神社仏閣巡り珍道中・改 東北路編(ふたたび)
[神社仏閣巡り珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
そんな私が、2020年11月、東北の神社仏閣をお訪ねする機会を得ました。
当時はあの東日本大震災から九年と八か月。
そして、コロナという、まるで未知の病に世界中が震撼した年でありました。
東北の被災地にも、コロナは容赦なく襲いかかり、さらにまた、新たな自然災害が全国のあちらこちらに大きな爪痕を残し、被災地は増えゆくばかりです。
2020年、Go Toトラベルという政策が打ち出された折、私には関係のないことと思っておりました。
もともと出不精な夫婦な上、夫は慢性の呼吸器疾患が持病です。できうる限りの対策をもって、コロナに罹らないようしなければならない者であります。
(とはいえ、未だにそのふせぎようはわからないままなのですが…)
また、当時はワクチンも開発中の段階でありました。
「実は俺、SL休暇のとれる年なんだ」
そんな夫の一言から始まったのがこの東北への神社仏閣巡りのスタートでした。
緊急事態宣言が明け、新規感染者数が減り、Go Toトラベルが出されるところまでに、なってはおりました。
そして…そのころ、私たちの住まう地域ではほとんど罹患者の発生がなく、さらにさらに東北地方もまた発生の少ない地でありました。
東北┉。
東北?
もしかしたら┉東北なら可能?
悶々とする私どもの背中を押してくれたのは、子どもたちであり、こと私の仕事先の上司や同僚の方々でありました。
足りない頭で考えられうる限りの感染対策をして、私たちは東北の神社仏閣を目指して旅に出ました。
今思ってもただ感謝しかありません。
この旅は、東日本大震災で命をおとされた方々へのせめてもの鎮魂のための旅でありました。
残された方々の今後お護りくださるよう祈る旅でありました。
…もちろんそれは私の自己満足でしかないことではありますが。
一度書きかけて、タブレットの再起不能な故障のため、ずっと中断しておりました。
あらためてコピーを貼り付けた上で、続きを書いていこうと思います。
一度お読みくださっていた方は、かなりの重複となりますが、どうかお許しください。
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この【中尊寺金色堂】は、【金色堂新覆堂】の中、さらにガラスのスクリーンで覆われています。
防湿であるとか、防虫・防塵などさまざまな考えられる傷みの原因から守り、永久保存を考えてのことです。
そしてこの新覆堂。
私がこの金色堂を覆う覆堂を初めて見た時、〝いたった普通の落ち着いたグレーの建物〟と感じたことは、前述しております。
とはいえこの新覆堂は空調設備など、保存環境の整ったものを考えて造られたものだということを聞き、そこも書かせていただきました。中尊寺さんで買い求めた『中尊寺を歩く』という小冊子にはさほど詳しくは書かれていませんが、おそらくは当然、耐火耐震構造にもなっていることかと思われます。
そしてよくよく見れば屋根などは寺院特有のものであり、周りとの調和を目立つものではないようあえてグレーっぽい色味としたようです。そのグレーというのが少し近代的な色合いで、私などは、そこに違和感を感じたのでありますが…。
一応平安様式を加味したもの、なのだといいます。
ところで。
この近代的覆堂の前にも金色堂は覆屋に覆われておりました。金色堂の解体修理(昭和の大修理)の際、空いていた土地へと移築し保存されております。
道順から行くとこれから先になりますので、ただでさえ脱線しやすいおばさんの書く珍道中録では、時系列で書いていきたいと思うのですが…。
それにしても。
この覆堂というもの、金色堂を風雪から護るためにと鎌倉幕府によって建てられたと伝えられていますが…。
……それって当然のことながら、奥州藤原氏が滅んだあとのこと…ですよね。
金色堂が建立されたのは初代【藤原清衡】公の生前のこと。天治元(1124)年のこととされています。
その間…文治五(1189)年に奥州藤原氏が滅亡するまでの六十五年ほどの間って、…覆堂無しで、あの全てに金箔の施された螺鈿だのなんだの平安後期のですが工芸技術の集結された金色堂、外に普通に〝ぽんっ〟て建っていたってことですか?
近年の調査で、金色堂建立50年後ほどで簡素な覆屋根がかけられ、何度かの増改築を経て今に至ったようであります。
と、いうことは…やっぱり、この中尊寺さんの中心で、〝ぽんっ〟とむき出しのまま、すっぴんのまま、建っていた時代があったんだ!
その時代って…凄い。
金色堂に隣接する讃衡蔵(さんこうぞう)は、中尊寺に伝わる3000点以上の国宝・重要文化財を収蔵する宝物殿で、平成十二(2000)年に新築されたものといいます。
館名の【讃衡蔵】とは『藤原氏三代(清衡・基衡・秀衡)の偉業を讃える宝蔵』という意味で名付けられたといいます。
藤原氏が残した3000点以上の国宝・重要文化財のほとんどを収蔵しており、国宝の中尊寺経をはじめ、平安期の仏像、藤原氏の御遺体の副葬品などの貴重な仏教美術をじっくりと鑑賞することができます。
讃衡蔵に入ると、まず正面に三体の丈六仏(じょうろくぶつ)が安置されています。
宝物殿という認識で、ここへ入った私はいきなりの丈六の仏像に圧倒されました。
丈六とは一丈六尺の意味ですが、坐像なのでその半分強(266〜273.3cm)の高さがあります。
むかって左におられるのが薬師如来さまで、もとは閼伽(あか)堂の御本尊さまであり、中央の阿弥陀如来さまはかつて本堂の御本尊さまであられました。
右にまた薬師如来さまがお座りになられ、こちらは峯薬師堂の御本尊さまであったといいます。
また他には、千手観音さまがおられ、こちらは等身大。実際に千の手はございませんが、この中のお手の一対を頭上で天に向けて組んでおられました。なんでもこのお姿の千手観音像は『清水式』といわれるとのことで、さらにこの手のひらに化仏(けぶつ)をいただいているのだといいます。
このようなお姿をされる千手観音さまは『清水式(きよみずしき)』というのだそうです。
金銅華鬘(こんどうけまん)と呼ばれる華鬘。
文殊菩薩さま。螺鈿の施されな須弥壇などなど。
なかでも『中尊寺経』は、藤原氏三代によって奉納された供養経で、寺外に流出したものも多いのですが、中尊寺に残る2739巻が一括で国宝に指定されています。
中でも紺紙に金字と銀字が一行ずつ交互に書き写されている清衡発願の『紺紙金銀字交書一切経』が有名です。
金色堂のほかに清衡公が残したものが『紺紙金銀字交書一切経』です。紺色の紙に、金の文字と銀の文字で一行ごとに写経されたもので、国宝に指定されています。
清衡公の供養願文には「金銀字経の金の光と銀の光がお互いに光を和して私の誠の心を照らしてください」ということが書いてあるのだといいます。
「金の光と銀の光というのは、
『二つの違った考え方』、
あるいは朝廷とみちのく、
父方の藤原氏と母方の安倍氏、
といった清衡公の体を流れる二つの血であり、それらがどうか一つに融けあって自分の心を照らしてほしい、という願いが「紺紙金銀字交書一切経」にも込められているのではないか」
