神社仏閣巡り珍道中・改 東北路編(ふたたび)
[神社仏閣巡り珍道中] 御朱印帳を胸に抱きしめ
人生いろいろ、落ち込むことの多い年頃を迎え、自分探しのクエストに旅にでました。
いまの自分、孤独感も強く本当に空っぽな人間だなと、マイナスオーラ全開でして┉。
自分は生きていて、何か役割があるのだろうか。
やりたいことは何か。
ふと、思いました。
神さまや仏さまにお会いしにいこう!
┉そんなところから始めた珍道中、神社仏閣の礼儀作法も、何一つ知らないところからのスタートでした。
初詣すら行ったことがなく、どうすればいいものかをネットで調べて、ようやく初詣をしたような人間であります。
そんなやつが、自分なりに神さまのもと、仏さまのもとをお訪ねいたします。
相も変わらず、作法がなっていないかもしれない珍道中を繰り広げております。
そんな私が、2020年11月、東北の神社仏閣をお訪ねする機会を得ました。
当時はあの東日本大震災から九年と八か月。
そして、コロナという、まるで未知の病に世界中が震撼した年でありました。
東北の被災地にも、コロナは容赦なく襲いかかり、さらにまた、新たな自然災害が全国のあちらこちらに大きな爪痕を残し、被災地は増えゆくばかりです。
2020年、Go Toトラベルという政策が打ち出された折、私には関係のないことと思っておりました。
もともと出不精な夫婦な上、夫は慢性の呼吸器疾患が持病です。できうる限りの対策をもって、コロナに罹らないようしなければならない者であります。
(とはいえ、未だにそのふせぎようはわからないままなのですが…)
また、当時はワクチンも開発中の段階でありました。
「実は俺、SL休暇のとれる年なんだ」
そんな夫の一言から始まったのがこの東北への神社仏閣巡りのスタートでした。
緊急事態宣言が明け、新規感染者数が減り、Go Toトラベルが出されるところまでに、なってはおりました。
そして…そのころ、私たちの住まう地域ではほとんど罹患者の発生がなく、さらにさらに東北地方もまた発生の少ない地でありました。
東北┉。
東北?
もしかしたら┉東北なら可能?
悶々とする私どもの背中を押してくれたのは、子どもたちであり、こと私の仕事先の上司や同僚の方々でありました。
足りない頭で考えられうる限りの感染対策をして、私たちは東北の神社仏閣を目指して旅に出ました。
今思ってもただ感謝しかありません。
この旅は、東日本大震災で命をおとされた方々へのせめてもの鎮魂のための旅でありました。
残された方々の今後お護りくださるよう祈る旅でありました。
…もちろんそれは私の自己満足でしかないことではありますが。
一度書きかけて、タブレットの再起不能な故障のため、ずっと中断しておりました。
あらためてコピーを貼り付けた上で、続きを書いていこうと思います。
一度お読みくださっていた方は、かなりの重複となりますが、どうかお許しください。
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いつも私のような者の書いた、拙い駄文にお目を通してくださっておられる方々、本当にありがとうございます。
このたび、タブレットの再起不能な故障という、実にくだらない理由から、中断を余儀なくされておりました東北路編を、あらためてコピーして貼り付けた上で、続きを書かせていただこうと思います。
前回のものをお読みいただいた方には、重複する内容が多く、大変ご迷惑をおかけいたします。
なんなら続きから書けば良い、そういったことも考えられはするのですが、あの頃の、あの時の思いをもう一度振り返ってから書きたい。そのように思う思いが強く。
もしかしたら、これを機に初めてお読みくださる方が万が一でもおられるかもしれない事をも考え、手直ししつつ、ほぼ最初からコピーして貼り付けてまいります。
※神社仏閣巡り珍道中・東北路編を、最初の部分から再スタートさせていただきます。時は2020年11月に遡ってまいります。
・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ・*:.。❁ ゚・*:.。
…あの2011年3月の未曾有の震災のとき、何か私のような者でもできることがあればと、日々悶々と思って過ごしてはみたものの行動力もなく、家庭や仕事もと考え、私はただ二の足を踏んでおりました。
そんな時、当時大学生だった息子は大学のご友人たちと共に東北に向かったのです。夜の道をひた走りに車を走らせ、何度も何度も。
┉私は、自分を恥じ、我が子ながらその行動に感謝いたしました。
大したことなどできなかったかもしれません。それでもマンパワーを必要としていた時の東北に向かってくれた息子たちに、私は感謝しておりました。
東北で、心身を込めたボランティアをし一泊、なおかつ東北路を往復運転する息子に、せめて少しでも休んでもらいたい一心で、かける言葉は厳選して
「くれぐれも気をつけて行ってらっしゃい」
「どうかよろしくお願いします」
そして「おかえりなさい」、それだけ。
息子も何も語らない。
社会人になってもそれはしばらく続いておりました。
そんな彼は今、有給休暇すらとれない職場、週に一度の休みもとれないことすらままある職場で頑張っています。
(記載当時2020年11月。東日本大震災から)あれから九年。まもなく十年になろうとしている今。
今度はコロナという未知の病に全世界が脅かされています。いまだに復興も追いつかぬままの東北、そしてさらには全国の被災地にもコロナは容赦なく襲いかかります。
それでも緊急事態宣言が明け、Go toトラベルという政策が打ち出されました。しかし到底私には関係のないことと思っていた、そんな時。
夫が、
「実は俺、SL休暇のとれる年なんだ」
えっ?
「こんなコロナの時だから無理、かねぇ」
うーん。無理、かもしれない。
無理だなぁ。
できないよ。
見えないウイルスはいまだにその全貌は解明されず、慢性の呼吸器疾患を持病とする夫は、万が一にも罹患させてはならない。
┉それでもその防ぎようは今なおわからないのだけれど┉。
しかしながら。
そのころ、私たちの住まう地域ではほとんど罹患者の発生がなく、さらにさらに東北地方もまた発生の少ない地でありました。
東北┉。
東北?
もしかしたら┉東北なら可能?
感染対策を考えたら、車、かぁ。
┉私の運転ではほとんど、いや全く戦力にならない。
無理だなぁ┉。
またまた悶々と悩む私。
いままでずっと贅沢もせず、黙々と仕事をし、どちらかというと石橋をたたいてなお考えて考えてようやく(おっかなびっくり)渡るタイプの夫。
高いところが苦手で食べ物の好き嫌いの多い、海外旅行がもっとも向かないのではないかと思うくらいの彼が何ヵ国もの海外出張に出向いて頑張ってきたご褒美であります、SL休暇。
なおかつ私のようなじゃじゃ馬に振り回されてきた彼の人生でのご褒美。
┉どうだろう。
┉。
┉私もパートとはいえ仕事がある。
休めるものかどうか。
そして万が一コロナに罹患したら、仕事先にも、同居の息子にも、あってはならない迷惑をかけることになる。
┉ダメだろう。
行く先は東北。
東北が安全だから、ではなく。
東北を候補地に挙げた理由は、
東北に行き、せめて東北の経済をまわす一役を買うことで、あれから九年後の東北に少しでも役に立つことができればと思ったからであります。
そして、鎮魂のために。
東北の神さま仏さまに、東北の方々の無事をお願いするために。
ずっとそうしたかった。
そんなことしかできないけれど。
そんなの自己満足でしかないけれど。
本来ならば夫の永続勤務祝の旅。
良き妻ならば夫の行きたいところを旅先とするでしょう。
ですがこの旅、前日キャンセルをも視野に入れた、コロナ禍におけるもの。できれば夫を落胆させたくはありません。
いくつもの候補地をあげ、そのプランも立ててもらい、コロナの発生状況で決めていくことも条件でした。
移動は公共機関を使わない自家用車によるもの。自ずから国内の、夫が一人で運転可能なところが候補地となっていきます。
その候補地に東北を挙げたのはたしかに私ではありました。
そして、東北はコロナ禍において、発生状況から考えても第一候補地となった。
┉それでもせっかくとったホテルを直前に変更したり。
石橋が壊れていても突き進むタイプだった私は、結婚三十年で夫より保守的な人間になっていました。
直前にホテルを変更する際も、さらには直前に行かない選択肢を提案したときも、大喧嘩。
どこにいても知らない間にうつることもある、地元に居たってかかるかもしれないコロナを怖れて及び腰になっていたのは私でありました。
┉だけどなぁ。
私の仕事もある。
ダメもとで、仕事先の上司に軽く相談をしてみたところ、
「いいじゃないですか。せっかくのご主人のお休みじゃないですか。東北なら大丈夫そうだし。┉さすがに二週間はちょっと無理だけど、ぜひ行ってきてください」と。
たしかに有給休暇が前年度の残りも未消化で残っている私。
行って…いいの?
そうとなったら早速同僚にも相談し、課長にも相談して。
全て快諾していただく事が出来ました。
夫の勤務先との兼ね合いで調整した日程を決め。
第三波がくるまえに。
アルコール消毒液のほか、フェイスシールドとN95のマスク、使い捨てのゴム手袋を用意して。
コロナ禍の旅行で考えられる準備という準備をして。
帰宅後、仕事先にも息子にも濃厚接触しない手段を考えて。
どこにいても知らない間にうつることもある、地元に居たってかかるかもしれないコロナを怖れておよび腰になっていたのは私でありました。
本来ならば東北はいま、紅葉真っ盛り、観光シーズンまっただ中でありました。
周りが後押ししてくれました。
「東北なら平気、私なら行くよ?」職場の方たちであり、子供たちであり、姉でありました。
それでも不安感のほうが大きな私。┉何かのときには東北から私が運転して帰って来ることも視野に入れねばなりません。┉私、こんなビビりだったんだなぁ。
いよいよ出立。荷物も詰めこみいざ出発というとき夫から放たれた言葉は、
「最初は運転してもらうから」
┉そ、そうですよね。
「○○から高速に乗るからまずはそこを目指して」
┉高速に、そ、そうですよね。
おそらく、それを前から私に伝えるとそれだけで眠れなくなることを想定しての当日発表だったのでしょう。
えー、でも何年ぶりの高速走行?しかも今回の旅行は私の車でなくて。o(;д;o)
┉手に汗握る運転はな、なんと隣の県まで。
しかもそれは最初からの予定だったそう。全行程運転させたらそれはそれで私の重荷になるだろうと、なんちゃって運転をさせただけ、だったそうで。
結婚三十年ともなると、夫が抱えてくれてるものはこんなにも大きなものとなっていました。
運転を代わって、夫は本当に濡れているハンドルにびっくりしつつ。
実質の旅立ちはここ、○○サービスエリアからでありました。
ごめんね(≡人≡;)
流れる景色は県を跨ぐと確実にその雰囲気が変わっていきます。
流れる景色さえありがたい。
日本という国の美しさ。
山紫水明。
そして紅葉は走るにつれてどんどんと鮮やかな赤や黄色となっていきました。
こんなにも鮮やかな紅葉は私の住まう辺りではもう見られない光景となっていました。温暖化は確実に確実に地球を変えています。
それは今ありがたくもあり、もはや当たり前となってしまった便利な生活を築いてきた人類のあまりにも大きな代償であるのですが、それはその当時には知るはずもなくて┉。そしてその生活なしでは生きられない私たち。
旅はいろいろなことを学ばせてくれます。
…神社仏閣珍道中、今回は道中が長いためになかなか神社さんやお寺さんが出て来ずすみません。
最初の参拝は仙台の【大崎八幡宮】さん。
わが家の、メーカー純正ながらじゃじゃ馬でなかなかキチンとした案内をしないカーナビも今回はスムーズに案内をしてくれ(案内の看板もあったこともあり)、なんなく駐車場に到着いたしました。
あの、鳩が寄り添う八の字の扁額のある鳥居をくぐると、大変穏やかで清んだ気に満ちています。地元の方々がいつもの参拝に、何人も何人も訪れておられ、愛され大切にされている神社さんであることがわかります。鮮やかに紅葉した木々の美しい参道を歩いて行くと┉
ん?
