神社仏閣巡り珍道中・改 東北路編(ふたたび)
[神社仏閣巡り珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
そんな私が、2020年11月、東北の神社仏閣をお訪ねする機会を得ました。
当時はあの東日本大震災から九年と八か月。
そして、コロナという、まるで未知の病に世界中が震撼した年でありました。
東北の被災地にも、コロナは容赦なく襲いかかり、さらにまた、新たな自然災害が全国のあちらこちらに大きな爪痕を残し、被災地は増えゆくばかりです。
2020年、Go Toトラベルという政策が打ち出された折、私には関係のないことと思っておりました。
もともと出不精な夫婦な上、夫は慢性の呼吸器疾患が持病です。できうる限りの対策をもって、コロナに罹らないようしなければならない者であります。
(とはいえ、未だにそのふせぎようはわからないままなのですが…)
また、当時はワクチンも開発中の段階でありました。
「実は俺、SL休暇のとれる年なんだ」
そんな夫の一言から始まったのがこの東北への神社仏閣巡りのスタートでした。
緊急事態宣言が明け、新規感染者数が減り、Go Toトラベルが出されるところまでに、なってはおりました。
そして…そのころ、私たちの住まう地域ではほとんど罹患者の発生がなく、さらにさらに東北地方もまた発生の少ない地でありました。
東北┉。
東北?
もしかしたら┉東北なら可能?
悶々とする私どもの背中を押してくれたのは、子どもたちであり、こと私の仕事先の上司や同僚の方々でありました。
足りない頭で考えられうる限りの感染対策をして、私たちは東北の神社仏閣を目指して旅に出ました。
今思ってもただ感謝しかありません。
この旅は、東日本大震災で命をおとされた方々へのせめてもの鎮魂のための旅でありました。
残された方々の今後お護りくださるよう祈る旅でありました。
…もちろんそれは私の自己満足でしかないことではありますが。
一度書きかけて、タブレットの再起不能な故障のため、ずっと中断しておりました。
あらためてコピーを貼り付けた上で、続きを書いていこうと思います。
一度お読みくださっていた方は、かなりの重複となりますが、どうかお許しください。
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【瑞巌寺】の正式名称は【松島青龍山瑞巌円福禅寺】というのだそうです。
認知症予防┉ではなくて認知症進行防止のために暗記して三回繰り返すと良さそうな気すらするほどなかなか長い名称であります。
衰退していた円福寺の再興に尽力した伊達政宗公が慶長13(1608)年、寺名を瑞巌寺と改めた際、前身となる円福寺に敬意を表してその名を織り込み残したのでしょうか。
その政宗公が、紀州熊野から取り寄せた木材を使い、京都から宮大工を呼び寄せて造られた瑞巌寺さん。
政宗は宮大工に対して、土足を禁じ、誤って落とした釘などは使ってはいけないと命じたといいます。
慶長九(1604)年から約五年かけて造営し、完成したもののようです。
とはいえ経年の劣化を止めることは出来ません。
経年の劣化を修理修復して、耐震補強もしようということで行われた【平成の大修理】は2009年9月から約七年間かけられた工事となりました。
この平成の大修理は地盤沈下による建物のゆがみなどを直すことが目的で、瓦や壁、建具の解体・修復、さらに耐震補強工事なども行われる大がかりなものであったようです。
大屋根の瓦は五万枚以上あるうちの約三万枚を新たに葺き替え、また新たな鬼瓦をのせたようです。
鬼瓦は創建当時のものを再現して作成されているとのことです。
とはいえこの鬼瓦、屋根が高くて、双眼鏡でも使わないと見えはしないのではありますが、伊達家を、瑞巌寺を愛する仙台の方々のこだわり、であったのでしょう。
かつての鬼瓦が宝物館の入口に展示されていました。
大きい!
ですがその大きさは想定の範囲内のものであります。
その繊細さにびっくりいたします。高級なケーキにのせられた繊細なバラの花弁を思い出すような鬼の前髪です。
その繊細さにびっくりし、さらにはそれがなんと長きにわたり、海辺の風雨や熱い日射しにさらされ、雪の重みに耐え、今現在のすがたであることに驚愕いたします。
屋根瓦ひとつにも政宗公のこだわりと当時の職人さんの努力を思い、思わず手を合わせ拝んでおりました。
実は当時、瓦屋根の本堂は大変珍しいものであったにもかかわらず、政宗公がどうしても瓦屋根にしたい、とこだわられたものの一つであったとのことでありました。
┉はああ。
【瑞巌寺】さんについてここまで書かせていただいて┉。
宝物館に安置されている円空の仏さまのお名前を間違えてはならないと、〖瑞巌寺円空佛〗と検索すると、瑞巌寺さんの公式ホームページがありました。
おお、ありがたい!
ありが┉ありが┉ありがた過ぎるページを発見いたします。
瑞巌寺さんの御本堂の中を3Dツワーができるとのこと。開いてみますと、な、なんと!
『瑞巌寺360度映像3D参拝ツワー』ということで、御本堂内を映像で拝することができるではありませんか!
(´;ω;`)
┉ああ、まぁとりあえず合ってる。
合ってることは合っていたけれど、なんと私の書いたものは拙く、しかもなんとあちこちに話が飛んでいることか┉。
ここまで私の拙い駄文でお目汚しをいただきましたが【国宝 瑞巌寺】という公式ホームページをご覧いただき、3Dツワーというところをお開きいただければ、私の伝えたかった美しさはすぐに伝わります。
ちんたらちんたらと私が書いていた世界が本当はどんなものであったかが瞬時にご理解いただけると同時に、その素晴らしさに心洗われること間違いなしであります。
【瑞巌寺】さんの宝物館を後にして、再び【法身窟】前を訪れることとなります。
前述しました通り、政宗公が瑞巌寺と名を改める前は『円福寺』でありました。が、もともとの開山時は『延福寺』。
延福寺は第28代住持儀仁を最後に破却され、禅宗の円福寺に転換されています。
*****************
宝治ニ(1248)年、延福寺で〖山王七社大権現の祭礼〗が行われていた。
東国修行中の執権【北条時頼】が舞楽の上演を楽しんでいたが、つい面白さのあまり、
「前代未聞の見物かな」
と、大声を発した。
その大声に驚いた稚児が舞の途中で立ち往生してしまった。
神楽を中断させると言うことは、いかなることがあっても許されることではない。
このことに荒法師達 は怒り、時頼は殺されそうになる。
一人の僧の「山王大師祭礼二依リ殺生二及ブ可カラズ」の一言で事なきを得、時頼は近くの岩窟に逃げ込んだ。
岩窟(=法身窟)にはこのとき修行僧の【法身】がいた。
時頼が、一夜の宿を貸しては頂けないかと頼むと、僧は「沙門は三界を宿とし一心を安んじて本宅となす。誰を主とし、誰を客とせん」と答え、時頼を丁寧に迎えた。
二人は意気投合し法談で時を重ねた。話すうちに時頼は法身の禅僧としての高潔さに心うたれた。
時頼は、鎌倉に帰った後、〖三浦小次郎義成〗率いる千人の軍兵を松島に向かわせ、延福寺から三千の衆徒を追放し、儀仁和尚を佐渡に流した。僧達の一部は福浦島に逃れ、経文はすべて経ヶ島で焼かれたという。
その後、時頼は、岩窟の僧を捜し出して新しく円福寺と名を改めた寺の住職とした。
この時から、瑞巌寺は円福寺という臨済宗の寺として生まれ変わることになり、北条氏の庇護を受けることになった。
【天台記】
うーん。
瑞巌寺さんにおりますとき、ここで時頼公と宋より戻った僧が出会ったという記述の書かれたものが掲示されており、それを読み、ただ単に、なるほどなぁと思い、
(こんな遠くまで移動する昔の人に思いを馳せてすごいなぁ)と思っただけでありました。
実はそういったことであったとは┉。
お武家さまのなさることは┉。
(´;ω;`)
この詳細、歴史的背景をを知ったことで、突如として改宗し、寺の名まで変えた意味を正しく理解することができました。
はあぁぁ、┉。
【円通院】は瑞巌寺の西隣にあります。
茅葺きの薬医門をくぐると、すぐひだりてに石で彫られた小さな観音さまがおられます。少し奥まっておりますがひきりなしに人が立ち寄ってお参りをされています。
┉おおっ!
観音さまはひっそりと、それでいてまるで光を放つかのようなお美しくて清らかなお姿でお立ちになっておられます。そのお顔のお優しいことと言ったら!
これは、なるほどこちらの観音さまのファンも多いことでありましょう。
半彫りの観音さまのそばにすずらんの花でもあるのかと思った彫りは、よくみると波しぶきのようであります。
?!。
観音さまはどうやら龍にお乗りになっておられます。
ほぉお。
去りがたい思いを抑えてなんとか立ち去ろうとすると、┉?
観音さまの左右には小さな┉五センチくらいのこけしが棚にびっしりと奉納されています。
これは┉?
私も奉納させていただかなくてはと、こけしを授与されている、先ほど御朱印をお願いした窓口に申し出たところ、┉こちらの観音さま、縁結び観音さまなのだとか。
┉縁結びには全く関係なさげなおばさんが、いつまでもいつまでも観音さまの周りをうろうろしていた様子はさぞ滑稽であったことでしょう。
去りがたい思いを残し縁結び観音を後にすると、┉現れるのが石庭であります。
うわあぁぁ!
私どもが参りましたのが十一月中旬、まさに紅葉の美しい盛りでありました。これは┉。
白い砂利にまるで計算して一枚一枚の紅葉の葉を人の手で置いたかのような美しさです。白砂利の池に散った紅葉と、今を盛りの紅葉。
ため息しか出ません。
この石庭は松島湾を表現した「天の庭」と、人生を表現した「地の庭」で構成されているのだとか。
計算して造られた石庭を一つ一つ堪能しその美をあらためて感じるといった余裕すら私にはありません。
秋の日を浴びてきらめく石庭とそこにはらはらと散り、赤い彩りを添える紅葉と。
(綺麗┉)
ただただその一言しか頭に浮かばない。
それ以外言葉になどできません。
まぁ、私に語彙力がないのもありましょうが。
途中途中、休んで庭を愛でるよう、和風の腰かけが置かれていたり、苔むした茅葺きのあずまやがあったりいたします。
丸窓から見える紅葉も美しく。
┉ はあぁぁぁぁ。
【円通院】さんは伊達政宗公の孫【伊達光宗の廟所】の【三慧殿】が建立され開山されたものであります。
三慧殿は正保三(1646)年に造られました。
伊達政宗公の嫡孫【光宗】は幼少の頃より文武に優れ、その才智は徳川幕府にとっておそるべき逸材であったとされています。
江戸城内において19歳という若さでこの世を去るのですが、その死因には諸説あり、毒殺されたともいわれているようであります。
霊屋はその死を悼んだ父、二代藩主伊達忠宗公により建立されたもので、宮殿型の厨子の中には白馬にまたがる衣冠束帯の光宗像、殉死した七人の像が祀られているのだそうです。
また、その厨子は全面に金箔を施した華麗なもので、装飾の図柄には洋バラ、スイセン、ガーベラ、トランプの図柄などヨーロッパ風の模様が刻まれているのだそうです。支倉常長が持ちかえったものをもととしていて、当時鎖国していた徳川幕府に対し、あくまでも伊達家の霊廟と申し立て、扉を開けることはなかったのだそうで、実に三世紀半も公開されることなく現代に至ったということでありました。
今、その扉は開け放たれて、金色に光り輝く厨子のなか馬にまたがる光宗の像と、光宗を取り囲む像がみえます。
建物自体は奥まったところに建てられ、白木造りの一見質素な建物であります。ですがこちらもまた当時には珍しい本瓦葺きと、こだわりある建物であります。
その一見質素な白木造りの建物と光り輝く厨子との格差に、自慢の将来を嘱望する息子を喪った父の哀しみと怒りを感じさせられた、三慧殿でありました。
さらに進むと、こちらにもまた洞窟群が。洞窟のなかには古びた石碑や石塔、石仏がたくさん安置されています。
さらに進むと見えてくるのは、庭園の中にひときわ存在感をみせる、おんこの木(イチイ科)。
八方睨みの名木と称せられ、樹齢も700年を超えているそうですが、樹勢の衰えを感じさせません。 さらに進むとなんと!