と、中尊寺執事長さまはおっしゃっておられます。
なお、こちらの讃衡蔵、三体の丈六の御仏のお像が安置されておられることから、〝御朱印〟の授与も行われています。そこに書かれた文字は『丈六佛』。
…なんだかなぁ。
ところで、この丈六と呼ばれる御仏像。
こういった丈六の仏さまが平安時代には中尊寺の中にはたくさんあったという記録がございます。『吾妻鏡』によりますと、
かつて【二階大堂】という大きなお堂があり、三丈の阿弥陀様と一丈六尺の脇侍の阿弥陀様が実に九体安置されていたと記されているのだといいます。
…まぁ、吾妻鏡という書物、よく「北条氏方の人間が書いたものなので必ずしも確かな史実が書かれているとはいえない」と言われておりはいたします。いたしますが、ここ奥州、中尊寺に関する限りは〝北条氏の手柄〟によるものでは無いので、まず〝正しい〟ものと思って良いのではないかと、私は思うのであります。
…凄いなぁ。
かけられた膨大な費用もさながら、ではありますが、その情熱、というか、込められた悲願にも似た思いに、ただただ頭が下がります。
それに倣っての御本堂の御本尊を新造…という簡単な理由ではやはりなかったようです。
それは清衡公が、落慶式の際にお寺に奉献した『供養願文』に由来しているといいます。
その〝供養願文〟には
『ご本尊は一丈六尺の釈迦三尊』
と書かれていたというのです。
それゆえ、中尊寺ではいつか創建当初と同じように一丈六尺のお釈迦様を御本尊としてお迎えしたいという悲願があったといい、それが平成二十五(2013)年に完成したということであります。
その新しい丈六の御本尊さまの完成までは決して順調だったわけではなかったようです。
平成二十三(2011)年に発生した東日本大震災で中尊寺さんも大きな被害を受けておりました。
御本堂はなんとか倒れずには済んだものの、白壁が全部落下するなど、歩くこともできないほどの大きな被害であったといいます。
この被害を受けお釈迦さまをお造りする計画は一旦ストップせざるおえなかった。
しかし。
「こういうときだからこそ手を合わせる仏様が必要だということで準備を再開し、震災のニ年後、平成二十五年にやっと完成することができました。
私どもは東日本大震災の復興、その後のさまざまな自然災害、人災、世界の戦争や紛争などで苦しんでおられる人々の平和をお祈りするために日夜手を合わせております」
とはやはり中尊寺さんの執事長さまのお言葉であります。
…新たな意味も込められた悲願となってしまったのでしたか。
そんなお話をネット上ながらお聞きして、あらためてその新しい丈六の御本尊さまに手を合わせたいと、強く思う私でありました。
讃衡蔵を出ると…というよりは併設された売店、土産物店があります。
中尊寺に関するもの、そして念珠等の身近な仏教由来の品から、岩手県や東北の食の土産品等々…さまざまな物が置かれ、さらには珈琲やソフトクリームなども販売しております。
(フンフン、お土産屋さんね)
ここに入った時点ではここで買う物はないと思って軽く流しておりました。むしろ、急な登り坂を登って来ていたこの時点で気になっていたのはソフトクリームであったくらいでありました。
ところが。
煩悩の塊、物欲の化身のおばさん、ある出会いをしてしまったのです。
2センチ強、3センチもない小さな小さな金色に輝くさまざまな種類の仏さまの像、であります。
あっ!
見つけた瞬間から釘づけです。
それは自分の守り本尊さまの御像でありました。
古来より国や地域を問わず、小さな仏像を懐に忍ばせて、お守り、お守り仏として持ち歩くことがあるということ、
日本でも名だたる武将たちが鎧に忍ばせたり、ご自身の念持仏として持ち歩いていたこと、
…そんな御仏の教えとしては外れた、それでも知る人ぞ知るといった情報を、…本来ならもっともっと覚えねばならないことがたくさんあるというのに、それを知り、心に深く携えていた私。
…出会ってしまったのです。
小さな小さな掌の仏さまの像に。
(売店だよ?お土産屋さんだよ?お土産の仏像に過ぎないよ?)
…その時の私の心の中の声です。
でも、今までいろいろなお寺さんをまわって歩いてきて、初めて出会えた掌の仏さまの像。
これを逃したらずっと後悔するかもしれない。
…そう、物欲の権化はすぐそう思うのです。
そんな私の怪しい葛藤に気づいた夫が一言、
「買えばいいじゃない、欲しいんでしょ?いいじゃない」
おおっ!
夫から後光がさしているかのようにおもえました。夫の口から神の声を聞いた気がいたしました。
(…こいつにこれを早く買わせないと次にいけない)
本当はそう思っていたのかもしれない。でも自分に有利なところを切り取って使うのが愚かな人間で…。
ええ、その小さな掌の仏さまの像、〝お土産屋さん〟で購入しました。
…おバカです。
今も〝仏壇もどき〟に安置して、毎日御真言をお唱えして。
これぞという時には(どんな時だよ)バッグにお入りいただきご一緒していただいております。
信心、です。
金色堂を出ると、目の前に『昭和天皇御製歌碑』がありました。
【みちのくの
昔の力しのびつつ
まばゆきまでの金色堂に佇つ】
昭和天皇は最後の現人神、戦前、戦中、そして戦後と、陛下は陛下として、大きく時代に翻弄された方であります。
もちろん私は戦後、すでに世の中が豊かになってからの生まれでありますので、天皇陛下や天皇家に対して別段特別な感情もなければ失礼を承知で申せばさしたる関心もなく、
そもそもが私の親とても戦時中のつらかったこともかすかな記憶でしかない世代であるため、当然陛下を現人神として崇めたことのない人間で。
天皇陛下は天皇であり、それ以外の何者でもないという認識でしかなかったのではないかと思うのです。
なにしろ神社に行くことがほとんどないような両親でしたし。
昭和天皇は、戦前、側近に対して「私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういうことを云われては迷惑だ」とおっしゃっておられたといいます。
とはいえ、帝王学を学び、日本でただ一人という特別な扱い、特別な学びをなされてきたお方でありました。
そんな陛下は、戦後、〝象徴〟という、立ち居振る舞いすらどうすればよいのかすらわからない存在と位置づけられ、それでもその〝象徴である天皇〟を模索しながら日本各地を巡幸して国民を励ましてまわられたと、授業で学んだこと、テレビで見聞きしたことを元に、私なりにそう認識しております。
陛下は国民から崇められる存在から、国民から愛される存在へとなられたと。
そこにはもとよりのお人柄と、やはりご努力があってのことであったと思うのであります。
陛下がここにお立ちになられ歌をお読みになられたのか…。
平泉という地でそんな思いを抱いたひとときでありました。
それにしても。
昭和も遠くなりにけり、だなぁ。
金色堂のお隣には『経蔵』がありました。
金色堂の、あまりの煌びやかにしてまさに極楽浄土を思わせるような空間から現実に戻るには、庶民には少し時間が必要です。(私はちなみにかなりかかりました)
へっ?…き、経堂?