これって┉脇から入ってる?わずかに曲がって行く道の先には、だいぶ下っていく道が見えます。
ま、まあ、行ってみますか。
うーん、末社、摂社が緩やかな下りの道に連なっています。そして中央に明らかに参道があり、さらに下には鳥居が見えます。┉脇というよりは裏。つくづく裏の好きなナビであります。まあ、今回は到達しただけマシであります。
摂社さんの前を頭を下げながら下っていくと、!。長い石段とそれはそれは立派な大きな鳥居が見えます。┉ここだなぁ。仕方ない、すでに境内に入っておりますし、長いこと運転してきてくれた夫にこの長い石段を下ってまた登らせるのはしのびない。ここはお許し願おう、裏の鳥居にも手水舎もありましたし。
と、いうわけで、一つ目の神社さんからすでに珍道中の私どもでありました。
ここ、【大崎八幡宮】さんは平安の昔、東夷征伐に際し【坂上田村麻呂】が、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀したのが始まりであるようです。
その後、室町時代に【奥州管領大崎氏】が自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬したため、世に大崎八幡宮と呼ばれたのだそうです。
大崎氏の滅亡後、【伊達政宗公】が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、その後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀られました。
社殿の造営にあたっては、当時豊臣家に仕えていた当代随一の工匠が招聘され、その手に成った御社殿は豪壮にして華麗なる桃山建築の特色が遺憾なく発揮されており、仙台六十二万石の総鎮守として伊達家の威風と遷宮当時の絢爛たる息吹とを今に伝えており、安土桃山時代の我が国唯一の遺構として国宝建造物に指定されております。
大崎八幡宮の御社殿は、入母屋造りの本殿と拝殿とを相の間で繋いだ石の間造りであり、後に権現造りと言われる建築様式は、外観は長押上に鮮やかな胡粉極彩色の組物(斗きょう)や彫刻物を施し、下は総黒漆塗りと落ち着いた風格を現し、拝殿正面には大きな千鳥破風、向拝には軒唐破風を付け、屋根は柿葺と意匠が凝らされております。
拝殿内部には狩野派の絵師佐久間左京の筆に成る唐獅子の障壁画や大虹梁の青龍、石の間の格天井には五十三種の草花が描かれており、俗に左甚五郎の作と伝わる花鳥動植物や説話風の人物など多彩な彫刻が組み込まれ、全体的に美しい調和をなし、安土桃山時代の文化を今に伝える我国最古の建造物であり、その貴重さから昭和二十七年に国宝に指定されています。
御社殿前の長床と呼ばれる建造物はは創建年月不明ながら御社殿とほぼ同時期の建築として国より重要文化財の指定を受けており、簡素な素木造りは端麗にして瀟洒な佇まいを示しています。
…と、いうことであります。
総黒漆塗りに金の飾りは青空に映えていかにも荘厳でありました。
うーん。
私、ここの神社さんのこと、テレビで拝したことがあるかも┉。
青い空にどっしりとそびえ立つ、大崎八幡宮さまのお社は美しく、そしてなんとも凛々しい、見上げているだけで安心する心持ちにさせてくださいます。
そして、この大崎八幡宮さんをテレビで見た記憶が間違いでなかった事に、もう少しすると気づくのであります。
拝殿のすぐそば、拝殿から見て左側に大変新しい建物があり、たまたまだそこにおられた神社の職員の方にこの建物は何かと伺うと、祈祷待合の場であるとおっしゃって、では関係ないかと去ろうとすると、
「どうぞせっかくですからお入りになってご覧ください」
はあ。
おお!
羽生結弦の大きな全身を写したポスターが貼られています。ああ、そうか、彼は宮城県出身であったなぁ。
そして…。
ガラスケースの中、立派な屏風の横に大きな絵馬があり、その絵馬に羽生結弦のサインが入っています。
それは私どもが神社で購入して納めるようなものではなくて、特別に作った絵馬であります。
絵馬とはいいながらも絵はなくて、
ただただシンプルに白木のままの絵馬の形をした、普通一般的な絵馬の何倍もの大きさの物です。
そこに羽生結弦のサインがある。
サインと、2017年という年と、漢字で普通に書いた彼の名前、それのみが書かれた絵馬であります。
なるほど、きっとこれだ!
…まぁ、もちろん、大崎八幡宮さんは国宝ですから、他にもテレビが取材して報道される理由など山ほどありましょうが、少なくとも羽生結弦のファンにとって、〝聖地〟の一つになったことは間違いありません。
それにしても。
この年でこれほどの絵馬を奉納するって…、それだけでも羽生結弦ってすごいなぁと思います。
2017年といえば二十三歳。
まぁ、彼のなしえた偉業を思えば、そちらの方がもっともっとすごいのですがね。
参拝を済ませて。長床と呼ばれる門を出たところで夫が手招きをしています。うん?
「そこ」
ん?
「そこそこ!」
「なあに?」
…!
「えー?なんで?」
┉黒い鶏が一羽、木の根元にたたずんでいます。囲いなどありません。ただたまたまそこにたたずんでいるだけで、自由に動き回れる状況です。私どもが近づいたところで特に逃げようともせずに、優雅にその空間を楽しんでいるかのようです。
鳩がいるのはわかるような気がします。
鶏?
…飼ってるってこと、ですよね。放し飼い。
よく見るとあと一羽、白い鶏が木の奥に隠れるようにたたずんでいました。
Google先生にお聞きしたところ、実は神社と鶏の関係は実は深いようでありました。
【天照大御神様(あまてらすおおみかみさま)】が天の岩戸に御隠れになられて世の中が真っ暗闇となった時、人々は困り果て夜明けを告げる「長鳴き鳥」(にわとり)を集めて鳴かせ、天照大御神様が姿をあらわす事となったという古事記の一説があります。
そして、【鳥居(とりい)】は神社の入り口に建つ門でありますが、鳥(にわとり)の止まり木が「とりい」の語源という説 もあります。
ということで、鶏は日本人にとって由緒深い鳥でもあり、神社にとって神聖な場所の神様のお使いの鳥でもあったようです。
さらに、大崎八幡宮境内の西側に「鶏橋」と呼ばれる橋があるそうで。
『毎夜一羽の金色の鶏が橋の欄干で鳴くので、人々が不思議に思い、八幡様へお参りしたところ、
八幡宮に奉納された「鶏の絵馬」から抜け出して橋の方角へ飛んでいき鳴いていたことが分かりました。絵馬に金網を張ると鶏は鳴かなくなりましたが、その夜から雨が降り続き間もなく大洪水が起こってしまいました。人々は毎夜鳴いていたのは洪水を知らせるためであったのだと知り、橋の名前を「鶏橋」と名付けました』という話があるそうです。
ということから、大崎八幡宮さんとはいろいろご縁がある鶏。
とはいうものの境内に居るのは実は鶏ではなく少し小型の鑑賞用として飼育されてきた矮鶏(チャボ)なのだそうです。
思いもよらない鶏┉チャボとの出会いにテンションがあがった私どもでありました。
次に向かったのは同じく仙台市にあります【瑞鳳寺】さん。
【二代藩主忠宗】が政宗公の追善のため、寛永十四(1637)年【霊廟瑞鳳殿】の香華所として創建したというお寺さんであります。
江戸時代には多くの塔頭・傍院を有しましたが、度重なる火災と明治の廃仏毀釈に伴って廃寺同然となったのだそうです。
たいそう立派なお寺さんでありながら、たまたま時を同じくしてその参道を歩いておられた方の大半が、〝観光名所〟【瑞鳳殿】を目指してここに来て、通り道にあるお寺さんに気づいて寄ってみた、というように感じられます。
こちらの山門は立派なもので、敬虔な思いでくぐらせていただいた…のですが┉。
賑やかな、はしゃぐ子供たちの声が聞こえてきました。┉遠足? それともGo Toトラベルで学校を休んで来ている親子連れ?
いやいや境内に建てられた幼稚園のようです。
お寺さんに保育園や幼稚園はつきもののようで┉。それはかつて寺子屋という形で地元の教育に携わってきたという背景がそこにあるのだと思います。
そんな賑やかな声も一時のこと。境内を進むとまもなくその声も気にならないくらいに穏やかな落ちついた空気に一変いたします。
さほどは広くはない境内であります。落ちついた雰囲気の御本堂で、派手ではないもののどっしりとした造りのものであります。
御本堂は開放されており、自由にその中に入ることができます。
そんな御本堂正面、内陣のみぎてに、な、なんとマネキン、というのでしょうか、観光地などで見られる等身大のリアルな人形が、その歴史的時代背景が一目でわかるようにと飾られておりました。【伊達騒動】の一場面をあらわしたもののようです。
…うーむ。
…私、ここ、東北の地に来て、いかに私が歴史に疎い者かをイヤというほど知らされることとなるのですが、その第一歩となったのがこの【伊達騒動】。耳にしたことはあるものの、はて、その内容はさっぱり思い出せず。
それにしても、なぁ…。
お寺の御本堂の中に、マネキン人形はイヤだなぁ。
私だけかなぁ。
…いやいや夫もそうでありました。ただ、歴史オタクの夫は当然、伊達騒動が何たるか、スッと頭の中の引き出しを開けるまでもなく、わかるというところが、私との大きな違いです。
こちら瑞鳳寺さんは、大正四(1915)年、【京都妙心寺】貫主がその荒廃を嘆き、復興に当たらせたものだとのことで、大正十五(1926)年に瑞鳳寺の本堂が落成したといいます。
その折、【平泉毛越寺】から遷座した釈迦牟尼を本尊、文殊・普賢菩薩を脇仏とし、その後、逐次復興したのだそうです。
境内には、忠宗公寄進の瑞鳳殿梵鐘(銅鐘)や、綱宗公手作りの雪薄紋が配される側室椙原品の邸門(高尾門)が残されています。
そんな瑞鳳寺さんをあとにする頃、ちょうど幼稚園の下校時間と重なったようで、なんと!幼稚園バスが山門の内側の参道上に待機しておりました。
いくらなんでも…。
風情もなにもがいっきに色褪せる一瞬でありました。
でもまぁ、観光客の多いこの場所で、ありえない事件事故の起こる昨今、そうしたことを考えれば、まぁいたしかた無いことなのかもしれません。
幼稚園自体がお寺の境内にありますし、ね。
【伊達騒動】
江戸時代、寛文(かんぶん)年間(1661~73)に起きた仙台藩の騒動。寛文事件ともいう。
1660年(万治3)3代藩主伊達綱宗(つなむね)は不行跡のかどで幕府から逼塞(ひっそく)を命ぜられ、二歳の長男亀千代(かめちよ)(綱村)が家督相続、綱宗の叔父伊達兵部少輔宗勝(ひょうぶしょうゆうむねかつ)と綱宗の庶兄田村右京宗良(うきょうむねよし)が62万石のうちからそれぞれ3万石を給され後見人に指名された。
…綱宗さん、何をされたので?