境内には珍しい、バラ園が!
日本最古の洋バラもあるとのことですが、いかんせん、私どもが参りましたのは紅葉真っ盛りの秋。いくつか咲いているバラもあるにはありましたが、かえって寂しさ、憐れを感じさせられました。
また、紅葉した庭が見えてきたところに茅葺きの大きな屋敷のような建物が見えてきます。
見えてきたお屋敷のような建物は、二方向を開放できる造りで、そこをずっーと縁側が取り囲み、さらにはそこにあがりやすいように二段ほどの木の上がりはなが取り付けてあります。縁側の内側には昔からの障子。
うーん♡なんと人を癒す休憩の場でありましょう。
御仏壇があるのがみえます。
どうやらあがってもよいようです。
んん?
んっ!?
お屋敷の御仏壇の真ん前に、お寺さんによくある大きな香炉が設けてあります。
そして御賽銭箱が。
えっ?
まさかこちら、お寺のお堂?
┉お堂もお堂。円通院と書かれたものが掲げられています。
まさか、と、この期に及んでも思った私も私ですが、この建物こそが【円通院本堂】であったのです。
嬉しいっ♡
こんなにも開放的で、
こころゆくまでいられる御本堂で、何より心から癒していただけ、なおかつくつろげるような御本堂は、日本全国各地にいくつあるでしょう。
まるで懐かしいおうちにでもあがるような心はずむ思いで靴を脱ぎ、畳敷きの仏間に上がらせていただき、読経させていただきました。
ああ、なんと癒される、幸せな時間でしょう。
【円通院本堂】は【大悲亭】と呼ばれるそうです。
もとは光宗が江戸で〝納涼の亭〟としていたもので、父忠宗公が解体させ、海路にてこの地に移築されたものだといいます。
┉ああ、だから、こんなに開放的で居心地の良い、一見普通のお家のような建物なんだ。
そして。
光宗は短い生涯ではあったけれど、こんなにも開放的で癒される空間で過ごされていた時があったのだなあ。
┉それだけでも少し救われる思いがいたしました。
光宗はここを大切に大切に思っていたのだなあ。
そして父はそれを知っていたのだなあ。
このお屋敷┉御本堂の前にひろがる庭園は、仙台藩江戸屋敷にあった、小堀遠州が作った庭を移設したものだといいます。
心字池にかかる橋にも、はらはらと散った赤い紅葉の葉。
光宗の御霊を、そして光宗を若くして喪った父母の心を今なお癒してくれているかのようでありました。
ごく普通の御仏壇に安置されているかのようなご本尊さまも、実は鎌倉時代のものであったようです。
ありがたいなあ。
秋の紅葉真っ盛りの時に参拝させていただきますこととなりましたが、その見事な庭園よりも、私の心に残った円通院御本堂であり、三慧殿でありました。
円通院を後にし通路を歩いていると、ひっそりと建つ茅葺きの小さな御堂が見えてきました。
とても懐かしい感じのする、かつてそこここによく見かけた、そんなお堂でありました。
【三聖堂】と扁額にあります。
こちらのご本尊は、聖観世音菩薩様さまと書かれています。そして、その左には、達磨大師さまが、また、右側には菅原道真公がお祀りされているとのことでありました。
三体が安置されているお堂なので、三聖堂というのがこのお堂の名前の由来なのだそうです。
お堂の扉はかたく閉じられそのお姿はまるで拝することはできません。
三十三年に一度、御開帳されるようで、なんでも前回の御開帳は平成十八年だったとかで、次の御開帳は┉令和二十年?、で合ってますか?σ(^_^;)?。
このお堂、かつては現在の向きとは逆の、瑞巌寺の参道側を向いていたのだそうです。
それを瑞巌寺の第104代夢庵如幻(むあんにょげん)が現在の位置に変えたといいます。
江戸時代のころ、瑞巌寺には、〝女人禁制の日〟というのが設定されていました。現代では考えられませんが、昔はそのような制度があり、そしてそれは、月に15日ぐらい、つまり月の半分にもなります。
そんなことから、女性たちは、瑞巌寺さんへのお参りもそうですが、三聖堂へのお参りの機会も極端に減ってしまいました。瑞巌寺の参道を通らなければ、三聖堂に行けず、女人禁制の日は参道を通ることもできなかったのです。
そこで104代夢庵如幻は、女性のお参りの機会を増やすためにはどうしたらよいか考え、そこで思いついたのが〖お堂の向きを、参道と逆側に変えてしまう〗、ということでした。
お堂を逆向きに変えたことにより、禁止されていた瑞巌寺の参道を通ることなく、三聖堂へのお参りができるようになったという、裏技的なものでありました。
そんな裏技を捻り出すくらい、瑞巌寺にあった厳しい規律や決まりごとは、住職でさえ変えることができなかったということなのでしょう。
いま、三聖堂が目立たない場所にあり、瑞巌寺側を向いてないのは、そのような理由からなのだそうです。
この【三聖堂】の御本尊であります聖観世音菩薩さまは、またの名を【蜂谷観音】ともいうのだそうです。
古く鎌倉時代の初めに彫られた観音さまで、蜂谷氏が大切にしていたものなので、蜂谷観音と呼ばれているとのことでありました。
【蜂谷観音にまつわるエピソード】
北条時頼公の家臣【蜂谷美濃守】の子孫に、子宝に恵まれず悩んでいた【蜂谷掃部(はちやかもん)】という人がいました。
掃部が観音さまにお願いをしましたところ男の子が生まれました。その子の名は小太郎と名付けられすくすくと成長しやがて立派な青年になりました。
小太郎の許嫁は秋田県象潟というところに住んでいました。
ところが小太郎は結婚を前に病死してしまいます。
掃部は小太郎が亡くなったことを、許嫁に伝えました。
しかしその許嫁の女性は、夫無き松島に嫁いで来ました。そして小太郎の
父親の蜂谷掃部とその妻を、親のように慕い面倒を見たのだということです。
そして┉その蜂谷夫妻を看取った後、女性はその名を紅蓮とかえて出家したのだそうです。
┉うーん。
紅蓮さんのようにはなかなか生きられるものではないです。
昔のことです。親同志の約束事で、本人同士会ったことすらなかった可能性すらあります。
それでもその家に嫁いだ。
嫁いで、夫ともならなかった、
もしかしたら会ったことすらなかった男性の親を、親と慕い面倒をみ、看取った。
┉うーん。
無理だなあ、私には。それはもう『絶対』という文字をつけるくらいに無理です。
というかそういう考えにすら至りません。
かつての日本にはこういった女性がいたのですね。それも、もしかしたら、昭和の┉戦後間もない頃までは。
蜂谷観音さまはそんな紅蓮の生きざまも見守ってくださった観音さまであります。
そんな生き方から何かしらを学ばなければ申し訳ない。
とは思いはするものの、┉うーん。┉難しいなあ。
瑞巌寺に属する【五大堂】は、道路を隔てた、陸地にほど近い小さな島に建てられています。
瑞巌寺の石標のあるところから東に百メートルほど行ったところが五大堂の入口となっています。
緩やかな登り坂をのぼるとすぐに橋が見えて┉。
見えて┉。
見えてきた橋は、な、なんと!
隙間だらけで直下の海面が見えているではないですか!
あ、あり得ない。
ここを作ったとき木材が不足でもしていたというのでしょうか。
夫がそれはそれは嬉しそうに、
「渡れる?頑張ってね。笑。」
五大堂に続く橋。
【透かし橋】というのだそうです。
江戸時代中期の頃からこうした造りになっていたと云われているとのこと。
これは、五大堂の参詣する時、身も心も乱れの無いように足もとをよく見つめて気を引き締めるための配慮、とされているのだそう。
┉もうしわけありませんが、このような橋ではかえって身も心も乱れるのでは?
少なくとも私は確実に確実に乱れます。
ようやく渡り終わり、お土産店がありました。心引かれるけれどまずはお参りを。┉また橋だ。
嘘でしょ?!