…どこから見ても、よく地元で見かける、さほど大きくはない御本堂のように見えますが。
何段かのきざはしを登り、濡れ縁があって、正面の扉が開け放たれたその先にはご本尊さまがお祀りされています。
…何かの間違いでは…ないよなぁ、天下の中尊寺であり、しかももうすでに古びた案内板です。
公式サイトによると、この経堂、当初はニ階瓦葺で、建武四(1337)年の火災で上層部を焼失したと伝えられている、と書かれています。
…は、はぁ?
どこからどう見ても、建ったときから普通に平屋で建てたいわゆる一般的な〝お寺〟の建物でしかありませんが?
昔の技術って、そんなにも優れていたの?
さらに続けて読み進めると「おそらくは古材をもって再建されたものでしょう」と。
…で、ですよね。
当初はあざやかな彩りや飾りがあったようです。
そして。
もともとのご本尊さまであります【騎師文殊菩薩】さま(重文)と、三方の経棚に納められていた【紺紙金字一切経(国宝)】はあの宝物館『讃衡蔵』に移されて、今は新たな騎師文殊菩薩さまが安置されていました。
私は経堂といえばお経がぎっしりと納められたものだとばかり思っておりましたが、この中尊寺の経堂は、やはりあの藤原氏のこだわりをもって、こうした造りとなっているのでしょうか。
それとも…京都、奈良の寺院ではこのような造りが一般的なのでしょうか。
…うーん。
この課題は、もう少し先になって。
コロナ禍が真に、あるいはもう少しでもおちつくことがあれば、自ら京都・奈良に出向いて解明できましょう。
それを…今は祈念することといたしましょう。
経堂の隣には金色堂の旧覆堂かありました。
金色堂を.風雨から保護するため、それらを覆うように建設されたものですが、今の新しい、最新の技術で造られたものとくらべると、かなり簡素な造りのよう感じられます。
まぁ、覆屋ですからね。
そして覆屋ですから中にあった金色堂なきあとは、当然がらんどう。
なんとも寂しい風景です。
覆屋自体もどこか寂しげに見えるくらい。
中には、文字の書かれた大きな柱が1本立っていました。
『(梵字)〇建寶塔○藤原秀衡公 源義経・辨慶 八百年遠(?)忌菩提〇〇…』
ちょうど建物の真ん中に立てられています。
中を覗くと、覆屋なだけあって、天井に近い部分はかなり特殊な造りとなっていました。
一見、中二階でもあるかのように見えます。
中に納められた金色堂を安定させるような特殊な梁とか細い何本もの木が中央に向けて放射状に組まれていたりとか、…まぁ専門的な知識皆無のおばさんの書いたものですので、まぁ、オブラートにでも包んで読んでやってください 笑。
外に面した柱とか梁とかには青い苔がむし、なんとも憐れな趣を呈しておりました。
夫はいたくこの旧覆堂に感動し感嘆しておりました。
たしかなにか呟いていたなぁ。
…忘れちゃったけれど 笑。
【公式サイト】より。
『正応元年(1288)鎌倉幕府によって建てられたと伝えられる、五間四方の堂で、古い記録には「鞘堂」とも記されています。
「鞘」の字には「大切なものを保護するためにかぶせたり、覆ったりするもの」という意味があるからです。
松尾芭蕉をはじめとする文人墨客、あるいは伊達政宗、明治天皇といった歴史上の人物は、薄暗いこの堂内に入り金色堂を参拝したわけです。金色堂解体修理(昭和の大修理)の際、(この覆堂は)現在地に移築されました。
近年の調査では、金色堂建立50年後ほどで簡素な覆屋根がかけられ、何度かの増改築を経て、現在の建物は室町時代に建てられたと考えられています。(重文)』
室町時代から昭和の時代まで、五百年近くの間をこの覆堂が、あのまばゆくも尊い金色堂を雨風から守ってくれていたと思うとたしかに、なんとも感慨深いものであります。
あー。
もう一度でいいから、東北に行きたい!
もっともっと時間をかけて、見逃したところをもう一度まわりたいし、もっともっといろんなところを歩きたい、参拝したい。
出羽三山に詣でたい。
そして何より行けなかった青森、秋田も行きたいところがたくさんあります。
あー、東北が私を呼んでいる。
…呼んではいないか。
なんとも変なおばさんだし。
でもでも行きた〜い。
夫は…この東北の旅を全て運転してまわったために、少し…大分こりてしまったようで、行きたくはないけれど、今はまだ勇気が出ないと。
コロナ禍さえ落ち着けば新幹線が使えて、全然違ってくるんだけど、と。
ひとえに運転音痴、方向音痴の私のせいで…ごめんなさい。
…でもでも。
行きたいぞぉー!東北。
おお、なかなかいいキャチフレーズじゃないですか?
なんならJRさん、お使いいただいても♡
中尊寺さんで買い求めた『中尊寺を歩く』という冊子をパラパラとめくって、ふと気づいたことがあります。
中尊寺さんの建物は『宝形造』と呼ばれる屋根が何気に多いということ。
金色堂がそうで、金色堂の新・急覆屋、経堂、不動堂もそうだったかもしれないし、康永二(1343)年に鋳造された梵鐘が納められている鐘楼もまた、この宝形造でありました。
で?