※[伊達綱宗公]
伊達藩第二代当主忠宗公の六男に生まれた綱宗さん。お母さまが早くに亡くなられ、父の正室の養子となったようです。六男ながら、兄の夭逝により、当時の将軍に嫡男として披露されたとあります。また、元服後のこの綱宗という名前の一文字は家綱公より拝領しているようです。
そんな綱宗公、父の死去を受け第三代藩主となるのだけれど。
酒色に溺れて、藩政を顧みない方であったようで。さらに陸奥の國一関藩の藩主である叔父[伊達宗勝]による政治干渉、家臣の対立等々、様々な要因で藩主不適格となされ、二十一歳で(!)隠居させられたのだといいます。
実際は綱宗さんが天皇の従兄弟であったことから仙台藩と朝廷の連携を恐れた幕府の圧力もあったのではないかと言われています。
綱宗さん、風流人で諸芸に通じ、画は『狩野探幽』に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣など優れた作品を残しています。
初めは家老(奉行)が藩政を担当していたが、しだいに件の叔父さん、宗勝が実権を握り、反対勢力を多数処分した。
その間、幼君亀千代に対する置毒事件が起こるなど藩内は動揺しだした。宗勝は腹心を登用し要職につけ、家老の権限を弱め専制体制をとった。
だが、伝統と門閥を重んじる他の重臣はこれを嫌悪し、宗勝は孤立していった。
こうしたなかで、一門[伊達安芸宗重(あきむねしげ)]と一門[伊達式部宗倫(しきぶむねとも)]との間に知行(ちぎょう)地の境界紛争が生じた。
式部が綱宗公の兄であるため、藩としてはその立場に遠慮したのではないかという説もあるくらい、式部に有利な裁定に、これを不公正とする伊達安芸はこれを幕府に訴え、さらには宗勝の政治に対する積年の不満を晴らそうとしたのだといいます。
…まあ、歴史なので話は長くなりますが、歴史に詳しくない私が咀嚼しながら書いているせいもあります。
(伊達騒動の続き)
…幕府の審理は1671年(寛文11)2月開始されたといいます。
ところが、3月27日大老[酒井忠清(ただきよ)]邸での審理が終わったころ、家老[原田甲斐宗輔(かいむねすけ)]が突然[安芸宗重]に斬り付け即死させ、さらには原田甲斐宗輔もまた斬られその夜死亡したのだと。(!)
伊達兵部宗勝ら関係者は他家御預けなど処分を受け、原田甲斐一家も切腹を命ぜられ断絶した。
亀千代あらため綱村さんの伊達六十二万石は確認され後見も解除され、この伊達騒動は決着した…ようです。はい。
なんでもこの伊達騒動、歌舞伎の題材ともなり、あの山本周五郎の小説【樅ノ木は残った】がやはりこの伊達騒動をもとに書かれているようで。
あれあれ、樅ノ木は残ったなんて、それこそ私が幼稚園児の頃から家にあった、装丁の立派な本じゃないですか。
もちろん未だに読んでいません。…そうですよね、読んでいたら伊達騒動、知っていましたよね。
私が生まれるずっと以前に書かれたもののようですが、NHK大河ドラマにもなっているようで…あ、でもこれすらも幼くて大河ドラマの時間には寝ていた頃のよう。
…。
知らなくてもしかたない…?
しかし。
夫に「伊達騒動っどんなだった?」と聞いたところ、
「樅ノ木は残ったの話だよ」と言われました。
もしかしたらこの不朽の名作、必読書なのかもしれません。
うーむ。
父の形見は遺ってはいないなぁ。
サンドウィッチマンの伊達さんが、伊達氏の血筋だということは知っているのだけど、なぁ。
そうそう、政宗公と誕生日が一緒とか。
お笑いに疎い私が、サンドさんは好きなんですよね。
えっ?関係ない?
そ、そうですよね。
次に参拝させていただいたのは【瑞鳳殿】です。伊達政宗公の墓所であります。
伊達政宗公は、仙台の経ヶ峯にというところにある【瑞鳳殿】で眠っておられます。地元の人は「瑞鳳殿」とは呼ばず【御霊屋=おたまや】と言います。
こちらは古くは名取郡根岸村黒沼〖萩ヶ崎(はぎがさき)〗と呼ばれ、中世末期に出羽三山で修業した〖満海上人〗が、この地の東峯に経文を納めたことから〖経ヶ峯(きょうがみね)〗と呼ばれるようになったと言います。
政宗公がホトトギスの初音を聴きに訪れ、自らの墓所に決めたと言われる経ヶ峯の頂きに建つ瑞鳳殿は老杉に囲まれ、まさに〝幽玄〟の一言でありました。
藩政時代以後〖伊達家の墓所〗が置かれる霊域となり、かつては限られた者だけが入ることのできた場所で、正式には【経ヶ峯伊達家墓所】といいます。
経ヶ峯は標高が73.6m、伊達家の霊域として長いこと禁断の地であったため、当時のままの自然環境が残っているといいます。
瑞鳳殿造営時に植林されたという樹齢350年以上の杉もあり、また、そこを緩やかに登ってゆく、当時の石段があります。伊達政宗公が六十二万石だったのでこの石段も六十二段、なのだそうです。
天を仰ぐように見上げる杉の生い茂る参道も、さすが伊達男という言葉の語源となったくらいの粋で雅なことが好きであった政宗公の墓所であります、森林浴気分を味わえるそれはそれは居心地のよい空間でありました。
…ですが。
こちらの瑞鳳殿、実は昭和五十年~六十年代に建てられたもの。
第二次大戦の昭和二十年七月の空襲で残念ながらすべてを焼失、再建されたものとなるそうです。
歴オタの夫はそれがたいそう無念だったようで、何度も何度も、
「でも昭和に造られたものなんだよな」とくりかえし。
あまりにもくりかえし言われるので、耳にタコのイヤリングでもつけてやろうかと思ったくらいでありました。
それでも夫は出立前、絶対に外せないコースの一つとしてここ、瑞鳳殿を挙げていたくらいでありました。それくらい、入れ込んでいたところではあるのです。
要はそれくらいショックだったということですよね。
自然ゆたかで、大変空気の清んだ緩やかな登り坂を登っていくと、墓所への入口が見えて参ります。
【瑞鳳殿】の入場受付で入場料を支払って。
まもなく見えてくる涅槃門で、伊達家がどれだけ仙台の方々に愛され
誇りに思われてきたかを、一目見るだけで知ることとなります。それはもう、胸が熱くなるくらいに。
黒の漆塗りに金の装飾。
伊達政宗公が与えられたという菊の御紋も配されています。その美しさにしばし立ち止まります。
涅槃門といえば煩悩を捨て去り涅槃へと向かう門。
百八どころか無限にある私の煩悩をぜひ捨てさせていただきたいという思いは叶わず、涅槃門は『伊達家藩主』、藩が無くなってからは『伊達当主』しかくぐれません。
脇にある朱色の門から入ります。
これがなんともバリアフリーでない造りでありまして。下には何段かの階段があり、背の高い方にとっては身を縮めてくぐるような高さの門、なのです。
前回の参拝時頭をぶつけた経験をいかして上に注意してくぐったという夫、今回は階段につまづくという、なんとも身の引き締まらないかに思われる参拝となったようで。
さすが珍道中のかたわれ、きちんとその役を成しています。(いいのか?)
燈籠にかこまれた階段を登ると瑞鳳殿本殿前の唐門を兼ねた「拝殿」があります。
拝殿前の空間のみぎてに焼失してしまった瑞鳳殿の屋根に飾られていたという金属製の龍の飾りが祀られているのですが、その火災の激しさからなのか、訪れる人々が触るからかのか鼻の部分の色が剥げ地色が出ているのがなんとも可愛らしいものでありました。
もちろん、私は撫でさせていただきましたよぉ。すべすべでたいそう気持ちのよいもので、私がしばしそこにとどまっていたことはご想像通りであります。
そして、さらに歩を進めると、瑞鳳殿と呼ばれる政宗公の墓所となります。
その黒塗りを基調とした、私のように語彙力のない者には〖豪華絢爛〗という言葉しか出てこないようなきらびやかな御陵が建っておりました。
さながら神社のような、日光東照宮にあってもおかしくないような、建物にございました。
さすが伊達政宗、伊達男の墓所であります。
政宗公は、七十歳で江戸で亡くなられると、その御遺言通り、ホトトギスの声が聞ける経ヶ峯に葬られ、この【瑞鳳殿】地下で眠りについておられます。
そして。瑞鳳殿のまわりには政宗公の葬儀に先立って殉死した家臣15名と陪臣5名の墓(宝篋印塔)が、政宗公を守るかのように整列していました。
殉死…、ねえ。
日本史上かなりの長いこと、引き継がれてきた風習であります。
それは日本史のみならず世界でも…。
なんとも哀しい習慣であります。
しかも葬儀に先立って、であります。亡き主君の葬儀には参列しないで先だって、です。
…まぁ亡き主君の埋葬をする前ということは、そういった辛い別れをせずに済む、ということなのではありますが、ねぇ。
なお。瑞鳳殿の中には木彫りの伊達政宗像が安置されているようで、
一月一日~二日、
五月二十四日の政宗公の命日のみ「御開帳」となっているようです。
【瑞鳳殿】を参拝いたしましたあと、順路に沿って歩いていきますと見上げるほど大きな【弔魂碑(ちょうこんひ)】がありました。
戊辰戦争の犠牲となられた御霊を弔うもののようです。
そういえば伊達家の菩提寺である【瑞鳳寺】さんには、官軍側の犠牲者の墓がございました。薩摩藩士で、引き取り手がなかった方のものだといいます。
動乱の明治維新、日本を分けた戦い【戊辰戦争】。
東北、北越諸藩は、〖奥羽越列藩同盟〗を結んで、西国諸藩と戦ったのだそうです。
この戦いで同盟軍1260名、及び幕府軍を合わせると8000余名が亡くなったといいます。
弔魂碑はその御霊を弔う為、明治十年に十四代当主である「伊達宗基」が、瑞鳳殿鐘楼跡に建てたものとありました。
伊達藩のなくなったのちも伊達家は仙台の地で当主でありました。
さらに進むと見えてくるのが、二代目藩主ならびに三代目藩主の墓所へと続く階段であります。
二代藩主・【忠宗】公の墓所は【感仙殿(かんせんでん)】と呼ばれていました。
忠宗公は政宗公ご正室愛姫(めごひめ)の第二子で、三十八歳で藩主となると仙台城二の丸、東照宮の造営、藩の基盤固めに尽力し、父伊達政宗の菩提を弔う為に『瑞鳳殿』『瑞鳳寺』を寄進されました。
【感仙殿】は、万冶元(1658)年六十歳で亡くなった忠宗公の御霊を弔う為、寛文四(1664)年、伊達家四代藩主綱村時代に創建、昭和六十年に再建されています。
やはり黒塗りの建物に金の飾り、色鮮やかできらびやかな建物であります。
細かく美しい装飾で扉のデザインが可愛らしく、家紋などつけた他二つとは少し異なっていました。
政宗公の眠る「瑞鳳殿」同様、まわりに「忠宗公」への十六人の殉死者の供養塔が並んでいます。
感仙殿のひだりてにありますのが三代藩主・綱宗公を祀る【善応殿(ぜんおうでん)】であります。
二代藩主、忠宗の第六子で、十九歳で三代藩主となった、そう、あの伊達騒動のきっかけともなった【綱宗】公が眠られています。わずか二年で隠居を命じられた綱宗は、江戸の品川で七十一歳で亡くなるまで過ごし、和歌や書画、茶道や能などの芸術的分野で活躍した…とは今回書き足した伊達騒動のところで書いておりますか。
瑞鳳殿や感仙殿よりは簡素ながらも、規模も形式も同じく作られた『善応殿』もやはり同じく昭和六十年再建です。
『感仙殿』のみぎてには趣を異にした石塔石碑の並ぶ、いかにも墓所、といった空間がひろがっています。
【妙雲界廟(みょううんかいびょう)】とあります。
【四代藩主綱村】公は、
「前例にならい、御霊屋を建てたならば子孫は大変である。自分が死んだら墓石を建て瓦屋根で覆えばよい」と言う遺命をお残しになり、綱村以後御霊屋は建てられなくなったということでありました。
また、綱村公のお墓はこちらにはなく、綱村公が自ら鍬(くわ)を持って開いたという〖大年寺山(太白区)〗の地に、四代以後の何代かの藩主のお墓が残っているのだといいます。
たしかに見回したところ(失礼なやつであります)四代、そして五代の墓もなく、何代かのお墓がありません。九代と十一代の墓がそこに見て取れました。
【妙雲界廟】は九代藩主周宗(ちかむね)、十一代藩主斉義(なりよし)と芝姫(あつひめ)の墓が置かれる墓所でありました。
戦国の世においても、そしてまた、江戸幕府の支配下にあっても、名のとおる御家の後継ぎ問題等は大変そうであります。
こちら伊達家にあっても歴代の藩主の歴史を追うと、切なくも御家の為の苦労が偲ばれます。
とはいえ、その時代において、一番苦しく大変だったのはやはり庶民。
いつの世もそこは変わらない。
妙雲界廟の参拝をさせていただいたのち、順路にしたがって進むと、階段があります。
階段の途中、ひだりてに御子様御廟という案内板がありました。
こちら『御子様御廟(おこさまごびょう)』へは現在立ち入りが禁じられております。
幼くして亡くなった伊達家の公子公女のお墓で、側室や老女のお墓もあるそうです。かすかに見える御廟は、藩主の華やかな霊廟とはあまりに違って物悲しさをかもし出しています。
まぁこの時代、それはごくごく当たり前なんですが。
「つぎはね。」
ん?