手すりにつかまろうが、下を見ないようにしようが、海の上であることはどうしても視界に入ります。はああぁ。┉。
まあ、そうは言っても吊り橋ではないので揺れはしないので、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
だいぶへっぴり腰ではあったかとは思いますが、なんとか五大堂のある島へと到達いたしました。
夫がそんな私の勇姿を画像に残さなかったのは、┉よほどひどかった、ということなのかなぁ。
この日の東北も、季節外れのあたたかさ。
五大堂のあるこの小島は風一つない穏やかな心地よいところでありました。
潮のかおりもせず、橋がなければここが島であることを忘れてしまいそうでありました。
ここ、五大堂は坂上田村麻呂が毘沙門堂を建てたのがはじめであったといいます。
その後、慈覚大師円仁が一堂を建立して五大明王を安置したことから五大堂と呼ばれるようになったのだそうで、現在の建物は政宗公が建立したものだということであります。
天長五(828)年、慈覚大師円仁が【延福寺(現在の瑞巌寺)】を開基の際、【大聖不動明王】を中心に、東方)【降三世】、西方)【大威徳】、南方) 【軍荼利】、北方)【金剛夜叉】の五大明王像を安置したことから、
【五大堂】と呼ばれるようになりました。
言い伝えでは、 慈覚大師が五大明王を安置したところ、【坂上田村麻呂】が祀った〖毘沙門天〗は、ある夜、光を発して沖合いの小島に飛び去り、 その島は【毘沙門島】といわれるようになったそうです。
秘仏とされる五大明王像は、五代藩主吉村公が500年ぶりにご開帳した1700年代以降、三十三年に一度ご開帳されるようになりました。
平成18年8月18~20日に、御開帳が行なわれ、記念品の色紙が授与され〖端虚〗と書かれていたそうです。〖端虚〗とは〖すみずみまで、心配りをする〗という意味なのだそうです。
現在の建物は、 伊達政宗公が慶長9(1604)年に創建したもので、桃山式建築手法の粋をつくして完工したものです。
堂四面の蟇股と呼ばれるところにはその方位に対して十二支の彫刻を配しています。白木のままの五大堂にみごとに彫られた十二支はアクセントとなり、観る人の目を楽しませています。
こちらも当時には珍しかった瓦葺の屋根で、見事なまでに反ったところや変わった形の鬼瓦など、ここでも政宗公のこだわりがあちこちに見られます。
そうして。
またあの透かし橋で修行させていただき、五大堂を後にしたのでした。心構えのあった帰路は若干スムーズに渡れた┉はずです。
このあと、松島の経済に、私にとっては結構な貢献をしたのち、┉夕暮れの山道を走って(もちろん夫の運転で)【西行戻しの松】へと向かいました。
西行さんといえば、武士であり、僧侶であり、そして歌人であります。
私が西行さんを知ったのは、歌人としての西行さん。
国語の授業でありました。
願わくは 花のもとにて春死なん その如月の望月の頃
現在の国語力からご想像いただけますように、さほど国語に秀でた子供ではなかったので、和歌とかいうと難解な言葉の羅列にしか思えず、その書かれた歌を見ても、はらはらとまるで桜の花びらのように私の脳裡に届くことなくまた教科書の活字に戻っていくだけでありました。
それが。
この西行さんのこの歌は、目を通しただけでスッと心にまで流れ込んできたのであります。
難しいひねりなど一切なく、当時国語のテストなどによく出る『この歌を現代語訳しなさい。』などという問題もすらすらと口語訳できる、学生思いの┉ではなく、ストレートに心を歌ったすばらしい作と言えましょう。
そして、何よりも〖自らの死をみつめる〗といった生き方。
病の床にあっての作品は数多く見ることがありましたが、この作品はそうでないことが読んで伝わるものでありました。
┉まあ、思いこみと言われればそうでしかなかったのも事実なのですが、実際この歌を読んでから十年以上の年月を元気に全国行脚してのちに、まさにその如月の望月の頃に亡くなられたことから、この歌を読んだ頃には死をみつめるほどの病を持ってはいなかった、ということがわかります。
とはいえ、平安から鎌倉時代にかけての方ですから、かくれた持病があったとしても自他共にわからない時代であります。
病にたおれてようやく〖病〗であった時代です。
私はありがたいことに葬儀へ参列が二十代までほとんど無く、それも身内のものではなく。
死というものがどういったものであるのか、
まして昔の方にとって死というものがいかに身近で背中合わせであったかなど知るよしもなく、私は学校での学業からゆるゆると死というものを学んだのであります。
病などの床にある状況でなく死をみつめる。
┉この西行の作品は、その内容だけでなく、〖生き方〗、〖生きざま〗としても、私の心のなかに大きな流れをもってはいりこんだものでありました。
さらにのちになって、西行さんの歌に歌われた〖如月の望月の頃〗とは二月十五日、お釈迦様が亡くなられた日を指すことを知ることとなるのであります。
当時の暦は旧暦(少なくとも今の暦ではない)であり、ゆえに月の満ち欠けによるものであったがために、如月の望月、二月の満月は二月十五日を指すことになるのであり、新暦の二月十五日に生まれている私とは何ら関係のない日を指すのでありますが。
そうは言っても、今、お寺さんで涅槃会を営まれているのは新暦の二月十五日のところがほとんどですし、そんなところからも西行さんが私にとってさらに大きな存在となっていったのでありました。
【西行(さんの)戻しの松】。
そのいわれは、この松の辺りまで来た西行さんが、童と出会い問答をして負け、松島を見ることなく戻っていった┉帰っていったという地点、だと云われているものであります。
都の武家出身の西行さんが、当時は田舎ととらえられていた東北の地で出会った童に負けて来た道を引き返す。┉なかなか出来ることではないことであります。
年若の、野を駆け回る童に敗けを認めることも、
当時これほど遠い地まで来てそんな理由できっぱりと引き返すことも。
私の中ではさらに西行さんへの〝思い〟は膨らみ、その松を一目見上げようと勇んで車を降りました。
┉暗い。
あまり灯りのないそんな中、一軒、場違いなくらいおしゃれなガラス張りの建物が柔らかな暖かい灯をともしてその場をひときわ明るくしているくらいで。
日の暮れかけたこの辺りは、ただただ暗い、ただ暗いだけの林でありました。
おしゃれなガラス張りの建物が幻のように感じられます。
私どものようなみすぼらしい旅人が立ち寄ってはいけないような、そんな物悲しい気持ちで、その灯りを遠巻きにみつめていました。
まだ日の落ちきらぬ松島湾もさほどライトアップされておらず、ただただ暗いだけの空間に二人。
「ホテルに戻るか」┉うん。
西行さんが戻された松のあるところに立ち、私たちもまた、戻るしかない思いを胸にその場を立ち去りました。
意味合いはまるで異なるものではありますが、┉。
もう少し明るい時分に来ればこんなはずじゃなかったのでしょう。
┉買い物に勤み過ぎた私を松の樹の精がいましめたのでしょうか。
本来普通の旅行記を珍道中にしているのは、私ただ一人なのでありました。
次の日(2020/11/18)も、秋とは思えない┉それも東北だというのに┉、関東にいたときよりも暖かい日。
あれこれと東北の寒さに合わせ用意した衣類や使い捨てカイロが、邪魔にしか思えない。
いやいやこれはありがたいことであります。
出発前、というより計画中、
「東北に行ったらどこに行きたい?」
何度となく夫に聞かれたものの、日数にも限りがあることでもあり、
「あなたが行きたいところ、連れて行きたいと思うところに」
と答えて、ほとんど下調べすらいたしませんでした。
でもやっぱり行きたいと思うところは夫の計画には確実に含まれています。
日数に限りがなくて、お金の心配もなくて、何よりもコロナの心配もなければ、希望したところもあるでしょう。
┉とはいえ地理音痴な私、位置関係や距離も分からず、どんな無理難題を言い出したことやら。
まあ、当たり前ですが、日数にも、予算にも限りはあり、どうしても行けるところは限られてはしまいます。
夫が楽しみ半分、苦痛半分、懸命に悩みに悩んで立てた計画でありました。
その日、向かうのは平泉。
ワクワクする気持ちが抑えられない。
松島に、瑞巌寺に行けた!
なのにその次ぐ日には平泉!
なんと夢のような♡
┉私はどれだけ東北へ来たかったのだ?!
東北の、ことに岩手の方には叱られてしまうかもしれませんが、私にとって平泉といえばイコール中尊寺。そんな認識でしかありませんでした。そこまでいくと怒る気にもなれずあきれるだけでしょうか。
瑞巌寺さん同様、またまた私の妄想が産み出した中尊寺もどきがありました。それはまた追々話すこととなるかと思いますが┉。
そもそも、中尊寺さんって岩手県のどこらへんになるのだろう。
ごめんなさい、東北の方々。
というか、私に歴史だの地理だのを教えてくださった社会科の先生方、本当にごめんなさい。
そもそもが平泉、世界遺産だし。
少しは一般教養というか、一般常識として知っていようよ。
そして。
何よりもこんなおバカをここまで連れてきてくれた夫よ、こんな、〝猫に小判〟〝豚に真珠〟な妻で本当に本当にごめんなさい。
そんなおバカな妻を連れて、ただ一人で苦労し、東北を旅した夫。
┉そこへあのメーカー純正の優秀なナビが加わることで、珍道中は完ぺきなものとなります。
ええ、┉通り越すんです。中尊寺さんを。
あり得ない規模の町営駐車場を通り越すんです、私たち。
ナビのついたクルマでありながら。一応は起きてそのナビ上の地図を見ていた妻を乗せながら。
通り越すんです。
はああぁ。(´;ω;`)
(はあぁぁ、と言えるのは夫でしかありません。
が、夫はもうそんなため息すら出ないほど、このじゃじゃ馬でしかない同行一人と一台に、常日頃から振り回され、そのくらいではため息をつかない人間となっておりました。
┉申し訳なさすぎて、私はひたすらごめんを繰り返しておりました)
思い起こせば┉すでに四か月半くらいの時が流れておりました。(21/04/01 記)
ただでさえ記憶をする能力が人より劣り、もはや記憶しておくことに関してザルの方が上なのでは?と思えるくらいな私が、今頃綴っております東北巡礼紀行は、もはや黄砂がかかっているかのよう。
┉そうか!
あやふやなところや、間違った記憶も黄砂のせいにしてしまおう!
(当時で既にこんなことを書いております。コピペしているだけの今はまだしも、今後続きを書くときには、おそらく二年はまるまる過ぎていようかと┉。書けるのか?)
というわけで、宮城県のホテルを出発して一時間半強、┉くらいだったかなぁ。
混雑のない、気持ちのよい東北の秋の道路を岩手県まで┉走ったのは言うまでもなく夫でありました。
なんでもその走ってきた道は東北地方の大動脈という国道4号線。
列車や車のなかった明治以前には、日光街道、奥州街道(陸羽街道)、仙台道、松前道として、お江戸日本橋から宇都宮、白河を経て陸奥、そして海を隔てた松前までを結び、東北各藩と江戸の人馬物流の要として、往来のあった重要な街道であったのだといいます。
その国道4号線を仙台から北上する事およそ100キロほどのところ。
豊かな田園地帯が広がっています。
美しい自然と田畑の続く日本的情緒溢れる長閑な場所をひた走るまっすぐな道路で、怪しいナビの案内と、のんきに外の景色を眺めているだけの妻という、最悪な条件下で、その駐車場へと曲がる交差点をふと通りすぎてしまう。それはもう仕方ないって!
通りすぎたところで「あれ?いまのとこみたいだけど?」っていう妻。
なんだか何にも言いやしないナビ。
┉彼の苦労は今後も永く永く続くのですね。
どうか末永くよろしくね。(´;ω;`)
名刹・古刹が点在する奥州平泉。
今では美しい自然と田畑の続く情緒溢れる長閑な場所ですが、この地はかつて、東北地方にきらびやかな文化の足跡を残し、歴史にその名の刻まれる奥州藤原氏の一大拠点となったところであります。
いざ中尊寺!
