切りの⽉にお参りする慣習が転じて、年に三度お参りすると⾼いご利益が得られるといわれらようになったもの、といいます。
この農耕文化における意味が転じて、
一月=物事の始まり
五月=物事が最も盛んなとき
九月=物事が実を結ぶとき
ということでこの正五九詣りをすると功徳を得られる、功徳を得やすいとされています。
今月はまさにその九月。
農耕文化との結びつきから旧暦、太陰暦とするという説をとる話もありますが、おバカさんな私は間違いなくお詣りするべく、現在の暦どおりとしております。
そして今日はその『正五九』の九月における阿弥陀如来さまのお縁日。
ということで、阿弥陀如さまを御本尊としてお祀りされるお寺さんをお参りさせていただきました。
御本堂を目指して歩いていると、ちょうど十名ほどのご家族が、お墓参りを終えられたようで墓所から歩いて来られました。
そのうちの年配のお一方が目について、なぜだか目が離せない私。
(失礼でしょ?)
そう思ってもどうしてもその方から目が離せないのです。
自分でも不思議で仕方ありません。
あっ!
N先生!
それは他ならぬ、高校三年生のときの担任の先生でありました。
(続き)
…どうしよう。
N先生であることは間違いないとすでに確信に近い思いを抱いておりましたが、十人を超える、ご家族と思われる方々とご一緒の時にお声がけしていいものかどうか…。
しかしながら、この機会を逃したらもう一生お逢いできないかもしれません。
…よし!
私はまっすぐその方の横顔を見ながら声をかけました。
「N先生、N先生でいらっしゃいますよね」。
驚いた顔をされその方は私の顔をゆっくりとまっすぐ捉えて、
「ええ」
とお答えになられました。
私をお分かりにはならないご様子。
(あ、名乗らねば失礼だ)
「…Yです」
すぐに先生は思い出してくださいました。
この「…Yです」と名乗るのに少し間が空いたのは、いつも名乗る現在の姓を名乗るのではなく旧姓を名乗らなければ伝わらないことに気づいたから。
旧姓を名乗っていた期間よりも、今の姓を名乗るようになってからの方がずっと長くなっていたことをあらためて実感いたします。
…そのうち旧姓が出てこなくなる歳を迎え、さらには自分の名前すら言えない歳が?
…来ないことを切に祈ります。
先生は私が勤めていた勤務先まで覚えていてくださいました。
凄いなぁ。
長い教師生活の中でのたった一人の生徒に過ぎないというのに。
何も変わらない。
優しい笑顔。
お子さんたちがたまたまこの連休に揃ったので、少し早いけれどお彼岸のお参りに来たのだとおっしゃいます。
奥さまを亡くされたとも。
先生のお口からあふれるように私へのお話は続きます。
が、早くに切り上げないとせっかくのお子さんたちとの時間が削られ、お子さんたちをお待たせしてしまいます。
さあ、どうする?私。
「やはりこちらのお檀家さんなんですか?」
と先生が問われました。
「いえ、今日は阿弥陀如来さまの御縁日なのでお参りさせていただきにまいりました」
キョトンとされる先生。
…ですよね。
そんなお詣りする人ってそうは多くはないようです。
そのキョトンとされた間を上手く使わせていただいて、先生とのお話を切り上げさせていただきました。
N先生にはこれ以上ないくらいのお骨折りをいただいたご恩があり、時折、(どうされておられるかしら)と思っておりました。
そんな奇跡の再会。
…阿弥陀さまのお導きと思わずにはいられません。
貧しく、しかも片親であった私は高卒で働くべく、秋には早々に就職先が決まり、のんびりと最後の学生生活を楽しんでいた。
とはいえ進学校であったため、それはあくまでも密かにに密やかに。
周りは受験勉強のまさに追い込みにかかる頃だ。
正直な気持ちを言えば、…淋しかったし悔しくもあった。
全国模試で自分でもなかなかと思う成績を修めようと、大学へいっていよいよ専門的な勉強をする道は私には望めない、望むことが出来ない。
進学校における高三の秋、私はバイトに勤しんでいた。
気難しい老医師の営む耳鼻科で、無資格でも許される程度の手伝い的な仕事内容だった。
バイト料は本屋でのものよりだいぶよかった。
そんなある日。
担任のN先生に呼び出された。
(なんか悪いこと、したっけ?)
…そうすぐさま思うところが小心者だ。
「Y。お前の成績なら上の学校にだって行けるぞ。奨学金制度だってある」
…はっ?
ちょ、ちょっと待って?