次に向かうのは青葉城じゃないの?
「青葉城はライトアップしているみたいだから、もう少しあとでいいかなと思って」
えっ?
仙台に入ってから何度も青葉城の方角をもとに話してたくらいじゃない。青葉城はあちらの方角だ、とか。
歴オタで、お城の遺構をみても感動して写真を撮りまくってるような夫が、そう言い出したのは三時を少しまわった頃。
気を使う必要など何一つない、
車に積まれた荷物となんら変わらないくらいお荷物でしかない私に気を使っている?
こちらについてから、もうすでに神社さんにもお寺さんにも参拝させていただいています。
「えっ?だってお城好きじゃない。明るいうちから見たほうがいいんじゃないの?」
「今回はいいや」
あ。
…そういえば夫は以前、職員旅行で仙台に来ているんだっけ。
でも職員旅行じゃあ自分の見たいところがゆっくり見られてないんじゃないかな。
…そんなことを悶々と考えている私を乗せて、彼が向かったのは、
【陸奥国分寺跡】。
正確にはかつて国分寺があったところにあるという【陸奥国分寺薬師堂】さんであります。
国分寺といえば聖武天皇の命により全国に建立されたもの。
長野県も群馬県も栃木県もその跡地を示すものは遺されているものの、現存するものはなく、こちらもやはり跡地、であります。
あ、歴オタには跡地もロマンなのかな。
そのどこも私と一緒には立ち寄ったことがなかったのだけど。
そして。
ここ、陸奥国分寺薬師堂に向かうまでの道。
ナビに映りこむお寺さんの数の凄いこと、凄いこと。
確実にコンビニより多い。いやいやコンビニなど比較にならないくらいに多い。
あとでこのナビの画面を写真に録っておかなかったことを後悔したくらいに、一画面にぎゅっとお寺さんが詰めこまれていました。
…すごいなぁ。
東北、すごい。
┉たぶん私、これから今回の珍道中東北編、いくどとなくこのフレーズをつぶやくこととなります。
【国分寺】についてGoogle先生にお聞きしました。
奈良時代の中頃、国内は、日照り、台風、地震の発生といった自然災害のせいで飢饉が起き、さらには大陸から恐ろしい伝染病である『天然痘』が伝わり、多くの人々が亡くなりました。
また、新羅国との関係の悪化、天皇の親戚や家来たちによる反乱が起き、激しい戦いがありました。
【聖武天皇】は、そんな乱れてしまった国を安定させるため、仏教の力を借りることとし、741年、都には『東大寺』を、
全国およそ60か所には『国分僧寺(こくぶんそうじ)』と『国分尼寺(こくぶんにじ)』をそれぞれ造るように命じます。
その際、どの国分寺にも、七重塔とお釈迦様の像を造るように命じ、また、国分寺を建てる場所はその国の最も良い場所を選ぶように命じました。
それは交通の便がよいところ、災害が少ないところ、人があまり住んでいないところといった土地であります。
陸奥国において当時国府があった多賀城からやや離れた場所で、上記の条件を充たしたのがここ、仙台の陸奥国分寺跡でありました。
平安時代まで陸奥国の財政的支持を受けて大伽藍を維持していたようですが、室町時代には「草堂一つのほか何もなし」と言われるほどに衰退してしまったようです。
それを十七世紀初めに伊達政宗公が再興し、1607年に建てられた薬師堂を中心に二十五坊を擁する大寺院として栄えたのだといいます。
ところが明治時代にはいり仙台藩の保護を失い、廃仏の風潮もあってふたたび急激に衰退し、その際二十五坊のうち二十四が廃絶してしまったのだそうです。唯一残った別当坊が、薬師堂の管理と陸奥国分寺の名を単独で引き受けたとのことでありました。
うーん、歴史の流れとは壮大で、人の織りなすものであるもののその流れにはなんとも抗えないものがあるようであります。
そんなところが、歴オタを魅了するロマン、なのかなぁ。
ナビの上で【国分寺薬師堂】が現れほっとするとまもなく、例の「目的地周辺です。音声ガイドを終了します」という言葉。
おっ!あった!
すごいすごい!再建された平安絵巻のような、ほんの少しではあるものの、回廊?のような建築物もあり、その先に茅葺きの、おもむきのある門が見えています。
まぁ♡ じゃじゃ馬とか言っていましたが、さすがナビ。
以前は、地図を見て(夫の)頭にたたき込み、さらにわからなくなれば地図を広げて確認して走る。それが当たり前、というかそれしかなかった時代を思えば、なんともありがたいものであります。
┉って、ここ!
たしかに正面の仁王門が見えてるけど、一方通行じゃないかぁー!
周辺には車が置けそうな(おそらくは駐車場)が見えてはいるものの、いま来た道を戻るようであります。
…やっぱり?┐('~`;)┌
と、いうわけで、その姿に大変感動した仁王門を、ふたたび後にしていま来た道を戻る私たち(運転はあくまでも夫)。
さすが、じゃじゃ馬ナビ。
そして、そんな私とナビにふりまわされながらの夫の珍道中。
ありがと。感謝しています。
いったん撤退してようやくそばで見ることのできた茅葺きの仁王門、感動もひとしおです。
仁王門をくぐると、小学生くらいの子どもの小さなグループがいくつか。
自転車でだったり、何か秘密を隠しきれないで思わず笑ってしまって軽く小走りしている子たちだったり…、ここは自然に子どもたちが集うお堂のようです。
うーん、子どもたちが集うお堂ってすっごく好き♡
しかも大声で騒いだりしない子たちばかりです。
お薬師さまのお膝元で遊ばせていただいているという気持ちがしっかりと根づいているのでしょうか。
そして…。
その境内に漂う空気の清んでいてそしてやわらかいことといったら。
なんて居心地のよいところなんでしょう。
ずっといたいと思うくらい。何度でも、毎日でも来たいところです。
┉まあ、引っ越して来る以外、それは叶わないことですがね。
…だから子どもたちが集うんだ。
見るからに優しそうな若いお母さんが、子どもの手を引きベビーカーを押してお参りに来ておられました。
政宗公はなんと素敵な空間をよみがえらせてくださったことか。
【陸奥国分寺薬師堂】さんは、御堂というには大きな建物でありました。大きな瓦屋根のどっしりとした御堂です。その御堂の正面の戸が障子貼り、なんです。
もう、どれだけ私を魅了するんだろう。狛犬さんも可愛らしいし。
そうそう、手水舎はなんとカエル!
カエルの水を使う手水舎は初めてかもしれない。
しかも暗くなってからでもお参りできるようにか、やわらかい灯りで小さくライトアップしています。
そして、御朱印をお受けしようと授与所にうかがうと、若くきびきびと動く、しかも控えめなお坊さまが対応してくださっていました。
御守りの他御数珠入れ等が並んでいます。
かねてから数珠入れを欲しいと思っていた私が数珠入れを見せて欲しいと申しますと、お数珠の扱い方をお教えくださいながら、「こちらのお数珠には(こちらの数珠入れは)少し小さいけれど使えないほどではないですかね」と。
きれいに使いやすく整理された授与所でありました。
子どもたちもお坊さまに話しかけていたりしていて、ここに集う子たちともよい関係を築いておられるようでした。
うーん、すっごく好き。いいなあ。
通路を隔てたところにもうひとつの御堂が見えます。
【准胝観音堂】のようです。
その手前に…まさに紅葉の見頃、実に形のよい、大きな大きないちょうの樹があります。
その樹の下で、外国人の親子がきれいに敷かれたいちょうの絨毯の上で戯れていました。
すごーい!
映画の1シーンのようであります。
見頃のいちょうにも、そのかわいらしい親子にも見とれてたたずむことしばし。
はっと我にかえって御堂に目を向ける私。夫はすでにお参りをさせていただいています。
こちらの准胝観音堂は、仙台藩五代藩主伊達吉村夫人・長松院により准胝観音さまが寄進されたことを受け、六代藩主伊達宗村により延享2(1745)年に建立されたもののようです。朱塗りのかわいらしい御堂です。
【准胝観音】さまは延命、厄除けなどを司るといわれています。
私の記憶にあります限り、准胝観音さま単体でお祀りしておられる御堂はこちらぐらいではないかと思われます。
准胝観音さまは准胝仏母(じゅんていぶつも)さま、七倶胝仏母(しちくていぶつも)さまともいいます。
もとはヒンドゥー教の女神であるドゥルガーで、シヴァ神の妃とされています。
とても美しいお姿ですが、武器を持って魔族を倒した戦いの女神です。そのため本来は女尊であり、観音ではないという指摘もあるようです。
仏教に取り入れられてからは慈悲深い清浄をもたらす神とされ、七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)ともいわれています。これは遙か過去より多くの仏さまを誕生させた仏の母という意味です。
真言宗系では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられます。
また天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類されています。不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。
ご利益は修道者守護、無病息災、延命とされ、安産や子供が授かるなどの功徳があります。
こちらの准胝観音堂さんもまた、やわらかい気の満ちた居心地のよい境内でありました。
そして。
准胝観音堂の裏手に、なんと、塔が見えているではないですか!
おそらくは新しいものであるかとは思われます。創建当初のものは落雷で平安時代にすでに焼失しているようです。
「行く?」
もちろん!
早足が駆け足になって、夫から
「そんなに慌てなくても」と声がかかります。まるで子ども。
そして…。
バックにジャーン!なんて効果音が聞こえそうなほど、威風堂々と立つ多宝塔がありました。
大きな大きな多宝塔は昭和五十七(1982)年に落成されたものだということです。
正式には『六大法身塔』であり、略称『大塔』と呼ばれており、 『大日如来』さまをお祀りしているのだとか。
この塔のあるお寺さんはもっと新しいものでしょうか。
ロビーとかフロワーとかいう言葉が似合うお寺の庫裏でありました。
なんでもこちらの御住職は女性の方なのだとか。おしゃれな感じは御住職のセンスなのでしょうか。
日が落ちてきています。
青葉城に行かなければ!
また走り出す私に、もはや夫はかける言葉もないようです。
うっ。
なんという道?!
いやいや国道なんとかとかいう道路の呼び名ではなくて、その道幅にびっくりします。
すごーい!片道四車線!
私には走れないな。
すっごいなぁ、仙台!
東京とも千葉とも神奈川ともちがう、大都会がそこにありました。
ぐ、群馬県、ですか?