いやぁ、それだけなんですけど、ね。
宝形造って、どこから見ても三角形の屋根。
私のような何かをを覚える機能がほぼ無いような人間でも、一発で覚えられる、ありがた〜いものの一つ。
言い方を変えれば、4枚の屋根が全て三角形、というものであります。
それに仏教的な意味がどうのこうのとか、いつ頃の仏教建築に多かっただのいう難しいことは何も分かってはいないんですが。
そもそもがこの工法が簡単なのか難しいものなのかすらわかりません。
夫がこの他の屋根の形を、一時期一生懸命に教えてくれていたんですが、ごく一部しか覚えない私に呆れて、もう屋根について触れようともしないという有り様でして。
金色堂、経堂、覆屋と、近くにある建物がみな一様に宝形造だったので、よけいに目に止まったのかもしれません。
三角形の底辺が合わさる部分が少し反っているのが、なんとも気高く厳かな感じを受ける、中尊寺さんの宝形造の屋根、でありました。
さらに進むとまもなく高台に小さな…とはいえ、扉もあり瓦屋根の葺かれた建物、神社が見えました。
それなりに高台なうえ、なんとも急な斜面に階段もなく、…運転もせず何を理由にかバテバテの私に、夫が、
「どうする?」と聞いてきました。
「行く!」
…本当は夫本人が疲れていて、躊躇われたのかもしれなかったのに、私が行くならば、行くと答えざるおえなかっただろうに、そんな配慮もできなかった私。
今頃…二年半も経ってから反省してどうするの世界ですが、反省して。
彼はここまで四百二十キロを超える距離を一人で運転しておりますし、行った先々で結構広い境内を余すところなくまわっておりますので、疲れも当たり前、…労わって当たり前の妻ですのに、最低だったな、私。
これは懲りるわな。
本当に、過去の夫よ、すまなかった。
一見すると躊躇われる斜面を登っていく小さな神社さんを目指す者はこの時点では私たちだけでありました。
そんな斜面を恐る恐る登り出すと…見た目に反して登りやすい!
斜面に生える木々の根が、自然に階段のような役割をはたしていたのです。
さもありなん、こちらは『関山天満宮』、学問の神さまであったのです。
お寺さんの境内のなか、かつての悪令に屈することなく祀られた〝ご本尊〟さまは、
『天満大自在天神(菅原道真公)、聖観音菩薩』さま。
こちらの御由緒は古く平安時代(794~1185)、陸奥守・『源頼清』公が、衣の関を守護し世の平和を祈願する為、鎮守府の矢を納めて天神地祇を祀る『関の神社』を造営しました。
…なるほどぉ、文字通りの〝関〟だったわけですね。
関山天満宮創建以前です。
鎌倉時代(1185~1333)になり、菅原道真公の第十四世孫に当たられる『五条為視』公が勅命により、奥州平泉に下向逗留します。
この時に誕生した『乙王丸』に、京都天満宮より勧請した『天満自在天神』さまと、『観世音菩薩』さまをお授けになりました。
『乙王丸』は後に中尊寺経蔵別当第十三世・行栄和尚となったといいます。
関山天満宮にはその生誕に際して授けていただいた天満自在天神さまの御真影と観世音菩薩さまが祀られているといいます。
『東風(こち)ふかば
にほひおこせよ梅の花
あるじなしとて春な忘れそ』
菅原道真公の梅は、ここまで飛んで来られましたか。
進路にしたがい進みますと、何やら風情のある門が見えてきました。
薬医門、です(たぶん)。
門をくぐりますと…。
ビクっ!
門を構成する横木部分にびっしりと、これでもか!というくらいに小石が積まれているではないですか。
ひぇ〜っ、何?なに?
なんで?
たまに見かけるのですが、理由がわからない。
長野県に多かった気がします。
理由がわからないことがなんともいえない怖さを、私は感じるようになっているのです。
この薬医門にはそれこそ石が置けるところにはくまなく置かれているのですよ、いや、正確には置かれている、ではなく高く積まれている。
これさえなければ、趣のある門であり、あたりの風景も大変素晴らしいのですが…。
西谷坊とも呼ばれるこちらは大長寿院といい、中尊寺の塔中(支院)の一つであると書かれています。
嘉承二(1107)年、藤原清衡が創建した阿弥陀堂をその始まりとしているといいます。
『吾妻鏡』によれば、二階大堂(大長寿院と号す)の高さは五丈(約15メートル)、本尊は三丈(約9メートル)の金色の阿弥陀像、脇には丈六(約4.8メートル)の阿弥陀像九躰が安置されていたという。
現在のこの大長寿院の本堂は、1863年文久三(1863)年の再建。
御本尊は胎蔵界大日如来さまだといいます。
元三大師さんをお祀りされています。
手を合わせて、…早々にこちらを立ち去らせていたいただく私でありました。
進路にはまた一つお堂がありました。
『釈迦堂』のようです。
造りは小さめながらも立派な造りで、御本堂としても機能しそうな建物です。
こちら享保四(1719)年の再建とのこと。もっともっと新しく見え、改築等がなされてはいるのでしょうが、その築年にびっくりし、二度見、三度見したくらいです。
御本尊は釈迦三尊(しゃかさんぞん)さま。
お正月六日には、中尊寺の多くの僧侶達によって正月の法要が営まれているとのことでした。
釈迦堂の前を通り過ぎて、白山神社の赤い鳥居がみえてきます。
広い境内地、神仏分離令で口うるさいようであれば土地を分けて隣接としたことも可能なくらい、余裕をもって離れています。
『中尊寺鎮守 白山神社』とニスでも塗られたような標柱に黒々とした墨書きされています。
しかしそれよりもずっと大きな、白い標柱があって、そこには『国重要文化財指定 野外能舞台 入口』と書かれていました。
…重文ね…。
重文指定云々とか、あまり、…こんなにも大きくとり上げなくとも…。
と、少ししらけた気持ちになって奥へと進んで参りますと。
…おぉっ!