ってもう駐車場なんですけどね。
お土産屋さんやお食事どころが取り囲む広い広い駐車場であります。
お土産屋さんやお食事どころが取り囲む広い広い駐車場。
それ以上に広い広い中尊寺さんの始まりは、実になんということない徒歩での山の登り口から始まります。
┉平安時代からのものですからね、徒歩以外はせいぜい駕籠とか馬とかですから。
そんな変にいじられていない中尊寺さんに感動しつつ、その山道を厳かな気持ちで歩き出しました。
奥州藤原氏の栄華を今に伝えるのが、この平泉にある【中尊寺】。
2011年、日本では12番目に世界文化遺産に登録されています。
坂下の駐車場から左に回りこむようにして、〖関山中尊寺〗と書かれた石碑を過ぎるとすぐ始まる坂道は、樹齢300年~400年と言われる立派な杉の木立が続く森厳な雰囲気に包まれる参道です。
この坂は月見坂と呼ばれる坂で、まあそれなりの坂、かなぁ。これがずっと続くとなるとすこぅしつらいだろうなぁと思った頃、みぎてに木立が途切れ、景観の良い場所が見えてきます。
〖東物見台〗と呼ばれています。
木々越しに北上川、束稲山などが見渡せて┉いるそうです。その場ではなんという川、なんという山かもわからず、ただただ感動と共に大きく息を吸い込んで、そこに立つのでありますが┉。
実は藤原氏の遠縁に当たり、秀衡の頃に平泉を訪れたという【西行】が束稲山を歌に詠んだ、などということも、┉帰ってきてから知るのであります。
あ、一応は西行さんが藤原氏の出であることくらいは知っていましたよ。(*-ω-))ウンウン
【中尊寺】は850年(嘉祥3年)、【「山寺」立石寺】や【毛越寺】と同じく【慈覚大師円仁】によって開山されたと伝えられています。
そして。その後、1105(長治2)年、奥州藤原氏の初代・【藤原清衡】によって中興されています。
清衡は、源頼義の介入した戦い〖前九年の役〗で父を失いました。清衡7歳の時であります。
さらに〖後三年の役〗の際、32歳のときに妻子を失い、この世の無常を身にしみて感じていたのでありましょう。
世の中の平安を願い、戦で失われた命を弔うために七堂伽藍を整備、建立していくのであります。戦で失われた敵味方はおろか昆虫草木の別なくすべてのものに向けられたものであったといいます。
ああ、なんという尊くて切ない思いでありましょう。
┉うーん、やっぱりそれを知っていてその場に立った方が感動するな。(*-ω-))ウンウン
で。
通常、というか普通の人ならば月見坂から山門┉があるかどうかはこの時点での私にはわからないことではあるのですが、そのままの道を素直に進むのでありましょう。
が。
月見坂のひだりて上にお堂を見てしまうのです。ええ、もちろん、まずは本堂からの御参り、ですよね。
┉。
お堂に寄りたい!
いつもなら抑えるその衝動がどうにも抑えられない。
で。
進路を変え、そのお堂めざして歩く私。
夫はそういった順路をさして気にする人ではなく、┉というよりは。
ほら、あのじゃじゃ馬を放ってしまったら後々大変なことを、この世の誰よりも痛いほど知らされ生きてきた人間ですので、ほこほことついてまいります。
なんと憐れな┉。
と、見えたのはあの、┉観光地といえばかつて必ずあったような、等身大のひとがたの絵の描かれた板。そう、そうしてそのひとがたの顔の部分だけがくり抜かれたあの顔出しする板があるではありませんか!
その人物は、弁慶さん。
中尊寺と言ったら?
藤原氏、なんですけどね、もちろん。
ですが、┉中尊寺と言ったら、義経と弁慶の悲劇の舞台!
┉弁慶が全身に矢を受けて、の舞台って中尊寺、┉じゃあありません?
えっ違う?
┉16歳から22歳まで、奥州藤原氏の元で過ごした源義経が兄頼朝の挙兵に呼応して鎌倉に馳せ参じたのが1180年(治承4年)のこと。しかし、断りもなく官位を受けた事で兄の怒りを買った義経は、吉野に身を隠した後、伊勢、美濃を経由し、最終的に奥州藤原秀衡を頼り、平泉まで逃げてくる。1187年(文治3年)2月のことだ。
しかし、秀衡が10月に病没、後を継いだ泰衡は結局頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)4月、『衣川館』にいた義経を急襲、義経は妻子共に命を落とす。時に義経31歳であった。
本能寺の変と並ぶこの歴史的にも有名な最期の場面。ここでも義経の供をしていたのが、五条大橋の出会い以来常に義経の傍で使えた武蔵坊弁慶であります。
平泉に逃げる際に安宅の関で関守に疑われ、とっさに主人である義経を棒で打つ場面などは歌舞伎好きでなくとも誰もが知る名場面であります。
その弁慶もまた、義経と共に衣川で最期を迎えました。体に矢を幾本も受けながらも最後の最後まで主人を守ろうとした弁慶の立ち往生として有名であります。
中尊寺、じゃないんだ。
┉夫が知ったら泣くな。
【中尊寺】とは一つの建物を指す名称ではなく、「中尊寺」本坊内本堂の他、
十七の塔頭及び小院(大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、利生院、円教院、円乗院)と諸堂からなる山全体を指す総称。
天台宗の東北大本山でもある。
山内には金色堂を始め、不動堂、旧覆堂など由緒と趣のある諸堂が点在する。
、┉とあります。
ほおうぅ。
そんなのもあったんだぁ。
いやいや、とりあえずみんな観てきた┉参拝してきたはずなんだけどなぁ。うーん、こんなにあったんだ。
そして。
弁慶の顔出し板のあるところからほど近いところにあるお堂は、ここに記述のない【弁慶堂】でありました。
古くは〖愛宕堂〗と称されていたとのことで、明治以降、弁慶堂と呼ばれるようになったとのこと。
御本尊は【勝軍地蔵】。
あれ?、どこかの愛宕神社さまの拝殿にも勝軍地蔵さまがお祀りされていると聞いたことがあったような┉。
愛宕さまと勝軍地蔵さまって何か関係しているのでしょうか。
お堂の中央に安置されていたお厨子の扉は開けられていたのですが、そのときには白馬さんしか見えなくて、後から勝軍地蔵さまがお祀りされていたことを知ります。
向かって左側にのお堂の端を守り、隣におられる義経を守るように立つ大きな大きな弁慶像。
隣におられる義経は椅子に座ったお像でありました。
弁慶さまの像は武装して、眼光鋭く今なお義経を、このお堂を守ろうとしているかのようです。
向かってみぎてには何体かのお仏像がおられるようです。
御本尊の前には護摩炉があるようです。
こちらもまた、あの神仏なんちゃらのせいで愛宕堂から弁慶堂に名前が変わったのでしょうか。
静かな、木々のなかに建つ、落ちついたお堂です。
かつて愛宕堂であったことから、阿吽の獅子がお堂を護っておられます。
今なお武装して常に周りを見張る弁慶さん。
弁慶堂という名に変えられて、なにやら困惑されてもおられるようにも見えました。
さらに小さな堂宇が続きます。
【地蔵堂】。
お優しいお顔立ち、それでいてすべてを見据えておられるような眼差しと、何かあればスッと動ける┉それこそ瞬時に移動できそうにお立ちになられているお地蔵さまのお像であります。
お顔立ちも、立ち姿も、衣の流れるさまもすべてが見事なお地蔵さま。
もう少し居たかったな。
【観音堂】。
そして、唐突に売店があって。
凛々しい顔立ちのきじとらの猫が客寄せの接待をしています。
私たち夫婦、そしてその子供たちも出会った猫出会った猫を写真におさめてようとするくらいの猫好きです。
ついこの間、夫にその中尊寺の売店で撮った猫の写真を夫に見せたところ、
「中尊寺の売店の猫」と瞬時に答えたくらいです。
ふっと我にかえって後ろを振り向くと、!。
十段ほどの階段のうえ、瓦葺きの門があるではないですか!
それこそが中尊寺本坊表門でありました。
ん?
うーん。
┉私のなか、中尊寺といえばきんきらきんの金の、金色のイメージでありました。
もちろんすべてがきんきらきんのわけもなく、ましてや経年の劣化もあるでしょうから、かつての輝きを求めてはいけないとは思っているのですが、┉なんだかこの門、武家屋敷とかのお屋敷の門みたいな門なのです。お寺さんのイメージではない?
ああ、またまた私のなかの妄想の中尊寺像が┉。いけない、いけない!
┉が。
実はここ、この門。
私の見たイメージのまま、こちらの門、江戸時代の武家屋敷の門を移築したものなのだとか。
しかも、なんでも、あの(┉と言ってもその内容はよくはわかっていない私なのですが)伊達騒動の関係者、伊達兵部宗勝の屋敷門だったと言われているのだとか。
門をくぐると、清んだ空気の満ちた、よく整備され気持ちのよい境内が広がり、どっしりとした御本堂が目の前に見えてくるのです。
【御本堂】です。
大きな伽藍、です。
┉でも、こちらもさほど古い建物ではないようです。
金色の、あの藤原氏の御遺体が安置されているというのは金色堂だということくらいは承知しております。はい。
ただ、その金色堂が残っているということから、私はまたまた勝手な想像をし、妄想をしていたのであります。
京都奈良のように、いにしえの建物が残っているのであろうと。
それは金色堂ほどではなくとも、さぞやきらびやかなものであろうと、思い込んでいた次第でありまして。
御本堂は再建なのだなぁ。
もちろん、再建の建物だからといって、なんらありがたみの変わるものではないものであります。そう、ひとえに勝手に妄想して、なんら下調べもしないで来た私がいけない。
おそらくこちらの御本堂は江戸時代後期から近代にかけて再建されたのではないかなぁ。┉東北の雪の重みに耐えきれなかったのかなぁ。
御本堂前の香炉にお線香を立てながら、あれこれと考えていたものの、はたと我にかえり御本堂に参拝させていただくことといたしました。
おお!こちらは御本堂にあがらせていただけるようありです。
うわぁ。
大きな大きな御本尊さまであります。
しかも金ぴか。
何やら優しい、今風のお顔立ち。
┉。┉┉。
なんだか仏具も新しそうでありますが┉。
もちろんお寺さんはお仏像はもちろん仏具も大切に扱われますから、新しく見えるだけ、なのかもしれません。
でも、お灯明やお線香でどうしても煤けたり、金箔が剥がれ落ちたりしそうですが┉うーん。
そこにお祀りされた御仏像は、新しいも新しい、平成二十五年に造られ開眼法要をうけた、開眼されてまだ十歳くらいのお若い御仏像さまでありました。丈六と呼ばれる大きさのその名も〖丈六皆金色釈迦〗というお釈迦さまの御像です。
もともとそこにおられたかのような、自然にそこにお座りになられている御本尊さま。
┉おや?
┉ではこちらの大きな丈六釈迦如来さまが安置される前の御本尊はどちらへ?
ええい!私、雑念を捨てよ!
心から、気持ちを込めて御仏の前にいられないのなら、即刻御本堂を去りなさい!