群馬県には片道四車線なんてないと思いますよぉ。ましてや群馬県の片田舎の町に住む私たち。
走行している夫も走りづらいようであります。
ごめんなさい、私には絶対走れない。
そんな四車線を、すいすいと車線変更して追い越しをしていく車の多いこと、多いこと!こわいよぉ。
…まるで町のネズミと田舎のネズミのおはなしのようですね。
そして、実はもっと怖かったのが、実は青葉城の大きな大きな石垣。
ライトアップされているのですが、ね ┉蒼、なんですよ。蒼。
青葉城だから、ではなくて、おそらくは医療従事者さんへの感謝とエールの青。
でも、でもですよ?いきなり暗くなりかけた道に蒼い大きな石垣って立派なホラーでしたよ。怖い、怖い。
これはもっと穏やかな暖色のほうが石垣にも合っているし、医療従事者さんも喜ぶんじゃないかと┉。
…怖かったぁぁ。
そして、青葉城。
売店はかろうじてまだ開いていたのですが、辺りはすでに暗い。
伊達政宗公の騎馬像があるはずなのですが┉どこだろう。
…うわぁぁぁ、青い!
青くて蒼い、青葉城。
あとは暗くて見えなかったです。
仙台の夜景はすばらしかったです。
ちなみに、青いライトアップはしばらくは続くもようであります。
私たちはもうおそらく二度とは見ることはないので┉ここにちょっと恐怖体験を書いておこう。(*`艸´)
歴オタにして名ガイド、解説者の夫が、いろいろ考えに考えて立ててくれた計画に基づいているスケジュール。
ただ行った先の長い名前が覚えられないんです。(^^;;
あとは、助手席の魔導士(=私)が、案内板を読んでは突然そこに行きたがるものだから、全く計画になかったところへ寄りこむことになる、あってもないような計画にされてしまうので、突然行ったお寺さんやら神社さんの名前があとになってわからなかったり。(誰のせいだ!)
まあ、ふたり合わせてなんぼの初老の二人三脚、珍道中、ということで。
┉違いますよね。おんぶに抱っこの珍道中ですよね、すみません。
さて、そんな二日目にまいりましたのは。
あの〝鬼滅の刃〟の、一体どこをどうすれば聖地となるのかわからないという、
【塩竈(しおがま)神社】さんであります。
聖地って…〝竈〟という一文字?ですか?…本当に?
二人が抱いた不安はまさかの密集。聖地って┉。
┉大丈夫、でした。鬼滅の刃の聖地、としての塩竈神社さんは避けられました。
ですが┉。
こちらが〝聖地〟でありますことはたしかでした。
凛とした研ぎ澄まされた空気。
凛として、澄んでいて、音すら失っているんじゃないかというくらいに、張りつめた、…それでいて泣きたくなるくらい優しい気に満ちた神社さんでありました。
一歩一歩歩くだけで邪念とか穢れが削ぎおとされていくかのような神域であります。それは夫も同じ感覚だったよう。
清らかな、ただただ清らかな境内。
雲ひとつない青い空。
胸のなかが空っぽになったような感覚です。
ここに来られたことを感謝し、お参りをさせていただきました。
願ったことはこの地に住まう方々が災害に合うことなく、コロナが流行することなく生活できるようにお守りくださいと、それだけ。
東北の神社仏閣では、ずっとそうご祈念させていただこうと。
私にできるもうひとつのことであります。
偽善と言われればそれまでのこと。
ただ私はそうしたい、そうしようと思ってこの地を訪れておりましたので。
まあ、こんな邪な人間が祈ることで、どれだけのご利益がありますことか。( ´-`)
でも祈らずにはいられなかった。┉自己満足?
いいんだ!
ずっと祈っていた。┉テレビの前で指を組んで。
ここで祈らずどこで祈るのだ。
あのとき犠牲になられた多くの方のご冥福のために。
┉こちらの神社さんは┉。
どこまでもどこまでもきよらかな気高い気に充ちています。
涙が出そうになるくらいに、澄んだ空間です。
┉雲ひとつない空と相まって、静かにただ静かに時が流れています。
建物がどう、とかいうものではありません。
こちらにお祀りされている神さまはいったい?
こちらの本宮は左宮と右宮とがあり、左宮には【タケミカヅチノカミ】さまを、右宮には【フツヌシノカミ】さまをお祀りされています。
【タケミカヅチノカミ】さまとは
国譲りの際、アマテラスの使者としてオオクニヌシと交渉をした神様で雷の神であり、地震の神とも言われ、地震を引き起こすオオナマズの頭を踏みつけ、地震を制御する役割も担っておられるのだといいます。
さらには、剣の神。タケミカヅチさまは、最も強い武神としてその名を知られる神さまであられるのだそうです。
タケミカヅチノカミさまは、日本神話最強にして最高の武神と言われているが、同時に正義の神であられるとされています。
その武力のみに頼るのではなく、忠義に従い、アマテラスから言い渡された言葉をしっかりと伝え、交渉し、それでも交渉が滞った時には、剣を使わず力くらべで解決されています。そしてそれが相撲の発祥とされているそうです。
剣神、武神、軍神、雷神であらせられます。
『御利益』
武道守護、殖産興業、国家鎮護、芸能上達、豊漁、航海安全、安産、病気平癒、厄除け、縁結び、延命長寿
とありました。
【フツヌシノカミ】さまもまた武神で刀剣神にあらせられます。
『御利益』
勝負運に恵まれるので、絶対負けたくない試合・試験・交渉事
そのほか
家内安全、産業指導、海上守護、心願成就、縁結び、安産、勝運、交通安全、厄除け、体育勝運守
とあります。
そして。
かつてこちらは、陸奥国正税の六分の一にあたる千石の歳幣を受けていたという全国的にみても大きな、特別な扱いをされてきた神社さんだということであります。
奥州一宮という位置付け。
富めるものも貧しきものも、ここを崇拝してきた長い長い年月があり、神さまはその民にお応えしてくださって、今があるのかと思います。
塩竈神社さんの本宮境内は、
まるでしんしんと降りしきる雪のなかに一人立ちつくす感覚にも似た、清らかなるものに囲まれているような、いつまでもそこにいたい感情というか感覚になります。
そう、まるで異空間、であります。
雲ひとつない青空にそびえ立つ燈籠のその大きさ、その細やかな飾りにほうぅっと声にならない吐息がこぼれます。
でもあくまでもそれはそれであって。
こちらの神社さんの┉神さまの、気高い清らかな、それでいて私のような穢れた者も受け入れてくださる懐の深さに心を包んでいただいているような心地よさと身の引き締まる思いは、いまなおはっきりと残っております。
去りがたい思いを引きずって、次に向かったのは
境内社というにはあまりにも大きな【志波彦神社】さんであります。こちらは優しいやわらかな気の神社さんでありました。狛犬さんがのんびり境内でひなたぼっこしているかのような、やはり大変居心地のよい神社さんでありました。
┉なんだかこちらの神社さんでのことを書くとただただ私の感覚ばかり書いておりますが、本当に圧倒されるものでありました。
門は大変大きくてそれはそれは立派なもので、中にはかなりイケメンの随神の左大臣右大臣さまがおられるのです。
…ただでさえ語彙力のない人間が書いておりますのに、その者が言葉にならない感覚を書こう書こう、書きたいとあがいた結果がこれでありました。
志波彦神社さんの鳥居を出たところで、きらびやかな花嫁衣装と羽織袴のお二人が、はち切れんばかりの笑顔で写真撮影をされていました。
そのお二人に会ってようやく人の世に戻ったような気がしたくらいに、神さまのお膝元に置いていただけていたようであります。
神社仏閣巡り珍道中・東北路編
こぼれ話
・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ・*:.。❁ ゚・*:.。
前回の、書きかけで中断していたところまでお読みくださっておられた方のために、
そこまでのコピペが済むまで、スレを閉鎖しておこうと思い、開けては閉じ、閉じては開けてコピペをしておりました。
しかしながら、なにぶんにもおかしな表現が多く、手直しすることも多々あって、開けては閉じ、閉じては開けることに疲れてしまい、最近は開いたままで置かせていただいております。
前回お読みくださっておられた方々には多大なご迷惑をおかけして、申し訳ありません。
書き換えてあるところも増え、ニュアンスすら変わっているものすらもあるかもしれません。
書き足したり、まるっきり削除したりしている割には、相変わらずへんてこりんな文章であるかとは思います。
また、伊達騒動について調べていて、わが家に山本周五郎作の【樅ノ木は残った】があったことにも気づきました。
また伊達騒動のときの時の老中が、酒井氏であったことに引っかかりを覚え、調べたところ、群馬県にゆかりの家で、前橋市の龍海院に酒井家歴代藩主の墓があったことも思い出したのです。
ちなみに、伊達騒動があったときの老中が『酒井雅楽頭忠清』であり、のちに大老も務めています。
忠清公は酒井家第四代に当たるようです。
・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ゚・*:.。❁ ・*:.。❁ ゚・*:.。
次に向かったのは。
松島。
あの『松島や ああ松島や 松島や』と詠われた松島であります。
ちなみにこの句、私の子ども時分にはかの松尾芭蕉の詠んだものと言われておりましたが、いまはそうではなかったと言われていますよね。
誰が詠んだものであろうと、松島といえばこの句を思い出させるといった意味ではこれ以上ない名句、なのではないでしょうか。
きらきらとのぼる朝日を受けて光る水面と見えてきた島の姿。
またまた声にならない吐息を漏らす私たちでありました。
まさにこれ!、これなんでしょうね、松島やああ松島や松島や、って。
語彙力のない私はただただため息をつくのでありました。
おお、瑞巌寺さんです!
思っていたのとは異なって、狭い道を入っていくようにみうけられます。
瑞巌寺さんを通り越して┉ええ、松島といえば瑞巌寺と言っても過言ではないだろう瑞巌寺さんを通り越して。
通り越して、向かったのは、【航空自衛隊松島基地】、であります。
ええ、神社仏閣巡りではありません。瑞巌寺さんを参拝するよりも先に松島基地。
…ごめんなさい。夫は好きなんですよ。こういった自衛隊の航空機とか船とかが。でもこの旅でそれをコースに入れておらず、前日ホテルで聞いてみたんです。松島基地へは行かなくてもいいの?と。
すると、
「自衛隊の基地に入るには何ヵ月も前から申し込む必要があって、だから行ったところで中には入れないし、ね。ブルーインパルスの練習も飛ぶかどうかもわからないし、行っても仕方ないかなって思ったんだ。それに俺しかおもしろくないだろうし」
┉やっぱりぃ?
「あなたの永年勤続記念の旅行じゃない!なんでそんなに遠慮するのよ。やだやだ、そ~んなに恐いんだ、私。いいじゃん、行こうよ松島基地!私だって好きだよブルーインパルス」
と、熱く脅すように私に語られて、突如組まれた松島基地、でありました。
できればブルーインパルスの飛ぶ頃に。
ということで午前中の練習時刻に合わせて(夫は)車を走らせたのであります。
飛んでる、飛んでる!
走る道路の上空を飛んでいる!
うわぁぁぁぁ!
そんなうるさいだけの妻を乗せた車はなんとか松島基地の駐車場へin!
しばらくして。
「もしもし。」若い自衛官から声がかかります。
おおっ♡!
青空に描かれ伸びゆく白線を見上げながら、
その白線を描く機体が飛び立つ勇姿を、遠巻きではあれ、まもなくこの目で見ることができるとまさに胸ときめかせて到着した私。(運転してきたのは夫)
ゲートに立つ若い自衛官に話しかけられたものの、その後は他の車輌の対応をされていて、次の言葉をかけられることはなく、車の中で待機しておりました。
ようやくこちらを向いて何か話しかけられたのですが、折からの強風でとばされて何をおっしゃっているかさっぱりがわからない。
車を降りて聞くことに、こちらは国家機関の所有地で民間の車は侵入を禁止されているのでここには駐車できません、とのこと。
ひえぇぇ、国家の?法にふれてる行為だあぁ?