…これは。
これはわかるわ。重文指定を受けた云々ではなく、能舞台を誇りに思ってあえて『野外能舞台』を示す標柱を建てたこと。
凄いです。
本当に本当に凄いです。
重厚にして荘厳。
茅葺き屋根のそれはそれは大きな舞台がそこにありました。
歳月に洗われた素木の木目もまた美しい、素晴らしい舞台です。
正面の木の壁には見事な松の木が描かれています。
しらけた、とか言っていたおばさんのテンションは一気に空まであがる勢いです。
白山神社は中尊寺鎮守の一つで、境内の北方にあります。
現存する能舞台は、嘉永六(1853)年、に旧伊達藩主・伊達慶邦によって再建・寄進されたものといいます。
経済危機下での奉納であったため、当初、鏡板の松は描かれませんでしたが、その後昭和二十二(1947)年に能画家の松野奏風により、山内円乗院の老松を写して描かれました。
橋掛り、楽屋などを完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本唯一とされ、平成十五(2003)年に国の重要文化財に指定されたといいます
。
平成二十八(2016)年に茅葺き屋根は葺き替えられたといいます。
歳月に洗われたような素木の美しい能舞台が老杉の木立に溶け込む様は能が演じられていない時でさえ例えようない風情があります。
演能の際には舞台の奥まで西日が射し込むため、面や装束が美しく映えて独特の雰囲気を醸し出すのだといいます。
この能舞台を使った能舞を天正十九(1591)年に豊臣秀次と伊達政宗が観覧したという社伝が残っているとされますが、平泉に能楽が伝えられたのは伊達藩の時代と考えられているといいます。
伊達藩は、金春流をお抱えにしていましたが、やがて喜多流に転向しました。また、市井では、中尊寺の僧を中心に地元の人々が稽古を受け、謡や舞を伝承してきました。
現在、春と秋の藤原まつりに白山神社に奉納される「中尊寺能」は、シテ・ワキ・囃子・狂言方を中尊寺の僧が、地謡を地元住民が勤めるという、全国でも珍しい演能方式によって行われているといいます。
毎年八月には『中尊寺薪能』が上演され、『春の【藤原まつり】』に行われる中尊寺能は『御神事能』と呼ばれ、中尊寺の僧による古式ゆかしい『古実式三番(こじつしきさんば)』に続いて能が奉納されるそうです。
国の指定文化財でもある古実式三番は、最初に「開口」として翁(白式尉)が登場し、中尊寺周囲の山河秀峰を称え、寺のいわれなどを説きます。次の「祝詞(のっと)」で顔を隠した僧が祝詞を唱え、「若女(じゃくじょ)」で若女面をつけた僧が鈴と扇を手に舞います。そして最後の「老女」で老女面をつけた僧がやはり鈴と扇を持って舞うという流れで行われ、囃子は笛、小鼓、太鼓が入るのだそう。
なお、この御神事能は明治九年に天皇が天覧されています。
不遜にも明治天皇のご覧になられたという場所に立って見ました。
『古実式三番』そして『御神事能』の行われるのは五月四、五日の祭礼の日。
『御神事能』と称するのは神前に奉納するものだからといいます。
江戸時代から、明治の神仏分離の後にも絶えることなく続いてきているといいます。
また、能の演目の一つ『秀衡』は、昭和二十六(1951)年に、この舞台で初演披露された新作能であるといい、中尊寺の舞台には欠かせないものとなっているといいます。
うーん、薪能かぁ。
この中尊寺さんの白山神社の能舞台で行われるとはまた、なんとも…。
篝火と相まって幽玄の世界でありましょうね。
群馬県でも薪能が開催されることもあるにはあるのですが…。
これはまた。…一生に一度でいいから観てみたいものであります。
さて、能舞台、能楽殿はさておいて。
肝心の白山神社さんに詣でましょう。
中尊寺【白山神社】さんの御由緒は、
嘉祥三(850)年、『慈覚大師』が加賀の白山をこの地に勧請、自ら十一面観世音菩薩を刻み、鎮守『白山権現』と号したことに始まるといいます。
配佛は樋爪五郎秀衡さまの持仏で
運慶作の『正観音』さま、【源義経】の持仏・『毘沙門天』さまであったといいます。
嘉永二(1849)年、火災により焼失します、が同六年(1853)、伊達藩主・伊達慶邦公より仮宮の拝殿(現在の能楽殿)が再建奉納されました。
えっ?
待って待って!
能楽殿って仮宮の拝殿だったの?
それはそれは…。なんとも壮大なリフォームを。
いやぁ、火災によって造られた仮宮が、のちに重要文化財指定を受ける能舞台、能楽殿になろうとは、その時代の人たちは想像すらしなかったでしょう。
現在の拝殿はいつ建てられたものなのか、冊子『中尊寺を歩く』にも出ていないし、見落としたのかそういった記述のある案内板等はありませんでした…たぶん…。
さほど古いものではなさそうに私の目には映るのですが…、なにぶんにもそういう年代ものを当てられる自信はこれっぽっちもなく。
そんな事より、な、なんと!
あの、地元の総鎮守の夏の大祓ではくぐりたくてお参りに訪れたのになかった茅の輪が、こちら白山神社さんでは、拝殿の前を支える二本の柱に常設されているようで。
茅の輪くぐりといえば、六月、そして十二月、私どもが行った時は十一月。六月からはそれなりに時が経っておりますし、十二月にはまだ早い。
何より〝常設〟であろうと判断した決め手は、『茅の輪のくぐり方』が、大きな看板となって書いてあったから。
あんなにくぐりたかったのになぁ。
くぐりたい放題ってなるとテンションが下がる。
なんともわがままで好き勝手なことばかり言うおばさんです。
それにしても拝殿の前の二本の柱にくくっちゃうっていうのも、なんともまた大胆な。
お参りの際、必ず穢れを祓うことができるのですから、これ以上ないってくらい能率的でありましょう。
茅の輪を『正面よりくぐって参拝した後、左右どちらかに抜けお戻りください』と書かれていました。
拝殿は素木のままの、シンプルな造りのものでありました。
力強い深くて太い彫りが印象的でありました。
拝殿のすぐ傍に授与所があり、御守りや絵馬、御朱印などが授与されておりました。
ちなみに、おばさんはそちら側に抜けたのは言うまでもありません。
これでは抜けながらもう一つ煩悩を抱いたことに…やれやれです。
絵馬がたくさんの種類ありまして、大きさもまちまち。
能の場面が丁寧に描かれているものが多かったように思います。
…これは奉納というよりは持ち帰って記念にする人が多いかもしれません。
御守りも実に豊富な種類がありまして、何の御守り、という意味での種類もさながら、形が実にさまざまで。
茅の輪の形のものもありましたし、多角形のものもありました。
御本殿の右に、何やらたくさんの小さなお堂が並んでいます。
見た目も新しい、整列したかのように並ぶこのたくさんのお堂、こちらは【白山神社十二支一代守護神社】、というそうです。
そう、十二支分の御社がそれぞれに祀られています。
『十二支、生まれ歳守護神社をお参りし、日々の御安泰、諸願成就をお祈りし、守護大神さまの御加護を受けましょう。
大神さまは、誠の心を持ち信仰する人をお守りし力を添えたすけてくださいます。』
とあります。
さらに御家族の分も受けしましょう、と。
小さな、とは申しましたものの、一つ一つが白いお社で立派な扉があって錠前が付けられています。
白地に赤い柱のお洒落なお社であり、それぞれのお社の台座部分にはそれぞれの干支の画が貼付されているので、わけなく探し出すことができます。
境内社と思っておりましたが、もしかしたら独立した神社として祀られているのかもしれません。
さて。
元来た道を戻ります。
やっぱり目を引き、心を惹きつける能舞台、能楽殿です。
鳥居を抜ける際気づいたのですが、こちらの白山神社さん、あの幻想的なまでに美しい弁財天堂の裏手でありました。
まぁ、位置関係からは少しでも考えたならすぐにわかることなのですが…。
次に向かったのは…。
再び来た道を戻るのではありますが、不動堂をめざします。
懸造りである不動堂を見るべく下へと続く道があったことが気になっていたのであります。
はたして昭和の世に建てられた、一見普通の御堂に見えた不動堂は見事な懸造りでありました。
ん?