(この間四ヶ月ほど間が空いてのレスとなっていました)
雑念を捨てるためにこれだけの時間を費やしたかというと、決してそうではなく、雑念以上に記憶が消えていくことのほうがはるかに多くて、珍道中録とはいえさすがにもう、記録を書くにはかなり厳しい、時間の流失があるかとは思います。
それでも、これはこれでどうしても書きたいのです。
夫に連れていってもらった東北の記録だから。
夫の永年勤続記念の旅だから。
何より私が幼い頃より抱いていた東北への憧れ。
それは実に長い長い年月をかけて、私のなかに地層のように築かれていたのです。
その思いを、そして実際にその地を訪れることができた記録をなんとしても綴っておきたかったのです。
ここに中尊寺さんの御由緒を中尊寺さんのホームページから引用したものをかいつまんで記しておきます。
【中尊寺】さんはもともとは嘉祥3(850)年、比叡山延暦寺の高僧、慈覚大師円仁によって開かれます。
その後藤原清衡公が長治2(1105)年より中尊寺の造立に着手します。
まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立します。
この伽藍(がらん)建立は『法華経』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したものでした。
〖娑婆世界で法華経を説く釈迦如来のもとに七宝で美しく荘厳された巨大な多宝塔が現れた。釈迦如来は神通力をもって十方世界で法華経を説く自らの分身の諸仏を一ヶ所に集めると塔の扉を開いた。すると塔中に多宝如来が現れ、釈迦の説く「あまねく平等に開かれる仏への道(三乗即一乗)」をたたえてその真実性を証明した。多宝は座を分かって釈迦に勧め、塔中に二仏が並座した。釈迦は自らの滅後、法華経を永くたもち守るべきことを聴衆に説くのであった。 [法華経 見宝塔品]〗
清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。
清衡公は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は【諸仏摩頂の場】であると述べています。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができる。諸仏の功徳を直に受けることができる、という意味です。
法華経の教えに浄土教や密教を加え大成された天台宗の教えに基づく伽藍が境内に建ち並び、その規模は鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、寺塔が四十、禅坊(僧の宿舎)が三百におよんだといいます。
二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。
三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。
藤原氏によって治られていた平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でありました。
(この時の記述がすでに2021/10となっていました)
┉┉。
長いことしまいこんでいた東北編を紐解き、筆を進めることとしましょう。
…この言い回し、学生の時分から好きで時折使っていたのですが、そもそも当時から一般的な生活で筆を使うことなどなく。
ましてやこのミクルさんでのこの駄文は、指でフリック入力しておりますので、当然〝虚偽〟でありますが。
まぁ、このおばさん、とりあえず写経の際には筆を使っておりますので、スマホやタブレット画面のフリックと微塵も関係していませんが、どうかこの言い回しの使用を許してやってください。
御本堂の横には【峯薬師堂】がございました。
〝め〟と書かれたものがやたらと飾られています。
きっと眼病治癒に御利益があるお薬師さまでおられるのでしょう。
しかしながら、詳細を知ることは叶いませんでした。
…実は、こちらの御堂の前、Twitterだかインスタだかにアップするためなのか、
勝手に、借り切った状態で撮影しまくる四十代くらいの男女がおりました。
どかない、よけない、地面に座り込んでポーズをとり、とにかくひたすら撮影しまくって人を通さない。
そんな自分たちの所業に一切罪悪感遠感じないような方たちであるようでありました。
それでもおばさん、一度だけ、
「すみません(通してください、どいてください)」と声をかけてはみたのです。
しかしその二人、まるっきり私が見えない聞こえないかのように1ミリもご自分たちの行動を改める気配なく撮影続行!
┉こういうことを今風に言うとガン無視、というのだろうなぁと思ったのでありました。
がそんなことは別に体験を通して学びたくなどあろうはずもなく。
おばさんは怒っていました。
ひそかにけれどかなりの勢いで怒っていました。
けれど、┉こういう方たちに腹をたてたところで彼らにはなんら響かないし、響きようによっては喧嘩沙汰、暴力沙汰にすらなりそうで。
珍し〜くおとなしく、その場を立ち去ったのでありました。
おなかの中では怒ったままではありましたが、ね。
それにしても。
あっぱれ見事だと思うくらい、公共の場において、さらには御仏の前において、二人だけの世界を築き上げておりました。
良いが悪いかはとりあえず置いておき、このくらいの図太さはある意味感動もので、少しだけ分けて欲しいとすら思ったくらいです。
【峯薬師堂】の隣には大日如来さまを祀る【大日堂】があります。奥州藤原氏の時代には三重塔が建っていたとされている場所だそうです。
どこか懐かしい感じのする、小さな飾り気のないお堂です。例えるなら宮司様のおられない神社さんくらいの大きさ…といえば伝わりましょうか。ただしその境内では子供らが遊び、お年寄りが日参するような、よく掃き清められた、人々に愛されている神社さんに大変よく似た雰囲気であります。
お堂は開放されていて、小さなお堂であるため中におられます御仏をよく拝観することができます。
中央には木目が見えるよさようなややもすると簡素ともとれる御厨司があり、そこには金色に輝く大日如来さまが座しておられます。
智拳印を結ばれ目を閉じられたお姿は大変神々しく、またまたこの仏像大好きおばさんがポオォォっとしたことは言うまでもありません。
…数多ある印の智拳印などということがよくわかったものだと思われる方もおられましょう。
いや、この智拳印、大変不敬に当たるかとは存じますが、私くらいの年輩の方が忍者ごっこでの忍者のポーズをイメージされたとき、結構な確率で思い描くであろう人差し指をたてて上下に組み合わせるあの手の形にそっくりなのですよ。はい、大変不敬であります、申し訳ありませんでした。
…でもイメージできましたでしょう?
ちなみにこの智拳印を結ばれた大日如来さまは金剛界の大日如来さま、だそうで、手を座禅のように膝の上で重ねておられる大日如来さまは胎蔵大日如来さまなのだそうです。
ええ、ご想像通り、さっぱり理解できてない私であります。
同じ大日如来さまであられるのはたしかなようですが、ご真言すらが異なり、金剛界大日さまは十三回忌の供養法要のご本尊であり、胎蔵大日さまは十七回忌の供養に当たられるのだとか、もはや理解不能の域でありまして…。
と、いうわけで、わけがわかっていない者が何を書いても意味がなく、一生懸命よんではみたのですが、情けない。(´;ω;`)
とりあえず、大日堂に大日さまがおまつりされておられ、そのおそばには、お召し物から如来さまであることが分かる(如来さまであることしかわからない)御仏がやはり坐しておられるのでありました。
┉いつか。いつの日か大日如来さまの謎を解けたなら、あらためてここに記したいと思います。
大日堂は石段を登ったところにあります。
境内ほとんどを使って建てられている小さな御堂です。小さな御堂に大きめな屋根、┉きっと何年か前までは茅葺きの屋根だったのではないかと思われる造りです。
素朴な造りで、扉があるのかどうか、┉立板でかろうじて御堂に入ることを止めているだけの建物であります。
素朴な、白木で造られた須弥壇中央に、簡素な、まさに木の箱を立てたような厨子があって、その中に金色の大日如来さまがお祀りされています。智挙印を結ばれた金剛界の大日如来さまであります。
そのお隣にいく体もの御仏の御像が並んでおられます。
が。
私ときたらもういい加減いろいろな寺院をお参りさせていただき、たくさんの御仏像を拝してきたというのに、お祀りされておられる御仏がどなたになるのか、さっぱりわからない。
さすがに自分が不甲斐なくて情けなくて、悔しかったです。
厨司のすぐむかって左横に鎮座なされておられるのは、┉阿弥陀如来さまでしょうか?。
そのお隣に、ご本尊さまよりはだいぶ小ぶりの、おそらくは四天のどなたかであろうかと思われる、┉法輪光背を纏われた像が祀られています。
さらに左におられるお美しい観音さまは飛天光の光背を背にされておられたと思われます。
むかって右にお祀りされておられるのは宝冠をお召しになられておられます。が、ちょうどそのお手元を隠すかのように灯りが置かれていて見えないのです。
宝冠をお召しであることからおそらく、大日如来さまで、両腕の開き加減からおそらく手は同じような高さにあり、智挙印を結ばれたご本尊より若干その脇が開いていることから手のひらを上にして組む定印を組んでおられるのではないか?
そんな私のあやしい推測推理から、こちらはもしかしたら胎蔵界の大日如来さま?
そしてそのお隣には矜羯羅童子と制咜迦童子さんを従えた不動明王さまがおられます。
どの御仏像も彫りの素晴らしい見事な造りの御仏ばかりです。
それを惜しげもなく、戸板一枚隔てただけで、心ゆくまで拝していられる、┉なんとも贅沢なありがたい御堂でございます。
しかし、どんなに目を凝らして見させていただきましても、そこまでしかわからず、┉まさに猫に小判。
というより、もはやそんな例えは猫に失礼、といったレベルの私であります。
ああ情けない、もったいない。
あまりにも悲惨すぎる文章を書き直し書き直し。
それでもやっぱり直しているのが、その文章を書いた当の本人でありますので、さしては直ってはおりませんが、とりあえず。
とりあえず、前回2021年10月の時点まで、コピペするところまで到達いたしました。(大幅に書き直したものも多々ありますが)
さぁて。
あとはほとんど消え失せた記憶と、
だいぶ削除された写真(ギガ数を超え削除せざるおえなかった)をもとに新たに書き綴ることとなります。
うーん。
実際のものと異なるものが出来上がるとさえ思えてまいります。
┉うーむ。
まぁ、そこはネジの飛びまくったあやしいおばさんの綴る珍道中録ということでお許しください。
出来るだけはがんばります。
m(_ _)m
中尊寺大施餓鬼会が、八月二十四日中尊寺本堂にて執り行われたといいます。(もちろん、私は群馬の地にありました)
その際のことを、十月に貫主さまがHP上に法話としてお載せになっておられました。
なんでも、大施餓鬼会の際には、
本堂前の庭に、三界萬霊成仏の為に、長さ約八メートルの施餓鬼会供養の大塔婆が職人さん方によって据え付けられたといいます。
そして、丈六の御本尊釈迦牟尼如来御手に結ばれた白布の「縁(えん)の綱(つな)」が、本堂の中をゆったりと伸ばされ、この大塔婆に結ばれ、当日参列した檀信徒の方々はこの「縁の綱」に手を触れながら、ご先祖の御霊を回向するとともにご本尊様の御力をお分けいただいたといいます。
中尊寺さんの大施餓鬼会法要の中では、奥州藤原氏四代をはじめとする奥州藤原氏精霊、中尊寺檀信徒先祖代々並びに全国有縁の諸精霊の御名をお唱えしてご回向する、法名回向(ほうみょうえこう)と呼ばれる作法があるといいます。
その法名回向で、最初に『照井堰開削先覚者(てるいぜきかいさくせんかくしゃ) 大崎掃部左衛門(おおさき かもんざえもん) 安心常隠信士(あんじんじょうおんしんじ) 追善供養(ついぜんくよう)』と奉読されるのだそうです。
照井という堰を開削された『大崎掃部左衛門』さんという方がおられ、その方の業績を讃えてのもの、でしょうか。
『照井堰(てるいぜき)』とは、
岩手県磐井川の厳美渓(げんびけい)上流を水源に『一関市』と『平泉町』を流れる総延長64キロメートルの3本の人工河川(疎水)の総称になるようです。
今から凡そ900年の昔、平安時代の末、奥州藤原氏第三代藤原秀衡公の家臣・照井高春(てるい たかはる)が灌漑目的に開削し、その後多くの方々によって引き継がれ改修されて江戸時代に完成したものといいます。
平泉町を流れて衣川に注ぐ北照井堰は農業用水路としてのみならず、
世界遺産の構成資産である【毛越寺浄土式庭園】の水源にもなっており、
【中尊寺】参道月見坂入口を流れているという、
大変広範囲の、まさに恵みの水、水路であります。
江戸時代初期、東北地方では数年にわたって大干ばつがあり、稲は枯れ人々の生活は困窮し、年貢米も納められない苦しい生活が続きました。
当時、平泉の大肝入であった『大崎掃部左衛門』はその惨状をみかね、時の藩主に申し出て税を免じてもらったといいます。
そして、御蔵米を借り、照井堰改修工事の人夫賃とし、照井堰の大改修工事に取り組んだといいます。
改修工事は巖壁の掘削などで非常に困難を極めたようです。
難工事だったため予想以上に費用がかかり、さらには干ばつがその後も数年続き、凶作のため借用した御蔵米を返済することができませんでした。
この大掛かりな改修工事は無事終了したものの、この状況が「お上を欺いた行い」と判断され、その功績は讃えられながらも、平泉太田川渕に於いて大崎掃部左衛門夫妻とも死罪となり、全財産であった田畑すべて召し上げられてしまったのだというのです。
…なんという理不尽なことを。
…なんと無情な。
しかしながら、その後、藩主により、
掃部左衛門が公共のために尽くした心情を汲み、その没収財産を中尊寺に寄進し、掃部左衛門夫妻の永代供養が命じられたといいます。
…そんなことをされても、うかばれないから!