「先生?もう就職先も決まっています。
今から就職を断るのは学校的に今後のことを考えたら良くないのでは?
そもそも今から受験勉強って、…もう十二月になろうかという時期ですよ?そんなに受験は甘くは無いです。
先生もご存知でしょう。
就職も断り、受験も失敗するような、そんな余裕は私には無いです。
母だって就職が決まって喜んでいます」
N先生はなおも続けられました。
「もうお母さんとは相談してある。お母さんの承諾は得ている」
はあぁっ?
「就職を断るのは学校が責任をもって良いように断るから、そんな心配はしなくていい。勉強は…これからのお前次第だ」
いつの間にか他の先生も加わっていた。
外堀は固められていた。
そう、N先生は私に進学の道を開いて下さった大恩の方、だった。
決まっていた就職先にも自ら出向いてくださり、穏便に断ってくださった。
つまり、N先生は、その後私がなんとか合格できた学校を卒業し、就職した先までをも、何十年も経った今でも覚えていてくださった、ということ、なのだ。
有難い出会いでありました。
本当に本当に、有難いという言葉がこれほどに適切なことは私が生きてきた中そうはありません。
…これもまた御仏のお導きであったのでありましょう。
惜しむらくは私がこの恩をまだ誰にも返していないこと。
【かつぎ地蔵】
群馬県前橋市のとある道路沿いに、それは大きく立派なお地蔵さまが立っておられるのを見かけて…一体何年経ったことか。
そこは私がそう何度も使う道ではない上に、そのお地蔵さまのお立ちになられるそばには車を停めるスペースは全くなく、しかもひきりなく車の通る片道一車線の道路沿い、なのでありました。
それでも現代は便利な世の中で。
ある程度の情報を入力できれば、少なくともその場所の地名、あわよくばそのお地蔵さまの由来さえもがネットで検索できてしまう時代です。
そのお地蔵さまはどうやら【かつぎ地蔵】と呼ばれるお地蔵さまのようです。
え?
…距離とか高さとかの目検討がほぼ当たらない特技を持つ私であることを差し引いても、このお地蔵さま、台座などを含めれば、間違いなく三メートル、いや四メートルあるかもしれません。(ま、まぁ…三メートルはあると思うんです。なぜなら夫が一・八メートル、ですので、足すことの一メートル、…たぶんこれよりあるん、…では?)
えっとぉ、〝かつぎ〟って、かつぐ、んですよね?
それとも何かをお地蔵さまご自身がかついだとかいう伝説でも?
…いや、そのネット上にあげられた写真に写る案内板によると、やっぱりお地蔵さまを〝かつぐ〟んです。
しかも子どもが、とあります。
いやいや…無理でしょ?
ムクムクと私の中に、このお地蔵さまにお会いしたい気持ちが湧き上がります。
それでも一年、二年、三年…。
とうとう、とうとう行ってまいりました。
背高のっぽのお地蔵さまのお足元へ♡
ただし、一人でまいりましたので、あの高さの指標の夫がおらず、比較してある程度の高さを算出することはできなかったんですが、ね 笑。
(続き)
『かつぎ地蔵とお地蔵様
佐渡奉行街道沿いに展開していた上新田集落の北と南の入口には、それぞれお地蔵様から鎮座しています。
かつぎ地蔵の起源は不明ですが、医療環境が乏しかったその昔、伝染病のみならず風でさえ命を落とす子供たちが多かったようです。
その悲しみから地蔵信仰が広まって無病息災を祈って、村中を和讃念仏を唱えながら巡ったのでした。
地蔵様のお祭りは子供だけで行われ、小学六年から中学二年までを、子方(こかた)・中方・親方とした役割分担です。
夏休みは、毎日雷電神社の神楽殿で和讃を練習して暗記しました。一年間に生まれた子供の幸せと健やかな成長を願って、真新しい火打ち(ヒーチー)何地蔵様の屋根に追加されて吊るされます。
八月一日から送り盆(二十六日)までの毎日、砂利道の往還道を担ぎ、太鼓を叩き和讃を唱えて歩きました。
昭和三十二年まで続いたこの行事ですが、一時の中止期間o(^-^)o挟んで昭和五十八年に復活し、簡易的ですがリアカー利用により継続されています。
平成二十七年度上新田町 自治会事業 上新田町誌 より』
(続き)
…はて。
佐渡奉行街道。
…佐渡奉行限定の街道?
金山で採取された金を運ぶお奉行さまだから?