別の意味で胸がバクバクしそうです。
でもそんな民間人はたくさんおられるようで、すっかり慣れた様子で「ブルーインパルスをみるのは、今来た道を戻って┉あ、今ちょうど車が入っていったあの道を行くと車を停められるところがありますから、そこに停めてご覧ください。車屋さんのところを手前に入っていく道です」と。
図々しいおばさんは、胸がバクバクするくらいの事態だとかほんの一瞬前思っていたくせに、
せっかく自衛官と話すことができた機会を逃すことなく、
「いつもご尽力くださり本当に感謝しております。先日の医療従事者への感謝飛行ではコロナのために日々闘ってくださっておられる最前線の医療従事者の方々はもちろん、私にも勇気を与えてくださいました。ありがとうございました」
とか言ってしまうのでありました。
┉そんな言葉より早く退いて欲しかったでしょうにね。きちんと笑顔で頭を下げて私どもを見送ってくださいました。
「なにしゃべってたの?」と夫。
秘密~っ!
自衛官の教えてくださった駐車スペースへの道順だけはしっかり伝え、そこに向かうと┉。
何台も停められた見物に来ている車に驚き、
轍の残り、穴すら空いた荒れ地に驚き、それでもなんとか一台停めるスペースをみつけて停車しました、ええ、夫が、ですが。
車を降りて見やると少し歩いたさきに土手がひろがっています。そこにはたくさんの人が空を見上げています。三脚も何体も見えます。
いざ!┉防寒具を。
防寒具なく過ごせる記録的な秋の日ではありましたが、さすがにここでは冷たい風が吹きつけていました。ようやく、用意してきた防寒具の出番です。
┉松島基地のすぐそば、だからといって、離陸するブルーインパルスが見られるわけではなかったようで。(;ω;)
そもそも、あの基地の駐車場に行ってしまったタイムロスもあり、すでに離陸をしてしまっていたようでした。
さらには、基地のそばで飛行訓練をおこなうわけではないようで、遥か彼方の空に白煙のあとを見ることができるくらいで、機影すら見えないのでありました。
それでも。
松島基地のそばの土手から、ブルーインパルスの飛行している辺りを無言で見守る人たちのなんと多いことか。誰もが無言で、ただただ空を見上げています。
┉ここ、松島もあの東日本大震災で、震災と津波の大きな被害を受けた地であります。
夫いわく、松島基地も大きな被害を受け、あの大空を駆けめぐるジェット戦闘機も被災したということでありました。
今、初めて訪れた東北の地。
その傷跡を一見みごと修復したかに見えもいたしました。
それは私どもがいわゆる〝観光地〟を訪れていることもありましょう。
ですが┉心に残る傷は消えることなどありません。
ただ、それを感じさせることなく、笑顔で過ごされる方々がそこにおられる。
道路を走っていると、【津浪到達点】と書かれた看板を見かけます。
それは想像していた以上に高くいものでありました。
あの恐ろしい、でも事実でしかない、テレビで放映された津波の映像がよみがえります。
忘れられない方々の住む地で、あの恐ろしい現実、決して忘れることはありません。
私の目に見える場所の復興は進んだかにみえても、生活する場所場所に置いての復興は、こんな一観光客にはわかりもしないこと。
何よりも私たちは、被災された方々の心に残った傷を、忘れてはならないのであります。
あの日を、あの時をむかえるときまでは、歓声をあげ見上げていたのかもしれないブルーインパルスを、今、無言で見上げる人たちと共に見上げて、あらためてその傷跡の大きさを思いました。
そんな思いで見上げていた空から、いつのまにかブルーインパルスが基地に帰還しておりました。
基地内のトラックをゆるやかにまわって、乱れなく整列したブルーインパルスに、私も感動で言葉を失い、いつまでもみつめておりました。
気づくとまわりにいた人たちはほとんどおられず。
寒そうに身を縮める夫がそばに立ち尽くしておりました。
松島~東松島間を結ぶ道路はたいそう整備されていて、高速で走行できる道路でありました。
┉もしかしたら高速道路の無料区間であるのだろうか?これほどの道路が何故無料で走行させていただけるのだろうか。首を傾げるばかりであります。
気持ち良さそうに車を走らせる夫。
でも┉。
もしかしたらここは、あの震災のとき、被災された方々に物資を輸送するために必死に復興し、
なんとかつながったここを多くの車がひた走った〝道〟なのではないだろうか。
…どうしても来たかった、来ずにはいられなかった東北は、なにも語らない。
なにも語らなかったです。
語らないからこそ、心の声で聴き続けていかなくてはいけないとあらためて思いました。
何より、いまだ行方不明の方が2529名おられる現実(2021年2月現在)。
折しも今日、テレビで、海上保安庁の方が行方不明の方を捜し海に潜る映像が映し出されていました。
それを見守る御家族の方。
┉言葉になどできません。
今年、十年目を迎える東日本大震災。(これを書いていた2021/2の時点で)
忘れられることなどない未曾有の災害であります。
今、私は東北産の食品を積極的に購入するくらいしかできてはおりません。
そんな消極的な形でも東北の経済をまわす力になれば、と、無い頭でも考えられた一つの手段でありました。
松島の街は、そこここに見え隠れする海がそれは美しくて。
青い空と。
キラキラときらめく海の水面。
なんと美しいものなのでしょう。
紅葉した並木が息をのむくらい素晴らしくて。
┉それはもう何年も見ていなかった、赤は明るい赤で、黄色は鮮やかに色を変えた、鮮やかで艶やかな紅葉です。
そう。
いつの間にか、私の住まう辺りは、くすんだ赤や白っぽい黄色の紅葉となっていました。
温暖化、なのでしょうね。ひさしぶりに本当の本物の紅葉を見させていただくことができました。
そこここに咲く草花の無造作にひろがる大地すらが、美しく見えます。
そこに生える植物の種類は、東北と関東でさほど変わらないのだろうけれど、それでも、海無し県の群馬県と海風の吹き抜けていく松島とではまた同じ植物であっても育ち方が異なるかも知れないし。
┉走りゆく車の窓からの流れゆく景色のなかの草花で、そんなに見えてはいないのだけれど。
┉あの津波に飲まれた町に、なんということの無い草花が生えていることに、感謝のような感動が私のなかにめばえていたのも確かであります。
そんな、いつまでも見ていたいような景色のなかを走り、やがて見えてきたのはいったん通りすぎた、白い船が並んだ海岸と、その反対側にある【瑞巌寺】さんであります。
【国寳 瑞巌寺】と彫られた大きな石標。
う?う…ん。
┉どうやら、私が幼少の頃から勝手に思い描いていた瑞巌寺とは少し、趣が異なるのかもしれません。
でもそれは私が勝手に思い妄想したありもしない幻の瑞巌寺でしかないのですが…。
そんなことをぼーっと考えている暇はありません。
コロナ禍とはいえ、だいぶ観光客が戻ってきたようで、なかなか空いている駐車場がありません。
やっとのこと空いている駐車場に車を置くことができました。個人のお庭を開放してくださっているようです。
…ここも被災がひどかったところでありましょう。道路を隔ててすぐ海のところにあるお宅です。
私どもは二人揃って口下手なのでそのような会話もせず、ただただ車を置かせていただくことしかできませんでした…。
【国寳 瑞巌寺】
…そう、彫られた大きな大きな石標を道路反対側からあらためて見て思ったことは、これはお寺さんが建てたのではなく奉納されたのかもしれないということ。
松島の名を全国に知らしめ、松島の象徴とも言える【瑞巌寺】さんが『国宝』に選ばれたことを誰もが誇りに思いうれしく思ったことでしょう。
そんな気持ちを、瑞巌寺を愛する思いを込めて奉納されたものかもしれません。
参道にはお店が並んでいます。
山門のまん前に、お店の前に置かれるような二つ折りになる小さな看板が置かれています。
『ずんだ餅 TakeoutOK』
…やり過ぎでは?
景観を損ねるようなものはできるだけ慎んだほうが良いと思うのです。その方がずっとずっと瑞巌寺が瑞巌寺らしくあると、私にはかように思えるのます。、
お店の方には是非もっともっと誇りをもっていただきたい。
そして…これまた山門が見えなくなるくらいに山門に取りつけられた提灯を提げる木で作った提灯台が┉これはさすがに瑞巌寺さんによるものでありましょうが。
山門を抜けると、空を突くほどにそびえ立つ木々が、見上げて歩くのに景観として本当にこれ以上ないくらいの、まるで計算されたかのような間隔で並んでいます。
うーん♡
先ほどのモヤモヤした気分など全て払拭されてしまうような参道です。
雲ひとつない青空に飛行機雲がすっと一筋。
心が穏やかに整っていきます。
そこにまた、お寺であることを一瞬忘れそうな鮮やかで色とりどりの和傘が、地面にひろげられて空間を飾っています。
┉それぞれの方の好みによるものなんですけど、ね。
この季節、落ち葉の、自然に散るさまも大変趣あるものだと思うのです。
この先にあります小さな地蔵堂がなんだか居心地悪そうにみえてしまいました。
なにより目をひく和傘に気をとられて、地蔵堂に足を運ばれる方の少なかったことは本末転倒、なんじゃないかなぁ。
少し進むと、見事に紅葉した木々をバックに微笑んで見守っておられるお地蔵さまがおられました。
まるで私の乱れた心を整えるかのように。
さすがお地蔵さまであらせられます。お地蔵さまは
『地が一切の宝を含蔵するごとくに一切の徳を含蔵するもの』
であります。
お地蔵さまは
『地が一切の宝を含蔵するごとくに一切の徳を含蔵するもの』
その役割は釈迦入滅後、弥勒菩薩が世にでるまでの間、一切の衆生を永劫に救済することを本来の誓としている。その救済の範囲は人間界に限らず、〖地獄〗〖餓鬼〗〖畜生〗〖阿修羅〗〖天〗の各界全てにおよぶもの。
そこここにおられて、未熟な私を救おうと手を差し伸べてくださっている。なんともありがたいことにございます。
お地蔵さまが微笑んで見守っていられるくらいに穏やかに生きられたらと思うのですが┉。
紅葉した木々をバックに私を見おろして微笑んでおられたのは延命地蔵さまでありました。
ここから先、拝観料を納めて進むことになります。心を整えて、御仏にお会いいたすこととしたいものです。が┉、ここには私の物欲をくすぐる授与品が数多く並んでおり、唸りに唸って、御朱印だけにいたしました。そのくらいで自分で自分を褒めてしまうから成長しないのだな。┉。
先に進むと、格子戸のはまった岩窟が見えてまいりました。その前には石碑に、よく爪引きと伝えられるもののように、細い単線で描かれた観音さまがお二人。
なんでもこちらの岩窟は鎌倉時代に宋より戻ったという僧がここに遁世していたのだといいます。
そしてここでその僧侶と、時の執権北条時頼が出合ったのだと伝えられているようです。
船と馬くらいしか移動手段のなかった時に、ここまで来るのに大騒ぎする現代人(私)もおるというのに、昔の方は驚くくらいに遠くまで赴いているものであります。
ようやく、私の思い描いていた瑞巌寺さんに近いものとなってまいりました。
┉たしかに THE、観光地 なのではありましょうが、やはり寺院はそれに毒されてはいけないよな、などと勝手に思う私であります。
そして、白い太鼓塀が見えてまいります。その向こうに巨大な伽藍が甍を連ねているのが見えます。太鼓塀というのは中が空洞であることからそう呼ばれるのだとか。
そうして。このあたりからはもう、瑞巌寺さんの重厚にして壮大な空気にのまれてただ溜め息をつくばかりの私でありました。
(21/02/15 記)
2021/02/13の深夜の地震の影響で、宮城県仙台市にある伊達政宗が眠る霊廟(れいびょう)、【瑞鳳殿(ずいほうでん)】で、全体で220基以上ある石灯籠など約100基が倒れるなどの被害が出たというニュースがテレビの映像で流れました。先の震災時ではほとんどが倒壊。その後、耐震補強を施していたものがまた半数ほどが倒れてしまったということです。
瑞鳳殿によると、最も古い灯籠は伊達政宗が亡くなり作られた約385年が経過したものだということで、本殿や伊達政宗の木像、境内の石垣や石段には被害はなかったようでした。本殿の地下3メートルに伊達政宗公の墓室があり、埋葬されている遺骨も無事とみられています。
十年かけてようやく立ち直ろうとしておられた方々を再び襲ったこの震災。
福島では余震が続いているとの報道も耳にしました。
水が止まり、この寒さのなか停電している地であります。
道路や線路が寸断されてようやく家に帰られた方もおられたと聞きます。
過去のものについて嘆いている場合でないかとも思ったりもいたしました。
それでも、胸が痛みました。
戦災で失われて、ようやくここまでに甦らせた瑞鳳殿であります。さらには先の震災でそのほとんどが倒壊しようやく戻したところでこの被災でありました。
この寒さのなか、ましてやこのコロナという悪疫が全世界を襲ったあとであります、この度東北を襲った大きな地震による被害。
┉神や仏はおられますか?