…でもそれが江戸時代においての〝定め〟であり、藩主といえども覆せなかった〝決まりごと〟であったのですが…。
今の時代がいいとは決して言えないけれど、…はあ。
いやだいやだ!
…その時以来、中尊寺大施餓鬼会の法名回向では、まず初めに大崎掃部左衛門の霊を読み上げご回向しているといいます。
平安時代の末、秀衡公の家臣の照井高春氏により開削され、その後、大崎掃部左衛門らによって大改修された照井堰は、その後も仙台藩による改修が行われ、平泉やその他の多くの人々の力によって守られ、今日も一関・平泉地方の農地で活用されています。
切なくもありがたい、本当にありがたいことにございます。
中尊寺貫首さまは、
「中尊寺大施餓鬼会の「縁の綱」は、江戸時代の施餓鬼会が厳修された当初より大塔婆に結ばれていると伝えられています。
この「縁の綱」は、御本尊のお釈迦様と三界萬霊とのご縁を結ぶことはもちろんですが、特に、秀衡公の家臣である照井高春氏の志を受けて、命と引き換えに照井堰を大改修し、人々の命の水を守りぬいた大崎掃部左衛門夫妻の有難いご縁を忘れることの無いように結ばれた、鎮魂の願いの込められた「縁の綱」であると私には思えました。
そして、私たちが今日多くの有難い縁によって生かされていることを忘れることなく、これからも心を込めて供養していくことが、私たちのかけがえのない人生をしっかりと歩んでいくことになるのだと思いました」
と述べておられます。
多くの、ありがたいご縁。
よくよく噛み締めて、
『朝は希望に起き、
昼は努力に活き、
夜は感謝に眠る』
そんな生き方をしていきたい、していけたらと切に思う、十一月最後の日、でありました。
昨秋亡くなられた『瀬戸内寂聴』さんは、この中尊寺さんで得度されておられます。
1973年に51歳で今東光大僧正を師僧として中尊寺において得度を受け、法名を『寂聴』とされました。
当時は、出家しても戸籍名を変えなくてもよくなっていたため、銀行の手続きなど俗事の煩わしさを嫌い、戸籍名はそのままにし、仏事の面だけで法名を併用されたといいます。
…知らなかった。
お坊さんというのは、得度しあらためて法名を名乗るから、いかにもお坊さんらしいお名前なのであって、生まれつき、そう名付けられているわけでもないのだと初めて知りました。
まぁ、生まれつき、お坊さんらしいお名前をつけられる事もあるようですが、何より!
法名を得たのちは、戸籍ごと改名するのだということこそ、びっくり、でありました。
戸籍上の名前って、なかなか変えられないとよく聞いていたのもあって、得度という宗教上の理由での改名があることなど考えたことすらありませんでした。
1987年、東北岩手県にある『天台寺』住職となった時点で、戸籍名を寂聴に改めたといい、その後は、作家活動においても〝寂聴〟を名乗るようになったのだといいます。
…たしかに。
それはしかと覚えております。
出家後もしばらくは『瀬戸内晴美』として本を出されておりました。ある時ふと気づいたら〝寂聴〟を名乗るようになられていました。
早いもので、もう一周忌を迎えておりました。
ちなみに、寂聴さんのお墓は、
生前のご希望に沿って、
ご自身のお寺でありました京都嵯峨野の『寂庵』と、
生まれ故郷徳島の四国霊場十七番札所・『井戸寺』さんに生誕百年となる今年五月十五日納骨され、
さらに九月にはかつて住職を務めた岩手県の『天台寺』さんに分骨し、眠られておられるようです。
いかにも寂聴さんらしい気がいたします。
法話や作家としての講演会など、あちこちを飛び回っておられた寂聴さん。
人の悩みを傾聴し、身体を抱きしめて思いを受け止めようとしてくださった寂聴さん。
縁ある土地に分骨し眠ることを望まれ、死後も訪れる方に寄り添おうとしておられた、…おられる気がいたします。
さぁて。
いよいよ記憶力テスト…ではなくて、二年前の記憶を辿って綴ることとなります。
しかも写真はゼロ!という…。
いや、やるぞぉ!
父と鍛えたど根性はカケラもないけれど。
さて。峯薬師堂、大日堂とは参道を隔てた向こう側に、…まず目に入るのは、路肩に立たれた等身大の石造りのお地蔵さまでありました。
凛としてそれでいてお優しいお地蔵さまは、まるでこの参道の辻を護られておられるようです。
その先にあるのがきちんと参道まで設けられ、朱塗りの柵で囲われた新しそうな【不動堂】であります。
この不動堂さんに向かう際、中尊寺さんが山ごと全てが境内なのだという感覚を実感いたします。
緩やかながらも斜面を降りていく感じと、何よりもこの不動堂が懸造りとなっていること。
正面は普通に参道を歩いていけるので、懸造り、とは言わないのかもしれないのですが、斜面に建てられているため、向かって左側は、建物を支える柱がいく本も立っているのが見えます。
この不動堂の前に立ったとき、なんと申しますか、心が一気に浄化されたかのような、清々しい、そしてなんだか泣きそうになるくらい清らかなものが私の中に一気に入ってきたような、いいしれない感覚を覚えたのです。
去り難い思い、そしてまた来たい思いが強く湧き上がります。
…たぶん再拝は無理だろうに。
それでも「また来たい思いでいっぱいです。どうかお導きいただければありがたいです」というような内容のことを、必死に中におられるお不動さまに向かって心の中でお話しさせていただいた私がおりました。
こちらの不動堂は昭和五十二年に建てられたものといいます。
ご本尊の不動明王さまは1684年に、当時の仙台藩主伊達綱村公により、天下泰平を祈願し新調されたものといいます。
毎月お不動さまのお縁日とお正月には、お護摩供養が執り行われ、誰でも御祈祷をお願いできるようです。
…くうぅ〜っ、二十八日に来ればよかったぁ!
…いや、ダメです。月末は夫も私も仕事を休むことはできません。(今は毎日が休みのおばさんですが、ね)
…夫の退職後とか?
いや。夫、この時の疲労が多大だったようで、東北地方の旅番組をテレビで見るたびに
「もう行くことはないけどね」
とあっさり。
行きたいんだけど…。
コロナがせめて収束してくれれば公共交通機関も使えるのだけれどなぁ
登り坂の参道を登ります。
ほどなくみぎてに、作られた高台があり、石段が設けられたその上の、狭い敷地にぽつんと建つ、茅葺き屋根の質素な…、語彙力がなくて本当に不敬なことであるのですが、小屋という表現がピンとくるような建物があります。
とはいえ、四方のほとんどが、紙の貼られていない障子のような格子となっています。
木々に囲まれた大変風情のあるこの小屋…ではない、でもお堂でもないこの建物は【旧鐘楼】なのだといいます。
へぇぇ。
鐘楼なんだぁ。
私の中の鐘楼というイメージを大きく覆す、あずま屋などよりも小さな、高さもない、まさに小屋という感じ、なのです。
ここには、かつて使われていた梵鐘が納められているのだといいます。
康永ニ(1343)年に造られた『盤渉調の梵鐘』だといいます。
盤渉調?
〝ばんしきちょう〟と読むようです。
『雅楽の、六調子の一。
盤渉の音を主音とする旋法』
???
『十二律の一つ。基音である壱越(いちこつ)の音から十律目の音で、洋楽のロ音とほぼ同じ高さの音。雅楽でこの音を主音とする調子を盤渉調といい……』
?????
果ては『十一月のこと』
???????
…全くわかりません。 ( ; ; )
音がその『盤渉』の音を奏でる梵鐘、ってことでよいのでしょうか?
ともあれ、この梵鐘、
『撞座が長い歳月にわたる打鐘により窪んでしまって、今この鐘が撞かれることはめったにないことである』と、説明書きに書かれております。
…滅多な時には撞くことがあるのだろうか?
…ここでかつての自分を責めることになるのですが、すこぉし、登り坂続きの境内に疲れてきていて、この旧鐘楼の石段を登ることなく、下から見上げて終わりにしてしまったのですよ、はい。
どう納めてあるのか、その〝滅多な時〟撞けるようになっているのか、見ていないので何も分からず、何も語れないのです。くうぅ…。
だったら書くなよという話にもなりましょうが、そこは珍道中録なもので。
なんでも銘文には建武四(1337)年、山内の堂塔が火災により焼失した旨を刻し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える貴重な資料でもあるのだといいます。径86㎝の梵鐘。
二年経ったからではなく、その場では「へぇ、そうなんだ」と納得してしまい、振り返るとまるで分かっていないことが多いし…、やっぱり何事も事前学習は大切です。
(削除させていただいた前文とほぼ同じ内容です。夫に急かされつい、中途半端なまま投稿してしまいました。お読みくださった方には大変申し訳ありませんでした)
中尊寺の境内、金堂のそばにひっそりと建っていたのは、赤い消防用車両の置かれた消防施設でありました。
白木に墨書きで『中尊寺特設消防隊』と書かれた看板が掲げられています。
…たしかに。
これは大切です。
中尊寺は山、消防署から消防車がここまで来る間にかなりの時間がかかることはまさに火を見るより明らかで。
あのルシウス・モデストゥスも言っておりました。
「歴史や伝統は、金銭で購えるような薄っぺらいものではないのだぞっ!」
(『テルマエ・ロマエ』 byヤマザキマリ)
国宝だから、ではありません。
世界遺産だから、でもありません。
中尊寺は『すべての生あるものを、過去世から現世、さらに未来世にいたるまで、仏国土に導きたい』という清衡公の切なる願いを具現化したものであるから。
戦で亡くなってしまったすべての人々、故なくして死んでしまったすべての生き物の御魂を極楽浄土に導き、この地方に平和をもたらすべく建立されたものであるから、であります。
今、この乱れた世界に、その思いを繋いでいきたい、繋ぐべき思いだと思うからであります。
(…などと申しておりはしますが、やはり金堂は素晴らしかったです。のちのちまで残すべき大切な遺産だと思います)
進行方向むかって左側に、人々が群れなす近代的な、少し大きな建物が見えています。中尊寺さんの中頃にあたるのだと思うのですが、ラスボスのようなどっしりとしたオーラがあります。
そのすぐ前で、修学旅行かあるいは校外学習の小学生や中高生が集合写真を撮影しています。
そんな光景とラスボス感ある建物二つを眺めることとなるベンチに二人、…疲れてヨレヨレな二人がぼーっと腰をかけました。
…何故助手席の大荷物でしかないおばさんまでが疲れているんだ?というお声が聞こえそうではありますが、出不精で人混みが苦手なおばさんはこういったところでは疲れやすいんですよ、ウンウン。
それに…いかにも疲れた妻が隣に腰かけていると、疲れ果てた夫が無理に先を急がず休めていいでしょ?