そういえばこのかつぎ地蔵さまを調べていて歩いた道沿いにあった八幡さまに、やっぱり佐渡奉行なんちゃらと書かれた石標だか石碑があったような。
おやおや新たな調べごとが見つかりましたよ。
ただしまずはかつぎ地蔵さま。
上新田集落の北と南の入口にそれぞれお地蔵さまがおられるようです。
…歩きましたよぉ〜。
北と南、北から南へ。
というか、私が最初にお訪ね申し上げた北のお地蔵さまは、現在は朝日が丘町となっていました。
朝日が丘町は昭和三十八(1963)年に上新田町の最北部が分離したといいます。
かつてこうした町の区分が変更される時などはよくこうした信仰の対象、人たちの心のよりどころである、お社や御堂、石仏などは元々の町に残すべく移動されることが多かったりしたものですが、昭和も戦後ともなるとそうしたことにこだわる人が減っていた、…ということなのでありましょうか。
…その、町の区分が変更になることが決まっていたのか、それとは関係なく信仰と文化の伝承、ということよりも生活に追われる時代の変化がおとずれていたのか、その辺はまだ調べてもおらず、全く分かりませんが、町の区分が変わる六年ほど前の昭和三十二(1957)年にはこの【かつぎ地蔵】さまの行事は幕をおろしておりました。
担ぎ手自体の子どもたちの意識の変化もあったかもしれませんし、調べてみても、外者の私にはその理由を調べてみてもわかることは限られてきそうではありますが…。
そもそもが、この北の、背高のっぽのお地蔵さま、何度見上げても子どもたちが担げるような大きさ重さとは思えないのです。
そもそも何度も何度も担がれたのであれば、どこかで外す繋ぎ目がありましょうし、台座がズレたりもいたしましょう。
…見当たらないんです。
ええ、まるで、まるっきり。
移動しないことを決めて、固定した過去はあったかもしれません。それは昭和の、三十年代後半から四十年代?
であればその固定の跡はもはや古びて、こんなザルのような目しか持たないおばさんにはよくはわからないことでしょう。
でも、でもですよ?
いま、簡易的ながら復活していると書かれています。
だったら、…動かした跡って残っているのでは?
(続き)
などとブツブツ心の中でつぶやくうちに、かつての北の上新田集落入口から南の上新田集落入口へと到着いたします。
えっ?
…新しいんですけど?
ええ、洗って磨いてとかで綺麗になった、とかではなくて、これは確実に新しい。
ぴっかぴかの新しさ、素人目に見ても機械彫りのものであります。
…場所をまちがえた?
ここは前橋の上新田と下新田と呼ばれる町の境くらいのところにあたります。
お寺さんがすぐそばにあります。
いつもですと、初めてのお寺さんですしいそいそお参りにまいり、ついでにこのお地蔵さま、さらにはかつぎ地蔵さまについてもうかがう、エックスキューズミーおばさんでありますが、このときすでにお彼岸さんが目前。
お寺さんのとても忙しい時期でございます。
うーん。
と、そのお地蔵さまのお足元に一つ石碑と、もう一つ案内板があるのがみえました。
『かつての地蔵尊は昭和十年の大洪水で頭部を欠損したものを当福徳寺檀徒の◯◯様が修復したものでした。
またこの土地も同檀徒の〇〇様の先祖からの借地でしたが平成二十四年十月、同氏により当寺に寄進されました。
現在の地蔵尊はこれを機に同年十二月に新規建立したものです。
…以下略 』
…あれ、やはり、新たなお地蔵さまであられましたか。
そして、北の入口とそっくりそのままの文章が書かれた説明の案内板がありました。
…どうやら南のお地蔵さまであることは間違いなさそうです。
しかしながらこの上新田のかつぎ地蔵さまの謎は深まるばかりです。
お寺さんにお聞きできればある程度わかるのかもしれませんが、このお地蔵さま二体、私の全くの想像ではありますが、かつぎ地蔵さまとは異なっていて、かつての上新田集落の北と南を護るお地蔵さまであるのでは?
そしてかつぎ地蔵の慣習にこのお寺さん、福徳寺さんが関与されておられず、さらにはご住職さまがこの土地でお生まれでない、ご本山から遣わされたお坊さまであったりすれば、かつぎ地蔵さまのことはご存知ないかもしれません。
うーん。
ネットで調べてもこの上新田のかつぎ地蔵さまについてはこの説明板を超えるものは何一つあがってこないのです。
というよりも違う地域のかつぎ地蔵さまの情報がHITしてくるくらい。
…これは、図書館、だな。
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