何やら大きな建物が見えます。
そうして大きなお像も。
はて?
中尊寺マップにはその建物は触れられていません。といって、立ち入り禁止でもないのです。
なんだろう。
ええ、煩悩の塊おばさんは、好奇心の塊でもあるのです。
おおっ!
見上げるほどに大きなお像が!
建物もやはり御仏の像の祀られたもののように思われます。
ただそう多くはここまで訪ねてくる人は少ないようで、すれ違う人もまばらであります。
小さな門もありました。
…なんだろう。
なんの建物なんだろう。
ま、帰ってからネットで調べればわかるか。
…わからなかったのです。
金剛堂という名称はひろうことはできたのですが、そも、それがこの建物を示すものなのかすら不明なくらい、情報がない。
まぼろし〜っ。
ではないのですが、ね。
私もギガ数を超えまくってしまったため、泣く泣く消した写真に、この建物周辺を写したものがすべて含まれており…。
やはり中尊寺リベンジ!
中尊寺を後にして。
向かったのは、中尊寺を目指してきて、通り過ぎてしまい一度通った道、ではなくて、…いや実際にその道を通ったのも確かなのですが…。
その名は『たかだちぎけいどう』。
ええ、耳で聴くと「なんだ、それ?」とか思えてしまう(…のは私だけ?)のですが、漢字で書くと【高館義経堂】。
『ぎけい』って…?
そう、この地で命を落とした【源義経】であると、夫の解説は続きました。
なるほどぉ。
歴オタの夫がコースに入れないわけがない…というか、ここはセットにしてまわるであろう定番でありましょう。
なにせ、あの歴史に名高い【源義経】で、しかも終焉の地とあれば。
ことに昨年2022年のNHK大河ドラマ【鎌倉殿の13人】は巷でかなりの話題作で、その舞台の一つでもあった『平泉』、ましてや義経終焉の地とあれば、昨年以降はことさらに人気のスポットとなっておりましょう。
えっ?
中尊寺が終焉の地だと思っていたくせに?
…ねぇ。
『鎌倉殿』のあとであれば、そんな無知無教養を夫や皆さまの前で曝さずに済んだものを。
菅田将暉さん演じる【源義経】が青年期を過ごし、『平家』打倒のため挙兵したのが『平泉』。
また『平家』打倒後、こともあろうことか兄【頼朝】に追われ逃げ落ち、最期を遂げたのが『平泉』。
【義経】にとって『平泉』はとっても重要な場所でありました。
【高館義経堂(たかだちぎけいどう)】は『源義経』が最期を遂げた地に建てられたお堂。
江戸時代の俳人【松尾芭蕉】が、かの有名な句
『夏草や兵どもが夢の跡』を詠んだ場所でもあります。
とはいえ【高館義経堂(たかだちぎけいどう)】は【世界遺産】には登録されていないのですが、ね。
まぁ、煌びやかな奥州藤原氏の遺跡を語るには少し意味合いが異なるものですし、それはいたしかたないことなのかもしれませんが…。
そんな義経堂、
『五月雨を集めて早し最上川』
『暑き日を海に入れたり最上川』
の最上川かと思いこんだ地理音痴のおばさんがいたくらい、大きな広い【北上川】のすぐそばにありました。
ええ、『旅の恥はかき捨て』と申します。
…それをここで暴露したら一生ものになりますが、ね。
…うーん。
高館義経堂のことで、夫が何かもう一つ言っていたような…。
なんだったかな?
あっ、そうだ!
この高館義経堂が義経が最期を遂げた地とすることに、もう一つ違う場所だとする説があるとか言っていたんだ。
この義経堂の近くなんだとか、なんとか。
「今回そこへは行かないけど」と。
たしかに、ここ、この義経堂は天和三(1683)年、仙台藩主第四代『伊達綱村』公が『義経』を偲んで建てたお堂であって、ここに義経の館があったという伝承に基づいてはいるものの、そうであったという立証はないのかもしれません。
そうだった、そうだった。
ただ、(ここに館を構えこの川を眺めて、義経は何を思ったか)と思いを馳せながら、おばさん、結構優秀な案内、説明をしてくれる、歴史オタクの解説をすっかり忘れてました。
このおばさん、そもそも弁慶が壮絶な死を遂げた場所を中尊寺だと思っていたくらいですからね。
そもそもが、義経はその後も生きてモンゴル帝国の初代皇帝成吉思汗=チンギス・ハンは同一人物だという伝説もあるくらい、ですもの、終焉の地が日本の平泉という狭い土地で少しズレて伝えられるくらい、日本史あるある、の域ですかね。
私どもが、芭蕉のように〝兵どもが夢の跡〟である義経堂に立ち、山上川を眺めながらその冥福を祈りましたのはたしかなことです。
そんな高館義経堂。
仙台藩主第四代『伊達綱村』公が義経を偲んで義経堂を建てたのが、天和三(1683)年。
俳聖・松尾芭蕉が門人・曽良を伴い、平泉を訪れたのは元禄二(1689)年のことといいます。
建てられて間もない義経堂のある高館に立ち、眼下に広がる夏草が風に揺れ光る様を眺めた芭蕉。
百年にわたり平泉文化を築き上げた奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経公を思い、かの名句を詠みます。
『三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。(中略)
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪を落し待りぬ。
【夏草や 兵共が 夢の跡】』
(義経堂の芭蕉の碑より)
奥の細道を(ごくごく一部)歩いて、実際にその場に立ち、その空気を吸うと、芭蕉の詠んだ句の素晴らしさに心打たれます。
それこそ国語の授業でふれただけのものとはまるで異なって、草の香りや風をすら感じる気がいたします。
義経堂の境内自体はさほど広いものではありません。
義経公の像が遮那王尊として祀られており、堂創建時に製作された木造の源義経公像は凛凛しい武者姿で、それはそれは極めて綿密に作られておりました。
兜なども本当に被っておられるよう。
衣も、そして鎧も、それぞれの質感を感じさせる素晴らしい像であります。
義経の最期として伝えられるに、
館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と四歳の娘を手にかけたのち、自害して果てたと伝えられます。享年三十一。
三十一…かぁ。
かわいい盛りの四歳の娘を手にかけて…。
なんだかなぁ。
そんな感想しか言えない語彙力のなさでありますが、語彙力があったところで、やっぱり「なんだかなぁ」としか言えない気がする。
この『高館義経堂』さん、
受付のための小さな建物があって、その中に、いかにも地元の有志の方、という雰囲気の方がいかにも時間をもて余している感でポツンと一人座っておられました。
古くからある歴史あるものであるしと、後世に繋いでいこうと思われた地元の方々がこちらを護っておられるのかとばかりに思っておりましたが、実はここ、あの世界遺産の毛越寺さんの境外堂でありました。
まぁ、藤原氏と関係があるといえばあるし。
昨年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』の視点でみれば、間違いなく聖地でありましょう。
…鎌倉殿の視点からなら、むしろこちらの方が?