えっ?
そんなことは無いですか?
そのベンチに腰かけて、夫に飲み物と、密かにお授けいただいておいた御守りを取り出して渡しました。
その時、悲劇は起きたのです。
この旅のために買い換えたばかりの夫のスマホが、
サイズがイマイチ合わなくて使いづらいと言っていたスマホが、
疲れ果てていた夫の手からスルッとすべって…ガシャという嫌な音を立てたのです。
ちょうど気に入ったスマホカバーが無かったといい、ほぼすっぴんのスマホは、顔からもろに地面に落下しております。…しかもよりにもよって、そこはコンクリート加工のされた地面で、、、。
あわてて拾い上げたスマホは、ピーっと大きくひび割れてしまっておりました。
…私が物など渡さなければ。
少なくとも飲み物だけにしておけば。
「ごめんなさい」
何度も何度も口をついて出るのは〝ごめんなさい〟でしかありませんでした。
「動く?」
「うん、大丈夫みたい。やっぱりサイズが手にフィットしないからこうなっちゃうんだよなぁ」
「ごめんね、私があれこれ渡さなければ」
「いや動いてるし、保険に入ってるし、大丈夫。あれこれって二つだけじゃん」
…買って間もないスマホが割れたのに…。
なんと大人な対応だ!
彼はこの旅でどんだけ修行を積んだのだ。
それでも私の申し訳ない気持ちはおさまることはなく。
スマホの液晶画面が割れた本人よりパニックを起こし、落ち込んでいると
「リ○〇〇○○(指定医薬部外品)、持ってる?
疲れてきてたから手が滑っちゃったんだよ。飲めば復活するよ…俺がね」
「うん」
そんな心情のままようやく動いて、次に向かった【阿弥陀堂】。
びっくりするほど記憶がない。
行ったことは確かなのです。
阿弥陀堂なのに算額が奉納されていたとか、蔵王権現さまが合祀されていたりとか、いろいろ不思議に思ったことだけは記憶しているのですが。
…刷り込み?
ネットを調べたりして行っているつもりになっているだけで、実際は行かずに通り過ぎてしまっていたとか…。
もはや自分が信じられないという、全く以って情けない私。
ギガ数がオーバーしてしまったため、泣く泣く削除した膨大な数の写真の中に、その秘密(?)は隠されていたのでしょうが、今となっては確認のしようもなく。
いやいや、御朱印がありました。
行った記憶に間違いはないようです。ただ、どんな建物であったとかがすっかり抜け落ちてしまっているだけなようで。
私のスマホの契約してあるギガ数も少ないのですが、それ以上に足らなすぎる私の脳みそのキャパでありました。
…ああもったいない。
猫に小判。
豚に真珠。
馬の耳に念仏。
私に貴重な経験?
ん?
なにか…池が見えます。
その向こうには竹林があります。真っ赤に色づいたやわらかな葉をたわわに広げる紅葉と、凛とした緑の竹が、すでに私を魅了してしまいました。
なんと美しい。
こうした光景を見ると、日本人に生まれて良かったと心から思うのでありました。
その池に橋がかけられております。
【瓣財天堂】
…なるほど。
たしかに池があって御堂があったなら、まず弁天さまの御堂でありましょう。
橋を渡ると、御堂の扉は開け放たれていて、中にこそ入れませんが、御本尊さまを間近に拝することができます。
こちらの御本尊さまであられる弁財天さまは、たいそう豪華な冠をおつけになられ、たくさんの方々に囲まれておられます。
そして正面にあります右の手に剣を、左の手には小さな丸い金色のものをお持ちになられておりました。
弁財天さまというと琵琶をお持ちになられたお姿を拝したことはあったのですが、こちらはお手にお持ちのものもさながら、お側に人(?)を侍らせておられるなど、私の知っていた弁財天さまとは異なる点の多い御像であります。
なんでも、こちらの御本尊は正式な名称を【辧財天十五童子(べんざいてんじゅうごどうじ)】と申され、宝永ニ(1705)年に、仙台藩第四代藩主『伊達綱村』の御正室『仙姫』さま
のご寄進なものであるとのことであります。
現堂宇は正徳6年(1716)に建立されたものとのことです。
これから向かいます【讃衡蔵】に収蔵されている 国宝【金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図(こんこうみょうさいしょうおうきょうきんじほうとうまんだらず)十幀】は、もとは仙姫寄進の厨子に納められ、この堂内に奉安されていたのだといいます。
『辧財天』さまは、水と豊かな実りをつかさどるインド・サラスヴァティー河の女神で、仏教と共に日本に伝来しました。
八本の腕をもち、手には弓矢などを執るといい、これは『金光明最勝王経「大辧才天女品」』の記述によるものだとされます。
池や河川とともにまつられ、水流の美しい響きにちなんで『妙音天(みょうおんてん)』とも称され、言葉や知識、音楽や芸能の神として信仰されます。
こちらのように十五人の童子侍らせておられる弁財天さまは、さらに童子を使いさまざまな利益をもたらしてくださる福徳神さまであるといいます。
この【瓣財天堂】。御堂を一周するようにぬれ縁が設けてあり、さまざまな秋の紅葉の景色を御堂の周りをまわりながら、楽しませていただくことができるのです。
なんともまた贅沢なことであります。
…これは秋の景色。
季節季節でその顔を変える景色を、雨の日は雨の日の顔、雪の日は雪の風情を拝見することができたなら、ここだけで景色の、景観の世界遺産をかたる事ができる気がいたします。
名残り惜しく、いつまでもここにいたいような気がいたしましたが、それはまわりの方にもご迷惑をおかけしますし…とはいえ、こんな素晴らしい秋の日でありましたが、平日であるためかあまり参拝の方は多くはありませんでしたが。
いやそれ以前に、【中尊寺】といったら【金堂】というくらいの、あの『金堂』にまだ行っておりません私たち。
ずっとここで過ごしているほどには時間の余裕もありません。
後ろ髪を引かれる思いで、【瓣財天堂】さんを後にしたのでした。
わずかに残った東北路での写真に、こちら中尊寺さんの瓣財天さまのお姿が残されております。
実は、こうしたお姿を写真におさめることに、図々しいおばさんも躊躇いを覚えるものでありまして。必ず
「お姿を写真に写させていただきます。申し訳ありません。お嫌でしたらお姿をお隠しください」
と、心の中で必ずお声がけして写真を撮らせていただいております。
神さまや仏さまが、…お許しくださっていたかどうかは本当のところはわからないですが、写させていただいたお姿を消すことは到底できることではありません。
そんなわけで瓣財天さまのお姿は今なお拝することができるのでありますが…。
この瓣財天さまの写真頭上に、『童子』というには無理のある、男の方のお顔がのぞいておられるのが見えるのです。
あ、もちろん確実に御像の一体であることは間違いないのでそこはご安心を 笑。
そもそも明らかに童子さんたちとは大きさが異なるのです。
どなただろう。(神さまのお側におられる方に不敬な物言いなのは存じ上げているのですが、やはり語彙力の無さがこうしたところに出てしまいます)
初めてお会いした十五童子さんたちと合わせて調べてみました。
すると。
弁財天さまにも『宇賀弁財天』さまと呼ばれる弁財天さまがおられるようで、『宇賀神』さまと習合されておられる弁財天さま、となるようです。
【宇賀神】さまは、蛇の身体に人間の頭を持った風貌を持ちます。この宇賀神さまと習合した、手が八本の弁財天である【宇賀弁財天 】さまは、金運・武運・芸術・繁栄を司る神さま。
宇賀神さまは、宇賀弁財天の頭頂に付いておられるといいます。
また、弁財天には「十五童子」が眷属として従うのも宇賀弁財天の偽経に依るものとされていました。
おお。特には書かれておりませんでしたが、こちらの辦財天さまは『宇賀弁財天』であられるのかもしれません。
ちなみに、こちら『中尊寺』さんの『辦財天』さまのお手は、写真でかろうじて他の二本が確認できるだけではありますが、八臂の弁財天さまであられるとすればそのお持ち物は、
①宝剣 一切の煩悩、悪鬼を鎮める
②弓 出世する、名誉を増す
③箭 矢のこと。よき相手、友人を得る
④輪 仏の教えの広がりをあらわす 前進
⑤鍵 求めるものを引き寄せる、道を開く
⑥矛 勝利 護衛 煩悩を破る
⑦宝棒 敵、難を鎮める、敵を払い撃退し、当人を守る。
とありました。
七個?…とは思ったのですが、いかんせんこちらの辦財天さまのお写真にはかろうじて四本あるか?…程度しか拝見することができず。
そもそも左手でお持ちの金色の丸いものがこの七つに当てはまるものが見当たらないし。
…それにしてもいかにもご利益のある物をお手にお持ちになられています。
そして『宇賀弁財天』さまに従われます『十五童子』さん。
実はお祀りされている場所によって、十五の童子さまに若干の違いがあったり、十五ではなく十六おられるところもあるようですが、調べた物を載せておきます。
飯櫃(はんき、)童子
功徳:食物授与の神
お姿:満たされた飯櫃を持つ
衣裳(いしょう)童子
功徳:衣服に不自由をしない神
お姿:手に衣裳を捧げる
蠶養(さんよう)童子
功徳:蚕・繭の神、衣類の神
お姿:両手に蚕の繭を持つ
酒泉(しゅせん)童子
功徳:酒の神
お姿:右手に酒杓、左手に宝珠を持つ
稲籾(とうちゅう)童子
功徳:五穀豊穣の神
お姿:肩に稲の束を負い、手に宝珠を持つ
船車(せんしゃ)童子
功徳:交通安全の神
お姿:傍に船と牛車を置く
生命(しょうみょう)童子
功徳:長寿の神
お姿:右手に宝剣、左手に宝珠を持つ
牛馬(ぎゅうば)童子
功徳:動物愛護の神
お姿:牛馬と共にいる
愛慶(あいきょう)童子
功徳:愛情・恋愛成就の神
お姿:右手に矢、左手に弓を持つ
官帯(かんたい)童子
功徳:法を守る神
お姿:手に官位を司る帯を持つ
従者(じゅうしゃ)童子
功徳:経営の神
お姿:手に宝袋を持つ
計升(けいしょう)童子
功徳:経理・経営の神
お姿:両手に升を持つ
金財(こんざい)童子
功徳:金銀財宝・商売繁盛の神
お姿:手に秤の糸と秤量を持つ
筆硯(ひっけん)童子
功徳:学問成就の神
お姿:筆と硯を持つ
印鑰(いんやく)童子
功徳:悟りと解脱へ導く神
お姿:右手に宝珠、左手に鑰(宝庫の鍵)
中尊寺さんの金堂について語る前に懺悔しておかないといけないことがあります。