おられてここまでにとどめてくださっているということですか?
どうか、どうか、この地震の余震をお鎮めください。
どうか、どうか、このコロナ感染症をお鎮めください。
祈る先も、神仏。
共感3
【瑞巌寺】さんに話をもどします。
【中門】、という太鼓塀につながる門が大きく開け放たれていました。そこに入っていいものかどうかをなぜかためらう私がおりました。
┉この図々しさを絵に書いたような、おばさんの中のおばさん!という私が、なぜ?
他の方も入っておられるのですし、そもそもが扉が開けられ足止めのようなものもなく、ためらっている自分自身にむしろ驚きを感じためらうくらいであります。
でもきっとそれは、門の外からですら圧倒されるような御本堂の威風であったのでありましょう。
はあぁ。
敷きつめられた白い砂利には枯葉一枚落ちておらず、まるで常に均しているかのようにみえます。
目の前にひろがる御本堂はその所々の戸が開けられていますが、やはり圧倒されて側によることすらできない私。
その威風堂々とした御本堂、横に四十メートルあるのだそうです。御本堂に圧倒された私は、ただ立ちつくして、まるでお白洲にでもいるかのよう。
国宝指定の御成玄関も南蛮鉄燈籠も遠くからただ見つめるだけで、私がここにいることすらなにか罪のように思え、そおっと中門を退出したのでありました。
┉ここは、さきの津波による被害はどうだったのだろう。
海岸は目と鼻の先です。そもそもが震度も凄まじかった地であります。
しかし今私が見る光景は不思議なくらいに、たぶん元のまま、昔のまま、なのだと思われます。
とはいえ、私は初めてここに訪れたものであり、さらにはさきの東日本大震災からすでに九年の年月が流れてはおります。
あくまでも、そう感じた、というだけなのですが、そう思わせるくらいに、古くからの年月の重みを感じさせる瑞巌寺御本堂でありました。
いつもの私であれば、もしかしたらもう二度と来られないかも知れないところを訪れたのですから、少しでも多く見て感じて行こうとするのですが、少しもそうならなかった不思議は、まああとになって後悔となるのですが。
中門を出たところには岩に腰掛けたお姿の観音さまがおられます。
この観音さまは灌水観音さまとおっしゃるようで、右手に小さな水差しを持ち気だるげに腰のあたりにその手を置いておられます。
こちらの観音さまが松島、瑞巌寺に何かあったときにはお水を調整してくださっておられるのでしょうか。
また門があり。
そこをくぐると大きな庫裡となるのですが、どうやらその庫裡には入ることができるようです。
と、足元を見ると大きな平らな石が埋められて敷石となっているのですが、その表面が不自然にそれはそれはたくさんキズが付けられています。鑿?とかでガツンガツンと表面が平らかでないように加工されていました。┉雪対策?凍ったときとかに?何らかの効果があるのでしょうか?
誰に聞くこともできずその効果はわからないままなのですが、なぜか私にはとても印象に残っておりましたので書いておきます。
庫裡に入ると!
いきなり大きな観音さまがそこに。
圧倒されるのは大きさなどではありません。
それはそれは美しい色彩をされた、金色に輝く光背と冠や衣。真っ白でそれはそれは清らかなお顔の聖観音さまのお姿であられます。
お美しい。
しかも無造作になんら囲いもなくそこに、庫裡に入ってすぐのところに、┉言葉をあえて選ばなければ置かれているのです。
はああぁ。
「高村光雲の作だって。素晴らしいねぇ」
瑞巌寺に圧倒され普段の私でないことに気づいているのかいないのか、夫が小声で話しかけます。
ほおぉっ。
あの、安達太良山の┉。
いやいやこれは東北に向かって来るときに曇って見られなかった安達太良山は全くここには関係ないのですが、高村光雲といえば高村光太郎であり、あの智恵子抄を思い浮かべる年頃の私達でありまして、その中のひとつの詩がつつっと頭に浮かんでしまっただけなのですが┉。
素晴らしい。
そう、それは美しく清らかな観音さまの御像です。┉作品ではない、観音さまであられます。それは高村光雲作であろうがなかろうが、ただただ観音さまであられます。
素晴らしい、というよりやはりありがたい、であります。
またまた圧倒されて、それでも先へと進みました。
曲がり廊下を進むと、そこは┉!
御本堂ではないですか!
┉。
┉庫裡に入れるようなのでと、あくまでも庫裡に入っただけだった私。その庫裡でももうすでに圧倒されるくらいの感動をさせていただいておりました。
それがいきなり御本堂の中!
心の準備がまるでなかった。
いきなり現れた、磨きぬかれた美しい広い廊下!
すべすべで、そして柔らかく良い色に光っています。
現代の人工的に作られた板とはまるで異なりますもの。ただ現代の人工的な板と一つだけ共通するものがある、というとなんだかもう叱られてしまいそうですが、節目等が一切なくて歪みや撓み等なく、あくまでも平らかである、ということ。
人の歩いたあとが少しづつあとが残ったりとか、減って少し凹凸、とまではいかなくても少しづつの目減りとかも一切感じられない、建って十年経つか経たないかみたいな美しさなのであります。
┉いきなり迷いこんだ御本堂(あくまでも私だけ)、
一歩も踏み入れもしない廊下ですでにこの感動!
語彙力のない、文才はさらにない私の筆がどんどん遅れていった理由はここにあったかもしれません。
改修工事こそ行われてはいるようですが、この廊下を張り直したりはしていないよう記憶しているのです。
どれだけ、伊達政宗はここを建てるにあたって様々なこだわりをもって建てたというのか┉。
だって、伊達政宗公って、江戸時代の人ですよ?
それも厳密に言えば、江戸時代となる以前に生まれていて、あの関ヶ原の頃には立派に伊達家当主であったはず。そんなはるか昔の方ですよ?
その方が建てた建物ってことですよ?
それがこの廊下!
このクオリティーの高さ!
田舎の貧乏人であばら家に住む私には、廊下だけでもう平伏すレベルの瑞巌寺の建物であります。
というか、外観ですでに圧倒されていましたですね、はい。
廊下だけで、もう胸がいっぱい、心拍は高まるばかりです。
が、はっと我にかえり、その横にある部屋に視線を移すしました。
目に飛び込んできたのは、金色に煌めく襖。
はあぁぁぁ。
金、だあぁ。初っぱなの角部屋から金の襖!
思わずそこから目をそらすように上を見上げたところ、そこには欄間があり、その欄間は欄間で、松のあの細かい枝葉まで細かに彫られた、芸術品でしかない彫刻がはめ込まれているではないですか……。
いまにも動き出しそうな鳥とか。
ここは┉日暮の門ならぬ日暮の舘?
なんだかもうふわふわと、ただ、
出口に向かわないといけないと本能が訴えて、ただただふわふわと歩き。
それでも隣の間に再び目をやると、金。
…まあそうですよね。
初っぱなの角部屋から金なのに、その隣に進んでいきなりわが家にあるような普通の襖なんてあり得ない、金の次は金。
しかも先ほどの部屋よりも数段広い!
┉控えの間?
家来の方の控えの間?
控えの間┉。
あれ?┉ここどこでしたっけ。
お、お、お、お寺、だった気が┉。
お、お、お城?
家来の控えの間があるんだぁ。
そ、そうだよなぁ。殿様が家来を伴わずお出かけになられるはずはない。
でも、そんな家来の控室からして金。きらきらとまばゆく輝く金箔の間、なんだぁぁ。
金の襖、金の襖と書いてはおりますが、角のお部屋には松の絵が描かれています。
何畳あるのか、┉魂が抜けたような状態の私はもはやそんなこといろいろまで考えたりすることなどできる状態でなくなっております。
とりあえず、お部屋にまでは入ることはできないので遠くからではあるのですが、
遠くから見ても松の葉の一本一本が生き生きと描かれている絵が描かれているのです。こちらは松の間といい、あとで知ったことによると茶道衆の詰所なのだそうです。はあぁ。
その隣の家来の控えの間は鳥が描かれていました。
近く描かれているもの、遠くに描かれているもの。
様々な立ち姿で描かれていました。
┉建物の中は庫裡からすべて、写真撮影は禁じられておりますので、確認は瑞巌寺さんの公式ホームページに頼ることとなるのですが…。
その鳥の鋭い眼光といったら!
これが実にまたリアルな絵でありました。
はあぁ。
次へ進みましょう。
!…!!。
ここで私は、やはりこちらは間違いなくお寺、寺院であることをしかと実感いたします。
ちょうど、先ほどの外から拝した、御本堂の建物の真ん中、御本堂の中心にあたります。
そう、こここそが本堂の中心であります。
…ひ、光輝いている~ぅ‼
その部屋に至っては、なんと床まで光り輝いております。とはいえ、床が金箔とかではなく、例えるなら┉例えば群馬県桐生市の宝徳寺さんの、あの、床に映す逆さ紅葉のような感じで、その襖の金色が映って、床までが光っているのです。
まばゆいばかりの御本堂。
はあー。
ちなみにこちらは孔雀の間、と呼ばれているそうで、ここで法要が営まれるのだそうであります。
ちなみに┉。
さすがにこの目の眩むような金色の襖絵は建立当初のままではなく、当時のものに忠実に忠実に再現されたものであります。
┉あの東日本大震災のとき。
瑞巌寺さんは実に道路を隔てて海岸、という立地にありながら、津波の到達したのは総門から杉並木のある参道までであったという、まさに奇跡のような被害状況であったのだそうです。
とはいえ杉並木は、津波の前は今の何倍にも杉の生い茂るものであったといい、塩害で立ち枯れてしまい今のような青空の見渡せる参道になってしまったのだということですが。
そして。
その杉並木の途切れるころ見えたいかにも新しそうな地蔵堂…。
あの地蔵堂こそが津波の到達点であり、鎮魂のために建てられたものだったという。
┉地蔵堂にはそのようないわれ一つ書かれておらず。
ただ普通に手を合わせいつも通りのお参りをしただけで通り過ぎてしまった。
もし知っていたならば…と思ったものの、そのようないわれをすら書けなかった被害の大きさをこそ、そこに感じなければならないのだとすぐに気づきました。
ちょうどその時大改修工事のさなかであった瑞巌寺さんは、屋根の瓦をすべて下ろしてあったために、瓦が落ちることもなく、また瓦の重みで建物の被害も免れることができたのだとか。
┉何か大きな大きな力がここを護ったのでありましょうか。
被災当時は境内に参拝の方もおられ、直ぐ様、全員の無事を確認してまわり、他の被害状況はもちろん、ここの被害状況すらも明らかではない被災当初から、ここ瑞巌寺を避難所として解放し、お寺にあるもので炊き出しなどを行ってくださっていたということも、帰宅後ネットで調べ、あらためてそういった事があったことを知りました。
かつてお寺さんはそうした救済にあたる拠点となって、仏の教えのままに人々を救ってくださるところでありました。やはりその精神は受け継がれていたものでありました。
♪松島のサーヨー 瑞巌寺ほどの
寺もないトーエー
と唄うのは【大漁節】。
本当に。
┉本当に。
『絵にも描けない美しさ』とは、〖唱歌〗〖浦島太郎〗の一説であります。
もっとも画才のある方であれば、この瑞巌寺さんの美しさも絵とすることもできるのでしょうし、文才のある方が書けばこちら瑞巌寺さんの素晴らしさも表現することはいくらでも可能なのかもしれません。
が。
如何せん、この日本語すらおぼつかない、さらには認知症の始まりを疑うような私でありますので、どうにもこの瑞巌寺さんの素晴らしさを伝えていく術がない。
ないくせにそれをあえて挑むので、すぐ脱線したり、行き詰まったりして、ただでさえ読みづらい文章が、読みとくのに努力を必要とするようなものとなってしまっていて、本当に申し訳ありません。
【瑞巌寺】さんの、法要が営まれるところであるという【孔雀の間】のむかってひだりの間は【文王の間】と呼ばれているところとなります。
こちらは伊達家一門、伊達家の親戚が使用したとされた部屋。〖文王〗という、┉まあ、日本の歴史すらも詳しいこととなると首をかしげる私に、一言で言わせれば〝中国の昔の偉い人〟、的な言い方にしかなりませんが。
なんでもこの部屋の金の襖に描かれているのは、その名の通り『文王』をテーマにしているようであります。
文王の築いたという〖洛陽城〗を遠くに見やる絵があって、右側には文王と〖太公望呂尚〗の出会いの場面、左側にはその時代の狩りの場面が描かれているのだとか。
うーむ、太公望は聞いたことがあるな。…などと書いているのが夫や子供たちにバレたら、どんなに嘆き悲しまれることか。
まあ、ここは等身大の私が書いておりますので、お読みいただく方におかれましても、┉ああ、やはりそんなレベルのやつか、と流していただければ幸いです。
さらに進むと【上段の間】。
そしてその横には【上上段の間】。
…やっぱりこちらはお城の様式を取り入れている?それとも一国の大名の建てたお寺さんはこういったもの?