いやぁ、鎌倉殿の放映前で本当に良かった良かった。
その後向かいましたのは…。
計画を立て、運転しておりますのが歴史オタクの夫でありますので、跡地でしかないとわかっていながらもそこはこだわる、【観自在王院跡】。
…ええ、彼の下調べ通り、全くの跡地でしかありませんでした。
駐車場どころか駐車スペースもなく、しかもその周辺を工事しておりまして、そのせいもあって、私などは通りがかりにあった〝沼〟とか〝池〟を見ている感覚しかありませんでした。
それでも、歴オタの夫はそんな池を見て、藤原氏の栄華に思いを馳せ、「ここにはかつてこういう建物があって、○△✳︎★¥…」と語っておりました。
それを聞きながらふーんと思った私の顔を見て現実に戻された彼は、少し悲しそうに「いつまでいても仕方ないから、毛越寺に行こうか」とひとこと。
…ああ、私の演技力があまりにもなさ過ぎたせいで。
こうしてこれを書きながら、当時もう少しだけでも演技力を磨こうと思ったことを思い出しました。
だって、工事現場の、なんの変哲もない草ボーボーの池なんですもの。
そこにロマンを感じているふりは、ちょっと一般のおばさんには難しかったのです…。
あの日本中に鎌倉殿ブームを巻き起こしたであったろう昨年のNHK大河ドラマ、【鎌倉殿の13人】が全話、配信停止となるといいます。
おそらく再放送ももう期待できないのでありましょう。
何故?
…出演者の一人に逮捕者が出たことによるものだというのです。
……。
あえて言わせていただけば、何故?
何故こういう連帯責任のようなことを求めたりする必要があるのでしょう。
…NHKだから?
…そうね。
NHKはかつて、歌謡曲で
♫ ○○はまだ 十六だから〜 ♪
というフレーズ、○○に歌っている当人の名前が入っていることに対して
「商品に当たる=宣伝である」という理由でその部分を
♫ 私はまだ 十六だから〜 ♪
と歌わせた過去があるくらい、コッチコチの石頭なくらいだった。
今はずいぶんと緩やかになって、他局の人気番組のテーマ曲だの主題歌などを普通に流すし。
なんならその番組名だって平気で出すし、その内容に触れて語ったりもするし、他局とコラボした企画すらしているくらいです。
それがどうかは、どう思うかは個人個人異なることかとは思うのですが、私は歌詞の一部まで改ざんすることの馬鹿馬鹿しさに呆れていたくらいだから、まあ、良いかどうかはとにかく良い傾向を模索しだしたと微笑ましく思ってはいたのですが。
確かに。
確かにこの出演者さんは罪を犯したのかもしれない。
ですがそれ自体がまだ、確定すらしていないはず。
容疑者としての逮捕であるのだから。
一応、それを前提としても、何故、リアルでの罪を架空の世界のキャラクターに求める必要があるというのでしょう。
そもそもこの対応は誰に対しての配慮だというのでしょう。
この事件の発端となったという、他者に対してのセクハラ、パワハラはあったのかもしれません。
しかしながら逮捕された罪はそれではない。
大切な家族の死を幇助するくらいに追い詰められていたことからの悲劇であったと私はとらえています。
セクハラ、パワハラに対してのものに対しての、このNHKの対応だとしても作品を封印してしまうことは少し違うと思うのであります。
たしかにセクハラ、パワハラの被害に遭われた方の心情を思えばその人物の姿を見たくもないのは誰もが理解できること、ではあります。
ですが、
(続きます)
(続き)
作品は芸術品であります。
どんな作品もそうだと思うのです。
そこには多くの人の思いが、そしてそれこそ表に出ていない思いや、人知れない苦労が籠められて作られた尊いものです。
…どんな人間だってもしかしたらどこかで過ちを犯す可能性はある、…そうではないですか?
時を同じくして、某映画での出演者に逮捕者が出ました。
罪状は異なるものではありますが、逮捕を受けてもその映画は放映を決定したように見受けられました。
これを知って英断だ、と思ったけれど、これはNHKの対応と比してそうとらえてしまったのかもしれない。
作品は作品。
それ以外のなにものでもないのだから。
あえていうならば。
NHKは決して安くはない視聴料を全国民から取って番組を作り、運営しているのだから、全国民の視聴する権利を奪ってはいけないとも私は思うのです。
ちなみに、私は鎌倉殿の13人を半分も観てはいない人物ですが…ね。
【観自在王院跡】は奥州藤原氏二代『基衡の妻』が造営した寺院の遺跡、なのだといいます。
大小二棟の阿弥陀堂跡の前面に舞鶴池を中心にした浄土庭園が広がっていたといい、境内の背後には『金鶏山』と呼ばれる山が位置しています。
そう、そんな解説をいつものように夫は何も見ずに熱く語っていたんだった。
しかし近世までに往時の堂塔をすべて失い、庭園も荒廃し後には水田化したとまでいいます。
それが遺跡発掘調査の成果に基づいて伽藍遺構と庭園の修復・整備が行われ、今日の姿となっているのだといいます。
世界遺産委員会は、観自在王院跡が毛越寺・無量光院跡とともに
「現世における仏国土(浄土)の象徴的な表現として造営された」資産であると高く評価したといいます。
う、うーん。
そ、そうだったか…。
さすがは審美眼がないというか、ものの価値を正しく認知、認証できないおばさんだわ。
…いや、自己弁護させていただけば、やはりあのすぐそばで大掛かりになされていた道路工事がそれに拍車をかけたのですって。
そして【毛越寺】さんへ。
毛越寺さんの駐車場は中尊寺さんよりもさらに観光地の風情を呈し、ホテルもすぐそばに建てられています。
そこから少し歩いて毛越寺さんの山門へ…山門、山門?