中尊寺さんの金堂といえば、たとえ訪れたことがなくともさまざまな話を聞き、それこそ社会科、歴史の授業で必ず学ぶものであります。
ただ…。
そんな、人から聞いた話というのは、どうしてもその方の主観が…たとえそういった意図をしていなくとも…込められているもので、さらにはまたそこから聞いた者がイメージを膨らませるものでもあります。
【皆金色(かいこんじき)】とも称され評されるこの中尊寺さんの金堂、そのすべてが金色、金箔を施された御堂というのは人によってはあまりいい印象を抱かないものとなるようです。
財ある者が贅を尽くして自らの財力を世に知らしめた物、と、とる。いわゆる成金という印象を持つ方がいないわけではないということであります。
さらにはそこ、その御仏のおられる金堂という場所に、ミイラが…といってもその当時は亡き骸でありますが…、収められているということ。
私に話をしてくれた大人たちはどちらかというとそういった、マイナスのイメージを心の底に持つ方が多かったように思われます。
それは叔父さんであったり、歴史の教師であったり。
そういった話をそれこそ就学前から聞かされ、しかも授業で学んだときですらそういったニュアンスの語り口であった私は、やはりいいイメージを抱くことなく生きてきてしまっていました。
さらに、判官贔屓というわけではありませんが、やはり子どもが読む義経公の伝記から学んだものは、頼朝公の理不尽さであり、冷酷さであり、さらには頼朝公の命を受け圧力に屈して義経公を討った藤原泰衡にどうしても良い印象を持つことができず、それが私の中で次第次第に溜まっていき、中尊寺金堂への偏見を産んでしまうこととなったのです。
成金で、信頼して頼ってきていた者を裏切って討つ。
こんなふうにインプットされてしまったら…なかなかいい印象を抱くことは難しいものです。
そんなわけで。
本来は『東北地方の二度にわたる大きな戦いで家族をなくし、後にその東北地方を治めた清衡公が、戦いで亡くなってしまった全ての人々、そして故なくして死んでしまったすべての生き物の御魂を極楽浄土に導き、この地方に平和をもたらすべく建立した』金堂ということも知らず、あまりいい印象を持つことなく、ここ中尊寺さんを訪れておりました。
中尊寺建立当時から現存する唯一の建物である【金色堂】。
…そもそもが私、ずっと金堂と書いてありました。申し訳ありません。
お詫びして訂正させていただきます。
つらつらと書き連ねているうちに、〝金色堂〟と〝金堂〟を混同してしまっておりました。やれやれ。
この中尊寺【金色堂】は、天治元(1124)年に初代【清衡】公が自身の廟堂として建立した『阿弥陀堂』。
…そうなんです。もともと、清衡公が生前から廟所として建立していた建物であったのです。ならばここに遺体が安置されたのも当たり前なこと。
…いろいろ知らずに思い込んでおりましたこと、金色堂内でしかとお詫び申し上げてまいりました。
金色堂に向かう前には、金色堂の並びにある宝物殿【讃衡蔵(さんこうぞう)】で、金色堂・讃衡蔵を拝観するための拝観券を購入する必要があります。なんでもこれ、事前にインターネットから購入できる電子チケットもあるようです。
最近の大きな神社仏閣は時代に合わせて次々と進化しております、ハイ。
このチケットを手に入れてすぐに金色に輝く御堂があるわけではありません。
金色堂入り口という、しっかりとした造り建物となっているゲートを目指して歩くこととなります。
背の高い石造のお地蔵さまが金色堂への参道を見守ってくださっておられます。
気持ちのよい林の中を歩いて、緩やかな階段をのぼります。
【金色堂】と、独特な字体で筆書されたものを刻した大きな石塔があり、横向き姿の、…、……いかにも近代的な、さほど大きくもない御堂が見えてまいります。
あ、さすがに金色堂は覆屋に覆われ保護されているくらいの予備知識はあったんです。
あったのですけれど。
こういう古くからの建築物の並ぶ空間では、その雰囲気を壊さぬようにあえて木造の落ち着いた建物にしたりするもの、じゃないですか。…そうなんです、おばさん、またまた妄想して勝手にイメージしていたものがありまして、辺りの建物に合わせた覆屋でないなら、むしろその金色堂に似せたイメージの覆屋で落ち着いた金色の色の建物なのではないかと思い込んでいたのです。
そこに見えてきたのはいたって普通の落ち着いたグレーの建物、だったのです。
この建物は【金色堂新覆堂】であります。
この中尊寺創建当初の姿を今に伝える【金色堂】を永久保存して後世に繋いでいこうという思いから、空調設備など保存環境の整った覆堂を造ったのだといいます。
ふーん。
前に続いて歩いてまいりました。
…えっ!?
…。
ええぇっっ!!
まもなくあらわれた金色堂は、想像以上のきらびやかさで圧倒されます。
言葉にできない美しさです。
さすが【皆金色(かいこんじき)】と呼ばれるだけあります。
この【金色堂】と称される【阿弥陀堂】は、金箔が押され、柱や手すりのひとつひとつに蒔絵(岩手県は漆の産地であります)や、螺鈿細工が施されており、夜光貝だけでなく象牙や宝石もまた使われているのだそうです。
そして中には阿弥陀由来さまを中心に10体以上の精巧な仏像がずらりと並んでいます。
これだけ贅を尽くしていてもいやらしさは感じず、ただただ荘厳な絶景っぷりに「あぁ、これはすごい…美しいわ…」とたっぷりどっぷり魅入ってしまいました。
中尊寺金色堂の内部には、三つの『須弥壇(仏像等を安置するために一段高く設けられた場所)』があり、
それぞれの須弥壇の上に御仏像が安置されております。
中央の檀が『藤原清衡』公、右檀が『基衡』公、左檀が『秀衡』公が造らせたのものです。御仏像は彼らの死の前後にそれぞれ造られているといいます。
それゆえそれぞれほぼ三十年ほどの間隔で造られているためよく見ると御仏像の様式もそれぞれ違うようです。
金色堂にいるときには、そのありがたさ、その眩さにそこまでのことには気づくことはありませんでしたが、中尊寺さんで買い求めた小冊子にある写真を拝見いたしますと、たしかに、お顔立ちであるとか光背の大きさであるとか、異なっておりました。
ただ、この阿弥陀三尊を護る二天さまなどはそれぞれが全く異なっておりましたのでそれにはさすがに気づいたのですが…。
今度また中尊寺さんを訪れることができたなら、そんなところも含めて拝観したいなぁ。
…でもあんなにも人の少ない中尊寺さんは〝あの時〟くらいだったのだろうなぁ。
そもそも。
東北を全て自分だけで運転した夫は、事あるごとに「あれが最後だろうからなぁ」と申すので、…うーん、
「コロナよおさまれ!」
閑話休題。
(得意の脱線をいたしまして、すみません)
それぞれの須弥壇は、中央に【阿弥陀如来】さま、その両脇に【観音・勢至両菩薩】さま、外側に【二天王】さまと【六地蔵】さま、
という構成になっています。
一つの須弥壇に十一躯、合計で三十三躯の御仏像があります。
中尊寺金色堂の御仏像の下、須弥壇の下には、藤原氏三代の御遺体が安置されています。
日本で一番有名なミイラと言っても過言ではないでしょう。
中央檀が藤原清衡公、右檀が基衡公、左檀が秀衡公に加え、泰衡公の御首級が参拝者から向かって左側に位置する右壇に納められているといいます。
昭和25(1950)年に金色堂が補修される際「藤原氏遺体学術調査団」によって大々的な調査が行われ、さらにはまた1994年にも再検証が行われたといい、この中で、このミイラは全て自然にできたものであるとされたといいます。
…自然に、でしたか。
【中尊寺】は嘉祥三(850)年、比叡山の高僧慈覚大師円仁によって開山されたといわれています。
厳密には慈覚大師の開山は「勧請開山」といって、師の法を汲む人々がその徳を偲んで開山として仰いだものであったといいます。
十一世紀後半に、前九年・後三年の合戦を経て、
安倍氏・清原氏と受け継がれた奥六郡(岩手県中南部)を、
【藤原清衡】公が伝領し、これにより奥州藤原氏が興りました。
清衡公は平泉に居を移し、長治ニ(1105)年、かつて関所(衣関)のあった要衝の地、【関山】に『中尊寺』を造営しました。
はじめに白河関(福島県)から外浜(青森県)にいたるまで一町ごとに『笠卒都婆』と呼ばれる供養塔を建て、その中心にある関山に一基の塔を建てたのが始まりだといいます。
…それだけでももう、その規模というか志の大きさを感じ、圧倒されます。
その後多くの伽藍が造立され、その規模は寺塔四十余宇、禅坊はなんと三百余宇に及んだといいます。
そのなかで現存する唯一の創建遺構である【金色堂】は三間四面という小堂ではありますが、平安時代の漆工芸、金属工芸、仏教彫刻の粋を凝縮したものであるといわれます。
ええ、たしかに。
この目で見てそう感じました。
圧倒されました。
もともと聖山であったのでありましょう。
そしてなにより奥州藤原氏の深くて強い志…戦のない平和を願い人々が幸せに暮らせることを願い、末長くこの地を見守りたいと、生前から廟所を造り、そこに埋葬されることを言い残して逝った藤原氏三代の強い思いが、その亡骸を朽ち果てさせず今に残すこととなったと…、そうなのではないかと思わされる事実でありました。
それぞれ亡くなられた年代の異なる三代と、御首級だけの御遺体が、揃いも揃って自然にミイラとなっていること。
そうした何かを感じずにはいられませんでした。
…たしかに、同じ地所で地の条件はほぼ同じではありましょうが、自然にミイラ化するというのは極めて稀なことのようであります。
今なお奥州の平和を祈り続け、護り続けている藤原氏にあらためて深く敬意を表します。
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今日もくもり
たまにふと思う。 俺が生きていたら何をしていたんだろうって。 …(旅人さん0)
41レス 1328HIT 旅人さん -
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おとといきやがれ
次から老人が書いてる小説の内容です。(関柚衣)
9レス 284HIT 関柚衣
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