ついこのあいだテレビで観たなぁ、上上段の間。それを、ここ瑞巌寺さんで拝見することになろうとは思ってもいませんでした。
とはいえ、ネットで検索すると、な、なんと瑞巌寺さんの本堂がトップにあがってまいりました。
うーん、やはり私があまりにも無知だからなのかなぁ。
【上段の間】は藩主御成の間で、一段高いところに藩主さまの座る間が設けてあります。
そしてそのむかって左側にある【上上段の間】は藩主の席よりさらに一段高くなっていて、藩主よりも位の上の、将軍であるとか天皇陛下がお越しになられたとき御迎えする間であるとされていると言われています。
お越しになられることはないかもしれないこの〝間〟を設けて建てる。
そうしたことで、自分はあくまでも将軍家の臣下であることを示し、天皇の下の身分であることを常に示して、また自らの立ち位置をそこに座るたびに自覚する。
┉どれだけのことを考え計算して建てられたものでありましょう。
私が、本堂を真横から見渡せる、開門された中門をくぐることすら躊躇われたのは、自分はそのくらいの身分であるということを肌でかんじていた、ということなのかなぁ。
そして上段の間の隣、回廊をコの字に回ってある【仏間】。
そして【羅漢の間】、さらに【墨絵の間】、【菊の間】。
┉墨絵の間だけが妙に暗く、ふと気づいたことは、襖が金箔ではない、ということ。襖自体が古くて、経年により表面の一部が薄く剥がれ、何より全体がくすんでいるのです。もしかして┉、造られた当時のもの⁉
┉か、どうかどなたにも聞けぬまま、振り出しの松の間が見えてまいります。
そんな『墨絵の間』『菊の間』の前あたり。回廊で隔てられた向かいの中庭には、枯山水が設らえられており、なんでも松島湾をイメージしたものとのことであります。
本当に、
細部の細部までこだわり抜いた瑞巌寺さんであります。
私はといえばそんな瑞巌寺さんに終日ただただ圧倒されていたのでありました。
┉この瑞巌寺さんでは、庫裡を入ってすぐから写真撮影禁止ゾーン。
まもなく四カ月前となろうかという東北の旅を思い出しながら書いております。(2021/3時点)
うーん、写真がないと珍道中録。きつい、きつい!
まあ、これ以上にない、よい脳トレにはなっているとは思います。
私の記憶だけで書かれておりますので、間違いがありましたら、┉本当にごめんなさい。
仏間の隣にあります【羅漢の間】の前で、私は少し違和感をおぼえました。他の〖〇〇の間〗と呼ばれている部屋にくらべ、どうにも手狭な印象を受けたのです。
こちらには、伊達政宗公・忠宗公に殉死した家臣のお位牌が安置されています。お一人お一人のものではなく、奥の二基一対のお位牌は政宗に殉死した二十名、手前の二基一対のお位牌は忠宗公に殉死した十六名の法名が刻まれています。
そもそもが羅漢の間でありながら、お位牌と、中央に不動明王像。羅漢さんたちがお祀りされている様子はありません。
こちらに、こうして書きながら、どうにも気になったのでGoogle先生に聞いてみたところ、こちらの羅漢さんは明治以降に壁に描かれたようです。それ以前になんと呼ばれていたのかはわからないのですが、もともとはお位牌を安置する間として、そのような呼び方をしていたのではないかと、勝手に推察する私でありました。
続く【墨絵の間】は住職の応接室であったようです。
こちらも他の間と異なる印象を受けるのは、墨絵の古くてくすんだ印象だけでなく、むしろそこが唯一、使い勝手のよい、使われていた印象を受ける部屋であったからであります。もしかしたら今も法事・法要などの際にはこちらを使っておられるのかもしれません。
そして、金色のなかにそれはそれは美しく咲く、満開の白と黄、紅色の菊が描かれた【菊の間】は、御殿医の控えの間であったとか。
うーん、お寺に御殿医の控えの間までありますか┉。
やっぱりすごいなあ。
私たちは、ちょうど、もともとなされていた修復も、東日本大震災による被害の修理修復も、地蔵堂の建設も、すべて終わったときに参拝したことになります。
金箔の襖の金色も、もっとも美しい盛りであったかと思っています。
あまりの素晴らしさに、たましいが抜けたみたいにふらふらとまわらせていただきましたので、見落としたところがあるような気がしてなりません。
はああ┉なんてもったいない。
(21/03/11 23:57)
三月十一日が巡ってきました。
東日本大震災の発生した日。
何を書いても偽善のように感じ、自己満足でしかないように感じて、書いては消して過ごしました。
今日、十四時四十六分、私はひとり仏壇もどきの前で黙祷をしました。
ろうそくを灯し、お線香をあげました。
その後、東北の地に、海につながった空を見上げたくて外に出ました。
┉外はびっくりするほどに静まりかえっていました。
車一台通っていません。
無音の、静まりかえった空間に、雲一つない青空が広がっていました。
きっとみんな、思いはひとつだったのでしょう。
十年経ったといえ、それはあくまでも通過点に過ぎないということ。
今を生かされた者として、しっかりと生きていかねばならないと思いをあらたにした日でありました。
宮城県宮城郡松島町の【瑞巌寺】さん。
あまりの素晴らしさにまるで気が抜けたように御本堂をあとにし、庫裡の玄関を出ました。
庫裡を出てひだりてには、なにやら小高い丘のようなところがあり、そこは天然の岩屋を利用して加工したものなのか、そもそもが岩肌なのかなんなのかもよくはわからなかったのですが、小高い丘をすぱっと削ったかのような壁面に、建物をはめ込んだような不思議な場所があるのです。
そこがなんなのか、今現在使われているものなのかどうかすらもわからなかったのですが、┉不思議な場所があったことだけ、記しておきます。
庫裡の真正面に宝物殿がありました。
ガラス張りのいかにも新しそうな建物です。
お寺の中の宝物殿。なんだか御本堂での感動が薄れてしまいそうな気がして、次に向かおうとしたのですが、夫に
「仏像もあるかも知れないよ」と言われ、しぶしぶ入って行ったのですが。
┉おおっ!
大きな大きな木彫りの御釈迦様がおられるではないですか!
┉いつものことではありますが、我ながらなんと現金な。
この感じは円空さまの彫られたものでしょうか。それにしても大きい。
欅の根株を用い彫られたものということであります。獅子の背上で、蓮台に坐る釈迦如来像を彫り出しています。
円空さまの彫られた仏様はどれも一気に彫りおこすものですが、この御釈迦様は頭部の髪や蓮台には細かな彫りがなされています。そして┉円空仏の特徴である、まるで微笑んでいるようなお優しい表情をうかべておられます。
ただ、お痛わしいくらいに肩から袈裟懸けに大きなひびがはいり、胸と右腕から左の腹部から膝にかけて、削られたようにお傷みになられてしまっていました。
瑞巌寺の宝物殿でうろうろと円空さまの釈迦如来像にまとわりつくあやしいおばさんを見かけた方がおられたら、それは私だったかもしれません。
ようやく円空仏から離れると、こんどは不動明王さまの御像が見えてまいりました。
左右に愛くるしい表情の矜羯羅(こんがら)・制吒迦(せいたか)童子を従えておられます。
なんでもこちら【五大堂】の秘仏五大明王像(平安時代・国指定重要文化財)の御前立であられるのだそうで。
お不動さまも大好きな私。またまたしばらくここをうろついたのはいうまでもありません。
お前は宝物殿には入らないで次に行こうとしていたのではないのか?
┉ハイ。
┉ほんっと、手綱をとるのが上手い夫でよかったぁ。
そう、そして本当に手綱をとるのが最高に上手な夫は、“入らないで次に行こうとしてたんじゃないのか?”などという言葉はおくびにも出さないどころか、つかず離れず歩いてくれていました。
宝物殿には、修復前の瑞巌寺の板戸絵であるとか障壁画であるとかも含めた什宝物の保存管理がされているようです。ただ、このコロナ禍、感染対策の一環で現在はそれをみることが出来ませんでした。
それを観られなかったにしてもなおあまりある宝物が、展示されつつ、より良い状態で保存管理されています。
経年の劣化を少しでも遅れさせるしっかりとした管理は、後世につなぐためにもありがたいことであり、普通はしまわれていて一般の参拝者などは一生涯目にすることなどない什宝物を拝見することができるという利点もあり、本当にありがたいものなのですね。
┉私の場合は夫にも感謝、です、ハイ。
そして本来でしたら一年に一度しか拝することのできない【涅槃図】もコロナ禍ということで展示されており、もしかしたら最初で最後の参拝となるかもしれない私には、ありがたい展示でありました。
こちらの涅槃図はかなり古く、瑞巌寺の前身であった【宮寺】【円福寺】当時のもののようです。
一時は無住の寺にまでなっていたこちらに、よくぞ残っていたものであります。
さすがに経年劣化は否めず、目をよくこらさないと涅槃図であることにも気づけないものとはなっておりましたが、一人一人の人物、一体一体の動物が大変細かやかに丁寧に描かれたものでありました。
┉今年の涅槃会はコロナのために、一般の参拝者どころか檀家の方に向けての法要すらをすらを取りやめたお寺さんがほとんどでありました。
雨のそぼ降る今年二月十五日、自宅で静かに写経をして過ごしながら、今ごろは瑞巌寺御本堂の室中孔雀の間に移され、お祀りされているであろう、瑞巌寺さんのこの涅槃図を思い浮かべました。
私の誕生日ということもあるため、有休をとった夫は、雨の降る空を恨めしげに見上げたのち、ともに写経をして過ごしました。見ようによってはたいそう暗めの誕生会でありますか。
プレゼントも【石仏・石の神を旅する】という本。
┉いかにも珍道中夫婦らしいでしょ♡
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