…これは山門、というのかどうか。
どこかで似たような受付を見たような気がする、受付を兼ねた入場門といった感じしかしない通路のように見えます。
たしかに外観的にはいかにも歴史ある所へ入る入場受付を意識して建てたかに見える、そんな建物ではありますが、山門というのはちょっと違う気がいたします。
造り自体は大変丁寧に造られた、美しい白い漆喰が塗られ、柱は黒といったものなのでありますが、…うーんでも【毛越寺本坊】っていう札がかけられているなぁ。
やはり山門、なのだろうな。
うーん。
この山門は、元は一ノ関藩田村家藩邸の中門で、大正十一年に寄進されたものだとか。なるほど…。
こちらでは参拝の前に御朱印帳をお預けするよう書かれています。
御朱印と、震災復興のために作られた散華をお授けいただきました。
【毛越寺】は『モウツウジ』と読みます。
通常『越』という字を『ツウ』とは読みませんが、『越』は慣用音で『オツ』と読みます。
それがモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したもの、と考えられているようです。
門をくぐると、…ひ、広い!
これは案内図を見ながらでなければ御本堂へ到達することができません。
私の得意技(?)〝迷う〟〝迷子〟が今すぐにでも出せそうです。
【毛越寺】さんの『寺伝』によると、
嘉祥三(850)年、【慈覚大師】が東北巡遊のおり、この地にさしかかると、一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなったといいます。
ふと足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちておりました。
慈覚大師は不思議に思ってその毛の跡をたどられますと、前方に白鹿がうずくまっておりました。
慈覚大師が近づくと、白鹿は姿をかき消し、どこからともなく、一人の白髪の老人が現われ、「この地に堂宇を建立して霊場にせよ」と告げたといいます。
慈覚大師は、この老人こそ【薬師如来】さまの化身と感じ、一宇の堂を建立し、【嘉祥寺】と号しました。これが『毛越寺』の起こり、とされます。
慈覚大師円仁が開山し、藤原氏【二代基衡(もとひら)】公から【三代秀衡(ひでひら)】の時代に多くの伽藍が造営されました。
往時には堂塔四十、僧坊五百を数えたといい、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。
しかし奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失してしまいます。
現在、庭園や基壇、礎石等の遺跡は良好な状態でほぼ完全な状態で残されており、毛越寺のシンボルともいえる【大泉が池】は復元整備され、平安時代の浄土庭園を今に伝えています。
『国の特別史跡』・『特別名勝』の二重の指定を受けており、また平成二十三(2011)年に、この『毛越寺』や『中尊寺』など五つが、【平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群】として世界遺産に登録されています。
平成元(1989)年に平安様式の新しい御本堂が建立されています。
『秀衡が跡は田野となりて、金鶏山のみ形をのこす』
とは松尾芭蕉が『奥の細道』に残したもの。
秀衡が跡はかつて田野となっていたということを、肌で感じ、なんとも寂しく侘しい想いを抱いたのが、この遅筆の一つの言い訳。
…ええ、言い訳でしかありません。
お読みいただいてくださる方におかれましてはまことに申し訳ありません。
脳がひとかけらの石と化した、不器用でのろまな、愚鈍なおば(か)さんのスレを、ただただあたたかな目で見守って下さりますこと、感謝しかございません。
そんな毛越寺さん。
夫は史跡が好きな上に、ロマンチストなので、想いを馳せては感嘆しておりました。
そう、あの草の生えた斜めな地面に、かつての城を思っては足を止めるあの夫です。
かつて柱のあった礎石を見ても感動し、その元あった建物を思い描けるのでありましょう。
しかしながら。
踏み入れたばかりの毛越寺さんの境内に立ち、復元や跡のほかは浄土を表した庭園跡の大きな池の広がる、現在の毛越寺さんに私は芭蕉の見たものと同じ空気を感じてしまっていたのです。
(続き)
毛越寺さんの伽藍は中尊寺をしのぐ規模であったようですが、当時の建物は全て焼失しており、ただその基壇、礎石等の遺跡が良好な状態で残されておりました。
『大泉が池』と呼ばれる大きな池が広い境内の中央に復元整備され、平安時代の浄土庭園の面影を今に伝えています。
五月にはこの池に山からの水を取り入れるための水路『遣水』において【曲水の宴】という平安時代の宴を再現するといったイベントもあるようです。
遣水に盃を浮かべ、流れに合わせて和歌を詠む、平安時代の優雅な歌遊びです。
男性は衣冠(いかん)、狩衣(かりぎぬ)、
女性は袿(うちぎ)、十二単という装束を身にまとい、
水辺に座り、和歌を詠み短冊にしたためる、というまさに平安絵巻を実現する儀式のようです。
若女による舞も奉納されるようです。
ただ、私どもが参りましたときは、秋。
紅葉の美しい頃ではありましたが、水辺はどうしても寒々しく、夫に無理やり歌を詠む男性を演じてもらってはみたものの、いかんせん普段着のおじさん、そんな平安の雰囲気など醸し出せるはずもなく。
ただ…景色は美しかったです。
毛越寺さんの総面積は33.000平方メートル。
とにかく広いのです。
比較対象としては、甲子園球場が挙げられるようです。
甲子園球場より少し狭いくらい、なのだとか。
ただ…かつてあった堂塔四十、僧坊五百、そのほとんどは失われたまま。
美しい日本庭園、というにはやはり少し物足りない。
かつては池に平安時代浮かべられていた舟を再現したものが浮かべられていたこともあったようなのですが、それもこの時は無く。
お寺の境内にいるという感覚があまりわかないのです。
広い池のある庭園という感が強い。
広い境内が侘しさを誘います。
…ここにかつての伽藍があったなら…。
大きな平安様式の御本堂は平成元年に建立されたもの。
藤原氏のいない今、かつてあった堂塔を再現するのはとうてい不可能でありましょう。
かといって。
侘しさをおぼえはするものの、決して嫌いではないのです。
一つ一つの御堂はそれぞれ身の引き締まる思いのするものであり、ゆったりと自分のペースでお詣りさせていただけます。
ただ、…いかんせん広い。
広い境内に点在しているので、そこがなんとも侘しいだけ、なのです。
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